先日、ある方からLINEを通じてYouTubeの動画が送られてきました。
モーツァルトのコンチェルトですが、ピアノは大屋根を外してステージの左隅におかれ、そこから指揮をしながらピアノを弾くという風変わりなことをプレトニョフがやっていました。
この人は、若い頃は新進気鋭のピアニストとして来日していて何度か聴いた事がありますが、それはもうすさまじいばかりのテクニシャンで、それが少しも嫌味でなく、ただあっけにとられたことばかりが記憶に残っています。
編曲もお得意のようで、当時から「くるみ割り人形」の数曲をソロ・ピアノ用に自身で編曲したものをプログラムに入れていたりしました。
当時はソ連時代の終わりの頃で、当時のソ連にはテクニシャンは掃いて捨てるほどいたと思われますが、その中でも若いプレトニョフのそれは頭一つ出ているといっていいもので、しかもロシア人としては細身の華奢な体つきにもかかわらず、ピアノに向かうや想像もつかないようなパワーが炸裂して、聴衆を圧倒していました。
これはうまくすれば、世界のトップクラスのピアニストの一人になる逸材かもしれない…とさえ思いましたが、いつごろからか指揮のほうに進みはじめ、ついにはロシア・ナショナルフィルというのを自ら作り、指揮者として率いていくことが本格化したようで、ピアニストはやめたのかと思っていました。
ロシア・ナショナルフィルはドイツ・グラモフォンから次々にCDが発売され、チャイコフスキーの交響曲などはなかなかよろしく、リリースされるたびにせっせと買い集めていたほどです。
すっかり指揮者に鞍替えしてしまったのかと思っていたら、やはりときどきはピアノも弾いているようでした。
しかし後年聴いた彼のピアノは、若い頃のそれとはすっかり変わっており、なにか自分なりの境地に到達したと言わんばかりのクセのあるものになってしまってあまり好みではなかったけれど、中にはブリュートナーを使ってのベートーヴェンのピアノ協奏曲のようなものがあったりで、楽器への興味からCDを購入したりはしていましたが、ピアニストとしてはかつてとはほとんど別人でした。
前置きが長くなりましたが、ピアニスト出身で指揮台にのぼるようになった人というのがときどきおられますが、これらにはある共通点を感じます。
まずピアニストとして名を馳せて、その次の段階として指揮者としてもそれなりに認められてくると、成功すればより大きな名声が得られるのかもしれないし、音楽的にもより幅広いものを経験していくのだろうとは思います。
それはそれで結構なことなのでしょうが、ピアニストとしての輝き自体は鈍るという代償は避けられません。
もともとピアノは十分以上に弾けるわけだから、ときどきはピアノも弾く、あるいは二足のわらじで両方のステージに立つ人がいますが、個人的にはこれらの人のピアノはどうもあまり好きにはなれないのです。
その一番の理由は、悲しいかなピアノが余技的になってしまって、演奏に気迫がないというか、鬼気迫る集中力というのがなく、どこか弛緩しています。
バレンボイム、アシュケナージ、エッシェンバッハなどもだいたい同じように感じます。
実際問題として、オーケストラの指揮台に立ち大勢の団員を束ねていくことは、それだけでも並大抵のことではない筈で、時間などどれだけあっても足りないことでしょう。
勢いピアニストだけでやっている人に比べたら、ピアノに向かう時間もエネルギーも大幅にカットされているのは間違いありません。
ピアニストというのはどんなに天才でも、端的に言えば「生涯を練習に費す」ようなものですが、それをやっていない結果がはっきりと演奏に出ており、昔の名声の余技として見せられても、真の演奏感動からは遠ざかったものになります。
どんなに才能豊かな人でも、世界の一流ピアニストの座に棲み続けることは、他の仕事と掛け持ちでできることではないし、そこで求められる妙技や魅力は、それ一筋に打ち込んでいる人の演奏からのみ、滴り落ちるように出てくるものであって、マルチな才能で維持できるものとは思えません。
コルトーはワーグナーの指揮をしたり、ポリーニも一時期指揮に色気を出してロッシーニのオペラをCDとしてリリースしたりしていますが、そちらが本業になることはついになかったのは、なんと幸いなことだったかと思います。
バーンスタインもサヴァリッシュも相当ピアノが弾けた人ですが、とはいえ専業ピアニストにはやっぱり叶いませんから、決してステージでは弾かなかったアバドなんて、却って立派だなぁ…と思ってしまいます。