成人力がトップ?

10月9日の朝刊は『日本「成人力」世界で突出』という大きな見出しが一面トップに踊りました。

記事によると
「これは社会生活で求められる成人の能力を測定した初めての「国際成人力調査」(PIAAC)で、経済協力開発機構(OECD)加盟など先進24カ国・地域のうち、日本の国別平均点が「読解力」と「数的思考力」でトップだったことがわかった。日本は各国に比べ、成績の下位者の割合が最も少なく、全体的に国民の社会適応能力が高かった。」
となっています。

これは事実上の世界一ということでもあるようで、むろん日本人として悪い気はしませんが、でも、とても今の日本人が「成人力」があるだなんて、マロニエ君はまったく思えないでいますので、いささか狐につままれたような気がしたものです。成人力という言葉のイメージから云うと、世界一はおろか、日本人は寧ろそこがひどく劣っているのでは?という疑念を抱いているこの頃でしたから尚更でした。

首を捻りながら、さらに記事を読み進めると、やはりそこにはある理由が見つかりました。
この調査では、日本人が苦手とする「コミュニケーション能力」などの項目がなかったことが好成績に繋がったと記されているので、これでいちおう「納得」という感じです。

その翌日の新聞のコラムには、これに関連したおもしろい文章が載っていました。

そのまま丸写しというのもなんなので、かいつまんで云いますと、スーパーで買い物をして6,020円の勘定だったとすると、一万円札に20円を足して4,000円のおつりをもらうのが我々日本人は普通であるのに、海外ではこれが通用しないというのです。

長くアメリカで暮らす人によれば、18ドル86セントの買い物をして、20ドル36セントを差し出せば、日本人なら1ドル50セントのおつりを期待するが、それがそうはならず、20ドルからのおつりとして1ドル14セントがまず渡され、さらに36セントがそのまま返ってくるのだとか。

まあ、たしかに、へぇぇという気はしました。
自分が常日ごろ普通だと思っていることが、そうではない場面に出くわすことでちょっとした驚きや違和感を覚えるのはわかりますが、それをいうなら、最近の日本人がみせる人とのかかわり方などに接するにつけ、ありとあらゆることがその違和感の洪水だと思ってしまいます。
マロニエ君などは、現代を生きるということは、いわばこの「違和感の洪水に耐えること」だとも思っていて、それに較べれば、たかだかそんなおつりの計算ができないぐらい、ものの数ではないという気がします。

いくら合理的な計算が素早くできても、人として社会に交わりながら、肝心のコミュニケーション能力が最も苦手というのでは、これこそ最も恥ずかしいことではないかと思うのです。

日本人が読解力にすぐれ、計算が上手いのは、デフレで、しみったれて、なんでもタダもしくはより安いものに目を光らせ、それを探して飛びつき、10円でも損はしたくないという損得の戦いのような気構えが、その計算能力や情報の読解力に繋がっているんじゃないの?と思いたくもなります。

成人力というのは、もう少し深くて本質的な意味であってほしいものです。