気負わぬ演奏

過日は、福岡出身のピアニスト、木村綾子ピアノリサイタルがあって、ご案内を受けたので行ってきました。
現在は大阪音楽大学で指導にあたっておられ、福岡ではなかなかコンサートの機会がないのですが、それでもときどきこうしてリサイタルをされるのは嬉しいことです。

マロニエ君は以前この方のお母上に大変お世話になったことがあり、ご実家が拙宅から近いこともあって長いことお付き合いがあります。

ここのお嬢さんが木村綾子さんというピアニストなのですが、これがもう大変な腕達者で、ほとんど男勝りとでも言っていい確かな一流の技巧をお持ちです。

音楽的にも、衒いのない正攻法のごまかしのないもので、どこにも変な小細工やウケ狙いがなく、あくまでも楽譜に書かれたことを、慌てず迷わず、しっかりと腰を据えつつ、過度に作品を追い込むことなく客観的に弾かれるスタイルがこの方の特徴です。

長年ドイツに留学されていたこともあるとは思いますが、この方の生来持っておられるものとドイツ音楽はまことに相性がよく、まるで自然な呼吸のようで、確かな構造感が決して崩れることのないまま悠々とその音楽の翼を広げていきます。

そんなドイツ物の中でも、際立って相性抜群に思われるのがブラームスで、あの重厚なのに捕らえどころのない本質、分厚い和声の中をさまようロマン、暗さの中に見え隠れする甘く儚い旋律の断片、作品ごとに掴みがたい曲想などが、この方の手にかかるとあっけないほどに明確なフォルムをもって明瞭な姿をあらわす様は、いつもながら感心させられます。

今回はop.116の幻想曲集が演奏されましたが、これを聴いただけでも行った甲斐があったというものでした。

ピアノを弾くことによほど天性のものがあるのか、こういう人を見ていると、通常はピアノリサイタルという、演奏者にとてつもない負荷のかかる行為が、大した労苦もなしにできるらしいといった印象を受けてしまいます。コンサートはこの方の生活のところどころに自然に存在するもので、それを普通にやっているだけといった、至って日常的な風情です。

そのためか、ギチギチに練習して、隅々まで精度を上げるべく収斂された演奏という苦しさがなく、もっと大らかで、悲壮感も緊迫もなしに、自然にピアノを弾いておられるという伸びやかさが感じられます。
もちろんきっちり練習されていないはずはないのですが、その苦労が少しも表に出ないところがプロというもので、良い意味で、常に余力を残した演奏というのは心地良いものです。実力以上のことを無理にやろうとして聴く側まで疲れさせてしまうということがなく、安心感をもって楽曲に耳を委ねることができるのは立派だというほかありません。

これは、ひとつには木村さんが大変な才能に恵まれたピアニストであるのは当然としても、さらにはその人間性やメンタリティに於いても、常に謙虚で偉ぶらない姿勢が感じられ、その点が聴いていて伝わってくるのは、この方だけがもつ独特の心地よさのような気がします。
演奏に最善を尽くすことと、功名心に縁取られた演奏は似て非なるものです。

どんな難曲を弾くにも自然体が損なわれず、それでいて演奏は構成的にも技巧的にも収まるべきところにビシッと収まっており、これは多くのピアニストがこうありたいところでしょう。
ある意味、こういう無欲で腹の据わった芸当というのは多くのピアニストはなかなかできることではなく、その真摯なのに肩肘張らない演奏は、聴くたびに感心してしまいます。

トークがまたおもしろく、私はピアニストでございますといった気負いがまるでなく、普通の人の感性で淡々と素朴な話をされるのがしばしば笑いを誘います。しかるに、いったんピアノに向かうと呆れるばかりの見事な演奏が繰り広げられるのですから、ある意味で不思議なピアニストです。