あるテレビ番組で、正確ではないかもしれませんが「あきらめない男達!」というような副題と共に、ひとりの努力と執念が生んだ偉大なる発明が紹介されました。
その名は安藤百福(1910-2007)、ウィキペディアによればもとは日本統治時代の台湾で生まれた人のようですが、両親を亡くして祖父母の元で育てられ、22歳のときに繊維会社を創設。翌年には大阪に会社を設立し日本の大学に通いながらも、数々の事業を手がけるという多才な人であったようですが、大変な苦労人でもあり、それをバネとして時代の波の中を逞しく生きた人のようです。
戦争では空襲により大阪の会社を失うなど、つねに数々の困難を乗り越えながら、多方面への事業や社会貢献を続けるものの、ある信用組合の倒産により理事長であった安藤氏は、これまで築き上げてきた財産のすべてを失います。
妻子の暮らす自宅の家財道具にまで差し押さえの赤紙が貼られる中、安藤氏は裏庭にある小屋である研究に日夜没頭します。
困窮を極める家族を背後に抱えながら、猛烈な執念とともに寝るひまもないほど試行錯誤を続けた末、ついに完成したのは日本初、そしてもちろん世界初のインスタントラーメンで、これがこんにち私達が良く知るチキンラーメンの誕生だったのです。
そしてこのチキンラーメンこそが、今や世界常識ともなったすべてのインスタントラーメンの原点だったことを初めて知りました。
安藤氏はさっそく製品の売り込みに奔走しますが、時は昭和33年、うどんひと玉が6円の時代に、チキンラーメンは一食35円と高価だったために、そんな高いものが売れるわけがない!とまったく相手にもされません。
それでも安藤氏の熱意はまったく揺らぐことはなく、置いてもらうだけでいいからと何度も頭を下げ食い下がるように頼み込んで店に並べたところ、店主達の予想に反して大反響となり、今度は注文が追いつかず自宅には業者の列ができるほどに。
このころは、まだ自宅で作っていたようですが、家族総出でフル稼働したところでたかがしれており、ひきも切らない注文には到底追いつくものではありません。そこで、ついに安藤氏はチキンラーメンを製造販売する会社を設立し、この時「日々清らかに、豊かな味を」という意を込めて作った会社が日清食品だというのですから、へええというわけです。
テレビでは言いませんでしたが、ウィキペディアに記されるところでは、チキンラーメンの好評を見て追随する業者が多く出たため商標登録と特許を出願し、1961年にこれが確定したため、実に113もの業者が警告を受けるハメになったとか。
しかし安藤氏は3年後の1964年には一社独占をやめ、日本ラーメン工業協会を設立し、メーカー各社に使用許諾を与えて製法特許権を公開・譲渡したというのですから、やはりこの人は根っこのつくりが何か違うんだなあと思います。
その後もアイデアマンとしてのパワーは止まらず、1966年に欧米を視察、アメリカで現地の人がチキンラーメンを二つ折りにして紙コップに入れ、フォークで食べる様子を見たことが今度はカップ麺の着想になります。そして5年後の1971年、次なる大ヒット商品となるカップヌードルが発売されるも、またも世間は冷ややかな反応しかなかったというのですから、いかに発明者に対して、それを受け入れる側の感性が遅れているかがわかります。
こんにち、スーパーのインスタント麺の売り場でも、従来型のインスタント麺とその勢力を二分するカップ麺ですが、発売当時はマスコミ各社は「しょせんは野外用でしかないキワモノ商品」としてしか認識せずに苦戦したということですが、またしても安藤氏の狙いは的中してブームが到来。その後は輸出もされるようになり、ついには世界80カ国で売られるまでになったそうです。
そしてこの50年間という、とてつもなく変化の著しい激動の時代を生き続け、いまだに現役の定番商品としてまったく翳りがないどころか、インスタント麺そのものが世界中に広がって、まったく独自の「食文化」を作り出したというのは、これこそ偉大な発明だったという他ありません。
こういう人こそ政府は国民栄誉賞を授けるべきではなかったのかと思いますし、そもそも国民栄誉賞というのはそういう性質のものではないのかと思います.
日本という国は、どういうわけか文化勲章では歌舞伎役者に甘く、国民栄誉賞ではスポーツ系に甘いとマロニエ君は思います。