やってしまった

マロニエ君はCDをよくネットからまとめて購入するのですが、他のものと違ってCDは発売間近であったり、輸入盤の場合は再入荷待ちといったような状況によく出くわします。

これがひどいときにはひと月ぐらい待たされることもあるわけで、届いたときにはこちらの気分もすっかり変わってしまっていることがあるものです。
さらには、その時期によって聴いている音楽にもマイブームがあって、ひとつの作曲家や演奏家のものを系統的・集中的に聴いているときに、それとはまったく関係のないCDが届いても、とても聴く気になれず、そのまましばらく放置してしまうことが珍しくありません。

マロニエ君はテレビのクラシック放送でもそうですが、録画をしておいて、こちらの気分が向いたときにしか観ようとは思いませんので、このブログでもひと月も前の放送に関して印象を書いたりすることがしばしばとなるのです。

こんな感じですから、未開封のCDもかなりあるわけで、ひどい場合は買ったことも我が家に存在していることも忘れてしまうこともあったりで、これが二重買いもととなり危険なのです。
何度もそんな経験をしているので、できるだけジャケットだけは印象に残しておこうとは日頃から思いますが、なかなか不徹底で、先日もまたやってしまいました。

サンドロ・イヴォ・バルトリの弾く、ブゾーニの対位法的幻想曲と7つの悲歌集で、表紙に肩肘を付いたブゾーニの写真をあしらった印象的なジャケットは覚えがあったのですが、それをマロニエ君はネットで見たものと思い込んでしまっており、天神で購入して帰宅したところ、なんか嫌なものが気に差し込んで、ガサゴソやってみるとなんと同じ物が箱の中から出てきました。

ちょうどワゴンセールで漁ってきたものなので、そんなに高いものでもないのですが、それでも同じ物を2枚買ってしまうというのは気持的に悔しいものですが、自分がしたことですから誰を恨みようもありません。

というわけで、ともかく聴いてみることに。
対位法的幻想曲は休みなしに34分ほどある大曲ですが、もともとは一時間半にもおよぶ長大な作品であったというのですから驚かされます。ブゾーニのピアノ曲としては代表作ですが、つかみどころのない曲想と、どこかグロテスクな彼の精神の錯綜が絶え間なく続く作品です。
2枚も買っておいて、こんなことを云うのもどうかとは思いますが、マロニエ君はどうもブゾーニの作品はあまり自分の好みではなく、いつも聴くたびに恐怖絵を見るような暗さを感じてしまいます。

7つの悲歌集のほうが、まだしも穏やかな表情もありますが、暗く陰鬱な音楽という点では変わりはありません。暗い音楽ならスクリャービンの方がよほど自分の趣味に適っており、ブゾーニは曲想とか精神がもうひとつ作品になりきれていないような気がして、聴く者は翻弄され破綻へと追い込まれていくようです。
ブゾーニは対位法に執着した作曲家だと云われますが、それよりはリストの影響の方が色濃く出ており、とくにリスト晩年の作を彷彿とさせるようなところが大きいように感じます。

これらの二つの作品を合わせて73分にも及ぶ演奏ですが、サンドロ・イヴォ・バルトリの演奏はこれらの曲を聴くには十分な技量を持った、とても優秀なピアニストだと思われました。
楽器も録音もかなり満足のいくものだと思います。
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東区にホールが

このところ福岡市東区の国道3号線、およびその周辺道を通ることが何度かありましたが、目を見張るのは、この一帯は昔が何であったのかさえすぐには思い出せないほど近代的な景観に生まれ変わって、高層マンションなどがいくつも出来ているし、周辺の道路も美しく整備されて、以前の面影はまったくないことでしょう。

中心になる2棟の大型高層マンションなどは、数年前までは工事費用の問題からか売れる見込み立たなかったのか、詳細は知りませんが、工事そのものが途中で頓挫して、半分ぐらい出来上がったコンクリートの外壁が、哀れな姿を晒していたものでしたが、その後工事も再開され、それを契機にその他のビルなども建築が進んで完成し、今ではちょっとした福岡の東の副都心的な様相を見せています。

福岡市はいつのまにやら東西に高層のマンションなどが数多く立ち並ぶ街になり、まさに市の両翼を支えているという印象さえなくはないようです。これに合わせるように周囲の道も次々に作られては運用が開始され、カーナビのソフトはいつも古いバーションになってしまうほどです。

さて、そんな東区香椎の新エリアですが、大型高層のマンション群の脇にはまだまだ手つかずの広大な地所があり、こんなところに新しいホールでも出来たらいいのになあと思っていました。しかし、それはマロニエ君の空想であり願望に過ぎず、実際にホールのような文化施設を作るには莫大な費用はかかるし、現在のような冷え込んだ音楽業界やコンサートの現状をみれば、とてもそれで経営が成り立っていくものでもないだろうし、まあ採算の取れるマンションやショッピング施設などしか建設計画には挙がらないだろうと思っていました。

ところが、あるとき楽器店の方から「あそこに」どうもホール建設の方向の話が進んでいるらしいとの情報がもたらされて急に嬉しくなりました。今はまだその広大な空き地はなにも手が着いていない状態ですが、すでに楽器メーカーのほうにはピアノの価格などあれこれの打診がなされているとのことで、ということは、あるていどの基本計画ぐらいは決まったのではないかと思ってしまいますが、果たしてどうでしょう?

福岡市内でも居住者の多い東部副都心部に文化施設ができるということは嬉しいことですが、ただし杞憂がないではありません。
東京でも紀尾井ホールや浜離宮朝日ホール、福岡でもアクロスなどができたのはいずれも1990年代の半ばで、この時期はバブル経済がはじけた後遺症を引きずりながらも、まだ世の中には、いいものを作ろうという余韻と志のようなものが関係者の心の中にはあって、作る以上は地域の誇りになるような一流の施設を作ろうじゃないかという気概のようなものがあったように思います。

それからほぼ20年余、時代の変転は想像以上のものがあり、マロニエ君は昨年県内に久々に新しくオープンしたホールに行ってみて、その露骨なまでの低コストも露わな簡素な施設にただただ驚き、唖然とさせられたのはいまでも強烈な印象となっています。
こういってはなんですが、文化施設というのは、もちろんエリアの人が気軽に利用できる要素も併せ持っていなくてはいけない面もあるとは思いますが、基本的には文化の象徴であり、地域の精神的な中心地であるような、つまり「良い意味であまり気軽ではない」という存在であってほしいと思うのです。

名前や建前は立派でも、実体はただの地元のコーラスの練習だの、アマチュアの便利なステージ、カルチャースクールの集合地のようになると、却って特定の人達の専有物のようになってしまうだけのようにも思います。もういまさら図書館などを併設しなくていいから、ここはぜひしっかりした、百年もつようなものをつくってほしいと思いますが…無理でしょうね。
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レオニダス・カヴァコス

少し前の放送だったようですが、録画していたNHK音楽祭2012から、ヴァレリー・ゲルギエフ指揮マリインスキー管弦楽団の公演をようやく観てみました。

プログラムはメシアン:キリストの昇天、シベリウス:ヴァイオリン協奏曲(ヴァイオリン:レオニダス・カヴァコス)、プロコフィエフ:交響曲第5番変ロ長調。

中でも、初めて観るヴァイオリン独奏のレオニダス・カヴァコスは、こういってはなんですが、見るからに陰鬱な印象で、長身痩躯で黒のチャイナ服のみたいなものを着ており、むさ苦しい髭面に長い黒髪、黒縁のメガネといった、なんとも風変わりな様子で、ステージに現れたときはまったく期待感らしきものがおこらない人だと感じました。

ところが静かな冒頭から、ヴァイオリンの入りを聴いてしばらくすると、んん…これは!と思いました。
あきらかにこちらへ伝わってくる何かがあるのです。
今どきのありきたりな演奏者からはなかなか聴かれない、深いもの、奥行きのようなものがありました。

とりわけ耳を奪われたのは、肉感のある美しい音が間断なく流れだし、しかも聴く者の気持ちの中へと自然な力をもって染み入ってくるもので、まったく機械的でない、いかにも生身の人間によって紡がれるといった演奏は、密度ある音楽の息吹に満ちていました。
演奏姿勢は直立不動でほとんど変化らしいものがなく、いわゆる激しさとか生命の燃焼といった印象は受けませんが、それでいて彼の演奏は一瞬も聴く者の耳を離れることがなく、ゆるぎないテクニックに裏打ちされた、きわめて集中力の高いリリックなものであったのは思いがけないことでした。

カヴァコスという奏者がきわめて質の高い音楽を内包して、作品の演奏に誠実に挑んでいることを理解するのに大した時間はかかりませんでした。

実を云うと、マロニエ君はシベリウスのヴァイオリンコンチェルトは巷での評価のわりには、それこそ何十回聴いても、いまひとつピンと来るモノがなく、いまいち好きになれなかった曲のひとつでしたが、今回のカヴァコスの演奏によって、多少大げさに云うならば、はじめてこの曲の価値と魅力がわかったような気がしました。こういう体験はなによりも自分自身が嬉しいものです。

しかし、この作品は、少なくとも1、2楽章はコンチェルトと云うよりは、連綿たるソロヴァイオリンの独白をオーケストラ伴奏つきでやっているようなものだと改めて思いました。
もちろんこういう作品の在り方もユニークでおもしろいと思いますし、なんとなくスタイルとしてはサンサーンスの2番のピアノコンチェルトなんかを思い起こしてしまいました。

カヴァコスのみならず、ゲルギエフ指揮マリインスキー管弦楽団もマロニエ君の好きなタイプのオーケストラでした。というか、もともとマロニエ君はロシアのオーケストラは以前から嫌いではないのです。

小さな事に拘泥せず、厚みのある音で聴く者の心を大きく揺さぶるロシア的な演奏は、いかにも音楽を聴く喜びに身を委ねることができ、大船に乗って大海を進むような心地よさがあります。
そのぶんアンサンブルはそこそこで、ときどきあちこちずれたりすることもありますが、それもご愛敬で、音楽を奏する上で最も大切なものは何かという本質をしっかり見据えているところが共感できるのです。

驚いたことには、マリインスキー管弦楽団の分厚い響きはあのむやみに広いNHKホールでも十分にその魅力と迫力を発揮することができていたことで、これにくらべるとここをホームグラウンドとする最近のN響などは、とにかく音も音楽も痩せていて、ただただ緻密なアンサンブルのようなことにばかり終始しているように思われました。

ソロの演奏家も同様で、力のない細い音を出して、無意味にディテールにばかりにこだわって一貫性を犠牲にしてでも、評論家受けのする狭義での正しい演奏をするのが流行なのかと思います。
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猫足

このところ、ちょっとしたきっかけがあって中古のアップライトピアノのことをネットであれこれ調べていると、やはりここにもいろいろな事実があるらしいことが少しずつ分かってきたように感じます。

当然ながら主流はヤマハとカワイで、比較的新しいピアノが中古市場に出回っているようですが、ひとつハッキリと発見したことは、少なくとも黒が限りなく当たり前のグランドに較べると、色物というか、いわゆる木目調ピアノの占める割合がアップライトのほうが遙かに高いようです。

サイズはいろいろありますが、アップライトの場合は床の専有面積はどれもほとんど変わりませんから、もっぱら背の高さの違いということになり、マロニエ君だったら当然響板も広く弦も長い最大サイズの131cmを選ぶでしょうが、なぜか小さいものが人気だったりと不思議な世界です。逆に言うと、アップライトで敢えて小さいサイズを購入される方というのは、どういう基準でそうなるのか知りたいところです。

そんな折、遠方からピアノのお好きな来客があったので、ある工房に遊びに行きましたが、そこのご主人の話はマロニエ君にとってはまったく思いもよらない意外なものでした。

とりあえずアップライトに限っての話ですが、いわゆる「猫足」という例のカーブのついた前足を持つピアノが断然人気があり、そのぶん値段も高くなるのだそうで、これにはもうただビックリ。
マロニエ君はあくまで個人的な好みとしてですが、あのアップライトの猫足というのはまったくなんとも思わないといいますか、まあもっとハッキリ言ってしまうとむしろ好きではないですし、そうでないストレートな足のほうが凛々しくスマートで好ましいと感じます。

とりわけ昔ヤマハにあったW102という、アメリカン・ウォルナット/ローズウッドの艶消し仕上げのモデルなどは、数少ないマロニエ君の好みのアップライトなんですが、ここのご主人にいわせると、このあたりも猫足でないために値段は少々安めとのことで、その価値観には驚愕するしかありませんでした。

唐突ですが、マロニエ君はマグロのトロなんかが大の苦手で、大トロなど見るのもイヤ、あんなギラギラした脂のかたまりみたいな身なんかだれが食べるものかというクチで、食べるのは赤身かせいぜい程良い中トロまでですが、世の中の好みと、それに沿った価格差はまるで合点がいかないことを思い出してしまいました。

猫足に話を戻しますが、あまり驚いたので人気の理由を聞くと、ひとこと「決めるのはたいてい奥さんだから」なんだそうです。…。
ということは、あの猫足は、よほど女性のお好みということなのかもしれませんが、女性にとって猫足のどこがそんなにいいのかマロニエ君はまったくわかりません。

それに対して、グランドの猫足は別物という気がします。
グランドの場合は、バレリーナのように、三本の足がそのままデザインの大きな要素を担っており、あの特徴的なボディのカーブとも相俟って、いわばピアノ全体の佇まいを決定します。猫足ピアノの多くは、それに合わせてそれ以外の部分も細やかな手が入れられ、ときに細工や彫り物まであって、たしかに独特の優雅さを醸し出しているので、これを好むのはわかります。

しかし、アップライトの場合、基本はほとんどデザインとも言えないような鈍重で無骨な四角い箱であり、そこへ鍵盤がせり出しているだけ。その鍵盤の両脇から下に伸びる小さな足だけがちょっと猫足になったからといって、それがなに?と思いますが、まあそれでも価値がある人にとってはあるのでしょうね。
しかも、それだけで中古価格まで違うのだそうで、ときに格下のピアノが猫足という理由だけでワンランク上のピアノの価格を飛び越すこともあるというのはまったく呆れる他はなく、それが世に言うお客様のニーズというものかとも思いました。

ニーズがあれば相場も上がるというのは世の常なのでしょうが、しかし…いやしくもピアノであり楽器であるわけですから、色やデザインも大事なのはもちろんわかりますが、やはり第一には音や楽器としての潜在力を優先して選びたいものです。
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ゴミ袋

先日、物置の整理をしているということを書きましたが、大半は市の指定によるゴミ袋に入れて回収日に出すということをひたすら繰り返しています。

大中小あって、45Lというのが一番大きなサイズで、これはどこで買っても一切の値引きも無く450円、つまり一枚45円也の袋です。実にくだらないことですが、この袋を二重(中の袋は普通の市販のもの)にして強度を増し、できるだけ中のゴミを圧縮しながら、できるだけたくさん詰め込むことに一種の楽しさを覚えてきました。

不思議なもので、努力をすればするだけたくさん詰め込めるし、要領も良くなり、出来上がったときには袋全体がまるでオバQのような様相となります。
ささやかながら、なんでも凝り性なところのあるマロニエ君としては、次第にコツが掴めてきて、底のほうに置くものやその形状、入れ方の工夫なども次々に思いついて、我ながら実にセコくてバカバカしいことだと知りつつも、変にこの作業を挑戦的な気分で没頭するようになってきました。

次から次ぎに作っているうちにテクニックも上がるし時間も早くなり、何事も練習というのは本当だなあ…なんて感心しながら、それにしては肝心のピアノはどうして上手くならないのかと思ったりしながら。

それもこれも、ペラペラのゴミ袋が一枚45円もすることに一種の抵抗心が芽生えて、できるだけたくさん詰め込むことで、自治体の思惑にせめて抵抗してやろうという反抗心もあるのです。そうやって詰め込まれたゴミ袋はいよいよ肥大化し、回収日に外に出すのがちょっと恥ずかしいぐらい極限まで成長していきました。
それだけ詰め込み方の手際が上がったというわけです。

そんなある日、おやつを買いに行こうと車に乗ったのですが、このところあまりに同じ店でばかり買っていたので、美味しいけれどもいささかその店の味にも新鮮味がなくなっていたので、その店の目と鼻の先にある、もう一件のお店に行ってみることにしました。
数年前のオープン当時一度買ったことがあり、そのときの印象はイマイチだったものの、もう一回ぐらい買ってみようかという気になり、その日は敢えてそちらの店で買いました。

果たして、陳列ケースを見たとたん、あ、大したことないな…と直感しましたが、もう店のドアは開けて中に入ってしまったことだし、自分のことをかわいいと思っているようなお姉さんが、すかさず奥から出てきて「いらっしゃいませぇ!」とえらく高い声を出してしまった後でしたから、この場は諦めてとりあえず4個ほど買ってみました。

帰宅するなり食べてみると、予想以上になんてことないもので、家人にもまったく不評でした。サイズも小ぶりで、味も単調、ハッキリ言って大失敗。もう金輪際行かない店という認識を自分の中に刻みました。
同時に、ふと、ゴミ袋のことを思い出しました。

こんなしょうもないケーキが、あの10枚入りの指定ゴミ袋とほとんど同額だなんて、到底納得できないし、磨き上げた詰め込みテクニックが、とめどなくアホらしいもののような気がしてきました。
自分のやってきた努力が、出来の悪いケーキ1個によって無惨にも瓦解したようでした。
そういうわけで、せっかく磨いたテクニックですが、それもそこそこ使うことにして、ゴミ袋はもっと大胆にパッパと使うことに決めました。

…とはいっても、実際には大した差はないのですが、でも気分はかなりかわりました。
まあ、冷静に考えれば、あれだけのゴミをひとつ45円で処理してくれるのですから、考えてみればありがたいもんだと思い始めているこの頃です。
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物置の整理

このところ、暇を見つけては物置の整理をしています。
訳あってどうしてもこの場所にある夥しい量の荷物のすべてを一旦外に出さなければいけなくなり、初めは途方に暮れましたが、やむを得ず少しずつ整理をやっています。

よそのお宅のことは知りませんが、少なくとも我が家に限っていうと、物置というのは、必要な物を一時的に置いておく場所というよりも、大半は使うことのない、どうしようもないものをとりあえず置いておく、いつの日か必要になるなどと思いながら、長い年月をかけてただただ無意味に積み上げられ、多くの品々は時間と空間を食い尽くし、ムダと不便と不衛生を撒き散らすだけの場所だということをしみじみ感じてます。

整理といっても、要するに捨てる物を引っ張り出す作業が大半で、いかに無駄な物によって貴重ともいうべきスペースが惜しげもなく占領されていたかという愚かさを思い知らされる毎日です。

たしかに、中には昔なつかしい大切なものがあるのも事実ですが、そんなものは全体から見ればほんの一部にすぎず、大半は処分にも困るような品々が堆く積み上がっているにすぎません。
当然ながらゴミやほこりもあるわけで、このところ使い捨てのマスクと手袋はすっかり必需品になりました。

あらゆるものが物置という名の永遠の住処に移されて、時間と共に、その量は凄まじいまでに膨れ上がっていました。

実に種々雑多なものがありましたが、困るのはいただき物などに代表される未使用品などで、傷んでいないけれども、さりとて使うあてもないものです。古いというだけで新品もしくはそれに準じるようなモノをポンポン捨てるのも抵抗があり、もらってくれる人でもあるなら喜んで差し上げるのですが、そんな奇特な人もいないでしょうし、だいいち人にもらってもらうためにいちいち時間をかけ、人を呼んで意思確認などしていては整理自体がいつ終わるとも知れません。
やむなく、心を決めて潔く不要なものは処分するという決断に踏み切りました。

それでも一番困るのは、衣服だということも今回初めて知りました。
とりわけ亡くなった家族のそれは、自分の身内が直接身につけていたもので、覚えのあるものもあり、それを他の不要品と同様にゴミ袋に投下するのは精神的になかなかできることではありません。

でも、じゃあどうするの?となったとき、大げさにいうなら「この世に、これほどどうしようもないもの」もないわけです。
再利用の見込みなどまったくなく、客観的価値などさらさらないもの、それが個人の衣服類なんですね。

家人とも相談し、あれこれ悩みましたけれども、結論としては不本意ではあるけれども、それを言っていたらキリがないし、もうそれを着る人はもうこの世にはいないのですから、家族の思い出という名の下に、これ以上留め置くことは意味が無いという結論に達しました。

まあ、ひとたび決心して行動し始めるとそれほどでもなく、処分した後は却ってスッキリした気分になれたのは意外でした。
ある種の物や作品などは、故人の物でも保存することになんら問題はありませんが、いかんせん衣服というのはその点独特で、それ自体が主を失ってすでに死んでいるような気がしました。

これはもちろんマロニエ君の私見ですが、亡くなった人の衣服などを必要以上に取っておくことは、故人を偲ぶこととは似て非なる事のような気がしますし、むしろこういうものが家の中にどっさりあるほうが、ある意味では不健康という気もするようになりました。
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すぐれもの

日曜大工の大型店をうろうろしていると、思いがけないものが目に止まりました。

各種の磨き剤が集められた売り場では、普通の店には置いていないような各目的に応じたさまざまな専用品がズラリと並んでいますが、そんな中に『ピアノ 家具 木製品 手入れ剤』というのがあり、とくにピアノというひときわ文字がドカンと大きく描かれていて「ん?」と思わず手にとって見てみました。

「美しい艶を与え、汚れやキズから守る!」とあり、ピアノ専用品というわけではないらしく、用途は光沢塗装をした木製家具には広く使えるようなことが書いてあり、メーカーを見るとソフト99とありました。

ソフト99は各種のケミカルクリーニング剤を出している会社で、車のワックスやコーティング剤に興味を持った人なら、その名を知らない人はまずいないほどの名の通ったメーカーです。

歯磨きより少し小さいぐらいのチューブ入りで、価格も500円ぐらいだったので、これはおもしろそうだと思いましたし、なによりこんな偶然はただならぬことのようで、マロニエ君としては買わずに素通りするというような無粋な振る舞いはできないという、半ば義務感のようなものまで感じながら購入したのはいうまでもありません。

裏面の使用法を見ても、グランドピアノの鍵盤蓋のところを布で拭いているところを写した写真があったりと、やはりピアノ専用ではないにしても、メインはピアノ用のようで、その他の類似製品にも応用できるというもののようです。

柔らかい布でうすく塗りのばすと汚れが取れて艶が出るとあり、塗布後2〜3分後、よくからぶきして仕上げるように指示されています。さっそく指示通りに柔らかい布で塗りのばし、2〜3分後に拭き上げるとちょっとムラが出て仕上がりが思わしくありません。そこで、塗りのばして間を置かず、すぐに別の布(メリヤスシャツ)で拭き上げると、今度はものの見事にきれいになりました。

このように書かれた使用方法と実体の違いはよくあることで、マロニエ君は長年洗車に凝っていたのでこの手の応用は利くのですが、説明書にあるからといって「2〜3分後」にこだわっているときれいな仕上がりは望めないでしょう。

さて、仕上がりですが自然でやわらかな艶が出て、かなり好ましいものだと思いました。
だいたいこの手のつや出しは、艶がわざとらしくて下品になったり、塗りムラが出て施行が難しい場合も珍しくないのですが、この製品はその点ではなかなか上品な仕上がりで好感が持てました。
ちなみに製品名は「FURNITURE POLISH」ですが、ほとんど目立たないようにしか書かれていません。

主な成分はシリコンとワックスというごくオーソドックスなものですが、その配分がいいのか仕上がりはなかなかきれいです。マロニエ君は最近こそ使ったことはありませんが、昔はピアノメーカーが出しているピアノシリコンみたいなクリーニング剤を使っていましたけれども、これがもう、なかなか思ったようにならず、脂っぽいしへんなムラが出たりと却って嫌な気分になることが多かったために、その後はすっかり使わなくなり、車用のケミカル品を流用したりしていました。

マロニエ君の場合、この手の製品でポイントとなるのは、仕上がりの清楚な美しさと作業性の良さです。これですっかり印象を良くしたものだから、ヤマハなどのお手入れ剤も俄に試してみたくなりました。
が、いったんこの手のものを試し出すと、結局あるものすべてみたいな感じになる危険もあり、自分の性格が恐いので、よくよく考えた上でやってみるべきですね。
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入浴剤

お風呂の入浴剤にはいろいろあって、それぞれに能書きが書かれているようですが、マロニエ君は一度もまじめに読んだことはないし、たまたま目に入る文言の何一つさえも信じたことはありませんでした。

入浴剤は個人的にとくに好きでも嫌いでもなく、よって使ったり使わなかったり、ポリシーもなにもなく、まるきりいいかげんなものでした。入れる場合もいつも単なる思いつきでしかなく、強いていうならお湯に色が付いてそれが楽しいからという程度で、入れなくなるとまたずっと入れません。

さて、今期の冬は本当に寒さが厳しく、せっかく湯舟につかっても洗い場に出ればたちまち忍び寄る冷気にガクガクと身を震わせることしばしばでした。
さらに巷では「半身浴」なるものが身体に良いと喧伝され、これがさかんに推奨されるようになりました。昔のように首までどっぷりとお湯に入るというのは、むしろ健康によろしくないという尤もらしいお説が蔓延し、これといって定見のないマロニエ君もそうなのか…と思い、お湯の量をやや少な目にして肩が少し出る程度にしてみますが、冬場はやっぱりこれが堪えます。

そんな折、最近のことですが「半身浴はむしろ体に悪い」というような、このセオリーそのものを根底から覆すような新説まで出てくる始末で、あんなに悪だと決めつけられたメタボでさえ近ごろは良否がひっくり返され、本当はややメタボぐらいのほうが望ましいといった意見まであらわれ、もはや何を信じていいのかわかりません。
今は健康ブームが続いて久しく、それに関する情報も多すぎて錯綜しているというべきかもしれません。

半身浴にしたところが、そんなにいいと言われるわりには、テレビでよくやっている温泉巡りの類では、番組リポーターやタレント連中など、だれもそんなポーズを取る者はなく、いろんなお湯に入っては顔をゆるませ心ゆくまでくつろいでいるシーンしか目にしませんね。

何が真実なのか確かめようもない中、だんだん情報に踊らされるのもバカバカしくなり、要は常識の範囲内で、あるていど自分のしたいようにするのが賢明なような気もしてきました。

話が逸れましたが、このところのあまりの寒さに、入浴時に何かささやかでも対策はないものかと考えていた折、このところすっかり入れなくなっていて、存在すら忘れていた入浴剤を入れてみました。とくだん何かを期待していたわけでもありませんが、何か感じるものがあったのかもしれず、自分でもよくわかりませんがとにかく久々にこれを投入。
するとなんと、明らかに体の温まり方が違うのを体感してしまい、思いがけない効果にすっかり感激してしまいました。

それも特別な高級品などではなく、普通にホームセンターなどで売っているお馴染みのものにすぎません。他の効能については知りませんが、身体が温まるという点についてはたしかに体感できる効果があったので、それいらいすっかり癖になり、ちかごろは毎回欠かさず入れるようになりました。

そういえば、先日も実家に里帰りしていた友人から「使わないから」と箱入りの立派な入浴剤をもらったばかりなので、これは期待が持てると思うとひとりとほくそえんでいるところです。
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なかなか言えない

現代のような社会では、発言という点に於いて一見自由なようでありながら、実際は恐ろしく閉塞的で、まるで言論監視社会のような印象を受けることしばしばです。

聞こえてくるのは、何事も褒めておけば安全で間違いなしといわんばかりの言葉ばかりで、音楽評論などにもほとんど期待が持てません。もしも故野村光一氏のような人が現代に蘇って自分の感じたままの自由闊達な文章を書いたとしても、おそらく出版社がそれを受け容れないでしょうし、先の吉田秀和氏の逝去をもって、ますます音楽評論の世界も欺瞞という深い闇の中へ落ちていくような気がします。

マロニエ君は、ちかごろの音楽雑誌のコンサート批評などまったく一瞥の価値すらないと思っているのは、この分野も営業主義が跋扈していて、コンサートの有料広告を出すピアニストは出版社にすれば「ありがたいお客様」であり、後日のコンサート批評では決まって好意的な文章ばかりが並びます。これは言ってみれば、営業サイドからの暗黙のお返しのようなものだと解釈しています。

なるほど書く人の肩書きは音楽評論家となっていますが、編集方針に従わない人はライターとしてのお声はかからないという営業中心のシステムがしっかりと出来上がっていると推察できます。それを百も承知で有名無名のピアニストは、だから高い広告料を出し、有名雑誌誌上での「演奏会予告」と「好ましい批評」を二つ同時に買っているようなもので、その中からとくに好ましい部分を次のチラシなどに引用するという、持ちつ持たれつの関係となり、これはまさに嘘っぱちの世界です。

自分が普通に思うこと感じることを、生きるために決して言えない社会というのは人間にとってこれほど気詰まりなものはありません。
さる知り合いから「誰にも言えないから」ということでおかしなメールをもらいました。
マロニエ君はベートーヴェンを猛烈に好きなので同意はしませんけれども、一面に於いてこういう感じ方があるということはわかるような気もするし、理解はできます。
とても新鮮でしたので、ちょっとだけご紹介します。


誰も賛成してくれないかもしれませんが、わたしはベートーヴェンだけは嫌いです。

あの、「これが芸術だ」といわんばかりのリキみかえった音楽、聴いてて「カンベンして」という気分になります。

年末に必ず演奏される「第9」。あのくそまじめ風だけどなにいってるかさっぱりわかんない歌詞、なにこれ?ってかんじです。あんなもので「感動」するひとたちの気が知れません。まあ、お正月前の浮世離れした気分でバカ騒ぎしたいっていう程度ならそれもいいかっていうくらいです。あのメロディーもなんのへんてつもない間延びした音の羅列。お経みたい。

「運命」にしても、はっきりいって「くさい」。運命と戦って勝利に至る?そんな音楽聴きたくもない。

ワグナーも図体ばかりでかくて中身はからっぽ、という感じ。「指輪」なんて聴いても疲れるだけでなにも残らない。せいぜい「ワルキューレの騎行」とか、やけに威勢のいい音楽だな、っていう程度。そこだけ取り出せば、「地獄の黙示録」のバック音楽としてならよくできてると思う。
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許光俊氏の著書

許光俊氏の著書『世界最高のピアニスト』(光文社新書)を読んでいると、あちこちにこの方なりのおもしろい考察があり、たちまち読み終えてしまいました。

各章ごとに、世界で現在トップクラスで活躍するピアニストたちが取り上げられているのですが、最後の2章は「中国のピアニスト」と「それ以外の名ピアニストたち」という括りになっています。

当然ながらこの方なりの感じ方や趣味があり、マロニエ君も全面賛成というわけではなかったものの、許氏の書いておられることは概ね納得のいくものでした。

中でもラン・ランの評価などは大いに膝を打つものばかりでした。

ラン・ランの場合に限らず確かなことは、真の意味で優れたピアニスト・音楽家であるということは、入場券の料金や満席具合とはまったく一致しないということ、さらにはこの点(チケットの売れるピアニスト)と芸術家としての実力との乖離は年々悪化傾向にあるとさえマロニエ君は思います。
興行主からみればコンサートはビジネスなので、チケットの捌けるタレントであることは最良で、だからラン・ランなどは世界中どこでも満席にできるタレントは、チケット売りで苦労の絶えない音楽事務所からすれば神様のような存在なんでしょうね。

日本人にもその手の、本来のピアニスト・芸術家としての力量とはちょっと違ったところで話題を掴んだ人が人々の関心を呼び、チケットはいつも法外なほど完売になるというような現象をこのところ目撃させられています。

また、チケット問題でなく、人気のユンディ・リもレイフ・オヴェ・アンスネスもきわめて低評価でまったく同感。

おかしくて思わず声を上げそうになったのはアルフレート・ブレンデルについてでした。
マロニエ君はこの人が功なり名遂げて、最高級の称賛を浴びるようになったときから一定の疑問を抱き、この人の弾き方のある部分のクセなどは嫌悪感すら感じていたひとりだったので、この稿はとくに快哉を叫びたいほどでした。
一部引用。
『この人には、美的感覚が決定的に欠けていると思う。ダサいリズム、スムーズでない抑揚、汚い響き、とにかく悲しくなるほど感覚的に恵まれていない人だと思う。〜略〜 知的ではあるが肝心な音楽的才能がなかったのが彼の決定的な弱点だった。また、それに気づかぬ人が多いのが、クラシック界の不幸だった。』

この部分を目にしただけでも、この本を買った価値があったと思いました。

しかし、問題はブレンデルどころではない、少なくともマロニエ君などにはおよそ理解不能なピアニストが世界的にもぞくぞくと出てくる最近の傾向には戸惑いを禁じ得ません。
例えばカティア・ブニアティシヴィリも最近出てきた人ですが、美人で指はよくまわる人のようですが、どう聴いていてなにも感じられない。本当にそこになにもないという印象。
パッと見はいかにも情熱的な音楽をやっているような雰囲気だけは出していますが、音は弱く、いかにも疲れないよう省エネ運転で弾いているだけという印象。主張も言葉もなければメリハリもない、マロニエ君に云わせればまるで音楽的だとは思われないのですが、昨年も来日してクレーメルらとチャイコフスキーの偉大なトリオをやっていましたが、あんな名曲をもってしてもまったく退屈の極みで、耐えられずにとうとう途中でやめました。

以前もラフマニノフの3番など、やたら大曲難曲を弾くだけはスルスルと弾くようですが、本当にそれだけ。なんだかピアノの世界もだんだんスポーツ化してきているんじゃないかと感じますね。
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続・重めのタッチ

自宅のピアノのタッチが適度に重いというのは、とりわけピアニストには有効なのではないかとあらためて感じているところです。
ピアニストのピアノはアマチュアの愛好品とは違いますし、大抵は複数のピアノを所有していらっしゃる方が多いと思われますので、一台は専ら練習機としての位置付けであることも有効ではないかと思います。

そして練習用ピアノは日頃からやや重めにしておくほうが、現代のやたら弾きやすい軽めのピアノばかり弾いて、それが知らず知らずのうちに基準になってしまうのは何かと危険も増すような気がします。本番となれば楽器もかわり、柔軟な対応も迫られるわけですが、これが最終的には指の逞しさにもかなり依存する要素のようにも思うのです。

その点、少し重い鍵盤に慣れた指は、軽い鍵盤のピアノに接しても比較的楽に対応できますし、その余力でいろんなコントロールができるなど、結果的にある種の自信になったり、思いがけない表現やアイデアを試してみることさえできますが、逆の場合は大変です。
軽いタッチに甘やかされた指はいざというときなかなかいうことを聞かず、滞りなく弾き通すだけでも大変でしょうし、出てくる音は芯のない変化に乏しいものにしかなりません。

聞いた話ですが、ピアニストの中にはやたらと繊細ぶって、ほんの少しでも重めのタッチのピアノを弾くと「こんなピアノでは、ぼくは、手を壊してしまいそうだ…」などと大仰に云われる方もおられて楽器店の人を慌てさせたりするんだそうですが、いやしくもプロのピアニストで、その程度のことで手を壊すなんて、一体なにが云いたいのかと思います。
グレン・グールドが云うのならわかりますけど。

ピアニストという職業は、一般にどれぐらい認識されているかどうかはわかりませんが、端から見るより極めて苛酷な、心身をすり減らす重労働であり、これに要するストレスは並大抵ではないと思います。
基本的な体力や精神の問題、繊細かつタフな指先の運動能力、暗譜や解釈はもちろん、最終的にどういう表現をしてお客さんに聴いてもらうかという最も大切な課題など、書き始めたらキリがない。

少なくとも人間の能力の極限部分をほとんど削るようにしておこなうパフォーマンスであることは間違いないと思われます。そんな極限の場において、最終的に頼れるものは才能と練習しかないわけでしょう。

そういうときに、会場のピアノが弾きにくいなどの問題があるとしたら大問題ですが、ピアニストの辛いところはここで文句がいえないばかりか、お客さんにはいっさいの弁解無しに結果だけをキッパリ聴かせなくてはなりません。
そんなとき、ただ楽な軽いタッチのピアノでばかり練習していた指が頼りになるかといえば、マロニエ君はとてもそうは思えません。

また、こういうことを言うとすぐに誤解をする人が出てきます。
日頃から重いピアノでばかり弾いていれと、筋力的には逞しくなっても、繊細な表現ができなくなるとか、叩くクセがつくというものですが、それはとんでもない間違いだと思います。音楽に限りませんが、チマチマした小さいことばかりすることがデリケートなのではなく、必要とあらばどうにでも対応できる本物の力量と幅広さを持つことでこそ、真に自在な、活き活きとした、時に人の心を鷲づかみにするような演奏ができるのだと思います。

リヒテルやアルゲリッチは基本的に美音で聴かせるタイプのピアニストではありませんが、彼らがしばしば聴かせる弱音の妙技は人間業を超えたものがあり、それはあの強靱この上ない指の中から作り出されているものだと云うことは忘れるべきではないでしょう。

マロニエ君のような下手クソの経験では説得力もありませんが、タッチを重くしたピアノを半年弾いた後のほうが、自分なりによりレンジの広い雄弁な演奏をするようになったと(自分だけは)思いますし、繊細さの領域に限ってももっと気持ちを注ぐようになりました。
これは間違いありません。
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ヤマハの衝撃

日曜はヤマハの営業の方からのお招きで、新しいグランドのレギュラーシリーズであるCXシリーズのサロンコンサートがあるというので、これに行ってきました。
お馴染みのヤマハビルの地下のeサロンのステージ上には、いつものCFIIIにかわって、新型のC7Xが置かれていました。

ニューモデルの解説などがあるのかと思いきや、そういうものはなく、女性の方の簡単なご挨拶の後、宮本いずみさんという女性ピアニストが登場され、モーツァルト、ベートーヴェン、ドビュッシー、ショパンの名曲を弾かれました。

なんでも、この方はこちらの地元の方ではないようで、通常の演奏のほかに浜松で開発中のピアノの試奏も仕事としてやっておられる由で、演奏の合間にときおり挟み込まれる短いトークの中で、「このピアノには私の声も入っています」というようなことを言われていました。

このピアノの楽器としての感想/とりわけピアニストの演奏に関しては、マロニエ君はよく理解できないものでありましたので、今回は敢えてコメントは控えます。
ただ、コンサートのあとでピアノの中を少し覗いてみると、フレームをはじめ、内部の作りの巧緻な美しさにはいよいよ磨きがかかっていることは間違いなく、いかにも「日本の工業製品の作りの美しさ」という点では見るに値する出来映えだと思います。
良くも悪くも、昔の手作りピアノとは異次元の、高精度の極みのような作りは目にも眩しいばかりで、日本の技術力を見せつけられているようでした。


それよりも、終演後、営業の方から耳にした話は驚天動地な内容でした。
一階のショールームに立ち寄ってカタログなどをいただいていたときのこと、その営業の方は「ここも3月いっぱいです…」といわれ、マロニエ君は咄嗟にその意味が呑み込めませんでした。
ここはヤマハのビルで、博多駅前の一等地にあり、福岡のみならず西日本地区のヤマハピアノの一大拠点として長年親しまれた場所です。

問い返しなどをしながら、このショールームが3月いっぱいで終わりを迎えるということはひとまずわかったものの、てっきりどこかへ移転でもするのだろうかと思っていたら、そうではなく、ビル自体が売却され、代替のショールームを作る計画もないとのこと。
そのぶん教室などを、より充実させるなどの方策はとられるとのことですが、この駅前のヤマハのプライドともいうべき美しいショールームは、消えて無くなるということがようやくにしてわかり、大きなショックを受けました。

このショールームはとりわけグランドはいつ何時でも、ほぼカタログにあるフルラインナップに近いピアノがズラリと並び、九州におけるヤマハの大看板的スペースでした。
さらに地下にはこの日もおこなわれたように、コンサートや各種講演会など、音楽に関する使い勝手のよいイベント会場としても稀少かつありがたい存在でしたから、福岡およびその近郊の人達は、一気にこれらの場所までも失ってしまうことになるわけです。

今後は天神にあるヤマハが、ピアノでも中心的なショップになるようですが、なんとも残念としか言葉が見つかりません。
先の選挙では、自民党が大勝し、アベノミクスなどという言葉も飛び交うようになり、せっかくこれから好景気の兆しも見えてきたというのに、このヤマハの決断はあまりにも辛すぎるものです。
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重めのタッチで半年

先日は、今年始めて調律師さんがタッチの件で来宅されました。
といっても、あまり具体的なことはブログには書かないようにと釘を差されていますから、こまかいことは控えます。

この調律師さん、マロニエ君の部屋の『実験室』にも書いたように、我が家のカワイのグランドを実験室ととらえて、マロニエ君の出す無理難題をなんとか克服すべく、まったく画期的な方法を考え出してくださるありがたい方です。

繰り返しになりますが、ハンマーヘッドのフェルトの下の木部前後に小さな鉛のおもりを両面テープで貼り付けるというもので、タッチが慢性的に軽すぎた我が家のカワイの場合は1鍵あたり約1gのおもり追加をしたわけです。
この部分の重さの増減は、鍵盤側ではなんと5倍に相当するわけで、ハンマー側で1g重くなれば、仮にキーのダウンウェイトが46gのピアノであれば51gへと一気に増加するというものです。

この結果、タッチが重くなったことは当然としても、副産物として音色までかなり変わり、好き嫌いはあるだろうと思いますが、音にエネルギー感が増して非常に迫力のあるものになりました。単純に言うと張りのあるガッツのある音になったわけで、長年ヤワな、か弱い音色だったピアノが、一気にベートーヴェンまでを表現できそうな迫力を備えることになったことは大いなる驚きでした。

いま流行のブリリアントでキラキラ系の音が好きな人には好まれないかもしれませんが、昔のドイツ系ピアノのような(といえば言い過ぎですが)、はるかにガッチリとした、良い意味での男性的な音が出てきます。

それはいいとしても、さすがに一夜にしてタッチが5g重くなるということは、なまりきっていたマロニエ君の指にとってはほとんどイジメに等しく、まさに鉄のゲタ状態であることは以前も書いた通りでした。
とくに初めの2〜3日はハッキリ失敗だったと思うほど、弾く気になれない(というか弾けない)ピアノになってしまっていましたが、この施行をしたピアノ技術者さんのすごいところは、そういう場合の対処の事も十分考慮しての方策であることです。

というのは、鉛は小さく、ハンマーヘッドのフェルトすぐ下の木部の前後に強力両面テープで貼っているだけなので、元に戻したいときには、これを剥がし取るだけで特殊技術も何もないのです。素人でもすぐにそれができるということで、つまりピアノを一切痛めないというところが最も画期的な点(なんだそうです)。

人間とは不思議なもので、「いつでもすぐに元に戻せる」ということがわかると妙に安心して、もう一日もう一日とその鉄のゲタ状態で我慢して弾いていたのですが、ひと月も過ぎた頃からでしたでしょうか、あまりそういった苦しさを感じなくなり、指への抵抗感はさらに減少を続け、その後はまったくこれが普通になってしまいました。
あまりに「普通」になったので、まさか両面テープが剥がれて鉛が下に落ちたのではないかと思うほどまで自分にとって自然なものになったのはまったく驚くべき事で、「人間ってすごいなあ」というわけです。

この日、約半年以上ぶりにアクションが引き出されると、果たして件の鉛はひとつとして脱落することなく、きれいに健気にくっついていました。
善意に捉えると、それだけマロニエ君のようなしょうもない指でも、毎日の積み重ねによって間違いなく鍛えられ逞しくなるというわけです。
逆に、ピアノのタッチは軽い方が弾きやすいなんて目先のことばかりいっていると、しまいにはそのピアノしか弾けなくなるのみならず、ショボショボした芯のない打鍵しかできなくなるのは間違いないと思われます。

電子ピアノだけで練習している人の演奏で感じることは、とても努力はしていらっしゃるとは思うのですが、やはり深みとか表現の幅がとても小さいということです。これはご本人が悪いのではなく、道具の性能がそこまでのものでしかないから当然のことで、本物のピアノに移行した人でも、なかなかこの染みついたクセは直りにくいようです。それを考えると、とくに白紙から体が覚える子供にはぜひとも本物を弾かせたいもので、「まだ子供だから電子ピアノでも…」という発想はまったくわかっちゃいないと思います。
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衣類乾燥機

日本製品の品質がいいのか、我が家の使い方がよほどよかったのか(?)、そのあたりのことは不明ですが、長年使ってきた衣類乾燥機が年明け早々に、ついに最期を迎えました。

それも機械的な故障ではなく、ドアを固定するプラスティックのノッチが壊れたためにドアの開閉が困難になり、やむなく買い換えという運びになったのでした。
考えてみると、この衣類乾燥機は実に28年以上も我が家で働いてくれたわけで、いかにただの家電製品とはいえ、ここまで健気に働いてくれたら本当にお疲れ様という気分になるものです。

我が家の生活形態では衣類乾燥機はいわば生活必需品ですから、待ったなしで新しいものを購入する必要に迫られましたが、現在はドラム型の全自動洗濯機が主流のようで、その影響もあってか衣類乾燥機のみだと選択肢がそんなにはないようでした。
それでも、気分的にどうしても買いたくないメーカーもあるし、それを除外すると日立の製品になりますが、これまで使い続けた衣類乾燥機も日立製だったので、その点は難なくクリア、心情的に恩義さえ感じるくらいで、迷わずこれに決めました。

ネットで注文すると、日本中どこからでも二三日でサッと届くのは頭ではわかっていても、やっぱりすごいなあと思ってしまいます。

現物が届いてみると、想像以上の箱の大きさにまず恐れをなしました。
今どきは電気店からの購入でも、取り付け設置は当たり前という時代ではないので、自分で洗濯機の上部のスタンドに据え付けるつもりでしたが、箱から出すだけでも一仕事です。

同時に、古いほうの機械をスタンドから降ろさなくてはなりませんが、普段触れない部分には長い年月のほこりや乾燥時に出たワタゴミのようなものがでてきて、掃除をしながらの作業となります。
明らかに新しく買ったほうがサイズが大きく、スタンドに載せのも一苦労で、固定穴の位置などは合いません。とりあえずは仕方がないのでこのまま使うことにしましたが、これまでよりなんとなく圧迫感のある光景となりました。

さて、使ってみて驚いたのは、やはりこの手の電気製品は新しいものの方が、仕事の効率は遙かに高くなっているようで、乾くまでの時間がこれまでの半分近くになった気がします。

以前なら2時間前後は回しっぱなしだったのが、新しいのは1時間やそこらで機械は自動停止してしまいます。
それに「乾いたら自動停止」なんて機能も古い方はなかったので、適当に回していたわけですが、その分のムダもあったでしょうし、そもそも基本的な効率が相当違うようなので消費電力を調べてみると、最大時は同じのようですが、使用時間が異なるので一回あたりの電力消費がはるかに大きいものだったようです。

こうなると、冷蔵庫も新しいのはずいぶん省エネ設計だと聞きますから、俄に恐くなりました。
というのも、我が家はこれという正当な理由もないままに冷蔵庫が二つあり、二つあれば便利というだけのことでズルズルと両方使っていたのですが、古いほうはなんと30年以上前のものなのです。
こりゃあ、下手をすると新しいものを買ったほうが、僅か数年で購入額分ぐらいの電気代の差がでるということかもしれません。
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バーチャル

いつごろからのことだったか、「バーチャルリアリティ」という言葉がしばしば使われるようになりました。

いわゆる仮想現実で、マロニエ君も文字にできるほど正しい理解はできていませんが、おそらくはコンピュータの進歩でゲームなどの画面クオリティが飛躍的に上がり、臨場感の増した画面の中で自分が主役となり、そのリアリティあふれる高揚感を気軽に楽しめるようになったというようなことだろうと認識しています。
その出来映えがあまりに秀逸であるためか、人の精神にまで少なからぬ影響が顕れはじめ、ついにはそれら仮想と現実、疑似と真性の狭間がぼやけ、やがてそこを迷走する精神状態が引き起こす笑えない勘違いや、ひいては新手の犯罪まで多発するようになった記憶があります。

例えば、ジャンボ機を操縦できる本格的ゲームでこれに習熟した男性が、実機をも操縦できるという強い思い込みに発展、ついには本物のジャンボ機を乗っ取りクルーを殺害、自ら操縦桿を握り、ゲームと同様にレインボーブリッジの下をくぐり抜けるつもりだったのを、すんでのところで取り押さえられたというような信じがたい大事件があったこともありました。

そんなことを思い出させられたのは、知人から聞いたある地方でのピアノサークルでの様子でした。
ピアノサークルに参加する中にはそこそこ腕の立つ人もいて、ある程度の自信もあるらしいところまでは結構なことですが、でも、この人達はまぎれもないアマチュアであり、ピアノは余技として楽しんでいるものにすぎません。
ところが、場合によっては演奏会用ロングドレス持参でやってきて、演奏前には控え室でこれに着替え、まばゆいアクセサリーまでつけていざ演奏に挑むというのですから、その救いようのない勘違いには、さすがのマロニエ君もひっくりかえりました。

いっそのことコスプレマニアならまだ笑えますが、こういう人達はあるていど本気であるだけ変な怖さと耐え難い違和感があるわけで、大人のママゴトも、欲望と錯覚が高じてここに極まれりというところです。
マロニエ君に云わせれば、これも立派なバーチャルリアリティではないかと思います。

現代人は与えられた目先のルールにはえらく従順ですが、もっとそれ以前の、自分自身が備えるべきもの、つまり常識・良識から発する「分際」をわきまえるという本質を知ることがほとんど消えかかっているように思います。
法や規則に触れないことなら何をやってもいいという姿勢は、政治家や経済界が悪いお手本を示してきたように思いますが、いわゆる自由の濫費と解釈には大いに問題を感じます。

要するに、理屈じゃなく、自然にかかるべきブレーキというものがほとんど機能していない、否、そもそも始めから装備されていないといってもいいでしょう。

いまどきホールやそれに準じた会場を料金を支払って借り受けることは容易です。そのステージにドレス姿で現れて意気揚々と楽器を演奏するということは、なるほどどこにも違法性はないのでしょうし、善良な人間が自由に着飾って演奏を楽しんでいるという建前だけが一人歩きする。

しかも大抵の場合、マロニエ君の知る限りにおいては美の追求とは程遠い、別項に掲載している北米の読者さんも言っておられるように、ほとんど仮装行列に近いもので、こういうことを嬉々としてやろうとする、あるいはやりたいと感じる価値観や救いがたいセンスの無さに、やるせなさを禁じ得ません。

昔は、法だのルールだのというものの遙か以前の問題として暗黙のうちに「してはならないこと」というものがたくさんありましたが、今は崩壊していますね。
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笑っていない目

暮れにちょっとしたリフォームに関することを書きましたが、少しその後の続きのようなことを。

結局、マロニエ君の知人の紹介(あくまでも間接的な)ということで、とあるリフォーム会社とやらの女性社長が技術系の男性を伴ってやって来ました。

もちろんその社長とは初対面で、むこうはマロニエ君というペンネームも、ピアノとの絡みなどもまるで知らないし、ましてやこんなブログなんて見るはずもないので、まあ敢えて書きますが、これがなかなかの社長でした。

挨拶もそこそこにこちらの意向を伝えて、しばし雑談などをしたあと、直ちに現場の検分がはじまりました。この社長、何を頼んでも聞いても、決して作り笑顔を絶やさず、いかにも意識的な柔らかな口調で「はい、できますよ。大丈夫です。じゃあ○○しましょうね。」とこちらの意向を次々に受け容れながら、もうひとりの男性とも軽いやり取りを交わしながら、次から次へと現場を見て回っています。

それが一段落つくと、再びイスに座って楽しげに歓談して、適当なタイミングで帰っていきました。雰囲気でいうと、代議士の小池百合子さん風とでもいえばわかりやすいでしょうか。

「できるだけお安く願いたい」ということは何度も念押ししておきましたし、先方もそのことは了解したような応対でしたから、あとは金額の提示を待つだけです。ただマロニエ君としては、その社長の目がずっと気になっていました。
…なんというか、パッと見た感じはいかにも爽やかで優しげ、時にはこちらのことを思いやってのようなフレーズもしばしば口にしながら、いかにも良好な歓談が交わされましたが、彼女の目には常にビジネス人間としての自意識が漲っており、心の内側で決して踏み外さない一線を保っているのがミエミエでした。

どんなに笑っても、真から笑っていないし、どこか常に冷めてことは自慢ではありませんがマロニエ君は見逃しませんでした。帰られた後にそのことを云うと、同席したあとの二人は「そーお?」という感じでしたから、だれにもバレバレというものでもないようです。

それから一週間を過ぎたころ、見積書とやらが大きな封筒に入れられて恭しく送られて来ました。
果たして、何枚もの書類が束ねられ、むやみに項目が多いことに加えて、最終金額はこちらの予想を遙か彼方へ吹き飛ばすような無遠慮な数字がドカンと記されていました。
本来ならもっと驚いたかもしれませんが、マロニエ君はその社長の人物観察を通じて、ある程度こんな結果が出るのではないかという予想をしていたので、それほど驚倒はしませんでしたが、まったく大胆というべき数字でした。

呆れて、しばらくはそのあたりに放り投げておきましたが、後日詳細を見てみると、その見積がいかに巧みに書かれているかがわかりました。あまり具体的なことを述べるのは控えますが、例えば誰にでもわかりやすいクロス(壁紙)の張替代などは商売気なんかありませんよ!と言わんばかりに安く書かれているのに対して、ほとんど意識にものぼらないようなちょっとしたことなんかが、ケタがひとつ違うのではないかと思うほど高かったりの繰り返しでした。
つまり素人に安さがすぐ比較しやすいものに関しては激安にしておく一方で、そうではないものに関しては思い切りよく高額な数字がこれでもかと並んでいます。

よくいえばメリハリがきいているということかもしれませんが、今どきの情報化社会であっても、リフォームの世界は要注意分野というか、よほどこちらがしっかりしていなくてはいけないジャンルだというのが率直なところでした。
まあ男でもどちらかといえば荒っぽいハードな世界とでもいうべき建築関係の会社を、そう歳でもない女性が社長として切り盛りしてやっているのですから、そのしたたかさたるや並ではないようです。そのへんの甘ちゃんとは異次元の猛者なのだということがよくわかりました。

まあ、見積はあくまでも見積であって、依頼するかどうかの意志決定はこちらが握っているわけですが、要はこの世界、努々油断はできないということのようで大変勉強になりました。
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らららのピアノ特集

先日のNHK日曜夜の「らららクラシック」ではピアノ特集第2弾というのをやっていました。

番組では、現役のピアニストをいくつかのグループに分け、それぞれの特徴に合わせながら紹介していくという趣向でしたが、トップバッターは「圧倒的技巧グループ」というもので、演奏技術の極限に挑み続けるピアニストだそうで、ここで紹介されたのはロシアの格闘技選手みたいなピアニスト、デニス・マツーエフと、もうひとりはなんとピエール・ロラン・エマールということで、いきなりこの「なぜ?」な取り合わせに絶句してしました。

エマールはむろん大変な技巧の持ち主であることに異論はありませんが、かといって圧倒的技巧が看板のピアニストだなんてマロニエ君は一度も思ったことはありません。出だしからして番組に対する信頼を一気に失いました。

次は「知的洞察グループ」で、楽譜の研究を徹底的におこない、定番の作品にも新たな光りを当て観客にも発見の喜びをもたらすということで、ここではアンドラーシュ・シフひとりが紹介されていました。
この人選はなるほど間違いではなく、少し前ならブレンデルなどもこの範疇に入るピアニストであったことは間違いないでしょうね。むしろエマールはこちらに分類すべきだったとも思いますし、内田光子やピリスもそのタイプでしょう。

さらに次は「独走的独創グループ」で、伝統にとらわれず独自の音楽を作り上げ、観客に未知の世界を体験させるということでは、なんとラン・ランとファジル・サイが紹介されました。
サイには確かにこの括りは適切で大いに納得できますが、ラン・ランとは一体どういう判断なのかまったくわかりませんでした。彼の音楽に独自性なんてものがいささかなりともあるなどとは思えませんし、雑伎団的な目先の演奏で人を惹きつける点などは、せいぜい技巧グループで十分でしょう。また現存するこの分野の最高峰といえばマルタ・アルゲリッチの筈ですが、彼女の名前すら挙がらなかったのは到底納得できませんでした。ソロをなかなか弾かないというハンディはありますけれども。

次は「コンクールの覇者」ということで、ショパン・コンクールの優勝者であるユリアンナ・アヴデーエワとチャイコフスキーの覇者であるダニール・トリフォノフが紹介されました。
アヴデーエワの弾く、リスト編曲によるタンホイザー序曲は何度聴いても実に見事なものでしたが、トリフォノフには演奏家としてのなんら指針が見受けられず、このときの映像でのこうもり序曲は、ただの指の早回し競争みたいでテレビゲーム大会に興じる子供のようで、マロニエ君にはまったく感銘を受ける要因が皆無でした。

ちなみに、ファイジル・サイは数年前の来日時にNHKのスタジオで収録されたムソルグスキーの展覧会の絵の終曲が紹介されましたが、逞しい体格と、余裕にあふれたテクニック、すさまじいエネルギー、確信的な音楽へのアプローチなどは他を寄せ付けぬ圧倒的なモノがあり、この強烈さは、ふと在りし日のフリードリヒ・グルダを彷彿とさせるような何かを感じたのはマロニエ君だけでしょうか。
彼はNHKのスタジオにはたくさんあるはずのスタインウェイの中から、おそらくはディテールなどから察するに1970年代のDを弾いていましたが、現代のそれに較べると、明らかにイージーな楽器ではない厳しさと暗めの輝きがあり、こういう力量のあるピアニストはこういう楽器を好むのだろうという気がしました。

最後は昨年のポリーニの来日公演から、ベートーヴェンのop.110が全曲流れましたが、これについてはすでに何度も書いていますので割愛します。
また、メインゲストであった中村紘子さんのトークもあいかわらず健在で、番組冒頭で「これまでに何人ぐらいのピアニストを聴かれましたか?」という司会者の質問に「そうですね、数えたことがないんですが、1万までは行かないと思いますが…」すると司会者が「7、8000人は優に超える」「そうですね」という珍妙なやりとりがあり、なーんだ、ちゃんと数えてるじゃん!と思いました。

この日は、不思議なほど登場するピアニストに女性や日本人の名前が挙がらなかったのは、何かが影響したからだろうかと感じた人は多かったか少なかったか…どうでしょう。
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古紙回収

我が家には仕事の関係上、古い書籍や雑誌が少なからずあるのですが、とくに客観的価値のあるものでもなく、いつかその整理をしなくてはと思いながら、ずるずると先延ばしになっていました。

最大の理由は、単純明快にまず面倒臭いということでしょう。
引っ越しや何かで、半ば強制的にやらされれば面倒臭がっている暇もないかもしれませんが、これを任意でやるというのはマロニエ君のような人間にとっては生半可なことでは着手できません。

とくに先代から受け継いだものなどがある場合は、よけいその傾向が強まります。
そんな中でも毎年自分で避けてきた時期としては、湿度や暑さにめっぽう弱いマロニエ君としては梅雨から夏場にかけてだけはやりたくないので、やるときは冬だと決めていました。で、この冬は少しその覚悟をしていたのです。

いっそなにもかもというのなら話はまだ単純ですが、手放す(捨てる)ものと残すものを選別することからはじまるのが煩わしくも悩ましい点です。

といってまた先延ばしにしていてもキリがないわけですが、あるとき回覧板に町内の「古紙回収日」と大書された文字が目に留まり、ついにそれに合わせて一部でもいいのでやってみることにしました。

いまさら言うまでもないことですが、紙というものは量が集まると、盛大に場所を取り、凄まじい重量にもなって、とてもじゃありませんが安易な気構えでは太刀打ちできる相手ではありません。
とりわけ古い書籍になると、その価値をどう見るかによっても判断は大きく影響されますし、それだけでなく個人的な思い出などが絡んでいる場合もあり、捨てる行為も大変なら、それと並んで捨てる決断をすることは非常に精神的な作業でもあると思いました。

尤もこれは本だけの問題ではなく、家にあるあらゆるものに共通することなのかもしれません。
マロニエ君は個人的な好みでいうと、モノを「捨てられない人」と「なんでも捨ててしまう人」、この両極端はハッキリ言ってどちらも嫌いです。
両者共に大いに言い分はあるのだろうと思いますが、それぞれが自分とは体質的に相容れず、あくまで程良いことが理想だと思うのです。もちろんマロニエ君がこの点で自分は常識派だと主張するつもりはありませんが、なんでももったいないといってモノの山をつくるのは真っ平ゴメンですし、逆に必要最小限のモノしか置かず殺風景の極みのような寒々しい空間にして、自分こそは賢いエコの実践者のような顔をしているタイプも甚だ苦手です。

というわけで、今回はとりあえず、どう考えても、今後も見ないだろうし先々でも要らないと思われる本を処分することにしました。といっても本来的には本を捨てるという行為は非文化的であまり好きではないのですが、まあそんな理想論ばかりもいっていられませんから、やはりどこかで一線を引く必要があるのも現実です。

果たして数百冊におよぶ本をゴミ回収のトラックに積むことになりました。
古本買い取りなども近ごろは盛んなようですが、聞くところでは労苦のわりには憤慨だけが残るような買い取りしかされないらしく、とくにマロニエ君宅には専門書関係が多いのでとてもそういう対象とも思えませんでしたし、要らないなら潔く古紙回収に出す方がマロニエ君としてはよほどせいせいするような気がしました。

で、実際に車のトランクの2杯ぶんぐらいを持っていきましたが、めでたく「せいせい」しました。
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丘の上のバッハ

福岡市のやや南にある小さなホールで現在進行中のシリーズ、バッハのクラヴィーア作品全曲演奏会第2回に行ってきました。

会場はもはやお馴染みの感がある日時計の丘ホールで、ここには1910年製の御歳103歳のブリュートナーが常備されていることは折に触れ述べてきた通り。バッハといえばライプチヒで、そのライプチヒで製造されるブリュートナーでバッハを奏するということには、明瞭かつ格別な意味があるようです。

演奏者はこのシリーズをたったお一人で果敢に挑戦しておられる管谷怜子さんで、この日は平均律第一巻の後半、すなわち第13番から第24番が披露されました。

いつもながら安定感のある達者な演奏で、癖がなくのびやかに音楽が展開していくところは、管谷さんの演奏に接するたびに感じるところです。いかにも朗々とした美しい書体のようなピアノで、それはこの方の生来の美点だろうと思われ、非常に素晴らしいピアニストだと思います。欲を出すなら、バッハにはさらに確信に満ちたリズムと音運びがより前面に出てきてほしいところで、ややふわりとした腰高な印象があったとも思いますが、もちろん全体はたいへん見事なものでした。

それにしても、バッハの平均律を通して弾くということがいかに大変なことかという事をまざまざと見せつけられたようでした。そもそもピアノのソロが息つく暇もない一人舞台というところへもってきて、バッハのみのプログラムというのはさらにその厳しさが狭いところへ、より押し詰められているような気がします。

通常CDなどでは平均律クラヴィーア曲集はほぼ例外なく第一巻、第二巻ともに各二枚組(合計四枚)の構成となっており、ちょうどCD一枚ずつに振り分けたコンサートとなっていますが、いかに耳慣れた曲でも、コンサートで通して弾くチャンスというのはそうざらにあるものではなく、実際よりも体感時間が長く感じられたようで、本当にお疲れ様でしたという気になりました。

マロニエ君は幸運にも最前列の席で聞くことができましたが、ここのブリュートナーは聴くたびにその音色には少しずつ変化があるようで、この日はいかにもブリュートナーらしい、ふくよかさの中に細いけれども艶というか芯が入った音で、ときにモダンピアノであり、ときにフォルテピアノにもなる変わり身のあるところが、バッハという偉大な作品を奏でられることで楽器も最良の面を見せているようでした。

コンサートは17時開演。演奏が始まったときにはピアノの上部にある大きな正方形に近い採光窓から見る空は淡い灰色をしていましたが、休憩後の第19番がはじまるころには美しいコバルトブルーになり、その後演奏が進むにつれて濃紺へと深さを増していくのはなんともいえない趣がありました。
最後のロ短調の長いフーガが弾かれているころには、ピアノの大屋根とほとんどかわらないまでの漆黒へと変化していったのは驚きに値する効果がありました。
この空の色の変化を音楽の進行と共に刻々と味わい楽しむことができたのは、まったく思いがけない自然の演出のようで、受ける感銘が増したのはいうまでもありません。

この日は演奏者の管谷さんはじめ、ホールのご夫妻、ヤマハの営業の方や知人、以前在籍していたピアノクラブのリーダーとも久しぶりに会うことができ、しばし雑談などをすることができました。

日時計の丘は、ここ数年で広く認知され、福岡の小規模な音楽サロンとしては随一の存在になっていると思われますが、素晴らしい絵画コレクションにかこまれた瀟洒な空間は趣味も良く、音響も望ましいもので、至極当然なのかもしれません。
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アリス・紗良・オット

昨年のNHK音楽祭の様子が放送されていますが、13日は巨匠ロリン・マゼールの登場でした。
プログラムはベートーヴェンのレオノーレ第3番とグリーグのピアノ協奏曲、チャイコフスキーの第4交響曲というもので、ピアノは現在人気(らしい)アリス・紗良・オットでした。

マゼールはむかしマロニエ君の好きな指揮者の一人でしたが、さすがにずいぶんお年を召したようで、それに伴ってか、音楽にやや張りがなくなり(N響というこもあってか…)、テンポも全体的にゆったりしたものになっているようでした。

きっと開催者はじゅうぶんわかっているはずなのに、あえて音響の悪い巨大なNHKホールをこうしたイベントに使うのは、やはりそのキャパシティからくる収入面としか考えられませんが、あいかわらず音が散って散々でした。あそこは本来「紅白歌合戦専用ホール」というか、少なくともクラシックに使うのは本当に止めて欲しいものです。

アリス・紗良・オットはどちらかというとビジュアル系で売っているピアニストというイメージでしたが、トレードマークの長い黒髪をバッサリ半分ぐらいに切っており、なんとなく別人のようでした。
たしかに可愛いといえばそうなのかもしれませんが、いわゆるアーティストとしてのオーラのようなものは微塵もなく、とくに髪を切った姿はどちらかというとそのへんのおねえちゃんというか、せいぜい朝の連続ドラマの主人公ぐらいな印象しかマロニエ君にはありません。

それに、どうでもいいようなことですが、左右両方の指には無骨な指輪を1つずつ嵌めており、マロニエ君はピアニストでオシャレ目的のリングを付けるようなセンスはあまり好きではありません。
どうでもいいようなことついでにもうひとつつけ加えると、この日のオットはブルーのロングドレスの下から出た足はなんと裸足!だったということで、こちらはなんとなくその理由がわかる気がしました。革靴は微妙なペダル操作がラフになるのみならず、下手をするとズルッと滑ってしまうことがあるので、裸足ぐらい確かなものはないでしょう。

この日はNHK音楽祭ということで、ステージの縁は全幅にわたって花々が飾られていましたから、足の部分はそれに隠れて生では気が付かない人も多かったことと思いますが、カーテンコールの時にはわざわざカメラが裸足部分をアップしているぐらいでしたから、よほど異例のことだったのかも。
それにしても、足が裸足なのに指には左右リングというのもよくわかりません。

オットはそのスレンダーな体型に似合わず、手首から先はまるで男性のように大きく骨太な手をしています。メカニックもそれなりに確かなものをもっているようで、いわゆる技巧派的要素も備えているという位置付けなのかもしれませんが、残念なことにその演奏にはなんの主張も考察も情感も感じられず、ただ学生のように練習して暗譜して弾いているという印象しかありませんでした。

お顔に不釣り合いなガッシリした長い指には、指運動としての逞しさはありますが、肝心の演奏は彼女の体型のように痩せていて潤いがなく、音にも肉付きがまったくないと感じました。
オットには男性ファンが多いようですから、こんなことを書くと怒られるかもしれませんが、でも彼女は芸能人ではなくピアニストなのですから、そこは彼女の奏でる音楽を中心に見るべきだと思うのです。

これから先のピアニストが、可愛いアイドル的な顔をしながら難曲をつぎつぎに弾ければいいというのであればこのままでもいいのかもしれませんが、やはり最終的には演奏によって聴衆を納得させないことには長続きはしないだろうと思いましたし、またそうでなくてはならないとマロニエ君は強く思うわけです。

非常に残念だと思ったのは、第1楽章では硬さがあったものの次第に調子を上げてきたにもかかわらず、終楽章では老いたマゼールのちょっとやりすぎな大仰なテンポに足を取られて、ふたたびそのノリが失われてしまったことでした。
もしかしたらいいものを持っている人かもしれないので、もっともっと精進して欲しいものだと思いました。
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寒中洗車

マロニエ君はクルマ好きの洗車好きでしたから、若いころは暇さえあれば車を洗っていましたが、だんだんそうもいかなくなり、今では月に一度も車を洗うことなどありません。

年末年始もとうとう車は汚れたままで過ぎ去りました。
なにやかやで洗車する時間もないことと、天候も不順で、せっかく洗ってもいきなり雨では馬鹿馬鹿しいので、そんなことで自分の都合と天気の様子見ばかりしていると、洗車するきっかけなんて永久にやってこないような気がしていました。

それでも、さすがにもうそろそろと思ってみますが、このところの寒さと来たらただ事ではなく、給油の時にスタンドで洗車をしている人達を見るだけでも歯茎がガタガタいいそうで、とても自分が実行しようという気にはなれません。

マロニエ君が車の汚れでイヤなのはいろいろありますが、そのひとつがホイールがブレーキパッドの粉でだんだん黒くなってくること、もうひとつはフロアマットが汚れるというか、靴底に付いた小石やゴミなどでだんだんと床が散らかってくることです。

どうしてもガマンできなくなったときは、マットだけを外して、水を使わず硬いブラシでブラッシングすることでごまかしますが、いずれはていねいに掃除機をかけなくては解決しません。
とにかく、何をどういってみてもホイールは黒ずんでいるし、洗車をしないことにはどうにもならないところまで来ていたことは確かでした。

そしてついに決断のきっかけがやって来ます。
関東地方にその名も「爆弾低気圧」とかいうのが襲ってきて大雪をもたらし、首都圏が交通麻痺を起こしたその翌日、なぜか我が福岡地方は天気晴朗、天からはなにも降ってくることのない気配を感じたとたん、まるで発作的に重い腰を上げる決心がつきました。

夕食後、とうとう長い沈黙を破ってついに洗車を開始しました。
車の外気温度計によると外は4℃で、家の中でも廊下などは冷蔵庫みたいに冷え切っていますが、いったん覚悟を決めて洗車用の上着を着て外へ出ると、不思議なことにほとんど寒さらしきものも感じません。
それどころか、洗車が好きだった頃の感触がほんの少し蘇ってきて、かすかに楽しいような気分になるのはどうしたことだろうかと思います。

いざやってみれば、あれほどなにやかやと理由を付けてしぶり抜いていた洗車ですが、ひとたび着手すれば次々に作業ははかどり、車はみるみるきれいになるし、何の苦もなく片付いていきます。
やっぱり人間は気持ちひとつなんだなあと柄にもないことをしみじみ思います。

おそらく向かいにあるマンションの住人は、車の出入り口が我が家のガレージの真ん前にあるので、出入りするたびにこんな夜更けに洗車なんぞしていいる様子を見て、さぞ呆れているだろうと思いますが、実は本人は何の苦痛もないまま、むしろ嬉々としてやっているのですから、自分でも不思議です。

よくテレビで寒い中をわざわざ海中に入って気合いを入れるなど、見るからに心臓に悪いような映像がありますが、あれも当人達は余人が思うほど辛くはないのかもしれないと思いました。
洗車をした日は、2時間ほど休む間もなく動きまくるので適度な刺激と運動になるのか、いつもなんとなく爽やかな気分になれるので、こんなことならもう少し頻繁にやろうじゃないかと(そのときは)思うのですが、なかなかそれが定例化しないところが我ながら情けないところです。
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ジョン・リル

過日、NHKのクラシック倶楽部でジョン・リルの昨年の日本公演の様子が放送されました。

この人はベートーヴェンを得意とするイギリスの中堅どころだと思われますし、我が家のCD棚にも彼の演奏によるベートーヴェンのピアノソナタ全集がたしか一組あったはずです。

もう長いこと聴いていませんでしたし、これまでにもとくにどうという印象もなく、たしか格安だったことが理由でその全集を買ったような記憶があるくらいで、今後もおそらく積極的に聴くことはないでしょう。

ステージにあらわれたリルはもうすっかりおじいさんになっていましたが、イギリス人演奏家らしい良くも悪くも節度があり、際立った個性も強い魅力もない、まさに普通のピアニストだと思われ、それ故に彼の演奏の特色などはまったく記憶にありませんでした。そんなリルの演奏の様子を見てみて、やはりその印象の通りで人は変わらないなあ…というのが率直なところでした。

お定まりに、この日は最後の三つのソナタを演奏したようですが、テレビでは放送時間の関係でop.109とop.111の2曲だけが紹介されました。

決定的に何か問題があるわけではないけれども、とくにプラスに評価すべきものもマロニエ君にはまったく見あたりませんでした。技術的にも見るべきものはなく、CDを出したりツアーに出かけたりするギリギリのランクといったところでしょうか。

まず最も気になったのが、キャリアのわりに解釈の底が浅く、まるで表現に奥行きというものが感じられませんでした。これはとりわけベートーヴェン弾きとしてはなんとしても気になる点です。
さらには音の色数が少なく、表現にも陰翳が乏しくて、ただ音の大小とテンポの緩急だけで成り立っている音楽で、作品に横たわる精神性に触れて聴く者が心を打たれ、高揚するというようなことがほとんどありませんでした。

ただ、二曲とも、なにしろ曲があまりに偉大ですから、どんな弾き方であれ、一通りその音並びを聴くだけでもある一定の感銘というものはないわけではありませんが、しかしそこにはより理想的な演奏を常に頭の中で鳴らしている自分が確実にいるわけで、この演奏ひとつに委ねてその世界に浸り込むということは到底できないと思われました。

こう云っては申し訳ないけれども、とくに最後のソナタop.111では、どこか素人が弾いているような見通しの甘さがあって、この点は大いに残念でした。この曲はマロニエ君の私見では第2楽章がメインであって、第1楽章はそれを導入するための激しい動機のようなものに過ぎないと思っています。

第1楽章の最後の音の響きが途切れぬまま、かすかに残響している中に第2楽章のハ長調の和音が鳴らされたときには「なるほど、こういう解釈もあるのか」と一瞬感心されられましたが、その第2楽章の主題があまりにテンポが遅く、間延びがして、この静謐な美を堪能することができませんでした。
とくにこの楽章の冒頭ではリピートを繰り返しながら少しずつ先に進みますが、そのリピートが煩わしくて「ああ、また繰り返しか…」とダルい気がするのは演奏に問題があるのだと言わざるを得ません。

この主題は大切だからといってあまりに表情を付けたりまわりくどいテンポで弾くと、却ってそこに在るべき品格と荘重さが失われてしまうので、これはよほど心して清新な気持ちで取り扱うべき部分だと思いました。

「二軍」というのは野球の用語かもしれませんが、どんな世界にもこの二軍というのはあるのであって、ジョン・リルの演奏を聴いていると、まさにピアニストにおける生涯二軍選手という感じがつきまといました。
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調律師さんの共通点

これまで出逢ってきた調律師(本来はピアノテクニシャンというべきですが)の方々は、年齢も性格も出身も活動地も各々違うのに、その職業がそうさせるのか、彼らにはどこか共通した特徴のようなものがあるようです。

調律師さんというのは、ごく一部の例外を除くと、おおむねとても控え目で、どちらかというとちょっと地味な感じの雰囲気の方が平均的だと思います。さらに腰も低いなら言葉もかなり丁寧で、その点じゃちょっとやり過ぎなぐらいに感じることも少なくありません。

マロニエ君に言わせると、ピアノの調律師というのは技術者としても専門性の高い高度な職人なのだから、そこまでする必要があるのかと思わせられるほど低姿勢に徹して用心深い人が多い気がしますが、そこにもそうなって行った必然性のようなものはあるのだろうと察しています。

ところが、この調律師さん達の多くは初めの印象とは裏腹に、お会いして少し時間が経過して空気が和んでくると、大半の方はかなりの話し好きという、そのギャップにはいつもながら驚かされてしまいます。
専門的な説明に端を発して、その後は仕事には関係ないような四方山話にまで際限なく話題が発展するのは調律師さんの場合は決して珍しくはありません。

マロニエ君などは調律師さんと話をするのはとても好きですし楽しいので一向に構いませんし、加えてこんな雑談の中から勉強させてもらったことも少なくないので個人的には歓迎なのですが、だれもかもがそうだとは限らないかもしれません。
もちろんだから相手によりけりだとは思いますが。

職業人として気の毒だと感じる点は、非常に高度な仕事をされている、あるいはしなくてはならないにもかかわらず、それを正しく理解し評価する側の水準がかなり低いということです。
人間は自分の能力が正しく評価され理解されたいという願望は誰しももっているもので、これはまったく正当な欲求だと思います。

ところが、どんなに込み入った高等技術を駆使しても、そこそこにお茶を濁したような仕事をしても、多くの場合、どう良くなったのかもよくわからないまま、ただ形式的に調律をしてもらったこと以外に評価らしいものもされずに、規定の料金をもらって帰るだけという寂寥感に苛まれることも多いだろうと思います。

調律師さんが普通とちょっと違うのは、どんなに低姿勢でソフトに振る舞っても元は職人だからということなのかもしれませんが、それだけ話し好きというわりには、いわゆる基本的に社交性というものが欠落していて、どちらかというと人付き合いも苦手という印象を受けることが多いような気がします。
あれだけみなさん話し好きなのに社交性がないという点が、いかにも不思議です。

もうひとつはその盛んな話っぷりとは裏腹に、メールの返信などは直接会ったときとはまるで別人のように素っ気なく、メールでも返ってくるのはほとんどツイッター並みの最小限の文章だったりするのは甚だ不思議です。もちろんそうでない人もいらっしゃいますけどかなり少数派です。

そこにはやはり調律師という職業柄、知らず知らずに身に付いた特徴のようなものがあるのでしょうね。というか、逆に考えれば、調律を依頼するお客さんのほうの性質もあるから彼等をそんなふうにさせてしまっているのかもしれません。
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快速無灯火魔

昨日の夜は出かけていて、帰りに博多区の国道三号線を走っているとすごい車を見かけました。
すごいのは車そのものではなく、正確に言うとドライバーがすごいのです。

他地区ナンバーの軽自動車でしたが、いきなりマロニエ君の右後方からスーッと追い抜いてきて、前を斜めに横切って、さらにひとつ左の車線に移動しました。

はじめにあれっ!と思ったのは、夜の11時ごろだというのに完全な無灯火、つまりまったくライトを付けていないことでした。これだけでもどういう神経をしているのかと思います。
この無灯火車というのは意外なことにときどき見かけますが、わりと田舎のナンバーの車などがそうだったりすると、真っ暗闇の田舎道とは違って、夜でも明るい街中に慣れていないんだろうぐらいに笑っているところですが、ゆうべの車はそういう無邪気さとはちがった何か異常な感じが漂っていて、はじめから妙に目立っていました。

しばらくその車の傍を走る状況になったのですが、やや荒っぽい運転ではあるけれども「暴走」というほど激しいわけでもなく、でも、どういいようもなく動きも気配もヘンであるのは間違いない。一体どんな奴が乗っているのかという興味ばかりが募ります。
しかし、信号停車ではなかなか隣に並ぶチャンスがなく、しばらくやきもきさせられましたが、ついにチャンスが訪れました。

はじめは真横ではないものの、斜め後ろぐらいに信号停車すると、なんとその車の運転席にはカーナビどころではない大きさのモニター画面がハンドルのすぐ前にドンと付いていてビックリ。夜目にも鮮やかに映っていて、なにやらアニメ映像みたいなものがずっと流れています。
そうです、この軽自動車のドライバーは運転しながら、この画面のほうに熱中しているらしいことがひと目でわかりました。これを見ながらスイスイ飛ばして走っているわけです。

あんな大きなサイズの車用モニターがあるのかどうかしりませんが、ひょっとしたらタブレット型液晶かもしれません。そこのところは結局よくわかりませんでした。

さらに次の信号では横に並ぶことになり、もうこちらもたまらなくなってドライバーの方を覗き見ると、それなりの年齢のメガネをかけた中年男性が、周りのことなど全く意に介さない様子で、まさに自分の世界を作ってそこに浸りきっており、耳には白いイヤホンが差し込まれています。
おそらくアニメの音声なんでしょうね。

そしてトドメは、口は終始モグモグしていてしきりに何かを食べています。
ときおり助手席に手を伸ばしてはパッと口になにかを放り込んで、またモグモグでずっと食べているうようでした。と、信号が青になると、これがまた結構な勢いでブンブン加速していき、相当のスピードで走っているのには心底呆れかえりました。

夜の国道に、無灯火の黒い物体がかなりのスピードで走り抜けて、まさかこんな全身危険まみれみたいな車を追いかけるつもりもないので、こちらは自分のスピードで走っていると、そのうち見えなくなってしまいました。

あとから考えれば110番通報すべきだったかとも思いましたが、まあとにかく変わった人がいるものです。ただ、事が車ともなれば、あんなドライバーのせいで事故でも起こればたまったものではないですから、本当に注意していなくてはいけませんね。
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休日過多

やれやれというべきか、いわゆる年末年始といわれる時期がやっと終わった気がします。

どうしてだか自分でもはっきりわかりませんが、マロニエ君はむかしからこの時期がとにかく苦手でした。
とりわけクリスマスを過ぎて、あと数日で新年を迎えるという時期になると、それまでの師走の忙しさや賑わいによる一種の興奮状態がウソみたいに消えて静まり、街中は一転してガランとしてしまいます。この感じがたぶん嫌なのです。

まるでチャイコフスキーの悲愴交響曲のように、第3楽章の異常なまでの活気や喧噪のその向こうに、対極の陰鬱な世界ともいうべき第4楽章があるように、そこには打って変わった、静まりかえった、すべての動きが止まって眠りについてしまったような空気に街全体が覆われてしまのが嫌いなんでしょうね。

昔ほどではないにせよ、お店というお店はあまねくシャッターが降りるなど閉店状態となり、形だけの門松や謹賀新年の文字とは裏腹に、人のいない死んだような真っ暗な店内など、視界に入るだけでも嬉しくはないわけです。

普段は渋滞するとイライラしているくせに、この時期は車も激減して、道は皮肉なほどスイスイと流れ、それが幾日も続くのは何十ぺん経験してもなぜか慣れるということがありません。

とりわけ今年はカレンダーの都合から、休みが異様に長く、世の中が一応動き出すまでに10日はかかったわけですし、それが本当の意味で平常に戻るのはもう少しかかるのかもしれません。

欧米やその他の諸外国では、どのような年末年始の過ごし方をしているのかは知りませんが、日本のそれは表向きの建前とは裏腹に、なんとも暗くて冗長なだけで、人々が真からこの時期を楽しんでいるようには思えないのですが他の人はどうなんでしょう。

マロニエ君は決して勤勉ではないどころか、大いに怠け者の部類であることは自認していますけれど、そんな人間からみても最近の日本はいささか休みが多すぎるように思います。
昔は週休2日なんてものもなかったし、それをみんな不満にも感じずに土曜まで働いていましたし、学校もお昼までですが行かなくてはなりませんでした。
これだけでも年間50日も休みが増えたことになります。
さらに祝日も増え、それが日曜と重なると今度は振り替え休日になり、どうかすると休日の間にポツポツ平日が挟まっているようで、これでは物事がはかどるはずもなく、事を進めようにもむやみに時間ばかりかかって、一体なんのための休みかさえもわかりません。

そういう意味では、昔は携帯もネットもなかったけれど、みんな一人ひとりに覇気があって、世の中全体にも熱気があって、活力ある生活を送っていたようにも思い出されてくるこのごろです。戦後の高度経済成長はそんな活き活きとした頑張りの中から達成されたものでしょう。

個人別に話をすると「休みが多すぎて持て余している」という声はほうぼうから異口同音に聞こえてきますが、一旦休みになったものを制度として返上することはなかなかできないことなんでしょうね。

もとはといえば、政治家が国民へのくだらないゴマすりのために祝日を増やしたり振り替え休日を作ったわけですが、いささかげんなり気味のマロニエ君です。
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続・五嶋みどり

五嶋みどりさんのことをもう少し…。
彼女ほどの世界的な名声を得ながら、なにがどうあっても電車やバスを乗り継いでひとりで移動し、夜は自分でコインランドリーに行くという価値観は、それを立派と見る人にはさぞかしそう見えることでしょう。でもマロニエ君は非常に屈折したかたちの一種の「道楽」のようにも感じました。

そんなにまで普通の人のような粗末なものがお好みなら、終身貸与された、時価何億もするグァルネリ・デル・ジェスなんてきれいさっぱりオーナーに返上して、いっそ楽器も普通のものにしたほうが首尾一貫するようにも感じます。

思い出したのは、司馬遼太郎さんは生前、頻繁に取材旅行に出かけたそうですが、なんのこだわりもない方で宿はどこでもいいし、大好きなうどんかカレーライスがあればそれでよし、編集社にとってこんな手のかからない作家はいなかったということでしたが、そういう事と五嶋みどりさんの場合は、流れている本質がちょっと違っているような気がしました。
何かを貫き、徹底して押し通そうという尋常ならざる強引な意志力が見えて疲れるわけです。

ツアー中、ビジネスホテルのロビーでも、ちょっと時間があるとたちまち大学の資料に目を通すなど、まさにご立派ずくめで一分の隙もありません。遊びゼロ。それが彼女の演奏にも出ていると思います。
インタビューの対応も、いつもどこかしら好戦的でピリピリした感じがします。

「同じ服を着るのはよくない…etcと云われるのが、私には、いまだによくわからない」と言っていましたが、頭も抜群にいい彼女にそんな単純な事がわからない筈がない。むしろ彼女は誰よりもその点はよくわかっているからこそ、よけいに自分の流儀を崩さないのだとマロニエ君には見えました。
もちろん随所にカットインしてくる演奏はあいかわらず見事なものでしたが、教会はともかく、日本の寺社仏閣を会場として、キリスト教とは切っても切れないバッハの音楽をその場に顕すというのは、マロニエ君は本能的に好みではありません。

太宰府天満宮、西本願寺、中尊寺など由緒あるお宮やお寺と、キリスト教そのもののようなバッハの組み合わせは違和感ばかりを感じてしまうからです。

こういうことを和洋の融合とか斬新だとかコラボだのと褒め称えることは、言葉としてはいくらでも見つかるでしょうが、どんなに好きな西洋音楽でも仏教のお寺などは、その背景に流れるものが根本から違っているだけに、マロニエ君の感性には両方が殺し合っているようにしか見えませんでした。

以前、アファナシェフが京都のお寺でピアノを弾くという企画をして、それが放送されたときにも言い知れぬ抵抗感を感じました。
これらは決して非難しているのではありません。ただ単にマロニエ君は個人の趣味としてどうしても賛同できず、却って薄っぺらな感じを覚えるというだけです。

ただし、ひとつだけは個人的な趣味を超えていると感じたこともあり、それはとくに京都の西本願寺の対面所の前にある能舞台で弾いたときには、運悪く真夏の大雨となり、盆地の京都ではこのとき湿度はなんと90%にも達していたとか。もちろん屋根と細い柱以外に外部とはなんの囲いもありません。
そんな中で借り物のグァルネリ・デル・ジェスを晒して弾くというのは、楽器に対する芸術家としての良心として、自分なら絶対にできないことだと思いました。

マロニエ君だったら、グァルネリはおろか、ヤマハやカワイのピアノでもできないことだですね。
衣装に凝らず、公共交通機関を使い、ビジネスホテルに泊まって、夜はコインランドリーにいくということは、世界の名器に対する取扱いもこういうことなのか?…と思ってしまいます。
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五嶋みどり

暮れに民放のBSで、五嶋みどりさんのドキュメント「五嶋みどりがバッハを弾いた夏・2012」という番組をやっていたので録画を見てみました。

彼女を始めて聴いたのはズカーマンとの共演によるバッハのヴァイオリン協奏曲のCDで、修行のためアメリカに渡った日本人の天才少女ということで認められ、大変な話題になったことがきっかけでした。写真を見ると本当に小さい華奢な女の子ですが、その演奏はまったく大人びた堂々たるもので驚嘆した覚えがあります。

その後は実演にも何度か触れましたが、その演奏は繊細かつ大胆で、どの曲も驚くばかりに周到に準備され、隅々にまで神経が行きわたっており、天才たる自分に溺れることの決してない、常人以上の努力家であることを伺わせるものでした。少なくとも楽譜に書かれたものを再現するという点においては、まったく隙のない出来映えで、どの曲を弾いてもそこには徹底して譜読みされ、構築され、練習と努力で磨き上げられた果てに到達する完璧という文字が浮かんでくるようでした。

ただ、マロニエ君は昔から、五嶋みどりはすごい、素晴らしいとは思っても、好きな演奏家というものにはどうしてもなれない何かがつきまとっていました。
演奏は文句の付けようがないほど練り込まれ、なるほど立派だけれど、ただ立派なものを見せつけられて「畏れ入りました」と頭を下げるしかないような不満が残ります。それはマロニエ君にとっては、彼女の演奏は聴いていて良い意味での刺激とか喜び、とくに「喜び」の要素が感じられなかったからだと思います。
要するに味わいや遊び心がないわけです。

それがこの番組を見て、一気に長年の謎が解けたようでした。
今回のツアーは長崎五島からはじまって、各地の教会やお寺などでバッハのヴァイオリンのための無伴奏ソナタとパルティータを演奏するというものでした。その質素の極みのような生き方も含めて10人中10人が感心して褒め称えるようなものなのでしょうが、あくまでマロニエ君が感じたところでは、なんだかちょっと嫌味な感じがありました。

彼女は現在ロス在住で、どこかの音大の弦楽部長という責任ある地位にもあるそうで、毎日朝の6時から夜の12時まできわめて忙しい生活を送っているとのこと。
その合間に自分の練習をし、コンサートやツアーこなし、泊まるのはどこでも常にビジネスホテル、移動は絶対に公共交通機関でなくてはならないなど、まるでストイックな禅僧がヴァイオリンケースを担いで修行のひとり旅をしているようでした。

もちろんマロニエ君は、ちょっと著名なコンクールに優勝するや忽ちコマーシャリズムにのって、売れてくると贅沢に走り、どこへ行くにも特別待遇を当然のように思ってしまう勘違いの演奏家などは云うまでもなく嫌いですし、芸術家としても尊敬できません。
でも、それと同じように、こういう求道者のようなスタンスにことさら固執して、いかなる場合も、何があろうとこれを譲らず、自分の特異なスタイルを堅持していくというセンスも逆に嫌いなのです。なぜなら、それはコマーシャリズムに走る演奏家や価値観を、ただ逆さまにひっくり返しただけの強い主張のように見えてならないからです。

そのために周りの迷惑も厭わず、ひじょうに強情な人間の姿を見るような気がするのかもしれません。昔の言葉ですがやたらツッパッテいて余裕がないし、しかもそれがストイック志向であるだけに、とりあえず立派だということになるし尊敬の対象にさえなり得る。
でも、主催者や周りにしてみれば、ある程度のお膳立てにのってくれるアーティストのほうが楽なはずで、そういうことを無視するのは一見いかにも自分というものがあるかのようですが、同時に甚だしいエゴイストのようにも見えてしまいます。

あくまでもマロニエ君の好みや受けた印象の話ですが…。
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明るい日本に!

昨年は、秋から年末にかけて政治の世界はめまぐるしい変化の連続で、ついに安部さんが再び日本の操縦桿を握ることになりました。

このブログで政治的なこと書くつもりは全くありませんが、少なくとも民主党政権樹立後から3年間というもの、良いことはまるでなかったなかったような印象しかなく、大半の人々は理屈抜きにホッとしているというのが偽らざるところではないでしょうか。

民主党の稚拙な政権担当能力もさることながら、リーマンショック、東日本大震災、それに端を発する原発問題などが重なって、惨憺たる状態が長いこと続きました。先の見えない円高、株価の低迷、そして消費税増税、尖閣問題など暗い問題を背負いながら、民主党内部のゴタゴタや内輪もめの連続など、日本丸はどす黒い雲の下の荒れた海をあてどもなく彷徨っていたようでした。

野田さんの「近いうち解散」も騙されたということは半ば公然たる事実として諦めムードが漂い始めていたとき、自民党の総裁選が行われ、安部さんが総裁に選出されるや、いきなり株価は上昇しました。これが初めの突破口だったように思います。

その後の党首討論の席上で突如、具体的な日にちまで口にした野田さんの発言によって、一気に世の中は選挙モードに突入し、結果は予想を上回る勢いで自民党が第一党の議席を獲得し、自公連立によって衆議院の3分の2さえ獲得するまでになりました。
聞くところでは民主党内では、総理には絶対解散をさせないでおいて代表だけを交代させる、いわゆる「野田降ろし」が始まり、野田さんは逃げ場のないところまで追い込まれたのが直接的な解散誘因だという説もありましたが、まあ結果から見ればそれもよかったということでしょう。

第二次安部政権では、さっそくにもさまざまな手が打たれ、毎年2%のインフレコントロールなど、即効性のある対策も実行されるようです。むろんこれを疑問視する声もあるにはありますが、ともかく昨年暮れの東京株式市場では大納会で最高値をつけるなど、ここ数年でひさびさに明るい気分で新年を迎えることができたように思います。

安部内閣発足直後には、デパートなどではさっそくにも「ちょっといいものを…」という絶えて久しかったニーズが復活しはじめて即座にそれに対応した商品構成に転じているといいますし、クリスマスケーキもこれまでの平均15センチが早くも21センチへとサイズアップした由です。
これは一見取るに足らない小さな事のようですが、でも、こういうことが積み重なって、明るい気運が湧き起こってくるところこそ景気を盛り上げる最大のエネルギーにつながる気がします。

年末にある調律師さんに電話してみると「この1、2ヶ月は過去にないほどピアノが売れた!」という、これまたえらく景気のいい話を聞きました。
まさに不景気も好景気も、要は「気」、気分の問題といわれる所以がここにありそうです。

いつだったか、選挙の頃、新聞に福沢諭吉の言葉で『政治とは悪さ加減の選択である』というのが載っていて、思わず唸りまました。
この意味でいうなら、なにも自民党や安部さんが最高とは云わないまでも「悪さ加減の選択」によって現在の政権が誕生したことは、やはり消去法によるベターな選択だったということなのだと思います。

今年も始まったばかりではありますが、なんとなくこの明るい調子が続いてくれればと思います。
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謹賀新年

あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願い申し上げます。
このブログをはじめて4年目のお正月を迎えることができました。

先月暮れには日本にも政権交代という大きな変化が起こり、なんとなくですがいつになく世の中が少しずつ明るくなっていくような気がしているところです。

マロニエ君の毎年のこだわりである、その年の最初になんのCDを鳴らすかということですが、今年はそれほど迷わずに、すんなり決まりました。

J.S.バッハの平均律クラヴィーア曲集第二巻。
いまやバッハの名手のひとりとして数えられるに至ったハンガリーのピアニスト、アンドラーシュ・シフによる演奏です。

シフはもうずいぶん前にバッハの主だった鍵盤楽器の作品を12枚ほど録音していますが、近年はゴルトベルクやパルティータなど、別レーベルからの再録が進んでいます。
そして昨年も終わり頃になって平均律が第一巻・第二巻あわせて4枚組で発売されましたが、これがまたなかなかの名演でずいぶん聴きました。

昔の演奏よりも、より深く確信を持って、しかも自由で自然に弾いていると思います。
とりわけ第二巻はより明るい作品で、第一曲のハ長調は新年のスタートにもいかにも相応しいように思いますし、とくにフーガでの見事なことは何度聴いても感嘆します。

シフは好んでベーゼンドルファーも弾くピアニストですが、それは作品によって分けているようです。ベートーヴェンのソナタなどは曲の性格によってスタインウェイと引き分けていますが、バッハに関しては一貫してスタインウェイを使っています。
シフのコメントによれば、バッハとウィーンはまるで関係がないのだそうで、だからスタインウェイでしかバッハは弾かないとのこと。ただしベーゼンドルファーでおこなったコンサートのアンコールなどにバッハを弾く場合は、やむを得ずベーゼンで弾くけれども…なんだそうです。

本年もできるだけ思ったこと感じたことを、ブログ/ネットという場所で、許されると判断される範囲で「本音で(でも常にブレーキペダルに足をのせながら)」綴っていきたいと思いますので、どうかよろしくお付き合いくださいますようお願い致します。
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追記の追記で最後

ポリーニの日本公演の様子を見てみて、今回あらためて思ったことは、彼は実はとても音量の大きなピアニストだという事でした。これはよく考えてみると新発見に近いものだったと思います。

同じボリュームでも、ポリーニの演奏になると音の鳴るパワーが全体に違うことがわかりました。
ポリーニは甘くやわらかな音のピアノに向かって、全体に均等に分厚い音を朗々と鳴らしますが、そのタッチ特性からくる発音に一定の品位がある上に、楽器にもうるさい彼はメタリックな音のするピアノを好みませんから、それらが合体して粗さのない、非常に充実したオーケストラ的な響きになるのだろうと思います。

若い頃のポリーニのリサイタルには何度も足を運びましたが、とにかくその圧倒的英雄的演奏に打ちのめされて、毎回上気した気分と深いため息を漏らしながら帰途についたものです。たった一台のピアノから、あれほど充実した響きと演奏を聴かされて、まるで何らかの記録樹立者が汗まみれになって目の前にいて、それを見守り熱狂する我々観衆というような感動と興奮を味わえることこそ、ポリーニの生演奏の特色であり最高の魅力でした。

それは煎じ詰めれば、彼のピアノ演奏が際立ったものであるのは当然としても、聴衆を圧倒する要素のひとつにあの音量があったとは気が付きませんでした。おそらく、通常の人なら音量が大きい場合に不可避的につきまとう音の割れや粗さが彼の音には微塵もないために、ただ演奏が筋肉的にしなやかで、ずば抜けたテクニックと迫真性ばかりに浸っていたように思います。

ポリーニは20世紀後半を代表する最高級のピアニストのひとりであったことは云うまでもありませんが、強いて不満を云うならば、彼の演奏には歌の要素やポリフォニックな要素が稀薄だというところでしょう。むしろピアノ全体を均等に充実感をもって鳴らし切ることと、正当で流麗な解釈、それを構造学的な美学志向で積み上げていくタイプのピアニストでした。

この点でもうひとつ気付いたのは、ある程度歳を取ってからのポリーニの指先です。関節が非常に固く、おまけに爪がおそろしいまでに上に反っています。
このジャンルの草分け的存在であり大御所でもある、御木本澄子さんの説によれば、芯のある強靱な音を楽に出せるピアニストの指に必要なものは固く固まった第一&第二関節なのだそうで、ケザ・アンダの指などはほとんどこの部分の関節は動かないまでに固まっているのだそうです。

ポリーニのあの独特なやわらかさを兼ね備えた甘くて強靱な美音は、まずはこの固い関節がタッチの土台を支えているからこそだと思いました。
また一般論として、肉付きと潤いのある美しい音色を出そうとすると、上からキーを高速で叩きつけるのではなく、ほとんどキーに接地している指を加速度的に静かに力強く押し下げていくしかないと思いますが、ポリーニの美音と迫力あるボリュームの両立は、彼がその奏法を用いながら、さらに類い希な指(特に指先)の強靱な力の賜物だと思われます。

この奏法であれだけの大音量を出すという演奏形態を長年続けてきたために、彼の指先はあのように上に反り上がってしまったものだろうと思いました。


気が付けばこれが今年最後のブログになってしまったようで、あわてて年内にアップします。
お付き合いいただいた皆様、ありがとうございました。
来年もよろしくお願い致します。
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ポリーニ追記

今回のポリーニの来日公演、実際は知りませんが、少なくともテレビ放送ではベートーヴェンの5つのソナタが演奏され、出来映えは大同小異という印象でしたが、強いて云うなら27番がよかったとマロニエ君には思われ、逆にテレーゼ(24番)などは、どこか未消化で雑な感じがしました。

それに対して最後の三つのソナタ(30番、31番、32番)は、個人的に満足は得られないものの、ともかくよく弾き込んできた曲のようではあり、身体が曲を運動として覚えているという印象でした。
しかし、残念なことにこの神聖とも呼びたい、孤高の三曲を、いかにもあっけらかんと、しかもとても速いスピードでせわしなく弾き飛ばすというのは、まったく理解の及ぶところではありませんでした。

中期までのソナタなら、場合によってはあるいはこういうアプローチもあるかもしれませんが、深淵の極みでもある後期の三曲、それも今や巨匠というべき大ベテランが聴衆とテレビカメラに向かって聴かせる演奏としては残るものは失意のみで、甚だしい疑問を感じたというのが偽らざるところでした。

リズムには安定感がなく、音楽的な意味や表現とは無関係の部分でむやみにテンポが崩れるのは、聴く側にしてみるとどうにも不安で落ち着きのない演奏にしか聞こえません。まるでさっさと演奏を済ませて早くホテルに帰りたくて、急いで済ませようとしているかのようでした。
何をそんなに焦っているのか、何をそんなに落ち着きがないのか、最後の最後までわかりませんでした。
次のフレーズへの変わり目などはとくにつんのめるようで、前のフレーズの終わりの部分がいつもぞんざいになってしまうのは、いかにも演奏クオリティが低くなり残念です。

とりわけ後期のソナタになによりも不可欠な精神性、もっというなら音による形而上的な世界とはまるで無縁で、ただピアニスティックに豪華絢爛に弾いているだけ(それもかなり荒っぽく、昔より腕が落ちただけ)という印象しか残りません。

それでも、日本人は昔からポリーニが好きで、こんな演奏でも拍手喝采!スタンディングオーべーションになるのですから、演奏そのものの質というよりは、今、目の前で、生のポリーニ様が演奏していて、その場に高額なチケット代を支払って自分も立ち会っているという状況そのものを楽しんでいるのかもしれません。
もはやポリーニ自身が日本ではブランド化しているみたいでした。

ピアノはいつものようにファブリーニのスタインウェイを持ち込んでいましたが、24番27番では、これまでのポリーニではまず聴いたことのないようなぎらついた俗っぽい音で、これはどうした訳かと首を捻りました。ポリーニの音はポリーニの演奏によって作られている面も大きいのだろうと思っていただけに、このピアノのおよそ上品とは言い難い音には、さすがのポリーニの演奏をもってしても覆い隠すことができないらしく意外でした。

日が変わって、最後の三つのソナタのときは、それよりもはるかにまともな角の取れた音になっていて、音色という点ではポリーニのそれになっていたように思います。
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ポリーニ来日公演

今秋サントリーホールで行われたマウリツィオ・ポリーニ日本公演~ポリーニ・パースペクティブ2012の様子がBSプレミアムで4時間にわたって放映されました。

マンゾーニの「イル・ルモーレ・デル・テンポ(時のざわめき)~ビオラ、クラリネット、打楽器、ソプラノ、ピアノのための~」からはじまり、ところどころにポリーニがソロで出てくるというものでした。

この一連のコンサートは、そこに一貫した主題を与えるのが好きなポリーニらしく、ベートーヴェンの存命中のコンサートでは常に新しい音楽が演奏されていたという点に着目して、ベートーヴェンのソナタと現代音楽を組み合わせながら進行するという主旨のプログラム構成でした。

今回はポリーニの息子のダニエーレ・ポリーニ氏も来日し、父のインタビューの傍らに座ってときどき似たようなことを話していたほか、ステージではシャリーノの謝肉祭から3曲を日本初演する機会を得ていたようです。

ポリーニは現代音楽ではシュトックハウゼンのピアノ曲を2曲を弾いたのみで、それ以外はベートーヴェンの5つのソナタ、第24番、第27番、そして最後の三つのピアノソナタを演奏しました。

さて、このときのポリーニのことを書くのはずいぶん悩みました。
それはさしものポリーニ様をもってしても、そこで聞こえてきたものは、どう善意に解釈しようにも、もはや良い演奏とは思えなかったからなのです。しかし、彼を批判することはピアニストの世界では、なんだか神を批判するような印象があるから、やはり躊躇してしまいます。

しかしプロの世界、それも世界最高級のレヴェルの芸術家なのですから、やはり彼らは自分の作品(演奏家の場合は演奏)に厳しい批判を受けることも、その地位に科せられた責務だと思いますので、あえて控え目に書かせてもらおうという結論に達しました。

ポリーニの肉体の衰えはかなり前から感じていましたが、それはいかに天才とはいえ生身の人間である以上、だれでも歳を取り老いていくのですからやむを得ないことです。ただ、最高級の芸術家たるものは肉体の衰えと引き換えに、内的な深まりや人生経験の少ない若者には到底真似のできないような奥深い世界への踏み込みや高みへの到達など、ベテランならではの境地を期待するものですが、少なくともマロニエ君の耳にはそのようなものは一切聞こえてくることなく、何かがピタリと止まってしまっているような印象でした。

インタビューではどんなことに対しても、自説を展開し、歴史まで丹念に紐解いて論理的にながながと講釈をしますが、それほどの斬新な内容とも思われませんでしたし、とくにベートーヴェンの後期の作品に対する解説も、ピアノ曲以外の作品まで持ち出してあれこれとかなりやっていましたが、実際のステージでの演奏は、そういうこととはなんの関連性も見出せないような、こう言っては申し訳ないですが、むしろ表面的なものにしか感じられなかったのは非常に残念でした。

ベートーヴェンの音楽を聴いた後に残る、魂が高揚した挙げ句に浄化されたような気持ちになることもできませんでしたし、老いたとはいえこれほどの大ピアニストの演奏に接して、何かしらの感銘らしきものを受けるということもなく、ただただ若き日のアポロンのようなポリーニの残像を自分なりにせっせと追いかけるのが精一杯でした。
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ビジネスのくじら

仕事の都合上、室内の一部をやむなくリフォームすることになりましたが、リフォーム会社というものは優劣さまざまで以前から要注意業界でもある旨をテレビなどで再三にわたって聞いていましたので、果たしてどうしたものかと思いました。

マロニエ君よりもずいぶん年上ですが、信頼という点にかけては間違いのない昔からの知り合いがいましたので、さっそく連絡してみました。その人は直接のリフォーム業者ではなく、業界の職人さんなのですが、なんと激変する時代に嫌気がさして少し前に廃業してしまい、付き合いのあった仲間達も散り散りになったという衝撃的な話を聞かされました。

やはりというべきか、今どきの時流の変化と厳しさは、いかなる業種にも容赦なくその荒波が襲いかかり、建築関係においてもまったく例外ではないようです。いや、もしかすると、この業界こそ儲け主義と技術革新甚だしい急流の部分にあるひとつなのかもしれません。

よくテレビなどで、長年親しまれた地元の商店街の近くに、突如として大資本の大型スーパーやショッピングモールが進出してきて、周辺のお客さんは、まるで潮の流れが変わったようにそっちへ奪われてしまい、小さな個人商店の集まりなどでは手も足も出なくなるという構図がありますが、まさに似たような話でした。

以前なら、建築関係の世界にも各分野ごとに、いわゆる腕利きの職人さん達がいて、何かというと彼らは個々に、あるいは互いに連携して柔軟に仕事を進めていたといいます。なにしろ技の世界ですから、若い頃から親方のもとで辛い修行を積んで、一人前になるのは生半可なことではないとか。
彼らは家を建てることから、ちょっとしたお風呂の修理まで、依頼内容に応じてあちこちへ出向いたり、適材適所に仲間を紹介したりされたりで、それぞれが誇りあるプロとして納得のいく仕事をしていたのだそうです。

ところが今はなんでも大資本・大企業が業界を席巻し、まさにクジラのようにあらゆる仕事をそっくりのみ込んでいくのだそうで、それが何社も重なり合うようにして地域ごとに進出するため、個人の職人さん達の出る幕など皆無なんだそうです。中には上手い具合に企業にもぐり込んで、かろうじて仕事を続ける人もあるそうですが、多くは年齢的なことや新技術の習得など様々な事情が重なって、廃業してしまう人が圧倒的に多いのだそうです。

実は、マロニエ君がスピーカー作りの際、土台部分の木材の円形カットをやってくれる工場を探した際にも耳にしたことですが、昔はちょっと田舎なら、あちこちに普通に木工所といわれるものがあったらしいのですが、こちらも今は激減し、残っているのはことさら手作りとか工房とかいう類のものだけで、ありがたげなこだわりや付加価値を謳いながら、ひとつひとつを丁寧に注文製作するようなところばかりで、値段もゼロがひとつ違うんじゃないの?というほど高額で、とても気軽に立ち寄って、「これこれの寸法に切ってください」「ほいきた!」という感じにはいかないようです。

というわけで、今どきは(例外はあるかもしれませんが)どんな世界でも、大半は大会社だの大手企業だのが仕事の大小にかかわらず、圧倒的組織力にものをいわせて、いわば集塵機で根こそぎチリを吸い集めるようにしてビジネスを奪い取ってしまうという、なんとも恐ろしい事態が起きているようです。

こうなってしまうとどんなことでも、仕事をするにはまずもって大会社、もしくはそれに連なる系列に身を置かなければ仕事そのものにありつくことができず、だからますます大会社至上主義のようになるんでしょうね。

そういう意味では、どんな仕事でも、自分のペースで淡々とやっていける人の数というものは、ほとんど絶滅危惧種並みに少なくなっていると思われます。そしてそれが可能な人は、まずそのこと自体が大変な幸福だと思わずにはいられません。
「格差社会」という言葉はあらゆる機会に言われて久しいものですが、古い知り合いであっただけに、なんだか象徴的にその具体例を見せられた気がしました。

少しでも明るい社会になるよう、なんとか安部さんの手腕に期待したいところです。
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行列と満腹

昨日はどうしてもという必要に迫られて、あまり行かないことに決めたはずだったIKEAに行くことになり、友人に同行を頼みました。

23日は折悪しく連休中でもあり、さらにはクリスマスイブの前日ということも重なってか、予想通りのたいへんな人出でした。
当然ながら、そんな日の昼間に行くなんて無謀なことをする勇気はありません。マロニエ君達が駐車場に入ろうとしたのは、たしか午後6時ごろでしたが、この時間になってもまだあたりは車でひしめき合って、さすがに満車ではなかったものの、隅々までびっしりと車が並んでいました。

季節柄、日もどっぷりとくれているというのに、ヘッドライトの先にはまだ誘導員がいて、車の流れを忙しげに整理していますから、おそらくは今年最後の盛り上がりというところなのでしょう。

なんとか車を置いて、店内に入って目的の商品を見ていると、どうやら今の時期は「期間限定」のいろいろなイベントをやっているようで、二階のレストランでもスウェーデンのクリスマス・ディナーと銘打ったバイキングをやっていると店内アナウンスが言っていました。

大人1500円こども600円の「ドリンク付き食べ放題」とやらで、友人はどうやらそれに行きたがっているような雰囲気をプンプン醸し出しはじめ、内心「まずいなぁ…」と思いました。
でも、たしかに時計の針は夕食時ではあるし、マロニエ君は特別食にこだわりがあるほうではなく、そこそこ美味しく食べられれば何でもいいというタイプなので、それならば…とそこに行ってみると、目に飛び込んだのはかなりの長蛇の列で、たちまち恐怖を覚えます。
マロニエ君単独の意志なら、この行列を一目見て迷わず通り過ごすところですが、友人は「今だけ食べ放題のスウェーデンのクリスマス・ディナー」という謳い文句に抗しがたい魅力を感じているようでした。
こちらとしても遠くまで付き合ってもらっているわけで、ここまできて相手の希望だけ無視するわけにもいかないので、マロニエ君としても覚悟を決め所と思い定めて、ついに列に並ぶことになりました。

はじめに1500円也を支払って列の最後尾につくわけですが、この列が完全に停滞して一向に進む気配がないのには、いきなり怖じ気づきました。
なぜ進まないかというと、料理は進行方向の一列のみに配置されていて、前の人が取り終わるまで次の人以降の列全体がそれを待つことになり、それが延々と連なって、まるで連休の高速道路の渋滞のようになり、想像を絶する超低速の進行状況を作り出しているわけです。

こうなると、いくら食べ放題とはいっても、料理を取るチャンスは事実上一回限りだということが、誰の目にも明らかです。
そのかわり、列の入口には奇妙なカートが置かれていて、皆さん等しくそれを使っているのがわかります。カートは三段構造になっており、少し先にはちょうどサイズの合う長方形のトレイが重ねられていて、その横にはミート皿がうず高く積まれています。

すると、みんな専用カートを引き寄せ、トレイを三段それぞれに配置して、さらにはお皿を6枚取っています。これが並んで待っている間になすべき準備であることを、人は皆、先人の行動を見ながらたちまち学習し、無言のうちにサッサと同じ作業をしています。

列はニクロム線のように行ったり来たりしながら、ちょっとずつ料理が置かれたエリアに近づいていくのですが、途中で隣の列の人達と対面して進行(ほとんど動かないが)する部分があり、そのときが自分を含めてなんだかとても滑稽な気分になりました。
子供は比較的無邪気ですが、大人は一様に疲労感と忍耐を隠せない表情ですが、同時に戦いを目前にして並々ならぬ覚悟を決めたような緊張感をも必死に押し殺しているようで、なんともいえない奇妙な空気がピーッと張りつめていました。

おそらくは30分ぐらい待ったあげく、マロニエ君もここまでくれば仕方がないと腹を括ってそれなりに料理に手を伸ばしましたから、いまさら自分だけは別だと言うつもりは毛頭ありませんけれども、でも、中には本当にすごい人達がいて、そのすごさをあれこれと目撃させられました。
人の本性が垣間見えるときというのは、可笑しさと恐怖が無秩序に交錯するものだというのがわかりました。

とはいうものの、結果的にひとり1500円で猛烈な満腹状態になったのですから、文句も言えませんね。
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ふとん店

手作りスピーカーで余談をひとつ。

スピーカーに不可欠の吸音材に使う素材はいろいろあるようですが、そのうちの定番のひとつが「綿(わた)」であることは、恥ずかしながら今年になって知りました。
これには100%ウールのものから、一定量化繊の混じっているものまでいろいろあり、自作オーディオの専門店でも扱っているようで、ネットで購入も可能ですが、マロニエ君は量なども実物で確認したかったので、市内のふとん店に問い合わせてみることにしました。

しかし、今どきはふとん店そのものが昔に較べてずいぶん少なくなっているようでした。
さらには中の綿だけを小売りしているような本格的な専門店となると、なかなかそうざらにはありません。今は生活用品ならなんでもスーパーなどで簡単手軽に安く買えてしまう時代ですから、それもそうだろうと思います。

そこでふっと思い出したのが、ときどき通る道沿いに、派手ではないがちょっと古い感じの大きめのふとん店があったのを思い出して、そこに問い合わせをしてみたら、さすがというべきかちゃんと商品としての取扱いがありました。
オーディオ店同様に、100%ウールをはじめ化繊の混合など数種類そろっているようです。

我が家からもそう遠くない場所なので、さっそく行ってみると、外から見るより店内は遙かに立派で、これには思いがけず驚きました。それも今風のピカピカした感じの立派さではなく、建物などは結構古くはなっているけれども、昔ながらの商売を守り続けているといったガッチリした店内で、置かれている布団のセットなども値段もそれなりだけども法外なものでもなく、いわゆる特別高級な何々というのではなくて、きちんとしたものを正当な価格で普通に売っているというもので、まずその点も近ごろでは却って懐かしく新鮮でした。

さらには店内中央から吹き抜け階段になっていて、どうやらその上は作業場のようでした。布団の縫い込みや綿の打ち直しなどの仕事スペースに違いなく、こんな昔ながらのお店がちゃんと今でも残っていること自体がホッとするのを通り越してちょっと感動的な気分にさえなります。

来意を告げると、応対に出た女性がすぐに二階に取りに行って、しばらく待たされたあと、真っ白い綿を持って降りてきました。その方曰く、綿は湿気を非常に吸い込みやすく反面、放湿は苦手なので、どうしても綿の中に湿気がたまりやすくなる性質があるとのこと。布団の場合はお天気の良い日に日干しをしたりすることになるけれども、スピーカーじゃそれも出来ないでしょうからという判断で、混合のものをひとつ購入することになりました。

ひとつといっても相当の量で、大きめのビニール袋がいっぱいになるぐらいで、とても全部は使い切れない量がありましたが、値段がまた安く、オーディオ専門店などもおそらくほとんど同様の品だと思われますが、価格は数倍に及ぶようですから、この点もなんだか得したような気分になりました。

なんでも、この店は創業120年なんだそうで、現在は販売の他に遠方から綿の打ち直しなどの依頼があるという話でした。スーパーやネットもたしかに便利ですが、欲しい物を直接手にとって、お店の人と会話しながら納得ずくで購入するというオーソドックスなスタイルでやりとりをすると、ふしぎに気持ちもゆったりしてどことなく幸福な気分になるものです。
昔はこういうなんでもないところからも、人の心の在り方が違ったんだというような気がしました。
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音にフォーカス

月刊誌『ピアノの本』では、このところ連続してヤマハの技術者の方を取り上げた記事が載っていて、マロニエ君も特に楽しみな連載コーナーなのですが、11月号は酒井武さんというヤマハアーティストサービス東京に在籍する方でした。

過日NHKのクラシック倶楽部で放映されたニコライ・ホジャイノフはヤマハCFXを使って好ましい演奏をしていましたが、記事にはホジャイノフと酒井氏のツーショットも掲載されていますから、日頃からコンサートの第一線で活躍されるヤマハ選りすぐりの技術者であるだろうことは容易に推察できます。(ホジャイノフは、この来日時にはCD収録もしたようです。)

ところで、この酒井氏の経歴で目についたのは、ある時期に「本社工場・特機制作室」という部署へ異動されたと書かれている点でした。ヤマハピアノの本社工場・特機制作室とは何をするところなのか…というのが率直な疑問で、マロニエ君なりにあれこれと察しがつかないでもありませんが、それは想像の域を出ませんから、それを敢えてここで書いたところで意味はないでしょう。
まあ、ともかくも、ヤマハにはそういう、なんとなく秘密めいた想像をかき立てる部署があるということは確かなようです。

今回の酒井氏の言葉にも、いろいろと含蓄のあるものがありました。
たとえば、調律師としての感性を磨くための心がけは?という問いに対しては、「生活のすべてにおける感動する気持ちが大切〜略〜些細なことにも五感を働かせて“感じる”ことで、センスや自分自身を磨いていく」というものでした。
ピアノを細かく調整して、芸術的な音を作り出すような職人が、仕事以外ではごくありふれたラフな気分で生活していたのでは、そういう至高の領域での仕事はできないということでしょう。タッチや音色の微細な違いを感じ分け、より良いものを作り出す能力は、まず自分自身がよほど性能の良いセンサーそのものである必要があるのでしょう。
そして、この高性能なセンサーと合体するかのように、ピアノ技術者としての専門的かつトータルな能力があるのだと思います。

マロニエ君もパッと思い起こしてみても、ピアノ技術者の皆さんはいうまでもなくそれぞれの個性をお持ちですが、わけても一流と感じる人達は、皆非常に繊細な感性の持ち主です。
この点に例外はないとマロニエ君は断定する自信があります。

もうひとつ興味深いお言葉は「楽器に入りすぎて視野が狭まり、思い込みによる調律をしてはいけません。」とあり、演奏を聴いていると、調律師という仕事柄どうしても“音”にフォーカスしてしまうことが多いのだそうで、これは技術者の方は多分にそういう方向に流れるだろうと思っていました。「しかし、聴きながら“音”への意識が消えるほどに良い音楽が流れていたとき、振り返るとそれはまさに“良い音”が鳴っている瞬間だったと気がつく」とあり、これこそ大いに膝を打つ言葉でありました。

調律師の中にはなかなかの能力をもっておられるけれども、自分の音造りに拘ってそのことに集中するあまり、逆に音楽的でないピアノになってしまうという例もマロニエ君はずいぶん見ています。
こうなると調律師が作り出した音や調律が主役で、ピアノは素材、ピアニストはただそれを弾いて聴かせる演奏係のようになってしまいます。

楽器は重要だけれども、あくまでも演奏を音にし、音楽を奏でるための道具という域を出ることは許されないと思います。パッと聴いた感じはいかに華麗で美しいものであっても、そればかりが無遠慮に前面にでるようでは結局音楽や演奏は二の次で、あとには疲れだけが残るものです。

本当に一流というべきピアノ技術者の方の仕事は、ピアニストや作品を最大限引き立てるようなものであり、楽器としての分をわきまえていなくてはならず、あくまで演奏や音楽を得てはじめて完成するという余地のようなものを残していなくてはならないと思います。
それでいて音や響きは美しく解放されて、印象深くなくてはならず、演奏者をしっかり支えてイマジネーションをかき立てるようなものでなくてはならないわけで、非常に奥深くて難しい、まさに専門領域の仕事であるといわなければならないでしょう。

中には派手な音造りをすることが自分の拘りであり、他者とは違う自己主張のように思い込んでいる人もいますが、この手は初めは美味しいような気がするものの、すぐに飽きてしまう底の浅い料理みたいなもんです。
要は「音にフォーカス」するのではなく「音楽にフォーカス」すべきだということで、これはまったく似て非なるもので、後者を達成するのは大変なことだろうと思います。
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午後8時解禁

一昨日は総選挙のテレビをずっと観ていて、ブログ更新もできませんでした。

いまどきの選挙に関して印象に残ったことは、公平を期するという観点からか、公示日以降はいずれのテレビ局も、あまりにも各政党や候補者の事柄を伝えなくなり、どこも足並みを揃えたように中立的な立場を取るのは、甚だつまらないと思いました。
むろん、法的にもそれが正しいことなのかもしれませんが、それにしてもあまりにも行き過ぎでは?と感じました。

各メディアが、本当に法を遵守するというスタンスをとっているというよりは、いまどきの人のメンタリティの表れのようで、とにかくトラブルを避け、横並びで、責任問題が発生しないようにすることのほうに主たる注意が払われている印象です。
もちろん各メディアは公正さということを無視してはなりませんけれども、いやしくもジャーナリストたるもの、そのスレスレの領域をかすめながら自分の職務を全うすべく、あらゆる取材を通じて我々に正しい報道をもたらしてほしいのですが、近ごろはそんな性根のある、腹の据わった記者もいないのでしょうし、いてもその上司が掲載や放送を差し止めるに違いありません。
これでは、御身大事の役人根性とまったくおなじです。

12もの大小政党が乱立する中、「どこも公平」の一点張りでは、そりゃあ日頃からよほど政治に関心を持ってアンテナを張っている人以外は、どこに一票を投じるべきかわかりにくいというのも当然です。
それをわかりやすくするのはマスコミの責務でもあるとマロニエ君は思うのですが、それはせず、投票率が低いとなると、またそこのことを単独にネタとして取り上げて、国民の政治的無関心をただ政治家のせいだけにして由々しきことだとわあわあいうだけです。

なにより驚いたことは、NHKの選挙速報番組が、投票締切の夜8時の5分前、すなわち午後7時55分からはじまりましたが、冒頭いきなりアナウンサーが「まもなく大勢が皆さんにお伝えできます」と前置きして、前座のように当確を出す際の説明のようなことを言いながら時計の針が8時になるのを待ちました。

その状況は、まるで年越しかボジョレーヌーボーの解禁のごとくで、8時を過ぎたとたん「自民党の圧勝です!」「政権交代が実現しました!」と何度も伝えるのは驚きでした。
午後8時で投票の締切・即日開票ということは、そこから票数えが始まるわけでしょうけれども、マスコミ各社(とりわけNHK?)は出口調査を徹底させているらしく、投票結果を独自に掴んで準備していたものをただちに出して見せて「どうだ!」といわんばかりでした。

マロニエ君の子供のころなどは、まさにアナログの時代ですから、即日開票といっても開票状況が1%という段階から刻々と結果が伝えられ、おおよそのことがわかるのがようやくにして深夜、正確なことは翌朝にならなければわからなかったという記憶があります。
それがいまや、8時の投票締切と同時に、投票結果の全容はいっぺんにわかり、あとは具体的な数や人の名前が追っつけ伝えられるにすぎませんから、ありがたいといえばありがたいけれども、なんだか味も素っ気も面白味もないなあという印象でもありました。

現代は、なんでもがこういうテンポで事が進むので、途中のプロセスにあるものがどれもすっとばしになってしまい、とりわけ情緒面が失われたような気がします。選挙結果を知るのに情緒もなにもないだろうと言われそうですが、マロニエ君はやっぱり「ある」と思うのです。
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2台のスタインウェイ

タングルウッド音楽祭の創立75周年記念ガラ・コンサートでは、2人のピアニスト、すなわちピーター・ゼルキンとエマニュエル・アックスが登場しました。

ピーターがベートーヴェンの合唱幻想曲をトリで弾いたのは前回書いた通りでしたが、アックスのほうはハイドンのピアノ協奏曲のニ長調から2、3楽章を演奏しましたが、この両者は、同じ日の同じ会場ながら、オーケストラも違えば、使うピアノもまったくの別物が準備されていました。

アックスのほうはハンブルクのDで、それもおよそアメリカとは思えないような繊細で、純度の高い美しい音を出すピアノで、まずこの点は良い意味でとても意外でした。
というのも、以前のアメリカではハンブルク・スタインウェイでもニューヨーク的な音造りをされたピアノが珍しくなく、アメリカ人の感性の基準にある整音や調律とは、こういう音なのかと驚いたことがありました。

それでも以前のアメリカではハンブルクは稀少で、大抵のステージに置かれるピアノはほぼ間違いなくニューヨーク・スタインウェイだったものですが、近年はどのような理由からかはわかりませんが、ハンブルク製も続々とアメリカ大陸に上陸しているようで、聖地ともいうべきカーネギーホールでも今はハンブルクが弾かれることが少なくないようです。キーシンやポリーニなどはいうに及ばず、最近おこなわれたという辻井伸行さんのカーネギーホール・リサイタルでもステージに置かれているのはハンブルクのようでした。

アメリカ人で意識的積極的にハンブルク製を使うようになった最初のアメリカ人ピアニストは、マロニエ君の印象ではマレイ・ペライアだったように思います。アメリカ人の中にもハンブルクの持つ落ち着きと潤いのあるブリリアンスを好む人達がいるという流れの走りだったと思います。

いっぽう、今回のタングルウッド音楽祭でもピーター・ゼルキンはニューヨークを使っていました。
それも最近数が増えてきた艶出し塗装のニューヨークです。私見ですが、ニューヨーク・スタインウェイってどうしようもないほど艶出し塗装が似合わないピアノで、無理に気に沿わない礼服を着せられている気の毒な人みたいな印象があります。
ただし、見ていてああニューヨークだなと思われるのは、その塗装の質があまりよろしくないという点でしょうか。とくにピアニストの手をアップすべくカメラが寄ると、最近のカメラ映像と液晶テレビの相乗作用で鍵盤蓋の塗装の質まで手に取るようにわかるのですが、あきらかに塗装の質がハンブルクに較べて劣っているのがわかります。

逆に、ニューヨークの面目躍如とでもいうべきは低音のさざ波のような豊かさで、これは現在のハンブルクが失ったものがこちらにはまだ残っているような気がします。ただし欠点も欠点のまま残っていて、たとえば次高音あたりになると音のムラが激しくなり、音によってはほとんど鳴りと呼べないような状態のものまで混ざっていて、このあたりが格別の素晴らしさがあるにもかかわらず、ニューヨーク・スタインウェイの全体としての評価の下げてしまっている部分のように思われます。

おや?と思ったのは、真上からのアングルのシーンが何度が映し出されましたが、どうやらこのピアノはスタインウェイ社のコンサート部の貸し出し用のピアノと思われ、フレーム前縁のモデル名とシリアルナンバーが記されている三角形部分には、通常の6桁のシリアルナンバーはなく、代わりに「D」の文字に寄ったところに3桁の数字が記されていました。
想像ですが、コンサート部の貸し出しの年季が晴れて、外部に売却されるときに通常のシリアルナンバーへと書き直されるのではないかと思いましたが…これはあくまでも想像です。

それはともかく、アメリカのコンサートではなにかというと飽きもせずアックスやP・ゼルキンがいまだに出てくるようですが、もっと違った輝く才能もどしどし登場させて欲しいものです。
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ピーター・ゼルキン

先日のBSプレミアムでは、タングルウッド音楽祭の創立75周年記念ガラ・コンサートの様子が放映されました。
出演者もさまざまで、ボストン交響楽団、タングルウッド音楽センター・オーケストラ、エマニュエル・アックス、ヨーヨー・マ、アンネ・ゾフィー・ムター、ピーター・ゼルキン、デーヴィッド・ジンマン、その他のスター達が入れ替わり立ち替わり演奏を披露しましたが、トリを務めたのはなんとマロニエ君にとってある意味鬼門でもあるピーター・ゼルキンをソリストとしたベートーヴェンの合唱幻想曲でした。

「やはり」というべきか、出だしから、マロニエ君にはまったく理解不能なピーターの演奏が始まり、私はこの人のピアノは何度聴いても、ご当人がどういう演奏をしたいのかまったくわかりません。ただ単に自分の好みではないということに留まらず、むしろ疑問と抵抗感ばかりが増してくるのが自分でも抑えられません。

テンポが遅いだけならまだしものこと、音楽であるにもかかわらずマロニエ君の耳にはリズムも語りもまるで恣意的な、一口でいうとめちゃめちゃなものとしか捉えられないのです。
指も何か病気なのではと思うほど動かないし、あちこちに?!?という意味不明なヘンな間があったり、聴いているこちらはまったく波長がズレてしまうばかりです。そればかりか、あきらかに鳴らない音なども頻発したりと、これではピアニストとしての基本さえ疑います。
それに、なにかというと打鍵した指を弦楽器奏者のヴィブラートのようにプルプル震わせる、あの仕草も神経に障ります。これをやるのは日本人有名女性ピアニストにもいらっしゃって見ていて鳥肌が立ちます。

さらにこのピーター・ゼルキンで驚くのは、彼を表現者として絶賛するファンがとても多いことで、彼の欠点には目もくれず、彼こそ真の芸術家というような調子の褒め言葉を濫発させるのには、いつもながら驚いてしまいます。
彼の価値がわからないということは、音楽そのものの真価がわからないとでも言いたげな論調で、まったく呆れるばかり。
まるでピアノは勝手にワガママにのろのろと下手に思いつきのようフラフラに弾いた方が、よほど芸術家扱いされるかのごとくです。

実はマロニエ君には苦い思い出があって、そこそこ親しくしていた関東在住のあるピアニストと雑談をしているときに、たまたまピーター・ゼルキンの話が出たのですが、私はあまり好きではないというような意味のことを言ったら、みるみるその人の態度が変わり、それ以降のお付き合いにまで距離ができてしまったことを思い出してしまいます。

しかし、今回もあらためて大編成の合唱幻想曲を聴いてみて、前半のピアノソロの部分なども、その遅いテンポをはじめとしてまったく彼個人の自己満足としか思えず、聴衆の顔にも明らかに退屈と困惑の表情が見て取れましたし、名門ボストン響のメンバー達もテンションが下がりまくりで、ともかくこのコンサートの最後だから無事に終わらせようとしているようにしか見受けられませんでした。
後半の歌手達の出だしなども、ピーターの勝手なテンポとフラフラのリズムのせいで、おっかなびっくりで歌っているのが明らかです。

それでも素晴らしい人にとっては素晴らしいのかもしれませんし、そこは主観なのでもちろんご自由ですが、マロニエ君の耳目には、ひどく鈍感で空気の読めない、偉大な父と自分の個性表出に汲々としてきただけの、歪んだエゴイストにしか見えませんでした。
フルオーケストラと6人の歌手、それをとりまく合唱団は、たったひとりのこのワガママ老人のようなピアニストのせいで、本来の実力とは程遠い演奏を余儀なくされたという印象を拭うことはできませんでした。
指揮者のジンマンにしたところで、彼の鮮烈デビューはキレの良い、まるでモーツァルトのようなシャキシャキとしたベートーヴェンだったものですが、当然ながら別人のような、まるでピアニストを指揮者という立場から介護でもしているような棒でした。

これだけ大勢の音楽が出揃っていながら、演奏には覇気がなく、とくにピアノパートではこんな肯定的な有名曲にもかかわらず、ふと何を聴いているのかさえわからないような箇所があちこちにありました。
むかし、交通標語に『荷崩れ一台、迷惑千台。』というのがありましたが、この合唱幻想曲はまったくそんな印象でした。
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安物買いの銭失い

『安物買いの銭失い』という有名な言葉がありますね。
念のため、ネットで意味を調べてみると「安いものを買って得したように思えても、品が悪く何度も買いかえることになり、結局損をしてしまうこと。」とあり、まさに今の自分のことでした。

ここ数年のことでしょうか、電気ケトルというものがしだいに浸透してきて、我が家でもずいぶん前からこれを使うようになりました。

説明するまでもなく、読んで字のごとし、電気でお湯を沸かす要は「電気やかん」です。
これがいいのは、笛吹ケトルなどと違って、お湯が沸騰すると自動的にスイッチが切れるし、安全清潔で取り回しがいいし、プラスチック製なので火傷の心配も低いなど、とても便利で、もはやこれ無しでは困るところまで我が家の生活に馴染んでいました。

しかし電気ケトルには欠点もあって、水と熱にかかわる電気製品だからかどうかはしりませんが、ティファールなどの有名メーカーの製品であっても、だいたい数年でスイッチが怪しげな感じになり、最後はほぼ間違いなくダメになって買い換えを余儀なくされます。

まあそのときは新しいものを買えばいいじゃないかといえばそれまでなんですが、我が家で使っているものは容量が1.7Lという電気ケトルの中では大型に属するサイズで、そこそこの値段がする上に、買おうにもこれが少々のことでは見つかりません。
どこでも売っているのはほぼ間違いなく0.8〜1Lぐらいの小さなサイズだけで、これではコーヒーを1〜2杯ならいいでしょうが、それ以外は、何度も立て続けに沸かさなくてはなりません。

はじめはコストコホールセールで購入し、次は人に頼んでアウトレットモールでいずれもティファールを買ってきてもらいましたが、その2号機も先日オダブツになりました。だいたい3年ぐらいが寿命みたいな印象です。

で、ネットを見ていると、やはりこちらでも大型は商品数が圧倒的に制限されてしまい、数が少ないからなのか価格も決して安いとはいえません。そんな中にほんのわずかですが激安品を発見!
どうも中国製のようですが、「急速沸騰」と書かれ、値段は他社の5分の1ぐらいだし、有名メーカーの製品でも生産拠点はだいたい中国だったりするので、要するにお湯が沸けばいいわけだし…というように安易に考えてしまい、ついこれを買ってみることにしました。
安いことは甚だ結構でも、送料と代引き手数料のほうが製品代を上回るなど、出だしからなんだかひっかかるものがありましたが、まあともかく開けて使ってみることに。
驚いたのは箱や入れ方があまりにも簡素なことに加えて、説明書の紙切れ一枚さえ入っていないことでした。

フタを開くと、底のほうには銀色をした熱線らしきものがくねくねと無秩序に曲がりくねっており、これが熱を発してお湯を沸かすという構造であることは容易にわかりました。
軽く洗ってさっそくコンセントを差し込んで、いかにも頼りなさげなスイッチを入れましたが、果たしてなかなか反応がありません。ティファールではほどなくグツグツいいはじめて、いかにもお湯沸かしの仕事を始めましたよという印象でしたが、まずこの段階で異常に時間がかかり、はじめはよほど「静かな設計」なのかと思いましたが、そうでもないらしく、かなり経ってからようやくそれらしい音がしはじめました。

さらに沸騰するまでもだいぶ長くお待たせ時間が続き、およそ「急速沸騰」とは程遠い印象。この時点でやっぱり安物という気配が濃厚になりました。ずいぶん経ってやっと沸騰へと辿り着きましたが、こんどはスイッチが切れません。いつまでも中のお湯はグラグラと踊り狂っている状態で、ここは手動なのかと思ったら、忘れた頃にいちおう自分でポチッと頼りなく止まることは止まることがわかり、要はメチャメチャ性能が悪いという以外に解釈のしようがありません。

これではスイッチONのトータル時間がものすごく長く、いくら本体は安くても電気代ばかり喰うのは目に見えています。しかもデザインがお洒落なわけでもないし、中の熱線を見たら安全性だって疑わしいし、まったく良いこと無しです。で、いまさらこんなことを言うのもなんですが、名も知れぬ中国メーカーの製品ともなれば、素材にどんなものが使われているかも知れたものじゃない気もしてきて、下手をすれば身体に害のあるものをこんなちんけな製品を使ったばかりに毎日体内に流し込む可能性もあると思うと、いっぺんで使う気が失せました。

というわけで、お金を使って次回の燃えないゴミの日に捨てる物をひとつ増やしただけという、まことに愚かな顛末でした。
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グリモーの4番

先日、グリモーのモーツァルトがマロニエ君の好みでなかったことを書いたばかりでしたが、ふとしたことから彼女が1999年にニューヨークでライブ録音したベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番を聴いたところ、こちらは手の平を返したような名演で、まさに感銘を受けました。
指揮はクルト・マズア、ニューヨークフィルとの共演です。

もともとグリモーは、若い頃からフランスの女性というイメージに敢えて反抗するように、フランス音楽やショパンに背を向けてロシア音楽を好み、ドイツ音楽に傾倒しているなかなかの重厚な趣向の持ち主で、その見た目と彼女の内面はずいぶん違うピアニストと云っていいと思います。

したがってベートーヴェンの協奏曲(中でもあの4番!)を通りいっぺんの演奏をする凡庸な人とは思っていませんでしたが、それは遙かに想像を超えるものでした。少なくともマロニエ君は、これほどまでに活気と情熱に溢れ、しかもそのことがまったくこの傑作の品位をおとしめていない、表情豊かな自発性に満ちた4番の演奏を聴いたことがありませんでした。
普通なら、いわゆるベートーヴェンらしい3番と豪壮華麗な5番「皇帝」に挟まれた、この貴婦人のような4番に対して自分の考えを強く演奏に反映させて個性的に弾くピアニストはなかなか見あたりません。それは作品そのものが全編を通じてデリカシーと気品を絶え間なく要求してくるし、自分を表出させる隙がない難しい曲ということもあるでしょう。さらにはこのような至高の傑作を自分の演奏でよもや傷つけてはいけないという慎重さが働いて、大半のピアニストはほとんど用心の上にも用心を重ねながら安全運転で弾いているようにしか聞こえません。

あえて名前は書きませんが、ある日本の有名な女性ピアニストは3番&4番という二曲を収めたアルバムを以前にリリースしていますが、それは優等生の手本のような型通りの、何事にも一切逆らわず、ひと言でも自分の考えを言わない、テストなら満点の取れそうな演奏で、こんな運転免許の実技試験みたいな演奏が出来るということに逆に驚くほどでしたが、それほど4番はそういう傾向の平凡な演奏をされることの多いことがこの作品の悲しい運命のような気がしていました。

ところが4番に聴くグリモーはそんな畏れなどまるで無関係といわんばかりの体当たり勝負で、自分のパッションに正直に曲を重ねて活き活きと語り進んでいきます。同時にそれが普遍的な美しさと魅力を湛えているのですから、これは見事というか天晴れだと思わずにはいられません。

グリモーは、技巧的には現代のピアニストの中では取り立てて自慢できるようなものをもっているわけでもなく、むしろその点ではやや弱さを抱えている部類とも思いますが、にもかかわらず、自身の音楽的趣向と感性に従って重厚な曲に敢えて挑戦を続けている姿勢は10代の時分から変わっていないようです。

マロニエ君の感じるグリモーの魅力を云うならば、力量以上の大曲に挑む故か、常にハイテンションな全力投球の演奏から聴かれる熱気と、作品に対する畏敬の念がもたらす手応えの強さだと感じます。そのためにグリモーの演奏には作品の偉大さを常に感じさせ、全力投球の演奏行為が醸し出す重量感が溢れ出し、余裕のテクニシャンには却って望み得ないような緊迫した演奏が聴かれるところではないかと思います。

この4番の他には、なんと後期のソナタのop.109とop.110が入っており、これもまたなかなかの瑞々しさの中に奥行きのある演奏で、なかなか立派なものでした。
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塩鮭のゲット方法

行きつけのスーパーはいくつかあるものの、マロニエ君が行く時間帯は主に夜が多く、たまに時間や出先の都合などで昼間に行くことがあります。
同じスーパーでも、昼と夜とで大違いなのは生鮮品で、とりわけ鮮魚売り場などは昼間だと全く別の店のようなすごい活気があるのに驚かされます。

甚だ所帯じみた話題で恐縮ですが、あるスーパーの塩鮭はとても品物が良く、美味しいのでマロニエ君のお気に入りで、行けば必ず買ってくるようにしています。
昨日、たまたま昼間ここへ行けたので、塩鮭を買うべく売り場に行くと、あるある、美味しそうな甘塩の切り身が山のように盛られており、手前には厚手のビニール袋が備え付けてあります。
それへ専用のトングを使って各自必要量を袋に入れてレジで精算するという、ごくごくありふれたシステムです。

すぐ脇には、同じものがパック詰めされたものもありますが、自分で一切れずつ選んだほうがより好みの部位をチョイスできるという利点もあり、マロニエ君としては、あまり鮭のお腹に近い方の脂の強いところは避けたいので、いつも自分で選んで買うことにしています。

この日、その売り場に行ったときには誰もいませんでしたから、ビニール袋を片手にあれこれと選んでいると、ほどなく一人の女性がやってきてしばらくじっとこちらの様子を見ていましたが、ある瞬間から決断がついたのか、自分もとばかりに袋を取って切り身をあれこれと漁り始めました。

すると、さらにべつ方向からもうひとりおばさんが現れて、マロニエ君の横にぴったりくっつくようにしながらこの光景を凝視していますが、まだ詰め込み作業が済んでいないこちらの身体の前に腕をよじるように、強引に手を伸ばしてきて、ビニール袋をもぎ取るように一枚取りました。
内心「すぐ済むからちょっと待ってよ…」と思いましたが、それができないようです。

さっそくにも自分も手を出したかったのでしょうが、二つあるこの売り場専用のトングはいずれも「使用中」のため、そのおばさんは袋の中に手を突っ込んで切り身を掴んで、さっと袋を裏返すことでゲットしています。
と、そんなことをしているうちに、さらにもう一人!おばさんが横から現れましたが、この人はほとんど人を押しのけるようにしてなにがなんでもビニール袋をむしり取り、な、なんと素手!で塩鮭を鷲づかみにして二三切れ袋に放り込みました。

こうなふうに文章で説明すると、マロニエ君がよほどぐずぐずしていたように取られるかもしれませんが、決してそんなことはなく、できるだけサッサとやっていたつもりですが、なにしろこのたぐいのパワーは凄まじいものがあって、いったん始まってしまうと、あっという間のことでとても敵いません。
もともと誰も見向きもしていない売り場だったのに、誰かが袋に詰めしたりしていると、たちまち人が寄ってくるという一種の人の心理も働いているようにも思います。

それにしても、マロニエ君もスーパーではいろんなものを目撃していますけれども、生臭いむき出しの塩鮭の切り身をまさか素手で掴むおばさんというのは初めてお目に掛かりました。悪いとは思いましたが、あんまりびっくりしたのでその売り場を離れる際、思わず顔を見てしまいましたが、ごく普通の身なりで、頭にはきれいな帽子まで被っていて、とてもそんなワイルドなことをしそうな御方には見えませんでした。
あのあと、生の塩鮭を掴んだ右手はどうしたのかと、ずっと考えてしまいました。

なんにしても現代はまぎれもない競争社会。
たかだか塩鮭の切り身ひとつ買うにも、時として「戦い」の様相を帯びるのだということであります。
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中華アンプの魅力

またもチープなオーディオの話で恐縮ですが、みなさんはデジタルアンプというものをご存じでしょうか?
それも日本のメーカーが出しているような高級品のそれではなく、いまマロニエ君が熱中している安い中国製のデジタルアンプです。

手の平にのるほど小さく、価格も数千円から高いものでもせいぜい一万円台ぐらいですが、これが信じられない高性能で、マロニエ君も初めは半信半疑だったのですが、ひとつ買ってみて初めに音を出したときの驚きといったら目からウロコでしたね。

これまでの大きくて重いアンプは何だったのかと思うような、小さなボディから逞しくも美しいクリアな音がびゅんびゅん惜しげもなく出てくる中国製デジタルアンプはまさに衝撃で、これもまた従来のオーディオの常識を根底から覆すようなものだと思います。
もちろん、凝りに凝った真空管アンプに拘る人とか、超高級品の世界を彷徨うようなディープなマニアは別としても、ごく普通に、良い音楽を、良い音で聴きたいと考えている大半の人には、ほぼ間違いなく納得できるもので、その高性能ぶりには従来の常識を覆すような驚きと満足を覚えることだろうと思います。

サイズはタバコの箱よりはいくぶん大きく、文庫本を3冊重ねたものよりも小さいぐらいといえばおわかりでしょう。重量は軽く、ボリュームのつまみを回すたびに本体が動いてしまうほどです。
そかもデジタルときているので、何時間聴いても本体はまったく熱くならず、いつ触ってもヒヤリとしているのは却って不気味なくらいです。

ネットの情報によると、ブラインドテストという、使用する機器を隠して音だけを聴くテストで、この手の小さな中国製アンプは100万円もするような高級機種をアッサリ打ち負かしたという話までありますが、その真偽のほどはともかく、それぐらいすぐれたものであるというのは確かなようです。

普通の電気店などではまず扱っていませんが、ネットなら簡単に手に入れることが可能で、主に5000円前後のものが主流になっているようです。
マロニエ君はすっかりこの中華アンプにハマッてしまい、すでに恥ずかしいぐらいの数台を購入するに至っていますが、中には期待はずれな商品もあり、メーカーによってある程度の差があるようでもあるし、一台はちょっとした不具合があって交換してもらうなど、日本の製品のような信頼性と均質感はありませんが、なにしろ信じられない低価格ですから、じゅうぶん楽しめる素晴らしい商品だと思います。

このところの日中はずいぶんと険悪な空気になってしまって、先日交代した最高指導者はこれまで以上に対日強硬主義者だそうで、すでに様々な報復措置もはじまっているようですから、こんな小さな商品でも、その流通過程においてどんな不自由や障害が起こるとも限らず、もうひとつぐらい予備に買っておこうかという気にもなってまた買ってしまいましたが、まあ中国側にしても商売はしなくちゃいけないでしょうから、国交断絶などにならない限りは手にはいると思います。

ちなみに中の主要パーツはちゃっかり日本製が数多く使われているようですし、日本人が監修しているものも多いらしいので、精度もそれなりで性能もほぼ安定しているようで、目下のところは良いことづくめのようです。
一部屋に一台ずつ置いているような人もいらっしゃるようですが、このべらぼうなコストパフォーマンスを考えるとそんなことをするのも納得です。
みなさんもおひとついかがでしょう?
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らららの辻井さん

先々週でしたか、NHK日曜夜の音楽番組『らららクラシック』に辻井伸行さんがメインで出演されました。
辻井さんの映像や演奏は、クライバーンコンクールでの優勝以降、折あるごとに接する機会が増えたことは多くの方々も同様のことだろうと思います。それも僅か3年あまりのことですが、もともとお若いせいもあるのか、見るたびに少しずつ感じが変わってくるところがあるように思います。

食べることが大好きというご本人の言葉にもありましたが、一時はかなり恰幅も良くなって「おや、大丈夫?」と思ったときもありましたが、先日見たところではそれほどでもなくなり、逆にどことなく少し大人っぽさみたいなものが加わったような気がしました。

さらに変化を感じたのは、その演奏でした。
辻井さんは今どき稀少な超売れっ子のコンサートピアニストのようですから、年間のステージの回数だけでも相当の数にのぼるものと思いますが、そういう場数や経験からくるものなのか、あるいはもっと奥深い辻井さん自身の内面から湧き出るものなのか、それはわかりませんけれども、以前に較べるとよりブリリアントでピアニスティックな演奏になっているように感じられて少々驚かされました。

それは番組のはじめに、スタジオで弾かれたショパンの革命にも端的にあらわれていたように思います。その後、番組が進行するにしたがって以前の映像などもいろいろ紹介されましたが、そこにあるのはたしかに以前の辻井さんらしい清楚であっさりした演奏でしたから、やはりなにか変化が起きているとマロニエ君は思いました。

もし今後、辻井さんがより華やかで力強いピアニスティックな方向の演奏にシフトしていかれるとしたら、きっと賛否が分かれるところかもしれません。昨年のN響とのチャイコフスキーなどはまだ以前の辻井さんという印象ですが、スタジオでの革命やラ・カンパネラ、あるいは最近のコンサートでの自作の映画音楽『神様のカルテ』などでは、ちょっと新しい辻井伸行を聴いた気がしました。

いっぽう、スタジオでの司会者とのやりとりなどを聞いていても、辻井さんの話にはとてもなつかしいような率直さがあり、これは今では逆に新鮮というか、ときにはちょっとハラハラするような発言が多いのもこの方の個性であるし魅力なのかもしれません。

すでに世界の著名な指揮者など一流の音楽家達との共演も重ねておられるわけで、当然といえば当然なのかもしれませんが、どんなに世界的な人物や先輩の名前などが出てきても、その都度、テレビ放送という場に於いても臆せず「ぜひ共演してみたいですね」とか、ご自身が作曲されることにも絡んで偉大な作曲家の話が出る度に「僕もそういうふうに…」という、現代人の標準的感性からすれば、かなり思い切りのいいフレーズが、自然な笑顔とともにサラリと出てくるのはドキッとしてしまいます。

これは辻井さんの純粋な心のありようと飾らない真っ正直な人柄はもちろん、彼がいかに心温かな人達に囲まれた豊かで恵まれた毎日を過ごしておられるかという事実を端的に裏付けているようで、どことなく羨ましいような気さえしてきます。
それに例によって、折り目角目のある美しい日本語を自然に話されることも、マロニエ君の耳には彼のピアノ同様、奇を衒わずまともであるということに、まず新鮮な心地よさを感じるところです。

一般的には、相当の天分や実力を持ってしても、そうそう無邪気な発言を自然にしてしまうと、俗人は無防備と考えるほうが先行して、とても恐くてできないことでしょう。
現代人は何かと計算高く、用心深くなりすぎて、まず大半のことでは本音を漏らさないクセが身に付き、それはほとんど常態化していますから、それだけでも率直に振る舞うことのできる辻井さんが眩しく感じられるのかもしれません。
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魔性の音造り2

どんな世界でも共通することだろうと思いますが、基本を正しく理解して、そこそこ間違っていない事をやってさえいれば、ある程度のレベル達成までは比較的順調にいくものです。さらにそこに磨きをかけて洗練を目指すことも、手が慣れてくれば、おおよその要領もわかって、これもできないことじゃない。

ところが…。
さらにその上のあと一歩か二歩をよじ登ろうとすると、これがどうにも手に負えない鉄壁であることを思い知らされ、まずだいたいはそのあたりで挫折を味わうようになるというのが常道的な図式ではないでしょうか。
つまりその最後のたかだか一歩か二歩に到達することは、実はこれまでの全行程よりも困難だということでもあるようです。ハイエンドクラスの高級品が法外なようなプライスを堂々とぶら下げることができるのも、つまりはこの最後の鉄壁を凌駕している事への勲章みたいなものでしょうね。

このスピーカー作りで学んだことのひとつもまさにそこで、普通で云うなら、自分で云うのも憚られますけれども、なにしろ第1作にしてはそこそこのものは出来ていると思います。
試しに、ある夜、我が家にやってきた友人に聴かせたらこっちが意外なほど感激してくれて、空間を満たす音楽の奔流にただただ圧倒されているようでした。

黙って聴いて、いきなり変な質問をされました。
「もうひとつ同じものを作れといわれたら作れるか?」と。作り方も材料も全部わかっているので「そりゃあもちろんできるよ」というと、あまり音楽に関心のない彼が、「ぜひ自分にも作って欲しい」と嬉しい事を云ってくれました。

彼はマロニエ君が夏頃からスピーカー作りに尋常ならざる意気込みで入れ込んでいるのをそれとなく知っていましたし、性格的にもやる以上はそこそこ物事を追求するタイプなので、それなりのものは出来ているだろうぐらいには思っていたようでした。
ただ、それでもしょせんは素人の手作りなので、要は「手作りケーキの域」は出ないだろうと思っていたらしいのですが、彼の耳に聞こえてきたものは予想を覆すものだったようで、本当に驚いてくれて、こっちがびっくりでした(マロニエ君自身は手作りケーキの域だと自認していますが)。
おまけに自分にも作って欲しいとまで云ってくれたのはまったく望外のことでした。

したがって、そういうふうに感激してもらえたことは嬉しいことですが、それはそれ。マロニエ君としてはまだ自分が納得していないので「よしわかった」と友人のためにもう一台作るわけにもいきません。

そうはいっても、もはやマロニエ君のシロウト作業では限界に近づいているというのもわかっていますが、あとやってみたいことはいくつか残っていますので、やはりそれをこれから先、やってみないことには終止符は打てないようです。

毎夜、部屋の中央に佇むスピーカーを見たらいじりたくなるけれど、同時にもう触るのもこりごりという気分になるときがあるのも事実で、もはや自分がどうしたいのか自分でわからないときもあるのが事実。
気が付いてみると、このスピーカー作りおかげで、このふた月以上というもの、ほとんどピアノも弾いていませんでした。それも当然で、これだけスピーカー作り時間を費やせばピアノなんて弾く時間はまったくないのは当たり前なわけです。

先日、久しぶりにちょっとピアノの前に座って何だったか忘れましたが弾いてみたら、驚くほど指が動かなくなっていることに我ながら愕然としました。
ま、別にそれでどうなったって構やしません。自分が愉快に過ごしていられればそれが一番ですし、このスピーカー作りはマロニエ君にとっては予想に反して、いろんな意味で貴重な体験となり、勉強になったことは紛れもない事実ですから、あれこれお試しの連続でコストも相当かかりましたが、自分にとってムダではなかったと思っています。
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魔性の音造り1

スピーカーの音造りというのは、やってみるまでは、どちらかというと繊細な作業の繰り返しかと思っていましたが、実際には結構な重労働であるのに驚かされました。通常の、いわゆる箱形のスピーカーの場合はしりませんが、少なくとも円筒形スピーカーに於いては、力勝負が続いてどうかすると全身がワナワナしてきます。

こういう作業は、ほんらいマロニエ君の趣味ではないのですが、それでもいったんやり始めると「もう少し」「あと一回だけ」というような、無性に追いつめられたような意地っ張りみたいな気分に駆られて、そこから抜けられなくなるものです。
考えてみるに、「音を作る」という行為には、大げさに言うと一種の魔性があるのかもしれません。
自分の手を下したことが微妙な音の変化としてあらわれてくるのは、これまでに体験したことのないもので、これは不満と満足、挑戦と挫折の織りなす興奮状態でもあり、不思議な魔力みたいなものがつきまといます。その後も性懲りもなく吸音材を足したり引いたり場所を変えたりと、周りからみれば呆れられるような抵抗を続けています。

とはいっても、基本的に素人のマロニエ君にはスピーカーユニットそのものに手を加えて改造するようなことはできませんから、今やっていることは要するに吸音材による音造りのセッティングと云うことになるわけですが、これがもう一度もう一度と繰り返すうちに、この作業をすでに何十回やったのか、もう自分でも遙かわかりません。

ちなみにスピーカーにおける吸音というものは、スピーカーの音や響きを決定付ける重要な項目で、なにもしない裸のスピーカーユニットは好ましくない雑音を多く排出しており、ここからいかに要らない音を取り除いて必要なクリアで美しい音だけを残すかということになるわけですが、この局面こそがスピーカー製作の醍醐味だろうと実感しています。

新たな挑戦のたびに筒からスピーカーの内部構造を引き出しては、吸音材の付け方や、素材、量、位置を変えたり、ときには重りの量の変更、そしてまた元に戻したりと、自分でも何が正しくて何が間違っているのか、まったくわからないわけです。

例えばアルミ管の内側に貼り付ける吸音材だけでも、なにも無しからスタートし、固いスポンジ状の素材、カーペット素材、オーディオでは定番のニードルフェルト、エプトシーラーという素材まで5種類試してみましたし、その量の変化を加えると試行数はさらに増えたことになります。

もちろん自分としてはやみくもにやっているわけではなく、やるからには良かれと思ってふうふう言いながら試しているわけで、そのたびに音や響きに僅かな変化が現れて、一喜一憂を繰り返します。それを聞き分ける耳も鍛えられて次第に精度を増す反面、どこか麻痺してくるようでもあり、さっきは良いと思った音が、30分もするとやはり変じゃないかというような悪循環に陥ります。

アルミ管の内側よりさらにやっかいなのは、仮想グランドという、スピーカーから伸びる1m近いボルトとナットによって構成される部分の吸音です。これも実に様々な素材を試しましたが、これだという決定打は未だありません。巻き付ける吸音材の量の違い、紐で縛るその力加減による違い、紐の材質など、まさに数学で言う順列組み合わせの世界で、まるでキリがないわけです。

ひとつ何かをやってみるには、いちいちアンプからスピーカーコードを外して、重い重量物を引っぱりだして何らかの改造をしたら、また逆の作業をせっせと経てアンプに繋ぎ、今度こそはと音を出してみます。
そしてその違いに耳を澄まし、悲喜こもごもの感想を自分なりに下して、問題点を整理し、次の作業にとりかかります。あまりに疲れるとそのまま数日間放置する、そしてまた手をつけて、もうこんな馬鹿馬鹿しいことはやってられない!やめた!という決心をするのですが、2、3日も経つと「…やっぱり、あそこをちょっと変えてみようか…」という気になってくるわけです。

まさに取り憑かれているわけで、だんだんスピーカーが疫病神のようにも思えてきますが、それでもやめられなくて次の方策を講じているのですから、音作りというものそれ自体がよほどの魅力があるというべきでしょう。あるいは自分の手で「音を作る」ということを初めてやってみて、その苦悩と魅力にすっかり魅せられているのかもしれず、これは大人のハシカみたいなものかもしれません。

ピアノの技術者さん達とはやっていることはまったく違いますけれども、どこか通じるところもあるようで、彼らの悪戦苦闘の苦しみが少しわかるというところでしょうか。

映画『ピアノマニア』でシュテファン氏が取り憑かれたようにエマールの満足する音造りを繰り返し、昼夜を厭わず、孤独に挑戦を続けている気持ちの片鱗みたいなものが、ちょっぴりわかるような気がしました。
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偏見

ネット上にはいろんな質問や相談事を受け付けるところがあり、ピアノのことも結構取り上げられています。随時さまざまな回答者が登場しては思い思いの持論を展開していて、それは読む側も楽しいものです。

面白い質問&回答がたくさんありますが、そのうちのひとつに、スタインウェイの一番小さなグランドとヤマハのSシリーズだったらどちらを目標(購入するための)にすべきかという相談がありました。

この両者、価格はかなり違っていますが、スタインウェイでは最小モデルに対して、片やヤマハのプレミアムシリーズであり、サイズでいうと中型というところで、総合的見地からどっちがいいかというわけでしょう。

多くの回答者からさまざまな書き込みがあり、それを読んでいると面白いことがたくさん書いてあるのですが、そんな中に、この手の回答でよく目にする、いかにも正論のような論調ではあるけれども、ちょっと首を捻りたくなる主張があり、それはほかでもときどき見かけるお説です。

曰く、ピアノで最も大事なことは調整の問題であって、とくに調整如何によってピアノはどうにでも変わるのであるから、従ってブランドに頼ってはいけないという、とりあえず本質を突いたかのような意見です。
管理と調整がいかに大切であるかは、むろんマロニエ君も日頃から痛感していることで、調整の巧拙はいわばピアノの生殺与奪の権を握っているといっても過言ではないと思います。

ところが、この手の質問の回答者の多くに見られる傾向は、スタインウェイではなぜか調整は悪いであろうという予断と偏見があり、そこへ「ヤマハでも丁寧に調整されたものはじゅうぶん素晴らしい」のであって、従って問題はメーカーではない!という論理を展開される片がいらっしゃいます。
さらには「調子のいいヤマハは不調のスタインウェイを凌ぐ」的な発言もみられますが、調整の良否は個々の楽器の状態にすぎず、こういう較べ方はちょっとフェアでない気がします。

不可解なのはどうして同じコンディションでの比較をしないのかということです。
大事な点はそれぞれ理想的に調整されたスタインウェイとヤマハ(機種はともかく)を比較して、果たしてどちらがよいかという話になるべきで、不調のスタインウェイを基準として、だからそれを欲しがるのは名前だけが頼りのブランド指向では?…などと言ってもナンセンスだと思うのです。

調整はどんなピアノでも例外なく必要なものであるのは論を待ちません。
それぞれのメーカーのピアノが最も理想的な調整を受けて、その持てる能力を十全に発揮できている状態で比較したときに、果たしてどちらが弾く人にとって価格を含めた総合的価値があるかという点で冷静な判断をすべきだと思います。

スタインウェイというのは圧倒的なブランド力があるためか、どうかすると必要以上に叩かれるという一面はあるように思います。たしかにマロニエ君も、いつもトップに君臨して、それが当然みたいな在り方というのは人でも物でも嫌いで、ある種の反発さえ覚えますが、それでもその実力がいかなるのものかという点はやはり固定観念や偏見抜きに、真価を正しく理解する必要が大いにあると思います。

偏見を取り払って公正な判断ができたときにようやく見えてくるものこそが個性であり好みでしょう。
それがつまりは自分との相性だと思うのですが。
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グリモーのモーツァルト

購入して一度聴いて、ピンと来るものがないままほったらかしにしてしまうCDというのは、マロニエ君の場合、決して珍しくありません。

エレーヌ・グリモー&バイエルン放送響室内管によるモーツァルトのピアノ協奏曲第19番&23番もそんな一枚でした。一聴して、そこに聞こえてくる世界に、自分の好みというか、なにか体質に合わないものがあると感じてそのままにボツになってしまっていたわけですが、たまに積み上げたCDを整理するときに、こういうCDと思いがけず再会し、せっかく買ったわけでもあるし、もったいないという気分も手伝って再びプレーヤーへ投じてみることになりました。

やはり基本的には、最初の印象と大きく変わるところはありませんが、二度目以降は多少は冷静に聴くことも可能になります。なにが自分の求めるものと違うのかというと、ひとくちに云うなら、モーツァルトには演奏が非常に「硬い」と感じる点だろうと思われます。
彼女のレパートリーにも関連があるのかもしれませんが、これらのモーツァルトの協奏曲を自由に表現するには指の分離がいまいちという印象があり、軽やかであるべき(だと思う)箇所がいかにも硬直したような感じが否めないのは最も残念な点だと思います。

グリモーの魅力は演奏のみならず、プログラミングに込められた独自の主張でもあり、ただレコード会社の命じるままに凡庸なプログラムを弾いていく平凡なピアニストとは異なります。
今回のCDでも2つの協奏曲の間にはコンサートアリアKV505「心配しないで、愛する人よ」が納められており、モイカ・エルトマンが共演しています。この作品は第23番の協奏曲と同時代に作曲されていることも選曲された理由だと思いますが、こういう組み合わせにも彼女の独自性が感じられて、そのあたりはさすがだと思わざるを得ません。
とくにこのコンサートアリアは同時期に仕上がったと思われる「フィガロの結婚」の要素が随所に見られて、この時期のモーツァルトの筆も乗りに乗っていることを感じさせる魅力的な作品ですし、ソプラノ、オーケストラ、ピアノという編成も珍しいと思います。

この曲を聴くだけでもこのCDを買った意義はあったな…と思いましたが、両協奏曲に聴くグリモーのピアノは冒頭に書いた硬さのほかに、どこかに息苦しさのようなものを抱えていて、マロニエ君としてはもう少し楽々としなやかに翼を広げるような自由とデリカシーの両立したモーツァルトを好みます。
ひとつにはグリーモーのタッチの重さと、さらには音色のコントロールがあまり得意ではないということで、いかにも固い指を必死に動かしているという印象が拭えません。
その必死さと音色の重さ(彼女はキーの深いところで音を出すピアニストのようです)がモーツァルトとは相容れないものとなり、聴いていて解放される喜びが味わえないのだと思いました。

しばしば見られるロマン派のような表情やルバートにもやや抵抗があり、とくに第23番の第二楽章などはこんなに重々しく弾くとは驚きでしたが、救いは第三楽章でみせた快速が、かろうじてそれをぎりぎりのところで洗い流してくれるようでした。

ある方の書き込みによると、レコード芸術によればグリモーはホロヴィッツとジュリーニが協演した23番を聴いて感銘を受けて、自分もブゾーニ作曲のカデンツァを弾いて録音したそうです。ところが協演のアバドがこれに難色を示して直前になってモーツァルトのカデンツァを練習して別に録音をしたとか。しかしグリモーは「どのカデンツァを選ぶかはソリストに権限があるはずだ」と譲らずに、結局アバドとの録音はお蔵入りとなったとか。
マロニエ君もグリモーの主張には全面的に賛成で、アバドともあろうマエストロがくだらない事をいうもんだと思いましたし、それに怯まないグリモーの見識と主張には脱帽です。
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ねこ

猫の里親になろうかと見学まで行ったことは書きましたが、その後、いろいろと思案した挙げ句に、とうとう一匹の猫を引き取ることになり、今月の中頃に現在の施設の責任者の方に連れられて我が家にやってきました。

背中には茶色のキジ模様、胸からお腹にかけては雪のような真っ白という、すでに9ヶ月になる雄猫で、可愛い上になかなか姿の良いイケメン君でした。
我が家の家族は、犬との生活についてはそれなりに熟知しているつもりでしたが、猫はほとんど初体験に近いので、事前には言われるままフードやトイレ、遊びのためのタワーなどをあれこれと買い揃え、ベッドは猫は段ボールが好きだということでマロニエ君が奮闘してそれらしいものを2つ(2部屋ぶん)作りました。
このところのスピーカー作りで、多少は工作にも手先が慣れてきていたこともあり、自分で言うのもなんですが、スイスイと作業は進み、アーチ型の出入口や窓をつけたりと、なかなかの寝所が出来上がりました。

決められた日の午後、小さなバッグに入れられてやってきた猫は、やおら室内に出されて初めて見る我が家を緊張気味に歩き回りますが、ただ可愛いだけでなく独特な妖しさや、ネコ科独特のしなやかな美しさがあることもわかり、今日からの生活が楽しくなりそうでした。

やはり家の中に生き物が増えるというのは、なんとなく空気が明るく活き活きとしてくるようで。思い切って里親になったことを心から喜びました。

ところが夜寝る時間になると、状況は一変します。
就寝時間にはマロニエ君の自室に連れて行くわけで、もちろんこそにもトイレもベッドも揃えているのですが、この時間帯のせいか場所のせいかはわかりませんが、ニャーニャーと絶え間なく鳴き始めて、その鳴きのエネルギーには大いに弱りました。
このブログも夜中に書くことが多いのですが、なかなかこれまでのような動きが取れず、もっぱら猫の御機嫌取りに多くの時間を費やしました。とりわけ初日は猫にとっても環境が激変したわけでおとなしくできないのも仕方がないと思い、徹底的に遊んでやりました。

その後も日中の生活は日を追う毎に慣れてきてくれましたし、大半がベッドや椅子の上などで寝て過ごしていましたが、夜になると俄然目は輝きを増し、絶え間なくニャーニャーと鳴き出すというパターンになり、さらにはあれこれと思いもよらぬ悪さをするようにまでなり、次第に片時も目を離せないという状況に追い込まれていきました。

マロニエ君もともと自分が夜行性であることを自負していましたが、猫のそれは次元の違うスーパー夜行性で、とてもかないませんし、まるでこちらに挑戦するかのように激しく荒々しく叫き散らします。
またマロニエ君の部屋にはCDなど多くのものが積み上がっていますが、どんなところへも軽くジャンプして好きなようにしなくては気が済まないらしいということもわかりました。

動物のすることなので大概のことならガマンするのですが、中にはどうしてもそれだけは困るというものもあるわけですが、そんなことは一切お構いなし。鳴き声にもときどきやけくそ気味の叫ぶようなトーンが混ざってきたりで、その騒ぎかたときたら、とても自分の時間を持つとか、果ては就寝するというようなことがほとんどできない次元にまで達しました。

それでも数日すれば慣れてくるはずという一縷の望みをもって頑張りましたが、猫の夜中の荒々しさは日増しに酷くなるばかりで、それが4時間でも6時間でも延々と続くのですから参りました。こんなことを続けていたらこっちがおかしくなるという危惧も、この頃には頭をよぎるようになりました。
まさにそんなタイミングで、施設の方から様子を尋ねるメールが届いていましたので、まったく情けない気もしましたがとりあえず現在の窮状を包み隠さず伝えました。

話が前後しますが、この施設の責任者の女性の方というのが非常に立派な素晴らしい方で、猫を連れてこられたときから感じていたのですが、その方が翌日の朝一番に電話をくださり、それではこちらの生活が心配だからと大いに心配され、話し合いの結果、甚だ不本意ではありましたが結局その猫はお返しすることになりました。
マロニエ君も自分の不甲斐なさを恥じましたが、そのための「お試し期間」なんだからと頼もしく言っていただき、距離を厭わず、すみやかに迎えに来てくださり、お昼過ぎには来宅されました。てきぱきと快く対応され、その猫はまたバッグに入れられて我が家を去っていきました。
車でしたので、フードやタワー、ベッドなどはそっくり猫にプレゼントしました。

わずか4泊5日の生活でしたけれども、夜中以外は非常によくなついてくれていたし、本当に可愛く思っていたので、彼がいなくなった家の中はまるで気が抜けたようで、しばらくはあふれ出る涙をどうにも押さえることができませんでした。
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演奏も演技化

近ごろの演奏を聴いていてしばしば感じること。
それは、技術的にはとても上手いのに要するに演奏の根本であるところの音楽的魅力がなく、つまらないと感じてしまうことは多くの人が経験しておられることと思います。

理由はマロニエ君なりにいくつか考えましたが、ひとつは台本通りに仕組まれ、その通りに進行する演奏であるということではないかと思います。音数の少ない静かな箇所は極力それを強調し、技術的に難しいところは敢えて通常のテンポ以上のスピードで走って見せて高度なメカニックを披露し、さらには楽譜に忠実であることで決して独善的ではない、アカデミックな解釈と勉強もぬかりはなく、トレンドにも長けている。

さらには曲の要所要所では聴衆が期待するであろう通りにテンションを上げ、終盤ではいかにも感動を誘うような音の洪水となってどうだとばかりに締めくくります。
でも、人の感性は敏感です。
仕組まれたものと自然発生したものの違いは、演奏家達が思っている以上に聴いている方というのはわかるのであって、むしろそれに疎いのは演奏者のほうだと思います。
演奏者が真から作品のメッセージを汲み取り、さまざまな経路を辿ることで必然的な表現となり、納得の終わりを迎えているかどうかということは、かなり見透かされていると思うべきでしょう。

政治家でも芸能人でもそうでしょうが、100%ということはないにしても、あるていど心からそう思い信じてしゃべっていることと、台本通りに建前をしゃべっているのとでは、どんなに意志的に抑揚をつけても超えがたい一線というか違いがあります。
超一流の役者ならいざしらず、普通はどんなにそれっぽく演技をしても、やはり本人が本当にそう思っていないものは表に出てしまうし、ましてや役者でなく、音楽や美術のようなその人の内奥からの表現そのものが芸術として成立する世界は、存在理由そのものにもかかわる重大問題です。

絵の世界でも、ここ最近は、誰からも文句の出ない、わっと人が喜びそうな要素を熟知した上で制作に取りかかる作家というものが少なくありません。見ればなるほど良くできているし、たしかに一見きれいですが、見る人の心に何かが残るような真実はそこにはありません。

そういう意味ではマロニエ君は最近、古い演奏も良く聴くようになりました。
だからといって声を大にして云っておきたいことは、マロニエ君ばべつに新しい演奏の否定論者ではなく、懐古趣味でもありません。現代の演奏は上手いし洗練されていて録音はいいし、その点では昔の演奏は朴訥でどうかすると聞くに堪えないものがあるのも事実です。

それでも、昔の演奏の中に見出す素晴らしさは、とにかく自分がこうだと思ったこと、感じたこと、つまり自分の感性に対して正直だということではないかと思いますし、それが出来た時代だったというべきかもしれません。つねにレコードやチケットの売り上げやライバルの動向、評論家ウケを念頭において、無傷で度胸のない演奏をするのではなく、新しい解釈の基軸などにあくせくすることなく、素直に大らかに演奏しているその個性的な演奏に心を打たれることが少なくありません。
聴衆も演奏家を信じていましたし、それに演奏家も応えていた幸福な時代でした。

音楽を聴くときぐらい、演奏家の真意を信じたいものです。
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