自室にピアノを-2

小規模メーカーの「手工芸的ピアノ」に対する評価は、ヤマハやカワイのような工業製品としての安定性を良しとする向きには賛否両論あるようで、その麗しい音色や楽器としての魅力を認める方がおられる一方で、あまり評価されない向きもあるようです。
たしかになんでもかんでも手造りだから良いというわけではないのは事実でしょう。
パーツの高い精度や、ムラのない均一な作り込みなどは優れた機械によって寸分の狂いもないほうが好都合であることも頷けますし、交換の必要なパーツなどは注文さえすれば何の加工もなしにポンと取り替えれば済む製品のほうが仕事も楽でしょう。

ただ、手造りのピアノは職人が出来具合を確かめながら手間ひまをかけて作られ、いささか美談めいていうなら、その過程で楽器としての命が吹き込まれるとマロニエ君は思います。
材料もメーカーによってはかなり贅沢なものを用いるなど、とても現代の大量生産では望めないような部材が使われていることも少なくなく、これは楽器として極めて重要な事だと思うわけです。

むろん正確無比な工作機械によって確実に生み出されるピアノにも固有の良さがあることは認めます。
ただ、それをいいことにマイナス面の歯止めが効かないことも事実で、質の悪い木材をはじめプラスチックや集成材など粗悪な材質を多用して作られてしまうなど、果たしてそれが真に楽器と呼べるのかどうか…。

マロニエ君は音の好みでいうと大量生産の無機質な音が苦手なほうなので、べつに妄信的に手造り=高級などとは単純に思ってはいないけれど、多少の欠点があることは承知の上で、ついつい往年の手作りピアノに心惹かれてしまいます。
場合によっては下手な職人の手作業より、高度な機械のほうが高級高品質ということがあることも認めます。
それでも、「人の技と手間暇によって生み出されたものを楽器として慈しみたい」「そういうピアノを傍らに置いて弾いて楽しむことで喜びとしたい」という情緒的思いが深いのも事実です。

マロニエ君の偏見でいうなら、シュベスター、シュヴァイツァスタイン、クロイツェル、イースタインなどがその対象となり、まずはたまたまネットで目についたシュヴァイツァスタインに興味を持ちました。

戦前の名門であった西川ピアノの流れをくむというシュヴァイツァスタインはやはり手造りで、多くのドイツ製パーツを組み込んだ上に、山本DS響板という響棒にダイアモンドカットという複雑な切れ込みを施すことによって優れた持続音を可能にするという非常に珍しい特徴があり、このシステムはいくつかの賞なども受けている由。
しかし、メーカーに問い合わせたところ、この特殊響棒はとても手間がかかるため当時から注文品とのこと。すべてのモデルに採用されているというわけではなく、これの無いピアノも多数出回っていることが判明。

また、信頼できる技術者さんに意見を求めたところ、多くを語れるほどたくさん触った経験はないけれど、強いてその印象をいうと、それなりのいいピアノではあった記憶はある。でもとくに期待するほどの音が確実にするかどうかは疑問もあるという回答。
それからというもの、ネットの音源を毎夜毎夜、いやというほど聴きまくりましたが、マロニエ君が最も心惹かれるのはシュベスターということが次第にわかってきました。

ところが、シュベスターは中古市場ではかなりの人気らしく、ほとんど売り物らしきものがありません。
YouTubeで有名なぴあの屋ドットコムの動画もずいぶん見たし、あげくに電話もしましたが、古くて外装の荒れたものが1台あるのみで、今のところ入荷予定も全く無いらしく、「入荷したらご連絡しましょうか?」的なことも言われぬまま、あっさり会話は終了。

そんな折、ヤフオクにシュベスターの50号というもっともベーシックなモデルが出品されているのを発見!
とりわけマロニエ君が50号を気に入ったのはエクステリアデザインで、個人的に猫足は昔から好きじゃないし、野暮ったい木目の外装とか変な装飾なんかも好みじゃないので、シンプルで基本の美しさにあふれた50号で、しかも濃いウォールナットの艶出し仕様だったことは大いに自分の求める条件を満たすものだと思われました。

しだいにこのピアノを手に入れたいという思いがふつふつと湧き上がり、さすがに終了日の3日前ぐらいから落ち着きませんでした。
案の定、終了間際はそれなりに競って、潜在的にこのブランドを好む人がいかに多いかを思い知らされることとなり、入札数は実に90ほどになりましたが、幸い気合で落札することができました。
そうはいっても1台1台状態の異なる中古ピアノを、実物に触れることなくネットで買うというのはまったくもって無謀の謗りを免れなぬ行為であるし、眉をひそめる方もいらっしゃると思います。
マロニエ君自身もむろん好ましい買い方とは全く思っていませんが、さりとて他にこれという店も個体もないし、こうなるともう半分やけくそでした。

鍵盤蓋などに塗装のヒビなどもあり、知り合いのピアノ塗装の得意な技術者さんに仕上げを依頼することになりますが、果たしてどんなことになるのやら。
もしかしたら響板は割れ、ビンズルというようなこともないとは限りませんが、そんならそれで仕方ないことで、それを含めてのおバカなマニア道だと割り切ることにしました。
こちらから運送会社を手配し、先ごろやっと搬出となり、1000kmにおよぶ長旅を経て福岡にやって来ることになりますが、はたしてどんなことになるやら楽しみと不安が激しく交錯します。

ちなみにシュベスターのアップライトは全高131cmの一種類で、ものの本によればベーゼンドルファーを手本にしているとか。
たしかに動画で音を聴いていると、独特の甘い音が特徴のようですが、はてさてそのような音がちゃんとしてくれるかどうか…。
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自室にピアノを-1

自室を自宅内の別の部屋に引っ越しすることになり、年明けから一念発起して片付けを開始。
そこまでだったらいいのに、それに関連してまたも悪い癖がでしまいました。
その片隅に安物でいいから、ちょいとアップライトピアノでもいいから置きたいものだ…とけしからぬ考えがふわふわと頭をよぎるようになりました。

昨年末のこと、懇意のピアノ工房に1970年代のヤマハの艶消し木目のリニューアルピアノがあることを知り久しぶりに行ってみたのですが、外装の仕上げはずいぶん苦労されたようで、なるほど抜群に素晴らしかったものの、音は当たり前かもしれないけれど典型的な「ヤマハ」だったことに気持ちがつまづいてしまいました。

いっぽう、たまたま同工房にやはり売り物として置かれていた1960年代の同サイズのヤマハときたら音の性質が根底から全く違っており、マロニエ君のイメージに刷り込まれたヤマハ臭はなく、素朴で木の感じが漂うきっぱりした音がすることに、世代によってこうも違うものかと驚き、そのときのことはすでに書いたような記憶があります。

このときは美しい艶消し木目の魅力に気分がかなり出来上がっていたためか、音による違いの大きさは感じながらも、急に方向転換できぬままその日は工房のご夫妻と食事に行ってお開きとなりました。
マロニエ君としては、部屋の片付けがまだ当分は時間がかかりそうなこと、さらには壁のクロスの張り替えなども控えているので、そう焦ることはないとゆったり構えていたのですが、そうこうするうちにその1960年代のヤマハは売れてしまい、もう1台あった背の高い同じ時期のヤマハまで売却済みとなってしまい、あちゃー…という結果に。

ちなみにこの年代のピアノは、製造年代が古いという理由から価格が安いのだそうで、音より値段で売れていってしまうということでした。
もちろん値段も大事ですが、ものすごい差ではないのだから、長い付き合いになるピアノの場合「自分の好きな音」で選ばれるべきだと思うのですが、世の中なかなかそんな風にはいかないのかもしれません。
もしかしたらそのピアノを買われた方も音より価格で決められたのかもしれません。
逆にマロニエ君などにしてみれば好きな方が安いとあらば、一挙両得というべきで願ってもないことです。

ただしいくら音の好きなほうが安くて好都合とはいっても、肝心のモノが売れてしまったのではどうにもなりません。
というわけで、そう急いでピアノピアノと考えるのは間違っていると頭を冷やし、一旦はこの問題からは距離を置くことにしました。
そうこうするうちに2月に入り、片付けも大筋で見通しが立ち、クロスやカーテン/家具などを新調してみると、やっぱりまたピアノへの意識が芽生えてきました。

しかし例の工房の古き佳きヤマハは売れてしまったばかりで、そう次から次へと同様のピアノが入荷するとも思えません。
そもそも福岡には他にこれといって買いたくなるような中古ピアノ店もないし、そもそも家にピアノがないわけではないのだから、ゆっくり構えるしかないかと諦めることに。

その後、暇つぶしにヤフオクなどを見ていると、ヤマハやカワイに混じって、クロイツェル、シュヴァイツァスタイン、シュベスター、イースタインなど、かつて日本のピアノ産業が隆盛を極めたころに良質ピアノとして存在していた手作りピアノが、数からいえばほんの僅かではあるけれどチラチラ目につくようになりました。
マロニエ君はどうしても、こういうピアノに無性に惹かれてしまいます。

それからというもの、いろいろと調べたり音質の調査を兼ねてYouTubeでこの手のピアノの音を聴きまくる日々が始まりました。
もちろん現物に触れるのが一番というのはわかりきっていますが、そんなマイナーなピアノなんてそんじょそこらのピアノ店にあるはずもなく、唯一の手段としてパソコンのスピーカーから流れ出る乏しい音に耳を傾注させる以外にはありません。

ところで、パソコン(マロニエ君はiMac)のスピーカーというのは、ショボいようで、実は意外と真実をありのままに伝えてくれるところがあって、わざわざ別売りで買って繋いだスピーカーのほうが、変に色付けされた音がしたりして真実がわかりにくいこともあり、マロニエ君はiMacのスピーカーにはそこそこの信頼を置いています。
いい例が、かつて自分で所有していたディアパソン(気に入っていたのですが事情があって昨年手放しました)なども、忠実に現物のままの音が聞き取れるし、ヤマハやカワイはやはりその通りの音がします。

で、それらによると、古き良き時代の手作りピアノは(ものにもよるでしょうが)圧倒的に使われた材質がよいからか、一様に温かくやわらかな音がすると思いました。どうせ買うならやはりこの手に限ると静かに気持ちは決まりました。
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愛情かゴマスリか

巷でプレミアムフライデーなどといわれる先週の金曜日、たまたま知人と食事をすることになって、とあるイタリアンのお店に行きました。
べつにお店の方はプレミアムではなく、美味しいけれどわりにリーズナブルなお店です。

イタリアンテイストの店内には、椅子とテーブルがぎゅうぎゅうに詰められていて、隣の席ともかなり距離が近く、席を立つときは、隣のテーブルに体や衣服が接触しないか、細心の気を遣う感じです。

とうぜん隣の人の会話も筒抜けであるし、こちらもつい遠慮がちにしゃべってしまうのは気弱なせいでしょうか。

さて、隣の席は6人からなるご家族御一行様で、おじいさん、おばあさん、おとうさん、おかあさん、小学生の娘、さらにその弟くんの6人でしたが、どうやら娘の誕生日らしく家族で夕食を楽しんでいるようでした。
サラダ、飲み物やデザートなどはセルフの店ですが、おじいさんを除く家族5人は、誰かしらが絶え間なく立ったり座ったりで、ゆっくり6人着席しているときがないのは、まあ多少煩わしくはありました。

まあ、そこまではそんな店なのだから致し方ありません。
ところが、こちらの食事が終わり、デザートも半分ほど食べたかなぁというころ、隣の席に「お待たせしました!」とばかりに全身白ずくめのコック姿の若い女性が、大きなワゴンを押しながらやって来ました。
6人家族はそれを見るなり、口々に「わー、きたきた!」と歓声をあげだします。

ワゴンの上には、円筒状のスポンジが乗っており、横には生クリームのボウルやらイチゴやらなにやらが置かれていて、お誕生ケーキの飾り付けをお客さんの見ている前でやるのだということがすぐ察知できました。
なにしろ狭いので、ワゴンの端は知人の肩にあたりそうなぐらいで、そこに大注目しながら家族中がわいわい言っているので、いやでも気になって仕方がありません。

やがてこの日誕生日を迎えた小学生の女の子がワゴン前に進み出ると、その女性パティシエ(イタリア語ではなんというのか?)が恭しげに生クリームを垂らしはじめ、それをナイフで周囲に均等に塗りつけて、だんだんとデコレーションケーキに仕上げるという趣向のようです。

その子は、子供で当然素人なので、実際には何もやっていないけれど、すべて女性パティシエが女の子の手に自分の手を覆いかぶさせようにして、子供を参加させながら作業しているのは傍目にも大変そうでした。しかも、その表情ときたら飛行機のCAさんも顔負けというほど満面の笑顔を保持して絶やしませんから仕事とはいえ大変です。

実は、マロニエ君が驚いたのはこの作業ではなく、それを見守る家族の尋常ではない様子のほうでした。
実質的な作業はすべて女性パティシエがやっているにもかかわらず、いちいち歓声をあげ「わああ、❍❍ちゃん、すごいね~」「上手だね~」「うまいうまい」「かわいくできてる〜!」「すっごい上手よ~」といった強烈な褒め言葉の嵐で、もう隣の席の他人様のことなど眼中にないようです。
もしかしたら多少こちらへ見せているフシもなきにしもあらずとも受け取れましたが、そのあたりはよくわかりません。

さらには、おとうさん、おかあさん、おばあさんの3人はいつの間にかワゴンの反対側に席を替わっていて、3人が3人、各自それぞれのスマホでその様子を動画撮影しまくっています。手では撮影を続けながら、口からは際限なく賞賛の言葉の数々が休むことなく連発され、それはもうちょっとした大騒ぎでした。

そういえばこの店では、たまにちょっと照明が落とされ、流れていたBGMが中断されたかと思うと、大げさな前奏に続いて「ハ~ッピバースディ、トゥ~ユ~」となり、あげくに大拍手が起こりますから、ケーキの飾り付けが終わったらろうそくを立て、その歌が始まるであろうことはもう時間の問題でした。

あまりにも真横なので、さすがに変なことを言う訳にも行かず、表情に出すこともできず、この間、なんども知人とは変な感じで目がチラッと合った程度でしたが、幸いにも食事が終わっていたことでもあり、小声で「行こうか…」ということになって、隣の席ではケーキづくりで盛り上がっているのを尻目に席を立ち、なんとか歌と拍手に加担させられることなく脱出できました。

子供の誕生日を祝ってあげたいという親心や家族愛は素敵なことですが、マロニエ君はああいうベタな世界は正直苦手。
とくに強い違和感を覚えたのは、家族中(おじいさんと弟くんを除く)が娘の一挙手一投足をゴマをするように褒めそやし絶賛しまくる光景でした。

もちろん子供は褒めてあげなくてはいけないし、惜しみなく愛情をかけてあげなくてはいけないけれど、あれはそれとは似て非なるものにしか見えまえんでした。
なんというか、言ってる自分(家族)のほうが盛り上がっているようでもあり、さらには大人が子供にむかって必死に媚びへつらっているようにしか見えず、とても自然なお祝いのひとときには感じられなかったのです。
自分達がイベントの機会を得て、演技的に盛り上がっているようにしか感じられなかったのは、マロニエ君の感性がおかしいのかもしれませんが。

親が子に限りない愛情で育むことと、何か大事な部分がどうしても結びつきませんでした。
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ヴォロディンの聴き応え

NHKで立て続けにアレクセイ・ヴォロディンのピアノを聴きました。

ひとつはクラシック音楽館でのN響の公演から、井上道義の指揮によるオール・ショスタコーヴィチ・プログラムで、ヴォロディンはピアノ協奏曲第1番のソリストとして登場。

もうひとつは早朝のクラシック倶楽部で放映された、浜離宮朝日ホールで行われたリサイタルの様子でした。
いずれも昨年11月に来日した折の演奏の様子だったようです。

体型はわずかにぽっちゃりではあるけれど、非常に思索的な厳しい表情と、目鼻立ちの整ったいわゆる美男子系の顔立ちで、誰かにいていると思ったらペレストロイカで世界を席巻したゴルバチョフ元大統領の若いころにもどこか通じる感じでしょうか。
風貌のことはどうでもいいですね。

リサイタルの演目は、メンデルスゾーンの「真夏の夜の夢」からスケルツォ、メトネルの4つのおとぎ話から第4番、そしてラフマニノフのピアノ・ソナタ第1番。実際の演奏会では、この他にプロコフィエフのバレエ、ロメオとジュリエットから10の小品も演奏されたようです。

協奏曲、独奏いずれにおいても非常に安定した逞しさの中に美しいオーソドックスな演奏が展開され、非常に満足のいくものでした。
これまでにも「ロシアピアニズムの継承者」といわれるピアニストはたくさんいたけれど、近年はどうも言葉だけの場合が多いというか、実際はそのように感じられる人はなかなかいないというのがマロニエ君の正直な印象でした。
ロシアというわりには意外なほど線が細かったり、華のない二軍選手といった感じだったり、あるいはやたら力技でブルドーザーのように押しまくる格闘技のようだったり、全体が雑で音楽的な聴かせどころがボケてしまった演奏だったりするのがほとんどでしたが、ボロディンはそのいずれでもない点が注目でした。

真っ当で、力強く、技巧的な厚みがしっかりあって、ロマンティック。
演奏技巧にまったく不安がないと同時に、音楽の息づかいや綾のようなものはきちっと押さえており、聴く者の気分を逸しません。

最近は良い意味でのロシアらしいピアノを弾く人が少なく、それなりに有名どころは何人かいますが、どこかがなにかが欠けるものがあってこの人という納得できることがなかなかありませんでした。
たしかに、グリゴリー・ソコロフなどのように現代ピアニスト界の別格ように崇められる人もおられるようですから、ロシアピアニズムは健在という見方もできなくはないかれど、どうもソコロフにはいつも凄いと思いながらも、心底好きになれない自分があり、たしかに素晴らしい演奏もある反面でどこか恣意的偏執的で作品のフォルムがゆがんでしまっているように感じることもあるので、いつも「この人はちょっと横に置いといて…」という感じになってしまいます。

マロニエ君はもちろん、技巧の素晴らしい人も高く評価してしますが、だからといってその技巧があまりにも前に出ていて、高圧的かつ力でねじ伏せるようなものになると途端に気持ちが冷めてしまいます。

ヴォロディンは、世界屈指の最高級ピアニストであるとか、スターになれるとか、カリスマ性があるといったピアニストではないかもしれないけれど、豊かな情感を維持しながら、ピアノを深く鳴らしながら、キチッとなんでも信頼感をもって聴かせてくれるという点で、数少ない確かなピアニストだといえるだろうと思いました。

とくにこの一連の放送の中でも強く印象に残ったのは、まず普通は演奏されることのないラフマニノフのピアノ・ソナタ第1番でした。有名な第2番でさえそれほど演奏機会が多いとはいえないソナタですが、まして第1番はまず弾かれることはありません。
マロニエ君の膨大なCDライブラリーの中でも、ソナタ第1番というとぱっと思い出すのはベレゾフスキーぐらいで、なかなか耳にも馴染んでいませんが、いかにもラフマニノフらしいところの多い力作だと思いました。

ラフマニノフというのは、作曲家としてもあれほど有名であるのに、意外に演奏機会の少ない曲もあるようで、ソナタ並みに大曲であるショパンの主題による変奏曲とか、ピアノ協奏曲でも第1番と第4番はまず演奏されませんが、そんなに駄作でもステージに上げにくい曲でもないのに、どういうわけだろうか思います。

話をヴォロでィンに戻すと、この人は聴く側にとってなにか強烈な魅力があって熱狂的ファンがつくというタイプの人ではないのでしょうけど、本物のプロのピアニストだと思うし、今後も喜んで聴いていきたいひとりだと思いました。

アンコールは、協奏曲、リサイタルのいずれでも、プロコフィエフの「10の小品」Op.12から第10曲でしたが、息をつく暇もないこの曲をものの見事に聴かせてくれました。
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必死の組み立て

少し前に小抽斗のようなものを物色中と書きましたが、けっきょくイケアのチェストを購入することになりました。
価格もできるだけ安いほうがいいけれど、家具は部屋の中でいつも目にするものなので、日本の大手廉価家具店の製品にありがちないかにも薄っぺらな感じであるとか、パッと目はモダン風であっても、その雰囲気に日本的安物独特の「あの感じ」が漂うのも嫌なので、そうなるとイケアしかありませんでした。

ただ、イケアも問題がないではありません。
センスもよく温かな雰囲気もいいのは好ましいけれど、ここの製品には「組み立て」という難作業が待ち構えています。

これまでにもイケアの家具は何度か購入していて、そのつど友人の助けを借りながら組み立てをやってきましたが、それらの経験からも、ものによってはかなり大変だったという印象があります。
店頭にもイケアの特徴として大書してあることは、製品の質に対して価格が安価な理由は、購入者が手ずから組み立てることによって大幅なコストカットを実現しているという趣旨のこと。

以前買った伸縮式ダイニングテーブルやソファアも大変だったけれど、今回買ったのは引き出しが大小8つもある大型のチェストで、その組立はよほどだろうなあと思い悩んでいると、なんたる偶然か、ちょうどこの時期だけ「すべてのチェストが15%off」となっていて、もうこれは一念発起して組み立てを頑張るしかない!となってしまって、覚悟を決めて購入しました。

そのサイズからして、とても自分で車に乗せて帰れるようなものではないので、配送を依頼したところ、数日後、重くて分厚い大きなダンボールの荷が3つも玄関に運び込まれて、これを見ただけですっかり怖気づいてしまいました。

友人が来てくれるまで玄関に放置しておいて、先週末ついに箱を開けるときがやってきました。
さまざまな形や大きさのパーツが、まるでパズルのように見事に収まっており、それを床に順序良く並べていきますが、その数は何十個にも及び、木のダボやねじや金属の留め具のたぐいは、お得用のナッツの袋のようなもので3つにわかれていて、それぞれにずっしり入っているあたり、もう数を数える気にもなれないようなとんでもない量です。

ご存じの方も多いと思いますが、イケアの組み立て説明書には一切文章がなく、項目ごとに図解のみで組み立ての手順が記されています。
ここで大事な点は、決してわかった気になって先走ることなく、徹底して説明書の手順通りに組み立てることで、少しでも順序を間違えたり独断で先回りしたりすると、必ずあとの工程でつまづきが生じてやり直しということになりますので、面倒でも説明書に記された手順には絶対に逆らわないこと。

大変なのは、図にあるパーツを金具ひとつまで間違えずに厳格に選び出すことですが、これがかなり苦労させられる点です。
中にはほとんど同じように見えて微妙に違うもの、同じ大きさの板に開けられた穴の位置や数がわずかに異なったりすることで、これをひとつでも間違えると完成できないという怖さがあり、それだけでかなり神経を使います。

それにしても今回のチェストは過去最高記録となる大変な組み立てで、店頭で見る外観からは想像もできませんが、木製パーツだけで50以上、金属類のビスや木製ダボなどのパーツに至っては約400個に達しており、組み立て説明書の工程数は46段階にも及び、荷をほどいたときは驚き呆れ、こんなものを購入したことを後悔したのも事実でした。

それでも敢えて組み立てに着手する事ができたのは、こういうことがわりに好きな友人の存在でした。
作業開始から3日目に完成したときは、やはり感慨ひとしおというか、文字通り達成感がありました。

率直にいうと、家具の組立というより、ほとんど日曜大工に近いものがあり、プロによる周到な設計とパーツが揃っているというだけで、素人にはかなり難しい部分も少なくないのは、緊張とため息の連続でした。

これだけの組み立てができる人というのはいろんな意味でかなり限られると思われ、まず一人では無理だし、こういうことの苦手な人とか高齢者なども到底できることではないと思われました。

作業中つくづくと感じたことは、これだけ込み入ったことを一般のお客にやらせようという発想がまずすごいというか、そこからしてまったく日本的ではないと思わざるをえません。
しかし、実際にやり始めると設計も見事だし、各パーツの精度も高く、よほど頭のいい人が作っているのだと思います。
これだけの組み立てに関わることで、普段は気にも留めない家具というものの作り方や構造が体験的によくわかり、とても勉強になることも事実です。

出来上がりは堂々たるもので、雰囲気もよく、いい経験になりました。
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接客

日々時代の変化に揉まれていると、「昔は良かった」と思うことが多々ありますが、果たして本当にそうだろうか…と考えてしまう場合もあります。

先日、とある観光地の堀端にある有名うなぎ店に行きました。
江戸時代の創業という老舗で、場所も一等地、建物なども深い趣があるし入り口までの庭木や邸内のお坪も美しく整えられています。

ここで働く中居さんたちは、多くが中年以上の方ですが、その接客態度となると必ずしも老舗の名に応じたものとは思いませんでした。

お客様にきちんとした対応を…という緊張感はなく、ぞんざいに人数を聞きながら廊下を歩きだし、はいはいこちらといわんばかりの案内で、曲がりくねった木造の廊下を奥へ奥へと進みます。
通された座敷には、時流にそって畳の上に椅子とテーブルが並んでいますが、こちらが二人だったものだから、壁の隅の二人がけの小さな席を指しながら「こちらにどうぞ」とつっけんどんに言われました。

しかし、全部で7つのテーブルがある中で、二人用はこの一つだけ。
おまけに使用中のテーブルはわずか3つで、それらすべてが二人連れのお客さんでした。
混み合っているならむろん二人がけの席で当然と思うけれど、半分ほどしか埋まっていないのに、わざわざ狭い席に押し込もうというところにいささかムッとしてしまいました。

マロニエ君はこんなとき負けてはいません。
唯々諾々といいなりになってなるものかと「こっちでもいいですか?」と敢えていうと、「あ、そちらですか…いいですよ」としぶしぶ口調となり、我々は迷わず広いほうのテーブルに着席。
すると、何度も来るのが面倒なのか、着席するなり真横に立って伝票とボールペンを持って、すぐに注文を聞こうとする構えなので、エッ?と思い、ゆっくりメニューを広げて「ちょっと待ってください」というと、仕方がなかったらしく「はいどうぞ」といって立ち去って行きました。

ようやく注文が済むと、それから別の女性がお茶とおしぼりを持ってきますが、どの人も、態度にしまりがないというか、日常生活のだらんとした流れの延長でここでも働いているといったところでしょうか。
廊下を通るたびに出入り口の障子をパッと30cmほどあけて中の様子を見たかと思うと、すぐにパチンと閉めていなくなったりと、とにかく自由に動きたいように動いているという感じ。

さらに驚いたのは、なんだかいやに寒いと思ってたら、広い座敷の前後に2つあるエアコンはいずれも送風口が閉じたままで、年間を通じて最も寒いこの時期にもかかわらず暖房を入れていないことがわかりました。

お品書きには立派な値段が並ぶのに、変なところでケチるという印象がふつふつと湧き上がります。

ほどなくやってきた中居さんをつかまえて、「暖房は入っていないんですか?」ときくと、「あ、寒いですか?」というので「寒いです!」と少し大げさに体を揺すって見せました。
しばらくするとようやく少しだけ暖かくなり、見ると2つのうちの1つだけ、裏からの操作でスイッチが入れられたようでした。

料理を持ってくるときも、食器を下げる時も、廊下の障子はガーッと開けっ放しの状態。
そのたびに廊下(外に面している)の寒風がぴゅうぴゅう部屋に入ってきて、マロニエ君も何度かたまらず閉めに行ったほどです。

これが地域では名を馳せた老舗なんですから、所詮は田舎なんだと思いました。
今や都市部では100円ショップに行っても一定のきちんとした接客に慣らされている現代人ですが、田舎に行けばどんなに有名店でもこういうゆるさがあることがわかると同時に、昔はだいたいどこでもこんな感じだったことを思い出すと、やっぱりなんだかんだと文句を言いながらも、良くなった面も多いんだなあと考えさせられました。

とくに古いところは、良くも悪くも旧来の体質を引きずっているので、なかなか改まらないのでしょう。
多少はマニュアル的な接客でも、現代は丁寧な態度こそが求められるようになりました。
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ヤフオク

ヤフオクで欲しいものをゲットすべく入札された経験のある方は多いと思いますが、あれって結構疲れるなぁと思うのはマロニエ君だけでしょうか。

人にもよるとは思いますが、マロニエ君はどうもあのヤフオク(というかヤフオク以外のネットオークションは利用したことがない)の終了時間間際の異様な緊迫感は好きじゃありません。

ウォッチリストに登録して何日もチェックしたあげく、ほとんどだれも入札しないので「どうやら楽勝のようだ」などと思っていたらとんでもない間違いで、欲しい人は不用意に入札することはせずにじっと静観して、終了時間が迫ってからが本当の勝負が始まることが少なくありません。

以前は成り行きを見ながら、そのつど入札していましたが、場合によってはみるみる価格がつり上がるものだから、ついカッとなってこっちもまた入札、すると相手もまけじと高い価格をつけてくる。
要はその応酬で、最終的にどちらが金額的にタフであるかが勝負どころとなります。
こうなると、ひとりパソコンの前で心臓をバクバクさせて、予想外の興奮状態に陥ります。

とくに残り数分という段階で、もう終わりかと思っていると、音もなく誰かがそれ以上の価格をつけて状況がひっくり返されるのは、精神的にかなりやられるというか衝撃的で、あれはもういけません。

たかがヤフオク。
それなのに、こういうときの精神的な高ぶりはかなりのもので、笑えないほど疲労困憊。
あげく、終わってみれば苦い敗北感に苛まれるか、運良く落札出来たにしても予想以上の高値であったりと、いずれにしろ冷静さはかなり失い、オークションというジェットコースターに乗って、ふらふらになって降りてきたという印象。

中には入札者が自分だけですんなり終わることもあるけれど、相手があって競り合うのはいやなもので、買えても買えなくても、どこか変な後味が残ります。
とりわけ被るストレスは相当のもので、早鐘のように心臓がバクバクしたことも一度や二度ではなく、いかにも心身によくない感じです。

はじめからダメモト気分でいけるようなモノならいいけれど、ものによってはどうしても欲しいという場合もあり、お恥ずかしい話だけれど深夜の終了時間であっても昼ごろからずっとそのことが頭の中にあったりして、やる気と不安がないまぜになり、これってもうまぎれもない戦いです。
それも明るく健康的なスポーツのような戦いじゃなく、金額と物欲にまみれた辛気臭い戦い。

あまりに疲れるから、これじゃあ健康にもよくないし、だいいちそこまで気持ちを入れ込んで顔の見えない相手とバトルを繰り広げてまでモノをゲットするということが、ひどく浅ましくもあり、ばかばかしいと思うようになりました。

そんなこんなでよくよく考えてみれば、ヤフオクのシステムの中にそんなことをしなくても済む「自動入札」という機能があるわけで、金額を自分が出していいというmaxに設定しておけば、競り合った場合のみ価格は上昇を続けるけれど、ライバルが現れなければ安く落札できるというのもよく考えられています。
で、最近は、自分は最大でいくらまで出してゲットしたいのかどうか、冷静に考えてから余裕をもって入札し、それを超えた場合はさっぱり諦めることにして、間違っても終了時間間際のバトルには決して直接参加はしないようマイルールを定めました。

さらに、入札はで可能な範囲でできるだけ終了時間には近づけるものの、終了時間帯はパソコンは見ないことにし、用があれば躊躇なく外にも出かけるようにしました。これ、裏を返せば、以前は終了時間が迫るとパソコンの前に貼り付きだったということです。

これで気持ちは一気に楽になり、それからは以前のように徒に緊迫することなく、ヤフオクを楽しめるようになりました。
すでにこの方法で何度か入札しましたが、落札出来たことより出来なかったことのほうが多いですが、それはそれで自分自身が納得できています。
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アンスネス

いまや世界の有名ピアニストの一人に数えられるノルウェーのレイフ・オヴェ・アンスネス。
CDも何枚か持っているものの、実を云うとその魅力とはなんであるのか、長いことよくわからないまま過ごしてきたマロニエ君でした。

昨年11月に来日したようで、N響定期公演のデーヴィッド・ジンマン指揮によるオール・シューマン・プログラムではピアノ協奏曲のソリストとしてアンスネスが出演しているの様子を録画で視聴してみました。

番組冒頭では、いきなり「カリスマ的人気を誇るピアニスト」とナレーションされたのにはまず強い違和感を覚えました。
アンスネスが現代の有名ピニストの一人であることはともかくとしても、その演奏はおよそカリスマといった言葉とは相容れないものではないかと感じましたが、その次の「端整で温かみに満ちた演奏」という表現に至ってようやく納得という感じです。

とりあえずサーッと一度通して聴いてみましたが、シューマンの協奏曲でも、とくに聴きどころというか聴かせどころというようなものはなく、かっちり手堅くまとめられた、終始一貫した演奏だと感じました。
規格外の事は決してやらない、男性的な固い体つきそのものみたいなぶれない演奏で、その表現にも意表を突くような部分は一瞬もなく、抑制された穏やかな表現が持続するさまは、わくわくさせられることもないかわりに、変な解釈に接したときのストレスもなく、どこまでも安心して聴いていられるのがこの人の魅力だろうと思いました。

これといった感性の冴えやテクニックをひけらかすことは微塵もなく、彼ほどの名声を獲得しながら自己顕示的なものは徹底的に排除されて、淡々と良心的な仕事を続けているのはいまどき立派なことだと思いました。
演奏に冒険とか、心を鷲掴みにする要素はないけれど、今どきの若い人のようにただ楽譜通りに正確に弾いているだけというのとは違い、空虚な感じはなく、一定の実質があのは特徴でしょう。
変な喩えですが、能力もあり信頼の厚い理想の上司みたいな感じでしょうか。

さらには北欧人ゆえか、根底にあるおおらかさと実直さが演奏にもにじみ出ており、派手ではないけれど、なにかこの人の演奏を聴いてみようという気にさせるものがある気がしました。
演奏は常にかちっとした枠の中に収まっており、第一楽章のカデンツァなども、およそカデンツァというよりそのまま曲が続いている感じで、オーケストラがちょっとお休みの部分という感じにも聴こえました。

インタビューでは第二楽章はオケとの対話のようなことを言っていましたが、対話というより、分を心得た真面目な仕事という感じ。

アンコールはシベリウスの10の小品からロマンスを演奏しましたが、北欧の風景(写真でしか見たことないけれど)を連想させるようで、いかにもお手のものというか、アンスネスという人のバックボーンがこの北欧圏にあるのだということがひしひしと伝わるものでした。

北欧といえば、家具や食器のように、多少ごつくて繊細とはいえなくても、温かな人間の営みの美しい部分に触れるようなところが、この人の魅力なんだろうなぁと思いました。

ところで、第一曲のマンフレッド序曲が終わってジンマンが袖に引っ込むと、画面はピアノがステージ中央に据え付けられた映像に切り替わりましたが、これがなんだかヘン!なにかがおかしい。
アンスネスが登場して演奏が始まるとすぐにそのわけがわかりましたが、ピアノの大屋根が通常よりもぐっと大きな角度で開けられており、そういえばYouTubeだったか…とにかく何かの映像でもアンスネスがそういう状態のピアノを弾いているのを見た覚えがありました。

よくみると、通常の支え棒の先にエクステンションの棒が継ぎ足されていて、ノーマルよりもかなり大きく開いているようです。
おそらく響きの面で、アンスネスはこうすることで得られるなにかを好んでいるのでしょう。

ただ、舞台上のピアノのフォルムが大幅に変わってしまい、かなり不格好になっているのは否めませんでした。
もちろん音楽は見てくれより音が大事なんですけどね。
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家具イベントで

ちょっとした棚というか小抽斗のようなもので、安くて良い感じのものがあれば欲しいと思っていたところ、友人が福岡国際センター(大相撲九州場所の会場)で大規模な家具のイベントのようなものをやっているというので行ってみることに。

ネットで調べると、たくさんの家具屋が共催でやっているようなもので、展示即売であるにもかかわらず入場料があることにまず驚きました。ただし、ネットに招待券のようなものがあり、これをプリントアウトして名前を記入すれば無料になるというもので、それを準備して会場に赴きました。

先月下旬の日曜のことでしたが、夕方であったためか車も難なく止められて、会場入口でプリントアウトした紙を手渡すと、いきなりマイクで「〇〇家具店の方にお知らせします。お客様がお見えになりました。」とあたりじゅうに響きわたるボリュームで大々的に言われてびっくり。
ほどなく首に名札をぶら下げたその家具店の女性が現れ、その人の先導でうやうやしく会場内に案内されてやっと中に入ることができました。
とはいえ、こっちはただ遊び半分で見に来ただけなのに、このままずっとついてこられてはたまらないので、自由に見せていただくからと案内は辞退したものの、この時点でなんだか想像と違うところに来てしまったような感じがありました。

広い会場内にはあれこれの家具がびっしり並べられてはいるけれど、思ったよりお客さんは少なく、それ以上に販売員がたくさんいるという印象。
ブースごとの壁や仕切りこそないものの、多くの業者が一同に会してさまざまな商品を展示しているらしいことがわかります。

全体の印象としては、なんだか茶色な感じで、今どきの家具としてはやや古臭い気もするけれど、まず目に入ったダイニングセットなど軽く50万60万だし、どれを見てもとても気軽に買えるような価格帯ではないことに驚かされました。

家具の世界というのがどんなものかマロニエ君は知らないし、知っているのはたかだかイケアやニトリといったところなので、そもそもこちらの基準が低すぎるといわれればそれまでなのですが、とにかくどれを見ても立派なお値段ばかりで10万円以下のものなんて数えるほどしかありませんでした。
しかし、見た感じそれほど高級家具とも思えなかったし、正直言ってセンスも野暮ったく、こんな価格帯のこんな家具って誰が買うんだろうという疑問ばかりが頭に浮かびました。
いっそ高級品を求める人は、お家騒動で有名な家具屋などに行くのでしょうし…。

さらに印象的だったのは、販売員らしき人はかなり大勢いるけれど、そこに若い人の姿は少なく、どちらかというと渋い表情の年配の男性が圧倒的に多いことでした。しかもどの場所でもちょっと見てみようかと商品に近づいたとたん、間髪入れずこのおじさんたちがわっと近づいてきて一方的に商品説明をはじめます。
こちらとしてはちょっと見ているだけで、いくら説明されても買うわけではないし、また簡単に買える金額でもないので、すぐにその場を離れるような動きになります。で、少しでもモノに近づくと、待機しているおじさんたちが吸い付くように寄ってくる、その繰り返し。
おまけにお客は少なめで、だからますますこっちが見張られているみたいで当然ながらゆっくり見るということは不可能。

きっと昔ながらの売り方なのかもしれませんが、近づいてきた客はすかさず捕まえるといった空気がぎらぎらしていて、お客さん側の気持ちや心理をまったく考えていないような感じでした。
中にはあの強力な接客に押し切られて、買わされてしまう人もいなくはないでしょう。

というわけでどの角度から見ても、こちらの求めるものとは違う世界だったので、早々に会場を出て、ついででもあるしその足でイケアに行ってみました。
するとまあ、理屈抜きにオシャレで、明るく、スタイリッシュで、しかも低価格。店自体もいいようのない色彩と楽しさにあふれていて、なんだかそのあまりの違いに圧倒されてしまいました。

さっき見た日本の家具は、品質ははるかに優れているのだろうと思います。
お客さんに運搬や面倒な組み立てをさせることもないし、材料なども格段にいいものを使っているのでしょう。
それでも、あの価格と売り方とセンスを選択する人って、やっぱり多くはないだろうと思いました。
良い悪いではなく、確実に時代は変わってきているということだと思ったしだいでした。
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普通に超絶技巧

音楽番組『題名のない音楽会』には大別すると、ホールで観客を入れて収録されるものと、音楽工房と称するスタジオ内で収録されるものがあるようです。

昔からとくにこの番組のファンではないからくわしいことは知らないけれど、印象としてはオーケストラのような大人数の団体が出演する際にはホール、個々の器楽奏者だけで成立する際にはスタジオ収録というふうに区別されているのかなあという印象。

今年の録画から見ていると、スタジオで収録されたもので「難しいピアノ曲と音楽家たち」というタイトルの回があって、司会はいつもの五嶋龍さん、難しいピアノ曲を弾くピアニストには福間洸太朗さんと森下唯さんという二人の腕達者が出演していました。

オープニングはこの二人の連弾で、萩森英明編曲による「チョップスティック ハンガリー狂詩曲」より…というのが演奏されて、まずはこの二人が超絶技巧の持ち主であることが視聴者へ軽く紹介されたように思います。

番組はソファーに腰掛けた出演者たちが音楽に関するおしゃべりを交わしながら、その合間合間で演奏をするといういつものパターン。

まずは福間洸太朗氏が、ストラヴィンスキーの「火の鳥」の「凶悪な踊り(G.アゴスティ編曲)」を披露。
まあ、見ているだけで大変な難曲で、どう弾くかというより、とりあえずこれが弾けますよということで価値があるような曲だと思いましたが、純粋に曲として聴いた場合、原曲のオーケストラ版に比べたら所詮はピアノ一台であるし簡易ヴァージョンという位置付けではありました。
それはこの曲や演奏に限ったことではなく、だいたいどれもオーケストラの曲をピアノ版に編曲すると感じることで、ピアノのほうが良いなあというのはそうそうめったにあるものではなく、所詮は代替版という印象を免れないように思います。

ピアノは一台でオーケストラでもあり、さまざまな楽器の音色を出すのが難しいなどと言い尽くされた会話が交わされていましたが、演奏中は画面にここはオーボエここはフルートでそこが難しいというような注釈も入ります。
しかし正直言わせてもらうと、マロニエ君にはそれらの音をそれらしく表現しているようには聞こえず、おそろしく指のまわる人がピアノを使って難曲に挑んでいるというばかりでした。そしてなるほど大変な腕前をお持ちというのはよくわかりました。
逆にいうとピアノ版にした以上は、必要以上にオーケストラを意識するより、ピアノ曲として魅力ある演奏に徹するほうが潔いというか、個人的には好ましいのではないかとも思ったり。

福間さんという人は相当のテクニックの持ち主には異論はないけれど、彼の演奏から流れ出てくる音楽はどちらかというと無機質でエネルギーがなく、せっかくのテクニックが深い言葉や表現となって活かされているという感じがなく、弾ける人は弾けるんだという乾いた感じで終わってしまいます。

最後にもう一度ピアノの前に出てきて、バラキレフのイスラメイを弾きましたが、こちらもデジカメのきれいな写真みたいで、見事な指さばきだけど、終わったらそれでおしまいという軽さが絶えずつきまとうのが気になりました。
むしろ、いちいち大仰に構えず、なんでもサラサラ、嫌味も抵抗感もなく聴かせるというのが福間さんの良さであり、狙っているところなのかもしれませんし、今どきなのでそういう演奏を好むニーズもあるのかもしれません。

その点では、すこしばかり趣が違っていたのは森下唯氏の演奏でした。
選曲も面白く、この人はアルカンの作品だけでコンサートをやるなど、普通のピアニストとはひと味違った方向で活動しておられるようで、この日もアルカンの練習曲「鉄道」を演奏されました。

これがもう実におもしろかったし聴き甲斐がありました。
昔の蒸気機関車をイメージして作られた曲で、ものすごいテンポの無窮動の作品で、聴いているだけでなんだかわからないけれどもワクワクさせられました。
森下唯さんもお若い方だったけれど、こちらのほうが演奏にいくらか温度とどしっとしたものを感じられて、せめてあと一曲聴いてみたい気がしました。

いずれにしろ日本人もピアノ人口は減っているというのに、以前なら考えられないような腕達者がつぎつぎに現れるのは今昔の感にたえない気がします。
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低価買取

不要になった品物の高価買取というのは、特に最近盛んになっているようで、我が家の固定電話にかかってくる電話の何分の一かはこの手の買取業者からのもので、数日に一度はかかってきます。

同時に、街中には衣類から生活雑貨、古書に至るまで、あらゆるジャンルのリサイクルショップが雨後の筍のように出現して、しかもそれらの多くがガラス張りのピカピカの店舗であるのも最近の特徴だろうと思います。

今もやっているかもしれませんが、テレビコマーシャルでやたら流れていたのがバイクの買取で、こだわりのオーナーの意を汲んで高価買取しますというようなフレーズが宣伝文句でしたが、知人から聞いた話では現実はぜんぜん違うんだそうで、かなりのものであっても、概ね1万円ほどが買取額の相場らしく、およそ「高価」とは程遠いものであるらしいということを聞いていました。

マロニエ君の場合はバイクは十代の頃にすっかり卒業したので関係ないけれど、家の中には処分したいものの、棄てるには忍びないようなものが結構あって、昨年も花梨の大型和式のテーブルと、オニキスの大理石のテーブルを処分することにしました。

自分で言うのもなんですが、どちらもそれなりの高級品で親や祖父が当時としては奮発して買い求めていたもので、気になるような傷もなく程度はよかったのですが、生活様式の変化から使うことなく物置の場所ばかり占領するので、ついに処分することに。
この手の良品を専門とする業者に連絡すると、大いに興味を示し、ずいぶんと遠方からトラックを仕立ててやってきましたが、いざとなると、とても納得出来ないようなあれこれの理由とか、確かめようもないような市場のニーズなどを綿々とあげ連ねたあげく、だから高額では引き取れないというような話にまんまと誘導され、両方で2000円を渡され、トラックに積んで持って行きました。

それなりのものでもあっただけに、ショックがなかったといえばウソになりますが、もう使わないし、空間のほうが大切だと考えるようになっていましたので、そこで未練を出しても仕方がないと思って諦めました。
そもそも高価買取なんていったところで、根拠も裏付けもない「高価」なわけで、そもそも手放す側が不要であるからには、その背景には限りなく廃棄に近い事情があるわけで、業者のほうもそのあたりのことを嫌というほど心得ているようです。

先日も、有名な本の買い取り業者に数百冊の本を託しましたが、中には貴重な創刊号からそろったSUPER CGとか、いろいろとそれなりの書籍がありました。もう要らないけれど、そのまま紐で結わえてリサイクルゴミとして出すより多少世の中のお役に立てばという気持ちもあったので、このメジャー店への買取依頼をしました。

その後、待てど暮らせど音沙汰はなく、先日ようやく銀行口座に振り込まれた金額はというと、たったの470円ほどでした。
まったく期待はしていなかったけれど、この金額にもやっぱり驚きました。
値段の付かないものもあるだろうとは思うけれど、平均するとほとんど1円/冊という感じで、べつに腹は立たなかったけれど、この手の商売のすごみみたいなものを感じたことも事実です。

ほかにも、衣類やら昔の輪島の漆器など、いろいろなものがあったけれど、マロニエ君は売りに行くのが嫌でぜんぶ廃棄すると言っていたら、友人がそれ見かねて買取屋に持って行ってくれましたが、衣類は45Lのビニール袋がふたつぐらいの量で、内容的にもそう悪くはないものだったと思いますが、全部で400円、往復のバス代にもならなかったとのこと。
いっぽう、漆器類に至ってはタダということでした。

巷ではフリーマーケットが盛んだといいますが、その背景にはこのような、極端なまでの安価買取に嫌気がさして自分の手で直売しようということになっているのだろうとも思います。

いらい最近は、照明の煌々とついたきらびやかなリサイクルショップの前を通っても、「ああ、ここの商品の大半はタダか、限りなくそれに近い捨て値で仕入れたものなんだろう…」というふうにしか見えなくなりました。
要は、仕入れは実質ゼロ、それを磨いて並べて人を雇って売っている、それだけのこと。
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ニコラーエワ

以前はよく聴いていたタチアナ・ニコラーエワですが、手に入る音源はだいたい持っていたし、1993年に亡くなってからはほとんど新譜が途絶えたこともあり、次第にその演奏を耳にすることから遠ざかり気味となっていました。
そんなニコラーエワですが、先日久しぶりに彼女のCDに接しました。

晩年である1989年のギリシャでのライブが最近発売されたのを、たまたま店頭で見つけて「おお!」と思って買ってきたものです。
はじめて耳にする音源ですが、スピーカーから出てくる音はまぎれもなくニコラーエワの堅牢でありながらロマンティックなピアノで、非常に懐かしい気分になりました。落ち着いた中にも深い情感と呼吸が息づいていて、なにしろ演奏が生きています。
昔はごく普通に、濃密で魅力的な本物の演奏を当たり前のように聴いていたんだなぁとも思うと、なんと贅沢な時代だったのかと思わずにはいられません。

現代には、技術的に難曲を弾きこなすという意味での優秀なピアニストは覚えきれないほどたくさんいますが、その技術的なレヴェルの高さに比べて、聴き手に与える感銘は一様に薄く、その音を聴いただけで誰かを認識できるような特徴というか、独自の音や表現を持ったピアニストは絶滅危惧種に近いほど少ない。
やたら指だけはよく回るけど、大半がパサパサの乾いた演奏。

ニコラーエワで驚くべきは、ピアノ音楽の魅力をこれほどじっくりと、しかも決して押し付けがましくない方法で演奏に具現化できる人はそうはいないだろうと思える点です。
必要以上に解釈優先でもなければ楽譜至上主義でもなく、しかし全体としては音楽にきわめて誠実で、情感が豊かで、ロシアならではの厚みがあり、だけれども胃もたれするようなしつこさもない。
良いものはいくら濃厚であってものどごしがよく、意外にあっさりしているという典型のようです。
技巧、感興、解釈、作品などがこれほど高い次元で並び立っているピアニストはなかなか思いつきません。

常に泰然たるテンポで彈かれ、けっして速くはないけど、ジリジリするような遅さもない。
感情の裏付けが途切れることなく続き、呼吸や迫りも随所に息づき、しかしやり過ぎない知性と見識がある。
そしてピアノ演奏を小手先の細工物のように扱うのではなく、雄大なオーケストラのような広いスケール感をもって低音までたっぷりと鳴らす。
どの曲にも、はっきりとした脈動と肉感に満ちていて一瞬も音楽が空虚になることがなく生きている。

それに加えて、常に充実した美しいピアノの音と豊かな響き。

このCDの曲目はお得意のバッハからはじまりシューマンの交響的練習曲、ラヴェルの鏡から二曲を弾いたあとは、スクリャービン、ボロディン、ムソルグスキー、プロコフィエフとロシアものの小品が並びますが、個人的に圧巻だと思ったのは交響的練習曲。

しかもこれまでニコラーエワのシューマンというのはほとんど聴いたことがなく、交響的練習曲はこのアルバムの中心を占める作品であるばかりか、演奏も期待通りの魅力と説得力にあふれるものでした。
曲全体が悲しみの重い塊のようであるものの、だからといって陰鬱な音楽というのでもなく、多くのピアニストがピアニスティックに無機質に弾いてしまうか、あるいはせっかく注ぎ込んだ情感のピントがずれていて、本来の曲の表情が出ていないことがあまりに多いことに比べると、ニコラーエワのそれはまず自然な流れと運びがあり、まるでシューマンの長い独白を聴くようで、まったく退屈する暇がありません。

現代のピアニストの多くは技巧も素晴らしい上に、隅々まで考えぬかれていて聴いている瞬間はとてもよく弾けていると感心はしますが、後に何も残らないことがしばしば。
それに引き換えニコラーエワの体の芯に染みこむような演奏は、パソコン画面ばかり見ていた目が久しぶりに実物の絵画に触れたようで、心地よい充実感を取り戻すようでした。
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カテゴリー: CD | タグ:

ギャップ

部屋の片付けをチャンスに、カーテンとクロスをやり変えることになり、業者の方に下見に来ていただいたときのこと。

クロスの張り替えは以前お世話になった業者さんもあるので、そこに依頼するつもりでしたが、いちおうネット調べてみると低価格な上にカーテンとクロスの両方をやってくれる店があり、これはこれで便利だろうなぁと思いました。
電話してみるととても感じ良く対応してくれ、とりあえず現場を見てもらうことに話が進みました。

かつて仕事を依頼したことのある業者さんはどちらかというと寡黙なタイプで、必要以上にあれこれと相談に乗ってくれるでもなく何冊かの見本を渡され、その中からこちらが選んだもので張り替えるという、若いけれど口サービスはないいかにも職人さんという感じでした。
きちんとした仕事をしてもらったという実績はあるものの、作業に至るやり取りは必要最小限で細かい相談とかアドバイスなどがないのも事実。
どことなく味気ないものを感じないでもなかったところへ、今回の業者さんは対照的に明るくて、必要とあらばなんでもご相談を!というお客側のニーズに出来るだけ応えますよというスタンスがあふれており、ついこっちに傾いてしまったのでした。

約束の日にやってきた方は、電話でしゃべったその人で、店の責任者らしい方でした。
前の業者さんはいつも当たり前のように作業着だったのが、こちらはウールのジャケットを羽織って中はセーターを着重ね、頭にはハンチング帽をかぶり、正直そのセンスはどうかと思ったけれど、決して悪い感じではありません。
愛嬌がよく、家に入るにも部屋に入るにも「それでは、おじゃまいたします!」「失礼いたします!」と礼儀正しく、いかにも慣れた手つきで寸法やら広さを確認した上で、ざっとした見積をだしてくれました。

続いてクロスやカーテンの見本を見せられましたが、その丁寧かつ優しげな口調は少し気になるぐらいで、ひとつひとつを噛んで含めるように説明してくれます。
「このお見積りは、いまごらんいただきました見本の生地で出させていただいた金額になります。」
「(見本を指で撫でながら)最近はこのあたりが質がよく好評なものですから、まずはこれをご案内させていただきました。」
「こちらは少し艶があり、明るい感じもいたしますし、遮光性も十分じゃないかと思います。」
「もっとお安いものをということでしたら、それももちろんございます。」
「逆に、もっとお高いものもございます。ハハハハハ」
…と徹底したやわらかな話し口調と物腰がとりわけ印象的でした。

「ただですねぇ、私が少しだけ今心配しておりますのは、3月にかけまして作業が大変混み合ってまいりますもんですから、なかなか予定を入れることが難しくなりますが、おおよそいつ頃をお考えでしょうか? あ、いや、もし当社にご依頼いただければ嬉しいなという前提のお話ですが…」

で、おおよその時期を伝えてみると、
「ああそうですか。はいはい、なるほど。…どうかなあ。」
「それでは、よろしかったら今ちょっとお電話をさせていただいて、現場の予定などを聞いてみましょうか?」といわれるので、そうしてもらうことに。

するとすぐに電話をかけ始めましたが、ちょっと離れて、こちらに背中を向けながら、
「うーーーい、うい、うい、うい」
「おつかれー。ん? そ、そ、そう。」
「あのさ、〇〇ごろって入る(仕事が)?」
「うん?おう、おう。△△のほうだったらいい?だったら嬉しい?ガーッハッハッハ、おっけー、おっけおっけ、わかったわかった。」
「オーイ、りょうかーい、うーい、ういうい」

~てな調子で、もちろん現場の人達とお客さん相手とでは話し方も違うでしょうけれど、やけにヤワな口調だったものが、まるで別人のような話し方になるあまりのギャップには思わず唖然、マロニエ君もこの性格なので笑いを噛み殺すのが大変でした。

電話が済むと、すぐまたさっきまでの物腰の柔らかい、丁寧すぎる口調へと切り替わるのは、ほとんどお笑い芸のようでそれを必死にポーカーフェースでやり過ごしました。
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苦手なもの

ろくに勉強もせず、やれ参考書だ何だと道具ばかり揃えたがるタイプがいますが、マロニエ君にも同じようなところがあり、自室に安い練習用アップライトピアノを置こうかどうか、性懲りもなく馬鹿なことを画策しています。

エー?、そんなものが要るほど練習するの?、と問われれば、正直言ってそんな見込みはないし、むろんそれに値する使い方ができる自信もありません。
だいたい本当に練習する人は状況をとやかく言う前にちゃんと練習するのであって、マロニエ君の場合はそういう環境を整えることそのものに、今たまたま楽しさを見出しているのかもしれません。

だからどうしても必要ということより、もっぱら自分の満足のためという悪癖がまた顔を出してしまった見るべきなんでしょう。しかもそのことを当人がすでにこの段階でうすうす自覚しているのですから、もうほとんど救いがたいともいえるわけです。

ただ、基本それはそうなんだけれど、夜自室に戻ってからちょっと弾いてみたい曲とか楽譜があったりすると、ちょっと指を動かしてみたいことがあるのも事実です。そんなときちょっとアップライトピアノがあれば真ん中の弱音ペダルを使って(時間帯にもよりますが)控えめに譜読みするぐらいのことは可能だというのが苦しい言い分というか、それができたらいいなという目論見なわけで、もちろん狙うのは中古です。

そういう目的ならサイレントピアノという手もあるにはあるけれど、あれは実際アコースティックピアノを土台としながら本来の発音機構を殺し、ヘッドホンで電子音を聞くものだからはじめから除外していました。というのもマロニエ君はヘッドホンというのが、たとえどれほど優れたものであってもストレスで、個人的にどうしても苦手。
あれを頭と両耳につけて音楽を聴いたりピアノを弾いたりする気にはなれません。
なので、電子ピアノもまったく興味がなく、これを部屋に置く気はゼロ。

ヘッドホンがダメという話をあるピアノ店のご主人にしていたら、それならスピーカーをサイレントピアノのヘッドホンジャックへ繋げばヘッドホンもつけなくていいし、スピーカーのボリュームも調整できるからいいのでは?というアイデアを授けてくださいました。
で、我が家には、タイムドメインの小さいながらも質の良い小型スピーカーがあったのを思い出して、それを引っ張り出し、とあるヤマハのサイレントピアノに繋いでみることに。

…なるほどたしかに音はでました。
でも、なにこれ? ぜんぜん面白くないし、ぜんぜん楽しくない。
そもそもピアノを弾いているという喜びもないし実感もない!
どんな立派なピアノからサンプリングされたか知らないけれど、うすっぺらなピアノもどきの音が出てくるだけで、美しさもまったくない。
「通常は生ピアノ。深夜はスピーカに繋いで小さなボリュームで」にはかなり期待したものの、5分もしないうちにテンションは急降下、風船の空気が抜けるように熱も冷めていきました。

これは絶対に自分じゃ弾かないし、ひどく後悔することを直感しました。
まさに、音楽のオの字も、あたたかみのアの字も、楽しさのタの字もない、作りもののウソの世界。
あまりにも嫌だったので、最後にスピーカーを外して、サイレント機能をOFFにすると、当たり前ですが普通にピアノの音になり、その変化の激しさにはおもわず「うわぁ!」と声を上げたくなほどの違いで、アップライトであれなんであれ、生の音はなんと素晴らしいのかを再認識することに。

これなら、通常のアップライトの弱音ペダル(弦とハンマーの間に横長いフェルト布が介入してきて音を弱くする)もかなり楽しくはないけれど、あれはまだいちおうピアノの発音機構を使って出している音ではあり、いくらかマシだと(今は)思います。

ところで、過日行ったピアノ店で音が気に入っていた1960年代のヤマハは2台とも売れてしまったようでした。
あのとき買っておけばよかったと後悔しましたが、そんなに焦ることでもないし、ここは気長に行こうと思います。
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寒波

今年の冬も大変な寒波の到来となり、日本全国かなり厳しい寒さが続いていますね。

一般に本州の人のイメージでは、九州は南で温かいだろうというのがあるようですが、実際にはそんなことはまったくありません。
鹿児島や宮崎など南九州のことはわかりませんが、少なくとも福岡というか北部九州においては温暖のオの字もありません。

気温でいうと東京ほぼ同じで、西であるぶん日没が40分ぐらい長いことと、関東特有の突風が吹かないことぐらいで、あとは気候的にはほとんど変わりません。夏は暑く、冬は寒く、梅雨はベタベタ。

というわけで、今年というかこの冬も相当寒い毎日が続いていています。
まわりには風邪をひいている人が非常に多いし、昨日はちょうど来客予定になっていた方からも急遽連絡があり、一族4世代にわたる親兄弟のうち、ほぼ全員がインフルエンザにかかり、家中でダウンしているというのですから驚きです。

つい先日も、コンコンいいながら風邪の症状をもった方と相対して、危うく伝染るところだったのを、すんでのところでかわしたばかりでしたので、いつ自分の番になるやらヒヤヒヤです。

この季節はピアノの管理も普段以上に難しくなり、ある意味では梅雨時よりもやっかいかもしれません。
ピアノにとっての理想的な環境づくりの一つが、温湿度の急激な変化のないことだと思います。
ある程度の範囲であれば寒いなら寒い、温かいなら温かいというのがいいわけで、急激に室温度が上下するのは甚だ好ましくないことです。

しかし、そうはいっても夜中から朝にかけての7~8時間、人が一人もいないのにピアノのためだけにずっとエアコンをつけっぱなしというのもさすがにできず、その間はエアコンはオフにするわけですが、当然その間の温度変化が起こります。
そして朝ふたたびエアコンを入れるので温度が上がります。

おそらくはこの寒波のせいで、毎日のこの温度変化が激しいためか、12月に調律をしたにもかかわらず、現在はすこし乱れが大きくなっている気がします。やはり温度変化はピアノにとってはいいことではないのでしょうね。

ヒーターを使うときは、まったく休むことなくフル回転になるのが加湿器です。
寒さが増すだけエアコン使用量も増えて、室内はカラカラになり湿度計の針が40%を切ることも珍しくなくなります。
加湿器は比較的タンクの大きいタイプを使っていますが、それを最強にしても加湿量がやや足りないくらいで、もう1台増設しようかと思いつつ、まだ実行には至っていませんが、4Lタンクが毎日空っぽになるし、やはりこの季節の空調管理は気の休まる時がないというのが実感です。

だいたい加湿器の水を入れるというのが面倒くさくて嫌になります。
いちいちタンクごと外して行ったり来たりせず、上から注ぎ足しできるタイプか、あるいはタンクが2つあって、任意のタイミングで水を補充しておけるようになればずいぶんいいだろうと思いますが、それってありませんね。

ピアノもふたつぐらいの音がやや狂っているので気になるのですが、本来の調律ではなくてそれだけちょちょいと手直ししてほしい…というわけにもいかず、次の調律までガマンかと思うと時間が長すぎていささかうんざりです。

純粋に寒さという点でいうと、これから来月にかけてさらに厳しさをますでしょうから、もうしばらくはこんな状態が続きそうです。今しがたテレビをつけたらトランプ大統領の就任式がはじまったようで、みんな鼻を赤くしてワシントンもずいぶん寒そうです。
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リサイクル

年明けから家の片付けをやっているという事を前回書きましたが、実際、暇さえあればそれにとりかかっているところです。そんな最中、ちょうどNHKのクローズアップ現代でこのテーマをやっているのを偶然目にしました。

主には、実家の片付けをどうするかというもので、モノで溢れかえる家の中を、どうやって処分するかということが社会問題化しているようでした。

クローズアップ現代では、不要品の有効な活用手段として、ネットを使った売却が紹介されました。いま巷で流行っていて、急速に伸びているのがリサイクル市場だそうで、これがなんと一兆円を超す市場規模だとか。

そういえば我が街のあちこちにもリサイクルショップが出現しています。
以前ならこの手合は倉庫のようなところが多かったイメージですが、最近のそれは建物もずいぶん立派になり、新築の大きなガラス張りで照明も煌々とついたいっぱしの店舗だったりで、これも市場の大きさを表しているのかもしれません。

さらにネットでは個人から個人への直接取引が盛んなようです。
要らなくなったものをネットで売りに出すことで、世界中に(?)その情報がまわり、それを欲しいという人へ譲ることで、モノは次の持ち主のもとで役立てられ、いくばくかのお金も手にすることができるとあって一挙両得というものでした。

話としてはなるほどという感じもしなくはないけれど、これ、個人的に自分にはまったく合わない方法だと思いました。

番組内で紹介されていた人のやり方でいうと、不要なモノをまず写真に撮って(当然何枚かの)転売のためのサイトに掲載し、欲しい人が現れるのを待つというもの。
一日4000万人だったか?正確には忘れましたが、とにかく世界中の膨大な数の人がそれらの情報を見て、その中から欲しいという人が現れたら交渉成立ということのようです。

しかし、実際に情報としてネット上にあげるには、写真撮影のほか、寸法や状態などを記載して、値段をつけて、さらに買い手がついた場合には梱包して発送作業までやらなくてはりません。
ヤフオクのように、購入者への連絡や送料の伝達など、1品目に対して最低でも何度かのやり取りは必要でしょう。
しかも、ネット上にアップしたからには、絶えずその成り行きを監視確認していなくてはならないし、あれやこれやでそれに費やす労力は決して軽いものではないと感じました。

こんなこと、よほどのヒマ人か、そういうやり取りそのものを楽しめる人でない限り、まだるっこしくてやっていられません。少なくともマロニエ君のよいな面倒くさがりでせっかちな性格からすれば、とてもじゃないけど自分には向かないと思いました。
また、数の点からも、10や20ならともかく、仮に何十何百という数になれば、その作業量はとてもじゃないけれどできることではない。
ひとつひとつの売買であるだけ当然ながら時間もかかるでしょうから、ただでさえこの手の片付けは骨が折れるのに、そこから一品ずつネットにアップして買い手が現れるのを待つなんて、いつになったら終わるのか知れたものではありません。

よほど時間と場所がたっぷりあって、繰り返しますがそういうことを楽しめる人ならいいけれど、片付けのための重い腰をやっとあげ、できるだけ短期に終わらせてしまいたい人には、まったく不向きだと思いました。

また、地元のフリマに出品して不要品を売りさばいている人も多いと聞きますが、出店そのものが抽選らしく、運よく当選しても、それを朝から車に積んで持ち込んで並べて、ずっと会場に張り付いていなくてはならないわけで、マロニエ君は性格的にそうまでしてなにがなんでも人に譲りたいとか換金したいという熾烈な欲求がないことを自覚しました。

もちろん処分対象の不要品を、廃棄することなく別の方が使ってくださることじたいは素晴らしいことだけれど、時間と労力、つまりそのための手間暇を考えたらとてもではないけれど自分の性分には合わない世界でした。

…と、このように何事にも粘りやこつこつ感のないマロニエ君の性格がまたぞろここで顔を出したということでしょうね。
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軽くする

思うところあって、今年は正月から家の片付けをやっています。
我が家はやたらモノが多くて、それでも人目につく表面だけはなんとか整えたふりをしているものの、実際はややうんざりしていました。

いつかは整理をしなくてはと思っていたけれど、なかなか決断するチャンスもないし、やるとなればとても一日や二日で済むような話ではない。
日々の生活に追われていると、そんな大ごとは当然のように後回しにして過ごしてきたのですが、生活上の変化もいくらかあって、ついに今年こそはこれに着手することにしたのです。

巷では断捨離というどこか宗教チックな言葉さえ聞かれますが、これは正確にどういう意味かは認識できていません。
物を捨てることで物との執着を断ち切って清々しく生きていきましょうというような意味だろうとイメージしていますが、もしかしたら間違っているかもしれず、ネットで調べれば正しい意味もわかるのかもしれないけれど、そこまでする気もないし、とりあえず自分の解釈のみでよしとします。

なぜなら、マロニエ君などはどっちにしろ断捨離などといえるような高い境地には到達できないことははじめからわかっているし、とりあえず要らないものは処分しようという単純行動に出たにすぎません。

今後読む予定がないと思われるあれこれの書籍類を、手始めにまず大量処分。
これをネットで申し込み、ダンボールに詰めておくだけで業者が取りに来てくれるのは助かりました。

整理といっても困るのは亡くなった身内の遺品で、とりわけ衣類などは生前身に着けていたものではあるし、それをただポイポイ処分(はっきりいうとゴミとして廃棄する)するのは、はじめは申し訳ないような気持ちがあって、なかなか手をつけられませんでした。
しかし、一面において衣類ほど始末に悪いものもないのが現実で、取っておいたからといって何の役に立つわけではなし、写真などと違うのだから、わざわざそれを取り出して個人を偲ぶようなものでもない。
さらには、いまどきのモノのあふれた日本では、よほど状態の良いものでも、衣類は人様に差し上げるようなご時世でもないので、要するにどう考えを巡らせてみても有効な使い途がないわけです。
そのいっぽうで貴重な部屋や空間を臆面もなく占領しているだけというのが衣類の紛れもない事実。

古着買取なども調べたけれど、それに要する労力に対してほとんど見返りがないことも判明し、けっきょくゴミとして処分することが唯一最良の道というところに決着しました。
中には良い品やまったく袖を通していないものなど、いざ処分するとなると忍びないものも数多くありますが、そこでいちいち立ち止まってみてもなにもならず、意を決して片っ端から処分しています。

やるからには、無用なものはできるだけ取り除こうと整理と処分を続けており、すでにかなりの量をゴミとして出しましたが、だんだんわかってきたことは、捨てるという行為は、始めの抵抗感の山を一つか二つ越えてしまうと、あとは急速に慣れていくし、いつしか妙な快感があるということでした。

無用物としてそれを部屋から(ひいては家の中から)取り出せば、そのあとには場所や空間が生まれ、必要な物だけで再構成されるささやかな世界には不思議な新鮮さがあることがわかりました。
ちょっと生き返る感じと言ったら大げさかもしれませんが、そんな清々しさがあるのは事実です。

物理的にも精神的にも身軽になるということの大切さを感じた時に、ああこれが断捨離の意味するところなのかとチラッと思ってしまいましたが、もちろん先にも書いたようにその本質がどこになるのかよくわかりませんし、わからなくても構いません。

もうしばらくは終わりそうにありませんが、ひとつわかったことは、使いもしない物を多く抱え込んでいるということは、自分にとって知らぬ間にかなりマイナスになっていて、それに気づきもしないということです。
ついでに雑念などもすっかり捨て去ってしまえればいいのですが、そこまではなかなか…。
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完成度

先日のNHK-Eテレ、クラシック音楽館ではN響定期公演の後のコンサートプラスのコーナーで、スタジオ収録された仲道郁代さんのショパンが放送されました。
ショパンが生きていた時代のプレイエルと現代のスタインウェイを並べて、ショパンの有名曲を弾くというもの。

同じプレイエルでも、コルトーなどが使ったモダンのピアノとは違い、いわゆるフォルテピアノ世代なので、音も姿形もかなり古い骨董的な感じがします。

音が出た瞬間に、ぽわんと温かい音が広がるのは心地良いし、現代のピアノが持ち合わせない味わいがあることはじゅうぶん感じつつも、いかんせん伸びがなくやはり発展途上の楽器という印象は免れませんでした。

冒頭の嬰ハ短調のワルツだけ、両方のピアノで奏されましたが、はじめにプレイエルを聴いてすぐスタインウェイに移ると、まず明確に音程が高くなり、楽器に圧倒的な余裕があり、耳慣れしていることもあってとりあえずホッとしてしまうのは事実でした。

まるで木造建築と近代的なビルぐらいの違いを感じました。
むろん木造は素晴らしいけれど、より完成度が欲しい気がします。
スタインウェイが素晴らしいのは、ただ近代的で力強くて美しいというだけではなく、極限まで完成された楽器という部分が大きいように思います。このいかにも居ずまい良く整った楽器というのは、それだけで心地よく安心感を覚えます。

個人的には、比べるのであれば、古いプレイエルとモダンのプレイエルを弾き比べて欲しかったし、同じようにモダンのプレイエルとスタインウェイの比較のほうが、より細かい違いがわかるように思いました。

というか、フォルテピアノと現代のスタインウェイでは、根本があまりにも違いすぎてあるいみ比較にならず、かえってそれぞれの特徴を感じるには至らないような気がしました。
そもそも、差とか違いというのは、もっと微妙な領域のものだと思うのです。

とりわけショパン~プレイエルにこだわるのであれば、プレイエルらしさをもっと引き出すような焦点を与えてほしかった気がしますが、この企画は2週続くようで、次の日曜にも続きが放送されるとのことでした。


演奏やピアノとは直接関係ないことですが、仲道さんのドレスがちょっと気になりました。
趣味の問題まであえて触れようとは思いませんが、真っ赤なドレスのサイドの脇の下から腰のあたりまでが穴が空いたようになっていて、実際には肌色のインナーを付けておられるのでしょうけど、パッと目にはその部分の肌が大きく露出しているように見えて、せっかくの演奏を聴こうにも視覚的に気になってしまいます。
これって今どきの女性演奏家のひとつの潮流なの?って思いました。

この方向に火をつけたのは、まちがいなくブニアティシヴィリとユジャ・ワンであることに異論のある方はいないでしょう。
必要以上にエロティックな衣装で人の目をひくのは、言葉ではどんな理屈もつけられるのかもしれないけれど、個人的にはまったく賛成できません。とくにこの外国勢ふたりに至っては、節度を完全に踏み越えてしまっており、このままではどうなってしまうのかと思うばかりで、ピアニストのパフォーマンスは、ナイトクラブのショーではないのだから、その一線は欲しいというか…当たり前のことだと思う。

少なくとも、クラシックの演奏家がそんな格好をしてくれてもちっとも嬉しくもありがたくもないというのが本音であって、スケベ心を満たしたいなら、こういうものに期待せずともほかになんだってあるでしょう。
個人的な好みで言うと、よくある女性の肩がすべてあらわになって紐一本ないようなドレスも見ていて心地よくはなく、半分裸みたいで落ち着かない感じがするし、やはり演奏には演奏の場にふさわしい服装というのはあるように思います。

この調子では、そのうち女性ファン相手に、男性ピアニストがピチピチのランニング一枚に短パン姿でピアノを弾くということだってアリということになりかねません。ひええ。

衣装ひとつでも、要はそのピアニストが何によって勝負をしようとしているのかがわかりますね。
仲道さんもわずか30分の間に、お召し替えまでされていましたが、そこまでして「見せる」ことを意識するということに、よほどの自信とこだわりがおありなんだろうなぁと思ってしまいました。
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レオンスカヤ

聴いていてなんとも不思議な気持ちになるピアニストっているものです。
不思議の意味もいろいろあるけれど、ここで言いたいのは、その人の特徴や良さはどこなのか、何を言いたいのかがまるきりわからないという意味での不思議。

エリザベート・レオンスカヤは以前からそれなりに名の通った中堅ピアニストだったけれど、昔からマロニエ君はこの人のCDを聴いて、そのどこにも共感できるものを体験したことがありませんでした。

いろんなピアニストがいて、個性やスタンスがそれぞれ違うのは当然ですが、好き嫌いは別にしても目指している方向ぐらいは、聴いていれば察しはつくのが9割以上でしょう。
ところが、彼女にはそれがまったく見えないという点で印象に残っているピアニストでした。非常に真面目で、正統派といったイメージがあるけれど、マロニエ君にとってはどこが魅力なのかわからない不思議な人。
CDではショパンやブラームスなど、いくつか買ってはみたものの、一度聴いてあまりにもときめきがないことに却ってお寒い気分になってしまい、そのままにしているCDが探せば何枚かあるはず。

そんなレオンスカヤですが、昨年のサントリーホールでトゥガン・ソヒエフ指揮するN響の定期公演に出演し、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番を弾いたようで、録画でそれを見てみることに。

長い序奏の後、3回にわたるハ短調のユニゾンのスケールによってソロピアノが開始されますが、グリッサンドのように音が団子状態で繋がっているのにはいきなりびっくりしました。
演奏が進むにつれ、ますます意味不明。
具体的なことは書くこともできないし、その記述に敢えて挑戦しようとは思いません。

すくなくとも、大晦日にYouTubeで視聴した昔のアニー・フィッシャー(オーケストラは同じくN響)の同曲とは、マロニエ君にとってはまさに雲泥の差でしかなく、これがいかに素晴らしいものであったかを、他者の演奏によってさらに強固に裏書してもらったようなものでした。

このレオンスカヤ女史は、演奏はまったく好みではなかったけれど、演奏前のインタビューではなかなかいいことをおっしゃっていました。
「ピアノを演奏するときの揺るぎない法則があります」
「手の自由な感覚と同時に手の重みを感じること。そうすると重く弾くことも軽く弾くことも可能です」
若いピアニストへのアドバイスでは
「鍵盤はタイプライターではない、ペダルは車のアクセルではない。」
「ピアノで上手く歌えないときは、声(声に出して歌ってみる)に頼ってみるといい。」
楽譜の読み方について
「楽譜を正しく読むとはどういうことか。音符についた点やスラーで作曲家は何を表現したかったか考えねばなりません。」
「スタッカートやアクセントを単にその通りに演奏しても意味がありません。」

いちいちごもっともなのだけれど、さてその方の演奏に接してみて、こういう言葉を発する人物が、いざピアノを弾きだすとあのような演奏になってしまうことに、聴いているこちらの整理がつかないような違和感を感じてしまうのをどうすることもできませんでした。
ピアノで歌う…作曲家の表現したかったもの…。

アンコールにはなんとショパンのノクターンの有名なop.27-2が演奏されましたが、ベートーヴェンの3番のあとにこういう作品をもってくるというセンスが、さらにまた理解不能でした。

後半はドヴォルザークの新世界からで、その残り時間に、東京文化会館少ホールで行われたボロディン弦楽四重奏団とレオンスカヤによる、ショスタコーヴィチのピアノ5重奏曲から抜粋が放送されました。
サントリーホールの協奏曲では新しめのスタインウェだったのに対し、こちらではヤマハのCFXで、スタインウェイに比べてエッジの立った音で、パンパン華やかに鳴っているのが印象的でした。
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無事に平穏に

正月とはいえ、旅行に行くでもなし、今年は家の中の整理に明け暮れています。
昨年いろいろあって、部屋をまるまる二つ整理する必要が出てきたためです。

あまりにも大掛かりなのでずっと手を付けずに来ました。

それで、年が明けて、ちょうど手伝ってくれる人もあることから、限られた時間内ということもあって、3日はついに着手することに。

モノを整理するということは、その前段階として捨てるべきものを捨てるということなんですね。
そのための取捨選択というのは、予想以上のエネルギーを要する仕事であるのにまず驚くことになりました。

巷では断捨離などという言葉をよく耳にしますが、そんな境地のはるか以前の段階で、不要物というものがこれほど家の中にあったのかということがまず衝撃でした。
長い時間をかけて蓄積されたものというのはとてつもないもので、さてさてこれは一筋縄ではいかないことを思い知ります。

おかしなもので、丸一日やっていると、感覚もだんだん麻痺してくるのか、自分がどれくらい疲れているのかもわからなくなりますし、後半の数時間はほとんど惰性でやっているようなものでした。

まだ当分は終わりそうにないので、残りは次の連休にでもコツコツやっていくしかないでしょう。


年末年始は、マロニエ君だけがそう感じたのかもしれませんが、救急車のサイレンをよく聞いた気がします。
こんな一年の区切りや、最も平和であって欲しい時期に、運悪く病気や怪我で救急車に乗せられて病院に搬送されるのは、本人も家族もどんな心持ちなのかと思いますが、やはり世の中は表に出る部分だけでなく、実際にはいろいろと人間模様があるということですね。

年末は明らかにおかしな動きの車がたくさんいました。
絶対止まってはいけないような場所で平気な顔をして止まる、4車線ある道で左車線からいきなり右折車線へ横っとびするように車線変更してみんなが急ブレーキになったり、かなりの速度で流れる幹線国道の中央にあるポールの切れ目で、Uターンしようとして玉突き事故の危険を作るなど、とく30/31日はマロニエ君も普通の感覚では運転できないことを察知してとくに注意して走りました。

30日は普通に走っていた深夜の国道が、突如大渋滞になったかと思うと、先にパトカーの赤い回転灯がたくさん見えてきて、右と左のそれぞれ歩道にグシャグシャに大破した車があったし、大晦日は深夜に年越しそばを食べに行こうと蕎麦屋の駐車場に入ろうとしたら、ちょうど店のまん前がパトカーだらけでした。

なんと、すぐ目の前の車道には横たわる人らしき影があり、それを大勢の救急隊員が道路に膝をついて取り囲んでいました。
今まさに担架に移されるところだったようで、その物々しさときたら大変なものでした。
あと1時間足らずで新年を迎えようというまさにそんなタイミングで、年越しどころではないことになっているわけで、想像ですが横断歩道のない道を横断してはねられたのかもしれません。
さすがに、もうすっかりビビってしまって、帰りは普段の何倍も気をつけてビクビクしながら運転して帰りました。

いっぽう明けて2日は、動物園の初開園の日でしたが、恒例のクジ引きで一等を引き当てたのはちょっと知っている小さな女の子で、昨年生まれた動物の赤ちゃんの命名権を得て、お父さんと一緒にこの様子が何度も何度もテレビに映し出されるのは笑ってしまいました。

なんとか無事に平穏に過ごしたい一年です。
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大晦日と元日

あけましておめでとうございます。

大晦日の夜は、知人からのメールがきっかけとなって、アニー・フィッシャーが弾くベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番をYouTubeで視聴しました。
オーケストラはN響で、タイトルには1989年とあり、たしかマロニエ君はこの演奏会に行った記憶があります。

この人は派手でもないし、スターピアニストというほどでもなかったけれど、自分の感じる作品をどう表現するかという点では並々ならぬものがあり、ときにちょっと先生タイプでもありますが、その音楽に対する謙虚な姿勢は瞠目に値します。

なつかしい演奏をあらためてネットの映像で目にして、こういう毅然とした佇まいの人って完全に消滅したなぁと思いました。
なんとなく、晩年のクララ・シューマンってこういう感じの人だったのかも…というような気も。
とても深く人を愛して、音楽のしもべで、倫理観が強いのに激情的で、鋼鉄のように信念を曲げない人…。

2016年は、実を言うとマロニエ君にとってはいろいろとあった年でしたので、どんな風に年越しをしたものかという妙な感覚もあったのですが、そんな年の最後の最後に、ベートーヴェンの3番をたとえネットではあっても好ましい演奏で聴くことができたというのは、思いもかけず良かったと思いました。

あまりにも聴き慣れた名曲中の名曲でですが、フィッシャーが弾くこの曲には飾らない実だけで語られるぶん、人間のさまざまなドラマが色濃く描かれており、第1楽章の一気呵成な推進力に圧倒され、第2楽章はホ長調へと転じて穏やかな許しに満ちた美しさは疲れた心が満たされるようであったし、終楽章では、再びハ短調に戻って悲喜こもごもの事共を全てひっくるめて、フィッシャー奏でるベートーヴェンの力によって,自分の心のうちをぜんぶ押し流してくれたようでした。
とくに終わりに近づくにつれて曲は高まり、すべてのことをひっくるめて総決算をしてもらったようでした。

やっぱりベートーヴェンは人生そのものですね!

大晦日に、まったく思いがけずアニー・フィッシャーを見ることで、2016年は最後は清々しく終われた感じでした。

これまでは新年最初に聴く音楽を何にするかこだわってきましたが、大晦日に良い音楽が聴けたことで充分だった気がして、新年のほうは止めることにします。

今年はもう少しピアノの練習をしようかな…と思うだけは思っています。
というのも、マロニエ君のまわりには、あまりにもビシっと練習する人がたくさんいて、その人達に接するたびに好きなことなら少しは身を入れてやらなきゃと思うからです。
でも、ほかならぬマロニエ君のことですから、きっとそうはならないでしょうけど、年頭にあたってちょっと人並みのことも言ってみたくなりました。

あいも変わらずくだらないブログですが、本年もよろしくお付き合いくだされば幸いです。
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10代のキーシン

過日、ピアノの知り合いがお遊びに来宅され、夕食を挟んで深夜まで、7時間近くピアノ談義に費やしました。

その方はマロニエ君など足下にも及ばないような高度なiPad使いということもあり、話題に名前が出るとほぼ同時ぐらいに指先はササッと画面を検索して、そのつどいま口にしたピアニストの音や映像が流れます。
まるで、影の部屋でスタッフがスタンバイしているテレビ番組のような運びの良さで、ただただ感心するばかり。

この日は、話や動画やCDに終始するあまり、ピアノは真横にあるのにまったく触らずに終わってしまうほどこちらに熱が入りました。

話はめぐるうち、「天才」が話題となりました。
世界の第一線で活躍するピアニストの大半はまずもって天才であるのだろうけれど、その中でもいかにも天才然とした存在のひとりがキーシンです。

彼がわずか12歳の子供だったとき、モスクワ音楽院の大ホールでキタエンコ指揮のモスクワ・フィルを従えて弾いたショパンの2つの協奏曲のライブは、当時ショック以外の何物でもありませんでした。
たしか、演奏から3年後くらいだったか、初めてこれをNHK-FMで耳にしたマロニエ君はその少年の演奏の深みに驚愕し、当時東京に住んでいたこともあり、神田の古書店街の中のビルにあった新世界レコード社という、ソビエトのメロディアレーベルを主に扱う店の会員にまでなって何度も足を運び、ついにキーシンのライブレコードを手に入れました。当時はまだLPでした。

それから初来日のコンサートにも行きました。ソロリサイタルではオールショパン・プログラム、いっぽう協奏曲では、スピヴァコフ指揮のモスクワ室内管弦楽団とモーツァルトの12番とショスタコーヴィチの1番を揺るぎなく弾いたし、その後の来日ではヴァイオリンのレーピンなどと入れ替わりで出演し、フレンニコフのピアノ協奏曲を弾いたこともありました。
とにかく、この当時はすっかりキーシンにのぼせ上がっていたのでした。

初めはLP一枚を手に入れるのにあんなに苦労したのに、今では当時の演奏や動画がYouTubeなどでタダでいくらでも聴けるようになり、この環境の変化は驚くべきことですね。

この夜は久しぶりにキーシンの10代のころの演奏映像に触れて、感動を新たにしました。
この知人も言っていましたが、キーシンについては「今のキーシン」を高く評価する人が多いようで、それももちろん深く頷けることではあるけれど、マロニエ君は10代のころのキーシンには何かもう、とてつもないものが組み合わさって奇跡的にバランスしていたものがあったと今でも思います。

現在のキーシンはたしかに現在ならではの素晴らしさがあるし、深まったもの、積み上げられたもの、倍増した体力などプラスされた要素はたくさんあるけれど、失ったものもあるとマロニエ君は思っているのです。
若いころの、この世のものとは思えない清らかな気品にあふれた美しい演奏はわりに見落とされがちですが、あれはあれで比較するもののない完成された、貴重な美の結晶でした。
現在のキーシンの凄さを感じる人は、どうしても「若い=青い」という図式を立てたがりますが、10代のキーシンの凄さは今聴いても身がふるえるようで、大人の心を根底から揺さぶるそれは、だから衝撃的でした。

とくにショパンの2番(協奏曲)に関しては、誰がなんと言おうと、マロニエ君はこの12歳のキーシンの演奏を凌ぐものはないと断言したいし、マロニエ君自身もその後キーシンによる同曲の実演にも接しましたが、あの時のような神がかり的なものではありませんでしたから、おそらく本人もあれを超える演奏はできないのかもしれません。

さて…。
ショパンの2番といえば、NHK音楽祭でユジャ・ワンが先月東京で弾いたという同曲を録画で見たのですが、個人的にはほとんどなんの価値も見いだせない演奏でした。
現在の若手の中で、ユジャ・ワンには一定の評価をしていたつもりでしたが、こういう演奏をされると興味も一気に減退します。
やはり彼女は技巧至難なものをスポーティにバリバリ弾いてこそのピアニストで、情緒や詩情を後から演技的に追加している感じはいかにも不自然。曲の流れを阻害している感じで、あきらかにピアニストと曲がミスマッチで見ていられませんでした。
尤もらしい変な間がとられたり、ピアノの入りや繋ぎの呼吸も、こういう曲では作為的で後手にまわってしまうのも、やはり自分に中にないものだからでしょうね。

あれだけの才能があるのになぜそんなことをするのかと思うしかなく、現代のピアニストはなんでもできるスーパーマンになりたがりますが、それは無理というもの。その人ならではのものがあるからこそ、人はチケットを買って聴きに来るのだと思いますし、だからこそ価値がある。

まるで場違いな猫がショパンに絡みついているみたいで、この曲に関しては衣装なども含めてブニアティシヴィリと大差ないものにしか見えませんでした。しかし最後にアンコールで弾いたシューベルト=リストの糸を紡ぐグレートヒェンになると、ようやく本来の彼女の世界が蘇りました。
やはりこの人はこうでなくてはいけません。

すべてに云えることですが、自分のキャラに合わないことはするもんじゃありませんね。
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撤回の撤回

知り合いが1960年代のスタインウェイDを買われました。

数年前、このブログを読まれたことがきっかけでご連絡いただき、それからのお付き合いになった方です。関西にお住いで一度だけお会いしたことはあるけれど、普段はもっぱらメールか電話のやり取りに終始する間柄。
ピアノ本体の話とCDや世界で活躍する演奏家の話が遠慮なくできる相手というのは、そうざらにはなく、その点では貴重な方といえます。

音楽のプロではないけれど、かつては専門教育を受けられているし、なにより心から音楽がお好きで、ご自身でも趣味でピアノを弾くなどして楽しんでおられるようです。
ご自宅ではディアパソンの大きめのグランドをお使いで、私も数年間同じピアノを持っていたことから、よく情報交換などしていたものですが、最終的にはスタインウェイのDを買うことが目標だと以前から聞いていました。

さて、2年ぐらい前だったでしょうか、北関東のとあるピアノ店に該当するピアノがあることがわかり、どんなものか見に行かれたようでした。
といっても、このピアノ店は東京からさらに新幹線か在来線、あるいはバスを乗り継いで行かなくてはならないロケーションで、一往復するだけでも、それに要する時間と労力はおびただしいものがあるようでした。
なんなら飛行機に乗ってひょいと海外にでも行くほうがよほど簡単かもしれません。

で、見られた結果はまずまずで、かなり関心をもたれたようですが、そうはいってもおいそれと即決できるような価格やサイズでもないため、すぐに購入というわけにはいかなかったようでした。
その後は折を見て、ときにはお知り合いのピアニストなども同道されて見に行かれたようですが、やはり良いピアノのようで、事は徐々にではあるけれど、一歩ずつ購入への距離を縮めているようにお見受けしていました。

その後、どれぐらいのタイミングであったか忘れましたが、とうとう購入契約を結ぶところまで事は進み、まずはおめでとうございますという運びになりました。ところが、その後何があったのかはよくわかりませんが、この話は一旦撤回され、購入も何もかもがすべて白紙に戻ってしまうという非常に残念な経過を辿ります。

マロニエ君はそのピアノを見たことも弾いたこともないけれど、写真やこまかい話などから想像を膨らませて、まずその方が買われるであろう「縁」のようなものがあるピアノだと思っていたのですが、予想は見事に外れ、自分の勘働きの悪さを恥じることに。

ところがそれから一年以上経った頃だったでしょうか、マロニエ君の地元のぜんぜん別の人物がやはりこのピアノ店を訪れました。
それによると膨大な在庫の中には、何台かのスタインウェイが購入者の都合から納品待ちという状態にあるのだそうで、その中に上記のDも含まれていることが判明します。そして、白紙撤回から一年以上経っているにもかかわらず、どういうわけかキャンセルの扱いにはならず、契約が成立したまま、あくまで納品がストップしている状態であるという話に耳を疑いました。
マロニエ君も「あれはキャンセルされたはず」だと何度も念をしますが、どうもまちがいではないらしい。

そこで、ただちに上記の関西の知人に電話して、こういう現状になっているらしいことを伝えました。
もしもまだその気があるのであれば、気に入ったピアノというのはそういくつもあるわけではないし、そういう状態でキープされているのもお店の格別な計らいだろうとも受け取れたので、この際購入へと話を再始動されるか、あるいは本当にその気がないのであれば、それを今一度明確に伝えられたらどうでしょう?というような意味のことを言ったわけです。
お店としても、本当にキャンセルという確認が取れたら、「SELECTED」と書かれた札を取り去って、再び販売に供することができるはずで、高額商品でもあるし、いずれにしろ宙ぶらりんというのは一番良くないと思いました。

というわけで多少のおせっかいであったとも思いましたが、結果的に再びピアノ店へ行かれることになり、それからしばらくの後、ついに購入されることになりました。そして今月の中旬、ついにそのスタインウェイはその方の自宅へと無事に運び込まれたようです。
聞けば、一年半の時をかけ、このスタインウェイのためだけに都合7回!!!も関西から往復されたそうで、こういう買い方もあるのかと、ただもう感心してしまいました。

マロニエ君はといえば、それがピアノであれ車であれ、ほとんど1回か2回でババッと決めてしまいますし、その折もろくにチェックやあれこれ確かめるなどは自分なりにやっているつもりでも、実はほとんどできていません。買うときは半ばやけくそみたいなところがあるし、なかなかじっくり冷静にということができない性分で、ほとんどノリだけで決めてしまうのは毎度のこと。
いやはや、じっくり見極めるとはこういうことをいうのだと感嘆するばかりでした。
いずれにしろ、少々時間はかかりましたが収まるべきところに収まったのはおめでたいことでした。
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国産アップライト

過日、久しぶりに旧知のピアノ店を訪ねました。
周囲を一面緑の田園風景が取り囲むピアノ工房です。
時代を反映してか以前よりもアップライトの展示比率が高まり、台数じたいもぐんと増えていて、手頃で上質な中古の国産アップライトに関しては見比べ弾き比べするには理想的な環境へと変貌していました。

はっきり覚えていないけれど、ちょっと思い返しただけでも15台以上はあって、どのピアノもキチンと技術者の手が入った言い訳無用の状態にあることは、いつもながらこの店の特徴的な光景です。
ふつうは、色はくすんで傷だらけのピアノをショールームに置いて、「これは、これから仕上げます」みたいなことをいう店は少なくないのですが、そのたぐいは一切なく、お客さんの目に触れるものはすべてピカピカの「商品」として仕上げられていることは、見ていて安心感があり心地よいものです。

むろん内部も外観同様に細かい項目ごとにしっかり整備されていて、どれもすぐ安心して弾ける状態にキープされているのは、本来これが当たり前と言われたらそれまでですが、現実になかなかそうなっていない店が多い中、この店のこだわりと良心を感じます。

長らくご主人が整備・販売からアフターケアまですべてひとりでされていましたが、ここ数年は息子さんがお父さんと同じ仕事を受け継ぐ決断をされて工房に入られています。それ以前は別の業界におられたにもかかわらず、わずか数年の間にまるでスポンジが水を吸い込むがごとく、あらゆることをお父さんから吸収されたようで、今や塗装に関しては息子さんのほうが上手いまでになったというのですから驚きました。

なるほど、ここの10数台のピアノが、どれもまばゆいばかりに輝いており、中古独特のある種の暗さというか前オーナーの食べ残し的な雰囲気は全くといっていいほどありません。文字通りのリニューアルピアノで、溌剌とした状態であたらしい嫁ぎ先を待っているという明るさがありました。
この明るさというのが実はとても大事で、どんなにいいものでもなぜか暗い雰囲気のもの(あるいは店)がありますが、明るくないと人は買いたくならないものです。さすがにその辺りも含めて現役ピアノ店として生き残っている店はやはり違うなあと思いました。

さて、せっかくなのであれこれ弾かせていただきましたが、同じ技術者がまんべんなく整備しているだけあって、ヤマハとカワイと各サイズで、ほとんどその特徴がわかるもので、ヤマハはだいたいどの年式を弾いても同じ音と同じ鳴り方をして、サイズや個体差というのは思ったより少ないというのがわかります。カワイも同様。

ということは、基本的には、年式やモデル/サイズの違い、あるいは中古の場合は長年の保管状況や経年変化も本質的には少ないようで、しっかりとした技術者の手が入って本来の性能が引き出されると、そのピアノの生来の姿が浮かび上がることがわかります。
ヤマハ/カワイのアップライトとは要するにこういうものだということが、大局的にわかったようで非常に有意義でした。

生来の姿というのは、要するにヤマハという一流メーカーの最高技術で大量生産されたピアノということですが、それらの根底にあるものはすべて同じで、大量生産ゆえに個体差が非常に少ないのは合点がいくところ。また長年それぞれ異なる場所で使われてきたピアノでしょうけど、環境による変化も本質的にそれほど受けておらず、整備すればちゃんとある程度の状態に戻ってくるというのは、日本のメーカーの底力だと思わずにいられません。
楽器としてどうかということはまた別の話に譲るべきかもしれませんが、少なくとも製品としては、驚異的な信頼性、耐久性、確かさがあるのは間違いのないところで、これはこれで驚嘆に値することだと思いました。

この中に2台だけ、50年ほど前のヤマハのアップライトがありました。
すなわち1960年代のピアノで、ロゴも現在のスリムな縦長の文字ではなく、やや横に広がった古いタイプです。

聞くところによると、価格的にも最も安い部類だそうで、塗装もラッカー仕上げなので、その後のアクリル系の塗装にくらべるとあの独特なキラキラもありません。
一般的なお客さんにとっては、古いことがマイナス要因となるのか、安いこと以外に魅力はないらしいのですが、マロニエ君は逆にこのピアノには心惹かれるものを感じました。

隣にちょうど同じサイズの少し新しい世代(1970年代)の同じヤマハがありましたが、こちらはもう次世代の仕様で、見た目から音までいわゆるおなじみのもの。
60年代のそれには、弾いた感じもほかのピアノたちとは一線を画するものがありました。
普通の人が抱く安心感という点では、よくも悪くも、新しいほうなんだろうと思います。細めの基音があって、そのまわりに薄い膜みたいなものがかかっていて、それが洗練といえば洗練なんでしょうし、現代的といえば現代的。

その点、古いほうは飾らない実直な音がして、人でいうとやや不器用かもしれないけれど正直者といった感じ。
食材なら何も味付けがされていない状態で、いかにも小技を使わずまっとうに作られた感じがあり、ピアノという楽器の機構から出るありのままの音がするし、ヤマハがまだ徹底した大量生産に移行する前の最後の時代の、ベヒシュタインなどを手本にしていた時代の香りのようなものがありました。

古いほうはひとことでいうとヤマハなりに「本物の音」がしました。
それはそのまま、ヨーロッパのピアノにも繋がるフィールといえなくもない。
そして、欠点もあるけれど、音には太さと重みと体温みたいなものがあり、弾くことが楽しいのでした。

いいかえると、新しい仕様は、いかにもヤマハという感じで、欠点らしい欠点はないけれども無機質で、楽しくはないけれども安心で、なにもかもが正反対のものになってしまった…でもそれで売れて一時代を築いたというアイロニーがあるように思いました。
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つまらなさ

コンサートに行くことは基本的に止めてもうどれくらい経ったでしょうか…。
こんなに音楽が好きなのに、以前はあんなに足繁く通っていたのに、それをやめ、しかもまた行きたいとはほとんど思わない現在の状況にはいくらか驚きつつ、それが自然なのかとも自分では思います。

理由はいろいろありますが、まず大きいのは、真剣に音楽に挑むというスタンスで、聴く人へ何かを伝えようとする魅力ある演奏家が激減したこと。
顔と名前は有名でも、その演奏は空虚で義務的で、さらに地方のステージでは力を抜いている様子などがしばしば見受けられ、否も応もなくテンションは下がるのは当然です。
決められたプログラムをただ弾いて、済めば次の公演地に移動することの繰り返しによってギャラを稼いでいるだけという裏側が見えてしまうと、期待感なんてとても抱けず、シラケて行く気になんかなりません。

もうひとつ、大きいのはホールの音響。
どんなに良い演奏でも、コンサート専用に音響設計されたという美名のもと、汚い残響ばかり渦巻くようなホールでは、とてもではないけれどまともに聴く気がしないし、演奏も真価はほぼ伝わりません。
デッドでは困るけれど、昔のような節度感あるクリアな音響のホールが懐かしい…。
しかも、長引くコンサート不況のせいか、最近はなにかというとこの手の豪華大ホールばかりで、ようするにわざわざ雑音を聞きに行っているようなものなので、それでもひと頃はかなり挑戦したつもりですが、ついに断念。

さらにピアノの場合は楽器の問題もないとはいえません。
どこに行っても、大抵はそこそこの若いスタインウェイがあり、ほぼ決まりきった音を聴くだけでワクワク感などなし。
もちろん個人的には、それでもその他の同意できない楽器の音を聴くよりはマシですが、なんだか規格品のように基本同じ音で、こういうことにもいいかげんあきあきしてくるのです。

今どきの新しいスタインウェイも結構ですが、ホールによってはもう少し古い、佳い時代のピアノがあったりと変化があればとも思うのですが、これがなかなかそうもいかないようです。

マロニエ君は大きく幅をとったにしても、ハンブルクスタインウェイの場合、1960年代から1990年代ぐらいまでのピアノが好みです。わけても最も好感を持つのが1980年代。
このころのピアノは深いものと現代性が上手く両立していて、パワーもあるし、ピアノそのものにオーラがありました。

いっぽう、新しいのは均一感などはあるものの、ただそれだけ。
奥行きがなく、少しずつ大量生産の音になってきている気配で、これによくある指だけサラサラ動くけど、パッションも創造性もない、冒険心などさらにないハウス栽培みたいなピアニストの演奏が加わると、マロニエ君にとってはもはやコンサートで生演奏を楽しむ要素がまったく無くなります。

べつに懐古趣味ではないけれど、ホールも、ピアノも、ピアニストも、20世紀までが個人的には頂点だったと思います。

ちなみに、何かの本で読んだ覚えがありますが、この世の中で、スタインウェイ社ほど過去のスタインウェイに対して冷淡なところはないのだそうで、たとえばニューヨークなどでも、自社に戻ってきた古いピアノは、素晴らしいものでもためらいもなく破壊してしまうことがあるのだとか。
たとえ巨匠達が愛した名器であっても処分するらしく、真偽の程はわかりませんが、聞くだけで身の毛もよだつような話です。

それほど、メーカーサイドは新品を1台でも多く売ることに価値を置いているというわけでしょうから、いかにスタインウェイといえども骨の髄まで貫いているのは商魂というわけですね。
また、その証拠にスタインウェイ社の誰もが、古いピアノの価値に対しては不自然なほど無関心かつ低評価で、常に新しいピアノのほうが優秀だと一様に言い張るのは、まるでどこぞの統制下にあるプロパガンダのようで、そういう社是のもとに楽器の評価まで徹底的にコントロールされているのかと思います。

親しい技術者から聞いたところでは、メーカーは新しいピアノのほうがパワーがあるとも主張するのだそうで、さすがにこれはかなり苦しい政治家の答弁のようにも思えます。

客席から聴くぶんには、新しいスタインウェイは見た目は立派でも、もどかしいほどパワーが無いと感じることがしばしばで、古いピアノのほうが太い音を朗々とホール中に満たしてくれる事実を考えると、いいものが次第に世の中からなくなっていくこのご時世が恨めしくさえ思えてしまいます。

ピアノがもし、運搬に何ら困らない持ち運び自由な楽器であったなら、多くのピアニストは佳い時代の好みの一台を自分の愛器として育てて、それを携えて演奏旅行をするのはほぼ間違いないでしょう。

そう考えると、ピアノはあの大きく重い図体ゆえに自らの運命も変えてしまったのかもしれません。
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革新と伝統

ピアノ技術者とピアノの所有者(弾く人)の間には、つくづく相性というものがあるように思います。

もちろん人間的なそれもあるけれど、最も大きいのはピアノの音に関する価値観やセンスの問題で、このあたりはあまり多くを説明して解決できるものでもなく、できれば自然にある程度一致できることが理想だと思います。
これまでにも素晴らしい技術、素晴らしい人柄の技術者さんとは数多く出会ってきましたが、今回ほど時間も無駄にすることなくしっくりくる方はなかったように思います。

以前も書いたことですが、この方は他県の方で、たまたまマロニエ君がお店のショールームを覗かせていただいた折、そこにあるピアノの弾き心地にいたく感銘を受けたことがご縁でした。

夏の終わりに保守点検をやってもらい、それいらいかつてない快調が続く我が家のピアノは、弾き心地と実際の音色の両方が好ましい方向で一致したはじめてのケースで、購入後10年余、ようやく好みのコンディションを得ることになりました。

強いていうと鍵盤がやや重いか…という点はあったものの、弾きこむうちに実際に軽くなっていったことは予想外の嬉しい変化でした。
マロニエ君の手許には、以前とてもお世話になった別の調律師さんからのプレゼントで、鍵盤のダウンウェイトを計る錘があるのですが、それで数値を確認してみると、保守点検直後は50g前後ぐらいだったものが、今回は中音域から次高音あたりの多くが48gほどになっていました。

というわけで、本当なら今年はこのままでよかったのですが、近くに住む知人がぜひその方にやってほしいということになり、せっかく遠方から来られるのだから、それなら我が家にも再度寄っていただこうという流れになりました。

さすがに前回のようなこんをつめた調整ではなかったものの、それなりのことをいろいろとしていただき、調律を含めるとなんだかんだでやはり丸一日に近い作業となりました。
今回はローラーの革の復元や整音を重点的にやっていただいたようです。
結果は、明瞭な基音の周辺にやわらかさというか、しなやかさみたいなものが加わって、より表現力豊かなピアノにまた一歩進化しました。
何ごとも、使う人と調整をする人との目的というか、ピントが合うかどうかは大事なことで、ここが二者の間でズレると思うようには行かないもの。

「このままコンサートもできますね」といっていただくほどに仕上がって嬉しいことなれど、そうなればなったで、さて弾くこちらのほうがそれに見合わぬ腕しか持ち合わせないのは悲しい現実で、技術者さんにもピアノにも申し訳ないところではありますが。

この技術者さんは口数の多い方ではないのですが、それでも興味深い話をあれこれと聞かせていただきました。
日本で現在最高と思われる方のお名前や、世界を股にかけた超有名調律師の名前などもぞくぞくと登場する中、はっきりそうは云われなかったけれど、調律の世界にも伝統芸的なやり方があるいっぽうで、新しい手法技法の流行みたいなものもあるようで、どれをどう用いるかも含めて技術者の資質やセンス、価値観によって左右されるもののように思いました。

スタインウェイ社のカリスマ的な技術者などは、有名なピアニストの録音にも多く関わっていて、ライナーノートの中にはその名が刻まれているものも少なくありません。
実というとマロニエ君はその人の仕上げた音は名声のわりにはあまり好きではないとかねがね思っていたところ、具体的なことは書かないでおきますが、やはり納得できるものがありましたし、その流儀を受け継いだ人達が日本人の中にも多くいて、テレビ収録されるような場にあるピアノも多く手がけていることは大いに納得することでした。

ピアノはローテクの塊だからといって、旧態依然とした技術に安穏とするだけでなしに、常に新しいことを模索し挑戦する姿勢というのは必要だと思います。
とはいうものの、やはり伝統的手法で仕上げられた音のほうに、断然好感を覚えるのは如何ともしがたく、これはマロニエ君の耳がそういう音を聴き込んできたからだといえばそうかもしれませんが、やはりこちらがピアノの王道だとマロニエ君は思います。

現代の新しいピアノは、昔ほど良くない素材を使って、新しいテクノロジーの下で作られている故にあのような独特な音がするのだろうと思っていましたが、それに加えて音作りをする技術者の分野にも新しい波が広がり、ますます伝統的な深くてたっぷりしたピアノとは違うものになっているように感じました。

新しいものも大事だけれど、やはり伝統的なものはしっかり受け継がれて欲しいものです。
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BARENBOIM PIANO

ダニエル・バレンボイムは南米出身の神童の誉れ高いピアニストで、早い時期から指揮活動との二足のわらじを実践する世界屈指の巨匠…であるにもかかわらず、マロニエ君はバレンボイムという人(とくにピアノ)が苦手なので、彼のCDもあまり持っていません。

最近はアルゲリッチとの共演でCDが何枚か出たので、これらは仕方なく買ったぐらい。

そのバレンボイムのアイデアで、あえて今、並行弦のピアノを作ったことはこれまでも何度か書いた記憶があります。クリス・メーネ(だったよく覚えてません)とかいうヨーロッパのピアノ技術者およびその工房と共同開発というかたちで誕生したようです。
スタインウェイDのボディその他をベースとしているものの、並行弦のポイントであるフレームなどは、スタインウェイとはまったくの別物です。

このピアノ、もともとバレンボイムの旗振りで立ち上がった製作プロジェクトだったのかもしれませんが、実際の研究・設計・製造はいうまでもなく技術者で、にもかかわらず鍵盤蓋の中央(ふつうYAMAHAとかSTEINWAY&SONSと金文字が入っているところ)には、堂々とBARENBOIMの文字が誇らしげに鎮座しているのは、そんなものかなぁ…と思ったものです。

それはともかく、そのピアノを使った初のCDが(マロニエ君の知る限りで)ブエノスアイレスで行われたアルゲリッチとのデュオコンサートのライブで、通常のスタインウェイDとの組み合わせによるバルトークの2台のピアノとパーカッションのためのソナタなどで、ふわんとした響きの余韻などが絡まって、これはなかなかおもしろいものでした。

そしてこのたび、ついにソロによる『DANIEL BARENBOIM ON MY NEW PIANO』というアルバムがグラモフォンから発売になりました。冒頭に書いたように彼のピアノは苦手だけど、このピアノを音を聴くためには買うしかないわけで、買いました。

曲目はスカルラッティの3つのソナタ、ベートーヴェンの自作の主題による32の変奏曲、ショパンのバラード第1番、ワーグナーの聖杯への厳かな行進、リストの葬送とメフィスト・ワルツという、いわばバロックからロマン派までいろいろ弾いてみましたという感じ。

その感想を書くのは非常に難しい。
まずやはり、バレンボイムのピアノが苦手というのが先に立ってしまい、純粋にピアノの音を楽しむことより演奏そのものが気になりました。印象は昔と少しも変わらないもので、人間は弾く方も聴く方も変わらないものだと痛感。
マロニエ君の耳には、音や音色に配慮というものがなく、手当たり次第ぞんざいに弾くという感じ。

たしかに並行弦ならではと思える、古典的な響きはあるけれど、粗野に感じてしまう時もあるのは事実で、これが楽器の問題なのか、ピアニスト故のことなのか、よくはわからりません。

並行弦のピアノでも新造品なので、楽器そのものが骨董品という感じがないのはさすがで、この点ハンディなしにこのシステムの特色を感じることができるという点では、なるほど画期的なことかもしれません。

ただし、はっきり言ってしまうと総論としてマロニエ君はどうしても美しいとは思えませんでした。
たまたま見たピアノ技術者のブログでは、「響きが非常にクリアー(略)曲がすーっと耳に入ってきました。」とあり、技術者の耳にはそんなふうに聴こえるらしいですが、やはりプロフェッショナルの耳と素人の音楽好きとでは聴いているポイントが違うのでしょう。

マロニエ君の耳には、音のひとつひとつがポーンと鳴っているのはわかっても、それが曲として流れたときに、全体がクリアーに聴こえる──つまりなめらかな音の連なりとか澄んだハーモニーになっているようには聞こえませんでした。
とくに和音や激しいパッセージになった時などには、ワンワンなって響きが収束しきれていない気がするし、あまり耳をそばだてずに普通に聴いたときに洗練されたものを聴いたという後味が残らず、本来クリアーなはずなのに、全体としては濁った感じの印象が残りました。

ただ云えることは、これをもし内田光子やアンドラーシュ・シフに弾かせたなら、まったく違った面が出てくるだろうし、そういう巧緻なピアニズムで聴かせる人の演奏でぜひ聴いてみたいというのが正直なところです。
しかし、このピアノの名前がBARENBOIMである以上、他のピアニストが弾くチャンスがあるのかどうかわかりませんね。
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軽すぎません?

かねてより基本的なことで疑問に思っていることがあります。
それはグランドピアノとアップライトでは、なぜああもキーの重さが違うのかということ。

マロニエ君がここでいいたいのは、巷間言われる、アクションの構造からくるタッチ感の違いではなく、ましてグランドにあるアフタータッチ云々とか連打性能のことではありません。

そんな根本の難しい話ではなく、もっと簡単な次元のこと。
ごく単純に言ってアップライトの(といっても数多くありますが、外国産のものはあまり知らないので、とりあえず国産有名メーカーの)キーの軽さというのは、あれちょっと異常ではないかと思うのです。
マロニエ君はべつに重い鍵盤を好むわけではなく、ごく普通に快適に弾けるための、程よい感触があることが望ましいと思っているだけで、少なくともこの点に関して特種な要求はもっていないつもりです。

ネットの相談コーナーなどを見ていても、自宅のアップライトで練習して先生のお宅のグランドで弾くと、キーが重くて、あまりの違いからぜんぜん弾けなくなるというような書き込みが見られます。
これ、マロニエ君も同感なのです。

ごくたまに場所の関係でアップライトに触ることがあるのですが、音云々はともかく、手をおいただけでキーが下がりそうなほどペラペラに軽いのは、なにか大事なものが内部で外れてるんじゃないかと思うほどで、やたら弾きにくく、その盛大な違和感に慌てるばかり。

あまりの違いから変なところでミスをしたり、普段とはまったくちがうものに馴染むためのへんな努力をしなくてはならず、これではとてもではないけれど練習になりません。
練習になるかどうかもあるけれど、あまりにペタペタスコーンのタッチでは、弾いて楽しくもないのです。

だいたいどのアップライトも似たりよったりで、ほとんど電子ピアノ並みに軽いキーになっているのは、市場の要求からそうなっているのか、あるいは腰のないペタペタなタッチじゃやっぱりダメだと思わせて、グランドへの買い替えに結びつけようとしているのか、ついあれこれ裏事情などを想像してしまいます。

誤解なきよう言っておけば、マロニエ君はむろんグランドのほうが好きですが、うるさい御方がいうほどアップライトがダメだとも思いません。
音など、ものによっては変なペラペラのグランドより深いものがあったり、低音なども堂々としたところがあったりする場合もあり、国内産でもいいアップライトはダメなグランドを凌ぐ場合もゼロではないとも思います。

これで、コンクールを受けたり音大受験したりということも別に不可能なことではないと思うのですが、ただそのためにはキーの重さはグランドを弾いた時にあまり違和感のない程度のものである必要はあると思うわけです。

たしかにグランドだから可能な連打とか幅広い表現力もあるし、ウナコルダ(左ペダル)の練習はできなかったりしますが、それよりなにより、キーにある一定の重さや抵抗感がなくては、日々の練習で指の筋力は鍛えられません。
ペタペタのキーばかり弾いてきた指では、グランドで太い豊かな響きを作り出すことは、すぐには不可能でしょう。

現代はグランドでも軽く軽くという傾向みたいで、多くの初級者は電子ピアノだったりするのでしょうけど、そのせいなのか、若くして出てくるピアニストたちはみんな素晴らしくうまいけれど、タッチの逞しさ、ひいては音楽の力強さという点ではずいぶん頼りない感じがします。
ピアノを習いたての時期にペラペラタッチですごしてしまうと、あとでどれだけ素晴らしいグランドに触れても、幼年期の経験というものは潜在的に引きずるような気がします。
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直感

以前このブログに、反田恭平氏がイタリアでラフマニノフのピアノ協奏曲を録音する様子がTV『情熱大陸』で放送された時のことを書きました。

それからおよそひと月、このCDが商品となり店頭に並ぶ季節になりました。
今どき国内盤で税込み3,240円/枚というのは高いけれど、このCDだけは購入しようと心に決めていました。

なにしろ準備されたピッカピカのスタインウェイの音がきれいすぎると気に入らず、ホールの片隅に置かれてた古びたピアノ(こちらもスタインウェイ)を弾いてみて、こっちのほうがいい、こっちにしますといって、その古いピアノで弾いたCDですから、これはもうぜひ往年のピアノの豊かな音を聴けるだろうと期待していました。

反田氏は、やはりCD店も現在イチオシの日本人ピアニストのようで、この新譜のことが大書され、ヘッドホンでの試聴も可能になっています。
で、買うつもりだけれども、せっかく聴けるのならととりあえず聴いてみようと思ってヘッドホンを当てて再生ボタンを押すと、この協奏曲の出だしで特徴的な低音のFの音がよく鳴っていないことに、あれ?と思いました。そして、同じ音が何度も繰り返されるうちに、これはおそらくピアノが鳴っていないと思われて愕然としました。

このイントロ部分が終わってハ短調の第一主題に入っても、ピアノの音にはパワーがなく、しけったような音。
「これはちょっと…」と思いながらしばらく聴き続けましたが、ピアノが問題なのは自分の印象としては確定的となり、これは旧き佳き時代のピアノというよりは、単に古くて鳴らなくなったピアノという感じでした。
おそらくホールでの第一線を退いたため、弦やハンマーも交換されることなく、つまり手入れされずに放置されていたピアノなのか、音に潤いもないし、伸びも色艶もありません。
食べごろを過ぎた、しぼんだ果物みたい。

ではこのピアノを選んだことは失敗だったのか?
それはなんともいえませんが、少なくとも今どきの、うわべのキラキラ感ばかりが前に出るピアノで弾くよりは、このくたびれたピアノで弾いたぶん、反田氏はピアノ側の華やかさに一切頼ることなく正味の実力を出したことにもなり、個人的にはこちらのほうがよかったと思います。

CDケースの裏側を見てみると、後半のパガニーニのラプソディは昨年日本でライブ録音されたもののようなので、そっちに進めてみると、今度はやたらエッジの立ったジンジンいう音で、これは例のホロヴィッツのピアノだろうと直感しました。

このピアノもだいぶ聴いたので今は新鮮味はなく、こうなると購入意欲はガクンと半減し、しばらく両耳をヘッドホンに突っ込んだまま、買うか止めるか思案にふけりました。演奏自体もこれもまた別の番組で見たように、あまり反田氏の直感が炸裂するようなものではなく、どちらかというと安全運転の印象があり、ピアノ、演奏ともに、ちょっと期待したほどじゃないな…という気がしました。

特に協奏曲は、人の意見が入りすぎた演奏特有のつまらなさがあり、せっかくの才能が閉じ込められた感じがするのは、ピアノに限らず偉大な教師といわれる人の生徒にはときどき見られること。
音楽の世界では、若いころに開花する才能は珍しくないけれど、それをどう育てるかは甚だ難しいことだと思います。いまさら一般の音大生のようにただレッスンを積んで平凡さが入り過ぎることは最も危険と思われるので、あるていど自由にさせて、たまに信頼に足る人から全体的なアドバイスを受けるぐらいがいいように思います。
ピアノ選びは直感だったけれど、演奏は直感が足りなかった感じでした。

このCDでは、第2協奏曲ではイタリアのRAI国立交響楽団というのが共演していましたが、なんとなく二流という感じがして、それにくらべるとパガニーニラプソディの相手である東京フィルのほうが、まだずっと上手い気がしました。

それと、録音がまったく好みじゃなく、平坦で広がりも立体感もない、固くて詰まったような音。
これはCDにとって極めて大切なことで、ここではじめてレーベルはどこかと見てみるとDENON。そういえばリストのアルバムも同じで、その録音の酷さには心底呆れていたところだったので、これは社風なの?と思いました。

最近はマイナーレーベルでも、わっ!と思うほど見事な録音がたくさんあるのに、あまりにも音楽性のない音には残念のため息が出るばかりでした。その点では後発のレーベルのほうが、白紙からのスタートで美しく収録しているものがたくさんあるし、逆に伝統あるレーベルのほうに実は変な何かが受け継がれていたりするので感覚が硬直しているのかもしれません。
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薄い塗装

前回書ききれなかったこと。
出演した女性ピアニストによって、ホロヴィッツのピアノでトロイメライが弾かれる間、カメラがサイドからじわじわとスローで左に寄りましたが、そのときボディサイドに反射する黒い塗装の中に木目のようなものが見えたような気がしました。

ニューヨークスタインウェイは通常は黒のヘアライン仕上げ(ステンレスとかによくある一定方向に研磨された光沢のない仕上がり)という塗装で、これは通常の塗装よりも薄く仕上げてあると聞いていますが、この100年前のピアノでは、さらに塗装の質や厚みが違っているのではないか…というような印象をもちました。

テレビ画面から受けた印象ではきわめて塗装が薄い感じで、楽器としてはもしかするとより理想に近いものがあるのかもしれないという印象でした。
率直に言うと、工作で木工品にサーッと塗装したぐらいで、けっして綺麗な仕上げではないし、むしろ粗末な感じさえ与えますが、そうなっているとすればピアノとして理想を追求する上での理由があるようにも解釈できるのです。

ニューヨークスタインウェイのきさくで軽やかな鳴りを成立させる要素の一つに、この薄い塗装があるのかもしれず、とりわけこのホロヴィッツのピアノでは、とりわけ独特なものを感じました。そういえば思い出したけれど、ゼルキンのカーネギーホールライブのレコードジャケットも、これと同様の、塗装としてはみすぼらしい炭のかたまりみたいな塗装でした。

通常のハンブルクやその他大勢の艶出し塗装を、寒さや外敵から身を守ってくれる冬服に例えると、ニューヨークは明らかに春物?
薄いコットンのシャツにチノパンを履いているぐらいな感じで、これは響きに大いに関係するだろうと思います。

そのぶん温湿度変化にも敏感になるでしょうし、油断をするとすぐに風邪をひいたりと体調管理が難しくなるだろうから、一長一短あるかもしれませんが、究極の音を求めるなら極めて大きな要素という気がします。

もしマロニエ君が好き放題に道楽のできるような富豪だったら、好みのピアノだけを置いた小さなホールを作りたいとかなんとか、いろんな空想をして遊んでみますが、今なら、最も気に入った時代のスタインウェイを購入し、いったん塗装を全部落としてしまい、最低限の処理だけで鳴らしてみるかもしれません。

いわばTシャツと短パン、靴下もはかないぐらいの軽装にすると、はたしてどんな響きになるのか。

そういえば、つい先だってもあるお宅におじゃまして、そこのシュタイングレーバーをちょっとだけ弾かせていただきましたが、これがサイズを無視したような鳴りで感心したばかりでした。

もともとのピアノがいいのはもちろんですが、さらにこのピアノの塗装が、下地の木目が地模様のように見える黒の塗装で、これもきっと薄いのだろうと思いました。
漆塗りのような分厚い塗装というのは、いかにもリッチな美しさがあるし手入れが楽。さらにはボディをさまざまな環境の変化や傷から守るというメリットがあるからか、どこれもこれも樹脂コートのようなピカピカ塗装ですが、純粋に楽器としては好ましくない厚着のような気がします。

ピアノ全体を弦楽器のニスのような、薄い最低限の塗装で覆ったら、基礎体力がぐっと向上すると思います。
同時に、戦前のスタインウェイなどは、そのあたりも知り尽くしていて、各所の天然素材から仕上げまで最良の楽器を作っていたのだろうということが偲ばれます。

そういう観点からいうと、少なくとも通年管理の行き届いたピアノ庫をもつ音楽専用ホールでは、木肌に薄い塗装をしただけのまさにコンサート仕様のピアノを設置したらどうかと思いました。
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「簡単に弾けそう」

テレビの某音楽番組で、「ピアノの巨匠と…」というようなタイトルで、男女二人の日本人ピアニストがスタジオに招かれての放送回がありました。

女性は日本国内限定で有名な中年の方、男性はよく知らない若い人でした。
ピアノがメインで、ピアニスト二人が登場したからには、それなりのなにかテーマをもった企画と思いきや、なんだったのかよくわからない漠然とした内容に、思わず「なにこれ?」と思ってしまいました。

司会を担当するヴァイオリニストが、それぞれに「最も影響を受けたピアニストはだれですか?」というような平凡な質問をしたところ、その答えは平凡きわまりないもので、女性ピアニストは「ルビンシュタイン」で男性は「ミケランジェリ」という、定番すぎる答えにも唖然。

番組企画のシナリオなのか、本心からそうなのかわかりませんが、マロニエ君としてははっきりいってズッコケました。さらにその後に出てきたもうひとつの名前がホロヴィッツで、はいはいというだけ。
もし、おなじ質問をエマールや内田光子にしたら、へええというような名前と、一聴に値する理由説明があることでしょう。

で、スタジオの女性ピアニスト曰く、昔のLPを持ってきたといってそれをかざしながら「私はルビンシュタインの弾くポロネーズを、寝る前に部屋を真っ暗にして、ステレオで、大音量でかけて毎晩寝てた」といい、思わず「ホントに?」と思いました。
いくつの頃の話か知らないけれど、毎晩?寝る時間に大音量?針は自分で上る方式だったの?ステレオは朝まで電源入りっぱなしだったの?などといくらでもつっこみを入れたくなります。

もちろんルビンシュタインもミケランジェリも大変なピアノの巨匠であることに異論はないけれど、いやしくもピアニストを生業として、この世界に長年首を突っ込んでやっている以上、もうすこし専門的な内容が欲しかったのです。
より正確にいうなら、ルビンシュタインでもミケランジェリでもいいのだけれど、なるほどと納得させられるようなピアニストならではの理由や根拠があっていい気がして、ただのアマチュアのような言いっぷりに驚いたのかもしれません。

そのうち、女性ピアニストが超有名曲をへんな調子で弾き、なんでその曲をそのタイミングで弾くのかもわからなかったし、またちょっとおしゃべりになり、続いて男性ピアニストがラヴェルを彈かれました(センスの良い演奏だとは思いました)。

このあと、スタジオセットの中に置かれたピアノ(ハンブルクスタインウェイD)が画面上は何の前触れもなくすり替えられ、一見したところさっきのに比べてずいぶんくたびれた感じのニューヨークのDに変わっていました。

ホロヴィッツが使ったという有名な楽器で、ああそのためにホロヴィッツの名前を出して後半に繋いだのかという見え見えの流れです。
二人のピアニストも嬉しそうに触ってみましたが、印象はもっぱらキーが軽いということばかりで、音色や響きに関するコメントは何ひとつありませんでした。
それどころか、女性のほうは、このピアノなら「なんかパリパリ弾くのすごい簡単に弾けそう」「かーるいかるい、どんな難しいのもフルフルフルって行けそう」「車で言ったら改造車ですよね」と、ホロヴィッツの演奏には楽器のほうにも特種な秘密があった…とも取れるコメントには少々驚きました。

最後に、ホロヴィッツがアンコールでよく弾いたシューマンのトロイメライを、女性ピアニストのほうが弾きました。お顔は恍惚の表情でしたが、ただ音符を弾いただけでした。
まさかこのピアノも、後年日本に連れて行かれてこんな使われ方をするとは思ってもみなかったのではと思うと、なんとなくその年をとった枯れた感じのシャープな姿の中に、ひとひらの哀れを感じてしまいました。
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標識後進国

このところ高齢者が引き起こす交通事故がちょっとした社会問題になっています。
たしかに、アクセルとブレーキを間違えたり、高速道路を逆走したりして、それによる死傷者もでているのですからなんとか解決されなければならないことだということに異論の余地はありません。

ただ、これを契機として高齢者から運転免許証をどんどん取り上げるような単純な解決法に傾くことは、個人的にあまり好ましくないと思っています。テレビで言っていましたが、さっそくその対策案として、車両の方にもいろいろなアイデアが盛り込めるのではないかということで、中には一定以上の力(時間?)でアクセルを踏み込むと、機械が誤操作と判断してブレーキを作動させるなど、今日の技術をもってすれば解決のための方策はいかようにも立てられると思います。

それでなくとも、人は間違いを犯すものなので、これだけテクノロジーが発達したなら、それを前提とした安全機構を盛り込んだ製品づくりをする必要があり、高齢者はその間違いの頻度が若い頃より増えるというだけです。

現代は高齢者といえども人頼りでなく、独立した生活形態が求められ、孤独に耐えながら懸命に生きておられる方が多い中、安全という錦の御旗の下、まだじゅうぶん運転可能な方からまで運転免許証まで取り上げたら、ますます日常の不便と苦しみは倍加するはずです。
外に出なくなれば、心身共にリフレッシュできる機会も減り、坂道を転げるように衰えてしまうでしょう。

折しも自動運転などの技術も、実用化へ向けてほんのそこまで来ているのですから、ただ禁止ということではない温かな処理を望みます。

いっぽう、逆走などに関しては、交通環境の方にも多少は問題があるのではと思えなくもない面があることは、見過ごすことはできません。

たとえばマロニエ君も日ごろ運転していても感じるのは、道路標識のわかりにくさが挙げられます。
対面通行ではない幹線道路などには間に中央分離帯がありますが、ちょっと変則的なかたちの交差点などになると、右折しながら、おもわずどちらに行くべきか一瞬迷うことがあり、こういうことも逆走の原因になるのではと感じることもあります。

逆方向には進入禁止などの標識をもっとわかりやすく警告表示すべきであるのに、実際にはそれらしきものはほとんど何もなく、探せば言い訳程度の小さな標識が隅にポンと一つおかれているだけという状況には驚くばかり。
起きてしまった事故には大騒ぎですが、未然に防ぐ策はとても万全とは言いかねるのが現状です。
さらにひどいのは、都市高速などではジャンクションでルートが枝分かれしますが、よほど走り慣れている場合を除き、ここで望む方向へ自信をもって走っていくことはかなり難しく、これはひとえに標識の不備が挙げられます。

むろん標識はあることはあるものの、緑地に小さな白文字で複数の地名がごちゃごちゃ書いてあるのみで、まず字が小さい。
そこへ制限速度は60km/hまたは80km/hで、実際それなりの速度が出ているものだから、アッと気がついた時には標識を確認する間もなく通りすぎてしまいます。
次に標識が出るのは、分岐する直前で、こうなると直接の安全へ意識が行ってしまうのため標識をきちんと確認する暇がありません。サブリミナルではあるまいし、一瞬で判断することが求められるのは危険この上ないし、事故を誘発させると思います。

実際マロニエ君の友人も、同じ場所で何度も違う方向に行ってしまい、次のランプでしぶしぶ下に降りたというような話を聞かされ、みんなが同じような印象を持っていることは間違いないようです。
なぜもう少し、デカデカと、わかりやすい標識を繰り返して掲げないのかと、これは本当に不思議です。

ヨーロッパでドライブ旅行した経験のある人に聞くと、たとえばドイツなどの標識は格段の違いがあるそうで、見やすくて明快な標識が必要な場所にバシッと立てられいて、日本語でもない見ず知らずの外国であるというハンディがあるにもかかわらず、自信を持って運転できたというのですから、この点は日本は道路標識後進国と言わざるをえません。

たとえ一般道でも、地図やカーナビ無しで、標識のみを頼りに目的地に行くことは、日本じゃほぼ不可能だと思います。

話は戻りますが、高速や有料道路の出口には、もっと派手派手しく進入禁止の警告を出すべきで、それがないためにヒヤッとした経験のある人は若い人でも結構いるだろうと思います。
とにかくこの点、日本の道路は標識誘導において甚だ不親切で、それを身体能力の劣る高齢者のせいばかりにするのは大きな疑問を感じます。
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切実感がない

ラトヴィア生まれのピアニスト、マリア・レットベリによるスクリャービン・ピアノ独奏曲全集を聴いてみました。

スクリャービンのピアノ曲のCDはたくさんあるものの、その多くが曲集か、ソナタ、練習曲、前奏曲の全集といった感じで、独奏曲全集というのは知る限りでは数少なく、同一のピアニストで一気網羅的に聴いてみるべく購入してみました。

通常マロニエ君はCDを聴くときは、何度も繰り返し聞くのが自分のスタイルですが、今回はとりあえず一度さっと流す感じで8枚を聴いてみました。耳に馴染んだ曲が多くを占め、これといって新鮮味はない代わりに、意外な事も浮かび上がりました。

…なんて書くほど大げさなことでもないけれど、ひとことで言うとスクリャービンのピアノ曲をこれだけ立て続けに聴くのはマロニエ君にはいささか演奏が退屈で、ひとことで言うと「飽きてしまった」というのが偽らざるところ。

レットベリは若い女性ピアニストですが、技巧も十分でどれもよく仕上がった演奏ではあるけれど、現代的に綺麗にまとめられ、それ以上の印象が残りません。
CD店のユーザーレビューでは、3人揃って五つ星という最高評価ですが、マロニエ君はそこまでかなぁ…というのが正直なところ。

エチュードなどはリヒテルの名演が耳にこびりついて離れないし、ソナタではウゴルスキのデモーニッシュな表現も忘れがたいものがあります。そもそもスクリャービンのピアノ曲というのは、仄暗い官能の奔流みたいなものが中心にありますが、レットベリの演奏では作品の闇の部分とか精神的な比重が少なく感じられ、現代の明るい場所で、新しい楽譜を置いて、普通に弾いている感じが目に浮かんでしまいます。
休憩時間には、かばんの中のスマホを取り出して触っているような感じ。

逃げ場のないような暗さも、死の淵に立たされた絶望感ももの足りないし、スクリャービンらしい切実感みたいなものがどうにも迫ってこない。

最近の演奏では、ボリス・ベクテレフのものが最も好ましく思い出され、内的な襞にも迫るようなところがあって、やはりベテランの表現力はさすがだなあとも納得させられます。

ただ、こういう印象はこのCDのみならず、例えばショパンコンクールなどを聴いても感じるところで、ピアニストが弾きたいから、あるいは弾かずにはいられないから弾くのではなく、受験勉強のように準備した演奏特有のしらけ感があります。一見とても良く弾きこなされているし、よく弾けていると思える瞬間も多々あるけれど、そういう演奏を、現代の新しいパァーン鳴るピアノで弾いたというだけで、あとに引きずるような何かはありません。
読書で言う読後感のようなものが残らない。

演奏が終わったら、聞いている側も同時に終わって、もう次のことを考えている状態。

これは生の演奏でもCDでもまったく同じで、いわば行間から、演奏者の喜怒哀楽とか表現したい本音が聴こえてくるようなものでなくては、結局人の心をつかむことはできないと思います。
これはオーケストラでも同様です。
指揮者の合理的な計算が見えて、全体の構成、緻密な細部、見事なアンサンブル、意図され仕組まれた聴かせどころなど、ぜんぶ自前に準備されて粛々とそれを本番で実行しているだけで、これじゃあどんなに見事な演奏でも酔えないし、興奮はできません。

楽譜至上主義で、画一的な演奏形態が蔓延したものだから、演奏から精気が奪われ、音楽が鳴り響かず、魅力が一気に減退していったのかもしれないし、情報過多のせいかもしれません。
どんなに上手い人でも、気持ちの入っていない、精度は高いけれど大量生産的演奏。

演奏者がぎりぎりの領域に入り込んで、一か八かの勝負をかけたり、燃え尽きるまで炎に焼かれたりするような、そんな危なさがないと音楽は衰退するばかりでしょう。

話が脇道に逸れましたが、それほどマリア・レットベリの演奏が無味乾燥だと言うつもりではなかったのですが、でもまあどちらかというとそっち寄りの演奏だとは思いました。
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これも権力

いま話題騒然のお隣の国の大統領の親友やとりまき達が、権力を私的に乱用したスキャンダルが連日ニュースやワイドショーを賑わせていますが、ふとピアノの業界にも権力の乱用はあることを思い出しました。

業界のある方から聞いたおかしな話です。

ひょんなことからピアノ教師の話になり、某地域の重鎮といわれるような有名な先生がおられて、その先生のピアノの修理(具体的な内容は控えます)を依頼されたときのこと。
その修理をするには、パーツの代金と手間賃がこれこれしかじかという事を伝えると、なんとその重鎮の先生は、あからまさに豆鉄砲をくったような変な表情をされたというのです。

それはこうです。事前に修理代を告げられたということは、この作業がサービスではないということを意味したわけで、それがこの先生の甚だ身勝手なプライドが傷つけられたというのですから、もう笑うに笑えない話です。

当人にしてみれば、ちょっとばかり名の知れた教師であるから、自分と懇意にすることはいろいろメリットもある筈ということなのか、その先生所有のピアノに関することは無料サービスが当然のはず…という感覚になっているのだと思われます。

この手の先生たちにとって良い調律師さんというのは、調律の腕は普通でいいから、それよりは先生サイドに都合のいいように何かと便宜を図ってくれて、腰が低く、まるで秘書か召使いのように気を利かせて動きまわってくれる、コマネズミのような人なんでしょう。
調律を口実に、プラスしてその他の雑用をどれだけ忖度して、しかも「タダで提供」してくれるかがポイント。

コンサートや発表会ともなると、楽器店の営業の人などは当然のように動員され、あらゆる雑用、果てはお客さんの整理誘導から駐車場の係り、どうかすると司会などまでやらされている調律師さんもあるわけで、それはつまり、調律以外はお金の取れないお手伝いに一日を費やすことになるわけで、これほど相手をバカにした話もありません。

そして上記のように技術者として規定の料金を請求することさえまかりならず、それを自ら察しない調律師には以降お声はかからなくなるという理不尽かつばかばかしい世界。
その方はかなりの腕を持った調律師さんなのですが、そんなことはその先生にしてみればどうでもいいことで、もっぱら自分を特別待遇にしなかったことが何にもまして許せないのでしょう。

調律師でも、ピアニストでも、あるいは教師でも、プロなのであれば、その本分における能力とか結果によって評価されるのが本来であるのに、これでは力関係に付け込んだ「たかりの構造」が体質化している言わざるをえません。
程度の差こそあれ、上下左右、まわりの先生がみなやっているから、自分もそういうもんだと思い込んでいる先生もおられるとは思いますが、少しは自分の頭でものを考え、良識に基づいて判断してほしいものです。
まさにゴミみたいな権力の濫用で、見るたび聞くたびとても嫌な気分に襲われます。

現代では、最もコストが高いとされるのが人件費です。
それを、先生やピアニストを名乗るだけで、事実上お金を出すのは年に数回の調律代ぐらい。生徒や知人の紹介を匂わせて人をタダでこき使うのが常態化するのは、大手スーパーなどがメーカーの社員を出向させ、店頭で販売行為などをさせて自前の店員数を減らすような悪辣な行為だということを肝に銘じるべきでしょう。

企業レベルまでいけば、発覚すれば法的処罰や行政指導の対象にもなりますが、たかだかピアノの先生ではそんな社会的制裁を受けることもないでしょうから、ある意味この業界特有の、治る見込みの無い慢性病みたいなものかもしれません。
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目覚めの変化

先日、知人でニューヨークスタインウェイをお持ちの方のお宅へ、ピアノ好きの方と連れ立って遊びに行きました。

ここのピアノに触らせていただくのは久ぶりですが、その太い鳴りや味わいに感心するばかり。
音にも色気みたいなものが加わって、音楽に理解あるオーナーのもとにあるピアノは、ふれるたびに色艶が増していくようで、逆の場合は楽器が少しずつ荒れていく感じがします。
そういう意味では楽器を活かすも殺すも、やはりオーナー次第ということになるようです。

日々大切にするのも、良い設置環境を作って維持するのも、優秀な技術者を呼ぶのも、すべてはオーナーの意志で決まることですから、やはりそこは大きいというか、すべてです。

よく鳴るニューヨークには、独特の生命感があり楽器が直に語りかけてくれるような温かさを感じます。
このピアノ、以前であれが30分も弾いていると、ボディの木や金属が振動に馴れるのか、明らかに鳴ってきて驚きと興奮を覚えたものですが、今回はその変化に至る時間が短縮され、ものの15分もすると早くも鳴り方が変わってきました。
もちろん、より朗々と鳴ってくるわけで、この反応そのものがすごいと思いました。
まるで寝起きの身体が、だんだんと本来の活気を帯び、血が巡り、体温が上がってくるようです。

ハンブルクでここまで明確に変わるというのはあまり知らないので、アメリカ製とドイツ製の作りの違いや使われる材料の違いによるものかもしれませんが、確かなことは素人にはわかりません。
ただ一点わかる違いは塗装。

1980年代ぐらいまでのハンブルクは黒の艶消し塗装が標準でしたが、それ以降はすべて艶出し塗装となりました。
この艶出し塗装というのがかなり分厚い塗装で、いつだったかエッジ部分が何かにぶつかって塗装が欠けているピアノを見たことがありますが、その塗膜のぶ厚さに驚いた記憶があります。
まるで固いプラスチックでピアノ全体がコーティングされているようで、これでは本来の響きを大いに阻害するだろうと思ったものです。

その点、艶消しのほうが塗装がまだ柔らかだったような印象があるし、さらにニューヨークのそれはむしろ薄さにもこだわっていると聞きます。表面はヘアライン仕上げという繊細かつ節度ある半光沢をもつ処理で、この塗装は見た目は繊細で美しいけれど、傷がつきやすく、部分修復がしにくいという扱いづらさがあり、実際アメリカのホールなどでは、全身キズキズの斬られの与三郎みたいなピアノがめずらしくありません。

でも、それさえ気にしなければ、そのぶんボディの響きなどをよく伝える特性があるようで、好ましい個体では音の伸びがよく、明るく軽やかなトーンが湧き出るようです。

それと今回も実感したことは、すでに何度も書いたことですが、スタインウェイは弾いている本人より、離れて聴いてみるとまるで別のピアノのように音がたっぷりとした美しさで耳に届くのが圧倒的で、やっぱりまたそこに感嘆させられました。

その点、日本のピアノでは、離れてもとくに変化しないならいいほうで、むしろ高級仕様と謳われるモデルの中には、弾いているぶんには尤もらしく取り澄ましたような音が出ているのに、ちょっと距離を置くと、えっ?というほど安っぽい下品な音であることにびっくりすることが…よくあります。

これなどは、まさに弾いている本人だけ気持ちよければいい系のピアノで、スタインウェイとは真逆のピアノだといえるでしょう。ならば自宅で楽しむぶんにはこちらのほうが向いているという理屈も成り立ちそうですが、やはり楽器たるものそれではなにか大事なものが間違っている気がします。
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苦難の道

青柳いづみこ氏の新著、『ショパン・コンクール 最高峰の舞台を読み解く』を読みました。

想像以上に厳しいコンクールの世界、しかるにその覇者といえる人達のこれといってさほどの魅力もない演奏を聴くと、なんだか複雑な気分になるというか、要するにコンクールというのは、つまるところなにかの戦いの場であって、真の音楽家(いろんな意味があるけれど)を発見発掘する場ではないということがはっきりわかりました。

それでも、よほど桁違いの天才とかでない限り、コンクールという手段をもって世の中にデビューせざるを得ない若いピアニストたちが気の毒でもあるし、こういうことを書いたらいけないのかもしれないけれど、ピアノを弾くことを職業になんてするものじゃないということを、嫌でも悟らされる一冊でした。

青柳さんが直接そういうことを書いておられるわけではもちろんないけれど、読んでいてそういうことを最も強く感じたというわけです。
先進国では、昔に比べてピアニストを志す若者が激減していると言われて久しいですが、これは端的に言って、市場原理の前では当然のことなのだろうと思います。

現代は教育システムが進歩充実することで、技術的訓練は科学的かつ合理化が進み「弾ける」レベルの偏差値は上がっているようですが、同時に眩しいようなオーラを放つようなスター級のピアニストというのは存在しなくなりました。
平均が上がって、逆に超弩級の人がいなくなったということですね。

昔はコンクールで「ツーリスト」といわれたらしい、まるきりコンクールのレベルに達していない人が観光客気分(実際そうかどうかは別として)で出場するような「弾けていない」人がいたと聞きますが、そういう手合はほとんどなく(というか事前審査で紛れ込む余地が無いようになっている)、とりわけショパンやチャイコフスキーのような国際的な大舞台でのコンクールになると、その実力は大半が拮抗しているとありました。

解釈の問題、審査員の主観、コンクールの傾向など、本人にもわからないような僅かな差によって、次のラウンドに進めたり進めなかったり、コンクール毎に顔ぶれは入れ替わる由で、ほとんど理不尽に近い世界だとも感じます。

あるていど予測していたことではあったけれど、こうしてあちこちのコンクールに足を運び取材した人が、著書に記述されているのをみると、なんだかもう単純にウンザリしてしまいました。

何事においてもそうだけれども、時の経過とレヴェルアップによって、創設時の目的や精神が置き去りにされたというか、かけ離れた現状となってしまうのは、いたしかたのないことなのかもしれません。

ショパンコンクールに関しても、申し込みをしてコンクールを受けるには、まず書類とDVD審査、春にワルシャワ行われる予備予選、秋の本選は第一次予選、第二次予選、第三次予選、グランドファイナルと、これだけを見ても6つの厳しい選考をくぐり抜けていかなくてはならないようで、それがまた想像以上の難関であることが記述から伝わります。

しかも、DVD審査といっても、ただホームビデオかなにかで撮ったものでいいのかと思いきや、その映像・音質のクオリティによって当落が大きく左右されるというので、中にはそのためにホールを借り切り、専門家を呼んで収録してもらう人もいるとかで、その費用も自費で賄わなくてはならないとは、出だしからもうぐったり疲れてしまいます。
幼少期から練習に明け暮れ、音大を経て、世界的なコンクールに出場しようかとなるところまで到達するのさえ並大抵のことではないのに、そのための準備、練習、無数のレッスン、費用、そしてコンクールに出るためのDVD作りひとつにもこれだけの労力が必要とは、考えただけでも頭がクラクラしそうでした。

さらにコンテスタント(コンクールを受ける人)や教師は、常に新しい解釈や傾向を採り入れながら、受かるための訓練を続けていくだけでなく、海外へあちこち遠征し、審査員への顔つなぎや自分の演奏アピールなどまでやっているというのですから、「なにそれ?」というのが率直なところです。

じっさいのステージアーティストになる人達は、若い頃から、こういう世俗的な努力も一切怠ることなく、それでいて演奏の腕も磨き、レパートリーも増やし、コンクールに出て、それでも大半は努力に見合った結果は得られないほうが多いのだから、やるせないものだと思います。

「どんな世界でも五十歩百歩」という人もあるかもしれませんし、実際そうかもしれません。
しかし、マロニエ君の夢か妄想かもしれないけれど、楽器を弾く人はもう少しきちんと才能を見極められるチャンスがあって、その実力で正当に評価される世の中であって欲しいと、やはり思ってしまいます。
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逆に正確?

マロニエ君の自室は決して広い部屋ではありません。
ここは、寝る、本を読む、着替えをする、音楽を聴きながらパソコンを見るだけの場所なので、それらに必要なもので溢れており、ときどき思い出したように反省して整理しますが、いつの間にか同じような状態に戻っています。

自分だけの空間であるから、物の配置もいい加減で、成り行きで現在のような形態なっており、椅子から立って、部屋を出る短い通路(というかすき間)も、他人が通ったら物を引っ掛けそうな状況になっています。

昨日そこを通過するとき、左足の小指を、置いてある非常用の椅子のキャスターにしたたかに打ち付け、幸い怪我はなかったけれど、一瞬めまいがするほどの痛みと同時にバランスを崩してあやうく周辺に積み上げられたCDなどともろとも転倒するところでしたが、ぎりぎりのところで壁に指をささえ、かろうじて踏みとどまることができました。

ジンジンと疼く足の指をさすりながら、そろそろ少し物を片付けないと、思わぬ大けがをする危険があるなぁ…などと思いつつ、ともかく無事だったこともあり、そんな危機感もすっかり消滅してしまっていました。

それから数時間後、外出から戻り、着替えなどをすべく自室に入ったところ、今度は右足の小指を同じ椅子のキャスターにまた引っ掛けてしまい、前回ほどではないにせよ、まあそれなりの痛みに思わず顔をしかめることになり、今日はついていないなあと思いながら着替えをしたり、メールのチェックをしたり。

その後、用を済ませて部屋を出るべく、再び椅子を立ってドアに向かったところ、なんと三たび件の椅子のキャスターに左足の小指がヒットして、後の2回ははじめのような激痛と転倒につながるほどのものではなかったけれど、さすがに日に三度とは薄気味悪くなり、自分がどうかしたのだろうか…と考えこみました。

椅子のキャスターの向きでも変わっているのかなど、状況確認してみると、一つの事実が判明。
いつもは家具にピッタリくっつけている椅子が、ものを出し入れした後の戻し方が悪かったのか、このときは家具との間にわずかな(5cmほど)のすき間がありました。つまりそのぶん、キャスターの位置がいつもより前に出ていたというわけです。

日常の中で、まったく無意識・無造作に動かしている身体ですが、実はその加減を体がちゃんと覚えて動いていて、わずか5cmちがってもぶつかってしまうほど危ういところを「正確」に動いていたのかと思うと、自分のことながら、なんだか人間の体ってすごいもんだなあと妙に感心してしまいました。

考えてみれば、人のからだの動きは脳の働きに司られていて、それと身体的条件が重なって、実際にはほぼ決まった動きをきっちり繰り返しているのかもしれません。
となると、ピアノを弾いてもよほど丁寧にさらっていないと、ほぼ同じ場所で必ず間違えることなども、見方を変えればそれだけ正確に動いている証なのかもと思いました。

この動作というか能力を極限まで磨き上げたものが、芸術家の妙技であり、アスリートのパフォーマンスであり、職人の至高の技なんだと思うと、人の身体のクオリティというものが、実は私達が思っている以上にとてつもなく精巧なものに思えてきました。

どんなによくできたロボットでも、生身の人間にはとても敵わないことがその証拠かもしれません。
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うれしい再会

こんな偶然があるのかということがありました。

マロニエ君のフランス車趣味のほうの話になりますが、このところヨーロッパや日本国内のフランス車/イタリア車の専門ショップの類でも非常に評判のオイルのブランドがあります。
ちなみにオイルというのは、車用のエンジンオイルとかギアオイルなどのことで、むろん食用ではありません。

次回交換時にぜひ一度このオイルを使ってみようと思ったけれど、いくらネット検索しても通販のルートにはそれらしき商品は一切なく、やむを得ず輸入元に問い合わせをすることに。
それによると、このオイルを入手するには全国に散らばる「取扱店」から直に購入するということになっているらしく、価格も各店で聞いて欲しいとのことで、福岡での取扱店をいくつか教えてくれました。

いまどき通販がないとはずいぶん手間のかかることではあるけれど、それしかないなら仕方がない。
数軒の中から選んだのは、自宅から最も距離の近そうなルノーのディーラーでした。

価格も意外に常識的であったし、友人のぶんも合わせて10リッター注文することになり、数日後、入荷した旨の連絡がきました。

受け取りのため、お店に着いて車を駐車していると、すかさずショールームから若いお兄さんがすっ飛んできて、いかにもディーラーらしい対応をはじめます。こっちはただオイルを受け取りに来ただけなのに…と思いつつ、ひとまず言われるままにショールームへ入り、お願いした担当者の名前などを告げているときのこと。
ふわりと一人の男性が近づいてきて、こちらの顔をまじまじと見つめながら「あのう…❍❍さん(マロニエ君の苗字)ですよね」と言い始めました。

「えっ、だれ?」と内心思いつつ、たしかに見覚えのある顔ですが、だれだか咄嗟には思い出せず、一瞬とても焦りました。
するとすぐに自ら名乗ってくれたのでわかりましたが、かれこれ20年以上も前、マロニエ君がまったく別のディーラーでルノーじゃない車を買ったときについてくれた、担当のセールスマンS氏だったのです。当時、ずいぶんとお世話になった人だったのに、もともと関東の人で、数年後には関東へ転勤されてからはすっかり音信は途絶えていました。

その後、自動車業界から一時退いて、その後再び車の業界に戻り、ルノー輸入元に勤務されるようになった由。
マロニエ君がショールームに入ってきた時から、すぐにわかったんだそうでうれしいことでした。
互いにこの邂逅に大いに驚き、しばらく昔話に花が咲きました。

そうこうするうち、視界の中でチラチラこちらを見ていた男性が、オイルの支払い明細などを持ってこちらに近づくと、「❍❍さん…私も…」というので、お顔をよく見ると、さらにそれよりも前、また別のディーラーからまったく別の車を買ったときの営業のT氏で、一か所でこんなことが二度も続くなんて、みんなでマロニエ君を騙しているのでは?と思うほどの驚きで、あまりのことに叫びたくなるほどでした。

いまとは時代も違って、人との関わりも深い時代だったこともあり、T氏とはプライベートでも車好き同士としてドライブをしたりしたこともあるし、たしかに顔立ちに当時の面影がはっきりと蘇りました。

この二人、ルノーとはまったく関係のないところでそれぞれ関わっていた人たちで、それがまったく予想もしない場所で、しかもほぼ同時に再会できるだなんて、大げさですがそのときはほとんど奇跡が起きたように感じました。
しかもS氏に至っては、現在も関東を拠点に、月に1〜2度のペースで福岡県内のディーラーを回っているとのことで、きっと偉くなったんでしょうが、たまたまこのときだけ、このディーラーにいたということでした。

T氏のほうはこのディーラーにお勤めとのことでしたが、マロニエ君はフランス車は好きでもルノーにはこれまでご縁がなかったために、ここに訪れるのも初めてで、長らくお会いするチャンスがなかったというわけ。
S氏には「へーえ、大病院の院長回診みたいに、あちこちの店舗を見まわっているというわけですね!」とからかうと「いややや、やめてくださいよ〜!」などと破顔していました。

お互いにずいぶん年をとってしまいましたが、若かったあの時代に関わった人というのは、なんだか格別なものでしっかり繋がっているような気がしました。20年以上のブランクがたちまち取り戻せるような何かが、昔の人間関係にはあったのだと思います。
今どきは、よく顔を合わせる相手でも、たいてい上辺の付き合いに終始する時代ですから、よけいにそれを感じます。

この先もしょっちゅう会うことはないけれど、こういう繋がりも大切にしていきたいと思いました。
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アプリがすごい

スマホというものがどうも好きになれず、ずっとガラケーで押し通してきたマロニエ君でしたが、今年のはじめ、機種変更のため赴いた店頭での勧誘に負けて、電話器はガラケーのままiPadとセットのプランとして、いらい軽くもないタブレット端末をカバンの中に入れて持ち歩くようになりました。

そんなものはいらんと思っていたけれど、あればあったでやはり便利なことは事実であるし、だんだんそれナシでは済まされなくなるよう人間が慣らされていくあたりは、やはり自分の社会の趨勢に呑み込まれたという感じです。

マロニエ君がスマホにそっぽを向いている間に、この分野は恐ろしいまでの勢いで発展したようで、ありとあらゆるアプリが出まわっている(らしい)ことが、ほんのすこしずつわかって舌を巻きました。

先日、友人の車に乗ってでかけていたら、都市高速の下の一般道を走行中、後部座席に置いたカバンの中から突然人の声がしているのにびっくり。
なんと、スマホに入っている「オービスナビ」というアプリが、高速上に設置されたオービスの存在を知らせるべく、勝手にしゃべっているものといいます。「え、なにそれ?」。
よく聞いてみると、自動速度取締機やNシステムなどの路上カメラの位置などを知らせてくれるアプリなんだそうで、そんなものまであるとは驚いてしまいました。

それに限らず、ほかにもいろいろなアプリが際限なくあるようで、ほとんどなにもしていないマロニエ君のiPadなんて、能力の1%も使えていないのだろうと思います。だいいち、いろんなアプリって、そもそもどこで探してくるのかと、そこからしてわけがわかりません。

後日、私も真似をしてiPadへオービスナビをダウンロードすると、あっけないほどすぐにできました。
で、どうやって使うのかと思っていたら、どうする必要もないようで、ただ端末を車に乗せて走ると、さっそくあれこれと注意喚起してくれるのには参りました。
なんでも、端末がある一定の速度で移動し始めると、それを感知して自動的にアプリが起動し、データに基づいて各種の警告をしてくれるというもので、ただただ驚くばかり。

さらに、グーグルのカーナビアプリをダウンロードすると、なんとこれが、これまで使っていたカーナビと何ら遜色ない機能を持っていることにさらに驚きました。

こんなことで驚きまくって、それをいちいちブログに書いていることじたい、多くの人からすれば「キミ、いまごろ何いってんの?」といったところでしょうけれど、まあとにかくマロニエ君は最近知ったのですから、そのぶん驚きも新鮮なわけで仕方ありません。

それでなくても、すでにあるカーナビの地図更新だとか、取り締まり用のお知らせ機能のついた機器を購入しようかなど、あれこれと古臭いことを思っていたのですが、もうそんなものを買う必要もなくなりました。
しかも、これらのアプリは無料なのですから、かくして世の中、物が売れずに慢性的な不景気から抜け出すこともできないのもうなずけます。これでだれが儲かっているのか、もうわけがわかりません。

最近、カーショップ内のカーナビの売り場などがずいぶん人も少なく活気がないなあ、標準で付いている車が増えたからかなあ…などと思っていましたが、カーナビにしろ、CDにしろ、何もかもがスマホに奪い取られてしまっているようです。
つい最近も、海外に出張中の友人と、LINEで普通にタダでやり取りができたて、便利なことは非常にありがたいけれど、この先いったいどうなっていくのかと不思議な気分にもなりました。

21世紀は『2001年宇宙の旅』のような世界になったかならなかったか、そこは解釈の仕方でしょうけれど、少なくとも昭和の時代には考えられないような最新テクノロジーが世界を席巻したことは間違いないようです。
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ふたつのマツーエフ

BSプレミアムシアターで、今年だったか、インドのムンバイで行なわれた「メータ、80才記念コンサート」みたいなものが放映されました。もう消去してしまったので、タイトルも曲目も正確でないこともありますが、こうもり序曲、ブラームスの二重協奏曲、そして最後はチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番でした。
ピアノは、デニス・マツーエフ。
オーケストラはイスラエル・フィル。

チャイコフスキーは、どう表現したらいいか困ってしまうほどの「爆演」でした。
マツーエフは見た目からしてピアニストというより、何かの格闘家か、重量挙げなど力自慢の選手のようですが、この日のピアノはまったくその風貌にピッタリというか、まるでゴジラがピアノを弾いているような演奏でした。

良い悪いは別にして、ピアノって、あれほどの怪力で叩きのめすことができるものかと思ったし、あまりの暴力的な打鍵に耐えかねて、開始早々中音域の幾つかが、たちまち狂ってしまい、あからさまなうなり音を発していたほどです。
しかも曲が曲なので、叩きつけようと思えば叩きつける場所には事欠きません。

指から手の甲にかけてもじゃもじゃした赤い毛に覆われた猛獣のような手が、情け容赦なくスタインウェイの鍵盤を叩きまくり、ピアノはその度にぶるぶるとボディが揺れていました。

キレイ事を言うつもりは毛頭ないけれど、ピアノが好きで、美しい音楽を愛する者の端くれであるつもりのマロニエ君としては、とてもではないけれどずっと続けて見ることはできませんでした。
とにかく派手に見せるための、力まかせの演奏というものが生理的に受け付けられないし、あのロシア人の巨体から繰り出される暴力的な強打を見ていると、もはやピアノが虐待を受けているようにしか見えませんでした。

早送りに次ぐ早送りで、終楽章のフィナーレを見てみると、このころには頭を一振りするごとに、無数の汗がプロレスの試合みたいにバンバン飛び散って、それは格闘技のリングに近いものでした。
本心から、このままではピアノが壊れるのではないかとハラハラしました。

その数日後のこと、Eテレの「クラシック音楽館」のたまっている録画を見てみると、N響定期公演からヤルヴィの指揮で、プロコフィエフのピアノ協奏曲第2番というのがあり、そのソリストがなんとまたデニス・マツーエフとなっているのは我が目を疑いました。
うわー、これはたまらん!と思いましたが、日本でもあんな演奏をするのかと思い恐る恐る見てみると、メータとのチャイコフスキーと比較すると、一転してほとんど別人とでも言いたくなるような真面目な演奏で、同じピアニストが場所によってこんなに違うものかと、なによりまずそのことにびっくり仰天でした。

もちろんマツーエフが持っている資質はチラホラあるけれど、少なくともプロコフィエフの2番という屈指の難曲を立派に弾こうという真摯な姿勢の見えるしっかりした演奏だったのは、チャイコフスキーとは大違いでした。

おそらくメータの80才記念コンサートでは、お祭り的な要素が多かったことと、開催地もインドであったので、仕向地による違いだったと思われ、事前にそのような打ち合わせや要望も汲んでのことであったのだろうとは想像されますが、それにしても野獣がピアノを壊す気で弾いているかのようなあの光景は、やはりインパクトが強すぎました。

それでもチャイコフスキーでは割れんばかりの拍手で、アンコールではマツーエフによる即興みたいなものが弾かれましたが、これもハデハデで、最後はピアノがぐわんと動いてしまうほどの怪力で締めくくられ、インドの聴衆は大ウケの様子だったので、やはり国や地域によって西洋音楽に対して求めるものが違うのかもしれません。

もし日本であんな演奏をしたら、さすがに受け容れられないだろうと思うと、これでも日本は西洋音楽の歴史が「ある」ほうに入るのかもしれないなぁと思われ、なんだか妙な気分でした。
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先生の趣味?

『題名のない音楽会』で反田恭平がラフマニノフのピアノ協奏曲第2番の第1楽章を演奏しました。

以前も書いたように、来月にはイタリアでレコーディングした同曲のCDが発売されるというタイミングでもあり、反田氏にとっていま最も力を入れ弾き込んだ1曲だろうと思います。

大いに期待して聴きましたが、しっかりとした見事な演奏ではあったけれど、どこか以前のような、精緻な演奏の奥底に光る本能的な生々しさが減って、より注意深く多くを語ろうと意識して、慎重に弾いている感じを受けました。

演奏中、反田氏はモスクワ音楽院でこの曲を、ラフマニノフの得意とする先生から猛特訓を受けたというような字幕が出ましたが、先日の『情熱大陸』では、ヴォスクレセンスキー教授にこの曲のレッスンを受けているシーンがあったので、それが彼のことなのか、あるいはまた別の先生なのか、そのあたりのことはよくわかりませんが、要するにかなり人の意見の入った演奏であるようにマロニエ君の耳には聴こえたことは事実でした。

パーツパーツで聴いてみると、たしかによく練られていているなとは思うけれど、反田氏の最大の魅力であるはずの作品を一刀両断にする鮮烈さや、内側から滲み出る熱いパッションがやや細くなり、少し普通のピアニスト風に、効果を周到に寄せてきたように感じてしまった点は甚だ残念でした。

反田氏にアドバイスしたのが誰であるかはどうでもいいけれど、アドバイスという範囲を超えて、演奏者の個性より指導者の音楽的趣味が前に出すぎているとしたら、それは指導というより干渉ではないかと思うし、聴いていて、他者による注文を盛り込めるだけ盛り込んだような窮屈さを感じました。

一過性の音楽に、あまりに多くを語ろうとすると、細かな聴きどころは増えるかもしれませんが、推進力や燃焼感が薄れるのは考えものです。

反田氏が本心から、ああいう演奏をしたかったのだとはマロニエ君は思えなかったし、その点ではあれは彼の本音の演奏ではないだろうと勝手に受け取りました。
マロニエ君としては、この先、彼がそのあたりの制限から本当に開放された時、さて本物の芸術的な演奏がそこにあらわれるか、あるいはただの恣意的な独りよがりな表現に留まるのか、そこは今後も注視していきたいところです。

ピアノはイタリアでの同曲のレコーディングのときのように古いピアノが使われることも、あるいは反田氏が東京でしばしば弾いているホロヴィッツのピアノでもなく、会場備え付けの普通のスタインウェイだったことはすこし残念でしたが、まあそのあたりはいろいろな事情も絡んでいるでしょうから、そういつも思い通りにはできないでしょう。

それにしても、反田氏のやや大きくて伸びやかな手は見ているだけでも魅力的です。
とくに左サイドのカメラがとらえた左手はことのほか美しいもので、この手を見ただけで、反田氏がピアノを弾くことは運命づけられていたことだということを諒解せずにはいられません。
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いまむかし

現代のようにあらゆるものが管理された、ある意味で安心、ある意味でおもしろみのない社会に生きていると、昔は楽しかったなあと懐かしく思うことがしばしばで、中でも今に比べると人間関係は濃く、感性重視、発言の自由度はずっと広かったように思えます。
標準的な日本語も、いまどきの卑屈なビジネス語や不正確な言葉遣いが蔓延することなく、尊敬語と謙譲語が明確なコントラストを作り出し、言葉だけでも日本人の細やかな情感と倫理が保たれていたように思います。

言語はそれ自体が生きた文化であり、その点で複雑な日本語は独自の美しさをもつ、いわば無形文化財のようなものだと思いますが、それを惜しげもなく捨てていこうとする方向性は、残念でなりません。
貴重な建造物を驚くべき丁寧さで修復保存したり、最近では歴史的な建築や地域を世界遺産に登録するのが流行りのようですが、だったら美しい日本語もある意味、修復し、保存し、継承されるべき対象に組み入れてほしいものです。

ほかにも、あれもこれもと昔を懐かしむことを思い出すのは簡単ですが、昔にくらべて今のほうが良くなったということを認識することは意外に難しく、せいぜい思い出すのはケータイとネットなどでしょうか。
人間は自分にとって快適になること便利になることには苦もなく順応して当たり前になるだけで、昔を思い出して、今はありがたいと思うことは大事なはずなのに、なかなかできませんね。

その代表がタバコです(吸われる方には申し訳ないけれど)。
昔は喫煙はいつでもどこでもほぼ自由で、飛行機に乗ってさえ離陸すると、機体はまだ上昇中だというのにいち早く禁煙のサインが消え、それっとばかりに前後左右からタバコの煙があがったものです。真横の人が立て続けに何本も吸い続けるというようなこともありましたが、今では考えられないことです。

タクシーに乗っても真っ先に鼻につくのは車内に染み込んだタバコ臭で、お客さんどころか、運転手もプカプカやりながら運転していました。おまけに運転もめちゃめちゃに荒っぽく、タクシーと無謀運転は同義語でした。フロントシートの背につかまりながらお客さんは身体を前後左右に揺すられながら乗っていたわけで、今どきあんな運転をしたらいっぺんで運転手はクビでしょうね。

飲食店などに入ってもマッチと灰皿は当たり前で、喫茶店など店内は霞がかかったように煙草の煙が充満していましたし、むろんいまのようにきれいではなく、壁がニコチンで薄茶色になったお店なんてざらでした。

それを思い出せば、今はタバコを吸わない身には天国です。

ただ、タバコだけではない数々の規制によって失ったものもあり、人々は今よりも明らかに情感が豊かで活力があったし、人間臭さがありました。
上記のようなタクシーの無謀運転などはむろん困りますが、世の中の人達は今よりもずっとエネルギッシュで、人ともよく交わっておしゃべりをしたし、親交も深く、ケンカもし、声も平均して大きかったのは間違いないでしょう。

今の人は、総じて注意深く、損得に聡く、計画的で、周到で、演技的、これらがほとんど体質化しているように思われます。
計画的なことがすべて悪いわけではないけれど、ときには、あまり先のことを考えず目の前のことに情熱を燃やし、冒険の気持ちをもつことことも必要ではないかと思いますが、そういう面白さは本当になくなりました。
破滅型の芸術家というようなタイプももういません。

自分の将来や行く末、仕事や健康など、あまりにも情報が多く先見えがするゆえに注意することが多すぎて、世の中から大胆さや心の底から愉快と思えるようなものが消えてしまいました。どっちを向いてもやっちゃいけないことだらけで、いわば自主規制ずくめの社会ですが、それで保たれている恩恵も多いのですから、つくづく物事はなにかとトレードの関係にあるということを感じます。

洗練された社会は、人々からある種のダイナミズムを奪うということは間違いないようですね。
誕生日を過ぎてまたひとつ歳を重ね、つい愚にもつかない事を考えてしまいました。
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最近の番組から

最近テレビでみたもの。

パーヴォ・ヤルヴィ指揮のN響定期公演から、パーヴォの盟友とされるピアニストのラルス・フォークトのソリストによるモーツァルトのピアノ協奏曲第27番。
何度も書いているように、マロニエ君はこのラルス・フォークトのピアノは好みではなく、残念ながら彼の魅力がなんなのかわからないし、パーヴォ・ヤルヴィほどの指揮者がなぜ彼をそこまで高く買ってしばしば登用するのかもわかりません。
とくにモーツァルトのピアノ協奏曲第27番といえば、KV595という番号からもわかるように、彼の最晩年の傑作の一つで、最後のピアノ協奏曲であって、これはそれ以前の作品を演奏するよりも、一層の繊細さと思慮深さが要求される作品でしょう。

モーツァルトは最も人間味にあふれる作曲家であるにもかかわらず、その演奏は、まるで天上から降り注いでくるような、美しさとに繊細さに満ちていなくてはならないと思うという点で、一音一音の変化に敏感でない、汗臭い、労働的な演奏は(とりわけ晩年の透明な世界には)ふさわしくありません。

ラルス・フォークトはどうみても繊細な感性や磨きこまれた音で聴かせるピアノではないし、どちらかというといかつい表情付けなどで押し切るタイプ。
果たしてどうなるのかと思っていたら、予想よりはいくらかおとなしく丁寧に弾いていたようで、覚悟していたほどではなかったのはひとまず胸をなでおろしました。

最近いやなのは、番組制作側の意図なのだとは思うけれど、演奏者にあれこれと大した意味もないようなことを喋らせることで、その点ではヤルヴィも毎回しゃべっているし、ラルス・フォークトもしゃべらされているものとも思いますが、どうもこの手は空虚な感じがあって、話の内容と演奏とがあまり結びつかないことが少なくないように感じます。

マロニエ君の場合はいつも録画で見ているので、それなら早送りすればいいのですが、いちおうどんなことをしゃべるのかとつい聞いてしまうふがいない自分にも嫌になります。それを聞いて、演奏を聴いて、その結果あれこれと不平不満をのべるのですから、我ながらご苦労なことですが。


辻井伸行が、オルフェウス室内管弦楽団とセントラルパークの野外コンサートに出演する2時間のドキュメント。

例によって、辻井さんはくったくのないテンションでコンサート以外でも、訪問地のあちこちを訪ね歩きますが、世界中のどこに行っても、そこにピアノがあるかぎり必ず弾くのがこの方のスタイルのようで、それは今回のニューヨークでも例外ではありませんでした。

まあ視聴者もそれを期待しているのですから基本的にはありがたいことだと捉えるべきですが、生まれて初めてのジャズバー体験として、本場のジャズを聴きに行っても、途中から参加という趣向で、やはりここでも演奏に加わりました。
マロニエ君には想像もつかない大変な度胸ですが、それがあってこそコンサートピアニストというものはやっていけるものかもしれません。ここでは珍しいことに(アメリカならではというべきか)ボールドウィンのグランドが使われていました。

それ以外にも、ニューヨーク在住の日本人タップダンサーのスタジオを訪ねました。
お名前は忘れましたが、この世界ではずいぶん有名な方だということでした。
勧められるとなんにでも興味を示す辻井さんは、すぐにタップダンスにも挑戦したあと、今度は傍らにあるピアノを弾き、それに合わせてこのダンサーが即興でタップをつけていくということで、ピアノとタップダンスのコラボとなりました。

ところが、曲は展覧会の絵からラ・カンパネラになり、ダンサーはピアノが鳴っている間中、見ている方が心配になるほど激しいタップを続けますが、途中から引っ込みがつかなくなっているようでもあり、曲が終わらないと止められないようでもあり、これは見ていて少し辛くなってしまいました。

弾き終わった辻井さんも、着ていた黒いシャツが汗でべっとりと濡れしてしまうほどで、これまさに二人によるスポーツで、要するに何だったのか…まるで意味の分からないまま終了。

番組ではオルフェウス室内管弦楽団とのリハーサル、セントラルパークでの本番、ともに地産品?でもあるニューヨーク・スタインウェイが使われましたが、2台とも新しめのピアノであるにもかかわらず、リハーサルのピアノはまるで鼻が詰まったような音で、いまだにこういうピアノがあるのかと思った反面、本番でのピアノは黒の艶出し仕上げの、より輪郭のある音のするピアノでした。

ニューヨーク・スタインウェイには巷間言われるような個体差やムラがやはりあるようで、調整の余地も大きいというのが納得できました。使われて、調整を繰り返しながら、時間をかけて整っていくピアノだということなのでしょう。
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弾く喜び

先日、某所でのリサイタルを終えられたばかりのあるピアニストの方が来宅されました。

しばらく雑談などが続きましたが、せっかくの機会であるし、少し前に我が家のピアノも過日保守点検メニューも済ませていることでもあり、ちょっと弾いていただきました。

今回の調整は音色の面でとても上手くいっていて、現在はかなりご機嫌な状態だと思うのですが、ピアノは弾く当人にとってはピアノとの距離が近すぎて、本当の音色を聴くことがきないのは残念な点です。
とくにスタインウェイのような遠鳴りを特徴とするピアノでは、至近距離ではむしろある種の雑音のほうが目立ったりということもあるくらいですが、ピアノから数メートル離れただけで、まったく別のピアノではないかと思うほど見事に収束した美しい音が聴こえることはこれまでにも経験済みです。

自分が弾いている限り、そのピアノの一番いい音を聴けないというのは皮肉なことで、少し離れた場所から、しかもピアニストの演奏を聴けるとなれば一石二鳥というわけです。
バッハからショパン、ムソルグスキーまでいろいろと弾いてもらいましたが、演奏はもちろんですが、ピアノが自分で言うのもなんですが予想以上に素晴らしい音でつい聴き入ってしまいました。
その音は、演奏者はもちろんですが、技術者の方にもあらためて感謝の念を抱かずにはいられないものでした。

つくづくと思うことは、ピアノも弦楽器のようにタッチによって音を作ってこそ、音の真価が出てくるというごく当たり前のこと。
「ピアノは猫がのっても音が出る」などといわれますが、むろんそれで良い音が出るはずもなく、素人でも本能的に音を作ろうとする人と、そういうことにはまったく無頓着に音符を追うだけの人がいます。

話し方でも訓練された発声で澄んだ聞き取りやすい声で話すのと、ベタッとした地声で話すのとでは雲泥の差があるように、いい音を鳴らすというのは、それ自体がすでに音楽的行為だと思います。

とくに名器と言われるピアノになればなるだけ、タッチによる音色やニュアンスの差がはっきりと音にあらわれ、日本製のピアノのほうがその点はまだいくらか寛容かもしれません。さらに電子ピアノになると、タッチによる汚い音というのがまったく存在しないので、その点ではやはりアコースティックピアノは奥が深いと思います。

弾いてくださったピアニストはとくにタッチや音にも配慮の行き届いた演奏をされるので、この点でもいうことなしで、ついステージで聴いているような錯覚を覚えました。

さて、マロニエ君はこのピアニストによる先日のリサイタルのアンコールと、東京でのライブCDの最後に収録された、ヴィルヘルム・ケンプ編曲によるバッハのコラールにすっかり魅せられてしまい、この10日ほどこれの練習に取り組んでいます。

僅か2ページほどの作品ですが、編曲ものというのはオリジナルとはまた違った難しさがあり、広く音の飛ぶ内声を左右どっちの指でとったらいいのかなど、わからないことも満載。
おまけにもともとの下手くそや、なかなか暗譜ができないなど、たったこれだけの曲をさらうのに、なんでこうも難渋しなくちゃいけないのかと思うと、さすがに情けなくなります。
もういいかげん暗譜してもよさそうなものが歳を重ねるほど難しく、さらに編曲作品特有の弾きにくさも追い打ちをかけて、ばかみたいに同じ所で間違えたりと、つくづく自分が嫌になります。

それでも今度ばかりは曲の魅力に抗しきれず、普通なら一日で放り出してしまうところを、めずらしく踏ん張っています。踏ん張ればそのぶんどうかなるのかといえば、そうとばかりも言えない気もするけれど、やめれば弾けないのははっきりしているので、もう少しがんばってみるつもりです。

いい演奏というだけなら、お気に入りのCDを鳴らせば済む話ですが、やはり苦労してでも自分の手からその音楽を紡ぎだすというのは格別で、自分の気持ちや指の動き一つでそのつど音楽に表情が宿ったり失敗したりと、これこそがささやかでも弾く喜びなのだと痛感します。
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精神的事故

悪気がない、気がつかない、無知といったものは、ときにちょっとした悪意より、はるかに悪い結果を招き寄せることがあるものです。

なぜなら、相手は悪いことをしているつもりがまったくないのだから、その点においては遠慮も躊躇も働きません。
わかってない故に容赦なく限度なく、とめどなくそれは続きます。

先日こんなことがありました。
やむなきお付き合いから、とあるコンサートに行くことになり、親しい某女史と友人とマロニエ君の3人で車で赴くことになりました。
某女史は天真爛漫、その人間的魅力もあってか人望も篤く、多くのコンサートや音楽祭なども手掛けておられます。

コンサートは隣県の一風変わった場所で行われるので、マロニエ君が車で某女史と友人を乗せて行くことが早くから決まっていました。
大半は高速道路ですが、前後を含めるとそれでも片道1時間以上かかります。
コンサートの前日、出発時間などを打ち合わせようと某女史に電話をしたところ、この段階で驚くべき内容を知ることに。

なんと、明日は某女史の知人という人物がもうひとり一緒に乗っていくことになったというのです。
マロニエ君にしてみれば、予定の3人は昔からよく知る間柄なのですが、新たに加わったひとりは一面識もない方なので、このひとりの登場によってこちらにとっての空気はガラリと変わりますが、ご当人は至ってあっけらかんとしたご様子。
さらにこの電話でわかったことは、帰りはこの日の出演者の4人のうちの2人を乗せて帰るのだそうで、車の所有者であるマロニエ君にひとことの相談もないまま、そういうことが決められているという事実に、はじめは頭がグラグラしそうでした。

この文章をお読みの方は、某女史が非常識で自己中で図々しい人物と思われることでしょう。
ところがそうではなく、この方というのが珍しいほどの天然の方で、そこには悪気どころか、マロニエ君への無礼の意識も全く無いことは、長年の付き合いでよく知っています。知っているからこそ、ただ憤慨することもできず、某女史なら仕方ないか…と思い直して迎えに行きました。

ところが、そこからが本当の苦痛の始まりでした。
某女史とその知人(こちらも音楽関係らしい女性)は後部座席に乗り込み、マロニエ君がハンドルを握り、友人が助手席という配置でスタートしたのですが、駐車場を出る頃から後ろではぺちゃくちゃとおしゃべりが始まっています。
この段階で、いやな予感はしていたのですが、その二人のおしゃべりは時間が経つにつれますます熱を帯び、ついには目的地に就くまでの一時間以上、延々と続きました。

通常なら個人の車に乗る際には、それなりの常識や振るまいというものがあり、まず車の所有者に相談もなしに、第三者を乗せるか否かを決定する権利はまったくないし、よしんば相談され応諾したにしても、乗用車の車内というのは、狭くて閉鎖された密室であるわけで、車中ではそれなりの配慮が求められるのは当然でしょう。
長距離なら、なおさらのことです。

車内の会話はほぼ全員が参加できるよう、互いがそれなりに気を遣い合うのは当然のはず。リアシートのふたりだけが、自分達だけの会話に1時間以上興じるなどとは、およそ信じられないことでした。
ましてそのうちのひとりは、ついさっき「はじめまして」と挨拶した初対面の人間で、タクシーならともかく、個人の車ではありえないことです。

友人もこの状況を察したようで、はじめは仕方なく何度かこちらに話しかけていましたが、後ろの二人だけで繰り広げられる猛烈な会話に圧倒されて、しまいにはほとんど口を利かなくなりました。

…演奏は素晴らしかったけれど、とにかく疲れてクタクタだったし、おまけに終演後は立食の食事会が待ち構えていました。
明日は福岡市でコンサートがあるからという理由で演奏者の二人を乗せて早めに帰るはずだったのが、このご両人がまたなかなか帰ろうとはしません。
そのころマロニエ君はもう心身ともに相当限界に近づいていることが自分でわかりましたが、この状況では一人で帰る自由もないわけで、この何から何まで納得していない状況に耐え難い苦痛を感じました。

結局、キリがないので少しせっつくなどして帰途についたのは夜の11時頃で、演奏者の大きな旅行かばん2つをトランクに押し込み、5人乗ってようやく出発。ところがこんどは、その演奏者のひとりが外国人であったため、リアシートではワイワイと英語ばかり。
このとき、ほとんど切れてしまっていたマロニエ君の心の最後の糸がぷつんと切れました。

もはや、だれであろうと、いい人であろうと、お世話になった人であろうと、悪気があろうがなかろうが、関係ない。
いま自分が置かれている状況がたまらなくイヤになり、よくわからない限界点をついに超え、それから一切周囲との会話を遮断しました。マロニエ君の徹底した沈黙は車内でしだいに目立ってきたのか、かなり奇異に映ったとは思うけれど、それを取り繕う意欲もエネルギーもありません。
ひたすら安全運転にのみ全神経を集中し、まずはホテル、某女史宅、友人宅とまさに宅配便のように送ってまわって、ともかく無事に帰宅しました。これは誰一人悪意はないところに発生した精神的事故だったと思うより他ありません。
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眩しい才能

先日の『情熱大陸』では新進ピアニストの反田恭平が採り上げられました。
いつも見る番組ではないのに、新聞のテレビ欄を眺めていると「ピアニスト」「反田恭平」という文字が運良く目にとまり、録画しておいたものです。

反田氏はマロニエ君もそれなりに注目しているピアニストで、以前このブログにも書いたことがありますが、なによりその逞しいテクニックと直感、びくびくしない弾きっぷりが特徴だと思います。

ピアニストとしてのアスリート的な部分も大きな魅力で、ユジャ・ワンと同系統といえるかもしれません。
番組では、反田氏は自らを「サムライ」と称し、だから長い髪を武士の惣髪に重ねているのかとも思いつつ、番組を見ながらこれまでのピアニストとは少しばかり様子のちがう、良い意味での孤独性さえ感じました。

有名なヴォスクレセンスキー教授が来日の折に反田氏の演奏を聴き、その勧めによってモスクワ音楽院に留学して2年が経つようでした。
ところが父親の猛反対もあったらしく、この2年間は奨学金生としてモスクワで学んでいるといい、その奨学金支給も今月で終わり、来月からは「実費」というシーンがあり、反田氏としては早く自立したいという考えを抱いているようでした。

帰国しても、明るく歓迎する母親とは対照的に、ピアノに反対している父とはほとんど会話もありません。

多くのピアノ学習者と違って、反田氏はまわりの誰でもない、自分がピアノを弾いて世に立っていきたいという強い情熱があり、この父との対立も彼の前に立ちはだかる大きな障害のようにも見えます。
結局、彼はモスクワ音楽院で学び続けることを断念し、そのぶんより挑戦的にピアニストとしての活動を強めていく覚悟を決めているように見えました。

恋愛でも、むかしは本物の大恋愛が存在したのは、現代では考えられないような困難が幾重にも存在したからで、そういう壁を打破し乗り越えようとするときに、人間は尋常ならざる力が湧き上がってくるのではないかと思います。
その点では、周囲から褒められ良好な環境をいくらでも与えられる人より、反田氏のようなある意味逆境にいる人のほうが、よじ登っていこうとする精神的な強みがあり、大成できる可能性も高いと感じました。
むろん相応の才能があっての話ではありますが。

この番組の中で、ひときわマロニエ君が注目し、納得したシーンがありました。
イタリアのホールでラフマニノフのピアノ協奏曲第2番をレコーディングすべく、会場に現われた反田氏は、ステージに据えられた新しいスタインウェイを触るなり、これが気に入らないようでした。
「ピアノが寝ている」「きれいすぎる」といい、舞台の裏部屋のようなところにある古くて誰も弾かなくなったというスタインウェイを弾いてみて、こちらを所望しました。

1970年代のピアノで、もうだれも弾くことはないとばかりに奥まったところに置かれていましたが、何人ものスタッフによってステージへと押し出され、ステージで弾いてみてこのピアノを使うことを迷いなく決定。
なぜこちらのピアノを選んだのかという質問に、「直感」と短く答えたあと「こっちのピアノのほうが自分の引出しをいろいろ使えそうだから」というようなことを言っていました。

テレビのスピーカー越しにも、こちらのピアノのほうが音にばらつきがあり、伸びがなかったり、悪く言うとくたびれた感があるものの、新しいピアノにはない渋い味わいがあるようです。
おそらくこのピアノの欠点については反田氏は自分の演奏によってカバーできるという自信があったのでしょうし、それよりも一番大事なことは何かということを見誤らない、お若いのにずいぶんもののわかった青年じゃないかと思いました。

前述の奨学金のことなどもあり、ここで独り立ちしたい反田氏にとっては、この録音はとりわけ勝負をかけるものだったに違いありません。
そこで弾くピアノが、どのキーをどんなふうに弾いても「パァーン」と小奇麗な音が出るだけの新しいピアノでは、自分の思い描くような勝負はできないと直感的に感じたのかもしれません。

日本では、ホロヴィッツが弾いていたという古いスタインウェイをコンサートやレコーディングにも使った経験がある反田氏なので、楽器に対する感性も鍛えられ、それらの経験も見事に生かされているのだろうと思いました。

ピアニストはつべこべいわず、会場にあるピアノに即応して弾かなくてはならないという宿命を負っていますが、誰も彼もがおろしたてのような新しいスタインウェイこそがベストだと思い込んでいるような現状には日頃から疑問を感じます。
楽器に対してなんという無定見かと嘆きにも似た気分でしたので、反田氏のこの反応と選択には見ているこちらまで溜飲の下がる思いでした。

モスクワでの師匠であるヴォスクレセンスキー教授がさすがだと思ったのは、「彼には爆発的な気質がある」などと高く認めながらも「でも、単調なテンポの曲を表現するのはまだまだだね」と評した点で、マロニエ君もいつだったかNHKの番組で反田氏の雨だれを聴いたときは、まさに「まだまだ」だと思いました。
しかし、久々にこれからが楽しみになるような眩しい才能が日本から出たことを嬉しく思います。
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これも地域性

「偏見」という言葉をウィキベディアで見てみると、おおよその意味するところはわかったような気がしました。

「十分な根拠もなしに他人を悪く考えること」だそうで、「新しい証拠にもとづき自分の誤った判断を修正できるなら、偏見ではなく予断に分類される」とあって、なるほどと思いました。

この説明に添って考えると、「十分な根拠があって、新しい証拠が出たときに自分の判断を修正する用意がある」のであれば偏見ではないと考えてもいいという裏付けを得たようで、差し当たり自分の頭にあったことが偏見ではないと意を強くしました。

というのも、マロニエ君は関東地方のあるエリアにいささか否定的イメージを抱いており、そこには一定の経験と根拠と自信を持っているのですが、さりとて声を大にして言えることではなく、現実は現実だからしかたがないというところです。
市というのでは少し足りないし、県というのでは広すぎるので、その間を取ってここではエリアとしますが、全国的にもつとに有名で、それも非常に高評価をもって上位にランクされてしまうエリアなのですが、どうしようもなく感じてしまう固有の気質というか土地柄みたいなものがあって、それがマロニエ君としてはどうも好意的には受け止められません。

虚栄とニセモノ感にあふれ、人間的にもあまり感心できない気質をもつ人の比率が高いと経験的にも感じます。ちなみにマロニエ君は若いころ2年ほどこの地に住み暮らしたこともありますが、充実した東京生活とは打って変わって、こんなにも違うものかと深く失望したことは今でも忘れられません。
このエリアの人達は、身の丈を超えた自信を持ち、それは通常の地元愛みたいな可愛気など微塵もないもの。作られたイメージに悪乗りした思い上がりというべきで、日本人らしい慎みが薄く、おしなべて信頼という点でも疑問があります。
それはある意味、東京という大都会に対して根底に流れるコンプレックスの裏返しなのかもと思いますし、このエリアが辿ってきた歴史的経緯とも無関係ではないと思います。

さて、今年の7月の下旬のこと、車好きの知人がある中古の輸入車を購入することになり、ネットの中古車検索サイトから全国を探すことになりました。全国と言ってもベンツやビーエムではないので大した数ではなく、ヒットするのはせいぜい20台ほどで、その結果、ある1台が候補に上ったようでした。
仕事が忙しいこともあって、現地には赴かず写真のみでの判定だったようですが、結局その車を買うことになり、ついては車検取得や整備などをおこなった上での納車ということに決まったといいます。
売買契約をしたのが8月に入ってすぐでしたが、実はそのショップというのが上記のエリアにある店だったのです。

「車が来たらすぐに見せに行きます!」ということで、人ごとながらマロニエ君も楽しみにしていたのですが、ずいぶん日にちも経つのに一向に納車の気配がありません。
どうなったのか聞いてみると、8月も下旬になっているというのに「まだ作業に入れていない」という回答で、当初の話ではお盆過ぎぐらいに納車ということだったのが、かなり話が違ってきているようでした。

しかも、約束よりも遅れるのであればその旨連絡があってしかるべきですが、それは一切なしで、こちらから電話しないかぎり向こうから連絡してくることはないばかりか、担当者の話し口調も、始めのころの快活さが明らかになくなり、ずいぶん気のないしゃべり方に変化していることも甚だ不愉快とのこと、尤もな話です。
この時点で8月末までの納車は不可能となり、9月へずれ込むことが確定的になりますが、それで終わりではありませんでした。

問い合わせをする度に、延期に次ぐ延期を「すみません」のひとこともなく平然と言い渡されるのだそうで、ついには9月中の納車さえも危ういことがわかってきました。
はじめは余裕の構えを見せていた知人も、もう完全に憤慨の様子です。

ただ、この知人にも甘さというべき点があり、代金をどうせ払うのだからということで、店から言われるままに契約時に全額支払ってしまったらしいことです。しかも驚いたことには一切の値引きもなく、整備関係の費用から、福岡への陸送費まで、なんらのサービスもないまま整備費用等を一円単位で加算請求してくるという、普通ではあまり考えられない高飛車な条件です。
それらを素直に受け入れたことがますます店側を傲慢にしてしまったように思われました。
従って、契約内容の甘さや店特有の問題がないとは言い切れませんが、マロニエ君はこのエリア独特のメンタルも大きいと直感しました。

中古車と言っても絶対額としては大金ですし、商売はお客さんあってのもの。信頼や他店との比較もあるのだから、そこまで一方的な都合や態度で押し切って、せっかく買ってくれた相手をそうまで不愉快にさせる合理的な理由が見つかりません。
もちろんお店の体質や担当者個人の性格などもあることは否定はしませんが、大きく見れば、ようは文化が違うのだとマロニエ君は思うのです。

マロニエ君も以前、認定中古車というのを全国ディーラー網で探したことがありますが、さすがにディーラーというだけあってどこも悪くない対応だったけれど、「このエリア」の2店だけはやはり様子が違っていたことを鮮明に思い出します。
意味もなく上から目線を漂わせて感じは悪いし、その中の一店に至っては主任とやらが自分の自慢を展開、まるで客と張り合っているかのような微妙な態度に呆れ、車は気に入っていたけれどあと一歩というところで破談にしたことがありました。

人によっては、それはマロニエ君の「偏見」であって、たまたま。みんながみんなではない筈、罪なき人までエリアで十把一絡げに見るのはいかがなものか…といった反論をされると思いますが、これ以外にも根拠となるネタはいくつもあるし、世の中、そういくつも偶然が重なるものではなく、やはりそこには地域性や特殊性みたいなものがあるのは事実だと思います。

日本は外国と比較すれば信頼性が高いというのは事実だと思いますが、それでもやっぱり地域固有のクセみたいなものはあるわけで、そこは注意が必要だと思います。
知人の車は、さすがにもうそろそろとは思うけれど、いまだに納車されてはおらず、どうなることやら…。
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パリのソコロフ

グリゴリー・ソコロフは「知る人ぞ知る、現役世界最高のピアニスト」というような評価の下、一部には熱狂的なファンが多いようで、並のピアニストでは満足できない音楽通の人達の間で支持されているとか。

あまり知らない頃は(今も知っているとは言い難いけれど)、そんなにすごい人がいるのか…という感じで、ちょっとYouTubeで見てみたり、10枚組ぐらいのCDを購入するなどしてしばらく聴いたりしていたものでした。

ある意味、往年のロシア型大ピアニストの生き残り的な印象でもありました。
どれを聴いても、絶対に沈まない大船に乗っているようで、なるほどとは思ったし、その独特なパフォーマンスには納得させられてしまう風圧のようなものがあり、これぞまさしく大物というところでしょう。
一部の評価はあるていど納得できましたが、ではそれで衝撃を受けて自分もファンになりCDを買いまくったかというと、総じてマロニエ君の趣味ではないためかそこまでの熱気は帯びませんでした。

そのソコロフのDVDをたまたまネットショッピングで目にしたので、一度ちゃんとしたかたちで視聴してみようというわけで購入しました。
パリ・シャトレ座の暗い舞台にスタインウェイがポンと置かれ、これから始まるリサイタルのソリストというより、ただの通行人みたいな足取りでそそくさと現れたソコロフは、まずベートーヴェンのソナタ(No,9/10/15)を立て続けに弾きました。

視覚的に驚いたのは、やはりその圧倒的なテクニックと、完全というか異様なまでに脱力しきった指さばき。
さらに肩から腕全体を大きく使うあたりは鳥の翼のようでしなやかではあるけれど、あまりにもいちいちがその動作になるのは、そこまでする必要があるのかという疑問を感じたり…。

腕の上げ下げの度に演奏上の呼吸が入り、個人的にはそれなしで進んで欲しいような箇所もたくさんありました。

そうはいっても、強靭なフォルテ、対して弱音域ではこれ以上ないという柔らかな音でいかようにも語る術をもっているのは、これだけでも聴く価値があると思います。

さらに印象的だったのは、どの曲に対しても精神的集中がものすごく、終始全身全霊を打ち込んで身をすり減らさんばかりに演奏する姿でした。演奏家がこれだけ自分のエネルギーを惜しげなく投入して演奏しているという姿には圧倒されるものがありました。
いまどきのサラサラと無機質な、疲れの少なそうな演奏でお茶を濁す中途半端なピアニストが多い中、このソコロフの演奏にかける熱を帯びたような姿勢というものは、まずそれだけでも大変尊いものだと感じずにはいられません。

ステージマナーも独特で、最後のプロコフィエフのソナタが終わって万雷の拍手が起こっても、アンコールを弾いても、何度カーテンコールが続こうとも、表情は一貫してブスッと不機嫌そのもの。
一瞬の微笑みもないのは無愛想というより、ここまで徹するのはむしろご立派というべきでしょうし、そこがまた聴衆にも媚びない孤高のピアニストといった風情に映るのでしょう。

ただ、敢えて書かせていただくと、音楽的にはやはりマロニエ君の好みではないところが多々あって、美しい音楽を聴く楽しみというより、ソコロフという異色のスーパーピアニストの妙技を拝聴するという感じで、まさに彼の紡ぎだす世界に同席するという感覚でした。
気になるのは、あまたのフレーズや楽節ごとに深く大きな呼吸の刻みがあって、せっかくの音楽がいつも息継ぎばかりしているような感じを受けたことで、聴いていて次第に少し疲れてくるのも事実です。

それと、音楽的な表情というか語り口はわりにワンパターンのように感じたのも事実で、その点ではアンコールで弾いたクープランの二曲はとても好きだったし、バッハも素晴らしく、あまり直接的な表情を求められない作品のほうが向いているような気もしました。

ベートーヴェンもプロコフィエフも個人的好みでいうと大きく構えすぎて却って作品が聴こえてこない気がするし、ショパンもちょっと感性が合っていない気がします。

でも、こういう人が玄人受けするというのはよくわかりました。
音楽的に好きでも嫌いでも、とにかくすごいものに触れているという特別な感じがあるのは事実です。
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カテゴリー: CD | タグ:

ハルラー

先日、知人ととりとめもない雑談をしている中で、たまたま作家の話になり、「…村上春樹とか読まれますか?」とやや慎重な調子で質問されました。

こんなとき、普通なら相手の反応を見ながら徐々に答えを探るものかもしれませんが、「いいえ、まったく!」とむしろキッパリと答えてしまいました。
マロニエ君は村上氏の著作は一冊も持っていませんし、数年前、かなり話題になったときに本屋で30分ぐらい立ち読みしてみて、まったく自分の求める世界でなかったし、いらい手にしたこともなかったからです。

するとその方は「ああよかった、私も読まないです。」と言い、さらに「むしろあの人の作品を好きな人も苦手です。」ということで、どうやらそのあたりが一致しているらしいことに、お互いに安堵した感じになりました。

ところが、これに端を発して、話は思いもかけないような方向へと向かって行きました。
会話調は面倒臭いので省略しますが、主に以下のようなものでした。

村上春樹氏の熱心なファンは「ハルラー」と呼ばれ、さらにその中の、若い世代の中には、いまさらスターバックスが大好きだったりする人達がいるようですが、これだけではなんのことだかさっぱりわかりませんよね。

その人達はコーヒーといえばスターバックスで、それはシアトルズコーヒーでもタリーズでもダメなんだそうで、スタバを一種のブランドとして捉えているのかもしれません。

知人曰く、スタバの客層の中には「ハルラー」もしくは、そのご同類が確実に存在するようで、ときに医大生や若い医療関係者である率がかなり高く、スタバをいうなれば自己アピールの場として利用しているというのです。

ハルラーはスタバの混みあった店内の、あの喧騒の中で、わざと人に聞かせるための語句を混ぜ込んだ会話をし、自分達が医療関係もしくはその他社会的エリートに属する人種であることを周囲にことさらアピールするといいます。
それには小道具も必要で、テーブルの上に置かれるのは医学書などの専門書、難解な哲学書、あるいはビーエムやレクサスなどのキーホルダーをマークが見えるように上を向けて置いたり、ときに指でくるくる回すなどして自己主張を展開するというのです。
俄には信じがたいようですが、持ち物や言動によって自分達はエリートだよという信号を送っているわけでしょうし、じっさいそれで寄ってくる側の人間もいるというのですから驚きです。

世の中にはそんな手合はいるとしても、ごく少数では?と問い返しますが、「とても多いです!」という断固たる自信に満ちた答えが返ってきて、嘘をいうような人ではないだけに衝撃的でした。

その中でも、とりわけ自信がある人達は、外のテラス席に陣取って、思い思いの自己アピールをするのだそうで、彼らの手には最新のアップル製品などと並んで、村上作品が重要な位置を占めているらしいのです。
とりわけ新しいものは価値が高いようで、Macも村上作品も新作発売日にスタバにいけば、そこには必ずと言っていいほどそれを手にした人達がいて、「家に帰る時間が待てずに、今ここで読んでいるところ」という表現になっているのだとか。

そもそも何のためにそんなご苦労なことをやっているのかというと、そういう特別感を醸しだすことで男女の出会いもあれば、自称エリート達はこういう場を使って「お仲間」を探しているのだとか。
もちろん周囲に対する単なる見せつけで楽しんでいる一面もあるのでしょう。
では、何をするための仲間?と思いますが、自分達はケチな一般庶民とは違うのだから、同種で群れたいという意識もあるらしく、お互いに声をかけたいかけられたいという欲望が渦巻いているというのです。

もともとマロニエ君はその手の価値観をもった種族にはひときわ嫌悪感があって、本来なら一歩も近づきたくはありませんが、しかしそこまで突き抜けているのなら怖いもの見たさというか、一見の価値ありというわけで、ちょっと見てみたくもなりました。

とくに繁華街の中にある店舗ではそれが甚だしいようで、実はマロニエ君はそこに何度も行ったことがあるのに、一向にそんな気配には気づかず、ただ馬鹿正直に紙コップ入りの熱いコーヒーを飲むばかりで終わっていました。何たる不覚。
自称ヤジウマとしては、機会があればぜひそのあたりを観察してみたいと楽しみにしています。
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お役所体質の怪

一昨日、運転免許証の更新に行ってきました。
マロニエ君はこれでもいちおうゴールド免許なので5年ぶりの更新です。

いざ行ってみれば、何ほどもない簡単なことなのに、「来年は更新…」「今年は更新…」という感じで長いこと心の中にぶらさがっていた事なので、とりあえず終わってホッとしました。

出発が予定より遅れた上、かなりの渋滞でもありもし間に合わなかったら…とハラハラしながら、裏道ばかりをジグザグに走り抜けた結果、なんとか間に合いました。

少し前に届いていたハガキには、午後の受付は「15:30まで」とあり、その10分前の到着でしたが、この時間帯に来る人は少ないらしく、ええ?と思うほどガラガラ状態でした。
福岡の運転免許試験場は、美術館のようにやたら大きくて、こんな広い施設が果たしてどういうときに必要になるのか想像ができず来る度に不思議ですが、朝一とかならそれなりに納得できるのかもしれません。

云われるまま所定の書類に記入して受付に提出すると、まず最初が視力検査です。

自分でも視力が落ちたなぁという自覚があるので、今回はもう裸眼では無理だろうという危惧もあり、いちおう鞄の中には夜間の運転で使っているメガネを携帯していたのですが、直前に念のため目薬をさし、半分諦め気分でいざ検査に挑むと、ややきつい感じもないではなかったものの、いちおう裸眼で「合格」となり、心のなかでガッツポーズ。

考えてみると5年間にも同じ心配をしていたので、次はもうだめに決っていると思っていたのですが、嬉しい誤算でさらに5年伸びたというところです。

手続き開始から新しい免許証を手にするまでには、全部で5~6回の受付とか検査とか窓口への書類提出といった段階を通過するのですが、ここは言うまでもなく公的な施設なので、むろん民間とは違うのは百も承知だけれど、いかにも役所然とした感じの人がたくさんいることは目につきました。
時間帯が遅かったので、更新に来る人に対して関係者のほうが多いのもやむを得ないとしても、その人達の半分くらいは、いかにも手持ち無沙汰なようで、仕事中という緊張感は無いもしくは希薄で、かなり響く無遠慮な声でずっと私的なおしゃべりをしていたのはいささか気に障りました。
とくに、講習が行なわれる教室の入口(つまり廊下)に立って「緑の札をお持ちの方は、こちらにお入りください」というだけのことに、なんで大の大人が三人もいて、しかも大きな声で延々とくだらない私語をしているの?と思いました。

ここが一番ひどかったけれど、ほかでもとにかくおじさんおばさんたち(いずれも職員)のおしゃべりが盛大すぎて呆れたというか、少しは慎んだらどうかと思いましたね。

さらに驚いたのは、30分の講習に出てきた指導員のような方ですが、そこそこご年配とはお見受けしましたが、とにかくはじめの第一声から最後まで、ずっと言語不明瞭な上に早口が重なり、ほとんどなんて言っているのかわからないのはちょっとショックでした。

手許には2冊の冊子があり、「何ページを開いてください」というのはかろうじてわかったし、そこには決まりきったような安全運転に関する記述があって、しゃべっていることは文字を見ればなんとかわかりますが、耳だけで聞き取ることはほとんど不可能でした。
しかもこの方、来る日も来る日も同じことをされているのか、みょうに手馴れていて、しゃべり方もへんな抑揚がついてものすごい早口だし、手許のノートパソコンを操作して、正面のホワイトボードに文字やグラフのようなものを次々に映し出したりと、へんなところの手際だけはよくて、そのトークとのギャップは見ていてとっても奇妙でした。

ただ座っているだけの受講者を相手に、ちゃかちゃかと事は進行し、腕時計をチラチラ見ながらあと5分というところになると、ちょっとした宣伝や交通協会への入会の勧誘などに移り、それらをいうだけ言うと、まるでつむじ風のように講習は終了しました。
受講者はきっとみなさん内心では驚かれていたと思いますが、そこはお互い空気を読む日本人であるし、赤の他人同士、黙って立ち上がりひとことも言葉を交わすことなく教室を後にしました。

別の場合なら聞き取れないトークに苦情もでるでしょうが、ここでは免許更新さえ済めばいいことなので、それ以外のことは知ったことではないというわけです。

階下に降りると、1階ロビーの傍らにある専用窓口で新しい運転免許証をそれぞれ手渡され、各自、無感動な表情で眺めながら帰って行きました。
外に出ると、静かな曇り空が一面にひろがり、駐車場まで言いようのない変な気分で歩きました。
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