趣味というもの

「趣味」というものの正しい定義や概念は未だによくわかりません。

少なくとも実用とは一線を画したものであることは間違いなく、余人から見れば無駄な、非生産的な、精神や情熱をむやみに濫費するもので、場合によっては愚かな行為であることだとさえ見なされかねません。

岩波の国語辞典(広辞苑が階下にあるので)によれば、趣味は『専門としてでなく、楽しみとして愛好する事柄』とあります。もちろんそれが高じて職業になる人も中にはおられますが、それはあくまで結果であり、そもそもの成立事情としては衣食住から外れた「楽しみ」が大前提です。

趣味は、実利とは無縁の世界の内奥に分け入って、楽しみの回廊をさまざまに歩き回ることにあるともいえるでしょう。いわば純化された情緒が主役となる世界で、こればかりは定年後時間ができたから何か適当な趣味を持とうか…というほど、趣味の扉を開くことは簡単なものではありません。
多くの場合、それなりの知識、経験、感性、努力、そして尋常ならざるエネルギーが必要で、しかもそれは趣味である限り一文の得にもなりません。

趣味とは、正当性や客観的価値と一切無関係に存在し、無駄を山積みにし、せっせとそれに向かって奉仕することそれ事態が喜びであるというところに、真の価値があるのだと思います。

いうまでもなく趣味はお金で安易に手に入れることはできず、手間暇のかかるもの、いや、手間暇そのものを楽しむものだともいえるでしょう。そこに一朝一夕には到達できない深さがあるわけで、だから価値があるのかもしれません。一見無駄だらけに見える趣味ですが、物事の真髄に触れるという点では、趣味を通じて学ぶことの多さという点でもきわめて偉大な教師にもなりうると思います。

趣味をお金で買うことはできないけれども、趣味のためにお金を使うことは必要なことだというのがマロニエ君の持論です。金額は人によって違うでしょうが、その人にとってかなりきわどい出費を趣味に投じることができるかどうか…ここがポイントのような気がします。

実はマロニエ君の知り合いで、音楽趣味が高じて近年ヴァイオリンを始められた方がおられます。それなりの良い楽器を買われたということは聞いていましたが、ごく短期間のうちにグレードアップして、なんとクレモナの新作ヴァイオリンへ買い換えられたと聞いて驚きました。

しかも、その方は持論として「分不相応な楽器を持つこと」への疑問をお持ちの方だったのですから驚きもなおさらでした。その「分不相応な楽器不要論者」の方が、自説をかなぐり捨てての購入だったわけで、マロニエ君はそこがいかにも趣味人としておもしろいじゃないかと思いました。

たしかに、まともに理屈で考えれば初心者からせいぜい中級レベルの腕しかない者が、名器云々というのはナンセンスでしょう。しかし、趣味人が冷静な理屈だけで心がおさまるかといえば、そんなことはあるはずがないのです。だって趣味なのですから!
技量と道具のバランスを計るべきは、むしろプロのほうかもしれません。

したがって、趣味が真っ当な正論の範囲にちんまり収まっている限り、その人の趣味は趣味であるかどうかも疑わしいとマロニエ君は思うのです。
出費や犠牲を厭わず、趣味にへの熾烈な欲求があることも趣味人の特徴のひとつで、実際にそれだけの気構えがあるかどうかという点でも、趣味に対する覚悟のほどが窺われます。

マロニエ君の知人に鉄道マニアがいて、彼は全国のすべての鉄道を乗るためだけに、休みの大半を使って年中旅をしていました。しかも上下線すべてというのですから、まったくもって恐れ入るところ。

ただ「好き」というだけでは、なかなかできることではない次元の話です。
趣味はある種の壮絶と孤独が混ざり込んできたとき、真の輝きを放つものかもしれません。
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Bの魅力

ラ・フォル・ジュルネ音楽祭の音楽監督、ルネ・マルタンによるレーベル「MIRARE」からリリースされる、アダム・ラルームというピアニストの弾くブラームスの作品集のCDを購入しました。

中を開けてみると、ジャケットの最後の頁に掲載されている写真は、以前から見覚えのあるもので、「ああここか」と期待とも落胆ともつかない思いが込み上げてきました。
見覚えというのは、以前買ったアンヌ・ケフェレックによるヘンデルやヌーブルジェのハンマークラヴィールのCDがここで収録されたもので、フランスのヴィルファヴァール農場 (la Ferme de Villefavard) というホールに於ける録音です。

農場という言葉から推察されるように、見るからに巨大な納屋だか倉庫だかを音楽ホールに作り替えたとおぼしき施設で、レンガの壁とむき出しの梁などがいかにも無造作で、おもしろいといえばおもしろいけれど、こういう危うい取り合わせには絶妙なセンスが必要で、ヨーロッパならではのものだと思います。

彼の地では、それだけの文化的土壌を拠り所として「なるほど」と感じるものがありますが、近ごろは日本でも田舎の古い家屋などを改修し、そこで拙い商売やイベント開催といった事が流行っているようですが、あれはどうも個人的には馴染めません。
むろん中には稀にいいものもあるのかもしれませんが、多くはコンセプトもなにもない素人の趣味の延長のような趣で、当事者だけの自己満足の域を出ていない印象です。


話が逸れましたが、ヴィルファヴァール農場のホールには比較的新しいスタインウェイのBがあって、音響の素晴らしさなどから、ここでいろいろなコンサートや録音が行われているようです。

響きはたしかにクリアでひろがりのある素晴らしいものだと感じますが、ピアノの音があまりにブリリアントなキラキラ系の音で陰翳がなく、それがちょっと好みではありません。
ひとつひとつの音が磨かれたように美しいのは結構なようですが、まるで屈託のない美人みたいな音で弾かれると、どことなく作品が浅薄な奥行きのないものに感じてしまいます。また、ピアニストの演奏から出てくる表現の妙なども聞こえづらく、俗っぽく聞こえてしまうのは残念な気がします。

これはケフェレックのヘンデルでも同じような印象がありました。
このディスクは極めて高い評価を得ているようですが、マロニエ君にはキラキラした音の羅列ばかりが耳について、演奏そのものへ意識を向けるのに難渋した記憶があります。
(ヌーブルジェはベートーヴェンの収録に際してはヤマハを運び入れているようですが)

それはそれとして、スタインウェイのBは完結した個性を有する素晴らしいピアノだと思います。音の輝きや表現性はそのままに、全般に響きがコンパクトで、これが弾く側にも目配りが利いて扱いやすいのか、いわゆるまとまりが良いと評される所以だと思います。

B型で収録されたCDというのは滅多にありませんが、ピアニストがより内的な表現を目指す、あるいはDの響きが過剰というような場合に、これはひとつの賢明な選択のようにも思います。
音色自体もピアノのサイズからくる軽さと親密感があり、コッテリ系を嫌うフランス人などは状況に応じてこちらを好んでも不思議ではないと思います。

オーケストラでいうと室内管弦楽団のようなキレの良さで、よりピアノらしくもあり軽い身のこなしが身上というところかもしれません。
大規模なステージではDが欲しいところですが、このように静寂の中へマイクを立てて行われる録音では、Bは私的でデリケートな音楽作りを可能にしてくれるのかもしれません。
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コンビニスイーツ

世の趨勢に反して(いるのかどうか知りませんが)、マロニエ君は自分の日常生活の中ではコンビニを利用することはほとんどありません。
食料はスーパーその他で買うし、基本的に感性が合わないのだと思います。

ところが、ここ数年でしょうか、コンビニで売られているデザートというか、要はスイーツのたぐいが美味しくなったと口々にいわれるようになり、はじめの頃は半信半疑でしたが、騙されたつもりで買ってみると、たしかに…と思うようになりました。

その後はさらに進化して、かなり本格的な商品が並ぶまでになりました。
はじめはコンビニ会社によっても美味しさに優劣があったようですが、最近は競争もよほど熾烈なのか、しだいに克服されて、おおむねどこで買っても似たようなものが買えるまでになったように感じます。

こうなると、どの店でもそれなりのスイーツが時間を問わず街のいたるところでパッと買えるという環境があることは、たしかに魅力だと思いました。

というわけで、一時はいい気になってかなり頻繁に買ってみたのですが、そのマイブームは意外にも早々に終息を迎えることになります。
ちょくちょく食べていると、だんだんその実体がわかってくるもので、さすがは横並びの日本だけのことはあり、どこも似たり寄ったりで味も結局はウソっぽく、種類も価格も拮抗しています。
人によっては印象も異なるかもしれませんが、少なくともマロニエ君はたちまち飽きてしまいました。美味しいものは常習性がありますが、不思議にそれがありません。

はじめのうちは、コンビニとは思えないような贅沢さが演出されていて、いかにも本格派のような風情ですが、いずれもうわべのものでしかないことが判るのにそう時間はかかりません。クリームなどもあきらかに安い植物性のものだし、使われている素材もCMなどでは尤もらしいことを言っていますが、嘘にならないぎりぎりのところだろうと思われます。

こういうことは、食べているときはもちろんですが、とくに顕著にわかるのは食べた後の「食後感」にあらわれきます。いかにもまがい物を食べたようだという、うっすらした不快感と後悔が心に漂います。

徹底的なコスト管理はもちろん、運搬に耐えるだけの形状やパッケージ、さらには売れ残りも前提として価格が決定されるのでしょうから、そう思うと廃棄される分まで販売価格に上乗せされたものをまんまと買わされているのかも…。
ひとたびそれを感じ始めると、パティシエの味覚や技術どころではない、企画書と試作品と会議室とボールペンで作られた巧妙な製品というイメージで頭が一杯になってしまいます。

価格もいかにも良さげな印象を与えるべく計算され尽くしたもので、高くもないが安くもない。とりわけ内容に対する、コストパフォーマンスは大いなる疑問で、あれだったらもうちょっとがんばって普通のケーキ屋で買ったほうがどれだけ満足は大きいかと思うわけです。

それにしてもここ最近のコンビニの数の増え方は尋常ではないですね。
なにかの建物がなくなって更地になっていたかと思うと、そのうち工事が始まり、大抵はまたひとつ新しいコンビニが姿をあらわします。

こんな現象は日本中の都市圏ではどこも同じだろうと思いますが、それだけ需要があるということなのでしょう。
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コスト戦争

ピアノ選びや優劣論で話題となるのが、品質に関するものではないかと思います。

音色の好みを別とするなら、ピアノの品質とは何が違うかといえば、優れた設計、使用される材料の質、そして製造・仕上げの手間暇につきるのではないかと思います。

極めて夢を削ぐ話ではありますが、ピアノという楽器は、非常に多くの制約と妥協の中で産声を上げている製品ということは間違いありません。それは主に需要とコストという実利的な問題に縛られ、それらは絶え間なくピアノ生産の在り方と方向性に重くのしかかる最重要課題だからです。

多少なりとも最高級品に許されるのは、まずはコストの余裕でしょうが、それとても「金に糸目はつけない」というようなものとは程遠い、常に厳しい制約がかかっている枠内での相対的な話です。

さらに制約のレベルが一気に引き上げられるのが量産ピアノです。
どれほど有名メーカーの高品質な製品とは云っても、それは表向きのこと。根底にある製造上の思想は、「いかに徹底して安く作るか」というひと言につきるのだと思います。
言い換えれば、ブランド力を損なわないギリギリのラインで、どこまで品質を落とすことができるか、その限界点を探ることが量産ピアノ製造の最大の使命であり、そのためのあらゆる試行錯誤がおこなわれていると云っても過言ではないでしょう。

日本の大手メーカーは、とりわけ優良な量産ピアノ作りの面では、世界的にも先駆者の部類であることは自他共に認めるところです。その技術力は大変なもので、現在ではありとあらゆるノウハウを知悉しているはずです。

「ブランド力を損なわずどこまで品質を落とすことができるか」という、高度な課題に日々取り組んでいるということは、逆に云えば、良いピアノはどうやったらできるかと云うことも、彼らは百も承知のはずです。

真に芸術的なピアノということになれば容易なことではないにしても、普及品のピアノをそこそこランクアップさせる程度ならわけもないことです。
すべてが必要最低限の品質で作られているとすれば、そこにわずかでも付加価値を作り出すのは造作もないことでしょう。

好ましい材料をふんだんに使って、手間暇を惜しまず、細心の注意を払って組み立て、いかようにも時間をかけて調整すれば、設計に欠陥でもない限り、それなりのピアノには間違いなく仕上がる筈です。

とりわけ、理想的な響板と旧来の工法によるフレームなどは今日のピアノの多くが手放してしまったものでしょうし、木材やハンマーのフェルトなどもしかりで、かなりの部分は解明できていても、それが実践で使えないだけという状態だろうと思います。

彼らの叡智は利益率の良い、優秀な商品を作ることへ多くのエネルギーが注ぎ込まれているというのが現実ですが、これはピアノに限らず、工業製品というものには、コストに対する非道なまでの要求がついてまわり、現場と営業サイドとの確執は、常に後者が勝利であるようです。

イタリアのFなどがこれほど躍進できているのも、現代は真の意味での高級ピアノ不在の時代環境だからこそ、そこにあえて手間暇のかかる正攻法を貫いてみせた鮮烈さの結果だとも感じてしまいます。
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エデルマン

オクタヴィア・レコードからリリースされているセルゲイ・エデルマンの演奏がすこぶる高評価のようで、そんなにいいのならちょっと聴いてみようと購入しました。

曲目はショパンのバラード全曲、舟歌、幻想曲、幻想ポロネーズという重量級の主要作品ばかりをドーダ!といわんばかりに並べたもの。
バラードの1番からして、いやにものものしい入りで、ひとつの予感がかすめます。

いわゆる既存のショパン観に一切とらわれることなく、「純粋に楽譜に記された音符を音楽として起こしたらこうなる」という主張を込めたような演奏で、現代のショパンによくあるパターンだと思いました。

ショパンを少女趣味のメランコリックな音楽のように捉える愚かの向こうを張って、詩情を排し、むやみに構造的で、劇的で、マッチョに仕上げられたショパンというのも、所詮は少女趣味の対極に視点を移したというだけで、その履き違えという点では五十歩百歩だと思います。

糖尿病の食事療法ではあるまいし、ショパンの作品から「甘さ」を徹底除去して、内装材を剥ぎ取って、構造物の骨組みばかりを見せるような演奏がこの偉大な作曲家の真髄に迫ることができるというのなら、いささか短慮ではないかと思います。

打鍵もむやみに強すぎるし、語り口にもくどさがあり、まるで大仰な芝居の台詞まわしのように聞こえてしまいます。ショパンがこういう演奏を歓迎するとはとても思えません。

すっかり忘れていましたが、そういえばずいぶん昔、東京でエデルマンのリサイタルに行ったことがありました。長身で、まるでスローモーションを見ているような一風変わったステージマナーであったことが印象にあるのみで、何を弾いたかまるで覚えていません。

オクタヴィア・レコードは、その音質のクオリティが高く、オーディオマニアの間ではたいそう有名なんだそうですが、マロニエ君はそっちの方面はてんで不案内で、もうひとつその真髄がよくわかりません。

たしかに素晴らしいと感じる、充実した音質を楽しめるCDがある一方で、えっ?というような、とても高音質がウリのCDとは思えないようなものもあって、いうなればむらがあり、一貫した方向性が定まっているところまでは行っていない印象です。
今回のCDは、録音はすごいとは思うものの、いかんせんピアノが近すぎて生々しく、さらに強打の連続とあっては、かなり耳が疲れるアルバムだったと感じました。ところが、伊熊よし子氏の解説には「ショパンコンクールでは若手ピアニストは攻撃的な演奏する」「戦闘的な演奏は耳を疲れさせる」ということを引き合いに出し、それと対比させるように、このCDの演奏を「耳が疲れず、心が浄化される」とあったのにはエエー!と驚くばかりでした。

それでもピアノは少し前のコクのある音をもった好ましいスタインウェイで、ここはせめて楽しめたところでしょうか。
とはいえ、演奏と録音が生々しいぶん、まるでハイビジョンで人の顔の皮膚を見るようで、ピアノがいささか迷惑がっているようにも聞こえます。もう少し詩的な演奏と広がりのある録音であってほしかったけれど、どうもエデルマンはピアノの音の最も美しいところを察知しながら弾くことはなく、あくまでも自身の気迫と打鍵だけで構わず押してくるので、ピアノにストレスがかかり、しばしば音がつぶれ気味になるのは残念でもあり、マロニエ君には「耳が疲れ、心が圧迫される」演奏でした。

でも、矛盾するようですが、久しぶりにいい楽器だなぁという印象が残りました。
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二つの自衛権

時事問題の放言番組である『たかじんのそこまで言って委員会』では、折あるごとに旬の話題である集団的自衛権の行使がテーマとして取り上げられます。

ここで政治問題に言及するつもりはありませんが、レギュラーコメンテイターの竹田恒泰氏がおもしろいことを言いました。
彼は議論も煮詰まったころにお笑いでオチをつけるというのがお得意のスタイルのようです。
正確ではありませんが「最近ですねぇ、これぞ集団的自衛権の典型というべき事例が、なんと国内で起こったんですよ」というような前置きをつけて、話をはじめました。

マロニエ君も覚えがありますが、どこだったか野生の熊が出没して人を襲おうとしたところ、連れていた犬が果敢にも熊に挑みかかり、自分も軽傷を負いながら見事に熊を退散させたというニュースがありました。
竹田氏は、その犬の取った行動こそ集団的自衛権の行使であり、これを「集団的自衛犬」と韻を踏んで一同を笑いに引き込みました。
上手いことを言うもんだ感心ししました。

ほぼ同じ頃、NHKのBSで1984年制作の『ゴジラ』が放映されて、さらに同時期、伊福部昭のゴジラの音楽を採り上げた番組もやっていたので、ちょっと録画しておこうという気になり、それらを見てみました。

なんと、すでに30年も前の映画であることに愕然としましたが、たしか有楽町マリオンが竣工したばかりで、それをいきなり壊してしまうゴジラの暴れっぷりと、マリオンの鏡のような外壁にゴジラが映るところが当時話題だったことを思い出しました。

ゴジラ映画では毎度のことですが、この未曾有の事態に時の内閣や科学者が総出で知恵を絞り、いわば一丸となって日本を救おうとする人々の姿が描かれます。
そこには左傾も市民運動もありません。
当然のように自衛隊には出動命令が下り、陸から空からゴジラめがけて雨あられのごとく発砲しまくりですが、悲しいかなゴジラの圧倒的な強靱さにはまるで歯が立ちません。

昔はちっとも思いませんでしたが、近ごろのように集団的自衛権が取り沙汰され、自衛隊の軍事活動に対する憲法上のくびきがあると、これほど抵抗も躊躇もなく自衛隊が堂々と表に出てきて、人々を守るために果敢に行動し、あらゆる兵器を使用する姿が、なんだか奇異なものに写ってしまいます。

そんなことを思いながら画面を見ていると、俄に納得できたのです。
「ああ、これが個別的自衛権の行使なのか!」…と。
そう納得すると、急に理由のよくわからない可笑しさが込み上げてきて仕方がありませんでした。


さて、なんとはなしに期待していた伊福部昭のあの有名な音楽は、残念なことにこの映画で聴くことはできませんでした。
あの、ジャッジャッジャッジャッというストラヴィンスキー風の原始的なリズムの上に、ラヴェルのピアノ協奏曲の第三楽章を思わせる無機質な音型が重なって、我々のゴジラのイメージの中では視聴一体のものになっています。
恐怖と楽しさがないまぜになった、まるでゴジラの凹凸のある皮膚そのものみたいな音楽。これのないゴジラというのは、どうにも収まりが悪いような気がしてしまいました。
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廃物利用は美徳?

以前にも少し触れましたが、最近の普及品ハンマーには、意図的にかなりの固さに仕上げられているものがあるようです。

これまで長らくマロニエ君の抱いてきた認識では、新しいハンマーはフェルトが柔軟で、弦溝も付いていないため、どうしてもはじめは音に芯がなく、鳴りもイマイチという期間を耐えてて過ごさねばならないというものでした。

そのため仕上げの整音では、弦の当たる部分にコテをあてるとか、適宜硬化剤などを用いるなどして、できるだけ明晰な音に近づけるよう、まずは技術者が尽力する。それが及ばない部分については、しばらく弾き込んでいくことで、徐々に本来の鳴りにもっていくという流れで、要はある程度の時が必要なものだと思っていたのです。

ところが最近のハンマーの中には、新品でもカッチカチの、はじめから硬質な音を出すものがあることは知りませんでした。よほど巻きが固いのかと思いきや、そうではないらしく、質の良くないフェルトを固形物のように固めてしまっているようです。

これじゃあ技術者の整音も高度な意味でのそれではなくなり、ただ硬い肉を突いたり叩いたりして柔らかくするような作業になるような気がしてしまいます…。

使い古したハンマーが、整音してもすぐにペチャッとした耳障りな音に戻ってしまうように、フェルトそのものに本来あるべきしなやかさがないとすれば、音質はもちろん賞味期限もたかがしれているでしょう。深みのある音などは望むほうが無理というべきですが、作る側も、使う側も、それをじゅうぶん承知の上なのかもしれません。

取りつけるピアノの品質もそこそこなのにもってきて、いきなり派手な音が出るし、価格も安い、×年ぐらい保てばいいとなれば、それで良しということなのか。

ピアノメーカーにしてみればそこそこの時期で買い換えてもらうためにも、ひょっとすると最近はこういうハンマーのほうがある意味主流なのかもしれません。
考えてみれば、新品ピアノでも、昔のようにモコモコ音しか出ないものは最近はまずお目にかかりません。自動打鍵機のような機械のお陰かとも思っていましたが、どうやらそればかりではないのでしょう。
新しいうちから、いかにも滑舌の良さげな明るくパリッとした音がいとも安易に出るのは、こういうハンマーで鳴らしているということなのか…。尤もハンマーに限らず、ボディや響板などもほぼ似たような品質で全体のバランスがとれているとすれば、別の意味ですごく良くできているということでもあり、そのあたりの技術力というのは大変なものなのかもしれません。

さらに、お客さんは弾いてみたときの、短時間で受ける印象が購入への重要な決め手になるでしょうから、売る側にしてみれば1年ガマンして弾いてくださいなどという悠長なことは云っていられないんでしょうね。

また天然資源は軒並み品薄で量産には適さず、価格も高値安定となれば、昔だったら検査ではねられて使わなかったようなものでも、今は加工して徹底的に使うのが常識なのだと思われます。ということは、響板はじめあらゆる部位も、およそ似たようなレベルだと考えていいのかもしれません。

大概のことなら廃物利用は美徳かもしれませんが、楽器作りもそれがあてはまるのかどうか…マロニエ君にはなんとも云えません。
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出しゃばりすぎない

2006年に「ピアニスト休止宣言」をしたミハイル・プレトミョフが、シゲルカワイとの出会いをきっかけに活動再開に至ったことは以前に書きました。

彼は今年5月、ピアニストとして久々の来日を果たし、そのことに関する本人のコメントが音楽の友の最新号のグラビアに掲載されていました。

それによれば、ピアニスト休止宣言をした理由を『当時のどのピアノの音にも我慢できなくなり、ピアニスト活動を止めました。けれども私はあるとき偶然にシゲルカワイに出会った』と語っています。

そして、シゲルカワイについては『このピアノは私がずっと求めていた、決して出しゃばりすぎない、そして繊細きわまりない音色をもっていました。そして何より私が100%コントロールできるポテンシャルがあって、しかもそれが自然。このピアノなくしてピアニストとしての私はありません。』
…とのこと。

プレトニョフほどのメジャーピアニストが活動の休止宣言したにもかかわらず、日本製の優れたピアノとの出会いが再開するきっかけとなったとなれば、もちろん日本人としてはそこを喜びたいわけですが、これを読んで、なんというか…その理由というのが…もうひとつ手放しで喜べるようなものかどうかよくわからない気がしました。

「どのピアノの音にも我慢できなくなり」に対して「ずっと求めていた、決して出しゃばりすぎない」というのは、どう受け止めればいいのか…。ピアノはピアニストの道具なんだから、分をわきまえてよけいな主張はするなという意味にも受け取れます。
これは考えてみるとプレトニョフが指揮活動に重点を置いてきたことにも関係があるのだろうか…と思ってみたりもしました。『私が100%コントロールできるポテンシャル』というのもしかりで、ちょっと悪い言い方をすれば、優秀なオーケストラは指揮者の指令通りに音楽を生み出す集団でもあるし、しかも団員一人ひとりが意志と技術をもって指揮者の意に添って演奏すれば、かなり高い要求を満たすことはできるでしょう。

ただ、カラヤンのような極端な例もあるように、指揮者は往々にして権力者と揶揄されます。権力は魔物であって、しだいにイエスマンを求めるようになり、その体質が個性あるピアノさえも彼の意向に背くものになっていったということなのかとも勘ぐってしまいました。

日本のピアノが褒められるのは嬉しいとしても、褒められている内容が最も肝心なところでしょう。シゲルカワイはピアノがでしゃばるほどの個性が無く、その点が素直で大変よろしいと、まるで命令通りにせっせと働く従順な社員がワンマン社長から頭を撫でられているみたいで、少しでも出過ぎたことがあったなら、たちまちお払い箱になるのかという気がします。

ふと家臣を道具としか見なさない織田信長を連想しましたが、はてプレトニョフに信長ほどの稀代の独創性や異才があるのかどうか…。

どうせなら、気に入った理由がもっと積極的にそのピアノの個性や魅力であってほしい気がして、これではまるで、自分のじゃまにならない程度に控え目で地味なピアノがいいといっているように解釈してしまうマロニエ君はへそ曲がりなんでしょうか?

個人的には、SK-EXより、その前のEXのほうがある意味でまとまりがあったようにも思いましたし「でしゃばりすぎない良さ」もむしろこちらのような気がしますが、それはともかく、マエストロはSK-EXを「ういやつじゃ」とお気に召したということのようです。

でも、あまり、でしゃばる云々を言い出したら、突き詰めればマエストロの演奏だって、作曲者から同じことを云われかねません。ベートーヴェンの第4協奏曲などはプレトニョフの解釈がでしゃばりまくりだったという印象しかないのですが…まあ自分はいいんでしょうね。
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リストの番組

先週のこと、BSジャパンで『フランツ・リストの栄光と謎 〜なぜ史上最高のピアニストと言われるのか〜』という2時間番組があり、大抵こういうものは見逃してしまうマロニエ君ですが、このときは運良く直前に気付いて録画することができました。

俳優の中村雅俊氏がナビゲーター役としてヨーロッパに赴き、リストの軌跡を追うというもので、この番組は生誕200年を記念した2011年の制作、今回はその再放送だったようです。
中村氏には適度な存在感と節度感があり、訪問先でも物怖じせず自然、よく頑張られたと思いました。

民放でこういう番組をやるのは珍しいこともあり、いちおう最後まで見ましたが、構成がいまひとつというか、ただあちこちに行ってはそこで待ち受ける人の話を軽く聞いて、ところどころで演奏を差し挟むという繰り返しで、期待したほどのものでもありませんでした。

こういうものを作らせると、やっぱりNHKは一枚も二枚もうわ手で、まずは中心となる主題があり、構成や監修が格段にしっかりしていることを痛感します。視る者の興味をうまく誘導する作りになっており、ところどころで深い部分に迫ったりしながら、番組進行がダレたり冗長になったりすることがないのが逆にわかります。
最大の違いは、ひとことで云えばクオリティで、番組制作にかける綿密な事前調査と企画力、さらにはお金と時間のかけ方がまったく違うということが如実に現れてくるようです。

その制作費に関連することで思い出しましたが、出だしからして映像に不可解な細工が施されているのが目につきました。冒頭の映像はピアニストによるラ・カンパネラの演奏の様子でしたが、このときのピアノはベヒシュタインだったものの、鍵盤蓋のロゴは遠目にもぼかしが入れられ、ピアノメーカーがわからないようになっています。

その後は、何度もスタインウェイが出てきましたが、ある一瞬を除いて、それ以外はすべて徹底的にロゴにはぼかしが入れられ、これらピアノメーカーの名は出さないという意志が働いているようでした。今やNHKでさえピアノメーカーのロゴは隠さない時代になっているというのに、このぼかしはちょっと異様でした。

ところが驚いたのはその後で、訪問先の音楽院などにあるヤマハにはぼかしはなく、二台並んでいるとなりのスタインウェイはしっかりぼかしを入れるという念の入れようです。その後、別の場所でもヤマハは堂々とロゴが写し出され、この露骨なまでの「差別」には恐れ入りました。さらには歴史的なピアノとして登場したベーゼンドルファーもぼかしは入りませんでしたが、2007年以降はベーゼンはヤマハの子会社なのでこちらはオッケーということがわかりやすいほどわかります。

エンディングのクレジットなどを見てもヤマハの名が出てくることはありませんでしたが、これはもう明らかにヤマハの意向が働いていることは明々白々です。
さらにいうと、なぜそれほど不自然なまでに他社の名を隠蔽しなくてはいけないのか、その偏狭さには驚くばかりです。

いまさらそんなことをしなくても、リストが存命中にヤマハを弾いたわけでなし、欧米にはスタインウェイはじめいろいろなピアノがあるのは現実なんですから、歴史的名器に混ざってヤマハも数多く見ることができるということのほうが、むしろヤマハの国際性が感じられて、よほど視る人の印象もいいと思うのですが…。

こういうことをあまり過度にやりすぎると、むしろ逆効果にしかならず、却ってこの世界に冠たるメーカーが未成熟な幼児的体質をもっているように見えて残念でした。
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お詫びのプロ

最近テレビを視ていて気になること…。

例の号泣県議や、逮捕された芸能人など、不祥事があるたびに「お詫びの仕方」についてあれこれの批判が聞こえてきます。
しかもそれが、一般的な礼節としてのお詫びとはどこか趣の異なるところに奇妙さを感じます。

近ごろはテレビ画面に露出するようなお詫びには一種のマニュアルのようなものがあるようで、その型に添ったものでないと批判の対象になるという気配を感じるのです。

薬物で逮捕された芸能人が仮釈放で出てきたときも、とりあえず逃げ隠れせず、スーツ姿で警察の正面玄関をまっすぐに出てきて、居並ぶマスコミのカメラに向かって深くお辞儀をし、その後横向きに立ち去っていきました。

すると後から「お詫びの言葉がなかった」「ファンへの謝罪の言葉があるべき」というような批判が飛び交います。しかしマロニエ君は個人的に、別にこのときの彼の態度がとくに問題とは思いませんでした。有名人ではあっても公人ではないし、犯した罪は専ら個人的なもので、だからこんなものだろうと思うわけです。
問題なのは彼の犯罪行為であって、いまさらわかりきったようなお詫びの言葉を並べてみたところで、それでどうとも思いません。神妙な面持ちで姿をあらわし、深く頭を下げたというのは、これはこれなりのお詫びと反省の態度だったと思います。
すでに社会的な制裁は受けているし、今後は法に基づいた裁判があり、それで償いを科せられるわけで、それでじゅうぶんではないかと思います。

ところが、最近は何かというと「お詫びのプロ」という人物が出てくるのは理解に苦しみます。
まるで、お詫びというものが専門分野であるかのようで、その指南役というような扱われ方でテレビに堂々と登場し、訳知り顔であれこれ発言するのは強い違和感を感じます。

歌舞伎役者が暴力事件を起こしたときも、企業や公的組織の不祥事に際しても、大抵この種のプロという人の指南が入っているようで、服装からお詫びの口上、お辞儀をする角度から、何十秒それを維持するなど、見ている側は、どれも決められた形ばかりを追っているようにしか見えません。
心底お詫びをしているというよりも、少しでも世間の心証を害さぬよう、マイナスイメージを最小限に食い止めるべく最良とされる演技をしているようです。

少なくともそれをやっている人の一連の所作と心底が一致したもののようには、マロニエ君の目には見えません。

それでも日本は建前が大切なので、表向きそういうお詫びと反省の態度をとりましたということが大切なのかもしれませんが、いかにも打ち合わせと練習によるシナリオ通りの演技をみせられているだけといった印象で、これで本当に納得する人がいるのかと思います。

号泣会見でいまや世界的にも話題になった県議の場合でも、この「お詫びのプロ」という人が番組に出てきて、プロ(お詫びの)の目からみて「あれは0点でした」などと、いちいち専門家目線でコメントをするのは著しい違和感を感じてなりません。誰の目にも著しく常識を欠いた振る舞いであったことは、わざわざ「プロ」の意見を聞かずとも明白で、そこにあえてコメントを取りにいくテレビ局の見識さえ疑います。

お詫びというものは、まさに心を尽くして許しを請うのが本質であって、それをプロの指南のもと型通りに進めようというのは、むしろ詫びるべき相手への精神的非礼を感じてしまいます。
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初期モデルが最高?

ふとしたきっかけで、さる知人から聞いた意外な話を思い出しました。

それによると、なんとピアノは「初期モデルこそ買い!」なのだそうです。

「初期モデル」というものは、例えば車のような機械ものでは敬遠すべきが常識であって、これを最初に聞いたとき、どういう意味なのか皆目わかりませんでした。

車では、新型にフルチェンジしたモデルなど、見てくれや数々の機構こそ新しさが満載ですが、その裏に製品としての不安定や、初期トラブルを多く抱えており、これを買うのは大枚はたいてメーカーのモルモットになるようなものだという共通認識があります。

メーカーではかなりの走行実験などを繰り返していますが、それでも実際に市場に投入され、多くのユーザーが使ってみることではじめてわかってくるものがたくさんあります。
とりわけ現代の車はコストと効率のせめぎ合いでぎりぎりに作られており、耐久性などもミニマムスペックで登場するとも云われています。

実際に車が販売され、ユーザーが使った結果がデータとして上がってきて、ここから対策が講じられて、必要が認められれば改良され、以降の生産にも反映されます。
必要に応じて、すでに販売された車にも問題箇所は改良パーツに交換されたり、もっと酷い場合にはリコールなどの対象にもなるわけで、自動車マニアでもこだわりの強い人達は、新型発表から最低2年は様子見をするというのがこの世界の常識でした。

そしてモデル末期は乗り味も向上し、最も完成度が高く、モデルによっては初期型と最終モデルでは基本は同じ車でも、別物のように磨かれています。洗練され、併せて信頼性もアップしているというわけで、マニアの中には、わざわざモデルチェンジ直前のモデルを狙い打ちに購入したりする人も少なくありませんでした。

ところが、ピアノでは「初期モデルこそ買い」という、車とは真逆の定理があるのはいかなることなのか。その根拠を聞いてみると、なるほどと納得させられるものでした。

ピアノの基本構造は100年以上前に完成形に達したもので、早い話が車のように新しい設計や機能が次々に投入されるわけでもなく、言葉ではニューモデルなどといっても、機構上の新しさなんてたかがしれています。

それでも、ごくたまにはシリーズ名がちょっと変わったり、プレミアムモデルが追加されたりということはあるわけで、その際メーカーは新シリーズの高評価を獲得する目的で、シリーズ出始めのモデルは、とくに入念に作られているということらしいのです。

はじめに高い評判を得ておくことが、その後の売れ行きに影響するのだそうで、だからピアノの場合は新型が出てしばらくの間のモデルは、格別気合いの入った出来映えなのだとか。

そこでの違いは材料であったり仕上げの手間などであったりするのでしょうが、たしかにピアノが基本の設計から変更になることなんて、そうめったにあることではなく、あとは材質や、製造時・製造後の手間(コスト)のかけ方が大きくものを云うようです。

すなわち発売初期に頑張っておいて、あとは少しずつ手を抜いていくということだろうかと思いますが、たしかにピアノはそれを少しずつやられても、なかなかバレない性質の製品ですから、これは大いに考えられる話だと思いました。

そういえば、デビュー当時より明らかに質が落ちてきたと感じるピアノが思い浮かぶので、やはりそうなのかもしれません。
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衝撃映像

すでに大勢の方がご覧になったと思いますが、兵庫県議会議員の野々村竜太郎氏が、政務活動費から不明朗な支出があることを指摘され、マスコミやテレビカメラを前に、47歳といういわば最も脂ののった男盛りの男性が、ママを探してさまよう幼児のように盛大に号泣したのはちょっとした見ものでした。

マロニエ君はこれを見て唖然としたのはもちろん、すっかりその様子にハマってしまい、何度でも見たくなる爆笑映像が天から降ってきたようでした。

2013年度の「政務活動費」として、なんと195回、約300万円にのぼる日帰り出張の交通費が税金から支出され、提出が義務づけられている領収書やメモは破棄したとのこと。
しかも、その大半が片道100kmほどの温泉への交通費だった由で、その凄まじい頻度は俄には信じられません。特別の予定がなければ、ほぼ毎日のように温泉に行っていたことになり、そもそも県議会議員とは、それほどヒマなのかとも思いましたが、とにかくそのあまりのお馬鹿ぶりには開いた口がふさがりませんでした。

温泉とはそんなにいいものなのか、あるいは温泉以外の行き先があったのか、真相はともかく、いずれにしろまことにチマチマした幼稚な仕事放棄ぶりでもあるし、来る日も来る日もこんなことに時間とエネルギーを注ぎ込むという感覚も尋常ではありませんね。

むろん政務活動費なるものを不正利用したとなれば怪しからぬ事ではあるけれども、ともかくその釈明会見があれだというのは、ただもうおかしいばかりで、腹も立ちませんでした。
というか、お陰で我が家もその話でもちきりで、ずいぶん笑わせてもらいました。

しかも4回の落選の後、5回目にしてようやく当選を果たしたのだそうで、「やっと議員になれたのにぃぃ…」という発言も、さらに幼児的で笑いに拍車がかかります。

いっぽうで、違和感を覚えたのはテレビの番組で、これを「おもしろかった」といったのはマロニエ君が見た限りではタレント風の女性一人だけで、あとはスタジオはもちろん、街の声も含めて、もっぱら不正支出の問題、義務づけられている領収書やメモがないことばかりを難しい顔をして云うだけで、野々村議員のこの常軌を逸した「特別の振る舞い」についてはあまり触れません。

せいぜい触れても、「恥ずかしいですね」「見ているこちらのほうが泣きたくなりますよ」などという真面目くさった言い方をするだけで、どうしてこんなにおもしろいものを素直におもしろいと云わないのかと不思議でなりません。

手当たり次第に道徳家よろしく尤もらしいことを云っておけば間違いないという体質が皮膚の奥まで染み込んでいるのか、あんな映像を笑わないほうがどうかしているとマロニエ君は思うのです。

おそらく外国だったら、大爆笑の渦が湧き起こることだろうと思いますし、泣き顔のTシャツのひとつやふたつ発売されてもおかしくはないでしょう。

社会の不正を追及することは大事ですが、笑うべきときに大いに笑うというのも、健全な社会の在り方として大事なことのような気がします。
日本人というのは、いざという場面でどうしてこうネチッと暗い民族なのかと思ってしまいます。

通常なら、兵庫県議という一地方の問題でしかなかった話を、全国的にはまったく無名の人物が、たったひとり、しかも一回だけの会見で、これだけ全国を注目させたのですから、いずれにしてもタダモノではないようです。
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ハンマーの違いは

ピアノのハンマーには様々な種類があるようですが、実際の違いとはいかなるものなのか…。
プロの技術者でさえ、この点を明確に把握している人は果たしてどれだけおられるのかと思われ、ましてや一般のピアノユーザーがそれを具体的に知る術はないに等しいでしょう。

多くの場合、名の通ったメーカーのものならまずは安心だろう、さらに価格の高いものほど上質だろうという、しょせんは「だろう、だろう」の世界ではないでしょうか。

ヤマハのような大メーカーはフェルトのみを輸入して、木部への巻き加工などは自社で行って自社製ハンマーとするそうですが、他のメーカーはどうなのか…。
カワイは、レギュラーモデルをベースに、海外メーカーの響板やイギリスのロイヤルジョージ社のハンマーを装着したモデルも販売しています。そうなるとレギュラー品はそれよりは劣っているような印象を受けてしまうユーザーも少なくないでしょうが、実際のところどの程度の違いなのか…。

このロイヤルジョージ・ハンマーは、以前ネット上で見かけたところでは、日本のフェルトメーカーがブランドごと傘下に納めて日本で作っているようでもあり、そうなると日本製ということになるのか。そのあたりの詳細は一向に明らかにされず、表向きは英国から輸入された特別なハンマーですよというイメージになっていますが、よくわかりません。

使用する響板によって音が決定的に違うのは当然としても、ハンマーの場合はものによって具体的にどういう変化が起こってくるものか、イメージとしてはわかるようでも、実際はわかっているとは言い難い状況だと個人的には思います。もちろん大きさの違いや巻きの硬軟からくる違いがあるのは当然としても、同サイズで同じような固さのフェルトの場合、あとは音質にどのような影響が出るものなのか、その微妙なところがもう一歩踏み込んだかたちで知りたいものです。

羊毛の質の良し悪しというのが当然ありますが、実際にそれが音としてどの程度の違いとして現れてくるのか、オーディオのアンプやスピーカーのように付け替えて比較するわけにもいかないので、これは容易に判断のつくものではありません。

羊毛といえば、これをハンマーに成形する際、高温で加工するのだそうですが、その高熱によって羊毛の質が落ちるとも云われます。そこで少量生産のメーカーでは、ローヒートプレスという昔ながらの方法で羊毛の繊維を傷めないように作られたハンマーがあるようですが、製造に手間がかかるために量産には向かず高級品とされているようです。

逆に安いハンマーの中には、低質な羊毛をやたらガチガチに固めただけのようなものもあって、それは木材における自然乾燥と人工乾燥、あるいは一枚板と集成材の関係にも通じるものがあるように感じます。

ピアノの音は、ボディや響板などがもたらす複合的なものでしかなく、ハンマーの違いだけを音として独立して知ることはできません。取りつけるピアノとの相性や技術者のセンスもあるでしょう。
とくにハンマーはその品質に加えて、針刺しなどヴォイシングの技術に負うところもあり、それにより結果は一変するでしょうから、どこまでが純粋なハンマーの品質によるものかを判じるのは、少なくとも一般人にとってその手立てはほとんど閉ざされたも同然で、やっぱり「だろう、だろう」になってしまいます。

なんとなくイメージするのは書道に於ける筆です。
一本百円かそこらのものから、何十万もする逸品までありますが、百円の筆でもちゃんと字が書けるという点では、それなりの機能は持っているわけです。
最高と最低の判別は容易でも、もっとも需要が多い中間レベルの優劣判断というのは極めて難しいところでしょう。
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B級グルメCD

タワーレコードを覗いてみると、バーゲン品を集めたワゴンが並ぶ一角に、さらに特別とおぼしきひとまとまりがありました。

そこはどうやら最終処分場らしく、見たこともないようなレーベルや演奏家のCDばかりが集められ、なるほどこれは常設の棚はおろか、セール対象にしても簡単には売れないCDであろう事は察しがつきました。

あまのじゃくのマロニエ君としては、そういう場所こそ捜索してみる意欲が湧いてくるというもの。しかもお値段は、元が2千円台の輸入物ですが、すべて454円と、732円という2種で、これは滅多にないチャンスと決死の気分になりました。

その中に、大きなパッケージ入りのスクリャービンのピアノ作品集の4枚組があり、これのみ1280円ですが、これがなんと「Estonian Classics」というエストニアのレーベルで、ピアニストもエストニアのVardo Rumessenという聞いたこともない人でした。
スクリャービンは、古いものではソフロニツキー、現役ならソナタではウゴルスキ、それ以外ではベクテレフのもので一応の満足を得ていたので、いまさらよくわからないピアニストのCDを買ってまで聴く価値があるだろうかという気持ちはありました。
しかし、エストニアといえばロシア圏では有名なエストニアピアノの生産国であり、もしかしたらこれはエストニアピアノの音が聴けるかもしれないと思った瞬間、購入する気になりました。

帰宅してすぐ、何枚も厳重に包まれたセロファンを引きはがし、ようやく中を開きますが、そもそもこのCDのパッケージは普通のCDの2倍の面積はあろうかという大きなもので、それを三面鏡のように左右に開くと、両端に上下2枚ずつのCDが左右に配置された4枚組となっており、真ん中がブックレットになっています。

凄まじいのはそのデザインで、後年は神秘主義に傾倒していったスクリャービンを表現しているのか、内も外も黒バックに無数の星がばらまかれたようで、ほとんどSF映画かクリスマスのようなでした。

さて、データの覧に目を凝らしますが、1枚目はスタインウェイ、2枚目は録音時期が入り乱れており使用ピアノは明らかにされてません。3枚目の17曲のプレリュードもスタインウェイですが、後半のソナタ3/4/5、および4枚目のソナタ6/7/8/9/10ではなんとブリュートナーでした。

Rumessen氏の演奏はエチュードなどでは、いまひとつ詰めが甘いというか完成度がもうひとつという感じでしたが、ソナタでは一転して集中力と燃焼感のある演奏で、とくに好きな4/5番などはずいぶん繰り返し聴きました。

残念ながら録音のクオリティが高いとは言えず、ピアノも最良のコンディションとは云いかねるものでした。それでも、スタインウェイは少し古いものと思われ、大雑把な調整ながらもよく鳴っていたのは印象的でしたし、なによりもブリュートナーによるスクリャービンというのは、マロニエ君にとっては初の組み合わせだったので、これが聴けただけでも買った甲斐があったというものです。

ソナタの演奏が特にすばらしく感じられ、作品、演奏、ピアノを統合して堪能できましたし、スクリャービンとブリュートナーの相性の良さは、まったく思いがけないものでした。

ブリュートナー特有の、音の中に艶のある女性的な声帯が潜んでいるようなトーンが、スクリャービンの音楽の、襟元が乱れたような魅力に溶け込むようで、妖しさがより引き立っていたようでした。調整がそこそこなのか、音色があまり洗練さず時には混濁気味だったりするものの、必要以上に整えられた音でないのも、こういう音楽にはむしろ風合いを添えてくるようで、作品とピアノの相性の良さに唸りました。

Rumessen氏はこういう効果を狙ってブリュートナーを選んだのか、たまたま録音する場所にブリュートナーがあったからそれを弾いただけなのか、そのあたりは疑問ですが、結果としてはとてもおもしろいCDでした。
エストニアの音は聴けなかったけれど、ブリュートナーが立派に代役を果たしてくれた気分です。
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主治医さがし

ピアノが好きな知人で、マロニエ君とはまったく違う地域に在住される方が、昨年、東奔西走の末にめでたく中古グランドピアノを購入されました。
購入にあたって、弦やハンマーなど主立った消耗品が交換され、その上での納入ということになったようです。

納入後の調律も終わり、これからいよいよ自分好みのピアノに育てるべく、春ごろから主治医さがしが始まった様子でしたが、なかなかこれだという人が見つからないようです。
まったくのエリア違いから紹介もできず、せめてマロニエ君もネット検索を一時期お手伝いしましたが、これもやってみると簡単ではないことを痛感しました。

ピアノ業界に限ったことではありませんが、ブログなどでそこそこ好印象が得られても、それはあくまでネット上でのことで、実際に会って、顔を見て話をしてみないことには人というのはわかりません。
また、ひとくちに技術者(一般にいうピアノ調律師)といっても、技術の巧拙だけでなく、人柄、流儀、価値観、料金等々が実にさまざまで、要するに当たり外れがあるのも事実です。

長いスパンで釣り糸を垂れておけば、いつの日か自分が求める技術者と出会うこともあるかもしれませんが、これを短期集中的に探し、しかもハズレがないようにするとなると、これは一筋縄ではいきません。

そもそも技術者のHPやブログなどは宣伝目的であることがほとんどで、当然いいことしか書かれていないのは業種を問わず同じでしょう。さらに信頼できる業界筋の話によれば、本当に一流のピアノ技術者として周囲から認知されている人は、決してネット上には出てこない(一部例外あり)というジンクスがあるそうです。
それもあって、その人達の自意識としては、HPを持たないことが逆のステータスでもあるそうで、こうなるとますますもって主治医さがしは困難を極めます。

すでに、これまでにも数名の有名無名の技術者が下見にやって来たそうですが、各人でその見立てや価格にも少なくない違いがあったり、人間的にソリが合わないなど、決め手を欠いているとのこと。

ブログとはかけ離れた雰囲気であったり、技術者としての見識を疑うような発言、買ったばかりというのにいきなり別のピアノのセールスをする、やたら部品交換を必要と言い立てる、あるいはしっかりと自分の自慢話ばかりして帰った…等々で、どれも決め手に欠ける方のオンパレードのようでした。

さらに驚いたのは、費用もそれなりのものになるため、よく検討したいと伝えたら、いきなり逆ギレされた、あるいは穏やかな人が他の技術者の話題になったとたん態度を一変したなど、ちょっと信じがたいような内容が続いたことです。

いまや医師でも患者への丁寧な説明が求められ、セカンドオピニオンなども快く受け容れる時代であるのに、ピアノの技術者の世界では、素人は専門家の云うことに盲目的に従って当たり前といった旧態依然とした体質が根底に流れているのだろうかとも思います。

専門分野というものは、一般人がわからない世界だけに、なにより信頼できる人柄であることは特に大切な要素になります。
人によっては、相手が素人となると、専門知識を武器に成り行きをコントロールしようとする傾向が往々にしてあるのも否定できません。ご当人はアドバイスだといいたいところでしょうが、コントロールとアドバイスは似て非なるもの。
ここで言っておきたいことは、人は専門知識がなくても、自分がコントロールを受ける対象になると、本能的にそれを察知する能力があること、さらにそこに必ずしも専門知識は要らないということです。

つまり専門家が思うほど、シロウトは実はバカではありません。
専門知識はなくても、どこかが変、なにかが腑に落ちない、腰は低いが印象が良くない、言行一致していないなど、危険を知らせるシグナルが心の奥で点滅することが時として発生し、そんなときは潔くやめておいたほうが賢明です。

相手が専門家でも決して言いなりになることなく、自分の「勘働き」というのもは大事にすべきだというのがマロニエ君の持論です。
自分の勘に背いて、欲望を先行させたり、理屈を後付けしたようなとき、大抵は失敗しているなぁと自分で思うのです。
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ディナースタイン

近ごろ、バッハ演奏で頭角をあらわしているシモーヌ・ディナースタインのゴルトベルクを買ってみました。
どうもモダンピアノで弾くゴルトベルクは、グールド以来、ニューヨークから発信する作品であるかのようで、以前書いたジェレミー・デンクも同様でした。

さて、このディナースタインはニューヨーク生まれのニューヨーク育ちで、学校もジュリアード、デビューもカーネギーホール、録音も、なにもかもがニューヨーク一色です。

グールドがレコードデビューしたゴルトベルクもニューヨークで録音され、その驚異的な演奏が世界中に衝撃を与えたことはあまりにも有名ですが、以降、まるでこの作品だけは住民登録をニューヨークに移してしまったかのようです。

さて、そんなニューヨークずくめのディナースタインですが、ゴルトベルクを録音するにあたってひとつだけニューヨークでないものがありました。これだけニューヨークずくしなのだから当然ピアノもニューヨーク・スタインウェイだと思いきや、なんと彼女が弾いているのは1903年製のハンブルク・スタインウェイで、これには却ってインパクトを感じます。

このピアノは、北東イングランドのハル市役所に所蔵されていたという来歴をもつ有名なピアノだそうで、数々のエポックなコンサートで使われ、2002年にはニューヨークのクラヴィアハウスというところで修復作業を受けたもののようです。
その音はとても温かみのある美しいものでしたが、どう聴いても響板が新しい音なので、修復の際に貼り替えられたのだろうと推測されます。マロニエ君としては、古いピアノ特有の枯れた楽器の発する美しい倍音に彩られた、威厳と風格に満ちたトーンを期待していましたが、そこから聞こえる音は無遠慮なほど若い響板の音のようにマロニエ君の耳には聞こえました。

もちろんボディやフレームは昔のものですから、それなりの味は残っていると見るべきでしょうが、どちらかというとアメリカという国はやわらかなピアノの音を好み、響板の張替にたいしても他国よりこだわりなくやってしまう印象があります。
個人的な印象では、やはりアメリカ人は本質的に消費の感性が染み込んだ民族で、響板も消耗パーツと見なして、問題がある場合はさっさと取り替えてしまう傾向を感じます。
先人の創り出したオリジナルを尊重し、それを極限まで損なわないよう心血を注ぎこむ日本人とは、目指すものが根本に於いて違うのかもしれません。

これが100年以上前のピアノ音だといわれても素直にそう思う気持ちにはなれませんが、単なる音としてはとても上品で豊かさに満ちた上質なものだとは思いました。ただ、響板という中心部分が新しいものに変わっているという違和感はマロニエ君にはどうしても拭えず、もう少し時間が経つとなじんでくるのかなぁという気がしないでもありません。

ディナースタインの演奏に触れる余地がなくなりましたが、母性的な包容力でこの大曲をふわり包み込み、やさしげな眼差しを注いでいるような演奏でした。そよ風のような穏やかなゴルトベルクで、この演奏にはこのピアノの馥郁たる音がよく似合っていることは納得です。

これはこれでひとつの完成された演奏だと思われますが、さりとて、とくに積極的に支持するというほどでもないのが正直なところです。
ゴルトベルクの複雑な技巧に対する手さばきや高度な音の交叉や躍動を期待すると、ちょっと肩すかしをくらうかもしれません。
この作品を弾くあまたの男性ピアニストのような技巧の顕示は一切ないけれども、逆に、この難曲からそれらの要素を徹底して排除して見せたという点が、もしかすると彼女なりの顕示なのかもしれません。
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慢心と油断

気に入っていた飲食店などで味が落ちるといった変化があると、心底がっかりするものです。

とくに長年親しんだお店で、質やサービスになにかしらの変化がおきると、それによる落胆と幻滅は、おそらくは店側が予想しているより遥かに大きなものとなります。

変化といっても、良いほうに変化することはそうはないわけで、大半は「低下」の方向を辿ることが通例です。それがわずかの違いであっても、お客側にとっては大問題となることに経営者は意外に鈍感で、むしろ僅かな差なら気がつかないだろうぐらいに高をくくっていたりします。
もうバレバレなのに、バレていないと思い込んでいる愚かしさは他人事ながら哀れです。

たとえば、マロニエ君が贔屓にしていたあるケーキ店があります。
ここは価格も法外ではないけれど、それなりに安くもない店です。それでも、たまに美味しいケーキを食べたいと思ったときは、その美味しさを優先してときどき買っていました。

ところが、ある時期から、すぐには気がつかないぐらいの微妙な変化が起こりました。ほんのわずかにサイズは小ぶりになり、味も表向きは変わっていないことを装っていますが、明らかに以前のような熱意やこだわりが感じられなくなりました。
あとから知ったことですが、このころデパ地下にも進出したようでした。

そこそこお客がついてくると、人はつい油断するものなのか、その味や営業姿勢に慢心の影が差し込んでくるのはがっかりします。ひとつ成功するとたちまち次の欲が出て、事業拡大やさらなる利益のことばかり考えているとしたら、もうそれだけで気持ちは冷めてしまいます。

そもそも美味しさとか魅力なんてものは、楽器のいい音と同じで、決して雲泥の差ではありません。「普通」との差はたかだか薄紙一枚の違いであったりするもので、つまりは、そのわずかのところに人は期待と価値を置いているものです。

レストランなども、店側の都合で料理人が変わったり、事実上の値上げなどで、質や量にわずかな変化が現れることがありますが、お客というのは、だから決してその「わずか」を見逃しません。

そもそもある店を贔屓にしているのも、いろいろな要素のトータルのところで「たまたま」そうなっているだけで、ある意味、ひじょうに微妙で危ういバランスの上に立っているにすぎません。よって少しでもそのバランスが崩れると、忽ちそこでなくてはならない理由が失われます。

つまりささいな変化は深刻で、いったんその変化や翳りを嗅ぎ取ると、まるで魔法がとけたようにその店に対する好感度が失われてしまいます。
これは飲食店以外にも言えることで、少しでも下降線を感じてしまうと、それが嫌でいっそ別のものへ流れます。少なくとも質の落ちた対価しか得られないとわかってしまうと、もう継続する気にはなれないのがお客の気分ではないかと思います。

「一度でも不味いものを食わせると、二度とその客は来ない」と云われるように、マロニエ君もずっとご贔屓にしていても、一度とは云いませんが、二度味が変わればやはりもう行く気になれません。
もちろんお店側にしても、そこにはいろいろな事情もあることでしょう。商売をする以上、利潤追求を否定することはできませんが、そういうとき、ある種の「勘違い」や「雑な判断」「見落とし」をしてしまっているように感じます。

馴染みのお客さんを維持していくことは、ある意味では新規の客を獲得するより、もっと難しいことなのかもしれません。
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日本製表示

先日、久しぶりにヤマハに行くと、書籍売場の配置が変わっており、グランドピアノのすぐ傍まで音楽書が並ぶようになっていました。

C6Xの置かれたすぐ脇の棚を見ていると、ふとピアノの低音側の足の側面になにか金色の文字が書かれていることに気付きました。

何だろうと近づいて見ると、小さめの金文字で「Made in Japan」とありました。
ヤマハピアノは、云われなくても日本製だと思うのが普通で、だれもが日本の楽器の聖地である浜松およびその周辺で製造されているものと長らく思い込んでいたものです。

さて、いつごろからだったか、中国製などのピアノが尤もらしいヨーロッパ風のブランドを名乗って安価に販売され、営業マンの強引な口車に乗せられてこれを買ってしまい、あとから大後悔というような話もずいぶんありました。
その後は、やっぱり日本製のピアノが安心という認識が広がってきたものの、今度はその日本製の出自が怪しくなってきたということなのか…。

人件費など製造コストの問題から、近年は日本の大手メーカーのピアノまでも、一部はアジアに生産拠点を移すなどして、いわゆる日本製ではない日本ブランドのピアノが逆輸入されるようになっているそうですが、なかなかそんな裏事情まで詳しくはわからないものです。
本来、製造物には生産国表示が義務づけられていますが、ピアノは素材が輸入品であったりするためか、必ずしもこれがわかりやすく明示されているとは言い難い状況が続いています。

エセックスやウエンドル&ラングなども、中国製のピアノですが、そのことを隠してはいないにしても、正面切って明示されているとも思えません。少なくとも、その点についてはそう積極的には触れないでおきたいという売り手側の本音を感じてしまいます。
尤も、中国製を言いたくないのは、なにもピアノに限ったことでもありませんが。

ヤマハなども一部のアップライトなどはアジア工場製だったりすることが次第に知られるようになりましたが、そうなると全製品が疑いの目をもってみられることにもなるのかもしれません。

また、日本製であっても、内部のパーツやアッセンブリーは輸入品である場合も少なくないわけで、これはヨーロッパ製ピアノにも同様のことが云えるようです。要は世界中のピアノが世界中のパーツを使って作られているということでもあり、こうなると純粋に○○製と言い切ることはどのピアノに於いても難しくなっているようです。

そう厳密な話でなくても、主にどこで製造されているかという点では、日本の大手のグランドは日本製のようで、そこのところを明確にするためにも上記のような「Made in Japan」の文字がピアノ本体に明記されるようになったのだろうと思われます。
これはこれで、日本製ということがはっきりするのかもしれませんが、裏を返せば日本製じゃないヤマハピアノがありますよとメーカーが認めているようにも感じられました。
ともかくそんな時代になったということでしょう。

ちなみに、過日書いた「黒檀調天然木」の黒鍵は、新品のC6XやC5Xで見る限り、一時のような安物チックな代物ではなく、とても立派で、一見したところでは黒檀と見紛うばかりの仕上がりになっており、この点は驚きとともに認識をあらためなくてはと思いました。

ただし、先々の経年変化でどうなるのかまではわかりませんが…。
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梅雨の辛抱

今年の梅雨は、全国の多くの地域が大変な大雨に見舞われ、ニュースではしばしばその状況などが報道されています。

「平年の1ヵ月分の雨がわずか1日で…」といったフレーズを短期間のうちにずいぶん聞いたような気がしますが、どういうわけか今年の福岡地方は降雨エリアから外れているようです。
まるで布団の中から足の先がわずかに出ているように、天気図に広がる低気圧から福岡はいつもちょこんと抜け出ていて、梅雨入りしたにもかかわらず、むしろ雨とは縁遠い毎日が続いていました。

ところが、月曜午後あたりから今度ばかりは「降りそうだ」という気配を感じました。
こんなブログの場で自分の健康に言及するのは甚だ趣味ではないのですが、マロニエ君は以前から慢性的な喘息体質で、とりわけ湿度に大きく影響されてしまいます。

湿度が高いと呼吸が楽ではなくなり、そういう意味では、マロニエ君が除湿器を始終回しているのはなにもピアノのためだけではないと云えそうですが、自分ではもっぱら「ピアノのため」という意識だけでONにしていて、結果として自分もちゃっかりその恩恵に与っているというかたちです。

不思議なのは湿度がいけないと云っても、だったら入浴などで不具合があるのかというと、それはまったくありません。専ら天候がもたらす湿度+αがいけないようで、その差がなんなのか自分でもよくわかりません。

さらに気が付いたことには、いっそ雨が降り出してしまえばまだしも落ち着く喘息ですが、雨になる直前のあのムシムシする状態が最も身体に悪いように思います。
おそらくは気圧やらなにやら、大自然が生き物に与える何らかの影響があるのかもしれません。

赤ん坊の出産とか人の最期も潮の満ち引きなどに関係があるとも云われますし、低気圧が近づくと古傷が痛むなんて人もあるようですから、私達はそういう大自然の法則の中に生かされていて、それに抗うことはできないようになっているのかもしれません。
だからこそ、なんとか梅雨の時期と仲良くやっていきたいところですが、その努力の甲斐もないほど影響があって嫌なので、それに較べると真夏や真冬はむしろサッパリした気分で過ごすことができるようです。
むろん個人差が大きいと思いますが。

そんなわけでこの季節のエアコンは、いわばマロニエ君の健康維持装置ともいえますが、エアコンも万全ではなく、一定温度に達するとサーモが働いてぬるぬるした空気が入ってきたりしますから、今度はそういう死角のないエアコンに交換したいところです。

もしマロニエ君が人も羨むような大富豪なら、べつに夏の避暑はしなくてもいいけれど、梅雨を避けるためにこの季節だけカラリとした外国へ行って、ピアノ屋巡りやオペラ三昧でもやってみたいものです。
朝の連続ドラマで主人公が「想像の翼を広げる」としばしば云いますが、マロニエ君がそれをやるなら、ヨーロッパをほうぼう回って、気に入ったものがあれば、戦前のプレイエルなどと一緒に帰国できれば、そりゃあもう、この世の極楽ってもんです。

…そんな夢物語を云ってみても、現実の梅雨はまだまだ当分は続きそうですし、そこから逃げ出す術はないわけで、なんとかこの時期を無事通過するよう気張るほかはなさそうです。
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アラウの偉大さ

真嶋雄大氏の著作『グレン・グールドと32人のピアニスト』という著作の中で、意外な事実を知りました。

グールドといえば、まっ先に頭に浮かぶのはバッハであり、とりわけゴルトベルク変奏曲です。レコードデビューとなる1955年の録音は世界中にセンセーションを巻き起こし、ここからグールドの長くはない活躍が本格的なものになっていったのはよく知られている通りです。

マロニエ君がゴルトベルクを初めて耳にしたのも、むろんグールドの演奏からでした。

グールドよりも先にこの曲を全曲録音したのはチェンバロのワンダ・ランドフスカであることは知られていますし、ランドフスカと同時期にゴルトベルクを録音したアラウが、敬愛するランドフスカへの配慮から自分の録音の発売を辞退したことは、それからはるか数十年後にアラウのCDが発売されたのを購入して解説を読んで知りました。

ところが、この本によると、さらに驚きの事実が記されています。
なんと、ゴルトベルクの全曲録音はランドフスカこそが「史上最初の人」なのだそうで、それまではこの作品を全曲演奏し録音した人はいなかったというのです。さらに録音から40年間お蔵入りになったアラウのゴルトベルクは、モダンピアノで弾かれた、これもまた「史上最初の録音だった」ということで、今日これほどの有名曲であるにもかかわらず、その演奏史は思いのほか浅く、たかだかここ6〜70年の出来事にすぎないことには驚かされます。

ランドフスカのゴルトベルクはずいぶん昔に聴いてみたことはありますが、グールドの切れ味鋭い演奏が身体に染みついていた時期でもあり、そのあまりのゆったりした演奏にはショックと拒絶感を覚えてしまって、その後は聴いた記憶がありません。

それに対して、アラウのほうは特につよい印象はなかったものの、「モダンピアノでの初録音」というのを知ると、俄に聴いてみたくなりました。
ホコリの中からアラウ盤を探し出し、おそらくは20年以上ぶりに聴いてみましたが、モダンピアノ初などとは思えない闊達な演奏で、今日の耳で聴いてもほとんど違和感らしきものはありません。いかにもアラウらしい信頼性に満ちた演奏でした。

アラウについての記述にはさらに驚くべきものがあり、20世紀前半まではバッハをコンサートのプログラムに据えるというのはまだまだ一般的ではなかったにもかかわらず、彼は11歳のデビュー当初から平均律グラヴィーア曲集などを弾き、1923年にはバッハ・プログラムで4回のリサイタル、さらにベルリンでは1935年から翌年にかけてバッハの「グラヴィーア作品全曲」を弾き、しかも史上初の暗譜によるバッハ全曲演奏だったとありました。

かつての巨匠時代、アラウといえば、どこかルビンシュタインの影に隠れた印象があり、よくルビンシュタインを春に、アラウを秋に喩えられたことも思い起こします。
しかし、いま振り返ってみると、個人的な魅力やスター性とかではなくて、純粋にピアニストとしての実力という点でいうと、マロニエ君はアラウのほうが数段上だと思います。

アラウの膨大なレパートリーは到底ルビンシュタインの及ぶものではないし、味わい深く誠実でごまかしのないピアニズムは、今日聴いても充分に通用するものだと思われます。
そこへ一挙にバッハのグラヴィーア作品全曲がその手の内にあったとなると、その思いはいよいよ強まるばかりです。
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輸出で流出

海外における日本製ピアノの人気は、日本人が考えるものよりも、ずっと高いもののようです。

日本製ピアノは、日本国内ではべつにどうということもない普通の存在ですが、ひとたび海外に出ると事情は一変。とくにアジアではヤマハやカワイは中古でも高級品としての高いステータスを有して、ダントツの人気だとか。

だからかどうか不明ですが、朝、新聞を見るたびに驚くことは、ピアノ買い取りのためのド派手な広告が数日に1度というハイペースで掲載されていることです。
しかもその大きさたるや、全面広告(新聞の1ページをすべて使った大きさ)で、これほどの巨大広告をこれほど頻繁に繰り返し掲載するというのは、ちょっと異様というか、ただならぬ威力を感じてしまいます。

新聞広告の掲載料は安くはありません。
通常、全面広告はよほどの大企業などが、たまに出すことがある程度で、おいそれと掲載できるようなものではない。
ちなみにネットで広告料を調べてすぐにでてきたのが日経新聞で、全国版の朝刊での全面広告料は、なんと1回2千万を超えています。(ちなみに我が家は日経ではありませんが)

もちろん新聞社によっても、地域によっても、あるいは掲載の回数によっても多少の違いはあるようですが、いずれにしろとてつもない金額であることは間違いありません。

ピアノ買い取りはいうまでもなく、家庭などで弾かれなくなったり、いろいろな事情からピアノを手放す人からピアノを安く買い取って(中にはタダ、もしくは処分料を請求されるケースもある由)、その大半が近隣国などへ輸出するための、いわば商品仕入れです。
それがこれほどの広告料を払ってでも成り立っていくと云うことは、相当大きなビジネスであろうことは察しがつくというものです。

この中古ピアノ輸出業者も大小あるらしく、中には単なるピアノ販売店だったところがピアノ輸出業に転じたというようなケースもあるようです。市場規模が縮小するいっぽうの日本国内で地味な商売をするよりは、よほど利益も上がってやり甲斐があるということなのでしょう。

とくにアジア諸国では、日本のピアノは高級ブランド品であり、中古でも圧倒的な人気があるようです。日本ではもうひとつその実感はありませんが、中国でピアノ店などを覗いた経験でも、そこで見る日本のピアノは特別な存在感があり、その人気のほどをひしひしと感じることができます。

日本で売れないものが他国では超人気となってバンバン売れるとなれば、それっとばかりに中古ピアノの輸出ビジネスに人が群がり、夥しい数の日本製ピアノが海を渡っていったようです。
さすがにピークを過ぎた観もありますが、上記のような新聞広告を数日に一度は目にさせられると、依然としてその流れは止まっていないようにも思います。

この怒濤のような中古ピアノ輸出の煽りから、まるで伐採のし過ぎで森がはげ山になるように、日本ではとくに中古ピアノの流通量がかなり減ってしまっているようです。
当然のように需給バランスで価格は上がり、とりわけグランドはいまや業者間の卸価格が高騰しているという話さえ聞きます。

売れる相手に売るというのはビジネスの厳しい掟であって、そこに感傷を差し挟む余地はないのでしょう。しかし国内の中古ピアノが枯渇して価格変動をおこしてしまうまで海外へ売り尽くすというのは、どことなくやりきれないものを感じます。
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これでいいのだ

大型電気店といっても、昔のように純粋に音楽用のオーディオ売り場が堂々と店内に陣取っているわけではないのが当節で、むしろこれがない店舗のほうが多数派のようです。
とりあえずDALIの取り扱いのある店を調べ、聴いてみたいCDをいくつか選び、いざ出発。

ネットでずいぶん読んだのは高い評価がほとんどでしたから、さぁどれ程すばらしい音だろうかと期待を胸に売り場に行くと、危惧していた以上にそこは雑音と喧噪に満ちた環境で、早々に怖じ気づいてしまいました。

こんな中でスピーカーの微妙な特徴とか良し悪しがわかるとも思えなくなりましたが、さりとて他に試す場所があるわけでもありません。

せっかく足を運んだことでもあり、仕方がないのでとりあえず聴いてみるしかないと覚悟を決め、お店の人に来意を告げると、快く持参したCDを鳴らしてくれました。

壁一面には40種ほどの小型スピーカーがぎっしり並んでおり、目指すスピーカーの番号をボタンで押しました。…が、やはり周りの雑音がじゃまをしていまいち判断できません。
お店の人はすぐに立ち去りましたので、「あとはご自由に」ということだと解釈して、ボリュームも好き勝手に調整しながらあれこれのスピーカーを試しました。

たしかにDALIのスピーカーは相対的に悪くないとは思うけれど、スピーカーの判断基準などもわかりませんし、もっぱら自分の好みだけが頼りです。
その好みで云うと、わざわざ何万も出して買う価値があるだろうか…というのが率直な印象でした。(もちろんこの試聴環境の中では繊細さなど、伝わらなかった面も大いにあろうかとは思いますから断定はできませんが。)

もうひとつの理由は、どのスピーカーも通常の箱形スピーカーなので指向性があり、音がこっちめがけて向かってくるわけですが、無指向型に身体が慣れて、それがどうも嫌になってしまっている自分に、ようやくこのとき気がつきました。30分以上聴いたところでひとまずおいとますることに。

福岡には、なんでも全国のオーディオマニアの間で知られた有名店があるようで、なんと自宅から車で5分ほどの距離であること、さらに、そこではこのDALIにこの店独自のカスタマイズをしたスペシャル仕様まで販売していることも、ごく最近知りました。

価格もそれほどでもないので、いよいよとなればここに行ってみようかとも思いつつ、オーディオマニア御用達の店など、門外漢のマロニエ君には敷居が高くて入店するのはどうにも気が進みません。あげくにそれを中国製デジタルアンプとポータブルプレーヤーに繋ぐなんて云おうものならどんなことになるやら…と思うとさらに気が重くなります。

電気店の帰りに、このお店の前を車で通ってみると、見るからに一見さんお断り的な、用のない人は近づくことすら拒絶しているような雰囲気でした。建物の多くは分厚い壁に覆われていて、中の様子はまったく窺い知ることはできません。唯一、細長いガラス戸と灯りがあるのみ。少なくとも気軽に入れる店ではないことはわかりました。

…。
帰宅して、食事をして、自室に戻ってアンプをONにし、電気店であれこれのスピーカーで聴いたフーガの技法を自作のスピーカーを鳴らしてみると、やっぱり悪くないなぁというのが偽らざるところでした。
音質はともかく、やはり円筒形の無指向型スピーカーから出てくる、やさしい自然な音の広がりによる快適さは、極端にいうなら何時間でも聴いていられるもので、一度これを耳が覚えるとなかなか脱することはできないようです。

かくして、しばらくはまたこのスピーカーで音楽を聴いていくことになりそうです。
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これでいいのか

マロニエ君は人一倍音楽やピアノが好きなのに、オーディオにはさっぱり凝らないことは自分でも不思議ですが、興味が薄いものはしかたがありません。

メインのオーディオはずいぶん昔に買い揃えたもので、そのときに一応それなりのものを揃えて満足しており、それ以上、あれこれと手をかけようとも思いません。

それどころでないのが、もっぱら自室で聴いている装置です。
スピーカーは自作の円筒形スピーカーで、アンプは中国製のデジタルアンプ、CDプレーヤーに至っては長らくDVDプレーヤーを繋いで聴いていましたが、これがあまりの酷使で壊れてしまい、現在は丸いポータブルプレーヤーに変わっています。

まるでハチャメチャな取り合わせで、どんな酷い音かと思われそうですが、自分ではそれほど悪いとも思っていません。部屋の広さにも合っているし、ここで以前使っていたそこそこのヤマハのミニコンポよりも遥かに好ましい音だと勝手に思い、これに切り替えて既に2年ほどが経ちました。

メインの真っ当な装置で再生するのとは小さくない差があるものの、自分ではそれなりに気に入ってはいるので、これはこれで良しとしていましたが、最近はDALIなどのコストパフォーマンスに優れた評価の高いスピーカーがあるようで、これがちょっと気になりだしたのです。

それに、多くの音楽を聴くのが自作スピーカーとあっては、さすがに演奏者や製作者の方々にもなんだか申し訳ないような気がしないでもないし、一度ここらで一定の評価のあるスピーカーを揃えてみても良いだろうという考えが芽生えてきたのです。
スピーカーは直接音を出す機材で、ピアノでいえば響板に相当するところでしょうから、これが自作というのはそれなりに気に入っているなどとは云ってみても、やはり心もとないことも否定できません。

今はこれに耳が慣れているけれど、たまには同じ環境の中で普通のスピーカーを聴いて、感覚をリセットしておいたほうがいいような気がしてきたのです。
そのためにもDALIの高評価を得ているスピーカーあたりなら決して高いものではないし、いちおう買っておくことが意味のあることのようにも思われます。

DALIもいいけれど、その前に、とりあえず普通のスピーカーを一度聴いてみようと思いました。しかし、すでにヤマハのミニコンポは別所に移動してしまっていて、おいそれと元に戻すことはできなくなっています。

そこで、今は使っていないaiwaの小型スピーカーを引っぱりだしてひとまず繋いでみることにしました。しかしスピーカーコードなどは大掃除の折に処分してしまっており、やむを得ずホームセンターに行って切り売りのコードを買って来ました。

普通のコードでもそこそこのオーディオなら充分役立つし、むしろこちらを好むマニアの方もいらっしゃるようで、最近では商品タグにも「オーディオにも使用可能」ということが付記されています。なにより安いし、急場はこれに限ります。

というわけで久々に普通のスピーカーを鳴らしてみましたが、そこから出てきた音は、予想に反してとても耳に障る音質で、咄嗟に「これはお話にならない」と思いました。
昔ずいぶん使ったスピーカーであるだけに、こんなものを使っていたのかと思うと、昔の自分にゾッとするようで、もうその勢いでこのスピーカーを捨てたくなりました。

もっとも嫌悪した点は、音が耳の奥というか頭の中心に突き刺さってくるようで、これは聴くなり大変ショックでしたし、 さらにものの10分ぐらいで本当に頭が痛くなってくるようでした。

やはり変な事をせずに、さっさとDALIの人気モデルを試してみるしかないと、大型電気店に出向く決心がつきました。

─続く─
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過熱するコラボ

BSプレミアムシアターで、今年4月ジャズピアニストの小曽根真氏が、ニューヨークのエイブリーフィッシャーホールのコンサートに出演し、ラプソディ・イン・ブルーを弾く様子を見ました。

エイブリーフィッシャーホールはニューヨークフィルの本拠地で、当然オーケストラはニューヨークフィル、指揮はアラン・ギルバート。当然といえば、ピアノも当然のようにヤマハでした。

マロニエ君は小曽根氏のジャズに於ける実力がどれ程のものか、わかりませんし、知りません。
ただ、数年前モーツァルトのジュノーム(ピアノ協奏曲第9番)ではじめてこの人のクラシックの演奏を聴き、折ある事にクラシックにも手をつけているのはよく知られているとおりです。
その後はショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第1番、そして今回のガーシュウィンを聴くことになりましたし、ネットの情報では、ドイツではラフマニノフのパガニーニ狂詩曲まで弾いたとか。

最初のモーツァルトのジュノームでは、珍しさもあってそれなりに面白く聴くことができましたが、ショスタコーヴィチではピアノがあれほど華々しく活躍する曲であるのに、いやに引っ込み思案な演奏だった印象があります。
そして、今回のガーシュウィンではさらに慎重な、失言のないコメントみたいな演奏で、とてもジャズピアニストのノリの良いテンションで引っぱっていくというような気配は見られませんでした。
なにより演奏者がいま目の前で音楽を楽しんでいるという様子がなく、ひたすら安全運転に徹していたのはがっかりです。

それなのに、ときどき指揮者と満面の笑みでアイコンタクトをとったりするのが、なんだかとてもわざとらしく見えてしまいました。

こういう畑違いのピアニストが登場する以上は、少しぐらいルールからはみ出してもいいから、クラシックの演奏家にはないビート感とかパッションを期待しがちですが、ものの見事に当てが外れました。果たしてニューヨークの聴衆の本音はどうなのかと思います。

曲のあちらこちらには小曽根氏の即興演奏のようなものがカデンツァとして盛り込まれていましたが、前後の脈絡がなく、それなのに、すべては「台本」に入っていることのように感じます。しかもそれが何カ所にもあって、冗長で、ラプソディ・イン・ブルーとはかけ離れた時間になってしまったようで疑問でした。

ジャズピアニストの中にも本当に上手い人がいるのは事実で、小曽根氏の憧れとも聞くオスカー・ピーターソンなどは、それこそ信じられないような圧倒的な指さばきと安定感で、それが天性の音楽性と結びつくものだから聴く者を一気に音楽の世界に連れ去ってしまいます。
キース・ジャレットのバッハにも驚嘆したし、チック・コリアの演奏にも舌を巻きました。

せめてそういうジャズの魅力の香りぐらいはあってもいいのではないかと思うところですが、小曽根氏のピアノは、少なくともクラシックを弾く限りに於いてはむしろ活気がなく、個人的には退屈してしまいます。

それをまた「絶賛の嵐」というような最上級の賛辞で褒めまくりにされるのが今風です。
当節はその道のスペシャリストが高度な仕事をしても正統な評価はされず、人も集まらないので、主催者も話題性という観点からコラボなどに頼っているということなのか…。

ただアンコールになると、人を楽しませる術を知っている人だということはわかりますし、本人も俄然本領発揮という趣でした。そういう意味ではなるほどエンターテイナーなのかもしれませんが、クラシックは伝統的に演奏そのものが勝負という一面がどうしてもあるので、その点ではいかにも苦しげに見えてしまいます。

コンサートって、やはりいろんな意味で難しいもののようですね。
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本来の作法

モーストリー・クラシックの6月号をパラパラやっていると、へぇという記事に目が止まりました。

2006年、ベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲をライブで収録した後、ピアニストとしての活動休止宣言をしていたプレトニョフが、モスクワ音楽院にあるシゲルカワイ(SK)-EXとの出会をきっかけに、再びピアノを弾く気になったというものです。

ロシアのピアニストで指揮者のミハイル・プレトニョフは、1978年のチャイコフスキーコンクールのピアノ部門で優勝、初来日公演にも行きましたが、そのテクニックは凄まじいばかりで、演奏内容もきわめて充実しており、ただただ驚嘆させられた記憶があります。

これは近い将来、間違いなく世界有数の第一級ピアニストの一人になるだろうと確信したほどです。ところが何年たっても期待ほどの活躍でもないように思っていたら、ロシアナショナルフィルを創設して、もっぱら指揮活動に打ち込むようになり、「ああ…そっちに行ったのか」と思っていました。

ピアニストとしてあれほどの天分を持ちながら、オーケストラを作って指揮に転ずるとは、ご当人はやり甲斐のあることをやっているのだとは思いつつ、ピアニストとしての活躍に期待していた側からすれば少々残念な気がしてたものです。

ところがそのプレトニョフ率いるロシアナショナルフィルは望外の演奏をやりだして、ドイツグラモフォンから次々にロシアもののCDがリリースされました。チャイコフスキーやラフマニノフのシンフォニーなど、かなりの数を購入した覚えがあります。
まったくピアノを弾いていないわけでもなかったようですが、オーケストラの責任者ともなればピアニストをやっている時間はないのだろうと思っていると、伝え聞くところでは、近年は自分が弾きたいと思うピアノ(楽器)がなくなってしまったことがピアニストとしての活動を減ずる大きな要因になっている旨の発言をしたようです。

その証拠に、2006年のベートーヴェンのピアノ協奏曲では、普段なかなか表舞台に登場することの少ないブリュートナーのコンサートグランドが使われています。聴いた感じでは、まあ楽器も演奏もそれなりという感じでしたが…。

プレトニョフがこの録音の後にピアニスト休止宣言をしたということは、ブリュートナーさえも彼の満足を得ることはできなかったということのようにも解釈できます。

そんなプレトニョフにSK-EXとの邂逅があり、昨年はそれが契機となってモスクワでリサイタルをやった由、よほどの惚れ込みようと思われます。その後はロシアナショナルフィルとの来日でカワイの竜洋工場を訪れ、そこでなんらかの約束ができたのかもしれません。

雑誌によれば今年5月には7年ぶりのアジアでのピアニスト再開ツアーを行う(すでに終了?)とのことで、カワイのサポートのもとにリサイタルやコンチェルトなどが予定されているということが記されていました。

マロニエ君はSK-EXによるコンサートは何度も聴いていますが、コンサートグランドとしては率直に云ってそれほどのピアノとも思っていませんが、それはそれとして、ピアニストが楽器にこだわるというのは非常に大切な事であるし、それが当たり前だと思います。
演奏家がこれだと思う楽器で演奏し、それを聴衆に聴かせるということは、少々大げさに云うなら演奏家たるものの「本来の作法」だとも思います。

例えばヴァイオリニストが身ひとつで移動して、各所で本番直前にはじめて触れるホール所有のヴァイオリンで演奏するなんて、そんな非常識はおよそ考えられませんが、ピアニストは実際にそれをやっているわけです。すべてはピアノの大きさに起因する物理的困難、さらにはそれが経済的困難へとつながり、多くのピアニストは理想の楽器で演奏することを断念させられ、楽器への愛情さえも稀薄になってしまっているように…。

でも、本来は人に聴かせるコンサートというものは、それぐらいの手間暇をかけるものであって欲しいと思います。
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怪しい楽譜

マロニエ君はろくに弾けもしないのに楽譜を買うのは嫌いではありません。
楽譜は一度買えば半永久的で、できるだけたくさんあるほうが何かと役立つし、曲を知るための大事な手がかりにもなります。
従って、音楽好きにとっては、楽譜の蔵書は大げさに云うと一種の財産だと思います。

ところが、ここ最近の印象では楽譜はけっこう高額で、以前のようにおいそれと買えるようなものではなくなってきているように感じますし、知人なども皆同意見で「高い」「高すぎる」という声がすぐに返ってきます。
国内出版社のものならまだ大したことはないものの、それでもウィーン原典版などはそれなりで、さらに輸入物となると、プライスを見ただけで買う気が萎えてしまうようなものが少なくありません。

多売が期待できるものではないから、高価になるのは仕方がないという需給バランスの結果だと云われればそれまでですが、ほんらい著作権などが切れた歴史上の作曲家の楽譜であるのに、薄いペラペラの楽譜がン千円などというのがザラで、あんまりな気がします(校訂者の版権などがどうなるのかは知りませんが)。
それでも、プロの演奏家であれば楽譜はいわば商売道具であり、高くても買わざるを得ないでしょうが、アマチュアには絶対必要という理由もなく、そもそもよけいなものを買っているので、値段で断念してしまうこともあるわけです。

そんなときこそ、ネットが強い味方になりそうなものですが、実は楽譜に関してはそれほどでもなく、他の商品のように安くゲットするのは容易ではないようです。アマゾンなどは海外から直接送られるケースもありますが、楽譜はここでもやはり高価で、ヘンレ版などはそれほどお買い得のようにも思えません。

さて、このところシューベルトのヴァイオリンとピアノのための幻想曲D.934の楽譜がほしくなり、ヤマハを覗いてみましたが、お値段以前にその曲そのものがありませんでした。
べつに目的があるでもなし、ただなんとなく欲しかっただけなので注文してまで買うほどの熱意もなく、値段もわからないので、いったんお店を引き上げました。

帰宅して、ものは試しとばかりにアマゾンで検索してみると、なんと送料込み1000円強という望外に安い輸入楽譜を発見!「さすがアマゾン!!」と感激してさっそく注文しました。

10日ほども経ったころでしょうか、ポストにそれらしきものが投下されており、勇んで中を開けてみました。
取り出した瞬間の第一印象が、なんとなく普通の印刷物ではないような気配を感じました。もちろん、いちおう厚紙のカラーの表紙があって、中の製本もきれいですが、醸し出すものが、なんとなく正統なものではない気配を感じたのです。

中を見てみると、白い紙の上の、音符や五線の黒だけがピカピカと妙な光沢を帯びており、これはコピーでは?とまっ先に思いました。
まあ、値段は安いし、安く買えたのだからいいか…と半ば納得しながら、さっそくピアノに向かってポロンポロンと試し弾きしていると、数ページ進んだところで「ええっ!?」という箇所に出くわしました。

なんと、あちらこちらに手書きの指使いがたくさん書き込まれていて、その書き込みまでコピーになっていますから、やはり初めの危惧は当たっていたと思いました。

封筒の発送元をみてみると、日本のアマゾンから発送されていることがわかり、もともと、どこからやってきたものなのかはわかりません。
でも裏表紙には尤もらしくバーコードも付いているし、「Printed in the USA」とあって、いちおうは流通する商品のような気配も窺えないでもない。

とかなんとかいってみても、要はただの楽譜なのでマロニエ君個人はべつに構いませんが、これはやはり本来はまずい商品なのではという疑念も消えたわけではありません。
ふとアマゾンに問い合わせをしてみようかとも思いましたが、それで回収などという流れになったら、それはそれでイヤなので、それもしませんでした。

でも、中には「本書は、著作権があり、許可なしに複製することはできない。 この本のための資料は、大英図書館から提供されている。」というような意味のことが英語で書かれていて、しかるに指使いの書き込みがあるなど、ますますその怪しい感じが強まりました。
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ご立派!

現在の日本では、もはや老大家の部類に入るであろうピアニストの著書を読了しました。

毎度のことで恐縮ですが、やはり今回も実名をわざわざ書こうとは思いませんので悪しからず。

マロニエ君は残念ながらピアニストとしてこの人の演奏が好きだったことはこれまで一度もないけれど、以前、この人のファンクラブのお世話役をされている方から、このピアニストが出した本をいただいて、せっかくなので読んでみたことがありました。

そのときの感想は、内容云々より、その自然な語り口というか、力まないきれいな日本語の文章で綴られているところが意外で、演奏よりそちらのほうがよほど好印象として残りました。

さて、今回の本は書店では目にしていたものの、まともに買って読む気はなかったところ、たまたまアマゾンで本の検索をするついでにこの人の名を入力してみると、あっさり中古本が出てきました。
価格もずいぶん安いので、ちょっと迷いつつも遊び半分に[1-clickで買う]を押してしまったのでした。

ほどなく、ほとんど新品のような本が届きました。

さっそくページを繰ってみると、ああこの人だと覚えのある文章でした。内容には感心がないのでさほど熱心に読む気にはなれなかったものの、別の本に飽きたときに、ちょっとこちらを開くという感じで、のろのろしたペースで流し読みのようなことをしていましたが、読み進むうちに、なんだかふしぎな違和感のような…なんともつかないものを感じ始めました。

文章そのものは相変わらずおだやかで、率直さと、いかにも文化人風の雄弁さがあるけれども、なにか根底のところに自分とは相容れないものがあり、それを意識しだすと、その違和感はしだいに確実なものとなりました。やがて本も佳境に入る頃には、もうそればかりが意識されます。

それをひとことで言うのは躊躇されますが、強いて云うと、その飄々とした自然な感じの文体が、まるで巧みなカモフラージュであるように、大半がご自分の自慢話に終始していることでした。
表向きは、ただ音楽が好きで、ピアノが好きで、美しい自然を愛し、名声や贅沢には興味もなく、常に自然体、心もすっかり脱力しているといわんばかりの語り調子に見えますが、その奥に確固とした野心の働きが見え隠れすることはかなり驚きでした。

やわらかな文章を思いつくままに綴っただけですよ…というその中に、狙い通りの裏模様を出す糸をそっと織り込むように、言いたいことはサラリと臆せず遠慮なく、しかも確実に語られていくのは呆気にとられました。
そんならそれで、こっちもその気構えをもって読むと、上辺のイメージと、巧みに隠されたマグマのような野心の対比は却って面白いぐらいでした。

人は歳をとれば丸くなるもの、俗な贅肉はそぎ落とされるものと思ったら大間違いで、慎みや遠慮や謙譲の心が失われているのは、なにも現代の若者だけではないことがわかります。むしろ今どきのスタミナのない若者なんぞ、とてもこのご老人には敵わないと思います。
それで思い出したのですが、この方の表面的なイメージからは俄には信じられないような噂を、これまでにもいくつか聞いたことがあり、そのときはへええと笑って過ごしましたが、今にして深く納得してしまいました。

誤解を恐れずに言うと、ピアニスト稼業なんてものは、それぐらいの図太さ逞しさがなくてはやっていけないものかもしれないとも思いました。
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ふたつのSTEIN

ほぼ同時期に買った2つのCDが期せずしてシューベルトのピアノ曲となり、驚くべきは「さすらい人」「3つのピアノ曲」など、収録時間にして全体の約半分が重複しており、この偶然にはびっくりでした。

そもそもマロニエ君は曲云々で選ぶというより、直感的に「聴きたいと思う決め手がある」かどうかが購入のポイントです。
その結果、思いがけない直接比較が出来ることと相成りました。

ひとつはフランス人のベルトラン・シャマユで、ピアノは2005年あたりに製造されたスタインウェイD-274を弾いたもの、もうひとつは先日も書いたロシア人のユーラ・マルグリスの演奏で、ピアノはバイロイトの名器、シュタイングレーバーの弱音器つきD-232です。

共通しているのは、両者共に男性の中堅ピアニストであり、ソナタ以外のシューベルトを演奏しているという点でしょうか。

弾く人によって、同じ曲でも大きく印象が異なることは当然ですが、ほぼ同時期購入という意味で、否応なく比較対象となってしまいました。

両者の演奏は、まず洗練と無骨という両極に分かれます。

【ベルトラン・シャマユ】
シューベルトの息づかいや心の揺れをセンシティヴに音にあらわし、泡立つような可憐な音粒で演奏。そこにある洗練は専らフランス的なセンスと明るさが支配して、ある意味ではショパンに近いようなスタイルを感じることもある。隅々まで細やかな歌心と配慮に満ちた神経に逆らわない演奏。
リストによるトランスクリプションでは折り重なる声部の歌いわけも見事。
大きすぎないアウディかレクサスでパリ市内を流してしているようで、目指すはオペラ座かルーブルか。

【ユーラ・マルグリス】
作曲者や作品の研究や考証というより、むしろ自分の意志やピアニズム表現のためにシューベルトの作品を使っているという印象。緩急強弱、アクセント、ルバートなど、いずれも、なぜそこでそうなるのか、しばしば意味不明な表現があり、恣意的な解釈を感じる。
ロシア的感性なのか、重々しい誇張の過ぎた朗読のようで、何かを伝えたいのだろうがそれが何であるかがよくわからない。
ベンツのゲレンデヴァーゲンで田舎へ出むき、何か専門的な調査しているかのよう。

ただし、ピアノという楽器の素朴な魅力に満ちているのはシュタイングレーバーで、スタインウェイは比較してみるとピアノというよりは、もう少し違う音響的な世界をもった楽器という印象をさらに強めました。

全体を壮麗な音響として変換してくるスタインウェイとは対照的に、シュタイングレーバーは聴く者の耳に、一音一音を打刻していくような明瞭さがあります。ハンマーが弦を打ってその振動が駒を伝わり響板に増幅されるという、一連の法則をその音から生々しく感じ取ることができるという点では、いかにもピアノを聴いているという素朴な喜びが感じられます。

むしろシュタイングレーバーにはピアノを必要以上に洗練させない野趣を残しているのかもしれません。良質の食材もアレンジが過ぎると素材の風味が失われるようなものでしょうか。
これに対して、スタインウェイははじめから素材の味を飛び越えて、別次元の音響世界を打ち立てることを目指し、それに成功した稀有なピアノという印象。

それはそうだとしても、このCDに使われた時期のスタインウェイには、もはやかつてのようなオーラはなく、不健康に痩せ細った音であることは隠しようもありません。公平なところ、このメーカーの凋落を感じないことはもはや不可避のように思われます。
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カテゴリー: CD | タグ:

ティル・フェルナー

ことしの2月、サントリーホールで行われたN響定期公演から、ネヴィル・マリナー指揮のモーツァルト・プロによる演奏会の模様が放送されました。

前後の交響曲の間に、ピアノ協奏曲第22番KV482が挟まれました。
ピアノはウィーンの新鋭(中堅?)、ティル・フェルナー。

この曲はマロニエ君がモーツァルトのピアノ協奏曲の中でもとくに好きな作品のひとつで、この時期はフィガロの作曲もしていたためか、どこかオペラ的でもあり、フィガロの折々の場面を連想させるような部分も個人的にはあると感じています。

ネヴィル・マリナーの指揮は、とくに深いものを感じさせるのではないけれども、音楽がいつも機嫌よく、流れるような美しさに彩られています。
なにかというと演奏様式だの解釈だのということが前に出てくる最近では、単純にこういう心地よい素直な演奏というのもたまにはいいなあと思いますし、理屈抜きにホッとさせられるものがあります。

そんなオーケストラと共演したティル・フェルナーですが、その見事な演奏には久しぶりに満足を覚えました。
気品があって、折り目正しく、それでいてちっとも教科書的な演奏ではない新鮮さに満ちていました。最近はただ弾くだけではダメだからといわんばかりに、なにやら無理に個性的な演奏や解釈を提示して、聴く者の印象に食い込もうとする人が少なくありませんが、フェルナーの演奏はまったくそういった邪念がなく、ひたすらモーツァルトの世界に敬意を表しながら自らの重要な役割を見事に果たしたという印象でした。

モーツァルト独特な、和声進行ひとつ、スケールひとつ、あるいはたった一音で、音楽の表情や方向がガラリと変わるような、単純なようで実は重要なポイントも、ごく自然で丁寧に表現してくれるので、なんの違和感もなしにモーツァルトの音楽に身を委ねることができました。

音の粒立ちもよく、ひとつひとつの音符が明瞭ながら、全体の流れもきちんと保持されている。よくよく検討され準備されていながら、あくまで自然で軽やかに聞こえなくてはならないという、このバランスこそモーツァルトの難しさのひとつとも云えるでしょう。
それを見事に両立させたフェルナーのピアノは稀有な存在だと思います。

アンコールでは一転してリストの巡礼の年から一曲を披露しましたが、こちらも非常に節度のある、美しい演奏でした。フェルナーについてはあれこれと聴いた経験はないし、おそらく何でも来い!というタイプではないと思いますが、まことに好感の持てる、素晴らしいピアニストであり音楽家だと深く感銘を受けました。
まだこういうピアニストが存在するというのは嬉しいことです。

ピアノはスタインウェイで、今やウィーンのピアニストが来日してモーツァルトを弾くというのに、それでもベーゼンドルファーのお呼びはかからないのかと思うと、これも時代かと考えさせられました。

そのスタインウェイは、まさにこの一曲のために調整されたといわんばかりのソフトに徹した音造りのされたもので、ときにちょっとやり過ぎでは?と思えるほどのほんわかしたピアノでした。
深読みすれば、サントリーホールも新しいスタインウェイが納入されているようなので、第一線を退いたピアノには調整の自由度がぐっと広がったということかも…と思ってしまいました。
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弱音器

ユーラ・マルグリスによるシューベルトのCDを聴きました。

マルグリスは親子数代わたるピアニスト/音楽家で、派手な人ではないけれど、自分なりの道を行く人だという印象です。
楽器としてのピアノにも興味やこだわりがあるのか、ホロヴィッツのピアノを使ったライブCDもあるようですが、これは残念ながらまだ入手できていません。
ただこの人、どちらかというとマロニエ君の好みのタイプではありません。

そしてこのシューベルトのアルバムは、マルグリスの演奏ではなく、そこで使われるピアノに興味がわいて購入したものです。
CDの説明によると、歴史的楽器を使う予定だったが求める響きが得られず、現代の楽器に「当時の楽器の特徴である弱音器を組み込んで」の演奏であることが記されており、さらに「試行錯誤の結果生まれた独自の響き」とあり、いったいどんなものか聴かずにはいられなくなりました。

帰宅して中を開けてみたところ、それはシュタイングレーバーの協力を得て作られたCDであることが判明、録音も同社の室内楽ホールというところで行われたようです。
ピアノはD-232というわりと近年に出たモデルで、それ以前にあった225とかいうモデルの後継機かと思われます。

カバー写真には、さりげなくこのピアノの秘密が写されています。
ハンマーの打弦点に接近したところへ幅にして数センチの赤いフェルトが帯状に仕組まれ、おそらくはペダルを踏むと、この薄いフェルトの帯が弦とハンマーの間に介入してソフトな音色を生み出すのだろうと思われます。
だとすれば、これはアップライトの真ん中の弱音ペダルと同じ理屈のようにも思えますが、写真で見るフェルトはごく薄いもののようで、その目的があくまで「音の変化」にあることが推察できます。

さてその音はというと、耳慣れないためかもしれませんが、このペダルを使ったときの音とそれ以外の音との対比が極端で、一台のピアノとしてのまとまりという点で個人的にはやや疑問が残りました。
弱音器を使ったと思われる音はウルトラソフトとでも表したい、きわめて美しいまろやかなものでした。ただその変化に気持ちがついていけず、これを耳が受容するにはもう少し時間がかかるのか…ともかく現在はむしろバラバラな感じに聞こえてしまうというのが率直なところです。

ちなみに最近のシュタイングレーバーの「CD」から共通して聞こえてくるのは、フォルテ以上になるとエッジが立って少し音があばれるような印象があるためか、よけい弱音器使用時とのコントラストが際立って感じられてしまうのかもしれません。

個人的にはもう少し抑制の利いていた以前の音のほうが濃密な感じで好ましかったように思いますが、シュタイングレーバー社で録音された演奏であることから、これが現在の同社が考える最良の音のひとつ、もしくはこのメーカーが是としている音の方向性であると解釈していいのかもしれません。

ここで使われた「弱音器」と同類のペダルといえば、ファツィオリの大型モデルには4番目のペダルとして打弦距離を変化させる機構があるようです。これも弱音域の手数を増やして、より多様な表現を可能にすべく開発されたものでしょうから、それぞれ方法は違いますが、そのチャレンジ精神には敬服させられます。
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カテゴリー: CD | タグ:

いったい何者?

先週末のこと、天神の大型書店でまたしても思いがけない光景を目の当たりにすることになり、どうもこの書店はいろいろあるようです。

ここは市内でも最も品揃えの充実した書店で、音楽や美術の関連書籍は4階にあり、音楽に関してもヤマハや島村楽器などを凌ぐ量のさまざまな書籍が揃っています。
1階の喧噪がウソのように芸術関連の書棚周辺はいつ行っても人は少なく、このときも週末でしたが、人影もまばらでほとんどマロニエ君一人のような状態がしばらく続きました。

そこへ長身でスラリとした30代ぐらいの女性が靴音をコツコツいわせながら、決然とした足取りでやってきて、なんの迷いもなくすぐ後ろの書棚の前でしきりにあれこれの本を手に取り始めました。
そこはバレエを中心とするダンス関連の本が並んでいるところです。

すると背後から、ガサゴソパラパラという尋常ならざる音がひっきりなしに伝わってきて、それが静かな売り場ではえらく耳について、なんだか嫌な気配を感じました。

ただ本を見るのに、この異様な空気感はなんなのだろうと思い、ときどきふりかえってそちらを見ると、その女性はいやにツンとした感じが全身に漲っており、なにか目的があるのか、手当たり次第に商品の本を荒っぽく手にとってはパラパラとものすごい勢いでページをめくっています。
それがずっと繰り返され、本を棚に戻す際にも、あまりの勢いで本が書棚にぶつかる音まで発しており、まあ上手く表現できませんが、ともかくけたたましい本の取扱いで、マロニエ君はとくに本を乱雑に扱うというのが体質的に嫌なので、たちまち不愉快になってしまいました。

ま、世の中にはいろんな人がいるのだからと自分を説き伏せて、気にかけないように努めてみますが、すぐ後ろではあるし一向に収まる気配がないので気になって仕方がありません。ひっきりなしにガサゴソ、パラパラ、ドン、バサッという音が背後から聞こえてきます。

さらに信じられないことが起こります。
ピーッ、シャラシャラという音がはじまり、思わず振り返ると、なんと1冊ごとにセロファンに包まれた本を、なんの躊躇もなくひき破って中の本を取り出し、同じ調子でパラパラみては、ポンと激しく棚に戻し、それが何冊か続きました。

さすがにこれはひどい!と思い、あからさまにその女性を非難の目で見てしまいました。
マロニエ君との距離は1mもないのですが、こちらの眼差しなどなんのその、その女性はまったく意に介することなくこの行為を止めようとはしません。
この行為はいくらなんでもと思ったので、言葉で注意しようかと決断を整えようとしていたまさにその瞬間、なんとそこにエプロンをした店員が通りかかり、この女性の様子に不信感をもったようでした。

すぐにセロファン入りの本を何冊も開けていることがわかり、その女性へ静かな調子で「お客様、無断でセロファンを開けられては困るんですが…」と言いましたが、まず、その女性はまったくこれを無視しました。
店員もこれはただ者ではないと直感したようで、再度「これらの本は出版社より指示がありまして、開封されると困るんです…」と言いますが、その店員と女性の顔は30cmぐらいまで近づいていますが、女性はまったく店員の顔を見ようともせず、目線も動かさず、声もまったく発しません。

唯一の変化は、手先の動きだけが完全に止まったことです。
店員はその後も一二度声をかけましたが、まったく返事はないばかりか完全な無視で、ほんのわずかでも店員のほうに顔を向けることはせず、ただならぬ意地の強さが現れているようでした。店員はこの女性との会話は諦めたのか、あたりに散らばったセロファンの屑を掻き集めながら、電話でだれかと連絡を取り始めました。

それを機に女性はまたあれこれの本を見始めましたが、店員から発見される前と違って、あきらかに直前までの勢いは失っていました。それでも「私はまったく動じていない!」という必死のポーズをとりながら、少しずつこの場を離れて行きましたが、それでもしばらくは5mぐらい先でまだ本を見ているフリをしていたので、相当に歪な負けん気があるのでしょう。

ああいう人は、本に限らず、お店の商品に損傷を与えたりということをあちこちでやっているんだろうと思います。ふう…。
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暇つぶし

日曜に出かけて買い物をしていると、携帯に懐かしい方から電話がありました。

かつてマロニエ君宅のピアノの主治医だった方ですが、ここに書いても意味のないような込み入った事情があって(むろんトラブル等があったわけではなく)、現在はその方に調律などはお願いしていない状態です。

それでも、ちょこちょこと交流は途絶えることはなかったものの、さすがにこの数ヶ月はご無沙汰状態が続いていたところでした。

電話に出るなり、「ハハハ、ちょっとヒマなので失礼かと思いましたが電話しました。」と云われました。マロニエ君としては、むろんお話ししたかったのですが、なにぶん出先で買い物の真っ最中とあってどうしようもなく、あとからまた電話する旨をお伝えしていったん電話を切りました。

帰宅後にかけ直すと、近くまで来られていて時間があったのでコーヒーでもと思ってお電話されたそうでしたが、今からあるホールの仕事に行かなくてはいけないとのことでしたので、しばらく電話でおしゃべりし、お茶はまた次回ということになりました。

特段の用があるわけでもなく(しかも現在は調律をお願いしていないのに)、気軽にこういうお電話をいただくのはマロニエ君としてはとても嬉しいことです。というか、むしろ用のないときに連絡をいただけることのほうが気持ちの上では遥かに嬉しいものです。

ピアノというのは、同業者を別にするなら、それなりの話の通じる相手というのはなかなかいないので、その点でマロニエ君は珍しい存在なのかもしれません。
…いやいや、この方はホールやコンサートの第一線でお仕事される方なので、マロニエ君ごときシロウトが「話が通じる」などと云っては申し訳ないでしょう。ここで云うのは深い意味ではなく、ただ純粋にピアノの話ができる(あるいは興味を持って聞きたがる)相手というほどの意味合いです。

ピアノの世界は非常に奥が深く、かつ専門領域なので、普通の人は興味もないし、話をしても理解できないので、潜在的に話のわかる人を渇望しているという部分はあるように感じます。その点、同業者ならそんなことはないでしょうが、そういう交流があるのかと思いきや、意外にそうでもないようです。

ピアノに限ったことではないかもしれませんが、業界人同士というのはともすればライバル関係でもあり、とりわけ技術者にはプライドや競争心もあるでしょう。各人で仕事への考え方やスタンス、価値観も違ったりすると、これはこれでいろいろとややこしい問題を孕んでいるとも云えます。

そもそもピアノ技術者というのは、他者と共同でする仕事でもなければ、仲間の連帯がものをいう世界でもなく、基本的に一匹狼的な要素が他より強い仕事なのかもしれません。
また、仕事にはお得意さんやテリトリー、販売店などの絡みもあって、かなり閉鎖的で気を遣う世界でもあるようです。ちょっとしたことが思わぬウワサや不利益に繋がるということも珍しくないでしょうし、そういう意味ではピアノの技術者さんというのは、常に心のどこかに用心深さがあることが職業病のようになっていることをときおり感じます。

その点で云うと、マロニエ君は同業者でもなく、当然どこにも利害関係のない人間で、しかもピアノは大好きとなれば、暇つぶしには最適なのかもしれません。
ついでにいうと、マロニエ君の興味の対象はクラシック音楽からピアニスト、そして下手なりに弾くこと、さらには楽器としてのピアノというものにも及んでいるので、これでも、専門家が却ってご存じないようなくだらないことを知っていることもあり、まあそれなりに話し相手にはなるのかもしれません。

そういう意味でも、もともとはこの「ぴあのピア」がプロとアマチュアの垣根を超えた「広義のピアノクラブ」になれたらと思っているのですが、気持ちばかりでなかなか手をつけられない状態が続いているのは申し訳ないことです。
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自由な気分

マロニエ君はとくに相撲ファンというものではありませんが、祖父が大変な相撲好きであったためか、なんとなく場所がはじまるとダイジェスト的な番組は見るような習慣がありました。

決して熱心というわけではなく、主だった力士の顔と名前は覚える程度で、なんとなく中入後の大まかな行方や、今場所の優勝争いは誰と誰ぐらいは掴んでいるというのが普通でした。

ところが、今場所はまったくといっていいほど大相撲からは距離をおいていて、意志的に見ないことにしています。
これは先場所が終わった直後から決めていました。理由は今場所から横綱が3人になり、そのうちの2人がマロニエ君の嫌いな力士で、ほとほとイヤになったという至極単純なものです。

横綱というのは大相撲の顔であり象徴でもあるので、そこに居並ぶ顔はイメージの上でも非常に重要だと思っています。
これがもし、筋金入りの相撲ファンなどであれば、そういう個々の好き嫌いは超越して相撲そのものをウォッチするのでしょうが、その点で普通の人間は、もともと大した関心事でもないだけに、ちょっとしたことでひょいと背を向けてしまいます。

「ファンというものは無責任で、その心は移ろいやすいもの」といいますが、ファンではないけれどまさにそれです。これが野球やサッカーならコアなファンも多く、彼らがしっかりと支えていくのかもしれませんが、大相撲の場合「なんとなく見てるだけ」という程度の人が実際には多いのではないかと思います。


ちなみに、むかしは横綱昇進には強さと成績が問われることはむろんとしても、ただ白星の数だけ積み上げればいいというわけではないグレーゾーンもあって、そこは横綱審議委員の裁量などが大きく働いたようです。しかし今の時代はそれを許さず、横審の旦那衆的な意向を中心に事が左右されることはないようです。より明確で平等な基準がもとめられ、昇進の条件もよりシステマティックになったように感じます。

いい例が、ちょっと大関が優勝でもすると、NHKはすかさず次の場所は「綱取り!綱取り!」とうるさいほど言い立てるし、今では二場所連続優勝もしくはそれに準ずる成績であれば、ほぼ間違いなく横綱になるようです。

星勘定による成績至上主義というべきで、白星の数がすべてのようです。
しかし、マロニエ君は個人的には相撲は勝負であると同時に娯楽であり興行であり、そこには歌舞伎などに通じる享楽性がなくてはならないと思います。茶屋があって贔屓筋があり、きれいな髷を結い、常に掃き清められる美しい土俵、華麗な行司の装束を見ただけでもそれは察せられます。むろん八百長はいただけませんが。

だから、嫌いな役者の芝居を見たくないように、今は見たくないという気分なのかもしれませんが、正確なところは自分でもよくわかりません。

もし大相撲を純粋のスポーツであり格闘技としてみるなら、力士は総当たり制の勝負に出るべきで、同部屋同士の対決がないというのも理を通せば納得がいきません。

相撲には神道の要素やエンターテイメントの要素も色濃く、それでいて真剣勝負でもあり、それを確たる言葉で表現するのは甚だ困難なものがあることは、日本に生まれ育った者なら自然にわかることです。

大江健三郎氏ではありませんが、あいまいな日本のあいまいさが絶妙の世界を作り出し、長きにわたって継承されてきた部分が大きいとも思いますが、そういうものは現代の価値基準に合わなくなってきているのでしょう。
現代の尺度で分類すれば、所詮はスポーツなのであり、格闘技なので、その勝敗がものを云うのは致し方のないことだと理屈では思います。

それはそうだとしても、人の気持ちばかりはどうにもなりません。
イヤなものはイヤなのであって、それを押してまで見る気にはなれないのです。
今日は今場所の中日ですが、力士の成績がどうなのかもまったく知りませんが、不思議にとても自由な気分です。
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最良の嫁ぎ先

10年ぐらい前だったか、友人が当時幼稚園ぐらいの子どものためにピアノを買いたいということで、ヤマハの小型アップライトを知り合いのピアノ店を通じてお世話したことがありました。

ところが、その子があまりピアノを弾くこともないまま月日は流れて、今年は高校に通う歳となり、もう要らないから手放したいということになりました。
マロニエ君としても購入時にお世話した経緯もあったので購入した店にその意向を伝えてみたものの、買い取り価格は相当安いものでしかなく、それならばということで欲しい人を当たってみることになりました。

その友人宅は遠方ということもあり、その後そのピアノがどういう使われ方をしたかは知りませんでしたし、たしか小型の木目ピアノだったことを覚えているぐらいでした。

手放すことになってから、そのピアノの写真が送られてきたのですが、そこに写っているのは、ザウターなどにありそうな明るい木目の、小さくてなんとも愛らしい素敵な姿でした。
高さも最小限で、デザインもシンプルで明快、良い意味で日本のピアノ臭さがない、いかにも垢抜けた感じ。インテリアとしてもまことに好ましく、見るなりその魅力的な姿に引き込まれてしまいました。

もちろん、買ってくれそうな相手がいればお世話はするとして、こんな可愛いピアノなら、音は二の次で自分で欲しいなぁ…などといけない思いがふつふつと湧き上がりました。それからというもの、ずいぶん空想を巡らせましたが、結局どこをどう考えてもマロニエ君宅にこのピアノをそれらしく置く場所はないことを悟ります。

物理的にどうにか置けたにしても、やはりピアノは弾かれることが前提ですから、ただ物置のようなところに放り込むわけにもいきません。ピアノにはピアノに相応しい、それなりのしつらえというものが必要ですが、それは現状では無理でした。
まあ下手に置き場所があってはろくなことになりませんので、これは幸いだったと見るべきかもしれません。

そんな折、ピアノが好きなある友人と電話でしゃべっていて、ついこのピアノの話になりました。マロニエ君はただの雑談のつもりでしたが、電話の向こうの相手は、たちまちこの話に乗ってきたのは思いがけないことでした。
その人はすでに好ましいグランドを持っており、距離も遠いので、まったく対象外だったのですが、マロニエ君にも変な気持ちが起こったように、本当にピアノが好きな人は、要らなくても欲しいという気持ちが湧き上がるのも自然な心情でしょう。マニアというものは、無駄なもの、不必要なものに、ナンセンスな情熱を傾けて喜ぶ種族のことでもありますから、これはちっとも不思議ではないのです。
ならばというわけで写真を送ると、その気持ちにはいよいよ拍車がかかり、「ぜひ欲しい」「買う」「決定」というところまでいきました。

しかし、翌日になって自宅の置き場所を検討した結果、どうしても床暖房の上にしか該当するスペースがないことが判明したらしく、床暖房はピアノの大敵でもあり、この一点で諦めることになりました。

これがバイオリンやフルートなら、置き場所の苦労はありません。この点がいかに小型アップライトとはいってもピアノという楽器の生まれもつ不自由さだと思います。

その後、このピアノはこれからピアノをはじめるかわいい姉弟のもとへ嫁ぐことになりました。
まあ、冷静に考えれば、マニアからペット飼いされるより、それが一番良かったと思います。
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古びた新しさ

マリア・ジョアン・ピリスはとくに好きでも嫌いでもないピアニストですが、個人的には、どちらかと云えば積極的に聴きたくなるタイプではないというのが偽らざるところでしょうか。

すでにピリスも70歳を目前にした最円熟期にあるようですが、マロニエ君はこの人をはじめて知ったのは、高校生の頃、日本で録音したモーツァルトのソナタ全集を出したときからで、そのLPレコードは今も揃いで持っています。

DENONの最新技術によりイイノホールで録音されたのが1974年で、たぶんこれを初めて聴いたのはその2、3年後のことだろうと思いますが子供でしたし、正確なことは覚えていません。それまでのモーツァルトといえば、ギーゼキングを別格とするなら、当時の現役では圧倒的にヘブラーで、それにリリー・クラウスだったように思いますが、とりわけヘブラーのモーツァルトはこの時期の正統派と目された中心的存在でした。

ウィーン仕込みの典雅で節度ある、いかにも女流らしいスタイルで、わかりやすい型のようなものがあり、モーツァルトはかくあるべしといった自信と格式にあふれていました。
そんな時代に登場してきたピリスのモーツァルトは、それまでの既成概念というか、モーツァルトを演奏するにあたっての慣習のようなものを取り払ったストレートで清純な表現で、これがとても新鮮な魅力にあふれていて忽ちファンになったものでした。

LPレコードのジャケットには、一枚ごとに録音時に撮られたピリスの写真が多数ありましたが、それまでの女性が演奏するレコードのジャケットといえば、ロングドレスなどフォーマル系の衣装であるのが半ば常識だったところへ、ピリスはまるで普段着のようなセーターにジーンズ、ペダルを踏む足はスニーカーといったカジュアルな服装であることも強いインパクトがありました。
さらにはこのときおよそ30歳だったピリスは、まるでサガンか、あるいはその小説に出てくるような多感で聡明そうなボーイッシュなイメージで、なにもかもが新時代の到来を感じさせるものでした。

その演奏は因習めいたものや権威主義的なところから解放された、専ら瑞々しいセンスによって自分の感性の命ずるまま恐れなくモーツァルトに身を投げ出しているように感じたものです。
その後、ピリスは着々と頭角をあらわし、ドイツグラモフォンと契約をして90年代に再びモーツァルトのソナタ全曲録音に挑みますが、マロニエ君はなんとなく瑞々しさの勝った初期の全集のほうが好みでした。

とはいその初期の全集も、もうずいぶん長い間聴いていなかったので、CD化されたBoxセットを手に入れ、実に数十年ぶりに若いピリスが日本で録音したモーツァルトを耳にしました。ところがそこに聞こえてくる演奏は、記憶された印象とは少なくない乖離があったことに予想外のショックを覚えました。

当時あれほど清新な印象で聴く者をひきつけた若いピリスでしたが、そのモーツァルトには意外な固さがあり、アーティキュレーションも古臭く聞こえてしまいました。
全体がベタッとした均一な印象で、モーツァルトの悲喜こもごもの要素が滲み出てくる感じが薄く、あれこれの旋律が聴く者に向かって歌いかけてくるとか、弾力にあふれたリズムが表情のように思えるような要素が少なく、一種のそっけなさを感じてしまいました。
モーツァルトは、できるだけ彼に寄り添って演奏しないと微笑んでくれないようで、作品そのものが寂しがり屋のようです。

考えてみれば、この数十年というもの、古典派の音楽はピリオド楽器と奏法の台頭によって、その演奏様式までずいぶん変化の波が押し寄せたわけで、それはモダン楽器の演奏にも少なくない影響があり、聴く側にも尺度の修正が求められたようにも思います。

新しさというものは、普遍的な価値を獲得して生き延びるか、さもなくば時代の変化によって、古いファッションみたいな位置付けになってしまうことがあるということかもしれません。
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カテゴリー: CD | タグ:

量産品

このところ立て続けに真新しいスタインウェイによるコンサートの様子をテレビで見ました。

ひとつは京都市交響楽団の定期公演から、ニコライ・ルガンスキーによるラフマニノフの2番、もうひとつは北海道北見市公開収録による、宮田大チェロ・リサイタルで、ピアノはフランスのジュリアン・ジェルネ。

いずれも、今流行の巨大ダブルキャスターを装備した、ピッカピカのスタインウェイですが、京都と北海道と場所もホールも、ピアノもピアニストも、録音も違うし、なにより協奏曲とチェロとのデュオという編成もまったく異なるという、むしろ共通項を見出すことのほうが難しい2つでした。

マロニエ君の持論ですが、実演主義の方からは叱られそうですが、どんなに条件が異なっても、楽器や演奏家の本質は、意外にも機械はよく捉えている場合が珍しくなく、そこで抱いた印象は実演に接してもほとんど変わらないという自分なりの経験があります。
もちろん大雑把なものではありますが、でも、これを修正しなくてはいけないような事例がほとんどないのも正直なところです。

さて、この二つのコンサートで使われたスタインウェイは、その本質において、マロニエ君の耳にはほとんど同じという印象でした。それだけ近年は製品のばらつきも極力抑えられ、それだけ意図した通りの均等な製品が着々と生み出されているということでもあり、これは同時に欠点さえも見事なまでに共通しているように思いました。

まず往年のスタインウェイ固有のカリスマ性はもはや無く、ピアノとしてのオーラとパワーはかなり薄められ、コンパクトになったピアノという印象。
まるでかつての大女優が、普通の美人になった感じでしょうか。
スタインウェイとしての名残はあるとしても、音の美しさも表面的で機械的。だんだんに無個性な、日本製ピアノともかなり似通った性格のピアノになっていると思います。

とりわけハンブルク製にもアラスカスプルースが使われるようになってからは、音に輝きとコクがなくなり、深い響きや透明感、音と音が重なってくるときの立体的な迫真性みたいなものが、もうほとんど感じられません。
昔のスタインウェイはたとえ拙い演奏でも、どこか刃物にでも触るような興奮と、底知れないポテンシャルに畏れさえ感じたものですが、その点では普通の優秀なピアノに過ぎなくなった気がします。

コンチェルトなどでオーケストラのトゥッティの中から突き抜けて聞こえてくるスタインウェイの逞しさと美しさが合体したあのサウンドは、すっかり痩せ細ってもどかしさすら覚えます。
ラフマニノフの第二楽章のカデンツァでは、最も低いH音から上昇する属七のアルペジョがありますが、昔のスタインウェイはここで鐘が鳴るようなとてつもない音を出したものですが、今回のピアノはゴン…という普通のピアノの音でしかなく、あまりのことに悲しくなりました。
チェロとのデュオでは、マイクが近かったせいもあって、よりダイレクトな音が聞かれましたが、深みのないブリリアント系の音色が耳障りであったこともあり、一緒に見ていた家人はこのピアノは○○○?と日本製のメーカーの名前をつぶやきました。

最近のスタインウェイはたまに実物に接しても、仕上がりの完璧な美しさには驚かされます。でもそれは、職人の丹精が作り出した美しさではなく、無機質で機械的なものです。その音と同様に工業製品としての生まれであることを感じてしまうのは寂しさを感じてしまいます。

ここまで書いたところで、さらにブフビンダーがN響と共演したモーツァルトの20番を聴きましたが、またまた同じ印象で、立て続けに3度驚くことになりました。会場はサントリーホールですが、ここも新しいピアノに変わっており、モーツァルトであるにもかかわらず、ピアノが鳴らず、まるで蓋を閉めて弾いているみたいでした。
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ムラロと偉丈夫

今年の1月にトッパンホールで行われたロジェ・ムラロによる、ラヴェルのピアノ作品全曲演奏会の中から、クープランの墓、夜のガスパールなどがクラシック倶楽部で放映されました。

先に書いた「まるでスポーツ」はこれがきっかけとなった文章でした。

ムラロ氏は演奏に先立って、インタビューでラヴェルには音の明晰さが必要だと語っていましたが、その演奏を聴いてみて、彼の云う明晰と、聴く側がその演奏から感じる明晰との間には、いささか隔たりがあるように感じました。

全体にシャープさがなくもっさりしていて、ラヴェルに不可欠と思えるクールさとか、ガラスの光を眺めるような趣は、マロニエ君にはまったく感じられませんでした。というか、そもそもこのムラロ氏がフランス人であるというのも、どこか納得できないような田園風の雰囲気であり、その演奏でしたので、セヴラックならともかくラヴェルはちょっと…という感じです。

少なくとも、まったくマロニエ君のセンスとは相容れないラヴェルで、感性が合わないと1時間弱の番組を見るだけでもそれなりに忍耐になります。実際のコンサートはというと午後3時から6時45分終了予定とあり、うひゃあ!という感じです。

プロフィールでは『パリでのメシアン《幼な子イエスにそそぐ20の眼差し》を演奏の際に作曲家本人から激賞され、メシアン作品演奏の第一人者として認められた。』とあり、日本でも同曲の全曲演奏会をおこなったとありますが…ちょっとイメージできません。
テクニックにおいても、岩場のような堅牢さはあるけれど、音楽表現のためのあらゆるテクニックが準備されている人とは、このときは到底感じられませんでした。
聴いた限りでは「明晰さ」よりはむしろ「鈍さ」を感じる演奏だったというのが率直なところ。

ミスタッチも多く、べつにミスタッチをどうこういうつもりはないのですが、それは純然たるミスというより、あきらかな準備不足からくるものであると感じられ、やはり全曲演奏などろくなことがないと思ってしまうのです。

ところで、その明晰さにも繋がることですが、ムラロはコンサートグランドがひとまわり小さく見えるような偉丈夫で、長身かつそのガッシリした骨格は、まるでアメリカあたりの消防隊長のようで、ピアニストにはいささか過剰なもののように感じました。
こういう体格の人に共通するのは、そのビッグサイズの身体を少々持て余し気味なのか、背中を大きく曲げ、いつも遠慮がちで、その表現やタッチは抑制方向にばかり注意が向いているような、ある種のもどかしさみたいなものが演奏全般を覆ってしまいます。

その抑制が災いしてか、ピアノの音もどこか張りや緊迫がなく、モッサリした感じになってしまうのは彼ひとりではないように思いました。
偉丈夫のピアニストとして最も有名なのはかのラフマニノフでしょうが、まあ彼は別として、クライバーン、ブレンデル、現役ピアニストで頭に浮かぶのは、ルサージュ、ベレゾフスキー、パイク、リシェツキなどですが、やはりいずれも音楽が大味です。音にも鮮烈さや色彩感が乏しく、もっぱら強弱のコントロールと矮小化された解釈、それを骨格だけで演奏しているように感じてしまいます。

変な言い方をすると、その大柄な体格でピアノが制圧されているかのようです。
私見ながら、ピアノに限っては、ほんのわずかにピアノのほうが勝っていて、それをピアニストがなんとか克服しようとする関係性であるほうが、結果として魅力的な演奏になるような気がします。
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新たな一面

ゴールデンウィークは多くの方が旅行などに行かれるのでしょうが、マロニエ君の連休はいつもながら至って平凡なものでした。

普段できない掃除やらなにやら、とりとめのないことを少しずつでもやっていくのも、地味ではありますが、それはそれで結構たのしかったするものです。

マロニエ君の自宅は福岡市の動植物園の近くなのですが、こどもの日を含む連休中には無料開放日などもあって、折りよく天候にも恵まれ、大変な人出で賑わいました。
自分がどこへもいかずとも、近所がそんな人出で盛り上がっていると、なんだかそれだけで満腹してしまって、何かに参加したかのような錯覚に陥るようです。

現在福岡市の動物園では、随時リニューアルが進められているうえ、民間企業にお勤めだった方がイベントの企画を手がけておられる由で、次々に新しい魅力的な催しが打ち出され、以前にはなかったような活況を呈しているようです。

ちょうどそんな中、午後から数名のお客さんがあるので近くにケーキでも買いに行こうとしましたが、通りに出ると大変な渋滞で、往復にも普段より時間がかかりました。駐車場はどこも満車で、みなさん車が置けずに焦っておられて、なかなか関係ない車でさえ通してくれなかったりで大変でした。


お客さんというのは、マロニエ君宅の古いカワイのGS-50というグランドを、ちょっとしたきっかけでコンサートチューナーの方に10時間近く調整していただいたところ、想像以上の結果が出たのでその試弾にピアノの知人が来てくれたのでした。

このカワイのGS-50は製造後、既に30年近くが経過しており、それほど酷使しているわけではないのでなんとか今でも使える状態ではありますが、本当なら弦やハンマーなどの消耗品はそろそろ取り替えた方が望ましいことはむろん認識しています。
そんなピアノですから、いまさらあれこれと手を加える価値があるのかといえば甚だ疑問ではありましたが、ある技術者の方との出会いがあって、差し当たりこのピアノをやっていただくことになったものです。

いまさらですが、技術者の中にもいろいろなタイプの方がおられます。
特定のピアノだけを手がけるスペシャリストの方、どんなピアノでも獣医のようにやさしく面倒を見る方、ステージ上の音造りにこだわりを持つ方、むやみにお金をかけずに最良の妥協点を探る方、タッチや音色のためにはあらゆる創意工夫を試みる方、満遍なくバランスを取ることを最良とする方、基本に忠実できっちり定規で測ったような調律をされる方、儲けは二の次でとにかく自分が納得できる仕事を旨とする方、料金が第一でやったことすべてを有料の仕事に換算する方、入手できない部品は作ってでも正しく根本から再生する方、調律師という名の通り調律以外は何一つされない方など、まさに千差万別だと思います。

この方は、他県で多くのホールのピアノの管理をしておられるだけあって、ピアノを「改造」するというようなことは(条件的に許されないからか)されずに、あくまで目の前の状況の中から最良の状態を引き出すというところに猛烈な拘りと情熱を持っておられます。

というわけで、ピアノの状態としては「現状」を変えずに、こつこつと小さな調整の見直しやセッティングの再構築などの微細な作業の積み重ねによって、そのピアノの最良の面を探し出し、それがときには新しい命を吹き込むことにもなるようです。
さて「新しい命」とまでは云いませんが、我がカワイも、記憶にある限りでの最良の状態を与えられて、このピアノにこんな一面があったのかというような素敵なピアノになりました。

一番の特徴は、まずとてものびやかで健康的になり、ひとまわりパワーが増したことと、併せて落ち着きまで出たことです。音には上品さが備わり、キンキン鳴る反対の、馥郁とした響きの中にしっとりした音の芯があり、やわらかさの中からメロディラインが明瞭に出るピアノになりました。
また、パワーが増したのに、繊細さの表現もより自在になっているのは望外のことでした。要は表現の幅が強弱両側に広がったと考えれば納得がいく気がします。

自分で弾いてもこれらのことは感じていましたが、ピアノは他の人に弾いてもらうことにより、より客観的に聴くことができるものです。
もともとが大したピアノではないという諦めがあるだけに、よくぞこのピアノをここまで復活させてくれたもんだと感心させられました。とくにコンサートの仕事をしておられるせいか、整音と調律はコンサートピアノのそれに通じるテイストがあって、しっとりした落ち着きと華やかさが同居し、全体の構成感みたいなものがうまくバランスしているのは感心させられました。

「ピアノはおもしろい」といまさらのように思いました。
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まるでスポーツ

最近は、何かというと全曲演奏会の類が大流行のようで、音楽や演奏の妙を味わうというより、演奏家の技量と記憶力を誇示するための耐久レース的な趣になり、こういう流れは個人的にあまり歓迎していません。

誤解なきように云っておきたいのは、しっかりと準備され、長期間をかけて行われる全曲演奏は壮大な目的をもったプロジェクトであり、その意義深さは理解できるのですが、ここで云いたいのは一夜で何々の全曲とか、あるいは数日間で怒濤のごとく行われる、これでもかという不可能への挑戦状を叩きつけるような演奏会のことです。

日本人の演奏家もこの手の体力自慢的コンサートに挑戦する人が後を絶たず、まるで、それができないようでは一流演奏家ではないといわんばかりの空気が漂っているのでしょうか。本人が話題作りをしたいのか、嫌でもやらなくちゃいけないご時世なのか、主催者が苛酷な要求をしているのか、そうでもしないとお客さんが来ないのか…。
真相は知りませんが、ずいぶんおかしなことになってきたなあ…というのが率直なところです。

演奏家もこういうことで能力自慢して、売名に役立てているのでしょう。

ステージ演奏家にある種のタフネスが必要なことは当然としても、そればかりがあまりに前面に出て、コンサートが記録挑戦を観戦するイベントのような要素を帯びてしまっています。演奏する側はもちろん、聴衆にとっても、まるで忍耐と達成感など、いわゆる音楽を聴く喜びとは似て非なるものに支配されていやしないかと思われます。

クラシックの作品を弾き、コンサートという体裁をとってはいても、きわめてスポーツ的な価値観と体質を感じるし、どこか自虐的であるところにも強い違和感を感じます。
演奏者も優れた音楽家であることより、一挙に名が売れ英雄になることを目指しているのかもしれません。芸能人は紅白歌合戦に出ることで、その後の1年の仕事に大きく反映するのだそうですが、クラシックの演奏家もこういう挑戦モノを通過した人のほうが、それ以降のチケットの売れ行きが変わるのだろうか…などと勘ぐりたくもなります。

いずれにしろ、なにかが歪んでいるという印象をマロニエ君は拭えません。

マロニエ君は、よほど心地よい演奏でもない限り、通常のコンサートで2時間前後、ホールの椅子に縛り付けられるのは、率直にいってかなり疲れてしまいます。単純なはなし、2時間身じろぎもせず、身動きや咳ひとつにも配慮しながら、強い照明のステージ上の演奏に集中するということはかなりハードです。

実演というものは、建前で云われるほど良いことばかりではありません。演奏者の技量や解釈などの音楽的なことはもちろん、あまり真剣でなかったり、ツアーの中のひとつとしか考えていない、聴衆をナメている、さほど練習を積まないままステージで弾いている、義務的になっている等々で、こういうことが透けて見えるような瞬間が決して少なくなく、そういうものを感じると、たちまち興味を失い苦痛が始まります。

いったんそれを感じ始めると、コンサートほど息苦しいものはありません。終わったら会場を飛び出して外の空気に触れ、その苦行から解放されることになりますが、最近は歳のせいか疲れが本当に回復するのは翌日へ跨ぎます。
通常のコンサートでさえこんな現状が多いのにもってきて、規模ばかり広げた弾けよがしの全曲演奏などされても、どこに喜びを見出していいのやらさっぱりわかりません。

演奏家にとっても、体力や暗譜など、この挑戦をともかく無事に達成することに目標は絞られ、演奏の質は二の次になることは致し方ないでしょう。
聴く側も「全曲を聴いた」ということに、箱買いでもして得をしたようなような気分になるのかもしれませんが、洗剤ではあるまいし、マロニエ君は音楽でそれは御免被りたいところです。
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NHKの都合

ETV特集「ストラディヴァリ〜魔性の楽器 300年の物語〜」という番組が放送されました。
昨年もストラディヴァリの番組がNHKスペシャルで放送されたので、てっきり再放送かと思っていたら、前回より放送時間が30分延長され、90分の番組になっています。

ということは前回の放送が好評で、単純に未発表映像を追加したロングバージョンだろうと考えたので、どんな映像が増えたのかと期待を込めて見てみました。

ところが、それは明らかに前回の番組をベースにしたものでありながら、同じシーンを探すほうが難しいくらい、多くの別映像で占められていました。表向きは未発表映像を放出するように見せつつ、その裏では隠された意図がさりげなく働いているようで、なんだか腑に落ちないような不思議な気分になりました。

ギトリスなどストラドを愛奏するヴァイオリニストのインタビューとか、船の事故でバラバラになった「マーラー」という名のチェロが見事に復元されて演奏されていること。19世紀に行われたネックの長さや角度の改造前の楽器の紹介など、今回はじめて目にする部分が随所にあった反面、前回あったはずのいくつものシーンが、あれもこれも割愛されてしまっているのは驚きでした。
そこにはある共通した要素があり、NHKの狙いというか、もっとはっきり云うと、後々問題になりかねないと判断されるシーンを徹底的に排除した結果だと推察されるものでした。

大きくは、やはり今どきの時代を反映してか、まず、何かを否定することに繋がりかねない部分はことごとく無くなっています。
前回にはあったクレモナの工房をナビゲーターのヴァイオリニストが訪ねて、そこで作られた新作ヴァイオリンを試弾し、「とても素晴らしかったが、ストラドはより…」といった感想を述べるシーンは、やはり新作を否定するものになるのか…。

あるいは元N響のコンサートマスターの徳永氏が、ある実験に際して「(無音響室でも)ストラドを弾くのは楽しいが他の楽器は楽しくない」という発言があり、これはマロニエ君も前回見たときに、ほんの少しおや?と思いましたが、それもなくなっています。

また、前回の放送では、ニューヨークだったか、ブラインドテストでカーテンの向こうでモダンヴァイオリンとストラドをアトランダムに弾いて、音だけで聞き分けるという試みがあったものの、そこに集まったヴァイオリンの研究家や製作者などの専門家達でさえ正しい答えが出せなかったというシーンも、今度はストラドの価値をおとしめるということになるのか、これもなくなっています。

さらには、最高傑作にしてほとんど演奏されたことがないため最も保存状態の良いストラドとして有名な「メシア」は、イギリスの博物館所蔵の特別なストラドですが、前回はこのメシアの美しい姿が鮮明な映像で映し出され、その来歴についてもかなり説明がありましたが、今回はすべてが削除がされ、「メシア」という名前さえ一切出てきませんでした。
これは一部の人達の間でささやかれる贋作疑惑があることに対する配慮ではないかと思いましたし、これ以外にも失われたシーンはまだまだあります。

その贋作疑惑ということにも繋がりますが、このところのNHKはしかるべき検証もないまま佐村河内氏の番組を制作・放映して謝罪した問題や、新会長の籾井氏の発言など、あれこれと失点が続いたために、かなり神経質になっているのではないかと思いました。

「あつものに懲りてなますを吹く」といいますが、このストラディヴァリの番組は、少なくとも前回のロングバージョンなどではなく、大幅な作り替えだったと思います。新しい映像が追加されて長時間視ることができたのは嬉しいとしても、はじめのバージョンを見た者にとっては、失われたものがあまりにも多く、NHKの都合でグッと安全重視の作りになっていたという印象です。
これはこれで面白く視ることはできたものの、前回の1時間のほうが、はるかにキレがよかったように思います。
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類は友を呼ぶ

『類は友を呼ぶ』という言葉があります。

マロニエ君は、近ごろの人達のように立派な振る舞いや発言を心がけて、それを最優先するような考えがさらさらないことは折に触れて書いてきたとおりです。くだらないこと、ばかばかしいことにも並々ならぬ興味があり、これはマロニエ君の体質そのものでもあり、そういう感性なしでは生きてはいけません。

先週末、とある大きな書店でのこと。多くの人で賑わう店内で、ひときわ大きな声で何かを強烈に主張している人がいました。しかもたったひとりで、まさに意味不明なことを次から次へと間断なくまくしたてるものだから、みんな警戒しながら通り過ぎています。
しかもその声というのが、舞台俳優のように太くてボリュームがあり、さらに通る声だったので、きっとこのとき店内に居合わせた人達のほとんどが、表向きは無関心を装いながらもこの声に気をとられていたことでしょう。

ときに叫びにも近いときがあり、こちらも自分ひとりなら大いに不安になったでしょうが、人は大勢いることでもあるし、マロニエ君も形こそ立ち読みをしているものの、そっちが気になって内容はあまり目に入らず、内心はこの声ばかりに集中していました。
しばらくそれは続きましたが、5分もすると、そのうちいなくなりました。

やれやれ終わったか…と思いながら、今度こそ本の内容に意識を向けて立ち読みをしていると、いきなり肩をトントンと叩かれ、むしろこっちのほうにびっくりしました。
振り向くと、友人がそこに満面の笑みをたたえて立っており、お互いにその偶然に驚きました。

聞けば友人も、さっきのあらぬ言葉を連発する人の存在がおもしろくて、ずっとそばで聞いていたんだそうです。いなくなったので場所を移動したらマロニエ君がいたというわけです。まあお互いに馬鹿だなあと思いますが、こういう気が合うと合わないとでは、友人といってもまたく関係の質がかわるものです。

近ごろは、自分の考えとか感想を無邪気に言えないという点では、精神的に暗く不健康な時代になりました。とくに話の対象が特定の個人であったりすると、露骨なくらい消極的な反応となり、スーッと話題を変えていく人が少なくありません。いまここで何かを言ったところで、困るような言質をとられるわけでもなし、別にどうということもないのに、そうまでして安全を選ぶのかと、相手の心底が透けて見えるようで嫌な気がします。しかし、それを荒立てても詮無いことなので、こちらも内心では舌打ちしつつ抵抗はしません。まるで表面だけ笑顔の、守秘義務を負った弁護士と話しているみたいで、ぜんぜん楽しくないし、そういう人とは本当に楽しい付き合いにはなりません。

マロニエ君のまわりにはそれでも比較的昔風の無邪気な輩がわずかに残っていて、たとえば別の友人が、ずいぶん前のことですが、バスに乗車中、なんとそのバスと車が接触事故になったとのこと。べつに怪我人がでるようなことではなく、ただ街中でちょっと車体同士が擦れたぐらいのことだったようです。
むろんバスは道の真ん中で停車し、それから前方であれこれと接触後の対処がはじまり、運転手も会社との連絡やらなにやらで乗客はそのままで、ずいぶん長いこと放置されるハメになったらしいのです。普通なら「何をしているんだ!」と文句のひとつも出るところでしょう。

ところが、さすがはマロニエ君の友人だけのことはあって、なんと、こういう状況が実がめちゃくちゃに楽しかったのだそうで、そこが笑えました。あまりにも嬉しくて、そのためには何時間ここで待たされても構わないと、腹をくくっていたのだそうですが(楽しいから)、結果は期待よりも早く降ろされてしまって残念だったとか。
平日のことで、そのために仕事にも遅れが出るわけですが、友人に云わせると「そんなのは関係ない」「だって自分のせいじゃないんだもん」なんだそうで、偶然そんなバスに乗り合わせた自分の幸運が、うれしくて仕方がなかったというのですから、あっぱれです。

こういう「けしからぬこと」を笑顔で堂々と言える人は絶滅危惧種になりました。
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楽器か機械か

近ごろではピアノ作りに於ける価値基準のようなもの、つまり「最良のピアノ」というものの定義も、昔にくらべるとかなり変質してきているように思われます。

とくにハイテクのめざましい進歩の恩恵から、ピアノ作りに於いても、精度の面では飛躍的に増したことは間違いないでしょう。
優れた工作技術、コンピューター制御の普及によって、手作業をはるかに凌ぐ均質なパーツが苦もなく生まれ、その集積によって正確な機構が組み上がるのは、ピアノのような夥しい数のパーツの集合体である楽器にとっては、精度という面では圧倒的に有利となります。

我々は「手作り」という言葉に弱いところがありますが、これをむやみに有り難がるのは間違いだと思います。最新の機械技術によって誤差を極力排除した正確なパーツが制作されるのであれば、それに越したことはないわけです。そういう精度の高いパーツを作るのは機械のほうが上手いのなら、へんなこだわりは棄てて機械に任せたほうがいいでしょう。

問題なのは、さてどこまでを機械に任せるかということです。
いったんハイテクの恩恵を知ると、なかなか逆戻りはできません。「ここまで」という良心的な一線を引くのは至難の技で、そこにコストや利益が絡んでくればなおさらです。あれもこれもとそのハイテク介入の範囲は広がっていくことになり、その果てにあるものは冷たい機械としてのピアノの姿であり音だと思います。

もちろん、手作りでばらつきのあるピアノがいいピアノだとも思いません。
ただ、製品としての正確で均等均質な物づくりというものは、しだいに本来の物づくりの在り方から乖離して、とりわけ楽器の場合は本質から逸脱していくという危険を孕んでいます。
これが機械的には完璧に近いけれども、楽器としての生命感を失ったピアノが増殖していく大きな要因だと思います。

ピアノの世界にこの流れを持ち込んだのは他ならぬ日本の大メーカーだと思いますが、それが今や他国の第一級のピアノ作りにも悪しき影を落としているような気がします。

現在世界には、凋落していく銘ブランドを尻目に、これこそ最高級ピアノとばかりに躍進し、しだいに認知されているピアノもあり、一部の人達には極めて高い評価をされているいっぽうで、まったく逆の評価をする一派もあるようです。
その人達に言わせると、煎じ詰めれば機械としてのピアノの音でしかないということで、これはマロニエ君も似たような印象を以前からもっていました。

たしかに、製品として隙のない仕上がりで、機能も音も現代の基準を楽々と満たし、見た目にも輝くばかりの高級感にあふれていて立派ですが、ただ、そのことと、最高の楽器というのは、やはり最後のどこかで着地点が微妙に違うもののように感じます。

これらの何が一番違うのかというと、それは陳腐な言葉ではありますが、やはり「感動できない」ということにつきると思います。レクサスのようなピアノが最高級の楽器という風に単純に分類されることにどうしても抵抗があるのです。

よい楽器は、音や響きが美しいことは当然ですが、弾き手も聴き手も、作品世界に忽ちいざなわれ、心が溶けて奪われていくようなもの、あるいはわなわなと震えるようなものではないでしょうか。
どんなにひとつひとつの要素が立派でも、つまるところ人に感銘を与えない楽器は、血の通わない機械の美しさや完全性を押しつけられるようで、マロニエ君は良い楽器とは思えません。
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力の管理

櫻井よしこさんの著書『迷わない。』(文春新書)を読んでいると、次のような記述がありました。

「お金を持つと、その人の性格が十倍も強調されて出てきます。立派な人は更に立派になり、だらしのない人は限りなくだらしなく、狡い人は限りなく狡くなります。そういう意味ではお金は魔物です。ですから自分に自信のない人は、お金は持たないほうがいいと思います。」
と書かれています。

前後の脈絡から云うと、ここでいう「お金」というのは、あるていどの大金というニュアンスですが、これは、まさに膝を打つ思いで、激しく頷きました。

マロニエ君の考えでは、この理屈はお金に限ったことではなく、もっと幅広い意味での、人を惑わす要素に共通する定理があるように思えます。
権力しかり、地位や学歴や肩書きしかり、他者と自分を明瞭に差別化する要素そのものが魔物であると思います。

これらの魔物は、上手く飼い慣らすことのできない人の手に落ちると、弱くて暗い心の奥に棲みついて、たちまち内側から侵食がはじまるように思います。

基本的に人は自信をつけることは大切なことですが、本物の自信は、奢りや勘違いや慢心とは違いますが、これがしばしば同一視され混同されやすいのも現実でしょう。

本来の自信は、人格や品位を高めるものであって、これが根を下ろして身につくには長い時間もかかり、まわりの認知も一朝一夕にはいきません。

「オリンピックで金メダルをとった」「ショパンコンクールに優勝した」というような場合は、一夜にして周囲の状況が変わることはあるかもしれませんが、これはあまり一般的ではありません。

いずれにしても、器に見合わないものがその人を支配すると、お金以外のことでも、櫻井氏の表現を借りれば「その人の性格が十倍も強調されて出てくる」わけで、これはもちろん短所も含むということです。これは本人が思っている以上に周りはその変化を敏感に感じ取りますが、悲しいかな本人にはなかなかわからないみたいです。

人は他者のことは苦もなくわかるのに、自分のことは見えずにわからないという典型です。
しかし、周りにとっても、しょせんは他人事ではあるし、これに正面切って異を唱える人はいませんから、いわば自己管理だけが頼りであり、その器や能力が問題になるのでしょう。

ここから失敗を招いたり信頼を損ねたりする場合もあり、結果から見ると、以前のほうがよかったという場合もあるのが人の世の難しいところだと思います。

ある方から聞きましたが、メディアへの露出もそこそこの有名な某演奏家は芸大の教授になったとたん、見てはいられないほど横柄な態度を取るようになり、大変な顰蹙を買っているそうです。ところが、ご当人は大きな肩書きと権力を得て天狗になり、自省のブレーキはかからないようです。

それを話してくれた人によると、「人間は、まわりが頭を下げるような地位に就くと、たちまち育ちが出てしまう」のだそうで、これはなるほど尤もなことだと思いました。
自分が頭を下げるうちはいいけれど、下げられる側になったときに、どういう反応を示すかで「育ち」が出るというのは、まさに真理だと云えるでしょう。

「育ち」のみならず、なにがしかの力を手に入れたときに、その人が辿ってきた人生や素顔など、早い話がその人の「地金」が白日の下に晒されるといってもいいかもしれません。
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魂はスマホに

先日、用事があって天神に出た際のこと。
いつものように車を立体駐車場に止めて、そこからビルの6階相当の高さに位置する長い連絡通路を通って反対の商業ビル群のほうへ向かいます。

この空中にある連絡通路の中ほどに、ひとりの若い男性がしゃがみこんで下を向き、なにかをしきりにやっている姿が目に止まりました。

前を通過する際に見ると、なんのことはない、その両手の先にあるものはお定まりのスマホでした。
内心なーんだとは思ったものの、背中を壁につけ、深く曲げた両膝の間に両肩が入り込むほどうずくまって、顔は完全に床と水平になるほど下を向いており、見ただけで頭に血がのぼりそうでした。

駐車料金の関係もあって、2時間以内に出庫できるよう、それから2時間足らずで再びこの連絡通路に戻ってきたのですが、なんとその青年はさっきとまったく同じ姿でまだスマホに熱中しているのにはびっくり仰天しました。
若いから身体も柔らかいのだろうし、体力もあるのでしょうが、それにしたって疲れないのかと思われてなりません。マロニエ君はCD店などで棚の下の段を見るためにしゃがんでいても、ものの3分ぐらいで苦しくなり、立ち上がると鬱血した血液が回り出すのか、ふらふらと目眩をおぼえることも珍しくありません。

それにしても、スマホの何がそうまで人の心を捉えて離さないのか、いまだガラケーユーザーであるマロニエ君にはおよそ理解の及ぶものではありません。

先日会った知人もガラケーらしいのですが、その人曰く、地下鉄かなにかに乗ったとき、ふと気が付くと周囲をスマホ画面を操作する人ばかりに囲まれた状況になっていて不気味だったと言っていました。ちょっと覗き込んでみると、なんとほとんどの人が「ゲーム」をやっていたとか。

となれば、あの連絡通路でしゃがみ込んで真下を向いてスマホに興じていた青年もゲームだったのかもと思われます。まあ、それが実際にゲームでもメールでも大差はありませんが。

それにしても生きている時間の多くをこうまでためらいもなくスマホに捧げるというのは、なんだかやりきれない思いになってしまいます。
「若いときは勉強しろ」などと大上段に構えたことを言う趣味はもとよりありませんし、だいいち、そんなことを言う資格も無いようなマロニエ君です。我が身を振り返って、納得のいくような勉強や経験を積んできたわけでもなく、その点ではむしろ後悔と反省ばかりの自分です。

しかしそんなマロニエ君でさえ、ここまで世の中がスマホに汚染されていく社会というのはいかがなものか…と柄にもないことをつい考えてしまいます。

先日も討論番組で聞いて驚いたのですが、若者の間では深刻なスマホ依存症が激増しており、彼らは誇張でなく本当に一日の大半をスマホとともに1年365日過ごしているといいます。さらに驚愕だったのは、あまりに休みなく利用するためバッテリーを充電する時間もなく、そのために複数台をもっている人も多いというのですから、こうなるともはや現代のアヘンではなかろうかと思ってしまうのです。

もちろんスマホはれっきとした合法的なアイテムではありますが、その想定外の可能性を秘めた性能が、いともたやすく、誰にでも手に入ることは非常に危険なことなのかもしれません。
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理想のタッチ

日曜はピアノ趣味の知人らと誘い合わせて、とある個人ホールのピアノを弾きに行ってきました。

ここにはベヒシュタインのグランド(M/P 192cm)があります。
M/Pは、現代のやや複雑なベヒシュタインのモデル構成の中でも、このメーカーの正当な系譜を引き継ぐ、真性ベヒシュタイン・ラインナップの一台です。

同時に、ベヒシュタインの中でも新しい世代に属し、それに伴って現代的なアーキテクチュアをもつモデルで、伝統のむき出しのピン板はフレームに隠され、華やかな倍音を得るため駒とヒッチピンの間にはデュープレックス・システムまで与えられた、いうなればスタインウェイ流儀に刷新された新世代のベヒシュタインです。

新しいベヒシュタインというのはそうそう触れるチャンスがないために、詳細な比較はできませんが、時代の好みと要求にも応えるピアノになっていながら、根底にはベヒシュタインらしいトーンが残されていて、現役のピアノとしてこのブランドが存続していくには、こういうふうになるんだろうなあという予想通りのピアノだと思いました。

これより前の世代のベヒシュタイングランドは(戦前の旧い世代は別として)、どうかすると素晴らしい同社のアップライトにやや水をあけられた観があったのも事実なので、マロニエ君としてはいちおうは正常進化したと解釈できます。しかし、伝統的なベヒシュタインのファンの中には、こうした方向転換へ大いに異論を感じる向きも多いことだろうと思います。

さて、音はもちろんそれなりに美しいものでしたが、調整の乱れもあって、とりたてて印象に残るほどのものでもないというのが偽らざるところでした。このピアノのサイズとブランドを考えれば、あれぐらいの音がするのは当然だろうという範囲に留まりました。

それとは対照的に、この日の印象としてたったひとつ、しかも強烈に残ったものは、その素晴らしいタッチ感でした。

このタッチにこそ深い感銘を受け、マロニエ君としては、これぞ理想のタッチだと唸りました。
軽やかなのに、しっとりとした感触が決して失われず、なめらかでコントローラブル。強弱緩急が思いのままのタッチとは、まさにこういうフィールのことをいうのでしょう。

通常、軽いタッチになると、どうしても単なるイージー指向な軽さで安っぽくなり、弾き心地も音も浅薄になってしまう危険があります。つまり弾いていて喜びを感じない、ペラペラな深みのないピアノへと堕落してしまいます。そればかりか、軽さが災いして逆にコントロールの難しさが出てくることも少なくありません。

コントロール性を確保するには、軽さの中にも密度感のあるしっとりした動きと、弾き手のタッチの変化やイメージにきちっと寄り添うように追従してくる「必要な抵抗」がなくてはなりません。
がさつな鍵盤/アクションをただ軽くしても、それはただ電子ピアノのようなタッチになるだけで、ピアノを弾く本当の手応えと快感は得られません。

そういう意味ではこのベヒシュタインはまさに第一級のピアノであり、極上のフィールをもっていることにかなり驚かされました。
まるでキーの奥では美しい筋肉が動いているみたいで、その意味では、スタインウェイもタッチにはどこか妥協的な部分があり、このような高みには達していないと思います。

タッチ以外にも、ふたの開閉や突き上げ棒の動きのひとつひとつにしっとりした好ましい手応えがあり、これはドイツの高級車の操作感にも通じるものがあります。

今後、マロニエ君がタッチというものを感じる際・考える際に、このベヒシュタインのタッチは折に触れて思い起こされ、ひとつの基準・ひとつの尺度になる気がします。

そういうものに触れられたという一点でも、遠路はるばる行った甲斐がありました。
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内田の3番

過日のBSプレミアムシアターでは、英国ロイヤルバレエのドン・キホーテ全幕のあとの余り時間を埋めるように、ミュンヘンのガスタイクでおこなわれた、マリス・ヤンソンス指揮バイエルン放送交響楽団の演奏会のもようが放映されました。

ソリストは内田光子で、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番。

ものものしい序奏のあとに出てくる両手のユニゾンによるハ短調のスケールは、経験的にこの曲のソリストの演奏の在り方を、これでほぼ決定付けるものだと思います。
この上昇スケールとそれに続くオクターブの第一主題が、何らかの理由で収まらなかった演奏は、以降もほぼ間違いなくその印象を引きずっていくという点で、非常に決定的な部分だと思われ、いわばソロの見通しがついてしまうほど重要な意味をもっている…といえば大げさすぎるでしょうか。

いまさらですが、内田の演奏は音量がミニマムというか、場所によっては完全に不足していて、せっかくのきめの細かい演奏も、こういう曲ではあまりその魅力が発揮されるとは思えません。
ベートーヴェンの5曲の中でも、最も内田に向いているのは4番で、逆に3番はザンデルリンクと入れたCDもまるで納得できないものでしたが、今回はそれとは多少違った演奏ではあったものの、もうひとつという印象でした。

5曲中、最も繊細かつセンシティヴなのは4番、そして最も力強さが求められるのは皇帝のイメージがありますが、それはむしろ華麗さとかぶっている面もあるのでは…。皇帝にくらべて和音や重音の少ない3番ですが、それでいて骨格の確かさが要求されるため、マロニエ君の主観ですが、音楽として形にするのが難しいのも皇帝より3番ではないかという気がします。

内田のピアノは、最大のウリである繊細さの輝きに、このところやや翳りが出ているように感じてしまいます。以前のような、ハッと息を呑むようなこの人ならではのデリカシーの極限を味わうような楽しみが薄れ、演奏の冴えのようなものがだいぶ変質してきたようにも感じます。
作品に対する異常なまでのこだわりと熱気という点でも、以前の内田はとてもこんなものではなかったように思うのはマロニエ君だけでしょうか…。

彼女がその弛まぬ努力によって打ち立てた名声が、近年は少々無理を強いる結果を招いたのではないかという心配が頭をよぎります。

ところで、マロニエ君はこれまで折に触れ書いてきたように、日本人の女性ピアニストの多くが好む、フランス人形みたいなお姫様スタイルは、演奏家としての品位に欠ける俗悪趣味としか言いようがなく、どうにもいただけません。そのいっぽうで、これとは真逆の内田の独特の出で立ちにも、これはこれで見るたびに小さな衝撃を感じてしまいます。

とりわけ、ここ数年はいつも同じスタイルで、上半身はインナーの上に、超スケスケの生地で縫われたジャケットともシャツともつかない、なんとも摩訶不思議なものを着ています。

まるで海中をたゆたうクラゲか、はたまた養蜂業者が着る防護服のようでもあり、同じものの色違いを何色も確認しているので、きっと何着もお持ちなんだろうと思います。
こういつも同じデザインだということは、よほどのお気に入りということでしょうが、何度見ても大昔のSF映画のようで、不思議としかいいようのない衣装です。
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今ごろ象牙

これまでマロニエ君は、折あるごとに象牙鍵盤の機能面に疑問を訴えてきました。

とりわけ多くの人から入れ替わり弾かれる環境にあるピアノの場合、想像以上に酷使され、腕自慢が力の限りを鍵盤にぶつけるような使われ方をするのでしょう。
そのエネルギーをもろに受け、象牙の表面は擦れて艶を失い、同時におそろしいまでに滑りやすい状態になるようです。ほとんどテフロン加工のフライパンの新品みたいで、指先がどこに滑っていくか予想もつきません。

当然、無用無数のミスタッチが発生し、それを防ごうと身体中あちこち突っ張ることで支えてしまいます。まったく脂汗がでるようで、もはやピアノを弾く楽しみどころではありません。

こういうピアノに何台か触れて恐怖体験をしてしまうと、普通のプラスティック鍵盤は、たしかに見た目こそ芸能人の付け歯みたいな真っ白で、味も素っ気もないけれど、差し当たりどれだけ安心かと思ったのも事実でした。

ところが、昨年から使っているディアパソン210Eは象牙鍵盤であるにもかかわらず、幸いなるかな上記のような弾き手を困らせる要素はまったくありません。思い起こせば納品してしばらくは少し滑りやすさを感じていたものの、その後はすっかり我が手に馴染み、1年が経過して、今では仄かな愛着さえ感じながらこのやや黄ばんだ鍵盤に触れる日々といった状況です。

その挙げ句には「やっぱり象牙鍵盤はいいなぁ…」などと思ってしまうのですから、なんと人間は勝手なものかと我ながら呆れてしまいます。
というわけで今は象牙鍵盤の風合いを楽しむまでになり、ついにホームページの表紙に写真まで出してしまいました。

考えてみると長年使ったヤマハも、一時的に使ったディアパソン170Eも象牙鍵盤だったものの、そんな恐怖体験はありませんでした。ということは、酷使の問題もさることながら、品質もあるのでは…と思わなくもありません。
そうはいってもディアパソンのようなブランドが特上品を使うとも思えないので、これは時代によって、使用できた象牙の品質に差があったのではないかと思います。

1970年代ぐらいまでは、とくに意識せずとも普通にいいものが手に入った佳き時代だったと思います。この時代の日本メーカーはアップライトでさえ上級モデルには象牙鍵盤を使っていたほどですから、いかに今とは事情が違っていたかが忍ばれます。

不可解なのは白鍵が象牙でも、黒鍵は普通のフェノール(プラスチックのようなもの)だったりします。マロニエ君のディアパソンも同様でしたが、このあまりの中途半端さはいったいどういう判断なのかと思います。

1年前までは鍵盤の材質にそれほどこだわりはなかったものの、象牙の白鍵には黒檀の黒鍵が当然のように組み合わされるものという認識でしたから、オーバーホールのついでに黒檀に交換してもらいました。
純粋に手触りという点では、白鍵が象牙であることより、黒鍵が黒檀であることのほうが、プラスチックが木材になるわけですから、その感触の差は大きいという気がします。

木の感触はいいのですが、最近のピアノに多く使われる「黒檀調天然木」というのは、これがまた不可解です。見るからにテカテカしてまがい物っぽく、あれは一体なんなのかと思います。だいたい「何々調」というのは、すでに本物ではないということです。

話を象牙に戻すと、あれだけ「象牙は無意味」みたいなことを書き連ねたあげくに、馴染めばやっぱり見た目もフィールも悪くないと思いはじめた自分が、節操なく自説に背くようで恥ずかしいです。
それでも「鍵盤は象牙に限る」というまでの思い込みはありませんが、象牙は象牙の良さがあるとは思えるようになりました。
でももし、あの「つるつるのすってんころりん象牙」ならプラスチックのほうがいいと今でも思います。
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どんだけぇ?

最近、あるピアニストに関する本を読了しました。
著者はピアニストと文筆家という、いわば二足のわらじを履く有名な方で、マロニエ君はこれまでにその方のCD・著作いずれにもずいぶん触れてきたつもりです。

ずいぶん触れたということは、両分野に於いてもそれだけの実力を認識し、一定の共感や価値を感じているからにほかなりませんが、ひとつにはこの人の着眼点に面白さを感じているのかもしれません。

ただ、以前から感じていたこの方の書かれる文章に対する違和感もないでもなく、それが今回の本ではより決定的になりました。公に活動している方ではあるし、CDも本も、すべてマロニエ君が自費で購入している物ばかりなので、別に名前を伏せる必要もないとは思いますが、すぐにわかることですし、まあここではやめておこうと思います。

本のタイトルを書くのも躊躇われましたが、そうそうなにもかも黒く塗りつぶすような記述ではお読みいただく方にも失礼なので、せめてそれは白状します。
タイトルは『グレン・グールド』で、これはもう説明するまでもない、音楽歴史上に大書されるべき20世紀後半に活躍した異色の大ピアニストです。

ピアニスト関連の書籍では、グールド研究に関する本は突出して数が多く、いわばグールド本はこのジャンルの激戦区といえそうです。そこへ敢えて名乗りを挙げたからには、よほど新しい内容や独自の切り口があるのだろうという期待を込めてページをめくりました。

ある程度、その期待を満足させるものはあったし、よく調査と準備がなされていると感心もしましたから、大きくは購読して得るものはありました。

ただ、この著者自身がピアニストということと、文筆業との折り合いがついていないのか、あるいはこの人そのものの持ち味なのか、読んでいてうっすらとした違和感を覚える(マロニエ君だけだと思いますが)ことが多いのは気にかかります。
これまでにも他のピアニストを題材とした著作をいろいろ出されており、そこには書き手が現役ピアニストでもあることが、他の音楽評論家などとは決定的に異なる個性であり強味にもなっています。いわば現場経験を持つ者としての専門性が駆使され「同業者(この表現が多い)」にしかわからない視点から、専門的具体的な分析や考察が作品の随所に散りばめられています。

しかし、マロニエ君にいわせると相手は天才どころか宇宙人ではないかと思えるほどの桁違いなピアニストで、そんなグールドを語るのに、折々に自分というピアニストの体験などが随所に出てくるのは、「同業者」という言葉とともに、なかなかの度胸だなぁと思ってしまいます。

もちろんそれが悪いと言っているのではありませんが、もし自分なら絶対にできない(しない)ことだけに、読みながら小骨があちこちにひっかかるような抵抗感を感じてしまうのです。

ピアニスト&文筆家という二足のわらじが成り立っていることは、それに見合った才能あればこそで、この点は素直に敬服しています。ただ、グールドと自分をピアニストというだけで同業者として(さりげなく、あるいは分析する上で必要だからということで)語ってしまう部分が散見できるのは、いかにそれが正当な論理展開だとしても、感覚の問題としてそのまま素直に読み進む気持ちにはなれませんでした。

とくに後半はだんだん筆が迷走してくるようで、グールドの身体条件や奏法を自分の修行経験などを交えながら執拗なまでに分解分析を繰り返すのは、くどさを感じさせ、まるでこの天才の弱点や欠陥を暴き出すことに熱中しているようで、いささか食傷気味にもなりました。

他のピアニストに関する著作にも同様の印象があり、現役ピアニストを名乗りながら、文筆家としてペンを持ち、同業者斬りをしているような印象が前に出てしまうのは、才能のある方だけに甚だ残念なことだと思います。
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京響の魅力

NHKのクラシック音楽館で京都市交響楽団の定期公演の様子が放映されました。

冒頭の紹介によると、常任指揮者に広上淳一さん就任されてからオーケストラの魅力がアップし、「かつてない人気を集めて」おり「定期会員の数もこの数年で倍近くにふえている」ということです。
チケット販売も好調の由で、今日のようなクラシック離れ/コンサート不況をよそに、なんと1年3ヶ月連続のチケット完売、現在も記録更新を続けているとか。

曲目は、前半はラフマニノフのピアノ協奏曲第2番でソリストはニコライ・ルガンスキー、後半はマーラーの交響曲第1番「巨人」という大曲2つです。

来場者によると、京響の魅力は「団員がみんな楽しそうに演奏している」「活き活きして、いろいろな外国のオーケストラも聴いているが、ぜんぜん遜色ない」「京響のほうがすごいなと思うことがある」「京都の宝です」などと、評判も上々のようでした。

こんなふうに聞かされると、いやが上にも期待をしてしまいますが、残念ながらはじめのラフマニノフはあんまりいいとは思いませんでした。
ただし、これは専らルガンスキーのピアノに責任があるようで、あまり音楽的な演奏とは感じられませんでした。なによりマロニエ君の好みでないのは歌わない技巧的な演奏で、随所にある粘っこさも、わざわざ取って付けた表情という感じで、聴く喜びが感じられません。

強靱な音を要する箇所では、ばんばんピアノを叩く奏法で、音に潤いや肉付きがなく、突き刺さるような音の連続となり、どちらかというとスポーツ的な腕前だけが前面に出ているようにしか感じられませんでした。彼は、バッハとショスタコーヴィチの名手でもあったタチアナ・ニコラーエワのお弟子さんですが、ロマンティックな師匠とはなにもかもが違うようです。

そのためかどうかはわかりませんが、京響も期待したほどではなく、全体に精彩を欠いた演奏だったことにがっかりしました。

ところが、マーラーになると状況は一変します。
冒頭に寄せられたコメントも、マーラーに至ってようやく納得できるものになり、活き活きして柔軟な演奏が繰り広げられました。「巨人」はマーラーの中では親しみやすい作品かもしれませんが、あまりマロニエ君好みの曲ではなく、なんだか田舎臭い交響曲というイメージがあります。

ところが広上淳一&京響は、この作品から魅力を損なうことなく、泥臭さだけを抜き取って、清新でみずみずしく演奏したのはちょっと意外でした。解釈もアンサンブルも見事。
ちなみに、広上氏のリハーサルは音楽用語をあまり使わず、日常の言葉や情景に喩えるのが上手いのだそうです。そして各奏者に自分の考えを強要するのではなく、自由度を与えるというスタンスが楽員にやる気をおこさせているようでした。

比喩が上手い指揮者としてまっ先に思い出すのはカルロス・クライバーですが、彼は楽員に自由は許しませんでした。ただ、音楽的イメージや演奏上のポイントを瞬時に何かに喩えて表現できることは、指揮者の伝達テクニックとしては非常に有効かつ重要なものだと思います。

なにをするにも「楽しそうに」というのは極めて大切なことで、そもそもこの広上氏の指揮ぶりが、音楽することの楽しさを全身で表現しているようです。
まさか京都だからということもないのでしょうが、広上氏の風貌はまるで古刹の僧侶が洋装して指揮台に上がってきたようでもあります。小柄な身体のすべてと、豊かな表情を駆使して、常に燃え立つように指揮をされている姿は、音楽に対する真摯な姿であるとともにどこか愛嬌があり、多くの人を惹きつけるなにかを備えているようです。

広上氏の指揮はたえず音楽のために常に全力を注ぎ込んで躍動し、そのエネルギッシュな姿は、どことなく今は亡きショルティを彷彿とさせるようでした。
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イベント?

ついに消費税8%がスタートしましたね。

3月の最後の週末は、報道各社はお祭り騒ぎのようにこれを採り上げ、いつものように国民を煽る事にかなりのエネルギーを費やしたのではないかと思われました。

とりわけ関東圏では、連日買いだめや駆け込み需要のための人出が甚だしかったようで、お得意の長蛇の列も随所で発生したようです。
何の店だったか忘れましたが、プラカードを持つ人が立つ、列の最後尾からリポーターが「では行ってみます!」と列の脇を走りますが、映像も早回しになり、右に左に折れ曲がって、何百メートルも先に先頭があったりします。

こうなると2〜3時間の待ち時間なのだそうで、なんでそこまでという思いが募ります。
最後の土日のデパートやスーパーなどの大変な混雑ぶりを取り上げておいて、4月に入ったとたん、今度は閑散としてひとけのない売り場などを対照的に映し出し、増税後は人はまったく寄りつかなくなりましたという切り口です。でも、1日は平日の火曜日でもあり、通常でも土日にくらべたら衣料品売り場などはガランとするのが普通では?と思いました。

こういうマスコミの在り方も、景気回復に水を差す一因ではないかと思います。

ある経済の専門家によれば、「消費税が8%、8%といいますが、8%上がるのではなく、現在より3%増しになるということですから」といっていました。たしかにマスコミの報道は、まるでゼロから8%になるかのごとく錯覚を誘発するような過熱ぶりでしたね。

福岡はごく単純に言うと、何事においても醒めた感性が根っこにある地域で、消費税増税前の騒ぎもそれほどではありませんでした。今年のNHKの大河ドラマが『軍師官兵衛』で、黒田家は関ヶ原以降、福岡を治めた五十二万石の大名ですから、他所なら地元が注目される年だとそれなりに沸くのかもしれませんが、福岡ときたら見事なまでに盛り上がりません。
きっとNHKの目論見も大外れだったことだと思います。

さて消費税ですが、街頭でインタビューすると、もちろん中には「大変です…」「困りますね…」というような標準的な意見もありますが、「上がるのは嫌だけど、そのために買い置きはしませんねぇ。」「いやぁ…べつに。要るものは要るときに買うだけですよ。」といったコメントはいかにも福岡らしくて笑ってしまいます。

ガソリンも値上がり前に給油しようと、関東圏では路上にまで車が列をなしてまで3月中の満タンが大流行だったようですが、その列がまた大変な車の数で驚きました。中にはたった5Lのために列に並んでいるという猛者もいて、開いた口がふさがりません。

ふと思ったのですが、消費税増税はまぎれもなく税の問題であって、つまりお金の問題であるにもかかわらず、もしかすると、これは実はお金じゃない問題ではないだろうか?という疑念が湧いてきました。

家でも買うというならべつですが、日常生活のレベルでそんなことに奔走しても、それでいくら得をするかという数字上の話になれば、10万円使っても3千円です。その3%のために投じる大元の費用、さらにはそのために要する時間や労力など、多くの人的エネルギー消費を伴うことを考えれば、さらにそのメリットは減じられていくのは理です。
3%にこだわるぐらいなら、そもそも買わないのもかなりお得なはずです。

つまり、これはほとんど心理上の現象であり、情緒的な現象ではないかと思います。
「今のうちに買っておく」というのが国民的なコンセンサスになって、まるで消費税アップを控えての「期間限定イベント」のようになってしまったのではと感じます。

正味どれだけ得なのかという検証はそっちのけで、「今しかない」イベントに参加してお祭り気分を楽しんでいるのだと思うと、多少納得がいくような気がしました。
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