空き家

ちっとも知らなかったのですが、いま大きな社会問題として浮上しているのが、急増する空き家の問題なのだそうで、最近NHKでそれを採り上げた番組をたまたま見て非常に驚きました。

現在日本中で「空き家」がなんと820万戸!!!にも達していて、有効な手立てもないまま、今後も増え続けることは確実というのですから、これはちょっとしたショックでした。

主な理由は、人口減少に加えて生活形態の変化などが重なってこのような現象に至っているとのこと。

親の家があっても、子供が大きくなって社会人となり、結婚して家庭を持つと、利便性の良い新しい住まいを見つけるのだそうで、多くの実家は通勤に不便であったり、家としての機能が古いなど、要は次の世代からみて魅力がないのだそうです。その結果、親の代に買った(あるいは建てた)せっかくの家は、大半が親の世代のみの役割で終わってしまうというのです。

戦後、新時代/新生活の明るい希望の象徴のごとく建てられたあまたのマイホームやニュータウンの類は、現在はその隆盛も過ぎ去り、寂しい建造物の群れのようになっているのがいくつも紹介されました。

家というものにも、流行り廃りもあるし、数十年も経てば古くなり朽ちていくという現実をまざまざと思い知らされます。その点においては、いくらか寿命が長いというだけで、所詮は家電製品や車と変わらない運命にあるという厳しい現実を突きつけられるようでした。

専門家によれば、空き家というのは極めて好ましくないものだそうで、空き家が増えてくると、その周辺の環境は急激に悪化し、治安も悪くなり、当然のように地価も下がっていくとのこと。さらに住む人が少なくなれば自治体最大の収入源である税収が減ってしまうことで、既存のインフラの維持費さえままならないようになり、これが悪循環となって、最後には街そのものが破綻してしまうというのですから、これは他人事ではすまされない、かなり深刻な問題だということがよくわかりました。

これまでは「空き家」があるからといって、それで街全体が衰退するなんて思いもしませんでしたが、たしかに空き家一つが周囲に撒き散らすマイナスイメージはかなり甚大なものであるとわかってきました。
ひとつの空き家は次の空き家を作り出し、細胞分裂のように広がっていくようで、いったんこの流れができると止めようがないのですから、ある種のパンデミックのようで恐ろしいことだと思います。

そもそも、人の棲まない家ほどいやなものはありません。
草木は生い茂り、窓も戸も閉まったっきりの家というのは、まさに家が死んでいる状態で、要するに街のあちこちに家やマンションの死体がゴロゴロしているようなもの…といっても過言ではないでしょう。

何事もそうですが、いいイメージを積み上げていくのは大変ですが、悪い方はあっという間です。

高度成長期に建造された多くのアパートなどが、次第に廃墟のようになっていくことを当時の人達は誰も想像しなかったでしょう。スタジオのゲストの一人が言ったことは衝撃的でした。
要するに家というのは建てた人一代限りのものであって、子育てが終わったらその子どもたちはまずそこに住むことはない。…ということは、いま次々に建てられている臨海地域のタワーマンションなんかでさえ、4~50年すれば同じようなことになる!と言っていたのは、こわいような説得力がありました。

また空き家を空き家のままにしておくことは、みっともないだけでなく、犯罪者のネグラになったり、放火の危険にさらされるなど、良いことは何一つないとのことですが、それがわかっているのに所有者は解体にさえ踏み切れないのだそうです。
解体するにも費用がかかることももちろんですが、最大のネックになっているのは税制でした。
そもそも国は国民が家を建てることを推奨するための政策として、土地に上モノが乗っていれば固定資産税が安くなるという優遇措置をとったのだそうですが、解体時はこれが裏目に出て、更地にすると税金が一気に6倍!にもなるのだそうで、これではなにも事が進まないのは当たり前だと思いました。

さらに空き家になるようでは物件としての魅力もないわけで、借り手も買い手もなく、所有者もなすすべがないわけです。スタジオ参加者の女性のひとりは、最後の手段として市に寄付することを申し出たのだそうですが、寄付さえもあっさり断られたというのですから、唖然とするほかありません。

やはりスタジオに来ていたお役人の説明によれば、自治体がその土地を使用する目的や見通しがある場合は「いただく」こともあるが、そうでない限りは寄付であっても受け付けないというのですから、ひぇぇ、まさに泣きっ面に蜂といった話です。

驚くべきは、そんな空き家が増大するいっぽうで、新築住宅のための宅地開発は止むことなく続いているのだそうで、このような住宅政策そのものを「焼き畑農業」といっていた専門家もありましたが、将来のことも考えない無節操な住宅開発のツケがいま回ってきているということなのでしょうか。
ともかくいやな話でした。
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さらば!ことえり

新しいパソコンを使い始めるのは、マロニエ君にとって生活の一部を入れ替えるほどの一大事です。
こう書くと、まるで精神的にパソコンに依存しているようですが、ただ単に苦手だから気が重いわけです。それでももはやこれナシでは済まされないところまで生活全般に浸透しているので是非もないわけです。

それに、こんなくだらないブログ遊びをやっていられるのもパソコンとネットのおかげですし。

パソコンを入れ替える面倒から逃げるため、買ったのに一年間も放置してしまったことはすでに書きましたが、周辺機器、ソフト、保存されたファイルなどが複雑に連動し依存しあっているため、パソコンを新しくするということは、新しいマシンを中心に元の環境を再構築することを意味します。OSの関係で使えないものも出てくるし、とにかく手間暇がかかります。

詳しい方はパッパッとわけもなくやってしまうのでしょうが、この手が甚だ苦手なマロニエ君は何日たっても望むような環境にはなかなか到達できません。そればかりか次から次に不慣れなトラブルやわけのわからない問題が発覚し、その対処に追われることの繰り返しで、まったくバカバカしいエネルギーだと思います。

そればかりでなく、かなり深刻な問題も発生しました。
パソコンが変わったことで眼精疲労というのか、とにかく目が疲れ、パソコンの前に座ると視界がボーっとする、ひどい時には不快感が増して頭痛へと拡大します。見え方自体は前のものより良くなっているはずなのに、なぜそうなるのか不思議でしたが、最近やっとその理由がわかってきました。

以前使っていたのはノート型で画面も狭く感じていたので、今回はデスクトップのiMacにしたところ、むやみに画面が大きく、以前の3倍近くはあろうかという迫力です。
画面が広大になったぶん快適なようですが、自分の視界の大半が液晶画面で占領されることになり、要するに目の逃げ場がなく、これがどうやら疲れの原因らしいということがわかりました。「過ぎたるは…」の喩えのとおりの新たな苦痛が発生です。

さらにストレスに拍車をかけたのが日本語入力システムの「ことえり」で、昔もこれが馴染めないからといって同種のIM(インプットメソッドという由)で定評のあった「ATOK」を知人のススメで使っていました。そういうわけで、ずいぶん久しぶりに接した新しい「ことえり」でしたが、それなりに改良されているだろう…という淡い期待は見事に外れ、その使いにくさときたらあらためて呆れるばかり。
多少のことは割り切って機能だけで乗り切っていく構えでしたが、入力のたびに「ことえり」に介入されることだけはガマンができません。変換のテンポが鈍いうえに、まったく賢くない、入力する側との呼吸感がまったくないなど、これなら昔のワープロでもまだマシだったような感じです。

ことえりのおかげでイライラとミスは倍増し、これではまずいながらも文章になりません。
もはやATOKを買うのは必至となり、そうなると居てもたってもいられずにバージョンなどを調べていると、おや?というブログに遭遇しました。

この世界で仕事をされているプロの方の書き込みで、どうやらATOKを長年愛用してきた方らしいのですが、グーグルによる同種の日本語入力システムが存在するとのこと。しかもすこぶる使い心地が良く、これが世に出てきた日がATOKの命日になったとまで書かれていますから、相当の秀才なんだろうと思いました。

あまつさえ、その秀才が無料でダウンロードできるとあり、半信半疑でインストールしてみると、果たして書かれている通りにすんなり出来ました。
おそるおそる使ってみると、アッと声が出そうになるほどレスポンスはいいし、変換も思い通りにスイスイできるし、こちらの考えを先読みさえしてくれるようで、これは本当に思いがけない嬉しい驚きでした。少なくともマロニエ君が以前使っていた古いATOKの数段上を行くもので、まるで別次元の快適性能がいきなりタダで手に入ったというわけです。

ATOK購入のため、一万数千円の出費を覚悟していたのですが、むろんその必要もなくなりました。
とにかくこの日本語変換システムというのはパソコンを使う上(とくに文字入力)ではなにより大切で、何日も続いていた灰色の空が、あっと言う間に鮮やかな青空へと変わったようです。
ことえりをお使いの方はぜひお試しになられてはどうでしょう。
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ひとりだけの危険

故障知らずの日本車と違い、数の少ない輸入車に乗るのは、劣悪な条件の下での維持管理との戦いでもあり、いかに趣味とはいえ時としてしんどいものです。

古いシトロエンという特殊性と、それを乗り続けたい弱みから、相当な変わり者のメカニックとのお付き合いを続けていましたが、その忍耐にもさすがに限界が来ていたところ、ふってわいたようなチャンス到来で別のディーラーへ行くようになり、少しばかり状況が好転したことは以前このブログで書きました。

それいらい、ふと感じるようになったことがあります。
というのも、いちおう悦ばしいことに、新しいメカニックの手が入ってからというもの、車の調子が明らかにワンランク上がり、乗っていて楽しい、買った頃の魅力が我が手に戻ってきたような変化が起こったことでした。いまさら前のメカニックの腕を糾弾しようというのではありませんが、技術者というものにも流儀/くせ/センス、あるいはその人の性格や人格までもがその仕事ぶりにかなり出てしまうものです。

これは技術と名のつくすべてのものに通じることでもあると思います。

そしてしみじみ思ったことは、一人の技術者だけに頼り切ることは決して正解ではないということ。
医療の世界でも、医師はいわば人体における技術者です。医療現場ではセカンドオピニオンという言葉があるように、最近では複数の医師の診察を受けて最良と思われる治療を選び取る権利が患者側にも認識されています。

これはピアノも同様のはずですが同様とは言い難いものがある。
調律師とお客さんの関係というのは、いかにも日本的閉鎖的な人のつながりで、ジメッとした人間関係が主導権を握り、技術が優先されることはなかなかありません。なにかというと「お付き合い」が幅を利かせますが、そうはいってもタダでやってもらうわけではなく、それはちょっとおかしくないかと思うのです。
ひとつには、調律師の技術というものがなかなか判断しにくいという事情も絡んでいることもあり、それだけに「お付き合い」といった要素が一人歩きしやすいのかもしれません。

マロニエ君の知る限りでも、あきらかに仕事の質が疑問視されるような場合においても、依頼者は長年のお付き合いという情緒面ばかりを重要視する、もしくは過度の遠慮をして、なかなか別の人にやってもらうという試みをしたがりません。別の人に変えたら、今までの調律師さんに悪い、申し訳ないというような気持ちになるらしいのです。

そういう気持ちがまったくわからないわけではありませんが、基本的にはそんな本質から外れたことでずっと縛られるなんて、こんな馬鹿げたことはないというのがマロニエ君の持論です。
もちろん調律師さんも人間ですから、お客さんが別の人に仕事を依頼したと知ればいい気持ちはしないでしょう。しかし、そこは意を尽くした処理の仕方でもあるし、詰まるところ何を優先するのかという問題でもあるでしょう。

忘れてはならないことは、ピアノはれっきとした自分の所有物なのであって、調律師さんとのお付き合い維持のために調律をやっているのではなく、自分が気持ちよくピアノを弾くことができるように楽器を整えてもらうということです。そのための調律を含むメンテナンスなのであるし、その仕事にはきちんと対価を支払うわけですから、ここで変な遠慮をして、弾く人がガマンをすることになるのは本末転倒というものです。

そもそも調律師さんは何十人何百人という顧客を抱えており、プロとしてやっている以上、その微量が増減するのはどんな業界でも日常のことでしょう。ましてピアノだけが一人の調律師さんと生涯添い遂げる必要なんて、あるはずがありません。

調律師さんと一台一台のピアノの関係は、年に一度か二度、数時間のみと接するのに対して、ユーザーは年がら年中そのピアノとどっぷりつきあっているわけで、ここで変な妥協をしたところでなにも得るものはありません。また、上に述べた車や医者のように、違った調律師さんにやってもらうことで全然違った新しい結果を生むことも大いにあるわけで、それをあこれこれ試してみるのはピアノの健康管理のためには必要なことだと思います。

こう書くとマロニエ君はもっぱら技術優先で、ドライなお付き合いをしているように誤解されそうですが、調律師さんとの人間関係はおそらく平均的なピアノユーザーよりは、遥かに大切にしていると自負しています。
しかし、だからといって夫婦や恋人ではあるまいし、未来永劫その人一筋というわけにはいきません。むやみに技術者を変えるのがいいわけはありませんが、すっきりしないものがあるとか、これはという出会いやチャンスがあったときには、躊躇なく新しい方にもやってもらうのがマロニエ君のスタンスです。
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山葉と河合

NHK朝の連続ドラマ『マッサン』に登場する鴨居商店の大将とマッサンは、のちのサントリーとニッカの創始者であることは驚くべき話ですね。しかもそれぞれのウイスキー「山崎」と「竹鶴」は現在世界で最高位の評価を受けているというのですから呆れるほかはありません。

ウイスキーほどの一般性があるかどうかはともかく、ピアノもかなり似たような感じです。
伝えられることをかい摘むと、ヤマハの創始者である元紀州藩士の出である山葉寅楠は手先が器用で、たまたま浜松で医療器具の修理などをしていた腕を見込まれ、地元の小学校にあるオルガンの修理を引き受けます。それがきっかけで、当時非常に高価だった輸入物のオルガンを安く作ることを思い立ち、やはり浜松で職人をしていた河合喜三郎を誘って数ヶ月かけ、見よう見まねでついには一台のオルガンを作り上げるのです。

その出来映えを東京音楽学校で見てもらおうと、二人はオルガンを担ぎ箱根の山を越え、実に250キロもの道を踏破したというのですから驚きです。これが明治の中頃(1887年)の話。

果たして、この最初のオルガンは音階などが不十分で失敗作に終わったようですが、当時の校長であった伊沢修二は国内での楽器造りを大いに推奨し寅楠は猛勉強を開始。アメリカ留学を経た後、明治33年(1900年)には国産第一号のピアノの作り上げるのですから、今では考えられない活劇のようですね。

帰朝した後に始めたピアノ造りのメンバーには、さまざまな発明などをして浜松で有名だったという若い河合小市も入っており、彼の創立した会社が後にカワイ楽器となるあたりは、まさに『マッサン』のピアノ版といえそうです。

とりわけ最初のオルガン製作と、箱根越えなど苦心惨憺の末に東京までこれを担いで行った二人が、山葉と河合であったというのは、まるで出来すぎの三文芝居のようですが、どうやらこれは事実のようです。

山葉寅楠と河合喜三郎は共同で山葉楽器製造所を設立しているようで、喜三郎が河合楽器の創始者である河合小市とどういう関係であるのか(あるいは関係ないのか)がいまひとつよくわかりませんが、いずれにしろそのまま朝ドラか大河にしてほしいような話です。

当時の日本といえば、ピアノの製造の経験はおろか、音階も満足に理解できない西洋音楽の下地もなかった明治時代で、そんな時代の日本人が、最初のアップライトピアノを作り上げたのが1900年、つづく1902年にはグランドを完成させ、ここから世界的にも例の無いような急成長を遂げるのです。
この山葉と河合はのちにヤマハとカワイとなって世界的なピアノメーカーへ輝かしい階段を一気に駆け上り、奇跡のような成功をものにするのですから、やはり日本人の特質は尋常なものではないと思います。

自ら開発することなく、既製の技術力を外国から投下され(もしくは盗み取って)、物理的な生産にのみこれ努めるどこかの国とは根本的に違います。
はじめのオルガン作りからわずか百年後、東洋の果ての小さな島国で生まれたヤマハとカワイは、欧米の伝統ある強豪ピアノメーカーをつぎつぎに打ち破り、ついにはショパンコンクールの公式ピアノに採用されるなど、今ではこの二社はピアノ界で当たり前のブランドになっています。

わけても有能な設計者でもあった河合小市の存在は、日本のピアノの発展史に欠くべからざる能力を発揮したようで、複雑な精密機械ともいえるアクションの開発には特筆すべき貢献をしたといいます。
以前もどこかに書いたかもしれませんが、カワイのグランドピアノの鍵盤蓋にだけ記される「K.KAWAI」の文字はまさに河合小市この人のイニシアルなのです。

まさにピアノのマッサンですね。
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ヤマハの木目

ピアノの木工・塗装の工房では、ちょっと不思議な話も聞けました。

工房のすぐ脇には、作業を待つヤマハの木目のグランドが置かれていましたが、見たところアメリカンウォールナット(たぶん)の半つや出し仕上げで、楽器店の依頼で化粧直しのため運び込まれたピアノのようでした。

「ヤマハのグランドで木目というのは、意外に少ないですよね…」というと、その方いわく、ヤマハの木目グランドというのは不思議なことに買った人がすぐに(数年で)手放してしまうのだそうで、すでに何台もそういうピアノを見てこられたようでした。

かねてよりマロニエ君の中では、ヤマハのグランドってどういうわけか木目がしっくりこないピアノだというイメージがあったので、この言葉を聞いた瞬間に何かしら符合めいたものを感じてしまいました。
黒よりも価格の高い木目仕様をあえて選ぶ方というのは、ピアノに対して単に音や機能だけでないもの、すなわち木目のえもいわれぬ風合いとか色調など、これらの醸し出す雰囲気へのこだわり、あるいは真っ黒いツヤツヤした大きな物体が部屋に鎮座することへの抵抗感など、さまざまな感性を経た結果の選択だと想像します。
そういう情緒的な要求に対してヤマハのグランドというのは何か少し違うような印象があったのです。

ヤマハのグランドといえば音大生とかピアノの先生、学校などが、訓練のための器具として使い切るためのピアノというイメージが強いのでしょうね。

こう書くとヤマハグランドのユーザーの方には叱られるかもしれませんが、そこにたたずむだけで何かしらの雰囲気が漂うとか、美しい音楽の予感とか、温かな心の拠りどころのようなものを連想させるキャラクターではないのかもしれません。せっかく買っても、わずか数年で多くの人が手放してしまうということは、実際に身近に置いてみて、予想と結果に何かしらの齟齬のようなものを感じてしまうからなのでしょうか…。

ふと、十数年以上も前のことで、すっかり忘れていたことを思い出しました。
当時、親しくしていたピアノの先生を車の助手席に乗せて走っていたときのこと、郊外にある当時としてはちょっとオシャレなレストランの前を通りかかると、その先生は「あ、ここ、ぼくが以前使っていたピアノが置いてある店だ。」と言いだしました。それによれば、以前ヤマハのウォールナットのグランドを持っていて、それを今のピアノに買い替えたというのです。

ところが、いきなり「木目ってよくないから…」と言い始めたのにはびっくりでした。
その理由というのが「木目ははじめは珍しさもあっていいんだけど、だんだん飽きてくる。あれはやめたほうがいい…」ということ。そして「やっぱり黒がいい!」というわけで、聞いていてひじょうに驚いたものの、あまりにも自信をもって断定的に言われたので、その空気に圧倒されて、その場では敢えて反論はしませんでしたが、これは当時かなりインパクトのある意見でした。

木目なんぞまるで邪道だといわんばかりで、ニュアンスとしては、だからピアノが主役じゃないレストランみたいな場所にはちょうどいいかもしれないが、本来はピアノは黒が正当な姿だと本心で思っているらしく、その感性にはただただ呆気にとられたものです。

メーカーの教室で多くの先生を統括する立場の先生でしたから、そのときはあたかもピアノの先生の代表的な意見のようにも感じてしまいましたが、むろんそれは彼固有のもので、木目のピアノを好まれる先生もおられることでしょう。しかし、きほんピアノの修行に明け暮れた人たちというのは、ピアノは愛情愛着をもって接する楽器というより、使って使って使い倒す道具という意識が強い方が多いのも確かなようです。こうなると実際に木目ピアノを所有しても、良さは感じないのでしょうね。

ただ、マロニエ君のイメージとしては、ヤマハのグランドはやっぱり黒で、どんなにガンガン使われても決してへこたれない逆境にも強いピアノという感じが一番です。なにしろタフで、そんな頼もしさが使い手/技術者いずれからも厚い信頼を得ている…そんな姿が一番似合うように思います。
そう考えると、木目の衣装を着こなすピアノではないというのも頷けます。
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2015新年

あけましておめでとうございます。
このブログも5年目を迎えました。
懲りもせず、よくもくだらないことを書き続けたものですが、もうしばらくは続けるつもりですので、おつきあい願えればこの上もない幸いです。


暮れの30日の夜は、ある調律師の方がやっておられる木工塗装の工房に呼んでいただいたので、滅多にない機会でもあり、ちょっとお邪魔させていただきました。

ピアノの技術者や店舗の中には自前の工房があり、そこでピアノの修理やメンテを手がけられる方がいらっしゃいますが、オーバーホールやクリーニングともなると、作業工程の中には塗装や磨きも外せない項目として含まれます。
しかし、塗装にまつわる技術というものは、ピアノ技術者にとってはいわばジャンル外の作業であり、こちらは大抵の場合アマチュアレベルに留まるのが現実でしょう。

全体としては、せっかくの丹誠こめた作業であるにもかかわらず、塗装に難ありでは最上級の仕上がりとは言えないピアノとなり、勢い商品価値は下がります。そこではじめからこの点はきっぱりあきらめて、塗装の専門業者へ任されるスタイルも少なくないようです。

オーバーホールなどでは、鍵盤とアクションを抜き取り、弦もフレームも外した、まさに木のボディだけを塗装の専門業者へ送るというスタイルの方もおられ、これは「餅は餅屋」の言葉の通りの各種分業で合理的ですが、逆にいえば一人あるいは一カ所で全部をこなすのは至難の業ということでもあるのでしょう。

当たり前ですが、木工・塗装というのは独立したジャンルであり、いわゆるピアノの修理技術の延長線上にはない別の技術であって、むしろ家具製作などの領域だといえるかもしれません。

少し話を聞いただけでもよほど奥の深い世界ということは察せられ、日々の研究も怠りないようで、いずれの道も究めるのは容易なことではありません。それだけに興味も尽きない分野だとも思いました。
プロの塗装作業のできる調律師さんというのは、いわば二足のわらじを履くようなもので希有な存在であるわけです。
この方は木工職人として、そちらの方面の全国大会にも作品を応募される常連の由ですが、その中でピアノ技術者はこの方だけというのですから驚きです。

その工房はピアノ運送会社の倉庫の一隅に塗装エリアを設けられたもので、倉庫内にはたくさんのピアノが並んでいましたが、やはりグランドは少なく、大半はアップライトでした。
マロニエ君はつい習慣的にグランドかアップライトかという目で見てしまいますが、現実はそんな甘いものではなく、最近は「ピアノ」といっても販売全体の実に8割までもが電子ピアノなのだそうで、アコースティックピアノは需要のわずか2割にまで落ち込んでいるとのことで、わっかてはいても衝撃でした。

昔のように無邪気にピアノをかき鳴らせる時代でないことは確かで、近隣への音の配慮や複雑な住宅事情など、複合的な理由からそうなっているのでしょうが、大筋では、やはり世の中が文化などの実用から外れたものに対する精神的な優先順位が低い時代になってきているというのは間違いないように感じてしまいます。

というわけで、今年はどんな年になるのやらわかりませんが、せめて大好きな音楽だけはなにがあろうと聴き続けていきたいところです。
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パソコン交換

早いもので、今年もとうとう大晦日となりました。
年末の慌ただしい時期でしたが、6年ぶりぐらいにパソコンを買い替えました。

マロニエ君はパソコンをMacでスタートしたので、Macでなくてはならないということ以外、特にこれといったこだわりはなく、周りの人たちがどなたも適当な時期にパソコンを買い替えていくのが不思議なほど、ずっと一つのマシンを使い続けます。

だって興味がないんだもん。
パソコンに関しては、新しいものにはまったく関心もありません。そうはいってもパソコンはユーザーを愚弄するほど寿命の短い機械で、ハードディスクからカリカリというような雑音が出てきたりと、なにかと危ない雰囲気が出てくるのは嫌なものです。

仕事にも絡んでいるものなので、壊れたら壊れたとき…なんてことはいっていられません。
パソコンを取り替えるということは、いろいろな設定やら何やらがあるだけでなく、従来の環境とは否応なしに変化してしまうのが鬱陶しくて仕方ありません。
実をいうと、使い始めの面倒臭さがイヤで、昨年買ったiMacを一年以上物置に置きっぱなしにしてしまっていたのですが、ついにそれを引っ張りだしたというわけです。

つまり買い替えたといっても買ったのは去年で、正確には一年放っておいたものを使い始めたというわけで、放置しておいても何かが熟成するわけじゃなし、そのぶん古くなるというのにバカな話です。
パソコンは本体のみでは用をなさず、周辺機器や、ソフトや、データなどの問題がついてまわります。これだからパソコンのお引っ越しはマロニエ君にとってストレスを詰め合わせで抱えるようなもの。

それが嫌さに一年間古いマシンで粘りましたが、プリンターが故障して新しいのを買いにいったら、もはやOSが古すぎてそれで使用できるプリンターはもう買えないことがわかり、おそらく他の周辺機器やソフトも同様とのこと。
これはもういけない…と覚悟を決めて、ついに物置にしまい込んだiMacを引っ張りだすことに。
マロニエ君の場合、IllustratorやPhotoshopが必須なのですが、手許にある古いバージョンは新しいOSでは使えないため、これらのソフトを新規にそろえるだけでも大変です。

それらのソフトはまともに買おうとしたら、パソコン本体よりも高額なため、そのハードルを越えることにもずいぶん手間取りましたが、ついに覚悟を決めたわけです。

思い切っていざやってみると、昔に比べて初期設定が飛躍的に向上していることに驚きました。
当分は新旧マシンを併用することになりそうで、これがまたいちいち面倒くさいのです。
本来、Mac同士は中を一気に引っ越しすることが可能で、それをやればいいのでしょうが、そんなことをしているとまた何か予期せぬトラブルなどに遭遇しそうで、これをする勇気もないし、そもそもやり方もわからず、調べてまでやろうとも思いません。

とまあ、いろいろと不便はあるものの、それでも新しいパソコンというのは根底のパワーや技術がアップしていているためか、やはり気持ちがいいことも事実ですね。

ただし困ったこともあり、キーボードのキーの間隔がこれまでのノート型より広くなっているため、ちょっとした文章を打つにもミスタッチの連続です。
ピアノどころか、パソコンでまでミスタッチの連続とは、なんとも情けない限りですが、指先は無意識の加減までを記憶しているらしく、どうしても以前のようなペースで文章が綴れないのは困ったことです。
さらにワープロソフトもことえりが標準で、ATOKを長年使った経験からすると、ちょっとしたことが使いにくいものです。
だからといってATOKを買って入れ直すのも面倒で、現状に慣れるしかありません。


というわけで、いつものことながらしまらない話で今年も終わりですが、来年もよろしくお願い致します。
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おもてなし?

シトロエンという一台のフランス車を20年近く乗り続けていることは、折りに触れこのブログにも書いていますが、何より大変なのはメンテナンスに関する部分です。
これといって人気車種ではないため、当然ドイツ車のようは販売台数は見込めず、輸入元はいつもやる気がなく、ディーラーはころころ変わります。国内のパーツのストックなど無いに等しいのはいつものことで、さらにはメンテを受けてくれるサービス工場というか、いわゆる主治医を確保するだけでもオーナー諸氏はいつも苦労をさせられています。

ここ10年ほどの主治医は、看板さえあげていない個人の整備工場で、有名な輸入車店の工場長をされていた方が独立してやっているところですが、ここには普通の工場は診てくれそうにない珍車・稀少車が年中あふれています。
その主人というのが大変な変わり者で、よくいえばマイペース、その上に一人でやっているものだから、その仕事ぶりはますます不規則で、約束などはほとんど役にたちません。さらには仕事が立て込むと電話にも出なくなり、それが延々何日間も続くなど、そのお付き合いの流儀は一通りではありません。

故障で困っていようが、車を預けて約束の日を過ぎていようが、ひとたび音信不通状態に入るとこれが一週間でも十日でも続きます。友人の中には、遅々として進まぬ作業のため、ついには半年間も車を預けるハメになったりと、およそ常識では考えられない世界で、さすがに最近では少し客離れが起きているような気配です。

マロニエ君もひとえに愛車のため、ここに出入りし、ひたすら忍耐を続けました。

ところが最近になって、以前この車のディーラー(今は存在しない)でメカニックをやっていた人が紆余曲折の末、福岡市内のBMWのディーラーに勤められることになったらしく、驚いたことにはシトロエンも受け付けるという情報を仲間内から得たので、二三修理を抱えていたことでもあり連絡を取ってみました。

果たして快く受け入れてくれることになり、さっそく車を持ち込み、二週間ほど預けてつい先日引き取ってきたところです。

くだんのマイペースおやじのファクトリーに比べれば、距離もグッと近くなり、電話には必ず出る(ディーラーなので当たり前ですが)、しかも腕も良いのですっかり気が嬉しくなりました。

それだけ状況は好転したのだから十分ではありますが、気になる点も少しありました。
ひとくちにBMWのディーラーといっても市内にはずいぶんあちこちにあって、しかもそれぞれ母体となる親会社が違っていたりと、どこがどうなっているのやらさっぱりわかりません。

今回の店舗・工場は比較的最近オープンしたところですが、敷地内に入って車を止めようとするや、ショールームの中から若い女性が二人と男性一人、計三人もが脱兎のごとく飛び出してきて、寒風吹きすさぶ中を車外で待機して御用伺いをします。ドアを開けるなり、来意とメカニック氏の名を告げましたが、こういうことをあまり過剰にやられるのは却って快適とはいえないものがあります。

修理が終わり車を受け取りにいったときも同様で、手厚いお出迎えとともにショールームの一隅に案内され、希望するドリンクをもってきてくれるなど、ありがたいことではありますが、そのいっぽうで、たかだか修理明細を作るのに延々と長時間待たされるのはどうかと思いました。
ついにしびれを切らし、今日のところは支払いだけ済ませて明細は後日送ってもらうことになりましたが、今度は領収書を出すのにも再び待たされます。

上質な「おもてなし」のかたちをとるのは結構だけれども、何時ごろ行くというのはあらかじめ伝えた上でのことなので、こういう肝心なことはもう少し迅速に願いたいところです。
たしかに車(とくに輸入車)の顧客の中には、ディーラーで受ける接待がよほど心地いいのか、これをひとつの楽しみにして、なにかというと店に出入りしているような人も少なくないようなので、店側も迅速に事務処理をするという必要性がないのかもしれませんが、マロニエ君のようにその手のことに興味がない側にしてみれば、いささか鬱陶しいのも事実です。

快適というのは形ではなく、精神の領域にあるものだということをあらためて思いました。
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続・それぞれの道

長い歴史の中で、職人や物作りの最前線で圧倒的に男性が多いのは、たしかに昔の男社会的な悪しき感性を引きずっている面もあると思いますが、現実問題として仕事のクオリティなどが男性向きであったことも要因のひとつであったと思います。

男性の仕事が正確で美しいのは、べつに男のほうが能力があるからとは思いません。
もてる能力の総量においては、男女でこれといった差はないというのが一般的な認識ですし、そこはマロニエ君もまったく同様の考えです。要は、その能力の用い方、運用の手順や方法が男女ではかなり違うのだろうと思います。

男はなんにつけてもあれこれの気を遣いますし、前後左右に注意の意識が働きますが、これは悪くいうなら臆病で心配性ということもできるかと思います。

それはまさに一長一短で、指導者とか人の上に立つリーダー的なものには、そういった周囲に気が回りバランスをとろうとする性質は良い場合に働くことも少なくありません。
仲間意識というものもこれに類するものでしょうが、時として互いをかばい合ったり、悪しき慣習の是正や改革ができないのも男性の方が強いと言えるようにも感じます。

いっぽう、マロニエ君が個人的に感じているところでは、医師などは意外にも女性は好ましい性質を発揮する職業ではないかということです。
個人的な経験が中心になりますが、これまでの人生の中で自分が医師の診察を受けたことがあるのはもちろん、身内や家族が入院というような状況にも何度か直面しましたが、そのいずれの面でも女性医師の素晴らしさというものが強く印象に残っています。

いろいろ理由はありますが、まず女性医師には変な欲があまりない(もしくは平均して男より少ない)ということがあるのか、医師として目の前の患者に対して必要なことはなにかを、真摯に考えてくれると感じるのは多くが女性医師でした。
もちろん男性がそうではないというわけではないのですが、男性医師はどちらかというと自分本位で、患者の状況説明などを注意深く耳を傾けることより、専ら自分の知識や経験、それに基づく判断や能力が優先されます。

家族が入院などした場合に於いても、女性医師は思いのほか責任意識が強く(と感じる)、労を厭わずに必要なことを地道にやろうという意志が読み取れます。
必要に応じて説明はきちんとしてくれるものの、その説明が簡潔で過不足なく、よけいなことは省略され、必要以上に患者の家族にもストレスをかけないのも女性医師だったと思います。

では男性医師はどうかというと、ひとことでいうといちいち自慢の要素があり、必要な説明と、不必要な説明の選り分けがなされていません。徒に専門性を帯びた言葉や論理、仮定の話などを延々と繰り返し、それを聞かせたがるのが男性医師という印象です。
今どきということもあって表向きの語り口はいちおうソフトだけれども、どこかに支配的/権力的な響きが混ざっているのも決まって男性医師です。

なにかで読んだことがありますが、男というものは三度のメシより自慢が好きなのだそうで、それを何らかのかたちで出さないでは生きていけない生き物のようです。
優秀だなあと思うことがある反面、男のこういう部分は、根本が幼稚だとも思うわけです。

そしてその自慢に対する押さえがたい欲求が、切磋琢磨のモチベーションになっているという一面はまちがいなくあると思います。

それでも最近では男女の特性にも多少の異変があって、従来は男の牙城のように思われた分野に、ぞくぞくと気鋭の女性が頭角をあらわしているようですから、はてさてこの先はどうなっていくのだろうと思います。
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それぞれの道

ジェンダーフリーが叫ばれる今日、あまり近づかない方がいい内容かもしれませんが、決して思想的な話ではありません。

基本的な権利や能力の問題とはまったく無関係に、女性と男性とでは、根底のところにあれこれ違いがあることを近ごろことさら痛感させられ、だからこそ人間はおもしろいなぁと思います。
どんなに気の合う女性でも埋めがたい溝を感じることがあるいっぽう、苦手な男性であっても本能的にスッと共有できる感性があるのは、これがまさに男女の染色体の差だろうと思われ、それは個人差・世代差を突き抜けたところに存在するもののようです。

なにかにつけて同性・異性はかなり違う作りになっていると思います。
何を云っている!そこには性格的なものや個人差もあるのであって、そういう見方をすることが偏見ではないかと叱られそうですが、けっしてそうではないのです。ある程度の数をみていると、やはり大まかな男女の違いの傾向というものは掴めてくるものです。

一般的なことを例に取りますと、例えば整理整頓とか掃除です。
少なくとも現代の女性、とりわけ外で仕事をする女性というのは呆れるばかりに掃除がお嫌いのようです。嫌がるものをやらせるのは至難の技で、相手も取り立てて抵抗しているわけではないようなのですが、そもそも身についていないものは、なかなか実行するのが難しい。

これは育った時代や環境などさまざまな要因があるようです。そもそも整理整頓や掃除というものをほとんどしたことがない由、当然それが生活習慣として身についてもおらず、これは一朝一夕に解決する問題ではありません。

生活習慣としては男も同じのはずですが、それでも敢えてやってみると、男のほうがだいたい丁寧できれいですし、物入れに物を入れるという単純な行為に於いても、大抵の女性はそのつど放り込むというパターンで、その限られた空間を効率よく使うという考えがないようですが、どちらかというと男はパズル的な頭を使います。

テレビで収納の達人のような女性とか、要らない物を処分して家の中をいかにきれいにするかを声高らかアドバイスするような女性がいたりしますが、あれはたまたま仕事として技を磨いているだけで、実生活でそんなことをやっているのは、はたしてどれぐらいいるでしょう。

緻密さとかマニアックというのもだいたい男の特性で、要するに感性、価値観、思考回路など、脳の働き方が違うことを悟りました。

つい先日も驚いたのは、ある設備工事のために来た作業員の数名(全員男性)が、高いところに並べた何十もの装飾品をすべて下におろして作業をやっていました。

これを元に戻すのは大変であるし、工事は延べ3日間にわたっておこなわれる予定なので、全部終わってから並べようと覚悟していました。
ところが初日の工事が終わり作業員の方達が帰られたあと現場を覗いてみると、目に入ってきた光景は工事前と寸分違わぬまでに完璧に元通りに片づけられていて、その日一日工事をしていたことが信じられないほどきれいなことにまずビックリ。
さらにマロニエ君を驚嘆させたのは、高いところを見上げたときのこと、その装飾品が魔法でも使ったのかというほどきれいに並べられ復元されていることで、さすがにこのときは男性の仕事の見事さ、質の高さというものに舌を巻き、おもわず感動してしまいました。

対照的に、女性は忍耐力や男の数倍はあろうかと思う強靱な精神、あるいは度胸などはずば男の適うものではないと思います。ものごとの本質を瞬時に捉える直感力に優れるのも女性で、その現実感覚は男性脳のこまかな動きを一挙に抜去るものがあり、ただただ敬服するばかりです。

まだまだありますが、とりあえずこのへんにしておきます。
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わからぬまま

来年はショパンコンクールの開催年ですが、このコンクールの歴史にはポリーニやアルゲリッチのようなスーパースターを排出した経緯があるいっぽう、優勝者の該当なしで幕を閉じるという珍事が1990年と1995年に立て続けに起こりました。

このため2000年の第14回では「なんとしても優勝者を出す」という強い方針のもとでコンクールは開かれ、ブーニンいらい15年ぶりに優勝を飾ったのがユンディ・リであったことは良く知られているところです。

優勝者を出すか否かは非常に難しい問題だと思います。
ショパンコンクールといえばまさにピアノコンクールの最高峰で、そこには自ずとコンクールの権威というものが深くかかわってくるでしょう。
相対的1位が優勝か、あるいは真に優勝に相応しい才能だとみとめられた者が名実ともに優勝者となるのか…。

若いピアニストの質を問うという厳格な観点から見るなら、その栄冠に値する者がいないとみなされた場合、優勝者なしという結果で終わらせるべきかもしれません。しかし、いかにショパンコンクールといえども運営という側面があり、優勝者不在となれば5年にいちど世界が注視するこのコンクールがぱったりと盛り上がらなくなるのも現実です。
もっとも注目度の高い、国をあげてのお祭りイベントでもあるだけに、その主役が空席になることは許されないのかもしれません。

つい先日ですが、その優勝者不在の1990年と1995年に連続出場し、二度目に第2位となったフィリップ・ジュジアーノのコンサートを聴くため、福岡シンフォニーホールに行きました。

曲目はショパンの前奏曲op.45、バルカローレ、バラード全曲、スクリャービンのop.8のエチュード全曲他というものでしたが、聞こえてきたのは、まるで軽いランチのような演奏で、このピアニストの聴き所はいったいどこなのか、ついにわからぬまま会場を後にしました。ショパンはもちろん、スクリャービンに於いても作品の真実に迫るものはあまりなく、表現も強弱も、小さな枠の中でかろうじて抑揚がつくだけで、ほとんど変化に乏しいものでした。

当然ながら聴衆もテンションが上がることなく、マロニエ君の近くでもかすかな寝息が左右から聞こえてきたほか、休憩時間に会場でばったり会った知人も「寝てましたね」とこぼしていたほどでした。これでは、わざわざチケットを購入し会場に足を運んだ側にしてみれば、満たされないものが残るのもやむを得ません。

ジュジアーノ氏は長身のフランス人で現在41歳、心身共にもっとも力みなぎる時期だと思われますが、そんな男性ピアニストが、淡いレース編みのような演奏に終始することに不思議な印象を覚えてしまったのはマロニエ君だけではなかったはずです。

ピアニストの中には大きな音を出してヒーローを目指す向きもありますが、それは腕自慢なだけのいわば野蛮行為で、むろんいただけません。そのいっぽうで、立派な体格の男性が、骨格のないタッチでさらさらと省エネ運動みたいな演奏をすることは、これはこれでかなりストレスです。

コンサートというものは、演奏者の個性や才能を通して出てくる音楽の現場に立ち合うこと。その演奏に導かれ、酔いしれ、あるいは翻弄され、心が慰められたり火が灯ったり、場合によっては打ちのめされたいということもあるでしょう。それが何であるかは、演奏によっても受け止める側によっても異なりますが、なんらかのメッセージを得られないことにはホールに足を運ぶ意味がありません。

厳寒の公園を早足で駐車場へ向かいながら、優勝の「該当者なし」という判断が二度も続いた当時の審査員の苦悩がわかるような気がしました。
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展覧会の絵

「ウマが合う/合わない」という言葉があります。
人間関係の中には互いにそこそこ尊敬し、関係も良好であるのに、どうしても呼吸というか波長というか、何かが合わない相手というのがあるものです。
わだかまりもなく、むしろ積極的に親しくしようとしているのに、なぜか気持ちがしっくりこないといえばいいでしょうか。

これがウマが合わないということだと思います。
取り立てて理由もないのに、どうしても好きになれないと言うのはある意味深刻で、これはどうしようもないことで、運命とでも思って諦めるよりほかはないようです。

歯車の噛み合わないものは、もともとの規格が違うのだからつべこべいうことでもない。

こんな事が、実は音楽の中にもあると思います。
いかなる名作傑作の中にも好きになれない曲というのがあって、これはきっと、どなたにもそんな曲のひとつやふたつはあるだろうと思います。

中には、自分が未熟なためにその作品の魅力を理解できなかったというような場合もあれば、理想的な演奏に恵まれず、良い演奏に出会ってようやく好きになるというようなパターンもあるでしょう。

あるいは自分の年齢的なものにも関係があり、若い頃好きだった曲がそうでもなくなったり、逆にある程度の年齢になって興味を覚える作品もあるわけです。
マロニエ君の場合は、ベートーヴェンの弦楽四重奏やブラームスのピアノ曲、マーラーやブルックナーのシンフォニーなどは、若い頃はもうひとつ魅力を感じず、遅咲きだった記憶があります。

さらにはモーツァルトやシューマン、チャイコフスキーなどのめり込んだ時期があったかと思えば、その反動から聴くのが嫌になって長いこと遠ざかったりと、まあ自分なりにいろんな山坂があるものです。

ところが、中には時代/年齢その他の理由を問わず、終始一貫どうしても好きになれない曲というものがあります。
マロニエ君にとって、その代表格が例えばムソルグスキーの展覧会の絵で、これは何回聴いても、いくつになっても、どうしても好きになれません。あれだけの作品なのですから、悪いものであるはずはなく、自分の耳がおかしいのか、理解力が及ばないのだろうなどとあれこれ思ってはみるものの、要するに嫌なものは嫌なのであって、いわば生理的に受けつけないのです。

有名なラヴェルの管弦楽版も、だからまともにしっかり聴いた覚えがないほどです。
しかし、オリジナルのピアノソロは演奏会でもしばしば弾かれる(それもプログラムのメインとして!)ことがあり、あのプロムナードの旋律が鳴り出すや、条件反射のようにテンションが落ちてしまいます。
このときはできるだけ気を逸らし、会場のあちこちを観察したり、楽器や音響のことを思ったり、あるいは明日の予定はなんだったかなどまったく別のことを考えながら、ひたすら終わるのを待ちますが、音楽というのは待っていると長いものです。

今年のいつごろだったか、ファジル・サイが福岡でリサイタルをやりました。最近では珍しく「聴いてみたいピアニスト」であったにもかかわらず、プログラムに「展覧会の絵」の文字を見たとたん気分が萎えてしまい、けっきょく行きませんでした。

マロニエ君は基本的にプログラムは二の次で、誰が弾くのかという点がコンサートに行く際の決め手ですが、ここまでくると二の次というわけにもいかないようです。
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ごりっぱ

現代のバッハの名手であるエフゲニー・コロリオフの弾くシューベルトを聴きました。

曲目はピアノソナタD.894「幻想」とD.959という、晩年および最晩年の大曲。
D.894は1826年に書かれ同時期には交響曲のザ・グレートがあり、翌年にはドイツリートの金字塔である「冬の旅」が、さらに翌年には3つの最後のソナタD.958─960を書いたのち、同年11月、31才という若さでシューベルトはこの世を去ります。

ディスクには2012年12月の録音とあり、この感じなら追ってD.958とD.960もカップリングされてリリースされるような気がします。

コロリオフは1949年モスクワ生まれのロシア人ですが、すでにロシアよりもはるかに長い時間をドイツで過ごしており、その演奏から聴こえてくるのは、音楽的には完全にドイツ圏に帰化したピアニストと云って差し支えないと思われます。

さて、このシューベルトの2曲ですが、さすがにコロリオフらしく一音たりともゆるがせにしない真摯さにあふれ、解釈もきわめて正統的で注意深く、すべての音は磨き抜かれています。それでいて尊大さがないのはこの人の良心的な人柄のなせる技なのかもしれません。

コロリオフこそはピアノに於けるノイエ・ザハリカイト(芸術を主観に任せず、客観的合理的にとらえる考え方。音楽では楽譜を尊重し解釈演奏する)の現役旗手とでもいうべき人で、楽譜に忠実な演奏がそこに広がり、ここまでやられるとぐうの音も出ない感じです。

まるでドイツの最高権威の演奏とはこういうものですよという模範が示されているようでもあり、加えて聴きごたえじゅうぶんの濃厚さと、全体を貫く気品が見事に両立している点もいつもながらさすがです。
おそらく音楽の研究者や、直接の演奏行為に携わるピアニストなどは、専門的関心や解釈など何かと参考になりやすく、こういう演奏を崇拝する向きも多いだろうと思われます。

ただ個人的には、このような全方位的完璧を達成した演奏は、100点満点の答案用紙を束で見せられるような気もしないでもありません。純粋に音楽を聴く喜びや意義という点からいうと、音符に対してすべてが正しく吟味された演奏であることだけが必ずしも正解か否かを考えさせられるところ。

それぞれが4楽章からなるソナタで、CDには計8つのトラックがありますが、どこを取り出して聴いても理路整然とした折り目正しい解釈と、それを実現した演奏がそこに確固として存在し、最高級の工芸品が8つ、整然と並べられているようでもあります。

悲痛に満ちた晩年のシューベルトの生身の心に触れる演奏というより、すべてが確信を持って書き上げられた堅固な芸術作品のようで、それを最高の精度で再生するというところに特化された演奏のようでもあり、そこに一種の単純さを感じなくももありません。

いまさらですが、やはりマロニエ君はシューベルトの歌やうつろいの要素を随所で感じさせてほしいというのが正直なところで、コロリオフの演奏が本当にシューベルトの本質に迫っているものかどうかは判じるだけの自信は持てません。でも素晴らしい演奏というものは、もうそれだけで途方もないパワーと魅力があるもので、そんなことを感じつつ何度も何度も聴いてしまいます。

ふと、デヴィッド・デュバル著の『ホロヴィッツの夕べ』(青土社)に、次のような一節があったことを思い出したので、それを付記します。
「現代の演奏は、十九世紀後半の自己耽溺への反動で、作曲家の楽譜を神聖視する。─略─ 楽譜の文字を信じ、それはしばしば作曲者への尊敬になった。この姿勢と完璧な録音は、音楽の解釈を単一化することになり、無感動の元になった。これは音楽の生命を脅かし、多くの若い演奏家たちを音楽の心から切り離した。」
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演奏姿勢と音楽

いつだったかNHK日曜夜のクラシック音楽館で、我が地元である九州交響楽団の演奏会の様子が採り上げられ、小泉和裕氏の指揮で演奏機会の少ないブルックナーの交響曲第1番のほか、前半にはアンドリュー・フォン・ オーエンをソリストに迎えてシューマンのピアノ協奏曲が演奏されました。

会場はアクロス福岡シンフォニーホールで、見慣れた会場がテレビカメラを通して見ると、実際より立派なところのように見えることに驚きました。映像というのは不思議で、立派なものがしょぼくれて見えることがあるかと思えば、このようにそれほどでもないものがやけに立派に映し出されたりするようです。

九州交響楽団は福岡市に拠点を置く九州でもっとも歴史あるオーケストラですが、なかなかコメントする気にはなれないというのが正直なところ。

ピアノのアンドリュー・フォン・ オーエンは、少なくともマロニエ君にとっては特別な個性や魅力をもったピアニストとは言い難く、かろうじて回る指をもっていることからなんらかのチャンスを得てピアニストになってしまったのか、どちらかというとプロ級の腕をもったアマチュアといったら悪いけれども…そんな印象です。

最近は女性の演奏家の中には明らかにビジュアル系で売っている人が少なくありませんが、このオーエンも失礼ながらそちら系というか、ピアノの弾けるイケメンでステージに立っている人という気がしなくもありません。

彼を見ていて、今回はあるひとつのことに気がつきました。
いい演奏というものは、そのパフォーマンス中の姿勢や身体の動きにも現れるということです。
演奏姿勢の美しい人は演奏それ自体も無理がなく、音もリズムものびのびしていますが、身体の動きのおかしな人は、それが演奏になんらかの影響が現れているといえるようです。

極端に低い椅子で演奏したG.G(グレン・グールド)などは、その点で例外ともいえそうですが、彼の腕から指先の動きはきわめてまともで、とりわけ手首から先の無駄のない動きに至っては見ているだけでも惚れ惚れするほど美しいことこの上ありません。

オーエンの上体は意味不明な動きを繰りかえし、それが音楽的な必然とも思われず、見ていて気にかかります。左手など、なにかというとシロウトのようにだらしなく手首を下げたりと、いわゆるプロとしての修行をきちんと積んだ人なのか疑わしくなります。
音楽的にも線が細くて一貫性に乏しいのは、この人がこれといった根幹を成していないためではないかとも思えました。

そういえば、朝の番組で放送された日本音楽コンクールのピアノ部門でも、上位4名が抜粋で紹介されましたが、演奏にあまり好感のもてない人は、やはり姿勢や動きが不自然で、気合いだけでピアノをねじ伏せるように弾いているようでした。
ひとりだけまあまあと思える女性がいましたが、その人はピアノと格闘せず、音楽の波に乗った演奏ができていたと思いましたが、やはり姿勢もとてもきれいなことが印象的でした。

ピアノに限りませんが、楽器や機械を操作する、あるいはなにかの動作をするというときに、その姿が美しいのは、単にみてくれが良いというだけではなく、そこには機能美としての裏付けがあるからだと思います。
ゴルフのスイングひとつ見てもわかりますが、プロはまったく無理のない最小限の動きでボールをいとも軽々と遠くへ飛ばしますが、政治家などアマチュアのそれは変なくせがあって無惨なばかりのフォームです。

演奏の姿勢や動きがどこかおかしい人は、やっぱりそこから紡ぎ出される音楽も、姿形があまり美しくはないという、考えてみれば当たり前のようなことを確認できたということでした。
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無個性の心得

TVニュースなどを見ていると、現代人は一億総役者か総タレントではないか?と感じることが少なくありません。

政治・経済・事件・事故などあらゆる場合に応じて、一般人がふいにカメラとマイクを向けられても、大半の人が、概ね似た感じの、きわめて無個性なありきたりな内容のコメントをするのは何なのかと思います。

しかも、おおよその口調や、語尾に「かな…」「みたいな…」をつけて、自分の意見としてきっちり結ばないところにも、大きな特徴があるようです。

まるでマイクを向ける側が、こういう答えを欲しがっているというのを察しているのか、それに添って答えているようにも感じられます。みなさん申し合わせたように何かを心得ておられて、まるで大雑把な台本があるかのようです。

それが練習の必要もないほど、一般的な意識として浸透しているのだとしたら、これは考えてみたらすごいことだと思います。

もしマロニエ君が同じようなシチュエーションに遭遇したら、まず間違いなく逃走してしまうでしょうけれど、万が一にもなにか答えるとしたら、とてもあんなふうな言い回しはできないと思うばかり。

どんなにつまらぬ意見であっても、話すからには自分のオリジナルの考えを述べるべきで、多くの人がこう考えるであろうというあたりを自分の考えとして滔々としゃべるなんて芸当は、そもそもマロニエ君にはできもしませんが、それじゃ何の意味もないと思います。

さらに戦慄するのは、そんな言い回しや思考回路が子供世代にまで波及していて、小学生ぐらいのコメントを聞いていても、そのしゃべり方・内容・ちょっとした間の取り方や調子まで、今どきのオトナのそれのようで思わず背中に寒いものが走ります。

自分の意見というものは、もっと素朴で正直で自由があっていいのではと思います。
しかるに多くの人達は、正直どころか、できるだけ一般的な感性から逸れないよう発言にも妙な折り合いをつけるよう努めているようで、もしかすると自分が一般的な意見の代弁者たることを目指しているのかとも思います。

すべてはご時世かとも思いますが、ひとつだけそれは違う!と声を大にして言いたいことがあります。
時あたかも衆院選を控えている時期で、若い世代の投票率がいよいよ低いことが問題視されていますが、若い人にインタビューすると恥じる様子もなく投票には「行かなーい」「行かないですね」とあっさり言い放ちます。
そこまでならまだしものこと、いかにもさめたような調子で「誰がなっても同じだから」として、だれもかれもがこれを選挙に行かない理由としています。

しかし、まさかそんなことがあるでしょうか。
たしかに55年体制まっただ中における慢心した派閥政治の時代ならまだいくらかわかりますが、現在の自公政権と先の民主党政権は誰が見てもまったく違うし、安倍さんと菅さん、どちらが総理でも同じだと本気で思っているのでしょうか?
何をいいと思うかは各人の判断するところですが、誰がやっても「同じではない」ことだけはハッキリと言いたいわけです。その違いはウインドウズとマックどころではないですよ。

投票に行かないことは、これはこれでひとつの意思表示かもしれませんが、己の無知を恥じぬままスタイルとして蔓延するのはきわめて憂うべきことだと思います。
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見えていない自分

人の言動の中には、あくまでもさりげなさを装いつつ、なんでそんなに自分を上に見せようとするのかと感じることがあるものです。

ある病院に行ったときのこと、終って駐車場に向かっていると、偶然向こうからそこの先生の奥さんとばったり会いました。
この奥さんとはべつに知り合いというわけではなく、ときどき受付などにもすわっておられるので、しだいに顔見知りになったというだけの間柄です。

ところがこの方、なぜかマロニエ君の自宅の場所などもご存じらしく、「あのあたりは…」というような話をしばしばされるのには以前から少し違和感がありました。

病院に行くには健康保険証などを提示するので、そこから個人の住所なども知るところとなるわけですが、それを情報源として患者への雑談のネタにしていいかというと…それはちょっと違うような気がします。

さらに驚いたことには、マロニエ君の知るお若い演奏家兼先生をその方も何かの繋がりでご存じだったようで、その人物のことを「○○クン」と何度も繰り返し口にされるのには、いささか驚きました。

若いといっても相手は学生ではありません。
コンサートで演奏を重ね、先生として教室の長としてやっているからには、それなりの呼び方があるはずですが、あえてそう呼ぶことで自分の優位性を作りだし、そこを相手に印象づけるかのような心底が見えてしまいます。
百歩譲って純粋に親しみをこめてだとしても、相手(マロニエ君)は身内ではないのですから、表向きは「さん」か「先生」と呼ぶのが見識というものですが、この場合は「くん」である必要があったのかもしれません。

そもそも、この「クン呼ばわり」というのはテレビなどでも見かける、発言者の浅薄な自己宣伝手段としてしばしば用いられる印象があります。
社会的に話題の人であるとか、スポーツでめざましい結果を上げて注目を浴びているようなスター級の選手などを語る際に、あくまで自分にとっては対等の友人、家族ぐるみの付き合いをしている、もしくは目下の若者にすぎないよ…といわんばかりに、むやみに親しげな口調で不自然なコメントすることは少なくありません。

その相手を、わたしは「くん」で呼ぶだけの資格があるんだという、たったそれっぽっちのことで、自分の立ち位置を高いところへ引き上げようという、あまり上等とは云えない狙いが透けてみえるのです。
これを言ってサマになるのは、直接指導に携わった文字通りの先生や恩師だけでしょう。

マロニエ君はこの手の人を見るたびに、なんとも教養のない、世俗的な神経の立った、ハッタリ屋のように思えて仕方がありません。
ほとんどの場合、「さん」で呼ぶほうがどれだけ自然かわからないのに、それでも意図してまでクンとかチャンといってしまうのは大抵自己アピールで、ひどく物欲しそうな小さな人物に見えてしまいます。

政界にも、かつての石原慎太郎氏や、引退した渡辺恒三氏などは、相手が総理であれ大臣であれ、だれかれ構わず○○クン○○ちゃんとぬかりなくいっていましたが、今はさすがにそんな手合いもいなくなりましたね。「ぬかりなく」というのは、クン呼ばわりする相手がエライほど、そこには意味と快感があったはずだからです。

本人は至ってさりげない発言のつもりのようで、だから相手は感服しているという読みなのでしょうが、その考えは甘いというものです。聞いている側は、そこがいちいちわざとらしく、よけい耳障りに響くのですが…。
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フーガの技法

まったく個人的な見解ですが、バッハのありのままの魅力というか、多くの作品を気負わず素直な気分で楽しむことを阻害してきたのは、ひと時代前に蔓延していた、大上段に奉られた、いかめしいバッハ像にあったような気がします。
過度の宗教性、厳格なスタンス、楽しむものとは一線を画する、聖典のような音楽といった趣で、これは時代そのものが作ったバッハのかたちであったように思います。

音楽の純粋な愉悦とは対極の位置に押しやられてしまったバッハ、荘重荘厳でなくてはならないバッハ、むやみに神聖化しすぎたバッハ像は、却ってこの偉大な大伽藍のごとき作曲家を人々から遠ざけてしまった一面があったのかもしれません。

これを打破した象徴的ひとりがG.Gであり、多くの音楽家がなんらかのかたちでそれに続いたことは否定できないでしょう。バッハ演奏にあたって、ポリフォニーの明晰な弾き分けは当然としても、随所に散りばめられた多くの歌、幾何学のモダンと斬新、舞曲としての遺伝子を無視した即興性に欠ける、西洋のお経のようなバッハは、マロニエ君はあまり聴きたくありません。

だからといって、ただ定見なく楽しく自由に演奏すればいいというものではなく、そこには切っても切れない宗教との絡みがあることは厳然たる事実でしょう。ただ、宗教とは人間全般の悲喜こもごもの生から死までの全般を引き受けるものであって、楽しみの要素のないことが宗教的敬虔さというふうには考えたくないのです。

ポリフォニーは音による緻密な編み物であり、その頂点に位置するのがバッハであることは異論の余地はありません。そしてその絵柄やモティーフは宗教的なものが多いとしても、それを教会の空間にばかり浸し続けるのは、この孤高の芸術を却って矮小化する行為のようにも感じてしまいます。

とくに晩年の傑作であるフーガの技法は、演奏する楽器の指定さえもないという、時空にひょいと放り投げられた崇高で謎めいた音楽のひとつでしょう。未完であることさえ、バッハの音楽が永久不滅であることをあらわしているかに思えます。
これはソロピアノによる演奏もあって、多くはないものの、いくつかのCDも出ています。

残念なことにG.Gはフーガの技法では前半をオルガンで弾いたり、ピアノで部分的な映像があったりするものの、ゴルトベルクのような決定的な録音は残していませんし、ニコラーエワのものももうひとつ決め手がない。
近ごろでは、幻のピアニストのように珍重されているソコロフのCDにもフーガの技法がありますし、コリオロフにもいかにも彼らしい名演があります。若手ではリフシッツもこれに挑んでいます。

ソコロフとコリオロフは個性は違えども、共にロシア出身のピアニストですが、その個性は対照的です。自己表出を極力押さえ、作品へのいわば滅私奉公を貫くことで、書かれた音符を生きた音楽に変換することの伝道者のようなコロリオフ。同じようなスタイルに見せながら、「音楽に忠実」を貫いている自分をいささか見せつけるふしのあるソコロフ。
ソコロフのサンタクロース体型に対して、コロリオフの痩身長躯も対照的。

共に驚異的なテクニックの持ち主ですが、ソコロフはリヒテルを彷彿とさせる巨人的な大きさで聴く者を制圧しますが、コリオロフはより緻密で論理的陶冶を旨としながら威厳があり、まろやかなのに張りのある音と細部までゆるがせにしない隙の無さで聴く者をしずかに圧倒します。

マロニエ君が本能的に聴きたくなるのはコリオロフとエマールです。

その理由をひとことでいうのは難しいですが、この2つはどうしても外せないもので、どちらも聴いていると「これが一番!」と思わせられてしまいます。
エマールの前衛と隣り合わせの時代を超越したバッハ、コロリオフの滑らかで緩急自在、優れた考証と最高度のバランスで聴かせるバッハ、どちらも捨てがたい魅力に溢れていて、このふたつがあれば今は大いに満足です。
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SKの使い道

ロシアのピアニスト、アンナ・マリコワによるスクリャービンのピアノソナタ全集を聴きました。

スクリャービンのソナタ全集は何種類か持っているものの、これという決定盤は思いつきません。名前もろくに思い出せないようなピアニストのものがいくつかある中で、ウゴルスキがようやく出てくる程度です。

ウゴルスキの演奏は見事ではあるけれど、どちらかというと重々しく芝居がかった朗読のようで、スクリャービンとピアニストの個性が合っているかにみえて、実はそうともいいきれないものがあり、こってりしたものをさらにこってり仕上げているようで、それほど好みでもありませんでした。

その点ではマリコワの演奏は、良い意味での現代的に整った演奏で、作曲家に充分な敬意を払いつつも必要以上の思い入れや表現を排した、客観性を優先した点が心地よく聞こえます。
作品が完成された音となって耳に届くのはありがたいというか、とりあえず快適であるし、ロシア人であるだけに、必要な厚みや熟考の後もあり、これといった演奏上の不満はありません。

非常に明晰かつ淀みなく流れるスクリャービンと言っていいと思います。

このCDでの聴き所はもうひとつあり、ドイツでの録音でありながら、ピアノはシゲルカワイEXが使用されている点でしょう。

驚いた事には、SK-EXとスクリャービンの意外な相性の良さで、これはまったく思いがけないことでした。
カワイの個性というのをひとことで云うのは難しいですが、少なくともコンサートグランドに関しては、ことごとくヤマハとは対照的だというのがマロニエ君の印象です。

誤解を恐れずにいうなら、ヤマハとカワイはそれぞれに日本的な暗さをもったピアノだと思います。これは、たんなる音の明暗ではなく、ピアノとしての性格や全体に漂う雰囲気です。
ただ、両者はその暗さの質がまったく異なります。

少なくともカワイはピアノ全体から流れてくるものが、朴訥で不器用、ある種の真面目さがあり、少なくとも洗練とかスタイリッシュといったものではないところに特徴があるように感じます。

このところ、プレトニョフをはじめとするロシアのピアニストの間でカワイの評価が高いのかどうか、はっきりしたことは知りませんが、カワイの持つどこか湿った感じの悲しげな響きが、ロシア人の感性にマッチするとしたら、これは大いに納得できることです。

それとヤマハと違う点は、カワイのほうがより演奏者にあたえられた表現の幅が広いという点で、ヤマハのほうがある程度の結果を規程してしまっている点が、演奏の可能性を狭めているように思います。

カワイが生まれもつ、どこかほの暗い雰囲気がスクリャービンとドンピシャリというわけで、これまでSK-EXがかなり高いところまで行きながら、あと一歩の決め手がないと感じてきましたが、ロシア音楽こそがその最良の着地ポイントであったとしたら、これはなかなかおもしろい事になってきたと思いました。

長年にわたってロシア御用達であるエストニアなどはもうひとつざらついていたり、ペトロフなどはあくまでも東欧であってロシア風とは似て非なるものを感じます。

その点でカワイ(とりわけSK-EX)は、ピアノとしての高いポテンシャルと完成度があり、日本製品としてのクオリティを持ちながらもキラキラ系で聴かせるピアノではない。さらに意外な懐の深さや逞しさもあり、ここにロシア方面からの注目が集まったとしてもなんら不思議はないと思いました。

現代のピアノは、やたら音の「明るさ」ばかりを重要なファクターであるかのよう強調されますが、何を弾いても職業的スマイルみたいな薄っぺらな笑顔ばかり見せるピアノより、渋いオトナの表現ができるピアノがあることは評価していい点だと思いました。

このCDで聴くスクリャービンには、スタインウェイでも、ヤマハでも、もちろんファツィオリでも聴く事のできない、カワイだからこそ結実した独特の雰囲気が漂っているとマロニエ君は感じます。

なんとなくカワイのピアノってロシア製の旅客機みたいで、ちゃらちゃらしない、質素な魅力があるのかもしれないと思いました。
和服でいうと結城や大島の紬みたいなものでしょうか。
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女性の進出

長いデフレのトンネルから抜け出すのは容易なことではなく、安倍さんをリーダーとしてさまざまな努力がなされているのでしょうが、なかなか目に見えるような効果は出てきません。

経済評論家の言うことなどは半分も信じていないマロニエ君ですが、ときには「なるほど」と唸ってしまう発言があったりするものです。

デフレ脱却が難しい理由はさまざまでしょうが、そのひとつは、世の中の人間が「倹約の味を覚えた」からなのだそうで、これはある意味では贅沢の味以上に切り替えが難しいものだというのです。
いうなれば「倹約・節約」というパンドラの箱を開けてしまったと云えるのかもしれません。

本質的に人間は欲深でケチな生き物なのかもしれませんが、自分だけでは体裁や恥ずかしさ、さらにはいろんなかたちの欲が絡んでこれを断行するのはなかなか勇気がいるものです。着るものひとつにしても、あまり安物では恥ずかしいというような心理が働くでしょう。

しかし不況を機に世の中全体が節約ムードになり、みんながそっちを向いて、お店も何もが自虐的な低価格や無料といったものであふれかえると、それが当然のようになり、しだいに個々のケチも恥ではなくなり、いわば木を森に隠すようなものになる。
それが長期化すると、いつしかそれしか知らない世代まで育ってきます。

もうひとつは、女性の社会進出だそうです。
一般的に考えれば妻が専業主婦になるより、女性も働いて収入を増やすほうが消費も拡大するように考えがちですが、これがそうではないらしいのです。
ひとつは男性の平均的な収入が昔に較べて相対的に落ちていて、男だけの稼ぎでは一家を経済的に支えることが難しくなっていて、たしかにそんな印象があります。

それに加えて、そもそもでいうと消費の主役は女性なのだそうで、たしかに家や車といった大きな買い物をべつとすれば、その他の日常的な消費はほとんどが女性に委ねられていたというのも頷けます。
「夫が必死に働いて得たお金を、妻が平然と使う」というのが景気のよかった時代のスタイルです。

では、なぜ女性の社会進出が消費拡大に繋がらないのかというと、女性が自分でも働くことでお金を稼ぐことの大変さを身をもって経験するようになり、夫が稼いでくる時代のように無邪気な消費ができなくなったというのです。

昔の女性の消費は男性の稼いでくるお金に依存しており、その労働の辛苦にはあまり斟酌していなかったのかもしれませんが、今の女性は働いて報酬を得ることの厳しさをよく知っており、鷹揚な支出や買い物は激減したというのも納得でした。

たしかに、稼ぐ人と使う人が別でいられた時代のほうが、人々の心には単純な明るさがあって、消費にも勢いがあったのだろうと思います。高度成長の時代は、なんだかわからないけれどもみんな希望があり、給料も銀行振込ではなく、お札の入った月給袋を内ポケットに入れて帰宅し、それをそっくり奥さんに渡すというのがひとつの形でした。

現代とくらべて、社会学的にどちらがいいのかはわかりません。
ただ男女いずれも、低い賃金/不安定な雇用環境の中でせっせと仕事をせざるを得ない社会環境では、やはり消費が伸びないのも致し方のないことだろうと思います。
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平衡感覚

いつだったかNHKのプロフェッショナル?とかいう番組で、五嶋みどりの現在を追った番組が放送されました。

10代前半という若さでアメリカからセンセーショナルに世に出た天才少女も、すでに40代半ばに差しかかり、演奏家としてのみならず、いろいろな意味でも、いま人生の絶頂期に差しかかっているのかもしれません。

彼女はその圧倒的な名声にもかかわらず、演奏活動のみをひた走ることを早い時期から拒絶し続け、自身のスタイルを押し通し、とうとうそれで周囲を納得させてしまった人だと云っていいのでしょう。

天賦の才があり、ニューヨークという最難関の場所でメータやバーンスタインから認められ、さらには演奏中に2度も弦が切れるという、いかにもアメリカ人好みのアクシデントにも恵まれ(?)、当時望みうる最高のデビューを飾ったのは間違いないでしょう。

多くの場合、これほどのスター街道が目の前にパックリと口を開けて広がれば、迷うことなくそこに飛び込み、以降、忙しく世界中を飛び回る生涯を送るはずです。

しかし彼女は演奏活動だけに邁進することを頑として拒み、他の勉強をはじめたり、のちにはヴァイオリンを使っての奉仕活動などにも打ち込むほか、アメリカの音大で最も若くして教授になるなど、何本かの柱によってしっかりとバランスが保持されているようです。
教育者でもあり、アメリカの弦楽器の組織の理事のようなこともやっている由で、勢い彼女の生活は演奏以外の仕事も目白押しで、演奏活動はその中の一つという位置付けのようです。

立派といえばもちろん立派ですが、そこにはいろいろな理由があってのことなのだろうと推察します。

マロニエ君のような凡人からでも、おぼろげにわかる気ようながするのは、いわゆる音楽バカ(といったら言葉が悪いですが)で世界を飛び回り、超多忙な演奏を繰り返すだけの薄っぺらなタレントにはなりたくないという心情と必然があったのではと思われます。

一流演奏家として認められれば、年がら年中演奏旅行に明け暮れ、人生の大半を飛行機とホテルとホールで過ごすばかりで、他の文化に触れたり、豊かな旅や時間を満喫すること、あるいは自身の時間の中で思索するといったこととは縁遠くなるでしょう。
寸暇を惜しんで効率よく練習し、次々に待ちかまえる移動とリハーサルと本番、拍手のあとでは各地の主催者や地元の名士と交流することも義務という、見る者が見ればまったく馬鹿げた生活を繰り返すことを意味しており、それが五嶋さんには耐えられないのだと思います。

しかもオファーがあって体力が続く限り、それは老いるまで延々と続きます。数年先までの予定が決まっていて、それに従って各地と予定を飛び回るだけの生活。そしていったんこの流れに乗れば、止めるに止められない状況に呑み込まれていく。
そこに疑問を持つ人間にとっては、まさに地獄のような生活です。

しがない演奏家からみれば夢のようなスターの生活でも、それが10代から一生続くとなるとやはり尋常なことではなく、まともな平衡感覚をもっていたらできることではありません。昔で言うサーカスの空中ブランコのスターと、いったいどこが違うのかとも思えます。
いかに素晴らしい演奏をして、それに見合った喝采を受けても、そんな生活を一生続けるなんて一種の狂気であるような気がします。

五嶋さんは非常に頭のいい人のようで、だから自分の人間性と精神のバランスを保つためにも、あえていろんなことを「自分のために」やっているんだと私は見ています。もちろんそれが結果としては世の中のためにもなっているとは思いますが、出発点は、まずは自分が「人がましく生きたい」という主題から出発した事だったのだろうというのが、この番組を見て感じたことでした。
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晩年の秀吉

NHKの大河ドラマ『軍師官兵衛』を見ていると、つくづくと考えさせられるところがあります。

これまで幾多の太閤記はじめ戦国乱世の物語が書かれて本になり、映画やドラマ化が繰り返されました。
太閤記といえば、日本史の中でも立身出世のナンバーワンで、裸一貫から天下人という最高権力者に登りつめるその物語は、読む者、見る者をおおいに楽しませるものです。

しかし、マロニエ君からみると太閤記がおもしろいのは、本能寺の変の急報を得て、手早く高松城を水攻めにし、息つく暇もなく中国大返しを敢行。光秀が討たれたのち、清州評定の場で秀吉は信長の遺児である三法師を抱いて現れ、自らが天下人になる布石を打つ…あのあたりまでだと思います。

天下統一を成し遂げた後の秀吉は、およそ同一人物とは思えぬほどすべてにおいて精彩を欠き、常軌を逸し、老いには勝てずにこの世を去ることで、豊臣の天下は一気に衰退、物語は家康を中心とした関ヶ原へと軸足が移ります。

しかしその前にある利休の切腹、関白秀次の処分など、解釈の余地を残しつつも、天下人となってからの秀吉を正視し、ここに時間を割こうという流れはあまりなかったように思います。さらには無謀の極みともいうべき朝鮮出兵についても、その顛末を正面から語られることがあまりないのは、痛快なヒーローである秀吉のイメージが変質することで、映画やドラマの魅力が損なわれるのを避けたようにも感じます。

信長の死後、秀吉の天下は駆け足で過ぎ去り、関ヶ原/大阪の陣を経て家康が権力を手中にするという流れで話が進むのが毎度でした。

ところが今回の『軍師官兵衛』では、天下人となった後の秀吉がしだいに崩壊していく様がかなりリアルに描かれており、この点では出色のできだったと感じます。
最も信頼を寄せるべきかつての仲間をことごとく退け、代わりに石田三成という現代でいうところの霞ヶ関のキャリア官僚みたいな人物があらわれて、無謀なまでに政の多くがこの男へと丸投げされます。

無学で政治力統治力に疎かった秀吉は、そのコンプレックスから三成のような官吏肌の人間に精神的な負い目があったともいえるのでしょう。

いかに下克上の世とはいえ、文字通り裸一貫からのスタートですから、信長の家来のうちはまだいいとしても、天下人ともなれば家格もなく、譜代の家臣もないまま頂点へと成り上がったツケがまわって、一気にその歪みがあらわれます。家中はバラバラ、反目の視線ばかりが飛び交います。

信長に使えていた頃の秀吉はなにより殺生を好まず、数々の難所でも知恵を絞り、和睦などを巧みに用いて平和的に解決していったことは有名ですが、晩年は別人のように家来でも身内でも容赦なく首をはねまくります。

マロニエ君が興味を持つのは、出世という上り坂の活劇ではなく、人は器に見合わぬ力や権威を得ると、豹変して猜疑心ばかりが募り、ときにそれが狂気へと突っ走る部分かもしれません。

この狂気の部分が今回の大河ドラマではよく描かれており、これは、人がその前半生や器にそぐわぬ不釣り合いな地位や権力を得た為に、もろい建物のようにガタガタとすべてが崩壊していく典型のようにも思います。
おそらくその人を構成してきた多くのファクターに齟齬や矛盾が生じ、機能不全を起こすためでしょう。パソコンでいうとOSとソフトがまったく相容れないようなものでしょうか。

明るく陽気なイメージばかりが先行する秀吉ですが、晩年の暗い陰惨な所業にあらためて驚かされ、そういえばこの点を背景として描いていた作品に、有吉佐和子の『出雲の阿国』があったことを思い出しました。
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小さな巨人

ピアノ仲間が久しぶりに集まりました。

ピアノ弾き合いサークル系は苦手なマロニエ君ですが、こうして個人同士で声かけあって顔を合わせるのは大歓迎で、楽しい時間を過ごすことができました。

今回は戦前のハンブルク・スタインウェイをお持ちの方の自宅に集まっておしゃべりをし、気が向いた人がピアノを弾くというゆとりある時間のすごし方でした。

ここにあるのはスタインウェイのグランドの中では一番小さなModel-Sで、奥行きはわずか155cmに過ぎませんが、ドイツでリニューアルされており内外はピカピカ、木目もあでやかで、なにより全身が発音体のように鳴り切るのは、いまさらながらスタインウェイの伊達じゃない凄さを感じずにはいられません。
まさに小さな巨人と呼びたくなるような極上のピアノです。

奥行き155cmといえば、ヤマハでいうならC1よりも小さく、定番のC3とくらべると31cmも短いのですから、いかにスタインウェイとはいえ、そこはサイズなりのものでしかないと思うのがふつうでしょう。
ところが、そんな常識がまったく通じないところがスタインウェイのすごさで、サイズからくるハンディは実際には微塵も感じません。もちろん同様コンディションのより大きいモデルを並べればさらなる余裕が出てくるでしょうが、一台だけ弾いているぶんには、まったくそれを感じさせない点はスゴイ!というよりほかありません。

とくに通常の小さなピアノでは避けられない低音域の貧しさ、音質の悪さは如何ともしがたく、あきらめるしかない点ですが、このピアノではそんな言い訳もあきらめもまったく無用です。

このピアノの購入にあたっては、マロニエ君もいささか関与した経緯もあって、それがあとから疑問を抱くようなことになれば責任を感じるところですが、このピアノは弾かせていただくたびに新鮮な感銘を覚えます。
実はこのピアノのオーナーは、購入時このピアノの存在は知りつつも、スタインウェイ購入ともなれば大型楽器店からの購入を本意とせず、むしろ名のある技術者がやっている専門店から、その技術もろとも買いたいというこだわりを持っておられました。

むろん名人のショップにも足を運び、そこにあるハンブルクのA(こちらもリニューアル済み)にかなり傾いておられたのですが、マロニエ君としてはもうひとつ納得が行かず、大型楽器店にあるSのほうが断然いいと感じたので、こちらを強く推奨しました。

もちろん最終的にはご当人が正しい決断が下されてこのピアノを買われた次第ですが、それは数年を経た今でもつくづく正解だったと思います。
このピアノは商業施設のテナントである有名な大型楽器店の店頭に置かれていましたが、ずいぶん長いこと売れない状態でした。おそらく店の雰囲気とスタインウェイという特別なピアノのイメージがどこかそぐわず、このピアノの有する真価が見落とされてしまったものと思います。

今どきのような表面上のキラキラ系の音ではなく、輪郭と透明感がある太い音、加えてコンパクトなサイズをものともしないパワーがあって、このピアノなら、会場しだいではコンサートでもじゅうぶん使うことが可能だと思います。

とくに、ちょっと離れた位置で聴くその艶やかな音は感動ものです。
この日、全員が体感したことですが、ピアノに手が届くぐらいの距離で聴いているといろいろな雑音が混ざって生々しい音がするのですが、そこからわずか2〜3m離れただけで音は激変、まるでカメラのフォーカスがピシッと決まるように美しい音となり、流れるように広がります。
それはスタインウェイがどうのと云うより、純粋にみずみずしく美しいピアノの音で全身が包まれるようで、マロニエ君もいつかこんなピアノが欲しいものだと思ってしまいます。

もちろん戦前のピアノには長年の管理からくる個体差も大きく、リニューアルの仕方によっても結果はさまざまで、すべてのヴィンテージスタインウェイが同様だと云うつもりはありません。
でも、丹念に探せば、中にはとてつもない魅力にあふれた個体があることも事実です。
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エル=バシャの平均律

アブデル=ラハマン・エル=バシャによるバッハの平均律第二弾である『第2巻』が発売され、先に書いたエマールの『第1巻』と同時購入しました。

エル=バシャのバッハは前作『第1巻』での望外の快演にすっかり心躍ったものです。これはもう何度聴いたかわからないくらい気に入ってしまい、ほぼ似たような時期に発売されたポリーニのそれがすっかり色褪せて感じられたのとはいかにも対照的でした。

演奏そのものの素晴らしさに加えて、このときの録音にはベヒシュタインのD280が使われており、その音や響きにも併せて心地よい印象を覚えたものでした。

これに続いて第2巻が収録・発売されるものと思っていたところ、なかなかそうはならず、第1巻(2010年)から実に4年近く待たされたことになります。

はやる気持ちを抑えつつ、再生ボタンを押して最初に出てきた音はというと、正直「ん?」というもので、第1巻にあったような輝きがないことに耳を疑いました。
よく見ると前回とは収録に使われたホールも違えば、ピアノもD282に変わっています。

演奏そのものはエル=バシャらしい大人の落ち着きと余裕を感じるもので、やわらかな語り口の中にも確かな音楽の運びがあり、安心して聴けるものではあるけれども、強いて言うなら第1巻のほうがより集中力が強くて引き締まっていたようにも思います。
もちろん今回も素晴らしい演奏であることは確かですが…。

むしろ気になるのは今回の録音で、第1巻とはあまりにも録音の性格が違いすぎて、同じピアニスト/レーベルであるにもかかわらず、これでは「両巻が揃った」という収まりのよいイメージには繋がりにくいようにも思われました。
とくに気になるのは残響が多すぎて響きに節度感がなく、各声部の絡みやピアニストの繊細な表現の綾が聞き取りづらいのは大いに疑問だと言わざるを得ません。
録音の常識から云うと、これは到底ホールの違いのせいとは思えません。

また、使用ピアノも第1巻がベヒシュタインのD280だったのに対して、第2巻ではD282になっています。聞くところでは、ベヒシュタインのコンサートグランドはざっと2年前ぐらいにモデルチェンジをしているようで、D282ではよりパワーアップが図られている由です。
フレームの設計が違うようで、具体的には弦割りが変わったという話です。

CDを聴く限りではパワー云々の違いはわかりませんが、純粋に音として見れば、マロニエ君はあれこれのCDからの判断にはなりますが、D280のほうがずっと好みでした。
D280にはベヒシュタインの味わいを残しつつ、ほどよい洗練とスマートさがあり、現代的な輝きがありましたが、D282では再びそれを失ったという印象。

ピアノはパワーを求めすぎると、音が荒れるという側面があるのか、昔のベヒシュタインのような「ぼつん」とか「ぼわん」という音が耳につきます。あえて先祖帰りさせたというのなら目論見通りということになるのかもしれませんが、音にも時代感覚というものがあり、その点でどっちに行きたいのかよくわからないピアノになってしまった気がしました。

ベヒシュタインの発音を「あれはドイツ語の発声なんだ」という言う人もあり、確かにそうなのかもしれません。
でも普通に聴く限りでは、どちらかといえば無骨で、板っぽさを感じさせる、打楽器的な音にしか聞こえず、なんだか、やっと街の生活に慣れてきた人が、また田舎に帰って行ったようなイメージです。

音の個性を、渋みや落ち着きなどの味わいとみるか、野暮ったさとみるか、ここが聴く人の好みや美意識による分かれ目でしょう。

エル=バシャもどことなく気迫がない感じで、ラヴェル全集なども高評価のわりには温厚路線で、もともとこの人はそういうピアノを弾く人で、むしろ前作の第1巻のときがちょっと違っていたのかもしれませんし、あるいは録音のせいで活気が削がれて聞こえるのかもしれません。
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エマールの平均律

他の人はどうだかわかりませんが、ピエール=ロラン・エマールは不思議なピアニストだと思います。

はじめてこの人を認識したのはもうずいぶん前のことでしたが、当時、リゲティの複雑なエチュードとかメシアンなどをつぎつぎに弾きこなす、現代フランスの前衛的なピアニストというイメージでした。

そんなエマールが次第に有名になるに従い、ラヴェルの夜のガスパールやドビュッシーを録音し、そのあとにはアーノンクールの指揮でベートーヴェンのピアノ協奏曲を全曲録音していきますが、個人的にはこのベートーヴェンにはそれほどエマールのいいところが出ているようには思えないというか、要するに何度聴いても「もういちど聴きたい」という気にさせるものではありませんでした。

それからはこの人のCDを買う意欲がいささか薄れ、シューマンのシンフォニックエチュードとか、リストのロ短調ソナタなどは聴いていません。

そのあとだったか、バッハのフーガの技法が出て、こればかりは無視して通ることができず再びエマールを買い始めることに。この演奏には賛否両論あるようですが、マロニエ君はとても好きな演奏で、もはや何度聴いたかわからないほどです。

近年ではドビュッシーのプレリュードなどをリリースしますが、個人的にはバッハを待ち望んでいたわけで、このたびその念願叶って平均律第一巻が発売されました。

エマールという人は、とりたてて分かり易い感性の切れ味とかセンスの良さ、あるいは目も醒めるような指さばきなど、いわば表層的な部分で聴かせる人でない点は徹底しています。
その演奏には、常に必要以上やりすぎない知的なバランス感覚とか、身についた節度みたいなものがあり、その中で内的密度を保って展開されていく音楽だと思います。瞬間的な表現やテクニックに心を奪われたり酔いしれるということはなく、そのぶん直接表現を控え、音楽をあくまでも抽象的なものとして普遍性を崩さぬようエマールの美意識による歯止めがかかっているように窺えます。

そのためか、エマールの演奏には、聴く者がそれぞれに解釈したり感じたりする余地がふんだんに残されており、これこそがこの人の魅力だとマロニエ君は思うところです。

そういう演奏なので、はじめに聴いたとき、いきなり衝撃を受けるとか、深い感銘へと引き込まれるということはさほどなく、繰り返し聴いて何かを感じ取ることがエマールの(すくなくともCDの)前提になっているように思うのです。

今回の平均律も、その例に漏れませんでした。
平均律ともなると、その演奏には名だたるピアニストの傑出した演奏に耳が慣れているものですが、はじめは固くて面白味のない、特徴のない演奏のように聞こえました。

しかし終わってみるとなんとも言い難い味というか風合いのようなものが残っており、「もういちど聴いてみようか…」という気になります。そして幾度もこれを繰り返すうちに、エマールの不思議な魅力に取り憑かれていくようです。

マロニエ君の感じるところでは、この人はどちらかというと人に聴かせるためというより、自分のためにピアノを弾いている感覚が伝わってきて、それが心地いいのかもと思います。
むろんこれだけコンサートピアニストとしてのキャリアを積んで、現在進行形で世界的に活躍している人ですから、まさか純粋に自分のために弾いている…などとウブなことを思っているわけではありません。

当然ながらコンサートでは聴衆の、CDではそれを買って聴くスピーカーの前のリスナーを意識しない筈はありませんが、それでも、この人の基本のところに身についたものとして、どうしても自分の満足や納得が先行してしまうという、いかにもプライヴェートな感覚があって、ピアニストの自宅練習室へ透明人間になって忍び込んだような面白さがあるのだと思います。
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ラッカーとポリエステル

我が家のカワイはGS-50というモデルで、カワイの系譜として見ればことさら特殊でもないけれども、いわゆる保守本流でもないという、いわば過渡期的なシリーズのようです。
中途半端といえばそれも否定できません。

製造年は1985年あたりで、すでに約30歳ですが、この時期のカワイグランドはKGシリーズ全盛期で、そこへ別流派として発生したモデルというべきでしょうか。

聞くところでは、ヤマハがGシリーズと同時並行的にCシリーズを発売し、より華やかな音色のピアノが支持されたことで、同じ市場を狙ってカワイが対抗機種として発売したものだとか。
GSシリーズはスタインウェイを意識してか、弦のテンションを低めに設定するなど、さまざまな新基軸を盛り込んだようですが、それがどういうわけかアメリカで高い評価を受けたといいます。

GSシリーズは30を皮切りに次第にサイズを拡大し、ついにはGS-100というフルサイズのコンサートグランドまで作られます。これはEX登場までのカワイのフラッグシップでしたし、EX登場後も長いこと、GS-100はちょっとお安いコンサートグランドという、よくわからない立ち位置でカタログに載っていました。

実際にGS-50を長年使ってみて、そんな逸話がふさわしいほどのピアノだとは…正直思っていませんが、それでもカワイの沈んだような音色がそれほど顕著ではないし、かといってキンキンうるさいタイプの音でもないのがこのシリーズの特徴かもしれません。特筆すべきは、キーがカワイとしては例外的に軽いなど、いわゆる「これぞカワイ!」という基準からは、あちこち外れたところのあるピアノだとは思います。

積極的にこれを選ぶ理由もないけれど、意に添わないヘンなピアノよりは、よほど良心的といったところでしょうか。このGSシリーズが後のCAシリーズに受け継がれます。

すっかり前置きが長くなりましたが、わけあってこのピアノを一度磨いてもらうことになり、ピアノの塗装の専門業者の方に来ていただきました。
下見のときにわかったことですが、このピアノはなんと今はほとんど使われることのないラッカー塗装で、いわれてみるとなるほどと思う音の響きがあることに気がつきました。
もともと大したピアノではないので、たかが知れているものの、ラッカーはそれなりに音が柔らかくふわっと響くと思います。

その点、ポリエステル塗装はやはり響きが固い印象です。固いのみならず、むしろボディのもっている響きというか、全身が振動しようとするのを、ポリエステルで押さえ込んでしまっているという印象です。

近年はスタインウェイでさえポリエステル塗装が当たり前のようになっていますが、その理由はまさにコストと強靱さのようです。塗りの工程も簡単かつ塗装面が強くておまけに製品的に美しいので、多少の響きを犠牲にしてでもこちらが選ばれるのは現代の価値観からすれば当然なのでしょう。
全般的な材質の低下などと併せて、要はこういう要素が幾重にも積み重なることによって、現代のピアノのあの感動からほど遠い音ができているのだということが納得できるようです。

さて、そのGS-50ですが一時間ほどの手磨きでしたが、かなりピカピカになって気分も新になりました。本格的な磨きになれば機械を使っての大々的な作業になるようです。

ピアノの木工や塗装を得意とする職人さんとはじめてお話しできましたが、なんとなれば黒から好みの木目ピアノにもリニューアルできるなど、なかなかおもしろそうな世界のようで、聞いていてウズウズしてしまいました。
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デセイとルグラン

少し前のBSプレミアムから、今年の6月にヴェルサイユの庭園で行われた、ナタリー・デセイとミシェル・ルグランらによる野外コンサートの様子を見てみました。

ミシェル・ルグランはフランスジャズ・ピアニストの雄で、同時に『シェルブールの雨傘』などの映画音楽も数多く手がけたこのジャンルの巨星です。

広い庭園に設えられた広いステージには、無造作に大屋根が半開きにされたスタインウェイDと、その他ジャズのためとおぼしき機材が置かれていますが、そこへミシェル・ルグランが登場。
簡単な挨拶のあと、まずは最近作ったというピアノ協奏曲を弾き出しましたが、この時点ではべつにどうということもない印象しかありませんでした。

しかし、その後にナタリー・デセイが登場して歌い始め、その他のメンバーが加わってきて、ミシェル・ルグラン本来の世界がやわらかに展開されて行ったのは圧巻でした。

ナタリー・デセイはフランスを代表するソプラノ歌手ですが、この日はオペラのアリアなどは一曲もなく、ルグランの作品などをいかにも手慣れた調子で歌いきったのには感心しました。
通常は、オペラ歌手がポピュラー系のものを歌うと、むやみに一本調子に声を張り上げるばかりの、まるで柔軟性のない「でくの坊」みたいな歌唱に失笑させられてしまうものですが、デセイには一切そんなところがなく、シャンソンの有名歌手であるかのような堂に入った歌いっぷりは見事でした。

さらに驚いたのは、ルグランはこの2時間近いコンサートを、最初から最後まで、休むことなくピアノを弾き続けたことです。
すでに82歳という高齢ですが、そのピアノにはまるで老いたところがなく、軽やかで、品位があって、バツグンのセンスが漲り、ミスもなく、これだけの長時間を一気呵成に弾き続けるその途方もない才能とスタミナには、ただただ脱帽でした。

普段はほんのごくわずかのジャズを除いては、ほぼクラシックしか聴かないマロニエ君は、こんな放送にでも巡り会わないかぎり、なかなかこういうコンサートを耳にするチャンスはないのが正直なところですが、ここには音楽にほんらい宿っているべき楽しさや喜び、心に直に訴えてくる様々なファクターに満ちていて、久々に新鮮な感動と満足を得ることができました。

わけても注目すべきは、ピアノ、ドラム、ベース、ギターのいずれもが、いついかなる場合もリズムが弛緩することなく、生演奏故につきものの、ちょっとした加減で互いの呼吸に乱れが出たりということさえもなかった(少なくともマロニエ君にはそのように思われた)点は驚くべきで、作品や演奏の素晴らしさと併せてその点にも大きな感銘を受けました。

かねがね思っていたことで、この際だから言ってしまいますが、ことリズムや呼吸というものに関しては、クラシックの演奏家はまったくだらしがないと言わざるを得ないというのが率直なところです。

器楽奏者は高度で複雑なテキストをつぎつぎに課せられ、演奏として処理していくだけで神経の大半をすり減らしているのはわかります。しかし、しばしば大筋の流れを停滞させてまで、自分の演奏や解釈を見せつけたり、必然性のない強調をしてみたりというのは、趣味としてもいかがなものかと思います。
のみならず、音楽が本来の拠り所とする、聴く者の気分を音楽によって喜びへといざない、楽しませるという、最も根元のところの使命感が稀薄になっていると思わざるをえません。

クラシックの演奏家がこの「聴く者を楽しませる」という課題にぶつかると、ただ大衆向けの名曲プログラムに差し替えることだけにしか頭が回らないのは、まったくの思い上がりと勘違いと怠慢であって、まずは自分が音楽を楽しまなければ聴く側が楽しいはずはないのです。

そういうことを、けっして押し付けがましくないやり方で、サラッと教えてくれたコンサートでもあった気がします。
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謎の自転車

昨日の午前中、我が家のガレージのシャッター前に見知らぬ自転車が止まっていました。

ここは、すみに寄せるかたちで、うちに通勤してくる人の自転車が2台と原付バイク1台を止めるようになっているのですが、そこへもう一台、普段ないはずの自転車が、さも当たり前のような感じて止まっていました。

てっきり誰か来ているのかと思ってしばらくそのままにしていましたが、午後になっても一向に動きがなく、誰に聞いても心当たりがないようでした。

ガレージ前といっても、道路ではなく、れっきとした我が家の敷地内のことなので、どう考えても人が間違って置くような場所ではありません。
しかも、他の自転車ときれいに並べるようにして奥側に止められており、おまけに車輪には鎖で施錠までされているので、単なる放置自転車とも思えません。よって、この自転車をめぐって持ち主探しにかなりの時間と神経をとられることになりました。

しかし、まるで手がかりナシで、数時間経過するとだんだん気持ち悪くなってきました。なにしろ、よその敷地内に侵入して平然と自転車を置き、鍵をかけてその場を立ち去るというのは、まともな神経の持ち主のすることではなく、こちらとしてはかなり不気味です。

のみならず、中の車の出入りも非常にしづらい状況となっており、現実的な迷惑でもあるわけで、午後には道路までは移動だけはしました。もちろん片輪は施錠されているので、そちらを持ち上げながらですが、触るだけでもいい気はしません。

そうこうするうちに、あたりは暗くなる時刻(午後5時半過ぎ)となり、ついに警察に通報することにしました。
警察官が来てくれたのは6時少し前で、もうすっかり暗くなっていました。
状況の説明や確認をやっていると、そこへなんと、ひとりの若い女性が突如としてあらわれ、無言のままその自転車の鍵をさっさと外し、平然とした調子でその場を立ち去ろうとしています。

これを見て、あわてた警察官は、「貴女が止めたんですか?」「ここは他人の敷地内ですよ」と声をかけますが、それで動作が止める様子はありません。
捨てぜりふみたいな不機嫌な言い方で、小さく「すみません」という言葉は聞き取れましたが、警察官がちょっと待って!というのも無視して、サーッと走り去っていきました。

???…これってどういうこと…信じられない光景でした。

つくづく自転車のタチが悪いのは、こういう状況でも警察官はその人が立ち去ることを強制的に阻止するとか、追いかける権限がないということだろうか…と思いました。
少なくとも車やバイクは免許証というものがあるので、こんな勝手な行動(というか逃亡)なんてぜったいに許されませんが、どうやら自転車はその限りではないのでしょう。

あとに警察官とマロニエ君はポカンと取り残されたのみ。

そして、それ以上、どうすることもできません。
「もし同様のことがあったら、交番でも、110番でも構わないので、すぐに連絡してください。」と言い置いて帰っていきました。

それにしても、警察官相手にとっさにこういう態度をとるというのは、まともな市民の感覚とは思えませんが、つい今の若い人の悪しき行動パターンの典型のようにも受け取れました。

あとから考えれば、道路上に移動させないでおいたほうが警察官も明確な態度が取れたのかもとも思いましたが、それはあくまでも結果論に過ぎず、再び敷地内に入られることのほうがやはりイヤですね。

釈然としない、後味の悪い出来事でした。
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玉石混淆

これは名前を出すべきではない内容だと思われるので、一切の固有名詞は伏せての文章となることを予めお断りしておきます。

あるピアニストのことを採り上げた本を読んでいると、マロニエ君もむかし一度だけ行ったことのあるピアノ店の名前がしばしば出てきました。この店ではピアノを販売するかたわら、音楽教育にも熱心なようで、様々な先生や演奏家を招いて講習会などを開催したり、中には海外のピアニストを招いてのレッスンまでやっているということが書かれています。

どんなものかと興味を覚え、この店の名を検索してみると、すんなりホームページにアクセスすることができました。

そのトップページに、なんだかちょっと気になるピアノの写真が出ていますが、詳細に見るには小さくてよくわかりません。全体としてはスタインウェイのように見えるものの、どうもそうでもない…。

そこでこの会社の取り扱いピアノを見てみると、その中に、これまで聞いたこともない仰々しいネーミングのピアノが紹介されているのを発見。それは世界的に有名なある建造物の名で、そんなブランドのピアノがあるなんて、すくなくともマロニエ君はまったく知りませんでした。

説明によれば、ずいぶん古い歴史のあるブランドのような記述があるものの、ほどなくこれは中国製ピアノであることが判明。
中国メーカーがよく使う手で、廃絶したヨーロッパのピアノブランドの商標を安く買い取ってはなんの繋がりもないピアノにその名を冠し、さも由緒正しきピアノであるかのようにでっち上げるというもの。

このピアノ、実を言うとマロニエ君にはちょっとした心当たりがありました。
数年前、上海のあるピアノ店を覗いたときのこと、スタインウェイのA型と瓜二つの外観をもったピアノが置かれていましたが、鍵盤蓋に刻まれた名前は日本のある県名のようでまったく意味不明、書体もダサダサ、音はビラビラのまさに三流品以下といったものでした。
しかし全体のフォルムから細かなディテールにいたるまでハンブルク・スタインウェイそのもので、まさに外観はModel-Aのコピーといって差し支えないものでした。
さすがは中国!ピアノもここまでやるのかと呆気にとられたものでした。

後でこのピアノのことをネットで調べてみると、上海のピアノメーカーのようで、その日本的な名前が何に由来するのか、中国語ではまったく知ることはできませんでしたし、それ以上の努力をしてまで知りたいという意欲もありませんでした。

話は戻り、日本で売られているらしい、この仰々しい名の付いたピアノは、おそらく上海で見たあのスタインウェイもどきだと直感しました。むろん確たる裏付けはありませんが、細かいディテールに関することもあり、おそらくそうだと思います。さらに中国産ピアノでは、まったく同じピアノにあれこれの名前をつけ換えて別ブランドにするなど朝飯前です。

それにしても、それほど教育活動にも熱心で、海外の一流ブランド品まで取り扱うようなピアノ店が、なぜこんな怪しげなピアノを売るのか、そこが理解に苦しみます。
もちろん中国製ピアノは粗利が多いのだそうで、おそらく仕入れ値などは信じられないほど安価なんでしょうから、営業サイドからすれば儲かると判断したのかもしれません。でもこんなピアノを扱うことで店のイメージは大いに損なわれ、ひいては利益どころか取り返しのつかないマイナスだとマロニエ君が経営者だったら考えるでしょう。

ましてや世界的名器に混ぜ込むようにして、そんなピアノを販売するということは驚き以外のなにものでもありません。最高ランクのものを熟知している店が販売しているのだから、決して変なものではありません、良心的なピアノですよ、という言外の品質保証を匂わせているようなものです。

聞くところではウソの名人というのは、真実の中にウソを巧みに織り込んでいくのだそうで、世界的名器や著名ピアニストに混ぜてこんなピアノをお買い得品として推奨するのは、ある意味最も悪質という気がします。

動画でそんなピアノの宣伝の片棒を担がされている先生やピアニストも、ただただお気の毒というほかはありません。
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理性の采配

Eテレのクラシック音楽館では先月おこなわれたNHK音楽祭の模様がはやくも放送され、ユリアンナ・アブデーエワのピアノでモーツァルトのピアノ協奏曲第21番を聴きました。
指揮はマルティン・ジークハルト。

隅々までぬかりなく堅固な意志の行き届いた、お見事と云わせる演奏でした。
音の粒立ちが素晴らしく、とくに1/3楽章の速いパッセージなどでは音符のすべてが明晰かつ凛としており、アブデーエワの持つ演奏技術の素晴らしさをまざまざと見せつけられるようでした。

しかし、音楽の根底にあるものが歌であり踊りであるということを考えると、アブデーエワの演奏はいささかそれとは異なる目標が定められているのでは…とも感じられます。

あまり多くはない歌いまわしやルバートも、自然発生的というより台本で予定されている観があり、モーツァルトの音楽には少々そぐわない気がしたことも事実。基本的にはこの人の演奏は、遊びや冒険を排した理性の采配そのものと、随所に覗くピアニスティックな要素で聴かせる人だと思いました。

それなりの解釈の跡も見受けられますが、むしろ傑出した指の技術と、それを決してひけらかすためには用いないという自己主張が前に出ていて、「できるけどしない」というかたちでの力の誇示が、却って大人ぶっているようで鼻につく感じがあります。
それでも、これぐらい揺るぎなくきっちり弾いてもらえるなら、とりあえず聴くほうは演奏技巧の見事さに感心するのは確かです。

全体を振り返って感じるのは、この人に著しく欠けているのは音楽に不可欠の即興性や燃焼性、もっと単純にいえば率直さだろうと思います。
いかなることがあろうとも情に動かされない、不屈の精神の持ち主のようで、音楽家でが音楽的感情に動かされないということが、本来正しいのかどうか…。

ともかく、その日その場で反応していく「霊感の余地」を残さないのは、このピアニスト最大の問題点のような気がしますし、わけてもモーツァルトのような一音々々に神経を通わせて、センシティブな呼応を重ねていくような音楽で、事前にカッチリ錬られた作り置きみたいなパフォーマンスを完結させることはどうも感覚的にそぐわないものを感じます。

まあ、ひとことでいうなら、いかなる場合も決して波長がノッてこないのは聴く側の期待する高揚感をいちいち外されていくようで、なぜそんなにお堅く処理してしまうのかわかりません。

単に上手いだけでない、器の大きなピアニストを聴いたという印象には確かなものがある反面、いい音楽を聴いたという満足とはちょっと食い違った印象が手足を捉えて離してくれない…それがアブデーエワのピアノだという気がしました。

アンコールでショパンのマズルカを弾きましたが、こんな場面でちょっとした小品を弾くのにも、絶えず強い抑制がかかっているようですっきりできません。ひどく窮屈な感じがあり、少なくとも演奏によって作品が解き放たれる気配がないのはストレスを感じます。

余談ながら、黒のパンツスーツ姿がトレードマークのアブデーエワですが、それがさらに進化したのか、黒の燕尾服のようなものにヒールのある靴を履いた姿はまさに男装の麗人、川島芳子かジョルジュ・サンドかという出で立ちでした。
実はこれまで、服装は音楽とはとりあえず関係ないと思ってきましたが、彼女の優しげな眼差しはまるで少年時代のキーシンを思い起こさせるようでとても可愛らしいのに、そんなビジュアルの逆を行かんばかりのガチガチの服装は、その演奏の在り方にも通じるのではないかと、さすがの今回は思わずにはいられませんでした。
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うわさのこわさ3

本のタイトルは忘れましたが、櫻井よし子氏の著書の中で、次のようなことが書かれていたのをふと思い出しました。

大まかな意味だけしか覚えていませんが、要するに、本当に大事な話とか、大切な内容をしっかり人に伝えるには、相手の目を見てゆっくりと静かに語りかけることが必要であるというようなことでした。

討論の場でも、大きな声を張り上げて自説をまくし立てるのは得策ではなく、あわてず冷静に、むしろ静かな調子で話をするほうが、相手は自然と耳を傾けるのだそうで、これはなんとなく「音楽的感動の多くがピアニシモに依存されている」という原理とも符合しているように思えました。

そして多くの調律師さんは、まさにそういった要素をある程度満たした語り術をごく自然のうちに身につけているようにも思えてしまいます。

一般論として、調律師さんの大半が話し好きであることは折に触れ書いてきました。
技術系の人が自分の技術の話をするのは、専門家としての自負と、一般に理解されないという欲求不満とがないまぜになって、ことさら語りたい願望があるのかもしれません。
わけても、調律師さんは仕事柄、お客さんと一対一で静かに話がしやすい状況にあり、その点では恵まれた舞台がけを持っているということになるようにも思えます。

なにかというと出てくる武勇伝は数知れず、他者の批判やさりげない否定は三度のメシよりお好きといった向きも少なくありません。しかも、一部例外はあるとしても、大半は言葉や態度はきわめてソフトであるし、いかにも慎重めいた言い回しをされるなど、これはまさに周到なトーク術というべきものだと思います。

マロニエ君などは聞いているぶんにはいろんな意味でおもしろく、じっさい勉強にもなるので調律師さんの話を聞くのは嫌いじゃないというか、むしろ好きなほうだと思います。
ただ、いかにも「ここだけの話ですが…」的な調子で、しかも自宅という閉鎖された空間で、他者に遮られることも反論されることもないまま、ひたすらひとりの技術者の話のみを聞いていると、つい相手に引きこまれてしまうという特別な状況下におかれることも否定できません。

とくにこの手のトークに免疫のない人にとっては、まさに赤子の手を捻るも同然で、一種の催眠術的…といえば大げさかもしれませんが、抵抗力の無い人間がいかに語り手の狙い通りに話を聞いてしまうかというのは人間の心理作用としてすでに証明されていることです。
少なくとも聞き手はこの時点で、一時的な痴呆状態に陥っているともいえるでしょう。

おまけに意味深かつ表現力のあるピアニシモで語られると、これは変な喩えですが、ある意味、くどきにも似たエロティシズムも加わって、イヤでも納得させられる状況に追い込まれます。同時に、そんなトークのネタにされる同業他者はたまったものではないだろうなぁ…と思うこともないではありません。
それでも楽しく聞いてしまうマロニエ君もマロニエ君ではありますが。

ウワサ話やおしゃべりは一般的には女性の得意分野のようにされていますが、本当にこわいのは男の知性でコントロールされた「それ」なのかもしれません。
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うわさのこわさ2

ピアノの調律の極意や判断基準がどこにあるのかは、マロニエ君もいまだにわかりません。

調律する際に出す音、もしくはタッチ如何によっても大きく違ってくるようで、我が家に来られる技術者のおひとりは、終始繊細なピアニッシモで調律をされ、それはそれで長い話になるほどの理由と根拠があってそうされているわけです。

しかし、おそらくはフォルテで行う調律にもある一定の理由があり、むやみに全否定してしまっていいものか…というのがマロニエ君の偽らざる印象です。
ウワサの対象になった方の調律によるコンサートは何度も聴いていますが、ピアノの音に感銘を受けたことも幾度かあったほか、まったく同じピアノ/ピアニストで別の調律師がおこなった調律では、明らかに音が平凡で輝きも迫りもなく、それに気付いた人も何人かおられたほどでした。
やはりこれは誰にでもできることではないと思います。

むろん好みはあって当然で、マロニエ君も素晴らしいとされるものにも自分の好みでないものはたくさんあります。しかしひとりの技術者としての在り方を根本から否定するのであれば、それがどこまで正鵠を得ているのかと、ここは強く疑問に思うのです。

…しかし、しょせんウワサや悪評というのは、そもそもが好い加減で、そのための検証とか真偽の確認なんてされることのほうが少なく、大抵は無責任で残酷なものだと相場は決まっています。することなすことすべてが否定や非難でおもしろおかしく語られ、人から人へと広まっていくのは、なんだかとてもやりきれないものを感じてしまいます。

それに拍車をかけるのは同業者による批判でしょう。
職人とか技術者というのは伝統的に閉鎖的かつ自己肯定型の世界です。それだけ他者や他の流儀を受け容れない本能みたいなものがあるのかもしれません。(中にはその体質を逆手にとって「自分は人の技術も大いに認めていますよ」という謙虚さを妙にアピールする人もいたりします。)

いずれにしろ、専門家は専門家であるが故に、いかにも説得力ありげな自説を展開でき、さらには門外漢にその判定は甚だ難しいために、反論もできずに一方的にお説を承ることになります。

おしなべてピアノ技術者は相手がなるほどと思ってしまうようなトークが不思議なほど上手いので、大抵の人は意のままにコントロールされてしまうでしょう。ここで言う「大抵の人」とは、技術者ではないほとんどの人達で、むろんピアニストや教師の類もこれに含まれます。

このような同業者のコメントによって、ウワサは単なるウワサではなくなり、いわば専門家によって裏書きされたものとなって、さらにエネルギーを増していきます。

この先生の場合も、ウワサの予備知識があったところへ、名人らしき出入りの調律師さんがこの件ではずいぶんいろいろなコメントをして帰ったようで、それが決定的となり、件の調律師さんの悪評はいよいよ不動のものとなってしまったようです。
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うわさのこわさ

むかし、「ウワサを信じちゃいけないよ!」と歌い出す歌謡曲がありましたが、ウワサというのはえてして信じやすく、とくに悪いほうのそれは一種魔物のような恐さを感じることがあるものです。

それが真実であっても、なくても、ある段階を超えると、いつしか事実以上の力をもってしまうのがウワサの恐いところです。とくに否定的な内容であればあるだけ、そのウワサには勢いがついて闊歩するさまは、ほとんど竜巻みたいなものかもしれません。

ある調律師さんに関するウワサを耳にしましたが、この方は調律の際の音出しで、フォルテを多用して仕事をされるのが特徴のひとつです。
マロニエ君もよく知っている人ですが、この方の調律はたしかに独特で、いわゆる平均的・標準的な調律ではなく、長年にわたり独自の調律を追求されてきた方です。

ひとことで云うなら遠くへ美音を飛ばすことを旨とされ、この調律を嫌いな人もいる反面、これがいい!という熱烈な支持者も少なくなく、この人を指名してコンサートや数多くのレコーディングを続けている有名ピアニストもあるほどです。

ところがどういう理由からなのか、この方に否定的なウワサが立っているようで、長いお付き合いの音楽の恩師(しかもピアノではない)からまで、この人の仕事を非難する内容の話が出てきてびっくりしました。

この先生は長年にわたりお世話になった、とても生徒思いの立派な方ではあるし、しかもピアノの調律がこのときの話題の中心でもなかったので、マロニエ君もこのときは空気を読んで敢えて口を挟みませんでしたが、その技術者が保守管理をされているホールのピアノがいきなり槍玉にあがりました。どうやらこの会場でコンサートをしたピアニストの話などがベースになっているようです。

その内容は惨憺たるもので、あまり具体的なことは書けませんが、とにかく話だけ聞いていれば「そんなひどい調律師がいるのか」と誰もが思うような話になってしまっていました。

しかし、マロニエ君はその人の調律を悪くないと感じていた時期もあるし、今は好みが少し変わりましたが、すべてをダメと決めてしまうのは、いくらなんでも極端すぎて「こわいなあ」と思いました。
その方は、ご自身の信念と美意識に基づいて、理想とするピアノの音や響きを追求して来られた人であることは確かで、少なくともただ音程合わせしかしない(できない)調律師でないことは素直に認めるところです。
したがって好き嫌いの話ならわかるのですが、技術者としての価値を全否定するようなウワサとなっているのはさすがに驚きでした。

繰り返しますがこの先生はピアノの方ではありません。
そもそもピアノを弾く人の世界というのは、他の器楽奏者のように楽器の状態や音に敏感でもなければこだわるほうではないのが一般的で、本当にピアノの音や状態の良し悪しがわかる人、もしくはわかろうとする意欲のある人は驚くほど少数派なのが現実です。

ピアニストは向かった先にどんな楽器が待ち受けていようと、ひるまず、不平も言わず、与えられた「その楽器」で正確に弾き通せる逞しさを備えることが必要とされ、下手に楽器に敏感でないほうが身のためだという側面もあるかもしれません。

さて、くだんの調律師に話を戻すと、そんな人達に囲まれたピアノであるだけ、行き過ぎた悪評が冷静な判断によって修正されることなどまず望めません。いったん悪評やマイナスのウワサが広がると、もうそれを止める術はないわけです。
悪評の根拠となるまことしやかなエピソードには尾ひれがついて象徴的に語られ、「そんなひどい人がいるのか」「そんな人には絶対に任せられない」と誰しも思ってしまうのが聞かされた側の人情です。

しかもだれも責任はとらないのがウワサです。
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驚倒

「CD往来」というタイトルで、知人との間でオススメCDのやりとりをしていることを書きましたが、いまだにときどき続いています。

過日送っていただいた中には、コンスタンティン・リフシッツの「フーガの技法」、ドイツの若手であるダーヴィッド・テオドーア・シュミットによるブゾーニの編曲ものばかりを集めたアルバムが含まれていました。

この二つに共通しているのは、いずれもベヒシュタインを使っているという点で、それを事前に聞いていたので興味津々でした。

手許にあるリフシッツの「音楽の捧げもの」はとくに記載はないものの、ほぼ間違いなくスタインウェイと思われるものだったので、それから数年を経た録音でベヒシュタインを使っているということは、きっとそれなりの理由あってのことだろうと大いに期待したわけです。

小包が届き、御礼メールをしたためながら、まずフーガの技法を鳴らしてみることに。
果たしてそこから出てくる音は、伸びのない、ただ茫洋とした古い感じのピアノの音で、メールを書く間の20分ほど鳴らしていましたが、てっきり旧型のベヒシュタインが使われたものだと思い込んでしまいました。その旨の感想を書いたところ、後刻、先方からジャケットの裏表紙の写真がメールに添付され、そこにはD282と書かれていたのには驚倒しました。

D282といえば現行のベヒシュタインのコンサートグランドで、エルバシャの平均律や近藤嘉宏のベートーヴェンなどもこのピアノが使われており(いずれも日本での録音)、そこで聴く音は、ベヒシュタインらしさを残しつつも、それ以前のモデルにくらべれば遥かに現代的かつ折り目正しく整ったピアノであることが確認されていました。
今どきの好みや要求を適度に汲み取ってパワーと安定感が増し、美しい音を併せ持ったなかなかのピアノという印象を得ていたのです。

ところが「フーガの技法」に聴くピアノの音は、それらとはかけ離れたもので、おそらくピアノの調整、弾き方、録音環境/技術などが絡み合っての結果だろうとは思われました。
とりわけピアノの調整についてはピアニストの要求もあったのか、それともよくある「お任せ」なのか…。

レーベルはオルフェオで、これは「音楽の捧げもの」も同様ですが、どうもこのレーベルの音質じたいにどこかアバウトさがあり、音に核がなく平坦、しかも残響が多くてフォルム感がなく、あまりその点に厳しくこだわるほうではない傾向なのかもしれません。

それにしても、日本で録音されたD282が、あれほど正常進化ともいうべき要素を備えていることを訴えていたにもかかわらず、場所や技術者が変われば、ただ古いだけのベヒシュタインみたいな音にもなるというのは、まったく予想だにしていませんでした。
一皮剥けばこんな旧態依然とした地声だったのかと思うと、好印象を得ていたのは特別な技術者によって入念に作られたよそ行きの声だったみたいで、なんだかがっかりしてしまいました。

別の見方をすれば、根底にはこのメーカーのDNAが脈々と受け継がれているということでもあり、その遺伝子こそが伝統なのだと言えないこともないのかもしれません。
ENからD282への進化は、むき出しのピン板がフレーム下に隠されたり、デュープレックスシステムを備えるなど、いかにもドラスティックなもののような印象がありましたが、実際には単なるマイナーチェンジに過ぎなかったのかもしれません。

CD往来では、いろいろな刺激や発見が次から次で、とても勉強させられます。
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カテゴリー: CD | タグ:

アンリ・バルダ

青柳いづみこさんの著作『アンリ・バルダ』は、読者レビューによれば評判はそれほど芳しいものではなく、むしろ否定的な意見が多く見られたようでした。

普通ならこういう書き込みを見ると購入意欲を削がれるものですが、アンリ・バルダというピアニストは一度テレビで視たきりで、よく知らなかったこともあるし、そもそも青柳女史が一冊の本として多大な時間と労力を賭して書き上げるからには、それなりの意味と価値があったのだろうと思われ、敢えて購入に踏み切りました。

果たしてマロニエ君にとっては、否定的どころか、この本は青柳氏の数々の著作の中でも出色であったように思われ、始めから最後まで、概ねおもしろく読むことができました。

バルダという気が弱いのに我が儘な、傲慢なのに優しげな、いかにもヨーロッパにいそうな昔気質の音楽家の姿がそこにあり、傷つきやすい繊細な心象を抱きつつ、それを守ろうともせず矛盾の渦の中に自分をつき落とし、後悔を繰り返しながら、それでも本能のようにピアノを弾いている、はや初老のフランス人ピアニストの半生でした。

本を一冊読み終えてみると、無性に演奏が聴きたくなるものですが、手許には一枚もCDがありません。オペラ座バレエのジェローム・ロビンスの舞台では長年ショパンを弾いていた由ですが、以前マロニエ君がこれを見たときは別の女性ピアニストになっていて、そこでのバルダも聴いてみたかったなどあれこれと興味ばかりが沸き立ちました。

本によると、ときどき来日してはコンサートやレッスンをやっているようではあるし、そのうちまたクラシック倶楽部でもやるかもと思っていたら、その念願が通じたのか、それから早々のタイミングで「アンリ・バルダ・ピアノリサイタル」が放映されたのには却ってこちらのほうが驚きました。

2012年の浜離宮でのリサイタルで、ラヴェルの高雅で感傷的なワルツ、ソナチネ、ショパンのソナタ第3番というものでしたが、不機嫌そうにステージに現れたバルダは一礼をするとサッと椅子に座り、一呼吸する間もなく演奏を始め、見ているほうが大丈夫か?と不安になるほどです。

本を読んでいたこともあると思いますが、次第にわかってきたのは、このバルダのステージ上の素っ気ない態度は、ひどく緊張している自分との戦いのようにも思われました。

バルダのピアノはタッチの多様さというものが少なめで、悪く言うとタイプライターのように容赦なくキーを叩いて演奏をひたすら前進させ、その疾走するスピードにときどきバルダ自身さえもが煽られているようなときもあるようです。

あまりに出たとこ勝負的な演奏なので、途中で本人もマズいと思っているのかもしれないけれど、笛が鳴って飛び込んだら、ともかくゴールを目指して泳ぎ続けなくてはいけないスイマーのように、遮二無二、終わりに向かって進んでいくといった感じでもあります。
よく聴いていると情感はあるのだけれど、それを正面から出すのが彼のセンスに合わないのか、むしろドライぶって仮面を被っているようでもありました。

ラヴェルは彼の十八番のひとつのようですが、現代の演奏に慣れてしまった耳で聴くと、すぐにその良さは伝わりません。むしろデリカシーのない、思慮を欠いた、荒っぽい演奏のように聞こえてしまうでしょうし、事実マロニエ君もはじめのうちはそんな印象で聴いていましたが、だんだんにこの人が紡ぎ出す音楽の美しさと、作品そのものの美しさが和解してくるようです。
音楽が奏者の感性を通して演奏となり、それが音として実在してくるという一連の流れが、とても芸術的だと感じるようになりました。

バルダの主観によって捉えた音楽を、ありのまま出してみせるという、まるで画家の自由奔放な筆使いを見るようで、他のピアニストでは決して味わうことのできない面白さを満喫することができました。

もちろん欠点はたくさんあるし、「それはあんまりでしょう!」といいたくなるような部分も随所にありました。でも例えばショパンの第三楽章の悲しみの中に沈殿する透明な美しさや、それを隠そうとする恥じらいなど、バルダの心中のさまざまなうごめきが伝わってくるようで、もっとこの人の演奏に付き合ってみたいような気になるのは、まったく不思議なピアニストだと思いました。

アンコールではショパンのノクターンが弾かれましたが、これがまたエッ!?!というような賛同しかねるもので、最後の最後まで苦笑させられました。

でも、マロニエ君はいつも思っていることですが、物事の良し悪しというのはその残像としてとどまるものに証明されると思います。その点で言うとバルダは、結局は非常に後味の良い、魅力あるピアニストであったことは間違いないようです。

甚だ辛辣で偽悪趣味のパリジャンもなかなかカッコイイものです。
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プライドもどき

プロフェッショナルのスタンスに関連して思い出したことを少々。

世の中にはビジネスをやっているにもかかわらず「ありがとうございました」という言葉、もしくはそれに準ずる挨拶を決してしない人が(ごく稀に)いるというのは首をひねるばかりです。

医療関係や学校関係がそれをいわないのは、まあなんとなく社会の慣習として定着していますが、それにも当たらない大半の業種では、これなしではなかなか場が収まりません。

であるのに、毎回どうにかしてこの言葉をすり抜け、あげくには、あま逆さまにお客側に御礼を言わせてしまうという摩訶不思議な状況になるのは、呆れると同時に、なぜそこまでこだわるのか理解に苦しみます。

その理由は、きっと心の深いところにわだかまっていて、体質や細胞にまで染み込んでいるのだと思います。
ふと振り返っても、通常の仕事はもちろんお客さんを紹介するなどしても、一度としてその言葉を聞いたためしがないとなると、これはよほど重症なのだろうと思われます。

「ありがとうございました」という言葉は通常の人間関係でも日常語であり、ましてやビジネスともなれば、ほとんど呼吸同然に身についているのが普通です。食べ物屋に行っても、モノを買っても、金融でも、技術でも、サービスでも、100円ショップでさえも、この言葉は過剰ともいえるほど繰り返し聞かれ、言う側も、言われる側も、これなしでは関係が立ちゆきません。

心からの感謝の気持ちかどうかは別にして、皆ごく当然の流れで「ありがとうございました」を口にしていますし、これは商行為のケジメであるし、仕事というものはどのみちそんなものの筈です。
それでも、この言葉を極力発したくないというこだわりがあるとしたら、そんな人はそもそも商売なんかせず、勉学に励み、医者か官僚にでもなればいいのです。

ビジネスに対する意欲や情熱は人一倍あるのに、この言葉を頑として口にしないというのは、明らかに意識的としか思えません。きっとそこには心の屈折がある筈で、ひとくちに言ってしまえば、よほど自信がないことの証明だと思って間違いないでしょう。
御礼を言うことは自分が頭を下げて負けるようであり、そのぶん相手が上に立って優勢になるというような、卑屈で脅迫的なイメージが固定されているのかもしれません。

これと同じことは、「申し訳ない」や「すみません」にもあらわれ、これがスッパリ言えない人にはやはり卑屈さがあり、むやみに勝ち負けを意識する思考回路になっているのでしょう。

コンプレックスから意識過剰になり、卑屈になって、挨拶が挨拶以上の意味に感じられて、それを口にしたくないということもありそうです。
子供が好きな女の子にかえって意地悪をするように、人間は本心は悟られたくないときに場違いな強気の態度をとってしまうという防衛本能があるのかもしれません。
とはいえ、ビジネスの現場にまでそれを持ち込むのは、いかがなものかと思います…。

そもそも、自分に自信のある人というのは、心にも余裕があるからおおらかで気持ちも明るく、何事も偉ぶらず、御礼やお詫びなども、臆せずに、堂々と、盛大に言うものです。

自信のある人は、どんなに感謝やお詫びの言葉を口にしても、それで自分の立ち位置がけっしてブレることがないことを知っています。
逆にそういう言葉を避けたり惜しんだりする人は、自分ではそれこそがプライドのつもりなのかもしれません。しかし、悲しいかな目論見どおりには人の目には映ることは決してなく、むしろ力んでばかりいる臆病な小動物みたいに見えてしまいます。
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プロの矜持

今年、縁あって知るところとなった自動車のメンテナンスショップがあります。
ここのご主人がたいへん立派というか、見上げた心がけの持ち主で、すっかり感心してしまいました。

それは故障の修理にあたって、いろいろな可能性や方策が講じられ、「それで結果がでたら、これこれの料金で…」というスタンスを取ることです。

故障しないことが当たり前の日本車にお乗りの方はご存じないかもしれませんが、輸入車に乗ると、ほかに代え難い魅力がある反面、信じられないような故障やトラブルに悩まされることになります。とくに保証期間が切れると、以降は何があっても費用は自腹を切らなくてはなりません。

まず大変なのはトラブルの原因究明ですが、これがやっかいです。
ライトが切れたとか、タイヤがパンクしたというのなら話は早いのですが、現実のトラブルはとてもそんなものではありません。機械の奥深い部分に、考えられないような原因があることは珍しくなく、それを正確に突き止めることが至難の技です。

さらに現代の車は大小様々なコンピュータまみれで、これが悪さをすると、なにが原因かを特定するのは困難を極め、そのためのテスターなども実は限界があって決して万能ではありません。

突き止められなければどうなるかというと、問題の可能性がありそうなパーツを交換して、あっちがダメならこっち、こっちがダメならそっちといった具合で、オーナーは車が直って欲しい一心でその成り行きを見守ることしかできまません。

実際、部品を換えてみないとわからないということも確かにあることはあるのですが、多くはメカニックが独断的な見立てをして部品を発注、さてそれを交換してみたものの一向に改善されない…といったことがよくあるのです。
これはつまり、結果からすれば交換の必要がなかったパーツだったということになり、じゃあその部品代や交換工賃はどうなるのかというと、これは車のオーナーの負担になります。

常識で考えれば、「プロの見立てが悪いのだからそっちの責任」ということになって然るべきですが、実際はなかなかそうもいかないのです。
修理する側にしてみれば、直すための努力をやっている過程で発生したやむを得ない手順のひとつというわけで、それを容認できないようなら「うちじゃ診きれません」というようなことになるわけです。

しかも、輸入車の場合は診てくれる工場も多くはなく、見放されては困るという乗り手側の事情もあって、理の通らない請求にもじぶしぶ応じることになるわけです。

ところが、このショップでは工賃もリーズナブルな上に、結果に対して責任を持つ姿勢であることは、本来なら筋論として当たり前のことですが、それがほとんど実行されない現状に慣らされているぶん、マロニエ君は大いに感激してしまいました。
今の世の中、当たり前が当たり前として機能し、実行されることはそうはないのです。

プロというものは、基本として結果に責任をもち、そこに報酬を得ることのできる専門職のことであって、結果に至るまでの未熟さや紆余曲折の過程で発生した部品代や手間賃をいちいち請求するのは、ほんらいプロとして恥ずべき事だと思います。

ピアノの世界でも、せっかくいい仕事をされるのに、作業内容や料金に対して一貫したポリシーをもてない人がいたりすると、それだけでしらけてしまいます。
はじめに聞いたことと、いざ請求するときの金額や内容が微妙に違っていたりするのも、こちらは敢えて追求はしないけれども、内心ではむしろ鮮明にきっちりわかっているだけに、そんなとき見たくないものを見せられるような気がします。

小さなことは実は決して小さくはないということでしょうか。
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コンラッド・タオ

いつだったかCD店の処分セールのワゴンの中から買ってみたもののひとつに、コンラッド・タオという中国系アメリカ人のアルバムがあり、このとき初めて聴きました。

ピアニストで作曲家、おまけにヴァイオリン演奏もプロ級という大変な才能の持ち主のようで、このアルバムでもラフマニノフのプレリュードやラヴェルの夜のガスパールのほかに自作の作品もいくつか含まれていました。
すでにダラス交響楽団からケネディ大統領暗殺50年のための委嘱を受けるなど、作曲家としてもすでにかなりの評価を受けているようです。

まだ二十歳前という若さにもかかわらず、非常に洗練されたスタイリッシュかつ雄弁な演奏であるのは印象的で、技巧的にも申し分なく、あらためて音楽の世界は若い時期にその才能が決定してしまうことをはっきり思い知らされるようでした。

いかにも中国人という感じの、あまり期待させるジャケットではなかったので、よけいにその趣味の良い完成された演奏、さらには自作の作品もなかなかのもので、こういう優れた才能が存在していることに驚かされました。

気をよくしてyoutubeで検索したところ、その中の映像ではさらに若い頃のものか、リストかなにかを弾いているものがありましたが、なんとそこでの彼は中国節全開で、到底CDの演奏と同一人物とは思えないようなものであるのに愕然とさせられました。

この点はたいへん不可解ではあるけれども、善意に解釈すれば、その後の研鑽によって一気に国際基準の語り口を身につけ、現在のようなスマートな演奏が確立されたということかもしれません。真相はわかりませんが、今のところはそう思っておきたいと思うのです。

マロニエ君の好む演奏のひとつに、繊細なのに音楽的な熱気があるというスタイルですが、コンラッド・タオのピアノにはそれを感じ、中国の才能も大したものだと思います。
ああ、またか、と思われる向きもあるでしょうが、これだけいろいろな才能がある中で、なぜランランのような人がひとりスター扱いを受けるのか、この点が甚だ納得がいきません。

ランランで思い出しましたが、どうして中国人青年の若い頃というのは、だれもかれも昔の板前さんみたいな五分刈り頭で、まわりから浮いてしまうほど場違いな雰囲気を発散するのかと思います。

ある意味で、いまや伝説の映像となっている、若いランランがデュトワ指揮N響と共演したラフマニノフ3番のときもこれだったし、ニュウニュウもはじめはそれ、そしてアメリカで育った筈のコンラッド・タオでさえやはりこのスタイルなのは唖然としてしまいます。
例外はユンディ・リだけでしょうか…。

まあ、それは余談としても中国の音楽家の良いところは、演奏がぶつぶつ切れるような縦割りではなく、好き嫌いはあるとしても、みんなある一定の流れを持っているところのような気がします。
ひょっとすると、これは複雑な発音を流暢にしゃべる中国語にその源流があるのかもしれません。

なにかにつけ優秀な日本人ですが、こと外国語の発音だけは本当に苦手で、今回のノーベル賞受賞者といい小沢征爾さんといい、もう少し上手くて当たり前だと思うような国際人でも、どこかカタカナを並べたようで、やはり日本語という言語に深い理由があるのかもしれません。
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予報と結果

今年も台風の季節となっています。

とりわけ沖縄や九州は、多くがその最前線に立たされる地勢的な運命にあり、やっと夏の暑さから解放されると思うのも束の間、お次は台風の到来を覚悟しなくてはなりません。

むかしから春の陽気が体調に合わないマロニエ君にしてみれば、春→梅雨→夏→台風と一年のほぼ半分が過ごしにくい時期となるわけで、考えてみればうんざりの時期も長いはずです。

むかし毎年のようにメキシコへ旅する知人がいましたが、彼の地は「常春」すなわち年中春なのだそうで、蒸せるような夏の暑さも、肺と血管が収縮するような冬の寒さもない、温良な季節ばかりが年がら年中続くのだそうです。
なんと羨ましいことかと思ったのですが、どうやら現地の人はそれほどでもないのだそうで、あちらから見れば(とくにメキシコ在住の日本人によると)、日本のように四季の移り変わりがあることにある種の憧れみたいなものもあるらしいという話を聞いてとても意外だったことを思い出します。

年中過ごしやすい春というのは、差しあたってはいいのでしょうが、その反面変化に乏しく、そこに住み暮らす人々もどことなく怠惰で、いつも平坦で刺激もなく、これが必ずしも人間の暮らしにとって最良とは言い切れないということを聞いたとき、そんなものかなぁ…と思ったものです。

そうはいっても、日本の四季も、言葉だけは美しくて叙情的な響きがありますが、実際にはけっこう苛酷だなぁ…とも思います。天候だけでいうなら、日本は必ずしも住みやすい地域とは云えないような気がするのですが、かといって世界を知らないマロニエ君には本当のところはよくわかりませんが。

さて、冒頭の台風に戻ると、今年は梅雨の延長のようだった夏から、季節外れの台風の情報に翻弄されたように思います。
今月も18号に続いて19号が北上、九州付近から右折して、列島を嫌がらせのように横断していくというパターンが二週続き、土日や連休は台風一色で終わってしまいました。

自然現象はどうすることもできないとしても、これに際しての気象庁の発表する台風情報、あるいはテレビが報道する台風の情報には、個人的にはいささか疑念をもつようになりました。

早い話が、いくらなんでも大げさに言い過ぎる傾向が以前よりも強くなり、毎回どれほどの巨大台風がやってくるのかと、過ぎ去るまでの数日間は右往左往させられるのですが、実際はほとんど予報や報道とはかけ離れた平穏な状態です(少なくとも九州は)。

もちろん用心に越したことはないし、結果的に大事に至らなかったのはなにより結構なことではあるけれども、あまりにそれが毎回で、さすがにどういうことなのか?と思ってしまいます。

夏の台風でも「かつて経験したことがない規模の猛烈な」というフレーズが何度も繰り返され、それは福岡地方も完全に含まれており、学校の類はすべて休校、街はすべてが台風にそなえた形となりましたが、実際は台風どころか、むしろ無風といってもいい状態のままそれは通過していきました。

先週もやや強めの風が少し木の枝を揺らしていた程度ですし、さらにそれよりも北にコースをとった19号も、いつどうなったのかほとんどわからないまま東へ進んでいき、あとから多少の風雨となった程度でした。
宮崎・鹿児島が最も危険な進路上にありましたが、宮崎市内に実家のある友人が電話をしてみたところ、「なにもなかった」とのことで、これほど甚だしく予報と実際の食い違いがあるというのはちょっと問題ではないだろうかと思います。

気象観測の技術も昔にくらべれば格段の進歩を遂げているはずですが、もう少し、リアリティのある予報であってほしいものだと思います。

もちろん防衛費などに代表されるように、社会の安全や、人々の健康というものは、ほんらい何もなくて当たり前、その当たり前を実現し維持ためには多大なコストやエネルギーを要するのはわかりますが、それにしてもこのところの台風情報はどこかおかしいのでは?と思えてなりません。
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続・CD往来

前回書いた通り「CD往来」のおかげで、聴いたことのなかったヴァイオリンのCDを一気に楽しむことができました。

2度にわたって送っていただいたCDは実に21枚!にも達していますが、とりわけ集中しているのはパガニーニの24のカプリスとイザイのソナタ全6曲で、いずれも無伴奏の作品です。
これらが各6枚ずつで12枚、さらにバッハの無伴奏ソナタとパルティータが2枚、ロッラという作曲家のヴァイオリンとヴィオラの二重奏など、無伴奏のアルバムが多くを占めました。

パガニーニのカプリスは昔パールマンのレコードをよく聴きましたが、その後はそれほど熱心に探してはいなかったこともあり、五嶋みどりなど数枚がある程度でした。
そこへ今回一気に6人もの超一流奏者によるカプリスを手にすることとなり、急なことで耳が驚いているようです。

昔の印象と違ったのは、この曲集はやはり技巧ありきの作品で、演奏はどれも卓越したものであるのは云うに及びませんが、作品としては意外に飽きてくるという事でした。

その点では、イザイのソナタにはそれがありません。
どれもが濃密な人間ドラマのようで、聴くたびにわくわくさせられるし、演奏者によってもその台詞まわしやカメラアングル、演出がみな異なり楽しめました。
とはいっても、無伴奏ばかりを延々と聴いていると、ときどき疲れてきて違うものが聴きたくなりますが、やはりおもしろいので、一息つくとまたプレイヤーに入れてしまいます。

さらに飽きさせないのはやはりバッハです。ポッジャーというバロックヴァイオリンの名手がはっとするような清新な演奏を繰り広げるのにはかなり驚きました。
昔は、フィリップスから出ているクレーメルのこれが一番だと思っていたし、最近になってイザベル・ファウストの鮮烈がこれを抜き去ったように感じていました。そこへこのポッジャーというファウストに勝るとも劣らぬ名演が加わり、充実のラインナップと相成りました。

これまでにもイザイやバッハは買ったはいいが大失敗で、演奏者の名前すら覚えていないというのもいくつかあり、その点ではヴァイオリンに通じた方が選ばれたCDはまさに精鋭揃いでした。

ヴァイオリンの音色もさまざまですが、これに関してはマロニエ君はどうこういえるほどよくはわかりません。ただ好きな音、それほどでもない音があるのはピアノと同様ですが、それが演奏によるものか、楽器によるものかなどはもうひとつ判然としないというのが正直なところです。

ちなみに最近ここに書いた樫本大進の演奏でも、チャイコフスキーでは終始音がつぶれ気味で美しさがなかったのに、アンコールのバッハでは違う楽器のような美しさを感じたのはちょっとした驚きでした。やはり楽器の美しさを楽しむには無伴奏は最適ということなのかもしれません。

ひとつ発見したのは、無伴奏ヴァイオリンのCDは、どれも録音が素晴らしいという点です。リアリティがあって立体感があって、しかも全体像も掴みやすいし、楽器から出ている直接の音と残響の区別もつけやすいし、まるで楽器が目の前にあり、演奏者の息づかいに直接接しているようで生々しい高揚感があります。
こんな面白さや魅力は、ピアノの録音ではなかなか望めないことだと思いました。

考えてみれば、ピアノという楽器は、音域もダイナミックレンジも異様に広く、それをひとつの録音作品として遠近をまとめ上げるのは並大抵ではないのだろうと思われます。
むかしオーディオマニアだった友人が尤もらしく言っていたところでは、録音技術者はピアノのソロを満足に録れるようになったら一流なのだそうで、それが今ごろになって納得させられるようです。

ピアノの場合は、録音の巧拙が残酷なまでに明らかで、それは定評のあるレーベルに於いても、アルバムごとに音質というか、要するに録音ポリシーみたいなものが常に不安定なことでも察することができるようです。
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CD往来

遠方の音楽好きの知人と電話をしているとき、ピアノの調律に話が及び、調律師によって実にいろいろなやり方や個性があることが話題になりました。

とりわけ一流どころになると、調律は明らかに芸術性が問われる高尚な領域に突入します。ひたすら職人技に終始するか、はたまたそこから芸術の領域に足を一歩踏み入れるか、ここが分かれ目です。

しかしこればかりは、どんなに言葉を労してもその音を伝えることはできません。
『百聞は一見にしかず』のごとく、聴覚もこの点は同様です。
そこで、オクタビアレコードからリリースされているCDで、我が主治医殿がピアノの調律を担当しているものをコピーして送ることになりました。だって聴いてもらうしかないのですから。

CDのコピーというものはあまり大っぴらに云っていいことかどうかはわかりませんが、パソコンなどはそれができる機能を有しており、べつに販売するわけでもなく、とりあえず「個人が楽しむ」という制限付きならば許されていることだと解釈しています。

マロニエ君は車の中の音楽はすべてコピーCDで聴いているので、ときどき車用を作るのですが、考えてみると、このところずいぶん長いことこれをやっておらず、これを機に久しぶりにCD作りに精を出しました。

どうせ送るのなら、ほかにも話の種に聴いて欲しいものもあり、思いつくままにコピー作業をやったのですが、これが案外楽しかったのは自分でも妙な発見でした。
車用を兼ねて2枚ずつ作るというのも合理的であるし、なんだか貴重な音楽CDを自分の手で作っているような子供じみた面白さもあって、数日というもの、夜はすっかりこれにはまってしまいました。

ある程度の枚数を送ると、なんと先方でも同様のことをしてくださり、ほどなく分厚いCDの包みが届きました。中を開けると予想を遥かに上回る枚数のCDが出てきてびっくり!
相手の方はヴァイオリン出身の方なので、ヴァイオリンのCDを相当お持ちで、そこには自分ではまず買わなかったであろうCDがズラリ! 一通り聴くだけでも大変な量です。

その「自分では買わなかったであろうCD」というのがポイントで、自分だけでは趣味趣向がどうしても偏ってしまって限界があります。マロニエ君ならどうしてもピアノが優先になるし、その取捨選択も、知らず知らずのうちに同じような尺度でばかり選んでしまうようです。

その点では、他者が他者の興味や価値観によって手に入れたCDというものは実におもしろいもので、ドキドキの連続、予想外の音楽や演奏に出会える恰好のチャンスとなりました。
はじめて聴くことができた演奏家や作曲家もあって、やはり所詮一人で動いていては限界があることを痛切に感じます。

マロニエ君は、趣味は基本的に、孤独でもじゅうぶん楽しんでいけるだけのものでなくてはならないと思ってます。たしかに同好の仲間がいるのは楽しいけれど、趣味という名のもと、価値観の違う者同士が無理して肩寄せ合って、口にはできないストレスを感じながら妥協的な時間を過ごすのは本末転倒で、好きではありません。

車などは同好の士が集まるのはとても楽しいのですが、こと音楽とかピアノになると、何故か知らないけれど、何かが違うというか、最も大切な核となる部分が悲しいまでに噛み合わないことがあまりに多いというのが偽らざるところでしょうか…。

むろん中にはそうではない方も僅かにおられますが、これは本当に一握りの方々です。
そういう方との交流や情報交換はやはり貴重ですし、それによって自分が大きな恩恵に浴していることは確かです。
とくにヴァイオリンのCDに関しては、おかげでグッと視界が広がったような気がしています。
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男の自意識?

今年7月にサントリーホールで行われた山田和樹指揮のスイス・ロマンド管弦楽団の演奏会から、樫本大進のソリストによるチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲をNHKクラシック音楽館の録画から聴いてみました。

全般に力の入った演奏で、会場はたいそう拍手喝采でしたが、個人的にはそれほど好みではなかったというのが正直なところです。

音楽的にも、これという個性やメッセージ性があまり感じられないにもかかわらず、自分という存在の主張だけは怠りないものが感じられました。

マロニエ君の印象としては、樫本氏は、現在の彼が背負っている肩書きというか、手にしているポストの高さを日本の舞台でも立証してみせることのほうに意識が向いているようで、演奏もそちらの要素が主体のものであったような気がしました。

もちろん、それは目先の技巧ばかりを見せつけるような単純なものではなく、各所での思慮深さなどを充分考え、深めた上でのものだという体裁にはなっているものです。なんだかそこまでのしたたかな思惑が見えてくるようで、要するに、聴く側に演奏が深く染み込んでくると云うことがあまりなかったのが個人的な印象でした。

ソリストでも名を馳せ、それになりの活躍をして実績を積んだ上で、さらにはベルリンフィルの第一コンサートマスターに就任したということが、飛躍的な地位の格上げになったものは間違いないでしょう。

ただ、真実それにふさわしい演奏ができているのか、あるいはそれに値する器の持ち主かということになると、マロニエ君は正直よくわかりません。

チャイコフスキーの協奏曲ではオーケストラの序奏に続いて、すぐにヴァイオリンのソロが入りますが、それがあまりに意味深で芝居がかったようで、いきなり曲の流れが途絶えたようでした。この気配というのは、ほんのわずかのことではあるけれども、そのわずかはとても重要で、聴く側にとっても独奏者がこれからどういう演奏で行こうとしているのか、おおよそ方角が決定されるように思います。

そして、なんとなく、あのフレンドリーな笑顔が印象的な樫本氏にしては、かなり自分を前に出すなぁ…という印象でした。

ナレーションで言っていましたが、樫本氏と指揮の山田和樹氏はドイツでも親しい間柄なんだそうですが、終演直後のステージマナーのちょっとした所作では、名門スイス・ロマンドと山田氏に対して、かすかに上から目線な態度だったように感じられたのは、思わず「ほぅ」と思ってしまいました。

男の競争心というのは、どんな世界でも上を極めるほどに凄まじいものがあるものですが、ここにもチラッとそれを見てしまったようでした。

ちなみに、山田和樹氏の演奏には、これまで好感の持てるものにもいくつか接していましたが、このチャイコフスキーではまるで作品にLED照明でも当てたみたいで、あまりに憂いがなく、この点にはちょっと馴染めないものを感じてしまいました。
オーケストラはサイトウキネンではなくスイスロマンドなのですから、もしかするとこれが最近の明晰な演奏のトレンドなのかとも思われました。

かつてのロシアのオーケストラのような、どこかアバウトだけれど、叙情的でやわらかな響きのチャイコフスキーというのは、もはや時代に合わないものになったのか…いろいろと考えさせられました。
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北アルプス文化センター

エデルマンのショパンアルバムに聴くスタインウェイが、久々に逞しいパワーと深いものをもったピアノだったので、このところ虚弱体質の新しい同型が多い中、まだまだこういうピアノも存在していることがわかって溜飲の下がるような、あるいはホッとするような思いがしたものです。

エデルマンの演奏はやや強引なところがあるものの、この好ましい英雄的なスタインウェイサウンドを聴く快感を味わいたくて、ずいぶん繰り替えし聴きました。
データには収録場所が、富山の北アルプス文化センターと記されており、なんでそんなところへわざわざ遠征して録音するのだろうとはじめは思っていました。以前も同じレーベルで、ある日本人が弾くリストのアルバムを購入してたところ、これが演奏といい録音といい、およそマロニエ君の好みからかけ離れたもので、我慢して2回聴いてあとは完全なほったらかしとなっていたのです。

そのときも北アルプス文化センターとあったので、きっと楽器も会場もよくないのだろうと思った記憶がおぼろげにありましたが、エデルマンに聴くピアノの音がただならぬものなので、もしやと思ってあれこれ検索してみることに。
すると、北アルプス文化センターは、そこにあるスタインウェイが評判がよい由、さらにはホール側も録音に協力的なためにここで録音するピアニストが多いというような書き込みを目にしました。

へえー…そうだったんだ!と思って調べてみると、ここは1985年ごろのオープンなので、おそらくその時代のスタインウェイが納入されていると考えていいでしょう。この時期は近代のスタインウェイではマロニエ君の最も好きな時代のひとつなので、聞こえてくる音の充実感に膝を打ちました。
こうなるといてもたってもいられず、別のディスクも聴いてみたくなり、とりあえずここで録音したピアノのCDを探すことに。

その結果、菊地裕介氏の弾くシューマンのダヴィッド同盟やフモレスケのアルバムが見つかり購入。レーベルはやはり同じオクタヴィアレコードです。
2日後ぐらいに届いて、さっそく鳴らしてみると、冒頭のアレグロh-mollが始まるや、なにかが上から降りそそいでくるかのような華麗で重厚な美音の雨に総毛立ってしまいました。

録音もエデルマンのショパンほどマイクが近すぎず、さらには菊地氏はエデルマンのように強引な打鍵ではなく、より自然な過不足のない鳴らし方をしており、音としてはずっと好ましいものだったことも収穫でした。

絢爛とした甘くてリッチな音色、美しい鐘のような低音、現代性と圧倒的なタフネスを兼備して、ひとつの完結された個性がそこにあり、まるで生命体が発するようなオーラを感じます。

こういう音に接すると、やはりある時期までのスタインウェイは他を寄せ付けぬピアノだったことを思い知らされますが、その後は音質はもちろん、ピアノとしての潜在力がじわじわと下降線を辿り始めたのはただただ残念というほかありません。

どの時代のスタインウェイがもっとも好ましいかという意見はいろいろあって、80年代のものでも厳しい人はダメだと一蹴されるでしょう。しかし、マロニエ君はせめてこの時代ぐらいまでの音質を維持していれば、他のメーカーの猛追に脅かされることもなかったように思います。

この時代までは、かりそめにもこのブランドに相応しい魔力のようなものを感じる雲の上のピアノでしたが、それ以降は少しずつ飛行機が高度を落としていくように、雲の下まで降りてきて、現在は高級な量産品の音になっているというべきかもしれません。

あとは賢明な判断力のあるホール管理者が、安易な買い換えなどをせずに、佳き時代のピアノをできるだけ大事に使っていってほしいと思います。
名のある演奏家などが、「ホールのピアノはほぼ10年で寿命となる」などと、堂々と発言したりするのを目にすると、楽器屋と結託しているのかと本当に驚いてしまいます。
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水の音

マロニエ君の自宅の裏には、マンションが背中を向けてそびえ立ち、我が家とは土地の高低差があるので、マンションの土台部分は一面のコンクリートの壁状になっています。

これが幸いし、さらに両隣のお宅も住居部分がそれぞれ離れていため、ピアノの音でご近所に気兼ねすることがそれほどでもなく、控え目な音であれば深夜までピアノが弾ける環境であるのは恵まれていると思うところです。

そのマンションから、下水か何かよくわかりませんが、我が家との境界線付近にある排水口らしきところへかなりの勢いで水が流れ落ちてきて、その水の音は、隣人としては改善を願い出てもおかしくないほどの音量に達しており、それがどうかすると24時間連日続きます。

たまに我が家に訪れた人は、その絶え間なく流れ落ちる水の音に驚き、何事か!?と感じる向きもあるようです。

ところが我が家では、誰もそのことでマンションへ苦情を言ったことがありません。それは水の音というものが、うるさいと思えば確かにそうだけれど、どこか嫌ではない性質の音であるからで、勝手に自宅の裏に小川が流れているような風情を感じたりしています。

どちらかというとマロニエ君は不眠症ぎみで、ちょっとした事や物音でも寝付くことができずに苦労するほうなのですが、この川のせせらぎのような音だけは、たえず耳には届いてくるものの、なぜか心底イヤだと感じたことがありません。

これがもし別の種類の音だったらば、たとえ音量が半分でもとても我慢できるものではないでしょう。
それだけ、音にもいろいろあるというわけで、個人差はあるとしても、おおむね人は自然の発する音には寛大で、ときにはそこに心地よささえ覚えるものだということを感じないわけにはいきません。

その証拠に、春秋の季候のよいころになると、ごくたまにではあるけれども、そのマンションの住人が窓を開け放ってパーティみたいなことをやっているのか、ずいぶん楽しげにわいわいやっていることがあるのですが、こちらはそれほどの音量でもないけれど、たえず耳について気になって仕方がありません。

それに較べると、水の流れる音は音楽の邪魔にさえなりません。
人が木の感触に説明不要の感触を覚えるように、ちっともイヤではないばかりか、例えばベートーヴェンのシンフォニーやソナタの緩徐楽章のその向こうで水の音がするのは、その楽想に合っているかどうかは別として悪くはない感触です。

こういうことを考えてみると、この先、どんなにめざましい技術が生まれてピアノの響板などに流用できたとしても、それでは人の本能とか潜在的な部分を慰めることはできないだろうと、これだけは確信をもって思います。
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演奏会雑感

福岡市の南の丘に佇む芸術空間、日時計の丘ホールの企画公演である『バッハのクラヴィーア作品全曲演奏会』も5回目を迎え、今回は場所を福岡銀行本店ホールに移して、少し大きな規模で行われました。

ピアノはこのシリーズ唯一のピアニスト管谷怜子さん。
前半はパルティータ第1番、6つの小前奏曲、フランス風序曲、後半は弦楽五重奏を迎え入れてのピアノ協奏曲第1番というものでした。
このシリーズで協奏曲が登場したのは初めてのことです。

演奏はいつもながらの端正かつふくよか、まったく衒いのない、真摯なバッハが描き出されます。
終始一貫、気品にあふれつつ音楽的な迫りも十二分にあり、作品がピアニストの手によってみずみずしい養分を与えられ、それが生きた音となって自然に語りかけてくるようです。

フォルムの端然とした美しさ、適切なダイナミクス、決して潤いを失わないしなやかな音色は、このピアニストの大きな美点のひとつであることを聴くたび毎に感じさせられます。

いつもと異なる点は、会場が大きいぶん、日時計の丘のブリュートナーを至近距離で聴くときのような細かな表現のあれこれや、走句や表情の弾き分け、妙なる息づかいなどが、完全には聴き取れないというもどかしさがあった反面、こういう響きの素晴らしいホールだからこそのリッチな音響に与る楽しみもあり、どちらにも捨てがたい魅力があるものです。

管谷さんも会場の大きさを考慮してか、いつもより打鍵が強めになっているように感じましたが、なにぶんマロニエ君は後方の席で聴いたので、たまたまそういうふうに聞こえただけかもしれません。

この日は全曲を暗譜で演奏されましたが、始めから終わりまでバッハだけで弾き通すというのは並大抵のことではなく、通常のリサイタルよりも数段しんどいだろうなあというのが率直なところでした。


さて、いささか迷いましたが、聴衆の一人としてあえて少し触れておくと、この日の調律はどちらかというとこの日のプログラムに適ったものだったかどうか…そこが個人的にはやや疑問に感じたことは否めません。
休憩時間はロビーに出たし、席に戻ったあともピアノの調整はなかったので、どなたがされたのかわからずじまいでしたが、ともかくこれはマロニエ君の率直な感想です。

知らないことを幸いとしているわけではありませんが、まったくありきたりな平凡な調律だと感じたことは少々残念というべきでした。とりわけコンサートでは、わずか2時間の本番に全力を尽くすピアニストと、それを聴きにやってくる聴衆、その両者のために、いかにピアノを音楽的に好ましく鳴らすかというのがピアノテクニシャンの勝負だろうと思います。

オール・バッハ・プログラムというからには、当然それにフォーカスした調律がなされて然るべきで、それによって演奏は際立ち、助けられ、より深い説得力をもつものになる筈です。
今回そういうものがあまり感じられなかったのは、もしかしたらマロニエ君の耳のほうがおかしいのかもしれませんが…。

一般的にピアノのコンサートは、ピアニストの技量や音楽性ばかりが問題にされますが、それを一方で強く支えているのは楽器です。とくにスタインウェイは、最もオールマイティなピアノだといわれますが、それはあくまでも潜在力の話であって、普通に調律しておけば何を弾いてもOKということではない筈です。
同じピアニストでも、バッハとラフマニノフでは弾き方を変えるのは当然ですが、おなじことが調律にも云えるとマロニエ君は思うわけです。
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小兵の魅力

N響定期公演に中野翔太という若いピアニストが登場し、はじめてその演奏を聴きました。
曲はグリーグのピアノ協奏曲。

一見して、ステージ人という雰囲気のまったくない、日本のどこにでもいそうな青年ですが、そのピアノには好感をもちました。

いやなクセがどこにもなく、はじめは今どきのいわゆる無味乾燥な楽譜通りの演奏のようにも感じますが、聴き進むうちに必ずしもそうでもないことが少しずつ伝わります。

日本人的な精度の高さと繊細さが支配的ですが、その中になんともいえない均整感のよさのようなものがあり、ディテールの閃きや華やかな技で聴かせるのではなく、全体を通じてじわじわと染み込んでくる心地よさが印象的でした。

その風貌や体格、あるいは指さばきをみても、いわゆる大器というタイプではありませんが、全体に好ましい配慮の行き届いた、いわば小さな高性能という印象です。ピアノは大きな楽器ではありますが、誰でも彼でもロシア人のようにパワフルで技巧的なことが絶対ではないことはいうまでもありません。

相撲でも小兵力士というのが格別な魅力を持つように、細やかな息づかいやアーテキュレーションで音楽の深いところにいざなってくれる、気の利いたピアニストというのも捨てがたい魅力を感じます。

マロニエ君はこの中野さんのピアノはこの1曲しか聴いたことがないので断定的なことは云えませんが、作品の隅々まできちんと見通しがきいて、それが演奏へと緻密に反映されているようです。それでいてメリハリもきちんとあり、必要なアクセントや輪郭はぬかりなく押さえているのは立派でした。

とりわけ協奏曲の場合は、ソロとオーケストラの音量のバランスも大切ですが、この点もほんのちょっとだけ弱いぐらいの印象があり、けなげにピアノが鳴っているという感じが絶妙でした。
それが却ってひとつの作品としての一体感を生み出し、これはこれで聴いていて非常に心地よいものだということが良くわかります。

それにしても昔はグリーグのピアノ協奏曲といえばこのジャンルの定番で、似たような演奏時間とイ短調ということもあってか、多くがシューマンのそれとカップリングされて録音されていたものですが、近年はどちらかというとあまり演奏されない曲になってしまった気がします。

以前、キーシンが弾いたのを聴いたときも非常になつかしい、忘れていたものを聴いたような記憶がありましたが、それいらいのグリーグでした。
あまりにも有名な和音とオクターブによる冒頭部分などが、幻想即興曲のように、ちょっと恥ずかしい感じの名曲に分類されてしまったのかもしれません。

その点では中野さんは、そういった名曲についてしまった長年の汚れや手あかを洗い落として、すっかりきれいにクリーニングでもしてくれたようでした。
こういう派手ではないけれど良質な演奏家が、たんなるピアノを弾く有名人としてではなく、その美しい演奏が評価されることによって愛聴されていくことが必要だと思いました。

演奏以外のことで有名になり、タレントみたいなピアニストなんてもううんざりですから。
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スマホの支配

携帯のことをもう少し。
携帯(=ケータイ)の普及は、実は「普及」というおだやかな言葉は似つかわしくない、異常繁殖とか侵略と云いたいぐらいの、とてつもない勢いで世界中が呑み込まれました。

まるで、穏やかだった池や湖に、獰猛な外来種を放り込まれることでそれまでの環境が激変するように、突如、ケータイという新種によって従来の社会の多くのものが食い尽くされ、絶滅させられているという印象さえ抱いています。
まさに生態系が変わったというべきか、これにより人の精神まで変化をきたし、一部は破壊もしくは死滅させられたというほうが適当なのかもしれません。

ケータイやネットの恐ろしいところは、人が誰でも自分の幸福を望んだり、お金が欲しいのと同じように、その圧倒的な機能や利便性を武器に、否応なく社会に侵食してきたという点です。すでに世の中がケータイ/ネットを前提とした構造に様変わりしてしまった現在、よほどの変人でもない限り、これを拒絶することは不可能です。

ひと時代前のことですが、嫌がる高齢者に家族がケータイを持たせるようになりましたが、これなどは「持っていてもらわないと周りが迷惑だ」というレベルにまで到達したことのあらわれでした。

ここまで徹底してケータイが社会を侵食していったその苛烈さが、まさに獰猛で手に負えない外来種同様だとマロニエ君には思えるのです。もはや身を守る術はないも同然と見るべきで、ここまで社会環境が変化した中で、我一人ケータイを持たないと踏ん張ってみたところで、ほとんど意味は見出せません。

そうまでして便利になった世の中のはずですが、話はそう簡単ではないのも皮肉です。便利になるということは、その代わりの不便がちゃんと身代わりのように発生していることを、近ごろ痛感させられて仕方がありません。

例えばつくづく思うのは、昔のように気軽に人に電話をするということが甚だ難しくなっているのは、便利が生んだ不便そのもので、いちいちもう…面倒臭いといったらありません。

とりわけ30代以下の世代では、電話をしてもまずすぐに出ることはない。
電話に出るタイミングとかけてきた相手を向こうで「選んで」いることはあきらかで、こういう微妙な失礼はいまや日常茶飯です。
おそらくは自分が必要と思った相手にだけ、自分の都合のいいタイミングにかぎって出るか、あるいはコールバックするわけです。このため事前に電話する旨をメールでお伺いをたてるなど、実際に会話に漕ぎ着けるまでには、毎度々々そういうプロセスや手順を踏まなくてはならないような空気があるのは、面倒臭いのみならず、気分的にも鬱陶しい。

仕事関連の電話でさえ、スムーズにサッと連絡が取れることは当たり前ではなく、多くがまずは出ない、メールをしても返事に時間を要することが多く、じかに話ができるのは、早くても最初のアクションから1時間後ぐらいであったり、ひどいときは数日も後になってようやく短い事務的な連絡が来たりで、時間がかかって仕方ありません。これじゃ世の中、流れもテンポも停滞するのは当たり前です。
現にマロニエ君は人に連絡を取ることが、以前よりはるかに面倒な手続きが増えたせいで、昔にくらべて遥かに煩わしく億劫になりました。

驚くべきは、例えば生徒を募集する音楽教室なども、ホームページはあっても電話番号は書かれていないケースが多く、中には「メールを送っても返信がない場合は、2〜3日してもう一度メールしてください。」とあり、やる気があるのか?と思ってしまいます。
言葉では音楽教室とはいってみても、要は人様からお金をいただく商売なんですから、こんな身勝手なスタンスで繁盛するわけありません。

人と人との関係は生き物で、それなりのテンポと熱気と感性なしでは、良好な関係や快適な時間を送ることはもうできないだろうと思います。現に若い世代は誤解を恐れずにいうなら、話をしていても、頭の回転があまりよろしくないと感じることは少なくありません。

自分より、遥かに若くて体力もあり、しなやかな脳細胞ももっているはずの若者が、何を言っても聞いても、飲み込みが悪く、理解できないことが多いと感じます。やっても老人のようにトロいスピードでしか対応できない様は、ほんとうに奇妙です。
そんな連中が、ひとたびスマホの操作となると、目にも止まらぬスピードで操作する姿を見るにつけ、ほとんどグロテスクな感じを受けてしまうこともあるのです。
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振り返えれば

マロニエ君は自分なりの考えもあってスマホは持たない主義なので、いまだに通称ガラケーを使っていますが、スマホの進化はどこまで行くのか、そのうち腕時計型なんてものまで出てくるらしく、聞いただけで疲れます。

スマホを敬遠する理由はひとつではありませんが、実用の点からいうと、必要時にパソコンがほぼいつでも使える環境であることがあるように自分では思います。
裏を返せば、スマホは電話機能つきの携帯パソコンだと思っているわけで、なにかとネットのごやっかいにはなっているものの、外出先でまでこれを「やりたくない」という自分なりの線引きがあるわけです。

それと個人的なセンスとして、人がスマホを操作しているあの姿がどしても好きになれず、自分がそのかたちになりたくないという、つまらぬこだわりも多少あるでしょう。さらには過日のiPhone6発売日の騒動などを見るにつけ、完全にそのエリア外にいる自分がむしろ幸せなような気がしています。

それにしても、公衆電話が当たり前だった時代を思い出すと、この分野の進歩は恐ろしいばかりだったことをいまさらながら思わずにはいられません。

むかし携帯電話が登場した頃は、大げさな発信器のようなものに大きな受話器がちょこんとくっついた、そのいかにも重そうな機械一式をショルダーがけにして、当時の先端ビジネスマンやある種のお金持ちなどが、得意満面でこれを持ち歩く姿が記憶に残っています。

まるで昔のスパイ映画に出てくる爆破装置のように大げさなものでしたが、当時これを持っている人は、その重い装置の持ち運びも、その圧倒的優越感の前では、まったく苦にならなかったことでしょう。

そうこうするうちに自動車電話が登場、走行中、車の中で電話がかけられるというのは007のボンドカーなどでしか見たことのないもので、その利便性もさることながら、多くの人の虚栄心にも一斉に火がついたようでした。
またたく間に多くの高級車のリアのトランクリッドには、電話用の甚だ不恰好なアンテナが取りつけられていきました。しかし、人間の認識とはふしぎなもので、このヘンテコなアンテナが高価な自動車電話をつけている証となると、そのダミー(電話はないのに見せかけのアンテナだけをつける)製品まで売り出される始末で、街中にこのアンテナをつけた車が溢れかえりました。

中でも中型以上のベンツやBMWなどは、これがあるのが当たり前といった状況だったのは思う出すだけでも笑ってしまいます。

やがて携帯電話も日進月歩で小型化され、わずか数年の間に爆破装置サイズから、わずか数分の1の、片手で持てるサイズにまで縮小されます。
初期費用も格段に安くなり、マロニエ君がはじめて携帯電話を持つようになったのもこの時期でした。

しかし縮小されたとはいっても、普通のようかんぐらいの大きさと重さはあり、まだとてもポケットに入れるような代物ではありませんでした。
音質は悪く、通話料は高く、不通エリアなんてそこら中で、家の中でも、窓辺に行かないと使い物にならないといった状況でしたが、それでも、線のない電話があって、それを自分用として持ち歩くことができるというのは大いに感激したものです。

これがたかだか20数年前の話ですが、今から思えばほのぼのした時代でした。
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秋吉敏子

過日は知人から事前に教えてもらって、日本の現役最高齢ジャズピアニストである秋吉敏子の現在を追った番組を見ることができました。

ニューヨーク在住、御歳84だそうで、普通なら健康に毎日を過ごすだけでも難しくなるというのに、いまもって新しい編曲やステージに挑戦しているのですから、その驚くべきタフネスと音楽に対する情熱には恐れ入りました。

とりわけジャズにとってパッションやビート感は命で、これが弛緩することは許されないことでしょうし年齢が言い訳にはなりません。毎日の欠かさぬ練習や本番ステージという勝負の場を抱えながら、それが維持されているのは驚異というほかありません。

有り体にいえば感心だなんだという言葉になるのかもしれませんが、ここまでくると、生涯ひとつの道を歩んできた人の「本能」なんだろうとマロニエ君は考えます。
もちろん大変なことではあるけれど、おそらくは「やっていないと調子が悪い」というところにまで脳や身体がすっかりそういう作りになっているんだろうと思いました。

なんとなく思い出したのは90歳を越えた瀬戸内寂聴で、いつだったか伊藤野枝や平塚らいてうなどを中心とする明治の情熱的な女性達を語る番組をやっていましたが、そこで話をする寂聴さんの驚くべき饒舌、記憶力、古びない感性、立て板に水を流すようなトークのスピードなど、それはもう大変なものでした。
世の中にはこういう例外的な存在というのがあるもんだと感嘆させられますが、秋吉さんもおそらくそっちの部類なのでしょう。

夫はサックス奏者、娘はヴォーカルといずれもジャズミュージシャンで、孫もその道の修行を始めつつあり、まさに音楽に囲まれた生活のようです。忙しく家事をこなし、人に料理をふるまい、そして練習や創作を怠らない生活はさぞや充実したものだろうと映りました。

マロニエ君はどうしても出てくるピアノにも目が行ってしまい、ときどきそんな自分が嫌にもなりますが、秋吉さんのニューヨークの自宅にあるのは意外にもヤマハでした。意外というのは、以前も何かでこの場所の映像を見たことがありましたが、そのときはメーカーは忘れましたがビンテージ系のピアノだった覚えがあったからです。

意外ついでに云うと、置かれたピアノの向きが不思議で、レンガ状の壁に高音側をくっつけるようにして置かれていることです。通常ならグランドは、直線のある低音側を壁と並行もしくは斜めに置くのが一般的で、大屋根も高音側に開くのでどうしてもそっち向きになるものですが、これは余人には窺い知れない理由があるのでしょう。

郊外の仕事場や秋吉さんが演奏するジャズクラブにはニューヨーク・スタインウェイ、日本でのコンサートではベーゼンドルファーやファツィオリなど、いろいろなピアノが入れ替わりに出てくるのも楽しめました。
中でも圧巻だったのは、秋吉敏子を中心に日本の各ジャンルのピアニスト達が集まった様子で、サントリーホールのステージには実に6台のヤマハCFXが並べられ、いかにもこの公演のため会社の威信をかけて運び込んだという感じでした。

秋吉さんは車のドライバーとしても現役のようで、ニューヨークの道をドライブしながら話します、「ジャズミュージシャンは反射神経が猛烈に発達しているから事故はあまりないと思う」。
へええ…クラシックでは、ミケランジェリやグールドの運転は、同乗者の証言によると「生きた心地がしなかった」ほどお粗末なものだったようで、その点でジャスは違うということなんでしょうか。
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アブドゥライモフ

ウズベキスタン出身のベフゾド・アブドゥライモフは、近ごろ少し注目されているらしい若いピアニストで、すでにメジャーレーベル(デッカ)から2枚のCDが発売されています。

協奏曲ではチャイコフスキー1番/プロコフィエフ3番、ソロアルバムでは、プロコフィエフのソナタ6番、悪魔的暗示、サン=サーンス:死の舞踏、リストのメフィストワルツなど、その曲目を見るだけでおよそどんなタイプのピアニストか、なんとはなしに察しがつきそうです。

ジャケットを見てそれほど「何か」は感じなかったので、そのうち聴けるチャンスはあるだろう…ぐらいに思っていたところ、その機会は早々にやってきました。

今年6月のN響定期公演に出演し、ラフマニノフの3番を弾いた様子が『クラシック音楽館』で放送されました。指揮はアシュケナージ、会場はNHKホール。

出だしユニゾンの第一主題は、ねっとりと間を取りながらの歩みで、ピアノを中心に右の聴衆と左のオーケストラの両側を同時に牽制しているようで、この若者から「慌てなさんな」と云われているようでした。が、そこを抜け出すとアブドゥライモフの指は忽ち解放されたように疾走をはじめます。

その手は大きく厚く、楽々と動いては確かなタッチに結びついて、発音にはその骨格からくる力強さが漲り、それが随所で心地よく感じることも事実でした。スタミナもあり、轟然たるフォルテッシモの連続投下などはお得意のようで、大舞台で大曲難曲を弾かせるにはうってつけのピアニストというのは間違いないでしょう。

この人の魅力は、なんといってもその力強い芯のあるタッチと、密度感のある冴え冴えとした音にあるのではないかと思いました。近年のピアニストの多くは、いろいろなことに配慮するあまり、ある種の覇気を失ってしまい、燦然と輝くようなピアノの音を出さなくなりました。
叩きまくるピアノが否定され、知的に統御されたピアニズムが良しとされる風潮もあってか、悪くいうとしっかり音を出さぬまま弾いています。そんな風潮に反旗を翻すような筋力を魅力とした演奏で、オーケストラのトゥッティにも決して負けない打鍵の逞しさは、どこか英雄的でなつかしくもあります。

ただし、アブドゥライモフが肉食系だといっても、昔のように無邪気な筋肉自慢のそれではなく、正確な譜読みやコントロールされた打鍵など、周到な準備には怠りない上でそのマッチョなテクニックを披露していく周到さは、いかにも今風のぬかりのなさを感じます。

ただ、聴いていると、一本調子でだんだん飽きてくる感じもあったのは事実です。
弱音や繊細なパッセージなども、あとに待ちかまえるフォルテッシモや随所での炸裂にいたる伏線のようでしかないのは、音楽の深いところに触れるというより、やはりどこか鍛えられたアスリートのパフォーマンスを見るようです。

終始激しく、際限なく飛び散る大量の汗の飛沫も、そんな印象に拍車をかけたかもしれません。曲が曲だったせいもあるでしょうが、むしろオリンピックの男子体操競技を見ているようで、難所難所を通過するたび、スポーツ解説のように「C難度!」「E難度!」「うーん、ここも見事にクリア!」「残るはコーダのみ!」といった実況中継を付けたくなりました。

こういう人の弾くラフマニノフの3番というのはあまりにもベタな印象で意外性がなく、もしかするともっと軽い曲を弾かせてみると、そこでどんな味わいがでてくるのかと思ったりもします。

それにしてもNHKは、オーケストラの録音となるとなぜああまでくぐもったような、ショボショボした小さい音にしてしまうのか、わけがわかりません。視聴者に音楽を楽しませようという意志がないのか、普段の5割増ぐらいのボリュームにしてもダメで、なんのための音楽番組かと思います。
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違いはいずこ

ネットの書き込みというものはまさに玉石混淆の世界です。
貴重で有効な情報が得られるいっぽうで、無責任な憶測や独断に満ちたものが無数にうごめいており、それをどう選び取るかが読者に科せられた課題でしょう。

いつもそういう前提を忘れないようにしながら読んでいるつもりですが、日本製ピアノに関する書き込みを見ていると、ふと注目すべき内容が目に止まりました。

すでに安定した評価を得ているプレミアムシリーズに関するもので、業界の方らしき人物による一種の暴露的コメントでしたが、それによると、材質面だけでいうならレギュラーシリーズとの差はほとんどないという衝撃的なものでした。「設計は同じでも、材質こそ最大の違いのはず」と思っていたマロニエ君にしてみれば目からウロコでした。
しかし、その説明は納得できる面もある気がします。

それによれば、響板も違うとされているけれど特別なものではなく、基本的には同じだといいます。となると「響板はどこそこの何々」というのはどういうことか?と思いますが、その中から多少いいところを選んでシーズニングにより時間をかけているといった程度で、言われるほどの違いはほとんどないのだといいます。

では、あの価格差を裏付けるだけの何が違うのか…。
最も大きな違いは、製造および調整段階に於ける、人手を使う割合だと述べられています。
ひとことでいうなら、プレミアムシリーズはより多くの手間暇がかけられている点がプレミアムたるゆえんで、レギュラーシリーズとプレミアムの差は基本的にここなんだそうです。
それほど楽器にとって、熟練職人の入念な手仕事がもたらす効果は大きいという証しともいえるのでしょうし、少々の材料の差より入念な技のほうがよほどコストがかかるというのもわかります。

マロニエ君は少なくともピアノ制作に関しては、「単純に機械化が悪い」とも、「なんでも手作り手作業が最上だ」とも思いません。機械と人手は、それぞれに長所短所があるわけで、最良の使い分けをすることが理想だろうと思います。
精度と均一さが要求されるパーツ制作などは機械化できるものならそれがいいに決まっていますし、発音に影響する部位の精妙な組み付けや調整などは熟練の職人技がものをいうでしょう。

以前からA社のプレミアムシリーズには大変懐疑的で、弾いても聴いても、普及型との価格差はとても納得のいくようなものではないというのが率直なところでしたし、B社のそれは非常に評判がよく、確かに普及品より明らかな上質感があるのはわかりますが、そこにはピアノが生まれもった素晴らしさというより、より良い響板の存在と、職人による入念さの勝利という印象が拭えませんでした。

日本製ピアノの出荷前の調整は近年はますます最小限で済まされているのだそうで、工作精度の高さに依存したコスト削減だとも聞こえてきます。もし高級外国製並に入念な職人の調整をやったら、それだけコストは跳ね上がるでしょう。鍵盤の鉛詰めなども、一斉かつ均等な作業と、一鍵々々を確認しながら適材適所でやっていくのとではぜんぜん違いますから。

この時点で、レギュラーとプレミアムを差別化するだけの違いはかなり明確に生まれるような気がします。そして見事に調整されたピアノは、それ自体が大きな魅力であり、そのことがプレミアムであるのは否定できません。でも、その奥に所詮はレギュラーと同じ本質が透けて見えてしまうとなるとそれでも満足が得られるものなのか…。

やはり高級ピアノを名乗るからには、基本的な構造など設計そのものから特別なものであってほしいとマロニエ君は考えますし、大衆車にどんなに高級パーツを奢っても、根本の生まれを変えることはできません。

今や海外の一流メーカーも、ビジネスとして廉価モデルを併売する時代ですが、マロニエ君の知る限り、両者の基本設計が同じというのは外国製ではひとつも知りません。

レギュラーシリーズをベースに、そこからプレミアム云々を派生させるというやり方は、いかにも日本的なモデル構成で、だからなんとなく基本が弱く、かつ物欲しそうな気配が漂ってしまうのかもしれません。
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