ありそうでない物2

もうひとつ誰かにぜひ作って欲しいものがあります。
こちらもグランドピアノで使う譜面立てに関する物なんでが、前回のものとはまったく逆の使い道になるものです。

夜など、大屋根をすべて閉じた状態のときに、ほんのちょっとだけ遠慮がちに弾きたくなることがあるのですが、時間的にも状況的にも、音は出来るだけ小さく、弾き方もきわめて抑制した小さな音しか出しません。

そんなとき、暗譜していればいいのでしょうが、楽譜がないのはどうにも困りもので、この点をどうにかしたいわけなのです。
マロニエ君は椅子が低めなことと、目もあまり良くないために、楽譜をピアノの上に水平においた状態ではとてもじゃありませんが音符を見ることはできません。たまにこのスタイルで楽譜をチラチラ見ながら軽く弾いているピアニストの姿などを見ますが、あんなこと、とてもじゃありませんが自分にできる芸当ではないわけです。

そこで、ピアノの上に簡単にパッと置けるシンプルな楽譜立てがあればいいのにと以前から思っています。できればごく単純な構造の折り畳み式で、小さくて軽くて、普段は足元か近くの棚にでもポンと置いておけるぐらいのもので、ぎりぎり一冊の楽譜が立てられたらそれでじゅうぶんです。

写真立ての応用みたいなものでもいいし、はじめから角度の付いたものでもいいから、要は下にフェルトを貼り付けてピアノに傷を付けないようにしておけば、こういうものがあると便利だろうと思います。

ちょっと頑張れば自分でも作ることが出来るかもしれないので、いつか挑戦してみようかと思いながら、材料の調達が面倒臭くてつい延び延びになっていますが、こういうアイデア商品もだれかが作れば重宝する人は結構いるような気がします。

飾り皿を立てるための、左右90度に開くスタンドがありますが、あれにちょっと小さなベニヤ板の一枚でも置いておけば、そこに楽譜を置くことも可能かもしれませんが、それじゃあまりにも不恰好だし、もう少しは見栄えのいいものを作ってみたいところです。

課題としては、決してゴテゴテせず、いかにシンプルな構造に到達できるかがポイントだと思っています。
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ありそうでない物

グランドピアノはアップライトにくらべると決定的に不便な点があるものです。

それは楽譜立てを使うには大屋根の前の部分を、後ろに向けてヨイショと開ける必要があり、これをしないとその中にある楽譜立てを使うことは出来ません。
その点では、大半のアップライトは鍵盤蓋の内側に小さな楽譜立てがあるので、ひょいと指先でそれをひらいてそこに楽譜を置けば済むわけですし、しかもこちらのほうが楽譜を置く位置が低く、見ながら弾くという動作にはより自然な態勢が取れるのです。
その点グランドは、ちょっとした一手間があるわけで、これが意外に面倒臭いわけです。
とくに弾き終えたとき、不精者のマロニエ君などは、楽譜を全部閉じて、ピアノから片づけて、譜面台を倒して、元ある場所に押し込んで、さらには開けた大屋根の一部を手前に向かって閉めるという一連の動作は、ついついサボりがちになってしまいます。

だいいちそのままにしておいたほうが、またいつでも練習再開できるし、なにかと都合がいいわけです。
しかし同時に困ることもあるわけで、それはピアノの内部の、大屋根の前部分を開けた一部分にだけ集中してホコリが溜まってしまうわけで、ここにはフレームから突き出た無数のチューニングピン、奥にはダンパー、その下にはハンマーなどピアノの中でもとくに複雑な部分がこれでもかとばかりに集中しています。

これを開けっ放しにするのは、少し程度ならともかく、常時この状態にしておくのは、やはりゴミやホコリの問題を考えるとさすがに躊躇われてしまいます。
ピアノの先生など人によっては、譜面台をピアノから抜き出して、全閉にした大屋根のさらに上にそれを置いて使うというスタイルをとる方も昔からあるのですが、これはでは音は籠もってめちゃめちゃ悪いし、だいいち、ただでさえ高い位置にある楽譜はさらに数センチ上部移動してしまい、マロニエ君などは椅子が低めなこともあって、とてもじゃないですが楽譜が見づらくて仕方がありません。

そこへアイデア商品というわけで、ホコリ防止のためのボードのようなものを楽譜立ての下一面にセットするものがあるようですが、実はまだ本物を見たことがありません。
問い合わせをしたところでは、実はこれには2種類あって、透明のアクリル板でできたものと、黒っぽい木製風のボードがあるようで、中が透けて見えるのがいいのか、黒い板で覆ってしまうのがいいかは好みの問題のようです。

ただし最大の問題は、ホコリ防止には役立っても、副作用として音の響をかなり阻害するわけで、そこがネックとなって実はまだ購入していません。譜面立ての前後のちょっとした位置や角度の差でも音質はかなり変わるのに、ここを一面すっぽり板で覆ってしまうことによる響きの弊害はいかばかりかと思わずにはいられません。
なぜ少しでも音響面を考慮した製品にしないのかが疑問です。

できたらここに薄い布を貼ったようなホコリよけがあればいいと思うのですが、そういうものは一向に見かけたことがありません。誰かが開発したら、これこそ購入したいところです。
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弾き込み乗り込み

車とピアノには共通するところがいろいろありますが、このところ感じているのは次のようなことです。

どちらも酷使すればそれだけへたって消耗してしまうし、逆に使い方が足りないと力がなくなり、いろいろな動きや反応が鈍くなって、たちまち精彩を失ってしまうということ。

この数日、仕事上、天神で美術関係の小さなイベントをやっていることもあり、普段よりなにかと車に乗る機会も増えていますが、そこに折良く一連の整備が完了したマロニエ君の古女房ともいうべきフランス車を3日ほど集中的に使ってみました。

この車はふだんあまり積極的に乗ることはないし、乗ってもたいがい近い距離を行って帰ってくるだけというパターンが多かったので、これだけ集中して続けざまに乗ってみるのは本当に久しぶりでした。
すると2日目の後半ぐらいから、あきらかに乗り味が変わってきました。

全体がこなれて、サスペンションの動きもより細やかで滑らかになるし、エンジンパワーの出方もより緻密さを増してレスポンシブになり、3日目には別の車のようにたおやかで軽く乗りやすくなりました。そうなると相乗作用で、こちらももっと乗りたくなるわけです。

この好ましい状態を維持するには、(きちんとした整備をした上で)いろんな部位の動きが硬化しないインターバルでしばしば車を無理なく動かすことに尽きると思います。逆に言うと、勤め人で平日はまったく車に乗らず、週末にだけ乗っているというパターンの人も多いことだろうと思いますが、こういう乗り方では、いつも車は本領を発揮しないままに終わってしまい、その車が本来もっている本当の良さはあまり感じないままということも少なからずあるように思われます。

まったく同様なのがピアノで、普段ほとんど弾かれないピアノというのは、本来の調子を出すには一定の弾き込みが必要になります。さらにピアノは、弾き込みと併せて調律などの調整が必要となり、その調整と楽器の鳴り出すタイミングをピッタリとベストにもっていくのは車よりもかなり至難の技だと思います。

もっとも典型的なのが出番の少ないホールのピアノで、ふだん何ヶ月も眠っているようなピアノを、急に楽器庫から引っぱり出して本番の数時間前に調律しても、とても本調子を取り戻すには至りません。
ここがまた車と似ていて、ピアノの場合も、最低でも2、3日かけて適度に弾き込みをやったら見違えるようになると思いますし、当然ながらもっと長い周期でやればさらに好ましい結果が出るはずです。

逆にわずか1日で本調子に持っていこうというのは好ましいことではなく、あまり拙速にガンガン動かしたり弾いたりしても望むような結果は得られないと経験からも思います。そこは決して無理をせず、少しずつ時間をかけて目を覚ませていくのが何よりも大切で、いわば解凍技術の差のようなものだろうと思います。
長いこと休養していたアスリートに、いきなり「明日試合に出ろ!」といって鬼のごときトレーニングをしても無理なのと同じです。

マロニエ君が好きなのは、自分のピアノをピアニストなどにある程度弾いてもらって、そのあとに「いただきます」とばかりに弾いてみるときで、大抵ワッとびっくりするほど良く鳴る状態になっているものです。まさに全身が暖まってパッチリ目を醒めしている状態です。

これにもまた、車にも似たところがあって、そこそこ飛ばして走ってきた高速道路を降りた直後に、一般道に出て信号停車などのあとでスッといつものようにアクセルを踏んだときの、その反応の鋭さ、力強さ、軽快感は、近所のお買い物ドライブなどでは到底味わうことのできない、まさに性能が出尽くしているノリノリの状態で、これは結局われわれ人間の身体や健康にもおおいに通じるものがあるようです。
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新SKシリーズなど

いつかそのうちに機会があればと思っていたのですが、新しいシゲルカワイ(SKシリーズ)に触れるチャンスは意外にも早く訪れました。

知人が自宅のピアノの買い換えを検討していて、SKシリーズも見ておこうということからカワイのショールームに行くことになり、新しいSK-2、SK-3、SK-5、さらには貸し出し用のSK-EXにも触れることが出来ました。

新シリーズで印象的だったのは、これまで通りのしっとり感にあふれたタッチに加えて、コントロールの自由度が増していたこと、あるいは音色にもある種の鮮明さが加わったことで、この新しいSKシリーズはどれを選んでも後悔することのないプレミアムシリーズとして、より深い輝きを増していると感じました。

タッチは、ただ単にしっとりというのではなく、軽快さと滑らかさが両立したもので、奏者のわずかな意志もすかさず捉えて反応してくる感触がとりわけ印象的で、風がそよぐようなショパンの旋律から、まったくのノーペダルで奏するバッハまで、幅広い要求に対して、ストレスなく敏感に対処できるピアノになっており感銘を受けました。

タッチと並んで印象的だったのは、次高音部がよりメロディアスになり、隣り合う音同士が切れ目なく繋がっていくようで、まさに歌心が一段とアップしている点も驚きでした。

新しい3機種には、SKシリーズ特有のほの暗い音色の中に、これまでになかった澄んだ輝きのようなものが出てきて、やはり熟成を増したのは間違いないようです。
中途半端な高級ピアノを買うぐらいなら、いっそ割り切って(というのも語弊がありますが)SKシリーズにしたほうがどれだけ賢い選択だかわかりませんし、そのほうが後悔はしないだろうと思います。

SK-EXはマロニエ君的には、まったくの開発途上にあるピアノだと思いました。
全体にやわらかい音色と穏やかな響きをもつピアノでしたが、ステージで聴衆のために鳴り響くコンサートグランドとしては、どうみてもブリリアンスと表現の幅が不足しており、あくまでも個人的な印象ですが、これなら出来の良い従来型のEXのほうがまだ好ましいと思わざるを得ませんでした。
やはりコンサートグランドというのは求める要求があまりに高すぎて、製作も難しい機種なのかもしれません。

従来型にくらべて、よほどパワーアップされているものと思っていたら、この点も肩すかしをくらうほど控え目で、もしもスタインウェイのような遠鳴りの能力を秘めているのだとしたらともかく、少なくとも間近で弾いたり聴いたりする限りに於いては、ただやさしい性格の大型犬みたいで、一向にキレも迫りもないのはまったく意外でした。

いつもなにかとお世話になり、マロニエ君宅にもしばしば来てくださる営業の方によると、来月は天神で新しいSKシリーズのお披露目会というかレセプションが行われるらしく、これにご招待してくださるそうなので、ぜひとも行ってみるつもりです。
もし開発者の説明など聞けるのであれば楽しみです。
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春の嵐

春の嵐という言葉がありますが、昨日は明け方から大変な荒れ模様で、ほうぼうの木々は互い違いに枝を激しく揺らし続けていました。

いつもながら我が家の周辺は多くが他所から飛ばされてきた葉っぱや小枝にまみれてしまいます。
目についたのは、多くの葉っぱだけでなくつい最近出てきたばかりの新芽が無惨に引きちぎられるようにして至るところに散らばっていることでした。よほどの強風突風が吹き荒れたものとみえて、その飛んできた新芽の生々しい香りがむやみにむせ返るようです。

このところのお天気は日ごとにコロコロと変わり、洗車などしようにもタイミングが掴めず、やっと実行したらまた雨でトホホです。

おだやかな秋にくらべると、春はそのうららかなイメージをよそに、遙かにあらあらしい野生を併せ持っている気がしますし、いつも書いているようですがマロニエ君自身はこの季節がどうしても苦手です。

こういう季節は人の心もその天候のように意外にやわらかではなくなるのかもしれず、なんとなく世の中の景色までささくれて見える気がしますが、他の人の目にはどのように映っているんでしょうね。

マロニエ君には、このところ立て続けに起こる悲惨な交通事故や、理解の及ばない異常な事件なども、ひとつには春という尋常ならざる季節が悪さをしているのではないか?と、どこかで自然の摂理が関係しているようにも感じてしまいます。


この荒れ模様の中を、昨日は福岡空港に新鋭のボーイング787がテストフライトで飛来したようです。
胴体や翼にカーボンなどの新素材を多用したこの新鋭機ですが、機体の35%を日本で製造していることで、ニュースでは「準国産機」という言い方をしているのがへぇと思いました。

幅広い翼を大きく左右弓なりにしならせながら悠然と滑走路に降りてくるときの姿こそ、この787の最も特徴的な姿だろうと思います。
来月からANAで東京便などで運行開始するのだそうで、昨日の飛来は地上支援やボーディングブリッジのフィッティングなどの確認のためなのだとか。

それにしても、世界中の航空会社が機体の塗装デザインを新装していく中で、ANAはまだまだ!と言わんばかりに現在のブルー基調のペイントが刷新されないのは理由がよくわかりません。
個人的にはどちらかというと固いビジネスライクな印象ですが、これはたしか767が就航したときからのデザインでしたから、かれこれ30年間ANAの機体はこの衣装を纏っていることになりますが、せっかく話題の新鋭機にはちょっと古臭いなあという印象でした。

できれば787の登場を機にお色直しをしてもよかったように思いますが、今どきは航空会社も価格競争こそが戦のメインで、機体のペイントなんてどうでもいいということかもしれません。
なんにしろ情緒などというものが後回しにされる、おもしろさのない時代になりました。
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意図された行列

見ただけでウンザリさせられる人気店の行列ですが、とくにスイーツ関連のそれは土日などは普段の数倍にもなるようです。

ひとつの行列が、また別の行列を生み出すようで、ときにデパ地下内などは何カ所もの行列が発生、ほうぼうの通路をのたうちまわって、通行にまで支障が出ることも珍しくありません。

さて、人から聞いた話ですが、ケーキ類を買おうとしたものの目指す店は行列状態で、それに嫌気がさして普段から行列のない別の店に行ったそうです。ところがこちらもハッと気がつくと、ずらりと人が行列していることがわかったそうです。すぐにわからなかったのは、列の先頭がお店のショーケースから数メートル離れた場所にあったためとのこと。

しかも見た感じでは誰も買い物をしている気配がなく、一見したところではガラガラに見えたのだそうです。お店では若い女性の販売員に混ざって、一人の店長らしき中年男性が采配を振っているようで、行列のほうをちょろちょろ見ながら「はい、では販売してください!」といって、販売員に列の先頭をショーケースのほうへ誘導させたとか。

ちなみにこの店は、ことさら特別な店というわけでも人気店というわけでもなく、何年も前からこのデパ地下の同じ場所にずっとある、ごく普通のケーキ店だそうです。
もうおわかりだと思いますが、こうしてわざと先頭位置をずらして販売をストップし、お客さんを立たせて待たせることで、それがいかにも人気店の行列であるかのように状況をいわばねつ造しているというわけです。この人は、たまたまそのちょっとした舞台裏の様子を偶然見て憤慨した別のお客さん同士の会話からそれに気付いたのだそうです。
もちろん、いまさら列の最後尾に廻って並ばなかったのはいうまでもありません。

昔からサクラというのはありますが、なんとそれを本物のお客さんを使ってやるというのは初めて聞いたような気がしました。
商売人にとって、なによりも大切でありがたいはずのお客さんを、そんなことに利用して販売可能な状態でありながら、意図的に立って待たせるとは、なんたることかと思いました。

人気が人気が呼び、行列が行列を呼ぶという人の心理作用があるのはわかりますが、だったらバイトでも雇って並ばせるなりするべきで、本物のお客さんを人寄せの演出に利用して、立たせたまま不必要にお待たせをするなんぞ、客商売の禁じ手という他はなく、まったく驚く他はありません。

こんなことが行われているなんて、デパート側は知っているのか、あるいは知っていて黙認しているのか、今どきのことですからわかったもんじゃないと思いました。
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武満ハカセ

6回のシリーズで行われた望月未希矢さんのお話とピアノによる「音楽の話」の「武満徹とビートルズ」に行きました。

このシリーズの最終回でもあるし、武満の音楽は普段あまり積極的に聴くことはないので、ほとんど知識らしいものもなく、これはいい勉強のチャンスだという意味もあって聴講に行ったわけです。
初めに武満の編曲によるギターソロによるビートルズ作品、次いで望月さんの演奏で武満の初期のピアノ作品(後年に書き改められた)が演奏され、メインはお名前は失念しましたが、武満徹を師と仰ぐあまり武満博士のようなものになってしまったという御方の講義でしたが、武満の生まれた時代や、文化的な背景の変遷を交えながら彼の生き様が駆け足で語られて、とても面白く話を聞くことができました。

ピアノ作品では雨の樹素描などがたまに演奏会で取り上げられることはあるものの、よほど積極的に聴こうという意志がない限り耳にする機会も少ないので、このように武満に的を絞って演奏やお話をきくことは、とても新鮮な経験になりました。

あらためて感じたことは、武満の音楽はやはり日本的だという印象をもったことで、西洋の音楽のように音を時間の流れとして聴くのではなく、一瞬一瞬の音そのものを端的に聴くという新鮮な体験をするようでした。
音を聴くことによって、その音が存在する空間や空気までも同等に感じることがひとつの特徴ではないかと思いました。もしかしたら依存し合う音と静寂の関係性をセットにして聴いているのかもしれません。

武満博士の話によると、武満氏の耳には普段の我々が何の注意も払わないようなあらゆる音、生活の中に絶えず発生する雑音さえも音楽に聞こえるのだそうで、地下鉄も車輌の発するさまざまな音はオーケストラであり、それが通る地下トンネルは音響のあるホールなのだそうで、芸術家の感受性と創造力が、いかに凡人のそれとは違うかということを思い知らされるようでした。

武満博士は武満を崇拝するあまり、機会ある事にイベントを企画し、講演し、武満の芸術世界を少しでも広めることに御身を捧げていらっしゃるご様子でした。
話っぷりもいかにも手慣れたもので、これはもう昨日今日はじめたトークでないことは聞き始めるなりわかりました。構成もじゅうぶんに考慮されているようですし、資料は次々に手際よく手許に引き寄せられて、必要なページが瞬時に開いて要領よく示されるなど、まったく無駄というものがありません。
話の途中にはちょっとしたメロディを慣れた感じに口ずさんだり、はたまたピアノで弾いたりと、間断なく繰り出される説明は聞く者を飽きさせる隙間もないほどにまさに武満一色!一気呵成のトークでした。

その淀みない調子に、おもわず有吉佐和子の「ふるあめりかに袖はぬらさじ」の主人公の芸者の語り上手を思いだしてしまいました。
それだけの熟練のトークであったにもかかわらず、終わってみると、さっとカウンターの隅の席に戻ってひとり静かに佇んでいらっしゃるのは、まるで出を終えた役者が舞台から戻ったあとの、楽屋でのひとときのようで、これはもう立派なパフォーマーなのだということがわかりました。

お陰で武満の活躍のあらましが簡単ではありますが把握することが出来て、これから武満へ関心を持つ基礎というか、興味の土台みたいなものを作っていただいたという印象です。
ともかく大変有意義な時間で、また武満博士のお話を聞ける機会があるときはぜひ拝聴したいものです。
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ティーレマン

昨日書いた、ティーレマン指揮のドレスデン国立管弦楽団&ポリーニの続きを少々。
というのもオーケストラにはまったく失望させられました。

いまさら云うまでもなく、ブラームスのピアノ協奏曲は2曲ともピアノ独奏つきのシンフォニーといわれるほど、オーケストラの果たすべき責任は重大で、当然ながらその規模も並のコンチェルトのときとは違います。
オーケストラの重層的な音楽の中で、必要に応じてピアノが登場してくるわけで、この作品では通常のコンチェルトよりもオーケストラとピアノが密な関係を保ちながらこの壮大な音楽を紡ぎ出さなくてはなりません。

ところが、冒頭の悲劇的な出だしからピアノが入ってくるまでのオーケストラを聴いて、なんだこれは?と思ってしまいました。いかにもわざとらしいことはやっているようだけれども、音楽に実がなく、アンサンブルはバラバラで、とりわけ弦の響きのお粗末なことは驚きでした。

ドレスデン国立管弦楽団といえばドイツ屈指の名門オーケストラのひとつですから、オーケストラが悪いとも決めつけられず、やはりこれはティーレマンの指揮の責任かと思われました。

ティーレマンは世間の評判はすこぶる高いようで、今年からドレスデン国立管弦楽団の常任指揮者だか芸術監督だか、ともかくそんなような地位に就いています。しかし、実際は賛否両論甚だしい指揮者で、彼を近来稀に見る天才、圧倒的な名演、ピリオド楽器演奏の逆を行く英雄のように捉えて、果てはフルトヴェングラーの再来!?とまで崇める人もいることには驚きます。
いっぽうで、虚仮威しの音楽、商業主義で、音楽的センスがまったくない、チケットがタダでも聴きたくない指揮者だとこき下ろす人達も少なからずいるようですが、まさに真っ二つといった感じです。

マロニエ君は彼が楽壇の第一線に登場しはじめて、ドイツグラモフォンからCDがリリースされたころから傍観してきましたが、どうもこの人にはもうひとつ興味が抱けず、数枚買ってみたCDもまったくこちらの魂の琴線に触れることがないもので、ほとんどまともに聴いたことがありませんでした。
評価できるほどたくさん聴いたわけではありませんが、ひとことで言うなら、構えはたいそう立派なようになっているけれども、音楽がまるで活きていない印象でした。

この協奏曲でも、ブラームスの悲哀もロマンも情感の綾も感じられない、ただ上辺だけを整えたような(とても整っているとも思いませんでしたが)演奏にはほとほとガッカリで、なぜこういう人が評判なのかさっぱりわかりませんでした。
要するに、彼は指揮を通じてなにがしたいのか、そこのところがまったく意味不明という感じしかありませんでした。老いたとはいえ、ポリーニがよく彼と共演することを承諾したなあと思うと同時に、このオーケストラの演奏をブラームスが聴いたらどう感じただろうか思わずにはいられませんでした。
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ポリーニの今

先日BSプレミアムシアターで放映されたティーレマン指揮のドレスデン国立管弦楽団と共演したポリーニの映像はちょっと衝撃的でした。
曲はブラームスのピアノ協奏曲第1番。

まずなんといっても、あのポリーニがこれほど歳をとって、どこからみても完全なおじいさんになっていることでした。
舞台袖から出てくるときの歩き方や、表情なども、もうすっかり変わってしまいました。
人間は老いるのは誰しも当然ですが、若き日のいかにもピアノ新時代のヒーロー然としたイメージが強烈だったポリーニ、ひとつの時代を作り、既成の価値観さえ塗り替えてしまった技巧のピアニストが、加齢によってここまでになるのかと、さすがにちょっと悲しくなりました。

老人といっても、彼は1942年生まれですから、たかだか70歳なわけで、いまどきこの年齢ならもっと若々しくしている人も多いし、たとえばアラウやルビンシュタインの70歳なんて最盛期だったことを思うと、ポリーニの衰えにはどうしても衝撃という言葉が浮かんでしまいます。

身体もずいぶんちっちゃくなってしまって、大柄なティーレマンと一緒に登場するとほとんどポリーニには見えませんでしたし、所作のすべてがお年寄りのそれでした。
もしかしたらなにか深刻な病気でもしたのかもしれません。

昔のポリーニといえばグールドと並んで、その椅子の極端な低さは有名で、求める「低さ」のためにはポールジャンセンの立派な椅子の足を下から数センチ、惜しげもなく切り落としてしまうことで、その異様に低い椅子に腰を下ろしては、あの圧巻きわまりない演奏をしていたものです。

ところが近年はだんだんと椅子の位置が高くなってきており、これも体力低下の表れかと思っていたものでした。とりわけこの日のブラームスでは、ランザーニ社のコンサートベンチをかなり上まで上げているのは我が目を疑うほどでした。たまたま我が家にもまったく同じものがあるのですが、マロニエ君の3倍ぐらいの高さで、ほとんど小柄な女性並みの高さなのには、これが歳を取ったとはいえ同一人物だろうかと思わずにはいられませんでした。

演奏も相応の衰えはありましたが、それでもなんとか立派に威厳を持って弾き終えることができたのは、さすがに長年のキャリアだなあと思わせられるところです。
やはり老いても天下のポリーニだと思うのは、明晰な美しい音、適度に重厚、適度にスマートで、気品があり、終わってみればやはりそこには一定の満足感を覚えるところでしょう。

ピアノはポリーニ御指名のファブリーニのスタインウェイでしたが、ポリーニの好みにきちんと調整された、やはり通常のスタインウェイとはちょっと違う色彩感に富むピアノだったと思います。
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エゴ運転の横行

最近、どうも変だと思い始めていた交通マナーの異変は、ついに確信へとかわりました。
今回は自転車ではなく、車同士の話です。

マロニエ君をして確信を持つまでに変化したのは、あらゆる場合の割り込みのタイミングです。
以前なら絶対にアウトだったタイミングでの車線変更や駐車場等から道路への流入で、目の前に入り込んでくる車がものすごい勢いで増えたのは間違いありません。
当然、こちらは減速し、ひどい場合はブレーキを踏んで車間距離を取り直さなくてはならず、これ、以前なら大変な顰蹙ものの動きでしたが、最近は当たり前のようになってきて、いつどこから目の前に車が出てくるかわからず、以前のように安定した気分で運転することは、できなくなりました。

最近は、たしかにみんな運転が平均して下手になり、おまけに例の省エネ運転とか活きた状況の読めない人が増えたお陰で、絶対的速度はたしかに遅くなったと思います。しかし、車の動きには従来のドライバー同士にはあった暗黙の了解の中での現場のルールみたいなものが消え去ってしまって、割り込みであれノロノロであれ、もはや何でもアリの混沌とした状況になっていると思います。

それを察して、助手席にいる家人や友人なども、左から出てくる車の動きなどが、見ていて恐くて仕方がないらしく、しばしば「わー」とか「こわい」「あぶない」という声を上げています。

むかしはそんな動きをするのは下手くそか図々しいドライバーであって、クラクションを鳴らされて恐縮したりという光景がありましたが、今はどんなに「ウソ!それはないだろう!」という強引な割り込みをされても、こっちが驚いてクラクションを鳴らそうものなら、向こうのほうが怒り出し、逆ギレしてしまいます。
自分がなにをしたからという原因には考えが及ばず、ただただクラクションを鳴らされたという、その事に腹を立て、鳴らしたこちらを睨みつけたりするのですから、たまったものじゃありません。

さらには、最近ではタクシーまでこういうルール無視の自己中運転をするようになりましたから、もはや終わったなと思っています。

それに、今どきのことなので、どういう人がハンドルを握っているかわからないという危険性も、以前より遙かに高いものになっています。ささいなことで路上トラブルにでもなり、なんらかの被害にでも遭おうものならたまったものではないので、最近ではできるだけおとなしくするよう心がけています。
どんなタイミングでもどんな動きをしてくるかわからない、ちょっとでも車間距離があれば、横の車は幅寄せに近い要領で割り込んでくる可能性が常にあるということを意識に織り込んで、一層の安全運転にこれ努めるようにしています。

おまけに今どきのドライバーは慢性的な自転車の恐怖にもさらされているのですから、いまや本当に「気を抜く」といっては運転の場合は語弊があるかもしれませんが、ある一定のリズムと流れの中で心地よく運転するということは、ほとんど不可能になりました。

どうかハンドルを握られるみなさんも、くれぐれも注意して運転されてくださいね。
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中ホール向き?

BSのN響コンサートで、今年の2月に行われたコンサートから、デニス・マツーエフをソリストにチャイコフスキーの第1協奏曲他が放映されました。

とくに関心もないピアニストだったのですが、ステージに置かれたピアノがヤマハのCFXだったので、ちょっと見てみる気になりました。

所々を早回しにしつつも最後まで聴きましたが、結果からいうとやはりこのピアノのある一面が見えてきたように感じましたが、基本的には以前から感じているところに大きな変化はありません。
前モデル(CFIIIS)に比べると、長足の進歩がある点では間違いないものの、このピアノにはいわゆる逞しさとか懐の深さという要素はあまり感じられず、とりわけ大ホールに於けるチャイコフスキーのコンチェルトといった類の使い方には不向きだと思いました。

CFXの特徴は、いわば日本的気品であり、雅な懐石料理のような美しさであると思います。
轟くような響きよりもピアニッシモでの歌心、ダイナミズムよりはデリカシーといった方向に華があり、せいぜいが室内楽からソロ、コンチェルトならモーツァルトやショパンとその周辺あたりだろうと思います。

ベートーヴェンでもせいぜい4番までで、皇帝はどうでしょう…。
少なくともロシアものはミスマッチで、先代に比べて格段に美しくなった色彩感なども、こういう状況下ではその能力が発揮できず、マツーエフのスポーツ的な単純なフォルテッシモなどにも応えきれません。なにもかもが想定以上で楽器が付いていけないという印象です。

このピアノを聴いていてふと思い出したのが昔のトヨタのマーク2やクラウンクラスの車種でした。
街中での乗り心地、静かさ、精度の高い作り、軽快なアクセルレスポンスなど、いずれをとっても文句なく良くできていてこの上なく快適なんだけれども、いわゆる日本仕様車で、山道は苦手、高速道路でも法定速度まではすこぶる快適なのに、それ以上飛ばすとたちまち限界がきてしまうというものです。
いっぽう、こういうシチュエーションになると、街中では多少の硬さやごつさが指摘されていたドイツ車など、いわゆるヨーロッパ勢が形勢逆転して本来の高性能を発揮するということがままありました。

それはいささか極端かもしれませんが、CFXはあまり逞し過ぎない指でふさわしい曲をほがらかに弾くには最良の面を見せるようですが、限界を超えるとたちまち音も響きも底ついた感じが出てしまい、意外に表現の幅に制約があることがわかります。
つまりは、ある範囲内での使い方をするぶんには、もしかしたら世界一かもと思わせるほどの優れたピアノですが、いわゆる幅広い能力を持った懐の深い全方位的な万能選手ではないということで、オーケストラでいうといわゆるフルオーケストラではなく、せいぜい趣味の良い演奏を聴かせる室内管弦楽団といったところでしょうか。

これって昔のフランスピアノみたいな感じもしなくもありません。
プレイエルやエラールでロシア音楽やベートーヴェンを熱情的に弾いたとしても、作品が求める本来の味がでることはまずありません。

これらの制約がなくなったときこそCFXは世界第一級のピアノになるだろうと思われますが、他ならぬヤマハの技術を持ってすれば、それは十分可能だと思いますから、この先が楽しみです。
裏を返せば、いまだ過渡期のピアノだということかもしれません。
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両方大盛り

昨夜は親しい知人が集まって、ささやかな食事会となりました。
食事会といっても、行ったのは話題のちゃんぽん屋で、土曜の夜ともあって狭くない店内は見事に満席でした。

ここのメニューはちゃんぽんのみという潔さですが、量とトッピングには多少種類があり、量的には小盛りちゃんぽん、ちゃんぽん、野菜大盛り、麺大盛り、両方大盛りという5段階になっています。

4人のうち3人は通常のちゃんぽんでしたが、一人は今しがたリコーダーを吹いてきたとかで、よほどお腹が空いていたのか、なんと最大の「両方大盛り」を注文したのには一同瞠目しました。
この店は、通常のちゃんぽんでもかなりのボリュームがあるので、大半の人はノーマルで事足りるのだろうと思われますが、両方大盛りを注文する瞬間はちょっとこちらまでなにか快感めいたものを感じました。

オーダーを受けに来たお店の人が、大盛りでよろしいですか?(大丈夫?)みたいなことを確認されましたが、彼の決意は変わりません。

果たして運ばれてきた両方大盛りは、その盛り上がった野菜の山の大きさと高さが、あとの3人のものとは格段の違いがあり、まさに周囲を見下ろす横綱のような貫禄でした。
もちろん立派に完食して店を出ました。

別の一人は、比較的最近、運転免許を取ってドライブをはじめたらしく、いつもはマロニエ君が駅などでピックアップすることが多かったのですが、この日はさても見事に一人で運転して、ニヤリとばかりに約束の場所に現れました。
ちゃんと初心者マークをつけているのがいかにも律儀でしたが、運転は慎重さの中にも音楽家らしいスムーズさがあったように感じました。

食事の後、お茶をしているとつい時間も遅くなってしまいましたが、帰り道の信号で横に並んだところ、一切横を向くでもなく、真剣に前方を注視している様子で、さっきまでキャッキャと笑っていた人が別人のように真面目に見えました。

深夜はやはり交通量が少なく、それでも街中は明るいし、どこに行くにもスイスイと到達できてストレスが溜まりませんね。
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バラードの背景

青澤唯夫著の「ショパン──優雅なる激情」を何とはなしに通読しましたが、後半の作品解説の部分で、思わず鳥肌が立つような文章に出会い、なんとも形容しがたい鮮烈な気分に襲われました。

たとえばこれ。
『昔、リトアニアの深い森の湖にまつわる神秘的な謎を解こうと決心した勇敢な騎士がいて、湖に大きな網を投げて引き揚げてみると、なかに美しい姫君が入っていた。姫の話によれば、その昔この湖畔も立派な町であった。あるときロシアとの戦争が起き、女たちは捕らわれの身になるよりは死を、と神に祈った。たちまち大地震が起きて城も町もみんな湖中に没した。女たちは水蓮に化身して、手をふれる者たちを呪った。その水の国の姫君は、同族の出である騎士に危害を加えようとはせず、これ以上湖の神秘をあばくでないと言って、水のなかにすがたを消した』

いったい誰が何について語られたものかというと、ショパンと同郷の亡命詩人アダム・ミツキェヴィチの詩の内容で、彼はポーランドでバラードが文学的形式として取り上げられるようになった19世紀初頭にそのジャンルの頂点を築いたといいます。
そしてショパンはミツキェヴィチの詩にインスピレーションを得て一連のバラードを作曲したと伝えられているそうです。

上の詩はバラード第2番の背景にある物語として、ミツキェヴィチの「ヴィリス湖」の概要が紹介されていました。
曲を思い出してみると、まったく納得できる曲想と内容であることがたちまちわかって、「へええ、なるほどなあ…」と納得してしまう気分になりました。
美しい第一主題の旋律のあとに突如湧き起こる、激情の上り下りはそんな悲劇を意味していたのかと思わせられます。
この第2番のバラードはシューマンに捧げられ、その返礼としてシューマンは「クライスレリアーナ」をショパンに贈ったのだとか。いずれも文学に触発されたピアノ曲の傑作というわけですね。

さらにもっと驚くのはバラード第1番についての物語。
『リトアニアが十字軍に敗れて独立を失い、七歳の王子コンラード・ワーレンロットは捕虜となった。敵方の首領の養子として成長した彼はやがて十字軍きっての勇敢な騎士となって、首領に選ばれる。そこで彼は知略をめぐらし、母国リトアニアを独立させることに成功するが、自分自身は十字軍の裏切り者として処刑される』

どうです?
思わずゾッとするほどの内容的な符合で、これまで何十年、何百回かそれ以上聴いてきたこの曲の、曲想や各所の旋律や運び、起伏の意味などが、純音学的に捉えてきた抽象的なドラマに代わって、これほどありありとした物語性を帯びていたのかと思うと、いかにも頷けるその内容に、ほとんど戦慄してしまいました。
しかも驚くべきは具体的な情景表現ではなく、徹底した精神的描写である点。

冒頭から最後の一音に至るまで、ショパンにしてはえらく英雄的であり同時に深い哀愁と悲劇性に満ちたこの曲の中心は、こういう宿命を辿らされた王子の心情と悲劇であるというのはまったく驚きでした。
こちらにしてみれば、ショパンの作品として純音学的に接してきたものが、突如このような背景となる話が降って湧いたようでもありますが、これは今後、この曲に触れる折に切り離して音だけを聴くことはできなくなってしまったかもしれません。

尤も、著者もいっていますが、ショパンのバラードは決して標題音楽ではなく、情景をリアルに活写したものではなく、あくまでも根底にある「イメージ」であり、そこにショパンが着想を得たにすぎないという間接的な捉え方をすることを忘れてはならないでしょう。
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ベビーカー

あるビルの、地下2階から4階の駐車場へ上るべく、エレベーターへと向かったら一足先にちょっと個性的な感じのおばさんが一人エレベーター前で待っていました。
ザンギリ頭でまったく化粧気がなく、服装も男性的な感じでした。

2台あるエレベーターは両方とも今しがた上に向かったばかりという生憎なタイミングで、これはかなり待つことになると覚悟を決めました。
待つことが嫌いなマロニエ君としては、たかがこんなことが相当な気構えです。

かなり覚悟してかかると、意外にもサーッと一気に降りてくる場合もたまにあるので、その意外性に期待したのですが、この日はさにあらず、2台とも7階8階まで上がってしまい、しかもくだりも各駅停車に近いような動きでさんざんじらされました。

そして待ちに待ったあげく、ついに右側のエレベーターが地下2階に到着して扉が開き、中の2人の男性が降りると、そのおばさんが乗るのは自分が一番だという感じで一瞬身構えました。たしかにマロニエ君よりも一足早く来て待っていたのですから、そこは当然と思って一歩控えた感じでそのおばさんが先に一歩動いたそのとき、いきなりマロニエ君の前へ横に腕を出して、まるで交通整理のような仕草で人の動きを堰き止めておいて、「ベビーカーはお先にドーゾ、ドーゾ!」とあたりに響き渡るような身体に似合わぬ大きな声を発したのには驚きました。

そのベビーカーはマロニエ君よりも二人ほど後ろにいたのですが、マロニエ君は自分の主義として、車椅子はいかなる場合も優先だと考えますが、ベビーカーはこういう場面でも必ずしも優先されるべき特別な存在だとは思っていません。
もちろん状況にもよりますが、じゅうぶん乗れる状況であれば、とくだんの理由がない限り、お互い様であって、若い親が付いていることではあり、必要以上に優先する必要はないという考えです。

しかるにそのおばさんは、やたら大声を出して、ドアの前に腕まで伸ばして人の動きを阻止しようとするのですから、これはいくらなんでもやり過ぎというもんです。そんなに善行がしたいのなら、他者を巻き込まず自分の順番だけを譲ればいいのであって、それを周りにも有無をいわさず強要するのはまったく不愉快に感じました。

マロニエ君はそのおぼさんの妨害工作には従わず、伸ばした腕をすり抜けるようにして構わず中に乗り込みました。それで文句があるなら受けて立つと思ったからです。
するとベビーカーを「ハイドーゾ、ドーゾ!」と招き入れて、むしろそのベビーカーを押す女性のほうが「すみません」とは言いつつも本当は迷惑そうな感じでしたが、ともかく乗り込むと、すかさずそのおばさんは「何階ですか?」とこれまたエレベーター内で耳に痛いほどの野太い声で聞いてきました。

「3階です…あ、間違えた、2階です、すみません」というと、おばさんはベビーカーの赤ちゃんに向かって「ねー、おかあさん、どこで降りるかしっかりしてもらわなくっちゃ、困るわよねー!」と変わらぬ大声で言って、明らかに不自然な調子が浮き彫りになり、女性も困って苦笑いしながら、一刻も早く解放されたいという雰囲気がありありとしていました。

2階で扉が開くとそのベビーカーとあとの1人も降りてしまい、マロニエ君はそのおばさんとたった2人になりさすがに緊張しましたが、手の平を返したような沈黙で、3階に着くと、ドアがあくやいな、ササッと消えるようにいなくなりました。
なんだかよほど強い足腰を(そして声帯も)お持ちのようでした。
エレベーターというのは見ず知らずの他人と一緒に閉じこめられる箱ですから、やはり恐いですね。
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IKEAの街

夜、友人と東区のほうまで出かけたついでに、ちょっと遠回りして新宮方面まで行ってみることになりました。

新宮は福岡市の北東部に隣接するエリアですが、ここに北欧家具のIKEAが売り場面積において日本最大級だという大きな店舗を作り、オープンを目前に控えています。
べつにIKEAを期待しているわけではありませんが、新宮といえばとくに特徴のあるところでもなかったので、そこに果たしてどんなものが出来るのやら…ぐらいには思ってはいました。
新宮方面に向かって国道を走っていると、いきなり夜目にも鮮やかなブルー地に黄色の太いロゴマークで「IKEA」と大書された特大看板がライトアップされて前方に出現、嫌でもその場所がわかるようになっていました。

看板のある交差点を左に折れると、見通しの良いはるか向こうに、まるで美しい模型のような店舗群が無数のライトとともに浮かび上がり、そのあたりが新造された一帯だということが一目瞭然でした。知らぬ間に、あたり一面は一気に近代的な雰囲気に激変してしまっていることにびっくりです。

近づくにつれて、それらはIKEAだけではなく、駅を中心としてモールの類まで抜け目なく集まってきており、そこらじゅうに出来たてのきれいな新しい道が縦横に何本も伸びています。

主役であるIKEAは新宮駅の真横に陣取っていて、駅舎も以前の姿はよく知りませんが、ずいぶんと新しいもののように思われました。
以前はこれといってなにもなかったような土地に、まっさらの広大な商業施設が、まるで定食のお膳のようにドカンと現れたようで、ほとんど新しい街が出現したかのようでした。

モールの入口には入居テナントの名前が明るい電光とともに表示してありますが、大半がどこかで見た覚えのあるようなものばかりで、とくに新鮮味はありません。こうして同じような店舗があちらこちらと新しい商業施設ができるたびに出店を繰り返すことで、人はどこでも同じような雰囲気の、同じようなモールやお店に行くことになるという、まさに現代の商業形態および消費生活の現実をまざまざと見せつけられるようでした。

いっぽうIKEAでは、夜遅くにもかかわらず、ガラス越しの中には関係者とおぼしき人達がたくさんいて、オープンに向けてあれこれと準備や打ち合わせに余念がないようでした。
車に乗ったままの見物でしたが、店舗自体はいわれるほど巨大にも見えませんでしたが、そのスケールで目を引いたのはむしろ隣接する駐車場のほうでした。
これはちょっとした空港並みというか、かなり広いスペースだと感じましたし、それぞれに簡単な屋根のようなものがあるところが、従来のありきたりな駐車場とはちょっと違った印象を与えました。

オープンしたらしばらくは周辺は渋滞などにさぞかし悩まされるだろうと思いますが、ひと心地ついたころには、まあ一度ぐらいは行ってみようと思います。
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廊下に立たされた

昨日、日本人はルール好きだということを書いたばかりでしたが、ひとつ思い出したことがありました。

先週、ピアノ好きや楽器業界などで話題の映画『ピアノマニア』を観に行ったのですが、上映開始20分ほど前に会場に到着し、チケットを買って目の前のロビーに立っていると、ほどなくこの映画館の従業員の女性がやってきて、「こちらはピアノマニアを上映致します」と、廊下を挟んで左右にある2つのシネマの右側を手で示しながらあたりに聞こえるにアナウンスし始めました。

単に左右あるシネマのうち「こちらですよ」というお知らせかと思ったら、言いながら自ら廊下の中ほどまで進んで、ドアの前に立ち「こちらにお並びください!」と逆らえない感じに言い始め、待っている人達は仕方がないので言われるままにぞろぞろとそちらに移動を開始しました。
すると、その女性の司令はさらに続き「こちらから、“2列に”お並びください」と言って、まごつく一同がきちんと廊下の右の壁寄りに2列縦隊を作るまで、繰り返して「右側に」「2列に」と大きな声で、ほとんど命令的に言ったのにはちょっと驚きました。

その状態では、まだ開場はしておらず、映画を見に来たお客さんは、思いがけず、まるで学校の朝礼かなにかのように薄暗い廊下のドアの前からきちんと並ばせられて、女性の指示通りに2列縦隊を取らされました。

しかもそれですぐに会場入りができるわけではなく、正確に計ったわけではありませんが、その状態で約10分ほどだったと思いますが、そのまま棒立ちの整列状態で待たされました。
いい大人が、自由意志によって料金1800円也を支払ってこれから映画を観ようというのに、このような強制を受けようとは夢にも思わず呆れてしまいましたが、同行者もいたことでもあり、そこで憤慨しても仕方がないので、この場はおとなしく従いましたが、後から考えてもこれはちょっと映画館側もやり過ぎだと思いました。

見方によってはナチに連行されるユダヤ人のようでもあり、(自分を含めてですが)なんとおとなしいアホな人達かとも思いました。
映画館の従業員にしてみれば、自分達の指示ひとつでお客さんをいいように動かして、並ばせたり、待たせたりするほうが都合がいいのかもしれませんが、これでマロニエ君は、この映画館に対する印象がすっかり悪化してしまいました。
せっかく『ピアノマニア』のような珍しい映画を上映してくれたことに感謝していたにもかかわらず、とても見識を欠いた残念なやり方だったと思います。

今どき物事を性別で言ってはいけないのかもしれませんが、とくに女性はこういう事に関して強制力を発揮したがる人や場合が多いようにも感じます。
もちろんこれは映画館側の方針であって、一従業員の一存でやっていることとは思いませんが、それでもそれをためらいもなくズンズンと押し進めていく手際というか、その態度や口調には独特な高慢さというか、人を人とも思わない冷酷さが含まれていたように感じました。

逆にいうと、あの状態で各自が自由にロビーにいて、時間になれば自然な流れで会場入りしたからといって、何が問題なのかと訝しく思うばかりでした。
ちょっとした都合で、人に軽々しく上から目線で指令を出して、まるで囚人のような扱いをするのは、それを取り決める人達の、物の考え方に対する品性を疑ってしまいます。

ついでながら、この『ピアノマニア』の感想は近いうちにマロニエ君の部屋に書くつもりです。
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ルール好き

外国人から見ると、日本人は規則が好きだとよく言われますが、それはたしかに否定できません。

日本人は礼節ある優秀な民族だとは思いますが、個々の人間が、自分の良識や感性、広くは教養によって臨機応変に物事を判断していくよりは、頭上にある規則に従うほうが性にあっているようにも感じます。
この点、自分は違うと言うわけではありませんが、日本人のマロニエ君にさえ、さすがにちょっと首を傾げる部分がしばしばあるのも事実です。

最近目にしたある音楽雑誌によると、近ごろではホールに於いても、花束を客席から直接渡すことを規則で禁じているところがあるとかで、それを受け取ろうとして関係者の手で遮られたキーシンが、帰りしなに「花は直接もらったほうがうれしいものですよ」というコメントを残したという一幕もあったとか。
そもそもクラシックのコンサートで花束を渡すことを禁止するというのも、その文化意識の低さたるや驚きですが、せめてそうまでする理由ぐらい明確にしてほしいものです。
ただ受付に託すだけなら、安くもない花を持って行く人なんていないでしょう。

規則というものは、もちろん社会ルールの維持のためには大いに必要なことは当然ですけれども、これをむやみに乱発するのは感心できません。
規則が昔から大好きなのがお役所や学校ですが、最近ではサービス業が主体のお店などでも、かなり無遠慮に決まりを作って、店員が堂々とそれを盾にした発言をお客さんにするのはまさに主客転倒というべきで、大いに違和感を覚えるところです。

規則というのは人を縛るものである以上、その制定と運用にはよくよくの慎重さをもって取り扱わなければいけないことですが、中には何か面倒があるとすぐにそれを禁ずる規則をお手軽に作ってしまう風潮があるのは、あまりに見識に欠けていると言わざるを得ません。
尤も、自己判断ではできない事柄でも、いったん規則となるとえらく従順になってしまうという場合が多いのも、日本人独特の不思議な性質にもよるのだろうと思います。

その最たるものは、お店のポイント制度などは、もっぱら店側の都合ばかりでルールが定められ、内容も随時ころころ変わり、その都度、客側が従わされることになるのは、まるで権力を振りかざされるような気分です。
しかし、大半の人はそれに異論も唱えずスムーズに従うようで「規則だから仕方がない」と無意識に反応してしまうようですから、これが日本人のDNAなのでしょうか。

ネット通販やソフトの同意規約なども同様で、これを一言一句読む人もめったにいないと思いますが、それをいいことに大半は最終的には店側に都合のいい決まりを列挙して、「同意」という担保をとりつけるのはいかにもな遣り口としか思えません。

また趣味のサークル等でも、この規則をやたらと乱発するところがあり、しかも泥縄式に細かい規則を作っては構成員に申し渡すというケースがあって驚きます。
内容も、ほとんどどうでもいいような、各人の常識に委ねれば済むようなことまで事細かに定められていたりしますから、このあたりは専らリーダーの性格しだいのようです。

永田町を筆頭に、人間は自分がルールを作る側・決める側になるということに、ある種の支配欲を刺激され、言い知れぬ快感があるのかもしれませんね。
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『桜の詩』

つい最近、知人から珍しいCDをいただきました。

なんと、この方のお父上が作詞・作曲をされた歌がプロの手によって編曲され、それをヴォーカルの女性が歌ったものがきちんとした製品としてCD化されているのですが、それをよかったら聴いてみてくださいと託されました。

マロニエ君は普段はクラシックしか聴きません。
べつにクラシック以外を聴かないと決めているのではなく、クラシックがあまりに広く奥深いので、それ以外の音楽ジャンルにまでとても手が回らないというのが偽らざるところなのです。
そして気がついたら、クラシック以外の音楽ジャンルのことはなにも知らず、いまさらCDを買おうにも、どこからどう手をつけていいかもさっぱりなわけです。

ですから、たとえば松田聖子の歌なんかを偶然耳にして、なかなかいいなぁ…と思うこともあれば、ちょっと縁あって聴いたジャズのCDが気に入って、しばらくそれを聴くというようなことはありますけれども、そこからあえて別ジャンルに入っていこうというところまでの意欲はないし、だいいちクラシックだけでもとてもじゃないほど無尽蔵な作品があるので、どうしても馴染みのあるクラシックという図式になってしまいます。

ですから、こうして人からきっかけを与えられた場合がマロニエ君が他の音楽を聴く数少ないチャンスでもあるのですからとても貴重です。

さて、このCDはペンネーム三月わけいさんという方の作品で、『桜の詩』『草原の風』という2曲が入っていましたが、はじまるやいなや、淡いほのぼのとした叙情的な世界が部屋中に広がり、メロディも耳に馴染みやすいゆったりした流れがあって、すっかり感心してしまいました。

印象的だったことは、日本人のこまやかな感性と情景がごく自然な日本語で描写されていて、どこにも作為的な臭いやわざとらしさがないことでした。

日本人は桜というとやたらめったら大げさに捉えがちで、あれが実はマロニエ君は好きではありません。
お花見も今やっているのは本来の在り方からはまるで逸脱したようなもの欲しそうなイメージがあり、気品あふれる桜とことさらな野外宴会の組み合わせが、すっかりこの季節のお馴染みの風景になってしまって、いつしか静かに桜を愛でるという、穏やかで自由な楽しみ方が出来なくなったようにマロニエ君は思うのです。

そんな中で、この『桜の詩』には人の喧噪も宴会もない、ありのままの桜とそこに自分の心を静かに重ねることができるやさしみがあり、このなんでもないことが、むしろ新鮮な感覚でもありました。
押しつけがましさのない、自然な詩情にそよそよとふれることで、人は却って無意識に惹きつけられるものがあるのかもしれません。
http://www.youtube.com/watch?v=MnrhRTupt-g
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ピアノ磨き2

いつだったか、ホームセンターに行ったついでにカー用品を見ていると、この分野も時代とともにずいぶん様変わりしているようです。
昔は生粋のカーマニアというのが珍しくなかったので、手間暇のかかる洗車や、ややこしいカーケアにも労を厭うことなく、専門のショップなどは高額な最高級ワックスだとか何とかいったものが溢れかえっていたものです。
しかし車に対する人々のニーズもしだいに変わり、それに伴ってカーケアの種類や方法も変わっていきました。

例えばワックス入りカーシャンプーみたいなものも出てきて、洗車とワックスがけの手間をひとつにまとめるなど、要するに結果はそこそこでも、作業はできるだけ簡単・短時間なほうがいいという傾向が現れ、次第に数を増し、ひとつの流派が確率されていきました。

さらにその上を行くものに、ウエットティッシュから発想を得たような、水入らずの「おそうじシート」がブームになり、これがカーケアの世界にも入ってきました。
これは最初は女性向けの手軽な洗車用品として登場しましたが、マロニエ君などは、こんな赤ちゃんのお尻拭きみたいなものは一時の思いつきのようなものですぐに姿を消すはずだと踏んでいましたが、結果はまったく逆で、次第に種類や内容もより豊富な製品が揃うようになりました。

出始めは、単にボディの汚れの除去剤を含ませた車用おそうじシートだったものが進化して、今ではワックス入りなどの種類も増えて、中には小キズ消しからコーティングまで一気にやってしまうという一手間で何役みたいなものが並んでいます。
これらを見ているうちに、これはもしかしたらピアノに使えないか…という考えが頭をよぎりました。

価格は300円前後から700円ほどの間で、内容というか、いわば効能も様々のようですが、安くて作業が簡単という点ではどれも共通しています。
とりあえず一番安いベーシックな「ワックス入り」を購入し、恐る恐るピアノに使ってみたところ、予想以上の上々な仕上がりにいたく満足しました。

使い方は、水ぶきして軽くホコリを落とし、シートに含まれる水分(というかワックス?)を軽くのばした後、時を置かずに柔らかい布で拭き上げるという至って簡単なものです。

ポイントは洗車のときと同じで、一度に広い範囲へ拭き広げることはせず、部分ごとに塗っては拭き上げるという作業を繰り返していくことです。
とりあえずサーッと一通りこれで拭き上げてみると、さすがはワックス成分が含まれているだけあって全体がピカピカになり、思わず「おおお!」とばかりに嬉しくなりました。これをもう一度繰り返すと、さらに輝きは増して安定したものになるだろうと思われます。

なにしろ作業自体がえらく簡単で、こんなにあっさりきれいになるなんて!
しかも拭いた後の感触が新品のようにツルツルで、楽譜なんてツーッと滑って行って、そのまま向こうに落ちてしまって慌てたぐらいです。

こうなると、またオバカなマロニエ君のことですから、違った製品をあれこれと買ってみなくては気が済まなくなりそうです。そんなことをする暇があれば、ちょっとでも練習をした方がいいのかもしれませんが、いざとなるとそんなことはどうでもいいわけで、これぞアマチュアの強味というか特権です。

だって弾くことは義務ではないんだもん!いつ中断してもどこからも文句が出るわけではなし、むしろ騒音が減って歓迎されるほうでしょう。
それはいいとしても、磨き事にハマってしまいそうな自分がこわいです。
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ピアノ磨き

黒の艶だし塗装のピアノをお持ちの方は、塗装面のお手入れはどんなふうにやっておられるのでしょう?
楽器店で売っているクリーニング液などを付属のネルの布などにつけて、薄く伸ばしながら拭きあげるというのが一般的な方法だと思います。

ところで、マロニエ君は自分のピアノには一定の考えがあってカバーはしていません。
音の問題もありますが、よくあるあの表は黒で裏には朱赤のネル生地がついた、いかにも学校の音楽室みたいなカバーがどうしても好きになれないのです。とりわけ黒と朱赤という色のコントラストは神経に不快なのです(尤も最近は裏地も黒といういうのもありますが)。
で、カバーをしていないぶん、音もカバーによる妙に籠もったようなものにならなくて済んでいます。

しかし微細なゴミは確実に塗装面(とくに水平面)に降り積もり、そのつど柔らかい布などで除去しますが、よくみると固着してしまう微細な汚れもあり、これは空気中には必ず含まれるものなので、これはなんらかのケミカル製品の助けを借りなくては安全に取り除くことはできません。

マロニエ君は最近でこそすっかり大人しくなりましたが、一時は大変な洗車マニアで、ありとあらゆるケミカル品を使っては試し、当時の我が家のガレージの棚には無数のワックスやコーティング剤がずらりと並んでいたものですが、ピアノの塗装面を見るとちょっとそのあたりの虫が疼いてくるわけです。

さて、その洗車のためのケミカル品、とりわけキズ落としや研磨剤、さらにはつや出しに至るまでの薬品は、意外にもピアノに流用できるものがあるとマロニエ君は考えています。まあそれもそのはずで、例えばピアノ業者がキズだらけのピアノを磨き上げるには、車と同様、目の異なるコンパウンドを使い分けながらグラインダーで磨いていくことで、ようはキズのある塗装面を薄く削り取って、美しい平滑な艶を磨いて出しているわけですから、こういうところはまったく同じなんですね。

素人が下手にコンパウンドを使うと却って細かい傷を付けたりくもらせてしまう場合があるので、これはよほど極細の最終仕上げ用以外は使わないほうが無難ですが、なかなか良いのはキズ消しとコーティングの効果がある製品で、これを使って磨くと、ピアノはかなりきれいになります。
ここでもキズ取りには若干ですがコンパウンドが巧妙に混入されており、それが塗装面の汚れを取り除いてきれいに仕上げるのに役に立つわけです。
ちなみに一般的な車用のコーティング剤の場合、同じ製品でも「ダークカラー系用」「淡色/メタリック系用」「ホワイト系用」という3タイプに分かれているのが普通ですが、この違いは何かというとコンパウンドの含有量もしくは粒子の違いで、ダークカラー系が最もキズが目立ちやすいので、そのぶんコンパウンドも最も弱く、効力もソフトなものになっています。

というわけで、黒のピアノには当然ダークカラー系を使うのが順当でしょう。
これで磨くと、ボディに美しい艶が出るし手触りもツルツルになるのはもちろん、くすんでしまった鍵盤蓋のYAMAHAやKAWAIの文字もビカビカの金色がよみがえり、これだけでもなにやらとても新鮮な気分で練習にも励めるというものです。

ただし、これはあくまでマロニエ君の個人的な経験と考えですから、マネされて何か不都合が起こっても責任はとれませんので、いちおう念のため。
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オペラの復活上演

NHKのBSで放送された、ジュゼッペ・スカルラッティの歌劇「愛のあるところ 嫉妬あり」の本編が始まる前に、イントロダクションとしてメーキングのドキュメントがありましたが、これはなかなかに印象深いものでした。

チェコ南部、世界遺産の古都チェスキー・クルムロフにあるチェスキー・クルムロフ城の中にバロック劇場というのがあり、そこでこのオペラが200数十年ぶりに復活するというものでした。

この城の中にあるバロック劇場でのオペラ上演は歴史の中で幾度も途絶えるなど、ときの為政者の意向によってそのつど興亡を繰り返してきたようです。
今回の復活上演では、初演当時のオリジナルを忠実に再現するほか、装置や小道具などもすべて往年のスタイルが用いられました。

驚いたことには、この劇場の緞帳の上げ下げはもちろんのこと、装置の転換など、舞台上のありとあらゆることが手動で行われるというものでした。
舞台下には、無数のロープが張り巡らされ、その端には木で作られた舟の舵取りハンドルのようなもののさらに大きいのがいくつもあって、それを数人の男がせっせと動かすことで、幕が上がったり装置が動いたり、背景が転換されたりと、まさに人力によってすべてが成り立っています。

また照明も電気を使わず、舞台手前の大きな金属の覆いの中にはたくさんの蝋燭が並んでいて、その光りを金属板が舞台方向を照らし返すことで役者の顔や身体を照らします。
またオーケストラピット内も照明はすべて蝋燭で、所狭しと並んだ楽譜や弦楽器に燃え移りはしないかとひやひやするほどでした。

オーケストラといえば、指揮者はもちろん、すべての団員までもが鮮やかな衣装とかつらをつけて、顔には例外なく真っ白な化粧をしています。
意外だったのは、普通のオペラでは客席から見て指揮者が中央で背中を向けて、舞台を見ながら左右に広がるオーケストラを指揮するものですが、ここでは指揮者はピット内の左側に横向きに立って、縦長のオーケストラを指揮しており、昔はこういうスタイルもあったのかと思いました。

もちろん出演者もクラシックな出で立ちで、立ち稽古中にも、古典作品ならではの動きや表情に事細かく注意を払っていて、現代では決して味わうことのできない往年のオペラを楽しむことができました。

照明や手動の道具類がそうであるために、舞台のすべてが喩えようもなくやわらかな光りと空気に包まれており、なんという優しげで美しい空間かと感嘆させられました。
唯一思い出したのは、映画『アマデウス』の中で出てくるフィガロやドン・ジョバンニ、魔笛などの舞台がやはりこういう調子だったことで、近年はピリオド楽器による古楽演奏がこれほど盛んになったぐらいですから、オペラのほうもこのような徹底した古典技法にのっとった手法でやってみるのもひとつの道ではないかと思いました。

それにしてもこのオペラのみならず、城の内外の様子を見るにつけ、ハプスブルク家を中心とする中央ヨーロッパの権勢と、そこに咲き乱れた文化の花々はおよそ想像を絶する桁外れなものだということを、いまさらながら思い知らされた気分でした。
マロニエ君はむやみに古いものを礼賛する趣味はありませんが、こういう「本物」というべきものを見ると、古いものの魅力には現代に比しておよそ底というものがないような気がしました。
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パイクのベートーヴェン

韓国ピアノ界の巨星ともいうべきクン=ウー・パイク。
この人の演奏するプロコフィエフのピアノ協奏曲全集やブラームスの第1協奏曲にマロニエ君はすっかり惚れ込んでしまって、彼が2005年から2007年にかけて作り上げたベートーヴェンのピアノソナタ全集を購入すべく探していることは、以前このブログに書いたばかりでした。

どういうわけか他の演奏者のように、どこの店でも取扱いがあるわけではなく、結局アマゾンで見つけて購入することに。ほどなく届き、はやる気持ちを抑えつつ、最初の一枚をプレーヤーに投じました。

この全集は9枚組で、曲は番号順に並んでいますから、一枚目は第1番ヘ短調から始まり、9枚目の最後は第32番で終わるということになります。
果たしてこれまでのクン=ウー・パイクの数々の名演からすれば、とくだん輝いているようでもない普通の感じでのスタートとなりましたが、いくら聴き進んでも一向にパッとしない演奏であることに否応なく気づきはじめました。
第4番から始まる2枚目でそれはある程度明確になり、3枚目の第7番や悲愴などの茫洋とした演奏を耳にするにいたって、それは甚だ不本意ながら確信へと変わりました。

もちろん曲によって多少の出来不出来があるのは致し方ないとしても、月光の第3楽章では、ある程度のpもしくはmpで上昇すべきアルペジョを、力任せにフォルテで駆け上るに至って、なんだこれは!?と思いました。
このころになると、はっきりと裏切られたという現実を認識していましたが、とりあえず軽く一通りは聴かないことにはせっかく安くもないセットを買ったことでもあり、悔しいので途中棄権はせず、敢えて最後まで聴き続けることにしました。

田園などは比較的よい演奏だったとも思いますが、テンペストや期待のワルトシュタインなども一向に冴えのないただ弾いてるだけといった感じの演奏でした。熱情では急に第3楽章のみやたらとテンポが速くて、これも大いに不自然でしたし、テレーゼなども優美さがまったく不足していました。

後期の入口であるop.101は比較的良かったとも思いますが、続くハンマークラヴィーアでは再び、ただ色艶のない重い演奏に終始します。
9枚目の最後の3つのソナタも、美しいop.109、感動のop.110はあまりに凡庸な演奏でしたし、最後のop.111でも特に大きな違和感や疑問を感じるような演奏ではないものの、これといって酔いしれるようなものではない、ごくありきたりな感じで、この作品が持つ精神的な崇高さをとくに感じることもないまま、ついには9枚のCDを聞き終えました。

ただし、だからといってパイクが他の曲で聴かせた名演の数々を否定するものでもありませんので、これはマロニエ君としては演奏者と作品(この場合は作曲者というべきか)との相性の問題だろうと考えたいところです。今にして思えば、この人はどちらかというと協奏曲(それも大曲、難曲の)に向いているような気もします。
そういえばフォーレのピアノ曲集も高い評判をよそに、マロニエ君の耳には、大男が無理にデリケートな演技をしているようで、ただ眠くなるばかりの演奏だったことをこの期に及んで思い出しました。

ちなみにこのディスクはデッカからのリリースですが、以前も書いたように、この名門ブランドとはちょっと思えないようなモコモコした、まるでクオリティを感じない音しか聞こえてこないことも併せて残念なことでした。
CDの成功は、演奏もさることながらその音質に負うところも大きく、その点でもこの全集ははっきりと失敗だったとマロニエ君は個人的に考えているところです。

最近のパイクのCDがグラモフォンからリリースされているところをみると、デッカの音質ゆえの移行なのかもしれないと、あくまで想像ですけれどもかなり自信を持って思っているところです。

それにしても一枚物のCDでも失敗は良い気分ではないところへ、9枚組のベートーヴェンのソナタ全集がまるごと失敗というのは、さすがに残念無念がズシッと重くのしかかります。
再び手にすることがあるかどうか…ハァ〜です。
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ピアノマニアが福岡へ

「ピアノマニア」という文字通りピアノ好き必見のドキュメンタリー映画が公開されます。
http://www.piano-mania.com/

シュテファン・クニュップファーという、かつてスタインウェイ社で一番と言われた(らしい)ドイツ人調律師を中心に描く、オーストリアとドイツの合作で、マロニエ君もぜひ観たいと思いつつ、なにしろ超マイナー作品のようで、上映も東京・大阪などの、極めて限られたところでしか行われていませんでした。

まさかこれひとつのために泊まりがけで出かけるわけにもいかず、こういうことが東京・大阪の特権かと思っていましたが、なんと、ついに福岡へもやってくるようです。

1月の東京での封切りから現在まで、かろうじて大阪、静岡(浜松があるから?)、名古屋で上映されていたようで、福岡が5番目の上映都市となるようです。

そのうちDVD等ではチャンスがあるかもしれないとは思いつつ、劇場で観るのはほとんど諦めていただけに望外の喜びです。

上映日時は下記の通り。

場所:KBCシネマ
3月31日(土):14:15
4月1日(日):14:15
4月2日(月):14:15/18:30
4月3日(火):14:15/18:30
4月4日(水):14:10/19:10
4月5日(木):14:15/18:30
4月6日(金):14:15/18:30

4月7日以降は未定、延長もあるとのことですが、はじめの一週間の客足によって決するということかもしれません。普通はまずこんな映画を観る人はいないでしょうから、ともかく地元で見られるだけでも御の字です。
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不燃物処理事情2

昨日の燃えないゴミ問題は、後半やや話が脱線しましたが、一般市民にとっては、以前なら普通にタダで処理できていたものが、なんでも有料となり、ものによってはチケットまで購入させられて、さらに引き取りの日時の予約をするなど、とかく手間暇がかかります。

もちろん、ゴミ問題は社会の大事なので、これが有料化されたり物によってはリサイクルの対象とされるところまではやむを得ないことだと思います。

しかし気持ちのどこかで納得できないものがあることも事実で、そんな折、我が家の燃えないゴミが持ち去りにあったところから、あることが閃めいてしまいました。
ゴミとして回収処分される前に、そんなものでも欲しいと思う人の手にすんなり渡るとしたら、それは別に問題ではないだろうと思ったのです。不燃物の回収日に現れる小型トラックの人達は、あれこれと廃品を物色しては必要な物を次々に荷台に放り込んでは立ち去っていきますので、これはもしかしたら、不要な物は門前に置いておけば、場合によっては持っていってくれるかもしれない…と。

まず先月の回収日、マロニエ君宅のガレージには友人のものも含めて、交換済みの車のバッテリーが3個あり、どれもきちんとした紙のパッケージに入っていますが、これを3つ重ねて置いていたところ、果たして翌朝、それらはそのまま同じ場所に置かれたままでした。
やはり自分の考えが甘かったのかと思って、早々にガレージ内に戻しました。

その後ガレージ内の大掃除をして、たくさんの燃えないゴミを控えて、続く今月の回収日を迎えたわけです。
指定の袋に入れたものはそれでいいわけですが、問題は大きく重い鉄の棚枠が二つでした。
これはまさか袋に入れてポイというわけにもいかないので、通常の回収は諦めていたのですが、再挑戦のつもりで夜になってから、ものは試しとばかりにもう一度ゴミと並べて出してみることにしました。前回のバッテリーと違うのは、それぞれに「ゴミです」と大書した張り紙をしておいたことでした。

誰も要らないようなら、またガレージに引っ込めればいいと思ったのです。
これらを門前に出して、夕食を済ませた後、気になったのでなにげなく表を見に行ったら、なんと!その鉄枠だけがものの見事に姿を消していました。門前に置いてからわずか1時間ほどの間の出来事でした。おかしな話ですが、このときマロニエ君はえもいわれぬ不思議な「感動」を味わってしまいました。
やはり自分の直感は間違っていなかったのだと思い、それらは鉄製品ですから、どこかに目方売りなどされるのだろうと思いました。

これは大変なことになった(笑)と思って、さらに続けてバッテリーとフロアジャッキにも「ゴミです」という張り紙をして続けて出しました。
深夜、再び見に行ったときには、やはりこれらもいつの間にかなくなっていて、誰かが自分の意志によって持ち去ったようでした。

そしてさらに感心させられたことは、前回3個の箱入りのバッテリーが持ち去られなかったのは、マロニエ君が廃品であることを明示しなかったからで、彼らにしてみればただそこに置いていただけなら泥棒になる、という区別をキチンとつけたらしいという点でした。
こういうところにも我らが日本人の気質と徳の高さが如実に現れているようでした。
これがもし外国だったら、外に出した途端(欲しい場合は)張り紙のあるなしなど関係なく、何のためらいもなく誰かが持っていってしまうのが当たり前だろうと思います。日本はさすがですね!

それにしても、不必要な物が必要とする人の手に渡っていく。こういう廃品の処理方法もあるのだということを知って、これはこれで立派なリサイクルではないか…というような気がしましたが、こじつけでしょうか?
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不燃物処理事情1

このところ数日をかけて、ガレージ(慢性的な物置と化している)の大掃除を何年ぶりかで行いました。
ガレージという性質上、そこから輩出されるゴミは大半が「もえないゴミ」ということになります。
市が指定している専用のビニール袋に入れて月一回の回収日に出せば大半は問題なく処分できますが、中にはとうていそんなものに入れるわけにもいかない…というものがあります。

たとえば大きな鉄の棚枠とか、大型の室内用フロアランプ、もう使わない大型の油圧式ジャッキ、交換済みのバッテリーなどはとても市の指定の袋には入りませんし、無理して押し込んだところで、たちまち切れたり破れたりということになってしまうでしょう。

さて、以前も書きましたが、燃えないゴミの回収日は、外が暗くなると、表の道は、にわかにリサイクル業者のような人達が軽トラックに乗ってひっきりなしに往来をはじめます。
以前驚いたのは、出していた我が家のゴミを、市の回収業者が来る前に、袋ごと持ち去られてしまったことでした。袋の中は空き瓶や空き缶を中心としたもので、べつに見られて困るようなものはありませんでしたが、そうはいってもなんとも不気味な思いをしたものでした。

彼らはマンションのゴミ収集場所などに躊躇なく入って行き、欲しい物だけを手に戻ってきては、それをポンとトラックの荷台に投げ入れて足早に去っていきます。一晩中これが繰り返されて、あたりは変な賑やかさに満たされるのです。

これ、ひとくちに言うと、彼らは具体的になにを欲しがっているのかまではわかりませんが、とにかく自分達が欲しいと思うものを探し求めてあちこちを回っているようで、その行動力は妙に腰の座ったものがあるように見受けられます。
再利用できるもの、あるいは資源ゴミになるようなものをどこぞに持ち込んで売りさばくのだろうとは思いますが、それ以上のことはわかりませんし、住民としても捨てたものである以上、その行方がどうなろうとも別に知ったことじゃないというわけです。

もちろん世の中には、何事にも厳格で口うるさい人がいますから、こういう事にも異議申し立てや抗議をするような人もいるかもしれませんが、マロニエ君としては我が家の不必要なものが普通に処分できるのであれば、それ以上の不満も文句もありません。

以前驚いたのは(他県でしたが)テレビニュースの特集で、古紙の回収日に市の指定業者以外の個人レベルの人達による古紙類の持ち去り問題が取り上げられ、それこそ何日も地域に密着し、画面にはモザイクをかけながら、えらくご大層に取材していましたが、そのテレビ局の扱い方は、古紙の持ち去りがまるで万引き犯や泥棒を追跡するのと同じようなニュアンスで、これには甚だ首を傾げました。

古紙などは、出す側にしてみれば、邪魔なものが処理してもらえればそれで御の字であって、回収している人が誰であるかなど考えたこともありません。行政の担当者はマイクを向けられて「古紙の処分代も市の貴重な財源です!」などと尤もらしく言っていましたが、見ている側はどうにももうひとつ同調できません。

いくら「持ち去り」などと言葉ではいってみても、もとの所有者はそれらをゴミとして捉えて集積場所に出した以上、すでにその所有権を放棄したわけですから、それを指定業者以外の個人が持ち去ったといってさも大事のごとく糾弾するような性質のものだろうかと思いました。
そんなことを何日も物陰に張り付いて取材する暇があったら、たとえ地方であっても腐りきった役人や政治腐敗、あるいは民間企業であってもそこらに転がっているはずの許しがたい不正行為など、本当に社会問題と呼ぶにふさわしいものこそ存分に取材しろと言いたくなりました。

…以下続く。
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格闘技系?

岡田将ピアノリサイタルに行きました。
福岡の出身、名前は以前から聞いていて、テレビで少し演奏に触れたことはあったものの、実演に接するのは今回が初めてでした。

曲目はベートーヴェンの月光ソナタ、ショパンの3つのマズルカ作品50、バルカローレ、リストの超絶技巧練習曲から1、2、4、5、8、ハンガリー狂詩曲第2番、アンコールは愛の夢と英雄ポロネーズというものでした。
当初は超絶技巧練習曲は全12曲が予定されており、マロニエ君としてはこれが目的で行ったようなものでしたから、曲目の変更を知ったときは大きく落胆しましたが、まあそれは仕方がありません。

岡田氏はテレビではしっかり感のある技巧派という印象があり、実際にも背丈などはそれほどではないものの、がちっとした体型と存在感のある人で、徹頭徹尾、予想以上に重量級のエネルギッシュな演奏を繰り広げました。

第1曲の月光第一楽章の出だしからして、ちょっと粗いなぁという印象があり、ちょっと自分の趣味ではないことにまずは戸惑いましたが、聴き進むうちにこれはこれでこの人の在り方なんだということが分かってきて、それなりに楽しんで聴ける自分を取り戻すことができたように思います。

とりわけ後半のリストは、いかにもこの日のメインという風情で、かのリスト本人のコンサートがそうであったように、あまりに凄まじい熱演に弦が切れるか、ピアノが壊れてしまうのではないかというような地響きのするようなフォルテッシモの連射で、いやはやその技巧と体力だけでも大したもの!という感じでした。

ピアノの演奏芸術を聴くというよりは、ほとんど格闘技でも見ているような感覚で、フェイスもややそれ系の印象がありますね(笑)。まさにオトコのピアノでした。
何事も中途半端はいけませんが、ここまでいくと何か突き抜けたものがあり、そのパワフルな演奏を単純に楽しむことができたのは自分でも不思議に笑ってしまいました。
なんというか、別の感覚でステージを楽しんだという点では退屈もせず、妙な疲労感も覚えず、愉快に帰ってくることができたわけで、こんなコンサートもあるのかとひとつ感心させられました。

最近の世の中は、何事にも元気のない、しょぼしょぼしたものばかりしか見あたりませんが、そんな中で久しぶりに景気のいい、どえらいものを見せて聴かせてもらった気がしました。たしかに音楽的には異論反論はありますが、単純にあのパワーと元気は人を快活にするものがあり、昨今の淀んだような病的な空気ばかり吸っていると、なにか無性に溜飲が下がる思いでした。

お客さんを率直にこういう気分にさせるという点では、岡田氏もさすがは福岡の出身なのかと思えるようで、妙にもってまわったような暗くて意味深な演奏をしたり、だらだらとおざなりなトークで時間稼ぎするようなこともなく、話もサクサクと短かめ、演奏も明快な豚骨味みたいな率直さで、まるで美味しい街の定食屋で餃子や揚げ物などしこたま食べて満腹したような心地よさと爽快感がありました。

このコンサートの主催が日本ショパン協会九州支部(たしか事務局がカワイの中にある)だったためか、ピアノはあいれふホールにわざわざシゲルカワイのEXを持ち込んでの演奏会で、思いがけずあいれふホールのあの独特な強い響きの中でSK-EXを聴く機会に恵まれたわけですが、どう聴いてもマロニエ君の好みではありませんでした。

これは、この日一日だけの印象ではなくて、ホールやピアノ(もちろんピアニストも)が変わってもカワイピアノに共通した印象があって、コンサートで聴くカワイの一番の問題は、音に深みと色気がないこと、別の言い方をすると音に収束性がないことです。
大味で透明感がなく、どこか雑然と割り切ったような音しかしないのは、まさに味のない日本車みたいで、カワイのファンとしてはこれは非常に残念なことだと思います。

家庭用サイズではかなりの高みに達しているかに思えるSKシリーズですが、ことコンサートグランドに関しては、残念ながら及第点に未だ到達せずという印象は拭えません。
これは早急になんとか手を打って欲しいところです。
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楽器を弾く権利!

過日、知り合いのピアニストと食事をした折に、留学時代のヨーロッパの様子など、いろいろおもしろい話を聞かせてもらいました。

驚いたことはドイツやオランダなどは、都市部でも賃貸の物件が少なく、家賃も決して安くないためにこれを確保することがまずもって一苦労だということでした。
とくに学生などは数人でのルームシェアは当たり前だそうで、そのスタイルが逆に社会人の間にさえ広まりつつあるのだとか。はじめは屋根裏部屋のようなところもあったらしく、賃貸物件など供給過剰で空室があふれる日本とはまるきり事情が違うようです。

ピアノで留学しているにもかかわらず、自室にピアノがないことさえあったらしく、アップライトでも確保できたら良しとしなくてはいけないのも、単純にずいぶん厳しいなぁ…と思ってしまいます。
裏を返せば、勉学というものは困難な状況で努力奮闘することも、却って気合いが入るものかもしれませんが。

逆に驚いたのは騒音問題で、この点は、日本は厳しいどころではない、極めて神経質に取り扱われる深刻な問題になっていて、アパートやマンションのような集合住宅ではほとんどが事実上の禁止状態に近く、多くのピアノ弾きの皆さんが最も困難を感じ、周囲には格別の気を遣っておらる最大の問題です。
当然、中にはそれが引っ越しの動機にさえなるほどの、まさに胃の痛くなるような問題に発展することも珍しくはないようです。
ピアノをはじめとする楽器の音は、周囲の人達にとってはとにかく不愉快な騒音だという大前提があるので、その中で曜日や時間帯に気を配りながら、身をすくめるようにしながらピアノを弾いている人が大半ですから、例えヨーロッパといえども、それなりの配慮が必要な問題だろうと思っていました。

ところが、ドイツではなんと人々は楽器を演奏する「権利」があるのだそうで、1日3時間は楽器の音を出しても良いという決まりになっているというのですから、彼我の文化の違いにはただただ唖然とさせられました。
これはまず、音楽に対する本質的な愛情の持ち方が、根底から違うのだなあというのが率直な印象でした。
そのピアニスト氏によると、アパートの隣室の老夫妻などは「むしろどんどん弾いてくれ」とまで言われたのだそうで、おかげで夜もかなり遅くまで気兼ねなく弾くことができたといいます。

そのかわり、午後の1時から3時までは「ルーエ・ツァイト」といって、この時間帯はできるだけ音を出さず、みんなが静かに過ごす時間帯なのだそうで、その時間だけ音出しを控えれば、あとは日本のような楽器の騒音問題は事実上ないに等しいのだそうです。

これはもはや良し悪しの問題ではなく、さすがドイツは音楽の中心国だと、ただただ感心する他ありませんでした。
日本人がわずか百年余の間に、まったく文化背景の異なる西洋音楽をものにして高度な演奏を可能とし、優れたホールや楽器がいくらあまねく整ったなどと言ってはみても、所詮はこういう一般市民の根底に流れている意識レベルが違うということは、これぞまさに歴史と文化、それが染み込んだ土壌というものの違いをまざまざと思い知らされるようでした。

もちろん、かくいうマロニエ君とて、もし自分がマンション暮らしで、近隣からのピアノの音に連日悩まされたら、音楽云々以前に閉口するとは思いますが…。
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掃除機2

掃除機の機種選びが始まりました。
電気店などに行ったときの店員さんの話によると、国内メーカーでは掃除機は圧倒的に日立なんだそうで、もちろんそれ以外のメーカーも製品でも大きく性能に差があるわけではないが…ということでした。

また、掃除機にはサイクロン式と紙パック式という二つの大きな流れがあり、まずこれをどちらにするか選択する必要がありました。
サイクロン式の良いところは吸引力が強力で、遠心力でゴミと空気を分けるので排気がきれいという点があるようで、その反面フィルターの掃除や頻繁なゴミ捨てが必要となり、この点で簡便な紙パック式が人気があるともいいます。
いっぽう紙パック式はゴミをパックごと捨てればいいという点はたしかに便利なのですが、排気が臭うことと、純正紙パックは想像以上に値段が高くて、とても毎回ポンポン取り替えるようなものでもないようです。そうなると汚いゴミを掃除機内に残したままにもなるわけで、それはそれで気持ちが悪いので、やはり自分にはサイクロン式が向いているように思いました。

サイクロン式ということには決まったものの、どこのメーカーのどれにするというのを見極めるのは種類も多くてうんざりです。こういうときに大いに参考にもなり役立つのが口コミサイトで、これを見ていると、売れ筋や長所短所がわかりやすくまとめられていて大助かりです。

あれこれと調べた結果、購入したのはけっきょく日立のサイクロン式で、品番などは忘れましたが吸引力が強力とされるもので、ユーザーの評価でもこの点では軒並み最高点を取っている製品です。
しかも現在使っている掃除機(これも偶然日立のサイクロン式)の購入時よりも価格が安くなっている点も予想外に嬉しい点でした。

届いた箱を開けると、全体にこれまでのものより遙かにしっかりしているし、蛇腹状のダクトなどもひとまわり太い作りで、見るからに逞しそうな感じがしました。さっそく試しに使ってみると、その強引とも言いたくなるような強力な吸引力には惚れ惚れさせられました。
先端のブラシもガンガン回って、まるでラジコンカーのように自分から先へ先へと進むので、むしろ右手は軽くぴっぱるぐらいの感じなのにはびっくりしました。以前の機種も同じですが、なにしろパワーが圧倒的に違いました。
軽く部屋を撫で回した後、ゴミを捨ててみると、なんと従来のものよりも格段にゴミ捨てが簡単になっていて、フィルターの掃除などもほとんど必要がないぐらいなのは、技術の進歩とはこういうものかと感動しました。

ここまで簡単であるならば、マロニエ君にとってはいよいよ紙パックである必要はなく、つくづくそちらにしなくてよかったと思いました。微細な塵に関してはティッシュペーパーを挟んでおく方式で、これはサンヨー電気が先頭を切った方式らしく、その後、三菱や東芝、日立などが続いたとそうです。
これによりフィルターの目詰まりが劇的に軽減されたようで、これまで掃除機をかける度にマスクをして付属ブラシでフィルターの掃除をしていたマロニエ君にとっては、嫌な作業から解放されてまったく夢のようです。

楽器と違い、家電はやはり新しいほうが文句なしにいいようです。
ヘッドがダメになった古いほうは、車内の掃除用にガレージに掃除機が欲しいと思っていたところで、本体は健康だし回転ブラシのヘッドは要らないので、ちょうどいい塩梅に収まるべきところへ収まりました。
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掃除機1

ネットが便利なことはいまさらですが、たとえば製品の性能や特徴の比較など、経験者による口コミの書き込みが多いことも購入者にとっては大いに役立つところです。
とりわけ電気製品しかりで、あまりにも多種多様である製品の中から、自分にとって好ましい一台を選び出すというのは、従来ならよほどの人でないと難しい事でしたが、これもネット情報のお陰で、一気にかつ網羅的に調べることができるようになりました。
我が家で10年近く使っている掃除機が、先端のブラシ回転部分の性能低下によって、変な音は出るわ性能は落ちてくるわで、これをいよいよ買い換える必要に迫られました。

近ごろは時代も変わったのか、男が数人集まっても掃除機の話題などが出ることもあり、数年前まではダイソンが掃除機界の革命児のようにもてはやされた時期がありました。その秀でた性能はもちろん、イギリスの会社の製品と云うことや、いかにも日本的ではないそのデザイン、さらには価格もたいそう立派なものであることから、これが一時期特別視されていたように記憶しています。

マロニエ君も一時はこのダイソンの購入を考えたことがありましたが、店頭でテスト機をちょっと手にしてみると、どうも評判ほど素晴らしいとは思えませんでした。もともと掃除が好きなわけでもなく、できるだけ強力かつ楽で簡単に掃除ができる機種が希望(大半の人がそうだと思いますが)でしたが、ダイソンはまずなによりも機械が大きく重く、それだけでもこのマシンを使いこなすイメージができなかったのです。

その後は、日本人向けかどうかは知りませんが、より小型のものが発売されたようですが、それでもとくに魅力的には映らず、値が張る割りにはどうもしっくりこない製品だと思っていましたが、その後はこの高級掃除機のユーザーの声などが聞こえてくるようになり、それらはマロニエ君の直感通り、実はあまり芳しいものではなかったのです。
代表的な意見としては、独自のサイクロン式による吸引力が最後まで変わらないとされる点も、実際にはそれほどの性能は認められないばかりか、やはり重く大きいぶん操作がしづらい、疲れるというような体験談があちこちで散見されるようになりました。

それでも、ダイソンはやはりそれだけの実力のある掃除機だろうと思いますが、もしかすると欧米と日本では、生活様式や住居の広さなどが違うので、日本人が日本で使うという場面ではあまり本領を発揮しない掃除機なのかもしれません。

このダイソン、かなり購入を考えたところまで盛り上がっていたこともあり、その実情を知るや、すっかり醒めてしまって、同時に掃除機の買い換えそのものまで沈静化していまい、以来また数年間そのまま古い掃除機を使い続けることになってしまいました。

いうまでもなくマロニエ君はピアノは好きでも、家電マニアではないので、基本的には掃除機なんてふつうに使えればそれでじゅうぶんなので、家にある掃除機がとりあえずまともに動いている以上は、それでいいや!という感覚でもありました。

使っている掃除機が壊れたら、あるいはよほどこれだというものが出てくれば、そのときは買い換えようというわけです。そうしてついに我が家の掃除機が、ヘッド部分から悲鳴のような異常音を発するに至り、買い換えを余儀なくされる事になり、機種選びが始まりましたが、これで大いに役立ったのが冒頭の家電ネット情報というわけです。
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久々に…

先週末は、はからずもクラブの活動らしき事を行うことができました。
といっても大げさなものではなく、ごく内輪で食事に行くことになったところからたまたま発展して、新たに入会の連絡をくださった方にも声をかけたところ参加されることになったものです。

参加者は4人、ピアノ好き2人とピアニスト1人、そして楽器メーカーの営業の方1人という布陣で、この顔ぶれだけでもけっこう面白いものだと思いましたし、このぴあのピアが目指した(といってもずいぶん昔ですが)クラブ理念に近いものになったような気がします。

それはプロアマを超越したところにあるピアノを軸とした人間関係の構築であり、本来はもっとこういう交流が盛んになればと思うのですが、なにぶんにも狭い業界の中でいろいろな柵(しがらみ)が網の目のように絡んでいて、そうそう表立ってそういう場所に顔を出せない方も多くいらっしゃるようです。

しかし、このような自分の立ち位置の異なる人達が顔を合わせることによって、お互いに普段知ることのない情報の交換ができるわけで、とても有意義な一日だったと思います。もちろん「有意義」などという真面目くさったことをいうまでもなく、まず単純に楽しかったし、それが最も大事なことだと思いますが。

個別具体的な話の内容は障りがあるのでここでご紹介することはできませんが、やはり仕事の現場というのはどさまざまなことがあるもので、いろいろな人や状況を相手にしなくてはならず、大変だなあ…というのが偽らざるところでした。まあそれはどんな業界にも共通したことで、ことさら楽器業界だけが抱える問題というわけでもないとは思いますが…。

聞いていてため息が出たのは、お付き合いのある教室や先生へのサービスとして、発表会などの折には休日返上でお手伝いに行くというのが業界では常態化しているのようで、なんと、先生のほうからその旨の依頼がある!というのは、いやはや呆れた実情です。
いうなれば人の弱みにつけこんだサービスのたかりのようなもので、別に正義漢ぶるわけじゃありませんが、マロニエ君は昔からこういうことが猛烈に嫌いです。

お医者さんの奥さんが、ただ友人達とどこかへ遊びに行くのに、出入りの製薬会社の人&車を使って遠方まで出かけては、丸一日彼女達に対して奉仕させるとか、デパートの外商担当者に交通事故の後始末までさせるとか、大手の量販店で自前の店員の不足分をメーカーの営業マンなどを売り場で働かせていたなど、要はこれ、弱い者イジメであり、薄汚いゴミみたいなちっぽけな権力の行使にすぎません。

学校や教室で少しばかりそこのメーカーのピアノを使っているからといって、その売買はとうの昔に完了していることなのに、いわばそれを元ネタにして、延々とメーカーの人達が発表会だ何だとお手伝いをさせられ、しかも休日返上でそれをやらされるという現実…。
そのようなまったく筋の違う人達に無償奉仕など頼まなくても、先生達も複数いらして充分に人の手はあるはずなのに、本当にイヤな慣習です。

これだから先生と名のつく人達の中には、相手になんのメリットも対価も与えきれないくせにやたら人使いだけは荒くて、世間からある意味で敬遠され嗤われてしまう人が少なくないのだと思います。
人間関係の根本にあるものはギブ&テイクという原理原則が、まるきりわからない人達です。

それでも営業という立場にある以上、文句も言わずにサービスにこれ努めなくてはいけないわけで、こうなると本当に大変だと思います。

もちろん楽しい話もたくさんあり、いろんな興味深い話を交わすことができて、やはりピアノはいいものだと思いました。
というわけであれこれと話は尽きず、つい深夜まで話し込んでしまいました。
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値下げ品争奪

土曜の午後、行きつけのスーパーに食料品の買い物に行ったときのこと。

精肉売り場の前にある、割引品のコーナーに商品が多数投下されて、販売員の女性が割引の赤いシールを貼り始めました。はじめは誰もいませんでしたが、シールを貼り始めたのを察知してか、一人の女性が近づいてきてその大きなボックスを物色しはじめました。

すると一人、また一人と人が寄ってきて、あたりはたちまちちょっとした人だかりができました。
集まってきたのは全員が女性でしたが、シールを貼っている店員さんは、あっという間に両側をお客さんに挟まれて、その人達があまりにもゴソゴソと商品を物色するので、作業さえスムーズにできない状態に陥ったのです。

とくに最近の特徴だと思うのは、それがスーパーであれデパートであれ、ふつうのお店でもそうですが、人の身体の前に手だけをぐーっと伸ばして目指す物をゲットするというやりかたです。
これまでなら、人が何かを見ていれば、とりあえずその人がいる場所は暫定的にその人の空間となり、そこから何かを取りたいときは、その前に人がいなくなってから手を伸ばすというのが暗黙のマナーのようになっていたように思いますが、ここ最近はこの良き習慣はまったく失われたように思います。

人がいようがいまいが、自分が欲しい物がそこにあれば横からぐいぐい手を伸ばして、取りたい物をガッツリ取るということで、これは本来あまり愉快ではない行為だと思いますが、個人の問題ではなく、風潮としてみんなが当然のようにやり始めますから、とてもじゃありませんがかないません。

さて、そのスーパーの精肉割引品のコーナーはというと、その女性店員の前には無数の「手」が上下左右から伸びてきてゴソゴソうごめいているサマは、反対側から見ると、ほとんどヘンタイ的な動きに見えてしまいました。
しかも不気味なことは、これだけ人がいて、みんな必死に値下げ品を物色しているというのに、人の声とか笑顔というものがまるでなく、ただただ無言でラップで覆われた商品がプチプチゴソゴソと触れ合う音だけが静かに聞こえてくるということです。

どの人も、一様に競争心もあるのか大真面目な表情をしていて、こういっちゃなんですが、人間はとても浅ましい生き物だということを如実に見せつけられるような気になって、つい見物してしまいます。
もちろんマロニエ君とて、値下げ品でも処分品でも、あれば喜んで手に取ってみるし、それを買って得したと思うこともしばしばですが、あの無言の争奪戦みたいな状況、ピリピリした緊張にあふれるあの動物的な感じだけはちょっとついていけませんし、この状況の中へ敢えて自分も身を投じる気にはなれません。

いつごろからかは知りませんが、日本人は昔以上に暗くて陰気な民族になり果てたような気がします。
ネットやテレビなどでは、みんないかにも明るく立派なことばかり言いますが、その実、我欲はますます先鋭化されて、そのための勝負心はより白熱したものであることをひしひしと感じるのは、これこそ社会の光りと陰のような気がします。

尤も、ある人に言わせると、人の内面が時代とともに荒れ果てて汚れているからこそ、上辺の言葉は立派なことばかりいうのだそうですが、たしかにその心理構造も納得させられます。
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レインセンサーの害

「便利が不便」ということがよくありますが、いま使っているワープロソフトなども親切設計のつもりだろうと思われることが、却って使用者の自由がきかずに煩わしい思いをすることがあったりします。

最近痛感したのは、ある車のフロントウインドウを見たときで、昼間はまったくわからないものの、夜、対向車や街中の光を通して見ると、一面に昔のレコード盤のようにワイパーによる掻きキズが入っていて思わずゾクッとしてしまいました。
古いくたびれた車ならそういうこともあるとは思いますが、その他の部分はとてもきれいな車だっただけに、フロントウインドウの夥しいキズはいっそう目立っていました。

小雨だったこともあり、その原因がその車に装備されているレインセンサー付きのワイパーにあることは明瞭で、ほぼ間違いないと思われました。
レインセンサーというのは、普通の間欠ワイパーの機能を表向きは進化させたもので、ガラスに装着されたセンサーが雨滴の量などを感知して、それに応じてワイパーを動かすというシステムなのですが、これがマロニエ君は大嫌いです。

その理由は、やたらめったら必要もないのにワイパーが動きまくって、しかもその動きに一定のリズムがないので気分的に落ち着かないことと、たいして水滴もないのにワイパーがせわしなく動くことで、じわじわとガラスにキズを付けてしまうというわけで、なにひとついいことがありません。

そもそもマロニエ君はキズの付いたフロントウインドウというのが性格的に我慢できません。
先に書いたように昼間はほとんどわかりませんが、ワイパーの過剰使用によるガラスのキズは実は深刻で、だいいち夜間の安全運転の妨げにもなると思われます。

一般的な認識で言うと、ワイパーはゴム製品で、相手はガラスなので、これを普通に使うぶんにはキズが付くなんて考えたこともない人が大半だろうと思いますが、これが実は大間違いなのです。
車のワイパーは高速道路などでも使えるように、ガラスへの圧着力はかなり強いものでもあり、作動スピードもかなり速いので、ガラス面に水滴がじゅうぶんあればそれがクッションになってまだいいのですが、雨が少なければ単なる摩擦運動になるだけです。

よく見かけるのは、ほとんど雨は降っていないのに、赤信号中で停止中などもワイパーを動かしっぱなしにして平然としている人ですが、マロニエ君にしてみればあんなのは他人事ながら見ているだけで気になって仕方がありません。

レインセンサー付きのワイパーはこういうことを避けて、適宜必要なときに必要なだけワイパーを動かすというシステムであるはずですが、その設定プログラムはどのメーカーも過剰過敏に動かしすぎて、却って車に害を及ぼしているということです。あれなら従来の間欠ワイパーのほうがよほど単純でスッキリしていたように思います。

もうひとつ気をつけなければならないのは、意外に思われるかもしれませんが、ワイパーのゴムの部分というのは、実はボディを洗車するよりも頻繁に掃除しなくてはいけない部分だということ。
というのは、このゴム部分には常に小さな砂やホコリが蓄積されており、とりわけ野外駐車の車ではそれが激しいようですが、そういう目に見えない砂や鉄粉みたいなものをゴム部分にしこたまのせたまま、雨が降るとワイパーのスイッチが入り、ガラス面を猛然と往復しはじめます。
もうおわかりと思いますが、こういうことの繰り返しによってガラスには無惨なワイパーの掻き傷が徐々に増えていくわけで、ガラスの傷はいったんついてしまうと、とてもシロウトの手におえるものではなく、専門の業者に依頼して研磨してもらうか、最悪の場合はガラスごと交換するしかありません。

こうならないためには、ワイパーのゴム部分を濡れ雑巾で拭いてきれいにしておくことと、必要以上にワイパーを作動させないという心得があればすこぶる効果的です。マロニエ君は昔からこれを忠実にやっているので、十年以上乗った車でも、ワイパーによる掻き傷はまずありませんし、これはそんなに大変なことでもないのでオススメです。

ガラスがきれいというのは安全にも役立つし、無条件に気持ちがいいものです。
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かけこみ需要

つい先ごろ発売されたばかりの新しいシゲルカワイのカタログを入手しました。
カワイの営業の方がコンサートのチケットを届けに寄ってくださるついでに、新型のカタログが欲しいとお願いしておいたのです。

今回の新モデルでは、なんとピアノの全長が全5モデルにわたって2cm長くなっています(SK-5のみ3cm延長)が、どうやらそれに伴って鍵盤延長という楽器の根本に関わる改良が行われているようです。
一般にフルコンが弾きやすいとされるのは、その豊潤な響きもさることながら、長い鍵盤にもその大きな要因があるといわれていますが、それは指先が弾いた位置から支点までの距離が長いぶん、微妙なコントロールの幅があるというセオリーに裏付けられています。

鍵盤の奥の長さはふだん目に見える部分ではありませんが、小さなグランドほど鍵盤から支点までの距離が短くなり、コントロールの可能性という面においては不利になることは否めないわけですが、これを新SKシリーズでは全機種にわたってその長さを延長するというのは、単なる既存モデルの改良では済まない、ピアノの基本的なサイズ変更にまで及ぶことで、これはかなり大がかりで思い切ったモデルチェンジと言えるのだろうと思われます。

それだけメーカーが本気でこのピアノの改良に取り組んだということでもあり、それだけ価格も概ね10~15%値上がりしていますが、これだけ根本的に改良されたモデルチェンジならば納得できるものだという気がします。

これだけのことをやられたら、さぞかし従来型のSKシリーズのユーザーは心穏やかではないだろうと思われましたが、マロニエ君を最も驚かせたのは、なんと、この機に値上がり前の旧モデルの新品在庫品を求める声がかなり強かったという…?!?…な話でした。
もちろんモノを買うときに、(とりわけ高額商品では)出費は高いより安いほうがいいことはわかりますが、それはあくまでモノが同じである場合の話ではないかと思います。
単純な値上がりというのならわかりますが、これほど本格的にテコ入れされた新モデルの登場によって発生する値上がりであるなら、そこには相応の根拠というか裏付けがあるわけで、もし自分が「新品のSKシリーズ」を購入する立場であったなら、そんな時期にわざわざ旧モデルを買おうだなんてたぶん思わないでしょう。

レギュラーモデルではなく、敢えてSKシリーズを買おうというような人が、なぜ新モデルは値上がりしているのか、その理由をまったく知らないとも考えにくいのですが、やはり値上がりするということから、その内容云々よりも今のうちに駆け込み購入しようという単純な消費者心理が働いてしまうものなんでしょうか?
値上がり前に買っておけば何か得するような気分になっているのだとしたら、お米やバターじゃあるまいし、この場合はちょっと驚きです。繰り返しますが、その得するというのはモノが同じだという前提のもとでしか成り立たないと思います。

たしかに最低でも26万円、SK-7では実に84万もの値上がりではありますが、どっちみちもともと安いものでもないし、どうせ思い切って買う一生ものに近い高額なピアノであれば、へんなところでケチって悔いを残すよりも、妥協のない良いものを手に入れたいとマロニエ君なら思います。
とくに今回は、先に述べたように鍵盤の長さやボディサイズという、あとからではどうにもできない明瞭な違いがあるのであれば、マロニエ君だったら絶対額よりもその実質のほうを重視すると思います。
値札の数字ではなく、真実お得なのは何かという問題です。

本当に欲しいもので、それだけのお金が出せるのなら、そこで一割ぐらい上がっても、変更された内容を考えれば大した問題ではないような気がするのですが…。

すでにショールームにはSK-2とSK-3がきているとのことですから、そのうちちょっと触りに行ってみたいと思います。
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自転車の横暴

昨日の午後、車を運転中のこと。
幹線道路から斜めに道が折れる信号のない交差点があるのですが、そこを曲がろうとしたところ、まったく突如として猛然と走ってきた自転車と危うくニアミスになりました。

マロニエ君は自慢ではありませんが、ここ最近は車を運転をしていて最も注意していることは何かというと、それは一にも二にも自転車に尽きるといっても過言ではありません。
最近の道路で、この自転車ほど傍若無人で恐いものはなく、日頃からそれを深く心に刻んでいますので、いささかも気を緩めることなく注意をしています。

それはもちろん自転車の為でもあるけれども、正直を云うと、車はどんなに自分が正しくても、いったん自転車なんかと接触事故が発生しようものなら「加害者という名の被害者」にさせられるという理不尽きわまりない立場に立たされるという認識を持っているからです。
要するに、こう言っては身も蓋もありませんが、何よりも「自分のため」に自転車には過剰なぐらい注意をしているのです。

そんなマロニエ君ですが、このときはそれらしい自転車の姿はなく、ゆるゆると車を斜めに左折させようとしたところ、まるで鳥のようなものすごいスピードの自転車が後方から突如現れて、マロニエ君の車とその自転車が一瞬ですが避け合ったという次第でした。
曲がる前にそんな自転車の姿は認知できませんでしたから、きっと直前に脇道から急に出てきたのかもしれません。
もちろんこちらも徐行に近いスピードでしたから、ただちに停車したのはいうまでもありません。

果たして、その無謀なる自転車に乗っていたのは40歳前後の欧米人男性でした。
お互いに危険回避して止まっただけでしたが、その男性はいきなりこちら側にまわってきて、窓を開けろと云うゼスチャーを両手ではじめました。
そのまま無視して走り去っても良かったのですが、そういうことは好きではないのでとりあえず窓を開けると、その欧米人男性はいきなりマロニエ君の車のドアミラーを指先で鋭く小突きながら「ココヲヨクミテクダサイ!」と云いました。

街中の歩道であるにもかかわらず、まったく無茶苦茶な乗り方をしたのはどっちだ!と思い、「はあ!?」と問い返すと、さらに重ねてまたミラーをコンコン小突きながら「コ、コ、ヲ、ヨ、ク、ミ、テ、ク、ダ、サ、イ!」と言うではありませんか。
語尾に「ください」はついていますが、口調としてはいかにも昂然とした調子で、まるで自分は一切悪くないというニュアンスでしたからこちらもさすがにカッときて「大きなお世話!」といって車を発進しました。

次の交差点でミラーを見ると、汚い指先で小突きまわされたおかげで、ミラーはあらぬ方向を向いており、よほど不潔な身体だったのか、見るも汚ない指紋だらけにされてしまっていました。

自転車の無謀運転はここ最近の日本人の悪しき特色かと思っていたら、それをも上回るこんなアホな外国人がいるとは、驚くとともにしばらくのあいだ不快感が収まらずにムカムカしてしまいました。
人にミラーを見ろなんて云う前に、自分こそ少しは周囲の安全に配慮しろと思いましたね。

ましてやよその国に来ておいて、何たる思い上がった態度かと呆れかえるばかり。
まったくバカとしか云いようのない逆ギレ外国人との出会いでした。

それはそれとして、あらためて気を引き締めて運転しなくてはと再認識した次第です。
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ニュウニュウ

中国はいまやピアノ&ピアニスト大国という一面を持っているようです。

おそろしく指がまわるという意味では、ユジャ・ワン、ラン・ランをはじめとする現在の中国勢は圧倒的なものがあると思われ、指芸人とでもいうべき運動能力と、その鍛えられたメカニックという点では大したもんだと思いつつ、どこか上海雑技団的すごさしか感じられず、マロニエ君としては音楽家本来の価値と存在理由を感じさせる人は、これまでの中国人ピアニストではほとんどいなかったというのが偽らざるところでした。

すくなくともその人によって奏でられる音楽に耳をすませ、心を通わせたいと思わせるピアニストは、マロニエ君の趣味に照らしては、中国人ピアニストには該当する人がいないというのが率直な印象です。

ところが過日のBSプレミアムで放映されたニュウニュウの演奏は、そういう中国人ピアニストへのイメージを払拭させる、初めてのものだったのは嬉しい驚きでした。

佐渡裕指揮の兵庫芸術文化センター管弦楽団の演奏会で、ショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第1番とラフマニノフのパガニーニの主題による狂詩曲の2曲を演奏しましたが、知的で品がよく、すみずみまでキチッと神経の行き届いたまったく見事な演奏で、音楽的にもマロニエ君の知る限り稀有な中国人ピアニストだと思います。

ニュウニュウは以前このブログで書いた「ピアノの島」があるアモイ市の出身のようですから、まさに出るべき場所から出た天才だということなのかもしれません。
12歳のときに録音したショパンのエチュードは、ピアノの状態も録音も優れない上に、演奏自体もやや若さにまかせた未熟さが感じられてもうひとつ感心しませんでしたが、あれからわずか2年、音楽的にもすっかり深まりを見せていたのは、いかにこの少年が着実な成長をしているかということを物語っているようです。

これら2つのきわめて技巧的な曲をまったく危なげなく、豊かな音楽性にあふれ、しかも知的な抑制もきいた演奏をしたのは、これまでの中国人とは一線を画したクオリティの高さだったと思いました。内容のある演奏をする人にふさわしく、その演奏時の雰囲気や凛々しく引き締まった表情にも、いかにも内側から滲み出るものが溢れ、ただのびっくり少年とはまったくわけが違います。

しかも彼はまだ14歳!なのですから、その天才ぶりも第一級のものでしょう。
この歳にして、彼は極めて高い集中力を保ちながら、演奏を通じて音楽そのものに一途に奉仕している姿が非常に印象的でした。
その類い希な天分もさることながら、彼を教える教授陣の優秀さも証明されているようです。

ニュウニュウの秀演とは対照的に、兵庫芸術文化センター管弦楽団というのは初めて聴きましたが、今をときめく佐渡裕氏のタクトをもってしても、力量不足は覆いようもなく、ニュウニュウが弾いている以外の曲になると、申し訳ないけれどもちょっと聴こうという意欲が湧きませんでした。
冒頭のプルチネルラ(ストラヴィンスキー)も、こんな踊りと勢いにあふれた曲なのに、活気も喜びもなく、どうしようもなくテンションが落ちてしまうのはなんとも残念でした。

というわけで、ひたすらニュウニュウひとりを聴くためのコンサートだったようで、今後おおいに注目すべきピアニストの一人にリストアップすべきだと思っていた矢先、今年の夏には福岡でもリサイタルをするようで、ぜひ聴きに行きたいものだと思っています。
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タワーレコードが

ある意味で最も恐れていたことのひとつが穏やかながら起こりました。

天神のCDショップの中心的存在であったタワーレコードが10日ほど閉店して改装中とありましたので、単純にリニューアルしているものとばかり思っていたところ、再開して店内に入ってみるとほとんど何も変わっていないことに「おやっ」と思いました。
クラシックの売り場は最上階の5階ですので、いつものように3階からエスカレーターに乗って上階に向かったところ、なんと4階から上のエスカレーターは止まっていて、乗り口に小さなロープが張られており、「これより先は関係者以外はご遠慮云々」の札が立っていました。

そうです、主にジャズとクラシックの売り場だった5階は無くなったということをこのとき察知しました。
そこですぐに思ったのが、売り場の統合で、4階売り場を見渡してみると、向こうの奥まったところに「CLASSICAL」の文字がかろうじて見えました。「ああ、やはり…」と思いつつ、すぐにそっちへ行きましたが、果たしてずいぶん狭苦しい感じになって、クラシックというジャンルそのものはかろうじて残ってはいたものの、これまでのような広々した売り場と落ち着いた雰囲気は見事になくなってしまったのです。

棚の高さは以前よりもいくぶん高めのものになり、品揃え自体は極端に減らされたという印象ではありませんでしたが、これまでのゆったりとした売り場は召し上げられて、階下で他のジャンルとルームシェアさせられてしまったという印象は拭えません。

たしかに平日などはいつ行ってもがらんとしており、これだけの天神の一等地でそれに見合った収益をあげているようには思えなかったことは事実でしたし、いつの日か悪い方へと状況が変わるのでは?という思いは頭のどこかにあったので、まあ考えようによっては店そのもの、あるいはクラシックというジャンルじたいが撤退してしまわなかったことを良しとしなくてはいけないのかもしれません。

それはわかっているのですが、先日はさすがにいきなりだったもので、失望感のほうが大きく、ちょっとCD散策してみようかというような気分がすっかり失われてしまって、とりあえずは詳しくは見ないまま踵を返しました。
ちかいうちに再度行ってみて、気持ちを切り替えて詳しく見てみることになりますが、たしかにこれだけネットが発達して、音楽ビジネス自体も曲のダウンロードなど、CDという商品を購入すること自体も少なくなっているそうですし、わけてもクラシックなどはすっかり少数派になってしまっていますから、経営側にしてみればやむなき判断だったのだと思われます。

単純な話、これまでは3つのフロアでやっていた商売を、2つのフロアに圧縮してしまったというわけですが、たしかにあの広さの賃貸料だけでもたいへんなものだったと思われます。

以前は、天神には他にもHMVや山野楽器はじめいくつものCD店があちこちにあって、さて今日はどれに行こうかな?なんていう余裕に満ちた感覚だったものですが、いま思えば遠いむかしの夢のような時代だったということのようです。
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省エネ運転の効果

省エネ運転についてマロニエ君の経験から…。

これでも人並みに省エネ運転にはいろいろ挑戦してはみましたが、結果を言うと現実的にはかなり効果が薄いと言わざるを得ないのが率直なところです。

例えば燃費を良くするためには、アクセルを少し踏んでソロソロと加速するということが巷間いわれますが、これもよほど効果的にやらないと、街中などでは逆にいつもアクセルを踏んだ状態が長引いて、常に小さな加速をしているという時間ばかりが増えてしまいます。
加速をするということは、巡行時よりもエンジンのより強いパワーを必要とするので、このときにガソリンを多く使うのはたしかにその通りでしょう。しかし、アクセルの踏みしろばかりを浅くすると、例えば静止状態から時速50キロまで到達するのにもより時間がかかります。
こういう運転ばかりしていると、よほどの田舎道等ならいいでしょうけど、ゴー&ストップの連続である市街地などでは車はいつでも絶えず加速している状態で、これじゃあ一向に燃費が良くなるとは思えません。

そこで燃費などまったく気にせずに、ごく普通に運転して、発進時にはアクセルも普通に踏んでみると、当たり前ですがサッと加速するから、あとはほとんどアクセルは踏むか踏まないかの巡行状態に入ります。このサッと加速してあとは一定速度に入るというのも、決して燃費が悪いわけではなく、結局省エネ運転をしてみたときとほとんど燃費に変化らしい変化はあらわれませんでした。

これは例えば一部の軽自動車などが、小さなエンジンに対して重く大きなボディを背負いすぎて、エンジンはいつも休みなく過大に働かされて、結果として期待とは程遠い消費燃料を要するということと同じような理屈だろうと思います。

やはり本当の省エネ運転というのは、エンジンの出力やトルクカーブをなどの科学的根拠に基づいた上で、その車の性能に合わせて、最も合理的・効率的な運転をしたときに効果が出るのであって、素人がただケチケチ気分で省エネ運転をやってみても、実際にはほとんど効果らしい効果はないとマロニエ君は自分の体験からみています。

また、マロニエ君の友人には大学の先生で毎日のように遠方の数箇所の学校へと東奔西走しているロングツアラーがいますが、彼はいわゆる省エネとは真逆の運転であるのに、その燃費は意外にもいいのです。聞いてみると高速でも一般道でも、アクセルを踏むときは大抵ガンガン踏んでいるといいまますが、それでなんと下手な省エネ運転よりよほどいいぐらいの燃費を叩き出しているのですから、現実というのはえてしてこんなものだということです。

要は省エネといっても、ただアクセルをちびちび踏むことだけではない、合理的な速度や無駄のないメリハリのあるアクセルワークによる運転をすることが最も現実的で、それこそが理にかなっている気がします。

それに、あまり省エネ運転を意識的にやっていると、たいした効果もないばかりか、人間の気分のほうがすっかり覇気がなくなり、消極的で後ろ向きなしみったれた吝嗇家のようになり、それでは社会の生産性も上がらず、ひいては景気も回復しないという気がするのですが。
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省エネ運転のつもり

以前に若い男性のトロトロ運転が目立つことを書きましたが、それに関してつい最近、テレビニュースでさらに驚くべき情報を入手しました。

異様に遅いスピードで走る人達が最近路上に増えていることはやはり確かなようで、なんと、その中にはひたすら省エネ運転を実行しているという一派もあるのだそうです。
たしかに燃料を減らさないために、急加速などをしない、あるいはアクセルを踏み込む必要をできるだけ減らすために、スピードもできるだけユルユルした一定した速度で走るというものですが、そのみみっちさには呆れかえりました。

アクセルを踏みすぎず、極力一定速度で走り続けることが燃費を良くするのはそうだとしても、そのために速度を変えずにまわりに迷惑をかけるような流れのないマイペースの運転をするのでは、これは自分だけ止まろうとしない自己中の自転車の走りと基本的に共通したものがあると思います。

ちなみに自転車の傍若無人の走りの原因のひとつが、いったんスピードを落とすと、旧に復するのにまた自分の足でペダルを漕いで力が要るからという側面があると思われます。
車もこの部分がガソリンを消費するところだから、できるだけ速度を落とさずケチケチ走ろうというところなんでしょう。

さらに驚いたのは、そのチンタラ運転による退屈をしのぐために、あろうことか運転中に携帯の端末などをいじりはじめるというものでした。これでは二重の危険運転というべきで、それで事故でも起こした日には、燃費がどうのどころではない大事になるというのに!

現代の車にはエコドライブのためのインジケーターの類がついている場合が多く、エコ運転ができているときには緑のランプが点いたり、アクセルの踏み加減に応じて瞬間燃費をいちいち表示するものなどがあり、たしかに人間はそういうものがあるとそれに何らかの影響をうけることはわかります。

しかし、その倹約運転を最優先するあまり、始終他車に迷惑をかけたり危険運転になったりするというのは本末転倒も甚だしく、それを若い男性がこぞって(しかも自主的に)やっているかと思うと、なんと薄気味悪いことかと思います。

安全が疎かになっているということを意識して尚、倹約運転をやっているのならその神経は大したものですし、それさえもわからない無神経ということもありそうで、いずれにしろ救いがたいというべきです。

お気の毒といえばそうなんですが、バブルの崩壊以降に育った人達の財布の紐の堅さときたら呆れるばかりで、堅実といえば聞こえはいいですが、暗くて陰気くさい老人のようで、ほとんど人生にダイナミズムというものがなく、当然ながら思考力までみみっちいことにばかり働かせているのは驚くばかりです。

不本意でも必要があってやむを得ずする倹約と、倹約そのものが血液となり細胞となって人格を形成している場合では、まったく性質が違うと思うのですが…。
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メールと電話

電話で会話すればなんの問題もなくスムーズにいくことが、メールであるがためにつまづいたり誤解が発生したり、なんらかのストレスの原因になることってあるものです。

常々、マロニエ君は現代人のストレスや暗さの原因の一端は、直接人と触れ合わないメールなどのせいではないかと考えています。

ネットの功罪などを言い立てるキリがありませんが、少なくとも連絡手段としてのメールの普及は、数知れない利点がある反面、その利便性の副作用として犠牲になったものも甚大だというのがマロニエ君の見解です。

その点で、電話は顔は見えなくても少なくともナマの会話ですから、双方の言葉の調子やニュアンス、テンション、笑いなどの様々な人間的要素を総合しながら伝えることができますが、メールはそうはいきません。

思いがけないタイミングで、思いがけない内容のメールを受け取ったときの不快感というのは、意外に見過ごすことのできない深刻さがあります。
同じ人間が、同じ内容を伝えるにも、電話とメールでは受ける側の印象には雲泥の差があると思います。

少なくともメールではよほど誤解されないようにするためには、表現や言葉遣いも相手に媚びるほど、過剰な気を遣わなければならないことも少なくなく、もっぱら安全確実なことだけを書くようになり、直接会話にある一種の危ないスレスレの会話の楽しさなんて望むべくもありませんが、ここにこそ、人の感性やバランス感覚などの機知が潜んでたはずです。
もちろん文字情報を正しく伝える、内容を記録として残すなどの場合は別ですが、闇雲にメールへの依存度が高まってしまっているのは否定できません。

そういうわけで、マロニエ君は電話でもメールでもどちらでもいいと判断する場合は、ほとんど迷うことなく電話にする主義です。

そもそも連絡手段の大半をメールに依存している人というのは、活きた人間関係を重要と考えず、メールという一方的な連絡手段のほうが性にあっているのだと思われますが、そのぶん直接の会話でしか得られないものや確かな人間関係を構築が難しいという、慢性病的な一大欠陥が横たわっていることには気付いていないようです。
ひとくちにいうと、すべての連絡を抵抗なくメールでするような人には、信頼できる友人知人(あるいはビジネスの相手でも)はまずできないと思われますが、巷ではこういう人ほど友達を求め、それを数多くキープしたがるというのですから、その意識のズレには苦笑させられます。

つい先日も、あることで受け取ったメールが金銭絡みのオヤッと思うような思い違いのある内容でした。そこですかさず電話で直接話したところ、案ずるより産むが安しの喩えの通り、お互いの認識はたちまち確認できて事なきを得ました。
しかしこれをもしこちらもメールで返していたら、いちいち細かいことを説明しながら文章を書くのは骨が折れるばかりでなく、その往復にはそれなりの時間も費やして、その間は嫌な時を過ごすことになるのは目に見えています。

それが電話で明るく話をすればあっという間に事済みになるのですから、だいいち時間効率も圧倒的にすぐれているし、ついでに相手とはちょっと無駄口のひとつも交わしておけば、言うことなしのめでたしめでたしです。

現代人はメールをはじめとする便利なツールに囲まれて、人間性を喪失してまでそれを使いこなすことにエネルギーを費やして、日々精神的に孤独になっていることはもはや疑いようがありません。
きちんとした挨拶ができない、相手に対する本当の気配りや礼儀がない、大胆さがない、生きた人間の魅力がない、敬語と謙譲語のしなやかな使い分けができない…などなど、これらは人との関わりという点が稀薄になっていることの明らかな病症だと思われます。

電話でなくメールにする人の理由として最大のものは、「相手に迷惑をかけないから」ということのようですが、少なくともマロニエ君に限っていえば、どんなに悪いタイミングでかかってきても、それで電話の主を迷惑だなんて思ったことはないし、メールより嬉しいことは間違いありません。
というわけで、これからも可能な限り「電話主義」で行きたいものです。
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予期せぬ進歩

我が家のガレージで使っているホースとリールのセットは、もうかれこれ20年以上前のもので、ほとんど骨董の領域に到達しているようなものですが、ただ水を撒いたり洗車をしたりするのに不都合がないので、ずっとこれを使い続けてきたところでした。

ところがこの一年ぐらいでしょうか、リールへの繋ぎの部分とか、あちこちから僅かですが水漏れを起こすようになりました。漏れ自体はわずかでもリールの角度によってはこちらに小さな水流が向かってくることもあり、いつもその方角をあっちへ向けながら使っていましたが、だんだんと漏れが悪化してきたのを見かねて、ついに(というほどのものでもないのですが)これを買い換えることにしました。

ホームセンターにいくと数種類おいていましたが、単なるホースなのでとくにこれといって性能を求めるわけでもなく、一番安い20mのセットでじゅうぶんだと判断して買うことにしました。
本当はホースとリールだけのセットでいいのですが、今どきはどれもシャワーとかジェットなどの水流が換えられるガンタイプの蛇口がついているようで、本来これは要らないと思ったのですが、セットで値段も安いし購入しました。

さっそく古いホースのセットを長年ぶりに外して新しいものを取りつけましたが、たかだかホースでも、新しいものは気持ちがいいもんだと思いながら取り付け作業を行いました。

切り替え式のシャワーがあまり好きではないのは、ずいぶん昔に庭のホースでこれを付けたところ、ホースやリールのつなぎ目のあちこちから、高い水圧に負けて糸状の水漏れが発生し、かえってあたりはびちゃびちゃになってしまったり、一年もすると蛇口そのものが壊れてしまうなど、まったくいい印象がなかったので、ガレージでもこの手の蛇口は使わないでいたわけです。

ところが、取り付けが終わっていざ水道を捻ってみると、新しいせいもあるのかもしれませんが、むかし経験したたぐいの水漏れなどはまったくその気配すらなく、至ってスムーズで当たり前のようにスイスイ使えることが判明しました。
しかも、シャワー/霧/ジェット/拡散という4つのパターンのどれもがむらなくきれいに噴射されるところも、そのいかにも鮮やかな様子につい驚いてしまいました。

さらに感心したのは、従来のホースよりも直径がほんの僅かに細くなっていて、水道の蛇口を捻る量もこれまでとは比較にならないほど少量で済むことでした。
要するにこんなホースひとつとっても知らぬ間に技術が進歩し、初歩的な水漏れなどが克服されるなどの品質の向上と、さらには水量の省エネ設計が徹底しているのだということがわかりました。

ジェットに至ってはほんの僅かの水量でも、なにかを突き刺してしまいそうな勢いで、まるで武器のように鋭い一直線の水が躊躇なく飛び出してくるのにはびっくりです。
この悪天候なのでまさか洗車をするわけにもいきませんが、ともかくさっそく何かで試してみたくなり、ガレージ用のサイクロンクリーナーの中のフィルターやスポンジを、どーだ!とばかりに洗ってやりました。

とりわけ蛇腹状のフィルターに詰まっていたネズミ色のホコリの堆積物は、あっという間に吹っ飛ばされて、久しぶりにほんらいの清潔な状態に戻ることができたようです。

旧来のものがなつかしく思われることも少なくないこのごろですが、こういう道具などの分野は本当に新しいものは良くなっていて、しかも値段も安いとくれば、ただただありがたいばかりです。
すっかり感心して、別の場所にももうひとセット買いたくなりました。
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ウインドウォッシャー

土曜の午後のこと、車の混み合う市内の片側二車線の幹線道路で信号待ちをしていると、突如として一斉に水滴が降ってきたので、にわか雨か?と一瞬思ったのですが、すぐにその感じからして雨ではないことはわかりました。

では、近くのビルの屋上からでも水が降ってきたのかとも思いましたが、それでは方向が違うし、咄嗟にあたりを見まわしたところ、すぐに犯人がわかりました。
この日は久々の青空だというのに、右側車線の斜め前で同じく信号停車している黒っぽく背の高い軽自動車が、ウインドウォッシャーをびゅーびゅー出しながらワイパーを動かしています。

おそらく窓が汚れていたので、ウインドウォッシャー&ワイパーを使って窓をきれいにしていたのでしょう。
しかし、そのウォッシャー液のノズルがあらぬ方向を向いているらしく(大抵の車が角度を変えられます)、それが信号停車中のまわりの車にちょっとした噴水のように飛び散っているのですから、雨天でのことならともかく、晴れた日にこんな迷惑な話はありません。

しかもその車、何度もその操作を繰り返していて、こちらが呆れているその間にも、繰り返しウォッシャー液が飛んでくるのですからたまりません。
それも水道水などならまだしも、ウォッシャー液は大抵は薄い洗剤の入った液ですから、これが他車の塗装面にふりかかれば、下手をするとへんな染みなどを作ってしまう恐れもなくはありません。

すぐに降りていって止めるように言いに行こうかと思ってシートベルトを外した瞬間、信号が青になり断念。
ところが、次の赤信号でまた同じ位置関係で再び停車することになりましたが、な、なんと、またやっていて、さらにはリアウインドウまでじゃーじゃーウォッシャー液を出しながらしきりにワイパーを動かしています。

今度こそ!とばかりにすかさず車を降りて、斜め前の車の助手席側に走り寄り、幸いドアの窓ガラスが開いていましたので、「ちょっと、その水を飛ばすのはやめてください!水がまわりに飛んでほかの車はずぶ濡れですよ!」と言ったら、運転しているのは、ちょっと漫画チックな感じのメイクをした若い女性でしたが、はじめはポカンとして意味がわからないようでした。
繰り返し説明するとようやく事の次第がわかったららしく、「すいません…」と言って止めましたが、いやはや…とんだ迷惑を被りました。
その後、他所に寄って帰宅してから、ガレージでさっそく窓やボディを軽くふきとりました。
もちろんそのころにはすっかり乾いていましたが、窓ガラスなどが点々と浴びせられたウォッシャー液の跡が残っていて、なんでこんなことをしなくちゃいけない羽目になったのかというところですが、まあ、事故にでも遭ったと思えば腹立ちも収まるというものでした。

それにしても、ウォッシャー液というものは、ノズルの位置がきちんと窓の方向に調整されているのはもちろんとしても、できるだけお天気の良い日中などは使うべきではないと思いますし、それでもどうしても使うなら、周囲に迷惑をかける可能性があるので、前後左右に車がいない場所でやってほしいものです。
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パイクのブラームス

なぜか日本での認知度と人気は今ひとつですが、クン=ウー・パイクという偉大な韓国人ピアニストがいます。
すでに60代半ばに達する年齢で、韓国ではこの巨匠の存在を知らない人はまずいないということですが、それはどこ人ということでなく演奏を聴けば当然だろうと思います。

実力に比べるとCDなどは決して多くはなく、印象に残るものとしてはプロコフィエフのピアノ協奏曲全曲などがありますが、それはもう圧倒的な演奏で聴くたびに唸らされます。
最近ではついにベートーヴェンのピアノソナタ全集が出たようですが、デッカというメジャーレーベルにもかかわらず、なかなかどこの店でも売られてはいないのがまったく腑に落ちません。

それ以外でのパイクのCDとしては、2009年の録音でグラモフォンからブラームスのピアノ協奏曲第1番(エリアフ・インバル指揮チェコフィル)が出ていて当然のように購入しましたが、これがまた期待にたがわぬ素晴らしい演奏でした。
パイクのピアノはまずなんと言っても、いかにも男性ピアニストらしい雄々しく重厚なピアニズムと他を圧するテクニックがあり、音楽はあくまでも正統派というべき解釈に徹していますが、正統派という言葉につきもののアカデミックで秀才肌であるとか面白味の無さとは無縁の、10回聴けば10回感動できる、真の実力と本物だけがもつ内面から滲み出るような魅力を具えた稀有な存在だと思います。

一般的に、ブラームスのピアノ協奏曲第1番はどうしても曲の大きさが奏者の負担になっているような演奏、あるいはあまりにも管弦楽曲的な要素を帯びすぎた説明的な演奏が少なくありませんが、パイク&インバルの演奏では、まさにこれ以上ないというバランスが取れており、良い意味でストレートで、曲の偉大さやオーケストラ作品としての重要性、そしてピアノ協奏曲としてのソリストの立ち位置がすこぶる明確になっている、まったく最良の演奏だと思いました。
さらには新鮮味もありながらオーソドックスな安心感もあり、すでに何度聴いたかわかりません。
これまでの同曲のベストはロシアのマリア・グリンベルクが遺した二種類のライブ録音だとマロニエ君は思ってきましたが、久々にそれを忘れさせる名盤が登場したことに深い喜びを感じているこの頃です。

この曲は演奏時間が長いことと、聴衆に満足を与える演奏がとくに困難なためか、普段の演奏会でも取り上げられることはほとんどありませんが、数多いピアノ協奏曲の中でも何本?かの指に入る傑作だと思いますし、もしマロニエ君がピアニストだったら、どんなに演奏の機会が少なくても絶対にレパートリーにしたい一曲であることは間違いありません。
そしてこのパイクのCDを聴くことによって、その思いを再確認させられました。

そういえばこの曲でふと思い出しましたが、以前、あるピアニストと話をする機会があって、その方がこの曲を二台のピアノで弾いたということだったので、マロニエ君はこの作品の素晴らしさに対する思いを話したところ、その人はまったくこの曲の価値がわかっておらず、ただ長大なだけの、ブラームスの駄作のように言ってのけたのには、それこそ内心でひっくり返らんばかりに驚きました。
自分で実際に弾いてみてさえ、その値打ちがわからないような人に何を言っても無駄だと思って、こちらもそれ以上なにも言いませんでしたが、こういう人もいるのかという強烈な印象はいまだに記憶に残っています。

パイクの話に戻ると、併録された「自作の主題による変奏曲op.21-1」と「主題と変奏(弦楽六重奏曲op.18に基づく)」も聴きごたえじゅうぶんのまったく見事な演奏!
主題と変奏などは、ピアノソロでありながらあの弦楽六重奏の息吹をありありと表現しきっているのは、思わずため息がもれてしまいました。
なんとかしてベートーヴェンの全集を入手するほかないようです。
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熾烈な競争

仕事の関係で印刷を依頼することがときどきあるのですが、近ごろのネットで注文する印刷業界の価格競争には凄まじいものがあるようです。

ネットが発達する以前の印刷業界を知る者にとっては、これこそまさに「価格破壊」と呼ぶに相応しいもので、日本中の大半の印刷会社が低価格をめぐって熾烈な競争を繰り広げるか、さもなくば廃業などに追い込まれているようです。

ひと時代前までは、印刷は中国が断然安いので、大手企業などの大量の印刷物や出版物は運送コストをかけてでもそちらのほうが安くつくので、国内の印刷業界は大変な状況らしいという話を聞いたことがありました。
そんな時期からさらに年月を経て、今では国内の印刷業もすべてではないかもしれませんが、この価格競争に打って出て、マロニエ君の手許だけでも、数社の激安店がリストアップされており、安い魅力には勝てずにこれをよく使っています。

しかも驚くべきは、昔ながらの「安かろう、悪かろう」ではなく、本当に高品質な製品がきちんと納入されてくるので、いやはやこれも時代かと驚くばかりです。

そのかわり、昔の印刷屋のような手間暇かけた手法ではなく、原稿はすべて発注者のほうで完成させなくてはならず、それなりにビジュアル系のソフトなども使いこなさなくてはならないという点もありますが、それさえクリアすれば、本当に信じられないような低価格で、従来の価格のものと遜色ない美しい印刷が仕上がってくるのですから、驚くやら、ありがたいやらです。

また一色刷と二色刷、さらにはカラー印刷という点でも、価格は大きく差が出るというのもこれまでの印刷の常識でしたが、今ではフルカラーが半ば当たり前のようで、さほどの違いはありません。これはおそらく印刷機が以前とは比較にならないほど発達、高性能になったためだろうと思われます。

まあ、利用者としては安いことは無条件にありがたいことなので、とりあえず歓迎なのは間違いありませんが、しかしこういう競争をやっていかなくてはならない今の厳しい世の中という観点で考えてみると、なにやら恐ろしいような気がするのも事実です。
しかも、相手はネットですから、日本中どこの印刷屋であってもハンディなくライバルとなるわけで、昔なら必然的に距離の近い、付き合いのある印刷屋であることは当たり前でしたが、そういう条件も無情に撤廃されたということでしょう。

現にマロニエ君がネットで利用している印刷会社も、ものによって価格と得意分野が異なるために数社を使っていますが、京都、名古屋というふうに、すべて遠方の会社で、もちろん社員とは一面識もないわけですから、利用しながらときおり驚いているところです。
先日も、ポストカードを作るのに、あるギャラリーの紹介で安い印刷会社(もちろんネットの)というのを紹介されましたが、同じ条件でも別会社を調べてみると価格はさらにその3分の1ほどだったりと、その凄まじさときたら大変なものです。

自分が利用していて言うのも憚られますが、ネットというのは社会をおそろしく厳しい、極限の競争を強いるものへと変えてしまったのは間違いないような気がします。
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浜松ピアノ社

過日、広島まで行ったついでに、浜松ピアノ社を訪ねました。
街の中心部である本通という広島一番の繁華街のど真ん中で、いかにも老舗然とした感じの佇まいでした。

人通りの多い外の賑やかさとは一転して、店内に入ると楽器店特有の落ち着いた空気と静寂がたちこめています。
一階と二階にはスタインウェイをはじめ、輸入物を中心とした珍しいピアノが所狭しとならんでいるのは圧巻ですし、今回は行きませんでしたが、さらに上階にはスタインウェイのDを備えた小さなホールもあるようです。

運良くここの社長さんがおられ、来意を告げると快く店内を案内してくださいました。
一階は普通のスタインウェイのB型と、同じくB型でありながら、ボディのデザインはスタインウェイの創始者であるハインリヒ・シュタインヴェクがアメリカに渡る前のドイツ時代に完成させたピアノを模したものになっており、これはなんと世界に5台ほどしかないという稀少品でした。
中は10数年前のB型だそうで、フレームなども現行品と同じものでしたから、普通のスタインウェイとして使える上に、古色蒼然としたその造形を楽しむことができるようです。

店内中央にある螺旋階段を上ると、チッカリングの古いグランドや、木目のボストンのグランドが二台、それに他店ではまず見ることのできないエストニアなどが展示されていました。

エストニアは以前も書いたことがありますが、旧ソ連時代に自国のピアノとしてソ連中で親しまれたブランドですが、ペレストロイカ以降はエストニアが主権国家として独立します。もともとこの国の名を冠したメーカーですから、必然的に現在はロシア製ピアノという位置付けではなくなったようです。
社長さんはどのピアノも「どうぞ弾いてみてください」と言ってくださいますが、マロニエ君はなかなか弾くことができない性分で遠慮していましたが、このエストニアだけはかつて一度も触ったことがなく、実物を見たのさえ初めてで、こればかりは湧き起こる興味を抑えることができずに、ついにちょっと弾かせていただくことになりました。

まず印象的だったことは、とても良く鳴るパワーのあるピアノだということ。
この日あったのは奥行き168センチのグランドでしたが、とてもそんなサイズとは思えない迫力がありました。
見ると、鍵盤の両脇も幅が広く、中低音弦が張られるお尻の部分も普通のピアノよりずいぶん幅広になっていて、人間で言えば「安産型」の体型とでもいうのでしょうか。
ともかく全体に横幅が広く取ってあるために、当然ながら響板の面積も普通の170センチクラスのグランドよりかなり広いものになっていると思われます。

音はいわゆる都会的な音とは違い、味わいのある実直な音色で、いわゆる洗練されたピアノではないけれども、そのぶん深く心に訴える非常に魅力のある音だと思いました。
とはいってもペトロフほど泥臭くもなく、しぶさと素直さのある、とても好ましい音色だという印象でした。
それでいて基本的によく鳴るし、弾いていてとても心地よいピアノで、いかにも良い材料を使ってつくられたピアノだけがもつ楽器としての豊かさがあったように思います。
素朴だけれどしっかりダシのきいた料理みたいで、こういうピアノはマロニエ君はとても好きです。

ここの社長さんはマロニエ君と同年代だと思われましたが、とても親切で、本当にピアノが好きな方という感じでした。また機会があればぜひとも再訪してみたいものです。
とても素敵なお店でしたし、こういうピアノ店が地元にある広島の人達がとても羨ましく感じながらお店を後にしました。
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高速道路で

先日、ここ最近ではめずらしく高速道路を長距離走りました。
広島までの日帰り往復で、どうしても車の必要があったので新幹線というわけにはいきませんでしたが、ひさびさの片道300キロ、往復600キロはけっこう骨身にこたえました。

昔はそれなりにやれていたことで、東京ー福岡を車で一気に走破なんてこともときどきやっていましたが、最近は歳のせいももちろんあるでしょうし、なにしろこういうことは心身共に慣れていないとダメですね。

久しぶりだと緊張と眠気のバランス取りがうまくいかずに、さすがにぐったりきました。
よく若いお父さんが子供の運動会に参加して、まだまだやれるつもりでいきなり走ったのはいいけれど、日ごろの運動不足から転んだり足がもつれたりということがよくあると聞きますが、似たようなものでしょうか。

早朝に出発して、昼前後に広島市内で用件を済ませて、ついでなのでちょっとピアノ屋さんに寄ってから帰途につきましたが、延々と走って来た道をまた引き返すというのがどうにも性に合わず、うんざりしてしまいます。
これがさらに関西にでも向けて走っていくのならまた気分も違うかもしれません。

それにしても印象的だったのは、以前に較べて高速を走る車の全体的な速度もわりに落ち着いていて、穏やかに淡々と走っている車が圧倒的多数でした。土曜だったせいか、あるいは流通業界も不況なのか、以前なら高速はトラック専用道路か?とでもいいたくなるほどの大型トラックも数が少なくて、ドライブそのものはわりに快適に過ごすことができました。

中国自動車道では、今年のいつだったか、福岡のフェラーリ愛好家達が集団で大事故を起こしたと思われる箇所も通過しましたが、下関から西のルートは高速道路にもかかわらずカーブと勾配の変化がかなり続くので、雨上がりの早朝にこういう場所であんな大パワーのスポーツカーがフルスロットルを与えながら疾走していれば、アクシデントが起こるであろうことはじゅうぶん想像できました。
とくに仲間同士で走ると、いよいよテンションは上がるのが人間でしょうから恐いですね。

恐いといえば、帰りの九州自動車道で、ものすごい女性ドライバーがいて驚きました。
土曜の夕方ともなると、福岡が近づくにつれ交通量も俄然増えてきて、とりわけ若宮ー古賀インター間はトリッキーな下りカーブが続く箇所で、ここはいつも通るたびに運転も慎重になるルートです。このときは車が多くて追い越し車線も前後ずらりと連なって100km/h前後ぐらいで流れていましたが、突如赤い普通のコンパクトカーがマロニエ君の後ろにビタッとくっつきました。
しかも充分な車間距離をとらずにいよいよ近づいてくるので、なんだこれは?と思ってバックミラーを見ると、それは若い小柄な女性が一人で運転している車でした。
それでも前に行こうとする気迫のほうが勝っているらしく、ときおりバックミラーに写るその女性の表情までわかるぐらいまでピッタリと後ろについています。

さらにはイライラしているのか小刻みに車が左右にも揺れていて、これはちょっと…まともな走り方とは思えませんでしたので、早く走行車線に逃げ込みたいところでしたが、走行車線も前後車がつながっていてなかなか左に寄る余地がありません。
そのうち隙間を見つけてどうにか左によけると、その赤い車の女性はすかさず加速して、さらに次の車のうしろに同じように張り付きましたが、そのうち左右どちらの車線も関係なしに、とにかくちょっとでも早いほうへジグザグに車線変更しては周りの車を煽るだけ煽って、とうとう視界から消え去っていきました。

相当危険率の高い運転で、ましてや高速道路ですから見ているだけでヒヤヒヤもので、いま事故が起これば確実にこちらにもとばっちりを被るという状況でしたから、その赤い車がいなくなってホッとさせられましたが、あんな無謀極まる車の巻き添えになったらたまったもんじゃありません。
それにしても凄い女性ドライバーがいるもんだと思い知らされました。
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ホールの実情

ホールとピアノの音の関係というものはそれとなく観察としていると、お似合いの好ましいカップルが出会うように難しいもんだとあらためて思いました。
そして、概して言える不思議な現象というのがあって、少なくとも福岡に限って言えば、それなりのコンサートをこなす有名ホールでは、どこもそれぞれに音響がよろしくないほうが多いし、むしろちょっと郊外のホールなどに思いがけなく素晴らしいものがあったりするというのが現実です。

音響のよくないホールでも、一部にはそういう意見を管理者側が汲み上げて改修作業がなされ、いくぶん聴きやすくなったものもあり、そういう場合はひと安堵というべきでしょうが、しかし、良くないものを後から手を加えて改善策を講じたものと、はじめから良い音に生まれついたホールというのでは、根本に超えがたい違いがあるようです。
そういう意味ではホールというのも立派な楽器だと言うべきかもしれません。

昨年、機会があって行ったホールもそれなりに名の通ったホールで、その規模、内装の色調やセンスなどもなかなかのものとお見受けしましたが、シロウトのマロニエ君の耳にさえ音響が良よろしくない。
この場合は、やたら響きすぎるだけの音楽専用ホール風の響きとは少し違って、音に芯が無く、パァーっとばらけて散ってしまう感じの音響でした。
どこに原因があるのかなんてマロニエ君にはわかりませんし、見た感じはたいへん立派な感じの良いホールであるだけに残念というか、音響というものはやはり難しいものなんだなあと思わずにはいられませんでした。

このホールで聴いたのはピアノリサイタルだったのですが、音が響いていないことはないけれども、その響きに方向性と流れがなく、楽器から出た音に流れがなくバラバラになってしまい、いうなれば伸びやかさと収束性に欠けるものだったわけです。
ただし、簡単には良し悪しを断定できないことも経験的にあるのです。
マロニエ君はここで何度もいろいろな楽器の演奏を聴いたわけではなく、この響きが恒常的なものかどうかはわかりません。もしかするとただ単にピアノの位置が悪かったということも考えられます。

以前に何度か、ピアノリサイタルのステージのセッティングに立ち会ったことがありますが、ステージ上のピアノはその位置を手前か奥に少し変えるだけで客席に到達する音がコロコロ変わります。ちょうど映写機のピントをスクリーンに向かって合わせるようなものでしょうか。
理想的には客席に耳の良い責任者がいて、ピアニストがピアノを弾きながら、10センチぐらいずつ位置を変化させていくと最良の音響スポットが見つかるはずですが、もちろんホールによってはどうしようもないところもあるわけで、限られた条件内で調律師やピアニストは最良の判断をして、これだという位置決めをしてほしいものです。

ホールといえば、マロニエ君のような車族にしてみれば、市の近郊ならどこでもいいので、いろんなよいホールでコンサートを聴きたいと思うのですが、一般的には電車やバスのアクセスが悪いと集客が見込めず、どうしても街中の決まりきったところばかりが使われることになるようです。
郊外に点在する素晴らしいホールも少しはそれらしく使わなくてはもったいないと思うのですが…。
せっかく良いホールを作っても、場所が悪いことを理由にほとんど永久にこれといった本物のコンサートが行われないのでは、いったいなんのために巨費を投じてそうした施設を作り、さらには高額な管理費をかけて維持いるのかという気がします。

こういう郊外型施設ではホール主催のイベントなどが最大のコンサートのようですが、それでも関係者は怖がってなかなか大きなことをしません。せいぜい二流芸能人の歌謡ショーとか地元のアマチュアオーケストラ、よくわからない合唱団など、どっちつかずの催しばかりというのでは、ホールは箱物作りで潤うゼネコンの金儲けに利用されただけとなるでしょう。

そういうホール同士が連携して、ラフォル・ジュルネのような安くて良質の音楽が聴ける音楽祭などをやってみるなどしたらどうか…なんて思いますが。
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ようこそ

ご縁があって、昨年二度ほどコンサートで聴いたピアニストの方が我が家に練習に来られました。

春に東京などでベートーヴェンの協奏曲を弾かれるとのことで、しばらく雑談をしたあと、さっそくピアノに向かわれました。
せっかくなのではじめに第1楽章、終わりに第3楽章を聴かせていただき、途中こちらは仕事に戻りましたが、非常にしなやかなテクニックがもたらす、趣味の良い演奏で、ひさびさに間近に聴く秀演に感銘を覚えました。

やはりステージに立つピアニストというのは、当然ですがシロウトとは次元が異なります。
時間が無くて眠った状態に等しい我が家のピアノでしたが、そんなことはものともせずに非常に安定した確かな演奏を繰り広げられました。
すみずみまで神経の行き届いた緻密さと伸びやかさが同居した演奏です。
呼吸が自然で、聴く者に余計な緊張やストレスを与えず、すっきりと曲を聴かせるところも見事でしたし、作品そのものが持つ自発的な流れにも決して逆らわないというのがこの方の演奏の魅力だと思いました。
もちろん、それはサラサラした安全運転というのとはまったく違う、ビシッとメリハリもきいていて、必要な場所ではしっかりパワーもあるので聴きごたえがあって、ストレートに音楽がこちらへ向かってくるのです。

最近は指運動だけはいやに効率よく訓練されたピアニストが少なくありませんが、音楽は尤もらしいけれども表面的で必然性のない、音楽の本質をまったく感じさせない無機質な表現である事は珍しくありません。そんな中で、この方は音楽性や歌い込みにも確かな裏付けがあり、こちらが期待した通りの同意できる音楽を丁寧に描出させるという意味では、むしろ稀有な存在だと思いました。

作品が要求することを、ごく自然に受け容れて自分自身の感興と指の動きと呼吸に組み入れるというのは、当たり前のようでいて、実は最も難しいことです。

技術的に上手い人というのは沢山いても、演奏が終わってみて、また聴いてみたいと心に思わせるピアニストとなると、これは滅多にいないものです。
その一点においても、この方は注目に値する存在だと思います。

3時間ほど練習されてお帰りになりましたが、その後にピアノに触れると、ピアニストに集中して弾かれたおかげで、楽器が完全にあたたまっていて、とてもよく「鳴る」状態になっていました。
こちらも思わずうれしくなって30分ほど弾いてしまいましたが、コンサートでも後半のほうがどんどんピアノが鳴ってくるのと同じ現象ですね。

久々に上手い人に鳴らしてもらって、ピアノもストレス解消ができたことでしょう。
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ロシアの今

BSのN響の定期公演で、ロシアのニコライ・ルガンスキーがプロコフィエフのピアノ協奏曲第3番を弾いていました。
この人はかつてロシアのバッハ弾きとしてその名を馳せたタチアナ・ニコラーエワ女史の弟子に当たる人で、ロシア系ピアニストの特徴であるたくましい指のメカニックを持った人というのは確かなようでした。

すでにエラートレーベルからCDなども数多く出ていて、お得意のラフマニノフなど何枚かは手許に持っていますが、買って何度か聴いてみると、以降はパッタリと手に取ることはなくなりました。いらい、ただ危なげなく弾いているだけで、それ以上の何かがないというのがこの人のイメージでしたが、それが間違いでなかったことを、この放送でもあらためて確認することになりました。

あの難しいプロコフィエフのピアノ協奏曲を確かな指さばきによってそれなりには弾いていましたが、不思議なほどそれだけで、なんの感銘も個性もない、見た目ばかりで味のない宴会用の食べ物みたいでした。
さらに言うと若干リズム感がよくないことが、演奏という時間の流れの中で、あちこちにわずかな歪みが生じるところも気にかかりました。

もともとロシアのピアニストというのは、タッチが深く、和音には厚みがあり、ときに強引なくらい感情を露わに音楽をこってりと歌い上げるのが特徴で、それが深い感激を覚えることもあれば、ときにはげんなりすることもありますが、全体には器が大きく、率直で人間くさい演奏をするのが常道でした。

然るに、このルガンスキーはまったく肉感のない痩せぎすのような音楽で、聴いていてどこに重点が置かれているのやらまったくわからない演奏で、それでそのまま終わってしまいました。
ピアニストとしてステージ演奏をする以上、素晴らしい技術をもっているのは当たり前としても、その上でその人なりの練り込まれた固有の音楽が聞こえてこないことには聴く意味がないと思います。

時代も変わって、ロシアもこういう味の薄い、コレステロールゼロみたいなピアニストが出てくるのかと思ってしまいました。

それに時を同じくして、昨年リニューアルされたボリショイ劇場のシリーズで、ボリショイバレエの「眠りの森の美女」も放映されましたが、これも中身はルガンスキーと同じでした。眩いばかりに生まれ変わった劇場、さらには一気に新しく豪奢に作り替えられた装置や派手すぎる衣装など、表向きはたいそう新しく立派になっていましたが、踊りのほうは現在の看板スターであるスヴェトラーナ・ザハロワ演じるオーロラ姫も、技術は立派ですがなんの感銘も得られないもので、ただ決められた難しい振付を次々に消化しているだけという感じでしかなく、こちらにも落胆させられました。

主役のオーロラ姫は16歳という設定ですから、踊り手はその若くて愛くるしい様を表現し、バレエとして踊り演じなければなりませんが、暗くてねっとりした大人の踊りで、老けた女性が娘の借り着をしているようでした。
昔は同劇場のオーケストラもピアノと同様、迫力のある分厚い響きでロマンティックにぐいぐい鳴っていたものですが、これもまたすっかり筋力の落ちたアスリートのようで、火が消えたようなつまらない演奏で、これじゃあチャイコフスキーもご不満だろうと思います。

いまは世界的に、なんでも人の手で作り出す昔ながらのものは文化芸術はもとより、ありとあらゆるものが質が落ちて小さくなっていることは否定しようもありません。
そのくせ、表面的にはより鮮やかで先鋭的で、人の目を惹きつけはしますが、実体はスカスカの軽い内容でしかないのは甚だ残念でおもしろくありません。
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今どき営業マン

先々週の祝日のことですが、ふと思い出しましたので書いています。
このところ友人の車購入の協力をしていることは以前書きましたが、該当する車が北九州のある輸入車ディーラーの中古車在庫としてあることがわかり見に行ってみようということになりました。

事前にディーラーに電話したところ、間違いなく車はあるという確認がとれましたので、福岡から見に行くことを伝えて、電話に出た営業マンの名前を聞き、時間の約束をした上で北九州を目指しました。

ちなみに北九州のその店は福岡からは70キロほどで、高速を利用してもトータルで1時間半ぐらいかかります。

ディーラーに到着すると、すかさず女性従業員がこっちに近づいてきて、満面の笑顔で「いらっしゃいませ」と言ってきます。電話に出た営業マンの名を告げてショールームで待っていると、ほどなくして若いお兄さんが現れて、型通りの挨拶をして、名刺を差し出します。
なんとなく、自信の無さそうな視点の定まらないお兄さんが、習った通りのことを一生懸命やっている感じで、いま思えばこの時点から少し不安感はありました。

その彼によると、車は別の展示場のほうに置いているため、そちらへご案内しますので少しお待ちくださいといわれ、ほどなくして準備されたお店の車に乗り込みました。
約5分ほどとのことですが、これが思った以上に遠いのにまず驚きました。

ようやく目指す展示場に着いたものの、ちょっと見渡した限りでは目指す車は見あたりませんでしたので、この時点でさらに違和感が募りはじめていました。
その営業マンは車を降りるなり、首をあっち伸ばしこっち伸ばしして車を探しているようですが、どこにもそれらしき車はなく、必死に手許の資料を黙々と繰っていますが、こっちにはほとんど配慮らしき言葉もありません。
だいいち、この段階で車を探すということ自体が驚きです。

ときどき「あれ…」といったようなつぶやきだけが聞こえますが、もうお客さんへの対処はなど、彼の頭の中ではまったく吹っ飛んでいるようでした。
そのうちこのセンターの女性スタッフに声をかけてしきりに話をしていますが、これといった答えはでないようで、信じがたいことにその女性と二人してクルマ探しが始まりました。
その間、我々は寒風吹きすさぶ中を広い戸外にほったらかしにされ、これではたまらないので、とうとう事務所のようなところへ自ら避難しましたが、その営業マンはどうしていいかわからないようで、それを見ているこっちのほうが情けない気になりました。

それから10分ほどして、結果的に車はさらに別の場所にあるにはあったものの、そこは単なる保管エリアのようなところで、まわりは他の車にギチギチに挟まれていて、さらには分厚いホコリを被ったままで、とてもお客さんに見せるというようなシロモノではありませんでした。

普通なら電話して来意を伝えておけば、安いものでもないのですから、車を見やすいようにちょっと表に出すとか、簡単な水洗いをするぐらいのことは当たり前ですが、ごく基本的なことがこれほどまったくできていないのは唖然とするばかりでした。
エンジンすらかけようともせず、ただ車の脇で直立しているのみ。これでは我々も、車をまともに見てみる気も喪失してしまい、気分は一気にしらけて早々に退散することになったのは言うまでもありません。
これが正規ディーラーの看板を揚げている店の対応なのですから、もう笑うしかありません。

あんまりだと思って、少しだけおだやかに思うところを伝えましたが、「申し訳ございません…」をロボットのように繰り返すだけで、まるでそれ以外の言葉を知らないようでした。帰りの車の中でもまったくの無言で、こういう人が車を売るような接客の仕事に就くこと自体が間違いのような気がしました。
おそらく本人は何が悪かったのかさえもわからないのでしょうが、こういうタイプはこのお兄さんに限ったことではなく、けっこう沢山いるような気がします。
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この土日の二日間にわたって福岡地方としては大雪になりました。

降雪地帯ではないので、年に一二度見るかどうかの珍しい光景ですし、地域そのものが雪に慣れていませんから、雪が降るとみんなすぐに外出を見合わせたりするようです。

いまさらですが雪の特長の第一は、まったくの無音だということに驚かされます!
雨なら音や湿度などでわかるということもありますが、雪はまさに忍者のように足音もなく近づいてくるようで、気がついたときにはあたりが薄化粧をしたようになり、ふだん見慣れぬ白い雪が懸命に降り注いでいる光景は心がハッとするようです。

通常、福岡の雪なんてちょっとの時間降るぐらいがせいぜいで、積もるということはまずありませんが、この二日間はそれではなくて、それなりに積もって見事な景色を作り出してくれました。
そして、たまに陽が射してきたときには、その雪の白さを反映して部屋の中までパッと明るくなるのは、なんとなく心の中まで光が照らされるようでした。

とりわけ木々の枝という枝にまんべんなく積もった雪は、まるで冬の枯れ木が一気に満開の桜のようで、静かな華やぎがあり、その思いがけない変化には息を呑むようです。
昨日の朝には、更に夜中の間に積もった雪が太陽の光を受けて溶け出したらしく、家の窓から見ているとバサバサとあちこちの枝から積もった雪の固まりが降り落ちてくるのですが、これが家の周りで間断なく続いている状況はなんとも風情がありました。
降っているときは舞台の一場面のようでしたが、こちらはまさに見事な日本画のごとき美しさでした。

向かいのマンションでは、わずかな雪を掻き集めて一家が雪合戦をやったり小さな雪だるまを作っていましたが、ちょっと見ているとこれがいささかヘンテコな光景でした。

何かというと、若い両親は写真撮影に余念がなく、雪合戦さえもしばしば中断させられて、要するに写真撮影のほうが主たる目的のように見えました。
互いにカメラを持ち替えては、メロンを二つ合わせたぐらいの雪だるまを抱えた子供とパチリ、雪を投げてはまたパチリと、ただ素直に自然に珍しい雪で遊んでいる感じ…というのとはちょっと微妙に違うニュアンスを感じました。

たぶんそれをパソコンに取り込んで、保存したり、ブログやホームページにアップするのだろうという、先の狙いが透けて見えてしまうようで、そう思いはじめると不思議に冬の風物という気配も、一家のほほえましさもすっかり割り引かれてしまい、一家総出でひとつの目的のための証拠作りをしているようにしか見えなくなりました。

こう書いてしまうと、マロニエ君のものを見るレンズが皮肉めいているように思われるかもしれませんね。たしかにそうかもしれません。
それを否定はしませんが、しかしそういうものは不思議に伝わってくるもので、あれはやはり雪ひとつでも有効活用したいという現代人の思考回路というか、行動パターンだったように思います。
まあ、そんなことをこのブログにわざわざ書いているマロニエ君も似たようなものといえばそうかもしれませんが、やはり家族の笑顔や遊びまで、どこかやらせの臭いがするのはがっかりしますね。
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