高倉健

唐突な話題を持ち込むようですが、高倉健というのは不思議な俳優だと思います。

任侠映画の主役で一世を風靡したものの、その後はきっぱりそちらの世界とは訣別します。一説によればこのハマリ役、ご本人としては不本意であった由。壮年期以降は自分が納得する映画にのみ出演して、その都度話題になりながらおじいさんになって、ついには文化勲章にまで辿り着いた人です。

マロニエ君は映画は好きで気が向けば見ますが、とても映画ファンといえるようなレベルではなく、邦画も洋画も区別なく、なんとなく自分が見たいと思ったものをときどき見る程度です。
昔は深夜の時間帯に任侠映画をテレビでさかんにやっていましたから、高倉健はもちろん、鶴田浩司、藤純子、江波杏子らの活躍する映画は、見てみると結構おもしろいので、子供だったくせにこの時間帯にそこそこ見た記憶があります。

高倉健はとくに好きではないが、かといってとくに嫌いというわけでもない。じゃあどうでもいいのかというと、それもまた否定するのも肯定するのもちょっと難しい俳優さんです。
その存在感は大変なものだと思いますが、マロニエ君の好むタイプの俳優という枠からは大きく外れた存在ですし、かといって彼に代わるような俳優がまったく見あたらない、きわめて独特な存在であることも間違いないようです。

とくに好きではない理由は、高倉健その人ではなく、周りから寄ってたかって作られた「健さん」のイメージのほうです。前時代的な男の理想像、男が考える「男の中の男」という、あれが鼻についてイヤなのです。
アウトサイダーで人生を真っ当に歩めなかった負い目、不器用でヤクザな生き方をするしかなかった諦観、根底に流れる正義感、寡黙で、無学で、腕っ節だけは人並み外れて、シャイで破天荒…等々、そういうイメージが高倉健の双肩に遠慮会釈なく積み上げられてしまったのだと思います。そう云う点では、彼こそは多くのファンと映画会社の求めるイメージの被害者であるようにも思えます。

さらに悲壮感が漂うのは、昔の俳優は今とは比較にならないほど多くの縛りがあって、恋愛や結婚など私生活にも厳しい制限が多く、とりわけ高倉健ほどのドル箱ともなるとそれはいっそう厳しいものだったと思われます。彼はついにそのイメージを守り通し、俳優高倉健を現在只今でも維持しているという点で、まさに自分に科せられた宿命に殉じる覚悟の人生なのではないかと思います。

そういう自分の宿命に身を苛み、半ば投げやりにも似た感じで諦観している姿が、また男の叙情性や孤独性のような作用を生み出して、倍々ゲームのように高倉健らしさに色を添えていく。

これはまったくマロニエ君の想像ですが、高倉健の数少ない密着映像などをみていると、本人はそのイメージとはかなり違った好みや憧れを秘めながら、一生をかけて「高倉健という役」を演じている人のように感じられてしまいます。

若い頃に離婚して、その後結婚しないのも、彼が好む女性は高倉健のイメージを大いに損なうような人なのではないかと、明確な根拠はないけれども思えてきます。
すくなくとも我々がスクリーンを通して思い描くような高倉健にお似合いだと感じる女性は、実はご本人はぜんぜんタイプじゃないような気がしてならないのです。

なぜこんな事を書いたのかというと、自分に合わない曲を弾きたがるパイクからはじまり、栄光と喧噪の中で自分の弾きたい曲さえ弾けなかったクライバーンを思い出し、そこからファンの期待するイメージの犠牲になった高倉健という連想に繋がったわけでした。