レガシーピアノが福岡市美術館で公開されたので、現物を見てきました。
入り口を入ってすぐのロビー正面に据えられており、周囲にはロープが張られて「お手を触れないで…」の状態でした。
せっかく仕上がったピアノをベタベタ触られてもいけないし、まして音を出されては周辺への迷惑以外のなにものでもないので、これは妥当な処置でしょう。
その後も、YouTubeなどでレガシーピアノの事を取り上げたニュース映像の類がいくつかあって、それによると、埼玉の工房で修復作業が行われたのは、日本では数少ない響板の貼り替えができる工房ということが理由のひとつとしてあったようです。
全体はもちろんきれいになっており、子供の頃、市民会館のステージで活躍していた頃の面影もないほど、新しく生まれ変わっていたために懐かしさのようなものは少しも感じませんでした。
ただやはり、フレームとボディとの間の赤いフェルトは雰囲気を損ねているのが残念です。
興味のない人にしてみれば、重箱の隅をつつくようなものと思われるかもしれませんが、「神は細部に宿る」という言葉もあるように、細部は全体を照らすものでもあり、このあたりの考証はとても大切なところだと私は考えます。
仮に純正品がなくてもやり方はあるはずで、もし私が依頼主なら、ここらは決して容認できないところです。
ところで、PC画面で見て感じていた印象というものは意外に確かで、実はあまり裏切られたことがありません。
このピアノに限ったことではないけれど、経験的に、ネットで入手できる情報というのは思った以上に正確度が高く、細かなところや醸し出す雰囲気まで、よく伝えてくれるものだと個人的に思います。
それでいうと、やはり確認できたのは塗装でした。
この時代、スタインウェイといえば黒のマット仕上げ(つや消し)が普通で、レガシーピアノもつや消しで仕上げられていますが、映像から得た印象では、今回のプロジェクトに見合った仕上がりではないように感じたことは、やはり間違いではありませんでした。
パッと見ただけではわかりにくいかもしれませんが、マットの塗装面には本来あるはずのないムラが散見され、質感もまだらで、均一(ピアノ技術者さんが非常に大切にされる価値)な仕上がりでないことは首を傾げざるを得ません。
さらに、大屋根部分は下地の傷などが完全に取りきれていない点もあって、いかにも中途半端な印象です。
ちなみに、ピアノの塗装では知る人ぞ知る名人といわれ、技術者間でも「先生」と呼ばれる方がさる地域においでで、その方が手がけたピアノを数台見たことがありますが、それはもう非の打ち所のない見事なものでした。
一流の職人の仕事というのは、ただ美しいだけでなく凄みのようなものが宿っているものです。
前回、長めのニュース映像の中で、初めて響板貼り替え作業中の写真を目にしましたが、古い響板が外されるところで、このときボディはすでに全体にペーパー掛けされたような状態で、おそらく響板貼り替えと同じ工房で塗装されたように見えました。
塗装はピアノ技術者の作業の中でも別の分野であって、楽器面の名人級の技術者さんでも、塗装だけは専門家に委ねるというのが一般的です。
簡単な補修などはともかく、本格的な全塗装となると専門家の領域となり、これはクルマでもメカニックが請け負う領域と、板金塗装とでは、その技術も仕事内容もまったく別ものであり、それぞれ分業となるのが一般的であるのと同じです。
中には本格的な塗装の設備/技術まで備えた会社もあるようで、一箇所で全てを賄うこと自体を問題だとは思いませんが、要は仕上がり具合を自分の目で見て、あまり上等なものじゃないと感じたわけです。
誤解なきよう言っておきたいのは、このピアノはもともと福岡市が購入し、60年近くを経て地元有志が復活プロジェクトを立ち上げ、集められた支援金によって実現した修復作業で、事前に公表された高額な修復費用に対する結果として見たときに感じるところであり、それでなければ、私なんぞがとやかくいうことではないのですが…。
なんだかケナしてばかりで申し訳ないので、良いことをいいますと、今の目で見ても、つや消し仕上げのスタインウェイはやはり心惹かれるものがありました。
艶出しのピアノも悪いとは言いませんが、下手をすると図体は大きく、やたらピカピカして暑苦しい場合があるのに対し、つや消しになったとたんこれが一変、彫刻的で、気品があり、あたりに独特のオーラが漂い、まるで京都や奈良などのありがたいものにも通じるような感覚に囚われます。
純粋に音色の点でも、つや消しのほうが深くやわらかい音になるということは知られているし、立ち姿も軽やかでスリムに見えるし、ボディに変な映り込みもないぶん造形の美しさもくっきり際立つなど、ピアノ自体がアートのようでほれぼれしてしまいます。