左手のピアニスト

NHKのETV特集で、『左手のピアニスト~もうひとつのピアノ・レッスン~』という番組が放送されました。
智内威雄さんという、現在37歳のピアニストに焦点を当てたもので、20代前半のころ、留学先のドイツで突然「局所性ジストニア」という難病に襲われ、右手のコントロールが効かなくなったことから、苦悩を乗り越え左手のピアニストに転向したという方でした。

注目すべきは、どうやら、この方がただ単に左手のピアニストというだけでは終わらない能力の持ち主であるというところのようです。
左手ピアノは、両手ピアノとは奏法も聴かせ方も異なるため、左手ピアノ固有の奏法や表現を独自に研究、弟子および他者への指導、埋もれた楽曲の発掘、さらにはコンサートなどを通じての、いわば市場の開拓といったら言葉が適当かどうかわかりませんが、左手ピアノの魅力を世に知らしめることまでを視野に含む、トータルな活動を精力的にこなす方でした。

ラヴェルやプロコフィエフの左手の協奏曲などが、第1次世界大戦で右手を失ったピアニスト、パウル・ヴィトゲンシュタインの委嘱によって作曲されたことは有名ですが、番組の解説によると、左手ピアノのための作品はなんと300年前から存在し、数千曲もの左手のピアノ作品が作られていたというのは驚くべきことでした。

しかも現在は、これらの作品の大半が弾かれることのないまま埋もれた状態になっているのだそうで、そうなると楽譜を見つけるのも容易なことではないようです。

どれほど優れた作品であっても、それが演奏され、音として聴くことができなければ、その存在意義は無いに等しいものになるわけで、カザルスがバッハの無伴奏チェロ組曲の価値を見出したり、メンデルスゾーンがバッハそのものの価値を広く世に広めるきっかけを作ったように、数多くの陽の目を見ない楽曲には、ときどきこのような熱心な個人の力によって、再び陽の目をみるチャンスが巡ってくるものなのかもしれません。

その智内さんの演奏はまったく見事なもので、いわゆる左手ピアノにありがちな、ひ弱さや物足りなさの要素は皆無。いかにも筋の通った、堂々たる佇まいの音楽として、充実感をもって演奏される様子には感嘆すら覚えました。
テクニックも大変なもので、あるコンサートで共演したフランス人のなんとかいうピアニストとは格段の違いを感じさせられます。

さらには、智内さんがピアニストとしてだけでなく、ネットを駆使して演奏技法を公開したり、左手ピアノの勉強会のようなことを開催したり、子供のために編曲をしたりと、とにかく広い意味での才人であることに異論はありませんが、番組の随所にはけっこう役者だなあと思わせられるシーンも少なくなく、さらにはその考え方や言葉などを通じて、なかなかの野心家のようにも感じられ、こういう人は何をやらせても事を為し遂げるのだろうと感心させられてしまいました。

ルックスもなかなかで、声もよく、色白のおだやかな優男のようでありながら、その眼光は常に鋭く、まさに隙のない意志の人なのだということが、まるで倍音のように伝わってきたのはマロニエ君だけでしょうか…。

左手ピアノでありながら、有名な日本人の御大の名が一度も出てこなかったのも偶然かどうかはわかりませんが、ともかく、これぐらいの才とスタミナのある人でなければ、今の時代にひとつの分野を再確立させることなどできないのだろうと、なんとなくトータルで了解してしまいました。