ストラドの謎-3

現在製作されるヴァイオリンの多くが、ストラドを手本とし、サイズもほぼそれに固定化されているというのがおおかたの現実のようです。
これはもちろん、ストラドを崇拝する製作者の意志であると同時に、ここまでストラド至上主義が蔓延することで、市場もストラド型でなければ売れないという裏事情があるのでは?と考えさせられてしまいます。

ヴァイオリン製作者とて、多くはただ趣味や道楽でやっているわけではないでしょうから、最終的にはその楽器が演奏家に弾かれて評価され、その結果、ビジネスとして成り立たなくては作る意味がないだろうと思います。
今のこの風潮の中で、仮にストラドに背を向けたヴァイオリン作りをしても、見向きもされないとしたら、よほど孤高の職人でもない限り、製作する意義が見出せなくなる。勢い時代の要請に沿ったものを造らざるを得ないのは、市場原理の中ではやむを得ないというべきでしょうか。

でもしかし…。
そもそもマロニエ君が直感的に感じるのは、現代人がストラドの完璧なコピーを目指している限りにおいて、それを越えるものは生まれないのではないかという疑念です。
ダ・ヴィンチのモナリザを、どれだけ高度な正確さをもって模写しても、模写は本物を凌駕することはできません。さらにそこには数百年の時を経ることで、経年変化も重要な味わいの一要素になっているでしょう。
もちろん絵画と、機能性をもった楽器を同等に論じるわけではありませんが…。

ある本にあった言葉ですが、「概念を作る側と、それを追う側には、埋めがたい溝がある」と述べられていることをふと思い起こさせられました。

これは、「追う」というスタンスにある限り、目標物を捉えて同列に並ぶことは永遠にできないという定理のようなもので、それ以上の新しい何かを作ろうとしたときに、その過程で自然に先達の偉業の実態も掴める瞬間がやってくるのではないかと思うのです。
つまり、目標がストラドである限りにおいては、ストラドの天下は安泰だと見ることができるわけです。

それはともかく、この番組の中で印象に残る2つの要素、楽器から出る音の指向性を科学的に証明できたことと、表板に対する均一な音程の考察は、いずれも日本人による研究や考察であり、やはり日本人はすごいなあと感心させられ、誇らしくも思いました。

個人的に残念だったのは、ナビゲーター役のヴァイオリニスト演奏が、カメラを意識して張り切り過ぎたのかどうかわかりませんが、どこもかしこもねっとり粘っこい歌い回しのオンパレードで、いかにストラドとはいっても少々うんざりしてしまいました。

反面、思わず可笑しくなったのは、出てくる人達はおしなべて皆一様にどこか楽しそうで、嬉々としてこの仕事や研究をやっているという様子だったことです。そして大半が男性で、やはり男性特有のオタク的な性質が威力を発揮するのは世界共通で、こういう仕事には繊細で夢を追うのが大好きな男性が向いているということをまざまざと感じたところです。

ふりかえって最も印象に残った言葉は、音の指向性を三次元グラフにして解析した牧勝弘さんの、この実験結果に対する総括的なコメントの言葉でした。
「モダンヴァイオリンは、音があらゆる方向に満遍なく広がる噴水のような出方であるのに対して、ストラドは特定の方位へ音が広がる、しぼったホースの水のようなもの」(言葉は正確ではありませんが、おおよその意味)

これは、ピアノにもそのまま共通する事実で、この特性こそ、一握りの優れた楽器だけに与えられた奇跡的、特権的特性のようなものだと思います。