気がつけば寄せ集め

自作の円筒形スピーカーが、知らぬ間に熟成されて好ましく変化してくれていたのは、まったく予想外のことで、思いがけない贈り物をもらったような嬉しさがありました。

とくに、失敗作だという認識でそれ以上の調整を一切放棄し、さらには目につかないところへ放逐してしまった後の変化だったので、オーディオとはこんな一面があるのかということを認識させられる良いチャンスにもなったのは事実です。手の平を返したように殊勝めいたを言うようですが、この自作スピーカーは、情報収集から材料の調達、組み立て、チューニングにいたるさまざまな過程を経験させられ、音に関する実に多くのことを勉強させてくれたのは間違いありません。

とりわけスピーカーというものがボリュームやパワーでなく、響きそのものが作り出す音響や分離、ダイナミクスのバランス、その他もろもろの要素やそれらの均衡がいかに大切かということも良くわかりましたし、プレーヤーのこと、アンプのことなど、周辺の事情も含めてマロニエ君の無知な部分を一気に埋めることができました。
とはいえ、今だって多くはなにも知らない穴ぼこだらけで、無知なことに変わりはありませんが、それでも知らずに終わっていたであろうことを、いろいろと経験的に知り得たのは素直に収穫だったと思います。

もともと音楽は好きでも、オーディオにはほとんど関心のなかったマロニエ君は、オーディオ装置は何でも良いと云えばウソになりますが、そこそこ好みのいい音が出てくれさえすれば、あとはもっぱらCDを買い漁るほうが主眼で、少しでも良いオーディオ装置に投資しようという考えがまるで欠落していたように思います。

それでも1階のピアノのある部屋には、わからないながらも一応それなりのオーディオ装置を置いてはいますが、それもずいぶん昔買ったもので、とくに満足もなければ不満もないというクチでした。さらに自室のオーディオに至ってはヤマハの中級のコンポのセットで、これを疑いもなく使い続けて、そこからいろいろな音楽や演奏を楽しんでいたのですが、それをどうこうしようという意志も意欲もなく、根底にはオーディオは電気製品という感覚があったのかもしれません。

そんなマロニエ君のオーディオ生活にトラックが飛び込んできたような一大事件が起こったのが、我が家のピアノの主治医のお一人である技術者さんが、Yoshii9なる未知のスピーカーセットをわざわざ持参して聴かせてくださったことでした。
目からウロコとはこのことで、従来とはまったく違ったナチュラルな音の広がりで聴かせるこのミサイルみたいな形をしたスピーカはまさにマロニエ君にとってのオーディオ上のカルチャーショックでした。
演奏者が今まさに目の前で演奏しているような、その自然さそのものがもたらす美しい音は、これまでのハイパワーアンプとそれを受け止めるスピーカーによって豪快に鳴らすことを良しとしていた価値観を、根底からひっくり返すものだったのです。

Yoshii9をすんなり買えればなんのことはなかったわけですが、少々お高いこともあってなかなか手が出ず、その代用の意味もあって自作スピーカーへの道を進むことになりました。その過程で驚くばかりに高性能かつ低価格の中国製デジタルアンプの存在も知ることにもなり、さらには優れたスピーカーコードとは何か、好ましいCDプレーヤとは何かといった、個別の要素の真相などを正に一から教えられることにもなりました。

わざわざ仕組んだわけではありませんが、現在のマロニエ君の自室のオーディオは、いつの間にか(ほんとうにいつの間にか!)ヤマハのコンポはすべて姿を消していて、代わりに自作のスピーカー、中国製デジタルアンプ、そして過日書いた記憶のあるDVDプレーヤーの「3本の矢」で構成されていますが、こんな一見めちゃくちゃな、なんの一貫性もない装置の寄せ集めによって、結果的に従来よりもはるかにクオリティの高い、聴いていて楽しい音響空間になったのですから、いやはや自分でも驚くしかありません。
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それから

「それから」なんて漱石の小説のようですが、ぜんぜん別の話です。

昨年はひょんなことから筒状の無指向性スピーカーの魅力に取り憑かれ、知人にいくつも自作して楽しんでいる趣味人がいたことも後押しとなり、これまで自分でスピーカー作るなど考えたことさえなかったにもかかわらず、マロニエ君としてはなんとも無謀な挑戦をしてみることになりました。

その顛末は何度も書いていますから、ここでは繰り返しませんが、その間の、とくに2ヶ月ぐらいは一途にこれに熱中、ピアノにもほとんど触れず、毎夜そのための制作と情報収集に励んでいました。

我ながら、仕事や勉強もこれぐらいやれたら…と思うほどの熱の入れようで、使用するスピーカーユニットの選定はじめ、あらゆるものに拘り、時間の許す限りその方策と調達などにエネルギーを注ぎ込んでいました。
この時期はまさにスピーカー制作一筋でしたが、とくにスピーカーがまずは形を成し、音の調整をするようになってからが大変で、集中すべき次元がガラリと変わり、目指す音へ少しでも近づけるべく試行錯誤の繰り返しに明け暮れました。わずかの変化や効果を狙って、なんど分解と組立を繰り返したかしれません。

その結果、ある一定のところ(レベルは低いですが)まではなんとか到達できたものの、同時に超えがたい限界をも感じました。所詮はシロウトの手すさびというべきで、冷静に考えれば、ものの道理から云っても初作からいきなり満足できるようなものができる筈がないし、それを望む方がそもそも無理だという、ごく当たり前のことを悟りました。

無指向性スピーカーの特徴である演奏会場のような音の広がりはあるものの、音には艶やかさも分離感もなく、こもったような、それでいて薄っぺらなサウンドは到底満足できるものではなく、このジャンルの最高峰であるYoshii9などには、遠く及ぶべくもないことを痛感させられました。

これが根っからのオーディオマニアなどであれば、そこからまた果敢に挑戦を繰り返すところでしょうが、マロニエ君の場合そもそもが自分の領域外のことを勢いでやってみたまでで、疲労困憊、もうこれ以上はもう結構、やりたくないと思いました。

それいらい次第にこのスピーカーからも関心が遠ざかり、しまいには部屋に置いておくだけでも転倒の心配もあり(厚みのあるアルミ管を使い、中は鉄のウェイトなどが入っているため重量もそれなりで危険性もあり)、邪魔になるというので、ついには普段使わない部屋の隅っこへと撤退させられてしまいました。

それから数ヶ月間、一時はあれほどの心血を注いだ自作スピーカーは無用の長物として、音を出すこともなくただの邪魔な物体として放置されたままでしたが、わけあって家の中の整理や片づけが契機となり、自室にこれを運び込み、場所を変えてもう一度聴いてみようかと思いつきました。

狭い自室の中になんとか場所を確保して、久しぶりに線を繋いで音を出してみますが、基本的にはやはり以前の状態のままで、やっぱり場所の問題ではありません。しかし、今回は腹を括ってしばらくこのスピーカーと付き合ってみることにしたわけです。
自室では毎夜音楽を聴かないことはまずないので、とにかく毎日続けて一定時間鳴らすことになりますが、すると驚いたことに、だんだん音が鳴るようになってきたばかりか、音の分離感や色彩感もこちらがほぼイメージしていたように少しずつですが出てきたのは嬉しい驚きでした。
少なくとも作った当初とはまるで別物のような、まあまあの繊細なサウンドで鳴るようになってきたことは、まったく楽器と同じだと思わないわけにはいきません。これがオーディオでいうところのエージングというものなのかとちょっと感動してしまったわけです。

手前味噌で恐縮ですが、今の状態ならば、それなりに満足が得られるもので、知識も経験もないクセして、寄せ集めの情報だけで、あれだけ拘り抜いて作った甲斐があったなぁと思いました。
同時にスピーカーでも楽器でも、音の出るモノは(デジタルアンプはどうだかわかりませんが)、いずれも数ヶ月間はそれを本来の性能とは思わずに、慣らしのつもりで付き合わなくてはならないことをしみじみと教えられたような気がしています。

子供の成長ではありませんが、時を経て音がだんだん良くなっていくというのは、実に嬉しいものです。
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人前演奏の魔力

人前でなにかのパフォーマンスをすることには、そこに魅力を覚えた人達にとって、抗しがたい強烈な魅力があるのだろうと思われます。

「舞台には魔物が棲んでいる」という言葉は音楽家に限らず、俳優などもしばしば使うフレーズで、どんな失敗や苦労をしても、もうこりごりだと思っても、嫌だ嫌だと言って逃げ出したいと足掻き苦しんでも、舞台が終わったとたん、もう次がやりたくなるのだとか!?

こういう気分というのは、人前で何かをすることが極端に嫌いなマロニエ君にはなかなか理解の及ぶところではありませんが、折にふれそういう話を耳にする(だけでなく目にする)につれ、果たしてそういうものなんだろうなぁという認識だけは持つようになりました。おそらくは一種の依存症的な、独特な脳神経の作用があるのだろうと思われます。

こうなると客観的実力とは無関係に、我欲と自己愛に溺れ、定期的にステージに立ちたがる人がいて、こちらからみればただ唖然とするばかりなのですが、ある種の人達がこの味を覚えてしまうと、なまなかなことでは止められないようです。まさに毒に侵されたとしか思えない世界です。

たぶんカラオケマニアの熱中ぶりがその最もわかりやすい端的な現れだろうと思います。

ピアノでも、マロニエ君などから見ると、ほとんど常軌を逸しているとしか思えないほど、人前で弾くことに喜びを感じている人達がいるのは、いかにそれが人それぞれの嗜好であり自由だと云ってみたとしても、普通の平衡感覚(とマロニエ君が思っているもの)ではおよそ理解が困難なことだらけです。

こういう人達を見ていると、純粋にピアノが弾きたいのか、人から注目を集めるためにピアノを弾いているのか区別がつきません。その熱意に圧倒された結果は、家でひとりピアノを弾く行為でさえも、なにか自分は変なことをしているのではないかという疑いの気持のようなものが忍び寄ってくるようなときがあるのは困ったものです。
やはりマロニエ君の頭の中には、ピアノなどの人前演奏は、それに値する人だけが行うべき特別な行為だという大原則というか、ほとんど本能みたいなものが強く根を張っていて、どうもこういうことを微笑ましいことと捉えることが難しいのです。

そんなマロニエ君の気分とは裏腹に、人前で弾きたい人の欲望というのは、それはもう並大抵のものではなく、驚くべきことにわざわざそのために時間を工面してはあちこち出かけていって、そのための出費も厭わず、そのささやかなチャンスを逃すまいとします。
そんなに弾きたいなら自宅で思う存分やればいいようなものですが、たぶん根本的にそれとは違う感覚で、恐ろしいことですがオーディエンスのいない自宅では満足できないのでしょう。

こういう点を考えると、こういう心理には、どこかセクシャルな要素さえ絡んでいるようにも思います。
おかしな喩えで恐縮ですが、あちらの趣味のご盛んな人の中には、複雑な心理の絡むところがあり、独特なある一定の条件を満たさないと気分が燃えないのだとか。

ありきたりなエロティックなものではダメで、なにかそこに一種の屈折した条件が整ってはじめて満足を見出しているようなのです。
限られたわずかな状況、ある種の不自由感の中で、その欲望がかすかに報いられる刹那、猛然と気分は高ぶり燃焼してくるのでしょう。
したがって、ピアノを弾くにも、きっとただひとりで自由に無制限に弾くのではダメなようです。
自分以外の人達が見守る中で、時間的にも回数的にも限られた条件下での演奏環境でないと「燃えない」「興奮しない」んだというふうに考えると、少しは理解できるような気がしてきます。

べつにマロニエ君が人前演奏したがる人の気持ちが1%もわからないというのではありませんが、それにしても、あまりにもそれが強烈な人の多いのには驚く意外にありません。

小難しいことは抜きにしても、これは人の心の中にある露出願望のひとつの形体なのだと思われます。
まさかピアノが、そういう願望を満足させる手段にもなり得るということを知ったのはそう古いことではありません。
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贅沢はテレビサイズ

家人の古い友人で、不動産関係の会社をやっている方が来宅されたのですが、曰く、最近の若い人は家やマンションを買っても、今風の低価格な家具を最低限度揃えると、あとは専ら電気製品などに注意が向くだけで、気質に情緒や潤いがないということを話しておられました。

どこの所帯もほとんど区別できないほど似たような雰囲気になってしまうそうで、いずれの場合も目につくのは、一様に物が少なく、パッと目はきれいなようでも、まさに衣食住の生活をするためだけの空間が現代風になっているに過ぎず、それ以外の本や絵や…何でもいいけれども、要するに実用品以外のおもしろいものとか美しいものがほとんど見受けられないのだとか。
そして、殺風景なその雰囲気の中で、ひときわ存在感を放っているのがテレビなのだそうです。

住まいとしての全体の規模、わけてもそのテレビの置かれた部屋の空間の広さに対して、そこに鎮座するテレビだけが、ギョッとするほど大型サイズで、それにだけピンポイントに贅沢しましたという状況なのだとか。業界人から見ると、皆けっこうしまり屋のクセに、テレビだけはどうして大きいのを欲しがるのか、さっぱりわけがわからないと嗤っておられました。

今の若い世代は、新しい住まいを手に入れても、実用品が必要というのは当然としても、そこに絵の一枚でも買って飾ろうという情感や心のゆとり、早い話が文化意志から発生する考えそのものがほとんどないようで、住居に於ける白い壁という、いわば自由な画布を与えられても、そこには大型画面のテレビを置くこと、そのためのテレビ台、もしくはそれに連なる家具を購入し、あとは申し訳程度に観葉植物を置くというぐらいな発想しかないというわけで、言われてみれば大いに思い当たりました。

家には必ず美術品だの楽器だのと何か高尚なものを置かなくてはいけないというものではないし、それはもちろん人それぞれの自由ですが、少なくとも自分の住まいに、その種のものが一切無くても何の抵抗もない、あるいは置いてみたいという発想さえないという感性には、やはりある種の驚きを感じてしまいます。

同時に、これは詳しくは知りませんから想像ですが、おそらく欧米ではおよそ考えられないことではないかという気がしますし、少なくともマロニエ君の知る数少ない外国人は、それぞれがいかに自分の住まいを美的で快適に、しかも自分の求める主題のもとにまとめ上げ、工夫をしながら創り上げるかという点では、かなりの拘りがあったことを思い出します。

いずれにしろ、家の中でテレビが一番エライような顔をしているあの雰囲気というのは個人的には好きではありませんし、知り合いの大学の先生はもっとはっきりと「自分はテレビのある家というものが嫌いだ」とおっしゃって、現にそのご自宅にはまったくそれらしきものは見あたりません。

それはさすがに極端としても、部屋に対して誰が見ても過剰な大画面テレビを置くというセンスは、申し訳ないけれども、そこの住人があまり賢そうには感じられないものです。
とくに薄型のデジタルテレビの時代になってからというもの、その傾向には拍車がかかり、それこそくだらないテレビ番組で紹介されたりするセレブだなんだというような人達の豪邸とおぼしきところには、途方もないサイズのテレビが贅沢さの象徴とばかりに誇らしげに置かれていたりして、それをまたレポーターなどが必要以上に驚愕してみせますが、根底にはそんな影響もあるのかと思います。

文化などという言葉を軽々しく使うのもどうかとは思いつつ、たしかにその面での意識レベルは下降線をたどっているとしか思えませんし、今では文化というと、決まってサブカルチャーだのアニメだのというジャンルばかりに人々の関心が偏重するのは、どうしようもなく違和感と危機感を感じます。
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カラヤンの陰鬱

クライバーのドキュメンタリーが放送された翌週だったか、今度は昨年制作のカラヤンのドキュメンタリーが放送されました。

基本的には似たような作りで、彼を知る証言者たちが映像や音声を聞きながらひたすらコメントを繰り返すというスタイルであるばかりか、中にはクライバーのときとまったく同じ人なども出てきて、なんとなく二番煎じという印象を免れませんでした。

しかし、視聴者の受ける全体の印象としては、いやが上にも惹き込まれ、その魅力に魅せられ、感嘆するばかりのクライバーとは打って変わって、カラヤンはフルトヴェングラー亡き後の音楽史上、最も有名な大指揮者であるにもかかわらず、どこか陰鬱で暗いイメージが見れば見るほど上から上から塗り重ねられるようで、少しも心の浮き立つものがなかったのは、カラヤンに対する好みを別にしても、まったく意外なものでした。

ひとりの偉大な音楽家というよりは、この世界の頂点に君臨し、帝王などといわれたのはあまりに有名ですが、まずその表情がいつも重苦しく、いつも法外な独占欲と言い知れぬ孤独感に包まれているようで、見ていてちっともひきつけられるところがありませんでした。とくに録音スタジオのモニタールームなどでは、大勢の関係者に囲まれながら、彼がひと言ふた言、言葉を発するたびにまわりが過剰なまでにそれを引き取ってご大層に笑い声を上げる様などは、まさに孤独な権力者と、それを取り巻いて御機嫌を取る人達という構図そのものでした。

彼の演奏に内包される是非をいまさら言い立てる気もしませんが、彼自身、音楽が好きで純粋にそのことをやっているというより、自分の打ち立てた偉業を、より強固で、より大きく、より高く積み上げんがために、必死に業績作りと権力維持に励んでいるようにしか見えません。

また、数人の証言者達は、カラヤンの音楽的な優秀さをこれでもかとばかりに褒めそやしますが、なんだか…どこかわざとらしく、カラヤンの死後も尚、まだゴマをすっているか、あるいは何かの計算が働いてそういう発言をしているというように(マロニエ君の目には)感じられてしまいます。

カラヤンの時代は、指揮者に限らず華やかな大物スターの時代であったことは間違いありませんが、同時になんともいえない、重苦しい分厚い雲がかかっていた時代のようにも思います。
カラヤンのおかげで大活躍したベルリンフィルも、カラヤン故により自由な演奏活動の可能性を厳しく制限されていたとも思います。今のほうがベルリンフィルは世界最高のオーケストラのひとつとしての自由を得て、その存在感をのびやかに示していますが、カラヤンの時代はまさにカラヤン帝国の道具のひとつであり、彼を支えるための親衛隊のような印象だったことを思い出します。

マロニエ君はカラヤンをとくに好きだったことは一度もなく、それでも否応なしにカラヤンのレコードを避けることはできない時代の流れというものがあり、気がつけばLPやCDだけでも夥しい数が手許にあるのが、自分でも不思議な気分です。そして今それを積極的に聴こうとしないのも事実です。

聴くとすれば、今どきの、線の細い、けちくさいのに自然派を気取ったような、要するに貧しくも偽善的な演奏にうんざりしたときなど、その反動から、カラヤンの華麗でゴージャスな演奏を聴くことで、しばし溜飲を下げる役目を果たしてはもらいますが、それが済めば再びプレーヤーへお呼びがかかることはなかなかありません。
無農薬のどうのという講釈ばかりでちっとも楽しくない料理ばかり食べさせられると、単純にケンタッキーフライドチキンなんかをがっつり食べたくなるようなものでしょうか。

カラヤンは、要するに音楽界におけるひとつの時代を象徴するスーパースターであり、いわば彼自身が時代そのものであったのでしょうけれども、その演奏が、クラシック音楽のポピュリズムに貢献したことは認めるとしても、真に人の心の深淵に触れるような精神的核心に根差した音楽をやっていたかとなると、この点は甚だ疑問のような気がしますし、その点をあらためて問い返すような番組だったと思いました。

カラヤンのおかげで、20世紀後半のクラシック音楽界は巨大な恩恵にも与り、同時に損もしたような気がします。
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天才の魔力

BSプレミアムシアターの後半で、カルロス・クライバーのドキュメント映像が2本続けて放映されました。

彼の死後に、彼とかかわった音楽家をはじめとする、さまざまな人物の証言をもとに構成されたドキュメンタリーです。近ごろの流行なのか(といっても何年も前の制作ですが)、あまりにも各人のコメントは小さく切り刻まれて、ほとんど数秒ごとにめまぐるしく映像が入れ替わりせわしないといったらありません。これがある種の効果を上げているのかもしれませんが、字幕スーパーを読むだけでも後れを取らないようついて行かざるを得ず、およそゆったり楽しむというものではないのが個人的には残念です。

実は、この作品は2つともすでにマロニエ君は見ていたもので、DVDとしても保存しているのですが、レコーダーに自動的に録画されていて、消去するにしても、その前にちょっと出だしを見てみたら、もうだめでした。とうとう止めることができずに2つとも最後まで見てしまいました。

いまさら言うようなことではない、わかりきったことではあるけれど、それでも言わずにはいられないのは、やはりカルロス・クライバーは真の特別な天才でした。天才というだけではなく、他に類を見ない魅力、ほとばしるオーラ、その音楽の水際立った躍動と繊細、活き活きとした美しさは圧倒的で、これぞ空前絶後の演奏家だったことをいまさらながら痛感させられました。

残された数少ない映像からは、彼のしなやかな、その動きそのものが音楽の化身のような優雅でエネルギッシュで美しい指揮ぶりが記録されています。もし彼が生きていて、ヴィンヤード式のホールでコンサートが聴けるなら、マロニエ君は躊躇なく彼とは向かい合わせになる席を取るでしょう。

クライバーは天才特有の、気まぐれでわがままな人物としても有名で、コンサートも世界中のオファーを頑なに断り続けることでも有名でした。しかし、あの尋常ではない全力を尽くした指揮ぶり、とりわけリハーサルにかける猛烈なエネルギーと要求を見ていると、これはもう並大抵のものではなく、こんなことはそうそう日常的に続けられるものではないということを直感させられます。

カルロスのお姉さんが話していましたが、彼はコンサートやオペラが終わるたびに、まるでお産をしたように痩せこけていたというのですが、それも容易に頷ける気がします。自分のエネルギーを全投入して演奏に挑むものの、毎回必ずオーケストラや歌手達がそれに応え切れるとも限らず、そこで妥協をし中途半端な折り合いをつけるのが嫌だったのでしょう。もっと正確に云うなら、彼の薄いガラスのような繊細な神経が自分が承知できない演奏をすることに到底耐えられなかったのだと思います。

こういう純粋さを、世間はわかっているようでわかっておらず、結果的には我が儘とか気難しいという単純なレッテルを貼り付けてしまうようです。
そのかわり、やる以上はまさしく全身全霊を尽くした完全燃焼の奇跡的な演奏だったことが偲ばれます。

ちょっと思い出したのが作家の故・有吉佐和子女史で、彼女も執筆に関しては炎のような意志と情熱を注いで仕事に打ち込み、一作書き上げる毎に療養のためしばらく入院する必要があったといいますから、どんな世界でも本物はそのような狂気と背中合わせの危険地帯で自分の仕事(というよりも天命)に奉仕しているものだということがわかります。
こういう危険地帯に身を置き、我が身の犠牲を厭わず、一途に芸術に奉仕するといったタイプの人はたしかに激減してしまいましたし、だから一昔前までの芸術家は本物だったと思います。

クライバーの演奏は、その断片に接しているだけでもその魔力に痺れていくようで、しばらくは他の演奏が受けつけられないほどの強烈な魅力にあふれています。
番組も終わりに近づくころ、クライバーの眠る墓地の映像が映し出され、流れる音楽はベートーヴェンの交響曲第7番の第二楽章でしたが、興奮さめやらぬまま番組は終了、その続きがどうしても聴きたくなり、部屋に戻るなり手短にあったブロムシュテットの同曲を鳴らしてみたところ、マロニエ君の耳の感覚というか細胞がクライバーに染まった直後だったために、普段はそこそこ気に入っている演奏が、まるで気の抜けた、緩みきっただらしない音楽のように感じられてしまったのは驚きでした。
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買わせる領収書

冷蔵庫を買うことになり、電気店などをあちこち見てまわった結果、ひとつの機種に的が絞られたので、あまり期待もせずネット通販の価格を見てみたところ、安さ自慢の量販店で15万円前後するものがさらに4万ほど安いのにはびっくり。楽器ならともかく、単なる電気製品で、それもれっきとした日本の大メーカーの製品なので、だったら安いことは大いに魅力で、ネットから購入することにしました。

ところが購入手続きに入ると、ちょっと不可解な点に出くわしました。
ネット販売の場合、送料も無料となっているところが珍しくないのは驚きですが、よく見るとそれは軒先まで、つまり「玄関先まで」という条件付きで、家の中まで搬入し、開梱して設置、さらに梱包材を持ち帰るところまでやってもらうには、3千円強の追加料金となるようです。

量販店で買った場合でも送料はそれなりにかかるわけで、この点はまあ納得できますし、もとが安いからある意味当然だろうとも思います。

いっぽう納得がいかないのが領収書に関する部分で、「基本的に領収書は発行しません」という開き直ったような記述があり、さらには「当店名の入った領収書が必要な場合は発行手数料500円(店によっては700円)が必要となります」となっており、購入操作時に配送方法とならんで、領収書の必要・不必要をボタンで選択するようになっています。

しかしこれ、言い換えるなら領収書をお金で買うという意味でもあり、そんなバカなことがあるものかと思いました。同じ価格帯でサイト内に並んでいる6つほどのお店をそれぞれを調べてみたところ、なんと、すべて横並びに同じスタイルを採っているのには、いよいよア然とさせられました。

領収書を販売者が購入者に発行するのは、正常な商行為であるならばごく常識であり当然の義務であるはずです。こうなると領収書代の領収書を…という感じになるのでしょうか。

いくら販売価格が安いといっても、そのことと領収書発行の有償化は、およそ関連づけるべき事ではないはずで、しかも異なる業者がずらりと同じ方式を採っているところに、日本人の悪しきメンタリティである「赤信号、みんなで渡れば恐くない」という昔流行った標語を思い出しました。

さらに思い出したのは、月極駐車場を賃貸契約している場合、車の買い換えなどで車庫証明が必要となると、貸し主は車庫証明の発行手数料として数千円から、場合によっては1ヵ月分相当の代金を請求するということを聞いて仰天したことを思い出しました。
これは厳密にいえばまったくの違法で、借り主の要請によって車庫証明書類の必要箇所へ貸し主が署名捺印することは、正当な貸借関係が存在しているという事実をただ単に証明するだけのことで、これは手数料どころか、駐車場を貸すことで収入を得ている貸し主側に課せられる責務なのであって、その責務を履行するのに相手から金銭を要求するとは言語道断だと思います。

この件は知り合いの弁護士にも雑談で聞いたことがありましたが、やはり法的な根拠はなく、人の弱みにつけこんだ悪しき慣例として社会に蔓延しているだけとのこと。裁判をすれば勝てるが、それっぽっちのことで裁判費用・弁護費用をかけて係争に持ち込むほどの問題でもないということで、煩わしさから払ってしまう人が多く、それがいつしか当たり前のルールであるかのようになってしまっているそうです。

そもそも領収書を発行しないというのは、税金逃れか闇の商売というふうにしか思われても仕方ないことで、こんなことが堂々とまかり通るなど、世の中ちょっとどうかしているんじゃないかと思います。
要するに手間と切手代と印紙代を倹約しているのでしょうが、これは合法なのか、ぜひいちど各自治体にある消費生活センターなどに問い合わせをしてみたいところです。
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ピリスの奏法

今年3月、すみだトリフォニーホールで行われた、ピレシュ&メネゼスのデュオ・リサイタルの録画を見ました。
ピレシュは日本では長らく「ピリス」といっていたポルトガル出身のピアニストで、グラモフォンなどはいまだにCDの表記はピリスで通しているようです。本来はピレシュというのが正しいのかもしれませんが、これまで長いことピリスと云ってきたので、ここでも敢えてその呼び方で書きます。

前半はホセ・アントニオ・メネゼスによるバッハの無伴奏チェロ組曲第1番で、ピリスはそのあとのベートーヴェンのチェロ・ソナタ第3番で登場しました。

演奏はさすがにある一定のクオリティというか、音楽的な誠実さ、質の高さを感じますが、実際のステージとなるとピリスのピアノはいかんせん軽量コンパクトに過ぎて、CDで聴くような繊細な表現は伝わりません。というか、そもそもこの時はそれほど気合いの入った演奏をしていないという感じだったというほうが正しいかもしれません。
少なくともマロニエ君は、彼女がいま獲得している高い名声に値する演奏をしたようにはどうしても思えないものでした。

それとは別に、この人の演奏を聴いていて、CDなどでも以前から気になっていたことが少しわかったような部分があり、これはこれで収穫でした。

それはピリスの演奏に潜む、ある矛盾についてでした。
弱音域で展開される、目配りの行き届いたデリケートな演奏はたしかに上質なものがあるけれど、フォルテやスタッカート、あるいは弾むようなパッセージになると、たちまち音やリズムが粗雑になり、この人のみせる(聴かせる)芸術性にどこかそぐわない、ちぐはぐな印象を受けるところがあったのです。

それは、少しでも強い音や小刻みなリズムを必要とする場所になると、必ずといっていいほど上から鍵盤を叩くことで、それが音にも反映されていることがわかりました。
それは彼女が小柄で手も小さいということもあるかもしれませんが、ピアノのアクションを含むすべての発音機構はこの点でも非常によくできており、叩いたりはじいたりすれば、正直にそういう音になる。

また、ピリスの場合、叩くときはえらく敏捷に手を上げ下げしていますが、その小さくない上下運動によるロスを取り戻そうとするのか、そのときに若干リズムが乱れ、結果として逆につんのめるように早くなっている気がしました。同時に、これをやるときは注意がそちらに逃げるのか、音楽的な配慮がやや散漫になってしまうのだろうと思われました。

そのためか、弱音のコントロールで非常に高度な演奏表現を達成しているのに、こういう場面では粗い音色と性急なリズムが顔を出し、全体の素晴らしさは感じつつ、どこかもうひとつ引っ掛かる感じが残るのだろうと思います。ピリスは、表向きはいかにも筋の通った高尚な音楽を描き出す数少ない音楽家のようなイメージになっていますが、この点ではまさに技巧上の事情があるのか、矛盾を抱えたピアニストだと思いました。

叩く音は、どうしても硬質な衝撃音となり、音量の問題ではなく、ピアノの音が割れる、もしくは割れ気味になってしまいます。深みのある静謐な弱音コントロールが売りのピリスの演奏の中で、随所にこうした配慮を欠いた音色が紛れ込むのは、他がそうでないだけに一層耳に違和感を与えるのだろうと思います。

小柄で手が小さいと云っても、ラローチャは潤いのある充実した響きを持っていましたし、誰も聞いたことはないけれど、かのショパンも女性のように小さな手であったにもかかわらず、その演奏は一貫して絹のようななめらかさがあったと伝えられていますから、やはりそこは演奏家自身の価値観と美意識によって決定される問題ではないかと思いました。

ピアノはヤマハのCFXですが、どうもこのピアノはデビュー当時のような輝きを感じなくなり、響きがだんだん平凡で薄っぺらになってくるような気がします。ピリス以外でもこのところホジャイノフなどいくつかの演奏で聴きましたが、ちょっとフォルテになるとたちまち限界が見えるようで、そのあたりがいかにもピンポイントで性能を磨いた現代のピアノという印象。生産開始直後の個体はよほど気合いを入れて作られたということかと、つい勘ぐりたくなります…。
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半額CD3点

全国的なヤマハ・ピアノショールーム縮小の流れに伴って、福岡では博多駅前の大きなヤマハビルが閉じられ、その一階にあった広いピアノサロンもなくなってしまいました。

その余波で、天神のヤマハ福岡店では、1階はアップライトピアノ/電子ピアノ/管弦楽器などの売り場、2階は楽譜や書籍はそのままに、残りスペースがグランドピアノの展示場スペースとなり、ピアノサロンから引っ越してきたとおぼしき大小のグランドが6〜7台並ぶようになりました。

グランドピアノが大挙してやってきたためにCDの売り場が行き場を失ったらしく、今後CDは注文販売のみという紙が壁に貼られていました。
ここに並んでいた大量のCDは各メーカーに返品などの処置をとられたのかどうか知りませんが、一部のCDがワゴンセールに投じられ、これが一斉に半額になっているので覗いてみると、通常ならまず買わないであろう未知の日本人演奏家の3000円級のCDがあったので、これ幸いと買ってみることにしました。

以下3点、購入して聴いてみた雑感です。

(1)『恩田文江ライヴ・イン紀尾井』レーベル:ガブリエル・ムジカ 定価3000円
2009年に行われた紀尾井ホールでのライブで、ショパン:幻想ポロネーズ/アルベニス:「イベリア」からトリアーナ/メシアン:「幼子イエズスにそそぐ20のまなざし」より/ラヴェル:夜のガスパール/その他というもの。ライヴというタイトルから期待されるような一過性の熱気は感じられず、むしろ固い感じの演奏。冒頭の幻想ポロネーズが始まって早々、その慎重さは全体を予感させるもので、一通り聴き進むもその印象は変わらない。これといって明確な欠点もないきれいに整った演奏といって差し支えないが、この人なりの個性も感じられない、平均化された演奏だという印象。変化に富んだプログラムなのに、なぜかどの曲も同じように聞こえてしまうのは、作品への踏み込みと音楽に欠かせない即興性が不足しているからだろうか。聴衆に対して美しい音楽を魅力的に奏することより、ひたすらミスをしないよう安全運転に努めているようで、結果として匿名的な演奏がそこにあるだけ。録音も平凡なもので、ピアノテクニシャンは有名な方のようだが、このホールやピアノの良さもあまり出ていないように感じた。

(2)『ベートーヴェン:ピアノソナタ第30番、第31番、第32番 澤千鶴子(ピアノ)』カメラータ・トウキョウ 定価2940円
まったく知らないピアニストだったが曲がいいことと、ジュディ・シャーマンという有名プロデューサー(らしい)がおこなったアメリカでの録音ということで興味がわいて購入。ライナーノートではさる音楽評論家が言葉を極めて澤さんの演奏を褒めちぎっているが、残念ながらあまり同意できなかった。全体に、ひと時代もふた時代も前の日本人によくあった演奏で、アーティキュレーションなどがいかにも和風テイスト。リズムも一拍一拍を肩で取っているようで、この最後の3つのソナタの高度な精神世界を、演奏を通じて再構築できているとは思えなかった。ただしマロニエ君にとってはこのCDの価値は結果としてその音にあったわけで、自然で躍動的、親密なのに開放感に満ちた録音の秀逸さにはかなり感心させられ、優秀なプロデューサーが統括するとはこういうことかと感じ入った。ピアノは現代のニューヨーク・スタインウェイだが、響きがやわらかいのに輪郭がくっきりしており、珍しく木の響きのするスタインウェイで、最もベーゼンドルファーに近いスタインウェイという印象。

(3)『小林五月 シューマン・ピアノ作品集 幻想曲/フモレスケ』ALMレコード 定価2940円
近年、日本人でシューマンに取り組んでいるピアニストということで名前は聞いたことがあったが、演奏は未聴だったため、どんなものかと購入。果たして幻想曲の冒頭からいきなりぶったまげた。これほど何憚ることなく盛大に泥臭いシューマンを聴いたのは生まれて初めてで、これを個性だと言い通すことができるのか甚だ疑問。終始、粘っこく一音一音を力ずくで地面に押し込むようで、マロニエ君の理解からは著しくかけ離れた演奏。ライナーノートも抽象論の羅列で意味不明。もしこの人のシューマンが価値の高いものだと考える人がいるなら、皮肉でなしにぜひともそれを教えて欲しいと思う。この人は作品に込められた何かを表現しようとしているのかもしれないが、音楽には流れや呼吸があるということは完全に除外されている気がする。最近の人では珍しくタッチが深いピアニストと云えなくもないけれど、同時にほとんど音色やデュナーミクのコントロールはないに等しく、ところ構わず強いタッチで鳴らしまくるのは、人一倍繊弱な感性を持ったシューマンが聴いたら一体どう感じるだろうか?録音とピアノは共に非常に好ましいものだと感じるだけに残念。

〜というわけで、今回のバクチ買いはほとんどヒットらしいものがなく、失敗の巻となりましたが、強いて言うなら澤千鶴子さんのCDはそのすばらしい録音を聴くだけなら、一定の値打ちがあったと思います。
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別人のように

ついひと月前のことですが、必要があって携帯電話をひとつ新規契約しました。

これまで使っているケータイとは別会社だったために、事前にショップへ説明などを聞きに行き、そのとき対応に出た女性はあれこれのプランやサンプル機種を目の前に並べて、明るい調子で、なかなか熱心に説明してくれました。

カタログをもらって一旦帰宅し、それからほどなくして正式契約に再度ショップを訪れました。このときの対応は別の男性スタッフでしたが、この人も明るく一生懸命な様子で、次々に必要となる説明や確認事項などをこちらに示しつつ、何度となく端末をテキパキと操作したり、奥に引っ込んではまた出てきたりと、たかだかケータイとはいえひとつの電話を開設するのは、なんとも骨の折れる手続きだなぁといまさらのように実感しました。

時間も優に1時間はかかるし、スタッフとの関わりもそれなりのものになり、結構なエネルギーを要するというのが正直なところです。すべての手続きが終わって電話器その他を受け取って、店のドアを出るころにはぐったり疲れると同時に、お店の人にも素直にご苦労様という気分になるものです。

どの電話会社も似たようなものでしょうが、だいたいどこかに納得できないようなルールもあって、この時もこれこれのオプションをセットで付けると、数千円かかる事務手続き料が無料になり、さらにそのオプションも一定期間は無料で提供され、必要ない場合は契約から1ヵ月経過すれば解約できるということなので、とりあえずお得ということでもあり、そのサービスに入ることにしました。

その後、ひと月が経ったので、へたをすると忘れてしまい料金が発生する恐れがあるので、覚えているうちにと思って解約手続きをしにショップに出向きました。
店内に入ると前回手続きをしてくれた男性スタッフは接客中で、平日ということもあってか、ほかにスタッフの姿はありません。違和感を感じたのは、まずこの男性、いくら接客中とはいっても、営業中の店舗に来客があれば「いらっしゃいませ」ぐらい言うとか、最低限なんらかの反応をするのは接客業云々以前の自然な礼儀だと思うのですが、広くもない店内に人が入ってきて、わずか2m足らずの場所に突っ立っているのに、それをまさか気がつかないとは言わせません。しかし、こちらには頑として一瞥もくれずに目の前のお客さんとのみ会話が続き、こちらは延々とその場に立ちつくすだけでした。

こういうことは、最近よくあることで、気づかないということが通用しない状況でも、あくまで気づかない態度をとって他のお客さんを無視するというやり方が横行しているように思います。マニュアルにないことは一切したくないのでしょうし、建前を悪用して嫌な人の本心を見るようで、人としての基本的な気配りというものが欠落しているわけです。

どうしようもないのでついにこちらから、ほかに誰もいないのかと尋ねると、それでようやくこちらを見て席を立ち、奥に人を呼びに行きました。それでやっと出てきたのが、一番はじめに説明をしてくれた女性でしたが、無料サービスを外す手続きを依頼すると、この女性も前回の熱心な店員の態度とは打って変わって、笑顔のひとつもないまま淡々とパソコンの端末を忙しげに操作しはじめます。
さらには、それにまつわる確認事項をことさら事務的な調子で説明し、このときもそれなりの時間がかかりましたが、なんだかとてもやりきれない気分になりました。

べつにケータイのショップの店員に何かを期待しているわけではないけれど、すでに会話をしたことのある人間と再度顔を合わせれば、「あ、こんにちは」程度の態度というものがあってしかるべきはずですが、二人とも過去のことはたとえ昨日のことでも終った事として断ち切るのか、こうも冷徹な態度をとるのには驚いてしまいます。

なぜそんなにも別人みたいに態度を変えなくちゃいけないのか、さっぱりわけがわからないし、それだったらはじめから同じ態度で通してもらったほうが、まだ潔くもあり、余計な不快感を味わうこともないと思います。
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125周年記念ガラ

今年の4月10日、オランダのロイヤル・コンセルトヘボウ125周年記念ガラという催しがあり、この時点では退位間近であったベアトリクス女王と、即位を目前に控えたオラニエ公ご夫妻のご臨席のもと、盛大なコンサートイベントが行われ、その様子がBSのプレミアムシアターで放送されました。

指揮はマリス・ヤンソンス、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団で、このガラコンサートはワーグナーの楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」序曲で始まりました。
ところが、これは奇妙なほどあっけらかんとした陰翳のない演奏で、およそワーグナーのようには聞こえませんでした。マロニエ君の好みとしては、ワーグナーはもう少し不健康で壮大、そして陶酔的な響きがなくてはそれらしく聞こえないように思いました。

打って変わってトマス・ハンプソン(バリトン)の独唱によるマーラーのさすらう若者の歌などの3曲は、まったく素晴らしいもので、表現力、力強さ、安定感など、どれをとっても立派でした。聴き手が安心して音楽に身を委ねることのできる現代では数少ない音楽家というべきで、作品世界への引き込みが際立っており、大変満足でした。

ああ、なんでこんな場所にまで、この人は必ず出てくるのだろう…と思うのがラン・ランで、朝起きたそのまんまみたいなヘアースタイルで意気揚々と登場し、プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番の第3楽章をいちおう演奏。いつもながらの曲芸風で、しかも線の細い響きと、解釈というものが不在のような演奏ですが、彼にはそれは「小さなこと」なのかもしれず、終始「どうだい!」といわんばかりの自信満々なエンターテイナーぶり。スターとしての自分の存在やふるまいを重視して、それでお客さんを喜ばせるというスタンスなんでしょう。ピアニストとしてみるから違和感がありますが、芸人として見れば立派なのかもしれません。

ここ最近、ますます顕著になってきたラン・ランの特徴としては、ちょっとでも空いている左手などを、まるでベテラン・マジシャンの手つきのようにくるくると踊らせて、いかにも演奏に没入している証のように振る舞うなど「見せるピアニスト」としての要素をますます強化しているように感じました。
ほかにも以前からやっていることでは、結構難しいパッセージなどを弾く際など、「ボクにはこんなことなんてことないよ」と言わんばかりに、顔はあえて会場の遠くあたりを見つめるなど、余裕があるから必死になる必要もなくて、つい他のことを考えちゃった、みたいなパフォーマンスで、こんなことを女王の前でも臆せずやってしまう図太さは大したものとしか言いようがありません。

続くチャイコフスキーの弦楽セレナードから「エレジー」では、祝祭アンサンブルと称してウィーンフィル、ベルリンフィル、ミュンヘンフィル、アムステルダムからの団員が集まって演奏しましたが、これはロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の出す音とはまったく違う、腹の据わったふくよかな響きだったのは、同じ会場でこんなにも違うものかと驚きでした。
その点ではロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団は伝統あるオーケストラではありますが、いささかギスギスした音が気になります。

続くサンサーンスの序奏とロンド・カプリツィオーソではジャニーヌ・ヤンセンという若い女性ヴァイオリニストが登場してきましたが、演奏はやたら気負い立つばかりで粗さがあり、生命感あふれる演奏も魅力は半減というところでした。演奏に熱気というものは必要ですが、そこには品位と必然性が無くては本当の音楽の息吹は伝わらず、マロニエ君の好みではありませんでした。
ソリストとしてラン・ランとはちょうど良いバランスだと感じたところ。

この日のホスト役で、カーテンコールで何度も往き来しては笑顔をふりまくヤンソンスですが、意外にも小柄で、その笑顔の中に覗く白い歯の具合などが誰かに似ていると思ったら、麻生太郎氏にそっくりなのにはびっくりして思わず笑ってしまいました。
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オープンカー

このところすっかり初夏のような陽気となり、ときに汗ばむほどに気温が上がることも珍しくありません。梅雨に入ればじめじめと鬱陶しい期間がひと月以上は続き、そのあとは間をおかずに本格的な夏が待ち構えていますから、今が穏やかな季節の最後ということになるのでしょうか。
そうはいっても、春先からこの時期にかけては気温などの変化が日替わりのように激しく、必ずしも体調に優しい時期ではないので、実際は過ごしにくい時期とも見るべきですが…。

それはともかく、梅雨や本格的な夏前にして、この時期を寸暇を惜しむように楽しんでいる人達のひとつがオープンカーのオーナー達だろうと思います。

マロニエ君の私見ですが、もともとオープンカーは欧米の文化や気候的な土壌でこそ真価を発揮するクルマで、日本のように四季の変化に富む多湿な土地柄では、年間を通じて屋根を開けて走ることのできる時期はごくわずかで、とても真価を発揮できるとは思えません。
そういう意味でも、春秋の一時期は、オープンエア・モータリングを求める人達にとっては待ちかねた儚くも短い季節ということになるようで、このところもオープン状態で走っている車(大半が輸入車)をたまに目にします。

しかし、マロニエ君はいつも見るたびに、基本的にオープンカーというものは日本人という民族には向いていないと昔から思わずにいられませんでしたし、それは今でも変わりません。
日本人の持つ内向性、開放感の求め方、地味な顔かたち、周りの景観など、すべてのものがオープンカーが本来棲息すべき享楽の環境とは乖離しているようで、要はサマになっている乗り方ができているシーンを見たことはほとんどなく、どれも車に呑まれているようにしか見えないのです。

もう少し踏み込んで云うならば、オープンカーは乗り手の顔かたちまでがボディの一部となるわけで、とくに贅を尽くした高級車のオープンカーともなると、そこに日本人の肩から上が車外に露出しているのは、なんとも収まりが悪いと感じずにはいられません。

さらには乗っている人の様子が申し訳ないけれども苦笑させられてしまいます。マロニエ君も日本人なので気持ちはよくわかるのですが、いわゆる日本人のメンタリティや生活習慣と、オープンカーの屋根を開けて街中を自然に走らせるという感覚とは、根底のところで決定的にそぐわないものがあり、まさにミスマッチのシーンがそこに現出しているようにマロニエ君の目には映ってしまいます。

大半のオーナーは、屋根をオープンにすることで、外部に自分の身を晒しながら車を走らせるという行為に心底からリラックスしておらず、みな一様にどこか緊張を伴っているのが痛いほど伝わります。見られているということに快感と恥ずかしさがない交ぜになり、誰よりハンドルを握る当人こそが意識しまくってカチカチになり、全身に力が入っているようで、あれで本当に爽快なんだろうかと思います。
これは贅沢で爽快で、それができる自分は特別なんだと自分に言い聞かせて、本当は気骨の折れる行為をごまかしているようにも見えて仕方ありません。

とくに高級車になればなるだけ、乗っている方は意識過剰になり、せっかく高価なオープンカーを買い、いままさに屋根を開けて乗っているのに、無邪気に風と戯れることができず、キャップを被ったりサングラスをしたり取って付けたような肘つき運転をするなど、やはり根底にはわずかでも自分の恥ずかしさを隠そうとしているようにも見えます。

とくに多いのが、信号停車時などもほとんど体も動かさず、表情はことさら不機嫌そうな顔をしている人がよくあって、これなども優越感と自意識過剰のあらわれのように見えてしまいます。
そうでもしないと神経的にやってられないプレッシャーもあるようで、そんな労苦を押してでも、オープンカーの持つ華やかさの世界の住人であることを意識して楽しみ、快感を得ようという欲望と戦っているようです。たぶんガレージに帰って屋根を閉め、車から降りたとき、本当に心底楽しかったと言えるのかどうか、本人も実際はよくわかっていないのかもしれません。

かくいうマロニエ君も、ずいぶん前に、その設計思想とスタイリングに惚れ込んで当時話題のオープンカーを所有したことがありましたが、いやはや、とてもじゃありませんが昼日中の街中で「屋根を開けて走る」なんて勇気はどだい持ち合わせておらず、せいぜいクルマ好き同士が集まるミーティングのときにリクエストされて短時間だけ開けてみるとか、深夜にちょっとだけ試しに…といったぐらいなもので、99%は屋根を閉じたままでしか乗りませんでした。

そんな使い方が長続きするはずもなく、だいいちそれでは持っている意味もないので、けっきょく短い期間で手放してしまいました。それもあってか、いまだにオープンカーを全開にして乗っている人を見ると「お疲れさま」という言葉がわいてしまいます。
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ファツィオリ雑感

前回書いた、昨年のチャイコフスキーコンクール優勝者ガラで使われたピアノは、ピアニストがトリフォノフということもあってか、ファツィオリのF278がステージに据えられていました。
これまでの印象では、この若いピアニストとイタリアの若いピアノメーカーはずいぶんとWin-Winの関係にあるようですから、それも当然のことだったのかもしれません。

なにぶん演奏が演奏だったおかげで、正直いってピアノどころではなく、もうどうでもいいような気もしましたが、ついでなので少しだけ。

音や響きの印象は以前と変わりませんので省略して、視覚的な印象です。
サイドに書かれたFAZIOLIの文字は、一般的な真鍮の金文字だとステージの照明や反射の具合で見えづらくなることがあるための対策なのか、常にくっきり目立つ白文字となっており、しかも遠目にも判読できやすくするためか、少し肉厚に書かれているのはビジュアルとしてあまりいいとは思えません。

もともとファツィオリのロゴは、デザインの美しさと個性が両立した素晴らしいもので、この点では、新興メーカーとしては出色の出来だと思っていますが、しかしそれはあの繊細でスリムなラインの微妙なバランスがあってのこと。これを少しでも肉厚(しかも白!)にすれば、あの雰囲気はたちまち損なわれるとマロニエ君は感じるわけです(少なくともピアノに彫りこむ文字としては)。

さらにはピアノの左サイド(客席側は右サイド)にまでこの白い肉厚ロゴを入れるのはちょっとくどすぎるし、あまりにも宣伝効果ばかりが表に出てしまい、却って好感度を削ぐような気がします。
この点はヤマハも同様ですが。

三方向にまでメーカー名を入れて、なにがなんでもその名をアピールしたいのなら、いっそ後ろのお尻部分にもタトゥのようにロゴマークを入れて、この際全方位対応にすればどうかと思います。

また細かい点では、ピアノソロの場合、多くは譜面台は外したスタイルで、その譜面台を差し込むためのボディ側のガイド部分が丸見えになりますが、これがいかにも安物っぽいただの金属棒(ファツィオリお得意の純金メッキなどが施されているのかも知れませんが)になっているのは、まるでアジア製の大量生産ピアノみたいでした。
ファツィオリは生産も少数で価格も最高級、何から何まで贅沢ずくめのセレブピアノを標榜し、それに沿った巧みな宣伝にも努めているメーカーのようですが、これはちょっとイメージにそぐわないというか、案外つまらないところで割り切った造り方をするんだなあと思いました。

それにしても、舞台上手(つまりピアノの後方から)のカメラアングルで驚くのは、そのお尻部分の大きさ幅広さで、これは圧巻です。女性で云うなら安産型体型とでもいうべきで、ボディからなにから、徹底して華奢なスリム体型を貫くスタインウェイとは対照的な豊満なプロポーションだと痛感させられます。
たぶん、ファツィオリは響板面積も他社よりかなり広く取る設計なのかもしれません。

使われていた椅子は、見慣れたポールジャンセンでも、バルツでも、ランザーニでもないもので、確認はできていませんが、おそらくはスペインのイドラウ社のコンサートベンチだろうと思います。
ずいぶん肉厚の大ぶりなベンチで、個人的にはあまり好ましくは思いませんでしたが、ファツィオリのむちむちした雰囲気とプロポーションには妙に合っていたと思います。
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ゲーマー?

演奏家としての道義が感じられない演奏というのは今や珍しくもないので、少々のことなら慣れているつもりですが、ひさびさにそんなものでは処理できない演奏に出逢いました。

BSのクラシック倶楽部で昨年のチャイコフスキーコンクール優勝者ガラというのがあり、ピアノではダニール・トリフォノフがショパンの作品10のエチュード全曲を弾いていました。

あの素晴らしいハ長調の第1番からして、まさに無謀運転のはじまりで、華麗にして精巧なアルベジョの美しい交叉は、ただの粗雑でうるさい上下運動と化し、いきなり度肝を抜かれました。
どの曲も呆れるばかりにぞんざいで、やたら早く指を動かし、高速で弾き飛ばすことだけがエライということしか、この人の感性にはないのでしょう。

まあ、広い世の中にはそんな単純思考のオニイチャンもいるとは思いますが、そんな人があのショパンコンクールで3位となり、続くチャイコフスキーで優勝というのですから、いかにこのところのコンクールの権威が失墜しているとはいえ、ちょっと信じられないというか、この現実をただ時代の波や風潮として受け容れることはマロニエ君にはなかなか困難です。

あれではまずショパンに対してというだけでなく、栄冠を与えてくれたコンクールに対しても、コンサートのチケットを買って聴きに来てくれた聴衆に対しても、さらにはファツィオリのピアノやその様子を収録して放送しているNHKに対しても、礼を失しているのではと思ってしまいました。

中でも最も驚いたのは最後の「革命」で、ただもうめちゃくちゃなロックのステージか、はたまた格闘技でも見ているようで、それを生で聴かされている会場のお客さんの気持ちを思うといたたまれない気分になりました。

その演奏は強引な自己顕示欲の塊で、技巧的な曲では自分の能力をはるか超えたスピードで飛ばしまくり、当然コントロールはできていないし、それで音が抜けようが破綻しようが知ったことではないという様子です。またスローな曲では執拗にネチョネチョした気持ち悪さで、身体のあちこちが痒くなってくるようで、ともかくこの人の音楽的趣味の悪さといったらありません。

ふつう若くして世に出たピアニストには神童といわれる人が多く、彼らはその技巧もさることながら、若さに不釣り合いなほどの老成した音楽性と抜きん出た個性を持っているものですが、トリフォノフはその点ではただの幼稚で凡庸な子供というべきで、むしろ実年齢よりも遙か幼い感じにしか見えません。

ピアノを弾いている姿も、終始背中を丸めて汗だくで遊びに熱中している小学生のようで、最後に弾いた自分の編曲によるJ.シュトラウスの『こうもり』の主題による変奏曲などは、まるでテレビゲームの難易度の高い技を競い合う子供が、嬉々として技のための技を繰り広げて悦に入っている痴呆的な姿のようにしか見えませんでした。

マロニエ君はファツィオリのF278とF308が比較して聴けるという理由とはいえ、たとえ一枚でもこの人のCDを購入して持っているということさえ恥ずかしくなりました。
こんな人がコンサートピアニストとしてやっていけるのだとすれば、今のピアニスト稼業は、ある一面においてはずいぶん甘いんだなぁと思います。

夜中にもかかわらず、口直しならぬ耳直しをしないではいられなくなり、自室に戻るや、とりあえず目についたものの中から関本昌平氏のショパンコンクールライブCDを流してみましたが、なんというまともで立派な演奏かと感銘を新たにしましたし、こういう演奏をする人もいることにとりあえず安堵しました。
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蛮行CM

北米在住の方がおもしろいCM映像を紹介してくださいました。
正確に云うと、おもしろいというよりもおぞましいと云うべきかもしれませんが、GMのキャデラックの開発にどういうわけか使用されたというグランドピアノの破壊シーンです。

いかにアメリカが物質社会・消費社会とは云っても、こういう文化意志の欠落したCMを作るという感性そのものが驚きですし、しかもそれがアメリカで最高の高級車であるキャデラックのCMというのですから、まったく開いた口がふさがりませんでした。
キャデラックのユーザーは、開発や宣伝ためにピアノを破壊しても何も感じない、傲慢な人種だと示しているようなものです。

https://www.youtube.com/watch?v=rwLMOB6s2ps&seo=goo_%7C_Cadillac-Awareness-YouTube_%7C_YT-LUX-ATS-PIANO-DUMMY-TVST_%7C_Dummy_%7C_

こんなものが一般消費者にとって何の役に立つのか、あるいはどういう意味があるのか、さっぱりわかりませんし、彼らは人々が愛でて大切にするものを敢えて踏みにじり破壊することに、一種の快楽と嘲笑的なよろこびをもっているようにさえ感じます。

以前、ふとした偶然からみつけたのですが、アメリカにはいろいろなジャンルの高級品を破壊しまくって楽しむという悪趣味極まりないクラブがあって、その中にはピアノも含まれており、なんとスタインウェイのグランドピアノを鉄の大きなハンマーを手にした数人の会員(?)によってめちゃくちゃに壊すというのがあってさすがに気分が悪くなりました。原型をとどめないまでに無惨に破壊されたピアノの残骸の前で、ヤッタゼ!といった様子で悦に入っている様子には、なんという悪趣味な思い上がった民族かと思いました。

イラク戦争の折にも、イラク人の捕虜に対して宗教上人前で肌をさらすことを戒める彼らを、敢えて全裸にし、まことに破廉恥な行為を集団で強要し、挙げ句に勝ち誇ったようにその前で写真まで撮っていたのは記憶に深く刻まれる出来事でした。

ほかにもピアノでは、Youtubeの投稿映像でアメリカの若者が、家から運び出したピアノをピックアップの荷台に乗せ、それに縄をかけ、ある程度の速度に達したところで一気にピアノを地面に落とし、ロープで引きずられながらピアノはまたたく間にバラバラに崩壊してしまいますが、その様子に若者達は熱狂的な雄叫びをあげ、爆笑を繰り返すというものでした。
まさに西部劇に見る悪党の残忍な仕業そのものです。

アメリカだけではなく、山下洋輔氏も若気の至りだったのかどうかは知りませんが、恥ずべき過去の行為があることはご存じの方も多いと思います。
海辺にグランドピアノを置き、それに灯油か石油かをぶちまけて火をかけて、燃えさかるグランドピアノを山下氏がガンガン弾きまくるという、音楽家として最低のパフォーマンスでした。

ネット動画で探せば、現在でも見ることは可能なはずです。
私はもともと彼のことはあまり興味もなく、好きでも嫌いでもありませんでしたが、それを見てからというもの、いまだにこの蛮行が頭に焼き付いていて彼のことは好きになれません。

マロニエ君は、なにも「ピアノ愛護団体」のようなことを言い立てるつもりは毛頭ありません。
ただ、実用品とは一線を画すべき楽器を粗末にし、ときに破壊さえするという行為は、個人的には食べ物を粗末にする以上にその人の人格や教養を疑われる恥ずかしい行為だと思いますし、理屈でなく体質的感覚的に不快感を覚えてしまいます。

とりわけミュージシャンと名の付く人がそれをするのは許しがたいものがあり、外国のロックグループにもステージ上のピアノに火をつけて、その炎の周りで狂人のように歌い踊るシーンを見た記憶がありますが、なにをどう説明されようともマロニエ君にはその手の行為は受け容れることはできません。

それをGM(ゼネラルモータース:アメリカ最大の自動車会社)がCMとして堂々と広告媒体に載せるのですから、宣伝のためならペットでも虐待するのかと思います。
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ネット通販のリスク

連休前のこと、仕事上での必要があり、木製のテーブルを購入しました。

限られた予算の中では、いくつか覗いた店舗にはこれといって該当するものがなく、ネットで探したところ、ちょうど良いものが見つかりました。同じ製品を数社の通販業者が取り扱っているようで、店によって価格も少しずつ異なり、送料を含めるとそれぞれかなり条件が異なります。

どうせ同じものを買うわけですから、数店を比較して、販売価格+送料の合計金額の安いところから購入することにして、パソコン画面から購入手続きをおこないました。

この店のホームページによれば、営業日のある時間までに注文確認が取れしだい「即日発送」と自慢げに謳われており、それを裏付けるように、店休日を色表示したカレンダーまで二ヶ月ぶんが表示されています。
さらには配達希望日を指定することもでき、その会社は中国地方の都市にあるので、経験上、福岡ならまず一日で届くのでじゅうぶん余裕を持って日にち指定をして注文を確定させました。

それから数日後、配達希望日当日となりましたが、一向に荷物が届く様子もなく、なんの音沙汰もないまま日が暮れて、翌日から長いゴールデンウイークに突入しました。
在庫の関係などで発送が遅れることはあるにしても、画面上では「在庫あり」となっていたし、それならそれでなんらかの連絡があってもよさそうなものだと、この時になって思いました。

そういえば、注文時に先方より自動的に送られてくるメール以外には、発送が遅れる、もしくは希望日の配達はできないなどの連絡は一切無いままで、なんだか不安がよぎり、つい安さを優先したことが失敗だったかと思いましたが、ともかく大型連休に入ったので、この間じたばたしても仕方がないと腹を括りました。

連休明けは、配達希望日から実に10日も経過していますが、その間もついに商品が届くことはなく、7日に電話をかけてみましたが、これがなかなか出ない。このころになると、かなり嫌な予感がしていて、時間を置いて何度もかけていると、午後の2時近くになってようやく女性が電話に出ました。
事情を話すと、とくに恐縮した様子もないまま淡々と「注文番号をお知らせください」といって、調べてメールで連絡するというので、ここでメールではなく電話連絡を強く希望。

すると一時間ほどして電話があり、「注文は間違いなく確認できましたので明日発送いたします」と平然と言うので、なにひとつ連絡もないままで、即日発送とは程遠いではないかという主旨のことを云いましたが、ただ機械的に「申し訳ございません!」と、ぜんぜん申し訳なく思っていない感じで云うだけです。

その2日後、ほとんど2週間遅れで商品が届きましたが、やれやれと思いながら開梱してみると、なんとテーブルの縁に大きなキズと、その衝撃に伴う凹みが二ヶ所もあって愕然!
すぐにまた電話したものの、また出ない。

今度はこちらも意地になってかけ続けると、やはり前回と同じような時間になってようやく同じ女性が電話をとりました。どうやらこの事務所にはこの女性ひとりしかいないようで、しかも午後にならないとやってこないようです。すぐに状況を伝えると、また前回と同じ調子で「申し訳ございません」といって、代わりを発送するのが最短で月曜になるといい、これは4日先の話で、とにかく即日発送どころではありません。

さらには、その女性、こうつけ加えてきました。
「その部分の写真を送っていただくことはできますか?」ときた。
はあ!?なんでこれほど不愉快な思いをさせられた上にそんな面倒臭いことまでしなくちゃいけないの?と思いその点を問い質しましたが「商品はお届けとの同時交換となり、こちらからはキズの確認ができませんので、写メールで結構ですから確認が必要になります」といって、暗に自分の指示に従わなければ交換品も送れませんよ脅されているニュアンスに聞こえました。

こういう一方的な理屈はまったく納得できませんが、もうこの頃になるとマロニエ君としては、相手のことをまったく信用しておらず、ろくでもない業者だと感じており、でもしかしカード決済はしているし、下手をすればそのまま放置されるという危険性も感じ、ともかくもちゃんとしたものを送らせるまではひたすら忍耐だという自分なりの計算が働きました。

そして、やっと届いたばかりのテーブルのキズを、甚だ不愉快な気分の中で撮影し、先方のアドレスを携帯で一文字ずつ入力して、コンニャロ!という感じに送信ボタンを押しました。
さて来週、無事に代替品が届くかどうかというところですが、やはりこういう目に遭うと、相手の見えないネット通販はリスクがあるという当たり前のことを身をもって感じた次第で、みなさんもじゅうぶんお気を付けくださいね。
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買い物カート

日常生活の中には、あらためて言葉にすれば大したこともなくても、どうしようもなく嫌なことというのがあるものです。

こういうものは日常茶飯で、しかもその数はひとつやふたつではありませんが、特段の重要事項でもないために、すぐに忘れてしまうのが特徴です。

たとえばマロニエ君がすぐ思い出すのは、スーパーなどにあるカートの不具合があります。日常的に繰り返される酷使のせいで、下部に取りつけられたゴムのキャスターにガタや不揃いが出て、動きに変なクセがついてしまい、ついには利用者の思い通りにはまったく動かなくなってしまっているのがありますが、あれがとても苦手です。

とくに真っ直ぐ進みたいときに、この手のカートがまるで自分の意志でもあるかのように左右いずれかへ猛烈にステアしようとして、利用者は思いがけないカートの反抗に遭い、買い物中は終始この身勝手な動きと格闘し続けなくてはなりません。
多くの人がそうだと思いますが、曲がることが苦手なことよりも、シンプルな直進が思い通りにならず勝手に左右に行こうとするのを絶えず修正しながら前進するというのは、神経を逆撫でされるようで、しだいに腹立たしくなってくるのです。

クルマでも曲がりのハンドリングが痛快なことは重要ですが、まずは安定した直進性が確保されていないことには、ほとんど意味を成しません。

このじゃじゃ馬のようなカートに当たったが最後、不愉快で慣れるということはなく、イライラは募り、少しでも早く買い物を済ませて店を出たくなるもので、勢い余計な買い物もしなくなります。
ごく稀に新しいカートに入れ換えられたり、あるいは一部追加されたりすることがありますが、やはり新しいものは心地よく、スムーズで難なく使用者の思い通りに動いてくれるので、お店の印象まで無意識のうちに変えてしまうようです。

かくてマロニエ君はカート選びはできるだけ慎重にするように心がけていて、2〜3m動かしてダメだと感じたら引き返して別のカートに交換ということもします。それでも、どれもこれもがなかなか思い通りにならない場合があり、どうしようもないときは、カートと格闘するのが嫌なので、最後は押すのではなく、引っぱるように使います。

人によってはいかにもくだらないことのように思われるかもしれませんが、こういうことは気になる人にとってはかなりのストレスになるので、マロニエ君は決して軽視しないようにしています。

それでも所詮はスーパーの買い物時間中ぐらいだから事は重要でないまま終わりますが、これがもし、毎日数時間使わなくてはいけない道具だとしたら、きっと多くの人の神経にはかなり深刻な悪影響があるに違いないと思います。

経費節減がなにより優先される折、なかなかこれが刷新されることはありませんが、できることなら定期的に入れ換えて欲しいものです。
たかがカート、されどカート、素直じゃなきゃいけません。
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上原彩子

今年の3月にサントリーホールで行われた上原彩子さんのピアノリサイタルから、ラフマニノフの前奏曲op.32とリラの花、クライスラー=ラフマニノフ編曲の愛の喜びがBSで放送されました。

このリサイタルは、オール・ラフマニノフという精力的な取り組みだったようです。

上原さんはチャイコフスキーコンクールに優勝したときから、さまざまな噂や憶測が飛び交い、日本人による同コンクールの優勝は史上初ではあったものの、世界的コンクールの優勝者の扱いはあまり受けられなかったような印象があります。そういう事は抜きにしても、マロニエ君はテレビなどで断片的に垣間見るこの人の演奏には、まったく興味が持てず、まさに関心の外といった存在でした。

最近で云うと、ヤマハホールのオープンに伴うコンサートでは、風水の金運ではないのでしょうが全身真っ黄色のドレスを纏い、真新しいホールで最新のCFXを弾いていましたが、そんなお祝いイベントとは思えないネチネチと愚痴るばかりのようなショパンで、ちょっといただけない感じを受け、このときもまともに最後まで聴くには至りませんでした。

ところが、今回のサントリーではプログラムのせいかどうかは自分でもわかりませんが、なぜかちょっと聴いてみる気になったのです。結果から云うと、マロニエ君の好みの演奏ではないにしても、この人なりの良さや持ち味のようなものが少しわかった気がして、そのぶん見直してしまいました。

ラフマニノフが上原さんに合っていたのかもしれませんが、まず今どきの演奏にありがちな薄っぺらい表面的な感じがなく、よほど丹念に準備をされたのか、そこには深いところから滲み出るものがあり、これはこれで説得力のある収まりのついた演奏だと思いました。
見るところ、椅子はかなり高めで、ピアニストとしては小柄な方のようですが、それに反して出てくる音はなかなか堂に入ったもので、最近では珍しいぐらいピアノをよく鳴らし、プロの音色が聴かれたのはまずそれだけでも評価に値するものでした。

上原さん固有の特色としては、音楽に対するスタンスに一種独特な暗さと厳しさが支配しているように思います。今どきのピアニストには珍しい、滾々と湧き出るような深い悲しみと孤独感が立ちこめて、それが少なくともラフマニノフでは、この亡命作曲家の深い哀愁にも重なり、独特な効果となっていたように感じました。
クライスラー原曲の『愛の喜び』でさえ、ほとんど悲しみの音楽のようでした。

音楽に限らず、よろず芸術に携わる者は、自分が幸せいっぱいでは人間的真実の本物の表現者とはなり得ない場合が多いのは紛れもない事実で、あくまでマロニエ君が感じたことですが、この人の心には何かがわだかまっていて、それが演奏上のプラスにもマイナスにもなっているように思いました。

音色の面で感心したのは、音が繊細かつ大胆で潤いがあり、フォルテでも決して音ががさつにならず、常に安定した輝きと重みをもっていることや、各声部の音の強弱のバランス感覚は非常に優れたものがあると思いました。少なくともあの小柄な体つきからは想像も出来ない充実した厚みのあるサウンドが、きっちりコントロールされながら広がり出るのは立派です。

アーティキュレーションも細緻で、東洋人特有の非常に行き届いた配慮のある点はこの人の美点だと思いますが、惜しむらく弾むような色合いやスピード感という点ではあまり期待ができないようで、言い換えるなら作品の喜怒哀楽すべてを自在に表現できるプレーヤーではないように思いました。
したがって自分に合った作品を選ぶことは、上原さんにとっては非常に重要なファクターだと思います。

この日のピアノはまったく素晴らしい朗々と鳴るスタインウェイで、とりあえず文句なしという感じでした。聴くところによると上原さんのご主人は松尾楽器のピアノテクニシャンなのだそうで、もしかしたら、その方の手になる渾身の調整だったのかもしれませんが、これはあくまでマロニエ君の想像であって事実確認はできていません。
いずれにしろ、美しい響きのピアノでした。
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DVDプレーヤー

久々にオーディオの話になりますが、手作りスピーカーは、音のチューニングをやっているとキリがないということがわかり、同時に自分の経験や知識にも限界を感じて一応の区切りをつけています。

ところで、CDプレーヤーについてですが、最近はめっきりその数が少なくなり、一部のメーカーを除くと、昔のように適当な値段でこれを買うことが難しくなっているようです。
僅かに残っているのは、オーディオマニア向けの高級機などで、それは金額的にもケタが違います。

そんなときに思いついたのが、タイムドメインのYoshii9にまつわる話として聞いたもので、中途半端なCDプレーヤーなどは無意味ということで、この会社が推奨しているのが品質の良いポータブルのCDプレーヤーですが、それも最近は絶滅寸前で、電気店などをくまなく見てまわっても大半が名もなき中国製などしかありません。

そんな傍らで、一定の売り場面積を占めているのがいわゆるDVDプレーヤーで、いまやブルーレイレコーダーでもかなり安くなっている中で、再生だけを目的とするDVDプレーヤーなどは数千円のレベルでごろごろしています。

ここも中国ブランドらしきものが少なくはないのですが、日本のメーカーの製品も一応あることはあって、生産国は中国かもしれませんが、一定の品質管理はされていそうで、辛うじて一応の信頼性はある気がします。
そんなDVDプレーヤーを見ていると、なんと普通のCD-Rなども音声再生可能とあり、店員さんに聞いてみると、普通の音楽CDでも使えるということがわかりました。

なんとなくひらめくものがあり、値段もポータブルCDプレーヤーとそう大差ない金額なので、これを買ってみました。

もはや我が家では常用するに至っている中国製デジタルアンプに繋いで音を出してみたところ、果たしてこれが望外のクリアな音であることにびっくりさせられました。本格的なオーディオ装置を広い部屋で鳴らすときはわかりませんが、私室で適当な音量で聴くぶんには、少なくともマロニエ君の耳にはなんの不満もない美しい音が溢れ出して、非常に満足しています。

同時に、高級機以外のCDプレーヤーなどが姿を消してしまう背景が一気に理解できるようでした。これだけの音声の性能が、安いDVDプレーヤーのオマケ程度についているのですから、なにも図体の大きい単一機能のCDプレーヤーなどを買う必要もないし、だから売れない作らないという構図になることを悟りました。

現代人はiPodなどを常用し、家でもパソコンに繋いだ小型スピーカーなどで、音楽だけに留まらない、いろいろな音声を聞いて楽しみ、もはや音楽ひとつに熱中するということもないのでしょう。

ともかく、安いDVDプレーヤーからこれだけの高いクオリティの音があっけなく出るというのは嬉しいことのようでもありますが、どこかわりきれない、腑に落ちないものも感じてしまいます。それでも毎日使っているのですから、人間は勝手なものです。

ちなみにマロニエ君が買ったのはパイオニアのDVDプレーヤーで、価格はわずか4000円ほどのものでしたから、作り自体はちゃちですが、おそらく昔なら何万もするような性能に違いありません。
ネットなどの評価を見ると、この手のDVDプレーヤーの音質に関しては見下したようなコメントをしている人もいなくはないものの、それはよほどのオーディオ通か専門的な厳しい耳を持った一握りの人で、大半の人は大満足する筈だと思います。
少なくとも価格を分母にして判断すれば、これで文句を言ったら罰が当たるような素晴らしい音です。
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何かが欠落

この頃の若い人の運転ときたら、本当にまずいんじゃないかと思います。
とくに甚だしいほうの大半は男子。

過去にも書いたことがあるので、ああまたか!と思われそうですが、昨日も心底呆れるような車に立て続けに2台も遭遇し、お陰でこっちがいわれなきストレスをかかえるハメになりました。

そのひとつ。
夜、たまたま人を迎えに行くことになり、すでに相手には「これから行く」という連絡をしていたのですが、家を出てほどなくしてやや大きな通りに出ると、運悪く、あきらかに動きのおかしい車がノロノロ前を走っていました。

夜でもあり、昼間以上に安全運転が求められるのは当然ですが、そういう範囲のものではなく、この手の車は見るからに周囲から浮いており、いくら速度が遅くても、独特の危険なオーラがあふれています。
スピードのみならず、ひとつひとつの反応が異様に鈍く、車線をキチンとキープして走ることさえおぼつかない様子。

その証拠に、ふつう信号のない交差点などは少し減速して注意しながら通過するはずですが、そういう気配もなく平然と同じ速度で突っ切って行くし、そうかと思うと、たまたま自転車などが左脇を走っていると、たちまち自転車と同じ速度になり、右側は対向車もまばらで充分かわしていけるのに、まったくそういう意志がないようでトロトロと自転車の斜め後ろを走り続けるのですから、後続車はたまったものではありません。

そのうち自転車が左折しましたが、今度は元の速度(大した速度じゃないですが)に復帰するのもなかなかできずに、しばらくは超低速で平然と走ったりする有り様です。
本当なら一気に抜き去ってやりたいところですが、片側一車線の道路なので、やはりそこまでするわけにもいかず、とにかくイライラしながらこの車の後ろを追尾するしかありません。

そのうち前方の交差点が赤信号となり、ただ単に停車中の車の後ろについて止まるにも、考えられないほど手前から異様に減速し、しかも前車とは理解できないほど間隔を置いて止まってしまいます。
しかし、交差点内には右折車線があって、マロニエ君はここを右折するので、いよいよこの車ともおさらばのチャンスと思っていると、信号が青になり先頭から数台の車が動き出すと、なんと、その車も「いまごろ!」というタイミングで右にウインカーを出して年寄りのような足取りで右に寄り、あくまでもマロニエ君の前方を塞いでくるのですから、もうこの頃にはいいかげん血圧が上がっていたかもしれません。

こんな動きの車ですから、当然というのも妙ですが、右折ひとつするにも相当の時間がかかります。直進してくる対向車線も夜なのでそう多くはなく、じゅうぶん曲がれるタイミングは何度もありましたが、もちろんこいつはそんな気の利いた曲がり方はできるはずもなく、信号が再び赤になり、右折用の青信号が出るまで微動だにしませんでした。

ついに右折用→の信号が青になりましたが、思った通り、それから車が動き出すまでにも、一呼吸も二呼吸もおいてから、ようやくじんわりと車が右に曲がりはじめます。
右折した後の道は片側2車線なので、こちらは左車線に入って一気に抜き去ってやろうと思いますが、その前にどんな奴が運転しているのか、ついつい顔を見たくなるものです。

追い抜きざまに、ちょっと併走して右を見ると、髪の毛はピンピン立てたようなかなり若い男性がひとり、携帯をいじるでもなく前を真剣に見て運転しています。昔はこういう状況にひどく驚きもしましたが、最近は「ああ、やっぱり」という感じしかなくなりました。ですが、こういう車にしばしば遭遇すること自体、非常に憂慮すべきことのように思います。

事は単に運転がめちゃめちゃ下手だということに留まらず、もっと根本的で深刻な問題のような気がします。物事に対する基礎力や感性・感情の低下というか、運転という流動性の高い行為にあっても、まわりの状況を逐一察知して反応することが出来ない、いうなれば、これまで普通だった適応力とか反射神経みたいなものが恐ろしいまでに退化しているとしか思えません。

運転も本当の安全運転なら結構なことですが、マロニエ君の観るところ、ただ交通状況や周囲の流れなどを読んで協調する能力が欠落しているようにしか見えません。スピードを出すことは、良い悪いの問題以前として、たぶん技術的にできないのだと思います。
これが運転だけのことで、車から降りればメリハリのある聡明な人かもなんてとても考えられません。あの調子では、きっと充実した仕事も恋愛も出来ないだろうし、テンポのいい会話や相手に対する気配りなどもできるわけがないと思います。
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超お買い得

マロニエ君がフランスの管弦楽曲を聴く際に以前から好んでいる指揮者&オーケストラのひとつは、ミシェル・プラッソン指揮のトゥールーズ・キャピトール国立管弦楽団です。

プラッソンの指揮は流麗で愉悦感に満ち、どんな作品を振らせても明瞭で生命感にあふれているのが特徴でしょうか。フランス的な小味さとメリハリのある表現が心地よく、フランスものにはこれが一番という印象を持っています。

プラッソンの音楽的な資質もさることながら、手兵のトゥールーズ・キャピトール国立管弦楽団とはよほど相性がいいのか、その抜群の息の合い方は特筆に値するもので、まるで少人数で演奏しているような軽快感があり、オーケストラ特有のもってまわったような鈍重さがないのが特徴でしょう。
また、そうでなくてはフランス音楽をそれらしく鳴り響かせることはできないのかもしれません。

作品と演奏の相乗作用で、プラッソンの鳴らす音楽はどの断片を切り取ってもフランスならではの軽やかさと優美に満ちていて、ドイツものやロシア音楽ばかりが続いて、たまに口直しをしたくなったときなどに、プラッソンの指揮するフランスものはもってこいのような気がします。

そんなミシェル・プラッソンですが、EMIには多くの録音があるようで、手許にはその一部しか持っていないために、ある程度を買い揃えたいという思いがあったのですが、この人は重く注目されるタイプの巨匠でもなければ、ベートーヴェンやマーラーやブルックナーを主たるレパートリーとしているわけでもないので、まあ全集が出ることもないだろうと思っていました。

ところが、なんとEMIから、完璧な全集でこそないものの、実に37枚に及ぶBOXセットが発売されて、しかもその内容はベルリオーズ以降のフランスの主要な管弦楽曲をおおかた網羅した内容であるのにびっくりでした。
これはぜひそのうち購入しなければと思い続けていたのですが、マロニエ君には優先的に購入したいCDが常に立て込んでおり、このBOXのことも頭の片隅にはありながら、まだ購入には至っていませんでした。
しかし廉価なBOXセットは、一定の期間内に買っておかないと、なくなればいつまた入手できるかどうかの保証はありません。そうそう猶予はないというわけで、近い将来にはネットから購入ボタンを押すつもりでした。

ところが思いがけないことに、天神のタワレコにいつものごとく立ち寄った際にセール品のワゴンを覗いていると、な、なんと、このプラッソンのBOXがそこにひょいと投下されているではありませんか!
しかも価格は通常の約9500円から、なんと約4300円弱という半額以下のプライスがついています。もともと9500円でも1枚あたり260円弱という、単品で売られていたときの価格に比べたら10分の1ほどですから、それだけでもかなり強烈なバーゲンプライスであるし、さらにはネット購入なら割引条件を満たせば3割ほどは安く買えるのですが、この投げ売りには恐れ入りました。

それを発見したときは思わず声が出そうになりました。
我が目を疑うとはこのことで、一も二もなく、勇み立って購入したのはいうまでもありません。
1枚あたりわずか115円という、ほとんど100円ショップ並のお値段で、これだけの輝くような名演の数々が聴けるのですから、なんたる幸せか!と思うばかりです。

CDはベルリオーズの幻想ではじまりますが、当然これまでに聴いたことのないような作品が随所に溢れかえっており、はやくも5枚目にしてグノーの交響曲という、マロニエ君にとってまったく未知の作品にも接することができました。そのなんともフランス的な柔らかで享楽的な音楽を楽しむにつけ、この先もどんなものが出て来るやら楽しみが増えました。

実は、タワレコのワゴンには、このプラッソンのBOXは2つあったので、残る1セットはたぶんまだあるかもしれません。ご興味のある方はこれほどのお買い物はなかなかないと思います。
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ラルス・フォークト

リッカルド・シャイー指揮のライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の今年2月の演奏会が放送され、曲目はグリーグのピアノ協奏曲(ピアノはラルス・フォークト)とマーラーの交響曲第5番。

会場も、その名の示す通りこのオーケストラのホームグラウンドであるライプチヒ・ゲヴァントハウスですから、通常の定期公演のようなものだろうかとも思いますが、そのあたりの詳細はよくわかりません。

実を云うとマロニエ君がラルス・フォークトの演奏を聞くのは、映像としても音としても初めてだったので、そういう点でも興味津々ではありました。
というのも、このピアニストの存在はずいぶん前から知ってはいましたが、CDのジャケットなどに見る表情があまり恐くて気分が萎えてしまい、それなりの人かもしれないとは思いつつも、つい躊躇してしまっていたので、今回ついにその演奏に触れることが出来たというわけです。

この超有名曲は、湧き上がるティンパニの連打の頂点に、独奏ピアノのイ短調の鮮烈な和音が閃光のごとく現れて降りてくることで幕を開けるのが一般的ですが、その一連の和音のありかたが一般的なものとはやや異なり、妙に抑えたような、ちょっと違った意味を持たせたようなものであったことに、冒頭小さな違和感を覚えました。

しかし、聴き進むにつれてこの人なりのスタイルと表現の意志力がはっきりしていることがわかり、次第にその音楽に馴染むことができました。ひとことで云うなら柔と剛が適切に使い分けられながら迷いなく前進し、演奏を通じての自己表出より、専ら音楽に奉仕するタイプの演奏であると思いました。
様々なかたちはあっても、結局は自分自分というタイプの演奏家が多い中で、フォークトはまず音楽を第一に置き、作品をよく咀嚼し、慎重さをもって演奏に望んでいるようでした。根底には音楽に対する情熱があるものの、それを恣意的な方法であらわすことはせず、あくまでも抑制が効き、作品に対する畏敬の念が感じられました。

印象的だったのはピアノが表面に出るべきところと、そうではないところをきっちりと区別し、必要時には潔くオーケストラの裏にまわることで、常に作品のバランスを優先させようと努めているのは好感が持てました。
いわゆる英雄タイプの華々しい演奏でアピールするのではなく、協奏曲の中にあっても内的で繊細な表現が随所に見受けられ、聴く者は集中してそれらに耳を澄ませることを要求するタイプの演奏家であったと思います。

それでいて強さや激しさが必要なところでは作品が要求するだけのことが充分できる器があり、まさにテクニックを音楽表現の手段として適材適所に使っているという点は立派です。だからといって個人的には双手をあげて自分の好みというわけでもないのですが、今後は曲目によってはフォークトのCDなども買ってみるかもしれません。

それにしても、なんとなく感じたのは、ドイツの聴衆というのは一種独特なものがあります。
客席にはほとんど空席もなく、座席は整然とむらなく埋まっていて、しかもほとんどがある一定の年齢の大人ばかり。さらには体のサイズまで揃えたような立派な体格の男女が、きちんとした服装で整然とシートに着席しており、それがいつ見ても微動だにしません。笑顔も私語もなく、一同がカッとステージの方を見守っており、肘掛けも使っていないような姿勢の良さはほとんど軍隊のようで不気味でした。

要は音楽に集中しているという事なのかもしれませんが、東洋の島国の甘ちゃんの目には、このえもいわれぬ雰囲気はどうしようもなく恐いような気がします。
要するにドイツ人というのはそういう民族なのかもしれません。

むかし親しいフランス人が言っていましたが、フランス人とドイツ人は基本的歴史的に仲良しではないのだそうで、明確にドイツ人は嫌いだと言っていました。とくに彼らがビールなどを飲んで騒ぐときや外国に出たときのハメの外し方といったら、それはもう限度がないのだそうで、あの聴衆の姿を見ていると、確かにそういう両極両面が背中合わせになっているのかもしれないと思いました。

ヨーロッパでもとりわけ西側のラテン系の人達とはそりが合わないようでしたが、まあそれも理解できる気がします。しかし、彼らが作り出すもの、わけても音楽や機械や医学などあらゆる分野の優れたものは、この先もずっと世界の尊敬を集めることだろうと思います。

そんな中で見ていると、明るくせっせと指揮をするシャイー(イタリア人)は、ひとりだけヘラヘラしたオッサンのように見えてしまいますから、お国柄というのはまったくおもしろいものだと思います。
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『純と愛』

もう時効だろう…というわけでもないのですが、NHK朝の連続テレビ小説の中でも、3月末で終了した『純と愛』ほどおもしろくないものは過去に無かったように思います。

そもそもこの連続テレビ小説は、昔から話の内容などは説得力のないものばかりで、その点では慣れっこですから、少々のことではこんな風には思いません。

番組作りとしても、半年間、日曜を除く毎日を15分ずつに区切って、一定して視聴者に見せるためには、そう大きな波や偏りがあってはならないでしょうし、できるだけ平坦に、しかも毎回をそれなりにおもしろくすることで「毎日継続して観てもらう」ということが求められるのだと思います。

早い話がテレビ版紙芝居みたいなもので、その内容がどれほど奇想天外で、現実離れしていようとも、あくまでそこはドラマの世界なので、見る側もそれは承知であるし、要は見てそこそこ楽しければそれでじゅうぶんこのシリーズの価値はある筈です。

制作にあたっては、半年間で一作というわけで年間二作、東京と大阪それぞれのNHKによる制作だそうですが、これまでの傾向としては概ね大阪制作のほうが味があっておもしろく、東京のほうがよりNHK的と云うか保守的で、娯楽の要素ではいつも負けているという印象でした。
それもある意味当然で、なんといっても大阪はボケとツッコミを身上とするお笑いの土壌ですから、そりゃあ大阪のほうがおもしろいものを作ることにかけては一枚も二枚も上を行くのは当然だろうと思っていました。

ところが『純と愛』は、その大阪の制作だったのですからちょっと信じられませんでしたし、東京制作にしてはそこそこの出来だった『梅ちゃん先生』からの落差は甚だしいものでした。
まず主人公の純と、その夫である愛(いとし)のいずれも、(マロニエ君には)人物像としてまったく好感の持てない、図太くて押し付けがましい、自己中人間にしか見えず、これが終始番組の中核になっていたのが決定的だったように思います。

連続テレビ小説のヒロインが、何事にもめげない頑張り屋の明るい女の子というだけなら、毎度のお約束のようなものですが、この純は、がさつな熱血女子で、デリカシーがなく、遠慮というものを心得ない人物でした。それに対して愛は、病的で、辛気くさく、むら気で、「一生純さんを支え続けます」などと大言を吐きながら、ちょっとした事ですぐにつむじを曲げ、容赦なく不機嫌になっては相手を苦しめたりの連続でした。

さらにはこの二人に共通していたのは、何かというとお説教の連射で、何度この二人が画面の前で滔々と白けるような人生訓みたいなものを垂れるのを聞かされたかわかりません。しかも、その内容というのが、いまどきのキレイゴトの空疎な言葉のアリアのようで、聞いているほうが恥ずかしくなるようで、耐えられずに何度早送りしたかわかりません。
とくに見ていておぞましいのは、年端もいかない若い二人が、いい歳の大人や他人を相手に、この手のお説教をするという僭越行為であるにもかかわらず、それがさも人の心を動かす尊いことのように取り扱われている点で、聞かされた相手は、ドラマとはいえ、最終的に必ず改心したり生まれ変わったり感動したりというような反応を見せるのですからたまりません。

ほんらい連続テレビ小説は、ごく短時間、ちょっとした楽しみのために見る軽いスナック菓子のようなドラマであるはずなのに、家族を不幸に陥れて最後は溺死する父親、若いのにアルツハイマーになる母親、生活無能力者のような兄と弟、さらには脳腫瘍で倒れ、手術後も最後回まで意識回復できない愛(夫)等々、あまりにも暗い要素ばかりが折り重なって、非常に後味の悪い、暗いドラマだったという印象です。

続いて始まった東京制作の『あまちゃん』は東北の漁業の街が舞台ですが、これは開始早々笑える明るいドラマで、いっぺんに空がパァッと明るく晴れたようです。
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さすがエマール

少し前にクラシック倶楽部で放送され、聴くのが遅れていたピエール・ロラン・エマールの昨年の日本公演から、ドビュッシーの前奏曲集第2巻をようやく観ました。

まず最初に、エマールのような世界の最高ランクであろうピアニストがトッパンホールのようなサイズ(400席強)のホールでコンサートをすることに驚きました。
どうやらこれはホール主催の公演だったようですから、それならまあ納得というところでもありますが、本来ならこのクラスのアーティストともなると、東京ならサントリーホールぐらいのキャパシティ、すなわち二千席規模の会場でコンサートをやるのが普通だろうと思いますし、最低限でも紀尾井ホール(800席)あたりでないと、この現役の最高のピアニストのひとりであるエマールのチケットを買えない人があふれるのは、いかにももったいないという気がしました。

しかし世の中には皮肉というべきか、逆さまなことがいろいろあって、実力も伴わずして分不相応な会場でコンサートをしたがる勘違い派が後を絶たないかと思うと、意外な大物が、意外なところでささやかなコンサートをやったりするのは、なんとも不思議な気がします。

まあ、大物ほど自信があり、余裕があるから、気の向くままどんなことでも平然とやってしまうのでしょうし、その逆は、やたら背伸びをして格式ある会場とか有名共演者と組むことで、我が身に箔を付けるべく躍起になっているということかもしれません。

さて、エマールの演奏は予想通りの見事なもので、堂に入った一流演奏家のそれだけが持つ深い安心感と底光りのするような力があり、確かな演奏に身を委ねていざなわれ、そこに広がり出る美の世界に包まれ満足することができました。
基本的には昨年発売された前奏曲集のCDで馴染んだ演奏であり、エマールらしい知的で抑制の利いた表現ですが、音楽に対する貪欲さと拘りが全体を支えており、久々に「本物」の演奏を聴いた気がしました。
しかもそこにはピリピリと張りつめた過剰な緊張とか、知性が鼻につくということがなく、あくまで音楽を自然な息づかいの中へと巧みに流し込んでくるので、聴く者を疲れさせないのもエマールの見事さだと思います。

さらにいうなら、演奏家も一流になればなるだけ、その人がどういう演奏をしたいのか、どういう風に作品を受け止め、伝えようとしているかということが聴く側に明確かつなめらかに伝わって来て、芸術が表現行為である以上、このメッセージ性はいかなるジャンルであっても最も大切なことであろうと思います。しかし、現実にはそれの出来ていない、名ばかりのニセモノのなんと多いことか!

ピアノはおそらくトッパンホールのスタインウェイだと思いますが、なにしろ調律が見事で、やはり楽器にもうるさいエマールが納得するまで慎重に調整されたピアノだったのだろうと思いました。
基本的に全音域が開放感に満ち、立体感の中に透明な輝きが交錯するようでありながら、音そのものは決してブリリアントな方向を狙ったものではない、いわば非常にまともで品位のあるところが感銘を受けました。低音は太く、ボディがわななくようなたくましさをもった音造りで、マロニエ君の好みの調律でした。

つい先日、グリモーのブラームスを聴いたばかりでしたが、同じフランス人ピアニストでも格が違うとはこのことで、まさに真打ち登場! ゆるぎないテクニックに支えられた他者を寄せ付けない孤高の芸術を、聴く者に提供してくれるのはなんともありがたい気分でした。

ピアニストがピアニストで終わるのではだめで、やはり真の芸術の域に到達しているものでなくてはつまらないとあらためて思いました。
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知りたがり

知人がふと口にしたことですが、曰く「苦手な人のタイプは、やたらと他人のことをあれこれ質問してくる人」なんだそうで、その嫌悪感が高じて人嫌いになった面があるという話を聞きました。
ここでいう質問とは、つまり「知りたがり」であり「詮索好き」という意味です。

マロニエ君は、さすがにそれで人嫌いになることこそなかったものの、いわゆる知りたがり屋というのは理屈抜きに嫌なものというのは、まったく同感です。

他人のことをなにやかやと知りたがる人というのは巷に少なくありません。
もちろんマロニエ君もターゲットになった経験は何度もあり、雑談に事よせてこちらのことを根ほり葉ほり聞いて来る人というのは、ひとつ答えるとまた次の質問になり、非礼の意識がないぶん歯止めが効きません。

そんなにいろいろと立ち入ったことを聞いてどうするのかと思いますが、おそらくはそれによって人を分類・整理していると思われ、それがいつしか欲求となり体質化してしまっているようです。だから人を見ればあれこれ聞かないことには安心できないのでしょうし、気持の上でも納まらないのだろうと思われます。

むかしの携帯電話のない時代は、電話をすると、その家のお母さんなどが出られる場合が多かったように思いますが、そんな中にもこの手合いがいて、不愉快になることがときどきあったのを思い出します。
こちらがきちんと自分の名を名乗っているにもかかわらず、友人なり知人に取り次いでもらうよう願い出ると、「どちらの○○さんでしょう?」とか「どういうご関係の方ですか?」などと、まことに失礼なことをズケズケ聞いてくる人がいて、思わずムッとしたことは一度や二度ではありません。

さすがに時代が変わって、そういうシチュエーションこそなくなりましたが、本質的に知りたがりという種族はまったく後を絶たないようです。

例えば、なにかというと他人およびその係累の職業などを聞きたがるのは、のぞき趣味丸出しというべきで、最終的に恥をかくのは自分であるのに、当人に自覚がない為に打つ手がありません。それを面と向かって指摘する人もまずいませんから、よほど身内から厳重注意でもされない限り、永久にその癖は直らないわけです。

マロニエ君は一線を越えると物を申す主義なので、あまりに礼を失した質問攻勢などに遭遇すると、「まるで身上調査をされているみたいですね!」というような皮肉を言ってストップを掛けることもありますが、それでも自省するどころか、今度は「あの人は秘密主義」というようなレッテルを貼ったりするなど、ただただ呆れる他はありません。

あらためて言うまでもまりませんが、よほど必要がある場合を除いて、不用意に他人の職業や家族の内情などプライバシーに触れることは慎むのが本来常識で、それはお付き合いの中からあくまで自然にわかってくる範囲に留めるべき事柄です。
なぜなら、世の中のすべての人が自分が満足する職業でいるわけではなく、むしろ数から言えば不本意な現実に甘んじている人のほうが多いかもしれず、そういう事を言いたくない聞かれたくない人も大勢いるわけで、それは学歴や住んでいる場所なども同様、実に多岐にわたり、今風に云うなら個人情報です。

極論すれば「人に職業を聞くというのは、おおよその収入を知りたがっているのと同じことだ」と言う人もあり、これは云われてみるとまったくなるほど!と思わず膝を打ちました。

ひどいのになると、住まいは一戸建てかマンションか、賃貸なのか、自己所有なのか、土地は何坪なのかなど信じられないようなことまで、とにかく自分の興味の赴くままに、どこまでも追い回して聞きたいわけで人迷惑も甚だしいことです。

一般に辛うじて常識となっているものでは「女性に歳を聞くのは失礼」などですが、それに匹敵するものは実は他にもたくさんあるのに、あまりにも無知で無法状態というのが実情です。

普通の人なら、十中八九そういう質問をされることに不快感を抱くはずですが、それでもなんとかその場はポーカーフェースで我慢するだけで、質問者のほうはまさかそんな悪印象を持たれているなんて夢にも思っていないのだろうと思うと、その意識のズレはやりきれません。
因みにマロニエ君は、自分の職業その他がとくに恥ずべきものとも誇れるものとも両方思っていませんが、しかし興味本位でそういうことをつつかれるのは、その底意や気配を感じるので愉快ではありません。

これは自分のことを知られたくないというよりは、無礼に対する単純な不快感と、のぞき趣味の人間の低級な興味に、むざむざ答えを与えてやって満足させるのが嫌なのです。
それにしても…なんでそんなにも人のことが気になるんでしょうねぇ。
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グリモーのブラームス

毎週、日曜朝にNHKのBSで放送されていた『オーケストラ・ライブ』が4月からの番組編成でなくなり、事実上その代わりとも云うべき番組が、ずいぶん出世して、日曜夜の9時からEテレで2時間、『クラシック音楽館』として始まりました。

マロニエ君はいつも録画を夜中にしか見ませんから、個人的には朝でも夜でも構わないのですが、世界的なクラシック離れの流れの中にあって、これまで早朝にほとんどお義理のように放送されていたクラシックの番組が、日曜夜9〜11時という、このジャンルではまさにゴールデンタイムに復活してきたことは嬉しいことです。

その第一回放送は、デーヴィッド・ジンマン指揮によるN響定期公演で、ブゾーニ:悲しき子守歌やシェーンベルクの浄夜のほか、メインとしてブラームス:ピアノ協奏曲第2番というものでした。
ピアノはエレーヌ・グリモー。

グリモーは20代の後半にブラームスの第1番の協奏曲をCDで出していますが(共演はザンデルリンク指揮ベルリンシュターツカペレ)、それはいかにも曲に呑まれた、このピアニストの器の足りなさと、さらには若さから来る未熟さみたいなものが全面に出てしまうもので、ちょっと成功とは言い難い演奏でした。
それもやむを得ないというべきか、ブラームスのピアノ協奏曲は両曲とも50分前後を要する大曲で、まともに弾き通すだけでも大変です。ましてやそれを説得力のある演奏として、作品の意味や真価を伝え、さらには音楽としての張りを失わずに、聴く者を満足させることは並大抵のことではないので、そもそもピアニストはブラームスのコンチェルトはあまり弾きたがりません。

一説には、コンクールでもブラームスのコンチェルトを弾くとまず優勝は出来ないというジンクスがあるようです。それは音楽的にも技巧的も難しいばかりでなく、その長大さから審査員の心証もよくないし聴衆も疲れて人気が得られないからだそうです。

しかしマロニエ君は、ブラームスのコンチェルトは楽曲として最も好きなランクのピアノ協奏曲に位置するもので、もし自分がコンサートで活躍するような大ピアニストだったなら、主催者の反対を押し切ってでも弾いてみたい曲だと思います。ヴァイオリン協奏曲も同様。

冒頭のインタビューで、グリモーはブラームスの協奏曲は第1番が書かれた25年後に第2番が書かれており、それは偶然自分でも、若い頃にアラウの演奏で第1番に接しその虜になったものの、第2番はもうひとつ掴めず、これが自分にとってなくてはならないものになるにはちょうど25年を要したなどと、なんとも出来過ぎのようなことを喋っていましたが、そこには今の自分がピアニストとして成熟したからこそこの曲を弾く時が来たというニュアンスを言外に(しかも自信たっぷりに)含ませているような印象を持ちました。

「それでは聴かせていただきましょう!」というわけで、じっくり聴いてみました。
開始後しばらくは、それなりに良い演奏だと思いましたが、次第に疲れが見えてくることと、やはりこの人には曲が巨大すぎるというのが偽らざる印象で、とくに後半では、大きなミスをしたというわけではないけれども、かなり無理をしている様子が濃厚になり、演奏としても破綻寸前みたいなところが随所にありました。

もともとグリモーは、フランスのピアニストであるにもかかわらず伝統的なショパンやドビュッシーのような系統の音楽を弾くことに反発し、10代のころからロシア文学に親しみ、音楽もロシア/ドイツ物などを多く取り上げてきたという、いわば重量級作品フェチ少女みたいなところがありました。

まるで、子犬がいつも大型犬に臆せずケンカを挑んでいるようで、それが見ようによってはほほえましくもあるのですが、やはり器というものは如何ともしがたいものがあるようです。
第一、弾いている手つきがどうしようもなく幼児的で、とても世界で活躍するピアニストのそれとは思えないものがあり、とにかくよくここまできたなあ…というのが正直なところですが、それだけ彼女には光るものがあって、あまたいる腕達者に引けを取らないポジションを獲得しているのだと思います。

ブラームスで云うと、グリモーはソナタでも曲が勝ちすぎますが、この作曲家には極めて高い芸術性にあふれた多くの小品集・間奏曲集等があるので、そのあたりでは彼女の本領が発揮されると思います。
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店内自衛隊

おもしろい話を聞きました。

その人は土曜の夕刻、天神で化粧品などを買うため、ある有名な薬局兼化粧品店に入ったそうです。
ここは天神の中でも最も人通りの多いエリアで、土曜ともなると大変な人出で賑わっていたようですが、その人が店に入る直前、表通りに外国語(アジアの大国)をさかんに喋る一団があって、雑踏の中でもどことなく目立っていたといいます。

この国の人達は、おとなしい日本人とは違い、どこでも構わず独特の調子でワアワアしゃべりまくるので日本人でないことはすぐにわかるそうで、それはマロニエ君も何度か経験しています。こちらに居住している留学生などはまだそれほど強烈ではないのですが、観光客は旅行中ということもあるのか、その声のボリュームとテンションは傍目にもかなりのものです。

さて、薬局兼化粧品店の店内もかなりの混雑ぶりだそうで、3つあるレジはフル回転状態だったとか。
すると、さっき外で見かけたその外国人旅行者の一団(7〜8人と旗を持つ添乗員がひとり)がどやどやと入ってきて、たちまち各自あれこれ商品を手にとって品定めが始まったそうですが、同時に店員の表情が傍目にもわかるほどあからさまに変化した(こわばった)そうです。

すると、ある奇妙な動きが起きたというのです。

そんな繁忙時間にもかかわらず、5〜6人の店員が各々の忙しい仕事を中断してサッと動き出し、その旅行者達のまわりをさりげなく取り囲むような陣形を布いたそうです。
お客さんに商品説明をしていた人も、すぐにそれをうっちゃってこの態勢をとるし、3つのレジもひとつがすぐに閉鎖され、すかさず監視要員に早変わりしたというのですから驚きです。

こうも息を合わせたように、すみやかな動きが取れるようになる陰には、よほど日頃の丹念な打ち合わせが整っていたに違いないというわけです。
それにしても、日本でこれほどお店の店員が迅速かつ警戒的な動きをするというのは、マロニエ君もほとんど覚えがなく、よくよくの事だろうと思われます。おそらく、その必要を強く認識させるだけの被害がこれまでにも度々発生し、ついにはその自衛策が講じられたのでしょう。

この国の人達は、なんでも勝手に持ち帰るのがお得意らしく、いまや彼らの行く先では、五つ星のホテルなどでもバスローブなど多くの備品が続々と姿を消しているそうで、壁にかけられた絵なども大型のスーツケースに入らないサイズにするとか、シャンプーやリンスも壁の埋め込み式にしても、それを壁から引き剥がしてまで持ち帰るのだそうですから、いやはや凄まじい限りです。

九州のとある観光地のホテルでは、小物の備品はもちろん、ついには大型の液晶テレビまで持ち去られたというのですから、もはや笑うに笑えない実情のようです。
そんな大きなものでも、持ち去りの被害に遭うことからみれば、薬や化粧品は、どれも小さなアイテムばかりで、さらにはこの国の人達には資生堂を始めとする日本製の化粧品や薬品は大人気だといいますから、恰好のターゲットなのでしょうね。

こういうことを書くと、「そうでない人もいる」とか「日本人にも悪い人はいます」などとわかりきったようなことを正論めかして言ってくる人が必ずいますが、こういう現実はもはや個人差の範囲ではないということを証明しているようなものです。

経営者にしてみれば、お客さんというより、窃盗団が堂々とやってくるようなもので、やむなくこのような店内自衛隊が組織されているんでしょう。
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一級ピアノ調律技能士

「ピアノ調律技能士」という言葉をご存じでしょうか?

これまで、ピアノの調律師というものにこれといった明確な資格があるわけではなく、専門学校や養成所で調律の勉強をした人が卒業後社会に出て、メーカーや楽器店の専属になるなどしてプロとしての経験と修行を積み、さらにはフリーの技術者として独立する人などがあるようですが、そこに特段の基準や資格があるわけではありませんでした。
それだけに、逆に技術者としての実力が常に問われるとは思いますが。

これは何かに似ていると思ったら、ピアニストもそうなのであって、音大を卒業したり、コンクールに入賞したり、あるいは才能を認められるなど、各人いろいろ経過はあっても、ピアニストを名乗るのにこれといった資格や免許などの基準はありません。
まあピアニストのほうがさらにその基準は曖昧かもしれませんが。

資格がないというのは音楽に限らず、文士や絵描きも同様で、そのための公的資格などを必要としないのは当たり前といえば当たり前で、それによって人や社会に著しい不利益や損害を与えるわけでもなく、突き詰めていうなら「人命にかかわる仕事ではない」からだろうとも思います。

つまり、なんらかの方法でただ調律の勉強をしただけの人が、現場経験もないまま、いきなり自分は調律師だと称して仕事をしたとしても、これが違法ではないわけです(ただし、そんな人に仕事の依頼はないとは思いますが)。
それだけ技術的な優劣を客観的に判断する基準というものがなかったということでもあり、新規で良い調律師を捜すことは難しい面があったかもしれません。

ところが、この分野に国家資格というものが創設され、社団法人日本ピアノ調律協会の主導のもとで2011年にその第1回となる試験が行われたようです。

1級から3級まであり、受験者は誰しもこの国家資格に挑もうとする以上、目標はむろん1級にある筈ですが、1級の受験資格は「7年以上の実務経験、又はピアノ調律に関する各種養成機関・学校を卒業・修了後5年以上の実務経験を有する者。」と規定されており、それに満たない人は自分の実績に応じたランクでの受験となるのでしょう。

さて、このピアノ調律技能士の試験は予想以上に狭き門のようで、第1回で1級に合格した人は全国でわずかに32人、受験者数は252人で、合格率は実に13.3%だったようです。筆記と実技があるようですが、とくに実技は作業上の時間制限などもあって相当難しいようです。
ちなみに九州からも、多くの名のあるピアノ技術者の皆さん達が試験に臨まれたようですが、結果は全員が不合格という大変厳しい結果に終わったようです。

これは九州の技術者のレベルが低いということではなく、どんな試験にもそのための「情報」と「対策」という側面があるわけで、この点では東京などの大都市圏のほうがそのあたりの有益な情報がまわっていて、受験者に有利に働いたのは否めないということはあったのかもしれません。

さて、我が家の主治医のお一人で、現在ディアパソンの大修理もお願いしている技術者さんも、第1回で不合格となられ、翌年(2012年)秋の第2回に挑まれました。
その結果発表が今春あって見事に合格!されました。なんでも、九州からの合格者はたった2人(一説には1人という話も)だけだったそうで、これにはマロニエ君も自分のことのように喜びました。ちなみに今回は、前回よりもさらに合格率は低く9.1%だったようで、まさに快挙というべき慶事です。

ディアパソンの修理の進捗を見るためにときどき工房を訪れていますが、先日は折りよく合格証書が届いてほどない時期で、さっそく見せていただきました。
御名と共に、「第一級ピアノ調律技能士」と恭しげに書かれており、現厚生大臣・田村憲久氏の署名もある証書でした。

この主治医殿が、昔から事ある毎に次のように言っておられたことをあらためて思い起こします。
『ピアノ技術者で最も大切なことは実は技術ではありません。技術は必要だが、それはある程度の人ならみんな持っている。それよりも、いかに当たり前のことをきちんとやっているか。要はその志こそが問題だと思いますよ』と。

まさに、今回はその志が結実したというべきでしょう。
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続・断捨離

断捨離の精神が『人生や日常生活に不要なモノを断つ、また捨てることで、モノへの執着から解放され、身軽で快適な人生を手に入れる』という事は、たしかに一面に於いては納得できる話ではあります。

マロニエ君のまわりにも、パソコン上で未読メールを何千通も抱え込んで消そうともしない友人がいたりしますし、巷には「片づけられないオンナ」というのが多いのだそうで、きっと男にも同類がいるでしょうし、これは単なる横着や怠け者というより、ほぼ脳内の問題のような気がします。

ゴミ屋敷などという甚だしく社会迷惑な家も珍しくない時代ですが、物が捨てられない人が決まって口にする言葉は「これはゴミではない。自分にとっては必要な物で宝物、いつか必ず役に立つことがある」などと云うようですが、聞かされる側はとても納得できることではありません。

「モノへの執着から解放される」というのは、ある意味に於いては清らかな精神を持つための第一歩かもしれません。むかしテレビで見たマザー・テレサは、多くの修道女達を従えて彼女達の為に準備された住まいに入るや、いきなりカーペットを剥がし、調度品を屋外に運び出し、物に執着しない高潔な精神の持ち主であることを躊躇なく実践して見る者を驚かせました。(尤も、彼女は実は大金持ちで、いろんな噂もあるようですが…)

また、司馬遼太郎の『龍馬がゆく』では、千葉道場のさな子との別れに際して、龍馬が自分の形見の品を渡そうとするものの、ふと気がつけば彼には刀以外に何一つ持ち物がなく、やむを得ず着物の袖を引きちぎってそれを渡すというところがあり、いかにも私欲のない、器の大きな、些事に恬淡とした龍馬という人物を象徴的に描いています。
史実の上でこれが真実かどうかはともかく、若い頃これを読んだとき、本物の男の究極の姿とは、そういうものなのかと考えさせられたことがありました。

モノに限ったことではないですが、何事においても「執着する」ということは、正当な目的をもつということとは似て非なる事で、執着はその人の本来の能力や自由を奪い、ひとつのことに縛り付けるという副作用があるようです。出世への執着、金銭への執着、権力への執着などは、どれもがその病的な心の作用に翻弄されているばかりで、見聞きして気持ちのいいものではありません。

また最近では、新種の執着族も激増して、たとえばスマホから離れられないような人達もそのひとつかもしれません。便利な道具として賢く使いこなすのではなく、完全に道具に人間が支配されていほうが多いでしょう。とくに若い人ほどその傾向が強く、その執着心に捕らわれている代償として、感情や言葉までも貧しくなり、本来の人間としての能力まで錆びつかせているようにも感じます。

こう考えると、不要物もそんな害悪のひとつであることは否定できませんから、なにも極端な断捨離を目指さないまでも、ほどほどの整理整頓を実践することで、そのぶん心も軽く自由で快活になるとしたら、やはりその価値はあると思いますが、かくいうマロニエ君もなかなか思うようにはできません。

しかし「過ぎたるは及ばざるがごとし」の喩えの通り、あまり何もかもを不要物と見なして捨て去るのもどうかと思います。マロニエ君の私見ですが、ある一定量の物は、心に安心と豊かさをもたらすという一面もあるはずで、その一線は崩すべきではないように思いますが、これも個人差があるでしょうね。

マロニエ君は、稀によそのお宅などに行ってギョッとしてしまうことがあります。
それはあまりにも物が少なく、まるで何かの事情があっての仮住まいか、はたまたウィークリーマンションとか、とにかく生活の実感が持てないほど物の少ない住まいというものを見て心底驚かされたことは何度もあり、あれもどうかと思います。

断捨離の精神からすれば、それは称賛される光景かもしれませんが、少なくともマロニエ君の目には快適空間というよりは、殺風景で寒々とした空間としか目に映らず、気が滅入ってしまいます。
何事も自分に合った程良さというのが肝要だろうと思います。
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インゴルフ・ヴンダー

過日のアヴデーエワでの落胆に引き続いて、NHKのクラシック倶楽部ではインゴルフ・ヴンダーの日本公演から、紀尾井ホールでのモーツァルトのピアノソナタKV.333が放送されており、録画を観てみましたました。

放送そのものはアヴデーエワのリサイタルよりも前だったようですが、マロニエ君が観るのが遅くなったために、こちらを後に続くかたちになったわけです。

このソナタは、出だしの右手による下降旋律をどう弾くかがとても大切で、マロニエ君なら高いところから唐突に、しかもなめらかに降りてくる感じで入ってきて、それを左が優しく受け止めるように、繊細でこわれやすいものを慈しむように弾いて欲しいと願うところですが、いきなり不明瞭で、デリカシーも自然さもない、なんとも心もとないスタートだったことに嫌な予感が走りました。

その後もこの印象は回復することなく、安定感のない、ひどく恣意的なテンポに満ちた美しさの感じられないモーツァルトを聴く羽目になりました。
驚くべきは、ヴンダーはモーツァルトと同じくオーストリアの生まれで、しかも2010年のショパンコンクールでは堂々2位の成績を収めた、かなり高い戦歴を持つピアニストです。

少なくとも、昔ならいやしくもショパンコンクールの上位入賞者というのは、好き嫌いはともかく、世界最高のピアノコンクールの難関をくぐり抜けてきた強者にふさわしい高度な実力を備えており、それなりの演奏が保証されていたように思いますが、最近はそういう常識はもう通用しなくなったのかもしれません。

モーツァルトのソナタをステージで演奏するには、音数が少ないぶん、他の作曲家の作品よりも明確な解釈の方向性を示し、そのピアニストなりに磨き込まれた完成度の高い演奏が要求されるものですが、ヴンダーの演奏は、いったい何を言いたいのかさっぱりわからないし、技巧的にも安定感がなくふらついてばかりで、好み以前の問題として、プロのピアニストの演奏という実感がまるでありませんでした。

テンポや息づかいにも一貫性がなく、フレーズ毎にいちいち稚拙なブレスをする未熟な歌手のようで、聴いていて一向に心地よさが感じられず、もどかしさと倦んだような気分ばかりが募ります。
また、ヴンダーに限ったことではありませんが、マロニエ君はまず楽器を鳴らせない人というのは、それだけで疑問を感じますし、墨のかすれた文字みたいな、潤いのない音ばかりを平然と連ねることが、思索的で知的な内容のある演奏などとは思えません。

ひと時代前は、叩きまくるばかりの運動系ピアニストが問題視され軽んじられたものですが、最近はその逆で、まずは自然な音楽の呼吸と美しく充実した音の必要を見直すべきではないかと思います。
音色のコントロールというのは様々な色数のパレットを持っていて、必要に応じて自在に使い分けができることですが、ヴンダーなどは骨格と肉付きのある豊かな音がそもそも出ておらず、いきおい演奏が貧しい感じになってしまいます。

本来、ピアニストともなると出てくる音自体に輪郭と厚みと輝きが自ずと備わっており、それひとつを取ってもアマチュアとは歴然とした違いがあるものですが、近ごろはタッチも貧弱、音楽の喜怒哀楽や迫真性もなく、ただ訓練によって外国語が話せるように難しい楽譜が読めて、サラサラと練習曲のように弾けるというだけの人が多く、音色的にはほとんどアマチュア上級者のそれと大差ないとしか思えないものです。

アヴデーエワ、ヴンダー、ほかにもトリフォノフなどを聴いていると、もはやコンクールそのものの限界がきてしまっているというのが偽らざるところで、そういえば一流コンクールの権威もとうに失墜してしまっているようですね。これからは、なにかの拍子に才能を認められて世に出てくるような異才の持ち主などにしか芸術家としての期待はもてない気がします。
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断捨離

この数年でしょうか、断捨離(だんしゃり)という言葉をときどき耳にします。
テレビ番組で、部屋の収納術とか片づけなどに際して、よくこの言葉が使われているので、なんとなく要らないモノを思い切って捨てるという意味かと思っていましたが、ネットのウィキペディアを見ると、もっと深い意味があるようです。

以下、一部引用

『ヨガの「断行(だんぎょう)」、「捨行(しゃぎょう)」、「離行(りぎょう)」という考え方を応用して、人生や日常生活に不要なモノを断つ、また捨てることで、モノへの執着から解放され、身軽で快適な人生を手に入れようという考え。単なる片づけとは一線を引くという。

断=入ってくる要らない物を断つ
捨=家にずっとある要らない物を捨てる
離=物への執着から離れる』

〜なのだそうで、これはなかなかマロニエ君にはできそうにもないことです。
このところ腹をくくって物置の片づけなどをやっているのですが、いざ手をつけてみると自分でも呆れるほど様々な物が次から次へと出現して、別になくても何の不自由もない物は数多く、いかにそんな不要物に囲まれながら生活していたのかという現実を痛烈に思い知らされます。

これがいわゆる転勤族などであれば、嫌でも物の量は少なくなるでしょうし、むやみに物が増えないようにするという生活習慣が自然に身につくのだろうと思いますが、マロニエ君の家は代々そうではないためもあってか、そのあたりの意識がほとんど欠落しているようです。

たしかに不要な物を捨てることは、物質上あるいは空間のダイエットをするようで、不思議な快感があるものです。マロニエ君の場合、とりたててモノに執着しているというつもりはないのですが、整理と廃棄に着手するのがただ面倒というだけで、いざやりはじめると物を捨てたぶん場所は広くなるし、変な楽しさがあることもわかりました。

というわけで、不要な物はどしどし廃棄していけばいいのですが、困るのは捨てるに捨てられない物に行き当たったときというのは誰しも同じだろうと思います。そもそも、どこで「必要な物」と「不必要な物」の線を引いたらいいか、その点に苦慮するシーンがしばしば訪れるわけです。
例えばいろいろな思い出の要素を帯びた品などもそうなら、亡くなった身内の遺品ともいうべき物ともなれば、そうそう安易にゴミ袋に放り込むということもできません。しかし、取っておいてどうするのかとなると、これは甚だ答えに窮しますし、そういうときは片づけのスピードも一気に鈍ってしまいます。

あるいは、そんな精神的な要素が絡まなくても、使う予定もない物の中には、買ったまま使わずしまい込んで忘れていた物、あるいはいただき物などをそのまま置いていただけという場合が少なくありませんが、古くてもモノ自体は新品(というか未使用品)だったりすると、それをそのまま捨てるというのは、断捨離に於いてはこちらの修行が未熟な故か、どうにも抵抗があるわけです。

むろん「欲しい」というような人でも現れれば喜んで差し上げるところですが、そんな都合の良いことがあるはずもなく、結局どうにも始末に困ってしまいます。

こういう場合は、断捨離で云うところの「物への執着」というのとはいささか違い、何の傷みもない新品もしくはそれに近い物を、あっさり捨てるという行為が、例えば大した理由でもなしに木を切ってしまうことのように、ひどく傲慢かつ野蛮なことのように思えてしまいます。

もしかしたら、そういう甘ったるい気分を断ち切り、乗り越えたところに断捨離の極意があるのかもしれませんが、なかなかそんな高みには到達できそうにもありません。
それでも相当量を廃棄しましたから、ずいぶん風通しはよくなったわけで、ひとまずこれで満足することとします。
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技術者しだい

このところ、ついついアップライトにも関心を持ってしまい、すでに二度もこのブログに駄文を書いてしまっているマロニエ君ですが、先ごろ、実になんとも素晴らしい一台に出逢いましたので、その印象かたがたもう少々アップライトネタを書くことにしました。

それはヤマハのUX300、十数年前のヤマハの高級機種とされたモデルで、背後にはX支柱(現在はコスト上の理由から廃止された由)をもつモデルです。外観で特徴となるのはトーンエスケープという鍵盤蓋よりも上に位置する譜面台を手前に引き出すと、その両脇から内部の響きが左右に漏れ出てきて、奏者はより楽器の原音をダイレクトに聴きながら演奏できるというもの、さらには黒のピアノではその譜面台の左右両側にマホガニーの木目が控え目にあしらわれ、それがこのピアノのお洒落なアクセントにもなっています。
このデザインは好評なのか、今もYUS5として生産されているばかりか、それが現行のカタログの表紙にもなっているようです。

話は戻り、このUX300は望外の素晴らしいピアノだったのですが、それはヤマハの高級機種だからというよりも、一人の誠実な技術者が一貫して面倒を見てこられたピアノだからというものでした。
以前のブログに書いたようなアップライトらしさ、ヤマハっぽさ、キンキン音、デリカシーのなさ、安っぽさなどどこにもない、極めて上質で品位のある音を奏でる好ましいピアノであったことは予想以上で、少なからぬ感銘さえ受けました。

おまけにこのピアノはサイレント機能つきで、通常はこの機能を付けるとタッチが少し変になるのは不可避だとされていますが、この点も極めて入念かつギリギリの調整がなされているらしく、そのお陰で言われなければそうとは気づかないばかりか、むしろ普通のアップライトよりもしっとりした好ましいタッチになっていたのは驚くほかはありません。
これぞ技術者の適切な判断と技、そしてなによりピアノに対するセンスが生み出した結果と言うべきで、まさに「ピアノは技術者次第」を地でいくようなピアノでした。

このような上質でしっとりした感じは、外国の高級メーカーのアップライトではときどき接することがありますが、国産ピアノでは少なくともマロニエ君の乏しい経験では、初めての体験だったように思います。

海外の一流メーカーのアップライトは、その設計や作りの見事さもさることながら、調整も入念になされたものが多く、あきらかにこの点にも重きをおいているのは疑いようがありません。それが隅々まで見事に行き渡っているからこそ、一流品を一流品たらしめているともいえるでしょう。

ちなみに、海外の老舗メーカーの造る超高級アップライトは価格も4ー500万といったスペシャル級で、普通ならそれだけ予算があれば大半はグランドに行くはずです。いったいどういう人が買うのだろうと思わずにはいられない一種独特の位置にある超高級品ということになり、それなりのグランドを買うよりある意味よほど贅沢でもあり、勢い展示品もそうたやすくあるものではありません。

当然ながら、そんなに多く触れた経験はないのですが、スタインウェイやベーゼンドルファーなどは、たしかに素晴らしいもので、この両社がアップライトを作ったらこうなるだろうなぁと思わせるものがありますが、しかし個人的にはとりたてて驚愕するほどのものではなく、あくまで軸足はグランドにあるという印象は拭い切れません。

ところが中にはそうでないものもありました。これまでで一番驚いたのはシュタイングレーバーの138というモデルで、とにかく通常のアップライトよりさらにひとまわり背の高いモデルですが、その音には深い森のような芳醇さが漂い、威厳と品格に満ち、その佇まい、音色とタッチはいまだに忘れることができません。2番目に驚いたのはベヒシュタインのコンサート8という同社最大のアップライトで、これまた美しい清純な音色を持った格調高いピアノでした。
ベヒシュタインは、実はアップライト造りが得意なメーカーで、背の低い小さなモデルでも、作りは一分の隙もない高級品のそれですし、実に可憐でクオリティの高い音をしていて、むしろグランドのほうが出来不出来があるようにさえ感じます。

アップライトでも技術者次第、お値段次第でピンキリというところですが、最近驚いたのはヤマハのお店には「中古ピアノをお探しの方へ」的な謳い文句が添えられて、なんと399.000円という新品のアップライトが売られていることでした。
ヤマハ・インドネシア製とのことですが、これが海外の老舗メーカーのように別ブランドにすることもなく、堂々とYAMAHAを名乗って、ヤマハの店頭で他の機種に伍して売られているのですから、ついにこういう時代になったのかと思うばかりです。
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ロビーは営業現場

先週金曜の夕刻のこと、付き添いで街の中心にある大病院のロビーで診察の終わるのをずいぶん待たされることになったのですが、そのとき、見るともなしに思いがけない光景を目にすることになりました。

ちょうど時間帯が、一般の外来診察が終わって、以降は急患の対応に切り替わる時間帯であったために、ロビーにはこの病院にしては患者さんの姿はほとんど無くなり、ちょうどその時間が区切りになっているのか、私服に着替えた看護士さんとおぼしき人達が仕事を終えてぞろぞろと引き上げていく姿があり、白衣姿の医師の往来もえらく頻繁になってくるという状況が一時間ほど続きました。

この病院は市内でも最も有名な大病院のひとつですから、そこで働く医師や看護士などの数もおそらく相当なものだろうと思われます。

そんな中にぽつねんと待っていたマロニエ君でしたが、広いロビーに置かれたあちこちの長椅子には、明らかに患者とは様子の異なる種族が散見でき、これがなんとなく不思議な印象を放っていました。

みな一様に真面目な様子で、どうみても病気や御見舞ではなく、仕事時間中という感じにしか見えません。
男性は例外なくスーツ姿で、女性もほぼそれに準した服装です。一人の人もあれば、二人組のような人達もあって、ごくたまに医師と立ち話などをしており、はじめは何なのかと思うばかりでした。

なにしろこっちはヒマなので、それとなく観察しているとだんだん状況が読み込めてきたのです。
それがわかったのは、向こうにいる男性が、こちらから歩いて行ったひとりの医師にスッと近づいて話を始めると、それを見ていた比較的マロニエ君の近くにいた男女二人が俄に落ち着かない様子でしきりに話を始めます。すると、何かを決したように二人ともすっくと立ち上がり、その立ち話をしている医師とスーツの男性のほうに歩み寄りますが、話が済むまで3mぐらいの場所から待機している様子です。

話が終わると、今だ!といわんばかりに二人が近づき、ようやく歩き始めた医師の足を再び止めることになりますが、とにかくお辞儀ばかりして必死にしゃべっています。
ほどなく二人は戻ってきましたが、今度は別の医師が歩いてきたのを見て「どうします?」「行ってみましょうか?」と女性の声がわりに明確に聞こえたのですが、間をおかず再び追いかけるようにして医師を呼び止めます。

もうおわかりと思いますが、このロビーを頻繁に往来するこの病院の勤務医師に話しかけるチャンスを狙って、それが薬品メーカーだか医療機器メーカーだかは知りませんが、とにかく病院相手にビジネスチャンスを目論む業者の営業マン達が、診療時間に区切りがついて多くの医師らが動き出すのを狙って、この時間帯に営業活動にやってくるようです。

パッと目はまるで医者目当てにナンパしているようでもありますが、しかも遊びではない厳しい目的があるわけで、もちろんチャラチャラした気配など皆無で、笑えない、痛々しいような空気が充溢しています。

他の人達もおおむね似たような感じで、今どきの就職難の時代にあっても、営業職は人気がないと云われているそうですが、それをまざまざと実感できる、彼らの仕事の大変さが込み上げてくるような光景でした。まったくあてのないダメモトの仕事を、厳しいノルマを背負わせられて粘り強くやり抜くだけの強さがなくては、とてもじゃありませんがやっていけない仕事だと思いました。

そもそも営業なんて、断られるのが当たり前で、それでいちいち傷ついたり落胆していては仕事にならないでしょう。ストレスに打ち勝つだけのタフな神経も必要とするし、しかも低姿勢に徹して愛想がよく、同時にしたたかさも必要、製品知識も相当のものが必要とされるはずで、これは誰にでも出来る仕事ではないと痛感させられました。

その男女のペア組では、女性のほうがより胆力がありそうで、何度もトライしては戻ってきながら「厳しいですねぇ、ハハハ」なんて云ってますから、仕事とはいえ大したもんだと感服しました。

なんとなく思ったことですが、現役の営業職の人達からみれば、婚活なども日頃の訓練の賜物で、普通の人よりチョロい事かもしれません。なにしろ相手を「落とす」という点にかけては、基本は同じですから、要は人垂らしでなくてはならず、この点の歴史上の天才が豊臣秀吉かもしれません。
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アヴデーエワを聴く

「演奏とは、誰のためのものなのか。何を目的とするものなのか。」
こういう素朴な疑問をしみじみ考えさせられるきっかけになりました。

ユリアンナ・アヴデーエワのピアノリサイタルに行きましたが、期待に反する演奏の連続で、虚しい疲労に包まれながら会場を後にしました。

ショパンコンクールの優勝後に初来日した折、N響と共演したショパンの協奏曲第一番では、まるで精彩を欠いたその演奏には大きな落胆を覚えたものの、その一年後のリサイタルでは見事に挽回、ワーグナーのタンホイザー序曲やプロコフィエフのソナタ第2番などの難曲を圧倒的なスケールで弾いたのには度肝を抜かれました。
そして、これこそが彼女の真の実力だと信じ込み、いささか疑問も感じていたショパンコンクールの優勝も当然だったと考え直し、ぜひとも実演に接してみたいと思っていた折の今回のリサイタルでしたから、半ば義務のようにチケットを買った次第。

プログラムはバッハのフランス風序曲、ラヴェルの夜のガスパール、ショパンの2つのノクターン、バラード第1番、3つのマズルカ、スケルツォ第2番、さらにはアンコールではショパンのワルツ、ノクターン、マズルカを弾きました。

全体を通じて云えることは、作品を深く読み解き、知的な大人の音楽として構築するという主旨なのだろうと推察はするものの、あまりに「考え過ぎ」た演奏で、そこには生の演奏に接する喜びはほとんどありませんでした。
冒頭のバッハでいきなり違和感を感じたことは、様式感が無く、度が過ぎたデュナーミクの濫用で、いかにもな音色のコントロールをしているつもりが、やり過ぎで作品の輪郭や躍動感までもが失われてしまい、全体に霞がかかっているようでした。さらには主導権を握るべきリズムに敬意が払われず、これはとくにバッハでは大いなる失策ではないかと思います。お陰でこの全7楽章からなるこの大曲は退屈の極みと化し、のっけから期待は打ち砕かれました。

続く夜のギャスパールは、出だしのソラソソラソソラソこそ、さざ波のような刻みでハッとするものがありましたが、それも束の間、次第にどこもかしこもモッサリしたダサイ演奏でしかないことがわかります。
ラヴェルであれほどいちいち間を取って、さも尤もらしいことを語ろうとするのは、マロニエ君にはまったく理解の及ばないことでした。
終曲で聴きものとなる筈のスカルボでも、終始抑制を効かせた、意志力の勝った、ことさらに冷静沈着で燃えない演奏で、不気味な妖怪などついに現れないうちに曲は終わってしまいました。

かつてのロシアピアニズムの重戦車のごとき轟音の連射と分厚いタッチの伝統への反動からか、この人はやみくもにp、ppを多用し、当然フォルテもしくはフォルテッシモであるべき音まで、敢えてmfぐらいの音しか出さないでおいて、それが「私の解釈ではこうなるのです」と厳かに云われているようでした。
彼女にすれば、メカニックや力業で聴かせないところに重点を置いているということなんでしょうけれども、いくら思索的であるかのような演奏をされても、そこになにがしかの必然性と説得力がなくては芸術的表現として結実しているとはマロニエ君は思いません。
それぞれの個性の違いはありながら、本当に優れたものは個々の好みを超越したところで燦然と輝くものですが、残念ながらアヴデーエワの演奏にはそれは見あたりませんでした。

この人の手にかかると、リピートさえ鬱陶しく、ああまた最初から聴かなくちゃいけないのか…と少々うんざりして体が痛くなってくるようでした。
音楽というものが一期一会の歌であり、踊りであり、時間の燃焼であるというようなファクターがまったくなく、何を弾いても予めきっちりと決まった枠組みがあり、その中で予定通りに自分の考えた解釈や説明のようなものを延々と披露されるのは、音楽と云うよりは、ほとんどこの人独自の理論を発表する学界かなにかに立ち会っているようでした。

開場に入ってまもなく、CD売り場があり、終演後にサイン会があるというアナウンスを聴いて、ミーハーな気分からサインを頂戴すべく一枚購入しましたが、前半が終わった時点で、これはチケットもCDも失敗だったことを悟りました。
それでも、ちゃっかりサインはしてもらいましたから、自分でも苦笑です。

この日はなにかの都合からか、福岡国際会議場メインホール(本来コンサートホールではない)での演奏会ということで、ここでピアノリサイタルを聴くのは二度目ですが、出てくる音がどれも二重三重にだぶって聞こえてくるようで、響きにパワーがなく、つくづくと会場の大切さを痛感しました。

ピアノはヤマハを運び込むような話も事前に耳にしていましたが、フタを開けてみればこの会場備え付けのスタインウェイDで、久々にCFXを聴けるという楽しみは叶いませんでした。見ればこの日の調律師さんは我が家の主治医殿で、なかなかこだわりのある美音を創り上げていらっしゃるようでしたが、なにしろこの音響と???…な演奏でしたから、その真価を味わうこともあまりできなかったのが残念でした。

アヴデーエワに質問が許されるなら、ひとこと次の通り。
「貴女の演奏は、本当に貴女の本心なんでしょうか?」
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アップライトの音

アップライトピアノの音というのは、個々のモデルで多少の違いはあるのは当然としても、基本的なところでは楽器としての構成が同じだからか、ある意味どれも共通したものを感じるところがあります。

また、国産ピアノで云うなら(あくまで大雑把な傾向として)より上級モデルで、且つ製造年が古い方が潜在的に少しなりともやわらかで豊かな音がするのに対し、スタンダードもしくは廉価品、新しいモデルではよりコストダウンの洗礼を受けたものほど、キンキンと耳に立つ、疲れる感じの音質が強まっていくように感じます。

とくに、もともとの品質が大したこともなく、さらに状態の悪いものになると、ほとんどヒステリックといっていいほどの下品な音をまき散らし、ハンマーの中に針金でも入っているんじゃないだろうかと思ってしまいます。
もしも、こういうピアノを「ピアノ」だと思って幼い子供が多感な時期を弾いて過ごしたとしたら、本来の美しい音で満たされる良質のピアノに触れて育つ子供に比べると、両者の受けるであろう影響はきっと恐ろしいほどの隔たりとなるでしょう。

もちろん大人でも同様ですが、子供の方がより深刻な結果にあらわれると思います。
食べ物の好みや言葉遣い、礼儀などもそうですが、幼くして触れるものは計り知れないほど深いところへ浸透し、場合によってはその人が終生持ち続けるほどの基礎体験となることもあるわけで、これは極めて大切な点だと思います。

…それはともかく、国産の大手メーカーのアップライトでいうと、せいぜい1980年代くらいまでの高級機は、今よりもずっと優しい音をしていたと思います。これはひとえに使っている材質が良いとまでは云わないまでも、いくらかまともなものだったし、さらには人の手が今よりいくぶんかかっていたから、そのぶんの正味のピアノにはなっていたのかもしれません。

少なくとも、無理を重ねてカリカリした音を作って、いかにも華やかに鳴っているように見せかけるあざといピアノを作る必要がなかったように思います。ダシをとるのにも、べつに高級品でなくても普通の昆布や鰹節を使って味を出すのと、粉末のダシをパッとひとふりするのとでは、根本的にどうしようもない違いが出るのは当然です。

今はネットのお陰で、いろんなピアノをネット動画で見て聴くことができますが、パソコンの小さなスピーカーというのは意外にも真実を伝える一面があるし、さらに信頼できる良質なスピーカーに繋げば、ほぼ間違いないリアルな音を聞くことができて、あれこれと比較することも可能になりました。

そこで感じたことは、マロニエ君は偏見抜きに自分の好みは少し古いピアノの出す音であることがアップライトに於いても確認できました。もちろん、いつも云うように、あくまでも良好な調整がなされていることが大前提なのはいうまでもなく、この点が不十分であれば古いも新しいもありません。

ただ、現実には大半の個体は調整が不充分で、そういうアップライトピアノには、たとえ高級品であっても一種独特の共通した声のようなものがあり、おそらくは構造的なものからくるのだろうと思いますが、それは状態が悪いものほど甚だしくなるようです。

当たり前のことですが、素晴らしい調整は個々のピアノ本来の能力を可能な限り引き出して、人を心地よく喜びに満たしてしてくれますが、これを怠るとピアノはたちまち欠点をさらけ出し、なんの魅力もないただの騒音発生機になってしまいます。

その点では、誤解を恐れずに云うなら、グランドはまだ腐ってもグランドという面がなくもないようで、アップライトの方が調整不十分による音の崩れは大きいように感じます。そこが潜在力として比較すると、グランドのほうがややタフなものがあるのかもしれません。

そういう意味では常に好ましく美しく調整されていることが、アップライトでは一層重要なのかもしれないという気もしないでもありません。
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ヤマハビルとの別れ

先の日曜は、福岡のヤマハビル内で行われた室内楽などの講習会へ知人から誘っていただき聴講してきました。

数日間行われたシリーズのようで、マロニエ君が聴講したのはN響のコンサートマスターである篠崎史紀氏が自らヴァイオリンを弾きながら、合わせるピアノの指導をするというものでした。
小さな部屋でしたが氏の指導を至近距離で見ることができたのは収穫でした。

しかし、この日はなんとも虚しい気分が終始つきまといました。
それは博多駅前にある大きなヤマハビル自体が今月末をもって閉じられることになり、一階にあるグランドピアノサロン福岡も見納めになるからでした。
全国的にもヤマハのピアノサロンは大幅に縮小されるようで、東京と大阪を残して、それ以外はほぼ似たような処遇になるようです。これで福岡(というか西日本の)のきわめて重要なピアノの拠点が失われることになるのは、まったくもって大きな喪失感を覚えずにはいられません。

講習の帰りに、知人らと一緒にグランドピアノのショールームにもこれが最後という思いで立ち寄りましたが、昨年発表されて間もないCXシリーズがズラリと並んでいる光景もどこかもの悲しく、惜別の気持ちはいよいよ高まるばかりでした。

社員の方々もさぞや無念の思いで最後の日々を過ごしておられるだろうと思いますが、ショールームではコーヒーをご馳走になったことで最後のお別れがゆっくりできたような感じでした。

ピアノには片っ端から触るわけにもいかないので、数台あったC5Xと、C6X、C7X、S6などに触らせてもらいましたが、この中では、マロニエ君の主観では圧倒的にC6Xが素晴らしく、それ以外の機種が遠く霞んで見えるほどの大差があったのは驚く他はありません。
通常、同シリーズであれば、サイズが大きくなるにつれて次第に音に余裕と迫力が増してくるものですが、このC6Xの完成度というかキラリと光る突出のしかたは何なのか…と思うほどでした。

C5XとC7Xには互いに共通したものと、その上でのサイズの違いが自然に感じられますが、C6Xはタッチも音もまったく異なり、DNA自体が違う気がしましたが、これは久々に欲しくなったヤマハでした。
また価格も倍近くも違うS6は、個人的にはどう良いのかがまったく理解できず、目隠しをされたらこの両者は価格が逆なんじゃないかと思ってしまうだろうと思います。

最後の最後に、自分でも欲しいと思えるような好みのヤマハのグランドに触れることができたのは、せめてもの幸いというべきで、マロニエ君の中では良い思い出の中で幕が降りることになりそうです。

聞くところによると、現在のピアノの全販売台数のうち、電子ピアノが実に85%を占めるまでになり、アコースティックピアノはアップライトが10%、グランドはわずかに5%なのだそうで、いわば模造品に本物が駆逐されてしまった観がありますが、見方を変えれば電子ピアノの普及によってピアノを気軽に習う人が増えたという一面もあると解釈できるのかもしれません。

折しも日本は、やっと暗い不況のトンネルの出口が見えつつあり、景気回復の兆しがあらわれ始めたところですから、近い将来、少し郊外でもいいので、もう一度ヤマハのショールームが復活する日の来ることを願わずにはいられません。
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若い人の動き

最近の若い人の動きを見ていると、ちょっとどうかしちゃってるんじゃないかと思われることがよくありますが、過日もまったくそんな光景を目撃することになりました。

天神にはジュンク堂という大型書店がありますが、ここはレジが一階の一ヶ所にまとめられていて、たとえ何階にある本であろうと、お客さんはすべて自分の手で一階へ持ってきてからの精算となります。ジュンク堂がオープンした当初は精算を済ませていない本を持って、そのままエスカレーターに乗り降りすることにずいぶん抵抗感があったことを覚えています。

さて、この日は日曜ということもあってかなかなかの人出で、レジ前には入口出口が設けられていて、その向こうには左右合わせて十人以上の店員さんがフル稼働体制で一斉にレジ業務にあたっています。

数が多いので、手が空いたレジ係はサッと手を上げて、並んでいるお客さんの目に「ここのレジは空きましたよ」というシグナルを送ります。
列に並んだ人達は自然にその動きをじっと見守り、たとえ年配の方でも自分の番が来ると手の上がったレジ係を見つけてすみやかに移動されて列は流れていきますが、むしろ若い人のほうがボーッとしていてそんな状況の動きというかテンポが理解できないのか、いかにも集中力がないという感じで目線も定まらず、手を上げているレジ係のほうを見るでもなく、しばし流れが途絶えてまわりがやきもきさせられてしまうのは驚きです。

しかも、それがこの日は3人も続いたので、マロニエ君の目には「たまたま」ではなく、これは世代的な特徴のように見えてしまいました。

それだけではありません。
若い人の友人らしき人物が、列に並ぶ友人の傍らにいて、これまたいかにもぼんやりしているのですが、そこが出口の通路をやや塞いだかたちになっているので、精算を済ませた人がこの場を出ていくのにも、ずいぶん通りにくそうにその人の背中をかわしながら出ていくのですが、そんな事にもほとんど反応がなく、ちょっと場所をずらそうという気配もないまま、何人もの人がささやかな迷惑をこうむっていました。

これに限ったことではなく、今の若い人の動きや反応を見ていると、こういう感じの場面があまりにも多いような気がします。はじめは単なる横着や不作法かとも思いましたが、どうやらそれだけでもないようで、神経の反応とか適応力がそもそも鈍くなってしまっているような気がします。
同じような光景を見て、似たような印象をお持ちの方もたくさんいらっしゃると思いますが、これは一体何なのだろうと思います。

運転も同じで、広い道のドまん中を、意味のない鈍足で平然と走り続ける若い男性などを見て呆れたことは一度や二度ではありませんが、これも安全運転とはかけ離れた奇妙な気配に満ちていて、ドライバーはどういうつもりなのかさっぱりわからなくなることがあります。最近はさすがにこっちの方が慣れてきて、さほど驚きもしなくなりましたが、こんな若い人達が仕事をバリバリこなして、近い将来、社会を牽引する主役になれるとは到底思えないのは困ったことです。

たぶん、どんなに周りの雰囲気には疎くても、ノロノロ運転しかできなくても、パソコンやスマホを触らせたら理解力もあり、スイスイ自然な操作ができるのかもしれませんけれども…。
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アップライト考

このところ、いささか訳あって国産のアップライトピアノのことを(ネットが中心ではあるものの)しばらく調べていたのですが、わかってきたことがいくつかありました。

もちろん自分ですべて触れてみて確認したことではなく、多くがネット上に書き込まれた情報から得られたものに拠る内容になりますが、それでも多くの技術者の方などの記述を総合すると、ひとつの答えはぼんやり見えてくるような気がしました。

まず国産ピアノの黄金期はいつごろかと云うことですが、それぞれの考え方や見方によるところがあって、ひとくちにいつと断定することは出来ないものの、概ね1970年代からバブル崩壊の時期あたりまでと見る向きが多いような印象がありました。

バブルがはじけた後あたりから、世の中すべての価値が一変します。あらゆるものにコスト重視の厳しさが増して、とりわけ合理化とコストダウンの波というものが最重要課題となるようです。それに追い打ちをかけるように、21世紀になると世界の工場は中国をはじめとする労働賃金の安いアジアに移ってしまい、ピアノ業界もこの流れの直撃を受けたのは間違いありません。
さらには、少なくとも先進国では情報の氾濫によって人々の価値観が多様化するいっぽう、鍵盤楽器の世界では安価で便利な電子ピアノが飛躍的な進歩を遂げて市場を席巻するなど、従来の本物ピアノが生き残って行くには未曾有の厳しさを経験することになります。

ピアノを構成する素材に於いても、一部の超高級機などに例外はあっても、全体的には製造年が新しくなるほど粗悪になり、もはや機械乾燥どころではない次元にまで事は進んでいるようです。具体的には、集成材やプラスティックなどを多用するようになり、ピアノはより工業製品としての色合いを強くしていくようです。

逆に、バブル期までは様々な高級機が登場して、中には木工の美しさなど、ちょっと欲しくなるような手の込んだモデルもありますが、それ以降はメーカーのモデル構成も年を追う毎に余裕が無くなってくるのが見て取れます。

技術者の方々の意見にも二分されるところがあり、例えば1960年代に登場したヤマハアップライトの最高機種と謳われたU7シリーズあたりを最高とする向きがあるいっぽうで、技術者としてより現実的な観点から、よほどひどい廉価モデルでもない限り、製品として新しいモデルの安心を薦める方も少なくありません。

マロニエ君の印象としては、後者はピアノの音を職業的な耳で聞き、機械部分の傷みや消耗品の問題などを考えると、新しい楽器の持つ確かさ、手のかからなさなどを重視して、道具としてコスト的にも機械的にも新しいピアノが好ましいと考えておられるようです。
いっぽうで、前者の主張には、以前の良質の素材が使われた楽器には、素材だけでなく作り手の志も感じられ、楽器としてもそれなりの価値があり、ひいては所有する喜びもあるというものです。その点で、新しいピアノにはプロの目から見ても落胆とため息ばかりが出るということのようです。

概して、前者のほうは人間的に詩情があり多少の音楽的造詣もある方で、後者はより現実的で、専ら技術とコストの関係を正確に割り出すことに長けた人だと思います。両者共に一理ある考えで、いずれのタイプであっても優秀な技術者の方であることに変わりはないと思いますが、要するに基本となる思想が違うんですね。

マロニエ君はいうまでもなく前者の方々の意見に賛同してしまいます。
なぜなら、やはり少し古いピアノの音のほうが、国産ピアノであっても明らかに「楽器の音」がするし、それはつまり音楽になったとき人の耳に心地よいばかりか、音としての芸術が奥深くまで染み込む力をいくらかはもっていると思うからです。

その点、新しいピアノはそれなりのものでも基本は廉価品の音で、それを現代のハイテク技術を駆使してできるだけもっともらしく華やかに聞こえるように、要はごまかしの努力がされているようにしか感じられません。
実は先日もあるお店で新品を見たのですが、一目見るなり、その安っぽさが伝わりました。アップライトでは最大クラスとされる高さ131cmのモデルも何台かありましたが、その佇まいにはきちんと作られたものだけがもつ重み(物理的な重量のことではなく)や風格が皆無で、傍らに置かれた高級電子ピアノと品質の違いを見出すことはついにできませんでした。

上部の蓋にも、なにひとつストッパーも引っかかりもなく、ただ上に抵抗なく開くだけだし、中低音の弦にもアグラフなども一切ありません。良い楽器を作ろうという作り手側の志は微塵も感じられず、そこに信頼あるメーカーの名が変に堂々と刻まれているぶん、なんだかとても虚しい気がしました。

それなら、いっそ良質の中国製の最高級クラスを買ったほうが、まだ潔い気もしますし、楽器としての実体もまだいくらかマシかもしれません。
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ピリスの新譜2

数日に前に書いたピリスのシューベルトのソナタのCDですが、日に日にどうしても手に入れなくては気が済まなくなり、天神に出る用事を半ば無理に作ってCD店に行き、ついに買ってきました。

これはメジャーレーベルの輸入盤でもあり、本当はネットショップでまとめ買いした方が安いのですが、そんなことを言っていたら先のことになるので、この1枚を急ぎ買いました。

そして自宅自室でじっくり聴いてみると、はじめの出だしからして過日試聴コーナーで聴いたものとはまるで音が違うのには、思わず耳を疑いました。ちなみにこのアルバムは、シューベルトのピアノソナタ(D845、D960)の2曲が収録されており、曲の並びはD845が先でこれは当然というべきで、不安げなイ短調の第一楽章がはじまりますが、その音は先日聴いたのとはまったく別のピアノとでもいうべきものでした。

数日前、このアルバムを試聴した印象ではヤマハCFXかスタインウェイか断定できないと書きましたが、こうして自分の部屋で聴いてみると、何分も聴かないうちにスタインウェイであることがほぼわかりました。すぐにジャケットに記されたデータを見たのは言うまでもありませんが、ここには使用ピアノのことは一切触れられていませんので、あるいはヤマハとの兼ね合いもあってそういう記述はしないように配慮されているのかもしれません。

スタインウェイということはわかったものの、このCDのように2曲のソナタが収録されているような場合、それぞれ別の日、別の場所で録音されたものがカップリングされることも珍しくありません。しかし録音データにはそのような気配もなく、すぐにD960へ跳びましたが、こちらも変化はなくD845と同じ音質で、いかにもな美音が当たり前のようにスピーカーら出てくるのには当惑しました。
前回「ややメタリックな感じもある」などと書いてしまいましたが、そういう要素は皆無で、CD店の試聴装置がそこまで音を改竄して聴かせてしまっていることにも驚かずにはいられません。以前からこの店のヘッドフォン(あるいは再生装置そのもの)の音の悪さは感じていましたが、これほど根本的なところで別の音に聞こえるというのは、さすがに予想外でした。

録音データにはピアノテクニシャン(調律師)としてDaniel Brechという名前が記されています。
この名前でネット検索すると、この人のホームページが見つかり、多くの著名ピアニストと仕事をしている名人のようですから、きっとヨーロッパではかなり名の通った人なのだろうと思われます。
どうりでよく調整されているピアノだと思ったのは納得がいきました。

ただ前回「どことなく電子ピアノ風の美しい音で延々と聴かされると思うと」と書いていますが、電子ピアノというのは言い過ぎだったとしても、マロニエ君の個人的な好みで云うなら、新しい(もしくは新しめの)ピアノをあまりにも名人級の技術者が徹底して調整を施したピアノというのは、なるほどそのムラのない均一感などは立派なんだけれども、どこかつまらない印象があります。

職人の仕事としては完璧もしくは完璧に近いものがあっても、ではそれによって聴く側がなにか心を揺さぶられたり、深い芸術性を感じるかというと、必ずしもそうとは限らないというのがマロニエ君の感じているところです。
このようなピアノは、同業者が専門的観点から見れば感動するのかもしれませんが、マロニエ君のような音楽愛好家にとってはあまりにも楽器が製品的に「整い過ぎ」ていて、個々の楽器のもつ味わいとか性格みたいなものが薄く、かえって退屈な印象となってしまいます。

とりわけ新しいピアノがこの手の調整を受けると、たしかに見事に整いはしますが、同時にそれは無機質にもなり、演奏と作品と楽器の3つが織りなすワクワクするような反応の楽しみみたいなものが薄くなってしまうように感じるのです。

最近はCDでもこの手の音があまりに多いので、もしかしたら日欧で逆転現象が起こり、日本の優秀なピアノ技術者の影響が、今では逆にヨーロッパへ広まっているのではないか…とも思ってしまいます。こういう水も漏らさぬ細微を極めた仕事というのは、本来日本人の得意とするところで、まるで宮大工の仕事のようですが、それが最終的には生ピアノらしい鮮烈さやダイレクト感までも奪ってしまって、結果として「電子ピアノ風」になるのでは?とも思います。

その点では従来のヨーロッパの調律師(少なくとも名人級の)はもっと良い意味での大胆で表情のある、個性的な仕事をしていたように思います。

ピリスの演奏について書く余地が無くなりましたが、とりあえず素晴らしい演奏でした。さらにはこのCD、収録時間が83分24秒!とマロニエ君の知る限り最長記録のような気がします。
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石鹸と薬事法

以前にも一度セッケン(石鹸)のことを書いた覚えがあります。
シャボン玉せっけんのベーシックの無添加石鹸は、たとえパッケージに「何用」と書いてあっても、中は基本的にどれも同じものらしいということを友人から教えられ、確認のため会社に電話して質問してみると、果たしてその通りだったという話です。

それいらい、マロニエ君はバス用には大型割安ということで、同社の洗濯用固形石鹸を使っていました。いうまでもなく中身は同じで、はるかにお得というわけです。

自慢ではありませんが、マロニエ君は肌が刺激に弱く、下手な化粧石鹸やシャンプーなどを使うとてきめんに皮膚が音を上げますし、手洗い用の石鹸でもちょっと添加剤のあるものなどを使おうものなら、すぐに手の甲がヒリヒリしてきて肌に合わないことを痛感させられます。
そういうわけで、我が家ではマロニエ君の手の甲の皮膚は便利な試験台のようなものになってしまっています。

そして、このシャボン玉せっけんの洗濯用というのは、名前こそ「洗濯用」となっていますが、その実体は無添加の純良なやさしい石鹸であることは論より証拠で、使ってみればわかります。ところが、一般的に洗濯用というと粉末洗剤が普及しているためか、なかなかこれを置いているスーパーがありません。

いつでも必要なときにサッと買えなくては実用品の意味がないので、見かけたときはできるだけ余分に買うようにしていました。
たしか「洗濯用」になることで、良質の石鹸が実質半額ぐらいで使えるのが気分がよろしいというだけのことで、裏を返せば甚だセコイ話ではあるのですが…。

中にはいろいろなオイルから抽出した高級品風なものもありますが、マロニエ君の場合はベーシックな無添加石鹸で十分だと考えています。
ところで、この石鹸成分98〜99%の純石鹸というのはなにもシャボン玉に限ったことではなく、別の会社からも同様品が出ているのは皆さんもご承知のことでしょう。

シャボン玉に並んで目にする無添加石鹸にミヨシというのがあり、こちらも見ると成分は変わりませんが、やはり訳あっていろいろな種類というか、つまりパッケージとサイズの違いで商品構成されているのが見受けられます。

こちらにも洗濯用があり、成分は98%石鹸成分なので手洗いやお風呂に使ってもいいだろうという思われ、思い切ってそのような使い方をしてみましたが、案の定、マロニエ君の「弱肌?」で試しても何の問題もないようです。
それが数ヶ月続きましたが、もちろん問題などは発生しませんでしたが、あらためてパッケージを見ると「お客様相談室」なるところがあるらしく、そこに確認の電話をかけてみることにしました。

ただ正面切って貴社の洗濯用をお風呂用として使ってもいいか?と正面切って聞くのもためらわれましたので、戦略を変えてちょっとばかりウソをつきました。
「洗濯用という文字を良く見ないまま、間違ってお風呂で使っていて、後で気付いたんだが、問題はないだろうか?」という変化球を投げてみました。

すると、なんとも柔和すぎる男性の声で「ご安心ください。まったくご心配はございません。普通にお身体をきれいにされる石鹸と同じです。」ときた。「では、どうしてわざわざ洗濯用というふうに区別しているんですか?」と聞いてみると、「それは、薬事法というものがございまして、弊社はそれに従って製造・販売をさせているものですから…」「では、今後も洗濯用をお風呂用として使っても心配はありませんか?」ときくと、「もちろん大丈夫なんですが、はっきり「どうぞ」とは申し上げられませんので、ここはあくまでも「自己責任で」ということでお願い致します。」という、なんとも石鹸の泡のようなふわふわやわらかい答えが返ってきました。

要するに、同じものなんだからドーゾというわけで、ただお風呂にはできれば「バス用」と記したもっと割高な製品を買って欲しいというところでしょう。これが本当にもしダメなら「即刻、ご使用をおやめください!」となるはずですから、99%大丈夫という風にマロニエ君は解釈しました。

そうそう、「純石鹸」と「無添加石鹸」という表記にも薬事法絡みの事情がありそうですが、面倒臭いのでそこまでは調べませんでした。
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ピリスの新譜

過日書いたホロヴィッツのスタインウェイ使用のCDと似たような時期に、ピリスのシューベルトの最後のソナタがリリースされており、これも運良く試聴コーナーで聴けました。

ピリスは少なくとも日本ではヤマハのアーティストのようなイメージで、ヤマハの広告媒体にもその名と顔などがいかにも専属のピアニストという感じになっていますが、これまで出してきたCDなどは、大半は(というか、知る限りはすべて)ちゃかりスタインウェイを使っています。

以前、彼女のインタビューがありましたが、「ヤマハは素晴らしいけど日本のホールのような音響の優れた会場ならば使ってもいいが、そうでない場所ではスタインウェイを弾く」というような意味の発言があり、どうも全面的にはヤマハを信頼していないような気配が伺えました。

しかも、不思議なことにはセッションの録音で、モーツァルトのような必ずしもスタインウェイがベストとも思えないような曲を録音するにも、やっぱりなぜかスタインウェイを使っています。

今回のD960(最後のソナタ)の第一楽章を聴いていて、冒頭から聞こえてくるのは軽く弾いても明瞭に鳴る音が耳につきました。とても反応のよいピアノだという印象です。ややメタリックな感じもあって一瞬ヤマハかとも思いましたが、しばらく聴いていると…やはりスタインウェイのようにも感じましたが、試聴コーナーのヘッドフォンは音がかなり粗っぽく断定には至りませんでした。

録音のロケーションはハンブルクですから、普通ならスタインウェイのお膝元ということになりますが、セッションの段取りというのは必ずしもそういうことで決まっていくのではない事かもしれませんし、ピリスが録音にCFXを使うと言い出せば、現地のヤマハはなにをおいても迅速にピアノを準備するのだろうと思います。

HJ・リムがCFXで弾いたベートーヴェンは、演奏はきわめて個性的で見事だったものの、楽器はとうてい上品とは言い難いもので驚きでしたが、このシューベルトに聴くピアノがもしCFXであれば、一転してなかなかのものだと素直に思いますし、逆にスタインウェイであればずいぶん普通の、そつのない感じの音になったものだと思います。もちろん試聴コーナーでちょっと聴いただけでは確証は持てませんし、そんなふうに音造りされたスタインウェイなのかもしれませんが、いずれにしろ調整そのものは素晴らしくなされている楽器だとは感じました。

ピリスのD960はぜひとも買いたいと思っていたCDのひとつだったのですが、この静謐な悲しみに満ちた最後の大曲を、どことなく電子ピアノ風の美しい音で延々と聴かされると思うと、つい躊躇ってしまうようで、昨日は急いでもいたし、とりあえず買うのは保留にしました。

…でも、あとからその演奏はかなり素晴らしいものだったことが思い起こされるばかりで、ピアノの音はさておいてもやはりこれは購入しないわけにはいかないCDと意を新たにしました。

少なくとも、ピリスというピアニストは絹の似合うショパンに質素な木綿の服を平然と着せてお説教しているようなところがありますが、それがシューベルのような音楽には向いていて、彼女の持つ精神性が遺憾なく発揮されるようです。
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車に見えるもの

このところ険悪な状態となって久しい日中関係ですが、中国の話題に接するたび、過去何度か訪れた中国のことをよく思い出します。現地に行くと、目に飛び込んでくるものには驚かされることの連続で、おかげで退屈しているヒマなんてありません。
すごいことは文字通り山のようにあって、はじめはいそがしくあちこち目が向きますが、しだいに落ち着いてくると、少し冷静な目を向けられるようにもなります。

たとえば車です。
中国にはむろん中国製の車もそれなりには走っていますが、現地生産を含む日米欧の高級車の割合が高く、日本でいうとバブルの頃を思い出すような大型車が街中にあふれています。何でも大きいほどエライ、値段が高いほどエライという尺度がこの国では単純明快すぎるほど支配しているようで、その割りにどれもあまりきれいではなく、街も車も大抵はかなり汚れているのも特徴です。

それに較べると、日本に帰ってきてまっ先に感じるのは、とにかく街が清潔で感動的に美しいことと、走っている車もきれいだけれども小さいことです。どうかすると信号待ちなどをしていて周りはすべて黄色いナンバーの軽自動車に取り囲まれるなんて状況も決して珍しくはありません。普通車でも、今やコンパクトカーの占める割合が大きく、とにかく以前のような高級大型車が肩で風を切って走っているというような光景は劇的に少なくなりました。

マロニエ君は昔からクルマ好きで、いまだに購読を続けている自動車雑誌もありますが、自動車文化としての観点から大雑把に云うなら、必要以上に大きい車に乗りたがる人ほど、平たくいうとハッタリ屋で、拭いがたいコンプレックスの裏返しという事は社会学的にも裏付けられています。
それは社会が未成熟なほど、車がステータスシンボルとしての役目を果たすからで、当然のようにそんな心理にはまった人達は自分のライフスタイルに沿った、TPOに適った、身の丈に合った、知的で良識ある車選びということが出来ません。
もっぱらの問題は収入や預金通帳の残高と、見栄えの良さや話題性の高い注目度の高いモデルであるか否かばかりが判断基準となります。

その点では、現在の日本はというと、日本人の精神的成熟の度合からというより、長引く不景気やデフレが背景となって、誰も彼もが続々と小さい車へと乗り換えました。マロニエ君も一時はおもしろ半分にそんな手合いに乗ってみましたが、やはり自分の用途と体型と趣向に合致しないことがわかり、昨年乗り換えたばかりですが、今の日本の小型車志向、さらには自転車依存はむしろ不健全な印象で、この点はアベノミクスによって今後は少しでも改善されればと思います。

逆に、むやみに大きな、分不相応な車に乗る人というのは、実は本人が思っているほど傍目にカッコイイものではないことは断言できます。ベンツのSクラスやレクサス、あるいは空間を運んでいるだけみたいな大型の仰々しいワンボックスや大きなRV車などを、拙い運転の女性がアゴを突き出しながら乗って来て、スーパーの駐車場などでさも不自由そうに、なんとか駐車枠に止める奇妙な光景などを目にすると、逆に気の毒で、かえって貧相なものを見ているような気分にさせられます。

一方、男もずいぶんと運転に関しては変わりました。
もちろん高価なスーパーカーや大型高級車がもつ車の威を借りて、これみよがしに走り回る連中なんかが男性的だなどとは云いませんが、少なくとも自分の運転技術を磨いてスポーツカーをいかにスムーズで美しく乗りこなすかという、技巧派のモータリストの類などはすっかりマイノリティーになってしまったのかもしれません。「峠を攻めに行く」なんて言葉も死語に近いようですが、この言葉が生きていた時代の男は平均して女性より圧倒的に運転が上手い時代でした。
今は燃費や維持費ばかりを偏執的に気にして、そのためのケチケチ運転をするドライバーが大繁殖していて、覇気もなく、なにか大事なものを失ってしまったかのようです。むろん何に価値を置き、何に熱中しようと、それは人の勝手ですけれども…。

車に限ったことではありませんが、物事の本質を極めたいと願うような純粋な精神はだんだんに失われ、何事も薄味の、甚だ色気のない時代になっていることは間違いないようです。
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調律師ウォッチング

ピアノリサイタルに出かけるときの楽しみは、云うまでもなく素晴らしい演奏をじかに聴くことであり、その音楽に触れることにありますが、脇役的な楽しみとしては、会場のピアノや音響などを味わうという側面もあります。

そしてさらにお菓子のオマケみたいな楽しみとしては、ステージ上で仕事をする調律師さんの動向を観察することもないではありません。
もちろん、開場後の演奏開始までの時間と休憩時間、いずれも調律師がまったくあらわれないことも多いので、この楽しみは毎回というわけではありませんが、ときたま、開演ギリギリまで調律をやっている場合があり、これをつぶさに観察していると、だいたいその日の調律師の様子から、その後どういう行動を取るかがわかってきます。

開場後、お客さんが入ってきても尚、ステージ上のピアノに向かって「いかにも」という趣で調律などをしている人は、ほぼ間違いなく休憩時間にも待ってましたとばかりに再びあらわれて、たかだか15分やそこらの間にも、さも念入りな感じに微調整みたいなことをやるようです。

ある日のコンサート(ずいぶん前なのでそろそろ時効でしょう)でもこの光景を目にすることになり、この方は以前も見かけた記憶がありました。
開演30分も前から薄暗いステージで、ポーンポーンと音を出しては調律をしていますが、開演時間は迫るのに、一向に終わる気配がないと思いきや、もう残り1分か2分という段階になったとき、あらら…ものの見事に作業が終わり、テキパキと鍵盤蓋を取りつけて、道具類をひとまとめに持って袖に消えて行きます。…と、ほどなく開演ブザーが鳴るという、あまりのタイミングのよさには却って違和感を覚えます。

前半の演奏が終わり、ステージの照明が少し落とされて休憩に入ると、ピアノめがけてサッとこの人が再登場してきて、すぐに次高音あたりの調律がはじまりますが、こうなるとまるでピアニストと入れ替わりで出てくる第二の出演者のような印象です。

面白いのはその様子ですが、何秒かに一度ぐらいの頻度でチラチラと客席に視線を走らせているのは、あまりにも自意識過剰というべきで、つい下を向いて小さく笑ってしまいます。
あまりにもチラチラ視線がしばしばなので、果たして仕事に集中しているのか、実は客席の様子のほうに関心があるのか判然としません。

調律の専門的なことはわからないながらも、出ている音がそうまでして再調律を要する状態とも思えないし、その結果、どれほどの違いが出たとも思えません。
この休憩時もフルにその時間を使って「仕事」をし、15分の休憩時間中14分は何かしらピアノをいじっているようで、まあ見方によっては「とても仕事熱心な調律師さん」ということにもなるのでしょう。

コンサートの調律をするということは、調律師としては最も誇らしい姿で、それを一分一秒でも多くの人の目にさらして自分の存在を広く印象づけたいという思惑があるのかもしれませんが、何事にも程度というものがあって、あまりやりすぎると却って滑稽に映ってしまいます。

もちろんそういう俗な自己顕示には無関心な方もおられて、マロニエ君の知るコンサートチューナーでも、よほどの必要がある場合は別として、基本的にはお客さんの入った空間では調律をしないという方針をとられる方も何人もいらっしゃいます。

だいいちギリギリまで調律をするというのは、いかにもその調律は心もとないもののようにマロニエ君などには思えます。ビシッとやるだけのことはやった仕事師は、あとはいさぎよく現場を離れて、主役であるピアニストに下駄を預けるというほうが、よほど粋ってもんだと思います。

どんな世界でもそうでしょうが「出たがり」という人は必ずいるようで、これはひとえに性格的な問題のようですね。
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松田理奈

NHKのクラシック倶楽部で、岡山県新見市公開派遣~松田理奈バイオリン・リサイタル~というのをやっていました。
なんだかよく意味のわからないようなタイトルですが、岡山県の北西部にある新見市という山間の田舎町でおこなわれたコンサートの様子が放送されました。

演奏の前に町の様子が映像で流されましたが、山を背景に瓦屋根の民家ばかりがひっそりと建ち並ぶ風景の村といったほうがいいようなところで、ビルらしき物などひとつもないような、静かそうで美しいところでしたが、そんなところにも立派な文化施設があり、ステージにはスタインウェイのコンサートグランドがあるのはいかにも日本という感じです。こういう光景にきっと外国人はびっくりするのでしょうね。

松田理奈さんは横浜市出身のヴァイオリニストとのことで、マロニエ君は先日のカヴァコスに引き続き、初めて聴くヴァイオリニストでした。
よくあるポチャッとした感じの女性で、とくにどうということもなく聴き始めましたが、最初のルクレールのソナタが鳴り出したとたん、その瑞々しく流れるようなヴァイオリンの音にいきなり引き込まれました。

良く書くことですが、いかにも感動のない、テストでそつなく良い点の取れるようなキズのない優等生型ではなく、自分の感性が機能して、思い切りのよい、鮮度の高い演奏をする人でした。
なによりも好ましいのは、そこでやっている演奏は、最終的に人から教えられたものではなく、あくまでも自分の感じたままがストレートに表現されていて、そこにある命の躍動を感じ取り、作品と共に呼吸をすることで生きた音楽になっていることでした。

わずかなミスを恐れることで、音楽が矮小化され、何の喜びも魅力もないのに偏差値だけ高いことを見せつけようとやたら難易度の高い作品がただ弾けるだけという構図には飽き飽きしていますが、この松田理奈さんは、その点でまったく逆を行く自分の感性と言葉を持った演奏家だと思いました。

音は太く、艶やかで、とくに全身でおそれることなく活き活きと演奏する姿は気持ちのよいもので、聴いている側も音楽に乗ることができて、聴く喜びが得られますし、本来音楽の存在意義とはそのような喜びがなくしてなんのためのものかと思います。

全般的に好ましい演奏でしたが、とくに冒頭のルクレールや、ストラヴィンスキーのイタリア組曲などは出色の出来だったと思います。

後半はカッチーニのアヴェマリア、コルンゴルトやクライスラーの小品と続きましたが、非常に安定感がある演奏でありながら、今ここで演奏しているという人間味があって、次はどうなるかという期待感を聴く側に抱かせるのはなかなか日本人にはいないタイプの素晴らしい演奏家だと思いました。
惜しいのはフレーズの歌い回しや引き継ぎに、ややくどいところが散見され、このあたりがもう少しスマートに流れると演奏はもっと質の高いものになるように感じました。

アリス・紗良・オットもそうでしたが、この松田理奈さんもロングドレスの下から覗く両足は裸足で、やはり器楽奏者はできるだけ自然に近いかたちのほうが思い切って開放的に演奏できるのだろうと思います。

このコンサートで唯一残念だったのはピアニストで、はじめから名前も覚えていませんが、ショボショボした痩せたタッチの演奏で、ヴァイオリンがどんなに盛り上がり熱を帯びても、ピアノパートがそれに呼応するということは皆無で、ただ義務的に黒子のように伴奏しているだけでした。

そんな調子でしたが、ピアノ自体はそう古くはないようですが、厚みのある響きを持ったなかなか良い楽器だと思いました。
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変人の純粋

マロニエ君は世に言う「変人」という人達が、世間一般よりも嫌いではありません。もちろん変人にもいろいろありますから、その中のごく一部ということになるのかもしれませんが。

ある時にふと気が付いたのですが、いわゆる変人というか、ちょっと変わった人というのは、興味深いことに自分以外の変人には極めて冷淡な場合があるようで、これには驚きました。同性や、同じ職業の人の間に流れる緊迫感と同じように、変人同士というのは一種のライバルになるのでしょうか。

こういうことを書いて誤解されると困りますが、マロニエ君は中途半端な常識人よりは、却っていささかぐらいなら変人の方がウマが合う場合が少なくありません。
それはアナタ自身が変人だからでしょう!と言われてしまいそうですが。

変人というのは、人よりもどこか変わっているぶん、俗事に疎く、そのぶん純粋である場合があるということをマロニエ君は経験的に知り、ホッとさせられるものがあるのです。
悲しいかな現代人がなにかにつけ計算高く、人を無邪気に信頼できなくなっているこの時代、そんな中でいささか外れた道を歩んでいる変人には、却って正直で信頼に値する一面があるからだと思います。

尤も、この変人にしろ常識人にしろ、その定義は甚だ難しいので、ここはあくまでも自分の主観によって判じ分けているわけですが、とにかく個人的に苦手なのは平凡で食えない平均人です。
とはいっても変人にも程度問題というのがあって、お付き合いに支障が出るような御仁もいらっしゃいますから、そのあたりは到底マロニエ君の手に負えるものではありませんが、多少ならば純粋さの代償として無意識のうちにこちらのほうを好んでいると自分に気づきます。

では変人の特徴はどこにあるかということですが、まっ先にマロニエ君が単純素朴に思いつく要素は、人に合わせること、つまり協調の機能が弱い人ということになります。さらには、そのためにいろんな損もしている人ということでしょうか。
純粋ぶっていても、それを計算や演技でやっている人は、人一倍損得勘定に長けていて、決して損になるようなことはしませんし、そのあたりは逆に普通以上に用心深かったりしますが、天然の変人はそのあたりはまるでお構いなしで、見事に己の道をまっしぐらです。

これは信念や度胸があるからではなく、それしかできないからみたいです。

変人には変人なりのバラエティに富んだ特徴があり、とても一口に言い表すことはできませんが、困ったパターンとしては他者にめっぽう厳しいということがあるように思います。自分も変人のクセして自分以外の変人とは絶望的に相性が悪く、気持ちの上でも決して寛大さを見せてくれません。自分が出来ないことは多々あっても、自分が出来ることで人が出来なかったら、その批判や追求などは容赦ないものがあります。

このパターンは、思うに変人は変人故に、平生から常に人からハンディといえば語弊があるかもしれませんが、少なくとも相手の我慢によって支えられ、寛大に接してもらうことに慣れている場合が多いのですが、相手も変人となれば、普通の人のように特別扱いはしてくれないために、そこでなんらかの火花が散り、相手を敵視し、本能的に避けようとするようです。

動物が嫌いな人の中にも、このパターンを認めることができますが、動物(とくに犬猫)は、人間にハンディはくれませんし、それでも寛大に愛情深く接することが要求されますから、ある種の変人にこれができないのはなんとなく頷ける気がします。
吉田茂は犬が嫌いな人間とは口もきかなかったと言いますが、それもなるほどひとつの物差しだとはいえるでしょう。
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NHKの変化

金曜日のBSプレミアムで、旅のチカラ「“私のピアノ”が生まれた町へ ~矢野顕子ドイツ・ハンブルク~」という番組が放送されました。

ニューヨーク在住のミュージシャン、矢野顕子さんがニューヨーク郊外の「パンプキン」という名の自分のスタジオに、プロピアノ(ニューヨークにあるピアノの貸出業/販売の有名店)で中古でみつけたハンブルク・スタインウェイのBをお持ちのことは、以前から雑誌などで知っていました。

番組は、そのお気に入りのピアノのルーツを探るべく、ドイツ・ハンブルクへ赴いてスタインウェイの工場を尋ねるというものでした。ただ、なんとなく奇異に映ったのは、ニューヨークといえばスタインウェイが19世紀に起業し、有名な本社のある街であるにもかかわらず、そういう本拠地という背景を飛び越えて、敢えてドイツのスタインウェイに取材を敢行するというもので、ここがまず驚きでした。

また、あのお堅いNHKとしては、はっきりと「スタインウェイ」というメーカー名を言葉にも文字にもしましたし、番組中での矢野さんもその名前を特別な意味をもって何度も口にしていました。
このようなことは以前のNHKなら絶対に考えられないことで、ニュースおよび特別の事情のない限り特定の民間企業の名前を出すなどあり得ませんでした。とりわけマロニエ君が子供のころなどは、そのへんの厳しさはほとんど異常とも思えるものだった記憶があります。

例えばスタジオで収録される「ピアノのおけいこ」などはもちろん、ホールで開かれるコンサートの様子でも、ピアノは大抵スタインウェイでしたが、そのメーカー名は決して映しませんでした。とはいっても、ピアノはお稽古であれコンサートであれ、演奏者の手元を映さないというわけにはいきませんから、その対策として、黒い紙を貼ったり、スタジオやNHKホールのピアノにはSTEINWAY&SONSの文字を消して、その代わりに、変なレース模様のようなものを入れて美しく塗装までされていたのですから、その徹底ぶりは呆れるばかりでした。

さすがに最近ではそこまですることはなくなって、はるかに柔軟にはなったと思っていましたが、こういう番組が作られるようになるとは時代は変わったもんだと痛感させられました。

同じ会社でもハンブルクの工場は、ニューヨークのそれとは雰囲気がずいぶん違います。やはりドイツというべきか、明るく整然としていて清潔感も漂いますが、この点、ニューヨークはもっと労働者の作業場というカオスとワイルドさがありました。

番組後半では、創業者のヘンリー・スタインウェイの生まれ故郷にまで足を伸ばし、彼の家が厳寒の森の中で仕事をする炭焼き職人だったということで、幼い頃から木というものに囲まれ、それを知悉して育ったという生い立ちが紹介されました。
ヘンリーがピアノを作った頃にはこの森にも樹齢200年のスプルースがたくさんあったそうですが、今では貴重な存在となっているようです。

またハンブルクのスタインウェイでも21世紀に入ってからは、ドイツの法律で楽器製作のための森林伐採が規制されたためにニューヨークと同じアラスカスプルースに切り替えられたという話は聞いていましたが、ハンブルクのファクトリーでも「響板はピアノの魂」などといいながらも、アラスカスプルースであることを認める発言をしていました。

昔に較べていろいろ云われますが、スタインウェイの工場はそれでもいまだに手作り工程の多い工房に近いものがあり、その点、いつぞや見た日本や中国のピアノ工場は、まさに「工場そのもの」であり、楽器製作と云うよりも工業の現場であったことが思い出されます。

番組中頃で矢野さんがある演奏家の家を尋ねるシーンがありましたが、ドアを入ると家人が第二次大戦中に作られたという傷だらけのスタインウェイでシューベルトのソナタD.894の第一楽章を弾いていて、それに合わせて矢野さんがメロディーを歌うシーンがありましたが、そのなんとも言い難い美しさが最も印象に残っています。
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ホロヴィッツのピアノ

いまさら言うまでもありませんが、以下の感想はまったくマロニエ君個人の印象であることを、あらためて申し述べた上での感想です。

最近発売されたCDの中に、ホロヴィッツが初来日したときに持ってきたニューヨーク・スタインウェイを日本のさる会社が購入し、それを使って録音したCDがあります。
演奏は日本人の若い女性ですが、この人のCDは別の100年前のスタインウェイを使ったとかいうサブタイトルか何かに引き寄せられて一度購入して聴きましたが、二枚目を買うほどの気持ちにはなれないでいました。

しかし、今回のアルバムでの使用ピアノが、ホロヴィッツがステージでしばしば弾いたピアノそのものともなると、勢い興味の対象はそちらに移行してちょっと音だけでも聴いてみたいもんだとは思いましたが、それだけのために買う気にもなれないので諦めていたら、なんとそれが店頭の試聴コーナーに供してありました。

ほとんど買うつもりのないCDであっただけに、聴く機会もないだろうと思っていた矢先のことで、なんだか猛烈にラッキーな気になり、思わず興奮してしまいました。
興奮の種類にもいろいろあって、こんなみみっちい興奮もあるのかと思うと我ながら苦笑してしまいます。

結果から先に言いますと、まったくノーサンキューなサウンドが溢れ出し、とても長くは聴いてはいられないと思って、ササッといろんな曲を飛ばし聴きして、早々にやめてしまいました。
なるほどホロヴィッツの弾いたピアノであることはイヤというほどわかりましたが、演奏者が違うと、正直とても普遍的な好ましさがあるとは感じられず、ひどく疲れました。

あのピアノは、完全にホロヴィッツの奏法と音楽のための特殊なもので、それを普通のピアニストが弾いても、ただ下品でうるさくてメタリックな音が出るだけで、すごいとは思いましたが、魅力的とは感じられません。

ホロヴィッツのあの繊細優美と爆発の交錯、悪魔的な中にひそむエレガントの妙、常人には及びもつかないデュナーミク、そして数人で弾いているかのような多声的な表現が変幻自在になされたときに初めて真価を発揮する、極めてイレギュラーなピアノだというのが率直な印象。

こういうピアノも、なんらかの伝手と、チャンスと、お金があれば手に入れられるのが世の中というものかもしれませんが、こういう楽器を購入し、それをビジネスに供しようという考え自体がとてもマロニエ君にはついていけない世界のように思えてなりませんでした。
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やってしまった

マロニエ君はCDをよくネットからまとめて購入するのですが、他のものと違ってCDは発売間近であったり、輸入盤の場合は再入荷待ちといったような状況によく出くわします。

これがひどいときにはひと月ぐらい待たされることもあるわけで、届いたときにはこちらの気分もすっかり変わってしまっていることがあるものです。
さらには、その時期によって聴いている音楽にもマイブームがあって、ひとつの作曲家や演奏家のものを系統的・集中的に聴いているときに、それとはまったく関係のないCDが届いても、とても聴く気になれず、そのまましばらく放置してしまうことが珍しくありません。

マロニエ君はテレビのクラシック放送でもそうですが、録画をしておいて、こちらの気分が向いたときにしか観ようとは思いませんので、このブログでもひと月も前の放送に関して印象を書いたりすることがしばしばとなるのです。

こんな感じですから、未開封のCDもかなりあるわけで、ひどい場合は買ったことも我が家に存在していることも忘れてしまうこともあったりで、これが二重買いもととなり危険なのです。
何度もそんな経験をしているので、できるだけジャケットだけは印象に残しておこうとは日頃から思いますが、なかなか不徹底で、先日もまたやってしまいました。

サンドロ・イヴォ・バルトリの弾く、ブゾーニの対位法的幻想曲と7つの悲歌集で、表紙に肩肘を付いたブゾーニの写真をあしらった印象的なジャケットは覚えがあったのですが、それをマロニエ君はネットで見たものと思い込んでしまっており、天神で購入して帰宅したところ、なんか嫌なものが気に差し込んで、ガサゴソやってみるとなんと同じ物が箱の中から出てきました。

ちょうどワゴンセールで漁ってきたものなので、そんなに高いものでもないのですが、それでも同じ物を2枚買ってしまうというのは気持的に悔しいものですが、自分がしたことですから誰を恨みようもありません。

というわけで、ともかく聴いてみることに。
対位法的幻想曲は休みなしに34分ほどある大曲ですが、もともとは一時間半にもおよぶ長大な作品であったというのですから驚かされます。ブゾーニのピアノ曲としては代表作ですが、つかみどころのない曲想と、どこかグロテスクな彼の精神の錯綜が絶え間なく続く作品です。
2枚も買っておいて、こんなことを云うのもどうかとは思いますが、マロニエ君はどうもブゾーニの作品はあまり自分の好みではなく、いつも聴くたびに恐怖絵を見るような暗さを感じてしまいます。

7つの悲歌集のほうが、まだしも穏やかな表情もありますが、暗く陰鬱な音楽という点では変わりはありません。暗い音楽ならスクリャービンの方がよほど自分の趣味に適っており、ブゾーニは曲想とか精神がもうひとつ作品になりきれていないような気がして、聴く者は翻弄され破綻へと追い込まれていくようです。
ブゾーニは対位法に執着した作曲家だと云われますが、それよりはリストの影響の方が色濃く出ており、とくにリスト晩年の作を彷彿とさせるようなところが大きいように感じます。

これらの二つの作品を合わせて73分にも及ぶ演奏ですが、サンドロ・イヴォ・バルトリの演奏はこれらの曲を聴くには十分な技量を持った、とても優秀なピアニストだと思われました。
楽器も録音もかなり満足のいくものだと思います。
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東区にホールが

このところ福岡市東区の国道3号線、およびその周辺道を通ることが何度かありましたが、目を見張るのは、この一帯は昔が何であったのかさえすぐには思い出せないほど近代的な景観に生まれ変わって、高層マンションなどがいくつも出来ているし、周辺の道路も美しく整備されて、以前の面影はまったくないことでしょう。

中心になる2棟の大型高層マンションなどは、数年前までは工事費用の問題からか売れる見込み立たなかったのか、詳細は知りませんが、工事そのものが途中で頓挫して、半分ぐらい出来上がったコンクリートの外壁が、哀れな姿を晒していたものでしたが、その後工事も再開され、それを契機にその他のビルなども建築が進んで完成し、今ではちょっとした福岡の東の副都心的な様相を見せています。

福岡市はいつのまにやら東西に高層のマンションなどが数多く立ち並ぶ街になり、まさに市の両翼を支えているという印象さえなくはないようです。これに合わせるように周囲の道も次々に作られては運用が開始され、カーナビのソフトはいつも古いバーションになってしまうほどです。

さて、そんな東区香椎の新エリアですが、大型高層のマンション群の脇にはまだまだ手つかずの広大な地所があり、こんなところに新しいホールでも出来たらいいのになあと思っていました。しかし、それはマロニエ君の空想であり願望に過ぎず、実際にホールのような文化施設を作るには莫大な費用はかかるし、現在のような冷え込んだ音楽業界やコンサートの現状をみれば、とてもそれで経営が成り立っていくものでもないだろうし、まあ採算の取れるマンションやショッピング施設などしか建設計画には挙がらないだろうと思っていました。

ところが、あるとき楽器店の方から「あそこに」どうもホール建設の方向の話が進んでいるらしいとの情報がもたらされて急に嬉しくなりました。今はまだその広大な空き地はなにも手が着いていない状態ですが、すでに楽器メーカーのほうにはピアノの価格などあれこれの打診がなされているとのことで、ということは、あるていどの基本計画ぐらいは決まったのではないかと思ってしまいますが、果たしてどうでしょう?

福岡市内でも居住者の多い東部副都心部に文化施設ができるということは嬉しいことですが、ただし杞憂がないではありません。
東京でも紀尾井ホールや浜離宮朝日ホール、福岡でもアクロスなどができたのはいずれも1990年代の半ばで、この時期はバブル経済がはじけた後遺症を引きずりながらも、まだ世の中には、いいものを作ろうという余韻と志のようなものが関係者の心の中にはあって、作る以上は地域の誇りになるような一流の施設を作ろうじゃないかという気概のようなものがあったように思います。

それからほぼ20年余、時代の変転は想像以上のものがあり、マロニエ君は昨年県内に久々に新しくオープンしたホールに行ってみて、その露骨なまでの低コストも露わな簡素な施設にただただ驚き、唖然とさせられたのはいまでも強烈な印象となっています。
こういってはなんですが、文化施設というのは、もちろんエリアの人が気軽に利用できる要素も併せ持っていなくてはいけない面もあるとは思いますが、基本的には文化の象徴であり、地域の精神的な中心地であるような、つまり「良い意味であまり気軽ではない」という存在であってほしいと思うのです。

名前や建前は立派でも、実体はただの地元のコーラスの練習だの、アマチュアの便利なステージ、カルチャースクールの集合地のようになると、却って特定の人達の専有物のようになってしまうだけのようにも思います。もういまさら図書館などを併設しなくていいから、ここはぜひしっかりした、百年もつようなものをつくってほしいと思いますが…無理でしょうね。
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レオニダス・カヴァコス

少し前の放送だったようですが、録画していたNHK音楽祭2012から、ヴァレリー・ゲルギエフ指揮マリインスキー管弦楽団の公演をようやく観てみました。

プログラムはメシアン:キリストの昇天、シベリウス:ヴァイオリン協奏曲(ヴァイオリン:レオニダス・カヴァコス)、プロコフィエフ:交響曲第5番変ロ長調。

中でも、初めて観るヴァイオリン独奏のレオニダス・カヴァコスは、こういってはなんですが、見るからに陰鬱な印象で、長身痩躯で黒のチャイナ服のみたいなものを着ており、むさ苦しい髭面に長い黒髪、黒縁のメガネといった、なんとも風変わりな様子で、ステージに現れたときはまったく期待感らしきものがおこらない人だと感じました。

ところが静かな冒頭から、ヴァイオリンの入りを聴いてしばらくすると、んん…これは!と思いました。
あきらかにこちらへ伝わってくる何かがあるのです。
今どきのありきたりな演奏者からはなかなか聴かれない、深いもの、奥行きのようなものがありました。

とりわけ耳を奪われたのは、肉感のある美しい音が間断なく流れだし、しかも聴く者の気持ちの中へと自然な力をもって染み入ってくるもので、まったく機械的でない、いかにも生身の人間によって紡がれるといった演奏は、密度ある音楽の息吹に満ちていました。
演奏姿勢は直立不動でほとんど変化らしいものがなく、いわゆる激しさとか生命の燃焼といった印象は受けませんが、それでいて彼の演奏は一瞬も聴く者の耳を離れることがなく、ゆるぎないテクニックに裏打ちされた、きわめて集中力の高いリリックなものであったのは思いがけないことでした。

カヴァコスという奏者がきわめて質の高い音楽を内包して、作品の演奏に誠実に挑んでいることを理解するのに大した時間はかかりませんでした。

実を云うと、マロニエ君はシベリウスのヴァイオリンコンチェルトは巷での評価のわりには、それこそ何十回聴いても、いまひとつピンと来るモノがなく、いまいち好きになれなかった曲のひとつでしたが、今回のカヴァコスの演奏によって、多少大げさに云うならば、はじめてこの曲の価値と魅力がわかったような気がしました。こういう体験はなによりも自分自身が嬉しいものです。

しかし、この作品は、少なくとも1、2楽章はコンチェルトと云うよりは、連綿たるソロヴァイオリンの独白をオーケストラ伴奏つきでやっているようなものだと改めて思いました。
もちろんこういう作品の在り方もユニークでおもしろいと思いますし、なんとなくスタイルとしてはサンサーンスの2番のピアノコンチェルトなんかを思い起こしてしまいました。

カヴァコスのみならず、ゲルギエフ指揮マリインスキー管弦楽団もマロニエ君の好きなタイプのオーケストラでした。というか、もともとマロニエ君はロシアのオーケストラは以前から嫌いではないのです。

小さな事に拘泥せず、厚みのある音で聴く者の心を大きく揺さぶるロシア的な演奏は、いかにも音楽を聴く喜びに身を委ねることができ、大船に乗って大海を進むような心地よさがあります。
そのぶんアンサンブルはそこそこで、ときどきあちこちずれたりすることもありますが、それもご愛敬で、音楽を奏する上で最も大切なものは何かという本質をしっかり見据えているところが共感できるのです。

驚いたことには、マリインスキー管弦楽団の分厚い響きはあのむやみに広いNHKホールでも十分にその魅力と迫力を発揮することができていたことで、これにくらべるとここをホームグラウンドとする最近のN響などは、とにかく音も音楽も痩せていて、ただただ緻密なアンサンブルのようなことにばかり終始しているように思われました。

ソロの演奏家も同様で、力のない細い音を出して、無意味にディテールにばかりにこだわって一貫性を犠牲にしてでも、評論家受けのする狭義での正しい演奏をするのが流行なのかと思います。
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