これまで出逢ってきた調律師(本来はピアノテクニシャンというべきですが)の方々は、年齢も性格も出身も活動地も各々違うのに、その職業がそうさせるのか、彼らにはどこか共通した特徴のようなものがあるようです。
調律師さんというのは、ごく一部の例外を除くと、おおむねとても控え目で、どちらかというとちょっと地味な感じの雰囲気の方が平均的だと思います。さらに腰も低いなら言葉もかなり丁寧で、その点じゃちょっとやり過ぎなぐらいに感じることも少なくありません。
マロニエ君に言わせると、ピアノの調律師というのは技術者としても専門性の高い高度な職人なのだから、そこまでする必要があるのかと思わせられるほど低姿勢に徹して用心深い人が多い気がしますが、そこにもそうなって行った必然性のようなものはあるのだろうと察しています。
ところが、この調律師さん達の多くは初めの印象とは裏腹に、お会いして少し時間が経過して空気が和んでくると、大半の方はかなりの話し好きという、そのギャップにはいつもながら驚かされてしまいます。
専門的な説明に端を発して、その後は仕事には関係ないような四方山話にまで際限なく話題が発展するのは調律師さんの場合は決して珍しくはありません。
マロニエ君などは調律師さんと話をするのはとても好きですし楽しいので一向に構いませんし、加えてこんな雑談の中から勉強させてもらったことも少なくないので個人的には歓迎なのですが、だれもかもがそうだとは限らないかもしれません。
もちろんだから相手によりけりだとは思いますが。
職業人として気の毒だと感じる点は、非常に高度な仕事をされている、あるいはしなくてはならないにもかかわらず、それを正しく理解し評価する側の水準がかなり低いということです。
人間は自分の能力が正しく評価され理解されたいという願望は誰しももっているもので、これはまったく正当な欲求だと思います。
ところが、どんなに込み入った高等技術を駆使しても、そこそこにお茶を濁したような仕事をしても、多くの場合、どう良くなったのかもよくわからないまま、ただ形式的に調律をしてもらったこと以外に評価らしいものもされずに、規定の料金をもらって帰るだけという寂寥感に苛まれることも多いだろうと思います。
調律師さんが普通とちょっと違うのは、どんなに低姿勢でソフトに振る舞っても元は職人だからということなのかもしれませんが、それだけ話し好きというわりには、いわゆる基本的に社交性というものが欠落していて、どちらかというと人付き合いも苦手という印象を受けることが多いような気がします。
あれだけみなさん話し好きなのに社交性がないという点が、いかにも不思議です。
もうひとつはその盛んな話っぷりとは裏腹に、メールの返信などは直接会ったときとはまるで別人のように素っ気なく、メールでも返ってくるのはほとんどツイッター並みの最小限の文章だったりするのは甚だ不思議です。もちろんそうでない人もいらっしゃいますけどかなり少数派です。
そこにはやはり調律師という職業柄、知らず知らずに身に付いた特徴のようなものがあるのでしょうね。というか、逆に考えれば、調律を依頼するお客さんのほうの性質もあるから彼等をそんなふうにさせてしまっているのかもしれません。
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