Eテレのクラシック音楽館から、昨年のベルリン・フィル日本公演の様子が放映されましたが、さらに現代の演奏傾向をまざまざと思い知らされることとなりました。
指揮はキリル・ペトレンコ、演奏曲目はモーツァルトの交響曲第29番、ベルクのオーケストラのための3つの小品、ブラームスの交響曲第4番。
ベルリン・フィルをを批判することは、きっと神を批判するようなものかもしれないけれど、アマチュアの個人的な印象なので敢えて言わせていただくと、残念ながら好みの演奏ではなく、上手さばかりを鼻にかけた高性能マシンのような、イヤミな演奏というように私は受け取りました。
いかにも手慣れて、曲全体をすべて見通し、細部を熟知し、なにもかもが彼らの手の中で飼い慣らされているといわんばかりで、必要以上にスムーズで、音楽的にも完璧で、破綻などまったくないのはご想像のとおりです。
反面、以外に音色のや表現の変化はなく、どの曲のどの箇所も一本調子で、ところどころに出てくるフォルテなどはどこか威嚇的な感じに聞こえるのも、聴衆に凄みを与えるよう狙っているように聞こえました。
音楽を聴くにあたり、未知なるものへの期待や、演奏者の生身の反応などを体験する喜びなどは感じられぬまま、あまりに手際よく小ざっぱりまとめられ過ぎると、音楽が、脂肪のない小さなかたまりのようになってしまうようでした。
音楽のすばらしさを伝えることより、自分達の上手さを誇示することのほうが、前に出ている感覚。
いまのベルリン・フィルを、ニキシュやフルトヴェングラーが聞いたならなんというか、タイムマシンはないけれど、せめてChatGPTにでも聞いてみたいものです。
音楽を聴く意義や楽しみとして、聴き手の想像力を掻き立てるようなものであって欲しいけれど、ベルリン・フィルのそれはあまりにも仕上げられすぎて、これ以外にない、あるはずないだろう…という調子で迫られ、これならどんな人が指揮台に立ってもほぼ似たようなことになるのでは…。
日本人の文化的なメンタルは、謙虚で、曖昧で、はかなくて、ゆらぎがあって、受け止め手の感性が最後を補完することで完成するといった、いわば精神的作法があるように思いますが、ああも自信たっぷりに言い切られ、すべてを断定されてしまうところは、どうしても相容れないところかもしれません。
もちろん、あれだけの人数が一糸乱れぬ演奏で終始できるという点では、素直に驚きで、そこには一種の畏れさえ感じますが、強いていえば弦の音色などはときに圧迫的で、悲鳴のように聞こえる時があり、そんなにカリカリしないで、もうすこし穏やかに行けないものか…と至って素朴なことを思います。
モーツァルトの29番の第一楽章など、モーツァルトの中でもとくにおっとりと温かい曲調だし、ブラームスの4番もいきなり深い悲しみの主題ではじまるシンフォニーですが、いずれもベルリン・フィルというエリート集団によってすべてが処理され、まるでハイテク工場の目もくらむような生産過程を見せられるようで、音楽を聴く喜びとは趣の異なるもののような気がしました。
すでに百年以上にわたって世界の頂点に立ち続け、その実力のほどは世界中が認めているのだから、もう少し泰然と構えて、奥深いところにあるものを聴かせて欲しいのですが、当節は少しでも手を緩めれば、その地位も危ぶまれるというようなことがあるのか。
あるいは私が求めているようなものはもはや時代遅れで、聴衆もあのような演奏を好み求めているのか、そのあたりは判然としません。
ベルリン・フィルに限ったことではありませんが、最近の演奏の上手さについては驚かされるばかりですが、同時に演奏者達が音楽を喜びとしているかどうかが疑わしく、高度な技能保有者が、ただ仕事として、仕上がったものを反復しているだけのように感じるのは、なんだかやるせないものがあります。
そういえば、本間ひろむ著の『日本のピアニスト』(光文社新書)を読んでいると、衝撃的なことが書かれていました。
現代のピアノを専攻している学生世代は、CDプレーヤーもTVも持たず、音楽はスマホかPCで主にYouTubeで鑑賞し、グールドやアルゲリッチを知らなかったりする学生が多いのには驚くとあり、これは読みながら、やはりショックでした。
変化もここまで凄まじいものになると、音楽というものの概念や存在価値はもとより、演奏スタイルも大きく変わってくるのでしょうから、なんだかもう頭がクラクラしてしまいます。
そのうち「AIの演奏でも充分!」という日が、ほんとうにやってくるのかもしれません。