ハオチェン・チャン

クラシック音楽館の4月2日の放送は、今年3年ぶりに来日したというトゥガン・ソフィエフの指揮で、ブラームスのピアノ協奏曲第2番/ベートーヴェンの交響曲第4番が放送されました。
ソリストは2009年のクライバーンコンクールで辻井伸行と同時優勝した、中国のハオチェン・チャン。

全体として、細部までしっかり弾き込まれたクリアな演奏で、全体として見事なものだったという印象。
とくにブラームスの協奏曲はシンフォニックな要素が求められ、若書きの第1番と同様、ピアノ付き交響曲と言ってもいいような作風でで、演奏時間も50分前後と数あるピアノ協奏曲の中でも最も演奏時間の長い部類であることは有名です。

その長さも納得のきわめて素晴らしい作品であえるにもかかわらず、コンクールでブラームスを選択すると入賞できないなどというジンクスもまことしやかに囁かれており、コンクールという審査員も聴衆も次々に演奏を聴かなければならない疲労感の中で、この長大な協奏曲に付き合わされるのがウンザリなのだそうで、笑うに笑えない話です。

それは余談として、ほんとうに素晴らしい作品であるのは誰もが知るところです。
ハオチェン・チャンは従来のこの第2番のいぶし銀のようなイメージ(第1番よりは明るい曲調だとしても)ではなく、華やかさを絶やさないピアノコンチェルトとしてのアプローチなのか、ときにチャイコフスキーあたりを髣髴とさせる瞬間もあったほどピアノの存在と輪郭ががはっきりしていたように思いました。

そういう意味では、いわゆるブラームス臭がプンプンするような演奏とは感じなかったけれど、古いものに新しい照明をあてて、これまで見ることのなかった新鮮な景色があったように感じ、これはこれで一つのやり方だろうという気はしました。
これまでブラームスといえば、佳き時代の都会のシックで陰鬱な夜みたいな、どこかあやふやで仄暗い大人のトーンが聞きどころだったけれども、どちらかと言うと古典の要素を踏まえつつもリメイクされたアップデート版という感じでしょうか。
どうしても不足しているように感じたのは、光と影のコントラストの交差なのか、特にブラームスでは影の表現は大事だと思うだけに、その点が少し平坦過ぎたようにも思えたり…。
とはいえ、いかなる場所も隅々まで危なげなく弾き込まれ疾走感があり、いかにも一流のクオリティをもって演奏されているあたりはN響にも通じるようで、そういう意味でもこの両者は相性が良いような気がしました。

ちなみに、中国人ピアニストを視聴するたび共通して感じるのは、よく鍛え込まれたテクニックとメンタルの強さが見事に合体している点が強みなのかどの人も自信たっぷりで、ときに快楽的なほどの自我表出を堂々とやってのけるあたりに毎回独特な印象を受けてしまいます。
演奏じたいもしっかりしたものではあるけれど、それは欧米風でもなければ東洋的な繊細さというのでもなく、表情の付け方などもためらいとか痛みなどのデリカシーの妙よりは、中国という風土と訓練によって身についた演技的なものを感じるときがあります。

演奏中は、顔の表情も百面相のように変化めまぐるしく、笑ったり怒ったり、陶酔や喜びに浸っているかと思えば、一瞬にして予期せぬ恐怖に身構えて目をむくような表情になったり、ついそちらに目が行ったり。
どうかすると目は怒っているのに口元は笑っていたり、あるいは難しいパッセージでもまったく手元を見ることなく、空を見つめながら忘我の境地のようになるなど、幼少期からの指導法がまるで違うのかもしれません。
その代表格がラン・ランでしょう。

ハオチェン・チャンの場合はラン・ランよりはよほど抑制的ではあるけれど、見ていればそれらの要素はやはり随所にあって、そこは中国人ピアニストに共通して流れるDNAなのかと思います。ただし、音だけを聴いているとさほど違和感はなく、素直に立派な演奏といって差し支えないと思ったことも事実です。

冒頭インタビューによれば、ハオチェン・チャンはこのところブラームスに傾倒しているのだそうで、アンコールにはop117-1が弾かれましたが、長大なコンチェルトを聴き終えたあとに涼しいデザートを振る舞われたようで、「ああ、なんという美しい曲か!」と素直に思いました。
こういう気持ちにさせるというのは、やっぱり演奏が素晴らしかったという証でもあるでしょう。

この印象もあってか、またもコンチェルトから聴いてみた(3回目)のですが、いささかこちらの耳が少し固定観念に囚われていたのか、明晰でメリハリのあるいい演奏だと思えてくるようになりました。
よってハオチェン・チャンは、現代のピアニストとしてはかなり好ましい一人だというのが、個人的にはやや回り道をした気もしますが、その挙句に到達した結論となりました。
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完成度

BSプレミアムでシャルル・リシャール・アムランによる昨年末の来日公演の様子が放送されました。

会場は東京オペラシティ、曲目は55分の番組内では2つのノクターンop.27と24の前奏曲op.28で、むろん実際のコンサートではこれだけではなかったでしょう。

この人は2015年の第17回ショパンコンクールで第2位に輝く実力者で、このときの優勝は韓国のチョ・ソンジン。
度の強い眼鏡とふっくらしたクマさん体型もあってか、温厚な雰囲気があり、飾らないピアノを弾く人で、そこが当時から印象的でした。
それと、今どきの多くの若手ピアニストたちが、コンクール後に実際の演奏活動が始まると、手のひらを返したようにショパンを避けるような振る舞いになっていく傾向があり、それはショパンのピアニストとしてのイメージを剥がそうとする狙いもあるのかもしれませんが、あまり度が過ぎると好意的に見えないようになるのは私だけでしょうか?

ショパンを弾くだけではない、オールマイティなピアニストの資質があることを誇示するあの感じは、今どきのピアニスト自己アピール術という感じが前に出て、ショパンコンクールを出世の階段として利用しただけというしたたかな感じがあり、またこのパターンだな…としか思えなくなりました。

その点ではリシャール・アムランは、他の作曲家の作品も弾くけれど、ショパンは重要なレパートリーという姿勢を崩していないような印象があり、必要以上に野心的でない素直さには好感を持っていました。
そもそも、ショパンコンクールに出場して上位入賞した人に聴衆がショパンを求めるのは至極自然なことで、決してオールショパンである必要はないけれど、プログラムの一角にショパンを入れ込むのは、自分の経歴に対するある種のマナーのような気がします。

中には、ショパンコンクールに何年もかけて周到に準備/出場し上位入賞を果たしながら、今度はピアニストとしてやっていくかどうかもわからない、自分の一番やりたいことは◯◯だ…などと言ってのける人もいたりで、自分の能力をひけらかして世の中を弄ぶのはいかがなものかと思うこのごろだったり。

…さて、アムランですが、彼が出場したコンクールから早いもので8年が経過したことになります。
私はこの人の演奏には、ファンというほどではないけれど一定の好感を持っていましたし、この人が優勝でもよかったのにと思ったこともありました。
その後はCDも数枚購入しましたが、耳を凝らして聴いてみると、意外やイメージよりもドライで詩情がもっとあってもいいように感じるところがしばしばです。
とくに今回の来日公演の演奏では、その点が一層目立ったようでこれは残念な点でした。

アムランに限ったことではありませんが、ショパンコンクールで演奏するということは大変な緊張もあるだろうけれど、やはりその一音一音に当落がかかった真剣勝負であるし、そのための準備も尋常なものではないでしょう。
本人はもとより、周りの指導者たちとのチームによってこのすごいエネルギーを投じて磨き込まれた入魂の演奏であるためか、その後のコンサートで見せる演奏は、もちろん余裕とか深まりとかいい面もあるけれど、どこか真剣度が足りないし、新しいレパートリーに関しては完成度の低さを感じてしまうことが少なくありません。

これはコンクールでの演奏が最高と言っているわけでは決してないけれども、コンクールにフォーカスして練習を積み重ねたものには特別に仕上がった輝きがあるわけで、それに対して同じ弾き手でも通常のコンサートでの演奏とは小さくない溝があるように思います。
他のピアニストでも、コンクールからずいぶん経ってリリースされたショパンのCD(コンクールでは弾かなかった曲)を期待して聴いてみて、あまりの完成度の違いに驚いたこともあります。
それがコンクールのような勝負の場ではできなかったことを表現しようとしているなら、こちらも大いに拝聴するところですが、数を揃えるために雑で生煮えのような演奏が次々に出てくると、その幻滅はたとえようもありません。

今回のアムランがまったくそうだったというのではないけれど、やはり詰めの甘い部分が放置されっぱなしのように聴こえたり、ショパンの演奏様式とか外してはならないポイントからズレたものを感じたりすると、むしろこれがこの人の正直な姿なのかと思って、いささか戸惑いを覚えたのも事実。

アムランのショパンは、全体としては一定のクオリティで保証されているけれど、その実、期待するほど詩的に語りかけるものがなく、意外に配慮に乏しい事務的な処理だったりするのは、どうしようもなく醒めた気分になってしまいます。

ピアノはショパンコンクールでもそうであったようにヤマハで、よほどお気に召したんでしょうね。
音はTVなので厳密なところまではわかりませんでしたが、新型のCFXでした。
見分けるポイントは、大屋根の蝶番が3個になり、外板サイドに取っ手のあるL字フックがないタイプでした。
またTVには映りませんでしたが、フレームも大幅に形状変更されているようです。

全体として、日本のピアノは世代交代する度に外国語が流暢になっていくようですが、願わくばステージ上でのヤマハのボテッとした鈍重なスタイルはなんとかならないものかと思います。
日本製だからといって、なにもピアノでまで胴長短足の日本人体型を貫かなくても…と思うのですが。
一番の問題は前屋根が折れるポイントが後ろすぎで、あと2cm浅ければずいぶん違うと思うのですが、ステージに凛と立って視線を集めるコンサートグランドは、見た目のフォルムの美しさも非常に問われると私は思います。
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向上と退化

このところ、音質もさほど良いとはいえない昔の演奏に耳を傾けることが少なくありません。
理由を考えてみると、現代の演奏はどこか作られたような、ウソっぽさを感じることが多く、昔の演奏にはそういう疑念がない点で、演奏者の本音に触れられるからかもしれません。

とはいえ、新しい世代の演奏もそこそこ積極的に聴いているつもりです。
日本人でもこの数年でワッと増えたように感じますから、あの世界も大変でしょう。
若い世代のピアニストは、いまさら繰り返すまでもないけれど、不自然に完成されておりピカピカで聴いていて見事とは思うけれど、心を掴まれたいのにそうならないまま淡々と進み、ついには後に何も残らないのです。
これは言い換えるなら「もう一度聴いてみたいと思わない」ということかもしれません。
演奏を通じて自分が価値とするものを世の中に投げてみる、あるいは批判覚悟で問うてみるという、とりわけ芸術には必要な個の尊厳のための頑固さとか偏執的なエゴがまったくないのは、まるで売上チャートに合わせた規格品みたいな感じがどうしても拭えません。

評判のいいチェーン店の商品のように安定はしているけれど、マイナスになり得る要素を排除し、わずかなキズや落ち度も消し去って、キラキラに整っているだけの首尾一貫しない演奏。まるで音楽をネタにしたエリートの成功物語に付き合わされているような印象と言ったら言い過ぎでしょうか?

おそらく彼らにも言い分があって、これだけ平均技術が上がりライバルが増えれば、自分の頑なさをアピールして失敗するより、手堅くミスを侵さず、嫌われず、タレントとしての存在力を高めることに注力しなくてはいけないのかもしれません。
一部の鍛えられた耳を持った人をターゲットに芸術性で勝負しても、それは現代が求める価値とは齟齬があり、技巧や入賞歴や、やみくもなレパートリーの量、メディアへの露出、果てはSNSのフォロワー数などが尺度となって、誰にでもすぐにわかるものでなくてはならない。
要するにスーパーマンであることが最も大事なのかも。

私の旧弊な耳には、匿名的な活字印刷したような演奏にしか聴こえず、その演奏から誰の演奏と言い当てることはできません。

海外のピアニストも同様で、だれもが不安のない技術を備え、淡々と既定の演奏をやっているのだから、はじめから終わりまで見通せるようで、ワクワク感がないのも当然ですが、音楽がワクワク感を失うのは大問題という気がします。

これは楽器としてのピアノにも似ていて、昔のピアノは品質も個性も様々で、高級品は夢見るほど素晴らしく中には怪しげな魔力さえ漂っていたりしましたが、大半のピアノメーカーは淘汰され、残ったメーカーはこれという欠点を徹底的に潰して量産品としての改善に努め、標準的な間違いのないものを作っているように見えます。
今は一流品とされるブランドでもコストと利益が最優先で、素晴らしいピアノを作ることに心血を注ぐなどという理想はなく、ビジネスとして与えられた枠の中で、誰からも嫌われないものを、職人不要なマシンを多用しながら、故障しない自動車を作るように製造しているように感じます。
もはやピアノも工場のハイテクの気配はあっても、熟練の職人や工房の匂いがしないのは当然というわけです。

現代のピアニストの演奏は、印刷された楽譜の存在をイメージさせすぎるように感じます。
多くの奏者は聞き分けよくそれらを正確に伝えてくるけれど、それが本心からその人の感じ取った音楽になっているかとなると甚だ疑問で、それも徹底し過ぎると音の商品といった印象があります。
その点、昔の演奏は演奏者の感性を通し、身体をかけめぐったあげくに作品が昇華され、それぞれの言葉や表現となって聴く者へ届けられてくる気がします。そこには演奏者の体温があり、汗があり、吐息があり、喜怒哀楽が作品を通して翻訳され、山あり谷あり立体感があって、血の通った起承転結を感じます。
結果、何を聞いても同じように聞こえるのではなく、作品の姿形も、作曲者が伝えたかったこともダイレクトになる気がします。
要するに作品が奏者と肉体化しているので、楽譜を感じさせないんだと思います。

同時に、現代の精巧な演奏には及ばない点や、場合によっては違和感やどうみても間違いなど、出来不出来もあるけれど、何のために音楽を聴くのかという点では、前世代の演奏のほうが純粋で、音楽のあるべき姿ではないかと感じるこの頃です。
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ガラス窓

唐突ですが、住まいの窓ガラスの掃除は、なにしろ面倒くいから滅多なことではやらず、恥を忍んで告白すると1年以上ほったらかしになってしまうようなことも常態化しています。
毎日の生活の中で目にしていると、すっかり目に馴染んでほとんど無反応になるものがあるけれど、ふと冷静な目で見てしまうる瞬間があると、その汚れにびっくりしたり…。

外窓は、雨粒はもちろん台風の時に付着したと思われる小さな泥粒などが下部にこびりつき、内側はエアコンはじめホコリの堆積、さらに冬場は加湿器のせいでうっすらと白い膜のようなものが覆っていたりします。
しかし、いつも薄いカーテンを引いているので、おかげでますます気にしなくて済むということもあったり。

そのうちやらなくてはと意識するようになっても重い腰はなかなか上がらず、あれやこれやのせいにして実行は延期に次ぐ延期の繰り返しだったり。着手するまでが大変です。

鏡ぐらいのサイズならともかく、家の窓ともなると面積も広いし、何度も雑巾を洗ったり絞ったり、かつガラスは裏表があるから仕事量も倍で、かなりの重労働となるのでますます敬遠しがち。
それでもなんとか見て見ぬふりできているうちはいいけれど、今年になってからさすがにこれ以上はマズいという一線を超えて、一気に危機感が募りました。

なんでも業者に頼んで、お安くもない料金をすんなり出せるような方は別ですが、自分でもできることをわざわざ頼むのももったないし、だいいち家の中へ半日なり業者が出入りするのも、正直言って気の張る思いをするからできるだけ避けたいということになると、その両方をクリアするには「自分でやる」以外にありません。

そこで思いついたことをやってみた結果、想像以上に簡単で嬉しい発見があったので、ちょっとそのお話を。
IKEAに行くと、ガラス掃除用のT字型の器具で先にゴムの付いたワイパーみたいなものが驚くような低価格で山積みされています。
よくビルの清掃員などがガラス掃除に使っているものを、一般人向けに小型にしたようなアイテムで、これを使ってみることを思い立ちました。

洗剤を希釈した液をスプレーでシュッシュとやって、その手動ワイパーで拭き取るという単純なものですが、予想に反してなかなか思うようにはいきません。
プロが手慣れた手つきであっという間に汚れを落としていくのを感心して見た覚えがありますが、自分でワイパーを動かしたあとには両側に必ず液体の筋が残り、それを別方向から取ろうとすると、その方向へ別の筋が残り、そうこうするうちに斑に乾き始めるなど、仕上がりも一向に思わしくなく、落ちたはずの汚れはヘンな跡やムラになって残るなど布で拭くほうがまだいいようなものでした。
こんなことをやってもダメだと思い、一旦中止に。

その後、考えたことは、クルマの仲間から教わったものですが、一点の曇りも好ましくないクルマのガラス拭きには下手な専用洗剤より精製水を使ったほうが効果的という、あのやり方でした。
洗車の手法を応用するなら、間髪を入れずにメリヤスのシャツなどで補助的に拭き足すことも効果的では?と思いつきました。

すぐに100円ショップで新しいスプレーボトルを買って精製水を入れ、それをガラス面にシュッシュッとたっぷり(下にダラダラ流れだすほど)吹き付けました。
一息おいてワイパーで上から下に向かってザーッと拭き取りをし、すかさずメリヤス地に持ち替えて軽く拭いてみると、なんとこれだけでかなり綺麗になることがわかりました。ムラもほとんどなく、パッと見には十分満足というレベルの仕上がり。
また、精製水は洗剤でもないのでケミカル品特有の膜や拭きムラなどもなく、これだと望外の少ない労力で、すくなくともみっともなくない程度にガラスが綺麗になることがわかり、ヨーシ!というわけで、これで気になるところを次々に掃除していきました。良い結果が出始めると、俄に嬉しくなって、張り合いも出るというものです。

遠目であれば、さっきまで惨めにくすんでいたガラスは、ガラスを外したの?というぐらいビシッと綺麗になり、その労力/コストに対する目覚ましい結果には感動すら覚えました。

現在のところ広いガラス面をこれ以上ラクに、効果的に掃除する方法はちょっと思いつきません。
下処理などもなく、汚れたガラス面にいきなりスプレーすればいいので短時間で済むし、道具といえば、スプレーボトル入りの精製水、窓拭き用ワイパー、着古したメリヤスシャツ、位置が高いなら脚立、さらに窓枠の汚れ(特に下部)を拭き取るためのウェットティッシュ、とせいぜいこれぐらいです。

精製水は薬局に行けば大体100円ちょっとで500mlのものが売っており、2〜3個買っておけば安心ですが、実際は1本でも相当の面積がカバーできます。
この精製水はガラスはもちろん、食器棚でも家電でも、ウェスを固く絞ってシュッシュと精製水を吹き付ければ、なんでも気軽にきれいになります。
この手軽さを覚えたら、目的ごとに分かれた各種洗剤など、よほどのことでないと使う気にならないこの頃です。
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厳しい現実

以下に書くことはあくまでも筆者個人に限ったことなので、まずその点を明確にお断りしておきたいと思います。

楽器(私の場合はピアノ)を奏でることの楽しさはいまさら言うまでもなく、その大いなる喜びや魅力は自分の半生を通じてよく承知しているつもりです。
とりわけピアノという楽器の美しい音や万能性、さらに無限ともいえる膨大かつ偉大なレパートリー、それを自分自身の手で音にするのは他のいかなることからも得られない、まさに代え難い喜びがあるものです。

そもそも好みのピアノは見ているだけでも快いし、ましてキーに触れて音が出すとなると、自分ひとりのために楽器は反応し、鳴動し、その生の音に全身が包まれる感触、さらにそこから曲になっていく喜びはまさにピアノを弾く醍醐味。
そんな基本は決して変わらないけれど、その喜びと背中合わせに、ピアノを弾くことで常に付きまとってくる虚しさみたいなものからも逃れられない負の感覚が貼り付いているのも私の場合は紛れもない事実です。

その一番の理由は?というと、どんなに練習しても(〜ろくに練習もしない人間がこの言葉を使う資格もありませんが)、基本的な自分の演奏技量にはどうにもならない限界があり、これが分厚い壁となって行く手を阻み、そこを打破することは不可能だという事実があることです。
子供の頃に、ろくに練習もせずいい加減に過ごしてしまったツケが、はっきりとこの結果にでていることは疑いようがないわけで、自業自得なのはむろんわかっていますが…。

ピアノほど技術向上のための短い成長期を取り逃してしまうと、後からどうあがいても基本力が上達しないものは、そうはないように思います。
技術と名のつくものはおしなべてそうなのかもしれませんが…。
私などは生来の意思薄弱な人間だから、技術の向上がまったく見込めないことに、無償の努力を注ぎ練習に打ち込むことは、やはりどんな言葉を並べてみたところでモチベーションは上げられません。
「どんなに下手でもいいから、一曲を心をこめて弾く事が大切」「自分の技量に応じて楽しめるのがピアノの魅力」といった慰めの言葉は山ほどあってむろんその通りでしょう。だからといって心底からそんな気にはなれないのも事実です。

弾きたい曲が自在に弾ける世界には手が届かず、やむを得ず自分の技術に見合ったレベルの曲を幾日も(ときに何ヶ月も)辛抱強く練習するしかなく、それが全く楽しくなくはないけれど、やはり楽しさの幅は大きく制限され、欲求が満たされることより、不満の増幅のほうが勝るわけです。
技術的に大したことない曲を一つ仕上げるにも、日々の努力と練習に勤しまざるをえず、加えて昔は自分なりにできていた暗譜さえ明らかに記憶力が減退しており、自分の求めているピアノへのイメージから離れていくのをイヤでも感じるこのごろ。

こういう厳然たる事実が年とともに、よりはっきり鮮明に見えてくるようで、そうなればなるだけささやかな練習をするのも以前にも増して億劫になり、勢いピアノに向かう時間も意欲も弱くなっていくようです。
そもそも練習というのは、それそのものに才能と意志力と忍耐が必要だし、ある程度の若さや体力的なもの、そして向上するという喜びの後押しも必要なんだと思います。

ピアノを趣味でやっている人の中には、自分の技量にはさほど頓着せずコツコツと練習し、レッスンに通い、それを喜びとできる方もおいでのようだし、近隣の騒音問題などがなければいくらでも弾いていたいという方も少なくなく、これには感心もするけれど、個人的にはそんな気持ちはほとんど信じられないのです。
中には、それでも練習を積み重ねれば、技術は向上すると本気で信じている方もおられるようで、それは結構なことですが、私は逆立ちしてもそんな希望は抱けないし、自分の考えが嬉しいほうに間違っているとも思えない。

ピアノの演奏技術は、いろいろな見方があるにせよ遅くとも十代までで大枠は決まってしまい、それ以降はどんなに努力をしても大きく変わることはないでしょう。

思うにピアノの演奏技術向上というのは身長が伸びるのと同じようなもので、伸びる時期に(効果的な訓練をすれば)ぐんぐん進み、それでもどこかの時点で残酷なまでにバタッと止まってしまうもの。

世の中には、つべこべ言わずにきちんと頑張り通して何かを成し遂げる御方もおられますが、「ヨーシ自分も!」というような気概というか、ある種の執念がまるきりないのが我ながら情けない限りです。
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聴き応え

いつものTV視聴から。

▲アンヌ・ケフェレック
来日公演からシューベルトの最後のソナタD960と同じくベートヴェンのop.111。
時間の関係でシューベルトは第1/4楽章のみ、ベートーヴェンは全曲でしたが、普通に考えればシューベルトはまだしも、このフランスの小柄な閨秀ピアニストが弾くには、ベートーヴェンの最後のソナタなどいささか荷が勝ちすぎやしないか…という予断があったのですが、それは私の浅はかな間違いでした。
一般的に、最後の…と名のつくソナタなどになると、どうしても精神性の表出を意識しているようで、大上段に構えて大仕事に挑んでいるといった演奏になりがちですが、ケフェレックのそれはいささか趣の異なるもので、そういう過剰な気構えなしに、ケレン味なく、曲を曲らしく、正にありのままであるため、それが逆に極めて深い説得力をもっていたことは驚きでした。
長年の研究や解釈の手垢があまり付かない、作品の自然な姿をそのまま描き出し、力むことではない音楽としての美しさの中から精神的な奥深さのようなものを、聴くものが恭しく押し付けられるのではなく、自然に自由に受け取るという手筈になっているような演奏。
凡庸なピアニストは、作品の背景や深いところを見落としているという批判を恐れるあまり、必要以上に難問を解読するように振る舞い、そして形而上学的なものへ到達したことを見せねばならぬと奮闘するため、あるがままの姿が逆に見落とされてしまっているようにも気づきました。
しかも、ケフェレックは決して曲を小さく弾いたわけでもなければ、フランス的な軽妙な感性の中に落とし込んだのでもなかった印象をもちました。
耳にしたのは、あくまで自然な語りであり、こういう弾き方もあるのかと唸らされたとともに、おそらくこの人にしかできない演奏なのだろうと深い感銘を覚えました。
とかく現代の情報過多の時代にあって、ピアニストも頭でっかちになり、高尚さを狙いすぎて、却ってありきたりな聞き飽きた、つまり通俗的な演奏になっていることを大いに反省すべきだろうと思います。
「楽譜にすべてが書かれている」という言葉がありますが、現代のピアニストの多くはなるほど楽譜に正確ではあるけれど、同時に情報や環境にきつく縛られているという意味で、甚だ退屈かつ凡庸な演奏に陥りすぎていることを、ケフェレックの演奏はまざまざと感じさせるもので、この録画はなかなか消去できそうにありません。

▲イリーナ・メジューエワ
長く日本に住むこのロシアのピアニストは、その華奢な風貌とは裏腹に、重厚かつ正統的なピアノを聴かせる実力派で、私はこの人のお陰でメトネルのピアノ曲にずいぶん親しむきっかけを作ってもらった(主にCD)と思っています。
いまや日本語も達者で、昔の謙虚さを失っていない頃の慎ましい日本人のような語り口で、その内容と併せてまずもって驚かされました。
この日はラフマニノフ・プログラムで、使われるピアノもラフマニノフが10年ほど自宅で使っていたというニューヨークスタインウェイのDで、現在は東京のピアノ貸出会社が所有しているようです。
メジューエワ氏もこのピアノを通じて、ラフマニノフからいろいろな教えを受けているような心地がするというような、畏敬の念に満ちた意味のことを語っておられました。
楽器としての内部は充分な修復や手入れがなされているようですが、外観は意図的に手を付けられていないようで傷みもかなりあるけれど、それが歴史を感じさせる凄みとなり、とりわけ目を引いたのは鍵盤蓋に残る無数の生々しい傷あとでした。
それも引っかき傷のような軽いものではなく、おそらくは巨大な手の持ち主としても有名だったラフマニノフの爪や指先が激しく衝突していたのか、木肌がえぐれて木の地肌が銃痕のように無数にできてしまっており、生きていたラフマニノフの息吹を感じさせないではおかない壮絶な証拠のようでした。
とりわけニューヨークスタインウェイ(アメリカのピアノ全般?)は、ハンブルクやその他の標準的なピアノに比べて、キー(特に白鍵)がわずかに短かかったので、いよいよラフマニノフにとっては指先が鍵盤蓋につっかえて仕方がなかったのかもしれません。

メジューエワの演奏は派手さで人の気を引くものではなく「滅私奉公」という古い言葉を連想してしまうような誠実さというか、礼儀正しさみたいなものを感じます。
かといって、いわゆる退屈な先生タイプではなく、楽器をよく鳴らす厚みがあり、同時にロマンティックなので、聴く側も集中力が途切れないのは稀な存在だと思います。
テンポも許容できる範囲でのやや遅めの設定で、圧倒的な疾走感などはないかわりに、細かいディテールを漏らさず聴くには、こういう演奏をしてもらえると、じっくりと作品に触れることができるのは好ましく思います。
とくにソナタ第2番はラフマニノフのピアノ曲の中でも、代表作であるだけでなく、ひときわ壮大かつ官能的な作品である気がしました。
ピアノ自体にも生命感があって、奏者と楽器が常になにかのやりとりをしているよう。

つくづく現代のピアノの大半は、音を出すための無機質な装置になってしまったように感じないではいられませんでした。
とくに低音域の豊かな響きなどは比類無いものがあったし、弾けばピアノが反応しているという独特な感じは、楽器の最も大切なところではないかと思います。
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秀逸な海外ドラマ

前回書いた、動画配信という思わぬ環境を得たせいで、映画やドラマにどっぷりになるハメになりましたが、映画を言っていたらキリがないので、海外ドラマで印象に残ったものをいくつか。

▲『スーツ』アメリカ
かなり有名なドラマで、ニューヨークの弁護士事務所を舞台に巻き起こる人間模様。
弁護士というものがやけにカッコいいエリート族として描かれており、よほどの人気だったのか、シーズン9、エピソード数にして134話におよぶ長大作。彼らがいかに生き馬の目を抜くような攻防や駆け引きなどを繰り返しながら、肩で風を切るようでクールな過剰な描かれ方はときに笑ってしまうほど。
ライバル事務所はもちろん、仲間内での争いや足の引っ張り合いなども絶え間なく、平穏が訪れることはない功名心と頭脳戦による熾烈な競争の世界。
このドラマには、あのヘンリー王子と結婚したメーガン・マークルもスタッフのひとりとして出演しているのも見どころ。
彼女は主役級の男性と日本風にいえば社内恋愛で結婚に至るものの、8年に及ぶこのドラマの後半で本当にヘンリー王子と結婚で降板したようで、ドラマではやや唐突にアラスカの人権派弁護士になるという筋立てで、主役級の男性を道連れに姿を消してしまいます。

これは日本や韓国でもリメイクされたらしいので、よほど人気シリーズだったのでしょう。
一説によると、前代未聞の数々のスキャンダルを押し切って、元皇族の女性と、ついに結婚を強行した怪しげな男性、そのご両人ともがこのドラマの大ファンだった由ですから、このドラマの影響も小さくなかったように思えなくもありません。

このドラマ、見方によってはイギリスと日本で、二組のロイヤルカップルを生み出したのかもしれませんね。
それは余談としても、これほど長いドラマを見たのは初めての事でしたので、全話を見終わった時にはしばらく「スーツロス」になりました。

▲『マッドメン』アメリカ
これも舞台はニューヨークですが、1960年代の広告業界を描いたドラマで、かなりのところまで見ていたにもかかわらず、途中で定額視聴期間が終了し、以降は一話ごとに有料となり泣く泣くやめてしまったドラマ。
『スーツ』の50年前のニューヨークというわけで、その間の時代の変化も面白く見ることができました。
数話ならやむなく有料でも見たかもしれませんが、まだ数十話残っており、そのつど200数十円払い続けるなんてまっぴらなので、憤慨しつつ断念しました。
この経験から、見始めたものはサッサと見てしまわないといけないことを学習。

▲『オスマン帝国外伝』トルコ
長いといえばスーツどころではない超大作。
オスマン帝国の第10代皇帝スレイマンの治世、奴隷から寵妃となったヒュッレムと皇帝を中心とする、いわばトルコの壮大な大河ドラマ。
2人の出会いから死までを描く、波乱などという単調な言葉では到底語れない、壮絶な権力と愛憎の宮廷人間模様。
これを見ると、人間不信に陥るほど、親子、兄弟姉妹、主従、軍や側近などすべてが命がけの陰謀と裏切りに終始し、だれもが騙し合い、殺し合い、権力闘争に明け暮れるのが人間の本性であることを赤裸々に描いたすさまじい内容。
また、トルコという国民性もあるのか、途方もないそのエネルギーは東洋の片隅で生まれ育った日本人にはおよそ持ち合わせぬもので、見て楽しみながらも、こってりした脂の強い料理が胃にもたれるようなある種の疲れが常に伴うものでもあります。
『オスマン帝国外伝』がようやっと終わると『新・オスマン帝国外伝』というのが控えていて、こちらは皇帝スレイマンから数代後の話。
これは完結制覇まであと一息ですが、新旧あわせてエピソード数にしてなんと500話に迫る超大作で、これを書いている時点で残り20話ほどになったけれど、もしかしたらすでに半年以上これを見ているようで、まさに生活の一部になりました。
オスマントルコが黒海からヨーロッパにかけて最強を誇った時代があるとは聞いてはいましたが、なるほど途方もない権勢であったことがよくわかります。
現在のロシア/ウクライナ問題、あるいは北欧のNATO加盟に対してあれこれと画策し権謀術数をめぐらすエルドアン大統領ですが、このドラマにどっぷり浸かっていたおかげで、あの国ならそれぐらい朝飯前だろうと容易に思えました。
それにしても古今東西、国の大小を問わず、宮中とは例外なく恐ろしいところですね。

スタートはアマゾンプライムだったものの、途中からhuluでしか配信されなくなり、そのためやむなくhuluにも入会するという深みにはまってしまいました。

▲『ハンドメイズ・テイル』アメリカ
どうせhuluに入ったならと見始めたのが、huluオリジナルのドラマ。
近未来のアメリカは内戦の末分裂して、アメリカ政府はアラスカへと退き、代わりに主権を握ったのがギレアドという戦慄の監視社会政権。娯楽はすべて禁止、男性のみによる国家支配、女性は文字を読んでも罰を受けるという恐ろしい制度。
市中のいたるところには、処刑された遺体が見せしめにクリスマスツリーのオーナメントのように吊るされるというおぞましい社会で、シーズン5/エピソード56のドラマ。
出生率が低下したため「侍女」と呼ばれる妊娠出産可能な女性が次々に拉致され、強制的に国の要人の子を身ごもらされ出産させられ、産んだあと赤ちゃんは奪い取られて高官夫妻の子どもとされ、それに一切の抵抗はできない暴力支配の下に置かれるという具合で、本来こういうディストピアものは見るだけでも苦痛なのですが、やはり先述のようにドラマ自体がよく出来ているので、知らず知らずのうちに見せられてしまいました。
ここに描かれるギレアドというキリスト教原理主義の恐怖支配は誇張的だとしても、日ごろ当たり前だと思っている自由主義社会のありがたさを今さらながら痛感させられます。
とりわけ国家の法と理念に宗教原理主義が入り込んだが最後、その異常性はとりかえしのつかないものとなることが一目瞭然。
主役のエリザベス・モスは『マッドメン』でも社内メンバーのひとりで見覚えがありましたが、そのときとは打って変わって壮絶なまでの熱演を遺憾なく発揮するあたり、海外の俳優のとてつもない力量に驚きます。
シーズン5の最終回で最終回と思っていたら、まだ続くようでシーズン6を待つしかないようです。

立て続けにピアノの話から逸れてしまいました。
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新しい楽しみ

ネット配信による映画やドラマを見て楽しむことがいつごろ始まったのか、まるでわかりません。
かなり前だったんだろうとは思いますが、そういうことにめっぽう弱く、どうにもなじめない私は正直関心もなかったし、そのまま長い時間が過ぎてしまいました。
そもそもパソコンやスマホで映画を見るなんて、考えただけでも自分の感性には合わないと直感していました。

ところが既にこの手の配信サービスに加入し楽しんでいる人から「どうして入らないの?」という、まるで何年も前にガラケーをだらだら使っていた私に「なんでスマホにしないの?」と言われた時と同じような、それをしないことになんら意味を見出せない!といった半ば呆れた様子の響きがあったし、聞けばTVモニターに繋いで視聴することも可能とのことで、しだいにメリットも大きいということがわかってきました。

友人の中には、今どきのネット環境に付随する各種ポイントやクーポンにやたらくわしく、どれが損でどれが得かということに夫婦揃って通じているおかしな二人がいて、中でもその奥さんはよく聞けばまさにこの分野の生き字引的な存在らしいことを後に知りました。
消費者が躍らされているだけで期待するような実質的なメリットはないものから、逆にこれはスゴイ!というようなものまで、沈着冷静な分析と意見をもつ、それはもう畏れ入りましたという意見の持ち主なのです。
旦那さんの方も相当な猛者で、聞けばいつも夫婦バラバラに得なものを探し出し、しかも相手には積極的に教えないという、一風変わった戦いが繰り広げられ、会計の時などにサラリと使ってみせて相手を驚かすというような滑稽な勝負をよくやっているとかで、旦那さんのほうがいつもわずかに負けているそうです。

その二人が口を揃えて言うには、AmazonPrimeは絶対にお得なのだそうで、私もあの二人が言うのなら間違いない!というお墨付きを得た気分で、背中を押されてついに入会の運びとなりました。画面上から申し込み、TVモニターに映すためのステックやリモコンの入った機器を購入して、それをTVに差し込んで設定するというものでした。

冒頭に述べたように、こういうことに疎い私は設定にかなり手間取りましたが、それをどうにか乗り越えると、そこには広大なる娯楽の海が広がりました。
あらゆるジャンルの映画やドラマがひしめいて、好きなものを選んで(検索機能もあり)自由に楽しむことができるというもの。
もちろん、世界中のすべての映画があるわけではないし、常に入れ替えもあれば、新作も随時投入されていて、これはたいへんなものであることは直ちに納得できました。
昔ならレンタル店に出かけて行って、DVD(さらに昔はビデオ)を選んでは借り受けて、見終われば再び返却に行くということをやっていたことを思えばまさに隔世の感があり、いうなればビデオ店がそっくり一軒自宅にやってきたようなものです。

これを機に、日常生活の中で映画やドラマを観る時間が圧倒的に増えましたが、そこでまずしみじみと感じることは、個人的な感想としては日本と海外の作品では埋めがたい大差があるということでしょうか?
もちろん、海外の作品でも非常にくだらないB級映画のようなものもあれば、日本映画でもしっかりと練り込まれた力作がないこともないけれど、全体として日本のこの分野は圧倒的に国際基準からは遅れていることをひしひしと感じることは事実です。

さらにその差が激しいのがドラマの分野で、海外ドラマには見応えのある質の高い素晴らしい作品がいくらでもあり、考え込まれたストーリー、コストのかけ方、美しい映像、小道具に至るまで神経の行き届いたリアリティの追求、そしてなにより優秀な俳優陣による素晴らしい演技などには瞠目させられることしばしばです。
それにひきかえ日本のドラマは、率直に言って浅薄で幼稚で欺瞞的で、ほとんど進化もなく、まるで学芸会のような印象しかありません。
役者もこれでプロか?と思うような単純で子供っぽい演技やセリフ回しで、内容も安直なファンタジーで視聴者のレベルが透けて見えるようで、この面は世界基準でいうと、もはや何周も遅れていると感じます。
日本という島国の縮こまった環境や、ダイナミックなことの苦手な民族性もあるのかもしれませんが、なんであれ挽回は容易なことではない気がします。

日本といえば優れたアニメが世界を牽引しているというような話はずいぶん前から聞いており、それは結構なことではありすが、個人的にはやはり実写の世界でも、もう少し本気で勝負をすべきではないかと思います。

私がネットの動画配信を見るようになってまだ一年も経ちませんが、これは一度経験したら、決して昔には引き返せないものだと思います。
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キモはセンス

人間関係において何が一番重要か、これはわかるようでわかりにくいテーマだと思います。

通り一遍の言い方をするなら、人柄であり、信頼であり、相手を思いやる心というあたりを並べることになるのでしょう。
私もそこはむろん同感しますが、事はそう簡単には解決しません。

実際にはそういった大原則だけでは立ち行かない問題が多々あって、本当に好ましくしっくりくる人間関係ということになると、そう簡単に成立するものではないというのが実体験としてあります。
ここ最近、そのあたりを考えさせられることがいろいろあって、自分なりのひとつの結論を得たような気がしました。

若いころは、自分の若さと無知と傲慢から「馬鹿が一番困る、馬鹿は罪だ!」などと勢いに任せた考えを持っていたこともありますが、それは短慮で恥ずかしいことで、まさに若気の至り。
そこでは馬鹿という言葉で、雑駁にいろいろな要素を一掴みにしていたし、多少の偽悪趣味もあったと思います。

いま思うのは、人間関係で大切なのは、ほんの一部でいいから「センス」が共有できるか否かだろうと思い至るようになりました。
センスというのは善悪でもなく、バランスであり、息遣いであり、いわば取捨選択のものさし。
極論すればセンス=人間性といってもいいような気さえします。
まさに感性の問題だから、理屈ではどうにもならないものだとつくづく思います。
ダサいと感じるものはどうしようもないし、感じない人はどんなに說明しても理解できないもの。

人との人の間には、この理屈ではないものが介在することによって心の距離が決定され、しっくりくるものから素通りするものまで、自動的に分別されているのではないかと思ったりします。

関係の保ち方、話の内容や関心を寄せるポイントや重経など、ありとあらゆるところにセンスが果たす役割は、あまりに大きいものがあると言わざるを得ません。
センスが完全に合致するなんてことはあり得ないけれど、一定程度の共有が得られるかどうかはとても重要です。
どんなに正しく聡明で立派な人でも、センスが大きくずれると、なにもかもが皮肉なまでに噛み合わず、絶望的な結果しかないのです。
解決できない壁に阻まれ、当り障りのないことでお茶を濁すだけ。

こちらが大事だと思っているポイントが無価値だったり素通りだったりで、テンションも上がらず、会話も頭打ちで退屈な安全運転に終始するだけ。
よくいう「笑いのツボ」が合う/合わないというのがありますが、これもまさにセンスの問題だと思います。

人には能力、人格、適正などいろいろな要素がありますが、それらを奥深いとこで引き絞って、ひとりの人間として動かし采配しているのは、ほかならぬセンスだと思うのです。
通常はよく価値観という言われ方をしますが、個人的にはそれよりもセンスのほうがより深くて決定的なものがあって大事だと思うのです。

しみじみ思うのは、どんなに立派で温かい心をもった人でも、センスが合わないといちいちが神経に障り、疲れます。
しかも、互いに何が悪いというわけではない分どうにもなりません。

センスは人間関係のみならず、人が関わるあらゆることの中心では?

最後になりましたが、いうまでももなく音楽もそうであって、どんなに練習しても、センスによって統括されなくては決していい演奏にはならないし、そもそも技術もないまま難しい曲に挑戦したがるなんぞ、センスが悪いなによりの証でしょう。
そういう意味では、ピアノが下手なことは許せるけれど、センスが悪いのはガマンできません。
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懐かしく新鮮

CDも入れ替えが面倒くさくていつも目の前にあるものばかり聴いていると、さすがに飽きてきて、昔のもので何かないかと探してみた結果、何年ぶりかで、エレーヌ・グリモー、アンドリス・ネルソンズ指揮バイエルン放送交響楽団による、ブラームスの2つのピアノ協奏曲を聴いてみることに。

このCDの昔の印象としては、どちらかというと常識的で、悪くはないけれど特に素晴らしい!というほどのものでもないというものでした。
以前にも書いたことがありますが、CDの印象というのはだいたい同じで、それが覆ることはなかなかないのですが、今回は珍しいことにすこしだけ良いほうに覆りました。

それは、奇をてらったものではなく非常にオーソドックスなしっかりした演奏と言えるし、この点が以前では上記のような印象にしていたんだろうと思います。
しかし、今回聴いてみてまず感じたことは、細部の一つ一つをどうこうというより、全体としてグリモーの演奏には彼女なりの感性の裏打ちが切れ目なく通っており、そこに音楽に必要な熱いものが脈打っているということがわかった感じでした。
その点では、ネルソンズの指揮のほうがより普通で、もの足りないといえばもの足りないけれど、足を引っ張っているわけでもないのでこんなものかという印象だし、もしもこれ以上熱い演奏をしたら、グリモーもそれに反応してくるとちょっとうるさくなってしまうかもしれず、これはこれでこのCDとしては良かったのではないかと思いました。

〜で、なぜ評価が覆ったのかというと、最近の若手注目ピアニスト達の演奏に対する、ある種共通する不満が溜まっていたからではないかと思います。
既に何度も書いているけれど、どの人ももはやメカニックは立派で、どんな難曲大曲でもケロッと弾いてしまいますが、聴き手はそこから何か大事なものを受け取ることができません。
日本のピアノそのもののように、どの人が何を弾いても、均一で、危なげがなく、さも尤もらしく整ってはいるけれど、建前的で心を通わせるようなものがない、ただきれいで見事なだけの演奏。
ニュースキャスターが原稿を読み上げるように、楽譜を正確に音にしているだけで、本音なんて決して明かさないガバナンスの効いた企業人の完璧なふるまいみたいな演奏。

そんなタイミングで聴いたグリモーだったので、そういうものでないだけでも新鮮に感じられ、そうでないことに懐かしさもあり、やはり演奏には血の気や感性の発露がなくてはダメだという、当たり前のことをひしひしと感じたのでした。

エレーヌ・グリモーというピアニストは元来器の大きいピアニストとは思いませんし、テクニックにしても現代のコンサートピアニストとしては余裕のあるほうの人とはいえないでしょう。
私は基本的には、力量以上の曲に挑むというのは、プロはもちろん、アマチュアでも最も嫌うところで、そこからくる息苦しさみたいなものを(そして時に浅ましささえ)覚えます。
ところがグリモーは少し違っていて、自分よりも大きな動物をしとめようと、命がけで食い下がるサバンナの野生動物みたいな勇敢さがあって、それがこの人の場合は良さになっている稀有な存在だと思います。

その意味では、このグリモーという人は10代のころから例外的な存在でした。
フランス人女性で、とくに身体的にも逞しいというわけでもないのに、曲の選び方はフランス物など目もくれず、ドイツやロシアのコッテリ系ばかりで、それだけでも異色でした。

作品を決して手中に収めようようとするのではなく、大きな岩山によじ登るようにして成し遂げられる演奏は、だからこそ出てくる気迫と情熱があって、独特なエネルギーが充溢した魅力がありました。

あまりに挑戦的なスタンス故か、打鍵が強く、ときにうるさく感じられることも、同意できない瞬間もないわけではないけれど、全体として、やはりこの人だけがもつ魅力があって、他の人からは決して得られないものだからこそ、やはりいいなあと思うのだと思います。

第1番と第2番、いずれも50分に近い大曲ですが、出来栄えとしては第1番のほうがより生命力と迫真性がみなぎってこの作品の魅力に迫っており好ましく感じました。
第2番はグリモーにしては、無難にまとめたという印象で、曲自体も悲壮感あふれる第1番に対してずっと融和的ですが、今一つ輝きが足りないというか、グリモーの気性には第1番のほうが合っている気がしました。

このピアノ協奏曲の第1番と第2番は、同じくブラームスの交響曲の第1番と第2番と非常に似たような関係性にある気がしてなりません。
いずれも第1番は作曲家自身の気負いがあらわで、時間をかけ、苦労して、推敲を重ねて、やっとの思いで完成した大作。
第2番はその反動なのか、一転してやわらかに微笑んでいるようで、いずれも素晴らしい作品ですが、強いて言えば私は第1番により惹かれます。
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不健全な物価

ロシアによるウクライナ侵攻の影響か、コロナその他の要因の絡む世界的な傾向か、確かなことはわかりませんが、このところの物価の上昇には驚きと諦めがないまぜになっています。

ピアノもその例外ではないようで、ひさびさにYouTubeを見ていると、スタインウェイを買うと決めた人が購入までの顛末を追った動画があり、あちこちの店で試弾しては「あっちが良かった、こっちはどうの、はじめの店にまた行ってみる、するとある店から電話があって新情報があった」などと、どの一台を購入するかに至る動画がアップされており、それを面白く見ていました。

最終的にはB型の新品を買われることになったようで、これという一台に巡り合われたことはなによりなのですが、その購入のためには資金の問題があり、ついには別目的だった貯蓄も崩してということで、やはりこれがほしい!これに惚れ込んだ!という心の昂ぶりに圧倒されると同時に、私もどちらかと言うとそういうタイプで、きちんと目的をもって蓄えなどできない性格なので「わかるなぁ!」という気分で見ていました。

が、そこでポロッと明かされた価格に驚愕!
いまやハンブルク・スタインウェイのB型の新品は約2000万!もするんだそうで、これにはさすがに背筋が凍りました。
スタインウェイをはじめ、輸入ピアノが毎年少しずつ値上げをするというのはもはやこの業界の慣例のようですが、そこには社会情勢も物価も無関係に、毎年機械的にサッと値上げするという感覚はちょっと馴染めません。
しかも、値上げすると、その価格をベースに数%値上げされるのですから、おそらくは年ごとの値上がり幅も肥大していくのは明らかです。

高級輸入ピアノを買うような一部のリッチな人達には、そんなことは大した問題ではないとでも言わんばかりですが、しかし楽器というものはそれを弾く人は必ずしもリッチ層ではなく、それを必要とするだけの訓練や人生の目的なども絡んでいることで、ただのステータスシンボルで高級品を買うのとはちょっと違った要素もあるように私個人は思うのですが、きっとメーカーは利益追求でそういう考えではないのかもしれず、なんだかやりきれないものがありました。

私もずいぶん前に分不相応とは知りつつ無理をしてこの手のピアノを購入しましたが、今だったら絶対に無理だと思うと、正直ホッとするところもないといえばウソになるかもしれませんが、とはいえ…株でもあるまいし、手放しでは喜べないものが喉元に引っかかってしまうのも事実です。

すでに書いていることなのであえて書きますが、自室用にベヒシュタインのMillenium 116Kという小さなアップライトを3年半前に購入しましたが、それも気になって現在の価格を調べてみると、当方購入時に比べてなんと1.4倍近い値上がりとなっており、その凄まじさに驚きました。
ちょっとどうかしているんじゃないの?と思います。

ベヒシュタインの場合、レジデンス/コンサートという本来のシリーズの下に、同ブランドながらアカデミーシリーズという廉価シリーズがありますが、いまやそちらのアップライト(ほぼ同サイズ)のほうが私が購入した時より高額となり、呆気にとられました。

長年、物価の優等生と言われた卵でさえも、近ごろはずいぶん高くなっていますから、このご時世では不思議はないんだと見る向きもあるのかもしれませんが、現在の値上げには不健全さが臭っていて、経済的にも生きにくい時代になっているのは間違いないようです。
まして、TVのニュースやドキュメントなどを見ても世界のきな臭い話題にあふれ、加えてエネルギー不足、さらには深刻な食糧不足なども予見されており、この先どうなるのかと思うと暗澹たる気分になるばかり。

これからは、ごく当たり前だと思っていたことでも、そうではなくなるような厳しい時代が待っているかも…というような気がかりが常に頭の片隅から離れなくなるんでしょうね。
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求めるもの

手持ちのCDの山をゴソゴソ漁っていたら、セルゲイ・エデルマンのショパンが出てきました。
2009年に富山北アルプス文化センターでセッション収録されたCDで、以前ずいぶん聴いた一枚です。
もしかすると一度このCDに関して書いたことがあるかもしれないけれど、その後若い達者なピアニストが続々と現れ、時代による演奏スタイルも変わってきていると思われるので、そんな中であらためて聞き直してみたくなりました。

制作は日本のレーベルで、音質にこだわった質の高い作品の多く送り出しているOctavia Triton、ここのCDは全体にクオリティが高いと定評があり、輸入盤と違って安くはないけれどきちんとしたものが欲しい時は一時期ちょくちょく買っていました。

エデルマンは名前や経歴からロシアのピアニストと思われがちですが、ウクライナの出身。
私が知った時はアメリカ在住だったようですが、一時期国内のどこかの音大で教えるために日本へも長期滞在していたようで、おそらくこのCDはその時期に収録されたものの一つだろうと思われます。

エデルマンはロシアピアニズムの例に漏れず、堅実なテクニックで重量感のある楷書の演奏をする人ですが、そこに聴こえてくる音楽は必ずしも四角四面なものではなく、ガチッとした演奏構成の中から深い音楽への愛情が聴こえてくるもので、そのあたりがただの技巧派ピアニストとは違うといった印象があります。

曲目はショパンのバラード全曲、舟歌、幻想曲、ポロネーズ幻想という絵に描いたような大曲がずらり。
これらの難曲をいささかの破綻もなく基礎のしっかりした石造り建築のように奏していく様はさすがというほかなく、理想のショパンかどうかはさておいても、これはこれで大いに聴き応えがあります。
また、録音会場の富山北アルプス文化センターはそこにあるスタインウェイが好評だったことや、録音に適した諸条件を備えていたためか、一時は収録によく使われていたホールであるし、実際私もここで収録された力強さと甘さを兼備したスタインウェイの音には、他のCDを含めて好感を持っていました。

私の音楽的趣味という点ではエデルマンの演奏はイチオシというわけではないのだけれど、ピアノ演奏としての充実感など、個人的に大切だと思うところをキチッと押さえているピアニストというところでは、認識に刻まれたピアニストの一人です。
演奏スタイルは、ひと時代前の深い打鍵でピアノを鳴らしきるロシアンスタイルで、ショパンやシューマンにはもう少しデリケートな表現もあって良いのではないかと思うこともあるし、全体にガッチリ弾きすぎるという点は否めません。
しかし先にも書いたように、そこには良心的な音楽性が深い部分に生きており、ウソがない。
妙にセーブされて何が言いたいのかわからない、形だけは整った平均ラインを思わせぶりになぞっていて、却って不満を感じてしまう演奏より、痒いところにしっかり手が届くような聴き応えがあり、結局のところはトータルで魅力があることに納得させられてしまいます。

現代の若手のピアニストの演奏は、もちろん素晴らしいと感じる要素は多々あるとは思うけれど(私の耳には)そもそも演奏を通じて曲に没頭しているという気配が感じられません。
音楽(あるいは演奏)を聴くことで自分が酔えない、曲が迫ってこない、率直な感銘や興奮からはかけ離れた、世の中にはこういう飛び抜けた能力の持ち主がいるんだということを見せられているだけのような気になります。
なるほどどの人も着実に上手くクリアだけれど、本音を決して明かさず、各人の感性の発露も極めて抑制的で、建前ばかりを延々と聴かせられるのは意外にしんどく、そこへエデルマンのもつ熱い情が脈打つ演奏を聴くと、それだけでも溜飲が下がるようです。
自分のセンスや美意識を通して、演奏することに全身全霊を込めてやっているときだけに現れるえもいわれぬ品格と覇気こそが人の心を掴むのであって、やはり音楽というものは人が全力を込めて弾くところに、理屈抜きに惹かれるものがあります。

何もかもが素晴らしいと言うつもりはありませんが、少なくとも工業製品のような完成された演奏をあまりに耳にしていると、多少のことは目をつぶっても、このようなしっかりした血の気のある演奏には、おもわず共感し溜飲が下がるような気になります。

ピアノもおそらく1980年代のスタインウェイだと思われますが、やたら派手さを狙わない陰影、同時にほどほどの現代性も備えていて、やはりこの時代の楽器はいいなあと思います。
あたかも間接照明の中に、美しい絵や彫刻が浮かび上がるような世界がまだかすかに残っています。
それにひきかえ、今のピアノは、均一でむらなく電子ピアノのようにきれいに鳴るけれど、仄暗いものなど表現の可能性が薄く、省エネで効率的に計算されたLEDの照明みたいなイメージです。

現代のピアノもピアニストも、その素晴らしさはあると思いますが、やはりどこか自分の求めるものとは違うようです。
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もろもろ

あいも変わらず、テレビ番組から。

▲坂本龍一 Playing the Piano in NHK & Behind the Scenes
新年に放送された、坂本氏がNHKのスタジオで収録したピアノソロ演奏。
大病をされて以降、コンサートは体力を要するため、ゆったりとこのようなスタイルの収録となったというようなことをご本人がコメントされていました。
そもそも私は、坂本龍一氏のお顔と名前はむろん知っているけれど、具体的にどのようなミュージシャンなのかほとんど知りません。
若い頃はYMOというユニットで活躍されていたこと、映画『ラスト・エンペラー』では音楽と、俳優としても満州国の甘粕正彦を演じたことぐらいが知っていることのほとんどで、それ以外は実はよくわからないままなのです。

よくわからないという点では、今回視聴した演奏も作品も恥ずかしながら同様でした。
坂本氏のファンの方からは呆れられるかもしれませんが、この番組でのピアノ演奏を聴いた限りでは、慈しむようにゆるやかに弾き進められているものの、どれも似たような漠然とした感じがあるばかりでした。

強いていうなら、昔のスタイリッシュとされた頃の時代の空気というか価値観を思い出すようで、日本が日本的じゃないものを目指しはじめた頃って、こんな感じだったようなぼんやりした記憶が呼び覚まされたような。

この方は(ご自身でも言っておられましたが)ピアニストではなく、作曲や創作表現のためにピアノが最も手近にある楽器ということで、それを必要に応じて触っておられるということのようですが、もしピアニストだったらかなりの武器になったことだろうと思わせる大きくて立派な手をしておられるのが印象的でした。

ピアノはCFX以前のやや古いヤマハで、そこから聞こえてくる音はヤマハそのもの!といった感じの、まるでスパゲッティナポリタンみたいな洋風和物というか、あの懐かしい日本的なピアノの音でした。
NHKのスタジオならスタインウェイなどいくらでもあったでしょうに、それをあえてこのヤマハを使われたあたりも、坂本氏のこだわりなのか、あるいはそれ以外の事情が潜んでいるのか、そのあたりはまったくわかりませんが…。

▲舘野泉 鬼が弾く 86歳、新たな音楽への挑戦
とにもかくにも、へこたれないこの方のエネルギーに恐れ入りました。
お名前の通り、そのつきないエネルギーはこんこんと湧き出る泉のように。
66歳でコンサート終了後に脳溢血で倒れられてから、早いもので20年。
以降は左手のピアニストへと転身され、そこから再スタートを切って精力的にコンサートをされていたのもすごいなと思うけれど、コロナで全世界のコンサートが中止となり、大きな空白期間を余儀なくされたのは舘野氏も例外ではなかったようです。
そうして、ようやく世の中が動き始め、86歳にして「鬼の学校」というピアノ四重奏の新曲で久々のコンサートをするというドキュメント。
以前より一回りお年を召されたようで、移動は車椅子だったりするけれど、ピアノを弾くことへの情熱は一向に衰える気配がなく、もはやこの方にとって、ピアノに向かうことは人間が呼吸し心臓が動いているのと同じようなものなんでしょう。

ご自宅はフィンランドのヘルシンキと東京の二ケ所にあり、一年の半分ずつを両所で過ごしていらっしゃる由。
ちょうど東京滞在中にコロナ禍となったようで、海外への移動もままならず、その年齢と自由とはいえない身体での一人暮らしを余儀なくされ、近所への買い物は電動のカートに乗って出かけ、食事の準備からなにからお一人でこなしておいでだとか。

以前の番組では、この東京のご自宅には高齢のお母上がいらしたけれど、もはやその様子もなく、それでも例の淡々とした調子で前向きに毎日を受け容れ、ピアノに向い、どうしたらあんなふうになれるのかと思うばかり。
もともとの出来が違うんだといえばそれっきりだけれど、100分の1でもあのしなやかにして頑健なものが自分にあったらと、ただただ羨ましく思いますね。
ピアノだ音楽だというより、生きるということの価値や人生訓になりました。

▲蛇足
TVではないけれど、週刊誌ネタとして思うところがあったのは、現在最も注目を集める日本人ピアニストが、新年早々、同じコンクールに出場したお相手と結婚されたという話題。
あまりに出来過ぎの観があり、それがむしろ不自然な印象だったけれど、別に贔屓のピアニストではないし、人生すべてをしたたかに計画的に押し進めるこの方であれば、そう驚くことでもなかろうと思いました。
そうしたら、ほどなくして新聞の週間文春の広告に、この人はすでに外国人との離婚歴があるとあり、とたんにすべての辻褄が合って腹に落ちた気分で、さすがは文春砲と感服。
ネット検索したら、とてもここには書けないような事がゾロゾロ出てきて、いよいよ納得。
他人様のプライベートをとやかくいうつもりはないけれど、いつもどこかに感じてていた違和感が、パズルのピースがついに埋まって一つの形が見渡せたような納得感がありました。

まあ…ピアニストといっても昔の芸術家特有の破天荒とはまるで趣が違うし、こんなスキャンダルもうまく着こなしていかれることでしょう。
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通せんぼ妖怪

以前にも似たようなことを書いたような気もするのですが、あまりに多いので再び。

車を運転していると、近ごろはやたら路上での流れが遅くて、ついイライラしてしまうことが多い気がします。
むろん車が多くてそうなるなら普通ですが、夜間など交通量もまばらで、道もガラガラだというのに意味不明に流れが遅く、法定速度以下のアホらしいような速度で走らざるをえないことがしばしば。

あまりのことに前方を注視してみると、やたらゆっくり走っている一台の影響で、その後ろがゾロゾロ続くしかないという現象。
しかも、その車の前は見渡す限り何もなく、ただトロトロ走っているだけ。

以前は、運転中にスマホなどを見ているのか、高齢の方などがよほど慎重運転されているのか…などと思ったものですが、近頃わかってきたことは、どうもそういうことではないらしいのです。
片側一車線でどうしようもありませんが、途中から二車線三車線になると、こちらも一気に行手が開けるのでこの手の極遅車からようやく開放され、空いている車線から前に出るのですが、追い抜きざまについ横を見てしまうことも。

果たして、運転しているのは予想に反してどこにでもいそうな普通の若者だったり、真剣な様子の女性だったり、いずれも運転以外のことにかまけて後続車のことが疎かになっているということでもなく、しっかり前を見て運転していたりする姿によけい驚かされます。

こういう走りの車にかかると、後ろがどんなに詰まって迷惑をかけようが、そんなことはまったく知ったことではないようだし、そもそも周囲に迷惑をかけている事など微塵も意識はないようです。

車関係の知人と雑談をしている時に、こんな状況があまりに多いことが話題となり、そこで驚くべき解説を受けました。
それは通称「通せんぼ妖怪」というのだそうで、比較的若い世代に多く、車や運転に関して一切興味も楽しみも感じない人達で、車の運転は100%移動手段でしかなく、したがってドライブの楽しさや運転技術の向上などにも興味ゼロの種族の由。

自分が運転が苦手だという意識はあるようで、だからとにかく安全にゆっくり走っているのだそうです。
さらに、道交法の解釈にも勘違いがあり、例えば道路標識が40km/hのところを50km/hで走れば違反だが、40km/h以下で走るぶんにはどれだけゆっくり走ってもOKと考えているんだそうです。

現在の自動車学校の教えがどうなのかは知りませんが、我々の時代は「安全運転」はもちろん第一でしたが、そのためにも「交通の円滑」を心がけることが必要だと繰り返し叩きこまれたものでした。
仮に50km/hの道をみんなが60km/hで走っているときは、一台だけ異なる速度で走るのは却って危険であり、そういう場合は同じ速度で走るべきであると教えこまれたものです。

これは集団であれば速度違反をしていいということではなく、交通状況というものは絶え間なく変化する生きものだから、臨機応変に状況を察知し、神経の行き届いた円滑な走行を心がけることが安全にも繋がるという考えだと思います。
なので、一台だけ極端に周りと違った動きをすることは却って混乱をきたし、危険要因を増やしてしまうという考え方で、その柔軟な感覚はつねに交通安全に求められる要素だと思います。

他車に対する配慮が極端にできない視野の狭いドライバーが専らマイペースで、周囲の状況へのセンサーが働かないような動きをしていると危険が迫ってきたときの認知も遅れ、当然ながら咄嗟の対応も後手にまわり危険度はずっと増すはずです。
とくに高速道路ではスピードの調和が乱れることで危険性も増大することから、最低速度というものが課されていることからもそれは察せられます。

この「通せんぼ妖怪」は、自分は40km/hの道を30km/hで走るぶんには、自分には何の非もなく、むしろより安全運転にいそしんでいるとでも思っているかもしれませんが、それは勘違いも甚だしいと言わざるを得ません。
周囲のドライバーをイライラさせる原因を作っていることこそ、安全とは反対の危険行為だと思いますが、いかんせんご当人は妖怪さんだからそこに気づくはずもないということのようです。

これと感覚的に似ている気がするのですが、夜間、無灯火(ライト類をまったく点灯していない)の車が少なくないことにも、この鈍感さが現れていると思います。
街中がいくら明るいとはいえ、夜道でハンドルを握ろうというのに、自分の車のヘッドライトが点いていないことにまったく気づかずに平気な顔して走っているなんて、その鈍感さが私から見ればかなりこわい気がするし、これはもう酒気帯び運転並みに恐ろしいような気がします。
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続・TVから

昨年末に書いたピアノ関連のTV番組の感想続編ですが、あまり年始めにふさわしい話題とも思わないけれど、敢えて書いてみました。

【NHKショパン国際コンクールのドキュメント(再放送)】
12月のいつだったかNHK-BSのプレミアムシアターの後半で放送されたもので、私自身コンクールが終わってほどなくして放送された折には一度見ている番組。
ピアニストで審査員もつとめられた海老彰子さん、ショパンに造詣が深いとされる作家の平野啓一郎さん、音楽ジャーナリストで2021年のショパンコンクール全日程を取材したという高坂はる香さん、さらには自らピアノ好きと称するNHKアナウンサー2人による進行によって、映像/演奏を交えながらコンクールを振り返るという番組。

プレミアムシアターは毎回録画設定しており、せっかく入っているなら暇つぶしにもう一度見てみようかと再生ボタンを押しましたが、実をいうとはじめの30分足らで妙なストレスを感じはじめてやめてしまいました。
理由はいまさらくどくど書く必要もないので細かくは省きますが、簡単にいうと全体に同意しかねるところが多く、評価の傾向としても自分の価値観とは相容れないものが中心になっており、のみならず、なんというか…こちらの判断基準にまで踏み込まれてくるようで、今どきはこれがショパンなんだ、これが新しくて良いんだ、それがわからなければ時代遅れの耳の持ち主だと、いわば判断のアップデートを迫られるようで、要は今風にいうなら「価値ハラ」を受けるような感じがあって疲れるのです。
自分がさほどいいと思わないものを、皆さんこぞってこれでもかと褒めちぎるのもしんどいのです。

オリンピックやFIFAワールドカップのように競技としてはっきり勝ち負けが吹っ切れた世界なら構いませんが、主観や情感など芸術性が問われるべきピアノ演奏において、この「競技」はコンクールという枠を超えて、音楽シーン全体の価値観の変容にも一定の影響があるようにさえ感じるのです。

番組始めのあたりに、みなさんの押しの演奏は?というのがあり、平野氏が今回のコンクールで弾かれた優勝者のop.25-4を挙げました。「自分はショパンのエチュードといえばポリーニの世代だが」と前置きしながら、ますます解像度が上がってショパンの音楽の構造がよく見え、デジタル的なまでにクリアな演奏となり、左手と右手のコンビネーションがわかる…「ポリーニのエチュードは金字塔として変わらないが、その先があったのかと思った」というようなことを言われ、これも実際の演奏が流れましたが、私はすこしも感銘を覚えず、だからなに?としか思いませんでした。
あげくに「ショパンの演奏が50年の間にこんなに進歩したのか…」というようなことを堂々と仰るのには、強い違和感を感じましたし、海老さんのコメントも全般的に技巧目線で、同様の印象でした。

確かにクリアというならそうかもしれませんが、それがそんなに価値あることとも思えないし、むしろ音楽的にはやせ細って平坦で、ショパン作品に求めたい香り立つようなニュアンスもなく、スマホの早打ちのように終始せかせかした感じで、背中を丸めゲームにでも没頭するかのように上半身を小刻みに上下させる姿も違和感を覚えたり…。

より美しく、より芸術的な方向へ深化するなら大歓迎ですが、デジタル機器ではあるまいし、私は一人の音楽愛好家として、ある種一定の明晰さは求めたいけれど「解像度」という言葉自体も無機質でちょっとそぐわない気がしました。
むろんこれは、ものの喩えとしての表現かもしれませんが、そのままの概念のようでもあり、ある種の本質を孕んでいるような気がしてどうにもひっかかるのです。
技術や楽曲分析が向上するのは結構ですが、人間臭さを失ってまでそれを求めたいとは思いません。

【ブーニンの復活コンサート完全版】
9年ぶりに八ヶ岳で行われたコンサートで、シューマンの色とりどりの作品(小品とも)op.99の全曲版。
身体的に様々な不調に襲われ、再起をかけて実に9年ぶりに公開演奏に挑んだ演奏。
そんな開演直前ともなればどれだけナーバスになっているのかとおもいきや、控室にいたブーニン氏は優雅な笑みとともに、夫人と連れ立って通路をゆったりと進んでステージに向かう姿は印象的で、やはりこの人は独特な存在だと思いました。

演奏は率直に言って、かつての奔放で思うままにピアノと戯れていたブーニンではないことが悲しくはあるけれど、それでも随所のアーティキュレーションとか、ちょっと溜めて歌い込むポイントをむしろスカッとクールに処理されるあたり、かつて聞いた覚えのあるブーニンの語り口を垣間見るところがはっきりあって、ああこの人はこれだった!と思いました。
人間の感性は生涯不変という話はやはり間違いないようです。

世界にはあまたのピアニストがいるけれど、あの何事にも動じない、貴族的ともいいたい所作や笑顔、自然な語り口、なにより彼が醸しだす繊細さ、それでいて超然としたあの誇り高い雰囲気は比べるものがない、この人だけの世界があるようです。
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謹賀新年

あけましておめでとうございます。

今年も良い年でありますようにと穏やかにご挨拶したいところですが、世の中はロシアのウクライナ侵攻はじめ、大国のエゴがいよいよ顕在化するなど、しだいに緊張の度合いを増しているようで、なんとか世界の平和が保たれますよう祈るばかりです。

かつて日本では「平和ボケ」なんていう言葉が盛んに使われたものでしたが、もはやそんな無邪気な時代ははるか彼方に霞んでしまったようです。
コロナも概ね収束方向かと思っていたら、中国のゼロコロナ政策の緩和によって、一転して爆発的な感染拡大となり、そこからまたあらたな変異株が出てくる可能性があるといううんざりするような説もあったりで、現代人は今やどちらを向いても不安要因にとり囲まれてしまったようです。
とはいえ、嘆いてばかりもいられないので、なんとか現状の中で前を向いていくしかありませんね。

毎年、年初のコメントには同じことを書きますが、このブログも14年目を迎えることになりました。
お読みくださる方がいらっしゃるのはただありがたいとしか言いようがなく、本年も何卒よろしくお付き合いくだされば幸せです。
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良いお年を

年末に目に止まったTV番組から。

【辻井伸行in河口湖ピアノフェスティバル2022】
このフェスタは毎年恒例なのかどうかは知らないけれど、過去にも同じものが開催されていたので、少なくともこれが初めてではないのでしょう。
辻井さんが中心のようですが、ご多分に漏れず、そこに集まってくるゲスト演奏家の方がいろいろいらっしゃるようです。
加古隆さんはたしか以前も見たような気がしますが、この方は徹底してベーゼンドルファーしか弾かないということなのか、今回も加古さんの演奏時にはそれが準備されていました。
演奏されたのは、曲の名前は知らないけれどNHKの「映像の世紀」でお馴染みのもの。

ジャズの山下洋輔氏のお顔もあり、ラプソディ・イン・ブルーを弾かれていたけれど、私の耳にはときどきそれらしきものが聞こえてくるぐらいで、大半は山下氏お得意の爆発系の即興演奏のような上ったり下ったりが多く、そのときはパワフルだけれど、両手オクターブのあの有名な主題の旋律部分になると突如勢いが落ちて、指もなんだかおぼつかない感じになるあたりは別人みたいで不思議でした。

最後は辻井さんのソロでラヴェルのピアノ協奏曲。
野外会場という条件も加味して考えるべきだろうとは思いつつも、かつての辻井さんからはあまり聞かれなかった、ことさら派手なテクニシャンであることをアピールしようとする印象で、テンポもやたらセカセカしているし、なにより技巧を前面に押し出したような感じのアスリート風の演奏であったのは、彼の意外な一面を見たようでした。
そもそも、この方の演奏はそういう「ガンガン弾けますよ系」とは一線を画したピュアな魅力が、いささか表現が平坦ではあっても全体として清潔であるし辻褄が合っているように思っていたので、どうされたんだろう?という感じが残りました。

第一楽章がまずもってそんな感じだったので、せめて第二楽章では辻井さんらしい美しさのきらめきが堪能できるのかと思ったら、放送時間の関係からかこれは惜しげも無くカットされ、そのまま派手で賑やかな第三楽章へと繋げられていたのはびっくりでした。
どうしてもカットするのであれば、第一楽章をカットし、せめて第二楽章〜第三楽章という具合にはできなかったものか…と思うんですけどね。

今や国内に限っても、ピアニストの世界は相当に上手い人が次から次へと出てきて混雑気味だからか、さしもの辻井さんも無垢なだけではダメだと思って少しマッチョ系に舵を切りだしたということなのか、たまたま今回はその場のノリでそうなったというだけのことなのか、真相はわかりませんが。
ああ見えて、あんがい勝負心はしっかり強いお方なのかもしれないとも思いましたが、コンサートピアニストとしてあの位置を保持していくぐらいですから、それぐらいの逞しさは当然だといわれればそうなんでしょう。

【フジコ・ヘミング ショパンの面影を探して〜スペイン・マヨルカ島への旅〜】
フジコさんが、ショパンとジョルジュ・サンドが訪れたことで有名なマヨルカ島を旅するということで、それに密着した90分のドキュメント。
これまでフジコさんのお歳は発表されてこなかったので詳しい年齢は知りませんでしたが、この番組で初めて90歳になられるということを知り、率直にお若いなぁと驚きました。
久しぶりに映像で見たフジコさんは、なるほど歩行器をつかって歩いておられ、ステージに出るにも介添えの方が付いておられるようで、自分を含めて当たり前ですが、世の中はみんなまた一段と歳をとったのだということを思い知らされるようでした。
それは前述の山下洋輔氏についても同様でしたが。

パリの自宅からは、友人の車でスペインまで南下し、そこからフェリーに乗り換えてマヨルカ島を目指します。

マヨルカ島では、リサイタルまで組み込まれて、現地の音楽院のホールでお馴染みの曲を弾かれていました。
テレビカメラが入っているということもあるのかどうか知らないけれど、同行者はもちろん行く先々の方まで、皆さんがマイペースなフジコさんに対して、非常に親切に接しておられるのは印象的でした。

ところで、フジコさんほど好き嫌いの別れるピアニストもいないと思いますが、私は実はそんなに嫌ってもいないし、とくにファンということもありません。
嫌っている人にいわせれば突っ込みどころ満載でしょうし、それはもちろんわかるのですが、それでもこの人にしかない美しさというのがあるのだから、あんなにも憤慨せず、こんな人が一人ぐらいいてもいいと個人的には思うのです。
とりわけ、時を経るにしたがってどんどん増殖されていく、確実に安定した演奏のできる、高性能工業製品みたいなピアニストだらけのこの時代に、まるでつるつるに使い込まれたアンティーク家具のようなフジコさんの演奏には、理屈抜きに人間がホッとさせられる本質が息づいていると私は思うのです。

聴いていると、明らかな譜読みの間違いや行き過ぎた自己流で乗り切ることもあったりで、たしかにギョッとする瞬間もないではないけれど、それをいまさら青筋立てて言ってみてもナンセンスという気にさせられます。
フジコさんの演奏は、なにより音が美しく、センスもそれなりで一つの世界があり、演奏そのものだけではなしに、人の心の中にあるなつかしいものに触れられる数少ない機会なのでは?と思います。
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ガルシア・ガルシア

先日の『題名のない音楽会』で、マルティン・ガルシア・ガルシアさんが出演しました。
昨年のショパンコンクールで第3位に輝いた、スペインのピアニストです。

スタジオ収録で、演奏曲目はバッハの平均律第1巻より第1番、ショパンのワルツ第4番、モンポウの「歌と踊り」第6番、ラフマニノフの「サロン小品集」よりワルツ。

番組でも話題にされていましたが、演奏中はご自身も声を出して共に歌い、良い意味での天真爛漫さが魅力。
トークでも人懐っこい笑顔を決して絶やさず、常に楽しげに振る舞うその様子は、いかにもラテンのピアニストというイメージに溢れており、この天性の明るさは日本人やロシア人にはおよそないもので、世界は広くお国柄や個人の資質も実にさまざまという事実を感じずにはいられません。

体格も立派でややぽっちゃり系、そこにさらに特大の手が加わり、その指は15度!開くのだそうで、これはドからオクターブ先のソまで届くというわけで、こんな人から見ればピアノも我々が相対するものとは同じであるはずがなく、一回りも二回りも小さなものなんだろうなぁ…と思います。

指もただ長いというだけでなく、大理石の彫刻のようにがっしりとした骨格にしっかりした肉付きがあり、見ためのバランス上ピアノに最適サイズとは思えないほど立派で、体格差というのは如何ともし難いものだということをいまさらながら感じます。
大谷選手とて、その並外れた天分と努力に加えて、それをあの秀でた体格が支えているのですから、そりゃあかないっこないと思います。

なにより注目させられたのはガルシア氏の出す音。
どっしりした体格と、その大きく逞しい指から出てくるそれは、すべての音がいやが上にも冴えわたっており、芯のある音が泉のごとく出てくるのは呆れるばかり。しかし、強いて言うなら全体に音量ベースが強すぎのように思われるところがあり、我が家のテレビのせいかもしれないけれど、ときどき音が割れ気味になるのも致し方無いのかと思います。

音楽的には、クラシックの演奏者が失いがちな躍動や楽しさや明るさが支配しており、それは稀有な価値だと思うけれど、裏を返せば深く繊細なものを覗き見るような部分であるとか、かすかなニュアンスに息を詰めて触れるといった類のものとは違う気がしました。
たった今、躍動や明るさと書いたばかりですが、通称「猫のワルツ」とされるワルツの4番などは、意外に重めで、リズム感や軽さや洒脱がさほど発揮されなかったのは意外でした。
ショパンコンクールで3位にはなったものの、実はショパン向きの人ではないようにも思います。

いずれにしろ、現代の若手ピアニストの多くが建前重視の演奏に終始するあまり「草食系」の音しか出さなくなってしまった背景を考えると、いささかやり過ぎな面もあるにせよ、たまにはこんなビシッとした硬質な音を出せるピアニストがいるということも、それはそれでみるべき点があるように感じました。

ピアノはショパン・コンクールの時もそうだったけれど、この番組でもファツィオリを弾いていました。
その点についても質問があり、「いろんな理由でファツィオリを使っている」「僕が歌うことにもつながりがある」というようなことをいっていましたが、この「いろんな理由」は意味深長な気がしました。
私は聴いていて、彼の強い打鍵を支えるのは、ファツィオリのソフトな音作りがあるのでは?と感じました。

ガルシア氏の強い打鍵では、現代の標準的なエッジの立ったパリッと鳴るピアノで弾いたら、メーカーに関係なくバランスが崩れてしまうのではないかと思うし、始終そこに気を遣っていてはノリが悪くなり、ストレートな演奏の妨げになるのかもしれません。
「ファツィオリの音や響きが好み」と率直に言ったわけでもなく、「いろんな理由」「歌うことにもつながりがある」というあたり、彼の生まれ持った強いタッチと「つながりがある」ような気がしました。
これはもちろん個人的な憶測に過ぎませんが。

ちなみにガルシア氏は日本びいきで、母国でも日本料理を食べ、最近婚約されたお相手も日本人だそうです。
グルダ、シフ、ブーニンなど、日本人と結婚する男性ピアニストも結構いるんだなあと思います。
さらにガルシア・ガルシアという名前は、ご両親の苗字がおふたりともガルシアで、そのためにこの名前になったのだとか。
とすると、スペインは両親の苗字を並べるのが普通なんでしょうか?

ファツィオリについては、今回見ていて一つ発見したのは、フレーム(弦を張る金属の骨組み)の中で、打弦点のやや手前にある、鍵盤とほぼ平行になっている部分がありますが、そこだけ上部が黒に塗られているように見えたのですが、これはどういう意味があるのだろうと?と思いました。
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詐欺に近い

ピアノ以外の話でもう一つ。
最近経験したことで、皆さんのお役に立てればという気持ちからご紹介します。

ちょっとした必要があって、お風呂の工事が必要になったのですが、パッと見渡してみてもピアノと違い、これといって懇意の業者があるわけでもなく、やむなくネットで探すことに。
以前からお世話になっていた好ましい業者さんが2つあったのですが、一つは別会社に統合されてしまい以前とはすっかりやり方が変わってしまったこと、もうひとつは頼みの職人さんがケガで引退されてしまい、よって業者探しから始めなくてはなりませんでした。

そうなると今どきはどうしてもネットということになりますが、ネットの欠点は、あまりにもたくさんありすぎてどれを選べばいいか、まるで見分けがつかないこと。
仕方がないから、その中から適当に電話したら快く対応され、さっそく現場を確認に来られました。

とても感じ良く、話し方も好意的で、現場を確認される間もいかにも頼れる感じで、ネットも悪くないなというような印象でした。
それから10日ほど経って、メールで見積が送信されてきたのですが、そこに記された金額を見た瞬間背筋が凍りつきました。
何かの間違いではないか!?と思うようなもので、もう胸はバクバクです。
細かい明細書なども添えられており、体裁上は尤もらしく書かれてはいるけれど、とうてい納得のいくものではなく、態度は柔らかいが相当な悪質という印象しかありませんでした。

それで、腹も立った勢いで、ずいぶん昔お世話になった業者さんをいくつか思い出し、幸いアドレス帳に残っていたので思い切って電話してみたら、心よく対応してくださり、さっそくそのひとりが現地調査に来てくれました。
さすがはプロというべきか、状況に関してはたちどころに理解し、ざっとこれぐらいでは?という金額を告げてくれましたが、それははじめのネットの見積りの約半額でした。

そういえば、以前別の件でも家のメンテに関することで、ネット検索して「業界最安」の文字が踊るサイトから、見積りを取ったことがありましたが、そのときも思わず顔が青ざめるような金額だったことを思い出しました。
もちろんそこには依頼しませんでしたが、こういう手合いがウヨウヨするのが当たり前の業界とは恐ろしいものです。

しだいにわかってきたことですが、とくに住まいの工事に関することで業者を探す必要が生じたとき、手段としてネットに頼りがちですが、これはかなり悪徳業者に当たる確率が高いこと、昔の縁で来てくれた業者さんにもその話をしたら、「あー、はいはい」と苦笑いしながら「これだったら☓☓☓ぐらいいったんじゃないですか?」と言われましたが、実際はそれ以上でした。
この業界では、ネット検索ででてくる業者はかなり高額をふっかけるところが多いのは限外に普通ですよ…といった感じで、とくに驚きもされず、そんなものだということを今回はっきり認識しました。

テレビなどで、人なつっこい態度で高齢者などに近づき、しなくてもいい工事を言葉巧みに誘導し、杜撰な作業で大切な貯金などを根こそぎ奪い取るというような話がありますが、あそこまでいけば完全に一線を越えており犯罪でしょうが、その少し手前の詐欺に近いギリギリのものというのは無限にあるようです。

とくに安さを謳って人を引き寄せるけれど、実際はその逆で、常識的な金額の倍も三倍も請求してくるのですから、いやはや恐ろしいといったらありません。
これをお読みの方も、もしそういう業者探しの必要が生じたときは、どんなにわずかでも知り合いのつてなどを辿っていかれるのが斎場とはいいませんが、まずは懸命だろうと思います。
また水道などは自治体の指定業者になっているかどうか。
もちろん、それでも決して安心はできませんから、できれば頑張って複数の業者に見積もりをとってみる必要はあると思います。

また、同じ案件でも業者によっても考え方や施工上のポイントがずいぶん違っていたりと、各社さまざまなので、面倒でも幾つかの業者に相談してみることはとても大切だということがわかりました。

ピアノだったら、調律などはだいたいの料金は決まっているし、あとは好みや巧拙にが問題ですが、住まいに関する工事はケタが一つも二つも違うし、おまけに業者によって費用が倍以上ちがってくるとなると、こちらもよほど警戒してかかる必要がありそうです。

いずれにしろ、住まいのメンテや工事関係はネット検索はやめたほうがいいので、みなさんもくれぐれもご注意ください。
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健康志向の不健康

久々にピアノ以外のお話を少し。
先日、テレビの某トーク番組を見ていたら、いくつかのテーマの中で健康に関するやりとりがありました。

そこで語られたのは様々で、流行りの糖質ダイエット、ヴィーガン、日本人の健康意識から美意識にまで切り込んだもので、頷ける点が多くありました。

若い女性の間では、食事に行ってもダイエット中や特定のこだわりを貫く人がいたり、なんだかんだと制限が多く、無邪気に注文することもできず、気遣いやストレスがあるとのこと。

そもそも、ダイエット中や健康上もしくは思想上特定の考えを持った人は、他者と食事に行ってそれを崩さないとなると、その場の雰囲気や他の人に影響を与えないで済むことはかなり難しいのでは?と私は思いますが…。
そもそも、健康のためと称して、あれこれのこだわりを持ち、食品に対する自説や選択、あるいは運動だ、栄養補給だとさまざまに実践しておられる方がいらっしゃいますが、これは当人以外は甚だしく快適ではない空気を撒き散らすことになるように感じます。

また、ある程度以上の年齢に達してからその面に目覚め、それを中心とした生活を送るのは、正しいことなんだろうとは思いつつ、どこか浅ましさみたいなものが見え隠れしてしまうときがあります。
しかもそのタイプは、それまでの不摂生を一気にリセットしようという思惑なのか、やたら健康志向に転身し、自説に浸り込んでいるのも思い込みが強いぶん周りはウンザリだったり。

もちろん一定の運動が必要であるのは言うまでもないし、健康的な生活を送ることが大切という本質に異論を挟む気はまったくありません。
でも、わざわざ運動のための運動をするよりは、できるだけ自然のリズムの中から出てくるものであるべきでは?と内心では思ってしまうのです。
健康志向の人は、多くの場合、健康データとしての「数値」の獲得が目的で、そのためにやりたくもない運動や食事制限に全生活を縛り付けるなんて、私はどこか大事なポイントがずれているような気がするのです。
食べ物や食べ方、あるいは長らくアルコールに親しみ、偏った食生活を送ってきた人が、急に何もかもをチャラにしたいのでしょうが、それは不摂生をクルッと裏返しただけに見えて、あまり健康的に思えないのです。
身体にとっても、悪いものが入ってこなくなった環境改善より、急激な変化に対するストレスのことは見落とされているのでは?

私の感じる「健康的」の概念には、趣味や文化と同じく、自然に身についたものが必要じゃないかと思います。
極端に甘いものや塩っぱいものは、健康云々以前に、自分がそれほど望まないとか、過度なアルコール摂取や暴飲暴食は、したいけどガマンではなく、そもそも好きではない、自分の快適性に合わないというのが自然だと思います。

若いころはともかく、もう食べ放題なんて行かなくなりましたが、あの過度な満腹感がもたらす不快感がイヤだから行かないだけですし、本来なら野菜でも水分でも、採らなきゃいけないからというだけではなく、それが欲しくなるのが自然であり、そういうサイクルになっていることが健康的だと思うのです。

誰だったか忘れましたが、パネリストの一人がポロリと膝を打つような発言をしました。
「健康オタクの人って、私にはそれが不健康に見えるんですよね」
まさに膝を打つ思いで、まさにその通りなんです!

ご当人はそれまでの不健康な自分とは決別し、いまこそ健康を取り戻しつつあると思っていても、それが悲しいまでに不健康に見えて、そのあたりのギャップが傍目にはどうもしっくりきません。
白髪を隠そうと毛染めをして、老いた顔の上にやけに真っ黒な髪がかぶさっていたりするのを見ると、逆に不自然でより老いが強調されてしまうように。

私は医者ではないけれど、人は40過ぎたら、そこまでやってきたことがその人の基本であり、たとえばよほどの肥満とかは別にして、ちょっとぐらいぽっちゃりの人が、敢えて苦しい思いをして、あれもこれも我慢して、ビジネス臭がプンプンする基準を鵜呑みにして、苦心惨憺の末にすこしばかりスリム体型になったとしても、やつれたようにしか見えず、それが真に健康的で素晴らしいとはどうしても思えないのです。

多少体重は多めでも(極端なことや明らかにアウトなことは別ですが)、常識の範囲でやりたいようにやって、ほがらかに笑っていた時のほうがよほど健康的だったのでは?と思ってしまいます。
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修理はピンキリ

『ピアノ図鑑 歴史、構造、世界の銘器』という本があり、以前購入していたものですが、あらためて本棚から取り出して見直してみました。
これはジョン=ポール・ウィリアムズというイギリスのピアノ技術者による著作で、日本では元井夏彦氏という方の翻訳により、ヤマハミュージックメディアより出版されている、カラー写真が多用された美しい本です。

本来なら、ヤマハが出版するピアノ関連の本であれば、参考写真もヤマハピアノが徹底して使われるはずですが、これは海外で出版されたものの日本語版なのでそうもいかなかったのか、おかげで様々なメーカーのピアノが出てくるのが面白く、強烈な自社愛のヤマハにしては珍しく理解なのか忍耐なのか、微妙なところはわからないけれどその点でも興味を引きました。

内容は主に「ピアノの歴史と発展」「ピアノメーカー総覧」「メンテナンス」という三部にわけられており、メンテナンスの章では認識を新たにする記述が散見されました。

例えば、ピアノの修理には「レストア」「リビルド」「リコンディション」というように分けられるとあります。
レストアやリビルドは、ざっくりとオーバーホールというような言葉で、その意味することろを深く考えることもないままに適当に使っていましたが、どうやら日本にはそのあたりの明確な区分がないようにも感じます。

説明によればおもに以下のようになるようです。
▲レストア
レストアの定義は「原型に近い状態に戻すこと」とありますので、おそらくオリジナルを毀損せず本来の姿や内容を忠実に復元するというものでしょう。
長年弾かれてきたもの、放置されていたもの、乱暴に扱われたもの、気候変化や戦争を経たものなどをオリジナルの状態を保ちながら楽器を補強することだそうで、古いピアノのレストアは現代のピアノを作ることではない由。
歴史的価値に重きを置くということでもあるようです。
使用される部材もその楽器の作られた年代の木材、フェルトや弦も当時の素材や製法を考慮しながら、慎重かつ丁寧に再現することで、いうなれば美術館の修復に似たようなものと思えばいいのかもしれないと思いました。

▲リビルド
リビルドは、楽器を元の状態またはそれ以上の状態に再生するために行われ、部品も最小単位まで分解する必要があり、ひとつひとつをきれいにし、不備があれば修理もしくは新品と交換するため、費用もかなり高額となり、品質の高い貴重な楽器に行うのがふさわしいとあります。
塗装、響板、フレームからネジ一本まで、これでもかと徹底しているので、昔の姿を偲ぶ要素も見い出せません。
楽器店に行くと、戦前などかなり古い時代のピアノでありながら、いわれなければ新品と見まごうばかりに内部に至るまで眩いばかりにピカピカにされ、かなり強気な金額で販売されているのを見かけることがありますが、あれがリビルドなんでしょう。

▲リコンディション
経済的または技術的理由から、完全なオーバーホールができない場合、消耗の激しい箇所のみ処置を行うことで、コストを抑え、適正に機能するピアノに修復することのようです。必ずしも楽器を完全に分解することはなく、部品は必要に応じて掃除、修理、再配置され、どうしても交換する必要があるもの以外は再利用される。
各種調整やハンマーの形成など、手掛ける項目は多岐にわたるようで、個人的なイメージとしてはホールのピアノの保守点検のようなもの、もしくはその延長ではないかと思いました。
ところが、実際には必要な箇所さえ省略された、甚だ不完全なものが多いことも否定できません。

我々が、安易にオーバーホールと呼んでいるものは、弦やハンマーに代表される消耗品の交換を中心としたリコンディションであって、正確に言うならリビルドとリコンディションの間にあるように感じました。

リビルドはかなりの費用と時間的な余裕を必要とするので、楽器の価値などおいそれとは着手できることではありません。
ただ、仮に100年経ったピアノを、たった今、工場で出来上がったばかりのようにピカピカギラギラにしてしまうのは、その美しさや技術には感心しますが、諸手を上げて賛同する気にもなれません。
というのも、あまりに過剰なリビルドは、そのピアノの生まれた時代や経てきた歴史まで消し去ってしまうようで、商品としてはアリなのかもしれませんが、センスとしては個人的には違和感が拭えないことも事実です。

過度に傷んだもの汚いものはさすがに好みませんが、古くて好ましいピアノには相応の歴史を感じるものであって欲しいし、そこをどう見るかは所有者や修復する人の価値観や美意識に大きく委ねられていると思います。
もし興福寺の阿修羅像が真新しいピカピカ状態になったら…それはもう完全な別物となってしまうでしょう。
古いピアノの魅力や音を楽しむには、そのピアノの歴史や個性を受け容れて楽しみ、そこに自らも参加していくことではないかと個人的には思います。

だからといって機能的に問題があっては困るので、そこはきちんと健康体に整備された上でのことですが。
よく耳にするのが、「ハンマーを換えた」「弦も換えた」というけれど、それ以外は手付かずで、本来はタッチコントロールに直結する各種フェルトやローラーなど、細かい点まで配慮されないことには、いつまでも満足行く結果は得られないと思います。
むろんコストの掛かることなので、できるだけ切り詰めたいというのはわかりますが、中途半端なことをして延々と不満が続くことがいちばんもったいない気がします。
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あの時代

先に挙げた『日本のピアニスト〜その軌跡と現在地』本間ひろむ著(光文社新書)には、日本人ピアニストの黎明期のこと、さらには日本の音楽教育がどのような変遷をたどってきたかについても触れられていました。

東京音楽学校が東京美術学校と合流して芸大になり、一方で桐朋学園音楽科創設に至る経緯、その他の音大も次々に生まれて、戦後の短い期間で音楽教育環境が急速に整ったことがわかります。
桐朋には前身があって、優れた音楽家を養成するには早期教育が不可欠という思想から、「子供のための音楽教室」というのが作られ、この第一期生が小澤征爾さん堤剛さん中村紘子さんなどです。

これはチェロの斎藤秀雄やヴァイオリンの鈴木鎮一、さらに評論家の吉田秀和、ピアノの井口基成ら各氏の尽力によって開設されたものですが、演奏のお三方は自身の修行のスタートが遅かったこともあり、音楽における早期教育の必要性を身をもって感じていたということも大きいように思います。
さらに、ここから成長した子供の受け入れ先が必要ということで、やがて桐朋学園の音楽科が作られ、大学まで拡大していったようです。

これじたいは日本の音楽教育にとって画期的なことだったろうと思いつつ、読みながら昔のピアノ教育現場のあのなんとも形容しがたい、ムダに厳しい、悲壮的な空気感が蘇ってくるようで、この部分はなんとなく楽しくは読めませんでした。

戦後昭和のピアノ教育界を牛耳っていたのは、井口基成・秋子・愛子の流派と、安川加寿子の二派だったように思います。
かつての芸大がレオ・シロタやクロイツァーなどのドイツ一辺倒だったところに、フランス仕込みの流麗な風を吹かせたのが安川加寿子でしたが、それに対してかっちり力強く弾くのが井口流だったように思います。

私ごとで恐縮ですが、私が通っていた地元の音楽学院も、院長が井口基成の直弟子であることから、学院自体が桐朋の「子供のための音楽教室」の支部のような位置づけであり、斎藤秀雄はじめ、お歴々の写真が架けられていたし、当時はまだ健在だった井口基成はじめ、錚々たる顔ぶれの教授陣が中央から入れ替わりやって来られては、厳しいレッスンを繰り広げておられました。

私自身は井口先生の恐怖のレッスンを受けるには至りませんでしたが(おそらくレベルが低くて)、見学は院長室で何度かさせられました。
専用のソファーが準備され、まさに「王」のようなふるまいで、まわりは緊張の極み。
あんな状態から演奏上の何を学ぶのか、いま考えても正直良くわかりません。

ただ、この本にある「子供のための音楽教室」で行われていた授業内容は、私達に課せられたものとほぼ同じで、桐朋の流儀で全てが進められていたことがあらためてわかり、土曜中心でソルフェージュ、聴音、楽典など、そのままでした。

その頂点に君臨する院長は、すでに多くのお弟子さんを育てて抱え、その人達が下部の教師となって生徒の普段のレッスンを受け持ち、ご指名がかかったらその先生および親同伴で院長室に、レッスンという名のもと出頭させられます。
いうまでもなく学院全体は井口流の厳しさと恐怖に絶え間なく包まれ、そのせいでメンタルを病んだり、家族離散になったりといったケースもありましたが、そんなことはまったくお構いなしでまかり通っていたのですから時代の成せる技というほかありません。

ただし、院長はただ権勢を振るっていただけではなく、音高・音大の受験シーズンになると睡眠時間が2〜3時間という過密スケジュールとなり、真夜中でもレッスンをされていたし、生徒とちがい毎年受験前はそんなハードなパターンでやっていられた事を考えると、正しいかどうかは別として、そのエネルギーには唖然とするばかりです。

ところで、先日テレビでアメリカの動物調教師の話をやっていましたが、1950年代までは猛獣の調教といえばサーカスなどに代表される、檻に閉じ込め、ムチで叩いて、恐怖と痛みで服従させるのが主流だったところ、動物保護を目的とする人物によって、愛情をそそぎながら教え込む方法が見事に奏功し、その人のもとで育った雄ライオンは人に危害を加えることは一切なく、ハリウッド映画のオファーなども次々に舞い込んで映画スターとしても絶大な信頼を得ることになり、ついには子どもとの共演まで見事に果たしたそうです。

スポーツでも、足に悪いうさぎ跳びや、練習中は水を飲んでもいけないなどの精神論式訓練が当たり前だったものが、いつしか科学的なほうが結果が出やすいことが証明され、これに取って代わりますが、私がピアノを習っていた1970年代前後は、いわばムチで叩かれて教え込まれるサーカス方式だったように思います。
桐朋の「子供のための音楽教室」でさえ、内実はそれでした。

さらに呆れたのは、この本に書かれていた(私は幸い言われたことはなかった)ことですが、「井口派の生徒は安川加寿子のピアノを聴きに行ってはイケナイ」というルールがあったそうで、今だに「グールドのCDを聴いてはイケナイ」などと真顔で指導する先生もおいでだそうです。
絵や文学を志す人に「あれを見てはいけない、これを読んではいけない」というようなもので、そういう視野の狭い教師についたらたまったものじゃありません。
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競争曲

前回の『ショパンコンクール見聞録』に続いて、『日本のピアニスト〜その軌跡と現在地』本間ひろむ著(光文社新書)というのを読みましたが、ますますもって時代は変わったのだということを認識させられる一冊でした。

とりわけタイトルにもある通り、ピアニストの「現在地」というものは、従来の在り方とはかけ離れたところに成立するもので、それはまさに、他のジャンルと同様の激烈な勝ち抜き戦だと思いました。
演奏家になる道は、俗世間とは別次元の高尚なものだというような錯覚はしていないつもりだったけれど、しかし私などが求めていたのは、ごく稀に出てくる天才の至芸であり、才能豊かな音楽家が紡ぎ出す演奏という、理想を求めていたことは否定できませんし、そうでなくては音楽を楽しむ根本意義の問題になるような気がするのです。

しかし、現代のピアニストに求められるものは、高度なメカニック体得者であることは当然の大前提で、さらにいかにして大衆の心を掴んで出世街道を駆け上がっていくか、周到かつ凄まじいレースのようです。

先生や学校選びは言うに及ばず、どの時点で留学するかしないか、音楽一辺倒ではなく他の分野との二足のわらじで行くか、自分のウリは何であるかの見極めと設定、世俗的な広い視野と時代感覚が飛び抜けて鋭敏でなくてはこのレースを勝ち抜くことはできないでしょう。
ピアノを弾くためのずば抜けた能力プラス、自分というタレントの設計図が極めてしたたかなものでなくてはならないようで、まさに能力の総合勝負であり、昔のようにピアノだけがどれだけ上手くても、どれだけ聴くものを酔わせるものがあろうとも、そんなことはもはや大した強みではないようです。

今の若いピアニストは、あんなに上手いのに、なぜか情の薄いものにしか感じられない不思議の理由が、ようやくわかったような気がしています。
ひとことで言えば目指すところが違っているのだから、そりゃあ当然だろうと思いました。

いまさら言うまでもないことですが、今の若手ピアニストは技術的には呆れるばかりに平均点が上がり、コンクールなども短期間のうちに駆けずり回るがごとく受けるのも珍しくもなく、まさにトップアスリートの生活のようです。
当然それに耐えうる体力とメンタルが必須。

コンクールも常にどこかで開催されていると思っていたほうがいいぐらいで、各自、自分の都合に合わせてあれに出たり、これに出なかったりといった具合で、まさに世界を股にかけて飛び回っている。
一位もしくは優勝するまで、若さの続く限り挑戦を続け、その結果を携えて、いかに自分を巧みにマネージメントするかが問題で、そんな生き馬の目を抜くような時間を過ごしていたら、そりゃあ繊細な演奏の綾などと言っているヒマはないのも当然で、みなさん戦士なのです。

中には、スポンサーを募り、他者を抱き込んで株式会社を作ったりという猛者もいるわけで、そういう企画力を有していることが現代の売れる音楽家の条件であるらしく、演奏能力プラスそれが合体してはじめてチケットの取りづらいピアニストにもなれる…ということらしい。

それをいえば、昔のピアニストだってピアノメーカーやレコード会社や興行主などが、似たようなことをやっていたといえなくもないかもしれませんが、私の肌感覚では「断じて、何かが違う」としか思えません。
気持よく音楽を楽しむという時代も終わったと思うことは、寂しく残念としかいいようがありませんが、どうやらそういうことのようです。
…。
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現代の価値観

ピアニスト兼著述家として独自の地位を得ている青柳いづみこ氏ですが、2015年のショパンコンクールをリポートした『ショパン・コンクール』(中公新書)があるというのに、2021年大会についても『ショパン・コンクール見聞録』(集英社新書)なるものが早くも刊行されており、この方の切り口はおおよその察しがつく気がして迷いましたが、敢えて購入して読んでみました。

ここでは、内容についてはいちいち触れることはしません。
全体としての読後感は、もし青柳氏のいうことが正しいのであれば、私はもうピアノ演奏の鑑賞者の立場さえ、今の時代の尺度や価値観に合わないことを悟り、また自分の意に反してまで合わせようとも思いません。

以前であれば、ピアニストや演奏に関する本を読めば、概ねその言わんとするところは理解できるし、同意できる内容は濃淡の差こそあれ数多くありましたが、今回の一冊を読むと、書いてある事があまりに自分が感じたこととかけ離れたもので埋め尽くされており、要するに時代はすっかり変わったのだと認識しないわけにはいきませんでした。

そもそもショパン・コンクールといっても、20世紀までのそれと、今日では世情も価値観も人々の好みや求めも違うことじたいは否定しません。
ひとことでいうなら、非常に可視的で表面的なものになったと思います。
もはやショパンと言っても、コルトーのような演奏でないことはわかるけれど、ロマンティックであったり主情的であったり、詩情豊かなものであることさえ、ほんの僅かでもコンクールの求めからはみ出すとマイナスとなり、がんじがらめの制約の中で、いかにも今風な優秀なパフォーマンスが出来た人だけがピックアップされ、加点を得てファイナルに進み、そして栄冠を勝ち取るというシステム。
しかるに、その基準はというと明確さを欠き、ふらふらと常に微妙に動いていて、まるで訳がわからない。

このことは今回が初めてではなく、以前から薄々感じてきたことではあったけれど、この本を読むことで審査の舞台裏なども垣間見ることができ、審査員の顔ぶれや時の運も大きく、要は世界最高峰のピアノイベントとしての色合いだけが強まり、馬鹿らしい気分になりました。

そもそも私は近年のショパン・コンクールの優勝者についても、心底納得した事がありません。
建前では、伝統的なショパニストを選ぶとしながら、ピアニストとしての総合力や将来性にも目配りしたともあるし、そうかと思えばショパンとしての伝統や作法、スタイルを備えていないとかで落とされたり、使用楽譜の問題、装飾音のちょっとしたことまで、重箱の隅をつつくような問題があったりと、複雑でそのつど基準が変わり、あいまいで不透明。

今回は各コンテスタントについての印象を私ごときが述べるつもりはないけれど、優勝者というのは一人しかいないので、それは特定されますが、あれをもって600人とも言われる応募総数の中から選びぬかれた、このコンクールの優勝者にふさわしいものとは私個人はとうてい思えない。
きっと、審査の現場では大モメになったのかと思いきや、彼の優勝は審査員の中では圧倒的なものだったらしく、それひとつとってもまったくわけがわかりません。
この本を読みながらあらためて動画も確認してみましたが、やはり首をひねるばかりで、優勝を逃した人の中にはピアニストとして格が違うというべき優れた人もいたのはいよいよ複雑な気分に陥りました。

では、ショパニストとしてはよほど際立っていたかといえば、そうとも思えず、ショパンに不可欠な洗練された美の世界やニュアンスに富む磨きぬかれた語りが際立つわけでもなく、大事なところでむしろダサいし、どうしても訛りの抜けない地方出身者が、一生懸命背を丸めて弾いているようでした。
演奏の背後に師匠の影がチラチラするのも気になりました。

私の耳には、大半の人の演奏は「しっかり受験準備をしてきました」的なもので、ニュアンスやファンタジー、つまり音楽としての昇華が乏しく、何度でも聴きたいというシンプルな音楽鑑賞者としての感情が呼び起こされないのです。
個別の演奏についても、☓☓が何次で弾いた☓☓は審査員の某が涙を流すほどで、コンクール史に残る名演などという記述が出てきますが、私にはむしろいやな演奏だったし、なにがいいとされるのか皆目わからないものだったりで、ここまで自分の感じたことと評価が噛み合わないということは、「もうどうでもいいや」という虚しさばかりが残るだけでした。

楽器(ピアノ)の音も時代とともに変わっていくように、ピアニストの演奏も同様だと思うし、それは時代の流れの中で当然のこと。
しかし、音楽というものの根本的な役割は、聴くものに音楽以外では得られない喜びや充実感、美しいものに触れ、精神あるいは感性が特別な体験をすることだと思うのですが、ここに書かれているコンクールの実状は、まるで上場企業のどれを製品化するかの戦略会議の舞台裏の話のようで、およそ私なんぞの求めているものとは掛け離れたものとしか言いようがありません。

他の世界と同様、コンクールも審査員の総合点で事が決する以上、魅力ある稀有な天才より、誰からも嫌われない優秀で無難な人が有利だという法則がここにもいきているようで、優勝は5年に一人きりとなれば、もしかしたら政治家の選挙以上の票集めが必要かもしれません。
これでは、真の芸術は死に絶えるでしょう。
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余技のピアノ

先日、ある方からLINEを通じてYouTubeの動画が送られてきました。
モーツァルトのコンチェルトですが、ピアノは大屋根を外してステージの左隅におかれ、そこから指揮をしながらピアノを弾くという風変わりなことをプレトニョフがやっていました。

この人は、若い頃は新進気鋭のピアニストとして来日していて何度か聴いた事がありますが、それはもうすさまじいばかりのテクニシャンで、それが少しも嫌味でなく、ただあっけにとられたことばかりが記憶に残っています。
編曲もお得意のようで、当時から「くるみ割り人形」の数曲をソロ・ピアノ用に自身で編曲したものをプログラムに入れていたりしました。

当時はソ連時代の終わりの頃で、当時のソ連にはテクニシャンは掃いて捨てるほどいたと思われますが、その中でも若いプレトニョフのそれは頭一つ出ているといっていいもので、しかもロシア人としては細身の華奢な体つきにもかかわらず、ピアノに向かうや想像もつかないようなパワーが炸裂して、聴衆を圧倒していました。
これはうまくすれば、世界のトップクラスのピアニストの一人になる逸材かもしれない…とさえ思いましたが、いつごろからか指揮のほうに進みはじめ、ついにはロシア・ナショナルフィルというのを自ら作り、指揮者として率いていくことが本格化したようで、ピアニストはやめたのかと思っていました。

ロシア・ナショナルフィルはドイツ・グラモフォンから次々にCDが発売され、チャイコフスキーの交響曲などはなかなかよろしく、リリースされるたびにせっせと買い集めていたほどです。

すっかり指揮者に鞍替えしてしまったのかと思っていたら、やはりときどきはピアノも弾いているようでした。
しかし後年聴いた彼のピアノは、若い頃のそれとはすっかり変わっており、なにか自分なりの境地に到達したと言わんばかりのクセのあるものになってしまってあまり好みではなかったけれど、中にはブリュートナーを使ってのベートーヴェンのピアノ協奏曲のようなものがあったりで、楽器への興味からCDを購入したりはしていましたが、ピアニストとしてはかつてとはほとんど別人でした。

前置きが長くなりましたが、ピアニスト出身で指揮台にのぼるようになった人というのがときどきおられますが、これらにはある共通点を感じます。
まずピアニストとして名を馳せて、その次の段階として指揮者としてもそれなりに認められてくると、成功すればより大きな名声が得られるのかもしれないし、音楽的にもより幅広いものを経験していくのだろうとは思います。
それはそれで結構なことなのでしょうが、ピアニストとしての輝き自体は鈍るという代償は避けられません。

もともとピアノは十分以上に弾けるわけだから、ときどきはピアノも弾く、あるいは二足のわらじで両方のステージに立つ人がいますが、個人的にはこれらの人のピアノはどうもあまり好きにはなれないのです。
その一番の理由は、悲しいかなピアノが余技的になってしまって、演奏に気迫がないというか、鬼気迫る集中力というのがなく、どこか弛緩しています。

バレンボイム、アシュケナージ、エッシェンバッハなどもだいたい同じように感じます。
実際問題として、オーケストラの指揮台に立ち大勢の団員を束ねていくことは、それだけでも並大抵のことではない筈で、時間などどれだけあっても足りないことでしょう。
勢いピアニストだけでやっている人に比べたら、ピアノに向かう時間もエネルギーも大幅にカットされているのは間違いありません。
ピアニストというのはどんなに天才でも、端的に言えば「生涯を練習に費す」ようなものですが、それをやっていない結果がはっきりと演奏に出ており、昔の名声の余技として見せられても、真の演奏感動からは遠ざかったものになります。

どんなに才能豊かな人でも、世界の一流ピアニストの座に棲み続けることは、他の仕事と掛け持ちでできることではないし、そこで求められる妙技や魅力は、それ一筋に打ち込んでいる人の演奏からのみ、滴り落ちるように出てくるものであって、マルチな才能で維持できるものとは思えません。

コルトーはワーグナーの指揮をしたり、ポリーニも一時期指揮に色気を出してロッシーニのオペラをCDとしてリリースしたりしていますが、そちらが本業になることはついになかったのは、なんと幸いなことだったかと思います。
バーンスタインもサヴァリッシュも相当ピアノが弾けた人ですが、とはいえ専業ピアニストにはやっぱり叶いませんから、決してステージでは弾かなかったアバドなんて、却って立派だなぁ…と思ってしまいます。
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カテゴリー: 音楽 | タグ:

ブーニン−2

ブーニンの健康がよくない…というかすかな噂は耳にしていましたが、これほどとは思いませんでした。
この番組によれば身体の故障からピアノを弾くことが困難になるというピアニストとしてこれ以上ない不運に見まわれ、さらには遺伝的な糖尿病で左足の切断の必要まで迫られたのだそうで、大変おどろき深く胸が痛みました。

だれしも足の切断なんて耐え難い衝撃以外のなにものでもなく、ましてピアニストにとって、足はペダル操作には欠かせないもの。
夫人のすさまじい努力によって、ついにドイツでこの病の権威に行き当たり、切断せず足の骨を一部切除し、そこをつなげるという大術が行われ、からくも足の切断という最悪の事態を免れたとのこと。

かつての、まるで子供が喜々として遊ぶがごとくピアノを自在に操っていたあのブーニンが、知らぬ間にこのような悲劇に直面していたとは、ただもう驚くほかありませんでした。
番組は、そんな彼が最後のステージから9年ぶりに人前での演奏に挑むというもので、そこにいたる日々を追ったものでした。

曲目は子供の頃に弾いたという、シューマンの「色とりどりの作品」op.99。
ご本人も「左手が昔のように動かない」と仰っていたけれど、ピアノに向かっても、顔や雰囲気はまぎれもないブーニンであるのに、その演奏は信じられないばかりに心許なく、「色とりどりの作品」のシューマンらしい夢見るような第一曲だけでも正直ハラハラさせられました。

9年ぶりのコンサートは小さな会場である八ヶ岳高原音楽堂で行われ、その様子が一部流れましたが、見ているこちらまで言いようのない緊迫感が迫りました。

ブーニンの人生に欠くべからざる存在は長年彼を支える夫人で、ジャーナリストとしての自身の仕事を抱えながらというけれど、多くはブーニンを支えることがメインでしょうし、身のまわりのお世話から、味や盛り付けの美しさにまでこだわるブーニン好みの食事の準備まで、それはもう常人の域を超えた献身ぶりで、ただただ頭が下がりました。

ブーニンは見るところ、夫人を心から愛すエレガントでやさしい人のようですが、それでもやはり取り扱いの難しい天才肌であることも確かなようです。
古い日本の言葉でいうなら、これぞまさに「賢夫人」というべきでしょう。
そんな夫人をもってしても、八ヶ岳高原音楽堂での久々の演奏にあたっては、袖で見守りつつも目には涙がにじんで、寿命の縮まるような思いだったようで、それも当然だろうと思いました。

どうにかコンサートも終了し、これで終わりと思ったら、なんとその後、東京の昭和女子大人見記念講堂(昔はよくコンサートがあり、ホロヴィッツの2度めの来日公演もたしかここでは?)でコンサートが行われたようで、さらに来年は全国ツアー!?というのですから、これにはいささか耳を疑いました。

様々な苦難を乗り越えて、再びステージへ立つというのは立派なことだと思います。
しかし昨今のピアニストはますますテクニカルな面でレベルアップされており、そんな中どういう演奏をするというのか…。
そもそもブーニンというピアニスト自体が、音楽を通じて深く語りかけるというよりは、キレのいいテクニックや多少傲慢でも類まれな推進力で聴かせるタイプのピアニストだったので、よくわからなくなりました。

その一方で、今どきの日本の聴衆はコンサートに行って音楽や演奏がもたらす純粋な感銘を求める人はごく少数派で、大半は人気や経歴、話題性などに大きく左右され、さらに義経の判官贔屓ではないけれど、その背後にハンディや感動物語がくっついていることが大好きということに、近年とあるピアニストの登場いらい気付かされました。

全国ツアーが組まれる以上、今のブーニン氏ひとりの思いつきでできることではなく、きっとそれを支える背後の算段あってのことなんでしょう。
現代人の悪い癖で、疑い始めると、先日の番組もその前宣伝の意味合いもあったのでは?、すべては計算されたものだったのでは?という疑念が広がってしまい、ブーニン氏には申し訳ないことですが、それもあるような気がして完全否定ができません。

率直に言って、来年の全国ツアーにチケットを買っていく人たちが、もし健康に歳を重ねてきたブーニンだったら果たして行くのか?
この疑問はどうしても払拭できません。

むろんコンサートをやろうという人がいて、それに喜んでチケットを買って行く人が大勢いて、結果として収益が上がり興行が成り立つのなら、まわりがとやかくいうことではないかもしれませんが、どうしても悪趣味にしか思えないのです。
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ブーニン−1

つい先週のこと、NHKのBSで『それでも私はピアノを弾く〜』という現在のブーニンを扱った番組が放送されました。
1985年のショパン・コンクールの優勝者で、音楽ファンを超えて時の人にもなったスタニスラフ・ブーニン。

当時のコンクールには、大勢の日本人出場者が束になって参加し、スポーツでいうならさしずめ日本選手団のようで、その団長のように目されたのが故園田高弘氏でした。
このときはNHKのカメラも(おそらく初めて)密着し、楽器の分野でも日本のヤマハとカワイが公式ピアノとして採用されたのもこの年からで、1985年というのは日本にとって大きな節目にもなった年だといえそうです。
現地でブーニンの鮮烈な演奏を目の当たりにした園田氏はいたく感銘されたご様子で、ブーニンを「100年に一人出るか出ないかの逸材」だと、最大級の賞賛を述べられ、実際に会場でも抜きん出た実力と存在感で、圧倒的な人気とともに栄冠を勝ち得たようでした。

NHKの番組が園田氏のコメントとともに放映されるや、日本での人気はウナギ登りとなり、その後来日した際は大フィーバーが巻き起こり、チケットは即完売、ついには国技館でコンサートをするなどブーニン・フィーバーとなって、クラシックのコンサートとしては前代未聞の熱狂が列島を駆け巡りました。
しかしそれは、あくまで一時的なもので、長続きはしなかったようです。

ブーニンはその後、ドイツに亡命、日本人女性と結婚し、それなりの演奏活動はしていたようですが、世界の第一線をキープし続けるにはもうひとつ磨き込みの足りないものがあるのは確かで、人気は次第に下降。
折しも、ソ連からはキーシン、レーピン、ヴェンゲーロフといった、ブーニンより一世代下の超弩級の天才少年達が現れて、その陰に隠れたという不運も重なったように思います。

私も二度ほどブーニンのリサイタルに行きましたが、この人ならではの魅力があることは認めるものの、全体としてはやや独りよがりの、さほど練りこまれてるとは思えない直感に任せたイメージが強く、心から感銘を得るといったものとは少し違うピアニストという印象をもちました。よく言えば従来のルールを破ったロックスターのような奔放さ、悪く言えば勝手放題とも受け取れる演奏は、安定した人気が長続きするには至らなかったようです。

とくに2度めは、わざわざファツィオリのF308を持ち回ってのコンサートでしたが、そこまでのこだわりが伝わってくる演奏とは感じられず、いろんな疑問が残ったのも事実です。
やがてブーニンはヨーロッパではさほどの評価は得られなくなり、ついには「日本限定のピアニスト」といった風説まで流れたほどで、彼の築いた輝かしいキャリアや天賦の才、スター性を考えると、もうすこし違った道はなかったのか?と思うばかり。

ただ、なんともエレガントな貴族的なステージマナーであったことは印象に残っています。
彼は偉大なピアニストを輩出するロシアで、父は有名なスタニスラフ・ネイガウス、祖父に至ってはロシアンピアニズムの祖のひとりであるゲインリヒ・ネイガウスで、いわばロシアピアノ界の血統を受け継ぐプリンスでもあり、そのような自負があの高貴なふるまいにつながっていたのかもしれません。

当時購入したCDした中には、ショパンコンクールの決勝でのコンチェルトとは別に、コンクールの翌年に日本でN響と共演したライブ(ショパンの1番)もあったけれど、コンクールから解き放たれてこれ以上ないほど奔放な演奏となり、突っ込みどころも満載でしょうが、最近の優等生だらけの演奏に比べて、なんと爽快で面白い時代だったかと思います。

指揮の外山雄三氏が、細かい言葉は忘れましたが意味としては「全体として賛同はできないが、しかし、ときどきハッとするような美しさが聞こてくる」といったのが、良くも悪くもブーニンというピアニストの真実であり魅力だろうと思います。
今回、数十年ぶりで聴いてみましたが、いやはや凄まじいものであったし、どこまでもテクニックと感覚が中心ではあっても、それは決して力づくの大技ではなく、常に繊細さが支配しているところに独特の魅力があるのだと思いました。

こんな奔放ずくめのブーニンが伝統的なショパンコンクールに優勝したということは、前回の1980年に巻き起こった有名なポゴレリチ事件での反動もあったのでは?…と勘ぐりたくなるような気もしますが、どうなんでしょうね。
楽譜に忠実なショパニストを選び出すという伝統的な規範に従うだけでは、やがてコンクールそのものが行き詰まるという考え方が前回のスキャンダルから引きずられ、5年後にブーニンのような異端の優勝者を産み落としたのかも。
これはあくまで個人的な憶測にすぎませんが。

あのころのブーニンの演奏を聴いていると、今の若いピアニストはあまりに不正直で、本音を偽り、コンクールに受かりたいがために冒険心も反抗心も、研ぎ澄まされた感性も、なにもかもを失って、出世街道まっしぐらのレースに挑んでいるように思います…。
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ヘンな話

前出の文章を書いたのは実をいうと一年ほど前で、そのまま放置していたものでしたが、そのピアノのことがTVニュースで採り上げられたのです。

私の原体験となった福岡市民会館のスタインウェイが修復されるということで地元TVのニュースに出てきたと教えられ、そのことにまず大変驚きました。

先にも書いたように、時代とともに新しいホールが数か所作られたことで、クラシックのコンサートはほとんどそちらへ移行してしまい、市民会館でピアノを聴くということは(少なくとも私にとっては)皆無となり、もう何十年と行く機会もなくなりました。
昔は、オーケストラからバレエ公演、ピアノリサイタルまで、ほとんど市民会館だったので、ピアノといえば必ずといっていいほどこのスタインウェイでした。

個人的にあまりにも印象の深いピアノだったので、ときおりあのピアノは今はどうなったんだろう…と思うことはありましたが、おそらくは買い換えられ、もはや消息不明なんだろうと思っていました。

ありがたいもので、現在は見逃したニュースもネットで追いかけることができるので、その報道内容もわかりましたが、そのピアノは1963年製のDで、市民会館のピアノとして多くの巨匠たちによって演奏され、フレームには40人弱ものサインがぎっしり書き込まれていたことは今回はじめて知り、ニュース映像からもルビンシュタイン、ギレリス、アラウ、ケンプなどのサインが確認できました。

関係者の証言によると、1980年代に近くにできた別の施設に移され、長らくオーケストラの練習用ピアノなどとして使われていたものの、老朽化のため2007年以降は倉庫に保管されていたとのこと。
多くのサインがあったからだろうと思われますが、歴史的価値をもつピアノとして修復されることになったというのがニュースとして採り上げられたようです。
今後一年ほどかけて修復され、来秋にはお披露目コンサート、その後は福岡市美術館に収蔵されて定期的に使用されるとのこと。

無慈悲に廃棄されることもあると考えれば、修復されて生きながらえることができるというところまではまことに結構なお話ですが、その費用を聞いて思わず背筋に寒いものが走りました。
なんと1800万円!という強烈なもので、何かの間違いでは?と思いました。
これをクラウドファンディングや企業からの支援を募って賄うのだとか…。
しかも、そういう意味合いなら修復作業は地元でやるべきでは?と思いますが、ピアノはすでに埼玉へと運ばれているとのこと、もうなにがなんだかわかりません。

そこで知り合いの技術者さん(関東の方)に聞いてみると、その手のピアノの修復費用は(おかしなことだけれども)そのピアノの新品価格から算出されることになっているのだそうで、具体的にどこをどう修理したからという、個別の作業を積み上げて算出されるものではないのだとか。
これはあんまりではないか!と思いましたが、とにかく業界ではそういうことになっているのだそうで、そんな慣習がまかり通るとは二度びっくりでした。
日本よりもよほどピアノの修復をやっているはずの欧米ではどうなのか、そのあたりの事情はわからないけれど、どう考えてもこんなやり方が通用するのは日本だけではないか?という気もしてきます。

今回は、歴史的なピアノを修復することに意味があるわけですが、普通なら1800万といえば、すばらしい状態の同型の中古が買えるわけで、バランス的に見ても納得がいきません。
納得がいかないといえば、なんで埼玉なのかもわからず、その関東在住の技術者の方も、埼玉でとくに思い当たるところは無いとのこと、ますます不思議です。

個人的なイメージでは、どんなに徹底的に修理をしたとしても、せいぜい1/3程度じゃないかと思うんですが…。
このTVニュース動画は時間経過により、すでに視聴できなくなっていましたが、7月29日付けのNHK NEWS WEBには現在も1800万円という数字付きでこのニュースを確認することができます。

というわけで、なんだか素直に喜べない、スッキリしない話でした。
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原体験

ピアノの音も時代とともに少しずつ変化するものと感じつつ、そもそも自分が理想とするピアノの音の原体験は何だったかと考えてみることがありますが、まず自宅にあったピアノでないことだけは確かです。
…どころか、幼いころから自宅にあったヤマハのG2は中学になるぐらいまで弾いたのに、なにひとつ懐かしさもないし、鍵盤蓋のやけに大きなロゴ(現在のものとは違います)が見るたびに気に触っていたこと以外、ほとんど思い出すことさえできません。

むしろ、とくにこれという基準もないくせに、生意気にもこのピアノの音は「好きじゃない」とずっと思っていて、子供って物事を直感的に捉えるんだなあとつい笑ってしまいます。

可能性としては、自宅で親がレコードをかけていた巨匠達の音も知らず知らずに耳に入っていたかもしれませんが、とはいえ、そのときはまだ楽器としてのピアノを意識するには至っていません。

実物の生のピアノの音で、あまりにも自宅のそれとはかけ離れた異次元のスタインウェイに衝撃を受け、魅了され、畏れおののくようになったのは、小学生に上がったころからちょくちょくコンサートに行くようになり、その大半は、客席からしばしば耳にすることになる福岡市民会館のピアノでした。
1970年代、高度成長や大阪万博という時代もあってか、今では信じられないような巨匠たちがこの舞台に登場し、心に残るコンサート体験をすることができた佳き時代でした。

ソロリサイタルはもちろん、オーケストラとの共演でも、ピアノといえば決まってこのスタインウェイが使われました。
ダブルキャスターどころかピアノ用の台車もない時代、幾人ものスタッフ達によって力づくで押し出されてステージ中央に据え付けられ、コンサートマスターが中央のAを出すだけでも、その音は甘い蜜のような響きがあって、そのたびにドキッ!としていたのを覚えています。
自宅にあるのがピアノなら、これはもうピアノとは思えないような異次元の世界で、この時代の一連の体験が私の中でスタインウェイサウンドに対する強烈なイメージの基礎を作ったのは疑いの余地はありません。

ネットで調べてみると福岡市民会館は1963年の開館とあるので、竣工時に納められたピアノだったのだろうと思いますが、当時は主だったコンサートの多くがこの市民会館でおこなわれ、今から思うと信じられないようなビッグネームがステージに現れ、そのつどこのピアノの音に接し、いつのまにかマロニエ君にとってのスタインウェイとしての基準となっていったように思われます。
ほかにも数カ所スタインウェイのあるホールはあるにはあったけれど、これぞというコンサートは圧倒的に市民会館が多く、それ以外の印象は不思議なほどありません。

今と違って、管理も万全とは思えないし、ボディの角など傷だらけ、弾きこまれて音もかなり派手目のものにはなっていたけれど、まるで名工の手になる日本刀のような、妖しい輝きに満ちた音が底のほうから鳴ってくる様は、いま聞いたらどう感じるかわからないけれど、当時は完全にノックアウトされていました。
とりわけ低音には底知れぬ深さがあり、ラフマニノフのコンチェルトの第2番第2楽章のカデンツァにある最低音などは、まさに中世の鐘を打ったごとくの轟音が鳴り響き、これは現代のスタインウェイでもゴンという感じでしかないことを思うと、やはり昔のピアノは、材料やフレームの製法などの重要な部分がずいぶん違っていたのだろうと思われます。

クライバーンやリヒテル、マリア・カラス、あるいは殷誠忠というテクニシャンのソロでピアノ協奏曲「黄河」という、なんとも不気味な中国作品を初めて耳にしたのも、数多くのロシアバレエ公演に接したのも、この市民会館でした。
時が流れ、より贅を凝らしたホールが次々登場することによって、市民会館でのクラシックのコンサートはすっかりなくなりましたが、60年代前半に建てられた残響など大して考慮にもなかったであろう多目的ホールだったにもかかわらず、ここのスタインウェイはまさに極上の音を鳴り響かせ聴衆を魅了していたわけです。

後年、大阪のシンフォニーホールの登場あたりから、各地に音楽専用ホールというのが作られるようになり、その初期のものは残響という名の下に、中にはただ音が暴れまわるだけの響きとなっているものもあったりで、それに比べれば多少デッドでも、クリアに音が聞こえるよくできた多目的ホールのほうが、個人的にはよほど好ましく思います。
とくにピアノでは。

市民会館は、もう長いこと行っていないので確かではないけれども、多目的ホールの中ではそれほど音質が悪い記憶もなく、数々の名演とそこにあったスタインウェイのリッチでパワフルな美しいトーンを耳にできた経験は、いまも心の奥深いところに残っています。

私は子供のころ、本物の巨匠の実演に触れることのできた佳き時代に、ぎりぎり間に合うよう生まれることができたのは幸運だったと思います。
今のように誰もかれもがむやみにステージに立てるような時代ではなく、コンサートといえば必然的に一流もしくは超一流のアーティストが当たり前だった時代というのは、いま考えればなんとありがたいことだったか!と思います。
何度も行った安川加寿子さんの演奏など、ことさら有り難みも感じないまま聴いていたのは、いま思うとなんというもったいないことをしたか!と思いますが、ともかくそんな時代だったんですね。

ポリーニやアルゲリッチの初来日では、当時はまた知名度もさほどではなく、市民会館より遥かに小さい明治生命ホールだったのですから隔世の感があります。
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天空の村のピアノ

NHKのBS1で『天空の村のピアノ』という2018年イギリス制作のドキュメント番組があり(再放送だったようですが)録画していたのを
見てみました。
ロンドンのピアノ店の店主にして調律師のデズモンド氏は、あるお客さんからヒマラヤ山中の学校にピアノを届けたいが運べるかという相談をもちかけられます。通常ならそんな途方もない運搬を個人レベルでそれをやろうなんてあり得ないでしょう。
ところが、それを自身の人生の最後の大仕事と感じたのか、熟慮の末に引き受ける決断を下して、その道中たるや想像を絶するほど過酷を極め、ついには成し遂げるまでの密着映像でした。

ロンドンからなんと8000km、標高は富士山より高い4000m、車が行けるのははるか手前までで、そこから先はヤクという牛のような動物に背負わせて運ぶというのが当初の計画だったようです。
持っていくピアノは、さすがはロンドンというべきか、ジョン・ブロードウッドのさほど大きくないアップライトで、まずは事前の入念な整備がなされ、それを現地の麓へ送ったあとは、山岳路を運びやすいよう、青空の下でなんとバラバラに解体し、弦もすべて緩められて、パーツごとの運搬にして個々の負担を減らし、到着後に再び組み立てるという方法が採られます。

それでもピアノはピアノ、そんなに大きなモデルではなかったけれど、フレームだけでも50kg以上あるらしく、いずれにしろこの峻険な山々を踏破するには、並大抵の荷物でないことには変わりありません。

これから進むべきヒマラヤの景色たるや、神の領域であるかのような壮大かつ桁違いのスケールで、その果てしない威容は人間にとっては無慈悲の象徴のようにも見え、神々しいのか悪魔的なのかわからなくなるようなもの。
まるで異星の景色でも見せられるようで、遥か高くに峻険な稜線が幾重にも連なり、およそ日本人なんぞには馴染みのない、地球上にこんなところがあるのか…というような気の遠くなるような光景でした。
目指す場所は、あの峰のその向こうの向こう…みたいな感じで、そこまで自分の足で行くだけでも想像外で、ましてピアノを運ぶなんて命の危険すら感じます。

一定のところまで車で行くと、その先に道路はなく、おまけに頼みの運搬役のはずだったヤクというちょっと牛のような動物は想像よりもずっと小型だったようで、分解したといってもとうていピアノを背負わせられるような動物じゃないことがわかり、デズモンドはこの方法による運搬を即座に断念。
かくなる上は気の遠くなるような彼方の目的地まで、現地スタッフを交えた人力によって運搬するしかないという展開。

ロンドンから同行した人が数人と、現地の協力者が10人ぐらいはいたかどうか。
普通なら、この状況を見た瞬間に諦めて帰ってくるところでしょうが、番組のカメラが入っているからか、当人たちの意志に峻烈なものがあったからかは知りませんが、とにかく人の手足で一歩一歩この途方もない道程を、分解したピアノを担いて行くことになります。

途中の運搬の様子は見ているだけでも苦しくなり、フレームは数人がかりで担いて、ときに山の斜面を滑り降りるようになったり、それはもう映像を見ているだけでヘトヘトになるようでした。

目指すリシェ村に到着したのは徒歩による出発から7〜8日目のこと。
この山間の小さな村の人々からは大歓迎を受け、ピアノが来たことで子どもたちが無邪気に喜び踊る脇の建物で、翌日から組立作業が始まり、2日後にピアノの形になりました。
大人や子どもたちが見守る中、組み上がったピアノをデズモンド氏は音を出し、リストの「ため息」の一節を弾いていましたが、はっきりいってため息どころではない、凄まじい地獄のミッションでした。
大人も子供もピアノを初めて見るという人も多く、この一台がこれからどれだけの役割を果すのか、はかりしれないものがあるのでしょう。

私だったら、費用を募って、ペリコプターでガーッと一気に運んだら…というような身も蓋もない発想しかありませんが、そうではないところに人間のドラマが生まれるんでしょう。
実際、デズモンド氏はじめ多くの協力者、村の人々や子どもたちなど、この一台のピアノをめぐって計り知れない交流が芽生え、人生の一ページに深く刻まれたことは想像に難くありません。

計画から1年、実行に1ヶ月かかるという大変なプロジェクトで、学校内のピアノが置かれた建物は「サー・デズモンド音楽堂」と名づけられました。
デズモンド氏は届けることで終わりではなく、なんと、亡くなる2018年まで毎年調律に訪れたんだそうです。

ひとりの女性が言っていましたが、この地の人たちの生活にはお金もあまり必要なく、みな心がきれいで純粋で、互いに仲良く生活をしているが、将来に向けて道路建設も始まっているらしく、いつの日かそれが完成すればさまざまなものが流入し、そうしたら村の人の心も変わってしまうだろう、それが心配…と言っていたのが印象に残りました。
…たしかにそうだろうと思います。
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『楢山節考』

WAGNER PIANOを囲んで集まったとき、あれこれの雑談の中で所有者のベテラン技術者さんが仰るには、かつて志しの高い日本の製作者たちが作り上げた銘器というのは、昔はそこそこあったものの、大手に比べて品質ではなく知名度やブランド力が劣るせいで「売れないガラクタ」に分類され、廃棄という憂き目にあう悲劇的なピアノも少なくなかったという話をされていました。

購入を決める際に、ブランド性が一定の効力を発揮するというのは一応はわかるけれど、ピアノの場合はあまりにもそれが極端で、買い手のほとんどは音や響きの判断基準が未熟であるため(わからないから)、日本の流通市場では大手の大量生産のピアノが「信頼に足る標準品」として信頼感まで独占し、その他は楽器としての真価を確かめることもないまま姿を消していったピアノが少なくないことは、なんとも残念無念な話です。
さらには日本人固有の「横並び精神」もそれに拍車をかけていることでしょう。
「関係者のオススメ」を鵜呑みにし、「人と同じもの」「評価の定まった定番」を買っておけば安心という民族性。

さらには、ピアノも消耗品として家電製品のように買い換えるのが理想という価値観。
丁寧な修復を受け、売買の対象として色褪せることなく100年でも使われ続けるには、スタインウェイやベーゼンドルファー級のブランド力がなければ、打ち捨てられる運命であるようです。

そんな無知が招いた残酷な話は昔のことかと思っていたら、ごく最近ネットを見ていると、某所で美しい音で弾く者/聴く者を魅了していた大変貴重なピアノが、なんと廃棄処分されたという事実を知るに至って、驚倒しました。
どうやらピン板の傷みがあったようで、それが廃棄の理由のようでした。

そのピアノは日本のピアノ史に残る高名な設計者による逸品で、私も何度か触れさせていただいたことがありましたが、甘く美しい音が印象的で、おまけにコンサートで使用されても充分に耐えうるだけの底力も持ち合わせていた、所有者にとっても自慢のピアノで非売品でした。
ピン板の傷みというのは確かに深刻なことですが、それで廃棄という最悪の決断が下されたのは貴重なピアノなだけに、いささか極端すぎやしないかと非常にショックでした。

そもそも、日本では弦やハンマーは交換しても、ピン板を交換するという習慣がほとんどないのかもしれません。
これは、日本の大多数のピアノは大量生産品であるため、修理して長く使うより新しい物に買い換えることが正いとされ、ましてフレームの下にあるピン板は交換不可のように言われていた時期もありました。
本当にそうなのかどうかは、素人の私にはわかりません。
しかし欧米では、ピアノリペアの際、ピン板交換はごく普通に行われることで特別なことではないようですから、日本だけの特別事情なのかもしれません。

海外ではピン板交換は必要に応じて行われる作業の一つにすぎず、リペア用の新しいピン板がごく普通に売られているのだそうで、技術者はそれをピアノごとの形状に合わせてカットし、適切な位置に穴を開けて新しいピンを打ち込んで弦を張っていくようです。
ヨーロッパのピアノリペアを数多く手掛ける工房で、私もそのリペア用のピン板を見せてもらったことがありますが、何層にも重ねられた分厚い板で、フレームまで外す修理なら、もうひと手間という感じでした。

廃棄の結論に至ったのは、リペア用のピン板がたやすく手に入る情報がなかったのかもしれないし、あるいは別の事情によるものかもしれず、正確なことは知る由もありません。
やむを得ぬ事情があってのこととは思いたいけれど、ピアノを長く使うための技術を生業とする方が、なんというむごいことをされるのかと思ったし、あまつさえその様子をわざわざネット上で公開するという神経はとても理解が及びません。

そこに至った事情や判断は、他人が詮索することではないとしても、ただひとつ間違いないことは、歴史的価値もあり、魅力的な音を奏でていた貴重な素晴らしいピアノが、他でもない持ち主の手によって死刑執行されたという厳然たる事実で、この記事を目にしたときは本当にショックで身体が震えるようでした。

ピアノは電動ノコで解体され、ビニール袋に入れられた写真の衝撃は当分おさまりそうもありません。
それならリペアをする方にあげても良かったのでは?と思うのですが。
いずれにしろ、日本のピアノ史の一台である文化遺産ともいうべきピアノをこのように処分してしまうということは、ほんとうに驚きであり衝撃でした。

この残酷な事実を知ってとっさに思い出したのは、深沢七郎の『楢山節考』でした。
むかしとある山間の貧村では、食い扶持を減らすため、親が老いて働けなくなると子が背負って山の奥深くに、自分の親を生きながら捨てに行くという、身の毛もよだつ風習を描いた小説です(読む気もしません)。
もちろん、老いたのは親ではなく、ピアノですけれど。
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ヘンな映画

『グランドピアノ 狙われた黒鍵』という奇妙な映画を見ました。
いや、正直にいうなら、早送り多用でおよそ見たといえるような見方ではありませんでしたが。

2013年スペイン製作の映画のようですが、主人公のピアニストは恩師と自分しか弾けないという難曲をかつて失敗し、それから5年ぶりにステージに復帰して再挑戦するというものですが、演奏開始後、楽譜をめくるとそこには赤の太字で脅迫の様々な指示が書かれていたり、曲の途中でピアニストがなんども中座して舞台裏に行ったり、一音でも間違えたら殺すと脅迫されたり、どの場面ひとつとっても実際にあり得いないようなアニメ顔負けのシーンの連続。
実際の演奏会では絶対にあり得ないことで、いかに映画だからといって、許容範囲というのはあるはず。

映画は映画であり、娯楽でファンタジーとはいえ、あまりにも現実離れした連続となると、そのせいで映画としての面白さや魅力も失い、映画として割り切って楽しむ気力さえもなくなります。
これがコメディかなにかならまだしも、一応はおふざけではないサスペンス映画という立て付けになっているわけで、製作者は映画として真面目に作ったのかさえも疑いました。

映画の面白さというのは、きちんとしたリアルな土台の上に、映画ならではの筋書きなどのあれこれが織り込まれ展開されるものでなくては成立しないはずです。

使われたピアノは師の遺品という、ベーゼンドルファーのインペリアルでこれは本物でしたが、演奏至難という曲も、オーケストラ付きの奇妙な曲だし、ステージはすり鉢状にオーケストラが着座し、その奥の一番上の高いところにピアノが置かれているという、とにかくすべてがいかに音楽やコンサートというものを知らない人達が好き勝手に作ったものであるかがわかります。

最近は、海外ドラマでもそのあたりの考証はかなり正確になっており、装置から小物ひとつまでこだわって高いクオリティで作られるご時世に、こんなものもあるのか…と驚きました。

大詰めはまだオーケストラも観客もいるというのに、ピアニストは天井裏でスナイパー?との格闘となり、そのあげく落ちてきた人間がピアノを直撃、哀れ破壊されて床に埋もれてしまいます。
ただし、そのシーンはインペリアルではなく、大屋根の形が明らかに異なる、別のピアノもしくは模型か何か?に置き換えられていましたが。

最後は演奏不能なまでに傷ついたとするベーゼンドルファーの鍵盤が映し出されて、主人公が弾いてみようとするシーンがありますが、このときはなんとアップライトになっており、これほど雑な作りの映画がいまどきあるのか?という点で首をひねったり苦笑いの連続でした。

冒頭に書いた通り、あまりのバカバカしさに倍速で流しただけで、実はストーリーもろくにわからずじまいでしたが、正直わかりたいとも思いません。
ひとつだけ注目すべき事があるとしたら、(ここだけはネットで名前を調べましたが)ピアニスト役で主人公のイライジャ・ウッドという俳優ですが、この人はよくあるピアノを弾いているフリではなく、結構ピアノが弾ける人のように見受けられました。
演奏姿勢から指の動きまで、弾ける人とそうでない人は、根本的にまったく違いますから。

もし本当に弾けるのなら、タイロン・パワーの『愛情物語』ではないけれど、もう少しそれを活かした見応えのあるものに出てほしいものです。
たしかあれは、実際の演奏はカーメン・キャバレロだったと思いますが、やはり弾ける人の姿は違いますから。
『マチネの終わりに』でも、もし福山雅治がギターを弾けない人だったら、いかにモテ男でもずいぶん違ったものになっていたでしょう。

とはいえ、この映画はおもしろかったわけでもなく、不愉快というのとも違い、やはり「ヘンな映画だった」というしかない、不思議な後味しか残りませんでした。
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WAGNERの一夜

我が家で1年近く弾かせていただいたWAGNER PIANOは、次の場所(某音楽サロン)に移ってはや数ヶ月、そこのオーナーの方の心を鷲掴みにしているようです。
大げさではなくこのピアノとの出会ったことを「人生が変わった!」と真顔で語られるほど。

音楽に関わることは続けておられましたが、聞けばもう長いことご自身でピアノに向かうことからは遠ざかられていました。
その理由はくわしく知りませんが、WAGNERが来てからというもの、人が変わったように毎日のようにピアノに向かわれているらしく、本物の楽器というのはそういう力があることをストレートに感じさせられます。

先週のこと。
そのサロンに、所有者である技術者さんと、サロンオーナー、さらにはWAGNER PIANOの第一発見者である某氏と、私の4人で食事をしつつ楽しい宴席が設けられました。

夕方のスタートでしたが、あっという間に深夜になるほど、瞬く間に時が過ぎていきました。
WAGNER PIANOがなければ、まず同席することはなかったであろうこの4人は、縁結びであるWAGNERを背に、さまざまな話に興じました。
食事やおしゃべりが楽しかったのはもちろんですが、なにより強烈な印象として残るのは、やはりこのピアノの類まれな素晴らしさに触れて、もう十分にわかっているつもりのはずだったのに、またもその新鮮な魅力に圧倒されました。

やわらかな響き、立体的に立ちのぼる馥郁たる音が、何の無理も苦労もなく、音の強弱にかかわらず、豊かな陽光のように部屋中を包みます。
さらに、以前にも書きましたが、部屋のどこにいても同じ音量で聴こえてくるばかりか、すこし離れたほうがより美しく鳴ってくるあたりは、ただもう驚くしかありません。

こんなピアノは、少なくとも日本製に限定するなら、どこを探してもまずないだろうと思います。
素晴らしいピアノの条件とは、卓越した設計、最良の材料、熟練の技、コスト度外視の作り手の志など、いくつもの条件がバランスよく整う必要がありますが、それだけなら昔のピアノ作りはそういう好条件を満たしたものは、今とは違いそれほど難しいことではなかったようにも思われますが、では同時代に入念に作れられたピアノがどれも素晴らしいのかといえば、さすがにそれはないだろうと思います。
おそらくWAGNERの素晴らしさには、つくり手さえ予期しなかった何か…、ある種の偶然も味方しているのでは?と思うほど、格別なものがあるように思います。
その格別さがどんなものであるかを文章にできたらいいのですが、なかなかそのような文才もないのがもどかしいばかりです。

本などを読んでいると思い起こされるのは、昔のピアノは今のように甘さやブリリアントな味付けはされず、線の太い力強さがあり、ありのままの素朴で正直なピアノの音をもっているようです。
とくに戦前のピアノにはそういう傾向があったように思います。

変な味付けがないぶん、音色や表現についてはもっぱら演奏者に委ねられており、だからこそ弾く者の想像力やアイデアを要求させるのだと思います。
そういう意味では、現代のピアノは基本的な音にすでに色や味がつけらており、それが演奏の可能性をある程度規定してしまうようでもあるし、音色変化に対する感覚が鍛えられないのでは?という一抹の不安も感じます。

ここにはもう一台ヤマハの古いG3があるのですが、そのピアノとのあまりの違いには…おののくしかありませんでした。

私は正直にいうと、プロ/アマを問わず、自分のセンスに合わない演奏をあまり長時間聴かされるのは、おそらく普通の人の何倍も苦手だと思います。それは同意できない弾き方もあるけれど、音もよくある一般的なピアノの場合、化学調味料まみれのようなウソっぽい音が神経に障ってストレスとなり疲れるのです。

ところがWAGNERの音や響きは、まったくその逆で、その音に身を委ねている時間が喜びであり、少しでも長く聴いていたような気になります。
音の出方も、ピアノからこちらへ向かって矢が飛んで来るようなものではなく、そこらの空気が瞬時に音に変わってしまうようで、そういう状態に自分自身が体ごと包まれていることが、えも言われぬ快感なのです。
所有者である技術者さんが「できるだけたくさんの方にこの音を聴いて欲しい」といわれるのは、あらためて納得です。

やわらかいふくよかな音というと、こじんまりした小さな音であったり、輪郭のないぼやけた音であったり、激しい曲に向かない小粒なピアノといったような、おとなしいピアノだと思っている方は少なく無いのではと思いますが、そういうイメージがいかに誤りであるかがWAGNERを聴いたらいっぺんでわかるでしょう。
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煽り報道

3連休をそっくり奪うように、台風14号が通過していきました。
ところで、この台風をはじめとする、最近のお天気報道には少し違和感を感じませんか?

「観測史上最大級の…」
「数十年に一度、あるかどうかの…」
「これまでに経験したことのないような規模の…」
「いのちを守る行動を…」

こんな仰々しい、本来ならめったに聞くはずのない言葉を、どうかすると毎週聞かされているような気がします。
それなりの被害の爪あとも散見され、備えや安全意識の大切さが大事なことはいうまでもありませんが、いささか言葉の大安売り気味で、個人的には適切な表現とは思えないことがしばしばです。

先週のはじめ頃、前の台風が過ぎ去ったばかりというタイミングで14号が発生とのこと。
同時にこの3連休に上陸の可能性が告げられ、いらい毎日その報道が続き、土曜あたりからその報道も一段とトーンが上がり、前日にはデパートはじめ各種店舗類はもちろん、スーパーやコンビニなど生活にかかわるものまで、福岡市では18日はほとんどが店を閉じ、公共交通機関も止まり、各種イベントも軒並み中止です。
ひとつだけ、大物ミュージシャンが、ファンも自己責任でといいながらコンサートを決行したようですが。

いつも違和感を感じるのは、安全の名のもと、実体に比してあまりに過剰な注意喚起を展開して大衆を煽ることで、却ってそれに慣れてしまい、『オオカミ少年』ではないけれど、災害予報に対して割り引いて聞くクセがつくのでは?という懸念さえ生じます。
公共の電波で「いのちを守る行動を…」などという言葉を使うには、もう少し厳粛なものがあるんじゃないかと思いますが、あまりに乱発されすぎの印象を拭えません。

もしものことがあったら叩かれるという、関係者の責任回避の意識が働いてそうなっているのか?
それが気象庁か報道機関かその他なのかは知らないけれど、互いに連携し、もっぱらアリバイ作りのための報道に我々が振り回されているようにしか見えないのです。

「自分の身を守る行動をとってください」
これも近年よく聞くフレーズですが、それを発している報道機関のその発言そのものが、その行動では?というようにダブって見えてしまい、いつもすっきりしない気分になります。

交通法規には「煽り運転」には罰則が設けられていますが、「煽り報道」にはなんのお咎めもないようです。
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イタリアのBECHSTEIN-4

予想通りというべきか、思いがけなくというべきか、やはり一台目のBECHSTEINはとにかくいい感じでした。
このぶんなら、これに決定するだろうと思っていたのですが…。

思わぬところから、難しい問題が起きました。
購入後のメンテを依頼する目的で、たまたま目にしたというローマ市内のピアノ店にご夫妻お揃いで行かれたところ、「古いものは(とくにグランドは)修理などが大変である」「ねずみの死骸があったりする」「音程が低くて思うように弾けないかも」「遠方からでは運送費用や事故の危険もある」などとさんざんマイナスな話を浴びせられたあげく、ドイツピアノが好きならということで、そのショップにあるペトロフを勧めてきたんだとか。

それですっかり意気消沈されたようで、とくにご主人は古いピアノへ懐疑心が高まったようです。
とくにこういう話は、理屈に弱い男性脳のほうが打撃を受けるものでしょう。
たしかに、ピアノは専門性の高いものだから、技術のプロから具体的にあれこれと否定的な要素を並べられたら、大半の人は反論もできず、相手側の一方的な話の独壇場になる。
ほんの僅かなことでも、さも一大事のように大げさに、専門家が豊富な現場経験として言うのですから、この状況になると為す術はなく、心はボコボコにされていまします。

しかし、私にいわせれば、肝心なことは購入時の見立てであって、そんな話をさほど真に受ける必要はないと経験的に思うし、昨年は立て続けに私の身近で3台もの古いピアノ(業界的にはガラクタとされるものも含む)を買ったにもかかわらず、入念な整備によってどの一台も問題なく、新し目の量産ピアノには到底望み得ない芳しい音で弾き手を魅了しています。

この手のショップは(日本でもそうですが)考え得る最悪のケースを想定してバンバン不安感を煽ってくるので、それを聞かされた側は大半は諦めてしまうというパターンです。
もちろんそれらが全て嘘だと言うつもりはありませんが、それは本当いひどい状態の場合であって、それを可能性として尤もらしく迫って来られると、不安にかられて自分が考えていたことは間違いだったようだ…という気になります。

おまけに、それは本当に購入者の為を思ってというより、あれこれのリスクを並べ立てて脅しておいて、ちゃっかり自分の店から買わせたいだけのことで、商売優先の言い草だと心得るべきでしょう。むろん相手も商売ですから、それが罪とも間違ともいえませんが。
ただ同じピアノが、もしも自分の店の在庫としてあったなら、チョチョッと手を入れて、クリーニングなど見栄えを良くして、数倍の値段で売りつけることでしょう。

しかも、そこへペトロフを勧めてくるあたり、お客側にしてみればいい迷惑で、それがたまたま気に入ればいいけれど、ショップの言うことを信じたばかりに、望まないピアノを買う羽目になり、それを毎日弾くストレスともなれば取り返しがつきません。

それにしてもドイツピアノが好きならペトロフは?なんて話、初めて聞きました。
ペトロフは私に言わせると、完全にスラブ系のピアノで、ドイツ系とは似て非なるもの。
要するに、ショップにしてみれば今にもピアノを買いそうなお客が来て、他で買おうとしているのだから、そうはさせじと専門家の助言として言葉巧みに誘導し、自分のショップの在庫を買わせたい…それだけでしょう。

これは日本でもそうですが、だいたい、何でも危険だといい、悪い事例をすべてのように言い立てて、必要以上に慎重さをアピールしてくる店に限って、そこにあるピアノはどれほどかと思いきや、私に言わせれば別段どうということもない、平々凡々としたもので、ようはありきたりなピアノをコストをのかからない範囲でササッと整備して、外観などを磨き上げた程度で、口ほどのもんじゃありませんけどね、ハッキリ言って。
「なるほど、これは素晴らしい」と思うピアノを置いているのは、ごくごく一握りにすぎません。

今にして思えば、甘かったと思うのは、そのご夫妻はショップに行くにあたり、お目当てのピアノの写真や音源を持って行かれたそうですが、向こうは一台でも自分の在庫をさばきたいわけですから、そんな話を持ってこられて「ほうほう、それは素晴らしい!ぜひお買いなさい!あとはうちに任せて!」なんて言うはずが無いですからね。
そこはもっとシビアに考えて止めるべきだったと反省しました。

この一件で、いったん足踏み状態になり、私もこれはダメかな?とも思ったのですが、旦那さんの説得にも成功されて、ついに購入を決断されたというメールが届きました。
すでに所有者にもその旨連絡されて、あとは自宅への到着を待つばかりというところでしょう。
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イタリアのBECHSTEIN-3

報告第3弾。
夏のヨーロッパは軒並みバカンスの時期に入ってしまうため、その間はなにもかもが止まってしまうようです。
ピアノの売買情報からコンタクトをとられても、多くの方は自宅を離れていたりで、バカンスが終わって戻ってくるまでは事の進捗がさして望めないようです。

このあたりは、頭ではわかっていても日本に生まれ育った我々には馴染めないところです。
ようやく、少しずつ写真やビデオは届きだしたようで、そのつど送ってくださるので、私も見せて(聴かせて)いただく光栄に与っています。

2 ▶前回書いた5台のBECHSTEINのうち、2台目のビデオが届いたとのことで、先月末に見せていただきましたが、音はまあまあというか、先に聴いていた3台目(B 200cm)に比べると、ずっとよくて輪郭のある音であったし、Bが決して小型というわけではありませんが、C(220cm)には明らかにそれよりも広がりと深いものがあって、やはりピアノの奥行きというのは有無を言わさぬものがあることを実感しました。(稀にサイズが意味をなさず、より小型のほうがバランスがいいという場合もありますが)
ただ写真やビデオでは、弦などはかなり古びた感じがあって、どうもパッとしませんでした。
中でも最大の問題は、このピアノははじめから響板割れがあることがアナウンスされており「ピアニストでもない限り普通に使うぶんには問題ない」とのことですが、数カ所ビデオからもわかるほどパックリ割れており、ここまでくるとさすがに厳しいものを感じ、これから弾くためのピアノというより、修復素材としての個体として捉えるべきだろうと思いました。
それなりの音は出ているし、しっかり手を入れればいいものになる可能性は大きいと感じますが、そのためには購入額の数倍の費用と数ヶ月単位の時を要するので、すぐに弾きたいという購入者の求めには不向きだろうと思いました。

1 ▶そして、こちらもようやくバカンスが終わったのか、個人的に一番期待していた一台目のCの音源が届きました。ビデオかと思ったら「音源」だけでしたが、このところたて続けに聴かせていただいた5台の中では、最も自然で、馥郁とした中にもほどよいメリハリもあり、好ましく感じるものでした。
現在このピアノは弾かれることがなくなったのか、写真ではあまたの荷物類と一緒になって、小部屋のようなところに押し込められているような感じではあるけれど、ピアノとしては5台中、最も健康でしっかりしている印象。
しかも、その環境にもめげず音そのものがソフトさを失っておらず、ガンガン使い込まれて疲弊しているような感じは受けませんでした。

また念の為に、ピン板の状態を確認すべくセクションごとに接写したものをリクエストして送ってもらいましたが、それも見る限りとてもきれいでヒビ一本もなく、この点でも好印象に拍車がかかり、見ているこちらのほうが欲しくなってくるようでした。
その他の4台は、ピン板が写っているものはピンの根元にわずかにひび割れのようなものがあったり、響板やフレームも年月相応に汚れにまみれていたりで、みるからに苦労しそうなものも正直ありました。

それに比べればこのCの状態は格別で、実際現物を目の前にしたらどんな問題が潜んでるのかはわかりませんが、ピアノに限らず物の程度の良し悪しというのは、やはり醸し出す雰囲気に顕れるものだと思いますし、私自身もそこを頼りにこれまでやって来ましたが、それで大ハズレしたということは一度もありません。
それほど、直感というものは最も信頼に足るサインだと信じていますし、第一印象というのは何年経ってもまず変わらないものです。
とはいえ責任が持てることでもないので、人様にお薦めはできないけれど、もし自分なら迷うことなくこれを買うだろうと思います。
その上で、万が一ダメだったら、また売ればいいさぐらいの感覚ですから「絶対失敗したくない人」には向きませんが。

ここでいまだに不思議なのは、なぜはじめの試弾の時に好印象が得られなかったのかという点ですが、本当のところはご本人にしかわからないけれど、おそらくその時の固有の状況もあってのことでしょうし、放置されたピアノというのは調律も乱れ気味で、お店に並んでいるピアノとはずいぶん雰囲気も違うでしょう。まして、多くの荷物とともに物置のようなところに置かれていたという状況なども、気持ちが下がる方へ針が振れたのかもしれません。

私などは、そういう状況のほうがいかにもお宝発見的な雰囲気も加味されて、むしろワクワク感が増して燃えるだろうと思いますが、そのあたりは各人各様なので、マイナスの結果になったのだろうと思います。

余談ながら、ピアノには当てはまらないことかもしれませんが、貴重な価値のあるクルマの世界では、古い倉庫や田舎の納屋などで打ち捨てられたような状態で発見された時の姿のほうがむしろ好まれたりして、この場合、洗ってはいけないんだとか。
数年前に日本のどこかで、汚れや泥にまみれて発見されたフェラーリの稀少なアルミボディのデイトナは世界を揺るがす発見で、汚れが堆積した発見時の姿を保ったまま海外のオークションに出品され、とてつもない高値で落札されただけでなく、その発見時の姿のままのミニカーまでつくられるなど、貴重品の世界というのは、なんとも特殊な価値基準まであるようです。

だからピアノもそれと同じというつもりは毛頭ありませんが、少なくとも埋もれた状態のBECHSTEINを発掘したと思えば、私などよけいワクワクするものですが、これはいささかマニアックすぎるでしょうか?
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イタリアのBECHSTEIN-2

先月終わりに書いた「イタリアのBECHSTEIN」から、ほぼひと月が経過しました。
その後もBECHSTEINの情報が続々ともたらされ、さすがは本場とあらためて驚かされるばかり。

1 ▶まずは写真を掲載していたC型(220cm)を見に行かれたようです。
うっすら埃をかぶっている状態で、調律もかなり狂っていたなどで、そのときは好印象には至らなかったとのことで残念な結果でした。
話だけでは、正直、それぐらい大したことではないのでは?という気もしましたが、その場でしかわからない何かがあったのかもしれず、ピアノのような大きな買い物には、人それぞれのエモーショナルなものが深く関わるので、その大事なところは現場でないとわかりません。
ちなみに、試弾の際、所有者など複数の方がすぐ側で見ていたなどの悪条件も重なったようです。
せめて4〜5分は退室して自由に弾かせてほしいものですが、そういう引っ込み思案なことを考えるのは日本人だけでしょうか?

こういうとき、技術者が同行できれば心強いでしょうが、見ず知らずの技術者にいきなり頼めることでもなく、素人の自分が、ひとりで決断するというのは荷が重いことだろうと思います。

他の情報も続々ともたらされました。

2 ▶別のBECHSTEINのCで、さらに古いピアノ。これはハンマーは良好な感じであるし、ウイペンはダブルスプリングに交換済みではあったけれど、かろうじて写っている弦やピンはかなり古い感じで、しかもそのあたりは見せたくないのか写真はなく、おまけに響板割れがあることを初めから告知されている個体でした。
形状からして19世紀のピアノと思われますが、全体にもくすんだ骨董品という趣で、見ていてあまり良さが伝わらない印象でした。
さらに気になったのは正面からのショット。
鍵盤蓋のロゴが字数の多い旧タイプにもかかわらず、その大半が失われ、「C.BECHSTEIN」の位置も不自然で、購入したら苦労するぞと言っているようなピアノでした。

3 ▶ピアノショップが販売する「整備済み」とする200cmのBECHSTEIN B。これは塗装などもパッと目は整えてあって一見きれいに見えますが、ビデオを見た感じでは(想像ですが)古い塗装を完全に落とさず、中途半端な下地に塗り重ねたような怪しげな感じを覚えました。
また、交換済みというハンマーなどはフェルトだけを巻き直したもので(そのこと自体は問題ではありませんが)、形も止め方もあきらかに形がおかしく並びもバラバラ、ペダルはなんとまったく別のピアノ(たぶんヤマハ)のものを強引に取り付けてあるし、鍵盤蓋のロゴは文字が一部欠損していたりと、これまた怪しげな要素がいくつも見て取れるものでした。
にもかかわらず、音はそう悪くもない感じだったのは意外でした。

4 ▶さらに別に個人所有のBというのがあり、これは初めに見た写真では、弦もハンマーも交換済みで、鍵盤一式も大部分が新しいパーツで構成されており、技術者の手間とコストがそれなりに注がれているようで、とても良さそうに見えたのですが、続くビデオや詳細な写真で印象は一変しました。
まずなにより音がボケており、本来のパワーもなく、響板が下がっているのでは?と思いました。
その所有者による演奏動画もあったけれど、とにかく速いスピードでピアノロールのように弾かれるだけで、一音一音の感じはほとんど掴めないものでした。
またハンマーはきれいなものが付いているにもかかわらず、よくよく見てみると、次高音のセクションのみえらく削られて薄くなっており、やはりそのあたりに問題があって試行錯誤を重ねたけれど、諦めた末の売却では?というような疑念さえ持ってしまいました。

5 ▶さらにさらに、トドメとばかりに合唱の練習に使っていたというAが出てきました。これは今回最安値の€2500(約35万円!)で、さすがにあまりきれいではなかったけれど、キレのあるBECHSTEINっぽい音はそこそこしていたので、値段から見ればこれはこれでアリか?とは思いました。ただし、フレームはじめお世辞にもきれいとはいえないし、響板にはパックリと割れがあったので、手を入れるとなると、ほとんどオーバーホールもしくはそれに近いものになることは間違いありません。
電子ピアノにもうちょっと上乗せするぐらいで買えるBECHSTEINとして、迷いなく割り切りができれば、それなりの音は出ているので、価格相応の価値は十分にあるとは思いますが、欲しいか?と問われればあまりそそりません。

そうこうしているうちに、その方は10日ほどお知り合いの方のお宅に滞在されることになった由ですが、そこにはなんとブリュートナーのグランドがあり、これがたいそう素晴らしいらしく、いたくお気に召された様子で、このぶんだとブリュートナーもかなり射程圏内に入ってきた模様です。
すでに、ベヒシュタインと前後してブリュートナーの情報は2件寄せられており、やはりヨーロッパはこの手のピアノの数といい、価格といい、本場の強みを感じないではいられません。

上記の5台のベヒシュタインとブリュートナー計7台は、大半が50万円〜80万円ほどですから驚くばかりです。
そのままでも十分使えるピアノがあればそれに越したことはありませんが、仮に予算を200万円ぐらいに設定して、購入額の残りを修復代に当てたら、さぞや素晴らしいピアノが出来上がるであろうと思われます。
それでも日本で売られている同等品に比べたら1/3ほどで手に入れられるわけで、日本から見れば望外の話です。

このピアノ購入の顛末はまだまだ続きそうなので、またご報告できればと思っています。
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SK-EX補足

SKシリーズは今やカワイピアノの顔であり、世界的にも良品として認められる地位を獲得していると聞きます。

そんなSKシリーズについて、今回はアマチュアのピアノマニアとして、甚だ邪道な、大半の人にとってはどうでもいいであろうマニアックなことを書いてみます。
SKシリーズを目の前にしていつも感心させられるのは、製品としての作りの良さ。
とりわけ各パーツの面や線の一糸乱れぬ正確なこと、くわえて塗装の美しさには目を見張るものがあり、それらが醸しだす高級感は、メーカーがこのシリーズに懸ける意気込みを感じます。
それは高度な木材加工技術によるものなのか、なんらかの下地処理や工法によるものなのかは知らないけれど、とにかく仕上げのきれいさで際立っているのは驚くばかり。

巷では「ざんねんな☓☓」という絵本が流行っていますが、その「ざんねんな」も含めながら言いますと、側板の内側は通常よくある木目の突板(化粧板)ではなく、バーズアイという高級素材が奢られているようですが、これが模様といい色目といい、どうにも中途半端で高級感に効果を上げているようにはどうしても見えません。
模様は小さく色付けは薄いためインパクト性に欠け、遠目には普通よくある木目よりも安っぽく見えてしまうあたり、ファツィオリなどとは対照的でなんとも残念。

それに対して、フレームは以前は青系のあまり魅力的とは言い難い金色でしたが、現在は流行りの赤みの強い色調に切り替えられたようですが、これが思い切ったのでしょうがやり過ぎで、ほとんどオレンジ色みたいな色目。
中国のハイルン、ウェンドル&ラング、フォイリッヒなどがこういう感じで、いささか品位に欠けていただけません。
また、フレームをその色にするのなら、当然そのすぐ脇にくる側板の内側のバーズアイとのカラーバランスを考慮すべきところ、これがまったくなされていないのか、ジャケットとパンツの組み合わせが下手な人の着こなしのよう。

ボディ内側に貼られる木目は、色のルールから言ってもフレームよりも濃い色目であるほうが見た感じも収まりがいい筈なのに、カワイにはそんな色が醸し出す雰囲気に配慮のできる人がいないのでしょうか…。

逆にいいなと思うのは、フェルトの赤の色合いで、多くのピアノが派手な朱色のような赤であるのに対し、SKのそれはややくすんだ感じの深みのある赤になっているのは、抑制的で大人っぽく、これは非常に好ましいものだと感じます。
ただし上記の激しいフレームの色のせいで、その良さもだいぶ埋没してしまっていますが。

全体に、カワイのピアノに感じるのは、とくにコンサートグランドの場合、ディテールも全体も、ちょっとゴツいかな?というイメージが拭えないところでしょうか。
側板もなんでこんなに?と思うほど分厚くて、まるで戦艦大和のよう。
ヤマハも多少そういうところがないでもないけれど、カワイはもう一回り大きく厚ぼったく、なんでも薄めで華奢にできているスタインウェイに比べると、どうしてこうもマッチョに作りたいのか理解できません。

SK-EXは、どうも昔のKG-8の頃のままの基本形状のように見えるし、おそらく痩身なスタインウェイDは、寸法的にはSK-EXの中に前後左右すっぽり収まってしまうと思います。
ピアノは楽器で、楽器には軽やかさが必要なのに、こうもゴツくするという発想じたいが、どうもわかりません。
例えばヴァイオリンをストラディヴァリウスよりやや大きめに肉厚にガッチリ作ったら、頑丈かもしれないけれど音が良くなるなんて誰も思いません。
銘器というのは、おしなべて贅肉をそぎ落とし、技を駆使してギリギリの危ういところで成り立っているものじゃないかと思います。

こんなふうに書くと「ピアノと弦楽器は違うんだ!」という声が聞こえてきそうですが、木の性質を使って音を増幅させ、飛ばすという基本においては、大筋で大差ないと思うのですが。

以前も少し書いたことですが、日本製のピアノは運送業者が喜ぶほどやたら頑丈にできているらしく、対して、海外のピアノの多くは全体が響体という考え方なのか、華奢でボディもユルユルなので気を使うのだとか。
例えばスタインウェイの場合、クレーンで吊るにしても決して支柱にロープなどをかけてはいけない(無知な業者はやってしまっている由)そうですが、そういう繊細で危ういところからあの輝ける力強い音が生まれているとしたら、楽器とはいかにバランスが勝負どころかと思います。

おかしな喩えですが、飛行機は空を飛ぶために軽量化と効率が必須で、そのためには最高難度を極めた必要最小限の作りであることが求められます。それに比べれば頑丈に作るのは簡単です
楽器は空は飛ばないけれど、音は遠くへ飛ばしたいわけで、なにか通じるところがあるような気がするのです。
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Kトーン

8月13日放送の「題名のない音楽会」では、ショパンコンクールで2位を獲得した二人のピアニスト、アレクサンダー・ガジェヴと反田恭平の両氏が揃って出演するという内容でした。

演奏はガジェヴ氏がショパンの前奏曲 嬰ハ短調とドビュッシーの12の練習曲から「組み合わされたアルペジオのために」、反田氏がショパンのノクターンop.62-1。

前奏曲 嬰ハ短調は個人的にもとても好きな作品でありながら、演奏される機会は多くないので、少しばかり期待を込めて聴きましたが、正確で危なげなく整った感じに弾かれはしたものの、この作品に期待してしまうショパンの中でもとりわけ彷徨うようなニュアンスとか詩情みたいなものがもの足りないというか、あくまで楽譜とか音符を感じさせるもの。
この作品にとくに際立つ、出だしからすでに危うさに満ちた即興感、どっちに行くかわからないような転調など、儚さの極地みたいなものを堪能するには至りませんでした。
コンクール出身者の演奏全般に感じるのは、音楽そのものより、演奏行為のための注意深い糸が常に張られているようで、情感に流れず、自然な呼吸とか緊張〜開放といったものが封じられているようで、だから常に四角四面で楽しくなく、心が乗って行かないものをいつも感じさせられます。

むしろ、ドビュッシーのほうがまだ自然に聞けるような気もしましたが、それは私がどうこういうほどドビュッシーのこの作品に馴染んでいないせいかもしれません。

さて、この日注目すべきは、カワイのSK-EXがスタジオに運び込まれて使用された点でした。
ガジェヴ氏はたしか浜松コンクールの頃からカワイを弾いているようで、よほどお気に入りなのか、ショパンコンクールでもSK-EXを弾いているひとりでした。とはいえスタジオまで持って来たのは本人の希望だったのか、あるいはメーカーサイドが積極的だったのかは知らないけれど、とにかくそういうことになっていました。
そのためか、反田氏もこのピアノで演奏。

スタジオで収録されると、また違った面が見えてくるもので、ホールのような広い会場ではわかりにくいものがわかったりするようです。
まず感じたことは、カワイ独特の音のキツさが「まだある」ということでした。
もちろん、見事に調整されたはずのピアノなので、ハンマーが硬いとかそういう表層的ことではなく、ピアノが生来もっている声というか、音の性格というか、そういう部分について言いたいわけですが、立ち上がってくる音の中に、やはり「カワイトーン」があるなぁと思いました。

ヤマハとカワイを比べる際には、パンチと華やかさのヤマハに対して、カワイは温かみのあるまろやかな音と評されており、それはそうだとは思います。でも個人的な印象としては、カワイの音は表面はまろやかであっても、その音の奥には妙に乾いた芯のようなものがあって、CDなどを聴いていると、すぐにはわからないもののだんだんこれが耳についてきて、ちょっと疲れてしまう場合があります。

以前のEXやSK-EXには、もっと純朴な響きがあり、例えばショパンコンクールでもスタインウェイやヤマハ(この両者もずいぶん違いますが)に比べると、いささか泥臭い感じの音で目立っていたものですが、その時代から、このカワイの特徴があって、そこも評価が割れたところだろうと思います。

しかし、その後、方針転換されたのか、ぐっとクリアな方向へ舵を切ってきたように思われて、昨年のショパンコンクールでは、そういう野暮ったさは動画で視聴している限り目立たなくなり、4社のピアノの中でも違和感なくステージで鳴っていたので、カワイのこの特徴はついに消し去られたのかと思っていました。

それが思いがけなく「題名のない音楽会」のスタジオ収録で(ホールに比べれば空間も狭くマイクも近いせいか?)、こまかなことはわかりませんが、その音の要素がまだ残っているように感じました。
「題名のない音楽会」のスタジオ収録は、基本的にスタインウェイで、たまに別のスタインウェイになったり、ヤマハやファツィオリになったりするので、視聴者としてはそれなりに慣れている条件下であるので、やはりそこで演奏開始直後からカワイの特徴を感じてしまったということは、まったくの勘違いでもないのだろうと思います。

まったくの私見ですが、SKは2/3/5までは、わりにほがらかで品格もあり好ましいピアノだと思いますが、6/7になるとメーカーの気合が入るのか、ちょっとやり過ぎなのでは?と思うような気負った感じになり、演出過多というか、逆に疑問の余地が出てくるような印象を持っています。
ましてSK-EXになると、大半の人にとっては観賞用のピアノになるので、その音は純粋に人の耳に届く対象になるわけですが、そのメーカーのDNAというのは、脈々と受け継がれるものだということを感じます。

これを書きながら、思い出したこともありました。
何年も前のことですが、車の中であるロシア人ピアニストによるスクリャービンを流していたときのこと。
このCDはSK-EXを使ってヨーロッパで録音されたものでした。
しばらくすると、それを聞いていた母が「このピアノは何?」と聞いたので、「カワイ」と答えると「いつもと違ってキンキンすると思った」と平然と言ってのけました。
日頃から、私があまりにピアノの音に興味をもっているので、いつの間にか感覚的に特徴をつかんでしまったものと思います。

このキンキンは、ヤマハのあの派手な音とは別種のもので、もう少し奥まったところにある感覚で、カワイに古くから共通するものですが、それが車の中という、雑音も多い中で、大音量でもなく、ピアノの音などにさほどの興味もない人の耳に、ちゃんと伝わってしまうことの驚きを感じたのですが、物事の本質というのは案外そんなシンプルなものだろうとも思いました。

「題名のない音楽会」は次回(20日)も同じ二人による演奏のようです。
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マルトゥッチ

前回のチャイコフスキーに続いて、マルトゥッチのピアノ曲集のCDを聴いてみました。
19世紀後半から20世紀初頭にかけてイタリアで活躍した作曲家で、指揮者やピアニストでもあり、イタリア人でありながら、オペラには手を付けず、器楽曲、交響曲や室内楽の作品を残しているようです。
その中から、ピアノ曲で6つの小品op.44、小説op.50、幻想曲op.51、2つの夜想曲op.70というもの。

私はこれまでマルトゥッチという人の作品を聞いた覚えがなく、おそらく初めて聴いたような気がします。
演奏はアルベルト・ミディオーニというピアニストで、こちらもまったく馴染みのない人ですが、そういう初めてづくしというのも面白いものです。

作風は、とくだん個性的とは感じませんでしたが、耳に違和感のない後記ロマン派風の作品という感じで、新しい音楽を目指した人のようには思いませんでしたが、馴染みやすい和声に乗って展開していく作品は充分に楽しめました。
イタリア的というより、国籍を感じさせない19世紀後半のロマンティックな作品という印象。
ウィキペディアによれば、指揮者としてはワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」のイタリア初演をした人だそうですが、作曲者としては器楽曲などに注力したようです。

また、トスカニーニは繰り返しマルトゥッチの作品を採り上げ、マーラーはニューヨークの告別演奏会でマルトゥッチのピアノ協奏曲を指揮、アントン・ルビンシュタインも彼の作品をレパートリーに入れていたということなので、20世前半はそれなりに人気のあった作曲家だったようですし、イタリアの作曲家で音楽学者のマリピエロは「マルトゥッチの交響曲第2番は、オペラ以外のイタリア音楽の再生の原点」とまでいっているとか。

考えてみると、イタリアは音楽発祥の国でありながら、古典作品とオペラ以外の作曲家という点では、これという人はあまり思い浮かばず、パッと思い出すところではパガニーニやクレメンティ、レスピーギなどで(忘れている人がいるかもしれません)で、さほどは思いつきません。

まあ、あまりマルトゥッチの作品についてどうこう言う資格も自信もありませんが、悪くはないけれど、有名作曲家として燦然たる地位に列せられるほどのものとも思いませんでした。
聞き手の心を強く捉えて離さないような、強烈な個性と魅力が希薄なのかもしれません。
このように多くの作曲家によって膨大な作品が書かれながらも、現代でその作品を音として耳にすることができるのは、まさに一握りに過ぎないことを考えさせられました。


ところで、その前に聞いていたCDがブリュートナーによるチャイコフスキーの歌曲編曲集であったことはすでに書きましたが、それからこのマルトゥッチのCDに入れ替えてまず初めにのけぞったのは、それまでブリュートナーのドイツ的な響きにしばらく慣れていた耳にとって、(おそらくスタインウェイだろうと思いますが)なんという柔らかな、まるで弦楽器のようなピアノかということでした。

それぞれの個性なので、優劣をつけようというのではなく、その違いは衝撃的だったのです。
メーカーによって、おなじピアノでも目指す音の方向性や美意識というものが、こうも異なるものかということに改めて驚いたと同時に、お国柄やメーカーによる違いがこれほどあるということは、なんと面白い事でしょう。
ちなみにスタインウェイは、ドイツ人一族の天才的な設計がアメリカという豊かな土壌で開花した特殊なピアノであり、これはドイツピアノともアメリカピアノとも言い難い、国籍で語ることの難しいピアノだと思います。

私見ですが、最新のベヒシュタインはYouTubeなどをみていると、グランドはかなり音色が変わり、現代的な洗練方向に振ってきたように思います。コンサートグランドでいうとENの時代からD280で大きく変革し、その後も振れ幅はあったようですが、最新のD282はフレームと弦の間のフェルトが、アップライトが一足先にそうであったように伝統のモスグリーンから紺色に変更され、よくみると碗木の形などもわずかに変化しており、何よりもその音は、剛健なドイツピアノというより、しなやかで色彩的なものになり、かつてのイメージとはだいぶ違ったものになってきたように感じます。

ベヒシュタインがドイツピアノ路線からやや離脱しはじめたかに思える現在、かつてのような武骨なまでのドイツピアノらしさというのは、このブリュートナーやシュタイングレーバーあたりになってしまうのか?と思います。
さらに言うと、かつてのブリュートナーはドイツピアノらしさの中に艶っぽい声が聞き取れましたが、チャイコフスキーのCDではより骨太の逞しい感じになったような印象を持ちました。
そういう意味では、かつては剛のベヒシュタイン、柔のブリュートナーというイメージでしたが、ここにきて逆転現象が起こっているのかもしれません。
あくまで、CDやYouTubeでの印象ですが。
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ブリュートナー

最近は、以前に比べるとCD購入ペースもがっくり落ちましたが、最近少し買ってみたものから。

ペトロネル・マランという南アフリカ出身のピアニストが弾く、チャイコフスキーの歌曲集(ピアノ編曲版)で、レーベルはドイツのヘンスラーで、さすがというべきか録音が良く、クリアなのにパワーと迫力を兼ね備えて聴きやすい!というのが印象的でした。
クラシックの録音には、様々な専門的理由があるらしく、やけに音が小さめで陰気な音しかしない、聴いていてぜんぜん楽しくもないものがときどきあります。
この手は、どんなにボリュームを上げてもダメで、まるで覇気がなく、その音楽や演奏を楽しむ気分まですっかり削がれてしまいます。
その点で、このCDは演奏が目の前でリアルに広がってくるようで、まずこれだけで「いいCDだなぁ」という印象。

ペトロネル・マランという人は、これまで私にとって顔も名前も知らないピアニストでしたが、ネットで調べてみるとすでにヘンスラーから何枚ものディスクが出ているあたり、それなりの実力者なのだろうと思います。
南アフリカでも幼少の頃からオーケストラ共演するなど才能があった人のようで、現在はアメリカを主な活躍の場としている人の由。
表紙の写真を見ると、お顔に対して驚くばかりの大きな手で(羨ましい!)、ピアニストになることを運命づけられてきた人なのかもしれません。

さて、演奏内容は大半が馴染みのないもので、曲想にチャイコフスキーらしい特徴はときどき感じるものの、全体を通じてとくに魅力的とは思いませんでした。というのも、特別な場合を除けば、歌曲をピアノ曲にするのは(1〜2曲なら面白いけれど)、CD全曲となるとやはり冗長で、どうあがいても歌にはかないっこないというのが出てしまいます。
歌曲は歌を前提にできているのだから、当然といえばそれまでですが。
人の声とその身体から湧き上がる呼吸、詩の意味などが相まって作品となっており、それをピアノで演奏して録音まですることに、どういう意味があるのか私にはよくわかりませんでしたし、聴けば聴くほど、歌手の歌う同曲がきいてみたいというフラストレーションが募るばかり。

この方のディスコグラフィーを見ると、ほかにもモーツァルトやベートーヴェン、ブラームスの歌曲をピアノ曲として演奏されているようで、よほど歌曲をピアノ曲として演奏することがお好きなのか、どの作曲家にも弾きおおせないばかりの素晴らしいピアノ曲があるのに、なぜわざわざこんなことをされるのか…。

自分自身も好きじゃない想像ですが、商業的な理由で、とびきり有名でもないピアニストが、ありふれた曲を入れても見向きもされないので、少しでも注目されるためには「ちょっと違うこと」をする必要があるという判断なのか…などと勘ぐってしまいます。
もし純粋にピアニストが「自分は歌曲のピアノ編曲が好きだからそれを録音したい」と言っても、レーベルもビジネスだから、昔だったらなかなか承諾は得られないと思いますが、時代も変わり、販売戦略上の逆転の発想なのか…。


さて、このCDにはもうひとつ注目すべき点があって、封を切ってケースを開くと、ライナーノートの裏側にブリュートナーのロゴが描かれており、その下の小さな文字をよくみるとブリュートナーのコンサートグランド(Model 1)によって演奏されているようでした。

なるほど、耳慣れたスタインウェイとはまったく別物であるし、ときどきCDでも耳にするヤマハ、ファツィオリ、ベーゼンドルファー、ベヒシュタイン、カワイのいずれとも違うものでした。

この中で一番近いといえばベヒシュタインかなぁ…とも思いますが、それともやや違い、美しい田園地帯に住む骨格のしっかりしたドイツ人という感じでしょうか。
いかにもドイツっぽいのは、スッとまっすぐ立ち上がる太い音であること、ドイツ語的滑舌なのか、発音がボンとはっきりしていて音のひとつひとつがわかりやすく、太字の万年筆の文字のようです。
また低音は木の音というべきか、どちらかというと板を感じる木の音で、まぎれもなくドイツピアノの質実な魅力があふれているように感じます。

歯切れよく、音が立つのではじめはちょっとうるさいように感じる時もありましたが、不思議に少しすると耳慣れてきます。
この「慣れてくる」というのは本物である証と思われ、そうでないものは耳が疲れてストップしたくなるものですが、そういうことは決してないのがさすがです。
そして、いかにもピアノという楽器の構造を感じさせる素朴で野太い音に魅力があることに気がつき、多くのピアノが洗練に向かいたがる中で、ブリュートナーは実直で、むしろほのかな野趣さえ含まれているところが、このピアノの魅力だろうと思いました。
昔のイメージでは、ベヒシュタインは男性的、ブリュートナーは女性的という感じがありましたが、最近の両社のピアノは、もしかしたら逆転しているかもしれないとも思ってしまいました。

聴いていると、これはこれでいいなぁと思ってしまい、いかにもピアノらしいピアノを聴いているという手応えがあって、しばらくこれに慣れてしまうと、他のピアノがどこか物足りなくなるかもしれない…そんな気がしてきます。
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イタリアのBECHSTEIN

インターネットのおかげで、こんなブログを海外で読んでくださる奇特な方がおられて、ときどきメールのやり取りがあったりします。

今回はイタリアにお住まいのTさんのお話。
ひと月ほど前に他所からローマへ引っ越しされたそうで、以前からエラールやプレイエルについてもいろいろな現地情報を聞かせていただいていました。
Tさんは、メールから受ける印象では良い音/本物の音のわかる方で、いまやコスパNo.1として世界中に行き渡っている日本製の大量生産ピアノにはご興味がなく、熟練の職人が相応しい材料を使って作り上げた、佳き時代の奥深いものをもったピアノに惹かれておられるようです。

ただ、ピアノは引っ越しの際の足枷となるので、これまではレンタルピアノなどを利用しておられたようですが、このたびいよいよ購入を検討されるとのことで、今回、そのご相談も兼ねてメールをいただきました。

当たりをつけておられたのは古いベヒシュタインのグランドで、正確な製造年はまだはっきりとはわからないようですが、20世紀初頭に作られたもののようで、写真を見た感じはどうやらCのようで、奥行きは220cm(あるいはそれ以上)ぐらいではないかと思われます。

さて、数枚送ってくださった写真を見る限り、ほどよく使い込まれた感じを残した好ましいもので、第一印象として素晴らしい!と思いました。
私見ですが、いくら佳き時代のものといっても、あまりにボロボロで汚いものはさすがに気が滅入って嫌ですが、かといって古いピアノにこれでもかというリニューアルが施され、隅々まで新品のようにビカビカに仕上げられたものはきれいではあるけれども、なんとなく胡散臭さみたいなものが漂い、ある種の下品さを感じてしまいますが、価格はべらぼうに高いし、いずれにしろ好みではありません。

その点、このベヒシュタインはまことにちょうどいい感じに見えました。現物はイタリアのとある地方にあるのだそうで、近いうちに見に行かれるご予定とのこと。
フレームの穴の周りには大仏様の頭のようにイボイボがあって風格満点、響板も状態は良好とのことだそうです。
所有者とやりとりされているということなので、個人売買なのかもしれませんが、そのお値段はなんと、4500€だそうで、現在のレート換算しても約65万円ぐらい。
何かの間違いでは?!と思うほどで、もし日本ならゼロがひとつ違っても不思議じゃないと思われ、ともかくも驚きました。

もちろん、現物を見て、触って、音を聴いてみなくてはわからないけれど、いずれにしろ信じられないようなお値段であることに間違いないでしょう。
このピアノが特別なのか、ヨーロッパの古いピアノの相場とはそんなものなのか、そのあたりはわかりませんが、日本の中古ピアノ(とくにグランドや輸入物)というのは、なぜあんなに高いのかと思います。

つい先日、夜7時のNHKニュースの後の番組でやっていましたが、現在日本国内の不動産価格は世界から見ると驚くばかりに安いのだそうで、「まるでバーゲンセールのように海外から買われている」と少し警告的な調子で言っていましたが、ピアノは逆のようで、なにがどうなっているのか…まるでわかりません。

そもそも価値ある古いピアノの適正価格がどれぐらいのものかわからないけれど、このベヒシュタインが約65万円というのは、Tさんも「信じられない値段」と言われており、これがヴァイオリンぐらいのサイズならなんとか金策して、買って送っていただきたいぐらいです。

現物の写真です。上手い具合にTさんのお手許にやってくるよう祈っています。

BECHSTEIN.jpg
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いいじゃないですか

マロニエ君の好まない言葉のひとつに、突如会話の中に振り下ろされてくるあれ…「まあ、いいじゃないですか」というのがあります。
これほど無粋で、会話意欲を喪失させ、座の雰囲気を一瞬でシラケさせる言葉も珍しく、この言葉には広義の破壊力があります。

この言葉が出るタイミングは、大抵は無邪気に人物評などをやっている時ですが、そもそも話しについていけない人、もしくは興味のない人が、さも自分が寛大で広い心の持ち主であるかのようにアピールする、ちょうどいいチャンスとでも思うのでしょうか。
人間の問題や出来事に関心を持つというのは大切なことで、それは雑談の体裁をとりながら分析的要素も含んでおり、頭脳や感性をトータルに働かす訓練になるばかりか、己への戒めや正しい認識を確認する大事な機会でもあります。
その内側には、非常に微妙な学習要素を含んでおり、いうなれば、雑談しながら自分の良識と感性を正しく調律するようなもの。

これをいう人は、まずたいてい神経のキメが荒く、自分は正しいつもりでご満悦の様子です。
あたかも慈悲に満ちた神父のお説教のような響きが充溢して、その場違いな言葉はあたりにお寒く響き渡ります。

最近は「上から目線」という言葉がよく使われますが、この「まあ、いいじゃないですか」もその代表格で、相手に対して恥をかかせる言葉でもあるため、私自身は絶対にこれは口にしてはいけない言葉だと思っています。

そもそもこれをいう人が出発からボタンを掛け違えているのは、細かいことに目くじらを立て、欠席裁判でもやっているかのように勘違いしていることです。
そしてディスカッションの習慣もなければ、そこに価値を見出さない人。

仮にある人が、非常に馬鹿げた高額な買い物を、店員やその他の口車に乗ってしてしまったとします。
いうまでもなく、自分のお金の使い途は勝手であるし、突き詰めれば自分の判断であるし、人に迷惑をかけない限り自由なことぐらい先刻承知も大前提で、そんなことはわかりきった上での話をしているわけです。

しかし、その自由の中に、各人の思想や価値観や心理など、考察してみるに値する要素が凝縮されて詰まっており、そこを考える材料とし、論じることは興味深く、またへんな啓発本など読むより、よほど実践的で勉強にもなることですが、そういうときに、こういう会話の真髄が汲み取れず、安易にくだらぬことと決めつける御仁は、今とばかりに高所から「まあ、いいじゃないですか」という伝家の宝刀を抜くわけです。

それを押し切ってまで話を続ける気もありませんが、同時にその発言者がこのときほど愚鈍(かつ失礼)に見えることもありません。
しかも本人は、その場を上手にリセットし、自身は寛容な人格と良識の持ち主であることをアピールできたとしてご満悦。

実は、これは長年感じてきたことですが、たまたま読んでいる小説にも類似のことが書かれており、思わず我が意を得たりという気分になって、その部分に栞を挟んで繰り返し読みました。

それは、夏目漱石の『野分』という小説に書かれており、神経衰弱で有名だった漱石も、幾度となくそういう不快な瞬間を体験してストレスを感じたのだろうと思われました。
「人にわが不平を訴へんとするとき、わが不平が徹底せぬうち、先方から中途半把な慰謝を与えらるるのは快くないものだ。我が不平が通じたのか、通じないのか、本当に気の毒がるのか、御世辞に気の毒がるのか分からない。──略──相手はなぜかう感情が粗大だろうと思った。もう少し切り込みたいと云う矢先へ持って来て、ざああと水を懸けるのが中野君の例である。」

さすがは漱石先生、「ざああと水を懸ける」とはまさにその通りだと感服しました。
しかも、その「ざああと水を懸ける」人は、だいたいいつも同じ人なんですよね。
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3人のベテラン

最近聴いたピアニストの中で、その名声にかかわらずあまり感心できなかったお三人の印象。
近頃はできるだけマイナスなことを書くのはよそうと心がけていますが、これだけはどうしても書いておきたいと思って、敢えてキーボードに向かってみることにしました。

▲マレイ・ペライアのショパン(CD5枚組)
以前買って、聴いて、好みじゃないから、ずっと棚の隅にしまっていたのを何気なく引っ張りだしてみたもの。
内容はざっというと、2つの協奏曲、2番/3番のソナタ、バラード全曲、op.10/25のエチュード全曲、4つの即興曲、舟歌、幻想曲、その他ワルツやマズルカなど。
これほど迷いなく観光用絵ハガキみたいに弾かれたショパンという点で首尾一貫しており、ちょっと他では聴けない。
まるでお値段だけやけに張る、内容よりパッケージに凝ったお菓子の詰め合わせのようで、デパートの贈答品売り場の空虚な世界に連れ込まれたよう。
ショパン独特の美意識も、憂いも、陰影も、洗練も、詩情も、気高さも、なにひとつ受け取ることのないまま、ひたすらに、つやつやしたきれいな音粒の羅列が終始続くのみ。
まるで電子ピアノの自動演奏機能のスイッチを入れたようなショパン。

これほど「きれい」にすればするだけ「真の美しさ」からは後退していくという見本のようで、がんばって5枚聴き通したけれど、もうこの先聴くことはないだろう。バッハでさえ同様の印象だったことを思い出す。
彼の最も好ましい演奏は、若い頃に残した、イギリス室内管弦楽団とのモーツァルトのピアノ協奏曲全集だけで、あれ以外のCDはいつ消えても構わない。

▲バリー・ダグラス(NHK-BS 2022年5月東京)
シューベルトの即興曲D899からc-moll/チャイコフスキーの四季より6月と10月、ムソルグスキー「展覧会の絵」。
ずいぶん昔チャイコフスキー・コンクールに優勝した人で、音楽家にはないタイプのハンサムなんだろうけれど、肝心の演奏にコンサート・ピアニストとしての華がない人。
冒頭インタビューで思ったほど老けてはいなかったこととは意外だったけれど、第一曲のシューベルトからして、やはりこの人らしいというか、あれこれの言葉を探すのが面倒なので一言で終わらせてしまうなら、にぶく垢抜けない演奏。
その点では、チャイコフスキーのほうがさほどこれを感じずに済むが、それは作品の性格のせいと思われる。
後半は「展覧会の絵で、まったく個人的な趣味だけれど、演奏会のメインプログラムにこの曲をデンと据えるようなピアニストがそもそも好みではなく、なにもかもがセンスが合わない。
それにこの人は、チャイコフスキー・コンクール優勝後に演奏開始したころから、この曲や四季を弾いていたようで、あれから40年近く経つとういうのに、新しい境地は開けなかったのか?かと思ったり。
実は、この大曲を聴くのは苦手なので、今回もこれは視聴を遠慮した。

▲マウリツィオ・ポリーニ ベートーヴェン最後の3つのソナタ(2019年ヘラクレスザール)
ポリーニを初来日時から熱狂とともに聞いてきた世代からすると、虚しいばかりの演奏だった。
彼が演奏を本格始動させた1970年代、ペトルーシュカやショパンのエチュードのレコードで世界のピアノ界は激震が走った。なにしろその驚愕の技巧とギリシャ彫刻のような演奏は「完璧」の名のもと、有無を言わさず聴くものをなぎ倒した。とくに実際のコンサートで接する演奏は、レコード以上に燃焼感の加わった圧倒的なもので、大ホールに鳴り渡るピアノ一台とは思えぬ充実した音響の洪水、それを成し遂げたあとの汗みずくの様子など、ピアニストなのか剣闘士なのかわからない、ヒーローそのものだった。
そんなポリーニがわずかな衰えを見せ始めたのは、アバドとベートーヴェンの協奏曲全曲を録音した頃だったと記憶する。
もちろん人はだれでも歳を取るのだから、それ自体は自然なことだが、彼の場合、歳をとり技巧は衰える対価として、より深まった味わいとか芳醇さといったものが出てくることがなく、その解釈はあくまでも若いエネルギーを前提とした70〜80年代そのままで、ただ身体と技巧の衰えばかりが目立ってしまうのがやるせない。いつまでも若いころと同じファッションを身に纏うと、より老いが際だってしまうように。
せっかく後期のソナタを弾いても、これらの作品が内包する精神性の世界へ引き込まれることがなく、ただがむしゃらに、ピアニスティックに、そして若い頃よりももっと咳込んだように前へ前へと、強引に(ときに粗雑に)突き進むばかりで、まるで中期のソナタのように聴こえた。
この人は、この歳になって、いま何を見ているのだろう?

パッセージはろれつが回らず、音は分離が悪く、ペダルは混濁し、気が急くのか必要な間もとらずあちらこちらで暴走気味。
正確無比というポリーニのイメージにはあるまじき、非常に粗雑で荒れた演奏になってしまっているのは、聴いている側の気が滅入ってくるようだ。
それでも時折、ポリーニ独特の重厚にしてクリアな響きが蘇って往時を偲ばせる瞬間もあるにはあったことは付け加えておきたい。

会場は彼の録音の大半が行われてきた、お気に入りのヘラクレスザール、ピアノはファブリーニ、…なんだけど、そんなに無理して若ぶらなくてもというような、バイデン大統領にも感じるけれど老いを隠そうとすると、よけいに老いが目立つものだと思った。
そんなポリーニを視覚で象徴するもの、それは昔は椅子の脚を切り落とすほど着座位置が低かったのに、今はお気に入りらしい赤ラインの入ったランザーニの椅子を、ずいぶん高く上げて演奏しており、これもどうにもしっくりこない。
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ニセモノ

みなさんもよくご存じと思いますが、最近のネットは過去の検索履歴などから、相手の興味の対象と判断された情報や商品が、勝手にどんどん送りつけられてきます。
ヤフオクなども同様で、検索したジャンルはただちに足跡として残るようで、類似の情報などがメールで続々と届きます。

マロニエ君の場合、当然のようにピアノがあり、それらを集めたおしらせメールが届くもののろくに見ませんが、たまたまタイトルにドイツの知る人ぞ知る老舗メーカー名が目に止まり、そのアップライトピアノが、ちょっと信じ難いような低価格で出品されていました。
具体的な名前や金額は避けたほうがいいと思われるので書きませんが、市場価格のおそらく5〜6分の1だろうという強烈な安値で、ちょっとした電子ピアノ並みのお値段です。
さっそく、ピアノマニアのAさんにLINEしたら、「そのピアノはついこの前まで、現在より4倍近い値段で出品されていた」という返信が。

写真によると木目仕上げで、それも日本のピアノではまず目にしないような大振りな柄の木目で、いかにも外国産の外皮という感じであったし、さらに驚いたことには出品地は隣県という偶然も重なり、俄に心がざわつきはじめました。
しかもその価格は「即決」となっているので、誰かがポチッとやればそれで終了というもの。

価格的にはどうにもならない金額ではないけれど、マロニエ君の自宅はグランドなら無理をすればなんとかなるものの、アップライトピアノというのはそのぶんの「壁スペース」がどうしても必要となり、それらはすでにびっしりと本棚やCDの棚で埋め尽くされているため、その点がどうにもならないのです。
スペースさえあれば部屋の中ほどに置けばなんとかなるグランドと違い、アップライトというのはどうしても壁に寄せる必要があり、逆に置き場に困るという一面をもっています。

Aさんに「買いませんか?」とは言ってみるものの、すでにご実家を含めてマニアックなピアノ3台持ちなので、さすがにこれ以上というわけにもいかないだろうし、互いに気になるといったやり取りをしつつ、その日は終わりになりました。

一夜明け、まずは写真をPCに落とし、拡大してにらめっこが続きました。
その結果、疑問に思える点がいくつか挙がりました。
まずはフレーム。弦が交差する三角州のところにあるエンブレムには、その老舗メーカーのロゴが入ってはいるものの、いかにも取って付けたような感じであることと、そのエンブレムの形状や文字などのデザイン/作りが見るからに雑で、こんなものをこの老舗メーカーが作るだろうか?ということ。
また高音側にもそのメーカー名の立体文字があるにはあるけれど、ネットで見るそのメーカーのフレームには、より小型のアップライトでさえ、もっと長い正式名称が恭しく並んでいますが、ヤフオクの方はやけにシンプルに社名のみ。

さらに、オークションの商品説明では、製造年が書かれておらず、どれぐらい経過したピアノであるかもまったくわからない。
なにより不信感を抱いたのは、鍵盤蓋にあるロゴマークが、新旧問わずこれまで見たこともないフォントで風格がまるでない。
ネットで見る同社のピアノは、小型のものでもさすがはドイツ製という凛としたクオリティが感じられるのに対し、このピアノはどことなくユルッとした感じも気になりました。

車で行けない距離ではないので、もし落札されなかったらとりあえず見に行ってみることも考えていましたが、細かい点検をしているうちに少しずつ興奮が冷めていくのがはっきり自覚できました。

ついに終了時間が過ぎましたが、結果的に入札はありませんでした。
商品説明の欄に問い合わせ用の電話番号が書いてあったのも珍しく、ものは試しで電話してみると、対応に出た方は素朴な感じで、現物確認には快く応じてくれましたが、先方は田舎のリサイクルショップだそうで、それですべての合点が行きました。
当然ながらピアノの知識は気持ちいいくらいゼロで、見知らぬメーカーのピアノを抱え込んで持て余しているといった様子でした。

「ヤマハの調律師さんを呼んだことがありますが、よくわからないと言われました」などと、この商品に対して、ぜひ売ろうと言う意気込みが薄いというか、どうせ売れないだろうという諦め気分が話し方に出ていました。
もしこちらが本気で買うとなれば、値引き交渉などもずいぶん可能性のありそうな感じでしたが、いかんせん、ピアノそのものへの疑念が出てしまったために、この話そのものがお流れとなりました。

半分残念、半分ホッとしたといったところで、もしこれが名前通りのピアノであったなら、これまたややこしいことになるわけで、幸いそうならずに済んだわけですが、こんな老舗メーカーの名を語る偽物があるとしたら、これはこれで由々しき問題だと思います。
骨董の鑑定家なども言われることですが、細部の点検も大事だけれども、まずは全体から受ける雰囲気に違和感や疑問を感じたときはやめたほうがいいのだそうで、そこにあれこれ理由をつけて自分を納得させても、結局は失敗に終わるのだそうです。

とはいえ、ちょっと面白い体験でしたし、勉強にもなりました。
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YouTubeサマサマ-2

「飛行機事故は連続する」といったジンクスがあようで、そんな大げさなものじゃないけれど、物事って往々にしてそういうきらいがあるようです。

CDの復活から、わずか2日後のこと。
いつも使っている乾燥機から、ギュルギュルという聞き慣れない、あきらかに普通ではない音が出はじめるや、安全装置があるのか、ほどなくストンと自動停止してしまいました。
洗濯物の入れ過ぎかと思い半分ほどの量に減らしてもダメ、最後はカラにしても症状はまったく変わらず、すぐに自動停止してしまいます。
何事か?と、いろいろ見ていると乾燥機の下部に貼られた注意書きに「火災の恐れが…」という文言が目に入り、ビビってそれ以上動かすのをやめました。

乾燥機はただでさえ高温になるので、万一を考えて、留守中など人がいないときは回さないようにしています。
それにしても、乾燥機が使えないとなると、我が家では洗濯物を外に干す習慣がないので「これは困ったことになったな…」と思いました。

YouTubeのおかげでCD修理が自分でできたことに喜んでいたタイミングでもあり、同様に乾燥機の型番を入れて検索すると、やはり該当の修理動画というのがあり、ありがたいことだと思いました。
背面パネルというのがあって、それを外すと中のファンがむきだしになるようで、その中央にあるプラスチックワッシャーの破断と、ファンを駆動する5mm径丸ベルトの交換が主な修理箇所というのがわかり、Amazonとヤフオクでさっそく注文。
さらには「必ず必要になります」というアドバイスに従いホームセンターで機械用グリスというのを買って来ました。

パーツの到着までに数日かかりましたが、その間、洗濯機にある「乾燥機能」で乗り切るしかないようですが、実はこれまで一度も使ったことがなくて初めて使いましたが、これがもう最悪のシロモノでした。
乾くことは乾くけど時間はかかるし、乾燥機のようにクルクル回さないのか、シワくちゃのままで靴下やタオル等ならまだしも、それ以外のものでは使えたものじゃなく、乾燥機のふっくら仕上げとは雲泥の差です。
だいたい、多機能というのはろくなことはないし、洗濯と乾燥というの「濡らす」と「乾かす」はまるで逆で、これを一台で済ませようというのがどだい無理だと思いますし、機械通に言わせると、機能はできるだけシンプルにしたほうが性能もよく故障も少なく、万一の場合も修理がしやすい。多機能タイプはひとつひとつの機能は中途半端で妥協的、おまけに機能の一つでも壊れると修理や買い替えの対象となって、一見便利なようで実はいいことはないと言います。

ようやく部品が揃い、スタンドから乾燥機本体を二人がかりで床におろして作業を始めますが、数年分のホコリ等を除去すべく、ハンディクリーナーを横にスタンバイさせての作業です。
ずいぶんな数のネジを片っ端から緩めてようやく背面パネルを本体から取り外し、その5mm径丸ベルトをプーリーから外すと、新品にくらべてずいぶん伸びており、これがトラブルの原因だったようです。
プラスチックワッシャーは対策されたのか、金属製に変わっており問題ないようでした。

また、このベルトが回転中、他に干渉しないよう当たる分厚いフェルトも、ピアノの弦溝のように擦り減って凹んでおり、当たる場所を変えて付け直すなどして、いよいよ電源を入れて試運転してみると、問題なく動き出しました。
仕上げに掃除&グリスアップなどを可能な限りやって、背面パネルを取り付けて再度試運転したら、問題のギュルギュル音は消え去って、まったく正常に動き出しました。

こちらは、ベルトやグリスなど合計でも2000円未満。
この歳まで機械ものの修理などやったことがなかったので、立て続けに2つの修理を終えたことは自分としては感無量で、おもわず「為せば成る為さねばならぬ何事も…」という言葉が何度も去来しました。

このふたつを、普通に買い替えていたら、どう安く見積もっても10万円を軽くオーバーする出費となっていたのは間違いなく、修理依頼したとしても、煩わしい上に、買い替えと悩むぐらいの修理代となったでしょうから、どの角度から見てもえらく得をした気分でした。
のみならず、これまで壊れたということでしぶしぶ買い換えていた家電類は、今回のように、ほとんどの部分はまだ充分使える状態であるにもかかわらず、ほんの微々たる一部の不具合によって丸ごと打ち捨てられていたのかと思うと、いかに現代が経済中心の社会とはいえ、無駄にもほどがあるということを身をもって感じました。

これを書きながら、ハッともう一つ修理していたことを思い出しました。
2年ほど前、テレビのBDレコーダーが使えなくなり新品に買い換えたものの、症状は、背後にある小さな扇風機みたいなものからジージーと異音がしはじめて、やがて録画も再生もできなくなったので、これが原因か?とネットで見てみたら、その小さな「扇風機」らしきものが補修用としてヤフオクにズラリと並んでおり、平均して2000円ほどでした。
新しいBDレコーダーは買ったことでもあり、ダメモトでこのパーツを買って、やはり分解してこれを付け替えたところウソのように元通りになり、レコーダーが丸々一台浮いた形になったので、こちらは自室で使うようになりました。
故障によって録り溜めしていた多くの番組が、一気に失われて悲痛な気分になっていましたが、これもすべて蘇りました。
けっきょく一台増えたことになり、今も元気に動いてくれています。

こういうことを経験してみると、資源を無駄にしてでもモノが売れてほしいのか、叫ばれる地球環境が大事なのか、もうわけがわかりません。
みなさんも家電が故障したら、まずはYouTubeで修理方法を見てみることをおすすめします。
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YouTubeサマサマ

ピアノネタではないのですが、メカがまるでダメのマロニエ君にとっては極めて異例なことながら、CDプレーヤーの修理のようなことをやってみたので、ちょっとそのお話。

某所で使っているヤマハのアンプ内蔵式CDコンポ。
購入して15年以上になるもので、このところCDの読み込みが不安定になり、ついには「動かなくなりました」ということ。
試してみると、何度やってもウンウン言いながらディスクを認識せず、あきらかに故障でした。

決して高級品ではないけれど、中ぐらいのものだったので、同等品に買い換えるにはそれなりの出費となるし(すでにヤマハはもうこの手は作っていないらしい)、個人的に使うものならあれこれの代替案もあるものの、これを使っている場所はそうもいかないので、どうしてもこのような普通のものでないと困ります。

まずはメーカーに修理依頼することを考えましたが、サービス受付の電話番号をしらべたり、修理依頼にも直ぐにじは人と話ができない疲れる電話システムや都合のすり合わせなど、要するに手間と時間のかか手順が待っているし、おまけに結果如何にかかわらず出張費用などが発生したり、物を送らないといけなかったり、それらを考えただけでもウンザリ。
しかも年代物となるとさんざん待たされたあげく「パーツがなく修理できません」とか、もしくは新品に買い換えたほうがいいような高額な修理見積もりとなる可能性もあり、それを思うと気が進みませんでした。

ならばメーカーではなく、オーディオ専門店に修理依頼してはどうかと思いネットで調べてみると、いくつか受け付けてくれそうなショップはあるにはあるものの、これがメーカー以上に怪しげな雰囲気。
とりわけ目についたのは、専門店ということで、やたら高そうな機器の写真ばかりがズラリだったり。

ダメモトで一件だけ電話してみると、いかにも専門家ぶったズケズケした話し方で、たたみかけるように「まず、型番を教えてください」と言った具合で、しかも修理代金は1万円からのスタートで、故障内容によってだいたい数万になることもあります!と、やや圧迫的な響きがあって、予めそれぐらいかかる覚悟をしておくように…といわんばかりの態度でした。
その話し方だけでも御免被りたいし、最低料金で済むことはまずないだろうと思われ、それでも修理依頼する気にはなれませんでした。

その上、「これってクリーナー用のディスクは試されましたぁ?」「いいえ」「まず、それやってくだい!それで治ることもありますから、まずそれやってからですね」と、やることをやなさい。それでダメだった時に修理のことを考えるのが順序だよと言わんばかりで、まったく先方のペースで…ここはボツ。

そこでアッと思いついたのがYouTubeで、機器の型番を入れて「CDを読み込まない」という文言で検索すると、さまざまな修理の様子がアップされており、しかもわかったことは、多くの場合、CD情報を読み込むピックアップレンズというのを、ただ磨くだけで回復するというケースが多数ありました。
それでダメな場合には、レンズそのものを交換するなど、次の手段になるようでした。

というわけで、何度か動画を見て、慣れないドライバーを引っ張りだして、おそるおそる分解してみることに。
カバーが外れると、中は思ったより空洞で、底にある基盤はホコリだらけ。
問題のピックアップレンズには上部のカバーなどがじゃまで、なかなかそこへ到達できないし、それ以上分解したら元に戻す自信がないので、カバーの横から綿棒を突っ込んでちょこちょこ動かしていたら、何度かやっているうち薄茶色のホコリの塊のようなものが先端に引っかかってきてびっくり。
さらにレンズのあたりを繰り返し綿棒で動かしていると、やがて綿棒に汚れがつかないようになり、そこで試しに電源を入れてCDを挿入してみると、これまでの不調はウソみたいにスムーズになり、やすらかにディスクを認識、何事もなかったように再生するようになりました。

これだけで修理完了とはさすがに思いませんが、さしあたり自分でできるのはこれぐらいと思って、バラしたパーツを注意深く元に戻してスピーカーにつなぐと、問題なくディスクは再生され、左右のスピーカーから当たり前に音が出て「ヤッター!」となりました。
最低料金1万円どころか、使ったのはドライバーと綿棒の4〜5本だけ。

これまでなら、なんとなく寿命だろうと考えて買い替えになったところですが、故障の原因は、さしあたり長年の使用でたまったレンズの汚れだけで、それさえ取り除けばまだしばらくは使えそうでした。
こんな微々たることで危うく新しいセットを購入するなど冗談じゃないし、こんな些細な事から世の中の裏側を見てしまったようです。
まさにYouTubeサマサマでした。
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続・知名度がすべて

前回の続きをもう少し。
国内の小規模の良心的なピアノメーカーが、適切な評価も与えら得ぬまま消滅してしまったことは、残念というような言葉では足りません。
その無念さの中には、日本のピアノをとりまく無理解への恨みも滲んでいるかもしれません。

ピアノビジネスにかつてのような隆盛が二度と来ないであろうことは、もちろんわかっています。
しかし、一部の伝統工芸が辛うじて生きながらえている程度に、その命脈はかすかに保たれるべきではなかったかと思うのです。

いかなる分野でも、小規模でも良い物が生み出されて、一定の支持者のもとに届けられるということさえ立ちいかなくなるのは、市場にも大きな責任があります。大手の製品でなければ二束三文、場合によっては処分料を求めるなど、こういう扱いを受けてはマイナーメーカーの生きる道はないでしょう。
市場原理に沿った結果というのは容易いけれど、認めるべき立場の人達の大半が、大手の側についたということも見逃せません。

司馬遼太郎の小説などにたまに出てくる、「間口は狭いが、堅実な商いをやっている老舗」というような描写がありますが、こういう小規模でもしっかりしたものが立行かない世の中というのは、個人的に好まないし、強大な大国的なものしか生き残れないという息苦しさを感じます。

有名メーカーの表面だけ滑稽なほどピカピカした、音の出る家具か電気製品みたいなものがほしい人はそれでいいけれど、そういうものを好まない価値観を持った人達へのささやかな門戸さえ次々に閉ざされ、選択の余地さえないというのは、これこそ文化的貧しさの証ではないかと思います。

すでに何度も言ってきたことですが、ピアノの特殊性は、他の楽器に例を見ないほど重厚長大で、ゆえに持ち運びができないという決定的な宿命を背負っていることで、このことがまず弾く人と楽器の関係を引き離し、関心をも奪った要因ではないかと思います。
いつも自分の愛器と一緒にいいられる弦や管の人達の、楽器によせる愛着やこだわりに比べると、ピアノを弾く人にとってのピアノとは、それはもう無残なものです。

「もしもピアノが弾けたなら」ではないけれど「もしもピアノが持ち運べたら」、やはりピアノを弾く人も楽器へのこだわりは必然的に高まることは日を見るよりも明らかです。

数ある器楽奏者の中で、ピアニストだけがいつも身体一つで移動して、行き先にあるピアノを是非もなく使ってベストを尽くさなければいけないのは、考えてみれば異様なことですよね。
まずこれが、自分のピアノにこだわってみても無意味と考えるようになる、はじめの第一歩だろうと思います。

さらに、ピアノは楽器の中でも、機械としての要素、工業製品としての側面が大きいから、ここがまた大手の作るものに信頼が集まりやすく、そういう要素のことごとくが大手にとって幸運だった気がします。
ピアノにかぎらず、人間の身体よりも大きいモノというのは、えてしてそういう傾向があるのかもしれません。
これは、どこか車にも似ており、大手メーカーの生産なら安心だけど、もし名も知らぬ小さな町工場が気の利いた車を作ったとしても、それが認められ支持されることは甚だ難しいと思いますが、それとどこか似ているように思います。

それでも、普通なら優れたものは、時間がかかったとしてもやがて少しずつでも認められ、価値が出てくるのが普通ですが、ピアノに関してはまるでそういう空気がなく、これほどまで徹底して日本における手作りピアノが衰退(というか消滅ですね)するというのは、日本人の西洋音楽に対する、本質的なところの限界をも感じます。
できるのは、せいぜいスポーツの覇者になるように鍛錬し、海外コンクールで上位入賞を果たすところまでで、音楽を自分の実生活に溶け込ませ共存させることは、おそらくこの先もできない。
すなわち西洋のクラシック音楽を自然な楽しみとして受け入れることが、どうしてもできない。

少量手作りというのは、日本人にとってはどこの馬の骨ともしれない、下手をすれば失敗や後悔の可能性が高いものとしてしか捉えられないのでしょうし、なにしろ人と同じマークのついた定評のあるものを好む民族ですから、流れに反してでも自分だけの価値を見出すなんてことは最も体質に合わないことなのかもしれません。
文化芸術の一番の栄養は、「これは素晴らしいという気づき」にあると思うのですが、それは時として大勢に逆らうことでもあり、川の流れに背を向けることは、審美眼と信念と気骨が要りますからね

よって日本には楽器としてのピアノ文化は育たないと思うのですが、その一方で、ショパン・コンクールのステージには4社あるピアノメーカーのうちの2つが日本製というのは、このトリックはなんなのかと思います。
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知名度がすべて

先日、日本の某手作りをピアノを愛用されている知人の方から、いろいろと情報満載のメールをいただきました。

固有名詞や具体的なことは避けますが、ついに日本国内で、良質の材料を使った手作りピアノはほぼ絶滅したということが書かれており、いまさらですがフッとため息です。いつかは購買層の世代も変わり、価値あるものが一定程度見直され、わずかでも立ち上がる時が来ればと思っていましたが、ピアノというのはとりわけ評価や再発見が難しいものかもしれません。
一部の専門家や好事家は別として、一般的には…。

なぜこんなことになったのか、専門家に言わせればいろいろな要因を並べ立てるのかもしれませんが、マロニエ君が個人的に感じるのは、日本人の右へ倣えの民族性と、日本のピアノ音楽教育の常識が大元になっているのではないかということ。

日本は当たり前ですが、西洋音楽の伝統がないまま、文化の模倣として始めた国。
それも明治からと云いたいところですが、本格始動したのは戦後の復興期からでしょう。
大戦前からピアノを触っていたような人は、一握りの特別な人達であって、多くは戦後の高度経済成長とともに、子供にもピアノという文化を身につけさせようという機運の高まりによって、日本独特のピアノ文化が花開きます。
そこで注目すべきは、ベルトコンベアにのせた大量生産方式で作られた国産ピアノが、そのブームの中心であり標準機として使われたこと。

その波にあやかるべく、日本には信じられないほど夥しい数の大小ピアノメーカーがあったようですが、無論それらのすべてが良質ピアノだったとは到底いえません。
中には時流に乗って一儲けしてやろうという動機から、音楽もろくにわからない人達の手によって製造されたピアノもたくさんあったでしょうし、当然劣悪な品質のものもあったはずです。

そんな中、未知の階段を駆け上がるように、初めてピアノを買うとなれば品質や音色の判断力などあるはずもなく、多くの場合はピアノという夢を買うことだけで一大事だったと思います。
当時、ピアノが大量生産品か、クラフトマンシップによって生み出される名品かなど、考えた人は一般にほとんどいなかったと思われますが、ではそれが過去の話かといえばそうでもなく、現代においても、半世紀前と大差ない状況のように思います。

これといった根拠もないまま、大手の有名メーカーだけが信頼できるもので、その他多くは二級三級扱いという構図が知らず知らずの間に出来上がります。いや、そういう認識が意図的に作られたのかもしれません。
くわえて、大手は力にものいわせて全国津々浦々まで販売店を配置、さらには音楽教室まで展開し、その先生たちも師弟関係を装った準営業マンみたいなものだから、これらが覇権を握り、中小は品質如何にかかわらず淘汰されるのは必然だったでしょう。

つまり、日本では、ピアノといえば欧米では考えられなかった大量生産品が標準であり、ピアノの優劣に対する感性がほとんど育たなかったという背景があると思うのです。
これは楽器の優劣を考えることさえ、情報が遮断されていたも同然かもしれません。

いいものとは大手の作る大衆品で、音や響きの優劣を探ろうとも考えようともせず、ほとんど思考停止状態で、ひたすらブランド名だけがものをいう世界。
これでは、小規模生産の良品など出る幕がありません。

どんなに誠実な良品であろうとも、まるで見向きもされないという不条理。
これでは、志ある製作者たちもやってられないという絶望感に打ちひしがれたことと思います。

どんなに良心的な商売をやろうにも、巨大ショッピングモールには敵わないという、あの感じですね。
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泣けました

YouTubeをあれこれやっていると、アレクセイ・ゴルラッチがベヒシュタインでショパンを弾いている動画がいくつかありました。

スケルツォの2番、ベルスーズ、いくつかのマズルカなどでしたが、これがすばらしかった。
隅々までこまやかな神経が行きわたった品位のある美しい演奏であることに、嬉しい驚きをもって、思わず聴き惚れてしまいました。
ショパン演奏として趣味がよく、磨きぬかれた適切なタッチ、丁寧な語り、しかも、準備された台本通りという感じもなく、表情や語りかけなど今そこで紡ぎ出される音楽の息遣いがあって、久々に好ましいものを聴いたように思いました。

ショパンコンクールで聴くいろいろな演奏は見事だけれども、どうにも素直に気持ちが乗っていけないものが常に払拭できずにいましたが、マロニエ君はこういうショパンが好きだということを、あらためて確認できました。
よく準備されているけれども、このピアニストの持ったもの、感じたことが素直に投映されたものであり、本音を排して決められた計画通りに演奏されるショパンとは、根本的に意味の違う本物の語りが聴かれました。

ひとつひとつの音形が必然的に響き合い、ごく自然に現れては、さまよい、逡巡し、解決され、また次の山を迎えるいくさま、そのどれもにかすかな吐息のような感情の息遣いが常に息づいており、それが聴く者の心を深いところで慰め、現れ、悲しみを共感するようです。
さらに大切な点は、演奏者が細部のちょっとした間合いや緩急などに、奏者がそのように感じ、非常に大事に取り扱っている点などが、聴いているこちらが伝わり、なにかを受け取ったように気持ちになれるところが音楽を聴く上でのキモではないかと思います。

これは、少しでも踏み外すと崩壊しそうなところが、ギリギリで掬い取られてそうならずに保たれて、危うい緊張感の中から細い穴を通り抜けてくるように伝わってくるところなどで、いやはや感心しました。

また、ベヒシュタインによるショパンというのもさほどピンとくるものはなかったのですが、あらためて聴いてみると、なかなか悪くないと思いました。低音がやや素朴すぎるように感じない時もありましたが、概ね好ましく思いました。
特に次高音あたりの美しい音色と一音一音が可憐に語りかけるような特性が、ショパンに意外に相性がいいことにも気づきました。
それで思い出しましたが、いつだったかドビュッシーの本に書かれていましたで、ベヒシュタインとプレイエルは、アーキテクチャーが繋がっている、意外な血縁関係にもあるということで、ああ、なるほど、そういうことかと思いました。

むろんなによりもゴルラッチの演奏が素晴らしいわけですが、それがこのベヒシュタインが下から支え、どちらかというとベートーヴェン的な演奏の多いスケルツォ2番が、これほど繊細で物悲しく、深い憂いをもって耳に入ってくるのは、たぶん初めて聴いたような気がしました。
こんな表現は他のピアノでは出せないものかもしれないし、ずっと聴いていると耳も馴染んできて、気がついたときにはベヒシュタインが軽やかに歌うフランスピアノのように聴こえてくるのですから、人間の耳とは不思議なものです。

この人は、あまり聴いたことはなかっただけに、こんなにも素晴らしい面を持った人だったのかと思いつつ、たしかむかし浜松コンクールで優勝した人だったと思ってウィキベディアを見てみると、なんと…彼もウクライナのキーウ出身とあり、先にウクライナ出身の音楽家のことを書いたばかりだったので、なにかに打たれたような気分でした。

いまや、ポーランドでさえコンクール仕様のニュアンスを失った正確一本のショパンが横行する中、こんな好ましいショパンを効かせてくれるピアニストがいて、もしやあの戦火の中のウクライナに今もいるのかと思うと、いやが上にもショパン自身の運命とも重なるようで、胸が締め付けられるような気持ちになりました。
ウクライナの男性は子どもと高齢者を除くと、国外にも出られないようだし、出られてもウクライナに生を受けた人間の多くは祖国を離れるようなことはないのだろうから、彼はどうしているんだろうと無性に思います。

この演奏は2017年にベルリンで行われたようですが、その繊細な美しさと悲しみ、ときに慟哭に満ち、あたかも今のウクライナを予見した静かな叫びとそのものように聴こえてきて、思わず涙を誘いました。
さらには、このような繊細な感受性に満ちた磨きぬかれたタッチによる演奏なら、ショパンが聴いても満足するのではないか?という気がします。泣けました
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