クラシック倶楽部、アン・セット・シス・ピアノ・デュオ(山中惇史/高橋優介)。
2022年6月、北海道の北見市民会館での収録から。
ピアノは2台とも旧型のヤマハでした。
とくに第一ピアノはかなり年季の入ったピアノで、足もとはダブルキャスターでもなく、腕木の形状が後年とは若干異なる点から、おそらく1970年代頃の初期のCFだろうと思われ、それが逆に興味を掻き立てられました。
CFはその後CF2、CF3、CF3Sといった具合に改良が重ねられ、CFXへと繋がっていくわけですが、その過程ですべてが良くなったのか?というと、そこは素人には軽々な断定はできません。
ただ聴く立場でいうと功罪両面ありそうな印象もあって、個人的には初期のころのCFに、無骨だがつくり手の真っ直ぐな意気込みや謙虚さみたいなものを感じるところがあり、そんな実直なCFが嫌いではありません。
華やかさや洗練という点では降年のモデルのほうが分があるとしても、楽器としての深みやポテンシャル、さらに性能をギリギリまで使い切らない余裕という点では、この初期型CFのほうが上を行って(いるような気がする)し、化学調味料を使わない基本に忠実な料理のホッとする味のようなところにも好感を覚えます。
今回の2台ピアノでも、より古いCFのほうが低音などは迫力があり、ブォッと震えんばかりの厚みのある鳴り方をするのがわかる瞬間がありました。
低音がただパワフルに鳴ればいいという単純な話でもありませんが、そこに楽器の基礎体力のようなものを感じることも事実です。
低音のパワーでいうと、スタインウェイでさえ時代とともにだんだんに痩せてきて、よりクリアでヴィヴィッドな、効率的な音作りに向いていったように思います。
初代CFは、リヒテルがヤマハを愛用するようになって脚光を浴び、多くのコンサートや録音に最も使われた時代のピアノでもあります。しかしホロヴィッツが決して新しいスタインウェイを弾かなかったように、リヒテルも現代のCFXだったら喜んで弾くだろうか?…そんなことを考えてしまいます。
往々にして言えることは、昔のピアノ(の丁寧に作られたもの)は深いところから鳴るけれど、それでいて必要以上にピアノが前に出てくることはなく、あくまでもピアニストが主役、ピアノは一歩控えることを忘れません。楽器としてのわきまえというか慎みみたいなものがあったように思いますが、そういう奥まった価値は、なんでも表面的な効果が求められる時代にはもはや意味を成さない気もします。
本当に強い人間は、その強さをひけらかすことはしないけれど、そうでもない人に限ってやけに自己主張が強かったりするのと似ているかもしれません。
今回のヤマハで感じたことは、2台に共通して音の立ち上がりがよく明快で、そこが魅力のひとつだろうと思いましたが、少し残念なのは全体に音がベチャッとつぶれて聞こえ、ともするとカオスになってしまうところでしょうか?
それでも、古いCFにはヤマハのまっすぐな魅力も詰まっていると感じたことは事実です。
この文章を書いていて突然思い出したのですが、もうずいぶん前のこと、当時交流のあったピアニストがリサイタルをするにあたり、訳あって普段クラシックのコンサートではまず使われることのないホールでの開催となりましたが、そこにこの時代のCFがあって、状態も必ずしも好ましいとは言い難いピアノのようでした。
それをコンサートがお得意の技術者さんが、前日から入って短期集中的に調整したところ、望外の好ましいピアノとなり、力強い演奏にもまったく破綻を見せない、骨太のしっかり感があふれていました。
現代の機能性の高いピアノもすばらしいけれど、その逆の、古き良さにも捨てがたいものがあります。