ヘルニアに関する一連の書き込みを見て、心配してくださった方からお見舞いや励ましのメールをいただくなどして、本当にありがたいことでした。
8月の半ばぐらいから少しずつ改善の兆しが見え始め、9月に入るとピーク時にくらべるとかなりマシになり、まず恐る恐る食事やお茶でも座れるようになりました。
パソコンの前にも短時間なら座ったり、近くの買い物ていどならどうにか車の運転も少しずつできるようになり、ともかく日常生活の体裁だけはなんとか取り戻せるまでになりました。
病気の苦痛に順位はつけられませんが、足腰のトラブルで身体の軸が保てなくなるというのは、生活の根底が崩壊することを意味することで、そこに激痛が長期間襲いかかるとなると、想像以上に苛烈なものだというのが今回イヤというほどわかりました。
このブログがピアノに主軸を置いたものだから仕方ありませんが、ピアノも弾けるようになりましたか?弾かれていますか?というようなお言葉をなんどか頂戴しました。
しかし、私はもともとピアノが好きなことは猛烈に好きですが、「自分で弾く」ことに関してさほど熱心なほうではなかったこともあり、ヘルニアを経験してからは、ますます弾かなくなりました。
まったく弾かない、触りもしない、というわけではありませんが、ピアノに向かう時間は明らかにこれまで以上に少なくなりましたし、まったく触れない日のほうが多いでしょう。
そもそも、誤解を恐れずにいうなら、ピアノというものは、かなり弾ける人が相応しい技術と音楽性を兼備できてこそ弾くものだろうという大前提が自分の中にあるため、そのくくりに入っていない自分がピアノを弾かなくなるといったって、とくにどうということもないとしか思っていなかったところがあったように思います。
実際面でいうなら、椅子に座って随時ペダルを踏むという動作が、思っていたよりはるかに厳しいことだというのを、今回はあらためて自覚させられました。
ピアノといえば多くの方が指のことばかりを考えがちですが、例えば一時間練習した場合、とくに右足はその間中、絶えずペダルを大小長短深浅、ときには微妙なコントロールに注意をはらいながら様々に「連続使用」させられるわけで、これは骨と筋肉と神経にとって相当の負担です。
車の運転にくらべると、ピアノのペダルは踏力においても比較にならないほどハードだし、踏む数はケタ違いに多く、痛めた足腰への負担のかかり方がまるで違います。
車なら、アクセルといっても安全に動かすぐらいならソーッと踏むのがほとんどで、ブレーキだって咄嗟の時を除けばゆっくり踏むだけだし、信号停車中はオートホールドなどを使えば足も休ませられる。
つまり大半が、やわらかにゆっくり踏むか離すかの繰り返しに過ぎません。
それがピアノとなると絶え間なく必要な踏み方で応じなくてはなりません。
踏み方もいろいろで、全開からほんのニュアンスをつける程度に薄く踏む、かと思えば鋭く小刻みに踏むなど、常に自分が出来得る限りの手数とコントロールが要求され、わけてもハーフペダルというのが微妙であるだけ調整のための機微的な筋力を要するなど、容赦ないものであることを知りました。
今ほど回復していない頃、たまにほんの少し座れそうなときがあったりすると、ちょっとだけピアノに向かってみたりしましたが、ペダルのせいで症状はみるみる悪化に転じ、そのままベッドに雪崩れ込んで何時間もウンウンいったものです。
そんなことが2ヶ月以上続いてしまうと、精神的にもピアノのペダルが怖くなってしまったこともあり、自然にピアノから距離ができました。
世の中には、ピアノと見ればとにかく弾きたいという動物的な方もおられて、そういう人なら辛いかもしれませんが、私の場合はごくすんなりと弾かない生活に馴染むことができました。
それでも、これまで弾き貯めたものを失ってしまうのはさすがに惜しいので、少しはピアノに向かうかもしれませんが、それも維持できるかどうか甚だ自信はありません。
プロでなくても、なんでも自在に弾けて楽しめるぐらいの腕があれば、また弾くための努力をすることも価値あることだと思いますが、そもそもが私なんぞの腕では、弾かないほうがいいんじゃないの?と思うほうが強いぐらいだから、そういう意味では気楽なものです。