心よりいでくる能

随筆家の白洲正子氏の著作の中に『心よりいでくる能』という一冊があり、そこに書かれていることは芸術と技術の分かちがたい微妙な関係性が抱える問題で、じつに世阿弥の頃からのテーマであったようです。

正子氏は、薩摩藩士の樺山家の令嬢として生まれ、幼少期より能楽に打ち込み、夫は吉田茂の片腕であった白洲次郎。
青山二郎や小林秀雄はじめ数多くの傑出した教養人と交流し、後年はアマチュアとして骨董や各地の仏像などにも造詣を深めた、日本の美の語り部でもあります。

『心よりいでくる能』の冒頭は、
「惣じて、目さきばかりにて、能を知らぬ人もあり」という世阿弥が老年になって記したという『花鏡』の中の言葉ではじまります。

以下、少し引用してみます。
「惣じて知的な批評眼ばかり発達して、能の本質を知らぬ人もある、というのは、現代にも通用する名言で、あらゆる芸術一般についていえることだろう。特に近ごろはその傾向が強く、知識がすべてと信じている人たちは少なくない。」
「たしかに知識はあるに越したことはないけれども、能を見ている最中は能に没頭しなければ何物もつかめない。」
「ここで「目きき」といっているのは、能にまつわる型とか約束事に通暁している人々のことである。世阿弥のころにはもっと自由でゆるやかであったものが、時代を経るとともに何十倍にも殖え、茶道と同じように洗練を重ねるとともに、型でがんじがらめとなり、身動きができなくなった。」
「古典芸能に型が大切なことは今さらいうまでもないが、あくまでも人間の便宜のためにあるので、型を正確に守ることだけが、能を知ることにはなるまい。」
「型だけのことをいうなら、一糸乱れず、完璧に舞う能楽師は何人かいる。彼らは達人の域に達しているが、見た目に美しいだけで何の感動も与えない。」

〜まだまだ引用したいところもありますが、これぐらいにしておきます。
ここで白洲さんの文章から読みとれることは、型や約束事ももちろん大事であるけれど、それに縛られて本質を見失うのは本末転倒であるということだろうと解釈しました。
能をピアノ、能楽師をピアニスト、型を楽譜や解釈におきかえたら、そのまま現代の演奏がはらむ問題に通底し、違和感なく浮かび上がってくるあたり、どの世界も同じなんだなぁと思うわけです。

観阿弥・世阿弥が生きた室町のころから、すでにものの本質を見失い、芸の向上と洗練ばかりに気を取られて大切なものを見失い、技術というわかりやすいものへ人は流れていたのかと思うと、要するに知識や技巧というものは、己の名を挙げるために示しやすい最短ルートということなんでしょうか。
技術や型を完璧にこなせるということは、わかりやすい根拠となり、一定の基準を満たすことで評価の目的が絞りやすいのでしょう。
その点、深い教養の中からものの本質をつかみ、自由で闊達さを失わずに本分を極めることは、まず他者と競うという目的とはそぐわないし、わかる人だけにわかればよいという高尚で無欲な精神の世界だから、曖昧で、主観的で、審美の目を前提とする。

これでは評価は分かれ、時間がかかり、回り道、寄り道、無駄や失敗をものともしない道であるから、とても今の競争社会のスピードにはそぐわない。

しかし芸術に触れるよろこびとは、天才や真の理解者だけが神に近い領域から持ち帰ったものを示してくれること、その尋常ならぬ感性によって選びとられ、濾過された貴重なしずくの滴りを、下界の凡人が口を開けて待っているようなものだと思います。

ピアノでいうと、最大の罪作りと思われるのは、ピアニストをがんじがらめにしておいて、その罪にも問われずますます拡大していくコンクール主義。
しかも近年のそれは、悪しき方向へといよいよアップグレードされており、コンクールそのもの、コンテスタント、審査員らの権威、ピアノ会社、音楽事務所、メディアなどが寄り集まる総合競技の様相を呈しているといっても言い過ぎではない。

中には必ずしも賛同はしないけれど、現実的にその洗礼を受けないことにはステージチャンスもないということで、やむなく受容する向きも多いようで、コンクールのドキュメントなどを見ていると、ああいうものに勝ち抜いていける人は、まぎれもないアスリート。
たいへんタフで、たいへん有能で、その事自体は大したものとは思うけれど、それは凡俗の勝者であって、芸術家には見えません。

では、芸術原理主義のようなものにしがみついて、ゴッホのような悲惨な生涯を送ることがいいと言いたいわけではありませんが、そこに一定の良識の働きとか、程よさというのは保てないものかと思います。
すくなくとも今のピアニストの演奏は、音楽として聴いた場合、優秀なアナウンサーの完璧な原稿読み上げ術のようで、音楽のようで音楽ではない、何か別のものを聞かされているような後味が残ります。
これをフェイクというのかどうかわかりませんが、聴いていて心が素直な感動や喜びに満たされないのは、やはり根本的な何かが間違っているような気がします。

文化芸術の在り方というものは、常にこういう問題がついてまわり、よくよく難しいもののようです。
世阿弥が呈した問題は、700年経った今も生き延びて、解決に至らず、いよいよ増殖を繰り返しているということかもしれません。