Fの成長

先日たまたま買った2枚のピアノのCD(バケッティのマルチェロ:ピアノソナタ集 ベクテレフのスクリャービン:練習曲集)は、いずれもファツィオリのピアノが使われており、スクリャービンはその旨の表記があったので購入前からわかっていましたが、もう一枚は中を開けてみてそうだとわかり、その偶然に驚きました。

これまでに主にCDで聴いてきた数々のファツィオリの印象をベースにしながら、今回あらたに2枚のCDを聴いてみての個人的な印象を少し。

ファツィオリが現在生産されるピアノの中でも、最上ランクに位置する一流品であることには異論はありませんし、事実そうなのだろうと思います。

ファツィオリは材料その他すべてにこだわったピアノといわれ、その音にはある種の濃厚な色彩と密度感があり、こういう音はコストダウンの思想からは決して生まれ得ないものであることは聴いていても容易に頷けるところです。
アップライトを作らず、大量生産にもシフトせず、あくまでも納得のいく工法で良心的な楽器造りを貫いているという点でも、ほんらい高級ピアノの生産とはこうあるべきだというスタイルを示している数少ないメーカーのようです。

ただ、まったく個人的な好みで云うと、ファツィオリは聴いていて、ピアノを聴く喜びというか心地よさが不思議に稀薄で、これは何が原因だろうかというのが、いつも聴きながら感じる疑問です。その音の美しさと、生きた音楽としての脈動には、いささかの乖離があるのか…。
ひとつひとつの音は、よく練り込まれ、磨かれて、じゅうぶん美しいにもかかわらず、表現が上手くないのですが、楽器として息が詰まっている感じが拭えません。

音は美しいけれど、響きに開放感がないのかとも思いますが、あくまで個人的な印象で決定的なことはわかりません。音量もずいぶんあるようで、以前、知り合いの技術者さんがファツィオリのピアノを調律するときは耳栓をして作業をすると云っていたことも思い出しましたが、とにかく音がかなり大きなピアノだろうというのは聴いていてそれとなく感じます。

ところが、マロニエ君の印象では、それだけの音質音量に見合った響きの飛距離が不足しているのか、ストンと落ちてしまう紙飛行機のような印象です。(これは音の伸びのことではありません)
楽器の音は、発音された音そのものも重要ですが、それが空気に乗って飛翔するところに聴く者は酔いしれ、味わいとか心地よさ、ポエムもファンタジーも激情も、その広がる響きの中に姿をあらわし、ひいては音楽として精神が旅をするものではないかという気がします。

この点では、ずいぶんと品質も落ちてしまったスタインウェイなどは、この響きの特性と開放感によって、辛うじてそのブランド力を維持しているようにも思います。

マロニエ君にとってはファツィオリが新興メーカーであるどうかなど、まったく問題とはしませんが、結果から見て、やはり歴史あるメーカーは深いところにあるどうしようもない何かが違うのだろうかとも思います。
以前はあまり良さのわからなかったベヒシュタインのDなども、最近になってそれなりに素晴らしいと思えるようになりましたし、シュタイングレーバーなどは能楽のような精神的高貴を感じます。

それぞれに個性というか哲学のようなものを感じますが、ファツィオリにはもうひとつこの楽器ならではの顔がわからない。ファツィオリの濃厚さがコクになり、あの豪奢が頽廃の陰を帯びたとき、本当の一流品になるのかもしれませんが、今はまだ一生懸命というか、頂点を目指してひた走っているという印象のほうを強く感じてしまいます。

それでも、とくに最近のモデルの傾向なのか、この2枚のCDに聴くファツィオリは以前よりもしなやかさが勝り、素直に感心させられる面が多々あったことも事実です。いずれもファツィオリの所有のようで、とくにスクリャービンで使われた楽器は同社の貸出用らしく、これまで数多く聴いたものの中ではとくに風格や余韻もあって最良の楽器という気がしました。
いずれもF278で、これがベストバランスのような気もします。

F308はイタリアお得意の12気筒スーパーカーみたいな印象でしょうか。