三人の111

パソコンの前であれ、食事であれ、とにかく「座る」ということがまったくできない地獄のような生活が2ヶ月以上続き、8月上旬まではほとんど「寝たきり」「ひきこもり」同然の状況になっていました。
このような状態では、すべてのエネルギーが失われ、好きな音楽もまともに聴くこともできず、ひたすら痛みとの戦いに明け暮れる毎日でした。

気力もないまま、申し訳程度にテレビの前に横たわり、漫然と録画の再生ボタンを押すのがせいぜい。
そんな中でのTVでいうと、NHK-BSの早朝番組、クラシック倶楽部ではごく近い時期に3人のピアニストによるベートーヴェンの最後のピアノソナタ c-moll op.111が放映されました(たまたまでしょうけれど)。

集中力もなく、ただ漫然と流し、ぼんやり眺めていただけですが、最近すこしずつ座る練習もはじめたので、そのときの雑駁な感想など。

(1)ロシア出身、幼少期にドイツに移住した、今ヨーロッパで一定の評価を得ているらしいピアニスト。
この人、数年前でしたがゴルトベルク変奏曲とディアベリ変奏曲ともうひとつ忘れたけれど、たしか現代物の3曲をセットでCDリリースするなど相当に野心的で、実際とても上手い人だとは思うけれど、なぜか私の耳にはあまり魅力的に響いてこないので、その後はずっとご無沙汰だった人。
そのご無沙汰の間に、なんとザルツブルク音楽祭に招かれるまでご出世のようで、そのライブ映像だったのですが、この人の演奏の中心にあるのはメカニックであり、それに沿ったピアニズムが中心を成しており、後から解釈を埋め込んでいるような気がします。
全体に演奏都合上の切れ味のようなものが目立ち、テンポは速く、いささかナルシスト的な印象。
数年前にCDから受けた記憶が再び呼び戻されたようで、人は変わらないことを感じました。

(2)日本人でドイツにおいて研鑽を積んだ、実力派と目されるひとり。
大雑把にいうと、国籍や出生国に関係なくドイツで育ったピアニストというのは、あまり自分の好みのタイプではないようで、とくに近年は痛切にそれを感じているところ。かつてはバックハウスやケンプのような人がいたため、その認識が遅れてしまったのかもしれません。
ドイツ流は歌や情よりまず説明的で、縦の構造ばかりが耳について、どうも自分とはそりが合わない気がします。
この人は日本人だけれども、ドイツ育ちの体臭みたいなものがあって、しっかり弾かれてはいるけれど、喜びをもって音楽を奏でているというより、熟練職人の仕事に立ち会っているようで、そのあたりがどうにも気にかかります。
ベートーヴェンならドイツ仕込こそ本流だと言えそうですが、ポーランド人のショパンが必ずしも正解とは思えないものがあるのと、どこか通じるような気がします。

(3)やはり日本人のピアニストで、ドイツ圏に留学経験もあるようだけれど、すこぶる日本的親しみやすさを身上としているような方。
若いころはシューマンのスペシャリストということになっていて、当時CDを数枚購入してみたこともあったけれど、シューマンの心の内奥に迫っているとは思えぬ未消化なもので、ブラームスの協奏曲に至っては目を白黒させた覚えさえあります。
指導者として社会的地位も築かれているようで、ピアニスト=誰もが最高の芸術を目指すわけではないから、こういう人もアリだとは思います(ヘンな意味ではなく)。
解釈もごくありきたりで、創造的なものは潔いほどに感じません。

いずれも満足には達しなかったものの、強いて選ぶなら、変な個性やクセを差し挟むことなく、あくまで平凡に弾いていた(3)が結局はまともに聞こえたという、自分でも甚だ不思議な結果に終わりました。

使用ピアノについて。
(1)はスタインウェイですが、近年ヨーロッパで流行りなのか、大屋根を本来の角度より大きく開いたスタイル。その効果は音にエッジが出るというか、インパクト性が増すということのような気もしますが、それと引き換えに、荒削りで生々しい印象があり、個人的には好きになれません。そういう意味ではオリジナルの角度というのは、そのあたりも熟慮されているんだろう…と思ったり。

(2)ベーゼンドルファーの現代型コンサートグランドである280。昔の275のようにピアノフォルテを思わせる古典的な美しさではなく、現代の要求を盛り込んで作られたモデルであるだけに、モダンピアノらしい要素とパワーを持ちつつ、音色にはベーゼンドルファーらしさも受け継がれている印象。
ただ、ヤマハが親会社という先入観があるからかもしれないけれど、とくに低音などはかすかにヤマハ臭のようなものが聞こえた気もしましたが、私の思い過ごしでかもしれません。

(3)1990年代ぐらいのスタインウェイでとくに感じるところはありませんでした。