そこそこの幸い

前回の終わりの部分で、マロニエ君はこんなブログは書いてはいるけれども、実はホールにもピアノにも、それほどうるさくはないということで結びました。

その理由を少々。
まず第一には、マロニエ君には多少の好みはあるにしても、ホールやピアノをどうこう言うに値するような鍛えられた耳を持ってはいないということ。第二には、それをやりだしたら何一つ満足のない、不満だらけの世界の住人になるしかないという結果をじゅうぶんわかっているからなのです。

例えば、オーディオ。
ひとたびこれに凝り出したが最後、終わりのない追求地獄のはじまりで、オーディオを構成するすべての器機や付属物に対して、たえずより良いものを求める試行錯誤や買い換えなどが果てしな続くことになります。
とりわけオーディオは高い物がすべて良しというわけでもなく、器機同士の相性やセッティングの妙、さらには好みや多様な価値観が入り乱れ、終極的には家から建て直さなくてはいけないところまでエスカレートすることもあるようです。

それでも最終的には音を出してみるまではわからないし、その判断には主観も入れば、人によって評価も異なります。さんざんやったあげく、結局はじめのセットのほうが良かったりと、究極を極めるゴールの前にはご苦労地獄が際限なく広がっているようなものですし、そもそもゴールなんてないのかもしれません。それを承知で楽しんでいられればいいけれど、それは人によるでしょう。

ピアノしかりで、ある一定の予算の歯止めがかかって、その範囲内でのピアノの良し悪しや調整などに拘っているうちはまだいいのですが、中には経済力もあり世界の名器を購入して技術者も有名な方を自宅に呼び寄せて、自分がこうだとイメージしたピアノにすべく、最高最上を目指す方がおられるようです。

こういう方は、自分の中にすでに出来上がった理想の音というものがあって、妥協を許さず、その拘りの強さはハンパなものではありません。それを実現するため最高級のピアノを購入し、自分の描いた恍惚の世界に浸り込もうと躍起になるようですが、現実はなかなかそう思った通りにはなりません。客観的にはかなりものになっていても、理想が先にあって、それを具現化することに捕らわれてしまった人は、許容範囲というものが無いに等しく、良いと思ってもまた不満が募って悶々とする日々が続きます。

そのうち技術者のせいではと別の人に交代、それでダメなら今度はコンサート専門のピアノテクニシャンなんかを呼びつけたりしますが、こうなるとまわりの人達も大変なら、その間の当人のイライラは相当のもので、せっかく憧れのピアノ買ったにもかかわらず、思い通りに行かないことに却ってストレスは嵩み、理想はいつしか不満の裏返しに…。

こうなると、もはや冷静な気持で自分のピアノの良さを見つめることもできないわけで、せっかくの素晴らしいピアノも持ち主から愛されることなく、最悪の場合、とうとう別のピアノに買い換えるなんてことまであると聞きます。結局は、理想が高いばかりに、並大抵のことでは満足できない大変不幸な状態に縛り付けられてしまうようです。

マロニエ君としては、なにより自分が好きなピアノや音楽を、こうした不満やストレスの対象にするなんてまっぴらです。だから自分のピアノにもある程度のコンディションの良さは求めはしますが、決して過度の追求はしないことにしています。点数でいうなら70点でまあまあ。80点もあればじゅうぶんで、まぐれで90点ぐらいになろうものなら超ラッキーぐらいに考えています。

それでなくても、自分が何者でもないくせに最高のものを手にしたいなどとは傲慢な考えであり、そういう勘違いだけはしたくないわけです。そもそも音の追求などマロニエ君のようなナマケモノには性が合いませんから、そのぶん却って自分は幸いだったようにも思います。