芸能人化?

知人がコンサートに行って、一通りでなく憤慨して帰って来られたようでした。

その方はユンディ・リのピアノリサイタルに行かれたものの、そのあまりの演奏の酷さに驚き呆れ、その不快感が翌日になっても収まらず、まだ続いているというのです。

曲目はオールショパンで、バラード全曲や24の前奏曲などであったようですが、冒頭のバラード第1番から、まったくやる気のない演奏で、「この人、ピアニストをやめるつもりか…?」とさえ思ったといいます。

どの曲でも楽譜を平置きにして、それを自分でめくりながら弾くというもので、大きなミスがあったり、パッセージごとすっ飛ばされたりと、とても本気で弾いているとは思えないもので、会場もまったく盛り上がらず、拍手もまばらだったといいます。
とりわけ24の前奏曲はCDの新譜が出たばかりで、普通なら時期的にもよほど手の内に入っているのが普通であるのに、この日のユンディ氏はこれの暗譜もおぼつかないといった様子で、ずっと楽譜を見ながらという状態が続いたそうです。

今も日本ツアーが全国各地で開かれるようですが、リサイタルという名のもとにギャラを取りながら練習しているといった風情で、自分の名声をどう思っているのかと首を傾げるばかりです。

ソロリサイタルでも、楽譜を見ながら弾くこと自体が悪いことではなく、晩年のリヒテルはじめ、ルイサダ、メジェーエワなど、現役でも楽譜を置いて弾くピアニストはいますし、楽譜を見て弾いたからといって、即それが非難されるものではありませんが、ユンディ氏の場合、どうもそういうこととは様子が違うようです。

むろんピアニストも生身の人間なので、上手くいくときもいかないときもあるし、気分が乗らないこともあるでしょう。しかし、いったんステージを引き受けた以上、プロの世界が厳しいのは当たり前。とくに一流人は、どんなに調子が悪くても「演奏クオリティの最低保証」ができないようでは、ステージに立つべきではありません。

わけてもユンディ氏は、ショパンコンクールの優勝者で、ドイツ・グラモフォンの専属アーティストで、世界を股にかけて活躍する第一級のピアニスト、チケット代も最高クラスのひとりですし、当然それに相当するギャラをしっかり受け取っているはずです。

ちなみに知人が聴いたのは3階のB席で9000円、S席は13000円だそうです。
しかも多くの人は数カ月前から前もってチケットを購入して楽しみにしていたのはもちろんのこと、この金額ともなれば、それなりの演奏を期待しているのは当然です。音楽的アプローチやセンスや解釈が合わないことはやむを得ませんが、無気力な演奏で惨憺たるステージになってしまうというのは、いったいどういうことなのかと思います。

そんな話に呆れていると、別の友人が変な話を持ってきてくれました。
11月2日(月)のYahoo!ニュースによると、この福岡シンフォニーホールでのリサイタルのわずか二日前、ユンディ氏はソウルでショパンのピアノ協奏曲第1番を演奏中、指が止まってしまうというアクシデントがあり、それを「指揮者とオーケストラに責任転嫁した」と報じられた由。それはブログで本人が否定と謝罪をしたけれど、韓国での批判は収まらず「芸能界で悪ふざけしすぎ」「芸能人だから練習するひまもない」「サイドビジネスが忙しいようだ」「ラン・ランを見習うべき」といったコメントであふれているとあります。

それに関連して他の記事にも目を向けると、まだありました。今年10月に開催され終了したショパンコンクールにおいても、ユンディ氏は史上最年少の審査員に抜擢されながら、そのうちの3日間を欠席したというもの。その理由というのがちょうどこの時期に上海で行われた人気俳優とモデルの結婚式に出席するためというのですから、こちらも「恥さらしな行為」として大ブーイングだったようです。

さらに別の記事(Record China)によると、最近のユンディ氏は女性スキャンダルばかりが話題で、台湾女性、中国の人気女優、香港の女優など次から次にお相手を変えては世間を騒がせているといいます。
もちろんクラシックの音楽家が聖人君子であるなどとは思ってもいませんし、多少のことはむしろ大目に見られる世界だろうと思いますが、なんとなく全体として受ける印象が、あまり気持ちのいいものではないのも事実です。
「かつては記者に追いかけられ、スキャンダルを捏造される被害者的な立場だったが、最近では進んで話題を提供し、自らを“娯楽化”していると批判も浴びている。」ともあります。へええ。

世界的な演奏家などが、ある意味何をやっても許されるのは、あくまでも本業において一流の仕事をやってのけることへの代償としてですから、肝心のピアノがボロボロになるようではだれも見向きもしなくなるような気がします。
せっかくあれだけの才能がありながら…惜しいことです。
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油断禁物

ある日突然、BS放送が一切映らなくなりました。
我が家は地上波の放送はケーブルテレビですが、BSはベランダにアンテナを取り付けてそこから受信しています。

このBSアンテナのすぐそばに木があって、枝葉が茂ると受信電波を阻害するので、今回もそれだと思って「高枝切り」を使って可能な限り周辺の枝を切り落としました。

高枝切りというのは自重もある上に刃先との距離があるぶん、作業はやり辛く、腕から肩にかけてガクガクに疲れるので、できるだけやりたくないのですが映らないとなればやむを得ません。
「さあこれでよし!」というわけで勇んでテレビをつけてみますが、果たして何の変化もなく、あいかわらず画面には「受信できません」という無情な警告が出るばかり。

それで購入した電気店に電話したところ、アンテナの調整に来てくれることになりました。
テレビとアンテナの間を何往復もしたあげく、設定などもやり直した結果、めでたくBSは復活し、出張料や作業代を支払って一件落着となりました。BSの電波受信もすこぶる良好とのことで、その点も一安心でした。

…のはずだったのに、それから数時間後、なんとなくBSにしてみると、なんと、また「受信できません」の警告が出ていることに愕然!
すぐに電話しましたが、その日はどうしても他の予定があるというので、翌日また来てくれて、DVDレコーダ内のBSアンテナ設定というのが「切」になっていたというので、「入」にすると映るようになるようです。

で、その設定画面の呼び出し方なども教えて帰って行かれましたが、信じがたいことに、また時間を置くと「受信できません」となり、どうやらひとりでに設定が「切」になってしまうようでした。それを伝えると、受信状況に問題はないことからも、レコーダの故障以外には考えられないということでした。
やむなくレコーダの修理受付に電話したら、出張代+修理代で、金額も見てみないとわからないということで「できれば買い替えられたほうが…」という決まり文句を聞かされる羽目に。

店側に残っている記録によれば、購入後7年が経過しており、それを修理するより、もはやブルーレイレコーダでも買ったほうが得策だというのもたしかに一理あります。出たてのころはずいぶん高かったブルーレイレコーダも、今では安いものなら3万円台からあるようで、さらに機種によっては容量が1TB(現在の250MBから一気に4倍)となったり、2番組同時録画なども可能だったり、なんと無線LAN機能のある機種同士なら別の部屋のレコーダと内容を共有することもできるなど、いま使っているものとは比較にならない多機能ぶりのようです。
ブルーレイレコーダは、これまでのDVDディスクの再生も可能だというので、それならDVDレコーダにこだわる必要もなく、けっきょく新しく買うことになりました。

できれば前回同様の大型電気店で買って、5年保証などのアフターサービスなどにも期待したいという漠然とした考えがあったのですが、よくよく話を聞いてみると、いざ故障というときは来てくれるのではなく、自分で店舗まで機器を持って行かなくてはならない(ということは取りにも行く?)など、その内容は期待ほどではないことがしだいにわかってきました。

近くの店頭で購入しても、いざ故障したときはそんな手間隙がかかるならメリットも薄らぐようで、ネットでもっと安く買ったほうがよほどせいせいするというものです。
ネットでは、これというお目当ての機種は4万円台前半で買えるのですが、これを店頭で買うと、どこも6000円から10000円ほど高くなり、しかも取り付け料も数千円が別途請求とのこと。ふーん…。

で、ネット購入に絞ったわけですが、こっちにもオプションで5年保証というのがあり、それに加入するには、これもまた店によって差がありますが、おおよそ3000円ぐらいが相場のようでした。
せめてこれぐらいは付けておいたほうがいいかなと思いつつ、遠方の店から通販で買った場合、どういう流れで保証を受けるのか気になったので直接電話して聞いてみることに。

その結果わかったことは、1年以内はメーカーの保証を使い、それ以降5年以内に発生した故障に関しては、購入店ではなく「保証会社」へ自分で連絡して手続きを行うというもので、機器も自分で取り外して、自分で梱包して、メーカーの修理受付の手続きをした上で発送するという、要するにすべての作業を自分の手でおこなうというものでした。

さらに手続き開始から修理完了まで、早くても2週間、場合によっては一ヶ月ほどかかることもあるらしく、その間は当然ながらレコーダは無しの状態になるわけです。代替機のことを聞くのは忘れていましたが、あの調子ではそんなものあるはずがないという印象でした。
それでもいいという方もいらっしゃるかもしれませんが、マロニエ君にしてみれば「そんな面倒くさいこと、ヤなこった!」というのが偽らざるところです。

ちなみに「安心」や「信頼」を標榜する大型電気店とどこが違うのかというと、どちらもメーカーで修理することに変わりはなく、大型店では修理の受付を店頭窓口で代行するという、たったそれだけの事!のようです。要するにネットで買ってもメンテ上のデメリットはほとんどなく、購入価格が安いだけマシだというのが率直なところです。

5年保証などと謳い文句だけは尤もらしいけれど、実際にそれを使うとなると、煩雑きわまりない現実が待っていることがわかって、自分の性格からしても、そこでまた不愉快やストレスでヘトヘトになるのは目に見えており、これもやめてしまいました。フウフウいったあげくに一ヶ月もビデオのない状態になるくらいなら、安いレコーダでも買ったほうがマシかもしれません。

なんだかトリックのようで、印象としては、安心や信頼とは真逆の、なにかにつけ気を許せない世の中だなぁという後味だけが残ります。こんなことも「自己責任」ってやつかと思いますが、何にしてものほほんとはしていられない時代なんだなあと思うばかりです。
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ふたりの達人

今年後半になって、我がディアパソンの調整は新たな段階を迎え、Bさんというディアパソンに精通された技術者さんに来ていただくようになったことはすでに書きました。

これまでに2回、計7時間ほどかけて基本的な部分に手を入れていただきましたが、つい先日3回目を迎えました。
今回は、BさんがさらにCさんという技術者さんを伴っての、お二人での来宅となりました。

ご当人の了解を得ていないので、Cさんがいかなる方であるかの詳しい記述は差し控えますが、ひとことで云うと数年前まで浜松のディアパソン本社でお仕事をされていた方です。
Bさんとしては、さらにディアパソンの大御所の意見も聞いてみようということのようですが、こんなお二人が揃うという事じたい、浜松や東京ならいざ知らず、福岡では僥倖に等しいような気がします。

しばらくは黙って音を出したり、あれこれの和音を鳴らすなどのチェックを繰り返されましたが、その後はBさんとお二人での協議が続きました。

その結果は、ウィペン下部のサポートヒール部分とキャプスタンの位置が大きくずれている事がタッチがスッキリしない原因ではないかという点で、見解はほぼ一致したようでした。

これを正しく説明する自信はありませんが、あえて挑戦してみます。
キャプスタンは鍵盤奥のバランスピン(支点)よりさらに奥側に取り付けられた、金色の小さな円柱状の金属パーツで、上部はもり上がるようになめらかなカーブがつけられています。
このカーブの真上に位置するのが、アクションの要であるウィペンです。そのウィペン下部のサポートヒールという出っ張り部分がキャプスタンと接触しており、鍵盤を押さえると、テコの原理でバランスピンより先にあるキャプスタンは上へあがり、それに連なってウィペンが突き上げられることでジャックが動き、ハンマーが発進し、打鍵に繋がります。

指先がキーを押さえた(弾く)力は、このキャプスタンからウィペンのヒールへと引き継がれていくため、ここは打鍵のための力の密接な伝達という意味で、非常に重要な部分というのはシロウトが見てもわかります。
そのため、ヒールの真ん中をキャプスタンが上に押し上げるようになっていなくては無理のない力の伝達はできません。ちなみにヒール最下部にはキャプスタンの上下動を受け止めるべく、厚手のクロスが貼り込まれています。

さて、我がディアパソンではキャプスタンとヒールの位置関係に見過ごせないレベルのズレがあることが確認され、このズレがあるかぎり、他の何をどうやっても対症療法に終わるので、まずはこの部分を本来あるべき状態に戻すことが基本であり急務であろうというのが結論でした。

クルマでも車軸のアライメント(設計上定められたタイヤの内外左右の微妙な角度)が狂ったまま、他のことをいくらあれこれやっても、気持よく真っすぐ走ったり、安定して曲がったりできないのと同じことでしょう。

具体的には、キャプスタンの位置よりもヒールが前方にずれており、Cさんがおっしゃるには、ダウンウェイトは決して重くないにもかかわらず、正しい力の伝達ができていないために、キレの悪い、もったりしたような感触が残ってしまい、それがタッチが重いと感じてしまう原因だろうとのこと。
タッチにキレがあれば、今の数値なら重いと感じるようなことはないはずとのことでした。

元はといえば、ウィペンをヘルツ式にわざわざ交換したのも、タッチを軽く俊敏にするための手段だったわけですが、このヒールとキャプスタンとの位置関係が悪いために、むしろねばっこいようなタッチになってしまっているというのはなんとも皮肉なことでした。

これを改善するための最良の方法は、キャプスタンの位置を変更することのようです。
鍵盤一式を持ち帰ってもらって、キャプスタンを88個すべて外し、その穴を埋木して、ヒールの真下に来るように位置を定めて付け直すというやり方のようです。

はじめからこの辺りまで目配りと調整ができていればよかったとも言えなくもありませんが、マロニエ君にとってはピアノは趣味であり、こういうことを通じていろいろ勉強にもなったほか、新たな技術者の方々とのご縁ができるなど、そこから得たものも大きく、これはこれでひとつの有意義な道のりだと思っています。

またCさんは、「前の方はとても良い仕事をしておられると思います」と言われていましたが、マロニエ君もその点はまったく同感で、信頼できる確かな仕事をしていただいたことは今でもとても感謝しています。

というわけで、近いうちに鍵盤一式を取りに来られることになりました。
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黄金期のホロヴィッツ

『ホロヴィッツ・ライヴ・アット・カーネギーホール』は少しずつ聴き進んでいますが、1953年〜1965年までのコンサート休止期間の前後では、何が変わったかというと、最も顕著なのは録音のクオリティだと思いました。

というか、演奏そのものは本質的にあまり変わっておらず、40年代までは多少若さからくる体力的な余裕を感じるのも事実ですが、50年代に入ると演奏も黄金期のホロヴィッツそのもので、12年間の空白の前後で著しい変化が現れているようには思いませんでした。
ただ、久しぶりに聴いた1953年のシューベルトの最後のソナタなどは、やはりこの魔術師のようなピアニストにはまったく不向きな作品で、どう聴いてもしっくりきません。

このボックスシリーズでは、従来は編集されていた由の音源にも敢えて手が加えられず、ミスタッチなどもコンサートそのままの演奏を聴くことができるのは楽しみのひとつでしたが、とくに耳が覚えている1965年のカムバックリサイタルなどでは、それがよくわかりました。

冒頭のバッハのオルガントッカータなどもより生々しい緊迫感が漲っているし、続くシューマンの幻想曲もホロヴィッツとは思えぬ危なっかしさに包まれてドキドキします。この日、12年ぶりのコンサートを前に緊張の極みでステージに出ようとしないホロヴィッツを、ついには舞台裏の人間がその背中を押すことで、ようやくステージに出て行ったというエピソードは有名ですが、この前半の演奏を聴くとまさにそんなピリピリした緊迫感が手に取るように伝わってきました。

バラードの1番などはたしかにアッ…と思うところがいくつかあって、ここでもオリジナルは初めて耳にしたわけですが、逆にいうと、昔から音の修正技術というのはかなり高度なものがあったのだなぁと感心させられます。

翌年の1966年のカーネギーライブは、前年のカムバックリサイタル同様のお馴染みのディスクがありましたが、66年は4月と11月、12月と三度もリサイタルが行われており、この年だけでCD6枚になりますが、その中から選ばれたものが従来の2枚組アルバムとなったらしいこともわかりました。

これを書いている時点では、とりあえず1966年まで聴いたところですが、カムバック後の10数年がホロヴィッツの黄金期後半だろうと思います。晩年は肉体的な衰えが目立って、演奏が弛緩してくるのは聴いている側も悲しくなりますが、この時代まではハンディなしのすごみに満ちていて、まさに一つ一つがあやしい宝石のような輝きをもっています。

破壊と優雅、刃物の冷たさと絹の肌ざわりが絶え間なく交錯するホロヴィッツのピアノは、まさに毒と魔力に満ちていて、この時代の(とりわけアメリカの)ピアニストがそのカリスマの毒素に侵されたであろうことは容易に想像がつきます。

ホロヴィッツの魔術的な演奏を支えていたもののひとつが、彼のお気に入りのニューヨーク・スタインウェイです。メーカーのお膝元で、数ある楽器の中から厳選された数台のピアノがホロヴィッツの寵愛を受け、自宅や録音やコンサートで使われたといいます。

それでも、よく聴いていれば音にはムラもあり、今日で言うところの均一感などはいまひとつですが、ニューヨーク・スタインウェイ独特のぺらっとした感じのアメリカ的な音、さらにはドイツ系のピアノにくらべると、音に厚みがなく精悍な野生動物のようなところもホロヴィッツの演奏にピッタリはまったのだと思います。

でもそれだけのことなのに、30年以上むかし、日本のピアノメーカーの技術者達は、ホロヴィッツのピアノにはなにか特別な仕掛けがあるのではということで、日本公演の折だったかどうかは忘れましたが、開演前のステージへ数人が許可なく這い上がっていってピアノを観察したあげく、あげくには床に仰向けになって下から支柱や響板などの写真に撮ったりしたというのですから驚きます。

まあ、それほど強い興味と研究心があったということでもありますが、この時代はまだそんなことがただの無礼や苦笑で許された時代だったのかもしれませんね。

まだまだ聴き進みますが、ホロヴィッツばかりずっと聴いていると、神経が一定の方向にばかり張りつめるのか、ときどき途中下車してほかの演奏が聴いてみたくなるのも事実です。
でも買ってよかった価値あるCDであることは間違いありません。
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『ピアノのムシ』2

マンガ『ピアノのムシ』は、順調に読み進んでいますが、いろいろな意味で感心させられるものでした。

まず読み始めから驚くのは、主人公がピアノ技術者というだけあって、いたるところでアクションや弦や鍵盤など、絵にすることが極めて困難と思われるピアノの内部構造が頻出し、それはほとんどごまかしもなく、あきれるばかりに正確に丁寧に描かれていることです。アップライトの上下前板を外したところひとつ描くのも並大抵の手間ではないでしょう。
この点だけでも、漫画家というのは秀でた画力はもちろん、たいへんな忍耐労働ということがわかります。

また、ピアノを口実にした成功物語やラブストーリーの類ではなく、各章が独立したピアノ技術上あるいは業界に巻き起こるあれこれの裏実情のたぐいが話のネタになっており、勢いかなり専門性の高い内容となっている点にも驚かずにはいられません。

マロニエ君などのピアノ好きが喜ぶのは当然としても、世間一般を見渡せば、ピアノなんてほとんど誰も興味のないものであるし、ましてその調律がどうしたこうしたなんて意識したことさえないでしょう。そんな世間を相手に、このマンガが訴え問いかけて行くものは何のか?さらにはメインターゲットとなる読者はだれかという疑問が終始つきまといます。
たしかにマロニエ君を含む一部の好事家や調律師さんなど業界関係者にはおもしろいととしても、まさかそんな超少数派を相手に、雑誌に連載するマンガとして成り立っていくものだろうかと不思議な気分。

もし自分なら、まったく興味のないジャンルで意味もわからない専門的なことの羅列だったら、きっとページを繰る気もしないでしょう。しかるに連載が継続し、順次単行本(現在6巻まで刊行)になっているのですから、果たしてその購読層というのはどういう人達なのか…まあここが最大の不思議です。

また、一読するなりわかりますが、そのストーリー立てやそこで取り沙汰されている内容は、とても一漫画家の書けるようなものではなく、よほど専門家が張り付いて指南と確認を繰り返しているに違いないと思っていましたが、巻末のページに取材協力をした調律師さんやピアノ店などの名前が列記されており、やはり!と納得でした。

巷ではよく「マンガの影響で」とか「あれはもともとマンガがルーツ」などというような話を耳にすることがありますが、その流れでいうと、これを読んで、一流調律師を目指す若者が出てくるのでしょうか?…だとしたら、それはそれでおもしろいと思います。というのも、普通に調律学校や養成所などにいってそれなりの技術者になるより、どうせやるなら始めから一流を目指して挑むというのは大事なことだと思うからです。

マロニエ君の認識では、おしなべてマンガの主人公というのは、何らかのかたちで「英雄」である場合が多いのだろうと思われますが、その点でいうと、主人公である調律師の蛭田は、業界(とりわけ技術者)の間で作り上げられた一種の「英雄」なのだろうという気がします。

物事に拘束されず、昼から酒を飲み、超のつく無礼者、相手が誰であろうと言いたい放題、仕事も選びたい放題、嫌なものはイヤだと完膚なきまでに拒絶しまくる、正道から外れた一匹狼、それでいて技術者としての腕は突出して天才的で、おそろしく繊細な耳を持ち、どんな難題難所でもたちどころに原因を突き止め解決してしまうという、いわばカリスマ的超一流調律師とくれば、(数々の振る舞いはともかく)これはもう調律師の理想の姿でありましょう。

並外れた才能と実力ゆえに、人の顔色をうかがうこともなく、組織の一因として汲々とすることもなく、三船敏郎演ずる素浪人のように、哀愁を秘めつつ好きなように生きていくニヒルなサムライの姿に通じるのかもしれません。

これは裏を返せば、蛭田の取っている行動は、世の調律師さんのの置かれた忍従の世界を、逆写しにしているようにも受け取れます。
忍従のちゃぶ台をひっくり返すように展開されていく一流調律師の目の前に広がる数々の出来事、それがこの『ピアノのムシ』なんだろうと思いますし、そんな奇想天外が許されることこそマンガの醍醐味というところでしょう。

それにしても、繰り返すようですが、よくぞこんなマンガが出てきたもんだとその僥倖には素直に驚き、素直に喜びたいと思います。
ありきたりの発想では商売もままならない世の中、ニッチ商品なる言葉を初めて聞いたのがいつ頃の事だったわすれましたが、これはまさにマンガのニッチ作品なのかもしれません。
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運の波

1年ぐらい前だったか、正確なことは忘れましたが、『ホロヴィッツ・ライブ・アット・カーネギーホール』というCD41枚+DVD1枚という大型のBOXセットがSONYから発売されました。
ホロヴィッツが1943年から1978年までにカーネギーホールで行った主なコンサートを収録したもので、箱もカーネギー・ホールの外観を模したもので、発売当初から目にとまっていたものでした。

マロニエ君は取り立ててホロヴィッツのファンというわけではありませんが、1965年のカムバックリサイタルの冒頭の緊迫したガラスのようなバッハや、この日の興奮の頂点となったショパンのバラードなどは、きわめて深い印象を残す録音であったことは間違いありません。

子供の頃、カーネギーホールという音楽の殿堂がニューヨークにあるということを知ったのも、ホロヴィッツの存在を知ったことと同時だったことをよく覚えています。
亡命ロシア人であったホロヴィッツがアメリカに移り住んで終生暮らしたのがニューヨークで、カーネギー・ホールは彼にとっても最も慣れ親しんだ最高のステージであったことでしょう。

そこでおこなってきた数々の演奏の軌跡を網羅的に聴くことが出来るなんて、現代人は幸せです。
…とかなんとか言いながら、マロニエ君はこのBOXセットが出た時にすぐに買うことはせず、「そのうちに」という気持ちでいたのがいけなかったのです。
つい最近、ホロヴィッツの別のセット物が発売されることになり、それにも興味津々だったものの、順序としてその前にあれを買っておいかないと…と思い立って探してみると、あれ?…どこにもないのです。ネットのHMVやタワーレコードで検索をかけても出てこないので、こちらもむきになって探していると、その片鱗のようなものはなんとか出てきたものの、要するに限定発売だったものが完売してしまっており、だからもう通常の商品として検索にもひっかからないということが判明。ガーン!!!

今どきはCDもどうせ売れないのだから急がなくても大丈夫などと悠長に構えていると、こんなことになるのだと思い知りましたが、無いものは無いのだからじたばたしても始まりません。

こんなときの頼みの綱であるAmazonで検索したら、さすがにこちらではあっけなく出てきました。
どれもほとんど新品ですが、値段はほぼ定価に近い2万円が最安で、高いものでは5万円を超えるものまであるのには驚きました。
まあ、それでも大手CD店では軒並み完売しているものが今なら新品で手に入るのだし、なにより自分が出遅れたせいで、多少安く買える時期に買わなかったことが原因でもあるし、ほぼ定価なら仕方がないと納得はしてみました。しかし、やはりこのぐらいの値段になると、じゃあ直ちに購入ボタンを押すのも気乗りせず、残り一点というわけでもないから、またしても先送りにしてしまいました。

と、そんなとき。天神での待ち合わせのための時間調整のためにタワーレコードを覗きました。
過日書いたように、このところCDは負けが続いて、しばらく買うのはよそうと思っていたので、この日は正真正銘の見るだけだったのです。

見るだけなので、普段はあまり見ないコーナーなどを見て回り、積み上げられたBOXセット(大抵ろくなものがない)のところに来て、あれこれ眺めていると、ふと何か気になる模様が目に止まりました。
それを認識するのに、1~2秒ぐらいはかかったか、かからなかったか、そこは正確には覚えていませんが、とにかくほんの一瞬の空白を挟んで、あんなに探した『ホロヴィッツ・ライブ・アット・カーネギーホール』がいま目の前にポンとあることがわかり、さすがにこの時は胸がズーンとしてしまいました。

すかさず手にとって見ますが、まぎれもなく「それ」でした。
すぐに価格を見るため箱を上下左右に動かしてみると、隅の方に「9,800円」という赤い線の入ったシールが貼ってあります。アマゾンの最低価格の半分です。

迷うことなく、いそいそとレジへ直行したのはいうまでもありません。

というわけで、こんなラッキーがあるなんて、すごいなあ~とルンルン気分でしたが、これによって、このところをのCDの負け続きを一気に取り返すことができたのだと思うと、嬉しさと不思議さが半々でした。
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ルールの死角

つい先日、友人とIKEAに行って、ついでに食事をしていた時のことです。

この日は平日の夜だったので、店内もガラガラでレストランもお客さんは少なめでした。
カートで食べ物を運んで適当にテーブルに座ると、すぐとなりに高校生らしき制服姿の男子生徒が3人で来ていて、テーブルの上には本やノートや筆記用具がこれでもかとばかりに広がっていました。

なんと彼らはそこで試験勉強をやっているらしく、マクドナルドなどの店内で長時間椅子とテーブルを占領して勉強のようなことをやっているのはしばしば目にしていましたが、それがついにはIKEAのレストランにまで進出してきたのかと思いました。

見たところ、食べ物はなにひとつ無く、ドリンクバー(たぶん120円)のためのカップとグラスがあるばかり。
とりあえず勉強という目的があるためか、それほどおしゃべりはしませんが、3人が代るがわる飲み物を取りに行くのは視界の中でもいささか目障りなほど頻繁で、まずい席に座ったものだと思いました。

ときどき骨休めなのか、断片的な会話が聞こえてきますが、飲み物を持って戻ってきたひとりが椅子に座りながら「8杯目!」などと言ってはニヤリと笑ったりしています。
それからも、おかわりのための往復はとめどなく続きました。

いまさらこんなことは珍しい光景でもなし、新鮮味もない話題かもしれませんが、見ればこの3人は、4人がけのテーブルを縦につなぐように占領しており、つまり8人分の椅子とテーブルを3人で広々と使っています。この日は空席のほうが多いくらいでしたから、それで直接的な迷惑が発生したというのではありませんが…。

それにしても、こういう場所で勉強するというのは、どういう感覚なのかと理解に苦しみます。仲間と一緒に勉強したいという気持ちはわかるとしても、そのために店舗の飲食のためのテーブルを目的外に長時間使用するというのはどう考えてもいただけません。

さらには友人が見たと言っていましたが、彼らの足元には大きなスポーツバッグが置いてあり、おかわりを持ってくるたびに何かをそこへさっと放り込んでおり、帰りしなにファースナーが開いているので中が見えたんだそうですが、そこには未使用のミルクや砂糖やティーバッグなどがたくさん入っていたとのこと。
こうなると、ドロボウではないのか!?

最小限度の注文をアリバイにして長時間テーブルを占領し(空いているのをいいことに8人分のスペース)、延々とおかわりを繰り返したあげくに、モノまで持って帰るというのは言語道断です。

これがいっそ万引きなどであれば、店や警察に捕まる危険もあるし、犯罪として明確な罪科があるのに対し、こういうやり方は、いわば店が定めたルールの上に乗って悪用する行為であって、最終的に罪に問われることもないことを見通している点が、なんとも現代的で抜け目がなく、その浅ましさには横にいるこちらのほうがイライラさせられました。

しかもどの顔を見ても、悪事どころか、いかにも善良そうな面立ちで、そこに却って凄みを感じます。

昔の学生時代が良かったなどというつもりはありませんが、あんなに若い頃から、ルールの死角をすり抜けるような悪辣な行為を公然とやってのけて、それを当たり前のようにして育っていくというのは、なんだか末恐ろしい気がしました。

昔のように、無邪気に互いの家に往き来できないような、いろんな複雑な背景が現代にはあるのかもしれないと思いますが、とにかく難しい時代になったものだと思います。

この3人、マロニエ君達が来る前からいて、食事が済んで、お茶をして席を立つ頃も、一向に帰る気配はありませんでしたから、きっと閉店までいるのでしょう。
あの言葉の調子ではひとり10杯として3人で30杯、テーブルを2つ占領され、ミルクや砂糖やティーバッグまで大量にお持ち帰り、それで払った料金は3人合計360円となれば、お店はたまりませんよね。

当人たちは、そういうことは関係ないし、考えもしない、もしくはIKEAは世界的な企業なんだから、それっぽっちのことは痛くも痒くもないはずと思うのでしょうか…。
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『ピアノのムシ』

以前から書こうと思いつつ、つい書きそびれていたこと。

マロニエ君は本はそれなりに買うものの、マンガは日本の誇るサブカルチャーなどと云われていますが、基本的に興味がありません。
ただ、いつも行く福岡のジュンク堂書店は、4Fが音楽書や芸術関連の売り場なので、1Fからエレベーターで直行し、そこから下りながら他のフロアにも立ち寄るというのがいつものパターン。

4Fでエレベーターのドアが開くと、そこはものすごい量のマンガ本売り場で、狭い通路を左に右にとすり抜けたむこうが音楽書や美術書のエリアとなっているため、よく通る場所ではあったのです。

最近はクラシック音楽やピアノを題材にしたマンガもあるようで、その最たるものが「のだめ」だったのかどうか…よく知りませんが、楽譜やCDまでマンガから派生したアイテムが目につくようになり、もはや「ピアノ」という単語の入ったタイトルぐらいでは反応しなくなっていました。
ところが、あるとき本の表紙を見せるように並べられた棚を通りかかったとき、一冊のマンガ本の表紙には、グランドピアノを真上から見たアングルで男性が調律をしている様子が描かれているのが目に入りました。しかもそれが、やけに精巧な筆致で、フレームの構造およびチューニングピンの並び加減から、描かれているのはスタインウェイDであることが明白でした。
「えっ、これは何…?」って思ったわけです。

フレームに「D」と記されるところが「E」となっているのは、まさに内容がフィクションであるための配慮で、歌舞伎では忠臣蔵の大石内蔵助が大星由良之助になるようなものでしょう。
これがマロニエ君が荒川三喜夫氏の作である『ピアノのムシ』を認識したはじまりでした。

そういえば、アマゾンで書籍を検索する折にも、近ごろは関連書籍として「ピアノの…」というタイトルのマンガが多数表示されてくるし、それもいつしか数種あることもわかってきていたので、いったいどんなものなんだろう?…ぐらいは思っていましたが、もともとマンガを読む習慣がないこともあって、ずっと手を付けずにきたというのが正直なところです。

さらに店頭ではマンガは透明のビニールでガードされて中を見ることができず、「見るには買うしかない」ことも出遅れの原因となりました。

話は戻りますが、その表紙の絵ではアクションを手前に引き出したところで、そもそも、あんなややこしいものをマンガの絵として描こうだなんて、考えただけでも大変そうでゾッとしますが、それが実に精巧に描かれているのは一驚させられました。
察するに、これは弾く人を主人公としたメランコリーな恋愛や感動ストーリーではなく、あくまで調律師を主軸とした作品のようで、帯には「ピアノに真の調律を施す唯一の男」などと大書されており、さすがにここまでくると興味を覚えずにはいられません。

「買ってみようか…」という気持ちと「いやいや、バカバカしいかも」という思いが入り乱れて、とりあえず時間もなく、この日買うべき本もあったので、このときはひとまず止めました。

その後はちょっと忘れていたのですが、アマゾンを開くと、過去に検索したものや、頼みもしないのにさらに関連した商品が延々と提案されるのは皆さんもご存知の通りで、その中に再び『ピアノのムシ』があらわれました。
いちど興味が湧いたものは、どうも、その興味が湧いたときの反応まで記憶されるものらしく、書店であの表紙を見たときの気分が蘇り、やっぱり買ってみようかという気に。

こうなると、書店に出向いて、あの膨大な量のマンガ本の中から1冊を探す億劫を考えたら、とくにアマゾンなどは1クリックですべての手続きが済むのですから、ついにポチッとやってしまいました。

こうして、我が家のポストに『ピアノのムシ』第1巻が届き、以降続々と増えているところです。
感想はまたあらためて書くことに。
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もう少し弾く…

「できれば、もう少し弾いてください」
先日ディアパソンの続きの調整にこられた調律師さんは、帰りしなマロニエ君にこう云われました。

以前も同じようなことを書いたかもしれませんが、よろず機械ものというのは、適度に使うことで好ましいコンディションを維持できるものだということを、今また、あらためて感じさせられています。
人の体や脳も同様で、これが関係ないのはデジタルの世界だけかもしれないですね。

むろん使うといっても酷使ではいけないし、機能に逆らう過度な使い方もいけない。
逆に使い方が足りない、あるいは放ったらかしというのも、消耗がないというだけでこれまた良いことはありません。

最も良い例が家屋で、人のいなくなった家というのは、恐ろしいスピードで荒れ果て、朽ちていくのは誰でもよく知るところです。人が住んで使われることで、家はその命脈を保っている典型だと思います。

これはピアノにもある程度通じることです。
ピアノも長年ほったらかしにされると、弦はさび、フェルト類は虫食いの餌食になり、可動部分は動かなくなるかしなやかさを失ってしまうのはよく知られています。かといって教室や練習室にあるピアノのように、休みなくガンガン酷使されるのも傷みは激しいようで、バランスよく使うというのは意外に難しいもの。

マロニエ君宅のピアノはそのどちらでもないけれど、強いていうなら、弾き方が足りないのは間違いないと自覚しています。もともとの練習嫌いと、技術的な限界、さらには趣味ゆえの自由が合わさって、つい弾かなくなることが多いのです。

楽譜を見て、パッと弾けるような人ならともかく、マロニエ君などはひとつの曲を(自分なりに)仕上げるだけでも、相当の努力を要します。しかも遅々として上達せず、それをやっているうちにテンションは落ち、別の曲に気移りし、結局どれもこれもが食い散らしているだけで、なにひとつものになっていないというお恥ずかしい状態です。

知人の中には、ひとつの曲を半年から一年をかけてさらって仕上げていくという努力一筋の方もいらっしゃいますが、あんなことは逆立ちしてもムリ。見ていて、ただただ感心するばかりで、「よし、自分もがんばろう!」などという心境にはとてもじゃないけどなれません。
むしろ、どうしたらあんな一途なことが出来るのか不思議なだけで、むろん自分のがんばりのなさもホトホトいやになるのですが、そこまでしなくちゃいけないと思うと、ますますピアノから遠ざかってしまいます。

心を入れ替えて、一つの曲の練習に没頭するなどということは到底できそうにもないし、だいいち自分には似合いません。たぶん死ぬまで無理で、これがマロニエ君の弾き手としてのスタイル(といえるようなものではないけれど)だと諦めています。

根底には、いまさらこの歳で、ねじり鉢巻で練習したところでたかが知れているし、根本的に上手くなれるわけはないのだから!という怠け者特有の理屈があるのですが、どこかではこれはそう悪い考えでもないとも思っています。

話が逸れましたが、だからピアノにはあれこれこだわるくせして、実際どれくらい弾いているのかというと、毎日平均すると5分~10分弾かれているに過ぎないというのが実のところですし、それも厳密に言えばダラダラ音を出しているだけで、「弾いている」と胸を張って言えるようなものでもない。

で、冒頭の話にもどれば、これではやはり使い方が少なく、楽器の状態としても理想ではないと思うわけです。本当ならきちんと弾いて使って、その上で技術者さんにあれこれ要求するのが順序というものでしょう。

ところがごく最近のこと、たまたま楽譜が目についたので、ショパンのマズルカを1番から順々にたどたどしく弾いていると、ちょっとおもしろくなって、珍しく2時間ほど弾いたのですが、後半はピアノがとても軽々と鳴ってきたし、アクションも動きが良くなったように感じました。

また30分以上弾くと、弾かないから日ごとに硬化してくるように感じていた指も、いくらかほぐれて活気が戻り、ちょっとは動きも良くなるし、そのぶん自由がきいて脱力もできてくるのが我ながらわかって、こういうときはさすがに嬉しくなってしまいます。
この壁を突破すると、いささか誇張的な言葉でいうなら陶然となれる世界が広がるわけです。

普段からきちんと練習を積んでいるような人は、いつもこの「楽しい領域」に出入りしていて、だから練習もモリモリ進むものと思われますが、マロニエ君の場合、滅多なことではこの状況は訪れてくれません。何ヶ月に一度あるかないかの貴重な時間ですが、たしかにこの刹那、やっぱり練習もしなくちゃいけないし、楽器も弾かなくてはと思うのは嘘偽りのないところです。

そうなんですが、その気分が持続しているのはせいぜい翌日ぐらいまでで、それも前日より弱くなっていて、3日目にはきれいに元に戻ってしまいます。マロニエ君自身がそうなってしまうのは一向に構わないけれど、それにつれて、ちょっぴり花ひらいたかに思えたピアノが、また少しずつ眠そうになってくるのはもったいない気がします。

谷崎潤一郎の何かの文章の中に「怠惰というのは東洋人特有のもの」というような意味のことが書かれていて、読んだときはたいそう意外に思った記憶がありますが、その点で言うとマロニエ君はまぎれもなく東洋人なんだということになるんだろうなぁと思います。
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ケンプのショパン

よろず趣味道において、掘り出し物に出会うことは共通した醍醐味のひとつかもしれませんが、これがなかなか…。

演奏家やレーベルなど、ほぼ内容がわかっているものは安心ではあるけれど、そのぶん発見の楽しみや高揚感は薄く、予定調和的に楽しんで終わりという場合も少くありません。もちろん予想以上の素晴らしさに感銘する場合もあれば、期待はずれでがっかりということもあります。

いっぽう、セールや処分品などでギャンブル買いしたものは、パッケージを開けて実際に音を聞いてみるまではハラハラドキドキで、中にはまるで知らないレーベルの知らない演奏家、知らない作品と、知らないづくしのものもあったりで、そんな中から思いがけなく自分好みのCDなどがあると、その快感はすっかり病みつきになってしまいます。

最近はCD店も縮小の波で小さく少くなりましたが、この冒険気分というのはなかなか抜けきらないもので、ときには気になるCDを手にすると、処分品でもないのに一か八かの捨て身気分でレジに向かってしまうこともあったりしますし、ネットでも同様のことがあるものです。

ギャンブル買いである以上は、ハズレや空振りも当然想定されるわけで、それを恐れていてはこの遊びはできません。それはそうなんですが、このところはすっかり「負け」が込んでしまって、いささか参りました。

良くないと思うものの具体名をわざわざ列挙する必要もないけれど、日頃のおこないが悪いのか、運が尽きたのか、マロニエ君の勘が鈍ったのか、連続して5枚ぐらい変てこりんなものが続き、内容が予測できるはずの演奏家のCDさえも3枚はずれてしまいました。さらにその前後にも、なんだこれはと思うようなもの…つまり返品できるものなら返品したいようなCDが続いてしまい、こうなるとさすがにしばらくはCDを買う気がしなくなりました。

そんな中で、かろうじて一定の意味と面白さが残ったのは、ヴィルヘルム・ケンプのショパンで、1950年代の終りにデッカで集中的に録音されたものが、タワーレコードの企画商品として蘇った貴重な2枚組です。
内容はソナタ2番と3番、即興曲全4曲、バルカローレ、幻想曲、スケルツォ第3番、バラード第3番、幻想ポロネーズその他といった充実した作品ばかりです。

ケンプといえば真っ先に思い出すのはベートヴェンやシューベルトであり、ほかにもバッハやシューマンなど、ドイツものを得意とするドイツの正統派巨匠というべき人で、そんな人がまさかショパンを弾いていたなんて!と思う人は多いはずです。

しかも聴いてみると、これが予想以上にいいのです!
とりわけマロニエ君が感銘を受けたの4つの即興曲で、これほど気品と詩情でこまやかに紡がれたショパンというのはそうざらにはありません。わけても即興曲中最高傑作とされる第3番は、これまた最高の演奏とも言えるもので、こわれやすいデリケートなものの美しい結晶のようで、ケンプのショパンの最も良い部分が圧縮されたような一曲だと思います。

逆にソナタやバルカローレなどはやや淡白な面もあって、もう少し迫りやこまやかな歌い込みがあってもいいような気もしますが、それでも非常に端正な美しいショパンです。

ただし、全体としてはケンプらしい中庸をいく演奏で、どちらかというと良識派の模範演奏的な面もあるといえばいえるかもしれませんが、それでもショパンを鳴らせるピアニストが少ない中で、けっこうショパンが弾けることに驚きました。
晩年はなぜショパンを弾かなかったのだろうと思います。

本人ではないのでわかりませんが、やはり当時は今以上に自分につけられたレッテルに従順でなくてはならなかったのかもしれない…そんな時代だったのだろうかとも思いました。ただ、実演ではベートーヴェンなどでもレコードよりかなり情熱的な演奏もしましたから、そんなテンションで弾かれる巨匠晩年のショパンも聴いてみたかった気がします。

このCDの中では幻想曲などが、やや情の勝った演奏だという印象があり、ケンプという人の内面には、実はほとばしるような熱気もかなりあったのだろうと思わずにいられませんでした。

なんでも手の内を見せびらかして、これでもかと演奏を粉飾してしまう現代のピアニストとはずいぶん違うようです。
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カテゴリー: CD | タグ:

報道のセンス

今どきのニュースは、後味の悪いものが年々増えてくるようで、世の中はどうなっていくのだろうという出口の見えない不安にかられることがしばしばです。
政治や外交のこと、経済のこと、内外の殺伐とした事件など、憂慮すべき問題はあとを絶ちません。

そんな中では、最近はようやく安堵できる大ニュースが複数あったのは幸いでしたが、ここで政治や思想に関することを書く気はないので、それには敢えて触れないでおきます。

ニュースに関する不満は、ニュースそれ自体の内容もさることながら、マスコミの報道の仕方も大いに関係していると云うべきでしょう。思想的偏向があるのはもちろん、とくにTVニュースなどでは、つまらぬ流行の押し付けや視聴者の不安を煽って楽しんでいるかのような趣味の悪ささえ感じます。
また、基本となるべきニュースはそこそこに、すぐに地域型の美談のたぐいに走るとか、特集などと称してお涙頂戴の話題に切り替わるのは、いつもながら「こんなものがニュースという枠内で取り上げるべき事柄だろうか…」と違和感を覚えることが、あまりに多すぎるように思います。

もうひとつは、あれほどまでにスポーツを大々的に、何かというと国民最大の関心事であるかのように、わざとらしいテンションで取り上げるのもいかがなものかと思います。
それに連なって、スポーツの場で最高の競技をすることが本分であるアスリートにどうでもいいようなことを喋らせて、それをありがたがるという風潮もどうにかならないものか…。
そもそもスポーツってそんなにまでエライんでしょうかね。

いずれにしろ、マスコミ自身がまず報道するネタの取捨選択をするわけですが、その尺度からしておかしいと思うわけです。

昨日のニュースを例にとっても、第3次安倍改造内閣が発足したにもかかわらず、それはずっと後で、どのチャンネルも申し合わせたように冒頭からノーベル賞一辺倒、これが放送時間の大半を占めています。
知るかぎりで、NHKの7時のニュースはそうではなく、それが珍しいくらいでした。
日本人がノーベル賞を受賞することは、むろん嬉しいことではあるけれども、それを取り扱うニュースの在り方はというと、これはまったくいただけないもので、受賞の根拠となる業績や研究成果などについての説明はパパッと通り過ぎるだけで、あとは受賞者の家族や友人や恩師などの喜びの様子をやたらと取り上げて、それのくどいことには閉口します。

むろん偉大な研究の影には、それを支えた多くの協力者がいるはずですから、家族その他のコメントなども少しはあるとしても、ものには限度というものがあり、あくまでも主役は受賞者でありその業績なのですから、それをはき違えたような捉え方はどうもいただけません。

だからといって、シロウトに専門的な高度な科学の話などをされてもなかなかわかりませんが、やはりそこを少しでも噛み砕いて、一般人にもわかりやすく紹介すべきではないのかと思います。
しかし、マスコミは受賞者の功績より、受賞したという結果だけに興味があるようで、「おらが村から…」的な視点で地元や身内の人間が今とばかりに前に出過ぎることは、せっかくのノーベル賞がただのホームドラマへと変質していく気がします。

マスコミは「喜び報道」の名のもとに、せっかくのノーベル賞をこんなにベタベタと手垢だらけにしていいものかと思います。少なくともマロニエ君はノーベル賞ぐらいのことになれば、もう少しスマートなやり方で栄誉を称えていくことを望みます。

芸術分野では世界的権威である高松宮殿下記念世界文化賞などは、受賞者の取り扱いもよほどまともで、どうしてこんなふうにできないものなのか。
スポーツや科学は巨大なビジネスになるが、芸術はなりにくい…その差なのか。

ともかくノーベル賞の報道は、ほとんどスポーツのノリで金メダル感覚というべきで、これまでの受賞数が20いくつというようなことを繰り返し繰り返し言うのは、やっぱり金メダルでしかないんだなあと思います。
むろん日本は大したものだと思いますが、数でいうならアメリカなどは300人以上ですから、そういうことを言うのもほどほどに願いたいところです。

何かというと「オトナの対応を…」などとしたり顔でいうけれど、ノーベル賞受賞の喜び方というのは、日本はずいぶんと洗練を欠き、ベタベタした家庭色が強すぎて、見ていて喜ばしい気持ちがいくぶん差し引かれてしまうのは、却って受賞者の高い功績をマスコミが汚してしまっているように思います。

喜びをストレートに表すことと、理知的であることは、両立しないものなんでしょうか。
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まんべんなく

使いすぎる害と、使わなさすぎる害。

来る日も来る日もふたは閉じたままの使われないピアノも哀れですが、逆にあまりに繁忙を極めるピアノというのも、どこかブラック企業に就職した人のような痛々しさを感じることがあります。

先日もある調律師さんからお電話をいただいて、近くのファミレスでお茶をしていたときのこと。
この方は、福岡のあるホールの保守管理をされているのですが、今年も弦とハンマーの交換をされたらしく、驚いてしまいました。

たぶん20年以上経ったスタインウェイDですが、これまでにも何度か弦とハンマーは交換されており、稼働率の高いホールのピアノというのは、こうも消耗が激しいのかと思うばかりです。

年がら年中、本番のステージとして、力の限りを尽くすピアニストによって本気で演奏されるピアノは、見方によってはピアノ冥利に尽きるとも言えそうですが、リハーサルから含めると、そのピアノが鳴っている時間と密度は恐ろしいほどのものだろうと思いました。

同じスタインウェイDでも、殆ど使われることもないまま何年もピアノ庫で眠っている個体があるかと思えば、このようにひっきりなしに使わ続けるピアノもあるわけで、同じ工場で製造出荷された同じモデルでも、行先によって本当にさまざまな生涯を送るようです。

どちらが幸せかといえば、それはもちろん頻繁に使われたピアノのほうだと思いますが、そうはいってもあまりの酷使で数年おきに弦やハンマーを交換されるとなると、なんとはなしに可哀想な気もしてしまいます。
しかも、ホールで本番に供されるピアノともなると「言い訳」は通用しないことから、換えたてのハンマーでもいきなり豊麗で熟成した音でなくてはならず、勢い不本意な調整もしなくてはいけないとのこと。
使われるピアノにも、それなりの大変さはあるようです。

先日、マロニエ君の乗るフランス車のパーツのサプライヤーの方と電話でしゃべっていると、話題は古い車の維持管理に及び、その方いわく、「結局は、なんだかんだ言っても、やたら走行距離の多い車と高速などで猛烈に飛ばす人の車というのは、どうしようもなく傷んでいますね」と云われました。

一般的には、遠出もせず渋滞などでノロノロ運転ばかりさせられる車は気の毒で、その点でいうと、ヨーロッパ大陸に生息する車達は大陸間の移動や旅行に供され、高速道路などを縦横無尽に駆けまわって幸せなイメージですが、現実はどうやらそういいことばかりでもないようです。
全力を振り絞るように使われた時間の多い機械は、それだけ至る所にストレスがかかっているというのは、まぎれもない事実のようです。

それがそのまま、そっくりピアノにあてはまるかどうかはわかりません。
でも、稼働率の高いホールのピアノは高速道路や山道を飛ばしまくった車に、レッスン室のピアノはタクシーのように昼夜休みなく走り回る多走行車といったイメージと重なり、消耗もそれなりに激しいことは間違いないでしょうね。

むろんそれはそれで意味のあることなので、決して否定しているわけではありませんが、なんでもぬるま湯式の感覚で、自分のピアノとの使われ方のあまりの違いを考えると、ついこういうことを考えてしまうのです。

そういえば知人のピアノ好きで、大人になってピアノをはじめ、好ましい時代のスタインウェイをもっているひとりは「自分はハノンはやりたくない」というのです。
その理由というのが普通とは違っていて、「ハノンは特定の音域の白鍵ばかり使っておこなう指の訓練なので、あんなものを毎日15分とか30分とかやっていたら、弾かれる白鍵のハンマーばかり傷んでしまって、楽器としておかしなことになるから嫌だ」というのですが、これはマロニエ君もまったく同様のことを考えていたので、へぇぇ同じことを考える人もいるのか!と大いに共感したものです。

だったら黒鍵を交えて半音階全音域でやっていけばいいのでしょうけど、それはまた相当難しいことになるので、なかなかそうもいきません。
だいたいこういうことを考えてあれこれ悩むのは決まって男のようで、女性はあまり気にならない領域のことなのかもしれませんが…。
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本質はいずこ

世の中、ちょっとおかしいのではと思わざるを得ないことは枚挙に暇がないほどですが、先ごろもYahoo!ニュースで目にした記事は、その違和感という点でとりわけ強烈なものでした。

「タダで食べ放題の相席居酒屋で、毎日ご飯を食べていたら退店させられた。ネットの掲示板で、大食い女性の投稿が話題となった。」という文章でそれは始まります。

全部コピペするわけにもいかないので、マロニエ君なりに概要をまとめると、次の通り。

見知らぬ男女が同席する「相席居酒屋」では、男性が飲食代を支払い、女性はタダというところが多いのだそうで、ここからして初めてそんなものがあることを知りました。
投稿者である女子学生は、食費を浮かすため相席居酒屋に通っていて、なんと「一日4食がアベレージ」「ご飯は2、3升におかず数キロ」を食べていたというのです。
さらに同じ系列のお店に、店舗を変えながらほぼ毎日通っていたところ、ごはんをおかわりしようとしたタイミングで、店長らしき人から「申し訳ありませんが、退店してほしい」と言われたというもので、その女性はネット掲示板に事の顛末を投稿することになったというもの。

すると、この件に関して質問を受けた消費者問題に詳しい弁護士というのが、法的な観点から退店を要求したことが正しいか否か、コメントしているというものですが、それによれば、
「飲食店は、客を選べないわけではありませんが、これは入店時においての話です。」
「いったん受け入れた客については、無条件に退店させることができるわけではなく、契約内容がどのようなものだったかによります。」
「通常は、食べ放題・飲み放題の契約として受け入れたのであれば、予想以上に食べる人だったからといって、飲食を拒否することは許されません。」
「ただし、前もって、そのような条件がお客側に示されていたような場合は、別に考える余地があります」

などと、読んでいてばかばかしいような文言が並んでいました。
まだありますが、延々と引用しても意味ないでしょう。

まあ、弁護士という法律のプロの観点からみれば、そういう事になるのかもしれませんが、問題はそんなことはどうでもいいということでしょう。そもそもこういう非常識かつ厚顔無恥な女性が非難されずに、退店を願い出た店側ばかりが問題視されるのは、普通の感覚をもった人なら誰だっておかしいと感じるのではないでしょうか。

こういう場合も「普通の感覚をもった人」って誰のこと? 普通ってなに? 誰が決めるの?
といった類のことを言うような人がいますが、こういう場合にそういうことをいちいち言う人間が、正に普通ではない感覚の持ち主だとマロニエ君は思うわけです。

この女性、食費を浮かすためとはいえ、店のシステムにつけこんで飲食代を支払う赤の他人である男性達と店の両者にたかり行為を繰り返し、食べ放題であることを理由に連日連夜この店に通いつめて「ご飯は2、3升におかず数キロ」などとは、社会に巣食う病原菌のようなものだと思います。

こんな人間の振る舞いが、さほど非難されることもなく、あまさかさまに「女性は飲み放題、食べ放題をうたっているにもかかわらず、客が食べすぎているという理由で、店側が一方的に退店を求めることはできるのだろうか。」というような理由で弁護士に問い合わせをするというところが、社会の感性がまともな平衡感覚を保てなくなっている証ではないかと思います。

一度や二度ならともかく、これほどの「悪質な常習犯」ともなれば、顔を覚えられブラックリストに載るのも当然です。店は難民受入所ではないのであって、あれこれのアイデアを講じながら厳しい商売をやっているのですから、これはいわばルールを悪用した限りなくドロボウに近い行為ともいえるのではないかと思います。
そんな人間はつまみ出されるのが当然で、それはルールや法律家云々の以前の問題でしょう。

いっぽう、ルールやシステムにさえ適っていれば何をしてもいいという風潮はエスカレートしていくばかりで、ルールの盲点や死角に着目できる人間は、まるで優秀でエライかのような取り扱いにも問題があるように思います。

法律はじめ、個別のルールやシステムももちろん大事ですが、それ以前の人間としての品位を保てる教育環境こそが大事だと思います。恥を失った人間というのは、怖いものがないぶん恐ろしいですね。
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ディアパソン続き

Bさんの初回診断によれば、ダウンウエイトの数値じたいが極端に重いというものでもないということで、差し当たり基本的なところから整えていくべきということでした。

そこで、まずは建築でいうところの基礎工事をしっかりやるということです。まあこれは調律師さんならどなたでも異口同音におっしゃることではありますが、特に今回は早急に見直すべき部分がそこここに確認されたことも事実でした。
基礎がしっかりしていないことには何も先に進めないというわけで、至極ごもっともなことです。

というわけで、初回は正しい土台を作るための「整調」に5時間近くを費やされましたが、それでもまだ時間が充分とはいえず、こちらの都合で時間切れとなったため、また後日続きをやっていただくことで、とりあえずこの日は一区切りつけていただきました。

マロニエ君は、ピアノの調整中にちょっと弾いてみてくださいといわれても、普段と違って大屋根は開いているし、譜面台はなく、鍵盤蓋も左右の拍子木も外されて、いたるところから音がドバドバ出てくるため、これだけ違う条件の中で僅かな違いを感じとるのは、あまり自信がありません。
大きな違いはわかっても、繊細なところ(しかも、そこが非常に肝心なところ)はすぐにはわからないので、帰られた後しばらく弾いてみるのが恒例ですが、まずはずいぶん弾きやすくなったことは確かでした。
一番の目的であるタッチが軽くなったわけではないけれど、その動きに滑らかさと好ましい質感がでていることはよくわかり、これまでのタッチがいくぶん高級になったという感じです。

機構や消耗品を入れ替えるのではなく、整調のみによってタッチに高級感を作り出すというのは、考えてみるとかなり大変なことではないかと思いました。ただ軽くとか早くとか、動かないものを動くようにするのとは違い、高級なフィールというのは繊細な事々の積み上げでしか成し得ないもので、この点にまず感心しました。

翌日、現段階での感想を報告しようと電話したついでに、全体的な印象というか評価を聞いてみました。
というのも、マロニエ君は現在のディアパソンは個性やポテンシャルとしては気に入っているけれど、その音色はもう一つ納得できないものがあったので、この点をディアパソンのスペシャリストとしてはどうお考えか聞いてみました。
しかし、それはなかなか言われません。
長所ならすんなり言えても、その逆は言いにくいのだろうと推察され、そこをあえて忌憚なく言っていただきたいと頼むと、ようやくこちらの心情を理解され率直な感想を聞くことができました。その内容はマロニエ君が感じていることとほぼ同じもので、この点でも大いに納得できました。

こういう印象が一致していないと、今後の進展にも不安が残りますが、そういう意味でも却って安心感が得られました。

余談ながら、マロニエ君は新たな調律師さんにお願いする際には、普段面倒を見てもらっている調律師さんにも必ず事前にお断りを入れて、了解を得るようにしています。現在の調律師さんも、タッチ問題に悩む先代調律師さんが別の方に「セカンドオピニオンを聞いて欲しい」と言われたことがきっかけでした。
というわけで、今回も快く承諾していただき、その方がどういうことをされるか興味があるので後日ぜひ教えてほしいということで、マロニエ君のピアノは、こうしていつも、いろいろな技術者の方に触っていただくようになっています。

中には調律師さんとの関係をよほど特別で厳粛なものと思っておられるのか、かなりの不満があるにもかかわらず、まるで江戸時代の貞操観念のごとく、じっと耐えに耐えながら、ピアノの操を守られる方も結構いらっしゃいます。
しかし、そんなことは甚だしい時代錯誤だとマロニエ君は思います。車の整備でもケースバイケースで、オーナーの判断でディーラーに行ったり専門ショップに行ったりと、そこは所有者の全く自由裁量の領域であるはずです。
その点では楽器メンテの世界はというと、多少の閉鎖性があるともいえるでしょうが、それなりのマナーを守っていれば基本は自由であるはずで、それでも機嫌を損じるような調律師さんなら、もともと大したことない方だと思います。

Bさんは仕事に関しては信念があり厳しさが漲っているけれど、同時にとても気さくで正直で愛嬌のある素晴らしいお人柄の方でいらっしゃる点も併せて嬉しい点でした。技術者である以上は、むろん技術が大事なのは当然としても、やはりそこはお互いに生身の人間なので、人としての波長も合えばそれに越したことはありません。

素晴らしい方との出会いは無条件に嬉しいもの、今後のディアパソンの変化が楽しみです。
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4台ピアノ

ディアパソンの続きを書こうと思っていましたが、ちょっと珍しいコンサートに行ってきたので、そちらを先に。

「浜松国際ピアノアカデミー 第20回開催記念コンサートシリーズ ピアノの饗宴 ピアニッシシモ!!」という長たらしいタイトルのコンサートで、なにがどうピアニッシシモなのかよくわかりませんが、要は過去にこのアカデミーを受講した経歴を持つピアニスト4名が出演されて、それぞれがカワイ、ベーゼンドルファー、ヤマハ、スタインウェイという4台のピアノを弾くという趣向でした。

同じ会場で、違う銘柄のピアノを聴き比べることができるというのは、めったにないことなので、これは行くしかない!と覚悟を決めた次第。会場はアクロス福岡シンフォニーホール。

ちなみに、聞いたところではカワイのみSK-EXが持ち込まれ、残り3台はホールのピアノが使われたようです。

トップはカワイですが、演奏開始早々、このホールの野放図な音響にはいきなりのカウンターパンチというか、あらためて度肝を抜かれました。
音響といえば言葉はもっともらしいけれど、要はだだっ広い空間で音は乱反響を繰り返すばかりで、響きの美しさとか収束感などはみじんもありません。ピアノの音は盛大なエコーがかかったようで、はっきり言って何を聞いているのかさえわからないほどで、よくもまああれで苦情が出ないものだと思います。

ホールというより、銭湯か温泉の大浴場にピアノを置いて弾いているようで、聴き手の耳に到達するのは、ピアノから発せられた音があちらこちらで暴れまわったあげくのピンボケ写真みたいなもの。音楽の輪郭もあやふやで、むろんピアニストのタッチの妙などもほとんどが霧の中で伝わらず、ただ音が団子状になって聞こえてくるだけ。
あれだったら古い市民会館で聴いたほうが、よほどマシです。

第一曲が始まった時、「これはえらいことになった…」と思いましたが、とりあえず忍耐しかありません。…というか、これだからコンサートは行きたくないのです。なんでお金を払って、時間を使って、そのあげく「忍耐」にエネルギーを費やさなきゃいけないのか、これは単純素朴な疑問ですね。

というわけでエコーまみれの音の中から、そのピアノの音色をイマジネーションを働かせて探すしかありませんが、カワイはブリリアンスとパワーを重視しているのか、音の中にある暗いものと華やかなものが相容れず、まだその決着がついていないという印象でした。
ちなみに、カワイはホームページによればフラッグシップはEX-Lに変更されているにもかかわらず、いまだSKシリーズがステージで活躍しているのはどういうわけなのか…。今年開催されたチャイコフスキーコンクールでもカワイはSK-EXでしたから、EX-LとSK-EXの違いがよくわかりません。もしかしたら…いやいや憶測はやめておきましょう。

次に弾かれたのはベーゼンドルファー・インペリアル。カワイの後だけあって音に輪郭と透明感があるのが印象的で、やはりこのピアノ固有の美の世界があることが頷けます。ただ、音色の変化が乏しいのか(確かなことはわかりませんが)、しばらく聴いていると、その艶やかな音にも少々飽きてくる…といったらベーゼンのファンの方に叱られそうですが、マロニエ君の耳にはいささか一本調子に聞こえてしまいます。
もちろん好みもあるでしょうが、マロニエ君はもう少し美音の中にも陰影がある方が好きだなぁと思ってしまいます。

後半最初はヤマハ。最新のCFXでなはく、おそらくCFIIISだろうと思いますが、これが意外に好印象でした。カワイとベーゼンを聴いた耳には、音の構成というかまとまりがそれなりにあるためか、演奏におさまりがつくようです。個人的にはヤマハのコンサートグランドは現代の好みを追いすぎたCFXよりは、少し前のピアノのほうが懐もそれなりに深いものがあり、きれいに調整されていればこれはこれだと思います。
それでも随所で聴こえてくるのは、日本人の耳に深く浸透した、あのヤマハの音ではありますが。

最後はスタインウェイでしたが、こうして順に聴き比べてくると、やはり一台だけ次元が違うというのが偽らざるところでした。ピアノの音に必要な各音域の美しさ、深み、フォルム、バランス、強靭さなどは、やはり抜きん出ていることが一聴するなりわかります。とりわけ重音やフォルテになるほど音が引き締まり、破綻や乱れとは無縁になっていくあたりはさすがという他ありません。
また、異論もあろうかとは思いますが、どのピアノより音はやわらかなのにヤワではなく、シャープな中に甘いトーンが混在します。
偽善的でダサい木の響きでもなければ、神経に障るような金属音とも全く違う、スタインウェイだけの孤高のサウンドが広がると、不思議な安堵と快感を覚えます。
スタインウェイの音はこうしたいくつもの要素が複雑に折り重なることで達成された、まったく独自の境地だと思いました。

最後は4台揃って、ミヨーの4台のピアノのための組曲「パリ」から数曲が演奏されましたが、そこには混沌とした騒音のかたまりがあるばかりで、熱心に弾いてくださったピアニストには申し訳ないけれど、どことなく喜劇的でした。
こんなにもホールの響きが演奏者の足を引っ張るとは、出るのはため息ばかりです。
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好きという強み

調律師のAさんとのご縁がきっかけとなって、福岡にディアパソンを得意とされる、知る人ぞ知る技術者さんがおられることを教えていただいたのは、ずいぶん前のことでした。

「ディアパソンなら自分はBさんが一番だと思います。」と静かに、しかし自信をもって迷いなく言われたことがとても印象的でした。
どんなふうにいいのか聞いてみると、「とにかく丁寧で、Bさんが調整したピアノはとても弾きやすい。あの方はすごいと思います。」と事もなげにいわれました。言っているご本人もれっきとした調律師さんなのですから、同業者がそこまで太鼓判を押すというのは、よほどであろうと思いました。

マロニエ君のディアパソンはというと、懸案のタッチの重さを含む問題は未だ解消には至らず、それがあって、音色などの詰めの調整ももうひとつその気になれないという状態です。それでも今どきのピアノにくらべると、本質においてはそれなりに楽しいものだから、なんとなく現状でお茶を濁してきたというのが正直なところ。
しかし、別のピアノの調律などがパリッとできたりすると、やはりディアパソンのコンディションはタッチを含めて、とても本来のものとは言いがたい事は認識せざるを得ません。

また、以前書いたようにタッチレールというキーを軽くするための製品があることも、関東のピアノ店の方がわざわざ教えてくださり、一時はこれの装着をかなり真剣に考えました。
しかし、ここはやはり基本的なことをもう一度洗い直してしてみることが先決で、それらのことをやりつくし、万策尽きた時にそのタッチレールも使うべきだろうという結論に達しました。

連休中に再度調整をお願いするはずだった調律師さんが、たまたまこの時期の予定が確定できない状況になったということで延期になり、ならばこの際、思い切ってディアパソンがお得意のBさんに一度診ていただき、ご意見を伺えたらと思いました。

そういう流れでAさんを通じてBさんへ連絡していただきました。
「話はしているので、どうぞいつでも電話をしてみてください。」と番号を教えていただき、さっそくお電話したのは言うまでもありません。

電話に出られたBさんは、とてもあたたかで礼節あふれるお人柄という印象でした。
さっそくこちらのピアノの状況と希望を電話で伝えられるだけ伝えると、「どこまでご期待に応えられるかはわかりませんが、ともかく一度見せていただきましょう」ということになり、日時を約束することに。

さて、ここからはちょっとウソみたいな話ですが、そのBさんが来られるわずか2日前というタイミングで、まったく見知らぬ方からメールをいただきました。
メールの主は、ありがたいことにこのくだらないブログを読んでくださっている方らしく、その方もディアパソンのグランドをお持ちで、福岡市に隣接する市にお住まいの方でした。文面によると「(自分は)いい調律師さんに恵まれていて、その方は某区のBさんという方で「ディアパソン大好き」で、お客さんもディアパソンの愛用者が多いようです。」と書かれているのにはびっくり!

マロニエ君もBさんとは一度電話で話しただけで、まだお会いしたこともなく、たまたま名前だけの一致ということもあるかもとは思いましたが、メールの方とは翌日電話で話をする機会を得て、やはりBさんは同一人物であることが判明し、先方も驚かれているようでした。
やはりこのBさん、ディアパソンにはかなり精通した方のようで、ますます期待は高まりました。

約束の日時、ついにBさんがいらっしゃいました。
実際にお会いして、さっそくピアノを診てもらいつつこれまでの経緯を説明します。

非常に驚いたことには、電話でごく簡単に説明しておいた話から、タッチに関するあれこれの可能性を想定され、そのための部品や道具などを幾つも準備されていたことで、どれもがこれまでの調律師さんとは一味も二味も違っており、しかもそれがかなり核心に迫ったものであるだけに驚いてしまいました。
こういうところに技術者としてのスタンスというか、心構えのようなものが表れているようでした。

それらをひとつひとつ書きたいところですが、それはとりあえずここでは控えておきます。

Bさんのやり方は、ピアノを触って、考えて、また触って、またじっと考えるということを繰り返され、しだいに方向性が収束していったのか、「どこに問題があるか」「作業の手順として何を優先するか」、そして「今日はなにをやるか」ということが見えてきたようでした。

何度も「…ちょっと考えさせてください」とおっしゃるあたり、静かに自問自答しておられる様子です。

以前、医者の娘だった友人が、「いい皮膚科のお医者さんっていうのは、患部をジーッと時間をかけて観察する人なんだって…」と言っていたのをふと思い出しました。
パッと見て、即断即決して、対症療法的な作業をされると、却って本質的な解決が遠のいてしまい、こちらにとっては一番困るのですが、その点でもBさんはずいぶん違うように感じました。

さらには「ディアパソンが好き」というのはなにより強みです。
いかに優れた技術でも、それを嫌いなものへ仕方なく向けるのと、好きなものへ向けるのとでは、結果は格段の違いが生じる筈ですから。
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アイノラのピアノ

アイノラといえばシベリウスが家族と暮らした住まいとして有名です。
そこはヘルシンキから北へ30キロのヤルヴェンバーという美しい場所だそうで、シベリウスが30代のとき、その地に1500坪ほどの土地を購入して木造の家屋を建て、家族と共に終生ここで生活したと伝えられています。

アイノラという名は、最愛の夫人の名がアイノであることから、「アイノがいる場所」という意味でつけられ、家は現在も保存されて夏季には一般にも公開されているとか。
そのアイノラには、シベリウスが50歳の誕生日にプレゼントされたというスタインウェイがあり、このピアノを使ってシベリウスの作品を録音したCDがあることを知り、さっそく購入してみました。

演奏はシベリウス研究家としても有名なピアニストのフォルケ・グラスベックで、録音は2014年5月。

シリアルアンバーは#171261で、調べてみると1915年製とのこと。
シベリウスは1865年生まれなので、まさに彼が50歳の時に製造されたピアノのようです。

ネットからもアイノラの自邸内部の写真をあれこれ見てみましたが、なんとはなしにB型のように見えますが、もうひとつ確証は得られませんでした。

その演奏は、さすがにシベリウス研究家というだけあってか、非常にこの作曲家を尊敬し、畏敬の念を払った丁寧な演奏で、落ち着いて作品に耳を澄ませることの出来る演奏だったと思います。

さて、最も興味をそそられた、シベリウス自身が使っていたという収録時点で99年前のスタインウェイですが、そのふわりとした柔らかい音にいきなり惹き込まれてしまうようでした。

楽器の音には時代が求める要素も反映されているとはいうものの、現代のピアノが軒並み無機質に感じられてしまうほど、温かい響きで、ストレートで飾り気がなく(飾らなくても充分に雰囲気を持った)、まったく耳に負担にならない性質の音であることに驚かされてしまいます。
とりわけ一音一音のまわりに波紋のように広がる余韻は、やわらかで、現代のピアノが機械的な音になったことを思い出さずにはいられないものです。

むろん、素材の違いやらなにやらと、いろいろあることは承知しつつも、こういうピアノを聴くとピアノ本来の音というのは那辺にあるのだろうとつい考えさせられてしまいます。

音の感じからして、弦やハンマーも、もしかしたらオリジナルのままという気もしないではありませんが、根底にもっているものの素晴らしさは、情感が豊かで温かく、こういうピアノを持っていたら新しいピアノには完全に興味を失ってしまうのではないかと個人的には思ってしまいました。

それでも耳を凝らせば、低音がいささか痩せていたり、ところどころに音が伸びきれないようなところもあるけれど、なにしろアタック音が生き物の声帯のように自然で、同時にまわりの空気がふわっと膨らむような豊かさに満ちています。

これにくらべると現代のピアノは、表面上はずいぶんゴージャスで、ある種の高級感さえ漂っていますが、機械的な冷たさや無表情を感じずにはいられません。
こういう音を聴いてしまうと、現代のピアノはどこかハイテクっぽくもあるし、我々の想像も及ばないような技術によって、鳴らないものを遮二無二鳴らしているような印象さえ覚えます。

同じ才能でも、こういうピアノを使うのと現代の新しいピアノを使うのとでは、湧き出るイマジネーションもずいぶん違ったものになってくるような気がします。
耳に刺さるような、印刷されたような音を出すピアノを使っていれば、しらずしらずにそういう要素が作品にも影響してくるように思うのです。

その証拠に現代のピアノ弾きは、音楽的な演奏をしようとするとやたらビビって骨抜きになり、注意ばかりが先に立つ演奏になって奔放さや活力を失っています。とくにアマチュアはいちいち深呼吸のような身振りをしたり、小節やフレーズのおわりでは一つ覚えのように大仰にスピードを落とすなどして、それがあたかも音楽表現だと錯覚するのでしょう。

もしマロニエ君に経済的な余裕があるなら(ありませんが)、ぜひとも戦前の美しい声をもったピアノを買いたいものだと思いました。
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暴走世代

何年か前の事だったと思いますが『暴走老人』というタイトルの本が流行ったことがありました。

マロニエ君は読んだことはありませんが、イメージとして、最近この本のタイトルを連想させるようなことが少くありません。

運転をしていても、まったく身勝手な割り込みや、片側2車線のうちのひとつが工事中で、順次二列の車が交互に合流していくような場面でも、前車に鬼のようにビッタリくっついて絶対に他の車を入れようとしない車などは、見れば大半が熟年〜高齢者の運転する車だったりします。

つい先日もある駐車場でこんなことが。
駐車券をとり、空きスペースを探しながら徐行していると、後ろのクルマが追突せんばかりにくっついて何度もクラクションを鳴らしてくるので恐ろしくなりました。こちらが駐車し終えると、むこうは目の前に車を止めてすごい剣幕で睨んでいます。一体なに?と思ってこちらも見ていると、ついにドアが開き、中から初老の男性が降りてきて「トロトロ走るな!!」といきなり大声で吠えました。
だってここは駐車場、徐行して場所探しをするのが普通だと思うのですが、この方にはそれが許せなかったらしいのです。

テレビでよくやる万引き摘発の様子を見ても、万引き犯じたいも高齢者が多いのに加えて、捕まったときの逆ギレ的な態度がすごいのも、どちらかというとこの世代のほうが多いという印象があります。

またつい最近、とある関東の有名ホールに勤める知人から聞いた話ですが、さる業界のイベントがそのホールで行われたところ、ケータイの電源を切るどころか、暗い客席では無数のスマホがいじられっぱなしで、その光が異様なほど目障りであっただけでなく、なんとあちこちで着信音が鳴り、客席で構わず話をする、長引くと話しながら外に出ていくという驚きの光景だったとのこと。
コンサートではないとはいえ、このような行動を取る大半が、分別もあるはずのいい歳をした人ばかりだったというのですから仰天です。

世間一般でいうと、礼儀や公衆マナーの悪さに憤慨するのはだいたい中高年で、されるのは「若者」とか「新世代」だと相場が決まっていたものですが、どうも最近はそのあたりも怪しくなっているのか、古い世代もかなり荒れ放題のようです。
そして、事と次第によっては若者世代のほうがよほどマシという場合もあるのは、マロニエ君もチラホラ実感しているところ。

若い世代のほうが、何事においても規制の厳しい窮屈な世相で育ってきているためか、いったんルール化されたものには、とりあえず素直に従うという習慣というか体質をもっているのかもしれません。
いっぽう、中年以上の世代の若いころは、今よりももっとダイナミックに生きて来たという下地があるからか、なんでも無抵抗に従順ではないのだろうと思いますが、その悪い面が出てしまっているのかもしれません。

先日も、こんなことがありました。
マロニエ君は10年ほど前の数年間、県内のコンサート情報誌の発行に友人と携わった時期がありました。
掲載は無料、大小すべてのクラシックコンサート情報を網羅したもので、とても好評となり、一時はかなり支持されたときもあったのですが、情報誌というものは凄まじいエネルギーを要するもので、生活の片手間にできることではなく、数年間ふんばってみたもののついに廃刊することになりました。

マロニエ君のケータイ番号はその当時と変わっていないので、しばらくは掲載依頼や問い合わせの電話がよくかかっていましたが、さすがに10年近くも経てば、それもまったくなくなりました。

ところが先日、見知らぬ番号から電話がかかり、いきなりコンサートがどうのこうのという話をはじめられました。
ちょっと聞いた感じは、上品そうな女性の声、丁寧な言葉づかい、コンサートをされる方のご家族なのか、話しぶりと声色でそこそこ年配の方だということはすぐにわかりました。…が、すぐには話の要領を得なかったので、「恐れ入りますが、どちらにおかけですか?」と聞くと「あのぅ…◯☓◯☓◯☓じゃございませんか?」と昔の発行所の名を言われたので、すぐにこちらも理解でき「あれは、もうずいぶん前に廃刊になりました…」というと、ほんの一瞬の空白のあと、いきなりブチッと電話は切られてしまいました。

普通なら「ああ、そうですか」ぐらいの言葉はあって然るべきだと思います。
勝手に電話して、一方的に自分の話をし、廃刊になったと告げられるや、もう用はないとばかりに無言で電話を切るという行為が信じられませんでした。

掲載は無料だったので、要するにタダでコンサートの情報を載せてほしいという目的だけがあっただけで、こちらは電話に出て事情を言っているのに、いやはや、なんとも凄まじいものです。

しかも相手が年配の方であっただけに凄みさえ感じ、思わず寒いものが走りました。
きっと普段は、用のある相手には、あの調子で、いかにも上品におしゃべりしている方なんだろうと思うと、べつに人間がきれいなものとは思っていないけれども、しみじみとイヤになりました。
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ヘクサメロン

『ヘクサメロン変奏曲 6人の作曲家の合作変奏曲』というCDを購入してみました。

19世紀前半のパリでは、リストをはじめとするピアニスト兼作曲家たちがアイドルさながらに腕を競っており、社交界ではリスト派とタールベルク派のファン達が対立するほどの過熱ぶりだったとか。

そんな中、ベルジョイオーゾ公爵夫人のアイデアにより、6人の作曲家による合作によって完成したのがこのヘクサメロン変奏曲だそうです。
ヘクサメロンとは「6編の詩」を意味する言葉で、ベッリーニのオペラ『清教徒』の中の『清教徒の行進曲』から主題がとられ、リスト、タールベルク、ピクシス、エルツ、ツェルニー、ショパンに依頼された由。

中心的な役割を果たしたのがリストというのがいかにも彼らしく、イントロダクション、主題、第二変奏、フィナーレの4つを書いたのみならず、ピアノ独奏版のほか、6台ピアノ版、2台ピアノ版、ピアノ&オケ版などのバージョンも手がけたようです。
リストとは対照的に、この手の企画には気乗りせず、最も消極的で仕事の完成も遅れたのがショパンだそうで、まさにイメージ通りという感じです。孤高の作曲家であるショパンがこの手の企画に賛同し、嬉々として寄稿するなんておよそ考えられませんから。

このアイデア、なんだか同じようなことが他にもあったような気がしましたが、そうそう、ディアベッリの主題による変奏曲で、この求めに賛同しかねたベートーヴェンは、ついには単独で同名の傑作を生み出し、現在ではこちらのほうが広く知れわたっているのはご承知のとおりです。
やはり音楽歴史上、抜きん出た天才は、他者との共同作業といった、いわば平等社会の一角を与えられるようなものは向かないであろうことは、理屈抜きにわかる気がします。

折しも世の中は、あれもコラボ、これもコラボというご時世ですね。
マロニエ君にいわせれば、コラボなんてものの大半は、単独で何かを成立させる力のない人達が、実力、資金、責任、集客などを分散させて行うつまらぬイベントのことだと思います。

さて、このCDでは、各変奏を6人のピアニストによって、時にソロで、時に一緒に、代わる代わるに弾くというスタイル。
ヘクサメロン変奏曲じたいは23分ほどの作品で、あとはこの変奏曲を手がけた6人の作曲家の単独の作品が収められています。

はじめに出てきたピアノの音を聴いたとき、なんだかとても存在感のある音にハッとしたものの、咄嗟にどのメーカーであるかは見当がつけきれませんでした。いつもやるこの当て推量は、間違っていることもあるけれど、たぶん◯◯だろう…という予想は立ててみるのが楽しみのひとつですが、このピアノは容易にはわかりませんでした。

ちなみにライナーノートに使用ピアノが明示されていることもありますが、マロニエ君はできるだけはじめはこれを見ないようにしています。
ファーストインプレッションとしては、中音域に甘みはないけれど、枯れた感じとたくましさを併せ持っており、ベヒシュタイン???いやいや、それにしては低音の透明感とか絢爛とした美しさはベヒシュタインとは別種のもので、スタインウェイかと思いましたが、それにしてはやや響きに素朴さがあり、やっぱり違うと思ってしまいます。

まず絶対に違うのは、ベーゼンドルファー、日本の2社などで、自分なりにずいぶん粘ってみましたが、どうしても見当がつけられません。一番近いのはスタインウェイのようにも思いますが、それにしてはある種の泥臭さというか野趣のようなものが混じっており、スタインウェイ然とした洗練に乏しいと思いました。

で、ラーナーノートを探してみると「アッ、そういうことか」と思わず声が出そうになりました。
1901年のスタインウェイDだそうで、そこには#100938というシリアルナンバーまで記されています。

このナンバーを手がかりにネットで調べてみると、それらしきピアノのことが出ており、ドイツのスタインウェイ社でピン板まで修復されたようなことが書かれていますし、このピアノで録音された多くのCDもあるようで、それなりに有名なピアノのようです。

洗練に乏しいと感じたのは、それほど昔のピアノは表面の耳触りに媚びない、飾らない楽器だったということでもあるのだろうと思われます。
修復されているとはいうものの、まさか110年以上も昔に作られたピアノだなんて信じられないほど力強い音を出す健康な楽器であることは間違いなく、ピアノもこの時代の一流品になると、その潜在力にはすごいものがあることをあらためて思い知らされました。

後半の5曲目にはリストの葬送がありましたが、この曲は冒頭からフォルテの低音を多用する作品ですが、そこで聴こえてくるのは荘厳な鐘のようで、まさにスタインウェイの独壇場といえるもの。新しいスタインウェイにはたえて聴かれない凄みのあるサウンドです。
まあ、この作品のあたりでは答えを知った上で聴いたわけですが、葬送まで我慢して聴いておけばこの低音だけでスタインウェイだと確信できただろうと思います。

マロニエ君は使用ピアノへの興味からCDを購入することも少くありませんが、今回はまったくそういうことは知らずに買ったものだっただけに、思いがけずこんな素晴らしいピアノの音が聴けるとは、えらく得をしたような気分でした。
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研ぐ

我が家では夕食は自宅でこしらえるのが大半で、外食はたまに行く程度です。

主には家人が作り、べつに大したものでもなければ凝ったものでもありませんが、それでもひとつだけ、強いてささやかなこだわりがあるとしたら包丁です。
目的に応じて数本の包丁を使い分けないと、まるきりやる気が起きない由。

出刃包丁はめったに使いませんが、それ以外の刺身包丁、普通の三徳包丁みたいなもの、それに小型のものが常に使われ、必然的にその切れ味が問題となります。

どれもずいぶん年季の入ったもので、刺身包丁などは長年使い込んで(研いで)その刃先は新品時の半分ぐらいに痩せてしまっているほど使い込んでいるし、普通の包丁も切れが悪いというのがこのところよく聞くセリフで、それなら新しいものを買おうかということになりました。

いまや日本の包丁は外国人にもかなりの人気らしく、おみやげなどに日本のすぐれた包丁類を買い求めていくとか、あるいは欧米の一流と言われる料理人達の多くが日本製の包丁を使っているというような話をよく聞くので、もしかするとよほど「進化」しているのかもしれず、試しに一本買ってみようかというわけです。

こんなときに便利なのがネットで、どんなものを買うべきか、オススメはなにか、注意すべきはなにかをざっとあらってみました。果たしてそこで述べられているのは、セラミックは研げないので使い捨てになること、どんなに評判の高級品であってもステンレスには限界があること、本当に切れ味を求めるならすぐに黒く錆びるような鋼材を主体としたものがいいこと、さらには包丁は、そこそこのものさえ買っておけばそれでよく、問題はむしろ研ぎにあるとありました。

研ぎの問題はかなり重要と思ってはいましたが、この道に詳しい人の談によれば、なんと、包丁の切れ具合の9割が「研ぎにかかっている」と書かれているのには、いまさらですが唸らされました。
板前の修業でも包丁研ぎは基本中の基本で、一流の料理人は一流の研ぎ師であるのかもしれません。
つまりは、どんなに良い物を買っても、きちんと研がなければその価値はないも同然、宝の持ち腐れだというわけです。

これには激しく賛同。
意を新たにし、包丁を買う前に好ましい砥石を買うことが先決だということになったのは当然というべきでしょうか。
実は、マロニエ君宅で使っている砥石は昔の砥石がすり減ってしまったときに、急場しのぎでホームセンターで買った安物だったのですが、これがいけませんでした。サイズも小さいし、ざらざらして使い心地も良くないし、こんなものを今だに使っていることがそもそも切れ味の不満を招く元凶であることもわかって、すぐさま砥石を調べることに。

その結果、砥石にも上には上があるようですが、普通は人工青砥石というのが一番良さそうで、価格も4000円ほどと思ったより手頃だったこともあり、さっそくこれを注文しました。

翌々日に届きましたが、さすがにホームセンターの安物とは違って、サイズも大きく、表面がこれで研げるのかと思うほどすべすべしていて、なにより美しいことが新鮮でした。もうこの時点からして、長年不適切なものを使ったばかりにずいぶんと損をしたことが悔やまれます。

さっそくかなり黒ずんでいる三徳包丁を研いでみます。
砥石を水に沈めて水分を含ませてから、最初の一二回腕を上下させただけで、てんで感触が違うことにびっくり。ざらざらしてまるでヤスリのようだったこれまでの砥石にくらべるまでもなく、しっとりして粒子の細かさが両手の指先に伝わります。それでいて一回ごとに刃先がずんずんと研がれていくのもわかって、これこそが砥石なんだと感動しました。

包丁の刃先は、どちらかというと柔らかいものに接しているようで、それなのに確実に研磨されて一皮一皮よけいなものが剥かれていくのが使わってくるのは、大げさな言い方をすると生理的快感に近いものがあります。
すっかり気を良くして、こちらもついテンションがあがります。

包丁研ぎは楽器の演奏と同じで、やみくもに力を入れればいいというものではなく、だからといって臆病一本でもダメで、気を入れてメリハリを持たないといけません。楽器がもっとも美しい音を出すポイントや力加減があるように、集中力と合理的な動きが求められるように思います。
また、石の全体をくまなく広く使わないと、長年の使用で片減りのようなことが起こりますから、お習字ではないけれど、意外にこれは精神的作業だなぁと思います。

ひと通り研ぎ終わって、野菜などを切ってみると、果たしてこれが同じ包丁とは思えないほどの切れ味となりました。
刃先がより細く平滑になっているためか、刃先が吸い込まれるように、定規で線を引くように、無理なく、静かに切れていく感じです。切るときの感触もしっとりしていて、落ち着きがあって楽だし、断面も心なしか美しいようです。

砥石ひとつでこんなにも違うものかと感心すると同時に「9割が研ぎにかかっている」という事実をまざまざと体感させられたようでした。ほんとうにその通りだと思います。
むろんより良い包丁、より良い砥石と、さらに上の世界があるのでしょうが、マロニエ君宅の台所ではもうこれで十分で、お釣りが来るほどです。

かかる次第で、新しい包丁を買おうかという話も、ここしばらくは立ち消えになりそうです。
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で、つけました。

いよいよアマゾンにでも注文しようか、あるいはダンプチェイサー肯定派の調律師さんに連絡して購入を打診してみようかと迷っていたときのことでした。

別件で物置で探しものをしていると、壁の隅から、なんと、使っていないダンプチェイサーが思いがけなくワンセットそっくり出てきました。
探しものそっちのけで驚いたのはいうまでもありません。

で、よくよく考えたら、別のピアノに縦横2つ付けていた時期があり、それを乾燥の進む冬場にその片方を外してみたとき、床に放っておいたら、家人に片付けるように言われて、とりあえずという感じで物置に放り込んでいたのをすっかり忘れていたのです。
あやうく「購入する」をクリックしていたかも…と思うと、おマヌケもいいところですが、ともかく危ないところでした。

ひゃー、嬉しや!とばかりに、さっそくディアパソンへ取り付けることに。

本当は梅雨から夏場での急激な状態の変化を避けるため、あえて湿度の少ない冬場に取り付けて、徐々に慣らしていくことを推奨している技術者さんもおられ、その慎重を期する姿勢には敬意を覚えますが、マロニエ君ときたら低血圧なクセにめっぽう短気で、ゆっくり構えて待つというようなことが大の苦手です。
冬まで待って、取り付けて、その効果が出るのは来年の梅雨以降だなんて、とてもじゃありませんが、そんなに待っていられるか!というわけで、そこは強行突破して取り付けることに。

ピアノ下部のペダルのすぐ後ろぐらいの位置で、左右二ヶ所の支柱へ針金を通して、鍵盤と並行になる向きに吊り下げます。
針金で吊り下げるのは、このほうが作業じたいも簡単であるし、ピアノに無用な加工をしなくて済むので、マロニエ君は必ずこの方法を採っています。

その点では、調律師さんは仕事なので、キチッと作業として仕上げるためにも、そのための費用を取ってビシッと取り付け作業される方がほとんどのようです。調律師さんにとってはそれも商売のうちなので仕方ないですが、本当はいきなり固定せず、あれこれ場所を変えて試してみるのもいいと思います。

頼んで取り付けてもらう場合、「見えない場所だから」ということで、付属の取付パーツを使ってピアノ本体へネジ止めされることになりますが、実はマロニエ君はあれがイヤで、見えない場所でもピアノのリムや支柱にネジ穴を開けるなんて、理屈なしにとにかく感覚的に受け容れられないのです。

それもあるし、そもそもダンプチェイサーの取り付けなんて、いわゆる「取り付け」のうちにも入らないもので、わざわざ作業代を払って人に頼むような種類のものではありません。
それに支柱から、物干し竿のように針金で吊り下げるだけなら、気が変われば、また別の位置や方向に付け替えも簡単で、高さも自分が納得の行くように調整できます。

さて、結果はというと、取り付けたのは夜だったのですが、翌日夕方にはハッキリとした違いがあらわれたのには、さすがのマロニエ君も予想以上でした。まず音に芯が出たというか、艶が出たというか、ややピンボケ気味になっていた音色に精気が戻りました。さらにはアクションの動きが若干スムーズになり、その相乗作用でずいぶんといい感じになりました。

もちろん激変というようなものではなく、微妙な違いでしかありません。
しかし、ピアノにとってはこの微妙な違いでかなり世界がかわるものです。

それともうひとつ確かなことは、閉ざされた箱のなかに取り付けるアップライトならともかく、外部にむき出しになるグランドでは効果は期待できない、「あんなものは気休めだ」という説がありますが、それは完全な誤りで、効果にいくらかの差はあるにせよ、グランドでもかなり有効だということは確かです。
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賛否両論2

前回、飛び入りで「エンブレム騒動」を書いたので、前々回からの続きを。

ある調律師さんがダンプチェイサーに否定的ということで、それはそれでひとつの見解なのでしょうから、お考えはしっかり承っておこうと思いました。

よって、あえて反論する必要もないし、それでもこちらの気が変わらなければ自分で入手すればいいこと。
で、ご意見をふまえてよくよく再検討してみましたが、やはりディアパソンにダンプチェイサーをつけるという考えは変わりませんでした。

いい忘れていましたが、この調律師さんがダンプチェイサーの装着例として目にされたものの一つが、グランドのアクションのすぐ上というか、要するに鍵盤奥のボティ内部にこれを取り付けたピアノだったようで、それがよくない結果になっていたというものでしたので、それはそれで納得でした。

アップライトの場合、ダンプチェイサーをピアノの内部に取り付けますが、位置的には鍵盤よりずっと下で、アクションとはずいぶん距離もありますが、グランドでは、アクションやピン板に接近した極端に狭い空間ということになり、これはたしかにやり過ぎだろうと思います。
ダンプチェイサーは、あくまで補助的かつ間接的に用いるべきで、何事も過ぎたるは及ばざるが如しです。

マロニエ君はグランドで下に吊るすカタチ以外の使い方の経験はありませんが、そのやり方ならば効果は上々で、実際に使った人からもよくないという類の話は聞いたことがありません。

なにより自分で数年間使ってみて一定の効果があることと、これによる音の悪化というものは、今のところまったく感じられませんが、わずかの変化を感じきれていないという可能性もむろん否定はできません。
少なくとも使用経験の範囲では、気づくほどの悪影響はなかったと言っていいと思います。
いずれにしろ調律が狂いにくい状態が保持できるということは、基本として、ピアノにとってそう悪いことではないと考えるわけです。

そもそもホールのピアノ庫のような特別な環境ならいざしらず、通常、ピアノは日本の四季の移り変わりや温湿度の変化、それに伴うエアコンやらなにやらで、冷え冷えサラサラになったかと思うと数日留守で猛烈な温湿度にさらされるとか、人がいる間の暖房と夜中の凍てつく冷気がくるくる入れ替ったりと、すでにかなりの悪条件にさらされているのですから、いまさらダンプチェイサーの副作用を問題視しても意味があるのかと思ってしまいます。

むしろ、これほど安く簡単にピアノへの悪影響を緩和できるダンプチェイサーは、やっぱり利用価値は大きいと思われ、ここはピアノのために何が良いかを、トータルで考えることが大事ではないかと思った次第。

それと前後して、以前マロニエ君がおすすめしたことでグランドピアノにダンプチェイサーを使っている知人と電話で話をする機会がありましたが、ちょっとニンマリする話を聞きました。
その方のところへは、松尾系のとても優秀な調律師さんが来られているとのことですが、その調律師さんはピアノにダンプチェイサーが取り付けられていることについて、はじめはあまり肯定的な反応ではなかったとのこと。

装着前に相談すればおそらく反対された口でしょうが、既に付いていたものなので、ご自分としては懐疑的という程度のニュアンスで、とくに目立ったコメントはなかったそうです。ところが、定期的にそのピアノを調律するようになり、知人いわく、「うちは温湿度管理が必ずしも理想的ではない」にもかかわらず、調律の狂いが少ないことが少し意外だったようで、ポツリと「これ(ダンプチェイサー)が効果あるんでしょうかねぇ…」というようなことを言われたそうです。

「ほほう、やっとこの人も効果がわかってきたか」と内心ほくそえんだのだとか。
というわけで、ダンプチェイサーはその信奉者でなくても、一定の効果は確認できるもののようではあるようです。
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エンブレム騒動

前回の続きと思っていましたが、いま書きたいことを先に。

2020年の東京オリンピックをめぐっては、国立競技場問題に続いて佐野研二郎氏デザインのエンブレム問題が世間を賑わせ、ついには白紙撤回されるというところまで発展しました。

マロニエ君の個人的な、勝手な印象だけを言わせてもらうと次の通り。

どの世界でも盗作盗用など、それに類する行為がご法度なのは、いまさらいうまでもないことです。
この点で佐野氏は、とりわけそれの厳しい広告業界に長年身を置いてきた人間としては、あまりにも脇が甘かったというべきですが、では、それが彼ひとりの問題だろうかとも思います。

マロニエ君に言わせると、世の中の大半はパクリや盗用のオンパレードで、製品開発から何から、すべてが他社の類似製品を研究し尽くしたあげく、そこへ言い訳のように「独自」の違いをちょこっと付け加えるだけ。

出版界もゴーストライターなんて当たり前、作曲でさえも作曲ソフトみたいなもので、ろくに楽器も持たずに安易にできてしまう時代ですから、この問題はいわば象徴的な出来事だと言えるのかもしれません。
連日、佐野氏のデザインをしたり顔でワアワア言っているテレビにしたところで、番組構成から放送時間、出演者の人選、あらゆるものがパクリだか横並びだか談合だかしりませんが、およそそんなようなものばかりで成り立っており、人の真似ではない、本当に独自と云えるものが果たしてどれだかあるかといえば甚だ疑問です。

日頃から、浅ましいばかりに発言をビビり、スポンサーの反応をビビり、視聴率に汲々として、マスメディアとして本当に言うべきことはなにひとつ言えないくせに、いったんピンポイント的に解禁となった事象に関してだけ、毎日、朝昼晩、集中豪雨のようにそれだけを攻め立て叩きまくるのは異様な感じがしました。

誤解しないでいただきたいのは、マロニエ君は佐野氏を擁護する気など毛頭ないし、だからこの件も問題なしだと言っているわけではありません。
ただ、いまどきの汚い世の中で、あのデザイナーだけをこれほど集中攻撃するほど、だったらほかの業界およびそれに携わる人達は、どれほど正しくてご立派で清廉なのかと思ってしまうのです。
どうせ、もっとひどい、人倫にもとるようなことさえしている人達が、わずかな処理や手続きの違いなどで網からすり抜けて、糾弾を受けることなく、襟を正すことなく、威張り散らして、ふんぞり返っているにちがいないと思います。

たしかに広告業界などは著作権が法的に確立されているジャンルであるため、うるさくいわれますが、たとえばファッション業界あるいはスイーツの業界などは(現在は知りませんが)以前聞いたところでこれがないのだそうで、だからデザインやアイデアの盗用などはやりたい放題で、日常茶飯事だということでした。

また、なにかというと、すぐに訴訟に持ち込んで大金を要求する欧米の体質も、それが正しいのかどうかは知りませんが、感覚として好きではありません。

それと、今回のオリンピックエンブレムでは、公募とはいっても複数の受賞歴を持つ、いわば足切りされたプロであることが条件だったらしく、それさえも、今になって「公平ではないのでは」「誰でも参加できるものであるべき」などと、正義を振りかざして強い調子で言われていますが、不正がなければそのこと自体をマロニエ君は悪いとは思いません。

むしろ、あらゆるジャンルにシロウトがシロアリみたいに侵食して来て、高度に洗練されるべきプロの世界が、片っ端から食い荒らされるのはもうたくさんという気がします。
昔は多くの世界は縦にも横にも棲み分けという不文律が存在し、それで秩序が保たれていたものですが、芸能界でも文筆業でも、生え抜きの人材そっちのけで、シロウトや異業種の人間によって土足で踏み荒らされ、本来の才能が次々に駆逐されることは文化の衰退だと思うのです。

その点でいうと、オリンピックエンブレムに限定しても、近年ろくなものはなかったというのがマロニエ君の率直な感想で、そんな中で佐野氏の作品は、制作の経緯を別とすれば、とても端正で美しく、アーティスティックな仕上がりだったと思います。

凛とした気品とインパクト性、蒔絵を思わせる金銀赤黒の色使い、そのフォルムは涼しげなサムライのような精神性さえ感じさせ、とりわけ都庁や空港などにポスターとして貼られている感じは、日本的なクオリティ感も滲み出ており、とてもよかったと思います。
あれがバリバリ剥がされる様子というのは、理由如何に問わず、なんとなく心の傷むものがあり、佐野氏がもう少し慎重で良識を重んじる人であったなら…と思うばかり。

過程がどうであれ、美しいものは美しいという観点でみれば、非常に残念だったとしか言いようがありません。

これまで、マロニエ君が野次馬精神旺盛な人間であることは折に触れて書いてきましたが、あのエンブレムがデザインとしてつまらないものであったなら、この騒動をもっと単純に面白がって傍観できたかもしれませんが、よかっただけに、さほど楽しめませんでした。

とりわけ日ごとに出てくるものが、目にするたび失笑と狼狽を誘うようなもので、おかげで最後は美しいものが切腹させられたみたいなことになり、後味の悪いものになりました。
後から出てくるデザインは、まちがいなく凡庸なものになるであろうと覚悟しています。
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賛否両論1

技術者と呼ばれる人達は、それぞれに持論や流儀をお持ちです。

マロニエ君はピアノに限らず技術者というものを尊重しているので、やり方やこだわりもそれぞれで、要はどれが正しくてどれが間違いというものではないと考えています。
いろいろな価値観や性格、目指すもの、細部に見え隠れする妙技、考え方の違いなどが決して一律なものではないところが興味深く、まして容易に正誤優劣を付けられる世界ではないというのが率直なところ。

わけてもピアノは、もともと精密かつ巧緻な世界であり、加えて楽器特有の幅やあいまいさがあり、どれが絶対ということがありません。ひとつの事柄に対する意見や解決法も各人各様で、ときに唖然とするほど意見が真逆であったり、それはときに凄まじいばかりです。

あまりこのあたりに触れているとなかなか本題に入れないので、そこは飛ばして話を進めると、久々ですが、ダンプチェイサー(ピアノの中や下部に取り付けて、湿度を自動調整する棒状の電気製品)に関する話です。
ダンプチェイサーに関しては、マロニエ君自身も数年来の使用経験があり、絶対とまではいわないものの、一定の効果があることは確認済みです。さらには自分の経験をもとに友人知人にも推奨したり、一度など共同購入というかたちで5~6本安くまとめ買いしたことさえありました。

調律師の中では、当然ながらこのダンプチェイサーにおいても賛否両論があり、賛成派のほうの顧客はその熱心な奨めにより多くがこれを購入し取り付けられているのに対し、こういう後付けの機器に関してはやたらと懐疑的スタンスをとる方もおられます。
技術の世界では保守的な人も少くなく、伝統的な技術やセオリーを信奉しているぶん新しいものには拒絶が先に立つのか、その効能より害のほうに目が先んじるようです。これを取り付けることによる弊害をイメージし、中にはすでに取り付けられたものさえ、自説を展開して外してまわるといった方さえあるようです。

では、具体的に何が悪いのかというと、これがあまりはっきりせず、一部だけが乾燥するとか、熱で木材が傷むなどの「可能性」ばかりを説かれますが、もうひとつ説得力がありません。ひとつには技術者としての防御本能なのか、自分があまり知らないもの、検証ができていないものに対しては、とりあず否定してしまうという心理が働くのかもしれません。
(ちなみにダンプチェイサーの作動時の熱は素手で触ってもほんのり暖かいぐらいのソフトなもので、湿度によってON/OFFは自動制御されます)

こういった後付の商品には安直なアイデア先行で効果の疑わしいもの、あるいはピアノ本体に害を及ぼすものもあるでしょう。のみならず便利な機器を安易に頼るようでは、基本を疎かにするお安い技術者という印象さえ与えかねません。だからか、その手のものはすべて「邪道」のように捉えてしまうのかも。

たしかにその手の思いつきみたいな商品はあるでしょうから、そうやすやすと信用はしないほうが安全でしょうし、謳い文句にのせられて、万一お客さんのピアノに害があっては一大事。信頼を旨とする技術者にとっては、よほどの自信がない限り、そんなものに手出ししたくないという意識がはたらくのだろうと思われます。

ただ、ダンプチェイサーは実績のある「本物」のひとつだろうとマロニエ君は思っています。

マロニエ君自身、すでに何年もダンプチェイサーを使っていますが、少なくともそれによる弊害を感じたことは一度もなく、調律の狂いが少ないことはかなり感じていて、できれば付けておいたほうがいいというのが正直なところ。ところが、なぜかディアパソンについてはとくにこれという理由もないまま「そのうちに…」ぐらいの感じだったのです。

そこへ今年の厳しい夏の湿気となり、さすがにピアノが全体にたるんだ感じもあったので、ふとダンプチェイサーを使っていなかったことを思い出し、遅ればせながらこれを購入しようと、さる調律師さんに購入の問い合わせをしました。通販で買っても良かったけれど、近々来られる予定もあるので、だったらついでに持ってきてもらおうかというぐらいの軽い気持ちでした。

すると、「購入はできますが、私はダンプチェイサーはおすすめしません」というメールが届きました。
うわー。来たかぁ、と思いましたが、とりあえずどんなご意見なのか聞いてみようと電話したところ、だいたい次のようなものでした。
「あれは確実に音が痩せる」「響板にヒーターの熱風があたったのと同様になる」「床暖房と同じ」「独特の音になる」「以前は使ってみたこともあるが、今はお客さんにも外すことを薦めています」「グランドは外にむき出しなので効果がないのでは」「アップライトは逆に悲惨なことになる」「やめたほうがいいですよ」「だったら乾燥剤をいれたほうがまだいいですよ」
と、だいたいこんな感じでした。

この方は大変優秀な調律師さんであることは間違いないのですが、ことダンプチェイサーのことは…あまり正確なことをご存知ないのかもしれません。いや、間違っているのはこっちで、もしかしたらそれが正しい可能性もあるかもしれません。

マロニエ君は調律師さんのご意見はいつも尊重するし、謙虚な気持ちでいろいろな教えを請うているつもりです。しかし、だからといって何でも鵜呑みすることは決してせず、最終的には自分の判断を優先させることはよくあります。

だって、自分のピアノなんですから、自分が納得できることをしなくちゃ面白くありません!
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ウナコルダの効用

先日、さる調律師さんから聞いた話。

ピアノのウナコルダ(グランドピアノの左のシフトペダル)の隠れた効果について。
これを踏むと鍵盤全体が右に移動して、3本の弦を打っていたハンマーが2本だけを打つようになることはよく知られています。

曲想やppなど必要に応じてこれを遣うことは一般的で、単純にいうと、鳴らす弦が少なくなるのでそのぶん音が小ぶりになるわけですが、のみならずハンマーの弦溝の位置をわずかにずらすことで、音色の変化をつけることができます。

下手な人がこれを使うと、ただこもったような音になるだけですが、ピアノのペダルは左右ともに、いかにそれを必要量適確に使うことが出来るかのコントロールの妙がポイントでしょう。
ペダル操作は、ある意味、指運動よりよほど繊細な耳と感性が必要で、アマチュアもプロも、ただバンバン弾くことだけが念頭にある人には最も難しい領域だろうと思います。
むろんマロニエ君なんぞはできませんが、それほど精妙かつ重要な領域であることはわかります。

これを天性の美意識と神業的な技巧によって、多彩な音色を自在に創りだすことができた代表格がミケランジェリで、彼のあの濃密な絹織物のような音の世界は、精緻を極めた自在なペダルに負うところも大きいのは間違いありません。

何年か前にラ・フォル・ジュルネの小さな会場で行われたコンサートで、ある女性ピアニストがベートーヴェンの中期ソナタを弾くのに、このシフトペダルをやみくもに使うのには閉口したことがあります。
どう考えてもまずはタッチで表現を変えるべき場所で、いちいちシフトペダルを踏むので、そのつど音色がこもったり鮮明になったりの行ったり来たりだけで、それが肝心の演奏表現に結びついているとはとても思えないものでした。さらにこのピアニストは、ガバッと踏むか、離すか、つまりON/OFFだけの踏み方で、その途中の段階が微塵もないのには呆れました。

あっと…、話が逸れました。
その調律師さんによる通常見落とされているウナコルダの効果とは、これを踏んだ時のほうが音が減衰しにくくなるという、これまで思ってもみなかったことで目からウロコでした。…いや、でも、よくよく考えてみたら、本能的にはまったく感じていないわけではなく、かすかに心当たりのようなものがあるような気も…。深夜などにこのペダルを踏んで遠慮がちに弾くときに、ある独特な心地良さというか豊かさみたいなものがあることは、かすかな自覚がありました。
単に音が小さいとかソフトということ以外に、なにか言い知れぬ心地よさがあったのは、そう言われてみると、この通常より伸びる音のせいだったのかもしれません。

これは音響学的にも証明されていることだそうです。
弦から駒を通して響板に広がって増幅される音は、3本打弦されたときより、2本打弦されたときのほうがエネルギーが小さくて音に変換されるにもやや時間がかかり、それだけ減衰の速度も遅くなるということだそうです。
急峻な山に対して、なだらかな山裾の稜線がどこまでも続くようなものでしょうか。
さらには左の打弦されない弦も隣の弦の振動にひきずられて逆位相に動くのだそうで、これも減衰にしくくなる要素のひとつだとか。

比較に単音を聴いてみたところ、ウナコルダを踏んだときのほうが明らかに音が伸びるのはびっくりでした。

音響学などの専門領域はチンプンカンプンですが、自分なりの印象としては、お寺の鐘なども力任せに叩くより、ほどよい力で突いた方が音がきれいなだけでなくその余韻がいつまでも続くようなものかと思いました。
また、想像ですが、3本弦より、2本弦のほうが音になるパワーが少ないのは当然としても、そのぶん入力に対する響板の面積も、相対的に大きくなるのかとも思いましたが、どうでしょう…。

後日、この件に関する資料を送っていただきましたが、そこにあるグラフによれば、シフトペダルを踏んだ時とそうでないときでは、立ち上がりでは約10dBの差があって当然ペダル無しのほうが音が大きいわけですが、3秒後にはグラフの線はクロスし、右肩下がりに減衰する一方のペダル無しに対して、ペダル有りのほうは70dBあたりを保持して、5秒後には10dB近くもペダルを踏んだ音のほうが大きな音が持続していることに驚かされます。

こうなると、ウナコルダをピアニシモや音色の変化だけでなく、音の持続性という目的をもって巧みに用いることができれば、伸びのある独特な響きや音像を作り出すことができるのだそうです。しかるに、これはプロのピアニストでも知らない人が多く、貴重な表現手段のひとつを知らぬまま演奏していることになるわけです。

尤も、そこまでデリケートな表現を必要とするような、真に創造的なピアニストが果たしてどれくらいいるかとなると、甚だ疑問ですが。
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不思議な演奏

ピアニストには「その人固有の音」があると言われます。
楽器自体がもっている音とはべつに、その人のタッチや演奏の律動が生み出すもうひとつの音色というべきもので、「その人」が弾けばどんなピアノでも「その人の音」になってしまうのは実に興味深いことです。

これを思いがけないところで思い出させられることになったのが小山実稚恵のピアノでした。

今年6月、N響の定期公演でチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を弾いた映像を見ましたが、好みの問題もあるでしょうし、なかなかコメントが難しいと感じる演奏でした。

昔からですが、この人はどうしても楽器を豊かに鳴らせないピアニストなんだということを、この演奏を聴きながら、沈んでいた記憶がふわっと浮かび上がってくるように思い出しました。
どのピアノを弾いても、CDでも、実演でも、不思議なほど音が痩せて固い音になるのは、まさにこのピアニストの固有の現象だと思います。それを小山さんの音と呼ぶべきかもしれません。

また、どんなに力もうとも、音に厚みや迫力が増してくることはなく、だからいよいよ叩きつけてしまうのか、要するに弾き方に問題があるのだろうと思った次第。

たしか何かの記憶では、芸大時代に名伯楽・田村宏氏に師事したところ、田村氏は「もしかしたら、将来ものになるかもしれない学生」としながらも、指ができていないので、その方面の専門家である御木本澄子さんに一時彼女を預けたということを読んだことがありました。

もしかすると、それでも完全な克服には至らず、現在も何かを引きずっているのか…とも思ったりしますが、むろん確かなことはわかりません。

30年ほど前のチャイコフスキー(コンクール)3位、ショパン4位という受賞歴がこの人の知名度をあげるきっかけになったのでしょうが、小山さんを聴くたびに感じることは、その頃からほとんど何も変わっていないことでしょうか。
年齢的に言っても、多少は演奏が熟成してくるのが普通というか、聴く側もそういう期待をするのが自然だと思うのですが、この人にはそれがほとんど感じられないところにむしろびっくりさせられます。もしかすると多くのファンの方々は小山さんのそんなところを、いつまでも失われない初々しさと好意的に捉えておられるのかもしれません。

弾いているのは確かにチャイコフスキーの1番という超メジャー曲にもかかわらず、ほとんどこの曲を聴いているという実感がなく、とくだんの思い入れもないレパートリーの中の1曲をたまたま今弾いているという印象。
小山さんにとっては初めて国際コンクールの決勝で弾き、さらには冒頭でご本人も言っておられましたが、オーケストラと共演したのもこのときが初めてだったということで、若い時にしっかり弾き込んだ曲らしい、手慣れた演奏だろうと思っていたら、その予想はスルリと外されてしまいました。

とりわけこの曲の大仰な叙情性は敢えて排除されたのか、印刷された音符の世界だけがパチャパチャとひろがる様は不思議です。視覚的には、いかにも演奏に集中し、作品からさまざまなことを感じているといった顔の表情とか、いかにもな両腕を上に上げたりとかのモーションであるのに、聴こえてくる音はというと、驚くほどあっけらかんとした無機質なもので、そのビジュアルと音の差にも戸惑ってしまいます。

そうかと思うと、ところどころで盛大に間をとって「ほら、こんなふうに繊細で大切にすべき箇所ではちゃんと一音一音いつくしむようにやっているでしょう?」といった表現もあるけれど、全体と細部が照応せず、辻褄がまるきり合っていないという印象でした。

いっぽう音楽的に要所と思える部分では、えらくスイスイと素通りしてしまうなど、マロニエ君にはおよそ理解のできない演奏のように聞こえるばかりでした。
それでも、音が自分の好みなら、そちらにだけ耳を傾けるという方法もありますが、それは冒頭に書いたとおりで、要するに何もかもがよくわからないまま終わってしまいました。
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かかわらない

いまどきだなぁ…と思ったこと。

スーパーに行ってレジで並んでいると、どこからともなく何かを訴えているような男性の声がとぎれとぎれに聞こえてきました。
おさまったかと思うとまた聞こえてくるので、あたりを見回してみると、3列ほど左のレジで、やや高齢とおぼしき男性がレジ係の女性に向かってしきりに何か抗議をしているようでした。

スーパーの喧騒の中なので、内容はまったく聞き取れないのでわかりませんが、どうやら何かに憤慨のご様子で、ずっとその女性に訴えていますが、ときどき頷く程度で、ほとんど対応らしい対応はせずに、手先は商品のバーコードを読み取る作業だけが休みなく続けられています。
強いて言うなら、非常にソフトな方法で無視しているといったほうがいいような感じです。

まわりを見ると、男女あわせて5、6人はいた従業員は皆そのことに気がついているようで、表情は皆平静を装っていますが、どこか固まったような表情で各自作業をしながら成り行きを耳で追っているといった感じでした。

そんな折、マロニエ君も自分の買い物のレジがはじまりましたが、その間もその男性はずっと文句を言っており、ときおりその口調には激しさが加わりました。

そこへ、溜まってきたカゴを回収にきた男性が、作業をしながらレジ係にそっと耳打ちしました。
するとそのレジ係は無言のままちょっとだけ後ろを振り向いて、男性の方へ視線をやりましたが、すぐにまた仕事に復帰。

レジを担当している人はともかく、それ以外の作業をしている人(とくに男性)は、ちょっと向こうの対応の加勢に行ってやったらどうかと思うのですが、しだいに激しい口調で文句を言われる女性のレジ係はというと、たったひとりで硬直した表情のまま、仕事の手だけが動いています。

抗議している男性は、その態度がまた気に入らないようで、何を言っても暖簾に腕押し状態であることがさらに怒りを増幅させるのか、怒りはいよいよ募っているようです。
このころになると周辺の人達はお客さんも、みんなそのただならぬ様子に気がついていたようですが、周囲の店員たちはまったく助け舟を出そうともしないのは、ある意味怒っている男性以上に異様な感じがして、これは何なのかと思いました。

今どきですから、あるいは男性客のほうが理不尽なクレームをつけているという可能性もあるでしょう。
言葉の内容が聞き取れないので、そのあたりのことはわかりませんが、仮に無茶な主張だとしても、近くでレジ以外の作業している男性などはちょっと割って入って収めてやったらどうかというのが率直な印象でした。
それでも、その男性は憤慨しながらも一定の買い物をして、レジを押し出され、次のお客の精算が始まったことでいちおう幕引きとなったようでした。

こんなことを書いちゃいけないかもしれませんが、もともとマロニエ君は根が不真面目で物見高いので、こういうトラブル事に野次馬として行きあわせるのは嫌いではありません。内心「もっとやれ!」ぐらいに思ってもすぐに収まってガッカリなんてこともしばしばです。一度など、とある店舗内で、若い男女のカップルが大ゲンカとなり、とりわけ女性が男性に猛烈な罵詈雑言をあびせて、男のほうがタジタジという場面に遭遇した時など、もう面白くて、できるだけいつまでも聞いていたいと思ったほどです。

そんなマロニエ君ですが、この光景はまるで後味がよくありませんでした。

おそらく店内の規定があって、そういう場合の取り決めもあり、それに沿った対応だったのかもしれませんが、なんであそこまでレジの女性を見捨てて、ひとりの応援も出て行かないのか、まったく不可解でした。
男性にしてみても、衆目の中でだれからも相手にされず、ただひとり恥をかいたという事実が残るのみ。

あれが今どきよくいわれる「オトナの対応」なのかと思うと、大いに首をひねるばかりです。
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ピアノは優等生

この夏の酷暑のせいで、人だけでなく、機械類まで不具合やトラブルが多発していることを前回書きました。

わけでも車は存外熱に弱く、暑さによって被る機械的ストレスは相当なものだと推察されます。
とりわけ熱害を受けるのは、プラスチックで出来たパーツだとか、ゴム系の素材で作られたホースやベルト関係で、日本の夏は車にとってもかなり過酷な使用環境であることは間違いありません。

車は一部の例外(100%趣味のための車)を除けば、通常は気候に関係なく、春夏秋冬全天候のもとで実用に供されなくてはならないという役目を生まれながらに持っていますが、現実はなかなか理想通りにはいかないようです。

だから完璧に実用品と割り切って、この点では図抜けた信頼性耐久性を誇る日本車に乗っていれば問題はないと思いますが、ここに少しでも感性を求めるとか趣味性を覚えてしまうと、多くの場合、輸入車や旧車など、つまり乗りっぱなしができない車が関心の対象になるわけです。
ヤマハ/カワイの新品より、ヴィンテージピアノに惹かれるようなものでしょう。

時代のせいで、輸入車といえども以前ほど虚弱体質ではなくなってきているのも事実ですが、それでも日本車にくらべればまだまだで、オーナーがボンネットなど一度も開けたこともなく、ただガソリンさえ入れていれば何事もなく走れるというところまでは到達していません。

輸入車でも、車検ごとに好みの新車に買い換えられるようなリッチな方ならあまり問題ないと思いますが、大半はそれなりの懐事情や各車へのこだわりなど、あれこれのいきさつから、手のかかる車を、手をかけながら乗り続けることになると、ここで悲喜劇が巻き起こり、精神的経済的にもかなりの出費や負担が否応なくのしかかります。

あまり比べてみたことはなかったのですが、あらためて考えてみると、クルマ趣味を経験した側から言わせてもらうと、同じ趣味でも、ピアノはなんだかんだいっても本当に手がかかりません。
手がかからないというのは、究極的には維持費がかからないということに言い換えてもいいかもしれません。

ピアノはどんなに細かい調整や整備をやってもらっても、しょせん車とは大変さの次元が違いますし、修理や整備にかかる料金もケタ違いに安いので、そういう意味でオーナーを翻弄しまくり、ときに地獄へ突き落としたりといった大迷惑をかけるとか、経済的苦境に陥れるということはまずないというのが実感です。
モノとしての寿命も次元が違い、長年の使用に耐え、経年変化も軽微。故障なんて無いに等しく、あってもたかが知れています。
よく中古ピアノで「1年間保証付き」などというものがありますが、ピアノで保証を適用するほどの深刻な故障なんてまず考えられませんが、中古車でそんな保証をした日には、場合によってはもう1台買うよりも高額な修理代なんてことはザラですから、売る側はとてもそんなことはしません。

というわけで、ピアノは近隣への騒音問題さえクリアできれば、これほど安全堅実な趣味もないというのがマロニエ君の意見です。せいぜい半年か年1回の調律や調整をやるだけでなんとかなるし、燃料も要らず、保険や税金もないわけで、考えてみたら夢みたいですね。

人間でいうなら、面倒などかけたこともない真面目な優等生と、いつも問題を起こしては騒動になる放蕩息子ぐらいの差があると思います。

でも、ピアノ趣味の人は意外にそのありがたさを知りません。
ピアノの人と話をしていると、わずかな調律代の差であるとか、少しこだわりのある人でも各調整や消耗品の交換と作業代にいくら掛かるかという問題には、かなり細かいシビアな心配をされ、いささか過剰では?と思うほど悩まれます。むろんそれはそれでわかるのですが、内心では「同じ好きなことでも、車の維持費・修理代にくらべたらアナタ、ものの数じゃありませんぜ!」とつい言いたくなってしまいます。

ピアノで最も大金を要するのはオーバーホールぐらいなものですが、それはよほどのことで、日本人のメンタリティからいうとそれぐらいするなら買い換えるほうに向かうようです。
買い換えるお金にはかなり寛大でも、修理や整備にかかる出費となると、一挙に財布の紐が固くなるというのが大方の日本人の感覚なのかもしれません。

日本にも、もう少し道具に対する修理や整備に対する価値観というか、いうなればモノと長く付き合う文化が根づいたら、精神的にももっと豊かになるような気がするのですが…。
京都の街並みの美しさは、ちょっと古くなったらすぐに壊して建て替えたほうが合理的というような、利便性とコスト優先の安直な発想からは決して生まれないものでしょう。
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酷暑の波紋

毎年同じようなことを書いているようですが、日本の夏の暑さはやはり厳しいです。

それも年々勢力を増していくようで、今年の猛暑といったらありませんでした。現在も終わったわけではないけれど、それでもお盆を境に、少しだけひと息ついたような気がします。

関東では明治以来の観測史上、連日猛暑の記録を更新したとも言っていたし、北海道でさえ35°とか36°という数値が記録されたというのだからもうたまりません。

今年だけのこととも思えず、今後はだいたいこんな感じの夏になるのかと考えるとげんなりします。

暑さのみならずおかしいのは、これまで台風は9月に入ってからのもので、これの心配をする頃には、やがて秋が近づいてくるというものでしたが、今年は2ヶ月前倒しで、梅雨の時期からいくつもの台風が列島をかすめたり横断したりと、やはりどう考えても昔とは気象条件も変わってきているようです。

これと連動しているんだろうなあと思われるのが、外気温度のみならず多湿もそれに伴って厳しいものになっているようで、マロニエ君宅の加湿器は一般の家庭用の中では大きい方なのですが、以前なら2日間で3回ぐらいの頻度で溜まった水を捨てていればよかったものが、今年は毎日確実に2度、どうかすると3度捨てる必要が出てきています。

さらには、以前なら湿度計の数値は50%切ることもちょくちょくありましたが、今年は一度もそれがなく、ずっと50%台に留まり、水を捨て忘れて少しでも除湿機が止まってると、たちまち60%台に突入してしまいます。

これでは、よほどピアノも調子が悪いかというと、実はそれほどでもなく、なんとなく毎日の環境に慣れているのか、そこそこ普通にしてくれているところをみると、やはり湿度の数値だけでなく、変化を最小限に留めて一定していることも大事だということがわかります。
それでもディアパソンはヤマハやカワイより湿度に敏感のようで、終日強い雨というような日にはあきらかに変化しており、良く言えばソフトというか、普段よりいくぶんまろやかになったり元に戻ったりを繰り返しているようです。

さて、高温多湿は楽器のみならず、いいことは差し当たり、ひとつもないようです。
マロニエ君のまわりでも、この気候のせいで体調を崩す人はひとりやふたりではないし、とくに呼吸器系の疾患には悪影響があるようで、ある意味、冬場よりも体調管理にはナーバスにならざるを得ないんだなあと思いました。

機械類も例外ではなく、車の故障なども自他共に相次ぎました。
とくにこの季節でやられるのは電気系統で、エアコンの酷使や渋滞によってエンジンルームは凄まじい熱にさらされ、そこからあれこれのトラブルが発生するようです。
エアコンはじめエンジンの冷却ファンなどの多くの電装品も動きっぱなしとなり、電気の使いすぎでバッテリーがパンクすることも多く、仲間内で立ち往生の話はいくつもありました。
また、強い湿気によって点火系統にも悪影響があり、エンジンがかからないなどの不具合が出るようです。

ある人は早朝の通勤時間に何度もエンストして周囲の顰蹙を買うかと思えば、別の車で真夜中のメインストリートのど真ん中の車線で立ち往生。さらに別の知人は出先でセルモーターが回らなくなり、この炎天下で救援に4時間以上もかかったあげく車載車に乗せてディーラーに運ばれるなど、明日は我が身かと思っていたら、なんと現実に!
マロニエ君のフランス車もこのところかなり大掛かりな整備が完了し、差し当たりこれで一安心かと思っていたら、出先でエンジンがかからないという現象が起こり(そのうちかかる)、これを何度か繰り返すので、すっかりビビってしまい乗るのを止めました。

ほうぼうに意見を求めた結果、どうやらセルモーターの劣化ということらしく、まだなんとかエンジンがかかるうちに自宅ガレージに戻っておかないと、出先で寿命が尽きれば、その手間と苦痛は大変なものになります。
おまけにヘンテコな古いフランス車ともなると、部品ひとつも右から左には手に入りません。

というわけで6月から部品待ちで1ヶ月半おやすみしていた我が愛車は、7月終わりから8月はじめの一週間ほどを走ったのち、ふたたび「運航停止状態」となりました。

むろん今回もあれこれパーツの発注をしてなんとか揃ったものの、今度はメカニックが超多忙の由で、再び動き出せるのはいつになることやら…。
その点じゃ、ピアノは故障なんてまずないし、どこか不具合があっても、それでまったく弾けないなんてことはないわけで、車目線で見れば楽なもんだとつくづく実感した次第。
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コンクールのピアノ

今年はチャイコフスキー・コンクールの開催年で、コンクール自体はすでに終了していますが、ネットで演奏動画を見ることができるとは、ありがたい時代になったものです。

むろん全部見るような時間も気力もなく、ちょこちょことかい摘んで見ただけですが、この手の動画と音声も年々精度がアップしているようで、2010年のショパン・コンクールなどに比べて格段の違いがあるように感じました。

カメラワークも巧みになり、鮮明な映像は容赦なくコンテスタントの至近距離へと迫り、指先の動き、吹き出す汗、果ては各人の肌質まで鮮明に見ることが出来るのは、ある意味で会場にいる人以上かもしれません。

音もよく捉えられており、個々のピアノの個性をつぶさに比較することができたのは、大いに収穫だったと思います。

ピアノはハンブルク・スタインウェイ、ヤマハ、カワイ、ファツィオリという最近のコンクールでは毎度お馴染みの4社。

実はこのような同一の条件下で代るがわるに聴いてみると、これまで抱いてきた印象も修正しなくてはならない部分が出てきたりして、自分なりにとても楽しく有益でした。

オープニングのガラ・コンサートで使われるピアノは、前回2011年の優勝者であるトリフォノフの意向によってファツィオリが使われたようですが、聞くところではスタインウェイ以外の3社は、コンクールのために選りすぐりの1台を最高の技術者とともに現地へ送り込んでくるらしいので、このようなメジャーコンクールのステージで鳴り響くピアノは(コンクール向きということはあるにせよ)基本的には各社の「最高」の音だと考えてもさほど間違いではないだろうと思われます。

ファツィオリに関しては自分なりにさらに理解が得られたといえば言葉が大げさですが、たとえばそのひとつは、このピアノは、そもそも美音は目指していないらしい…と思えること。
4台中、ファツィオリは最も音に馬力があるといえばそうかもしれないけれど、美しく澄んだ高級酒がグラスの中で揺らめくような音色ではなく、他社より粗っぽさが際立ちます。
このピアノは艶やかさ、格調高さ、清楚さといったものより、むしろ汗臭いぐらいのパンチが魅力なのかもしれません。

ファツィオリはイタリアという固定観念があるものだから、どうしてもあの国独特の美意識とか芸術の遺伝子のようなもの、すなわちイタリア的な要素を追い求めて聴こうとするのはマロニエ君だけではなかろうと思われます。しかし、それが却ってこのピアノを判りづらくしてきたのかもしれず、こうしてモスクワ音楽院のステージに置かれ、ロシア人によって奏されるその音を聴くと、豪快を旨とするスタミナ系ピアノだと考えると腑に落ちます。

これに対して、以前ファツィオリとヤマハはどこか通じるものがあるというような意味の印象を記した記憶がありますが、直接比較してみるとずいぶん違っていることにびっくりしました。
ひとつには、ヤマハの音の方向性が従来のものとはかなり変わってきているようでもあり、すでにCFXでさえ、出始めの頃のリリックなテノール歌手みたいな音ではなく、やたらと倍音が嵩んだ、むしろ輪郭に乏しい音になっていはしまいかと思います。
いろいろな味付けが過剰で、結果ミックスジュースみたいになってしまったのかもしれません。

それに較べるとカワイはずっとピアノらしさが残っているようで、まだしも正直なピアノだと思いました。…とはいうものの、あまりに洗練を欠いた音色で、いささか野暮ったく、もう少しどうにかならないものかと思ったことも事実。
それでも一点光るものとか、何か突き抜けた特徴があればいいのでしょうが、要するにカワイでなくてはならない積極的理由がなく、どうしても主役を張れない名脇役みたいなものでしょうか。

こうやって比べて聴いてみると、日頃は不満タラタラで、「もうだめだ」「終わった」と嘆息するばかりのスタインウェイが、やっぱり勝負の場になるとハッキリ優れている点は瞠目させられました。
まずなんといっても、その音は明らかに美しさと気品があり、メリハリがあって雄弁でした。弾かれた音が音楽として収束されていく様子は、やはりこのメーカーが長年一人勝ちをしてきたことが、けっして不当なことではなかったということを証明しているようでした。

以前のような他を寄せ付けない孤高のピアノではないにしても、相対的には依然として最高ブランドの地位を守っていることに、納得という言葉はあまり適当ではないとしても、でも、そういうことなんだという事実はわかった気がしました。

それを反映してか、はたまた別の理由なのか、真相はわかりませんが、今回はヤマハ、カワイ、ファツィオリの出番はずいぶんと少なかった感じでした。
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違和感

ほんらい、このブログで書くべき内容ではないと思いますが、少しだけ感じたところを。

8月6日と9日は、テレビはどの局を見ても、トップは「原爆投下から70年」関連のニュースで埋め尽くされています。

しかもその内容は、いずれも「原爆の恐ろしさ」「悲惨さ」「命の大切さ」「二度とあやまちを繰り返さない」「忘れてはならない」「語り継ぐ」といったような言葉であふれかえり、我々日本人は毎年この日この時期になると、一斉に広島と長崎に向かって罪を悔い、国民全員が懺悔をしなくてはいけないかのごとき重い空気が堂々と流れます。

…少なくともテレビではそうなっています。

でも、この二ヶ所に原爆を落としたのはアメリカであり、罪を悔い懺悔をすべきはあちらのはずで、日本は被害者だという厳然たる事実が、長い時をかけながら骨抜きになっているように思います。
日本が被爆国という立場から原爆の恐ろしさを訴えるのであれば、国内より核保有国に向けておこなうべきでは…。しかるに原爆の罪の源流が、まるで日本側にあるかのような文脈は、とうてい受け容れることはできません。

「原爆投下は国際法違反」という意見もあるほどで、そこには落とした方と落とされた方は雲泥の差があるはずだと思います。だからといって、どこぞの国のように際限のない謝罪要求などすべきとも思いませんし、いまさら友好国であるアメリカを責め立てろとは思いません。が、少なくとも、毎年この時期になるといつも何かボタンを掛け違えているような空気に違和感を覚えます。

アメリカは謝罪はおろか、大統領が一度でも両都市を訪問したこともなく、駐日アメリカ大使のキャロライン・ケネディなどVIPのお客さんみたい。

なぜ日本のマスコミは、原爆の悲劇についてまで、その罪科がつまるところ日本人にあるかのごとくねちねちと言い立てるのでしょう。
少なくとも、他国では絶対にあり得ないであろう、不可解な現象ではないでしょうか。

無辜の民間人が住み暮らす、空爆などしていない無傷の都市を敢えて選び出し、ためらいなく原爆投下という蛮行をやってのけたのは、まぎれもなくアメリカであるという事実を、みんな知識として知っているのに、意識として忘れているように感じるのです。

いつまでも憎悪の念をもたないという点では日本人の奥ゆかしさだとも言えるでしょう。でも、それがいつしか原爆の災禍までもが日本人の犯した過ち故といった色合いが、日本人の手によって作られて、それが世相の中央を闊歩するのはどうにも共感できません。

以前、何かの本で読んだことがありますが、広島の平和記念公園に行くと、石碑に『安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから』という文字が刻まれ、ここには主語がなく、あたかも日本人の過ちによって、もしくは日本の犯した罪の報いとして、原爆の悲劇を招いたかのようなニュアンスになっていると記されていたことを思い出しました。

終戦70周年を迎えて、一連の報道は、いまだにその路線を踏襲したものだということがあらためてわかりました。
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最善をつくすか

BSプレミアムシアターで佐渡裕の振ったコンサートが二本、続けて放映されました。
ひとつ目は先般書いたトーンキュンストラー管弦楽団への音楽監督就任を記念した野外コンサート、もう一つがパリのサル・プレイエルで行われたパリ管の演奏会でした。

こちらでは、ベレゾフスキーをソリストとしたラフマニノフのパガニーニ狂詩曲が演奏されました。
ベレゾフスキーは見るからにロシア男といった感じの大柄なピアニストで、それにふさわしい余裕あるスタミナとテクニックをもっているようですが、彼のピアノは粗さも目立ち、演奏家として作品の隅々まで熟考を重ね、細心の注意を張り巡らすといったことが苦手なのだろうと見るたびに思います。

彼が「オレは弾きたいように弾くだけ、それ以上のことはしたくない」と思っているのかどうかわからないし、実際の彼の心中がどのようなものであるのかは知るよしもないけれど、すくなくとも彼のピアノを聴くたびにそういったメッセージを送りつけられているような気がしてしまうことは毎度のことです。

まず、いつもながらの早すぎるスピード。ネット動画で見るロシア人の荒っぽい運転さながら、テンポをきちんと守ることさえ面倒くさそうで、作品に込められた作曲者のあれこれの工夫や聴かせどころなど、オレの知ったことか!とばかりにガーッとアクセル踏んでぶっ飛ばしていくようで、だからこの人のピアノで作品の内奥を覗き見るような経験はまったく望めません。

不思議なのは、ベレゾフスキーというピアニストには、あれだけの技術と体格があるのに、音はいつも平坦で薄く、楽器を鳴らしきることができないのはどうしてなんだろうかと思います。
かつてのロシアピアニズムのような、重量の伴った「こってりした豪快」ではないし、出てくる音にも不思議なほど「音圧」がないのがこの人の特徴のように思います。

意外なのは、全体のマッチョなイメージとは裏腹に、服の袖口からでたその手は、どっちらかというと女性的なぷわんとしたもので、台所用のゴム手袋に水を入れたみたいで、これが彼の出す音色に関係しているのだろうかとも思いますが、よくわかりません。

それでも、このときはパリのサル・プレイエルであるし、収録のカメラも入ったコンサートということで気が締まったのか、これまで見た中では明らかにキチンとしたものだったように見受けられました。つまりベレゾフスキーなりに襟を正し最善をつくした演奏だったようには感じられました。いちおう。
むろん、ピアニストとて生身の人間ですから出来不出来もあれば、ノリの良さ、気合の入れ方にも差があるのはわかりますが、どうも日本での演奏は、おおむね緊張感を欠いたものが多すぎるように思います。


ここから先はあくまで一般論ですが、ラ・フォル・ジュルネのようなコンサートの大量販売会とでもいうべき環境下で、次から次へとポンポン弾かなくてはならない場合は知らないけれども、平生からステージに立つ機会が多い人の中には、通常のコンサートでもしだいに慢心するのか、本気の演奏をなかなかしなくなり、あきらかに手抜き演奏でお茶を濁していることが少なくありません。
もちろん「一部の人」という限定はしておくべきですが。

マロニエ君がいやなのは、品位のないレベルの低い演奏はもちろんですが、出来る人が、あきらかに最善を尽くしているとは思えないような演奏に接するときです。
そんなとき、ただもう無性に不愉快で、馬鹿にされたようでもあるし、人間のいやなところを見せられてしまったようで、実際の演奏会はもちろん、テレビでみる演奏でもその不快感は拭い去れません。

日本人ピアニストの中にも、ちょっと有名になると売れっ子気分になるのか、ほとんど練習らしい練習もしないですむようなポピュラーな名曲ばかり携えて、あちこち飛び回っているような人もあるようで、こういう人の演奏スタンスは聴くに値しないばかりか、本当に実力あるピアニストのステージチャンスすら間接的に奪っていると思います。

演奏というのは表現行為であり、そこには怖いくらい本人の人柄や気構え、折々の心理やテンションが浮き出るもの。生まれて初めてピアノのコンサートに来たという人ならともかく、そこそこの数を聴いていれば一目瞭然です。

いわゆるミスタッチは少くても、聴衆を甘く見たような演奏をすることは、演技的な表情をうかべてキレイ事を言うのと同じことで、表立ってクレームが付けられないぶん、その罪は深いと思います。
こういうことの膨大なる集積も、コンサート離れの一因だとマロニエ君は思うのです。
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三つのヴァイオリン

クラシック倶楽部で堀米ゆず子のヴァイオリンを聴きました。
ブラームスのヴァイオリン・ソナタ第3番と、バッハの無伴奏パルティータ第2番など。

昔から、この人は知名度のわりには「らしさ」がどこなのかがよくわからず、ただきちんと弾く人というイメージばかり先行していました。とりたてて独自の演奏表現だとか、ものすごい技巧というわけでもなく、なにもかもが中庸という感じで、むかしエリザベートコンクールで優勝したということが長らく一枚看板になっているという印象でした。

ブラームスはやはりそんな印象そのままで、悪くもないけれど、ここがすばらしいというポイントも見い出せない、今どきの有名演奏家ならこの程度は弾くだろう…という範囲に留まった気がしました。

ちゃんと準備をして弾いているのだろうけど、全体に四角四面な印象で、もう少し情の深さとかしなやかさがあればと個人的には思います。バッハでも基本的には同じ印象ですが、こちらのほうが一段とテンションが高いようで、そのぶん、聴き応えみたいなものは勝っていました。

このパルティータは最後にあの有名長大なシャコンヌを抱えており、演奏するのも並大抵ではないと思われますが、堀米さんはしゃにむに一気に弾いたという感じが残り、呼吸感がないのは本人はもとより聴く側も疲れるので非常に気になるところでした。
でもやっぱりバッハにはいまさらながら圧倒されてしまったのも事実です。


そのまま、先日の日曜夜中にやっていたBSプレミアムシアターをみると、佐渡裕がトーンキュンストラー管弦楽団の音楽監督になったとかで、そのガラ・コンサートが野外コンサートとして行われた様子を早送りしながら見ました。

そもそもトーンキュンストラー管弦楽団なんて聞いたこともなく、佐渡さんの演奏もあまり好みではないので、そのあたりの事情はまったく知らなかったのですが、どうやらオーストリアのオーケストラのようでした。
ガラ・コンサートということで、あまりにベタな名曲集になるのは日本以上では?と思いつつ、ここにヴァイオリンのソリストとして登場したのがユリア・フィッシャーでした。サラサーテの「カルメン幻想曲」を聴いただけで、まったく苦手なタイプの演奏だとわかり、二度目の登場で弾く「序奏とタランテラ」まで見てみる意欲は失ってしまいました。

ここまでやるかという、これ見よがしの技巧露出のオンパレードで、いやしくも音楽の都であるウィーンを擁するこの国で、あんな演奏が受容されるのかとびっくりです。
ユリア・フィッシャーはヴァイオリンとピアノの両方が弾ける異才の持ち主として楽壇に出てきた女性で、マロニエ君も1枚だけCDを持っています。シューベルトのふたつの幻想曲、すなわちヴァイオリンとピアノのD934、ピアノ連弾のD940、いずれも大変な作品ですが、彼女はD934ではヴァイオリンを弾き、D940ではピアノを弾くといったことをやっています。

CDでは、よほどよそ行きの演奏だったのか、とくにどうということもない「あそう」というだけの演奏でしたが、まさかステージであんな演奏をする人とは思ってもみませんでした。破廉恥すれすれな衣装にもびっくり。


このまま終わっても気が滅入るだけなので、さらにクラシック倶楽部にもどって、かなり前の録画でほったらかしにしていた『長原幸太☓田村響 デュオ・リサイタル』を見てみることに。
…すると、これが思いがけなくおもしろい演奏でした。

曲はコルンゴルトの「から騒ぎ」、ミルシテインのパガニーニアーナ、ヤナーチェクのヴァイオリンソナタなど。

長原幸太氏のヴァイオリンは初めて聴くもので、必ずしもそのセンスに賛同するわけでもなく、やや才気走ったところなども見受けられましたが、いわゆる優等生的完璧を狙う人ではないようで、演奏している瞬間瞬間の反応だとか、沸き起こるような迫真力がある点は、思わず引きつけられてしまいました。

多くの場合、近ごろは演奏に対するスタンスもほぼ似通っており、先がどうなるかすぐ見えてしまうような安易なカタチだけの演奏が多い中、まったくそれがなく、現場での刺激やひらめきを積み上げていくタイプの演奏。今そこで弾かれて出てくる音そのものが音楽を作っていくという魅力、次がどう来るんだろうというワクワク感のようなものがあり、聴いていて少しも飽きませんでした。

なかでもヤナーチェクのソナタは久しぶりに聴いた気がしましたが、むしろまったく新鮮な印象で、こんなに面白い曲ということを気付かせてくれたということは…やっぱり「いい演奏」なんだと思います。
楽器もとても魅力的な音で、後でわかったことですがアマティだそうで、なるほどと納得してしまいました。
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続・便利の不便

前回「便利の不便」という事を書くつもりが、すこし変な方向に流れてしまったので続きを。

自動車の世界では、近ごろ当たり前になりつつある電子ずくめの制御および操作系は、車を運転するという人の生理の延長上にある行為を、おおいに阻害しているというべきです。
ブレーキなども年々オーバーサーボ(ちょっと踏んでもグワッとブレーキが効きすぎる)になり、スムースかつナチュラルな操作をするにはかなり繊細な操作を要求しますが、これなどは小柄な女性や高齢者であっても充分なパニックブレーキが得られるための「安全対策」だということになっているようです。

カーナビもどこか乙にすました純正品より、市販の後付のもののほうが、誰がなんと云おうと圧倒的に使いやすいのは紛れもない事実。
いくつもの機能をひとつのモニターに適宜表示させるなど、いかにも手際よく取りまとめられたかに思える現代の車は、肝心の点、つまりそれを使う人間の心地よさというものが二の次になっていると思われ、これは技術の進歩による明らかな操作性の後退であり、ひいてはドライバーのためのコンフォート性の低下ではないのかと感じます。

スタイリッシュなデザインの中に流し込まれた標準装着のナビゲーションはじめ、TV、電話、オーディオ、さらには車の出力特性やハンドリング/シフトタイミングなどを変化させる電子的機能が、センターコンソールのボタン群を中心にモニターを見ながら複雑かつ多層的な操作を要求するようになっていて、必要な項目を呼び出すだけでも一仕事というのはいかがなものか。さらにその横には指先で字を書くようになっているパッドのようなものであって、うっかり触れても思わぬ機能が反応したりと、もうなにがなんだかさっぱりです。

わけてもカーナビの使いにくさは並大抵ではなく、よほど使い慣れたタッチパネルのゴリラでも別につけようかと本気で思ったのですが、せり出してくる純正ナビがじゃまになって、どう見ても取り付ける場所がなく、この作戦は断念することに。

ほかにも前後左右に衝突の危険を知らせるためのセンサーが仕込まれており、これがまた車庫入れの時などピーピープープーと盛大な警告音がして、却って思い通りの駐車ができないのです。そもそもバックカメラなんて見ながら車庫入れするほうがよほど難しいのでは? 助手席の背後に手を回して後ろを向いてガーッとバックするのが早いし爽快だし運転技術も上がるというもの。

ハンドルにも正体不明のスイッチが居並び、しかも切り替えによってひとつのスイッチが何通りもの役を兼ねており、なんでたかだか車に乗るのにこんなややこしいものに取り囲まれなきゃいけないのかと、ふとばかばかしいような気になります。
とりわけ興ざめだったのは、せっかく気持よく音楽を聴いているのに、どうでもいいような交通情報とか「この先の交差点には右折専用車線があります」といった無意味なことを次々にしゃべり続け、しかもそのつど音楽は強制的にトーンダウンさせられるので、もう曲の流れはズタズタで、腹立たしいといったらありません。

ついに堪忍袋の緒が切れ、それらはディーラーに相談したら、「設定」の操作によって「黙らせる」ことにめでたく成功しましたが、中にはキャンセル出来ない機構というのもあるのが困ります。たとえばアイドリングストップは、機械の判断だけで信号停車中などで突如エンジンが止まってしまいます。
省エネは大事だけど、信号や渋滞のたびにいちいち強制的にエンジンが止められるのはどうしても嫌なのです。いちおう「アイドリングストップを機能させないボタン」というのはあるにはあるけれど、これは一度エンジンを切れば解除されるようになっていて、乗るたびに毎回このボタンを押さなくてはならず、忘れていたらすかさずエンジンはプツンと停止。

マロニエ君自身がそういう新機構にスッと馴染みきれないタイプだということはあるとしても、どうも最近の機械は「使う人」を中心にした思想が希薄で、多機能とスタイリッシュだけが宣伝効果としてカタログを飾り立てているような気がします。
その点では昔のメルセデスなどは、本当に人間中心の骨太の哲学が貫かれた車だったと思います。


不満ばかりを書き連ねましたが、もちろん良くなっている点もあるのは事実です。
たとえばこの車は通常のオートマティックではなく、Sトロニックという自動クラッチによる変速機構を持っています。簡単に言うとマニュアルトランスミッションのクラッチ操作を機械がやってくれるというもので、そのぶんアクセルワークにたいしてパワーがダイレクトに乗ってきます。

しかも繋がりは驚くほどスムースかつ瞬時に行われ、トルコン式のオートマやCVTはどれほどよくできたものでも、一定のロスがあることがわかります。さらに7段ものギアを千変万化させながら駆使するので、ダッシュもやたらと力強く、燃費にも優れているようで、たしかにこういうところは技術の進歩を痛感させられるところです。
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便利の不便

最近の機械製品は、あまりに進化が著しく「便利も行くつく先は不便では?」と思ってしまうことがしばしばです。

テレビやエアコンの操作がリモコン化された頃なら、その単純な便利さに感激したものですが、最近はそのリモコンひとつとってもあまりに多機能で操作も複雑、普通に操作するだけでも勉強と慣れを要し、説明書にも「基本編」と「応用編」といった二段構えとなっていたりで、それだけで見るのもうんざりしたり…。

我が家ではただ単にものを温める脇役でしかない電子レンジでさえ、オーブンだなんだとあらゆる機能が盛り込まれていますが、そんなものはほとんど使ったこともありません。
ガスレンジも(安全性を考慮して)新しい器具に替えたはいいけれど、ここにもコンピュータ制御のいろんな機能があり、温度調整からタイマーやら何やら、ややこしいのなんの…ここでも一定の勉強と習熟が必要になっています。

それどころではないのが車です。
今年の春、久々に車を買ったところ、これがまたやたらと多機能で、普通は新しい車を買うとむやみに走り回ったりするものですが、今どきの車というのは、そんな心情を単純に受け容れてくれる相手ではないようで、ひと月以上は乗るたびに言い知れぬ疲れを覚え、いまだにある種の窮屈感があるのはまだ払拭できていません。

今回が初めてではないものの、個人的には、まずいわゆるギザギザした金属の「ふつうの鍵」がない車というのは、気持ちの上でどうもしっくりきません。
スマートエントリーとされるシステムで、鍵の代わりに黒くて重いかたまりみたいなものがあり、これをポケットなりカバンなりに入れておけば、施錠も解錠もキーレスでできるので、いちいちキーを出す必要がなく、両手が傘や荷物でふさがっているときなどは便利…ということになっているのですが、個人的にはこれがそれほど便利とも思えません。
むしろこのシステム固有の不便もあって、サイフひとつで済むようなときでも、スマートキーの入ったカバンや上着を必ず車から出し入れしなくてはならず、しかも通常のキーのようにエンジンのON/OFF時に手に触れるものでもないため、たえずその存在と在処を意識しておかなくてはならず、気が抜けずに疲れるのです。

車を降りてロックするにも、これまでのようにリモコンキーにあるボタンでカシャッとロックできればそれで充分だったのに、ドアを閉めて取っ手にちょっと触れることでロックされたり解除されたりするのですが、これにも一定のコツみたいなものがあって、取っ手を引っ張るとすかさず解除されドアが開くなど、自分のイメージとはちがった機能が作動したりと、何度もやり直しをするはめになるなど却って面倒で、これじゃあ何のための便利機能なのかと思います。

エンジンをかけるにも、キーを差し込む必要はなく丸いボタンを押すだけ。
しかもその際、フットブレーキを踏んだ状態でないと反応しないという「安全手順」が組み込まれていますが、こんなものは安全のとめというよりアメリカなどでの訴訟対策みたいなもので、操作を煩わしくするだけ。
AT車の場合、ギアがPにあれば絶対に車は動かないわけだから、これを条件としてエンジン始動できるという程度でじゅうぶんだと思います。

とくにマロニエ君は習慣的にエンジンを掛けるやすぐに動き出すということはせず、いつも必ず暖気をしてアイドリングが落ち着くまで待つので、その間に上着をとったりカバンや荷物を後ろの席に積み込むなどするのが自分なりのスタイルになっています。

そのため、これまではドアを開け、立ったままエンジンを掛けていたのですが、スマートエントリーではエンジンの始動ボタンは奥のセンターコンソール上にあって立ったままでは手が届かず、さらにブレーキを踏んだ状態でないとボタンを押してもエンジンはかからないので、やむなく規定通りに運転席に座ってブレーキを踏んでエンジンをかけることに。
しかし、セルモーターを回すというわずか一瞬のためだけにいったん運転席に座らされるのが、どうにもシステムの奴隷にされているようで釈然とせず、何が何でも外からエンジンをかけたいという、まことにつまらぬ意地みたいな衝動に駆られました。

その結果、編み出した方法は、しゃがんで上体のみ車内に入れて、右手でブレーキペダルを押しつけ、左手を伸ばして始動ボタンを押すといったアクロバットスタイルを取るとエンジンがかかることが判明。

いらい、自宅ガレージではこの甚だ不格好でばかばかしいスタイルが定着してしまいました。
さすがに出先ではやりませんけど…。
続く。
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シャマユとバラーティ

N響定期公演の録画から、ベルトラン・シャマユのピアノでシューマンのピアノ協奏曲を聴きました。

シャマユは近年注目されるフランスの若手で、マロニエ君もすでにシューベルトのさすらい人や、リストの巡礼の年全曲などをずいぶん聴いており、それなりに親しんだ感のあるピアニスト。
ただし、演奏の様子は見たことはなく、この時がはじめてでした。
CDの印象では、趣味の良い演奏に終始して、必要以上に語りすぎたり主張が強いといったことなく、こまやかな感性がバランスよく行き届いた演奏で、耳に心地よいピアニストという印象でした。

節度をもってサラッと行くところがフランス人らしいといえばらしいけれども、シューベルトなどではもうひとつ滋味につながらなかったり、作品の内奥を覗き見るような精神性を求め得る人ではないようですが、繊細で気の利いた演奏をする人というのは確かなようです。
それが最もいいほうに出ていたのが巡礼の年(全曲)で、ペトラルカのソネットのような芸術性の高い作品が含まれるいっぽうで、全体的にはなんだかやけに大仰でワーグナーのようなこの作品にあまり共感を得られないマロニエ君としては、シャマユの演奏はリストの作品に潜む、なんだか誇張的で混沌とした部分がすっきりと整頓され、見通しの良い景色になってくるような心地よさがありました。

そんなシャマユでしたから、シューマンの協奏曲ではリパッティのようなといえば言い過ぎかもしれませんが、均整と節度がおりなす美演のようなものをイメージしていたところ、残念ながらそうではなく、あきらかにピアノが負けて埋没してしまっており予期したような感銘には繋がりませんました。
ところどころに彼らしい語りの美しさも垣間見えはしたものの、全体的には骨格の弱い、いささか心もとないピアニストという印象に終わったのは非常に残念でした。

趣味が良いとか、繊細な表現とか、さまざまな個性があることとは別に、人には生まれ持った器というものがあるようで、その点でシャマユはあくまでもコンパクトに聴かせるサロン系のピアニストであって、腕力も問われる大舞台には向かないようだと思いました。


別の週にはクリストフ・バラーティをソリストに迎えての、バルトークのヴァイオリン協奏曲第2番で、こちらは呆れるばかりにうまい人でした。
とりわけその自在なボウイングには唖然!

正直にいうと、マロニエ君はいくら聴いてももうひとつバルトークというのが自分には馴染みません。
人に言わせると、これ以上ないというほど素晴らしいのだそうですが、なんだか理屈先行の作曲家という頭でっかちな感じも否めませんし、その傑出した作曲技法も、聴く者の五感に直訴してくるものが後回しになっているようで、専門家だけが唸るなにかの設計図のような気がします。
さらには、バルトークがこだわった民謡というのがそもそもマロニエ君好みではなく、どうも相性がよくないというか、客観的には理解できないと見るべきなのかもしれません。

どんな名人の手にかかっても、バルトークが鳴り出すと「早く終わって欲しい」と思ってしまう自分が情けなくもありますが、唯一の救いは、かのグレン・グールドが「20世紀の最も過大評価された作曲家」としてバルトークの名を挙げている点です。

マロニエ君にとってはそんなバルトークですが、バラーティのヴァイオリンにかかっては、なんとかこの「好みではない大曲」を最後までそこそこ楽しむことができたのは、自分でもちょっと意外でした。

なにより腰の座った技巧と、奇をてらわない表現は、この複雑怪奇?な難曲を、ぶれることなしに終始一貫した調子でものの見事に弾いてのけたという点で感銘を受けました。
その音色は常に適確で冴え冴えとしており、NHKホールのような大会場でも、ものともせずに響きわたっていたようです。

アンコールはイザイのヴァイオリン・ソナタ。
この人のイザイはCDでも持っていますが、CDよりずっと落ち着きがあって好ましい印象でした。

調べたところ使用されるヴァイオリンは、1703年のストラディヴァリウス「レディ・ハームズワース」だそうで、それじたいが超一級の楽器のようですが、だとしても小さなヴァイオリンひとつがあれだけ大会場でも朗々と鳴り響くのに、最近の新しいピアノときたら、それこそ泣きたくなるほどふがいない音ばかり聴かせられている現状には、あらためてピアノという楽器の危機を感じずにはいられませんでした。

シャマユの演奏も、ピアノがひと時代前のものであったらずいぶん違っていただろうと思います。
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むしろ実務派

ネットでCDを注文しても、どうかすると入荷待ち状態が果てしなく続き、そのうち注文したことすら忘れてしまうことが少なくないのは以前に書いたような気がします。

ときおり、お店から「キャンセルする」か「購入希望を継続する」かというメールが来ることで、ああそうだったと思い出すような始末です。そんな中でも、たぶん4ヶ月ぐらい待たされ、メールに返信するたびさすがにもう無理だろうと諦めかけていたら「発送しました」という連絡がきて、その翌々日に届いたのがヴァインベルグのピアノ作品全集でした。

ヴァインベルグは最近になって交響曲などが一般に知られるようになった(ポーランド出身ロシアの)作曲家。ショスタコーヴィッチとも交友関係あったというだけあって、いくつか聴いてみたオーケストラ作品ではかなりショスタコーヴィッチに似通った作風が感じられました。
ピアノ作品はむろん耳にしたことがなく、どんなものかと興味本位で買ってみることにしたものが、これが大変なお待たせをくらうことになったわけです。

届いたCDは4枚組、主に第6番まであるソナタが中心で、あとはさまざまな小品でした。演奏はアリソン・ブリュースター・フランゼッティというアメリカの女性ピアニスト。

とりあえず1枚目を聴いてみましたが、未知の曲に接する面白さはそれなりにあるものの、とくに何か特別なものが訴えかけてくるというほどのでもなく、とりあえずひと通り聴いてみただけで結構時間もかかりました。

音を出す前にブックレットを見てみると、このピアニストがファツィオリを演奏している写真がいきなり目に飛び込んで、データを見るとなんとF308で演奏しているらしいことがわかりました。「あー…」と思いましたが、これはこれで面白いかもと思いながら再生ボタンを押しました。
ソナタ第1番の開始早々、ファツィオリらしい(というかだいぶこのピアノの音に耳が慣れてきたような…)平明でアタック音の強い硬質な音が聞こえてきました。はじめはフムフムと思って聴いていましたが、曲のほうにも興味があるため始終ピアノの音ばかりに耳を傾けているわけにもいきませんが、ときどき思い出したようにピアノにも意識が行くものです。

たしかにファツィオリには違いないけれど、このところかなり聴いたF278とはやや異なるものがあること開始早々からわかりました。全般的には同一のDNAをもつピアノですが、F308のほうがキャラクターがやや穏やかで、その点ではF278のほうがずいぶん攻めてくるピアノだなあと思います。

以前、トリフォノフのショパンで、この両器を弾き分けているデッカのCDがあり、F278のほうが鳴るように感じたのですが、これは霞のかかったようなライブ録音であったのに対して、今回のヴァインベルグは録音がとてもクリアで、目の前にピアノがあるような感覚で隅々まで詳しく聴くことができ、おかげでファツィオリにより近づけたように思えました。
それによればF308はいくぶん発音が柔らかいためか、相対的にF278のほうがいかにも元気よさげで、パワフルに聞こえるのだろうとも思いました。

一般的にも、大型のピアノより、小型のグランドのほうがある意味でレスポンスが良く、バンバン鳴るような印象を受ける場合がありますが、これと同じことなのかもしれません。とくに印象的だったのは、低音は電流のような迫力があることで、このあたりは3mを超える巨大ピアノの面目躍如といったところでしょうか。

ただ、やはりこのF308でもパワー重視というか、音色そのものの美しさというのは二の次なのか、聴いたあとに残る印象はやはりこれまでのファツィオリと大きな変化はありません。まるで獰猛なパワーでライバルを挑発してくるランボルギーニみたいなピアノだと思います。

鮮明な録音による4枚のCDを通して聴いても、ファツィオリのこれぞというトーンや色合いは依然掴めぬままでしたが、もしかすると、敢えて個性や色合いを排除することで、よりニュートラルというか普遍性の高い現代的なピアノの音を目指しているのかもと深読みさえしてしまいます。

何かを探そう探そうとしてファツィオリを聴いたあとでは、おなじみの老舗メーカーのピアノ達はもちろん、カワイのSK-EXなどでも特徴的なトーンのあることがスッとわかるようで、これってなんだろうと思います。

もちろんすべてのステージや録音がスタインウェイ一色となるような状態にはまったく不賛成で、ファツィオリのような新興メーカーのピアノが最前線に躍り出てくることはひじょうに刺激的で面白いし、またそうでなくては他社もほんとうの意味で切磋琢磨はできませんから、ファツィオリの登場というのは意義深いものだったと思います。

ただ個人的には、ほかならぬイタリアの楽器なのですから、もっと濃厚な音色や官能を撒き散らすような特性があったらもっと楽しめただろうにと思います。すくなくともあのスマートなロゴマークや、金のラインの入った足、ボディ内側の木目などに見るイタリア式贅沢のイメージとは裏腹の、むしろパワー指向の実務派ピアノだとすれば、すんなり納得できる気がします。
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アメリカン

BSで、クリーヴランド管弦楽団のブラームス演奏会というのがありました。
指揮は音楽監督のフランツ・ウェルザー・メスト、ピアノはイェフム・ブロンフマン。

間にハイドンの主題による変奏曲と悲劇的序曲などを挟み、前後にピアノ協奏曲第1番と第2番を配するという驚くべきプログラムで、アメリカではこんなすごいプログラムをやるのかと思っていたら、数回に分散していた曲目を放送用に合わせたもののようでした。どうりで…と納得。

クリーヴランド、メスト、ブロンフマンとくれば、たしかに世界の一流プレイヤーなのでしょうが、なんとなく自分の趣味ではない気配で普段ならあまり近づかないところです。が、なにせブラームスのコンチェルトとあっては、つい誘惑に航しきれず見てしまうことに。

個人的にどうしても期待してしまうピアノ協奏曲第1番は、出だしからやはりというべきか好みではなく、ブロンフマンのピアノも面白みがまったくといっていいほどありません。
この一曲を聴いて、すっかり疲れてしまい、続きを聴く気も失せて、ひとまずその夜はここまで。

体質的か、感覚的か、アメリカのオーケストラがあまり好みではないマロニエ君にとって、クリーヴランド管弦楽団といえば長年ジョージ・セルが振っていたことぐらいで、何かを語れるほどよくは知りません。そういえば、内田光子の2度目のモーツァルトのピアノ協奏曲シリーズもクリーヴランドで、これがかなり高く評価されているようですが、マロニエ君はまったくそうは思えず、断固としてテイト指揮イギリス室内管弦楽団との初回全集を評価しています。

クリーヴランドはアメリカのオーケストラとしては「精緻なアンサンブル」で「最もヨーロッパ的」なんだそうですが、ふ~んという感じで、たとえばアメリカにあるヨーロッパ調の壮麗な建築のようで、それっぽいけど何かが違うという印象。

数日後、続きをどうするか、迷ったあげくとりあえず間を飛ばしてピアノ協奏曲第2番を見てみましたが、こちらのほうが第1番に比較すると格段に良かったのは意外でした。迷いが多く消極的だった第1番に対して、第2番ではカラッと晴れ上がったように爽快な演奏となり、ずっと弾きなれた感じもあり、少なくとも大してストレスもなく聴き進むことができました。

ブロンフマンというピアニストには以前からあまり興味が無いので、彼のレパートリーはどんなものかも知りませんが、少なくともブラームスの2つの協奏曲では、ずいぶん仕上がりに差があったという印象でした。
守りに徹した第1番とは対象的に、第2番ではピアノが前に出ていこうとする活力があり、それなりのノリの良さもあって、前回途中でやめて消去してしまわないでよかったと、とりあえず思いました。

ウェルザー・メストも有名なわりにどんな音楽を作るのかよく知らないままでしたが(むかし小泉首相に似ているなあと思ったぐらい)、この演奏を聴いた限りではオーストリアの音楽家とはイメージが結びつきません。音楽を紡ぎ出すというより、仕事でやっているという感じを受けてしまいます。

ブロンフマンは大曲をこなすスタミナはあるようですが、この人なりの表現というよりは規則通りの流暢な演奏処理をするだけという印象。演奏者の感性に触れるような面白味が感じられず、どこが聴きどころなんだかよくわかりません。思い起こせばディビッド・ジンマンの指揮でベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲を入れたCDがありましたが、あれもただサラサラと弾かれていくだけで、せっかく買ったのにほとんど聴かずに終わりました。

オーケストラ、メスト、ブロンフマン、いずれも一流プレイヤーとして認められ、おそらく現在のアメリカで望みうる最高の組み合わせのうちのひとつだろうと思うと、それにしてはなにか心に残るものが感じられなかったのは残念でした。

ついでに言ってしまえばクリーヴランド管弦楽団の本拠地であるセヴェランス・ホールも、かなり大掛かりな改修を受けたのだそうで、ステージ側面から背後にかけての意匠など、わざとらしく遠近法を使ったオペラかバレエの舞台装置みたいで、あんな甘ったるい華美な装いはアメリカのセレヴ趣味を連想させられるだけで、マロニエ君はクラシック音楽のステージとしてはあまり好みではありません。

オペラで思い出しましたが、巨漢のブロンフマンはピアニストというよりどこかオペラ歌手のようでもあり、とくに最近少しお歳を召した感じが、まるでトスカを恐怖と絶望のどん底に落としいれるスカルピア男爵のようでした。
ま、そんなことは余談としても、アメリカのコンサートというのは、なんとなく雰囲気が違うなあという気がしないでもありません。実情は知りませんが、画面から受けた印象では、なんとなくその地域のお金持ちや名士の集まり的な感じというか、日本などのほうがよほど音楽そのものをサラリと聴きに来ているような空気があるようにも感じました。

ピアノはかなり新しいハンブルク・スタインウェイで、いわゆる今どきのこのピアノでした。
むかしはアメリカのステージではアメリカ製のスタインウェイが当たり前で、ハンブルクを使うことは滅多なことではなかったものですが、近ごろはカーネギー・ホールのステージでさえ普通の感じでハンブルクが使われていたりするところをみると、なにかこの会社の事情があるのかと勘ぐりたくなってしまいます。
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BARENBOIM-2

現代に生まれた並行弦によるコンサートピアノ、BARENBOIM-MAENEの写真をためつすがめつ観察した感想など。

ベースはスタインウェイDでも、ディテールはずいぶんとあちこち変えられており、簡素な仕立ての椀木や譜面台の形はヤマハのCFX風でもあり、足に至ってはCFXそのままのようにも見えました。ただ、いかにも日本人体型のようなドテッとしたCFXに比べると、元がスタインウェイの細身なプロポーションであるだけ、ずいぶん軽快な印象ですね。

バレンボイムの主張としては、このピアノは音がブレンドされておらず、それは演奏者に委ねられているというような意味のことを言っているようです。現代のピアノの音が化学調味料で作られたコンビニスイーツみたいな表面だけの音になってしまい、ピアニストの感性や技量によって音色が作られていくという余地がかなり失われていることはマロニエ君もかねがね感じていたことです。

演奏者が音色や響きのバランスに対して、創造的な感性や意識を発揮させるということは、いうまでもなく演奏行為の本質にあたる部分だと思われますが、それを必要としない、もしくは受け付けない、無機質な美音だけでお茶を濁す現代のピアノ。そこに危機を感じるのは至極当然というか、彼の意図するところはおおいに共感を覚えるところです。

以前、フランスの有名なピアノ設計者であり、ピアノ制作も手がけているステファン・パウレロのホームページを見ていると、コンサートグランドと中型グランドという2つのサイズのほかに、交差弦と平行弦のふたつの仕様(それぞれボディのサイズも違う)があり、計4タイプが存在することに驚いたものでした。

クリス・マーネのホームページでは「BARENBOIM」ピアノのいくつかの写真も公開されていますが、リムの基本形はスタインウェイであるものの、裏側の支柱などもフレーム同様に並行となっていて、ここまでくるとほとんど別のピアノだと思います。
車の世界では同じプラットフォームを共有しながら、まったく別の車を作ることは近年よくあることですが、ついにピアノにもそんな考え方が到来したかのようです。
おやと思ったのは、スタインウェイの特徴のひとつであるサウンドベルがしっかり残っているところで、このパーツにはボディへの響かせ効果として(諸説あって、確かなことはいまだに知りませんが)、残しておくべき理由が、平行弦ピアノにおいてもあったのだと推察されます。

また響板の木目も、通常の斜め方向ではなく、弦と平行(すなわち前後)に揃えられており、駒も低音と中音以上のふたつの駒がそれぞれ独立して配されているのも特徴のようです。独立といえば、並行弦ピアノなのに駒とヒッチピンの間にアリコートが存在し、それがスタインウェイとは違って独立式になっているのもへぇぇという感じです。

また、フレームと弦の間に配されるフェルトが深みのある紫色となっており、これがフレームの節度ある淡い金色と相俟ってなかなかに美しく、リムの内側も古典的な明るい色に細いラインが水平に二本入るなど、どことなく高貴な印象さえありました。

鍵盤蓋には「BARENBOIM」、フレームには「CHRIS MAENE」と互いの名誉を尊重し合うように表記され、二者の合作であることが伺われます。
鍵盤蓋に埋め込まれるロゴはそのピアノのシンボル的なものなので、そこは知名度も高い世界的巨匠の顔を立て、フレーム上のエンボス加工では技術的貢献者であるマーネの名が記されているのだろう…と、そんな風にマロニエ君は解釈しました。
また、STEINWAYの文字が一切ないところをみると、むしろそれがメーカーのプライドであったのかもしれません。

このピアノ、完全なワンオフと思いきや、ここまで本格的な作りに徹したということは、そうではない可能性もあるような気がします。相当な額に達するであろう開発製造費なども、より数を作ったほうが1台あたりの価格が安くなるでしょうし。

マーネのHPから得た写真では、このピアノの並行弦用フレームが2つ重ねて代車で運ばれるショットがあり、やはり数台作られるようにも見えますが、どうせ鋳型を作ったのだから出来の良い物を選ぶために複数作ったということもあるかもしれません。
尤も、今時の正確な作りのフレームが、個体によって優劣や個性があるのかどうか、さらにはそれほど豪快に金に糸目をつけないやり方が可能かどうか…そのあたりはわかりませんが。

いずれにしろ、ここまでして出来上がった自分の名前を冠したピアノですから、さしものバレンボイムもじばらくはこれを使わないわけにはいかないでしょうね。
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BARENBOIM

ホームページを見ていただいただけで、これまで一度もコンタクトを取ったことのないピアノ店から、グランドピアノのタッチを調整するための面白い製品がある旨のお知らせを頂きました。
遠方ゆえ、その店に購入や取付を依頼することはないでしょうから、ただ純粋に教えてくださったというわけで、ご親切には心より感謝するばかりです。

「タッチレール」という名のアイテムは、鍵盤蓋のすぐ向こうにある「鍵盤押えレール」を外してそこへ装着するだけというもの。ピアノ本体にはなんの加工も必要とせず、すぐにオリジナルに戻せるというなかなかの優れもののようです。

それついては、もし購入・装着すればいずれご報告するとして、そこのお店のブログなどを奨められるままに見せていただいたところ、驚くべき情報を発見しました。


さきごろ、ピアニストで指揮者のダニエル・バレンボイムが、なんと自らの名を冠した新しいピアノを発表したとのこと。

大屋根のカーブ、支え棒、3ヶ所の蝶番の形状と位置などから、スタインウェイDに酷似していると思ったら、やはりそれがベースのようですが、このピアノで最も注目すべきは、単なるスタインウェイのカスタマイズといったありふれたものではなく、驚くなかれ中は並行弦!!となっている点です。

現代のモダンピアノが交差弦であることはもはや常識で、当然ながらあの見慣れたスタインウェイのフレームとはまったくの別物がボディ内部に鎮座しています。スタインウェイDのリム(外枠)の寸法に合わせて新造されたもののようで、加えて、弦はディアパソンやベーゼンドルファーで有名な一本張仕様。

バレンボイムがナポリかどこかで昔の並行弦のピアノを弾いたことがきっかけで、スタインウェイにこのアイデアを持ち込んだところ、クリス・マーネという古今のピアノに精通した特別な技術者を紹介され、その工房とスタインウェイ社の協力のもとに作られたピアノのようです。

クリス・マーネは調べたところ、とても個人の技術者という枠で収まりきる人物ではないようで、その工房たるや、立派なピアノ製造会社の工場のようで、広大な工房内にはピアノのためのあらゆる設備が整っており、これだけでも圧巻です。
マーネ氏は現代のピアノは言うに及ばず、チェンバロからフォルテピアノなど、あらゆる種類の鍵盤楽器に精通し、制作や修復などにも大変な手腕を発揮しているようで、スタインウェイ社もここに託すのが最良と判断したのでしょう。

ホームページではその製造過程の様子が写真で見ることができますが、まさにメーカーレベルの仕事のような大規模で整然としたものであるところは、ただもう唖然とするばかりで、ピアノのためのこういう会社が存在しているというところひとつみても、やっぱりヨーロッパはすごいなぁ!というのが実感でした。

このピアノは今年の5月にロンドンで発表され、BBCなどで映像も公開されているようです。

発表の場では、バレンボイムがシューベルトのソナタなどを軽く弾いていましたが、わずかな音の手がかりから感じたことは、純度の高い、真っ直ぐで、簡素で、繊細な感じの音。それでいて現代のピアノらしい豊かさと、スッと減衰しない伸びの良さを兼ね備えているようでした。
さらにはスタインウェイにくらべて音の立ち上がりがいいように感じました。
この点、もともとスタインウェイは、どちらかというとやや音が遅れて出てくるようなところがあるので、それが普通になっただけかもしれませんが。
彼はこれからしばらく、このピアノであれこれのコンサートを行うそうですから、そのうちCD化などもされるものと思います。

スタインウェイも昔のような大上段に構えた商売はやりにくくなっている筈ですから、今後はこういう目的に特化したカスタムピアノの制作にも協力姿勢をとっていくのかもしれませんね。
もし成功すれば、第二のシリーズとして、ラインナップされることもあるんだろうか?などと想像が膨らみます。

それにしても鍵盤蓋の中央には金色で「BARENBOIM」の文字が輝き、それをちっとも臆しないところは、やはり世界の巨匠といわれる人の感性は違うんだなあと感心しました。

知り合いの某調律師さんは、シゲルカワイをして「いくら会社の社長とはいえ、そのフルネームをそのままピアノのシリーズ名にするっていうのは、そのセンスが驚くなぁ!」と苦笑していらっしゃいましたが、その流れで言えば、バレンボイム氏はピアノメーカーの社長でもなければ開発技術者でもなく、偉大とはいっても演奏側に立つピアニスト/指揮者なのですから、さすがにそのネーミングにはいささか驚いたのも事実です。

ま、ネーミングの件はともかくとして、早くこのピアノの音をじっくり聴いてみたいものです。
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不遇の天才

前回の内容と関連して、マイナー作曲家で思い出すのが、ピアニストのマイケル(ミヒャエル)・ポンティで、彼ほど埋もれた無数の作品に実際の音を与えたピアニストもいないのではと思います。

ピアニストとして抜群の能力をもっていて、いちおうレコードになるランクのピアニストとしては、彼は昔から異色の存在でした。
というのも、昔は今のように誰もかもが指さえ回れば録音できるという時代ではなく、相応の実力と個性を備えた、選りすぐりの人たちだけしか録音するチャンスもなかったため、録音依頼があるということがよほどの実力者として認められていたと考えても差し支えないと思います。

ポンティのお陰で、私もLP時代からずいぶん埋もれた珍曲秘曲のたぐいを耳にすることができたわけで、モシェレスやモシュコフスキーの作品や、多くはもう名前も忘れてしまっているような作曲家の作品も少しは耳にすることができたという点で、マロニエ君にとってこのピアニストの果たしてくれた役割は大きかったことは間違いありません。

ポンティは非凡な才能の持ち主で、その演奏の特徴は、どんなに珍しいさらいたての曲であっても、まるで手に馴染んだ名曲のようにいきいきとした解釈と輝きをもって流麗に演奏できるところで、どの曲にも生々しい躍動がありました。
しかももったいぶらず、気さくに演奏するところに凄みすら感じていました。

そんなポンティの特別な天分にヴォックスというレコード制作会社が悪乗りしたのか、スクリャービンの全集(世界初)などにいたっては、劣悪な環境に缶詰にされ、そこにあるピアノを使って初見に近いような感じで録音させられたりしたと伝えられますが、その演奏はなかなか立派なもので、その眩しいばかりの才能には脱帽です。

ほかにはラフマニノフの全集や、マロニエ君は持っていませんがチャイコフスキーのピアノ曲全集も完成させたようです。

音楽の世界も商業主義は当たり前、今はその頂を通過して下り坂のクラシック不況という深刻な状況を迎え、メジャーな演奏家でも青息吐息です。オファーさえあれば、今やトップの演奏家が、どこへでも、どんな相手でも、自分を幾重にも曲げてスッ飛んでいくというのが悲しき実情のようにも思われます。

そんなご時世に、マニアックなピアニストや、それを許す市場や環境があるわけないでしょう。
強いていうなら、現代のこの分野ではアムランかもしれませんが、彼の場合は、自分の技巧というものがまずもって前面に出ているようにも思われ、しかも最近はメジャーな作品に取り組みだしているのは、やはり売れなきゃはじまらないという営業サイドの要望のようにも思えてしまいます。

現在、ポンティのような才能と指向をもったピアニストがいるのかどうかは知りませんが、どうせメジャーピアニストが名曲を弾いたってろくに売れないご時世なのですから、それを逆手に取って、埋もれた作品などの価値ある録音を増やして行くのも、名も無き優秀なピアニストにとって、ある種の開き直りの道ではないかと思います。
むろんそれでもやってみようというレコード会社あってのことですけれど。

ポンティの演奏はヴォックスから大量の録音が出ていて、マロニエ君はそれ以外は知らなかったのですが、ウィキペディアによれば、それ以外の録音もいくつかある由で、1982年には来日しておりカメラータ・トウキョウにも録音を残したことなどを知って驚きました。さらにはその録音時のコメントとして「これまではレコード会社の求めに応じて録音してきたが、これからは自分でお金を出してでも納得のいくレコードを作りたい」と言ったのだそうで、同情を誘う言葉でもありますが、本人は不本意だったとしても、お陰で偉大な録音が残されたことも事実だと思うのです。

ショックだったのは2000年に脳梗塞となり、右半身の自由を失っていることで、人間が身体の自由を失うことは誰においても悲劇であるのはいうまでもないけれど、わけてもポンティのような華麗な演奏を得意としたピアニストがそんな過酷な運命に遭うとは、なんと痛々しいことかと思いました。

ポンティはレコード会社から翻弄され、真の実力を世に問うことができなかった不遇の天才だったとも言えるでしょう。
あれこれの名前を挙げるまでもないほど、天才というものは、悲劇に付きまとわれることが少なくないようで、残忍な悪魔が近くをうろついているものなのかもしれません。
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カテゴリー: CD | タグ:

何を楽しむか

マロニエ君の知人の中には、いわゆる「ピアノ好きな人」が何人かいらっしゃいますが、その中のおひとりは音楽そのものはもちろん、楽器、調律、ピアニスト、作品等々、ピアノにまつわる関心は当然のごとく多岐にわたっています。
自分が弾くことについては、むろん極めて大切な要素のひとつではある筈ですが、決してそれのみではないといった位置づけで、この点ではマロニエ君も同種であると認識しているところです。

しかし大多数の「ピアノ好き」といわれる人の多くは、名曲難曲を弾けるようになることだけが興味の中心で、それはほとんど欲望と呼んでもいいかもしれません。日々その練習や訓練だけにあけくれるのは、まるでアスレチックジムのトレーニングに近いものがあり、こうなるとピアノと向き合いつつ、そのメンタリティは体育会系だと言えそうです。
普通はピアノ好きであれば、優れた演奏家、無限ともいえる楽曲、銘器の音色や自分の楽器のコンディションなどにも興味が及ぶのが自然だと思うのですが、そういうことにはまるで無関心で、ひたすら自分が弾くことだけに興味を限定するのは、なんとも不思議で不自然な気がします。

テニスを好きな人が錦織選手のプレイに、体操が好きな人が内村選手の演技に興味も知識も無いまま、ひたすら自身の練習に打ち込むのみなんてあり得ないと思うのですが、ピアノの世界では、じっさいそれが普通なのです。

趣味のピアノ弾きの集まりに行っても、自分が今なにを練習しているといったこと以外に、一般的なピアノや音楽の話題が出ることはまずありませんし、古今のピアニストの話でもしようものなら、一気に座はシラケて発言者は空気の読めない音楽オタクとして位置づけられ浮いてしまうでしょう。
「ピアノ好き」を自認しながら、CDも数えるほどしかなく、コンサートにも興味がなく、古今の名だたるピアニストにもまるで疎いような人が、来る日も来る日もショパンやベートーヴェンの有名曲の練習だけにエネルギーを割くことは、考えてみれば却って難しいことのようにマロニエ君などは思うのです。

…つい前置きが長くなりましたが、冒頭のその方は音楽との関わり方もまったく独自のものがあり、いわゆる一般的なミーハー趣味とは厳然と区別される世界をお持ちです。
当然楽器にも強い関心があって、自宅には素晴らしいスタインウェイをお持ちですし、ピアニストにも好みがあり、さらには自分が興味のもてる作曲家や作品を慎重に選び出し、気持ちに沿わない作品はどんなに有名であっても見向きもされません。

たまに電話で話しますが、楽器のコンディションなどの近況や技術的なこと、ピアニストのことなどをしゃべっているうちにたちまち1時間ぐらい経ってしまいますが、話をしていて本当に音楽がお好きということが伝わってきます。
冒頭に書いた体育会系ピアノの人ではない、数少ないおひとりです。

最近では、マイナーな作曲家の埋もれた作品に感心を寄せられている由で、気に入った曲があるとネットで楽譜を取り寄せて自らも練習されているというのですから、ここまでくると、なかなか誰にでもできるようなことではないでしょう。

ここで大いに役に立っているのがYouTubeのようで、いまどきはどんなものでも、大抵はこのとてつもない動画サイトによって助けられることが少なくありません。音楽に限らず、あらゆるジャンルのあらゆる動画がここを開けば大抵は見聞きできるのは、便利という言葉ではとても足りない気がします。
ただし、いくら便利なYouTubeがあっても、とくにマイナーな作曲家や楽曲というのは、一定の評価を得ているわけでもないので、メジャーな作品よりも遥かに自分自身の感性を磨いておく必要があるだろうと思います。

マイナーな作曲家の埋もれた作品の中から好みの曲を探して練習するとは、YouTubeと連携することでそんな楽しみ方があるなんて思ってもみませんでした。かように趣味というものは、最終的には自分ひとりが通る道を見つけるときに、それはいよいよ純化されていくものという気がします。

その点でいうと、発表会や人前演奏を一元的に無意味だと断じるわけではありませんが、行き着くところ自分が目立ちたい願望の口実にピアノを使っている限り、趣味人としても三流以下だと思います。
素人がつまらぬピアノの腕前を披露(中には自慢)するなんぞ、趣味道にももとる音楽の悪用だと思うことがあるのですが、断じてそうは思わない人たちが主流である現実には、とても太刀打ちできません。

「日本には恥の文化がある」と言われることがありますが、ウーン…ことピアノに関しては適用外という気がします。
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いずれが王道?

ここ最近のことのように思いますが、ジャケットにSTEINWAY&SONSのロゴマークが入っているCDをときどき目にするようになりました。
スタインウェイ社が協力しているかなにかでロゴが印刷されているんだろうか…ぐらいに思っていましたが、どうやらレーベルそのものがSTEINWAY&SONSなのだそうで、スタインウェイがプロデュースして自らCDを発売しているようです。

考えてみれば、こういう成り立ちのCDというのはあっても不思議ではないようでいて、実はあまりなかったようにも思います。ピアノメーカーの自社宣伝、かつ若いピアニストを発掘し世に送り出すという点からも、これはまさに有効な手段なのかもしれません。尤も、スタインウェイに関しては、市場の録音の9割ぐらいはこのメーカーのピアノが使われるので、なにもいまさらという感じもあるわけで、きっと我々素人にはうかがい知れない事情や目論見があるのでしょう。

このSTEINWAY&SONSレーベルのCDは、現在マロニエ君の手許でも確認できただけで2つあり、セルゲイ・シェプキンのフランス組曲と、アンダーソン&ロエという男女のユニットによるピアノデュオで「The Art of Bach」というアルバムがあります。
面白いのは、アンダーソン&ロエのバッハでは、2台ピアノのための協奏曲ハ長調やブランデンブルク協奏曲第3番などを2台ピアノのみで演奏しているのですが、それをスタインウェイの監修のもとに、ニューヨークとハンブルクのDを組み合わせて使っている点です。

耳を凝らして聴いていると、ハンブルクの艷やかに輝くようなおなじみの音と、ニューヨークのやわらかな余韻のある響きが見事にブレンドされており、これはなんと素晴らしい組み合わせかと思いました。
つまり、ルーツを同じくする2台のピアノながら、生産国によってかなり特性の違うピアノになってしまっているふたつのスタインウェイが、互いに持っていない要素を補い合っているようで、これは実に面白い試みだと思いました。

かねてより、マロニエ君はニューヨークとハンブルクを掛け合わせたようなピアノがあればいいと思っているのですが、それをまさに実際の音として聴くことができたような錯覚ができる体験となりました。
シェプキンのバッハでも、2枚目のCDには幻想曲とフーガBWV904では、ニューヨークとハンブルクによるふたつのバージョンが収録されていて、この異母兄弟とてもいうべきピアノの違いを楽しめるようになっているあたりは、さすがにスタインウェイレーベルだけのことはある面白さのように感じます。

マロニエ君のざっくりした印象でいうと、戦前のピアノはニューヨークのほうがよかったという説を耳にすることはしばしばですが、1950年代以降ではそれが逆転し、とりわけ1960年代から数十年間はハンブルクのほうが優れていたように思います。ところが21世紀に入ってから、確たる証拠はないけれど、もしかすると、ふたたびニューヨーク製が盛り返しているのでは?と思えるふしがあるのです。

たとえば動画サイトで見たものに過ぎないものの、ユジャ・ワンがアメリカで弾いているニューヨーク製が思いの外すばらしいことはかなり印象的で、それまでのニューヨーク製はどちらかというと響きのゆらめきのようなものがある代わりに、ひとつずつの音の明瞭さという点ではややアバウト気味でものたりないようなところがありましたが、このときの新しいピアノでは、音の中に凛とした芯と量感があり、それでいて響きのふくよかさはニューヨークならではなのものがあり、いい意味での黄金期のスタインウェイのようであったことは強く記憶に残りました。

このCDに聴く音も、ハンブルクと同時に鳴っているために段別がむずかしいものの、なかなか懐の深いピアノであるような気がします。もしかしたら、今後は再びニューヨークが首座に返り咲くことがあるのだろうかとも思うと、なんだかわくわくさせられます。

むかし福岡県内のとあるホールで、ピアノ庫を見せてもらえるチャンスがあり、そこにはニューヨークとハンブルクそれぞれのDが置かれているのですが、調律師さんにどちらが人気ですかと聞いたところ、その答えは驚くべきもので「こちら(ニューヨーク)を弾く人はまずいないでしょうね」と、かすかに鼻先で笑うような言い方をされたのが今でも忘れられません。
同時期に新品が収められたものであるにもかかわらず、技術者があたまからそんなイメージをもっているようでは、このピアノは一生浮かばれないだろうと哀れに思ったものです。

それなりに理由はあるのかもしれませんが、根底には日本人の意識の中にドイツ信仰のようなものがあって、はなからアメリカ製など格下であるという思い込みが(とくに楽器や車は)深く根をはっているのかもしれません。
ある本にもありましたが、さる高名な音大の教授でさえ、王道はドイツのスタインウェイで、アメリカ製はジャズやポップス用みたいな認識なんだそうで、これって結構あるんだろうと思います。

たしかに全般的傾向としてアメリカの製品は作りが粗く、そういった要素のあることもわかりますが、スタインウェイに関しては、ニューヨーク製の評価は低すぎるように思います。それでもスタインウェイというブランド名があるからまだましで、メーソン&ハムリンのような素晴らしいピアノがあるにもかかわらず、ほとんど話題にすら出ないことは、いかにイメージ先行で判断されてしまうかということを考えさせられます。
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カテゴリー: CD | タグ:

巨匠と若手

N響定期公演から、フェドセーエフの指揮によるロシアプログラムというのがNHK音楽館で放映され、ラフマニノフのヴォカリーズとピアノ協奏曲第2番、リムスキー=コルサコフのシエラザードが演奏されました。

始めに演奏されたヴォカリーズから、やや遅めのテンポが感じられ、ピアノ協奏曲になってもその印象は続きました。フェドセーエフも82歳だそうですから、やはり歳とともにテンポは遅くなるのだろうかと思います。
カラヤンもベームも、ルビンシュタインもアラウもそうであったように、晩年はテンポを落としたくなるものかもしれません。

ピアノはアンナ・ヴィニツカヤで、CDでは聴いていたものの、映像を見るのは初めてでした。
手許にあるCDは難曲で知られるプロコフィエフのピアノ協奏曲第2番で、なかなかスタミナ感のある演奏だったこともあり、こういうロシア系のヘビーな作品を得意とするピアニストだろうという予測をしてしまいます。

曲の冒頭、凄まじくクレッシェンドしていく和音とオクターブによって幕が上がると、息つく間もなく、うねる波のように無数のアルペジョが押し寄せますが、情熱的に前進しようとするヴィニツカヤに対し、フェドセーエフは雄渾で恰幅の良い第1主題を描こうとしているようで、すでにこの時点からピアノとオーケストラは噛み合わず、しばしば行き違いが生まれました。

直接のテンポもさることながら、各所でのアーティキュレーションや呼吸感など、求める演奏の方向性の違いがあり、それが和解できないまま本番を迎えたという感じでしょうか。

フェドセーエフにすればソリストは同じロシア人、しかも孫のような歳の女性となれば遠慮なく自分が手綱を握り、それに異議なくついて来るはずというところだったのかもしれません。
少なくともソリストの意向を汲み取って尊重しようという気配は感じられませんでした。

30代前半のヴィニツカヤは、この名曲をロマンティックかつ情熱的に追い込んでいこうとするものの、フェドセーエフもN響も、まるでそんな彼女の意向を無視しているかのようで、なんとはなしにピアノが空転気味というか、どこか気の毒な感じにも見えました。

ヴィニツカヤはある意味で少し前のロシアスタイルというか、その美貌とほっそりした体型からは想像できないほどの豪腕ぶりで、すべての音をがっちり掴んで、力強く積み上げていくタイプのピアニストで、ラフマニノフの2番みたいな作品は結局こういう演奏が合っているようにも思えます。

マロニエ君の好みとは少し違いますが、これはこれで楽しめますし、実際の演奏会では、聴衆をそれなりに満足させることのできる人なんだろうと思いました。
むしろこんな曲を、中途半端に知的処理されて消化不良にさせられるよりは、よほど素直で好感がもてるというものでしょう。

そういう意味では、もうすこし彼女の意を汲んだ指揮であったなら、もっと充実したドラマティックな演奏になっていただろうと思われる反面、終始噛み合わないオーケストラに追従して、あれだけの難曲を弾いていくのは、気分が乗っていけないのに一定のテンションを保つのはさぞ大変だろうと、いささか同情的になりました。

そのせいかどうかはわかりませんが、第3楽章の佳境の部分でゾッとするような、あやうく事故に近いようなことが一瞬起こり、きわどいところで回避されたものの、思わず心臓が凍りつきそうになりました。
ピアノが出るべきところで出ずに空白が生じ、一瞬の間を置いてなんとか出たという、いわば重大インシデントといったところでしょうか。
やはりどんな腕達者であっても、ステージというのは何が起きるかわからないものですね。
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コンサートが苦痛に

音楽好きを自認する人間がこれを言っちゃおしまいかもしれませんが、(特別な場合を除いて)生のコンサートというのが基本的にイヤになっている自分に気がつきました。

むろん生のコンサートの良さや醍醐味はよくわかっているつもりですが、それを押し返すほどのマイナス要因を感じてしまうこのごろなのです。
まず言えることは、昔のようにわくわくするようなコンサート自体がなくなったということが第一にあります。演奏家の技量は一様に向上して大変なものがあるのはわかりますが、大半は無機質の、能力自慢的な演奏でしかなく、演奏を通じて音楽に感銘を受けたり心が揺さぶられるということも激減しています。

その点に関しては、こちらの耳も演奏を善意に受け止めるような素直さを失っているのかもしれません。そうだとしても、とにかくコンサートに行っても結果的に楽しくないというのがこのところの結論です。

そもそもコンサートに行くというのは、トータルでかなりのエネルギーを要するということは否定しようがありません。これこれしかじかのコンサートに行くということは、事前の情報のキャッチから始まり、行くという決断、チケットの購入、予定の調整など、事前の準備もわずらわしいものです。

当日は当日で、コンサートに行くことを前提とした動きになり、何をおいても一定の時間内にその準備をし、開演時間に間に合うように出発し、マロニエ君の場合は必ず車なので、駐車場に車を置いて、てくてく歩いて会場入りします。
さらに最近きわだって苦痛になってきたのは、決して座り心地の良くない会場のイスには、開演前から含めると、都合2時間以上もまんじりともせず座り続けなくてはならないことです。しかも演奏中は暗い客席から眩しいステージを見つめるということが、目や脳神経にもストレスで、しかも耳は演奏に集中しますから、心身の疲労がたまりにたまります。

これは、いかに好きな音楽とはいえ、心身へかなりの苦行になり、それが深い疲労に追い込まれるようになりました。

会場も大抵音響は酷く、たしかにステージ上では有名演奏家が演奏していますが、実際に耳に届く音や響きは甚だ遠く不鮮明で、茫洋とした残響ばかりを聞かされているのに、価値ある演奏を聴いた気になろうと意識が無理をすることも事実でしょう。ほんらい期待している演奏の妙技や心を打つ音楽体験などは、はっきりいって大半が伝わらずじまいです。

それでも今目の前であの人が演奏しているというだけでありがたいような存在なら、その空間と時間を過ごすだけでも意味があり、満足かもしれませんが、そんな(たとえばホロヴィッツのような)人はもういません。
また、東京あたりでのテレビカメラの入るような演奏会は別として、大抵の名だたる演奏家はツアーを組んでいて、その訪問先のひとつに過ぎない地方都市では、あきらかに手を抜いた気の入らない演奏をしていることが少なくなく、そんなものを聴くために高いチケットを買って、せっせとホールへ馳せ参じる欺瞞にも、もう好い加減いやになってきたのです。

素晴らしい芸術家の演奏を聴くといういうより、ほとんど商業主義の出稼ぎツアーにお金と時間を使って協力している1人に自分がなっているような気になることが多すぎるのです。マロニエ君にとってコンサートに行くということは、聴いている瞬間はもちろん、後々の記憶にも残るような喜びと感銘を得るためにホールへ足を運ぶことだと思うのです。

また、会場では必ずと言っていいほど、周囲にはカサカサ音をたて続ける人、異様に座高の高くて完全に視界を遮る人、演奏中も椅子をバタバタ振動させる子供、小さな声でしゃべっている人、チャラチャラと音をさせてあめ玉などを取り出す人、変な香水などの匂いを撒き散らす人、なぜか演奏中に身を屈めて出ていく人など、不快要因が散在していて、これらも嫌になってしまうのです。

それもなにも、演奏で満腹できればチャラにできるでしょうが、こちらもさっぱりという場合が少なくないし、そんな現実を思い浮かべると、もはや少々のことでは「家にいたほうが快適」になってしまいます。
チケット代にしても、ちょっと名の知れた海外オーケストラなどになると、もはや行く気も失せるような料金で、それで何枚CDが買えるかと思うと、マロニエ君にとっては価値を感じるほうに使いたくなってしまいます。

まあ、これじゃいけないんでしょうけれど、いやなことはしたくないのです。
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ベーゼンドルファーの美

ネットでCDを注文する際は、本当に欲しいものがメインになるのは当然としても、せっかくなので「ついでにこれも」というようなものも一緒に購入することがよくあるものです。

『RUSSIAN PIANO RARITIES』という3枚組もそんな「ついで買い」のひとつで、輸入盤で、もう忘れましたがたぶん値段もずいぶん安かったと思います。ロシアの珍しいピアノ曲集というような意味かと思っていますが、確かなことはよくわかりません。

メトネル、スクリャービン、ショスタコーヴィチ、ラフマニノフという4人の作曲家によるソロ、もしくは2台ピアノのための作品などがごった煮のように入っており、ピアニストもいかにも二軍選手といった人たちが4人、ごく普通のしっかりした演奏という感じで、普通に曲を聴くにはちょうどいい塩梅といえなくもありません。

こういう掻き集め的なCDで面白いのは、演奏者、録音年月、使用ピアノがバラバラな点でしょうか。
ただし、どれもが新しい録音なので、極端に雰囲気の異なる音源が隣り合わせというような不都合はなく、録音も場所もちがう割には比較的違和感なくまとまっており、たまにはこういうCDも悪くはないなあというところでしょうか。

とくに思いがけなかったのは、ピアノの違いを楽しむことができる点でした。
使用ピアノなどの記載はないものの、多くがスタインウェイであることは音からも明白ですが、ラフマニノフに関してだけは2台ピアノもソロも、録音場所がベーゼンドルファー・ザールとなっており、そこに聴くピアノはまぎれもなくベーゼンドルファーであることは曲目からして非常に意外でした。

さらに意外だったのは、それがなかなかいい音だったのです。
このところの音質低下はベーゼンドルファーにまで及んだのか、このブランドにふさわしい音を聴くチャンスが少なくなったと感じていたところ、このCDで聴くそれは、ハッとするほど美しいものでした。
艶やかで柔らかいのにみずみずしい音で、ひさびさにこのメーカーのいい部分を堪能できた気がして、これはまさに思いがけない収穫でした。

しかも弾かれているのはラフマニノフですから、本来ならどう考えてもマッチングの良い取り合わせではない筈ですが、ほんとうに美しい音で鳴っているピアノというのは、それだけでもじゅうぶん魅力的で、作品との相性なんてそれほど気にならないのは実に不思議でした。

艶やかな弦楽器のような濁りのない音で、美しいものは理屈抜きに美しいということ、それを聴くことの驚きと喜びにストレートにわくわくさせられました。
こういう素晴らしい音があるかと思うと、インペリアルで録音されたCDなどには期待はずれなものが少なくないし、コンサートなどでもまったく納得しかねるような、どこか間延びした、不健康な感じの楽器があるのも率直な印象です。

最近で印象に残っているのは、アンドラーシュ・シフが東京オペラシティーで行ったメンデルスゾーンやシューマンによるリサイタルで、シフほどの名人の手にかかってもピアノの反応がいまいちで、引きこもったような不鮮明な音を出すばかりでした。
会場とピアニストはいずれも一流であることから、楽器も管理も悪かろうはずもないし、第一級の技術者がおられるに違いなく、それだけに近年のベーゼンドルファーとはこんなものかと思わざるをえませんでした。

マロニエ君はベーゼンドルファーのことは、あまり知りませんし、弾いた経験も多くはありません。
まろやかな音色のピアノがあるかと思うと、かなりエッジの立った際どい音であったりと、どれが「らしい」のかよくわかりませんが、共通して感じるのは、音量が比較的小さく、サロン的な音色の質や調子から、自ずと作品も選ぶピアノといったところでしょうか。

イメージとしては弱音域の美しさが際立っていることと、整音が非常にデリケートであるのか、スイートスポットが非常に狭いのか、好ましいコンディションを作り出し、維持するのが容易ではないのでは?というもの。
メリハリがないほど音が柔らかいかと思うと、少しでも硬すぎればチャンチャンしたやや下品な音になり、マロニエ君はいずれの音も好みませんが、ツボにはまった時のベーゼンドルファーの美音は、まるで熟れきった果実から極上の果汁がしたたり落ちるようで、なまめかしい純度の高い美音が撒き散らされ、聴く者を圧倒してしまうものがあるのも事実でしょう。

マロニエ君はアルコールはてんでダメで、ワインの良否などまるでわかりませんが、この道にうるさい人が最高級だ年代物だと興奮するのは、きっとこんな豊饒な音のようななものだろうか…などと想像を巡らせてしまいます。

残念な点は、そういう麗しい音のピアノが非常に少ないと感じる点でしょうか。
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アンデルジェフスキ

今年からN響の首席指揮者にパーヴォ・ヤルヴィが就任したのは驚くべきニュースでした。
あんな売れっ子をよくぞ連れてこられたものだと思いますが、お陰で、ひさびさにN響に喝が入ったように感じました。

たしかデビューコンサートのプログラムだったと思いますが、マーラーの巨人を振るのを聴いて、へーぇ…と思ってしまいました。
ブロムシュテットでも、デュトワでも、アシュケナージでも、ノリントンでも、与えられた仕事をそつなくこなすよう淡々と弾いていたN響。唯一、珍しく本気になっていると感じたのは、昨年だったか一昨年だったか、ザルツブルク音楽祭に出演したときだったけれど、日本に戻ると同時にパッションも元に戻ってしまったようでした。

そんなN響が、ヤルヴィを前にするとさすがに気持ちが引き締まるのか、あきらかにこれまでにない熱気のようなものが漂っているのが感じられ、これは面白いことになったと思いました。

すでにN響とのコンサートも異なるプログラムで数回おこなわれたようで、先日はR.シュトラウスとモーツァルトが放映されました。冒頭の「ドン・ファン」は見事な演奏で、サントリーホールのステージからこぼれ落ちんばかりのフルオーケストラから繰り出される豪華な響きと精緻なアンサンブルによって、この熱気に満ちた交響詩を演じきりました。

後半はメインである「英雄の生涯」が待ち受けますが、その谷間におかれたのがモーツァルトのピアノ協奏曲第25番でした。演奏前の説明にもあった通りモーツァルトの作品中、最もシンフォニックなピアノ協奏曲で、傑作第24番の悲劇的なハ短調と表裏をなすように、ハ長調の盛大なトゥッティで始まるあたりは、いかにもモーツァルトらしい変わり身で、悲しみに打ち沈んだあとはパッと明るく切り替える、対照的な同主調といえるかもしれません。

ソリストはピョートル・アンデルジェフスキで、マロニエ君はこの人のCDは何枚か持っているものの、巷ではそれなりに高い評価を受けているようではあるけれど、個人的には彼の演奏の目指すところがよくわからないまま理解が進みません。
モーツァルトの協奏曲は何枚かリリースされているようですが、シマノフスキやシューマン、カーネギーのライブなどのCDを聴く限りでは、この人のモーツァルトを聴いてみたいという意欲がわかず、手許にはまだ一枚もなしです。その意味でも、初めて彼のモーツァルトを聴けるという点でも楽しみと言うか…ともかく興味津々ではあったわけです。

しかし、危惧したとおり、何をどうしたいのか、まったくその表現意図がマロニエ君にはわかりかねる演奏でした。やはりこうなんだなぁ…という、当たり前のような印象。

この人は通り一遍のピアノを弾くことを良しとせず、いわば演奏を標準語で語らないのがこだわりなのか、一言でいえばやりたいようにやるのが彼の流儀のようです。その異色なスタンスからアンデルジェフスキこそはピアニストという枠を超えた真の表現者であり芸術家であるというふうに書かれた文章もいくつか読んだこともありますが、正直、聴こえてくる演奏に納得がいかず、マロニエ君には彼の演奏の真価がさっぱりわかりません。
この日の演奏を聴いて、その疑問は疑問のまま上書きれて終わりました。

だいいちに重くて鈍いです、モーツァルトには、あまりにも。
テンポも安定感を欠き、アーティキュレーションもデュナーミクもまったく予測もつかなければ、あとで腑に落ちてくることもなく、全編を通じて不明瞭感みたいなものがつきまとい、ほんとうにこれがこの人の本心なんだろうかと思いました。

音楽というものはいまさらいうまでもありませんが、自分とは感性や好みが違っていても、その人なりの音楽が言語となって語られ、収支のバランスがとれていて、一定の完成度があるものなら、それはそれでじゅうぶんに楽しめるものです。
べつにモーツァルトはこうあらねばならないというお堅いことをいう気はないし、いいものはどう型破りであってもいいと思うのですが、ロマン派ともなんともつかない恣意的な弾き方をすると音楽の型が崩れてしまい、聴いていてまったく乗っていけません。
自己流でも型破りでも、最終的になにかに支えられ、どこかに発見があり、けっきょく帳尻があっていなければ、それは個性だとは言えないような気がします。

ピアノの入りなども遅れが目立つところが散見され、わけてもモーツァルトの掛け合いにおいては、ひと息の遅れがその楽句の鮮度を残酷なほど落とし、意味や輝きが失われてしまいます。また、いわゆるミスタッチとは言えない音の飛びやつまづきが多々あったのも、彼の名声にはそぐわないたぐいのものだったことは意外でした。

どうも顔色もよくないようで体調でも悪いのか、はたまた御酒でも召されてステージにお出ましだろうかと思ってしまうような、何か訳ありのような気配が漂っていて、なんとなく気持ちのよいものではありませんでした。
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染み込んだ体質

たまたま見た、あるテレビ番組での話。

自転車店の最も少ない都道府県はどこかというと、普通は雪の多い北海道や東北地方では?と考えてしまいがちですが、意外なことに真逆である沖縄県なんだそうです。

というわけで那覇市内の街の様子が映し出されますが、車はたくさん走っているのに、自転車に乗っている人というのはまったくといっていいほど目に入りません。国際通り?とかいうメインストリートでも、ひっきりなしに行き交う車に対して、歩道は人もまばらで、たしかに自転車など影も形もなし。

番組では、県内で数少ない自転車店に入ってそのあたりの事情を尋ねると、沖縄の人はそもそも自転車にはほとんど乗らないらしく、その店は主に競技用など趣味としての自転車を取り扱っているだけで、日常生活で多く使われる普通の自転車は、ほとんど買う人がいないのだそうです。
売れるのは年にせいぜい2~3台というのですから、今どきの自転車大増殖とその無謀運転に悩まされる我々からすれば、ただただ驚くばかりでした。

その理由を探ってみると、潮風で車体が錆びるとか、暑いから汗をかくとか、アメリカによってもたらされた自動車文化が根付いた、などの理由がありましたが、最大の理由は、要するに自分の足の力を動力とする自転車というものが、そもそも沖縄の人の感性に合わないということのようでした。

では沖縄の人は移動手段はどうしているのかというと、ちょっとそこまででも、必ず「車で行く」のだそうで、さっきの自転車店のご主人がいうには、自分の奥さんもあそこの(ほんとうにちょっと向こうにあるぐらいの距離)コンビニに行くにもわざわざ車に乗って行く(笑)のだそうで、他の人に聞いても、自転車には「乗らない」し、目前に見ているぐらいのところでも「車で行く」と笑いながら当然という感じで答えていました。

マロニエ君にとって、これってまるで自分のことのようでもあり、おかしいような笑えないような、でもやっぱり笑ってしまうしかない不思議な気分でした。

歩かなきゃいけないのはむろんわかっているし、マロニエ君のまわりにも普段から驚くべき距離をせっせと歩いている人が何人かいて、ご苦労なことというか、呆れるというか、要するにただ感心させられるのですが、では自分も見習って少しは歩くよう心がけるかというと…さらさらそんな気はないのです。
どこへ行くにも、唯一気にかかるのは先に駐車場があるかどうか、その点だけ。

お店なども、どんなに行きたい店があっても駐車スペースがないようなところは、それだけで行くことを諦めますし、それ以上の挑戦はしません。

しかしマロニエ君以上の人もいて、知り合いで50ccバイクの常用者がいますが、その人は100メートル以上移動する際は、必ずヘルメットをかぶってバイクにまたがります。エンジンを掛けたりあれこれやっている間に歩いたほうが早い場合もあり、さすがのマロニエ君もその徹底ぶりには唖然とさせられることがあるのですが、ここまでくると何か突き抜けた感じがしてきます。
日常を電車やバス+徒歩もしくは自転車で過ごしておられる方からみれば、およそ信じ難い感覚かもしれませんが、これもきっとある種の依存症なのかもしれません。

いずれにしろ、いったん身についた習慣は、容易なことでは変わるものではなく、沖縄の人達の車依存もかなり根の深いものだなあと、なんだか妙に親近感を覚えてしまいました。

沖縄ではこの気質をネタにした地域限定のテレビCMまであるようで、野球の試合中、フォワボールになるとバットをポイと地面に放り投げたその手をおもむろに上げると、そこへ本物のタクシーがやってきてパカッと後ろのドアが開きます。なんとバッターはそのタクシーで1塁までいくというもので、それほど歩くのがキライだというわけでしょう。
まあこれはオモシロCMだとしても、根底にそういう感性があるのは理解できてしまうのです。

ふと思い出しましたが、以前入っていたピアノクラブでも、移動となると、みなさんごく自然に(マロニエ君にしてみればギョッとするほどの距離を)てくてくと歩いて行くのには「エッ、世の中、ふつうはこうなの?」と内心驚愕したことが何度かありました。最初のうちはお付き合いの気持ちもあって車は使わずに参加していましたが、これはもうたまらん!というわけで、以降はどこであれ車で行くようになりました。
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ファツィオリ検証

以前、アンドレア・パケッティの弾くゴルトベルク変奏曲のCDの感想から端を発して、ファツィオリのことにも触れたところでしたが、その後、BSクラシック俱楽部でボリス・ギルトブルグという若手ピアニストの来日公演の様子が放映され、会場であるトッパンホールのステージに置かれていたのはファツィオリのF278でした。

ついひと月ほど前に、CDから聴こえてくるファツィオリの音についてあれこれ書いたばかりなので、そこに綴ったものが時間をおき、音源を変えてみて正しかったかどうか、あるいは何かが修正されてくるか、その点を(自分なりに)検証する意味もあって、意識的にこのピアノの音に耳を傾けました。ピアノ、ピアニスト、会場、曲目、録音が異なれば、受ける印象にも多少の変化がある可能性は大きいのでは…というわけです。

曲目はグバイドゥリーナのシャコンヌ、ラフマニノフの楽興の時第1番と第3番、プロコフィエフのソナタ第2番。
グバイドゥリーナのシャコンヌはよく知らない曲だったため、主に作品自体を楽しんだものの、ラフマニノフ以降はピアノにも注意を向けてみました。

果たしてそれは、パケッティのゴルトベルクで聴こえたものと、つまらないぐらい同じ印象でした。
自分の書いた感想に対する検証という意味では少し安堵の気持ちも覚えはしましたが、やはりファツィオリほどの最高級にランクされるピアノですから、なにか印象が好転するような要因があればと期待していたのですが、とくにそれらしい要因は見当たりませんでした。

ラフマニノフの楽興の時第1番などはゆったりした曲調であるぶん、落ち着いて音を聴くことができるのですが、やはりその音には奥行きというか、濃淡や立体感みたいなものが感じられません。
緩徐部分でも響きが固く、表現が難しいところですが、曲線的な歌唱の要素がなく、むしろメカメカしい感じばかりが耳についてくるように感じました。
演奏という入力に対してのレスポンスはたしかによさそうで、低音などまるで筋肉が隆起するようです。この点で弾く人には刺激的なのかもしれませんが、楽器に人格のようなものを感じたり、そのピアノなりの声や響きの構成にわくわくさせられるようなものはやはり感じませんでした。

楽器の音には「抜ける」という要素があるのかどうか専門的なことはしりませんが、神経に何かが溜まっていくのか、しだいに息苦しい感じのするところが気にかかります。もしかすると無機質でデジタルな時代感覚に合わせ、意図的に味わい深さやリリカルな要素を排した性格が与えられているのかもしれません。

ピアノの音に馥郁としたものや交響的なものを求めるとしたら、そういう性質のピアノではないのでしょう。それはこの日弾かれたロシア音楽、わけても遙かなる大地と哀愁の漂うラフマニノフにはまったく不向きという印象で、大きなロシア人が異国でアルファロメオにでも乗せられているようでした。

ファツィオリはスカルラッティのような鮮烈な花束みたいな作品には最良の面を発揮するのかもしれませんが、壮大さや憂いを内包する重厚な音楽には向いていないのかもしれません。

ピアニストのボリス・ギルトブルグは、初めて聞く人でしたが、ピアノを演奏するという行為をとても真摯に受け止めて、終始良心的な演奏に徹するタイプのようでした。
小柄な人でしたが、テクニックも見事で、プログラムに対する準備も怠りなく、まさに誠実な演奏家という印象を抱かせるに十分です。とくにその表現は繊細かつ大胆で、ロシア人ピアニストも時代のせいか、このようなデリケートな配慮の行き届いた表現ができるようになったということを痛感させられました。

リヒテルだギレリスだといっていた頃の、分厚くこってりした、力でねじ伏せるような演奏がロシアピアニズムだった時代を思い起こせば、この点でもずいぶんと近代化が進んでいることを思い知らされます。
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恐怖の着陸

少し前に、沖縄の那覇空港で、離陸待機中の自衛隊のヘリが、ANA機に出された離陸許可を自分達に出されたものと勘違いして離陸。すでに滑走路を走り始めていたANA機がそれに気づいて離陸を中断したものの、その背後に別機が着陸してしまうという重大インシデントとやらが発生しました。

たしかに状況を言葉で並べると危機一髪というような印象もありますが、空港の設置カメラの映像によると、飛び上がった自衛隊のヘリとANA機との間には遙か彼方とても言いたいほど距離があり、もしANA機がそのまま離陸していても、両者が衝突というようなことではなかったように見えました。

もちろん、このような勘違いはあってはならないことですから、より安全確認を徹底しなくてはならないことは当然ですが、それほどの危険が差し迫っていたようには(映像では)見えなかったため、これでこんなに危険が叫ばれるのだとすると、じゃああれはどうなんだろうと?…と、あることを思い出してしまいました。

それはYouTubeでだれでも見ることができますが、飛行機に関する映像の中でも、クロスウインド(横風)の中を旅客機が着陸する映像がいくつもありますが、これはなかなかどうして手に汗握るものです。

とりわけマロニエ君がすごいと思うのは成田空港のそれで、ちょっと信じられないような危ない着陸を、各社各機が次から次にやっている現実には唖然とするばかりで、シロウト目には、その危険度は上記の沖縄空港のニュース以上かも…というのが率直なところです。

そもそも、あれほど方角の定まらない嵐のような強風が吹き荒れるというのは、それだけでもあそこに国際空港を作ったことが適正だったかと思いたくなるほど、それは凄まじいもので、多くの乗客を乗せた大型機が、まるでおもちゃのようにふらふらしながらアプローチしてくるのは、理屈抜きに怖い気がします。

ふつう着陸態勢に入った旅客機は、ほぼキチンと水平状態を保ちながら慎重に高度を下げながら、とりたてて不安もなくきれいにタッチダウンするもので、福岡は市内に空港があることから着陸の光景は子供の頃から見慣れているつもりでしたが、成田のそれは尋常ではないことに見るなり度肝をぬかれました。

撮影された映像にも間断なく叩きつける強風の轟音がバリバリ入っていますが、そんな中をB767、B777、B747、A340、A380などが、まるで模型を使った下手な特撮のように、フラフラと左右に揺れながら近づいてきます。
飛行機の機体は敢えてしなやかな構造に作られているためもあって、強風にさらされた主翼やエンジンなどは、それぞれが小刻みにクニャクニャとしなりまくりながら近づいてきます。
そんな中をパイロットはよほど機体のバランスをとろうとしているのか、大きな旅客機が酔っ払いの千鳥足のように左右に大きく振れながら滑走路に入ります。

車輪が着地するときにも機体の揺れは収まらず、見ていて危ないのなんの。何度かに一度はパイロットが無理だと判断するのか、ゴーアラウンド(着陸のやり直し)となり、あとわずかのところで、再び空高く舞い上がっていきます。
中には同じ機体が何度やっても着陸できず、4回ぐらいトライするものもありますが、あんなの乗っていたら生きた心地はしないでしょうね。

また、着地の最後の瞬間にも容赦なく強風が吹き荒れるので、つい片方の車輪だけ勢い余ってドカンと着地したり、そのまま前輪も着いたり離れたり、中にはあまりにも左右いずれかに傾いた姿勢で着地したため、主翼の翼端やエンジンが、あとわずかで地面に接触するようなものも少なくありません。

中でも最も迫力があるのは世界最大の巨人機であるエアバスA380で、機体が肥満体なぶん、その迫力というか恐ろしさもケタ違いで、ほとんどやけっぱちのような綱渡り着陸は、何度もああもうダメでは?!と思ってしまうほど強烈です。
しかも中には何百人もの乗客が乗っているんですから、少々の衝撃映像より心臓がバクバクします。

ふだんから風が強いことは関東の特徴みたいなものですが、強風のたびにあんなアクロバティックな着陸を日常的にやっているとしたら、果たしてどれだけの人が認識してことだろうかと思います。きっとパイロット仲間ではこの点で成田は有名なのかも知れませんし、さすがに神経をすり減らし、血圧も相当上がってしまうのではないかと思います。

ひとつご紹介しておきますが、YouTubeで「成田 強風」で検索したらいくつも出てきます。
https://www.youtube.com/watch?v=OvVjSToWsWI
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