NHKのBS1で『天空の村のピアノ』という2018年イギリス制作のドキュメント番組があり(再放送だったようですが)録画していたのを
見てみました。
ロンドンのピアノ店の店主にして調律師のデズモンド氏は、あるお客さんからヒマラヤ山中の学校にピアノを届けたいが運べるかという相談をもちかけられます。通常ならそんな途方もない運搬を個人レベルでそれをやろうなんてあり得ないでしょう。
ところが、それを自身の人生の最後の大仕事と感じたのか、熟慮の末に引き受ける決断を下して、その道中たるや想像を絶するほど過酷を極め、ついには成し遂げるまでの密着映像でした。
ロンドンからなんと8000km、標高は富士山より高い4000m、車が行けるのははるか手前までで、そこから先はヤクという牛のような動物に背負わせて運ぶというのが当初の計画だったようです。
持っていくピアノは、さすがはロンドンというべきか、ジョン・ブロードウッドのさほど大きくないアップライトで、まずは事前の入念な整備がなされ、それを現地の麓へ送ったあとは、山岳路を運びやすいよう、青空の下でなんとバラバラに解体し、弦もすべて緩められて、パーツごとの運搬にして個々の負担を減らし、到着後に再び組み立てるという方法が採られます。
それでもピアノはピアノ、そんなに大きなモデルではなかったけれど、フレームだけでも50kg以上あるらしく、いずれにしろこの峻険な山々を踏破するには、並大抵の荷物でないことには変わりありません。
これから進むべきヒマラヤの景色たるや、神の領域であるかのような壮大かつ桁違いのスケールで、その果てしない威容は人間にとっては無慈悲の象徴のようにも見え、神々しいのか悪魔的なのかわからなくなるようなもの。
まるで異星の景色でも見せられるようで、遥か高くに峻険な稜線が幾重にも連なり、およそ日本人なんぞには馴染みのない、地球上にこんなところがあるのか…というような気の遠くなるような光景でした。
目指す場所は、あの峰のその向こうの向こう…みたいな感じで、そこまで自分の足で行くだけでも想像外で、ましてピアノを運ぶなんて命の危険すら感じます。
一定のところまで車で行くと、その先に道路はなく、おまけに頼みの運搬役のはずだったヤクというちょっと牛のような動物は想像よりもずっと小型だったようで、分解したといってもとうていピアノを背負わせられるような動物じゃないことがわかり、デズモンドはこの方法による運搬を即座に断念。
かくなる上は気の遠くなるような彼方の目的地まで、現地スタッフを交えた人力によって運搬するしかないという展開。
ロンドンから同行した人が数人と、現地の協力者が10人ぐらいはいたかどうか。
普通なら、この状況を見た瞬間に諦めて帰ってくるところでしょうが、番組のカメラが入っているからか、当人たちの意志に峻烈なものがあったからかは知りませんが、とにかく人の手足で一歩一歩この途方もない道程を、分解したピアノを担いて行くことになります。
途中の運搬の様子は見ているだけでも苦しくなり、フレームは数人がかりで担いて、ときに山の斜面を滑り降りるようになったり、それはもう映像を見ているだけでヘトヘトになるようでした。
目指すリシェ村に到着したのは徒歩による出発から7〜8日目のこと。
この山間の小さな村の人々からは大歓迎を受け、ピアノが来たことで子どもたちが無邪気に喜び踊る脇の建物で、翌日から組立作業が始まり、2日後にピアノの形になりました。
大人や子どもたちが見守る中、組み上がったピアノをデズモンド氏は音を出し、リストの「ため息」の一節を弾いていましたが、はっきりいってため息どころではない、凄まじい地獄のミッションでした。
大人も子供もピアノを初めて見るという人も多く、この一台がこれからどれだけの役割を果すのか、はかりしれないものがあるのでしょう。
私だったら、費用を募って、ペリコプターでガーッと一気に運んだら…というような身も蓋もない発想しかありませんが、そうではないところに人間のドラマが生まれるんでしょう。
実際、デズモンド氏はじめ多くの協力者、村の人々や子どもたちなど、この一台のピアノをめぐって計り知れない交流が芽生え、人生の一ページに深く刻まれたことは想像に難くありません。
計画から1年、実行に1ヶ月かかるという大変なプロジェクトで、学校内のピアノが置かれた建物は「サー・デズモンド音楽堂」と名づけられました。
デズモンド氏は届けることで終わりではなく、なんと、亡くなる2018年まで毎年調律に訪れたんだそうです。
ひとりの女性が言っていましたが、この地の人たちの生活にはお金もあまり必要なく、みな心がきれいで純粋で、互いに仲良く生活をしているが、将来に向けて道路建設も始まっているらしく、いつの日かそれが完成すればさまざまなものが流入し、そうしたら村の人の心も変わってしまうだろう、それが心配…と言っていたのが印象に残りました。
…たしかにそうだろうと思います。