特別なピアノ

知り合いのピアノ技術者さんから教えていただいたのですが、現在、世界で製造されるピアノの中で、本当に特別だと云えるものはわずか数社しかないらしく、そこには三大名器といわれるスタインウェイもベーゼンドルファーもベヒシュタインも含まれていません。

その特別なメーカーは4社で、すべてヨーロッパに集中しており、いずれも小さな会社ばかりです。
その数少ないメーカーのひとつがステファン・パウレロというフランスの小さな会社で、マロニエ君はこのときに初めてこのメーカーを知りました。

過日、フランスの老舗ピアノメーカーであるプレイエルが製造を中止したということを書いたばかりで、ついにフランス製ピアノの火が消えてしまったと思っていたところ、思いがけないところに思いがけないかたちでフランスのピアノがいまなお棲息していることを知り、たいへん驚かされました。

さっそくホームページを探したところ、たしかにその会社のサイトが見つかり、ずいぶんとマニアックなメーカーのような印象を受けました。
外観はひと時代前のハンブルク・スタインウェイに瓜二つで、はじめはファブリーニのようなスタインウェイベースのスペシャルピアノかと思ったほどです。

中型グランドとコンサートグランドがあり、なんとそれぞれに交叉弦と並行弦のモデルがあるのが驚きでした。いまさら並行弦に拘るというのはどういう意図なのかと興味津々です。

サイト内にはステファン・パウレロ・ピアノを使った数種のCDが紹介されており、クリックすれば短時間のみ音が聞けるようになっていますが、なんとかして手に入れたくなりネットで検索してみると、アマゾンなどで辛うじて引っ掛かってくるものがありました。
こういうときは、ネットの威力をまざまざと思い知らされ、昔だったらとてもではないけれどもそんなCDを海外から探し出して個人が簡単に手に入れるなどという離れ業は不可能だったに違いありません。

さっそく届いたCDの包みをひらいて、はやる気持ちを抑えながらプレーヤーにのせる瞬間というのは、何度経験してもわくわくさせられます。
果たしてステファン・パウレロのピアノはパワーもあるし、まず印象的だったのは、まとまり感のある完成度の高いピアノという点でした。多くの工房規模のピアノには、この上なく上質な美音を聞かせる一面があるかと思うと、ある種の未熟さみたいなものが解決されずに放置されているように感じることが少なくありませんが、このピアノはそういうアンバランスがなく、よほど設計が優秀なのだろうと思いました。
ホームページの図によれば、支柱の形状には独特なカーブなどがあるなど、随所に独創性があるようですが、音そのものは今風の至って普通の感じだったのはちょっと肩すかしをくらったようでした。

その技術者さんが海外のお知り合いなどへ問い合わせをされたところによれば、ここ20年ぐらい、年に3台ぐらいのペースで作られているそうで、これは生産というより、限りなく趣味か道楽に近いスタンスのようにも思われます。
もともとはステファン・パウレロ氏はピアノ設計者として有名だったのだそうで、他社からもいろいろなピアノの設計依頼があるようです。

生産を中止したプレイエルの中型グランドもステファン・パウレロの設計だったようですし、中国製のピアノにもここの設計によるピアノがいくつかあるようです。もしそれが高度な生産クオリティで設計者の意図に忠実に作られているとすれば、かなりコストパフォーマンスの高いピアノが期待できそうです。
ただしピアノ(というか楽器は)はエモーショナルな要素を多分に含むものなので、中国製ということに抵抗感がなければの話ですが…。

本家ステファン・パウレロのピアノは、ヨーロッパならともかく日本ではまず本物の音を聴ける機会など今後もまずないでしょうね。
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人の本性

車検の時期が近づくのは車を持つ者にとって誰しも憂鬱なことだと思います。

マロニエ君の古いフランス車も今月が車検で、いつも自ら検査場に出向いてユーザー車検で通しているのですが、車検場を取り仕切るのはすべてお役人で、彼らはどんな小さなことでも問題点だと認識したが最後、こちらがくだらないと思うようなことでも絶対にお目こぼしはありません。

毎度のことながら緊張の連続で、いつも心身ともにヘトヘトになるのがマロニエ君にとっての車検の常です。今回もいろいろあって、半日がかりでやっと全項目に合格印を取り付け、残るは書類の提出のみという段になって、最後の最後にとんでもない目に遭わされました。

陸運支局の事務所前に車を止め、検査終了の書類を窓口に提出したところ、足りない書類があると指摘され、あわてて車へ取りに行ったときのこと、マロニエ君の車の前に白いクラウンが駐車しようとバックしていましたが、その動きにぶつかる気配を感じ、慌てて駈け寄り声を発しながらそのクラウンの後部ボディを叩いて、止まるように合図を送ったのですが、間に合わずにこちらの車の鼻先とクラウンのリアバンパーがわずかに接触してしまいました。

中から初老の男性が降りてきて、「当たった?」と云いながら後ろへまわり、接触部分を見るや苦笑いしながら「あー、すんません」といいました。
当方のバンパー先端に付いているナンバープレートが、ステーごとクラウンのリアバンパーに軽くめり込んでいましたが、だいたい今どきの車のバンパーは柔らかい材質でできているので、大したことはないことはすぐにわかりました。
さて、事務所内では窓口の人が書類を持ってくるのを手を止めて待っているので、とっさにその書類を持っていくことを優先させたのですが、これがいけませんでした。

再び現場に戻ると、そのクラウンはすでに30cmぐらい前に移動し、幸いキズらしきものはありませんでしたが、なんとそのドライバーの口から出た言葉は、「どこも当たってない。だいたいね、アンタの車が線から出てるからいけない(たしかにちょっと出てはいました)。自分はいつもここに止めるから慣れてるし横のラインを目安にして止めるようにしている。そっちの前がはみ出しているからで、アンタこそ止め方を注意しなくちゃいかんよ」と昂然と言い立ててきたのには耳を疑いました。
線から出ていればぶつけてもいいという理屈です。

「その上、自分の用事で勝手に俺を待たせた」などと思いもよらないことを次々に言い始め、接触直後とは態度がまるで別人です。目撃者も数人いたのですが、みんな自分の用で動いているので、そうそう一箇所に留まってはくれません。
「なにを言っているんですか?当たっていたのは、さっきアナタも見たじゃないですか!」というと「いーや、当たっていなかった」「当たってましたよ!」「当たったという証拠があるのか!」とほとんど居直ってきたのには、さすがに怒りと恐怖が同時に襲ってきましたが、その男性は「証拠がない!」と云いながら、さっさと目の前の建物内に消えていきました。

マロニエ君はキズもないようだし、あったにしてもわからない程度なので、このまま和解する心づもりだったのですが、お詫びどころか、黒を白だと言い張るあまりの無礼な態度には、さすがに怒りが収まらず警察に通報しました。
しばらくして警察官が2人やってきて、その男性を探し出して事情を聞きますが、警察が来ておどろいたのか、事実とは真逆のことを淀みなくベラベラと警察官に説明するスタミナにはさらに仰天させられ、人はこんなにもあからさまなウソがつけるものかという驚きと、言い知れぬ虚しさが身体全体を突き抜けるようでした。

そもそも当たっていないのなら、こちらはなんの目的で警察を呼んだりするでしょう。人の目もあり、そんな自作自演をすることになんの意味も合理的理由も利益もありません。

警察官は二人ともこちらの説明に当初から納得してたようで、マロニエ君とその初老男性を引き離し、ずいぶん根気よくその男性相手に説得していましたが、1時間近く経った頃、ついには「当たったかもしれない」というところまで発言が変わり、最後はだらしない笑みを浮かべて「すいませんでした」といいましたから、これでお開きにしました。
警察官を含めた4人のうち、その男性だけがまっ先に薄汚れたアイボリーのクラウンに乗り込み、サーッと駐車場を出ていきました。

きっとその男性は、こちらが「外車」だと見て、高い修理代などを請求されるかもという恐れが頭をよぎり、マロニエ君が書類を出しに走っていった間に、キズがないのをいいことにこのような豹変劇を思いついたのだろうと思いますが、いい歳をした人生の先輩が当たり構わずつきまくる恥知らずな大ウソの洪水には、さすがに打ちのめされました。
当たったところの写真があれば何よりの証拠で、ケイタイのカメラはこういうときこそ活用するもんだとつくづく思いましたが後の祭りです。

まったく後味の悪い1時間あまりでしたが、警察官のひとりは「こういうことをいつまでも考えているのはいい事じゃないですから、できるだけ早く忘れてください。よろしくお願いします。」と丁寧に云ってくれたのがせめてもの救いでした。
ちなみにこのクラウンが「いつも止めている」という場所は身体障害者用スペースでした。
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Fの成長

先日たまたま買った2枚のピアノのCD(バケッティのマルチェロ:ピアノソナタ集 ベクテレフのスクリャービン:練習曲集)は、いずれもファツィオリのピアノが使われており、スクリャービンはその旨の表記があったので購入前からわかっていましたが、もう一枚は中を開けてみてそうだとわかり、その偶然に驚きました。

これまでに主にCDで聴いてきた数々のファツィオリの印象をベースにしながら、今回あらたに2枚のCDを聴いてみての個人的な印象を少し。

ファツィオリが現在生産されるピアノの中でも、最上ランクに位置する一流品であることには異論はありませんし、事実そうなのだろうと思います。

ファツィオリは材料その他すべてにこだわったピアノといわれ、その音にはある種の濃厚な色彩と密度感があり、こういう音はコストダウンの思想からは決して生まれ得ないものであることは聴いていても容易に頷けるところです。
アップライトを作らず、大量生産にもシフトせず、あくまでも納得のいく工法で良心的な楽器造りを貫いているという点でも、ほんらい高級ピアノの生産とはこうあるべきだというスタイルを示している数少ないメーカーのようです。

ただ、まったく個人的な好みで云うと、ファツィオリは聴いていて、ピアノを聴く喜びというか心地よさが不思議に稀薄で、これは何が原因だろうかというのが、いつも聴きながら感じる疑問です。その音の美しさと、生きた音楽としての脈動には、いささかの乖離があるのか…。
ひとつひとつの音は、よく練り込まれ、磨かれて、じゅうぶん美しいにもかかわらず、表現が上手くないのですが、楽器として息が詰まっている感じが拭えません。

音は美しいけれど、響きに開放感がないのかとも思いますが、あくまで個人的な印象で決定的なことはわかりません。音量もずいぶんあるようで、以前、知り合いの技術者さんがファツィオリのピアノを調律するときは耳栓をして作業をすると云っていたことも思い出しましたが、とにかく音がかなり大きなピアノだろうというのは聴いていてそれとなく感じます。

ところが、マロニエ君の印象では、それだけの音質音量に見合った響きの飛距離が不足しているのか、ストンと落ちてしまう紙飛行機のような印象です。(これは音の伸びのことではありません)
楽器の音は、発音された音そのものも重要ですが、それが空気に乗って飛翔するところに聴く者は酔いしれ、味わいとか心地よさ、ポエムもファンタジーも激情も、その広がる響きの中に姿をあらわし、ひいては音楽として精神が旅をするものではないかという気がします。

この点では、ずいぶんと品質も落ちてしまったスタインウェイなどは、この響きの特性と開放感によって、辛うじてそのブランド力を維持しているようにも思います。

マロニエ君にとってはファツィオリが新興メーカーであるどうかなど、まったく問題とはしませんが、結果から見て、やはり歴史あるメーカーは深いところにあるどうしようもない何かが違うのだろうかとも思います。
以前はあまり良さのわからなかったベヒシュタインのDなども、最近になってそれなりに素晴らしいと思えるようになりましたし、シュタイングレーバーなどは能楽のような精神的高貴を感じます。

それぞれに個性というか哲学のようなものを感じますが、ファツィオリにはもうひとつこの楽器ならではの顔がわからない。ファツィオリの濃厚さがコクになり、あの豪奢が頽廃の陰を帯びたとき、本当の一流品になるのかもしれませんが、今はまだ一生懸命というか、頂点を目指してひた走っているという印象のほうを強く感じてしまいます。

それでも、とくに最近のモデルの傾向なのか、この2枚のCDに聴くファツィオリは以前よりもしなやかさが勝り、素直に感心させられる面が多々あったことも事実です。いずれもファツィオリの所有のようで、とくにスクリャービンで使われた楽器は同社の貸出用らしく、これまで数多く聴いたものの中ではとくに風格や余韻もあって最良の楽器という気がしました。
いずれもF278で、これがベストバランスのような気もします。

F308はイタリアお得意の12気筒スーパーカーみたいな印象でしょうか。
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けちんぼ

吝嗇家とは、早い話が「けちんぼ」のことです。

いきなりですが、圧倒的な異才で一世を風靡したパガニーニは大変なけちんぼのようで、コンサートともなると会場の手配からキップ売りまですべてを自分で差配し、当日もお客さんの受付が済むと会場に鍵をかけてから演奏したというのですから驚きです。
パガニーニといえばグァルネリ・デル・ジェズの「カノン砲」と呼ばれる名器を使っていたことでも有名ですが、この名器もさる篤志家から進呈されたもので、そのタダでもらったカノン砲を人に見せるのさえも断じて拒んだという、筋金入りのけちんぼだったそうです。

パガニーニほどの天才なら何をやっても超越できるでしょうが、凡人はなかなかそうはいかず、所詮は人との関係を良好に保って生きていくしかなく、そうなるとけちんぼというのは割に合わないというか、その副作用も大きいと思います。

むかしから「けちんぼは得をしない」と言われていますが、これはまさに正鵠を得た言葉だと思います。けちんぼにもタイプがあって、それをある程度カミングアウトして陽気にいくタイプと、決してそういう顔はせずに、けちんぼであることをひた隠しにしながら、あくまで表向きは常識人の顔を作ろうとする、いわばむっつりタイプがあります。

前者は笑って済まされますが、後者には独特の冷たさと暗さを周囲に与えます。
陽気なけちんぼは自分はけちんぼだという自覚と笑いがあるのでまだ救えるのですが、後者は薄暗い心根にたえず支配され、ここはまさに明暗を分けるところ。人には悟られていないという甘い判断と、開き直っていないぶん内面の緊迫があり、これが最も始末におえないものです。

そのむっつりに限った話ですが、けちんぼというのはなにも物質や金銭に限ったことではなく、思考そのもの、つまり脳の機能が自動的にケチの方向に働く人のことですが、当人はそれを自分の才覚や賢さとさえ考えたりするようで笑ってしまいます。賢いどころか人に悟られていることさえ気付かない愚鈍な感性の持ち主でもあります。

かくいうマロニエ君も自分がケチではないと言い切る自信はありませんが、むっつりけちんぼのそれはどだい次元が違います。本物のけちんぼというのは思考を超えて体質であり、生理であり、細胞の問題なのかもしれません。彼らはそのせいで自分の人間的評価を大きく落としてしまっている。

商売の極意は「小さく損して、大きく儲ける」だそうですが、これは萬すべてのことに当てはまるように思います。けちんぼはまず儲けのための呼び水ともいうべき「小さく損すること」そのものが体質に合わず、頑なにそこから逃げてしまうので、当然ながら大きく得する展開に与ることはできません。

しかもそれで確実に得をするというものでもなく、当然ながら損のままで終わってしまうことも多々あるわけで、それが耐えられない。小さく損をしておく事は物事に対する広い意味での投資と見なすこともできるわけですが、けちんぼさんはそういう不確実なことに投資することに価値を見出せないようです。

人間関係の基本はギブ&テイクです。しかし、むっつりさんの特徴としては、他者からの恩恵は受けても、自分のほうが何かをしなくてはいけない局面になると、たいてい知らん顔を決め込みます。まったく気がつかない訳ではないようですが、そこでちょっと黙って過ごせばそれで事は済み、その一回分得すると脳が指令を出すから、できるだけそういうときは「意志的に消極的に」なるのでしょう。
ただこれは、当人はうまくやっているつもりらしいですが、相手には残酷なほどバレています。それを口にしないだけで、知らん顔VS知らん顔です。現代人はそういう演技はお手のものですから。

「小さく得して、大きく損する」のは人生経営としては甚だ割に合わないことだと思いますが…。
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ガマンの風船

間接的にですが、知り合いの医師から興味深い話を聞きました。

今の人が、表向きはひじょうにおだやかで、人間関係にも昔では考えられないほど用心深く、専ら良好な関係を保とうと努力しているにもかかわらず、ごくささいな行き違いやつまずきが原因で、あっけなく絶縁状態になってしまうことが珍しくないのは多くの人が感じているところでしょう。

何かあればそうなるであろうことを互いによく知っているから、ますます慎重に、ソフトに、ことさら友好的に振る舞うようですが、そのために少なくないストレスと疲労を伴います。それほどの努力を積み上げていても、何かちょっとでも気にそわない事が発生すると、多くの場合は無情にもそれで関係なりお付き合いはThe Endになるというのです。

聞いたのは、なぜそれほど些細なことで、絶縁という深刻な事態に発展するかというと、表面上良好な関係が維持できているときでも、すでに水面下ではあれこれとお互いに気に入らないことが頻発しており、それを常に押し殺し、ガマンにガマンを重ねているのだそうで、つまり常にいつ破裂してもおかしくないパンパンの風船みたいな状態になっていると見ていいんだそうです。

だから、小さな針の一差しで風船が破裂するように、そんなストレスまみれでぎりぎりに保っているバランス状態に、ちょっとしたミスやつまずきが起こると、それで最後の均衡が崩れ、ガマンの堤防は一気に決壊するという、甚だ不健康なメカニズムなのだそうです。

ではなぜそこまでガマンするのか。
ここからはマロニエ君の私見で、上記の話のパラドックスにすぎないことかもしれませんが、要するに現代は人とケンカができない、利害と打算と建前の世の中になってしまったということだろうと思います。
別にもめ事が良いことだと暴論を唱える気はありませんが、ケンカをしないようにするために、昔のように気を許した本音のお付き合いができなくなり、ノーミスが要求され、絶えず気を張って善良に振る舞うことに努めなくてはならなくなります。

しかし、ビジネス上の接待などならいざ知らず、通常の人間関係に於いてそんな演技のような関係ほど息の詰まることはありません。こういう風潮になってからというもの、本音をひた隠しにして、当たり障りのないことばかりを唇は喋り続け、ほとんど腫れ物に触るように気を遣いまくります。しかもそれは、本当に相手に対する気遣いではなく、これだけ気遣いをしていますよという自分の善良な姿を周囲にアピールしているだけ。要は自分の点数稼ぎにすぎないし、最低でもマイナスポイントだけは付けないように気を張っています。

現代人が表向きはおしなべて人当たりがよく、良好なような人間関係を保っているように見えるけれども、内情はまったくその逆というのは、かねがねマロニエ君も感じていたことでした。
良好なような振る舞いを見せられれば見せられるほど、そこには虚しいウソっぽさが異臭のように漂ってくるものです。

少しでも本音らしきことを漏らせば、すかさず「まあまあ」とか「いいじゃないですか」というような、オトナぶった、温厚の仮面を被った、極めて抑圧的な官憲の笛のような警告が飛んできます。
うかうか自分の考えもなかなか言えない世の中ですから、そりゃあ、破裂するのも当然でしょうね。
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ベーゼンは頑丈

過日、あるピアノリサイタルでのトークで聞いた話を少々。

この日のプログラムは主にロマン派のピアノ曲がひとつの主題のもとに配され、当時のいろいろな音楽事情やそれに絡む作曲家の恋愛話などが興味深く語られました。

マロニエ君は基本的にトーク付きのコンサートというのは好きではなく、できることなら演奏者は演奏のみに専念してもらいたいところですが、これも時代の風潮というべきか、旧来のスタイルは今どきの人にとっては甚だ無愛想でつまらないものと感じられるのかもしれません。

トークといってもいろいろで、それこそ人によって様々です。
演奏を補佐するようにトークをほどよく織り込みながら、お話と演奏をバランスよく進めていかれる方もなくはないものの、大半は内心「こんなトークを聞くために、今ここに座っているわけではないんだけど…」と、ついため息が出るような、紋切り型の話をくどくどされる方も少なくありません。きっとご本人もトークをするのが不本意なんだろうと思いますが、そういう人の話は聞いているほうも楽しめないのは当然です。

逆に、本業は演奏家であるのに、妙にトークずれしてしまって、変に笑いを取ろうとするような人などもあり、そんなときは聞かされているこっちの方がなにかいたたまれない気持になるものです。

前置きが長くなりましたが、この時のトークは珍しく楽しいもので、演奏家のトークというものは演奏以上にその人が出てしまうものだとも思います。

さて、リストの話題になったときのこと、思いもかけない言葉がピアニストの口から出てきて、おやと思いました。
若い頃のリストはまさに超人気ピアニストで、それは彼の美貌と圧倒的な当時随一の超絶技巧による華麗なピアノ演奏にありました。まさにスーパースターです。
そのリストのリサイタル会場には常時2〜3台のピアノが置かれていて、それはリストの激しい演奏に楽器が耐えられず、演奏中にピアノが壊れてしまうので、そのために数台のピアノがいつも準備されていたようです。

この日のピアニストが言われるには、そんなリストの激しい演奏にも持ちこたえる頑丈なピアノを作ったのがあのベーゼンドルファーだったということでした。(このことは、9月半ばのこのブログにも書きました)

いまでこそベーゼンドルファーは、貴族的なウィンナトーンをもつ繊細優雅なピアノとされており、スタインウェイやヤマハとは生まれも目指すところもまったく違いますよという高貴なイメージになっていますが、歴史を紐解けばどうもそういうことばかりでもないようです。

このピアニストが言われることに説得力があったのは、リストの時代には頑丈さこそが身上だったベーゼンドルファーは、他のピアノに比べてフレームなどもとりわけ強固で頑健に作られている由で、それは今日のモデルにも受け継がれているので、皆さんも機会があったらぜひ中を覗いて見てくださいと言われるのです。

通常ベーゼンドルファーは、楽器としての素晴らしさもさることながら、工芸品としての仕上げのクオリティでも見せるピアノでもあるので、ついそっちにばかりに目が向いてしまいますが、実際はずいぶん頑丈そうなフレームをしていて、ブリッジも縦横に伸びていますし、太いネジなどもバンバン打ち込まれています。エクステリアデザインも、頑丈さから来たピアノといえば確かにそうだと思われます(例外は今はなき優美なModel275)。
ベーゼンドルファー=ウィーンの伝統に根差した気品あふれるピアノという強いイメージが刷り込まれているので、そういう固定観念をもって見ていた自分にハタと気がつきました。

それとは別に近年感じていたことは、ベーゼンといえば「やわらかな木の音がするピアノ」というイメージが長らく定着していますが、そちらのほうは最近は少しずつ印象が変化してきているところではありました。
というのも、ベーゼンで多く耳にするのは意外にも鋭い金属的な音のするピアノが多く、個体によっては音がつき刺さってくるようで耳が疲れることがあるように感じます。

ウィンナトーンなどと云われると、ウィーンフィルやムジークフェライン、シェーンブルン宮殿などをつい連想して、それだけでもうなにやらありがたくて評価の対象ではないような気になってしまっています。
そんなウィンナトーンのピアノの筆頭であるベーゼンで耳が疲れるなど、こっちの耳がおかしいのだろう…ぐらいに思ってもみたのですが、でもやっぱり感じるものは感じるわけで、あまり硬質な、きつい感じの音がすると、んー…という印象をもってしまいます。

伝統あるものに敬意を払い尊重することは大切ですが、同時に自分の感性に対しては常に正直でなくてはいけないと思います。
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事務用品で代用

一般的にみなさんどうなのかは知りませんが、少なくともマロニエ君が自分でピアノを弾くにあたって、音やタッチのことは別とすれば、もっとも嫌なのは滑りやすい鍵盤です。

鍵盤が滑りやすいということは、むやみにミスタッチの誘因となるばかりでなく、そればかりに気を遣って、安心して弾く楽しみが得られません。滑りやすい鍵盤のせいで、しなくてもいいミスをするのは本当にいやなものです。
そもそも自分が下手クソなのは致し方ないことで、いまさらこの点を嘆いてもはじまりませんが、最低限自分のもっている甚だ乏しい演奏能力さえ指が滑ることで大きくスポイルされてしまうのは、ひとえに滑りやすい鍵盤のせいで、これは甚だおもしろくありません。

とりわけ質の良くない象牙鍵盤が弾き込まれると、表面は異様なほどサラサラスベスベになり、指先を適度に止めるという性質が完全に失われてしまいます。
現在、我が家で愛奏しているディアパソンは、幸いにもこの点ではそこそこの象牙のようで、それほど悪くはないのですが、マロニエ君の手や指が脂性でも汗っかきでもないためか、やはりやや滑り気味です。

滑るといえば、黒鍵の黒檀も、見た感じや指先の触れる感触こそ良いけれども、こと滑りやすさという点ではむしろプラスチック以下だというのが正直な印象です。
これがさらにスタインウェイなどの外国製ピアノになると、欧米人の太い指を想定して、黒鍵の間に指が入るように日本製ピアノより黒鍵がひとまわり細く作られているので、滑りやすい感触と細さの相乗作用によって、これがまたかなり弾きにくいのは事実です。

見てくれや質感を別にすれば、少なくともマロニエ君にとって最も安心できるのは白鍵も黒鍵も、あの安っぽいただの白黒の無味乾燥なプラスチック鍵盤ということになります。
よほど高級品が体に合わないというということなのかもしれませんが…。

これまでにも、市販の肌水などで手を揉むなどして試してみましたが、それなりでしかなく、決定的な解決策はありません。
即効性と一瞬の効力という点でいうなら、圧倒的なのは、名前はわかりませんが、オフィスなどで紙を数えるときなどに指が滑らないように指先にちょっとつける事務用品が文具店に売っていますが、あれは効果てきめんです。

ただし、この事務用としてつくられたケミカル品は、指先に硬いジェル状のそれを塗りつけて弾くとしばらくはまったく爽快なのですが、悲しいかなものの数分でその効果が失われてしまうことです。この製品で、もっと持続力があるものがあれば、例え値段は十倍してもマロニエ君は躊躇なく購入するでしょう。

それでも、ないよりはマシというわけで、譜面台の端にはいつもこの丸い容器に入ったピンクの事務用品を置いていますが、これをつけるたびに他の人はどうしておられるのだろうとしみじみ思ってしまいます。

よくレストランのお盆などに、載せた食器が滑らないように、ややネチャッとした素材で出来たものがありますが、まあさすがに鍵盤をそんな素材で作るわけにもいかないでしょうけれど、やはり滑りすぎが嫌な人のためのなんらかの対策グッズが、ピアノメーカーから開発されても良さそうな気がします。滑らない鍵盤は好ましいタッチに匹敵するほどの、演奏者にとって重要なファクターだと思うのですが、どうしてその手がまったく出てこないのか、こればっかりは不思議でしかたありません。

「持続力のある指先もしくは鍵盤滑り止め剤」みたいなものを開発したら、かなり売れると思うのですが…。
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二度目の終焉

もう十日以上前のことですが、検索にヒットしたネットニュースを見ていると、ショッキングな内容が目に飛び込んできました。

このところ不振が続いていたパリの名門ピアノメーカー、プレイエルがピアノ製造を停止する旨を発表したということです。
数年前にやはり販売不振を理由にアップライトの製造を中止し、近年はグランドのみの製造になっていましたが、それも有名デザイナーとのコラボで、凝った外装を持つヴィジュアルが前面に押し出されたもので、なんとなく楽器の魅力というより嗜好品的な方向を目指しているイメージだったのですが、それが最後の延命策だったのかと思います。

記事によれば、現代はピアノメーカーにとっては非常に厳しい時代で、ドイツ・ピアノ製造者連盟のマネジングディレクター、シュトロー氏によれば「ドイツ国内のピアノメーカー数社は厳しい競争に直面して、最高級品に焦点を当てている」と述べたそうです。
ドイツでさえそうなのだから、一部のファンからのみ好まれるフランスのメーカーともなれば、このような成り行きも当然ということでしょうか…。

これは、第一には世の中のニーズが様変わりし、アナログの象徴たるピアノに対する需要が著しく落ち込んでいることに加えて、1990年代以降は、日本に加えて中国の参入によって、高品質低価格のピアノがヨーロッパの市場を席巻したためのようでもありました。

そもそもクラシック音楽じたいが衰退傾向にある時代に、もはやヨーロッパの中堅メーカーが生き残る術はないということなのか…。欧米人は日本人が考える以上にドライなのだそうで、よほどの富裕層でもない限り、寛容な買い物はしないのでしょうね。
「最高級品に焦点を当てている」というのは、要はそれ以外では勝負にならないという意味でしょう。

といっても、スタインウェイでさえ、またしても身売りされてしまったし、ベーゼンもヤマハ傘下になり、もはや品質や名声だけではピアノ製造会社は生き残りができない時代は、ますますその厳しさがエスカレートしているようです。

考えてみればピアノというのは、製造する側から見れば中途半端な製品で、工業力や設備投資、最低の人員などを必要とする、楽器と工業製品のはざまに位置するものともいえるでしょう。
工房規模で一流品を作り出すことはまったく不可能ではないのかもしれませんが、なかなか困難で、仮にどんなにすばらしい楽器でも演奏家はそれを持って歩くわけにもいかず、ここがまた市場としての需要を作り出す要素としては中途半端です。

その点、弦楽器などは極端な話、天才的な名工であれば一人でも製作は可能で、本当に良いものなら演奏家などが放ってはおかないでしょう。
しかしピアノは、その重く大きな図体から「そこそこでいい」という習慣ができてしまっており、演奏者の求める要求も弦楽器のように高度なものではないということがピアノの運命を決定してしまっているのかもしれません。

ピアノメーカーもやみくもには必要ないと思いますが、少なくともプレイエルほどのメーカーなら、小規模でもなんとか存続できる程度のゆとりはある時代であってほしいものですが、なかなかそう上手い具合にはいかないようです。
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ふしぎ

近ごろの若い人は、能力の使い方が昔とは根本的に違ってきているのか、いろいろと不思議に感じることがありますが、とりわけ車などの運転に関する動きを見ていると、理解できないことがあまりにも多い気がします。

すでに何度か書いたことでもありますが、周囲の車の流れとはまったく無関係に、おそろしく低速で走行して後続の流れを堰き止めたり、交通の円滑な流れに著しい迷惑をかけても我関せずという、まったく状況認識というか空気の読めない、マナー以前という感じの動きをする若い男性ドライバーなどをしばしば目にします。

昔は、街中でやたら速度を出し、周りに恐怖を与えるような若者が多く、これは危険性も高くもちろん褒められたことではありません。しかし、一種の活力みたいなものはあったわけで、社会的にアウトな事でもまだ理解はできたのですが、一種の反骨や本能の浪費とも思えない、周囲への迷惑などに一切無関心なような、あの異様なノロノロ運転の類はどこからくるのかと思います。
もちろん飛ばしすぎなどの危険運転は道交法によって検挙の対象にもなりますが、ノロノロ運転でいくら周りに迷惑をかけてもまず摘発はされませんから、こっちはいわばやりたい放題です。

以前はまだ運転中に携帯電話でしゃべっているというような場合が多かったのですが、最近目につくのはそれさえなく、ただじっと無表情に前を向いて、堂々と場違いなスピードや動きで淡々と走っている男性ドライバーが目につき、その意図が読み取れません。
そうかと思うと、ムササビのような恐ろしげな動きで勝手放題に駆け回る危険きわまりない自転車などもやはり若い人に多く、なにがどうなっているのやらさっぱりです。

先日も、ちょっと驚くような光景を目にしました。
友人と夜出かけた折、マクドナルドでちょっとお茶でもしようということになりましたが、郊外の店で日曜の夜ということもあり、お客さんはほとんどなく広い駐車場はガラガラでした。

店を出て車に戻ろうとすると、ん?という光景を目にしました。
一台の車がマロニエ君の車の隣に駐車し終えたばかりで、ちょうど中の人が降りてくるというタイミングでした。ところがこの両車の間は30cmあるかないかぐらいにくっついており、しかも車はBMWの3シリーズのクーペなので、当然2ドアです。2ドアというのは4ドアよりもドアの幅がずっと広いので、ドアの開閉にも4ドア以上にスペースが必要となります。

助手席の女性が降りようとしているものの、ドアが広い上に、こちらの車との間隔が狭いため、ドアをぶつけないよう、見ていて気の毒なくらいアクロバティックな体勢で、片手でドアが開きすぎないよう保持しつつ、その隙間を体をくねらせるようにしてやっとのことで車外にでることに成功。

それが済むまでこちらはドアが開けられませんから待っていたところ、さすがに気まずかったのか軽く会釈をして向こう側にいるドライバーの男性と連れ立って、普通に会話しながら店内に歩いていきました。

しかしです。先にも言った通り、その駐車場はかなり広い上に、閉店しているのでは?と思うほどガラガラでほとんど車はなく、どこでも止め放題なのです。後ろも左右もまったく車はなく、白線だけがむやみに目に入ります。
にもかかわらず、なにを思ってわざわざポツンとあるマロニエ君の車の横にそうまでしてくっつけて止める必要あるのか、その考えがまったく理解できません。

その男性も、ごく普通の今風の青年で、見た目はまあまあのカップル。おまけに車はビーエムで、せっかくそれだけの条件を備えているのに、パーキングでのこの残念なカッコ悪さは見ているこちらのほうが失笑というか、無性に気の毒な気分になりました。
しかも、これだけ広いのに、教習所じゃあるまいし、わざわざ慎重にバックで駐車するのもナンセンスとしか思えません。

ほんらいバックで止めるか、前向きに止めるかも、あくまでケースバイケースだと思いますが、運転の下手な人に限って、駐車というと無条件にバックで止める習性をもつ人が多いように思います。もしかしたら「出るときが楽だから」という思い込みなのかもしれませんが、出るときにバックするほうが、きちんと枠に収める必要もなく、技術的にも遙かに楽なんですけどね…。
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気負わぬ演奏

過日は、福岡出身のピアニスト、木村綾子ピアノリサイタルがあって、ご案内を受けたので行ってきました。
現在は大阪音楽大学で指導にあたっておられ、福岡ではなかなかコンサートの機会がないのですが、それでもときどきこうしてリサイタルをされるのは嬉しいことです。

マロニエ君は以前この方のお母上に大変お世話になったことがあり、ご実家が拙宅から近いこともあって長いことお付き合いがあります。

ここのお嬢さんが木村綾子さんというピアニストなのですが、これがもう大変な腕達者で、ほとんど男勝りとでも言っていい確かな一流の技巧をお持ちです。

音楽的にも、衒いのない正攻法のごまかしのないもので、どこにも変な小細工やウケ狙いがなく、あくまでも楽譜に書かれたことを、慌てず迷わず、しっかりと腰を据えつつ、過度に作品を追い込むことなく客観的に弾かれるスタイルがこの方の特徴です。

長年ドイツに留学されていたこともあるとは思いますが、この方の生来持っておられるものとドイツ音楽はまことに相性がよく、まるで自然な呼吸のようで、確かな構造感が決して崩れることのないまま悠々とその音楽の翼を広げていきます。

そんなドイツ物の中でも、際立って相性抜群に思われるのがブラームスで、あの重厚なのに捕らえどころのない本質、分厚い和声の中をさまようロマン、暗さの中に見え隠れする甘く儚い旋律の断片、作品ごとに掴みがたい曲想などが、この方の手にかかるとあっけないほどに明確なフォルムをもって明瞭な姿をあらわす様は、いつもながら感心させられます。

今回はop.116の幻想曲集が演奏されましたが、これを聴いただけでも行った甲斐があったというものでした。

ピアノを弾くことによほど天性のものがあるのか、こういう人を見ていると、通常はピアノリサイタルという、演奏者にとてつもない負荷のかかる行為が、大した労苦もなしにできるらしいといった印象を受けてしまいます。コンサートはこの方の生活のところどころに自然に存在するもので、それを普通にやっているだけといった、至って日常的な風情です。

そのためか、ギチギチに練習して、隅々まで精度を上げるべく収斂された演奏という苦しさがなく、もっと大らかで、悲壮感も緊迫もなしに、自然にピアノを弾いておられるという伸びやかさが感じられます。
もちろんきっちり練習されていないはずはないのですが、その苦労が少しも表に出ないところがプロというもので、良い意味で、常に余力を残した演奏というのは心地良いものです。実力以上のことを無理にやろうとして聴く側まで疲れさせてしまうということがなく、安心感をもって楽曲に耳を委ねることができるのは立派だというほかありません。

これは、ひとつには木村さんが大変な才能に恵まれたピアニストであるのは当然としても、さらにはその人間性やメンタリティに於いても、常に謙虚で偉ぶらない姿勢が感じられ、その点が聴いていて伝わってくるのは、この方だけがもつ独特の心地よさのような気がします。
演奏に最善を尽くすことと、功名心に縁取られた演奏は似て非なるものです。

どんな難曲を弾くにも自然体が損なわれず、それでいて演奏は構成的にも技巧的にも収まるべきところにビシッと収まっており、これは多くのピアニストがこうありたいところでしょう。
ある意味、こういう無欲で腹の据わった芸当というのは多くのピアニストはなかなかできることではなく、その真摯なのに肩肘張らない演奏は、聴くたびに感心してしまいます。

トークがまたおもしろく、私はピアニストでございますといった気負いがまるでなく、普通の人の感性で淡々と素朴な話をされるのがしばしば笑いを誘います。しかるに、いったんピアノに向かうと呆れるばかりの見事な演奏が繰り広げられるのですから、ある意味で不思議なピアニストです。
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イヌ派とネコ派

動物好きを自認するマロニエ君は、子供のころから家には必ずい犬がいて、犬のいない生活を送った時期のほうが遙かに少なく、この最近がそれにあたります。
数年前、最後に飼った犬が老衰で亡くなり、その悲嘆から家族共々次を飼う意欲を喪失し、この数年間というもの、これほど長く犬のいない生活を送ったのは初めての経験です。

猫も決して嫌いではないし大いに魅力的だとは思いますが、動物を飼うというのは生半可な気持であってはなりませんから、そうなるとどうしても自分との相性に逆らうことはできません。
昔から動物好きの中にもイヌ派とネコ派があるといわれている通り、これはなかなか途中から宗旨替えすることはできないようです。
竹久夢二や川端康成は有名なネコ派ですが、吉田茂などは犬嫌いの奴とは口もききたくないというほどのイヌ派だったとか。
マロニエ君はどうしても犬のほうが圧倒的に好きで、自分には合っていると思います。

そもそも犬と猫は、なにもかもが逆のような気がします。
呼んだら喜んでやって来る犬、呼んでも無視するのが当たり前の猫。
何かにつけ喜怒哀楽をストレートにあらわす犬、いつもクールで冷めた態度の猫。
飼い主に無限の忠誠と愛情を示す犬、イヌ派には恩知らずとしか映らないマイペースな猫。
人と家に住みついて決して離れない犬、いつどこに消えてしまうともわからない猫。

…等々、書いていたらキリがありません。

我が家の庭には隣家の飼い猫がときどき遊びにやって来るのですが、これまで何十遍も呼んでみたけれども、ただの一度も応えてくれたことはなく、窓越しに見ていると近くで適当に遊んでいますが、少しでも裏口から出ていこうとすると、サッと忍者のように音もなく走り去ってしまいます。

つい先日、そんな猫の野生というか、恐さを目撃してしまいした。
いつものように我が家の庭に遊びに来ている猫を見つけ、窓越しに観察していたときのこと、普段とは少し様子が違ってその日はいやに何かを見つめています。そして、ふいにあっちを向いたり、逆方向に身体ごと少し動いたりと、とにかく何かに集中しているようでした。

何事かと注視していると、その視線の先にはヤモリだかトカゲだかがいて、双方睨み合いが続き、相手が小刻みに動くたびに猫のほうも敏捷にそれを追っているようでした。
猫は全身をこわばらせてあっちこっちと動いてはピタッと静止を繰り返していましたが、しばらくその攻防が続いたあと、その緊張がふと緩みました。
こわばっていた猫の背中には普段のしなやかな曲線が戻っていますが、なんとはなしにやや異様な感じがしました。そしてこちらを向くと、猫の口元に何かがプラプラとぶら下がっています。

なんと、ついにそのヤモリorトカゲが捉えられ、猫に勝負あったようでした。
しばらくこっちを見たり、横を向いたりしましたが、そのたびに口先の物が小さく揺れています。
そのうち、意を決したように、いつものように隣家のほうへ軽やかに走り去ってしまいましたが、あんなに小さくてかわいくとも、猫の素性はれっきとした野生動物であることをはっきりと見せつけられたようでした。
やはり、遠いご親戚には虎やライオンがいらっしゃるだけのことはありますね。

なんだかゾッとする光景で、これだけでもやっぱり自分はイヌ派だなぁ…としみじみ思わせられた一瞬でした。
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続・左手ピアニスト

左手ピアニスト、智内威雄さんの番組で、冒頭から聞こえてきたピアノの音は、普通とはちょっと違う、燦然とした響きのパワーをもっており、のっけからおやっと思いました。

カメラがピアノに近づくと「ああ、そういうことか」とすぐにわかりましたが、これは神戸の有名ピアノ店所有のニューヨーク・スタインウェイで、いわゆるヴィンテージピアノです。ずいぶん昔にはスタインウェイ社の貸出用に使われていたという来歴をもつ1925年製のDですが、やはりこの時代のニューヨーク・スタインウェイはすごいなあと思います。

何がすごいかと云えば、単純明解、良く鳴るということです。
鳴りがいいから音にも力があり、敢えて派手な音造りをする必要もないようで、太くてどこまでも伸びていきそうな音が朗々と響き渡ります。昔のピアノの音色には、変な味付けがされていない楽器としての純粋さがあるように思います。いわば豊かな自然から生まれたおいしい食材のようなもので、ごまかしがないところが素晴らしい。

もちろん素材としての味は濃厚ですが、それはけっして添加物の味ではありません。
演奏され、ピアニストの技量によって繰り出される音楽の要求に応えるための音であり、その領域に特定の色の付いた音が出しゃばってくることはありません。

その点、現代のピアノは、パッと見は音もタッチもきれいに整っていますが、全体に小ぶりで器が小さい上に、いかにもの味付けをされている傾向があります。いとも簡単に甘くブリリアントな耳触りの良い音が出るようになっており、こういう感じはウケはいいのかもしれませんが、その音色には奥行きも陰翳もないし、弾き込まれて熟成されるであろう感じなども見受けられず、今目の前にあるものが最高の状態という感じです。アコースティックピアノなのに、まるで電子ピアノのような無機質の偽装的な美しさがあるばかりで、音色はあらかじめ固定されてしまっている。

しかし、これでは演奏によって作り出されるべきものを、予め楽器のほうで勝手に決定されてしまって、演奏者から、音色や響きを演奏努力によって作り出す余地さえ奪っているようなもので、悪い言い方をすれば演奏の邪魔をしているとも感じます。

智内さんのご自宅(もしくは個人の練習室)には、新品のように美しくリニューアルされているものの、戦前のニューヨーク・スタインウェイの小さめのグランドがあって、楽器の音にも独自のこだわりをお持ちの方のようにお見受けしました。

また、神戸のあるホールで開催された智内さんのコンサートの映像では、古いヤマハのCFIII(たぶん)を使ったものもありましたが、これが意外なほど渋みのあるいい音だったことは驚きでした。過日書いた広島での小曽根真さんのときと同じく、マロニエ君はこの頃のヤマハのほうが音が実直かつ厳しさがあり、ピアノ自体にも強靱さがあって、はるかに観賞に堪える音のするピアノだと思います。

スタインウェイに話を戻すと、智内さんが通って練習を続け、コンサートにもその特別なピアノを運び込む神戸のピアノ店がしばしば登場しました。ここはマロニエ君も何度か訪れたことがありますが、この店にある年代物のスタインウェイは、どれもその老齢とは逆行するような溌剌としたパワーを漲らせており、「ピアノはヴァイオリンと違って純粋な消耗品」などという流説がここではまるきり通用しません。

マロニエ君は決して懐古趣味ではありませんが、ピアノはやっぱり昔のものの方が全般的に素晴らしいという印象は、このところますます強まるばかりです。
もちろん、個体差もあれば、例外となるメーカーもあるとは思いますが、時代の流れとして全体を見た場合、概観すればそういう現実があると個人的には思っています。
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左手のピアニスト

NHKのETV特集で、『左手のピアニスト~もうひとつのピアノ・レッスン~』という番組が放送されました。
智内威雄さんという、現在37歳のピアニストに焦点を当てたもので、20代前半のころ、留学先のドイツで突然「局所性ジストニア」という難病に襲われ、右手のコントロールが効かなくなったことから、苦悩を乗り越え左手のピアニストに転向したという方でした。

注目すべきは、どうやら、この方がただ単に左手のピアニストというだけでは終わらない能力の持ち主であるというところのようです。
左手ピアノは、両手ピアノとは奏法も聴かせ方も異なるため、左手ピアノ固有の奏法や表現を独自に研究、弟子および他者への指導、埋もれた楽曲の発掘、さらにはコンサートなどを通じての、いわば市場の開拓といったら言葉が適当かどうかわかりませんが、左手ピアノの魅力を世に知らしめることまでを視野に含む、トータルな活動を精力的にこなす方でした。

ラヴェルやプロコフィエフの左手の協奏曲などが、第1次世界大戦で右手を失ったピアニスト、パウル・ヴィトゲンシュタインの委嘱によって作曲されたことは有名ですが、番組の解説によると、左手ピアノのための作品はなんと300年前から存在し、数千曲もの左手のピアノ作品が作られていたというのは驚くべきことでした。

しかも現在は、これらの作品の大半が弾かれることのないまま埋もれた状態になっているのだそうで、そうなると楽譜を見つけるのも容易なことではないようです。

どれほど優れた作品であっても、それが演奏され、音として聴くことができなければ、その存在意義は無いに等しいものになるわけで、カザルスがバッハの無伴奏チェロ組曲の価値を見出したり、メンデルスゾーンがバッハそのものの価値を広く世に広めるきっかけを作ったように、数多くの陽の目を見ない楽曲には、ときどきこのような熱心な個人の力によって、再び陽の目をみるチャンスが巡ってくるものなのかもしれません。

その智内さんの演奏はまったく見事なもので、いわゆる左手ピアノにありがちな、ひ弱さや物足りなさの要素は皆無。いかにも筋の通った、堂々たる佇まいの音楽として、充実感をもって演奏される様子には感嘆すら覚えました。
テクニックも大変なもので、あるコンサートで共演したフランス人のなんとかいうピアニストとは格段の違いを感じさせられます。

さらには、智内さんがピアニストとしてだけでなく、ネットを駆使して演奏技法を公開したり、左手ピアノの勉強会のようなことを開催したり、子供のために編曲をしたりと、とにかく広い意味での才人であることに異論はありませんが、番組の随所にはけっこう役者だなあと思わせられるシーンも少なくなく、さらにはその考え方や言葉などを通じて、なかなかの野心家のようにも感じられ、こういう人は何をやらせても事を為し遂げるのだろうと感心させられてしまいました。

ルックスもなかなかで、声もよく、色白のおだやかな優男のようでありながら、その眼光は常に鋭く、まさに隙のない意志の人なのだということが、まるで倍音のように伝わってきたのはマロニエ君だけでしょうか…。

左手ピアノでありながら、有名な日本人の御大の名が一度も出てこなかったのも偶然かどうかはわかりませんが、ともかく、これぐらいの才とスタミナのある人でなければ、今の時代にひとつの分野を再確立させることなどできないのだろうと、なんとなくトータルで了解してしまいました。
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プレイエルP280

これまで購入したCDの中には、聴いてみるとまったく期待はずれで、一聴してそのままどこかに埋もれてしまうものが少なくありません。
もったいない話ですが、CDは聴いて気に入らないから返品というわけにもいかないので、こういうCDもいつしか嵩んでくるという面があることは事実です。

そんなものの中から久しぶりに再挑戦というわけでもありませんが、ふと思い出して、もういちど清新な気分で聴いてみようと引っ張り出すことがあるのですが、そんな敗者復活戦で陽の目を見るCDは滅多になく、大抵はやはり初めの印象が蘇ってくるだけに終わります。

そんなもののひとつに、「プレイエル・ピアノを、サル・プレイエルで」というタイトルで、デルフィーヌ・リゼという女性ピアニストの弾くシューマン、ベートーヴェン、リスト、プロコフィエフ、ショパンなどを収めたCDがあり、これを再度聴いてみることに。

これはいうまでもなく、現代のプレイエルのコンサートグランドによる録音がほとんどない中で、その音を聴いてみることのできる貴重なCDとして買ったもので、演奏や曲目は二の次です。

プレイエルというと、マロニエ君はやはりコルトーのCDに代表される昔のプレイエルには惹かれるところが大きいのは事実です。戦前から1940年ぐらいまでのプレイエルが持つ、あの独特の軽さと、華麗で艶やかで享楽的な音色はいかにもパリのピアノというもので、田舎風の要素がまるでありません。

その後のプレイエルはドイツ資本に売られるなど、事実上プレイエルの遺伝子を持ったピアノは消滅したも同然でしたが、21世紀の初頭だったか、ふたたびフランス国内で再興します。
この新しいプレイエルの音を賞讃する意見にはあまり触れたことがありませんが、そのナインナップの中にはP280というコンサートグランドまで含まれているのは大いに期待をもたせるものでした。

ところが、なかなかその音に触れ得るチャンスがなく、そんな中でこのCDはある意味で最も待ち望んでいたものでした。しかし、スピーカーから出てくる音はどうにもパッとしないもので、期待が高かっただけに肩すかしをくらったようでした。

決して悪い音ではないのです。ただ、昔のプレイエルが持っていた明快な個性に比べると、非常に優等生的で、このメーカーに対して期待していたものはほとんどありません。
さすがにフランスピアノだけあって野暮臭い鈍重さはなく、基本的に柔らかい響きと、基音の美しさで聴かせるピアノだとは思います。

ある技術者の方から聞いた話によると、このP280は実はドイツのシュタイングレーバーで生産委託されているものだそうで、聞いたときは大変驚きましたが、考えてみれば工房規模の、いわば弱小ピアノメーカーで中途半端なものを無理してつくるより、シュタイングレーバーのような確かな技術を持つ会社に丸投げしたほうがいいということかもしれません。

これは自分で確認できた話ではありませんが、相手は好い加減なことをいう方ではないので、それが事実だとすると、このP280はピアノとしての潜在力はいいものがありそうに感じるものの、その音はどこかおっかなびっくりの至って消極的なものとしか思えません。ドイツ製ピアノの土台の上に、フランス風の味付けをしたという辻褄あわせが、本来のこのブランドらしい突き抜けたような個性の表出を妨げているのかもしれません。

逆にいうとシュタイングレーバーに、小ぶりのやわらかなハンマーを取りつけて、それっぽい整音をしたらこんな音になるのかとも思いますが、いずれにしろ、本当にプレイエルのコンサートグランドというのであれば、まずなによりもショパンコンクールのステージに復帰してほしいものです。

追記;先ほどシュタイングレーバーを販売するお店の方からメールをいただき、シュタイングレーバー社はプレイエル社から依頼されたため、P280の設計をしただけで、生産はしていないということでした。
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アンプの重要性

スピーカーの音質調整は、カーペット上に置いていた足の部分に、ステンレス製バット→素焼きレンガ→タイルと3種類を台座として使ってみたところ、素焼きレンガ+タイルというところで最も好ましい音となり、これをもって終わりとする予定でしたが、ひとつだけ思い出したことがありました。

それはこのシステムでは安い中国製デジタルアンプを使っているのですが、いかにデジタルとはいってもメーカーごとにいろいろあって、自室で使っているものは最もその標準的なモデルとされるものでした。一時期いい気になって何台か購入して持っているのに、これをあれこれ試して比較してみるということはしていなかったのです。
とくに深い理由はなく、ただ面倒臭いからやっていなかったわけで、そのあたりがやっぱりにわかマニアはダメだなあと自分の無精を恥じ入るばかり。

そこで、最も交換してみたいひとつのアンプを思い出しました。
それはLepaiというメーカーで、数ある中国製デジタルアンプの中でも、実力はあるものの、見栄えがイマイチで、なんとなく物置の中にしまったままにしていたものですが、それを引っ張り出しました。

このLepaiのアンプは、複数の業者によってアマゾンなどでも売られていますが、マロニエ君が買ったのは日本のある販売会社が自社仕様として独自のパーツを組み込ませるなど、特別にチューニングされたという製品で、見た目はまったく同じものですが、内容はずいぶん磨きがかけられているというもの。
この会社は一部のマニア間ではかなり高い評価を得ているようです。

さっそくにそれに繋いでみると、なんと、これまでのアンプとはまったく違ったパワフルな鳴り方をしはじめたのにはただびっくり!「そうか、まずはアンプを試してみるべきだったんだ」とこの時悟りましたが、ともかくこれでグッと力強い音が鳴り始めました。
ちなみにワット数が大きいというようなことはほとんどなく、やはり肝心のものは慎重に選ばなくてはいけないということのようです。

アンプでこうも違うのかと思い、久しぶりにネットを見てみると、そのお店から同じ製品のさらなる進化型というか、最終型のようなものが発売されていました。このお店の商品は、みんなが狙っているアイテムは入荷したときにすみやかに買っておかないと、悠長に構えているとすぐに売り切れとなり、次はいつになるかまったくわからないことが何度かあり、その経験からすぐに注文してしまいました。

こうして数日後に届いた最新型は、やはりダサい外観はまったく何一つ変化ナシで、うっかりすると新旧どっちやらわからなくなるので、用心のために小さなシールを貼り付けて区別します。
果たしてその音ですが、一年前に買ったものとは明らかに違っていて、力強さはそのままに、やや荒削りなところのあった音は俄然クリアになり、とても同じものとは思えない進化を遂げていました。

前のモデルでも、巷の評価では数十万もするアンプに負けないというような評判もあったぐらいでしたが、今回のものは、いっそう緻密でクオリティの高い音になっていて、その価格を考えると、なんでこんなことが可能なのか、ほとんど信じられません。

説明によれば、さらなる改良が施され、同型では過去最高の音質を達成できたと謳われていますが、まったくその通りでした。同じピアノでも調整次第で別物になるというのと同じことなんだと思いました。
よい音というものは、楽器であれオーディオであれ、要するに緻密な研究や調整の積み重ねの先にはじめて存在し得るものだということがわかったような気がしています。

コストパフォーマンスでこれを凌駕するアンプはたぶんどこにもないだろうと思います。
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ストラドの謎-3

現在製作されるヴァイオリンの多くが、ストラドを手本とし、サイズもほぼそれに固定化されているというのがおおかたの現実のようです。
これはもちろん、ストラドを崇拝する製作者の意志であると同時に、ここまでストラド至上主義が蔓延することで、市場もストラド型でなければ売れないという裏事情があるのでは?と考えさせられてしまいます。

ヴァイオリン製作者とて、多くはただ趣味や道楽でやっているわけではないでしょうから、最終的にはその楽器が演奏家に弾かれて評価され、その結果、ビジネスとして成り立たなくては作る意味がないだろうと思います。
今のこの風潮の中で、仮にストラドに背を向けたヴァイオリン作りをしても、見向きもされないとしたら、よほど孤高の職人でもない限り、製作する意義が見出せなくなる。勢い時代の要請に沿ったものを造らざるを得ないのは、市場原理の中ではやむを得ないというべきでしょうか。

でもしかし…。
そもそもマロニエ君が直感的に感じるのは、現代人がストラドの完璧なコピーを目指している限りにおいて、それを越えるものは生まれないのではないかという疑念です。
ダ・ヴィンチのモナリザを、どれだけ高度な正確さをもって模写しても、模写は本物を凌駕することはできません。さらにそこには数百年の時を経ることで、経年変化も重要な味わいの一要素になっているでしょう。
もちろん絵画と、機能性をもった楽器を同等に論じるわけではありませんが…。

ある本にあった言葉ですが、「概念を作る側と、それを追う側には、埋めがたい溝がある」と述べられていることをふと思い起こさせられました。

これは、「追う」というスタンスにある限り、目標物を捉えて同列に並ぶことは永遠にできないという定理のようなもので、それ以上の新しい何かを作ろうとしたときに、その過程で自然に先達の偉業の実態も掴める瞬間がやってくるのではないかと思うのです。
つまり、目標がストラドである限りにおいては、ストラドの天下は安泰だと見ることができるわけです。

それはともかく、この番組の中で印象に残る2つの要素、楽器から出る音の指向性を科学的に証明できたことと、表板に対する均一な音程の考察は、いずれも日本人による研究や考察であり、やはり日本人はすごいなあと感心させられ、誇らしくも思いました。

個人的に残念だったのは、ナビゲーター役のヴァイオリニスト演奏が、カメラを意識して張り切り過ぎたのかどうかわかりませんが、どこもかしこもねっとり粘っこい歌い回しのオンパレードで、いかにストラドとはいっても少々うんざりしてしまいました。

反面、思わず可笑しくなったのは、出てくる人達はおしなべて皆一様にどこか楽しそうで、嬉々としてこの仕事や研究をやっているという様子だったことです。そして大半が男性で、やはり男性特有のオタク的な性質が威力を発揮するのは世界共通で、こういう仕事には繊細で夢を追うのが大好きな男性が向いているということをまざまざと感じたところです。

ふりかえって最も印象に残った言葉は、音の指向性を三次元グラフにして解析した牧勝弘さんの、この実験結果に対する総括的なコメントの言葉でした。
「モダンヴァイオリンは、音があらゆる方向に満遍なく広がる噴水のような出方であるのに対して、ストラドは特定の方位へ音が広がる、しぼったホースの水のようなもの」(言葉は正確ではありませんが、おおよその意味)

これは、ピアノにもそのまま共通する事実で、この特性こそ、一握りの優れた楽器だけに与えられた奇跡的、特権的特性のようなものだと思います。
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ストラドの謎-2

NHKスペシャルの『ストラディヴァリウスの謎』では、この名器を巡って興味深い事の連続で、あっという間の1時間でしたが、その中でも、とりわけ「ほぅ」と思ったのは、先にも書いた、モダンヴァイオリンとストラディヴァリウスの音の特性を科学的に探るというものでした。

番組の中で、ストラドを使うパールマンも云っていましたが、ストラドの音は大きいのではなく、音に芯があって澄んでいる、だからホールの最前列から最後列まで満遍なく届くということでした。

そんなストラドの特性が、今回の日本での実験で科学的にも裏付けられたわけで、歴史的な名器といわれる楽器は往々にしてこのような傾向をもっており、ピアノでいうとスタインウェイの特性がまさに同様で、けっきょく同じだなあと思いました。

スタインウェイは傍で聴くと音量はそれほどでもなく、音色もむしろ雑音などが気になるのに、少し距離を置いて聴くと、一転して美しい、力強い音が湧き出るように聞こえる不思議なピアノで、これが大ホールの隅々にまで届く、遠鳴りの威力だと思います。
同様の実験はピアノでもぜひやってほしいものだと思いましたが、すでに日本などのメーカーではこうしした実験も極秘でやっているのかもしれません。

さらにマロニエ君の印象に残ったのは、窪田博和さんの主張で、ストラディヴァリは表板の音程を聞きながら製作をしたのではないかという基本に立ち返った考えでした。
それをある程度裏付けるものとして、ニューヨークのメトロポリタン博物館に所蔵される2挺のストラドはロングパターンといわれるモデルでしたが、これはストラディヴァリ50歳頃の作品で、この時期の特徴として通常のヴァイオリンよりもやや長めのボディを作っていたというものです。

現代のヴァイオリン職人の中には、コンマ何ミリという正確さでストラドの正確な寸法に基づいて、徹底的に模倣している人が少なくないようですが、そこまでしても本物にはおよばず、かたやストラディヴァリ自身は、時代によって大きさの異なるヴァイオリンをあれこれと作っているというのは、大いに注目すべき点だとだれもが思うところでしょう。

表板に開けられるf字孔も時代によってその形や位置が微妙に異なるそうですし、本で読んだところでは表板の膨らみなどもいろいろだと書かれています。
ディテールの形状やサイズがそれぞれ違うにもかかわらず、どれもがストラディヴァリウスの音がするということは、研究の根幹を揺るがすことのような気がします。

上記のロングパターンも展示ケースから取り出して演奏されましたが、紛れもないストラドの音がするというのは、まったく不思議というほかはなく、ますます興味をかき立てられるところです。そこには寸法よりももっと重要な「決め手」があると思わずにはいられません。

要するに、ストラディヴァリが作ったものなら、たとえサイズやf字孔の位置や形状が違っても、どれもがストラドの音がするというわけで、やっぱり製作過程にその奥義が隠されているのかなあ…と思ってしまいます。

そこへ窪田博和さんの主張が結びついたような気がしました。
もちろん楽器の音色を構成する要素は複合的で、それひとつでないことは忘れてはなりませんが、窪田さんの製作したモダンヴァイオリンは世界的にも高く評価されているようで、実際のコンサートで使っているヴァイオリニストもおられるようです。
そのひとりルカ・ファンフォーニ氏は「古いクレモナのヴァイオリンのような音」「作られたばかりとは思えない完成された音」と満足げにコメントしていたのが印象的でした。

アメリカのオーバリン大学では、毎年世界からトップクラスの60人のヴァイオリン職人が集い、ストラドの研究成果を互いに分け合っているそうですから、着々と謎の解明へ迫ってきているのかもしれません。
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ストラドの謎-1

先日の日曜夜、NHKスペシャルで『至高のバイオリン ストラディヴァリウスの謎』という、タイトルだけでもわくわくさせられるような番組が放送されました。

例によって録画を後日視たわけですが、テレビでここまでストラディヴァリウスの謎に迫ったものはこれまで見たことが無く、なかなか興味深いものでした。

アントニオ・ストラディヴァリ(1644-1737)の作ったヴァイオリンをはじめとする弦楽器は、ラテン語風の「ストラディヴァリウス(通称ストラド)」と呼ばれながら約300年が経つわけですが、現代のめざましい科学技術の進歩をもってしても、いまだにそれに並ぶヴァイオリンを作る事が出来ないというのが最大の不思議とされてきました。

この一人の天才製作家の作り出した楽器に迫ろうと、18世紀から今日まで、いったいどれほどの製作家がその秘密に挑戦したことでしょう。古今東西、それに比肩すべく最高の弦楽器造りに生涯をかける取り組みがくりかえされていますが、いまもって達成できたとは云えないようです。

番組では、一人の日系人で、12年前からストラドを使うという女性ヴァイオリニストが、ナビゲート役としてその謎を追う旅に出ます。聖地クレモナはもちろん、ストラディヴァリが使った木材が切り出されたという天然のスプルースの森、現代の工房、博物館、ニスの解明はもちろん、アメリカではCTスキャンにかけて内部構造を詳細に調べるということまで、ありとあらゆる調査がおこなわれていました。
それでも、これという決定的なストラドの製造上の秘密は解明できませんでした。

今回の調査で画期的だったのは、NHKと、楽器の演奏を立体的に分析する学者、およびストラドを使う日本人演奏家という3者の協力によって、NHKにある「音響無響室」という響きのまったくない施設内で、演奏者のまわりを42個の小型マイクで取り囲み、ストラドと現代のモダンヴァイオリン音の特性を比較すべく、3人の演奏家とそれぞれが所有するストラドと現代のヴァイオリンを使って実験がおこなわれたことでした。

その結果は三次元のグラフに表現され、モダンヴァイオリンでは音が演奏者から周囲にまんべんなく広がろうとするのに対して、ストラドはある特定(斜め上)の方向に音が伸びていこうとする特性があることが、客観的かつ科学的に立証されました。

また、日本人のヴァイオリン製作家である窪田博和さんは、ストラドの制作上の重要な鍵のひとつは、表板の均一な音程にあるのではという点に着目されていることでした。それは表板のどこを叩いても、常に同じ高さに音が揃うように制作することで、楽器が最も効率よく鳴るという主張でした。

これはつまり、ストラディヴァリはあくまで音優先で楽器を制作していたのではないか?という基本に立ち帰った考え方です。
化学分析や寸法のコピーなど目に見える部分をマネるのではなく、もっと基本的に「音を聞きながら製作する」ことにこだわるということで、ストラディヴァリは一挺ごとに指で板を叩きながら板を削り、表板の音程を揃えたのではないかという考察でした。

というのも、クレモナはじめ、現代の世界中のヴァイオリン製作家の多くは、ストラドの寸法を完璧に計測して、中にはコンピュータ制御でまったく同寸法の板を切り出すなどして、各人これでもかとばかりに寸分違わぬストラド型ヴァイオリンの製作に邁進しており、彼らは完全なストラドのコピーを目指しているようです。
その甲斐あってか、相当に良質のヴァイオリンが生み出されるようになってはいるようですが、それでもストラディヴァリのコピーができたという訳ではなく、いろいろなことが世界各地で研究されているにもかかわらず、いまだにこれという核心の解明には至っていないようです。

ヴァイオリンの構造というのは、「えっ、たったこれだけ?」というほどシンプルなもので、逆にあまりのシンプルさ故にストラディヴァリの優位の秘密はいったいなんなのか…、ここに製作者や研究者の心はいやが上にも高ぶり、果てることのない研究が今尚続けられているのかもしれません。

ストラディヴァリウスそれ自体がまさに謎そのものであり、その謎がどうやっても解けないところに多くの人が惹きつけられるのでしょう。
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邂逅

小林彰太郎さんが作った「カー・グラフィック」は、他の自動車雑誌とは一線を画する記事が満載でしたが、その中には、「長期テスト」といって編集社で話題の車などを実際に購入し、各編集員が一台を担当して日常の足として徹底的に使用してみることで、わずか数日のテストでは得られない部分を報告していくというものがあります。

最近は若者の車離れという世相を反映してか、この長期テスト車もずいぶん数が減ってしまいましたが、最盛期には10台以上の長期テスト車フリートを擁し、それだけでも誌面はたいへんな活況を呈していました。

むろん小林さんも長期テスト車の担当者の一人で、ある時期、一台のフランス車が小林さんの担当となり、それはマロニエ君およびその仲間達の愛用する車でもあったので大いに喜んだものでした。
この長期テストには読者へのモニターの呼びかけというものがあり、それに名乗りを上げた同型車のオーナー達にはアンケートが送られてきて、その回答からユーザーの満足度や不満点など、さまざまな内容が誌面で報告されます。

小林さんは数年数万キロにわたって日常を共にしたこの車にいたく感銘を受けられ、長期テスト終了後には、あらためて自宅用の車として新車を購入されるほどの高い評価でした。

そこで、当時マロニエ君が所属していた同車のクラブでは、節目にあたる全国ミーティングに小林彰太郎さんをお招きすべく事務局が編集部に掛け合ったところ、なんと了解が得られ、業界きっての大物が会場の箱根のホテルにゲストとして一泊で参加されることになりました。

マロニエ君はこの記念イベントに参加すべく、福岡から自走して箱根に向かいましたが、途中は普段なかなか行くことのない各地のピアノ店巡りをしながら、その終着点として箱根を目指しました。そのため前泊はせず、当日朝からの参加となりました。

それが幸いしたのかどうかはわかりませんが、ホテルに到着すると、まわりの皆さんの計らいによってロビーで小林彰太郎さんと二人だけで話をする機会を作っていただき、長年文章でばかり接してきた巨匠とついに相対して言葉を交わすことになりました。
はじめはいちおう車の話をしていましたが、マロニエ君が福岡からピアノを巡る旅をしてきたことを口にすると、たちまち話題は音楽の話になり、小林さんもお若い頃はコルトーに熱中しておられたという話を聞きました。わずか15分ぐらいの時間でしたが、忘れがたい思い出になりました。

その後、コルトーの日本公演の中から、小林さんも胸躍らせて行かれたという日比谷公会堂でのライブがCDとして初めて発売されたので、それを小林さんにお送りしたところ、丁寧な御礼の手紙をいただきました。カー・グラフィックのコラムのページでいつも見ていた直筆のサインとまさに同じ筆跡の「小林彰太郎」という文字を封筒の裏に見たときは、さすがに背筋に寒いものが走りました。

マロニエ君はCDに添えた手紙に「このときの演奏会は日比谷公会堂が購入したニューヨーク・スタインウェイのお披露目も兼ねていたらしい」ということを書き添えていたところ、届いた手紙には、自分が聴いた日のピアノはたしかプレイエルだった筈だ、というようなことが書かれていました。

その後も車のことでお手紙をいただきましたが、それは決して形式的なものではない丁寧なもので、一介の読者でも大切にされる小林彰太郎さんのお人柄が伺えるものでした。このときばかりは全国のファンから御大を独り占めにしたようで、嬉しい反面、さすがに気が引けたことを思い出します。

さて、前号のカー・グラフィック(2013年11月号)には、小林さんによって撮影された前後間もない車の写真が連載されるページがあり、その隅には、愛知県長久手市のトヨタ博物館で3ヶ月近くにわたって「小林彰太郎 フォトアーカイヴ展」というのが開催されており、10月27日には小林さんが会場入りして、トークショーやサイン会がおこなわれる旨が記されていました。
しかし、実際にはその予定の翌日である28日に亡くなられたわけで、まったく人の命とはわからないものだと思いました。
若い頃から蒲柳の質だったようで、いろいろ大病もされたようですが、最後まで現役を貫かれたことはさぞかし本望だったことだろうと思います。
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天皇の御料車

小林彰太郎さんの著述には長年にわたり多くを学ばせてもらったマロニエ君ですが、強く印象に残るもので且つ異色なものは、20数年前、今上天皇の即位式典でおこなわれたパレードで使われた車への苦言でした。

このとき、即位式を終えられた平成の陛下と美智子さまが正装でお乗りになったのは、ロールス・ロイスのコーニッシュというオープンカーでした。

ロールス・ロイスといえば誰もが知る英国の超高級車ですが、コーニッシュというのは2ドアのコンバーティブルで、当時のロールス・ロイスのラインナップの中では最もカジュアルな位置付けのモデルであり、いかに高額ではあってもスポーティかつプライベート用の車なのです。通常のリムジンとは違って、コーニッシュの上席はあくまでもフロントシートであり、この車のハンドルを握るような大富豪は、普段用には運転手付きロールスの4ドアリムジンをちゃんと持っていたりするのがその世界の常識のようです。

さて、即位式のような国家を挙げての式典で天皇陛下がお乗りになるからには、車にも自ずと格式というものがあるのは云うまでもないことで、いかにロールス・ロイスとはいえ、この場にコーニッシュはまったく不適切な選択であり、マロニエ君も当時、見たときに強い違和感を覚えた記憶がありました。

ドアには金色に輝く菊の御紋が恭しくつけられているものの、正装の両陛下は、2ドア車の狭い後部座席にお乗りになって、沿道の人々にお手振りをされていたお姿が、なんともしっくりせずお気の毒な印象でした。

このような場面で使われるべき最も格式高いオープンカーは、ランドーレットという、最大級リムジンをベースにした専用車で、前半部は通常の屋根をもち、後部のみオープンになる特注のボディをもつスタイルです。世界中の元首や王侯貴族は、ここから沿道の観衆に向かって威厳をあらわし、歓声に応えるわけです。
もちろん後部用のドアがあるのは当然すぎるほど当然で、2ドア車のフロントシートを倒して、正装の要人がよいしょと乗り込むなんてことは、本来あり得ない事なのです。

しかるに、即位のパレードに臨まれる陛下を、あろうことかそのカジュアルな2ドア車の後部座席へお乗せするとは、宮内庁の式部官などまわりの人達の不見識が甚だしいと、小林さんはこれにいたく憤慨して、ついには「天皇の御料車」という単行本を上梓されたほどでした。

そこでは御料車にふさわしい車とはいかなるものかが事細かに丁寧に述べられ、このような本が出たことで、この誤りは即刻正されるとマロニエ君は思っていたところ、その後の皇太子殿下と小和田雅子さんのご成婚パレードで、なんと、再びこのコーニッシュが登場したときはさすがに仰天したものです。

すぐに思い出されたのは小林さんのことで、あれだけ勇気をふるい、著作をもって正しい提言をされたにもかかわらず、宮内庁がまたしても同じ過ちを繰り返したことは、どれほど落胆されただろうかと思い、いち国民としてもこの光景はただただ残念というほかありませんでした。
このような映像はただちに世界中に配信され、そこに映る不適切な車は日本の恥になることでもあるのに、なぜ改められないのか不思議という他はありません。

しかし、結果はともかくも、このような提言は小林さんだからできたのであって、今後そういう発言のできる見識ある自動車ジャーナリストなど、どう見渡してもいそうにはありません。

その後、御料車として長らく使われてきたニッサン・プリンス・ロイヤルに代わって、センチュリーをベースにした新しい御料車が登場しましたが、その中にランドーレットが含まれているかどうかは不明です。しかし、本来は御料車を製作するにあたっては、通常のリムジンの他にランドーレットと霊柩車の3種を作るのが正式で、プリンス・ロイヤルには霊柩車は存在していましたが、ランドーレットがなかったことが、そもそも上記のような失態が起こった原因なのだろうと思われます。
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巨匠死す

日本の自動車ジャーナリストの草分け的存在で、海外にもその名が知られる重鎮といえば、最も権威ある自動車雑誌「カー・グラフィック」(1962年創刊)の生みの親である小林彰太郎さんであることは、車をいささかでも趣味とする人ならご存じのことだろうと思います。

一昨日の新聞によれば、その小林彰太郎さんが28日亡くなられた記事が掲載されていて、見るなり思わずサッと血の気が引くような気分でした。享年83歳。

東大卒業後、自動車ジャーナリストを目指し、英国の有名自動車誌を下敷きにして、さらには花森安治氏の「暮らしの手帖」の編集姿勢(何者からも干渉されず真実を正しく伝えるという理念)を手本としながら、公正な自動車の評価と高尚な趣味の両立を目指された、日本の自動車界に於ける評論の一大巨星です。

小林彰太郎とカー・グラフィックはいわば同義語で、最盛期にはこのジャンルのまさにカリスマ的高みに達した存在で、小林さんの批評は業界・マニアを問わず最も影響力のあるものでした。
また日本のみならず、海外での知名度は大変なものらしく、とりわけクラシックカーの分野に於ける小林さんの存在とその博識・功績は本場ヨーロッパでも高く評価されるものでした。

元F1レーサーにして、その後はヨーロッパ随一の自動車ジャーナリストとしてその名を轟かせた故ポール・フレール氏は、この分野での神のごとき存在ですが、その彼をいち早く日本に招き、カー・グラフィックのレギュラー執筆者とすることで、誌面はいよいよ華を添えることになります。毎月毎号、興味深い記事が日本の読者のために寄せられ、これはポール・フレール氏が亡くなるまでの長きにわたりました。

カー・グラフィックはマロニエ君が長年愛読してきた唯一無二の月刊誌で、ほんの子供だった1975年から購読を開始、その後はバックナンバーを集めるなどしながら、今日までそれが続いているのは我ながら呆れてしまいます。我が家の自室前の廊下の書棚には、このカー・グラフィックが実に500冊以上もびっしりと並んでおり、しかも一冊が月刊「太陽」よりもさらに大きく、どっしり分厚いことから、もはや家屋構造の一部といってもいい勢力になっています。

マロニエ君がこのカー・グラフィックから学んだことは、自動車のことはもちろん、それ以外にも計り知れないものがあったと思います。わけても小林さんの記事は魅力的で、内容の信頼性の高さもさることながら、文章がまた見事でした。豊富な語彙、適切な比喩、音楽への造詣の深さなど、その後登場するいかなる同業者も太刀打ちできない深みと説得力と品格がありました。

小林さんの新型車の記事などを読むと、その広範な知識と感性、さらには素晴らしい文章が相俟って、読み終えたときには、まるで自分が手足を動かしてその車を運転したかのような気分にしばし包まれてしまうような、ずば抜けた表現力に溢れていました。
マロニエ君はこの小林さんの文章から覚えた日本語も多く、文学者以外での自分の国語教師の一人とも思っていますし、クラシック音楽にも通じた氏は、まったく経験のない新しい車に乗ってみるときは「初見」という音楽用語を使われるなど、他の自動車ジャーナリストとはまったく異質の、自動車を主軸とした教養人であったといっても過言ではないでしょう。

「ジャーナリストは死ぬまで現役」と言われた通り、最近では活躍の量こそ少なくなっていましたが、ついこの前も新型クラウンのロードインプレッションなどを読んだばかりで、まさに最後まで現役を貫かれたようです。
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クロイツァー豊子

レオニード・クロイツァーといえば、戦後の日本に於けるピアノ教育の中心的存在であったことは誰もが知るところです。
そして、その夫人は門下生でもあった日本人のクロイツァー豊子さんです。

クロイツァー豊子さんご自身も教育者・演奏家として活躍され、現在でも多くのお弟子さん達が活躍されており、その功績は大変なものがあるようです。ところが、その演奏はまったく耳にしたことがなかったため、彼女の晩年の演奏がCDとなったので聴いてみることにしました。

これは、カメラータ・トウキョウの有名プロデューサー、井坂紘氏がプライベートCDを耳にする機会があったことに端を発して製品化され、発売されたもののようです。
演奏は1987年、1989年、1990年のものから集められたもので、豊子さんは1916年の生まれですから、すべて70代前半のものということになり、しかも1990年に亡くなられているので、ほとんど晩年の演奏ということになるようです。

その演奏には洗練があり、時代背景などを考えてみれば、やはり驚くべき演奏であるというのが率直なところです。
1916年といえば大正5年で、こんな時代に日本で生まれ育った女性がピアノを学んで、ここまでの演奏をものにしたということは、ご自身の才能や夫君の影響などがあったにせよ、豊子さんのピアノに託した純粋で高潔な精神の賜物であることは疑いようもないでしょう。

とくに西洋音楽の分野は、マロニエ君の子供のころでさえ、まだまだ今とは遙かに事情が違っていましたから、ましてや祖父母の世代にあたるこの時代の日本人が、クラシック音楽の真髄を目指して一心不乱に人生を全うされたことに、ストレートな感動を覚えずにはいられませんでした。

このCDに収められたのはすべてショパンの作品ですが、豊子さんの時代は、ショパンといえばコルトー、コルトーといえばショパンという絶対的な尺度がありました。このCDの演奏にもマロニエ君の耳にはコルトーの影をうっすらと感じる部分があるようにも思われましたが、同時に、より普遍的で、夫クロイツァー氏の影響も大きかったのか、そこにはロシア的ドイツ的な要素も帯びていうべきなのかもしれません。

その演奏に時代を感じさせるのは、豊子さんが生きた時代そのものに、今日のような音楽上の土壌がない分、とにかく真面目に「学んだ」、必死に「身につけた」という固さがある点ですが、まずはこの時代の日本人が、これだけの演奏術と音楽的教養を習得されたというだけでも天晴れといったところでしょうか。

徹底して真っ当でごまかしのない、美しいお点前のような見事な演奏ですが、表現性という点に於いてはいささか型通りというか、ややお行儀が良すぎて、もうひとつ自然体の語りがないのが本質的に素晴らしいだけに残念です。
そこに一片の閃きや冒険があれば云うこと無しなのでしょうけれど、それを今の基準で求めるのは酷というものかもしれませんし、それを求めたくなるほどの高い次元に到達しているという証明でもあるでしょう。おそらくこの時代は、楽譜通りに弾くというだけでも大変だった筈ですから、いかに豊子さんがそういう基準とは一線を画した、高度な演奏を目標とされていたかが伺われます。

ライナーノートの見開き一面には、クロイツァー夫妻の仲睦まじい様子を捉えた写真がありますが、それは結婚直後の茅ヶ崎の自宅の由。そこに置かれたピアノは、かのクララ・シューマンやヴァルター・ギーゼキングが愛した銘器グロトリアン・シュタインヴェークでした。
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カテゴリー: CD | タグ:

中国の衝撃映像

テレビの衝撃映像物は嫌いではないので、ときどき録画して見るのですが、この手の番組では中国の映像が数多く採り上げられるのは毎度のことです。

最近見た番組(といっても録画してすぐ見ないので少し前の放送)では、そんな中でもとくに印象的な中国の衝撃映像があって、いずれも車に関するものでした。

ひとつは、あるカップルが車のショールームに行ったところ、その女性のほうが一台の車を気に入って「これ買って!買って!」と相手の男性におねだりを始めました。
しかし男性は「買わない」とあくまでも拒みますが、「どうしても欲しい」「ダメだ」「これが欲しい」「いやダメだ」と激しい押し問答が続きます。

すると興奮した女性はいきなり運転席に乗り込み、ドアを閉め、躊躇なくエンジンをかけました。
この想定外の行動にはさすがの男性とお店の店員はひどく慌てますが、二人の懸命な制止も聞かず、その女性はついに車を発進させました。断っておきますが、これは野外ではなく、あくまでショールーム内での話です。

数メートル走ったところで、ついにその男性も根負けしたのか、「わかった、買う!買うから車から降りて!」と必死に訴えて、ようやく女性は車を止め、ともかくこの場は事なきを得たというものでした。
その後、本当に買ったのかどうかはわかりませんが、中国女性のおねだりの仕方もすごいし、そもそもショールームに展示中の車にエンジンキーが付いているということにも驚きでした。

もうひとつは、ある街の交差点の監視カメラの映像で、信号停車しようとする一台の赤いスポーツカーに、となり車線から来た大型の黒いセダンがググッと幅寄せしたかと思ったら、たちまち二台は接触。すると赤い車はその場を逃れるように走り去りますが、黒い車もすぐ後に続きます。
しばらくすると、またさっきの赤い車が別方向から現れ、交差点を右折しようと停車中、そこへ黒い方が再びやってきて、今度は赤い車の側面をめがけて猛牛のように突進し、黒い車のフロントが赤い車の側面へ食い込むかたちでの激しいクラッシュとなりました。

すると、それぞれの車から人が降りてきて、黒い車のドライバーが、赤い車のドライバーを走って追いかけ、ついには画面上からいなくなり、交差点の真ん中にはぐちゃりと大破した二台の車が放置されることに。

ナレーションによると、なんとこの二人は父と息子で、親子げんかの挙げ句、赤い車で家を飛び出した息子を、怒り心頭の父親が別の車で追いかけ回し、その挙げ句に車ごと体当たりを繰り返して、最後に激突させたというのですから、そのすさまじさたるや、ただもう唖然とするばかり。
しかもこの車、赤い方はBMWのZ4、黒い方はベンツのSクラスという高級車同士なのですから、最低でも2台合わせて二千万円はする筈で、きっとこれは世に言う中国の富裕層の親子に違いありません。

しかも中国では、関税などの関係からか、日本で買うよりも車の値段はずっと高く、さらには登録などにも法外な費用がかかると云います。加えて国民の平均所得の低さ、とりわけ一般人の安い労働賃金、就職難など、GDP世界第二位という華やかさの陰で、この国が抱える貧困は深刻な社会問題にまでなっていると云われてます。そんな衆人環視の中で、こんなリッチなケンカを公道でするとは、道徳心、金銭感覚、危険意識、いずれの観点からみても日本ではちょっと考えられないことだと思いました。

「それが貧富の差というもの」といわれればそれまでですが、夥しい数の貧しい人民の不満と絶望が国中に充満し、中国政府はその爆発を最も恐れているといわれますが、そんな人々の苦しみをよそに、富裕層だけがこんな調子じゃ一般人の怒りは収まるはずはないと思ってしまう、まさに笑うに笑えない衝撃映像でした。
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そこそこの幸い

前回の終わりの部分で、マロニエ君はこんなブログは書いてはいるけれども、実はホールにもピアノにも、それほどうるさくはないということで結びました。

その理由を少々。
まず第一には、マロニエ君には多少の好みはあるにしても、ホールやピアノをどうこう言うに値するような鍛えられた耳を持ってはいないということ。第二には、それをやりだしたら何一つ満足のない、不満だらけの世界の住人になるしかないという結果をじゅうぶんわかっているからなのです。

例えば、オーディオ。
ひとたびこれに凝り出したが最後、終わりのない追求地獄のはじまりで、オーディオを構成するすべての器機や付属物に対して、たえずより良いものを求める試行錯誤や買い換えなどが果てしな続くことになります。
とりわけオーディオは高い物がすべて良しというわけでもなく、器機同士の相性やセッティングの妙、さらには好みや多様な価値観が入り乱れ、終極的には家から建て直さなくてはいけないところまでエスカレートすることもあるようです。

それでも最終的には音を出してみるまではわからないし、その判断には主観も入れば、人によって評価も異なります。さんざんやったあげく、結局はじめのセットのほうが良かったりと、究極を極めるゴールの前にはご苦労地獄が際限なく広がっているようなものですし、そもそもゴールなんてないのかもしれません。それを承知で楽しんでいられればいいけれど、それは人によるでしょう。

ピアノしかりで、ある一定の予算の歯止めがかかって、その範囲内でのピアノの良し悪しや調整などに拘っているうちはまだいいのですが、中には経済力もあり世界の名器を購入して技術者も有名な方を自宅に呼び寄せて、自分がこうだとイメージしたピアノにすべく、最高最上を目指す方がおられるようです。

こういう方は、自分の中にすでに出来上がった理想の音というものがあって、妥協を許さず、その拘りの強さはハンパなものではありません。それを実現するため最高級のピアノを購入し、自分の描いた恍惚の世界に浸り込もうと躍起になるようですが、現実はなかなかそう思った通りにはなりません。客観的にはかなりものになっていても、理想が先にあって、それを具現化することに捕らわれてしまった人は、許容範囲というものが無いに等しく、良いと思ってもまた不満が募って悶々とする日々が続きます。

そのうち技術者のせいではと別の人に交代、それでダメなら今度はコンサート専門のピアノテクニシャンなんかを呼びつけたりしますが、こうなるとまわりの人達も大変なら、その間の当人のイライラは相当のもので、せっかく憧れのピアノ買ったにもかかわらず、思い通りに行かないことに却ってストレスは嵩み、理想はいつしか不満の裏返しに…。

こうなると、もはや冷静な気持で自分のピアノの良さを見つめることもできないわけで、せっかくの素晴らしいピアノも持ち主から愛されることなく、最悪の場合、とうとう別のピアノに買い換えるなんてことまであると聞きます。結局は、理想が高いばかりに、並大抵のことでは満足できない大変不幸な状態に縛り付けられてしまうようです。

マロニエ君としては、なにより自分が好きなピアノや音楽を、こうした不満やストレスの対象にするなんてまっぴらです。だから自分のピアノにもある程度のコンディションの良さは求めはしますが、決して過度の追求はしないことにしています。点数でいうなら70点でまあまあ。80点もあればじゅうぶんで、まぐれで90点ぐらいになろうものなら超ラッキーぐらいに考えています。

それでなくても、自分が何者でもないくせに最高のものを手にしたいなどとは傲慢な考えであり、そういう勘違いだけはしたくないわけです。そもそも音の追求などマロニエ君のようなナマケモノには性が合いませんから、そのぶん却って自分は幸いだったようにも思います。
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音響の憂鬱

前回の「音響」ということで思い出しましたが、少し前、久しぶりにピアノリサイタルに行きました。久しぶりであるだけに多少の期待も込めながら席に座りました。

あえて個々の固有名詞は使いませんが、会場は福岡在住で多少なりとも音楽に関心のある人なら誰でも知っている、かなり稼働率の高い小さなホールです。

交通の便と260席というサイズからここを利用する演奏者は多く、小規模のコンサートはこのホールがその需要の大半を握っているといっても過言ではありません。
しかしその音響の酷さは以前から悪評高く、マロニエ君自身もこの点で最も行きたくないホールのひとつなのですが、それでも、これに替わる使いやすい小ホールがないという現状を背景に、オープンから約20年を経過して尚、ここばかりが頻繁に使われています。

その理由は専らロケーションで、少し郊外にいけばもっと良いホールはいくつもあるのですが、もともと集客の見込めないクラシックでは、場所が少しでも不便になるともうそれだけで人の足は向きません。従って音響に多少の問題があろうと、都心にあるこのホールばかりが利用されるという状況が生まれてしまうようです。

その音響ですが、何度行っても慣れるどころか、そのたびに「うわぁ、これほどだったか!」と新鮮なショックを受け、終演の頃にはフラフラになるほど神経が疲れてしまいます。
壁などのホールの内装材は、見た目には木材らしきものが使われており、いちおう尤もらしい姿形にはなっているものの、そこで耳にする音はおよそ美しい音楽のそれとはかけ離れた衝撃音の滝壺にでもいるようです。

知人によれば「あそこは古楽器とかギターのリサイタルがせいぜい」といいますが、まさにその通りで、ピアノリサイタルともなると、まるで温泉の大浴場にスタインウェイを置いて弾いているようで、その音はまさに暴風雨のごとくホール内を暴れまくります。

この日は、あまつさえピアノのコンディションも芳しくなく、品性の欠片もない音がビンビンと出てくるばかり。ピアノを聴く期待と喜びは一気に苦痛の2時間へと暗転です。
こうなるとスタインウェイの特性が裏目に出て、荒れた倍音が神経を逆撫でするのは拷問のようでした。よほど途中で帰ろうかとも思いましたが、そうもできない事情もあって最後までこの苦行になんとか耐え抜き、終演後は足早に会場を飛び出しました。
帰宅後はすぐに食事をして、そのままベッドに倒れ込みましたが、誇張でなく本当にそれほど疲れてしまったのです。

ピアニストはテクニシャンを自負しているのかもしれませんが、ほとんど格闘技のようにパワーで押しまくり、力でねじ伏せて拍手喝采を取りつけるやり方は、まるでスポーツ系だと思いました。
ほんらいプロの音楽家は、ホールの響きとピアノの状態を察知して、可能な限りそれにかなったやり方で最良の演奏を聴衆に提供すべきですが、弾ける人は弾けるところを見せつけて会場を圧倒し、夜ごとヒーローにならなくては気が済まないものなのかもしれません。

コンサートにも後味というものがありますが、なんとなく良い気分になって帰路に就くことは、なんと難しいことかと思わずにはいられません。

念のために言い添えておきますと、マロニエ君はこんなブログを書いてはいますが、実際にはホールもピアノも演奏も、決して厳しいことを言い立てるタイプではないのです。そこそこのものであればじゅうぶんで、単純に満足できますし、だいいちそのほうがずっと自分が幸せというものです。

理想を追い求めるのは、常に不満の充溢する嶮しい道を進むことで、マロニエ君はとてもそんな道に耐えていくだけの気概も胆力も能力もありません。
ただ、それでも、じぶんがいやなものはいやで、そこにウソはつきたくないというだけのことです。
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響きの二極化

スピーカーの音質改善で試みた結果、レンガはカーペット以上に音を吸収する性質があるのでは?という疑念を植え付けられてしまいました。そして、オーディオ装置や楽器のまわりは、素材の使い方しだいで予想を超えた影響が生じるらしいということが身に滲みました。わかっておられる方にすれば当たり前のことで、何をいまさら!という事なんでしょうが…。

さらには最近テレビで偶然目にした歌の録音現場は、美しい寄せ木で張り巡らされたスタジオの床や壁に対して、ガラスで仕切られたモニタールームの背後の壁は、凹凸をつけて配置されたレンガのようなもので埋め尽くされていて、こちらはできるだけ音を出したり響いたりしてはいけない場所なので、その素材としてレンガが使われているのだろうか?と考えてしまいました。

その真偽のほどはわかりませんが、要は音楽を奏する場所の床や壁の素材は、楽器に準じるほど慎重でなくてはならず、この使い分けを間違えると大変なことが起こるということで、そう思うとマロニエ君にも思い当たる場所がいくつか頭に浮かびました。

福岡市には市が運営する音楽・演劇の大規模な練習施設があり、そこの大練習室というのはオーケストラの練習もじゅうぶん可能な広さで、専用のスタインウェイのDまであり、ちょっとしたコンサートなら十分可能に見えるのですが、以前ある知り合いのピアニストがここでリサイタルをおこなった際、別の人が会場を手配したために本人の事前確認ができず、当日あまりデッドな音響に驚愕することになり、お客さんにお詫びをして、とうとう後日べつの会場でやり直しコンサートを開催するということがありました。

その原因は、壁のあちこちに音を吸収する素材が無数に貼り付けてあり、意図的に音が響かないよう対策が講じられていたためでした。(その理由は不明)
また市内には個人ホールで大変立派なものがあり、最上級の素晴らしいピアノも備え付けられて、見た感じはまことに申し分ないのですが、果たしてそこで聴く音は信じられないほど広がりのない詰まった音で、あまりのことに休憩時間中壁を観察すると、ここもまた響かないための材質で四方がびっしりと覆い尽くされていました。
ホールが作りたかったのか、ホールのような防音室が作りたかったのか、まったく不明です。

その逆もあって、ある楽器店では床も壁も固い石材とガラスで覆われており、こちらは響きというよりは音がむやみに暴れて混濁するだけ。おそらく音響のことを念頭に置かずに、ただ高級ブティックのようにしたかっただけなのかもしれませんが、最低限の配慮はほしいところです。

もちろん好ましい例もあり、以前にも書いた福銀ホールや、個人ホールにもうっとりするほど響きの美しいところがありますし、ピアノ店にも音の微妙さをじゅうぶん感じられる環境のお店もあるわけで、音響に関しては見事に二極化しているような印象です。

ホールの音響のことは専門領域でわかりませんが、普通のピアノ店レベルでいうなら、床はよく会議室とかスポーツ施設のフロントの床などで使われる、毛足の短い化繊のカーペットがありますが、あのあたりが最適なような気がします。おそらくはあの硬くてタフなカーペットは、中途半端にしか音を吸収できず、それがピアノには偶然いい具合に向いているのかもしれません。

いずれにしろ、楽器が音を出す場所で響きに対してあまりに無頓着だと悲惨な結果を招くということで、何事も最上というわけにはいかないものですが、なんとか妥協の範囲であってほしいものです。
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ヤン・リシェツキ

カナダの若手ピアニスト、ヤン・リシェツキのピアノリサイタルの様子を録画で観ました。
1995年生まれで、一昨年2011年の来日公演ですから、このときわずか16歳というのは驚くべきですが、その風貌はというと、とてもそんな歳とは思えない長身の金髪青年で、ピアノがひとまわり小さく見えるほどの偉丈夫ぶりでした。

リシェツキの存在は数年前から時折聞こえていましたが、いわゆる天才少年というものは、音楽の世界では決して珍しいものではありませんし、世界的演奏家は大半が天才だといっても過言ではないかもしれません。
ただし、その天才にもランクというものがあるようですが。

マロニエ君はショパン協会公認とかいうポーランドお墨付きのCDで、彼がワルシャワでショパンの2つの協奏曲を弾いたライブ盤を購入していましたが、そこに聴く印象では、技術的にも立派で滞りなく弾き進められているし、それが14歳の少年であることを考えると、もちろん大したものだとは思いましたが、では本当に心底驚いたのかといえば、実はそれほどの何かはなかったというのが偽らざるところでした。
その昔、同じくこの2曲による12歳のキーシンのデビューライヴ録音を聴いたときの、驚愕と衝撃には較べるべくもなく、往々にして第一級の天才というものは、聴いている大人の心の深い綾のようなところにまで迫る真実とオーラを有しているものです。

リシェツキのこのCDは、もうずいぶん長いこと聴いていないので記憶も曖昧ですが、そんな真の天才少年少女にみられる、ナイーヴな感性の支配によって切々と語られる純潔な詩情と憂いに、聴く者の心が大きく揺さぶられるような要素は乏しく、どちらかというと常套的・優等生的な演奏だったという印象だったことは覚えています。

そのCDいらい、はじめて接するリシェツキでした。
曲目は、バッハの平均律第二巻から嬰ヘ短調のプレリュード(フーガはなし)ではじまり、メンデルスゾーンの厳格な変奏曲、ショパンの作品25のエチュード。

全体の印象として、凡庸かつ平坦なものしか感じられませんでした。一般的なピアノ演奏技術の習熟という意味において、彼が並外れて早熟な能力をもつ青年であるという点では異論はありませんが、それ以上のもの、すなわち演奏芸術としての何らかの価値を聴く者が受け取るまでには至らなかったというのが偽らざるところでしょうか。

若くて純真な感性の独白が音楽を通して語られ、したたり落ちるのではなく、意志的に構成された、思索的な演奏である点がむしろ音楽として中途半端となり、却って彼の年齢からくる未熟さを露呈してしまうようで、修行半ばにしてステージに出てきてしまったという印象。
また、このリシェツキに限ったことではありませんが、若い演奏家にしばしば見られるのは、芸術家としての成熟を深めることより、チケットの売れる演奏家として出世することのほうに意欲が注がれ、音楽に対する率直な憧憬とか尊崇の念が不足するのか、指は動いても空疎な感覚がつきまとう点でしょうか。なんであっても構いませんが、そこに真実の裏打ちがない演奏の多いことは非常に気になります。

ピアノはヤマハCFXでしたが、少ない音を普通に弾くぶんにはとてもよく鳴っているという印象があるのに、音数が増えて折り重なったり、強い重低音を多用する場面になると収束性に乏しく、ショパンのエチュードop.25の10、11、12番で連続して出てくる激情的な部分、あるいはフォルテが主体となり強いタッチが交錯する場面では楽器の性能が頭打ちになってしまうようで、ダイナミックレンジの狭さを感じてしまいました。
個体差であればとは思いますが…もうすこし懐の深さが欲しいものです。
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音質調整その後

スピーカーの音質改良で「試行錯誤のアリ地獄にはまるのはイヤなので」と書いた通り、あと一回だけのつもりで、表面が平滑なタイルを探していたところ、ある店でまさにドンピシャリのサイズのイタリア製タイルというのを見つけました。

イタリア製などと云うとさも特別なもののようですが、無地のなんということもないもので、価格も一枚100円ほどにすぎません。

これを素焼きレンガの上に置くつもりですが、レンガとタイルでは接触面が均一にならずに斑な点で接触してしまうことを避けるべく、柔軟性のある滑り止めシートを間に挟んで重ねました。
果たして結果は上々で、これまでで一番良い結果が出たように感じますが、かといって劇的変化といえるものでもなく、心もち変わったなぁ…ぐらいの変化ではありました。

これまでにやってみた経過としては、まずカーペットに直接置いていたときに較べて、ステンレス製バットを置くと音にやや明晰さが加わります。次いで素焼きレンガに換えると一転して音がかなりこもってしまいこれは大きな変化で、カーペット以上のこもりだったことに驚きました。
逆に云えば、素焼きレンガはかなり強力な吸音効果があるようで、これは防音対策などで上手く使えば有効かもしれません。

これはまずいというわけで、レンガの上に再びステンレス製バットを置くと、とりあえず以前の明晰さは復活します。
さらにステンレス製バットをタイルに換えてみると、明晰さという点では似たようなものですが、強いて云うなら音に落ち着きと重心が加わり、響きの安定感が増しました。

音質そのものはスピーカーが変わったわけではないのでそれほど変化するわけでもないのは当然ですが、やはり土台がしっかりしたぶん、響きに腰がすわったというか、例えばピアノなどでは、音そのものもさることながら、音が出た後にふわっと漂うホールの残響などに明瞭さがでたように感じます。

人間とはおかしなもので、こういうことをせっせとやっていると、わずかなことでも自分の労力が加わっているぶん、それを報われたいという思いが判断を甘くするのか、なにやら変わったような気がしてくるもので、多少の贔屓目ではあるかもしれません。
そういう意味では気のせいかもしれませんが、ま、これぞまさしく誰に迷惑をかけるわけでもなく、自分だけが楽しんでいることなので、結果的に自分が良いと思えるなら、思えるだけやった甲斐があるというものです。

着手するまでは腰が重いのですが、やってみると結構楽しく、音質を手ずから調整するなんてことは、この自作スピーカー以前はまったく未経験の分野だったのですが、オーディオマニアの楽しみの一端を垣間見ることができたようでした。
もちろんマロニエ君がやっていることなんぞ、達人達から見れば幼稚園以下のレベルのことでしょうけれども、それでも自分なりにおもしろいものです。
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成人力がトップ?

10月9日の朝刊は『日本「成人力」世界で突出』という大きな見出しが一面トップに踊りました。

記事によると
「これは社会生活で求められる成人の能力を測定した初めての「国際成人力調査」(PIAAC)で、経済協力開発機構(OECD)加盟など先進24カ国・地域のうち、日本の国別平均点が「読解力」と「数的思考力」でトップだったことがわかった。日本は各国に比べ、成績の下位者の割合が最も少なく、全体的に国民の社会適応能力が高かった。」
となっています。

これは事実上の世界一ということでもあるようで、むろん日本人として悪い気はしませんが、でも、とても今の日本人が「成人力」があるだなんて、マロニエ君はまったく思えないでいますので、いささか狐につままれたような気がしたものです。成人力という言葉のイメージから云うと、世界一はおろか、日本人は寧ろそこがひどく劣っているのでは?という疑念を抱いているこの頃でしたから尚更でした。

首を捻りながら、さらに記事を読み進めると、やはりそこにはある理由が見つかりました。
この調査では、日本人が苦手とする「コミュニケーション能力」などの項目がなかったことが好成績に繋がったと記されているので、これでいちおう「納得」という感じです。

その翌日の新聞のコラムには、これに関連したおもしろい文章が載っていました。

そのまま丸写しというのもなんなので、かいつまんで云いますと、スーパーで買い物をして6,020円の勘定だったとすると、一万円札に20円を足して4,000円のおつりをもらうのが我々日本人は普通であるのに、海外ではこれが通用しないというのです。

長くアメリカで暮らす人によれば、18ドル86セントの買い物をして、20ドル36セントを差し出せば、日本人なら1ドル50セントのおつりを期待するが、それがそうはならず、20ドルからのおつりとして1ドル14セントがまず渡され、さらに36セントがそのまま返ってくるのだとか。

まあ、たしかに、へぇぇという気はしました。
自分が常日ごろ普通だと思っていることが、そうではない場面に出くわすことでちょっとした驚きや違和感を覚えるのはわかりますが、それをいうなら、最近の日本人がみせる人とのかかわり方などに接するにつけ、ありとあらゆることがその違和感の洪水だと思ってしまいます。
マロニエ君などは、現代を生きるということは、いわばこの「違和感の洪水に耐えること」だとも思っていて、それに較べれば、たかだかそんなおつりの計算ができないぐらい、ものの数ではないという気がします。

いくら合理的な計算が素早くできても、人として社会に交わりながら、肝心のコミュニケーション能力が最も苦手というのでは、これこそ最も恥ずかしいことではないかと思うのです。

日本人が読解力にすぐれ、計算が上手いのは、デフレで、しみったれて、なんでもタダもしくはより安いものに目を光らせ、それを探して飛びつき、10円でも損はしたくないという損得の戦いのような気構えが、その計算能力や情報の読解力に繋がっているんじゃないの?と思いたくもなります。

成人力というのは、もう少し深くて本質的な意味であってほしいものです。
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軽さの意味

最近は中古ピアノもネット動画で宣伝する店が増えて、店主もしくは店員が自ら出演し、折々の在庫ピアノを紹介するというスタイルが流行ってきているようです。
これは、今ではすっかり有名な関西の業者がはじめたやり方で、それが他社へもしだいに広がっているというところでしょうか。

この手の宣伝動画は概ねパターンが決まっており、まず簡単な挨拶に続いて紹介するピアノの概要の説明、状態、続いて音出しや演奏がおこなわれることで、それがどんなピアノであるかをざっと知ることができるという点では、差し当たってのきっかけになることは確かでしょう。もちろん購入を検討するときは店に出向いて現物確認をする必要があるのは当然としても、すくなくともアピールの第一歩という目的には有効な方法なのかもしれません。

そのネット動画をみていると、ちょっと興味深い事がありました。
あるピアノ店で、1980年のヤマハのC7(1980年)とディアパソンの210E(1979年)の2台を比較しながら紹介する動画がありました。

よく見ているとこの2台には、それぞれのピアノの譜面台には機種やサイズ/価格などを記したカードが添えられていますが、ヤマハのC7は奥行きがこの当時のものは223cm、ディアパソンの210Eは210cm(実際は211cm)ですが、重量表記はC7は415kg、210Eは250kgとなっています。
この250kgというのは明らかな誤表示と思われ、これは一般的にアップライトの重量です。210Eは通常370kgとされていますので、単なる間違いだろうと思います。

よって210Eは370kgと考えるとしても、C7と210Eの長さの差が12cmであるのに対して、重量差は45kgということになります。ちなみに現行のヤマハのC7XとC6Xでは全長の差が15cmであるのに対して、重量はわずか10kgの違いにすぎません。

ではのこり35kgの差は何なのか。
もちろんこの二台は設計自体が異なりますから単純比較をすることが適当かどうかは異論の余地があるところだとは思いますが、強いて云えばおそらくピアノを構成する材質の違いではないかと思われます。接着剤を多用する合板や人工素材は、無垢の木材よりもはるかに重量が嵩むとされています。つまり合板は接着樹脂と木材をミックスしたものと考えるべきで、これは重い上に、音の伝達性が劣るのはいうまでもありません。

もちろんディアパソンとて合板を使っていないはずはありません。しかし、ひとくちに合板といってもいろいろでしょうし、使用比率の違いなどもあろうかと思われます。ヤマハのピアノは昔から長らく付き合ってきましたが、天板の開閉をはじめ手触り的にも重量が重いピアノというイメージがあって、それはいまだに拭えません。
最新の現行モデルを調べてみても、ヤマハのC6X(212cm)は405kgであるのに対し、カワイのGX-6(214cm)は382kgとなっており、ヤマハのほうが若干小さいにもかかわらず重量は23kgも重いということがわかります。

コンサートグランドでは、むかしのヤマハとスタインウェイでは、なんと100kgもの重量差がありましたが(全長はほとんど同じにもかかわらずスタインウェイが軽い)、これも構造的なものと材質的なものだと思われます。
ただし初代からCFIIIまでがずっと580kgだったものが、単なる発展型に過ぎないCFIII-Sになると突如500kgと一気に80kgも軽くなり、そんなことがあるものだろうか…と思ってしまいます。

ちなみにストラディヴァリウスを弾いた経験のある人の著述によると、まず驚くのは手に持ったときの「軽さ」だったと云いますから、楽器は基本的には軽い方が好ましいという原理があるのかもしれません。
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新たなストレス

信じ難いようなニュースが日常的に飛び交うこのごろですが、子供を含む未成年者への残虐行為などが毎日のように伝えられるのは、社会がどうしようもなく歪んでいるようで恐ろしいことです。

先日も驚愕するとともに考えさせられる事件が発生しました。
高校生ぐらいの数人が、ひとりの年上者(未成年)を呼び出して殴る蹴るの暴行を加え、さらに両足を縛って川に突き落とし、書くのも嫌なようなことが行われてひどい重傷を負わせられたというものでした。

しかもその理由というのが驚きを倍加させました。
何度かメールや電話をしたのに、返事をしなかったということに腹を立てて、このような酷たらしい懲らしめに至ったということでした。

これに関連した説明によれば、世の中はいまやスマホの全盛期。そのスマホにはLINEという通信アプリケーションを備えるのが常識だそうで(マロニエ君はいまだにガラケーのユーザーですが)、これにより同じアプリ同士ではメールはもちろん通話も無料になるのだそうで、これはネット電話なので外国との通話も同じになり、海外の相手と何時間しゃべってもタダというのは、そのような機会の多い人達にとっては圧倒的な魅力になっているようです。

そのLINEの機能のひとつに、送ったメールを相手が開いたか開いていないかを送信者が知ることができるというのがあるそうで、これによって「メールを見たにもかかわらず相手は返事をしてこない」という新たな不快感が利用者の心の中に発生しているのとか。

こんな機能があるばっかりに、多くの利用者の間で新たなストレスが呼び起こされて社会問題になっているというのです。つまり知らなくていいことまでわかるからよけいに不快要因が増えるというわけで、一部にはこの機能を撤廃してはという案も出ているとか。マロニエ君もそんなものはないに限ると思います。

すこし話の軸がずれますが、まあごく単純な意味としてだけで云うと、出したメールに返事がないことは精神的に愉快でないのはわかります。
もちろん、現代は誰もが忙しく疲れているのに、むやみにメールのやりとりを続ける必要はないとしても、最低限の反応は儀礼上あってしかるべきで、反応があるものと思っているメールに一向に返事がないのはやっぱりいい気はしないし、存外心にひっかかるものです。そうなると、さらにこちらから重ねてメールする気にもなれず、そんなささいなことがきっかけで、相手への連絡そのものが途絶えてしまうような局面を迎えることにもなり、そんな展開なんてバカみたいでやりきれません。

何事も程度問題というわけですが、社会生活を送り、そこに人間関係がある以上、メールが来れば反応するぐらいの気持がないと、相手は無視されているような、自分という存在が切り捨てられているような気分になる場合だってあるでしょう。いわば話しかけているのに返事をしないことと同じですから、そこには常識的な配慮の気持は欲しいところです。

もちろん上記の事件のような「犯罪」は断じて許されるものではありません。同時に、現代人はひじょうに不安で傷つきやすくなっているという点も、お互いが認識しておきたいところです。

メールは相手の状況が見えないぶん、解釈が悪い方へ広がる余地もあるわけで、だからよけいに配慮が問われるのかもしれません。
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音質調整

ひさしぶりに、自作の円筒形スピーカーの音質調整を思い立ちました。

製作当初よりもエージング(慣らし)が進み、だいぶ聴きやすくなってはきたものの、できればもう少し音の精密さというかクリア感のようなものが欲しくなり、そのあたりを少し改善できないだろうかと思ったわけです。
具体的には、スピーカーを置いている環境は床がカーペットなので、そこにもなんらかの影響があるのではないかと前々から少し感じていたのです。

円筒形スピーカーは直径約10cm、長さ1mのアルミ管が左右に二本、垂直に立っており、下部は直径約20cmの木製台座に固定され、さらにその台座は3本の足で支えられています。
台座には意図的に穴が開いていて、真下から覗けばスピーカーから長く伸びた鉄のロッドが吸音材に巻かれた状態で、むき出しになっています。この穴から、なんらかの音、低音や雑音など、それがなんであるかはよくわからないものの、ともかく下へ向かって常に放出されるものがあるだろうことは推察されます。
その真下がカーペットであることは、もしかしたら音質に不利に働いているような気がしたのですが、その判断も正しいかどうか、実のところよくわかりません(笑)。

で、まずはカーペットによる音の吸収を取り除くべく、100円ショップに行くと、ちょうどよいサイズのステンレス製バット(食材などをのせる台所用品)を発見。これを2つ買ってスピーカーの下に敷きました。
その結果は、ほんのわずかながら音がクリアになったような気がして、まあとりあえず210円の投資には見合う結果が得られたようで、ここでまず出だしは好調という感触を得ました。

さて、通常の箱形スピーカーの場合、音質アップの方策として、箱本体の下に硬く重いものを置いて、間にインシュレーターなどをあてがうとされているようです。これにより安定性が増すのか低音が豊かになり、全体もよりクリアな音が出るというような記述を読んだことがあります。この分野にはまったく知識も経験もないマロニエ君としては、とりあえずそのセオリーに従うことで改良してみようと思いました。とくにコンクリートブロックやレンガなどが、簡単で安く入手できるものとして重宝されているようでした。

そこで、改造第二弾として、そのコンクリートブロックやレンガを物色した結果、とあるホームセンターで厚さ2cm、一辺が20cmの正方形の素焼きのレンガというのがあり、まさにうってつけのサイズだったので、これを買ってきて、ステンレスのバットと入れ換えてスピーカーの下に敷きました。

ところが、期待に反して音が逆にこもったようになり、明らかに明晰さが失われているのは疑いようもありませんでした。エ、なんで??と思いましたが、よくよく考えてみれば、素焼きのレンガには無数の微細な穴があって、音を響かせるどころか、逆に吸収してしまうのではと思うと妙に納得。

通常の箱形スピーカーの場合は、下へ向けて音質に関わりのある何らかの流れがあるわけではないので、ただ単に重くて硬い土台の上に本体を置くことでボディの剛性がアップし、より本来の性能を引き出すということだろうと思われますが、円筒形スピーカーではそこに一種の反響特性のようなものが求められるような印象を持ちました。

現に、その素焼きブロックの上に、ステンレス製バットを重ねて置いてみると、またもとのフィールが戻ってきました。でも、たかだか100円ショップで売ってるペラペラのステンレスでは効果も心もとないので、今度はタイルなどで挑戦してみようと思いつきました。
ただし、またこうして試行錯誤のアリ地獄にはまるのはイヤなので、結果がどうであれ、次のタイルで終わりにしようと思います。
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偉大なる発明

あるテレビ番組で、正確ではないかもしれませんが「あきらめない男達!」というような副題と共に、ひとりの努力と執念が生んだ偉大なる発明が紹介されました。

その名は安藤百福(1910-2007)、ウィキペディアによればもとは日本統治時代の台湾で生まれた人のようですが、両親を亡くして祖父母の元で育てられ、22歳のときに繊維会社を創設。翌年には大阪に会社を設立し日本の大学に通いながらも、数々の事業を手がけるという多才な人であったようですが、大変な苦労人でもあり、それをバネとして時代の波の中を逞しく生きた人のようです。

戦争では空襲により大阪の会社を失うなど、つねに数々の困難を乗り越えながら、多方面への事業や社会貢献を続けるものの、ある信用組合の倒産により理事長であった安藤氏は、これまで築き上げてきた財産のすべてを失います。

妻子の暮らす自宅の家財道具にまで差し押さえの赤紙が貼られる中、安藤氏は裏庭にある小屋である研究に日夜没頭します。
困窮を極める家族を背後に抱えながら、猛烈な執念とともに寝るひまもないほど試行錯誤を続けた末、ついに完成したのは日本初、そしてもちろん世界初のインスタントラーメンで、これがこんにち私達が良く知るチキンラーメンの誕生だったのです。

そしてこのチキンラーメンこそが、今や世界常識ともなったすべてのインスタントラーメンの原点だったことを初めて知りました。
安藤氏はさっそく製品の売り込みに奔走しますが、時は昭和33年、うどんひと玉が6円の時代に、チキンラーメンは一食35円と高価だったために、そんな高いものが売れるわけがない!とまったく相手にもされません。
それでも安藤氏の熱意はまったく揺らぐことはなく、置いてもらうだけでいいからと何度も頭を下げ食い下がるように頼み込んで店に並べたところ、店主達の予想に反して大反響となり、今度は注文が追いつかず自宅には業者の列ができるほどに。
このころは、まだ自宅で作っていたようですが、家族総出でフル稼働したところでたかがしれており、ひきも切らない注文には到底追いつくものではありません。そこで、ついに安藤氏はチキンラーメンを製造販売する会社を設立し、この時「日々清らかに、豊かな味を」という意を込めて作った会社が日清食品だというのですから、へええというわけです。

テレビでは言いませんでしたが、ウィキペディアに記されるところでは、チキンラーメンの好評を見て追随する業者が多く出たため商標登録と特許を出願し、1961年にこれが確定したため、実に113もの業者が警告を受けるハメになったとか。
しかし安藤氏は3年後の1964年には一社独占をやめ、日本ラーメン工業協会を設立し、メーカー各社に使用許諾を与えて製法特許権を公開・譲渡したというのですから、やはりこの人は根っこのつくりが何か違うんだなあと思います。

その後もアイデアマンとしてのパワーは止まらず、1966年に欧米を視察、アメリカで現地の人がチキンラーメンを二つ折りにして紙コップに入れ、フォークで食べる様子を見たことが今度はカップ麺の着想になります。そして5年後の1971年、次なる大ヒット商品となるカップヌードルが発売されるも、またも世間は冷ややかな反応しかなかったというのですから、いかに発明者に対して、それを受け入れる側の感性が遅れているかがわかります。

こんにち、スーパーのインスタント麺の売り場でも、従来型のインスタント麺とその勢力を二分するカップ麺ですが、発売当時はマスコミ各社は「しょせんは野外用でしかないキワモノ商品」としてしか認識せずに苦戦したということですが、またしても安藤氏の狙いは的中してブームが到来。その後は輸出もされるようになり、ついには世界80カ国で売られるまでになったそうです。

そしてこの50年間という、とてつもなく変化の著しい激動の時代を生き続け、いまだに現役の定番商品としてまったく翳りがないどころか、インスタント麺そのものが世界中に広がって、まったく独自の「食文化」を作り出したというのは、これこそ偉大な発明だったという他ありません。

こういう人こそ政府は国民栄誉賞を授けるべきではなかったのかと思いますし、そもそも国民栄誉賞というのはそういう性質のものではないのかと思います.
日本という国は、どういうわけか文化勲章では歌舞伎役者に甘く、国民栄誉賞ではスポーツ系に甘いとマロニエ君は思います。
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紙一枚の差

ピアノの調整は奥に行けばいくほど、非常に繊細で緻密な領域であることはいまさら云うまでもありません。以前もタッチの軽すぎるカワイのグランドのハンマー部分に、わずか0.5gの鉛片を貼り付けただけで、タッチが激変したばかりか、音質までもがはっきりと力強くなり、まさに一挙両得だったことは既に書いた通りです。

それと似たことがあったことをふと思い出しました。

少し前に、ディアパソンの調律に来ていただいたときのことですが、そのころはまだ交換した弦もハンマーも馴染みが足りず、もうひとつ鳴りがパッとしないように感じていたのですが、その対策としてあれこれの手を入れてもらいました。

そのひとつで、通常はかくれて見えませんが、キーの下には緑色の丸いフェルトが敷かれており、これが打鍵によって降りてきたキーを受け止めるようになっています。そして、さらにそのフェルトの下には同じ直径のフロントパンチングペーパーという丸い紙が複数枚敷かれています。
この紙には厚さによる違いがあり、技術者さんはその都度必要に応じてこの紙の厚さや枚数を入れ換えながら、キーのわずかな深さを調整しますが、それは同時に音にも密接な関係があるようです。

紙の厚さは何種類もあるのですが、驚かされるのはその違いはまさにミクロの世界で、普通の厚紙ぐらいのものから、本当に極薄の、わずかな鼻息でも飛んでしまうほどペラペラのものまであり、こんなもの一枚あるなしでタッチが変わるとは、俄には信じがたいような気になるものです。

そんな中で、もう少し力強い音が出るようにと、技術者さんは主だった(というか必要と判断された)部分を、おおむね0.2mm薄くされました。
薄くするということは、つまりキーの沈み込みが0.2mmぶん深くなるということですが、通常キーが上下に動くのは10mm前後、つまり約1cmですから、そこでたかだか0.2mmの違いがどれほどの意味があるのか?と考えてしまいますが、それがピアノ調整の世界ではきわめて大きな意味をもつようです。

「0.2mmはこれです」と抜き取った小さなドーナツ状の紙を触ってみても、ただの薄い紙でしかなく、こんなもので何かが変化するとしても、たかがしれていると思うのが普通です。

しかし技術者さんは、黙々と作業を続け、いろいろな色(色によって厚さが違う)のパンチングペーパーを出したり入れたりと、その変更・調整に余念がありません。

どれくらい経った頃だったか、その作業が終わり「ちょっと弾いてみてください」といわれ、これがマロニエ君はいつも嫌なのですが、そんなことも云っていられないんので、素直に従って弾いてみると、なんと僅かではあるものの、でも明らかに前とは違っています。

たったの0.2mmの違いが、紙を触ってもわからなかったものが、ピアノの鍵盤の動きとしてなら明瞭にその差を感じることができることは驚きです。具体的に何ミリということでなく、感覚的にあきらかにキーが少し深くなっていることが体感できるし、さらに驚くべきは明らかに音にメリハリが出て、力強さが加わっていることでした。
あんな小さな薄っぺらな紙一枚の差が、これほどピアノのタッチや音色まで変化させるとは、実際に体験みてみると呆れるばかりで、いまさらながら楽器の調整というものが、いかにデリケートな領域であるかを再認識させられました。

それだけにひとたび調整の方向を誤れば、まさにピアノはあらぬ方向を彷徨うことになり、技術者の能力の一つは、問題の原因は何であるかを、短時間のうちに的確に見極めることだと思います。見当違いのことをいくら熱心にやられても、望む効果は得られず、だから世の中には潜在力は高いものがある筈なのに、どこか冴えないピアノが多いのだろうとも思われるわけです。

ピアノは高級品になればなるほど、出荷調整にも優秀な技術者の手間と時間が惜しみなくかけられるようですが、このフロントパンチングペーパーの厚さひとつをとっても、ほんの僅かなことが大きな違いになる世界では、製品としていくら完成していても、楽器としてはまったくの未完成で、各所のこまやかな調整が滞りなく行きわたっていなければ、その真価は決して発揮できないことがあらためてわかります。

そういう意味では、普通のピアノでも、技術者の正しい調整を受ければ受けるだけ、そのピアノはある見方においては高級ピアノだとみなすこともできるのかもしれません。
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じぇじぇじぇ!

9月29日の朝刊一面には、なんと『あまロス続出』という大きな見出しが踊っていました。
ちなみにスポーツ新聞の話ではありません。

これはいうまでもなく、その前日に最終回を迎えたNHK連続テレビ小説の「あまちゃん」のことで、半年間このドラマにどっぷり浸かっていたファン達が、一斉にその喪失感をネット上に訴えたのだそうです。

記事によれば、多くの人達が被ったその喪失感は大変なものらしく、「燃え尽きた」「もう午前8時には起きられない」「やる気が出ない」「これがあまロスか…」といった調子でつぎつぎにツイッターやネット上に最終回後の感想を投稿したと書かれてます。

マロニエ君も連続テレビ小説だけはいつも録画して見ていますが、たしかに今回の「あまちゃん」はこれまでとは一線を画した面白さがあったと思います。
とりわけ印象的だったのは、第一回目からなんともいいようのない楽しさというか、惹きつけられるものがあったことを思い出しますし、たしかこのブログにも、あまちゃんスタート直後に「いっぺんに青空が広がったような」というような記述をした覚えがあります。

通常は出来不出来はべつにしても、前作に半年間慣れ親しんでいるぶん、新作に切り替わった直後の朝ドラというのはどうもしっくりしないものです。見る側もしばし気分の切り替え期間が必要で、最低でもはじめの一週目はよそよそしい感じがあるものですが、「あまちゃん」にはそれがまったくありませんでした。

このドラマの良かった点は、とにかく理屈抜きの明るさと笑いがあったこと、どの登場人物にも個性と味があって飽きることがなかったこと、東京のような大都市が決して絶対の価値ではないということを上手く訴えた点、さらに云うと日本人が心の中ではもう好い加減うんざりしているキレイゴトや建前の支配でストレスを受ける心配がここにはないという解放感があったように思います。

娯楽で見るテレビドラマからまで偽善や同意できない正論を押しつけられる鬱陶しさがなく、全編を貫く明るさと、センスあるお笑いが随所に盛り込まれて、すっかり疲れてしまっている日本人の気分を束の間でも愉快爽快にさせてくれたところが、これだけの人気を勝ち得たのだろうと思います。

そもそも、あんな二十歳前の東京育ちの女の子が、東北に移り住むなり、なんの躊躇もなく東北弁をしゃべりまくり、憧れの先輩にも「せんぱい、おらと付き合ってけろ!」となどと大真面目に言ったり、GMTメンバーによる各地の方言が盛大に飛び交う様なども、無定見に定着してしまった今どきの価値基準をひっくり返してしまうような面白さがありました。

現代は、みんな暗くて鬱屈しているからこそ、ひとたびスポーツ観戦だの、最新スマホの発売だのと、それほどでもない事を口実に不自然なバカ騒ぎを演じ、空虚な高笑いや興奮を通じて、別件の憂さ晴らしをするのだと思います。それだけ自然体の楽しいことに縁遠くなっているから、このドラマは心の中の干からびた部分にスッと染み入ったんでしょうね。

マロニエ君はいつも、土曜の朝、BSで一週間ぶんまとめて放送される朝ドラを録って、つねに二週前後ぐらい遅れて見ていますから、実はまだ最終回に到達しておらず、したがって「あまロス」ももう少し先になりそうです。
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ジャンボ機再び

昨日の新聞を見ていて、おやと思う記事が載っていました。
アメリカの航空会社の発表によれば、日本便は、今後大量のお客が見込めると云う判断から、デルタ、ユナイテッドなどの大手はこの先、懐かしいジャンボジェット(ボーイング747)を投入していくのだそうです。

一度はジャンボ機から、やや小さく効率重視のボーイング777にその座を譲っていたにもかかわらず、再びこの存在感あふれる大型機が国際線の表舞台に戻ってくるというのは嬉しいような気になりました。

ボーイング747は、空の大量輸送時代を予見したパンアメリカン航空の提案によって1960年代にボーイング社が開発、70年代初頭に就航した、それまでの常識を覆す巨大旅客機でした。
当時のパンアメリカン航空は世界に冠たる圧倒的な航空会社だったので、これに続けとばかりに世界の主要な航空会社は、そんな大型機を飛ばす見込みもないままこの想定外の新鋭機をこぞって発注しました。

その後、その予見通りに空の大衆化は進み、やがては厳しい航空運賃競争の時代に突入しますが、なんとも皮肉なことに老舗気質が抜けきれないパンアメリカン航空は企業の体質改善が追いつかず、しだいに競争力を失い、ついには倒産してしまいます。

パンアメリカンなき後、そのジャンボジェットの最大のカスタマーは日本航空で、長いこと世界最大の保有機数を誇りました。通算の導入機数は軽く100機を超えており、ひとつの航空会社でのこの記録はたしか世界記録です。しかし日本航空もその飽満経営が祟って破綻となり、ジャンボ機は燃費問題を理由に全機が退役、全日空もこれに倣ってか保有する数十機のジャンボ機の大半を売却し、残るは国内線用の数機、それ以外では日本貨物航空が運航する貨物機、そして2機の政府専用機だけになりました。
かつてジャンボ王国といわれた日本でしたが、わずか数年で、まるで前時代の稀少機種のような存在となってしまいました。

マロニエ君にいわせると、旅客機にも一定の趣があったのはこのジャンボ機までで、今どきの飛行機にはロマンも色気もない、ただの効率化と低燃費の塊で、見るからに安普請、いかにもコンピュータが作った飛行機という無機質さしか感じられません。
乗客としての乗り心地も、ジャンボ機はその安定感、やわらかさなどは格別で、とくにダッシュ400という後期型はひとつの究極で、いわば佳き時代のスタインウェイDのようなもの。これに勝る飛行機にはまだ乗ったことがありません。

燃費問題というのはいささか誤りで、これは日本航空の経営建て直しにあたっての世間ウケの良い方便でもあるようで、実際は旅客ひとり当たりの燃費で云えば決して大食いではないのですが、大型機は不景気になると融通性に欠けるという問題を抱えていると見るべきでしょう。
より小さな飛行機を数多く飛ばす方が利用者も便利なら、会社側も利用率に応じた無駄のない機材繰りの調整もしやすいということで、最近はこれが時代の潮流のようです。

この流れを作ったのがそもそもアメリカで勃興してきたLCCであったのに、そのアメリカの航空会社が再びジャンボ機を日本線に投入してくるというのはまったく思いがけないニュースでした。

なんでもコストや効率という、面白味のない、しみったれた世の中で、たまにはこういう好景気の象徴みたいな豪快な飛行機が再び脚光を浴び、太平洋を飛ぶようになるというのは、なんとなく嬉しいことです。
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古いヤマハ

前回書き切れませんでしたが、この広島の「平和の祈り」コンサートで使われたピアノは、思いもかけないヤマハの古いピアノでした。

かなり前の、たぶんCFIIIの初期型か何かで、コンサートグランドにもかかわらず足元はダブルキャスターでもなく、サイドのロゴマークもない時代のピアノで、フレームの穴の形状も丸ではない、この一時期のCFだけにみられる細長い開口部の大きなタイプのピアノでした。

さて、この古いCF、正確なことはネットで調べればわかるかもしれませんが(面倒臭いので調べてはいませんが)、たぶん30年ぐらい前のピアノではないかという気がします。
テレビ収録も入る、小曽根氏のような有名ピアニストが出演するようなコンサートで、こういう古い日本製ピアノが使われることは非常に珍しいことなので、その点はマロニエ君などは却っておもしろい気分になりました。

日本では、都市部の一定規模のホールと名の付くところには、たいていスタインウェイなどがあるものですが、わざわざこういうピアノを使うこと自体が、よほど特殊な事情があったのかと思います。このホールのホームページによると、ここには他にスタインウェイもカワイもあるようで、したがってなんらかの意図があって選ばれたヤマハということのようです。

その事情がなんであるかは別にして、この時代のヤマハは、何年か前にもリサイタルで1度聴いたことがありますが、マロニエ君は意外に嫌いではありません。それは、今どきのブリリアント系のキラキラ輝くような音ではなく、はるかに実直な音がして、ともかく真面目に作られたピアノという感じがあるからです。さらには後年のヤマハと違ってどんなフォルテッシモでも音が割れるなどの破綻が少なく、強靱な演奏にもしっかり耐え抜くだけの逞しさももっています。

こういうピアノのほうが、一面においては演奏や音楽に集中でき、聴いていて耳も疲れません。
だいいち主役は音楽であり演奏であるのに、あまりピアノ自体がキンキラして出しゃばるのは、タレントと勘違いした女子アナみたいで、むしろ目障り耳障りなることしばしばです。

この広島のピアノも、さすがに音の伸びがなかったり、古さ故の短所もあるにはありましたが、ではそれでこの日のコンサートの足をどこか引っぱったかというと、けっしてそんなことはなかったと思います。たしかに音の伸びはあったほうがいいに決まっています。でも、それよりも音の実質のほうがもっと大切だと思います。結局のところ、あまり表面的な華やかさではなく、ピアノはどっしりとピアノらしいのが一番だとあらためて感じました。

ブリリアント系のキラキラ音は、指の弱いアマチュアなどが家で弾くぶんにはいかにもきれいな音という感じで楽しめるかもしれませんが、プロのピアニストがコンサートの本番で弾くと、どうかするとうるさくもなるし、音符が不明瞭になったり表現力やパワーが逆に失われて、本来の演奏の妙が伝わらない危険もあるとマロニエ君は思っています。

ダブルキャスターでないコンサートグランドも久しぶりに見ましたが、やはり本来の姿はこうあるべきだと思いました。むかしスタインウェイが1980年代ぐらいから巨大なダブルキャスターを装着するようになったとき、そのあまりの無骨さ醜さに驚倒したものです。さらにはそれ以前のモデルまで次々に足を切断され、この下品なダブルキャスターが取りつけられて行くのには血の気が引いた覚えがありますが、慣れとは恐ろしいもので今ではすっかりこれがフルコンのデザインの一部に溶け込んでしまいましたね。
最近は、さらに転がり性能のよい、しかしビジュアル的にはもっと醜いキャスターがつけられていますが、あれはまだ目が慣れません。

コンサートグランドはその役目上、頻繁な移動が必要ですから、移動しやすい機能は致し方ないとしても、肝心の音に関しては、今どきの表面ばかり華やかな音造りは、もう少しどうにかならないものかと思います。
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音楽の本能

広島交響楽団による「平和の祈り」というコンサートが、今年の平和記念式典前日にあたる8月5日、平和記念公園内にある広島国際会議場フェニックスホールで行われ、その様子がつい先日クラシック音楽館で放送されました。

コープランドの「静かな街」で始まり、続いてショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第1番、ピアノは小曽根真、トランペットはベネズエラ出身のフランシスコ・フローレス、指揮は秋山和慶。

実はここまでしか見ていないので、ここまでの印象となりますが、「静かな街」ではイングリッシュホルンとトランペットをソリストとした作品、ショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第1番もトランペットが重要な位置を占める作品なので、いずれもこのフランシスコ・フローレスが演奏しました。

ピアノの小曽根真は今や言わずとしれた有名な日本人ジャズピアニストで、その活動はときどきクラシックにも足を伸ばし、以前もモーツァルトのピアノ協奏曲ジュノムなどを弾いて、とくに鮮やかな演奏というものとは違うけれど、クラシックのピアニストからは決して聴くことのできない味わいがあって、へええと思った記憶がありました。

今回のショスタコーヴィチでも、指さばきは明らかにクラシックのそれとは違い、どこかおっかなびっくりした様子があって、やはり畑違いのパフォーマンスという感じは拭えませんが、しかしそれで終わらないところに小曽根真の本当の価値があるようです。
ただ譜面通りに正確に弾くだけのカサカサしたピアニストとはまったく違い、どこかたどたどしくもある語り口のなかに、音楽に対する温かな情感がこもっていて、それこそが彼の魅力なんだと思いました。
技術や知識や経歴に偏りすぎて、音楽ほんらいの単純な楽しさや喜びを失いつつあるクラシックの世界に対するさりげないアンチテーゼのようにも感じられました。

第4楽章のカデンツァでは、得意のジャズテイストが織り込まれ、まあとにかく聴いている側としては飽きるということがありません。

しかし、本当の驚きはこのあとでした。
ショスタコーヴィチが終わってカーテンコールの末に、小曽根氏が客席に向かって「これらか皆さんを南米にお連れします」とやわらかに語りかけ、アンコールとしてピアノとトランペットによる演奏が始まりました。

これが大変な魅力に溢れたもので、それまではどこか冷静に見ていたマロニエ君も、思わず身を乗り出して本気で聴いてしまいました。詳しくは知りませんが、字幕によればラウロ作曲の「ナターリャ」「アンドレイナ」、フェスト作曲の「セレスタ」の三曲で、いずれもラテンアメリカの作曲家なのでしょうが、それらが切れ目なくメドレーのような形で演奏され、ここに至って小曽根氏も本来の力を発揮、フローレス氏も全身でリズムに乗って、二人とも何かから解放されたように自由で自然な演奏となりました。

曲がまたどれもすばらしく、ラテン的な哀愁と官能が交錯する悩ましいばかりの音楽で、否応なく圧倒されてしまい、この望外の演奏にただただ感激してしまいました。日本人的倫理観でいうならば、明日はこの記念公園内で恒例の平和記念式典があるのかと思うと、よく主催者が認めたなあと思うほど、ちょっと危ない感じさえ漂うものでしたが、ともかく、これはしばらく忘れられない演奏になりそうです。

音楽を聴く喜びを、根底からリセットされてしまうようで、マロニエ君にとってはまったく予想だにしなかった衝撃でしたし、クラシックの演奏家がどんなに偉そうなことをいっても敗北を感じるのでは?と思われるような、音楽の本能に触れて酔いしれた6分弱でした。
むろん、われんばかりの拍手でした。
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チョ・ソンジン

パユのモーツァルトを褒められなかったばかりなのに、また似たようなことを書くのもどうかと思いましたが、まあ主観的事実だからお許しいただくとして、同じくNHKのクラシック音楽館で、かなり前に放送録画していたものをやっと見たので、そこからの感想など。

6月のN響定期公演で、チョン・ミョンフン指揮でモーツァルトのピアノ協奏曲第21番とマーラーの交響曲第5番というプログラム。ソリストはチョ・ソンジンで、この人は何年か前に浜松コンクールで優勝した韓国の若者ですが、伝え聞くところではわりに良いというような話で、実はマロニエ君は韓国には意外に好きなタイプのピアニストが多いので、そういう点からも機会があれば一度聴いてみたいものだと思っていました。

知人が主催する音楽好きの集まりで、そこに居合わせた年配の方が云われるには、福岡で行われたあるオーケストラの演奏会にこのチョ・ソンジンが出演し、ショパンの第1番を弾いたとのこと。その解釈といいテンポといいその方は大変満足であったという話を聞いたことがあったこともなんとなく覚えていました。

チョ・ソンジンは浜松コンクールで優勝したためか、わりに日本でのステージチャンスが多いようですが、マロニエ君は残念ながら彼のピアノは1音たりとも聴いたことがなく、今回が初めてということになりました。

前回、N響とモーツァルトは相容れないものがあると長年マロニエ君が感じてきたことを書いたばかりで、その印象は今でも変化はありませんが、しかし指揮がチョン・ミョンフンともなると、明らかにいつものN響のモーツァルトとは違った水準に達しているのは、さすがに指揮者の力だなあ!とこのときばかりは感心させられました。
それはこのハ長調の協奏曲の出だしを聴くなり感じるところで、演奏の良し悪しや好みは、だいたいのところはじめの1分以内に結論が出てしまうようです。

さて、今回一番の興味の対象であったチョ・ソンジンですが、こちらはその出だしからして、んんん?と思いましたが、残念ながら最後までその印象が覆ることはなく、いささか期待が大きすぎたというべきか、はっきり言ってマロニエ君としてはいささか同意しかねるタイプのピアニストでありました。

あくまで個人的な印象ですが、「ピアノの上手い少年」という域を出ておらず、モーツァルトの語法というものがまったくわかっていないで弾いているように見えました。どんな曲も同じスタンスで彼は譜面をさらって、せっせとレパートリーを増やし、お呼びのかかるステージに出ていくのでしょうか。

曲のいたるところで意味ありげな表情とか強弱をつけてはみせますが、いちいち的が外れて聞こえてしまうし、全体としても表面的でまったく深いところのない、感銘とは程遠い演奏。曲の内奥にまったく迫ったところがないし、音色やタッチのコントロールなども感じられず、強弱のみ。とくに第3楽章は飛ばしすぎの運動会のようでした。
それなのに、顔の表情だけはえらく大げさで、いかにも作品内に潜んでいる大事なものを感じながら弾いていますよという風情ですが、それは内なるものがつい顔に出てしまうというより、専ら観賞用のパフォーマンスのようでもあり、どことなく彼はラン・ランを追いかけているのかとも思ってしまいました。

パユと共通していたのは、チョ・ソンジンも非常に線の細い演奏家ということで、聴く者をその音楽世界にいざない引き込む力が感じられません。彼より優れたピアニストは韓国にはごろごろしているし、これなら、ピアノの名手としても有名なチョン・ミョンフンが自らピアノも弾いて、振り弾きしたほうが遙かに素晴らしい演奏になったことだろうと思います。

はたして韓国内での評価はどうなのだろうと思いますが、韓流スターの中には、日本でしか人気がない俳優もいるとか。まだとても若いし(19歳)、きっと才能はあるのだろうと思うので、ともかくもっと精進してほしいと思いました。
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洗剤とお米

連休のある日の午後のこと、自宅のインターホンが鳴ったので出てみると、新聞販売店の人が「ご挨拶に伺いました!」といって表に立っていました。

実は、つい二ヶ月前までここの新聞をとっていたのですが、どうしても別の新聞を購読したくなり、契約期間終了までの数ヶ月間を辛抱して、ようやく切り替えたところでした。
まともに他社の新聞にするからなどといっても、とてもじゃありませんがおいそれと引き下がってくれるような相手ではないことは、この新聞社のこれまでの猛烈なつなぎ止め工作のすごさを知っていたので、作戦を変えて「新聞はあとの処分も大変で、もうとらないことにしたので」ということで、どうにか納得させて終わりにしたという経緯があったのです。

ところがこの日は販売店の店長が代わったという名目で、再度勧誘にやってきたようで、表に出てみるとこれまでとは違うおじさんが立っていました。こちらを見るなり、これ以上ないというほどの満月のような笑顔を浮かべながら、いきなりあれやこれやと喋りまくり、そのつど深々と頭を下げられるなど、内心これはまた大変なことになったなと思いました。

まさか別の新聞を購読しているとは逆立ちしてもいえないので、「また新聞をとるときは必ずおたくにしますので」というと、また笑顔と感謝でこわいぐらいに頭を何度も下げられ、こちらとしてはこんな応対は早く終わりにしたいと思っていたら、「実はいま、洗剤とお米を配っていますので、ちょっとお待ちください!」と言い出しました。

これをもらったら大変だと思い、「いやとんでもない、また新聞をとるときにでも」と云いますが、相手もさるもので耳を貸さず、「いえいえいえ、きょうはみなさんにずーっとお配りしていますから!どうぞどうぞ!」といって、さっさと車から大きな段ボールに1ダースぐらい入っていそうな洗剤とお米を上下に重ねて両手に抱えて、よいしょとばかりに持ってきます。

もらえないと何度も固辞しますが、向こうはなにがなんでも押し込んでいく気迫があるのを感じます。
そのうち、将来またとっていただくときのために、せめて名前と住所だけでいいので、ここにちょっと書いてもらっていいでしょうか?と、これも「すいません、すいません」と頭を下げながら頼んでくるので、やむを得ず住所と名前だけ手渡された伝票に記入しました。

すると、そこに何年何月から何年何月までという項目があり、そこをいつでもいいのでとりあえず書くだけ書いといてくださいと迫られました。たったいま名前と住所だけといったにもかかわらず!
ここで言いなりになっては向こうの思うつぼ!とこちらも意を決し、「またお願いするときは、必ずおたくに連絡しますけど、今ここで時期まで書くわけにはいかないです」ときっぱり云いますが、「いやいや、何年先でもいいんですよ、ただ書いてもらうだけでいいんです」というので、「そんな無責任なことは書けないです」とキッパリ言うと、その言葉にこちらの意志の固さを見たのか、わかりました、ではまたそのときは宜しくお願いしますといってついに引き下がりましたが、あれだけ「みなさんに配っている」と云って、まさに足元にまでもってきていたお米と洗剤その他を、サッと両手に持ち上げて持って帰っていきました。

べつにそんなものが欲しかったのではありませんよ。
むしろもらったが最後、また折々に攻勢をかけられるのは明白ですから、もらわないことがこちらの意志なのですが、その何年何月からという項目に何らかの数字を入れるかどうかが彼らにとって大きなポイントのようで、贈答品はそれへのご褒美であり、こちらへの貸しであり、今後もまたしばしば勧誘にくるための通行料のようなものだと思いました。

やっぱりわけもなくモノをくれるはずはないというのが当たり前という話ですが、世の中、上には上がいるもので、この激しい新聞勧誘合戦を逆手にとって各社からあれこれの品をもらうのが常態化し、「洗剤なんか自分で買ったことがない」と豪語する主婦などもいるというのですから、いやはや凄まじいですね。
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N響とパユ

NHKのクラシック音楽館で放送されたN響定期公演から、エマニュエル・パユをソリストに、モーツァルトのフルート協奏曲第2番、フォッブスの「モーツァルトの“魔笛”による幻想曲」を聴きました。
指揮はアンドルー・マンゼ。

のっけからこう云うのもなんですが、マロニエ君はエマニュエル・パユは昔からあまり興味がなく、ほとんど聴いたことがありませんでした。というのも、ずいぶん前に1枚買ったCDがまるで好みではなかったため、この人の演奏にはすっかり関心をなくしてしまったのです。
ニコレやランパルの時代も終わり、ゴールウェイも歳を取って、現在ではパユがそのルックスも手伝ってかフルート界の貴公子などといわれて、事実上フルーティストの中では一番星のごとく君臨しているようです。

その美男子もすっかり歳を重ねて壮年の演奏家になっていましたから、さてその演奏はいかにと思いましたが、結果は芳しいものではなく、少なくともマロニエ君にはその魅力がどこにあるのか、一向にわからないものでした。

まず端的にいって、これという説得力もないまま、むやみにモーツァルトを崩して好き勝手に演奏するという印象で、もうそれだけで好感がもてません。聴く側が何らかの共感ができないようなデフォルメをしても、それは作品本来の姿が損なわれるだけで、この人がどういう演奏をしたいのかという表現性がまるきり感じられないだけで、だったらもっと普通にきちんと吹いてくれる人のほうがどれだけ音楽を楽しめるかわかりません。

不思議だったのは、これほどのトップレベルにランキングされる演奏家にしては、演奏には不安定さが残り、しかも全体に音が痩せていて温かみやふくよかさがないし、なにより一流演奏家がまずは放出する安心感も感じられません。それどころか、ところどころでリズムは外れ、フレージングは崩れ、音にならない音が頻発、楽曲の輪郭がなさすぎたと思います。
一番の不満は、モーツァルトの優美な旋律や展開の妙、活気とか、その奥にわだかまる悲しみとか、つまり彼の天才がまったく聞こえてこないという点で、その場その場を雑で気ままに吹いているようにしか思えませんでした。

基本的な音符が大事にされない演奏というのは好きではない上に、わけてもそれがモーツァルトともなれば、いやが上にも欲求不満が募るばかりでした。そのくせカデンツァになると意味ありげに間を取ったり突然テンポをあげてみせたりと、自己顕示欲はなかなか強いことも感じます。

またパユほどではないにしても、アンドルー・マンゼの指揮もなんだかパッとしない演奏で、冒頭にはフィガロの序曲をやっていましたが、おもしろくない演奏でした。

指揮者の責任もありますが、そもそもN響じたいが、マロニエ君にいわせるとモーツァルトとの相性が悪く、この官僚的オーケストラとは根本的に相容れないものがあるような気がします。モーツァルトのあの確固としているのに儚く、典雅なのに人間臭い作品は、もっと個々の演奏者が喜怒哀楽をつぎ込んで演奏して欲しいのに、いつもながらだれもが冷めたような表情で、ただ職業的に演奏する姿は、どうにかならないものかと思います。
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優雅さの裏で

有名音楽雑誌のモーストリー・クラシックの9月号は『スタインウェイとピアノの名器』と銘打った、世界の一流ピアノに焦点を当てた巻頭特集が組まれていました。

以前にも同誌では『ピアノの王者スタインウェイ』という特集があり、内容的にはその焼き直しでは?という気もしましたが、それでもこういう表紙を見るとつい買わずにはいられません。

今回はスタインウェイオンリーではないために、それ以外のピアノについてもいろいろと触れられていますが、そのなかでもベーゼンドルファーに関する記事はマロニエ君にとって、非常に興味深いものでした。

ベーゼンドルファーというと、ウィーンの名器であることはもちろん、貴族的で、優雅な音色と佇まいの別格的なピアノであり、厳選された材料を手間のかかる伝統工法で制作される最高品質の楽器であること、さらにはどことなく近寄りがたい貴族御用達の工芸品でもあるような、とにかく何かにつけて特別で、孤高のピアノというイメージがありました。

製造番号も通常のシリアルナンバーではなく、作曲家の作品番号と同じくオーパス番号であらわされるなど、通常のピアノという概念を超えた、それ自体がまるで芸術品のようでもあり、ある人など「そもそもベーゼンドルファーなんて、庶民が買うピアノじゃないですよ!」とまで言わしめるような、そんなイメージを一新に纏っているピアノであり会社だったような気がします。

量産ピアノとはかけ離れた手の込んだ作り、少ない生産台数などは、およそガツガツしたビジネスとは無縁で、とりわけ昔は王侯貴族をはじめ裕福な一握りの顧客だけを相手に、それにふさわしい最高級ピアノを悠々と提供してきたのだろうと思うのはきっとマロニエ君だけではないはずです。

ところが、この特集にあるベーゼンドルファーの小史によれば、創始者のイグナツ・ベーゼンドルファーは「才長けた経営者であり商人でもあった」のだそうで、経営拡大のために「まず狙いを定めた」のがあのリストで、彼の強靱な奏法に耐えるピアノがなかなか存在しないことに目をつけ、それにぴったりのピアノを製作して進呈するという思い切ったやり方で、当時のピアノのスーパースターであるリストからベーゼンドルファーを贔屓にしてもらうという手段に出るのだそうです。
それだけに留まらず(ベーゼンドルファーが品質の良いピアノであったことはあるにせよ)、販路拡大をめざして東欧諸国や北イタリアを含む広大な地域を支配していたオーストリア帝国の各地、さらにドイツ、フランス、イギリスにまで積極的なセールスを展開したとあります。

また、リストのような名だたるピアニストが演奏旅行をおこなう際、会場のピアノの銘柄や質がまちまちだったことにも目をつけて、ヨーロッパの主要演奏会場にベーゼンドルファーが置かれるように計らい、こういうシステムの先駆者でもあったようで、とにかくきわめて野心的な商売人であり、それを可能にする才気の持ち主だったというのは驚きでした。

また、イグナツの息子のルードヴィヒは父の会社を受け継ぎ、さらなる工場の大規模化を敢行。その快進撃は止まらないようです。あの有名なウィーンの学友協会の新会館がオープンして、そこへ引っ越した学友協会の音楽院へもさっそくベーゼンドルファーを寄贈、そして優秀な学生にもベーゼンドルファーをプレゼント、さらに新開館のホールにもベーゼンドルファーを置いてもらう、さらにさらにそこを会場としてベーゼンドルファー・国際ピアノコンクールを創設という、逞しい商魂と抜け目の無さで、まるで現代のサクセスストーリーを聞いているようでした。
まだまだあります。
ウィーンの中心街にあった名門貴族のリヒテンシュタイン家の宮殿を間借りしてショールームをオープン、その後はその宮殿の一部を改造してベーゼンドルファー・ザール(ホール)を建設、まだありますがもうここらでやめておきましょう。

少なくとも、これが設立から19世紀後半までのベーゼンドルファー社がやってきた経営であり、それは現在のブランドイメージとはまるでかけ離れたものだったことを知って驚かされました。
もちろんビジネスである以上それを悪いというのではありませんが、あまりにも抱いていたイメージとは違っていて、たおやかな貴婦人だとばかり思っていた人が、実は手段を選ばぬ猛烈ビジネスのやり手社長だったと知らされたみたいで、その過去の事実にちょっとばかりびっくりしたというわけです。
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調律の価値

NHKのクラシック音楽の番組で、ある地方都市で行われた演奏会の様子が放映されました。
ピアニストは現在日本国内でしだいにその名を聞く機会が増えてきた方ですが、今回はその方の演奏の話ではありません。

ピアノにとって調律とはいかに大切であるかを、たかだかテレビを通じてではありますが、痛いほど感じたコンサートだったので、このことを書いてみようと思います。
内容がきわどい要素を含むため、特定の固有名詞は一切控えることとします。

この会場にあったスタインウェイは、ディテールの特徴からして、20数年経過したD(コンサートグランド)で、手荒に使われた様子も、頻繁なステージで酷使された様子もないもので、こういうことは不思議に映像からもわかるものです。

第一曲がはじまり、まず感じたことは、この時代のスタインウェイは、明らかに現在のものとは音のクオリティが異なり、それを言葉にするのは難しいですが、まず簡単に云うなら重厚で音に密度があって、底知れぬ奥の深さみたいなものがあります。
どんな巨匠の演奏でも、テクニシャンの超絶技巧にも、まったく臆することなく応じることのできる懐の深さと頼もしさを生まれながらにもっているという印象。

とりわけ今の楽器との差異を痛切に感じさせられるのは、音に太さとコクがあること、あるいは低音域の迫力とパワーで、このあたりはスタインウェイの有無を言わさぬ価値が、まだはっきりとしたかたちで残っていた時代ということを実感させられます。こういう音を聞くと、やはりむかし抱いていたスタインウェイへの強い尊敬と憧れの理由が、決して一時の勘違いではなかったことが痛切に証明されるようです。
「昔のスタインウェイをお好みの方もいらっしゃるようですが、我々専門家の目から見ればピアノとしては現在の新品の方がむしろ良くなっている」などという話は、楽器店の技術者や輸入元の責任者がどんなに熱弁をふるおうとも、ビジネスの上での詭弁としか聞こえません。

利害の絡んだ専門家といわれる人の話を信じるか、自分の耳を信じるかの問題です。

このホールのスタインウェイに話をもどすと、これが自分が本当に好きだった最高の時代のスタインウェイとは云わないまでも、その特徴をかなり色濃く残した時代のピアノであることは、もうそれだけで嬉しくなりました。
しかし、しばらく聞いていると、せっかくの素晴らしい時代のスタインウェイであるのに、まるで迫ってくるはずの何ものもないことに違和感を覚えはじめます。ピアニストも熱演を繰り広げているのですが、それが即座に結果として反映されないことに、多少の焦りがあるようにも感じられました。

それが今回書きたかったことですが、これはひとえに調律の責任だと思いました。
まったく冴えがなく、音楽に対するなんら配慮のない無味乾燥なもので、音は解放どころか、完全に閉じてしまってなんの表現力もないものでした。
どんな調律が良いのかは、マロニエ君ごときが云えるようなことではありませんが、すくなくとも演奏という入力を雄弁な歌へと変換することで、有り体にいえば、聴衆の心にじかに訴えかけるような「語る力」を楽器に与えることでしょう。

さらに技術者も一流どころになれば、調律に際し、ピアニストの奏法やプログラムにまで細やかな考慮が及ぶことで演奏をサポートするわけです。
当然ながら、ピアニストの足を引っぱるような調律であってはならないわけですが、今回の調律はまったく凡庸な、音楽への愛情のかけらもないもので、音はどれもがしんなりとうなだれているようでした。

おそらくはあまり使われることのないピアノで、調律師もコンサートの経験の乏しい方だったのだろうと思わざるを得ませんでしたが、あんなに立派な楽器があって、なんと惜しいことかと思うばかりでした。ホール専属でも、競争の少ない地方などでは、きっちり音程を合わせることだけが良い調律だと本気で思っている調律師さんもいらっしゃるのが現実なのかもしれません。

素晴らしく調律されたピアノは、その第一音を聴いたときから音楽の息吹に溢れていて、わくわくさせられるものがあるし、音が解放され朗々と会場に鳴り響くので、必然的に演奏のノリも良くなり、それだけ聴衆も幸せになるわけで、調律師というものは、それだけの重責を負わされているということになるわけです。
マロニエ君に云わせると、良い調律とは、音が出る度に、空間にわずかな風が舞うような…そんな気がするものかもしれません。
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ヴェンゲーロフ

長らく肩の故障で演奏休業状態に追い込まれていたヴァイオリニストのマキシム・ヴェンゲーロフが数年ぶりに復活し、日本でもヴェンゲーロフ・フェスティバル2013と銘打つ一連の公演をやったようです。

その中からサントリーでのリサイタルの様子がNHKのクラシック倶楽部で放映されましたが、ずいぶんと恰幅のいいおじさんにはなってはいたものの、基本的な彼の特徴は昔とはなにも変わっていませんでした。たしかに透明感の増した音やディテールの処理などは、より大人のそれになったとは思いますが、音楽的な癖や音の言葉遣いみたいなものは、良くも悪くも以前のままのヴェンゲーロフのそれでした。

曲目はヘンデルのヴァイオリンソナタ第4番、フランクのヴァイオリンソナタ、アンコールにフォーレの夢のあとに&ブラームスのハンガリー舞曲というもの。

ヴェンゲーロフは1980年代にソ連が輩出した最後のスター演奏家のひとりといえるのかもしれません。
ブーニンが1985年のショパンコンクールに優勝して、日本ではロック歌手並みの大フィーバーが起こり、ついには日本武道館でのピアノリサイタルという前代未聞の社会現象まで引き起こしましたが、その一年後に天才の真打ちとして来日したキーシン、さらにヴァイオリンではヴァディム・レーピンとこのマキシム・ヴェンゲーロフがそれに続きました。

このヴァイオリンの二人は年齢こそ僅かに違うものの、同じロシアのノボシビルスクという極東よりの町から現れた天才少年で、先生もザハール・ブロンという同じ人についていました。
何から何まで天才肌で、どこか悪魔的な凄味さえ漂わせるレーピンに対して、ヴェンゲーロフはあくまでも清純で叙情的、まるで悪魔と天使のような対比だったことを思い出します。

マロニエ君は昔からヴェンゲーロフのことは決して嫌いではありませんでしたが、だからといって積極的に彼の演奏を求めて止まないというほどのものはなく、魔性の演奏で惹きつけられるレーピンとは、ここがいつも決定的な差でした。

そして今回38歳になったというヴェンゲーロフの演奏に接してみて、またしても同じ感想をもつにいたって、天才というのは幾つになってもほとんど変わらないということを実感させられました。
ヴェンゲーロフの演奏には間違いなくソリストにふさわしい強い存在感と華があり、テクニック、演奏家としての器ともにあらゆるものを兼ね備えているとは思うのですが、ではもうひとつ「この人」だと思わせられる個性はなにかというと、そこが稀薄なように思います。画竜点睛を欠くとはこういうことをいうのでしょうか。

その音は力強くブリリアント、しかも情感に満ちていて美しいし、音楽的にもとくに異論の余地があるようなものではないけれど、あと一滴の毒やしなやかさ、陰翳の妙、さらには細部へのいま一歩の丁寧さがどうしても欲しくなります。どの曲を聴いても仕上がりに曖昧さが残り、ひとりの演奏家の音楽としてはやや雑味があって仕上げが不足しているように思えてなりません。

ピアノはヴァグ・パピアンというヴェンゲーロフとは親交の深い男性ピアニストでしたが、この人の特殊な演奏姿勢は一見の価値ありでした。これ以下はないというほどの低い椅子に腰掛け、さらには背中を魔法使いの老婆のように丸めて、その手はほとんど鍵盤にぶら下がらんばかり。さらには顔を鍵盤すれすれぐらいまで近づけるので、どうかすると鼻や顎がキーに触れているんじゃないかと思えるほどで、まるで棟方志功の鬼気迫る版画制作の姿を思い出させられました。
でもとても音楽的な方でした。
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なんと東京五輪

開けてびっくり、2020年夏のオリンピック開催地が東京に決定したことは、まずは喜ばしい、おめでたいことだったと思います。
実を云うとマロニエ君の予想では、東京はほぼ落選するものと思っていました。

いきなりこう云ってはなんですが、そもそもマロニエ君はオリンピック誘致にさほど熱心な気持があるわけでもなく、観るとしてもどうせテレビだし、どこでやっても自分にとっては同じ事という考えでした。それどころか、あの過密都市東京で、この上にオリンピックのような壮大なイベントをやるなんて、考えただけでも息が詰まるようでした。

それに、その東京の、いつも怒っている猫みたいな猪瀬知事の様子にも違和感があり、それがいつしかこわばったような悲痛な笑顔を作り始め、無理してテンションあげているような、同時に何かに取り憑かれたような不自然な言動を見ていると、いよいよ東京は無理だろうという予感が強まってくる気がしていたものです。

下馬評でもマドリードが優勢のように伝えられていましたし、さらに東京不利を決定付けたと見えたのは、ブエノスアイレスで行われたJOC会長の竹田氏の記者会見で、大半の外国人記者から福島原発の汚染水に関する環境面の質問を受けた折の対応で、英語はたちまち日本語に切り替わり、おたおたして適切な対応も出来ないまま「政府が説明する」「安部さんが来る」「福島と東京とは距離がある」などの繰り返しで、これが長年JOC会長を務め、さらにはIOCにも深く関与している人物の発言とは信じられない思いでした。

質問した記者からも、会見後、氏の対応には驚いたという声が聞かれ、これで完全に東京の芽はなくなったと思っていたところ、フタを開けてみれば順序から云うと最有力視されていたマドリードがまずはじめに落選し、決選投票によって東京に決定したのは、とりあえず日本人として素直に良かったとは思ったものの、なんだか狐につままれたような印象でした。

これはロシアで開催中のG20を中座してまでブエノスアイレスに駆けつけた安部さんによる強力な巻き返しが功を奏したのか、皇族の慣例を破ってこの地に赴かれた高円宮妃久子様など周りの皆さんの功績とフォローが大きかったのかとも思いました。ネットニュースによれば「最終プレゼンが勝因」とありましたから、だとすると安部さんの汚染水に関する安全説明が決め手ということでもありますが、いずれにしろ結果は東京誘致は成功したのですから、ものごと最後までわからないものですね。

あとから聞いた話では、近い将来フランスが開催の野心をもっている由で、そうなると前回がロンドンだったこともあり、今回マドリードに決まれば、ヨーロッパの開催が増えすぎることでフランス開催が難しくなるため、ここはいったんアジアへもっていこうというバランス感覚も作用したとか…。

それはそれとして、オリンピック開催にかくも世界が躍起になるのは、とうてい崇高・純粋なスポーツ愛好精神からではないことは明白で、今の世界で最も有名で最もわかりやすい世界最大規模のイベントを開催することでもたらされる開催国の発展や経済効果、知名度アップなど、そこについてまわるもろもろの「オリンピック特需」が欲しいからにほかならないと思います。

アベノミクスという言葉にもそろそろ効力が薄まりつつある今日、東京オリンピック開催という新しい目的が出来ることによって、この疲弊しきった日本の社会が少しでも息を吹き返せるのであれば、それはそれで結構なことだと思います。
景気は気、まさに気分の負うところが大きいと云われますから、これで少しは日本人が明るい気分に転換できるよう期待したいと思います。
今の日本は自分を含めて、あまりにも暗くてみみっちくて不健康ですから。
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メーカーの遺伝子

あるピアニストについて、長いことファンを任じているマロニエ君としては、この人のCDが発売されれば、それがいかなるものであろうと購入する事にしています。

先ごろも、イタリアのとあるレーベルから、ピアノデュオコンサートのライブCDが発売され、正直あまり気乗りはしなかったのですが、これはマイルールでもあり、半ば義務なのでしかたがありません(ばかばかしいですが)。
レーベル同様、コンサートが行われたのもイタリアのようです。

聴いてみても、予想通り内容があまり好ましいものではなかったこともあり、名前は敢えて書きませんが、もちろんお詳しい方にはおわかりかもしれませんし、それはそれでいいと思っています。

このピアニストはご自分のことはさておいて、客観的にどうみても大したこともないような変な若者を連れてきては、絶賛したり共演したりということが毎度のことなので、実力に見合わない相手との共演もいつものことで、我々ファンはそんなことにもとうに慣れっこになっています。

それにしても、このお相手はあまり音楽的な趣味のよろしいピアニストではなく、せっかくの演奏もかなり品性を欠いた残念なものになってしまっていました。しかも相手が相手なので、この時とばかりにいよいよ張り切るのでしょうが、根底の才能がてんで違うのだから、どうあがいても対等になれる筈もないわけですが…。

それはそれとして、このコンサートでは2台とも日本製ピアノが使われており(イタリアではわりに多いようです)、しかもその録音ときたらマイクが近すぎるのが素人にさえ明らかで、うるささが全面に出た録音になっており、一人のスターピアニストがそこにいるということ以外、すべてが二流以下でできあがったコンサート&CDだという印象でした。

クラシックの録音経験の少ない技術者に限って、マイクを弾き語りのようにピアノに近づけたがり、リアルな音の再現を目指そうとする傾向が世界中にあるようにあるように思われます。しかしピアノの音というものは、近くで聴けば雑音や衝撃音、いろいろな物理的なノイズなどが混在していて、まったく美しくはありません。これはどんなに素晴らしい世界の名器であってもそうだと言えるでしょう。

ピアノの音を美しく捉えるためには、まず楽器から少し離れないことにはお話にならないということですが、ブックレットに小さく添えられた写真を見ると、至近距離にマイクらしきものがピアノのすぐそばに映り込んでいるので、ほらねやっぱり!と思いました。

結果として、ピアノの音が音楽になる前の生々しい音が録られているわけですが、そこに聴く日本製ピアノの音と来たら、なんの深みもない軽薄な、あまりにも安手の音であったことが、図らずもひとつの真実として聞くことができたように感じられました。

もちろん使われているのはフラッグシップたるコンサートグランドなのですが、こうして近すぎるマイクで聴いていると、同社の普及型ピアノとほとんど同じ要素の音であることに愕然とさせられ、血は争えないものだということがまざまざとわかります。
製品にもメーカー固有の遺伝子というのがはっきりあるということで、聞くところではコンサートグランド制作は、普及型とはまったく別工程で限りなく手作りに近い方法によって入念に作られているというような話を聞いたことがありますが、こうして聴いてみると、ほとんど機械生産のそれと同じような音しかしていないのが手に取るようにわかりました。

だったら、まだるっこしいことはせずに、試しにいちど普及品と同じラインで、同じように機械生産してみたらどうかと思いましたが、ときどき本気のピアノを作るとき以外は、もしかしたらそれをやっているのかもしれないような気がしました。
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興味がない!

過日読了した本、高木裕著『今のピアノでショパンは弾けない』(日本経済新聞出版社)の中に次のような記述があり、仰天させられました。

「有名私立音大のピアノ科の教授から聞いた話です。教え子に(略)上手いピアニストのコンサートに行きなさいと言っても行かない。どうも興味がないようだ。仕方なく、これはというコンサートに無理やり連れて行っても、そのピアニストのどこが上手いのかわからずに、周りが拍手するのでつられて自分も拍手する。上手いピアニストのここが上手いとわかったら、うちの音大では5本の指に入るんですよ…と嘆いていました。」

???
まさかウソではないのでしょうから、やっぱり事実なのでしょうが、まったく開いた口がふさがらないとはこのことで、ここまで今の若い人は感じることも情熱を燃やすこともなくなってしまったのかと思います。
そんなに上手い人の演奏にも興味がないほどどうでもいいのだったら、その学生は、そもそもなんのためにピアノなんてやって、尤もらしく音大にまで行っているのかと思います。しかもこれは特殊な一人の話ではなしに、全体がそうだと言っているわけで、そんな人間がいくら練習して、難曲をマスターして、留学してコンクールで入賞しようとも、所詮は聴く者の心を打つ演奏なんてできるわけがないでしょう。

昔は、いかなるジャンルでも、芸術に携わる人間が集まれば、いろいろな作品などに対する批評や論争で議論沸騰し、さらに昔の血気盛んな芸術家の卵たちは見解の相違から殴り合いになることさえあるくらい真剣だったと聞きます。お互いの批評精神が審美眼として厳しく問われ、論争の絶える間はなかったのは、芸術家およびその予備軍は常に鋭敏な感性が問われたからでしょう。
そしてともかくも純粋だったのですね。

少なくとも自分達のやっていることの、最高峰に属する一流といわれる人達の仕事に興味がないなんてことは、逆立ちしてもマロニエ君には理解できません。

これはサッカー選手を目指して学生チームで奮闘しながら、ワールドカップにはまったく興味がないようなもので、そんなことってあるでしょうか?
あまたのアスリートが血のにじむような努力と練習を重ねながら、オリンピックには無関心なんてことがあるでしょうか?

そういうことが、いやしくも音楽の道を志し、幼少時から専門教育を受け、来るべき時には海外留学したり、コンクールにでも出ようという人達の間で普通の感性だというのなら、その心の裡はまったく謎でしかありません。
自分はそれだけのことをしてきた、あるいはできるんだという単なるアクセサリーなのでしょうか。あるいは卒業したら、その経歴をひっさげて芸能界にでもデビューするのでしょうか。いずれにしろ、そんな人達に音楽の世界を汚して欲しくないと思いました。

ピアノを弾くことを特に高尚なことだなどとは思いませんが、少なくとも芸術に対する畏敬の念とか、より素晴らしい音楽表現を目指して音楽に接する情熱がなく、醒めていることが当たり前のようになっているのはいかがなものかと思います。

高尚とはいわずとも、少なくとも音楽の持つ美と毒とその魔力に魅せられて、どうにも始末のつけようがないような人にこそ、芸術家はふさわしいものであって、ただ単にコンクール歴を重ねることが目的のような人は、もうそんなまだるっこしい事はしないで、せっせと勉学に励んで一流大学にでも行き、しかるべき職業に就くほうがよほどせいせいするというものです。
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大器発見

録り貯めしているNHKのクラシック倶楽部の中から、今年の4月のトッパンホールでおこなわれたラチャ・アヴァネシアンのヴァイオリンリサイタルを聴きましたが、ひさびさにすごいヴァイオリニストが登場してきたというのが偽らざる印象でした。

曲目はドビュッシーのヴァイオリンソナタ、ファリャ/クライスラー編;歌劇『はかなき人生』より「スペイン舞曲」第1番、チャイコフスキー/アウアー編;歌劇『エフゲニー・オネーギン』より「レンスキーのアリア」、R.シュトラウス/ミッシャ・マイスキー編;「あすの朝」、ワックスマン;カルメン幻想曲など。

冒頭のドビュッシーのソナタの開始直後から、ん?これは…と思わせるものがムンムンと漂っています。アヴァネシアンはまだ20代後半のアルメニア出身の演奏家ですが、要するに大器というものは聴いていきなりそれとわかるだけの隠しおおせない力や個性があふれているという典型のようで、確固とした自分の表現が次から次へと自然に出てくるのは感心するばかりです。

技巧と音楽が一体となって、聴くものを音楽世界へとぐいぐいといざなうことのできる演奏家がだんだん少なくなってくる最近では、小手先の技術は見事でも、要するにそれが音楽として機能することのないまま、表面が整っただけの潤いのない演奏として終わってしまうのが大半ですから、アヴァネシアンのいかにも腰の座った、力強いテンションの漲る演奏家としての資質は稀少な存在だと思います。

演奏の価値や形態にも様々なものがあるは当然としても、このように、とにもかくにも安心してその演奏に身を委ね、そこからほとばしり出る音楽の洪水に身を任せることを許してくれる演奏家が激減していることだけは確かで、そんな中にもこういう大輪の花のような才能がまだ出てくる余地があったということに素直な喜びと感激を覚えました。

演奏中の表情などもタダモノではない引き締まった顔つきで、尋常ではない高い集中力をあらわすかのような目力があり、その表情の動きと音楽が必然性をもって連動しているあたりも、これは本物だと思いましたし、太い音、情熱的な高揚感、さらには極めて力強いピッツィカートはほとんど快感といいたいほどのものでした。
まだこれというCDなどもないようですが、マロニエ君にとって今後最も注目していきたい若い演奏家のひとりとなりましたが、時代的にはこういう人があまりいないのが非常に気にかかる点ではあります。

ピアニストは、このコンサートで共演していたのはリリー・マイスキーで、チェロのミシャ・マイスキーの娘さんであることは、名前が出てから気付きました。両親によく似た顔立ちで、彼女が小さい頃の様子をむかしミシャのドキュメントで見た記憶がありますが、その子がはやこんな大人になっていたのかと驚きました。

演奏自体は、これといって傑出したものもなく、全体に線が細いけれども、それでも音楽上の、あるいはアンサンブル上の肝心要の点はよく知っているらしいというところが随所に感じられたのは、やはり彼女が育った場所が世界の一流音楽家ばかりが行き交う環境だったということを物語っているようでもありました。

決して悪くはないとは思いましたが、なにしろヴァイオリンのアヴァネシアンとのバランスで云うなら、残念ながら釣り合いは取れていないというのが正直なところです。それでもこの二人は各地で共演をしているようなので、何か波長の合うものがあるのでしょう。
それはそれで大事なことですが、ここまで傑出したヴァイオリンともなると、共演ピアニストももっと力量のある人であってほしいと願ってしまいます。
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感情の軽視

最近知り合いの方からいただいた方のメールの中に、次のような一節がありました。
「ピアノでいい音色だそうと頑張るのは、気に入った女性の満足そうな笑顔をみたくてあれこれ頑張るのと似てるような…」

マロニエ君としてはちょっと思いつかない比喩でしたけれども、これはまさに言い得て妙な言葉だと思いました。この方はいくぶんご年輩の方ではありますが、それだけに若い人よりいっそう豊かな情感をもって音楽を楽しみ、ピアノに接していらっしゃるようで、さりげない言葉の中にさすがと思わせられる真髄が込められているものだと唸りました。

何事も知性と情感がセットになって機能しなくては、なにも生まれないし、だいいちおもしろくもなんともありません。とくに現代は、音楽でも、それ以外の趣味でも、それに携わる人達の心に色気がなくなったと思います。
色気なんて云うと、けしからぬことのほうに想像されては困りますが、それではなく、美しい音楽を求める気持も情感であり、それをもう一歩探っていくと色っぽさというものに行き当たるような気がします。美しい音楽、美しい演奏を細かく分解していけば、音楽を構成する個々の音やその対比に行き着き、それを音楽の調べとして美しく楽器から引き出すことが必要となるでしょう。
その美しい音を引き出す動機は、情操であり、とりわけ色気だと云えると思います。

現代の日本人に感じる危機感のひとつに、感情というものをいたずらに軽視し、悪者扱いし、これを表に出さないことが「オトナ」であり、感情につき動かされた反応や言動はやみくもに下等扱いされてしまう傾向があるのは一体どういうわけだろうと思います。
感情イコール無知性で不道徳であるかのようなイメージは現代の偽善社会を跋扈しています。

感情の否定。こういう生身の人間そのものを否定するような価値観があまりに大きな顔をしているので、人は環境に順応する性質があるためか、ついには今どきの世代人は感情量そのものが明らかに減退してきているように思われます。不要な尻尾が退化するように、感情があまりに抑圧され、否定され、邪魔者扱いされるようになると、自然の摂理で、そもそも余計なものは不必要という機能が働くのか、余計なものならわざわざエネルギーを使って抑制するより、はじめからないほうがそのぶんストレスもなくなり、よほど合理的というところでしょう。

こうしてロボットのような人間が続々と増殖してくると思うとゾッとしてしまいます。
というか、もうあるていどそんな感じですが。
人間が動物と最も違う点は、知性と感情がある点であって、その半分を否定するのは、まさに人間の価値の半分を否定するようなものだとマロニエ君は思います。
感情が退化すれば文化も芸術も廃れ去っていくだけで、人々の心の中でも着々と砂漠化が進行しているようです。

電子ピアノは氾濫、アコースティックピアノもなんだかわざとらしい美音を安易に出すだけの今日、本物の美しい音や音楽の息吹を気持の深い部分から願いつつ、ピアノからどうにかしてそれを引き出そうという意欲そのものが失われて、「女性の満足そうな笑顔をみたくてあれこれ頑張る」というような行為は日常とは遠くかけ離れたものになってしまっているのかもしれません。
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エルガーのバッハ

NHKのクラシック音楽館でのN響定期公演から、下野竜也指揮でバッハ=エルガー編曲の幻想曲とフーガBWV537とシューマンのピアノ協奏曲、ホルストの惑星が演奏されました。
ピアノはアルゼンチンン出身で1990年にジュネーブコンクールで第1位のネルソン・ゲルナー。

ゲルナーのピアノは、繊細で彼の音楽的誠実さを感じるものではあるものの、いささか弱々しくもあり、見るからに迫力やパワーのない「この人だいじょうぶ?」といいたくなるような線の細いピアニストでした。
コンチェルトだからといってむやみに鳴らしまくるのがいいなんて暴論を吐くつもりはありませんが、やはりそこにはソリストとしてのある一定のスタミナ感はもっていただかないとちょっと困るなあ…という気がしたのも正直なところです。
必要とあらば力強い演奏も自在な人が、敢えて繊細さを選び取って行う演奏と、それしかできないからそれでやってるというのは本質的に違ってくるでしょう。

とくに第1楽章では、コンチェルトというよりまるでサロン演奏のようで、彼方に広がるNHKホールの巨大空間をこの人は一体どういう風に感じているのだろうと思いました。
もちろん、豪快華麗に弾くだけがピアニストではないのは当然ですし、そういうものよりもっと内的な表現の出来るピアニストの方が本来尊敬に値するとマロニエ君も日頃から思っていることも念のため言い添えておきたいところです。

しかしゲルナーのピアノは、そういう内的表現というよりは、まるで自宅の練習室で音を落として弾いているつもりでは?と思えるほど小さなアンサンブル的な音で、どうみてもNHKホールという3000人級の会場にはそぐわず、演奏の良し悪し以前に違和感を覚えてしまいました。

いやしくもプロの音楽家たるもの、自分の演奏する曲目や、共演者、さらには会場の大きさなどを本能的に察知して、ある程度それに即した演奏ができるのもプロとしての責務であり、その面の判断や柔軟性はステージ人には常に求められる点だと思います。

それでも印象的だったことは、この人には音楽には一定の清らかな美しさがあるということで、表現そのものは品がよく、こまやかな美しさがあったことは彼の持ち前なのだろうと思います。ただし、このままではなかなかプロのピアニストとして安定してやって行くには、あまりにもスター性もパンチもなさすぎで、コンサートピアニストとして一定の支持を得ることは容易ではないだろうとも思いました。

さて、このシューマンの前に演奏されたのがバッハ(エルガー編曲)の幻想曲とフーガBWV537で、これは本来はオルガンのために書かれた作品ですが、この編曲版を聴くのは初めてだったので、どんなものかとりあえず初物を楽しむことができました。
が、しかし、結論から云うと、まったくマロニエ君の好みではなく、バッハ作品をまるでブルックナーでも演奏するような大編成オーケストラで聴かされること自体、まずいきなり違和感がありました。
また編曲のありかたにもよるのでしょうが、マロニエ君の耳にはほとんどこの作品がバッハとして聞こえてくることはなく、後期ロマン派や、どうかすると脂したたるロシア音楽のようにも聞こえてしまいました。

「バッハはどのような楽器で演奏してもバッハである」というのは昔から云われた言葉で、ある時期にはプレイバッハが流行ったり、電子楽器によるバッハが出てきたりもしたし、だからこそ現代のモダンピアノで演奏する鍵盤楽器の作品もマロニエ君としてはいささかの違和感無しに聴いていられたものでしたが、さすがに、このエルガー版はその限りではありませんでした。

かのストコフスキーの時代にはこういう編曲も盛んで、聴衆のほうもそれを好んでいたのかもしれませんが、ピリオド楽器全盛の今日にあって、切れ味の良い鮮やかな演奏に耳が慣れてきているのか、こういう想定外の豪華客船のようなバッハというものが逆にひどく古臭い、時代錯誤的なものでしかないように聞こえてしまいました。
もちろん否定しているのではなく、これはこれで価値あるものと捉えるべきだと思うのですが、少なくとも自分の好みからはかけ離れたものだったという話です。
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