シェプキン

このところバッハ弾きとして頭角をあらわしているらしいアメリカ在住のロシア人ピアニスト、セルゲイ・シェプキンのバッハとはいかなるものか、聴いてみたくなり、まずは1枚CDを手に入れました。

店頭でもシェプキンのアルバムは何度か目にしていましたが、バッハではなくブラームスのop.116/117/118/119というもので、曲はいかにもいいけれど、そのジャケットの写真はブラームスというより酒場っぽいイメージで、どうもそそられずに買いませんでした。

それからしばらくして、彼がバッハ弾きとしても実績と評価を積んでいるようなので、ともかく一度は聴いてみたいという気になり、まずはネットで中古のディスクを買いました。
曲目はパルティータの第1番から第4番までの4曲。

シェプキンはバッハ演奏に際してさまざまな考察を行い、装飾音などにも自分自身の解釈や創案を織り込んでいるらしく、その独自性が非常に注目されているようです。また、すでにゴルトベルク変奏曲も2度録音し、新しいものでは新解釈を世に問うているようですが、こちらは新旧いずれも聴いたことがありません。

ともかく現在はパルティータしかないシェプキンのバッハを聴いてみることに。
あまりにも有名な第1番の出だしから、なるほど装飾音に異質なものを感じますが、それは保留のまま聴き進みます。
一通り聴くのに1時間強かかりますが、差し当たり、言われるほどの新鮮さは感じませんでした。このディスクの録音は1995年ですから、もしかするとシェプキンの演奏としては充分に熟してはいないということもあるのかもしれません。

その後、何度も繰り返し聴くうちに、少しこの人の演奏にも耳が慣れてくる自分を感じはするものの、正直なところ、彼の解釈が取り立てて斬新だとも創意に溢れているとも、さほど思いませんでした。
ただ、ロシアの優秀なピアニストの例に漏れず、相当のテクニックをもっていることは痛感させられましたし、シェプキン本人には悪いけれども、その音楽性云々というより、その技巧を楽しむことのほうがはるかに魅力だというのがマロニエ君の受けた率直な印象でした。

何がすごいかというと、その確かな打鍵による、ピアノを十全に鳴り響かせる男性的な音色と、瞬発力にあふれた指さばきでした。
最近は時代のせいか、ピアノを正面から鳴らしきることのできるピアニストが減ってきており、よりスマートで軽やかに弾くスタイルが主流ですが、その点ではシェプキンの演奏はその音色やダイナミズム、タッチそのものに男性の骨格でないと決して出てこない余裕と固い芯があって、これはこれで久々に胸の支えがおりるような爽快感がありました。

むろん叩きまくりのピアノは嫌いですが、なよなよした線の細い演奏であるのに、それをさも音楽的であるかのようなフリをした演奏が少なくないのも事実ですから、たまにはこういう根底の力強さに支えられた、スタミナあふれる演奏に身を委ねるのもいいなあと思いました。

ピアノはニューヨーク・スタインウェイが使われていますが、こちらのほうが強靱なタッチにも決して根を上げない鷹揚さがあり、多少ざらついた乾いた音色でありながら、こまかいことにはこだわらずにピアノが鳴りまくっているのは、これはこれで快感でした。

続けてパルティータの残り5/6番とフランス風序曲を入れたCDを買いましたが、おおむね似たような印象でした。なんとなくブラームスも少し聴いてみたくはなりました。
ブラームスの後期のピアノ曲は、あまりに枯淡の境地を強調しすぎるきらいがあり、それの行き過ぎない演奏を聴いてみたい思いがあり、もしかしたらシェプキンはそれに該当しているかもしれませんから。
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医者もどき

最近は大病院はむろんのこと、開業医やクリニックでも、その傍には必ずといっていいほど薬局が付帯していて、病院から出された処方箋を手にここに立ち寄り、そこで薬を受け取って終わりというパターンが定着しています。

院内処方でむやみに待たされるより、これはこれでシステムとしても簡潔でいいとは思うのですが、この手の薬局でときどき疑問に感じることがあります。

薬の受け渡しの際に、薬を取り扱う者としての責務上必要というところで、あれこれと立ち入った質問をしてくる人がときどきいて、そこに漂うニュアンスには薬剤師の領域とは似て非なる言動が見受けられることが時折あるのです。

どうみても薬剤師の立場を踏み越えたような質問をしたり、中には余裕たっぷりに処方箋を見ながら「えーっと、今回はどうされましたかぁ?」などと、ほとんど医師のような物言いで、内心思わずムッとしてしまいます。
そんなことは、直前に診察室で医師と充分しゃべったことで、その結果として出された処方箋なのですから、そこに疑問があるのなら、処方箋を書いた医師に連絡すればいいことでしょう。

年配の方などには、昔の「お医者さんは偉い人」というイメージを引きずっておられる方がときどきおられ、看護士さんから受付の事務員、果ては薬局に至るまで、ひたすら低姿勢で恐縮したような態度に終始する方もいらっしゃいます。

こういう相手と見るや、いよいよこの手の薬剤師は水を得た魚のように指導的な物言いを発揮して、ひどく勿体ぶった、自分が何かの権威者で上意下達のごとき振る舞いになるのは、傍目にも気持ちのいいものではありません。

たしかに薬剤師は薬のプロではあるでしょう。
薬事上のさまざまな知識が求められ、薬を渡す際に効能や飲み方、注意点など必要な説明を添えるというようなルールもあるでしょう。だからといって、それに乗じて医者もどきの言動に及んでいいということにはなりません。

真面目に仕事をしていますよという、いわば安全な建前の中で、それをわずかに踏み越えて、個人的な愉快を得ているのは、すぐに伝わってきて不快なものを感じます。あたりまえのことですが、薬剤師は医師ではないのですから、そこには厳然と守るべき一線があるはずです。

目に余る場合は、「たった今、病院で先生にお話ししたことを、もう一度ここでお話しするのですか?」と問い質すと、もともと忸怩たるものがあるのか「あっ、いえいえ…」と、いささか上気した感じですぐに質問を取り下げるあたりは、いかにそれが不必要であるかの証明のような気がします。

いちおう白衣は着ているし、医療機関という環境の中で一般人を相手に仕事をしていると、だんだん勘違いしてくるものだろうかと不思議です。

もちろん、こういう人は少数派で、大半は普通です。
しかし、この手合いがときどきいるのも現実で、マロニエ君は自分が、そんな他者の甚だ個人的な快楽の素材にされてはなるものかと、つい警戒してしまいます。
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ラトルのマノン

今年、バーデンバーデンの復活祭音楽祭で上演されたプッチーニの『マノン・レスコー』の録画を見てみましたが、まだ第二幕の途中までで、最後まで見続けられるかどうかは甚だ疑問です。

というのも、ここに展開される舞台と演奏は、およそマロニエ君の考えるイタリアオペラのそれとは、本質的なところでの齟齬を感じて消化不良ばかり感じるからです。

オーケストラはラトル指揮のベルリンフィルで、さすがにその名に恥じないハイクオリティな演奏だということは随所に感じられますが、そのことと、その作品に適った演奏というのはまた別の話です。

このオーケストラがオペラに慣れていないのか、その他の理由なのか、やたらきっちり交響的に整然と鳴らしていくばかりで、オペラの勘どころや息づかいというものがまるで感じられませんでした。

主役のデグリューはマッシモ・ジョルダーノというイタリア人ですが、ただ一直線に絶唱するだけで、この作品の主役であるデグリューという情熱的な青年の存在感は稀薄なものでした。スピント・テノールという力強い方向の歌い手ではあるようですが、柔軟性や演技力に乏しく、いつも客席に向かって棒立ちでフォルテで吠えまくるのみという印象。
タイトルロールのエヴァ・マリア・ウェストブレークもそうですが、ふたりともワーグナーの楽劇のほうが、よほどお似合いでは?と思いました。

全体としても大味で細かな配慮が感じられないものでしたが、唯一の救いは、それなりの舞台装置があったことでしょうか。近年は装置も何も簡略化され、登場人物も現代的な衣装であったり、どうかするとほとんど普段着のようなものを着てモーツァルトやヴェルディなどの大作を上演するのが流行で、さもモダンな主張があるようなフリをしつつ、実際は舞台のコストダウンもここまでやるかというもので、とてもオペラを見る醍醐味とは程遠いものが多すぎます。

マノンはプッチーニのオペラの中でも初期に書かれた作品ですが、最も旋律的であるのが特徴でしょう。
そのめくるめく劇的旋律の妙と物語進行が、これほど噛み合わず、舞台上の出来事と音楽が混ざり合わない演奏・演出も珍しく、とりわけ全体に感じられる無骨さは如何ともし難いものがありました。
いかにも融通のきかないドイツ的な調子で、根底にしなやかさや遊び心がありません。イタリアオペラとはまったく相容れない体質があまりにも前に出て、ひどく無骨で野暮ったいものにしか感じられませんでした。

そもそもイタリアオペラはドイツ人の資質とは対極のものかもしれません。
そういう意味では、ある種おもしろいものを見たとも言えそうですが、続きはもう結構という感じです。

マノンレスコーで忘れがたいのは、若くして世を去ったジョゼッペ・シノーポリがこのオペラに鮮烈な解釈で新たな命を吹き込んだ快演で、個人的にいまだにこれを凌ぐものは出ていないと思います。

CDではマノンをミレッラ・フレーニ、映像ではキリ・テ・カナワ、デグリューはいずれもプラシド・ドミンゴという最高の顔ぶれでしたが、いま聴いても圧巻で、やはり彼らは大したものだとしみじみ思います。
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価値を買う

価格というものが高いとか安いという判断は二つあるように思います。
ひとつはこれといった基準もないまま絶対額を差す場合。もうひとつは価格を分母、対価を分子においてなされるところの、いわゆるコストパフォーマンスの原理です。

何事においても、うわべの数字ばかりに目を奪われがちなのは凡人の悲しき習性ですが、数字の安さに誘惑されているだけで、本当に得をするなんてことは滅多にありません。
自分なりに正しく判断したつもりでも、結果的にそれなりのものでしかなかったという事が少なくないのも現実で、そうそう都合のいい話が転がっているわけがないのです。

とくに今は昔のように骨董屋で掘り出し物が見つかるようなのんびりしたご時世でもありません。
これでもかとばかりに無数のビジネスが出現し、ものの価値は隅々まで検証され、整理され尽くして価格へと反映されています。さらにネット社会が追い打ちをかけ、情報は溢れ、自分だけ甘い話に与ることなんてそうはないのが当たり前です。

だから、安いものには安いだけの理由があると考えるのが順当でしょう。
物品、食べ物、技術、サービス、安全等いずれに於いても、安いものはやっぱりそれだけのものしかないわけで、これは至って当たり前のことでなんですね。

自分に潤沢な経済力がないものだから、差し当たり、できるだけ安く済ませたいという誘惑があり、知らず知らずのうちにそちらに流れている自分が確かにいるようです。それを尤もらしく理由付けしたり正当化しているのは、要は身勝手な辻褄あわせに過ぎません。
他人のことなら「質は二の次で、安さを優先」などと批判的な目で見ているくせに、自分もよく考えてみたら同様だったりするわけで、これには思わず赤面してしまいます。

自分のことは、どうしてもそれなりの事情や理由に直面しているため、無意識のうちに都合のいい判断をしてしまいますが、冷静に考えたら、これは自分自身に対する詭弁だと思います。

電気製品などを買うなら単純に安さを求めてもいいかもしれませんが、技術や質、付加価値など、事としだいによっては、価格はちゃんとそれなりの裏付けがあると見るべきで、こういう局面での節約は、まったく節約にならないことをとりわけ痛感するこの頃です。

数字に惑わされることなく、冒頭のコストパフォーマンスをいかに正しく見極めることができるか、これが一番大切だと思います。

マロニエ君も自分を振り返ると、それなりに得をしたと思い込んでいたものが、実はそれほどでもなかったと後で気がついたことは一度や二度ではありません。

早い話が、大して必要もないものをバーゲンだからといってむやみに買ったりするのは無駄だと思いますし、あまり大事にもしませんが、本当に欲しいものを定価で買うと、静かな喜びと愛着がわくものです。
長い目で見るとこっちのほうがよほど価値があると思うのです。

今後も同じような失敗をしないという保証はまったくありませんが、できるだけ少なくするよう肝に銘じておきたいところです。
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再放送から

BSのクラシック倶楽部は、いつごろからか定かではありませんが、以前に較べると同じものの再放送がずいぶん多くなりました。
ものによっては3回ぐらい繰り返しやっているように感じます。

見逃したものや、あとになってもう一度見たいと思っている場合は、この再放送/再々放送によって大いに助けられる反面、できるだけいろいろなコンサートの様子を楽しみたい側からすれば、「あー、またこれか…」となるのも率直なところです。

それでも、録画を消してしまう前に、なぜかちょっと見てみようということも少なくありません。
つい先日も、女流として世界的に有名なピアニストとチェロとのデュオの再放送があって、これもすでに一度見てはいましたが、消去ボタンを押す前についまた見てしまいました。前回の印象がさらに強まり、小柄な人ということもあるのかもしれませんが、この人が得ている地位からみれば技巧的にも余裕がなく、しかも音らしい音がほとんど出ていないことにあらためてびっくり。

曲はベートーヴェンのチェロソナタ3番のような傑作ですが、まったく潤いも活気もないパサパサした演奏で、随所に散りばめられた聴き所とか、期待している和声進行などがまったく伝わらず、この演奏のどこに耳を傾けるのかポイントさえわかりません。坪庭の控え目な植木のように地味に小さな音で弾くことがさも精神的で正しいことのような気配であるのは、ある種の傲慢さのようでもあり、かなり欲求不満がつのりました。
驚くべきは、決して大きな音でもないのに、音にはいささかの潤いも色艶もなく、素人が弾いてももっと美しい音が出せそうなもんだと思いました。

このまま就寝してはすっきりしないので、口直しに、つづけて聴いたのはデュオ・アマルという若手の男性二人によるピアノデュオで(これも再放送)、シューベルトの4手のための幻想曲D940から始まりました。
セコンドが漕ぎ出す静かなヘ短調の伴奏に続いて、プリモの単音による第一主題が乗ってきますが、繊細に弾かれながらも、ピアノがきちんと鳴っていることに、のっけからまず胸のつかえがおりるようでした。
この喩えようもない悲しみの音楽に耳を委ねますが、タッチにはじゅうぶんな注意が払われて芯があり、肉がある。いかにも男性ピニストらしい力の余裕と音色の透明感があり、ああなんと美しいことかと、さっきまでとは気分が一変するのは大いに救われました。

それにしても、4手のための幻想曲という作品の素晴らしさには、あらためて感銘を覚えることになりました。自分なりにじゅうぶん聴き込んだつもりであっても、演奏によって、新たに作品の偉大さを認識させられるのは、それだけ優れた演奏であるということの証であるといえるでしょう。

もともとシューベルトの作品は構造感が見えやすいものではないけれど、晩年(といってもわずか31年の生涯ですが)になるほど、ますますそれはとらえにくく、ピアノソナタなどにもある種の冗長さがつきまといます。

確かな設計図とか、明確な着地点を定めた上で、そこに到達させるべく緻密にペンを走らせたというより、感興の命じるまま切々と音符がしたためられた印象です。

ふつう連弾というと、ソロよりも娯楽的であったりフレンドリーな要素の作品というイメージがありますが、少なくともこの4手のための幻想曲は、そういう既成の枠をはるか飛び越えてしまった、高い芸術性をもつ稀有な作品で、連弾というイメージからはかけ離れています。
よくよく考えてみれば、少なくともマロニエ君の知る連弾(1台4手)作品の中では、突出した傑作ではないかと思いました。
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森の中

芸術の分野に限ったことではありませんが、新しいことに挑戦することは、古典を尊重することと同様に大切なことで、これを失えば何事も息絶えてしまうでしょう。

モーツァルトが当時の人が受け容れられないほど新しい音楽を書いたこと、ベートーヴェンが常に新しいものへの挑戦のスピリットを失わず果敢な創造行為に挑んだおかげで、こんにちの私達はどれだけその恩恵に浴したかしれません。

そういう前提を踏まえたにしても、どちらかというとマロニエ君(もとより創造者ではありませんが)は音楽に関しては、ある意味の保守派だろうと認識しています。
これは音楽そのものというよりは、おもに低下の一途を辿る評価基準への抵抗といえるのかもしれません。とりわけ現代の興行としての演奏および演奏家の在り方には、強い違和感を覚えることが多く、なかなかそれに馴染めないことは否定できません。

リヒテルが蕉雨園でコンサートをしたり、アフェナシェフが日本のどこかのお寺にスタインウェイを持ち込んで演奏したり、五嶋みどりが各地のお寺をまわってバッハを演奏するというようなことをやりますが、あのセンスがマロニエ君自身はどうもしっくりこないのです。

またコラボというのも個人的にはあまり歓迎の気分は持ち合わせません。むろん全面否定ではないのですが、そこにはよほどの主題とか必然性など、興味を喚起する要素がなくては、ただの意外性狙いの無節操な取り合わせになるばかりです。

スポーツの世界にも異種格闘技というものがあるそうですが、イベントとしてはおもしろくても、真のファンにとってそのジャンルの醍醐味が味わえるようなものとは思えませんし、いわばちょっと酔狂であったり、余興的な世界に属するものだと思います。

ところが、近ごろは変わったことをしないと人が関心を示さないという、音楽市場においてもやむにやまれぬ事情があるようです。それはわかるのですが、だからといってあまりに話題作り目的であったり目立てばいいという心底が透けて見えるようなイベントが多すぎるように感じて仕方がありません。

つい先日もビジュアル系ピアニスト?のブニアティシヴィリが、ドイツのどこだかの森の中へスタインウェイを運び込み、木立の中でピアノを演奏するということをやっていました…が、まるで何かのCM撮影のようで、そのいかにも上っ面の発想という印象しか抱けませんでした。

ピアノの前には形ばかりのわずかな聴き手がいて、この演奏を彼女の「お母さんに捧げる」と銘打った体裁になっていましたが、森、ピアノ、演奏、作品、どれもがバラバラで馴染まず、ひとつとして溶け合っているようには見えませんでした。ただただ空疎な感じが拭えず、聴いている人の後ろ姿もしらけ気味に見えました。

ブニアティシヴィリの演奏は好みではない上に、なにしろ森の中なので、音は悲しいばかりに周囲に散ってしまい、果たしてこの企画にどういう意味や狙いがあるのか、マロニエ君にはさっぱりわからないままでした。

そもそもピアノを野外に持ち出して演奏するということが、まず自分の体質には合いません。映画『アマデウス』では庭園のようなところでコンチェルトを弾くというシーンがありましたが、あれは音楽家が宮廷のお抱えだった時代の話でしょうし、なにしろ映画です。

わざわざ現代のコンサートグランドを森の中なんぞに持ってこなくても、森や自然にはそれにふさわしい楽しみ方、味わい方があると思います。あれだけの美しい森ならば、ただ自然の音に耳を澄ませながらゆっくり散策するだけでもじゅうぶんに感銘を受け、心の中でいろいろな思いや音楽が鳴り響くはずで、なにもそこで実際にピアノを弾いていただかなくても結構ですという感じでした。

要は森でもお寺でも、安易な思いつきだけで変な使い方や取り合わせをすると、その透徹した美はかえって反発し合い、殺し合い、魅力が損なわれてしまうように思えてなりません。
すべての世界には侵してはならない見えざる境界が自ずとあるはずで、それが作法だと思いました。
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楽器と天候

今年の夏の異常気象といったらありませんね。
梅雨明けというのも言葉の上だけで、実際は夏全体が熱帯地域の雨期さながらです。これほど鬱陶しい天候に覆われたことは、過去にもちょっとなかったように思います。

通常なら梅雨が明けると、おおむね強い陽射しによる夏日が続き、その暑さにぐったりするというのが例年のパターンですが、今年は晴れ間そのものが無いに等しい状態です。

数日に一度、本来の夏らしい陽射しがあると、思わずなつかしいものを見るようでそれだけでパッと気分も明るくなりますが、それも1〜2時間もすると怪しくなり、ウソのようにあたりは暗くなってザーッと雨が容赦なく降り始める。

考えてみれば今年の夏、一日でも安定して晴れた日があったかどうか…たぶんなかったように思います。まだ夏が終わったわけではないけれど、新聞やネットの週間予報はいつ見ても曇り/雨マークがズラリと並んでいて、これを見るだけでウンザリします。

マロニエ君はもともと夏は好きなほうではないし、これといって野外活動をするわけではありませんが、それでもお天気というものが日々の生活の中でいかに大きい影響があるかということを、今年の夏ほど切実に感じたことはなかったように思います。

広島をはじめ、痛ましい被害が出たところもあるとおり、地鳴りのするような猛烈な雨が夜中じゅう降り続いて、かなり恐怖を感じたことも幾度かありました。

こんな状況ですから除湿器にも休む間がありません。
我がディアパソンは、予想以上に湿度に左右されやすいピアノであることもこの夏しみじみとわかりました。
エアコン+除湿器でガードしていても、終日激しい雨が降り続くとさすがに調律も乱れぎみになり、焦点の定まらない鳴り方をします。あるときなど、ちょっとした油断から半日ほど除湿器の水を捨て忘れて止まっていたことがありましたが、そのときは変なうねりが出てくるほど大きく乱れてしまいました。

あわてて除湿器のスイッチを入れたことはいうまでもありませんが、驚いたのはその後で、一夜明けて湿度も元に戻ることでピアノの狂いもかなりのところまで回復しており、これにはちょっと感動しました。このような変化と復元は、理屈ではわかっていても、自分でその一部始終を体験してみるとやそれなりの感慨があるものです。

外部からホールなどに運び込んだピアノが開梱されると、急激な温度差などでせっかく調整されていたピアノが狂ってしまい、数時間たつと自然に元に戻るという話をよく耳にします。そのとき技術者は何もしないで「待つこと」が必要のようで、ピアノがステージの環境に馴染まないことには何をしても無駄だというのが実感としてわかります。

こういう環境の変化に楽器がプラスにもマイナスにも反応して、調子を崩したり復調したりというようなことに接すると、これも生の楽器ならではの魅力だと思います。

スイッチさえ入れれば季節も調律も関係ない電子ピアノは確かに便利でしょうが、このように維持管理に一定の手間暇がかかるところも楽器と付き合う上での面白さではないかと思います。

天候不順で楽器が調子を崩すのはむろん困りますが、そうかといって、もし降っても照っても、夏でも冬でも、温度にも湿度にも、なんら影響を受けないピアノがあるとしたら、それはそれでつまらないだろうと思います。
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宮崎国際音楽祭

今年の宮崎国際音楽祭から、総監督である徳永二男のヴァイオリン、野平一郎のピアノでシュニトケのヴァイオリンソナタ第1番と、漆原啓子、川田知子、鈴木康浩、古川展生による弦楽四重奏とソプラノの波多野睦美による、シェーンベルクの弦楽四重奏曲第2番が放映されました。

いずれも12音で書かれた20世紀の作品ですが、これが思いのほかおもしろい作品で、終始集中して楽しむことができました。

いずれも徳永氏の解説で述べられたとおり、演奏される機会は極めて少ないものの興味深い作品で、シュニトケのヴァイオリンソナタ第1番は「芸術音楽と軽音楽が融合し、さらには映画音楽やジャズの要素まで混ざり込んでいる」というものでしたが、かといって決して娯楽一辺倒のものではありません。

またシェーンベルクの弦楽四重奏曲は全4楽章からなり、彼の30代中頃の作品ですが、なんと第3/4楽章にはソプラノが加わるという驚きの作品でした。徳永氏によれば、第1楽章ではまだ調性音楽の要素を留めているものの、これが第2楽章以降に進むに従い、次第にそれが危うくなって12音音楽に到達するということで、この一曲の中で、19世紀後期ロマン派の調性音楽から20世紀に台頭する無調の音楽への変遷が凝縮されているようでした。

シュニトケのソナタでは、聴き込んだ曲ではないので断定的なことは云えませんが、徳永、野平両氏の演奏は四角四面すぎて、まあ立派ではあるけれど、個人的にはもう少し表現の幅を持った雄弁なアーティキュレーションがほしかったと思いました。
とはいえ、まずは充分に楽しめたことは収穫でした。

続くシェーンベルクの弦楽四重奏曲では、まず上記4人によるクァルテットのアンサンブルが見事で、いまさらながら日本人の演奏精度の高さを感じずにはいられません。
第3楽章からは、背後の椅子に控えていた波多野さんが前に出て、朗々と、そしてどこか怪しげな世界を歌い上げます。

第1楽章からしてどこか荒廃した地の果てを垣間見るような空気感があふれ、それが後半への布石となるのか、ソプラノの登場によってさらに決定的なものへと展開していくようです。
ただ、独特な魅力ある作品だとは感じつつも、ソプラノが加わって以降というもの、マロニエ君の耳には歌曲としか認識ができず、これを弦楽四重奏として受け取るほど自分の耳が鍛えられてはいないことを実感します。まあ良い音楽であることの前では、音楽形式の枠組みがどうかということは大したことではありませんが。

全編を通じて感じたことは、東京の演奏会などより、演奏者もこころなしか気合いが入っているようで、音楽というものは奏者の気合いとか本気度で、その魅力はまるで変わってしまいます。
冷めたような義務的な演奏が横溢するなか、音楽への情熱と作品の真髄を聴衆に伝えようとする意気込みはなによりも大切で、その点で今回の演奏は大変立派なものだと思いました。

ピアノは20数年前にこの文化施設竣工時に収められたと想像される、ちょっと古いスタインウェイですが、これがまたなかなか音に深みと艶のあるピアノで、この時期が本当にスタインウェイらしい音をもっていた最後の世代ではないかという気にさせられます。

良いピアノというのは、聴いていて、一音一音に重みがあり、個性と艶があり、それだけでも聴くに値するものだということをいまさらながら感じました。
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自虐マスコミ

かねてより思うことですが、世の中を必要以上に不幸にしている、あるいは間違った方向に誘導している要因のひとつに、マスコミの不可思議な体質もかなり責任があるのでは?と感じます。

なにもここで、集団的自衛権や沖縄の基地問題に触れようとは思いませんが、どうして日本のマスコミは日本人の心をあえてざわつかせるようなネガティブなことばかり言い立てるのだろうと、この点はまったく理解に苦しむことがあまりに多すぎるよう思います。

そもそもマスコミの体質の底流にあるものは、体制批判であり、権力に対する抵抗精神かもしれませんが、それがいささか不健全というか、そのことと国民の利益を考えることは本来矛盾するものではない筈だと思います。

外交や防衛といったハードなものでなくても、たとえばニュースで連休やお盆など長期休暇に流れる内容は、ここ数年というもの「倹約ネタ」がずっと主役の座を占めていて、休暇の過ごし方、楽しみ方ひとつが、いかに節約ムードであるかということばかり、くどいばかりに採り上げます。

「元気をもらう」などという歯の浮くような言葉は巷にあふれていますが、本当の意味で元気の出るようなニュースなんてまるでなく、どこそこの温泉は通常価格に対して何人限定で○○円とか、あちこちで開催される「無料体験」「無料イベント」にいかに多くの人が列を作るかというようなことを、これでもかとばかりに言い立てます。

政府の急務は景気回復というようなことを口ではいいながら、市井の話題となるとタダもしくは異常とも思える破格値の話題などにカメラを向け、早い話が世の中がケチになったという話ばかりを追いかけ回し、これを視聴者へ無制限に垂れ流します。

「無料の工場見学が人気で、連日何千人が訪れ、帰りにはお土産までもらえる」というようなことばかり聞かされると、まともな出費をすることさえ馬鹿らしいような気分になって、いつまでたっても精神的デフレから脱却できるはずはないでしょう。
これじゃあ世の中が内向きで倹約指向になるのも当然です。

お金を使うことが単純にエライだなんてむろん思いません。しかし、人は過度の倹約節約にとらわれると、だんだん嫌な人間になっていくものです。ほどよい無駄は人を柔和にするものなのに、それをあれもこれもカットしていると、いつしか心がすさんでしまいます。

あるていど購買意欲が湧いて、消費行動へと繋がっていかないことには景気もGDPもあったものではないでしょうし、それは人間性の保持のためにも必要なことだと思います。

しかるに、次から次へと浅ましいことを考えついて、そのための情報を手繰りよせることがまるで賢いことであるかのような、そんな価値観と思考回路を作った責任の一端は、間違いなくマスコミの報道にもあると思うのです。

日本人は自虐趣味などとしばしば言われますが、それを生み育てたのもマスコミではないかと思います。どんなに頑張っても良かったとは言わず問題点ばかり探し出し、ダメの解説ばかり聞かされているようで、これじゃあいじけてしまうのも無理はありません。

少しは世の中のことを明るく捉えて、元気を取り戻させてほしいものです。
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下味つきピアノ

古い録音などを聴いていると、つくづくピアノの音が今とは違うことを痛感させられます。
うわべの派手さを追い求めず、質実剛健でありながら、腹の底からピアノが力強くふくよかに鳴っていることがわかります。

その点では、現代人のピアノの音色に対する好みは、明るくブリリアントな音であることで、これがほとんど当然のような尺度になっているようです。

この点ばかりが強調される陰で、基音は痩せ細り、楽器としての器は萎んでしまっているのに、ムラのない甘ったるい音を出すピアノがもてはやされ、賞味期限を過ぎたら迷わず新しいのに買い換えるのが正しいといわんばかりです。
しかも、もともと賞味するに値するほどの音でもないのが笑止です。

この流れをつくったのはやはり利益優先の企業体質のようにも思いますし、高級ピアノに追いつけ追い越せとダッシュをかけてきた日本のメーカーにも責任の一端はあるのかもしれません。

今や覇者であるスタインウェイでさえ理想的なピアノ作りの道筋が怪しくなって久しく、この先さらにどうなっていくのかと思わずにはいられません。

個人的な印象ですが、今のピアノの大半は、いわばはじめら下味の付いた売出用の食材みたいで、しかもその味が本当に好ましいものであるかどうかも疑わしく、奏者の表現に対する意欲や情熱を大いにスポイルしているように思われます。

だいいち、あらかじめ下味の付いたピアノの音色なんて、どことなく不気味です。
それを「いい音」だと感じているうちはいいのでしょうが、いったんその不自然に気がついてしまうともうノーサンキューで、ここから後戻りはなかなかできません。

まるで、ピアノが揉み手をして擦り寄ってくるようで、「あなたはただキーを押すだけ。あとはこちらで上手くやっておきますよ。」とでもいわれているようです。

その点では、佳き時代のピアノはまったく奏者に媚びを売りませんが、そのかわりに楽器と共に音楽をする喜びやいろんなアイデアを与えてくれるようです。
むろん前もって砂糖をまぶしたような甘味もなければ、貼り付けた笑顔みたいな変な明るさもなく、すべては作品と演奏によって表現されるものという楽器としての本分を備えているということでしょう。

現在のピアノの「おもてなし」に慣れた人が古いピアノを弾くと、くだらない欠点とか愛想のない無骨さばかりを感じてしまい、いい面がすぐには理解出来ない可能性があります。しかし、そういうピアノでいろんな表現をして音楽が姿をあらわしたときの深い説得力というものは、現代のピアノとは比較にならないほど純粋で濃密なものがあります。

もう一度原点回帰して、ピアノ音はあくまでも実直な性格に留めおいて、あとは甘いも辛いも演奏によって表現されるべきものという基本に立ち帰ってほしいものです。

そもそもピアノメーカーなんて、経営が大変なほど大きくなること自体が間違っているのではないかと思います。むろん小さければやっていけるというものでもないでしょうけれど…。
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泡発生器

昨今の100円ショップの商品の充実ぶりは目を見張るばかりで、ここで新製品に出会うことも珍しくはありません。先日、シャンプーなどのボトルが並んでいる中に、「泡の出る容器」というのがありました。

そういえば、我が家にはないけれど、お店などの洗面所などで使った覚えのある、ノズルを押すとシュワシュワときめの細かい泡が出てくる手洗い用の洗剤があり、これは市販もされていますから、すでにご自宅などでお使いの方も多くいらっしゃることでしょう。

あれはたぶんノズルの構造に秘密があるのだろうと思っていたのですが、まさにそういうものが100円ショップで売られているということは、やはり泡の正体は洗剤そのものではなく、洗剤が通るノズル部分であるということを直感しました。

おもしろそうなので、さっそくこれを買ってみたのですが、説明書きによると、使う洗剤の指定や制限はとくになく、何かしらの洗剤を容器に入れて、それを「10倍に薄める」と指示されていました。
ここでなるほどと思ったことは、使用時に瞬時に細かい泡を発生させるには、濃い洗剤だと却ってその妨げになるようで、これは例えばシャボン玉遊びをする際にも、使う石けん水の濃度というか、薄め具合が重要なポイントになることを思い出しました。

さて、手を洗うのに中性洗剤というわけにもいかないので、とりあえずボディソープを入れて、それを指示通りに(厳格にではありませんが)約10倍になるまで水を加えました。よく振り混ぜた後、いよいよ問題のノズルを数回押してみると、果たしてかわいらしい雲のような泡がモコモコとでてくるのに思わず感心しました。同時に、こんなカラクリによって泡の手洗い洗剤などが市販されていることにも、なーんだ!という気分でもありました。

泡というのはおもしろいもので、最近は下火かもしれませんが、ひところブームだった美白用洗顔石鹸などがしきりにCMなどで宣伝されていましたが、それによれば、石鹸そのものの成分もさることながら、専用のネットに石鹸を入れて両手で数回こすると、まるでメレンゲのような泡ができて、それをお肌にどうこうするというものでした。

マロニエ君宅でも、一度だけ(1個だけ)これを購入して家人が使ってみたことがありましたが、なんだか顔がヒリヒリするというので、それっきりになってしまったのですが、その価格は決して安くはないものでした。そのふわふわの泡を作る専用ネットというのが箱に入っていましたが、どう見てもただのナイロン網を何枚かに折り重ねて袋状にしただけのものにしか見えず、はああ?といった印象でした。

すぐに変なことをしてみたくなるマロニエ君としては、どうも、その特別な石鹸の性質だけがあのなめらかな泡を作り出すとは思えず、その網袋に普通の石鹸を入れてみたのですが、果たしてまったく同じような濃密なクリームのような泡がいとも簡単にできました。
では、その網袋が特別なものかと云えば、これもさにあらず。色が白で、石鹸サイズに縫われているという以外、とくにどうということもなく、極端にいえば、台所の排水口用ネットと大差ないもののようにも思えました。
そこで、これに普通の石鹸を入れて、適当に折り畳んで両手でこすってみると、いとも簡単に洗顔石鹸専用の網袋の場合と同等の、きめの細かいふわふわした泡がいくらでもできることが判明しました。

要するに、どんな石鹸や洗剤からでも、あの手の泡は作り出せるというわけです。
だからどうした…ということもないのですが、意外になんでもないことってあるんだなあという、まことにくだらない確認をしたという話でした。
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リピート

過日クラシック倶楽部で、ゲルハルト・オピッツとN響のメンバーによるシューベルトの室内楽演奏会をやっていました。

時間の関係からアルペジョーネ・ソナタ(第一楽章)と、ピアノ五重奏「ます」(第三楽章抜き)が採り上げられ、いずれも引きこまれるような魅力はないけれども、安心して聴くことのできる大人のプロの演奏である点が好ましく思いました。
本来ならテレビ収録されるぐらいの演奏家にとって、「安心して聴かせる」ことは当たり前とも思うのですが、実際には…。

とくに解釈やアーティキュレーションで奇を衒わず、まずは真っ当に曲が流れる演奏であるだけでホッとさせられ、それが実行できているだけでもポイントが上がります。

さて、アルペジョーネ・ソナタは今回はヴィオラとピアノでの演奏で、素晴らしい作品であることは疑いないところですが、第一楽章だけでもかなり長い曲で、提示部の終わりまで行くと、リピートでパッとまた振り出しに戻ってしまうのは正直云ってちょっとうんざりしてしまいます。「ます」も同様で、要するにリピートリピートで疲れてくる。
曲そのものは心底すばらしいと思っているのに、リピートはうんざり…というのはなぜだろうと思うことが少なくありません。

アルペジョーネはマロニエ君も下手ながら友人とやったことがありますが、練習は別にして、合わせるときはリピートなしでやっていました。弾いても聴いても、提示部の終わりまでやっと来たのに、また始めからというのは、体育の先生から「もう一週してこーい!」といわれているようです。

リピートのうんざりで他にも思い出すのは、たとえばベートーヴェンのクロイツェルの第一楽章などがマロニエ君の感性としてはこれに該当します。この場合、曲想の点からも提示部が進めば進むだけ激しい情念が増幅してきて、もはや前進あるのみという気分であるのに、くるりとまた第一主題冒頭へ引き返すのは、うんざりというより「あらら…」と気が抜けてしまうようで、この曲の切迫感というかテンションがガクンと落ちてしまう気がします。

ショパンのソナタでも3番の第一楽章はまだいいとして、2番の第一楽章提示部のリピートはいただけません。ここでも後戻りできないまでに疾走してきているのに、それを断ち切って、またはじめに戻るのはどうしても興ざめします。
ピアニストの中には、なんと序奏部分にまで引き返す人がいて、やはりこれもうんざりしてしまいます。なので、たまにこれをしないで一気に展開部へ突入していく人がいると、もうそれだけでよしよし!という気になってしまいます。

ところが同じベートーヴェンのヴァイオリンソナタでもスプリングになると、こちらはリピートがあったほうが収まりがいいし、ワルトシュタインや最後のソナタなどでは、逆になくてはならないものだと思います。
シューベルトも最後の3つのソナタなども、長大ですがこちらは必要な気がしますから、リピートとはなんとも不思議なものです。

そういえば思い出しましたが、ショパンの第2ソナタの第一楽章のリピートは、自筆譜にある筆跡を専門家が見ると、その書き方が微妙で、リピートではない可能性もあるのだそうで、だとするとそもそもショパンの意図したものではないということにもなるようです。

グールドのゴルトベルクなども、各変奏ごとにリピートしたりしなかったりということをやっているようで、ここは演奏者が随時判断ということが最良なのかもしれません。

要は先に行きたい気分の強いものと、そうではないものの違いなのかもしれず、音楽は聴く人の気持ちの自然の運びにあまり逆らわないことも大切ではないかと思います。
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検索の極意

ネット検索はいまや日常的に誰でもやっていることですが、どうもマロニエ君は自分でこれが得意ではないという思いが以前からありました。

理由は簡単、自分が探せなかったものを他者が探してくるということが多々あるからです。

その中の一人、ピアノ関連の知り合いの方で、ネットの情報を教えていただくことがとても多いことにいつもながら感心させられていました。

同じようなキーワードを打ち込んでいるつもりでも、その方が教えてくれる情報は自力では到達できないものだったことが、これまでにも何度もありました。
そんな情報を教えてもらう有り難さもさることながら、どうしたらそんなに探せるのか不思議なくらいで、ついには自分の検索の仕方が根本的に間違っているのでは…とまで思い始めました。

そんなマロニエ君は、一度教えてもらったものでも、再び見ようとしたときにはあっというまにわからなくなるので、ちょっとしたことでも「お気に入り」に入れておかなくては危険なのです。お陰でお気に入りはいつも大入満員状態で、ひどいときにはそのお気に入りの中からひとつを探し出すのにさえ苦労する始末で、我ながら情けないといったらありません。

非常に珍しいピアノやピアノ店の情報を教えていただき、見てみるとなるほどというピアノや、派手ではないけれども興味深いお店があることがわかり、これまでにも自分なりに全国のピアノ店のHPは相当見てきたつもりですが、まだまだ掘り起こせばディープなお店はあるのだと認識をあらたにしているところです。

電話で話をしている折でしたが、どうやって検索すればあんな珍しい情報が出てくるのか、いわばその秘訣を聞いてみました。すると、その方はべつになにも特別なことはしていないという返事がかえってくるばかりで、はじめは肩すかしをくらったようでした。
ところがその先にアッと驚く検索の極意がさりげなく語られたのでした。

その方曰く、自分が検索する場合は、とにかく10ページぐらいは見てみるようにしていると言われました。「えっ!? 10ページも??」

多くの方が経験がおありでしょうが、なんらかのワードで検索すると、その結果はアクセス数の多いなどの順(かどうか知りませんが)にズラリと表示されます。
しかし、ほとんどの場合は1〜2ページにこそ欲しい結果が集中し、それ以降はだんだん質が落ちたり同じものが何度も繰り返し出てきたりで、大半が無用なものばかりになってしまいます。

考えてみると3ページ以降を見たことなんてほとんどなく、その方のような丹念さが自分には欠けていたことを痛感しました。

本当に貴重な情報とは、そんな無用なものの中に埋もれるようにひっそりと存在しているものだということで、まるで森の中でトリュフでも探すようなもんだと思いました。
要するに、何事においても粘り強さが必要だということなのでしょうが、悲しいかなそこがマロニエ君の一番苦手なところなのです。
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ケフェレック

今年の5月、王子ホールで行われたアンヌ・ケフェレック・ピアノリサイタルを録画からみてみました。

曲目は、演奏順にショパンのレント・コン・グラン・エスプレッシオーネ、幻想即興曲、子守歌、舟歌、リストの悲しみのゴンドラ第2番、波を渡るパオラの聖フランシス、ドビュッシーの月の光、ヘンデルのメヌエット。

やはりというべきか、この人は大曲より、小品を弾くことで作品に可憐な真珠のような輝きを与えるタイプだと思いました。ただ大曲でも、波を渡るパオラの聖フランシスはよく弾き込まれていて感心させられ、逆に舟歌などは作品の重量が意図的に削り落とされたような印象でした。
幻想即興曲は全体に雑な印象で、これほど誰でもが知っている曲は、弾く側もそれなりの準備がなくては却って不利になると思われます。いっぽうドビュッシーやヘンデルでは、ケフェレックの小兵故のハンディが出ず、もっぱら彼女のセンスの良さで聴かせる佳演でした。

月の光は、技術的にも困難ではなく、これまた超有名曲のわりには満足のいく演奏がなかなかない作品だと思いますが、ケフェレックのそれはフランス人らしい趣味の良さと、いわばネイティブの響きが俄然光りました。
しっとり歌う部分とサラリと流す部分、音を滲ませる部分と個々の音の輝きを強調する部分、アクセントをつけてはならない部分とつけるべき部分の見極めなどがいちいち的を得ているのは、さすがというべきで、この曲を弾く、多くの人が学ぶところの多い演奏でした。

ショパンは全体にあまりにさらさら流しすぎて、せっかくの凝った響きや音型がすっとばされていくようで、もうすこしショパンが作品に込めたひとつひとつの端正な言葉とか精緻の限りをつくした音の組み立ての妙を味わわせてほしいという不満が残ります。

その点で、リストは演奏者に与えられた自由度が比較にならないほど広いことを実感します。
白状するなら、どちらかというとマロニエ君はあまりリストが好きなほうではないというか、率直にいうと苦手なのですが、その中では、この日弾かれた2曲は比較的嫌いではないほうの作品です。

むろんリストが音楽史の中で果たした功績の大きさ、とりわけピアノを語る上では欠くべからざる存在というのはわかっていても、理屈でなしに苦手なものはやっぱり苦手なのです。

画家にもありますが、並外れた才能と卓越した筆致力はあるとしても、片っ端から多作乱作するタイプというのがあって、なんだかそういう要素を感じます。フェルメールのように作品が少ないのも残念ですが、やたらと数ばかりが必要というものでもありません。
レスリー・ハワードというピアニストがリストのピアノ作品録音をしていますが、その数なんとCD約100枚ですから驚くべき作品数で、これでは個々の作品に手間暇をかけているわけにもいかなくなるでしょうね。

詳しい方からは叱られるかもしれませんが、この2曲も終始大げさで芝居がかったようで、リストの作品にはある種のいかがわしさを感じてしまうのです。ものものしいわりに途中で何をいいたいのやらわからない意味不明な時間が長く続き、ようやくなにかが見えてきたと思ったらそれが押し寄せるクライマックスと解放といういつものパターン。

よくわからないのは、フランス人というのはおよそフランス趣味とはかけ離れたリストを採り上げる機会が意外に多いという点です。メルセデス・ベンツとか、もっと昔はキャディラックなどを口では大いに軽蔑しながら、実際はそれらをとても好むという一面をもっていましたから、同じようなものかとも思います。
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乱乱

クラシック不況というのをやたら耳にする昨今ですが、そんな実情を表しているように感じるのが、西洋音楽の本拠地であるウィーンやパリで近年催される一見派手な野外コンサートです。

ベルリンフィルなどは以前からやってはいましたし、イタリアでもヴェローナの野外オペラなどがありますが、ここ最近の新しい野外コンサートは、どうも趣が少々違っているように感じられて仕方がありません。

先日もエッシェンバッハ指揮のウィーンフィルで、『シェーンブルン夏の夜のコンサート2014』というのをやっていましたが、こう言っては何ですが、派手さだけが売り物の大イベントというだけで、およそ良質の音楽を聴くためのコンサートとは思えません。

あのシェーンブルン宮殿を上品とは言いかねるライティングで染め上げ、オーケストラの入る透明屋根の小屋とその周辺の作りは、ほとんど安っぽいサーカスのようで、ウィーンの至宝であるウィーンフィルがこんなことをやらざるをえない状況というのが、なにより現在のクラシック音楽の置かれた状況を物語っているようです。

プログラムの中ほどにリヒャルト・シュトラウスのブルレスケがあって、ピアノは〝またしても〟ラン・ランでした。
オーケストラも指揮者も、そしてピアニストも、だれも本気で演奏している気配はなく、この異色の作品が、お気楽で平面的な音の羅列に終わっていることに驚かされます。
この難曲を安全に進めるためか、テンポもマロニエ君の耳には遅めでキレがなく、ラン・ランも以前にくらべてもいよいよその演奏は粗製濫造の気配を帯びてきたように感じます。

エッフェル塔の下で似たような野外イベントがあったときもやはりラン・ランがソリストで、この時のラヴェルのコンチェルトはほとんど破綻していて、それなのに、なんでこの人ばかりにオファーがあるのか不思議でなりません。
もはや演奏の質や音楽性などどうでもよく、ただ知名度のあるタレントであることだけが必要ということなのでしょう。

シェーンブルン夏の夜のコンサートで驚いたのは、ピアノの詰まったような、音とはいえないような音でした。
よく見ると、鍵盤サイドの右手(客席側)に水滴のようなものがあって、よくよく目を凝らしてみると、やはりそれはまぎれもなく水滴であったのは「まさか!」という感じでした。
ピアノが置かれる前縁は雨が降り込んでくるのか、ボディもあきらかに濡れてサイドのSTEINWAY&SONSの文字のあたりはキラキラ光っているほどで、さらには大屋根の傾斜に沿って水滴がザーッと斜め下に落ちているのも確認できました。

マロニエ君も数多くスタインウェイを使ったコンサートや映像を見てきましたが、ピアノが雨に濡れながら演奏される光景は初めて見ましたし、なんというか…とても嫌なものを見てしまった気分でした。
きっと今のピアノは材質も昔のそれとは違い、おまけにボディ、響板、フレームなど大半の部分がほとんどコーティングのような分厚い塗装をされていて、もしかすると濡れても大した問題ではないのかもしれません。…が、やっぱり見ていて強い嫌悪感を覚えました。

のろのろテンポのブルレスケのあとは、アンコールにモーツァルトのトルコ行進曲を弾きましたが、こちらは打って変わって超ハイスピードの、ほとんどやけっぱちみたいな演奏で、名前を乱乱と変えたほうがいいような、そんな雑な演奏ぶりでした。

宮殿の庭に陣取る大勢のオーディエンスは、おそらく本気で音楽を聴きにきた人々ではなく、大半が観光客などであろうとは思います。
世の中、むろん経済発展は大切ですが、だからといって文化がここまで身を落として蹂躙されるのは納得がいきません。
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天才のゆくえ

いまからおよそ30年近く前、キーシンの登場をきっかけとして、いわゆる「神童ブーム」というものが湧き起こったように記憶しています。

パッと思い出す代表的な名前だけでも、エフゲーニ・キーシン(P)、コンスタンツィン・リフシッツ(P)、セルジオ・ダニエル・ティエンポ(P)、ヴァディム・レーピン(Vl)、マキシム・ヴェンゲーロフ(Vl)、五嶋みどり(Vl)、サラ・チャン(Vl)、マット・ハイモヴィッツ(Vc)などで、まだまだ忘れている名前がたくさんあると思います。

こうした神童ブームは、声楽の世界にも及んで、アレッド・ジョーンズなど天才と呼ばれる少年が幾人か含まれていましたが、その中で破格の才能を示していたのがアメリカのベジュン・メータでした。

彼を知ったのはデビューCDを購入してみたことで、そこにはヘンデルやブラームスの歌曲が収められており、記憶違いでなければ収録時の年齢はたしか14、5歳ぐらいだったと思います。

天才少年少女達は、とてもそんなティーンエイジャーとは信じられないような老成した音楽性とテクニックで世間の注目を集めたものでした。そんな中でベジュン・メータの何が特別だったかというと、すでにこの歳にして人間の憂いと悲しみ、そして人の心の中にわだかまる深いものを見事に演奏に投影していた点だと思います。

とくに歌には歌詞があり、歌詞は器楽曲に較べると楽曲の意味するものに、言葉という具体性が附随しています。そこに多く語られているものは、愛と悲しみ、歓喜と絶望であり、それはつまるところ人間の抗うことのできない宿命のようなものを土台としています。

ベジュン・メータは歌唱力という点においても格別でしたが、それに加えて彼の天才を最も表しているのは、すさまじいばかりの表現力で、そこには他の追従を許さぬ圧倒的なものがありました。繊細かつ大胆、聴く者の心の中に手を突っ込まれて縦横無尽に引き回されるようでした。

ところがマロニエ君がベジュンを聴いたのはこの十代の頃のCD一枚きりで、その後は名前も耳にしなくなったので、とても気になっていました。

ロシアに、アリーナ・コルシュノヴァといったか…、闇夜に一条の蝋燭の火が灯るような暗い雰囲気を持ったピアノの天才少女がいて、彼女のデビューCDを聴いたときも、その鳥肌の立つような世界に圧倒されたものでした。

ショパンの嬰ハ短調のワルツなどは、マロニエ君はこれ以上の憂いと美しさに満ちた演奏を聴いたことはなく、いまだにこれを凌ぐ演奏に出会ったことはありません。
このとき彼女はたしか十代前半で、この先どんなふうに歳を重ねていくのやら、無事に大人になることができるのか想像ができず、まさに天才ならではの心の闇と悲劇性を一身に背負ったような少女でした。

案の定、その後、彼女の名前やCDを目にすることは一度としてありませんから、きっと何かが彼女の身の上に起こったのではないかと今でも思っています。

そしてベジュン・メータの場合も、ぱったりとその名を聞くことがなくなり、同様の危惧を感じていました。
ところが少し前にBSで放送されたグルックの『オルフェオとエウリディーチェ』でタイトルの写真を見たとたんアッと思いました。主役のオルフェオはすっかり大人になったベジュンその人で、昔とほとんどかわらぬカウンター・テナーとなって見事な歌唱を聴かせました。

十代の頃の美質はまったく損なわれることなく、その存在感は何倍にもなったようで、まさに圧倒的。この古典の名作オペラにもかかわらず、まるで彼一人が際立ち、他は添え物のようでした。
彼が歌うと、そこには得体の知れないエネルギーがあふれ、あたりには一陣の風が巻き上がるようでした。
まさに感銘の再会で、ひさびさに深い満足に浸ることができました。
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ルールと平等

先日もニュースで言っていましたが、最近はとにかく音楽CDが絶望的に売れないのだそうで、そんな話を聞くと、こちらまで暗い気分になるものです。

むろんこれはポップスなどの最も高い人気と購買力のあるジャンルでの話です。それをなんとかして販売へと結びつけるため、さまざまなイベントと抱き合わせにするなど、業界でも必死の知恵を絞っているのだとか。
もとよりクラシックなど、すでにものの数にも入っていないのでしょう…。

そんな世相の中、マロニエ君はCDだけは良く買うほうだと思いますから、この点だけは業界から頭のひとつも撫でられていいような気がします。購入はネットもしくは店頭の新品が主流で、中古品はよほどでないと買いません。
べつに潔癖性で中古が嫌だというわけでもないのですが、期待するほど安くもないことと、新品のほうがショップの情報や在庫の整理整頓などが洗練されており、要は見やすい探しやすいというのが一番の理由かもしれません。

ところが廃盤になっているCDの場合は、やむを得ずアマゾンやネットオークションで中古品を探すことになります。

最近も欲しいものが廃盤となっていたところ、幸いオークションで見つかり、購入しようと詳細を読むと、2品以上購入すると送料無料になると書かれています。
終了日までにはまだ幾日もあるし、同じ出品者のその他の商品を見てみると、どうやら業者のようで、実に5〜600枚ものCDが出品されています。

これだけあれば欲しいCDはあるだろうと思い、他日あらためて腰を据えて全商品を見てみた結果、まあそれなりに興味を覚えるものがいくつか見つかり、ざっとリストアップすると計9点ほどになりました。

そこで出品者にメールして、これだけの点数をまとめて購入したいと伝えたところ、先方から返事があり、商品は二週間取り置きができるという内容でした。
そうはいっても、9点もの商品をひとつひとつ連日連夜、パソコンの前に張り付いて落札していくのも大変だし、そこまでの気力もないので、できたら一括購入したい意向であることを伝え、検討をお願いしました。

ちなみに数百点の出品に対して、冒頭のごとくCD不況のせいか、入札されているのは数えるほどまばらで、そのほとんどが最低価格もしくはそれに準ずる価格で終了するように見受けられました。
もしマロニエ君が出品者だったらめげてしまうくらいでしたから、感覚的に一括購入はすぐに応じてくれるだろうと、なんとなく思っていたのです。

ところが再び届いた返信には、前置きもなく「オークションのルールにそって、皆さんに平等に参加して頂いております。」とにべもなく書かれており、その情感のひとかけらもないロボットのような反応には唖然としました。
できないならできないで、言葉の選びようもありそうなものだと思います。

とりわけ心外だったのは「ルールにそって、皆さんに平等に」というくだりで、これは購入希望者に対してほとんどお説教です。いきなり相手にこういう物言いをする人というのは、基本のところで何か大きな勘違いをしており、現代はこの手合いが蔓延していると思いました。

こういう人に限って、自分ではルール通りの正しい対処をしているつもりでしょう。
さらには、そちらに同調する人も結構いるはずで、こういう殺伐とした感性の前では人情の機微など一文の値打ちもないのでしょうし、そもそもそういうものの存在すらご存じないと思います。

いっぺんに気分も冷めて、ウォッチリストもすべて白紙撤回しました。
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ハズレの機械

マロニエ君は体質的な事情もあって、ピアノに勝るとも劣らないほど湿度が苦手です。

当然ながら梅雨は人一倍苦手で、慣れるということがありません。今年は全国的にも大雨の被害が続出、それにともなって猛烈な湿度に見舞われました。この梅雨という名の長いトンネルをくぐり抜けるだけでも毎年の大仕事となっています。

ようやく梅雨明け宣言が出されたと思ったら、今度は入れ替わりにサウナのような猛暑となり、厳しい自然の試練に翻弄されるのは大変です。

そんなマロニエ君は、かなり重度のエアコン依存症であることはずいぶん前に書きましたが、もはや快適器具という枠をはるか飛び越えて、気持ちの上では生命維持装置のような趣です。

そんなに大切なエアコンですが、自室のエアコンは使い始めて10年ほどになり、信頼性バツグンの筈の日本の有名メーカーの製品であるのに、これが完全にハズレの機械でした。初めの2〜3年こそ問題なく使ったものの、その後は故障が頻発。水漏れしたり、冷房能力が低下したりの繰り返しで、そのつど修理依頼となり、メーカーの修理担当者と顔なじみになるほどでした。

修理代も馬鹿にならず、一度などはコンデンサーだかなんだか名前は忘れましたが、主要な部分の全交換などという事態にまで発展するなど、このエアコンに関する限り、高い信頼性を誇る日本製品とはほど遠いもので、いつも不安でだましだまし使うという状況が続いていました。

そしてついに恐れていたことが、最も困るタイミングで起こりました。
他の部屋の温度に較べて、いやに自室だけどろんとした効き方をしているなあと思ったら、その翌日には明らかに冷房力が低下していることが判明。
しかしこの日は事情があってどうしても動きが取れず、やむを得ずそのまま我慢しましたが、次の日にはさらに状況は悪化して、廊下との温度差もごく僅かとなりました。

とっさに不安を覚えたのは、梅雨明け早々の連日34〜5℃という猛暑の中、エアコン業者はどこも終日出払っているだろうということ。
以前我が家全体のエアコン工事をしてくれた業者に連絡しますが、予想通り、この猛暑のせいで電話に出る暇もないほど忙しいようです。どうにか電話は繋ったものの、案の定予約はびっしり、まさに東奔西走の毎日で、お店などは閉店後の作業開始となるのだそうで、寝る暇もない極限的な状態が続いている由で、今日明日はどうにもならないようです。

仕方なく、メーカーに電話をして出張修理の予約だけはとりつけたものの、あぁ、また場当たり的な対処をされたところで先が見えているし、それで今年の夏を安定的に乗りきれるかとなると、甚だ不安です。もう10年もこのエアコンを我慢して使ったのだから、もういやだと思い、この際買い換えることを決断しました。

善は急げとばかりに、あちこち電気店などに電話しましたが、工事に来てくれるのは早くても5日から一週間かかるらしく、それではとてもこっちの身体がもちません。
これは大変なことになったと、こんなときこそネットを駆使して業者を検索しまくり、電話をしまくりました。どこも似たような状況でしたが、一件だけ「明日の午後なら空きがありますから行けます」という真っ暗闇に一条の光を見るような声を聞きました。

ところが「機械はお客さんのほうで準備されているんですよね」と普通にいわれ、「えっ?いえいえ、してませんが」というと、なんでも最近はネット通販で機械を安く購入し、取り付けだけを依頼してくる方がほとんどだというのには驚きました。
機械もそちらでお願いしたいと云うと、それはすんなり手配してくれることになりました。
その翌日、マロニエ君の自室の壁に10年間へばりついていた薄汚い室内機はついに役を解かれて下に降ろされ、代わりに真っ白な新しいエアコンが取りつけられました。寸法は僅かに小さくなっていますが、冷房能力はひとまわり強力だそうで、そのピカピカした感じがなんとも頼もしげです。

それにしても、本体価格、古い機械の取り外し、新規取り付け、外した機械の処分やリサイクル費用などを含めても、望外の安さであったことは驚きでした。こんな値段なら、あんなに修理を重ねてきたこの数年間はなんだったのだろうと、その間の不愉快と手間暇と出費を考えるとドッと疲れがこみ上げますが、ともかく今は新しいエアコンがサワサワと冷風を送ってくれるので救われます。
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現代の優位性

楽器としてのピアノの質が材質と製造の手間暇につきるのだとすると、現代のピアノの優位性は無いと云うことなのか…。

優れたピアノを作るための基本的要素が、好ましい材料(天然資源)と、それを理想的に組み上げる人の手間暇(人件費)だとすると、いずれも今の時代に背を向けるような、効率重視の価値観にはまるでそぐわないものであることは明らかです。

手間暇に関しては、あとから技術者の努力によってまだしも挽回できる部分があるとしても、材質に関しては生まれもつものなので打つ手がありません。

とりわけボディを構成する材料は、そのピアノの生涯にわたる価値と個性を決定するもので、これはいったん作られてしまうと後手を差し込む余地がありません。したがって粗悪な木材や代用品など安価なまがい物で作るという方針である以上、どれほどの高度な技術を投入しようとも、本質に於いていいピアノができる筈はないと見るべきでしょう。

したがって木材や羊毛など優良品の確保が難しい現代では、ピアノの品質低下は当然の成り行きと云えます。この点に於いては少量生産のごく一握りの例外を除いて、ほぼすべてのピアノに見られる傾向だといえるでしょう。

どれほど技術の粋を凝らしても、好ましくない素材や工法で作られたピアノは、表面的な美しさや弾きやすさで一時の気を引くだけです。無機質で優秀な工業製品としての色合いが強まり、楽器の要素を大胆に手放してしまっているという事実は否めません。

ピアノには、天然素材を必要とするという前提が横たわっている限り、いかにテクノロジーが飛躍を遂げようとも、黄金期のそれを凌駕することは本質に於いてないのでしょう。

では、黄金期のピアノより現代のほうが優れている面がまるきりゼロかというと、必ずしもそうとも思いません。

たとえば廉価品のピアノに関して云えば、実はマロニエ君もよくは知らないのですが、昔のピアノの安物ときたらそれはそれは酷いものがあったようです。技術者が唖然とするような構造であったり、ほとんど冗談みたいなちゃちな作りのピアノも多々あったと云いますから、その点で云えば、すくなくとも量産ピアノの構造や品質は飛躍的に上がっているように思います。

高級品まで含めた範囲で云うなら、現代のほうが優れているだろうと思える部分は鍵盤からアクションに至るセクション、すなわち機械的部分ではないかと推察できます。アクションは要するに小さくて精密なパーツの集合体であり、それらの正確な作動は、つまるところ箇々のパーツの精度に行き当たります。

こればかりは、手作りや職人芸を尊ぶことより、機械による均一で精巧なパーツであることがなにより重要な分野だと考えられるからです。その点ではコンピュータによる正確な図面、さらには人の手の及ばぬ精巧無比の仕事をする工作機械の登場によって、昔とは比較にならないレベルへと向上した筈です。

おそらく昔のピアニストは、アクションやタッチに関してはかなりの妥協を強いられていたのではないかと思われますし、グールドなども現代のアクションがあれば晩年のピアノ選びの苦労はなかったのではと思われます。

と、ここまでは技術者的見地の話ですが、では、あまりにむらのない、限りなく完璧に近い理想のアクションがあったとして、それが即、芸術的演奏に直結するのかというと、これはまた別の話のような気がするわけで、かくも楽器とは難しいものということでしょう。
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趣味というもの

「趣味」というものの正しい定義や概念は未だによくわかりません。

少なくとも実用とは一線を画したものであることは間違いなく、余人から見れば無駄な、非生産的な、精神や情熱をむやみに濫費するもので、場合によっては愚かな行為であることだとさえ見なされかねません。

岩波の国語辞典(広辞苑が階下にあるので)によれば、趣味は『専門としてでなく、楽しみとして愛好する事柄』とあります。もちろんそれが高じて職業になる人も中にはおられますが、それはあくまで結果であり、そもそもの成立事情としては衣食住から外れた「楽しみ」が大前提です。

趣味は、実利とは無縁の世界の内奥に分け入って、楽しみの回廊をさまざまに歩き回ることにあるともいえるでしょう。いわば純化された情緒が主役となる世界で、こればかりは定年後時間ができたから何か適当な趣味を持とうか…というほど、趣味の扉を開くことは簡単なものではありません。
多くの場合、それなりの知識、経験、感性、努力、そして尋常ならざるエネルギーが必要で、しかもそれは趣味である限り一文の得にもなりません。

趣味とは、正当性や客観的価値と一切無関係に存在し、無駄を山積みにし、せっせとそれに向かって奉仕することそれ事態が喜びであるというところに、真の価値があるのだと思います。

いうまでもなく趣味はお金で安易に手に入れることはできず、手間暇のかかるもの、いや、手間暇そのものを楽しむものだともいえるでしょう。そこに一朝一夕には到達できない深さがあるわけで、だから価値があるのかもしれません。一見無駄だらけに見える趣味ですが、物事の真髄に触れるという点では、趣味を通じて学ぶことの多さという点でもきわめて偉大な教師にもなりうると思います。

趣味をお金で買うことはできないけれども、趣味のためにお金を使うことは必要なことだというのがマロニエ君の持論です。金額は人によって違うでしょうが、その人にとってかなりきわどい出費を趣味に投じることができるかどうか…ここがポイントのような気がします。

実はマロニエ君の知り合いで、音楽趣味が高じて近年ヴァイオリンを始められた方がおられます。それなりの良い楽器を買われたということは聞いていましたが、ごく短期間のうちにグレードアップして、なんとクレモナの新作ヴァイオリンへ買い換えられたと聞いて驚きました。

しかも、その方は持論として「分不相応な楽器を持つこと」への疑問をお持ちの方だったのですから驚きもなおさらでした。その「分不相応な楽器不要論者」の方が、自説をかなぐり捨てての購入だったわけで、マロニエ君はそこがいかにも趣味人としておもしろいじゃないかと思いました。

たしかに、まともに理屈で考えれば初心者からせいぜい中級レベルの腕しかない者が、名器云々というのはナンセンスでしょう。しかし、趣味人が冷静な理屈だけで心がおさまるかといえば、そんなことはあるはずがないのです。だって趣味なのですから!
技量と道具のバランスを計るべきは、むしろプロのほうかもしれません。

したがって、趣味が真っ当な正論の範囲にちんまり収まっている限り、その人の趣味は趣味であるかどうかも疑わしいとマロニエ君は思うのです。
出費や犠牲を厭わず、趣味にへの熾烈な欲求があることも趣味人の特徴のひとつで、実際にそれだけの気構えがあるかどうかという点でも、趣味に対する覚悟のほどが窺われます。

マロニエ君の知人に鉄道マニアがいて、彼は全国のすべての鉄道を乗るためだけに、休みの大半を使って年中旅をしていました。しかも上下線すべてというのですから、まったくもって恐れ入るところ。

ただ「好き」というだけでは、なかなかできることではない次元の話です。
趣味はある種の壮絶と孤独が混ざり込んできたとき、真の輝きを放つものかもしれません。
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Bの魅力

ラ・フォル・ジュルネ音楽祭の音楽監督、ルネ・マルタンによるレーベル「MIRARE」からリリースされる、アダム・ラルームというピアニストの弾くブラームスの作品集のCDを購入しました。

中を開けてみると、ジャケットの最後の頁に掲載されている写真は、以前から見覚えのあるもので、「ああここか」と期待とも落胆ともつかない思いが込み上げてきました。
見覚えというのは、以前買ったアンヌ・ケフェレックによるヘンデルやヌーブルジェのハンマークラヴィールのCDがここで収録されたもので、フランスのヴィルファヴァール農場 (la Ferme de Villefavard) というホールに於ける録音です。

農場という言葉から推察されるように、見るからに巨大な納屋だか倉庫だかを音楽ホールに作り替えたとおぼしき施設で、レンガの壁とむき出しの梁などがいかにも無造作で、おもしろいといえばおもしろいけれど、こういう危うい取り合わせには絶妙なセンスが必要で、ヨーロッパならではのものだと思います。

彼の地では、それだけの文化的土壌を拠り所として「なるほど」と感じるものがありますが、近ごろは日本でも田舎の古い家屋などを改修し、そこで拙い商売やイベント開催といった事が流行っているようですが、あれはどうも個人的には馴染めません。
むろん中には稀にいいものもあるのかもしれませんが、多くはコンセプトもなにもない素人の趣味の延長のような趣で、当事者だけの自己満足の域を出ていない印象です。


話が逸れましたが、ヴィルファヴァール農場のホールには比較的新しいスタインウェイのBがあって、音響の素晴らしさなどから、ここでいろいろなコンサートや録音が行われているようです。

響きはたしかにクリアでひろがりのある素晴らしいものだと感じますが、ピアノの音があまりにブリリアントなキラキラ系の音で陰翳がなく、それがちょっと好みではありません。
ひとつひとつの音が磨かれたように美しいのは結構なようですが、まるで屈託のない美人みたいな音で弾かれると、どことなく作品が浅薄な奥行きのないものに感じてしまいます。また、ピアニストの演奏から出てくる表現の妙なども聞こえづらく、俗っぽく聞こえてしまうのは残念な気がします。

これはケフェレックのヘンデルでも同じような印象がありました。
このディスクは極めて高い評価を得ているようですが、マロニエ君にはキラキラした音の羅列ばかりが耳について、演奏そのものへ意識を向けるのに難渋した記憶があります。
(ヌーブルジェはベートーヴェンの収録に際してはヤマハを運び入れているようですが)

それはそれとして、スタインウェイのBは完結した個性を有する素晴らしいピアノだと思います。音の輝きや表現性はそのままに、全般に響きがコンパクトで、これが弾く側にも目配りが利いて扱いやすいのか、いわゆるまとまりが良いと評される所以だと思います。

B型で収録されたCDというのは滅多にありませんが、ピアニストがより内的な表現を目指す、あるいはDの響きが過剰というような場合に、これはひとつの賢明な選択のようにも思います。
音色自体もピアノのサイズからくる軽さと親密感があり、コッテリ系を嫌うフランス人などは状況に応じてこちらを好んでも不思議ではないと思います。

オーケストラでいうと室内管弦楽団のようなキレの良さで、よりピアノらしくもあり軽い身のこなしが身上というところかもしれません。
大規模なステージではDが欲しいところですが、このように静寂の中へマイクを立てて行われる録音では、Bは私的でデリケートな音楽作りを可能にしてくれるのかもしれません。
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コンビニスイーツ

世の趨勢に反して(いるのかどうか知りませんが)、マロニエ君は自分の日常生活の中ではコンビニを利用することはほとんどありません。
食料はスーパーその他で買うし、基本的に感性が合わないのだと思います。

ところが、ここ数年でしょうか、コンビニで売られているデザートというか、要はスイーツのたぐいが美味しくなったと口々にいわれるようになり、はじめの頃は半信半疑でしたが、騙されたつもりで買ってみると、たしかに…と思うようになりました。

その後はさらに進化して、かなり本格的な商品が並ぶまでになりました。
はじめはコンビニ会社によっても美味しさに優劣があったようですが、最近は競争もよほど熾烈なのか、しだいに克服されて、おおむねどこで買っても似たようなものが買えるまでになったように感じます。

こうなると、どの店でもそれなりのスイーツが時間を問わず街のいたるところでパッと買えるという環境があることは、たしかに魅力だと思いました。

というわけで、一時はいい気になってかなり頻繁に買ってみたのですが、そのマイブームは意外にも早々に終息を迎えることになります。
ちょくちょく食べていると、だんだんその実体がわかってくるもので、さすがは横並びの日本だけのことはあり、どこも似たり寄ったりで味も結局はウソっぽく、種類も価格も拮抗しています。
人によっては印象も異なるかもしれませんが、少なくともマロニエ君はたちまち飽きてしまいました。美味しいものは常習性がありますが、不思議にそれがありません。

はじめのうちは、コンビニとは思えないような贅沢さが演出されていて、いかにも本格派のような風情ですが、いずれもうわべのものでしかないことが判るのにそう時間はかかりません。クリームなどもあきらかに安い植物性のものだし、使われている素材もCMなどでは尤もらしいことを言っていますが、嘘にならないぎりぎりのところだろうと思われます。

こういうことは、食べているときはもちろんですが、とくに顕著にわかるのは食べた後の「食後感」にあらわれきます。いかにもまがい物を食べたようだという、うっすらした不快感と後悔が心に漂います。

徹底的なコスト管理はもちろん、運搬に耐えるだけの形状やパッケージ、さらには売れ残りも前提として価格が決定されるのでしょうから、そう思うと廃棄される分まで販売価格に上乗せされたものをまんまと買わされているのかも…。
ひとたびそれを感じ始めると、パティシエの味覚や技術どころではない、企画書と試作品と会議室とボールペンで作られた巧妙な製品というイメージで頭が一杯になってしまいます。

価格もいかにも良さげな印象を与えるべく計算され尽くしたもので、高くもないが安くもない。とりわけ内容に対する、コストパフォーマンスは大いなる疑問で、あれだったらもうちょっとがんばって普通のケーキ屋で買ったほうがどれだけ満足は大きいかと思うわけです。

それにしてもここ最近のコンビニの数の増え方は尋常ではないですね。
なにかの建物がなくなって更地になっていたかと思うと、そのうち工事が始まり、大抵はまたひとつ新しいコンビニが姿をあらわします。

こんな現象は日本中の都市圏ではどこも同じだろうと思いますが、それだけ需要があるということなのでしょう。
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コスト戦争

ピアノ選びや優劣論で話題となるのが、品質に関するものではないかと思います。

音色の好みを別とするなら、ピアノの品質とは何が違うかといえば、優れた設計、使用される材料の質、そして製造・仕上げの手間暇につきるのではないかと思います。

極めて夢を削ぐ話ではありますが、ピアノという楽器は、非常に多くの制約と妥協の中で産声を上げている製品ということは間違いありません。それは主に需要とコストという実利的な問題に縛られ、それらは絶え間なくピアノ生産の在り方と方向性に重くのしかかる最重要課題だからです。

多少なりとも最高級品に許されるのは、まずはコストの余裕でしょうが、それとても「金に糸目はつけない」というようなものとは程遠い、常に厳しい制約がかかっている枠内での相対的な話です。

さらに制約のレベルが一気に引き上げられるのが量産ピアノです。
どれほど有名メーカーの高品質な製品とは云っても、それは表向きのこと。根底にある製造上の思想は、「いかに徹底して安く作るか」というひと言につきるのだと思います。
言い換えれば、ブランド力を損なわないギリギリのラインで、どこまで品質を落とすことができるか、その限界点を探ることが量産ピアノ製造の最大の使命であり、そのためのあらゆる試行錯誤がおこなわれていると云っても過言ではないでしょう。

日本の大手メーカーは、とりわけ優良な量産ピアノ作りの面では、世界的にも先駆者の部類であることは自他共に認めるところです。その技術力は大変なもので、現在ではありとあらゆるノウハウを知悉しているはずです。

「ブランド力を損なわずどこまで品質を落とすことができるか」という、高度な課題に日々取り組んでいるということは、逆に云えば、良いピアノはどうやったらできるかと云うことも、彼らは百も承知のはずです。

真に芸術的なピアノということになれば容易なことではないにしても、普及品のピアノをそこそこランクアップさせる程度ならわけもないことです。
すべてが必要最低限の品質で作られているとすれば、そこにわずかでも付加価値を作り出すのは造作もないことでしょう。

好ましい材料をふんだんに使って、手間暇を惜しまず、細心の注意を払って組み立て、いかようにも時間をかけて調整すれば、設計に欠陥でもない限り、それなりのピアノには間違いなく仕上がる筈です。

とりわけ、理想的な響板と旧来の工法によるフレームなどは今日のピアノの多くが手放してしまったものでしょうし、木材やハンマーのフェルトなどもしかりで、かなりの部分は解明できていても、それが実践で使えないだけという状態だろうと思います。

彼らの叡智は利益率の良い、優秀な商品を作ることへ多くのエネルギーが注ぎ込まれているというのが現実ですが、これはピアノに限らず、工業製品というものには、コストに対する非道なまでの要求がついてまわり、現場と営業サイドとの確執は、常に後者が勝利であるようです。

イタリアのFなどがこれほど躍進できているのも、現代は真の意味での高級ピアノ不在の時代環境だからこそ、そこにあえて手間暇のかかる正攻法を貫いてみせた鮮烈さの結果だとも感じてしまいます。
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エデルマン

オクタヴィア・レコードからリリースされているセルゲイ・エデルマンの演奏がすこぶる高評価のようで、そんなにいいのならちょっと聴いてみようと購入しました。

曲目はショパンのバラード全曲、舟歌、幻想曲、幻想ポロネーズという重量級の主要作品ばかりをドーダ!といわんばかりに並べたもの。
バラードの1番からして、いやにものものしい入りで、ひとつの予感がかすめます。

いわゆる既存のショパン観に一切とらわれることなく、「純粋に楽譜に記された音符を音楽として起こしたらこうなる」という主張を込めたような演奏で、現代のショパンによくあるパターンだと思いました。

ショパンを少女趣味のメランコリックな音楽のように捉える愚かの向こうを張って、詩情を排し、むやみに構造的で、劇的で、マッチョに仕上げられたショパンというのも、所詮は少女趣味の対極に視点を移したというだけで、その履き違えという点では五十歩百歩だと思います。

糖尿病の食事療法ではあるまいし、ショパンの作品から「甘さ」を徹底除去して、内装材を剥ぎ取って、構造物の骨組みばかりを見せるような演奏がこの偉大な作曲家の真髄に迫ることができるというのなら、いささか短慮ではないかと思います。

打鍵もむやみに強すぎるし、語り口にもくどさがあり、まるで大仰な芝居の台詞まわしのように聞こえてしまいます。ショパンがこういう演奏を歓迎するとはとても思えません。

すっかり忘れていましたが、そういえばずいぶん昔、東京でエデルマンのリサイタルに行ったことがありました。長身で、まるでスローモーションを見ているような一風変わったステージマナーであったことが印象にあるのみで、何を弾いたかまるで覚えていません。

オクタヴィア・レコードは、その音質のクオリティが高く、オーディオマニアの間ではたいそう有名なんだそうですが、マロニエ君はそっちの方面はてんで不案内で、もうひとつその真髄がよくわかりません。

たしかに素晴らしいと感じる、充実した音質を楽しめるCDがある一方で、えっ?というような、とても高音質がウリのCDとは思えないようなものもあって、いうなればむらがあり、一貫した方向性が定まっているところまでは行っていない印象です。
今回のCDは、録音はすごいとは思うものの、いかんせんピアノが近すぎて生々しく、さらに強打の連続とあっては、かなり耳が疲れるアルバムだったと感じました。ところが、伊熊よし子氏の解説には「ショパンコンクールでは若手ピアニストは攻撃的な演奏する」「戦闘的な演奏は耳を疲れさせる」ということを引き合いに出し、それと対比させるように、このCDの演奏を「耳が疲れず、心が浄化される」とあったのにはエエー!と驚くばかりでした。

それでもピアノは少し前のコクのある音をもった好ましいスタインウェイで、ここはせめて楽しめたところでしょうか。
とはいえ、演奏と録音が生々しいぶん、まるでハイビジョンで人の顔の皮膚を見るようで、ピアノがいささか迷惑がっているようにも聞こえます。もう少し詩的な演奏と広がりのある録音であってほしかったけれど、どうもエデルマンはピアノの音の最も美しいところを察知しながら弾くことはなく、あくまでも自身の気迫と打鍵だけで構わず押してくるので、ピアノにストレスがかかり、しばしば音がつぶれ気味になるのは残念でもあり、マロニエ君には「耳が疲れ、心が圧迫される」演奏でした。

でも、矛盾するようですが、久しぶりにいい楽器だなぁという印象が残りました。
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カテゴリー: CD | タグ:

二つの自衛権

時事問題の放言番組である『たかじんのそこまで言って委員会』では、折あるごとに旬の話題である集団的自衛権の行使がテーマとして取り上げられます。

ここで政治問題に言及するつもりはありませんが、レギュラーコメンテイターの竹田恒泰氏がおもしろいことを言いました。
彼は議論も煮詰まったころにお笑いでオチをつけるというのがお得意のスタイルのようです。
正確ではありませんが「最近ですねぇ、これぞ集団的自衛権の典型というべき事例が、なんと国内で起こったんですよ」というような前置きをつけて、話をはじめました。

マロニエ君も覚えがありますが、どこだったか野生の熊が出没して人を襲おうとしたところ、連れていた犬が果敢にも熊に挑みかかり、自分も軽傷を負いながら見事に熊を退散させたというニュースがありました。
竹田氏は、その犬の取った行動こそ集団的自衛権の行使であり、これを「集団的自衛犬」と韻を踏んで一同を笑いに引き込みました。
上手いことを言うもんだ感心ししました。

ほぼ同じ頃、NHKのBSで1984年制作の『ゴジラ』が放映されて、さらに同時期、伊福部昭のゴジラの音楽を採り上げた番組もやっていたので、ちょっと録画しておこうという気になり、それらを見てみました。

なんと、すでに30年も前の映画であることに愕然としましたが、たしか有楽町マリオンが竣工したばかりで、それをいきなり壊してしまうゴジラの暴れっぷりと、マリオンの鏡のような外壁にゴジラが映るところが当時話題だったことを思い出しました。

ゴジラ映画では毎度のことですが、この未曾有の事態に時の内閣や科学者が総出で知恵を絞り、いわば一丸となって日本を救おうとする人々の姿が描かれます。
そこには左傾も市民運動もありません。
当然のように自衛隊には出動命令が下り、陸から空からゴジラめがけて雨あられのごとく発砲しまくりですが、悲しいかなゴジラの圧倒的な強靱さにはまるで歯が立ちません。

昔はちっとも思いませんでしたが、近ごろのように集団的自衛権が取り沙汰され、自衛隊の軍事活動に対する憲法上のくびきがあると、これほど抵抗も躊躇もなく自衛隊が堂々と表に出てきて、人々を守るために果敢に行動し、あらゆる兵器を使用する姿が、なんだか奇異なものに写ってしまいます。

そんなことを思いながら画面を見ていると、俄に納得できたのです。
「ああ、これが個別的自衛権の行使なのか!」…と。
そう納得すると、急に理由のよくわからない可笑しさが込み上げてきて仕方がありませんでした。


さて、なんとはなしに期待していた伊福部昭のあの有名な音楽は、残念なことにこの映画で聴くことはできませんでした。
あの、ジャッジャッジャッジャッというストラヴィンスキー風の原始的なリズムの上に、ラヴェルのピアノ協奏曲の第三楽章を思わせる無機質な音型が重なって、我々のゴジラのイメージの中では視聴一体のものになっています。
恐怖と楽しさがないまぜになった、まるでゴジラの凹凸のある皮膚そのものみたいな音楽。これのないゴジラというのは、どうにも収まりが悪いような気がしてしまいました。
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廃物利用は美徳?

以前にも少し触れましたが、最近の普及品ハンマーには、意図的にかなりの固さに仕上げられているものがあるようです。

これまで長らくマロニエ君の抱いてきた認識では、新しいハンマーはフェルトが柔軟で、弦溝も付いていないため、どうしてもはじめは音に芯がなく、鳴りもイマイチという期間を耐えてて過ごさねばならないというものでした。

そのため仕上げの整音では、弦の当たる部分にコテをあてるとか、適宜硬化剤などを用いるなどして、できるだけ明晰な音に近づけるよう、まずは技術者が尽力する。それが及ばない部分については、しばらく弾き込んでいくことで、徐々に本来の鳴りにもっていくという流れで、要はある程度の時が必要なものだと思っていたのです。

ところが最近のハンマーの中には、新品でもカッチカチの、はじめから硬質な音を出すものがあることは知りませんでした。よほど巻きが固いのかと思いきや、そうではないらしく、質の良くないフェルトを固形物のように固めてしまっているようです。

これじゃあ技術者の整音も高度な意味でのそれではなくなり、ただ硬い肉を突いたり叩いたりして柔らかくするような作業になるような気がしてしまいます…。

使い古したハンマーが、整音してもすぐにペチャッとした耳障りな音に戻ってしまうように、フェルトそのものに本来あるべきしなやかさがないとすれば、音質はもちろん賞味期限もたかがしれているでしょう。深みのある音などは望むほうが無理というべきですが、作る側も、使う側も、それをじゅうぶん承知の上なのかもしれません。

取りつけるピアノの品質もそこそこなのにもってきて、いきなり派手な音が出るし、価格も安い、×年ぐらい保てばいいとなれば、それで良しということなのか。

ピアノメーカーにしてみればそこそこの時期で買い換えてもらうためにも、ひょっとすると最近はこういうハンマーのほうがある意味主流なのかもしれません。
考えてみれば、新品ピアノでも、昔のようにモコモコ音しか出ないものは最近はまずお目にかかりません。自動打鍵機のような機械のお陰かとも思っていましたが、どうやらそればかりではないのでしょう。
新しいうちから、いかにも滑舌の良さげな明るくパリッとした音がいとも安易に出るのは、こういうハンマーで鳴らしているということなのか…。尤もハンマーに限らず、ボディや響板などもほぼ似たような品質で全体のバランスがとれているとすれば、別の意味ですごく良くできているということでもあり、そのあたりの技術力というのは大変なものなのかもしれません。

さらに、お客さんは弾いてみたときの、短時間で受ける印象が購入への重要な決め手になるでしょうから、売る側にしてみれば1年ガマンして弾いてくださいなどという悠長なことは云っていられないんでしょうね。

また天然資源は軒並み品薄で量産には適さず、価格も高値安定となれば、昔だったら検査ではねられて使わなかったようなものでも、今は加工して徹底的に使うのが常識なのだと思われます。ということは、響板はじめあらゆる部位も、およそ似たようなレベルだと考えていいのかもしれません。

大概のことなら廃物利用は美徳かもしれませんが、楽器作りもそれがあてはまるのかどうか…マロニエ君にはなんとも云えません。
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出しゃばりすぎない

2006年に「ピアニスト休止宣言」をしたミハイル・プレトミョフが、シゲルカワイとの出会いをきっかけに活動再開に至ったことは以前に書きました。

彼は今年5月、ピアニストとして久々の来日を果たし、そのことに関する本人のコメントが音楽の友の最新号のグラビアに掲載されていました。

それによれば、ピアニスト休止宣言をした理由を『当時のどのピアノの音にも我慢できなくなり、ピアニスト活動を止めました。けれども私はあるとき偶然にシゲルカワイに出会った』と語っています。

そして、シゲルカワイについては『このピアノは私がずっと求めていた、決して出しゃばりすぎない、そして繊細きわまりない音色をもっていました。そして何より私が100%コントロールできるポテンシャルがあって、しかもそれが自然。このピアノなくしてピアニストとしての私はありません。』
…とのこと。

プレトニョフほどのメジャーピアニストが活動の休止宣言したにもかかわらず、日本製の優れたピアノとの出会いが再開するきっかけとなったとなれば、もちろん日本人としてはそこを喜びたいわけですが、これを読んで、なんというか…その理由というのが…もうひとつ手放しで喜べるようなものかどうかよくわからない気がしました。

「どのピアノの音にも我慢できなくなり」に対して「ずっと求めていた、決して出しゃばりすぎない」というのは、どう受け止めればいいのか…。ピアノはピアニストの道具なんだから、分をわきまえてよけいな主張はするなという意味にも受け取れます。
これは考えてみるとプレトニョフが指揮活動に重点を置いてきたことにも関係があるのだろうか…と思ってみたりもしました。『私が100%コントロールできるポテンシャル』というのもしかりで、ちょっと悪い言い方をすれば、優秀なオーケストラは指揮者の指令通りに音楽を生み出す集団でもあるし、しかも団員一人ひとりが意志と技術をもって指揮者の意に添って演奏すれば、かなり高い要求を満たすことはできるでしょう。

ただ、カラヤンのような極端な例もあるように、指揮者は往々にして権力者と揶揄されます。権力は魔物であって、しだいにイエスマンを求めるようになり、その体質が個性あるピアノさえも彼の意向に背くものになっていったということなのかとも勘ぐってしまいました。

日本のピアノが褒められるのは嬉しいとしても、褒められている内容が最も肝心なところでしょう。シゲルカワイはピアノがでしゃばるほどの個性が無く、その点が素直で大変よろしいと、まるで命令通りにせっせと働く従順な社員がワンマン社長から頭を撫でられているみたいで、少しでも出過ぎたことがあったなら、たちまちお払い箱になるのかという気がします。

ふと家臣を道具としか見なさない織田信長を連想しましたが、はてプレトニョフに信長ほどの稀代の独創性や異才があるのかどうか…。

どうせなら、気に入った理由がもっと積極的にそのピアノの個性や魅力であってほしい気がして、これではまるで、自分のじゃまにならない程度に控え目で地味なピアノがいいといっているように解釈してしまうマロニエ君はへそ曲がりなんでしょうか?

個人的には、SK-EXより、その前のEXのほうがある意味でまとまりがあったようにも思いましたし「でしゃばりすぎない良さ」もむしろこちらのような気がしますが、それはともかく、マエストロはSK-EXを「ういやつじゃ」とお気に召したということのようです。

でも、あまり、でしゃばる云々を言い出したら、突き詰めればマエストロの演奏だって、作曲者から同じことを云われかねません。ベートーヴェンの第4協奏曲などはプレトニョフの解釈がでしゃばりまくりだったという印象しかないのですが…まあ自分はいいんでしょうね。
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リストの番組

先週のこと、BSジャパンで『フランツ・リストの栄光と謎 〜なぜ史上最高のピアニストと言われるのか〜』という2時間番組があり、大抵こういうものは見逃してしまうマロニエ君ですが、このときは運良く直前に気付いて録画することができました。

俳優の中村雅俊氏がナビゲーター役としてヨーロッパに赴き、リストの軌跡を追うというもので、この番組は生誕200年を記念した2011年の制作、今回はその再放送だったようです。
中村氏には適度な存在感と節度感があり、訪問先でも物怖じせず自然、よく頑張られたと思いました。

民放でこういう番組をやるのは珍しいこともあり、いちおう最後まで見ましたが、構成がいまひとつというか、ただあちこちに行ってはそこで待ち受ける人の話を軽く聞いて、ところどころで演奏を差し挟むという繰り返しで、期待したほどのものでもありませんでした。

こういうものを作らせると、やっぱりNHKは一枚も二枚もうわ手で、まずは中心となる主題があり、構成や監修が格段にしっかりしていることを痛感します。視る者の興味をうまく誘導する作りになっており、ところどころで深い部分に迫ったりしながら、番組進行がダレたり冗長になったりすることがないのが逆にわかります。
最大の違いは、ひとことで云えばクオリティで、番組制作にかける綿密な事前調査と企画力、さらにはお金と時間のかけ方がまったく違うということが如実に現れてくるようです。

その制作費に関連することで思い出しましたが、出だしからして映像に不可解な細工が施されているのが目につきました。冒頭の映像はピアニストによるラ・カンパネラの演奏の様子でしたが、このときのピアノはベヒシュタインだったものの、鍵盤蓋のロゴは遠目にもぼかしが入れられ、ピアノメーカーがわからないようになっています。

その後は、何度もスタインウェイが出てきましたが、ある一瞬を除いて、それ以外はすべて徹底的にロゴにはぼかしが入れられ、これらピアノメーカーの名は出さないという意志が働いているようでした。今やNHKでさえピアノメーカーのロゴは隠さない時代になっているというのに、このぼかしはちょっと異様でした。

ところが驚いたのはその後で、訪問先の音楽院などにあるヤマハにはぼかしはなく、二台並んでいるとなりのスタインウェイはしっかりぼかしを入れるという念の入れようです。その後、別の場所でもヤマハは堂々とロゴが写し出され、この露骨なまでの「差別」には恐れ入りました。さらには歴史的なピアノとして登場したベーゼンドルファーもぼかしは入りませんでしたが、2007年以降はベーゼンはヤマハの子会社なのでこちらはオッケーということがわかりやすいほどわかります。

エンディングのクレジットなどを見てもヤマハの名が出てくることはありませんでしたが、これはもう明らかにヤマハの意向が働いていることは明々白々です。
さらにいうと、なぜそれほど不自然なまでに他社の名を隠蔽しなくてはいけないのか、その偏狭さには驚くばかりです。

いまさらそんなことをしなくても、リストが存命中にヤマハを弾いたわけでなし、欧米にはスタインウェイはじめいろいろなピアノがあるのは現実なんですから、歴史的名器に混ざってヤマハも数多く見ることができるということのほうが、むしろヤマハの国際性が感じられて、よほど視る人の印象もいいと思うのですが…。

こういうことをあまり過度にやりすぎると、むしろ逆効果にしかならず、却ってこの世界に冠たるメーカーが未成熟な幼児的体質をもっているように見えて残念でした。
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お詫びのプロ

最近テレビを視ていて気になること…。

例の号泣県議や、逮捕された芸能人など、不祥事があるたびに「お詫びの仕方」についてあれこれの批判が聞こえてきます。
しかもそれが、一般的な礼節としてのお詫びとはどこか趣の異なるところに奇妙さを感じます。

近ごろはテレビ画面に露出するようなお詫びには一種のマニュアルのようなものがあるようで、その型に添ったものでないと批判の対象になるという気配を感じるのです。

薬物で逮捕された芸能人が仮釈放で出てきたときも、とりあえず逃げ隠れせず、スーツ姿で警察の正面玄関をまっすぐに出てきて、居並ぶマスコミのカメラに向かって深くお辞儀をし、その後横向きに立ち去っていきました。

すると後から「お詫びの言葉がなかった」「ファンへの謝罪の言葉があるべき」というような批判が飛び交います。しかしマロニエ君は個人的に、別にこのときの彼の態度がとくに問題とは思いませんでした。有名人ではあっても公人ではないし、犯した罪は専ら個人的なもので、だからこんなものだろうと思うわけです。
問題なのは彼の犯罪行為であって、いまさらわかりきったようなお詫びの言葉を並べてみたところで、それでどうとも思いません。神妙な面持ちで姿をあらわし、深く頭を下げたというのは、これはこれなりのお詫びと反省の態度だったと思います。
すでに社会的な制裁は受けているし、今後は法に基づいた裁判があり、それで償いを科せられるわけで、それでじゅうぶんではないかと思います。

ところが、最近は何かというと「お詫びのプロ」という人物が出てくるのは理解に苦しみます。
まるで、お詫びというものが専門分野であるかのようで、その指南役というような扱われ方でテレビに堂々と登場し、訳知り顔であれこれ発言するのは強い違和感を感じます。

歌舞伎役者が暴力事件を起こしたときも、企業や公的組織の不祥事に際しても、大抵この種のプロという人の指南が入っているようで、服装からお詫びの口上、お辞儀をする角度から、何十秒それを維持するなど、見ている側は、どれも決められた形ばかりを追っているようにしか見えません。
心底お詫びをしているというよりも、少しでも世間の心証を害さぬよう、マイナスイメージを最小限に食い止めるべく最良とされる演技をしているようです。

少なくともそれをやっている人の一連の所作と心底が一致したもののようには、マロニエ君の目には見えません。

それでも日本は建前が大切なので、表向きそういうお詫びと反省の態度をとりましたということが大切なのかもしれませんが、いかにも打ち合わせと練習によるシナリオ通りの演技をみせられているだけといった印象で、これで本当に納得する人がいるのかと思います。

号泣会見でいまや世界的にも話題になった県議の場合でも、この「お詫びのプロ」という人が番組に出てきて、プロ(お詫びの)の目からみて「あれは0点でした」などと、いちいち専門家目線でコメントをするのは著しい違和感を感じてなりません。誰の目にも著しく常識を欠いた振る舞いであったことは、わざわざ「プロ」の意見を聞かずとも明白で、そこにあえてコメントを取りにいくテレビ局の見識さえ疑います。

お詫びというものは、まさに心を尽くして許しを請うのが本質であって、それをプロの指南のもと型通りに進めようというのは、むしろ詫びるべき相手への精神的非礼を感じてしまいます。
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初期モデルが最高?

ふとしたきっかけで、さる知人から聞いた意外な話を思い出しました。

それによると、なんとピアノは「初期モデルこそ買い!」なのだそうです。

「初期モデル」というものは、例えば車のような機械ものでは敬遠すべきが常識であって、これを最初に聞いたとき、どういう意味なのか皆目わかりませんでした。

車では、新型にフルチェンジしたモデルなど、見てくれや数々の機構こそ新しさが満載ですが、その裏に製品としての不安定や、初期トラブルを多く抱えており、これを買うのは大枚はたいてメーカーのモルモットになるようなものだという共通認識があります。

メーカーではかなりの走行実験などを繰り返していますが、それでも実際に市場に投入され、多くのユーザーが使ってみることではじめてわかってくるものがたくさんあります。
とりわけ現代の車はコストと効率のせめぎ合いでぎりぎりに作られており、耐久性などもミニマムスペックで登場するとも云われています。

実際に車が販売され、ユーザーが使った結果がデータとして上がってきて、ここから対策が講じられて、必要が認められれば改良され、以降の生産にも反映されます。
必要に応じて、すでに販売された車にも問題箇所は改良パーツに交換されたり、もっと酷い場合にはリコールなどの対象にもなるわけで、自動車マニアでもこだわりの強い人達は、新型発表から最低2年は様子見をするというのがこの世界の常識でした。

そしてモデル末期は乗り味も向上し、最も完成度が高く、モデルによっては初期型と最終モデルでは基本は同じ車でも、別物のように磨かれています。洗練され、併せて信頼性もアップしているというわけで、マニアの中には、わざわざモデルチェンジ直前のモデルを狙い打ちに購入したりする人も少なくありませんでした。

ところが、ピアノでは「初期モデルこそ買い」という、車とは真逆の定理があるのはいかなることなのか。その根拠を聞いてみると、なるほどと納得させられるものでした。

ピアノの基本構造は100年以上前に完成形に達したもので、早い話が車のように新しい設計や機能が次々に投入されるわけでもなく、言葉ではニューモデルなどといっても、機構上の新しさなんてたかがしれています。

それでも、ごくたまにはシリーズ名がちょっと変わったり、プレミアムモデルが追加されたりということはあるわけで、その際メーカーは新シリーズの高評価を獲得する目的で、シリーズ出始めのモデルは、とくに入念に作られているということらしいのです。

はじめに高い評判を得ておくことが、その後の売れ行きに影響するのだそうで、だからピアノの場合は新型が出てしばらくの間のモデルは、格別気合いの入った出来映えなのだとか。

そこでの違いは材料であったり仕上げの手間などであったりするのでしょうが、たしかにピアノが基本の設計から変更になることなんて、そうめったにあることではなく、あとは材質や、製造時・製造後の手間(コスト)のかけ方が大きくものを云うようです。

すなわち発売初期に頑張っておいて、あとは少しずつ手を抜いていくということだろうかと思いますが、たしかにピアノはそれを少しずつやられても、なかなかバレない性質の製品ですから、これは大いに考えられる話だと思いました。

そういえば、デビュー当時より明らかに質が落ちてきたと感じるピアノが思い浮かぶので、やはりそうなのかもしれません。
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衝撃映像

すでに大勢の方がご覧になったと思いますが、兵庫県議会議員の野々村竜太郎氏が、政務活動費から不明朗な支出があることを指摘され、マスコミやテレビカメラを前に、47歳といういわば最も脂ののった男盛りの男性が、ママを探してさまよう幼児のように盛大に号泣したのはちょっとした見ものでした。

マロニエ君はこれを見て唖然としたのはもちろん、すっかりその様子にハマってしまい、何度でも見たくなる爆笑映像が天から降ってきたようでした。

2013年度の「政務活動費」として、なんと195回、約300万円にのぼる日帰り出張の交通費が税金から支出され、提出が義務づけられている領収書やメモは破棄したとのこと。
しかも、その大半が片道100kmほどの温泉への交通費だった由で、その凄まじい頻度は俄には信じられません。特別の予定がなければ、ほぼ毎日のように温泉に行っていたことになり、そもそも県議会議員とは、それほどヒマなのかとも思いましたが、とにかくそのあまりのお馬鹿ぶりには開いた口がふさがりませんでした。

温泉とはそんなにいいものなのか、あるいは温泉以外の行き先があったのか、真相はともかく、いずれにしろまことにチマチマした幼稚な仕事放棄ぶりでもあるし、来る日も来る日もこんなことに時間とエネルギーを注ぎ込むという感覚も尋常ではありませんね。

むろん政務活動費なるものを不正利用したとなれば怪しからぬ事ではあるけれども、ともかくその釈明会見があれだというのは、ただもうおかしいばかりで、腹も立ちませんでした。
というか、お陰で我が家もその話でもちきりで、ずいぶん笑わせてもらいました。

しかも4回の落選の後、5回目にしてようやく当選を果たしたのだそうで、「やっと議員になれたのにぃぃ…」という発言も、さらに幼児的で笑いに拍車がかかります。

いっぽうで、違和感を覚えたのはテレビの番組で、これを「おもしろかった」といったのはマロニエ君が見た限りではタレント風の女性一人だけで、あとはスタジオはもちろん、街の声も含めて、もっぱら不正支出の問題、義務づけられている領収書やメモがないことばかりを難しい顔をして云うだけで、野々村議員のこの常軌を逸した「特別の振る舞い」についてはあまり触れません。

せいぜい触れても、「恥ずかしいですね」「見ているこちらのほうが泣きたくなりますよ」などという真面目くさった言い方をするだけで、どうしてこんなにおもしろいものを素直におもしろいと云わないのかと不思議でなりません。

手当たり次第に道徳家よろしく尤もらしいことを云っておけば間違いないという体質が皮膚の奥まで染み込んでいるのか、あんな映像を笑わないほうがどうかしているとマロニエ君は思うのです。

おそらく外国だったら、大爆笑の渦が湧き起こることだろうと思いますし、泣き顔のTシャツのひとつやふたつ発売されてもおかしくはないでしょう。

社会の不正を追及することは大事ですが、笑うべきときに大いに笑うというのも、健全な社会の在り方として大事なことのような気がします。
日本人というのは、いざという場面でどうしてこうネチッと暗い民族なのかと思ってしまいます。

通常なら、兵庫県議という一地方の問題でしかなかった話を、全国的にはまったく無名の人物が、たったひとり、しかも一回だけの会見で、これだけ全国を注目させたのですから、いずれにしてもタダモノではないようです。
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ハンマーの違いは

ピアノのハンマーには様々な種類があるようですが、実際の違いとはいかなるものなのか…。
プロの技術者でさえ、この点を明確に把握している人は果たしてどれだけおられるのかと思われ、ましてや一般のピアノユーザーがそれを具体的に知る術はないに等しいでしょう。

多くの場合、名の通ったメーカーのものならまずは安心だろう、さらに価格の高いものほど上質だろうという、しょせんは「だろう、だろう」の世界ではないでしょうか。

ヤマハのような大メーカーはフェルトのみを輸入して、木部への巻き加工などは自社で行って自社製ハンマーとするそうですが、他のメーカーはどうなのか…。
カワイは、レギュラーモデルをベースに、海外メーカーの響板やイギリスのロイヤルジョージ社のハンマーを装着したモデルも販売しています。そうなるとレギュラー品はそれよりは劣っているような印象を受けてしまうユーザーも少なくないでしょうが、実際のところどの程度の違いなのか…。

このロイヤルジョージ・ハンマーは、以前ネット上で見かけたところでは、日本のフェルトメーカーがブランドごと傘下に納めて日本で作っているようでもあり、そうなると日本製ということになるのか。そのあたりの詳細は一向に明らかにされず、表向きは英国から輸入された特別なハンマーですよというイメージになっていますが、よくわかりません。

使用する響板によって音が決定的に違うのは当然としても、ハンマーの場合はものによって具体的にどういう変化が起こってくるものか、イメージとしてはわかるようでも、実際はわかっているとは言い難い状況だと個人的には思います。もちろん大きさの違いや巻きの硬軟からくる違いがあるのは当然としても、同サイズで同じような固さのフェルトの場合、あとは音質にどのような影響が出るものなのか、その微妙なところがもう一歩踏み込んだかたちで知りたいものです。

羊毛の質の良し悪しというのが当然ありますが、実際にそれが音としてどの程度の違いとして現れてくるのか、オーディオのアンプやスピーカーのように付け替えて比較するわけにもいかないので、これは容易に判断のつくものではありません。

羊毛といえば、これをハンマーに成形する際、高温で加工するのだそうですが、その高熱によって羊毛の質が落ちるとも云われます。そこで少量生産のメーカーでは、ローヒートプレスという昔ながらの方法で羊毛の繊維を傷めないように作られたハンマーがあるようですが、製造に手間がかかるために量産には向かず高級品とされているようです。

逆に安いハンマーの中には、低質な羊毛をやたらガチガチに固めただけのようなものもあって、それは木材における自然乾燥と人工乾燥、あるいは一枚板と集成材の関係にも通じるものがあるように感じます。

ピアノの音は、ボディや響板などがもたらす複合的なものでしかなく、ハンマーの違いだけを音として独立して知ることはできません。取りつけるピアノとの相性や技術者のセンスもあるでしょう。
とくにハンマーはその品質に加えて、針刺しなどヴォイシングの技術に負うところもあり、それにより結果は一変するでしょうから、どこまでが純粋なハンマーの品質によるものかを判じるのは、少なくとも一般人にとってその手立てはほとんど閉ざされたも同然で、やっぱり「だろう、だろう」になってしまいます。

なんとなくイメージするのは書道に於ける筆です。
一本百円かそこらのものから、何十万もする逸品までありますが、百円の筆でもちゃんと字が書けるという点では、それなりの機能は持っているわけです。
最高と最低の判別は容易でも、もっとも需要が多い中間レベルの優劣判断というのは極めて難しいところでしょう。
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B級グルメCD

タワーレコードを覗いてみると、バーゲン品を集めたワゴンが並ぶ一角に、さらに特別とおぼしきひとまとまりがありました。

そこはどうやら最終処分場らしく、見たこともないようなレーベルや演奏家のCDばかりが集められ、なるほどこれは常設の棚はおろか、セール対象にしても簡単には売れないCDであろう事は察しがつきました。

あまのじゃくのマロニエ君としては、そういう場所こそ捜索してみる意欲が湧いてくるというもの。しかもお値段は、元が2千円台の輸入物ですが、すべて454円と、732円という2種で、これは滅多にないチャンスと決死の気分になりました。

その中に、大きなパッケージ入りのスクリャービンのピアノ作品集の4枚組があり、これのみ1280円ですが、これがなんと「Estonian Classics」というエストニアのレーベルで、ピアニストもエストニアのVardo Rumessenという聞いたこともない人でした。
スクリャービンは、古いものではソフロニツキー、現役ならソナタではウゴルスキ、それ以外ではベクテレフのもので一応の満足を得ていたので、いまさらよくわからないピアニストのCDを買ってまで聴く価値があるだろうかという気持ちはありました。
しかし、エストニアといえばロシア圏では有名なエストニアピアノの生産国であり、もしかしたらこれはエストニアピアノの音が聴けるかもしれないと思った瞬間、購入する気になりました。

帰宅してすぐ、何枚も厳重に包まれたセロファンを引きはがし、ようやく中を開きますが、そもそもこのCDのパッケージは普通のCDの2倍の面積はあろうかという大きなもので、それを三面鏡のように左右に開くと、両端に上下2枚ずつのCDが左右に配置された4枚組となっており、真ん中がブックレットになっています。

凄まじいのはそのデザインで、後年は神秘主義に傾倒していったスクリャービンを表現しているのか、内も外も黒バックに無数の星がばらまかれたようで、ほとんどSF映画かクリスマスのようなでした。

さて、データの覧に目を凝らしますが、1枚目はスタインウェイ、2枚目は録音時期が入り乱れており使用ピアノは明らかにされてません。3枚目の17曲のプレリュードもスタインウェイですが、後半のソナタ3/4/5、および4枚目のソナタ6/7/8/9/10ではなんとブリュートナーでした。

Rumessen氏の演奏はエチュードなどでは、いまひとつ詰めが甘いというか完成度がもうひとつという感じでしたが、ソナタでは一転して集中力と燃焼感のある演奏で、とくに好きな4/5番などはずいぶん繰り返し聴きました。

残念ながら録音のクオリティが高いとは言えず、ピアノも最良のコンディションとは云いかねるものでした。それでも、スタインウェイは少し古いものと思われ、大雑把な調整ながらもよく鳴っていたのは印象的でしたし、なによりもブリュートナーによるスクリャービンというのは、マロニエ君にとっては初の組み合わせだったので、これが聴けただけでも買った甲斐があったというものです。

ソナタの演奏が特にすばらしく感じられ、作品、演奏、ピアノを統合して堪能できましたし、スクリャービンとブリュートナーの相性の良さは、まったく思いがけないものでした。

ブリュートナー特有の、音の中に艶のある女性的な声帯が潜んでいるようなトーンが、スクリャービンの音楽の、襟元が乱れたような魅力に溶け込むようで、妖しさがより引き立っていたようでした。調整がそこそこなのか、音色があまり洗練さず時には混濁気味だったりするものの、必要以上に整えられた音でないのも、こういう音楽にはむしろ風合いを添えてくるようで、作品とピアノの相性の良さに唸りました。

Rumessen氏はこういう効果を狙ってブリュートナーを選んだのか、たまたま録音する場所にブリュートナーがあったからそれを弾いただけなのか、そのあたりは疑問ですが、結果としてはとてもおもしろいCDでした。
エストニアの音は聴けなかったけれど、ブリュートナーが立派に代役を果たしてくれた気分です。
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カテゴリー: CD | タグ:

主治医さがし

ピアノが好きな知人で、マロニエ君とはまったく違う地域に在住される方が、昨年、東奔西走の末にめでたく中古グランドピアノを購入されました。
購入にあたって、弦やハンマーなど主立った消耗品が交換され、その上での納入ということになったようです。

納入後の調律も終わり、これからいよいよ自分好みのピアノに育てるべく、春ごろから主治医さがしが始まった様子でしたが、なかなかこれだという人が見つからないようです。
まったくのエリア違いから紹介もできず、せめてマロニエ君もネット検索を一時期お手伝いしましたが、これもやってみると簡単ではないことを痛感しました。

ピアノ業界に限ったことではありませんが、ブログなどでそこそこ好印象が得られても、それはあくまでネット上でのことで、実際に会って、顔を見て話をしてみないことには人というのはわかりません。
また、ひとくちに技術者(一般にいうピアノ調律師)といっても、技術の巧拙だけでなく、人柄、流儀、価値観、料金等々が実にさまざまで、要するに当たり外れがあるのも事実です。

長いスパンで釣り糸を垂れておけば、いつの日か自分が求める技術者と出会うこともあるかもしれませんが、これを短期集中的に探し、しかもハズレがないようにするとなると、これは一筋縄ではいきません。

そもそも技術者のHPやブログなどは宣伝目的であることがほとんどで、当然いいことしか書かれていないのは業種を問わず同じでしょう。さらに信頼できる業界筋の話によれば、本当に一流のピアノ技術者として周囲から認知されている人は、決してネット上には出てこない(一部例外あり)というジンクスがあるそうです。
それもあって、その人達の自意識としては、HPを持たないことが逆のステータスでもあるそうで、こうなるとますますもって主治医さがしは困難を極めます。

すでに、これまでにも数名の有名無名の技術者が下見にやって来たそうですが、各人でその見立てや価格にも少なくない違いがあったり、人間的にソリが合わないなど、決め手を欠いているとのこと。

ブログとはかけ離れた雰囲気であったり、技術者としての見識を疑うような発言、買ったばかりというのにいきなり別のピアノのセールスをする、やたら部品交換を必要と言い立てる、あるいはしっかりと自分の自慢話ばかりして帰った…等々で、どれも決め手に欠ける方のオンパレードのようでした。

さらに驚いたのは、費用もそれなりのものになるため、よく検討したいと伝えたら、いきなり逆ギレされた、あるいは穏やかな人が他の技術者の話題になったとたん態度を一変したなど、ちょっと信じがたいような内容が続いたことです。

いまや医師でも患者への丁寧な説明が求められ、セカンドオピニオンなども快く受け容れる時代であるのに、ピアノの技術者の世界では、素人は専門家の云うことに盲目的に従って当たり前といった旧態依然とした体質が根底に流れているのだろうかとも思います。

専門分野というものは、一般人がわからない世界だけに、なにより信頼できる人柄であることは特に大切な要素になります。
人によっては、相手が素人となると、専門知識を武器に成り行きをコントロールしようとする傾向が往々にしてあるのも否定できません。ご当人はアドバイスだといいたいところでしょうが、コントロールとアドバイスは似て非なるもの。
ここで言っておきたいことは、人は専門知識がなくても、自分がコントロールを受ける対象になると、本能的にそれを察知する能力があること、さらにそこに必ずしも専門知識は要らないということです。

つまり専門家が思うほど、シロウトは実はバカではありません。
専門知識はなくても、どこかが変、なにかが腑に落ちない、腰は低いが印象が良くない、言行一致していないなど、危険を知らせるシグナルが心の奥で点滅することが時として発生し、そんなときは潔くやめておいたほうが賢明です。

相手が専門家でも決して言いなりになることなく、自分の「勘働き」というのもは大事にすべきだというのがマロニエ君の持論です。
自分の勘に背いて、欲望を先行させたり、理屈を後付けしたようなとき、大抵は失敗しているなぁと自分で思うのです。
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ディナースタイン

近ごろ、バッハ演奏で頭角をあらわしているシモーヌ・ディナースタインのゴルトベルクを買ってみました。
どうもモダンピアノで弾くゴルトベルクは、グールド以来、ニューヨークから発信する作品であるかのようで、以前書いたジェレミー・デンクも同様でした。

さて、このディナースタインはニューヨーク生まれのニューヨーク育ちで、学校もジュリアード、デビューもカーネギーホール、録音も、なにもかもがニューヨーク一色です。

グールドがレコードデビューしたゴルトベルクもニューヨークで録音され、その驚異的な演奏が世界中に衝撃を与えたことはあまりにも有名ですが、以降、まるでこの作品だけは住民登録をニューヨークに移してしまったかのようです。

さて、そんなニューヨークずくめのディナースタインですが、ゴルトベルクを録音するにあたってひとつだけニューヨークでないものがありました。これだけニューヨークずくしなのだから当然ピアノもニューヨーク・スタインウェイだと思いきや、なんと彼女が弾いているのは1903年製のハンブルク・スタインウェイで、これには却ってインパクトを感じます。

このピアノは、北東イングランドのハル市役所に所蔵されていたという来歴をもつ有名なピアノだそうで、数々のエポックなコンサートで使われ、2002年にはニューヨークのクラヴィアハウスというところで修復作業を受けたもののようです。
その音はとても温かみのある美しいものでしたが、どう聴いても響板が新しい音なので、修復の際に貼り替えられたのだろうと推測されます。マロニエ君としては、古いピアノ特有の枯れた楽器の発する美しい倍音に彩られた、威厳と風格に満ちたトーンを期待していましたが、そこから聞こえる音は無遠慮なほど若い響板の音のようにマロニエ君の耳には聞こえました。

もちろんボディやフレームは昔のものですから、それなりの味は残っていると見るべきでしょうが、どちらかというとアメリカという国はやわらかなピアノの音を好み、響板の張替にたいしても他国よりこだわりなくやってしまう印象があります。
個人的な印象では、やはりアメリカ人は本質的に消費の感性が染み込んだ民族で、響板も消耗パーツと見なして、問題がある場合はさっさと取り替えてしまう傾向を感じます。
先人の創り出したオリジナルを尊重し、それを極限まで損なわないよう心血を注ぎこむ日本人とは、目指すものが根本に於いて違うのかもしれません。

これが100年以上前のピアノ音だといわれても素直にそう思う気持ちにはなれませんが、単なる音としてはとても上品で豊かさに満ちた上質なものだとは思いました。ただ、響板という中心部分が新しいものに変わっているという違和感はマロニエ君にはどうしても拭えず、もう少し時間が経つとなじんでくるのかなぁという気がしないでもありません。

ディナースタインの演奏に触れる余地がなくなりましたが、母性的な包容力でこの大曲をふわり包み込み、やさしげな眼差しを注いでいるような演奏でした。そよ風のような穏やかなゴルトベルクで、この演奏にはこのピアノの馥郁たる音がよく似合っていることは納得です。

これはこれでひとつの完成された演奏だと思われますが、さりとて、とくに積極的に支持するというほどでもないのが正直なところです。
ゴルトベルクの複雑な技巧に対する手さばきや高度な音の交叉や躍動を期待すると、ちょっと肩すかしをくらうかもしれません。
この作品を弾くあまたの男性ピアニストのような技巧の顕示は一切ないけれども、逆に、この難曲からそれらの要素を徹底して排除して見せたという点が、もしかすると彼女なりの顕示なのかもしれません。
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カテゴリー: CD | タグ:

慢心と油断

気に入っていた飲食店などで味が落ちるといった変化があると、心底がっかりするものです。

とくに長年親しんだお店で、質やサービスになにかしらの変化がおきると、それによる落胆と幻滅は、おそらくは店側が予想しているより遥かに大きなものとなります。

変化といっても、良いほうに変化することはそうはないわけで、大半は「低下」の方向を辿ることが通例です。それがわずかの違いであっても、お客側にとっては大問題となることに経営者は意外に鈍感で、むしろ僅かな差なら気がつかないだろうぐらいに高をくくっていたりします。
もうバレバレなのに、バレていないと思い込んでいる愚かしさは他人事ながら哀れです。

たとえば、マロニエ君が贔屓にしていたあるケーキ店があります。
ここは価格も法外ではないけれど、それなりに安くもない店です。それでも、たまに美味しいケーキを食べたいと思ったときは、その美味しさを優先してときどき買っていました。

ところが、ある時期から、すぐには気がつかないぐらいの微妙な変化が起こりました。ほんのわずかにサイズは小ぶりになり、味も表向きは変わっていないことを装っていますが、明らかに以前のような熱意やこだわりが感じられなくなりました。
あとから知ったことですが、このころデパ地下にも進出したようでした。

そこそこお客がついてくると、人はつい油断するものなのか、その味や営業姿勢に慢心の影が差し込んでくるのはがっかりします。ひとつ成功するとたちまち次の欲が出て、事業拡大やさらなる利益のことばかり考えているとしたら、もうそれだけで気持ちは冷めてしまいます。

そもそも美味しさとか魅力なんてものは、楽器のいい音と同じで、決して雲泥の差ではありません。「普通」との差はたかだか薄紙一枚の違いであったりするもので、つまりは、そのわずかのところに人は期待と価値を置いているものです。

レストランなども、店側の都合で料理人が変わったり、事実上の値上げなどで、質や量にわずかな変化が現れることがありますが、お客というのは、だから決してその「わずか」を見逃しません。

そもそもある店を贔屓にしているのも、いろいろな要素のトータルのところで「たまたま」そうなっているだけで、ある意味、ひじょうに微妙で危ういバランスの上に立っているにすぎません。よって少しでもそのバランスが崩れると、忽ちそこでなくてはならない理由が失われます。

つまりささいな変化は深刻で、いったんその変化や翳りを嗅ぎ取ると、まるで魔法がとけたようにその店に対する好感度が失われてしまいます。
これは飲食店以外にも言えることで、少しでも下降線を感じてしまうと、それが嫌でいっそ別のものへ流れます。少なくとも質の落ちた対価しか得られないとわかってしまうと、もう継続する気にはなれないのがお客の気分ではないかと思います。

「一度でも不味いものを食わせると、二度とその客は来ない」と云われるように、マロニエ君もずっとご贔屓にしていても、一度とは云いませんが、二度味が変わればやはりもう行く気になれません。
もちろんお店側にしても、そこにはいろいろな事情もあることでしょう。商売をする以上、利潤追求を否定することはできませんが、そういうとき、ある種の「勘違い」や「雑な判断」「見落とし」をしてしまっているように感じます。

馴染みのお客さんを維持していくことは、ある意味では新規の客を獲得するより、もっと難しいことなのかもしれません。
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日本製表示

先日、久しぶりにヤマハに行くと、書籍売場の配置が変わっており、グランドピアノのすぐ傍まで音楽書が並ぶようになっていました。

C6Xの置かれたすぐ脇の棚を見ていると、ふとピアノの低音側の足の側面になにか金色の文字が書かれていることに気付きました。

何だろうと近づいて見ると、小さめの金文字で「Made in Japan」とありました。
ヤマハピアノは、云われなくても日本製だと思うのが普通で、だれもが日本の楽器の聖地である浜松およびその周辺で製造されているものと長らく思い込んでいたものです。

さて、いつごろからだったか、中国製などのピアノが尤もらしいヨーロッパ風のブランドを名乗って安価に販売され、営業マンの強引な口車に乗せられてこれを買ってしまい、あとから大後悔というような話もずいぶんありました。
その後は、やっぱり日本製のピアノが安心という認識が広がってきたものの、今度はその日本製の出自が怪しくなってきたということなのか…。

人件費など製造コストの問題から、近年は日本の大手メーカーのピアノまでも、一部はアジアに生産拠点を移すなどして、いわゆる日本製ではない日本ブランドのピアノが逆輸入されるようになっているそうですが、なかなかそんな裏事情まで詳しくはわからないものです。
本来、製造物には生産国表示が義務づけられていますが、ピアノは素材が輸入品であったりするためか、必ずしもこれがわかりやすく明示されているとは言い難い状況が続いています。

エセックスやウエンドル&ラングなども、中国製のピアノですが、そのことを隠してはいないにしても、正面切って明示されているとも思えません。少なくとも、その点についてはそう積極的には触れないでおきたいという売り手側の本音を感じてしまいます。
尤も、中国製を言いたくないのは、なにもピアノに限ったことでもありませんが。

ヤマハなども一部のアップライトなどはアジア工場製だったりすることが次第に知られるようになりましたが、そうなると全製品が疑いの目をもってみられることにもなるのかもしれません。

また、日本製であっても、内部のパーツやアッセンブリーは輸入品である場合も少なくないわけで、これはヨーロッパ製ピアノにも同様のことが云えるようです。要は世界中のピアノが世界中のパーツを使って作られているということでもあり、こうなると純粋に○○製と言い切ることはどのピアノに於いても難しくなっているようです。

そう厳密な話でなくても、主にどこで製造されているかという点では、日本の大手のグランドは日本製のようで、そこのところを明確にするためにも上記のような「Made in Japan」の文字がピアノ本体に明記されるようになったのだろうと思われます。
これはこれで、日本製ということがはっきりするのかもしれませんが、裏を返せば日本製じゃないヤマハピアノがありますよとメーカーが認めているようにも感じられました。
ともかくそんな時代になったということでしょう。

ちなみに、過日書いた「黒檀調天然木」の黒鍵は、新品のC6XやC5Xで見る限り、一時のような安物チックな代物ではなく、とても立派で、一見したところでは黒檀と見紛うばかりの仕上がりになっており、この点は驚きとともに認識をあらためなくてはと思いました。

ただし、先々の経年変化でどうなるのかまではわかりませんが…。
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梅雨の辛抱

今年の梅雨は、全国の多くの地域が大変な大雨に見舞われ、ニュースではしばしばその状況などが報道されています。

「平年の1ヵ月分の雨がわずか1日で…」といったフレーズを短期間のうちにずいぶん聞いたような気がしますが、どういうわけか今年の福岡地方は降雨エリアから外れているようです。
まるで布団の中から足の先がわずかに出ているように、天気図に広がる低気圧から福岡はいつもちょこんと抜け出ていて、梅雨入りしたにもかかわらず、むしろ雨とは縁遠い毎日が続いていました。

ところが、月曜午後あたりから今度ばかりは「降りそうだ」という気配を感じました。
こんなブログの場で自分の健康に言及するのは甚だ趣味ではないのですが、マロニエ君は以前から慢性的な喘息体質で、とりわけ湿度に大きく影響されてしまいます。

湿度が高いと呼吸が楽ではなくなり、そういう意味では、マロニエ君が除湿器を始終回しているのはなにもピアノのためだけではないと云えそうですが、自分ではもっぱら「ピアノのため」という意識だけでONにしていて、結果として自分もちゃっかりその恩恵に与っているというかたちです。

不思議なのは湿度がいけないと云っても、だったら入浴などで不具合があるのかというと、それはまったくありません。専ら天候がもたらす湿度+αがいけないようで、その差がなんなのか自分でもよくわかりません。

さらに気が付いたことには、いっそ雨が降り出してしまえばまだしも落ち着く喘息ですが、雨になる直前のあのムシムシする状態が最も身体に悪いように思います。
おそらくは気圧やらなにやら、大自然が生き物に与える何らかの影響があるのかもしれません。

赤ん坊の出産とか人の最期も潮の満ち引きなどに関係があるとも云われますし、低気圧が近づくと古傷が痛むなんて人もあるようですから、私達はそういう大自然の法則の中に生かされていて、それに抗うことはできないようになっているのかもしれません。
だからこそ、なんとか梅雨の時期と仲良くやっていきたいところですが、その努力の甲斐もないほど影響があって嫌なので、それに較べると真夏や真冬はむしろサッパリした気分で過ごすことができるようです。
むろん個人差が大きいと思いますが。

そんなわけでこの季節のエアコンは、いわばマロニエ君の健康維持装置ともいえますが、エアコンも万全ではなく、一定温度に達するとサーモが働いてぬるぬるした空気が入ってきたりしますから、今度はそういう死角のないエアコンに交換したいところです。

もしマロニエ君が人も羨むような大富豪なら、べつに夏の避暑はしなくてもいいけれど、梅雨を避けるためにこの季節だけカラリとした外国へ行って、ピアノ屋巡りやオペラ三昧でもやってみたいものです。
朝の連続ドラマで主人公が「想像の翼を広げる」としばしば云いますが、マロニエ君がそれをやるなら、ヨーロッパをほうぼう回って、気に入ったものがあれば、戦前のプレイエルなどと一緒に帰国できれば、そりゃあもう、この世の極楽ってもんです。

…そんな夢物語を云ってみても、現実の梅雨はまだまだ当分は続きそうですし、そこから逃げ出す術はないわけで、なんとかこの時期を無事通過するよう気張るほかはなさそうです。
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アラウの偉大さ

真嶋雄大氏の著作『グレン・グールドと32人のピアニスト』という著作の中で、意外な事実を知りました。

グールドといえば、まっ先に頭に浮かぶのはバッハであり、とりわけゴルトベルク変奏曲です。レコードデビューとなる1955年の録音は世界中にセンセーションを巻き起こし、ここからグールドの長くはない活躍が本格的なものになっていったのはよく知られている通りです。

マロニエ君がゴルトベルクを初めて耳にしたのも、むろんグールドの演奏からでした。

グールドよりも先にこの曲を全曲録音したのはチェンバロのワンダ・ランドフスカであることは知られていますし、ランドフスカと同時期にゴルトベルクを録音したアラウが、敬愛するランドフスカへの配慮から自分の録音の発売を辞退したことは、それからはるか数十年後にアラウのCDが発売されたのを購入して解説を読んで知りました。

ところが、この本によると、さらに驚きの事実が記されています。
なんと、ゴルトベルクの全曲録音はランドフスカこそが「史上最初の人」なのだそうで、それまではこの作品を全曲演奏し録音した人はいなかったというのです。さらに録音から40年間お蔵入りになったアラウのゴルトベルクは、モダンピアノで弾かれた、これもまた「史上最初の録音だった」ということで、今日これほどの有名曲であるにもかかわらず、その演奏史は思いのほか浅く、たかだかここ6〜70年の出来事にすぎないことには驚かされます。

ランドフスカのゴルトベルクはずいぶん昔に聴いてみたことはありますが、グールドの切れ味鋭い演奏が身体に染みついていた時期でもあり、そのあまりのゆったりした演奏にはショックと拒絶感を覚えてしまって、その後は聴いた記憶がありません。

それに対して、アラウのほうは特につよい印象はなかったものの、「モダンピアノでの初録音」というのを知ると、俄に聴いてみたくなりました。
ホコリの中からアラウ盤を探し出し、おそらくは20年以上ぶりに聴いてみましたが、モダンピアノ初などとは思えない闊達な演奏で、今日の耳で聴いてもほとんど違和感らしきものはありません。いかにもアラウらしい信頼性に満ちた演奏でした。

アラウについての記述にはさらに驚くべきものがあり、20世紀前半まではバッハをコンサートのプログラムに据えるというのはまだまだ一般的ではなかったにもかかわらず、彼は11歳のデビュー当初から平均律グラヴィーア曲集などを弾き、1923年にはバッハ・プログラムで4回のリサイタル、さらにベルリンでは1935年から翌年にかけてバッハの「グラヴィーア作品全曲」を弾き、しかも史上初の暗譜によるバッハ全曲演奏だったとありました。

かつての巨匠時代、アラウといえば、どこかルビンシュタインの影に隠れた印象があり、よくルビンシュタインを春に、アラウを秋に喩えられたことも思い起こします。
しかし、いま振り返ってみると、個人的な魅力やスター性とかではなくて、純粋にピアニストとしての実力という点でいうと、マロニエ君はアラウのほうが数段上だと思います。

アラウの膨大なレパートリーは到底ルビンシュタインの及ぶものではないし、味わい深く誠実でごまかしのないピアニズムは、今日聴いても充分に通用するものだと思われます。
そこへ一挙にバッハのグラヴィーア作品全曲がその手の内にあったとなると、その思いはいよいよ強まるばかりです。
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カテゴリー: CD | タグ:

輸出で流出

海外における日本製ピアノの人気は、日本人が考えるものよりも、ずっと高いもののようです。

日本製ピアノは、日本国内ではべつにどうということもない普通の存在ですが、ひとたび海外に出ると事情は一変。とくにアジアではヤマハやカワイは中古でも高級品としての高いステータスを有して、ダントツの人気だとか。

だからかどうか不明ですが、朝、新聞を見るたびに驚くことは、ピアノ買い取りのためのド派手な広告が数日に1度というハイペースで掲載されていることです。
しかもその大きさたるや、全面広告(新聞の1ページをすべて使った大きさ)で、これほどの巨大広告をこれほど頻繁に繰り返し掲載するというのは、ちょっと異様というか、ただならぬ威力を感じてしまいます。

新聞広告の掲載料は安くはありません。
通常、全面広告はよほどの大企業などが、たまに出すことがある程度で、おいそれと掲載できるようなものではない。
ちなみにネットで広告料を調べてすぐにでてきたのが日経新聞で、全国版の朝刊での全面広告料は、なんと1回2千万を超えています。(ちなみに我が家は日経ではありませんが)

もちろん新聞社によっても、地域によっても、あるいは掲載の回数によっても多少の違いはあるようですが、いずれにしろとてつもない金額であることは間違いありません。

ピアノ買い取りはいうまでもなく、家庭などで弾かれなくなったり、いろいろな事情からピアノを手放す人からピアノを安く買い取って(中にはタダ、もしくは処分料を請求されるケースもある由)、その大半が近隣国などへ輸出するための、いわば商品仕入れです。
それがこれほどの広告料を払ってでも成り立っていくと云うことは、相当大きなビジネスであろうことは察しがつくというものです。

この中古ピアノ輸出業者も大小あるらしく、中には単なるピアノ販売店だったところがピアノ輸出業に転じたというようなケースもあるようです。市場規模が縮小するいっぽうの日本国内で地味な商売をするよりは、よほど利益も上がってやり甲斐があるということなのでしょう。

とくにアジア諸国では、日本のピアノは高級ブランド品であり、中古でも圧倒的な人気があるようです。日本ではもうひとつその実感はありませんが、中国でピアノ店などを覗いた経験でも、そこで見る日本のピアノは特別な存在感があり、その人気のほどをひしひしと感じることができます。

日本で売れないものが他国では超人気となってバンバン売れるとなれば、それっとばかりに中古ピアノの輸出ビジネスに人が群がり、夥しい数の日本製ピアノが海を渡っていったようです。
さすがにピークを過ぎた観もありますが、上記のような新聞広告を数日に一度は目にさせられると、依然としてその流れは止まっていないようにも思います。

この怒濤のような中古ピアノ輸出の煽りから、まるで伐採のし過ぎで森がはげ山になるように、日本ではとくに中古ピアノの流通量がかなり減ってしまっているようです。
当然のように需給バランスで価格は上がり、とりわけグランドはいまや業者間の卸価格が高騰しているという話さえ聞きます。

売れる相手に売るというのはビジネスの厳しい掟であって、そこに感傷を差し挟む余地はないのでしょう。しかし国内の中古ピアノが枯渇して価格変動をおこしてしまうまで海外へ売り尽くすというのは、どことなくやりきれないものを感じます。
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これでいいのだ

大型電気店といっても、昔のように純粋に音楽用のオーディオ売り場が堂々と店内に陣取っているわけではないのが当節で、むしろこれがない店舗のほうが多数派のようです。
とりあえずDALIの取り扱いのある店を調べ、聴いてみたいCDをいくつか選び、いざ出発。

ネットでずいぶん読んだのは高い評価がほとんどでしたから、さぁどれ程すばらしい音だろうかと期待を胸に売り場に行くと、危惧していた以上にそこは雑音と喧噪に満ちた環境で、早々に怖じ気づいてしまいました。

こんな中でスピーカーの微妙な特徴とか良し悪しがわかるとも思えなくなりましたが、さりとて他に試す場所があるわけでもありません。

せっかく足を運んだことでもあり、仕方がないのでとりあえず聴いてみるしかないと覚悟を決め、お店の人に来意を告げると、快く持参したCDを鳴らしてくれました。

壁一面には40種ほどの小型スピーカーがぎっしり並んでおり、目指すスピーカーの番号をボタンで押しました。…が、やはり周りの雑音がじゃまをしていまいち判断できません。
お店の人はすぐに立ち去りましたので、「あとはご自由に」ということだと解釈して、ボリュームも好き勝手に調整しながらあれこれのスピーカーを試しました。

たしかにDALIのスピーカーは相対的に悪くないとは思うけれど、スピーカーの判断基準などもわかりませんし、もっぱら自分の好みだけが頼りです。
その好みで云うと、わざわざ何万も出して買う価値があるだろうか…というのが率直な印象でした。(もちろんこの試聴環境の中では繊細さなど、伝わらなかった面も大いにあろうかとは思いますから断定はできませんが。)

もうひとつの理由は、どのスピーカーも通常の箱形スピーカーなので指向性があり、音がこっちめがけて向かってくるわけですが、無指向型に身体が慣れて、それがどうも嫌になってしまっている自分に、ようやくこのとき気がつきました。30分以上聴いたところでひとまずおいとますることに。

福岡には、なんでも全国のオーディオマニアの間で知られた有名店があるようで、なんと自宅から車で5分ほどの距離であること、さらに、そこではこのDALIにこの店独自のカスタマイズをしたスペシャル仕様まで販売していることも、ごく最近知りました。

価格もそれほどでもないので、いよいよとなればここに行ってみようかとも思いつつ、オーディオマニア御用達の店など、門外漢のマロニエ君には敷居が高くて入店するのはどうにも気が進みません。あげくにそれを中国製デジタルアンプとポータブルプレーヤーに繋ぐなんて云おうものならどんなことになるやら…と思うとさらに気が重くなります。

電気店の帰りに、このお店の前を車で通ってみると、見るからに一見さんお断り的な、用のない人は近づくことすら拒絶しているような雰囲気でした。建物の多くは分厚い壁に覆われていて、中の様子はまったく窺い知ることはできません。唯一、細長いガラス戸と灯りがあるのみ。少なくとも気軽に入れる店ではないことはわかりました。

…。
帰宅して、食事をして、自室に戻ってアンプをONにし、電気店であれこれのスピーカーで聴いたフーガの技法を自作のスピーカーを鳴らしてみると、やっぱり悪くないなぁというのが偽らざるところでした。
音質はともかく、やはり円筒形の無指向型スピーカーから出てくる、やさしい自然な音の広がりによる快適さは、極端にいうなら何時間でも聴いていられるもので、一度これを耳が覚えるとなかなか脱することはできないようです。

かくして、しばらくはまたこのスピーカーで音楽を聴いていくことになりそうです。
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これでいいのか

マロニエ君は人一倍音楽やピアノが好きなのに、オーディオにはさっぱり凝らないことは自分でも不思議ですが、興味が薄いものはしかたがありません。

メインのオーディオはずいぶん昔に買い揃えたもので、そのときに一応それなりのものを揃えて満足しており、それ以上、あれこれと手をかけようとも思いません。

それどころでないのが、もっぱら自室で聴いている装置です。
スピーカーは自作の円筒形スピーカーで、アンプは中国製のデジタルアンプ、CDプレーヤーに至っては長らくDVDプレーヤーを繋いで聴いていましたが、これがあまりの酷使で壊れてしまい、現在は丸いポータブルプレーヤーに変わっています。

まるでハチャメチャな取り合わせで、どんな酷い音かと思われそうですが、自分ではそれほど悪いとも思っていません。部屋の広さにも合っているし、ここで以前使っていたそこそこのヤマハのミニコンポよりも遥かに好ましい音だと勝手に思い、これに切り替えて既に2年ほどが経ちました。

メインの真っ当な装置で再生するのとは小さくない差があるものの、自分ではそれなりに気に入ってはいるので、これはこれで良しとしていましたが、最近はDALIなどのコストパフォーマンスに優れた評価の高いスピーカーがあるようで、これがちょっと気になりだしたのです。

それに、多くの音楽を聴くのが自作スピーカーとあっては、さすがに演奏者や製作者の方々にもなんだか申し訳ないような気がしないでもないし、一度ここらで一定の評価のあるスピーカーを揃えてみても良いだろうという考えが芽生えてきたのです。
スピーカーは直接音を出す機材で、ピアノでいえば響板に相当するところでしょうから、これが自作というのはそれなりに気に入っているなどとは云ってみても、やはり心もとないことも否定できません。

今はこれに耳が慣れているけれど、たまには同じ環境の中で普通のスピーカーを聴いて、感覚をリセットしておいたほうがいいような気がしてきたのです。
そのためにもDALIの高評価を得ているスピーカーあたりなら決して高いものではないし、いちおう買っておくことが意味のあることのようにも思われます。

DALIもいいけれど、その前に、とりあえず普通のスピーカーを一度聴いてみようと思いました。しかし、すでにヤマハのミニコンポは別所に移動してしまっていて、おいそれと元に戻すことはできなくなっています。

そこで、今は使っていないaiwaの小型スピーカーを引っぱりだしてひとまず繋いでみることにしました。しかしスピーカーコードなどは大掃除の折に処分してしまっており、やむを得ずホームセンターに行って切り売りのコードを買って来ました。

普通のコードでもそこそこのオーディオなら充分役立つし、むしろこちらを好むマニアの方もいらっしゃるようで、最近では商品タグにも「オーディオにも使用可能」ということが付記されています。なにより安いし、急場はこれに限ります。

というわけで久々に普通のスピーカーを鳴らしてみましたが、そこから出てきた音は、予想に反してとても耳に障る音質で、咄嗟に「これはお話にならない」と思いました。
昔ずいぶん使ったスピーカーであるだけに、こんなものを使っていたのかと思うと、昔の自分にゾッとするようで、もうその勢いでこのスピーカーを捨てたくなりました。

もっとも嫌悪した点は、音が耳の奥というか頭の中心に突き刺さってくるようで、これは聴くなり大変ショックでしたし、 さらにものの10分ぐらいで本当に頭が痛くなってくるようでした。

やはり変な事をせずに、さっさとDALIの人気モデルを試してみるしかないと、大型電気店に出向く決心がつきました。

─続く─
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過熱するコラボ

BSプレミアムシアターで、今年4月ジャズピアニストの小曽根真氏が、ニューヨークのエイブリーフィッシャーホールのコンサートに出演し、ラプソディ・イン・ブルーを弾く様子を見ました。

エイブリーフィッシャーホールはニューヨークフィルの本拠地で、当然オーケストラはニューヨークフィル、指揮はアラン・ギルバート。当然といえば、ピアノも当然のようにヤマハでした。

マロニエ君は小曽根氏のジャズに於ける実力がどれ程のものか、わかりませんし、知りません。
ただ、数年前モーツァルトのジュノーム(ピアノ協奏曲第9番)ではじめてこの人のクラシックの演奏を聴き、折ある事にクラシックにも手をつけているのはよく知られているとおりです。
その後はショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第1番、そして今回のガーシュウィンを聴くことになりましたし、ネットの情報では、ドイツではラフマニノフのパガニーニ狂詩曲まで弾いたとか。

最初のモーツァルトのジュノームでは、珍しさもあってそれなりに面白く聴くことができましたが、ショスタコーヴィチではピアノがあれほど華々しく活躍する曲であるのに、いやに引っ込み思案な演奏だった印象があります。
そして、今回のガーシュウィンではさらに慎重な、失言のないコメントみたいな演奏で、とてもジャズピアニストのノリの良いテンションで引っぱっていくというような気配は見られませんでした。
なにより演奏者がいま目の前で音楽を楽しんでいるという様子がなく、ひたすら安全運転に徹していたのはがっかりです。

それなのに、ときどき指揮者と満面の笑みでアイコンタクトをとったりするのが、なんだかとてもわざとらしく見えてしまいました。

こういう畑違いのピアニストが登場する以上は、少しぐらいルールからはみ出してもいいから、クラシックの演奏家にはないビート感とかパッションを期待しがちですが、ものの見事に当てが外れました。果たしてニューヨークの聴衆の本音はどうなのかと思います。

曲のあちらこちらには小曽根氏の即興演奏のようなものがカデンツァとして盛り込まれていましたが、前後の脈絡がなく、それなのに、すべては「台本」に入っていることのように感じます。しかもそれが何カ所にもあって、冗長で、ラプソディ・イン・ブルーとはかけ離れた時間になってしまったようで疑問でした。

ジャズピアニストの中にも本当に上手い人がいるのは事実で、小曽根氏の憧れとも聞くオスカー・ピーターソンなどは、それこそ信じられないような圧倒的な指さばきと安定感で、それが天性の音楽性と結びつくものだから聴く者を一気に音楽の世界に連れ去ってしまいます。
キース・ジャレットのバッハにも驚嘆したし、チック・コリアの演奏にも舌を巻きました。

せめてそういうジャズの魅力の香りぐらいはあってもいいのではないかと思うところですが、小曽根氏のピアノは、少なくともクラシックを弾く限りに於いてはむしろ活気がなく、個人的には退屈してしまいます。

それをまた「絶賛の嵐」というような最上級の賛辞で褒めまくりにされるのが今風です。
当節はその道のスペシャリストが高度な仕事をしても正統な評価はされず、人も集まらないので、主催者も話題性という観点からコラボなどに頼っているということなのか…。

ただアンコールになると、人を楽しませる術を知っている人だということはわかりますし、本人も俄然本領発揮という趣でした。そういう意味ではなるほどエンターテイナーなのかもしれませんが、クラシックは伝統的に演奏そのものが勝負という一面がどうしてもあるので、その点ではいかにも苦しげに見えてしまいます。

コンサートって、やはりいろんな意味で難しいもののようですね。
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本来の作法

モーストリー・クラシックの6月号をパラパラやっていると、へぇという記事に目が止まりました。

2006年、ベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲をライブで収録した後、ピアニストとしての活動休止宣言をしていたプレトニョフが、モスクワ音楽院にあるシゲルカワイ(SK)-EXとの出会をきっかけに、再びピアノを弾く気になったというものです。

ロシアのピアニストで指揮者のミハイル・プレトニョフは、1978年のチャイコフスキーコンクールのピアノ部門で優勝、初来日公演にも行きましたが、そのテクニックは凄まじいばかりで、演奏内容もきわめて充実しており、ただただ驚嘆させられた記憶があります。

これは近い将来、間違いなく世界有数の第一級ピアニストの一人になるだろうと確信したほどです。ところが何年たっても期待ほどの活躍でもないように思っていたら、ロシアナショナルフィルを創設して、もっぱら指揮活動に打ち込むようになり、「ああ…そっちに行ったのか」と思っていました。

ピアニストとしてあれほどの天分を持ちながら、オーケストラを作って指揮に転ずるとは、ご当人はやり甲斐のあることをやっているのだとは思いつつ、ピアニストとしての活躍に期待していた側からすれば少々残念な気がしてたものです。

ところがそのプレトニョフ率いるロシアナショナルフィルは望外の演奏をやりだして、ドイツグラモフォンから次々にロシアもののCDがリリースされました。チャイコフスキーやラフマニノフのシンフォニーなど、かなりの数を購入した覚えがあります。
まったくピアノを弾いていないわけでもなかったようですが、オーケストラの責任者ともなればピアニストをやっている時間はないのだろうと思っていると、伝え聞くところでは、近年は自分が弾きたいと思うピアノ(楽器)がなくなってしまったことがピアニストとしての活動を減ずる大きな要因になっている旨の発言をしたようです。

その証拠に、2006年のベートーヴェンのピアノ協奏曲では、普段なかなか表舞台に登場することの少ないブリュートナーのコンサートグランドが使われています。聴いた感じでは、まあ楽器も演奏もそれなりという感じでしたが…。

プレトニョフがこの録音の後にピアニスト休止宣言をしたということは、ブリュートナーさえも彼の満足を得ることはできなかったということのようにも解釈できます。

そんなプレトニョフにSK-EXとの邂逅があり、昨年はそれが契機となってモスクワでリサイタルをやった由、よほどの惚れ込みようと思われます。その後はロシアナショナルフィルとの来日でカワイの竜洋工場を訪れ、そこでなんらかの約束ができたのかもしれません。

雑誌によれば今年5月には7年ぶりのアジアでのピアニスト再開ツアーを行う(すでに終了?)とのことで、カワイのサポートのもとにリサイタルやコンチェルトなどが予定されているということが記されていました。

マロニエ君はSK-EXによるコンサートは何度も聴いていますが、コンサートグランドとしては率直に云ってそれほどのピアノとも思っていませんが、それはそれとして、ピアニストが楽器にこだわるというのは非常に大切な事であるし、それが当たり前だと思います。
演奏家がこれだと思う楽器で演奏し、それを聴衆に聴かせるということは、少々大げさに云うなら演奏家たるものの「本来の作法」だとも思います。

例えばヴァイオリニストが身ひとつで移動して、各所で本番直前にはじめて触れるホール所有のヴァイオリンで演奏するなんて、そんな非常識はおよそ考えられませんが、ピアニストは実際にそれをやっているわけです。すべてはピアノの大きさに起因する物理的困難、さらにはそれが経済的困難へとつながり、多くのピアニストは理想の楽器で演奏することを断念させられ、楽器への愛情さえも稀薄になってしまっているように…。

でも、本来は人に聴かせるコンサートというものは、それぐらいの手間暇をかけるものであって欲しいと思います。
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怪しい楽譜

マロニエ君はろくに弾けもしないのに楽譜を買うのは嫌いではありません。
楽譜は一度買えば半永久的で、できるだけたくさんあるほうが何かと役立つし、曲を知るための大事な手がかりにもなります。
従って、音楽好きにとっては、楽譜の蔵書は大げさに云うと一種の財産だと思います。

ところが、ここ最近の印象では楽譜はけっこう高額で、以前のようにおいそれと買えるようなものではなくなってきているように感じますし、知人なども皆同意見で「高い」「高すぎる」という声がすぐに返ってきます。
国内出版社のものならまだ大したことはないものの、それでもウィーン原典版などはそれなりで、さらに輸入物となると、プライスを見ただけで買う気が萎えてしまうようなものが少なくありません。

多売が期待できるものではないから、高価になるのは仕方がないという需給バランスの結果だと云われればそれまでですが、ほんらい著作権などが切れた歴史上の作曲家の楽譜であるのに、薄いペラペラの楽譜がン千円などというのがザラで、あんまりな気がします(校訂者の版権などがどうなるのかは知りませんが)。
それでも、プロの演奏家であれば楽譜はいわば商売道具であり、高くても買わざるを得ないでしょうが、アマチュアには絶対必要という理由もなく、そもそもよけいなものを買っているので、値段で断念してしまうこともあるわけです。

そんなときこそ、ネットが強い味方になりそうなものですが、実は楽譜に関してはそれほどでもなく、他の商品のように安くゲットするのは容易ではないようです。アマゾンなどは海外から直接送られるケースもありますが、楽譜はここでもやはり高価で、ヘンレ版などはそれほどお買い得のようにも思えません。

さて、このところシューベルトのヴァイオリンとピアノのための幻想曲D.934の楽譜がほしくなり、ヤマハを覗いてみましたが、お値段以前にその曲そのものがありませんでした。
べつに目的があるでもなし、ただなんとなく欲しかっただけなので注文してまで買うほどの熱意もなく、値段もわからないので、いったんお店を引き上げました。

帰宅して、ものは試しとばかりにアマゾンで検索してみると、なんと送料込み1000円強という望外に安い輸入楽譜を発見!「さすがアマゾン!!」と感激してさっそく注文しました。

10日ほども経ったころでしょうか、ポストにそれらしきものが投下されており、勇んで中を開けてみました。
取り出した瞬間の第一印象が、なんとなく普通の印刷物ではないような気配を感じました。もちろん、いちおう厚紙のカラーの表紙があって、中の製本もきれいですが、醸し出すものが、なんとなく正統なものではない気配を感じたのです。

中を見てみると、白い紙の上の、音符や五線の黒だけがピカピカと妙な光沢を帯びており、これはコピーでは?とまっ先に思いました。
まあ、値段は安いし、安く買えたのだからいいか…と半ば納得しながら、さっそくピアノに向かってポロンポロンと試し弾きしていると、数ページ進んだところで「ええっ!?」という箇所に出くわしました。

なんと、あちらこちらに手書きの指使いがたくさん書き込まれていて、その書き込みまでコピーになっていますから、やはり初めの危惧は当たっていたと思いました。

封筒の発送元をみてみると、日本のアマゾンから発送されていることがわかり、もともと、どこからやってきたものなのかはわかりません。
でも裏表紙には尤もらしくバーコードも付いているし、「Printed in the USA」とあって、いちおうは流通する商品のような気配も窺えないでもない。

とかなんとかいってみても、要はただの楽譜なのでマロニエ君個人はべつに構いませんが、これはやはり本来はまずい商品なのではという疑念も消えたわけではありません。
ふとアマゾンに問い合わせをしてみようかとも思いましたが、それで回収などという流れになったら、それはそれでイヤなので、それもしませんでした。

でも、中には「本書は、著作権があり、許可なしに複製することはできない。 この本のための資料は、大英図書館から提供されている。」というような意味のことが英語で書かれていて、しかるに指使いの書き込みがあるなど、ますますその怪しい感じが強まりました。
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ご立派!

現在の日本では、もはや老大家の部類に入るであろうピアニストの著書を読了しました。

毎度のことで恐縮ですが、やはり今回も実名をわざわざ書こうとは思いませんので悪しからず。

マロニエ君は残念ながらピアニストとしてこの人の演奏が好きだったことはこれまで一度もないけれど、以前、この人のファンクラブのお世話役をされている方から、このピアニストが出した本をいただいて、せっかくなので読んでみたことがありました。

そのときの感想は、内容云々より、その自然な語り口というか、力まないきれいな日本語の文章で綴られているところが意外で、演奏よりそちらのほうがよほど好印象として残りました。

さて、今回の本は書店では目にしていたものの、まともに買って読む気はなかったところ、たまたまアマゾンで本の検索をするついでにこの人の名を入力してみると、あっさり中古本が出てきました。
価格もずいぶん安いので、ちょっと迷いつつも遊び半分に[1-clickで買う]を押してしまったのでした。

ほどなく、ほとんど新品のような本が届きました。

さっそくページを繰ってみると、ああこの人だと覚えのある文章でした。内容には感心がないのでさほど熱心に読む気にはなれなかったものの、別の本に飽きたときに、ちょっとこちらを開くという感じで、のろのろしたペースで流し読みのようなことをしていましたが、読み進むうちに、なんだかふしぎな違和感のような…なんともつかないものを感じ始めました。

文章そのものは相変わらずおだやかで、率直さと、いかにも文化人風の雄弁さがあるけれども、なにか根底のところに自分とは相容れないものがあり、それを意識しだすと、その違和感はしだいに確実なものとなりました。やがて本も佳境に入る頃には、もうそればかりが意識されます。

それをひとことで言うのは躊躇されますが、強いて云うと、その飄々とした自然な感じの文体が、まるで巧みなカモフラージュであるように、大半がご自分の自慢話に終始していることでした。
表向きは、ただ音楽が好きで、ピアノが好きで、美しい自然を愛し、名声や贅沢には興味もなく、常に自然体、心もすっかり脱力しているといわんばかりの語り調子に見えますが、その奥に確固とした野心の働きが見え隠れすることはかなり驚きでした。

やわらかな文章を思いつくままに綴っただけですよ…というその中に、狙い通りの裏模様を出す糸をそっと織り込むように、言いたいことはサラリと臆せず遠慮なく、しかも確実に語られていくのは呆気にとられました。
そんならそれで、こっちもその気構えをもって読むと、上辺のイメージと、巧みに隠されたマグマのような野心の対比は却って面白いぐらいでした。

人は歳をとれば丸くなるもの、俗な贅肉はそぎ落とされるものと思ったら大間違いで、慎みや遠慮や謙譲の心が失われているのは、なにも現代の若者だけではないことがわかります。むしろ今どきのスタミナのない若者なんぞ、とてもこのご老人には敵わないと思います。
それで思い出したのですが、この方の表面的なイメージからは俄には信じられないような噂を、これまでにもいくつか聞いたことがあり、そのときはへええと笑って過ごしましたが、今にして深く納得してしまいました。

誤解を恐れずに言うと、ピアニスト稼業なんてものは、それぐらいの図太さ逞しさがなくてはやっていけないものかもしれないとも思いました。
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ふたつのSTEIN

ほぼ同時期に買った2つのCDが期せずしてシューベルトのピアノ曲となり、驚くべきは「さすらい人」「3つのピアノ曲」など、収録時間にして全体の約半分が重複しており、この偶然にはびっくりでした。

そもそもマロニエ君は曲云々で選ぶというより、直感的に「聴きたいと思う決め手がある」かどうかが購入のポイントです。
その結果、思いがけない直接比較が出来ることと相成りました。

ひとつはフランス人のベルトラン・シャマユで、ピアノは2005年あたりに製造されたスタインウェイD-274を弾いたもの、もうひとつは先日も書いたロシア人のユーラ・マルグリスの演奏で、ピアノはバイロイトの名器、シュタイングレーバーの弱音器つきD-232です。

共通しているのは、両者共に男性の中堅ピアニストであり、ソナタ以外のシューベルトを演奏しているという点でしょうか。

弾く人によって、同じ曲でも大きく印象が異なることは当然ですが、ほぼ同時期購入という意味で、否応なく比較対象となってしまいました。

両者の演奏は、まず洗練と無骨という両極に分かれます。

【ベルトラン・シャマユ】
シューベルトの息づかいや心の揺れをセンシティヴに音にあらわし、泡立つような可憐な音粒で演奏。そこにある洗練は専らフランス的なセンスと明るさが支配して、ある意味ではショパンに近いようなスタイルを感じることもある。隅々まで細やかな歌心と配慮に満ちた神経に逆らわない演奏。
リストによるトランスクリプションでは折り重なる声部の歌いわけも見事。
大きすぎないアウディかレクサスでパリ市内を流してしているようで、目指すはオペラ座かルーブルか。

【ユーラ・マルグリス】
作曲者や作品の研究や考証というより、むしろ自分の意志やピアニズム表現のためにシューベルトの作品を使っているという印象。緩急強弱、アクセント、ルバートなど、いずれも、なぜそこでそうなるのか、しばしば意味不明な表現があり、恣意的な解釈を感じる。
ロシア的感性なのか、重々しい誇張の過ぎた朗読のようで、何かを伝えたいのだろうがそれが何であるかがよくわからない。
ベンツのゲレンデヴァーゲンで田舎へ出むき、何か専門的な調査しているかのよう。

ただし、ピアノという楽器の素朴な魅力に満ちているのはシュタイングレーバーで、スタインウェイは比較してみるとピアノというよりは、もう少し違う音響的な世界をもった楽器という印象をさらに強めました。

全体を壮麗な音響として変換してくるスタインウェイとは対照的に、シュタイングレーバーは聴く者の耳に、一音一音を打刻していくような明瞭さがあります。ハンマーが弦を打ってその振動が駒を伝わり響板に増幅されるという、一連の法則をその音から生々しく感じ取ることができるという点では、いかにもピアノを聴いているという素朴な喜びが感じられます。

むしろシュタイングレーバーにはピアノを必要以上に洗練させない野趣を残しているのかもしれません。良質の食材もアレンジが過ぎると素材の風味が失われるようなものでしょうか。
これに対して、スタインウェイははじめから素材の味を飛び越えて、別次元の音響世界を打ち立てることを目指し、それに成功した稀有なピアノという印象。

それはそうだとしても、このCDに使われた時期のスタインウェイには、もはやかつてのようなオーラはなく、不健康に痩せ細った音であることは隠しようもありません。公平なところ、このメーカーの凋落を感じないことはもはや不可避のように思われます。
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ティル・フェルナー

ことしの2月、サントリーホールで行われたN響定期公演から、ネヴィル・マリナー指揮のモーツァルト・プロによる演奏会の模様が放送されました。

前後の交響曲の間に、ピアノ協奏曲第22番KV482が挟まれました。
ピアノはウィーンの新鋭(中堅?)、ティル・フェルナー。

この曲はマロニエ君がモーツァルトのピアノ協奏曲の中でもとくに好きな作品のひとつで、この時期はフィガロの作曲もしていたためか、どこかオペラ的でもあり、フィガロの折々の場面を連想させるような部分も個人的にはあると感じています。

ネヴィル・マリナーの指揮は、とくに深いものを感じさせるのではないけれども、音楽がいつも機嫌よく、流れるような美しさに彩られています。
なにかというと演奏様式だの解釈だのということが前に出てくる最近では、単純にこういう心地よい素直な演奏というのもたまにはいいなあと思いますし、理屈抜きにホッとさせられるものがあります。

そんなオーケストラと共演したティル・フェルナーですが、その見事な演奏には久しぶりに満足を覚えました。
気品があって、折り目正しく、それでいてちっとも教科書的な演奏ではない新鮮さに満ちていました。最近はただ弾くだけではダメだからといわんばかりに、なにやら無理に個性的な演奏や解釈を提示して、聴く者の印象に食い込もうとする人が少なくありませんが、フェルナーの演奏はまったくそういった邪念がなく、ひたすらモーツァルトの世界に敬意を表しながら自らの重要な役割を見事に果たしたという印象でした。

モーツァルト独特な、和声進行ひとつ、スケールひとつ、あるいはたった一音で、音楽の表情や方向がガラリと変わるような、単純なようで実は重要なポイントも、ごく自然で丁寧に表現してくれるので、なんの違和感もなしにモーツァルトの音楽に身を委ねることができました。

音の粒立ちもよく、ひとつひとつの音符が明瞭ながら、全体の流れもきちんと保持されている。よくよく検討され準備されていながら、あくまで自然で軽やかに聞こえなくてはならないという、このバランスこそモーツァルトの難しさのひとつとも云えるでしょう。
それを見事に両立させたフェルナーのピアノは稀有な存在だと思います。

アンコールでは一転してリストの巡礼の年から一曲を披露しましたが、こちらも非常に節度のある、美しい演奏でした。フェルナーについてはあれこれと聴いた経験はないし、おそらく何でも来い!というタイプではないと思いますが、まことに好感の持てる、素晴らしいピアニストであり音楽家だと深く感銘を受けました。
まだこういうピアニストが存在するというのは嬉しいことです。

ピアノはスタインウェイで、今やウィーンのピアニストが来日してモーツァルトを弾くというのに、それでもベーゼンドルファーのお呼びはかからないのかと思うと、これも時代かと考えさせられました。

そのスタインウェイは、まさにこの一曲のために調整されたといわんばかりのソフトに徹した音造りのされたもので、ときにちょっとやり過ぎでは?と思えるほどのほんわかしたピアノでした。
深読みすれば、サントリーホールも新しいスタインウェイが納入されているようなので、第一線を退いたピアノには調整の自由度がぐっと広がったということかも…と思ってしまいました。
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弱音器

ユーラ・マルグリスによるシューベルトのCDを聴きました。

マルグリスは親子数代わたるピアニスト/音楽家で、派手な人ではないけれど、自分なりの道を行く人だという印象です。
楽器としてのピアノにも興味やこだわりがあるのか、ホロヴィッツのピアノを使ったライブCDもあるようですが、これは残念ながらまだ入手できていません。
ただこの人、どちらかというとマロニエ君の好みのタイプではありません。

そしてこのシューベルトのアルバムは、マルグリスの演奏ではなく、そこで使われるピアノに興味がわいて購入したものです。
CDの説明によると、歴史的楽器を使う予定だったが求める響きが得られず、現代の楽器に「当時の楽器の特徴である弱音器を組み込んで」の演奏であることが記されており、さらに「試行錯誤の結果生まれた独自の響き」とあり、いったいどんなものか聴かずにはいられなくなりました。

帰宅して中を開けてみたところ、それはシュタイングレーバーの協力を得て作られたCDであることが判明、録音も同社の室内楽ホールというところで行われたようです。
ピアノはD-232というわりと近年に出たモデルで、それ以前にあった225とかいうモデルの後継機かと思われます。

カバー写真には、さりげなくこのピアノの秘密が写されています。
ハンマーの打弦点に接近したところへ幅にして数センチの赤いフェルトが帯状に仕組まれ、おそらくはペダルを踏むと、この薄いフェルトの帯が弦とハンマーの間に介入してソフトな音色を生み出すのだろうと思われます。
だとすれば、これはアップライトの真ん中の弱音ペダルと同じ理屈のようにも思えますが、写真で見るフェルトはごく薄いもののようで、その目的があくまで「音の変化」にあることが推察できます。

さてその音はというと、耳慣れないためかもしれませんが、このペダルを使ったときの音とそれ以外の音との対比が極端で、一台のピアノとしてのまとまりという点で個人的にはやや疑問が残りました。
弱音器を使ったと思われる音はウルトラソフトとでも表したい、きわめて美しいまろやかなものでした。ただその変化に気持ちがついていけず、これを耳が受容するにはもう少し時間がかかるのか…ともかく現在はむしろバラバラな感じに聞こえてしまうというのが率直なところです。

ちなみに最近のシュタイングレーバーの「CD」から共通して聞こえてくるのは、フォルテ以上になるとエッジが立って少し音があばれるような印象があるためか、よけい弱音器使用時とのコントラストが際立って感じられてしまうのかもしれません。

個人的にはもう少し抑制の利いていた以前の音のほうが濃密な感じで好ましかったように思いますが、シュタイングレーバー社で録音された演奏であることから、これが現在の同社が考える最良の音のひとつ、もしくはこのメーカーが是としている音の方向性であると解釈していいのかもしれません。

ここで使われた「弱音器」と同類のペダルといえば、ファツィオリの大型モデルには4番目のペダルとして打弦距離を変化させる機構があるようです。これも弱音域の手数を増やして、より多様な表現を可能にすべく開発されたものでしょうから、それぞれ方法は違いますが、そのチャレンジ精神には敬服させられます。
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いったい何者?

先週末のこと、天神の大型書店でまたしても思いがけない光景を目の当たりにすることになり、どうもこの書店はいろいろあるようです。

ここは市内でも最も品揃えの充実した書店で、音楽や美術の関連書籍は4階にあり、音楽に関してもヤマハや島村楽器などを凌ぐ量のさまざまな書籍が揃っています。
1階の喧噪がウソのように芸術関連の書棚周辺はいつ行っても人は少なく、このときも週末でしたが、人影もまばらでほとんどマロニエ君一人のような状態がしばらく続きました。

そこへ長身でスラリとした30代ぐらいの女性が靴音をコツコツいわせながら、決然とした足取りでやってきて、なんの迷いもなくすぐ後ろの書棚の前でしきりにあれこれの本を手に取り始めました。
そこはバレエを中心とするダンス関連の本が並んでいるところです。

すると背後から、ガサゴソパラパラという尋常ならざる音がひっきりなしに伝わってきて、それが静かな売り場ではえらく耳について、なんだか嫌な気配を感じました。

ただ本を見るのに、この異様な空気感はなんなのだろうと思い、ときどきふりかえってそちらを見ると、その女性はいやにツンとした感じが全身に漲っており、なにか目的があるのか、手当たり次第に商品の本を荒っぽく手にとってはパラパラとものすごい勢いでページをめくっています。
それがずっと繰り返され、本を棚に戻す際にも、あまりの勢いで本が書棚にぶつかる音まで発しており、まあ上手く表現できませんが、ともかくけたたましい本の取扱いで、マロニエ君はとくに本を乱雑に扱うというのが体質的に嫌なので、たちまち不愉快になってしまいました。

ま、世の中にはいろんな人がいるのだからと自分を説き伏せて、気にかけないように努めてみますが、すぐ後ろではあるし一向に収まる気配がないので気になって仕方がありません。ひっきりなしにガサゴソ、パラパラ、ドン、バサッという音が背後から聞こえてきます。

さらに信じられないことが起こります。
ピーッ、シャラシャラという音がはじまり、思わず振り返ると、なんと1冊ごとにセロファンに包まれた本を、なんの躊躇もなくひき破って中の本を取り出し、同じ調子でパラパラみては、ポンと激しく棚に戻し、それが何冊か続きました。

さすがにこれはひどい!と思い、あからさまにその女性を非難の目で見てしまいました。
マロニエ君との距離は1mもないのですが、こちらの眼差しなどなんのその、その女性はまったく意に介することなくこの行為を止めようとはしません。
この行為はいくらなんでもと思ったので、言葉で注意しようかと決断を整えようとしていたまさにその瞬間、なんとそこにエプロンをした店員が通りかかり、この女性の様子に不信感をもったようでした。

すぐにセロファン入りの本を何冊も開けていることがわかり、その女性へ静かな調子で「お客様、無断でセロファンを開けられては困るんですが…」と言いましたが、まず、その女性はまったくこれを無視しました。
店員もこれはただ者ではないと直感したようで、再度「これらの本は出版社より指示がありまして、開封されると困るんです…」と言いますが、その店員と女性の顔は30cmぐらいまで近づいていますが、女性はまったく店員の顔を見ようともせず、目線も動かさず、声もまったく発しません。

唯一の変化は、手先の動きだけが完全に止まったことです。
店員はその後も一二度声をかけましたが、まったく返事はないばかりか完全な無視で、ほんのわずかでも店員のほうに顔を向けることはせず、ただならぬ意地の強さが現れているようでした。店員はこの女性との会話は諦めたのか、あたりに散らばったセロファンの屑を掻き集めながら、電話でだれかと連絡を取り始めました。

それを機に女性はまたあれこれの本を見始めましたが、店員から発見される前と違って、あきらかに直前までの勢いは失っていました。それでも「私はまったく動じていない!」という必死のポーズをとりながら、少しずつこの場を離れて行きましたが、それでもしばらくは5mぐらい先でまだ本を見ているフリをしていたので、相当に歪な負けん気があるのでしょう。

ああいう人は、本に限らず、お店の商品に損傷を与えたりということをあちこちでやっているんだろうと思います。ふう…。
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