大事なこと?

くだらないといわれそうなこと。

マロニエ君がスマホをもつようになったのは昨年12月の初旬のことでした。
その手続きに際しては、プランがどうの、この説明、あの説明、ここにもあそこにもサイン、在庫確認だ、なんだかんだでソフトバンクのショップ滞在時間は、実に2時間オーバーというヘビー級のものでした。
もうクタクタで、店を出た時は、めまいがしそうでした。

その一連の手続きの中に、画面に保護のためのシールというのがセットでついているとかなんとかで、よくわからないまま貼ってもらいましたが、その保護シートがいつごろだったか、はじめは汚れかと思ったら上のほうに小さな浮きのようなものが現れ、時が経つにつれ増大していきました。

あまり気にせず使っていましたが、ついには横幅いっぱいにまで成長したために、さすがにこれはマズイと思いショップに行くと、ニコリともしないベテラン風の女性が出てきて「ご用件は?」と聞いてくるので、ざっと説明をすると、保護シートの保証期間は6ヶ月です、昨年の12月でしたら保証期間は切れておりますので新たにお買い求めていただくことになりますが!とにべもなく至って事務的にいうのに内心ムッとなりました。

浮きが出たのはずいぶん前だったことを説明すると、奥の人間と相談しながら、今度は若い男性が対応に出てきて、端末をお預かりしますと言われ、名前や生年月日などを書かされて、さらにまたこちらにやってきて身分証明書といって免許証まで提示させられました。
それから待つこと15分ほど。

なんらかの処理をしてくれているものと思っていたら、やっと預けたスマホを手に戻ってきたその店員が口にした内容は、なんと、はじめの女性と何も変化のない、まったく同じことの繰り返し。
さらに保護シートというものは浮いてくるものだから、仕方がない事だという主張。
だったら、なんのために名前を書かせたり、身分証明として免許証まで見せたり、さんざん待たせたりしたのか。

最近は、何事にも努めておとなしくしているマロニエ君ですが、さすがにこの時は納得がいかず、今日の今日、保護シートが突然浮いてこの状態になったわけではなく、はじめはよく分からず様子を見ていたこと、また、購入時に保護シートは浮いてくるものという説明はなかったし、そもそも保護シートにまで保証期間があって、それが6ヶ月というのも知らなかった。
1年も経っているというならともかく、保証が切れて1ヶ月たらず、しかも浮きの発生は6ヶ月以内で時間とともにだんだんひろがってきたもの、さらには10年以上にわたって家族分を含めてこの店だけを利用してきて、あげくこのような規定ルールを冷たく言い渡されるのは不愉快であること、よって交換には及ばないことを伝え、すぐに店を出る準備をはじめました。

するとその店員は再度奥に行って相談したのか、戻ってくるなり「今回だけ特別に!」ということで無償で張り替えてることになりました。
どうせ千円やそこらのもので、ネット上には山のように売っているようなものですよ。
普段から過剰なサービスをエサにしては顧客の取り合いに明け暮れていながら、いざとなるとこんなお粗末な対応をして、せっかく贔屓にしている顧客の心象を著しく害するのはどういう了見なのかと思いました。
それと、マロニエ君はべつに無償交換にこだわっているのではなく、その際の対応があまりに木で鼻をくくったような、申し訳ないという気持ちのかけらもない冷淡で不愉快きわまる対応、これに憤慨したのです。
むこうだって商売なんだからお客さんには笑顔で接し、申し訳ないけれどもこれこれの事情があり、こういう対応にならざるをえないと礼を尽くしていわれればそれでいいのですが、こちらの気持ちという一番肝心な部分をいきなりバサッと斬りつけてくるような対応には不快感しかありませんでした。

さらに同じ日、そのすぐ近くのスーパーに行くと、購入商品を袋に詰めるスペースで「お客様の声」というのがボードに張り出してあり、直筆で同情を禁じ得ないことが書かれていました。
スーパー内のベーカリー店でパンを購入したところ、並んでレジを済ませたら、なんと自分の次の人から半額となり、非常に不愉快だったということが綴られていました。

半額にするなら、やはりそこはちょっとお客さんが途切れてからにするとか、ちょっと前倒しして半額扱いにするとか、商売というものはそういうちょっとした気遣いや心遣いが後々に響くもので、あまりに無神経なやり方だと思います。
少なくとも、不愉快な思いをさせられたら、傷ついた側はいつまでも覚えていますからね。

こういうことは人によっては「くだらない」「大したことじゃない」などと一蹴される可能性がありますが、我々生身の市井の人間の生活感情においてはそういうことはくだらないこととはマロニエ君は断じて思いません。
事象としてはくだらないかもしれないけれども、そこに生じた不快感はまぎれもなく本物です。
ささやかなことで喜んだり幸せな気持ちになることは大事だというなら、その逆もコインの裏表で同じことでしょう。
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TVにみるピアノ

NHKのテレビから、ピアノに関すること…。

朝ドラの『エール』(現在進行が止まっている)は音楽家の話だから、折りに触れてピアノが出てきます。
物語上の場所が変わっても、学校でも、レコード会社でも、どこかのステージの場面でも、使われるのはどうやら同じピアノのようで、きっと撮影の都合上、一台を使いまわしているんでしょうね。

ピアノは明らかにスタインウェイのBですが、ロゴが出てくることは一切ないどころか、鍵盤すら出てくることはほとんどなく、いつも斜め横やうしろ姿などばかり。
それはともかく、そのピアノにはきわめて不可解な部分があり、ピアノが映るたびにやたら気になります。

何かというと、ピアノの足の下の部分が、いつも真っ黒な立方体のような大きな箱で覆われており、これがとにかく異様なのです。
そこには、よほど見えてはならないものがあるのかと想像をたくましくしてしまいますが、それは一体何なのか?

普通のピアノの足ならべつに見えてマズいわけはないし、わざわざあんな箱状のものを被せて覆い隠すとしたら…唯一考えられるのは、大型のキャスターがついていて、それがドラマ内での昔のピアノの姿として似つかわしくない…とでも判断されたぐらいしか考えられません。

別番組『らららクラシック』では、同じくB型が足元まで写った映像がありましたが、そこにはコンサートグランドほど巨大ではない、やや小ぶりのダブルキャスターがついているので、あの黒い箱の中はおそらくこれだろうと推察されました。
だとしても、そんなに見えてはいけないものとも思えないし、それでも隠すのであれば、もっと控えめにキャスターだけ黒い布で包んで覆うぐらいでもよかったのでは?
とにかくあれは違和感バリバリで、ピアノの足先がかなり大きな真っ黒の箱のなかに3本ともズボッと突っ込んだ姿で、あんなのこれまでに見たこともないものでした。

ふつうはピアノの足なんて注目する人はいないのだろうし、真っ黒の箱だから目立たないという現場の判断だったのかもしれませんが、少数でも気がつく人は必ずいるわけで、その結果は小型のダブルキャスターそのままより何倍も異様な光景になっているとマロニエ君は断言したい。

尾行などのため顔を見られないよう、黒い大きなサングラスをかけ、マスクをして、長い髪のカツラと帽子まで被った姿は、よほど目立って人目につてしまったというようなお笑いのオチがありますが、まさにそんな印象。

東京のNHKには、コンサートグランドなんて何台でもゴロゴロありそうですが、却って普通サイズのグランドとか日本製のピアノは小道具としても一台もないんでしょうか…。


テレビで見たピアノということで、今ふと思い出しましたが、日曜美術館で「ようこそ!私たちの美術館」というのをやっていましたが、京都市京セラ美術館が紹介されたときのこと。

中村大三郎画伯が大正期に描いた「ピアノ」というそこそこ有名な作品がありますが、それはこの美術館の収蔵作品だったことをこのとき初めて知りました。
四曲一隻の大きな屏風に描かれた日本画で、赤い振り袖を着てピアノを弾く女性(中村画伯の夫人の由)が描かれていますが、画面の3/4ほどは大きなグランドピアノが占めるという、ちょっとほかに類を見ない大胆な構図。
鍵盤蓋には「ANT. PETROF」とはっきり書かれており、この絵は昔(2000年前後?)ペトロフの日本輸入元だったRHFセンターのサイトなどでも紹介されていました。

ここに描かれたペトロフは、大正期に地元の人の募金によって小学校に購入されたピアノで、そのピアノがなんと現存しているということでごく短時間でしたが実際のピアノも紹介されました。
足の形状や、大屋根を支える棒にあしらわれた金色の装飾など、まさに絵になったピアノそのものでした。
しかもかなり大型のグランドで、さぞ高かったんでしょうね。

学校にかぎらず、文化に関しては、昔のほうが選択肢がなかったこともあって意外に贅沢だったんだなあと思うこのごろです。
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家ピアノー蛇足

以下は、もはやNHKの番組とは何ら関係ない内容ですが、家のピアノということから違った話をすると、ピアノといえば置き場所さえあるならグランドこそが本家本流みたいな認識があり、「いつかは自宅にグランドピアノを!」といった声は何度か耳にしたことがあります。

でも、本当にグランドが必要かどうかは、各自よく考えてみる必要があるのではと思います。
必要はなくても「ただ、グランドが欲しいー!」というのはもちろんそれはそれでアリですが、ピアノ経験者のアドバイスのようなことに流されて「アップライトはダメ」…と刷り込まれるのはいささか迷惑では。

ピアノをある程度やった人とか先生など、バリバリ弾くだけで音楽や楽器にあまり関心がないような方に限って、なぜか口を揃えて「グランドじゃないとダメ!」みたいなことを言われ、購入予定者に変な影響を与えるのはなんなのかと思います。

たしかにグランドは構造的にもピアノの本来の自然な形であるし、グランドだけがもつ秀逸なアクションなど、機構上のメリットがあるのは事実で、そこに大きく異論はないけれど、音楽専門家を自認する人達のグランド必要論みたいなものを聞くと、どうも価値観に偏りがあり釈然としない印象しかありません。

日本は何事においてもグレードとかクラスとかランクとか、あらかじめ人によって決められた価値が幅を利かせ、それを鵜呑みにし、自分で判断するよりそちらが正しいらしいと思ってしまう。

東大を出たとか、コンクールに優勝したとか、大会社の社長とかいうとすぐに一目置いて、尊敬のレッテルが貼られてそれで終わり。
与えられたヒエラルキーにそうまで無批判で従順なのは、まさに権威主義、ブランド志向ではないか。

すっかりそこに与して、その気になって、ステータスとしての価値も感じながらグランドを買って満足するのであれば、それはそれで意味はあるのかもしれませんが。

ただ、家にグランドピアノを入れるというのは、美的観点からするとある程度上手に置かないと、ピアノがそこで一番エラいもののように鎮座して、却って滑稽になる場合もあるように思うことも。

自宅にグランドピアノが設置された光景で目に浮かぶのは、白もしくは花柄などのクロスが貼られた清潔そうな部屋、淡い色の規格品風のカーテンがあって、床はフローリング。
部屋の雰囲気のためにとても大切な照明は、何の工夫もないシーリングライトの無機質な光で、塾の教室みたいな白。これだけで、聞かなくてもピアノの主がどんな弾き方をするのか想像できるよう。
さらに、椅子やペダルのあたりには却って滑りそうな小さい敷物、部屋のどこかに結婚式のブーケみたいな造花、楽譜棚にはネコなどのかわいい系の置物など。
きわめてレッスン的おけいこ的ではあるけれど、肝心の、音楽のある生活の香りや文化的芸術的な香りは…。

欧米人にはまず絶対にあり得ないセンスで、ひとつひとつのチョイスや配置はこまごまして控えめにもかかわらず、出来上がったものには独特の大胆さがあり、ああいう雰囲気の中で目にするグランドピアノって強烈な違和感を感じるのはマロニエ君だけでしょうか?
とくに日本人は、内装とかインテリアのイメージにはっきりした主張がないのかバラバラで控えめ、と、せめてものアクセントのつもりなのか、いい大人が子供っぽいかわいい系の置物とか、甘ったるいお菓子みたいな世界にしてしまうのはなぜなのか、まったく理解に苦しみます。

前置きが長過ぎましたが、その点で、成熟した大人のセンスで手際よく生活空間に収められたアップライトピアノは、とてもスタイリッシュで、住む人の趣味の良さとか、豊かな人生のワンシーンみたいなものを感じて好ましい。
グランドのようにピアノが中心になっていないのもプラスに働くのかもしれません。

そもそも、家でただ音楽を楽しむのに、そんなにグランドのタッチや音量は必要なのか?
さらに、日本人はピアノを買うのも自然な楽しみとしてではなく、レッスンや、受験や、発表会、趣味の目標など、そこに必ず勉学的な目的をくっつけないと気が済まないようです。
子供のためにピアノを買うというのはよくありますが、なんでその家のピアノライフのスタートを子供が背負わされるのか。
そうではなく、ピアノのある家に子供が生まれ、成長するにつれ自然に触れるようになってきた、じゃあそろそろレッスンにでも行かせてみるか…こういう順序であってほしいと思うんですけど。

だからなのか、自宅のピアノって特別感が強すぎて浮いており、もっと生活の一部としてピアノと普通に仲良くしたらいいと思うのですが、そうなるほど生活の中にピアノや音楽は根を下ろしていないということかもしれません。
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家ピアノ

先日、NHKで『家ピアノ』という番組をやっていました。
コロナ禍で仕事がキャンセルとなり、自宅待機を余儀なくされた音楽家やタレントさんがピアノと過ごす様子を取り扱った番組で、出演したのは東儀秀樹さん、久石譲さん、千住明さん、ふかわりょうさんなど(あとは忘れました)。

その内容じたいは特段どうというものではありませんでしたが、あらためて感じたのは、自宅にピアノがある景色はやはりいいものだということ。
以下、番組とは直接関係ないけれど、そこから感じたことなど。

昔は映画やドラマでも、住まいにピアノがあるという光景はそれほど珍しいものではなかったけれど、時代とともにしだいに姿を消し、今や素敵な住まいのシーンというと、ほぼモデルルームのようなスタイリッシュ調が主流に。

今どきの戸建住宅やタワーマンションの中があんなテイストになっているのかどうか知らないが、そこには住人のセンスとか価値観が投影された個性もなく、インテリアのカタログ写真そのまんまみたいな世界。

むかしは、家に年ごろの子供がいたらピアノを買ってお稽古させるといった単純な構図があって、テレビや応接セットや学習机と同じように、変なカバーがかかったピアノなんかがあって、あのおかずの匂いがしそうな雰囲気もイヤだったけれど、片やいまどきのピアノなんぞ眼中にもないといったカッコだけの世界も行き過ぎでちょっと苦手です。

もはやピアノが顧みられなくなったぶん、今あえてピアノを自宅に置く人というのはやはりそれなりの意思と目的を持ってのことだろうと思います。
少なくともそれが、使いもしない百科事典みたいなピアノでないことは進展なのかも。
でも、マロニエ君が本当に「いいな」と思える光景は、なによりもまず「おけいこ臭」とか「レッスン臭」が一切しないことで、こころ豊かな生活のために家の中に音楽がそばにあって、絵画や本があるようにピアノがあるという自然な雰囲気が感じられるピアノのある光景です。

コロナ禍であらためて再確認したことは、ピアノはまさに家で一人で楽しむことができるということ。
もちろん他の楽器と合わせたり、仲間内で音楽を楽しむのもおおいに結構ですが、基本は一人で楽器といくらでも向き合って楽しめるところが最大の特徴で、これはまさにピアノの特権。

そういう意味では、どれだけピアノ好きを標榜しても、弾くためのモチベーションをレッスンや発表会や弾き合い会などに置いているのは、なんとなく好きの内容がどこか似て非なるものに思えてしまいます。
ピアノを手段にした自己達成とか、人前演奏への挑戦とか、その先にある音楽そのものではない何かの欲求を追い求める人のように感じてしまうわけです。
この匂いのする人としない人では、話をしていても、その密度も楽しさもまったく違います。

そういう人が思いのほか多くてウンザリなのですが、さすがにこの番組で登場された方々は、有名な音楽家であり作曲界であるなど、いずれもそういう匂いがないという点では、見ていて清々しさがありました。

それと、普段テレビで見るピアノの大半は、演奏会の録画やスタジオ収録されたもので、音響的にもそれなりの配慮のされたものですが、今回は自宅や個人的な仕事場などで、久石譲さん、千住明さんはスタインウェイでしたが、やはりこうした状況で聴いても、その音の美しさはさすがと唸るものがあったし、いっぽうヤマハのアップライトでもきれいに調律・整音されたと思われるものがあって、それはやはり気持ちのいい音で鳴っていました。

きれいに整えられたピアノは上品で美しいですね。
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どこにいくのか?

21世紀になってからでしょうか、世界の主だった大都市の景観は、いずれも趣のない無国籍風高層ビルが林立する姿に変貌。
はじめは中国やアメリカだけかと思っていたら、世界中のあちこちがどうも似たような調子で、グローバルかなにかは知らないけれど大同小異の眺めに。
道路も街路樹も美しく整えられ、様々な機能も充実し、無数のカメラに監視され、路上はSUVやハイブリッドカー、人々はスマホを手に行き交い、世界のあらゆる情報が瞬時に手に入る今どきの世界。

…。
内田光子&ラトル/ベルリン・フィルのベートーヴェンのピアノ協奏曲を買ったら、オマケなのか抱き合わせなのか、同じくラトル/ベルリン・フィルのベートーヴェンの交響曲全曲がセットになっていたので、単独ではまず買わないだろうけど、せっかくなのでもちろん聴いてみました。

世界のトップオケとして誉れ高いベルリン・フィルの演奏は、さらに切れ味鋭く鍛え上げられ、かつ時代を強く反映した解像度の高すぎる演奏で、オーケストラがここまで一体感をもってクリアな演奏を繰り広げることにただもうびっくり仰天でした。
昔から「一糸乱れぬ」という表現があるけれど、もはやそんな生ぬるいものではなく、まさにAIが演奏しているのでは?と思うほど「合って」いるし、機能的で、制御自在で、それはもう…どことなく作品を軽んじている気がするほど。
しかもこちらもライブ録音(2015年)だというのだから、もはや開いた口がふさがりません。

最初に聴いたときは、ほとんど恐怖に近いものさえ感じ、すっかりビビッてしまい、CDの箱をヒョイと指先で遠ざけ自分は椅子の背に逃げてしまうほどでした。
でも、気を取り直しながら、恐る恐る何度か聴いてみることになりました。

すごいけれど、CG映像を多用した映画みたいに技術で作品を呑み込んでしなうような胡散臭さがある。
まるでベートーヴェンがあのむさ苦しい肖像画の中から抜けだして、エステに行って、スタイリッシュなスーツに身を包み、最新のメルセデスに乗って、タッチ画面を操作しながら颯爽と疾走していくみたいな世界。

第1番はキュッとまとまっていたけれど、第2番などはもうすこしふくよかさなどもあればいいと思ったし、田園はあまりにスッキリしてせいぜいセントラルパークぐらいの感じだし、英雄や第7番などには、あの恰幅も体臭も除去されて、体脂肪を落とし過ぎで却って貧相に見える筋トレマニアみたいな感じも。

その調子でやるものだから第8番などは、まるで第九の前の序曲のよう。

個人的に最良の出来だと感じたのは第九で、このいささか誇大妄想的な大作に見通しのいいシルエットと構造感が見えてくるようで、場合によってはこういうこともあるんだなぁという感じでしょうか。
ただ、いずれにしろ、どれをとってもスタイリッシュの極みではあるものの、ベートーヴェンって、そんなに遮二無二スタイリッシュにしなきゃいけないんでしょうか?

あざやかな手腕も度が過ぎると、真に迫るものや、人間的な本音とか温か味から遠ざかり、ただ先へ先へと追い立てられているようでした。

これを聴くと、今どきの理想的な演奏傾向のガイドラインが示されているようで、いやでも今どきの現実を思い知らされたような、時代は思ったより遙か先へ行ってしまったことを認識させられたような気分でした。

むかし、クラウディオ・アバドがベルリンフィルの常任指揮者になったとき、カラヤンというしばりからついに抜けだし、解き放たれて、なんという清々しい新しい風が吹きはじめたものかと思ったものですが、いま振り返ってみれば、それさえすっかり古びたフィルム写真を見るような思いがしました。

手作業の演奏までもが、先端テクノロジーを模倣しているようで、これも時代の必然なのかもしれません。
同時に、音楽そのものが目的を見失っているようでもあり、この先、音楽が、演奏が、どうなっていくのか、まるでわからなくなってしまいました。
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既読

ずいぶん前でしたが、LINEの「既読」というこんな些細なものをめぐってイジメや事件になるなど、社会問題になったことがありました。

当時のマロニエ君はLINEがメールとどう違うのかもよくわかっていなかったくらいで、「キドクって何?」というような感じで理解がついていかなかった覚えがあります。
中でも驚愕したのは、小学生か中学生で、LINEのメッセージが来たら10分だか15分だか、それぐらいの時間内に返信しなければ仲間はずれにされ、イジメの対象になるという恐ろしいもので、故に子どもたちも常にストレスにさらされているというものでした。

それが今現在どうなっているのかは知りません。

ただ、そういうことが尾を引いているのか、この「既読」という小さな文字の有無に気を遣うというのが後遺症となって残っているのか、既読という小さな文字の向こう側に人の心の動きが読み取れることがあります。

マロニエ君なんぞは、そもそもスマホ歴も浅いし苦手だし、交友関係も広くはないからそんなにたくさんの人とLINEのやり取りをしているわけではないけれど、それでも、人によってちょっとした性格とか神経の動きを感じることは…ありますね。

全体からみれば一部の方ではあるものの、あきらかに既読マークが表示されることを意図的に回避していると思われる(気がする)場合があって、もちろん確証はありませんが(そうだとすると)たかだかLINEごときにそんなに神経を張りつめなくてもいいのでは?と思うことがあるわけです。

それは、既読がついた以上はコメントしなくちゃいけないけれど、すぐにはそれをしたくない、もしくはできない状況、面倒だからあとでいい…大方そんなところでしょう。
読んだのに返事しないとこちらに失礼と気を遣ってくださっているのか、すぐに返事しないことで自分の印象が悪くするという保身なのか、そのあたりはよくわかりませんが、とにかく敢えてコメントを開かないことで既読表示を回避し、「まだ読んでいませんよ」「だから返信に至らないのです」という作為を感じるのです。

マロニエ君にしてみれば、そんなにすぐ返事をしていただかなくても一向に構わないし、あとからでも返事もらえたら幸いという程度ですが、そういうちょっとしたことでこまごま気を遣われるというか、悪くいえば小細工されるというのは妙にわかるもので、不思議ですよね。
そして、残念ながらこれ、さほど狙い通りの効果をあげている…とも思いません。

スマホとの接し方というのもむろん人それぞれだから一概には言えないけれど、今どき、平日の昼間とかならともかく、夜間や休日にそう長いことLINEを見ない、つまりスマホを触りもしないということは、一般的にはあまり考えられません。
むしろ、心配になるほど、大多数の人はなにかというとスマホに触っていないと落ち着かない場合が多く、人の手がスマホを離れることのほうがずっと難しいし、そのほうがよほど稀だと思うのです。

いったんスマホを手にして、LINEなんかをやりはじめるということは、良し悪しは別にして、一定時間おきに何かをチェックをするという少々のことでは元に戻れない習慣に冒されてしまったと見るのが一般的で、だから、まったく既読がつかないほど丸一日これに触れないなんてことのほうが現実的に想像しにくいわけです。

現に知人などに会っていても、今どきはごく自然な動きでスマホをさりげなく触ったり、音がすればチェックするという動作はしょっちゅうで、仕事中など明確に禁止された状況以外で、自らにケジメの線を厳しく引いて、きっぱり遮断できてしまうという人がいるとすればそれは相当の強靭な意志の持ち主であり、チョー珍しいと思います。
そんなチョー珍しい人がそんなにたくさんいるとも思えないわけです。

だから、やっぱり意図的に開かないようにしていらっしゃるんだなあ…そんなにしなくてもいいのになあ…と思うわけです。

むしろ、あるていどのタイミングで既読がつくほうが自然だし、あとから自由なタイミングでコメントを返してもらえるほうが、個人的にはよほどホッとするわけで、返信するまで既読を付けない状態をキープすることのほうが、よほどピリピリした緊迫感があって疲れます。
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ピアノの近代史-2

企業というのは、どれだけ時を経て巨大化しても、創業者のキャラクターや社風というものはふしぎに残る気がします。
その体質や個性は、良い意味でも逆の意味でも必ず引き継がれて、生物に遺伝子があるのと同様、企業にもDNAがあって脈々と受け継がれるらしいことを感じずにはいられません。

ただし、山葉寅楠という人の影響力はヤマハ一社に収まるものではなく、彼の蒔いた種によって日本のピアノ製造界の方向性、さらにはそれを弾いていく人達のスタンスや価値観のようなものまで、計り知れない影響を及ぼしたように感じるのはいささか大げさでしょうか?

伝統ある一流品がクラフトマンシップによって生み出すところの音色とか音楽性といった、どこか基準も曖昧で捉えどころのないものより、機能の高さ・造りや動作の優秀さ・確実性の高い音を保ちながら、コストパフォーマンスで勝負をかければ価値は明快となり、ピアノには機械物としての側面もあるから、安くて優秀な製品というのはこの業界では画期的なことだったのでしょうね。

今日では世界に知れわたる日本製品の優秀さですが、ピアノはその先駆けのひとつだったのではないかと思います。

環境にも酷使にもへこたれない強靭さがあり、音にはパンチがあって、しかも大量生産で安くいのに高品質で信頼が性高い。
そんなピアノはそれ以前にはなかったのではないかと思います。

まさに寅楠の目論見は大当たりというところでしょう。

初のアメリカ視察においても、彼の目はもっぱら生産方法や量産技術に注がれたようで、あとに人に続く人達が本場のピアノの音や職人の技巧に魅せられ薫陶を受けていたのとは対象的だったような印象で、そこが(個人的に共感はしないけれど)並の人物ではなかったところでもあるのだろうと思います。

さらに驚くべきは、ピアノやオルガンにとどまることなく、ありとあらゆる業種に手を広げて、事業の多角化を貪欲にめざすあたりも、まさに辣腕経営者のそれで、現代ならばさしずめIT企業のCEOといったところでしょうか?
寅楠は紀州藩士の三男で、出自としては武家の生まれだったようですが、紀州といえば紀伊國屋文左衛門を産んだ土地柄でもあり、商いの才覚を生み出す土壌があるのかもしれません。

寅楠がオルガンづくりを決意したのも、修理依頼された舶来オルガンの価格を聞いて驚き、それなら自分がもっと安く作れば大いに儲かるとすかさず反応したようで、なにごとにもピンとひらめいて商機と捉える直感力と実行力は凡人ではないようです。

よってヤマハはビジネスが絶対優先であって、すべての製品にはその厳しい精神が流れていると思います。
どれだけ長く使っても愛着が湧いてくるような、どこかしら愛おしいような部分はないとはいいませんが少なく、いつも無表情で醒めたものを感じます。
利益は二の次にして、理想を追い求めるような甘ちゃんではないのでしょう。

むろん音質も大事にしたとは思うけれど、高い工作精度、耐久性、信頼性などに秀でるほうが実際的で、不特定多数の人が弾く学校や、絶え間ない練習やレッスンによる酷使、その他厳しい環境で使われる場面でのタフネスとなると、おそらくヤマハの右に出るものはない。
中東やアフリカで頼りにされるランクルみたいに、これ以上ない頼もしい製品であることも確かでしょう。


あらためて感じたこと。
以前も少し書いた覚えがありますが、浜松のオルガン修理に駆りだされた山葉寅楠を傍で支え、協力したのが河合喜三郎という人物で、喜三郎は寅楠に対して場所や資材など、さまざまな支援を生涯続けたとありました。
のちに登場する河合小市とは血縁関係にはないとのことですが、日本のピアノ史のこんな第一歩の場面の登場人物の名が、山葉と河合だったというのは、まさに「事実は小説より奇なり」ですね。
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ピアノの近代史-1

『ピアノの近代史──技術革新、世界市場、日本の発展』井上さつき著(中央公論新社)を読みました。
内容としては「ヤマハを中心とするピアノの近代史」といった印象でした。

世界のピアノ史では、まずはじめにお約束のようにイタリアのクリストフォリが強弱のつけられるフォルテピアノを発明したところからはじまりますが、日本のピアノ製造史で必ず述べられるのが、明治の中頃、浜松の小学校にあるオルガンの修理が必要となり、白羽の矢が立ったのが機械修理職人の山葉寅楠だったというところから始まるのがほぼ通例。

この寅楠とオルガンの出会いが日本の楽器製作の夜明けとなり、見よう見まねでのオルガンを作り、それはやがてピアノ製造へとなり、途中世界大戦を経るもののそれでもなお躍進を続け、ついには世界を席巻するまでになる楽器製造のサクセスストーリーとでもいっていいかもしれません。

ただ、マロニエ君のようなピアノマニアとしては、日本のピアノの近代史となれば、今はなきメーカーが生み出した名品などにも少しは触れられているものかと期待していましたが、ここでは専らヤマハとカワイの企業史のような内容でした。
日本のピアノ史を語る以上、触れない訳にはいかないメーカーはいくつかあると思うのですが、そのあたりがスルーされていたのは残念でした。

この本を読み終わって最も強く印象に残ったのは、ヤマハとカワイという二大メーカーは、モデル構成から価格帯まで酷似しているものの、それぞれの創業の精神というか、出発時点での企業理念はかなり違っていたんだなあ…と思われることでしょうか。
ヤマハは創業者のはじめの第一歩から、西洋楽器という非常に高価なものを国産化し大量生産することに大きなビジネスの可能性を見出していたのに対し、カワイの創業者はあくまでクラフトマンシップの職人気質であり、優れたピアノづくりを追求する人だったようです。

山葉寅楠は大正5年に亡くなっており、活躍の大半を明治時代で過ごした人ですが、楽器製造以外にも様々な業種に手を伸ばすマルチな経営者であったのに対し、河合小市はピアノ一筋。
戦時下でピアノが作れないときでも、ヤマハは飛行機のプロペラなどいかようにも時局に対応していたのに対し、カワイはピアノ以外のものを作って窮状をしのぐことも工場を疎開することも嫌がり、ついには空襲により全焼。
戦後ピアノ製造が復活した際は、完成品はすべて小市が検品をして、すこしでも納得がいかないと工場へ押し返したんだとか。

経営者としてどちらが正しいのかはマロニエ君にはわかりませんが、どちらのピアノに心惹かれるかといえば、それはやはり小市のような人の作るピアノであることは偽らざるところ。

そもそも、戦前のヤマハを現場で支えた重要なひとりが「天才小市」と言われた河合小市だったのですから、それもまあ納得です。
そういう違いは、100年の時を経て世界に君臨するピアノメーカーになっても、両社の最も底の部分に流れているものは変わっていないと感じます。

ヤマハが楽器の総合メーカーであるだけでなく、オートバイその他まで幅広く作っているのも、寅楠のキャラクターと無関係とは思えないし、小市のピアノづくりに回帰したというSKシリーズの誕生なども、その精神の現れなのかもしれません。

もちろんどんな世界にも文字にできないような事もたくさんあったでしょうし、企業というのはきれい事では済まない闇の部分もあるから、事はそう単純ではないとは思いますが、何がいいたいかというと企業体質というのは間違いなくあるわけで、それは容易く変わるものではないということと、その製品には必ずその体質・体臭みたいなものが投影されているということでしょうか。

使う側も、そこは知識や理屈ではなしに、肌感覚で感じるものです。
ちなみに、小市のピアノは深くまろやかなトーンで、一時はそれが時代に合わないとされたそうですが、そこに再び回帰し、復活させるべく生まれたのがSKシリーズだそうです。
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修理は掃除!

このひと月ぐらいのことでしょうか。
リビングのテレビに繋いでいるブルーレイ・レコーダーから、「ウー」とか「ジーー」とかいう、なんとも嫌な感じの音がするようになりました。

はじめは「たまたまだろう…」ぐらいに軽く考えていたのですが、一向に収まる気配はないどころか、その音は確実に強くなってくる感じで、これは寿命が近いのかと思い、なんだか無性に焦って、用心のために新しいレコーダーを買いました。
だって、修理に出せば2015年製なので保証期間は切れているし、買い換えたほうがいいぐらいの修理代がかかりますよと告げられるに決っているし、その間、録画などできない状態が1週間から10日はかかる等々がわかっていたから。

とはいうものの、レコーダーの中には録画している夥しい数の番組があって、それらを見ないまま新しいレコーダーに交換する決断もつかず、数も数なのでそれをディスクにダビングするのも面倒くさくてしたくない。
特別な方法によっては、溜まった録画をそっくり新しいほうも移し替えることも不可能ではないようですが、方法がよくわからないし、面倒だし、とりあえず見られるから危ないとは思いつつ先延ばしに…。

しかし昨日の夜、NHKのケネディ暗殺の前編を見ていたら、何の前触れもなくプッと切れてしまいました。
ついにその瞬間がきたらしく、よく見るとレコーダーの電源が切れており、再度スイッチを入れたらONにはなって、一度は胸をなでおろして視聴を再開するも、またプッと切れる。
それを何度か繰り返しましたが、ものの1分もしないうちに勝手にOFFになってしまい、ついに観念しました。
問題は、そのレコーダーの中にはクラシック倶楽部やプレミアムシアターなどのまだ見ていないもの、ほかにも映画とか、マロニエ君の好きな警察密着番組などがびっしり入っており、それが一瞬で見られないものになってしまったと思うと目の前が真っ暗になりました。

しばし呆然としたところで、以前YouTubeで見た覚えのある「ヤフオクで手に入れたジャンク品のAV機器を修理する」みたいな動画が面白くて、何本か見たことを思い出しました。
多くの場合、再生しなくなったり、CDは音飛びしたりという症状ですが、実際の原因というのは故障というほどのものではなく、大半はCDのピックアップセンサーを掃除する(最悪の場合交換)というようなことで、ほとんどが解決していました。

こうなったら仕方がない、これをやってみることに。
ビデオの場合、電源、テレビとの接続ケーブル、アンテナなど計5本の線が差し込まれているので、位置を間違えないようまずその部分の写真をスマホで撮り、ひとつひとつ外していきます。

電気モノに詳しいわけでもないし、機械いじりはむしろ苦手で、えらく大それたことをやるようですが、もうそれしかないのだからこれこそダメモトです。
テーブルに新聞を広げ、本体の背後や裏側に付けられたネジを緩め、慎重にフタを開けてますが、これが機種ごとにネジの位置も役目も様々だったり、プラスチック部分を固定している爪を折らないように気をつけるというのも注意点として覚えていました。
内部があらわになるまでに15分ぐらいかかりましたが、果たしてそこには無数の複雑な基盤が並び、その横にハードディスク、さらにディスクの可動部があります。

中は万遍なくパウダー状の灰色の埃で覆われており、まずは掃除機で慎重に全体のホコリを取れるだけ取り、次いで綿棒で基盤とか小さな配線などを傷めないように、やさしくゆっくりと掃除しました。
内部の冷却のためか、小さな扇風機みたいなものがあって、その周りはとくに埃が集中していたので、綿棒を何本も取り替えながら30分ほどクリーニング。

自分でできるのはここまでというところまでとにかくやって、逆の手順で組み上げて、最後にスマホの写真を見ながらケーブルを繋いでいきます。
内部はもちろんですが、機械の真下なども恥ずかしいほど埃が溜まっており、この際きれいにしたのはいうまでもありません。

さあ、高鳴る胸を抑えつつ電源を入れてみると、無事ONに。
ドキドキしながら、さっき見ていたケネディの…を再生してみると、とりあえずきれいに映ったし、数分経ってもプツンと切れる様子はありません。
それに、ふと気がつけば、あの忌まわしい「ウー」とか「ジーー」の音もまったくしなくなっています。
どうやら修理ができたようで、こころなしか画面も前よりも明るく鮮明になっているような気がしましたが、これは嬉しさもあってそう見えているだけかもしれません。

もし修理に出したら、「掃除したら終わりました」ではお金も取れないから、あえて何かの部品を交換されて、相応の費用と時間と手間がかかったかと思うと、うれしくてうれしくて、思わず「ヤッター!」と叫びたいほどでした。
機械に弱いマロニエ君が自分で解決して、また音楽を聴いたりよしもと新喜劇を見たりできるかと思うと、ああうれしや!これが達成感というものか!と思いました。
YouTubeで説明してくれたお兄さんに心からのお礼をいいたいです。

そうすると、新しく買って開けてもいないブルーレイ・レコーダーはどうなるんだろう…。
まっ、いっか!
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思わぬかたち

コロナ発生以降、社会の主流になったもののひとつつがリモート☓☓☓。

多くの会社や学校などが雪崩を打ったようにこちらに移行し、ピアノのレッスンなど、各種お稽古事に至るまで軒並みリモートレッスンへと形を変え、何事であれ人と人は距離を取ることが厳しく求められることに。

やむを得ぬこととはいえ、これは、きっといろいろなことに影響が及ぶのは必至で、思わぬことが思わぬかたちに変わっていくことを、もはや私たちはコントロールする手立てもない気がします。
当然なが物理的距離をとることは、必然的に精神的な距離も開くことになり、ますます殺伐とした世の中になるような…。

さっそく「リモハラ」とかいう弊害まで出始めているとかでびっくり。
自宅の背後の映り込みから個人のプライバシーや趣味・趣向などを知られて、上司から大勢の前でそのネタでいじられたり、やたら大きなテレビを持っているな!などと言われたり、いろいろあるそうです。
勤務時間とはいえ、常にONの状態(やったことがないのでわかりませんが)を求められるので気が休まらないとか、クライアントを交えた会議やプレゼンテーションでもっと顔の表情をつける、手を高い位置にして拍手をするなど、業務以外の細かい指示などもあって、これらが新たなストレスなんだとか。

オンライン飲み会というのも流行っているそうですが、これが相当に問題をはらんでいて、評判が悪いらしい。
それぞれが自宅なので、料金の心配も、閉店の心配も、終電の心配もないから、まさにエンドレスで延々続くのだとか。
ある証言によると、これが午後8時から翌朝5時まで延々9時間にわたったりするそうで、これはもう虐待では?
スタジオでは「適当に退出すればいいじゃないですか!」などといいますが、上司はじめ職場の人間関係がある中で、「じゃあ私はこの辺で失礼します。プチッ!」というわけでにはいかないでしょう。


それはともかく、こんなリモート☓☓☓をいつまでもやっていると、ついには同居家族以外は遠い存在となり、水槽の中の小魚みたいにならないとも限りません。

過日の新聞にありましたが、在宅ワークに慣れるといまさら会社に行くのが嫌になり、それも猛烈にイヤダ!という人が増えているそうで、このまま在宅ワークのままでいたいという人が優に60%を超えたそうです。

これもまさに「思わぬことが思わぬかたちに変わっていく」現象のひとつでしょうね。

思わぬ変化を、別の事例でいうと、コロナ以降まず変わったのは車を運転していて、一部の人の交通マナーが極めて悪くなったこと。
緊急事態宣言からこっち傍若無人な動きとすごいスピードであたりを蹴散らすように走る車が、あきらかに増えました。
狭い車間で狂ったように車線変更する、まさかというタイミングで割り込んでくるなど、一度出かけるとだいたいこの手の車を数台は必ず見ることになりました。
道路上というのは、一定の秩序と信頼関係によって安全を維持しているわけですが、ちかごろはこの手合がいつどこから現れるかわからず、気が抜けません。
全体からすればごく一部でしょうが、その一部がもたらす悪影響というものは間違いなくあるわけで、つられて悪化するドライバーもどんどん出てくるとすると、これも一種のウイルスみたいなもの。

また、夜の歩行者や自転車のルール違反も目に見えて増えており、自転車はもともと我が物顔で車道・歩道・逆車線・信号無視など、知ったことか!とばかりにかっ飛ばしていたものが、さらに拍車がかかってカラスみたいになっているし、歩行者も、信号無視や横断歩道のない夜間の幹線道路を平然と横断したりと、まあとにかくこちらも注意してはいますが、こわいのなんの。

とくに車の無謀運転は、単にスピード出しすぎといった問題ではなく、精神的にキレてしまったような動きがしばしばで、それでなくてもストレス社会であるところへコロナがトドメとなって、その恨みが運転に出ているという感じもします。
数時間前も市内幹線の県道を、いかにも仲間同士といった3台のクルマが、猛烈なスピードで走っていくのをとある駐車場から目にしましたが、何かのタガが外れてしまったのか、とにかく巻き込まれないよう願うのみです。
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緊張感はむしろ上昇

新型コロナウイルスは、今のところ落ち着きを見せており、世界的にも徐々に経済活動を再開する動きが出ているようですね──もちろん国や地域によって差はありますが。
日本国内もしだいに感染者が減少して、いろいろな動きが出始めていますが、第2波を注意しながらのあくまで慎重かつ限定的なもので、緊急事態宣言下よりもある種の深刻さを感じています。

以前このブログに、竹中平蔵氏が「収束しても、決して以前と同じ世の中には戻らない」という意味のことを発言されたと書きましたが、すでにその兆しが出始めているのかもしれません。

海外の大手航空会社が倒産したのが象徴的ですが、じっさいぽつぽつ倒産などの話も出始めており、むしろこれからのほうが経済が被った打撃の結果がじわじわと確実に出てくるようで、暗澹たる気分になるばかり。

ファミレスで有名なロイ◯ルホストは福岡が地元ですが、つい先日もグループが運営する関連店舗のうち、全国で70店ほどを閉めるという報道があり、じっさい店の前を通ってもどこもお客さんはまばら。

また街のいたるところで夜中まで営業していたスポーツジムは、緊急事態宣言解除後もどこも暗く閉ざされたまま、再開の目処も立たないのでしょうし、再開しても客足は大幅に遠のくでしょうか。

これまで福岡市は慢性的なホテル不足で、どこも常に満室みたいな状況でしたが、現在は窓に明かりが灯っているのは見上げても2つか3つといった状況で、中には完全に閉めてしまっているホテルもちらほら見かけるほど。

病院は忙しいのかと思えば、なんと赤字のところが少なくない由。
コロナの現場では医師をはじめ関係者の方々は寝る暇もないほどの激務が続くいっぽうで、それ以外は院内感染等を恐れてか…以前のように人の足が気軽に病院に行かなくなり、経営面では非常に厳しいのが実情だとか。

コロナ不況が最も端的に見えてしまうのが空港かもしれません。
福岡空港は市内博多区にあり、近くを車でよく通るのですが、小さな空港にもかかわらず、その離発着数ときたら普段は異常なほどで、時間帯によっては離陸するにも旅客機が誘導路で渋滞、到着も空中で4機ぐらい縦に列をなしているのがこれまで普通の光景でしたが、この忙しい空港からもののみごとに飛行機の動きがなくなりました。
一説によると9割減便だそうですが、まさにそんな感じで、たまに思い出したように到着してくる機体が目に入ると、なんだか懐かしいようなありがたいような、どこか悲しいような気分になります。
これが時間とともにかつての賑わいを取り戻すのかどうか、今のマロニエ君にはちょっとイメージ出来ないし、実際どうなんでしょうね。

ニュースによれば九州全体で毎月平均40万人近くあった外国人の入国が、先月はわずかに30数名というのですから、単純に言っても1万分の1以下に減少しているわけで、やはり驚愕の数字です。
営業を再開した映画館なども前後左右を間隔をあけながらということで、これはもちろん感染防止のためには必要なことですが、何事もこの調子でということになると、とても本来の経済活動とは言いがたく、そこから利益を生み出していくなど至難の業でしょうね。

いまだにブラジルなどでは感染拡大が止まらず、毎日2万人という猛烈なペースで増加だそうです。
さらに今後は世界第2位の人口を擁するインドで拡大という話もあって、これはコロナウイルスという目に見えない敵と戦う、まさに第3次世界対戦といっていいのではないかと思います。
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違和感

いつだったか「題名のない音楽会」で、葉加瀬太郎氏がヴァイオリンを弾く若い人たちを相手に、プロの演奏者としてやっていけるためのレッスンというかアドバイスをするという内容の放送がありました。

中心となる教えは「今はポップスも弾けないと食っていけない!」とする考え方で、この方はたしかにそっちで成功したかもしれませんが、それが現代一般の標準のように云われるのはどうでしょう。

自作の情熱大陸を題材に、いかにクラシックの演奏作法から離れたノリノリのパフォーマンスとして弾きこなせるかというようなレッスンで、こういう面を習得することが演奏チャンスに繋がるというもの。

いかにももっともなようにも聞こえますが、本当にそうでしょうか?
現在、世界的な潮流としてクラシック音楽が衰退していることは事実ですが、さりとて演奏者がポップスの演奏技術を身につけたからといって「食っていける」ほど事は単純ではないでしょう。

たしかにピアノでいうと、往年のカーメン・キャバレロとか近年では羽田健太郎さんのように、別ジャンルで見事に花を咲かせた人はいますが、それは彼らの才能がもともとそっちに向いていたというだけ。
あの大天才のフリードリヒ・グルダをもってしても、ジャズではついにものになりませんでした。

現実を見据えて「クラシックじゃ食えないからポップスの弾きこなしも必要」というのなら、名もないヴァイオリニストがポップスを上手く弾くからといってチケットが売れるとは思えないし、うっかり別ジャンルに手を付けると、よほど注意しないとその色がついて現実的にはクラシックでの活躍もさらに難しいものになると思います。

演奏の引き出しを増やすというより、限りなく他のジャンルへの宗旨替えを意味するように感じます。
そっちに行った人が、いまさらクロイツェルを感動的に弾いたり、バッハの無伴奏ソナタやパルティータで聴く人の魂に訴えるなどということがあるとは思えません。

また、今回の先生自身が、申し訳ないけれどクラシックでやっていけるタイプとも思えず、アイデアに長け、時流に乗る才覚と運があり、さらには独特の風貌や注目を集めるお相手との結婚など、さまざまな要因が重なって現在のエンターテイナーとしての地位を得ている複合の結果であって、ただポップスも弾けなきゃダメというだけでは全体の半分も説明になっていません。

ヴァイオリンでいえば女性にも多くのテレビに出演し、毒舌トークで名を挙げて、ステージでは女性だけの奇妙な集団演奏の長としてやっている方もおられるようです。
これらの方に共通するのは、まずタレントとしての知名度というか世間の認知がしっかりあり、それを土台に様々なステージ活動が考え出され、あるいは継続できていると見るべきだと思うし、さらにお父上は元大手レコード会社のディレクターという企画マンであるなど、見えない仕掛けがいろいろあるからでしょう。

本当に若者に「食える」ための実践的な助言をするのであれば、まずは広告会社顔負けのアイデアで顔と名前を世間に印象づけ、多くのTV番組等からオファーが来るよう仕向けて、早い話がほぼ芸能人化してお茶の間の中へ入り込み、そのあとで特定のファンにフォーカスした至ってくだけたコンサートをする…とまあ、あえて言葉にすればそういうことではないかと思います。
ピアニストでもなにかというとテレビ出演して、活動の地固めをしておいでの方はいらっしゃいます。

音楽家としての進む道として正しいかどうかは別としても、これとて一朝一夕にできるようなことではなく、この厳しい過当競争の中で本当に稼ごうとするのは、そんなに単純なことではないはずです。
将来のかかる若者の人生に、物事のある一面だけを伝授しても、それだけでは機能しないし無責任だろうと思います。

それと、器楽の演奏にかぎらず、どのジャンルにおいても一途に修業を重ね、はるばる歩んできた道以外のことをしろ、でないと食えないぞといわれたら、それはかなり陵辱的なことであるし、しかもなんの保証があるわけでもないでしょう。
この番組では、そういう意味でのリアリティが欠けていたと思うわけです。

小説家であれ、画家であれ、俳優であれ、その技術や才能を使って本業以外のことをやれと言われるのは(当人が望む場合はべつですが、それがあたかも社会一般の厳しい現実のように断じられるのは)、とてもではないけれど賛成しかねるのです。

音楽に近いところでいうなら、調律師さんにその技術を応用して、農機具の修理も、ご近所のトイレの修理もできないと「今は食っていけないよ!」といわれたら、やはりいい気持ちはしないだけでなく、結局は本業まで傷つけてしまうと思います。

尤も、いまは新型コロナウイルスによって、あらゆるものが危機に瀕していますが…。
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ちょっと休憩

あまりに立て続けに内田光子/ラトルのベートーヴェンを聴いたものだから、さすがに耳休めしたくなったのと、せっかくの名演が飽きてしまうのが怖いので、いったん横に置いて他のものを聴くことに。

手持ちのCDの中には、購入後1〜2回聴いたのみで、そのまま長いこと棚に放り込まれたものもいろいろあり、その理由はいろいろですが、いわゆる期待はずれであったり端的にいってあまり好みじゃなかったというようなことです。

今回引っ張りだしたものの1枚が、ピアニスト、ベンジャミン・グローヴナーのCD。
ショパンの4つのスケルツォの間にノクターンをはさんで7曲とし、そのあとはショパンの歌曲をもとにしたリストの編曲、リストの「夢の中に」、最後はラヴェルの「夜のガスパール」というもので、意欲的な選曲のようでもあるけれど、実はその意図がよくわからないもの。
「夜」というものに引っ掛けているのかとも思ったけれど、するとそもそもショパンのスケルツォがどう意味を持つのか、よくわからないけれど、ま、それはそれ。

グローヴナーはイギリス出身の天才だそうで、このアルバムを録音した時点で19歳というのだから、すごい才能を持った人というのは確かなんでしょう。
購入した時のはっきりした印象もほとんどありませんでしたが、聴き始めてほどなくして、このCDを購入後そんなに聴かなかった理由がわかりました。

とにかく技巧優先で、すべてを技巧の勢いにのせて推進していくタイプの演奏だから、音楽の繊細な息づかいが伝わってハッとするとか、ショパンでいうと特有の雰囲気、あるいは随所に散りばめられたディテールの香りみたいなものを聴き手に伝えるような試みもなく、もっぱら山道をスポーツカーでぐんぐん走っていくいくような感じ。
こういう人の弾くノクターンなどは、腕のふるいがいがないのか、いかにも「ゆっくり」「おさえて」「小さな音」で弾く分別も持っていますよという、なにか言い訳のように聴こえます。
技巧曲を際立たせるための中継ぎのようで、こっちも却って落ち着かないような気になるもの。

せっかくなので全体を2回通して聴いたけれど、はっきり言ってしまえば、なんの感銘も喜びも得られませんでした。
冒頭のスケルツォ第1番も、静寂を打ち破るようなあの激しい和音のあとは、まるで豹かなにかの筋肉の躍動のようだし、中間部の有名なポーランドのクリスマスの旋律になると、一転してただ聞き取りづらいような弱音で通過し、ふたたび筋肉の躍動に戻る。

続くノクターン第5番でも、あの有名なメロディーの中に織り込まれる装飾音を、いかに拍内でこともなげにマジシャンのように片付けてしまえるかという点を誇示されているようでした。

もちろんこの21世紀にそれなりに認められて世に出て、十代前半で名門デッカと専属契約をするような人だから、大変な才能だとは思うけれど、それでもプロのピアニストとして継続的に成立するかというと、あまりそうは思えず、あらためて大変な職業だということを考えさせられました。


久々に、ダン・タイ・ソンのマズルカを聴くことに。
お得意のショパンとあってたいへんよく考えられ、やわらかで、クリーンで、聴きやすい演奏。
欠けているとすればふたつ。
きれいだけど、すべてが予め準備されており、いま目の前で生まれたような反応や儚さを感じない。
また、ショパンではアクセントやルバートというか、いわゆるタメをどこにどれだけ設定するか/しないか…が大きな鍵になるけれど、そこに若干のアジア臭を感じるのが残念。

ショパンついでに、リシャール=アムランのバラード/即興曲。
癖がなく、キチッとよどみなく弾かれているけれど、身をまかせて乗っていける場所がなく、意外に雰囲気のない無機質な演奏。
ピアノはなんだろう?
時間とともにだんだんに耳障りな、刺さる感じの音になってくる点が気になるけれど、ブックレットに記載はないようでした。
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第3番以降

前回は、内田光子&サイモン・ラトル/ベルリン・フィルによるベートーヴェンのピアノ協奏曲のCDが届いてすぐだったので、書いた時点で聴いたのは第1番、第2番のみでした。

時間的な問題もあったけれど、その日、敢えて先に進まなかったのは、第3番以降はとくに念入りに聴きたかったので、1枚目のみに留めておこうという思惑もありました。

よく知られていることですが、作曲順でいうと2-1-3-4-5で、
第2番 どこかモーツァルトのコンチェルトの影を感じつつベートーヴェンの個性がまだ控えめ。
第1番 ベートーヴェンらしさがぐんと押し広げられて、明らかにモーツァルトの模倣から手を切っている。
第3番 得意のハ短調となり、ベートーヴェンの体臭がムンムンするような大曲に。
第4番 いきなり向きが変わり、この世のものとは思えぬ美しさを湛えた繊細で奥深い傑作。
第5番 すべてを総括するような肯定的で力強い傑作にして超有名曲。

あんな4番のあとに5番のような英雄的なものを書いたという点では、モーツァルトが40番のあとにジュピターを書いたことなどを連想してしまいます。

ま、そんなことはどうでもいいのですが、曲も3番からは佳境に入った感じで、演奏はいずれも見事なものでした。
とくに第3番では、旧盤で感じていた違和感はまったくなくなり、期待した通りの流れの上に、さらに内田の深まりやアイデアの閃きが次々に加わっています。
平行調ということもあるのか、第5番も概ね似たような印象。
この曲には勢いだけで派手に弾く演奏、皇帝という名曲についた外皮のイメージだけで弾く演奏、あるいは今風に低い温度で淡々と弾くだけといったものがほとんどですが、内田はいうまでもなくいずれでもありません。
細部まで詳しく、まるでビス一本見落とさない整備士のように作品を点検し、作品/演奏として再構築されたようです。
これまでについた俗っぽさや手垢を一度きれいに洗い流して慎重に組み上げられた文化財のようで、深みと初々しさが同居する演奏。
とくに第3楽章などは、爽快さをもって天空を駆け抜けるごとくで、和音やffの力だけに頼る演奏に対する、内田の確信的な答えを見せられた思いです。

しかしなんといっても5曲中もっとも強い感銘を覚えたのは(予想通りに)第4番でした。
第4番に関してはメータやヤンソンスとの共演など、DVDや動画で聴いていましたが、やはりCDとしてオーディオの前でキチッと耳を傾けるのは違います。

内田光子という稀代のピアニストの持ち味が、最も活かされる曲がこの第4番であることは、多くの音楽ファンの共通認識でしょう。
この曲で最高度に発揮される演奏の妙技は、モーツァルトやシューベルトで培われたであろうタッチの粒立ちの絶妙さ、芯があるけれども薄墨のような軽さ、弱音に込められる息の長い信じがたいような集中力など、とにかく耳が離せません。
まさに一音で色を変え、一瞬で向きを変える、内田以外では聴くことのできないデリカシー芸術を随所で聴かせます。

わけても第2楽章は奇跡的な美しさで圧倒されました。
ピアノの音すべてが内田の呼吸そのものであるかのようで、一つの究極を体験させられたような心地でした。
4番の第2楽章は、この曲のある意味聴きどころでもありますが、これ以上芸術的で神経の行きわたった演奏はこれまでに聴いたことがないと思われ、思わず涙があふれてくるのを抑えようもありませんでした。
この楽章ひとつのためだけにも、このセットを購入した価値があったと思います。
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再録の必要と不必要

最近はだんだんCDを買わなくなっています。
理由をひとことで言うなら、だいたい予測がついて、わくわく感がなくなったから。

CDというすでに山のように持っているものを、さらに買い続けるというのは、より素晴らしいものを聴きたいという常習性みたいなもので、要は気持ちの欲するままの行動だから、その気持がなえてくればそれでお終いでしょう。

なので、以前のようにめったやたらと買うことはなくなったし、これといって興味をそそる新譜が出てくるということも激減、作る側も、買う側も、ガクンとパワーが落ちてしまったというのが正直なところだろうと思います。

そうは言っても、これだけは何としても買っておかなければならないCDというのはたまにあるわけです。
たとえば、内田光子&サイモン・ラトル/ベルリン・フィルによるベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲がそれで、これは10年前のライブ録音をCD化したもの。
内田光子はすでにフィリップスから、クルト・ザンデルリンクの指揮で同全曲を録音しているけれど、あれは個人的にはイマイチと思っていたし、その後の内田のライブでの素晴らしさを知るにつけ、ぜひ再録をしてほしいと願っていました。
それがまさにカタチになったといえるCDです。

ただし発売後すぐに購入したわけではなく、CD注文の時は割引の事情やらなにやらで、ちょっと先送りにしていたけれど、こういうものは買えるときに買っておかないとなくなってしまう恐れもあるし、コロナで外出自粛の折、じっくり聴くのにちょうどいいというのもあって今回購入することに。

するといつの間にか、ラトル/ベルリン・フィルによるベートーヴェンの交響曲全曲まで抱き合わせになっていて、しかもお値段同じというすごいことになっていました。

さっき届いて、さっそくピアノ協奏曲の第1番から聴いていますが、ライブならではの気迫と一過性の魅力があり、内田の隅々までゆきわたる尋常ではない集中力と丁寧さ、音楽の息吹、気品、音色のバランス、そしてなにより趣味の良さが光る、おかしな言い方かもしれないけれど美術品のような演奏です。
ここまで芸術に徹したピアニストは二度と出てくることはないだろうことを、いまさらながら痛感。
内田光子の凄さというものは、もはやナニ人というようなことはまったく問題ではない次元のもので、厳密に言うなら、彼女は流暢な日本語が話せて、日本の文化にも通じたヨーロッパ人だと思います。

ネットで調べてみると、このCDに関しての内田光子のインタビューがありました。
「私自身は同じ曲を何度も録るの、好きじゃありません。それは演奏家の驕慢(きょうまん=おごり)です。よく3度も録り直して、最初のが一番良かったなんてケースもあるでしょ?大好きなサイモンとの記念でもあり、『出しても構わないでしょう』となったので」と述べているのはいささかショッキングでした。

この発言は、どうしてあのガチガチに突っ張ったようなモーツァルトのソナタ全集を、円熟の演奏で録り直さないのかと長らく疑問に思っていたことへの答えというか、彼女のスタンスが示されているようでもありました。

個人的には、内田光子のこの考えには半分賛成、半分反対ですね。
たしかにまたか!という感じで同じ曲や全集を録音したりする人に驕慢を感じることはあるけれど、逆に、録り直すことが必然と感じる場合があることも事実。
内田光子の場合は、モーツァルトのソナタ全集とベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲はその必要を感じるもので、両方に共通しているものは、筋はいいのだけれど、まだ充分に熟成されていないものを食したような印象が残ること。
ベートーヴェンはそれが達成されたわけですが、モーツァルトで世界のステージの住人になる切符を掴んだ内田が、そのソナタ全集をあれでいい、録り直しの必要はないと思っているとしたら、それはそれで逆の驕慢だとも思うのです。

たしかに、3度も録り直して最初のが一番良かったなんてケースは、思い当たる音楽家が何人か浮かぶし、その点では彼女の考えはいかにもいさぎよく立派だとも思います。
ただ、ご本人はどう思っておられるのか知らないけれど、モーツァルトのピアノ協奏曲に関しては、彼女の振り弾きによるクリーヴランド管弦楽団との再録は個人的には成功しているとは思えないし、初めのジェフリー・テイト/イギリス室内管弦楽団との全集のほうがはるかに聴いていて胸に迫るものがあり、魅力があったと思います。

再録することで細部の考証などは正せたのかもしれないけれど、マロニエ君にとってはそんなことは大したことではなく、魅力あふれる芸術的な演奏というものは、学究的な価値とは別のものだと思うのです。

モーツァルトのソナタ全集を再録しない理由で、もし納得できる理由があるとしたら、それは「もうやりたくないから」という場合ですね。
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ギックリ腰

コロナウイルスで緊急事態宣言、外出自粛など、日々を過ごすだけでも気を張ってストレスを感じるこんなときに、なんたることか、ギックリ腰になりました。

朝起きてしばらくして、着替えをして、床で靴下を履いて普通に立ち上がろうとした瞬間、腰まわりを稲妻に打たれた(ことはないけれど)ような感触が走り、そのまま立ち上がることができなくなりました。
まわりの机やら何やらを掴みながら決死の思いで立つことは立ったけれど、まず頭をよぎったのは「…これはエライことになった!」ということ。

当然それから何をするにも大変で、昼食を食べるのもやっと、ちょっとしたものに手を伸ばすことさえ強烈な傷みに襲われるし、そもそも真っ直ぐ座っているだけでもグラグラして文字通り腰が座りません。

どうしてまたこんな時期に、なにか不自然な姿勢をとったわけでもなく、変な力をかけたわけでも、重いものを持ったわけでもないのに、よほど日ごろの行いが悪いのか、なにかの罰が当たったのか、単にそういう歳なのかわからないけれど、目の前の現実がただただ腹立たしくて情けない気分。

ちょうど休日だったこともあり、午後はふらふらと壁伝いに自室に戻ってパソコンなどをやっていましたが、しばらく椅子に座って次に立ち上がろうとすると、それこそ耐え難いような激痛に襲われ、身体はくの字になったまま伸びないし、1メートル歩くのにも汗ばむほど。
本当にこれは大変なことになったと、ほんとうに泣きたいくらいでした。

何年も前の大晦日に、その時は自分の不注意からやはり腰を痛めたことがあったけれど、治るのにはずいぶん長くかかったし、コルセットが手放せない日々を送ったことでもあり、これから先のことを思うと暗澹たる気分になりました。
症状は時間経過とともに間違いなく悪化しているのがわかり、ベッドに横になるのも汗ばむほど難儀だし、横になったらなったで数センチ身体をずらすこともできません。

ちょうど知り合いのドクターにLINEでこのことを伝えると、専門ではないものの「そのうち治りますよ」という感じの軽い応答でしたが、しばらくして「えっ?」と思うようなコメントが届きました。

なんと、安静一辺倒かと思っていたら「最近は普通に歩いたほうが快復が早いという話が多い」のだそうで、整体師の中には逆さ吊りのような荒業をかける人もあるらしいということが書いてありました。

あまりの辛さから、この際どんなことでもやってやれ!という、ほとんど捨て身のような気分で、ゆっくりと腰をまっすぐに立てていたらどうにかなることがわかったので、階段の登り降りをやってみました。
普通なら、とてもそんな恐いことをする勇気などないマロニエ君ですが、これからはじまる辛く不自由な、脂汗まみれの毎日を考えたら、もうどうなってもいいというようなヤケクソの勇気が湧き上がり、痛さを無視して上ったり下りたり7〜8往復ぐらいすると、少なくともそれでひどくなる気配はなかったので、しばらく休憩して、ヨーシ!とばかりに夜の散歩に出かけました。

それでわかったことは、ギックリ腰といえども真っ直ぐに立って、真っ直ぐに歩くぶんには、思ったよりも歩けるということでした。
大事をとって家からなるべく離れないよう心がけながら、それでも数ブロックぐらい歩いたら、後半はさすがにちょっと辛くなってきましたが、なんとか無事に帰宅することができました。

それでも、就寝時は寝返りも打てないのは辛かったけれど、翌日はだいぶ収まってさらに散歩を続けると、夕方にはずいぶん症状が改善されており、前日に比べたら劇的な変化を遂げていました。

ギックリ腰=痛くて長期戦というこれまでの認識からすると、わずか一日でこれほど痛みが減るのは望外の事で、信じられない気持ちでした。
すでに4日を超えましたが、さほどの辛さもなく、注意深くしていれば普通に生活できて、車の運転をして食料品の買い出しにも行けるようになりました。

もちろん、医師でもないマロニエ君としては、無責任なおすすめはできませんが、たまたま自分にはこれが良かったようでした。
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収束後の世界は…

先日のEテレ-クラシック音楽館をみていたら、長引くコロナウイルス感染拡大の波を被った音楽界の様子をとらえた内容となっており、演奏機会を失った音楽家たちが発するメッセージと、過去の演奏などで構成された番組でした。

中でも指揮者で鍵盤楽器奏者の鈴木優人さんが、過日のバッハのヨハネ受難曲が「私の最後の演奏になった」という言い方をされたのは、おもわずドキッとさせられました。
もちろん、コロナウイルスによって公開演奏が一時的にできなくなる直前の「最後」という意味ですが、なんとはなしにそれ以上の深刻な響きがあったような気がしたのでした。

音楽家に限らず、あらゆる職業の人達が同様の苦しみの中におられることはいうまでもありません。
朝起きて外の景色を見ると、ときに眩しいばかりに美しい快晴の日があって、木々は風にそよぎ、目にはあたかも穏やかな平和な景色に見えるのに、実際にはこんなひどいことになっているなんて、そのたびにウソみたいな気がします。

以前テレビの討論番組の中で、竹中平蔵さんが言われた言葉はちょっと忘れることができないものでした。
もう録画は消去したので、正確に写しとることはできないけれど、要するにいつかこのコロナウイルスが収束しても、そこから始まる世界は決して元通りではないというものでした。

これだけの災厄を経験した世の中は、それ以前と以降では、明らかになにかが「変わる」というのです。
その根拠としてSARSやリーマンショックの前後をみると、そこを契機にあきらかに世界は「変わった」んだとか。

いまや世界の経済を牛耳り、人々の暮らしのカタチさえ変えてしまったGAFA (グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾンの頭文字をとったもの)は、リーマンショックの後に急速に躍進してきたもので、それ以前は大して意識もされなかったこれらの新興企業が驚くべき短期間に世界を席巻したということをみても、言われてみればそうだなと思いました。

コロナウイルスにとっては、国境も政治も経済も人種も知ったことではなく、まさに目に見えない悪魔となって地球上を飲み込む勢い。
こんなパンデミックの恐ろしさに震えながら過ごす毎日はいつまで続くのか…。

これは事実上の、砲弾が飛んでこないだけの第三次世界大戦のようでもあり、ノストラダムスの大予言が20年ばかりズレて起こったといえなくもない状況で、これだけのことを経験させられた世界は、たしかに竹中さんの云われるように、収束後は以前の通りということにはならないでしょうし、よく考えたらなるはずがないでしょう。

それがどんなものになるのかはわかりませんが、少なくとも今回世界を恐怖に落し入れたコロナ騒動は、SARSやリーマンショックどころではなく、それを思うとその向こうにどんな新しい世界が待ち受けているのやら、不気味な気さえします。

また、終わった時は、ただ終わった!というだけなのか?
現在は感染拡大防止と収束にむけて世界中が全エネルギーを注ぎ込み、文字通り戦いの最中ですが、これが一段落したら、発生源の原因究明、これほどの拡散に至った初期対応への検証など、相応の責任追求というのは厳しくなされるのか否か、こちらも気になるところ。

夥しい数の感染者、亡くなった方、ありとあらゆる予想だにしなかった途方もない損失損害、無事に生き延びたにしろ、その間に味わった不安と不自由と苦痛は、これはちょっとやそっとのものではないですからね。
収束したら「ハイおわり、お疲れ様、パチパチパチ」では済ませられないと思うのですが…。
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BOXセット2

例えばヘンスラーのバッハ大全集は、びっしり並ぶ172枚のCDにJ.S.バッハのほぼすべての作品が収録されており、これを聴くだけで数ヶ月を要しました。
ほかにもフルトヴェングラー107枚、モーツァルト全集170枚、グラモフォンのブラームス46枚、ブルーノ・ワルター39枚といった具合で、マロニエ君は「1枚のCDを1度聴いたら、ハイつぎ!」という聴き方ではないので、1セット聴くだけで大河ドラマ級の仕事になります。
いやいや、大河ドラマはたかだか週に1回45分ですが、CD・BOXセットの場合はほぼ毎日だから、時間的には桁違いです。

しかも、ひたすらそれだけを聴き続けることは精神的にしんどいし、自分なりの清新な気分を保つためにも、ときどき途中下車しながらのペースなので、そうなるとこれがもうなかなか進みません。

ごく最近もエラートのパイヤール全集133枚をようやく聴き終えて、ふだん耳にすることもない大量のバロック音楽に触れることはできたものの、正直、途中で疲れてきたのも事実で、ほぼ3ヶ月以上聴き続けてやっと終わった時にはもうお腹いっぱい、しばらくは結構となってしまいました。

フランス系で思い出しましたが、ミシェル・プラッソンのBOXセットも大量で、その時はめずらしいフランスの管弦楽曲漬けになっていたのに、今振り返ればそれっきりだし、本当は恥ずかしくて書きたくないけれどカラヤンのEMIの全集というのがまたとてつもない量で、これはカラヤンというのが続かずに途中棄権したまま。

こうしてみるとマロニエ君はピアノマニアのわりにBOXセットではピアノ以外のジャンルばかり買っているようです。
ピアノでセット物といえば、ずいぶん昔ですが、GREAT PIANISTS OF THE 20th CENTURYという、とんでもなく壮大なセットが販売されたことがありました。
しかもこれ、最近のように既存の音源を片っ端からBOXセットにして投げ売りするよりずっと前のことで、むしろ「いいものを作れば高くても売れる」という考えがまだ通用していた時代の、いわば入魂の豪華セットでした。

たしかスタインウェイ社が主導して、20世紀の偉大なピアニストを70人ぐらいを選び出して、その名演を集めたセット。
音源はレーベルを超えて集められており、立派な取っ手がついた小さなスーツケースのような専用ケース2つに収められ、一人のピアニストにつき2枚〜6枚で、計200枚ぐらいのセットでした。
当時からその70人余の選定には異論もあり、個人的にはタチアナ・ニコラーエワが入っていないことは納得できませんでしたし、日本人で選ばれたのは内田光子ただ一人でした(これは当然だと思うけれど)。

かなり高額でしたが、これはどんな無理をしてでもゲットしなくてはという意気込みから買ってみたものの、全部聴いたのかといえば、それは未だに果たせていません。
ゲットしたことで達成感にひたってしまい、たしか1/3も聴いていないと思います。
今もピアノの足下の薄暗いところに、ドカンとふたつのトランク状のBOXが重ねられており、そろそろこれを引っ張りだして順次聴いていこうかとも思いますが、なかなか着手には至りません。

それはともかく、多くの音楽・演奏を幅広く聴くことも大事だとは思うけれど、前回書いた通り、一つの演奏(アルバム)を繰り返し集中して聴くことのほうが、やっぱり得るものは大きいし、大事なものが残るような気がするのは事実です。

LPの時代、1枚のレコードを擦り切れるまで聴いたというような話は昔よくある事だったようですが、そうして得たものはその人の心に深く刻みつけられ、無形の精神的な財産や教養になっていると思います。

そんな吸収の仕方というか、限られた環境で貴重な音楽に接するときの気分というものは、今のようにデータの洪水の時代にはあるはずもなく、だからみんな知識はあっても器が小さく、却って無知で底が浅いのはやむを得ないことだと思われます。
人から聞いた話では、月に1000円ほどを支払えば、ネットで世に存在する大半のCD音源が際限なく聴けるそうですが、表現が難しいけれど、こういう物事が元も子もないような便利さと、音楽を聴くという喜びとか精神的充足感は、どこか根本のところでまったく相容れないものがあるようにも思い、それを利用しようとは思いません。

いくら高価な珍味でも、バスタブいっぱいキャビアがあったら食べる気にもなりませんよね。
CDのBOXセットは、それでもまだ自分でお金を出して買うだけマシかもしれませんが、それでも有難味という点では価値が薄れていくという危険は大いに孕んでいると思います。
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BOXセット

近年、スター級の演奏家もほぼ不在となり、芸術全般に対する関心度も下がる中、新しいCDを作っても売れる見込みが立たないのか、新譜の数も激減しています。
考えてみれば、好きな演奏家が新譜を出すといってわくわくして、発売日に即購入したいと思うような人はもういませんし、そもそもそんな時代でないということなのか。

時代の変貌、価値観の急速な変化、優劣で決まるコンクールが基軸になるなどの条件が重なって、個性のない平均化された演奏者ばかりがあふれ、若い人で人気があるといえば、ほとんど例外なくテレビタレントのような人で、ピアノの弾ける漫談家のような人も現れて、もうめちゃくちゃといった感じしかありません。

指揮者でいうと、いまどきはどんなに有名な人でも、練習風景の映像など見ると、まず楽団員に嫌われないように気を配り、低姿勢を貫き、愛想笑いを絶やさず、リハもいちいちお願いしてお礼を言っての繰り返しで、むしろ団員のほうがどことなくエラいような感じ。
それでは思い切ったこともできないだろうし、演奏はだいたい似たりよったりになるのは当然の帰結です。

かつてのような暴君や帝王がいいとは云わないけれど、そうかといって気を遣いまくる指揮者の演奏なんてあまり聴きたくもありません。
芸術と名のつく限り、そこにはエゴも魔性も毒も一定量は必要であるにもかかわらず、現代の演奏はそういう要素はことごとく除去されて、尋常で整った無味乾燥な演奏をしていれば次の仕事にありつけるのでしょうか?

器楽も同様で、追い求めているのは表面的な演奏クオリティとありきたりの解釈をセットにして弾く、それだけ。
技術的訓練はぬかりはないのだろうけれども、大曲難曲なんでもござれで片っ端から手を付けても、何のありがたみもないし、だからいまさらコストをかけて録音しても買う人がいないから、その数は減るいっぽうという気がします。

この傾向は当分変わりそうにもなく、各レーベルに残された捨て身のCDビジネスがBOXセットなんでしょうか…。

閉店前の放出セールでもないでしょうけれど、過去の名盤・名演を惜しげもなく集めてはBOXセットにして、昔ならおよそ考えられないような破格値で次々に放出されていますね。

老舗レーベルは過去数十年にわたって蓄積された膨大な音源があるから、ひとりの演奏家、作曲家、あるいは特定のテーマごとにBOXセットを組むことは可能でしょう。

こうしてひとまとめにされたずっしり重いBOXセットは、その誕生の経緯がどうであれ散逸することなく整理され、だれでも入手可能となるという点では価値あるものだとは思います。
BOXセットということで拾い上げられる以外、おそらく永久に日の目を見なかったであろう録音も、これを機に蘇るという点でも意義はある。

こちらにしてみれば、長年コツコツと買い集めたものが重複することも珍しくなく、これまで投じたエネルギーやコストを考えたらいやになることも正直あるけれど、それでも買い漏らしたものが手に入ったり、一枚ずつなら絶対に買わなかったようなものを聴くチャンスにもなるし、おまけに望外の低価格であることは大変ありがたい。
もしCD全盛の頃だったらほとんど0がひとつ違うほどで、一枚あたりに換算すると100〜200円ぐらいだったりして、買う側にしてみれば非常にありがたいけれど、演奏者には申し訳ないような気がするのも事実です。

果たして偉大な演奏家の長年にわたる演奏の軌跡を一気網羅的に辿れるのだから、かつてならまずできなかったような経験があっさりできるのは驚くばかりです。

しかし良いことばかりかというと、そうでもなくて、やはり一枚一枚を丁寧に、熱心に、集中力をもって聴くという、聴き手のスタンスがどうしても甘いものになってしまいます。
この手のBOXセットは、多くは膨大な数のCDがこれでもかとばかりにギッシリつめ込まれており、まず、ひととおり聴くだけでも相当な時間と根気を要するようなものがゴロゴロしています。

そうなると、どうしても先に進むことに追われてしまい、いつしか聴くことが仕事のようになってしまう危なさがあります。
せっせと聴いては次に進むという、まさに数を消化して終わらせるために聴いているようなもので、これでは音楽の楽しみとは似て非なるものになってしまいます。
贅沢な悩みではありますが…。
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ナショナルエディション

ついに緊急事態宣言は発令される段階に至りました。
福岡県も含まれており、食料ほか生活必需品を買いに行く以外、何もしちゃいけない雰囲気。
日ごろ普通にやっていたことが、ことごとく自粛対象となるようでもあるし、やはりこうなってくるとなにをするにも気持ちが整いません。

こんな中で、くだらんブログなんぞますます読んでくださる方もないとは思うけれど、もともと自己満足ではあるし、家で音楽を聴いたりブログを書くのは、感染リスクのないことなので、行動としてはマルの部類に入るわけで、そう考えると続けられるだけ続けていこうかと思います。


というわけでフランソワ・デュモンのCDから延長する内容。

ブックレットを見ると、ピアニストの名前のすぐ下に、わざわざ楽譜はヤン・エキエルによるナショナルエディションが使われている旨がさも大事なことのように記述されていました。

出ました、ナショナルエディション!
個人的な考えなので思い切って言わせていただくと、このナショナルエディションが唯一絶対のように扱われるようになってから、ショパンの演奏は、一気につまらないものになったような印象が拭えません。

ショパン研究の成果としては、それが最も正しく、原典版という権威を得ているのかもしれないけれど、個人的にはそれがなんだ!?としか思いません。
また、厳密には必ずしも正しいとは結論づけられない、絶対ではないとする意見もあるようで、どことなくポーランドがショパンの正統であるという覇権を握らんがための匂いを感じてしまいます。

ナショナルエディションによる演奏を聴いていると、ところどころに「あれ?」と思うような音が聞こえたりして、率直に言わせてもらうとあまり美しいとは思えません。
学究的には正しいことかもしれないけれど、なんだか違和感があるし、滑らかな音の流れの中に異物が混入している感じがあったりするのに、それがそんなにエライくて価値のあることなのかと思います。

ピアニストは自分の表現の自由までも奪われて、ナショナルエディションに従っています!というような演奏をせざるを得ないようになった印象があります。
ショパンコンクール自体がそれだから、それが世のショパン演奏の正統流派として大手を振り、大股で道路の真ん中を歩いています。
べつにポーランドに楯突くわけではないけれども、ショパンの研究と解釈という分野における強権的なものを感じて、マロニエ君はどうにも賛成しかねるものがあります。

コンクールに出るならまだしも、プロのピアニストが何の版を使おうが自由であるはずなのに、その呪縛と圧力があるのは疑問を感じます。

まだ指揮者のほうがいろいろなシンフォニーをいろいろな版で演奏したりしているけれど、ショパンに関してはそういう選択肢というか、自由は次第になくなっているような雰囲気を感じるのはマロニエ君の取り越し苦労でしょうか?

ショパン自身も演奏するたび、レッスンするたびに、細部を変更したり、書き換えたり、即興的であったり、本人でさえもどれが決定稿ということはなかったと伝えられています。
しかるに、まるで宗教が他派をすべて排撃するように、このナショナルエディションが唯一絶対のごとく君臨するのは個人的には違和感を感じます。

いまやコルトー版などはほとんど邪教のようで、芸術の分野で、そこまで厳しく限定するのは少しおかしくないかと思いますし、そもそも解釈とは突き詰めれば自分版だと思うのですが…。
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フランソワ・デュモン

新型コロナウイルスはますます猛威を振るって、いったいどうなるのかと、世界中が不安で厳しい日々を送っています。
TVニュースなどをつけていると、収束はおろか、日々怪物が巨大化していくようで、たまりません。
ブログでまでコロナコロナと喚いても仕方がないので、いつもの話題に。


またも期待してCDが外れました。

マロニエ君が好ましく思っているピアニストの中にフランソワ・デュモンがいます。
彼は2010年のショパンコンクールで第5位になったフランスのピアニスト。

第1位のアヴデーエワ以下、ゲニューシャス、トリフォノフ、ボシャノフと精鋭が並ぶ中、個人的には最も情感というコンクールではあまり期待できないものを感じ、聴いていて気持ちが乗っていけるショパンを演奏したピアニストということで、このデュモンの今後には期待していました。

純粋に技巧だけなら、4位以上の面々のほうが上かもしれないけれど、コンクールのライブCDを聴いていて、この人には他のコンテスタントにはないショパンの香りがあって、やはりフランスという国はさすがだなあと思ったし、何度も聞いてみたくなる唯一の人でした。

しかし、その後は期待されるほどのCDもリリースされず、わずかにラヴェルのピアノ曲集などを愛聴していましたが、やはりこの人にはショパンを弾いて欲しいと思っていました。

それから10年も経って、ようやく彼がショパンの21のノクターンをリリースしているのを知り、おお!!!というわけで、直ちに購入と思いましたが、あまり知名度がないためなのか、どこも「在庫なし/入荷予定不明」という状況。
今年のはじめに数カ月待ち覚悟で発注していたところ、さきごろ入荷のお知らせメールが届いて、ほどなく手許に。

期待に胸をふくらませながら聴いてみると…、ん???
第1番から固くこわばった感じで、なんだかいやな気配がよぎりました。
経験的に、良い演奏かどうか、少なくとも自分の好みかどうかは聴きはじめのごく短時間で決まってしまうので、好ましいものはすずしい空気を吸い込むように、ストレスなく耳に身体に入ってくるもの。

このCDで聴くデュモンは、ショパンコンクールでみせたみずみずしい語りかけや、詩的なものが随所に見え隠れするような絶妙さはなく、よくありがちな型通りの演奏で、この人ほんらいの良さがまるで出ていない印象でした。
必要なゆらぎやデフォルメがまったくない、プロなら誰でも弾けるような、取り立ててケチをつけるようなところもない…というだけのワクワクしない演奏。

マロニエ君が期待していたものは、あくまでもデュモンその人が感じたままのショパンであること。
それがほとんど感じられなかったのは、いったいどういうわけなのか。

とくにノクターンは、歌いこみのデリケートなイントネーションやアクセント、一瞬ごとの奏者の感性を受け取るところに醍醐味があると思っていますが、そういうものを丁寧に伝えようとする演奏ではなく、あくまでグローバル基準に舵を切ったような弾き方でした。
フランス語の多少はエゴもある演奏でいいのに、無理に英語を喋って常識的に振る舞おうとしているようで、だったらわざわざ長い時間待ってまでゲットする必要もなかったのにと思うばかりです。

現代のピアニストは売れるために個性を捨て、個性を捨てるから埋没するというジレンマに陥っているのかもしれません。

このデュモンのノクターン全集、いいところももちろんあるにはあるけれど、全体を通して何度か聴いてみて、後味として残るのはあくまで「普通」でしかありませんでした。
個性ある演奏家も、その個性を消さないといけないのだとすると、コンクールの基準は独り立ちしたあとのピアニストにもずっとついてまわるようで、それって何かが間違っている気がします。

間違っているとは思うけれども、世の趨勢というものには逆らえないものなんでしょうね…。
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チョン・キョンファ

BSのクラシック倶楽部でチョン・キョンファの2018年来日公演の様子を視聴しました。
以前にも放映され、再放送になっているものですが、ようやく再生ボタンを押しました。

チョン・キョンファのヴァイオリンは昔からとくに好きというほどではなかったけれど、この世代では世界的なヴァイオリニストのひとりとして数えられ、避けて通ることはできない存在だったから、折々には聴いてきたように思います。
つややかで洗練された演奏というのとは違うけれど、小さな身体の奥にいつも熱いものがぐつぐつとたぎっていて、演奏家としての誠実さと相まったものがこの人の魅力だったように思います。

彼女もすでに70代になり、若いころのような柔軟性やパンチはないけれど、情熱はまったく衰えずといった様子でした。
音形のひとつひとつに自分なりの意味を見出し、そのすべてに情念とでもいうべきものが込められているのは、最近のあっさりした演奏傾向とは逆を行くもので、断固としてそれを貫いている人だと思います。

ただ、自分でも驚いたことがありました。
それは最近のように、若い世代の演奏家の、ある意味無機質だけれど技巧的によく訓練されたスムーズな演奏が主流となって、好むと好まないとにかかわらず、そういう演奏を耳にすることが頻繁になってくると、不思議なことにチョン・キョンファの演奏がやたら古くさい、前時代的な感じがしたのです。
まるで昔流行ったファッションのようで、いま見るとちょっと「あれー…」みたいな感じ。

シャコンヌの入魂の仕方などは、バッハをあれほど直截に、劇的に、激く打ちつけ、苦しみ、思いのたけを吐き出すように弾いていましたが、マロニエ君のイメージでは、こういう曲はもう少し端正に曲を進めながら、人間の何か深くて激しいものがチラチラと見え隠れするほうがよほど聴く者の心を打つように思います。
バッハというよりは、なにか全身タイツの前衛バレエでもみているような感じでした。

フランクのソナタも、冒頭から一つ一つの音に呼吸と表情がつけられすぎているようで、これが彼女の解釈であり感じ方だと思うけれど、それがあまりにもこまかい刻みで入っていくため、フレーズが小間切れになり、却って曲の流れを損なっているように感じて、なんだか疲れます。

もうすこし力まずに音楽に身を任せたらどうかと思うのですが、こちらがそう思う陰には、先に書いたように最近の演奏傾向というものが──決して肯定はしていないけれど──知らぬ間に作用しているようにも思ったわけで、ちょっと複雑な気分でした。

チョン・キョンファは、おそらくは曲の解釈は入念にやっている筈だけれど、自分の主張のほうが優先されてしまうタイプの人で、若い頃はまだそこに一定の制御もできていたけれど、ある程度歳もとってくると、どうしても自我を抑える力が弱まるもので、結果的に自分に自分がふりまわされているように感じました。

えてしてこういうタイプの演奏家は、音楽に燃焼するのか、自己表出に気を取られてしまうのか、わからなくなるというのはままあることのように思います。

そうはいっても、こういうタイプの演奏家も出てこなくなるのかと思うと、それはそれで残念です。
やはり演奏家というものは「自分はこうだ」というものを一定の約束事の上に表現するのでなければダメで、誰が弾いているのかさっぱりわからないような、ただ上手くてきれいなだけの、規格品みたいな演奏なら聴く価値がありません。
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世代の響き

録画ではあるものの、このところ立て続けに3世代のスタインウェイによるコンサートをTV録画で触れることになりましたが、わりと短い期間であったため、それぞれの特徴があらためて確認できた気がしています。

少なくとも1960年代ぐらいから近年までに関していうと、大きくは3つに分けることができるように思います。
拙い表現でいまさら音色の特徴をあれこれ言っても始まらないので、今回は東京タワーの番組で見たような、時代の景色に喩えてみます。

1970年代までは雄渾な筆致の油絵のような風景の美しさ、光と闇がおりなす雄大な景色。
寛容で、ふくよかで、しかも力強さがみなぎり、人間臭い幅がある。
ピアノが必要以上に前に出ることはなく、ピアニストの一歩後ろに回っているが、必要とあらばどのような表現にも即応できる度量と潜在力を秘め、底知れぬ可能性がある。

1980年代を過ぎると、しだいに都市化が進み、ビルが建ってきて、飛行機が飛びはじめる感じ。
音色はより透明感を増して、ある種の洗練も経てスタイリッシュに。
音色の個性も整えられ、スタインウェイらしさがより明快に。

次の区切りがいつかはわからいけれど、21世紀とでもしましょうか。
ビルは高層化され、乱立し、一見華やかだけれど、もはや石やレンガ造りの貴重な建築はつぎつぎに建て替えられる。
ライバルの台頭、大衆社会の到来ですべてが競争条理に呑まれ、質より利益の戦いが露骨になり、合理化の気運があらわに。
有名コンクールでは、楽器メーカー側も同時進行的な競いの場になり、本来の音質よりも弾きやすさとか、単なる音の通りとかいったものを重視。

あきらかに音が小さく痩せて、鳴らなくなってコンチェルトなどでは、どんなにピアニストが熱演しても埋もれてしまう印象があります。
もしかすると、機械などで測定すると数値としては「何デシベルある」というようなことで、根拠の無い印象であり思い込みなどと言われるかもしれないけれど、実際そんなことはどうでもいいのです。
楽器というのは、聴いている人に与える印象が概ね真実だと思うのです。

かつてのボディや床を震わすような強烈な鳴りは失われ、他社ライバルと似たようなきれいに整っているだけのピアノになってしまい、よく「今の政治家は小粒になった」といわれるのと同じでは。

…とはいえ、ピアニストもそれじゃ困るような本物もあまり見当たらないから、それでいいといえばそうかもしれないけれど、やはり寂しく残念なことに変わりはありません。

新品から数年がピークで、予め賞味期限が見切られたような雰囲気で、これも時代の必然かと思うと、少なくとも自分はそうなる前の良い時代に生きられ、佳き時代のピアノの音をコンサートやCDで楽しむことができたことを幸運だったと思うしかありません。

たとえばアラウが残した名盤の数々は、演奏が素晴らしいのは言うまでもないけれど、あの太い指でおだやかに鳴らされる美音は、当時の楽器の素晴らしさも一役買っていたと思います。

品質には疑問が残るのに、価格は値上がりする一方で、どうなっていくのかとため息が出るばかりです。
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コロナとCD

世界規模にまで急速に拡大したコロナウイルス。
都市の封鎖や外出制限、各国の入国制限という厳しい状況になりました。

とりわけヨーロッパの感染拡大は衝撃的でした。
フランスでは全土で生活に必要な食料品店以外のすべてのカフェやレストランも営業停止、ルーブルも演劇も何かもがストップ、そうこうしているうちに「外出禁止令」が発令されたというのですから、この展開には驚くばかりです。
仕事、生活必需品の買い物、子どもや病人の世話以外は外出禁止。
違反をしたら罰金だそうで、第二次大戦のナチス占領下でも外出禁止は夜間のみだったそうで、昼夜を通じての禁止措置は仏史以来の初めてのことだとか。

今年は春を待たずにこんな厳しい事態が待ち受けていただなんて、誰が予想できたでしょう。
フランスに続いて、ニューヨークなどアメリカの各都市が外出禁止令となる気配があるそうで、もはや爆弾の飛んでこない戦時下のような様相。

当然のように、あらゆるイベントは中止に追い込まれ、スポーツも無観客試合などは日本でも当たり前になりつつあり、コンサートなども中止が当たり前のような状態で、テレビで大相撲の中継をちらっと見ましたが…なんとも堪らない気持ちになる光景でした。

当然なんでしょうが、クラシックのコンサートも軒並み中止という話を聞きます。
それでなくても、スポーツや他の音楽イベントとは違ってクラシックは慢性的な不況状態だったところへこんなことになったのでは、演奏家たちはもちろん、このジャンルそのものがどうなってしまうのだろうと思います。

まずは人の命であり、次に来るのが経済なのは当然ですが、その経済も世界規模で崩壊するのではという危機感が広がり、すでに「コロナ恐慌」などという言葉もちらほら出てきていて、とにかく困ったことになりました。

通常の経済活動が一斉にスイッチOFFみたいな危機に瀕しているわけで、もはやコンサートどころではないということでしょう。


最近読んだアンドラーシュ・シフの『静寂から音楽が生まれる』の中に書かれていて驚いたことが。
それは、一時期はこのピアニストの収入の約半分はCDによるものだったものが、現在ではわずか10分の1ほどまでに減少し、収入面ではコンサートの比重が増したというのです。

シフといえば、まあ世界のトップクラスのピアニストに数えられ、CDもバッハやベートーヴェンなど渋めのものではあるけれど、一時期は着実にリリースされてマロニエ君もよく買っていたものですが、このところ新譜があまりないなあという気はしていました。
かなりの人気演奏家であっても、新しいCDというのは激減しているのはひしひしと感じるところで、クラシック音楽の火はほとんど消えかかっているのでは?と思います。

とにかく、今どき、だれもCDなど買わない環境になったんですね。
さほど音楽なんぞに興味が無い上、その気になればYouTubeなどネットでほとんど無制限に聴くことができるようになり、それが当たり前の社会で生きているのに、わざわざ一枚につき2000〜3000円も出してCDを買うなんて、よほどの好きものか変わり者でないかぎりしないのでしょう。

もちろん、マロニエ君はその変わり者のはしくれなんでしょうけど。
今のうちに欲しいCDは買っておかないと、そのうちCDそのものが買えなくなる日が来るかも…ぐらいに思っていたほうがいいかもしれません。

このクラシック音楽不況の中で、小さな蝋燭の火のようになってしまっていたCD業界が、今回のコロナのひと吹きで消えてしまわないよう、音楽の神様に願うばかりです。
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HJ LIM-2

ついにWHOがパンデミック宣言をするに至ったコロナウイルス騒ぎ。
この渦中、のん気にピアノのことなんぞ書き連ねるのも違和感があるとは思いつつ「自粛」したところでなにがどうなるものでもなく、とりあえず従来通りにピアノ及びその周辺ネタで続けることにします。


HJ LIMのベートーヴェンにしばらくハマってしまい、このピアニズムによる他の作曲家の作品も聴いてみたいと思いCDを探したら、思ったほどありませんでした。
その中から、ラヴェルとスクリャービンで構成されたアルバムを購入。
ラヴェル:高貴で感傷的なワルツ/ソナチネ/ラ・ヴァルス
スクリャービン:ソナタNo.4/No.5/ワルツ op.39/2つの詩曲

平均的なピアニストにくらべればもちろん元気はいいけれど、一連のベートーヴェンで聴いた強烈なインパクトからすれば、ちょっと表現の振れ幅がセーブされた感じがあり、あの勢いでラヴェルやスクリャービンを料理したら、さぞかしエキサイティングで面白いことになるだろうという予想は、半分ぐらいしか当たらなかったという感じ。

パンチ、センス、自在さ、思い切りの良さ、どれもあるにはあります。
しかしベートーヴェンにあった全身で飛びかかっていくような突破感とか、次から次に音が前のめりに覆いかぶさってくるようなスリルはなく、最後の最後でやや制御が効いているような感じがあり、だれかから何か言われて、やんちゃ娘がほんの少しおとなしくしている感じが気にかかりました。

人が心を鷲掴みにされたり感銘を得たりするものは、その最後の紙一枚が違いが大きくものをいいます。

自分の感性の命じるまま、猫のようにしなやかになったかと思えば野生的であったりの変幻自在さ、いったんばらばらにしておいて最後で一気に引き絞って解決に落とすなど、その際どさ、さらにはそれを確かな技巧が下支えしているのがこの人の面白み。
人がどう思おうと私はこうなんだという物怖じしない度胸、エゴと大胆さが魅力であったけれど、どことなく常識の範囲を大きくはみ出さないよう制御している気配…。

本人はもっと暴れたかったのかもしれないけれど、CD制作会社とか録音スタッフがそれを許さず、キズのない常識寄りの演奏にさせたということかもしれません。

あるいは、ベートーヴェンで大胆に思えたことは、同じようなことをしてもラヴェルやスクリャービンで大して目立たず、作品の時代や構造そのものの違いによるものかもしれないということも、まったくないことではないかもしれません。

ただ、このCDのことはわからないけれど、一般論としてレコード会社だのプロデューサーだのが演奏のこまかい内容にまで口を挟み、あれこれ注文をつけて、駆け出しのピアニストであればあるほど、本人の思惑通りの演奏ができないということは往々にしてあるようです。
それがいい場合もあれば、個性をスポイルする場合もある。


それにしても、韓国には素晴らしいピアニストがいるものです。
思いつくだけでもクン・ウー・パイク、イム・ドンミン/ドンヒョク兄弟、ソン・ヨルム、そしてこのHJ LIMなど、それぞれ個性は違えど聴くに値する、素晴らしい人ばかり。

名前は覚えていないけれど、以前コンサートで聴いた若手の何人かもなかなか唸らされる演奏であったし、韓国はよほどピアノの教育制度が素晴らしいのかと思います。
音楽的な約束事がきちんと守られ、節度とコクがあり、しかも情感の裏打ちもされているから相応の感銘が得られる。
ショパンコンクール優勝のチョ・ソンジンを推す人もあるかもしれませんが、彼は良くも悪くも今どきの薄味な感じを受けます。
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パンデミック?

新型コロナウイルスの騒ぎは日々拡大し、深刻さの度合いを増しているようで、困ったことになりました。
くわえてしんどいのは、収束の見通しなど、先が読めないことでしょうか。

このような危難に際して、一市民としては日々の情報には敏感でなくてはいけないとは思うのですが、連日にわたり朝から晩までコロナ関連の報道を浴びせられていると、それだけでも気分は滅入り疲れきってしまいます。

ウイルスという目に見えない敵を相手にするのは、最も陰湿な戦いを強いられているようなもので、世にはびこるのは不安と疑心暗鬼。

マロニエ君のように情報に対して常に周回遅れの人間にとっては、気づいた時にはもうマスクなど買えるはずもなく、スーパーに行った際に薬局などをいちおう覗いてはみるものの、どこも棚はガランとして品物はなく、「入荷の目処は立っていません」みたいな紙がプラプラと下がっているだけ。

たった一度だけ、偶然だったのか無いはずの棚に7枚入りのマスクがほんの少しあって、本能的に手を伸ばしてゾワゾワするような気持ちでレジに持って行き、どうにか購入できたことがありますが、それも支払いが済んだ時には、次々に人の手にとられて、あっという間になくなりました。
あとは家にあったわずかな買い置きのマスクをかき集めて、これをなんとか大事に使うのが関の山で、ここ最近ではマスクをなんとか手に入れようという意欲も失いました。

隔離、封鎖、さらには非常事態宣言などという言葉も、なんともいえず心に重くのしかかるというか、いやでも絶望的な気分にさせられます。
世の中のイベントやら経済活動やら、あらゆる「動き」が自粛や中止となり、社会が一気に沈鬱な色に。

さらに個人的には、追い打ちをかけたのがティッシュペーパーやトイレットペーパーの類が一斉に店頭から消えてしまったこと。
マロニエ君はちょっとしたストック癖みたいなものを抱えているために、これは人の何倍もダメージを感じます。

はじめの頃、大型スーパーで人目もはばからず大量買いしていく人達の動画がSNSでアップされ、これが非難の的になりましたが、たしかにあれは見ていて気持ちのいいものではありませんでした。

でも、だからといって、それをネットなどで非難する論調も、やたら正義正論の拳をふりかざして、個人的にはちょっといただけない響きがありました。
デマに乗せられて行動する人達を、エゴの権化、愚の骨頂、社会の恥のように厳しく言い立てて批判してますが、人は恐怖にかられたときに、そんなに冷静にデマと真実の見分けなんてつくのか?と思います。

ティッシュペーパーやトイレットペーパーが無いことが多くの人達のトラウマになり、いまだになかなか買えませんし、こう言っては申し訳ないけれど、うちに少しの買い置きはあっても、もし売っていれば…やっぱり買うと思います。

マロニエ君宅は先月、タイミング的に調律を控えていたのですが、このコロナ騒動のせいか、調律師さんもパッタリ連絡してこられず、きっと気を遣って遠慮しておられるんだろうと思います。
なんとなく、そんなことやってる場合じゃない!みたいな空気なので、どうしたものかという感じです。

驚いたのは、テレビで専門家が言っていましたが、アメリカの古くからの風習では、ウイルスが流行るとなんとかいうパーティーをやって、人が集まってわざと感染するんだとか。
これは薬など容易になかった時代からの知恵なんだそうで、一度感染すれば抗体ができて却って安心という、なんとも荒っぽい(でも理に適った?)やり方のようで、びっくり。
欧米は今でも基本的に風邪やインフルエンザでは病院に行く習慣がなく(医療費が日本のように安くないこともあり)、一部では今でも残っている風習というのですから、なんとたくましいことかと唸りました。
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東京タワー

『新・美の巨人』というTV番組がありますが、東京タワーが採り上げられたことがありました。
戦後復興の中で、テレビ/ラジオ放送が始まり、そのつど局ごとに建てられる電波塔乱立問題を解消するため、総合電波塔が建設されることになり、内藤多仲の設計によって1958年の暮れに竣工した当時世界で最も高い電波塔。

マロニエ君の子供時代は、叔父叔母たちが複数在住していたことから、休みになると足繁く家族で東京に赴いていましたが、羽田に着いてタクシーで首都高を走って都心に向かうと、横羽線がモノレールと平行して走るあたりから小さく見えてくるのが東京タワーでした。
それがだんだん大きくなり、環状線に入って芝公園付近に達するや、その圧倒的な姿はこれでもかとばかりに眼前に迫り、いつも胸踊らせながら食い入るように見つめていたものです。

東京タワーの高さは群を抜いており、これを脅かすものはひとつもなかったところに、まず霞が関ビルができ、次いで浜松町に貿易センタービルが登場して、大展望台並の高さのビルができたことだけでも驚きでした。
その後は新宿に京王プラザホテル、池袋にサンシャインとだんだんに高層ビルができましたが、それでもさほどの勢いではなく、東京タワーの高さと存在感はバブルの頃までは維持されていたように思います。

しかし時は流れ、六本木ヒルズをはじめ高層ビルの乱立がはじまり、ついにその優位性が名実ともに決定的に奪われたのは、東京スカイツリーの登場であることはいうまでもありません。
でも、それが却って東京タワーの数値ではない品格であったり、歴史遺産としての貴重な建造物としての存在価値を問い直す結果にもなったように思います。

さて、番組ではとび職による建造中の様子など、貴重な写真や映像が数多く紹介されましたが、「うわっ!」と声を出すほど驚いたのは、タワーそのものではなく、竣工時(すなわち60余年前)の東京の景色でした。
いったいどこの田園風景かと思うような、のどかな野っ原の上に、できたての東京タワーはえらく淋しげにポツンと立っているだけで、まわりにはウソのようになにもなく、足下に小石でも転がるように木造の粗末な建物がちょこちょこっとあるだけで、まさにガリバー旅行記の一場面のようでした。

それが今はどうでしょう。
林立する高層ビルが周囲を取り巻いて、かろうじて東京タワーだとわかるのは、昔よりも色目が派手になった赤の色と、夜は目にも鮮やかな照明技術により、美しく照らし出されている効果も大きいように思います。
まさにひとりぼっちでスタートした東京タワーは、いまや人混みの中に凛と立つ貴婦人といった感じで、その光景は時代そのものの激しい変化と、とどまるところのない競争社会を象徴しているようにも思えました。

日本人の精神の中には「判官贔屓」というのがあるから、今の東京タワーのほうが人々からより愛される存在になっているかもしれませんね。

ちなみに、設計した内藤多仲は「塔博士」とも言われる鉄塔設計の第一人者で、ほかに名古屋テレビ塔、通天閣、別府タワー、さっぽろテレビ塔、そして氏の設計した最後の塔が博多ポートタワーで、その下に遊園地があったことから子供の頃に何度も登った博多港の小さなタワーが、まさか東京タワーと同じ生みの親だったとは、今回はじめて知りました。

各タワーの写真を見比べてみると、なるほど鉄骨の組み方から逆台形の展望台の形状や窓の感じまで、どれも似ているというか、同じDNAであることがわかりましたが、その規模、スタイルからして、東京タワーがダントツにカッコイイですね。
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武家の奥方

BSプレミアム・クラシック倶楽部の録画から、田部京子ピアノリサイタルを視聴。
2019年12月浜離宮朝日ホール、シューマン:子供の情景より4曲、ブラームス:ピアノ・ソナタ第3番。

田部さんのピアノは、すみずみまで掃除したての部屋みたいにきれいだけれども、どこかひんやりよそよそしさを感じるところが個人的には気になります。
あれほど型くずれもなく、ほとんどミスもなく正確に弾けるということは尊敬に値することですが、音楽・演奏に触れる醍醐味がそれで足りているのかとなると、どうなんでしょう。

ひとつ前にHJ LIMについて書きましたが、なにもかもが真逆とでもいうべきピアニスト。

それはシューマンの第1曲「知らない国々」のようなシンプルな曲がはじまった瞬間からも、ひしひしと伝わります。
たとえば、演奏に欠かせないもののひとつは呼吸だと思うけれど、田部さんのピアノには、むしろ呼吸という生々しいものを消し去ったところにある、なにかの細工物のような、端然とした佇まいといったイメージを覚えます。

慎ましやかで、愚痴をこぼさず、弱音を吐かず、しかも毅然と大きなものに挑んでゆく覚悟が秘められていて、まるでむかしの武家の奥方を思わせるような演奏。

ブラームスの3番のソナタのような曲を選び、準備し、コンサートのプログラムにあげるところにも決然とした気概のようなものを感じるし、何を弾いても終始一貫そのスタンスは変わらない。
解釈もアーティキュレーションも、少しもくせがなくて教科書的で、それをいかなる場合にも艶のある美音が支えている世界、それに徹することが田部さんの演奏家としての責任であり誠意なのかもしれません。

田部さんが楽壇に登場した頃は、大器などという言葉が使われたときもあったけれど、マロニエ君に言わせると、いかにも日本でピアノをやった人の美点を受け継ぐ人のようで、修練を重ねた手習いの成果のような、良い意味での日本人的な注意深い仕事ぶりを見る気がします。

それは見た目にも現れているというべきか、立ち居振る舞い、演奏する姿から衣装、人形のように見事に仕上がったヘアスタイルまで、すべてに細やかで一点のほころびもない完成度があり、これが田部さんの好む世界なんだろうと思われます。

どの曲においても、高い縫製技術で仕上げられたような信頼性がある。
そこには音楽を聴くワクワク感とはべつのもの、…あたかも口数の少ない人の話をじっと聞かされているようで、それはそれでひとつの個性なのかもしれません。
それでも、ブラームスの終楽章では、一種の到達の感動が得られたことは事実でした。


ピアノはそう新しくはない、おそらく1990年前後のスタインウェイのように見えましたが、いいピアノでした。

ネットによれば浜離宮朝日ホールは1992年のオープンとありますから、開館時に納入されたピアノだとすると27〜28年前ということになりますが、軽井沢の大賀ホールのスタインウェイとは明らかに世代が異なり、より現代的な要素を含みながら、それでもまだまだ「らしさ」が強く残っていた時代で、やはり今のものより格段に好みだと思いました。

それにしても、ブラームス・ピアノ・ソナタ第3番というのは、正直いわせてもらうと何回聴いてもダサい作品だと思ってしまいます。
随所にブラームスならではの味わい深い瞬間があるのはわかるけれども、全体を通して聴くと、やたら仰々しいものに付き合わされた気分のほうが勝ってしまい、もしかしてシンフォニーの下書きじゃないのか!?などと思います。

壮年期のポリーニあたりなら、壮大なピアノ作品として納得せざるを得ないような演奏をしたのかもしれませんが。
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HJ LIM

今年はベートーヴェンの生誕250年ということで、コンサートやCDなど、ベートーヴェンイヤーを意識したものも少なくないようです。

もはや、昔のような盛り上がりはないけれど、それでもベートーヴェンという巨大な存在ゆえか、それなりの注目度はあるのかも知れませんが。

コンサートなどもベートーヴェンイヤーにちなんだ企画やプログラミングになっているのでしょうし、CDもこの年にかこつけてベートーヴェンを録音発売(あるいは再販)というのはちょくちょく見かけます。

マロニエ君は今これが流行りと聞くとついソッポを向きたくなるほうで、世間がそれで注目したからといって素直に自分も歩調を合わせるといったことはしませんが、それでも、ベートーヴェンを耳にするチャンスが増えることで、そこから自分なりの聴きたいCDなどを引っ張り出してくるというようなことはあります。

実は、ベートーヴェンイヤーとは関係なく、昨年の秋ぐらいからすっかり彼の弦楽四重奏曲にハマっていたのですが、それはまた後日に書こうと思います。

その他のジャンルでは、思いつくままに聴いてはみるものの、これまでに繰り返し聴いたCDというのは、個々の演奏にある固有のちょっとした表情とか音のバランス、息遣いなど、演奏の指紋のように耳に残っているため、次がどうなると記憶にあるせいで、新鮮味がなくやめてしまうことがしばしばあります。
もちろん、ベートーヴェンともなると曲自体もあまりに耳慣れしてしまっていることが、あらたな楽しみとしては問題になることも。

ピアノソナタも長年聴いているし、下手ながら自分でも弾いたりしていると、さすがに飽きてくるもので、いまさらいずれかのボックスセットを取り出してしみじみ聴いてみようというところまでは達しないことが多いのも事実。

そんなとき、CD棚で別の探しものをしているときにふと目に入ったのがHJ LIMのソナタ集(中期の少ソナタを除く30曲)でした。
韓国の女性で、コンクールが嫌いというピアニスト。
購入したときは、ちょっとデフォルメがきつすぎるように感じたことと、ピアノの音(ヤマハCFX)があまり好きではないため、ひととおり聴いただけで放っていたものでした。

かなり鮮烈な演奏だった記憶はあったので、久しぶりに音を出してみると、これがかなり聴き応えのある素晴らしい演奏で驚きました。
奔放で恐れがなく、自分の感じるところに正直で、生きもの臭いぐらいな生命感が漲っています。
それが決して独りよがりでもなく、説得力のある演奏として成立しているし、さらに驚くべきは、HJ LIMというきわめて個性的なピアニストの演奏でありながら、ベートーヴェンをも常に感じるという点で、これはかなり稀なものではないかと思います。

伸縮自在、大きく掴んでは解決へと落としこむ、あれこれと疑義を発生させつつ最後にピタッと収支を合わせる、それでいて次がどうなるか予想がつかないスリルがいつもある。
演奏というものの魅力はまさにこういうところにあるのであって、世に横行する作品重視とクオリティばかりを前面に立てて安心するのは、演奏家としての自信の無さからくる逃げ道のように思います。
自分の考えを声にする自信がないから、当り障りのないニュートラルなスタンスにしておく安全策。

ベートーヴェンらしさとは何か、それが何かはわかりません。
しかし、いかにも楽譜を隅々まで検討しました、資料も読みました、自筆譜も見て検討しました、そうした研究や考慮を重ねた末にある演奏というものは、ある種の押し付けとか、あちこちに変なアクセントがついてみたりと、せっかくだけど何かが違うように思います。
よく言われることですが、ベートーヴェンは即興演奏の名人であった由。

苦難とこだわりの人生を送り、その作品は推敲に推敲を重ねたというけれども、その人物が存命中は即興の名人だったというのも有名ですね。
激情家で、現代でいうならクレーマーみたいな人物であったことを考えると、学級肌の学術発表のような演奏よりも、このHJ LIMのような一瞬一瞬の感興で掴みとったものをズバズバと音にしていくほうが、よほどベートーヴェンのに叶っているのではないかと思うのです。
とりわけハンマークラヴィア(とくに第4楽章)をあれだけの勢いで一心不乱に弾けるのは大したもの。

現代の一流とされる民主的な指揮者が、機能的なオーケストラを振って、全てがシナリオ通りに運んでいく、どこかウソっぽくて一向に炎のあがらないベートーヴェンよりは、いまだにフルトヴェングラーの雑味も含みながら正味で聴かせる演奏に満足と感銘を覚えるのは、理にかなったことかもしれません。
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1970年代のピアノ

BSクラシック倶楽部の録画から、佐藤卓史氏のピアノリサイタルを見てみました。

2018年6月1日、軽井沢大賀ホールでおこなわれた公演で、プログラムはシューベルト:楽興の時、ショパン:幻想即興曲/舟歌/英雄。

よく知らない方なのでネットで調べたら、芸大出身、ドイツなどの留学を経て、コンクールで入賞するなど、いわゆる日本人によくある王道を歩んでこられた方のようでした。
ホームページによれば、ライフワークとしてシューベルトのピアノ曲全曲演奏に取り組んでおられる由。

いかにもその経歴が納得という感じの堅い調子の演奏で、遊び心や微笑みといった要素は感じないけれども、カチッとしたスーツみたいな演奏を求める方には好まれるタイプのピアニストなんでしょうね。
ただ、シューベルトをライフワークとれているようだけれども、個人的にはもっとメロディのラインのおもしろみであったり、デリケートな呼吸の要素に気配りされたシューベルトのほうが聴きたいなぁというのも正直なところ。

ショパンも同様にいかつく、香り立つような要素は見い出せない印象でした。

インタビューでは、シューベルトもショパンも大きな会場で弾くよりは、サロンなど親しい友人などの前で演奏することを好んだ人達だから、このコンサートでも、聴衆の一人ひとりと親密なコンタクトを取るような演奏をしたいし、そのように聞いて欲しい、というようなことを言われていましたが、拙いマロニエ君の耳にはそのような演奏には聞こえず、むしろ大向うを狙った技巧主導型の演奏に思えました。

インタビューでの話の内容と実際の演奏が、合致していないように感じるのはよくあることですが…。


マロニエ君の記憶がまちがっていなければ、ずいぶん昔にミケランジェリが来日公演の折に持ち込んで置いて帰ったスタインウェイというのがあって、この会場のピアノは、それではないかと思いました。
軽井沢大賀ホールには、そういうピアノがあるというようなことを聞いたことがありました。

〜とここでネット調べてみると、やはりそのようでした。
ホームページにはNo.427700で1972年製とありますが、以前このブログ(2019.8.14)で正しいシリアルナンバーはエンディングナンバーとして判断すると、1973年製ということになるのかもしれません。

足などは新しい物に交換されているものの、鍵盤両脇の椀木のカーブの形状なども80年代以降のものとは微妙に異なるし、フレームのダンパーに近いあたりの上部にはエンボスの文字などが配されているのも、この時代までの特徴。

やはり、1970年台までのスタインウェイは、いい意味での素朴さがあり、ふくよかで厚みと太さがあります。
今のピアノは、どんな弾き方をしても華麗なサウンドでそれらしく鳴ってあげますよという一種の媚びがあり、一見奏者を選ばぬ許容量があるかのようですが、裏を返せばやたらピアノが前に出て、ピアニストや演奏を立てるというスタンスが失われている気もします。

その点で、この時代のスタインウェイは、パワーも表現力も非常にスケールの大きなものを秘めているけれど、主役はあくまでもピアニストであり音楽であり、ピアノは一歩引いた位置にあり、その潜在力を引き出すのはピアニストの技量や情熱に任されている感じ。

その点、スタインウェイに限らず今のピアノは表面的に音がきれいすぎて、整いすぎて、表現が悪いけれどそれがウザい。
それに対してこの時代のピアノは、一見おだやかそうにしているけれど、内側にはたくましい骨格と胸板と筋肉をもっており、ピアニストの扱い方ひとつで、詩人にもなればホール全体に嵐をも巻き起こせる可能性を秘めており、コンサートピアノはそうあってほしいものだと思いました。

ピアニストにとっても本当にいい演奏をしようと奮起するのは、やはりこういうピアノが現役を張った時代なのではないかと思いました。
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靴は大事

マロニエ君にとって、いつもウンザリすることのひとつが靴選び。
良いと思って購入したものが、いざ履いて出かけるとしばしば問題が起こり、普通に履き続けられるものがきわめて少ないのです。

靴が合わないというのは、単に足の問題だけにはとどまりません。
そこから体調やメンタルまで、心身の全域に悪影響がおよぶから困るのです。

なので靴選びはいよいよ念には念を入れて、サイズを始め、店内を何回もぐるぐる歩いてみたりと、それはもうしつこいばかりにチェックを重ねるのですが、本当のところは購入して実際に履いて出かけてみるまでわからない。
あれほど慎重に吟味して選んだはずの靴が、時間経過とともにじわじわとおかしなことになってきて、最後は脂汗をかきながら帰宅するときの、あの無念さといったらないのです。

したがって、マロニエ君にとって靴選びは少しも楽しいことではなく、また失敗したらという恐怖でしかありません。
「オシャレは足下から」なんていうけれど、正直そんなことはもはや二の次、そこそこ気に入った色とデザインで快適に履けるなら、安物で結構(というか高級品は買えませんが)。

昨年だけでも慎重に選んだつもりだったにもかかわらず、3足の靴がついに足になじまず、こればかりは人にあげるわけにもいかないので、数回履いただけの新品に近い靴をボツにせざるを得なくるのは、かなりのストレスです。

購入時はチェックも万全と思ったのに、後日、いざ履いて出かけてみると、はじめはほんの僅かな違和感からはじまり、それがだんだん募って確証へと変わり、やがて足先から毒素がまわるごとく全身に苦痛がひろがって疲労困憊するという流れ。
新しいからそのうち慣れてくる、革は伸びるなどと思って何度か試みますが一向に改善しない…どころか、時間が経てば経つほど靴の中はじんじんして熱を帯びたようになり、気分は落ち込み、体調までふらふらになってくる。

こうなると、恐怖が先に立って、でかけることにもビビってしまう始末。
ついには履きなれたヨレヨレのデッキシューズを車の後ろの床につんで出発しますが、やはりダメで、ものの10分でコンビニの駐車場に入って履き替えるといったことも何度かありました。
靴下のわずかな厚みによっても違うし、足の甲に当たっている感じのわずかな圧の分布のようなものが原因という気もしました。

では、そうならない靴はサイズが大きめでブカブカかというと、そうではなく、ちゃんと押さえるべき点は押さえていて、サイズの違いとも思えません。
でも合わないほうには、やはり変な圧迫感があるから、まずはそれを緩和したい。つまり広げたい。

靴の修理屋というのもあって、ここに持ち込んで広げてもらうよう依頼したこともありますが、結果的にほとんど効果はないし、ネットで見つけた「足になじまない革靴を広げるスプレー」というのも購入して試してみましたが、たいした効果はなく、万策尽きたというところでした。

そんなマロニエ君の靴事情ですが、過日ショッピングモールの靴店でバーゲンをやっていて、そこで試した靴が悪くない感じでした。
以前にも失敗したことがあるので、ここではもう買わないと決めていたけれど、1万円ちょっとのウォーキングシューズが30%offになっている上、PayPayが使えるとあって、それを使いたい気分にも後押しされて購入してみることに。

するとこれが全然疲れず、もともと1万円強のものだから品質もそれなりでしかないけれど、少なくともイヤなところがないのはとりあえず嬉しい限りでした。
マロニエ君の靴事情を知っている友人は、そんなのはきっと滅多にないんだから色違いを買っておけば?と言いますが、それも一理あるとは思いつつ、でもやはり2足目を買うほど魅力的でもないので、ただいま考え中です。

靴は大事ですね。
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カレンダー

ベヒシュタインのカレンダーというのがあるようで、先月たまたま手にしました。

ふた月ごと、大小2枚(計12枚)の写真があしらわれたもので、19世紀の工場の様子を描いた銅版画(おそらく)からはじまり、ワーグナー夫妻とリスト、ハンスフォン・フォン・ビューローがベヒシュタインの前で集う様子、ベルリンの国会議事堂に納品される写真、贅の限りを尽くしたヴィクトリア女王のベヒシュタイン、バックハウスとベヒシュタインなど、貴重な絵や写真にすっかり見入ってしまいました。

ロンドンの良質なコンサートが行われる会場として、現在もその権威を保ちながら存在するウィグモア・ホールは、もともとはベヒシュタイン・ホールであったとは!?今回はじめて知って驚きでした。

まさに、このピアノメーカーは、音楽の歴史とともにあったということが窺えるものでした。


これとは対照的だったのが、暮れにいただいたS社のカレンダー。

こちらもふた月ごと、6枚の写真があしらわれたいつものスタイルですが、今回のものはとくにパラパラッと見たときから首を傾げたくなる感じが。

後部ページには『S(ブランド名)のある暮らし』とあり、『世界中の邸宅でご愛用いただいているSピアノの美しい写真を題材に制作いたしました。』と記されています。
しかし、そこにあるのはまるで人の気配など感じないマンションの広告のような光景ばかりで、あまりの無機質な感じはピアノのある心なごむ空間どころではありません。
いまどきは、ちょっとした家電のタカログでも、もっとオシャレでヒューマンなぬくもりの演出は欠かせない要素となっているものですが…。

中でも5/6月と7/8月は際立っており、その言い知れぬ違和感に思わず見入ってしまいました。
すぐにわかったのは、なんとこの2枚のピアノは、アングルからイスの位置までまったく同じ写真で、いわゆる合成画像でした。
今の時代、報道写真でもないのだから、合成というのもアリかもしれません。
しかし、技術的にも、センスにおいても、これはいささか…と思いましたし、隣り合わせに同じ写真を使うというのも、もうちょっと配慮はなかったのかと思います。

部屋とピアノは、それぞれ光の感じも質感も違うし、部屋を写したアングルと、ピアノ写したカメラでは目線の高さがズレているのか、床と鍵盤が並行に見えないあたりは気持ちが悪くなりそうです。
今どきこんなレベルのフェイクがあるのかと、正直おどろきました。

メーカーにしてみれば、ただピアノを見せるのでなく、自社のピアノがさまざまな場所に置かれたイメージによって、ゆくゆくは販売に結びつけようという目論見があるのかもしれません。
とくに現在は何にも優先して新品の販売に的を絞っているのかもしれませんが、それにしてももうすこしやり方はなかったのかと首をひねりました。

それと、甚だ申し訳ないけれど、あれが「世界の邸宅」などとといわれても、本当にそう思う人なんているんでしょうか?
せいぜい海外のTVドラマのセットぐらいなもので、ましてそれがSピアノのイメージを高め、購入への一助になるなんて、とうてい思えませんが…。

ちなみに、今は「邸宅」の概念も変わっているのか、なにかというと総ガラス張りで海が一望できたり、タワーマンションの上層階で夜景が楽しめたり、友人とバーベキューができるみたいなことが贅沢の象徴とされており、ともかく文化のレベルが猛スピードで衰退しているように感じます。
そんなに海と夜景とバーベキューって重要ですかね?

少なくともそういう価値観に遠くないカレンダーでした。
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シフの協奏曲-2

アンドラーシュ・シフのピアノと指揮による、ベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲演奏会。
それなりの予想はしていたものの、個人的にあまり好みの演奏ではありませんでした。
もちろん、高く評価する方もおいでのことだろうと思いますし、ここではあくまでもマロニエ君個人の感想です。

そもそも、なかば習慣的にベートーヴェンに期待するもの…。
たとえば、生々しい苦難と喜び、様式と非様式、改革者にしてロマンチスト、野趣、執拗、到達、炸裂があるかと思えば至福の美酒で酔わされるといったようなものとはどこか違っていました。
いかにもシフ流の、枯山水の境地のごとくで、生臭いベートーヴェンの世界に身を委ねる「あれ」とはずいぶん違いました。

個人的に一番好ましかったのは第2番で、続いて第3番、第4番で、この3曲はよく弾き込まれている印象。
ただし4番では、この典雅を極めた作品にはいささかタッチが荒いため音色への配慮に欠け、あちこちで似つかわしくないキツイ音がしばしば聞こえてくるのが気にかかりました。

いっぽう、第1番/第5番は、曲と演奏のキャラクターが噛み合っていない感じがついに最後まで払拭できずに終わりました。

このふたつは淡々と弾き進めばいいというものでもなく、全体に肯定的な推進力が必要。
あまり曲に乗れていないようであるのに、外面的には達観したような、すべてを見通した哲人が必要なものだけをうやうやしく取り出して見せているような風情があって、いささか独りよがりな印象を覚えました。

また(少なくともベートーヴェンを)レガートで弾くということがよほどお嫌いなのか、全体を通じて、やたらノンレガートもしくはスタッカートばかりで、バッハではよほどなめらかに自然に歌っているのに、なぜか腑に落ちない点でした。

ピアノフォルテ的な響きや表現も念頭に置いてのことかもしれないけれど、モダンピアノでその性能を充分に使い切らないような弾き方をすることに、どこまで意味があるんだろうとも思います。
以前書いた、古楽器奏者のブラウティハムは現代のスタインウェイできわめて美しく第5番を演奏をしていたことが、しばしば思い起こされました。
シフなりによく研究し、熟考を重ねてのことだとは思いますが、要は趣味が合いませんでした。

番組では、随所にシフのインタビューも挿入され、自分がベートーヴェンを弾くまでにいかに長い歳月を要したか、またベートーヴェンの偉大さ難しさ、人生や作品の特徴などを、まるで賢者のように自信たっぷりに解説していましたが、シフ自身は今の状況をとても楽しんでいるようでした。


アンコールには、バッハが聴けるのかと期待していたら、なんとピアノ・ソナタ(テレーゼ)が全曲演奏されました。
この曲を選んだ狙いとしては、ベートーヴェンのピアノ協奏曲は第5番をもって終わり(op.73 1809年)、この第24番がop.78で同じく1809年に書かれたということから、皇帝のすぐあとに連なるピアノ作品という意味合いでもあったのだろうと思います。

もともと2楽章形式の短いソナタではあるものの、それをアンコールですべて弾くというのは意外でしたが、敢えてこの美しいソナタによって2日間の終わりを締めくくるといった意図でもあるのだろうと思われます。
それはともかく、この人はやはりソロのほうが好ましく思え、細かいニュアンスなどではっとさせられる瞬間があることも事実で、どうもコンチェルトでは真価が出ない人だと思いました。

最後になりましたが、使われたピアノはベーゼンドルファーのインペリアルで、超大型ピアノながら内気な性格のようで、ハスキーな小声にくわえて、ほとんどがつんつんとはじくようなタッチで弾かれるためか、このウィーンの名器を堪能するには至りませんでした。

ピアノはステージ中央でやや斜めに置かれ、前屋根をやや浮き上がった角度にするなど、こまかい演出もシフのこだわりだろうかと思われますが、この「ほんの少し斜めに置く」というのはとてもよかったと思います。
通常はソロであれコンチェルトであれ、ピアノはきっちりと横向きに置かれるのはまるで風情がないけれど、わずかに斜めに置くことで、やわらかな感じが出ていたし、雰囲気とはちょっとしたことでずいぶん変わるものだと思いました。
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シフの協奏曲-1

昨年11月、東京オペラシティーで2日間にわたって開催された、アンドラーシュ・シフ&カペラ・アンドレア・バルカによる、ベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲演奏会の様子がEテレのクラシック音楽館で、2週にわたり放送されました。

実際の演奏会は、一日目が第2番、第3番、第4番、二日目が第1番、第5番というものだったようですが、放送順は逆でした。

その感想をブログに書こうと思っていたので、インタビューから演奏まですべてを視聴しましたが、約4時間という長丁場もさることながら、必ずしもマロニエ君にとって好みの演奏ではなかったこともあり、正直「時の経つのも忘れて楽しむ」というわけにもゆかず、むしろ頑張って見たというのが正直なところ。

まず全体を通しての、率直な印象でいうと、この人は必ずしもベートーヴェン向きの人ではないと思うし、さらには協奏曲向きの人ではないということでしょうか。

バッハのソロであれだけの見事な演奏を聴かせる人だから、シフは現代のピアニストの中でも屈指の存在だとは思うけれども、やはり演奏家というものは、自分に合った作品をもう少し厳選して欲しい…というか「すべき」だと思います。
この人は端然としながら確信にみちた演奏をする反面、曲によってはかなり面食らうような演奏もするから、波長の合った作品では右に出るもののない素晴らしさで聴く者を魅了するけれど、それがいつも期待通りに安定しているわけではありません。

むかしむかし、シフの素晴らしさに気づいたのはメンデルスゾーンの無言歌集であったし、決定的だったのはいうまでもなく一連のバッハ録音でした。
バッハは、ごく初期(録音が)のものは固さと慎重さが隠せなかったけれど、次第にツボにはまってこのピアニストの魅力が滲み出るものとなり、さらに後年2回目のバッハに至っては、各声部は代わる代わるに自在かつ即興的に飛び交い、まさ新境地を打ち立てたと言えるでしょう。
シューベルトのソナタでも、彼の人格そのもののような解釈で朗々と歌い出され、ある種とらえ難いシューベルト作品もシフの手にかかると、明瞭な意味と言語で視界がひらけて、あたかも曲自身の意志で流れ出すようでした。

いっぽう、あれ?と思ったのはモーツァルトがそれほどとは思えないものであったり、スカルラッティなどもいまいちで、こんなにもムラがあるのかと首をかしげることもしばしばでした。
とはいえ、近年の録音や動画で接した一連のバッハの素晴らしさは、そういう不満を吹き飛ばすほど素晴らしいもので、まさにバッハ演奏によって現代の巨匠の位置にまで駆け上がったように思います。

しかしながら、この人は、自分に合ったもの、自分が得意なものだけえは満足しないのか、シューマンなどのロマン派にも手を出し、さらにはベートーヴェン・ソナタ全曲にも挑み始めましたが、どこぞのステーキ店ではないけれど、いささか急速な事業展開をしすぎでは?という気がしなくもありませんでした。
そのうちのいくつかのソナタやディアベッリ変奏曲を聴いてみましたが、個人的にはバッハのような感銘を得るには至りませんでした。

シフ自身は自分のベートーヴェンをどのように思っているのだろうと思います。
世の中には、どんどんレパートリーを増やしていくピアニストもいれば、しだいにレパートリーを特定のものだけに絞って若いころ弾いたものでも弾かなくなってしまう人がいますが、シフは一見とても慎ましいイメージがあるけれど、レパートリーに関しては大胆な挑戦者であることを望んでいるようにも思えます。


とにかく、マロニエ君としては、このピアニストにベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲演奏というのは、さほど食指が動かずCDも未購入でしたが、実際聴いてみて、やはり!というのが率直なところ。

ちなみに、カペラ・アンドレア・バルカというオーケストラは、アンドラーシュ・シフのシフが小舟という意味であることから、それをイタリア語に置き換えてアンドレア・バルカとなっている由。
シフの聖歌隊とでもいうのかどうか知らないけれど、シフの呼びかけで集まる非常設のアンサンブルのようで、名前からして彼が好きにやれる室内オーケストラということなんでしょう。

ネットによれば、今回はベートーヴェンの協奏曲を携えてのアジアツアーというものだったようで、全12公演、うち5回が日本、それ以外は中韓の各都市を回ったようです。
本人の言葉によればソナタの全曲演奏もすでに27回!!!もおこなっているというのですから、誠実で物静かな音楽家というイメージの裏側に、かなりの精力的なマグマがうごめいているのかもしれません。

つい長くなったので、続きは次回に。
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努力という才能

知人からの情報を得て面白い番組を見ました。

音楽やピアノにまったく関心のなかった海苔漁師の52歳の男性が、たまたまテレビでフジコ・ヘミングのラ・カンパネラに出会ったことがきっかけでスイッチが入り、自分もラ・カンパネラを弾きたい!という一大決心をしてピアノを開始。
その7年後、ついにはフジコ・ヘミング本人の前で演奏を果たすというもの。

奥さんがピアノの先生で、家にはグランドピアノがある環境ではあったようですが、「音大出の私でも弾けないのに、あんたに弾けるはずがない!」と一蹴されるも、まったく意思はゆるがず練習開始。
それまで、ピアノの経験は一切なく、酒をのんでは演歌を歌うぐらいなもので、楽譜もまるで読めないという、まさにゼロからのスタートだったとか。

練習方法は、タブレット端末のアプリなのか、音が画面内の鍵盤を光らせるようなものを見ながら、すべてを指の動きに叩き込んで覚えるというやり方で、番組によればまったくの独学というですから信じられません。

さらに驚くのはその尋常ならざる熱意と猛練習ぶり。
なんと毎日8時間、これを7年間、仕事以外のすべてを犠牲にして、全エネルギーをピアノの練習につぎ込み、ついにはこのラ・カンパネラをマスターしたというのですから、開いた口がふさがらないとはこの事です。

ピアノの常識でいうと、50過ぎてまったくの白紙からピアノに触り、いきなりラ・カンパネラという跳躍の多い技巧曲に挑んで、それを7年かかって成し遂げるということは、モチベーションの持続など、いろいろな意味からほぼあり得ないことですが、それをやってのけたこの方の驚異的な熱意と実行力たるや尊敬に値するもの。
とりわけ練習嫌いのマロニエ君には「練習とは、かくも尊いものなのか!!!」と考えさせられました。

それに比べたら、フジコ・ヘミングの前で演奏したかしないかは、個人的には大して重要とは思わず、これは要はテレビ番組の企画だと思いますが、それが企画として成立したのも、この方の奮励努力の末に奇跡的な結果を生み出したことが呼び寄せたことだと思うのです。

長年漁師をされてきたという浅黒く逞しい太い指が、慎重に鍵盤の上に置かれて演奏開始。
あの長い曲を少しもごまかすことなく、すべての動きをひたすら反復し、それを記憶し、自分の体に叩き込むことで立派に最後まで弾き通すということを、まぎれもない現実として多くの人が目撃したわけです。

このカンパネラを聴きながら、一途に努力を継続できることは、それ自体がひとつの才能だと思いました。
脇目もふらず、なにがあろうと、ひたすら努力を続けるのは、強靭な意志力が必要だけど、ただそれだけでできることでもなく、それが長年にわたりへこたれることなく続けられるという、ご当人の適性とかメンタルを含めて、さまざまな条件が揃わなくてはならず、だからこそ「才能の一種」だと思うのです。

マロニエ君はそれがゼロなぶん、この方がよけい輝いて見えました。

それともうひとつ触れないわけにはいかないことが。
それは、この方のラ・カンパネラには、非常にオーソドックスな良さがあり、曲は違和感なく恰幅があり、はっきりと音として作品の姿が見えたこと。
教師であれ、ピアノ愛好家であれ、やたら叩きまくるか、音楽性のかけらもない変な節まわしや意味不明のリズムやアクセントなど、指はどうにか動いても、それがなまじ偉大な作曲家の作品であるぶん冒涜的となり、聞くのはかなりしんどいものがほとんど。
そこには、曲への理解不足、第一級の演奏に対する無知と無関心、音楽経験の浅さ、さらにはこうした技巧曲を弾けるという自慢ばかりが横行している中、この方のカンパネラはなんとまっとうなバランスが保たれていたことか!
ここがマロニエ君にとって一番の驚きだったといってもいいと思います。

殆どの人は、この方がラ・カンパネラを弾けるようになったという、要は、きわめて困難な指の運動と記憶の作業をやり遂げたことに感嘆するかもしれませんが、それはもちろんそうだけれども、出てくる音楽がきわめて正常なものであったことはさらに瞠目させられた次第。

おそらく、フジコ・ヘミングという技術はそれほどではないけれど、とろみのあるずしっとした演奏を繰り返し聴かれたことで、知らず知らずのうちにその特徴までもが、この方の中にしっかり染み込んで根を下ろしていたのではないかと思います。
ピアノは練習しているのに、名演を聴かない(かりに聞いて技術的上手さだけ)人というのがあまりに多く、音楽はまず自分の練習時間と同等かそれ以上に聴きこみ、惚れ込まなければダメだということの証左でもあったように思います。
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美食の時代

正月休み中、ショパンのノクターンを通して聴きたくなり、ずいぶん久しぶりにダン・タイ・ソンのCDを聴いて過ごしました。

端正でスムーズ、嫌なクセがどこにもないのは、聴いていてまず快適で気持ちがいい。
全編に聴こえてくる肉付きのある温かい音、繊細さを損なわないのに臆さない芯もあるところがこの人らしさでしょうか。
かねてよりマロニエ君は数あるノクターン全集の中でも随一のものだと思っていましたが、いま聴いても(というよりいまのほうがさらに)魅力的で、非常に聴き応えのあるものだと思いました。

昔は、ダン・タイ・ソンの演奏は美しいけれど曲によってムラがあることと、いささか淡白な面があるところが気になっていましたが、今どきのハートのない無機質な演奏を耳にしていると、この人なりの明確な美意識とこまかく行き渡る情熱が裏打ちされており、あらためて感銘を覚えました。

彼のショパンすべてが良いとは思わないけれど、ノクターンはこのピアニストの美点と長所が最も発揮される分野だと思います。
こんなに素晴らしかったかといささか驚きながら、数日間、繰り返し聴きました。

ショパンのノクターン全曲は、それなりにいろいろなピアニストが録音しており、中には「同曲最高の演奏!」のように褒め称えられたものがいくつかありますが、マロニエ君はその評価には同意できないものが少なくありません。
とりわけ評価が取れるのは、いわゆるショパンらしさを捨て去って、無国籍風に、荘重で、劇的に、楽譜に忠実に、レンジを広く取ってピアニスティックな精度を上げて弾けば、おおかた高評価に繋がるイメージです。

ダン・タイ・ソンのノクターン全集は、1986年に日本で録音されたもので34年前ということになりますが、そこにはまだ演奏に対して、ひたむきな表現とそれを認めようとする価値観が支配していた時代だったことが窺えます。
この1980年代、まだ演奏者の個性や人間性が、いかに演奏上の息吹となって表現されてくるか、作品をどう解釈しているか、そのあたりを芸術性として、聴き手も強く求める気風が残っていたことが偲ばれます。

それと、やはりピアノが今のものと違い、無理なくとてもよく鳴っていることは唸らされました。
表面的な派手さみたいなものはなく、むしろ柔らかい音のするピアノなのに、現代のものに比べると深いところからずっしりと鳴っており、全音域にわたって音のエネルギーや迫力がまるで違いました。

今のピアノを聞いていると、いかにも精巧で整ってはいるけれど、音に肉付きがなく、心に響く(残る)ものがない。
もしや、自分がピアノの音をありもしないレベルに理想化し過ぎてしまっているのでは?と疑ったこともありますが、こういう音を聴いてみると、決してそうではないことが明白でした。

1986年録音ということは、必然的にそれ以前に製造されたピアノで、かといって1960年代ごろのピアノには感じない洗練や緻密さもあるから、おそらくは80年台の前半の楽器ではないかと(勝手に)思います。

ヴィンテージを別にすれば、個人的には一番好きな時代のスタインウェイです。
その時代の空気、そこに生きるピアニスト、楽器、そして作品となにもかもが揃っていたというか、端的に言って、音楽も昔はずっと贅沢で美食だったんだなぁと思いました。
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設定とキャッシュレス

スマホであれパソコンであれ、新しいものを使いはじめるときに、毎回必ず疲労困憊するのが各種の設定。
これをササッと難なくこなしてしまう方は大勢おいでのことと思うけれど、この手のことが格別苦手なマロニエ君にとっては、これはまぎれもなく苦行で、なんとかならないものかと思います。

そもそも、携帯のショップからして苦痛のはじまり。
機種選びからプランの決定、ああだこうだと作業は果てしなく続き、なにもかも終わってようやく椅子を立って外に出るまでに、べつに特種なお願いをしたわけでもなく2時間以上かかったし、これはきっと毎日それを扱い慣れているプロフェッショナルでも、かなり時間を要することなんでしょう。
加えて、メールの設定だのLINEの移行だのは、どうやら自分でやらなくちゃいけない作業のようで、これはもうマロニエ君のような人間にとっては病気になりそうなくらい疲れ果てること。

しかも、普通ならわからないことがあれば購入店に聞けば済むことが、そうはいかないのが携帯の世界。
ほんのひとつ教えてほしいことがあって出かけたついでに立ち寄ろうにも、どんな些細なことでもいちいち番号札を取って順番待ちをするところからはじめなくてはいけないし、前回じっくり付き合ってくれた担当者と思っても、よほどの偶然でもない限り、もう事実上言葉を交わすこともないほど対応する人は「その時かぎり」であって、まるで行きずりの☓☓のよう。

そんなことを考えたら、ショップに行く意欲もなくなり自分でやるしかなくなるわけですが、これがもう難儀で、結局はカスタマーセンターのようなところに電話しまくって、ひとつひとつを導いてもらうしかありません。
唯一の救いは、電話にでるオペレーターは皆さん親切なこと。
そこで指示されるあれこれの操作は、到底ひとりで奮闘したところでわかるはずもない複雑なもので、みなさんどうされているのかと心底疑問で仕方ありません。

とにかくあの「設定」というのはわからないことの連続で、今やこれ、マロニエ君が日常の中で最も嫌いなことのひとつに踊り出ています。
機械は正直だから、きっとこちらの操作が悪いのだろうとは思うけれど、設定どころかちょっとしたアプリ会員とかメンバー登録のたぐいでも、まあとにかくすんなり行ったためしがありません。

もはや「ログイン」とか「パスワード」とかいう言葉だけでも嫌悪感を感じてしまいます。
わずかのことで、何度でも情け容赦なく差し戻されて、しかもどこがいけないのかわからないから、いつもイライラかつクタクタ。

人に聞いたらPayPayがお得だというので、よせばいいのにこれを登録したら、これがまた設定だの連携だのとわからないことの連続で、何が悲しくてこんなことにエネルギーを消耗しなくちゃいけないのかと思いつつ、いったん始めたからには途中で諦めるのもくやしいから、文字通り歯を食いしばって高い壁を汗だくでよじ登るごとくになってしまいます。

そうまでして設定と連携が終わったPayPay。
…ところが、これが使える店というのは、実際まだまだで「なーんだ、まるで役に立たないじゃないか!」と思うほど使える店が少ないのには大いに落胆しました。
ダイソーが使えるのは逆にびっくりだったけど、現状ではネット専用と考えるべきかもしれません。

まだ交通系カードのほうが利用機会は多く、日本がこの分野で「遅い」というのを実感しました。
「便利」で「お得」という立て付けのもと、昔ならシンプルに財布から現金でお金を払えばすんだことを、今は「この店は何が使えるか/使えないか」をいちいちチェックする新習慣ができたりと、やっぱりトータルでいうと人の仕事はさほど減っていないように思います。

逆に、このところあまりにもキャッシュレスに囚われていたので、普通にサイフを出して、普通に現金で支払ったら、それが新鮮なほど単純明快で簡単で、けっきょくなんでこれじゃいけないのか!?と思いました。

AIだか何だか知らないけれど、末端の人間の消費行動のデータをせっせとどこかに献上しているようでバカバカしくもなったし、それによって得られるわずかのポイントやなにかは、このデータを売っている対価のようなものかも…。

テレビの討論番組などでは、キャッスレス化が進んで「じきに現金の優位性が落ちてくる」「サイフや現金が要らなくなる」などと経済アナリストがしたり顔でしゃべっていますが、ふん、いつのことだか!と思うこのごろです。
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iPhoneかわいい

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお付き合いくださいませ。


昨年12月、ついにスマホを買いました。

その理由は単純で、この先もガラケーで押し通すほどのサムライでもなく、iPadをカバンに忍ばせて持ち歩くのが重くて面倒くさくなったことと、スマホは今や時代の主役となって久しく、もはや時勢には逆らえないというあたりでしょうか。

知人のアドバイスもかなり後押しになったし、キャッシュレス、カメラ/動画、LINE等の通信手段、ナビゲーション、その他使いおおせないほどのありとあらゆるアプリがあふれ、これを世界の老若男女の大半が持っているわけだからすごいもんだと思います。

思い起こせば、むかしは21世紀になったら誰もが気軽に月旅行に行けたり、車は空を飛んでいるといった無邪気な空想をしていましたが、それはそうならなかったけれど、スマホはある意味それに匹敵する技術革新でしょうね。

世の中の仕組みも、スマホがあることを前提としており、そうではない人のことなど置き去って前進している。
誰もがあの小さな端末を握りしめ、生活の大部分を依存/支配されており、マロニエ君はべつに何かの活動家でもないし、もはやそれを使わない理由もないと思い至りました。

その気になれば、iPadでも似たようなことはできないことではないようですが、サイズも機能のうちで、いちいちあの重い板切れを取り出すのではその気になりません。
バスと普通車ぐらいの差があり、そのための使いにくさと煩わしさがあり、やはりiPadは「小さくない」し「重い」。

マロニエ君が使っていたのは、正しくはiPad mini なので、いくぶん小さく軽いほうでしたが、それでもカバンはズシッと重くなるし、独特の塊感があり長時間になると手や肩は結構な負担になるなど、それを前提としたカバンを持つ必要さえありました。

出かける際も、あれこれの支度に加えて、iPadはカバンに、携帯をポケットに!というのが忘れてはならない必須確認事項に組み込まれ、そうまでしてさんざん持ち歩いたあげくに一度も使わなかったなんてこともザラでした。

昔なら、それでもネット環境がかばんで持ち歩けるなんて夢のようで、そんな程度の重さなんてぜんぜん厭わなかったけれど、時代は常に「当たり前を更新」してしまい、いまではこれが苦痛として迫ってきていたのです。

巷で流行りのキャッシュレスやポイント/クーポンのたぐいも、レジでカバンの中をゴソゴソやってiPadを取り出して画面を開くという手順はけっこうな集中(というか緊迫!)を強いられて煩わしく、下手をすると普通に財布から現金で払ったほうが、どれだけ単純で楽かと思うことも。

ガラケー&iPadという組み合わせは4年間お世話になったスタイルでしたが、iPadとiPhoneは、電話機能を有無を除いてほとんど違いはないと思っていたけれど、実際は「似て非なるもの」でした。
しかもそれは、機能というより、気持ちの上での違いが大きいことも大きな発見でした。

いまごろやっとスマホを手にして、その感動をこうしてブログの文章に綴ることじたい滑稽のそしりを免れませんが、まあそれが事実なんだから仕方がありません。

というわけで、ついに手にしたiPhoneですが、これが想像以上に便利だしiPadにはなかった緊密性があり、長年2つに分かれていたものが小さく1つに集約できただけなのに、このほっこり感はなんだろう!?という感じ。

さらに言うなら、おかしなことに、なんというか独特の可愛さがあって、小さな相棒というか、まるで頼れる秘書を常に何人も引き連れているようで、これはiPadにはない気分でした。

かくて、4年間行動を共にした2台のiPadは自宅内のパソコンのない部屋用の中間端末へと降格されて、いつもテーブルの上にべたんと鍋敷きのようにへばりついています。
まるでホールに新しいピアノが来て、前のは練習やリハーサル用になるように。
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今年最後

今年も残すところ残り2日となりました。
月並みですが、本当に時の経つのが年々早くなってきている気がします。

世の中も不安定化が進み、国際社会はどこを見てもきな臭い話ばかりだし、自然災害も脅威の度合いが強まるなど、この先いったいどうなるのかと思います。

とりわけ文化の質の低下があらわになっているのは、専門家にいわせればいろいろな理由があるのだろうと思いますが、マロニエ君が端的に思うのは、やはり西洋文化の本場にして担い手でもあるヨーロッパの弱体化は要因のひとつだろうと思います。

ピアニストもいわゆる真の大物やスターは、どれだけ待ってもこの先当分は出てこないでしょう。
整った教育制度で培養された、コンクール出身の、芸術性より能力に秀でたピアニストが、似たようなレベルで、似たような演奏を職業的にしてまわるだけで、ワクワク感がないからテンションあがるわけがない。
高度な技術はあっても、表現に対するこだわりや冒険がなく、研ぎ澄まされた感性の導きとか、美に耽る様子などさらになく、すべてがフェイクっぽい空気感で、それで感銘を受けるほど聴衆の心はお安くはありません。

楽器のほうのピアノも、まるでわけがわからなくなりました。
大衆品ならいざ知らず、一流メーカーまでもが、どうも陰でコソコソやっているのが気に入りません。
見た目は立派で、ピカピカきれいで、同じマークをつけているけれど、生産過程は闇だらけのまるで信用に足らない状態になりました。

どこぞの国でかなりのところまで作って、最終仕上げだけを本来の国や工場で行うというのもかなり横行しているようで、どこまでが正当な分業で、どこからが欺きに近いものかの判断基準もあいまい、すべてが秘密裏にやられていてわからない。

一時は製造国を隠して販売することが商業道徳上の問題となったこともありましたが、現在その汚染は更に広がり、巧妙化し、より悪質になっている印象です。

…けれども、それをけしからんと嘆いても詮無いことで、要するに世の中はそういうところまで否応なしに来てしまったということだろうと思います。

こちらだってそうはいいつつ、日常生活の中では同様の思想や価値観やシステムで作られた「安くてよくできた製品」をさんざん購入し、それらにまみれてメリットを享受しておいて「ピアノだけはダメ」というのは、心情としてはそうでも、現実に通用する話ではないのでしょう。

わざわざヨットに乗って大海を往来して批判の声を上げる気骨もなく、欲しいものは安い通販を利用し、旅行となれば安価な航空券を探しまわるのですから、自分自身が完全にその構造の中に生きているわけで、これが時勢というものかと思うばかり。

せめて過去の遺産や名品を大事にしていくぐらいしか、今できることはないようにも思います。

さて、来年はどんな年になることやら、この日本丸の乗組員として成り行きを見守るだけですね。
年が明ければ令和二年となり、なんだか慌ただしい感じです。

ブログをお読みくださる皆様、今年もお付き合いくださりありがとうございました。
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アンゲリッシュ

クラシック倶楽部で、今年10月、紀尾井ホールで行われたニコラ・アンゲリッシュのリサイタルの模様を視聴。
曲は、バッハ=ブゾーニのコラール「きたれ、異教徒の救い主よ」とシューマンのクライスレリアーナ。

書くかどうか…実は迷うところではあったのですが、ネタも乏しく、あえて書くことに。

アンゲリッシュという人は、これまで実演を聴いたことはないけれど、いくつかのCDや動画によれば、とくに印象らしいものがない中堅ピアニストということぐらいで、あまり言葉が思い当たらない存在でした。

ところが、ネットでみるとかなりの絶賛ぶりに面食らってしまいます。
とくに宣伝においては、今どきなので、まともに受け取ることもないけれど、別の人のことでは?と思うようなものばかり。
「世界中から引っ張りだこのピアニスト」
「類稀なる鮮烈ピアニズム」
「多くの人に衝撃を与えた」
「アルゲリッチが絶賛!」などと書かれているけれど、彼女は自分が褒めることで他のピアニストを支援するというような使命感があるのか、とにかくだれでもやたらめったら褒めまくる人。
しかも、そのアルゲリッチ自身がインタビューの中で(少なくともマロニエ君が見たものは)アンゲリッシュをほめているのは『スターという感覚はないかもしれないけれど…』と人柄をいっており、演奏そのものを絶賛というようには受け取れませんでした。

プロフィールによると、アンゲリッシュはアメリカ生まれで13歳でパリ国立高等音楽院にいったとあるけれど、マロニエ君の耳には、あまりパリの水で顔を洗った人のようにも聴こえません。

とにかく、どこを切ってもおとなしい優等生のようで、レシピを見ながら真面目に作った料理みたいで、この手はやはりアメリカに多いタイプのような気が…。

この人を聴いていると、ビショップ・コワセヴィッチ、ギャリック・オールソン、エマニュエル・アックスなどに共通するものを感じて、あまりにも平凡、アーティキュレーションが不明瞭で、要するに曲に対してなにをどう目指しているのかも伝わってきません。
それから見れば、クライバーンなどはテールフィン時代のキャディラックのような、ある種の純粋なアメリカの魅力はあったように思います。

アメリカ(出身か育ちかはわからないけれど)という国は、自由のきくエンターテイメントはお得意でも、様式とか約束事の多いクラシックの演奏をもって最高を目指すといったことが体質的に合わない気がするし、その合わないことを努力でやっているからどうしても萎縮するのか、どっちつかずの結果になってしまうような印象。

アメリカ人には世界の超大国としての豊かさやおおらかさが気質としてあり、そこに切羽詰まったものがないからか、クラシックの演奏家でとくに秀逸な人材が育ちにくい国だというイメージがあります。
大戦を逃れて偉大な音楽家が大挙して流入したけれど、それでもどうにもならない壁がある…。

温厚でフレンドリーなのは、仲間として付き合うにはいいのかもしれないけれど、鑑賞として演奏を聴くぶんには(とくにソロは)マロニエ君は相当つらいというか、わざわざ彼である必要が見いだせません。

もちろんアンゲリッシュのような演奏を、奇を衒わず、安心感を持って聴けるとして好まれる方もおいででしょうが、中にはあえてこのタイプの人を賞賛することで、鑑賞者としての自分の慧眼をアピールするというパターンもあったりするから、やはり信じるのは自分の耳しかない。
そういう人達の推奨ネタとして、よくこのタイプの地味で演奏家が推奨される。

そこで混同されがちなのは、真面目で温厚な人柄と演奏評価がごっちゃになること。
個人的にお付き合いする相手ならそれも大事ですが、一介の音楽鑑賞者としは聞こえてくる演奏がすべてだから、ピアニストに演奏以外の要素を求める必要はない。
それより触れれば血がふき出るような才能とか、とにかく音楽のためになにか尋常ではないもの、ときに狂気さえも必要なもの。
プロフェッショナルのステージに凡人の居所はないというのがマロニエ君の考えです。


余談ながら、ネットで見ることのできるアンゲリッシュのプロフィールを見て、かなり驚きました。
出身、学歴、受賞歴はともかく、これまでの共演した指揮者やオーケストラ、ソリスト、参加した音楽祭など、その他さして重要とも思えないようなことまで、信じられない量を書き連ねるのはいかがなものか…。
本人の名前だけでは通用しないことを裏付けているようでもあり、逆効果ではと思いました。

少し話は逸れますが、マロニエ君は名刺に大げさな肩書をズラリと書き並べる人というのが、どうも信用できません。
ご当人にしてみればなによりのご自慢なのでしょうが、見せられた側はハッタリ屋のような印象しか抱けません。

アンゲリッシュがそれだというつもりは毛頭ないけれど、ああいうプロフィールを見たらどうにもシラケてしまい、却って本人の足を引っ張っている気がします。
人にはそれぞれの持って生まれた立ち位置というのがあって、俳優でも、人並み以上の容姿と演技力が備わり人気もあるけど、どうしても主役にはなれない人っていますが、そういうピアニストではないかと思います。
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ステファン・ポレロ

音楽が演奏される際、作品、演奏者、楽器、そのいずれもがきわめて大きな要素を占めるのはいうまでもありません。

さらに演奏会となるとホールの音響はたいへん重要となり、CDでは録音のやり方やセンスに負うところも大きくなります。
とくにホールの音響とCDの録音状態はかなり大きな要素で、これが一定水準を満たしていないとすべては台無しに。
コンサートや録音のほとんどは作品や演奏がメインですが、たまには楽器が主役になることも。

フランスにステファン・ポレロ(Stephen Paulello)というピアノ設計家がいます。
詳しいことは知らないけれど、中国のハイルンピアノでホイリッヒなどの設計をしているようでもあるし、フランスでは自身の名を冠したオリジナルピアノ(しかも交差弦と平行弦の両方)を作っているようです。

以前にもステファン・ポレロ・ピアノ(このときはおそらく交差弦)を使ったラヴェルのピアノ曲集など、いくつかのCDを気がつく限り購入しては聴いてみましたが、どこか無機質でこれといって際立った印象はなかったというのが正直なところ。

今回は、並行弦で奥行きは3m、しかも102鍵というベーゼンドルファー・インペリアルよりもさらに5鍵多いステファン・ポレロ・ピアノを使って録音されたというCDがあったので、早速購入してみました。
曲目はわざわざ書くこともないけれど、いちおう次の通り。

リスト:ロ短調ソナタ
シューベルト=リスト:白鳥の歌より3曲
ドビュッシー:前奏曲集より3曲
スクリャービン:詩曲、夜想曲/焔に向かって
演奏:シリル・ユヴェ

evidenceというレーベルの、立派な装丁のCDでしたが、まず音がやけに小さいことに驚かされ、初っ端からいやな予感が。
普通はロ短調ソナタなど開始間もなくの激しいオクターブなど、思わずドキッとすることが多いのに、演奏そのものもやけに力感がないことに加えて録音も音が小さいというダブルパンチで、まず普通に聴くことが難しく、何度も何度もボリュームを上げるしかなく、ついには普段やったことがないところまでつまみを回して、やっとどうにか…というものでした。

これは、意図あってのことかもしれないけれど、マロニエ君はこういう録音というだけでストレスで、聴こうという意欲をかなりそいでしまいます。
演奏も、とくにどうということはない地味なもので、この演奏と録音をもってステファン・ポレロ・ピアノをアピールしようとしても、かなり難しいのではと思いました。

ちなみにCDのジャケットにはStephen Paulelloのロゴがあり、タイトルも「OPUS 102」というこのピアノのモデル名のようなので、このアルバムはピアノが主役であることは疑いようがありません。

シリル・ユヴェというピアニストは、調べてみるとフォルテピアノのプレイエルやエラール、シュタイン、ジョン・ブロードウッドなどを演奏しているCDや動画あるようで、この手のCD制作に応じるピアノマニアのピアニストなのかも。

ここに聴くステファン・ポレロの印象は、どちらかというと冷たい音(それが良さかもしれないけれど)で、個人的には惹きつけられるものは感じられませんでしたが、こういう音が好きという人もおられるのでしょう。
何か特別なものが心に残るようなものはなく、平行弦のピアノの良さもわかるような…わからないような…。
全音域が均一というのは聴き取ることができる点で、一音一音が独立したトーンをもっており、すべての音がシャープでスパッと刀を振り下ろすような感じ。

写真を見ると、木目の外装にフレームが銀色、さらに鮮やかなブルーのフェルトが目を引きますが、いかにもそういうイメージの音だと思います。
かろうじてわかったのは、音に声楽的な要素はなくパワーも感じないけれど、音の分離と伸びが良いようで、これが並行弦故の特徴なのか、あるいは広大な響板と長い弦によるものなのか、それははっきりはわかりません。

ただ、ベーゼンドルファー・インペリアルにしろ、オーストラリアのスチュアート&サンズにしろ、超大型ピアノというのはどこか茫洋として(それを余裕と捉える向きもあるのでしょうが)、結束した感じに乏しく、低音域は似たような音になるような印象をもちました。

話を冒頭に戻すと、ピアノの魅力を伝えるには、やはりそれなりの魅力ある演奏と録音でなくては、ピアノの音に耳を傾ける前にその一風変わった録音と、まったく面白味の欠片もないモタモタした演奏にぐったり疲れてしまいます。
せめて、ナクソスのCDぐらいの演奏と録音であればと思うばかり。

バレンボイムもスタインウェイDベースに並行弦のピアノを作らせたりするぐらいだから、独特の良さがある筈だと思いますが、それを聴き手に伝えて納得させるには、奏法もそれに即したものでなくてはならないと思われますが、今はまだそういう演奏には出会えていない気がします。
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季節の変わり目

日ごと週ごとに寒さが身にしみる季節になりました。

歳時記風にいうと四季の移ろいは趣があって好ましいことのようになっていますが、身体には結構しんどくて、変化する季節への適応力が年々落ちてきている現実をいやでも思い知らされます。
これはもちろん自分が歳だということが第一でしょうが、では若い方が屈託なく元気に過ごしているのかというと、意外にそうでもないらしいことは折々に耳にします。
今どきは子供でもストレスを抱え、些細なことで体調を崩し、いちいちたいへんなのが現代人。
そして、熱が下がるようにすっきり回復することもない。

マロニエ君はもともと運動が苦手で元気溌剌というタイプではなかったけれど、それでも昔は体調管理だなんだということを意識することもなく無邪気に過ごせたことを考えると、昨今は生活形態の変化や、時代に流れる固有の空気のようなものの影響なのか、世の中全体が繊弱になっている印象があります。
多くの人がなにかしら心身の問題を抱えており、制約も多く、ごく単純にいって、昔のほうが人は自然でパワフルで生き生きしていたと思ってしまいます。
それでも平均寿命は現在のほうが伸びているのでしょうから、なんだか変ですね。

音楽にも似たところがあって、主観に導かれた大胆な演奏は許容されず、技術は優っているのに生命感がない。

季節の変わり目になると、往来にこだまする救急車の音も、その数はあきらかに増してくるような…。
これからの季節で気をつけるべきはいろいろあり、まず肝心なのは変化に対する充分なイメージというか、いわば覚悟で、その覚悟があるとないとではだいぶ違います。
覚悟といえば、マロニエ君にとって季節の変わり目はよその家などに行くのが危険な季節でもあり、ここにも密かに身構える必要があります。
「密かに」といっても、それをブログに書いているようじゃ始末に負えませんが。

季節の変わり目は、人によって、冷暖房の使い方は思いのほか差がでる季節でもあり、当然自分の家のようなわけにはいかないから、それがマロニエ君にとってはかなりしんどい事態を引き起こします。
夏なら真夏、冬なら真冬のほうがむしろよく、微妙な時期には冷/暖房をなかなか使わない自然派がおられますが、まさか暖房を入れていただけませんか?とも言えず、これが身に堪えます。

危ないのは外より運動量も少ない屋内で、まして人様のお宅に行って上着を取らないのは甚だ非礼だとは思うけれど、非礼でもなんでも寒いものは寒いのであって、それで風邪をひき、悪くすれば肺炎などに発展するよりはいいという究極の選択になります。
肺炎などというと「なにを大げさな!」と思われるかもしれませんが、ささいなことが引き金になることもあり、肺や気管支が弱い人間にはささいなことがおそろしいのです。
そういうわけで、やむなくアウターを着たままになりますが、相手もさるものでそれでこちらの窮状を察してくれる様子もなく、至って平然たる様子だから、それならこっちもこれでいいのかな?と思いつつ、まあできるだけ危険には近づかないに限ります。

スーパーなどで買い物をする際に寒いのは、こちらも気構えもあれば防寒もしているし、なにより売り場を歩きまわるという活動をしているからまだいいけれど、ただ椅子に座って話だけをしていて、身体はいつしか芯の芯まで冷え切ってしまうと、帰宅後はまず間違いなく体調を崩します。

結局、自分の身は自分で守るしかない。
我が家では夏冬の冷暖房は言うに及ばず、その前後もエアコンが途絶えるときというのがほとんどなく、どうかすると昨日まで冷房、今日から暖房というようなことにもなるのも何度もあり、これはいささかやり過ぎだとは思うけれど、そうなるのだからやむを得ない。
自律神経はみだれ、精神的にもかなりのエアコン依存といって差し支えなく、それ自体が問題とは思いつつも、すでに長年このスタイルで生きてきたんだし、もういまさら体質を変えられるわけもないから、このままいくしかないでしょう。

最後に話をむりにピアノに持っていくようですが、季節の変わり目はピアノも心なしかご機嫌ななめで、鳴り方に活気がなくなったり陰を感じたりするし、日によってばらつきを感じたりしますが、しばらくするとまた少しは回復して安定するところなど、まったく人の体調と変わらないなぁと思います。
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続ピアノカバー

ピアノは内部がこもったり錆びたりという観点から、できるだけカバーをかけないほうがいいというのは、技術者さん等がほぼ口をそろえて言われます。
のみならず、個人的なイメージでは、カバーの生地そのものが湿度を吸い寄せ、含み、内部へ送り込むような気もします。

それと、あのカバー姿のピアノが発するいかにもな日本式の雰囲気もいやで、いかにもピアノを習っている人がいて、その人のみが与えられた課題を練習し、その先には先生や発表会の世界があるといった、あの感じがどうも…。

ピアノの存在によって、音楽が傍にあるというイメージには必ずしもなっておらず、どこか取ってつけたような存在というか、違和感の中で孤立しているよう。
本を読んだり絵を見たりするのと同じように、ピアノがあって音楽を身近に自然に楽しんでいるという気配はあまりない。
むしろお稽古臭が強く、それをより引き立てているものが一連のカバーだと思うのですが、カバーそのものをかける最大の理由はなによりキズ防止とホコリがしないように…なんでしょうね。
多くの日本人は、音色や音質や表現力には寛容でも、キズだ汚れだとなると世界一なぐらい嫌いますね。

少し話は逸れますが、マロニエ君はピアノの保管状況を考える時、最も基本にしているのは自分の体感です。
温度が何度、湿度が何%かという数字も大事ですが、ピアノによい環境というのは人が快適に過ごせる状態と非常に近いものだと思っており、自分が快適ならピアノも同様だろうという勝手なルールです。
個人的に湿度には敏感なほうなので、まず部屋に入って肌で感じ、それから湿度計をみるとだいたい大ハズレはしません。
室温もあまり急激に上下すると身体がきついように、ピアノも同様だと考えています。

年間を通じて、一般家庭でホールのピアノ庫のような環境を作るのはぜったい無理なので、せめて実行可能なやり方としては、この体感方式はそこそこの妥協点ではないかと考えており、我が家ではずっとこの方式です。
あまり頻繁にエアコンのON/OFFなどせず、長時間出かけるときや夜中はともかく、なるべく一定を保つようにしていますし、季節によって除湿/加湿による調整を加えます。

で、この体感方式から判断しても、一般的なカバーのたぐいはピアノが快適だろうとは思えないわけです。
さらに前回書いたように、カバーは個人的にはビジュアル上も抵抗を感じるから、我が家ではどの角度からも使わないし、ピアノを購入するときも必要ないのでお断りします。

以前おどろいたのは、ネット掲示板のようなところで、技術者の方の書き込みでピアノにカバーを掛けるのは断じてよくない、百害あって一利なしと力説されたところ、猛然たる調子で抗議の書き込みがありました。
おおよその意味は「人には住宅事情などそれぞれ問題があり、貴方のいうようにピアノだけを中心に考えることはできない。我が家はリビングにピアノがあり、キッチンから飛散する油など、いやでもカバーを使用せざるを得ず、そういう個々の実情を無視して、一方的に理想ばかりを書き込み、正論として押し付けるのはけしからん!」といったものでした。

まあ、そういわれれば「なるほどと」は思いました。
でも、それでも、マロニエ君ならカバーは掛けません。
焼肉店じゃあるまいし、毎日油が飛び散るような調理をするわけでもなし、換気扇もあるでしょう。
リビングと言ったって、コンロの目と鼻の先にピアノがあるわけではないだろうし、生活の中でわからない程度に飛散する油ぐらいだったら、蓋を閉めておけばいいではないかと思います。

それを言ったら、該当する方は多いはずで、我が家も厳密に言うとキッチンのある空間の延長上にピアノを置いているし、調理で油を使うこともあるけれど、それでカバーが必要となるほど油が飛んだということはないし、厳密にはあるんだというのなら、そこまで厳格にしなくてはいけないのかという疑問も。
それなら、他のあらゆるモノや家具や家電、天井や壁等にも同じことがいえるわけで、それらはよくて、ピアノだけがいけないということでもないだろうにと、もうひとつ納得がいきませんでした。

結局、なんだかんだと理由はあるのでしょうが、要はカバーをしているほうが安心で好きなんだと思います。

以前、とある輸入ピアノ店のサイトを見ていたら、ドイツ製の世界最高のアップライトと言われる某社の最高機種の注文を得て、やがて実物が店に届き、入念な調整の様子などが写真でも紹介され、その気品と風格はため息が出るほどのすばらしいものでした。
ところが、いよいよ購入者のお宅に運び込まれる日を迎え、めでたく所定の位置に据え付けられました!というショットを見て愕然としました。

その世界最高峰のアップライトは、嫁ぎ先へと届けられ、無事に所定の位置に据え付けられたとたん、上部にはきわめて日本的なハーフカバーがかけられてしまい、その高貴だった姿は、たちまち夜のおかずの匂いがしてきそうな庶民的な姿に変身してしまっており、見ているこちらがいたたまれない気分になりました。
高いピアノだから大事にという気持ちはわかるけど、そんなにもピアノカバーというものが必要なのか、なかったらどれほどピアノが傷むとでもいうのか、マロニエ君はどうしてもわかりません。

ピアノカバーでわからないことのオマケは、フェルトをただ細長く切っただけの「キーカバー」というもの。
キーにホコリが付かないためなら単に鍵盤蓋を閉めればいいことだし、そこへあえてあのフェルトを一枚ぺろんとおくのは何なのか、どんな意味や役割があるのか、どう考えても意味不明。

「これからピアノを弾きます」「これで今日のピアノはおしまい」というけじめのための小道具?
あれをキーの上にかけると何がどういいのか、なかったらどのようなマイナスなのか、もしご存じの方がおられたらぜひとも教えていただきたいものです。
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ピアノカバー

普段から常にピアノにカバーを掛けるという習慣というかメンタルは、どうも世界共通のものとは思えない。
詳しいことは知らないけれど、印象としてはあれはどうも日本的な特徴で、そもそも日本人は大事なモノにカバーをかけたりキズの保護をしたりするのが体質として好きというのがあると思います。

これはマロニエ君の知る限り昔から、ピアノの先生、学校、よその家もみんなそうで、我が家もごくはじめの時期だけ付属品の黒いカバーをかけていた時期がありました。

グランドは譜面台のことを書いた時にも少し触れたように、楽器のためにあんな大仰なカバーをかけることの善し悪しにくわえて、なによりあの色がいただけない。
多くのピアノが黒だから、カバーも黒というのはまだわかるとしても、内側は強烈な朱色で、ピアノのカバーにこの二色を組み合わせるということがまず受け容れられず、その激しいコントラストは目にもストレスで、まずあれを見たくないというのがあります。
そのままハロウィンの仮装にでも使えるような毒々しいセンスとしか思えない。

あれは昔からそうだったけれど、誰が決めたことなんでしょうね。
外側が黒なら、どうして中も黒ではいけないのか。
もし表と裏を区別するためなら、そうと分かるぐらいのグレーとかでもよかったと思うし、もっとはっきりさせたいのならオフホワイトでもいいわけで、なぜ時代劇に出てくる吉原の遊女みたいな朱色にする必要があったのか、これが謎です。

某工房でヴィンテージピアノにかけられていたカバーは、ミルクチョコのようなやわらかな茶色で、これならずいぶんいいなあと思ったし、聞けば現在でも普通に売っているものだそうで特別なものではないようでした。
要するに、メーカー(もしかすると日本だけ?)が新品時に付属させるカバーがあの色なんでしょうか…。

いっぽう、アップライトにもカバーをかけるのが日本人は大好きで、カバーをしなくては居ても立ってもいられないのだろうと思います。
アップライトのカバーは一段と工夫が凝らされており多種多様、こうなっては上部の前屋根が開けられることは調律時以外はないんでしょうね。

カーテンなどのように素材や色やデザインが揃い、レース編み調のものから、重々しいベルベット調のものまで実にいろいろあって、あれはもうカバーというよりはピアノに着せる服なのかもしれません。
昔は上部だけを覆うタイプが主流でしたが、そのうち全体をマジシャンのマントのように覆ってしまうものまで登場、それがまたピンクとか淡い色の花柄模様であったり、光沢のあるフリルのたぐいがこれでもかとあしらわれたりしたものだったりと、いずれも壮絶を極めています。

ああいうものに、疑問や抵抗を感じない神経を持ちながら、演奏のほうは素晴らしいというようなことがあるのだろうか?とつい考えてしまいます。
なぜなら、ピアノの演奏とは基礎となる技術と、あとは、アナリーゼだの解釈など踏まえた感興であり、ひとことで言ってしまえばセンスに尽きるのだから。

日本は文化の歴史を見ても、斬新かつ深いところまで追求された美意識の歴史があり、その奥行きと洗練の度合は並のものではなく、西洋に与えた影響も小さくないものがある。
そんな稀有なバックボーンを持ちながら、こういうセンスはどこをどう間違って我々の生活域に流入してきたのか不思議です。
もし、明治以降の西欧化の取り違えの後遺症だとしたら、センスの池に外来種の怪魚でも放り込まれたようなものかもしれません。

少なくとも、写真や映像で見た欧米の家にあるピアノでは、せいぜいちょっとしたオシャレな布が一部にサッとかけられている程度で、ピアノが部屋の雰囲気とまったく自然に調和していて、さすがという感じ。
それにひきかえ日本はというと、部屋は変にシンプル、ピアノがドカンと力士のように鎮座していて、生活と音楽がバラバラというか、ピアノが楽しそうに見えずに浮いており、それが一種独特な雰囲気になっている。

それが「ピアノのある家」みたいなあの和風な感じは、他のものがいくらオシャレになっても変わらずに引き継がれているようで、これは今後もずっと変わらないような気がします。
そこではやっぱりカバーは重要なアイテムなんでしょうね。
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簡単譜面台

率直な実感として、グランドよりアップライトのほうが使いやすいと思うもののひとつが譜面台。

アップライトの大半は、鍵盤蓋を開けると横長のシンプルな形状の譜面台が折りたたまれており、それを手前に倒して楽譜をのせる…たったそれだけ。
手軽なだけでなく、グランドよりも目線が低くて近くにあり、見やすいことも素晴らしい。
ただし、すべてのアップライトがこの方式というわけではなく、中には「トーンエスケープ」とかいって、上前板の一部を手前にガチャッと引き出すと、それが譜面台も兼ねた作りになっていて、さらにその左右の隙間から中の音が出てくるという構造のものがあります。
デザイン性や高級感の演出には良いかもしれないけれど、機能的にはいささか疑問符も…。
メーカーやモデルによっても違うのかもしれないですが、ヤマハのそれは構造上角度にも制限があるから楽譜もかなり角度が立ちぎみで、しかも楽譜を置く足場も浅いしツルツルで、やや使いづらく機能としては問題なしとは言い難いもの。

それと、譜面台使用でこの部分を引き出したからといって、その両脇から中の音がでるのは、マロニエ君にしてみればよけいなお世話であって、できるだけ静かに譜読みをしたいというときに(現実にはそのほうが多い)、これは困るわけです。

譜面台を使うと音が大きくなるという点でいうと、それどころではないのがグランドで、いまさら説明するまでもなくグランドのそれは前屋根を開けた中に格納されており、楽譜を見る=必然的に音は大きくなるという構造。

大屋根と前屋根をすべて閉じた状態がグランドでは最も音が控えめなので、夜間などこの状態でちょっと楽譜を見ながら弾きたいと思ってもなかなかそれはできません。
よく前屋根の上に楽譜を平置きにして弾く人もおられるようですが、マロニエ君かかなり椅子が低いこともあってそれではまず見えないから、どうしても楽譜はあるていど立てたいけれど、前屋根を開けるまでのことはしたくない微妙な気分の時ってありませんか?

ピアノの先生などでよくあるのが、譜面台そのものをピアノ本体から引き抜いて、それを閉じた前屋根の上にのっけて使うというスタイル。
でも、ここからがマロニエ君のこだわりですが、あれは個人的には超ダサくて、まずビジュアル的に許せない。
さらに、いったんそれをすると面倒臭くて今度は前屋根を開けることさえも億劫になるわで、いずれにしろこれだけはぜったいにしたくないのです。
さらにすごいバージョンもあり、外が黒で内側が朱色のあのカバーを、前の方だけ鍵盤に掛からないようにたくし上げ、その上に外した譜面台が載せられて、どことなく黒魔術の祭壇のようになるスタイル。
こうなると、ピアノの上は楽譜はもとより、コンサートのチラシから筆記具、さらには変な置物からよくわからないものまで、ありとあらゆるモノが雑然と積み上がってしまうものらしく、見るもぶざまで暑苦しい姿になり、あれはちょっと見たくもないし、まして自分のピアノでなんて論外。

で、やっとここからが本題ですが、グランドの大屋根&前屋根を閉じた状態で使える簡易型の譜面台が欲しいというのが、マロニエ君の長らくのささやかな希望となりました。
繰り返しますが、中の譜面台を前屋根に載せるのだけはぜったいにしたくない。
あくまでも、夜など一時的な場合のもので、小さくシンプルで、便利で、パッと取り出して使えて、終わったらパッと片付けられるようなもの。

〜といってみても、そんな都合の良いものがあるはずもなく、自作しようかとも思ったけれど自信もないし、いらい数年が経過するうちにしだいに諦めてしまっていました。

それがつい先日のこと、洗面台周辺の器具を探しにニトリに立ち寄ったとき、レジ近くの雑貨を置いている棚に金属を折り曲げただけの、ただの骨組みだけの簡単な商品があって、それは「ワイヤーイーゼル」という名の、絵の額やフォトフレームなどを床やテーブル上に立てておくためのスタンドでした。
サイズは17cm☓17cm☓19cmというコンパクトさ。
価格はわずか300円ほどで、これはもしや?と思い即購入。

下にはキズ防止のためのゴムのようなものまでちゃんと4箇所付いているのも嬉しいところ。
問題は左右の骨組みだけで中央の支えがないから、そのままでは楽譜は背表紙から向こうにストンと倒れますが、そこに板一枚置いておけば問題ありません。
もうひとつ、下の部分にフレームが滑り落ちないよう、わずかなアールがつけられていて、これが楽譜をめくるときに干渉するので、ここもちょっとした板切れでもなんでもいいので置いておけば大丈夫でした。

重さも無いに等しく、使う時だけヒョイと出して、終わればすぐに視界から消せるので、なかなかいいですよ。
長年望んでいたものが、まったく思いがけないところにあったというわけで、嬉しいような、それにしてはずいぶんあっけない結末で拍子抜けした気分でもありました。
ただ、やっぱりグランドの前屋根の上に置く楽譜というのはかなり高い位置で、これで子供なんかがレッスンを受けるのは、上を見上げるようになり大変だろうなぁと思いました。
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電子決済

電子決済って最近かなり浸透してきているようですが、それでも、日本はずいぶん遅れていると耳にします。
欧米の事情は知らないけれど、ご近所の中国や韓国ではとてつもない勢いで広がっているようで、NHKのドキュメント番組だったか中国では個人経営の小さな屋台とか、言葉は悪いですが物乞いのような人まで電子決済の端末をもっていて、人々がスマホをかざしてピッ!とやっているのにびっくり。

そうなるについては、偽札の問題や情報管理など、いろんな側面もあってのことではあるでしょうが、それにしても日本という国は、新しいことに対する切り替えは明らかに遅いなあと思います。

〜と尤もらしいことを言っているマロニエ君がいまだにスマホも持たず、ガラケーとiPadでお茶を濁している身なので、こんなことを言うことじたいがギャグのようですが…。
電話するぶんにはガラケーは使いやすいことと、服のポケットに入れるのに大きい物は避けたいというのがあってガラケーを使ってますが、その代償として結構重量のあるiPadをいつもカバンに入れて持ち歩くのも面倒くさいし、なんだかばかばかしいようにも思えてくるこのごろ。

いくらガラケーのほうが電話器として使いやすいと言ってみても、今はメールありLINEありで、電話で直接話をする機会も減っており、いつまでも電話のしやすさばかりを言い立てることじたい、いささか実情に合わなくなってきた気もしてきています。

いっぽう、聞くところではスマホには多種多様なアプリがあり(その点はiPadもある程度同じですがほとんど使っていない)、いろいろな電子決済機能もあるし、中にはスマホ限定の特典などというのもあるようで、時代の流れにはかないません。


さて、現在マロニエ君が唯一使っているのが、スマホとは関係ない、カード式の交通系電子マネーです。
普段はクルマ人間なので公共交通機関を使いませんが、以前関西旅行に行ったとき、同行した友人がこれを準備してくれており、どの電車に乗ろうともこれひとつでスイスイ、切符も買わずに改札を自在に出入りできる便利さに仰天したのがはじまりでした。

さらにこれで買い物までできると知って驚きは倍増。
それからというもの、すっかりこの交通系電子マネーにハマってしまい、べつに現金で払ってもいいようなところまで、わざわざこのカードを使うようになりました。
なにがいいと言ったって、細かい単位の支払いやお釣りといった面倒から解放され、ピッ!という音がすればすべては一瞬でおしまい、こんなに爽快なことはない!と興奮したものでした。

惜しいのは上限が2万円で、予めチャージしておかなくてはいけないことと、以前はチャージできる端末が限られた場所にしかなかった(毎日駅などを利用する人はいいかもしれませんが)ことですが、今ではコンビニでも可能になり、この問題もほぼ解決されました。

店舗によっては、レジの対応が不慣れなところもあり、その操作に手間取ったり、いきなりこちらの手からカードをもぎ取り、お店の人が目の前の読取器(というのか知らないけど)に押し付けて「ピッ!」とやって「お返しします」などといって返してくること。
あのカードはいわば個人の財布ですから、それをヒョイと取られて「えっ?」と思ったことは何度かありました。

それより気になるのは、カードをかざす際、読取器との間にほんの少し距離(2〜3cm)をおいていると、注意口調で「機械につけてもらっていいですか?」などと怒られてしまうことがあること。

はじめはそうなのかと思ったけれど、これは経験上カードと機械を密着させるかどうかではなく、読取器がカードを認識し決済するまでにちょっとしたタイムラグがあるのを、レジの人のほうが待ちきれずに、カードのかざし方が不十分なためと思ってしまうようです。

でも、聞いた話では、頻繁に電車など利用する人はカードを財布に入れたまま改札を出入りしているとか!
改札にある読取器は、性能もよほど良いのかもしれないけれど、もしお店で財布のままかざしたらどうなるのか、そこまで挑戦してみる勇気はまだありません。

福岡ドームもヤフードームになり、いつの間にかヤフオクドームになっていると思ったら、近い将来PayPayドームになるんだそうで、なんともめまぐるしいことですが、それだけ電子決済はこれからの社会の主流になっていくのでしょうね。
もはやガラケーにしがみつく理由もなくなってきたようだから、次の契約更新では検討の余地がありそうです。
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ニュウニュウのいま

クラシック倶楽部の視聴から。
ニュウニュウ・ピアノリサイタル、プログラムはショパンの即興曲第2番/第3番、ソナタ第2番、スケルツォ第3番、リストのウィーンの夜会。
2019年6月、会場は神奈川県立音楽堂ですが、無観客なので同ホールでの放送用録画かと思われます。

6月といえば、福岡でも同時期に彼のリサイタルがあって、気が向いたらいってみようかと思っていたけれど(結果的には行かなかったのですが)、上記曲目がすべて含まれるものでした。
NHKのカメラの前での演奏であるほうが気合も入っているだろうし、マロニエ君は実演にこだわるタイプではないから、ただ巡業先の中の演奏のひとつを聴くよりむしろ良かったような気も。

中国人ピアニストといえば、すでにラン・ラン、ユンディ・リ、ユジャ・ワンという有名どころが日の出の勢いで活躍しており、ニュウニュウのイメージとしては、彼らよりもうひとつ若い世代のピアニストといったところ。
いずれも技術的には大変なものがあるものの、心を揺さぶられることはあまりない(と個人的に感じる)中国人ピアニストの中で、マロニエ君がずいぶん昔に唯一期待をかけていたのがニュウニュウでした。

10代の前半にEMIから発売されたショパンのエチュード全曲は、細部の煮詰めの甘さや仕上げの完成度など、いろいろと問題はあったにせよ、この難曲を技術的にものともせずに直感的につかみ、一陣の風が吹きぬけるがごとく弾いてのけたところは、ただの雑技や猿真似ではない天性のセンスが感じられました。
まさに中国の新しい天才といった感じで、うまく育って欲しいと願いましたが、その後ジュリアードに行ったと知って「あー…」と思ったものでした。

個人的な印象ですが、これまでにも数々の天才少年少女がジュリアードに行ってしばらくすると、大半はその輝きが曇り、小さくまとめられた退屈な演奏をする人になってしまうのを何度も目にしていたからです。
さらには俗っぽいステージマナーなどまで身につけるのはがっかりでした。
誰かの口真似ではないけれど、セクシーでなくなるというか、才能で一番大事な発光体みたいな部分を切り落とされてしまうような印象。
そうならなかったのは、五嶋みどりぐらいでしょうか?

冒頭インタビューで、ジュリアードでは舞踊やバレエの友人ができ、彼らから多くのことを学んだと語り、ピアノの演奏も視覚的要素が大切と思うので、演奏には舞踊を取り入れているというような意味のことを語っていました。
ステージに立つ人間である以上、視覚的効果も無視できないというのはわかるけれど、直接的にそれを意識して採り入れるとはどういうことなのか、なんだか嫌な予感が走りました。

で、演奏を視聴してみて感じたことは、音楽家というよりはパフォーマーとして活動の軸足を定めてしまったような印象で、舞踊の要素なんかないほうがいい!としか思いませんでした。
どの曲も危なげなく、よく弾き込まれており、カッチリと仕上がってはいるけれど、そこに生身の、あるいはその瞬間ごとの魅力や表現といったものは感じられず、誰が聴いても大きな不満が出るようなところのない、立派な演奏芸で終わってしまっている印象でした。

また、ニュウニュウに限ったことではありませんが、曲の中に山場や聴きどころのない、全体を破綻なく均等にうまく弾くだけで、ドキッ!とするような魅力的な瞬間といったものがないのは、これからを担う若い演奏家が多く持っている問題点のような気がします。
好きな演奏というのは、ある一カ所もしくは一瞬のために聴き返すようなところがありますが、現在のニュウニュウの演奏は何度も繰り返して聴きたい気持ちにはならないものでした。

音はいささかシャープで温かさが足りないかもしれないけれど、それでもかなりよく楽器を鳴らせる人のようで、この点では上記の4人中随一ではないかと思いました。
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シンプルは至難

BSクラシック倶楽部でスペインの巨匠、ホアキン・アチュカロの演奏に接しました。
この時の放送はアラカルトで、55分の放送時間のうち前半はキアロスクー四重奏団の演奏会だったため、アチュカロの演奏はファリャのスペイン小曲集から2曲と火祭の踊り、アンコールでショパン:ノクターンop.9-2、ドビュッシー:月の光、ショパン:前奏曲No.16というものでした。

ホアキン・アチュカロは日本ではさほど有名なピアニストではなく、マロニエ君も持っているCDで記憶にあるのはシューマンの幻想曲とクライスレリアーナぐらいです。
きわめて真っ当なアプローチの中に、温かな情感が深いところで節度をもって息づいていることと、音が美しく充実していたことが印象的でした。

この演奏会は今年の1月で、その時点で御歳86という高齢であることも驚くべきで、はじめのファリャは、想像よりゆるやかで落ち着いたテンポのなかで進められました。
普通はスペイン物となると、どうしてもスペインを強調した演奏が多く、激しい情熱、そこに差し込む憂いなど、交錯するものが多いけれど、さすがは本家本元というべきか、ことさらそれを強調することはなく、むしろゆったりとエレガントに演奏されたのが新鮮でした。
尤も、壮年期はもっと激しく弾いたのかもしれませんが…。

この30分ほどの演奏の中で、最も感銘を受けたのはショパンのノクターンでした。
きわめてデリケートな、ニュアンスに富んだ美しいショパンの真髄がそこにはありました。
アーティキュレーションの中で揺れるわずかな息遣いがハッとするようで、まさに鳥肌の立つような、泣けてくるような演奏。
決して完璧な演奏というのではないけれど、この一曲を聴けただけでも視聴した価値があったし、これはちょっと消去する訳にはい来ません。

同曲で感激したのは、記憶に残るものでは晩年のホルショフスキーがあったし、CDではリカルド・カストロにもマロニエ君の好きな名演があります。

この変ホ長調 op.9-2 は、ノクターンの中でも最も有名なもので、しかも多くの人が弾けるほど音符としては難しいものではないけれど、理想的な演奏ということになると、さてこれがピアニストでも至難という不思議な曲。
ひととおりの技術を身につけた人なら、音数の多い曲をあざやかな手さばきで弾いておけば、おのずと曲のフォルムは立ち上がりさすがとなりますが、ほんとうに難しいのは、こうしたシンプルで行間は全て自分で処理しなくてはいけない領域だろうと思います。

全般的に見ると、この曲は年齢を重ねないと弾けないものかとも思ってしまいます。
これほどショパンの大事な要素がぎっしりつまった曲というのはそうはないように思われ、親しみやすいメロディーの裏に次々に見落としてはならない要素が現れは消え、多くの弾き手がその多くを処理しきれず表面だけを通過してしまいます。

ショパンのノクターンといえば、遺作の嬰ハ短調 20番とされるものや、ハ短調 13番 op.48-1 などを好む向きもありますが、ある程度きちんと弾けばなんとかなるところがあるのに対し、op.9-2 は演奏上の背骨になるようなものがない危うさがあり、これを繊細かつ適切なニュアンスを保って聴かせるというのはなかなかできることではない。

単純に歌ってもダメ、ルバートやアクセントにもショパンのスタイルが要求され、f にもあくまで抑制を保つなど細心の目配りが必要で、なにか一つ間違えてもたちまち雰囲気が崩れてしまうのは、もしかしたらモーツァルト以上で気が抜けません。
だからといって、あれこれ注意を張り巡らせて弾いていると、今度はその注意と緊張で固くこわばってしまい、まさにあちらを立てればこちらが立たずとなる。

ピアノの難しさというと指のメカニックや超絶技巧、初見や暗譜の能力などばかりに目が行きますが、最後に行き着く難しさはこういうところにあるとマロニエ君は思うのです。

アチュカロはとくに気負ったところもない様子で、ホールの空気をこの曲の静謐な世界でたっぷりと満たしていて、こういう聴かせ方をする人は今後ますますいなくなることでしょう。
月の光も素晴らしかったけれど、やはりショパンのop.9-2が白眉でした。
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伝統と陰影

即位の礼も終わり、令和の時代も本格始動というところですね。

ああいうロイヤルイベント(皇室に使うべき言葉かどうかはわからないけれど)は結構好きなので、生放送を録画して、当日の夜はじっくり視てみました。
もっとも日本的な、簡素な美しさの頂点、そして日本という国の文化の根幹を目にする思いです。

ただ、畏れながら申し上げるといくつかの違和感がないでもなかったというのが正直なところです。
すべてが「伝統に則り」という文言がつけられますが、式典の舞台は当然ながら皇居新宮殿。

この皇居はむかしは言わずと知れた江戸城で、武家である徳川の居城。
明治維新によって皇居となり、しかも宮殿は空襲で消失、現在の新宮殿は戦後の技術の粋を尽くして昭和に建てられたもの。
いわば出自も時代もミックスされたもので、それは大変に素晴しいもの。

ただ、戦後に建てられた和のモティーフとモダンの類まれな融合である新宮殿と、そこへ両陛下が儀式のクライマックスでお入りになる高御座と御帳台が置かれている光景が、もうひとつ溶け合っているようには見えませんでした。
これらは平成の折には京都から運ばれたと聞きますが、新宮殿の最も格式の高い松の間に設置されますが、やはり前回同様、どこかしっくりこない印象が残りました。

あれがもし京都御所であったら、すべては美しいハーモニーのように響き合ったことでしょう。
平安絵巻から飛び出してきたような高御座と御帳台の姿形、大胆で独特な色遣い、これは建築にも同様の要素が求められるような気が…。

平安絵巻といえば、皇后さまをはじめ女性皇族方は御髪はおすべらかし、お召し物は十二単という平安時代からの伝統のものですが、それが新宮殿のガラスと絨毯が敷き詰められた現代風の廊下を静々と進まれる光景が、絵柄としてどうしても収まりません。

また高御座と御帳台が置かれた松の間の照明にも疑問を感じました。
よく見ると、松の間の両サイドの壁面上部には、まるで劇場用のような明器器具がずらりと配置されており、それらが一斉にこの空間をまばゆいばかりに照らし出していました。

しかし、両陛下および皇族方の装束、高御座と御帳台など、本来これほどの強力な照明にさらされるべきものだろうかという疑問が湧いてなりません。
昔の天皇は、映画などで見るように、御簾の向こうに静かにおわすばかりで、なにかと神秘のベールに包まれていたもので、そこにいきなり現代的な強力な照明をあてるのはどうなのか…と思うのです。

谷崎潤一郎の『陰影礼賛』という評論の中で、日本の文化は薄暗い光のなかで真価を発揮するよう、あらゆる事物が考えられ作られていると述べられています。
美しい漆に施された絢爛たる蒔絵や歌舞伎の舞台でさえも、本来は薄暗い光のなかで見るのがちょうどよいようになっている由で、ここでは白すぎる歯までもが、そういう美意識の中では好ましく無いというように書かれていた覚えがあります。

十二単のあのどこか生々しい色彩も、薄暗い御所の光を前提としてでき上がったものかもしれないと思うと、伝統と現代性の和解をもう少し探ってもよいのではないかと思いました。

普段は端正な美しさを極めた新宮殿も、どことなくホテルの催場ように見えてしまい、せめて高御座と御帳台が置かれた松の間の照明だけでも、もう少し繊細で幻想的なこだわりがあったら…という気がしました。
それにしても、自分の生涯で、すでに二度の即位の礼を目にできたとは嬉しきことでした。
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ジャン・チャクムル

トルコの若いピアニスト、ジャン・チャクムルの来日公演をBSのクラシック倶楽部で視聴しました。

最近のコンクールというものにほとんど関心がないこともあり、この人が昨年の浜松国際ピアノコンクールの優勝者ということも、この番組ではじめて知りました。
よく考えてみると、NHK制作のこのコンクールのドキュメントがあったのだから、それで覚えていてもよさそうなものですが、この時はある日本人ひとりに異常なほどフォーカスしすぎており、その他のコンテスタントについてはほとんど採り上げられなかったこともあって印象にありませんでした。

それで、はじめて浜松コンクールのことを検索したら、この人が昨年第10回の優勝者であり、このコンクールが3年に一度開催されていることも今回ようやく知りました。
マロニエ君はこれだけピアノが好きで、ピアニストにも興味津々なのにもかかわらず、関心がないところは切り落としたように目が向かないためか、しばしばこういうことが起こります。

今回視聴したコンサートは今年8月にすみだトリフォニーホールで行われたもので、プログラムはメンデルスゾーンのスコットランド・ソナタ、シューベルトのソナタD568、バルトークの組曲「野外で」という、個人的には好ましく感じるものでしたし、プログラミングという段階ですでにピアニストのセンスの一端が窺えるもの。

演奏を聴いて真っ先に感じることは、近頃の若いピアニストにしては呼吸と力の配分があって心地よさがあるということと、出てくる音楽に一定のフォルムと生命感があるということでした。
さらにいうと、演奏に際してわざとらしい自己主張など多くを盛り込むなく、作品の求める自然なテンポやアーティキュレーションを崩さないことは、今どきにしては珍しいタイプだと感じました。

多くの若者は評価のポイントが稼げるような演奏はいかなるものかを心得て弾いているのが透けて見え、必要以上にタメや間をとったり、どうでもいいような価値のないディテールの細部とかを見せつけることに専念しすぎたあげく、肝心の音楽が停滞することがしばしばですが、チャクムルにはそれがなく、心地よい運びで音楽が前進します。

いわゆる最上級の天才的なピアニストの演奏を味わうといったものではないけれど、楽曲の世界を心地よく周遊させてくれる、スマートな案内人のようなピアニストだと思いました。

それを裏付けるように、インタビューでも概ね次のようなことを言っていましたが、チャクムルはある程度その言葉通りの演奏ができている人だと思い、言行一致というか納得できるものでした。
「演奏家はコンサート中に情緒や感覚をそれほど重視しません。フレーズの開始やアクセントの位置、和音の解決などを現実的に考えます。音楽を正しく理解し伝えれば自然と意味が生まれます。演奏家が音楽に意味を吹き込むのではありません。正しい文法で弾けば音楽は自然に立ち上がります。練習や準備を重ね、そこを理解できるようにするのです。音楽の意味をすることと、ひらめきで弾くのとはちがいます。」

個人的には、この領域に留まる演奏というのはさして魅力を感じないことも事実ですが、演奏のプロフェッショナルとしては実際的で、変な自己アピールを押し付けられるよりは、こういう演奏をしてもらったほうがストレスなく快適というのも事実。
こういうピアニストが、知られざる作品を録音したり、実際のステージでも紹介してくれたらいいなぁと思います。


ピアノはカワイのSK-EXが使われていましたが、調べてみると、チャクムルは浜松コンクールの時からこれを弾いて優勝しており、かなりこのピアノを気に入って信頼もしているのでしょう。

実際にチャクムルの演奏や言葉に触れてみると、彼がSK-EXを選ぶというのもわかるような気がします。
マロニエ君もいつだったか最新のSK-EXをゆっくり触らせてもらいましたが、以前のカワイに比べて一段と洗練が進んで、没個性的ではある反面、嫌う要素も少なくなって、よりオールマイティなピアノにアップグレードしていると思いました。
とくに印象的だったのは、今回の演奏を聴いてもそうですが、カワイとしてはかなり雑音が少なくなっており、素朴で牧歌的でもあったものがぐっと都会風なテイストに寄せてきたという印象です。

チャクムルのようなスタンスで演奏をするピアニストにとって、ヤマハは華美にすぎるし、スタインウェイはピアノそのものが前に出すぎるだろうから、そうなると消去法でいってもカワイということになったのだろうと、勝手に想像し、勝手に納得です。

SK(シゲルカワイ)といえば、数年前に購入された知人がいて、先日お宅におじゃましてちょっと触れさせていただきましたが、いい感じに熟成されており、すっかり感心させられました。
「新品時がピーク」といわれる国内産ピアノでは、しっかりと成長しているのは素晴らしいことです。
この価格帯で買えるピアノとしては、かなり有力な存在で、好みにもよりますが有名メーカーのセカンドラインあたりを狙うよりは賢い選択となるのかもしれません。
ただし、あのロゴマークとカーボン素材のアクションに抵抗感がなければ…ですが。
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