音質調整

ひさしぶりに、自作の円筒形スピーカーの音質調整を思い立ちました。

製作当初よりもエージング(慣らし)が進み、だいぶ聴きやすくなってはきたものの、できればもう少し音の精密さというかクリア感のようなものが欲しくなり、そのあたりを少し改善できないだろうかと思ったわけです。
具体的には、スピーカーを置いている環境は床がカーペットなので、そこにもなんらかの影響があるのではないかと前々から少し感じていたのです。

円筒形スピーカーは直径約10cm、長さ1mのアルミ管が左右に二本、垂直に立っており、下部は直径約20cmの木製台座に固定され、さらにその台座は3本の足で支えられています。
台座には意図的に穴が開いていて、真下から覗けばスピーカーから長く伸びた鉄のロッドが吸音材に巻かれた状態で、むき出しになっています。この穴から、なんらかの音、低音や雑音など、それがなんであるかはよくわからないものの、ともかく下へ向かって常に放出されるものがあるだろうことは推察されます。
その真下がカーペットであることは、もしかしたら音質に不利に働いているような気がしたのですが、その判断も正しいかどうか、実のところよくわかりません(笑)。

で、まずはカーペットによる音の吸収を取り除くべく、100円ショップに行くと、ちょうどよいサイズのステンレス製バット(食材などをのせる台所用品)を発見。これを2つ買ってスピーカーの下に敷きました。
その結果は、ほんのわずかながら音がクリアになったような気がして、まあとりあえず210円の投資には見合う結果が得られたようで、ここでまず出だしは好調という感触を得ました。

さて、通常の箱形スピーカーの場合、音質アップの方策として、箱本体の下に硬く重いものを置いて、間にインシュレーターなどをあてがうとされているようです。これにより安定性が増すのか低音が豊かになり、全体もよりクリアな音が出るというような記述を読んだことがあります。この分野にはまったく知識も経験もないマロニエ君としては、とりあえずそのセオリーに従うことで改良してみようと思いました。とくにコンクリートブロックやレンガなどが、簡単で安く入手できるものとして重宝されているようでした。

そこで、改造第二弾として、そのコンクリートブロックやレンガを物色した結果、とあるホームセンターで厚さ2cm、一辺が20cmの正方形の素焼きのレンガというのがあり、まさにうってつけのサイズだったので、これを買ってきて、ステンレスのバットと入れ換えてスピーカーの下に敷きました。

ところが、期待に反して音が逆にこもったようになり、明らかに明晰さが失われているのは疑いようもありませんでした。エ、なんで??と思いましたが、よくよく考えてみれば、素焼きのレンガには無数の微細な穴があって、音を響かせるどころか、逆に吸収してしまうのではと思うと妙に納得。

通常の箱形スピーカーの場合は、下へ向けて音質に関わりのある何らかの流れがあるわけではないので、ただ単に重くて硬い土台の上に本体を置くことでボディの剛性がアップし、より本来の性能を引き出すということだろうと思われますが、円筒形スピーカーではそこに一種の反響特性のようなものが求められるような印象を持ちました。

現に、その素焼きブロックの上に、ステンレス製バットを重ねて置いてみると、またもとのフィールが戻ってきました。でも、たかだか100円ショップで売ってるペラペラのステンレスでは効果も心もとないので、今度はタイルなどで挑戦してみようと思いつきました。
ただし、またこうして試行錯誤のアリ地獄にはまるのはイヤなので、結果がどうであれ、次のタイルで終わりにしようと思います。
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偉大なる発明

あるテレビ番組で、正確ではないかもしれませんが「あきらめない男達!」というような副題と共に、ひとりの努力と執念が生んだ偉大なる発明が紹介されました。

その名は安藤百福(1910-2007)、ウィキペディアによればもとは日本統治時代の台湾で生まれた人のようですが、両親を亡くして祖父母の元で育てられ、22歳のときに繊維会社を創設。翌年には大阪に会社を設立し日本の大学に通いながらも、数々の事業を手がけるという多才な人であったようですが、大変な苦労人でもあり、それをバネとして時代の波の中を逞しく生きた人のようです。

戦争では空襲により大阪の会社を失うなど、つねに数々の困難を乗り越えながら、多方面への事業や社会貢献を続けるものの、ある信用組合の倒産により理事長であった安藤氏は、これまで築き上げてきた財産のすべてを失います。

妻子の暮らす自宅の家財道具にまで差し押さえの赤紙が貼られる中、安藤氏は裏庭にある小屋である研究に日夜没頭します。
困窮を極める家族を背後に抱えながら、猛烈な執念とともに寝るひまもないほど試行錯誤を続けた末、ついに完成したのは日本初、そしてもちろん世界初のインスタントラーメンで、これがこんにち私達が良く知るチキンラーメンの誕生だったのです。

そしてこのチキンラーメンこそが、今や世界常識ともなったすべてのインスタントラーメンの原点だったことを初めて知りました。
安藤氏はさっそく製品の売り込みに奔走しますが、時は昭和33年、うどんひと玉が6円の時代に、チキンラーメンは一食35円と高価だったために、そんな高いものが売れるわけがない!とまったく相手にもされません。
それでも安藤氏の熱意はまったく揺らぐことはなく、置いてもらうだけでいいからと何度も頭を下げ食い下がるように頼み込んで店に並べたところ、店主達の予想に反して大反響となり、今度は注文が追いつかず自宅には業者の列ができるほどに。
このころは、まだ自宅で作っていたようですが、家族総出でフル稼働したところでたかがしれており、ひきも切らない注文には到底追いつくものではありません。そこで、ついに安藤氏はチキンラーメンを製造販売する会社を設立し、この時「日々清らかに、豊かな味を」という意を込めて作った会社が日清食品だというのですから、へええというわけです。

テレビでは言いませんでしたが、ウィキペディアに記されるところでは、チキンラーメンの好評を見て追随する業者が多く出たため商標登録と特許を出願し、1961年にこれが確定したため、実に113もの業者が警告を受けるハメになったとか。
しかし安藤氏は3年後の1964年には一社独占をやめ、日本ラーメン工業協会を設立し、メーカー各社に使用許諾を与えて製法特許権を公開・譲渡したというのですから、やはりこの人は根っこのつくりが何か違うんだなあと思います。

その後もアイデアマンとしてのパワーは止まらず、1966年に欧米を視察、アメリカで現地の人がチキンラーメンを二つ折りにして紙コップに入れ、フォークで食べる様子を見たことが今度はカップ麺の着想になります。そして5年後の1971年、次なる大ヒット商品となるカップヌードルが発売されるも、またも世間は冷ややかな反応しかなかったというのですから、いかに発明者に対して、それを受け入れる側の感性が遅れているかがわかります。

こんにち、スーパーのインスタント麺の売り場でも、従来型のインスタント麺とその勢力を二分するカップ麺ですが、発売当時はマスコミ各社は「しょせんは野外用でしかないキワモノ商品」としてしか認識せずに苦戦したということですが、またしても安藤氏の狙いは的中してブームが到来。その後は輸出もされるようになり、ついには世界80カ国で売られるまでになったそうです。

そしてこの50年間という、とてつもなく変化の著しい激動の時代を生き続け、いまだに現役の定番商品としてまったく翳りがないどころか、インスタント麺そのものが世界中に広がって、まったく独自の「食文化」を作り出したというのは、これこそ偉大な発明だったという他ありません。

こういう人こそ政府は国民栄誉賞を授けるべきではなかったのかと思いますし、そもそも国民栄誉賞というのはそういう性質のものではないのかと思います.
日本という国は、どういうわけか文化勲章では歌舞伎役者に甘く、国民栄誉賞ではスポーツ系に甘いとマロニエ君は思います。
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紙一枚の差

ピアノの調整は奥に行けばいくほど、非常に繊細で緻密な領域であることはいまさら云うまでもありません。以前もタッチの軽すぎるカワイのグランドのハンマー部分に、わずか0.5gの鉛片を貼り付けただけで、タッチが激変したばかりか、音質までもがはっきりと力強くなり、まさに一挙両得だったことは既に書いた通りです。

それと似たことがあったことをふと思い出しました。

少し前に、ディアパソンの調律に来ていただいたときのことですが、そのころはまだ交換した弦もハンマーも馴染みが足りず、もうひとつ鳴りがパッとしないように感じていたのですが、その対策としてあれこれの手を入れてもらいました。

そのひとつで、通常はかくれて見えませんが、キーの下には緑色の丸いフェルトが敷かれており、これが打鍵によって降りてきたキーを受け止めるようになっています。そして、さらにそのフェルトの下には同じ直径のフロントパンチングペーパーという丸い紙が複数枚敷かれています。
この紙には厚さによる違いがあり、技術者さんはその都度必要に応じてこの紙の厚さや枚数を入れ換えながら、キーのわずかな深さを調整しますが、それは同時に音にも密接な関係があるようです。

紙の厚さは何種類もあるのですが、驚かされるのはその違いはまさにミクロの世界で、普通の厚紙ぐらいのものから、本当に極薄の、わずかな鼻息でも飛んでしまうほどペラペラのものまであり、こんなもの一枚あるなしでタッチが変わるとは、俄には信じがたいような気になるものです。

そんな中で、もう少し力強い音が出るようにと、技術者さんは主だった(というか必要と判断された)部分を、おおむね0.2mm薄くされました。
薄くするということは、つまりキーの沈み込みが0.2mmぶん深くなるということですが、通常キーが上下に動くのは10mm前後、つまり約1cmですから、そこでたかだか0.2mmの違いがどれほどの意味があるのか?と考えてしまいますが、それがピアノ調整の世界ではきわめて大きな意味をもつようです。

「0.2mmはこれです」と抜き取った小さなドーナツ状の紙を触ってみても、ただの薄い紙でしかなく、こんなもので何かが変化するとしても、たかがしれていると思うのが普通です。

しかし技術者さんは、黙々と作業を続け、いろいろな色(色によって厚さが違う)のパンチングペーパーを出したり入れたりと、その変更・調整に余念がありません。

どれくらい経った頃だったか、その作業が終わり「ちょっと弾いてみてください」といわれ、これがマロニエ君はいつも嫌なのですが、そんなことも云っていられないんので、素直に従って弾いてみると、なんと僅かではあるものの、でも明らかに前とは違っています。

たったの0.2mmの違いが、紙を触ってもわからなかったものが、ピアノの鍵盤の動きとしてなら明瞭にその差を感じることができることは驚きです。具体的に何ミリということでなく、感覚的にあきらかにキーが少し深くなっていることが体感できるし、さらに驚くべきは明らかに音にメリハリが出て、力強さが加わっていることでした。
あんな小さな薄っぺらな紙一枚の差が、これほどピアノのタッチや音色まで変化させるとは、実際に体験みてみると呆れるばかりで、いまさらながら楽器の調整というものが、いかにデリケートな領域であるかを再認識させられました。

それだけにひとたび調整の方向を誤れば、まさにピアノはあらぬ方向を彷徨うことになり、技術者の能力の一つは、問題の原因は何であるかを、短時間のうちに的確に見極めることだと思います。見当違いのことをいくら熱心にやられても、望む効果は得られず、だから世の中には潜在力は高いものがある筈なのに、どこか冴えないピアノが多いのだろうとも思われるわけです。

ピアノは高級品になればなるほど、出荷調整にも優秀な技術者の手間と時間が惜しみなくかけられるようですが、このフロントパンチングペーパーの厚さひとつをとっても、ほんの僅かなことが大きな違いになる世界では、製品としていくら完成していても、楽器としてはまったくの未完成で、各所のこまやかな調整が滞りなく行きわたっていなければ、その真価は決して発揮できないことがあらためてわかります。

そういう意味では、普通のピアノでも、技術者の正しい調整を受ければ受けるだけ、そのピアノはある見方においては高級ピアノだとみなすこともできるのかもしれません。
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じぇじぇじぇ!

9月29日の朝刊一面には、なんと『あまロス続出』という大きな見出しが踊っていました。
ちなみにスポーツ新聞の話ではありません。

これはいうまでもなく、その前日に最終回を迎えたNHK連続テレビ小説の「あまちゃん」のことで、半年間このドラマにどっぷり浸かっていたファン達が、一斉にその喪失感をネット上に訴えたのだそうです。

記事によれば、多くの人達が被ったその喪失感は大変なものらしく、「燃え尽きた」「もう午前8時には起きられない」「やる気が出ない」「これがあまロスか…」といった調子でつぎつぎにツイッターやネット上に最終回後の感想を投稿したと書かれてます。

マロニエ君も連続テレビ小説だけはいつも録画して見ていますが、たしかに今回の「あまちゃん」はこれまでとは一線を画した面白さがあったと思います。
とりわけ印象的だったのは、第一回目からなんともいいようのない楽しさというか、惹きつけられるものがあったことを思い出しますし、たしかこのブログにも、あまちゃんスタート直後に「いっぺんに青空が広がったような」というような記述をした覚えがあります。

通常は出来不出来はべつにしても、前作に半年間慣れ親しんでいるぶん、新作に切り替わった直後の朝ドラというのはどうもしっくりしないものです。見る側もしばし気分の切り替え期間が必要で、最低でもはじめの一週目はよそよそしい感じがあるものですが、「あまちゃん」にはそれがまったくありませんでした。

このドラマの良かった点は、とにかく理屈抜きの明るさと笑いがあったこと、どの登場人物にも個性と味があって飽きることがなかったこと、東京のような大都市が決して絶対の価値ではないということを上手く訴えた点、さらに云うと日本人が心の中ではもう好い加減うんざりしているキレイゴトや建前の支配でストレスを受ける心配がここにはないという解放感があったように思います。

娯楽で見るテレビドラマからまで偽善や同意できない正論を押しつけられる鬱陶しさがなく、全編を貫く明るさと、センスあるお笑いが随所に盛り込まれて、すっかり疲れてしまっている日本人の気分を束の間でも愉快爽快にさせてくれたところが、これだけの人気を勝ち得たのだろうと思います。

そもそも、あんな二十歳前の東京育ちの女の子が、東北に移り住むなり、なんの躊躇もなく東北弁をしゃべりまくり、憧れの先輩にも「せんぱい、おらと付き合ってけろ!」となどと大真面目に言ったり、GMTメンバーによる各地の方言が盛大に飛び交う様なども、無定見に定着してしまった今どきの価値基準をひっくり返してしまうような面白さがありました。

現代は、みんな暗くて鬱屈しているからこそ、ひとたびスポーツ観戦だの、最新スマホの発売だのと、それほどでもない事を口実に不自然なバカ騒ぎを演じ、空虚な高笑いや興奮を通じて、別件の憂さ晴らしをするのだと思います。それだけ自然体の楽しいことに縁遠くなっているから、このドラマは心の中の干からびた部分にスッと染み入ったんでしょうね。

マロニエ君はいつも、土曜の朝、BSで一週間ぶんまとめて放送される朝ドラを録って、つねに二週前後ぐらい遅れて見ていますから、実はまだ最終回に到達しておらず、したがって「あまロス」ももう少し先になりそうです。
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ジャンボ機再び

昨日の新聞を見ていて、おやと思う記事が載っていました。
アメリカの航空会社の発表によれば、日本便は、今後大量のお客が見込めると云う判断から、デルタ、ユナイテッドなどの大手はこの先、懐かしいジャンボジェット(ボーイング747)を投入していくのだそうです。

一度はジャンボ機から、やや小さく効率重視のボーイング777にその座を譲っていたにもかかわらず、再びこの存在感あふれる大型機が国際線の表舞台に戻ってくるというのは嬉しいような気になりました。

ボーイング747は、空の大量輸送時代を予見したパンアメリカン航空の提案によって1960年代にボーイング社が開発、70年代初頭に就航した、それまでの常識を覆す巨大旅客機でした。
当時のパンアメリカン航空は世界に冠たる圧倒的な航空会社だったので、これに続けとばかりに世界の主要な航空会社は、そんな大型機を飛ばす見込みもないままこの想定外の新鋭機をこぞって発注しました。

その後、その予見通りに空の大衆化は進み、やがては厳しい航空運賃競争の時代に突入しますが、なんとも皮肉なことに老舗気質が抜けきれないパンアメリカン航空は企業の体質改善が追いつかず、しだいに競争力を失い、ついには倒産してしまいます。

パンアメリカンなき後、そのジャンボジェットの最大のカスタマーは日本航空で、長いこと世界最大の保有機数を誇りました。通算の導入機数は軽く100機を超えており、ひとつの航空会社でのこの記録はたしか世界記録です。しかし日本航空もその飽満経営が祟って破綻となり、ジャンボ機は燃費問題を理由に全機が退役、全日空もこれに倣ってか保有する数十機のジャンボ機の大半を売却し、残るは国内線用の数機、それ以外では日本貨物航空が運航する貨物機、そして2機の政府専用機だけになりました。
かつてジャンボ王国といわれた日本でしたが、わずか数年で、まるで前時代の稀少機種のような存在となってしまいました。

マロニエ君にいわせると、旅客機にも一定の趣があったのはこのジャンボ機までで、今どきの飛行機にはロマンも色気もない、ただの効率化と低燃費の塊で、見るからに安普請、いかにもコンピュータが作った飛行機という無機質さしか感じられません。
乗客としての乗り心地も、ジャンボ機はその安定感、やわらかさなどは格別で、とくにダッシュ400という後期型はひとつの究極で、いわば佳き時代のスタインウェイDのようなもの。これに勝る飛行機にはまだ乗ったことがありません。

燃費問題というのはいささか誤りで、これは日本航空の経営建て直しにあたっての世間ウケの良い方便でもあるようで、実際は旅客ひとり当たりの燃費で云えば決して大食いではないのですが、大型機は不景気になると融通性に欠けるという問題を抱えていると見るべきでしょう。
より小さな飛行機を数多く飛ばす方が利用者も便利なら、会社側も利用率に応じた無駄のない機材繰りの調整もしやすいということで、最近はこれが時代の潮流のようです。

この流れを作ったのがそもそもアメリカで勃興してきたLCCであったのに、そのアメリカの航空会社が再びジャンボ機を日本線に投入してくるというのはまったく思いがけないニュースでした。

なんでもコストや効率という、面白味のない、しみったれた世の中で、たまにはこういう好景気の象徴みたいな豪快な飛行機が再び脚光を浴び、太平洋を飛ぶようになるというのは、なんとなく嬉しいことです。
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古いヤマハ

前回書き切れませんでしたが、この広島の「平和の祈り」コンサートで使われたピアノは、思いもかけないヤマハの古いピアノでした。

かなり前の、たぶんCFIIIの初期型か何かで、コンサートグランドにもかかわらず足元はダブルキャスターでもなく、サイドのロゴマークもない時代のピアノで、フレームの穴の形状も丸ではない、この一時期のCFだけにみられる細長い開口部の大きなタイプのピアノでした。

さて、この古いCF、正確なことはネットで調べればわかるかもしれませんが(面倒臭いので調べてはいませんが)、たぶん30年ぐらい前のピアノではないかという気がします。
テレビ収録も入る、小曽根氏のような有名ピアニストが出演するようなコンサートで、こういう古い日本製ピアノが使われることは非常に珍しいことなので、その点はマロニエ君などは却っておもしろい気分になりました。

日本では、都市部の一定規模のホールと名の付くところには、たいていスタインウェイなどがあるものですが、わざわざこういうピアノを使うこと自体が、よほど特殊な事情があったのかと思います。このホールのホームページによると、ここには他にスタインウェイもカワイもあるようで、したがってなんらかの意図があって選ばれたヤマハということのようです。

その事情がなんであるかは別にして、この時代のヤマハは、何年か前にもリサイタルで1度聴いたことがありますが、マロニエ君は意外に嫌いではありません。それは、今どきのブリリアント系のキラキラ輝くような音ではなく、はるかに実直な音がして、ともかく真面目に作られたピアノという感じがあるからです。さらには後年のヤマハと違ってどんなフォルテッシモでも音が割れるなどの破綻が少なく、強靱な演奏にもしっかり耐え抜くだけの逞しさももっています。

こういうピアノのほうが、一面においては演奏や音楽に集中でき、聴いていて耳も疲れません。
だいいち主役は音楽であり演奏であるのに、あまりピアノ自体がキンキラして出しゃばるのは、タレントと勘違いした女子アナみたいで、むしろ目障り耳障りなることしばしばです。

この広島のピアノも、さすがに音の伸びがなかったり、古さ故の短所もあるにはありましたが、ではそれでこの日のコンサートの足をどこか引っぱったかというと、けっしてそんなことはなかったと思います。たしかに音の伸びはあったほうがいいに決まっています。でも、それよりも音の実質のほうがもっと大切だと思います。結局のところ、あまり表面的な華やかさではなく、ピアノはどっしりとピアノらしいのが一番だとあらためて感じました。

ブリリアント系のキラキラ音は、指の弱いアマチュアなどが家で弾くぶんにはいかにもきれいな音という感じで楽しめるかもしれませんが、プロのピアニストがコンサートの本番で弾くと、どうかするとうるさくもなるし、音符が不明瞭になったり表現力やパワーが逆に失われて、本来の演奏の妙が伝わらない危険もあるとマロニエ君は思っています。

ダブルキャスターでないコンサートグランドも久しぶりに見ましたが、やはり本来の姿はこうあるべきだと思いました。むかしスタインウェイが1980年代ぐらいから巨大なダブルキャスターを装着するようになったとき、そのあまりの無骨さ醜さに驚倒したものです。さらにはそれ以前のモデルまで次々に足を切断され、この下品なダブルキャスターが取りつけられて行くのには血の気が引いた覚えがありますが、慣れとは恐ろしいもので今ではすっかりこれがフルコンのデザインの一部に溶け込んでしまいましたね。
最近は、さらに転がり性能のよい、しかしビジュアル的にはもっと醜いキャスターがつけられていますが、あれはまだ目が慣れません。

コンサートグランドはその役目上、頻繁な移動が必要ですから、移動しやすい機能は致し方ないとしても、肝心の音に関しては、今どきの表面ばかり華やかな音造りは、もう少しどうにかならないものかと思います。
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音楽の本能

広島交響楽団による「平和の祈り」というコンサートが、今年の平和記念式典前日にあたる8月5日、平和記念公園内にある広島国際会議場フェニックスホールで行われ、その様子がつい先日クラシック音楽館で放送されました。

コープランドの「静かな街」で始まり、続いてショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第1番、ピアノは小曽根真、トランペットはベネズエラ出身のフランシスコ・フローレス、指揮は秋山和慶。

実はここまでしか見ていないので、ここまでの印象となりますが、「静かな街」ではイングリッシュホルンとトランペットをソリストとした作品、ショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第1番もトランペットが重要な位置を占める作品なので、いずれもこのフランシスコ・フローレスが演奏しました。

ピアノの小曽根真は今や言わずとしれた有名な日本人ジャズピアニストで、その活動はときどきクラシックにも足を伸ばし、以前もモーツァルトのピアノ協奏曲ジュノムなどを弾いて、とくに鮮やかな演奏というものとは違うけれど、クラシックのピアニストからは決して聴くことのできない味わいがあって、へええと思った記憶がありました。

今回のショスタコーヴィチでも、指さばきは明らかにクラシックのそれとは違い、どこかおっかなびっくりした様子があって、やはり畑違いのパフォーマンスという感じは拭えませんが、しかしそれで終わらないところに小曽根真の本当の価値があるようです。
ただ譜面通りに正確に弾くだけのカサカサしたピアニストとはまったく違い、どこかたどたどしくもある語り口のなかに、音楽に対する温かな情感がこもっていて、それこそが彼の魅力なんだと思いました。
技術や知識や経歴に偏りすぎて、音楽ほんらいの単純な楽しさや喜びを失いつつあるクラシックの世界に対するさりげないアンチテーゼのようにも感じられました。

第4楽章のカデンツァでは、得意のジャズテイストが織り込まれ、まあとにかく聴いている側としては飽きるということがありません。

しかし、本当の驚きはこのあとでした。
ショスタコーヴィチが終わってカーテンコールの末に、小曽根氏が客席に向かって「これらか皆さんを南米にお連れします」とやわらかに語りかけ、アンコールとしてピアノとトランペットによる演奏が始まりました。

これが大変な魅力に溢れたもので、それまではどこか冷静に見ていたマロニエ君も、思わず身を乗り出して本気で聴いてしまいました。詳しくは知りませんが、字幕によればラウロ作曲の「ナターリャ」「アンドレイナ」、フェスト作曲の「セレスタ」の三曲で、いずれもラテンアメリカの作曲家なのでしょうが、それらが切れ目なくメドレーのような形で演奏され、ここに至って小曽根氏も本来の力を発揮、フローレス氏も全身でリズムに乗って、二人とも何かから解放されたように自由で自然な演奏となりました。

曲がまたどれもすばらしく、ラテン的な哀愁と官能が交錯する悩ましいばかりの音楽で、否応なく圧倒されてしまい、この望外の演奏にただただ感激してしまいました。日本人的倫理観でいうならば、明日はこの記念公園内で恒例の平和記念式典があるのかと思うと、よく主催者が認めたなあと思うほど、ちょっと危ない感じさえ漂うものでしたが、ともかく、これはしばらく忘れられない演奏になりそうです。

音楽を聴く喜びを、根底からリセットされてしまうようで、マロニエ君にとってはまったく予想だにしなかった衝撃でしたし、クラシックの演奏家がどんなに偉そうなことをいっても敗北を感じるのでは?と思われるような、音楽の本能に触れて酔いしれた6分弱でした。
むろん、われんばかりの拍手でした。
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チョ・ソンジン

パユのモーツァルトを褒められなかったばかりなのに、また似たようなことを書くのもどうかと思いましたが、まあ主観的事実だからお許しいただくとして、同じくNHKのクラシック音楽館で、かなり前に放送録画していたものをやっと見たので、そこからの感想など。

6月のN響定期公演で、チョン・ミョンフン指揮でモーツァルトのピアノ協奏曲第21番とマーラーの交響曲第5番というプログラム。ソリストはチョ・ソンジンで、この人は何年か前に浜松コンクールで優勝した韓国の若者ですが、伝え聞くところではわりに良いというような話で、実はマロニエ君は韓国には意外に好きなタイプのピアニストが多いので、そういう点からも機会があれば一度聴いてみたいものだと思っていました。

知人が主催する音楽好きの集まりで、そこに居合わせた年配の方が云われるには、福岡で行われたあるオーケストラの演奏会にこのチョ・ソンジンが出演し、ショパンの第1番を弾いたとのこと。その解釈といいテンポといいその方は大変満足であったという話を聞いたことがあったこともなんとなく覚えていました。

チョ・ソンジンは浜松コンクールで優勝したためか、わりに日本でのステージチャンスが多いようですが、マロニエ君は残念ながら彼のピアノは1音たりとも聴いたことがなく、今回が初めてということになりました。

前回、N響とモーツァルトは相容れないものがあると長年マロニエ君が感じてきたことを書いたばかりで、その印象は今でも変化はありませんが、しかし指揮がチョン・ミョンフンともなると、明らかにいつものN響のモーツァルトとは違った水準に達しているのは、さすがに指揮者の力だなあ!とこのときばかりは感心させられました。
それはこのハ長調の協奏曲の出だしを聴くなり感じるところで、演奏の良し悪しや好みは、だいたいのところはじめの1分以内に結論が出てしまうようです。

さて、今回一番の興味の対象であったチョ・ソンジンですが、こちらはその出だしからして、んんん?と思いましたが、残念ながら最後までその印象が覆ることはなく、いささか期待が大きすぎたというべきか、はっきり言ってマロニエ君としてはいささか同意しかねるタイプのピアニストでありました。

あくまで個人的な印象ですが、「ピアノの上手い少年」という域を出ておらず、モーツァルトの語法というものがまったくわかっていないで弾いているように見えました。どんな曲も同じスタンスで彼は譜面をさらって、せっせとレパートリーを増やし、お呼びのかかるステージに出ていくのでしょうか。

曲のいたるところで意味ありげな表情とか強弱をつけてはみせますが、いちいち的が外れて聞こえてしまうし、全体としても表面的でまったく深いところのない、感銘とは程遠い演奏。曲の内奥にまったく迫ったところがないし、音色やタッチのコントロールなども感じられず、強弱のみ。とくに第3楽章は飛ばしすぎの運動会のようでした。
それなのに、顔の表情だけはえらく大げさで、いかにも作品内に潜んでいる大事なものを感じながら弾いていますよという風情ですが、それは内なるものがつい顔に出てしまうというより、専ら観賞用のパフォーマンスのようでもあり、どことなく彼はラン・ランを追いかけているのかとも思ってしまいました。

パユと共通していたのは、チョ・ソンジンも非常に線の細い演奏家ということで、聴く者をその音楽世界にいざない引き込む力が感じられません。彼より優れたピアニストは韓国にはごろごろしているし、これなら、ピアノの名手としても有名なチョン・ミョンフンが自らピアノも弾いて、振り弾きしたほうが遙かに素晴らしい演奏になったことだろうと思います。

はたして韓国内での評価はどうなのだろうと思いますが、韓流スターの中には、日本でしか人気がない俳優もいるとか。まだとても若いし(19歳)、きっと才能はあるのだろうと思うので、ともかくもっと精進してほしいと思いました。
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洗剤とお米

連休のある日の午後のこと、自宅のインターホンが鳴ったので出てみると、新聞販売店の人が「ご挨拶に伺いました!」といって表に立っていました。

実は、つい二ヶ月前までここの新聞をとっていたのですが、どうしても別の新聞を購読したくなり、契約期間終了までの数ヶ月間を辛抱して、ようやく切り替えたところでした。
まともに他社の新聞にするからなどといっても、とてもじゃありませんがおいそれと引き下がってくれるような相手ではないことは、この新聞社のこれまでの猛烈なつなぎ止め工作のすごさを知っていたので、作戦を変えて「新聞はあとの処分も大変で、もうとらないことにしたので」ということで、どうにか納得させて終わりにしたという経緯があったのです。

ところがこの日は販売店の店長が代わったという名目で、再度勧誘にやってきたようで、表に出てみるとこれまでとは違うおじさんが立っていました。こちらを見るなり、これ以上ないというほどの満月のような笑顔を浮かべながら、いきなりあれやこれやと喋りまくり、そのつど深々と頭を下げられるなど、内心これはまた大変なことになったなと思いました。

まさか別の新聞を購読しているとは逆立ちしてもいえないので、「また新聞をとるときは必ずおたくにしますので」というと、また笑顔と感謝でこわいぐらいに頭を何度も下げられ、こちらとしてはこんな応対は早く終わりにしたいと思っていたら、「実はいま、洗剤とお米を配っていますので、ちょっとお待ちください!」と言い出しました。

これをもらったら大変だと思い、「いやとんでもない、また新聞をとるときにでも」と云いますが、相手もさるもので耳を貸さず、「いえいえいえ、きょうはみなさんにずーっとお配りしていますから!どうぞどうぞ!」といって、さっさと車から大きな段ボールに1ダースぐらい入っていそうな洗剤とお米を上下に重ねて両手に抱えて、よいしょとばかりに持ってきます。

もらえないと何度も固辞しますが、向こうはなにがなんでも押し込んでいく気迫があるのを感じます。
そのうち、将来またとっていただくときのために、せめて名前と住所だけでいいので、ここにちょっと書いてもらっていいでしょうか?と、これも「すいません、すいません」と頭を下げながら頼んでくるので、やむを得ず住所と名前だけ手渡された伝票に記入しました。

すると、そこに何年何月から何年何月までという項目があり、そこをいつでもいいのでとりあえず書くだけ書いといてくださいと迫られました。たったいま名前と住所だけといったにもかかわらず!
ここで言いなりになっては向こうの思うつぼ!とこちらも意を決し、「またお願いするときは、必ずおたくに連絡しますけど、今ここで時期まで書くわけにはいかないです」ときっぱり云いますが、「いやいや、何年先でもいいんですよ、ただ書いてもらうだけでいいんです」というので、「そんな無責任なことは書けないです」とキッパリ言うと、その言葉にこちらの意志の固さを見たのか、わかりました、ではまたそのときは宜しくお願いしますといってついに引き下がりましたが、あれだけ「みなさんに配っている」と云って、まさに足元にまでもってきていたお米と洗剤その他を、サッと両手に持ち上げて持って帰っていきました。

べつにそんなものが欲しかったのではありませんよ。
むしろもらったが最後、また折々に攻勢をかけられるのは明白ですから、もらわないことがこちらの意志なのですが、その何年何月からという項目に何らかの数字を入れるかどうかが彼らにとって大きなポイントのようで、贈答品はそれへのご褒美であり、こちらへの貸しであり、今後もまたしばしば勧誘にくるための通行料のようなものだと思いました。

やっぱりわけもなくモノをくれるはずはないというのが当たり前という話ですが、世の中、上には上がいるもので、この激しい新聞勧誘合戦を逆手にとって各社からあれこれの品をもらうのが常態化し、「洗剤なんか自分で買ったことがない」と豪語する主婦などもいるというのですから、いやはや凄まじいですね。
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N響とパユ

NHKのクラシック音楽館で放送されたN響定期公演から、エマニュエル・パユをソリストに、モーツァルトのフルート協奏曲第2番、フォッブスの「モーツァルトの“魔笛”による幻想曲」を聴きました。
指揮はアンドルー・マンゼ。

のっけからこう云うのもなんですが、マロニエ君はエマニュエル・パユは昔からあまり興味がなく、ほとんど聴いたことがありませんでした。というのも、ずいぶん前に1枚買ったCDがまるで好みではなかったため、この人の演奏にはすっかり関心をなくしてしまったのです。
ニコレやランパルの時代も終わり、ゴールウェイも歳を取って、現在ではパユがそのルックスも手伝ってかフルート界の貴公子などといわれて、事実上フルーティストの中では一番星のごとく君臨しているようです。

その美男子もすっかり歳を重ねて壮年の演奏家になっていましたから、さてその演奏はいかにと思いましたが、結果は芳しいものではなく、少なくともマロニエ君にはその魅力がどこにあるのか、一向にわからないものでした。

まず端的にいって、これという説得力もないまま、むやみにモーツァルトを崩して好き勝手に演奏するという印象で、もうそれだけで好感がもてません。聴く側が何らかの共感ができないようなデフォルメをしても、それは作品本来の姿が損なわれるだけで、この人がどういう演奏をしたいのかという表現性がまるきり感じられないだけで、だったらもっと普通にきちんと吹いてくれる人のほうがどれだけ音楽を楽しめるかわかりません。

不思議だったのは、これほどのトップレベルにランキングされる演奏家にしては、演奏には不安定さが残り、しかも全体に音が痩せていて温かみやふくよかさがないし、なにより一流演奏家がまずは放出する安心感も感じられません。それどころか、ところどころでリズムは外れ、フレージングは崩れ、音にならない音が頻発、楽曲の輪郭がなさすぎたと思います。
一番の不満は、モーツァルトの優美な旋律や展開の妙、活気とか、その奥にわだかまる悲しみとか、つまり彼の天才がまったく聞こえてこないという点で、その場その場を雑で気ままに吹いているようにしか思えませんでした。

基本的な音符が大事にされない演奏というのは好きではない上に、わけてもそれがモーツァルトともなれば、いやが上にも欲求不満が募るばかりでした。そのくせカデンツァになると意味ありげに間を取ったり突然テンポをあげてみせたりと、自己顕示欲はなかなか強いことも感じます。

またパユほどではないにしても、アンドルー・マンゼの指揮もなんだかパッとしない演奏で、冒頭にはフィガロの序曲をやっていましたが、おもしろくない演奏でした。

指揮者の責任もありますが、そもそもN響じたいが、マロニエ君にいわせるとモーツァルトとの相性が悪く、この官僚的オーケストラとは根本的に相容れないものがあるような気がします。モーツァルトのあの確固としているのに儚く、典雅なのに人間臭い作品は、もっと個々の演奏者が喜怒哀楽をつぎ込んで演奏して欲しいのに、いつもながらだれもが冷めたような表情で、ただ職業的に演奏する姿は、どうにかならないものかと思います。
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優雅さの裏で

有名音楽雑誌のモーストリー・クラシックの9月号は『スタインウェイとピアノの名器』と銘打った、世界の一流ピアノに焦点を当てた巻頭特集が組まれていました。

以前にも同誌では『ピアノの王者スタインウェイ』という特集があり、内容的にはその焼き直しでは?という気もしましたが、それでもこういう表紙を見るとつい買わずにはいられません。

今回はスタインウェイオンリーではないために、それ以外のピアノについてもいろいろと触れられていますが、そのなかでもベーゼンドルファーに関する記事はマロニエ君にとって、非常に興味深いものでした。

ベーゼンドルファーというと、ウィーンの名器であることはもちろん、貴族的で、優雅な音色と佇まいの別格的なピアノであり、厳選された材料を手間のかかる伝統工法で制作される最高品質の楽器であること、さらにはどことなく近寄りがたい貴族御用達の工芸品でもあるような、とにかく何かにつけて特別で、孤高のピアノというイメージがありました。

製造番号も通常のシリアルナンバーではなく、作曲家の作品番号と同じくオーパス番号であらわされるなど、通常のピアノという概念を超えた、それ自体がまるで芸術品のようでもあり、ある人など「そもそもベーゼンドルファーなんて、庶民が買うピアノじゃないですよ!」とまで言わしめるような、そんなイメージを一新に纏っているピアノであり会社だったような気がします。

量産ピアノとはかけ離れた手の込んだ作り、少ない生産台数などは、およそガツガツしたビジネスとは無縁で、とりわけ昔は王侯貴族をはじめ裕福な一握りの顧客だけを相手に、それにふさわしい最高級ピアノを悠々と提供してきたのだろうと思うのはきっとマロニエ君だけではないはずです。

ところが、この特集にあるベーゼンドルファーの小史によれば、創始者のイグナツ・ベーゼンドルファーは「才長けた経営者であり商人でもあった」のだそうで、経営拡大のために「まず狙いを定めた」のがあのリストで、彼の強靱な奏法に耐えるピアノがなかなか存在しないことに目をつけ、それにぴったりのピアノを製作して進呈するという思い切ったやり方で、当時のピアノのスーパースターであるリストからベーゼンドルファーを贔屓にしてもらうという手段に出るのだそうです。
それだけに留まらず(ベーゼンドルファーが品質の良いピアノであったことはあるにせよ)、販路拡大をめざして東欧諸国や北イタリアを含む広大な地域を支配していたオーストリア帝国の各地、さらにドイツ、フランス、イギリスにまで積極的なセールスを展開したとあります。

また、リストのような名だたるピアニストが演奏旅行をおこなう際、会場のピアノの銘柄や質がまちまちだったことにも目をつけて、ヨーロッパの主要演奏会場にベーゼンドルファーが置かれるように計らい、こういうシステムの先駆者でもあったようで、とにかくきわめて野心的な商売人であり、それを可能にする才気の持ち主だったというのは驚きでした。

また、イグナツの息子のルードヴィヒは父の会社を受け継ぎ、さらなる工場の大規模化を敢行。その快進撃は止まらないようです。あの有名なウィーンの学友協会の新会館がオープンして、そこへ引っ越した学友協会の音楽院へもさっそくベーゼンドルファーを寄贈、そして優秀な学生にもベーゼンドルファーをプレゼント、さらに新開館のホールにもベーゼンドルファーを置いてもらう、さらにさらにそこを会場としてベーゼンドルファー・国際ピアノコンクールを創設という、逞しい商魂と抜け目の無さで、まるで現代のサクセスストーリーを聞いているようでした。
まだまだあります。
ウィーンの中心街にあった名門貴族のリヒテンシュタイン家の宮殿を間借りしてショールームをオープン、その後はその宮殿の一部を改造してベーゼンドルファー・ザール(ホール)を建設、まだありますがもうここらでやめておきましょう。

少なくとも、これが設立から19世紀後半までのベーゼンドルファー社がやってきた経営であり、それは現在のブランドイメージとはまるでかけ離れたものだったことを知って驚かされました。
もちろんビジネスである以上それを悪いというのではありませんが、あまりにも抱いていたイメージとは違っていて、たおやかな貴婦人だとばかり思っていた人が、実は手段を選ばぬ猛烈ビジネスのやり手社長だったと知らされたみたいで、その過去の事実にちょっとばかりびっくりしたというわけです。
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調律の価値

NHKのクラシック音楽の番組で、ある地方都市で行われた演奏会の様子が放映されました。
ピアニストは現在日本国内でしだいにその名を聞く機会が増えてきた方ですが、今回はその方の演奏の話ではありません。

ピアノにとって調律とはいかに大切であるかを、たかだかテレビを通じてではありますが、痛いほど感じたコンサートだったので、このことを書いてみようと思います。
内容がきわどい要素を含むため、特定の固有名詞は一切控えることとします。

この会場にあったスタインウェイは、ディテールの特徴からして、20数年経過したD(コンサートグランド)で、手荒に使われた様子も、頻繁なステージで酷使された様子もないもので、こういうことは不思議に映像からもわかるものです。

第一曲がはじまり、まず感じたことは、この時代のスタインウェイは、明らかに現在のものとは音のクオリティが異なり、それを言葉にするのは難しいですが、まず簡単に云うなら重厚で音に密度があって、底知れぬ奥の深さみたいなものがあります。
どんな巨匠の演奏でも、テクニシャンの超絶技巧にも、まったく臆することなく応じることのできる懐の深さと頼もしさを生まれながらにもっているという印象。

とりわけ今の楽器との差異を痛切に感じさせられるのは、音に太さとコクがあること、あるいは低音域の迫力とパワーで、このあたりはスタインウェイの有無を言わさぬ価値が、まだはっきりとしたかたちで残っていた時代ということを実感させられます。こういう音を聞くと、やはりむかし抱いていたスタインウェイへの強い尊敬と憧れの理由が、決して一時の勘違いではなかったことが痛切に証明されるようです。
「昔のスタインウェイをお好みの方もいらっしゃるようですが、我々専門家の目から見ればピアノとしては現在の新品の方がむしろ良くなっている」などという話は、楽器店の技術者や輸入元の責任者がどんなに熱弁をふるおうとも、ビジネスの上での詭弁としか聞こえません。

利害の絡んだ専門家といわれる人の話を信じるか、自分の耳を信じるかの問題です。

このホールのスタインウェイに話をもどすと、これが自分が本当に好きだった最高の時代のスタインウェイとは云わないまでも、その特徴をかなり色濃く残した時代のピアノであることは、もうそれだけで嬉しくなりました。
しかし、しばらく聞いていると、せっかくの素晴らしい時代のスタインウェイであるのに、まるで迫ってくるはずの何ものもないことに違和感を覚えはじめます。ピアニストも熱演を繰り広げているのですが、それが即座に結果として反映されないことに、多少の焦りがあるようにも感じられました。

それが今回書きたかったことですが、これはひとえに調律の責任だと思いました。
まったく冴えがなく、音楽に対するなんら配慮のない無味乾燥なもので、音は解放どころか、完全に閉じてしまってなんの表現力もないものでした。
どんな調律が良いのかは、マロニエ君ごときが云えるようなことではありませんが、すくなくとも演奏という入力を雄弁な歌へと変換することで、有り体にいえば、聴衆の心にじかに訴えかけるような「語る力」を楽器に与えることでしょう。

さらに技術者も一流どころになれば、調律に際し、ピアニストの奏法やプログラムにまで細やかな考慮が及ぶことで演奏をサポートするわけです。
当然ながら、ピアニストの足を引っぱるような調律であってはならないわけですが、今回の調律はまったく凡庸な、音楽への愛情のかけらもないもので、音はどれもがしんなりとうなだれているようでした。

おそらくはあまり使われることのないピアノで、調律師もコンサートの経験の乏しい方だったのだろうと思わざるを得ませんでしたが、あんなに立派な楽器があって、なんと惜しいことかと思うばかりでした。ホール専属でも、競争の少ない地方などでは、きっちり音程を合わせることだけが良い調律だと本気で思っている調律師さんもいらっしゃるのが現実なのかもしれません。

素晴らしく調律されたピアノは、その第一音を聴いたときから音楽の息吹に溢れていて、わくわくさせられるものがあるし、音が解放され朗々と会場に鳴り響くので、必然的に演奏のノリも良くなり、それだけ聴衆も幸せになるわけで、調律師というものは、それだけの重責を負わされているということになるわけです。
マロニエ君に云わせると、良い調律とは、音が出る度に、空間にわずかな風が舞うような…そんな気がするものかもしれません。
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ヴェンゲーロフ

長らく肩の故障で演奏休業状態に追い込まれていたヴァイオリニストのマキシム・ヴェンゲーロフが数年ぶりに復活し、日本でもヴェンゲーロフ・フェスティバル2013と銘打つ一連の公演をやったようです。

その中からサントリーでのリサイタルの様子がNHKのクラシック倶楽部で放映されましたが、ずいぶんと恰幅のいいおじさんにはなってはいたものの、基本的な彼の特徴は昔とはなにも変わっていませんでした。たしかに透明感の増した音やディテールの処理などは、より大人のそれになったとは思いますが、音楽的な癖や音の言葉遣いみたいなものは、良くも悪くも以前のままのヴェンゲーロフのそれでした。

曲目はヘンデルのヴァイオリンソナタ第4番、フランクのヴァイオリンソナタ、アンコールにフォーレの夢のあとに&ブラームスのハンガリー舞曲というもの。

ヴェンゲーロフは1980年代にソ連が輩出した最後のスター演奏家のひとりといえるのかもしれません。
ブーニンが1985年のショパンコンクールに優勝して、日本ではロック歌手並みの大フィーバーが起こり、ついには日本武道館でのピアノリサイタルという前代未聞の社会現象まで引き起こしましたが、その一年後に天才の真打ちとして来日したキーシン、さらにヴァイオリンではヴァディム・レーピンとこのマキシム・ヴェンゲーロフがそれに続きました。

このヴァイオリンの二人は年齢こそ僅かに違うものの、同じロシアのノボシビルスクという極東よりの町から現れた天才少年で、先生もザハール・ブロンという同じ人についていました。
何から何まで天才肌で、どこか悪魔的な凄味さえ漂わせるレーピンに対して、ヴェンゲーロフはあくまでも清純で叙情的、まるで悪魔と天使のような対比だったことを思い出します。

マロニエ君は昔からヴェンゲーロフのことは決して嫌いではありませんでしたが、だからといって積極的に彼の演奏を求めて止まないというほどのものはなく、魔性の演奏で惹きつけられるレーピンとは、ここがいつも決定的な差でした。

そして今回38歳になったというヴェンゲーロフの演奏に接してみて、またしても同じ感想をもつにいたって、天才というのは幾つになってもほとんど変わらないということを実感させられました。
ヴェンゲーロフの演奏には間違いなくソリストにふさわしい強い存在感と華があり、テクニック、演奏家としての器ともにあらゆるものを兼ね備えているとは思うのですが、ではもうひとつ「この人」だと思わせられる個性はなにかというと、そこが稀薄なように思います。画竜点睛を欠くとはこういうことをいうのでしょうか。

その音は力強くブリリアント、しかも情感に満ちていて美しいし、音楽的にもとくに異論の余地があるようなものではないけれど、あと一滴の毒やしなやかさ、陰翳の妙、さらには細部へのいま一歩の丁寧さがどうしても欲しくなります。どの曲を聴いても仕上がりに曖昧さが残り、ひとりの演奏家の音楽としてはやや雑味があって仕上げが不足しているように思えてなりません。

ピアノはヴァグ・パピアンというヴェンゲーロフとは親交の深い男性ピアニストでしたが、この人の特殊な演奏姿勢は一見の価値ありでした。これ以下はないというほどの低い椅子に腰掛け、さらには背中を魔法使いの老婆のように丸めて、その手はほとんど鍵盤にぶら下がらんばかり。さらには顔を鍵盤すれすれぐらいまで近づけるので、どうかすると鼻や顎がキーに触れているんじゃないかと思えるほどで、まるで棟方志功の鬼気迫る版画制作の姿を思い出させられました。
でもとても音楽的な方でした。
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なんと東京五輪

開けてびっくり、2020年夏のオリンピック開催地が東京に決定したことは、まずは喜ばしい、おめでたいことだったと思います。
実を云うとマロニエ君の予想では、東京はほぼ落選するものと思っていました。

いきなりこう云ってはなんですが、そもそもマロニエ君はオリンピック誘致にさほど熱心な気持があるわけでもなく、観るとしてもどうせテレビだし、どこでやっても自分にとっては同じ事という考えでした。それどころか、あの過密都市東京で、この上にオリンピックのような壮大なイベントをやるなんて、考えただけでも息が詰まるようでした。

それに、その東京の、いつも怒っている猫みたいな猪瀬知事の様子にも違和感があり、それがいつしかこわばったような悲痛な笑顔を作り始め、無理してテンションあげているような、同時に何かに取り憑かれたような不自然な言動を見ていると、いよいよ東京は無理だろうという予感が強まってくる気がしていたものです。

下馬評でもマドリードが優勢のように伝えられていましたし、さらに東京不利を決定付けたと見えたのは、ブエノスアイレスで行われたJOC会長の竹田氏の記者会見で、大半の外国人記者から福島原発の汚染水に関する環境面の質問を受けた折の対応で、英語はたちまち日本語に切り替わり、おたおたして適切な対応も出来ないまま「政府が説明する」「安部さんが来る」「福島と東京とは距離がある」などの繰り返しで、これが長年JOC会長を務め、さらにはIOCにも深く関与している人物の発言とは信じられない思いでした。

質問した記者からも、会見後、氏の対応には驚いたという声が聞かれ、これで完全に東京の芽はなくなったと思っていたところ、フタを開けてみれば順序から云うと最有力視されていたマドリードがまずはじめに落選し、決選投票によって東京に決定したのは、とりあえず日本人として素直に良かったとは思ったものの、なんだか狐につままれたような印象でした。

これはロシアで開催中のG20を中座してまでブエノスアイレスに駆けつけた安部さんによる強力な巻き返しが功を奏したのか、皇族の慣例を破ってこの地に赴かれた高円宮妃久子様など周りの皆さんの功績とフォローが大きかったのかとも思いました。ネットニュースによれば「最終プレゼンが勝因」とありましたから、だとすると安部さんの汚染水に関する安全説明が決め手ということでもありますが、いずれにしろ結果は東京誘致は成功したのですから、ものごと最後までわからないものですね。

あとから聞いた話では、近い将来フランスが開催の野心をもっている由で、そうなると前回がロンドンだったこともあり、今回マドリードに決まれば、ヨーロッパの開催が増えすぎることでフランス開催が難しくなるため、ここはいったんアジアへもっていこうというバランス感覚も作用したとか…。

それはそれとして、オリンピック開催にかくも世界が躍起になるのは、とうてい崇高・純粋なスポーツ愛好精神からではないことは明白で、今の世界で最も有名で最もわかりやすい世界最大規模のイベントを開催することでもたらされる開催国の発展や経済効果、知名度アップなど、そこについてまわるもろもろの「オリンピック特需」が欲しいからにほかならないと思います。

アベノミクスという言葉にもそろそろ効力が薄まりつつある今日、東京オリンピック開催という新しい目的が出来ることによって、この疲弊しきった日本の社会が少しでも息を吹き返せるのであれば、それはそれで結構なことだと思います。
景気は気、まさに気分の負うところが大きいと云われますから、これで少しは日本人が明るい気分に転換できるよう期待したいと思います。
今の日本は自分を含めて、あまりにも暗くてみみっちくて不健康ですから。
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メーカーの遺伝子

あるピアニストについて、長いことファンを任じているマロニエ君としては、この人のCDが発売されれば、それがいかなるものであろうと購入する事にしています。

先ごろも、イタリアのとあるレーベルから、ピアノデュオコンサートのライブCDが発売され、正直あまり気乗りはしなかったのですが、これはマイルールでもあり、半ば義務なのでしかたがありません(ばかばかしいですが)。
レーベル同様、コンサートが行われたのもイタリアのようです。

聴いてみても、予想通り内容があまり好ましいものではなかったこともあり、名前は敢えて書きませんが、もちろんお詳しい方にはおわかりかもしれませんし、それはそれでいいと思っています。

このピアニストはご自分のことはさておいて、客観的にどうみても大したこともないような変な若者を連れてきては、絶賛したり共演したりということが毎度のことなので、実力に見合わない相手との共演もいつものことで、我々ファンはそんなことにもとうに慣れっこになっています。

それにしても、このお相手はあまり音楽的な趣味のよろしいピアニストではなく、せっかくの演奏もかなり品性を欠いた残念なものになってしまっていました。しかも相手が相手なので、この時とばかりにいよいよ張り切るのでしょうが、根底の才能がてんで違うのだから、どうあがいても対等になれる筈もないわけですが…。

それはそれとして、このコンサートでは2台とも日本製ピアノが使われており(イタリアではわりに多いようです)、しかもその録音ときたらマイクが近すぎるのが素人にさえ明らかで、うるささが全面に出た録音になっており、一人のスターピアニストがそこにいるということ以外、すべてが二流以下でできあがったコンサート&CDだという印象でした。

クラシックの録音経験の少ない技術者に限って、マイクを弾き語りのようにピアノに近づけたがり、リアルな音の再現を目指そうとする傾向が世界中にあるようにあるように思われます。しかしピアノの音というものは、近くで聴けば雑音や衝撃音、いろいろな物理的なノイズなどが混在していて、まったく美しくはありません。これはどんなに素晴らしい世界の名器であってもそうだと言えるでしょう。

ピアノの音を美しく捉えるためには、まず楽器から少し離れないことにはお話にならないということですが、ブックレットに小さく添えられた写真を見ると、至近距離にマイクらしきものがピアノのすぐそばに映り込んでいるので、ほらねやっぱり!と思いました。

結果として、ピアノの音が音楽になる前の生々しい音が録られているわけですが、そこに聴く日本製ピアノの音と来たら、なんの深みもない軽薄な、あまりにも安手の音であったことが、図らずもひとつの真実として聞くことができたように感じられました。

もちろん使われているのはフラッグシップたるコンサートグランドなのですが、こうして近すぎるマイクで聴いていると、同社の普及型ピアノとほとんど同じ要素の音であることに愕然とさせられ、血は争えないものだということがまざまざとわかります。
製品にもメーカー固有の遺伝子というのがはっきりあるということで、聞くところではコンサートグランド制作は、普及型とはまったく別工程で限りなく手作りに近い方法によって入念に作られているというような話を聞いたことがありますが、こうして聴いてみると、ほとんど機械生産のそれと同じような音しかしていないのが手に取るようにわかりました。

だったら、まだるっこしいことはせずに、試しにいちど普及品と同じラインで、同じように機械生産してみたらどうかと思いましたが、ときどき本気のピアノを作るとき以外は、もしかしたらそれをやっているのかもしれないような気がしました。
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興味がない!

過日読了した本、高木裕著『今のピアノでショパンは弾けない』(日本経済新聞出版社)の中に次のような記述があり、仰天させられました。

「有名私立音大のピアノ科の教授から聞いた話です。教え子に(略)上手いピアニストのコンサートに行きなさいと言っても行かない。どうも興味がないようだ。仕方なく、これはというコンサートに無理やり連れて行っても、そのピアニストのどこが上手いのかわからずに、周りが拍手するのでつられて自分も拍手する。上手いピアニストのここが上手いとわかったら、うちの音大では5本の指に入るんですよ…と嘆いていました。」

???
まさかウソではないのでしょうから、やっぱり事実なのでしょうが、まったく開いた口がふさがらないとはこのことで、ここまで今の若い人は感じることも情熱を燃やすこともなくなってしまったのかと思います。
そんなに上手い人の演奏にも興味がないほどどうでもいいのだったら、その学生は、そもそもなんのためにピアノなんてやって、尤もらしく音大にまで行っているのかと思います。しかもこれは特殊な一人の話ではなしに、全体がそうだと言っているわけで、そんな人間がいくら練習して、難曲をマスターして、留学してコンクールで入賞しようとも、所詮は聴く者の心を打つ演奏なんてできるわけがないでしょう。

昔は、いかなるジャンルでも、芸術に携わる人間が集まれば、いろいろな作品などに対する批評や論争で議論沸騰し、さらに昔の血気盛んな芸術家の卵たちは見解の相違から殴り合いになることさえあるくらい真剣だったと聞きます。お互いの批評精神が審美眼として厳しく問われ、論争の絶える間はなかったのは、芸術家およびその予備軍は常に鋭敏な感性が問われたからでしょう。
そしてともかくも純粋だったのですね。

少なくとも自分達のやっていることの、最高峰に属する一流といわれる人達の仕事に興味がないなんてことは、逆立ちしてもマロニエ君には理解できません。

これはサッカー選手を目指して学生チームで奮闘しながら、ワールドカップにはまったく興味がないようなもので、そんなことってあるでしょうか?
あまたのアスリートが血のにじむような努力と練習を重ねながら、オリンピックには無関心なんてことがあるでしょうか?

そういうことが、いやしくも音楽の道を志し、幼少時から専門教育を受け、来るべき時には海外留学したり、コンクールにでも出ようという人達の間で普通の感性だというのなら、その心の裡はまったく謎でしかありません。
自分はそれだけのことをしてきた、あるいはできるんだという単なるアクセサリーなのでしょうか。あるいは卒業したら、その経歴をひっさげて芸能界にでもデビューするのでしょうか。いずれにしろ、そんな人達に音楽の世界を汚して欲しくないと思いました。

ピアノを弾くことを特に高尚なことだなどとは思いませんが、少なくとも芸術に対する畏敬の念とか、より素晴らしい音楽表現を目指して音楽に接する情熱がなく、醒めていることが当たり前のようになっているのはいかがなものかと思います。

高尚とはいわずとも、少なくとも音楽の持つ美と毒とその魔力に魅せられて、どうにも始末のつけようがないような人にこそ、芸術家はふさわしいものであって、ただ単にコンクール歴を重ねることが目的のような人は、もうそんなまだるっこしい事はしないで、せっせと勉学に励んで一流大学にでも行き、しかるべき職業に就くほうがよほどせいせいするというものです。
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大器発見

録り貯めしているNHKのクラシック倶楽部の中から、今年の4月のトッパンホールでおこなわれたラチャ・アヴァネシアンのヴァイオリンリサイタルを聴きましたが、ひさびさにすごいヴァイオリニストが登場してきたというのが偽らざる印象でした。

曲目はドビュッシーのヴァイオリンソナタ、ファリャ/クライスラー編;歌劇『はかなき人生』より「スペイン舞曲」第1番、チャイコフスキー/アウアー編;歌劇『エフゲニー・オネーギン』より「レンスキーのアリア」、R.シュトラウス/ミッシャ・マイスキー編;「あすの朝」、ワックスマン;カルメン幻想曲など。

冒頭のドビュッシーのソナタの開始直後から、ん?これは…と思わせるものがムンムンと漂っています。アヴァネシアンはまだ20代後半のアルメニア出身の演奏家ですが、要するに大器というものは聴いていきなりそれとわかるだけの隠しおおせない力や個性があふれているという典型のようで、確固とした自分の表現が次から次へと自然に出てくるのは感心するばかりです。

技巧と音楽が一体となって、聴くものを音楽世界へとぐいぐいといざなうことのできる演奏家がだんだん少なくなってくる最近では、小手先の技術は見事でも、要するにそれが音楽として機能することのないまま、表面が整っただけの潤いのない演奏として終わってしまうのが大半ですから、アヴァネシアンのいかにも腰の座った、力強いテンションの漲る演奏家としての資質は稀少な存在だと思います。

演奏の価値や形態にも様々なものがあるは当然としても、このように、とにもかくにも安心してその演奏に身を委ね、そこからほとばしり出る音楽の洪水に身を任せることを許してくれる演奏家が激減していることだけは確かで、そんな中にもこういう大輪の花のような才能がまだ出てくる余地があったということに素直な喜びと感激を覚えました。

演奏中の表情などもタダモノではない引き締まった顔つきで、尋常ではない高い集中力をあらわすかのような目力があり、その表情の動きと音楽が必然性をもって連動しているあたりも、これは本物だと思いましたし、太い音、情熱的な高揚感、さらには極めて力強いピッツィカートはほとんど快感といいたいほどのものでした。
まだこれというCDなどもないようですが、マロニエ君にとって今後最も注目していきたい若い演奏家のひとりとなりましたが、時代的にはこういう人があまりいないのが非常に気にかかる点ではあります。

ピアニストは、このコンサートで共演していたのはリリー・マイスキーで、チェロのミシャ・マイスキーの娘さんであることは、名前が出てから気付きました。両親によく似た顔立ちで、彼女が小さい頃の様子をむかしミシャのドキュメントで見た記憶がありますが、その子がはやこんな大人になっていたのかと驚きました。

演奏自体は、これといって傑出したものもなく、全体に線が細いけれども、それでも音楽上の、あるいはアンサンブル上の肝心要の点はよく知っているらしいというところが随所に感じられたのは、やはり彼女が育った場所が世界の一流音楽家ばかりが行き交う環境だったということを物語っているようでもありました。

決して悪くはないとは思いましたが、なにしろヴァイオリンのアヴァネシアンとのバランスで云うなら、残念ながら釣り合いは取れていないというのが正直なところです。それでもこの二人は各地で共演をしているようなので、何か波長の合うものがあるのでしょう。
それはそれで大事なことですが、ここまで傑出したヴァイオリンともなると、共演ピアニストももっと力量のある人であってほしいと願ってしまいます。
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感情の軽視

最近知り合いの方からいただいた方のメールの中に、次のような一節がありました。
「ピアノでいい音色だそうと頑張るのは、気に入った女性の満足そうな笑顔をみたくてあれこれ頑張るのと似てるような…」

マロニエ君としてはちょっと思いつかない比喩でしたけれども、これはまさに言い得て妙な言葉だと思いました。この方はいくぶんご年輩の方ではありますが、それだけに若い人よりいっそう豊かな情感をもって音楽を楽しみ、ピアノに接していらっしゃるようで、さりげない言葉の中にさすがと思わせられる真髄が込められているものだと唸りました。

何事も知性と情感がセットになって機能しなくては、なにも生まれないし、だいいちおもしろくもなんともありません。とくに現代は、音楽でも、それ以外の趣味でも、それに携わる人達の心に色気がなくなったと思います。
色気なんて云うと、けしからぬことのほうに想像されては困りますが、それではなく、美しい音楽を求める気持も情感であり、それをもう一歩探っていくと色っぽさというものに行き当たるような気がします。美しい音楽、美しい演奏を細かく分解していけば、音楽を構成する個々の音やその対比に行き着き、それを音楽の調べとして美しく楽器から引き出すことが必要となるでしょう。
その美しい音を引き出す動機は、情操であり、とりわけ色気だと云えると思います。

現代の日本人に感じる危機感のひとつに、感情というものをいたずらに軽視し、悪者扱いし、これを表に出さないことが「オトナ」であり、感情につき動かされた反応や言動はやみくもに下等扱いされてしまう傾向があるのは一体どういうわけだろうと思います。
感情イコール無知性で不道徳であるかのようなイメージは現代の偽善社会を跋扈しています。

感情の否定。こういう生身の人間そのものを否定するような価値観があまりに大きな顔をしているので、人は環境に順応する性質があるためか、ついには今どきの世代人は感情量そのものが明らかに減退してきているように思われます。不要な尻尾が退化するように、感情があまりに抑圧され、否定され、邪魔者扱いされるようになると、自然の摂理で、そもそも余計なものは不必要という機能が働くのか、余計なものならわざわざエネルギーを使って抑制するより、はじめからないほうがそのぶんストレスもなくなり、よほど合理的というところでしょう。

こうしてロボットのような人間が続々と増殖してくると思うとゾッとしてしまいます。
というか、もうあるていどそんな感じですが。
人間が動物と最も違う点は、知性と感情がある点であって、その半分を否定するのは、まさに人間の価値の半分を否定するようなものだとマロニエ君は思います。
感情が退化すれば文化も芸術も廃れ去っていくだけで、人々の心の中でも着々と砂漠化が進行しているようです。

電子ピアノは氾濫、アコースティックピアノもなんだかわざとらしい美音を安易に出すだけの今日、本物の美しい音や音楽の息吹を気持の深い部分から願いつつ、ピアノからどうにかしてそれを引き出そうという意欲そのものが失われて、「女性の満足そうな笑顔をみたくてあれこれ頑張る」というような行為は日常とは遠くかけ離れたものになってしまっているのかもしれません。
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エルガーのバッハ

NHKのクラシック音楽館でのN響定期公演から、下野竜也指揮でバッハ=エルガー編曲の幻想曲とフーガBWV537とシューマンのピアノ協奏曲、ホルストの惑星が演奏されました。
ピアノはアルゼンチンン出身で1990年にジュネーブコンクールで第1位のネルソン・ゲルナー。

ゲルナーのピアノは、繊細で彼の音楽的誠実さを感じるものではあるものの、いささか弱々しくもあり、見るからに迫力やパワーのない「この人だいじょうぶ?」といいたくなるような線の細いピアニストでした。
コンチェルトだからといってむやみに鳴らしまくるのがいいなんて暴論を吐くつもりはありませんが、やはりそこにはソリストとしてのある一定のスタミナ感はもっていただかないとちょっと困るなあ…という気がしたのも正直なところです。
必要とあらば力強い演奏も自在な人が、敢えて繊細さを選び取って行う演奏と、それしかできないからそれでやってるというのは本質的に違ってくるでしょう。

とくに第1楽章では、コンチェルトというよりまるでサロン演奏のようで、彼方に広がるNHKホールの巨大空間をこの人は一体どういう風に感じているのだろうと思いました。
もちろん、豪快華麗に弾くだけがピアニストではないのは当然ですし、そういうものよりもっと内的な表現の出来るピアニストの方が本来尊敬に値するとマロニエ君も日頃から思っていることも念のため言い添えておきたいところです。

しかしゲルナーのピアノは、そういう内的表現というよりは、まるで自宅の練習室で音を落として弾いているつもりでは?と思えるほど小さなアンサンブル的な音で、どうみてもNHKホールという3000人級の会場にはそぐわず、演奏の良し悪し以前に違和感を覚えてしまいました。

いやしくもプロの音楽家たるもの、自分の演奏する曲目や、共演者、さらには会場の大きさなどを本能的に察知して、ある程度それに即した演奏ができるのもプロとしての責務であり、その面の判断や柔軟性はステージ人には常に求められる点だと思います。

それでも印象的だったことは、この人には音楽には一定の清らかな美しさがあるということで、表現そのものは品がよく、こまやかな美しさがあったことは彼の持ち前なのだろうと思います。ただし、このままではなかなかプロのピアニストとして安定してやって行くには、あまりにもスター性もパンチもなさすぎで、コンサートピアニストとして一定の支持を得ることは容易ではないだろうとも思いました。

さて、このシューマンの前に演奏されたのがバッハ(エルガー編曲)の幻想曲とフーガBWV537で、これは本来はオルガンのために書かれた作品ですが、この編曲版を聴くのは初めてだったので、どんなものかとりあえず初物を楽しむことができました。
が、しかし、結論から云うと、まったくマロニエ君の好みではなく、バッハ作品をまるでブルックナーでも演奏するような大編成オーケストラで聴かされること自体、まずいきなり違和感がありました。
また編曲のありかたにもよるのでしょうが、マロニエ君の耳にはほとんどこの作品がバッハとして聞こえてくることはなく、後期ロマン派や、どうかすると脂したたるロシア音楽のようにも聞こえてしまいました。

「バッハはどのような楽器で演奏してもバッハである」というのは昔から云われた言葉で、ある時期にはプレイバッハが流行ったり、電子楽器によるバッハが出てきたりもしたし、だからこそ現代のモダンピアノで演奏する鍵盤楽器の作品もマロニエ君としてはいささかの違和感無しに聴いていられたものでしたが、さすがに、このエルガー版はその限りではありませんでした。

かのストコフスキーの時代にはこういう編曲も盛んで、聴衆のほうもそれを好んでいたのかもしれませんが、ピリオド楽器全盛の今日にあって、切れ味の良い鮮やかな演奏に耳が慣れてきているのか、こういう想定外の豪華客船のようなバッハというものが逆にひどく古臭い、時代錯誤的なものでしかないように聞こえてしまいました。
もちろん否定しているのではなく、これはこれで価値あるものと捉えるべきだと思うのですが、少なくとも自分の好みからはかけ離れたものだったという話です。
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自作は悪モノ

前回、エアコンの室内への水漏れは結露によるもので、それは「自作の風よけが原因」だと断言され、一向に収まらない水漏れに耐えきれずにその風よけをバリバリ剥がし取ったものの、原因はまったく別のことだった顛末を書きました。

この風よけというのは、実は結構苦労して作ったものだったのです。
というのはプラスチック板を曲げて、それをエアコンのルーバーに貼り付けるという発想だったのですが、その素材はというと、ホームセンターで買ってきたものは、いざ曲げようとするとパリンと割れたり、はたまた強度が期待できないような頼りないものだったりの繰り返しで、できるだけ柔軟で「曲げ」に強い素材に到達できるまで数店まわって探し求め、やっとのことで完成したものでした。

こういう素材は、紙やベニヤ板と違い、カットするだけでも大変ですし、それを固定するために特殊な両面テープも必要となり、失敗分を含めると結構な金額やエネルギーを要した「労作」だったわけですが、それが悪者扱いされて、べりべりと剥がし取りました。

ところが、この業者ときたら、水漏れ修理の途中からちょっと変だなと思うことをチラホラ言い始めました。ピアノに冷風が当たってはいけないのなら、風よけはたしか製品化されていますよ…と口にするので、よく調べてもらうと商品名もわかり、なるほど数種類の製品があるようで、あの自作のための苦労はなんだったのかと思いました。

ネットで簡単に買うことができるし、こんなものがあることを知っていればはじめから余計な苦労をすることもなかったわけで、費用もむしろ安いぐらいです。しかしその写真を見ていると、ちゃんと商品化されたものなのでモノとしてはたしかにきれいですが、機能じたいは自作の風よけと大差ないのでは…という疑念がよぎりました。

つまりどっちみち、エアコンから吹き出た風をあるていど強制的に流れを変えるということには変わりはないわけで、それが結露&水漏れの原因になるというお説だったのですから、その危険性という面ではなんの違いもないように思いました。
でも、夜中に必死で作業をやってくれていることでもあり、もうそれ以上の追求はしませんでした。

自作の風よけを再度取りつけようかとも思いましたが、もともと手作りの手曲げだったので見栄えがそれほどいいわけでもない上に、固定に使ったプロ仕様の超強力両面テープというのが、文字通りの超強烈接着力で、剥がし取るだけでも誇張でなく肩が外れそうになるほど猛烈な力でくっついており、これを外すときに当然アクリルにもかなりダメージがあり、これをいまさらまた装着する気にもなれませんでした。

そこで、やはり専用品を買うことにして注文、さっそくアマゾンから送ってきましたが、これはあくまで汎用品なので、そのままポンと取り付けられるわけではなく、あれこれの工夫が必要でした。なんとか工夫して、めでたくピアノへの冷風直撃が回避されることになり、とりあえずひと安心となりました。

が、しつこいようですが、出来合いの専用品になったからといって自作のものと風の流れが劇的に変わったとも思えず、結局マロニエ君が作ったものと、先方のオススメ品は、やってることはおんなじことで、だったらこれでもメーカーの保証の対象外(エアコン自体とは別メーカーなので)になるんじゃないかと、エアコンに目が行く度に思ってしまいます。

自作のものはあれだけ糾弾しておいて、結局似たようなものを勧めるなんて…なんだかわけがわかりませんが、要するに向こうもその場限りのことを言っているだけで、終始一貫した発言を求めるほうが無理ということでしょう。
フゥという気もしますが、まあ何事も紆余曲折があるということで、ようやく落ち着いているところです。
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技術者の独断

対象がなんであってもそうでしょうが、機械ものの技術者というのは、ときにユーザーの意見や証言を尊重せず、自分の経験則や判断を絶対視する傾向があるようです。

マロニエ君はこれまでに何度この手の「誤診」により、車の故障などで、二度手間、三度手間をかけさせられたかわかりません。これはたぶん医師にもあることだろうと思いますが、こちらは健康、ひいては命にかかわることなので笑い事ではすみません。

おそらく技術者の意識の中には、相手はシロウト、対する自分はその道のプロフェッショナルだという優越意識があって、相手の云うことを貴重な情報として丁寧に聞こうとする姿勢が足りないものだと考えられます。
確かにユーザーは技術的には素人であることは間違いないけれども、その機械なり車なり(あるいは自分の身体)とは、毎日のように関わることで、長時間にわたり不具合の特徴などを深く知るに至っています。これに対して技術者は、解決を求められてはじめてその問題に相対するので、症状を慎重に観察・認識するだけの暇がないというのはわかりますが、ここで独断に走り、ユーザーの訴えに対して謙虚に耳を貸すということを怠ってしまうことが少なくないように感じます。

先日も、この連日の猛暑の中、我が家のツインのエアコンの片側から水漏れが発生し、それが下の棚やカーペットに容赦なくしたたり落ちるので、すぐに設置した業者に電話すると、明日行くので今夜はバケツなどを置いて凌いでくれという対応でした。

翌日、その業者がやって来ましたが、見るなり「これは結露です」と、いとも簡単に結論づけました。その根拠というのが、ツインエアコンの片側はピアノ近くにあるので、冷風がピアノに直撃しないようにアクリル板を自分で加工して、風がやや上向きになるように対策していたのですが、曰くそのアクリル板のせいで風の流れが変向し、それが結露を引き起こしていると断じるのです。さらにはその根拠として、まったく同じ機械のもう一台のほうからは一滴の漏れもなく、この状態はメーカーが想定している標準の使用方法にかなっていないからそうなるわけで、だからこのままでは保証も受けられない可能性がありますよといって、今回の結露は「たまたま起こった現象」ということで、とくにこれという作業もしないまま帰っていきました。

ところが、この結露だと云われた水漏れの症状は日に日に激しくなるばかりで、しまいにはエアコンの下は雨が降るほどにボタボタと水がしたたり落ちる状態となり、このところの暑さもさることながら、部屋の中にそれだけの水が漏れ落ちて来るということは精神的にも非常にストレスとなり、たまらずにまた業者に電話をしました。しかし、向こうが云うには自作の風よけが原因だろうから、どうしても気になるならそのアクリル板を外してみてくださいという指示でした。
それでもダメなら伺いますというので、この頃にはいささか立腹ぎみでもあったので、ピアノのためには必要な風よけ(せっせと作った)をバリバリと一気に外してやりました。「さあどうだ」といわんばかりに。

しかし、結果的にはそれでも水漏れは一向に治まる気配はなく、あいかわらず水はボタボタで、エアコンの下は大小のバケツや受け皿が4つも並んでいるという見るも情けない状況です。
当然その旨連絡をしたことはいうまでもなく、向こうも観念したのか、深夜でしたが、それから一時間ほどして首を捻りながらやってきました。機械のカバーが外されると、その中は業者のほうが驚くほどの水浸しで、さっそくその原因究明と作業が開始されました。

結論から言うと、水を排出するドレンとかいう部品の結合部分や、排出の経路の勾配の付け方に問題があることが判明し、これはすべて取付時の作業に問題があった由、最後は恐縮しながら、件のアクリル板が問題ではなかったことをしぶしぶ認め、作業が終わったのは真夜中のことでした。

まったくお互いにトホホな次第で、拙速に断定するからこんなことになるのです。
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完璧の限界

前々回、内田光子のシューマンのことを書いていて思い出したのですが、彼女の録音はもちろんのこと、世界中のコンサートにも同行しているのは、ハンブルク・スタインウェイの看板ピアノテクニシャンであるジョージ・アンマンです。

彼は、現在のこの業界では知らぬ者のいない、いわばカリスマ的なピアノテクニシャンで、ショパンコンクールなどでも、いざというときは彼が万難を排してワルシャワに駆けつけ、他者では及ばないような調整を見事やってのけてピアノを輝かせるといった、もっか最高技術の持ち主といった存在とされているようです。内田とアンマンの関係も、内田のほうが彼の技術に惚れ込んで現在のような関係ができているということを聞いたことがあります。

福岡でのリサイタルでもアンマン氏は同行していた由で、その音をきくことができましたが、それは内田のCDで聴かれるものと、まったく同じ「あの音」であり、最近のCDは、音などは人工的に加工ができるから信頼できないということで非難する人がありますが、マロニエ君は断じてそうは思いません。技術的な可能性としては驚くようなことがいろいろ可能でも、それは真実をより良く適切に伝えるための手段として使われているようで、少なくともメジャーレーベルでは原音に忠実になるよう計らわれているようで、結果的にはかなり真実を伝えていると思います。

もちろん、録音現場で聴く演奏とCDの音では違いはあるとしても、それは環境の違いからくるものであって、CDは加工によって切り刻まれた整形美人のように、まったく別物という意味ではなく、そこに発生するものをより完成度の高い商品として仕上げていると思うのです。

さて、そのジョージ・アンマンですが、たしかにその音は美しく、見方によっては完璧といってもいいのかもしれません。彼の手にかかると、スタインウェイのような個性的なピアノも見事に飼い慣らされた従順な馬のようになり、音や響きにもムラがなく、すべてが過不足無く揃って、尚かつそのひとつひとつの音も甘く美しいもので、とりあえず「恐れ入りました」という感じです。

しかし、実はマロニエ君はこういう調律は見事だと思うし尊重もするけれども、好みとしてどうかとなると実はそれほど双手をあげて好みとは云えないものがあるのです。それは、あまりに完璧なもの特有のつまらなさ、それ故の狭さ、そこから何かを予感して受け取る側が楽しむ余地・余白というものが摘み取られてしまい、バカボンのパパではありませんが「これでいいのだ!」と上から押しつけられているような気がします。

マロニエ君は音楽はもちろん、何事も押しつけられるということが嫌いで、それは自分が自分の意志や感性を介して自由に楽しむという喜びやイマジネーションを奪われてしまうからかもしれません。

おかしな喩えですが、ジョージ・アンマンの手がけたピアノは、スタインウェイがヤマハのような均一さを欲しがっているようにも感じるし、同時にヤマハはスタインウェイのようなブリリアンスと強靱さを欲しがって、互いに相手の個性が羨ましくて仕方がないというような印象を持ってしまいます。

メーカーのことはさておくとしても、新しいピアノ、見事な調整というものは、キズのない最高級の献上品のようで、それはそれで素晴らしいものかもしれませんが、そういうもの特有のつまらなさ、閉塞感のようなものをつい感じてしまうわけなのです。
もちろん、くたびれたピアノや下手な調整がいいと云っているのではないことは言い添える必要もないことですが、少なくともある種の「危うさ」「際どさ」というものを常にどこかに秘めているものを求めているのはたしかなようです。

きっと個人的な好みとしては、そこそこの顔立ちに最高のメイクをして、今の瞬間だけを不当に美しく見せるようなやり方にどこか嘘っぽさを感じてしまい、それよりも、たしかな目鼻立ちの美人が、そこそこの化粧やすっぴんでも美しいなぁ…と感じたり発見したりするときのほうが自分には合っているし、根底のしっかりしたものが鷹揚に構えている姿のほうが性に合っているんだろうと思います。
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宝になれない宝

自分の地元を自慢するわけでも卑下するわけでもないのですが、福岡市という土地は住み暮らすにはとても総合点の高い、好ましい街であるという点では、今も昔もその認識に変わりはないのですが、こと西洋音楽という一面に関して云えば、残念ながらとくに自慢できるような街だとは思っていません。

東京、大阪を別にすれば、他の地方都市がどういう事情かは知りませんが、なんとなくこの分野になると福岡は、マロニエ君は自分が生まれ育った街でありながら、もうひとつ胸が張れないものがあります。

それは例えば音楽ホールについても云えることで、ただ単にホールと呼ばれるものは、福岡市およびその周辺エリアまで入れると数え切れないほどたくさんあって、もったいないようなお定まりのピアノも惜しげもなく備えられていますが、どれもが中途半端。いわゆる街の文化を象徴するような真の意味での音楽ホールがなく、主だったコンサートはいつも決まりきった(しかも甚だ不本意な)会場しかありません。

とりわけ音楽ホールの条件といえば、なによりもその音響の美しさと、座席数、そして存在そのものが醸し出す品格だと思います。

その点では、敢えて例外といえるかどうかはともかく、福岡銀行の本店大ホールは市の中心部である天神のど真ん中にある銀行ビルの地下にあるのですが、なにしろその音響は突出して素晴らしく、座席数も800弱でジャストサイズ。とくにピアノリサイタルにはこれ以上ないのでは?と思えるほどの理想的な音響をもっています。

この建物は1975年に建築家・黒川記章の設計によって作られ、さらにそのホールは日本初の音響を第一に考えられた音楽ホールという事で、当時は全国的にも音楽関係者の間で大いに話題をさらったものでした。
当時の蟻川さんという頭取が非常に文化意識が高く、氏の意向によってこのようなホールが作られたのでしたが、それも時代であり、今はいくら頭取が文化が好きだからといっても本店の設計にそういう贅沢施設を盛り込むなどはなかなかできないでしょう。

そんな福銀ホールですが、一昨日の新聞記事によれば、NPO法人福岡建築ファウンデーションの主催による「福岡市現代建築見学ツアー」というものが開催されて、その中にこのホールが含まれていたとありましたが、それによれば内部はなんとすべて松材で作られているということを初めて知りました。
松材の内装のお陰で美しくやわらかい響きがあるのだということで、あれは「松のホール」だったのかと非常に驚きつつ、その音の素晴らしさの秘密には思わず唸ってしまいました。

松材といえばいわゆるスプルースで、いろんな種類はあるでしょうけれども、弦楽器やピアノなどの響板にも使う木材です。それをステージを含む床以外の広大な壁や天井すべてをこの稀少素材で埋め尽くすことで作り上げたのですから大胆としかいいようがなく、資源保護やコスト重視の現代ではとても不可能な、あの時代だからこそできた贅沢なものだったことがわかりました。
ちなみに現代では、全面木材の内装は安全面からも不可の由。

そんな素晴らしい福銀ホールですが、銀行のホールという性格上、管理も官僚的で、利用がしにくい(以前はホールまで土日は無条件に休みだった)などいろいろな制約があり、利用者がそれほど積極的に使いたいものではないという点は実に惜しいところです。

良くも悪しくも時代というべきでしょうが、駐車場は一切なく、また何度か書きましたが、座席のある地下3〜4階まで自分の足だけで(障害者は別)降りて行かなくてはならず、終演後はその逆で、高齢者などは狭い通路階段を、揉み合うようにしながらビルの4階相当まで階段を登る苦行を強いられ、体力的に厳しいものであるのも事実です。

かの黒川記章の作品といえども、構造の点でもいささかおかしなところがあり、地下2階に相当するホールロビーが客席の最上階部分に作られ、通常のホールのように両サイドからの出入口というものがないため、すべてのお客さんは必ず最上部に位置する左右2箇所のドアから出入りして、薄暗いホールの中を延々と不規則な階段を降りて行かなくてはなりません。

一定以上の規模を有するホールというものは、公共性という一面をもつものなので、いくらそれ自体が素晴らしくても、利用者の快適性を軽視した作りであれば、その魅力を100%活かすことは困難ということの典型のような、いかにも残念なホールなのです。
銀行のようにお金があるところこそ、この宝を真の宝として活かすよう、利用者の側に立った工夫と改装をして、長く福岡の地に残して欲しいものです。
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内田の新譜

CD店の試聴コーナーには、先ごろ発売されたばかりの内田光子の新譜が設置されていました。
前回に続いてのオール・シューマンで、森の情景、ソナタ第2番、暁の歌が収められていますが、彼女のピアニズムとシューマンが相性がいいとはどうしても思えず、なぜ最近の内田は録音にシューマンを継続的に弾くのか、さっぱりその理由がわかりません。

内田の演奏および芸術家としての姿勢には大いなる敬意を払いつつも、このところちょっと懐疑的にもなっているマロニエ君としては、新譜が出ても昔のような期待を感じることはなくなっています。

とりわけグラミー賞を取ったとかなんとかで話題になってはいたものの、彼女の二度目のモーツァルトの協奏曲シリーズは、マロニエ君としては、前作のジェフリー・テイト指揮のイギリス室内管弦楽団と共演した全集が彼女の最高到達点であり、如何なる賛辞を読んでも到底同意できるものではなく、なぜいまさらこんなものを出すのかがわかりません。

モーツァルトで再録するなら、初期の固さの残るソナタ全集のほうであると考える人は多いはずですが、彼女の考えおよびCDリリースに当たっては、ビジネスとしてどのような事情が絡んでいるのやら業界の裏事情などはわかりませんから、表面だけ見ていてもわからないことかもしれませんが、とにかく表面的には疑問だらけです。

フィリップスからデッカに移って、ソロとして出たのがたしか前回のシューマンのダヴィッド同盟と幻想曲でしたが、これは購入したものの何度か聴いただけで、もう聴こうとは思いません。
そのときの印象が残っていたので、もう内田のシューマンは買わないだろうと思っていましたが、試聴盤ぐらいは聴いてみようとヘッドフォンを引き寄せました。

なぜか森の情景からはじまりますが(この3曲なら絶対にソナタ2番からであるべきだと、マロニエ君は断じて思う)、第一曲からして「あー…」と思ってしまいました。この人はいわゆるコンサートピアニストという存在からだんだん違う道へと逸れて、まったく私的な、ごく少数のファンだけのためのマニアックな芸術家になったように思います。
その演奏からは、音楽の真っ当な律動や喜びは消え去り、聴く者は、内田だけが是と考える細密画のような解釈の提示を受け入れるか否かだけで、それに同意できる人には魅力であっても、マロニエ君にはもはやついていけない世界です。
とりわけそのひとつひとつの予測のつかない表現と小間切れの苦しげな息づかいは、まったく乗り物酔いしそうになります。

もっとも耐え難いのは、聴くほどに神経が消耗し、息苦しさが増して、心の慰めや喜びのために聴く音楽でありたいものが、まるで忍耐づくめの修行のようで、彼女がしだいに浮き世に背を向けて、まったくの別世界に向かっているような気がしました。

なにしろ内田光子のことですから、多くの書物を読み、音符を解析し、そのすべてに深い考察と意味づけをした上での演奏なんだろうとは思いますが、結果としてそれは非常に重苦しく恣意的で、音による苦悩を強いられるはめになるのは如何ともし難いところです。
まるで名人モデラーが、現物探求をし尽くしたた挙げ句、一喜一憂しながらルーペとピンセットで取り組む、オタッキーなプラモデル製作でもみているような気分です。

以前の彼女には、ちょっと???なところがあったにしても、他者からは決して聴くことのできない繊細巧緻な組み立てや、圧倒的な品格と美の世界に触れる喜びがありましたが、今は彼女の中の何かがエスカレートしてしまい、独りよがりのもの悲しいつぶやきだけが残ります。

ただし、それはソナタの2番までで、シューマン最晩年のピアノ曲集である暁の歌では、そういう内田のアプローチがこの神経衰弱的な作品に合っていて、やはりまだこのような見事さはあるのだと、変にまた感心してしまいました。
この暁の歌だけは欲しいけれど、そのために前45分にわたる苦行の音楽を聴くのも嫌だし、収録時間のわずか1/4だけのために購入するというのも、もうひとつ決断がつかないところです。
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中国の珍百景

昨日のお昼のこと、テレビの画面をなんとなく見ていたら、タイトルの通りのような言い回しで、この夏の中国の珍風景をおもしろおかしく紹介していました。

今年の猛暑は日本だけのものかと思っていたら、なんと中国も同様だそうで、大陸でも観測史上初の値を記録する厳しい暑さに見舞われているようでした。
それにまつわる写真が3枚紹介されましたが、一つはデパートの健康器具の売り場で、商品の安楽椅子や身体を横にして使う器具の上で堂々熟睡する人達で、涼しいデパートの店内で横になれる場所を見つけては、大勢の人達がずらりと並んでぐぅぐぅ眠っている様子でした。

もうひとつは地下鉄の構内で、ここもクーラーが効いていて、しかも床が化粧仕上げの石造りであるためにひんやりするというわけで、大人も子どもも、その床にべったりと身体をくっつけて眠っている様子ですが、中国の衛生事情は日本人にはかなり厳しいものがあり、駅の構内などはみんなが唾や痰をバンバン吐いたりするのが当たり前なのですが、どうやらそんなことはお構いなしのようです。

最も驚いたのは、中国の巨大なプールで、ここには大勢と云うよりは、ほとんど群衆とでも呼びたいような猛烈な数の人達が殺到しており、人と浮き袋などでびっしりとプール全体が埋め尽くされていて、まったく水面というものが見えないのは恐れ入りました。
かつて見たこともない、まさに中国ならではの桁違いの混雑ぶりでした。
湘南などの海水浴の猛烈な人出でさえ驚くのに、この中国のプールの人の密集度は、とてもそんな甘っちょろいものではないのです。パッと見にはプールに人々が入っているというよりも、まるでなにか得体の知れないものが異常発生しているか、江戸小紋などのこま柄がびっしり詰まった模様でも見るようでした。

それはそれとして、ふと気になったのは水質の問題です。
中国に旅したことのある人ならだれでも知っていることですが、あちらは気の毒なことにきわめて水質の悪いお国柄で、たとえ一流ホテルに泊まっても、水道の蛇口を捻ると、うっすらと濁った、少し変な臭いのする水しか出てきませんし、当然それを飲むこともできません。また、レストランなどで出てくるお茶を飲むと、料理の美味しさとは裏腹に、どことなく嫌な臭いのする水質の悪さを感じさせられて、あまり飲みたくない気になるものです。
したがって、中国に行くと必ず手始めにコンビニなどへ行って、飲料用の水を一抱え買ってくるのですが、その「買った水」でも日本の普通の水道水よりはかなり質は落ちるというのが実感です。

飲み水でさえそんなお国柄ですから、プールという途方もない水量を必要とする施設での水質はどうなっているのだろうと、どうしても考えてしまいます。おまけに上記のような、信じられないような夥しい数の人達が、満員電車のように押しあいへしあいしながら水に浸かるとなれば、こりゃあもう衛生状態なんてほとんど期待できないのではと思ってしまいます。

聞くところでは、この夏は上海あたりでも40度を超える猛暑日があるほか、内陸の重慶などでは42度を超える記録まで出ているというのですから、いやはや今年の暑さは呆れるのを通り越して、どこか恐いような気がしてしまいます。
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一位と二位で

早いもので、今年もお盆の時期を迎えました。
例年にない猛暑列島の中、多くの人々がフライパンの上を大移動をするみたいで、そのエネルギーたるや大変なものだなあと思わずにはいられません。

家人から聞いた話ですが、お盆の初日13日にあたり、テレビニュースではそれに関するもろもろの話題を採り上げていたらしく、最も興味深かったのが「ストレス」に関するものだったとか。

なんと、現代の日本人が一年を通じて最もストレスを感じる時期というのがお盆休みなのだそうで、その第1位は、この真夏の真っ只中に、家族を引き連れて夫妻いずれかの実家に帰省することが定例化していることだとか。てっきりそれが楽しいのかと思いきや、多くの人達には大変な重荷になっているというのですから驚きました。
今の今だからとくにそう云うのかもしれませんが。

とりわけ実家が遠方になればなるだけ、交通費は嵩み、お土産だなんだと出費はあるし、移動に要するエネルギー消耗も増加するのは当然です。着いた先も、自分の実家だとはいっても、連れ合いにとっては気を遣う場所でもあるでしょうし、単なる旅行のようにポンとホテルに泊まって、あとは気まま遊び歩くというわけにもいかないのでしょう。

さらに驚くべきは、ストレスの第2位はそれを迎え入れる実家側の人々なのだそうで、これまた驚きました。自分の子ども一家の帰省であり、かわいい孫というような喜ばしいファクターもあるのでしょうが、やはりそこには甚大なストレスという本音が隠れ棲んでいるというのが、いかにも人間のおもしろい(といっては悪いなら複雑な)部分だと思いました。

たしかにひとくちに「実家」などと云っても、誰もが部屋の有り余った大邸宅に住んでいるわけではないし、突如増加する人の数といいますか、単に物理的側面だけをみても、相当に苦しい状況が否応なく生まれるのは明らかです。いかに我が子の大切なファミリーとはいえ普段別に生活している者が、束になって帰省の名の下に押し寄せてくれば、それまでなんとか保っていた平穏な生活のリズムは大きく乱され、なんでもが「嬉しい」わけでも「賑やか」なわけでもないというのが実情のようです。

そんなストレスの第1位と第2位が、お互いの本音を隠しながら、真夏の狂騒模様を必死に演じているとすれば、いかにも切ない人間のアイロニーを感じてしまいます。マロニエ君などは、だったらいっそ本音を打ち割って双方了解を得て、そんな疲れることは端から止めてしまえばいいのに思いますが、まあそれが簡単にできないところが人間社会の難しいところなのかもしれません。

マロニエ君宅の知人の女性の話ですが、夫を亡くし、東京で一家を構える息子のもとへ遊びがてらしばらく逗留したところ、奥さんも昼は仕事をして不在、子ども達は学校、息子はもちろん仕事で、必然的に毎日見知らぬ土地で孤独の時間を過ごすハメになり、やっと家族が集う夕食時ともなると、今度は2人いる子どもが、食事をしながらケータイかなにかのゲームに打ち興じるばかりで、まるで会話というものがなく、それを叱ろうともしない息子夫婦にも呆れつつ、たまに訪ねてきてはお説教というのも躊躇われて、とうとう予定を切り上げて帰ってきたという顛末がありました。

身内といっても、しだいに人との関係には元には戻れない深刻な変化が起こっているのかもしれません。

聞くところによると、現代人の最も苦手なものは「人付き合い」なんだそうで、他人同士はいうに及ばず、身内でも自然な人付き合いができないために、人がどんどんバラバラになっていくようで、これをいまどきの社会現象だといってしまえばそれまでですが、そんなバラバラな者同士が増えるだけ増えて、この先どうなってしまうのだろうと思います。
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LEDのメリット?

多くの方はよくご存じのことかもしれませんが、電気などに疎いマロニエ君は、最近流行のLEDと従来型の製品の明瞭なメリット/デメリットがもうひとつよくわかりません。

我が家は、白熱電球の照明が多いこともあり、わりに早い時期から「電球型蛍光灯」に切り替えることでずいぶん省エネ対策をしたつもりでした。
たしか、耐久力は8倍近くに上がり、消費電力は1/4程度というのが謳い文句だった記憶があります。

その電球型蛍光灯も市場に出てきた当初はかなり高額でしたが、その後は多くの電気製品と同様、普及とともに値段も下がり、ずいぶん求めやすくなってきたことは大歓迎でした。

ところが、その後LEDという、さらなる新時代テクノロジーによる照明システムが現れ、これもまた従来の白熱球と同じ口径のものが売り出されましたが、その価格と来たら、ちょっと気まぐれに買ってみる気になれないほど高額で、その後は少し安くなりはしたものの、電球型蛍光灯ほどには下がらず今に至っているように思われます。

いくら省エネだなんだといってみても、あまりに単価が高くては、真の省エネとは呼べないわけで、電気店などにいくたび箱を手にとって説明書きなどを見てはみるものの、どうも光量が少ない感じで、では消費電力も劇的に少ないのか?というとそれほどでもなく、マロニエ君にとっては購入してみるだけの決め手がもうひとつありませんでした。

ところが困ったことには、長年愛用している電球型蛍光灯が僅かずつであるものの、商品数が減り始め、価格もそれまでのような安いものは姿を消し、そのぶんLEDが幅を利かせはじめている気配です。市場ではなんとかして消費者をLEDに移行させようというメーカーの思惑が働いているように感じます。
電球型蛍光灯は、一時は100円ショップにさえ出回るまでになったのですが、最近では完全に店頭からその姿は消えてなくなり、最低でもホームセンターなどでないと購入できなくなったばかりか、選択肢もだいぶ減りました。

それに対して、LEDはどうかすると売り場の一角に堆く積み上げられて、「これからは、こっちを買うのが当たり前」といわんばかりの光景です。たしかに価格も1000円/1個を切るようなものも出てきたので、電球型のLEDは一度も使ったことはないし、なんとなく買ってみようかという気になり、かなりその気で眺めてみました。しかし、やっぱりどうもしっくりきません。

マロニエ君は昔の白熱球のワット数でしか明るさのイメージが掴めないのですが、それに換算すると、大半のLEDは白熱電球でいう30Wとか40Wが主流で、60W相当となるとかなり少数かつ高額なることがわかりました。ちなみにLEDで60W相当の場合は一流メーカーの品で消費電力は9.8Wとありますが、これまで使い慣れた電球型蛍光灯の60W相当の消費電力は少ないもので12Wと、その差はわずか2.2Wしかないのは???と思いました。

しかも価格はLEDの場合、同じ店でも電球型蛍光灯の約3倍近くにもなり、またしてもLEDのいったいどこがそんなにいいのかがいよいよわからなくなりました。
ついには両方を手に持って店員さんを捕まえて、どんなふうに違うのかを質問してみたのですが、なんと答えに窮するばかりで、これという説明が得られなかったばかりか、ずいぶん考えた挙げ句に「お客さんの中では、LEDは暗いと言われる方がありますね…」と言い出す始末。いよいよLEDを積極的に購入する理由がなくなり、またしても電球型蛍光灯を買ってしまいました。

LEDは、よくよくマロニエ君にはご縁がないようです。
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ピアノフェスタ2

今回のピアノフェスタは、知人からお誘いを受けたことがきっかけで赴いたものでしたが、いささかの訳があって他のお客さんの少ない時間帯に見せていただくことができました。

輸入ピアノのうちの何台かは触る程度のことはしてみましたが、先に書いたようにどれもオーバーホールの出来たてホヤホヤみたいな状態で、本来の音や性能水準に到達しているとはとても思えず、よってあまり積極的に興味が持てなかったことと、やはりどうしても弾いてみたいピアノの人気というのは有名ブランドに人が集中してしまうため、そういう状況ではマロニエ君はいつも気分的に引いてしまうところがあるのです。

多くの外国製高級ピアノの前はこのときの為にかどうかはしりませんが、楽譜まで持参して、たいそう熱心に弾かれている人達があり、そういう光景を見ると、いっぺんに気分が萎えてしまい、それが終わるチャンスをうかがって、椅子が空くと同時にすっ飛んでいくような「がんばり」がどうしてもわかないのです。

いっぽうで、国産グランドのエリアはてんでがら空きで、こちらのほうが静かでもあるし、なんとなくそちらをブラブラしていると、なんと今年は2台の中古ディアパソンが持ち込まれていることに一驚しました。
しかも、そのうちの一台はディアパソンの中でも稀少なDR211で、マロニエ君が今年購入した210Eとまったく同サイズ(奥行き211cm)のピアノですから興味津々でした。これは生産されたオオハシモデルの最後の時代のピアノで、基本的な設計は210Eとほとんど同じだと考えられます。

こちらは誰もいないのを幸いに183と211に触ってみましたが、ピアノとしての状態は決して悪くないと思われましたが、意外にもディアパソンらしさのない軽くて細い音がして、あまりグッと来るものはありませんでした。
とりわけマロニエ君の関心の中心は211にあるのはいうまでもなく、こちらをより多く触らせてもらいましたが、同じサイズと構造のモデルでも昔のものとは何かが決定的に違っているような印象を持ちました。それが何であるかはわかりませんが、よりカワイ的と云ったらいいのか、どちらかというと淡泊で深みのない音になっており、ディアパソン特有のあのズッシリした鳴りとパワー、楽器としての奥行きみたいなものはあまり感じられなかったのは意外でした。

アクションもこの時代にはヘルツ式になっているため、現代的ではあり、バリバリ弾かれる方などはこちらを好む方も多いだろうと思いますが、しっとりとしたセンシティヴなタッチや、楽器との対話を楽しみたいなら、マロニエ君はシュワンダーの方が好ましいとあらためて思いました。
ただし、ヘルツになってもキーが重いのはあいかわらずなのは不思議でした。

音の特徴やタッチに意識が集中しすぎて、何年式であるかを確認するのをうっかり忘れてしまいましたが、やはり、多くのピアノが辿らされた運命と同じく、製造年が新しくなるだけ木の質は落ちているという印象は拭い切れませんでした。
マロニエ君の購入したおおよそ35年前の210Eは個人売買での購入で、あまり使われている印象はなかったものの、ピアノの置かれていた環境や状態はお世辞にも褒められたものではありませんでしたが、それでも基本的には今と変わらない深みと味わいは持っていましたから、ピアノが根底のところにもっている基本は、いかなる環境にあろうとも意外に変わらないのだと思いました。

なんだか、お店の商品と自分のピアノを比較しているような感じの文章になっているかもしれませんが、努々そういう意図ではなく、同じメーカーの同じピアノであっても「時代」によって予想以上の違いがあるということが再確認できたということです。

そういう意味では、たとえばヤマハやカワイの中古ピアノを買われる方がおられるとして、サイズの違いばかりにこだわらず、同サイズでも年式による音の本質的な違いにも留意すべきではと思います。
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ピアノフェスタ1

毎年夏、博多駅ターミナル内にあるJRの大展示場で行われる島村楽器主催によるピアノフェスタに今年も知人らと行ってきました。

楽器販売が低迷する時節柄、大手メーカーのショールームさえも撤退を余儀なくされるなど、ピアノを取り巻く厳しい状況が続く中、とりわけマニアックなピアノ店が少ない福岡では、質・量いずれの点に於いてもこれほど多くのピアノが一堂に集められ、大々的に展示販売される催しは唯一無二のものとなっています。

会場入口からは、いつもながら電子ピアノが無数に並べられていて、きっと素晴らしい製品はあるのだろうとは思いつつ、どうしてもアコースティックピアノの展示エリアに足が向かってしまうのは、個人的に興味の比重が異なるため、毎回素通りになるのは仕方がないようです。

スタインウェイをはじめとする、海外のブランドがズラリと並ぶ中、今年は日本製のグランドもこれまでよりかなり数多く展示されていたように思いました。
珍しいところではグロトリアンやシンメル、古いベヒシュタインなども見受けられましたが、輸入物ではやはりスタインウェイが最も数が多く、記憶ちがいでなければD/C/B/A/O/M/Sのすべてのサイズが揃っており、ほとんどが美しく仕上げられたオールドの再生品だったようです。

島村楽器の扱う中古ピアノの良い点は、高級機でも大半がオーバーホールをされていることで、消耗品の交換はもちろん、外装なども多くが塗装をやり変えてあるので、いかにも中古品というマイナス印象を受けなくて済むことでしょうか。もちろんすべてではないかもしれませんが、多くの個体がこのような状態で販売されているようですし、価格的にも、絶対額は安くはないけれども、あくまでも常識的な納得できる価格である点もこの全国に販売網を持つ大手楽器店の強味なのかもしれません。

ただし、オーバーホールされたピアノに共通して感じられたことは、調整は明らかに未完の状態で、まだ本来の性能を発揮しているとは思えず、これから音を作って開いていくという余地が残っていることでした(意図的にそういう状態でとどめられているのかもしれませんが)。
個人的にはもっと調整の仕上がった澄んだ美しい音や響きを聴きたいところですが、それは購入されたお客さんだけが自分の好みを交えながらじっくりと熟成していく過程を楽しまれる、密かなる権利というところなのかもしれません。

しかし、それは同時にそれぞれのピアノがこの先の弾き込みや調整如何によって、どんなふうに成長していくかをある程度イメージできるかどうかという大きな課題を突きつけられているようで、これはよほどの経験者か目利きでなければその見通しを立てることは相当難しいことでもあり、やはり楽器購入は何がどう転んでも容易なことではないということを実感しました。

それにしても、毎年これだけ大量のピアノを関東から運んで展示会をされるということ、さらにはそれがすでに3年も連続しておこなわれているということだけでも、我々のようなピアノ好きとっては大変ありがたい唯一の催しであるわけで、素直に感謝するべきだと思いました。
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主治医繋がり

先日、あるピアニストの方とお話をする機会があって、たまたま話題が調律やピアノ管理に関することに及びました。
すべてではないものの、多くのピアニストは自分の弾くピアノという楽器に関して、本気で関心を寄せている人というのはそう多くはないので、この方は非常に珍しいと思い、ちょっと嬉しくなりました。

ピアノにまつわるさまざまな要素は、どれもが単独で語ることができないほどそれぞれの要素が互いに絡み合い、関係し合い、依存し合っている面が多く、これはいいはじめるとキリがなく、マロニエ君ごときでは言い尽くすこともできません。

例えばどんなに素晴らしい楽器でも、弾く人の音楽性や美意識しだいではその良さはほとんど出てきませんし、ピアノの置かれている場所の環境など管理状態が悪くてもダメ。調整などの技術面での技量や意識レベル。さらにはそれらが揃ったにしても、ピアノが鳴る部屋や音響という問題もあって、これらのことを考えはじめると、とても理想的な状態を作り出すなど、少なくとも通常は不可能に近いものがあると思われます。

しかし、そんな諸要素の中のどれか1つか2つでも持ち主がそこを理解して保守に努め、改善できるものは改善したりすると、それだけでも状況は大きく異なります。
その方はとある極めて優秀な技術者さんとの出会いによって、ピアノに対する接し方やスタンスに変化が起こり、ついには弾き方まで変わったとおっしゃるのですから、やはり技術者というものの存在の大きさを感じずにはいられません。
とりわけ調律はその要素がきわめて大きい部分を占め、ピアノの機械的な技術面でも調律ほどピンキリの世界もないというのがマロニエ君のこれまでの経験から得た結論です。

整調、整音、調律はどれが欠けてもいけないものですが、とりわけ調律は技術者側におけるセンスと才能が最も顕著に発揮される領域で、これはいうなれば技術領域から芸術領域に移行していく次元だといっていいと思います。

整調整音が上手くいっているとしても、調律こそが最終的に楽器に魂を吹き込む作業といいますか、極論すれば、それによって音の出る機械から真の楽器に変貌できるかどうかの分かれ目になると思うのですが、この点がなかなか理解が得られないところのようです。
一般的に調律といえば、ただ2時間弱ぐらいピッチを合わせて、ついでに気がついたところをちょこちょこっとサービス調整してハイ終わり。代金をもらって「ありがとうございました」と言って去っていくというのが大多数でしょうし、ピアノオーナーのほうも調律とはそんなものと思っている人のほうが圧倒的に多いようです。さらには、ピアノの先生や演奏の専門家でさえ、ピアノだけはほとんど素人並の認識しかない場合が決して珍しくないのです。

ですから、その方は大変珍しい方だなあとマロニエ君は思ったわけです。
同時にコンサートなどで方々に行かれる先にあるピアノの管理の悪さには、ずいぶんと辟易されているようで、この点はほとんど諦めムードでした。
同じ福岡の方だったので、そんな素晴らしいピアノ技術者の方が、やはりひそかにいらっしゃるんだなあと内心思いつつ、敢えてお名前は聞かないで話をしていたら、さりげなく向こうのほうからその方の名前を云われたのですが、なんと我が家の主治医のおひとりだったのにはびっくり仰天。
やっぱり世間は狭いというべきでしょうか。

この技術者の方は、別にスーパードクターのように威張っているわけではないけれど、非常に強いこだわりと自我をおもちの方で、ある意味気難しく、頼まれればどこにでもヒョイヒョイ行かれる方ではないので、マロニエ君としても我が家に来ていただけるのは幸いとしても、軽々しく人にご紹介はできないと思っていました。
そういうこともあって、数少ないその方繋がりのピアニストと知り合うことができたことは、不思議なご縁と嬉しさを感じたところです。
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正しきお姉様

ひと月以上前のNHKのクラシック音楽館で放映されていたN響定期公演から、ヴィクトリア・ムローヴァのヴァイオリンで、ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番が演奏されたときの映像を見てみました。指揮はピーター・ウンジャン。

ムローヴァはロシア出身で、年齢も現在50代半ばと、演奏家として今最も脂ののりきった時期にある世界屈指のヴァイオリニストといって間違いないでしょう。
昔からマロニエ君は熱烈なファンというのではないものの、ときどきこの人のCDを買ったりして、「そこそこのお付き合い」をしてきたという自分勝手なイメージがあります。

その演奏は「誠実」のひと言に尽きるもので、バッハなどで最良の面を見せる反面、ドラマティックな曲ではともするとあまりに端正にすぎて、情感に揺さぶられてはみ出すようなところもなく、見事だけれどもどこか食い足り無さが残ったりすることもしばしばです。
ロシア出身のヴァイオリニストといえばオイストラフを筆頭に、コーガン、クレーメル、レーピン、ヴェンゲーロフなど、いずれもエネルギッシュかつ濃厚な演奏をする人達が主流ですが、そんな中でムローヴァは、突如あらわれたスッキリ味のオーガニック料理を出すお店のようで、それは彼女のルックスにさえ見て取ることができます。

長身痩躯の金髪女性が、スッとヴァイオリンを構えて、淡々と演奏を進めていく様はとてもロシア出身の演奏家というイメージではないし、とりたてて味わい深いというのもちょっと違うような、なにか独特の、それでいて非常にまともで信頼性の高い演奏に終始し、一箇所たりともおろそかにされることはないく、彼女の音楽に対する厳しい姿勢が窺われるのは見事というほかはありません。
耳を凝らして聴いていると、非常に深いところにあるものを汲み上げていることも伝わりますが、彼女は決してそれをこれみよがしに表現しようとはしないのです。

とりわけ最近では、ガット弦を用いて演奏するなど、古楽的な方向にも目を向けているようで、この人の美質は本来そちらにあるのかもしれません。
さて、ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲は、終始一貫した、まったくぶれるところのない、いかにもムローヴァらしい快演ではあったものの、曲が曲なので、やはりそこにはマロニエ君個人としては、もうすこし大胆な表現性、陰翳感やえぐりの要素とか、エレガンスと毒々しさの対比などが欲しくなるところでした。

このショスタコーヴィチの演奏を聴いてまっ先に思い出したのは、もうずいぶん昔のことですが、小沢征爾指揮でムローヴァがソリストを努めたチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲をCDを買ったことがありましたが、マロニエ君もまだずいぶん若かったこともあり、そのあまりの端正な無印良品みたいな演奏には大いに落胆を覚えたことでした。

最近ではピアノのアンデルジェフスキと共演したブラームスのソナタ全3曲がありますが、こちらもやはりムローヴァらしいきちんと整理整頓された解釈と遺漏なき準備によって展開される良識的演奏で、この素晴らしい作品をじっくり耳を澄ませて集中して勉強するにはいいけれども、作品や演奏をストレートに楽しむにはちょっと違う気がするところもあり、やはりどこかもうひとつ聴く者を惹きつける何かがないという印象は変わりませんでした。
ソロでは個性全開のアンデルジェフスキも、このCDではムローヴァの解釈に敬意を表してか、至って常識的に節度を保って弾いているのが、お姉様に頭があがらない弟のようで微笑ましくもありました。

と、こんなことを書いているうちに、マロニエ君としたことが、ムローヴァのバッハの無伴奏パルティータとソナタのCDを買っていなかったことに気が付き、これぞ彼女の本領発揮だろうと想像しているだけに、はやいところなんとか入手しなくてはと思いますが、この「つい忘れさせる」というのがムローヴァらしいところなのかもしれません。
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ラベック姉妹

多くの皆さんもきっと同様ではないかと思いますが、いわゆる人間の第一印象といいましょうか、初めに受けたイメージや、そこから発生した好みというものは、これが意外なことに自分が考えている以上に正確で、途中で覆るなんてことは非常に稀というかむしろ例外的です。

大半の場合においては、何十年経ってもその印象が変わることはまずないのが自分を振り返っての結果ですし、少なくとも自分という主体においては、ある意味、第一印象ほどぶれがない信用度の高い情報は他にないように思います。

マロニエ君にとっては、ピアノのラベック姉妹がそのひとつで、彼女達が楽壇に華々しく登場したのはもうかなり昔のことでしたが、そのころから何度かその演奏を聴いてみましたが、彼女達の何がどんな風にいいのか、当時からまったく理解ができませんでした。

ビジュアルとしては美しいフランスの女性ピアノデュオで、姉妹であるにもかかわらず二人のキャラクターはまったく異なり、お姉さんは饒舌で、演奏の様子もジャズマンのように情熱的で野性的、片や妹はもの静かで黒髪を垂らしたひっそりとしたタイプ。

それはさておいても、その演奏には、マロニエ君は初めて聴いたときから、良いとか悪いとか好きとか嫌いとかいうものが不気味なほど発生せず、ひとことで云うなら「何も、本当になんにも」感じませんでした。フランス人の演奏家にはいろいろなタイプがいて、初めは違和感を感じても、なるほどそういうことかと、好みとは違ってもこの人が何をやりたいのかや、どういうところを目指しているかということは、日本人以上に強いメッセージ性をもっているので、だいたいわかってくるものです。
それがこの姉妹の演奏には、まったくなにも感じるところができないし、ま、どうでもいいようなことですがずっと自分なりにひっかかっていたように思います。

つい先日、久しぶりにそのラベック姉妹を見たのです。
NHKのクラシック音楽館でデュビュニョンという現代作曲家による「2台のピアノと2つのオーケストラのための協奏曲“バトルフィールド”作品54」というものが日本初演されました。
なんでもラベック姉妹の委嘱によって作曲されたものらしく、2台のピアノとオーケストラが舞台上で二手に分かれ、しかもこの音楽は戦争であると公言し、それぞれが「戦う」というのですから、これはなかなかおもしろい試みじゃないかと思いました。
ピアニストはそれぞれの軍を率いる隊長という設定なのだとか。

指揮はビシュコフで、初めて聴く異色の作品であるにもかかわらず、ピアノが鳴り出すと昔の印象がまざまざと蘇り、早い話が、曲がどうとか、楽器編成の面白さがどうということなどもそっちのけで、とにかくまたあの「何もない、何も感じない」演奏が延々と続き、かなり我慢してみましたが、とうとうこらえきれずに途中で止めてしまいました。

お姉さんのほうは、左足でパッタパッタとリズムをとりながら、獲物に噛みつくような表情をしばしば見せながら、オンガクしてます的な弾き方をし、妹のほうは常に冷静沈着、何があろうと淡々と指だけを動かしているようで、両人共に見た感じも音楽的必然がないのであまり惹きつけられるものがないし、何より肝心なその演奏はというと、マロニエ君にとっては好きも嫌いもない、ひたすら退屈というので、本当に不思議なデュオだと思いました。

ラベック姉妹の魅力がどこにあるのか、おわかりの方がいらっしゃれば教えて欲しいような気もしますが、そうはいってもたかだかマロニエ君にとっては趣味の世界のことですから、人から教わってまでこの姉妹の演奏の魅力を追求する必要もないというのが正直なところです。
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1905年製のB

またまたCDのワゴンセール漁りの話で恐縮ですが、今回はマロニエ君にとってはかなりの掘り出し物となりました。

輸入盤で、Ko Ryokeというピアニストの演奏するバッハのパルティータ第1番、ベートーヴェンのソナタop.109、ショパンの第3ソナタが収録されたCDを手にとって見ていると、使われた楽器が1905年製のスタインウェイBということが記されており、マロニエ君はこういう古い楽器で録音されたCDといいますか、要するにそういう楽器で演奏された音楽を聴くのが好きなので、当初の販売価格の1/3以下の値下げになっていることも大いに後押しとなり、躊躇することなく買ってみました。

Ko Ryokeというピアニストはこれまでに聞いたこともなく、はたしてどこの国の音楽家なのかさえわからないままでしたが、帰宅してネットで調べてみると、なんと領家幸さんという大変珍しいお名前の日本人ピアニストであることにまず驚き、さらには60歳という若さで、なんと今年の5月25日に逝去されたばかりであったことを知り、それからまだ2ヶ月ほどしか経っていないという事実に、重ねて驚いてしまいました。

このCDはドイツで2009年に収録され、PREISER RECORDというレーベルから発売されたもので、使われた楽器はこの時点で104歳のスタインウェイBというわけで、なにやらとてつもなく貴重なCDを手に入れてしまったことにあとからしみじみ実感が湧いてきました。

演奏は、奇を衒ったところのない真っ直ぐなもので、このピアニストの誠実さを感じさせるもので、録音もきわめて優秀。しかもついこの5月に逝去されて間もないことを思うと、その演奏を聴くにつけいやが上にも人の命の生々しくも儚さのようなものを感じてしまいました。

その音ですが、104歳なんてとても信じられない色艶にあふれた、まさに熟成を極めたオールドスタインウェイの音で、その色彩感、透明感、輪郭のある溌剌とした音と響きは、現代のピアノがとても敵わない風格とオーラを持っていました。パワーや音の伸びにもまったく衰えを感じず、この時代のスタインウェイの底力を見せつけられる思いです。
サイズも中型のBですが、ごく稀に現代のB型で録音されたものを聴くと、もちろんありふれたピアノよりは美しいけれども、やはりサイズからくる限界と、どこか狭苦しい感じ、ふくよかさが足りない感じを受けてしまう場合が少なくありません。ところがこのCDを聴いている限りに於いては、まったくそういう部分は感じられず、あえて意識すれば若干低音域で迫力が足りないことを若干感じなくはないものの、そうと知らなければ、これがB型だと気付く人はほとんどいないだろうと思われるほど、どこにも不満のない、本当に素晴らしい楽器でした。

同時に、オールドヴァイオリンにも通じるような使い込まれた楽器だけがもつ深い味わいと、無限の創造力をかき立ててやまない奥行きがあって、なぜ現代のピアニストはこういう美しい音の楽器にもう少しこだわりを持たないのだろうと思わせられてしまいます。

しかも古い楽器の凄味を感じるのは、それがどんなに華麗で明瞭で艶のある音をしていても、少しも耳障りな要素がない点です。耳障りどころか、むしろ深い安息や喜びを感じさせてくれるのは、やはり楽器というものは良い材料で作られ、演奏されることを重ねながら時を経るぶん、新しい楽器には決してない芳醇なオーラがあふれてくるのだろうと、いまさらのように思います。

こういうピアノはわざわざブリリアントな音造りなどをしなくても、楽器そのものが充分に、必然的に、本当の意味での華やかさを根底のところで持っているようで、現代のピアノはそういった往年の本物の音の良い部分をちょっと現代化し、かつ短期間で模倣するために、あれこれと科学技術を使っているようにしか思えなくなってしまいます。

いわゆる古楽器ではなく、モダン楽器の古いものというのは、マロニエ君にとって本当につきない魅力があることをまざまざと感じさせられたCDでした。
この楽器で録音に挑んでくださった領家幸さんには心からの敬意と感謝とご冥福をお祈りします。
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恐怖症

仕事上の必要が生じて、人前で挨拶らしきことをしなくてはいけないハメになり、大いに心を悩ませています。

おそらく、99%の人には理解できないことだろうと思いますが、マロニエ君は人と話をするのは人一倍好きなくせに、多数の人を前にして、自分が一方的に喋るシチュエーション、つまりスピーチとか、なにかの挨拶、自己紹介などが病的なほど苦手な珍人間なのです。

過日、趣味のクラブのことを書きましたが、この手のクラブにも新しく入会した場合はもちろんのこと、新人登場の折などにもそれをチャンスに一斉に自己紹介というのがありますが、これになると、直前までそれこそ先頭を切ってベチャクチャ喋っていた自分が、突然押し黙って硬直してしまいます。

たぶん多くの視線が自分へ注視されることが、最も耐え難い原因かもしれませんが、いまだにはっきりしたことは自分でも分かりません。こういうことが平気な人を見ると、もうそれだけで羨ましくもあるし、自分とはまったく異なる人種を見るような、なんとも説明のつけがたい妙な気分になってしまいます。
それどころか、普段はかなりもの静かで控え目な女性などでも、ひとたび自己紹介の場ともなると、すっくと立ち上がり、自分のことを尤もらしく、ごく普通に話すことができる様子などを見るにつけ、まったく自分という人間が情けないというか嫌になってしまいます。

ずいぶん昔、ある節目にあたる演奏発表会があって、皆の演奏が終わってパーティとなり、先生を囲んで門下生がそれぞれ自己紹介という流れになりました。その場になってそれを知り、恐れをなしたあまり、まわりの二人の友人を誘って場外に逃げ出て、ついには外の庭(会場はホテルだった)を30分ほど散策して、自己紹介が終わった頃、ソロソロと息をひそめて会場に舞い戻ったものの、結局見つかって、3人共叱られた経験などもありました。

マロニエ君のこの癖はもはや仲間内では有名で、自己紹介タイムになるとこちらの様子をおもしろがり、首を伸ばして観察する輩までいる始末で、人からみればなんということはない普通のことかもしれませんが、マロニエ君にとっては、バンジージャンプさながらの、まさに寿命を縮めるような一大事なのです。

一度だけ、大勢の前で最も長くマイクを持ってしゃべったのは、忘れもしない6年ほど前、上海の最大の目抜き通りにある大きなギャラリーである日本人作家の個展があり、そのオープニングで挨拶をさせられたことがありましたが、その規模は趣味のクラブの自己紹介どころのさわぎではなく、まさに大勢の観衆の見守る中でのご挨拶となり、数日前から生きた心地がしませんでした。いよいよそのときがきた時はまさに刑場に曳かれていくような気分でふらふらと演台に登りました。
せめてもの救いは場所が中国なので、大半の相手は外国人であること、さらにはセンテンス毎に訳が付き、そのたびに呼吸を整えることができたことでした。

しかし、今回はそういう助け船もなく、もう考えただけで顔が真っ青になっていくようです。
なんでこんな性格に生まれついたのやら、いまさらそんなことを考えても始まりませんが、世の中にはどう知恵を絞ってみても代理では事が片付かないこともあるわけで、こんな文章を書いている間にも、憂鬱がかさんでどんどん血圧が低下していくようです。

なんとか回避する方法はないものかと、この期に及んでまだしつこく考えてしまう往生際の悪さです。
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パリの野次馬2

前回の続き。

『パリを弾く』の著者新田さんが、「60歳の友人」とレストランで食事中、突然、向こうで女性同士の叫び声が聞こえ、見ると二人の女性が取っ組み合いをしていて、お互いの髪を引っ張り合っており、店内は騒然となったようです。
すると、この社長は「面白いことになってきた!」と言って自ら人混みを掻き分けながらちゃっかり最前列を確保してこの騒動の見物をはじめたとか。
そして言うことは「オペラ座なら3万円はくだらない上等席だ」と子供のように上気した頬を輝かせて二人のレスラーに見入っている、のだそうです。

そのうち犬(フランスのレストランは犬も同行できる)の鳴き声までこれに混ざり込んで、お互い罵詈雑言を浴びせ合っているとか。
この二人のうちの片方の女性は彼氏と犬を連れて来店しており、もう片方は夫と二人の幼い子供を連れている家族連れだというのですから、そんな二人が突如公衆の面前で取っ組み合いをするなど日本では考えられないし、しかも両方の男性は比較的おとなしくしているというのがさらに笑ってしまいます。

反射的に野次馬と化した社長は、最前列で仕入れた喧嘩の原因などを新田さんに報告すると、再び続きを見るためにすっ飛んでいくのだとか。
原因はなんと、この犬が吠えたとかどうしたとかいう、ごくささやかなことだったそうです。

やがて子連れのファミリーのほうが憤慨して店を出ていったそうですが、その際にも自分達が正しいことをまわりがわかってもらえているかどうかを観察しながら去っていったとか。

ケンカの片方が店を退出したことで一段落となり、やがて社長も席に戻ってきて支配人らとこの話をしていると、店のドアがバーンと開いて威勢のいいおじさんが走り込んできたそうです。
なんと犬連れのカップルのほうの女性の父親で、おお!と娘を抱きしめながらも右手にはこん棒のようなものを握っていて、「相手はどこだ?」と言ったとか。

すると例の社長は新田さんにひと言。
「ちぇっ、もっと早く来ないと駄目じゃないか!」

日本では到底考えられない情景ですが、マロニエ君は実を言うとまったくこの社長そのものみたいな人格で、こんな風に陽気に本音を包み隠さずに毎日を活き活きと過ごすことができたら、どれだけ素晴らしくストレスも少ないことかと思います。
マロニエ君もなにを隠そう人のもめ事などくだらないことが大好きで(暴力的なものはその限りではありませんが)、内心「やれやれ!」と思うのに、したり顔で割って入って「まあまあ」などと利口者ぶってなだめる奴が一番嫌いです。そんな奴に限って、自分は立派で、大人で、善良で、道徳的で、人として正しい態度を取っているつもりなのですから救いようがありません。

日本人が欧米人に比べると、多少引っ込み思案で遠慮がちなことぐらい、もちろん自分が日本人なのでわかっていますが、それにしても今どきのどうにもならない閉塞感はどうかしていると思います。

心の中はひた隠して、うわべの振る舞いや言うことだけは立派で、そういう人がうわべだけで評価される社会。ああ、彼の地は、なんと羨ましいことかと思いました。
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パリの野次馬1

新田美保さんというピアノを弾く女性が書いたエッセイ『パリを弾く』というごくごく軽い本を読みましたが、彼女はカラッとした性格である上に、パリの水で顔を洗っただけのことはあってセンスがあり、くわえてなかなか筆の立つ人ときているので、とてもおもしろく読み終えることができました。

この人は、エリザベト音大を卒業後、パリに渡りエコールノルマルの名教授ジェルメーヌ・ムニエのクラスで研鑽を積み、卒業後して後もこの地が気に入って、ずっと留まって生活をしている女性のようです。

本にはピアノや音楽のことはそれほど語られず、もっぱらフランスでの生活の情景がさまざまに切り取られ、おもしろ可笑しく描かれていますが、社会そのものが硬直した原則論やキレイゴトにまみれた、なにかにつけ息苦しい日本よりは、よほど自然体で共感できる点も多く、なんだか不思議な開放感に満たされたのが読了後の率直な印象でした。

パリっ子は我々が思っている以上に率直で自由な感覚で人生を生きているという、いうなれば人間的には至極真っ当なことを感じ、考え、発言し、あれこれ実行しているだけなのでしょうが、その点が非常に羨ましく思えましたし、時代の空気に気を遣うばかりで、どこか自己喪失してしまいそうな自分を少し取り戻すことができたようにも思いました。

それほど現代の日本は、建前に縛られ、人情に薄く、空虚な原則論ばかりが大手を振って歩いている、ある種全体主義的な管理社会という気がします。善人願望、利益優先、自己中、本音はタブー、喜怒哀楽の否定、情報の奴隷、文化意識・情感・冒険心の喪失などなど、日本の空気をいちいち挙げていたらキリがありません。

先日も日本在住のアメリカ人と会う機会がありましたが、なんでもないことが非常にまともで、知性と感情のバランスが普通で、やはり日本人は今とてもおかしなことになっていると感じたばかりです。

つい話が逸れました。
『パリを弾く』に戻ると、全編にわたりおかしなところは多々ありましたが、もっとも笑えて、かつ共感できたことのひとつ。新田さんがボーイフレンドと喧嘩をしてしまったので、友人を誘って愚痴りながら食事をしていたときのことです。
この友人というのがまた、歳もぜんぜん違って60歳にもなる、ある有名ブランドの社長なのだそうですが、そもそも日本では世代も性別も、ましてや国籍も違う者同士が、なにげなく食事に誘ったり誘われたりするなんてことは、まず考えられません。

直接の友人と会ったり電話でしゃべるより、スマホで見知らぬ人とコミュニケーションを取る方が楽で楽しかったりするのだそうですし、聞くところによるとちょっとした自分の考えや好みを言うのさえ、もし相手が逆だったときのことを考えて口にしないよう習慣づけているそうで、これは気遣いでも思いやりでもなく、それで自分が嫌われることを恐れての防御策なのですから、いやはや保身術も病的な領域に突入していると思います。あるテレビの報告に拠れば、現代の日本人の思考力や言葉の能力は、昔に較べて確実に退化しているのだそうで、ゾッとします。

ああ、またまた話が逸れました。
その新田さんが、その60歳の友人とそのレストランで食事中、突如、向こうのテーブルで突然激しい争いが起こったとか。
長くなったので、続きは次回。
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ウマ

離婚の理由などでよく耳にするのが「性格の不一致」という言葉ですね。
本当は広い意味の問題を、抽象的かつなんの工夫もない形式的な言葉に変換して、無造作にくくりつけただけのような、いかにも浅薄な響きを感じてしまいますが、実際には人と人との間に起こる非常に難しい永遠のテーマであるとも思います。

これは、べつに夫婦や恋人や友人でなくても、どんな場合でも、そこに人間関係が存在する以上、大小深浅の差はあれども必ずあり得るものです。

「性格の不一致」というと、まるで男女間限定の言い回しのような印象もありますが、別の言い方をすると人には「ウマが合う/合わない」という摩訶不思議で説明不可能なものがあり、これはいうまでもなく事の善悪や理屈を超えた生理的次元に属する問題なのかもしれません。そして、合わない場合はまずこれという解決策もないのが普通でしょう。
すぐに縁の切れる関係なら接触を断てばとりあえず解決ですが、嫌でも顔を合わせるしかない場所での関係になると、これほどきついことはなく、ひとたびこの淵に落ち込むとなす術がありません。

いっそ明確な落ち度や、分かりやすい善悪の裏付けなどがあればまだ救えるのでしょうが、そうでないところが辛いところ。ことさら悪いことをしているわけでもないのだけれど、ちょっとしたものの言い方とか、その人の癖、かもしだす負のオーラなどが無性に気に障ったりしはじめると、もう止めどがありません。

極端にいうなら、別の人がもっと酷いことをしても許せるのに、その人がすることは、客観的にはまったく大したことではないのに、どれもこれもが不快に感じたりする。そんなことで人に対する好悪の感情を抱く自分の人間性のほうが悪いのではないかと、今度は自分を責めるようになってみたりと、まさに出口のないストレスの渦に巻き込まれることにも発展します。

仮に人に打ち明けても、理解してもらえれば幸いですが、下手をすると「それしき」の事にガマンができないこちらの人格や良識、度量の無さ、ひいては道義性まで問われかねませんから、それを恐れてひとり抱え込んでしまう人も少なくないだろうと思います。

「ウマが合わない」とは、つまり一般論では解決できない極めて不幸な関係のことだろうと思います。さらには、こちらの心中を悟られてはいけないと精神的にもかなり無理をするので、いよいよ疲労やストレスは積み重なり、ついには相手の存在そのものが疎ましくなってしまいます。
その人がいる場所には行きたくないし、用があっても、メールや電話をするのも億劫になります。

マロニエ君は決して八方美人ではありませんが、わりに老若男女を問わず広くお付き合いのできるほうだと勝手に自惚れていますが、稀にこういう相手と出会ってしまうと、もうどうにもなりません。

残念なことに、世の中には必ずそういう相手が少しはいるもので、ときどき不慮の事故のようにヒョッコリ出会ってしまうということだろうと思います。
そういう相手とはできるだけ接触を控える以外に、有効な手立てはないようです。
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趣味の条件

先日、ピアノ趣味の同好の士を募ることの難しさを書きましたが、それはひとくちにピアノといっても、その楽しみ方があまりに多岐に渡っているため、まとまりを取ることが非常に困難という、ピアノの特殊性があるという意味のことでした。

それはそれとして、趣味道というものは可能なら仲間が集い、その魅力はもちろんのこと、苦楽や悲喜劇をも楽しく語り合って共感を得、同好の士との親睦を深めつつ情報交換にもこれ努めるなどがその醍醐味だということに今でも異論はありません。

そのいっぽうで、専ら人前で弾くことが好きな人という種族もあるわけで、これはあくまでも聴く人(もしくは見てくれる人)を必要とするのが、マロニエ君に云わせれば通常の趣味道とはちょっと趣が異なるような気がします。こういう人の中には、家にも立派なピアノがあり、その気になれば存分にそれを弾くことも可能であるにもかかわらず、それでは精神的に飽き足らないようです。

それも拙いながらも人に聴かせたいという純粋な動機ならまだ微笑ましいと解釈もできるのですが、人前で弾いている自分やそれに伴うある種の緊張や興奮の虜となり、それがために自分が主役となるための互助会的関係で人と繋がっているというのは、純粋な音楽の演奏動機とは似て非なるもののように感じます。

そうはいっても反社会的行為でない限りは、個人の自由であることはいうまでもなく、その範囲内でどのように楽しみを見出そうとも、それは咎められるものではないでしょう。ただ、ピアノのある場所を借りて互いに何時間も取り憑かれたようにただ弾きまくるということが、果たして趣味といえるかどうかとなると、少なくともマロニエ君には甚だ疑問です。

趣味というものに、附帯的に仲間がいるということは嬉しいことであり、心強いことでもありますが、そもそも趣味の根本にあるものは突き詰めれば「孤独」ではないかと思います。
もちろんスポーツなど、集団であることが必要とされるものも中にはありますが、それはレクレーションであったりイベントであったりで、マロニエ君の認識で云うところの趣味の概念からいえば、趣味というものはもう少し違った精神世界であるし、基本的には仲間がひとりもいなくてもじゅうぶん楽しめるという自分自身の基盤を持っていないと趣味とは呼びたくないというこだわりが自分にはあるようです。

その上で、好ましい仲間がいれば、もちろんそれに越したことはありませんし、そこから趣味の道も人間関係も広がればこんな幸福なことはないわけです。
ただ、同じピアノでも、互いに弾き合うイベントや教室の発表会だけを唯一最大の目標にするようでは、これは趣味人としてもずいぶん浅瀬ばかりを這い回る遊び方のように思います。もちろんそれを否定しているわけではないですが。

繰り返しますが、趣味というものは基本的にひとりでじっと楽んで、それでじゅうぶん愉快でなくては本物じゃないというのがマロニエ君の持論です。同時に、どんな楽しみ方があっていいとは思いますけれども、そこに一筋の純粋さが貫かれていなくてはマロニエ君自身はおもしろくないわけです。

マロニエ君は理屈抜きに人と関わることは人一倍好きですが、趣味の合わない人と趣味を語り、不本意に価値観や歩調を合わせることはまったく不本意で、正直疲れてしまいます。
きっと自分が一番好きなことは、他者から土足で踏み荒らされることが嫌で、自分にとって理想の形態で温存しておきたいという防衛本能が働いているのかもしれません。
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ピアノ趣味の困難

これまでに、いくつもの趣味のクラブに属したことがあり、中でも車のクラブはいったい幾つ入ったかわかりません。既存のクラブに入会したのはもちろん、自分が発起人となって作ったものもいくつかあり、その中のひとつは設立から20年以上を経て、今尚存在しているほどで、最盛期には実に200人近い会員数を誇りました。この間、多くの素晴らしい人達と出会ってきたことを思うと、趣味というものの素晴らしさをこれほど切実に感じたこともありません。

そんな趣味のクラブには慣れっこの筈のマロニエ君ですが、その多くの経験をもってしても、入っても、作っても、どうしても上手くいかないものがあり、それが何を隠そうピアノのクラブなのです。

ピアノのクラブでは既存のクラブに入会したものの価値観が合わずに退会したものがあるほか、自分でもこの「ぴあのピア」を立ち上げて作ってみたものの、さてどう動いて良いのやら、ピアノに関してだけはまったく動きの取り方がわからないし、運営方法が皆目掴めないという状態が今尚続いています。
もちろん、マロニエ君の力不足、能力不足、努力が足りないと云われたらその通りなのですが…。

趣味のクラブというものは、いまさら云うまでもなく、趣味を同じくする者同士がつどい、その苦楽を共にし、語り合い、情報交換に興じ、そしてなによりもその素晴らしさを深く共感し合えるところにあり、さらにそこから趣味人同士の友誼や連帯が生まれて、それを軸にした人間関係が構築されていくところに醍醐味があると思います。

しかし、ピアノに関してだけはその趣味性という点に於いても、まるでつかみどころが無く、いっかな焦点さえ定まりません。ひとつの主題の元に全体がゆるやかに結束することが、ピアノほど困難な世界も経験的に珍しいというのが偽らざるマロニエ君の実感です。

それというのも、ひとくちにピアノと云っても、自分が弾くことがが好きな人、音楽が好きでピアノにも興味がある人、いろいろなピアニストや楽曲に強く興味を覚える人、はたまた楽器そのものへ興味を持つ人など、そこには、そのアプローチにはおよそまとまりというものがないわけで、これは裏を返せば、ピアノは弾くけど音楽にそれほど関心はない、CDは買わない、コンサートには行かない、楽器の個性や構造なんてどうでもいい、電子ピアノでじゅうぶんという、まさに十人十色の接し方があるということです。

さらには「弾くことが好き」な人も、その内容はさまざまで、愛聴する曲をなんとか自分でも演奏しようと努力をしつつ楽しむ人、ある程度技術に自信があって難易度の高い曲を弾くことにプライドを持っている人、とにかく有名どころの通俗的な曲を自分で弾いてみたくて練習に励む人、ピアノなんて安い電子ピアノで充分という人、いや絶対に生ピアノに限るという考えの人、あるいはとにかく人前で弾くのが快感でステージチャンスを欲しがっている人、中にはピアノといえば女性が多いと当て込んで、ピアノは二の次で彼女探しに来る人など、まあとにかく書いていたらキリがありません。

さらに付け加えるなら、たとえ簡単な曲でもいいから、少しでも音楽性あふれる素敵な演奏を目指して、CDを聴いたり、あれこれと工夫をしたり、少しでも自分の理想とする演奏に近づけようと精進する人は意外なほど少数派だと思いました。

趣味の有りようはまさに各人各様で、どのような切り口から楽しんでもそれは個人の自由なのですが、ピアノの場合その実態はあまりに多様を極め、共通点はただひとつ「ピアノ」という単語以外には見あたらず、それでは集まっても、それぞれ別の方向を向き、別のことを考えているようなものでしょう。

これほどまでにその目的や楽しみの中心点が定まらないということは、上記のように「苦楽を共にし、情報交換に興じ、素晴らしさを共感し合う、趣味人同士の連帯」などという趣味人の交流はなかなか生まれようもありません。
ピアノは弾くのも、趣味として集うのも、なかなか難しいものです。
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技術者の音

メールをいただくようになったディアパソンファンの方は、ついにご自分の好みの1台に対象が絞られ、その購入を前提とした交渉を続けておられるようです。

ただ、この方によると、お店によってはとても丁寧に整備されたピアノであっても、なぜかそれがディアパソンが本来持っている個性と、調整の方向が乖離してしまっている(という印象を受ける)ために、せっかくの技術がピアノに必ずしも反映されない場合もあるようでした。

せっかく良いもので、きちんとした工房が併設され、高い技術を有する技術者によって仕上げられたピアノでも、最終的に判断するのは購入者であって、その人の心に触れるものがなければ購入には結びつかないというのは、当たり前といえば当たり前ですが、主観に左右される点も大きいために、技術者側にしてみれば難しいところでもあるのだろうと、この分野の微妙さを感じてしまいます。

あるお店では、Y社のグランドなどと並んでディアパソンも店頭に並べられ、その店の自慢の技術者がずいぶんと腕をふるった調整をされていたようでした。どのピアノもとてもよく調整され、中には望外の響きがあって感激さえしたということでした。
その話は聞いていましたが、ネットからもその音が聴けるとのことで、マロニエ君もさっそく聴いてみました。この時ばかりはさすがにパソコンのスピーカーというわけにもいかないだろうと思い、このところあまり使っていないタイムドメインのLightを引っぱりだして、パソコンに接続して聴いてみましたが、たしかに非常によく整えられたピアノだという印象でした。

同時に、本体や消耗品が平均的なコンディションを持つピアノなら、高度な技術を持った技術者がある程度本気になって手を入れたピアノは、だいたいあれぐらいの音にはなるだろうと思ったことも事実です。
技術者の仕事としてはもちろん素直に敬意を払いますが、同時に、今が調整によって最高ギリギリの状態にあるという断崖絶壁の息苦しさみたいなものもちょっと感じました。このピアノがこれからコンサートで使われるというのなら話は別ですが、お客さんが普通に購入して自宅に運び込むとなると、この特上の状態がはたしてどこまで維持できるのかという逆の心配も頭をよぎります。個人的には、あまり詰めすぎず、もう少し可能性ののりしろというか、どこか余裕を残した調整であるほうが楽器選択もしやすいような気がします。

一流の技術者さんに往々にしてあることですが、各楽器の個性とか性格を重んじることより、ご自分の技術者としての作業上のプライドと信念がまずあって、もちろんそれを正しいことと信じて、結果的にはやや強引かつ一律な調整をされてしまう場合があるとも思います。それでも技術がいいから、ピアノはどれもそれなりのものにはなりはするものの、悲しいかなどれも同じような音になってしまう傾向が見受けられる気がします。

おそらくはその方の中に「理想の音」というものがあって、それが常に仕事を進めるときの指針となっているのだろうと思います。Y社K社のようなピアノであれば、ある意味それもアリで、いい結果が得られることもある程度は間違いないだろうとも思われますが、ディアパソンのようなピアノの場合は、やはり楽器の特性を念頭に置いた上での調整でないと、理屈では正しいことでも、場合によっては裏目に出る場合もあるわけで、本来の能力や魅力が押し殺されてしまう危険性がないとは言い切れません。

どんなにスタインウェイに精通した技術者でも、それがそのままベーゼンドルファーに当てはまるわけではないのと同じようなものでしょうか。航空機はいかに優れたパイロットであっても、機種ごとの免許がなくては操縦できませんが、それは人命がかかっているからで、ピアノで人は死にませんからね。

だれからも平均して評価され、好まれるということももちろん立派なことで、それを技術によって音に具現化するのは簡単なことではありませんが、でも、本当におもしろいもの、尽きない魅力に溢れるものは、なぜか好き嫌いの大きく分かれるものの中に見出すことが多いようにマロニエ君は思いますし、ディアパソンそのひとつだと思います。
願わくば、その特性や長所を理解した調整であってほしいのが我々の願いでもあります。

ディアパソンの最大の弱点は、多くの人がこの素晴らしいピアノに接する機会が、現実的にほとんどないということに尽きるだろうと思います。
接することがなければイイと思うことも、嫌いだと感じることも、両方ないわけですから。
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炎暑到来

一昨日は、その前日の雨模様から一転して、朝から猛烈な真夏日となりました。

通常であれば、梅雨明け宣言から日を追うごとに気温が上がりはじめて、しだいに夏のピークに向かっていくところですが、7月8日はまさに猛暑日を飛び越していきなりの炎暑日となり、その強烈さにはとてもじゃないけれど心身がついていけないというのが率直なところでした。

午後のことですが、所用で出かけるため、車を車庫からバックで出そうとしていたところ、驚くべきものを目撃してしまいました。
この日は、我が家のほど近い場所で道路工事をやっていてその部分が片側通行となり、その両脇には通行する車を交互に止めたり行かせたりするための誘導係が、照りつける直射日光の中に立ってその仕事に従事していました。

車を出すべく、後ろを見ながらバックしていると、ちょうどその工事中の光景が視界に入るのですが、まさにそのとき、その誘導員の方がとつぜん地面に倒れてしまいました。それもよろよろと座り込むというような動きではなく、まさにパタンと、縦の物体が横に倒れるというような、まるでマネキンなどが倒れるような倒れ方だったので、これはタダゴトではないと仰天してしまい、バック途中だった車を止め、急いでドアを開けてそこへ走りました。

その方が倒れられたときの、カツンというヘルメットが地面に当たる小さな音も、いやな感じに耳に残っています。
駈け寄るなり「大丈夫ですか!?」と何度か声をかけますが、まったく応答が無く、熱せられたアスファルトの上に仰向けになったまま、苦痛の表情ばかりが目に入りますが、声も出せないという状況でした。
まわりを見ると、工事の仲間の人達は、少し離れた場所にある工事現場と、さらにその向こう側の誘導員の方の姿があるだけで、まだこの事態に気付いていません。

咄嗟にそちらに走っていき、彼らに声をかけて、急いでこっちに来てくれるよう大げさに手招きをすると、何事かという感じで数人の人がはじめは普通の感じで来てくれました。
すぐに道に倒れている仲間の姿を見てその状況を理解すると、たちまち他の人も呼ばれて、あっという間に4〜5人の作業員の人達が集結して、その人のまわりをしゃがみ込んで取り囲みました。

しかし、どんな呼びかけにも明瞭な反応はなく、大変な苦痛の様子は変わりません。
集まった人のうちの誰かが「救急車!救急車!」と大きな声を上げ、ほとんど同時に全員の手で水平状態のまま持ち抱えられて、目の前のマンションの車寄せにある日陰へと移動させられていきました。

これだけ人が揃えばとりあえず大丈夫だろうと判断して、マロニエ君は車に戻り、そのまま出発しましたが、しばらくはあのショッキングな倒れ方の情景が目に焼き付いて離れませんでした。

おそらく熱中症だろうと思いますが、新聞やテレビでは耳目にする言葉でも、現実の怖さをまざまざと見せつけられた思いでしたし、野外で仕事をする人は本当に過酷な条件の中で、身を苛んで働いておられるんだなあとあらためて思わずにはいられませんでした。

それも、じわじわと時間をかけて到来した猛暑であったらなまだしも、この日のような突然の炎暑ともなると、だれでも身体がそれに耐えていくだけの準備もできていなかっため、よけいに堪えたのかもしれません。
マロニエ君自身もこの日は、さすがに身体に堪える暑さで、帰宅後も普段とは明らかに違う疲労感に包まれました。
どうかみなさんも、くれぐれもご用心ください。
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各店各様

マロニエ君の部屋に書いた、ディアパソンの210Eを購入予定の方とは、その後もずいぶん頻繁に連絡を取るようになりました。その方もディアパソンには格別な惚れ込みようで、購入されるのはもはや時間の問題だという強い意気込みを感じます。ディアパソンを心底気に入っているマロニエ君としては、こういう方の存在は大変うれしい限りです。

ほとんど市場に出回る個体はないに等しいとメーカー自身が言って憚らない210Eですが、ネットの普及とこの方の情熱、そして優秀な調査力の賜物か、数台の候補が挙がってきているのは驚きでした。
価格もバラバラですが、お店のほうも各店各様で、話を聞いているだけで興味深いものを感じてしまいました。

マロニエ君はいうまでもなく、それらのどの一台も現物を見たわけではないので、聞いた話からだけしか判断できませんが、210Eあたりになると必然的に製造後30年前後を経過したピアノということになり、そのコンディションもそれぞれ著しく異なる筈です。
ピアノには生まれながらに個体差があるといいますが、このぐらい古くなると、そんなことよりはこれまでどういう時間を過ごしてきたかのほうが圧倒的に問題であり、どんな所有者からどんな使われ方をしたか、きちんと技術者の手が入れられ大切にされてきたか、学校のような場所で容赦なく酷使されたか、置かれていた場所はどうだったかなど、いうなればピアノが嫁いだ後の環境差こそ問題とみるべきでしょう。
さらに今現在の整備状況や消耗品の状態などが重要な要素として加わります。

聞くところでは、販売価格こそ安いものの、話だけではちょっと躊躇したくなるようなものや、すでに売れ筋から除外されているのか、倉庫内に梱包したまま置かれているだけなのでお店側も詳しいことは確認不足であるなど、この日本の名器の扱われ方も実にさまざまのようです。

さまざまといえば、ピアノ店の在り方も同様で、規模は小さくとも技術で勝負をして、一台一台をきちんとした状態で(もちろん商売なので、採算に合わないことはできないにしても、できるだけ良心的な状態に仕上げて)売っている店があるいっぽう、やたら在庫数にものを云わせ、高級ブランド高額ピアノを前面に押し出している店、あるいはその中間的な性格の店など、お店によってピアノに対するスタンスも大きく異なるのは以前から変わらないようです。

意外なことには、ほとんど何も手を入れずに、酷い(と想像される)コンディションのピアノを売ることにも、いわゆる大型店のほうが畏れ知らずで、しかも価格はその状態に見合ったものとは思えない金額を堂々と提示してくるかと思うと、モノが売れない世相を反映してか、だんだん条件が好転してくるなど、逐一報告していただくお陰で、まるで連続ドラマを見るようにおもしろい思いをさせてもらっています。

聞けば、店によってはメールで問い合わせなどをしても、なかなか返事がないなど、あまり本気度が少ないようなお店があるいっぽう、技術者の工房系のお店などは、メールなどにもすぐに明快な応答があるようで、こういう部分の反応というものはお客さんの心証に大きな影響や先入観を与えてしまうのはやむを得ない要素です。ピアノ販売に限りませんが、問い合わせに対して迅速な対応というのは人間関係の基本だと思わずにいられません。

とりわけディアパソンは、お店によってその捉え方が相当違いますし、極端なところでは仕入れも販売もしないようですが、そのいっぽうで極めて高い評価をしている店があるのも事実で、どうかするとお店の看板商品的(新品)な扱いをしているところもあったりと、考えてみれば、日本のピアノでこれほど評価の別れるブランドも珍しいと思います。
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熱帯雨林並?

7月3〜4日は最悪とも云える空模様で、朝から絶え間なく雨が降り続き、それがときどき恐ろしい生き物のように激しくなったりの繰り返しでした。
雨よりも甚だしかったのは尋常ではない湿気で、家全体が蒸し風呂にでもなった気分でした。

だからといって家中のエアコンをやみくもに入れるわけにもいかず、なんとも気の滅入る、そして気分だけでなく身体的にも猛烈に過ごしにくい、一年を通じて滅多にないような悪天候でした。
ピアノを置いている部屋では、もちろんエアコンが除湿をしてくれるものの、冷えすぎなど温度事情もあるために、基本的には除湿器に依存しているのが我が家の実情です。

このところは除湿器が停止する僅かな時間もなく、ほとんど24時間フル稼働が続いていますが、除湿器の予備があるわけではないので、酷使が祟って故障でもしたらどうなるのかと思うと、気が気ではありません。なんとかがんばってこの夏を乗り切ってほしいと手を合わせるように願うばかりです。
毎日、タンクに貯まった夥しい量の水を捨てるたびに、こんなにも大量の水分が部屋の空気中に漂い、それがピアノの内部へと侵入していくのかと思うと、毎度ゾッとしてしまいます。

この季節の高温多湿はそれなりに慣れているつもりでも、3〜4日の湿度はちょっと異常で、まるで街ごと熱帯地方にでも放り込まれたかのようでした。
エアコン+除湿器のある部屋から一歩廊下に出ると、ヌッとした重くて分厚い空気から身体が押し返されるようで、それがどこまでも続きますから、いやはやたまったものではありません。

これでは除湿器のない部屋に置かれたピアノなどは、ガタガタに狂ってしまうだろうということは、もう理屈じゃなく本能で感じてしまいますし、世の中の多くの楽器や美術品なども例外ではないでしょう。

そういえば、ピアノの管理もさることながら、人間にも(過度な)湿度はよくないということを、いつだったか、テレビニュースで実験映像とあわせて報じていたことを思い出しました。
同じ人物が、同じ場所で一定時間の運動をするのですが、低湿の場合、運動によって湧き出た汗が10分ほどで乾いてしまいますが、湿度を梅雨並の高さに変化させた上で同じことをすると、今度は汗がいつまでたっても乾きません。
乾かないことで、水分が皮膚の表面に張り付き、それがクールダウンの邪魔をして、いつまでも身体の温度を下げてくれなくなるのだそうで、結果として体温が無用に高く維持されてしまい、これが身体の疲労につながってしまう原因だという説明でした。

とくに持病をお持ちの方や高齢者の方などは、こうして高湿によって体力を著しく奪われるので、温度だけでなく湿度にもじゅうぶん注意が必要ということです。

それだけの疲労を生み出すのですから、不快に感じるなどは当たり前ですね。
同じ気温でも低湿だと涼しく感じるといわれていたことが科学的に立証されたわけで、なるほどなぁと思いました。やっぱり人の身体も楽器も、快適環境は同じのようです。
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語る演奏家

先のブログに関連することですが、N響定期公演でベートーヴェンの皇帝を弾いたポール・ルイスは、番組の冒頭でNHKのインタビューに答えていました。

いつごろからだかわかりませんが、昔に比べると、演奏者はインタビューに際してだんだんと音楽学者のような語り口になり、演奏作品について、より学究的な内容を披瀝するのがひとつの風潮であるように思います。
それも、一般の聴衆や視聴者に向けたものというよりは、自分は演奏家であるけれども単なる演奏家ではなく、音楽史や作曲家のことを常に学び、それらと併せて楽曲も深く掘り下げて分析し、しかる後に演奏に挑んでいるのですという姿勢。ただ単に曲を練習しているのではなく、それにつらなる幅広い考察を怠っていないのですよというアピールをされているように感じてしまうことがあります。

もちろんそこには個人差があり、どうかすると専門的な言及が行き過ぎて、ただ単に音楽を楽しんではいけないような印象さえ与えてしまい、逆にクラシックのファンが離れていくのでは?と感じるときも少なくありません。
そうかと思えば、近年流行りのトーク付きのコンサートでは、チケットを買って会場にやってきてくれたお客さんに向かって、ほとんどわかりきったような、いまさらそんな話を聞かされなくても…といいたくなるような初歩的な話を延々と繰り返したりで、どうせ話をするのなら、どうしてもう少し聞いていて楽しめる内容のトークができないものかと思うことがしばしばです。

つまり専門的過ぎるか、初心者向け過ぎるかの二極化に陥っているという印象です。

その点でいうと、この番組冒頭でのポール・ルイスの話はそれほど専門的なものではないのは救いでしたが、「誰でもこの曲を大きな音で弾いてしまうし、それはそのほうが楽だから」とか「協奏曲でありながら室内楽的要素が多く、そこに注意すべき」とか「オーケストラの中の一つの楽器とピアノの対話の部分が多い」など、いかにもブレンデル調の切り口だと思いました。しかし、それが皇帝という名曲の本質にそれほど重要なこととも思われないような事という印象でもありました。

そもそも、演奏家自ら曲目解説をするようになったのは、やはりブレンデルあたりがそのパイオニア的存在であったし、ポリーニや内田光子などを追うように、より若い世代の演奏家もしだいに専門性を帯びた内容に言及するようになり、それがあたかも教養ある演奏家であることを現すひとつのスタイルになっていった観は否めません。

そんな中にも、もう好いかげん聞き飽きた、すでに錆びついたようなコメントがあり、残念ながらポール・ルイス氏もそれを回避することはできなかったようです。
それは「ベートーヴェン(他の作曲家でも同じ)は演奏するたびに新しい発見があります。」というあのフレーズで、これはもはや演奏家のコメントとしては賞味期限切れというべきで、聞いていてなるほどというより、またこれか…としか思えなくなりました。

少し前のアスリートが、オリンピック等の大勝負を前にして「まずは自分自身が楽しみたい」などと、ほとんど決まり文句のように同じことを云っていたことを連想してしまいます。

往年の巨匠バックハウスが『芸術家よ、語るなかれ、演奏せよ』というけだし名言を残していますが、今はまるきりそういった価値観がひっくり返ってしまったのかもしれません。
『芸術家よ、語るべし、演奏する前に』…。
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師匠譲り

Eテレのクラシック音楽館で少し前に録画していたヒュー・ウルフ指揮のNHK交響楽団の定期演奏会から、ポール・ルイスをソリストにベートーヴェンの皇帝を聴きました。

ポール・ルイスはイギリス出身で、ブレンデルの弟子と云うことで有名なようで、そのレパートリーもブレンデルとかなり共通したものがあるようです。とりわけベートーヴェン、シューベルトを中心に置き、後期ロマン派にはあまり積極的でないような点も似ています。尤も、ブレンデルは若い頃にショパンをちょっと録音したり、円熟期にはリストを弾いたりはしていましたけれども。

まずさすがだと思われた点は、ポール・ルイスのピアノは自分は二の次で、あくまでも音楽や作品に奉仕しているという一貫した姿勢が崩れないことで、テンポも非常にまともで、最近流行の意味不明の伸縮工作などは一切なしで、気持ちよく音楽が前進していくところでした。
そのためか、演奏を通じての自己顕示欲をみせつけられることもなく、安心してこの名曲を旅することができました。

ただ、師匠譲りなのはマロニエ君から見れば好ましくない点までそのまま引き継がれているようで、たとえばその音は、音楽表現のための必要最小限の朴訥なもので、ピアノの響きの美しさとか、肉感のある音やニュアンスで聴かせるというところはほとんどありません。

また、あくまでもそのピアニズムは作品の解釈を具現化するだけの手段でしかなく、精緻な音の並びとか、音色を色彩豊かに多様に表現するといったところはありません。そういう意味では良くも悪しくも技巧で聴かせるピアノではなく、そちらの楽しみは諦めなければなりません。

また冒頭のインタビューでは、「皇帝には室内楽的な要素がある」と云っていましたが、それはそうなのかもしれませんが、それを大ホールの本番であまり過度にやりすぎるのもどうかと思いました。皇帝だからといって終始ガンガン弾くのが正しいとは思いませんが、やはり決めるべき場所ではビシッときめてもらわないことにはベートーヴェンが直に鳴り響いているようには聞こえないし、この曲を聴くにあたっての一定の期待も満たされないままに終わってしまいます。

とくにフォルテッシモや、低音に迫力や重量感がないのも、ピアニストとしてもうひとつ食い足りない気分になり、第三楽章の入りなどにも、あの美しい第二楽章からそのまま引き継がれながらも突如変ホ長調の和音の炸裂が欲しいところですが、これといった説得力もないままに、ヒラヒラッとアンサンブル重視の姿勢をとられても、聴いている側は当てが外れるだけでした。

音色の使い分けとか、タッチの妙技によって深い歌い込み、細部に行きわたるデリカシーが少ないために、第二楽章の美しすぎる「歌」もただ通過しただけという感じで、その感動も半減となってしまいます。全体として好ましい演奏であるだけに残念な印象が残ってしまいます。
そうそう、これもブレンデルそっくりだと思ったのは、例えばトリルの弾き方で、マロニエ君の考えではトリルにはトリルのさまざまな弾き方、あるいはそのための音色や意味があると思うのですが、ポール・ルイスのそれは単なる音符のようにタラタラタラタラと平坦で無機質に弾いてしまうところで、ブレンデルにもこうしたところがあったなあと思い出しました。

望外の出来映えだったのはN響で、いつもはどこかしらけたような、予定消化のための義務的な演奏をしているかにみえるこのオーケストラが、この日はいかにも音楽的な、厚みと覇気のある、つまり魅力的な演奏をしてみせたのは驚きでした。指揮のヒュー・ウルフの手腕といえばそうなのかもしれませんが、そうだとしても、いざとなればそれだけの結果が出せる潜在力を持っているということはやはり大したものだと思いました。
日本の誇るオーケーストラにふさわしい、聴く者を音楽の魅力にいざなうような演奏をもっともっとやってほしいものです。
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一級仕事師

今年の2月にミュンヘン・フィルハーモニー・ガスタイクで行われた、メータ指揮のミュンヘンフィル演奏会の様子がBSプレミアムで放送されましたが、この日のメインは五嶋みどりをソリストに迎えたブラームスのヴァイオリン協奏曲でした。

五嶋みどりさんが、世界的なヴァイオリニストであることに異を唱えるつもりは毛頭ありませんが、美味しい食事にも食後感、読書にも読後感というものがあるように、音楽にも聴いた後に残るイメージといいましょうか、いわば残像のようなものが残りますが、その点で云うと、マロニエ君は五嶋みどりの演奏にはある一定の敬意は払うものの、心底その演奏に酔いしれるとか、音楽としての感銘を受けたという記憶はほとんどありません。

CDなどもそうですが、まったく非の打ち所のない、隅々まで神経の行き届いた大変見事な演奏ですが、この人は本当に音楽が好きなのだろうかと思わせられるのも毎度のことで、芸術家というよりも、完全無欠な仕事師の最上級の仕事を拝見しているという印象しかありません。

ブラームスのヴァイオリン協奏曲はマロニエ君の最も好きなヴァイオリン協奏曲のひとつですが、この曲の持つ暗い陶酔的な世界と、五嶋みどりの演奏にはなにやら超えがたい溝があるように感じました。
第1楽章では、長い序奏を経てソロヴァイオリンが闇の中から突如妖しく現れますが(この部分でマロニエ君が最も理想的と思えるのはジネット・ヌヴーのそれですが)、五嶋みどりはこれ以上ないというほど激しく、曲に挑みかかるように弾いていきます。

それがあまりにも度を超していて、見ていてちょっと呆気にとられるほどで、狙いとしては下手をすると冗長にもなるブラームスで、高い緊張感を保ちつつ聴く者を圧倒しようということなのか…真意はどうだかわかりませんが、この人のいかにもストイックでございますという生き方はともかくも、少なくとも演奏の点に於いては、かなりの自己顕示欲が漲っているようにしか思えません。
協奏曲であるにもかかわらず、指揮者を見ることもほとんどなく、音楽上自分が譲るとか裏にまわると云うことは一切ないまま、徹底してマイペースで突き進んでいくのは共演者に対してもちょっとどうかな…と思います。

全曲を通じて、常に自分の演奏を際立たせ、細部の細部に至るまで自分が主役であり、会場の中心は私であるといわんばかりに振る舞っているように見える(聞こえる)のは、ああ、この人は昔からこうだったという記憶が鮮明によみがえってくるばかり。

それでも、なにしろ基本的に上手いし、チャラチャラしたタイプではないので、最終的に立派な演奏として完結はするけれども、非常に突っ張った、極端に意地っ張りな人の勝負精神を見せられるようで、音楽としての豊かさとか、ほがらかさ、楽しさといったものがちっともこちら側に伝わってこないのは、やっぱり演奏しているその人がそうでないからなんだろうかと変に納得してしまいます。

それでも感心するのは、第2楽章のような滑らかな旋律が延々と続くような部分では、決して息切れすることなく細い絹糸のような芯のある音が、括弧とした動きを取り続けるようなとき、あるいはフレーズの入りの部分では、いつもながら的確で繊細で、こういうところは彼女ならではの上手さを感じます。

逆にいただけないのは、激しい部分ではあまりに切れ味先行型の演奏になるためか、過剰なアクセントの濫用で、ときに品位を欠く演奏へと陥るばかりか、リズムも崩れ、何のためにそんなに力みかえらなきゃいけないのかと、聴いているこちらのほうが気分が引いてしまいます。
そういうとき、ふとヴァイオリンを弾いている音楽家というよりは、どことなく剣術の果たし合いのようで、この不思議な女性の中に、一体なにがうごめいているんだろうと思ってしまいます。

マロニエ君は基本的に情熱的な演奏は大好きなのですが、かといって、こういう演奏をもって情熱的とは解釈できないのです。

あれじゃあ弓の毛も傷むだろうなあという感じですが、たしかに五嶋みどりは演奏中もしばしば切れた毛をプチプチとむしり取る回数がほかの人よりも多いような気がします。
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雨の夜

誰にでも、自分だけに不思議に心地よい、これといって明確な訳もないまま好む状況や時間というものがあるのではないでしょうか? 自分だけのある一定の条件が整うことで、取るに足らないささやかなことでも、そこにえもいわれぬ充足した幸福感のようなものを見出す瞬間。

まったくその人だけの固有のもので、普遍性の裏打ちも正当性もない、きわめて個人的主情的なものに限られます。なぜそれほど好ましく、心が安らいで満たされるのか、本人にさえ理由は漠としてよくわからないことが数こそ少ないけれどもあると思うのです。

マロニエ君の場合で云えば、仕事柄か、長年の生活習慣からか、ともかく慢性型の夜型人間なので、本当に自分の時間を持てるのは大抵真夜中の時間帯ということになります。
とりとめもないことをあれこれやっていると、その貴重な時間は瞬く間に過ぎ去って、人によってはそろそろ起床時間になるような時間帯を迎えることもしばしばです。

ここまでは特にどうということもない日常の範囲で、好きというよりも自分にとって必要なものという感覚です。ところが、そこへごくたまに格別な効果が加わることがあって、それがたまらなく好きなのです。

まるで今夜のように…。

それは深夜に降りしきる雨で、自室でようやく落ち着いた時間を迎えようと云うとき、あるいはその途中からでもいいのですが、漆黒の夜の中に雨が降り、カーテンごしの窓の外や屋根づたいにその雨音が聞こえる、あるいは明瞭にその気配が感じられることがあるのですが、その感じがどうしようもなく好きなのです。

そして、幸福の感触というものは、実はこんな取るに足らない、ふとしたどうでもいいような壊れやすいちょっとした瞬間のことをいうのではないかと思ったりするわけです。

ごくシンプルに、たわいもないことで、自分が心底から心地よさに浸ることのできる瞬間なんてものは、日常の中にそうざらにはありません。それも人生上の慶事などという実際的かつ大層なものではなく、さりげなくて、なんの意味もなくて、心地よさの感覚だけが突如として自分に降りそそいでくるような、そんな思いがけないものでなくてはなりません。同時にそれは、一時の儚いもので、いつまでも逗留してくれるようなものであってもダメなのです。

窓の外には雨が降りしきり、ときに激しい大雨になることもありますが、そんなとき、冬ならヒーターで温まり、夏ならエアコンで除湿された部屋の中で、誰からも邪魔されることのない自分だけの時間を過ごすこと。これがマロニエ君とってはちょっと比べるもののないほどの心地よさに取り囲まれるときで、ただもう無性に嬉しくて心地よい時になってしまいます。

このときばかりは、日頃の疲れやストレスもしばし忘れて、今時の云い方をすれば心がリフレッシュできているような気がします。だから日中の雨が夕方止んで、夜はお天気回復なんていうパターンが一番がっかりですし、逆に昼間はお天気だったものが夜から崩れて、深夜には大雨となり、そして翌朝は快晴というのが最も理想のパターンなのです。

人の心には、まったくくだらないことが、しかしとても貴重なようです。
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ベヒシュタインウェイ?

読む人が読めばわかるでしょうから、大した意味もないとは思いつつ、それでも敢えて名前は伏せますが、さる日本人のイケメン(という事になっているらしい)男性ピアニストが、いまベートーヴェンのピアノソナタ全曲を録音進行中で、先ごろ最後の3つのソナタが発売になったようです。

マロニエ君はピアノの音を聞くのが目的で、興味のない演奏家のCDをしぶしぶ買うことがありますが、この人のCDとしては、以前、日本のあるピアノ会社所有のニューヨーク・スタインウェイで演奏したということで、ラヴェルのコンチェルトと夜のガスパールなどのアルバムを買ったことがありました。
そのどことなく幼稚な演奏にはあれれ?とは思ったものの、その時は正味のピアニストというよりも、どちらかというと女性人気から売り出した観のある人だったので、まあこんなところだろうぐらいに思ったものでした。

そんなアイドル系ピアニストの弾くベートーヴェンの最も神聖なソナタなど、普通ならまず絶対に寄りつきもしないところですが、それに寄りつくハメになりました。
この人は、一時期は非常に癖のあるニューヨーク・スタインウェイをコンサートにも録音にも愛用していて、自らその楽器のことをF1などと呼びながら、ネット上にそのピアノを褒め称える文章まで書いていたほどでしたが、しばらくするとパッタリそのような気配はなくなり、録音も常套的なハンブルク・スタインウェイでおこなっているようでした。

ところが、現在のベートーヴェンのソナタ録音にあたっては、なんとベヒシュタインのD280を使用ということで、えらく大胆な方向転換をしたものだと思いましたが、ベヒシュタインで弾くベートーヴェンというのは、バックハウスが晩年におこなったベルリンでのコンサートライブでそのマッチングの良さに感嘆感激していたので、その強烈なイメージがいまだにあって、どうしても聴いてみたくなりました。

とはいえ価格は例によって割引適用無しの3000円で、そこまでして買うのもアホらしいような気分だったのですが、たまたまネット上で見かけたこのCDのレビューによれば、以前はこのピアニストのことをある種の偏見を持っていたけれども、人から進められて聴いてみると、本当に素晴らしい演奏云々…という激賞文でもあったため、ついついマロニエ君も少しばかりのせられてしまいました。

そうは云っても、以前の経験があるので、演奏には過度の期待はしていませんでしたが、まあ音を楽しむぐらいのものはあるのだろうという程度の気持でついに購入してしまいました。やはりどうしてもベヒシュタイン&ベートーヴェンが紡ぎ出すあの感激を現代の録音で聴いてみたい!という欲求に負けたというわけです。

しかし、結果はまったくの失敗で、アーできるものなら返品したい…と思うばかり。
むかし買ったラヴェルの印象がそのまま生々しく蘇るようで、この人はなんにも変わっていないんだなと思うと同時に、曲が曲であるだけに、いっそう分が悪い感じです。
彼はいま何歳になるのか知りませんが、ただ指の動く学生が音符の通りに平面的に弾いているようで、この世の物とは思えぬop.111の第二楽章の後半など無機質な指練習のようで唖然。

ピアノは上記の通りベヒシュタインのD280ですが、どちらかというと普通で、期待したほどベートーヴェンでの相性の良さは感じられませんでした。このピアノはよくよく考えてみると、おそらくはマロニエ君も一度触れたことのある「あのピアノ」だろうと今になって思われます。伝統的なベヒシュタインのピアノ作りを大幅に見直して、今風のデュープレックススケールを装着した新世代のベヒシュタインですが、あきらかにメーカーには迷いのあるピアノだと当時感じたことを思い出しました。

ベヒシュタインほどの老舗ブランドであるにもかかわらず、スタインウェイ風の華やかな音色とパワーをめざしたのでしょうが、結局はこのメーカーの個性を大幅に削り取ったピアノになっているとしかマロニエ君の耳には聞こえませんでした。バックハウスがベルリンで弾いたのは、Eという古いモデルで、その後のENを経て、現在のD280になりますが、モデル表記もまるでスタインウェイのD274そのままで、もう少し工夫はなかったものかと思います。

しかし、逆にいうと、ベヒシュタインと思うから不満も感じるわけで、一台のコンサートグランドとして素直に聴いてみれば、これはこれでなかなか素晴らしいピアノだと思えるのも事実です。とくに過度に洗練されすぎていない点が好ましく、ドイツピアノらしい剛健さの名残なども感じて悪くないとも思いますが、いささかスタインウェイを意識しすぎた観が否めないのは惜しい気がします。
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紹介の弊害

前回の続きみたいな内容です。

どんな場合にもある程度当てはまることですが、ある程度の金額のものを買ったりする場合、人の紹介があれば、それがない場合よりも安くしてもらえるとか、なんらかの好条件がもたらされるというイメージがあって、それを信じて疑わない人というのはわりと多いように思います。

しかし、あるころから、これは好条件どころか、むしろまったくの逆の現象が起きているのではないかというふうに疑い始めるようになり、その認識は時間や経験と共に深まっていきました。
一例を挙げますと、(車の購入の場合はわりに以前から云われていることですが)仮に車を購入する際の値引きの条件などでも、紹介者があると、営業マンはニンマリした顔で「○○様のご紹介ですから」といった尤もらしいフレーズに乗せて一定の割引などが提示されるようですが、実は少しもそれに値するような金額ではない場合が珍しくないのです。
むしろ、紹介者なしの飛び込みで、単独で交渉してもこの程度の条件は当たり前では?…と思えるようなものでしかないことはよくあります。

これらは、友人なども同様の一致した見解なのですが、紹介者があるということは、業者側にとっては幸運が勝手に飛び込んできたような美味しい話で、さほどの努力をしなくても紹介者との繋がりが後押しとなって、ほぼ間違いなく買ってくれる安全確実な客だと見なされることが多いようです。
購入者にしても、紹介者の顔を立てて、他店と競合させることもせず、受身で、お店にすればこんなありがたいことはないのです。

しかもお客さんは「自分は紹介者のお陰で特別待遇」だと疑いなく思い込んでいる場合もあるのですから、その認識のまま事が完了すれば、関係者全員がハッピーということでもあり、これはこれで悪いことではないのでしょう。でも、ひとたびそのカラクリに気がついてしまったらとてもやってられません。

自分に置き換えてもそうですが、ある程度値の張るものを購入するとか、何らかの仕事を依頼したりする場合、そこに紹介者が介在していると、紹介者の顔をつぶしちゃいけないという配慮が先に働いて、あまり突っ込んだ交渉はしなくなります。というか、ハッキリいってできなくなります。
そして、相手側はその道のしたたかなプロですから、そのあたりのことは十分に承知していると思われ、だからごく普通の条件でもさも特別であるかのように口では上手く言いますが、実際はさほど努力らしきことをしているようには見受けられないわけです。

こういう嫌な現実に気付いてからというもの、マロニエ君は(場合にもよりけりですが)基本的には紹介者とか、縁故というものを頼りにしなくなりました。
そのほうが遙かに自分のペースで自由に交渉ができるし、率直な質問や要求を提示することができるし、おかしいことはおかしいと主張して、もしそれで決裂すれば他店をあたったりすることも自由ですが、そこに紹介だの縁故だのがあると、すべてこちらはガマンして呑み込むしかありません。
だから、もちろん例外はありますが、大半は紹介なんてものは却って自分の足を引っぱるとしか思えなくなりました。

そもそも、業者やお店の側も、考えたらわかることですが、仲の良いお客さんから知り合いを連れてきてもらうことは、労せずして信頼関係は半分以上できあがっているようなものです。それに比べれば、まったく縁もゆかりもない初めて取り引きする相手をきちんと納得させ、交渉成立に結びつけるほうが遙かに骨の折れる仕事でしょうし、油断すれば遠慮なく去っていきますから、きっと緊張感も違う筈です。

結果的に、信頼できる相手であるほうが、却って条件が悪くなるという結果を見てしまうのは、非常に残念なことだと思いますが、これが現代という殺伐とした時代に流れる真実なのだと思うと、自分を守ろうとする認識と本能の前で、どことなくやりきれない思いが混ざり込んでしまいます。
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はじめだけ

いまどきの現象をおひとつ。

各種の工事など専門作業をおこなう会社、または職人さんについてですが、彼らも厳しい時代の波の中で生きていることはいうまでもなく、昔のように決まった顧客やお得意さんだけを相手に仕事をしていれば済むというよき時代ではなくなりました。

とくに近年では、下請け、孫請けの仕事を獲得するだけでも大変なようで、親会社からは容赦なくコスト切り詰めが要求され、それに応じていかなければ別の会社や職人さんへ仕事がまわされるのですから、これを逃すまいと彼らも必死になって仕事をしているのは大変だろうと思います。

いっぽうで、そんな親会社から請け負う仕事だけではやっていけないのか、上から使われるのが嫌なのか、事情はともかくホームページなどで低価格を売りにして直取引をして仕事や販路を拡大しようという、独立型の小さな会社や職人さんの動きもあるようです。

マロニエ君も、必要があってちょっとした仕事を頼むとき、安い業者を探したことがありますが、縁あって非常に安くやってくれるある業者と知り合うことができました。
業者といっても身内でやっている職人さんで、そのときはさほど小さくもない仕事だったのですが、納得のいく価格で話が決まり、連日にわたって熱心に工事をやってくれました。

ひととおり作業が終わり、支払いも済ませて、いったんは区切りがついたことになりますが、その後もちょっとした作業の必要があったりすると、せっかく親しくなった職人さんなので、その人に頼むと、快く了解してはくれますが、どうしても大きい仕事が優先され、先方の都合に合わせて来てもらうことになります。

こちらとしても大した仕事ではないこともあり、あまり無理をいうわけにもいきませんが、再三の延期や日にちの変更が重なるとうんざりするのも事実です。作業そのものはごく短時間で完了しましたが、代金は最初(前回)に依頼したときの感じからすれば、期待ほど安いものではありませんでした。
まあ、それでも絶対額は大したものではないし、そこは素直に従いましたが、ついでにある器具を付けて欲しくてその旨を伝えると、これまた快諾。おおよその見積もり金額を伝えられ、近いうちにカタログを持ってくるのでその中から選んでほしいといわれました。

数日後、カタログを持って現れ、だいたいこのあたりということなのでその中から一つの器具を選びましたが、今回クチにする金額は、つい先日聞いていた金額より50%も高くなっていて、おや?と思いました。
カタログには販売価格が書かれていましたが、どうみてもそのままの価格での計算であるばかりか、工賃も安くないように感じられて、どうも釈然としません。
うっかりメーカーを確認していなかったのですが、ある夜、ネットで2時間以上かけて探してみたところ、ついにその商品を見つけ出しましたが、果たして聞いたこともないメーカーであるばかりか、ネット通販ではカタログの半額以下で売られているのにはびっくり!

もちろん極限の最安値で勝負するネットと同等を求めようとは思いませんが、せめて少しぐらいの値引きはするのがいまどきの常識というものでしょう。その他、ここには書かない疑問符のつく事例もあり、それらからだんだんわかってきたのは、要するに昔とはまったく逆の流れだということです。

昔は一見さんには高くても、おなじみになるにつれて互いの信頼も増し、値段もだんだん安くしてくれるようになるのが通例でしたが、今は逆で、まず最初は激安価格で人の気を引き、それによってお客さんの信頼を得ておいて、間違いなく自分の顧客になったと認識されるや、その後の値段はじわじわとつり上がっていくということのようです。

もちろん昔とは利幅も違うでしょうし、彼らなりの苦労があるのはわかりますが、それは誰しも同じこと。信頼を寄せ、利用頻度が増すに連れ、価格は反比例的に上昇して来るというのは、いくらなんでもいただけないやり方だと思いますし、がっかりしますね。
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