サムライ

早いもので今年もとうとう大晦日となりました。

残すところあと6日ほどというときに、ひとりのピアノ技術者の方からメールをいただきました。
まっ先に目に飛び込んできたのは「調律は愛」という聞き慣れぬ言葉でした。

この方は大手メーカーの調律師としてその職務に就かれ、また調律師養成機関の講師をつとめておられたという経歴をお持ちのヴェテランチューナーでいらっしゃるようです。
永年勤められた会社を退職され、今は「趣味は調律」と公言しながらお仕事を続けておられる由。

文章をそっくり引用というのも憚られるので、おおよその意味を要約すると、
「調律の世界は奥深くて際限がなく、形として捉えられず、感覚・感性の世界の問題が終局になる。 ピアノが好きでピアノに恋する。ピアノを愛して愛したい。先ずはこの境地に立てなければ技術者としては居場所は無い。」という専ら観念論のようでありながら、その言葉はきわめてキッパリとしたものでした。

その後、引き続いていただいたメールには次のような、こんにち失われて久しい日本人の苦しいまでの精神世界を垣間見るような内容でした。

養成機関の講師時代の信条は、「調律は愛」「実習中のトイレ厳禁」なのだそうで、調律師たるもの午前中の2〜3時間、午後の4〜5時間程度の生理現象コントロールが出来なければ顧客宅訪問などもっての外というのが信条だったとあります。
また「調律師の基本姿勢の心・技・体にわたり厳しく指導」と書かれていて、こんにち我々がこの言葉を耳にするのは、せいぜい大相撲の横綱の条件ぐらいなもので、これが調律師としての心得に用いられるとは思いもよりませんでした。

さらに続きます。この方はすでに40数年の調律師人生を続けられているようですが、丸一日ピアノと付き合う場合でも、仕事先でのトイレは借りられないのだそうです。そのためには「前日から戦闘態勢に入るというか、水分摂取と体調維持に気を使います」とあり、ピアノ技術者として一見過剰とも思えるこの精神訓のごとき気構えにはただただ圧倒されるばかりです。

ピアノの調律や調整をするのに、トイレ云々が作業として直接の問題があるかといえばおそらくないでしょう。しかしそういう覚悟をもって仕事に挑むというスタンスとして見れば、やはりこれは小さくない問題だろうとも思われます。
調律師というよりは調律列士とでもいいたくなるもので、心・技・体と相俟って、まさにチューニングハンマーを持つ日本のサムライを連想させられます。

今の世はあまりにも安易にプライドという言葉を濫用しますが、大抵はつまらぬ見栄やエゴのことに過ぎません。しかし、本来はこういう外に見えない信条や自ら打ち立てた誓いを静かに守り抜くことがプライドではないかと思います。

かつての日本人は、何事においてもこれぐらいの厳しい縛りを課すことによって心を整え、常に誠実に事に相対することが珍しくない民族であったことを思い起こさせられました。
それがいつの間にやら浅ましいばかりに即物的になり、評価軸は損得と勝ち負けだけ、このように目に見えないものに価値を置くということが絶えて久しいように思われます。
自らの使命には整えられた精神を下敷きとして、ある種のストイシズムを伴いながら邁進していくとき、我々日本人は格別の力が発揮されるのだろうと思います。

悲しいかな、かくいうマロニエ君が最もダメなくちなのは自分でもわかっていますが。

多くの教え子の皆さんと再会された時、真っ先に「講師!私お客さまのところでトイレ借りてませんよ」という言葉が聞かれるそうです。はじめに接した先生が口癖のようにされた教えは、生徒のメンタリティの奥深いところへ強い影響を及ぼすもののようです。

そして最後は次のように結ばれていました。
「トイレが近くなったら、、それは引退の潮時と肝に銘じ、今しばし愛を込めてハンマーを握ります。」


今年一年、拙いブログにお付き合いいただきありがとうございました。
どなた様も良い年をお迎えください。