悲愴

数年に一度ぐらいでしょうか、無性にチャイコフスキーを聴きたくなるときがあって、しばらくはドップリになります。
今回はシンフォニーを中心とする管弦楽曲に限定して、主に4番からはじめ、もっとも繰り返し聴いたのはテンペストとマンフレッド交響曲のCDだったのは自分でも意外でした。

個人的に、チャイコフスキーの管弦楽作品では指揮者/オーケストラだけはこだわりたいところで、ひとことでいうと、ロシアの演奏じゃないとイヤなのです。
西側のハイクオリティのオーケストラによって知的に鳴らされるチャイコフスキーはシャープすぎ、無用なエッジが効いていたり、情や哀愁に身を任せたいところを、わざわざ構造的に解像度を高くしたりすると、それが仇となって逆に俗っぽく、あるいは味わいを損なって、かえって泥臭いだけの音楽になってしまうよう感じます。
今どきの、なにもかもスキャンしてあばくような演奏は、とりわけチャイコフスキーには向かないよう感じます。

ロシアのオーケストラでいいのは、音とアンサンブルがふくよかで、なにより情感が豊かで、必要以上に細部を追い詰めない…それでこそチャイコフスキーの世界に浸れます。
そのバランスを保ったときに聴こえてくるチャイコフスキーは、優雅で官能的だと思います。

チャイコフスキーといえば、一部の音楽愛好家の中では低俗音楽との烙印を押して、まったく取り合おうともしない方がおられます。
むろん人の好みは自由ですが、そこにチャイコフスキーあるいはピアノにおけるショパンをあえて避けることが「通」だといわんばかりの狙いが透けて見えるときがあって、そういう捉え方のほうがむしろ俗っぽいなぁと思います。

話は戻って、私のお気に入りはなにかというと、プレトニョフ指揮/ロシアナショナルフィル。
少なくともチャイコフスキーに関してはこれがあれば、もうなにもいらないというほど満足しています。

たしかにムラヴィンスキーの名演や、現代の巨匠でいえばゲルギエフなどもありますが、ムラヴィンスキーはあまりにも立派でブロンズ彫刻のようだし、ゲルギエフはやや自己顕示欲が強くて、チャイコフスキーの世界に浸りたいという目的からすると、ちょっと違うのです。

ところで第6番「悲愴」についてはさまざまなエピソードがあるようで、私は多くは知らないものの「第4楽章は鬱病の人が聴いたら発狂する危ない音楽」などといわれていた覚えがあります。
たしかにあの、恥も外聞もなく痛ましい感じを吐露した第4楽章は特異な存在とは思いますが、今回あらためて聴いてみて感じたところは、その問題は別の楽章との関係も大きいのではないか?と感じました。

鬱病の人に悪いのはむしろ第1楽章と第3楽章で、これらは全編を通じて神経衰弱的な不安定感が脈打っているように感じます。
第1楽章ではあの執拗に繰り返される第一主題がいやでも耳に食い込んでくるし、そうかと思えば突如として爆弾でも炸裂するような発作的な展開部となり、曲がどこに行くかも迷走しているようで、この感じはなかなかついていけません。

第2楽章は気を取り直したのか、いかにも優美なチャイコフスキーらしさにあふれて軸が定まっており、まるで美しいコールドバレエのような情景が目に浮かぶようです。

第3楽章になると、さらに興が乗って陽気になってきますが、周囲から浮いていることにも気づかず、やみくもにはしゃいでしゃべりまくる人のようで、それが却って悲しげな印象を覚えます。さらにエスカレートを続けて、どんどん高いところに登っていき、ついに最後は一気に転落してしまうのは、まるで上昇角度がつきすぎた飛行機が失速して墜落するよう。

そしてあの第4楽章が場面転換のように登場する。
各楽章の内容もさることながら、その4つの楽章の組み合わせが作り出すものが極めて不安定で、精神的に深く追い詰められた痛々しさ危うさを感じてしまいます。

随所に感嘆すべき魅力があふれているのは聞けば聞くほど感じるのも事実で、これが最後の大作にして最高傑作ともいわれるけれど、彼の才能はいささかも衰えていないことがわかります。
とりわけ悲劇性・特異性ばかりが注目される第4楽章ですが、しっかり聴いてみると、人間の避けがたい悲しみや諦念をこれほど赤裸々に、美しい音楽にしたという点であらためて感銘を受けました。

余談ですが、ロシアナショナルフィルはもともとプレトニョフが1990年頃に創設したオーケストラとされていましたが、現在はCDが出るわけでもなく、プレトニョフ自身も指揮をしているのかどうかは知らないけれど、近年はまたピアノに向かっているようにも見えるのは、あの国のことだから何か事情があったのだろうか?と思ったり…。