昨年来日したマレイ・ペライアのサントリーホールに於けるコンサートの様子を、BSクラシック倶楽部で見ました。
ペライアはどちらかというと日本に来ることが少ないピアニストですが、これは表現するのが非常に難しいコンサートだと思いました。
音楽の世界では、演奏者のプロフィールは誇大表現するのが普通で、たとえば「世界的に活躍」という言葉は毎度のことで、とても額面通りには受け取れないというのが常識です。
その点で云うと、ペライアはこの言葉と事実が一致する数少ない存在で、世界でも高い位置にランクされるピアニストという点で異論はありません。
マロニエ君自身も、ペライアのCDなどはどれだけ持っているかわからないほど、昔からよく聴いており、ある意味避けては通ることができないピアニストだろうとも思います。
遠い記憶を辿ると、たぶんペライアのCDを初めて聴いたのが、ごく若いころに弾いたシューマンのダヴィッド同盟と幻想小曲集だったような気がします。
ペライアは、徹頭徹尾流暢で、音楽の法則に適った気品ある音の処理、まさに真珠を転がすような粒の揃った潤いのある音並びの美しさには、この人ならではの格別の輝きがあります。細やかな音型の去就や立ち居振る舞いにも秀でており、完成度の高い演奏をする人という点もペライアの特徴だと思います。
ハッとさせられる美しさが随所で光り、音色も瑞々しく艶やかですが、表現の振幅や奥行きという面では、けっして精神性の勝ったピアニストではないという印象があります。
作品の本質に迫るべく、清濁併せもった表現のために技巧を駆使するというのではなく、あくまで美しい精緻なピアニズムが優先され、そこに様々な楽曲の解釈があたかも銘店の幕の内弁当みたいに、寸分の隙もなく端正に並べ込まれていくようです。
何を弾いても語り口が明晰で耳にも快く、どこにも神経に引っ掛かるようなところはないのですが、そこにあるのはいわば音と技巧のビジュアルであり、おまけに常に一定の品位が保たれているので、はじめのうちはそのあたりに惹きつけられてしまうのですが、それから先を求めると忽ち行き止まりになってしまう限界を感じます。
ピアノを弾くのが本当に巧い人だとは思いますが、芸術的表現という点ではそれほど満足が得られるというわけではないというのが昔から感じるところで、今回あらためてそれを再確認させられてしまいました。
この放送で聴いたのはバッハのフランス組曲第4番、ベートーヴェンの熱情、シューベルトの即興曲でしたが、個人的にはバッハ、ベートーヴェンはどうにも消化不良で、かろうじてシューベルトでやや楽しめたという印象でした。
本人がそう望んでいるのかどうかわかりませんが、この人の手にかかると、どんな作品でも体裁良く小綺麗に整い、予定調和的にまとめられた感じを受けてしまいます。
演奏を聴くことで受け取る側が何かを喚起され、さまざまに自由な旅に心を巡らす余地はなく、いずれもこざっぱり完結していて、それを楽しんだら終わりという感覚でしょうか。
半世紀も前に、日本では『献上のメロン』という言葉が比喩として流行ったそうですが、ペライアのピアノはまさにそういう世界を連想させるもので、デパートの高級贈答品のようなイメージです。どこからもクレームの付けようのないキズひとつ無い、見事づくしの出来映え。マロニエ君はどうもこういう相反する要素の絡まない、無菌室みたいな世界は好みではないのです。
インタビューでは指の故障でステージから退いていた期間、ずいぶんとバッハに癒されつつ傾倒し、その後はベートーヴェンのソナタ全曲の楽譜の校訂までやっているとのことですが、「熱情」の各楽章をいちいちハムレットの各情景に例え、実際にそういうイメージを思い浮かべながら弾いていると熱っぽく語るくだりはいささか違和感を覚えました。
音楽から何を連想しようとむろん自由ですが、マロニエ君は本質的に音楽は抽象芸術だと思っているので、そこに行き過ぎた具体的イメージを反映させながら弾くというのは、いささか賛同しかねるものがありました。
もちろん、作曲者自身が特にそのように作品を規定していたり、劇音楽の場合は別ですが。