好みと資質

クン・ウー・パイクのピアノは以前ならバッハの作品集やフランスもの、リストの作品、あるいはショパンの協奏曲およびピアノとオーケストラのための作品等を聴いていましたが、まあ確かな腕前のピアニストだという印象があるくらいで、それ以上にどうということもないぐらいのイメージで過ごしてきました。

ところがきっかけはなんだったか忘れましたが、プロコフィエフのピアノ協奏曲全曲のCDに出会って聴いたところ、その凄まじいばかりの演奏にすっかり圧倒されて、これほどすごい人だったのかとそれまでの中途半端な印象が一気に払拭され、このプロコフィエフがパイク氏の印象の中核を成すことになりました。

ラフマニノフの協奏曲全曲もあり、プロコフィエフほどではないにしろ、これもなかなかのもの。
ところが、その後フォーレのピアノ作品集を聴くと、たしかによくよく考え抜かれた演奏のようではあるけれども、音楽を優先したつもりが過剰な抑制がかかり過ぎたような息苦しさがあり、フォーレの本質とはこういうものだろうか?という印象でした。一部には高く評価されている方もあるようですが、さらりと流せばいいものを必要以上に考えて深刻になっているみたいで、マロニエ君はそれほどのものとは思えませんでした。

それでもプロコフィエフでの衝撃は収まらず、そのころ日本では発売されていなかったデッカによるベートーヴェンのソナタ全集にこそ、この人の本領が込められているのでは?と輸入盤を入手して聴いてみたところ、これがまたどうにもピンとくるものがなくガッカリ。一通りは聴いてみたものの、このときの落胆は決定的で、その後はまったく手を付けていません。

つづくドイツグラモフォンからブラームスの協奏曲第1番と、インテルメッツォなどの作品集が2枚続けてリリースされ、これも聴きましたが協奏曲はそこそこ期待に添うものでしたが、ソロアルバムのほうは悪くはないけれど魅力的でもないという、なんとなくフォーレのアルバムを聴いたときの慎重すぎる感覚を思い出しました。

そんなわけで個人的には評価が乱れるパイクですが、昨年来日した折のトッパンホールでのコンサートの様子がBSで放送されました。このときはオールシューベルトプロという意外なもので、しかもマロニエ君の好きなソナタはひとつもなく、即興曲、楽興の時、3つのピアノ曲からパイクなりの意図で並べられるかたちでの演奏でした。

冒頭のインタビューでは、若い頃にソナタなどの大曲は弾いていたけれど、あるときにシューベルトの歌曲に魅せられることになり、それによってシューベルトへの理解が進んだというような意味のことを穏やかな調子で喋っていました。

しかし実際の演奏では、その言葉がそれほど演奏に反映されているようには思えませんでした。いささか乱暴に云うなら、どれを弾いても同じ調子で、昔のロシアのピアニストのように重く分厚く、それでいて非常に注意深く弾かれるばかりで、シューベルトの作品に込められている可憐な歌とか不条理、サラリとした旋律の中に潜むゾッとするような暗闇など、そういったものがあまり聞こえてこないのは残念でした。

やはりこの人は逞しさで鳴らす重厚長大な協奏曲などが向いているのかもしれないと思いますが、ご当人はそういうレッテルを貼られるのは甚だ不本意のようで、それがどうにも皮肉に思えてなりませんでした。
ひじょうに穏やかな話し方や物腰ですが、実はコンサートグランドがひとまわり小さく見えるほどの偉丈夫で、端的に言ってシューベルトをこんな大男が弾く姿が、なんともミスマッチに思えてしまうものでしたし、実際の演奏もそういう印象でした。
しかも、それが非常に周到に準備された、誠実さのあふれる演奏であるだけに、よけいにミスマッチを痛切に感じられてしまいました。

演奏家は自分の好みも大切だけれど、コンサートに載せる以上は自分の資質に合ったものを演奏しなくてはいけないということを考えさせられます。