愉快と不愉快

このところマスコミを賑わした佐村河内氏の事件は、彼が注目されるきっかけになったNHKスペシャルを、途中からですがマロニエ君も偶然見ていた経緯もあって本当に驚きました。

曲は番組内で流れるもの以外には聴いたことがなく、もちろんCDも買っていませんので、例の交響曲も通して聴いたことはありませんが、そもそもマロニエ君はあの手の副題が付いた類の、感動を半強制されるような曲は苦手なので、あまり興味は持っていませんでした。

ただ、今回の事実が発覚した後に出てきた情報によれば、青年時代までの彼は音楽とはおよそ無縁の生活を送り、高校の友人によれば当時からかなり目立ちたがり屋で大言壮語の癖があったとか。将来は役者志望だったそうで、なるほど「現代のベートーヴェン」という壮大な人物を演じきっていた「役者」だったんだなぁと納得しました。

こういう事件はむろん社会的には許されざることですが、誤解を恐れずに云うならば、マロニエ君にとって、週刊誌的ネタとしては甚だ面白く、大いに興味をそそる事件であったのも事実です。
詐欺詐称のオンパレードで、NHKはじめ各マスコミ、プロのオーケストラや音楽家、そのチケットやCDを買って涙する人々など、いわば世間をペテンにかけてしまった手腕には驚くほかはありません。はやく再現ドラマのひとつでも作ってほしいような、そう滅多にはない事件でした。

思い出しても笑ってしまうのは、さる音楽学者という人が、この交響曲のスコアを分析して、ひとつひとつの根拠を示しながら、これ以上ないという最大級の賛辞を惜しみなくならべ、大絶賛を送っていた様子などを思い出すときです。

マロニエ君もまさかこんな壮大な茶番とは思わなかったものの、ヴァイオリンの演奏を間近に聴くシーンで、弾いている女の子の体の一部に指先を添えて「その振動で聴いている」というのは、ちょっと不思議な感じがしました。

もちろん関係者は大変でしょうけれど、野次馬の一人としてはずいぶん楽しめました。

これとは逆に、笑えないばかりか、見ていてちょっと嫌な感じがしたのは、テレビでお馴染みの知識と知性を看板にしたコメンテーターの男性M氏でした。
「自分はこの人の曲を聴いたことがなかったけれど、この問題が起こってから聴いた。すると、申し訳ないけれど、後期ロマン派のマーラーにそっくりだということはすぐにわかったし、(別の曲では)バッハに似ているところがあるなど、聴く人が聴けば、どこにもオリジナリティというものがないことがわかるはず。それを検証もしなかったマスコミの軽率にも問題がある」というような意味のことを、いつもの偉そうな、自分は何でもお見通しという調子で、首を振りながら滔々と語っていました。

さらに驚いたことは、この「マーラーに似ている」という指摘は、そもそも日本フルトヴェングラー協会の野口さんという方が昨年の新潮45に書かれたものだそうで、ご本人が別番組に出演されておっしゃっていたことですが、M氏はそれにもいちおうは触れておくことも忘れず「新潮45に書かれた専門の方も私とおなじことを言っているようですが…」と、さりげなく言及。自分は音楽を専門としていなくても一聴すればその程度のことはパッと分かるし、現にそれは音楽の専門家が言っていることと見事に一致しているようだと云いたいようでした。
しかし、これはあまりにも苦しいこじつけにしか聞こえませんでした。

マロニエ君の印象では、マーラー風というのも言われればあの仰々しさなどそうとも思えますが、フィナーレなどは映画音楽的でもあったし、大河ドラマ風でもあったような覚えがありますが。

いつも時事問題に鋭い知性のメスを入れてコメントするというのがこのM氏のウリですが、要は知識こそがこの人の命のようです。しかも、この人の口から音楽に関する話を聞いたのは初めてでしたが、正直いっていかにも板につかない急ごしらえの発言という感じで、そうまでする果てしない自己顕示欲には、さすがにやりすぎの印象は免れませんでした。
この人はある程度は明晰な頭脳の持ち主かもしれないけれども、なんでもこの調子で、予定されたテーマを急いで調べて、読みかじって、集めた情報を頼りに、それをさも深い知識と見識から出てくるコメントであるように恭しく聞かせるというのが、カラクリとして見えてしまったようでした。

このときの、この人から受けた言いようのない不快な印象は、佐村河内氏と同じとは云わないまでも、そう遠くもない類似の種族ではないか…というものでした。