イタチ

こないだの日曜日、友人がやってきたときのこと。

何かお昼を作ろうと冷蔵庫をガサゴソやっていると、奥のほうから真空パックされた5本入りのソーセージが出てきました。
すっかりその存在を忘れていて、見れば賞味期限を4ヶ月!も過ぎており、真空パックの場合1~2週間ぐらいであれば期限切れでも平気で食べてしまうマロニエ君ですが、さすがに4ヶ月ではちょっと食べる勇気はありません。

ゴミ箱に放り込もうとすると、友人が庭に置いてみよう?と言い出します。
マロニエ君宅の付近はカラスが少なくなく、ゴミを出すにもその被害を想定していちいちネットを掛けたりするぐらいだから、そんなことしたらみすみすカラスにくれてやるようなものと言いましたが、友人は面白がってどうしても庭に置いてみようと、いい歳をして子供のようなことを言い出しました。

マロニエ君もどうせ捨てるのだからと好きにさせていたら、友人はパックをあけて5本のソーセージを庭の中央にばらまきました。

結局はあとで拾って始末しなくてはいけないだろうと思っていたところ、置いてから10分か15分ぐらい経った時でしょうか、友人の「あっ、見て見て!」という声で庭に目をやると、これまで見たこともない茶色の小動物がちょこちょことやってきて、ソーセージを口にくわえたかと思うと、あっという間に小走りにどこかに消えていきました。

マロニエ君宅の隣家は庭も広く、一部が藪のようになっているのでそのあたりに棲んでいるのか、あるいは隣家の屋根裏あたりが住処なのか、とにかくこれまで一度も見たことのない体調30cmほどのイタチ君のようでした。
友人も思いがけない珍客の到来に大満足の様子で大はしゃぎ。

それから数分後、「あ、また来たよ!」というので見ると、さっきと同じイタチが、細長い身体を波打つようにくねらせるようにしながらやってきて、また1本ソーセージをくわえて同じ方向に去って行きました。
思いがけないごちそうを発見して興奮しているのか、イタチ君はその後も数分間隔でやってきて、けっきょく5本全部のソーセージを持って行ってしまいました。

その後も、まだ何かないのかと思っているらしく、何度もやってきては、今度は庭の隅や塀の上なんかもぐるぐる走り回ってごちそうを探しまわっていました。
イタチなんてどんな動物かは知らないけれど、窓越しに見ているぶんにはちょっと可愛いくもありました。

帰る方角は決まってお隣の藪の方なので、きっと近くに住処があってそこには家族がいるのか、自分だけなのかはわかりませんが、面白いものを見ることができたという思いと、でも、あれを食べて大きくなってまたこっちに来るようなことになったら困るなあという気分でした。

不思議なのは、いつも悩みの種となっているカラスがまったく来なかったこと、さらには普段は一瞬もその姿を見せたことのなかったイタチ君が、最初にどうやって我家の庭にばらまかれたソーセージに、ああも短時間で気がついたのかということ。

まあ、順当に考えれば、相手は野生動物でもあるし、人間には想像もつかないような嗅覚でもあるのでしょう。
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ラフマニノフ

ラフマニノフは決して嫌いな作曲家ではないけれど、ピアノのソロの作品を続けて聴いているといつも同じ気分に包まれます。

先日もCD店に行った折、なつかしいルース・ラレードのラフマニノフの全集がボックスで出ていて、しかも今どきの例に漏れず非常に安く売られていたので購入しました。
LPの時代にこつこつ1枚ずつ買い集めたものが、今はこうして1/10ほどの値段で一気に苦労もせずにゲットできるのは、ありがたいようなつまらないような、ちょっと複雑な気分が交錯します。

CDでは5枚組みですが、記憶が正しければ、LPではもっと枚数があったと思ったけれど、内容が減らされた感じもなく、CD化にあたり1枚あたりの収録時間の関係で枚数が少なくできたのかもしれません。

ルース・ラレードはとくに好きというほどのピアニストではなかったけれど、当時はまだ一人のピアニストが一人の作曲家に集中的に取り組み、その作品を網羅的にレコーディングするということが非常に少なかったし、とりわけラフマニノフの多くの作品を音として聴くには彼女ぐらいしかなかったという事情もあったように記憶しています。

LPの時代からそれほど熱心に聴いていたわけではなかったけれど、いざ音を出してみると、ひと時代前の演奏、すなわちどんなテクニシャンであってもどこかに節度と柔らかさと演奏者の主観が前に出た演奏で、いまどきの過剰な照明を当てたような演奏とは違い、なにかほっとするものを感じました。

ただ、冒頭の話に戻ると、ラフマニノフのソロのピアノ作品だけを続けざまに聴いていると、良い表現ではないかもしれませんが「飽きて」くるのです。
例えば前奏曲なども、どれも中途半端に長いし、重いし、ひとつ終わったらまた次のそれが始まるといった感じで、音楽というよりはなにか建築家の作品を次々に見せられるようで、だんだん疲れてきます。

エチュードタブローなども同様で、最後まで一定の集中力を維持しながら聴くのがちょっと辛くなります。
ちょっと集中して聴く気になるのはソナタぐらいで、ソナタは有名な第2番はむろん素晴らしいし、普段ほとんど弾かれない第1番も面白いし、ショパンの主題による変奏曲などもすきな作品と感じます。

というわけでせっかく買ったルース・ラレードも、3枚聴いてまだ残り2枚は手付かずで聴いていません。

そこで、演奏者を変えたらどうだろうと思い、手短にあるもので探して、ルガンスキーの前奏曲集を聴いてみましたが、やはり結果は同じでなんか途中でどうでも良くなってくる。
とくにルガンスキーは曲を変な言い方ですが、くちゃっとまとめすぎて、ラフマニノフ特有の雄大さや余韻のようなものを残してくれない気がします。

そういえば以前NHKのスタジオだったか、ジルベルシュタインがやはりラフマニノフだけを弾いたことがありましたが、この時も一曲終わって次が始まるたびに、なんだか疲れが出てしまうようで、とうとう最後まで見きれずに終わったこともありました。

でも繰り返しますが、ラフマニノフが嫌いなわけではないのです。
これはなんなのかと思います。
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一瞬の悪夢

いささか滑稽な話ですが、人間はいつ何時、どんな目に遭うかわからないという経験をしました。

日曜の夕方、外出する前に車の窓を拭こうとしてバケツに水を溜めようとしたときのこと。
我が家のガレージの水道には、洗車のために長い巻取り式のホースリールを取り付けています。

そのホースは先端を回転させることにより、水の出方が4種ほど変化するようになっているものですが、それをいちいち動かすのも面倒なので「シャワー」の位置のままにしていたのです。
この日はちょっと急いでいたため、つい蛇口をひねる量が大きめだったのか、はじめバケツ内でおとなしくしていたホースが突然、コブラの頭のように動き出し、すぐ脇で窓拭き用ウエスの準備をしていたマロニエ君に向かって、盛大にシャワーの雨を浴びせかけました。

この予期せぬ事態に、もうびっくり仰天!
外出用に着替えていた服は上下とも無残なまでにびしょ濡れとなり、おまけに動きまわるシャワーヘッドを追いかけているうちに、水は目の前にある車にも容赦なく水を振りまき、車も1/3ほどがびしょびしょです。

というわけで、人も車も仲良く水浸しとなりました。
服のほうはというと、とてもちょっと待ったぐらいで乾くようなレベルじゃないので、一旦家に戻って全部着替えるほかはありませんでしたが、急いでいるときに限ってこんな理由で着替えをするときの、なんと情けなかったことか!

この日は梅雨にもかかわらず、せっかく雨は降っていなかったのに、車の左側はたったいま雨の中を走ってきたかのように屋根まで水滴だらけで、このときは笑う余裕もないほどでした。車のほうは普通なら放っておくところでしょうけど、雨水と違い、水道水は放置すると塗装のシミになるので、マロニエ君としてはそのままということができず、ここから車の水の拭き取り作業までやるハメに。

途中、何度かバケツの水でぞうきんを洗いますが、腰をかがめたときにビビーッと針で刺すような痛みがあることが判明。
はじめは大して気にも留めなかったけれど、何度やってもあきらかで、しかもその痛みは決して小さいものではなく、シャワーがこっちに向かって攻撃してきたときにあまりにも慌てて、ふだんあり得ないようなアクションでのけぞったのが原因だというのはあきらかでした。

これは困ったことになったとは思ったけれど、まあそのうち治るだろう…というか治るのを待つしかないわけで、とりあえず人との約束もあり出発することに。
運転中はシートに身体も収まっているのでわかりませんでしたが、40分ほどで目的地に到着、車を降りようとしたときに初めて猛烈な激痛が体中を貫きました。
右足を地面に出して立ち上がろうとすると、その痛みもさることながら、まったく力も入りません。
やむを得ず両足を外に出し、友人の手助けで両手を支えてもらいながら、数分間かけてやっとの思いで車の外に這い出すことができましたが、激痛は収まらず、支えがなければその場に立っていられないほどでした。

これでは歩くこともままならず、ゆっくりゆっくり腰を伸ばしてみると少しずつ痛みが収まり、それからゆっくりではあるもののようやく歩けるようにはなりました。立って歩くというかたちが定まってくると、なんとかそのことはできるようになるのですが、また座る/立つということになると、そのたびに脂汗が出るような痛みが腰から背中にかけて襲ってきました。

思いがけない水攻めに遭って、イナバウアーではないけれど、咄嗟によほどむちゃな身体が壊れるような動きをしたのでしょう。

その日はなんとか無事に自宅に帰り着きましたが、やはり最も厳しいのは車から降りるときでした。
車のシートは普通の椅子と違って深く座り、運転は腰に重心をかけているから、そのカタチがいったん固まると、今度は腰を伸ばすという変化が一番きついようです。車から降り立ったときは精も根も尽き果てたようでした。

一旦こういうことになると、日常生活も不便の連続で、何をするにも腫れ物にさわるような慎重な動きになってしまい、健康の有り難みをイヤというほど知らされます。
まあ、これが自分の腰ぐらいだからいいようなものの、例えば深刻な交通事故なども大抵は直前まで予想もしないような僅かなことが発端となって起こってしまうのだろうと思うと、あらためて気を引き締めておかなくてはいけないと思いました。

早く治って欲しいけれど、この手合は時間もかかるでしょうし、焦ってもどうにもなりませんね。
たかだか車の窓を拭くというだけのことが、えらいことになったものです。
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ダン・タイ・ソン

ずいぶん久しぶりでしたが、ダン・タイ・ソンのピアノリサイタルに行ってきました。
せっかくチケットを買われたのに、ご都合がつかなくなられた方からチケットをいただいたのです。

プログラムは前半がショパンのop.45の前奏曲で始まり、続いてop.17-1/7-3/50-3というマズルカ3曲、スケルツォ第3番、リストのジュネーヴの鐘/ノルマの回想、そして後半はシューベルトの最後のソナタD960というものでした。

冒頭の前奏曲はいかにもショパンらしく、薄紙を重ねるように転調を繰り返していく作品ですが、その儚さとセンシティヴな曲の性格をあまりに強調しようとしすぎてか、いささか冗長でむしろ本質から離れてしまっているようでした。
この曲は表面的にはあくまでも緩やかで覚束ない感じですが、その底に激しい情熱が潜んでいるように思うけれども、そういうものはあまり感じられませんでした。
3つのマズルカを経てスケルツォに至りますが、どうもこの曲はダン・タイ・ソンには合っていない曲に思われ、繰り返される両手のオクターブの炸裂が今ひとつ決まらないのが残念。
しかしそんな中にも、いかにもこの人らしい美しい瞬間はいくつもあって、そういうときはさすがだなあ感じることもしばしばでした。

ジュネーヴの鐘も全体に流れる優しげな曲調とあいまって、とても美しい気品あふれるリストでした。
いっぽいう、ヴィルトゥオーゾ的要素満載のノルマの回想は、ショパンのスケルツォ以上にダン・タイ・ソン向きではないと思える選曲で、派手な技巧が次から次へと繰り出されるこの曲をコントロールしきれているとは思えず、よく知っている曲のはずなのに、演奏にメリハリが乏しくなるからか、こんなところがあったかな?と思えるようなところが何ヶ所もあって、どこを聴いているかわからなくなるようなところさえありました。

この日、最も素晴らしいと感じたのは後半のシューベルトで、曲の性格、技巧、さらには最近この曲のCDを出しているようで、そのぶん深く手に馴染んでているようでもあり、もっとも自然に安心して心地よく聴くことができました。
とりわけ出だしの変ロ長調の第1主題の、静謐さ、これ以上ないというデリケートな表現はことのほか見事だったと思います。

アンコールはショパンの遺作のノクターンで(個人的には別のノクターンが聴きたかったけれど)、いまだにダン・タイ・ソンの真骨頂はショパンのノクターンにあるという印象を再確認しました。彼のノクターンには芯があって、それでいて繊細を極め、透明で、表現にも一切の迷いがないところは他を寄せ付けない美しさと強い説得力があります。

全体を振り返って、いかにもダン・タイ・ソンらしく、誠実な演奏でピアニストとしての一夜の義務をしっかりと果たしてくれたと思います。しかし、できることならその人の最良の面が発揮しやすいプログラムであってほしく、とくに前半はどういう意図で並べられたものか、よくわかりませんでした。

プログラムそのものが、ひとつの曲と言ってしまうのは飛躍がすぎるかもしれないけれど、少なくとも聴く側にとっての流れや積み上げといったらいいか、料理でも出していく順序というのがあるように思います。
すくなくとも前半のそれはダン・タイ・ソンに合うかどうかだけでなく、聴いていてなんとも収まりの悪い、しっくりこないものを感じました。マズルカ3曲でさえ、なんでこの3曲がこういう風に並ぶんだろうと納得できませんでしたし、前半の最後がノルマの回想で、休憩を挟んでシューベルトのD960になるというのも、もし自分だったら思いもよらない取り合わせです。

プログラムの組み立てというのは多種多様で、非常に難しいものがあります。
あれっという意表をついたようなプログラムが、聴いてみるとなるほどと感心することも中にはあり、いろいろなあり方があるわけですが、これも要はセンスの問題だと思います。

ダン・タイ・ソンはあくまでもその誠実で良質な演奏が魅力で現在の地位を保っているのでしょう。
惜しいのは、世界の一流ピアニストとしてはテクニックはギリギリで、曲によって余裕があれば聴かせる演奏になるけれど、ある線を超えるとただ弾いてるだけの演奏になってしまうので、彼の場合は、聞く側に不満の残るような曲はあまり選んでほしくないと、マロニエ君などは勝手なことを思ってしまいます。
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忘れていた新進気鋭

少し前のことでしたが、イタリアの新進気鋭ピアニストということで、ベアトリーチェ・ラナという女性によるゴルトベルク変奏曲のCDを購入しました。
レーベルはワーナークラシックス。

聴いた感想を書かなかったのは、わざわざ書くべきことがマロニエ君としてはあまり見つからずじまいだったから。
至って普通で、今風で、正確で、とくに何かを感じることもないままキチッと弾き進められて行く感じがするばかりで、印象深いところがなにもなかったからでした。
もちろん、いまどきメジャーレーベルからCDを出すような人でもあるし、2013年のクライバーンコンクールで第2位になった人らしいので、テクニックはそれなりのものがあるし、ましてセッション録音なのでキズもミスもなく、演奏というより、どこかいかにもきれいに出来上がった商品という印象でした。

ディスコグラフィーを見ると、チャイコフスキーの1番やプロコフィエフの2番、あるいはショパンの前奏曲やスクリャービンの2番のソナタなどがあるようで、そこでどんな演奏をしているかはわからないけれど、少なくともこのゴルトベルクで聴く限りは、どちらかというと細い線でデッサンしていくような演奏で、イヤ味もないし、いちおう要所要所でメリハリも付けることを忘れていない人という感じでした。
少なくとも強烈な個性とか強い魅力で聴かせるタイプではなく、いかにも国際コンクールに出て成績優秀、最終予選までは残っても、第1位にはならない人…そんな感じといったらいいでしょうか(実際の戦歴は知りませんが)。

そんな印象だったので、名前さえすっかり忘れていたところ、少し前のNHKのクラシック音楽館でN響定期のソリストとしてこの人の名前が出てきたので、そのとき「どこかで見たことのある名前」という感じでやっと思い出しました。
クライバーンコンクール入賞者として、各地各楽団から呼ばれる名簿に入っていて、こうして世界を回り始めているのかもしれません。

曲はベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番でしたが、ライブだけにゴルトベルクとはずいぶん印象の異なる、この人の素の姿を見聞きすることができた気がしました。
説明的であったり構成感をもって弾くタイプではないようで、どちらかというとテンポ感とセンスを前に出す感じ。
指の動きはいいようで、そこを活かしてサラサラと演奏は進み、ところどころに多少の解釈というかデフォルメ的なものも織り込まれているけれど、マロニエ君の耳にはそれがあまり深い説得力をもっては聴こえなかったし、場合によっては浅薄なウケ狙いのような印象さえ持ってしまいました。

仕事も恋愛も確実にゲットして、あたり構わず巻き舌の早口で喋る今どきのデキる女性みたいで、その点ではゴルトベルクでは、ずいぶん慎重にきちんと弾いたんだなぁ、ということが察せられました。
ただ、ピアニストとしての器としてはさしたるサイズではないという感じをうけたことも事実です。

事前にインタビューがあったけれど、指揮者のファビオ・ルイージ氏とは、とくにこの曲ではリハーサルが必要ないほど何度も共演しているが、そのたびに新しい発見があります…と、マロニエ君としては聞いたとたん引いてしまう紋切り型の例のコメントがこの人からも飛び出したときは思わずウンザリしました。
なぜ、みんなこの手垢だらけの言葉がこうも好きなのか、聴衆に対して、同じ曲を何度も演奏することに対する言い訳の一種なのか…。


テレビといえば、題名のない音楽会で反田恭平氏が出る回を見ましたが、シューマン=リストの献呈以外は、パーカッションとのコラボという試みでした。
彼は国際的にはどうなのかは知らないけれど、少なくとも日本国内ではベアトリーチェ・ラナよりは数段上を行く「新進気鋭」で、そんな注目のピアニストが従来通りの決まりきった演奏を繰り返すだけなく、新しいことに挑戦することは素晴らしいことだと思います。

…それはそうなのだけれど、このときやっていることそのものには大いに疑問符がつきました。
ラヴェルの夜のガスパールからスカルボを演奏するにあたり、パーカッションと組んでの演奏で、しかもピアノの内部(弦の上)には定規や金属の棒のようなものをたくさん散りばめて、チンジャラした音をわざと出し、パーカッションとともに一風変わったスカルボにしていたのですが、これがマロニエ君には何がいいのやら、さっぱりわからなかったし、正直言って少しも面白いとは思いませんでした。

保守的な趣味と言われるかもしれないけれど、個人的にはやはりどうせなら反田氏のソロだけで聴きたかったし、そのほうがよほどスカルボの不気味さがでるだろうと思えてなりません。
それはそれとして、折々に映しだされる反田氏の秀でた手の動きは、やはり見るに値するものがあり、ほどよく肉厚な大きな指が苦もなく自在に鍵盤上を駆けまわるさまは、見ていて惚れ惚れするというか、なにか胸のつかえが下りるような爽快感があります。

若いテクニシャンでならすピアニストでも、手の動きとか使い方に関しては、個人的にユジャ・ワンのどこか動物的な指よりは、反田氏の手のほうがずっと心地よい美しさを感じます。
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稀有な出来

ピアノのブログにたびたび車の話を書くのもどうかと思いますが、以前の続きでもあり、訂正でもあり、意外な発見でもあるようなことがあったのでちょっと書いておきたくなりました。
というか、車の話というよりは、モノの善し悪しを左右する微妙さや分かれ目についてのことと捉えていただけたら幸いです。

某辛口自動車評論家が自身の著書の中で、フォルクスワーゲン・ゴルフ7(7代目のゴルフ(2013年発売))の、1.2コンフォートラインというモデルを「ほとんど神」「全人類ほぼ敗北」という、あまり見たことのないような激賞ぶりだったので、そこまでいわれると、ちょっと乗ってみたくなってディーラーに試乗に行ったことを以前書きました。

評論家氏の表現をもう少し引用すると「1周間前に乗ったアウディA8(アウディの最高級車)にヒケをとらないレベル」「Aクラス(メルセデス)、V40(ボルボ)、320i/320GT(BMW)、アルピナB3(BMWのさらに高級仕様)、レクサスLS、E250/E400(メルセデス)、アストンマーティン(車種略)、S400/550(メルセデス)、レンジローバーなど2013年はいろんなクルマで往復5~800kmのロングドライブにでかけたが、ゴルフの巡航性はマジでその中でもトップクラス、疲労度は1000万円クラスFクラスサルーンとほとんど大差なかったのだから、全人類敗北とはウソでもなんでもない。」「実に甘口で上品なステアリング。走り出しも静かでフラットで、滑るよう。」「お前はレクサスか」というような最高評価が、単行本の中で実に16ページにわたって続きました。

俄には信じられないようですが、この人はベンツであれフェラーリであれ、ダメなものはダメだと情容赦なくメッタ斬りにする人で、じっさい彼の著書や主張から学んだことは数知れず、とりわけ今の時代においては絶滅危惧種並みの人です。

その彼がそれほど素晴らしいと評するゴルフ7とはいかなるものか、マロニエ君もついに試乗にでかけたのですが、結果はたしかに悪くはないけれど、その激賞文から期待するほどの強烈な感銘は受けずに終わったことは以前書きました。ただし、試乗したのがヴァリアントというワゴン仕様で、通常のハッチバックとはリアの足回りが異なり、ハッチバックとの価格差を縮めるために快適装備が簡略化され、そしてなにより全長が30cm長くて重心が高く、車重も60kg重いという違いがあったからではないか…とあとになって考えました。
クルマ好きなくせにずいぶんうっかりな話です。

そこで、ディーラーには申し訳なかったけれど、再度ハッチバックでの試乗をさせてほしいと申し入れました。
日時を約束して再び赴くと、某辛口自動車評論家が激賞したものと同じ仕様の、つまりワゴンではなくハッチバックの1.2コンフォートラインが準備されていました。助手席に乗ってシートベルトをした営業マンの「ドーゾ」を合図に慎重に動き出して数秒後、「え?」これが前回とはまったくの別モノなことはすぐわかりました。
前回「車の良し悪しというのは、大げさにいうと10m走らせただけでわかる」と大そう生意気なことを書きましたが、その動き出し早々、なんともいえないしっとり感、緻密でデリケートな身のこなし、ハンドル操作に対する正確無比かつリッチな感触など、車のもつあれこれの好ましい要素にたちまち全身が包まれました。

ディーラーの裏口からの出発だったので、細い道を幾度か曲がりながら幹線道路に出ましたが、その上質な乗り味は狭い道での右左折でも、ちょっとしたブレーキの感触でも、国道へ出てからの加速でも、すべてが途切れることなく続きます。

自動車雑誌も評論家も、昔のような歯に衣着せぬ論評をする気骨のある風潮は死滅しているのが現状で、誰もが誰かに遠慮して本当のことを書かなくなりました。いうまでもなく常にスポンサーの顔色をうかがい、本音とは思えぬ提灯記事ばかりが氾濫しているのです。
というわけで、現在では、この人の言うことだけは信頼に足ると思っていた某辛口自動車評論家だったのですが、第一回目のワゴンの試乗以来、もはや彼の刀も少々錆びてきたんじゃないか…という失望の念も芽生えていたところでした。

しかし、それは嬉しい間違いだったようで、さすがに「神」かどうかはともかく、なるほど稀に見る傑出した1台だということはすぐに伝わりました。価格はゴルフなりのものですが、これが何台も買えるようなスーパープライスの高級車の面目を潰してしまうような(走りの)上質感と快適性とドライビングの爽快さを感じられる稀有な1台であることは、たしかにマロニエ君も同感でした。
ボディは軽く作られている(現在の厳しい安全基準とボディ剛性を維持しながら、ゴルフのような世界中が期待する名車を軽く作るというのは、ものすごく大変なこと!)のに剛性は高く、小さなエンジンを巧みに使いながら、まったくストレス無しに軽々と、しかもしなやかさと濃密さを伴いながらドライバーの意のままにスイスイと走る様には、たしかにマロニエ君もゾクゾクもしたし口ポカンでもありました。

ついでなので、1.4ハイラインという、もう少し高級な仕様に乗ってみましたが、こちらは確かにエンジンパワーは一枚上手ですが、1.2コンフォートラインにあった絶妙のバランス感覚はなく、従来のドイツ車にありがちなやや固い足回りと、上質な機械の感触を伴いながらある種強引な感じでズワーッと走っていく感じでした。これ1台なら大満足だったと思いますが、1.2の全身にみなぎるしなやかな上質感を味わってしまうと、相対的にデリカシーに欠ける印象でした。

べつに無理してオチをつけるわけではないけれど、結局、車も楽器と同じだと思いました。
要は理想の設計とバランス、各部の精度の積重ねが高い次元で結びついた時にだけ、まるで夢の様な心地良いものがカタチとなって現れることが稀にあるということ。それは同じメーカーの製品であってもむろんすべてではなく、なにかの偶然も味方しながら、ときに傑出したモデルが飛び出してくるということでしょうか…。
濃密なのに開放され、奇跡的なのに当たり前のようなバランス、ストレスフリーで上品な感じは、まさに良い楽器が最高に調整された時に発する、光が降り注ぐような音で人々に喜びを与えてくれる、あんな感じです。
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価値はいずこ?

日本人による日本製のピアノに関する評価基準というのは、大メーカーの製品ばかりが中心らしく、楽器としての正当な評価がなされてはいないだろうと思ってはいたけれど、根深い大ブランド偏重という点では、やはり驚くべきものがあるようです。

具体的なブランド名は敢えて書きませんが、ネットの相談コーナーを見ていると、国内で一定の評価を得ているいくつかの手造りピアノと、大手による大量生産のピアノ(どちらも中古)のいずれを購入しようかと悩んでおられる方の質問がありました。

価格はブランド力の違いからか、良質な素材を使っていると定評ある手造りピアノのほうがむしろ安く、単なる量産品のほうが逆に高額だったりで、ずらりと書き込まれた回答者達は、技術者/一般ユーザーいずれも大手の製品を当然のように勧めていることにびっくり。
それも楽器としての価値や魅力、音の善し悪しに照準を当てた話ならともかく、大したこともないわずかな安心感や、さらには将来の買取価格/リセールバリューに関する価値ばかりが大真面目に取り沙汰されていることに愕然としました。

これから手に入れて長い時を共にするピアノであるのに、果たしてどれが本当に弾いて楽しく喜びを得られるかという記述はひとつもなく、主にわずかな買取価格の話にばかり終始します。手作り品のほうは知名度が低いから殆ど値がつかないとか、下手をすれば処分代をとられることもある、それに比べれば量産品のほうがまだかろうじて値がつくわけで、だから有名メーカーの方を買われることをおすすめしますといった主旨のもの。

これが業者間の話なら、事はビジネスだからそういった意見もまだいいとしても、一般のユーザーに宛てたアドバイスがそこだったことにとても驚かされたというかショックを受けました。

たしかに相談者がどういった部分に重点を置いて相談されているかまでは正確にわからなかったことも事実ですが、すくなくとも質問の感じからして、それをさらに将来手放すときの金銭的価値の話ではなく、ピアノとしてどっちを選んだほうがいいでしょうか?という、単純かつ漠然としたものだったように感じられました。
おそらく、音の感じとかピアノとしての味わいや音楽性などのことと、機構的な心配はないかといったことだろうと思います。
とこらが、回答者はすべて「買取の場合にどれだけ値がつくか」という一点のみに終始し、純粋に楽器としての良し悪しに対する記述は一つもないのには言いようのない価値基準の貧しさを感じました

これからピアノを買って、家において、弾いて、音楽に触れ、ピアノと関わろうというのに、将来手放すときの金銭的価値が残るか残らないか、そういうことばかりに価値を置き、だから大手メーカーがオススメだと何人もの人が堂々と言ってのける感性には、本当に驚かされました。
極め付きは「わざわざ❍❍万円(売値)の処分困難な粗大ゴミをあえて買いますか?」といった強烈な言い回しで、こんなにも文化意識の欠落した寂しい考え方があるのかと思わず背筋が冷たくなりました。

たしかに、手作りとは名ばかりの、アジア製の得体のしれないたぐいのピアノならわかりますが、れっきとした日本のピアノ史に名を残す名器と言われるようなピアノが、いざとなるとこのような不当な扱いを受けていることにただもう唖然とするばかり。

たしかに、将来手放すときにいくらかの金銭的な価値が保持されればそれに越したことはないかもしれませんが、もともとが安い中古品で、出てきた価格はせいぜいちょっとした電子ピアノぐらいのに毛の生えた程度の価格です。
100万円も出すというのなら少しはリセールバリューの面も気になるのはわかりますが、こんな価格帯で職人の気骨で作り上げられたピアノがあり、しかも弾いた人が音色や響きが気に入ったとすれば、それが最も大切なことではないかと思うのですが…。

おまけに回答者の言い分としては、そもそもそんなピアノはタダ同然もしくは処分料を取って仕入れるのだろうから、販売する業者は「ボロ儲けのはず」で、そんなボロい商売にまんまと乗せられるようなことは自分はしない!というようなニュアンスの記述まである始末です。
でも、いくら仕入れが安くても、今どきピアノなんてそう簡単に売れる品目ではないし、中古の場合、商品として仕上げるためには相当の労力が必要とされ、おまけに売れるまで在庫としてかかえるリスクまで考えれば、ボロ儲けだなんてマロニエ君にはとても考えられません。

そういえば思い出しましたが、車でも新車を買う際、自分が一番気に入った色ではなく、将来下取に出したときに少しでも有利になる人気色で決める人が少なくないらしいのですが、こういうこともどこかおかしいなと思います。

それでも車は何色でも機能的には無関係ですが、ピアノはメーカーや材質や製造者のこだわり如何によって音や響き、ひいては音楽する喜びまでまったく変わってくるというのに、大量生産の大メーカーでないピアノは粗大ゴミだと決めつけ、相談者へさも真実のアドバイスであるかのように言うとは、その勘違いと偏りはいささか度が過ぎていやしないかと思いました。

だったらベニヤ板みたいな響板に羊毛のクズを固めたようなカチカチの超安物ハンマーが付けられた、音階の出るおもちゃみたいな音しかでなくてもても、鍵盤蓋に有名メーカーのロゴさえあればいいということですね。
これが悲しき現実なんでしょうか…。
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感銘の不在

BSで録画しているものの中から、マリインスキー・バレエの『ジゼル』を見ました。

昔はチャイコフスキーの3大バレエを始め、ジゼルなどのクラシック・バレエはよくテレビでも放映されていた記憶がありますが、最近はもっぱら創作バレエ的な現代もののほうに軸足が移っていったのか、中には美しいもの斬新なものもあるけれど、マロニエ君にとっては30分見ればいいという感じで、古典の名作を落ち着いて見る機会が減ったように思います。

そういう意味でも『ジゼル』全2幕をじっくり見られるのはずいぶん久しぶりな感じでした。
ジゼルを踊ったのは、最近の顔ぶれはあまり詳しくないけれど、どうやら同バレエ団のプリンシパルらしいデァナ・ヴィニショーワ、アルブレヒトはパリオペラ座からの客演でマチュー・ガニオ。

ボリショイと並び称される伝統あるマリインスキー・バレエがホームグラウンドでおこなった公演とあって、それなりに期待したのですが、オーケストラを含めて(指揮もゲルギエフではないし)全体に印象の薄い、軽い感じで、現在のメンバーでそつなくこの名作を踊りましたという感じだけが残りました。

要するに他のジャンルと同じ傾向がバレエにも波及しているというべきなのか、みんな上手いし、決められた振付を難なくこなしてはいくものの、観る側に深い感銘というのが伝わってこないもので、器楽演奏でもオーケストラでも、なんでもがこういう流れに陥る時代が、ジャンルを超えて浸透しているということでしょう。

マリインスキー・バレエのジゼルならメゼンツェワの映像も残っているし、写真以外では見たことはないけれど、往年の名花であったイリナ・コルパコワもオーロラ姫の他にジゼルを得意としたそうですし、ボリショイの歴史にその名を残すプリマであったマクシモワもジセルがお得意だった由。
また、1980年代だったか、ボリショイの芸術監督であったグリゴローヴィチの舞台を、当時のNHKが集中的に収録したことがありましたが、あの時代のボリショイで女王のごとく君臨していたナタリア・ベスメルトノワが踊ったジゼルは、さすがに若いうぶな娘には見えなかったけれど、それはそれは濃厚で彫りの深い芸術そのものの踊りでした。
おまけに、それからほどなくしてボリショイの日本公演があって、ほぼ同じメンバーで実演のベスメルトノワのジゼルを堪能することができましたが、ずっしりとした百合の花のような踊りは他を圧して、一瞬一瞬が味わい深かく、しかも正統的かつエレガントであったのは一生忘れることはないと思います。

その点、今度見た新しいジゼルは、なにもかもが安く仕立てられた簡易製品のようで、みんな上手くてべつだん問題はないけれど、真にいいものに触れたときだけにある、心の深いところが揺さぶられて覚醒させられるような後味はまったく残りませんでした。
ミスもなく、テクニックもあり、決められた通りの振り付けを淡々とこなしていくだけで、別のキャストでもいいという感じ。

昔のままだったのは、マリインスキー劇場の、まるで王が引きずる豪奢な衣装のような緞帳だけでした。


何もかも安く仕立てられたということでふと思い出しましたが、辛口批評で評判のさる自動車評論家の単行本を読んでいると、7世代目に当たるVWゴルフを「神」とまでいって絶賛しまくっていたので、そんなにも素晴らしい現行ゴルフとはいかなるものか、将来の買い替えへの予備知識も兼ねて試乗に行きました。

工業製品としては、一部の隙もなく作られているし、今時のぶくぶくしたデザインではなくてカッコもいいし、さすがあれだけ褒めちぎるだけのことはあるらしいと、期待に胸を膨らませてスタートしました。
ちなみに、車の良し悪しというのは、大げさにいうと10m走らせただけでわかります。
もちろん悪くはありませんが、期待ほどではない。そこそこいいのですが、なにも「神」を引き合いに出すほどいいのかというと、それほどでもありませんでした。

試乗したのはヴァリアントというワゴンタイプで、辛口評論家が絶賛していたのは通常のハッチバックタイプでしたので、その差はいくらかあったかもしれません。助手席のディーラーの人に聞いてみると、ワゴンタイプのほうが重い荷重を想定してリアのスプリングレートが多少ハードに仕立てられているので、普段の乗り心地は若干固いとのこと。
また、エンジンは時代の趨勢によって「ダウンサイジング」といって、小さな排気量にターボを付けて、より大きな排気量のエンジン並にパワーとトルクを得ながら低燃費も両立するというもので、これがまた「1.2リッターとは思えない力」と書かれていたけれど、マロニエ君は正直いってあきらかに実用性の点からいってもアンダーパワーで「ちょっときついなぁ…」と感じました。

車のことをわざわざここに書いた理由は全体的な印象故で、実用車としての完成度、装備、パワーや燃費、ハンドリングなど、ひとつひとつの要素はよく出来ておりちゃんと時代の要求をちゃんとクリアされているけれど、全体からにじみ出る雰囲気にどうも安っぽさが隠せないというか、いかにも現代のテクノロジーで作られた、ギリギリによく見せようとした車という出自が隠せていませんでした。
見た目も立派だし、なかなかのグッドデザインでもあるけれど、製品から醸しだされる重みとか充実感、もう少し甘っちょろい言い方をするなら、かつてのドイツ車にあった、いいものだけがもつ有り難みとか作り手のプライドのようなものを感じるまでには至りませんでした。

この現代最高と評されるジゼルとゴルフに、なにやらとても残念な共通項を見た気がしたわけです。
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相談

車の仲間である某氏から、思いがけなくピアノの相談を受けました。

車の集まりではピアノのピの字も口にしないのですが、まあそれでもマロニエ君がピアノ好きであることを何かの折にチラリと話したことが相手の方の記憶の底に残っていたようです。

その相談というのが、30数年前にカワイのアップライトピアノを買われて、それをさらにそのお子さんが受け継いで弾いておられるようで、なんとも素敵な話です。
中学生ぐらいになり、だいぶ上達したとのこと。
ところが、ピアノの先生のところにはグランドがあって、お子さんによれば先生のところのピアノは弾きやすく、それに比べると自分のピアノは甚だ弾きづらいとのこと。
とくに強弱の差がつけにくいとあって、それが思った通りに弾けないという点に不満が募っているらしく、どうしたものか…ということでした。

すでに古いピアノではあるし、機能的にもそういう「問題」が出ているから買い替えも検討中とのこと、ピアノといえども機械ものなのでそういうものだろうか?というご相談を受けたというわけです。

もちろんマロニエ君は専門家ではなく、一介のピアノ好きにすぎず、責任ももてないので断定的なことは敢えて言いませんでした。
言えることといえば、グランドとアップライトではアクションの構造がまったく違うので、グランドを買われるのならともかく、同じアップライトをただ新しいものに買い換えられるのであれば、事前によく考えてみるべき余地があるということ。

言うまでもなく、ピアノは木材の他に金属、多くのフェルトなどの天然素材を多用し、それらは弾かれることと経年変化によって「消耗」するものだということ、無数のパーツがまさに精密機械のように複雑に組み上げられ、機能し合うことによってピアノ本来の弾き味を作り出しているということを簡単に説明しました。
ほんらい弾力があるべきものが固く潰れてしまえば本来の柔軟な動きは阻害され、とりわけ微妙なタッチコントロールはにづらくなるわけで、もともと機械ものにはめっぽう詳しい方なので、車と楽器という違いはあれども、理屈はあるていどすんなり理解されたようでした。

で、素人のマロニエ君が想像でいくら何を言ってみたところで埒が明かないので、ひとまずオススメしたのは、信頼のおけるプロの技術者の目でそのピアノが現在どのような状態になるかを見てもらい、各所の調整や簡単な消耗品の交換によって本来の機能を取り戻せるのか、価格はどれぐらいか、あるいはもっと本格的なオーバーホールが必要なのか、そのあたりのことを正しく判断してもらうのが最良ではないかといいました。

さらに最も気をつけるべきは、優れた技術を持たれた方というのは当然としても、メーカー系の技術者には決して依頼せず、販売ノルマのかかっていない、フリーの技術者さんに診てもらうという点だといいました。
べつにメーカー系の方を批判するつもりはありませんが、メーカーに在籍してそこから給金をもらっているからには、上から新品の販売圧力がかかっているのは当然だからです。これは世の常ともいうべきことで、どんなジャンルでも似たりよったりかもしれませんが、とくにピアノ業界はその傾向が強いように感じるからです。

聞いた話では、簡単にできる修理も調整も敢えてしないで、素人にわからない専門用語を並べ立てて買い替えに誘導するというあまり感心できないやり方です。もちろん新品が売れて初めて利益が出る会社にしてみればやむを得ない手段かもしれませんが、でもやはりマロニエ君は充分修理や調整の可能なものを「できない」と言いくるめて、望まない買い換えを強引にさせるというやり方には賛成しかねるのです。

昔のピアノはとくに一流品でなくても、あたりまえに木材をはじめ普通に天然素材を使って作られていましたが、今のピアノは(聞いた話ですが)外目は立派すぎるほどの分厚くてピカピカの塗装で覆われているから見てもわからないけれど、普通の人が木だと信じている部分の多くに、木の屑を集めて固めた集成材はじめ、ひどい場合はプラスチックなども多用されている由。とても楽器と呼べるようなものではなく、心に滲みない機械的な音階の出る製品に成り下がってしまっているとも聞きます。

不幸にして家が火災になったところ、木だと思っていたピアノ(全部ではないでしょうけど)がドロドロと溶け出してプラスチックが多用されていたことがわかったという話も聞いたことがありますし、おそらく技術者さんたちはもっとお詳しいのでしょうけれど、みなさん業界に身をおいてお仕事をされるためか頑なに口をつぐんでおられるようです。

また、有名な日本製ブランドは名乗っていても、とくにアップライトに関してはアジア製であったり、あるいは「日本製」とするために、ほとんど海外で出来上がったものを輸入して、最終組み立てだけ日本でおこなうというようなことだけするようなケースも珍しくないそうです。
何かの本で読みましたが、ほとんど完成したピアノを途上国から輸入して、ペダルだけ日本で取り付けて「日本製」とするような場合もあるようで、マロニエ君だったらそんなピアノは絶対に欲しくはありません。

できたら、最低限の消耗品の交換と調整によって、本来のきちんとした機能を取り戻してくれることを願っています。
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カーナビもほどほどに

先般書いた関西への旅ですが、今回は途中出雲方面に立ち寄ることなどもあって、車で行きました。

車本体にもカーナビはありますが、マロニエ君も時代の趨勢に従って今回はiPod miniをアームレストに置いて、グーグルナビをメインに、車載のカーナビをサブ機として走りました。

急ぐときの使いやすさ、見やすさ、ルートの種類が選択できることなど、カーナビのほうがまだまだ上を行く点も多いけれど、グーグルナビがなによりも優勢なのは、地図情報が常に最新のバージョン(しかも無料)である点でしょう。
で、途中まではグーグルナビを使っていたのですが、2日目に大阪市に入るあたり、宿泊地であるホテルを目指すときにはカーナビを使いましたが、結果からいうとこれが大いなる間違いでした。

大阪での宿は安くて快適・便利に泊まれたらいいというわけで、JR福島駅(大阪駅のとなり)の真ん前にあるホテル阪神を予約していました。
しかし、マロニエ君は東京の道はだいたいわかるけど、大阪はまったくチンプンカンプンなので、ひたすらカーナビの指示に頼りっきりでした。

いよいよホテルが近づいてきたという時、隣の友人が「あ、ここを左折!」とほとんど叫び声に近い言い方をし、慌ててハンドルを左に切りましたが、そこは福岡でも走ったことのないような信じられないほどの狭い道で、道というより路地裏といったほうがいいようなところでした。

しかもただ道が狭いだけではなく、いろいろな看板やら自転車がひしめき合い、普通の判断じゃ通るのは無理。
とてもじゃないけれどこんなところを走る自信はありませんが、カーナビはこの道だと言っているし、目指すホテルは(この時点ではよくわからないけれど)目前のようで、とにかく最大限の注意をしながら「行くしかない」ということになりました。

やがて左に曲がる指示が出ますが、とても曲がれるような幅はないし、あいかわらず多くの自転車はじめガチャガチャとモノが無造作に飛び出しているし、さらに曲り角には意地悪のように電柱が何本もあって、これは無理と言いましたが、だからといってホテルをスルーするわけにも行かない。

左右のミラーなど数センチ、脂汗の出るような思いで、なんとか曲がることだけはできたものの、なんとすぐ先は行き止まりではないですか!!!さらに追い打ちをかけるように後ろから軽トラがこの道に入ってきました。

バックして自分の車をどかさないことにはどうにもならず、この時点でもうほとんどパニックでした。
前進でさえやっとの思いで左右数センチのすき間を狙いながらやっと入ってきた道を、今度はバックで、しかもさっき途中で左折した角をバックで曲がらないことには、後ろで待っている軽トラが前に進むことはできません。
さすがにこの軽トラもこちらが難渋しているとわかっているらしく、おとなしく待ってくれてはいます。

マロニエ君の車は今時にしては大型車の部類なので、これはとても無理だと思いましたが、ここで車を捨てていくわけにも行かず、何度も切り返しながらバックで左の角に入ろうとしましたが、あまりの狭さに身動きが取れず、ついに車が電柱に接触しまいました。
全身脂汗に包まれながら、なんとかその場を脱したものの、車を降りてみると、フロントの右側(あまりにも後ろと右側に気を取られていたため、こっちの注意が手薄になっていたようです)にザーッと電柱でこすった傷跡が残り、もうがっかり。

車をぶつけるのにどこならいいということもないけれど、やはり遠い旅先でそういう事が起こるのはショックも倍増です。
その後、カーナビを無視して大きな道に出て、普通にホテルを探すと、なんとさっき通ってきたばかりの福島駅前の大通りに面した大きな建物がそれで、そこには堂々たるエントランスというか、かなり広い車寄せまであるのを見たときは、二度腰が抜けました。
つまり我々は、カーナビ様の命令に盲従しすぎたため、目指すホテル前を通過したあげく、あのジャングルのような路地裏に迷い込んでしまったのでした。

痛い教訓でしたが、カーナビというのはルートも情報も決して絶対なものではなく、とくに目的地のどこを示すかによって最後のルートが大きく影響を受けのは、よほど要注意であると身を以て経験させられました。
これがはじめから正面玄関を示してくれていれば、何も事はおこらなかったはずなのに、地元ならともかく、見知らぬ土地でこそ頼りにするのがカーナビで、それをいちいち疑うことはやはりしないし、言われる通りにしてしまうのが困りものです。

それ以外は無事に福岡に戻って、車はさっそく板金修理に入っていましたが、昨日やっと連絡があり、塗装の修理が終わったそうです。やれやれ。
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うれしい変身

シュベスターの調律を含む、各種調整をやっていただきました。

前回書いたように、音の良さも霞んでしまうほどに納品後の調律は乱れ、タッチもバラバラ、ペダルのタイミングも過剰気味で、せっかくの日本屈指の手造りピアノであるはずなのに、それらしき片鱗はあまり感じられない状態でした。

これまでのグランドの調整経験からしても、この状態が気落ちよく弾けるようになるまでには、相当の時間が必要だろうし、それでもどうなるかは保証の限りではなかったので、事前に技術者さんにメールをし、納品から10日ほど経っての印象、とりわけ問題と思われる箇所等を書き出して具体的に伝えることにしました。

そのほうが技術者さんにこちらの不満点というか、希望を文書で伝えることができるし、そういう心づもりで来ていただいたほうが、いきなり伝えるより良いだろうと思っての配慮でもありました。
図らずも長文になったメールに対して届いた返事は、たったの一行「メール確認致しました。〇〇日(約束の日)に調整しますのであと少しおまちください。」というもので、これにまずひっくり返りました。

普通の調律師さんなら、いろいろな説明やらなにやらで、当方を少しでも安心納得させるようなことをいくらかは書かれるのが普通ですが、このシンプルさはまるで結果しか興味のない武士のようでした。
とはいえ、ご本人はとてもあたりの良い、優しい素晴らしい人柄の方なので、文章になると一転してそういうふうになる男性っていますから、まあともかく約束の日を待つことにしました。

当日、ピアノのある部屋に案内したあとは、メールを出していることでもあるし、技術者さん側からもとくに質問たしきこともないので、直ちに作業開始となりました。加えて驚いたのは「グランドは多少時間がかかりますが、アップライトの場合はだいたい2時間ぐらいで終わると思います。」と、いともすんなりいわれたこと。
えっ!?ほんとうに!?

まあ、こちらとしては結果が良ければ途中経過はどうでもいいわけで、まずはやっていただく事になりました。

冒頭にも書いたようにタッチはバラバラで、だいたい白鍵は50kg以上、黒鍵に至っては60kg以上もあって、弾きにくいといったらないし、しなくてもいいミスタッチをしたり、出るべき音がでない、逆に必要以上の強い音が出るなど、要するに乱れまくっていました。
また右ペダルもちょっと踏んだだけで過剰反応し、ほとんど調整らしきものが効かずにワンワン響くだけだったし、調律に至ってはただ唸りが出ているというレベルではなく、素人でもわかるほどあちこちの音が1/4ぐらい下がっていたりと、まあとにかく散々だったのです。

作業開始から2時間ほど経った頃、「すみません、もう少し時間がかかりそうです」といわれ、こちらも「そりゃそうだろう」と思いましたが、プラス1時間ほど経ったころ別室にいると携帯に電話が鳴り、「だいたい終わりました」と言われてまたびっくり。
部屋に行くともう片付けに入っています。
お定まりの「どうでしょう、ちょっと弾いてみてください」と言われ、ちょっと鳴らしてみると、「えっ、これが同じピアノ!?」というほど音からタッチから、何もかもが良くなっていて、ただもうびっくり仰天でした。

無論調律をしているので音程が揃って気持ちいいのは当然としても、音色ものすごく良くなっているし、タッチは全体になめらかで均一で、コントロールも効くしとても弾きやすくなっていました。
ペダルも踏んだ感触と効き方がリニアになっているし、あれだけの問題をこんなにすんなり解決できるというのは、マロニエ君の長いピアノ生活の中でもまったく初めての経験でした(翌日経ってみると、鍵盤のダウンウェイトは平均して50kg前後にきれいに収まっていて、いやはやお見事!)。

この方の技術が特別なのか、あるいははじめに言われたようにアップライトはそれほど調整に手間暇がかからないのか、そのあたりのことは今だ不明ですが、いずれにしろこんなに驚いたことはありませんでした。

それと、ときどき仕上がり具合を確かめるためか、ジャズ風な曲を試し弾されているのがドア越しに聴こえるときが幾度かありましたが、その音の美しいことは思わず立ち止まるほどで、これがシュベスターたる所以かと感銘を受けました。
決してエッジの立った音ではないのに、色艶があって、どこまでも澄みわたった美しい音色は、これまで一流品以外のピアノからはついぞ聴いたことのないもので、たしかに上質な音であるばかりか、きわめて音楽的なのです。

自分で弾いても、楽器を弾いているという実感がたえずあり、弾くごとに心が刺激されところは特筆に値するピアノだと思います。きれいなような音は出るけれども心の通わない大量生産品とは、ここがまったく違うところだと思いました。
個人的にシュベスターはかなり自分の好みに合うピアノのようです。
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環境の変化?

大阪・神戸で一流ピアノ三昧に明け暮れ、帰宅した翌日のこと。
先日納品されたシュベスターを数日ぶりに弾いてみると、とても美音とは言いかねる混沌とした音にびっくりしました。

もちろん関西で弾いてきたピアノは最高ランクの一級品ばかりだったので、自分の耳も感覚も良い方に少し狂ってしまっていたかもしれませんが、それにしても「これはあまりにも…」と思いました。

納品前に軽くやったという調律は、時間が経つにつれますますバラバラに狂ってしまっているようで、ちょっと何曲か弾いてみましたが、早急にどうかしないと…という印象でした。
納品早々に、丸4日ほど放置していたわけですが、所詮はヤフオクで衝動買いしたピアノですから、何があっても不思議じゃありません。

「もしかしてピンズル?」というイヤな疑念が頭をかすめます。
古めのピアノにはチューニングピンがきちっと止まらなくなるピンズルという症状が出てしまうことがあり、納品から一週間も立たないうちにここまで狂ってしまったのは、そのせいではないかとまず思い、とりあえず技術者さんに電話してみることに。
納品調律は来週後半に約束はしているけれど、これではあんまりなので、もし可能ならもう少し早く来てもらって、少しでも早くきちんとした律調をやってもらいたい衝動に駆られました。

電話に出た技術者さんによると、果たしてピンズルは調律をやっているとだいたい感触でわかるのだそうですが、我がシュベスターには幸いまったくそういった兆候は見られなかったので心配には及ばないとのこと、それはそれで一安心ではありました。
でも、それなら、なんでこんなに狂ってしまったのかという疑問が残ります。

技術者さんが云われるには、ピアノは納品のための移動や環境の変化によって大幅に狂ってしまうことが珍しくないので、納品調律もすぐにはやらず、新しい環境に馴染むまで、できれば最低一週間は待ったほうが自分は良いと思いますと言われました。
考えてみれば3月上旬から5月という、日ごとに天候が激変する季節に、冷暖房のない厳しい環境でまるまる2ヶ月間を過ごしたわけで、それがいきなりエアコンのある室内へとにやってきたのですから、たしかに環境の変化というのはかなりのものがあるだろうと思いました。

中には納品時に運送屋と同道して、すぐに納品調律されるケースもありますが、それなら買った側も納品初日から調律の整った状態で弾けるというメリットはあるかもしれませんが、長い目で見れば時間を置いたほうが調律の安定という点では望ましいようです

というわけで、現在のところシュベスターの本来の良さは発揮されているとは言い難いけれど、弾いているうちにわずかに復調するような部分もないではなく、やはり優しげな音を出すピアノということは次第に思えるようになりました。
しかし、繰り返すようですが、前日まで関西で極上のヴィンテージスタインウェイのDのあれこれや、カワイのSK-7など、通常ではめったに触れる機会のないピアノにばかりに接してきたせいで、マロニエ君の音に関する尺度もずいぶん変化してしまったらしいことも、こうした印象に繋がってしまったかもしれません。

そもそも、価格的にも形状的にもお話にならないぐらい違うピアノですから、比較すること自体がナンセンスですが、それでもシュベスターの歌心と鷹揚な個性は、狂ってしまった音の中からときおり聴こえてくるものがあり、ピアノはこのブログを書いているパソコンのある机のすぐ真後ろにあるのですが、存在にイヤ味も圧迫感もなく、なんだかとってもかわいい奴だなあと思います。
というのも、ピアノというのは大きいだけに一歩間違えると、部屋の中での存在はとても無遠慮で暑苦しいものにもなることがあるというのはマロニエ君の長年の経験から得た印象です。
これがもし大手量産メーカーのピアノだったら、その危険度も高く、ちょっとしたことですが気持的にそういうふうに思えるだけでも、シュベスターは愛すべき存在だと思います。

シュベスターとはドイツ語で姉妹という意味だそうですが、そういう愛情とか優しさみたいなものをどこかに持ってるピアノで、楽器というのはコンサート用などは別として、家庭でポロポロ弾いて楽しむには、そんな優しい感じの要素もあるていどは必要な気がします。
というわけで、買い方はめちゃくちゃだったにもかかわらず、そこにあるだけで優しい気持ちになれるピアノだったということは、買ってよかったなぁと思うこの頃です。
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関西ピアノ旅

ほんの数日間ですが、関西まで行ってきました。

目的はいくつかあったけれど、そのうちのひとつは知人が昨年買われたスタインウェイを見せていただくということでした。
大阪の地理にはまったく不案内なので、乗るべき電車と駅名を教えていただき、その通りに行って見ると改札を出たところに知人が待っててくれました。

まずは大阪らしく「二度漬け禁止」の串かつで食事をし、それからご自宅に伺いました。
部屋にお邪魔すると、気品あるつや消し塗装を纏ったModel-D(コンサートグランド)が鎮座しています。
すでに大屋根を開けておられたので、まるで巨大な黒い怪鳥が羽を大きく広げているようでした。

雑談を交わしながら、知人が弾かれるのを聴かせていただいたり、こちらも少し弾かせてもらったりという時間を過ごしましたが、とにかく素晴らしい能力を有するピアノでした。シリアルナンバーが38万台という、ハンブルクスタインウェイの黄金期と言われる時代のピアノで、全体にまろやかで太い音、低音に至ってはピアノも空気も震えるように深く鳴り響き、さすがと唸らされる点が随所に確認できました。

スタインウェイにも世代ごとの特徴というのがあり、この38万台というのは西暦でいうと1960年代の前半にあたり、ルビンシュタインやアラウの絶頂期にも重なるし、壮年期のミケランジェリ、あるいは若いポリーニやアルゲリッチが世に登場して唖然とするようなスーパーピアニズムで世界を驚かせた、あの時代です。
このころのスタインウェイは、後年のようなブリリアント偏重の音色ではなく、ピアノが持っている豊かな潜在力で音楽を自在に表現し、弾く者・聴く者の魂を揺さぶった、いかにもピアノの王道らしい豊かな響きがあふれていると思います。

いわゆるキラキラした音ではないのに、まぎれもないスタインウェイサウンドはしっかりあって、この時代のスタインウェイが今日の同社の名声を不動のものにした(少なくともハンブルク製では)といっても良いかもしれません。
マロニエ君の下手な表現でいくらあれこれいってもはじまりませんが、音の中にたっぷりとした「コク」のある佳き時代の本物の音です。

とくにイメージするのは、アラウの演奏でよく耳にする肉厚で、温かくて重厚、そしてなにより美しく充実感のあるあの音でした。
今のピアノのように、基音は細いのにキラキラ感ばかり表に出したり、パンパンとうるさく鳴らすだけの表面的な音とはまったく次元の異なる、まさに設計・材料・思想なにもかもが理想を追求できた時代のピアノでしょう。

こんなピアノに触れられただけでも、大阪まで行った甲斐がありました。

また、せっかく大阪まで来たことではあるし、実はこれまで一度も行くチャンスのなかったカワイの梅田ショールームにも足を伸ばしてみました。
こういうところに行って、買いもしないのにありったけのピアノを弾いてまわる勇気など持ち合わせない小心者のマロニエ君なので、ちょっとだけとお店の方に断ると快諾を得たので、ガラス張りの試弾室?の中にズラリと並んでいるうちの、GX2(だったか)という、レギュラーシリーズの小さめのグランドに少し触れてみましたが、さすがにメーカーのショールームに展示されているピアノだけあって調整もよくされているし、音にも良い意味でのおろしたての美しさがありました。なによりすべての動きにやわらかい膜がかかったような新品アクション特有の繊細でなめらかな弾き心地には素直に感動しました。

背後から店員の方が静かに近づいて来られて「よかったらあちらのシゲルカワイもどうぞ」と言われ、云われるままついて行くととなりにある小さなサロンのようなところのステージにSK-7が置かれていて、どうぞこれを弾いてみてくださいと言われました。
これまでシゲルカワイはSK-6までの全機種と、SK-EXしか弾いたことがなかったので、むろん恥ずかしさもあったけれど、ある意味スタインウェイなどよりも触れるチャンスの少ないSK-7だと思うと、ここで遠慮をしていては稀有なチャンスを逃すことになるだろうと思い、恥を忍んで少し弾かせてもらいました。

いかにも現代的で、ブリリアントで、まるで上質な洋酒のようで(マロニエ君は下戸ですが)、SK-6よりずいぶん格上な感じがしました。これはもう高級品の部類だと思ったのも道理で、お値段も約600万円也だそうで、さもありなんという感じでした。

ただ、梅田ショールームは有名なわりには想像していたほどの規模ではなく、福岡の太宰府ショールームのほうが台数や種類もあるような気がしたのですが、なにしろ大阪のど真ん中という場所柄でもあり、やみくもに広くはできないのかもしれません。
でもとってもすてきなお店でした。

最終日は、せっかくついでに神戸のヴィンテージスタインウェイで有名な日本ピアノサービスにも立ち寄りました。
マロニエ君はここに行くのはもう3度目か4度目だと思いますが、先代がお亡くなりになってからはじめて伺いました、
あのカリスマ性をもった先代がおられない店はどうなっているのかとも思いましたが、ご子息方がこの店の理念と精神を何一つ変えることなくがっちりと受け継がれており、置いてあるピアノもあいかわらずの名品揃いで、ようするに良いものは何も変わっていませんでした。

先代が最後にニューヨークに行かれた際に買ってこられたという、ジュリアード音楽院にあったというDはニューヨーク・スタインウェイにしては珍しい艶出し仕上げでしたが、まんべんなく良く鳴るし、なんともいえずリッチで深い音がして、まさに文句なしの1台という印象。
またその傍らに置かれた、A3(A型のロング、現在生産されていない奥行き約200cmのモデル)も言われなければB型と思ってしまうほど良く鳴るピアノで、音よし響きよし、バランスに優れ品格もあるというあたり、「ああ持って帰りたい」と思うようなミドルサイズの1台でした。

新品のピアノにはむろん新品にしかない良さがあり、それを否定するものではありませんが、やはり個人的に深く惚れ込んでしまうというか、魂をもって行かれそうになるのは、マロニエ君にとっては古い時代のピアノのようです。
潜在力のある古いピアノに、最高の整備と調整を惜しみなく施す、これがピアノの理想のような気がしました。

いろいろありましたが、ピアノに関しては収穫多き旅でした。
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我が家での印象

シュベスターが納品されました。
調律がまだなので本来の状態とは思えませんが、それでもとても軽やかによく歌ってくれるピアノだと思います。
とくに中音から次高音あたりは、柔らかでデリケート、華やかでくっきりした輪郭があって、ピアノがもっとも旋律を奏でることの多い部分が美しいピアノだと想います。

もちろん個体差があるでしょうし、何台ものシュベスターを経験したわけでもないから、他の個体がどうなのかはわかりませんが、少なくとも我が家にやってきたピアノに関していうと、ゆったりした曲を、デリケートに弾けば弾くほど、このピアノの懐の深さというか、得意とするところがどこまでも出てくるように感じました。

スタインウェイのような第一級品は別ですが、いわゆる大量生産のピアノは、アスリート的なテクニックをもった人ができるだけバリバリ弾いたほうが演奏効果が上がるように思うし、ピアノの価値もそういうときにでるようで、あまりタッチのこだわりとか、音色の変化の妙、ピアニシモの聴かせどころという部分ではとくに特徴らしきものが出るようには思いません。
その点、シュベスターはフォルテがダメというわけではないけれど、繊細なものを求めていくときのほうで本領を発揮して、どんなに柔らかく小さく弾いても音楽的なテンションを決して失わないところは素直に凄いなあと思います。
同じ曲でも、早めにさっさと弾くより、よりゆっくりと、より注意深く、気持ちを込めて弾けば弾くほど、納得の仕上がりになるのは素晴らしいと思うし、これがマロニエ君の好きなタイプのピアノです。

ただし、つい先日、工房というか倉庫で弾かせてもらったときと、我が家で弾いてみて最も違う点は「響き」の特性だと思いました。

これはシュベスターの問題というより、アップライトピアノ全般が共通して抱える問題のように感じます。
広い空間では、アップライトピアノの後ろ部分は広い空間に向けて開放されているので、そこからきれいに抜けたような響き方をしますが、通常の家などではアップライトは後ろに大きな空間をとって設置することはまずなく、大抵の場合、後ろ部分を壁にかなり寄せて置くスタイル(ほとんどくっつけると言ってもいい状態)となります。

そのため、楽器から最もダイレクトに出てくる音を、もったいないことに壁で塞いで、そこがいつもフタをしたような状態になってしまうようです。

グランドで言えば、お腹から下の部分に当てものをしていつも閉めきっているようなもので、これでは本来の響きを発揮させることはできませんが、かといってアップライトをわざわざ壁から話して置くというのも、欧米人の住むような広い部屋ならともかく、普通は現実的になかなかできることでもないでしょう。
だいいちそんな広い空間があれば、やはりグランドでしょうし。
つまり、アップライトはグランドに比べて、常に響きという点で設置環境で大きなハンディを背負っているというべきかもしれません。

書き忘れていましたが、個人的に「この」シュベスターの魅力のひとつだと思うのがタッチでした。
アップライトはみなストンと下に落ちるタッチ感かと思っていたら、あにはからんやコントロール性があり、音色変化がつけやすいのです。
それはとりもなおさずタッチに一定の好ましい抵抗があるということです。
この好ましい抵抗があることによって、奏者はタッチのコントロールが効くのですが、技術者さんの中にはなめらかで軽いタッチがいい、もしくはそうであることがみんなに好まれると信じこんで、まるで電子ピアノのような軽いペタペタのタッチにしてしまう場合があります。

そういうペタペタ感の無いことは麗しい音色と相まって、シュベスターを買ってよかったと思える部分です。
さらには気になっていたヒビですが、技術者さんの言われる通り、自室に入れてみるとほとんど気にならないレベルであることがわかり、これを無理して修理したり塗り直したりしなくてよかったとしみじみ思いました。
ときどきは人の言うことにも素直に耳を貸すべきですね。

こう書くといいことずくめのようですが、低音にはいささか不満が残りました。
まともな調律がなされていないので、現時点で結論めいたことを言うべきではないかもしれませんが、単音ではそれほど悪くないけれど、重音・和音になったときのハーモニーがあまりきれいではなく、このあたりは改善の余地があるのか、こんなものなのか現在のところ未知数です。

とはいえ、弾いていてとても豊かな気持ちになれるピアノで、これは楽器としてまず大切なことだと思います。
それともうひとつ気に入っているのは鍵盤蓋に輝く「SCHWESTER」という文字で、字面といい書体といい、なんともいえない趣がありますし、正直をいうと日本のピアノで、これほどいいと思えるのはひとつもありません。
音とは直接関係ないことですが、こういうことってマロニエ君は意外に大切だと思います。
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いざとなれば階段?

工房到着からすでに2ヶ月、ヤフオクの落札からそろそろ3ヶ月が近づき、ようやく納品日も決まって我が身に距離が縮まってきた我がシュベスターですが、その作業のスローさには正直しんどいものがありました。

もともとマロニエ君の予想からすれば、せいぜい10日から2週間ぐらいかなと勝手に思い込んでいたので、はじめのうちは性格的にかなり耐え難い気分が続くことになりました。
技術者さんの方針もいろいろで、作業を集中的に一気にやってしまうところもありますが、今回はその真逆というか、こういうやり方もあるということで職人さんの世界もいろいろあっるということで、たいへん勉強になりました。

救いは、その技術者さんはものすごく人柄の良い方で、センスもあるし、決していい加減な仕事はされないという信頼感でした。
他の仕事も多くかけもちしておられるという事情もあって、あまりせっつくのも気が引けるし、無理を頼めば本当に睡眠時間を削ってでも無理をされそうでそれは却って怖いので、とにかく先方のペースに任せることに。
なので途中から完全にこちらの気構えも切り替えました。

恥をさらすようですが、もともとマロニエ君は「待つ」ということが子供の頃から再大の苦手要素のひとつで、その苦痛はなかなか普通の人には理解の及ばないものかもしれません。なので、自分の努力によってなんとかなるものなら大抵のことは頑張りますが、今回の塗装補修などは、こちらが頑張れる余地はゼロで、ひたすら技術者さんにお任せするしかありません。

塗装以外にも、日中は調律の仕事がおありのようだし、当然ながら他の急ぎの仕事があれこれ割り込んできてもいるでしょう。さらには塗装なので天候には最も左右され、雨になると塗装の作業は完全無条件でストップするそうです。あれやこれやで遅れに遅れて、当初は4月の中頃か後半ぐらいといわれて(それでも驚いた)いたものが、けっきょく5月中旬になりました。

前回も書きましたが、磨いても消えない何本ものヒビはあるし、それが部屋に置いたときにどんな感じを受けるかもわかりません。
でも、冷静になれば、決して負け惜しみではなしにマロニエ君は今どきの新品ピアノの、まるで電気製品のような異様なピカピカのあの雰囲気も音も好きではなく、だから古い手造りのピアノをゲットしたといういきさつがあったわけで、初心をしっかりと思い出すことに。
それ以外はさすがはピアノ専門の木工職人さんだけのことはあって、塗装も、金属類もまったく見事な仕上がりでした。

運びこむ部屋は自宅の二階になるので、道路からユニック(トラックに装着されたクレーン)で二階のベランダに上げて、そこの窓枠などを外して屋内に運び入れ、あとはドアや廊下を経由して設置場所まで移動する予定です。
一度も下見に来られなかったので大丈夫かと思っていましたが、以前も別の運送会社がその方法で入れたことがあると伝えると「大丈夫です!」とのことで、おまけに「どうしてもダメな場合は階段から上げます」という豪快な事を言われ、なんと頼もしい事かと感心しました。

ピアノの運送屋さんにも個性がいろいろあって、階段は絶対にいやがる会社もあり、クレーンを使うために事前の打ち合わせから入念な下見までされるところもありますが、マロニエ君はなんとなく感覚的に、あまりに慎重すぎるような姿勢を見せられると却ってイヤミな感じを受けるし、ダイジョウブ、なんとかなる/なんとかしてみせると胸を叩いてくれるタイプのほうが好きです。

マロニエ君はこれまでにもかなりの回数、さまざまな運送会社から、さまざまなサイズのピアノを自宅に出し入れしてもらった経験がありますが、搬入搬出でトラブったり傷をつけられたようなことは一度もなく、どこもプロの運び手としてしっかりした仕事をされるという点では本当に立派だと思うし、そのあたりは日本の会社はしっかりしていて信頼感が高いと思います。

以前、『パリ左岸のピアノ工房』だったか、そんなタイトルの本の中で著者がついに小型のグランドを購入し、自宅のアパルトマンに納品されるシーンがありますが、何階だったか忘れましたが(たぶん2階以上だったような)、屈強なひとりの男性が背中にピアノを括りつけて、階段を怪力でよじ登ってくるシーンがあり、たいそう驚いた覚えがあります。

ヨーロッパは何かと厚みのある高度な文化圏と思っていますが、意外なところで旧態依然としたスタイルが残っていたりして驚きとともに笑ってしまいます。その点では日本は地味だけれど、全国隅々まで道路が舗装されているように、そんな方法でピアノを搬入するなんてあり得ないし、さりげなくも近代性が整った国だなあと思います。
ショパン・コンクールの会場であるワルシャワフィルハーモニーも、あれだけ国家的イベントであるにもかかわらず、ピアノ用のエレベーターなんぞなく、すべて地上から人海戦術で階段をぐるぐるまわって、あの巨大なコンサートグランドをステージまで運び上げると知って、そのローテクぶりには心底おどろきました。
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作業終了

ヤフオクでシュベスターを落札したのが2月の下旬。
それから運送の手配をして、福岡に到着したのが3月上旬、さらにそれから約2ヶ月が経過しました。
仕上がりがいつ頃になるのか、はじめは少しでも早くと思って気を揉んでいましたが、途中からどうもそうはいかないらしい気配を悟ってからは半分諦め気分に突入。
それが、ついに「できました」という一報を受けるに至り、ゴールデンウィークの最後の日曜の夜、工房に見に行ってきました。

全身のあちこちに認められた細かい凹み傷等はパテ埋めして直し、塗装も必要箇所は塗り直しをして、蝶番やペダルなどの金属類もピカピカとなって見違えるようにきれいになりました。
2ヶ月というのが妥当かどうかはともかく、ここまででも大変な作業だったろうと思います。
ただし、ボディのあちこちを走り回る塗装ヒビだけは磨いても消えることはなく、これだけは如何ともし難いものでした。

どうしても直したい場合は塗り直しをすれば可能なのですが、以前も書いたようにこの職人さんは、古いものの味わいに敏感で、そのあたりの感性というか美意識を持っておられます。
その方の意見によると、このヒビはこのピアノの味として残しておいても悪くはないんじゃないかということで、マロニエ君も冷静に考えてみましたが、古いピアノの塗装だけ(中まで全部オーバーホールするのならともかく、外側の見てくれだけ)を新しくするのも見方によっては物欲しそうでもあるし、言われている意味も自分なりに納得できたので、美しくはしてもらうけれど、ヒビはそのままにすることにしました。

いちおう整音と簡単な調律も終えた状態ということでちょろちょろっと弾いてみたのですが、その音の良さには想像以上のものがあり、シュベスターが一部の愛好家の間で根強い人気があるらしいのも大いに納得できるものでした。

技術者の方も言っていましたが、「このピアノは僕がいうのもなんですが、塗装とか外装はどうでもいいというか、べつに(マホガニーの木目ですが)黒でも良かったんじゃないかと思う」と斬新なことを言われます。
それほど、このピアノの価値は音そのものにあるのであって、だからそれ以外は大した問題じゃないという意味のようでした。

マロニエ君は普通は音だけでなく、外観も結構気にするミーハーなんですが、たしかにこのピアノに関しては彼の意見が何の抵抗もなくすんなり気持に入ってきたのは、それがいかにも自然でこのピアノに合っていると思ったからだと思います。
このピアノは、その固有の音色やふんわりした響きを楽しみながら弾くための楽器であって、それ以外のことは二の次でいいと思わせる人格みたいなものを持っている気がします。

重複を承知で書きますと、シュベスターのアップライトはもともとベーゼンドルファーのアップライトを下敷きにして設計開発されたそうですが、悲しいかなマロニエ君はベーゼンドルファーのアップライトはむかし磐田のショールームでちょっと触ったぐらいで、ほとんどなにも知りません。
むろんシュベスターはベーゼンのような超一流ではないけれど、独自の繊細さや優しげな響きが特徴だというのは確かなようだと思いました。
繊細といっても、けっしてか弱いピアノという意味ではなく、音に太さもあるけれど、それが決して前に出るのではなく、あくまでもやわらかなバランスの中に包み込まれる全体の響きのほうが印象に残ります。
少なくとも無機質で強引な音をたてる大量生産ピアノとはまったく違う、馥郁としたかわいらしい音で、弾く者を嬉しい気分にさせてくれます。

大別すればベーゼンドルファーはオーストリアなのでドイツ圏のピアノということになるのかもしれませんが、シュベスターはもっと軽やかで甘さもあり、こじつければちょっとフランスピアノ的な雰囲気も持ち併せているように思いました。
このあたりはプレイエルに憧れるマロニエ君としては嬉しいところですが、それはあくまで勝手な解釈であって、本物のプレイエルはまたぜんぜん別物だとは思いますけど。

その点でいうと、以前愛用したディアパソンはあくまでも堅牢なドイツピアノを参考としながら昔の日本人が作ったという感じがあり、その音色の一端にはどこか昭和っぽい香りがあったように思います。(現行のディアパソンには昭和っぽさはありません、念のため)

シュベスターの特徴とされる北海道のエゾ松響板のおかげかどうかはわかりませんが、量産された響板をなにがなんでも鳴らしているという「無理してる感」がまったくなく、どの音を弾いてもほわんと膨れるような鷹揚な響きが立ち上がって、楽器全体がおっとりしているようにも思いました。

不思議というか幸運だったのは、塗装面にあれだけヒビがたくさんあったにもかかわらず、肝心の響板は、ずいぶん細かく点検していただきましたがどこにも割れのようなものはなく、楽器としての肝心な部分は望外の健康体を保ってくれているということでした。

あと技術者さんが言っていたことですが、すごくしっかり作られていたということ。
塗装の修正をしたりパーツ交換したりする際に、あちこちの部品を外したり分解したりするそうですが、それが通常のピアノに比べてずいぶん大変だったらしく、そのあたりにも手造りピアノの特徴なのか、製作者の良心のようなものが感じ取れる気がしました。

まだ自宅に納品されていませんから、実際に部屋に入れてみてどんな印象を持つかは未知数ですが、なにしろヤフオクで実物も見ず、音を聴くこともせずいきなり入札するという、ピアノの買い方からすればおそらく最もやってはいけない入手方法であって、いわば禁じ手のような買い方をしてしまったわけですが、そんな危険まみれの購入にしては、覚悟していたよりずっといいものだったようで、とりあえずラッキーでした。
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センスは命

先日のこと、お世話になっている調律師さんからご連絡をいただき、❍月❍日の午後ちょうどついでがあるので短時間だけですが寄りましょうか?というお申し出がありました。

実はこの方、このブログを(こちらから教えたわけでもないのに)読んでくださっているそうで、いぜん「調律が少し乱れてきた…」的なことを書いていたことをちゃんと覚えていてくださったらしく、それを少し整えるために「拾う程度」ですがやりましょうか?ということ。
こちらとしては願ってもないことなので、ありがたくそのお申し出を受けることになりました。

そのあとも別の御用がおありの由で、わずか1時間ほどの作業ではありましたが、ざっと全体を確かめてから、淡々とした調子で整音と調律を必要箇所のみされのですが、こちらからはとくに希望も出さなかったにもかかわらず、あっと驚くような素晴らしい状態に復活ました。

そもそも、この方には高度は技術に加えて「センス」があるのだと思います。
センスというのは持てる技術を何倍にも増幅する力があり、逆にここが劣っているとどんなに良い技術を持っていても最大限それを発揮することはできません。
しかも、これはわざわざ学んだり教えられたりといったことはできないので、いわば天性の領域です。

何かのTV番組でしたが、一人前の鮨職人になるには旧来の徒弟制度のもとで十年ぐらいの厳しい修行に耐えぬくのだそうですが、そんなことが本当に必要なのか?というようなことで意見が戦わされ、個人的に好きではないけれどホリエモンが「そんなのナンセンス、合理的な技術習得と、あとはぜったいにセンスの問題!」と、反対派を押し切って何度も言い張っているのをみたことがありました。

マロニエ君はこの意見に100%賛成するつもりはないし、多くの無駄の中に実は大切なものが多く含まれていると思うのも事実。とくに本物の技術の習得とならんで鮨職人としての精神的成熟には、やはり一定の時間も忍耐もかかると思います。
でも、じゃあそれがすべて正しいのかといえば、そうとも言い切れず、やたら根性論だけをふりかざすのも不賛成で、そこには冷静かつ合理的訓練に加えてセンスがなくては、ただ昔ながらの徒弟制度を通過するだけでは本物の花は咲きません。

ピアノの場合も、どれだけ多くの経験を積み、うんちく満載で、こまかい知識が豊富でも、結果として感銘を与える音、気品と表現力で聴くものを魅了する最上級の音を作ることのできる人は、これまでの経験でもそうざらにおられるとも思えません。
職人としての高度な技術の持ち主、あるいはコンサートチューナーで自他共に一流と認識される方は事実たくさんいらっしゃいますが、それが本当に最高の音や弾き心地、表現力に繋がっているかといえば、必ずしもそうでもないとマロニエ君は思っています。
センスが無い(もしくは足りない)ため、持てる技術を活かしきれていない人は少なくないし、これはいうまでもないことですがピアニストも同様です。

冒頭の方は、たまたまマロニエ君がその店に立ち寄って、そこに展示されていたピアノに触れ、その素晴らしさに感銘を受けたことからご縁ができたことは、以前にも書きました。

初めて我が家に来られたときに、いきなり「❍❍さん、マロニエ君でしょう?」と言われときは、思いがけず正体をあっさり見破られたようで肝をつぶしましたが、その後もプロの調律師の方がこんなくだらないシロウトの戯言に目を通してくださっているなんて思いもよりませんでした。

たしかにブログはネット上に存在するものなので、どこの誰がどんな気持ちで読まれているかわかりません。
普段はただ漫然と思ったままを書いているだけですが、つい先日もある方からメールをいただき「❍月❍日と☓月☓日の記事はそれぞれやや内容に重複があるような気がしますが…」などと指摘されたりして、いまさらながら心しなくてはならないと思いを新たにしました。

話は逸れるようですが、車やバイクのエンジンオイルというのは、一定期間/距離に応じて交換します。その際、全部交換するに越したことはないのですが、急場しのぎには、そのうちの1Lだけでも新油に入れ替えると、全交換した時とほとんど遜色ない良いフィールが蘇るというのはモータリストの間ではそこそこ有名な話です。
もしかしたらピアノも同様で、今回のわずか1時間の調整でこれほど劇的に変化したということは、「神は細部に宿る」のたとえの通り、良い状態というのはそれほど僅かで微妙なものが大事な鍵を握り、良否を左右するという一面があるのではないかと思いました。

短時間の整音と調律の結果、気品としなやかさとブリリアンスが見事に並び立った、まるでCDから聴こえてくる音そのものみたいになっていて、これじゃあマロニエ君の下手な弾き方ではあまりにもったいなくて、却って思い切って弾けません。

かように音に対するセンスというのはその人固有もので、美とバランスの感覚の問題です。
きれいでもあまり小細工や苦労のあとが見えるもの、主張の強すぎるもの、ひとりよがりなものはマロニエ君は好みではなく、あくまで自然で労少なくしてさらりと出来上がったような感じのする最高のもの、これこそが好みです。
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活気の衰退

何とはなしに、ちょっとしたことで寂しい時代になってきたなあと思うことがあります。
一例が、いろいろな店舗の夜の営業時間、とくに深夜営業を売り物にしていた飲食店(アルコールを伴わない店とかファミレスのこと)などの営業時間が軒並み短くなっていくことや、夜、気軽に車で行ける書店がどんどん減ってきていることなどにそれを感じます。

ファミレスの代表ともいえるロイヤルホストなどは、以前ならあちこち24時間営業も珍しくなかったのに、今では一律(例外はあるのかもしれませんが)0時閉店ということになってしまったようです。
これには今の世相というか、人々の生活パターンの変化が深く関わっているのは明らかでしょう。

例えば名前を出したついでにいうと、土日のロイヤルホストなど夕食時間帯に行こうものなら、それこそ入口のドアから人がもりこぼれそうなほど順番待ちのお客さんで溢れかえり、名前を書いて席が空くのを満員電車よろしく待たなければならないほど、それが8時過ぎぐらいをピークに一気に人が減り始め、10時を過ぎる頃にはさっきまでの喧騒がウソのようにガラガラになってしまいます。

車の仲間のミーティングなどでは、ファミレスは時間を気にせず談笑できる不可欠の場所だったのに、少し遅くなるとついさっきまでざわざわしていた店内は一気に潮が引いたようになり、閉店時間が迫ると残りの僅かな客は否応なしに追い出されてしまうようになりました。

マロニエ君の世代の記憶でいうと、以前は深夜の時間帯はもっと世の中に活気やエネルギーがあふれていました。
とくに若い人は夜通し遊ぶというようなことは平気の平左で、各々なにをやっていたのかはともかく、明け方に帰るなんぞ朝メシ前でしたし、当時の中年世代だってもっと活発でエネルギッシュだったように思います。

過日、連休で遠出をしたところ終日猛烈な渋滞に遭い、疲れてヘロヘロになって帰ってきたことを書きましたが、呆れるほど日中の人出はあるのに、ある時間帯(おそらく8時から9時)を境に、まるで動物が巣穴に戻るように人はいなくなります。
以前より、明らかに早い時間帯に、申し合わせたようにみんな帰宅の途に就くのでしょう。

昔は厳しい門限なんかを恨めしく反抗的に思うことがあったのに、今じゃそんなものはなくても、自然に、ひとりでに帰って行ってしまう真面目ぶりには驚くばかりです。
それだけ、夜の外出が現代人にとって楽しくないということもあるしでしょうし、翌日の仕事や学校に備えるという配慮も働くのか、あるいは体力気力おサイフの中も乏しいのかもしれません。それ以外の要因もあるのかもしれませんが、とにかく世の中全体が節約志向で元気がなく、まるでひきこもりのような印象を覚えます。

深夜まで出かけるというのは、基本的には相手あってのことで、今時のようにスマホ中心の、人と人とが淡白な交流しかしないようになると必要もなければ魅力も失ってしまったのかもしれません。
それに追い打ちをかけるように、現代はどこか不自然な感じに家族中心主義的で、それ以外の交際はずいぶんと痩せ細ったようにも思います。

さらにもうひとつ驚いたのは、友人がテレビで聞いたそうですが、やはり24時間営業をはじめ深夜営業のファミレスやファストフード店が、全国的にものすごい勢いで減っているらしく、その一因が若者の車離れにもあるというのです。
たしかにこういう店は車で行くことを前提としていますから、仲間内で誰も車を持っていないことが普通(らしい)今どきの若者の行動パターンにはそぐわなくなり、だんだん深夜の客足が遠のくのも無理からぬことかと思いました。

本屋も、それが悪いという意味ではないけれど、あるのはたいてい同じ名前の店ばかりで、書店と言っても店内のかなりの部分はDVDなどのレンタルなどが大手を振り、書籍売場はずいぶん剥られて、置かれている本も、大半が雑誌かコミックか実用書のたぐいばかりで、本らしい本というのは無いに等しく、これひとつみても文化が衰退している感じです。

いろんな楽しみが増えたといえばそうなのかもしれませんが、あまりのスピードについていけないし、むかしからある普通の楽しみは、まさに絶滅危惧種ですね。
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真っ当な価値

BSプレミアムのクラシック倶楽部の録画から、昨年のアンスネスの来日公演の様子を視聴しました。
曲目は、本編とアラカルトを併せるとシューベルトの3つのピアノ曲、シベリウスの小品、ショパンのノクターンとバラード第4番、さらにシベリウスのソナチネ、ドビュッシーの版画というもので結構な時間と量になりました。

アンスネスのCDは何枚か持っているけど、それらは悪くもないけれど、特段の感性のほとばしりもなければ才気に走ったところも毒の香りもない、要するにこの人でなければならない特別な何かがあまり見いだせない、どちらかというと凡庸なピアニストという印象を持っていました。
今回、音だけ聴いていてはわからないことが、映像を見ることでわかったような気がする部分もありました。

それを適確な言葉で言い表す能力はマロニエ君にはないけれど、喩えていうならカチッと仕立てられた上等なスーツみたいな演奏だと思いました。
常識の中に息づく美しさや自然の心地よさ、音楽的礼儀正しさとでもいえばいいのか、一見目立たないけれど、非常に大事なものが確乎として詰まっているピアニストだと思いました。

2月の放送でN響とシューマンの協奏曲を聴いた時と同様、ソロリサイタルでもやはりピアノの大屋根はつっかえ棒になにかを継ぎ足してまで盛大に開けられていて、こうすることに音響上のなにかこだわりがあるものと思われます。
ただし、視覚的にはいかにもへんで、これによってスタインウェイのあの美しいフォルムは崩れ去り、少なくとも見た目はかなり不格好なピアノとなっています。

ただしその効果なのかどうかはわからないけれど、通常よりも明るく太い音のように感じられ、普通のスタインウェイよりも、どこか生々しいというか直接的な感じがしたのは気のせいではないような気がします。
もちろんピアノそのものやピアニストによって音はいかようにも変わるものだから、その要因がなんであるのかはしかとは突き止めきれませんが、結果的にこれはこれでひとつの在り方だというふうにマロニエ君は肯定的に捉えたいと思う音でした。

アンスネスのピアノは、どこにも作為の痕がなく、ほどよく重厚で、誠実にかっちり楽曲を再現することに徹しているところはあっぱれなほどで、解釈もテンポもアーティキュレーションも、呆れるほどにノーマル。
それでいて、今どきのカサカサした空虚な演奏ではなく、聴き応えのある実感があるし適度な潤いも必要な迫力もちゃんとある。
そしてなにより男性的安定感にあふれており、安心してゆったりと身を預けることができる演奏でした。

アンスネスのピアノで今回はじめて意識的に感じられたことは、楽譜に書かれた音がすべてきっちり聴こえてくることで、シベリウスをはじめ、シューベルトもショパンもドビュッシーも、それでいささかも不都合なく自然に耳に届いてくる、一見とても当たり前のようで、実はこれまで聴いた覚えのないような不思議な快適さだったように思います。

なかでもドビュッシーは、多くのピアニストが絵の具をにじませるような淡い演奏に傾倒しがちなところを、アンスネスはいささかもそんなことせず、あくまでも一貫性のある自分のスタンスを守りつつ、それでいてなんの違和感もなく落ち着きをもって安らかに楷書で聴かせてくれる点で、オーソドックスもここまで徹すれば、これがひとつの個性に違いないと感心してしまいました。

これは演奏を細分化したときの、音のひとつひとつに明瞭な核があって堅牢ですべてが揃っており、そこからくる構築感が自然と全体を支えているように思います。

番組の「アラカルト」では、たいていふたつの異なる演奏会が組み合わされ、このときの後半はアレクセイ・ボロディンのピアノリサイタルでした。
プロコフィエフのロメオとジュリエットから10の小品を弾きましたが、堅固な中にしなやかさが息づくアンスネスのドビュッシーの見事さのあと、そのまま連続してボロディンを聴くことになりましたが、技巧派で鳴らしたロシアのピアニストにしては、その「核」がなく、強弱やアーティキュレーションにおいて、音にならないようなところ、あるいは表面的な音質が目立ちました。
体格はずいぶんと立派ですが、出てくる音は意外なほど軽くて気軽なものに聴こえました。

ちょっと分厚い本をもった時、心地よい重みがズシッと指先に伝わってくる心地よさみたいなものがありますが、アンスネスのピアノにはそういう真っ当な良さ(しかも現代ではどんどん失われているもの)があるように思いました。

アンスネスには高速のスピード感とか、指の分離の良さからくる技巧の鮮やかさといったものはありませんが、派手な技巧よりも大事なものがあるという当たり前のことを、静かに問い直し教えてくれたようです。
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父から子へ

先日の日曜のこと、ちょっとした用があって郊外まで友人と出かけた帰り道、夕食の時間帯となったので、どこかで食べて帰ろうということになりました。

ところがマロニエ君も友人も外食先として思いつくレパートリーをさほどが多くもたない上、前日も数日前も外食だったので、同じものは嫌だし、日曜ということもあって、どこにするかなかなか思いつきません。
あれもダメ、これもイマイチ…という感じで、どうも適当なところがないのです。

やむなく行き先が定まらないまま車を走らせていると「餃子の王将」のネオン看板が目に入り、いっそここにしようかということになりました。
しかし幹線道路に面したそこはかなりの大型店舗であるにもかかわらず店内は超満員!
ガラス越しに待っているらしい人が大勢見えるし、駐車場も止められない車がハザードを出して待機しているため、ここはいったんスルーすることに。

そこから車で10分ほどの国道沿いにも同じ名の店があったことを思い出し、そちらへ向かうことに。
こちらも駐車場は満車に近かったけれど、なんとか1台分のスペースは探し当てたし、すこし外れた場所であるぶん店内の混雑も先ほどの店舗よりいくらかおだやかでした。

少し待って席に案内され、さあとばかりに分厚いメニューを開こうとすると、すぐ横からやけに大きな話し声が聞こえてきました。
父と若い息子の二人連れらしく、父親のほうがさかんにしゃべっていて、息子は聞き役のようでした。
いきなり、
「ま、お前も、野球して、大学に入って、オンナと同棲して、今度は就職だなぁ!」と感慨深げに言いますが、その父親の横は壁で、それを背にこっちを向き、通りのいい大声でしゃべるものだから、困ったことに一言一句が嫌でも耳に入ってくるのでした。

マロニエ君は一応メニューを見ていたのですが、その父親から発せられる奔放な話し声が次から次に聞こえてくるのでなかなか集中できません。
友人もマロニエ君がこういうことに人一倍乱されることを知っているので、困ったなぁという風に笑っています。

こういうあけすけな人が集まるのも「餃子の王将」の魅力だろうと思いつつ、店員が注文をとりにきたので、まず「すぶた」と言おうとした瞬間、さっきの「オンナと同棲して」という言葉が思い出されて、可笑しくて肩が震え出しました。
気を取り直してもう一度「すぶた」と言おうとするけれど、笑いをこらえようとすればするほど声が震えて声にならず、それを察した友人がすかさず代ってくれて、無事に注文を終えました。

その父親は、自分が務めた会社をあえて「中堅だった」といいながら、自分がいかに奮励努力して、同朋の中でも高給取りであったかを、具体的な額をなんども言いながら息子に自慢しています。
「だから心配せんでいい!(たぶん学費のこと)」というあたり、なんとも頼もしい限りで、大学生と思しき息子も自慢の父親であるのか、そんな話っぷりを嫌がるどころか、むしろ殊勝な態度で頷きながら食べています。

「お前の野球は、無駄じゃなかったよ。それがいつかぜったい役に立つ筈。」と励ますことも忘れません。

そのうち父親の話は、人間は海外へ出て見聞を広げなくてはならないといった話題に移っていきました。
自分がそうだったらしく、いかに数多くの海外渡航を経験したかをますます脂の乗った調子で語りだし、同時に息子の同棲相手の女性が一度も海外旅行を経験したことがないということを聞いて、そのことにずいぶん驚いたあと、いささか見下したような感じに言い始めました。

「ま、最初は釜山に焼き肉を食べるのでもいいんだよ、まずは行ってみろ」というような感じです。
日本にだけいてはわからないことが世界には山のようにあるんだということが言いたいようで、それはたしかに一理あるとも思えましたが。

翻って自分はどれだけの国や都市、数多くの海外経験を積んだかという回想になり、これまで訪れた行き先の名が鉄道唱歌の駅名のようにつぎつぎに繰り出しました。ずいぶんといろいろな名前が出ましたが、どうも行き先はアジアの近隣諸国に集中しているようで、訪米の名は殆どなく、唯一の例外は「ハワイだけでも21回は行ったなあ…」と誇らしげに、目の前で焼きそばかなにかを頬張る息子に向かって言っています。

はじめはよほど旅行が趣味のお方かと思っていたら、どうやらすべて仕事で「業務上、行かされた外国」のことのようでした。
さらに、「ホテルはヒルトン…シェラトン…ほとんど5ツ星ばかりだった。そういうところに行かんといかん!」と、最高のものを知らなくちゃいけない、安物はダメだ、お前もそういう経験ができるようになれよという、陽気な自慢と訓戒でした。

海外ではずいぶんたくさん星のついた高級ホテルばかりをお泊りになった由ですが、いま息子とこうしている場所は「餃子の王将」というのが、マロニエ君からみれば最高のオチのようにも思えましたが、それはそれ、これはこれというところなんでしょう。
終始悪気のない単純な人柄の父親のようで、久しぶりに会った息子に、父の愛情と威厳を示す心地良い時間だったようでした。

さらに驚いたのは、息子も父親の話に気分が高揚してきたのか「そんな仕事がしてぇ!」と言い出す始末で、ここでマロニエ君は思わず吹き出しそうになりましたが、食事をしながら、真横からどんな球が飛んできてもポーカーフェイスというのは、かなりスタミナのいる時間でした。
それにしても今どき珍しい、父子の麗しき姿を見せられたようでもあったことも事実です。
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寂しい時代

何とはなしに、ちょっとしたことで「寂しい時代になってきたなあ」と思うことがあります。
一例が、いろいろな店舗の夜の営業時間、とくに(アルコールを伴わない飲食とかファミレスの)深夜営業を売り物にしていた飲食店などの営業時間が軒並み短くなっていくことや、夜、気軽に車で行ける書店がどんどん減ってきていることなどにそれを感じます。

ロイヤルホストなどは、以前なら24時間営業も珍しくなかったのに、今では(例外はあるのかもしれませんが)基本0時閉店ということになってしまったようです。
これには今の世相というか、人々の生活パターンの変化が深く関わっているのは明らかでしょう。

名前を出したついでにいうと、土日のロイヤルホストなど夕食時間帯に行こうものなら、それこそ入口のドアから人がもりこぼれそうなほど順番待ちのお客さんで溢れかえり、名前を書いて席が空くのを満員電車よろしく待たなければなりませんから人気がないわけではない。
そかし8時過〜9時あたりをピークに一気に人が減り始め、10時を過ぎる頃にはさっきまでの喧騒がウソのようにガラガラになってしまいます。

車の仲間のミーティングなどでは、ファミレスは時間を気にせず雑談できる不可欠の場所だったのに、少し遅くなるとついさっきまでざわざわしていた店内は途端に潮が引いたように空席が目立ち、閉店時間が迫ると残りの僅かな客は一斉に追い出されてしまうようになりました。

マロニエ君の世代の記憶でいうと、以前は深夜の時間帯はもっと世の中に活気やエネルギーがあふれていました。
とくに若い人は夜通し遊ぶというようなことは平気の平左で、各々なにをやっていたのかはともかく、明け方に帰るなんぞ朝メシ前でしたし、当時の中年世代だってもっとエネルギッシュだったように思います。

過日、連休で遠出をしたところ終日猛烈な渋滞に遭い、疲れてボロ雑巾のようになって帰ってきたことを書きましたが、それほど日中の人出はあるのに、ある時間帯(おそらく8時から9時)を境に、動物が巣穴に戻るように人はいなくなります。
以前より、明らかに早い時間帯に、当たり前のように帰宅の途に就くのが社会風潮化しているよう思われます。

昔は厳しい門限なんかを恨めしく反抗的に思うことがあったのに、今じゃそんなものはなくても、自然に、ひとりでに、申し合わせたようにさっさと帰って行ってしまう真面目ぶりには驚くばかりです。
それだけ、夜の外出が楽しくないこともあるしでしょうし、翌日に備えるという配慮も働くというのもあるでしょう。あるいは体力気力おサイフの中も乏しいのかもしれませんし、それ以外の複雑な要因もあるのかもしれませんが、とにかく世の中全体に元気がなく、まるで社会そのものがひきこもりのような印象を覚えます。

深夜まで出かけるというのは、基本的には相手あってのことで、今時のように人と人とが淡白な交流しかしないようになると、わざわざ直接会って歓談し飲み食いする必要も、かなりセレクトされ限定的になるということかもしれません。
現代はある意味、どこか不自然な事情を含みながらの家族中心で、それ以外の交際はずいぶんと痩せ細ったようにも思います。

本屋に話題を移すと、あるのはたいてい同じ名前の店ばかりで、書店と言っても店内のかなりの部分はDVDなどのレンタル部門などが大手を振って、書籍の売り場はずいぶん剥られて肩身の狭い感じです。
置かれている本も、大半が雑誌かコミックか実用書のたぐいばかりで、もう少し本らしい本はないのかと思うのはマロニエ君だけでしょうか。

そんな本棚を見回していると、『自律神経を整えて超健康になるCDブック』というのがありました。
この部分が脆弱なマロニエ君としては、「聴くだけで痛みが消える!極上のリラックスを体感できる!」といった謳い文句に騙されてみたくなり、あえてこれを購入しました。

中には2枚のCDが付属しており、「自律神経を整えるCD」と「マイナス感情を消すCD」というのが付録として綴じ込まれていました。さっそくはじめの1枚を聴いてみましたが、変な電子音とピアノの意味もないようなメロディなどが延々と流れてくるものでした。
ほんのまやかしだとは思うけれど、不思議と聴いていて不快ではないし、万にひとつでも効果があれば幸いとばかりに、昨日からこれを鳴らしているところです。
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ピアノ持ち込み

日時計の丘という小さなホールが主催しているJ.S.バッハのクラヴィーア作品全曲連続演奏会。
その第9回を聴きました。

演奏は初回からお一人でこの偉業ともいえる連続演奏を続けておられるピアニストの管谷怜子さん。
この第9回では、イギリス組曲の第4番と第6番、ブゾーニ編曲のファンタジー、アダージョとフーガとシャコンヌが演奏されました。

これまでのコンサートでは、このホール所有で製造から100年を超すブリュートナーが使われていましたが、今回はブゾーニ版のシャコンヌの音域の関係などから、管谷さんご自身が所有されるシュタイングレーバーのModel168を運び込んでの演奏会となりました。

こだわりのピアノをわざわざ運び込んで行なわれるコンサートというのは、ホールの大小にかかわらず、そう滅多にあることではありません。
もともと日時計の丘はとても響きの素晴らしいスペースでしたから、そこで聴くシュタイングレーバーとは果たしてどんなものか、その点でも非常に期待をそそるコンサートでした。

シュタイングレーバーはドイツ・バイロイト生まれの銘器ですが、生産台数が少ないことや渋い音色、いわゆる商業ベースに乗った売り方をしていないためか、一般にはあまり知られていないけれど、世界最高ランクのピアノのひとつに叙せられるメーカーです。

サイズからいうと、数字が示す通り奥行きが168cmというのはグランドピアノとしても小型の部類で、ヤマハならC2よりも短いにもかかわらず、アッと驚くようなパワフルな鳴り方には、さすがに目を見張るものがあります。
まさに生まれながらに豊かな声量をもった特別な楽器というべきでしょう。

ここのブリュートナーが艶やかな中にも可憐に咲く水仙の花のような音であるのに対して、シュタイングレーバーはさすがバイロイトの生まれだけあってか、まさにワーグナーの歌手のような底知れぬスタミナをもった強靭なドイツピアノでありました。
シャコンヌでしばしば出てくる重音のフォルテッシモでは、この小さなホールの空気がしばしば膨張するようでした。

優れた楽器は演奏者を変えるという側面があるのか、管谷さんの演奏もこのピアノを日頃から弾いておられるせいなのか、年々パワフルになり、演奏の方向性すら少し変化してきたのでは?と感じるのはマロニエ君だけでしょうか。
激しいパッセージなど、目を閉じて聴いていると、シュタイングレーバーの逞しい鳴りと相まって、とても女性ピアニストが弾いておられるとは思えないような、まるで体が後ろへ押されるような圧倒的な音圧を何度も感じたほどです。

ピアニストとピアノの実力については十分堪能できたけれど、少し残念だったのは、今回の演奏会に合わせたピアノの調整が未完であったことで、もっと時間をかけて精妙適切な音作りがなされていたなら、さらに素晴らしい音を響きわたらせることができただろうと、この点はやや悔やまれました。

マロニエ君はシュタイングレーバーというピアノは関心を持って久しいし、CDなどもそれなりに何枚ももっているけれど、もう一つこれだという自分なりに音(ピアノの声)の特徴が掴めていないというのが正直なところで、これはひとえに自分の経験不足故と思われます。

調律師さんによれば、ずいぶん巻の硬いハンマーとのことで、実際かなりエッジの立った音でしたが、これだけ基礎体力のあるピアノなのであれば、むしろもっと弾性のあるハンマーであったらどうなのだろうと思ってしまいます。あたかもバイロイト祝祭劇場がオーケストラを舞台下に配置するように、むしろ間接的でやわらかな奥行きある響きを得たら、ある種の凄みのようなものが出てくるのではないかと思いました。

終演後、ここのオーナーの計らいで、せっかくなのでシュタイングレーバーとブリュートナーの聴き比べでもらいましょうということになり、管谷さんが同じ曲をそれぞれのピアノで弾いてくださいましたが、同じドイツピアノといってもまったく別のものでした。
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鍵盤蓋のロゴ

マロニエ君は、長いことピアノの鍵盤蓋の中央に埋め込まれたメーカー/ブランド名のロゴマークは、どうすればあれほど見事に木の中に金属を美しく埋め込むことができるのか、ただただ不思議でなりませんでした。

もし彫刻刀のようなもので木を削り、そこに曲線も多用される金属の文字を首尾よく埋め込むのだとすると、なんとすごい技術だろう!…というか、その完璧な技術とはいかなるものなのか、考えれば考えるほどまったくの謎でした。

とりあえず単純な想像としては、箱根の寄木細工のような細密な作業かと思ってみたこともありました。

しかし、ベーゼンドルファーの複雑で装飾的な文字、スタインウェイのほとんど細い曲線だけで出来ている琴のマークなど、あれをあの形のままに木を削って、そこへぴったり金属を埋め込むなどということが果たしてできるのか、できるとしたら、それはどれほどの高等技術であるのか、まるで想像ができなかったのです。

で、シュベスターを依頼している職人さんにそのことを聞いてみると、彫って埋め込むという手法もないわけではないけれど、大半は文字やマークの金属を所定の位置に並べて貼り付け、その金属と同じ厚みになるまで塗装を重ね、しかる後に面一になるまで磨き出すのだということを聞いて、あー、なるほどそういうことか!…ということで、長年抱え込んでいた不思議の答えがようやくにして解明されたのでした。

やはり浮世絵の彫師じゃあるまいし、木を彫っていたわけではないようです。
エラールの繊細な線など、あれをいちいち彫っていたとしたら人間技じゃありません。
木ではなく、塗装の厚い膜の中に埋まっていただけということなら納得です。

さらに付け加えると、それが年月とともに木が痩せてくる、あるいは塗料が痩せてくるなどの理由で、文字の周りが微妙に下がってくることがあるのだとか。
そういわれたら、新品のピアノの鍵盤蓋のロゴマークって、ほとんどあり得ないほど、異様なまでにまっ平らですもんね。
それが時間とともに、そこまでではない感じになるのも頷けました。

ただ、木目仕様の場合、透明のクリアだけを塗り重ねるのか、艶消しの場合も同じ手法なのか等々…疑問はあとからあとから湧いてきます。
輸入ピアノの古い木目仕様の中には、どうみても書き文字やデカールでは?というような、あきらかに金属ではないものもあり、そのつどやり方を変えているのかもしれません。

そういえば、ピアノのフレームに刻印されたメーカーのマークやロゴなども、いつだったか、砂型にその凹凸があるものだとばかり思っていたマロニエ君でしたが、あとからマークや文字プレートを貼り付け、上から塗装していかにも「もともと」みたいに見せるのだということを知るに及んで、たいそう驚いたというか、半分納得しながら、半分騙されたような気分になったことがあります。

それなら、同じ型から作られるフレームでも、マークやモデル名だけ変えて、さもそのピアノ/メーカー専用のフレームであるかのように見せかけることはいくらでも可能ですね。

というようなことから考え合わせると、以前あったディアパソンのフルコンも、ボデイは(カタログですが)見事にカワイそのものだったから、当時のGS-100あたりのフレームを使ってマークのところだけディアパソンのを貼ったのかも…、そういうふうにして作られたのかと思うと、なにやらちょっと価値が下がったような気がしたものです。

むろん、量販の見込めないコンサートグランドの設計をして、専用のフレームを作るということなど、よほど赤字覚悟の道楽でもない限りできることではないですが。
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いつも同じ位置

なまけ者にはなまけ者なりの言い分があるというようなお話。

ピアノは好きでも、なぜか練習は大嫌いなマロニエ君ですが、その練習嫌いの理由を考えてみたところ、もちろん第一には下手くそであるとか、暗譜が苦手といったいろいろの要素があるのですが、それ以外の、普段気づかない要因にひとつ行き当たりました。
それはピアノという楽器が大きく、絶望的に重いため、とても気軽には移動できないこと?…ということが関係しているような気がするということ。

ピアノはいつも同じ部屋の同じ位置から微動だにしないというシチュエーションで、おまけに室内なので照明などピアノをとりまく環境がいつも同じというか、要するに日々の変化とか新鮮味というものがまるでありません。もちろん新しい曲に挑戦する新鮮さとか、できないことができるようになったというような変化の喜びはあるとしても、単純に置き場所は一年365日いつもおんなじだということ。

床のカーペットさえインシュレーターがめり込むほど、いつも寸分たがわぬ位置にデンと鎮座するピアノに向かって、そのフタを開け、ひとり黙々とマズイ音を出しながら練習するのって、かなりクライ作業というか根気を要する行為だと思うわけです。

これがヴァイオリンやフルートの人なら、少なくともあっちを向いたりこっちを向いたり、部屋のド真ん中で弾くも良し、気が向いたら窓辺に近づくことだって、別の場所に移動することも可能です。

しかし、ピアノは基本的に「動く」ということから残酷なまでに切り離された楽器で、少なくとも自宅では必ず決まった場所でしか弾くことができません。
もし、部屋の模様替えなどであの重くて大きなピアノを動かすとなると、それなりの人手も必要だし、動かす・あるいは移動させるだけの確かな理由も必要になるし、その後気が変わってやり直しをするにも、同じだけの人員やコストがかかるため、そんな面倒くさいことはまずやろうとは思わないという方がほとんどだろうと思います。

そうなると、やっぱりピアノはいつも同じ部屋で不動の体勢をとっており、同じ向きで黙々と練習する以外にありません。
もしこれが、(さすがに別の部屋とはいわないけれど)少なくとも日によってピアノの向きや位置を自在に変えられるとしたら、練習する側の気持ちもかなり気分転換できるのではないかと思うのです。

実をいうと、もう何年も前のことでしたが、親しい調律師さんの仲介により、ホールなどで使用するグランドピアノ用のピアノ運搬機をお世話していただき、マロニエ君の自宅には、このいかにも場違いな装置があることはあるのです。
どこから出てきたものかは知りませんが、中古でこれが出たというので値段を聞いてもらったところ、新品はかなり高額であるにもかかわらず、需要もないのか驚くような破格値だったので即決して我が家に運び込んでもらいました。しかし、さすがにコンサートグランドまでリフトして動かせる機能があるだけのことはあって、想像よりずいぶん大型だったことに驚き、家人は見るなりこんな大きくて不体裁なものを部屋に置くことに対して眉をひそめたものでした。

いらい、ピアノの下にはこの運搬機が、親象の下に小象が入り込むようにいつも入っており、しかも色はベージュで大きく目立つこともあってか、はじめてマロニエ君宅に来た人からは「これ、何ですか?」という質問を何度かされたことがあります。

ともかく、この運搬機があるおかげで、マロニエ君の場合はグランドピアノをたったひとりで動かすことができるにはできるのですが、それでもピアノを浮かせるには大きく重いハンドルをせっせと回し続けるなど、うっすら汗ばむほどの作業で、とても気軽にやろうというなことではありません。
しかもピアノを家具や壁にぶつけないよう、大きなピアノのあっちにまわって押したりこっちにきて引き寄せたりと、モノが数百キロある故にかなりの重労働となります。

というわけで、もし動かすとしても大変、またもとに戻すのも大変というのを考えると、なかなか実行には至らず、かくしてピアノはいつも同じ位置にあるのです。
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塗装は下地

このところ、シュベスターの外装の補修をお願いしてある関係で、毎週のように工房へ通っていますが、お忙しいようで作業は思ったりもスローテンポです。

以前も書いたように、その塗装工房は運送会社の倉庫の一角にあるため、そこに行くには冷え切った倉庫の中を通り抜けていくことになります。
しかもマロニエ君が行くのはだいたい夜なので、人気もほとんどなく、照明の絞られた巨大空間の中には、おびただしい数のピアノが仮死状態のようにしてやたら並んでいます。
それらが次の買い手を待っているのか、どういう今後が待っているのかわからないけれど、いずれにしろ普段はなかなかお目にかかることのない独特な世界であることは確かです。

ピアノとピアノの間は、人がなんとかひとり通れるようになっており、それらの間を進んで倉庫の片隅にある塗装工房へ到達するという感じです。

ここで、わがシュベスターは長年の間についてしまった小キズなどを修復され、少なくとも見た目は新しく生まれ変わろうとしているわけですが、手がけてくださる職人さんは日中は調律師としてのお仕事をこなされ、夕方以降ここに来て木工や塗装のお仕事をされているので、毎日朝からそれだけに専念できる場合と違い、作業は少しずつしか進みません。

しかも、ピアノ専門の木工職人というのは、本当に稀少な存在なのだろうと思います。
とくに現在お願いしている方は「塗装や木工もできる」というようなレベルではなくて、それ自体がかなり得意でお好きのようで、こだわりをお持ちのようでもあり、全国の木工の競技会のようなものにもしばしば出場されては、なにがしかの賞をいつもとっておられるような方なので、ピアノの整備の延長作業として塗装も覚えましたというたぐいの方とはかなり違うようです。

だからなのか、話を聞いていると、現在こちらの分野で抱えておられるピアノの数だけでも30台近い!のだそうで、その「混み具合」には思わずのけぞってしまいました。しかも先述したように、昼は調律をしながら夜は木工塗装という兼業なので、作業の進捗も思うようにはいかないだろうと思います。
とくに塗装は天候にも左右され、乾くのを待つ時間も必要となるため、普通の作業のように根を詰めればよいというのではないところがデリケートで難しい部分のようでした。

マロニエ君のシュベスターも、まず最初の2週間ぐらいは放ったらかしにされ、先日ようやくにしてピアノ本体が作業エリアに移動され、あちこちに散見される小さな凹みなどの傷を埋めるパテの作業がやっと始まりました。
それから1週間後に行ったら、左右の腕(鍵盤両脇のボディの部分)の部分から足にかけての塗装までが終わっていて、その美しさにはおもわず目をパチクリさせてしまいました。時間はかかるけど、非常に丁寧で、良心的な仕事というのは専門知識のないシロウトが見てもわかりますね。

さらに嬉しかったことは、ピアノの年代に合わせて塗料もラッカー系のものになるので、プラスチックの樹脂をドロリとかぶせたようなポリエステル系の陶器みたいなつるつるの感触ではなく、そこになんともいえない木で作られた楽器といった風合いが保たれていることでした。

ここまでくるのに、倉庫到着からすでにひと月近く経ったような印象。
塗装というのは、塗り始めたら早いらしいけど、その前段階の下処理は何倍も大変で、これは車でも何でも基本は同じのようです。

次は、このピアノの中で最も難所とされる鍵盤蓋の補修と塗装で、ついにその段階を迎えつつあるという感じです。
マロニエ君の買ったシュベスターは、50号という最もシンプルなデザインのモデル(それが気に入っている)ですが、濃い目のマホガニーであるぶん暗い色調の中へ沈み込んだように木目があり、それを損なわずに悪いところを剥がしていくのが至難の業だとのこと。

しかもこの鍵盤蓋は、閉めた状態の外側の部分にかなりひどい傷みがあり、部分的に好ましくない補修をしたらしい形跡があるとかで、それがさらに作業を厄介にしているようでした。
いよいよ今週はその作業に入るとのことだったので、予定通りに行けば、果たしてどんな仕上がりになるのかわくわくです。

それにしても、一口にピアノ運送業といっても、そこそこの規模になると、大型のトラックが何台も控えていて、夜遅くでも出発したり到着したりという動きがあるのは、まさにピアノの物流基地というか、それが夜ということもあってかどことなく幻想的な感じがあるものです。
これだけの数のピアノが昼夜を問わず行交う中から、個々のピアノがそれぞれのオーナーのもとへと届けられるということは、なんだか不思議で、楽器と人が「赤い糸」で結ばれているんだなあという気がしてしまいます。
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『蜂蜜と遠雷』

知人からの情報で、いま話題だという小説『蜂蜜と遠雷』を読了しました。

この作品が直木賞受賞などというのはマロニエ君にとってはどうでもいいことだったけれど、内容がピアノコンクールを題材とした異色の小説ということで、珍しさに押されて読んでみることにしたのでした。
書店で手にとったときは、予想よりもずっと分厚い本で、文字列も上下二段組にされているなど、文字数もかなりのものでしたが、少し前の『羊と鋼の森』がそこそこおもしろかったこともあって、それなりの期待と興味をもって購入しました。

しかし(あくまでも個人的感想ですが)、それは読み続けることが苦痛になるほど内容に乏しく、表現も平坦安直で、この作者がそもそも何を言いたいのか、読者に何が伝えたかったのか、この作品の主題は何であるか、まったく不明。いくら読み進んでも、その核心が浮かび上がり、作品全体が収束してくる感覚を得ることはできませんでした。
作者は恩田陸という女性で、かなりピアノがお好きな方なんだそうで、それは甚だ結構なことですが、小説として作品にするための目的、周到な準備とか構想などがほとんど練られていないのでは?と思わざるを得ない印象でした。

文章においても表現の妙とか格調というものがまるでなく、ありふれた実用書の文体のほうがよほどマシではないかと思えるほどだったし、だいたい本を読むと、大いに膝を打つこと、ここは覚えておきたいなというような部分がいくつもあって、マロニエ君は極細の付箋のようなものを貼り付けて挟んでおくこともあるのですが、そういう部分も見事なまでに皆無。

こう言ってはなんだけれど、でもこれは直木賞まで受賞して、プロの文芸作品として立派な装丁をされて書店で大量販売されているものなのだから、この際遠慮なく言わせていただくと、構成など無いに等しいし、綿密な下調べや細かい調査がなされているとも感じられない。表現も陳腐な言い回しの連続で、各コンテスタントの心理描写に至ってはほとんどマンガの世界で、あくびの出るような文章が読んでも読んでも際限なく続くような印象。

逆に感心したのは、あれだけ内容のない(とマロニエ君は感じる)ものを、よくぞあれだけの長々とした文章にできたものだという、逆の意味での才能に感心してしまうほどでした。いつ果てるともない意味のないおしゃべりのように、読まされる読者にとってはほとんどどうでもいいようなことが、延々何百ページにもわたって繰り返されていくさまは、ほとんど苦痛でただもう疲れるし、途中で何度やめようかと思ったかしれません。

それでも、せこいようですが、せっかく2000円近いお金を出して購入したということと、好きなピアノが題材ということで、ほとんど意地と惰性だけで読み続けたものの、読むのがこれほど苦痛だった作品は久々でした。
むかし三文小説とか少女小説とかいうものがあったという話を聞いた記憶があるけれど、それはこういうものかと思ったり、とにかく最後まで読むことに自分としてはかなりのエネルギーを使わざるを得ませんでした。実に10日ほどもかけてようやく終わってみたものの、これは一体何だったのか、読んでいる最中よりますますわからなくなる、すっきりしない奇妙な経験でした。

文章や表現も、およそプロが書いたものというより、自費出版のアマチュアみたいで、それがともかくも直木賞をとったという事が(直木賞というのがどれほどのものか良くは知らないけれど)輪をかけて驚きでした。
作中にはピアノコンクールで勝ち進んで入賞あるいは優勝することがいかに過酷であり、人生をかけた戦いのように繰り返し述べられていたけれど、それは音楽コンクールだけの話で、文学界ではまるで事情が違うんだろうか…などとつい思わずにはいられないマロニエ君でした。

『蜂蜜と遠雷』というタイトルもよくわからないし、センスあるタイトルとは思えません。
…いま、たまたまセンスと書いたけれど、この作品で最もマロニエ君が違和感を覚えたのは、作家のいかにもアマチュアっぽいセンスの羅列だったからかもしれません。
ちなみに、これだったら専門性に優れたマンガの『ピアノのムシ』のほうが、はるかにクオリティは高く、接するに値する作品だとマロニエ君は思います。

あまりに驚いたものだから、アマゾンのカスタマーレビューを見てみると、概ね好意的な高評価が並んでいる陰で、マロニエ君が激しく共感できるような酷評もかなり数多く並んでいて、読んでいて「怒りすら覚えた」というのがあったときには、少しは溜飲の下がる思いがしました。

こういう作品のどういうところがどう評価されて権威ある賞を獲得し、書店でおおっぴらに販売されるのか、マロニエ君のような古いタイプの人間には今時の世の中の価値観やシステムそのものが、ますますもって難解でわからなくなる気がするばかりです。
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隠れた名手

草野政眞(くさのまさちか)さんというピアニストをご存知でしょうか。

以前どこかのピアノ店のブログですこし動画を見た記憶があったのですが、その後お名前さえわからなくなってしまって、今回YouTubeで偶然見つけました。
はじめはえらく腕のいいピアニストがいるものだと思った程度だったのですが、ショパンの英雄などはちょっとこれまでに聴いたことのないような雄渾な演奏で、まったく臆するところがなく絢爛としていて常に余裕があり、技術的にも並ではないものがあって唸りました。

準備した作品をそのままステージで間違いなく再現するのではなく、その場の感興に委ねている部分のあることが、音楽という一過性の芸術をより鮮明で魅力的なものにしていると思いました。
こういうものに触れたとき、演奏芸術の抗しがたい魅力を再認識し圧倒されてしまいます。

この英雄ポロネーズは若い頃の演奏のようで、J.シュトラウスの皇帝円舞曲(えらく演奏至難な編曲のよう)などはそれよりは後年のもので白髪も増えておられるけれど、いかなる難所が来ようともがっちりと危なげなく弾きこなしておられるのは呆れるばかり。
当然ながら技巧はものすごいけれど、アスリート的優等生とはまったく異なり、演奏には音楽の実と生命力があり、息吹があり、グランドロマンティックとでもいいたい迫力と重みが漲っています。

突出した技巧をお持ち故か、演奏曲目もタンホイザーなど重量級のものが多いけれど、いずれもすんなりと耳に入りやすい明晰な音楽として良い意味でのデフォルメがなされており、聴衆に難解退屈なものを押し付けるようなところがまったくありません。
いかにも自分の信じるスタイルのピアノを弾くことだけに徹した謙虚かつ一途な姿勢、分厚くて大きな手、そこから繰り出される密度の高い、腰の座ったリッチな音の洪水は、ちょっと他の演奏家からは聴けない充実したもの。

完全に楽器が鳴りきっており、その男性的な美音はどこかグルダに通じるものがあるようにも感じます。
マロニエ君も自分なりにいろいろなピアニストには注意を払ってきたつもりでしたが、この草野さんはまったく存じあげず、こういう超弩級のピアニストが日本国内にひっそりと存在しておられるという事実に驚き、この思いがけない発見の嬉しさと、想像を遥かに超える華麗な演奏には完全にノックアウトされました。

特筆すべきは、技巧は凄いけれどもたんなる指の回る技巧のための技巧ではなく、多少大袈裟に言うなら、現代の正確無比な演奏技巧の中に19世紀ヴィルトゥオーゾの要素というか精神が少し混ざりこんだようでもあり、聴く者は理屈抜きに高揚感を得て満足する。

現代には、ただきれいな活字を並べただけのような、楽譜の指示にもきちんと服従していますといわんばかりの無機質な演奏をするピアニストは掃いて捨てるほどいますが、この草野政眞さんのピアノはその場で演奏の本質みたいなものが主体となり、反応し、組み上げられる手描きの生々しさがあり、必要以上に楽譜通りの演奏であろうとして、作品や演奏そのものが矮小化された感じは微塵もありません。
むしろ楽譜に表された以上の大きさをもって聴くものの耳に迫ります。

それでいて音楽に対する謙虚な姿勢と最高ランクの技巧が支えているというところが聴く者の心を揺さぶり、大きな充実感に満たされる最大の理由なのかもしれません。

ネットでこの方のお名前を検索してみると、ホームページを発見しました。
さほど更新された気配もない感じもしましたが、4枚のCDがあって購入可能であることを発見!
さっそく購入申込みをしてすべてを聴いてみましたが、基本的にはYouTubeの画像と同様の印象。
ただし、今日的基準でいうと演奏がやや荒削りで(そこが魅力なのだけれど)、出来不出来があることも感じないわけではありませんでしたし、すべてライブ録音なので、録音状態も良好とはいえず、これだけの素晴らしい演奏をもっとクオリティの高い録音で残せたらという無念さが残ります。

奥様からメールなども頂きましたが、これだけの腕と演奏実績がありながら、信じ難いことに演奏機会は少ないのだそうで、時代に合わないのだろうかというような記述もあり、その素晴らしさ故につい胸が詰まりました。
しかし、マロニエ君にしてみれば今時の退屈極まりないコンサートの中では、例外的に最も行ってみたい演奏のひとつで、これがヨゼフ・ホフマンやホロヴィッツの生きた頃、あるいはその残り香のある時代であれば、おそらくはもっとも絶賛されるピアニストのひとりだろうと思います。

現に彼の演奏を聴いた往年の巨匠シューラ・チェルカスキーはやはりこの草野氏を激賞しており、さもありなんと思いました。

どんな世界にも、時代背景や流行というのはあるけれど、良いものは時代を超越して良いわけで、これほどの方が不当な評価しか受けられないというのは、いかに日本の聴衆のレヴェルが低いのか、周りの理解が低いのか、国内の音楽環境の偏狭さを恥じなければならない気がします。

マロニエ君はコンクールなどを全面否定するつもりはないけれど、著名コンクールに優勝というような肩書がつかないとチケットも売れず、コンサートそのものも成立しないというのはまったく情けないことだと思います。
間違っていようと何であろうと、自分の「耳」と「感覚」を信じることができることが、一番大切だと信じます。

この方の演奏を聞くと、技巧で鳴らしたユジャ・ワンなどもどこかコンパクトに感じるし、とりわけ迫り来る音圧などは比較になりません。
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渋滞地獄

ちょうど10日近く前のこと。
最近は滅多なことでは遠出をしなくなったこともあり、先日の3連休の真ん中の日曜日、大した目的もないけれど友人と熊本あたりまで行ってみようかということになりました。

完全な夜型人間のマロニエ君としては、通常は休日の午前中から出かけるということなどまずないのに、この日はなぜか早く目が覚めたことでもあり、極めて珍しいことに午前中からの出発となりました。

福岡から熊本までは約100kmほどで、東京で言うなら御殿場あたりに行くぐらいの距離です。
近頃のネット情報を活かして、夜は食ログで熊本市内の一番人気らしい有名なとんかつ店で評判のロースカツでも食べようということになり、意気揚々と出発したのでした。

ただし、行った先にこれという目的はなく、熊本城はじめ多くの観光地は震災の影響で立ち入りが制限されているらしく、行ってみたかった漱石の旧居跡なども、フェンス越しの見学しかできないとかで、無理に何か決めることもなく、とりあえずぶらりと行ってみようというわけです。

福岡から熊本に行くには国道3号線を南下して太宰府インターから九州自動車道に入るわけですが、街中の道も心なしか車が多い感じだったものが、いよいよ3号線に入ると思いがけない渋滞にびっくり。
信号や交差点などで解消される気配もなく、とにかく延々と渋滞は連なっており、ついにはインターまでその状態が続きました。

驚いたのは、3号線の上を走る都市高速が「渋滞」を理由に各ランプは入場が禁止状態となっているほどで、ときどき見える上の道さえ車の動きはノロノロしていることでした。これはかなり厳しい状況だとは察しましたが、それでも高速本線に入ってしまえば多少流れが遅くとも信号はないわけだから、なんとかなるだろうとぐらいに思っていると、ETCのゲートの前後まで渋滞しているし、3車線の高速本線もびっしりと多くの車で埋め尽くされており、かろうじて動いているという状態。

正直いうと、この時点で家を出てから早くも1時間以上が経過しており、強い日差しもあってもうすっかり疲れてしまっていましたが、対向車線も似たようなものだし、せっかく久々に重い腰を上げて出てきたというのに、いまさら次のインターで降りてUターンというのも癪なので、意地を張って走り続けることに。

途中、昼食も摂りたいし、トイレにも行きたいので最寄りのサービスエリアに入ろうとすると、それがまた大行列。
なにこれ!と思ってとりあえずここに寄るのは止めにしてそのままやり過ごし、数十キロ先にある次のサービスエリアに入りました。
さきほどではないものの、こちらもかなりの満車状態で、駐車するだけでも何人もの誘導員がでており、彼らの指示によってなんとか車を停めることができるなど、とにかくひとつひとつのことをするのがいちいち大変。

車から降りても人人人で、フードコートみたいなところの席を取るだけでも戦いで気が休まりません。
こうなると、もうなんでもいいから食べられるものを食べて、再び出発しますが、本線に出るのもズラッと並んでいるし、本線では止まることがなかったというだけで、熊本インターを降りるまでノロノロ状態は続きました。

熊本の市街に入ったときはすっかり疲労困憊、もうグダグダに疲れてしまってどうでもいい気分。これからどこかに行ってみようという気にもならないし頭も回りません。
惰性で走っていると、有名な「水前寺公園」の標識が目に止まったので、とりあえずあてもないことではあるし、一刻も早く車を止めて休息したいという理由で、あまりにベタな観光地だとは思ったけれど、とりあえずそこへ行くことに。

水前寺公園は連休というのに意外に人が少なく、車もあっさり駐車場に置けて、トボトボ公園目指して歩きましたが、来園者のほとんどが中国からの観光客ばかりという感じでした。もうこっちは疲労の極致なので庭園内を散策してみる気にもなれず、ベンチに座ってとにかく休憩することに。

この時点で、まだ時刻は16時前で、途中でおやつまで食べたものだからお腹はいっぱいだし、夕食の時刻まで何をする気にもなれず、目指すとんかつ屋には行ってみたかったけれど、それよりも早く帰りたいという気分のほうが上回ってしまい、仕方がないからゆるゆると帰ろうかということになりました。
それでもせっかくなので、熊本城の瓦の落ちてしまった天守の姿だけでも見ていこうということになり、そちらへ走って見ると、車の窓越しではありますが傷を負った名城の、それでも威厳ある姿を見ることはできました。
むろんきれいに整備された城も素晴らしいけれど、この傷ついた感じというのも、むしろ妙な風格を醸し出しているように感じました。

お城のまわりの道に沿って走ると、崩れた石垣を修復しているところも何ヶ所かかり、この熊本の宝を早く元の姿に戻そうという作業が始まっていることが伺えました。

福岡に戻るにも、本来のインターは大渋滞でとても普通に下りられるとは思えず、2つ手前のインターで降りましたが、それでも最後の最後まで激しい渋滞が収まることはついになく、終日ストップ&ゴーから解き放たれることはありませんでした。
とくに日没時間帯の高速でのノロノロ運転は、恐ろしいまでの睡魔との戦いで、事故だけは避けねばならぬと普段以上のエネルギーを要して、もう二度とゴメンという感じでした。

考えてみればこの日は連休の中日でお天気は抜群、しかも予報では翌日は一転して終日雨ということになっていたので、誰もがこの日に集中してしまったらしいことが途中でわかりました。
アホとしか言いようのない読みの甘さというか、なんともバカなドライブで、まさに骨折り損のくたびれ儲けそのものの一日でした。
一体、何をしに行ったのやら今だにわかりません。
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赤松林太郎

最近ときどき耳にする新鋭ピアニストの中に赤松林太郎という名があるのをチラホラ見かけます。
青柳いづみこ氏の著書『アンリ・バルダ』の中でも彼の名は出てきたし、コンクールだったか、ネットだったか、詳しいことは覚えていませんが、マロニエ君の漠たるイメージとしてはかなりの実力派で、くわえて最近よくあるピアニストとはひと味違った独自の何かをお持ちの方ではないかという、これといって根拠もない勝手な想像をしていたわけです。

経歴を見ても、通常の音大出身者ではないのか、神戸大学卒業後にパリに留学されたということがあるのみで、どういう経過を辿ってピアニストとして名乗りを上げた人かというのがいまいちよくわかりませんし、そのあたりはあえてぼかされているのかもしれません。

ただ、誤解しないでいただきたいのは、マロニエ君はこういう風に書きつつも、実は経歴なんてまったくどうでもよく、むしろ普通とは違った道を歩み、それでもピアニストとしての才能が溢れている人が、半ば運命に押し出されるようにピアノ弾きのプロとして芸術家になるほうが遥かに魅力的であるし、個人的関心も遥かに高いとはっきり言っておきたいと思います。

逆に云うなら、名前を聞くだけで飽き飽きするような一流音大を「主席かなにかで」卒業し、海外に留学して、有名な指導者につき、あれこれの著名コンクールに出場して華々しい結果を収め、「現在、幅広い分野で世界的に活躍している最も注目されるピアニストのひとり」などとプロフィールに書かれる人にはまるで興味がないし、演奏を聴いても大半は魅力も感じません。

その点では赤松林太郎氏というのは、そういう感じがなく、どんな人なんだろう、どんな演奏をする人なんだろう…という一片の興味があったわけです。

さて、先日CD店の店頭でその赤松氏のCDが目に止まりました。
「そして鐘は鳴る~」というサブタイトルがつけられていて、曲目はアルヴォ・ペルト、ヘンデル、モーツアルト、シューマン、グラナドス、マリピエロ、ドビュッシー、スクリャービン、ラフマニノフ、マックス・レーガーという実に多彩なもので、すべて「鐘」に由来した作品を集めたもののようでした。
個人的には「鐘」というワードで括ることに何の意味があるのかわからなかったし、さして聴きたい曲ではなかったけれど、それをいっても仕方がないので敢えて購入。

演奏そのものは、今どきのハイレヴェルな技術の時代に出て来るほどの人なので、ぱっと聴いた感じはキズも破綻もむろんあろうはずもなく、すべてが見事なまでに練り上げられている演奏がズラリと並んでいました。ただ、期待に反してこれというインパクトもなく、何か惹きつけられる要素も感じぬまま、要するによくわからないピアニストという感じに終始しました。
聴いていて、マロニエ君個人はちっとも乗ってこないし、音楽の楽しさというと言葉では軽すぎるかもしれませんが、聴いているこちらに演奏を通じての作品の核のようなものが伝わるとか、演奏者のメッセージが入ってこないもどかしさを感じました。

少なくともマロニエ君は、演奏を聴く限りにおいては、さまざまな作品を通じて演奏者が投げかけてくる価値観やエモーショナルなものを受け取って、それを交感しながら共有したり楽しんだり(ときには反発)させられるところに、演奏という再生芸術の醍醐味があるのだと思っています。

ところが、そういうものがこの赤松氏の演奏から、未熟なマロニエ君の耳に聴こえてくることはなく、アカデミックで慎重、完璧、一点の曇りもなく演奏作品として完成させようという強い意志ばかりが感じられました。もちろん後に残るCD作品として、精度の高いものに作り上げようという意気込みもあったのかもしれませんし、時代的要求もあることなのでこういう方向に陥ることもまったくわからないではないけれど、しかし演奏をあまりにスキのない商品のようにばかり仕上げることが正解なのかどうか、マロニエ君にはわからないし、そういうスタイルは少なくとも自分の趣味ではありません。

少なくとも心が何らかの刺激を受け、なんども聴いてみたいというものではなくては演奏の意味をどこに見出して良いのやらわかりません。

ピアノはヤマハのCFXを使用とありましたが、今回は正直楽器云々をあまり感じることはありませんでした。
全体に各所で間を取り過ぎるぐらいの慎重な安全運転で、どちらかというと音も詰まったようで開放感が感じられません。むろん基本的には美しいピアノ音ではあるものの、ピアノの音を聴く喜びというものとはどこか違った製品の美しさのように感じました。
これには録音側の技術とかプロデュース側の責任も大きいかもしれませんから、むろん演奏者ばかりを責めるわけにもいかないでしょう。

レーベルはキング・インターナショナルですが、録音自体はいわゆる日本的クオリティ重視で、盆栽のように小さくまとまった感じがあり、豊かで広がりのある響きとか、ピアノから発せられる音の発散といったものがまったく感じられませんでした。
つい先日、30年近く前に録音(DECCA)のアンドラーシュ・シフによるバッハのイギリス組曲の録音の素晴らしさに感動したばかりだったことも重なって、余計にその違いが耳に目立ったのかもしれません。

演奏も、録音も、実に難しいものだなぁ…とあらためて感じないではいられないCDでした。
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単なる粗悪品

部屋の隅にぽっかり空いた隙間にちょうどいいくらいの縦長のCDラックはないものかと思っていたら、ニ❍リでまさに求めているサイズの商品がありました。
自分で組み立てる商品ですが、価格も非常に安いし、これはしめたと思ってさっそく購入、車の助手席とリアシートの半分を倒すなどして家に持ち帰りました。

ちょっとした家具を自分で組立るのは、IKEAでかなり鍛えられているから、ニ❍リのCDラックぐらいチョロいもんだと思ってとりかかったのですが、思いがけなく組み立てに苦労させられ、説明書通りにやってもなかなかできません。
とくに背面に差し込むべき化粧板は、どれだけ慎重かつ丁寧に組み立ててもどうしても寸法が合わず、その上からかぶせるように取り付けることになる棚板の寸法が合いません。
こちらの作業ミスではないかと何度もやり直しをしながら確かめましたが、背面板の寸法が長過ぎることは間違いない事実とわかり、組み立てを進めるには5mmほどカットしなくてはいけないという、信じ難い局面に突き当たりました。

とはいうものの、一般家庭でベニヤの化粧板をミリ単位で正確に切るというのは、簡単なようでなかなかできません。
もちろんノコギリなんか使っていてはできないし、あれこれ方法を考えたあげく、正確を期するために普通の文具用のカッターで根気よく切る以外にないということになりました。そうはいってもこれが甘くない作業で、少しずつ、カッターの刃を板へ深く切り込ませていく以外になく、定規をあてながら何十回もこれを繰り返しやって、ようやくにして切離に成功したときには、腕から肩にかけてワナワナ震えるようでした。

これでようやく外側のカタチはできたと思ったら、こんどは任意の位置にはめ込みができる8枚の棚板の留め具というのが、見るからにヨレヨレのプラスチック製で、これで本当に大丈夫なんだろうか…と不安になりました。

商品のできが悪いため説明書に忠実に作業してもピシッとできないというのは、作っていてもどうしようもなく気分が下がり、疲労も倍加します。
とりあえず床に平積みになっているCDの山を片っ端から放り込んでいきましたが、2〜3日もすると、CDの重みでそのヨレヨレのプラスチックの留め具がかなり傾いており、本来なら直角にはまっていなくてはいけないのに見るもだらしなく下向きに曲がっています。
「いわんこっちゃない!」と思って上下の棚を検証すると大半がこの状態。

ちなみにこのヨレヨレ留め具には金属の小さなネジも付属していますが、そのための穴もなく、ネジで固定するには遮二無二ネジを食い込ませながら押し込んでいかなくてはならないし、それをすれば任意に棚の間隔を変えられるという利点は失われ、固定状態となります。

ニ❍リの商品とはこんなものかと大いに憤慨しましたが、かといって今からまた返品するのも大変だし、さりとてこの留め具を使っている限りは棚板はゆらゆらして解決に至りません。

しかたなく穴の直径をできるだけ正確に測り、ホームセンターに行って「差込タナダボニッケル 7☓5」という、金属製の見るからに立派な留め具をひとつ(4個入り)買ってみました。
本当は一気に買いたいけれど、もし合わなかったらムダになるので、まずはテスト購入です。

果たしてサイズはバッチリで、結果的にはこれでよかったわけですが、あくまでそれが確認できただけの話で、再度ホームセンターへ出向いてあと7袋買わなくてはなりません。しかもそのホームセンターというのが自宅から10km以上もあるので、さていつになることやら…。

さらにいうと、中央の棚は3段階の中から一か所を選んで外側からネジで固定する構造ですが、のこり8箇所あるネジ穴はむき出しで、目隠しのシールさえ付属していません。なにこれ?

ニ❍リの安さというのは、こんな品質と、不親切と、いい加減さによるものだということが身にしみてわかりました。
これなら、そこらのディスカウントショップで売っている3段ボックスのほうがちゃんとしており、いくら安くたって、あんな粗悪品ではもう二度と買いません。
『お値段以上…』というCMも虚しく響きます。
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ご対面

今回のシュベスターの運搬と外装修復には大きな偶然が絡んでいました。
その運送会社の福岡での倉庫と、知り合いの技術者さんの工房は、なんと同じ建物内だったのです。

そもそも運送料金を尋ねたのは、携帯の中に入っている何件か登録しているのピアノ運送のうちのひとつだったのですが、そこが結果的に最も安かったわけですが、あとから気づいたことには、知り合いの技術者さん(調律師でありならがピアノの塗装などを中心とする木工の職人さん)の工房が、このピアノ運送会社の中の一隅にあったのです。

ずいぶん前に、その塗装工房を見せていただいたことはあったけれど、なにぶん夜であったし、周囲は真っ暗で、運送会社の名前も何もろくにわからないままだったのですが、それがあろうことかたまたま電話した会社だったというわけ。

おかげで、信州方面からはるばる運ばれてきたシュベスターは、わざわざマロニエ君の依頼しようとしている工房へ運び込むという二度手間を必要とせず、自動的にその木工工房がある倉庫へやってくるという幸運がもたらされました。

ただ、場所を移す必要がないとはいっても、いったん開梱し、作業後に再び梱包して納品となるわけで、その分の費用が必要だろうと思っていたら、それは免除してくださるとのことで、なんたるラッキー!

過日のこと、1週間の長旅を経てシュベスターが福岡の倉庫へ到着したとの連絡を受けました。
ちょうどこのときマロニエ君は風邪をうっすらひきかけて微熱があり、以前行ったときの記憶ではその倉庫はかなり寒かったので、普通だったら日をおいて出直すところですが、なにしろヤフオクでピアノの見ず買いという、とてつもない冒険をやらかしたブツがやってくるわけで、現物はどんなピアノか一目見たい、その音をわずかでも聞いてみたい、という衝動をどうしても抑えることができませんでした。

まるまると厚着をして、市内から4~50分ほどかかるその倉庫へ着いたときは、爽やかな青空の下に春の陽光が射すような清々しい天候でしたが、さすがに倉庫内は冷蔵庫の中かと思うほどの低温状態でした。

さて、ご到着遊ばしていたシュベスターは、わりに入口に近いところに置かれていましたが、ほぼ写真で見た通りの外観で、両足や腕の角の部分に幾つかの傷があることと、鍵盤蓋の外側(閉めたときに上面になる部分)がかなり傷んではいましたが、それ以外は思ったほどでもなく、縦横平面部分にはかなり艶もあって、それほど悪い印象でもありません。

肝心の音はというと、これはもうヤマハやカワイとはまったく異なる、独特の音色でした。
全体にパワー感にあふれているとか、すごい鳴りをするという系統ではないけれど、弾けばフワンと響いて音楽的な息吹を感じさせてくれるものでした。
一音一音が太くてたくましい音というのではなく、出てくる音に艶と表情があり、知らぬ間に温かさがあたりに立ちこめて、そのやさしい響きは和音でも濁らない透明感があるようでした。

シュベスターのアップライトはベーゼンドルファーを模倣したという事を読んだことがあり、へぇ…そうなんだぁ…と思うけれど、マロニエ君の耳にはどちらかというと甘くかわいらしい響きを好むフランスピアノのような印象でもありました。
いずれにしろ、一部の人に高い人気があるというのはなるほどわかる気がしました。

中は、とくにきれいでもないけれど、かといって、あれも交換これも交換というような悲惨な状態ではなく、しばらくはこのまま調整しながら使えそうな感じであったことも安心できました。

塗装面は艶は充分あるけれど、塗装そのものが現代のものとは違うのだそうで、見る角度によってはピーッとおだやかなヒビが幾筋か入っていたりしますが、これを完全に取るには全部剥がして再塗装する必要があるとのことでした。
しかし、その技術者さんの意見としては、そういうピアノなんだし、この程度であればこれはこれで味として残っていてもいいのでは?というもので、その点はマロニエ君も同感でした。

それが許せないくらいなら、そもそも新品か完璧にレストアされたものを買うべきですよね。
というわけで、安心しつつ帰宅したころにはみるみる体調は悪くなり、夜には熱が38℃を越してしまいました。
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自室にピアノを-2

小規模メーカーの「手工芸的ピアノ」に対する評価は、ヤマハやカワイのような工業製品としての安定性を良しとする向きには賛否両論あるようで、その麗しい音色や楽器としての魅力を認める方がおられる一方で、あまり評価されない向きもあるようです。
たしかになんでもかんでも手造りだから良いというわけではないのは事実でしょう。
パーツの高い精度や、ムラのない均一な作り込みなどは優れた機械によって寸分の狂いもないほうが好都合であることも頷けますし、交換の必要なパーツなどは注文さえすれば何の加工もなしにポンと取り替えれば済む製品のほうが仕事も楽でしょう。

ただ、手造りのピアノは職人が出来具合を確かめながら手間ひまをかけて作られ、いささか美談めいていうなら、その過程で楽器としての命が吹き込まれるとマロニエ君は思います。
材料もメーカーによってはかなり贅沢なものを用いるなど、とても現代の大量生産では望めないような部材が使われていることも少なくなく、これは楽器として極めて重要な事だと思うわけです。

むろん正確無比な工作機械によって確実に生み出されるピアノにも固有の良さがあることは認めます。
ただ、それをいいことにマイナス面の歯止めが効かないことも事実で、質の悪い木材をはじめプラスチックや集成材など粗悪な材質を多用して作られてしまうなど、果たしてそれが真に楽器と呼べるのかどうか…。

マロニエ君は音の好みでいうと大量生産の無機質な音が苦手なほうなので、べつに妄信的に手造り=高級などとは単純に思ってはいないけれど、多少の欠点があることは承知の上で、ついつい往年の手作りピアノに心惹かれてしまいます。
場合によっては下手な職人の手作業より、高度な機械のほうが高級高品質ということがあることも認めます。
それでも、「人の技と手間暇によって生み出されたものを楽器として慈しみたい」「そういうピアノを傍らに置いて弾いて楽しむことで喜びとしたい」という情緒的思いが深いのも事実です。

マロニエ君の偏見でいうなら、シュベスター、シュヴァイツァスタイン、クロイツェル、イースタインなどがその対象となり、まずはたまたまネットで目についたシュヴァイツァスタインに興味を持ちました。

戦前の名門であった西川ピアノの流れをくむというシュヴァイツァスタインはやはり手造りで、多くのドイツ製パーツを組み込んだ上に、山本DS響板という響棒にダイアモンドカットという複雑な切れ込みを施すことによって優れた持続音を可能にするという非常に珍しい特徴があり、このシステムはいくつかの賞なども受けている由。
しかし、メーカーに問い合わせたところ、この特殊響棒はとても手間がかかるため当時から注文品とのこと。すべてのモデルに採用されているというわけではなく、これの無いピアノも多数出回っていることが判明。

また、信頼できる技術者さんに意見を求めたところ、多くを語れるほどたくさん触った経験はないけれど、強いてその印象をいうと、それなりのいいピアノではあった記憶はある。でもとくに期待するほどの音が確実にするかどうかは疑問もあるという回答。
それからというもの、ネットの音源を毎夜毎夜、いやというほど聴きまくりましたが、マロニエ君が最も心惹かれるのはシュベスターということが次第にわかってきました。

ところが、シュベスターは中古市場ではかなりの人気らしく、ほとんど売り物らしきものがありません。
YouTubeで有名なぴあの屋ドットコムの動画もずいぶん見たし、あげくに電話もしましたが、古くて外装の荒れたものが1台あるのみで、今のところ入荷予定も全く無いらしく、「入荷したらご連絡しましょうか?」的なことも言われぬまま、あっさり会話は終了。

そんな折、ヤフオクにシュベスターの50号というもっともベーシックなモデルが出品されているのを発見!
とりわけマロニエ君が50号を気に入ったのはエクステリアデザインで、個人的に猫足は昔から好きじゃないし、野暮ったい木目の外装とか変な装飾なんかも好みじゃないので、シンプルで基本の美しさにあふれた50号で、しかも濃いウォールナットの艶出し仕様だったことは大いに自分の求める条件を満たすものだと思われました。

しだいにこのピアノを手に入れたいという思いがふつふつと湧き上がり、さすがに終了日の3日前ぐらいから落ち着きませんでした。
案の定、終了間際はそれなりに競って、潜在的にこのブランドを好む人がいかに多いかを思い知らされることとなり、入札数は実に90ほどになりましたが、幸い気合で落札することができました。
そうはいっても1台1台状態の異なる中古ピアノを、実物に触れることなくネットで買うというのはまったくもって無謀の謗りを免れなぬ行為であるし、眉をひそめる方もいらっしゃると思います。
マロニエ君自身もむろん好ましい買い方とは全く思っていませんが、さりとて他にこれという店も個体もないし、こうなるともう半分やけくそでした。

鍵盤蓋などに塗装のヒビなどもあり、知り合いのピアノ塗装の得意な技術者さんに仕上げを依頼することになりますが、果たしてどんなことになるのやら。
もしかしたら響板は割れ、ビンズルというようなこともないとは限りませんが、そんならそれで仕方ないことで、それを含めてのおバカなマニア道だと割り切ることにしました。
こちらから運送会社を手配し、先ごろやっと搬出となり、1000kmにおよぶ長旅を経て福岡にやって来ることになりますが、はたしてどんなことになるやら楽しみと不安が激しく交錯します。

ちなみにシュベスターのアップライトは全高131cmの一種類で、ものの本によればベーゼンドルファーを手本にしているとか。
たしかに動画で音を聴いていると、独特の甘い音が特徴のようですが、はてさてそのような音がちゃんとしてくれるかどうか…。
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自室にピアノを-1

自室を自宅内の別の部屋に引っ越しすることになり、年明けから一念発起して片付けを開始。
そこまでだったらいいのに、それに関連してまたも悪い癖がでしまいました。
その片隅に安物でいいから、ちょいとアップライトピアノでもいいから置きたいものだ…とけしからぬ考えがふわふわと頭をよぎるようになりました。

昨年末のこと、懇意のピアノ工房に1970年代のヤマハの艶消し木目のリニューアルピアノがあることを知り久しぶりに行ってみたのですが、外装の仕上げはずいぶん苦労されたようで、なるほど抜群に素晴らしかったものの、音は当たり前かもしれないけれど典型的な「ヤマハ」だったことに気持ちがつまづいてしまいました。

いっぽう、たまたま同工房にやはり売り物として置かれていた1960年代の同サイズのヤマハときたら音の性質が根底から全く違っており、マロニエ君のイメージに刷り込まれたヤマハ臭はなく、素朴で木の感じが漂うきっぱりした音がすることに、世代によってこうも違うものかと驚き、そのときのことはすでに書いたような記憶があります。

このときは美しい艶消し木目の魅力に気分がかなり出来上がっていたためか、音による違いの大きさは感じながらも、急に方向転換できぬままその日は工房のご夫妻と食事に行ってお開きとなりました。
マロニエ君としては、部屋の片付けがまだ当分は時間がかかりそうなこと、さらには壁のクロスの張り替えなども控えているので、そう焦ることはないとゆったり構えていたのですが、そうこうするうちにその1960年代のヤマハは売れてしまい、もう1台あった背の高い同じ時期のヤマハまで売却済みとなってしまい、あちゃー…という結果に。

ちなみにこの年代のピアノは、製造年代が古いという理由から価格が安いのだそうで、音より値段で売れていってしまうということでした。
もちろん値段も大事ですが、ものすごい差ではないのだから、長い付き合いになるピアノの場合「自分の好きな音」で選ばれるべきだと思うのですが、世の中なかなかそんな風にはいかないのかもしれません。
もしかしたらそのピアノを買われた方も音より価格で決められたのかもしれません。
逆にマロニエ君などにしてみれば好きな方が安いとあらば、一挙両得というべきで願ってもないことです。

ただしいくら音の好きなほうが安くて好都合とはいっても、肝心のモノが売れてしまったのではどうにもなりません。
というわけで、そう急いでピアノピアノと考えるのは間違っていると頭を冷やし、一旦はこの問題からは距離を置くことにしました。
そうこうするうちに2月に入り、片付けも大筋で見通しが立ち、クロスやカーテン/家具などを新調してみると、やっぱりまたピアノへの意識が芽生えてきました。

しかし例の工房の古き佳きヤマハは売れてしまったばかりで、そう次から次へと同様のピアノが入荷するとも思えません。
そもそも福岡には他にこれといって買いたくなるような中古ピアノ店もないし、そもそも家にピアノがないわけではないのだから、ゆっくり構えるしかないかと諦めることに。

その後、暇つぶしにヤフオクなどを見ていると、ヤマハやカワイに混じって、クロイツェル、シュヴァイツァスタイン、シュベスター、イースタインなど、かつて日本のピアノ産業が隆盛を極めたころに良質ピアノとして存在していた手作りピアノが、数からいえばほんの僅かではあるけれどチラチラ目につくようになりました。
マロニエ君はどうしても、こういうピアノに無性に惹かれてしまいます。

それからというもの、いろいろと調べたり音質の調査を兼ねてYouTubeでこの手のピアノの音を聴きまくる日々が始まりました。
もちろん現物に触れるのが一番というのはわかりきっていますが、そんなマイナーなピアノなんてそんじょそこらのピアノ店にあるはずもなく、唯一の手段としてパソコンのスピーカーから流れ出る乏しい音に耳を傾注させる以外にはありません。

ところで、パソコン(マロニエ君はiMac)のスピーカーというのは、ショボいようで、実は意外と真実をありのままに伝えてくれるところがあって、わざわざ別売りで買って繋いだスピーカーのほうが、変に色付けされた音がしたりして真実がわかりにくいこともあり、マロニエ君はiMacのスピーカーにはそこそこの信頼を置いています。
いい例が、かつて自分で所有していたディアパソン(気に入っていたのですが事情があって昨年手放しました)なども、忠実に現物のままの音が聞き取れるし、ヤマハやカワイはやはりその通りの音がします。

で、それらによると、古き良き時代の手作りピアノは(ものにもよるでしょうが)圧倒的に使われた材質がよいからか、一様に温かくやわらかな音がすると思いました。どうせ買うならやはりこの手に限ると静かに気持ちは決まりました。
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愛情かゴマスリか

巷でプレミアムフライデーなどといわれる先週の金曜日、たまたま知人と食事をすることになって、とあるイタリアンのお店に行きました。
べつにお店の方はプレミアムではなく、美味しいけれどわりにリーズナブルなお店です。

イタリアンテイストの店内には、椅子とテーブルがぎゅうぎゅうに詰められていて、隣の席ともかなり距離が近く、席を立つときは、隣のテーブルに体や衣服が接触しないか、細心の気を遣う感じです。

とうぜん隣の人の会話も筒抜けであるし、こちらもつい遠慮がちにしゃべってしまうのは気弱なせいでしょうか。

さて、隣の席は6人からなるご家族御一行様で、おじいさん、おばあさん、おとうさん、おかあさん、小学生の娘、さらにその弟くんの6人でしたが、どうやら娘の誕生日らしく家族で夕食を楽しんでいるようでした。
サラダ、飲み物やデザートなどはセルフの店ですが、おじいさんを除く家族5人は、誰かしらが絶え間なく立ったり座ったりで、ゆっくり6人着席しているときがないのは、まあ多少煩わしくはありました。

まあ、そこまではそんな店なのだから致し方ありません。
ところが、こちらの食事が終わり、デザートも半分ほど食べたかなぁというころ、隣の席に「お待たせしました!」とばかりに全身白ずくめのコック姿の若い女性が、大きなワゴンを押しながらやって来ました。
6人家族はそれを見るなり、口々に「わー、きたきた!」と歓声をあげだします。

ワゴンの上には、円筒状のスポンジが乗っており、横には生クリームのボウルやらイチゴやらなにやらが置かれていて、お誕生ケーキの飾り付けをお客さんの見ている前でやるのだということがすぐ察知できました。
なにしろ狭いので、ワゴンの端は知人の肩にあたりそうなぐらいで、そこに大注目しながら家族中がわいわい言っているので、いやでも気になって仕方がありません。

やがてこの日誕生日を迎えた小学生の女の子がワゴン前に進み出ると、その女性パティシエ(イタリア語ではなんというのか?)が恭しげに生クリームを垂らしはじめ、それをナイフで周囲に均等に塗りつけて、だんだんとデコレーションケーキに仕上げるという趣向のようです。

その子は、子供で当然素人なので、実際には何もやっていないけれど、すべて女性パティシエが女の子の手に自分の手を覆いかぶさせようにして、子供を参加させながら作業しているのは傍目にも大変そうでした。しかも、その表情ときたら飛行機のCAさんも顔負けというほど満面の笑顔を保持して絶やしませんから仕事とはいえ大変です。

実は、マロニエ君が驚いたのはこの作業ではなく、それを見守る家族の尋常ではない様子のほうでした。
実質的な作業はすべて女性パティシエがやっているにもかかわらず、いちいち歓声をあげ「わああ、❍❍ちゃん、すごいね~」「上手だね~」「うまいうまい」「かわいくできてる〜!」「すっごい上手よ~」といった強烈な褒め言葉の嵐で、もう隣の席の他人様のことなど眼中にないようです。
もしかしたら多少こちらへ見せているフシもなきにしもあらずとも受け取れましたが、そのあたりはよくわかりません。

さらには、おとうさん、おかあさん、おばあさんの3人はいつの間にかワゴンの反対側に席を替わっていて、3人が3人、各自それぞれのスマホでその様子を動画撮影しまくっています。手では撮影を続けながら、口からは際限なく賞賛の言葉の数々が休むことなく連発され、それはもうちょっとした大騒ぎでした。

そういえばこの店では、たまにちょっと照明が落とされ、流れていたBGMが中断されたかと思うと、大げさな前奏に続いて「ハ~ッピバースディ、トゥ~ユ~」となり、あげくに大拍手が起こりますから、ケーキの飾り付けが終わったらろうそくを立て、その歌が始まるであろうことはもう時間の問題でした。

あまりにも真横なので、さすがに変なことを言う訳にも行かず、表情に出すこともできず、この間、なんども知人とは変な感じで目がチラッと合った程度でしたが、幸いにも食事が終わっていたことでもあり、小声で「行こうか…」ということになって、隣の席ではケーキづくりで盛り上がっているのを尻目に席を立ち、なんとか歌と拍手に加担させられることなく脱出できました。

子供の誕生日を祝ってあげたいという親心や家族愛は素敵なことですが、マロニエ君はああいうベタな世界は正直苦手。
とくに強い違和感を覚えたのは、家族中(おじいさんと弟くんを除く)が娘の一挙手一投足をゴマをするように褒めそやし絶賛しまくる光景でした。

もちろん子供は褒めてあげなくてはいけないし、惜しみなく愛情をかけてあげなくてはいけないけれど、あれはそれとは似て非なるものにしか見えまえんでした。
なんというか、言ってる自分(家族)のほうが盛り上がっているようでもあり、さらには大人が子供にむかって必死に媚びへつらっているようにしか見えず、とても自然なお祝いのひとときには感じられなかったのです。
自分達がイベントの機会を得て、演技的に盛り上がっているようにしか感じられなかったのは、マロニエ君の感性がおかしいのかもしれませんが。

親が子に限りない愛情で育むことと、何か大事な部分がどうしても結びつきませんでした。
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ヴォロディンの聴き応え

NHKで立て続けにアレクセイ・ヴォロディンのピアノを聴きました。

ひとつはクラシック音楽館でのN響の公演から、井上道義の指揮によるオール・ショスタコーヴィチ・プログラムで、ヴォロディンはピアノ協奏曲第1番のソリストとして登場。

もうひとつは早朝のクラシック倶楽部で放映された、浜離宮朝日ホールで行われたリサイタルの様子でした。
いずれも昨年11月に来日した折の演奏の様子だったようです。

体型はわずかにぽっちゃりではあるけれど、非常に思索的な厳しい表情と、目鼻立ちの整ったいわゆる美男子系の顔立ちで、誰かにいていると思ったらペレストロイカで世界を席巻したゴルバチョフ元大統領の若いころにもどこか通じる感じでしょうか。
風貌のことはどうでもいいですね。

リサイタルの演目は、メンデルスゾーンの「真夏の夜の夢」からスケルツォ、メトネルの4つのおとぎ話から第4番、そしてラフマニノフのピアノ・ソナタ第1番。実際の演奏会では、この他にプロコフィエフのバレエ、ロメオとジュリエットから10の小品も演奏されたようです。

協奏曲、独奏いずれにおいても非常に安定した逞しさの中に美しいオーソドックスな演奏が展開され、非常に満足のいくものでした。
これまでにも「ロシアピアニズムの継承者」といわれるピアニストはたくさんいたけれど、近年はどうも言葉だけの場合が多いというか、実際はそのように感じられる人はなかなかいないというのがマロニエ君の正直な印象でした。
ロシアというわりには意外なほど線が細かったり、華のない二軍選手といった感じだったり、あるいはやたら力技でブルドーザーのように押しまくる格闘技のようだったり、全体が雑で音楽的な聴かせどころがボケてしまった演奏だったりするのがほとんどでしたが、ボロディンはそのいずれでもない点が注目でした。

真っ当で、力強く、技巧的な厚みがしっかりあって、ロマンティック。
演奏技巧にまったく不安がないと同時に、音楽の息づかいや綾のようなものはきちっと押さえており、聴く者の気分を逸しません。

最近は良い意味でのロシアらしいピアノを弾く人が少なく、それなりに有名どころは何人かいますが、どこかがなにかが欠けるものがあってこの人という納得できることがなかなかありませんでした。
たしかに、グリゴリー・ソコロフなどのように現代ピアニスト界の別格ように崇められる人もおられるようですから、ロシアピアニズムは健在という見方もできなくはないかれど、どうもソコロフにはいつも凄いと思いながらも、心底好きになれない自分があり、たしかに素晴らしい演奏もある反面でどこか恣意的偏執的で作品のフォルムがゆがんでしまっているように感じることもあるので、いつも「この人はちょっと横に置いといて…」という感じになってしまいます。

マロニエ君はもちろん、技巧の素晴らしい人も高く評価してしますが、だからといってその技巧があまりにも前に出ていて、高圧的かつ力でねじ伏せるようなものになると途端に気持ちが冷めてしまいます。

ヴォロディンは、世界屈指の最高級ピアニストであるとか、スターになれるとか、カリスマ性があるといったピアニストではないかもしれないけれど、豊かな情感を維持しながら、ピアノを深く鳴らしながら、キチッとなんでも信頼感をもって聴かせてくれるという点で、数少ない確かなピアニストだといえるだろうと思いました。

とくにこの一連の放送の中でも強く印象に残ったのは、まず普通は演奏されることのないラフマニノフのピアノ・ソナタ第1番でした。有名な第2番でさえそれほど演奏機会が多いとはいえないソナタですが、まして第1番はまず弾かれることはありません。
マロニエ君の膨大なCDライブラリーの中でも、ソナタ第1番というとぱっと思い出すのはベレゾフスキーぐらいで、なかなか耳にも馴染んでいませんが、いかにもラフマニノフらしいところの多い力作だと思いました。

ラフマニノフというのは、作曲家としてもあれほど有名であるのに、意外に演奏機会の少ない曲もあるようで、ソナタ並みに大曲であるショパンの主題による変奏曲とか、ピアノ協奏曲でも第1番と第4番はまず演奏されませんが、そんなに駄作でもステージに上げにくい曲でもないのに、どういうわけだろうか思います。

話をヴォロでィンに戻すと、この人は聴く側にとってなにか強烈な魅力があって熱狂的ファンがつくというタイプの人ではないのでしょうけど、本物のプロのピアニストだと思うし、今後も喜んで聴いていきたいひとりだと思いました。

アンコールは、協奏曲、リサイタルのいずれでも、プロコフィエフの「10の小品」Op.12から第10曲でしたが、息をつく暇もないこの曲をものの見事に聴かせてくれました。
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必死の組み立て

少し前に小抽斗のようなものを物色中と書きましたが、けっきょくイケアのチェストを購入することになりました。
価格もできるだけ安いほうがいいけれど、家具は部屋の中でいつも目にするものなので、日本の大手廉価家具店の製品にありがちないかにも薄っぺらな感じであるとか、パッと目はモダン風であっても、その雰囲気に日本的安物独特の「あの感じ」が漂うのも嫌なので、そうなるとイケアしかありませんでした。

ただ、イケアも問題がないではありません。
センスもよく温かな雰囲気もいいのは好ましいけれど、ここの製品には「組み立て」という難作業が待ち構えています。

これまでにもイケアの家具は何度か購入していて、そのつど友人の助けを借りながら組み立てをやってきましたが、それらの経験からも、ものによってはかなり大変だったという印象があります。
店頭にもイケアの特徴として大書してあることは、製品の質に対して価格が安価な理由は、購入者が手ずから組み立てることによって大幅なコストカットを実現しているという趣旨のこと。

以前買った伸縮式ダイニングテーブルやソファアも大変だったけれど、今回買ったのは引き出しが大小8つもある大型のチェストで、その組立はよほどだろうなあと思い悩んでいると、なんたる偶然か、ちょうどこの時期だけ「すべてのチェストが15%off」となっていて、もうこれは一念発起して組み立てを頑張るしかない!となってしまって、覚悟を決めて購入しました。

そのサイズからして、とても自分で車に乗せて帰れるようなものではないので、配送を依頼したところ、数日後、重くて分厚い大きなダンボールの荷が3つも玄関に運び込まれて、これを見ただけですっかり怖気づいてしまいました。

友人が来てくれるまで玄関に放置しておいて、先週末ついに箱を開けるときがやってきました。
さまざまな形や大きさのパーツが、まるでパズルのように見事に収まっており、それを床に順序良く並べていきますが、その数は何十個にも及び、木のダボやねじや金属の留め具のたぐいは、お得用のナッツの袋のようなもので3つにわかれていて、それぞれにずっしり入っているあたり、もう数を数える気にもなれないようなとんでもない量です。

ご存じの方も多いと思いますが、イケアの組み立て説明書には一切文章がなく、項目ごとに図解のみで組み立ての手順が記されています。
ここで大事な点は、決してわかった気になって先走ることなく、徹底して説明書の手順通りに組み立てることで、少しでも順序を間違えたり独断で先回りしたりすると、必ずあとの工程でつまづきが生じてやり直しということになりますので、面倒でも説明書に記された手順には絶対に逆らわないこと。

大変なのは、図にあるパーツを金具ひとつまで間違えずに厳格に選び出すことですが、これがかなり苦労させられる点です。
中にはほとんど同じように見えて微妙に違うもの、同じ大きさの板に開けられた穴の位置や数がわずかに異なったりすることで、これをひとつでも間違えると完成できないという怖さがあり、それだけでかなり神経を使います。

それにしても今回のチェストは過去最高記録となる大変な組み立てで、店頭で見る外観からは想像もできませんが、木製パーツだけで50以上、金属類のビスや木製ダボなどのパーツに至っては約400個に達しており、組み立て説明書の工程数は46段階にも及び、荷をほどいたときは驚き呆れ、こんなものを購入したことを後悔したのも事実でした。

それでも敢えて組み立てに着手する事ができたのは、こういうことがわりに好きな友人の存在でした。
作業開始から3日目に完成したときは、やはり感慨ひとしおというか、文字通り達成感がありました。

率直にいうと、家具の組立というより、ほとんど日曜大工に近いものがあり、プロによる周到な設計とパーツが揃っているというだけで、素人にはかなり難しい部分も少なくないのは、緊張とため息の連続でした。

これだけの組み立てができる人というのはいろんな意味でかなり限られると思われ、まず一人では無理だし、こういうことの苦手な人とか高齢者なども到底できることではないと思われました。

作業中つくづくと感じたことは、これだけ込み入ったことを一般のお客にやらせようという発想がまずすごいというか、そこからしてまったく日本的ではないと思わざるをえません。
しかし、実際にやり始めると設計も見事だし、各パーツの精度も高く、よほど頭のいい人が作っているのだと思います。
これだけの組み立てに関わることで、普段は気にも留めない家具というものの作り方や構造が体験的によくわかり、とても勉強になることも事実です。

出来上がりは堂々たるもので、雰囲気もよく、いい経験になりました。
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接客

日々時代の変化に揉まれていると、「昔は良かった」と思うことが多々ありますが、果たして本当にそうだろうか…と考えてしまう場合もあります。

先日、とある観光地の堀端にある有名うなぎ店に行きました。
江戸時代の創業という老舗で、場所も一等地、建物なども深い趣があるし入り口までの庭木や邸内のお坪も美しく整えられています。

ここで働く中居さんたちは、多くが中年以上の方ですが、その接客態度となると必ずしも老舗の名に応じたものとは思いませんでした。

お客様にきちんとした対応を…という緊張感はなく、ぞんざいに人数を聞きながら廊下を歩きだし、はいはいこちらといわんばかりの案内で、曲がりくねった木造の廊下を奥へ奥へと進みます。
通された座敷には、時流にそって畳の上に椅子とテーブルが並んでいますが、こちらが二人だったものだから、壁の隅の二人がけの小さな席を指しながら「こちらにどうぞ」とつっけんどんに言われました。

しかし、全部で7つのテーブルがある中で、二人用はこの一つだけ。
おまけに使用中のテーブルはわずか3つで、それらすべてが二人連れのお客さんでした。
混み合っているならむろん二人がけの席で当然と思うけれど、半分ほどしか埋まっていないのに、わざわざ狭い席に押し込もうというところにいささかムッとしてしまいました。

マロニエ君はこんなとき負けてはいません。
唯々諾々といいなりになってなるものかと「こっちでもいいですか?」と敢えていうと、「あ、そちらですか…いいですよ」としぶしぶ口調となり、我々は迷わず広いほうのテーブルに着席。
すると、何度も来るのが面倒なのか、着席するなり真横に立って伝票とボールペンを持って、すぐに注文を聞こうとする構えなので、エッ?と思い、ゆっくりメニューを広げて「ちょっと待ってください」というと、仕方がなかったらしく「はいどうぞ」といって立ち去って行きました。

ようやく注文が済むと、それから別の女性がお茶とおしぼりを持ってきますが、どの人も、態度にしまりがないというか、日常生活のだらんとした流れの延長でここでも働いているといったところでしょうか。
廊下を通るたびに出入り口の障子をパッと30cmほどあけて中の様子を見たかと思うと、すぐにパチンと閉めていなくなったりと、とにかく自由に動きたいように動いているという感じ。

さらに驚いたのは、なんだかいやに寒いと思ってたら、広い座敷の前後に2つあるエアコンはいずれも送風口が閉じたままで、年間を通じて最も寒いこの時期にもかかわらず暖房を入れていないことがわかりました。

お品書きには立派な値段が並ぶのに、変なところでケチるという印象がふつふつと湧き上がります。

ほどなくやってきた中居さんをつかまえて、「暖房は入っていないんですか?」ときくと、「あ、寒いですか?」というので「寒いです!」と少し大げさに体を揺すって見せました。
しばらくするとようやく少しだけ暖かくなり、見ると2つのうちの1つだけ、裏からの操作でスイッチが入れられたようでした。

料理を持ってくるときも、食器を下げる時も、廊下の障子はガーッと開けっ放しの状態。
そのたびに廊下(外に面している)の寒風がぴゅうぴゅう部屋に入ってきて、マロニエ君も何度かたまらず閉めに行ったほどです。

これが地域では名を馳せた老舗なんですから、所詮は田舎なんだと思いました。
今や都市部では100円ショップに行っても一定のきちんとした接客に慣らされている現代人ですが、田舎に行けばどんなに有名店でもこういうゆるさがあることがわかると同時に、昔はだいたいどこでもこんな感じだったことを思い出すと、やっぱりなんだかんだと文句を言いながらも、良くなった面も多いんだなあと考えさせられました。

とくに古いところは、良くも悪くも旧来の体質を引きずっているので、なかなか改まらないのでしょう。
多少はマニュアル的な接客でも、現代は丁寧な態度こそが求められるようになりました。
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ヤフオク

ヤフオクで欲しいものをゲットすべく入札された経験のある方は多いと思いますが、あれって結構疲れるなぁと思うのはマロニエ君だけでしょうか。

人にもよるとは思いますが、マロニエ君はどうもあのヤフオク(というかヤフオク以外のネットオークションは利用したことがない)の終了時間間際の異様な緊迫感は好きじゃありません。

ウォッチリストに登録して何日もチェックしたあげく、ほとんどだれも入札しないので「どうやら楽勝のようだ」などと思っていたらとんでもない間違いで、欲しい人は不用意に入札することはせずにじっと静観して、終了時間が迫ってからが本当の勝負が始まることが少なくありません。

以前は成り行きを見ながら、そのつど入札していましたが、場合によってはみるみる価格がつり上がるものだから、ついカッとなってこっちもまた入札、すると相手もまけじと高い価格をつけてくる。
要はその応酬で、最終的にどちらが金額的にタフであるかが勝負どころとなります。
こうなると、ひとりパソコンの前で心臓をバクバクさせて、予想外の興奮状態に陥ります。

とくに残り数分という段階で、もう終わりかと思っていると、音もなく誰かがそれ以上の価格をつけて状況がひっくり返されるのは、精神的にかなりやられるというか衝撃的で、あれはもういけません。

たかがヤフオク。
それなのに、こういうときの精神的な高ぶりはかなりのもので、笑えないほど疲労困憊。
あげく、終わってみれば苦い敗北感に苛まれるか、運良く落札出来たにしても予想以上の高値であったりと、いずれにしろ冷静さはかなり失い、オークションというジェットコースターに乗って、ふらふらになって降りてきたという印象。

中には入札者が自分だけですんなり終わることもあるけれど、相手があって競り合うのはいやなもので、買えても買えなくても、どこか変な後味が残ります。
とりわけ被るストレスは相当のもので、早鐘のように心臓がバクバクしたことも一度や二度ではなく、いかにも心身によくない感じです。

はじめからダメモト気分でいけるようなモノならいいけれど、ものによってはどうしても欲しいという場合もあり、お恥ずかしい話だけれど深夜の終了時間であっても昼ごろからずっとそのことが頭の中にあったりして、やる気と不安がないまぜになり、これってもうまぎれもない戦いです。
それも明るく健康的なスポーツのような戦いじゃなく、金額と物欲にまみれた辛気臭い戦い。

あまりに疲れるから、これじゃあ健康にもよくないし、だいいちそこまで気持ちを入れ込んで顔の見えない相手とバトルを繰り広げてまでモノをゲットするということが、ひどく浅ましくもあり、ばかばかしいと思うようになりました。

そんなこんなでよくよく考えてみれば、ヤフオクのシステムの中にそんなことをしなくても済む「自動入札」という機能があるわけで、金額を自分が出していいというmaxに設定しておけば、競り合った場合のみ価格は上昇を続けるけれど、ライバルが現れなければ安く落札できるというのもよく考えられています。
で、最近は、自分は最大でいくらまで出してゲットしたいのかどうか、冷静に考えてから余裕をもって入札し、それを超えた場合はさっぱり諦めることにして、間違っても終了時間間際のバトルには決して直接参加はしないようマイルールを定めました。

さらに、入札はで可能な範囲でできるだけ終了時間には近づけるものの、終了時間帯はパソコンは見ないことにし、用があれば躊躇なく外にも出かけるようにしました。これ、裏を返せば、以前は終了時間が迫るとパソコンの前に貼り付きだったということです。

これで気持ちは一気に楽になり、それからは以前のように徒に緊迫することなく、ヤフオクを楽しめるようになりました。
すでにこの方法で何度か入札しましたが、落札出来たことより出来なかったことのほうが多いですが、それはそれで自分自身が納得できています。
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アンスネス

いまや世界の有名ピアニストの一人に数えられるノルウェーのレイフ・オヴェ・アンスネス。
CDも何枚か持っているものの、実を云うとその魅力とはなんであるのか、長いことよくわからないまま過ごしてきたマロニエ君でした。

昨年11月に来日したようで、N響定期公演のデーヴィッド・ジンマン指揮によるオール・シューマン・プログラムではピアノ協奏曲のソリストとしてアンスネスが出演しているの様子を録画で視聴してみました。

番組冒頭では、いきなり「カリスマ的人気を誇るピアニスト」とナレーションされたのにはまず強い違和感を覚えました。
アンスネスが現代の有名ピニストの一人であることはともかくとしても、その演奏はおよそカリスマといった言葉とは相容れないものではないかと感じましたが、その次の「端整で温かみに満ちた演奏」という表現に至ってようやく納得という感じです。

とりあえずサーッと一度通して聴いてみましたが、シューマンの協奏曲でも、とくに聴きどころというか聴かせどころというようなものはなく、かっちり手堅くまとめられた、終始一貫した演奏だと感じました。
規格外の事は決してやらない、男性的な固い体つきそのものみたいなぶれない演奏で、その表現にも意表を突くような部分は一瞬もなく、抑制された穏やかな表現が持続するさまは、わくわくさせられることもないかわりに、変な解釈に接したときのストレスもなく、どこまでも安心して聴いていられるのがこの人の魅力だろうと思いました。

これといった感性の冴えやテクニックをひけらかすことは微塵もなく、彼ほどの名声を獲得しながら自己顕示的なものは徹底的に排除されて、淡々と良心的な仕事を続けているのはいまどき立派なことだと思いました。
演奏に冒険とか、心を鷲掴みにする要素はないけれど、今どきの若い人のようにただ楽譜通りに正確に弾いているだけというのとは違い、空虚な感じはなく、一定の実質があのは特徴でしょう。
変な喩えですが、能力もあり信頼の厚い理想の上司みたいな感じでしょうか。

さらには北欧人ゆえか、根底にあるおおらかさと実直さが演奏にもにじみ出ており、派手ではないけれど、なにかこの人の演奏を聴いてみようという気にさせるものがある気がしました。
演奏は常にかちっとした枠の中に収まっており、第一楽章のカデンツァなども、およそカデンツァというよりそのまま曲が続いている感じで、オーケストラがちょっとお休みの部分という感じにも聴こえました。

インタビューでは第二楽章はオケとの対話のようなことを言っていましたが、対話というより、分を心得た真面目な仕事という感じ。

アンコールはシベリウスの10の小品からロマンスを演奏しましたが、北欧の風景(写真でしか見たことないけれど)を連想させるようで、いかにもお手のものというか、アンスネスという人のバックボーンがこの北欧圏にあるのだということがひしひしと伝わるものでした。

北欧といえば、家具や食器のように、多少ごつくて繊細とはいえなくても、温かな人間の営みの美しい部分に触れるようなところが、この人の魅力なんだろうなぁと思いました。

ところで、第一曲のマンフレッド序曲が終わってジンマンが袖に引っ込むと、画面はピアノがステージ中央に据え付けられた映像に切り替わりましたが、これがなんだかヘン!なにかがおかしい。
アンスネスが登場して演奏が始まるとすぐにそのわけがわかりましたが、ピアノの大屋根が通常よりもぐっと大きな角度で開けられており、そういえばYouTubeだったか…とにかく何かの映像でもアンスネスがそういう状態のピアノを弾いているのを見た覚えがありました。

よくみると、通常の支え棒の先にエクステンションの棒が継ぎ足されていて、ノーマルよりもかなり大きく開いているようです。
おそらく響きの面で、アンスネスはこうすることで得られるなにかを好んでいるのでしょう。

ただ、舞台上のピアノのフォルムが大幅に変わってしまい、かなり不格好になっているのは否めませんでした。
もちろん音楽は見てくれより音が大事なんですけどね。
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家具イベントで

ちょっとした棚というか小抽斗のようなもので、安くて良い感じのものがあれば欲しいと思っていたところ、友人が福岡国際センター(大相撲九州場所の会場)で大規模な家具のイベントのようなものをやっているというので行ってみることに。

ネットで調べると、たくさんの家具屋が共催でやっているようなもので、展示即売であるにもかかわらず入場料があることにまず驚きました。ただし、ネットに招待券のようなものがあり、これをプリントアウトして名前を記入すれば無料になるというもので、それを準備して会場に赴きました。

先月下旬の日曜のことでしたが、夕方であったためか車も難なく止められて、会場入口でプリントアウトした紙を手渡すと、いきなりマイクで「〇〇家具店の方にお知らせします。お客様がお見えになりました。」とあたりじゅうに響きわたるボリュームで大々的に言われてびっくり。
ほどなく首に名札をぶら下げたその家具店の女性が現れ、その人の先導でうやうやしく会場内に案内されてやっと中に入ることができました。
とはいえ、こっちはただ遊び半分で見に来ただけなのに、このままずっとついてこられてはたまらないので、自由に見せていただくからと案内は辞退したものの、この時点でなんだか想像と違うところに来てしまったような感じがありました。

広い会場内にはあれこれの家具がびっしり並べられてはいるけれど、思ったよりお客さんは少なく、それ以上に販売員がたくさんいるという印象。
ブースごとの壁や仕切りこそないものの、多くの業者が一同に会してさまざまな商品を展示しているらしいことがわかります。

全体の印象としては、なんだか茶色な感じで、今どきの家具としてはやや古臭い気もするけれど、まず目に入ったダイニングセットなど軽く50万60万だし、どれを見てもとても気軽に買えるような価格帯ではないことに驚かされました。

家具の世界というのがどんなものかマロニエ君は知らないし、知っているのはたかだかイケアやニトリといったところなので、そもそもこちらの基準が低すぎるといわれればそれまでなのですが、とにかくどれを見ても立派なお値段ばかりで10万円以下のものなんて数えるほどしかありませんでした。
しかし、見た感じそれほど高級家具とも思えなかったし、正直言ってセンスも野暮ったく、こんな価格帯のこんな家具って誰が買うんだろうという疑問ばかりが頭に浮かびました。
いっそ高級品を求める人は、お家騒動で有名な家具屋などに行くのでしょうし…。

さらに印象的だったのは、販売員らしき人はかなり大勢いるけれど、そこに若い人の姿は少なく、どちらかというと渋い表情の年配の男性が圧倒的に多いことでした。しかもどの場所でもちょっと見てみようかと商品に近づいたとたん、間髪入れずこのおじさんたちがわっと近づいてきて一方的に商品説明をはじめます。
こちらとしてはちょっと見ているだけで、いくら説明されても買うわけではないし、また簡単に買える金額でもないので、すぐにその場を離れるような動きになります。で、少しでもモノに近づくと、待機しているおじさんたちが吸い付くように寄ってくる、その繰り返し。
おまけにお客は少なめで、だからますますこっちが見張られているみたいで当然ながらゆっくり見るということは不可能。

きっと昔ながらの売り方なのかもしれませんが、近づいてきた客はすかさず捕まえるといった空気がぎらぎらしていて、お客さん側の気持ちや心理をまったく考えていないような感じでした。
中にはあの強力な接客に押し切られて、買わされてしまう人もいなくはないでしょう。

というわけでどの角度から見ても、こちらの求めるものとは違う世界だったので、早々に会場を出て、ついででもあるしその足でイケアに行ってみました。
するとまあ、理屈抜きにオシャレで、明るく、スタイリッシュで、しかも低価格。店自体もいいようのない色彩と楽しさにあふれていて、なんだかそのあまりの違いに圧倒されてしまいました。

さっき見た日本の家具は、品質ははるかに優れているのだろうと思います。
お客さんに運搬や面倒な組み立てをさせることもないし、材料なども格段にいいものを使っているのでしょう。
それでも、あの価格と売り方とセンスを選択する人って、やっぱり多くはないだろうと思いました。
良い悪いではなく、確実に時代は変わってきているということだと思ったしだいでした。
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普通に超絶技巧

音楽番組『題名のない音楽会』には大別すると、ホールで観客を入れて収録されるものと、音楽工房と称するスタジオ内で収録されるものがあるようです。

昔からとくにこの番組のファンではないからくわしいことは知らないけれど、印象としてはオーケストラのような大人数の団体が出演する際にはホール、個々の器楽奏者だけで成立する際にはスタジオ収録というふうに区別されているのかなあという印象。

今年の録画から見ていると、スタジオで収録されたもので「難しいピアノ曲と音楽家たち」というタイトルの回があって、司会はいつもの五嶋龍さん、難しいピアノ曲を弾くピアニストには福間洸太朗さんと森下唯さんという二人の腕達者が出演していました。

オープニングはこの二人の連弾で、萩森英明編曲による「チョップスティック ハンガリー狂詩曲」より…というのが演奏されて、まずはこの二人が超絶技巧の持ち主であることが視聴者へ軽く紹介されたように思います。

番組はソファーに腰掛けた出演者たちが音楽に関するおしゃべりを交わしながら、その合間合間で演奏をするといういつものパターン。

まずは福間洸太朗氏が、ストラヴィンスキーの「火の鳥」の「凶悪な踊り(G.アゴスティ編曲)」を披露。
まあ、見ているだけで大変な難曲で、どう弾くかというより、とりあえずこれが弾けますよということで価値があるような曲だと思いましたが、純粋に曲として聴いた場合、原曲のオーケストラ版に比べたら所詮はピアノ一台であるし簡易ヴァージョンという位置付けではありました。
それはこの曲や演奏に限ったことではなく、だいたいどれもオーケストラの曲をピアノ版に編曲すると感じることで、ピアノのほうが良いなあというのはそうそうめったにあるものではなく、所詮は代替版という印象を免れないように思います。

ピアノは一台でオーケストラでもあり、さまざまな楽器の音色を出すのが難しいなどと言い尽くされた会話が交わされていましたが、演奏中は画面にここはオーボエここはフルートでそこが難しいというような注釈も入ります。
しかし正直言わせてもらうと、マロニエ君にはそれらの音をそれらしく表現しているようには聞こえず、おそろしく指のまわる人がピアノを使って難曲に挑んでいるというばかりでした。そしてなるほど大変な腕前をお持ちというのはよくわかりました。
逆にいうとピアノ版にした以上は、必要以上にオーケストラを意識するより、ピアノ曲として魅力ある演奏に徹するほうが潔いというか、個人的には好ましいのではないかとも思ったり。

福間さんという人は相当のテクニックの持ち主には異論はないけれど、彼の演奏から流れ出てくる音楽はどちらかというと無機質でエネルギーがなく、せっかくのテクニックが深い言葉や表現となって活かされているという感じがなく、弾ける人は弾けるんだという乾いた感じで終わってしまいます。

最後にもう一度ピアノの前に出てきて、バラキレフのイスラメイを弾きましたが、こちらもデジカメのきれいな写真みたいで、見事な指さばきだけど、終わったらそれでおしまいという軽さが絶えずつきまとうのが気になりました。
むしろ、いちいち大仰に構えず、なんでもサラサラ、嫌味も抵抗感もなく聴かせるというのが福間さんの良さであり、狙っているところなのかもしれませんし、今どきなのでそういう演奏を好むニーズもあるのかもしれません。

その点では、すこしばかり趣が違っていたのは森下唯氏の演奏でした。
選曲も面白く、この人はアルカンの作品だけでコンサートをやるなど、普通のピアニストとはひと味違った方向で活動しておられるようで、この日もアルカンの練習曲「鉄道」を演奏されました。

これがもう実におもしろかったし聴き甲斐がありました。
昔の蒸気機関車をイメージして作られた曲で、ものすごいテンポの無窮動の作品で、聴いているだけでなんだかわからないけれどもワクワクさせられました。
森下唯さんもお若い方だったけれど、こちらのほうが演奏にいくらか温度とどしっとしたものを感じられて、せめてあと一曲聴いてみたい気がしました。

いずれにしろ日本人もピアノ人口は減っているというのに、以前なら考えられないような腕達者がつぎつぎに現れるのは今昔の感にたえない気がします。
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低価買取

不要になった品物の高価買取というのは、特に最近盛んになっているようで、我が家の固定電話にかかってくる電話の何分の一かはこの手の買取業者からのもので、数日に一度はかかってきます。

同時に、街中には衣類から生活雑貨、古書に至るまで、あらゆるジャンルのリサイクルショップが雨後の筍のように出現して、しかもそれらの多くがガラス張りのピカピカの店舗であるのも最近の特徴だろうと思います。

今もやっているかもしれませんが、テレビコマーシャルでやたら流れていたのがバイクの買取で、こだわりのオーナーの意を汲んで高価買取しますというようなフレーズが宣伝文句でしたが、知人から聞いた話では現実はぜんぜん違うんだそうで、かなりのものであっても、概ね1万円ほどが買取額の相場らしく、およそ「高価」とは程遠いものであるらしいということを聞いていました。

マロニエ君の場合はバイクは十代の頃にすっかり卒業したので関係ないけれど、家の中には処分したいものの、棄てるには忍びないようなものが結構あって、昨年も花梨の大型和式のテーブルと、オニキスの大理石のテーブルを処分することにしました。

自分で言うのもなんですが、どちらもそれなりの高級品で親や祖父が当時としては奮発して買い求めていたもので、気になるような傷もなく程度はよかったのですが、生活様式の変化から使うことなく物置の場所ばかり占領するので、ついに処分することに。
この手の良品を専門とする業者に連絡すると、大いに興味を示し、ずいぶんと遠方からトラックを仕立ててやってきましたが、いざとなると、とても納得出来ないようなあれこれの理由とか、確かめようもないような市場のニーズなどを綿々とあげ連ねたあげく、だから高額では引き取れないというような話にまんまと誘導され、両方で2000円を渡され、トラックに積んで持って行きました。

それなりのものでもあっただけに、ショックがなかったといえばウソになりますが、もう使わないし、空間のほうが大切だと考えるようになっていましたので、そこで未練を出しても仕方がないと思って諦めました。
そもそも高価買取なんていったところで、根拠も裏付けもない「高価」なわけで、そもそも手放す側が不要であるからには、その背景には限りなく廃棄に近い事情があるわけで、業者のほうもそのあたりのことを嫌というほど心得ているようです。

先日も、有名な本の買い取り業者に数百冊の本を託しましたが、中には貴重な創刊号からそろったSUPER CGとか、いろいろとそれなりの書籍がありました。もう要らないけれど、そのまま紐で結わえてリサイクルゴミとして出すより多少世の中のお役に立てばという気持ちもあったので、このメジャー店への買取依頼をしました。

その後、待てど暮らせど音沙汰はなく、先日ようやく銀行口座に振り込まれた金額はというと、たったの470円ほどでした。
まったく期待はしていなかったけれど、この金額にもやっぱり驚きました。
値段の付かないものもあるだろうとは思うけれど、平均するとほとんど1円/冊という感じで、べつに腹は立たなかったけれど、この手の商売のすごみみたいなものを感じたことも事実です。

ほかにも、衣類やら昔の輪島の漆器など、いろいろなものがあったけれど、マロニエ君は売りに行くのが嫌でぜんぶ廃棄すると言っていたら、友人がそれ見かねて買取屋に持って行ってくれましたが、衣類は45Lのビニール袋がふたつぐらいの量で、内容的にもそう悪くはないものだったと思いますが、全部で400円、往復のバス代にもならなかったとのこと。
いっぽう、漆器類に至ってはタダということでした。

巷ではフリーマーケットが盛んだといいますが、その背景にはこのような、極端なまでの安価買取に嫌気がさして自分の手で直売しようということになっているのだろうとも思います。

いらい最近は、照明の煌々とついたきらびやかなリサイクルショップの前を通っても、「ああ、ここの商品の大半はタダか、限りなくそれに近い捨て値で仕入れたものなんだろう…」というふうにしか見えなくなりました。
要は、仕入れは実質ゼロ、それを磨いて並べて人を雇って売っている、それだけのこと。
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ニコラーエワ

以前はよく聴いていたタチアナ・ニコラーエワですが、手に入る音源はだいたい持っていたし、1993年に亡くなってからはほとんど新譜が途絶えたこともあり、次第にその演奏を耳にすることから遠ざかり気味となっていました。
そんなニコラーエワですが、先日久しぶりに彼女のCDに接しました。

晩年である1989年のギリシャでのライブが最近発売されたのを、たまたま店頭で見つけて「おお!」と思って買ってきたものです。
はじめて耳にする音源ですが、スピーカーから出てくる音はまぎれもなくニコラーエワの堅牢でありながらロマンティックなピアノで、非常に懐かしい気分になりました。落ち着いた中にも深い情感と呼吸が息づいていて、なにしろ演奏が生きています。
昔はごく普通に、濃密で魅力的な本物の演奏を当たり前のように聴いていたんだなぁとも思うと、なんと贅沢な時代だったのかと思わずにはいられません。

現代には、技術的に難曲を弾きこなすという意味での優秀なピアニストは覚えきれないほどたくさんいますが、その技術的なレヴェルの高さに比べて、聴き手に与える感銘は一様に薄く、その音を聴いただけで誰かを認識できるような特徴というか、独自の音や表現を持ったピアニストは絶滅危惧種に近いほど少ない。
やたら指だけはよく回るけど、大半がパサパサの乾いた演奏。

ニコラーエワで驚くべきは、ピアノ音楽の魅力をこれほどじっくりと、しかも決して押し付けがましくない方法で演奏に具現化できる人はそうはいないだろうと思える点です。
必要以上に解釈優先でもなければ楽譜至上主義でもなく、しかし全体としては音楽にきわめて誠実で、情感が豊かで、ロシアならではの厚みがあり、だけれども胃もたれするようなしつこさもない。
良いものはいくら濃厚であってものどごしがよく、意外にあっさりしているという典型のようです。
技巧、感興、解釈、作品などがこれほど高い次元で並び立っているピアニストはなかなか思いつきません。

常に泰然たるテンポで彈かれ、けっして速くはないけど、ジリジリするような遅さもない。
感情の裏付けが途切れることなく続き、呼吸や迫りも随所に息づき、しかしやり過ぎない知性と見識がある。
そしてピアノ演奏を小手先の細工物のように扱うのではなく、雄大なオーケストラのような広いスケール感をもって低音までたっぷりと鳴らす。
どの曲にも、はっきりとした脈動と肉感に満ちていて一瞬も音楽が空虚になることがなく生きている。

それに加えて、常に充実した美しいピアノの音と豊かな響き。

このCDの曲目はお得意のバッハからはじまりシューマンの交響的練習曲、ラヴェルの鏡から二曲を弾いたあとは、スクリャービン、ボロディン、ムソルグスキー、プロコフィエフとロシアものの小品が並びますが、個人的に圧巻だと思ったのは交響的練習曲。

しかもこれまでニコラーエワのシューマンというのはほとんど聴いたことがなく、交響的練習曲はこのアルバムの中心を占める作品であるばかりか、演奏も期待通りの魅力と説得力にあふれるものでした。
曲全体が悲しみの重い塊のようであるものの、だからといって陰鬱な音楽というのでもなく、多くのピアニストがピアニスティックに無機質に弾いてしまうか、あるいはせっかく注ぎ込んだ情感のピントがずれていて、本来の曲の表情が出ていないことがあまりに多いことに比べると、ニコラーエワのそれはまず自然な流れと運びがあり、まるでシューマンの長い独白を聴くようで、まったく退屈する暇がありません。

現代のピアニストの多くは技巧も素晴らしい上に、隅々まで考えぬかれていて聴いている瞬間はとてもよく弾けていると感心はしますが、後に何も残らないことがしばしば。
それに引き換えニコラーエワの体の芯に染みこむような演奏は、パソコン画面ばかり見ていた目が久しぶりに実物の絵画に触れたようで、心地よい充実感を取り戻すようでした。
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カテゴリー: CD | タグ:

ギャップ

部屋の片付けをチャンスに、カーテンとクロスをやり変えることになり、業者の方に下見に来ていただいたときのこと。

クロスの張り替えは以前お世話になった業者さんもあるので、そこに依頼するつもりでしたが、いちおうネット調べてみると低価格な上にカーテンとクロスの両方をやってくれる店があり、これはこれで便利だろうなぁと思いました。
電話してみるととても感じ良く対応してくれ、とりあえず現場を見てもらうことに話が進みました。

かつて仕事を依頼したことのある業者さんはどちらかというと寡黙なタイプで、必要以上にあれこれと相談に乗ってくれるでもなく何冊かの見本を渡され、その中からこちらが選んだもので張り替えるという、若いけれど口サービスはないいかにも職人さんという感じでした。
きちんとした仕事をしてもらったという実績はあるものの、作業に至るやり取りは必要最小限で細かい相談とかアドバイスなどがないのも事実。
どことなく味気ないものを感じないでもなかったところへ、今回の業者さんは対照的に明るくて、必要とあらばなんでもご相談を!というお客側のニーズに出来るだけ応えますよというスタンスがあふれており、ついこっちに傾いてしまったのでした。

約束の日にやってきた方は、電話でしゃべったその人で、店の責任者らしい方でした。
前の業者さんはいつも当たり前のように作業着だったのが、こちらはウールのジャケットを羽織って中はセーターを着重ね、頭にはハンチング帽をかぶり、正直そのセンスはどうかと思ったけれど、決して悪い感じではありません。
愛嬌がよく、家に入るにも部屋に入るにも「それでは、おじゃまいたします!」「失礼いたします!」と礼儀正しく、いかにも慣れた手つきで寸法やら広さを確認した上で、ざっとした見積をだしてくれました。

続いてクロスやカーテンの見本を見せられましたが、その丁寧かつ優しげな口調は少し気になるぐらいで、ひとつひとつを噛んで含めるように説明してくれます。
「このお見積りは、いまごらんいただきました見本の生地で出させていただいた金額になります。」
「(見本を指で撫でながら)最近はこのあたりが質がよく好評なものですから、まずはこれをご案内させていただきました。」
「こちらは少し艶があり、明るい感じもいたしますし、遮光性も十分じゃないかと思います。」
「もっとお安いものをということでしたら、それももちろんございます。」
「逆に、もっとお高いものもございます。ハハハハハ」
…と徹底したやわらかな話し口調と物腰がとりわけ印象的でした。

「ただですねぇ、私が少しだけ今心配しておりますのは、3月にかけまして作業が大変混み合ってまいりますもんですから、なかなか予定を入れることが難しくなりますが、おおよそいつ頃をお考えでしょうか? あ、いや、もし当社にご依頼いただければ嬉しいなという前提のお話ですが…」

で、おおよその時期を伝えてみると、
「ああそうですか。はいはい、なるほど。…どうかなあ。」
「それでは、よろしかったら今ちょっとお電話をさせていただいて、現場の予定などを聞いてみましょうか?」といわれるので、そうしてもらうことに。

するとすぐに電話をかけ始めましたが、ちょっと離れて、こちらに背中を向けながら、
「うーーーい、うい、うい、うい」
「おつかれー。ん? そ、そ、そう。」
「あのさ、〇〇ごろって入る(仕事が)?」
「うん?おう、おう。△△のほうだったらいい?だったら嬉しい?ガーッハッハッハ、おっけー、おっけおっけ、わかったわかった。」
「オーイ、りょうかーい、うーい、ういうい」

~てな調子で、もちろん現場の人達とお客さん相手とでは話し方も違うでしょうけれど、やけにヤワな口調だったものが、まるで別人のような話し方になるあまりのギャップには思わず唖然、マロニエ君もこの性格なので笑いを噛み殺すのが大変でした。

電話が済むと、すぐまたさっきまでの物腰の柔らかい、丁寧すぎる口調へと切り替わるのは、ほとんどお笑い芸のようでそれを必死にポーカーフェースでやり過ごしました。
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苦手なもの

ろくに勉強もせず、やれ参考書だ何だと道具ばかり揃えたがるタイプがいますが、マロニエ君にも同じようなところがあり、自室に安い練習用アップライトピアノを置こうかどうか、性懲りもなく馬鹿なことを画策しています。

エー?、そんなものが要るほど練習するの?、と問われれば、正直言ってそんな見込みはないし、むろんそれに値する使い方ができる自信もありません。
だいたい本当に練習する人は状況をとやかく言う前にちゃんと練習するのであって、マロニエ君の場合はそういう環境を整えることそのものに、今たまたま楽しさを見出しているのかもしれません。

だからどうしても必要ということより、もっぱら自分の満足のためという悪癖がまた顔を出してしまった見るべきなんでしょう。しかもそのことを当人がすでにこの段階でうすうす自覚しているのですから、もうほとんど救いがたいともいえるわけです。

ただ、基本それはそうなんだけれど、夜自室に戻ってからちょっと弾いてみたい曲とか楽譜があったりすると、ちょっと指を動かしてみたいことがあるのも事実です。そんなときちょっとアップライトピアノがあれば真ん中の弱音ペダルを使って(時間帯にもよりますが)控えめに譜読みするぐらいのことは可能だというのが苦しい言い分というか、それができたらいいなという目論見なわけで、もちろん狙うのは中古です。

そういう目的ならサイレントピアノという手もあるにはあるけれど、あれは実際アコースティックピアノを土台としながら本来の発音機構を殺し、ヘッドホンで電子音を聞くものだからはじめから除外していました。というのもマロニエ君はヘッドホンというのが、たとえどれほど優れたものであってもストレスで、個人的にどうしても苦手。
あれを頭と両耳につけて音楽を聴いたりピアノを弾いたりする気にはなれません。
なので、電子ピアノもまったく興味がなく、これを部屋に置く気はゼロ。

ヘッドホンがダメという話をあるピアノ店のご主人にしていたら、それならスピーカーをサイレントピアノのヘッドホンジャックへ繋げばヘッドホンもつけなくていいし、スピーカーのボリュームも調整できるからいいのでは?というアイデアを授けてくださいました。
で、我が家には、タイムドメインの小さいながらも質の良い小型スピーカーがあったのを思い出して、それを引っ張り出し、とあるヤマハのサイレントピアノに繋いでみることに。

…なるほどたしかに音はでました。
でも、なにこれ? ぜんぜん面白くないし、ぜんぜん楽しくない。
そもそもピアノを弾いているという喜びもないし実感もない!
どんな立派なピアノからサンプリングされたか知らないけれど、うすっぺらなピアノもどきの音が出てくるだけで、美しさもまったくない。
「通常は生ピアノ。深夜はスピーカに繋いで小さなボリュームで」にはかなり期待したものの、5分もしないうちにテンションは急降下、風船の空気が抜けるように熱も冷めていきました。

これは絶対に自分じゃ弾かないし、ひどく後悔することを直感しました。
まさに、音楽のオの字も、あたたかみのアの字も、楽しさのタの字もない、作りもののウソの世界。
あまりにも嫌だったので、最後にスピーカーを外して、サイレント機能をOFFにすると、当たり前ですが普通にピアノの音になり、その変化の激しさにはおもわず「うわぁ!」と声を上げたくなほどの違いで、アップライトであれなんであれ、生の音はなんと素晴らしいのかを再認識することに。

これなら、通常のアップライトの弱音ペダル(弦とハンマーの間に横長いフェルト布が介入してきて音を弱くする)もかなり楽しくはないけれど、あれはまだいちおうピアノの発音機構を使って出している音ではあり、いくらかマシだと(今は)思います。

ところで、過日行ったピアノ店で音が気に入っていた1960年代のヤマハは2台とも売れてしまったようでした。
あのとき買っておけばよかったと後悔しましたが、そんなに焦ることでもないし、ここは気長に行こうと思います。
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寒波

今年の冬も大変な寒波の到来となり、日本全国かなり厳しい寒さが続いていますね。

一般に本州の人のイメージでは、九州は南で温かいだろうというのがあるようですが、実際にはそんなことはまったくありません。
鹿児島や宮崎など南九州のことはわかりませんが、少なくとも福岡というか北部九州においては温暖のオの字もありません。

気温でいうと東京ほぼ同じで、西であるぶん日没が40分ぐらい長いことと、関東特有の突風が吹かないことぐらいで、あとは気候的にはほとんど変わりません。夏は暑く、冬は寒く、梅雨はベタベタ。

というわけで、今年というかこの冬も相当寒い毎日が続いていています。
まわりには風邪をひいている人が非常に多いし、昨日はちょうど来客予定になっていた方からも急遽連絡があり、一族4世代にわたる親兄弟のうち、ほぼ全員がインフルエンザにかかり、家中でダウンしているというのですから驚きです。

つい先日も、コンコンいいながら風邪の症状をもった方と相対して、危うく伝染るところだったのを、すんでのところでかわしたばかりでしたので、いつ自分の番になるやらヒヤヒヤです。

この季節はピアノの管理も普段以上に難しくなり、ある意味では梅雨時よりもやっかいかもしれません。
ピアノにとっての理想的な環境づくりの一つが、温湿度の急激な変化のないことだと思います。
ある程度の範囲であれば寒いなら寒い、温かいなら温かいというのがいいわけで、急激に室温度が上下するのは甚だ好ましくないことです。

しかし、そうはいっても夜中から朝にかけての7~8時間、人が一人もいないのにピアノのためだけにずっとエアコンをつけっぱなしというのもさすがにできず、その間はエアコンはオフにするわけですが、当然その間の温度変化が起こります。
そして朝ふたたびエアコンを入れるので温度が上がります。

おそらくはこの寒波のせいで、毎日のこの温度変化が激しいためか、12月に調律をしたにもかかわらず、現在はすこし乱れが大きくなっている気がします。やはり温度変化はピアノにとってはいいことではないのでしょうね。

ヒーターを使うときは、まったく休むことなくフル回転になるのが加湿器です。
寒さが増すだけエアコン使用量も増えて、室内はカラカラになり湿度計の針が40%を切ることも珍しくなくなります。
加湿器は比較的タンクの大きいタイプを使っていますが、それを最強にしても加湿量がやや足りないくらいで、もう1台増設しようかと思いつつ、まだ実行には至っていませんが、4Lタンクが毎日空っぽになるし、やはりこの季節の空調管理は気の休まる時がないというのが実感です。

だいたい加湿器の水を入れるというのが面倒くさくて嫌になります。
いちいちタンクごと外して行ったり来たりせず、上から注ぎ足しできるタイプか、あるいはタンクが2つあって、任意のタイミングで水を補充しておけるようになればずいぶんいいだろうと思いますが、それってありませんね。

ピアノもふたつぐらいの音がやや狂っているので気になるのですが、本来の調律ではなくてそれだけちょちょいと手直ししてほしい…というわけにもいかず、次の調律までガマンかと思うと時間が長すぎていささかうんざりです。

純粋に寒さという点でいうと、これから来月にかけてさらに厳しさをますでしょうから、もうしばらくはこんな状態が続きそうです。今しがたテレビをつけたらトランプ大統領の就任式がはじまったようで、みんな鼻を赤くしてワシントンもずいぶん寒そうです。
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リサイクル

年明けから家の片付けをやっているという事を前回書きましたが、実際、暇さえあればそれにとりかかっているところです。そんな最中、ちょうどNHKのクローズアップ現代でこのテーマをやっているのを偶然目にしました。

主には、実家の片付けをどうするかというもので、モノで溢れかえる家の中を、どうやって処分するかということが社会問題化しているようでした。

クローズアップ現代では、不要品の有効な活用手段として、ネットを使った売却が紹介されました。いま巷で流行っていて、急速に伸びているのがリサイクル市場だそうで、これがなんと一兆円を超す市場規模だとか。

そういえば我が街のあちこちにもリサイクルショップが出現しています。
以前ならこの手合は倉庫のようなところが多かったイメージですが、最近のそれは建物もずいぶん立派になり、新築の大きなガラス張りで照明も煌々とついたいっぱしの店舗だったりで、これも市場の大きさを表しているのかもしれません。

さらにネットでは個人から個人への直接取引が盛んなようです。
要らなくなったものをネットで売りに出すことで、世界中に(?)その情報がまわり、それを欲しいという人へ譲ることで、モノは次の持ち主のもとで役立てられ、いくばくかのお金も手にすることができるとあって一挙両得というものでした。

話としてはなるほどという感じもしなくはないけれど、これ、個人的に自分にはまったく合わない方法だと思いました。

番組内で紹介されていた人のやり方でいうと、不要なモノをまず写真に撮って(当然何枚かの)転売のためのサイトに掲載し、欲しい人が現れるのを待つというもの。
一日4000万人だったか?正確には忘れましたが、とにかく世界中の膨大な数の人がそれらの情報を見て、その中から欲しいという人が現れたら交渉成立ということのようです。

しかし、実際に情報としてネット上にあげるには、写真撮影のほか、寸法や状態などを記載して、値段をつけて、さらに買い手がついた場合には梱包して発送作業までやらなくてはりません。
ヤフオクのように、購入者への連絡や送料の伝達など、1品目に対して最低でも何度かのやり取りは必要でしょう。
しかも、ネット上にアップしたからには、絶えずその成り行きを監視確認していなくてはならないし、あれやこれやでそれに費やす労力は決して軽いものではないと感じました。

こんなこと、よほどのヒマ人か、そういうやり取りそのものを楽しめる人でない限り、まだるっこしくてやっていられません。少なくともマロニエ君のよいな面倒くさがりでせっかちな性格からすれば、とてもじゃないけど自分には向かないと思いました。
また、数の点からも、10や20ならともかく、仮に何十何百という数になれば、その作業量はとてもじゃないけれどできることではない。
ひとつひとつの売買であるだけ当然ながら時間もかかるでしょうから、ただでさえこの手の片付けは骨が折れるのに、そこから一品ずつネットにアップして買い手が現れるのを待つなんて、いつになったら終わるのか知れたものではありません。

よほど時間と場所がたっぷりあって、繰り返しますがそういうことを楽しめる人ならいいけれど、片付けのための重い腰をやっとあげ、できるだけ短期に終わらせてしまいたい人には、まったく不向きだと思いました。

また、地元のフリマに出品して不要品を売りさばいている人も多いと聞きますが、出店そのものが抽選らしく、運よく当選しても、それを朝から車に積んで持ち込んで並べて、ずっと会場に張り付いていなくてはならないわけで、マロニエ君は性格的にそうまでしてなにがなんでも人に譲りたいとか換金したいという熾烈な欲求がないことを自覚しました。

もちろん処分対象の不要品を、廃棄することなく別の方が使ってくださることじたいは素晴らしいことだけれど、時間と労力、つまりそのための手間暇を考えたらとてもではないけれど自分の性分には合わない世界でした。

…と、このように何事にも粘りやこつこつ感のないマロニエ君の性格がまたぞろここで顔を出したということでしょうね。
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軽くする

思うところあって、今年は正月から家の片付けをやっています。
我が家はやたらモノが多くて、それでも人目につく表面だけはなんとか整えたふりをしているものの、実際はややうんざりしていました。

いつかは整理をしなくてはと思っていたけれど、なかなか決断するチャンスもないし、やるとなればとても一日や二日で済むような話ではない。
日々の生活に追われていると、そんな大ごとは当然のように後回しにして過ごしてきたのですが、生活上の変化もいくらかあって、ついに今年こそはこれに着手することにしたのです。

巷では断捨離というどこか宗教チックな言葉さえ聞かれますが、これは正確にどういう意味かは認識できていません。
物を捨てることで物との執着を断ち切って清々しく生きていきましょうというような意味だろうとイメージしていますが、もしかしたら間違っているかもしれず、ネットで調べれば正しい意味もわかるのかもしれないけれど、そこまでする気もないし、とりあえず自分の解釈のみでよしとします。

なぜなら、マロニエ君などはどっちにしろ断捨離などといえるような高い境地には到達できないことははじめからわかっているし、とりあえず要らないものは処分しようという単純行動に出たにすぎません。

今後読む予定がないと思われるあれこれの書籍類を、手始めにまず大量処分。
これをネットで申し込み、ダンボールに詰めておくだけで業者が取りに来てくれるのは助かりました。

整理といっても困るのは亡くなった身内の遺品で、とりわけ衣類などは生前身に着けていたものではあるし、それをただポイポイ処分(はっきりいうとゴミとして廃棄する)するのは、はじめは申し訳ないような気持ちがあって、なかなか手をつけられませんでした。
しかし、一面において衣類ほど始末に悪いものもないのが現実で、取っておいたからといって何の役に立つわけではなし、写真などと違うのだから、わざわざそれを取り出して個人を偲ぶようなものでもない。
さらには、いまどきのモノのあふれた日本では、よほど状態の良いものでも、衣類は人様に差し上げるようなご時世でもないので、要するにどう考えを巡らせてみても有効な使い途がないわけです。
そのいっぽうで貴重な部屋や空間を臆面もなく占領しているだけというのが衣類の紛れもない事実。

古着買取なども調べたけれど、それに要する労力に対してほとんど見返りがないことも判明し、けっきょくゴミとして処分することが唯一最良の道というところに決着しました。
中には良い品やまったく袖を通していないものなど、いざ処分するとなると忍びないものも数多くありますが、そこでいちいち立ち止まってみてもなにもならず、意を決して片っ端から処分しています。

やるからには、無用なものはできるだけ取り除こうと整理と処分を続けており、すでにかなりの量をゴミとして出しましたが、だんだんわかってきたことは、捨てるという行為は、始めの抵抗感の山を一つか二つ越えてしまうと、あとは急速に慣れていくし、いつしか妙な快感があるということでした。

無用物としてそれを部屋から(ひいては家の中から)取り出せば、そのあとには場所や空間が生まれ、必要な物だけで再構成されるささやかな世界には不思議な新鮮さがあることがわかりました。
ちょっと生き返る感じと言ったら大げさかもしれませんが、そんな清々しさがあるのは事実です。

物理的にも精神的にも身軽になるということの大切さを感じた時に、ああこれが断捨離の意味するところなのかとチラッと思ってしまいましたが、もちろん先にも書いたようにその本質がどこになるのかよくわかりませんし、わからなくても構いません。

もうしばらくは終わりそうにありませんが、ひとつわかったことは、使いもしない物を多く抱え込んでいるということは、自分にとって知らぬ間にかなりマイナスになっていて、それに気づきもしないということです。
ついでに雑念などもすっかり捨て去ってしまえればいいのですが、そこまではなかなか…。
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完成度

先日のNHK-Eテレ、クラシック音楽館ではN響定期公演の後のコンサートプラスのコーナーで、スタジオ収録された仲道郁代さんのショパンが放送されました。
ショパンが生きていた時代のプレイエルと現代のスタインウェイを並べて、ショパンの有名曲を弾くというもの。

同じプレイエルでも、コルトーなどが使ったモダンのピアノとは違い、いわゆるフォルテピアノ世代なので、音も姿形もかなり古い骨董的な感じがします。

音が出た瞬間に、ぽわんと温かい音が広がるのは心地良いし、現代のピアノが持ち合わせない味わいがあることはじゅうぶん感じつつも、いかんせん伸びがなくやはり発展途上の楽器という印象は免れませんでした。

冒頭の嬰ハ短調のワルツだけ、両方のピアノで奏されましたが、はじめにプレイエルを聴いてすぐスタインウェイに移ると、まず明確に音程が高くなり、楽器に圧倒的な余裕があり、耳慣れしていることもあってとりあえずホッとしてしまうのは事実でした。

まるで木造建築と近代的なビルぐらいの違いを感じました。
むろん木造は素晴らしいけれど、より完成度が欲しい気がします。
スタインウェイが素晴らしいのは、ただ近代的で力強くて美しいというだけではなく、極限まで完成された楽器という部分が大きいように思います。このいかにも居ずまい良く整った楽器というのは、それだけで心地よく安心感を覚えます。

個人的には、比べるのであれば、古いプレイエルとモダンのプレイエルを弾き比べて欲しかったし、同じようにモダンのプレイエルとスタインウェイの比較のほうが、より細かい違いがわかるように思いました。

というか、フォルテピアノと現代のスタインウェイでは、根本があまりにも違いすぎてあるいみ比較にならず、かえってそれぞれの特徴を感じるには至らないような気がしました。
そもそも、差とか違いというのは、もっと微妙な領域のものだと思うのです。

とりわけショパン~プレイエルにこだわるのであれば、プレイエルらしさをもっと引き出すような焦点を与えてほしかった気がしますが、この企画は2週続くようで、次の日曜にも続きが放送されるとのことでした。


演奏やピアノとは直接関係ないことですが、仲道さんのドレスがちょっと気になりました。
趣味の問題まであえて触れようとは思いませんが、真っ赤なドレスのサイドの脇の下から腰のあたりまでが穴が空いたようになっていて、実際には肌色のインナーを付けておられるのでしょうけど、パッと目にはその部分の肌が大きく露出しているように見えて、せっかくの演奏を聴こうにも視覚的に気になってしまいます。
これって今どきの女性演奏家のひとつの潮流なの?って思いました。

この方向に火をつけたのは、まちがいなくブニアティシヴィリとユジャ・ワンであることに異論のある方はいないでしょう。
必要以上にエロティックな衣装で人の目をひくのは、言葉ではどんな理屈もつけられるのかもしれないけれど、個人的にはまったく賛成できません。とくにこの外国勢ふたりに至っては、節度を完全に踏み越えてしまっており、このままではどうなってしまうのかと思うばかりで、ピアニストのパフォーマンスは、ナイトクラブのショーではないのだから、その一線は欲しいというか…当たり前のことだと思う。

少なくとも、クラシックの演奏家がそんな格好をしてくれてもちっとも嬉しくもありがたくもないというのが本音であって、スケベ心を満たしたいなら、こういうものに期待せずともほかになんだってあるでしょう。
個人的な好みで言うと、よくある女性の肩がすべてあらわになって紐一本ないようなドレスも見ていて心地よくはなく、半分裸みたいで落ち着かない感じがするし、やはり演奏には演奏の場にふさわしい服装というのはあるように思います。

この調子では、そのうち女性ファン相手に、男性ピアニストがピチピチのランニング一枚に短パン姿でピアノを弾くということだってアリということになりかねません。ひええ。

衣装ひとつでも、要はそのピアニストが何によって勝負をしようとしているのかがわかりますね。
仲道さんもわずか30分の間に、お召し替えまでされていましたが、そこまでして「見せる」ことを意識するということに、よほどの自信とこだわりがおありなんだろうなぁと思ってしまいました。
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レオンスカヤ

聴いていてなんとも不思議な気持ちになるピアニストっているものです。
不思議の意味もいろいろあるけれど、ここで言いたいのは、その人の特徴や良さはどこなのか、何を言いたいのかがまるきりわからないという意味での不思議。

エリザベート・レオンスカヤは以前からそれなりに名の通った中堅ピアニストだったけれど、昔からマロニエ君はこの人のCDを聴いて、そのどこにも共感できるものを体験したことがありませんでした。

いろんなピアニストがいて、個性やスタンスがそれぞれ違うのは当然ですが、好き嫌いは別にしても目指している方向ぐらいは、聴いていれば察しはつくのが9割以上でしょう。
ところが、彼女にはそれがまったく見えないという点で印象に残っているピアニストでした。非常に真面目で、正統派といったイメージがあるけれど、マロニエ君にとってはどこが魅力なのかわからない不思議な人。
CDではショパンやブラームスなど、いくつか買ってはみたものの、一度聴いてあまりにもときめきがないことに却ってお寒い気分になってしまい、そのままにしているCDが探せば何枚かあるはず。

そんなレオンスカヤですが、昨年のサントリーホールでトゥガン・ソヒエフ指揮するN響の定期公演に出演し、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番を弾いたようで、録画でそれを見てみることに。

長い序奏の後、3回にわたるハ短調のユニゾンのスケールによってソロピアノが開始されますが、グリッサンドのように音が団子状態で繋がっているのにはいきなりびっくりしました。
演奏が進むにつれ、ますます意味不明。
具体的なことは書くこともできないし、その記述に敢えて挑戦しようとは思いません。

すくなくとも、大晦日にYouTubeで視聴した昔のアニー・フィッシャー(オーケストラは同じくN響)の同曲とは、マロニエ君にとってはまさに雲泥の差でしかなく、これがいかに素晴らしいものであったかを、他者の演奏によってさらに強固に裏書してもらったようなものでした。

このレオンスカヤ女史は、演奏はまったく好みではなかったけれど、演奏前のインタビューではなかなかいいことをおっしゃっていました。
「ピアノを演奏するときの揺るぎない法則があります」
「手の自由な感覚と同時に手の重みを感じること。そうすると重く弾くことも軽く弾くことも可能です」
若いピアニストへのアドバイスでは
「鍵盤はタイプライターではない、ペダルは車のアクセルではない。」
「ピアノで上手く歌えないときは、声(声に出して歌ってみる)に頼ってみるといい。」
楽譜の読み方について
「楽譜を正しく読むとはどういうことか。音符についた点やスラーで作曲家は何を表現したかったか考えねばなりません。」
「スタッカートやアクセントを単にその通りに演奏しても意味がありません。」

いちいちごもっともなのだけれど、さてその方の演奏に接してみて、こういう言葉を発する人物が、いざピアノを弾きだすとあのような演奏になってしまうことに、聴いているこちらの整理がつかないような違和感を感じてしまうのをどうすることもできませんでした。
ピアノで歌う…作曲家の表現したかったもの…。

アンコールにはなんとショパンのノクターンの有名なop.27-2が演奏されましたが、ベートーヴェンの3番のあとにこういう作品をもってくるというセンスが、さらにまた理解不能でした。

後半はドヴォルザークの新世界からで、その残り時間に、東京文化会館少ホールで行われたボロディン弦楽四重奏団とレオンスカヤによる、ショスタコーヴィチのピアノ5重奏曲から抜粋が放送されました。
サントリーホールの協奏曲では新しめのスタインウェだったのに対し、こちらではヤマハのCFXで、スタインウェイに比べてエッジの立った音で、パンパン華やかに鳴っているのが印象的でした。
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