ファブリーニの本−3

いささかしつこいようですが、もうひとつピアノの話題で記憶に残ったものとしては、次のような一文が。

19世紀から20世紀にかけてヨーロッパには素晴らしいピアノメーカーがいくつもあったけれど、アジア大手の台頭によって押しつぶされ、ピアノの音の均一化が避けられなくなってしまった、と。
均一化については頷けるものの、アジアの大手のせいでヨーロッパの伝統的なピアノが押しつぶされたというのは、正確にはどうでしょう?
個人的には、大戦後の時代変化によって多くの伝統的なピアノメーカーが生息できるだけの需要がなくなり、(とても残念ですが)淘汰された結果であって、アジア勢(おそらく日本)の台頭はその後ではないかと思います。

均一化については、日本人のピアノ関係者の方々は、美しく芸術的な音質や響きのことより、パーツの「精度」とか、なにかにつけ「均一化」ということを金科玉条のように信じ込んでおられる印象はあります。
おそらくそういう価値観に基づいた教育を叩きこまれて技術者になったのでしょうし、もともと日本人は「揃える」といったたぐいは民族的に好きで得意なところですから。
そこでいう均一とは全音域のことでもあるだろうし、タッチやアクションのことでもあり、高品質大量生産が手工業に打ち勝つことを是とするもので、日本人はこういうわかりやすい正義を与えられると俄然本領発揮です。

低音から高音までむらなく整えられていることは大筋で大事とは思うけれど、言われるほど均一が絶対的に正しいことなのかどうか、以前から疑問でしたのでここは膝を打つ思いでした。

スタインウェイなどはセクションごとに音質が異なり、個人的にはそれがまた素晴らしいと思っています。
各音には個性があり、極端に言えばところどころの隣り合う音の個性がむしろ違っていたりするけれど、それが曲になるとなんとも言えない深みを帯びたりところにも西洋的な魅力を感じていたので、均一というものの価値がどうもわかりません。
弦楽器に例えるなら、もしコントラバスからヴァイオリンまでのすべての音域を均一にまかなえるものがあったら、そのほうがいいのか?というと、私はとてもそうは思いませんし、それぞれの楽器の個性があればこそ、多層的な魅力になっていると思います。

ピアノはオーケストラのような楽器だと喩えられることがありますが、だとするならむしろ過度に均一であってはならないような気がするし、様々な要素を内包しているからこそ計り知れない魅力や可能性を秘めているとも思うのです。
音域によって張弦されたセクションが変わったり、芯線が巻線になったら、音質が変わるのは当然で、それを最大限活かすのがピアノづくりの極意じゃないか?という思いが拭えず、ただスムーズな音の高低だけに整えることは、ただきれいにまとまっただけのものにしかならないような気がします。

実際そのような方向で作られたピアノに触れると、ある一面においては感心はしてもやはりあまり面白くはないし、想像力が掻き立てられず、なにやらピアノの表現力そのものが小さく限定されてしまったような気がしました。

ショパンが、人間の指はどれも同じではなく長さも構造も違い、それぞれに個性があるのだからスケールでもロ長調やホ長調などが自然で、逆にハ長調が一番難しいといったように、各音域はそれぞれの個性を隠そうとしないほうが、演奏した時にさまざまな色合いや雰囲気が立ち現れるように思います。

最後にもう一つ思い出しましたが、ファブリーニ氏によれば調律は上手か下手ではなく、美しいかどうかで判断すべきとあり、これには大いに膝を打つ思いがしました。
もちろん、ある程度以上の次元でのお話だと思いますが、ただ定規で計ったようなカチカチの調律をすることを正しいと思っている調律士さんがいらっしゃいますが、心に訴える美しい調律であってほしいものです。