いずれが大切か

音楽性とテクニック、いずれが大切か。

これはピアノ演奏上の価値基準に対する、永遠のテーマかもしれません。
コンクールの功罪や在り方も、煎じ詰めればこのテーマに抵触するとき、あれこれの論争が巻き起こるといっていいのかもしれません。

どんなに腕達者であっても、そこに一定の音楽性が伴わなくては聴くに値しないという基本は揺らぐものではないけれども、先日のロマノフスキーの演奏は、技巧と音楽性(広義では芸術性)の関係についてあらためて考えさせられる契機にはなりました。

よほどの悪趣味であるとか、体育会系腕自慢は論外としても、やはり水際立ったテクニックというものは正しく用いられている限りは、それ自体もストレートな魅力であることを認めないわけにはいきません。

ここでいうテクニックというのは、厳密には「メカニック」との区別を厳格にすべきかもしれませんが、そんな言葉の微妙なところはどうでもいいというか、要はその言葉の微妙な意味の違い以前の根本的な問題のような気がします。

技巧VS音楽性、いずれを大事と見るかは譲れぬ意見があるようで、それぞれ言い分はわかります。マロニエ君の結論としては、少なくともステージに立って演奏するようなピアニストであれば、この二つはどちらが欠けてもダメだということです。

技巧を第一に考える人は、ピアノといえばまずは指の技術ありきであって、曲をまともに弾くこともできずに音楽性云々と言うのは詭弁であり、キレイ事にすぎないということでしょう。
たしかに豊かな音楽性も、繊細な感性も、悲喜こもごもの心的描写も、それらはすべて鍛えられた技巧を通してはじめて表出させられ音楽にのせて具現化することの出来るもので、それなくしては表現もなにもはじまらないという主張で、その点はマロニエ君もまったく同感です。

ただ、現実には、技巧が表現のための手段として、いわば表現の裏方に徹しているかというと、そうは思えないところも多々あることが問題です。
ピアニストであれ素人であれ、長年にわたり技巧の習得に邁進してきた人の中には、音楽性云々は建前で、本心では技術がすべてに優先するという人が大勢いるのは事実でしょう。技術こそが優劣の絶対尺度で、それをまるで偏差値のように捉えてしまうやり方です。

音楽的趣味や感性の重要性にはほとんど目を向けようとせず、そちらがまったく育っていない人(というかむしろ抜け落ちている)というのは音楽の世界では最も恥ずべきことのはずですが、高い技術さえあればとりあえず威張っていられるのがこの世界の現実で、それだけテクニックを持っていることはエライことなんでしょう。
そういう人達に限って、ショパコンとかプロコとかベトソナなどと疑いもなく口にするようにも思われ、これらは直接の関連はないはずですが、やっぱり何かはっきり説明できないところで繋がっているような気がするのです。

ピアニストの演奏スタイルも時代とともに変遷があり、二三十年前まではあからさまな技巧派タイプがいたものですが、近年は一捻り二捻りされて、ぱっと見は非常に精度の高い知的な演奏が主流で、そこへ自分の演奏表現(のようなもの)を織り交ぜて個性とするスタイルが主流のようです。しかし、ときに不自然なほどの「間」を取ってみたり、変なアクセントをつけたり、意味のないような内声を際立たせたり、極端なpppとfffの対比でコントラストをつけたりと、必ずしも聴き心地の良い音楽とはなっていないものを見かけるのも事実。
それもよくよく聞いていると、結局は自分の技術的都合にそった解釈めかしたものであったり、評価のための演奏であったりと、その企みが透けて見えてしまうと、たんなる個人的な野心を見せられているようで気分はシラケてしまいます。

そんな中、技巧の優れることが音楽性に勝るとは思いませんが、現実的に抜きん出た技巧を持っている人のほうが、精神的にも余裕があり、情緒面も落ち着いているのか、音楽もどちらかというとストレートであるのはひとつの特徴だと思います。

結局のところ、技術や才能に足りないものがある人ほど、小細工を散りばめてあれこれを企んだり辻褄合わせをする必要があるようで、正攻法でいけば、自分の欠点が忽ちバレてしまうという恐れがあるんでしょうね。
そういう意味でも、やはり余裕ある技巧はどうしても必要になることは否めないように思います。

ただし、これはあくまでもプロの話であって、アマチュアの場合は断じて音楽性が優先だと思います。
アマチュアの場合、多くは技巧といってもたかが知れています。所詮は人よりちょっと難易度の高い曲を弾けますよといった程度で、どっちにしろピアニストに敵うはずもなく、他人にとってはほとんど意味のないことです。

聴かせてもらうなら、小さな一曲でもいいから、きれいに弾いてもらったほうがよほど気持ちがいいですね。
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消極的無礼

何かがヘン…と感じることは、日常のおりおりにあるものです。
それも、とくに大したことではないことが、却って神経に障ったりするのは人の心の不思議というべきかもしれません。

先日、主に運転用の新しいメガネを作ったときに、運悪くそんなシーンに遭遇してしまいました。
メガネを作るのはマロニエ君には甚だ苦手なことで、店先で拘束され、検眼に時間とエネルギーを費やすことで、ひじょうに目と神経が疲れてしまって心身ともにヘトヘトになるのです。

近ごろは、おしゃれなメガネが意外な破格値で作ることができるので、マロニエ君もいやなことは一回で済ませてしまおうと、遠く用と近く用の二種類のメガネを新調することに。

検眼をして、フレームを選んで、やや特殊なレンズであるため当日の出来上がりは無理ということで、支払いを済ませ、控えを受け取って、後日受け取りに来ることになりました。
準備ができたら電話の一本でもくれるのかと思いきや「いえ、お電話はいたしません。こちら(控えに書いてある日にち)でご準備できていますので…」というので、普通は電話でもかかってくることで、忘れていても思い出すことも兼ねているように思いますが、ま、いいかと思って帰りました。

何月何日に出来るということは、自分自身で控えをチェックして、認識して、自発的に取りに行かなくてはいけないわけで、なんとなく気を張ってなくちゃいけない印象があったことは事実ですが、安いということはそういうことでもあるのだろうと思うことに。

それから数日して取りに行くと、よほどシステマティックにできているのかという予想に反し、ずいぶん待たされ(先客がいたわけでもなく)、そのあげくようやく出されたメガネは、2種類のフレームとレンズがそれぞれ逆になっているという大ミスが発覚。こういうとき、今の若い店員さんにとって、接客マニュアルにない「番外編」に突入するのか、とりあえず石のように固まって無言となり、しきりに書類ばかりチェックしまくります。
同僚と小声でしゃべったりと、多少あわてているふうではあるけれど、要するにこっちは完全に放置された状態となり、それが延々と続きます。ずいぶん経って、ついにミスであることの確認が取れたらしく、再度レンズの発注をかけるということになり、このころになってようやく「申し訳ありません。」という言葉が出てきますが、ちょっと遅いようですね。

でも、これは単なるミスだと思いえば、お互いに生身の人間なんですから仕方がないかとも思えます。
その際の対応のマズさも、予期せぬ出来事ゆえと、まあ理解してやれないこともありません。

おかしいと感じるのは、実はこれらのことではなく、はじめにマロニエ君の対応をしてくれて、フレーム選びから検眼まで、1時間近く対応してくれたひとりの若い男性のほうです。出来上がりを受け取りに行ったときには、たまたま一番身近にいた店員さんに控えを渡したことから、その女性がその場合の担当者になるのかなんなのか、そのあたりの内部規定はしるよしもありませんが、数日前にあれだけ接客をし、あれこれ言葉を交わしたにもかかわらず、前回の男性は目の前にいるのにまったくの知らん顔なのは「何なの!?」と思います。

普通なら「こんにちは」か「いらっしゃいませ」ぐらいの最低限の挨拶をするのが当たり前ですが、一瞬目が合っても、これといった反応もせずに、悠然と横にいる店員としゃべてみたりで、なんというか、ちょっと薄気味悪いものを感じてしまいます。

もちろん客と店員の関係なので、実際だれかが応対して事足りていればそれでいいということかもしれませんが、それにしても、こうも露骨にその場限り、前後のつながりなんて完璧にないよという反応をされてしまうと、これはやっぱり無礼ではないかと思います。しょせんはそんなもの、くだらないとは思いながら、やはり胸の内でいやなものが駆け巡ることは事実です。
商売には商売なりのルールというものがあるわけですが、こういう消極的無礼は、今どきの社会には蔓延横行していることをこれまでにも何度か経験させられています。

結局、二度目に取りに行った時も同様で、その男性はこちらを認識しつつなんの挨拶も反応もなしで、マロニエ君もあえて目が合わないように意識していました。こんなことがあると、店全体の評価を甚だしく下げることになり、今後はその店で買う気持ちを完全に失いました。
向こうが一回限りというなら、こちらも一回限りにしてやらぁと思います。
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らららでピアノ

普段見る習慣のないNHKの「ららら♪クラシック」ですが、他の番組を録画する際に、たまたまこの番組も目についたので気まぐれにセットしてみたところ、通常の1曲解説ではなく、「楽器特集~ピアノ」がテーマで、思わずラッキー!という感じでした。

このテーマでは、ほとんどお約束ともいえる「ピアノという名前はなぜそう呼ばれるようになったか」というところから、300年前にピアノはイタリアのクリストフォリという人が云々というあたりまでは、はいはいという感じです。

意外だったのは、フランスの代表的な二人のピアノ製作者、エラールとプレイエルの名が出てくるところですが、この番組では、リストはエラールを好み、ショパンはプレイエルを好んだと、あまりにきっぱり色分けされていたことでした。
さらにリストはエラールの革新的な音や性能を高く評価したのに対して、ショパンがプレイエルを好んだのは、例のダブルエスケープメントの登場前の、シンプルな機構から生まれる音色にあった由で、マロニエ君はこれに反論するほどの材料は持ち合わせないので、いちおう「そうなんだ…」と思うことに。
ワルツ第1番のあの特徴的な連打を、古い機構のアクションで弾いていたということなのか…。

古典的なさまざまなピアノが出てきたものの、それらは映像ばかりで音はほとんど聴かせてくれなかったのはとても残念でした。
マロニエ君の注目を引いたのは、ある時期のプレイエルには第二響板というのがあって、開けられた大屋根の一部にそれは格納されており、必要時には留め具を外すと大屋根の内側に取り付けられた板が下に降りてくるようになっており、中音から下あたりの弦の上に覆いかぶさるようになります。

この状態でピアニストがショパンのバルカローレの一部を弾いていましたが、「第二響板をつけると、高音から中音、低音までバランスよく響くようになる」とのことで、音色はいうに及ばず、弾かれた音の余韻にこだわるプレイエルには、むかしこんなアイデアがあったのかと唸ってしまいました。

この第二響板なるものは、一見すると本来の響板から出る音にフタをしてしまうような印象もありますが、響板と呼ばれるからにはそれなりの木材が使われているのでしょうし、それによって絶妙のニュアンスが生まれるのだとすると、これはぜひ実物の音を聴いてみたいものだと思いました。
とっさに連想したのはバイロイトの祝祭劇場で、オーケストラピットがそっくり舞台下に隠されて、ここ以外ではあり得ない独特な音響を作り出すことで有名ですが、そんなものなんでしょうか。

たしかに現代は、楽器の性能や演奏技術、あるいは作品解釈においてはずいぶん研究が進んでいる(正しい方向か否かは別にして)ようですが、微妙な音色であるとか音響上のニュアンスというものについては、さほど意識が払われないよう気がします。
音楽あるいは演奏にとって、立ち現れてくる音のニュアンスというのはかなり重要なファクターだと思いますが、その点では現代ではくっきりはっきりブリリアントが首座を占めているようです。

後半には横山幸雄氏が登場し、ピアノの多様性を紹介するためか、ベートーヴェンの熱情、ショパンのノクターンop.9-2、リストのカンパネラをかなり割愛した形で連続して弾きました。が、どれもほとんど同じように聞こえてしまったのが正直なところで、えらく無感情な、まるで残業の仕事でも急いで片付けるように弾いてしまったのには、ちょっとびっくりでした。

ネットの動画では、どこかの音大での横山氏のレッスンの様子を見ることができますが、かなり細かい点までいちいち指示している当の本人が、このような弾けよがしな演奏をすることに、このレッスンの受講生やビデオを見た人はどんな感想を持つのだろうと思いました…。

ちなみに番組が進行するメインスタジオには、わりに新しめのスタインウェイDが置かれていて、横山氏もそこで話をしていましたが、演奏そのものは別のスタジオなのか、別のピアノ(30年近く前のスタインウェイD)が使われていました。
NHKの収録の都合でそうなったのか、横山氏の希望でこのピアノが使われたのか、そのあたりの事情は知る由もありませんが、いずれにしろ個人的にはスタインウェイではこの時期のピアノを好むため、つい期待したものの、そういうものを味わう余地もないまま、肉の薄いタッチでサササッと終わってしまったのは甚だ残念でした。

蛇足ながら、司会者の加羽沢美濃さんがスタジオに置かれたスタインウェイDを紹介する際、「このピアノはフル・コンサート・ピアノ、通称フルコンと呼ばれるもので、全長2m80cm、重量480kg…」と言い、併せて画面には文字でも数値が映し出されたのは、ん?と思いました。語尾に「ぐらい」がついていればまだしも、実際は274cmなのでいささか抵抗感がありました。

NHKのコント番組、LIFE風にいうと「これはちょっとまずいですね、NHKなんで!」というところでしょうか。
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何のためのポイント

先月最後の週末、福岡市の天神にあるタワーレコードの福岡パルコ店に行った折、ポイントや駐車券発行をめぐって甚だ納得できかねる事態に遭遇しました。

そもそもマロニエ君は、さまざまなお店が発行するポイントカードのたぐいが基本的に好きではなく、以前は束のようにあったものの大半を破棄してしまい、現在ではわずか二三枚になっています。
その理由は、本来お客さんをお店に繋ぎ止めるためのサービスであり魅力アップのためのポイント制度であるべきものが、往々にして逆の事態を招くからです。店側に都合の良いルールが一方的に定められ、その運用を巡ってはむしろ高慢な振る舞いとなり、結果、利用する側が不快な思いをする事象が多いことは多くの人達が大なり小なり経験されているのではと思います。

そして、やっぱり起こりました。
そもそも買い物を通じてせっせと貯めたポイントが「失効」することは、それまでのささやかな努力や積み上げが一瞬にして破棄される如くで、有り体に言えば、あたかも恩を仇でかえされるような、突然、なにか逆さまの現象が起こってしまうようないやな感触を覚えます。ポイントカードなんかあったばかりに、却って不愉快な事に直面することになるという、割り切れなさでしょうか。

前々回タワーレコードに行ったとき、ポイントを使おうとすると、新しいシステムなのか「1000ポイント単位」でしか使えないのだそうで、わずかに足りませんでした。1万円買って何ポイント付与されるのかいまだ知りませんが、いずれにしろ1000ポイント貯めるのはそう容易なことではありません。

ところがレシート内に書かれた「失効予定」をみると、5月末日でその1/3ほどがその対象となっています。
ここにひとつ重要な事実があるのですが、福岡パルコ店は昨年の夏ごろから店が閉鎖となり、今年になっても再開の予定さえまったく告げられませんでした。閉鎖から数カ月後には別フロアに、申し訳程度の小さな仮店舗のようなものは出来ましたが、その中のクラシックなんて、どこかの廉価CDシリーズが並んでいるほどの微々たる量で、なんの役にもたちませんでした。

それから年が明け、今年の春になって、福岡パルコの増床と合わせて突如再開されたわけで、一年近くもの間、こちらとしては行きたくても「店がない」という状態に置かれていたわけです。にもかかわらず、そのあたりの事情はポイント失効期日と一切無関係というのですから、これはもう出だしから商道徳にも背くスタンスだと思いました。

店側にしてみれば、このポイントカードは全国のタワーレコード共通のものなので、他店では使用可能である筈という理屈なのかもしれませんが、福岡でいうと近くに代替店舗といえる規模のものはまったく存在せず、せいぜい郊外のモール内の店舗ぐらいですが、とてもではありませんがクラシックの選択肢など無いに等しいものです。

さらに驚きは追加され、これに駐車券のサービス券が絡みました。
福岡パルコ店では、購入額2000円以上で30分、4000円以上で60分のサービス券が出ることを、口頭で質問して「繰り返し確認して」いましたので、この日も駐車券のことも意識しながら4402円の買い物をしました。
ここで1000ポイント達成となり、失効わずか2日前にしてポイントを使うことに。

ところが、清算が終わってみると、差し出された駐車券は30分券が1枚のみでした。
おかしいではないかと質問しますが、レジの若い女性では答えにならず、すぐさま責任者のような男性が出てきましたが、店が定めた規定によって、この日の買い物は1000ポイントが先ず差し引かれ、3402円とみなすことになる由。

専らそのルールを繰り返すだけで、あとは無言、話はまったく噛み合いません。
そこまでルールが厳格なのであれば、駐車券のことを「繰り返し聞いた」ときに、ポイント使用分は含まないという点を併せてはっきり伝えるべきですが、それはいずれの場合にもまったく伝えられませんでした。
にもかかわらず、いよいよそれを発行する段になって、いきなりポイント分は除外となることを告げるのは、あまりに不親切かつ一方的で、もしや消極的カラクリかとさえ疑りたくなります。

いまどきの接客力も応用力もない店員を相手に、レジで抗議するのはみっともないし自分も虚しいので、この場はサッと引き上げましたが、何度反芻してみても納得できませんでした。どう考えても、店の都合のみが優先され、客側の利益や心情はまったく蔑ろにされており、まるで店側が権力を握りそれを上意下達ごとく行使している構図にしか見えません。

べつにきれい事を言うつもりはありませんが、純粋な価格でいうなら、ネットで買うほうが格段に安くもあるし、選択肢に及んでは店頭とは比べ物になりません。それでも、地元にあるCD店を利用することで、ささやかなりとも店の売上に貢献したいという思いがあることも事実で、だからあえて店頭でも購入をしているつもりでした。

むろんマロニエ君ひとりが買う量など、微々たるものかもしれませんが、深刻なCD業界の不況の中にあって、わざわざ店まで足を運んでCDを購入する人を、もう少しは大事にしたらどうかと思います。
「貧すれば鈍する」という言葉があるように、台所事情が苦しいからといってサービスの適用条件を上げるばかりでは、ますます人の足は遠退いていくだけだと思います。
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手頃価格でゲット

中古車店のことを書いたついでにもう少々。

マロニエ君の勝手な思い込みかもしれませんが、長引く不景気故か、価値観の変化か、ピアノや輸入車のような付加価値品目の中古価格は、昔に比べると安くなっているような気がしてなりません。

売る側にしてみれば贅沢品に類する品目の中古品は、時代のニーズからちょっと外れて売りにくいのか、かなり良いものが安く売られているようで、かなりお買い得感を感じます。

その一例がアップライトピアノで、タダ同然のオンボロは別として、お店でまともなものを買うとしても、うるさいことを言わなければ、20万円ぐらいでもきちんと整備されたピカピカの良い物が買えるのは驚くべきことです。
現在の主流である電子ピアノに比べても、こちらはなにしろ本物のアコースティック・ピアノであり、それもヤマハやカワイのようなれっきとしたブランド品が買えるのですから、これは市場自体がかなりのバーゲン状態ではないかと思います。

電子ピアノというのは近隣の騒音問題をクリアできるということ以外にあまり見るべきものがないし、はっきり言ってしまえばあれは楽器ではなく電気製品と心得るべきでしょう。聞くところでは、それなりの時期に、それなりの故障やトラブルが出てくるのだそうで、その際、高い修理代を出してまで使い続けることはほとんどないのだとか。

電気製品となれば、テレビや洗濯機のように新しいものへ買い替えが必要で、古いものは粗大ゴミとして処分することなどを考えれば、やっぱり生ピアノというのは価値や存在感からして違います。
上記のような中古であっても本物のピアノは寿命は遥かに長く、その気になれば何十年も使えるものがほとんどです。モノとしての価値はおよそ勝負にならないと思うのですが、それでも生ピアノというのはなかなか買う人がいないのは何故なんでしょう。

話が脱線しかかりましたが、マロニエ君の少ない知識と印象でいうと、日本はこの種の中古品に関しては、突出して恵まれた国だと思います。
大ざっぱに云っても諸外国では中古品の価値というものは、日本人が考えているよりはるかに高く、それだけ価格もずっと割高だという印象があります。その点、日本は中古というと何かやましいもののようなイメージがつきまとい、あくまで新品がエラくて無条件に好まれるというメンタリティの土壌があるのでしょう。

また、全般的にものを長く使うということがあまりなく、どんなにきれいでも要らなくなれば直ちに処分するとか、一定期間が過ぎると買い替えの対象になることが少なくありません。ともかく新品もしくは新しいものが大好きで幅を利かせる日本では、非常に状態の良い中古品の宝庫であもあるわけで、しかもそれらは一様に「中古」ということで値打ちがずいぶん下がるので、ジャンルによってはそこに目をつけている外国人も少なくないようです。

例えば車の場合、最近目にした専門誌の記述によれば、ドイツでは中古車の走行距離が10万キロ程度では、多走行の部類にすら入らないのだそうで、この一点だけでも彼我の違いに口あんぐりでした。
日本なら、中古車で10万キロといえば、ほとんど賞味期限の切れたボロ同然の扱いで、まともな商品価値はないのが普通です。

たしかにドイツのアウトバーンをはじめ、陸続きのヨーロッパでは高速道路網が発達しており、走行距離の数字だけで同じ判断をすべきでないという見方も以前はありました。いっぽう日本の道路は慢性渋滞で、高温多湿の中をノロノロ運転で、距離は伸びていなくても機械的なストレスが大きいなどとまことしやかにいわれたものです。
ところが最近では、エンジンや駆動系に強い負荷をかけて高速道路を飛ばしまくった車こそが最も傷みが激しいということが指摘されるようになりました。

まあ、そりゃあそうでしょう。ヨーロッパでバンバン飛ばしまくって、わずか数年で10万キロ走った車なんて、我々日本人が見たらかなりくたびれた車と感じるでしょうし、そんな車は日本人ならまず嫌がりますね。

というわけで良いものは日本にこそあって、しかもちょっとでも型落ちすればかなり安いみたいです。
実は以前から耳にするところでは、ヨーロッパから、ちょっと古い中古のドイツ車などを探しにわざわざ日本へやって来るらしいという話は耳にしていました。そして昨年のこと、マロニエ君の友人(関東在住)が乗らなくなったあるドイツ車を中古車店に預けていたところ、ドイツ人ブローカーがやってきて、見るなり望外の高値で購入、ドイツへ送る手続きを行なったというのですからウワサは事実として裏付けられてしまい、たいそう驚きでした。

やはりそれだけ、日本には外国人から見たら飛びつくような上物の中古品が安値でたくさんあるということなんだろうと思います。日本人の丁寧な扱いや、ちょっとしたキズでも許さないこだわりの民族性、それでいて新しいものが好きとなると、状態の良い中古品をぞくぞくと生み出すための条件が見事にそろっているのかもしれません。

というわけで、品目によっては良いものが手頃価格でゲットできる好機のような気が…。
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今どきの中古車店

このところ、輸入車専門の中古車店へ2軒ほど行く機会(購入ではなく)があったのですが、昔とはずいぶん様子が違っており、それぞれの店では車種や得意分野を絞り込み、厳格な商品構成がされている点が非常に印象的でした。
中古車店の在り方もまさに時代とともに変化しており、今昔の感に堪えませんでした。

ひとつ目の店は、すべての車が比較的高年式で、走行距離はすべて15000km以内のものに限られていることにまずびっくり。当然どの車もとてもきれいで、中古車というものにありがちな古さや使用感など、いわゆる人の手垢のついたネガティブなイメージというのがほとんどありませんでした。
さらには車種も人気のあるメーカー/モデルに絞られ、確実に売れるであろうものだけしか在庫もしないという徹底ぶりが窺われました。輸入車といっても珍車/希少車の類は見当たりません。

聞くところでは、ドイツの高級車でも、大型車の部類、あるいはエンジンが大排気量のモデルなどは、端から取り扱いをしないというあたりにも、今どきの購入者のニーズがはっきり見えるようで、その割り切りには時代の厳しさがにじみ出ているようで、思わず圧倒されるようでした。

つまりどんなにいい車でも、走行距離の多い車、大型車、大排気量の車は売れにくい=商売にならないということらしく、店頭に並ぶことはもちろん、仕入れることもないのだそうです。
もちろんごく一部の例外的な人気モデルなどでは少し条件が外れることもあるようですが、全体としては、おおよそ輸入車中古店の基本的な営業スタンスはこういう方向を向いているようでした。

昔の車好きは、その車に惚れ込んだらかなり情熱的かつ盲目的で、分不相応な車だろうとなんだろうと、買えるものなら必死になって購入して単純に悦に入っていたものですが、今の人達は車は好きでも基本が冷静で、実用性を重視し、駐車場の問題、周りの目、ランニングコスト、故障した場合の修理代などのリスクをトータルに考えて、いわゆる無謀な車選びはしないというのが主流のようです。

聞くところでは、たとえばメルセデス・ベンツでいうと大型車であるSクラス、もしくは3200cc以上の車は、それ以下のモデルに比べて売れ足が一気に鈍るのだそうで、今どきはあまり人気がないのだそうです。
だからそのあたりのモデルは、お客さんからリクエストがあるような場合以外は仕入れないし、むろん在庫はしない方針だと店長さんがキッパリ言い切ったのがきわめて印象的でした。

もうひとつの店は、ドイツ、フランス、イタリアの車をずらりと並べていましたが、価格はおしなべて100万円台、それもほとんどが150万円以下というものでした。
上記の店よりは多少走行距離も嵩んではいるものの、それでもせいぜい3~4万キロ止まりという感じで、どれもシャンとしていて決してくたびれた感じではありません。

こちらもやはり自店の売れ筋という基準を設けて、それにそった車のみを置いていることが一目瞭然でした。

昔は、輸入車を取り扱う中古車店というのは、一部の専門店を別にすれば、多くは何でも屋のような状況で、いろんな車が並んでいたものです。手頃なものから高級車/高級スポーツカーまで、なんでもありでしたし、とりわけ高額車はお店の看板商品でもあり、常にぐっと前面に出されていた感がありますが、それが現在ではすっかり様変わりして、安くて手頃なモデルなどに特化し、気軽なオシャレ感や現実性をアピールするという方向に変わってきていることを痛感しました。

さらには昔の感覚でいうと、全般にかなり安めの価格になっているようで、それだけ輸入車が売りにくい時代になっていることを物語っているようでした。
輸入車が贅沢品で、それでもどんどん売れていた時代は遠い昔の話です。加えてネット社会の到来で、個人が全国の中古車情報を網羅的にチェックすることも可能となり、競争は格段に厳しいものになっていったんだろうと推察されます。

おそらく世界的にも、ドイツをはじめとするヨーロッパ製の高級車の中古は、質・価格ともに日本が最も有利な買い物ができるという説もあるほどです。2つ目の店ではひと世代前のBMWの3シリーズで、かなり程度の良いものが5台並んでいましたが、ほとんどが150万円以下でした。これって軽の新車と同じ価格帯でもあり、思わずウーンと唸ってしまいました。

逆にいうと、日本車の軽やコンパクトカーって、相対的に結構高いんだなぁとも思った次第です。
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ロマノフスキー

少し前の放送でしたが、Eテレのクラシック音楽館・N響定期公演で、アレクサンダー・ロマノフスキーが登場しました。この人はベートヴェンのディアベッリ変奏曲のCDを購入して以来、マロニエ君がそれなりに興味を持っていたピアニストのひとりでした。
とくに目立った個性というほどではないけれど、しっかり感があって、涼しい感じのする演奏だったことが印象的でした。

演奏したのはラフマニノフのパガニーニ狂詩曲。
もっているCDは一枚きりで、それなりに聴いていたものの、演奏する姿を見るのは初めてです。

いきなり驚いたのは演奏前のインタビューのシーンで、コメント自体は別に大したことは言っていませんでしたが、大きな手の持ち主らしく、カメラの前でピアノの鍵盤に手を広げて見せてくれました。
するとオクターブからさらに5度上(もしくは下)、つまりドからひとつ上のソまで12度!届くわけで、さらに余った指で和音をならしたりできるようでした。大変な偉丈夫でもあったラフマニノフは、手の大きいことでも有名だったようですが、きっとこんな具合だったのだろうかと思います。

ピアノの鍵盤はどれもほぼ同じなので、老若男女から子どもから、手指の大小長短さまざまな人達が同じフィールドで指を動かすことに奮励努力しているわけですが、ロマノフスキーの大きな手を見ると、これは天が与えた大変な武器であり、もうそれだけで手の小さな人は出だしから不利だということを思わずにはいられませんでした。

そんな大きな手の持ち主なら、どれほどの体格の持ち主かと思うところですが、それはごく普通のロシア人にすぎず、いわゆる長身痩躯という部類の優男タイプで、袖口から出ている手だけが、体に対してふたまわりほど大きいような印象でした。
グールドもそうでしたが、体つきに対して、手首から先がバランスを欠くほど大きな人というのは、それだけでピアノを弾くことを運命づけられた特別な人のように見えてしまいます。

実際の演奏は、音楽的に特筆大書するほどのものではないけれど、普通にすばらしい、充分満足のいくものでした。
それよりもしみじみ思ったことは、やはりステージに立つ人というのは、誤解を恐れずにいうなら、まずはテクニックだと思いました。

ロマノフスキーの演奏を視聴していると、技巧に余裕がある(もちろんその手の大きさも彼の余裕ある技巧を可能にしている要素のひとつであることは言うまでもない)ために、あわてず、無理せず、追い詰められず、常にいろいろな試みをしようという余裕があることが伝わってきます。
自然に前に進んで行けるため、呼吸や音楽的な潮の満引きが奏者の心身の波長と重なり合って、すっきりはかどり、聴いている方も安心して音楽の旅に身を任せることができ、無用な不快感やストレスを感じずに済みます。

技巧に余裕のない人は弾くだけで手一杯で、そこに付随すべき表現とかアーテキュレーションなども、事前にしっかり準備したものを無事に披露することだけに全エネルギーが傾注され、即興性とか意外性、問答の妙味みたいなものが立ち入る隙がありません。結果的に魅力のない感興に乏しい演奏に終始してしまうのは当然です。

その点でいうと、ロマノフスキーとてむろんしっかりと練習を積んでステージに出てきた筈ですが、実際の演奏行為としては一期一会の反応や表現をそのつど試みてやっていることが感じられます。音楽という、一瞬一瞬の時間の中で生まれるものに携わる者として、どう音を発生させ、重ねたり展開させたり解決させていくか、そこで生じるさまざまな反応を試しつつ、その醍醐味を聴衆にも提供しているようです。

つまり圧倒的なテクニックは、創造的な可能性を広げるものだということを痛感しました。

音楽は演奏される現場で生まれるもので、そのための周到な準備は必要ですが、その演奏のどこかに「どうなるかわからない」という部分を孕んでいないものにはマロニエ君は魅力を感じません。過日、ヒラリー・ハーンの演奏について書いたのは、あまりにそういう要素に乏しいということでした。

オーケストラや共演者がどうくるか、ソロでも、ひとつのテーゼをその瞬間どう出たかによって、あとにつながる部分は変わってくるわけで、それらひとつひとつが反応して変わってくることが音楽の魅力の根幹ではないかと思われます。

感心したのはそればかりではなく、ピアノというのはやはり演奏者の奏法と骨格がストレートに反映されるものだということで、ロマノフスキーのような西洋人としては普通の体型で、やや痩身、しかも手が大きいというのは、もっとも美しい音を出す条件ではなかろうかと思いました。日本人では岡田博美あたりでしょうか。

あまり体格そのものが良すぎると、どうしても腕力でピアノを制してしまい、そうなると音が潰れて意外にピアノは鳴りません。また小柄な人や多くの女性では骨格が弱いため、どうしても必死にピアノに食い下がっている感じがあって、これらもあまり朗々と鳴ることは少ないです。

その点でいうと、ロマノフスキーの音は、とくに激烈な音などは出さないけれど、いつどこを聴いても明晰で、常に輝きと張りが漲っており、聞くものの耳へ労せずして音が届いてくるのは感心させられました。

つくづく思うのは、趣味がよく、技巧がとくに優れた人というのは、音楽が素直で、演奏もいい意味でサッパリしているということです。もちろん中には際立った指の動きに任せてスポーツ的に弾き進む人もないではないですが、全体的には、やはり上手い人は演奏ももったいぶらず、楽々と進んでいくのが心地良いと感じます。

あちこちで変な間をとったり、大見得を切ってみたり、聞こえないようなppで注目を惹いたり、音楽全体の流れを停滞させてまで意味ありげな強調をしたりするのは、たいていはどうでもいいような、ないほうがいいような表現のための表現であることが多いものです。
それは意図して自分の個性づくりをしているなど、元をたどれば、つまりは技巧に対する弱さをなんとか別の要素でカバーしようとしているにすぎず、本当にうまい人というのは、自然に自信もあるからそんな小細工をする必要がないのだと思われます。

それにしてもロマノフスキーとは、ロマノフ王朝を思わせる、なんとも豪奢で印象的な名前ですね。
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ウォールナットのD

前回のキット・アームストロングのリサイタルについては、途中からブレンデルに話が及んでしまい、もうひとつ大事なことを忘れていました。

なによりも珍しかったのは、実はピアニストではなくピアノのほうでした。
この演奏会では、浜離宮朝日ホール所有の艶消しウォールナット仕上げによるハンブルク・スタインウェイのDが使われていたのです。ここにそのピアノがあることは薄々知っていましたが、その全容をつぶさに見たことも、音を聴いたこともなかったので、その意味では思いがけず念願が叶ったというところです。

放送された当日だったようですが、たまたま友人と電話でしゃべっていると「今朝のクラシック倶楽部は、浜離宮の木目のピアノだった」と教えられ、一も二もなく見てみたものです。

期待に胸膨らませて再生ボタンを押したところ、なるほどウォールナットのDがステージに据えられています。
その結果はというと、ピアニストに続いてピアノのほうもマロニエ君の好みではなく、とくにピアノは期待が高かったぶんかなりがっかりしてしまいました。
日頃より、マロニエ君は木目のピアノに対しては、格別の魅力を感じているひとりです。現在手許にあるディアパソンも深い赤みを帯びたウォールナット仕上げである点も大いに気に入っている点ですが、そんな贔屓目で見ても、この木目のDは不思議なぐらいピンとこない印象でした。

やはり現代のコンサートグランドというのは、まずは黒であることが無難なんだろうかと考えさせられます。
とくに艶消しのウォールナットという外皮は、明るい木目があらわで、あえてピアノの外装の格式みたいなものでいうなら、ずいぶんくだけた装いなのかもしれません。
明るい木目でも、たとえばスタインウェイ社がピアノの素材構成を見せるために作った無塗装のシステムピアノのDなどは、ある意味とても洒落ているし垢抜けた印象さえあるのですが、このウォールナットはそれとも違い、木目なのに木目の明るさを感じない不思議な雰囲気でした。

家に置くピアノだったら、木目のピアノは文句なしに好ましく、黒はむしろ無粋だとも思いますが、ステージでは必ずしもそうとは限らないという事実をこのピアノのお陰でちょっとわかった気がしました。黒のほうがビジュアルとして遥かに収まりがいいし、ステージ用にはフォーマルであることも知らず知らずのうちに求められるのかもしれません。

それと、浜離宮朝日ホールのステージの場合、背後の壁も似たような色の木目調だったこともあり、ピアノが保護色のようになって茫洋とした印象をあたえるばかりで、ときおりステージの備品のように見えてしまうのは予想外でした。
また、Dはボディが大きいためか、木目であることが妙にナマナマしく不気味にも見えたことも正直なところでした。

楽器自体もずいぶん古いもののようで、このホールよりもずっと年長のようですから、きっと何らかの事情で中古として運び込まれたピアノなのでしょう。
マロニエ君はいつも書いている通り古いピアノは本来は大好きで、新しいものよりはるかにしっくりくる場合が多く、とくにコンサートで年季の入ったピアノが使用されることはむしろ望むところなのですが、このピアノの音はというと…どれだけ好意的に耳を澄ませても、残念ながら納得しかねる音でした。

スタインウェイのD型としてはもどかしいほど鳴らないピアノであることはテレビでもよくわかり、賞味期限切れのような貧しい音しか出ていないのは大いにがっかり。このホールには他に黒のDが2台あるようなので、このピアノはその外観と相まってフォルテピアノ的な位置づけなのでしょうか…。
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ブレンデルの影

BSクラシック倶楽部で、キット・アームストロングという若いピアニストのリサイタルの様子が放映されました。

台湾系イギリス人だそうですが、人間には勘働きというのがあるようで、冒頭のインタビューの感じからして、直感的にこの人はマロニエ君の好みでないだろうことが伝わってきました。そして実際の演奏もある程度予想通りのものでした。

この人はブレンデルに師事しているのだそうですが、さもありなんという感じで、プログラムの構成や演奏家としての理念の示し方まで、師の影響がありありと出ており、実際の演奏にもそれは随所に見て取れました。
現在23歳とのことですが、実年齢よりはるかに幼く見え、まるで中学生が巨匠のような表情でピアノを弾いているようでした。

演奏中は、バッハでさえ、見ているこちらの頭がふらふらしてくるほど上体を揺らしまくりますが、聞こえてくる音楽には面白さというか興味をそそるものがマロニエ君には見当たりません。やたら抑制的、くわえて、ところどころに巨匠風の表現などが盛り込まれるあたりは、いかにもこの人の目指すところが透けて見えるようです。

演奏アプローチが思索的表現を前面に押し出そうとしているわりには、さほど知的な薫りが漂う風でもなく、単に理論統制型の良心的演奏をアピールしているだけに聞こえてしまうあたりは、却って音楽家としての謙虚さにかけているような気もしました。正論のようなものを誰彼なく得意気に弁じ立てる人こそ偏っているように…。

ネットで探したプロフィールによると、ブレンデルは「これまでに出会った最も偉大な才能の持ち主」と言い、「ロンドンの王立音楽院から音楽の学位を、パリ大学から数学の学位を授与されている。」などとありますが、そんな言葉を連ねるよりも、演奏によって聴く者を説得できるかどうかが演奏家たるものの本分ではないかという気もします。

バッハもリストも、マロニエ君にとっては楽しめるところのない演奏で、この人のどこがそんなに世界中の期待と話題をさらうほどのピアニストなのか、まるきりわかりませんでした。
メフィスト・ワルツでの両手のオクターブの跳躍など、まさにブレンデルのそれでした。

そもそもブレンデルが、マロニエ君はいまだによくわからないピアニストです。
演奏それ自体が、学問の講義を聞いているようで、こういうアプローチが流行った時期がたしかにありました。質素を旨とし、まるで抽斗の中を小ぎれいに整理整頓したような小料理屋みたいな演奏が、そんなに立派なことなのかと思ってしまいます。
最盛期には作品の最も深いところを探求する学究肌のピアニストとして、いつしか最高位の音楽家であるようにもてはやされ、ミシェル・ベロフに至っては「自分がほしいものは、ポリーニのテクニックとブレンデルの音楽性」などとコメントする始末でした。

マロニエ君はこの当時からあまり好きではなかったけれども、しっくりこないのは自分の理解が及ばぬ故だと思い込んだ一面もあり、この人のベートーヴェンのソナタ全集だけでも3種類ももっていることが、今思えばすっかり評判に乗せられてしまった証のようで我ながら恥ずかしくなってしまいます。
しかし、最後の全集の折は、全曲揃わなくなることを覚悟して途中下車したことは、せめてもの自分の意思表示だったように思います。

引退後のブレンデルは後進の指導にあたっているのか、何人ものピアニストを自分色に染め上げていることが、少々気にかかります。クーパー、ルイス、オズボーン、そしてこのアームストロング。いずれにも通底するブレンデルの影を、それがいかにも本物の上質なピアニストである証左のように美化されて見えてしまうのは、なにか得体のしれない危機感を覚えてしまいます。

いかにもウィグモアホールあたりの常連ですよという演奏ですが、今にして思えばちょっと時代遅れのようなスタイルになっているような気もします。

だからといって特にブレンデルを嫌いだというわけではありませんし、さすがだなと思うことももちろんあるのです。ただ、マロニエ君の目には、努力の人という程度で、現役時代の彼の名声はいささか過大だったように思えてならないのだと思います。
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しらぬ顔

マロニエ君のように徹底して移動の手段をクルマに依存していると、ときどきは人を乗せるという機会があるものです。

そんなとき、今どきの流儀に著しく違和感を感じることも少なくありません。
せこい話だと思われるかもしれないけれども、昔とはずいぶん様子が変わってきたと思うシーンがあります。

外で人と会えば、流れでその人を車に乗せる状況になることは珍しくありませんが、マロニエ君に言わせるなら、車に乗せてもらう側にもそれなりの作法というものがあって然るべきで、実際、昔はそれはあったのですが、これが時代とともに衰退し、今はほとんどゼロに近いような状況に達してるというのが偽らざるところでしょう。

例えば出先で一緒になり、帰りに駅や家まで「送りましょう」となることがあるものです。
その際、車を有料の駐車場に止めていれば、昔なら間違いなくその駐車料金の支払いをめぐって一騒動があったものでした。
もちろんその騒動とは、「ここはワタシが!」「いやいや結構です!」「乗せてもらうんだからこれぐらい当たり前ですよ!」というような支払い合戦で、車の持ち主はこれをご遠慮というか拒絶するのが一仕事でした。人を何人か乗せて駐車場を出ようとすれば、助手席や後部座席から一斉に何本もの手が伸びてきて、それはもう数匹のコブラから狙われているようでした。

それがわかっているものだから、こちらの方でも予め小銭なんかを密かに準備して、サッと支払いができるようにするなど、今から思えばなんとも奥ゆかしいというか、麗しい美徳が互いに満ち溢れていたものだと思います。それが特別でもなんでもない、ごくごく普通の感覚でした。

それがいつ頃からだったかは判然としませんが、こういうやりとりはすっかり廃れて現在はほぼ絶滅に等しく、駐車場代を払わんがための攻防などまったくありません。それはもう、不気味なまでに静かでスムーズなものです。
今の人は、人の車に乗せてもらっても、遠回りして家まで送ってもらっても、あるいは迎えに来てもらってこちらの車で行動を共にしたとしても、その行為に対して言葉で「すみません」とか「おじゃまします」などの最小限の言葉が出るのがせいぜいで、実際の行動として駐車料金ぐらい出そうとする、あるいはせめてワリカンでという気持ちなど「微塵もない」ところはまったく驚くばかりです。

こちらが駐車場代の支払いをしていると、横でその作業が終わるのを静かに待っています。
こちらもちょっと送ってあげるからといって、それでいちいち駐車場代を払ってもらおうなどとケチなことを思っているわけではありません。ただ、普通の感性として、乗せてもらうからには、ささやかな駐車料金ぐらい出すのが普通で、これは専ら倫理やマナーの問題の筈ですが、そういったものが一切介在してこない乾き切った感覚が当然のように流れると、内心「…すごいな」と思ってしまうわけです。

こちらもむろん自分で出す気ではいるものの、せめて出そうとする態度ぐらい示したらどうかと思います。
電車やバスで帰ってもそれなりの料金はかかるわけで、これではまるまるタダ乗りということになるでしょう。もちろんタダ乗りで結構なんですが、そのどこかにお互い様の心の機微が機能しないことには、こちらの善意までちゃっかり利用されているみたいです。

はじめの頃は「なんという図々しさ!」「どういう感覚してるんだろう?」と呆れたりしたものですが、必ずしもそういう無作法をするような相手でもないし、それほど悪気ではないらしいこともしだいにわかってきました。しかし、わかってくるにつれ、さらに別の驚きが上塗りされるようでした。

要するにこう思っているんだろうと考えられます。
駐車料金(有料道路なども同様)などは車にかかるもの、よって、それらはすべて車の所有者が負担するのが当然で、乗せてもらう人間には一切かかわりのないこと。これらは車の持ち主の責任(あるいは負担)領域内で発生しているものであり、他人には無関係であるという、乗せてもらう側に都合のよい理屈だろうと考えられます。

同時に、その根底には、ここでちょっと知らん顔をしておけばそれで済むわけだし、わざわざ進み出て金を出すこともないという、あさましさがあることも透けて見える場合もあるのです。
実際には、ものすごくその人のイメージダウンになるわけですが、こちらもポーカーフェースを貫くわけですから、肝心のご当人には、そのイメージダウンがどれくらい深刻なのかはわからないままになるのでしょう。
たかだか数百円で、そんなに自分の値打ちを下げるなんて、そんな割に合わない事、マロニエ君なら嫌ですけれど。
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疲れさせない…

前回、バケッティの演奏によるファツィオリの音の印象を書きましたが、それはあくまでマロニエ君の個人的な印象であることはいうまでもありません。

ネットでのCD購入にあたっては、複数のアイテムを選んだ場合、ひとつでも入荷が遅れると発送は見合わされ、一定期間を経過したときにだけ、入荷を待つか、キャンセルするか、既に入荷済みのものの見送るかなどを選択することになっています。

今回はさらに入荷待ちのCDがあり、それ以外のものをとりあえず発送するという選択をしたために、バケッティのゴルトベルクを含めて3つのCDが送られてきていたのですが、最も興味をそそられるバケッティから聴きはじめました。

音楽というものは不思議なもので、はじめの5分でおおよその演奏の判断はつくもので、それが後に覆ることはないということはしばしば書いてきましたが、もっと大きなくくりで云うなら、CDの場合、通して何度か聴いているうちに若干の修正があったり、多少の理解が深まるとか全容がつかめるというようなこともあるため、マロニエ君の場合、よほど気に入らないものでない限りは、とりあえず4〜5回は聴いてみることにしています。

それもあって、バケッティのゴルトベルクもとくに自分の好みではないことは認識した上で、とりあえず3回ほど聴いたところ、さすがに疲れてしまい、これを一旦お休みにして一緒に送られてきた別のCDに取り替えました。

セルゲイ・シェプキンの新譜で、バッハのフランス組曲(全曲)などが入った2枚組でした。
出だしから衝撃的だったのは、シェプキンのバッハ固有な清冽な演奏もさることながら、スタインウェイの生み出すトーンのなんと耳に心地よいことかと思える点で、やはりこのメーカーが世界の覇者となったのは必然であったことをまたも悟らされることになりました。

いまさらマロニエ君ごときがスタインウェイの音の特徴を言葉にしてみたところで意味があるとも思えませんし、そんなことはナンセンスだろうと思いますが、それでもあえて一言だけ言わせていただくなら、なにより直接的な違いは、とにかく「耳に優しい」ピアノだと断言できると思います。より正確にいえば「脳神経に優しい」というべきかもしれません。

この点については、まるで別物のように言われる同社のハンブルク製とニューヨーク製のいずれにもはっきりと通底していることで、声が多少違うだけで、同一のアーキテクチャから紡ぎだされるそのトーンは、無理がなく、どれだけ聴いても神経が疲れるということがありません。音が楽々と空気に乗って飛来してくるようです。
スタインウェイ以外にも素晴らしいピアノはいろいろありますが、いずれも長時間、あるいは繰り返し聴くと、疲れたり飽きてきたり不満点が見えてきたりすることは不可避で、いずれもどこかに不備や無理があるのだろうと思ってしまいます。

そういえば思い出しましたが、もうずいぶんと前のことですが、エリック・ハイドシェックの宇和島ライブというのが話題になり、当時としてはきわめて高い評価を得ていたCDがありました。
マロニエ君もそのCDはすべてではないにしても、何枚か持っていましたが、その良さが今一つよくわからずに集中して聴いてみたことがあったのですが、どうもよくわからないまますっかり疲れてしまったことがありました。
記憶が間違っていなければ(確認もせずに書いてしまっていますが)、このとき使われたピアノが日本製ピアノだったようですが、なんだか耳に負担のかかるような音の砲列に疲れたというのが率直な印象だったのです。

その結果、無性に別のCDが聴きたくなって、とりあえずなんでもいいという感じで、手っ取り早くCDの山の一番上にあったのが弓張美樹さんのペトラルカのソネットでした。無造作にそのCDをデッキに放り込みましたが、出てきた音を聴いた瞬間、サッと血の気が引くほどそこに流れ出したピアノの音にゾクッとしたことを鮮明に覚えています。

このピアノは関西のヴィンテージスタインウェイの専門店が所有する戦前のニューヨーク製で、マロニエ君は個人的にはどちらかというと好みのピアノではなかったのですが、疲れるほど日本製ピアノの音を聴き続けた末に接したこのピアノの音は、まさに気品と落ち着きと自然さにあふれていて、スタインウェイの根底に流れるなにか本質的なものを、ひとつ諒解できたような気がしたものです。

というわけで、マロニエ君の良いピアノの判断は、音やハーモニーなどの個別具体的な要素のほかに、長時間の鑑賞に耐えられるかどうかということもかなり重要なファクターだと思っています。どんなに素晴らしいとされるピアノでも、1時間やそこらで飽きたり疲れたりするようでは、マロニエ君としては真の一流品とは思えないのです。
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バケッティとファツィオリ

アンドレア・バケッティというイタリアのピアニストの弾くバッハが評判のようで、ならばとCDを購入して聴いてみることにしたのはいつのことであったか…ネットから購入すると、ものによっては入荷待ち状態が延々と(ときに数ヶ月も)続いてしまうことが珍しくありません。

バケッティのゴルトベルクももう忘れていた頃ポストに入っていたので、それを見てようやく注文していたことを思い出す始末で、ならばと早速聴いてみるとことに。
実をいうとバケッティのCDはこれが初めてではなく、マルチェッロのピアノソナタ集というのを、こちらは曲のほうに興味があって以前購入していたのですが、よく知るバッハでこのピアニストを聴くのは今回が初めてです。

冒頭のアリアも、最近の平均的なテンポからすると少し早めで、まず感じたのは、硬質なピアノの音色とやたらと装飾音の多いこと、さらにはやや表面的で無邪気な演奏という感じを受けたことでした。

ピアノの音も明晰と聞こえなくはないものの、どちらかというと平坦で、深みやふくよかさみたいなものとは逆の単純な感じを受けました。
なにより気にかかるのはその固さであり、その演奏と相まって、しばらく聴いていると、どうしようもなく煩わしい感じに聞こえてしまうのには弱りました。
音に輝きはあるので、はじめはこういう感じのスタインウェイだろうかとも思いましたが、よくよくCDジャケットを見ていると、下のほうに豆粒みたいな小さな「Fazioli」の文字があり、ああ、なるほどそういうことか!と納得しました。

弾き方もあるとは思いますが、妙にパンチ感のある音の立ち上がりや、しっとりというか落ち着いた気配がしないメタリックな感じは、マロニエ君にとってのファツィオリの特徴のひとつです。
これを巷では色彩的などと表現されることを思うと、それが何に依拠するかよくわかりません。

いつも感じるところでは(以前にも書いたことがありますが)、マロニエ君の耳にはファツィオリの音は根底のところでヤマハを思わせる音の要素があって、そちら方面の反応の良さみたいなものがあるのは確かなようで、だから好きな人は好きなんだろうなぁと思ってしまいます。

それとバケッティの演奏も終始ブリリアントで娯楽的ではあるけれど、少なくとも聴き手を作品の内奥だとか精神世界に触れるような領域に連れ出してくれるタイプではないようです。いつも才気走っていて、でも全体が俗っぽいといった印象です。

ピアノ演奏に対して、快適で単純明快な音の羅列を求める人には、バケッティの演奏は好ましいかもしれませんが、マロニエ君の好みからすると憂いとか詩的要素がなく、いつも元気にかけまわる子どものようで、言い換えるなら、せわしなくおちつきのない こせこせした印象ばかりが目立ってしまいます。
ゴルトベルク変奏曲を聴いているのに、ちっともその実感がなかったのは驚きでした。

打てば響くような反応やきらびやかさを求める向きには、ファツィオリはたしかに最高のピアノとして歓迎されるのかもしれません。
ただマロニエ君から見ると、ファツィオリが単純にイタリア生まれのイタリア的なピアノかといえば、いささか納得できかねるものがあるのも事実です。イタリアの芸術のもつ太陽神的な享楽と開放、そのコントラストが作り出す光の陰翳、豊穣な色彩、宗教の存在、荘厳華麗でほとんど狂気的な喜びとも苦悩ともつかないような命の謳歌、それと隣合わせの死の薫り…そんなものがどうにも見つけることが難しい、掴みどころのないピアノという印象が何年経っても払拭されません。

そういうイタリア芸術のあれこれの要素をこのピアノから嗅ぎ取ろうとするより、もっと単純によくできた高級な機械としてわりきって見たほうがこのピアノの本質に迫ることができるのかもしれません。

マロニエ君の思い込みかもしれませんが、もしヤマハが手作業をいとわぬ労を尽くして、チレサの最高級響板等を使ってピアノを作ったなら、かなり似たようなピアノが出来るような気がしてなりません。
この両者に共通しているものは、日本の工業製品が極めて高品質だといわれながら、どこかに感じるある種の「暗さ」みたいなものかもしれません。

近年のスタインウェイが次第に均一な量産品の音になってきているのに対して、ファツィオリは量産ピアノ的性格のものを、良質の素材と高度な工法で丹念に製造することで挑んだピアノという印象でしょうか。

腕に覚えのある技術者がヤマハなどにあれこれの改造と技を施したピアノに「カスタムピアノ」というようなスペシャル仕様が存在していますが、どことなくそんなイメージが重なってしまうのです。基音がそれほどでもないピアノのパーツやディテールにこだわって、鳴らそう鳴らそうとしたピアノは、ある面で素晴らしいと思うけれど、どこかボタンの掛け違いのような印象を残します。

ファツィオリにこれだという決定的なトーンが備わらず、調整技術だけで聴かされているような印象があるのは、未だになにか大事なものが定まっていないからかもしれません。
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ハーンの完璧

Eテレのクラシック音楽館で、エサ=ベッカ・サロネン指揮、フィルハーモニア管弦楽団の来日公演から、ヒラリー・ハーンをソリストをつとめた、ブラームスのヴァイオリン協奏曲を聴きました。

いうまでもなく、ハーンはアメリカ出身の現代を代表するヴァイオリニスト。
彼女を上手いと言わない人はまずいないはずで、デビューしたころの線の細い感じからすれば、ずいぶんオトナになって、風格もいろいろな表現力も身につけたことは確かなようです。
ただ、これだけの人に対して申し訳ないけれど、マロニエ君の好みからすると、どうしても相容れないところが払拭できません。

いつも書くことですが、始めの何章節を聴けば自分なりの印象の「何か」が定まります。
マロニエ君ごときが演奏の評価というような思い上がったことはするつもりもありませんし、また出来もしませんが、それでも自分の抱く感想というのは、開始早々に立ち上がってくるもので、それが途中で変化することはまずありません。

ハーンは世界的にも最高ランクのヴァイオリニストのひとりとして、揺るぎない地位を勝ち得ており、そこへ敢えて歯向かおうという気はないのですが、あまりにも現代の要求を満たした演奏で、音楽(もしくは演奏)を聴く上でのストレートな喜びがどうしても見い出せません。

うまいすごいりっぱだたいしたものだとは思うけれど、いつまで経ってもしらふのままで、一向に入り込めないというか、酔いたいのに酔えない苦しさのようなものから逃れられないといったらいいでしょうか。
またこれほど聞き慣れた曲であるにもかかわらず、なぜかむしろ作品との距離感を感じ、どこを聴いても威風ただようばかりで音楽的なうねりや起伏に乏しく、要するに感心はしながら退屈している自分に気づいてしまうのです。

今どきは、世界的な名声を得た演奏家であっても、すべからく好印象を維持しなくてはいけないのか、高評価につながる個別の要素も常に意識し、演奏キャリアと同時進行的にプロモーションの要素も積み上げていかなくてはならないのかもしれません。
自分々々ではなく、オーケストラなど共演者全体のことも常に念頭においていますという態度がいかにも今風。謙虚で、視野の広い、善意の教養人として振る舞うことにもかなり注意しているようで、それらがあまりにも揃いすぎるのは、却って不自然で、作られた印象となるのです。

ハーンの直接の演奏から感じるのは、あまりにも楽譜が前面に出た精度の高さ、演奏中いかなる場合もその点を疎かにはしていませんよという知的前提をくずさず、それでいて四角四面ではないことを示すための高揚感のようなものも見事につけられていて、必要なエレメントをクリアしています。

昔ならこれはすごい!と感嘆したはずですが、いろいろな情報や裏事情にも通じてしまった現代人には、市場調査と研究を経て開発された戦略的な人気商品のような手触りを感じてしまうのでしょうか。

どう弾けばどう評価されるかという事を知り尽くし、その通りに弾ける演奏家というか、どんな角度からチェックされても評価ポイントを稼げるよう、すべてをカバーするための完璧なスタイルに則った演奏…といえば言い過ぎかもしれませんが、でも、やっぱりそんな匂いがマロニエ君のねじれた鼻には臭ってきてしまいます。

耳の肥えた批評家や音楽愛好家は言うに及ばず、ヴァイオリンを弾く同業者からの評価も落とさぬよう、徹底的に推敲を重ねつくした演奏という気がして、そういう意味では感心してしまいました。
たぶん、マロニエ君のようなへそ曲がりでない限り、このハーンのような演奏をすれば、まず間違いなく大絶賛でしょうし実際そうでした。

喜怒哀楽のようなものさえ節度をもってきっちり表現するあたりは、いついかなる場合も決して本音を漏らすことのないよう訓練された、鉄壁のプロ根性をもつ政治家の演説でも聞かされているようでした。
もちろん素晴らしい音楽家の演奏がすべて純粋だなどと子どもじみたことを云うつもりはありません。生身の人間ですから、裏では狙いやらなにやらがうごめいていることももちろん承知です。いろんな欲得も多々働いていることでしょう。
…でも、その中に真実の瞬間もあると思うからこそ、せっせと耳を傾け、何かを得ようとしているようにも思います。

ただアメリカは根っからのショービジネスの総本山でもありますし、それに追い打ちを掛けるように時代も年々厳しいほうへと変わりましたから、その荒波を勝ち抜いてきた人はやはりタダモノではないのでしょうね。

自分の手が空いているときは、いちいち愛情深い眼差しで指揮者やオーケストラのあちこちに目配りするなど、そのあまりに行き届いた自意識と立ち居振る舞いを見ていると、マロニエ君のような性格はそんな芝居にまんまと乗せられてやるものかという、反発心みたいなものがつい刺激されてしまいます。
心底酔えないのは、やっぱり根底のところに何かが強く流れすぎているからだと個人的には思いました。

冒頭のサロネンとハーンのインタビュー(別々)でも、やたら相手を褒めまくりで却って不自然でしたし、お互いに「次に何をやろうとしているかがわかる」などと、さも一流の音楽家同士はそういう高度な次元で通じ合うものだといわんばかりですが、あれだけ冒険のないスタイルなら、だれだって次はどうなるかは見えて当たり前だろうとも思いました。

もうひとつ驚いたのは、ハーンが「ブラームスの協奏曲では、オーケストラはただの伴奏ではありません」みたいなことを言いましたが、そんなわかりきったことをいまさらいうほど日本の聴衆を低く見ているのかとも思って、おもわず腰の力が抜けました。
インタビューの答えも紋切り型で、独自の感性や考えに触れる面白さのようなものは皆無でした。

ただ、ハーンの名誉のために付け加えておけば、それでも本当に上手いことは間違いないし、アンコールで弾いたバッハの無伴奏は実に素晴らしいもので、このアンコールでだいぶ下降気味だったこちらの気分が、ちょっとだけ持ち直したのも確かでした。
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苦行は楽しみ?

先週のこと、出かける支度でひとりバタバタしている際、家人が夕刻のテレビニュースをつけていましたが、そこで気にかかるものをチラチラと目撃しました。

ゴールデンウィークを目前にしたタイミングで、これからでもまだ予約の取れる格安の宿泊プランというようなもので、人気のホテルや旅館であるにもかかわらず、まだ予約が可能で、しかも格安という裏には何があるのか…という特集でした。

なにぶん急いで出かける準備中ということで、じっくり視たわけではないので、詳しいことは違っていたら申し訳ないですが、たとえばある熟年夫婦が格安料金で泊まることのできるホテルだか旅館だかに到着します。
本当かどうか知りませんが、この二人には格安の理由がこの時点では知らされていない由。

部屋に通されてみると、一見してやや狭いとわかるツインの部屋で、ベッドがかなり部分を占領しているようです。
窓からの眺めはというと、建物の裏手かなにかの絶望的な光景が広がり、安いのはそれらかと思われました。ところが、ホテル側からはさらにとんでもない仕事を言い渡されます。

この施設にあるゴルフ練習場の「ボール拾い」を命じられ、年配の二人は旅装を解くと早々に練習場に行かされ、見渡す限り、水玉模様のように転がっているゴルフボールを手や熊手のような用具を使ってバスケットに拾い集めなくてはならないとのこと。
それも少々のことでとても終わるような量ではなく、見ていてこの夫婦が無性に気の毒になりました。記憶が確かなら、こんなことをさせられるとは思わなかった…というようなことをボソボソ言っていたように思います。

ほかにも、かけ湯式の温泉で出てくる、温泉のアクだかヘドロだか知りませんが、それを底のほうからすくい集める仕事をさせられるというのもあり、それらは「泥パック」などとして旅館で売られるのだそうで、こちらも宿泊客がせっせとそれを掻き集める作業をさせられるというものでした。
あるいは足元もおぼつかないような竹林の急斜面を登って、タケノコ掘りをさせられるというのもあったようで、いずれもテレビ画面を見ている限りでは、いわゆる「お客さん」とは名ばかりの、屈辱的肉体労働をさせられるようで、マロニエ君にとってはちょっと笑えないものでした。

こんなことが、どんな前提でなされる提案であり、それを承知の予約なのかは知りません。ただ、その料金はというと、それほどの破格なものとも思えるものでなかったことが、さらに驚きでした。
いまどきですから、もしかするとお客さんの方でも、「格安」であることのお得感と、「行った先で何が待ち受けているかわからない」というところに冒険心のようなものを感じて「楽しんでいる」のかもしれません。
さらに、この時期の格安とあらば、いかなることにも耐え抜こうという悲愴な覚悟があってのことかもしれず、そのあたりの個々の参加者の心情まで正しくはわかりませんでした。

しかし、いずれにしろマロニエ君の眼には、到底受け容れられないものとしか映らなかったことも事実で、こんなことを楽しんでいるのだとすると、これは相当なMというか自虐趣味としか言い様がないと思いました。

今どきは、法に触れず、相手の同意さえあれば何でもアリの時代ではあるし、お客さんをもてなすプロ意識だとか、商売をやる上でのルールだとかご法度のようなものも、すっかり様変わりしてきているのかもしれません。
以前なら、価格云々の問題ではなく、こともあろうにお客さんに裏方の労働をさせるなんぞ、無銭飲食の罪滅ぼしぐらいなもので、通常は発想にもなかったことだろうと思います。

どんなスキャンダルでもいくら相当の宣伝効果があった、などといちいち換算して損得勘定するような社会ですから、ホテルや旅館側にしてみれば、お客さんを安くこき使った上に、話題作りにもなり、うまくすればテレビの取材対象にもなるとなれば、一石三鳥ぐらいなことかもしれません。

まあ、マロニエ君だったら端からそんなデンジャラスなことに参加しようなんて思いませんし、まかり間違ってそんな場面に行き合わせようものなら、ほぼ間違いなくそんなところは出てくるでしょうし、それを楽しみに転換させるような物分かりの良さとか柔軟性な感性は持ち合わせてはいないでしょうね。
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居住地再編?

東京・沖縄を除く全国放送として人気の番組、「そこまで言って委員会NP」は世相を斬る番組の中では筆頭の影響力をもつ位置を確立していると思います。
各界の話題の人物がゲストに呼ばれるのはもちろん、安倍さんも昔からこの番組にはずいぶん顔を出していて、総理になってからも何度か出演されているのは多くの方がご存知のことと思います。

先日のこと、そこで興味深い発言がありました。
一時的に収まったかに思えた東京への一極集中が、ここへきて再燃しているのだそうです。

理由はさまざまのようですが、主なところでいうと、若い世代の人たちが不便なロケーションの一戸建てマイホームより、利便性の高いマンションでの快適生活を好む傾向がここ最近は顕著なのだそうです。
家をもつという情緒に見切りをつけた、より現実的な考え方のあらわれなのかもしれませんね。

さらに、その背景となる要因のひとつとして、地方や郷里に戻ろうにも仕事が無いことから、やむなく都市部での生活を強いられているという社会構造にも理由があるようでした。

これは今や800万戸を突破するという「空き屋問題」にもつながっているであろう現象で、田舎でのんびりといったら語弊があるかもしれませんが、ともかくそれぞれが生まれ育った土地で普通に生活を成り立たせるということが、現実として困難になってきているということも見過ごすことのできない問題であるようです。

小泉さんの時代の「聖域なき構造改革」で提唱された地方の活性化は、ほとんど機能しないまま終わってしまっているのか、都市部とそれ以外との改善の兆しのない二極化は今後どうなっていくのだろうと思います。

あるコメンテイターの話では、東京以外では、福岡・名古屋・仙台の3都市では人口が増加しており、それぞれのエリアでの一極集中現象が起こっているのだそうで、逆に大阪などは減少傾向にあるんだとか。

たしかにマロニエ君のまわりでも、近年はやたらとマンションが増えていることは紛れもない事実です。
古い家や建物は、取り壊され更地になったかと思うと決まってマンションかコンビニになるし、より規模の大きな、昔つくられたビルや体育館やホールなどの施設も惜しげもなく解体され、何が出来るのかと思えば、ほぼ例外なく無味乾燥な見上げるようなマンションになってしまいます。

そんな目で街中を見てみると、まあともかく驚くばかりにマンションが増殖乱立しており、しかも昔のそれに比べると規模が大きく高層化が進み、どれも竣工前に完売などという話を聞きますので(本当かどうか知りませんが)ただただ驚くばかりです。
完成すれば一挙に人が入って生活がはじまり、それでもまだあちこちに大きなマンションが建設中ですから、こんなことがいつまで続くのかと思います。

先日はマロニエ君の音楽の先生から聞いた話ですが、この方のお嬢さんが結婚され、数年前に川崎にマンションを買われたのだそうで、そのマンションというのが川崎の昔の工場地帯がマンション群になり変わったエリアにあるとのことでした。
むろん今時の例にもれず、数十階もある高層マンションばかりで、それがはじめのころ何棟かが立っているだけだったのが、行くたび行くたびにその数が増えて、今では文字通りの林立状態となり、いざ駅に降り立っても、はたしてどこが娘の暮らすマンションなのか、すぐにはわからず迷ってしまってかなわないという話をされていました。

人が大挙して越してくれば、それに付随するスパーやらなにやらの入るモールが作られ、あっちにもこっちにも大きなスポーツジムがあったりして、夜になると仕事帰りに多くの人がジムでせっせとなにかトレーニングをやっているのだそうで、とてもじゃないけどついていけない世界が広がっているという話を聞きました。

日本の人口は減っているというのに、ある地域だけがそんな勢いで人が増えているということは、それと同じ速度であちらこちらの過疎化が進んでいるということでもあり、はてさてこの国のかたちはどんなものになっていくのだろうと思います。
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続・ネット問答

ヤマハのSとスタインウェイの比較にも面白い回答がありました。
ここに書くことは、ひとつの答えではなく、いろいろな答えの中から印象に残ったものを集めたものですが、ある回答では、「ヤマハのSあたりになると全面ウレタン塗装となり、見た目は美しいが非常に硬度のある材質なので、果たして木材の呼吸にそれが相応しいかどうか疑問に感じる」「日本人は音楽の歴史が浅く、どうしても高価なピアノを美術品的に捉える傾向がある」のだそうです。ウーンなるほどと思いつつ、そもそもウレタン塗装ってピアノにとってそんなに高級でいいのかといきなり疑問です。

また、ピアノ運送の仕事をしているという方からの回答でしたが、これが含蓄に富んだおもしろい答えでした。
まず「製品精度としてはダントツにヤマハ」と太鼓判を押していました。
「必要があってパーツを取り寄せても、ヤマハは同じモデルなら一発で装着できるのに対して、スタインウェイなどでは年式やモデルによって調整や加工が必要だったりで、メーカーに問い合わせをしても「そっちで合わせろ」というような答えが返ってくる」とのことですから、ヤマハのそういう面での優秀さと確かさはやはりすごいものがあると思わせられます。

実際の運搬に際しても、「ミシリともいわないヤマハに対して、スタインウェイはゆるゆるで、製品としての頑丈さは文句なくヤマハです」ということでした。
しかし、つけ加えられていたこと(ここが重要!)は、「しかし、製品精度と感銘を与える音の響きは比例しない。」「仕事はヤマハのほうがしやすいが、音は個人的にスタインウェイのほうが好み」と言っているあたりは、運送屋さんながらピアノの本質がわかっていらっしゃるなかなかのご意見だと思いました。

以前、スタインウェイに心酔する関西の大御所に聞いたところによれば、スタインウェイはただのボディの段階ではゆるゆるに作られているそうで、フレームを組み入れ、弦を張ってテンションがかかった段階ではじめてすべてが収束し、ピアノにかかる全体のバランスがこのとき取れるようになっている、非常に凝った、奥の深い設計をしているということでした。だからボディだけの状態と、フレームを組み入れ弦を張った状態とでは、わずかに寸法さえ変わるのだとか。

氏はその事に関して「断崖絶壁のぎりぎりのところに不安定な椅子を置いて、それに座ってバランスを取りつつ平然とコーヒーを飲んでいるようなもの」と喩えたものでした。
それに対して、ヤマハはボディと支柱にいきなり蟻組などを施して、初手からガチガチに作り過ぎるからダメで、しょせんは大工仕事の発想で、楽器製作の根本がわかっていないと、その巨匠は熱く語っていたのを思い出します。

したがってスタインウェイの場合は運搬時、とりわけクレーンで吊って搬入するようなときに、間違ってもピアノの支柱(裏側にある大きな数本の柱)にロープをかけてはならないのだそうで、スタインウェイのことを良く知る運送会社は絶対にこれをせず、ピアノが括りつけられた台座ごとロープをかけるが、ときどき無知な業者がこれをやってしまって最悪の場合はピアノに深刻なダメージを与えるとも言われていました。

そこで思い出すのは、あるピアノ店のホームページで「スタインウェイを納品しました」ということで、マンションの上階へクレーンで吊ってD型を搬入している写真が掲載されていましたが、なんとピアノは搬入前に歩道で梱包を解かれ、大屋根さえ外した状態の丸裸の状態、しかも支柱にしっかり太いロープが巻き付けられた状態で空中につり上げられており、思わず背筋が寒くなってしまいました。

話が脱線しましたが、ヤマハのSシリーズとスタインウェイのどちらを購入するかで悩んでいる人というのは結構いらっしゃるようで、値段が倍以上違うのでそれに見合う価値が本当にあるのかといったところなんでしょう。おもしろいのは弾く本人は試弾してヤマハを気に入っているのに、音楽に興味のないご主人のほうがスタインウェイの音を敏感に聞き分けて、断然こっちだと言い出すケースもあるようです。

また、不思議なことに、ヤマハの高級機種は検討範囲であるのに、カワイのSKシリーズは視野にも入っていない例がいくつもあり、回答者の一人が、カワイのSKは弾くとかなり心がぐらつくので一度試してみてはどうかというアドバイスをしていました。やはり一般的にヤマハとカワイではお客のほうにも相当な意識の差があるというか、端的に言えば客層が違うということなんでしょうか?
すくなくともヤマハのユーザーにとってカワイは眼中にないようで、このあたりはカワイユーザーでもあるマロニエ君としては複雑な心境です。

訳がわからなかった回答としては、しきりにヤマハをすすめる人がいて、しかもその人はスタインウェイのBとベーゼンドルファーの225を持っているということでした。
この人のアドバイスは、高級輸入ピアノは維持費が大変だからヤマハをオススメというのがその理由で、ずいぶんと上から目線なご意見で、それ自体にも違和感を感じましたが、そもそもスーパーカーじゃあるまいし、維持費ってなにがそんなにかかるのだろうと思いますが、具体的にはなにも記述はされていませんでした。
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ネット問答

ネットを見ていると、ピアノ購入予定者がいろんな質問コーナーにいろんな質問を寄せていることがわかり、いくつかアトランダムに読んでみました。

たとえば数件見たのは、「ヤマハとカワイの違いは何か?」ということです。
それぞれに回答者がいろんな説明をしていますが、楽器としての特色や優劣にはこれといった決定的な回答はそれほど見あたりません。それだけ基本的には両者の実力は拮抗しているということかもしれません。

むしろ楽器それ自体がどうというよりは、ブランド力とか販売網や教室の充実度、一般的な信頼感、リセールバリューなどに話が及ぶことが多いような印象を持ちました。
意外だったのは、カワイを押す人には「音がいい(好き)、音楽的、低音が良く鳴る」といった意見が見られたのに対して、ヤマハを押す人は音や響きですすめる人はあまりなく、「信頼性、精度、安心感、弾きやすさ、数が多いので慣れている」などの理由が主流である点でした。

それでも強いて言うと、ヤマハは高音がきらびやか、カワイは暗いというような回答もいくつかあり、これはイメージとしてはわからないでもありません。
マロニエ君に言わせれば、普及品のグランドの場合はカワイのほうが個体差(調整の差?)が多く、やわらかい音色の良いピアノがあるかと思うと、ちょっとご遠慮したいような個体もあるけれど、ヤマハの場合はそういう意味では安定しているという印象です。
ただし「このピアノのこの音がいい」とことさら感じさせるようなピアノもなく、ほとんどが平均した水準はもっているという印象です。

専門家(たぶん技術者でしょうが)の意見も同様で、ヤマハの特徴は、音に関する言及はそこそこで、これという明確な言及はほんとんど見あたりません。むしろ製品としての確かさ、商品性、ブランド力などであり、わけても耐久力は圧倒的なものがあり、いまさらながら受験や音大生、あるいはそれなりのプロなど、膨大な練習量を必要とする人達のためのツールとしては、ちょっとやそっとの音の優劣を云々するよりも、強くて逞しいヤマハは最も頼りになるピアノのようですね。

また、カワイを推す人は、あくまでも音色などの好みで自分はカワイのほうが好きだが、それは人それぞれという主観が判断する余地を残して、ヤマハの非難はほとんどしていません。
これに対して、ヤマハを推す側は、ヤマハが良いのが当然で、カワイはダメだ格落ちだというような非難を堂々としているところが印象的でした。

グランドのレギュラーモデルの購入を検討している人達は、新品でも中古でも、わりにヤマハとカワイ(そしてたまにボストン)を比較しているようですが、高級モデルの話になると一気にカワイの名が挙がらなくなるのはどういうわけだろうかと思ってしまいます。ヤマハには高級というイメージもあるのだろうかと考えさせられてしまいました。

笑ってしまったのは、ラフマニノフのある作品を例にとって、その何小節目のフォルテが出せるか否かを、ヤマハ、カワイ、スタインウェイなどのあらゆるサイズのピアノを分類整理して論じ立てる人もいたことです。なんだか無性にくだらない気がしたものの、こんなことを真剣に論ずる人がいて、それを真面目に呼んで参考にする人がいるというのが妙な気持ちになりましたね。

実際に、ヤマハのSシリーズとスタインウェイだったらどちらを買うべきかというたぐいの質問がいくつもあって(そんなことを人に聞くのも妙ですが、おそらくは自分の好みよりも客観的な価値判断が欲しかったのだろうと思われる)、そこにシゲルカワイがほとんど出てこないのは不思議というほかありませんでした。

おそらくシゲルカワイの価値を認めている人は、一般論に惑わされることなく、本当に自分の耳や指先で判断している人達が多いのかもしれません。よって人の意見を求める必要もないのかもしれませんし、ましてやネットの質問コーナーに「どちらがいいか?」という質問をするような人は極めて少ないのかもしれません。

マロニエ君の印象でも、シゲルカワイを買う人は実際にはこのピアノに惚れ込んだ人が多く、他との比較があまり意味がないのかもしれません。
個人的には、ピアノ選びは同クラスの比較で検討するより、自分の好みや感性に響いてくるピアノを選びたいし、そうあるべきだと思っているのですが、受験とか練習目的のある人というのは、そういう自由な選び方をしちゃいけないのかもしれませんし、だとしたらピアノを買うというのはとても楽しいことなのに、なんともったいないことかと思ってしまいます。
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不幸中の幸い

広島空港で起こったアシアナ航空の事故は、その全貌が明らかになるにつれて驚きも増してくるようです。

天候その他の理由から超低空で最終進入し、滑走路脇の無線設備に接触しながら着陸したにもかかわらず、ひとりの死者も出さず、全員が生還しています。

通常、着陸したあとのオーバーランなどであれば、犠牲者もなく機体の損傷のみということはないことではありません。
しかし、いかに着陸進入中のこととは言え、まだ空中を飛んでいる段階で何かに機体が接触し、それが原因で事故が発生し、にもかかわらずひとりの犠牲者も出ないで済んだということは、これこそまさに僥倖といえるのではないかと、この点でとくに感心してしまいました。

事故以降の報道を見ていますと、滑走路脇の無線設備はアシアナ機の接触によって、かなり激しく損傷しているし、はるか遠くの草地で向きを変えながら停止した機体の左エンジン付近には、この無線設備のものと思われる何本ものオレンジ色の棒状のものが突き刺さっており、衝撃の凄まじさが偲ばれます。

また、マロニエ君はこのニュースを聞いたとき、滑走路のはるか手前に設置された無線設備に激突したということは、それがなければ滑走路手前の地面に突っ込んでいたのでは?と思ったものですが、翌日報道ヘリから撮影された周辺の映像によれば、アシアナ機はこの設備に接触した直後に、滑走路手前の草地のようなところにまず着地しており、その車輪による爪痕がはっきりと残っていました。

つまり無線設備に激突した直後にそのまま滑走路手前の地面に着地し、草地から滑走路へ乗り上げ、いったんは滑走路を西に進行しますが、再び左に大きく逸れて滑走路を逸脱、草地を爆走したあげく機体が停止した位置というのは、あとわずかで空港のフェンスを突き破り外に飛び出すまさに直前の位置でした。

詳しい事故原因がなにかはわかりませんが、状況から察するに、少なくとも事故発生以後だけの状況を見ると、幸運の連続だったのではないだろうかと思わずにはいられません。
通常なら、飛行中の旅客機が地上施設に接触などしようものなら、そのまま無事に着陸なんてできるわけもなく、凄まじいスピードと相俟ってバランスを崩し、でんぐり返ったり、機体が折れたり、火災が発生したりで、これまでに私達が目にした数多くの航空機事故のような事態におちいる可能性が高かっただろうと思います。

事故といえば脈絡もなく思い出しましたが、つい先日の深夜、所用で郊外へ出かけた際、帰り道をドライブがてら四王寺という小さな山を迂回するひと気のないルートがあるので、そちらを走っていたときのことでした。

カーブのむこうでヘッドライトの先にいきなり照らし出されたのは、ひとりの男性の姿で、手には懐中電灯をもち、道路脇に停車した車の脇に立って、しきりに走ってくる車の誘導のようなことをやっています。
何事かと思いつつ、あたりにはちょっと異様な気配が立ち込めて、事故らしきものが発生したらしいことがわかりました。引き返すこともできない状況なので、その脇を通過するしかなくドキドキしながら徐行して近づくと、なんとその車の前には、ある程度の大きさのある動物らしきものがぐったりと横たわっていました。

見なけりゃいいのに見てしまうマロニエ君の困った性格で、こわごわと目を右にやると、茶色の体毛に覆われたイノシシが車に轢かれて血まみれで絶命していました。
人気のない山裾の道で、夜でもあり、車も相当のスピードを出していたところへ運悪くイノシシが突っ込んできたのか、かなり凄惨な状況で、対向車線はかなりの距離(といっても20メートルぐらいですが)にわたって、血痕と肉片が飛び散っているのが夜目にもわかり、相手は人ではなかったとはいえ、交通事故とはかくも悲惨なものかということをあらためて思い知らされて、心臓がバクバクしてしばらくおさまりませんでした。

それと結びつけるわけではないですが、アシアナ航空の事故は、一歩間違えばそんなイノシシの事故どころではない、ケタ違いの大惨事になる可能性だってじゅうぶんあったわけで、それがわずかの偶然が重なることで地獄絵図にならずに済んだことは、なによりの慶事だったと考えなくてはいけないようにも思います。

「いそがばまわれ」というように、天候などによる視界不良が原因なら、なぜゴーアラウンド(着陸のやり直し)をしなかったのかという指摘が多いようですが、パイロットにも性格があって、それで安全運行に差が出るとしたら恐ろしい話です。

折しもセウォル号事故から一年のわずか2日前の出来事でしたから、多くの人が肝を冷やしたことでしょう。
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フォーレ四重奏団

ビデオデッキに録画されたままになっているものには、わけもなく手付かずの状態でずっとおいているものがありますが、その中にBSのクラシック倶楽部で2月に放送された驚くべきコンサートがありました。

昨年12月にトッパンホールで行われたフォーレ四重奏団の演奏会で、曲目はブラームスのピアノ四重奏曲第1番。
マロニエ君にとってフォーレ四重奏団ははじめて聞く名前で、てっきりフランスの室内楽奏者だろうと思っていたら、冒頭アナウンスなんと全員がドイツ人、しかも世界的にも珍しい常設のピアノ四重奏団とのことでした。

たしかに、ピアノ四重奏曲というものはあっても、ピアノ四重奏団というのは聞いたことがなく、これでは演奏する作品も限られるだろうと思いますが、今どきはなんでもアリの時代ですから、そういうものもあるんだろうと思いつつ、演奏を聴いたところ、果たしてその素晴らしさには打ちのめされる思いと同時に、一流の演奏に触れた深い充実感で満たされました。

まずなにより印象的なことは、ひとことで言って「上手い!」ことでした。
選り抜きの一級奏者が結集しているにもかかわらず、4人はみなドイツ・カールスルーエ音楽大学卒なのだそうで、これほどの実力が比較的狭い範囲から集まったということにも驚かされます。

メインのブラームスは、堂々としていて深みがあり、生命感さえも漲っています。細部の多層な構造などもごく自然に耳に達し、なにより音楽が一瞬も途切れることなく続いていくところは、聴く者の心を離しません。
巧緻なアンサンブルであるのはもちろんですが、よくある目先のアンサンブルにばかり気を取られた細工物みたいな音楽をやっているのではなく、4人それぞれが情熱をもって演奏に努め、秀逸なバランスを維持しながら、作品を生々しく現出させます。
必要に応じてそれぞれが前に出たり陰に回ったりと、本来のアンサンブルというものの本質というか醍醐味のようなものを痛烈に感じるものでした。

しかも全体としても、作品の全容が、素晴らしい手際で目の前に打ち立てられていくようにで、最高級の音楽とその演奏に接しているという喜びに自分がいま包まれていることを何度も認識しないではいられませんでした。開始早々、このただならぬ演奏を察して、おもわず身を乗り出して一気に最後まで聴いてしまったのはいうまでもありません。

ブラームスのピアノ四重奏曲は聞き慣れた曲ですが、これほどの密度をもって底のほうから鳴りわたってくるのを聴いたのはマロニエ君ははじめてだったように思います。知的な構築的な土台の上に聴く者を興奮させる情熱的な演奏が繰り広げられ、それでいて荒っぽさは微塵もなく、これまで見落としていた細部の魅力が次々に明らかにされていくようでした。

フォーレ四重奏団は、4人各人が個々の演奏の総和によってこの四重奏団の高度な演奏を維持しているという明確な意識と自負があるようで、普通はヴァイオリンの影に隠れがちなヴィオラなども、まったくひるむことなく果敢に演奏しているし、しっかり感に満ちたピアノも過剰な抑制などせず、思い切って演奏しているのは聴き応えがありました。

最近のピアニストは、指は動くし譜読みも得意だけれど、音楽的な熱気やスタミナを欠いた退屈な演奏が多すぎます。しかもそれを恥じるどころか、あたかも音楽への奉仕の結果であるかのように事をすり替えてしまうウソっぽさがあり、無味乾燥な演奏があまりに多いと感じるのはマロニエ君だけでしょうか。
とりわけ室内楽になると、アンサンブルを乱すなどの批判を恐れるあまり、どこもかしこも真実味のない臆病な演奏に終始して、それがさも良識にかなった高尚な演奏であるかのようにごまかしています。
このフォーレ四重奏団は、そんな風潮に対するアンチテーゼのような存在だと思いました。

稀にこういう大当たりの演奏に出くわすことがあるものだから、普段どんなにつまらない演奏で裏切られても、凝りもせずやめられないのだと思います。これは一種のギャンブル好きの心理にも通じるものなのかもしれません。

さて、またCD探しが始まりそうです。
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ドビュッシーの前奏曲

ドビュッシーの前奏曲といえば、フランスのピアノ音楽の中でも最高峰に位置づけられる傑作のひとつとして広く知られているものですが、マロニエ君はもうひとつこの曲集に近づきがたいものを感じていて、しっくりこないまま長い時間を過ごしてきました。

ずいぶんむかし、はじめてこの曲集のレコードを買ったのはミケランジェリの演奏で、その透徹した演奏や美音に感心というか、ほとんど服従に近いものがあり、長らく他のピアニストの演奏に触れる機会が少なくなってしまいましたが、その後はずいぶん種類も増えて、リヒテルも弾いていたし、近年では青柳いずみこやエマールなどをいちおう聴いてはいました。

それでもこの曲集に対する基本的な印象を覆すまでには至らず、ましてやポリーニのそれなど聴きたいとも思いませんでした。

そんなドビュッシーの前奏曲ですが、知人からおすすめCDのコピーを頂いた中に、フィリップ・ビアンコーニのそれがあり、これが思いがけず良かったことは嬉しい驚きでした。まずなにより、ハッとするような清新さと自然さをはじめてこの作品から感じとることができたように思ったのです。

この曲を弾く多くのピアニストは、ことさらドビュッシーを意識しすぎるのか、個々の違いはあるにせよ、掻い摘んでいうとしゃにむに印象派絵画のような仕上がりにしたいのか、ピアノという楽器の実態からあえて遠ざかるところに重きをおいたような、いささか芝居がかった演奏だったようにも思えます。
演奏は、演奏家の自然発生的に出てくるものなら聞き手の側にも自然に入ってくるものなのかもしれませんが、悪く云えば、ドビュッシーに同化する自分を演じているようで、本当に演奏者がそういう心境に達した上での演奏であったのか…となると、どうも鵜呑みにもできないような居心地の悪いものがついてまわる気がしていたというところでしょうか。
これがマロニエ君のこれまでのこの曲に対して(正確に言うならこの曲の演奏と言うべきかもしれませんが)、ようするにそんなふうな印象を抱いていたのです。

その点、ビアンコーニはもっとありのままというかストレートな音楽としてこの24曲を弾いており、そのぶん聴くものにも身構えさせない親しみが備わっているような気がします。なんというか、ようやくにして作品が、少しですが自分に近づいてきてくれたようでした。
つまりこれは、脚色されないドビュッシーというべきか、適当な言葉はよくわかりませんけれども、なんとなくドビュッシーがプレリュードで伝えたかったものは、こういうものだったのかも…と思えるような、そんな演奏に初めて接することができて、霧が少しだけ晴れてむこうの景色が少し見えたような気になりました。

音楽の演奏全般にいえることかもしれませんが、程よい自然さというか、要するに必然的な音の発生を感じるものには、それだけ好感を抱けるし、聴く者なりではあるけれど、曲を理解するについても最も早道になると思います。

ドビュッシーでいうなら過度なデフォルメをするのではなく、ラヴェルでいうなら過度なクールさを強調するのではない、音楽としての佇まいに対してもう少し作為的でない謙虚さのようなものを感じさせる演奏であってほしいと思います。

ピアノはヤマハが使われていますが、これがまたとても好ましく思いました。
というか、ドビュッシーには意外にもスタインウェイはまありフィットしないように思います。よくドビュッシー自身の言葉を金科玉条のように引用して、ベヒシュタインこそ最適なピアノのように言われますが、それもマロニエ君個人は心底納得はしていません。
ベヒシュタインの音はドビュッシーにはどこか野暮なところもあって、これが必ずしも理想とは思えない。

ただ、スタインウェイのすべてを語ろうというような豊穣な音色は大抵の場面ではプラスに作用するものの、ドビュッシーの和声や音色は、楽器から出た音がいったん聴くものの耳に入ったあとで、個々の感覚の中で遅れるように混ざりこみ収束していく過程が必要で、そのため楽器から出た瞬間の音はむしろ硬い、単調な音であるほうがいいのかもしれない気がするのです。
その点では少し前のヤマハは、現代的な音色と機械的な冷たさが、意外にもドビュッシーに合っている印象をもちました。

こんなことを書くとドビュッシーに詳しい方からは叱られるかもしれませんが…。
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アスリート

前回書いたピアノの先生のピアノ音痴(楽器としてのピアノに対する理解が恐ろしく低い)の続きをもう少し。

本当の一流ピアニストを別にしたら、ピアノを弾くこと教えることに関わっている、市井のいわゆる「ピアノ弾き」の人たちは、器楽にかかわる全般からみても、きわめて特殊な位置やスタンスを持っていることは間違いありません。

楽器の性格を推し量り、微妙な何かを察知し、長短を見極め、その楽器の最も美しい音を引き出す、またはそれらを弾き手として敏感に感じ取ろうとする…なんて繊細な感性はピアノ弾きにはまずありません。
わかるのはせいぜいキンキン音かモコモコ音かの違いぐらいなものでしょう。

ピアノの整備や修理は調律師という専門家がするもの(それもほとんどお任せ)で、自分はひたすら練習に明け暮れ、目指すは指が少しでも早く確実に動くこと。盛大な音をたたき出し、技術的難曲を数多く弾きこなすことで勝者の旗を打ち立てるのが目標であることは、むしろアスリートの訓練に近く、この点はなんのかんのといっても昔から改善の兆しはないようです。

家具や家電製品、パソコン、あるいは自転車やクルマのように、ピアノも一度買えば寿命が来て買い換えるまで使い倒す器具といったところではないでしょうか。「ピアノはしょせんは消耗品、だからこだわること自体が無意味だ」と公言して憚らない有名ピアニストもいるほどですから、この世界では楽器にこだわったり惚れ込んだりしないほうがクールでカッコイイわけで、当然、新しいものが最良のもの。
ごく稀に古いピアノのいいものなんかに触れるチャンスがあっても、自分じゃその良さなんてあんまりわからず、ただのくたびれたオンボロピアノのようにしか思えない。要は楽器の音を聞く耳というか感性が死滅してしまっているのかもしれません。

こんなタイプがほとんどといっていいピアノの先生に、こともあろうに楽器選びの相談をするなんて、マロニエ君には悪い冗談のようにしか思えないわけです。

人から聞いた話をふたつ。
ということでご紹介していましたが、差し障るがあるといけないようで、消去します。

もうひとつはあるピアノ工房での話。
そこには古いプレイエルがあり、お店の人によれば、これまでに多くの先生方が弾いていかれたけれど、いずれも良さがわかってもらえなかったとか。ほとんどの方がただバリバリ弾くだけで、プレイエルの音を引き出そうとはしなかったそうです。
そして評価を得たのは、工房内にある新品のスタインウェイだけだったとのこと。

この話をマロニエ君に教えてくださった方いわく、「私が弾いた感じではそのスタインウェイはまだ花が開いてない感じで鈍く、工房の中では一番つまらなかったのですが、ずいぶんと感じ方が違うんだなあと思ったものです。」とあり、まさに目の前にその先生たちの様子が浮かんでくるようでした。

……。
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先生に聞くのが一番…

インターネットでは、その膨大なユーザーを相手に、森羅万象の質問やアドバイスを求めることができるのは、いまさらいうまでもない現代の常識のひとつかもしれません。

「Yahoo知恵袋」などがその代表格でしょうが、みていると、ありとあらゆることが質問され、必ずと言っていいほどアンサーが寄せられて、中には一読しただけでも勉強になるような質の高い内容さえ見受けられるのは、多くの方が経験されていることでしょう。
しかもそれらは無料で無制限に利用でき、現代はよほど専門性特殊性の高いことでない限りは、パソコンのスイッチを入れキーボードを叩けば大抵の答えはそこからゲットできるようになっており、便利であるのはもちろんですが、どこかついていけない気にもなってしまいます。

もちろん、中には何の参考にもならないようなものもあれば、頭からふざけたような回答もあり、匿名性の高い世界ではこれは致し方のないこととしても、大真面目に熱心に寄せられた回答であるかかわらず、なんだこれは?と思うようなものがないわけでもありません。

ピアノに関するQ&Aはたまに覗くのですが、これからピアノを購入しようという人と、それに答える人たちのやりとりには、いろいろな現場事情や認識が見え隠れして唖然とするようなものも少なくなく、こんなところからも、世の中の人がピアノというものを概ねどのように捉えているかの一端を垣間見ることができます。

たとえば、子供にピアノを習わせるのに、将来いつまで続くかわからないことを前提に、いつどんなタイミングでどんなピアノを買っておけば損得両面において最もリスクが少ないかというようなもの。あるいは今勉強中の曲はこれこれと書いて、それぐらいだったらヤマハなら何を買うべきか、というようなものが多く見られます。
同様のものでもう少し具体的に書くと、ショパンのバラードやエチュードを弾くようになったら、あるいは受験にはやはりグランドじゃないとダメでしょうか?といった具合です。

さらに驚くのはアンサーのほうで、いかにも親切で誠実な調子の文章ではあるけれど、「私も音大受験を機に◯◯にしました」とか、「できればC3以上にしてください」「コンクールに出るなら、C7あたりか、予算が許せばスタインウェイ」など、練習する曲の難易度に比例してこれこれ以上のピアノであるべきといった内容が大手を振って並んでいます。

そこで取り交わされるやり取りを見ていると、不気味なほど音楽をやっている気配みたいなものがなく、体操の跳び箱の高さの話ばかりをしているようであるし、それに応じて使うべきピアノのメーカーやサイズまで決まっているかの如くの発言の数々には、おそらくこんなところだろうと予想はしていても、やっぱり具体的なやりとりを見ると、そのつど驚かされてしまうのです。

ショパンの何々、ベートーヴェンの何々、プロコ(この言い方が嫌い)の何々というのが、難易度の指針であるだけで、作曲家もしくは作品に対する冒涜のようでもあり、そうまでしてなんのために苦労の多い音楽なんてやろうとするのか、目指すところがまったく汲み取れません。

また購入にあたっては、いかにも説得力ある常識的意見として「ピアノの先生に相談してみるのが一番です」という意見は、一度ならず目にしたことがあります。素人があれこれと迷って楽器店のいいなりになるより、先生はピアノを長年弾いてこられたプロなのだから楽器のことも詳しい筈で、生徒の将来のことも考慮して選んでくださるだろうから、先生のアドバイスにしたがっていれば間違いないという主旨のものです。
それには、質問者の方も大抵は納得し、「それがベストですよね。ありがとうございました。」というような感じに話が収束してしまうのには、無知というものの喩えようもない虚しさを感じずにはいられません。

マロニエ君に言わせれば、ピアノの先生の多くはピアノのことなんてまったくご存知ない、むしろシロウト以下の人があまりにも多いという印象しかありません。中にはそうではない方も一部おられるかもしれませんが、それは例外中の例外であって、一般的平均的にはピアノの先生ほどピアノのことがわからない人たちも珍しいと思います。

音の善し悪しなどは、ピアノの先生のねじくれてしまった耳より、シロウトの方がよほど素直な感性をもっていて、何台か聴いていればその美醜優劣がまっとうに聞き分けられるのはまちがいありません。ピアノ技術者との雑談の中でも、先生の話が出るとみなさん決まって苦笑いになってしまいます。

それでもピアノ教師は、なまじ長年ピアノと係わってきただぶん「自分は専門家」という意識があり、だからピアノの見立てなどの相談にも臆せず応じてしまうようです。自分のピアノの良し悪しもわからないのに、それを自覚できておらず、人様のピアノ購入のアドバイスをするなんて無責任もいいところです。またそんな先生に自分の買うピアノを決められてしまうなんて、そんな無謀な話は考えただけでもゾッとしますが、これって結構あるんだろうなあと思います。

こうして、親、生徒、先生、楽器店といった本当に良いピアノを見極める能力や意志のない顔ぶれだけで事は決し、また一台無味乾燥で音楽性のかけらもないようなピアノが売れていくのでしょう。嗚呼…。
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プロ意識

マロニエ君の自室のビデオデッキはメーカーを誤ったのか、操作がやたら煩雑で、予約の仕方も消し方も未だにスイスイとはいきません。
ときどき昔の予約履歴の何かに引っかかってくるのか、まったく身に覚えがない番組が録画されていることも珍しくないので、ときどき番組を整理・消去するのですが、そんな中にNHKのドキュメントで歌手の北島三郎の公演を追った番組がありました。

本来ならまったく無関心どころか、むしろ甚だしく苦手なジャンルなのですが、ずいぶん前に友人から聞いた笑い話があったのをふと思い出しました。その友人の知り合いという人が、当時博多座にかかっていた北島三郎の公演にどうしても行かなくてはいけないことになり、はじめはずいぶん嫌がりながら出かけて行ったらしいのですが、結果はというと、その圧倒的な舞台を目の当たりにして「かなり感動して」帰ってきたんだそうで、予期せぬ変化に本人も友人も爆笑、そしてそれを聞いたマロニエ君も大爆笑でした。

いらい、そんなにすごい舞台とはいかなるものかという好奇心が頭の片隅に残っていましたので、これ幸いにちょっと番組を見てみることに。
北島氏は自身の舞台公演を長年にわたってやってきたらしく、前半は北島氏が主演、自ら脚本まで書くという芝居、後半は歌謡ショーという構成が長年のスタイルなんだとか。とりわけ歌謡ショーの舞台はこれでもかという絢爛豪華にして奇想天外なもので、見る者の度肝を抜くような仕立てで驚きました。そのための装置も相当のコストがかかっているらしいことは疑いがなく、これらは綿密な設計監修のもと川崎の専門工場で制作されているようでした。
近年は名門オペラの舞台でもコストダウンの波が押し寄せ、斬新なふりをした粗末な装置でお茶を濁す例が少なくないのに、一人の歌手のショーのためにここまでやるとは驚きです。
全国主要都市で40年以上続けられたというこの一ヶ月公演は、チケット完売も少なくないようで、今どき一夜のコンサートでも人が集まらないご時世に、いやはやすごいもんだと思いました。

観客はさすがに年配の方が大勢のようではありますが、その圧倒的な舞台とエンターテイメントに徹した作りは、まるでディズニーランドにも匹敵するような楽しさをチケット購入者に提供しているのかもしれません。

さて、なんのためにこんなことを書いたかというと、過日、このブログでベルリン・フィルのシルベスターコンサートに出演した老ピアニスト、メナヘム・プレスラーのことを書きましたが、それに連なる内容があったからです。

北島氏は50年連続出演した由のNHKの紅白を一昨年引退し、続いてこの一ヶ月公演にもついに自ら幕を引くのだそうで、番組はその最後を迎える公演に密着したドキュメントでした。
詳しい内情などはむろん知りませんが、番組を見る限りでは客足が遠のいたわけでないようで、固定ファン達はその公演の打ち切りをたいそう残念がっていましたが、それに関して北島三郎氏は(正確ではないけれど)おもに次のようなことを語っていました。

「そりゃあ、やりたいですよ。気持ちとしては止めたくないし、それこそ舞台で倒れるまでやりたいね。」「しかし、自分はプロとしてやっている。プロはお客さんからお金をいただいてやっているわけだから、そこでフラフラしたりみっともない姿は見せられない。だから辞める。」
つまりやりたいからやるというような甘っちょろい自由は、プロフェッショナルにはないんだという話しぶりで、マロニエ君は思わず膝を打ちました。

金額の多寡にかかわらず、プロと称する人たちの中には、人様からお金をいただくということの重みをまるで肝に銘じない、あるいはそもそも知らないような人たちがあまりに多く、平生苦々しく思っているところでしたから、この北島三郎氏の発言には拍手をしたい思いでした。
とりわけ歌舞伎役者など(全員とは言わないまでも)舞台人としては生涯甘やかされるばかりで、こういうことを一度でも考えたことがあるだろうかと思います。梨園に生まれたというだけで子役の時代から無条件に舞台を踏み、当たり前のように名跡を継ぎ、老いてセリフも忘れるほどになっても引退はせず、閉鎖社会ともいえる勝負性の希薄な舞台に立って、ぬくぬくと過ごすのが当たり前。
不倫をしてさえ「芸の肥やし」と許され、あげくに文化勲章をもらったり人間国宝に称せられたりするのは何なのかと思うばかり。

プロ意識というものの本質は、自らの裡に厳しいプライドをもって打ち立てられたものでなくてはならないことを、いまさらのように考えさせられました。
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中古品の地位

過日、リサイクルショップにまつわることを書きましたが、中古品に関しての認識は外国ではかなり異なる面もあるようです。

とはいってみても、すべてはマロニエ君が人から聞きかじった話なので、自分で経験したわけでもなければ、個々の検証ができていることではありませんが…。

ひとくちに外国とっても様々ですが、いちおうヨーロッパということに限定した上での話。
彼我の文化の違いからか、新品と中古品に関しては、相当感性が異なるのは間違いないようです。ヨーロッパはやはり伝統的に物質社会の繁栄以前からの脈々と続く歴史をもっているためか、印象としては、物を道具と割り切り、そこでは中古品もごく普通の選択肢であって、その頂点にいちおう新品もあるにはあるといったイメージなのかもしれません。

もちろん、食品や衣類ではそうとも言えない面が大きいとしても、食器や家具、車や家などは、驚くばかり中古品のオンパレードで、あくまで自分の生活スタイルや機能性・感性に合致し、かつ価格という部分で納得がいったら、本当に必要な物だけを慎ましく購入するようです。

いろいろなものが新たな使い手へと受け継がれていくのは彼らにしてみれば普通のことで、我々日本人のように、見ず知らずの他人が使ったと前歴を忌み嫌うというようなことは、あまりない(ゼロではないかもしれないが)ように見受けられます。
とりわけ食器などに至っては、日本人はどこの誰が使ったかもしれない中古の食器など、それを買って使うなんてことは普通まずないことですが、あちらの人たちはこのあたりもまったくに意に介さないようで、骨董のような趣で普通に使ったりするのには驚かされたことが何度もありました。

さらに家具、車、住居になればなるほど中古は当然の選択肢であって、中古家具!?と驚いたり、当然のように新車/新築を買い求める日本人なんぞは、もしかすると世界の非常識なのかもしれません。
マロニエ君は車やピアノに関してなら、自分が納得のいくものであれば中古でも厭いませんし、場合によっては中古のほうがよほど趣味性を追求できる場合も少なくありません。
ところが、世の中にはどんなに状態のいい、新品に近いようなスタインウェイの出物などがあっても、「中古」というだけで汚れたものであるかのように頑として受け付けず、新品を買ってしまうような人もおられるというのですから、このあたりの日本人の潔癖さときたらまるで昔の貞操観念並ですごいなあと思います。

ヨーロッパあたりでそんなことを言おうものなら、まあいろんな意味で口あんぐりされてしまうような気もします(むろん一握りの大富豪みたいな連中は別格でしょうけど)。

とにかく確かなことは、日本での「中古品」というものは、外国のそれよりも数段「地位が低い」もののようで、車の世界でも「壊れない日本車」の人気は当然としても、ドイツ製高級車なども、日本は中古になると値落ちが激しいから日本に買い付けに来る海外の業者が少なくないということを聞いたことがあります。

ピアノも、日本製の中古ピアノが物凄い勢いで海外に売られていくのが当たり前のようになってしまっていますが、その背景には日本でのピアノ需要の低下があるにせよ、そもそも中古品になるとその価値に見向きもしなくなる日本人の精神的特性も大いに関係しているように思います。

そうはいっても、マロニエ君もやっぱり生活必需品まで中古品を使うなんてできそうにもなく、そのあたりは民族性といえばいささか大げさかもしれませんが、体質的な部分でもあり、難しいなあと自分を含めて思うわけです。
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心も春霞

すでに何度も書いたことですが、マロニエ君は日毎に空気が蒸して膨張してくるような春の到来が苦手で、今年もついにこの季節をむかえなくてはならない今がうんざりなのです。

春は喜びの代名詞のようで、概念としても良いことのように云われますが、現実的には本当にそうなのだろうかと思います。
マロニエ君に限らず、この季節を苦手とする人は知るかぎりでは結構多くいて、冬に馴染んだ身体は大気に温められて違和感を覚え、体調管理にもとくに気を遣います。春がいやだなんて現代病のひとつのようでもありますが、むかしのように花が咲いて蝶が舞う季節として無邪気に喜ぶことができない自分が自然に背いているようでもあります。

そうはいっても、世の中が活動的になる季節であることは否定しがたく、とりわけ先週土曜はそれを痛感させられました。車の感じを確かめる目的があって、午後四時頃だったと思いますが漫然と車で街中に出てみると、道がどこも混雑していてなかなかスムーズに走ることができません。

幹線道路は縦も横も車がひしめき合っており、これを避けようと都市高速に入りました。
福岡は都市高速の環状線があり、これを一周するのは結構な距離があるので、適当に走って適当なランプを出ればいいぐらいに軽く考えていましたが、ETCをくぐって本線に出てみると、意外やこちらも想像以上の交通量であることに少し驚きました。
しかし都心部を離れるにしたがって次第に道は空いてきたので、そのまま順調に(深く考えることもなしに)走っていると、突如として渋滞の最後尾が目前に迫り、電光掲示板にはこの先が「渋滞」であることを告げています。

「うわ、これはたまらない!」とばかりに最寄りのランプを出たのですが、果たして下の道はさらに大変な渋滞で、それでもまだ事の次第が呑み込めないマロニエ君はいったい何事かと思いました。
目の前にはヤフオクドームがあり、それを見て、どうやら野球の試合がはねたところに運悪くハマってしまったことに気づきましたが、とき既に遅しで、すべての方向が大渋滞となっていました。

野球観戦にいったいどれぐらいの人たちが訪れるのか一向に知りませんが、少々のコンサートなどとはケタが違うぐらいのことはわかります。野球に関心のないマロニエ君にしてみればまったく予想もできなかったことですが、この状況ではドームから流れ出た人たちの大波が過ぎ去るまでは、為す術のないことは察知できました。

諦めて渋滞の中でじっと耐えますが、それでも大変な渋滞で、もともと渋滞気味の街中の道路を避けて入ったはずであった都市高速環状線でしたが、まわりまわって最もハードな渋滞エリアへと落とし込まれることになろうとはまったく想像もしていなかったことでした。

どうにか渋滞の外に出たのは、それからどれくらい経ったころだったか正確な時間は覚えていませんが、かなりの長時間止まっては進みを繰り返したことは間違いなく、自宅に帰り着いた時には疲れでフラフラになってしまっていて、ついにその日は完全に回復できないまま終わりとなりました。
わざわざ外に出て、時間とエネルギーを使って、ガソリンをまき散らし、あげくに疲れて帰ってきただけでした。

これを読まれた方は、たかが渋滞ごときでなにを言ってる!と呆れられそうで、まあそれは確かにその通りなのですが、その要素のひとつとして春に入りかけの季節であったことも折悪しく重なってのことだったと思います。

春はなにかにつけて幕開けの季節ではあるのでしょうが、春霞という言葉があるように空気は決して清澄ではなく、まして花粉症だのPM2.5だのと良からぬ環境に身をさらすなど、これが苦手な身には甚だ厳しい季節ですから、どうしても警戒心のほうが先に立ってしまいます。
すでにあちこちでお花見もはじまっていて、やれやれという気分にしかなれないマロニエ君は、やはりよほど偏屈なんだろうなあと我が身を恥じ入る季節でもあえるのですが、いくら恥じ入ってもこれは生涯変わることはないでしょう。

春先に比べたら、猛暑でも真冬でも、よほど過ごしやすいと今年も思ってしまうマロニエ君でした。
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古本いまむかし

近頃はあちこちに古本店やリサイクルショップができているのが、やけに目につくようになりました。

古本店といっても昔の風情のあるそれとはずいぶん違います。
むかしあった古本屋は独特で、狭い店の奥には本にやたら詳しい店主がいて、そこに出入りするお客さんにも一種独特な趣があり、マロニエ君は決してこの雰囲気が嫌いではありませんでした。
とりわけ神田の古本街はさすがは東京と思えるだけの規模があり、古本というものが文化や学問のバックボーンとしても存在しているようなところがあって、新品では買えないような文学や美術の全集物、貴重な専門書なんかが紐で括られて魅力的な価格が付けられていたりすると、わかりもしないくせに心が躍ったものでした。

いっぽういまどきの古本店は、多くが郊外型のチェーン店で、マンガや雑誌や実用書などを中心とした品揃えで、ひとつの書籍が役目を終えて次の読み手を待っているといった気配はまったくなく、不要になった本の束を車に積んでゴミ同然のようにして売り買いされているようです。

驚くべきは、今どきの古本店には文庫本を別にすれば、きちんとした装丁の文学書や専門書などはほとんどないことです。美術書も同様で、重く大きく、置く場所も必要とする美術全集など、今や一般的には興味もニーズもないらしく、よほどの変わり者でなければ関心さえないものに成り果ててしまっていることが時勢として見て取れます。
稀にあってもウソのような安い値段がつけられていて、買い手のないものの哀れを感じずにはいられません。

マロニエ君は幼児体験もあってか、壁一面が本でびっしりというような環境が好きなので、とくに文学書などは全部読みもしないのに全集が欲しくなります。たしかに場所を取るのも事実で、いまどきの住宅事情や生活スタイルからすればこれらは大半が消滅していく運命だと思うと、なんともやるせない気分にさせられます。

何年か前、ネットで岩波の漱石全集を買いましたが、大きな段ボール箱2つにギチギチに詰め込まれた立派なものだったにもかかわらず、価格は1万円前後というものでした。ちゃっかり安く買っているのだから、つべこべ言う資格はないのですが、得をした気分と隣合わせに「なんたることか!」と憤慨したことがありました。

昔の古本屋には古本屋なりの文化の香りがあって結構好きでしたが、いまのそれはまったくの別物、リサイクルショップに至ってはさらに苦手です。人が使ったものだからということもないわけではないけれども、あれがもしガレージセールのようなものだったらさして抵抗はないと思いますが、毎日営業する店舗となると陰気でなんとなく気が進みません。

何度か覗いたことはありますが、いわゆる「掘り出し物」的なものはほとんどなく、システムの上できちんと整理され、価格も精査されつくしたもので、これだったら新品を安く買ったほうがよほどいいと思えるものが少なくない印象です。
周到に新品の最安値のさらにひとつふたつ下あたりを狙っているようで、中古品ということを考えると個人的には決して安いとは感じられないのです。

それに本であれ、リサイクルショップであれ、共通して苦手なのは、店内に入ったときの一種独特な臭いがプンと鼻につくことでしょうか。使われたモノ特有の、人の汗や脂や手垢が混然一体となった、犬の耳みたいなあの臭いにつつまれてしまうと理屈抜きに気持ちがめげてしまうのです。

一度など、友人がシリーズで探している本があるからというのでしぶしぶ付き合ったところ、帰り道、腕などがチクチクしてきて、これは間違いなくダニの類をおみやげにしてしまったようでした。

古いものを廃棄せず、大事に使いということは結構なことですが、世の中全体が慢性的な不景気におちいった象徴としてのリサイクルショップの乱立というのは、澱んだ時代そのものの証のようで、なかなか歓迎の気持ちにはなれそうにもありません。
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技術と才能

懇意にしていただいている調律師さんの中には、これまで他県で活躍されていた方もおられます。

その地域では、調律はもとよりホールのピアノの管理なども複数されていた由で、当然コンサートの仕事も数多く手がけられ、一部は現在も遠距離移動しながら継続している由です。ご縁があって我が家のピアノもときどき診ていただくようになりましたが、驚くほど熱心で密度の高いお仕事をされるのには感心しています。
しかしエリア違いのため、その方が調整されたピアノによるコンサートを聴いた経験は一度もなく、ぜひ聴いてみたいという思いが募るばかりでした。

そこで、もしライブCDがあれば聴かせてほしいと頼むと、4枚のCDをお借りすることができました。
いずれも第一線で活躍する名のあるピアニストのリサイタルですが、その中でもゲルハルト・オピッツの演奏会はとくに印象的でした。ピアノは1990年代のスタインウェイで、この技術者さんが管理されていたことに加えて、当日の調律も見事で、まったくストレスなく朗々と鳴っていることは予想以上でしたし、スケールが大きいことも印象的でした。

一般的に、日本の技術者のレベルはきわめて高いものの、どこか「木を見て森を見ず」のところがあり、いざコンサートの本番となるといまひとつピアノに動的な勢いがなく、どこかこぢんまりしたところがあるのは、何かにつけて我々日本人が陥ってしまう特徴のひとつなのかもしれません。
これは技術者が、つい正確さや安全意識にとらわれて、ある意味臆病になるためだと思います。マロニエ君は精度の高い基礎の上に、一振りの野趣と大胆さが加わるのを好みます。このわずかな要素にピアニストが反応することでより感興が刺激され、迫真の演奏を生み出す、これが個人的には理想です。

ところが多くの日本人技術者は比較的小さな枠内で作業を完結させる傾向があり、正確な音程と、まるで電子ピアノのような整った音やタッチにすることを好ましい調整だと思い込んでいる場合が少なくないのでしょう。ピアノ技術者の技術と感性は、究極的には職人的な才能と音楽性が高い接点で結びついていなくてはダメだと思うのは、やはりこんな時です。

最近は、見た目やマークは同じでも、演奏がはじまるや落胆のため息がでるような空っぽなピアノが多い中、久々にスタインウェイDによる、他を寄せ付けない独壇場のような凄まじさに圧倒されました。
優れた演奏によってはじめて曲の素晴らしさを理解するように、優れた技術者とピアニストを得たとき、スタインウェイはあらためてその真価をあらわすのだと思いました。

オピッツ氏も好ましいピアノに触発されてか、マロニエ君が数年前に聴いたときとはまるで別人のように、集中度の高い、それでいてじゅうぶんに冒険的で攻める演奏をしており、聴く者の心が大きく揺すられ、いくたびも高いところへ体がもって行かれるようでした。これこそが生の演奏会の醍醐味!といえるような一期一会の迫真力が漲っていることに、しばらくの間ただ酔いしれ感銘にひたりました。

CDを受け取る際、つい長話になってしまい、最後になってフッと思い出したように「あ、ぼく、一級の国家資格、受かってました」といってハハハと軽く笑っておられました。ずいぶん難しい試験だと聞いていましたが、すでに九州でもかなりの数の合格者が出ているらしく、そう遠くない時期に「持っていて当たり前」みたいなものになるのかと思うと、何の世界も大変だなあと思います。
曰く「…でもあれは、本当に技術者として一級云々というものでは全然ないですね。ただ単にその試験に対応できたかどうかという事に過ぎませんよ」と穏やかに言っておられたのが印象的でしたが、そのときマロニエ君が手に持っていたのは、まさにその言葉を裏付けるようなCDだったというわけです。たしかにコンサートの現場経験を積んで世間から認められることのほうが、はるかに難しいし大事だというのはいうまでもありません。

スタインウェイをステージであれだけ遺憾なく鳴り響くよう、いわば楽器に魂を吹き込むことのできる技術者は、マロニエ君の知る限りでも、そうそういらっしゃるものではありません。単なる技術を超えた才能とセンスがなくては成し得ない領域だからでしょう。
いまさらですがスタインウェイDは潜在力としては途方もないものを持っているわけですが、その実力を真に発揮させられるような技術者は本当にわずかです。

しかもそういう方々が、その実力に応じた仕事をする機会に恵まれているのかというと、必ずしもそうではない不条理な現状もあるわけで、ますます憂慮の念を強めるばかりです。

どんなに立派なホールに立派なピアノがあっても、肩書だけの平凡な調律師がいじくっている限り、一度も真価を発揮することなくそのピアノは終わってしまいます。中にはステージ本番のピアノに、まるで家庭のアップライトみたいな調律をして、平然としてしている人もおられますが、それでもほとんどクレームのつかないのがこの世界の不思議ですね。
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自分の楽器なら

先日のNHKクラシック音楽館でガヴリリュクを独奏者としたプロコフィエフのピアノ協奏曲第3番をやっていたのでちょっとだけ見てみました。
会場はNHKホール。ガヴリリュクは開始早々から、いささか過剰では?と思えるほどの熱演ぶりでしたが、さてそうまでして何を表現したいのやら狙いがもうひとつわからない演奏という印象でした。

上半身はほとんど鍵盤に覆いかぶさるようで、終始エネルギッシュなタッチでプロコフィエフのエネルギーを再現しようとしたのかもしれません。渾身の力で鍵盤を押し込み、湧き出る大量の汗は鍵盤のそこらじゅうに飛び散りますが、出てくる音としてはそれほどの迫力とか明晰さ、表現上のポイントのようなものは感じられません。

ガヴリリュクはあまり自分の好みではない人だということは以前から思っていましたが、この日は第一楽章を聴くのがやっとで、残りは視ないまま終わってしまいました。

音が散って消えるNHKホールであることや、録音編集の問題もあろうかとは思いますが、これほど汗だくのスポーツのような熱演にもかかわらず、ピアノ(スタインウェイ)が一向に鳴らないことも聴き続ける意欲を削いでしまった要因だったろうと思います。
鳴らないピアノの原因がなんであるかはわかりませんが、まるで押しても引いても反応しない牛のようで、かなりストレスになることだけは確かです。

それから数時間後、日付が変わってのBSプレミアムでは、パリオペラ座バレエ公演から、このバレエ団総出による『デフィレ』があり、ベルリオーズのトロイ人の行進曲に合わせて、バレエ学校の子供から、バレエ団の団員、さらにはエトワールまでが、ガルニエ宮の途方もなく奥行きのあるステージ奥からこちらへ向かって、バレエの基本的な足取りで行進をする演目は楽しめました。

なぜこんなことを書いたかというと、その『デフィレ』に続く演目は『バレエ組曲』で、舞台上にスタインウェイのDが置かれ、ピアニストが弾くショパンのポロネーズやマズルカに合わせてバレエ学校の生徒たちが踊るというものですが、この時のピアノがとても良く鳴ることは、前述のガブリリュクが弾いたピアノとはいかにも対照的でした。

ピアノのディテールから察するに、おそらくは30年前後経った楽器と推察されますが、低音などはズワッというような太い響きが遠くまでハッキリと伝わってきますし、全体的にもつややかな明瞭な音が健在で、もうそれだけで聴いていて溜飲の下がる思いでした。
このピアノをそのままNHKホールのステージにもってきたなら、ガブリリュクの演奏もやっぱり全然違っただろうと思わないではいられないというわけです。

よく調律師の説明に聞くフレーズですが、「弾き手は、鳴らないピアノでは、自分のイメージに音がついてこないため、よけいムキになって強く弾こうとする」といわれるように、ピアノが違っていれば、ガヴリリュクもあそこまで意地になって格闘する必要はなかったのでは?と思ってしまいました。

楽器販売に関わる技術者は、新しいピアノを肯定することに躍起になっているとみえて、新しいほうがパワーが有るなどと口をそろえて主張します。
それは新しいピアノ特有の若々しさからくるパワーのことで、これもパワーというものの要素のひとつとも言えるでしょうが、厳密に言うならピアノのパワーの本質というのはそういう局部的一時的な問題ではない筈だと思います。

べつに今の新しいスタインウェイを否定しようという考えはありません。マロニエ君にはわからないだけで新しいスタインウェイにしかない魅力もきっとあるのでしょう。しかし、少なくとも、かつてしばしば聴かれた芳醇で澄明で余裕に満ちたあのスタインウェイのサウンドというものは、その時代のピアノにしか求め得ないことだけは確かなようです。

もしも、ピアノが往年のホロヴィッツのように自分専用の楽器をどこへでも自由自在に持っていけて、少しでも気に入らなければ別の楽器に交換できるとしたら、きっとピアニストたちはこぞってお気に入りの楽器を探しまわり、それぞれの個性や美意識に基づいた調整を施し、それ以外のピアノには手も触れないようなことになる気がします。

そんな自由が与えられ、ステージという真剣勝負の場で弾く楽器を選ぶとなると、それでも新品ピアノを本心から好むピアニストがどれだけいるのか…これを想像してみるのは面白いことだと思いました。
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拾われた命

車にも運命というものがあります。

友人が古いメルセデス・ベンツのC240(W202)というのに乗っていましたが、勤めの関係などで普段ほとんど乗る機会がないという現在の生活パターンを考えた場合、それでも駐車場を借り、税金や任意保険を払いながら車を維持していくことにあまり意味がないのでは?という考えが濃厚となっている由のこのごろでした。

というのも今月で車検が切れるというタイミングでもあり、追い打ちをかけるように、数年間にわたる野外駐車が災いしてか、天井の内張りが落ちてきて、パッと目はわかりにくいものの触ってみると天井と内張りの間に空間ができています。これは内装屋できれいに張替えができますが約4万円ほどの修理費用がかかるとのこと。
車検費用に加えて内装の張替えなどが必要となり、ほとんど使わないものにそれだけの出費も負担に思えてきたようで、ここを節目についに手放す決心をするに至りました。

この車は1998年型で現在17年経過しており、新車から10年間は車庫保管され、その後は野外駐車となるも、走行距離は6万キロ台後半で、古いというだけで機関は至って快調で健康体の車です。

友人から廃車の手続きをしてくれる業者への連絡を頼まれたので、その手配をし、週明けには車を取りに来るばかりになっていましたが、そんなときになって「乗らないとはいえ、愛着もあり、どこも悪くない車を廃車(つまりはスクラップ)にするのは忍びないものがある」というような言葉を漏らしはじめました。

だったらもっと早く言えばいいのに!と思いましたが、悩んだ末の流れだったのでしょう。むろん気持ちは理解できるので、友人知人に「これこれのクルマがあり、車検はないが、車本体はタダでいいから乗ってみようという人はいないか?」と急ぎ何件か打診してみました。

その翌日、日曜だったこともあり、車関係の知人2人が問題のメルセデスを見てみようかということになり、マロニエ君宅に車もろとも集まることになりました。しばらく試運転などをしたところ、この時代のメルセデスならではの堅牢な作りとおっとりした身のこなし、ドイツ的な作り込みの良さからくる高品質感など、17年も経っているとは信じられないとその健在ぶりに、ストレートな感銘を受けたようでした。

この試乗でそのうちの一人の心はほぼ固まったのか、出てくる言葉はいつしかユーザー車検の段取りなどに及んでいます。

その後、オーナーである友人から書類と車の受け渡しへと話は正式にみ、めでたく新しいオーナーのもとでしばらく過ごすことになりました。17年という歳月の中でみると、翌日には廃車の手続きが始まる運命にあったこの車は、断崖絶壁ギリギリのところで再び車としての役目を与えられることになり、まずはなによりというところでした。

更に先週木曜には、新オーナーの手によってユーザー車検に一発合格し、重量税と自賠責の6万円ほどでともかく向こう2年間、天下の公道を走り続けることができるようになったようです。
マロニエ君も、長年身近に見てきた車が、とくに故障でもないのに鉄くずになってしまうのかと思うと、哀れなものを感じないわけではありませんでしたが、危ないところで拾われたこの車には、もしかしたら幸せの運が付いているようにも思います。

車やピアノのようなサイズと重量のあるモノは、たとえタダでも置き場の問題などがついてまわるために、相手にも受け入れる環境やタイミングというものが事を決する大きな要素となり、そのせいで泣く泣く処分されていくものも少なくないだろうと思うと、なんとも切ないものだと思いました。

知り合いの調律師さんの中には、ずいぶん小さな車で頻繁に高速での長距離往復をされる方がおられるので、高速走行を最も得意とするメルセデスこそうってつけではないかと話を向けたのですが、わずか数日前に「車検を取ったばかり」ということでこちらの手許に行く流れにはなりませんでした。

こういうことを考えると車やピアノって、つくづく「ご縁」なんだなぁと思わずにはいられません。
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がっかり

最近はいわゆるスター級の演奏家というのがめっきり出てこなくなりました。

これは音楽に限ったことではなく、芸術家全般はもちろん、政治家や役者なども同様で、そこに存在するだけであたりを圧倒するような大物はいなくなり、とりわけ音楽では没個性化と引き換えに技術面では遥かに平均点は上がっていることが感じられます。
音楽ファンとしては平均なんてどうでもいいことで、これぞという逸材を待望しているわけですが…。

この流れはピアニストも同様で、少なくとも現在活躍している中堅~若手の中でスター級のピアニストというのはどれだけいるでしょう。その筆頭はキーシンあたりだろうと思いますが、それ以降の世代では記憶を廻らせてもぱったり思い浮かばなくなります。

上手い人はたくさんいてもスターが不在という現状です。
むろん非常に好ましい演奏をするピアニストは何人もいるわけですが、しかしステージに存在するだけで有無を言わさぬオーラをまき散らし、名前だけでチケットが売れてしまうような人はほとんどいなくなりました。
そんな中で、マロニエ君がやや注目していた若手の一人に、ユジャ・ワンがありました。

この数年で頭角を現した彼女ですが、何年か前のトッパンホールで行われたリサイタルの様子は圧巻で、なかでもラフマニノフの2番のソナタは忘れがたい演奏でした。ここから彼女のCDを何枚か買ってみたものの、あまりに録音用テイク特有のお堅い演奏という印象で、期待するような魅力が身近に迫るところまでには至らず、協奏曲でもこの人ならではの輝きを感じさせるにも一歩足りず、もしかするとライブ向きの人なのかなぁと思ったりしていたものです。

そうはいっても最近のCDは制作コストの削減から、ライブ演奏をベースに制作されることも少なくありませんが、製品化にあたってレコード会社の修正が介入しすぎるのか、どちらともつかないような微妙なCDが多いとも感じます。

さて、先日のNHKクラシック音楽館ではそのユジャ・ワンが、デュトワの指揮するN響定期演奏会に登場し、ファリャのスペインの夜の庭とラヴェルのピアノ協奏曲(両手)を弾きました。
これまで、若手の中ではいちおうご贔屓にしていたユジャ・ワンでしたが、この日の演奏は期待ほどないものでがっかりでした。ひとくちに云うとなにも惹きつけるところのない内容の乏しい演奏で、ただあの無類の指を武器に弾いているだけという印象しか得られなかったことはがっかりでした。

それでもスペインの夜の庭のほうがまだよく、もともと捉えどころのない幻想的な性格の曲であるが故か、きっちりした技巧でピアノパートが鳴らされるだけでもひとつのメリハリとなって、なんとか聴いていられたわけですが、ラヴェルでは開始早々からこれはちょっとどうかな…という思いが頭をよぎりました。

経験的に、はじめにこういうイヤな影が差してくると、それが途中で覆るということはまずありません。
ユジャ・ワンの感性とこの曲はどこを聞いても焦点が合わないというか収束感がなく、終始ボタンの掛け違えのような感じでした。演奏前のインタビューでは13年前日本のコンクールで弾いて以来なんだそうで、そのときよりラヴェルの音楽語法もわかったし、様々な経験を積んでより自由に表現できるようになったと言っていましたが、実際の演奏ではどういう部分のことなのかまったく意味不明のまま。
彼女にしては珍しくあれこれの表情や強弱をつけてみるものの、それらがいちいちツボを外れていくのはまったくどうしたことかと思いました。
あの耽美的な第2楽章も、やみくもなppで進むばかりで旋律は殆ど聞こえず、どういう表現を目指しているのかまったく理解できないし、左手の3拍子とも2拍子つかない独特のリズムにも拍の腰が定まらず、終始不安定な印象を払拭できなかったことはこれまた意外でした。

健在だったのはやはりあの規格外の指の技巧で、この点では並ぶ者のない超弩級のものであることがユジャ・ワンのウリのひとつですが、それも音楽が乗ってこそのもので、技巧がスポーツのようになってしまうのは大変残念としか言いようがありません。

彼女は北京の出身ですが、現在もアメリカで学んでいるらしく、あの妙に円満な収まりをつけてしまう、いわば音楽的優等生趣味はそのせいではないかと思いました。もともとアメリカは西洋音楽の土壌がないところへ大戦などによって多くの偉大な音楽家がヨーロッパから移住した地ですが、それらは皆すでに功成り名を遂げた巨匠たちばかりで、アメリカそのものに西洋音楽の土壌があったとは言い難いのかもしれません。

そのためか、アメリカの音楽教育はどこか借りもの的というか、型にはめて画一化されてしまう観があり、個性や独自の表現を尊重し伸ばそうという度量や冒険性が感じられません。そう思うとユジャ・ワンのピアノにも「アメリカ的臆病と退屈」がその教育によって根を下ろしているようでもあり、納得と同時に、非常に残念な気がしてなりません。
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掃除は人柄?

よろず掃除というものは、大部分の人にとって進んでやろうとは思わない事だろうと思います。
稀に楽しくなって集中するというようなことはあるにせよ、できることならやりたくないというのが一般的でしょう。

それでも世の中には掃除が好きで生きがいのような方もおられる由で、掃除機も高価で高性能なものにこだわり、窓の桟の僅かなゴミも完全除去、トイレやシンクはギンギンに磨き上げ、水道の蛇口にはワックスがけまでする人もいるようですが、ま、そんな人は例外中の例外(と思います)。

TV のコマーシャルなども、やれ除菌だの消臭だのと、まるで世の中すべてが清潔できれいで、それが常識でしょ?と言わんばかりですが、さて実際の今どきの人の掃除嫌いのレベルというのは想像以上に深刻で、掃除嫌いのマロニエ君をもってしても閉口させられます。
とくに目につくのは女性のそれで、自分のビジュアルにはかなり気を使っても、掃除や整理整頓となると男顔負けの野放図で、生まれてこのかた掃除というものをしたことがないのではないか…と本気で思ってしまうケースがあまりにも多いことに愕然としてしまいます。

忙しく仕事をしている人間は掃除なんかしているヒマはないというのが一般的な言い分なのかもしれませんが、マロニエ君からみれば忙しいことをこれ幸いに口実としているだけで、端からその気がないことが見て取れるのです。
べつに本格的な清掃作業をやるわけでなし、ちょっとした心がけでできる事というのは実際にはたくさんあるわけで、本棚に積もったホコリをサッと備え付けのモップで払うとか、枯れた花は適当なタイミングで片付ける、出した道具は元の場所に片付けるといったことは、すべて心がけの問題です。

清掃会社が入っているような大きな会社はともかく、普通はちょっとした掃除や整理整頓を済ませてから何かをするというのは、それが勉強であれ仕事であれ、何かの製作であれ、料理をつくることであれ、すべてに共通した作法だと思います。
そもそもある程度きれいにした上でないと、いい仕事、質の高い作業はできません。
修業をするにも「雑巾がけから」というのは長らく日本人の心にあった基本姿勢だったような気がしますが、いまやそんなものはどこへやらという感じです。

外に向けて作り上げたもっともらしい姿とは裏腹に、一歩家に帰れば足の踏み場もないような乱雑不潔はけっして珍しいものではないのだそうで、なんでもが嘘っぱちに見えてしまいます。

そういえば最近は、個人の自宅にお邪魔するという機会もずいぶんなくなりました。
人と会うときは外で会い、自宅は「プライヴェート」とかなんとか言って、要するに他人を立ち入らせないエリアになり、それがさらに掃除をしない方向へと向かわせているのかもしれません。マロニエ君の目には、どんなに素敵な人でも、最低限度の掃除さえしないで平気でいられる人というのは、もうそれだけでだらしなく感じてしまいます。
これは決して封建的な感性でいっているのではなく、むろんそこには男女の区別もありませんが、だからたまに「普通に」掃除をしたり整理整頓する人を見ると、もうそれだけで一目置いてしまいます。こういうことはその人の品性や人柄など、心の在りように直結する部分だから、人格教養のもっともベーシックなことだと思うわけです。

掃除をしないのと対極にあるのが、一時期「断捨離」などという言葉が流行ったように、何でもかんでも物を捨てまくって、それで心を開放しリセットするというような考え方がありました。知り合いの奥さんに一人その手合いがいて、ご主人の話では郵便物から何から、あらゆるものを片っ端からズバズバ処分していくのだそうで、なるほど家の中はよけいなものが一切なくていやにスッキリしていました。
しかし、物事には程度というものがあり、スッキリも行き過ぎると、その雰囲気は寒々しい殺風景なものとなり、却って落ち着かない感じがしたのも事実で、きれいといえばきれいだけれど、なんだかニトリのカタログでも見ているようでした。

「ほどよさ」というバランスは、よほど難しいものなんだろうかと思います。
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引退か現役か

昔の大晦日はベルリン・フィルのジルベスターコンサートを生中継でやっていましたから、毎年これを見るのが習慣でしたが、いつごろからだったか、この番組はなくなってしまいました。
アルゲリッチ/アバドによるR.シュトラウスのブルレスケを初めて聴いて感激したのもこの大晦日(正確には元日)の夜中だったことなどが懐かしく思い出されます。

現在はおそらく有料チャンネルなどに移行したのだろうか?と思いつつ、マロニエ君宅にはそんなものはありませんから、いつしかこのコンサートは自分の前から遠のいてしまったようでした。

つい先日、2014年の大晦日に行われたラトル指揮の同コンサートの模様がNHKのプレミアムシアターで放送されましたが、その中から、メナヘム・プレスラーをソリストに迎えたモーツァルトのピアノ協奏曲第23番について。

メナヘム・プレスラーが半生をかけて演奏してきたのは有名なボザール・トリオであったことはいまさらいうまでもありません。
その素晴らしい達者な演奏は名トリオの名に恥じないもので、中でもピアノのプレスラー氏はこのトリオの立役者であり、その功績の大きさは大変なものです。彼なくしはこのトリオは間違いなく存在し得なかったものといって差し支えないでしょう。

50年以上の活動を続け、2008年にトリオは解散。その後のプレスラーは人生の晩年期にもかからわずソロピアニストとしての活動を始めます。近年でも思い出すのはサントリーの小ホールでのシューベルトのD960や、庄司紗矢香とのデュオなどですが、残念ながらマロニエ君はそれほどの味わいや魅力を感じるには至りませんでした。
ボザール・トリオの時代の自由闊達、円満で音楽そのものの意思によって進んで行くようなあの手腕はどこへ行ったのか思うばかりでした。

今回のモーツァルトのピアノ協奏曲では必要なテンポの保持さえも怪しくなっており、痛々しささえ感じてしまいました。あのエネルギッシュな快演を常とするベルリン・フィルも普段とは勝手が違っているようで、この老ピアニストの歩調に合わせようと努力しているのがわかります。

でも、音楽というのは、こうなるともういけません。
一気にテンションが落ちてしまいつつ、高齢の巨匠に敬意を払ってなんとか好意的に受け止めようとしますが、それは殆どの場合むなしい結果に終わります。とりわけ最盛期の活躍が華々しい人ほど、それが聴く人々の記憶にありますから、よりいっそう厳しい現実を突きつけられるようです。

すでに御歳90を超えておられるわけですから、個人としてみればもちろん信じ難いほどに大したものだと思います。しかし厳しいプロの音楽家として見れば、もはやこういう大きなステージでの演奏をやり遂げることは厳しいなぁと思わざるを得ません。

巷間「離婚には、結婚の数倍ものエネルギーが要る」といわれるように、プロ(しかも一流になればなるだけ)の引退はデビューよりも難しいものかもしれません。できれば、まだまだやれると誰もが思えるだけの余力を残した時期に、惜しまれながら引退することが望ましいように思いますが、最近はそんな引き際の美学も失われているような気がします。

ハイフェッツ、ワイセンベルク、最近ではブレンデルなどはきっちりと引退の線が引けた人ですが、マロニエ君の知る限り、最晩年に真の感銘を与えてくれた唯一の例外では、ミエスチラフ・ホルショフスキーただひとりです。
ただ、だれもがホルショフスキーのようにはいかないのが現実というものでしょう。
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買えない加湿器

冬場はヒーター多用のため、我が家では数台の加湿器を使っていますが、そのうちの1台が古くて調子がおかしくなってきたために、1台新しく買うことになりました。

ところが、ホームセンターに行くと、加湿器らしいものが1台もなく、別の店に行っても同様でした。
ついこの前までは、大小いろいろの加湿器がズラリと並んでいたように思うのですが、ウソみたいにひとつもないのです。
たかが加湿器、買えば済むことと思っていましたが、どうやらそれが甘かったようです。

あらためてある店(最もたくさん売っていた記憶がある)に電話してみたところ、家電売場の担当者によると「もうなくなりました。今季はもう入ってきません。」とあっさりいうのにはびっくり。
桜の咲く頃ならともかく、これは2月の後半のことで、まだまだヒーターを使いまくっている真っ最中であるにもかかわらず、加湿器の販売は終了したというのです。

しかも、どこの店でも同様ということがわかってくるにつれて、この足並みの揃い方に異様さを感じて思わずゾッとしてしまいました。ナマモノではあるまいし、たかだか加湿器の1つや2つあってもよさそうなものと思います。
というか、以前はこんなことはなく、春前まで普通に売っていましたし、そのころちょっと安くなったのを買った記憶もあったぐらいですが、現在では商品自体が売り場から一斉に姿を消してしまい、買うべき時期に買わなかったらもう手に入れることもできないということのようです。

こんなところにも、世の中がちょっとした余裕もない厳しい環境へと年々なりつつあることを感じないではいられません。
追加で入ってくる予定は「ない」のだそうで、メーカーから入ってこないから仕方がないというようなことを言っていましたが、それはどうでしょう…。
メーカーは何であれ売りたいのが基本ですから、店が必要だといえばすぐにも商品を納入してくるはずですが、季節ものは後半になると売れ行きが落ちるため、店側が拒絶するのだろうと思います。
売れ残りの在庫を抱えてディスカウントするより、確実に売れるだけの数に絞って完売にする道を選んでいるといった気配を感じましたし、そのほうが商売としても無駄を出さずに効率的だということなんでしょう。

…だとしても、なんという慌ただしさかと思います。

今どきはなにかにつけてこうなので、買う側もぐずぐずしていると、このように買いそびれてしまいます。たかだか家電製品ぐらいでなんでそんなにピリピリしていなきゃいけないのかと思いますが、世の中がこぞってそんなふうになってくるのはどうしようもないわけです。

これが正月ものとかバレンタインというならまだわかりますが、そういえば、昔に比べたら売れ残りのクリスマスケーキなどもゼロではないとしても、以前に比べたら激減しましたね。
とにもかくにも、いかなるジャンルも商売が厳しくなり、わずかの無駄をも嫌い、極限まで切り詰めたやり方をしているのは間違いありません。

加湿器は、唯一残っているのは電器店などにある多機能ハイブリッドなどのやたら高い機種だけでしたが、マロニエ君が欲しいのは最もベーシックなやつで、金額にして5000円以下のものなので、それをむざむざ買う気にもなりません。
とにかくどこにも売っていないからネットで調べて見るかとも思いますが、そうこうしているうちに3月になってしまい、あと少しこれで粘れば要らなくなるという気もしなくもありません。

何事も、表向きは便利な世の中になったようになってはいますが、同時に油断のできない、常に気を張っていなくちゃならない、ゆったりできない時代になったものです。
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主なき文化施設

NHKのクラシック倶楽部を見ていると、まわりが田畑に囲まれた住む人も決して多くはなさそうな田園地帯に、ずいぶん立派なホールや複合文化施設が建てられていることに驚くことが少なくありません。

さすがに近年の節約ムードではそうもいかなくなったでしょうが、一昔前までは、こうした使われる当てもないような文化施設が税金を使ってこぞって建設されたことは間違いないのでしょう。不景気というのももういい加減イヤですが、しかしこういう無謀なお金の使い方がまかり通る時代も遭ったかと思うと、なんとも複雑な気分です。

文化振興という名目で、見上げるような立派な施設は出来ても、実際の稼働率は驚くべき低さだそうで、維持費の捻出さえ怪しくなっている施設が無数にあるのかと思うと、ため息が出るばかり。ホールを作れば当然ピアノも必要ということになり、まともに弾かれることもないようなスタインウェイなどが納入されるものの楽器庫の中で虚しい時間を過ごしているようです。

ある方から聞いたことですが、田舎のホールでは管理者側のピアノの維持管理に対する認識はまったくのゼロといっていいのだそうで、中には輸入元が定めた技術者が保守点検することもなく、近隣の楽器店がときおり調律をするだけという事例もあるようです。
こうなると楽器のコンディションは年々低下し、たまさかコンサートというときにはピアニストが弾くのを嫌がって、やむなく別のピアノを遠路はるばる運びこむなどという一幕もあるようで、こんな馬鹿な話はないでしょう。

ピアノは一流品があまりにも無慈悲に酷使されるのも痛々しいものがありますが、逆に弾かれることもなく、長い年月のほとんどを眠っているだけのピアノというのも物悲しいものです。
そのいっぽうでは、一部のメジャーなホールでは数年ごとに新品ピアノに入れ替え、ようやく旬を迎えつつあるようなスタインウェイが、リハーサル用などに下げ渡されていくというのですから、これもいい気持ちはしません。ピアノのわかるピアニストの中には、ステージ用よりリハーサル室のピアノのほうがよほど好ましいと漏らすこともある由で、世の中おかしなことだらけです。

さて、冒頭の話題に戻ると、こうした地方の田舎に突如建設された文化施設やホールでは、年に一度ぐらい文化事業をやっていますよという、税金を使った言い訳のためのイベントをやらなくちゃいけないのか、なぜこんな場所でこういうコンサートがあるのか、よくわからないような演奏会があるらしいことをクラシック倶楽部を見ていて感じることがときどきあるわけです。

もちろんマロニエ君はクラシックのコンサートが特別なものとは思いませんし、ましてやこれに来る人が高尚な人たちともまったく思いません。高尚どころか、ものによっては逆の場合も珍しいことではなく、ばかばかしいようなものも少なくはないのも現実です。

ただクラシック音楽というものが、一般的にだれもがすんなり馴染めて好まれるものかというと、そこにも一片の疑問は残ります。演奏の質や魅力はさておいても、やはり取り扱う作品そのものは本物の芸術作品ですから、普段まったくクラシックとご縁のない人がパッと聞いて直ちに興味を覚えたり素晴らしいと感じるかというと、そんな瞬間がゼロではないにしても、やはり一定の経験を積んで楽しむに至る下地が求められることも否定できません。

プログラムも問題で、TPOというものをまるで欠いた、聴く人のことを考慮しない専門性の高い作品を無遠慮に並べるとか、逆に聴衆をバカにしたようなベタベタな名曲集のようなものになるなど、開催する側、あるいは演奏者達のセンスにも大いなる疑問を感じます。
すべてがこんな調子なので、そんなコンサートが支持されるはずもなく、莫大な費用をかけた施設やピアノは、当初の目論見通りに文化貢献をしていると言えるものはどれぐらいあるのか…、ただ時が流れ、朽ち果てるのをまっているだけかもしれません。

喜んだのはそれに携わった当時の建設会社やお役人、楽器販売店などでしょうが、こんなことが可能だった頃が世の中も好景気だったのかと思うと、なんとも複雑な気分です。
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ディーゼル

ヨーロッパで走っている乗用車の大多数はディーゼルエンジン搭載車です。
ディーゼルエンジンとはガソリンの代わりに軽油を燃料とし、日本ではほとんどのバスやトラックがこれを使っていて、あのガラガラという特徴的な音はこのディーゼルエンジンならではのもの。

ヨーロッパのディーゼル志向は少なくとも30年以上続いているものと思われ、メーカー各社はどのモデルにもディーゼル仕様を必ずラインナップするのが当然というほど猛烈な勢力です。加えてトランスミッションはこれもまたオートマは少数派で、大半がマニュアル仕様だといいますから、車に関する感性もずいぶん異なるようです。

もともとディーゼルエンジンは音がうるさく、独特の振動があって、しかもパワーが無いという特性があります。その半面、燃費がよく、しかも燃料の軽油はガソリンに比べて安いということがヨーロッパで強く支持される主たる理由です。さらには税制などの点でも優遇されいるのか、こういう点で驚くほどドライな考え方をするヨーロッパ人にとって、彼らがディーゼルを選択することは必然なのでしょう。

これとは趣を異にするのが日本やアメリカ市場で、多少燃費の点ですぐれていようと、あの音や振動は耐え難く、とりわけ高級車の分野では、パワーや静粛性、スムーズなフィールを重視する点からも、ほとんど受け入れられませんでした。

そんなディーゼルエンジンでしたが、技術の進歩によって飛躍的な発展を遂げ、ガソリンエンジンと遜色ないパワーとスムーズさを手にするまでになり、以前のようなディーゼル=ガマンとは隔世の感があると自動車雑誌などで報告されるようになりました。
マロニエ君自身も数年前、ある輸入車のディーゼル仕様を一般道から高速道路まで運転させてもらったことがありましたが、たしかにこれならばと納得できるぐらい洗練されたものでした。
ディーゼルエンジン固有のビート感と太いトルクはある種の味わいさえあり、ガソリンとは違った魅力があることも確認でき、大いに感心した経緯がありました。

その後、乗用車のディーゼルが根付かなかった日本では、ようやく勇気あるメーカーによって意欲的な開発がなされ、ともかく傑出したエンジンができたようでした。
すでに発売もされ、評判も上々、その後はこのメーカーはフラッグシップである高級車からコンパクトカーにいたるまでディーゼル仕様が拡充されています。車の省エネがハイブリッドに集約されつつある中、既存のエンジンの高効率化によって新しい選択肢を加えて行こうというこのメーカーの技術力と挑戦の意気込みは注目に値するものかもしれません。

過日、わけあってそのメーカーのディーゼル搭載の最高級車を試乗するチャンスに恵まれました。
全営業マンが接客中ということから基幹店の店長さん自ら説明にあたってくださったのはいいけれど、それはもう大変な自信に満ちた長広舌でした。車を前に講釈は止めどなく続き、シートの作り、ペダルの位置や構造、さらにはあらゆる操作に関する配慮など、人間工学に基づいたクルマづくりを徹底しているということなどを延々と聞かされました。

メーカーの方が自社の車に強い自信をもっているというのは素晴らしいことですが、説明があまりにも長いと疲れてしまい、いつしか唯我独尊のように聞こえてくるのは逆効果では?という気がしなくもありません。
どうにか説明がおわると「試乗のご準備をします」というわけで、ショールームでしばしまっていると、今度はさっきの店長さんが若い営業レディを伴ってあらわれ、テストドライブは彼女が同乗しますということで、目をやればいつの間にか試乗車が玄関前にとめられていて我々を待ち受けています。

さて、技術大国の我が日本が作った、最新のディーゼルエンジンとはいかなるものか。
期待と同時に、下手をすれば乗ってきた自分の車が色あせてしまうほど素晴らしいのだろうか…などと多少の不安も抱きつつ車に歩み寄ります。するとすでにエンジンが掛けられており、その大柄で流麗なボディとはいかにも不釣り合いなカカカカカという明確なディーゼル音を発しているのにちょっとびっくり。「静粛なディーゼル」「言われないとわからないほど静かでなめらかなディーゼル」という言葉から想像したものとは、まず違いました。

運転席に座り簡単なコックピットドリルを受けて、いざスタート。
目の前の片側2車線の国道に出て一息加速したら右折というコースですが、「車は数メートル転がせばわかる」といわれるように、音楽でいうところの最初のワンフレーズで、これは期待が強すぎたか…と早くも内心思ってしまいました。

この車は同社の高級車の中でも上級グレードのようで、19インチというかなり大径のホイールと薄いタイアを装着していますが、そのタイアから発せられるゴーッというロードノイズが室内を満たしてくるのも???でした。スポーツカーならともかく、全長5m近い上級サルーンでこれはないだろうと思います。
それよりなにより敬遠したくなる点はやはり振動でした。走っているときはまだしも、信号停車中はぷるぷるした独特の振動を全身に受けるのは、やはりまぎれもなくディーゼルでした。むろんそれは技術的努力によって極力抑えられてはいるはずですが、それでもガソリンエンジンではありえない強いバイブレーションはどこかマッサージ器のようで、マロニエ君には脳神経に達するようでした。

パワーも自慢のひとつでしたが、この試乗中はそれほどとも思いませんでした。
まだまだありますが、これ以上は慎みます。お店に戻って丁重に謝意を伝えて帰ろうとすると、店長さんがご挨拶されるとかで、再びショールーム内に連れて行かれ、しばし待たされました。
なんと助手席にいた女性は、マロニエ君が走行中に漏らした感想を陰の部屋で逐一報告していたらしく、再び現れたときは笑顔の中にもやや硬い表情が加わって「振動を感じられますか?」というような調子で印象を聞かれたのには弱りましたが、でもまあいい体験ができました。
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響板のホコリ

以前、洗車が我が健康法というようなことを書きましたが、そこに楽しみを見出すには、掃除する対象が自分の趣味性のあるものだからということも関係があるのかもしれないと思います。

しかし、そうだとすれば、好きなピアノも磨きの対象になってもおかしくはないようなものですが、なぜかこちらはまったくそうはなりません。

こう書くとまるでピアノの掃除はせずに、いつも汚れた状態のようですが、決してそんなことはなく、少なくとも人並みにはきれいにしている「つもり」です。それでも洗車のようなハイレベルを目指してピアノ掃除をやったことはありません。

これは自分でも不思議で、その理由を考えてみたところ、いくつか挙げられるようです。

まず大きいのは、当たり前ですがピアノは常に屋内に置かれるものなので、車のように「汚れる」ということがあまりありません。せいぜい水平面にうっすら溜まったホコリを取り除く程度で事足ります。
それにマロニエ君はよくあるピアノ用シリコンみたいなケミカル品はできるだけ使いたくないので、これぞというものを必要最小限しか使いませんし、普段は毛羽たきか、ごくたまに柔らかい布を固く絞って丁寧に水拭きする程度です。

また鍵盤も、毎日専用のクリーナー液をつけて拭く人もいるそうですが、入れ替わりにレッスンをやっているようなピアノでもないのでそれもしませんし、そもそもボディカバーもしない、鍵盤用の意味不明な細長いフェルトのカバーなども、むろんありません。

これがマロニエ君のピアノに対するスタイルで、それでいいと自分が思っているわけです。

もう一つ、マロニエ君にピアノクリーニングから遠のかせる原因は、グランド内部の構造も大きく関係しているのです。
グランドピアノをお持ちの方ならおわかりだと思いますが、最もホコリが溜まりやすく、それなのに掃除の手立てがないのが響板です。響板は直に手がとどくのは低音側の弦とリムのわずかな隙間ぐらいなもので、大半は無数に張られた弦に遮られてほとんど掃除ができません。
響板のように広い部分にホコリがたまっているのに、それをとり除くことができないのは甚だ面白くありませんし、外側だけキラキラ磨きたてたところで意味がない…というわけで、いわば興が削がれるのです。
よってピアノの掃除にはむかしから力が入らないのかもしれません。

調べると、響板のホコリ取り用具が全く無いわけではないようです。
細い棒の先端にフェルトみたいなものが貼られ、その中央に針金のような細い取っ手が直角にけられていて、それを弦の間から差し込んで動かすことでホコリを除去するというもののようです。しかし、こういう道具類はよほど需要がないのか、技術者相手の業者がひっそりと取り扱っているようです。
ところが、この手の店はネットでも排他的で、一般のピアノユーザーが簡単に手に入れたらいけないということなのか何なのか、技術者だけがコミットできるようになっているようで、値段もなにもわからないようになっています。
一見さんお断りならぬ素人さんお断りサイトで、なにやらもったいぶった印象で、これだけで面倒臭くなります。

あれこれのパーツ(たとえばハンマーやシャンクなど)も価格表示は一切されず、しちゃまずいほど安いのかとも思いますが、この世界は相身互いなのか、そうやっていろんなことが秘密にされているようなので、そこに敢えて部外者として分け入って行こうとも思いません。

それに昔の並行弦のピアノならともかく、現代のグランドは交差弦なので、中音域(響板の中央部分)はどっちみその器具も使えないか、甚だ使いづらいということは目に見えているので、やはり掃除の意欲が湧いてこないのです。

だったら自作でもして、低音弦側から差し込んで、それを左右に動かすことで一挙にホコリが取れるような用具を考案してみようかと思っていますが、これも、何年も前から思っているばかりで、実行には至っていません。

いっそピアノ響板用小型ルンバでもあればいいのですが。
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わざとらしさ

ブラームスのピアノ協奏曲第1番は、多くのピアノ協奏曲の中でも、マロニエ君にとって特別なもののひとつです。
何が特別かということをここでくどくどと書いてもはじまりませんが、ひとことで言うなら格別で、随所に心奪われるようなたまらぬ要素が散在し、喜びと味わいと陶酔に満たされるということかもしれません。

この曲はブラームスの若い時の作品で、紆余曲折を経ながら苦心の末に完成された大作という点では、交響曲第1番と似ているかもしれません。おまけに初演当時は一向に評価されなかったようで、春の祭典ならともかく、このような美しく味わい深い曲がなぜ不評だったかは理解できません。
というか、現在においてもこの作品の価値から考えるなら、人気はいまひとつという状況が続いているともいえるでしょう。とっつきにくい面があるのはわからないでもなく、いわゆる誰からも愛される名曲らしい名曲という範疇にはどの作品も入らないところこそブラームスの魅力なのかもしれません。

強いて言うなら、長すぎるということはあったのかもしれませんし、現に今でも、演奏される頻度はかなり低く、やはり演奏家や主催者にとっては敬遠したくなる要素があるのだろうとは思います。コンクールの課題曲でもブラームスのピアノ協奏曲を選んだら優勝できないというジンクスまであるとか。理由はやっぱり長すぎるからの由。

そんなブラームスのピアノ協奏曲第1番ですが、先日のNHK音楽館でパーヴォ・ヤルヴィ指揮のドイツ・カンマーフィルの来日公演からこの曲が放映されました。ピアノはドイツの中堅ラルス・フォークト。会場はオペラシティコンサートホール。

フォークトは好みじゃないし、ドイツ・カンマーフィルというのもあまり関心のないオーケストラなので期待はしていませんでしたが、それでも「ブラームスの第1番」という文字を見れば、やっぱり見てみないではいられません。

やはりというべきか、演奏はまるきりマロニエ君の好みとはかけ離れたもので、普通なら10分でやめてしまうところですが、それでもこの50分におよぶ協奏曲を最後まで聞き終えたのは、ひとえに作品の魅力によるものだと思います。

ドイツ・カンマーフィルというのも何が魅力なのかよくわからず、耳慣れの問題もあろうかとは思いますが、ブラームスをこんな薄手の夏服のような軽い響きで演奏されても、不満ばかりが募ります。最近は室内オーケストラの類があちこちに結成されていますが、これが音楽的な必然なのか、大オーケストラの運営上の問題がこんな流れを生み出しているのか、真相は知りませんけれど。
マロニエ君はブラームスには柔らかで重厚な、それでいて大人の情感で満たされるような響きが欲しいのです。

それ以上に不可解なのはフォークトのピアノで、以前もベートーヴェンの3番を聴いた記憶がありますが、それどころではない違和感の連続でした。
聴く者を作品世界にいざなうことをせず、ただステージの上で自分だけ何かと格闘しているようにしか見えません。

音の分離も要所での歌い込みもなく、かといって厚いハーモニー感もないのにフォルテだけはやたら張り切って音は荒れまくります。スタインウェイはもともと強靭なピアノで、いかなるフォルテッシモにも持ちこたえるにもかかわらず、フォークトの粗雑な強打はさすがに拒絶してしまうらしく、珍しいほど音が割れてしまうのも驚きでした。

驚きといえば、会場のホワイエで、ヤルヴィとフォークとの両氏によるブラームスのピアノ協奏曲第1番に対するやりとりの一幕でした。この二人は長年の付き合いということで、さりげなく立ったまま、あくまで自然な会話のような仕立てにはなっていますが、どうみても撮影のために前もって準備された作られた台本があるとしか思えず、マロニエ君の目には完全なヤラセ芝居に見えて正直シラケました。

今や世界で活躍するクラシックの音楽家でも、カメラの前では役者のような演技ができなきゃいけないのかと思うと、なんだか誰もかれもが音楽以外のことに並々ならぬエネルギーを投じているようで、ここでも時代が変わったことを痛切に思い知らされました。
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一石二鳥

たとえ運動嫌いの人間でも、適度に体を動かすことで心身が良い方向に整えられ、爽快感を得られることが実感できる瞬間は理屈抜きにいいものです。

とりたてて「これが私の健康管理法」というような大げさなことではありませんが、マロニエ君にとっての「それ」は洗車ということになっており、インドア派の怠け者にとっては、これが唯一の全身運動の機会といっても過言ではありません。

洗車といえば当然外での作業となり、寒さが身にしみる今の季節など、始める前はどうしても億劫になりがちなのですが、一旦始めてしまえばウソみたいに活力が出るのは自分でも不思議です。トレーナー等をちょっと重ね着をしただけで、極寒の夜でも「寒い」と感じたことはこれまでに一度たりとも無く、作業中はまるきり寒さのことなど頭から消えています。

日中に洗車することはまずありませんが、幸い自宅ガレージが屋根付きで照明があることもあって、やるときは決まって夕食後に始めます。着手するまではグズグズするくせに、始めるといつも時間を忘れるほど没頭し、細部まで際限なくやってしまいたくなります。
きっとこの時ばかりは普段の雑事やストレスからも開放される数少ない機会なのだと自分で思います。

以前、テレビで健康に関する何かの専門家(名前も顔も思い出せません)が言っていたことですが、中年からの運動というものは、やみくもに激しいことや為の為の運動をすることではなく、無理をせず効果的に行うことが肝要とのこと。
それによれば、健康のための運動はただ毎日何千歩あるくとか、機械的に体を動かすことの繰り返しでは期待するほどの効果は疑わしく、大事なのは、常に脳と身体の連携によってこれを行う必要があるのだそうで、それができた時が効果も著しいということでした。

これまで運動らしいことをしてこなかったような人が、ある程度の年齢に達して、病気をしたり健康志向に目覚めるなど何かのきっかけから一念発起し、突如、人が変わったように毎日1時間歩くとか、スポーツクラブに通うなどのケースも少なく無いようですが、その専門家によれば、そういうものは全てが無駄とは言わないまでも、それによるマイナス面も大きいことが多々あることを認識し、努々無理は禁物とのことでした。

さらにその人が言ったことは印象的でした。
スポーツが好きでこれを楽しむのは別のようですが、あくまでも健康を目的として行う運動であるのなら、家の内外の掃除は大変好ましいというもので、これは目からウロコの意見でした。

いわゆる運動はさして頭を使わず機械的かつ単調なものですが、掃除にはその手順とかやり方など、常に頭を使いながら作業をすることになり、これが先に述べた体と脳が連携して活動することになるのだとか。さらに掃除はそのつど工夫をしたり、やればやったぶんそこが綺麗になって、その結果が嬉しいとかスッキリしたりと、情緒面まで加勢してくるといいます。
またよほどの事でない限り、掃除なら身体にそれほど無茶な負担にもならず、それでいて動きは全身多元的で、ただ歩くのとちがって体のいろんな動きも必要となり、総合的に適度な運動という点でも好ましく、とにかく理想的なんだそうです。

だとすれば、掃除をしたところが綺麗になるという実利まで加わり、これはまさに一石二鳥です。
というわけでマロニエ君の場合の洗車は、自分なりの貴重な運動の機会でもあるし、心身のリフレッシュに大いに役立っていることは身をもって感じています。
その証拠に、洗車をスタートするときよりも終わったときのほうが心身ともに溌剌としているのが、はっきり実感できるのは毎度のことで、このときいつも運動の価値を痛感します。じゃあ、そんなに効果があるのならもっと頻繁にやればいいようなものですが、そこがそうならないところが、つくづく根がダメだなあと思うばかり。

掃除を、最も効果的かつ安全で、実用性まで兼ね備えた最高のフィットネスだと思えば、こんなにいいことはないと思います。

すくなくとも、いい年をして、似合わぬトレーニングウェア一式を着込んで、左右くの字に曲げた腕をわざとらしく振りながら夜な夜な独善的ウォーキングに専心するよりは、よっぽどいいじゃないかとマロニエ君は思っているわけです。
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ピアノのサイズ

ピアノはアップライトもグランドも、ごく単純かつ原則的に言ってしまうなら、要は響板の面積と弦の長さによって、余裕ある響きが得られるという基本があります。

それによってより豊かな音色や響きが得られるわけで、これは当然ながら演奏上の表現力の違いとしてあらわれてくるでしょう。
もちろん、そこは秀逸な設計と好ましい製造技術が相俟って、楽器としてのバランスがとれていればの話であるのはいうまでもありませんが。

現にアップライトでも背の低い小型モデルと、より大型のものを比べると音質や響きの差は歴然ですし、グランドでもギリギリの設計がなされたベビーグランドと大型グランドでは、潜在力に差があることは異論を待ちません。

では、それほど響板面積は少しでも広く、弦は少しでも長いほうがいいというのであれば、価格や置く場所の問題を別にすれば、高さが2mもあるアップライトを作ったり、奥行きが4mぐらいのコンサートグランドを作ったらどうなるのかと考えるのはおもしろいことです。

この点で、以前、何かで(それがなんだったかは思い出せません)読んだことがありますが、例えばアップライトの場合は、そのサイズは130cmあたりが一応の限界点にあるようです。
それはピアノには理想的な打弦点というものがあり、アップライトの場合、背を高くすれば打弦点も上に移動しなくてはならず、これ以上になるとアクションや鍵盤が現在の場所では不可能ということを意味するようです。

どうしても背の高い大型アップライトを作るとなれば、鍵盤、アクション、演奏者の位置は、すべて上に移動しなくてはならなくなり、それは非現実的で簡易性が売り物のアップライトの存在意義を揺るがす事態となるようです。
そんな問題を無視して何メートルもあるアップライトを作っているのが、クラヴィンスピアノで、これは奏者が遙か上部にある椅子まで、ハシゴだか階段だかをよじ登っていく怪物アップライトですが、要はこうなるという象徴的存在でしょう。

また、グランドの場合は、奥行きが長いほど響板は広く、弦も長くなるわけですが、こちらもやみくもに長くすれば良いというものではなく、現在のコンサートグランドのサイズ、すなわち280cm前後を境にそれ以上になると逆にバランスが崩れてくるのだそうです。

この法則をオーバーするコンサートグランドは、主だったところではベーゼンドルファーのインペリアル(290cm)と、ファツィオリのF308があるのみですが、インペリアルはどちらかというとコンサートピアノの通常の法則からは外れていると見るべきで、この巨躯から期待するようなパワーに出会ったためしがありません。

ファツィオリでは、マロニエ君は弾いたことはありませんが、コンサートで聴いた限りでは308cmというダックスフンド体型が、それだけの効果を発揮しているかとなると甚だ疑問に感じました。
印象としてはF278のほうがより健全で元気があるように感じますし、それはトリフォノフがデッカからリリースしているショパンのアルバムでも感じられ、この二つのサイズのファツィオリが使われていますが、サイズとは裏腹にF278のほうが明らかに力強く鳴っている感じがあるのに対して、F308はむしろおとなしい地味な感じのピアノに思えました。

さらにはグランドではバランスよく鳴るサイズというのがあるようで、210cm前後のモデルは各社がもっとも力を発揮できるサイズだと云われています。このサイズでがっかりというピアノには(少なくともマロニエ君は)あまりお目にかかったことがないし、弾いていて独特な気持ち良さがあるように思います。

スタインウェイのB211などはその代表格でしょうし、ヤマハも大型ピアノの代表格は昔からC7というようなことになっていましたが、後発のC6(212cm)はあまりヤマハと相性の良くないマロニエ君でさえ、どの個体でも別物のような好印象を感じますから、やっぱりこのサイズは特別なんでしょうね。

ピアノのサイズも「過ぎたるは及ばざるがごとし」ということのようです。
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武者修行?

昨日はよく集るピアノの知人が会してしばらくピアノを弾き、そのあと食事に出かけました。
その席では、あれこれの話題が飛び交いますが、最も中心になったのは恋愛から結婚に関する話題でした。

友人知人で楽しむ話題の中でも、この手の話は最も愉快痛快なテーマのひとつだと思います。

なぜなら、そこにはそれぞれの経験に基づいた人生ドラマが色濃く投影されており、まあなんというか…ひとことで云えば爆笑の連続で、恋愛観を通じて相手の価値観や感性、ものの考え方に触れることができ、話はめくるめく展開を繰り返し、退屈するヒマなんてありません。

そのうちの一人は、既婚者ですが、様々な経験を通じて、多くの地雷を踏まされ傷つきボロボロになり、尚もそれを乗り越えて現在があるということを確固として自認されています。
その方によれば、お知り合いの彼女募集中の後輩男性にも深い憂慮と同情の念をお持ちで、まるで江戸時代の剣術指南役のような精神を持たれているようでした。
ところが、その後輩の方は免許皆伝には程遠いご様子…。

様々な出会いから交際を経て結婚に至る過程というものは、マロニエ君が考えているような怠惰で甘ったれのそれとはまったく異なり、ライオンが我が子を谷底に突き落とすほどに厳しい現実を勝ち抜くことであると滔々と述べられるさまは、なかなかどうして一聴に値するものでした。

まるで荒武者か僧侶の過酷な修行談を聞いているようで、忍耐と諦観、悟りの境地も必要らしく、聞いている側は驚きと笑いが尽きることなく、あっという間に閉店近くの時間に突入してしまいました。
マロニエ君などは根が不真面目でもあるし、男女の出会いなんてしょせん自然に発生し消滅するものとしか思っていない側からすれば、その気合と面目さ真剣さにはただただ感服つかまつるばかりでした。

当然ながらピアノも不屈の精神で非常によく練習されており感心させられますが、それにひきかえ、マロニエ君の練習嫌いなど論外とも言える堕落した精神そのもので、爆笑しつつも我が身の甘さを痛感させられました。

本来はもう少し具体的なことを書きたいけれど、そうもいかないのが残念なところです。


やや話は逸れますが、いつごろからか就活から転じた「婚活」という言葉もごくごく一般的となり、いらい何事にも◯活という言い方が流行ってきて、その流れを世間がやすやすと肯定し受け容れているのは個人的にはあまり歓迎はしません。
言葉というものは当然内容を伴いますから、現代はことほどさように何事も目的のために計画を練り、それに沿って我慢の精神で「活動」することが当たり前のようになってしまいました。

その極め付きは、自分が死ぬときまでありのままは否定され、きっちり計画準備した上でこの世からおさらばしろといわんばかりの「終活」で、実際にそういう動きまで出てきているというのですから驚くばかりです。
アナ雪の「ありのままで…」が流行った裏には、すべての事柄にありのままが許されないという実情が反映されているのかもしれません。

そうなるについては時代環境に裏打ちされた必然性があるものとは思いますが、そうはいっても、なんでもかんでも積極的といえば聞こえはいいけれども、要するにガツガツした活動を通じて「自分のぶん」をゲットしなくちゃいけないことをすべてに義務付けられている現代は、やっぱりどこか自然の摂理に背を向けた、いびつな空気が横溢しているようにも感じられます。
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ケータイあればこそ

つい先日、ケータイは疲れるということを書いたばかりで、その舌の根も乾かないうちにこんなことを書くのもどうかと思いましたが、ケータイの威力を心底痛感させられる経験をするハメに。

実家に帰省していた友人が東京に戻るというので、空港まで車で送ってやることになりました。
19:20分発だそうで、日曜で道が混んで慌てるのもイヤなので、少し早めに出て話でもしながらゆっくり向かおうということで、17:30少し前に家を出ました。友人の家までは約15分。

表に出てこられたお母上に挨拶などしていざ出発。
福岡空港は市内東部にあるので距離もそれほどではなく、少し早すぎたかな…とも思いつつ外環状線に出ると、夕刻ということもあってか意外に道が混んでいました。それでも出発までは一時間半あり、ゆるゆる走って30分前に到着すればいいとしても1時間はあるわけで、いずれにしろ余裕でした。

雑談をしながら外環状線を東に走っていると、友人のケータイが鳴り、果たしてそれは彼のお母さんからの電話でした。なんと家に大事な物が全て入ったカバンを忘れているというのですから唖然呆然です。そこには財布から飛行機のチケット、各種カードや勤め先の通行証などまでのすべて入っているらしく、要するに絶対に今手元になくてはどうにもならないものでした。

そんな大事なカバンを玄関に忘れてくるだなんて、その友人の超オマヌケぶりにも開いた口がふさがりませんでしたが、いくつかの手荷物を車に乗せることに気を取られていたと言いつつ、顔は真っ青になっています。
ここでいくら文句を浴びせても事は解決しませんから、ともかくUターンするしかありません。このときすでに行程の半分以上来ていて、内心これはかなり厳しいことになったことを直感しました。さらに外環状線の逆方向は猛烈な渋滞で、このままではどう転んでも時間に間に合わないことは明らかでした。

友人は何度も実家に電話して状況を伝えていましたが、やむを得ずお母上がタクシーで空港まで持ってみえることになり、これでとりあえず一件落着かとも思われました。

ところが呼んだタクシーが10分経っても来ないとのことで、こんな調子ではタクシーも間に合う保証はありません。マロニエ君は再び空港に向かうか否かの判断に迫られました。すでにこのころ、マロニエ君は大渋滞の外環状線を外れて、別ルートを北進していましたが、焦る中でフル回転で考えた結果、ちょっと思い切った手段に出ることに。

彼の家からタクシーで空港へ向かうなら、通常はこの道を来るはずというルートがあり、タクシーが来たら必ずその道を走るよう運転手さんに言ってくれと頼んでもらいました。そしてこちらはそのルートを逆方向から走って行けば、途中のどこかで接点が生まれ、カバンの受け渡しができる筈という目論見です。

ほどなく彼のお母上から「今、タクシーに乗りました」という一報が入ります。
こちらは目指すルートにはまだ乗っていませんが、この頃にはもう18:30分を過ぎており、時間的にはかなり厳しいものがあると思いつつ、それでもダメモトでできるだけのことはやってみるしかありません。
ちなみにチケットは格安購入のため時間の変更は不可だそうで、友人も紛れもなく自分の責任であるし、最悪の場合、次の便に普通料金で乗る覚悟はしていたようです。

その後、そのルートを東に向かっているというお母上からの電話が入り、そのころにはこちらもなんとか同じルート上に到達しようというところでしたから、あとは双方が路上で待ち合わせをするポイントを定めるのみ。これがなかなか難しく、気分も焦っていて冷静な判断ができませんが、かろうじて思いついたのは大きな池の畔の交差点にあるマクドナルドで、そこを受け渡し場所にすることに決定。
馴れない緊張感の連続で、やっていることはスパイ映画さながら、バクバクという脈動が明らかに普通ではないことも自分でハッキリわかります。

やがてマックの黄色いMの看板が見えてきたころ、タクシーのほうが一足先にマックの駐車場に入ったとの連絡がありましたが、もう目の前というのに信号がむやみに長く、いやが上にも手に汗握ります。転げ込むように駐車場へ入ると、寒い中、お母上はタクシーから降りてカバンを手に待機しておられました。
慌ただしくそれを受け取り、挨拶もそこそこに駐車場を飛び出すと、さあ一路空港を目指します。
このとき18:50分少し前で、とてもではありませんが10分やそこらで空港まで行くなんて無理だろうとは思いましたが、とにかくやれるだけのことはやるしかないというわけで、諦め半分にスピードを上げてダッシュをかけました。

非常に幸いだったことは、こちらのルートは外環状線よりは車の流れが多少よく、少なくとも信号以外では止まることなく進めたのですが、それを幸いにかなりミズスマシのような強引な運転をして、なんとか空港が近づいてきたときは19:00をわずかに過ぎていました。
空港の敷地内に入っても、東京行きはやや奥まったところにある第2ターミナルで、空港内があれこれの工事をやっていることもあり思ったより時間がかかります。ノロノロ走るタクシーをバンバン追い抜いて、第2ターミナル前の反対車線の赤信号に辿り着いたときは19:05分をわずかに過ぎていましたが、車の乗り降りが禁じられたエリアであるのは承知で強行突破を促し、友人は両手に荷物を抱えながら工事用の柵を乗り越え、横断歩道もない道路を渡ってターミナルへ走りました。

出発まで15分を切っていたので、間に合ったかどうかの確証は得られないまま帰途につきますが、よほど神経が高ぶっていたのか、もう急がなくてもいいのに、しばらくはなかなかゆっくり走ることができなくなっていました。ある種の興奮状態からすぐには抜け出せなくなっていたようです。
その後、やや落ち着きを取り戻して走っているとき、カーナビの電波時計は出発の19:20分になりました。その直後にケータイにメールが届き「おかげで間に合った」という一文をみてホッとしたのはいうまでもありません。
走りに走って機内に駆け込み、ケータイの電源を切る直前にメールをくれたようでした。

こんな命の縮まるような事はむろん二度とごめんですが、ケータイという文明の利器があったればこそできた綱渡りであったことも間違いありません。少なくとも公衆電話の時代なら、万事休すとなるのは間違いなく、ケータイの完勝です。

さすがの本人もとんでもない迷惑をかけたと思っているらしく「この罪滅ぼしは必ずする」のだそうで、「へーえ、それは楽しみだ」とメールを返しておきました。
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都市伝説

グランドピアノの鍵盤蓋を開いたとき、その上端が90°ほど畳むように折れ曲がるようになっているピアノがときどきあります。
現在は僅かな手間も惜しんで、徹底したコストダウンを敢行する潮流なので、現行モデルではほとんどなくなったと思いますが、昔はヤマハにも、カワイにも、ディアパソンにもこのタイプがありました。

スタインウェイでもハンブルクは通常のスタイルですが、ニューヨーク製は中型以上のモデルにはこの鍵盤蓋上端の折れ曲がり機構が標準仕様です。

さて、この鍵盤蓋の前縁が折れ曲がる理由は何かということですが、これには諸説飛び交うばかりでいまだ決定打らしきものがありません。

もっとも多数派なのは、演奏者が熱演極まって手の動きが激しくなった場合、通常の鍵盤蓋だと指先が縁に当たる恐れがあるので、それを避けるためにこの部分が折れ曲るようになっているというものです。
なるほどという感じですが、じゃあ熱演のあまりピアニストの指先が鍵盤蓋の縁に当たるというようなシーンを見たことがあるかと言われると…実はありません。
チェルカスキーやルビンシュタインなどは激しい動きで両手を垂直に上下させたものですが、指先が鍵盤蓋の縁に衝突するなんてことはまずないようでした。
となると、これはイマイチ説得力がありません。

次になるほどと思ったのは、縁を下に曲げていると、万が一ふいに蓋がバタンと閉まるようなことがあっても、この折れ曲がった縁が左右の木部に当たることで、指先をケガする危険がないというものです。
いわば安全機構というわけで、やってみると確かにそれも一理ありという感じでもあり、これはこれで、それなりにいちおう納得してしまいました。

果たして後者が真相かと思っていたら、先日来宅された技術者さんによると、また新しい説を披露されました。
それは上部から照明をあてると、ピアノの鍵盤は、光の角度によほど気をつけないと、鍵盤蓋の前縁のせいですぐに影になってしまうので、それを避けるために折り曲げることができるようになっているのではないか…という推量でした。

たしかにステージでは、照明のせいで、鍵盤に変な日向と日陰ができたら演奏者は弾きづらいかもしれません。でも、もしそうならコンサートピアノなどはもっと多くのモデルがこの機構を備えていそうなものですが、実際はない方が圧倒的に多く、やはりこれも決定的ではないような気がします。

マロニエ君個人は単に見栄えの問題ではないかと思います。
べつに縁が折れ曲がったほうが見栄えがいいとも思いませんが、なんとなく、ただ鍵盤蓋をカパッと開けただけよりは、さらにもう一手間かけて上部を下に向けて折り曲げたほうがいいというふうに、すくなくとも考えられた時代があったのではないかと思うのです。

もちろんこれも単なる想像にすぎませんが。

思い出すのは、ある大手楽器店のピアノ販売イベントに行った折、そこの最高責任者の人が意気揚々と案内してくれて、一台の中古のニューヨークスタインウェイのB型の前でことさら声高らかにこう言い出しました。
「このピアノは、もともとあるピアニストの方が特注されたものです。ほら、ここが折れ曲がるでしょう? これはピアニストの方の要望で、指先が当たらないように特別に作られたもので、スタインウェイでも非常に珍しいピアノなんです!」と、ずいぶん大きな声で言われました。

あまりにも自信たっぷりの説明で、しかも周囲には他にも人がちらほらいて、なるほどという感じに聞いておられたので、「ニューヨークスタインウェイでは、これは標準仕様ですよ!」とはさすがに言えませんでしたが、それにしても、こんな大手楽器店のピアノの最高責任者がこんな程度の認識なのかと思うと、非常に複雑な気分になったことは今も忘れられません。
こういう見てきたようなホラが一人歩きして、いつしかまことしやかに流布されていくのだろうと思うと、いわゆる都市伝説とはおおよそこんなものだろうと思いました。
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疲れる

これまでにも何度かケータイやメールにまつわることを書いてきましたが、さらに近ごろ感じたことから。

現代は各自ケータイという便利な機械をもっていながら、雰囲気としては、無邪気に直接電話することはよほど親しい関係でない限り遠慮をすべきという空気があり、はっきりした用件があるときのみその縛りはなくなるようで、もうこの時点で鬱陶しくなります。

しかも、その直接かける電話というのが、必ずしも一度で繋がるわけではありません。
ケータイというのは、言い換えるなら個人への直通電話です。
それなのに、昔よりも逆に相手の声を聴くまでに手間暇のかかることが多く、マロニエ君などはその点で気が短いほうなので、直に話ができるころには、たいてい気分的に(かなり)疲れてしまっています。
何が疲れるのかというと、着信履歴があってかけ直しても、これで相手が一発で出ることはなかなかありません。こちらも運転中など、すぐには出られないという状況があるにはあるからお互い様のようではありますが、最近の様子はどうもニュアンスが若干違うようです。

大抵の場合、多くの人が常時マナーモードにしているか、仮に着信があってもまずその場で出ることはないのです。もちろん出られない状況というのならわかります。早い話が勤務中などはそうなんですが、そうとばかりも言えないような気配を感じることがままあったりするのです。もちろん個人差はありますが…。

ひとつのパターンとして云うなら、いまやケータイに電話するということは、すぐに話ができればラッキーで、半分は相手の端末に自分が電話をしましたよという印をつけるだけ。実際に話ができるのはいつになるか不確定な状況におかれることになるといってもいいでしょう。
そして相手が電話ができる状態となり、さらには折り返し電話しようという意志が働いたとき、ついに直接会話が可能となるわけです。

要するに、たかが電話ひとつにいちいち手間暇のかかる時代になったということだと思います。
たまたまかかってきた時にこちらが電話がとれない状態だと、どうかすると着信履歴を残すことを双方で繰り返すことになります。驚くのはタッチの差で切れてしまった電話など、すぐにこちらからかけてももう繋がらないということも少なくなく、これはひとつにはマナーモードにすることが常態化して、かかってきた電話に出るという習慣をほとんど失っているからでもあるでしょう。
つまり電話は「鳴ってもまずは放っておくもの」という認識なのかもしません。

かくいうマロニエ君も出られない状況というのはいくつかありますけれども、今どきの人はどうも根本の感性が違う気がします。
すぐには出ないのが普通で、着信履歴を見て相手をチェック、自分が必要を感じたりそのときの気分次第でコールバックするなり、再度かかってきたときに出るといった趣。驚くのは自分が登録していない番号からだと、それだけで出ないことにしているなどは、いっぱしの有名人のつもりなのか何なのか…、ともかく電話というものへの認識が変質していることだけは確かなようです。

滅多に見ないテレビドラマなどでも、今は電話といえばケータイのことであり、そのケータイに電話がかかってくるシーンはマナーモードであることも多く、唸るようなバイブ機能の音がするだけというのは、いかに多くの人がそれを常とし、電話する側も「出ない」ことを想定しながらかけているとしか解釈できません。

むろん勤務中に私用電話が鳴っては困るというような常識はありますが、そんな建前を口実にしながら、実際には見えないエゴが広がっていくようです。

なんにしても息苦しい、難しい時代になりました。
くだらないことに気を遣うべき項目が多すぎて、みんな疲れながらわがままになっているようです。
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ブレンデル

1月のBSプレミアムシアターでは、昨年亡くなった名指揮者クラウディオ・アバドを追悼して、彼が晩年の演奏活動の拠点としたルツェルンのコンサートから、2005年に行われたコンサートの様子が放送されました。

ちょうど10年前の演奏会で、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番とブルックナーの交響曲第7番。
ソリストはアルフレート・ブレンデル、オーケストラはルツェルン祝祭管弦楽団。

最近はいわゆる大物不在の時代となり、そこそこの演奏家の中から自分好みの人や演奏を探しては、ご贔屓リストに加えるというようなちょこまかした状況が続いていたためか、アバド/ブレンデルといった大スターの揃い踏みのようなステージは、昔はいくらでもあったのに、なんだかとても懐かしさがこみ上げてくるようでした。

演奏云々はともかく、こういう顔ぶれが普通に出てくる一昔前のコンサートというものは、妙な安心感と豪華さみたいなものがあって、そんなことひとつをとっても、世の中が年々きびしく、気の抜けない時代になってきていることを痛感させられます。

アバドの指揮は歳のせいか、昔のように作り込んだところが少なく、もっぱら友好的に団員との演奏を楽しんでいるように見えましたが、この人もその音楽作りのスタイル故か、それが老練な味になるというわけではなく、どこか中途半端な印象を覚えなくもありません。

ブレンデルのピアノはずいぶん久しぶりに接したように思いましたが、いまあらためて映像とともに聴いてみると、いろいろと思うところもありました。
ブレンデルといえば学者肌のピアニストで名を馳せ、ベートーヴェンやシューベルト、あるいはリストでみせた解釈とその演奏スタイルは、まるで研究室からステージへ直通廊下を作ったようで、テクニックで湧いていた20世紀最後の四半世紀のピアノ界へ新しい価値と道筋を作ったという点では、偉大な貢献をした人だと思います。
生のコンサートでも極力エンターテイメント性を排除し、作品を徹底して解明し解釈を施し、それを聴衆に向けて克明に再現するということを貫いた人でしょうが、それでも現在のさらに進んだ正確な譜読み(正しい音楽であるかどうかは別)をする次の世代に比べると、ブレンデルのピアノはまだそこにある種の人間臭さがあることが確認できましたが、それも今だからこそ感じることだろうと思います。

オーケストラから引き継ぐピアノの入りとか、各所でのトリルなどは一瞬早めに開始されるなど、いい意味で楽譜との微妙なズレが音楽を生きたものにしていることも特徴的でしたし、なにしろ確固たる自分の言葉を持っているところはさすがでした。

ただし冷静に見ると、これほどの名声を得たピアニストとしてはその技巧はかなり怪しい点も多く、この点はブレンデル氏が生涯うちに秘めて悩んでいたところかもしれません。もしかすると技巧が不十分であったことが、彼をあれほど音楽の研究へと駆り立て、それが結果として一つの世界を打ち立てる動機にもなったのかもしれないと思うと妙に納得がいくようでした。
人は自らの背負った負い目を克服する頑張りから、思いもよらないような結果を出すということも多分にあるわけで、彼の芸術家としてのエネルギーがそれだったとしても不思議はありません。

ブレンデルのピアノを聴いているといつも2つの相反する要素に消化不良を起こしていたあの感触が今回もやはり蘇ってきました。ディテールの語りではさすがと思わせるものが随所にあるのに、全体として演奏がコチコチで、音色の変化は無いに等しく、ピアニシモの陶酔もフォルテシモも迫りもないまま、長い胴体をまっすぐに立て、顔を左右に震わせて弾いているだけで、要するに全体として釈然としないものが残ります。
音も終始乾きぎみで潤いというものがないし、ピアノ自体をほとんど鳴らせないまま、この人はただただ思索と解釈、それに徹底した音楽の作法、すなわち音楽的マナーの良さで聴かせる人だったと思いました。

そもそもあれだけの長身で、背中など燕尾服ごしにも非常にたくましい骨格をしており、手もじゅうぶんに大きく、身体的には申し分のない条件を持っていますが、指先にはいつもテープを巻き、不自然なほど高い椅子に座り、どこか窮屈そうにピアノを引く姿、さらにはピアノが乾燥した肌のような音しか出さないのは、見ていて一種のストレスを感じるわけですが、これは彼の奏法がどこか間違っているような気がしてなりません。

非常に才能ある聡明な方に違いありませんが、ブレンデルは専らその頭脳と努力によって、あれだけの名声を打ち立てたのかもしれません。あっけなく引退したのも、もしかしたらそういう限界があったのだろうかとも思いました。

印象的なのは、見る者の心が和むようなエレガントなステージマナーで、こういう振る舞いのできる人は若手ではなかなかありませんね。
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高級の概念

書店に行くと、雑誌のコーナーでは音楽関係と自動車は習慣的に足を止めてしまいます。

音楽も車も共通しているのは、内容に重みや深みがなくなったということでしょうか。
雑誌といえども昔のような読み応えとか書き手の信念みたいなものはなく、どれもそつのない上っ面の記事ばかりが紙面を埋め尽くしています。対象の本質に迫るとか辛辣な批判も辞さないというような気骨ある記述などむろんお目にはかかれません。
どれもこれも広告収入を念頭に置いたゴマスリ記事ばかりですから、惰性で購読を続けている一誌以外、購入してじっくり読みたいと思うようなものはほとんどありません。

そういうわけで、大抵はパラパラ頁をめくるだけで事足りてしまいます。
マロニエ君は本は買いますが、雑誌に関してはほとんど立ち読みばかりで終わっています。

立ち読みしかしたことがなく、一冊も買ったことがないもののひとつに、クルマ好きの個人ガレージを取材して、それを一冊にまとめた雑誌が存在します。
たしか三ヶ月に一度ぐらい発行され、いつも自動車雑誌の目立つところに置いてあります。
車の雑誌も種類がずいぶん減りましたが、そんな中、今だに廃刊に追い込まれないところをみると、人の露出欲を満足させるものには一定の需要があるということなのでしょうか。

敢えてその雑誌名は書きませんが、これが見ようによってはお笑い満載の本なのです。
世のクルマ好きのお金持ち達が、これでもかとばかりに高級車を買い集め、それを陳列する夢のガレージを作ってはこの雑誌の取材を受け、掲載されるのがひとつのステータスになっているんだろうと思います。
中には、あきらかにこの雑誌を念頭において設計されているとしか思えない物件があり、そんな脂がしたたり落ちるような猛烈な自己顕示欲を集めて一冊の本にすると、全国の書店でビジネスとして成り立つだけの部数が売れるということでもあるんでしょうね。

取材される人たちが、その車のコレクションやガレージ建造に投じた費用は莫大なものに違いありません。
とりわけ毎号巻頭を飾るいくつかのガレージと車は、まさに億単位の「巨費」がかけられているのは明らかで、趣味という個人の内的な世界など遙かに飛び越えて、あくまで人に見せて自慢することを前提として設計され建造されたものばかりです。
よく芸術の世界で「猥褻」が論争の的になりますが、こういう雑誌を見ると「滑稽」という概念に対する考察を提起をされているようでもあり、いつも笑いを押し殺しながら頁をめくるのに難儀します。

本物の滑稽というのは、やっている本人が大真面目であればあるだけ、笑いの純度は上がるもの。
これらのガレージに居並ぶのは、大抵がフェラーリ、ランボルギーニ、ポルシェにはじまり、ロールスやベントレーなど、要するにすこぶる高額なわかりやすい高額車ばかりで、それも1台や2台では終わりません。そしてガレージの設計や内装は、まさにディーラーのショールーム風スタイリッシュでまとめられるのが少なくありません。フェラーリが居並ぶ壁には、馬がヒヒンと立ち上がった有名なマークの巨大なやつがほぼ間違いなく取り付けられるなど、お約束アイテムの羅列ばかりで独創性はほとんどナシ。
私費でメーカーの宣伝を買って出ているつもりか、はたまたどこぞの宗教のシンボルのようでもあり、個人宅のガレージというものを完全に逸脱した感性で塗りつぶされ、しかもそこが自慢のポイントであることが伝わってくるあたりは、この本は見るたびに全身がむず痒くなります。

大抵はガラスで仕切られた一角などがあり、そこに高級な椅子とテーブル(多くはイタリア製!)、場合によってはワインセラーやホームバーのようなものが設えられていたり、あるいはリビングのソファに体を埋めながら常に愛車を目線の先で舐め回すことができるよう、人と車がガラスひとつで仕切られた動物園のような設計だったりと、普通なら冗談かと思えるようなものが、大まじめに「男の夢の実現」として、大威張りで強烈な主張をしています。
しかも、それら憩いの設備は「ここの主の、友人への心配り」などと修辞されているのですから、そのセンスがたまりません。

クルマ好きが愛車を駆って会するのに、バーまであるとは、アルコールが入って酒気帯び運転にならないのかと気になりますが、そこはきっとホテル顔負けの宿泊施設も準備されているのかもしれません。

知らない人が予備知識ナシにこの手の超豪華ガレージを見せられたら、おそらくショールームか店舗の一種ではと思うはずです。ここでマロニエ君がいいたいことは、高級とか贅沢というものは、決して「店舗のようなしつらえにすること」ではないということです。

例えば、社会的地位のある人などが家を新築したりする際、純和風というテーマのもとに建ち上がったそれは、まるで粋な料亭のような趣で、個人の住宅に求められる品性とは何かという本質や作法がまるきり理解できていないことが少なくありません。どれほどの地位や経済力があろうとも、教養や文化的素養はまた別の話のようです。
これらの和風住宅にしろガレージにしろ、その建て主の心の中にある「高級」という概念の源泉がどこからきているか…それが悲しいほどに顕れてしまっているわけですが、まあご当人はご満悦の極みなのでしょうから、もちろん結構なことですが。
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前後で聴き比べ

NHKのクラシック倶楽部は、通常はひとつのコンサートを55分の番組に収めて放送しているものですが、ときどきその割り振りに収まらなかった曲などを拾い集めるようにして「アラカルト」と称し、とくに関係も脈絡もない2つのコンサートが抱き合わせで放送されることがあります。

先日も番組の前後でニコライ・ホジャイノフとアンドリュー・フォン・オーエンの取り合わせというのがありました。
以前見た覚えのあるホジャイノフのリサイタルから放送されなかったベートーヴェンのソナタop.110とドビュッシーの花火、オーエンのほうは悲愴ソナタと月の光という、どちらも現代の若手ピアニスト、近年の来日公演、さらにはベートーヴェンとドビュッシーという、どうでもいいような組み合わせで無理に共通項をつくったようでした。

ホジャイノフは音楽的に嫌いなピアニストではありませんが、さすがにベートーヴェンのソナタは力不足が露呈してしまう選曲で、まったく彼のいいところがでない演奏だと思いました。これだけ有名で、内在する精神性そのものが聴きどころである後期のソナタを奏するからには、それぞれのピアニストなりの覚悟であるとか、収斂された表現など…それなりのなにかがあって然るべきだと思ってしまいますが、ただ弾いているだけという印象しかなく、練り込みやひとつの境地へ到達の気配がないのは落胆させられるだけでした。

曲の全体を演奏者が昇華しきれていない段階でディテールにあれこれの表情などを凝らしてみたところで、ただ小品のような色合いを与えるだけで、聴いているこちらの心の中が動かされるようなものはどこにもありませんでした。
まだ花火のほうが無邪気な自由さがあってよかったようです。

この時の会場は武蔵野市民文化会館の小ホールでピアノはヤマハのCFX、とくに好きなタイプの楽器ではないけれど、非常によく整えられておりヤマハの技術者の矜持のようなものは感じる楽器でした。

変わって、映像は紀尾井ホールへと場所を変え、オーエンの悲愴が始まります。
冒頭の重厚なハ短調の和音が鳴ったとたん「アッ」と思いました。
こちらはやや古いスタインウェイですが、ヤマハとはまるきり発音の仕方が違うことが同じ番組の前後で聞き分けられたために、まるで楽器の聴き比べのように克明にわかりました。
スタインウェイだけを聴いているときにはそれほど意識しませんが、こうして前後入れ替わりに聞かされると、スタインウェイは弦とボディを鳴らす弦楽器に近いピアノであり、ヤマハは一瞬一瞬の音やタッチで聴かせるピアノだと思いました。

ヤマハはいうなれば滑舌がよく単純明快な音ですが、スタインウェイはより深いところで音楽が形成されていくためか、ヤマハの直後に聞くとどこか鈍いような感じさえ与えかねません。

腕に自信のある人が、その指さばきを聴かせるにはヤマハはもってこいで、弾かれたぶんだけピアノが嬉々として反応し、もてる美音をこれでもかとふりまきます。とくにCFXになってからは美音のレヴェルも上がり、洗練された現代のブリリアントなピアノの音が蛇口から水が出るように出てきます。

これに対して、スタインウェイはタッチ感というものをそれ以外のピアノのように前に出すことはありません。
むしろそこを少し控えめにして、作品のフォルムを音響的立体的に表現します。
個々の音もCFXを聞いた直後ではむしろ物足りないぐらいで、ピアニストの演奏に対して過剰な表現は僕はしません!と言っているようです。そのかわり全体としての演奏のエネルギーが上がってきた時などは、間違いなくその高揚感が腹の底から迫ってくるので、ある意味で非常に正直というかごまかしの効かない楽器であるけれども、力のある人にとっては決して裏切られることのない確かな表現力をもった頼もしいピアノだと思いました。

とくに音数が増えたときの結晶感と透明感、低音の美しさ、強打に対するタフネス、それに連なる高音のバランス感などは、まさに優秀なオーケストラのようで、スタインウェイというピアノの奥の深さを感じずにはいられません。
同時にヤマハの音を体質的に好む人の、その理由もあらためてわかるような気がしました。
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勝負か体質か

たまに行くステーキ店があります。
むろんマロニエ君が行くくらいですからリーズナブルな価格の店ですが、分厚く柔らかいお肉が気軽に食べられるのがここの魅力です。

メール会員になると、毎月何度か開催されるサービスデーの類の案内が送られてくるので、先日家人と行ってみようかということになりました。今回の特典は「サーロインステーキのみ通常価格の半額」というもので、「半額対象は8オンス以上」となっています。
1オンスが28gですから、およそ220gのステーキということです。

通常のメニューでは、一番小さいのが4オンス(約110g)、そこから2オンス刻みで肉の量が増え、最大は16オンス(約450g)となっていますが、今回は半額なのですから対象とされるのが「8オンス以上」というのも当然だろうという気がしました。

マロニエ君は10オンスぐらいすぐに食べますが、少食の家人が少し分けてくれるというので8オンスを2つ注文。
ほどなくして斜め前のテーブルに若いカップルがやってきましたが、しばらくするとそちらへも焼きあがったステーキが運ばれ「お待たせいたしましたぁ。サーロインステーキ12オンスになりまぁす!」という店員の声がすぐ傍で聞こえます。なるほど若いお兄さんはそれぐらい食べるだろうなぁと、このときはなんの疑問もなく思いました。

ところがあとにはライスが2つ運ばれてきただけで、ステーキはそれ1つきり…。すると店員は「以上でご注文はお揃いでしょうか?」と尋ねると、カップルのうちの女性のほうが軽い笑顔で「はい」と小さく答えました。

その12オンスのサーロインステーキはテーブルの中央に置かれ、向い合う二人がそれを食べ始めたのにはびっくり!
一瞬の後、彼らのやっていることが了解できました。半額対象は8オンス以上となっているため、6オンスは対象外、だから12オンスを1つ注文、それを二人でつっついて「8オンス以上」というを壁をまんまと突破するワザを思いついたというわけでしょう。
店側のルールで8オンス以上が半額というのなら、それを2つ頼むか、それが嫌なら来るなよ!と思いますし、そもそも、小さなお店でそんなことをして、単純に恥ずかしくないのかと思います。さらにはこのとき二人がついたテーブルは、4人用に空きがなかったために6人用でした。これは偶然としても、店側はさぞかし苦々しく思ったことでしょう。

たしかに送られてきたメールには「一人分のステーキを二人で食べてはいけない」とは書いてありませんでしたから、このやり方は店が定めた条件に違反していないのかもしれませんが、まるで法の網をかいくぐるがごとく、そんな言葉の裏をかいたようなことをしてどういう気分なのか。ちなみに二種類の味が並んだステーキソースなどはしっかり二人分もらっていました。
みたところ、そんなことをしそうな感じではなく、いかにも善良そうなおとなしいカップルという印象でした。しかし若いくせに知恵を絞ってまで少量ですませるという、そのいかにも痩せ乾いた感性が、よけい「凄み」を漂わせていました。

高度経済成長はもちろん、バブル景気も知らない世代は、せめて半額のときぐらい豪快に食べようじゃないかという発想すらないのかと思うと、なんだかこちらのほうが悲しくなりました。あるいは与えられた特典があっても、それで満足したら負けなのか、さらに細かく切り刻んでいじりまわして、ルール上の盲点を突いて、合法的にさらなるお得をゲットすることが、まるでゲームに勝ったような気にでもなっているのでしょうか。


そしてさらに数分後、こんどは通路を挟んですぐ前のテーブルに30代ぐらいの若いお母さんが二人と子供が二人(合計4人)がやってきました。子供は幼稚園児ぐらいの男の子と、もう一人はやっと小学校にあがったぐらいの女の子。
しばらくして運ばれてきたのは、二人のお母さんがいずれも10オンスのサーロイン、小学校低学年の女の子でさえ同じく8オンス!、ステーキが食べられそうにない男の子には、ハンバークを中心とした大きなディッシュが目の前にどっかりと置かれました。

これを4人はいかにも楽しげに食べ始めましたが、そんな単純さが、さすがにこのときはことさら眩しく輝いて、つい拍手でもおくりたい気分でした。だって半額なんですから、そのぶん普段より大胆な注文ができる、美味しいお肉がたらふく食べられる、そう反応するのが健全でほがらかというもの。それをあれこれの策を弄してみみっちい頭脳を働かせて、それでいったい何が楽しいというのか…。

いまどきの若い人は、表向きはおとなしくて善良そうに見えますが、その思考回路はわずかのリスクでも排除し、目先の損得に執着、物事をあまりにも小さい単位でしか処理できない構造なのかもしれません。とりわけ財布の紐が堅いのは一通りではなく、この体質はアベノミクスが期待する「消費の拡大」の前に立ちはだかる最強のバリケードのようなものかもしれないと思いました。
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夜毎熱中

以前このブログに書いた「CD往来」は今もまだ続いています。

とはいっても、マロニエ君側の環境は、すでに何度も書いた通りパソコンの入れ替えという、いわば「閉店改装」みたいなことになりやむなく中断していました。
少し詳しく言うなら、それらを中断せざるを得ないほどまで、古いパソコンはくたびれ果てて、思い通りに使用できないところまで問題が深刻化しており、もはや否も応もありませんでした。
まずはこれに専心、新しいパソコンが一段落をまってCD往来のための作業はすぐに再開しました。

マロニエ君は昔からクルマの中でも必ずCDを聴きますが、家の外にCDを持ち出すというのは好きではありません。ましてやクルマの中でバラバラなCDをあれこれいじりまわすのは嫌な上に、車内にあれば今度は家で聴けなくなる。それならコピーしてファイルにまとめていたほうが使いやすいし、そうしたほうがオリジナルが傷む危険もないとなれば、これをしない理由がありません。

それに加えてこの半年ほどは音楽マニアの方との「CD往来」という新たな目的もできたので、このところのCD作りにはいつになく拍車がかかっていたところ、そんなさなかでのパソコンの不調となり、やむなくマシンの入れ替えというマロニエ君にとっては上へ下への大騒ぎとなったのです。

それから約一月を経たでしょうか、ようやく新しい環境にも慣れてきて、基本的なパソコン機能が使えることになると、待ってましたとばかりにCD作りを再開させました。

新しいパソコンというのは自分にとっての環境が構築できるまでは、周辺機器やソフトの問題など際限なく不便があるものですが、個別の機能や性能はなるほど従来型より格段に進歩しているのも事実で、ここらは新しくなればやはり嬉しい点でもあります

以前、CD/DVDのドライブはあまりの酷使からこの部分が壊れてしまった経緯があり、その後は外付けのドライブを購入して使っています。これらもむろんOSの関係で新規買い直しとなりましたが、それに要するソフトなど必要なものがそろうと、いよいよCD作りを再開、しかもそれは以前よりさらに熱を帯びたものになりました。

曲や演奏、あるいは使用楽器によって、差し上げる相手はいろいろとかわりますが、新しい環境のもと、いぜんからやってみようと思いつつ実行していなかった「全集」に挑戦することに。
というのは最近しばしば聴くバロック・ヴァイオリンの名手によるモーツァルトのヴァイオリン・ソナタを購入したのですが、なんとこの全集、めったにないほどのクオリティの高い、少なくとも現在の同曲においては最高ランクの演奏だと思われるのに、ライナーノートなどは最低限のものしか添えられておらず、なんと各曲や楽章のトラックの番号など表記が一切ないのには唖然としました。

一枚のCDには5曲前後のソナタが収められていますが、各CDにはソナタの番号とケッヘルしか書かれておらず、曲によって楽章数も異なるので、何番のソナタの第◯楽章が聴きたいと思っても一発でそれを鳴らすことはできないし、ただ漫然と聴いていても、知らない曲だと今どれが鳴っているのかトラック番号から確認することができないわけです。作り手の手抜きもここまできたかという感じです。

そこで、この全集を聴いて欲しい人が数人おられたことと、トラック不記載の問題を自力で解決すべく、全CDを一枚ずつ調べて、それを一覧表にしてまとめるという作業にとりかかりました。それをこれまた今回新調したAdobe Illustratorでデザインして、CDケースのサイズにまとめて、これも一緒にお付けするかたちで差し上げることに。

それと全集というのは大変で、ちょっとでも油断していると整理がつかなくなって、アッと言う間にどれがどれだかわからなくなります。ですから各CDには識別番号のシールをこれまたIllustratorで作り、これらをプリントしたのも新しいプリンターでしたが、操作に習熟せず、印字が不鮮明なものになったのが甚だ心残りでした。

気がつけば、寸暇を惜しんでこのための一連の作業をやっていて、たかだかこんな作業のために毎夜これに没頭し、子供じみた熱を入れてしまったことはいささかやり過ぎというか後悔の念がなくもありません。
ふと「一体自分は何をしているんだ!?」という疑問の声も心の中に去来しましたが、元来こういう作業を丁寧にやっていくのが嫌いな方ではないので、かなりきつかったけれどとにかく完成することができました。

全集はもうこりごりと思っていましたが、終わって1日経ってみると、もう次に挑戦したくてウズウズしてきて、ついにベートーヴェンのピアノソナタを始めたのですから、さすがに自分でも呆れます。
でも、詭弁のようですけれど、何かに熱中するのは楽しいものです。
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はじめが肝心

マロニエ君がいまだガラケーユーザーであることは折々に書いてきましたが、バッテリーにまつわることを。

今どきの電子機器は付属のバッテリーを電源として使いますが、とくにケータイにおけるバッテリーは毎日使うものであるだけに、これが消耗してくるのは困りもので、できるだけ寿命を延ばして使いたいところです。

このところケータイのバッテリーの減りが早くなってきたようで、だいぶ使ったことでもあるし、いっそ機種変更でもしようかと思い立ってショップに行ってみました。
予想通り、いまやスマホが主流の時代で、ガラケーはいちおう義務で最低量を作っているだけという感じでした。隅の方に置かれた数種類のそれは、機能の点では数年前のものと比べてもほとんど見るべきものがないようで、ショップの人もすんなり認めています。
「機能的には機種変更の意味があまりないので、もしバッテリーの問題だけでしたら、それを交換されたほうがいいですよ」と言われてしまい、だったらそれでお茶を濁すことにしました。

ショップで聞いたところによれば、バッテリーの寿命のもっとも主なところは「使用期間/時間」よりも「充電回数」なのだそうで、これが概ね500回を過ぎると性能が低下してくるそうです。

以前にも、バッテリーはできるだけ使って空にしてから充電するのが理想的で、少ししか減っていない状態で充電すると、それだけでもバッテリーの性能が落ちるというのは聞いたことがありました。
さらに過充電がバッテリーに負担をかけるのだそうで、充電ランプが消えたらすみやかに本体を充電器から外すこともかなり大きいポイントだそうです。

毎夜、ケータイを充電器に繋いで就寝するというパターンは少なくないと思われますが、これはバッテリーにとって好ましくない使い方の3点セットのようなもので、「充電回数が増える」「あまり減っていないのに充電する」「朝まで充電器に繋がれて過充電になる」を連日繰り返すことで、早々に寿命が来てしまうんだとか。

さて、ネットから新しいバッテリーを注文したところ、バッテリーの製造会社から「発送しました」の連絡とともに、興味深いメールが届きました。
そこには、新しいバッテリーが届いたら以下のことをするのが、バッテリーを長くお使いいただくために望ましいと書かれています。

「バッテリーが到着後、すぐに満充電をし、普通の使用で残量が空になるまで使用、その後、再度満充電。この充放電の繰り返しを3回~5回する。」とありました。

新品を使い始めるにあたり、はじめにこういう使い方をしておくことで、フルに性能を発揮できるよう、機能を躾るということのようです。

クルマにも新車は慣らし運転というのがあったり、新しいブレーキパッドは交換後にかなりの速度からフルブレーキを数回繰り返すことで熱遍歴を与えて、ディスクへの食いつきをよくするというようなやり方がありますが、バッテリーも同じようなものだと勉強になりました。

一説にはピアノ(少なくとも昔の名器など)も製造後の数年をどのような環境で過ごしたかで楽器としての能力が大きく変わるとも言われますし、新しいハンマーなども初期の整音の巧拙が、その後をあるていど決定付けてしまうと云いますから、何事につけてもはじめが肝心なんだとつくづく思います。

考えてみれば人間様だって、幼児期の躾や育った環境がその後の人生を大きく左右するわけですから、なるほどと納得です。
人も機械も、良い環境で過ごしてきたものは健康で幸福なんだという話のように思えました。
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印刷体の演奏

日頃から自分が感じていることが、上手く言葉に表現できずにもどかしく思っているところへ、適切に表現された文章に邂逅するとハッとさせられ、胸につかえていたものが消えたような気になるのは、誰しも経験しておられることだと思います。

マロニエ君もそういうことはしばしばなのですが、つい最近も、音楽評論で有名な宇野功芳氏の著書『いいたい芳題』の中に次のような一文があり、思わず「その通り!」だと声を上げたくなりました。
ただしこれは宇野功芳氏自身の文章ではなく、同じく音楽評論家の遠山一行氏(昨年末に亡くなられ、夫人はピアニストの遠山慶子さん)の『いまの音、昔の音』というエッセイから宇野氏が引用紹介されたものです。

「いまの演奏家には草書や行書は書けなくなっており、楷書で書く場合でも、それはほとんど印刷体に近いものになっている」

これにはまったく膝を打つ思いでした。
オーケストラを含めたいまどきの演奏は、表面的にはきれいに整っており、ある種の洗練もあれば技術的裏付けもあるけれど、そこには不思議なほど音楽の本能や実感がありません。サーッと耳を通り過ぎていくだけで、当然ながら深い味わいなども得られない。
これを内容の欠如だとか、情感不足、主体性の無さ等々、あれこれの言葉を探し回っていたわけですが、まさに印刷体という、これ以上ないひと言で言い表された適切な言葉に行き当たったようでした。

いまの演奏は、解釈もアーティキュレーションも流暢な標準語のようだし、技術の点でも科学的裏付けのある合理的な訓練のおかげで非常に高度なものが備わり、その演奏にはこれといった欠点もないように思えるものです。しかし、肝心の音楽の本質に触れた時の喜びとか陶酔感、聴き手の精神が揺さぶられるような瞬間がないわけです。
これはまさに印刷体であって、美しいと思っていたのは、活字のそれだったというわけでしょう。まったく言われてみればその通りで、このなんでもない比喩がすべての違和感を暴きだしてくれたようでした。

これは考えてみればすべてのものが似たような経過を辿っているようにも思えます。
美術の世界もそうで、緻密で色彩の趣味も悪くない、構成力もあって、いかにも考え抜かれた作品というのが近年は多いのですが、作家の生々しい顔とか感性の奔流のようなものがない。
いわゆる作者自身の本音とは違った、計算された企画性のようなものを感じてしまって、すごい作品のようには見えても、精神が反応するような作品はほとんどありません。

芸術作品は破綻するのが良いといったら言い過ぎですが、破綻しかねないぐらいの危険性は孕んでいなくてはつまらないし魅力がないものです。その点で云うと最近の作品や演奏にはそういった危うさがないわけです。

情報の氾濫によって、よけいな知恵は付くし、そうなると評価の取れそうな結果だけを目指すのでしょう。
ある程度の結果が想像できるということは、その結果を見据えて仕事を進めて行くことが、最短距離の賢いやり方のように思えてしまうのが我々人間の思考回路なのかもしれません。

人が純粋に燃え上がることができるのは、案外結果が見えないとき、行き着く先がどうなるかわからないとき、混沌としたものの中に身を浸しているときなのかもしれません。
はじめから表現の割り振りが決まっているようなものは、どう説明されてもつまらないものです。

純粋な表現行為の中には無駄やひとりよがりも多く含まれてリスクも高い。効率よく結果だけがほしい現代人は、なにより無駄や回り道を嫌います。だから印刷体の演奏になるのも頷けます。
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