BSでシャオメイ

6月の終わりにシュ・シャオメイのゴルトベルクの新録音を買って聴いて、7月に入ってまもなくこのブログに感想を書いたばかりでしたが、それからわずか1週間後のこと、BSのプレミアムシアターでなんとシュ・シャオメイのドキュメントと演奏会の様子が続けて放送され、そのタイミングにぎょっとしてしまいました。

シャオメイは文革が終わったのち、1980年に渡米しさらにパリへ移住、いらい現在も同地で暮らしているとのこと。

そういえば、シャオメイの最初のゴルトベルクやパルティータなど手元にあるCDはフランスのMIRAREレーベルからリリースされているので、彼女のこんにちの名声はフランスによって発掘され育てられたものなのだと思われます。

その彼女が、周りの人々のすすめによって36年ぶりに中国に戻り、上海、北京はじめ幾つかの都市コンサートをする旅にカメラが同行したものでした。

上海生まれの彼女は、現在のこの街を見て「まったく別の場所、自分が生まれた家がどこかもわからない」といっていますが、たしかに現在の上海の恐ろしいような都市化ぶり(うわべの)を一度でも見た人なら、むべなるかなと思います。

中国では、実の姉妹、昔の恩師や友人などに出逢い、そのたびに互いに感激を噛みしめていましたが、長年中国に住み続けた人と、そうでない人の違いが如実に出たのが文革に関することで、シャオメイが「あの頃は…」とか「みんな死んでいなくなった」というような言葉を口にすると、相手は一様に苦笑いをするだけで、その問題には口をつぐみ何一つ言及しませんでした。

中国ではいまだに文革や天安門事件のような出来事はタブーだそうで、それに関する発言も書物も資料も厳しく制限されているらしいので、そのあたりの微妙な肌感覚は30年以上外国で生きてきたシャオメイにはうかがい知れない暗黙の空気感なのでしょう。

演奏の様子は、ドキュメントでも随所に織り込まれましたが、この帰国ツアーの最大の見せ場である北京でのコンサートの様子が、ドキュメント終了後に放送され、ゴルトベルク変奏曲全曲を視聴できました。

CDでは数知れず聴いているシャオメイのゴルトベルクですが、一発勝負のライブでは、CDとはかなりその様子は違ったものだったのはいささか落胆を覚えたのも事実でした。

むろんシャオメイらしい深い味わいや慈しみ、ジメジメしないセンス良い演奏表現など、彼女の美点にも多々触れることができましたが、コンサートでの演奏はやはりゴルトベルクがあまりに演奏至難かつ大曲であるためか、想像以上に乱れがあったことは事実であったし、正直言って全体のクオリティは満足の行くものではありませんでした。
CDに批判的な人に言わせれば「ほーら、だからCDはウソなんだ」ということだと思いますが、それでもマロニエ君はそんなふうには思いません。CDは問題箇所を録り直しなどをして、悪く云えばつぎはぎであるとも否定できませんが、それでもその人の最良の演奏を記録して編集したものであることから、繰り返し聞くにはやはり相応しい価値を有するものだと思います。

ただ、この人にあとひとつ欠けているものは残念なるかなテクニックだと思いました。
マロニエ君はいまさらいうまでもなく決してテクニック重視派ではありませんが、でも、安心して聴かせてもらえるだけのテクニックはないと、技術的問題で絶えずハラハラさせられたり不満を覚えてしまうようでは、プロの演奏に接する意味がないと思っています。

ドキュメントで驚いたのは、大バッハが眠るライプツィヒの聖トーマス教会でも、ピアノと聴衆とカメラを入れて、ゴルトベルクを弾いている様子が何度か出てきたことです。お見受けするところ、シャオメイ女史は非常に謙虚で誠実で音楽のしもべのようなお方のようですが、よりにもよってそんな大それたところで演奏するというのは、別に非難しているわけではないけれども、その度胸は並々ならぬものだと思いました。

シャオメイとは直接関係ないことですが、上海でも北京でも美しいホールが完備し、そこには新しめのスタインウェイDが当然のように備えられていて、北京のコンサートホールではステージに2台並べてピアノ選びのようなこともやっているほど、この面に関しても中国は急速に先進国の基準に達しているようでした。
達しているといえば、調律も以前とは違って非常に真っ当なもので、極上とまでは思わなかったけれども、聴いていてなんのストレスもない上質なものだったことは非常に印象的でした。

予定プログラムより、アンコールのほうが出来がいいというのはままあることですが、このときもやや苦しさを感じないわけにはいかなかったゴルトベルクよりは、拍手に応えて弾いたバッハ=ブゾーニの小品は、呼吸も整ってとても密度の高い、心打つ佳演でした。
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ギャリック・オールソン

今年5月、浜離宮朝日ホールで行われたギャリック・オールソンのピアノリサイタルをクラシック倶楽部で視聴しました。
曲目はベートーヴェンのソナタop.110、ショパンのエチュード、ノクターン、バラード、アンコールにラフマニノフの前奏曲。

何と言ったらいいか、言葉を考えるけれど…なにも出てこない。
その理由を考えたら、言えることはただひとつ、要は「何も感じなかった」からだろうと思います。
ベートーヴェンは魅力はないもののある程度まともな演奏だったのに対して、彼が得意とするはずのショパンは奇妙な演奏でただもうぽかんとしてしまいました。

マロニエ君としてはまず第一にがっかりなのは、音の美しくないピアニストだということです。
そして大味。
ショボショボした冴えない音か、割れるフォルテかのどちらかで、聴いていてまず音そのものに不満がくすぶります。やはりピアノを聴く以上、演奏や楽曲のことも重要だけれど、根底のところでは美しいピアノの音を楽しみたいという欲求があることがいまさら自分でわかりました。

ポツポツと切れるフレーズ、横線やカーヴとしてうねらない音楽、大切なポイントとなる音は素通りするかと思うと、意味不明なところで変なアクセントをつけて強調してみたりと、この人の意図がまるで解せません。

とくにショパンは、危機感を煽られるほどスローなテンポであるし、この人なりの個性や味わいもまったく見いだせないもので、マロニエ君の耳にはショパンどころか、自己満足的な一人芝居でも見ているようでした。

唯一やや共感を覚えたのは、13番ハ短調のノクターンで、途中から転ずるアルペジョの連続からフィナーレにかけての劇的な部分を、それを強調せずむしろやわらかに弾いたことでしょうか。
この部分を大半のピアニストは静かで孤独感あふれる前半を序奏のように奏し、それに対して激烈な後半というふうに弾くことに決めているらしく、ほとんどノクターンという前提などかなぐり捨てて、まるでスケルツォのように激しくピアニスティックに弾くのが通例となっているのはなぜなのか。かねがねマロニエ君はこのやり方に違和感を覚えていたし、ショパンにしては直情的でさほど洗練されているとも思えないこの作品がなぜ人気曲であるかも理由がわかりませんでした。

その点、オールソンは延々と続く和音の連打をぐっと抑えこんで、悲壮感あふれる旋律を静かに強調していたことはせめてもの救いでした。

とはいうものの、全体としてはあまりにも表現のポイントが定まらない、少なくとも聴いている側にしてみれば、演奏を通じてどういうメッセージを受け取ればいいのか、まったく見えない演奏だったように思いました。

とくにショパンの演奏に必要な美音、デリカシー、密度、シックなセンスなどは、この古いキャデラックみたいなピアニストには求めるほうが無理なのかもしれません。
いまさら古い話を蒸し返してもしかたがないけれど、46年前、なぜこの人がショパンコンクールで優勝したのか今もって不思議でなりませんし、2位だった内田光子が優勝していれば、その後の両者の活躍からしてもどんなにか収まりがよかっただろうと思わずにはいられません。

番組冒頭で紹介されたオールソンのプロフィールでは、「古典から21世紀まで80曲に及ぶピアノ協奏曲を演奏。膨大なレパートリーを誇る演奏家として活躍を続ける」とありましたが、それは、すごいことかもしれないけれど聴く側にはあまり関係のないことで、8曲でもいいから、なにか特別な魅力ある演奏であってほしいもの。

さらに驚いたのは本人の言葉。
「ショパンへの思いは、10代のころ直感的に湧き上がってきました。」「私と相性がいいと恩師が言い、水を得た魚のような感覚…」「最初のレッスンであなたは生来のショパニストだ。なんと素晴らしい才能…」等。
どうやらこの人は、ショパンにかけては特別な自負をお持ちと思われますが、演奏からそれを納得することはついに出来ませんでした。

今年5月の来日では福岡公演もあったようで、知人から「ギャリック・オールソンが来ますね。行かないんですか?」と聞かれたこともありましたが、マロニエ君はよっぽどのことでもない限り地元のコンサートは行かないことに決めているので行きませんでしたが、もしもそのよっぽどのこと(付き合いやらなにやらの事情)で行くはめにならず、とりあえずよかったと胸をなでおろしました。

実際に時間を使って、チケット代を払って、着替えをして、ホールに出かけ、車を駐車場に停めて、座席に座ったあげくにこんな演奏をされた日には、以降2日間はその精神的余波があると思うので、やはりマロニエ君のようなタイプは行かないほうが安全なようです。
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ピレシュの影

NHKの早朝番組『クラシック倶楽部』は、再放送もかなりやるので、ああまたこれか…というのも少なくありません。

以前このブログにも書いたユッセン兄弟の東京公演をまたやっていたので、雑用を片付けながら流していると、前回見たとき以上に、師匠であるピレシュの影響がいっそう強く感じられていまさらですがびっくりしました。

音楽というのは不思議なもので、それに目を凝らし耳を澄ませて集中しなくちゃわからないことがある反面、却って距離をおいて、何かの傍らに聴いたり、車の中のような騒音の中で聴くことで、逆に何か本質みたいなものがスパッと見えてくることがあるもの。
今回はそのおかげでピレシュの色があまりにも強いことにいささか驚いたわけです。

偉大な現役ピアニストの弟子になるということは、そうそう誰にでもあることではないのか、そういう幸運があれば多くの学生はよろこんで師事するのかもしれませんが、この二人の演奏を見聞きしていると、影響を受けるというより、先生の弾き方をほとんどそのまま生徒に移し付けられたような気がしないでもありません。

腰の座らない小動物のような指の動き、ちょっとしたパッセージの奏し方まで、ピレシュそのものというような瞬間がしばしばあらわれ、言い方は悪いかもしれないけれど、この若者まるでピレシュの操り人形になっているようで危険を感じてしまいます。
人はそれぞれ異なる可能性を持っているはずなのに、兄弟揃って、こうした一つの方向だけに染め上げられるというのは、本人達が満足ならいいのかもしれませんが、見ている側はかなりの違和感がありました。
それが気になりだすと、もうそればかりに意識が向いて仕方ありませんでした。

指の動きはパタパタとしなやかさがなく、やけに手首を上下させ、せわしく小さく弾く感じ。
また、なめらかに歌い込む場面や、楽節のポイントとなる音のマーキングや表現の綾の部分などをあえて避けて、パサパサしたコンパクトな音楽にしてしまうのもピレシュの指導だろうと思います。
腹の中で拍をとるのではなく、手首から先でビートを刻み、しばしばイラついたような急激なクレッシェンドを多様するのは、聴いていて迫りというよりもただドキッとさせられるだけで、音楽にゆったり耳を預けられません。

以前、NHKのスーパーピアノレッスンだったか(番組名は忘れましたが)、ピレシュのレッスンの様子をやっていたことがありましたが、そこでのピレシュは、かなり頑なな教師という印象で、生徒の個性を尊重するというよりもやや独裁的で、自分の考えを強く主張し、生徒にすべて従わせるという印象でした。
彼女が言っていることは、尤もなこともむろんあるけれど、全体としては自分の考えでがんじがらめにする感じで、他者を指導するということは、もう少し個性尊重と多様性に対応する幅をとったほうがいいような気がします。

どうやらその印象は間違っていなかったようで、各人が持っている美点を上手く引っ張りだすというよりは、自分のコピーを作ってしまう先生だったようだと、この兄弟の演奏を聞きながら思いました。

それでも、むろんピレシュのほうが本家本元であるぶん風格はあるし主張も強いけれど、そのぶんユッセン兄弟のほうがいくらかノーマルに近いようであるのは多少なりとも救われる気分。

この兄弟、テクニックなどは現代の標準では弱いほうだと思うけれど、それでもなにかを持っていそうではあるし、今後はしだいに自分達らしさに目覚めて、確固たる道を見極め磨きがかかっていくことを期待したいところです。
彼らの活躍の幅が広まるほど、ピレシュの影は問題になるような気がします。
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CFXの魅力

先日のEテレ『クラシック音楽館』では、尾高忠明指揮による5月のN響定期のもようが放送され、小曽根真/チック・コリアのピアノでモーツァルトの2台のピアノのための協奏曲が注目でした。

このコンサートの会場はコンチェルトなどではいつも音が散ってしまうNHKホールだったものの、まったくそれが気にならないほど録音が好ましいもので、クリアかつ音量もあり、やはりこういう録音はやろうと思えばいくらでもできるんだということを証明しているようでした。
クラシックのコンサートというと、やたら小さく詰まったような音で録る場合が多いのは勘違いも甚だしく、ひとえに音楽的なセンスの問題だと思われます。

演奏自体は例によって、随所にジャズのテイストや即興を盛り込んだもので、今回はそれがわりに上手く行っているように感じられ、モーツァルトの原曲をぎりぎり損なうことなく、意外性に富んだ楽しめるアレンジになっているように思いました。
この点は、チック・コリアの采配なのかとも思いますが、そのあたりのことはよくわかりません。

ピアノは二人ともヤマハのアーティストだけに、当然のようにヤマハ。
CFXが2台、大屋根を外された状態で並べられると、いかにも日本製品らしい作りの美しさが際立っているし、大屋根はないほうが2台ピアノの場合、1台だけ外さず開けているいる状態より響きが均等になって好ましく思えます。
好ましいといえば、このときのCFXはとてもいい感じで、このピアノが出て5年以上経つと思いますが、マロニエ君は初めて心から美しいと感じることができました。

そう感じられたについては、録音、演奏、曲、調整などあまたの要素が相まってのこととは思いますが、ピアノそのものもムラなくレスポンスに優れ、明るくブリリアントで爽快感さえありました。
深みのある音ではないけれど、いかにも新しいピアノだけがもつ若々しい音でした。

またこの二人のピアニストは、タッチもわりに一定でダイナミックレンジが少なく、曲がモーツァルトということもあってか、花びらのような音の立ち上がりの良さもあって、CFXのもっとも良いところがでていたように思いました。
重量級の曲になると底付き感を見せたりすることがしばしばであったCFXですが、モーツァルトなどを明るく演奏するには最適なピアノなのかもしれません。

残念だったのは、ピアニストが両者ともタッチの切れがもたついていたこと。
とくにチック・コリアは、かなりのテクニックでならした人かと思っていたら、あれ?と思うような部分がないでもなく、さすがにお年なのかとも思いました。

小曽根さんを聴いていつも思うことは、今どきのピアニストとしてはテクニックは必要最小限でしかないけれど、それでもクラシックの演奏家が持ちあわせない、演奏というものが一過性の冒険で、純粋率直に楽しむことの意味を体験させてくれる点だと思います。
とくにそれをクラシックのステージで実践することは、失ってしまったものをぱっと取り出して見せられているような新鮮さがあって、なぜクラシックの演奏というのは、ああも必要以上に退屈なものにしてしまうのか、そのあたりは考えさせられてしまいます。

旧来のクラシックファンに向かってそういう問題提起をしているだけでも、小曽根さんの貢献は大きいというべきかもしれません。

ついでなので残念な点も書かせてもらうと、小曽根さんがつくづく日本人だと思うのは、彼のビジュアル。
お顔立ちがとっても和風ですが、いまどきヘアースタイルひとつでも、もうすこし彼が素敵に見えるものがありそうなものだと思うし、衣装があまりにダサいのは毎回感じるところです。

このときも昔のカーテンみたいな野暮ったいエンジ色のシャツで、しかも生地に少し光沢があるあたりは、まるで昭和のパジャマでも着ているみたいでした。
とりあえず、そこらのH&Mあたりで上下買ってきて着るだけでもよほど素敵になるような気が…。
とりわけジャズの世界ではスタイリッシュというのはとても大切な要素だろうと思われるので、この点はなんとか、もう少しオシャレというか彼の持ち味が引き立つようなビジュアルにされると、演奏の魅力もおおいにアップする気がします。

つい余計なことも書きましたが、全体を通じてなんとなく印象の良い演奏で、つい2度続けて見てしまいました。
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こわいのはどっち

先週のある夜、福岡市西部にある国道を市内方向に向かって走っていたときのこと。

片側2車線の右車線をマロニエ君は流れに乗って走っていたところ、突如、背後から尋常ではないスピードで迫ってくる車があり、思わず何事かと身構えました。
ほどなくその車(トヨタのコンパクトカー)はマロニエ君の左側から猛然たるスピードで抜き去っていき、その後も右に左に車線変更しながら交通の流れを縫うようにして走って行きましたが、ところがそれに続いてシルバーのクラウンが、さらにその後ろから黒い軽自動車が、同様のスピードでこれに続きました。

驚いたのはもちろんですが、そのゆくえに注目していると、3台は互いにもみあうようにしながら激しく左右に車線を変え、ときに右折車線にまではみ出しながらアッという間に視界から消えていきました。

路上では、一台飛ばす車があると、だんだん周りの車がこれに引き込まれるようにスピードアップし、なんとはなしにバトルのようになることがあるので、はじめはその類かと思いました。しかし3台のスピードはあまりに過激で、なにかトラブルでも起こったあげくの暴走ではと思いつつ、とりあえず先で事故らなければいいが…と思ったぐらいでした。

それからしばらくして、国道と外環状線という幹線道路が交差する大きな交差点(そこでは片側4車線)に信号停車しようとすると、前方にただならぬ気配があり、近づくと、信号停車中の車から何人もの若い男性が降りてきて激しく言い争いをしています。

咄嗟に、さっき追い越していった3台の連中であることがわかり、おお!やっぱりこういうことになったんだ!と思わずヤッタ!みたいな感じで(笑)、信号停車中はかなりジロジロ見物してしまいました。
どうやら、はじめに抜いていった先頭の車のドライバーが中年の男性だったようなのですが、彼を取り囲んで続く2台に乗っていた若い男性たちが興奮した様子で中年男性に詰め寄っており、その中のひとりは相手の襟首まで掴んで激しく揺さぶるなど、まあ早い話が路上でケンカです。
これを見た助手席の友人は「うわぁ、かわいそう…」と口にしましたが、たしかに中年ドライバーが運転上のことで若者とトラブルとなり、多勢に無勢で言いがかりをつけられてるように見えたのが、この瞬間の目撃者としては率直なところでした。

その後、信号が青になり、しぶしぶ現場に別れをつげて走っていると、しばらくして、なんとくだんの中年ドライバーが横をスーッと抜いていきました。
どうやら話がついて若者達から開放されたのか、こちらも内心「…散々でしたね」という気分でいたのですが、そのすぐ後から若者らの2台の車が、嫌がらせのように中年ドライバーの車を次々に追い抜いて走り去って行きました。

まあ、普通ならこれで終わりというところでしょう。
ところが、若者らの2台がいなくなったあとも、この中年ドライバーの車はしきりに右に左に車線変更したり、無理に隣の車線に割り込んだりの異様な動きを続ける始末で、「え、どういうこと?」と呆気にとられました。

ただ単に早く行きたいのであれば、スピード違反の問題は別にして、さっさと行けばいいのに、この人、やたら周りの車を煽るような、見ていてどうしたいのか、まったく理解できないような意味不明な動きを繰り返しており、だんだん、この中年ドライバーのほうが普通じゃないのだということに気づき始めます。

もちろん事の起こりの場面を見たわけではないけれど、この調子では、あの若者たちの車にもこういう動きでけしかけるようなことになったのだろうと思われました。
それで腹を立てて、火がついて、追尾してなんらかの報復をしようと思ったのでしょう。

危険運転は理由如何に問わずいけませんが、少なくとも動機はそうだったのだろうと思いました。

中年ドライバーも大したもので、普通なら路上であれだけ激しい状況となり、交差点で車から降ろされて大勢に取り囲まれ、襟首まで掴まれ面罵されたというのに、その直後、性懲りもなくまだこんな運転をしているのですから、マロニエ君としてはよっぽどこの男性の神経のほうに呆れ返りました。
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シャオメイの再録音

これまで何枚買ったかわからないバッハのゴルトベルク変奏曲のCD。
おそらく20枚以上はあるだろうと思うけれど、数えてみたことはありません。

ゴルトベルク変奏曲のCDは、聴くに耐えないような駄作率は意外に低く、どれもそれなりの仕上がりになっていることは大きな特徴のように思います。なんといっても作品そのものが圧倒的であることと、バッハは他の作曲者より演奏者の自由度が広いということもあって、弾ける人が弾きさえすれば、そうおかしなことにはなりにくいのかもしれません。

そんな中で、自分の好みという点では上位グループの中に、シュ・シャオメイがあります。
シャオメイは中国の文革を生き抜き、その後欧米に飛び出したピアニスト。文革という苛烈な経験の裏返しなのか、その人間味あふれる演奏は他のピアニストとは一線を画すものだと思います。
彼女は1990年頃にゴルトベルク変奏曲をレコーディングしてすでに高い評価を得ており、これはマロニエ君にとっても定盤なのですが、そのシャオメイがつい先ごろ、同曲を再録したものが発売となり迷うことなく購入しました。

さっそく数日にわたり繰り返し聴いてみましたが、なるほどディテールの表現が前作より角がとれ、深まりを見せているように感じられるところが多々あるなど、より自由かつ細密さを増しているのがわかります。
また、なによりもこの記念碑的な作品をリスペクトし、隅々までこまかく気を配っている真摯さが伝わり、四半世紀を経て、現在の彼女の心の内奥を覗き見るようでした。また、ところどころ、解釈の基軸にグールドの存在が見えるようです。

では、旧作に比べてどちらがいいかというと、さらに高まった純度や一段と練られたディテールなどを聴き取ることができるなど、大変に迷うところではあるものの、全体的な印象で言うなら旧作のほうにやや軍配をあげるかもしれません。
やはりなんといっても旧作には全体に新鮮さと活気、音色には温かさと色彩があって、ピアニスト自身にもパワーが充溢していたと思われるし、それでいて人の心に語りかけるような慈しみが充分あって、この点は今でも色褪せることはありません。

新録音ではさらにデリカリーとセンスが上積みされ、新旧2つはかなり拮抗しているというのが正直なところ。
一般論としても、満を持して録音された最初の録音というものには、演奏者自身が気づかぬくらいいろいろな要素が揃っている事が多く、結果、高い評価に至るというのはよくある事です。とりわけ意気込み、燃焼感、構成力などはあるていど若いときの演奏のほうがより充実しているものが少なくない。
それでも、本人にしてみれば反省点や新境地など不満点もあって、再録で問い直したくなるのはわかりますが、同時に前作にあった完成度のようなものが損なわれてしまうということがままあることも事実。

パッと思い出すだけでも、ゴルトベルクを再録したピアニストはグレン・グールド、アンドラーシュ・シフ、コンスタンティン・リフシッツ、セルゲイ・シェプキンなどがあり、グールドはあまりにも新旧違いすぎて単純比較はできないし、個人的にはっきり再録のほうが優ると言い切れるのは、表現の幅を広げて一気に円熟の艶を増したシフひとりで、リフシッツの再録は聴いていないし、あとはシェプキンかなぁというぐらいで、なかなか旧作を明確に上回ることは至難のように思います。

また、旧作はそれひとつで成り立つだけの独立性があるのに対し、再録というのは、あくまで旧作あっての再録という側面が少なくないようにも思います。

シャオメイの再録に話を戻すと、聴く者を惹きつけ、作品もしくは演奏世界に誘う力は旧作のほうがやや強かったように思うし、色彩感もこっちだったような気がします。新しい方はより独白的で、色彩もモノトーンというか、あえてモノクロ写真にしたような印象を受けました。尤もこれらはちょっとしたマイクの加減、調律の違いなどでも変わってしまうことがあるので、シャオメイが意図したものかどうかは計りかねますが。
いずれにしろ、シャオメイというピアニストは中国人ピアニスト(それも文革の世代の!)とは信じられないほど、中華臭のしない、音楽的には中道で誠実な演奏をする人という点で、稀有な存在だと思います。

毒のある魔性の芸術家も好きだけれど、こういう良心的な人柄そのもののような演奏もいいものです。

ライナーノートを見ると、ピアノについての記述があり、「For this recording a Steinway D274 was used.」と、中古というか、新しいピアノでないことがわざわざ記されていました。
録音はドイツ、レーベルはAccentus Musicですが、ピアノチューナーのところにはKazuto Osatoという日本人らしき名前がありました。
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百年企業

こないだの日曜だったか、民放BSで『市川染五郎が見た あっぱれ百年企業 ~これぞニッポンの仕事~』という2時間番組があり、そこで取り上げられた3社のトップバッターがヤマハ株式会社でした。

今は浜松ではなく、掛川にあるピアノ工場を染五郎さんが訪ねます。
広大な敷地の中にあるショールームのような建物に入ると、きれいに磨かれた自動ドアが開くなり、現社長の中田卓也氏が深々とお辞儀をしながらのお出迎え。
その中田氏のかたわらにはグランドピアノ型の電子ピアノが置かれていて、開口一番「これが私も開発に参加したピアノです!」といって、得意満面のご様子。

とはいっても、ここはヤマハ株式会社の本拠地なのだから、そこでいきなり電子ピアノというのは違和感を覚えました。
もしかするとこれが今のヤマハの最も代表する看板商品なのかもしれないけれど、やはり世界のヤマハを標榜する以上は、まずは電子ではなくアコースティックピアノであってほしかったと思います。

番組としては、電子楽器としてここまで発展したピアノが、元を辿れば明治時代のこの1台のオルガンから始まりましたという、社史を振り返る流れだったようですが、だとしても納得できない感覚は払拭できませんでした。

どうぞどうぞ!と促されて染五郎さんがポンポンと音を出しますが、テレビのスピーカーを通しても、いかにも電子ピアノらしい音が聞こえるものです。とくに電子ピアノは、最初に出た瞬間の音より、そのあとの余韻のところに人工合成された不自然を感じます。

そのあとで、社長自らも「展覧会の絵」のプロムナードの一節をちょちょっと弾かれました。
出迎えでのいかにも腰の低そうなお辞儀や物腰、若くてカジュアルで、あくまでフレンドリーに話しをされる様子、そして製品の開発にも参加するほどの技術者でもあること、おまけに少しは演奏もできるのですよということまで、冒頭のわずか1分ちょっとの間にこの方のプロフィールの要点を圧縮して披露されたという感じ。

社長さんのアピールはいいけれど、この一場面を見ただけでも、世の中は電子ピアノが圧倒的主流で、ヤマハ自身が生ピアノをさほど重要視していないかのような感じを受けたことは、どうも出鼻をくじかれた気分でした。

そのあとは創始者である山葉寅楠が浜松の小学校のオルガン修理を頼まれたのが始まりで…というストーリーが再現ドラマによってしばらく続きます。
途中で、調律の簡単な説明がありましたが、染五郎さんがいかにもおっかなびっくりの手つきで自らチューニングハンマーを回し、うねりというか音の変化を感じてみせるあたりは、いかにも無理があるなぁ…という印象。

こう言っては申し訳ないけれど、あの一種独特な雰囲気をもつ歌舞伎役者と西洋音楽のグランドピアノというのは、どう見ても相容れないというか接合点が見当たらず、全然溶け合わない様子は想像以上で、妙なところでびっくりしました。
人でもモノでも、ふさわしい場所や相手を得たときにはじめて本来の輝きを得るものですね。

後半は、バックにCFXが置かれた場所で、染五郎さんと社長の対談ということになりましたが、とくに深い話はなく、楽器作りと歌舞伎の世界を比較しながらという、なんだか取ってつけたようなわざとらしい対話がつづきました。
現社長は、いわゆる旧来の社長然とした物腰態度をいっさいとらず、たえず笑顔、他者と同じ目線をもつ仲間のような人物であることをそうとう意識されているようにお見受けしました。

ただし、やや行き過ぎの面もあり、染五郎さんのちょっとした言葉にも、過大に頷いたり感心したりと反応してみせるあたりは、まるで役者に話を聞きに行ったアナウンサーのようでした。とくに関係もないのに、いちいち「歌舞伎の世界では…」とそちらに置き換えて話を振るのも、きまってこの社長さんのほうでした。
まるで威張らない腰の低い自分を「自慢しているように」見えるのはマロニエ君の目がおかしいのか…。

社長さんのほうはたっぷりとご尊顔を拝しましたが、ヤマハにカメラが入ったからには、楽器の製造現場をもう少しみせてほしかったのですが、それはほとんどなかったのは残念としかいいようがありません。
現在のヤマハはなんと100種類以上の楽器を作る世界的にも非常に珍しい「総合楽器製造会社」なのだそうで、弦楽器・管楽器の制作現場なども見たかったですね。

せっかくBSで番組を作るなら、もっとコアな部分に踏み込んだものにしてほしいものです。
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オーラ

ずいぶん前の録画ですが、N響定期公演でブラームスのヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲が演奏されたのがあって、それをついに見てみることに。

なかなか見なかったのは、マロニエ君にとってこの曲は、大好きなブラームスの中ではさほど魅力的には思えないところがあって、つい後回しになっていたからでした。それでもソリスト次第ではそちらへの好奇心から引き寄せられることはありますが、今回はそういう感じでもなく、ずいぶん長いこと放置してしまいました。

指揮は、このところN響をよく振っているトゥガン・ソヒエフ、そして肝心のソリストは、ヴァイオリンがフォルクハルト・シュトイデ、チェロがペーテル・ソモダリで、共にウィーンフィル/ウィーン国立歌劇場管弦楽団のメンバーで、シュトイデ氏はコンサートマスターでもあり、この両者は通常公演の他にも、室内楽などの共演も積んでいる由。

冒頭インタビューでソヒエフ氏は、この曲はとくに高いアンサンブルが求められるもので、当日顔会わせしてリハーサル、本番、終わったらさようならというだけでは曲の真価が発揮できないというようなことを言っていました。
そして、この日のヴァイオリニストとチェリストがいかに理想的な二人であるかを述べたのでした。

しかし、実演を聴いてみると、マロニエ君はまったくそういうふうには感じなかったというか、むしろ逆の印象を受けてしまい、もともとさほどでもないこの曲が、これまでとは違う、あたりしい魅力をまとってマロニエ君の耳に響いてくるという期待は裏切られ、むしろさらなるイメージダウンになってしまいました。

いつも書いているように、演奏の良否(といえばおこがましいので、強いているなら自分にとっての相性)は始めの数秒、大事をとっても5分以内に事は決してしまいます。
この間に受けた印象は、最後まで、まずほとんど覆らない。

この二重協奏曲は、オーケストラの短い序奏の後でいきなりチェロのカデンツァとなり、そのあとヴァイオリンが和してくるのですが、なるほど二人の息はぴったり合っているし、アーティキュレーションも見事というほど一体感がありその点は、いかにもよく弾き込まれ、万全の準備をしてステージに立っていることが伝わります。
とくにウィーンフィルらしく、ちょっと嫌味なぐらい自信満々に演奏されていました。

しかし、どんなに素晴らしくとも、二人の演奏はソロではなく、あくまでも優秀なアンサンブル奏者のそれだとマロニエ君には聴こえて仕方がありません。

曲は隅々まで知り尽くされ、その上でいかにも闊達な演奏を繰り広げているけれど、それがどれほどヒートアップしても、それは協奏曲におけるソロの音…ではない。
よくヴァイオリンの鑑定などで「大変素晴らしい楽器です。しかし大きな会場での演奏よりは、むしろ室内楽などに向いているようですね。」といわれるあの感じで、とても熱っぽく弾かれているが、いかんせん楽器の箱があまり鳴っておらず、オーケストラが入ってくると、すぐに埋もれてしまいます。
これは別に音量の問題ではなく、ソロとしての輝きがないからでしょう。

また、年中オーケストラでオペラなどを演奏しているからなのでしょうが、演奏は正確で折り目正しく、決してアンサンブルから外れることはないのですが、それがこの曲では良い面に出ず、いかにも中途半端なものに終始しました。
ひとことでいうなら「あまりに合い過ぎて」つまらないわけです。
しかも時折ソロを意識してか、ハメを外すような弾き方をする場面もあるのですが、それも一向に効果が上がらず、却って虚しいようでもありました。

あれだったら、二人ともオーケストラの中に入って、適宜ソロパートを弾くほうが、このときの演奏には音と形がよほどあっているように思いました。

この二人に限りませんが、マロニエ君はオーケストラの団員出身者が、その後ソリストとして大成した人というのは、ゼロではないにしてもほとんど知りません。
ソリストというのは音楽上のいわば主役を張れる役者であり、長年オーケストラで過ごした人の大半は、もともとそういうオーラが無いのか、あるいは長い団員生活の中で退化してしてしまっているのかもしれません。日本人でも同様の経歴をたどって、ソロ活動へシフトした人が何人かいらっしゃいますが、どうしても真のソロにはないようです。

名脇役はどんなに名演であっても主役とは違うし、極端なはなし技術は少々劣っても、主役にふわさしい要素を備えている人というのがあるのであって、このあたりはキャスティングを誤ると、音楽でも決して最良の結果にはならないようですね。
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ふたを閉めて

このHPやっているお陰もあって、ピアノがお好きな方からメールをいただき、それがご縁となって、以降電話やメールのやり取りをするようになった方というのが、ごく僅かですがおられます。
そのうちの、福岡にお住まいの某氏と久しぶりにお会いすることになりました。

この方とお会いするのは二度目ですが、今回はマロニエ君の自宅に来ていただいて、中華の出前をとって食事などしながら、夕方から深夜まで音楽談義で過ごしました。

とても楽しいひとときで、ピアニストの話が多くを占めましたが、とりわけ印象的だったのは、すぐ脇にあるピアノを弾くということは、互いにほとんどなかったことです。

ひとくちに「ピアノ好き」といっても、ほとんどの人は「ピアノを弾くこと」が好きで、ピアノ好き→優れたピアニストの演奏に関心がある→つまり音楽好き…という図式はまったく通用しません。
ピアノは弾いても、それが終わるとピアノとはまったく関係ない雑談ばかりが延々と続き、音楽の話などしないのがこの世界では普通なのです。
マロニエ君もはじめはこの実態に驚愕しましたが、音楽やピアノの話に興じるほうがよほど特種で異端らしいのです。

通常の趣味の世界では、その道の最高峰がいかなるものか、あるいはもろもろの情報には嫌でも関心があるし敏感になるもので、テニスをやっている人がウインブルドンにぜんぜん無関心とか、世界ランキング上位の選手の名前も知らないなどというのはほぼあり得ないだろうと思うのですが、ピアノに関しては…それが「普通」なのです。

では、ピアノ趣味の人は普段なにをやっているのかというと、ただ教室などで習っている目の前の曲をマスターするまで練習し、それを発表会という晴れの舞台で弾くという、えらくシンプルな一本道にエネルギーを注ぐということの繰り返し。
真の芸術的演奏とはいかなるものか、あるいは膨大にある優れた楽曲を少しでも知りたい…というような方面にはあまり欲求がないというか、ほぼ無関心に近いのはまったく信じられないのですが、それが現実。

そしてパフォーマンスとしてかっこいい系の有名曲を弾くことが練習するにあたっての最大のモチベーションで、おそらくはラ・カンパネラとか英雄ポロネーズを発表会で弾くことが最高目標なんでしょうね。
音楽というより、単なる自己実現のカタチがたまたまピアノなんだろうと思われます。
もし仮にあこがれの英雄(第6番)に挑んだにしても、前後のポロネーズ、すなわちあの魅力的な第5番、あるいは晩年の最高傑作のひとつである第7番がどんな曲かなんてことは、まったく関心もない。

マロニエ君はべつに頭から発表会を否定しようというような考えではありません。
正直に云うと、個人的にはあの系統は好きではないし共感もできかねますが、そこにもきっとなんらかの意味はあるのだろうと思うし、それを好きだというのも自由なわけで、カラオケで熱唱するのが好きで、それに入れ込む自由があるのと同じです。
ただ、自由ではあるけれど、日々ピアノにふれ、何らかの作品を奏しながら、それでも音楽そのものにほとんど見向きもせず、ピアノが趣味という口実の道具に使われているように見受けられることについては、そこに発生する違和感まで消し去ることはできません。

あっと…もともとそんなことをくどくど書くつもりではなかったわけで、話は戻り、冒頭のその方とはいろいろとしゃべったり、お持ちのiPadからさまざまなピアニストの演奏や動画を見せていただくなどしているうちに、瞬く間に時は過ぎました。

普通は共通の趣味人同士が集うと、顔を合わせるなりたちまちその世界に入って、何時間でも疲れ知らずでしゃべっていられるものですが、ピアノの場合はこんな当たり前なことが、こんなにも稀有な事だというのをあらためて痛感しました。

今はなき往年の巨匠の演奏から、名も知らぬ才能ある子どもの演奏まで、ネット上には貴重な音源と映像が多数存在しており、この日は珍しい映像をいくつも見て聴いて堪能することができました。とくに人にはそれぞれ好みがあって、この人のこれが好きとか、これがたまらないというようなこともたくさんあって、大いに共感できること、そうでないことなど人の好みを聞いているのも面白いものでした。

話は尽きず、お開きになったのはもう少しで日をまたぐ時刻になりました。
ピアノは弾いてこそピアノという一面があるのもわからないではないけれど、かといってシロウトがやみくもに弾くばかりでは耳がくたびれるばかりです。
趣味として奥深いところで遊んでみるには、むしろピアノのふたは閉めておいたほうが面白いというのもひとつあるように思います。
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ブゾーニざんまい

久しぶりに感銘を受けるコンサート(TVですが)に出逢いました。
NHKのクラシック倶楽部で、まったく未知であったサラ・デイヴィス・ビュクナーというアメリカ人ピアニストによる、ブゾーニ生誕150週年記念コンサートの模様が放映され、これに大いに感激しました。

会場は京都府立府民ホール・アルティ。
ステージは低く、左右両側からゆるやかな階段状になった底の部分にピアノ(CFX)が置かれる。

ビュクナーはピアニストであると同時にブゾーニの研究家でもあるらしく、彼の義理の娘とも親交があって多くの事を学び、ビュクナーのニューヨークデビューには彼女も立ち会ったとのこと。

まず正直に云うと、マロニエ君はむかしからブゾーニの音楽があまりわかりませんでした。今でもわかりません。
バッハの編曲なども多数あるし、単独の作品もCDなど少しはあるけれど、聴いていて自分なりに何かが見えるとか掴める気がしないというか、いったいどこにフォーカスして聴くべきなのかがよくわからない。それでいてやたらデモーニッシュな印象のある作曲家でしたが、今回はビュクナー女史のおかげで、ほんの少しだけわかったような気がします。

演奏されたのは、ブゾーニの7曲からなるエレジー集、さらにブゾーニの影響受けたというカゼッラの6つの練習曲。アンコールにはビュクナーが書いたという「フェルッチョ・ブゾーニの思い出に」。

マロニエ君にとって昔も今もブゾーニは難解であることに違いなく、とくに謎だらけで解決に向かわない不協和声の連続などは、こちらの気持ちのもって行きようも覚束かないもので、このエレジー集も初めて聴くわけではない筈なのに、初めて聴くのと同様でした。
それでも、なんとはなしに、ブゾーニが新しい音楽を書こうという強い情熱をもっていた人だったということは、このビュクナーの凛とした演奏によって伝わってくるような気がしました。

とくに強く感じたのは、混沌とした時代に生き、人並み外れて情念の人だったのだろうということ。

しかしそのブゾーニの作品以上に感銘を受けたのは、ビュクナーの抜きん出た演奏でした。
かなりの難曲と思われる、この延々と続くエレジー集を、迷いのない、確信に満ちた演奏で弾き切ったことです。
マロニエ君にとっては曲が難解であるというだけで、演奏そのものは至って雄弁、しかも全曲暗譜という見事なものでした。
指はよほど分離が素晴らしいのか、10本すべてバラバラという感じであるし、柔軟かつきっぱりした表現でブゾーニの作品世界に案内してくれました。
また身体や指も完璧ともいいたい脱力状態で、技術的にも一切の破綻がなく、その自在な演奏は見ているだけでも惚れ惚れするようなものでした。

楽器に対する直感力もよほど鋭い人なのか、CFXのいい面ばかりを引き出し、このピアノ特有の響きの底付き感が出る一歩手前で鳴らしきるあたりは神業で、このピアノの良い面ばかりがでていると思いました。
はじめ、舞台に置かれたCFXが映ったときは、内心ちょっとがっかりしたのですが、始まってほどなくすると、そんな思いは消し飛んでしまい、しかも苦手な作品にもかかわらず、ひたすらこの素晴らしいピアニストの雄弁な演奏に引き込まれてしまい、あっという間の55分でした。

カゼッラの練習曲もいかにも演奏至難という感じでしたが、ここでも見事な演奏。まさに適材適所に高度なテクニックを駆使できる点は、この人の終始一貫した特徴のようです。

あとから調べてみると、この日のプラグラムには、ほかにブゾーニによるバッハのゴルトベルクの自由編曲、リストのパガニーニ練習曲の自由版などがあって、これはもうぜひ聴いてみたいところ。あとは頼みの綱のクラシック倶楽部アラカルトに希望を託すしかありません。

とにかくこれはずごいピアニストだと思って、さっそくCDを調べてみたところ、ブゾーニのゴルトベルクらしきものが一点あったけれど、すでに発売終了の商品で、それ以外にはなにも見つからずガッカリでした。
ビジネスや名声でなく、こういう地道な演奏と研究を続ける人もいるのだということを思うと、そういう人がなかなか表に出てこない世の中が恨めしく思われるばかりでした。

有名ではないけど真に良いピアニスト、良い演奏に触れる機会というのは、奇跡的に少ないのだというのが現実なんだろうと思うと、そういう機会を作ってくれたNHKはさすがと思うばかり。
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ひっかかる言葉

もうすでに類似のことを書いたかもしれませんが、最近よく使われる言葉や言い回しの中には、ちょっとしたことなんだけれど、聞いていてそのたびにクッと神経にひっかかるというか、聞き心地の良くない言葉というものがあります。

どなたにもひとつやふたつ、そういう言葉があるものと思いますが、それは人によっても違ってくるでしょう。

マロニエ君にとって、最近抵抗を感じるのはお礼を言うときに「ありがとね!」という、あれです。
幸い自分が言われたことはないけれど、外でちらほら耳にすることがあり、これがどうも嫌なんです。
その理由をなんだろうかと考えてみましたが、はっきりしたことはわかるようなわからないような。

強いて云うと、せっかくの謝意がちょっぴり品のない響きになってしまうという残念さがあると思います。
どうしてふつうに「ありがとう」「どうもありがとう」ではいけないのか…。

マロニエ君は個人的に、美しい日本語の中でも、「ありがとう」とか「さようなら」「お父さん(お母さん)」というのは、とくに平易な言葉の中でもとりわけきれいな言葉だと感じるのですが、それをわざわざ「ありがとね!」にしてしまうのは、聞いていて快適ではないし、せっかくのいい言葉(しかもよく使う)をわざわざこんな風に崩して使い、それがだんだんに勢力を増してきているのには閉口してしまいます。

もしかすると「ありがとう」や「どうもありがとう」では美しすぎるから、どこか気恥ずかしさがあるのかとも思いますが、こんなきれいな、まるで空中にふわりと浮かぶような言葉はなかなかないし、語尾が「…とう」でやわらかく終わるところに品位とほのかな美しさがあるように思います。
それをわざわざ「う」を取って代わりに「ね」で締めくくると、ベタッと地面に落ちてしまってニュアンスやデリカシーもなくなるし、「ね」の強さが相手側にキュッと指先で押し込むような暑苦しささえ感じます。
今どきの人は、よほど言葉に対する心得のある人でないかぎりは、「父」「母」のことも「父親」「母親」と敢えて第三者的な言い方をしますし、そうかと思うと、人の奥さんのことは誰かれ構わず「奥様」といったりで、とにかくてんでバラバラです。

奥様というのが悪いわけではないけれど、あるていど奥様という言葉にふさわしい相手であってほしいし、言う側も前後の言葉をそれなりのきちんと間違えずに流暢に操ることのできる人に限られるというのがマロニエ君の持論です。しかるに、そこだけ取ってつけたように「奥様」なんていわれたら、却ってぎょっとするし、言っている側も言われる側も蓮っ葉になるのが関の山です。

そもそも言葉というのは不足でも過剰でも美しくないもので、デパートの外商とか美容院ならともかく、普通は奥さんで充分だと思います。とくに男性は「奥さん」「お子さん」ぐらいに留めておいたほうが、むしろ好印象なのではないかと思います。

もはや笑ってもいられないのは、言葉に関しては訓練を受けているはずの司会者などが、そこらの芸能人の奥さんのことを馬鹿丁寧に「奥様」などといったかと思えば、同じ人が「天皇皇后両陛下がどこそこに行き、ひとりひとりに言葉をかけました。」などと平然と言うのですから、言葉文化はめちゃくちゃという気がします。

震災で傷ついた熊本城の痛ましい被害状況を見ると、みんな「うわぁひどい…なんとか再建しなくては!」と思うのに、言葉の文化で無残な崩壊状況があっても、大半の人がなんとも思わないので、修理も訂正もできない現状は非常にやりきれない気分になるばかり。
言葉の美しさは適材適所の使い分けでもあって、やたら丁寧語を乱発すればいいという今の風潮はなんとかならないものかと思います。
もう少し日本語の真の美しさに敏感になりたいものです。
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レーベル違えば

同時に購入した反田恭平氏のCD2枚のうち、先に聴いた『リスト』はまったく良い印象がなかったことはすでに書いた通りですが、もうひとつの『Live!』では、おやっ…と思うほど違っていて、通常こういうことはまずないので珍しいことです。

曲目はシューベルトのソナタD661、チャイコフスキー:ワルツ・スケルツォ第1番、ショパン:英雄、ミャスコフスキー:ソナタ第2番、スクリャービン:ソナタ第3番、チャイコフスキー:カプリッチョ、モシュコフスキ:エチュードop.72-6、リスト=シューマン:献呈というもの。
データを見ると『リスト』と『Live!』の2枚は、ほぼ同時期(2015年1月)に録音されていますが、細かく見ると不思議な相違点が散見できました。

ケースの雰囲気も似ているので全然気づかなかったけれど、まずレーベルがまったく違っていてびっくりでした。
それに『リスト』はDENONによるセッション録音であることに対して、『Live!』はNYS CLASSICSというレーベルの文字通りライブ録音である点も異なります。

2枚に共通しているのはピアニスト、それに使われたピアノがホロヴィッツが弾いたという1912年製のニューヨーク・スタインウェイCD75であること。

レーベルが違えば、当然プロデューサーも異なり、『Live!』のほうがCD75という歴史的なピアノの魅力をよほど適正に捉えているように思います。
ひとことで言うなら、こちらのほうがピアノの魅力を知る人(どうやらこのピアノのオーナー氏)が録音の指揮をとったという感じで、その違いは聴く側にとってかなり大きな影響があり、このあたりは工学の専門家と、楽器や音楽の専門家とでは目指すところがかなり違っているようにも思われ、マロニエ君は後者を支持するのはいうまでもありません。

『Live!』を聴くことで、この非凡な楽器の魅力もようやく伝わりました。
刃物のようにシャープで、優雅さと猥雑さが同居していて、どこか魔物の声のようでもあるけれど、その中に不思議な温かみのようなものもある、今どきのありふれたピアノとはまったくの別物というのがわかります。
それで気を良くして、もう一度『リスト』を聴いてみますが、こっちはやっぱりダメでした。
こちらは音がむやみに攻撃的でとても聴いていられません。よほどマイクが近いのか、耳はもちろん手や顔の皮膚までジンジンするようで、途中で本当に頭が痛くなってしまったほどです。たまらずにSTOPボタンを押すとその音の洪水から開放されてホッとするほど強烈です。

演奏も何度もプレイバックを聴いては録り直しをさせられたのか(どうかはしらないけれど)、演奏行為を通じて奏者と作品の間に起こる自然の発火作用がなく、仕組まれた無傷というか、慎重さとかミスのなさばかりが目立ってしまい、うまいんだけどシラケてしまいます。
熱演ではあるけれど、空気感としてちっともエキサイティングじゃないわけです。
やけに遅いテンポ、不必要かつ過剰な間の取り方、ハンマーが弦に打ち付けるときの直接的な衝撃音まで入っている感じで、まさにピアノの至近距離で聞かないほうがいい雑音まで聴かされているようで、反田氏自身が本当にそういうCD製作を望んだのかどうか、甚だ疑わしい演奏に聴こえました。

これに対して『Live!』では、音楽に流れがあり、そこにある緊張感あふれる空気を感じることができるし、ピアニストの一回の演奏にかける意気込みのようなものがあって、こちらのほうが反田氏の正味の姿だろうと思われますし、当然好感度も大いにアップしました。とりわけチャイコフスキー、ミャスコフスキー、スクリャービンで見せた腰のある演奏は、この人がとくにロシア系の重厚かつ技巧的な作品に向いていることがよくわかります。

その点で言うと、リストは作品がいくら技巧的ではあっても、それをただ技巧派が弾くとこの人の作品は趣味の悪さがワッと前にでるので、リストを聴いてもただ単に技術をお持ちなことを「わかりました」となるだけで、反田氏の評価が本当の意味でアップすることはないような気がします。

『リスト』と『Live!』の2枚は、『リスト』で伝えることのできなかった多くの要素、あるいは直接的なマイナス要因を『Live!』は取り戻すための一枚で、だからほとんど同じような時期に収録されたのでは偶然か意図的かと、つい勘ぐりたくなるようなそんなCDでした。

同じピアノとピアニストが、録音の目指す方向性によって出来上がるものは唖然とするほど違ったものになるということがまざまざとわかる2つのCDで、これほどはっきり体感できただけでもこのCDを買った意味があったと思いました。

できることなら、『リスト』に収録された同じ曲目を、違う録音で聴き直してみたいものです。
ただしラ・カンパネラと愛の夢はもうたくさんですが…。
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舛添劇場

東京都の舛添さんの公私混同問題は、ものすごい盛り上がりですね。

猪瀬さんの時を上回る話題性というか、正確に言うならその持久力はたいへんなものです。
連日テレビは、この話題を朝から晩までこれでもかと取り上げ、ワイドショーでは、これに割く時間がしぼむどころか逆に日を追うごとに増してきている感じです。

コメンテーターもお馴染みの顔ぶれがレギュラー出演状態となり、あっちへこっちへと番組を渡り歩いているご様子で、辛辣な批判の陰で、内心「舛添さまさま状態」な方々もずいぶんいらっしゃるようです。

テレビのスイッチを入れれば、たいてい舛添さんの土色の顔と鬼のような眼光が映っており、それほど日本国内はこの話題に熱中(熱狂?)しているのは間違いありません。
かくいうマロニエ君も、毎日呆れつつそれを楽しんでいるくちで、ひさびさの野次馬根性全開状態です。

それにしてもほとほと感心するのは、舛添さんの「しがみつきパワー」でしょう。
あれだけ連日連夜にわたって、東京都民はじめ全国民が怒りの集中砲火を浴びせているのに、なんとしてもこの難曲を乗り切ってみせるという爬虫類のようなスタミナは、腹立たしくもあるし、とてもかなわないというため息が出てしまいます。

絶対にあんなふうになりたいとは思わないけれど、あのメンタルの異常な強さは、千分の一でもわけてほしいほど、通常の人間だったら到底耐えられるものではありません。
都議会の質問でも、代わるがわる「あなたはセコイ!」など、通常なら現職の知事にとても使わないような強い言葉を浴びせられても、どんな長時間の恥辱にまみれようとも、絶対に辞任はしないというあの異様なまでの強さは見ている我々を戦慄させ、それがますます引き下がれない批判のパワーを生み出していると思います。

またメディアの表現にはそれぞれ線引というのがあり、テレビでは言えないこともたくさんあるようで、週刊誌の広告に至っては信じられないような行状の数々がすっぱ抜かれており、とにかく並大抵の御仁ではないことは間違いないようです。

知事の場合、公金の政治活動費は5万円未満は使途の報告義務がないらしく、あるコメンテーターは「舛添さんは、要するにご自分と家族の衣食住を、ほとんど公費でまかなっているようなものですよねぇ。」と言いましたが、これ、知事としての彼の有りようをまさに一言で言い表しているようです。

猪瀬氏の時と違い、ネタも種類も多くて豊富、テレビもこれさえやっていれば視聴率が取れるので、各局競い合うように舛添ネタばかりですが、マロニエ君もいくら見てもおもしろいのでついつい飽きもせず見てしまってます。

今回とくに面白い要素のひとつは、政治家の金銭スキャンダルとしてはかつてないチマチマ感で、これまでの政界で普通だった巨悪に較べると、やれヤフオクで7000円だのクレヨンしんちゃんの本だのと、いかにも庶民の手にも取り扱いやすいネタが満載で、その細かさときたら舛添氏の人柄が織りなす緻密な手仕事を見せられるようです。

ご本人も、まさかこれほど鎮火のできない大火事になるとは思っていなかったでしょうが、この先どんなに粘ってみせても、さすがにここまでくれば辞職以外に世間もマスコミも承知しないでしょう。

だいたい、やれファーストクラスだスイートルームだ別荘だというような人間は、ムヒカさんではないけれど、精神的に非常に貧しい人特有の、とめどない貪欲な上昇志向と自己顕示欲から出てくるもの。
なかには「警備の問題からファーストクラスが必要だった」という馬鹿げた弁明もありますが、狭い機内で、ビジネスとファーストで警護をする上での違いなんぞあるわけがない。

いくら東京が大都市だといっても知事は知事、ビジネスクラスに乗り、良いホテルの通常の部屋に宿泊して、それできちんと仕事ができないようなヤワな人間なら、そもそもそんな仕事につく資格はないのです。

つらつら考えるに、今回の騒動では、渦中の舛添さんにも世間にひとつふたつは貢献したことがあるように思います。
ひとつは少々のドラマや出来事なんて物の数ではないほど、けしからぬ話題として大衆を楽しませたこと。
もうひとつは、この程度の細かいごまかしを日常的にやっている政治家は、実際にはうじゃうじゃいる筈なので、その連中もこの想定外の騒ぎを見ていささかビビっているだろうということです。
そういう意味では、格好の見せしめ的な事案になるわけで、そんなお役には立っているのかもしれません。

まだ収束したわけじゃないので、来週も楽しみです。
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雲泥の差

マロニエ君の生活圏(福岡市及びその近郊)にある回転寿司でイチオシなのは、魚米(うおべい)ということを以前書いたような気がしますが、記憶が定かではないので、重複するところがあったらご容赦ください。

魚米という店名はあまり耳にしたこともなかったけれど、元気寿司系のチェーン店のようで、ネットの店舗検索を見てもそれほど数もなくメジャー店ではないようですが、ここを知ってからというもの、ぱったり他店には行かなくなりました。

魚米の特徴は、全店すべてかどうかは知りませんが、いわゆる作り置きの寿司は一皿もなく、すべてタッチパネルから注文をするスタイルであること。さらに各テーブルへは、なんと上中下、実に三段からなる高速レーンを駆使して、注文の品がスイスイ運ばれてくることです。
くわえて、ネタが新鮮で大きいことも特筆すべきで、にもかかわらず寿司メニューの多くが100円という安さ。店の内装は白を基調とした清潔感あふれる都会的な雰囲気で、従来の回転寿司の標準からすれば完全に一歩先を行くものだと思います。

もともと回転寿司は、テーブル脇のレーン上にあれこれのお寿司が流れている中から好きなものを皿ごと取って食べるというものでしたが、これだと自分のテーブルの位置が川(レーン)の上流にあるか下流にあるかでかなり条件が違ってきます。仮にむこう側に食べたいものが流れていても、こっちまで周って来る間に途中で誰かに取られてしまう可能性があり、不公平感がありました。(…昔の話ですが)

そうなると別途に注文するしかないわけですが、テーブルまでのお届け方法として「注文品」として流れに混ぜ込むか、店員がお盆に乗せて運んで来るかだったものが、そのうちに注文したものをダイレクトにテーブルに届けるための、専用高速レーンが設置されるようになりました。
注文も、いまやタッチパネルを採用する店が主流になっているようです。

さて、回転寿司といえば最も有名なのがスシ❍ーだというのは多くの人が認識するところでしょう。
マロニエ君も、十年ぐらい前にいちど行ったことがあるものの、それほど美味しいとは思えず、いらい一度も行ったことがありませんでした。しかし、土日などはいつ見てもスシ❍ーの駐車場には誘導員まで立っているし、店の出入り口付近は順番待ちの人であふれており、その人気の高さ、いわば支持層の厚みが窺えます。

TV-CMなどを見ても、いかにも新鮮そうな大きなネタがスローモーションで舞い降りてくる様子など、見るからに魅力的な感じに作られており、もしかしたらグッと進化していて美味しくなっているのかも…という気がしなくもありません。
それで友人と調査がてら行ってみようかということになり、先日スシ❍ーで食べて来ました。

果たして、結果は惨憺たるものに終わりました。
たまたま行った店のみでの感想なので、すべての店舗で共通することかどうかはわかりませんが、まず店内の雰囲気が暗いし、タッチパネルではあったものの、棚の上部の固定タイプである上、パネルが超鈍感で、指先が白くなるほど力を入れないと反応しないのは、もうこれだけでいきなりテンション落ちまくりでした。

また、注文しても、ゆるゆると流れる川に他の商品と混ざってゆっくりゆっくりやってくるのは、ようするに回転寿司の第一世代そのままで、新型の高速レーンの快適さ(とくに魚米の三段レーン)を知る身には、あまりの落差に大きなストレスを覚えるほど。とくに案内されたテーブルは川が折り返してくる反対側だったので、その待ち時間の長さときたらはっきりいって苦痛以外の何ものでもありません。
まさに快適な新幹線に対してガタンゴトンの在来線のような違いでした。

肝心の味もあくまで普通(もしくはそれ以下?)でしかなく、「さすがは人気店だけのことはある!」と感心するような要素はまったくナシ。
それどころか、より多く注文させるためか、ネタを相対的に大きく見せるためか、シャリも小っちゃいしネタもコマーシャルでみるようなダイナミックなものひとつとしてなく、ただ上にぽちょんとのっているだけのものでした。

席も座面が擦り切れていたこともあり、たまたま古い店舗だったのかもしれませんが、食器類も激しく傷だらけで、醤油差しの上のゴムも弾力がなくなっているなど、いつもの魚米とはまさに雲泥の差でした。

帰りのクルマの中で「なんであんなに人気があるんだろうね…」とつぶやく友人。ごもっとも。
「ま、知名度なのかね…」と返しながら、不満タラタラなのに身体はいちおう満腹という、妙な気分のまま帰途につきました。

ひとつわかったのは、あんなテンポじゃ客の回転率がかなり悪いので、慢性的な行列を生むのか…とも思いますが、味の面では人気の理由がよくわからないまま、いちおう目的は果たしたとして調査終了です。
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修行のスタンス

過日、十四代柿右衛門さんのインタビューにあった基礎の大切さという点から端を発して、ピアノにおける技巧か音楽性かという部分に触れました。
しかしこれ、そもそも技巧と音楽を切り分けて訓練することじたいが出発点から間違っていると思わずにはいられません。

音楽性とテクニックの関係性は、あくまで一体のものでなくてはならないということです。
いかにテクニックが大切だといっても、音楽を後回しにして肉体的訓練ばかり積んで、後から「では音楽を身につけましょう」といってもなかなかそうなるものではありません。いったん身についた技術偏重の習慣は、大切な幼年期から思春期をそれで通してしまうと、あとからの方向転換は至難です。

音楽的様式と感性に裏打ちされた素晴らしい演奏を目標として、それを結実させるためのテクニックということであれば、多彩な音色やポリフォニックな弾き分け、音質の種類、必然的なアーティキュレーション、歌い込みの訓練など、ただ難易度の高い曲をこなすことが価値基準というような単純な訓練では済まなくなるのは明白です。

昔の(とりわけ)一流教師のもとでおこなわれた「スポ根的訓練」はさすがに衰退したようですが、それも音楽の本質に迫る指導するところまでは到達せず、真に曲の内面に切り込むことのないまま、楽譜上の音符の羅列として曲を扱う指導が大勢を占めていることに変わりありません。
だからどんなに上手いとされる人の演奏にも、どこか演技的な空虚さが漂います。

絵の場合、自分の描いたものは常に自分や他人が見ることができるため、たえず多くの批判の目にもさらされますが、ピアノは自分の演奏を後からじっくり確認するということは、録音でもしていないかぎりできません。
これは、音楽が絵のように止まることのできない時間芸術であるために、どうしても冷静かつ総合的な評価が手薄になっていく宿命といえるのかもしれません。

デッサンは様々なものを描いて練習を積むにも、常にそこには当人の美意識や感性が投映され、それと技巧が切れ目なく結びついていますが、ピアノで基礎技術を徹底するとなると、情緒面をシャットアウトしてしまう危険が大きく、むしろこれを同時並行させることのほうが困難といえるでしょう。

ハノンに代表される指運動の無味乾燥な教則本があることがその象徴ですが、絵の場合、毎日マルや直線といった技巧の訓練だけに費やす教本があるなどとは、少なくともマロニエ君は聞いたことがありません。
デッサンはいくらそれに明け暮れようとも、鉛筆をにぎる指の運動的な訓練という面がないことはないけれど、とうていピアノの比ではありません。出来栄えを常に見て、自分の目と感性とが連動した修練となります。

いっぽうピアノはスポーツ的な訓練および仕上がりに陥りがちな危険性に充ち満ちていて、日本の音楽教育というか、多くの先生方もそういうやり方で育ってきているので、どうしても指のスポーツが中心になるのでしょう。
珍しくない海外留学も、音楽の本場に行って修行を重ねるという表向きの意味のほかに、日本ではできない勉強を遅ればせながら現地でやってきます…という補填的ニュアンスにマロニエ君は感じてしまうのですが、残念なるかなあとから付け加えるのと、それ込みで育ってきた人とでは、埋めがたい溝があるような気がします。

ここで言いたいことは、ピアノの場合のテクニックというものは、冒頭に書いた通り、音楽と一体のものでなくてはならないということ。世界のトップレベルのピアニストの演奏を見ていると、各人の音楽性と技巧は深いところで一体化していて、その人の音楽的個性の方向に向かって技巧も発達していることが見て取れます。

その点でいうと、大半の日本人のピアノ演奏はまず万遍なく平均化された技巧があって、楽譜があって、それをマスターするついでに音楽的な表面処理をおこなっただけという印象があり、聴く者の心に侵入したり、情感に踏み込んでゆさぶられたり、思わずため息の溢れるような演奏になっていかないのは、至って当然という感じです。
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勘働き

人間には「勘」という優秀なセンサーがありますが、表向きそれはあまり重視されません。
勘というだけでは、まるでただの思いつきのようで、明確な根拠のない主情による決めつけにすぎないというイメージなんでしょうか。

しかしながら、マロニエ君は自分の「勘」をとても重視しており、それは少々の根拠や理屈より一段高い次元を行くものだという位置づけなのです。それは自分の深いところにある何か確かなもの、別の言い方をすると心の奥底にある純粋なものとストレートに結びついている気がするからでしょうか。
この勘が、まるで微弱な電流のように、自分自身に何ともしれぬ信号を送ってくれることがときどきあるものですが、これを巷では「勘働き」というのかもしれません。

つい見落としがちな「勘働き」は、常に人の内面で機能しているのであって、とくに人間関係においは真価を発揮するものだといえるでしょう。どれほど立派で好感度あふれる人でも、どこかしっくりこない、違和感がある、などと感じるのはまさにこの「勘働き」というセンサーが何かをキャッチしているからだと思われます。

にもかかわらず、人間はやむを得ぬ事情や損得が絡むと、この勘がしらせてくれている信号をないがしろにしてしまうことがしばしばありますね。
目先の欲得やメリット(のようなもの)を優先し、自分に都合のいいように後付けの理屈を並べて正当化し、論理・心理両面の取り繕いをしますが、それはほとんど場合、意味のないごまかしに過ぎません。

マロニエ君も歳を重ねるにつれ、物事を熟慮するようになった…とはさすがに言いかねますが、それでも今ごろやっとわかったことも少しはあって、そんな経験からもこの「勘」にはできるだけ逆らわないよう心がけています。それは結果として、勘というものの正しさの確率が圧倒的に高く、そこに信頼の重きを置かざるを得ないからにほかなりません。
とくに信心する宗教もなく、風水だの何だのの類に頼っているわけでもない中、この勘働きは自分が間違った方向にできるだけ進まないための、ささやかな道標のひとつになっている気がします。

また自分のささやかな経験を振り返っても、この勘に逆らい、別の理由で押し切って前進したときは、まあ大抵はあとで失敗していることがわかります。

最近もこの「勘働き」の正しさを証明するような、あっと驚くことがあったのですが、これはさすがに具体的なことは書けません。ただ言えることは、10数年前からずっと違和感を感じていて、一度もそれが晴れることがなかった某氏(しかもその人の職場では才能を認められ、長らく信頼され、厚遇されていた人物)が、最近になってついにメッキが剥がれたのか、20年近くも務めた職場を、きわめて礼を失するやりかたであっけなく辞めていったという話で、そこの社長さんから最近聞かされて驚いたものでした。
マロニエ君としては、長い時間を経て、自分の感じていたことがようやく日の目を見たようで、おかしな言い方ですがある種の勝利感みたいなものを感じてしまいました。

このとき、あらためて自分の勘に従順でなくてはならないことを悟りました。

今どきは、表向きはきわめて温厚で好人物のようにふるまいながら、そのじつ野心的な計算高さと演技が見えてしまう人がとても増えたように思います。
まあ、それはそれでこんな時代を上手に生き抜くための術なのかもしれませんが、それを単純に信じれば、あとで手痛い思いをするのはこちらですから、油断は禁物。そして勘こそが頼りだとますます感じるわけです。

動物が災害などをいち早く察知するのも、やはりこの「勘働き」ではないかと思いますし、そういう機能が人間にも僅かに残っているのだとマロニエ君は思うのです。

三島由紀夫の『金閣寺』にも、こんな一文がありました。
「感覚はおよそ私をあざむいたことがない。」
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技術と表現

十四代酒井田柿右衛門のインタビュー番組の中でもうひとつ印象に残ったことは、基礎の大切さということでした。

この十四代も学生時代は多摩美術大学で学ばれたそうですが、そこで徹底的に叩きこまれたことはというと「デッサン」だったそうです。来る日も来る日もひたすらデッサンばかりさせられ、当時の教授の中には「若いものが絵を描くなど!」と憤慨するほど、基礎であるデッサンをしっかり養うまでは絵を描く資格などないといった空気だったそうです。

何を表現するにも、絵の場合デッサン力がなければなにも表現できない、表現のしようがないというのが十四代の考えでもあるようで、それはたしかに説得力あふれるものでした。
いかに表現したい素晴らしいものがあったとしても、それを作品へと具現化するたしかな手段を備えていなくてはどうしようもないということです。

ところが、現代の美大では「個性を伸ばす」ということに重きがおかれ、以前のような基礎重視の考え方ではなくなっているとのこと。
その結果、根を張っていない、腰の座らない未熟な技法のままパパッとなにか描いてしまうのだそうで、そういう在り方には大いなる疑問があるというようなことを仰っていたわけです。

これは、ピアノにおいても「技巧か音楽性か」の問題に通じる気がします。
ピアノの場合、技術はとくに幼少期に鍛え込んでおかないと、あとからどんなに奮励努力しても越えられない壁があるのは周知の事実です。

ただ、一般的にピアノを弾く人の中には技術的レベルばかりに目が向いて、音楽そのものについてはほとんど無知・無関心というような人をやたら多く見かけます。口では「音楽性が大切」などと言うも、その演奏はまるで作品に対する敬意も愛情も感じられないカサカサなもの。やたら難曲を選んでは、ただスポーツ的に指を動かすだけの様子を目の当たりにすると、なにをおいても音楽性こそが重要だとついぶつけたくなるのが率直なところ。
長年ピアノに触れてきているにもかかわらず、音楽あるいは表現の勉強は信じがたいほどできておらず、名だたるピアニストの演奏も名前も知らない、ピアノ以外の音楽など聴いたこともないといった有様です。

それをじゅうぶん承知のうえで敢えて云わせていただくなら、でもしかし、技巧は音楽性と同じぐらい重要なものだと言わなくてはならないと、この柿右衛門さんの言葉を聞いてあらためて思いました。
たしかに難曲を弾けること、さらにはそれを自慢することが快感になっている人を目にすることは、ピアノの世界では珍しくありませんし、そういう輩はマロニエ君はむろん軽蔑しています。

そうなんだけれども、やはり最低でも一定の技術がなくては、まず音符を弾きこなすこともできないし、その奥に込められた作曲家の意図や真実を描き出すこともできないことも事実。
これは、どんなに清い心をもっていても一定の収入がなくてはまともな衣食住が成り立たないのと同じで、これが現実の厳しさだろうと思います。

演奏技術オンリーというのは問題外のことであるけれども、でもやはり技術がなくてはどうにもならない。ましてプロともなると、その要求は桁違いに高いものとなります。

また、アマチュアの世界でも、発表会その他で弾く曲を決めるにあたって、自分の客観的な技術を念頭において検討する人は意外に少なく、実力を遥かにオーバーした曲選びをする人が多い事には大いに首を傾げます。

たしかにアマチュアの限られた技術にいちいち相談していたら弾けるものはほとんどない、弾きたいものはなにひとつひっかかってこないという現実があるのもわかります。さらにそれでコンクールに出ようというのでもなく、人からチケット代を取るわけでもない、あくまで趣味であり楽しみなのだから、そこはどうあろうと自由だと言ってしまえばそれっきりです。

しかし、だからといってあまりにも趣味ゆえの自由に悪乗りして、とうてい身の丈に合わない難曲に手を付けたがるのは、決して良いことだとは思いません。いかに趣味とはいえ、どこかで身の程をわきまえることは教養の問題でもあるし、いわば音楽的道義の問題だと思います。
少しは技術的に余裕のもてる選曲をすることで、多少なりとも音楽表現へエネルギーを向けて、細かな表情などを磨いて整えることのほうが大切だと思うのですが…。

話がずいぶん脇道に逸れましたが、要するに技術に余力がないと何もできないということですね。
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不器用がいい

先日、録画したままになっていたBSの番組で、人間国宝の「十四代酒井田柿右衛門」のインタビュー番組を見てみました。
この番組は、2010年に放送されたものの再放送で、十四代はそれからわずか3年後の2013年に他界されたとのことで、いわば晩年の姿と話をとらえたものだったといえるようです。

本当は作品見たさに再生ボタンを押したところ、実際はインタビューばかりでいささか落胆していたのですが、訥々とした話しぶりの中から、なるほどと思われるような言葉が出てくるあたり、だんだん面白くなって結局最後まで見てしまいました。
90分の放送時間は、大半が柿右衛門さんへのインタビューで、あまり話好きな方のようにはお見受けしませんでしたが、渡邊あゆみさんの聞き方が巧みだったのか、時間が経つに連れてしだいに饒舌になり、いろいろと興味深い話を聞くことができました。

柿右衛門は濁手(にごしで)という特徴的な白の上に、柿右衛門様式にしたがって絵付けがされていくものですが、その鮮やかな絵柄とともに重要なのが、余白を占める「白」だそうで、これは地元の泉山というところで採れる石を使っているとのことでしたが、その太古からの自然の恵みを充分に含んだ石のもたらす風合いが肝心の由。

最も印象にのこったのは、「きれい」と「美しい」はまったく別のことだということ。
現代は科学技術の進歩で、陶器の地肌であれ絵の具であれ、純粋に精製されたきれいなものが安易に手に入るけれど、それらはきれいではあっても風合いや味わいがなく、柿右衛門さんは一切それらを使うことなく、昔の手法にこだわっているとのこと。

柿右衛門のあのどこか透き通るような、単純な白色ではないデリケートな風合いをもった地肌の上に、様式にかなった様々な絵柄が乗った時にえもいわれぬ仕上がりになるのだというのがあらためて納得です。
あれがもし単純な白、透明感のない単調な白であったら、それは柿右衛門とは似て非なるものになってしまうことは素人目にもはっきりとわかります。他の地域の石を使うと、色はきれいでしかも使いやすく、有田焼にもたちまち浸透した時期があったそうですが、柿右衛門窯では敢えて使いにくく「きれい」でもない地元の泉山の石にこだわったとのこと。

美しいものを作り出す伝統とは、そういうものだということですね。

また科学技術の進歩の代償として、日本の伝統工芸の技は急速に失われていくことは間違いないということでした。

これは楽器作りと全く同じことで、楽器にかぎらず、すべての手仕事の世界というものは、一見むだとも思えるような労苦の果てに到達するものですが、それを現代でも継承していくのは、よほどの気構えでないと難しいのだということをまざまざと思い知らされます。

現代でもっともコストの掛かるものは人件費であり、それを他に置き換えるために科学技術は多くの叡智をつぎ込んでいるわけですが、それはいいかえるなら真の意味での最高級品を絶滅させてしまう行為なのかもしれません。

陶芸でも楽器でも、ピラミッドの頂点にある最高級品のクラスだけは従来の伝統工芸なり製法が守られたにしろ、それ以外のほとんどは合理化の波をかぶったきれいなだけの無機質なものに姿を変えてしまっているということです。

べつに伝統工芸といわずとも、例えば古い電気製品でも、昔のものは現在ならおよそ考えられないようなガッチリした丁寧で頑丈な作りだったりすることに、処分をすることになってそれを手にした時、現在の製品との質感のちがいに思わずハッとしてしまうことがあります。

もちろん、普及品などは過度に手をかける必要もないけれども、ハイテクや合理化は決してジャストポイントでブレーキが掛かることはなく、大半は残す必要のある部分まで一気に飲み込んでしまうようです。

柿右衛門さんの言葉でもうひとつ印象に残ったことは、職人は「不器用なほうがいい」ということ。
真の職人は不器用な人で自己主張をせず、何十年をかけて決められた伝統手法の体得に生涯を捧げるのだそうで、器用な人というのはそこにどうしても自分らしさや個性がでてしまうので却って困るということでした。

どんなに立派な仕事をしても、そのあたりが作家と職人を隔てる一線のような気がしました。
ではピアノの技術者は音作りという点において、作家なのか職人なのかという問題を考えてしまいましたが、整音や調律によって音を作るという一面があるとしても、やはりそれは突き詰めていうなら作家ではなく「職人」の範疇に入れられるべきものだとマロニエ君は考えます。

いかに優れた音作りであっても、ピアニストや作曲家を差し置いて、ピアノ技術者の個性が演奏の前に出てくるようなことがあってはならないからで、その点で言うとピアノの調整技術に携わる人はやはり職人の伝統技法の世界に中にあるものだと思いました。

調整技術どころか、ピアノの製作においても、各セクションの職人さんはまさに職人なのであって、唯一作家であることが許されるのはピアノ設計者だけだろうと思います。
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ゆらぎ

スタインウェイ社自身がプロデュースするCDレーベルというと、そのものズバリの『STEINWAY & SONS』ですが、これがそこそこ面白いCDを出しているという印象があります。

中にはセルゲイ・シェプキンのような中堅実力者が登場することもありますが、多くの場合、一般的には無名もしくはそれに近いピアニストを起用しながら、独自の個性的なアルバムをリリースしており、マロニエ君は結構これが嫌いではないのでたまに購入しては楽しんでいます。

先日もスタニスラフ・フリステンコというロシアの若手が演奏する、FANTASIESというアルバムを聴いてみました。
演奏はそれなりで、とくにコメントすることもありませんでしたが、アルバム名の通り、シューマン、ブルックナー、ツェムリンスキー、ブラームスの各幻想曲を集めたものです。

めったに聴くことのないブルックナーのピアノ曲、初めて聴いたツェムリンスキーの「リヒャルト・デーメルの詩による幻想曲」などは大いに楽しめるものでした…が、それ以上に楽しめたのはやはりここでもピアノの音でした。

冒頭のシューマンの開始早々、うわっと驚くようなゆらぎのある響きというか、一聴するなり調律がおかしいのでは?と思うような特徴的なサウンドが部屋中を満たしました。
その正体はこれぞニューヨーク・スタインウェイとでもいう音で、とてもよく鳴っているけれど、ニューヨーク製らしい鼻にかかったような特徴のあるペラッとした音がなんだか楽しくもあり、どうかするとちょっと軽過ぎな感じにも聴こえてきたりするのですが、全体としてはきわめて魅力にあふれ、いかにも生のピアノを聴いているという実感に満ちています。

それにしても、出てきた音が揺らぐというか、陽炎ごしに見る景色のように響きが歪んで立ち上がってくるあれはなんなのかと、いまさらながら思いました。音の粒もどちらかというと各音によって音色や響き方にばらつきがあり、これは本来ならピアノとして問題視される要素かもしれませんが、それでもニューヨーク・スタインウェイには代え難い特徴というか魅力にあふれており、このあたりが簡単に❍☓では解決できない評価の難しいところだと思います。

マロニエ君も詳しく語れるほど知っているわけではありませんが、昔のメイソン&ハムリンやボールドウィンも似たようなややハスキーヴォイスを持っていますから、これは一世を風靡したニューヨークが生み出すピアノの特徴というか、地域が抱えもつDNAなのかもしれません。
アメリカの音楽には最適ですが、ヨーロッパのクラシック音楽にはときにちょっとそぐわない事もないではないけれど、いかにもアメリカらしいおおらかさと明るさ、ある種のアバウトさが日本やドイツのピアノづくりとは根底に流れる文化が違うことを感じさせられます。

ニューヨーク・スタインウェイを使ったCDを聴くと、わかっているはずなのに最初は耳があわててしまうのは、それだけ特徴的なピアノだからだと思いますが、しばらく聴いているとすっかり耳に馴染んでしまうあたりも、やはりタダモノではないということを毎回実感させられます。
しばらく聴いてNY製の音に慣れてしまうとそれが普通になり、その後にハンブルクを聴いたら、今度はこちらがなんだか遊び心のない、四角四面なピアノのようにも感じてしまうあたりは、いつも変わりません。

ここで使われているのは新しいピアノのようですが、今でもNY製の個性は健在であることがわかり、一度定まった音は信念をもって作り続けられることに敬意さえ覚えてしまいます。
どこぞのピアノのように、新型が出る度に、あっちへこっちへと方向を変えるメーカーとは、やっぱりそのあたりのぶれない自信とプライドがどうしようもなく違うようです。

この『STEINWAY & SONS』レーベルは、むろんスタインウェイ社のCDであるだけに、ハンブルク/ニューヨークは公平に使われているようで、両方の音が、メーカー自身がお墨付きを得た状態で聴いて楽しめることがなによりも特徴だと思います。
それにオーディオマニアでもないマロニエ君の耳には、録音も概ね秀逸ときているので、このレーベルを聴くときだけは演奏や作品よりも、「純粋にスタインウェイのサウンドをいろいろな演奏や作品を通じて聴く」ということに目的を特化することができるわけで、なんともありがたいレーベルです。
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R指定?

先日放映されたN響定期公演は、前後にR.シュトラウスの変容とツァラトゥストラを置き、間にシューマンのピアノ協奏曲を挟むという、ちょっと珍しいプログラムでした。
指揮はパーヴォ・ヤルヴィ、ピアノはカティア・ブニアティシヴィリ。

ヤルヴィとブニアティシヴィリは海外でも共演経験があるようではありますが、N響/ヤルヴィという組み合わせに、なぜあらためてこの女性が登場してくるのか、大河ドラマに話題の若手をムリに起用してミスキャストになるみたいでちょっと違和感がありました。
ブニアティシヴィリの演奏はこれまでにも何度か映像で接したことがあるけれど、その演奏がまったく好みではないのは言うに及ばず、あのエロ衣装でのセクシーパフォーマンスをそのまま日本でもやるのか?

どうせ録画されているのだから、怖いもの見たさでみてみたところ…やはり日本でもおやりになったようです。

この人は、ピアノを弾いているという建前のもと、合法ギリギリのところで自分の容姿や仕ぐさを見せつけることに快楽を覚えているのか、演奏家としてちょっと計りかねるものが心底にあるのでしょう。
男性と言いたいけれど、あれはもう老若男女だれが見たって、その衣装はイヤでも彼女のサイボーグのような体を見せるためのものだし、それをEテレで真面目に放送されたことにも呆れるだけ。むろんれっきとしたN響定期公演で協奏曲のソリストという「建前」があるから可能だったのでしょうが、その実質はかなり危ないものだと思いました。

子供が見るのも明らかにNGだし、彼女が登場するコンサートはR指定になってもさして不思議はないでしょう。

衣装だけではなく、強烈な真紅の口紅をひき、わざとそうなるようにしているとしか思えないヘアースタイルは、下を向くと髪は一斉に前へと落ちかかり、そこから顔を上げると、こんどは彼女の顔に黒髪が乱れるようにまとわりついて、ベッドとステージを間違えたようなあられもない表情がバンバン続きます。

たしかに演奏家はさまざまに陶酔的な表情を浮かべる人は少なくありませんが、ブニアティシヴィリのそれは音楽的裏付けは感じられず、ただステージ上で繰り広げられるセクシーパフォーマンスにしか見えません。

演奏は、やたら叩くか、はたまた聞き取れないほどの弱音かのどちらかで、いずれも練り込まれたタッチが生み出す実や芯がないため、ただのぺらぺら音で、真面目に弾いているようには(マロニエ君には)思えないもの。

時代が変わり、世の中の価値観も多様化し、クラシックコンサートのチケットが売れないから、今までどおりのことをやっていてもダメだという背景があるのはわかりますが、だからといってあれはないでしょう。

何度も何度も、量の多いカールした黒髪がドサッと顔面を覆い尽くすのは、見ているだけでもストレスになってくるし、まるで海中の藻の中に顔を突っ込んでいるか、真っ黒いモップを被って赤い口紅だけがその中で見え隠れするよう。着ているドレスも胸はギリギリ、背面は腰の下まで見えるような過激なもので、どう見ても意図して狙っているとしか思えないものです。

冒頭インタビューで彼女のネット動画の再生数が100万回とかなんとかで、これはすごい数だというようなことをヤルヴィが言っていましたが、そりゃあタダだし、クラシックのピアニストとしてはほとんど反則技に近いものだから、それならば少なくとも演奏で勝負したなんとかリシッツァのほうがずっとまともだと思います。

もちろん、今時なので違法でないかぎり、なんで勝負しようが構わない、自由だ、という意見もあるとは思いますが、少なくともマロニエ君はあんなのノーサンキューです。

拍手なども、いまいち盛り上がっている感じはなかったし、アンコールもなかった(あったとしても放送されなかった)ようでしたから、やはり聴衆にはそれほどウケてはいないのだと感じました。…それがまともだと思いますが。
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ブレンド

CDのアルゲリッチとバレンボイムのピアノデュオは、ベルリンフィルハーモニーで演奏された2台のピアノによる春の祭典をメインとするCDがありますが、今年の春には、同じ顔ぶれでもう一枚CDがリリースされました。

昨年の7月に、ブエノスアイレスのコロン劇場で収録されたライヴ盤で、ご存知の通りこの二人にとっては生まれ故郷での演奏会ということになります。
曲目は、シューマン=ドビュッシー編曲のカノン形式による6つの小品、ドビュッシー:白と黒で、バルトーク:2台のピアノとパーカッションのためのソナタ。

バレンボイムとの共演はそれほど興味をそそられるものはないけれど、そうはいっても前回はなにしろアルゲリッチが『春の祭典』を初めて弾いたわけだし、彼女のCDはどんなものでも買うことにしているので、既出のCD音源は海賊版などもあるためさすがに100%とは言いかねますが、数十年間買えるものは徹底して買い続けているので、新しいものが出れば迷うことなく購入しています。

というわけで、今回も当然のこととして購入して聴いてみたところ、やはりさすがというべきで、初日たちまち3回ほど続けて聴きました。とくに今回は全体に馥郁とした印象が強く、バルトークでさえ楽しめる演奏になっていることに嬉しい印象をもちました。
輸入盤でもあるしライナーノートは今更という感じで見ていなかったのですが、夜寝る頃になって、なにげなく机の上のケースが目に入り、このときはじめて中のノートを取り出して見てみることに。

すると、最初のページの写真をみてアッと声を上げたくなるほど驚きました。
互い違いに置かれた2台のピアノのうち、バレンボイムが弾いているのは、以前このブログでも書いた「バレンボイムピアノ」で、これはバレンボイムの着想により、スタインウェイDをベースにChris Maeneが作り上げた並行弦のピアノです。
バレンボイムはこの自分の名を冠したピアノを弾き、対するアルゲリッチはノーマルのスタインウェイDを弾いています。

音だけ聴いては、さすがに半分はこのピアノが使われているなどとは夢にも思わないものだから、うっかり気が付きませんでしたが、そうと知ったらこのCDのこれまでとは何かが違う理由が一気に納得でした。
並行弦で、デュープレックススケールを持たず、芯線も一本張りのこのピアノは、従来のスタインウェイとは全く違った響きをしており、全体にほわんとした余韻を残しているのです。

このピアノがお披露目されたことを知った時も、いずれはバレンボイムがこのピアノを使ってCDなどをリリースするのだろうとは思っていましたが、まさか遠くブエノスアイレスで、しかもアルゲリッチとのデュオでそれを持ち出すとは、まるで思ってもみませんでした。

以前、スタインウェイレーベルのCDで、ニューヨークとハンブルクの2台によるデュオというのがあって、それも通常とは微妙に異なる響きがあって楽しめましたが、今回の2台はそれどころではない面白さです。

ほわんとしたやわらかな響きの膜の中に、ハンブルクスタインウェイのエッジのきいた響きも加わって、これはとても面白いCDだと思います。意識して耳を澄ますと、なるほどその音色と響きの違いがわかり、このところすっかりこのCDが病みつきになっていて、もう何度聴いたかわかりません。

本当は音だけを聴いてこの「異変」に気がつけばよかったのですが、それは残念ながら無理でした。
しかし、この2台による演奏は、けっして違和感がないまでに調和がとれていて、なかなかステキなブレンドだと思うし、そもそも2台ピアノというのは同じピアノを2台揃えるというのが一応の基本かもしれませんが、弾き手も違うのだから、ピアノも違っていてなんら不思議ではありません。

そもそも、そんなことをいったらオーケストラだって、各自バラバラのメーカーの楽器が集まってあれだけの演奏をしているのであって、ピアノだけが同じメーカーである必要性はないでしょう。
もちろん調律師さんなど、技術者サイドからみれば、同じピアノであることが理想だという信念をお持ちかもしれませんが、実際にこういう演奏を耳にすると、同じピアノのほうが統一感があって安全かつ無難かもしれませんが、面白味という点ではぐっと幅が狭くなることがわかります。

コーヒーでもウイスキーでも、ブレンドがあれほど盛んなのは、それによって奥行きや複雑さが増すからで、マロニエ君などはインスタントラーメンでも二人分を作るときは、違うものを混ぜたりしますが、これがなかなか美味しかったりします。
カレーのルゥも然り、ファミレスでは子供がドリンクバーでジュースをあれこれブレンドして飲んでいますが、あれもやってみると複雑さや柔らかさがでて、ことほどさようにブレンドというのは面白いものだと思いました。

ブレンドはある種ハーモニーであり、まろやかさの創出でもあるのだと思います。
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反田恭平-2

いま日本で注目されるピアニストの一人、反田恭平氏のCDを購入しました。

まずは昨年収録された『リスト』というタイトルの、文字通りオールリストのアルバム。
特筆すべきは、この録音にはホロヴィッツが弾いていたニューヨーク・スタインウェイのCD75が使われていることで、これはあの「ひびの入った骨董」発言が話題となったホロヴィッツ初来日(1983年)の際に日本に一度来ているピアノで、その後のヨーロッパ公演にも使用されたとのこと。
1912年製といいますから、昨年録音された時点でも100年以上経っていることになります。

このピアノはホロヴィッツが好んだ数台のスタインウェイのうちの1台らしく、他のピアニストへの貸出も許可しなかったということですが、そういう逸話はともかく、聴いていて、このピアノを十全に弾きこなすのはなるほどホロヴィッツただ一人だろうということを諒解するのに大した時間はかかりませんでした。

反田氏の演奏の是非は置いておくとして、この特殊なピアノを中心に語るなら、この若者がそれなりにでも弾きこなしているかといえば、マロニエ君はまったくそのようには思えませんでした。
このピアノには、とくに音色の面で特殊な奏法と美学が必要とされ、その面では、反田氏の演奏をむしろピアノが拒絶しているように感じました。

ホロヴィッツに愛されたこの駿馬は、他の乗り手をなまなかなことでは受け付けようとせず、その音はしばしば悲鳴をあげているようにしか聞こえません。このピアノは炸裂するフォルテシモより、通常はマエストロがそうしたように、ビロードのような柔らかなタッチによって優しく愛でられることをよろこび、あるいは随所で様々な声部やアクセントを際立たせるといった弾き方に敏感に反応する特殊なスタインウェイのようです。
しかし残念ながら反田氏の演奏は、ホロヴィッツが駆使した魔性とエレガンスの対比で、聴く者を魅了するタイプではないようです。

立て続けに繰り広げられる強い打鍵、連続する和音の攻勢にスタインウェイとしては珍しく破綻したような音があらわとなり、弦がジンジンいうばかりのような音色は、ピアノが無理強いをさせられているようでちょっとまともには聞いていられませんでした。
いかに優れたピアノであっても、あまりにも枯れた響板故か(くわしいことはわかりませんが)、この歴史的な老ピアノをもう少し理解し手なずけて、その美質を引き出すような演奏であって欲しかったと、おそらくこのCDを聴く多くの人は感じると思います。
さもなくば、現代のふつうのスタインウェイで弾いたほうが、どれだけ良かったことだろうと思います。

CDの帯には「恐れを知らない大胆さと自在さ」とありますが、一流ピアニストならコンサートや録音に際して、使うピアノの個性を慎重に見極めるべきで、その特性を考慮せず、一律にばんばん弾くことが大胆とも自在ともマロニエ君は思えません。

反田氏の演奏は、個々の楽節でのアーティキュレーションではそれなりの集中や完成度があるようですが、各曲の性格やフォルムを見極め表現しているかとなると疑問で、高い演奏クオリティのもとにどれも同じような調子で弾かれてしまうのにも違和感と退屈を覚えました。
見事な演奏ではあっても、そこに流れ出す音楽で聴く者が惹き込まれるという点ではいまひとつで、どこにポイントを持って聴くべきか、ついに掴めないままになりました。

ボーナストラックとして、ホロヴィッツ編曲のカルメン幻想曲が収録されていましたが、もしホロヴィッツがあれを聴いたら何と言うか、ワンダ夫人はどんな顔をするのか、CD75は喜んでいるのか、誰よりもこのピアノの価値を知り、来歴にも詳しい技術者オーナーは本当に満足しているのかなど、いろいろなことを考えさせられました。

あえて率直に言わせていただくなら、このCDで聴く限り、この伝説的なピアノにひびが入っているとは思わないけれど、「骨董」としての音にしかマロニエ君の凡庸な耳には聞こえなかったのは事実です。
すくなくともこのピアノを敢えて使うという必然性が感じらず、違ったピアノのほうが反田氏の演奏にはよかったように思います。
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追加の演奏で

早朝放送されるBSプレミアムのクラシック倶楽部は、1回の放送でひとつのコンサートが取り上げられますが、ときどき変則的に「アラカルト」というのを放送します。
これは察するに、55分の番組内で紹介しきれなかったぶんの演奏を復活放送させる目的で、大抵は2人のアーティスト(というか2つのコンサート)を取り上げ、前回聞けなかった曲を追加的に楽しむことができます。

先日の放送では、キット・アームストロングのピアノリサイタルとユッセン兄弟のデュオリサイタルでした。

キット・アームストロングは、浜離宮朝日ホールで50年以上前の外装がウォールナット仕上げのスタインウェイDを使っての昨年の演奏でしたが、本編のときはあまり好印象ではなかったことを書いた記憶がありました。
たしかバッハのホ短調のパルティータとリストの作品をいくつか演奏したように思いますが、今回はわずか30分ほどの時間に、バッハのオルガン用のコラール前奏曲集から3曲、さらには自身の作曲である「B-A-C-Hの名による幻想曲」なるものが放送されました。

実は、今回聴いてみてこの人の印象が一変し、どれもが非常に素晴らしいもので、とくにポリフォニーの歌い分けの見事さには脱帽させられました。
しかも、多くのピアニストがそうであるように、意志的に知的に各声部を際立たせることに全神経を集中させて、そこにかなりエネルギーを割いている(というか、そうせざるを得ない)奏者が少なくないのに、キット・アームストロングはこの点があくまで自然体であるのは注目すべきでした。
必要に応じて上から下から、あるいは中ほどからいろいろな旋律が出てきては絡み合い、溶け合い、離れてい行くさまがいかにも自然で心地よく、本人の様子にもこれといって特段の苦労もないのか、ただ身についたことを普通にやっているかのようで、ときに嬉々とした感じさえ見てとれました。

このポリフォニーの歌い分けの自在さでは、ところどころでグレン・グールドを想起させるほどで、まだ10代だというのにこれは大変な才能だと思いました。また「B-A-C-Hの名による幻想曲」も、マックス・レーガーなどよりずっと世代感の進んだ斬新的な作品で、あんなものを本当に自作したとなると、ちょっと恐ろしげな才能でした。

ここに聴く半世紀も前のスタインウェイは、あきらかに現代の同型とは異なる音のするピアノでした。
ブリリアントな味付けがさほどされない頃のスタインウェイで、アラウやルービンシュタインなどの録音では、こういう重みのある朴訥な音がよく聞かれたように思います。洗練され華麗さを併せ持った後年のスタインウェイサウンドも素晴らしいけれど、多少渋みのある実直なハンブルクスタインウェイというのもなかなかいいものだと思いました。


後半はユッセン兄弟のリサイタルから、まず弟がモーツァルトのデュポールの主題による変奏曲、ついで兄がシューベルトのソナタの最終楽章、最後に連弾でシューベルトの行進曲というもの。
まずいきなり、弟の弾くモーツァルトの素晴らしさに心を奪われることに。

大ホールの演奏会で、モーツァルトをあれだけ聴衆の集中をそらすことなく、品位を保って終始充実した演奏で弾き切るというのはなかなかできることではありません。これがまずとても良かった。
ついで兄のシューベルトもすっきりしているのに立派で、ふたりとも、作品のありのままの姿を臆することなしに、自然体できっぱりと描き切っているのは特質に値すると思いました。

それに、二人ともよく曲をさらっていて、この点でも気分よく安心して聴いていられました。
ほどよく引き締まり、ほどよく無邪気さもあり、筋肉質になりすぎることも間延びすることもない自然な平衡感覚をもった演奏というのは、そうザラには転がっていません。

この二人はピレシュに師事していたようで、奏法/解釈のいずれにも多少その影響があることは隠せないけれど、師匠よりはテクニックもあるし、美に対するセンスも上回っているのか、むやみに押し付けがましい表現に陥らないところも高い評価の要素になりました。

どれを聴いても、演奏を通じて聞く者がまず作品に触れ、作曲者の顔を見せてくれて、しかもそれが「ピアノを超越して音楽しています」という上から目線でなく、あくまでピアノの率直な魅力にも溢れているところが、この兄弟が演奏家として特筆されるべき最も優れた点ではないかと思います。

キット・アームストロングから、切れ目なくユッセン兄弟に変わると、ピアノも一気に現代のスタインウェイになるので、その聴き比べもできましたが、現代のほうが音が基音が柔らかく倍音も豊富で、さらに音の伸びもあって耳慣れてもおり、やはりこれはこれでいいなあと感じたことも事実で、良いピアノはどれも素晴らしいという当たり前のことがよくわかった次第でした。

クラシック倶楽部の55分間で、こんなに終始充実感をもって集中して楽しめたことはめったにないことで、いい演奏というのはあっという間に時間が過ぎてしまいます。
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慣れの問題

『全国警察24時』みたいな番組ってそこそこ人気なのか、民放各局では似通ったものが結構あるようですね。
ニュースと朝ドラと音楽番組の録画以外はあまりテレビを見ないマロニエ君ですが、それでもいくつか視るものがないわけではなく、結構この警察モノは嫌いじゃありません。

街中を巡回するパトカーの隊員が、すれ違いざまに見た車のドライバーの一瞬の様子や動きから勘働きで目をつけ、後を追って職務質問が開始します。はじめは至極低姿勢だけれど、だんだんに相手の挙動や発言の問題点を見透かしていくのは、マロニエ君の野次馬根性を大いに満たしてくれます。
小さな話かけが、しだいに任意で持ち物検査や車内の捜索などに及び、あげくは違法な薬物の常習者だったりするところは、人間ウォッチとしても面白いので、この手の番組はわりに録画して視ることが少なくありません。

と、つい前置きが長くなりましたが、実は本題はこれとは関係なく、先日見たこの手の番組では、ある交通事故が車好きでもあるマロニエ君としてはとくに印象に残りました。

高速道路の料金所での映像で、ベンツの最高級車のひとつであるCLクラスというとても豪華な2ドアクーペが、料金所脇のポールにボディ左側を鋭く食い込ませ、ボディは大きく斜めを向いて、見るも無残なクラッシュ姿で止まっていました。

駆けつけた警察官には事故の状況がすぐには飲み込めない状況だったものの、運転者はというと無事で、その人物からの状況説明によって事故の経緯が判明したようでした。

それによると、なんとこの車は中古車ではあるものの購入後間もないそうで、これまでずっと右ハンドルの車に乗ってきたらしい50代の男性は、この車が初めての左ハンドルだったそうで、つまりは左ハンドルの運転に慣れていなかったために引き起こされた単独事故だったようです。

左ハンドルに慣れない人は、どうしてもはじめのうちは右寄りに走ってしまうものです。
とはいうものの、それは試乗などのごく初期の現象で、通常はしばらく注意しながら乗っていれば、時間とともに慣れてくるものですが、この事故は、慣れるより先にこの悲劇を招いたようでした。

つまり本来の位置よりも右に寄った状態で料金所に突入し、右タイアが縁石に乗り上げ、だからあわててハンドルを左に切ったのか、今度はその反動によって左側のポールに激突して止まったようでした。
その衝撃は相当なものだったようで、ナレーションは「車の修理代に加えて、破損した料金所の弁償も…」というようなことを言っていましたが、ひと目見て、車はとても修理のできるような生やさしい破損でないことは明らかでした。
フロントは完全にシャシー(車の骨格部分)までダメージが及んでいたし、リアタイヤもあらぬ方向へとグニャリと曲がってしまっていましたから、あれは間違いなく「全損」で、およそ修理代どころではないでしょう。

新車なら一千万の大台を遥かに越え、中古でも(そんなに古くはなかったので)何百万もする車が一瞬でオシャカになるのですから、慣れない左ハンドル故というには、あまりにもお気の毒というほかはない単独事故でした。

マロニエ君の車の仲間には、もとはといえば自分の趣味から奥さんにもずっと左ハンドルの車を運転させてしまったために、すっかり左の感覚が染み付いてしまい、いまさら右ハンドルへの転換が怖くて運転できないという状況に追い込まれた奥さんがいます。
ところが、以前とは違って、現在は輸入車も大半が右ハンドル化されており、一部の高級車とかスーパーカー的な車は別として、普通の実用車レベルでは左ハンドルはほとんどなくなりました。

こうなると自由な車選びができなくなり、左ハンドルであることを前提に車選びをするという主客転倒の状況となり、とうとう見つかったのがひと世代前のBMW3シリーズでした。
ところがこの夫婦、BMWがまったくお好みではないらしく、会う度に罵詈雑言、文句ばかり言いながら乗っています。

何から何までケナしまくりで、それは「乗ればわかる」というわけで、マロニエ君も何度か運転させてもらいましたが、言っていることは半分はまあわかりますが、とても良い部分もたくさんあって評価が辛過ぎるような気もしますが、いずれにしろハンドルの位置というのは、それほど人によっては大事だということで、最悪の場合、テレビで見たような大事故にもなるということがわかりました。

テレビのベンツは全損事故と言っても、所詮は物損事故でしたが、これで対向車と衝突でもして人身事故になる可能性もあることを考えるとやはり怖いです。

ちなみにマロニエ君はピアノは下手ですが、運転はとりあえず不自由なく楽にできるほうで、ハンドルも左右どちらでもまったくハンディなく乗れますが、それはひとえに慣れているからであって、つまり慣れないことはときに恐ろしい結果をもたらすものだと思いました。
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ゲニューシャスなど

クラシック倶楽部の録画から昨年6月のラルス・フォークトのピアノリサイタルを視ました。

会場は紀尾井ホールで、まず冒頭のシューベルトの晩年のハ短調のソナタを聴いてみるも、時間の関係から第1楽章と第4楽章のみで、あの美しい第2楽章は割愛されてしまいました。
尤も、フォークトの演奏ではなかなかシューベルトの切々たる美しさは伝わらず、これでは聴き逃してもあまり惜しくはないようでした。

その後はシェーンベルクの6つの小品op.19を弾き、そこから切れ目なくベートーヴェン最後のソナタへと続けられます。
インタビューではそうすることに意味があるというようなことを言っていましたが、マロニエ君は「そうかなぁ…」という感じでいまいちその意図は計りかねました。
シューベルトとベートーヴェンは共に晩年のソナタで、なおかつハ短調というところで統一したのでしょうか。
まあ、そのあたりはどうでもいいけれど、以前からどうしてもこの人の演奏には共感を得ることができず、それは今回の演奏でも同様の印象を上書きすることになりました。
もちろん、どんなピアニストでも全てに共感を得ることなどまずありませんが、ところどころで「なるほどね」とか「そういうことか」と思わせる何かがないと、聴いているほうはつまらないものです。

ひところでいうと、この人のピアノで最も気になるのはガサツさです。
解釈においても、ディテールにおいても、意味あって必然性に後押しされてそうなるというところが見受けられず、全体的に大味で、外国製の作りの粗い製品に触れるような感じがします。
なんでも最近ショパンのアルバムをリリースしたとかで、怖いもの見たさでどんなことになっているのやら聴いてみたいような気もしますが、自分で購入する気などさらさらないので、そのチャンスがあるかどうかわかりませんね。

リサイタルに戻ると、せっかく立派な曲ばかりを弾いているのに心に染み入るところがなく、ざっくりいうと音の強弱とテンポの緩急ですべてを処理している…そんな独りよがりな印象があるばかりです。

もうひとつ、ルーカス・ゲニューシャスのピアノでラフマニノフのピアノ協奏曲第2番(N響)を聴きましたが、いかにもロシア人といった野性が、本性を抑制しなくてはならないという意志の力と戦っているようです。
そうはいっても、体の作りから指のテクニックまで、すべてが分厚くたくましくできており、さすがに聴いていて不安感というものはありません。
小指も普通の男性の中指ぐらい優にありそうで、あれだけの体格でピレシュやケフェレックと同じサイズのピアノを弾くわけですから、まして音楽一家に生まれ育って訓練を積めば、そりゃあずいぶんと有利であることに違いありません。

しかし、感情が先行するロシアの演奏家にしてはもうひとつ酔えないし、どこか力くらべのような、タラタラと汗をかきつつガッチリと作法通りの演奏を確実に片付けていくだけで、この人なりの個性を楽しむ余地であるとか、いま目の前に作品が命を吹き込まれて立ちのぼってくるような感銘は個人的にあまりありませんでした。
あらかじめ予定され決められたことが、ほぼ間違いなく実行に移されている現場…というだけの印象。

不思議なのは、若い男性の、いかにも体温の高そうな汗ばんだ太い指から出てくる音は、期待するほど凛々しいものではなく、むしろ伸びのない、多くが押し潰したような音であったのは意外でした。

ときどきロシアのピアニストに見かけるパターンとしては、楽曲の一つ一つに自己の感興感性を照応させるのではなく、ピアノ演奏をパターンというか「型」にはめて処理することで何でも弾いていく人がいますが、ゲニューシャスもどことなくそのタイプのような印象を覚えました。
うわ!と思ったのは、コーダからはことさら意識的にヒートアップして、派手に締めくくってみせたのは、ウケを充分心得ているようで、そこだけ数倍も練習しているように見えてしまいました。

後半は白鳥の湖。
指揮者のトゥガン・ソヒエフがボリショイ劇場の音楽監督というだけのことはあって、N響がまるでロシアのオーケストラのように変身して、これにはさすがに驚きました。
ソヒエフ氏が選んだという特別バージョンの組曲でしたが、なんの小細工も施さず、チャイコフスキーの作品をあるがままに描き出すことを狙っているのか、誤解を恐れずにいうなら、恰幅がよく、同時に厚塗りだが平面的で、どこまでも広がる壮大な景色のように演奏されました。
テンポも強弱も一定で、ロシア人以外にああいった演奏は体質的にできないと思いました。

日頃から上手いことはわかっていても、いまいち好きになれないN響ですが、指揮者によってこれほど変幻自在なオーケストラであることがわかると、あらためてある種の凄みのようなものを感じました。

現代はカリスマ的な大物が出にくい反面で、平均的な実力や偏差値はとても上がっているご時世で、集団で緻密なアンサンブルとクオリティがものをいうオーケストラとなると、そりゃあN響のようなオーケストラが俄然力を発揮するのもむべなるかなという感じでした。
N響も紛れもなくジャパンクオリティのひとつに列せられて然るべきもののようです。
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畳とカーナビは…

我が家にある車の1台には4年ほど前のカーナビがついています。
パナソニックのゴリラですが、このカーナビは購入後3年ぐらいがったか、地図情報が無料で新しいものに書き換えることができるのが特徴でした。更新された地図情報をネットからSDカードへダウンロードして、それをカーナビへ差し込んで読み込ませるというものです。

ところが、最後の1年ぐらいは面倒臭くてしばらく最新版をダウンロードしなかったところ、気がついた時には無料更新の時期を過ぎてしまっていたので、ついにそのままになってしまっています。

普段は特に困ることもないので、約2年前の地図データのまま、過日ちょっとした車の旅行にでかけました。
広島を経由して、しまなみ海道へまわり、四国を横断するところまでは良かったのですが、佐田岬半島(四国西端の半島)からフェリーに乗って九州に再上陸(大分県)したところ、ここで地図情報が古いことがあらわになり、新しい道があるにもかかわらず、わざわざ遠回りするルート案内を繰り返すのは大いに面白くない気分でした。

最適のルートでないぐらいはやむを得ないとしても、古い地図データには存在しない道(それは大抵、広くて走りやすい道)がある場合、次々に不適切な回りくどいリルートをしてくるあたりは、カーナビがバカに思えてしまって、あれはどうもいけません。

それはカーナビの機能が悪いのではなく、ひとえに地図情報が古いのだから致し方無いわけですが、それはわかっていても、いま目の前に広くて新しい道があるにもかかわらず、それがナビゲーションに反映されないのを何度も見ると、やっぱりどうしようもなく嫌になってしまいます。

とくに帰路は震災の影響で大分自動車道の通行止区間にあたり、やむなく東九州自動車道を通りましたが、近年開通したルートなので、ナビ画面では何度も自車マークが空中を飛んでいるような動きになり、わかっちゃいても虚しいものでした。

むかし「畳となんとかは新しいのに限る…」というような言い回しがありましたが、カーナビの地図データこそまさにそれだと言えるようです。とくに最近は公共事業が盛んなのかどうか知らないけれど、次から次に新しい道があちらこちらで開通しているようで、そうなると、少なくとも見知らぬ土地に行くようなときには、常に「最新」とは言わないけれど、できるだけ新しいデータでないといけないことを思い知らされたわけです。

そうはいっても、普段は別に困るわけではないないし、更新するには以前ならタダだったものが1回につき1万円近くかかります。
データはというと、年に6回ほど更新されているらしく、さて、そういう状況の中でいつ更新したものか。
これが問題で、なかなか踏ん切りがつきません。

今回のように旅行の予定でもあれば、それを機に新しくすればいいわけですが、それはもう終わったし、しばらく遠出の予定もないとなると、だったらできるだけ先送りしたほうがいいような気もします。
とくに直近で必要がなければ、先送りして粘れるだけ粘れば、そのぶん最新データがゲットできるわけで、このあたりが、どうも我ながらみみっちいなと思いますが、でも…そうなんですよね。

それはそうと、松山市から佐田岬半島へと向かう海岸線の道路は、約90kmに及ぶ理想的なドライブコースで、日曜というのに交通量もきわめて少なく、道幅も広いし路面は良好、景色も抜群、信号はほとんどナシという好条件で、その心地よさは今だに深く心に刻まれています。
それにひきかえ、大分側に上がったとたん、ちまちました道幅の狭い道路にはガックリでした。

錦帯橋、厳島神社、大和ミュージアム、しまなみ海道、道後温泉などめぐって、走行距離にして900kmに及ぶ旅でしたが、残念なるかな今回はピアノ店訪問はひとつもナシでした。
でも、下手にピアノ店などに立ち寄っていると、それ以上の大事な見どころを逃してしまうことも少なくないので、これはこれでよかったと思います。
たまに旅に出るのは理屈抜きにいいものですね。
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練習を楽しむ才能

このブロクを読んでメールを下さった方で、同じく福岡市在住の方がいらっしゃいます。

とても個性的な方で、いわゆる一般的平均的な考えの持ち主ではありませんが、自分の感性と価値観を信じる生き方を静かに実践しておられる方とでも言えばいいでしょうか。いわゆるポピュリズム精神に重きを置かないためか、こういう人はとりわけ現代では異端児的で、ちょっと変わってる人というような位置づけになるようですが、なにかというと定見もなく、浅薄で迎合的な発想しかできない人間が大多数な中、まことにアッパレであることはいうまでもありません。

この方とはしばしばメールのやり取りもあり、電話でもずいぶん話して、いわば関係の「実績」を積んだことから、先日ついにその方のお宅に訪問することになり、思いがけなく食事までごちそうになってしまいました。
人間性もさることながら、むこうも男性だったのでお宅に行って二人で会うということもできたわけで、これがもし女性だったらそう気易くお尋ねするとこもできなかったかもしれません。

食事がすむと、ピアノのある部屋に案内されました。
いちおう個人情報という面にもあたるのかもしれませんし、今時のことなので、どんなピアノかというような具体的な記述は控えておきますが、とにかく普段ここでどのような練習をしているのかということをつぶさに説明していただき、ピアノの上達にかける情熱にはただただ圧倒される思いでした。

この方は大人になってからピアノを始められ、職業柄、別分野でひとつの事を極められている方なので、修行にはまず「基本」が大切であることをよくご存知らしく、基本なくしては何事もはじまらないし、しっかりした基本の上にこそ、とりどりの花も咲けば応用もきくという至極もっともなお考えらしいのはさすがです。

というわけで、もっか猛練習の毎日を送られているようですが、その練習というのが半端ではありませんでした。
曲は簡単なバッハの小品やブルグミュラーなどに過ぎませんが、単なる指練習であるハノンだけでも1時間2時間やってもまったく苦にならないのだそうで、後半は話をしながら指だけは休むことなくハノン練習で指はずっと上ったり下りたりしているという、これまでに見たこともない独特の光景でした。
さらに夜も更けると電気のキーボードに移行して、これで音を出さずに指練習を継続、車にも職場にも同じキーボードがある由で、僅かな時間を見つけてはハノンで指を動かすという、お仕事とその他生活の隙間にはすべてピアノの練習が入れ込まれているような毎日を過ごされているようです。
しかもそれが苦にならないどころか、「楽しい」のだそうですから恐れ入りました。

根っから練習嫌いのマロニエ君にしてみれば、自分とは真逆の人物が、目の前で真逆のことをやって見せながら嬉々としているのですから、これはもう、とてつもないものを見てしまった気分でした。

練習というのはしなくちゃいけないからするものだと思っていたマロニエ君でしたが、中には練習そのものを楽しむという方がおられて、これは仕事でも勉強でも同じでしょうが、嫌々やるのと楽しんでやるのとでは、もうそれだけで嫌々組はかないっこないわけです。

で、驚き、呆れ、圧倒されたマロニエ君でしたが、逆に心配なことも頭をよぎりました。
あまりの過剰練習からピアニストへの道を断念したシューマンのように、やり過ぎて手を壊しては元も子もないので、それだけは注意されたほうがいいのでは…と言いましたが、もちろん危ないと感じた時はすぐに止めて休ませているから心配には及ばないと、その点もぬかりはないようでした。
マロニエ君など、ろくに弾けもしないくせにショパンのエチュードなどやっていると、指というより手首から肘にかけての筋肉が無理をしてしまうのか、かなり痛くなって怖くなることがしばしばです。

そこは根性ナシのマロニエ君なので直ぐにやめてしまいますが、これを弾き続けることで克服しようなどと思って強引にやっていると、いつか手を壊してしまう可能性も低くはないでしょう。

いずれにしろ、およそ音楽とも言えないハノンのような無機質な練習をあれだけ楽しく積めるというのは、いやはや羨ましいというほかはありませんし、それで楽しめることそのものも「才能」だと思います。

考えてみれば、もともとピアニストなどは、ステージでの演奏など氷山の一角であって、いわば人生の時間の大半を練習につぎ込む職業でもあるわけで、やはりこれは練習のできるメンタリティを持っていることが必要で、それも重要な才能のひとつだと思います。
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服の流行

着なくなった服の整理というのはなかなか難しいものです。
とくに男性もののほうが、際立った流行に左右されないぶん、より困難かもしれません。

その点女性は、絶えずこの点にアンテナを立てトレンドに敏感なので、順次入れ替えていくことが半ば当たり前かもしれませんが、男性の場合は、よほどのことでない限り服をどうこうすることって…なかなかないのです。

でも、例えば10年(かどうか知らないけれど)前に比べたら、例えばワイシャツの身ごろというか、横幅が今はかなり細身になってきていて、マロニエ君も当初は最近の男性は身体が小さくなってしまったんだろうか…と勘違いしていた時期がありました。
首周りや袖丈は同じでも、身ごろは明らかにタイトな作りになりましたし、ジャケット然り、パンツなんて細すぎて「なにこれ?」と思うものも少なくありません。

マロニエ君は通常はLサイズなのですが、身ごろに限っていうなら、一昔前のMより今のLは細いかもしれないぐらい、気がついたら変わってしまっているようです。

シャツなどを必要に応じてちょこちょこ買っているぶんには、さほど気がつくこともありませんでしたが、だんだんと何年も前のシャツなどは着なくなってしまうようです。他の人も同じかどうか知りませんが、やはり新しく買ったものを着る機会が多くなり、以前のものはクリーニングから戻ってきたまま袋に入って状態でタンスの棚に眠っています。

それでも、例えばボタンダウンのシャツなどは、べつにデザインにそう違いはないだろうと思って昔のものを出して着てみると、中にはやけに幅広で(体型はそれほど変わっていないので)、以前はこんなものをなんとも思わないで着ていたのかと思うと、さすがにびっくりしてしまいます。

流行というのは恐ろしいもので、「普通」の基準点が変わってしまうことらしく、たかだかボタンダウンのシャツでも古いものは何だかおかしくてもう着られません。
そんなものがあちこちを占領しているため、限られたスペースはやたらひしめき合い、それが何の意味もないことにだんだん気が付き始めました。
とくに傷んでもいない、かつては気に入って買った服を廃棄するのはちょっとした抵抗感もありますが、さりとてこのままタンスの肥やしにしても何の意味もなく、ただそこにあってスペースを占領するだけで、結局じゃまなだけです。

で、この先、着ることはないであろうものを昨日ついに引っ張りだして、再検討し、間違いなく着ないと断定できるものだけをさらに選び出しました。
パンツ類は別で、この日の整理は上半身ものだけにしましたが、それでもIKEAの青い袋の中型がいっぱいになるだけの服が着ることはないアイテムとして認定され、廃棄の対象となりました。

そのときはちょっと複雑な気持ちも無くはなかったかれど、いったんおさらばしてみると却ってスッキリして、やはり以前も書いたように、とくに幸福感もないような無駄なモノに囲まれて生活するのは愚かしいことだというのは間違いないようです。

BSチャンネルでは、昔の映画やくだらぬドラマなどが流れていたりしますが、そこで目にする服装は、なんであんなにみんなダボダボのダサいジャケットやコートを当然のように着ていたのかと思うと、どうしようもなく笑ってしまいます。
その笑いの根拠となるのは、それがカッコイイ、ステキという大前提から、みんながおかしな服装をしているように現代の目には映るからだと思います。

若い人がピチピチの細いスーツなんかを着ているのを見ると、これもどうかと思うし、また年月が経てばそれをドラマなどで見て笑うことに必ずなるわけで、これの繰り返しでアパレル業界は成り立っているんでしょうね。
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苦手な音

地震の話は気が滅入るのでピアノの話に戻ります。

過日、ウゴルスキの音の美しさについて書いたばかりでしたが、このCDは単独でも持っているけれど、たまたま近くにあったグラモフォンのブラームス全集の中からピアノソナタを取り出して聴いたものでした。

で、なんとはなしにその続きを聴いてみようと続く番号のCDを見ると、主題と変奏(弦楽六重奏の第二楽章のピアノ版)、シューマンの主題による変奏曲、ヘンデルの主題による変奏曲とフーガで、演奏はダニエル・バレンボイムと記されています。
たしか前にもこの全集を聞いている時、バレンボイムのピアノは苦手なのでこのディスクはすっ飛ばした記憶がよみがえったのですが、今回はどんなものか聴いてみることにしました。

果たして、身構えていた以上にバレンボイムの「音」がまさにいきなりスピーカーから飛び出してきて、わっ!と思いましたが、とりあえず一度だけでも最後まで聴いてみることに。

音楽的にもまったく自分には合わないし、どこか力ずくというか、ただ弾けよがしに弾いているだけとしか思えないものでした。まるで昔むかしの音大生が、ただ力んで弾いているだけといった風情で、よくこれで天才ピアニストが務まったものだと思います。
さらにその音は、マロニエ君が苦手としてきたまぎれもない「あの音」で、いつも音がペシャっとつぶれたようで、しかもその中に硬い針金が入ったようなツンツンしており、どうしたらこんな音ばかり出るのか不思議なくらいでした。

資料を見ると1972年の録音のようですから、すでに40年以上前の演奏で、おそらく30歳ぐらいだったのでしょうが、基本的に演奏というものは人の声のようなもので生涯変わらないということがよくわかります。

彼が指揮を始めたことは、むろんそれに値する天分があったなど複合的な理由からだろうと思いますが、その中にはピアノ一本でやっていくだけの力というか、ピアニスト業だけで生涯聴衆を惹きつけるだけの魅力には乏しいことを本能的に感じていたからだろうと勝手ながら思います。

調律師の故・辻文明さんは「一流のピニストにはソノリティがあるものだ」というような意味のことを言われたと、何かで読んだ記憶がありますが、たしかに、世界的に第一級のピアニストともなると、「その人固有の音」というのが明瞭に存在し、楽器の個性とか優れた調整による差を飛び越えてしまうことが珍しくありません。

最も甚だしいのがホロヴィッツで、彼は晩年になって日本やヨーロッパにも出かけて演奏するようになりましたが、ロンドンだったか練習用のハンブルク・スタインウェイを弾いたり、ロシアではスクリャービンの生家にあった古いピアノで弾いている映像がありますが、その音はまぎれもない「ホロヴィッツの音」になっていることには、ただただ舌を巻くばかり。
彼のあの独特な音は、ホロヴィッツのために厳選されたニューヨーク・スタインウェイだからこそのものだと思い込んでいたマロニエ君は、それ以前に、どんなピアノでも彼がひとたびキーに触れれば「あの音」になることを知り、強い衝撃を受けたものでした。

また近年はすっかりスタインウェイばかりを弾くアルゲリッチも、もう少し若い頃は、日本公演でもヤマハを弾くことが幾度かありましたが、そこで聞こえてくる音は(実演でも)ヤマハもスタインウェイも関係ないほど「アルゲリッチの音」でした。
むかしVHDディスクというのがあって、ヨーロッパで収録された「アルゲリッチコンサート」では、ラヴェルの夜のガスパールをヤマハで弾いていますが、これもピアノメーカー云々が問題でないほど彼女にしか出せないあの音だったので、ピアノが完全に道具にまわっていることが歴然です。

その点でいうと、グールドの晩年の録音のいくつかはヤマハで録音されていることは周知の事実ですが、とりわけ名演として名高いゴルトベルクは、マロニエ君には、その素晴らしい演奏にもかかわらずヤマハの音が耳についてしまって、これがグールドの魅力の幾分かをスポイルしているように聴こえるのは、かえすがえすも残念な気がします。

しかしこれはあくまで珍しい例というべきで、普通はこのクラスのピアニストになると、専ら本人のソノリティが前に出るので楽器の違いはマロニエ君個人はあまり気になりません。
そういう意味で、バレンボイムの音は個人的にどうしても受け付けないし、あの音は彼の奏法と音楽が、ピアノというきわめてセンシティヴな楽器によって精緻に投映されたものだろうと思うと、それを可能にするピアノという楽器にも感心してしまいます。
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恐怖

熊本では大変なことになり、いま、九州全体が揺れています。

はじめの地震のときはちょうど運転中だったのですが、突然、ポケットの中のケータイから「緊急地震速報」というのが鳴りだして、とつぜん警告音と警告の言葉が大きな音量で流れだしてくるのにはびっくり。
信号停車すると、揺れているのがはっきりわかりました。

家に帰ってTVをつけると、かなりの被害であることがわかり、これは大変なことが起こったと思いました。
0時を過ぎたあたり、今度はTVから強い警告音のようなものが鳴り出して、その直後に家全体がワナワナ震えだして、思わず固まってしまいました。

阪神淡路、福岡玄海沖、東日本など震災が続く中、今度は熊本というわけで、地震というのはまったく予想のつかいないところで、まったく唐突に起こるものだとというのをつくづく思い知らされます。

今度の熊本の大地震は震源が浅く、余震のしつこさが特徴のようで、これがなかなか収まりません。
それどころか、翌日の真夜中にさらに強い地震があって、TVによれば、前日の揺れは前震であったようで、こっちが「本震」というような言い方に変化してきていて、なんだかしらないけれど、いつまで続くのかと暗澹たる気分です。

いまさら言うまでもないことですが、地震というのは数ある災害の中でも、最高級に人がどうすることもできない最悪のものだと思います。ただただ全身恐怖に身を浸しながら、収まるのを請い願うしかありません。

ところで、以前の震災の教訓からか、上記の「緊急地震速報」というのがケータイを通じてかなりのボリュームで鳴るようになり、このあたりは以前に比べてずいぶんとシステムが進歩したことを痛感しました。

ただ、それは必要というのはわかるけれども、ある一定以上の揺れの場合だと思いますが、マロニエ君のケータイに限ってもすでにこの熊本の地震だけでも5回それが発せられており、そのたびに心臓はバクバクして、これはこれで神経が大いにすり減らされることも事実です。

海洋大国である島国日本では、国内の100%が危険地域だともいえるようで、地震だけは勘弁して欲しいところですが、どうすることもできません。

今回はマロニエ君の居住地である福岡は揺れるだけでこれといった被害も今のところありませんが、震源の熊本からはつぎつぎに恐ろしい被害が報告されて、それらを見るにつけぞっとするばかり。
今日の新聞には、天守閣の瓦が落ちてしまって無残な姿になった熊本城が一面トップに載っていましたし、多くの建物が倒壊、新幹線は脱線、高速道路は陥没し、橋はなくなり、これは大変なことになりました。

きっと復旧には、相当の時間がかかるでしょうね。
それにしても、あの家が揺れるときのあの感覚、加えてなんとも得体のしれないドドドという音は、まさに悪魔の仕業のようで戦慄します。
とにかく早く終わって欲しいです!!!
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ウゴルスキの音

音に特徴のあるピアニストというのはいろいろといるものですが、現在過去を含めて、つい先日、なんとはなしにふっと思いついたのがアナトゥール・ウゴルスキでした。

彼が不遇であったソ連から西側に亡命し、ドイツ・グラモフォンからつぎつぎに新録音が発売される度に、驚きと、これまでに体験したことのない一風変わったピアニズムにある種の違和感をも覚えながら、このケタ違いのピアニストの演奏にはいつも関心を持って接してきたように思います。

いかにもこの人らしい曲目としてはベートーヴェンのディアベッリ変奏曲、メシアンの鳥のカタログ、それにブラームスの3つのピアノソナタなどが真っ先に思い出され、久々にブラームスのソナタを聴いてみることに。

1、2番も壮麗で見事だけど、とくに3番の出だしの和音の輝くような鮮烈さには、とろんとした眼がカッと見開かされるみたいで、もういきなりノックアウトされました。
譜読みの上手くて指の動きが素晴らしいピアニストはごろごろいても、こういう腹から鳴るような音を出すピアニストというのはめっきりいなくなりました。叩きまくることを恐れてか、妙にスタミナのない、背中を押してやりたくなるような植物系ピアニストがずいぶん増えたように思います。
そんな耳に、ウゴルスキの演奏は食べきれない量の最高級ディナーでも出されたようです。
しかも、単なる轟音にあらず、どんな強打でも音が割れず、かといって体育会系のマッチョ演奏ともまったく違う、内的な表現とか、真綿でくるむようなpp、pppの妙技にも長けていて、この人がまぎれもない天分と個性をもった、他に代えがたい大器であったことを再確認しました。

こんなとてつもないピアノを弾く人が、ソ連時代にはピアノを弾くことさえも許されない状況が続いたなどというエピソードが有りますが、まったくもって驚くほかはありません。

たしか彼が西側デビューしてしばらくしたころ、日本にもやってきて、渋谷のオーチャードホールでディアベッリ変奏曲を弾いたリサイタルの様子はテレビ放映され、そこでも傑出した音の輝きが印象的でした。
録画はしていたものの、VHSで今や見ることも叶いませんが、当時つや消しだった頃の1980年代初頭のスタインウェイから紡ぎだされる燦然として重量感のある音色は今も深く印象に残っています。

ウゴルスキは最近どうしているのか、ネットで調べればわかるのかもしれませんが、とんと話題にならないところをみるとさほど演奏活動をしていないのかもしれませんし、だとすると非常に残念です。
CDで彼を最後に認識したのは、ドイツ・グラモフォンではないどこかのレーベルからスクリャービンのピアノソナタ全集を出したときで、それいらい音沙汰が無いような気がして、その動向が気になります。

ウゴルスキのあの絢爛とした音色の秘密は、ひとつには彼の指ではないかと思っています。
大きくて、太く肉厚で、しかもそれがクニャクニャした軟体動物のようで、あんな特殊な指の作りだからこそ、ダイナミクスにあふれた極彩色の音色のパレットとなり、どんなフォルテッシモでも音に一定のしなやかさがあって、決して叩きつけるような硬質な音になりません。

ウゴルスキに限らず、アラウとか、日本人では賛否両論のフジコ・ヘミングも、太いソーセージみたいな指から、温かな芳醇な音を出すところをみると、どんなに難曲を弾きこなせても、蜘蛛の足のように細い指をしたピアニストは、率直にいってあまり音に期待はできません。
パッと音色は思い出せませんが、若いころのポゴレリチもそんな魔物のような指をくねらせながら、あれこれと独特な演奏を繰り広げていたのをいま思い出しました。

音色でいうと、ミケランジェリやポリーニという人も少なく無いと思いますが、マロニエ君の好みで言うと、そのあたりはあまりにも苦悩のごとく追求され過ぎており、聴いていて開放感がないというか、もっと率直にいうと息が詰まってしまうようです。

ウゴルスキの音楽を全肯定しているわけではないですが、彼のピアノの音を聴いていると、ピアノという楽器の広さと深さを同時に押し広げられるような気がして、独特の快感があるのは確かでした。
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筒抜けのストレス

昨年の大晦日にギックリ腰になってからというもの、しばらくは整体院に通っていたのですが、いろいろと感じるところがあって最近になって行くのを止めました。

もちろん大きくはギックリ腰がようやく治ってきたということもあり、一説によれば、整体など行かずとも、この手のことは整形外科などに行ってレントゲンを撮り、とくに骨に異常がなければ主に時間が解決とする専門家の意見もあるので、整体の有用性というのは疑問の余地がありますが…。

やめたのは整体院の施術そのものが気に入らなかったというわけではなくて、むしろ行った後は身体が軽くなり、整体師さんの話では、痛めた腰を治すのももちろんだけれども、そのあともできるだけ来てもらって身体をほぐしたほうが、全身に変なクセなどつかずに良いということを言われていました。

マロニエ君もそれにはある程度賛同できていたし、はじめに行った金取り主義とは違って、こちらの整体院は価格も一回500円ほどと非常にリーズナブルで、しばらくは暇を見つけてはすかさず予約をとって通っていました。
全身をプロの手でほぐしてもらうというのは、ときにきつい瞬間もあるけれど、全体としてはとても気持ちがよく、すがすがしい気分で帰ることもしばしばで、これは続けたほうが身体にも良いだろうと実感していたほどです。

ところがそれほど意識はしていませんでしたが、回を重ねるごとに億劫さが増してきて、ハッと気がついたときは1週間行かなくなり、それが10日、2週間と間隔が伸びてきて、ついには行かなくなってしまったのです。
その理由というのは、うすうす自分でもわかっていました。

整体院はマンションの1階の狭いとろこだったのですが、そこにズラリと施術台が並べられ、その間にはうすいカーテンがぶら下がっているだけです。
ということは、施術中の姿を他者に見られる心配はないけれど、そこで交わされる会話はたとえ小声であっても院内に筒抜けでした。

この整体院には常時数名の男女整体師がいつも忙しく働いており、それぞれがお客さんの身体を押したりほぐしたり引っ張ったりと、まさにかなりの肉体労働だろうと思いました。
ほとんど機械に頼らない施術であるだけ、人の手によって大半の時間(通常30分)が費やされるばかりか、その間、受け身である客との会話がとめどな続きます。

世間話、身体のこと、家族のこと、先日どうしたこうしたという話まで、話題は多岐にわたり、それを整体師さん達はさもおもしろおかしく聞き役に回って、お客さんの気ままな話をすべて引き取って相槌を打っています。
それが個室ならともかく、わずか数十センチしか離れていない施術台のあちこちから聞こえてくるのですから、いやでも鮮明に耳に入ってくるわけで、当初からそれだけはちょっと抵抗があったけれど、慣れるどころか、ますますその空気感が耐え難いものになってきたのです。

こういっては何ですが、まあ第三者として聞くにはまことにくだらない話題で、話している方も、普段これほど熱心に話を聞いてくれる人なんていないはずから、余計にいい調子で喋っているのが痛々しいし、それを完璧にガマンしながら面白おかしく、まるで重要な取引先の接待のように愛想よく相槌を打っているのは、たとえ仕事とはいえ、耳にするこちらのほうがいたたまれない気分になります。

むろん、こちらにもあれこれと話しかけてきてはくれますが、他者の耳が気になってしかたなく、マロニエ君はとてもではないですがそれに乗じてペラペラ喋るというような無邪気さを持ちあわせておらず、そういうことがだんだんにストレスになって、ついには行くのをやめてしまったのでした。

それにしても、あの整体院の皆さんは、若いのにそのプロ根性はすごいなと素直に思いましたし、同時に何か切ない感じもあってマロニエ君にとっては快適な空間とはなり得ませんでした。

きっと皆さん、今日もあの調子でせっせと他人の身体をもみほぐしながら、神経も使いながらお客さんの四方山話を聞いているのでしょう。いやはや見上げたものです!
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反田恭平

反田恭平というピアニストを初めて映像で見ました。
お顔を見て、以前雑誌『ショパン』の表紙に出ておられた方だと、すぐに思い出しました。

少し前の『題名のない音楽会』で、「音楽業界が注目する4人の音楽家」の中のひとりとして登場し、リストの巡礼の年から「タランテラ」を弾いたのですが、その上手さは圧倒的でした。

肉厚できれいな、恵まれた大きな手がまったく無理なく動いて、この難曲を実に周到に弾き切ったという印象。
会場はたしかオペラシティのコンサートホールだったと思いますが、このピアニストの集中度の高い演奏によって、あの広い会場を埋め尽くす聴衆がひきこまれる気配までテレビ画面から伝わってくるようでした。

まずなにより驚くべきはその圧倒的な技巧でしょう。
表現も借りものの辻褄合わせではなく、ひとつひとつが確信に満ちていて、こういう人が出てきたのかと唸りました。

音楽的にも落ち着いた構えで大きな広がりがあり、その腰のすわった弾きっぷりはまるで大家のようでもありますが、同時に今時の精密さがその演奏を裏打ちしているようでもあります。
現代は技巧的な平均レヴェルがずんと上がっているのか、かつては難曲として多くのピアニストがあまり近づかないような曲でも、今は誰でもスラスラ弾いてしまいますが、そんな中でもこの反田氏の演奏は頭一つ出ているようです。

ふと思い出したのはユジャ・ワンですが、圧倒的な技巧の持ち主というのは、演奏家としての根底に余裕があるからか、音楽的にも変な策略めいたものがなく、むしろ素直で、非常に真っ当に曲が流れていくのが印象的です。

ただし、少々あれっ?と思ったのは、NHKの「らららクラシック」でショパンの雨だれの前奏曲を取り上げた回にも、通しの演奏者として反田氏が登場していましたが、弾くだけならシロウトでも弾ける「雨だれ」では、マロニエ君はあまり感心しませんでした。

これだけのテクニシャンにしてみれば、あまりにシンプルで腕のふるい甲斐もないということなのかもしれませんが、全身筋肉のスポーツマンが無理にゆっくり散歩でもしているみたいで、心の綾にふれるような繊細さは感じられず、どちらかというと殺風景なショパンという印象でしたので、やはりこういう人は、演奏至難な曲に挑む時ほど能力のピントが合って、力が発揮できるのかもしれません。

敢えて言わせてもらうならば、マロニエ君は、どれほどの腕達者であろうとも、シンプルな曲や小品を弾かせて心を打つ演奏ができなければ、心から崇拝する気にはなれません。

ふとYouTubeという便利なものがあることを思い出し、反田氏のコンサートの様子をちょっとだけ見てみましたが、ショパンの英雄はちょっと賛同しかねるもので、もしかしたらショパンが合わないのかもとも思いました。
ショパンは、テクニシャンが技術的高みに立って作品を手中に収めたような演奏をすると、いっぺんに作品から嫌われてしまう気がします。その拒絶反応こそが、ショパンの繊細なプライドの証なのかもしれません。

マロニエ君が見た動画では東京のピアノ店が所有するホロヴィッツのスタインウェイを使っていましたが、この楽器の価値はさておいて、反田氏の演奏にはどうもマッチしていないように思われました。
この特別なスタインウェイは、ホロヴィッツがそうしていたように、変幻自在な、ときに魔術的なやり方で多彩な音色を引き出さないと、ただのジャラジャラした音の羅列に聞こえてしまい、あらためてホロヴィッツの芸術的凄味を感じることに…。

とはいえ、ひさびさにすごい日本人ピアニストの登場であることに間違いはなく、まあ、いっぺんCDを買ってみなくてはならない人だろうと思います。

もしうまく行けば、将来、日本のソコロフのような存在になるのかもしれないと思いましたが、まあそれはいささか想像が先行しすぎでしょうか。
もちろん大きな期待を込めて言っているのですが、マロニエ君自身は巷の評判ほどソコロフは好きではないことも付け加えておきたくなりました。音楽的にあまりにも泰然とし過ぎているというか、個人的にはどこか危うさのあるものが好きなのかもしれません。
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カインズ

九州に一号店がオープンしたというホームセンターの「カインズ」に立ち寄ってみました。

関東エリアなど、数えきれないほどの店舗があるようなので本州の方はいまさらでしょうが、九州はこの春ようやくにして初上陸となったようです。
オープン前から、テレビの地元ニュースではカインズのオープンをやたら大々的に取り扱っていたので、ホームセンターの名前などいちいち知らないマロニエ君としては、よほど目新しい店がやってくるのかと思っていました。
…というか、そういう番組の取り上げ方にのせられて「思わされていた」というほうが正確でしょう。

何度もイメージを植え付けられたのが、カインズはただのホームセンターにあらず、独自の開発商品が多くて、センスがあってオシャレで実用的で、これまでのホームセンターの常識をくつがえすようなとてつもないもののようにレポーターなどはわぁわぁ喋りまくっていたものです。

さらに、オープン直前にはやれ報道陣に先行披露があったり、知人が見たというテレビニュースによると、ついには社長だかCEOだか肩書はしらないけれど、この会社の総帥らしき人物がわざわざ福岡入りして、まるでアップルのスティーブ・ジョブズばりの演出でこの九州初オープンについての意義や説明を高らかにぶったというのですから、ずいぶん御大層なことのようでした。
どんなにすごいのかは知らないけれど、ホームセンターというのは要するに、洗剤だのトイレットペーパーだの日用品を売るところじゃないの?と首をひねるのがせいぜいでした。

まあ、別に関心もなかったので、正確にいつオープンしたのかも知りませんでしたが、過日たまたまその近くを通過することになり、平日だったのでそれほど混んではいないだろうと思って、ためしに覗いてみることに…。
覗くぶんマロニエ君もつまりはのせられているわけで、自分でバカだなあとは思いますけど。

駐車場入口に近づくと、車の流れが悪くなり、先を見やると3人ほどの警備員が車の出入りを1台1台必死になって誘導しているらしく、春休みでもあるしこれはやはり人が多くてとてもじゃないのかもと思いましたが、少しずつなんとか車は進み、手招きの方向にハンドルを切ると屋上駐車場に誘導されました。
ところが、屋上駐車場に行くと、車は全体の半分ぐらいしか止まっておらず、あっけなくパーキングを終えました。

エレベーターホールに向かうと、買い物を済ませた人達が向こうから歩いてきますが、その荷物はというとまったくのホームセンターのそれで、なにか特別な感じを受けることはありませんでした。

エレベーターを降りて店内に入ると、まず「あれっ?」と思ったのは店内の広さで、マロニエ君の勝手な想像(ニュースなどで見たイメージ)の半分ぐらいしかない感じでした。
というのも、正面のそう遠くない場所に「むこうの壁」があり、それで売り場の広さというのがおおよそわかりますが、それは予想に反してかなり小ぶりなもので、はじめはその壁の向うにさらなる売り場が広がっているのかと思ったほどです。
しかし、結果的に売り場の奥行きはやはりそこまでで、たとえば今どきのIKEAやイオンモールのような、バカバカしいような広さに慣れてしまっている目には、ずいぶんコンパクトというかむしろ手狭に感じたし、並べられている商品もフツーにホームセンターのそれで、オープン前のあの鳴り物入りの大騒ぎ、とりわけテレビ関係の取材ときたら、ずいぶんと度を越したものだったよう思わざるをえません。

カインズオリジナル商品というのもところどころで見たことは見たけれど、べつにどうといこともなく、どれひとつとってもそんなに大騒ぎするようなものはひとつも見あたりませんでした。
もちろん、ザーッと店内を歩いただけなので、細かいことまではわかりませんが、おおまかな店の雰囲気や商品構成など、全体の調子というのは大体つかめるわけで、特筆大書するようなものはマロニエ君はなにもなかったという印象で、あまりに普通に要るものだけを買ってお店を後にしました。

煽るだけ煽ってあとの責任はまったくとらないマスコミの罪は大きさを、こんなところでも思い知らされた気分で、ま、あたりまえですが、要するにごく普通にあるホームセンターの中のひとつだということ以外、なにもありませんでした。

数あるホームセンターでも、店名が違えばそれぞれちょっとした個性の違いぐらいはあるわけで、カインズの個性もその枠を飛び出すほどのものではなく、とくだん突出したものは感じませんでした。

個人的には、あまりいろいろな商品をまんべんなく並べるよりは、特定の(あるいは得意な)ジャンルに特化して、その上での豊富な品ぞろえなどがあるほうが逆に存在感は引き立つし、結果行ってみようという気にもなりますが、現在のカインズは自宅からかなり遠いこともあるし、いまのところそれでも行きたいという理由もないので、個人的には近くの行き慣れたホームセンターで充分です。

そうそう、カインズのオリジナル商品の中でもかなりの人気ということで、テレビでも繰り返し見せられた積み重ね可能なプラスチックの収納ボックスで斜めのフタのついたアイテムは、もともとはカインズが発祥なのかもしれませんが、いまではどこのスーパーでも類似品が山積みされているし、一向に新鮮味はありませんでした。

最初の打ち上げ花火だけは、やけに仰々しく、これでもかとばかりに空高く打ち上げるというのが今流なのかもしれませんが、あんまりやられると、いち消費者としては却って失望を味わうだけのような気がします。
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ユッセン兄弟

採りだめしていた番組(クラシック倶楽部)の中から、ユッセン兄弟のピアノリサイタルを見てみました。

アルトゥール・ユッセンとルーカス・ユッセンは、オランダ出身の双子のような金髪の兄弟で、曲目はベートーヴェンの4手のためのソナタop.6、ショパンのop.9のノクターン3曲、幻想ポロネーズ、ラヴェルの2台ピアノのためのラ・ヴァルス。
それにしてもこの二人、すみだトリフォニーホールでリサイタルをするとは、よほど人気があるのか…。

冒頭のベートーヴェンの連弾ソナタは作品そのものに個人的に馴染みがなく、ともかく初期の作品で二人揃って活気をもって弾いたという感じでしたが、ショパンからは雰囲気が一変しました。
op.9の3つのノクターンを、1を兄が、2を弟が、3を兄がそれぞれソロで弾くというもので、その間、側に置かれた椅子で待機して、曲が終わると静かにピアノに近づいて、スルスルっと入れ替って弟が2曲めを弾き出し、それが終わったらまた兄が近づいてきてするりと入れ替わって3曲目を引くというもので、こういう光景は初めて目にしました。

日本人の兄弟デュオにも左右の入れ替わりなどあるようですが、あちらはお客さんにその動きを見せて楽しませるためのアクロバティックなパフォーマンスのようですが、ユッセン兄弟のそれは最低限の動きで済ませるおだやかな交代で、自然に受け入れることができたし、これはこれでおもしろいとさえ思いました。

本当に仲の良い兄弟という感じで、弾き方も似ていて、おそらく耳だけで聴いたらどっちが弾いているかわからないだろうと思いました。強いていうなら兄のほうがすこし多弁で、弟のほうが内的といえるかもしれません。

そもそも、大ホールで行なわれるリサイタルで、ショパンのはじめの3つのノクターンが順番に演奏されるというのはなかなかないことですが、これが選曲としてもとても良く、知り尽くした曲のはずなのに不思議な新鮮さを覚えました。
演奏もなかなかのものでセンスがあるし、ショパン作品の演奏としてはバランスの良い美しい演奏だったことは非常に好感が持てました。

マロニエ君は昔から思っていることですが、どんなに大ホールのコンサートでも、ショパンで本当にしみじみと心の綾にふれるような深い感銘を与えるのは、もちろん演奏が良くての話ではありますが、繊細巧緻かつ詩的に奏でられるノクターンである場合が多いのです。

むかしダン・タイ・ソンのリサイタルに行ったとき、アンコールになって彼はその日初めてノクターンを弾きましたが、演奏がはじまるや、会場は水を打ったように静まり返り、一音一音がホールの広い空間にしたたり落ちる言葉以上の言葉のように美しく鳴り響きました。
聴衆もこれに圧倒されて、2000人近い人達が我を忘れたごとく固唾を呑んで、物音も立てずに聴き入った経験はいまも忘れられません。

その繊細な美の世界にじかに触れられたときの満足は、たとえどんなに立派に弾かれたソナタやバラードやエチュードでも得られない圧倒的な世界があり、会場は感動と静謐によって完全に支配されます。

ユッセン兄弟のノクターンがそこまで神がかり的なものであったとはいいませんが、広い会場、弱音でも遠鳴りするスタインウェイから紡ぎだされるショパンの美の世界は、あまり技巧的でも、音数が多すぎても何かが失われてしまうところがあって、その点ではノクターンはショパンに浸り込むにはある意味理想の形式かもしれません。

その後、弟のほうが幻想ポロネーズを弾き、最後は二人でラヴァルスとなりましたが、これはこれで素敵な演奏ではあったけれど、3つのノクターンほどの感銘はありませんでした。
しかし、僅かでも深く印象に刻まれる演奏をするということは、そうざらにあることではありません。

ふたりはインタビューの中で「お客さんがチケットを買ってよかったという演奏をしたい」「10年後にも印象に残るような演奏をしたい」「簡単なことではないけれど…」といっていましたが、一部でもそれができているのは大したものだと思いました。
むろんマロニエ君はチケットは買っていませんけれど!
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豊かな気分

つい先日、不要なものを処分して効率的な時間と空間を手に入れることは甚だ快適であるというようなことを書きました。
世の中には、そんなことは先刻承知で普段から実行されている方もいらっしゃるとは思いますが、マロニエ君のような凡人の場合、自分が考えている以上に不要で無意味なものに取り囲まれて、気がつけば貴重な生活空間が侵食されていることを痛感しているこの頃です。

我が家はガレージも同様で、とりわけマロニエ君の車好きが災いして、使う当てもないパーツやケミカル品やその他諸々のものが文字通り山積していて、実は数年前にあらかたの整理をし、無駄なものは大いに処分した「つもり」でした。

しかし、あらためて見てみると、それはまさに下ごしらえ程度のことであって、本当の整理整頓とは程遠く、ついにこのエリアへ手を付けることにしました。
前回、整理と処分で一番難儀なことは「着手」することだと書きましたが、その意味では、ともかく手を付けたということが大きいと自画自賛しているところです。

それにしても驚くべきは、要らないものというのは、いたるところで予想以上に存在しており、それらが集積蓄積されて貴重なスペースを相当量侵害し、さらには当人はそれにほとんど気が付かない点だと思います。

だからといって前回も書いたように、必要な物、あるいは取っておきたい物まで無理して捨てる必要はまったくないと思うし、後ろ髪を引かれてまで処分するのでは却ってストレスとなるので、極度の処分はマロニエ君は反対です。
しかし、どう考えても要らないものかどうか冷静な目で見てみると、まぎれもなく不必要で、使う見込みもないようなものがゴロゴロといくらでもあるのには我ながら閉口します。

昔は使わなくても、いろいろなものがガレージに所狭しと並んでいるだけで、マニアックな雰囲気に浸るという子供じみた満足もあったのですが、さすがにいい歳になると、そんなオバカな情緒も干からびてくるし、なによりスペースの有効利用という点が俄然大切に思えてきました。

いったん手を付けると仕分け作業にも「流れ」と「リズム」みたいなものが出てきて、このところ毎晩のようにガレージに入っては不要物の選別をし、さらに可燃ごみと燃えないごみを分別し、それぞれの袋へパズルよろしく詰め込むのが日課になり、これはこれで結構楽しくもありました。

他地域の自治体もほぼ同様だろうと思いますが、燃えないごみは福岡市では月に一度、市の指定の袋に入れておきさえすれば夜中に回収してくれます。
可燃ごみは2~3日に一度のペースなのでゆったり構えていられますが、燃えないごみは一度出し損じると次は一月先になるので、それもあってかなり積極的にこちらの選び出しには集中しました。

つくづく思ったことは、モノにはまあそれなりに思い出がないといえばウソになりますが、それよりも、なんでこんなものを後生大事に今日までとっておいたのか、自分の短慮と愚かしさのほうが身にしみました。
とくに強調しておきたいことは、前回と重複しますが、「これはきっとそのうち何かの役に経つだろう」などというのは、ほとんど幻想で、現実はまずそんな出番などほとんどないということ。

仮に、万が一にもそういう事があったとしても、そんなわずかなことのために長年にわたり大量の不要物を抱え込んでおくなんて、これこそバカバカしく不健全で、なにか必要なものがあればその都度、それだけをどうにかすればいいのだということがよくわかりました。
ガレージに関していうなら、数年前に較べると物の量は半分どころか、1/3か1/4ぐらいまで量を減らしたと思いますが、ではそれでなにか困るかというと、これがもう情けないほどまったくなにひとつ困らないし、むしろゴミゴミしいものが姿を消し、そのぶんスッキリきれいになって、新たな空間が出現するのは思っていた以上に爽快です。

最近では、郵便で届くDMひとつでも、こまめに捨てておこうという気分が定着しつつあり、つくづくこれは習慣の問題だと思います。いつまで続くかはわかりませんが、まあそのうち息切れしたにしても、ときどき家の中のダイエットをするのは決してムダではないという気がしています。
余計なものが姿を消してスッキリするのは、理屈ではなしに気持ちがいいもので、なんだかずいぶん得をしたようでもあるし、物の量は減っているのに逆に豊かな気分になれるのはおもしろいなあ…と感じ入っている次第です。
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入賞者ガラ

先日の日曜夜、NHKのEテレで、今年東京で行われた「ショパン国際ピアノ・コンクール・入賞者ガラ・コンサート」が放送されましたが、感じるところがいろいろとあるコンサートというか番組でした。

当節、あまり率直に書くのもはばかられるけれど、かといって心にもないことを述べても何の意味もなく、ごく簡単に感想を書くことにします。

実際のコンサートではどうだったか知りませんが、放送されたのは入賞者の下位から上位に上がっていくというもので、
第6位 ドミトリー・シンキン(ロシア)
第5位 イーケ・トニー・ヤン(カナダ)
第4位 エリック・ルー(アメリカ)
第3位 ケイト・リュウ(アメリカ)
第2位 シャルル・リシャール・アムラン(カナダ)
第1位 チョ・ソンジン(韓国)
という順序。

シンキン:自ら作曲もするというだけあって、スケルツォ第2番を6人中ただひとり独自の感性と解釈で弾いていたのが印象的。音符に意味を見定め、それを音楽の「言葉」へと変換していたと感じられたのは彼だけ。また、ピアニストとしての逞しい骨格が感じられるところはさすがはロシアというべきか。

ヤン:ワルツの第1番を弾いていたけれど、繊細さやワルツの洒落っ気はなく、大仰なばかりの演奏。最年少というが、年令を重ねてもおそらくこのあたりの本質は変わらないであろうし、ショパンの世界とは違ったものが似合いそうな若者。

ルー:オーケストラと一緒にアンダンテ・スピアナートと華麗なる…を弾いたけれど、ただ弾いただけという感じで、演奏の腰が浮いている。ミスタッチも多いし難所になると指がやや怪しくなるのは、いかにも心もとなく、器が小さいという感じ。

リュウ:マズルカ賞を取るほど彼女の演奏(とくにマズルカ)は高く評価されたというが、マロニエ君の耳にはそれほどのものには聴こえなかった。緩急強弱を強調する手法が目立ち、作品の核心に迫っているかというと疑問を感じる。なんでもない部分…でも心のひだのようなものが隠されているところなど、チャカチャカとエチュードのように弾いたり、そうかとおもうと意味不明のねっとり感を出してみたり。やけに上ばかり見て弾く姿が音楽表現に重きをおく人のように見えるのか…。

アムラン:つい先日デビューCDを聴いて、それなりの好印象を得たと書いたばかりだったけれど、この日の演奏を聞いた限りでは早くもそれを保留にしたくなる。若いに似合わぬ、ずいぶんと貫禄のある身体を深く沈めて悠然たる構えで弾くのは期待を誘うが、実はそれほど深いものは感じられない。協奏曲第2番の第2楽章はひとつの聞き所でもあるが、メリハリのないスロー調というだけで、甘く初々しい語りなどはさして伝わらず。こういう演奏が繊細さにあふれた美しさなどと評価されるのだろうか…。また指の動きも現代の若手ピアニストとしてはごく標準の域を出ず、ショパンでは大切な装飾音の取り扱いにセンスや配慮が感じられない。

ソンジン:演奏回数を重ねるごとに表現が練れてくるのかと思いきや、あいかわらず謙虚で丁寧な雰囲気を漂わせつつ、音楽的にはフォルムが確定せず迷っている印象。嫌味もないが、ぜひもう一度聴きたいと思わせる魅力がない。コンクールでポイントを稼げるよう訓練を積んで整えられた演奏で、なんとはなしにイメージ的に重なるのはスケートの羽生選手。だから彼のファンのように、好きな人は特別なのかも。

どの人もふしぎなほど音楽がツボにはまらず、演奏が説得力をもって聞く者の心に深く染みこむような表現のできる人がほとんどいなかったように思います。かといって技巧的にものすごい腕達者という人もいない…。
ショパン・コンクールというものにはいろいろな意味での期待が大きすぎるのかもしれませんが、少なくともこの6人の中に、これからのピアノ界を背負って立つほどの強力な逸材がいるかというと…残念ながらそんなふうには思えませんでした。

オーケストラもワルシャワ国立フィルなんていうけれど、あれはちょっとひどいというか、日本の地方のオケの方がよほど上手いでしょう。

5年前にも感じたことですが、入賞者の来日公演での演奏は、コンクール本番での演奏を少しでも耳にしていると、気合の入り方が明らかに違うところにがっかりさせられます。どのピアニストもしぼんだ感じの、いわば予定消化型の演奏をするのは、入賞結果を元手にさっそく経済活動に励んでいるように感じてしまいます。

名も知れぬピアニストでいいから、心地よく乗っていけるショパンを聴きたくなりました。
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捨てること

いつごろからであったかは覚えてもいませんが、巷に「断捨離」という言葉がえらく流行ってもてはやされた時期がありました。
ウィキペディアで調べてみると「不要なモノなどの数を減らし、生活や人生に調和をもたらそうとする生活術や処世術のこと」とあり、「人生や日常生活に不要なモノを断つ、また捨てることで、モノへの執着から解放され、身軽で快適な人生を手に入れようという考え方、生き方、処世術である。」と説明されています。

まあ、それはある意味そうだろうと思うし、一面においては共感できなくもないことではありました。
しかし、それの「専門家」のような人物がやたらテレビに出てきて本まで出して、さもその道の大家のような顔をしていちいち上から教えるような物言いを展開、果ては人生訓まで垂れる様子が嫌だったことを覚えています。
マロニエ君は本質的には共感するところがあっても、高い場所からものを言いお説教するような態度に出られると、その抵抗感のほうが先に立ってしまってそんな話は聞きたくなくなるので、あまり自分の生活に活かすところまでは行きませんでした。

ところがこのところ、とくに深い理由はないけれど、自分の生活空間が乱雑や混沌であふれるのはやっぱり嫌なので、少しずつ要らないものを処分することを心がけるようになりました。
これまでも不要なものの整理・処分は必要という考えそのものはあったけれど、ご多分に漏れずなかなか実行が伴わなず、頭では思っても「着手」そのものに手間取っていた側面が大きかったように思います。
とくに期限があるでもない事なので、そのうちそのうちと先延ばしをするうちそれが常態化するので、実際に手をつけること…が最大の難関なのかもしれません。
こわいのは、人間は自分の生活エリアというか身のまわりのことになると、毎日目にするため感覚が麻痺してしまい、そのだらしなさや無様な姿を客観的にとらえることができなくなってくることだと思います。しかし、よその家にお邪魔すると、こう言っては申し訳ないけれどイヤというほどそのあたりが新鮮に見えてしまい、自分のことは棚に上げて「よくこんな状態でなんともないなぁ!」などとエラそうに思ってしまいますが、ある程度はこれは自分も同様だろうとも思うわけです。

自分の家の中のいろいろな部分を、他人が新鮮な目で見たらどう思うだろうかということを考えてみると、ふっと恐ろしいような気になり大いに焦ります。

で、すこしずつ要らないものを処分してみると、意外や意外、結構それが楽しいというか心地よいことに開眼しました。
さらに、その余計なものが貴重な生活空間をずいぶんと占領して、心までもが雑然としたゴミゴミした気分にさせているということが、あれこれ捨ててみてはじめてわかります。

むろん個人差はあると思いますが、要らないものを捨てるというのは、ちょっと習慣になるとかなり快感になってきて、つぎつぎにやる気が起きてくるのは自分としてはいいことだと感じています。それほど余計なものに囲まれて、心理的にも重く暑苦しくのしかかっていることは、要らないものを捨ててみて、気持ちが軽くなってみると如実にわかりました。

無理して必要以上になにもかも捨ててしまうことはないと思いますが、ある程度よけいなモノがなくなると、気持ちまで爽やかになってくるのが嬉しくて、まったく後悔などないものですね。いちばん足を引っ張るのは「これは何かのときに役に立つかもしれない」などとケチなことを思うことで、実際に役に立つ局面なんてまず殆どありません。
万にひとつもそんなことがあっても、それがなんだと思えばすむことで、それより快適な時間や空間のほうがはるかに重要だと、マロニエ君は思えるようになりました。
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距離をおくと

過日ピアノ関連の来客があり、ディアパソンをしばらくお互いに弾きながら、その音色を確認するということができました。

ピアノの音は場所によって聴こえ方が変わるにもかかわらず、演奏する者はその場所を変えることはできません。
せいぜい大屋根の開閉か、譜面台を立てるか倒すかぐらいなもので、音を出す人間が場所を変えて聴くということは絶対不可能という物理的事情がありますね。

どんなに慣れ親しんだピアノでも、ピアノから距離をおき、客観的にその音を聴いてみるためには、必然的に別の人が演奏している間だけあれこれと場所を移動してみるしかないのですが、この日はそれがかなり自由にできました。

そこでいまさらのようにわかったことは、演奏者にとっては鍵盤前に座るというあのポジションは、音響的にはかなり好ましくはない場所のようだということでした。

ピアノからわずか1mでも離れると、もうそれだけで聴こえてくる音は変わるし、2m、3mと距離を変えるたびにさらに聴こえ方はいろいろな表情を現しながら変化します。また、離れた場所でも椅子に座るか立つかでもおもしろいほどその聴こえ方はころころと変わり、こんなにも違うのかと呆れてしまいました。ある程度はわかっていたつもりだったのに、あらためてその変化の大きさには驚きとおもしろさと新鮮さを感じてしまいました。

少し離れた位置で聴くということは、考えてみれば調律のときにそれがないではないけれど、やはり調律と演奏はまったく別のことであるし、楽器は曲になったときに真価をあらわすわけで、やはりどんなに優しいものでもいいから曲を弾いてもらわないことには、「音」をたしかめることは出来ないと思いました。

それともうひとつ、当たり前というか、わかりきったことを再確認したという点でいうなら、少なくともグランドピアノは(とく大屋根を開けた状態であれば)、楽器のサイドから聴くのが最高であることを痛感させられました。
いわゆるコンサートでステージ上に置かれたあの向きで聴くのは、やはり正しいようですね。

ふだん自分のピアノは自分が弾くだけだから、このようにサイドからそのピアノが出す音を曲として聴くことがないのは、ピアノの所有者として、なんという残念無念なことだろうかと思わずにはいられません。
どんなに素敵な車に乗っていても、それが街中を疾走していく姿を、ハンドルを握るドライバーは決して見ることができないのと同じです。

なぜこのようなことをわざわざ書くのかというと、手前味噌で恐縮ですが、それほど自分で弾いているときにはわからなかった音や響きが想像していたよりすばらしく、ばかみたいな話ですが、思わず自分のピアノに陶然となってしまったからなのです。
さらにわかったこととしては、床と並行のボディより、わずかでもいいから耳が上に位置するほうがいいということ。

耳の位置が低すぎると、響板から発せられる音の大半が大屋根から反射されたものばかりになるのか、やや輪郭がぼやけるようで、中腰から立ったぐらいの、つまりすこし中のフレームが見えるぐらいのほうが断然いいこともわかりました。

要するにそのピアノにとっての特等席は、楽器から少し離れた場所であるということで、その最たるものはステージです。(ただしピアノのお腹が見えるほど低い座席ではなく、最低でもフレームの高さ以上であるべきだと思いますが。)
ステージのピアノを弾くと、音は会場の音響効果と広い空間のせいで風のように客席側に飛んでいってしまい、むしろあまり音が出ていないように感じることもありますが、あにはからんや客席ではかなりの音量と美音で鳴り響いており、そのギャップに驚嘆したことも何度かありました。

それなのに、ピアニスト(というか演奏家)は絶対に自分の演奏を客席から聴くことができないのは皮肉なものですが、そのことは家庭のピアノでも、次元は違っても同様のことがあるというのは発見でした。
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猛烈老人

最近の高齢者にはびっくりさせられることが多いらしいですが、まさにそんな体験をしました。

マロニエ君の自宅の近くに小さなスーパーがありますが、古い店舗のため駐車スペースはそれほど余裕がありません。
車が4台横に並ぶ列が4列あって、中の2番めと3番めはくっついていて車輪止めもないので、前に車がいなけれな、そのまま通り抜けて行くことも可能です。

その列に1台空きがあったので、マロニエ君が止めようと車の頭を入れていると、いきなりむこうから軽のワンボックスがサッとやってきて、しかも自分が入ったスペースを跨いで、いま正にマロニエ君が止めようとしている駐車枠の方へと車のフロントを突っ込んできました。

この時点でマロニエ君の車も1mぐらいは駐車枠へ入っていましたが、その軽は、まったくひるむことなく、「どけ!」といわんばかりに微動だにしません。
普通縦に2台分の駐車枠があって、両方から車がくれば、それぞれ手前は自分、そちらはアナタというふうにとめるのが当たり前です。

ところが、この軽はまったく後ろに下がる気配もないどころか、5cmぐらいずつあからさまに車を前進させて、対峙しているこちらに脅しをかけんばかりに、変なデザインのヘッドライトを目の前に近づけてきます。
こんなやり方には、さすがにマロニエ君も相当頭にきましたが、よくみると、ハンドルを握っているのは高齢の白髪頭の男性で、目をむいてこちらを凝視しています。
要するに前進で駐車枠に入って、そのまま前の枠に止めれば、一度もバックすることなく駐車から出発まで可能というところで、そのためには他車と鉢合わせになろうが関係ないといわんばかり。ブルドーザーよろしく相手をぐいぐい威嚇して、なにがなんでも自分のしたいようにする、そのためには一歩も引かないぞという居直り強盗みたいな老人でした。

こうなったら徹底的に動かないでやろうかとも一瞬思ったけれど、こんなところでこんな狂気のような老人相手にくだらないトラブルになったら、そのあと一日中嫌な思いをするだろうとも思うと、バカバカしくもなりました。
やむを得ずわざとちょっとだけバックしてみると、むこうは、そのわずか分をそれこそ接触せんばかりに詰めてきて、なんとか枠に収まったものだから、車内ではあとは知るかという様子で降り支度をしています。

その間、こちらもあえてその人の一挙手一投足をジーっと見つめてやりましたが、多少はそれもわかっているようでしたが、とにかくその図々しさときたら、そんなものはなんの役にも立たないほど強烈でした。

車から降りると、如実にその風貌がわかりましたが、かなり高齢にもかかわらず、この上なく険しい針のような目つきとふてぶてしげな態度は、まるで今の世の荒廃の度合い見るようで、なんとも嫌な気のするものでしたね。

年の功なんてものは、もはやはるか昔の幻想なのか、いまは多くの高齢者が、こうして歳を重ねるにつれイライラをも募らせながら、毎日を世間と勝負するかのように生きているということかもしれません。

はぁぁぁ…いやなものを見てしまいました。
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視覚的要素

BSのクラシック倶楽部から。
大阪のいずみホールでおこなわれたクラリネットのポール・メイエとピアノのアンドレアス・シュタイアーのソリストによるモーツァルトの2つの協奏曲で、オーケストラはいずみシンフォニエッタ大阪。

最晩年の傑作として名高いクラリネット協奏曲と、ピアノ協奏曲ではこれもまた晩年の作であり、最後のピアノ協奏曲となる変ロ長調KV595といういずれもモーツァルトの中でも特別な作品です。

シュタイアーならばてっきりフォルテピアノで演奏するのかと思っていたら、クラリネット協奏曲のときから、ステージの隅には大屋根を取り払ったベーゼンドルファー・インペリアルが置かれていました。

ところで、古楽演奏家の多くがそうであるように、シュタイアーもその出で立ちはきわめて地味な、むしろ暗い感じが目立ってしまうような服装であらわれますが、この人にかぎらず古楽の人たちの雰囲気はもうすこし爽やかになれないものかと見るたびに思ってしまいます。
誤解のないように言っておけば、そもそも、マロニエ君は演奏家がむやみに派手な服装をする必要はまったくないと思うし、わけても日本の女性奏者の多くのステージ衣装センスはいただけないし、見ているほうの目を疲れさせるような派手すぎる色やデザインのドレスにはまったく不賛成で、やり過ぎや悪趣味は演奏家としての見識さえ疑うとかねがね思っています。

クラシックのコンサートはファッションショーではないのだから、それに相応しい節度と、本当の意味でセンスある服装が理想だと思うのです。
いっぽう、過剰な衣装の対極にあるのが古楽演奏者たちで、あれはあれでひとつの主張なのだろうと思いますが、極端なまでに質素で地味な、どうかするとくたびれたような服であることも少くなく、これで煌々とライトのあたるステージへ平然と出てくるのは、これはこれで何だかイヤミだなあと思います。
「自分たちは着るものなんてどうでもいいんだ。音楽にのみ身を捧げ、全エネルギーを傾注している。」といった強いメッセージが込められているように感じてしまうのはマロニエ君だけでしょうか。

演奏家の服装は、良くも悪くも、地味も派手も、あまりそれを意識させない程度の、お客さんを不快にさせない程度の小奇麗な身なりであってほしいと思いますし、その範囲内でさらに素敵な衣装であればもちろんそれに越したことはありません。
そういう意味では、シュタイアーは古楽の人たちの中ではもしかするといいほうかもしれない気もしますが…。

演奏については、以前同番組で放送されたヴァイオリンの佐藤俊介氏とのデュオで見せたモーツァルトのソナタでは、フォルテピアノを使っての闊達なモーツァルトであった覚えがありますが、今回その印象は一変しました。
歴史的スタイルに鑑みてか、モダンピアノでもつねにピアノは通奏低音のように弾かれていますが、肝心のソロでは一向に華がなく、ひとつひとつの音符の明瞭さやフォルム、シンプルの極地にありながらセンシティヴに変化する和声などが聴く側にじゅうぶん届けられないまま、ひたすらさっさと進んでいくようでした。

現代のピアニストの演奏クオリティに耳が慣れている我々にとっては、どこかものたりないアバウトな演奏で、とくにこの最後の協奏曲の繊細かつ天上的な美しさといったものには触れずじまいだったという印象。

ピアノはシュタイアーの希望もあったのか、通常以上にピアノフォルテ的なテイストのピャンピャンいうような音だったように感じました。
どうでもいいことではありますが、ベーゼンのインペリアルは大屋根を開けてステージに横向き置くと、視覚的にいささかグロテスクな印象がありますが、今回のようにいっそ外してオケの中に突っ込んでしまったほうが、よほどすっきりした感じに見えました。

見た目の話でついでにいうと、大阪(というか関西)のオーケストラでは、どこも必ずと言っていいほど女性団員が色とりどりの衣装を着ているのはなぜなのか…。このいずみシンフォニエッタ大阪に限らず、ほかの関西のオーケストラでもほぼ同様で、男性は黒の燕尾服等を着ているのに、女性はソリスト?と思うようなドレスを皆着ており、色もバラバラ、あれはどうも個人的には落ち着きません。

海外の事情は知りませんが、マロニエ君の記憶する限り、オーケストラの女性団員がこれほど自由な色使いのドレスを着ているのは国内では関西だけのような気がします。「衣装は音楽とは無関係」ということなのか「華やかで舞台映えする」という感覚なのか、いずれにしろどうも個人的に気になることは事実で、正直いうと音楽まで違って聴こえてしまうようです。

音楽がいくら「耳で聴くもの」とはいっても、視覚的要素も大切だとつくづく思います。
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リシャール・アムラン

昨年のショパンコンクールで2位になった、シャルル・リシャール・アムランのデビューCDというのを買ってみました。

秋に開催される同コンクールより半年前に母国カナダで収録されたショパンで、ソナタ第3番、幻想ポロネーズ、op.62の2つのノクターン。
時間にして53分ほどで、今どきのCDは多くが70分は当たり前になってきている点からいうと、かなり少なめな印象。
むろんCDを収録時間で買っているわけではないけれど、いまどき普通ならばあと20分ほど入っていると思うと、なんだかちょっと物足りない気もするわけで、人間はつくづく欲深いものだと自分で思います。

しかし、そんなケチな不満を打ち消すかのように、演奏はたいへん見事なものでした。

とくにポーランド的とか、フランス的とか、ことさらショパンらしいニュアンスに満ちているというものではなく、かといって精度の高いピアニズム重視というわけでもないもので、生まれ持ったバランス感と、クセのないきれいな言葉を聞くような演奏でした。
しかも、よくある、ただ指がハイレベルに回るだけといった虚しさや、無機質不感症な演奏というわけでもなく、一定の演奏実感もちゃんと伴っていて、ようするに好ましい演奏だったと思います。

情感で押すタイプではないけれど、人間的な何か豊かなものが常にこの人の演奏を支えているようで、節度の中で確かな音楽の息遣いが息づいているのは立派なものだと思いますし、この若いピアニストの教養と人柄のようなものを感じないわけにはいきません。

第1位だったチョ・ソンジンが、多くの人から激賞されている中、どちらかというとどこか学生風な未熟さを(マロニエ君は)感じてしまうのに対し、アムランはぐっと大人の成熟した語り口だなあと思います。

その他、好ましく感じたことのひとつに、非常にしっかりした正統な演奏でありながら、決して説明的にならず、音符が音楽の自然な言葉へしなやかに変換されて、聞く者の心情へと直接語ってくる点でした。

多くのピアニストがテクニック、能力、解釈、理知的なアプローチなど、あらゆることを兼ね備えているかのような努力にもかかわらず、けっきょくはなにもない無個性で凡庸な存在に落ち込んでいるこんにち、リシャール・アムランはすでに自分の演奏スタイルが確立していて、どういうふうに弾きたいかが迷いなしに伝わるのは聴く側も無用なストレスを感じずにすみます。

いわゆる正統派タイプだと歌い込みを排除した骨がましい演奏になり、解釈優先主義の人はあえて塩分ひかえめの食事みたいな演奏になって、マロニエ君はいずれも好みではありませんが、この人は、奇を衒わず自然体、それで損をするならやむなしという潔い価値観をもっているのか、演奏が首尾一貫しているのは却って評価が高くなりますね。

さらにいうと、ちかごろの若い演奏家にありがちな過度な出世欲や、自己顕示のためのパフォーマンスが感じられず、むしろ信頼感のようなものを感じさせてくれる人でした。

ピアノの音ははじめはちっとも意識していませんでしたが、よく考えたら、この人はショパンコンクールでは一貫してヤマハを弾いた人だったことを思い出しました。
しかし、どう聴いてもヤマハのようには聴こえないので、おそらくスタインウェイなんだろうぐらいに思っていたのですが、何度か聴いているうちにソナタの冒頭など「ん?」と思う音のゆらぎのようなものが耳につき、全体的な音色にもややざらつきがあるようでもあり、もしかしてNYスタインウェイではと感じ始めることに。

昔は北米大陸ならNYスタインウェイと相場が決まっていましたが、このところはご当地ニューヨークでさえハンブルクがずいぶん勢力を伸ばしているのはなぜなのか…。
とりわけ大きなコンサートや録音ではハンブルクが多いように感じるのは、せっかくアメリカなのにつまらない気がしていたのですが、どうやらこの録音ではマロニエ君の間違いでなければ、よく調整された新しめのニューヨークのように感じました。

カナダではまだまだニューヨーク製が主流なのかもしれません。

話が逸れましたが、リシャール・アムランはとても良いピアニストだと感じ、今後もCDなど出ればぜひ買ってみようと思います。
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言葉の低下

いかに当節の流行りとはいえ、どうしても馴染めない言葉ってありますね。

言葉は常に時代を反映するもので、どんなに間違っていても、マス単位で一定期間使い続けられれば、それがいつしか根を張って標準になってしまう怖さがあって、だからよけいに言葉は大事にしたいと思います。

「マジで」「チャリンコ」「ハンパない」などは、いちいち気にすると無益なストレスになるので流していこうと頭では思うけれど、やっぱり耳にするたびに抵抗がサッと体を通り抜けていくような感触を覚えます。

一部の人達が、限られた範囲内だけで、遊び感覚で言葉を崩して使うのならともかく、たとえば小さな子がはじめに覚える言葉として、こんな妙ちくりんな言葉が無定見に入り込んでいるのはいかがなものかと思います。いっぽう、近頃は男というだけで時と場所を選ばず、一人称を「オレ」と言いまくるのも気になります。

マロニエ君の個人的な感覚で言うなら「オレ」は、よほどくだけた間柄での言い方であって、本来は男友達や朋輩の間で使う言葉であって、使う範囲の狭い一人称だったはずですが、これがもう今では、若い人とほど誰も彼もが無抵抗に使いたい放題で、芸能界や若年層に至っては「ぼく」などと言う方が浮いてしまうほどの猛烈な勢力であるのは呆れるばかりです。

固有名詞は避けますが、いつだったかオリンピックから帰国した選手たちが皇族方と面談した際、さる金メダリストが皇太子殿下に対して自分のことを「オレ」と言ったものだから、あわてて宮内庁の誰かから注意されたという話があるほど、事態は甚だしくなっています。

日本語の素晴らしさのひとつは、尊敬語と謙譲語、あるいはその間に幾重にも分かれた段階にさまざまな言葉の階層があるところであって、それを「いかに適切に自然に使い分けられるか」にかかっていると思います。
ところがそういう言葉の文化は廃れ、現在はやたらめったら丁寧な言葉を使えば良いという間違った風潮が主流で、「犯人の奥様」的な言い回しが横行し、アホか!といいたくなるところ。

最近とくにイヤなのは、「じいじ」と「ばあば」で、あれは何なのでしょう!?
テレビドラマなどでもこの言い方が普通になっていたり、盆暮れの駅や空港での光景に、孫は祖父母のことをこう呼んでしまうのは、思わず背筋が寒くなります。

これを無抵抗に使っている人達にしてみれば「なにが悪い?」というところでしょうが、聞いて単純にイヤな感じを覚えるし、祖父母に対する尊敬の念も感じられず、理屈抜きに不愉快な印象しかありません。
個人的には「じいちゃん」「ばあちゃん」という言い方も好きではないけれど、さらに「じいじばあば」は今風のテイストが加わってさらに不快です。

単純におじいちゃんおばあちゃんぐらいでは、どうしていけないのかと思います。

こんなことを書いているうちに、ふと脈絡もないことを思い出しましたが、最近はお店で物を買って支払いをする際、店員は男女にかかわらず、意味不明な態度を取るのが目につきます。

どういうことかというと、商品をレジに持っていくと、紙に包むなり袋に入れるなりして、代金を受け取るという一連のやりとりの間じゅう、店員は目の前のお客ではなく、一見無関係な方角へと視線を絶え間なく走らせます。

それも近距離ではなく、どちらかというとちょっと距離を置いたあちこちをチェックしているようなそぶり。
まるで自分の科せられた職務は、実はいま目の前でやっていることではなく、もっと大きな責任のあることで、レジ接客はそのついでといわんばかりの気配を漂わせるという、微々たる事ではあるけれど、あきらかに礼を失する態度。

いちおう頭は下げるし、口では「いらっしゃいませぇ」とか「ありがとうございまぁす」のようなことは言うけれど、実体としてはお客さんをどこかないがしろにする自意識の遊びが働いているような、そんな微妙な態度をとる店員は少くありません。
これにはどうやら何らかの心理が潜んでいそうですが、ま、分析する値打ちもなさそうな、ゴミみたいな主張だろうと思われます。

ただ、ここで言いたいのは、こんなちょっとした言葉や態度がじわじわ広がるだけでも、世の中はずいぶんと品性を欠いた暗くてカサカサしたものになってしまっているような気がするということです。
お互いに気持ちよく過ごしたいのですが、それがなかなか難しいようです。
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録画から

早いもので今年ももう3月ですね。

このところTV録画で見たコンサート等の様子から。

アリス=彩良・オットとフランチェスコ・トリスターノのデュオリサイタル。
ドイツの何処かのホールで収録されたライブでしたが、出てくる音声が今どきおそろしくデッドだったのはかなり驚きました。

まるでただ部屋に2台のピアノを置いて弾いているような音で、優れた音響に馴らされた耳には、あまりに窮屈で最後までこの音に慣れることはできませんでした。
また、二人ともとても偏差値の高いピアニストなのだろうとは思うけれど、残念なことに味わいとかニュアンスというものがなく、ただ楽譜のとおりに正確に指が動いていますね…という印象。

最近のクラシックの演奏会は、慢性不況でもあり、ただ良質な音楽的な演奏をしているだけでは成り立たないという実情はもちろんあるとは思いますが、それにしても演奏家がやたら「見せる」という面を意識しているらしいことが目に付くのは個人的にはどうも馴染めません。
ドレス、髪型、指にはたくさんの指輪をはめて、弾くときの表情もピアニストというよりは、どちらかというと女優のよう。

ピアノはスタインウェイDとヤマハCFXという組み合わせでしたが、上記のような詰まったような音があるばかりで、こちらも真剣に聴く気になれずとくに感想はもてませんでした。ただ、ステージ真上からのカメラアングルがあり、2台とも大屋根を外した状態なので、構造がよく見えました。
驚いたことには、ぱっと目にはまるで同じピアノのように見えることでした。

全体のサイズはもちろん、とくにフレームの骨格や丸い穴の数や位置などほとんど同じで、この2台が別のメーカーの製品ということじたいが信じられないくらいでした。以前はヤマハのフレームは独自の形状でしたが、CFXからはそれが変更され、ますますスタインウェイ風になっているようです。

じつはスタインウェイDとヤマハCFXという組み合わせが、偶然もうひとつあり、小曽根真がアラン・ギルバート指揮のニューヨーク・フィルハーモニックと昨年大晦日に演奏した『動物の謝肉祭』が、やはりこの2社の組み合わせでした。

もちろんCFXを弾いたのは小曽根真であることはいうまでもありません。
このときはなんとか言うアメリカ人男性がナレーションを務め、開始前と曲と曲の間に、いかにもアメリカ的テイストの芝居がかったトークが挟まれ、その鬱陶しさときたらかなり強烈なものでした。
メインは音楽なのかトークのほうか、まるでわからなくなるほど長いし押し付けがましくて、ウケと笑いと拍手を要求してくるのはウンザリで、録画なので早送りで飛ばすしかありませんでした。

ところで、小曽根真の演奏はどこがそんなにいいのか…マロニエ君は正直さっぱりで、これは皮肉ではなく、わかる方がおられれば教えてほしいぐらいです。
個人的な印象としては、本業のジャズでもあまりキレがないように感じるし、クラシックではやはりあんまり上手くないという印象が拭えません。
何年か前にモーツァルトのジュノームを弾いたときは、たしかにあれはあれで一回は新鮮でへぇぇと感じたことは覚えているけれど、こうもつぎつぎにクラシックのステージに登場するとなると、申し訳ないけれどふつうの評価にもさらされてくるのは避けられない気がするところ。

とりわけ不思議なのは、ノリやリズム感が身上のジャズメンであるはずなのに、その肝心のリズム感がなく、メリハリに欠け、むしろあちらこちらでモタついてしまう場面が散見されるのは不思議で仕方ありません。
ジャズでもクラシックでも、この人の演奏にはある種の「鈍さ」を感じてしまうのはマロニエ君だけでしょうか。

そうれともうひとつ。
題名のない音楽界では辻井伸行がベートーヴェンの皇帝を弾いていましたが、なんだかんだといっても彼はまぎれもなく天才で、人前で演奏するだけの値打ちがあり、シャンプーのコマーシャルみたいな言い方ですが、「リッチで自然でツヤのある」ピアノを弾く人だと思いました。

彼のピアノには努力だけでは決して身につかないスター性と独自性があり、あの輝きはやっぱり並み居るピアニストの中でも頭一つ出た存在だと思いました。
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どうしましたか?

電話をかけたとき、相手の第一声というのは大事ですね。
最初に発する言葉やテンション、明暗の調子でこちらの気分もずいぶん違ってきますし。

なかには、会話になると至って普通なのに、第一声だけはやけに暗く「うわ、まずいときにかけたのか…」と思わず不安になる人などもいますね。ただのクセなのかもしれませんが、けっこう焦ります。

むかしは「もしもし」が普通でしたし、固定電話全盛のころは「はい、○○でございます」と自ら名乗ってくださる方も少くありませんでした。

それがケータイの普及にともない、少しずつ変化が起こってきているのを感じます。

とくに双方ケータイである場合は、アドレス帳に登録していただいていることが多いため、呼び出しの段階で先方の端末には誰からの電話かがわかるため、いきなり「どーもー!」とか「こんにちわー」などというパターンも珍しくなくなってきました。

ただ、マロニエ君の場合は保守的なのか、切り替えが下手なのか、いきなりこういう調子に和していくのがイマイチ苦手で、むこうはもう名乗りの部分をすっ飛ばしてきているのに、いまだに「もしもし、○○ですが…」などと思わず言ってしまうこともよくあります。

まあ、それぐらいなんということもないし、すぐに会話になっていくでの問題はないのですが、どうも個人的にはいただけないと感じる第一声もあったりします。

そのひとつが、
「あ、もしもし。どうしました?」「あ、○○さん。どうしましたか?」っていうパターン。

何エラそうに言ってんの?というか、なんだか微妙に失礼な気分。
こういう言い方が、最近は流行っているんでしょうか。
しかもこれ、そもそもどういうつもりなのかと思います。

マロニエ君にはその心境がさっぱりです。

普通に電話しただけなのに、いきなり「どうしました?」と反応された日には、はぁ…どうかしなきゃ電話しちゃいけないの?とつい反発心から思ってしまいます。
これはニュアンス的に、どこか上から目線な言い回しだとも感じるので、おそらく言っている側は大した意味もないのだろうとは思うけれど、聞くたびにちょっとムゥ…ときてしまいます。

しかも相手に悪意がないというか、ふつうのむしろオシャレな対応だと思っているらしいところがよけいにイラッとします。
どうしました?と相手に「聞いてあげる」ところに、余裕ある自分を演出しているのか。

おそらく、はじめは誰かからそういう言われ方をしたことがきっかけで、いつしか自分も採り入れて、言う側に転身したのだろうと思われます。
というか、この言い方をする人がチラホラいるし、それらが皆、自分のオリジナルだとは到底思えませんから。

こういう言い方が、今風で、さばけた感じというような無意識の意識が潜んでいるのかもしれません。
ま、なんだかしらないけれど、言われたほうは、まるでさも緊急の要件か、困ったことが起こって助けを請う電話であるかのように扱われているみたいで、どうも納得がいきません。
どうかしたとしたら、よほどチカラにでもなってくれるのかと聞いてみたくなるほど。

110番や保険会社ならそれもいいかもしれませんが、ふつうの個人には不適当な気がします。

言葉というものは、どういうつもりで言っているにしろ、それ自体に普遍的な意味やニュアンスがあるので、やっぱり相手側の気分を害さぬよう、誠実に使わなくてはいけないとあらためて思うこの頃です。
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弾きやすさの質

つい先日のこと、所用で隣県まで出かけた折、予定が早く済んでしまいぽかんと時間ができたものだから、悩みました(だって行っても見せてもらうだけですから)が、当地のスタインウェイ代理店にお邪魔させてもらいました。

マロニエ君は普段から、購入予定もないのにお店を訪ね歩いてピアノの試弾をしたり、同様にひやかしで車の試乗をしたりするのはあまり好きではないので、極力それはしないよう控えているつもりです。
…が、このときはつい禁を破って行ってしまったというわけです。

人によっては、やたらとこれを繰り返し、弾いたり乗ったり延々しゃべったりして、それを一方的に楽しんでいる人もいるのですが、お店側にしてみればいい迷惑で、遊び場にされては困るというもの。
というわけで、マロニエ君は車の試乗などをするのもせいぜい年に1度あるかないかです。

と、基本的にはそういう考えなのですが、このときはちょうど時間にも空白ができて、試しにナビで位置確認をしたところ、わずか2キロほどのところでもあり、誘惑に負けてついルート案内を押してしまいました。

むろん他のお客さんなどがいらっしゃれば早々に退散するつもりでしたが、幸いにもそのような状況でもなく、来意を伝えるとお店側はたいそう快く迎えてくださいました。

まず通されたのは、2階にある展示室で、そこには内外のセレクトされた美しいアップライトピアノが壁際に並べられ、中央には新品のスタインウェイのBとO、ボストンの小型のグランドが置かれています。
「さあ、どうぞ」といわれて「それでは」とばかりに弾き始めるほどにマロニエ君は度胸も腕もありませんから、軽くスケールを弾いてみる程度にしていましたが、有り難いことにお店の人はこちらが心置きなく指弾できるようにとの計らいからか、早々に姿を消してくださいました。
おかげで、ほんのちょっと(5分ぐらい)BとOの2台を弾いてみたのですが、この2台の「あっとおどろく弾きやすさ」ときたら衝撃的で、これがスタインウェイのタッチかと頭の中の尺度を書き換えなくてはいけないほど好ましいものでした。
まさに目からウロコです。

このときは技術者でもある由のご主人は不在でしたが、店におられた奥さんがとてもピアノに詳しい方で、さっそくこのピアノの思いがけないタッチの素晴らしさを興奮気味に告げたのはいうまでもありません。
マロニエ君があまりにショックを受けているからなのか、少し笑っておられるようでしたが、本当にそれぐらいこれまでのスタインウェイとは違う、軽く、素直で、何の違和感もない、思いのままの理想的なタッチでした。

しかも印象的だったのは、その2台はなにも特別な仕様ではなく、あくまでも現在のスタインウェイの「スタンダードな状態です」ということ。

これは、とりもなおさずこの店の技術力が優れていることもあるでしょうし、そもそも生産段階におけるパーツの正確さ、組み付け精度の面などがずいぶんと進歩してきているのだろうと思いました。
近頃のスタインウェイの、音としては平坦ではあるけれど、いかにもシームレスというか均等な鳴りを聴いても、こういうタッチであることは合点がいくところでもあります。

お店には別室にもう1台10年ほどまえのO型があるということで見せていただきましたが、こちらも実によく調整された素晴らしいピアノでありましたが、新品の2台に較べると、軽く正確で、一瞬の隙もなく反応する「驚異的な弾きやすさ」ではやや及ばないところも感じますので、やはり最新のスタインウェイは、機械的精度という点でかなりヤマハに肉薄してきているのかもしれないと思いました。

いくら音が良くても、タッチが思わしくなく、もたついたりコントロールしづらいなどの問題があると弾く楽しみも半減ですが、その点では、現在のスタインウェイはかつてのような重厚な味わいはなくなったかわりに、ストレスフリーな弾き心地を弾き手に提供しているのかもしれません。
弾くものにとっては、最上の快適感の中で弾けるということは、これはこれで大いなる魅力だと感じ入った次第でした。

躊躇しながら訪ねたものの、大いなる収穫を得て、感嘆しつつ帰途につきました。
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謎の車の中は…

幹線道路の交差点を右折すべく右側の車線を走行し、信号が赤だったので停車しようとスピードをゆるめたそのとき、左からある東北の某ナンバーのダイハツ・コペン(軽の2シーターオープンで屋根付き)が突然目の前に割り込んできました。

ほとんどこちらの急ブレーキをあてにしたような無謀な突っ込み方で、あまりのことにクラクションを鳴らすひまもないほどそれは唐突でした。
しかも割り込んだあと、前の車まで十分な距離があるにもかかわらず、それ以上前進しようともせず、マロニエ君の車の真ん前で斜めを向いて止まったまま動こうともせずに、ほとんど嫌がらせのようなかたちで「一体なんなのか!」と思いました。

さすがにおどろいて、どんなドライバーが運転しているのかと顔のひとつも見てやりたくなりましたが、リアウインドウには今どき黒いフィルムが貼られていて、中の様子をうかがい知ることはできません。

そののち前の信号が「青」になると、ようやくそのコペンも動き始めたものの、ここでも嫌がらせのように、必要以上にノロノロと動いて、その気配たるや、これはタダモノではないらしいと考え始めました。

交差点では無数の直進対向車がひっきりなしにくるので、前3台とマロニエ君は待ったあげく、ようやく右折専用の信号が出るに至って右折開始となりました。
ここでも先頭と次の2台はすみやかに右折して行ったのに対し、コペンはまたまた歩くようなペースで右折を開始。
そこまでゆっくり行くのであれば、せめて右折したあとは一番左の車線でも行けばいいようなものなのに、これがまた、その速度でどうどうと一番右車線に躍り出ます。

チッと思いながら、中央車線から抜かしてやろうかと思っていたら、一番右の車線は次の交差点では右折専用になるようで、そのことに気づいたコペンは、車線は今度は左車線に移動しました。

と、まもなく目の前の信号が「赤」になったので停車。
そこでマロニエ君は敢えて、横に並ぶべくスピードを落として、コペンが先に止まったことを見ながら右側へゆっくり横付けしました。

「さあ、どんな御仁が運転しているのか!」と思って横を見えると、拍子抜けするほどふつうの若いおねえさんが運転席に座っていて、あれだけ腹も立ち、注目もしていたのに、なんだか「期待?」を裏切られた気になりました。
「なんだ、ただの運転が超苦手な女性か…」と思った一瞬後ドアウインドごしに見えてきたのは、なんとビッグマックのような何重にも分厚く重ねられた特大のハンバーガーで、この女性、これを食べながら運転しているのでした。

真横に並んで、ついあきれて見てしまいましたが、そんなことはなんのその。
気にする様子もなく、モグモグモグモグ、しわくちゃの大きな紙を適宜開くようにしながら、あっちこっちとかぶりついています。
こちらの視線を気にしているのか、決してこっちに視線を向けることはなく、無表情にひたすら食べ続け、信号が青になるとそのままコペンは動き出しますが、口はモグモグ、手にはハンバーガーという状況はかわりません。

そのまましばらく並走しましたが、マロニエ君はほどなく右折しなくてはいけない地点に来たので、観察はここで終りとなりましたが、なんでそうまでして運転しながらあんなに特大のハンバーガーを食べる意味がついにわかりませんでした。

いくら違法でも、スマホいじりをしながら運転というのはまだどこかに理解の余地がありますが、グレープフルーツほどもありそうなハンバーガーを「運転しながら食べる」というのは想像を遥かに超えた行為でした。

マロニエ君など、テーブルで集中して挑んでも、分厚いハンバーガーはこぼしたり落としたりと、無事に食べるだけで精一杯ですが、それを運転しながらとは恐れいったというべきか、よほどの高度なテクニックなのかもしれません。

でも、やっぱり食べている合間合間に運転しているので、他の車の前へ危険な割りこみになったり、前が空いてもちゃんと詰めないなど、車の動きはもうハチャメチャ、安全かつ円滑な動きができないのも納得です。
よっぽど急いでいるのかとも思いましたが、普通なら、あんな分厚いハンバーガーを運転しながら食べなくちゃいけないほど急いでいるときは、食べるのは後回しにしますよね。
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マリナーとオピッツ

90歳を超えたネヴィル・マリナーがN響定期公演の指揮台に立ち、お得意のモーツァルト(ピアノ協奏曲第24番)とブラームス(交響曲第4番)を演奏し、クラシック音楽館の録画から視聴してみました。

ピアノは今やドイツを代表するピアニスト(?)のゲルハルト・オピッツ。
冒頭のインタビューではモーツァルト演奏に際して、いろいろと尤もなことを言われていました。
例えば、
「モーツァルトの場合、大げさにならないようにすることが大切」
「歌わせる部分も過度に感傷的になってはいけない。モーツァルトの音楽に真摯に忠実に取り組む。」

ただ実際の演奏は、マロニエ君の耳にはいささか典雅さの足りない、ひと時代前の演奏のように聴こえました。
指の分離が優れた人ではないのかもしれませんが、タッチが重く、どちらかというと団子状態になりがちなのはきになりました。
独奏ピアノが作品の中で自在に駆け動くという感じがせず、常に前進する全体のテンポに追い立てられ、なんとかそれに遅れないよう気を張って弾いているようで、そういう意味での硬直感が全体に感じられました。

すべての音楽がそうですが、とりわけモーツァルトでは曲そのものが含有する呼吸感の美しさを表現して欲しいのですが、オピッツのピアノは、その点で関節の固い、息が詰まった感じがします。

マリナーの指揮はいつもながらの流麗で心地良く、懐かしい感じがあってホッとすると同時に、古楽奏法の出現によりモダン楽器のオーケストラでさえ、そのテイストを多少採り入れることも珍しくない今日の基準からすると、ふしぎなことにやや古いスタイルといった印象をもったことも事実でした。

古楽の出始めのころは、その独善性というかピューリタン的なものを無理に押し付けられるようでなかなか受け付けられませんでしたが、さすがに最近では研究も進み、演奏としての洗練の度も増して、音楽の新しい喜びを感じるようになったということだろうと思います。

そういう意味ではマリナーもオピッツも、どこか昔もてはやされた服をまだ着ているようでもありました。

冒頭のインタビューに戻ると、「(素晴らしい作品で)弾くたびに新しい発見があります。」というのは、このフレーズはもういいかげんみんな止めましょうよといいたくなります。
それがいかに真実だとしても、あまりに言い古された言葉というものは、もうそれだけで陳腐になってしまって、素直な気持ちで聞く気になれません。この人はインタビューを受けるたびに何度このフレーズを口にしていることかと思いますし、これはなにもオピッツ氏だけではなく、多くの演奏家が判で押したようにこれをいうのは、聞いているこちらが赤面しそうになります。

でもしかし、インタビューでは「なるほど」と思う言葉もありました。
「もし客席にモーツァルトが座っていたら、ほほえんでもらえるような演奏を目指しています。」
これは実にその通りだと思いました。マロニエ君も、素晴らしい演奏、ひどい演奏に接するたびに、もし作曲者にこの演奏を聴かせたらなんというだろうかという想像はいつもよく考えてみることです。

オピッツ氏はモーツァルトではそれほどの出来とは思えませんでしたが、後半のシンフォニーへ繋ぐように、アンコールではブラームスのop.116-4が演奏されました。
こちらははるかに好ましい、じっと味わえる演奏でした。
厚みがあり、ブラームスの音楽の深いところまで見えてくるようないい演奏だったと思いましたが、この人はモーツァルトよりもこういう性格の曲のほうが合っているのでしょうね。

実際の演奏会では、本来のプログラムよりアンコールのほうが素晴らしい演奏になることはよくあることで、この事自体は珍しくもありませんし、実はアンコールで聴衆への印象を挽回する演奏家も多いだろうといつも感じています。

演奏会ではプログラムが終わると、アンコールを弾かせなきゃ損だとばかりに要求の拍手が継続することがあって、この空気は嫌いですが、実はアンコールのほうが奏者もやっと義務が終わって気分がほどけてくるのか、はるかにリラックスした、それでいて音楽的に集中した演奏をここから始めることが多いので、そういう意味ではこちらに期待するという部分があるのも事実です。
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チェロのショパン

チェロのソル・ガベッタとピアノのベルトラン・シャマユによる、ショパンのチェロ作品を集めたCDを聴いてみました。

ガベッタはフランス系ロシア人を両親に持つ人気の女性チェリスト、かたやシャマユはフランスの若手でこのところ少しずつ頭角をあらわしているピアニストという、なんとはなしにバランスの良さそうな組み合わせ。

曲目はオールショパンで、チェロソナタ、序奏と華麗なるポロネーズ、さらにはショパンと親交のあったフランショームとの合作とされる『悪魔ロベール』の主題によるコンチェルタント・グラン・デュオ、さらにはエチュードやノクターンをチェロとピアノ用に編曲したものが収められています。

音が鳴り出して最初に感じることは、ガベッタのチェロの広々とした自在な歌い方と、趣味の良いデリケートなフィギュレーション、それにつけていくシャマユのピアノの美しさです。
マロニエ君は録音のことはわかりませんが、このCDは、聴いていてまことに気持ちの良い、透明感のある美しい録音である点も心地よさが倍加します。鮮明さと残響がバランスよく両立しており、それぞれの楽器の音が至近距離でクリアに、かつニュアンスを失わずに聴こえ、まるで目の前で演奏しているかのようでした。

自宅にいながらにして、こんなに美しい音と音楽に包まれることができるありがたさに浸りながら、だから不明瞭で混濁した音を聴くばかりのコンサートなど、できるだけ行きたくないという思いがますます募ります。

ガベッタとシャマユは、こまやかな神経の行き届いた演奏でありながら、聴き手に緊張を強いるでもなく、むしろ心を和ませ、かつ細部の見通しもよいという、演奏スタイルのメリハリのつけ方としては好ましい在り方だと思います。
焦らぬテンポの中で曲の隅々にまであたたかな光が射し込むようで、決して冗長にもならず、ショパンのチェロ音楽をじっくり味わえる好感度の高い演奏だと思いました。
やはり、ショパンはフランス系の演奏家の手にかかると、いかにも作品の本質に自然にコミットしているようで、ストレスなく聴いていられる点が安心できるというか、心地よく感じられます。

中でもチェロ・ソナタがこのディスクの主役であり、演奏も最も秀逸だったと思われました。それに対して序奏と華麗なるポロネーズなどは、やや守りの演奏のような気もしました。
ピアノ作品の編曲はフランショームの手になるもので、これはこれで面白いとは思うけれど、オリジナルのピアノソロには到底およばないという印象で、まあそれは当たり前ですが。

録音は昨年の11月にベルリンのジーメンス・ヴィラで行われており、写真によればピアノは新しめのスタインウェイのようでした。それも納得で、ここで聞くピアノの音は、ともかく高いクオリティで製造され、さらに見事に調整された現代のピアノという感じで、以前のような強烈なスタインウェイらしさといったものはほとんど感じません。

いかにも今日の基準をまんべんなく満たしたニュートラルなピアノという感じでしょうか。
どこにもイヤなところがないけれど、音の魔力に惹き込まれるような、とくべつな楽器という感じもなく、新しいスタインウェイで一流の技術者が調整すれば概ねこんな感じだろうと思われるものです。
どちらかというとやや無機質で、ハイテクも必要箇所に採り入れた精度の勝利といった感じです。

素材も、むろん悪いものを使っているわけではないと思いますが、むかしほど恵まれない天然素材とコストという制約の中で、量産を前提にした最上級クラスという感じで、かつての特級品がもつ凄味とか、稀少で贅沢なものから湧き出るオーラみたいなものはありません。

現代ではまあこんな感じのところで良しとしなくてはならないのだろうと思いますが、今回、上記のような優れた録音によって感じられたところでは、低音の性質が変わったように思えました。
従来のスタインウェイの特徴のひとつが、低音域の独特の音色と美しさだったと思います。

誇張していうと、その低音には一音一音に個性があり、必ずしも均一ではないけれどずっしりと芳醇で、まるで刃物のようなしなやかさと美しさが共存していて、そこがこのピアノの最も官能的なところであったかもしれません。

その低音の特徴がやや失われ、ただ大きなピアノ特有のブワーッと鳴っているだけのものになっているのは、やはり一抹の寂しさを感じてしまいます。

現在ではドイツのスタインウェイも(いつごろからかは知らないけれど)アラスカ産のスプルースを使うようになったようで、どうも他社のアラスカ産スプルースを使うコンサートピアノと、低音の性質が少し似ているような気がするのですが…気のせいでしょうか。
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整骨院いろいろ

ギックリ腰にまつわる話題はいささかくどい気もしますが、敢えてその後のことなどを。

時間とともにずいぶん快方に向かったものの、椅子から立ち上がる際などの傷みはなかなか消えてくれません。
これは、痛めた腰もさることながら、もともと運動不足だったところへ上積みするようにおっかなびっくりの生活が続いて、さらに筋肉が落ちたためだろうと思います。
できるだけ体操などをして筋力をつけなくてはと、ささやかなことはやっていますが、それだけでは不十分でしょう。

例の整体院に見切りをつけてからというもの、ネットの口コミなどを見てまわって、ついに自宅の近所にあるそこそこ評判の整体院があることがわかりました。

ためしに電話してみると、以前のところに較べるとずいぶんさわやかな感じで、「あつものに懲りて…」ではないけれど、事前に料金を聞いてみるとずいぶん良心的な設定のようであるし、ついでに電気治療は好まないとも言ってみると「もちろんOKです」とのこと。
ならば、店(院?)を変えて再挑戦してみようかという余裕が出てきました。

まずなにより楽だったのは、車で5分ほどと距離が圧倒的に近いこと。
以前のところは15~20分ぐらいの距離で、それだけでも通うのは大変でしたから。

店に入ると、限られた空間の中に、若い整体師が数名いて、カーテンで仕切られた施術台が左右に数台ずつ並んでいるだけのシンプルな構成で、電気治療の器具のようなものはほとんどありません。一見して整体師が身体を使って治療にあたる方針というのが伝わりました。
前の院では、院内を3つぐらいに区切って、電気治療専門のスペースもあり、巨大なマッサージ器のようなものが何台も並んでいましたし、通常の施術台の脇には例の「楽○○」なる稼ぎ頭と思しき最新機器が据えられていましたから、これだけでも雰囲気はずいぶん違います。

ネットで目にしていた若い整体師がいろいろ説明した上で施術になりましたが、やってもらっている間にも次々にお客さんがやってくるし、今どきは場合によって若い世代のほうが良いこともあるという典型かもしれません。
中途半端に上の世代になると、変に大胆というか、あくどいことを欲に任せてグイグイやってしまいますが、その点は若い人のほうが今どきの生き残りの厳しさや、利用者側の心理というのにも通じているように思います。

ずいぶん熱心にやってくれて経過もいいので、すでに数回通っていますが、料金は以前の院の1/10ほどになり、そのあまりの違いに嬉しいやら呆れるやら。

以前の整骨院はさらに思い出したことがあり、はじめに携帯メールの登録をすすめられ、これをすれば何かの料金(それがどうしても思い出せないのですが)1500円が無料になるということで、云われるままにしましたが、メール登録をしなければ、初回はさらにそのぶんが上乗せされていたわけで、その料金設定は笑うしかありません。

さてその携帯メールには、すでに10通以上のメールが来ており、常日頃から自分達がいかに皆さんの身体の健康を思っているかなど、歯の浮くようなことが綿々と書かれています。

さらに、数日前はハガキまで届いて、ここしばらくお顔が見えませんがいかがお過ごしでしょう、お身体のことを心配しています、また悪くならないよう早めにお出かけください、とあり、後半は○月○日までに来院されない場合には、再度初診料が発生しますので、それを念のためお知らせします、と、親切ごかしに、だから「早く来い!」みたいなことが書かれていて、図々しいのに必死さみたいなものが滲み出ていて苦笑してしまいました。

もう二度と行かないのだから、初診料の心配などしていただかなくて結構ですよとハガキに向かって言ってやりました。
それにしても同じ整骨院という看板を掲げていても、これほど甚だしい差があるというのは驚きですね。
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