暇つぶし

日曜に出かけて買い物をしていると、携帯に懐かしい方から電話がありました。

かつてマロニエ君宅のピアノの主治医だった方ですが、ここに書いても意味のないような込み入った事情があって(むろんトラブル等があったわけではなく)、現在はその方に調律などはお願いしていない状態です。

それでも、ちょこちょこと交流は途絶えることはなかったものの、さすがにこの数ヶ月はご無沙汰状態が続いていたところでした。

電話に出るなり、「ハハハ、ちょっとヒマなので失礼かと思いましたが電話しました。」と云われました。マロニエ君としては、むろんお話ししたかったのですが、なにぶん出先で買い物の真っ最中とあってどうしようもなく、あとからまた電話する旨をお伝えしていったん電話を切りました。

帰宅後にかけ直すと、近くまで来られていて時間があったのでコーヒーでもと思ってお電話されたそうでしたが、今からあるホールの仕事に行かなくてはいけないとのことでしたので、しばらく電話でおしゃべりし、お茶はまた次回ということになりました。

特段の用があるわけでもなく(しかも現在は調律をお願いしていないのに)、気軽にこういうお電話をいただくのはマロニエ君としてはとても嬉しいことです。というか、むしろ用のないときに連絡をいただけることのほうが気持ちの上では遥かに嬉しいものです。

ピアノというのは、同業者を別にするなら、それなりの話の通じる相手というのはなかなかいないので、その点でマロニエ君は珍しい存在なのかもしれません。
…いやいや、この方はホールやコンサートの第一線でお仕事される方なので、マロニエ君ごときシロウトが「話が通じる」などと云っては申し訳ないでしょう。ここで云うのは深い意味ではなく、ただ純粋にピアノの話ができる(あるいは興味を持って聞きたがる)相手というほどの意味合いです。

ピアノの世界は非常に奥が深く、かつ専門領域なので、普通の人は興味もないし、話をしても理解できないので、潜在的に話のわかる人を渇望しているという部分はあるように感じます。その点、同業者ならそんなことはないでしょうが、そういう交流があるのかと思いきや、意外にそうでもないようです。

ピアノに限ったことではないかもしれませんが、業界人同士というのはともすればライバル関係でもあり、とりわけ技術者にはプライドや競争心もあるでしょう。各人で仕事への考え方やスタンス、価値観も違ったりすると、これはこれでいろいろとややこしい問題を孕んでいるとも云えます。

そもそもピアノ技術者というのは、他者と共同でする仕事でもなければ、仲間の連帯がものをいう世界でもなく、基本的に一匹狼的な要素が他より強い仕事なのかもしれません。
また、仕事にはお得意さんやテリトリー、販売店などの絡みもあって、かなり閉鎖的で気を遣う世界でもあるようです。ちょっとしたことが思わぬウワサや不利益に繋がるということも珍しくないでしょうし、そういう意味ではピアノの技術者さんというのは、常に心のどこかに用心深さがあることが職業病のようになっていることをときおり感じます。

その点で云うと、マロニエ君は同業者でもなく、当然どこにも利害関係のない人間で、しかもピアノは大好きとなれば、暇つぶしには最適なのかもしれません。
ついでにいうと、マロニエ君の興味の対象はクラシック音楽からピアニスト、そして下手なりに弾くこと、さらには楽器としてのピアノというものにも及んでいるので、これでも、専門家が却ってご存じないようなくだらないことを知っていることもあり、まあそれなりに話し相手にはなるのかもしれません。

そういう意味でも、もともとはこの「ぴあのピア」がプロとアマチュアの垣根を超えた「広義のピアノクラブ」になれたらと思っているのですが、気持ちばかりでなかなか手をつけられない状態が続いているのは申し訳ないことです。
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自由な気分

マロニエ君はとくに相撲ファンというものではありませんが、祖父が大変な相撲好きであったためか、なんとなく場所がはじまるとダイジェスト的な番組は見るような習慣がありました。

決して熱心というわけではなく、主だった力士の顔と名前は覚える程度で、なんとなく中入後の大まかな行方や、今場所の優勝争いは誰と誰ぐらいは掴んでいるというのが普通でした。

ところが、今場所はまったくといっていいほど大相撲からは距離をおいていて、意志的に見ないことにしています。
これは先場所が終わった直後から決めていました。理由は今場所から横綱が3人になり、そのうちの2人がマロニエ君の嫌いな力士で、ほとほとイヤになったという至極単純なものです。

横綱というのは大相撲の顔であり象徴でもあるので、そこに居並ぶ顔はイメージの上でも非常に重要だと思っています。
これがもし、筋金入りの相撲ファンなどであれば、そういう個々の好き嫌いは超越して相撲そのものをウォッチするのでしょうが、その点で普通の人間は、もともと大した関心事でもないだけに、ちょっとしたことでひょいと背を向けてしまいます。

「ファンというものは無責任で、その心は移ろいやすいもの」といいますが、ファンではないけれどまさにそれです。これが野球やサッカーならコアなファンも多く、彼らがしっかりと支えていくのかもしれませんが、大相撲の場合「なんとなく見てるだけ」という程度の人が実際には多いのではないかと思います。


ちなみに、むかしは横綱昇進には強さと成績が問われることはむろんとしても、ただ白星の数だけ積み上げればいいというわけではないグレーゾーンもあって、そこは横綱審議委員の裁量などが大きく働いたようです。しかし今の時代はそれを許さず、横審の旦那衆的な意向を中心に事が左右されることはないようです。より明確で平等な基準がもとめられ、昇進の条件もよりシステマティックになったように感じます。

いい例が、ちょっと大関が優勝でもすると、NHKはすかさず次の場所は「綱取り!綱取り!」とうるさいほど言い立てるし、今では二場所連続優勝もしくはそれに準ずる成績であれば、ほぼ間違いなく横綱になるようです。

星勘定による成績至上主義というべきで、白星の数がすべてのようです。
しかし、マロニエ君は個人的には相撲は勝負であると同時に娯楽であり興行であり、そこには歌舞伎などに通じる享楽性がなくてはならないと思います。茶屋があって贔屓筋があり、きれいな髷を結い、常に掃き清められる美しい土俵、華麗な行司の装束を見ただけでもそれは察せられます。むろん八百長はいただけませんが。

だから、嫌いな役者の芝居を見たくないように、今は見たくないという気分なのかもしれませんが、正確なところは自分でもよくわかりません。

もし大相撲を純粋のスポーツであり格闘技としてみるなら、力士は総当たり制の勝負に出るべきで、同部屋同士の対決がないというのも理を通せば納得がいきません。

相撲には神道の要素やエンターテイメントの要素も色濃く、それでいて真剣勝負でもあり、それを確たる言葉で表現するのは甚だ困難なものがあることは、日本に生まれ育った者なら自然にわかることです。

大江健三郎氏ではありませんが、あいまいな日本のあいまいさが絶妙の世界を作り出し、長きにわたって継承されてきた部分が大きいとも思いますが、そういうものは現代の価値基準に合わなくなってきているのでしょう。
現代の尺度で分類すれば、所詮はスポーツなのであり、格闘技なので、その勝敗がものを云うのは致し方のないことだと理屈では思います。

それはそうだとしても、人の気持ちばかりはどうにもなりません。
イヤなものはイヤなのであって、それを押してまで見る気にはなれないのです。
今日は今場所の中日ですが、力士の成績がどうなのかもまったく知りませんが、不思議にとても自由な気分です。
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最良の嫁ぎ先

10年ぐらい前だったか、友人が当時幼稚園ぐらいの子どものためにピアノを買いたいということで、ヤマハの小型アップライトを知り合いのピアノ店を通じてお世話したことがありました。

ところが、その子があまりピアノを弾くこともないまま月日は流れて、今年は高校に通う歳となり、もう要らないから手放したいということになりました。
マロニエ君としても購入時にお世話した経緯もあったので購入した店にその意向を伝えてみたものの、買い取り価格は相当安いものでしかなく、それならばということで欲しい人を当たってみることになりました。

その友人宅は遠方ということもあり、その後そのピアノがどういう使われ方をしたかは知りませんでしたし、たしか小型の木目ピアノだったことを覚えているぐらいでした。

手放すことになってから、そのピアノの写真が送られてきたのですが、そこに写っているのは、ザウターなどにありそうな明るい木目の、小さくてなんとも愛らしい素敵な姿でした。
高さも最小限で、デザインもシンプルで明快、良い意味で日本のピアノ臭さがない、いかにも垢抜けた感じ。インテリアとしてもまことに好ましく、見るなりその魅力的な姿に引き込まれてしまいました。

もちろん、買ってくれそうな相手がいればお世話はするとして、こんな可愛いピアノなら、音は二の次で自分で欲しいなぁ…などといけない思いがふつふつと湧き上がりました。それからというもの、ずいぶん空想を巡らせましたが、結局どこをどう考えてもマロニエ君宅にこのピアノをそれらしく置く場所はないことを悟ります。

物理的にどうにか置けたにしても、やはりピアノは弾かれることが前提ですから、ただ物置のようなところに放り込むわけにもいきません。ピアノにはピアノに相応しい、それなりのしつらえというものが必要ですが、それは現状では無理でした。
まあ下手に置き場所があってはろくなことになりませんので、これは幸いだったと見るべきかもしれません。

そんな折、ピアノが好きなある友人と電話でしゃべっていて、ついこのピアノの話になりました。マロニエ君はただの雑談のつもりでしたが、電話の向こうの相手は、たちまちこの話に乗ってきたのは思いがけないことでした。
その人はすでに好ましいグランドを持っており、距離も遠いので、まったく対象外だったのですが、マロニエ君にも変な気持ちが起こったように、本当にピアノが好きな人は、要らなくても欲しいという気持ちが湧き上がるのも自然な心情でしょう。マニアというものは、無駄なもの、不必要なものに、ナンセンスな情熱を傾けて喜ぶ種族のことでもありますから、これはちっとも不思議ではないのです。
ならばというわけで写真を送ると、その気持ちにはいよいよ拍車がかかり、「ぜひ欲しい」「買う」「決定」というところまでいきました。

しかし、翌日になって自宅の置き場所を検討した結果、どうしても床暖房の上にしか該当するスペースがないことが判明したらしく、床暖房はピアノの大敵でもあり、この一点で諦めることになりました。

これがバイオリンやフルートなら、置き場所の苦労はありません。この点がいかに小型アップライトとはいってもピアノという楽器の生まれもつ不自由さだと思います。

その後、このピアノはこれからピアノをはじめるかわいい姉弟のもとへ嫁ぐことになりました。
まあ、冷静に考えれば、マニアからペット飼いされるより、それが一番良かったと思います。
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古びた新しさ

マリア・ジョアン・ピリスはとくに好きでも嫌いでもないピアニストですが、個人的には、どちらかと云えば積極的に聴きたくなるタイプではないというのが偽らざるところでしょうか。

すでにピリスも70歳を目前にした最円熟期にあるようですが、マロニエ君はこの人をはじめて知ったのは、高校生の頃、日本で録音したモーツァルトのソナタ全集を出したときからで、そのLPレコードは今も揃いで持っています。

DENONの最新技術によりイイノホールで録音されたのが1974年で、たぶんこれを初めて聴いたのはその2、3年後のことだろうと思いますが子供でしたし、正確なことは覚えていません。それまでのモーツァルトといえば、ギーゼキングを別格とするなら、当時の現役では圧倒的にヘブラーで、それにリリー・クラウスだったように思いますが、とりわけヘブラーのモーツァルトはこの時期の正統派と目された中心的存在でした。

ウィーン仕込みの典雅で節度ある、いかにも女流らしいスタイルで、わかりやすい型のようなものがあり、モーツァルトはかくあるべしといった自信と格式にあふれていました。
そんな時代に登場してきたピリスのモーツァルトは、それまでの既成概念というか、モーツァルトを演奏するにあたっての慣習のようなものを取り払ったストレートで清純な表現で、これがとても新鮮な魅力にあふれていて忽ちファンになったものでした。

LPレコードのジャケットには、一枚ごとに録音時に撮られたピリスの写真が多数ありましたが、それまでの女性が演奏するレコードのジャケットといえば、ロングドレスなどフォーマル系の衣装であるのが半ば常識だったところへ、ピリスはまるで普段着のようなセーターにジーンズ、ペダルを踏む足はスニーカーといったカジュアルな服装であることも強いインパクトがありました。
さらにはこのときおよそ30歳だったピリスは、まるでサガンか、あるいはその小説に出てくるような多感で聡明そうなボーイッシュなイメージで、なにもかもが新時代の到来を感じさせるものでした。

その演奏は因習めいたものや権威主義的なところから解放された、専ら瑞々しいセンスによって自分の感性の命ずるまま恐れなくモーツァルトに身を投げ出しているように感じたものです。
その後、ピリスは着々と頭角をあらわし、ドイツグラモフォンと契約をして90年代に再びモーツァルトのソナタ全曲録音に挑みますが、マロニエ君はなんとなく瑞々しさの勝った初期の全集のほうが好みでした。

とはいその初期の全集も、もうずいぶん長い間聴いていなかったので、CD化されたBoxセットを手に入れ、実に数十年ぶりに若いピリスが日本で録音したモーツァルトを耳にしました。ところがそこに聞こえてくる演奏は、記憶された印象とは少なくない乖離があったことに予想外のショックを覚えました。

当時あれほど清新な印象で聴く者をひきつけた若いピリスでしたが、そのモーツァルトには意外な固さがあり、アーティキュレーションも古臭く聞こえてしまいました。
全体がベタッとした均一な印象で、モーツァルトの悲喜こもごもの要素が滲み出てくる感じが薄く、あれこれの旋律が聴く者に向かって歌いかけてくるとか、弾力にあふれたリズムが表情のように思えるような要素が少なく、一種のそっけなさを感じてしまいました。
モーツァルトは、できるだけ彼に寄り添って演奏しないと微笑んでくれないようで、作品そのものが寂しがり屋のようです。

考えてみれば、この数十年というもの、古典派の音楽はピリオド楽器と奏法の台頭によって、その演奏様式までずいぶん変化の波が押し寄せたわけで、それはモダン楽器の演奏にも少なくない影響があり、聴く側にも尺度の修正が求められたようにも思います。

新しさというものは、普遍的な価値を獲得して生き延びるか、さもなくば時代の変化によって、古いファッションみたいな位置付けになってしまうことがあるということかもしれません。
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量産品

このところ立て続けに真新しいスタインウェイによるコンサートの様子をテレビで見ました。

ひとつは京都市交響楽団の定期公演から、ニコライ・ルガンスキーによるラフマニノフの2番、もうひとつは北海道北見市公開収録による、宮田大チェロ・リサイタルで、ピアノはフランスのジュリアン・ジェルネ。

いずれも、今流行の巨大ダブルキャスターを装備した、ピッカピカのスタインウェイですが、京都と北海道と場所もホールも、ピアノもピアニストも、録音も違うし、なにより協奏曲とチェロとのデュオという編成もまったく異なるという、むしろ共通項を見出すことのほうが難しい2つでした。

マロニエ君の持論ですが、実演主義の方からは叱られそうですが、どんなに条件が異なっても、楽器や演奏家の本質は、意外にも機械はよく捉えている場合が珍しくなく、そこで抱いた印象は実演に接してもほとんど変わらないという自分なりの経験があります。
もちろん大雑把なものではありますが、でも、これを修正しなくてはいけないような事例がほとんどないのも正直なところです。

さて、この二つのコンサートで使われたスタインウェイは、その本質において、マロニエ君の耳にはほとんど同じという印象でした。それだけ近年は製品のばらつきも極力抑えられ、それだけ意図した通りの均等な製品が着々と生み出されているということでもあり、これは同時に欠点さえも見事なまでに共通しているように思いました。

まず往年のスタインウェイ固有のカリスマ性はもはや無く、ピアノとしてのオーラとパワーはかなり薄められ、コンパクトになったピアノという印象。
まるでかつての大女優が、普通の美人になった感じでしょうか。
スタインウェイとしての名残はあるとしても、音の美しさも表面的で機械的。だんだんに無個性な、日本製ピアノともかなり似通った性格のピアノになっていると思います。

とりわけハンブルク製にもアラスカスプルースが使われるようになってからは、音に輝きとコクがなくなり、深い響きや透明感、音と音が重なってくるときの立体的な迫真性みたいなものが、もうほとんど感じられません。
昔のスタインウェイはたとえ拙い演奏でも、どこか刃物にでも触るような興奮と、底知れないポテンシャルに畏れさえ感じたものですが、その点では普通の優秀なピアノに過ぎなくなった気がします。

コンチェルトなどでオーケストラのトゥッティの中から突き抜けて聞こえてくるスタインウェイの逞しさと美しさが合体したあのサウンドは、すっかり痩せ細ってもどかしさすら覚えます。
ラフマニノフの第二楽章のカデンツァでは、最も低いH音から上昇する属七のアルペジョがありますが、昔のスタインウェイはここで鐘が鳴るようなとてつもない音を出したものですが、今回のピアノはゴン…という普通のピアノの音でしかなく、あまりのことに悲しくなりました。
チェロとのデュオでは、マイクが近かったせいもあって、よりダイレクトな音が聞かれましたが、深みのないブリリアント系の音色が耳障りであったこともあり、一緒に見ていた家人はこのピアノは○○○?と日本製のメーカーの名前をつぶやきました。

最近のスタインウェイはたまに実物に接しても、仕上がりの完璧な美しさには驚かされます。でもそれは、職人の丹精が作り出した美しさではなく、無機質で機械的なものです。その音と同様に工業製品としての生まれであることを感じてしまうのは寂しさを感じてしまいます。

ここまで書いたところで、さらにブフビンダーがN響と共演したモーツァルトの20番を聴きましたが、またまた同じ印象で、立て続けに3度驚くことになりました。会場はサントリーホールですが、ここも新しいピアノに変わっており、モーツァルトであるにもかかわらず、ピアノが鳴らず、まるで蓋を閉めて弾いているみたいでした。
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ムラロと偉丈夫

今年の1月にトッパンホールで行われたロジェ・ムラロによる、ラヴェルのピアノ作品全曲演奏会の中から、クープランの墓、夜のガスパールなどがクラシック倶楽部で放映されました。

先に書いた「まるでスポーツ」はこれがきっかけとなった文章でした。

ムラロ氏は演奏に先立って、インタビューでラヴェルには音の明晰さが必要だと語っていましたが、その演奏を聴いてみて、彼の云う明晰と、聴く側がその演奏から感じる明晰との間には、いささか隔たりがあるように感じました。

全体にシャープさがなくもっさりしていて、ラヴェルに不可欠と思えるクールさとか、ガラスの光を眺めるような趣は、マロニエ君にはまったく感じられませんでした。というか、そもそもこのムラロ氏がフランス人であるというのも、どこか納得できないような田園風の雰囲気であり、その演奏でしたので、セヴラックならともかくラヴェルはちょっと…という感じです。

少なくとも、まったくマロニエ君のセンスとは相容れないラヴェルで、感性が合わないと1時間弱の番組を見るだけでもそれなりに忍耐になります。実際のコンサートはというと午後3時から6時45分終了予定とあり、うひゃあ!という感じです。

プロフィールでは『パリでのメシアン《幼な子イエスにそそぐ20の眼差し》を演奏の際に作曲家本人から激賞され、メシアン作品演奏の第一人者として認められた。』とあり、日本でも同曲の全曲演奏会をおこなったとありますが…ちょっとイメージできません。
テクニックにおいても、岩場のような堅牢さはあるけれど、音楽表現のためのあらゆるテクニックが準備されている人とは、このときは到底感じられませんでした。
聴いた限りでは「明晰さ」よりはむしろ「鈍さ」を感じる演奏だったというのが率直なところ。

ミスタッチも多く、べつにミスタッチをどうこういうつもりはないのですが、それは純然たるミスというより、あきらかな準備不足からくるものであると感じられ、やはり全曲演奏などろくなことがないと思ってしまうのです。

ところで、その明晰さにも繋がることですが、ムラロはコンサートグランドがひとまわり小さく見えるような偉丈夫で、長身かつそのガッシリした骨格は、まるでアメリカあたりの消防隊長のようで、ピアニストにはいささか過剰なもののように感じました。
こういう体格の人に共通するのは、そのビッグサイズの身体を少々持て余し気味なのか、背中を大きく曲げ、いつも遠慮がちで、その表現やタッチは抑制方向にばかり注意が向いているような、ある種のもどかしさみたいなものが演奏全般を覆ってしまいます。

その抑制が災いしてか、ピアノの音もどこか張りや緊迫がなく、モッサリした感じになってしまうのは彼ひとりではないように思いました。
偉丈夫のピアニストとして最も有名なのはかのラフマニノフでしょうが、まあ彼は別として、クライバーン、ブレンデル、現役ピアニストで頭に浮かぶのは、ルサージュ、ベレゾフスキー、パイク、リシェツキなどですが、やはりいずれも音楽が大味です。音にも鮮烈さや色彩感が乏しく、もっぱら強弱のコントロールと矮小化された解釈、それを骨格だけで演奏しているように感じてしまいます。

変な言い方をすると、その大柄な体格でピアノが制圧されているかのようです。
私見ながら、ピアノに限っては、ほんのわずかにピアノのほうが勝っていて、それをピアニストがなんとか克服しようとする関係性であるほうが、結果として魅力的な演奏になるような気がします。
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新たな一面

ゴールデンウィークは多くの方が旅行などに行かれるのでしょうが、マロニエ君の連休はいつもながら至って平凡なものでした。

普段できない掃除やらなにやら、とりとめのないことを少しずつでもやっていくのも、地味ではありますが、それはそれで結構たのしかったするものです。

マロニエ君の自宅は福岡市の動植物園の近くなのですが、こどもの日を含む連休中には無料開放日などもあって、折りよく天候にも恵まれ、大変な人出で賑わいました。
自分がどこへもいかずとも、近所がそんな人出で盛り上がっていると、なんだかそれだけで満腹してしまって、何かに参加したかのような錯覚に陥るようです。

現在福岡市の動物園では、随時リニューアルが進められているうえ、民間企業にお勤めだった方がイベントの企画を手がけておられる由で、次々に新しい魅力的な催しが打ち出され、以前にはなかったような活況を呈しているようです。

ちょうどそんな中、午後から数名のお客さんがあるので近くにケーキでも買いに行こうとしましたが、通りに出ると大変な渋滞で、往復にも普段より時間がかかりました。駐車場はどこも満車で、みなさん車が置けずに焦っておられて、なかなか関係ない車でさえ通してくれなかったりで大変でした。


お客さんというのは、マロニエ君宅の古いカワイのGS-50というグランドを、ちょっとしたきっかけでコンサートチューナーの方に10時間近く調整していただいたところ、想像以上の結果が出たのでその試弾にピアノの知人が来てくれたのでした。

このカワイのGS-50は製造後、既に30年近くが経過しており、それほど酷使しているわけではないのでなんとか今でも使える状態ではありますが、本当なら弦やハンマーなどの消耗品はそろそろ取り替えた方が望ましいことはむろん認識しています。
そんなピアノですから、いまさらあれこれと手を加える価値があるのかといえば甚だ疑問ではありましたが、ある技術者の方との出会いがあって、差し当たりこのピアノをやっていただくことになったものです。

いまさらですが、技術者の中にもいろいろなタイプの方がおられます。
特定のピアノだけを手がけるスペシャリストの方、どんなピアノでも獣医のようにやさしく面倒を見る方、ステージ上の音造りにこだわりを持つ方、むやみにお金をかけずに最良の妥協点を探る方、タッチや音色のためにはあらゆる創意工夫を試みる方、満遍なくバランスを取ることを最良とする方、基本に忠実できっちり定規で測ったような調律をされる方、儲けは二の次でとにかく自分が納得できる仕事を旨とする方、料金が第一でやったことすべてを有料の仕事に換算する方、入手できない部品は作ってでも正しく根本から再生する方、調律師という名の通り調律以外は何一つされない方など、まさに千差万別だと思います。

この方は、他県で多くのホールのピアノの管理をしておられるだけあって、ピアノを「改造」するというようなことは(条件的に許されないからか)されずに、あくまで目の前の状況の中から最良の状態を引き出すというところに猛烈な拘りと情熱を持っておられます。

というわけで、ピアノの状態としては「現状」を変えずに、こつこつと小さな調整の見直しやセッティングの再構築などの微細な作業の積み重ねによって、そのピアノの最良の面を探し出し、それがときには新しい命を吹き込むことにもなるようです。
さて「新しい命」とまでは云いませんが、我がカワイも、記憶にある限りでの最良の状態を与えられて、このピアノにこんな一面があったのかというような素敵なピアノになりました。

一番の特徴は、まずとてものびやかで健康的になり、ひとまわりパワーが増したことと、併せて落ち着きまで出たことです。音には上品さが備わり、キンキン鳴る反対の、馥郁とした響きの中にしっとりした音の芯があり、やわらかさの中からメロディラインが明瞭に出るピアノになりました。
また、パワーが増したのに、繊細さの表現もより自在になっているのは望外のことでした。要は表現の幅が強弱両側に広がったと考えれば納得がいく気がします。

自分で弾いてもこれらのことは感じていましたが、ピアノは他の人に弾いてもらうことにより、より客観的に聴くことができるものです。
もともとが大したピアノではないという諦めがあるだけに、よくぞこのピアノをここまで復活させてくれたもんだと感心させられました。とくにコンサートの仕事をしておられるせいか、整音と調律はコンサートピアノのそれに通じるテイストがあって、しっとりした落ち着きと華やかさが同居し、全体の構成感みたいなものがうまくバランスしているのは感心させられました。

「ピアノはおもしろい」といまさらのように思いました。
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まるでスポーツ

最近は、何かというと全曲演奏会の類が大流行のようで、音楽や演奏の妙を味わうというより、演奏家の技量と記憶力を誇示するための耐久レース的な趣になり、こういう流れは個人的にあまり歓迎していません。

誤解なきように云っておきたいのは、しっかりと準備され、長期間をかけて行われる全曲演奏は壮大な目的をもったプロジェクトであり、その意義深さは理解できるのですが、ここで云いたいのは一夜で何々の全曲とか、あるいは数日間で怒濤のごとく行われる、これでもかという不可能への挑戦状を叩きつけるような演奏会のことです。

日本人の演奏家もこの手の体力自慢的コンサートに挑戦する人が後を絶たず、まるで、それができないようでは一流演奏家ではないといわんばかりの空気が漂っているのでしょうか。本人が話題作りをしたいのか、嫌でもやらなくちゃいけないご時世なのか、主催者が苛酷な要求をしているのか、そうでもしないとお客さんが来ないのか…。
真相は知りませんが、ずいぶんおかしなことになってきたなあ…というのが率直なところです。

演奏家もこういうことで能力自慢して、売名に役立てているのでしょう。

ステージ演奏家にある種のタフネスが必要なことは当然としても、そればかりがあまりに前面に出て、コンサートが記録挑戦を観戦するイベントのような要素を帯びてしまっています。演奏する側はもちろん、聴衆にとっても、まるで忍耐と達成感など、いわゆる音楽を聴く喜びとは似て非なるものに支配されていやしないかと思われます。

クラシックの作品を弾き、コンサートという体裁をとってはいても、きわめてスポーツ的な価値観と体質を感じるし、どこか自虐的であるところにも強い違和感を感じます。
演奏者も優れた音楽家であることより、一挙に名が売れ英雄になることを目指しているのかもしれません。芸能人は紅白歌合戦に出ることで、その後の1年の仕事に大きく反映するのだそうですが、クラシックの演奏家もこういう挑戦モノを通過した人のほうが、それ以降のチケットの売れ行きが変わるのだろうか…などと勘ぐりたくもなります。

いずれにしろ、なにかが歪んでいるという印象をマロニエ君は拭えません。

マロニエ君は、よほど心地よい演奏でもない限り、通常のコンサートで2時間前後、ホールの椅子に縛り付けられるのは、率直にいってかなり疲れてしまいます。単純なはなし、2時間身じろぎもせず、身動きや咳ひとつにも配慮しながら、強い照明のステージ上の演奏に集中するということはかなりハードです。

実演というものは、建前で云われるほど良いことばかりではありません。演奏者の技量や解釈などの音楽的なことはもちろん、あまり真剣でなかったり、ツアーの中のひとつとしか考えていない、聴衆をナメている、さほど練習を積まないままステージで弾いている、義務的になっている等々で、こういうことが透けて見えるような瞬間が決して少なくなく、そういうものを感じると、たちまち興味を失い苦痛が始まります。

いったんそれを感じ始めると、コンサートほど息苦しいものはありません。終わったら会場を飛び出して外の空気に触れ、その苦行から解放されることになりますが、最近は歳のせいか疲れが本当に回復するのは翌日へ跨ぎます。
通常のコンサートでさえこんな現状が多いのにもってきて、規模ばかり広げた弾けよがしの全曲演奏などされても、どこに喜びを見出していいのやらさっぱりわかりません。

演奏家にとっても、体力や暗譜など、この挑戦をともかく無事に達成することに目標は絞られ、演奏の質は二の次になることは致し方ないでしょう。
聴く側も「全曲を聴いた」ということに、箱買いでもして得をしたようなような気分になるのかもしれませんが、洗剤ではあるまいし、マロニエ君は音楽でそれは御免被りたいところです。
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NHKの都合

ETV特集「ストラディヴァリ〜魔性の楽器 300年の物語〜」という番組が放送されました。
昨年もストラディヴァリの番組がNHKスペシャルで放送されたので、てっきり再放送かと思っていたら、前回より放送時間が30分延長され、90分の番組になっています。

ということは前回の放送が好評で、単純に未発表映像を追加したロングバージョンだろうと考えたので、どんな映像が増えたのかと期待を込めて見てみました。

ところが、それは明らかに前回の番組をベースにしたものでありながら、同じシーンを探すほうが難しいくらい、多くの別映像で占められていました。表向きは未発表映像を放出するように見せつつ、その裏では隠された意図がさりげなく働いているようで、なんだか腑に落ちないような不思議な気分になりました。

ギトリスなどストラドを愛奏するヴァイオリニストのインタビューとか、船の事故でバラバラになった「マーラー」という名のチェロが見事に復元されて演奏されていること。19世紀に行われたネックの長さや角度の改造前の楽器の紹介など、今回はじめて目にする部分が随所にあった反面、前回あったはずのいくつものシーンが、あれもこれも割愛されてしまっているのは驚きでした。
そこにはある共通した要素があり、NHKの狙いというか、もっとはっきり云うと、後々問題になりかねないと判断されるシーンを徹底的に排除した結果だと推察されるものでした。

大きくは、やはり今どきの時代を反映してか、まず、何かを否定することに繋がりかねない部分はことごとく無くなっています。
前回にはあったクレモナの工房をナビゲーターのヴァイオリニストが訪ねて、そこで作られた新作ヴァイオリンを試弾し、「とても素晴らしかったが、ストラドはより…」といった感想を述べるシーンは、やはり新作を否定するものになるのか…。

あるいは元N響のコンサートマスターの徳永氏が、ある実験に際して「(無音響室でも)ストラドを弾くのは楽しいが他の楽器は楽しくない」という発言があり、これはマロニエ君も前回見たときに、ほんの少しおや?と思いましたが、それもなくなっています。

また、前回の放送では、ニューヨークだったか、ブラインドテストでカーテンの向こうでモダンヴァイオリンとストラドをアトランダムに弾いて、音だけで聞き分けるという試みがあったものの、そこに集まったヴァイオリンの研究家や製作者などの専門家達でさえ正しい答えが出せなかったというシーンも、今度はストラドの価値をおとしめるということになるのか、これもなくなっています。

さらには、最高傑作にしてほとんど演奏されたことがないため最も保存状態の良いストラドとして有名な「メシア」は、イギリスの博物館所蔵の特別なストラドですが、前回はこのメシアの美しい姿が鮮明な映像で映し出され、その来歴についてもかなり説明がありましたが、今回はすべてが削除がされ、「メシア」という名前さえ一切出てきませんでした。
これは一部の人達の間でささやかれる贋作疑惑があることに対する配慮ではないかと思いましたし、これ以外にも失われたシーンはまだまだあります。

その贋作疑惑ということにも繋がりますが、このところのNHKはしかるべき検証もないまま佐村河内氏の番組を制作・放映して謝罪した問題や、新会長の籾井氏の発言など、あれこれと失点が続いたために、かなり神経質になっているのではないかと思いました。

「あつものに懲りてなますを吹く」といいますが、このストラディヴァリの番組は、少なくとも前回のロングバージョンなどではなく、大幅な作り替えだったと思います。新しい映像が追加されて長時間視ることができたのは嬉しいとしても、はじめのバージョンを見た者にとっては、失われたものがあまりにも多く、NHKの都合でグッと安全重視の作りになっていたという印象です。
これはこれで面白く視ることはできたものの、前回の1時間のほうが、はるかにキレがよかったように思います。
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類は友を呼ぶ

『類は友を呼ぶ』という言葉があります。

マロニエ君は、近ごろの人達のように立派な振る舞いや発言を心がけて、それを最優先するような考えがさらさらないことは折に触れて書いてきたとおりです。くだらないこと、ばかばかしいことにも並々ならぬ興味があり、これはマロニエ君の体質そのものでもあり、そういう感性なしでは生きてはいけません。

先週末、とある大きな書店でのこと。多くの人で賑わう店内で、ひときわ大きな声で何かを強烈に主張している人がいました。しかもたったひとりで、まさに意味不明なことを次から次へと間断なくまくしたてるものだから、みんな警戒しながら通り過ぎています。
しかもその声というのが、舞台俳優のように太くてボリュームがあり、さらに通る声だったので、きっとこのとき店内に居合わせた人達のほとんどが、表向きは無関心を装いながらもこの声に気をとられていたことでしょう。

ときに叫びにも近いときがあり、こちらも自分ひとりなら大いに不安になったでしょうが、人は大勢いることでもあるし、マロニエ君も形こそ立ち読みをしているものの、そっちが気になって内容はあまり目に入らず、内心はこの声ばかりに集中していました。
しばらくそれは続きましたが、5分もすると、そのうちいなくなりました。

やれやれ終わったか…と思いながら、今度こそ本の内容に意識を向けて立ち読みをしていると、いきなり肩をトントンと叩かれ、むしろこっちのほうにびっくりしました。
振り向くと、友人がそこに満面の笑みをたたえて立っており、お互いにその偶然に驚きました。

聞けば友人も、さっきのあらぬ言葉を連発する人の存在がおもしろくて、ずっとそばで聞いていたんだそうです。いなくなったので場所を移動したらマロニエ君がいたというわけです。まあお互いに馬鹿だなあと思いますが、こういう気が合うと合わないとでは、友人といってもまたく関係の質がかわるものです。

近ごろは、自分の考えとか感想を無邪気に言えないという点では、精神的に暗く不健康な時代になりました。とくに話の対象が特定の個人であったりすると、露骨なくらい消極的な反応となり、スーッと話題を変えていく人が少なくありません。いまここで何かを言ったところで、困るような言質をとられるわけでもなし、別にどうということもないのに、そうまでして安全を選ぶのかと、相手の心底が透けて見えるようで嫌な気がします。しかし、それを荒立てても詮無いことなので、こちらも内心では舌打ちしつつ抵抗はしません。まるで表面だけ笑顔の、守秘義務を負った弁護士と話しているみたいで、ぜんぜん楽しくないし、そういう人とは本当に楽しい付き合いにはなりません。

マロニエ君のまわりにはそれでも比較的昔風の無邪気な輩がわずかに残っていて、たとえば別の友人が、ずいぶん前のことですが、バスに乗車中、なんとそのバスと車が接触事故になったとのこと。べつに怪我人がでるようなことではなく、ただ街中でちょっと車体同士が擦れたぐらいのことだったようです。
むろんバスは道の真ん中で停車し、それから前方であれこれと接触後の対処がはじまり、運転手も会社との連絡やらなにやらで乗客はそのままで、ずいぶん長いこと放置されるハメになったらしいのです。普通なら「何をしているんだ!」と文句のひとつも出るところでしょう。

ところが、さすがはマロニエ君の友人だけのことはあって、なんと、こういう状況が実がめちゃくちゃに楽しかったのだそうで、そこが笑えました。あまりにも嬉しくて、そのためには何時間ここで待たされても構わないと、腹をくくっていたのだそうですが(楽しいから)、結果は期待よりも早く降ろされてしまって残念だったとか。
平日のことで、そのために仕事にも遅れが出るわけですが、友人に云わせると「そんなのは関係ない」「だって自分のせいじゃないんだもん」なんだそうで、偶然そんなバスに乗り合わせた自分の幸運が、うれしくて仕方がなかったというのですから、あっぱれです。

こういう「けしからぬこと」を笑顔で堂々と言える人は絶滅危惧種になりました。
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楽器か機械か

近ごろではピアノ作りに於ける価値基準のようなもの、つまり「最良のピアノ」というものの定義も、昔にくらべるとかなり変質してきているように思われます。

とくにハイテクのめざましい進歩の恩恵から、ピアノ作りに於いても、精度の面では飛躍的に増したことは間違いないでしょう。
優れた工作技術、コンピューター制御の普及によって、手作業をはるかに凌ぐ均質なパーツが苦もなく生まれ、その集積によって正確な機構が組み上がるのは、ピアノのような夥しい数のパーツの集合体である楽器にとっては、精度という面では圧倒的に有利となります。

我々は「手作り」という言葉に弱いところがありますが、これをむやみに有り難がるのは間違いだと思います。最新の機械技術によって誤差を極力排除した正確なパーツが制作されるのであれば、それに越したことはないわけです。そういう精度の高いパーツを作るのは機械のほうが上手いのなら、へんなこだわりは棄てて機械に任せたほうがいいでしょう。

問題なのは、さてどこまでを機械に任せるかということです。
いったんハイテクの恩恵を知ると、なかなか逆戻りはできません。「ここまで」という良心的な一線を引くのは至難の技で、そこにコストや利益が絡んでくればなおさらです。あれもこれもとそのハイテク介入の範囲は広がっていくことになり、その果てにあるものは冷たい機械としてのピアノの姿であり音だと思います。

もちろん、手作りでばらつきのあるピアノがいいピアノだとも思いません。
ただ、製品としての正確で均等均質な物づくりというものは、しだいに本来の物づくりの在り方から乖離して、とりわけ楽器の場合は本質から逸脱していくという危険を孕んでいます。
これが機械的には完璧に近いけれども、楽器としての生命感を失ったピアノが増殖していく大きな要因だと思います。

ピアノの世界にこの流れを持ち込んだのは他ならぬ日本の大メーカーだと思いますが、それが今や他国の第一級のピアノ作りにも悪しき影を落としているような気がします。

現在世界には、凋落していく銘ブランドを尻目に、これこそ最高級ピアノとばかりに躍進し、しだいに認知されているピアノもあり、一部の人達には極めて高い評価をされているいっぽうで、まったく逆の評価をする一派もあるようです。
その人達に言わせると、煎じ詰めれば機械としてのピアノの音でしかないということで、これはマロニエ君も似たような印象を以前からもっていました。

たしかに、製品として隙のない仕上がりで、機能も音も現代の基準を楽々と満たし、見た目にも輝くばかりの高級感にあふれていて立派ですが、ただ、そのことと、最高の楽器というのは、やはり最後のどこかで着地点が微妙に違うもののように感じます。

これらの何が一番違うのかというと、それは陳腐な言葉ではありますが、やはり「感動できない」ということにつきると思います。レクサスのようなピアノが最高級の楽器という風に単純に分類されることにどうしても抵抗があるのです。

よい楽器は、音や響きが美しいことは当然ですが、弾き手も聴き手も、作品世界に忽ちいざなわれ、心が溶けて奪われていくようなもの、あるいはわなわなと震えるようなものではないでしょうか。
どんなにひとつひとつの要素が立派でも、つまるところ人に感銘を与えない楽器は、血の通わない機械の美しさや完全性を押しつけられるようで、マロニエ君は良い楽器とは思えません。
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力の管理

櫻井よしこさんの著書『迷わない。』(文春新書)を読んでいると、次のような記述がありました。

「お金を持つと、その人の性格が十倍も強調されて出てきます。立派な人は更に立派になり、だらしのない人は限りなくだらしなく、狡い人は限りなく狡くなります。そういう意味ではお金は魔物です。ですから自分に自信のない人は、お金は持たないほうがいいと思います。」
と書かれています。

前後の脈絡から云うと、ここでいう「お金」というのは、あるていどの大金というニュアンスですが、これは、まさに膝を打つ思いで、激しく頷きました。

マロニエ君の考えでは、この理屈はお金に限ったことではなく、もっと幅広い意味での、人を惑わす要素に共通する定理があるように思えます。
権力しかり、地位や学歴や肩書きしかり、他者と自分を明瞭に差別化する要素そのものが魔物であると思います。

これらの魔物は、上手く飼い慣らすことのできない人の手に落ちると、弱くて暗い心の奥に棲みついて、たちまち内側から侵食がはじまるように思います。

基本的に人は自信をつけることは大切なことですが、本物の自信は、奢りや勘違いや慢心とは違いますが、これがしばしば同一視され混同されやすいのも現実でしょう。

本来の自信は、人格や品位を高めるものであって、これが根を下ろして身につくには長い時間もかかり、まわりの認知も一朝一夕にはいきません。

「オリンピックで金メダルをとった」「ショパンコンクールに優勝した」というような場合は、一夜にして周囲の状況が変わることはあるかもしれませんが、これはあまり一般的ではありません。

いずれにしても、器に見合わないものがその人を支配すると、お金以外のことでも、櫻井氏の表現を借りれば「その人の性格が十倍も強調されて出てくる」わけで、これはもちろん短所も含むということです。これは本人が思っている以上に周りはその変化を敏感に感じ取りますが、悲しいかな本人にはなかなかわからないみたいです。

人は他者のことは苦もなくわかるのに、自分のことは見えずにわからないという典型です。
しかし、周りにとっても、しょせんは他人事ではあるし、これに正面切って異を唱える人はいませんから、いわば自己管理だけが頼りであり、その器や能力が問題になるのでしょう。

ここから失敗を招いたり信頼を損ねたりする場合もあり、結果から見ると、以前のほうがよかったという場合もあるのが人の世の難しいところだと思います。

ある方から聞きましたが、メディアへの露出もそこそこの有名な某演奏家は芸大の教授になったとたん、見てはいられないほど横柄な態度を取るようになり、大変な顰蹙を買っているそうです。ところが、ご当人は大きな肩書きと権力を得て天狗になり、自省のブレーキはかからないようです。

それを話してくれた人によると、「人間は、まわりが頭を下げるような地位に就くと、たちまち育ちが出てしまう」のだそうで、これはなるほど尤もなことだと思いました。
自分が頭を下げるうちはいいけれど、下げられる側になったときに、どういう反応を示すかで「育ち」が出るというのは、まさに真理だと云えるでしょう。

「育ち」のみならず、なにがしかの力を手に入れたときに、その人が辿ってきた人生や素顔など、早い話がその人の「地金」が白日の下に晒されるといってもいいかもしれません。
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魂はスマホに

先日、用事があって天神に出た際のこと。
いつものように車を立体駐車場に止めて、そこからビルの6階相当の高さに位置する長い連絡通路を通って反対の商業ビル群のほうへ向かいます。

この空中にある連絡通路の中ほどに、ひとりの若い男性がしゃがみこんで下を向き、なにかをしきりにやっている姿が目に止まりました。

前を通過する際に見ると、なんのことはない、その両手の先にあるものはお定まりのスマホでした。
内心なーんだとは思ったものの、背中を壁につけ、深く曲げた両膝の間に両肩が入り込むほどうずくまって、顔は完全に床と水平になるほど下を向いており、見ただけで頭に血がのぼりそうでした。

駐車料金の関係もあって、2時間以内に出庫できるよう、それから2時間足らずで再びこの連絡通路に戻ってきたのですが、なんとその青年はさっきとまったく同じ姿でまだスマホに熱中しているのにはびっくり仰天しました。
若いから身体も柔らかいのだろうし、体力もあるのでしょうが、それにしたって疲れないのかと思われてなりません。マロニエ君はCD店などで棚の下の段を見るためにしゃがんでいても、ものの3分ぐらいで苦しくなり、立ち上がると鬱血した血液が回り出すのか、ふらふらと目眩をおぼえることも珍しくありません。

それにしても、スマホの何がそうまで人の心を捉えて離さないのか、いまだガラケーユーザーであるマロニエ君にはおよそ理解の及ぶものではありません。

先日会った知人もガラケーらしいのですが、その人曰く、地下鉄かなにかに乗ったとき、ふと気が付くと周囲をスマホ画面を操作する人ばかりに囲まれた状況になっていて不気味だったと言っていました。ちょっと覗き込んでみると、なんとほとんどの人が「ゲーム」をやっていたとか。

となれば、あの連絡通路でしゃがみ込んで真下を向いてスマホに興じていた青年もゲームだったのかもと思われます。まあ、それが実際にゲームでもメールでも大差はありませんが。

それにしても生きている時間の多くをこうまでためらいもなくスマホに捧げるというのは、なんだかやりきれない思いになってしまいます。
「若いときは勉強しろ」などと大上段に構えたことを言う趣味はもとよりありませんし、だいいち、そんなことを言う資格も無いようなマロニエ君です。我が身を振り返って、納得のいくような勉強や経験を積んできたわけでもなく、その点ではむしろ後悔と反省ばかりの自分です。

しかしそんなマロニエ君でさえ、ここまで世の中がスマホに汚染されていく社会というのはいかがなものか…と柄にもないことをつい考えてしまいます。

先日も討論番組で聞いて驚いたのですが、若者の間では深刻なスマホ依存症が激増しており、彼らは誇張でなく本当に一日の大半をスマホとともに1年365日過ごしているといいます。さらに驚愕だったのは、あまりに休みなく利用するためバッテリーを充電する時間もなく、そのために複数台をもっている人も多いというのですから、こうなるともはや現代のアヘンではなかろうかと思ってしまうのです。

もちろんスマホはれっきとした合法的なアイテムではありますが、その想定外の可能性を秘めた性能が、いともたやすく、誰にでも手に入ることは非常に危険なことなのかもしれません。
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理想のタッチ

日曜はピアノ趣味の知人らと誘い合わせて、とある個人ホールのピアノを弾きに行ってきました。

ここにはベヒシュタインのグランド(M/P 192cm)があります。
M/Pは、現代のやや複雑なベヒシュタインのモデル構成の中でも、このメーカーの正当な系譜を引き継ぐ、真性ベヒシュタイン・ラインナップの一台です。

同時に、ベヒシュタインの中でも新しい世代に属し、それに伴って現代的なアーキテクチュアをもつモデルで、伝統のむき出しのピン板はフレームに隠され、華やかな倍音を得るため駒とヒッチピンの間にはデュープレックス・システムまで与えられた、いうなればスタインウェイ流儀に刷新された新世代のベヒシュタインです。

新しいベヒシュタインというのはそうそう触れるチャンスがないために、詳細な比較はできませんが、時代の好みと要求にも応えるピアノになっていながら、根底にはベヒシュタインらしいトーンが残されていて、現役のピアノとしてこのブランドが存続していくには、こういうふうになるんだろうなあという予想通りのピアノだと思いました。

これより前の世代のベヒシュタイングランドは(戦前の旧い世代は別として)、どうかすると素晴らしい同社のアップライトにやや水をあけられた観があったのも事実なので、マロニエ君としてはいちおうは正常進化したと解釈できます。しかし、伝統的なベヒシュタインのファンの中には、こうした方向転換へ大いに異論を感じる向きも多いことだろうと思います。

さて、音はもちろんそれなりに美しいものでしたが、調整の乱れもあって、とりたてて印象に残るほどのものでもないというのが偽らざるところでした。このピアノのサイズとブランドを考えれば、あれぐらいの音がするのは当然だろうという範囲に留まりました。

それとは対照的に、この日の印象としてたったひとつ、しかも強烈に残ったものは、その素晴らしいタッチ感でした。

このタッチにこそ深い感銘を受け、マロニエ君としては、これぞ理想のタッチだと唸りました。
軽やかなのに、しっとりとした感触が決して失われず、なめらかでコントローラブル。強弱緩急が思いのままのタッチとは、まさにこういうフィールのことをいうのでしょう。

通常、軽いタッチになると、どうしても単なるイージー指向な軽さで安っぽくなり、弾き心地も音も浅薄になってしまう危険があります。つまり弾いていて喜びを感じない、ペラペラな深みのないピアノへと堕落してしまいます。そればかりか、軽さが災いして逆にコントロールの難しさが出てくることも少なくありません。

コントロール性を確保するには、軽さの中にも密度感のあるしっとりした動きと、弾き手のタッチの変化やイメージにきちっと寄り添うように追従してくる「必要な抵抗」がなくてはなりません。
がさつな鍵盤/アクションをただ軽くしても、それはただ電子ピアノのようなタッチになるだけで、ピアノを弾く本当の手応えと快感は得られません。

そういう意味ではこのベヒシュタインはまさに第一級のピアノであり、極上のフィールをもっていることにかなり驚かされました。
まるでキーの奥では美しい筋肉が動いているみたいで、その意味では、スタインウェイもタッチにはどこか妥協的な部分があり、このような高みには達していないと思います。

タッチ以外にも、ふたの開閉や突き上げ棒の動きのひとつひとつにしっとりした好ましい手応えがあり、これはドイツの高級車の操作感にも通じるものがあります。

今後、マロニエ君がタッチというものを感じる際・考える際に、このベヒシュタインのタッチは折に触れて思い起こされ、ひとつの基準・ひとつの尺度になる気がします。

そういうものに触れられたという一点でも、遠路はるばる行った甲斐がありました。
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内田の3番

過日のBSプレミアムシアターでは、英国ロイヤルバレエのドン・キホーテ全幕のあとの余り時間を埋めるように、ミュンヘンのガスタイクでおこなわれた、マリス・ヤンソンス指揮バイエルン放送交響楽団の演奏会のもようが放映されました。

ソリストは内田光子で、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番。

ものものしい序奏のあとに出てくる両手のユニゾンによるハ短調のスケールは、経験的にこの曲のソリストの演奏の在り方を、これでほぼ決定付けるものだと思います。
この上昇スケールとそれに続くオクターブの第一主題が、何らかの理由で収まらなかった演奏は、以降もほぼ間違いなくその印象を引きずっていくという点で、非常に決定的な部分だと思われ、いわばソロの見通しがついてしまうほど重要な意味をもっている…といえば大げさすぎるでしょうか。

いまさらですが、内田の演奏は音量がミニマムというか、場所によっては完全に不足していて、せっかくのきめの細かい演奏も、こういう曲ではあまりその魅力が発揮されるとは思えません。
ベートーヴェンの5曲の中でも、最も内田に向いているのは4番で、逆に3番はザンデルリンクと入れたCDもまるで納得できないものでしたが、今回はそれとは多少違った演奏ではあったものの、もうひとつという印象でした。

5曲中、最も繊細かつセンシティヴなのは4番、そして最も力強さが求められるのは皇帝のイメージがありますが、それはむしろ華麗さとかぶっている面もあるのでは…。皇帝にくらべて和音や重音の少ない3番ですが、それでいて骨格の確かさが要求されるため、マロニエ君の主観ですが、音楽として形にするのが難しいのも皇帝より3番ではないかという気がします。

内田のピアノは、最大のウリである繊細さの輝きに、このところやや翳りが出ているように感じてしまいます。以前のような、ハッと息を呑むようなこの人ならではのデリカシーの極限を味わうような楽しみが薄れ、演奏の冴えのようなものがだいぶ変質してきたようにも感じます。
作品に対する異常なまでのこだわりと熱気という点でも、以前の内田はとてもこんなものではなかったように思うのはマロニエ君だけでしょうか…。

彼女がその弛まぬ努力によって打ち立てた名声が、近年は少々無理を強いる結果を招いたのではないかという心配が頭をよぎります。

ところで、マロニエ君はこれまで折に触れ書いてきたように、日本人の女性ピアニストの多くが好む、フランス人形みたいなお姫様スタイルは、演奏家としての品位に欠ける俗悪趣味としか言いようがなく、どうにもいただけません。そのいっぽうで、これとは真逆の内田の独特の出で立ちにも、これはこれで見るたびに小さな衝撃を感じてしまいます。

とりわけ、ここ数年はいつも同じスタイルで、上半身はインナーの上に、超スケスケの生地で縫われたジャケットともシャツともつかない、なんとも摩訶不思議なものを着ています。

まるで海中をたゆたうクラゲか、はたまた養蜂業者が着る防護服のようでもあり、同じものの色違いを何色も確認しているので、きっと何着もお持ちなんだろうと思います。
こういつも同じデザインだということは、よほどのお気に入りということでしょうが、何度見ても大昔のSF映画のようで、不思議としかいいようのない衣装です。
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今ごろ象牙

これまでマロニエ君は、折あるごとに象牙鍵盤の機能面に疑問を訴えてきました。

とりわけ多くの人から入れ替わり弾かれる環境にあるピアノの場合、想像以上に酷使され、腕自慢が力の限りを鍵盤にぶつけるような使われ方をするのでしょう。
そのエネルギーをもろに受け、象牙の表面は擦れて艶を失い、同時におそろしいまでに滑りやすい状態になるようです。ほとんどテフロン加工のフライパンの新品みたいで、指先がどこに滑っていくか予想もつきません。

当然、無用無数のミスタッチが発生し、それを防ごうと身体中あちこち突っ張ることで支えてしまいます。まったく脂汗がでるようで、もはやピアノを弾く楽しみどころではありません。

こういうピアノに何台か触れて恐怖体験をしてしまうと、普通のプラスティック鍵盤は、たしかに見た目こそ芸能人の付け歯みたいな真っ白で、味も素っ気もないけれど、差し当たりどれだけ安心かと思ったのも事実でした。

ところが、昨年から使っているディアパソン210Eは象牙鍵盤であるにもかかわらず、幸いなるかな上記のような弾き手を困らせる要素はまったくありません。思い起こせば納品してしばらくは少し滑りやすさを感じていたものの、その後はすっかり我が手に馴染み、1年が経過して、今では仄かな愛着さえ感じながらこのやや黄ばんだ鍵盤に触れる日々といった状況です。

その挙げ句には「やっぱり象牙鍵盤はいいなぁ…」などと思ってしまうのですから、なんと人間は勝手なものかと我ながら呆れてしまいます。
というわけで今は象牙鍵盤の風合いを楽しむまでになり、ついにホームページの表紙に写真まで出してしまいました。

考えてみると長年使ったヤマハも、一時的に使ったディアパソン170Eも象牙鍵盤だったものの、そんな恐怖体験はありませんでした。ということは、酷使の問題もさることながら、品質もあるのでは…と思わなくもありません。
そうはいってもディアパソンのようなブランドが特上品を使うとも思えないので、これは時代によって、使用できた象牙の品質に差があったのではないかと思います。

1970年代ぐらいまでは、とくに意識せずとも普通にいいものが手に入った佳き時代だったと思います。この時代の日本メーカーはアップライトでさえ上級モデルには象牙鍵盤を使っていたほどですから、いかに今とは事情が違っていたかが忍ばれます。

不可解なのは白鍵が象牙でも、黒鍵は普通のフェノール(プラスチックのようなもの)だったりします。マロニエ君のディアパソンも同様でしたが、このあまりの中途半端さはいったいどういう判断なのかと思います。

1年前までは鍵盤の材質にそれほどこだわりはなかったものの、象牙の白鍵には黒檀の黒鍵が当然のように組み合わされるものという認識でしたから、オーバーホールのついでに黒檀に交換してもらいました。
純粋に手触りという点では、白鍵が象牙であることより、黒鍵が黒檀であることのほうが、プラスチックが木材になるわけですから、その感触の差は大きいという気がします。

木の感触はいいのですが、最近のピアノに多く使われる「黒檀調天然木」というのは、これがまた不可解です。見るからにテカテカしてまがい物っぽく、あれは一体なんなのかと思います。だいたい「何々調」というのは、すでに本物ではないということです。

話を象牙に戻すと、あれだけ「象牙は無意味」みたいなことを書き連ねたあげくに、馴染めばやっぱり見た目もフィールも悪くないと思いはじめた自分が、節操なく自説に背くようで恥ずかしいです。
それでも「鍵盤は象牙に限る」というまでの思い込みはありませんが、象牙は象牙の良さがあるとは思えるようになりました。
でももし、あの「つるつるのすってんころりん象牙」ならプラスチックのほうがいいと今でも思います。
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どんだけぇ?

最近、あるピアニストに関する本を読了しました。
著者はピアニストと文筆家という、いわば二足のわらじを履く有名な方で、マロニエ君はこれまでにその方のCD・著作いずれにもずいぶん触れてきたつもりです。

ずいぶん触れたということは、両分野に於いてもそれだけの実力を認識し、一定の共感や価値を感じているからにほかなりませんが、ひとつにはこの人の着眼点に面白さを感じているのかもしれません。

ただ、以前から感じていたこの方の書かれる文章に対する違和感もないでもなく、それが今回の本ではより決定的になりました。公に活動している方ではあるし、CDも本も、すべてマロニエ君が自費で購入している物ばかりなので、別に名前を伏せる必要もないとは思いますが、すぐにわかることですし、まあここではやめておこうと思います。

本のタイトルを書くのも躊躇われましたが、そうそうなにもかも黒く塗りつぶすような記述ではお読みいただく方にも失礼なので、せめてそれは白状します。
タイトルは『グレン・グールド』で、これはもう説明するまでもない、音楽歴史上に大書されるべき20世紀後半に活躍した異色の大ピアニストです。

ピアニスト関連の書籍では、グールド研究に関する本は突出して数が多く、いわばグールド本はこのジャンルの激戦区といえそうです。そこへ敢えて名乗りを挙げたからには、よほど新しい内容や独自の切り口があるのだろうという期待を込めてページをめくりました。

ある程度、その期待を満足させるものはあったし、よく調査と準備がなされていると感心もしましたから、大きくは購読して得るものはありました。

ただ、この著者自身がピアニストということと、文筆業との折り合いがついていないのか、あるいはこの人そのものの持ち味なのか、読んでいてうっすらとした違和感を覚える(マロニエ君だけだと思いますが)ことが多いのは気にかかります。
これまでにも他のピアニストを題材とした著作をいろいろ出されており、そこには書き手が現役ピアニストでもあることが、他の音楽評論家などとは決定的に異なる個性であり強味にもなっています。いわば現場経験を持つ者としての専門性が駆使され「同業者(この表現が多い)」にしかわからない視点から、専門的具体的な分析や考察が作品の随所に散りばめられています。

しかし、マロニエ君にいわせると相手は天才どころか宇宙人ではないかと思えるほどの桁違いなピアニストで、そんなグールドを語るのに、折々に自分というピアニストの体験などが随所に出てくるのは、「同業者」という言葉とともに、なかなかの度胸だなぁと思ってしまいます。

もちろんそれが悪いと言っているのではありませんが、もし自分なら絶対にできない(しない)ことだけに、読みながら小骨があちこちにひっかかるような抵抗感を感じてしまうのです。

ピアニスト&文筆家という二足のわらじが成り立っていることは、それに見合った才能あればこそで、この点は素直に敬服しています。ただ、グールドと自分をピアニストというだけで同業者として(さりげなく、あるいは分析する上で必要だからということで)語ってしまう部分が散見できるのは、いかにそれが正当な論理展開だとしても、感覚の問題としてそのまま素直に読み進む気持ちにはなれませんでした。

とくに後半はだんだん筆が迷走してくるようで、グールドの身体条件や奏法を自分の修行経験などを交えながら執拗なまでに分解分析を繰り返すのは、くどさを感じさせ、まるでこの天才の弱点や欠陥を暴き出すことに熱中しているようで、いささか食傷気味にもなりました。

他のピアニストに関する著作にも同様の印象があり、現役ピアニストを名乗りながら、文筆家としてペンを持ち、同業者斬りをしているような印象が前に出てしまうのは、才能のある方だけに甚だ残念なことだと思います。
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京響の魅力

NHKのクラシック音楽館で京都市交響楽団の定期公演の様子が放映されました。

冒頭の紹介によると、常任指揮者に広上淳一さん就任されてからオーケストラの魅力がアップし、「かつてない人気を集めて」おり「定期会員の数もこの数年で倍近くにふえている」ということです。
チケット販売も好調の由で、今日のようなクラシック離れ/コンサート不況をよそに、なんと1年3ヶ月連続のチケット完売、現在も記録更新を続けているとか。

曲目は、前半はラフマニノフのピアノ協奏曲第2番でソリストはニコライ・ルガンスキー、後半はマーラーの交響曲第1番「巨人」という大曲2つです。

来場者によると、京響の魅力は「団員がみんな楽しそうに演奏している」「活き活きして、いろいろな外国のオーケストラも聴いているが、ぜんぜん遜色ない」「京響のほうがすごいなと思うことがある」「京都の宝です」などと、評判も上々のようでした。

こんなふうに聞かされると、いやが上にも期待をしてしまいますが、残念ながらはじめのラフマニノフはあんまりいいとは思いませんでした。
ただし、これは専らルガンスキーのピアノに責任があるようで、あまり音楽的な演奏とは感じられませんでした。なによりマロニエ君の好みでないのは歌わない技巧的な演奏で、随所にある粘っこさも、わざわざ取って付けた表情という感じで、聴く喜びが感じられません。

強靱な音を要する箇所では、ばんばんピアノを叩く奏法で、音に潤いや肉付きがなく、突き刺さるような音の連続となり、どちらかというとスポーツ的な腕前だけが前面に出ているようにしか感じられませんでした。彼は、バッハとショスタコーヴィチの名手でもあったタチアナ・ニコラーエワのお弟子さんですが、ロマンティックな師匠とはなにもかもが違うようです。

そのためかどうかはわかりませんが、京響も期待したほどではなく、全体に精彩を欠いた演奏だったことにがっかりしました。

ところが、マーラーになると状況は一変します。
冒頭に寄せられたコメントも、マーラーに至ってようやく納得できるものになり、活き活きして柔軟な演奏が繰り広げられました。「巨人」はマーラーの中では親しみやすい作品かもしれませんが、あまりマロニエ君好みの曲ではなく、なんだか田舎臭い交響曲というイメージがあります。

ところが広上淳一&京響は、この作品から魅力を損なうことなく、泥臭さだけを抜き取って、清新でみずみずしく演奏したのはちょっと意外でした。解釈もアンサンブルも見事。
ちなみに、広上氏のリハーサルは音楽用語をあまり使わず、日常の言葉や情景に喩えるのが上手いのだそうです。そして各奏者に自分の考えを強要するのではなく、自由度を与えるというスタンスが楽員にやる気をおこさせているようでした。

比喩が上手い指揮者としてまっ先に思い出すのはカルロス・クライバーですが、彼は楽員に自由は許しませんでした。ただ、音楽的イメージや演奏上のポイントを瞬時に何かに喩えて表現できることは、指揮者の伝達テクニックとしては非常に有効かつ重要なものだと思います。

なにをするにも「楽しそうに」というのは極めて大切なことで、そもそもこの広上氏の指揮ぶりが、音楽することの楽しさを全身で表現しているようです。
まさか京都だからということもないのでしょうが、広上氏の風貌はまるで古刹の僧侶が洋装して指揮台に上がってきたようでもあります。小柄な身体のすべてと、豊かな表情を駆使して、常に燃え立つように指揮をされている姿は、音楽に対する真摯な姿であるとともにどこか愛嬌があり、多くの人を惹きつけるなにかを備えているようです。

広上氏の指揮はたえず音楽のために常に全力を注ぎ込んで躍動し、そのエネルギッシュな姿は、どことなく今は亡きショルティを彷彿とさせるようでした。
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イベント?

ついに消費税8%がスタートしましたね。

3月の最後の週末は、報道各社はお祭り騒ぎのようにこれを採り上げ、いつものように国民を煽る事にかなりのエネルギーを費やしたのではないかと思われました。

とりわけ関東圏では、連日買いだめや駆け込み需要のための人出が甚だしかったようで、お得意の長蛇の列も随所で発生したようです。
何の店だったか忘れましたが、プラカードを持つ人が立つ、列の最後尾からリポーターが「では行ってみます!」と列の脇を走りますが、映像も早回しになり、右に左に折れ曲がって、何百メートルも先に先頭があったりします。

こうなると2〜3時間の待ち時間なのだそうで、なんでそこまでという思いが募ります。
最後の土日のデパートやスーパーなどの大変な混雑ぶりを取り上げておいて、4月に入ったとたん、今度は閑散としてひとけのない売り場などを対照的に映し出し、増税後は人はまったく寄りつかなくなりましたという切り口です。でも、1日は平日の火曜日でもあり、通常でも土日にくらべたら衣料品売り場などはガランとするのが普通では?と思いました。

こういうマスコミの在り方も、景気回復に水を差す一因ではないかと思います。

ある経済の専門家によれば、「消費税が8%、8%といいますが、8%上がるのではなく、現在より3%増しになるということですから」といっていました。たしかにマスコミの報道は、まるでゼロから8%になるかのごとく錯覚を誘発するような過熱ぶりでしたね。

福岡はごく単純に言うと、何事においても醒めた感性が根っこにある地域で、消費税増税前の騒ぎもそれほどではありませんでした。今年のNHKの大河ドラマが『軍師官兵衛』で、黒田家は関ヶ原以降、福岡を治めた五十二万石の大名ですから、他所なら地元が注目される年だとそれなりに沸くのかもしれませんが、福岡ときたら見事なまでに盛り上がりません。
きっとNHKの目論見も大外れだったことだと思います。

さて消費税ですが、街頭でインタビューすると、もちろん中には「大変です…」「困りますね…」というような標準的な意見もありますが、「上がるのは嫌だけど、そのために買い置きはしませんねぇ。」「いやぁ…べつに。要るものは要るときに買うだけですよ。」といったコメントはいかにも福岡らしくて笑ってしまいます。

ガソリンも値上がり前に給油しようと、関東圏では路上にまで車が列をなしてまで3月中の満タンが大流行だったようですが、その列がまた大変な車の数で驚きました。中にはたった5Lのために列に並んでいるという猛者もいて、開いた口がふさがりません。

ふと思ったのですが、消費税増税はまぎれもなく税の問題であって、つまりお金の問題であるにもかかわらず、もしかすると、これは実はお金じゃない問題ではないだろうか?という疑念が湧いてきました。

家でも買うというならべつですが、日常生活のレベルでそんなことに奔走しても、それでいくら得をするかという数字上の話になれば、10万円使っても3千円です。その3%のために投じる大元の費用、さらにはそのために要する時間や労力など、多くの人的エネルギー消費を伴うことを考えれば、さらにそのメリットは減じられていくのは理です。
3%にこだわるぐらいなら、そもそも買わないのもかなりお得なはずです。

つまり、これはほとんど心理上の現象であり、情緒的な現象ではないかと思います。
「今のうちに買っておく」というのが国民的なコンセンサスになって、まるで消費税アップを控えての「期間限定イベント」のようになってしまったのではと感じます。

正味どれだけ得なのかという検証はそっちのけで、「今しかない」イベントに参加してお祭り気分を楽しんでいるのだと思うと、多少納得がいくような気がしました。
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ジェレミー・デンク

店頭での商品のディスプレイというものは、やっぱり大事なんだなあと思います。

マロニエ君行きつけのCD店では、クラシックはオペラなど特定のジャンルを除いて、基本的に作曲家ごとにアルファベット順に棚が整理されています。
大半のCDは背表紙をこちらに向けて並んでいますが、その上部には2段ほどジャケットを見せるスタイルで話題盤などが目につくようにおかれています。

バッハのコーナーを見ていると、その上段にJeremy.Denkという見知らぬピアニストによるゴルトベルクの輸入盤がまとまった枚数置かれていました。
ニューヨークで録音されたもののようで、モノクロでデザインされた紙の簡素なジャケットは、本人の写真と控え目な文字だけで、どことなくジャズのジャケットのようでもあり、どんな演奏だろうというささやかな興味を覚えましたが、とくべつ印象的というわけでもありませんでした。

インスピレーション的には、本当ならたぶん買わない筈のCDですが、前回来たときに300円の割引カードというのをもらっていて、それが使えるのは3000円以上からなのですが、この日買いたかったCDだけではあと1000円ちょっと足りません。
そこへ、この未知のゴルトベルクが目に入ったわけで価格は1590円、なんだかちょうどいい塩梅に思えました。でも失敗したら元も子もないし、いくら割引適用といったって、要らないものを買うほうが無駄なわけで、どうするか猛烈に迷いました。しかしこのとき時間もなく、最後まで躊躇するところも含みながら、破れかぶれで買ってみることにしました。

吉と出るか凶と出るかといったところで、いささか緊張気味に聴いてみましたが、まあ大失敗ではないものの、(マロニエ君にとっては)とくに成功とも言いかねるものでした。
ああ、やっぱり自分の直感には素直に従うべきだと後悔しつつ、割引券&ディスプレイの方法という、お店の計略にまんまと乗せられてしまったお馬鹿な客というわけです。

演奏は、初めはこれといった強い個性や魅力を見出すこともないものでした。なにしろゴルトベルクといえば、グールドの数種を筆頭にコロリオフ、シフ、アンタイ等々挙げだしたらキリがないほど第一級の演奏がゾロゾロ揃っている中、この人の演奏は決して悪くはないけれども、耳慣れた演奏に比べるとどこか緊張感が薄く、それが自由といえば自由なのかもしれません。
考えてみるとゴルトベルクのCDは名演揃いでありながら、だれもがある種の緊迫を背負って弾いているものばかりで、それを考えるとデンクのように気負わずに自然に弾いているところは新鮮でもあり、何度か聴いているうちにその力まぬ演奏の目指すところが少し了解できたようでした。

「ほぅ」と思ったのは、ピアノはニューヨーク・スタインウェイを使っているにもかかわらず、ニューヨーク特有の音のゆらめきが前に出過ぎず、良い意味でのアバウトな響きでもない、珍しいほど粒の揃った行儀の良いピアノでした。またニューヨークではしばしば曖昧になりがちな音の輪郭もかなり出ています。
よほど入念な調整がされたのか、生まれながらにそういう個性をもったピアノなのかはわかりませんが、はじめはハンブルクかと思ったほどでした。

ネットで調べてみると、ジェレミー・デンクは、1970年ノースカロライナ生まれのアメリカのピアニストでバッハから現代音楽にいたる幅広いレパートリーで文筆活動も盛んとありました。
「今日の最も魅力的で説得力のあるアーティストの一人」だそうで、現在のレーベルへのデビューアルバムは、なんと、リゲティのエチュード第1~13番とベートーヴェンのOp.111のソナタをカップリングしたものだそうで、その挑戦的な曲目はいかにも今風だなぁと感じます。
このゴルトベルクも3回を過ぎたあたりから、この人の自然かつ繊細な演奏に気分的に慣れてきたこともあって、なんとなくそちらも聴いてみたくなりました。

それでまたデンクのCDを買ったら、ますます店の思惑通りということになりそうですが…。
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メールの違和感

メールに関連して思い出したことがあります。

べつに大したことではないのです。
大したことではないけれども、人にはどうにも違和感を覚える事というのがありますね。

それは自分が出したメールに返信をもらった場合のこと。
送信されてきた文章の下に、前回自分が書いた文章がそのままべったりくっついていることが意外に少なくないのは多くの方が経験されていることだと思います。

これはメールソフトのデフォルト設定がそうなっていることが多いためで、ただ単に返信ボタンを押すと、自動的に親メールが返信メールの末尾にコピーペーストされるというものです。
ソフトがそもそもそういう作りになっているのだから、別にどうということもないことだと云えばそうなのでしょうが、マロニエ君はこれがどうも気になって仕方がないのです。

自分が人に送った文章を、相手側からの返信の画面上でもう一度目にするのは、半ば送り返されたようでもあるし、そこに自分の文章を見るのは、なんとなく恥ずかしいような気もするし、早い話が見たくないわけです。

これが自分の意志で送信済みメールを確認する場合はその限りではありませんが、相手から送られてきたメールのお尻に、機械的に自分の文章がくっついているという状況というのが、どうしても自分なりの自然の感覚に反してしまうようです。

人によっては、気にし過ぎと思われることでしょう。マロニエ君も割り切って受け流すようにはしていますが、これが性格なのか、そこに毎度違和感を感じてしまうのはどうしようもありません。

これはあくまでも個人間のプライベートなメールに限っての話であって、ビジネス上の特定の問答であるとか、通販の確認メールなどはもちろんその限りではありません。

郵便での手紙に例えるなら、送られてきた封筒の中に、以前出した自分の手紙がコピーされて同封されているとします。その目的が、いくら「アナタが以前出された手紙に対する返事が、今回送った手紙なので、そのコピーも同封します」という意味であっても、やっぱり奇異な感じというか、これを喜ぶ人はいないと思います。

というわけで、マロニエ君は返信を書くときに、まずはじめにすることは、返信ボタンを押して文章を書く前に、そこにコピーされた相手の文章を全部消すこと。
これが最優先の習慣になりました。
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メールと電話

現代人にとって、もはやメールはなくてはならない通信ツールであることはいうまでもありません。

内容をしたため送信ボタンを押せば、時間/距離を問わず、瞬時に世界中どこへでも届くという驚異的な便利さは、昔だったらおよそ考えられなかったものです。

ただ、問題なのは、この便利さが自分の感覚領域にまで染みついて、思わぬ影響が出てくるときだと思います。
伝達手段としてメールが適当な場合にこのツールを使うのは当然としても、電話でもいいような、あるいは「電話のほうがいい」ような場合まで、メールが中心となり、ついそちらへ流れてしまうのはいささか危険なことだと思うのです。

最近の傾向として、電話をすることは、できれば一歩踏みとどまるべきというふうな暗黙の風潮があるように感じます。普通に電話をすることが、あたかも無遠慮で無神経な、ちょっと厚かましいことのように捉えられているふしがなくもないのは、ちょっと賛同しかねるところがあるのです。

必要以上に、迷惑ではないかとか、悪いタイミングにかけてしまって自分が疎まれたくないというような、いろんな心配や自己防衛が先行し、その結果メールが伝達手段の主流になってしまっているのは自分を含めて好ましい習慣とは思えません。
さらには、電話だとよけいな挨拶とかおしゃべりをするのが面倒臭いという、以前では考えられないような後ろ向きな気分が背後にないとは云えないでしょう。

つまりメールは、あたかも相手への配慮や気遣いのような前提をもってはいますが、全部が全部そうとも言い切れず、ある種の卑屈さ、エゴ、保身のいずれかがその都度、都合のいい指令を出して、要するにメールを選択しているというのが実情ではないかと思います。

しかし、人間関係は音楽や食にも通じる、いわば「生もの」であり、その魅力に委ねられているものだと思います。
メールなどなかった時代は、必然的にナマの関わりしかなく、それ以外の選択肢はありませんでした。だから世の中全体が、今にくらべて遥かに人付き合いがいきいきして、おおらかで、今とは比較にならないほど上手だったと思います。

そういうわけでマロニエ君は、メールのほうがいいと確信の持てる場合を除いては、できるだけ電話を優先するよう心がけているつもりです。そうはいっても、自分の都合でメールになってしまうことも無いと云えばウソになりますが、それでも、できるだけ電話で直接話をするに越したことはないと思っているのは確かです。

その理由はいろいろありますが、そのひとつ云うと、他の方のことは知りませんが、少なくともマロニエ君はどんなにタイミングの悪いときにかかってくる電話でも、それが迷惑とか不愉快に感じるということはまったくないし、嬉しいと感じるからです。

むろん折悪しく出られない状況というのはありますが、そのときはかけ直しをすればいいだけのことで、基本的に人間関係というものは会話を基本とする生きた関わりによって常に関係を維持し、それを更新していくものだという考えがあります。メールにその力がゼロだとはいいません。でも、直接の会話にくらべると遥かに非力でしょう。

もちろん、事柄によっては文字伝達の必要がある場合はありますが、それはあくまでも直接会話を補佐するかたちで用いたいもので、メールがレギュラー、電話が特別という順序立てはいかがなものかと思うのです。
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カツァリス

浜松のアクトシティで3月7日に行われたばかりのシプリアン・カツァリスのピアノリサイタルの様子がクラシック倶楽部で放送されました。

カツァリスはマロニエ君が昔から苦手とするピアニストで、その名声がどこからくるものなのか、彼の真価はなんなのか、何度聴いてもわかりません。
若い頃からテクニシャンで鳴らした人のようですが、マロニエ君にはこの人が本当の意味でそうだとは思えませんし、音楽的にも好感をもって聴けるところがほとんどありません。好感でなくても、この人なりの音楽に対する心はこうなんだろうというものが見えてこないわけです。

以前、カーネギーホールで行われたショパンの生誕200年かなにかのリサイタルなどは、まるで記念碑的な名演のように書かれた文章も目にしたことがあり、だったらもう一度、虚心に聴いてみようとライブCDを買ったこともありました。
しかし、聞こえてくる演奏は、まるで身体が受けつけないものを無理に食べさせられるようで、最後まで聴くこともないままディスクを取り出し、その後はこのCDを見かけることもないので、よほどどこかへ放擲してしまったらしく、自分でも確たる記憶がありません。

そんなカツァリスなので、かえって恐いもの見たさで再生ボタンを押してしまいました。
あらたなアイデアなのか、近年はコンサートのはじめに「即興演奏」をするということで、日本の「さくらさくら」を皮切りに、オリンピック等で使われた世界の有名なクラシックの旋律をメドレーで流すという、まるで観光地の土産品みたいなものが弾かれました。
こういうものが「即興演奏」というのもちょっと不思議でした。

続いてシューベルトの3つのピアノ曲から第2番、そのあとはカツァリス編曲によるリストのピアノ協奏曲第2番というもので、リストが一番良かったようにも感じつつ、やっぱり今回も最後まで自分がもちませんでした。

クラシックの作品を対象にしてはいるものの、印象としてはクラシックのピアニストというより、ピアノ芸というイメージです。音数の多い作品をサラサラとさも手慣れた感じに弾き進みますが、その手慣れた感じを見せることがステージの目的のようにも感じてしまいます。

タッチは全般に非常に浅めで、すべての曲はせいぜいフォルテからピアノぐらいの狭いレンジで処理されてしまうようで、まるで自動演奏のような平坦さを感じてしまいます。少なくとも真剣に耳を澄ます音楽ではないと(マロニエ君は)思いますし、とりわけこの特徴的な浅いタッチは、超絶技巧とやらを売りにする裏で、手に疲労をため込まないための秘策なんでしょうか。
どの曲を弾いても同じ調子の、意味のないおしゃべりみたいな音楽であるためか、シューベルトなどは品位のない、ひどく俗っぽい感じを受けてしまいました。

ただ、ピアノファンとして面白いのは、この人はスタインウェイがあまり好きではないようで、日本ではヤマハを弾くし、以前も書いた記憶がありますが、ショパンのピアノ協奏曲第2番をスタインウェイ、ベーゼンドルファー、ヤマハ、シュタイングレーバーという4種類のピアノを使って録音し、そのCDも発売されています。
これほど面白いことをやってくれるピアニストはまずいないので、その試みは大いに歓迎なのですが、肝心の演奏が表面的で俗っぽいため、そちらが気になってピアノを楽しむことはついにできません。

今回のコンサートでは、場所も浜松であるためか、当然のようにヤマハCFXが使われていました。
上記のようにカツァリスは決して多様なタッチは用いず、常に一定の軽い弾き方に徹しているので、ある意味でCFXの美しい部分だけが出せたコンサートだったと言えるのかもしれません。
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消費税と婚約指輪

消費増税がいよいよ目前に迫りました。

誰しも税金が上がるのは好みませんし、この増税はもともと民主党政権時代に野田さんが熱心に押し進めて決ったことで、安部さんの本心は甚だ不本意であるらしいという説もあります。
この時期の消費税アップは、目下の急務である景気回復基調に水を差すものという見方も強く、専門家の間でも賛否がうごめいていますが、そうはいっても事ここに至って、いまさらじたばたしてもはじまりません。

テレビでは連日のようにそれに関連したニュースをやっているようですが、各局は申し合わせたように、増税前の駆け込み需要、買いだめ、まとめ買いなどに焦点を当てて、いつものようにそういう気分のない人までわいわい煽っているように感じます。
デパートの食料品売り場はじまって以来の「箱買い」なるものまで登場して、箱単位で保存のきく商品が売れているのだそうです。

さて、そんな中で驚くべき話を聞きました。
マロニエ君が直接見たわけではありませんが、家人がたまたま目にしたニュースによれば、デパートなどでは高額商品も増税前に購入という動きがある由で、その中には、今とばかりに婚約指輪を買いにくる若い男性がかなり多いというのが注目されたようでした。

ただこれ、信じられないことに、現在婚約者がいるわけでもない男性が、まだ見ぬ相手との婚約に備えての購入だというのですから、そのセンスにはさすがにでんぐり返りました。

たしかに結婚を視野において、準備しておくものというはあろうかと思います。
経済力さえあれば、将来を見越して土地やマンションを買っておくというのならわかりますし、不動産物件ともなれば金額のケタも違うので、これはまだ理解できます。

でも、婚約指輪の買い置きなんて聞いたこともなく、そもそもマロニエ君世代にはそんな発想すらできません。もし仮にそんなことをしようものなら、語りぐさになるほどの笑い者になるのは必至で、いわば男の沽券にかかわることだと思います。

マロニエ君は今どきの婚約指輪の相場がどれほどかは知りませんでしたから、ネットで「婚約指輪の相場」で検索してみました。すると、だいたい20〜30万、中には30〜40万というのがあって、少数派を除けば、大半が50万円以内のようでした。
仮にその最高の50万円としても、4月以降のアップはたかだか15,000円であって、いま婚約指輪を駆け込み購入するメンズは、つまりその15,000円惜しさに買っているということになります。

これは本当にびっくりでした。そんな事をするぐらいなら、いっそ株でも買って儲けてやろうというほうがまだしも豪快というものです。

そういう次元の金額にねちねちこだわる金銭感覚や価値観を持った男性は、いくら時代が変わったとはいっても、やっぱりモテない奴だと思います。
仮にいつの日かそれを受け取る女性にしてみても、「増税前に買い置きしていた婚約指輪」をもらって、果たしてそれで嬉しいだろうか…と思います。

それっぽっちの金銭に執着する代償に、男としての値打ちをめちゃめちゃ下げていることに、どうして気がつかないのかと不思議でなりません。しかも、自分で見立てられないものだから店員に相談する、あるいは職場の女性などに付き合ってもらって選んでいるというのですから、聞いているほうが悲しくなります。そんな買い物に付き合っている女性も、内心ではかなりその男性を馬鹿にしているんじゃないかと思いますが、女性って「この人は自分の彼じゃない」という明確な前提の上で、そういう親切あそびは案外楽しいのかもしれませんね。

婚約指輪というものは、あくまで気持ちの問題であって、双方が納得すれば無いなら無いですむものだと個人的には思うんですけどねぇ…。
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見切り性能

マロニエ君の部屋の『ディアパソン210E-7』に少し連なることですが、ピアノに限らず、楽器の表現力というものは、予め限界を作るべきではないというのが、マロニエ君の考えるところです。
言い換えるなら、常に無限へ向かってその表現の扉は開いていて欲しいと思うのです。

もちろん、そんなことを言ってみたところで、現実に限界はあるし、それどころかマロニエ君の稚拙なピアノの腕前を考えれば、どんなにその点に磨きをかけてみたところで、その真価を発揮させることはできないかもしれません。…いや、間違いなくできません。

ただ、たとえ自分の腕前ではできないことでも、できる人が弾いたときにはちゃんとそれに応えられるだけの潜在力というのはもっていて欲しいという拘りがあるのです。

軽く小さなハンマーのもたらす功罪として、昔の日本車を思い出しました。
現在はよく知りませんが、少なくともある時期までの日本車は、街中を走るには並ぶもののないほど快適で静かで高級感たっぷりなのに、ひとたび山道や高速道路を本気で走ると、いっぺんにぼろが出てヨーロッパの大衆車にも遥か及ばないという現実がありました。

ワインディングロードではよろよろと腰くだけになり、法定速度を超える高速では、その挙動はまったくだらしないものでした。街中でのジェントルな振る舞いとは別物のごとく、120km/h以上出すと安定性も操縦性も破綻へ向かい、騒音も一気に増大するというような車が多く存在しました。これは基本的な技術力というより、日本の道路法規に定められた道路環境や、高速道路の最高速度が100km/hであることから、常用域さえ乗りやすく快適であればよいとばかりに、それ以上の性能をはじめから切り捨てた結果であったようです。

かたや欧州車は、日本車の静かな安楽椅子みたいな快適さはないけれども、山道や高速では一段と腰の座った乗り心地となり、いざとなれば最高速度でも安心して巡行することができました。こそには彼我のバックグラウンドの違い、さらには価値観の相違が浮き彫りになりました。

要は性能の焦点をどこに向けるかという、きわめて重要な本質論だと思います。
もちろん音の可能性さえあれば弾きにくくてもいいなどというつもりはありません。しかし、弾きやすければ音は二の次とも思えないわけです。運動的な弾きやすさの代償に、草食系の薄っぺらですぐに音が割れてしまうようなピアノを弾いても、結局は楽しくもなんともありません。

ピアノはまずなにより弾きやすく、音は小綺麗にまとまっていればいいというのも、そういうニーズがあるのならひとつの在り方かもしれず、べつに否定しようとは思いません。
しかし、少なくとも弾き手とピアノと音楽という関係性に重きを置く場合は、こういう価値観は少なくともマロニエ君個人は賛同しかねるわけです。

簡単には弾かれてくれない骨太のピアノのほうが、弾く者を鍛え、喜びを与えてくれる時が必ずやってくるという信念といったら大げさですけれども、そういう考えがあることは確かです。

平生スーパーの野菜などをひどく下に見るかと思うと、こういう安易で底の浅い、いわばビニール栽培のようなピアノにはまるで無抵抗な感覚というのはよくわかりません。
マロニエ君なら、野菜はスーパーでもいいけれど、ピアノはオーガニックなものと過ごしたいと思います。どんなに秀逸でも、突き詰めれば機械でしかないピアノがあるいっぽう、欠点もあるけれども楽器と呼びたいピアノもあるわけで、やっぱり楽器がいいなぁ!と思うのです。
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納得できない

皆さんは最近の駐車違反の取締の厳しさをご存じでしょうか?

昔は警察官が違反車両を見つけたら、チョークで地面に時間を書いて一定の時間経過をもって「駐車違反」が成立し、はじめて摘発できるというものでした。
しかし、それは昔の話のようです。そこにはもはや「何分以上」というような猶予はなく、時間はまったく無関係となっていたことにびっくり。

すなわち、たとえ1分でもドライバーが車を離れたら、即違反・即検挙という、これはもうほとんど独裁国家並みの強権的摘発だというほかはありません。

というのも、つい先日、知り合いの方が2歳のお子さんを保育園に預けるために、園の前に車をとめてエンジンを切りハザードを出して車を離れたところ、そこへ巡回警官が通りかかり、たちまちキップを切ったのだそうです。
そのお母さんが慌てて戻って「私です、すみません!」といって駈け寄ったものの、その状況や事情は一切考慮されることなく、問答無用で斬りつけるがごとくの摘発だったようです。
今どきこんな無慈悲なことがあるのかと聞いた当初は信じられない気持ちでした。

反則切符によれば、なんと警察官が車輌を確認してからそのお母さんが現れるまでの時間は、わずか2分だそうです。
しかも現場は交通量のある幹線道路でもなく、車の往来も少ない静かな住宅街にある、比較的幅も広めの道だっただけによけいに驚きでした。

昔のような一定時間を経てはじめて違反が成立するという摘発方法がなくなったのは、要するにそれに要する手間や時間がかかるという以外に、マロニエ君には合理的な理由が見出せません。
あまりに憤慨したので警察の交通課に問い合わせをしてみましたが、果たしてその回答は、現在はドライバーが車内に運転免許を持つ者を残さずに車を離れ場合は、「一瞬であっても」放置車両として摘発されるとのことでした。

こちらもそんな馬鹿げた話に唯々諾々と従うほうではないので、精一杯あれこれ反論しましたが、何を言っても向こうは「法律」と盾にとって一歩も譲る気配はなく、これ以上不毛な会話をしてもナンセンスだと悟って、自分で青筋が立つのを感じながら電話を切りました。

警察のほんらいの目的は、犯罪の防止や捜査・摘発でしょうけれど、その根底にある大儀として市民(人々)の安全や財産を守り、安心できる住みよい社会の維持を担っていくことにあると思います。

一時にくらべると、その悪辣な摘発方法が反感を買い、問題視された速度取締の「ねずみ取り」はずいぶん姿を消し、ようやく反省に転じたのかと思いました。しかるに、またしてもこんな汚い取締の仕方をして市民から怒りと反感を抱かれることになったのは驚くばかりです。かたやストーカー事件などでは度重なる訴えにも耳を貸さず、被害者が殺害されるに及んだりと、これでは税金泥棒・罰金泥棒ではないかと思います。

電話に出た担当者は居丈高な口調で、「時間の問題ではないですよ。子供さんであれなんであれ、そういう理由はそちらの言い分です。もしそれで歩行者妨害になって事故が起きたらどうしますか?」などと痴呆症のような理屈を言い立てます。
しかし、ネットの情報によると、郵便局の車輌は摘発対象外であるなど、必ずしも法の下の平等でないことが明らかです。

また、その後聞いたところでは、トラックなど様々な業種の関係車輌は実際はその対象ではないのだそうで、これはどういうことでしょう? 同じ人がたまたま下見などで普通車で現場に行って止めていると、3分でも即キップを切られ、トラックなら安心というのですから、開いた口がふさがりません。

警察が主張するように、本当に歩行者や自転車の保護、あるいは交通の妨害ということであれば、目的がなんであれ、普通車よりトラックなどのほうがよほど危険で迷惑なっことは論を待ちません。おまけに、最近ではこのきわめて冷血で機械的な取締が、民間の業者にまで委託されているというのですから、なんとも嫌な話です。
そうなれば、どんな言い訳をされても、ますます金銭的ノルマの要素は濃厚となるでしょう。市民がその「反則金という名の金銭収奪システム」の犠牲になるなんて、たまったものじゃない。

人を処罰するということは重大なことです。それに際して悪質度の検証を一切せず、十把一絡であまりにも安易に摘発。そうかと思えば、特定の業者車輌などは見逃すという慣習には、社会の汚い一面を見せつけられるようです。
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シフに感謝

近年、自分でも不思議なくらい新しいピアノにそれほど興味が持てなくなってきているマロニエ君ですが、CDの世界では、意図的に古いピアノ使った新録音が発売されているのも事実で、これはとても素晴らしいことだと思います。
もちろん全体からすれば、まだまだごく少数ではありますが、こういうCDがひょっこり手に入ることはとても嬉しいことです。

最近で云うと、プレイエルを使ったバッハのインベンションに大興奮したところでしたが、メジャーピアニストの中では、アンドラーシュ・シフはわりに楽器に拘るほうです。彼はスタインウェイとベーゼンドルファーを使い分けながらベートーヴェンのピアノソナタ全集を作り上げたようですが、最近は全集と重複する最後のソナタop.111、さらにはディアベリ変奏曲とバガテルなどを、古い2台のピアノを使って録音しています。

そのひとつが1921年製のベヒシュタインで、このピアノはなんとバックハウスが使っていたE(コンサートグランド)で、こういうことをやってくれるピアニストが少ない中、シフのピアノに対する感性とチャレンジ精神にはただただ感謝するばかりです。

バックハウスによる1969年のベルリンライブで聴く、豪放なワルトシュタインのあの感動の陰には、この時使われたベヒシュタインEの存在もかなり大きいとマロニエ君は思っていますが、それと同じ個体かどうかはわからないものの(たぶん同じだろうと勝手に思い込み)、そのピアノの音を再び現代の録音で聴くことができると思うと、これまたワクワクでした。

もちろんピアニストが違うので、いくらベートーヴェンとはいえ同じテイストには聞こえませんが、しかしやはりベヒシュタインで聴くベートーヴェンには、格別な意味と相性があるようにも思います。
スタインウェイでは音が甘く華麗で、それが大抵の場合は良い方に作用すると思えるものの、ベートーヴェンにはもう少し辛口の実直さみたいなものが欲しくなり、かといってベーゼンドルファーではちょっと雅に過ぎて、その点でもベヒシュタインはもってこいなのです。

ツンと澄んだ旋律、男性的な低音域、アタック音の強さと互いの音がにじみ合うように広がる枯れた響きの中に、ベートーヴェンの苦悩と理想、歓喜とロマンがいかにもドイツ語で語られるように自然に聞こえてくるのは、物事が収まるべきところに収まったという心地よさを感じます。

ただしマロニエ君の耳には、全般的に古いベヒシュタインには、なんとなく板っぽい響きを感じてしまうことがしばしばですし、全体的にも期待するほどのパワーはないという印象があります。これは経年によって力が落ちてきているのか、あるいはもともとそういうピアノなのか…そのあたりのことはわかりませんが、もうすこし肉付きがあればと思います。

そういえば近藤嘉宏氏が進めているベートーヴェンのソナタ全曲録音には現代のベヒシュタインが使われているようですし、先ごろ発売されたアブデル・ラーマン・エル=バシャによる二度目のベートーヴェン・ソナタ全集にもベヒシュタインDが使われているとのことで、まだ購入には至っていませんが、これも期待がかかります。

さらに今年は、なんとミケランジェリがベヒシュタインを弾いた唯一のディスクという、ベートーヴェン、シューベルト、ドビュッシー、ショパンの2枚組が発売されたようです。ジャケットを見るとずいぶん古そうなベヒシュタインで、ミケランジェリの冷たいのか温かいのかわからないあの正確かつ濃密なタッチに、このドイツのピアノがどう反応しているのか興味津々ではあります。
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ライト2

かなり前のことですが、来日した黄金期のポリーニが得意のベートーヴェンのソナタを弾いたとき、NHKのインタビューで述べた言葉を覚えています。

「ベートーヴェンはありふれた断片から崇高なテーマを作り上げます。」と、当時のすさまじい演奏とは裏腹な、至って控え目な調子で語り、傍らにあったピアノに向かって『熱情』の第一楽章の出だしをほんの軽く弾きました。(もしかしたら、弾いてから語ったのだったかも。その順序は覚えていません。)

これにはまったく膝を打つ思いで、多くのベートーヴェンの作品に共通した特徴です。
形而上学的世界といわれる最後の3つのソナタでさえ、第一楽章の第一主題など「ありふれた断片」といえばそのように思われます。
ひとつの主題をこれでもかとばかりに彫琢し、推敲し、いじりまわた挙げ句に壮大なフィナーレへとなだれ込む。また、変奏がとりわけ得意だったこともそんな彼の特徴があらわれていると見ることもできるように思います。

頭にベートーヴェンをもってくると話が大げさになり、ちょっと後が書きづらくなりますが、前回のライトの設計にもあるように、本物のクリエイターには独自のイメージや美学が力強く流れていて、むしろ素材にはそれほどこだわらないという場合も少なくありません。これはすべての分野に通じる一流とそれ以外の差でもあると思います。

極論かもしれませんが、何でもないものを最高の価値あるものへ変身させ、あらたな命を吹き込むことこそ芸術の極意なのかもしれません。

しかし、それは必ずしも芸術の世界の専売特許というわけでもありません。
余り物で美味しい料理を作ってしまう才能、はぎれやリフォームによってオシャレな服をこしらえる才能、棄てられる廃材を見た人が自分も欲しいと思うようなモダンなインテリアに変えてしまうなど、ある種の制約の中にあってこそ、人間の能力はより真価を発揮しやすいものではないだろうかとも思うのです。

場合によってはそんな制約があるほうが、ある意味では目的と方向性が明快となって、生み出されるものも心地よい調べをもっていることが少なくないように思います。
まったくの自由意志からなにか立派な作品を作ることも素晴らしいけれども、これこれのものが必要である、あるいは使い道のない素材を活かしたい、指定された予算と材料だけで何かを作らなくてはならないというような一見不自由な発想点からも、多くの傑作が生み出されていることも事実であり、それはそれで立派なモチベーションなのだと思います。

むかしお邪魔したある個人宅に、細長のなんともシックで美しいテーブルがあってまっ先に目に止まりましたが、なんとそれは市販の集成材にダーク系の艶のないオイルニスを重ね塗りし、そこへ足をつけただけというものでとても驚いた記憶があります。その趣味の良さとえもいわれぬ風合いには痛く感銘を受け、何十万もするような輸入家具を買うよりよほど尊敬に値すると思いました。

動機は部屋のサイズにジャストフィットするテーブルがどこにもなかったので、だったら自作してやろうと思い立ったとのことで、結果的にコストも望外の安さで事足りたということでした。

マロニエ君にはそのような技も才能もありませんが、それでも、そんな真似事のようなことをやってみたいという憧れのようなものがあるのも確かです。
なにか虚しい挑戦を、いつかやってみたいという気持ちだけはくすぶっています。
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ライト

テレビ東京の番組『美の巨人たち』では、ときどきあっと驚くような事実に接することがあります。

少し前の放送でしたが池袋にある自由学園明日館が紹介されました。
これはアメリカの誇る世界的建築家、フランク・ロイド・ライトの作品です。

第二次大戦前につくられたその校舎は、シンプルな中にも気品と叡智とすがすがしさに満ち溢れています。そしてなによりライトの突出したセンスがこの作品の内外のいたるところに光っていて、現在は修復され、国の重要文化財にも指定されている建築物です。

例えば正面ホールのガラスには、なんともモダンで可憐で美しい装飾が配されていますが、これももちろんライト氏の考案によるもので、これがこの校舎の中心であり象徴ともなっている部分。

さて、この番組で初めて知ったのですが、その装飾に近づいて目を凝らせば、なんと素材は着色されたベニヤであることがわかり仰天させられました。それだけではありません。美しい色に塗られた教室のドアや、その上部の欄間からヒントを得たという装飾も素材はベニヤなのです。

自由学園の創始者である羽仁吉一の夫人もと子さんが直接ライトに設計を依頼したそうですが、その折に云ったことは「予算がないので、できるだけ安い材料でつくって欲しい」というものだったそうです。
その意向を汲み取って、ライト氏は安い資材を多用しつつ、それでいてまったく独自の美しく洗練された、他に類を見ない校舎を完成させました。ライト氏は建物の内外装はもちろん、照明、机、イスなどもデザインしましたが、食堂などの机やイスは、安価な二枚板を貼り合わせ、繋ぎ目は朱色の効果的なアクセントにするなど、その意匠や造形は今の目で見てもきわめて洗練されたものです。

云われなければ、その美しい建築に感銘するだけで、まさかそんな安い素材が多用されているなどとは思いもよりません。

マロニエ君はこういう何でもないありきたりの素材を使いながら、価値という点では最高のものを作るという感性が昔から殊のほか好きでした。
高級でもなんでもないものから、ハッと息を呑むような優れたものを作ることは、素材そのものがもつ力をあてにできないだけ、作り手の才能や真の実力がものをいうのです。
優秀なシェフの手にかかれば冷蔵庫の残り物から、素晴らしいご馳走ができたりするのも同じです。

素材に頼らないぶん、素の技と美意識が問われますし、幅広い経験や本物を見てきた眼、自由でしなやかなアイデアも必要です。

たとえばの話、処分されるような素材から、人も羨むような素敵な家具などを作ることができたら、こんな愉快なことはありません。
高級品や高額であることを喜んだり、なにかというとモノ自慢をするのは大嫌いですが、もしこういうことができたら、そのときこそ大いに自慢したいものです。

もちろん最高の素材を使って最高のものを作るということを否定はしません。
たとえば、最近では式年遷宮を終えた伊勢神宮の内宮などはその最たるものでしょう。
しかし、そういうものはごく限られた特別なものだけに限定されていれば良く、通常はなにもかもが最高ずくしというのは、どこか物欲しそうで、却って貧しい感じがしてしまいます。

むろん素材なんて何でもいいと暴論を吐くつもりはありませんが、それよりも遥かに重要なのはセンスだとマロニエ君は思うのです。
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大発掘

やっぱりCD店はときどき覗いてみるもので、おもしろいCDを見つけました。

フランスのピアニスト(イタリア生まれ)、シャンタル・スティリアーニが弾くバッハのインベンションとシンフォニアなのですが、ピアノはなんと1910年に製作されたプレイエルが使われています。

この時代のプレイエルはマロニエ君が最も心惹かれるピアノのひとつで、よくあるショパンが使ったとされる時代楽器としてのプレイエルはフォルテピアノであって、あちらは歴史的には大変な価値があるのかもしれませんが、個人的には一体型鋳鉄フレームをもつモダンピアノになってからのプレイエル(しかも第二次大戦前までの)が好きなのです。

この時代のプレイエルの音はコルトーによる数多くの録音で聴くことはできますが、なにぶんにも録音が古く、コルトーの演奏の妙を楽しむにはいいとしても、プレイエルの音そのものを満喫するには満足できるものではありません。
数年前、横山幸雄さんがこの時代のプレイエルを使ってのショパン全集CDが出始めたので、これぞ待ち望んでいたものと意気込んで買い続けたものですが、ここに聴くプレイエルはマロニエ君の求めるものとはやや乖離のある楽器で、残念ながら満足を得ることは出来ませんでした。(全集が不揃いにならないよう、半分以上は義務で買ったようなものですが、たぶんもう聴きません。)

さて、演奏者もピアノもフランスとなると、バッハといってもかなり毛色の違うものであろうことに覚悟をしつつ、1910年のプレイエルという一点に希望を繋いで購入しました。

果たしてスピーカーから出てきた音は、まごうことなきこの時代のプレイエルのもので、柔らかさと軽さと歌心にあふれていて、すっかり聴き惚れてしまいました。
マロニエ君はドイツピアノのような辛口の厳しい音のピアノを好む反面、その真逆である、羽根のように軽い、モネの絵のような、この時代のプレイエルの明るさと憂いをもったピアノも好きなのです。

明るさといっても、現代のピアノのようなブリリアントで単調な明るさとは違って、プレイエルの明るさは自然の太陽の光が降りそそぐような温もりがあり、その明るさの中に微妙な陰翳が含まれています。
バレエでいうと重量級の技巧の中に分厚いロマンが漂うロシアバレエに対して、あくまで軽さとシックとデリカシーで見せるパリオペラ座バレエの違いのようなものでしょうか。

CALLIOPEというレーベルですが、録音も良く、ウナコルダの踏み分けまで明瞭に聞き取ることができるクオリティで、これほどこの時代のプレイエルの音の実像を伝えるCDはかつてなかったように思います。
それにしても、惚れ惚れするほど感心するのは、中音から次高音にかけてのくっきりした品のいい歌心で、どうかすると人の声のように聞こえてしまうことがあるほどで、これぞプレイエルの真骨頂だろうと思いました。
旋律のラインをこれほど楽々と雄弁に語ることのできるピアノはそう滅多にあるものではありません。その歌心と陰翳こそがショパンにもベストマッチなのでしょうし、インベンションとシンフォニアも交叉する旋律で聴かせる音楽なので素晴らしいのだと思います。

フランス人はピアノという楽器をむやみに大きく捉えず、繊細さを損なわない詩的表現のできる美しい声の楽器として彼らの感性と流儀で完成させたように思いますが、これはまぎれもないサロンのピアノで、決してホールのピアノではないことが悟られます。
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共犯

例の作曲家のゴーストライター事件では、発覚からひと月を経て、ついに佐氏本人が姿をあらわし、ものものしい「記者会見」に及びました。

恥ずかしながらマロニエ君は、この手のスキャンダルというか週刊誌ネタ的なものの中には、非常に興味をそそるものがあり、この事件も発覚いらいなんとなく注目していました。とりわけ本人が出てくる会見はぜひ見たい!と思っていたので、ここぞとばかりにワイドショーのたぐいを録画しておきました。

いまさら言うまでもないことですが、くだらない話題も大好きなマロニエ君です。
とくにこの本人登場の記者会見はワクワクさせられました。

会場に詰めかけたマスコミの数はハンパなものではなく、壇上におかれたテーブルには、近ごろではついぞ見たこともない数のマイクが蛇の群のように置かれ、いやが上にも関心の高さが伺われます。

カメラのフラッシュの中にあらわれたご当人は、あっと驚くばかりの変身ぶりで、特徴的な長髪はバッサリと短く切られ、サングラスを外し、深々とお辞儀をする姿はまるで別人でした。これを一目見ただけでも、いかに彼は巧みに「芸術家」に化けていたかが一目瞭然でした。

内容はお詫びを連発しつつも、この人の体の芯にまで染みついたウソと攻撃性が随所に見て取れるもので、いち野次馬としては、これはもう滅多にないおもしろさでした。
むろん発言が真実などとは到底思えませんし、すでにそういう人物という認識の上なので、はじめの変身ぶり以外は別に驚きもしませんでした。

驚いたのは、むしろ翌日のワイドショーで繰り広げられる論調でした。
どうせ前日の会見の分析が翌日の番組のネタになると踏んでいたので、二日続けて録画していたのです。

今どきの特徴ですが、司会者やコメンテーターは普段の発言は鬱陶しいほど慎重で、これでもかとばかりに偽善的な発言に終始します。ところが、いったん相手に悪者というレッテルが貼られると、状況は一変。批判は解禁とばかりに、誰も彼もが寄ってたかって問題の人物を吊し上げます。それも自分は極めて良識ある誠実で温厚な人物ですよというわざとらしいニュアンスを込めながら。

それでも、この楽譜も読めないエセ作曲家が非難されるのは当然としても、ちょっと違和感を感じたのは、その相方であったゴーストライターのほうが、あまり悪く言われない点でした。
そればかりか、この相方の作曲者がまるで正直者で、ときに被害者であるかのようなニュアンスまで含んでくるのはあんまりで、これには強い抵抗感を覚えました。

もちろん役どころとしては、気の弱そうな作曲者が佐氏にいいようにコントロールされたという構図のほうが収まりはいいのかもしれませんが、それはちょっと違うと思います。

この人が突如として「告白会見」をしたときから見れば、単純に「正直」で「善良」で「良心の呵責に耐えられなくなった」人物であるかのようなイメージになるのかもしれませんが、それはいささか認識が甘いのでは?とマロニエ君は思います。

一度や二度ならともかく、実に18年間という長きにわたって、この秘密の共同作業を続けていたという2人です。さらにそれなりの高額な報酬の授受もあったということは、これはまぎれもなく本人の承諾と意志によるものだと考えるのが自然です。となれば、ご当人がいわれるようにまさに立派な「共犯者」であることは忘れるべきではない。本人によほどの熱意と積極性がなければ、あれだけの大曲を書き上げるだけのモチベーションも上がる筈はないでしょう。

この2人のいずれが主導的であったかはともかく、結局はお似合いのいいコンビであったのだろうと思います。
そして、なによりそれを裏付けているのが、18年間にわたりその秘密の関係が維持されていたということだと思います。
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ミクロの権利2

ミクロの権利の行使は駐車場だけではありません。

ちょっとしたお店や書店などに行っても、今はさりげない譲り合いの精神というものはまず期待できません。むしろその逆で、自分が見たい商品の前に人がいたりすると、少し横から見るようになりますが、昔なら人の気配を感じると、互いに場所を譲ったり、ちょっとした遠慮がちな動きや反応などがありました。
「謙譲の美徳」などはもはや死語だとしても、少なくとも、どうぞとかお互い様という気持ちがあったように思います。

ところが今どきは、そんな気配を察知するや、却ってそこに執拗に居座ろうという「意志的な独占」を感じられることも少なくなく、何のためにそこまでしなくてはいけないの?という疑念に駆られます。

過日もスーパーで急ぎの買い物を済ませようと立ち寄ったときのこと。生鮮食品の売り場で、こちらの目的の商品の真ん前にひとりの女性が立っていました。冷蔵の棚は2段になっており、上の段の商品をしきりに見ています。マロニエ君の買うものはその真下の段にあります。

その女性のほうが先なので、もちろんしばらくは待ちますが、他者が自分の次を待っていると気配でわかっている筈なのに、いくら待ってもその女性は尚も食い下がらんばかりにその場を離れません。

しかもその女性は手押しカートを使わず、買い物カゴを下の段の商品の上にどっかり置いています。
ラップがかけてあるとはいうものの生のお肉ですから、感心できない行為です。

おそらくその気持ちはこんなところでしょう。
人が自分と同じ場所を見たいと思っているなら、今の瞬間は自分が先着して見ている(あるいは品定めしている)最中なのだから、そこには優先権がある。これは常識でなんらルール違反ではない。である以上は自分が納得するまでその場を独占する権利があり、むやみに明け渡す必要などない。他者は自分の必要が終了しその場を立ち去るまで、黙して静かに、そして無期限に耐えて待つべきであろう。

…。こんな小さな小さな、みみっちい権利を行使することに、一服の薄暗い快楽を覚えているのだというのがひしひしと感じられるのです。もちろんその快楽の中には、自分が先であるというただそれだけの優越性と、遅参者に対するささやかな意地悪がこめられているのはいうまでもありません。
しかもその快楽は、この状況に流れる合法的行為という安全の上に成り立っているわけですから、まことにくだらない心情だとしか思えません。

自分が商品を見ていて、そこに別の人がやってきたら、ちょっと半身でも左右いずれかに動いて譲るぐらいの気持ちがどうして持てないものかと不思議で仕方ありません。
残りわずかというようなことならまだしも、商品はじゅうぶんあったのですが…。

これと対照的なのは、エレベーターなどで先に中に入った人が「開」ボタンを押して、人が乗り込むのを待つときなどです。人の目が多いほど、いつまでも遅れてきた人にも気を配り、少しの乗り損ねもないよう最大限の気配りをするする人がいて、これはこれでちょっぴり芝居がかった印象を受けます。
これに呼応するように、乗る人も、降りる人も、ありがとうございますという言葉をいささか過剰では?と思えるほど連発しますが、そこだけ切り取って見ていると麗しい日本人の礼儀正しさのように思えないこともありません。

でもきっと同じ人が、別の場所では、別人のような行動をとるような気がして、そういう意味では、最近の親切や礼儀も、どうも信じられない一面があるのは残念です。
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ミクロの権利

以前にも書いた覚えがありますが、当節、満車の駐車場などでは、人が車に戻り、乗り込んでエンジンもかかり、今にも動き出しそうな車があるからといって近くで待っていても、そんな車はなかなか出て行ってはくれません。

待ちわびて、じりじりするこちらの心情を弄ぶかのように、車内ではガサゴソとなにかをやっている気配をみせたり、あるいはことさら泰然として、遮二無二時間をかけたりして、とにかく出発を「1秒でも」渋っている様子が見て取れます。

こう書くと「それはアナタがそんな風に見ているだけでは?」と言われるかもしれませんが、人間は長いこと人間業をやっていれば、それが本当に自然なものか、邪心から出ていることなのかの判別ぐらいはつくようになるものです。

世代的にはさまざまですが、とりわけ若者から中年になりかけぐらいの場合が多く、さらにいうなら女性のほうがよりその傾向が強いように感じます。マロニエ君も最近ではいい加減このパターンがのみ込めているので、こういう人の視界に入る場所でおめおめと待っているようなことはしなくなりました。
あえて待機する場所を変えたり、場内を一周したりと、空くことを「期待していない」素振りに出ると、逆にすんなり出発するのがわかっているからです。

ちなみに年配の方は、こちらが待っていることがわかると、急いで車を出してくださったりする場合が多く、ありがたいだけでなく、どこかホッとして「あぁ昔の人はいいなぁ…」と思ってしまいます。

こういう傾向からも、昔にくらべると世の中の人は精神的に決して幸福ではないことがひしひしと感じられます。生活のほとんどすべてが否応なく競争原理にさらされている現役世代にとって、いま自分が手にしている権利は、他者も欲しがっているものであればあるだけ、ささいなことでも手放したくないという悲しい我欲が本能的に表出するようです。

その証拠に、逆もあるのです。
料金精算所が混んでいたりすると、必然的に出庫する車はその列に並ぶことになり、土日の夕刻などはたいていこのパターンです。

車に乗り込んでエンジンを始動、シートベルトをして、ギアを入れて動き出すという一連の操作の中、時を同じくして近くで車に乗り込んだ人は、今度は我先に早く動き出そうと、変にこっちを意識して緊迫しているのが伝わってきます。
しかも真剣そのもので、そのむき出しの競争心には、こちらもつい刺激されてしまいます。

するとどうでしょう。
大変な早業で車はそそくさと動き出し、本当にコンマ1秒という差で列の先へと並ぶわけで、これを見ればわかるように、満車状態で他車が待っているのに車を出さないのは、やはり弄ぶターゲットがいるからこその故意であることが明瞭です。

社会がきれいなものじゃないことは先刻承知ですが、しかしこんなくだらない場面で、これだけ赤裸々に他人の悪意に触れるというのは、やはりいい気持ちはしないものです。

巷ではやたら「オトナ」「オトナの対応」などという分別くさい言葉が濫用されていますが、実際は強欲なオコチャマだらけです。
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楽器解体新書2

前回書き切れなかった、もうひとつ。

それはピアノのハンマーの材質を、本来のフェルト以外のものを代用して使ってみたら、さてどんな音になるのかという実験です。

まず(1)通常のフェルト、次に(2)発砲ウレタン、なんと(3)段ボール、笑ってしまった(4)消しゴム、そして(5)革、そしてなぜか(6)紙粘土という素材が使われ、それぞれがきれいにハンマーのかたちに成形されて、ちゃんとシャンクの端に取りつけられ、アクション機構を介して打弦されるというものです。

この6種類がそれぞれクリックひとつで音を聞くことが出来るようになっていて、その下には解説も付記されています。

発砲ウレタンは、フェルトよりも軽い素材とありますが、そのぶんアタックの力がなく、覇気のない弱々しい音しかしません。
段ボールも質量が足りないのか、頼りない音で、表面が硬いためかやわらかさとはまったく逆のピチピチという硬質な音がするだけ。
消しゴムは、コメントに「重さがあるので期待しましたが、予想外に小さな音」とある通り、ショボイ音しかしません。きっと弾力がありすぎて、打弦したときに消しゴムが弦に食い込んで、弦の振動を阻害してしまっているのだろうと思います。
一番良かったのは、「細かく切って何層にも巻いた」という革で、これがダントツによかったと思います。コメントでは「適度な弾力があって、性質がフェルトに近いのかも…」とありました。
紙粘土は、重くて硬いので、チャンチャンした音でピアノの音とはいえません。コメントでは「大正琴のよう」とありました。さらには重さが災いして連打性にも劣るということでした。

人によってはばかばかしいと思われるかもしれませんが、マロニエ君は実に楽しい実験だと感じます。またフェルトがいかに適切な素材であることがひしひしと感じられ、手間ひまをかけてこういうことをしてみせる技術者さんは好きだなあと思ってしまいます。

上記の結果からすると、新しい素材でも、革のような適度な固さをもつものと組み合わせるなどして追求を重ねると、これは存外いいハンマーが出来るのでは?という思いに駆られてしまいました。

こういう新素材による開発が進んで、もしも新しい発見が得られるとしたら、フェルト以外のハンマーをもつピアノができないとも限りません。

もちろんフェルトを凌ぐものが簡単に出来るとは思いませんが、技術者、開発者が新しいことへ挑戦するという姿勢はどんな分野でも大切なことです。

良くできた別素材のハンマーを使ったピアノの音、さらにはそれによる演奏なども聴いてみたいし、なんだかとても楽しそうな気もします。
どうせ、ボディはじめあちこちが人工素材が多用されている現代のアコースティックピアノなんですから、いっそ開き直って、新素材ばかりで新時代のピアノも作ってみてはどうでしょう。

今どきはペットボトルの素材で作った服とか、なんでもありなのですから、これも一興というものかもしれませんし、少なくとも電子ピアノよりは夢がある気がするのですが…。
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楽器解体新書

ネットで偶然見つけたのですが、ヤマハのホームページ内には意外におもしろいページが隠されていることを知りました。

「楽器解体新書」といって、いろいろな楽器の仕組みや弾き方の解説などが掲載されていて、そこには「楽器のここに、こういうことをしたらどうなるか?」というような一般向けのわかりやすい実験を紹介するコーナーまであります。

ピアノの覧では、グランドピアノの金属フレームには、いくつもの丸い穴が開けられていますが、それを塞いでみるとどうなるか?というような実験をやっています。
通常の状態と、そこにフタをした状態で、それぞれ和音が鳴らされますが、パソコンスピーカーからの音では明確な差ではないものの、塞がれたほうが広がりのない単調な音になるのはかすかにわかります。

さらにおもしろい実験が2つありました。

そのひとつ。
調律のユニゾン合わせに関する実験で、ピアノの中高音にはひとつの音に対して3本の弦が張られていますが、これは単純に3本をきれいに同じに合わせればいいのかというと、まったくそうではなく、そこに微妙な変化をつけることで、音に色や味わいがでるわけで、それはどういうことかという実験です。

つまり3本をどの程度合わせるか、あるいはどれぐらい微妙にずらすか、それらの差を耳で感じるもので、少しずつ差をつけることで4種類の音が聞けるようになっています。

ひとつは3本がまったく同じピッチに揃えてあり、これはただツーンという感じでおもしろくも何ともない無機質な音。伸びもないし、まったく楽器らしい息づかいもニュアンスもありません。

残る3つは1本を正しいピッチに合わせ、のこる2本はそれぞれ上下にわずかに音をずらして調律されています。このずらし方が3段階あって、それぞれどんな音になるか、その違いを聴いてみるということができるというもので、これは画期的なものだと思います。
ずらしすぎると汚いうねりが出て、まったくいい音とは言いかねるもので、いわゆる調律の狂ったピアノそのものの音でした。

ところが3本のユニゾンのズレがほんのわずかとなる狭い領域では、微妙な味わいや音の伸びなど出てきて、ピアノの音が音楽として歌い始めるスポットが存在しているようです。
揃いすぎればただのつまらない音、ずれすぎれば汚い非音楽的な音、その間のスイートスポットは極めて狭いけれども、ここが腕のふるいどころのようです。

このごくごく狭いスポットの中で、調律師は目指す音をどのようにもっていくか、そこに技術者の経験が問われ、音楽性や美意識があらわれる部分で、しかもこれが絶対正しいというものもありません。
調律をつきつめると芸術領域になるというのもこのためです。

もちろん調律師さんなどは先刻ご承知のきわめて初歩的なものですが、このように簡単な比較として、シロウトが誰でも聞くことができることによって、ユニゾンの合わせかたしだいで楽器の性格や音楽性がくるくる変わってしまうという「基本」が自分の耳で理解できるのは素晴らしいことだと思います。

池上章さんの「そうだったのか」ではありませんが、こうして解っているようで解っていないことを丁寧に噛み砕いて教えてもらえるのは非常に大事なことだと思います。
そういう意味で、さすがはヤマハだなあと感心させられました。

もうひとつは次に書きます。
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献上のメロン

昨年来日したマレイ・ペライアのサントリーホールに於けるコンサートの様子を、BSクラシック倶楽部で見ました。
ペライアはどちらかというと日本に来ることが少ないピアニストですが、これは表現するのが非常に難しいコンサートだと思いました。

音楽の世界では、演奏者のプロフィールは誇大表現するのが普通で、たとえば「世界的に活躍」という言葉は毎度のことで、とても額面通りには受け取れないというのが常識です。
その点で云うと、ペライアはこの言葉と事実が一致する数少ない存在で、世界でも高い位置にランクされるピアニストという点で異論はありません。

マロニエ君自身も、ペライアのCDなどはどれだけ持っているかわからないほど、昔からよく聴いており、ある意味避けては通ることができないピアニストだろうとも思います。

遠い記憶を辿ると、たぶんペライアのCDを初めて聴いたのが、ごく若いころに弾いたシューマンのダヴィッド同盟と幻想小曲集だったような気がします。

ペライアは、徹頭徹尾流暢で、音楽の法則に適った気品ある音の処理、まさに真珠を転がすような粒の揃った潤いのある音並びの美しさには、この人ならではの格別の輝きがあります。細やかな音型の去就や立ち居振る舞いにも秀でており、完成度の高い演奏をする人という点もペライアの特徴だと思います。
ハッとさせられる美しさが随所で光り、音色も瑞々しく艶やかですが、表現の振幅や奥行きという面では、けっして精神性の勝ったピアニストではないという印象があります。

作品の本質に迫るべく、清濁併せもった表現のために技巧を駆使するというのではなく、あくまで美しい精緻なピアニズムが優先され、そこに様々な楽曲の解釈があたかも銘店の幕の内弁当みたいに、寸分の隙もなく端正に並べ込まれていくようです。

何を弾いても語り口が明晰で耳にも快く、どこにも神経に引っ掛かるようなところはないのですが、そこにあるのはいわば音と技巧のビジュアルであり、おまけに常に一定の品位が保たれているので、はじめのうちはそのあたりに惹きつけられてしまうのですが、それから先を求めると忽ち行き止まりになってしまう限界を感じます。

ピアノを弾くのが本当に巧い人だとは思いますが、芸術的表現という点ではそれほど満足が得られるというわけではないというのが昔から感じるところで、今回あらためてそれを再確認させられてしまいました。

この放送で聴いたのはバッハのフランス組曲第4番、ベートーヴェンの熱情、シューベルトの即興曲でしたが、個人的にはバッハ、ベートーヴェンはどうにも消化不良で、かろうじてシューベルトでやや楽しめたという印象でした。
本人がそう望んでいるのかどうかわかりませんが、この人の手にかかると、どんな作品でも体裁良く小綺麗に整い、予定調和的にまとめられた感じを受けてしまいます。

演奏を聴くことで受け取る側が何かを喚起され、さまざまに自由な旅に心を巡らす余地はなく、いずれもこざっぱり完結していて、それを楽しんだら終わりという感覚でしょうか。

半世紀も前に、日本では『献上のメロン』という言葉が比喩として流行ったそうですが、ペライアのピアノはまさにそういう世界を連想させるもので、デパートの高級贈答品のようなイメージです。どこからもクレームの付けようのないキズひとつ無い、見事づくしの出来映え。マロニエ君はどうもこういう相反する要素の絡まない、無菌室みたいな世界は好みではないのです。

インタビューでは指の故障でステージから退いていた期間、ずいぶんとバッハに癒されつつ傾倒し、その後はベートーヴェンのソナタ全曲の楽譜の校訂までやっているとのことですが、「熱情」の各楽章をいちいちハムレットの各情景に例え、実際にそういうイメージを思い浮かべながら弾いていると熱っぽく語るくだりはいささか違和感を覚えました。
音楽から何を連想しようとむろん自由ですが、マロニエ君は本質的に音楽は抽象芸術だと思っているので、そこに行き過ぎた具体的イメージを反映させながら弾くというのは、いささか賛同しかねるものがありました。
もちろん、作曲者自身が特にそのように作品を規定していたり、劇音楽の場合は別ですが。
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高倉健

唐突な話題を持ち込むようですが、高倉健というのは不思議な俳優だと思います。

任侠映画の主役で一世を風靡したものの、その後はきっぱりそちらの世界とは訣別します。一説によればこのハマリ役、ご本人としては不本意であった由。壮年期以降は自分が納得する映画にのみ出演して、その都度話題になりながらおじいさんになって、ついには文化勲章にまで辿り着いた人です。

マロニエ君は映画は好きで気が向けば見ますが、とても映画ファンといえるようなレベルではなく、邦画も洋画も区別なく、なんとなく自分が見たいと思ったものをときどき見る程度です。
昔は深夜の時間帯に任侠映画をテレビでさかんにやっていましたから、高倉健はもちろん、鶴田浩司、藤純子、江波杏子らの活躍する映画は、見てみると結構おもしろいので、子供だったくせにこの時間帯にそこそこ見た記憶があります。

高倉健はとくに好きではないが、かといってとくに嫌いというわけでもない。じゃあどうでもいいのかというと、それもまた否定するのも肯定するのもちょっと難しい俳優さんです。
その存在感は大変なものだと思いますが、マロニエ君の好むタイプの俳優という枠からは大きく外れた存在ですし、かといって彼に代わるような俳優がまったく見あたらない、きわめて独特な存在であることも間違いないようです。

とくに好きではない理由は、高倉健その人ではなく、周りから寄ってたかって作られた「健さん」のイメージのほうです。前時代的な男の理想像、男が考える「男の中の男」という、あれが鼻についてイヤなのです。
アウトサイダーで人生を真っ当に歩めなかった負い目、不器用でヤクザな生き方をするしかなかった諦観、根底に流れる正義感、寡黙で、無学で、腕っ節だけは人並み外れて、シャイで破天荒…等々、そういうイメージが高倉健の双肩に遠慮会釈なく積み上げられてしまったのだと思います。そう云う点では、彼こそは多くのファンと映画会社の求めるイメージの被害者であるようにも思えます。

さらに悲壮感が漂うのは、昔の俳優は今とは比較にならないほど多くの縛りがあって、恋愛や結婚など私生活にも厳しい制限が多く、とりわけ高倉健ほどのドル箱ともなるとそれはいっそう厳しいものだったと思われます。彼はついにそのイメージを守り通し、俳優高倉健を現在只今でも維持しているという点で、まさに自分に科せられた宿命に殉じる覚悟の人生なのではないかと思います。

そういう自分の宿命に身を苛み、半ば投げやりにも似た感じで諦観している姿が、また男の叙情性や孤独性のような作用を生み出して、倍々ゲームのように高倉健らしさに色を添えていく。

これはまったくマロニエ君の想像ですが、高倉健の数少ない密着映像などをみていると、本人はそのイメージとはかなり違った好みや憧れを秘めながら、一生をかけて「高倉健という役」を演じている人のように感じられてしまいます。

若い頃に離婚して、その後結婚しないのも、彼が好む女性は高倉健のイメージを大いに損なうような人なのではないかと、明確な根拠はないけれども思えてきます。
すくなくとも我々がスクリーンを通して思い描くような高倉健にお似合いだと感じる女性は、実はご本人はぜんぜんタイプじゃないような気がしてならないのです。

なぜこんな事を書いたのかというと、自分に合わない曲を弾きたがるパイクからはじまり、栄光と喧噪の中で自分の弾きたい曲さえ弾けなかったクライバーンを思い出し、そこからファンの期待するイメージの犠牲になった高倉健という連想に繋がったわけでした。
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好みと資質

クン・ウー・パイクのピアノは以前ならバッハの作品集やフランスもの、リストの作品、あるいはショパンの協奏曲およびピアノとオーケストラのための作品等を聴いていましたが、まあ確かな腕前のピアニストだという印象があるくらいで、それ以上にどうということもないぐらいのイメージで過ごしてきました。

ところがきっかけはなんだったか忘れましたが、プロコフィエフのピアノ協奏曲全曲のCDに出会って聴いたところ、その凄まじいばかりの演奏にすっかり圧倒されて、これほどすごい人だったのかとそれまでの中途半端な印象が一気に払拭され、このプロコフィエフがパイク氏の印象の中核を成すことになりました。

ラフマニノフの協奏曲全曲もあり、プロコフィエフほどではないにしろ、これもなかなかのもの。
ところが、その後フォーレのピアノ作品集を聴くと、たしかによくよく考え抜かれた演奏のようではあるけれども、音楽を優先したつもりが過剰な抑制がかかり過ぎたような息苦しさがあり、フォーレの本質とはこういうものだろうか?という印象でした。一部には高く評価されている方もあるようですが、さらりと流せばいいものを必要以上に考えて深刻になっているみたいで、マロニエ君はそれほどのものとは思えませんでした。

それでもプロコフィエフでの衝撃は収まらず、そのころ日本では発売されていなかったデッカによるベートーヴェンのソナタ全集にこそ、この人の本領が込められているのでは?と輸入盤を入手して聴いてみたところ、これがまたどうにもピンとくるものがなくガッカリ。一通りは聴いてみたものの、このときの落胆は決定的で、その後はまったく手を付けていません。

つづくドイツグラモフォンからブラームスの協奏曲第1番と、インテルメッツォなどの作品集が2枚続けてリリースされ、これも聴きましたが協奏曲はそこそこ期待に添うものでしたが、ソロアルバムのほうは悪くはないけれど魅力的でもないという、なんとなくフォーレのアルバムを聴いたときの慎重すぎる感覚を思い出しました。

そんなわけで個人的には評価が乱れるパイクですが、昨年来日した折のトッパンホールでのコンサートの様子がBSで放送されました。このときはオールシューベルトプロという意外なもので、しかもマロニエ君の好きなソナタはひとつもなく、即興曲、楽興の時、3つのピアノ曲からパイクなりの意図で並べられるかたちでの演奏でした。

冒頭のインタビューでは、若い頃にソナタなどの大曲は弾いていたけれど、あるときにシューベルトの歌曲に魅せられることになり、それによってシューベルトへの理解が進んだというような意味のことを穏やかな調子で喋っていました。

しかし実際の演奏では、その言葉がそれほど演奏に反映されているようには思えませんでした。いささか乱暴に云うなら、どれを弾いても同じ調子で、昔のロシアのピアニストのように重く分厚く、それでいて非常に注意深く弾かれるばかりで、シューベルトの作品に込められている可憐な歌とか不条理、サラリとした旋律の中に潜むゾッとするような暗闇など、そういったものがあまり聞こえてこないのは残念でした。

やはりこの人は逞しさで鳴らす重厚長大な協奏曲などが向いているのかもしれないと思いますが、ご当人はそういうレッテルを貼られるのは甚だ不本意のようで、それがどうにも皮肉に思えてなりませんでした。
ひじょうに穏やかな話し方や物腰ですが、実はコンサートグランドがひとまわり小さく見えるほどの偉丈夫で、端的に言ってシューベルトをこんな大男が弾く姿が、なんともミスマッチに思えてしまうものでしたし、実際の演奏もそういう印象でした。
しかも、それが非常に周到に準備された、誠実さのあふれる演奏であるだけに、よけいにミスマッチを痛切に感じられてしまいました。

演奏家は自分の好みも大切だけれど、コンサートに載せる以上は自分の資質に合ったものを演奏しなくてはいけないということを考えさせられます。
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マイペース

大病院のことはよくわかりませんが、開業医レベルの病院に行くと、「うわ、でたぁ!」と思うことがときどきあります。

自分よりも順番が前の人に話し好きの高齢者の方がおられたりすると、受付、診察、会計、薬局という一連の流れの中で、後続者は甚大な影響を被ることがあります。

この手の方は、むやみやたらと話し好きで、人とみればあれこれ喋り出し、おまけに周りの空気を読むなんてことは天晴れと云うほどなく、聞えてくるのは、大半がその場で直接何の関係もないような話を中心とする、一方的おしゃべりのオンパレード。

受付で診察カードと保険証を提示するだけで済むことが、まずこの場からおしゃべりはスタート。前回来たときからどうしたこうしたというような茶飲み話みたいなものがはじまります。
さらにヘビー級の方もいらっしゃいます。
傍らに次の順番を待っている人がいるなんてことは頭の片隅にもないらしく、自分の話が一段落つくまで決してこれを中断して次の人に譲るなどということはないまま、ただ自分の気が済むまでしゃべりまくります。

診察室でも、そういう高齢者の方の一方的なおしゃべりはとどまるところをしりません。「先生、この前の○×がどうしたこうした…」といった調子からはじまって、病状というよりは主に日常生活そのものをしゃべっているようです。医師のほうでもハイハイといいながら、できるだけ早めに切り上げようとしている気配を感じるのですが、そんなことはまったく通じません。
ときには、医師と看護士の両方を聞き役にして、自分のことを際限なくまくしたてています。やっと終わり、医師が「はい、じゃ、それで様子を見てくださいね」などと云うも、「あっ、そうそう、それと…」といった具合に、ここからまた延長戦です。
ひどいときなどこういう方ひとりのために30分近く待たされたこともあります。

それに耐えて、ついに自分の名が呼ばれて診察室に入ると、いつもの薬がなくなりましたというような場合は、「じゃあ前回と同じでいいですか?」「はい」というやりとりで事は決着。マロニエ君の場合は1分も診察室にいないようなことになり、この差はなんなんだ!?と、まるで自分がひどく損でもしているような気分になってしまいます。
べつに診察室に長く滞在することが得なわけじゃありませんけれども。

それから会計ですが、ここでも先行する高齢者の方の猛烈おしゃべりにブロックされて、窓口はべちゃくちゃ話に占領され、その間のストレスと来たら相当のものになります。病院側も「アナタはお話が長いので、次の方を先にお願いします」とは言えませんから、苦笑いを浮かべながら消極的に話の相手をしているのがこちらにも伝わります。

これで終わりではありません。
次なるは薬局が控えていて、この流れである限り、ずっとこの順番がついてまわります。そこでもまったくひるむことなく、次々に相手を変えながらしゃべりのテンションはまったく落ちません。
本来薬局の受付では、病院から出た処方箋を渡すだけなのに、この場面で、なんでそんなにしゃべることがあるのか、まったく理解の外です。薬の準備ができる間も立ったまましゃべり通しで、薬剤師が薬をいちいち説明をするのに乗じて、またも以前の薬がどうだったけど今度のは…とか、寒くなったらこうなったとか、先生に云ったらこういわれたのはなんでだろうか…というような話が延々と続きます。

それも1分2分ならいいですが、いつ果てるともなくしゃべり続けるのですから、こうなると気分が悪くなってくることもあって、完全に社会迷惑だと断じざるを得ません。
病院の受付からはじまって、自分が薬を受け取って、すべてが終わるまでに小一時間もかかるようで、その間、こちらの神経はイライラヘトヘトで、全身がなんとも収まりのつかない疲れに締め付けられて硬直してしまいます。

いっそ薬局なんだから、精神安定剤のサービスでも追加して欲しいところですが、そんな事があるはずもなく、ただただ「運が悪い」としか云いようがありません。この手の高齢者のスタミナはとてつもないもので敵いっこありません。
どうか、いつまでもお元気で!
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写真登場

このブログを始めるにあたってひとつ心に決めたことがありました。

それは「決して写真に頼らない、文字だけのブログで行く」というものでした。
文才もないくせして、そんなことを考えたのはまったくおこがましい限りですが、そもそも自分のブログを持つということがマロニエ君にとってはすでに充分おこがましいことでしたので、そのついでというところでしょうか。

しかし、今回ついにその自ら立てた掟を破ることになりました。
なぜならまさに「百聞は一見にしかず」というべきテーマに立ち至ったからです。

CD店にある、フリーペーパーなどが置かれた一角で『ぴあクラシック』の表紙が目にとまりました。ベーゼンドルファーのインペリアルを真上から撮した美しい写真だったのですが、いまさらながらその巨大さが醸し出す魁偉な様にはギョッとさせられ、思わず持って帰ってきました。

あらためて見てみると、ヒトデのような不気味な形状のフレームの下には、途方もない広大な響板が前後左右に容赦なく広がっていることを痛感させられました。
音質については好みや主観がありますが、インペリアルは少なくとも図体のわりには声量がないというイメージがあります。にもかかわらず実際にはこれほどの響板を必要とする、まさに規格外のピアノであることにいまさらながらびっくり仰天です。

そこでスタインウェイDとどれほど違うのか、フォトショップを使って重ね合わせてみることに。
同縮尺にすべく、スタインウェイDの黒鍵を横に半分ほど切り落とし、そこへインペリアルと88鍵を揃えるように重ねました。(当然ながらスタインウェイの黒鍵の最低音はBなので、ベーゼンのAsは半分切れています)

bosen-stein.jpg

どうです?
インペリアルの巨大さ、スタインウェイのスリムボディ、いずれもが一目瞭然です。

ふと思い出されたのは、ピアノではなく、なぜか昔の相撲でした。
一時代を築き上げた横綱の千代の富士は、その圧倒的な強さとは裏腹に、その体躯はどちらかというと小兵力士の部類で、このため「小さな大横綱」ともいわれました。
同時代の巨漢力士といえば小錦で、彼はその目を見張るような巨体をいささか持て余し気味でした。
べつにインペリアルを小錦だと云っているのではありませんが、大きさの対比としてパッと思いついてしまいました。

おそらくこの感じでいけば、インペリアルを3台作る分量の響板で、スタインウェイDは楽にもう1台はいけそうな気がします。むろん使う響板は互いに別物ですけれども…。
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信頼の崩壊

佐村河内氏の事件に何度も言及するつもりではないのですが、若い頃の彼を知る証言者の言葉の中には、マロニエ君の心にわだかまる、昔のある出来事を思い出させるものがありました。

20代の彼は、ロックにも挑戦したらしく、当時プロデュースの仕事をやっていた男性がインタビューに登場しましたが、佐村河内氏のルックスや名前、背景がおもしろいと感じ、一度は育ててみようかと思われたのだそうです。
ところが言動におかしなところがあれこれあり、これではとても信頼関係が築けないということで、結局その方は手を引かれ、佐氏の歌手デビューも沙汰止みになった由。

その話の中で、大いに頷けるものがありました。
このプロデューサーはむろん業界の人で、そこに連なるお知り合いなどが数多くおられるのでしょうが、佐氏はそういう人達へ、無断で直接連絡を取ったりするというような挙に及んで、大いに不興を買ったというのです。

実はマロニエ君にも以前、似たような覚えがあったのです。ある演奏者に対して、一時期身を入れて可能な限りの協力していたことがありました。
具体的なことは控えますが、それこそマロニエ君にできるあらゆる方面の協力をし、その人の音楽活動を多面的に支えるところまで発展しました。あれほど心血を注いで他人様をサポートしたのは後にも前にもこれだけで、この状態は数年間にも及びました。

その過程でマロニエ君の知り合いなどともお引き合わせすることもありましたが、その方は、順序も踏まずその人達にいきなり自分で連絡をとったりする人でした。当人からの報告もないまま、それを後になって思いがけないかたちで知ることになったりの繰り返しで、なんとも言いがたい嫌な気持ちになりました。

もちろん、自分の知り合いを紹介したわけですから、直接連絡をしてはいけないということではありません。むしろそれがお役に立つなら幸いです。しかし、そこには自ずと礼節やルールというものがあるのはいうまでもありません。

いきなり頭越しの連絡をして相手の仕事にも結びつけ、それが知らぬ間に常態化するというようなことが重なると、しだいに信頼は崩れ、善意の糸も切れてしまいます。
世の中は、それが情であれ利害であれ、要は人の繋がりで成り立っている部分は少なくありません。故にその部分でのふるまいや挙措には、その人の全人格が顕れるといっていいと思います。
芸能界などは、これがビジネスに直結しているぶん、厳しいルールや慣習が確立されているようで、そういう常識を欠いた行動は御法度として即刻糾弾の対象となるようです。

念のためにつけ加えておきますと、マロニエ君はこれっぽっちも損得絡みでやっていたことではなく、いわば趣味がエスカレートした結果の奮闘でした。

こういうことが重なり、その人とのお付き合いはピリオドを打つことにしましたが、これに懲りて、いわゆる「音楽する人」とのお付き合いが、以前のように無邪気にできなくなったのは事実です。
もちろん個人差はありますし、立派な方もいらっしゃいますが…。

要は甚だしい自己中ということです。
そもそも自己中か否かは、自分の言動を社会規範に照らして判断することなので、そもそも社会性が欠如していれば、認識さえもおぼつかない。つまり自覚もない、もしくは頗る甘いために判断も制御も効かないというわけです。
良く言えば「悪気はない」ということになるのかもしれませんが、いざそのときは、そんなことはなんの救いにもなりません。

貴重な社会勉強にはなったと思っています。
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響きを引き出す

響きすぎの緩和や防音のための工夫の逆が、音を鳴らすようにするためのものです。

ピアノを鳴らさない特性をもつ部屋というのがあり、床が敷き詰めタイプのカーペットであるとか、壁が布地タイプのクロス、あるいは書架などで壁一面が埋め尽くされているなどの場合、ピアノの音はかなり強く吸収されてしまいます。

これは実を云うとマロニエ君宅の環境がそれに該当し、図らずもある程度の防音効果が得られているとも云えますが、とにかくこれらの要素が重なっているために、響くという要素がまるでありません。

ピアノから出た音は、文字通りそのボディから出ている音だけで、それを増幅させるものはなにもなく、鳴ったそばから虚しく消え去るのみ。ピアノ自体の音を聴くにはよけいな響きや色付けがないぶんごまかしが利かず、繊細な調整の環境としてはいいとも云えるかもしれません。
…とかなんとか云ってみても、快楽的見地でいうと、やっぱりそれではいかにもつまらないのです。

そこで数年前のことですが、一策を講じて、ピアノの下に敷くための木の板を買ってきました。
はじめに買ったのは普通の広い合板で、それを響板の真下にあたる床に置きましたが、まあ心もちという程度で、期待したほど効果は上がりませんでした。無いよりはいい…という程度です。

しばらくそれでお茶を濁したものの、やっぱりもう少し効果がほしくなり、同じく合板ですが表面に簡単な艶出し塗装をされている大型の化粧ボードを購入、縦横にカットしてもらって4枚の板切れにしてもらって置いてみました。するとあきらかに音の立ち上がりがよくなるというか、鮮明さが出て、以前のものよりぐっと効果がありました。

このことから、同じ合板でも表面の処理ひとつで音に影響があることがわかりましたし、試してはいませんが、木の種類、あるいは石やガラスなど、それぞれに響きの違いがあることが予想でしました。

この艶出し塗装をされたボードを床に敷いていたところ、調律に来られた技術者さんから思いもよらない秘策を授けていただきました。マロニエ君としては響板の真下にということで疑いもせずペダルと後ろ足の間に置いていたのですが、それをもっと手前に置いたほうが効果的だというのです。具体的には、ペダルよりも前、鍵盤の真下ぐらいまで板が出てきた方が良く響くというものです。
その技術者さんが言うには「自分の足元より手前まで板を引き寄せる」ところがポイントだとか。

ならばというわけで、さっそくボードを手前に50cmほど移動してみると、なんとアッと思うほど音に輪郭と鮮烈さが加わりました。これはボードをより手前にもってくることで、反射する音が弾く人の耳によりストレートに立ち上がってくるのだろうと思います。

したがって離れて聴いている人の耳にどう変化しているかは未確認ですが、ともかく弾いている当人は、音にキレと輪郭が加わり、弾きごたえが出て断然愉快になりました。

この結果からいえば、ペダルより後ろにボードを置くと、音はある程度反射していると考えられますが、それが奏者の耳に達するには、足元周辺のカーペットなどが尚も邪魔をしているのだろうと思われました。尤も、部屋全体の響きという点では話は別ですが、これは少なくとも奏者がその効果を楽しむことができるという点では絶大な効果がありました。

スピーカーの音調整しかりで、こんなちょっとしたことで思いもよらない変化が起こるのですから、なるほどおもしろいもんだと思いました。

こういう体験してしまうと、それに味をしめてまたあれこれとやってみたくなるものです。
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響きを抑える

ピアノを自宅その他に据える場合、その部屋の環境によって同じピアノの鳴り方がさまざまに変化するのは周知の事実でしょう。

部屋の広さや形状はもちろん、壁の材質、家具との関係などに左右され、厳密にいうならひとつとして同じ環境はないとも云えます。これを一括りに論じることは不可能で、まさに現場対応の分野だろうと思います。

床がフローリングなど堅い素材の場合は、どうしてもカンカンと固めに響いてしまう場合があるようですし、これも単なるフローリング材と本物の木(さらにその種類)の床でかなり違うようです。

また、音への配慮は、純粋に音質・音量の問題だけでなく、近隣への騒音対策として意図的に響きを抑えるという処置を講じられることが現代は非常に多いようです。
その第一歩といいますか、最も基本的なものではピアノの前足と後ろ足の間にあたる床部分にカーペットを敷くことで音を吸収させるというのが一般的です。これで絶対的な音量が劇的に変わるということはありませんが、音の角が取れるという点で、ひとまずまろやかさを出すということかもしれません。

グランドの場合、響板が水平なため音は上下方向に強く出るという性質があり、上にはいちおう開閉できる大屋根がありますが、下は響板の下には支柱と呼ばれる木の梁が伸びているだけでとくにフタのようなものはありません。下から覗けば響板は外部にむき出し状態ですから、大屋根を閉めていれば、あとはここから出る音が最大のものでしょう。アップライトでは背後が同じ状況。

音質や響きの調整の意味で、まずはピアノのお腹の下の床に小さめのカーペットを敷いてみるだけでも、音の響き方はガラリと変わります。それを状況に応じて順次広げていくとか、素材を変えてみることで、いろいろな工夫ができますので、その経過で自分の好みの音がでる素材やサイズを探っていくのも面白いものです。

しかし、これが防音ともなると、やることの目的もレベルも一気に変わりますから、こちらの対策はいっそうハードなものになりますし、究極的には二重窓や防音室ということに行き着くのでしょうが、そこまでのコストはかけずになんとかしたいという人がほとんどだと思います。
知人にもマンションでグランドピアノを置いている方が何人かいらっしゃいますが、その防音の方法はさまざまで、みなさんいろいろと工夫してご近所に気を遣っておられるのがわかります。

また、防音効果を謳ったカーペットやカーテンなども市販されているらしく、それを使って階下への音を和らげようと役立てておられる方がありますが、実際に防音カーペットというのはどれ程の効果があるのか、できればその違いを自分の耳で確認してみたいものです。
そうはいうものの、防音カーペットの効果がどれほどのものか、通常のカーペットとの比較など実際問題としてできないのが実情で、どうしても未確認のまま購入ということになるようです。

ただ、この手合いはお値段のほうも意外に安くもないようで、やはり費用対効果という点では実際の「性能」を知りたいという方は多いと思います。

もっとも効果的な方法としては、アップライトピアノの防音によくある背後を専用の吸音材のようなもので覆ってしまうのと同じで、グランドの場合もこのお腹の下の部分を板や吸音材などで塞いでしまうと、音は劇的に抑えられるようですから、どうしても一定の防音効果が必要な場合はこれは最も効果的だと思われます。

この理論で、より丁寧な作り込みをして、メーカー自ら製品化したのがカワイのピアノマスクで、お腹の下はもちろん、その他の音が漏れ出る箇所を細かく塞いでしまう特注ピアノで、その圧倒的な効果に驚いたことがあります。体感的には「音量は半分以下だろう」という印象でした。
しかも、下部は換気窓のように開閉できるようになっているので、任意に調節できるという点も便利なようです。

ただし、これは本来朗々と鳴らしたい楽器の音を、敢えて押さえ込んでしてしまうというわけで、ピアノには可哀想なことをするようですが、現実の社会生活に於いてはピアノが中心というわけにはいきませんから、近隣への配慮という観点からすればやむを得ないことでエゴは許されません。

できることなら、楽器にではなく、部屋のほうに防音室に迫るぐらいの吸音効果のある対策が、現代の高度な技術を持ってすれば、もっと簡単・安価にできないものかと思います。
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愉快と不愉快

このところマスコミを賑わした佐村河内氏の事件は、彼が注目されるきっかけになったNHKスペシャルを、途中からですがマロニエ君も偶然見ていた経緯もあって本当に驚きました。

曲は番組内で流れるもの以外には聴いたことがなく、もちろんCDも買っていませんので、例の交響曲も通して聴いたことはありませんが、そもそもマロニエ君はあの手の副題が付いた類の、感動を半強制されるような曲は苦手なので、あまり興味は持っていませんでした。

ただ、今回の事実が発覚した後に出てきた情報によれば、青年時代までの彼は音楽とはおよそ無縁の生活を送り、高校の友人によれば当時からかなり目立ちたがり屋で大言壮語の癖があったとか。将来は役者志望だったそうで、なるほど「現代のベートーヴェン」という壮大な人物を演じきっていた「役者」だったんだなぁと納得しました。

こういう事件はむろん社会的には許されざることですが、誤解を恐れずに云うならば、マロニエ君にとって、週刊誌的ネタとしては甚だ面白く、大いに興味をそそる事件であったのも事実です。
詐欺詐称のオンパレードで、NHKはじめ各マスコミ、プロのオーケストラや音楽家、そのチケットやCDを買って涙する人々など、いわば世間をペテンにかけてしまった手腕には驚くほかはありません。はやく再現ドラマのひとつでも作ってほしいような、そう滅多にはない事件でした。

思い出しても笑ってしまうのは、さる音楽学者という人が、この交響曲のスコアを分析して、ひとつひとつの根拠を示しながら、これ以上ないという最大級の賛辞を惜しみなくならべ、大絶賛を送っていた様子などを思い出すときです。

マロニエ君もまさかこんな壮大な茶番とは思わなかったものの、ヴァイオリンの演奏を間近に聴くシーンで、弾いている女の子の体の一部に指先を添えて「その振動で聴いている」というのは、ちょっと不思議な感じがしました。

もちろん関係者は大変でしょうけれど、野次馬の一人としてはずいぶん楽しめました。

これとは逆に、笑えないばかりか、見ていてちょっと嫌な感じがしたのは、テレビでお馴染みの知識と知性を看板にしたコメンテーターの男性M氏でした。
「自分はこの人の曲を聴いたことがなかったけれど、この問題が起こってから聴いた。すると、申し訳ないけれど、後期ロマン派のマーラーにそっくりだということはすぐにわかったし、(別の曲では)バッハに似ているところがあるなど、聴く人が聴けば、どこにもオリジナリティというものがないことがわかるはず。それを検証もしなかったマスコミの軽率にも問題がある」というような意味のことを、いつもの偉そうな、自分は何でもお見通しという調子で、首を振りながら滔々と語っていました。

さらに驚いたことは、この「マーラーに似ている」という指摘は、そもそも日本フルトヴェングラー協会の野口さんという方が昨年の新潮45に書かれたものだそうで、ご本人が別番組に出演されておっしゃっていたことですが、M氏はそれにもいちおうは触れておくことも忘れず「新潮45に書かれた専門の方も私とおなじことを言っているようですが…」と、さりげなく言及。自分は音楽を専門としていなくても一聴すればその程度のことはパッと分かるし、現にそれは音楽の専門家が言っていることと見事に一致しているようだと云いたいようでした。
しかし、これはあまりにも苦しいこじつけにしか聞こえませんでした。

マロニエ君の印象では、マーラー風というのも言われればあの仰々しさなどそうとも思えますが、フィナーレなどは映画音楽的でもあったし、大河ドラマ風でもあったような覚えがありますが。

いつも時事問題に鋭い知性のメスを入れてコメントするというのがこのM氏のウリですが、要は知識こそがこの人の命のようです。しかも、この人の口から音楽に関する話を聞いたのは初めてでしたが、正直いっていかにも板につかない急ごしらえの発言という感じで、そうまでする果てしない自己顕示欲には、さすがにやりすぎの印象は免れませんでした。
この人はある程度は明晰な頭脳の持ち主かもしれないけれども、なんでもこの調子で、予定されたテーマを急いで調べて、読みかじって、集めた情報を頼りに、それをさも深い知識と見識から出てくるコメントであるように恭しく聞かせるというのが、カラクリとして見えてしまったようでした。

このときの、この人から受けた言いようのない不快な印象は、佐村河内氏と同じとは云わないまでも、そう遠くもない類似の種族ではないか…というものでした。
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紘子さんのお宅

先月の下旬だったと思いますが、民放のBSで中村紘子さんへのインタビュー番組が1時間ほど放送されました。

港区の古くからある高級マンションに彼女の自宅があり、マロニエ君が東京に居た頃からずっと紘子さんはここにお住まいで、わりにお近くでしたからしばしば近くを車で通っていたものです。

実は紘子さんのご主人が大のクルマ好きで、その関係から一度ご自宅へご一緒しましょうか?というお話がありましたが、ある意味興味津々でもあるけれど、なんとなく抵抗もあってグズグズ決断しきれないでいるうちにタイミングを逸して、その話も立ち消えになってしまいました。

ちょっと残念なような、まあそれでよかったような、当時はそんな気分でした。

番組では女性リポーターがこの高級マンションのご自宅を訪問するという趣向で、エレベーターのすぐ脇に玄関ドアがあり、それを開くとあの紘子さんが登場、笑顔で出迎えます。中へと招き入れられ、カメラもそれに続いてお宅の中へ潜入していきます。

玄関を入るなり、とにかく目につくのは、あちらにもこちらにも、たくさんの花々が活けられていることで、まるでなにかの会員制クラブのような雰囲気でした。この色とりどりの花々にとり囲まれた空間というのも、多くの人が中村紘子さんに抱くある種象徴的なイメージのひとつなのかもしれません。

いつも雑誌やテレビで見る、後ろにスタインウェイの置かれたお馴染みのリビングの他に、今回は特別サービスなのか防音設備を整えた練習室にもカメラが入りました。そこは紘子さんのいわば道場というべきスペースで、さすがにストイックな感じがあり、いつもここでさらっていらっしゃるのだそうです。

さて、インタビューの具体的な内容に触れても仕方がないので、ここでは映像からマロニエ君なりに目についた枝葉末節の、甚だくだらない印象を述べますと、意外だったのはピアノの前に置かれた椅子でした。
中村紘子さんは昔からコンサートでは決してコンサートベンチではなく、決まって背もたれのあるトムソン椅子が使われます。しかもそれを子供の発表会のように目一杯最高位置まで引き上げて、座るというよりは、ほとんどその前縁にお尻をちょこっと引っかけるようにして「全身で」ピアノに向かわれますから、よほどこの椅子がお気に召しているのかと思っていました。
ところがご自宅リビングのピアノの前には今流行のガスダンパー式のベンチが置かれ、さらにその脇には、通常のポールジャンセンのコンサートベンチもあって、普段はこれらをお使いだというのが察せられました。
どうやら、あのトムソン椅子は紘子さんのいわば本番用「勝負イス」のようです。

また、いつもお馴染みのリビングのスタインウェイはこれまでにもほとんど全身が映ることはなく、鍵盤付近のロゴが見えるアングルが固定ポジションのようで、この場所から紘子さんがいろいろなコメントを発するのがお定まりのかたちでした。そのピアノの足の太さから察するに、てっきりD型だと思っていましたが、最後の最後にほんの一瞬映ったピアノの全景によるとC型だったのはなんだかとても意外でした。ちなみにDとCは同じ足で、B以下が細くなります。
普通はDではない場合は定番のB型になるのがほとんどですから、Cというのはまたオツなチョイスです。

練習室もスタインウェイでしたが、こちらは艶消しで、おそらくはリビングにあるものよりも古いピアノだろうと思われました。こちらもサイズ的にはBかCのようでしたが、わずかなカメラアングルからは決め手が得られず、どちらかまではわかりませんでした。

今回最も印象的だったのは、さしもの中村女史も発言がずいぶん丸くなっていることで、この方からやや枯れた感じを受けたことは初めてでした。以前だったらとてもこういう言い方はされなかっただろうと思えるところがいくつもあり、ずいぶんと落ち着いた、どこか平穏な感じがしたのは、ああ中村紘子さんも歳を取られたのだなあと思います。
むろん、それだけ自分もまた確実に歳を取っているということでもありますね。
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娯楽の倒錯

それが今どきの世の中のニーズなのか、はたまた別の理由からか、そこのところはわかりませんが、このところのテレビで取り上げられる「病気」に関するネタが多いのには辟易させられてしまいます。

この傾向はいつごろからだったかと思いますが、間違っていなければ『あなたの知らない…』とかなんとかいう番組あたりがきっかけだったのではと思います。

はじめのころ、ためになるような気がして何度か見た記憶がありますが、まったくのデタラメとは云いませんがが、ほとんど偶発的な一例にすぎないような事象が脅迫的に取り上げられ、すべての人の身の上におこる可能性があるという調子で話は進み、スタジオに陣取った芸能人達も異様に恐れおののいて見せるものだから、視聴者としては際限のない不安に煽られっぱなしというものです。

しかし次から次へと内容は拡大し、これをいちいち鵜呑みにしていたら、とてもじゃありませんが普通の生活なんて送れません。
もちろん、自己管理の基本として心得ておくべき医学の常識程度なら必要ですが、あまりにそれが多岐に渡って注意々々の連続ではやってられないし、却って最低限の心得まで投げ出してしまいそうになります。

そもそも「可能性」ということになれば、人はそれぞれ生活環境も異なれば体質もそれぞれで、あまり執拗にそこをつつかれても、果たして自分の身体に有効な情報かどうかも疑わしい。
おまけに医学的研究は日々進化していて、それに基づく学説にも諸説混在して、以前の常識や定説が一夜にして覆されたりと、この点でも極めて不安定だということも忘れるわけにはいきません。

ともかくもこのようにして、スタジオに各専門の医師を呼んでは再現VTRを流して人々を脅してまわるのは、番組作りにも抑制と見識が必要で、健康管理の美名のもとに視聴者の不安を弄んで視聴率を取るのだとしたら甚だしい悪趣味だと思います。

これよりもさらに悪趣味きわまりないのは、仰天ニュースやアンビリバボーのたぐいです。
これらはほぼ類似の番組ですが、毎回取扱うテーマが異なり、世界の珍事件や魔性のオンナ、天才詐欺師の半生など、以前はそこそこおもしろい内容があるので暇つぶしに見るために録画設定していました。

ところが、最近やたらに多いのが「病気ネタ」で、中でも目を背けるのは「難病奇病に取り憑かれた子供」などを美談という逃げ道を作りながら、その病気に苦しむ人々の凄惨な様子を容赦なく写しまくりで、大半が密着取材&再現ドラマで、どうかうすると番組全体がそれひとつで終わってしまいます。

見るに耐えないような恐ろしい病気に蝕まれて苦悶している人や子供の様子を、その患部を含めてテレビカメラがこれほど追い回すこと、しかもそれが娯楽番組によって放送されるということに、マロニエ君は強い違和感を覚えるのです。

取材される側は、いろいろな事情もあって納得してそれに応じているのかもしれませんが、少なくとも放送のスタンスとして、この現状をなんとか改善に向けるための問いかけというより、ほとんど視聴率獲得のためのネタとしての扱いでしかなくのは驚くべき事です。

そのいっぽうで、現代は、ちょっとした発言ひとつが問題になり、追求を受け、責任を問われるという意味では、番組出演者もうかうか自分の考えも述べられない現状があるのも事実です。視聴者からクレームがつき、スポンサーからクレームがつけば事の是非を問うことなく、問題発言は削除され、その人は番組を降ろされるという構図が横行しています。

そうかと思えば、こんな悲惨な病気の話ばかりを娯楽番組が全国放送でお茶の間に垂れ流すのは、倫理的にも何の問題もないのか…今の世のルールというものがどうなっているのか、マロニエ君にはまったく見当もつきません。
早い話が、娯楽番組は潔く娯楽に徹するべきで、難病奇病がレギュラーネタとは、娯楽の在り方があまりに倒錯的すぎはしないだろうかと憂慮の念を禁じ得ません。
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ワクワク?

最近は郊外のドライブスポット「道の駅」に代表されるような、各地域の物産などを扱う集合直売所のような形態がずいぶん流行っているようです。

友人から教えられて、いわゆる「道の駅」ではないものの、ほぼそれに近いもので話題の店があるということを聞きました。しかもそこはこのスタイルの店舗としてはなんと全国一の売り上げを誇っているとかで、さぞかし新鮮な食材が山積みなのだろうと思い、先週末行ってみました。

マロニエ君宅から車で1時間ほどかかる田舎の幹線道路の近くにそれはあり、やはり行ってみるとそれなりに遠いなぁという印象は免れません。なるほど大きな建物、広い駐車場など、期待を抱きながら車を止めていざ店内に入りました。

しかし、結果から先に云うとまったくマロニエ君好みの店ではありませんでした。
もともと低血圧で、午前中から外出するということが嫌なマロニエ君としては、どうしても昼食後の出発になり、到着したのは3時をまわっていましたが、肉魚などの生鮮品は大半がなくなっており、あちこちのケースにはかろうじてぽつぽつと売れ残りがある程度で、なんだこれは!?という状況でした。

野菜などはまだいくらかありましたが、いずれにしても完全にここのゴールデンタイムは過ぎ去った後の残りカスといった風情です。
一気にシラケて、普段ならそのまま店を出るところですが、せっかくそのために時間を費やし、ガソリンを使ってせっせとやって来たわけですから、せめて何かを買って帰ろうと無理にあれこれ探し回って、とりあえず不本意ながらカゴ一杯の買い物をするだけはして店を後にしました。

そこでマロニエ君の印象を総括すると、多くの生産者がそれぞれの商品を持ち寄って売っているために、商品の種類や量に一貫性がないこと、売れ残りを嫌ってか、全体のバランスから云うと肉魚のスペースが小さく、野菜などの農産品がむやみに多いようです。
さらに感じるのは、田舎の直売と聞くといかにも新鮮で安いというイメージを抱きがちですが、鮮度はどもかく、値段は決して安くはないということです。

この点に関しては田舎とか地元だからという配慮は皆無で、まさに街のド真ん中と同レベルもしくはそれ以上の強気の価格設定で、まずはがっかりしましたが、考えてみればこれは実はよくあることなのです。

田舎の皆さんが商売をされるときの多くは、都会の価格を参考にされるのか、それと同等の価格設定にしてしまうことですが、利用者にしてみればそんな遠くまで行った挙げ句、街中と同等の値段であればちょっと説得力がないように感じます。生鮮品の価格というのは、産地から消費地への輸送費はじめ、様々な経費がかかってはじめて算出されているもの。

いかにも本来なら業者に支払うべき中間マージンをそっくり自分達の儲けにしているという印象が免れません。スーパーやデパートは、多大な設備投資、人件費、税金、宣伝費など膨大なコストがかかる中で、さらに厳しい価格競争にもさらされ、売価は緻密に定められたものですが、そういう途中経過ぬきに同等の数字だけをもってきた印象です。

ぜんぜん安くないと首を捻っていたら、偶然、ある日の朝刊にここの記事が大きく採り上げられていて、「価格はスーパーより高い」ということがはっきり書かれていました。
それでもお客さんは、生産者が持ち寄る野菜などが日によって違うため「今日は何が出てくるか」というようなことをワクワクしながら楽しみに来ているのだとか。ということはお客さんも比較的ここの周辺在住の方が主流じゃないのかと思われます。

なんとなくよくわからない世界ですが、これはこれで不思議に成り立っているようです。
近ければまだしも、苦手な早起きをし、往復2時間のドライブをしてまで、日替わり野菜を求めてワクワクするなんて、とてもじゃありませんがマロニエ君にはできそうにありません。
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ピリオド調律?

最近のN響定期公演ではロジャー・ノリントンの指揮が多いようです。
彼の得意なベートーヴェンのみによるレオノーレ第3番、ピアノ協奏曲第3番、交響曲第5番というプログラムの演奏会の様子が放映されました。

ピアノはラルス・フォークトで、ノリントンの要求によりこの日もピアノはオーケストラの中に縦に押し込まれ、フォークトは客席に背中を向けるかたちでの演奏となりました。

この日の映像で目についたのは、NHKホールのステージ奥には縦長の巨大な反響板とおぼしきものが5枚立てられていることで、これによってオーケストラの音は一気にクリア感を取り戻し、同時に空間に抜け散ってしまうパワーも以前に比べるとだいぶ出ていたように思います。

とくにステージ奥に横一列に並んだコントラバス群がその反響板の恩恵に与っているためか、低音のずしりとした響きが加わって、レオノーレ第3番ではおやっと思うほどの効果が出ていたようでした。

続くピアノ協奏曲第3番では、長い序奏に続いてピアノがハ短調のスケールで力強く入ってきますが、ここでいきなり肩すかしを喰ったような印象を受けました。
単純に言ってしまえば、まるでピアノが鳴っていないかのような音で、はじめはマイクの位置の問題だろうかとも思いましたが、どうもそうではない。そもそもスタインウェイの平均的トーンすら出ていないし、カサついたまるで色艶のない音には違和感ばかりが先行しますが、ほどなくその理由がわかったような気がしました。

あくまでもマロニエ君の想像の域を出ませんが、ノリントンのピリオド演奏の様式に合わせるように、ピアノもフォルテピアノ的なテイストを与えるべく、意図的にそのような調律がされているのだと理解しました。
同時に、調律でそこまでのことができるという可能性にも感心して、ある種の面白さも感じなくはありませんでしたが、とはいっても、とても自分の好みではないことは紛れもない事実でした。

そこまでするのであれば、いっそ本物のフォルテピアノを使うべきではないかと思いますし、テンポやピリオド奏法や解釈など、作曲当時の諸要素に徹底してこだわるというのであれば、当然ながら会場のサイズにも配慮が必要で、ベートーヴェンがNHKホールのような巨大ホールをイメージしていたとは到底思えません。

枯れた弱々しい伸びのない音を味わいだと云うのであればあるいはそうかもしれません。しかし、一方では骨董的な甚だ貧相な音にも聞こえるわけで、どうにも消化不良気味になるという側面を持つのも事実だと思います。さらに大屋根を外しているので音は上へ散ってしまい、せっかく立てられた反響板もピアノにはほとんど役に立っていないようでした。
いろいろな試みに挑戦することは創造行為に携わる芸術家として見上げたことだと思いますが、結果がある程度好ましいものに到達できていなければ、やっている人達の自己満足のようで、幅広い意味を見出すことはできないのではと考えさせられてしまいました。

ノリントンの好みや方法論によれば、協奏曲でも独奏楽器とオーケストラが融和し一体となって音楽を作り出すことのようで、それは大いに結構なことですが、だからといってピアノ協奏曲に於けるピアノの音がオーケストラの中へ埋没したように音が弱く、p/ppでは聞き取ることさえ苦労するようでは、一体化もいささか行き過ぎではないかというのが正直なところでした。

フォークトの演奏は、基本的なものがしっかりしている反面、ディテールの表情に恣意性と誇張がみられ、音楽が自然な流れからしばしばはみ出すようで、聴いていて心地よく乗っていけない部分があるのが残念だと感じました。
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ピアノポリッシュ

車の艶出し剤のことを書いた流れで思い出しましたが、昔からマロニエ君はピアノの付属品の中に必ずといっていいほど入っている定番商品──ピアノユニコンはどうしても上手く使いきれず好きになれません。

ユニコンという言葉の意味が調べてみてもいまひとつよくわからず、なんとなく成分がシリコンなのかもしれないと思ってボトルを見てみると、案の定、成分表示に「シリコンオイル/非イオン界面活性剤」と記されています。
「汚れや手アカを落とし、つきにくくすると同時に艶を出す」という効果を謳っているので、表面の滑りを良くして輝きを出すという目的からシリコンオイルという判断なのかとも思いますが、能書きはどうであれ、要するに使ってみてこれほど使い方が難しく、仕上がりに満足できないものはないというのが昔からの印象でした。

白い液体を柔らかい布地に含ませてピアノの塗装面に塗り広げるものですが、自分で云うのもおかしいですが、洗車マニアでならしたマロニエ君としては、自分なりの磨き技術を駆使してやってみるものの、どんなに丁寧に拭き上げようと努力しても、あちこちに油性のムラが無惨に広がるばかり。これを無くそうとすると、延々とこの液体を塗りまくってムラを埋めていくことになりますが、結局は油性のベトついたイヤな部分が増えていくだけで、本質的な解決には至りません。

感触もギシギシした油っぽいもので、艶もオイルを浸透させることで得られるコッテリ系のもので、品位のある美しさとは程遠い印象です。
ピアノの表面は斑の艶に覆われ、かえって薄汚れたような感じになってしまいますから、これだったら単純な水拭きか、艶が出したければ自動車用ワックスでもかけたほうがまだいいような気がします。

こういうわけで、メーカーなどから販売されているピアノユニコンの類は一切使わないできましたが、昨年たまたまこのピアノユニコンの新品をいただく機会があり、さすがにもう時代も変わって改良されているだろうという期待を込めて恐る恐る使ってみると、果たして結果はまったく変わらずで、なにひとつ進歩していないことに愕然とさせられました。

車の塗装面のケア剤が日進月歩で驚くばかりの高みに達している事実に比べて、メーカー推奨のピアノユニコンは旧態依然としたものを作り続けているようで、そもそも大半がサービスでつけるだけのピアノ磨き剤なので、より良い品を開発しようという意志も意欲もないということなのか…。

それにしても不思議なのは、実際にこれを使った人達からよくまあクレームがつかないものだということです。とりわけ新品ピアノを購入されたお客さんなどは、真新しい一点の曇りもないピアノにこの艶出し剤を塗りつけることで、直前までの完璧に美しい均質な塗装面は、油による艶とも汚れともつかないような斑状態に変化してしまい、ショックじゃないのだろうかと思います。

その点では、車関係のケア剤は遥かに良品が揃っていますが、これをピアノに応用することは一応目的外使用になるので、自己責任でおやりになる方以外、やはりこういう場でのおすすめはできません。

そこで「ピアノ用」としてマロニエ君が知る唯一の合格点アイテムは、以前も少し書いた覚えがありますが、ソフト99から発売されている『ピアノ・家具・木製品 仕上げ剤』という商品で、これはホームセンターなどで500円ほどで売られているものです。
歯磨きのようなチューブに艶出し剤が入っていて、それを柔らかい布でうすく塗って、さらに着古した下着(メリヤス生地)などで拭き上げていくものです。

これはピアノユニコンとはまったく別次元の美しい仕上がりで、そのための特別な技術も必要とせず、ムラもほとんど出ることなく、どちらかというとクルマのコーティング剤に近い使い方と仕上がりだと思います。
おまけに艶にも節度があってこの点も好ましいものです。そもそもピアノの艶の美しさはやや控え目なものでなくてはならず、むやみに油性系のぎらつきを与えてオートバイみたいに自慢するようなものではないというのがマロニエ君の好みです。
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端正と解放

日曜は、「日時計の丘」という瀟洒なホールがシリーズで開催している、バッハのクラヴィーア作品全曲連続演奏会の第4回に行きました。

演奏はこのシリーズを初回から弾き進んでおられる管谷怜子さんで、今回はフランス組曲の第4〜6番、トッカータのBWV913、914、912。
冒頭フランス組曲第4番の開始早々、予想外の静けさとたっぷりしたテンポは意表を突くもので、ハッとさせられましたが、すぐにこれは熟考されたものであることが了解でき、たちどころにこの日の音楽世界にいざなわれます。

まるでこの日のコンサート全体の幕が、この悠揚たるアルマンドの提示によって静かに上がっていくようで、こういう出方をされると、いやが上にもこれから始まる音楽への敬意と期待で胸が膨らみます。

管谷さんの特徴は、まったく衒いのない表現が、澄みわたる完成度をもって聴く者の心に直に響いてくることだと思います。思慮に満ちた端正なアプローチでありながら、その演奏は常にのびやかに解放されており、決して型の中だけで奏でられる小柄な音楽ではないことは特筆すべきことです。

とりわけ弱音の美しさとバランス感覚には目をみはるものがあり、どんなにピアニシモになっても音の肉感が損なわれず、音楽の実相がまったく弛緩することがないため、繊細な部分ならではの音楽の豊かさを感じる喜びに満たされます。そして必要とあらば圧倒的な推進力をもってその演奏が勇躍するさまは感銘を覚えずにはいられません。

フランス組曲では、各舞曲が決然としたテンポ設定で弾きわけられているのが印象的で、良い意味で前後影響し合うことなしにそれぞれが独立しながら隣接しており、だからこそ組曲としての端然とした姿が描き出されていることを実感できました。

トッカータでは、デリカシーとドラマ性、潔さと苛烈さが的確に機能して、若いバッハのほとばしるエネルギーを赤裸々に皮膚感覚で体験するようでした。

アンコールはカプリッチョ「最愛の兄の旅立ちにあたって」。

ピアノはこの会場の1910年製ブリュートナーですが、104歳にしてますます音の重心が座って色艶を増してきており、決して大きくないボディから朗々たる美音が放射されて会場の空間を満たすのは驚くばかりです。
専門家の中には、したり顔で「ピアノは弦楽器と違って完全な消耗品、せいぜいン十年が寿命です」などと断じる人がいますが、ぜひこういうピアノを聴かせてみたいところです。枯れた音色を消耗した音だとみなすなら、ストラディヴァリウスでも消耗品で、決して未来永劫のものではありません。

マロニエ君は古いディアパソンを購入してからというもの、新しいピアノに対する興味が減退する一方で、このような佳き時代の、馥郁とした温かさとパワー、人の情感に寄り添うような多彩な表現力をそなえた「楽器」を感じるピアノがこれまでにも増して魅力的に映るようになりました。
この魅力の前では、多少の鳴りムラや些細な欠点など問題ではありませんし、味のない機械的な音がいくら均質に揃っていてもそこに大きな価値があるようには思えないのです。

それだけ自分が歳をとったということかもしれませんが、やっと身をもってわかってきたような気がします。
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