無事に平穏に

正月とはいえ、旅行に行くでもなし、今年は家の中の整理に明け暮れています。
昨年いろいろあって、部屋をまるまる二つ整理する必要が出てきたためです。

あまりにも大掛かりなのでずっと手を付けずに来ました。

それで、年が明けて、ちょうど手伝ってくれる人もあることから、限られた時間内ということもあって、3日はついに着手することに。

モノを整理するということは、その前段階として捨てるべきものを捨てるということなんですね。
そのための取捨選択というのは、予想以上のエネルギーを要する仕事であるのにまず驚くことになりました。

巷では断捨離などという言葉をよく耳にしますが、そんな境地のはるか以前の段階で、不要物というものがこれほど家の中にあったのかということがまず衝撃でした。
長い時間をかけて蓄積されたものというのはとてつもないもので、さてさてこれは一筋縄ではいかないことを思い知ります。

おかしなもので、丸一日やっていると、感覚もだんだん麻痺してくるのか、自分がどれくらい疲れているのかもわからなくなりますし、後半の数時間はほとんど惰性でやっているようなものでした。

まだ当分は終わりそうにないので、残りは次の連休にでもコツコツやっていくしかないでしょう。


年末年始は、マロニエ君だけがそう感じたのかもしれませんが、救急車のサイレンをよく聞いた気がします。
こんな一年の区切りや、最も平和であって欲しい時期に、運悪く病気や怪我で救急車に乗せられて病院に搬送されるのは、本人も家族もどんな心持ちなのかと思いますが、やはり世の中は表に出る部分だけでなく、実際にはいろいろと人間模様があるということですね。

年末は明らかにおかしな動きの車がたくさんいました。
絶対止まってはいけないような場所で平気な顔をして止まる、4車線ある道で左車線からいきなり右折車線へ横っとびするように車線変更してみんなが急ブレーキになったり、かなりの速度で流れる幹線国道の中央にあるポールの切れ目で、Uターンしようとして玉突き事故の危険を作るなど、とく30/31日はマロニエ君も普通の感覚では運転できないことを察知してとくに注意して走りました。

30日は普通に走っていた深夜の国道が、突如大渋滞になったかと思うと、先にパトカーの赤い回転灯がたくさん見えてきて、右と左のそれぞれ歩道にグシャグシャに大破した車があったし、大晦日は深夜に年越しそばを食べに行こうと蕎麦屋の駐車場に入ろうとしたら、ちょうど店のまん前がパトカーだらけでした。

なんと、すぐ目の前の車道には横たわる人らしき影があり、それを大勢の救急隊員が道路に膝をついて取り囲んでいました。
今まさに担架に移されるところだったようで、その物々しさときたら大変なものでした。
あと1時間足らずで新年を迎えようというまさにそんなタイミングで、年越しどころではないことになっているわけで、想像ですが横断歩道のない道を横断してはねられたのかもしれません。
さすがに、もうすっかりビビってしまって、帰りは普段の何倍も気をつけてビクビクしながら運転して帰りました。

いっぽう明けて2日は、動物園の初開園の日でしたが、恒例のクジ引きで一等を引き当てたのはちょっと知っている小さな女の子で、昨年生まれた動物の赤ちゃんの命名権を得て、お父さんと一緒にこの様子が何度も何度もテレビに映し出されるのは笑ってしまいました。

なんとか無事に平穏に過ごしたい一年です。
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大晦日と元日

あけましておめでとうございます。

大晦日の夜は、知人からのメールがきっかけとなって、アニー・フィッシャーが弾くベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番をYouTubeで視聴しました。
オーケストラはN響で、タイトルには1989年とあり、たしかマロニエ君はこの演奏会に行った記憶があります。

この人は派手でもないし、スターピアニストというほどでもなかったけれど、自分の感じる作品をどう表現するかという点では並々ならぬものがあり、ときにちょっと先生タイプでもありますが、その音楽に対する謙虚な姿勢は瞠目に値します。

なつかしい演奏をあらためてネットの映像で目にして、こういう毅然とした佇まいの人って完全に消滅したなぁと思いました。
なんとなく、晩年のクララ・シューマンってこういう感じの人だったのかも…というような気も。
とても深く人を愛して、音楽のしもべで、倫理観が強いのに激情的で、鋼鉄のように信念を曲げない人…。

2016年は、実を言うとマロニエ君にとってはいろいろとあった年でしたので、どんな風に年越しをしたものかという妙な感覚もあったのですが、そんな年の最後の最後に、ベートーヴェンの3番をたとえネットではあっても好ましい演奏で聴くことができたというのは、思いもかけず良かったと思いました。

あまりにも聴き慣れた名曲中の名曲でですが、フィッシャーが弾くこの曲には飾らない実だけで語られるぶん、人間のさまざまなドラマが色濃く描かれており、第1楽章の一気呵成な推進力に圧倒され、第2楽章はホ長調へと転じて穏やかな許しに満ちた美しさは疲れた心が満たされるようであったし、終楽章では、再びハ短調に戻って悲喜こもごもの事共を全てひっくるめて、フィッシャー奏でるベートーヴェンの力によって,自分の心のうちをぜんぶ押し流してくれたようでした。
とくに終わりに近づくにつれて曲は高まり、すべてのことをひっくるめて総決算をしてもらったようでした。

やっぱりベートーヴェンは人生そのものですね!

大晦日に、まったく思いがけずアニー・フィッシャーを見ることで、2016年は最後は清々しく終われた感じでした。

これまでは新年最初に聴く音楽を何にするかこだわってきましたが、大晦日に良い音楽が聴けたことで充分だった気がして、新年のほうは止めることにします。

今年はもう少しピアノの練習をしようかな…と思うだけは思っています。
というのも、マロニエ君のまわりには、あまりにもビシっと練習する人がたくさんいて、その人達に接するたびに好きなことなら少しは身を入れてやらなきゃと思うからです。
でも、ほかならぬマロニエ君のことですから、きっとそうはならないでしょうけど、年頭にあたってちょっと人並みのことも言ってみたくなりました。

あいも変わらずくだらないブログですが、本年もよろしくお付き合いくだされば幸いです。
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10代のキーシン

過日、ピアノの知り合いがお遊びに来宅され、夕食を挟んで深夜まで、7時間近くピアノ談義に費やしました。

その方はマロニエ君など足下にも及ばないような高度なiPad使いということもあり、話題に名前が出るとほぼ同時ぐらいに指先はササッと画面を検索して、そのつどいま口にしたピアニストの音や映像が流れます。
まるで、影の部屋でスタッフがスタンバイしているテレビ番組のような運びの良さで、ただただ感心するばかり。

この日は、話や動画やCDに終始するあまり、ピアノは真横にあるのにまったく触らずに終わってしまうほどこちらに熱が入りました。

話はめぐるうち、「天才」が話題となりました。
世界の第一線で活躍するピアニストの大半はまずもって天才であるのだろうけれど、その中でもいかにも天才然とした存在のひとりがキーシンです。

彼がわずか12歳の子供だったとき、モスクワ音楽院の大ホールでキタエンコ指揮のモスクワ・フィルを従えて弾いたショパンの2つの協奏曲のライブは、当時ショック以外の何物でもありませんでした。
たしか、演奏から3年後くらいだったか、初めてこれをNHK-FMで耳にしたマロニエ君はその少年の演奏の深みに驚愕し、当時東京に住んでいたこともあり、神田の古書店街の中のビルにあった新世界レコード社という、ソビエトのメロディアレーベルを主に扱う店の会員にまでなって何度も足を運び、ついにキーシンのライブレコードを手に入れました。当時はまだLPでした。

それから初来日のコンサートにも行きました。ソロリサイタルではオールショパン・プログラム、いっぽう協奏曲では、スピヴァコフ指揮のモスクワ室内管弦楽団とモーツァルトの12番とショスタコーヴィチの1番を揺るぎなく弾いたし、その後の来日ではヴァイオリンのレーピンなどと入れ替わりで出演し、フレンニコフのピアノ協奏曲を弾いたこともありました。
とにかく、この当時はすっかりキーシンにのぼせ上がっていたのでした。

初めはLP一枚を手に入れるのにあんなに苦労したのに、今では当時の演奏や動画がYouTubeなどでタダでいくらでも聴けるようになり、この環境の変化は驚くべきことですね。

この夜は久しぶりにキーシンの10代のころの演奏映像に触れて、感動を新たにしました。
この知人も言っていましたが、キーシンについては「今のキーシン」を高く評価する人が多いようで、それももちろん深く頷けることではあるけれど、マロニエ君は10代のころのキーシンには何かもう、とてつもないものが組み合わさって奇跡的にバランスしていたものがあったと今でも思います。

現在のキーシンはたしかに現在ならではの素晴らしさがあるし、深まったもの、積み上げられたもの、倍増した体力などプラスされた要素はたくさんあるけれど、失ったものもあるとマロニエ君は思っているのです。
若いころの、この世のものとは思えない清らかな気品にあふれた美しい演奏はわりに見落とされがちですが、あれはあれで比較するもののない完成された、貴重な美の結晶でした。
現在のキーシンの凄さを感じる人は、どうしても「若い=青い」という図式を立てたがりますが、10代のキーシンの凄さは今聴いても身がふるえるようで、大人の心を根底から揺さぶるそれは、だから衝撃的でした。

とくにショパンの2番(協奏曲)に関しては、誰がなんと言おうと、マロニエ君はこの12歳のキーシンの演奏を凌ぐものはないと断言したいし、マロニエ君自身もその後キーシンによる同曲の実演にも接しましたが、あの時のような神がかり的なものではありませんでしたから、おそらく本人もあれを超える演奏はできないのかもしれません。

さて…。
ショパンの2番といえば、NHK音楽祭でユジャ・ワンが先月東京で弾いたという同曲を録画で見たのですが、個人的にはほとんどなんの価値も見いだせない演奏でした。
現在の若手の中で、ユジャ・ワンには一定の評価をしていたつもりでしたが、こういう演奏をされると興味も一気に減退します。
やはり彼女は技巧至難なものをスポーティにバリバリ弾いてこそのピアニストで、情緒や詩情を後から演技的に追加している感じはいかにも不自然。曲の流れを阻害している感じで、あきらかにピアニストと曲がミスマッチで見ていられませんでした。
尤もらしい変な間がとられたり、ピアノの入りや繋ぎの呼吸も、こういう曲では作為的で後手にまわってしまうのも、やはり自分に中にないものだからでしょうね。

あれだけの才能があるのになぜそんなことをするのかと思うしかなく、現代のピアニストはなんでもできるスーパーマンになりたがりますが、それは無理というもの。その人ならではのものがあるからこそ、人はチケットを買って聴きに来るのだと思いますし、だからこそ価値がある。

まるで場違いな猫がショパンに絡みついているみたいで、この曲に関しては衣装なども含めてブニアティシヴィリと大差ないものにしか見えませんでした。しかし最後にアンコールで弾いたシューベルト=リストの糸を紡ぐグレートヒェンになると、ようやく本来の彼女の世界が蘇りました。
やはりこの人はこうでなくてはいけません。

すべてに云えることですが、自分のキャラに合わないことはするもんじゃありませんね。
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撤回の撤回

知り合いが1960年代のスタインウェイDを買われました。

数年前、このブログを読まれたことがきっかけでご連絡いただき、それからのお付き合いになった方です。関西にお住いで一度だけお会いしたことはあるけれど、普段はもっぱらメールか電話のやり取りに終始する間柄。
ピアノ本体の話とCDや世界で活躍する演奏家の話が遠慮なくできる相手というのは、そうざらにはなく、その点では貴重な方といえます。

音楽のプロではないけれど、かつては専門教育を受けられているし、なにより心から音楽がお好きで、ご自身でも趣味でピアノを弾くなどして楽しんでおられるようです。
ご自宅ではディアパソンの大きめのグランドをお使いで、私も数年間同じピアノを持っていたことから、よく情報交換などしていたものですが、最終的にはスタインウェイのDを買うことが目標だと以前から聞いていました。

さて、2年ぐらい前だったでしょうか、北関東のとあるピアノ店に該当するピアノがあることがわかり、どんなものか見に行かれたようでした。
といっても、このピアノ店は東京からさらに新幹線か在来線、あるいはバスを乗り継いで行かなくてはならないロケーションで、一往復するだけでも、それに要する時間と労力はおびただしいものがあるようでした。
なんなら飛行機に乗ってひょいと海外にでも行くほうがよほど簡単かもしれません。

で、見られた結果はまずまずで、かなり関心をもたれたようですが、そうはいってもおいそれと即決できるような価格やサイズでもないため、すぐに購入というわけにはいかなかったようでした。
その後は折を見て、ときにはお知り合いのピアニストなども同道されて見に行かれたようですが、やはり良いピアノのようで、事は徐々にではあるけれど、一歩ずつ購入への距離を縮めているようにお見受けしていました。

その後、どれぐらいのタイミングであったか忘れましたが、とうとう購入契約を結ぶところまで事は進み、まずはおめでとうございますという運びになりました。ところが、その後何があったのかはよくわかりませんが、この話は一旦撤回され、購入も何もかもがすべて白紙に戻ってしまうという非常に残念な経過を辿ります。

マロニエ君はそのピアノを見たことも弾いたこともないけれど、写真やこまかい話などから想像を膨らませて、まずその方が買われるであろう「縁」のようなものがあるピアノだと思っていたのですが、予想は見事に外れ、自分の勘働きの悪さを恥じることに。

ところがそれから一年以上経った頃だったでしょうか、マロニエ君の地元のぜんぜん別の人物がやはりこのピアノ店を訪れました。
それによると膨大な在庫の中には、何台かのスタインウェイが購入者の都合から納品待ちという状態にあるのだそうで、その中に上記のDも含まれていることが判明します。そして、白紙撤回から一年以上経っているにもかかわらず、どういうわけかキャンセルの扱いにはならず、契約が成立したまま、あくまで納品がストップしている状態であるという話に耳を疑いました。
マロニエ君も「あれはキャンセルされたはず」だと何度も念をしますが、どうもまちがいではないらしい。

そこで、ただちに上記の関西の知人に電話して、こういう現状になっているらしいことを伝えました。
もしもまだその気があるのであれば、気に入ったピアノというのはそういくつもあるわけではないし、そういう状態でキープされているのもお店の格別な計らいだろうとも受け取れたので、この際購入へと話を再始動されるか、あるいは本当にその気がないのであれば、それを今一度明確に伝えられたらどうでしょう?というような意味のことを言ったわけです。
お店としても、本当にキャンセルという確認が取れたら、「SELECTED」と書かれた札を取り去って、再び販売に供することができるはずで、高額商品でもあるし、いずれにしろ宙ぶらりんというのは一番良くないと思いました。

というわけで多少のおせっかいであったとも思いましたが、結果的に再びピアノ店へ行かれることになり、それからしばらくの後、ついに購入されることになりました。そして今月の中旬、ついにそのスタインウェイはその方の自宅へと無事に運び込まれたようです。
聞けば、一年半の時をかけ、このスタインウェイのためだけに都合7回!!!も関西から往復されたそうで、こういう買い方もあるのかと、ただもう感心してしまいました。

マロニエ君はといえば、それがピアノであれ車であれ、ほとんど1回か2回でババッと決めてしまいますし、その折もろくにチェックやあれこれ確かめるなどは自分なりにやっているつもりでも、実はほとんどできていません。買うときは半ばやけくそみたいなところがあるし、なかなかじっくり冷静にということができない性分で、ほとんどノリだけで決めてしまうのは毎度のこと。
いやはや、じっくり見極めるとはこういうことをいうのだと感嘆するばかりでした。
いずれにしろ、少々時間はかかりましたが収まるべきところに収まったのはおめでたいことでした。
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国産アップライト

過日、久しぶりに旧知のピアノ店を訪ねました。
周囲を一面緑の田園風景が取り囲むピアノ工房です。
時代を反映してか以前よりもアップライトの展示比率が高まり、台数じたいもぐんと増えていて、手頃で上質な中古の国産アップライトに関しては見比べ弾き比べするには理想的な環境へと変貌していました。

はっきり覚えていないけれど、ちょっと思い返しただけでも15台以上はあって、どのピアノもキチンと技術者の手が入った言い訳無用の状態にあることは、いつもながらこの店の特徴的な光景です。
ふつうは、色はくすんで傷だらけのピアノをショールームに置いて、「これは、これから仕上げます」みたいなことをいう店は少なくないのですが、そのたぐいは一切なく、お客さんの目に触れるものはすべてピカピカの「商品」として仕上げられていることは、見ていて安心感があり心地よいものです。

むろん内部も外観同様に細かい項目ごとにしっかり整備されていて、どれもすぐ安心して弾ける状態にキープされているのは、本来これが当たり前と言われたらそれまでですが、現実になかなかそうなっていない店が多い中、この店のこだわりと良心を感じます。

長らくご主人が整備・販売からアフターケアまですべてひとりでされていましたが、ここ数年は息子さんがお父さんと同じ仕事を受け継ぐ決断をされて工房に入られています。それ以前は別の業界におられたにもかかわらず、わずか数年の間にまるでスポンジが水を吸い込むがごとく、あらゆることをお父さんから吸収されたようで、今や塗装に関しては息子さんのほうが上手いまでになったというのですから驚きました。

なるほど、ここの10数台のピアノが、どれもまばゆいばかりに輝いており、中古独特のある種の暗さというか前オーナーの食べ残し的な雰囲気は全くといっていいほどありません。文字通りのリニューアルピアノで、溌剌とした状態であたらしい嫁ぎ先を待っているという明るさがありました。
この明るさというのが実はとても大事で、どんなにいいものでもなぜか暗い雰囲気のもの(あるいは店)がありますが、明るくないと人は買いたくならないものです。さすがにその辺りも含めて現役ピアノ店として生き残っている店はやはり違うなあと思いました。

さて、せっかくなのであれこれ弾かせていただきましたが、同じ技術者がまんべんなく整備しているだけあって、ヤマハとカワイと各サイズで、ほとんどその特徴がわかるもので、ヤマハはだいたいどの年式を弾いても同じ音と同じ鳴り方をして、サイズや個体差というのは思ったより少ないというのがわかります。カワイも同様。

ということは、基本的には、年式やモデル/サイズの違い、あるいは中古の場合は長年の保管状況や経年変化も本質的には少ないようで、しっかりとした技術者の手が入って本来の性能が引き出されると、そのピアノの生来の姿が浮かび上がることがわかります。
ヤマハ/カワイのアップライトとは要するにこういうものだということが、大局的にわかったようで非常に有意義でした。

生来の姿というのは、要するにヤマハという一流メーカーの最高技術で大量生産されたピアノということですが、それらの根底にあるものはすべて同じで、大量生産ゆえに個体差が非常に少ないのは合点がいくところ。また長年それぞれ異なる場所で使われてきたピアノでしょうけど、環境による変化も本質的にそれほど受けておらず、整備すればちゃんとある程度の状態に戻ってくるというのは、日本のメーカーの底力だと思わずにいられません。
楽器としてどうかということはまた別の話に譲るべきかもしれませんが、少なくとも製品としては、驚異的な信頼性、耐久性、確かさがあるのは間違いのないところで、これはこれで驚嘆に値することだと思いました。

この中に2台だけ、50年ほど前のヤマハのアップライトがありました。
すなわち1960年代のピアノで、ロゴも現在のスリムな縦長の文字ではなく、やや横に広がった古いタイプです。

聞くところによると、価格的にも最も安い部類だそうで、塗装もラッカー仕上げなので、その後のアクリル系の塗装にくらべるとあの独特なキラキラもありません。
一般的なお客さんにとっては、古いことがマイナス要因となるのか、安いこと以外に魅力はないらしいのですが、マロニエ君は逆にこのピアノには心惹かれるものを感じました。

隣にちょうど同じサイズの少し新しい世代(1970年代)の同じヤマハがありましたが、こちらはもう次世代の仕様で、見た目から音までいわゆるおなじみのもの。
60年代のそれには、弾いた感じもほかのピアノたちとは一線を画するものがありました。
普通の人が抱く安心感という点では、よくも悪くも、新しいほうなんだろうと思います。細めの基音があって、そのまわりに薄い膜みたいなものがかかっていて、それが洗練といえば洗練なんでしょうし、現代的といえば現代的。

その点、古いほうは飾らない実直な音がして、人でいうとやや不器用かもしれないけれど正直者といった感じ。
食材なら何も味付けがされていない状態で、いかにも小技を使わずまっとうに作られた感じがあり、ピアノという楽器の機構から出るありのままの音がするし、ヤマハがまだ徹底した大量生産に移行する前の最後の時代の、ベヒシュタインなどを手本にしていた時代の香りのようなものがありました。

古いほうはひとことでいうとヤマハなりに「本物の音」がしました。
それはそのまま、ヨーロッパのピアノにも繋がるフィールといえなくもない。
そして、欠点もあるけれど、音には太さと重みと体温みたいなものがあり、弾くことが楽しいのでした。

いいかえると、新しい仕様は、いかにもヤマハという感じで、欠点らしい欠点はないけれども無機質で、楽しくはないけれども安心で、なにもかもが正反対のものになってしまった…でもそれで売れて一時代を築いたというアイロニーがあるように思いました。
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つまらなさ

コンサートに行くことは基本的に止めてもうどれくらい経ったでしょうか…。
こんなに音楽が好きなのに、以前はあんなに足繁く通っていたのに、それをやめ、しかもまた行きたいとはほとんど思わない現在の状況にはいくらか驚きつつ、それが自然なのかとも自分では思います。

理由はいろいろありますが、まず大きいのは、真剣に音楽に挑むというスタンスで、聴く人へ何かを伝えようとする魅力ある演奏家が激減したこと。
顔と名前は有名でも、その演奏は空虚で義務的で、さらに地方のステージでは力を抜いている様子などがしばしば見受けられ、否も応もなくテンションは下がるのは当然です。
決められたプログラムをただ弾いて、済めば次の公演地に移動することの繰り返しによってギャラを稼いでいるだけという裏側が見えてしまうと、期待感なんてとても抱けず、シラケて行く気になんかなりません。

もうひとつ、大きいのはホールの音響。
どんなに良い演奏でも、コンサート専用に音響設計されたという美名のもと、汚い残響ばかり渦巻くようなホールでは、とてもではないけれどまともに聴く気がしないし、演奏も真価はほぼ伝わりません。
デッドでは困るけれど、昔のような節度感あるクリアな音響のホールが懐かしい…。
しかも、長引くコンサート不況のせいか、最近はなにかというとこの手の豪華大ホールばかりで、ようするにわざわざ雑音を聞きに行っているようなものなので、それでもひと頃はかなり挑戦したつもりですが、ついに断念。

さらにピアノの場合は楽器の問題もないとはいえません。
どこに行っても、大抵はそこそこの若いスタインウェイがあり、ほぼ決まりきった音を聴くだけでワクワク感などなし。
もちろん個人的には、それでもその他の同意できない楽器の音を聴くよりはマシですが、なんだか規格品のように基本同じ音で、こういうことにもいいかげんあきあきしてくるのです。

今どきの新しいスタインウェイも結構ですが、ホールによってはもう少し古い、佳い時代のピアノがあったりと変化があればとも思うのですが、これがなかなかそうもいかないようです。

マロニエ君は大きく幅をとったにしても、ハンブルクスタインウェイの場合、1960年代から1990年代ぐらいまでのピアノが好みです。わけても最も好感を持つのが1980年代。
このころのピアノは深いものと現代性が上手く両立していて、パワーもあるし、ピアノそのものにオーラがありました。

いっぽう、新しいのは均一感などはあるものの、ただそれだけ。
奥行きがなく、少しずつ大量生産の音になってきている気配で、これによくある指だけサラサラ動くけど、パッションも創造性もない、冒険心などさらにないハウス栽培みたいなピアニストの演奏が加わると、マロニエ君にとってはもはやコンサートで生演奏を楽しむ要素がまったく無くなります。

べつに懐古趣味ではないけれど、ホールも、ピアノも、ピアニストも、20世紀までが個人的には頂点だったと思います。

ちなみに、何かの本で読んだ覚えがありますが、この世の中で、スタインウェイ社ほど過去のスタインウェイに対して冷淡なところはないのだそうで、たとえばニューヨークなどでも、自社に戻ってきた古いピアノは、素晴らしいものでもためらいもなく破壊してしまうことがあるのだとか。
たとえ巨匠達が愛した名器であっても処分するらしく、真偽の程はわかりませんが、聞くだけで身の毛もよだつような話です。

それほど、メーカーサイドは新品を1台でも多く売ることに価値を置いているというわけでしょうから、いかにスタインウェイといえども骨の髄まで貫いているのは商魂というわけですね。
また、その証拠にスタインウェイ社の誰もが、古いピアノの価値に対しては不自然なほど無関心かつ低評価で、常に新しいピアノのほうが優秀だと一様に言い張るのは、まるでどこぞの統制下にあるプロパガンダのようで、そういう社是のもとに楽器の評価まで徹底的にコントロールされているのかと思います。

親しい技術者から聞いたところでは、メーカーは新しいピアノのほうがパワーがあるとも主張するのだそうで、さすがにこれはかなり苦しい政治家の答弁のようにも思えます。

客席から聴くぶんには、新しいスタインウェイは見た目は立派でも、もどかしいほどパワーが無いと感じることがしばしばで、古いピアノのほうが太い音を朗々とホール中に満たしてくれる事実を考えると、いいものが次第に世の中からなくなっていくこのご時世が恨めしくさえ思えてしまいます。

ピアノがもし、運搬に何ら困らない持ち運び自由な楽器であったなら、多くのピアニストは佳い時代の好みの一台を自分の愛器として育てて、それを携えて演奏旅行をするのはほぼ間違いないでしょう。

そう考えると、ピアノはあの大きく重い図体ゆえに自らの運命も変えてしまったのかもしれません。
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革新と伝統

ピアノ技術者とピアノの所有者(弾く人)の間には、つくづく相性というものがあるように思います。

もちろん人間的なそれもあるけれど、最も大きいのはピアノの音に関する価値観やセンスの問題で、このあたりはあまり多くを説明して解決できるものでもなく、できれば自然にある程度一致できることが理想だと思います。
これまでにも素晴らしい技術、素晴らしい人柄の技術者さんとは数多く出会ってきましたが、今回ほど時間も無駄にすることなくしっくりくる方はなかったように思います。

以前も書いたことですが、この方は他県の方で、たまたまマロニエ君がお店のショールームを覗かせていただいた折、そこにあるピアノの弾き心地にいたく感銘を受けたことがご縁でした。

夏の終わりに保守点検をやってもらい、それいらいかつてない快調が続く我が家のピアノは、弾き心地と実際の音色の両方が好ましい方向で一致したはじめてのケースで、購入後10年余、ようやく好みのコンディションを得ることになりました。

強いていうと鍵盤がやや重いか…という点はあったものの、弾きこむうちに実際に軽くなっていったことは予想外の嬉しい変化でした。
マロニエ君の手許には、以前とてもお世話になった別の調律師さんからのプレゼントで、鍵盤のダウンウェイトを計る錘があるのですが、それで数値を確認してみると、保守点検直後は50g前後ぐらいだったものが、今回は中音域から次高音あたりの多くが48gほどになっていました。

というわけで、本当なら今年はこのままでよかったのですが、近くに住む知人がぜひその方にやってほしいということになり、せっかく遠方から来られるのだから、それなら我が家にも再度寄っていただこうという流れになりました。

さすがに前回のようなこんをつめた調整ではなかったものの、それなりのことをいろいろとしていただき、調律を含めるとなんだかんだでやはり丸一日に近い作業となりました。
今回はローラーの革の復元や整音を重点的にやっていただいたようです。
結果は、明瞭な基音の周辺にやわらかさというか、しなやかさみたいなものが加わって、より表現力豊かなピアノにまた一歩進化しました。
何ごとも、使う人と調整をする人との目的というか、ピントが合うかどうかは大事なことで、ここが二者の間でズレると思うようには行かないもの。

「このままコンサートもできますね」といっていただくほどに仕上がって嬉しいことなれど、そうなればなったで、さて弾くこちらのほうがそれに見合わぬ腕しか持ち合わせないのは悲しい現実で、技術者さんにもピアノにも申し訳ないところではありますが。

この技術者さんは口数の多い方ではないのですが、それでも興味深い話をあれこれと聞かせていただきました。
日本で現在最高と思われる方のお名前や、世界を股にかけた超有名調律師の名前などもぞくぞくと登場する中、はっきりそうは云われなかったけれど、調律の世界にも伝統芸的なやり方があるいっぽうで、新しい手法技法の流行みたいなものもあるようで、どれをどう用いるかも含めて技術者の資質やセンス、価値観によって左右されるもののように思いました。

スタインウェイ社のカリスマ的な技術者などは、有名なピアニストの録音にも多く関わっていて、ライナーノートの中にはその名が刻まれているものも少なくありません。
実というとマロニエ君はその人の仕上げた音は名声のわりにはあまり好きではないとかねがね思っていたところ、具体的なことは書かないでおきますが、やはり納得できるものがありましたし、その流儀を受け継いだ人達が日本人の中にも多くいて、テレビ収録されるような場にあるピアノも多く手がけていることは大いに納得することでした。

ピアノはローテクの塊だからといって、旧態依然とした技術に安穏とするだけでなしに、常に新しいことを模索し挑戦する姿勢というのは必要だと思います。
とはいうものの、やはり伝統的手法で仕上げられた音のほうに、断然好感を覚えるのは如何ともしがたく、これはマロニエ君の耳がそういう音を聴き込んできたからだといえばそうかもしれませんが、やはりこちらがピアノの王道だとマロニエ君は思います。

現代の新しいピアノは、昔ほど良くない素材を使って、新しいテクノロジーの下で作られている故にあのような独特な音がするのだろうと思っていましたが、それに加えて音作りをする技術者の分野にも新しい波が広がり、ますます伝統的な深くてたっぷりしたピアノとは違うものになっているように感じました。

新しいものも大事だけれど、やはり伝統的なものはしっかり受け継がれて欲しいものです。
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BARENBOIM PIANO

ダニエル・バレンボイムは南米出身の神童の誉れ高いピアニストで、早い時期から指揮活動との二足のわらじを実践する世界屈指の巨匠…であるにもかかわらず、マロニエ君はバレンボイムという人(とくにピアノ)が苦手なので、彼のCDもあまり持っていません。

最近はアルゲリッチとの共演でCDが何枚か出たので、これらは仕方なく買ったぐらい。

そのバレンボイムのアイデアで、あえて今、並行弦のピアノを作ったことはこれまでも何度か書いた記憶があります。クリス・メーネ(だったよく覚えてません)とかいうヨーロッパのピアノ技術者およびその工房と共同開発というかたちで誕生したようです。
スタインウェイDのボディその他をベースとしているものの、並行弦のポイントであるフレームなどは、スタインウェイとはまったくの別物です。

このピアノ、もともとバレンボイムの旗振りで立ち上がった製作プロジェクトだったのかもしれませんが、実際の研究・設計・製造はいうまでもなく技術者で、にもかかわらず鍵盤蓋の中央(ふつうYAMAHAとかSTEINWAY&SONSと金文字が入っているところ)には、堂々とBARENBOIMの文字が誇らしげに鎮座しているのは、そんなものかなぁ…と思ったものです。

それはともかく、そのピアノを使った初のCDが(マロニエ君の知る限りで)ブエノスアイレスで行われたアルゲリッチとのデュオコンサートのライブで、通常のスタインウェイDとの組み合わせによるバルトークの2台のピアノとパーカッションのためのソナタなどで、ふわんとした響きの余韻などが絡まって、これはなかなかおもしろいものでした。

そしてこのたび、ついにソロによる『DANIEL BARENBOIM ON MY NEW PIANO』というアルバムがグラモフォンから発売になりました。冒頭に書いたように彼のピアノは苦手だけど、このピアノを音を聴くためには買うしかないわけで、買いました。

曲目はスカルラッティの3つのソナタ、ベートーヴェンの自作の主題による32の変奏曲、ショパンのバラード第1番、ワーグナーの聖杯への厳かな行進、リストの葬送とメフィスト・ワルツという、いわばバロックからロマン派までいろいろ弾いてみましたという感じ。

その感想を書くのは非常に難しい。
まずやはり、バレンボイムのピアノが苦手というのが先に立ってしまい、純粋にピアノの音を楽しむことより演奏そのものが気になりました。印象は昔と少しも変わらないもので、人間は弾く方も聴く方も変わらないものだと痛感。
マロニエ君の耳には、音や音色に配慮というものがなく、手当たり次第ぞんざいに弾くという感じ。

たしかに並行弦ならではと思える、古典的な響きはあるけれど、粗野に感じてしまう時もあるのは事実で、これが楽器の問題なのか、ピアニスト故のことなのか、よくはわからりません。

並行弦のピアノでも新造品なので、楽器そのものが骨董品という感じがないのはさすがで、この点ハンディなしにこのシステムの特色を感じることができるという点では、なるほど画期的なことかもしれません。

ただし、はっきり言ってしまうと総論としてマロニエ君はどうしても美しいとは思えませんでした。
たまたま見たピアノ技術者のブログでは、「響きが非常にクリアー(略)曲がすーっと耳に入ってきました。」とあり、技術者の耳にはそんなふうに聴こえるらしいですが、やはりプロフェッショナルの耳と素人の音楽好きとでは聴いているポイントが違うのでしょう。

マロニエ君の耳には、音のひとつひとつがポーンと鳴っているのはわかっても、それが曲として流れたときに、全体がクリアーに聴こえる──つまりなめらかな音の連なりとか澄んだハーモニーになっているようには聞こえませんでした。
とくに和音や激しいパッセージになった時などには、ワンワンなって響きが収束しきれていない気がするし、あまり耳をそばだてずに普通に聴いたときに洗練されたものを聴いたという後味が残らず、本来クリアーなはずなのに、全体としては濁った感じの印象が残りました。

ただ云えることは、これをもし内田光子やアンドラーシュ・シフに弾かせたなら、まったく違った面が出てくるだろうし、そういう巧緻なピアニズムで聴かせる人の演奏でぜひ聴いてみたいというのが正直なところです。
しかし、このピアノの名前がBARENBOIMである以上、他のピアニストが弾くチャンスがあるのかどうかわかりませんね。
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軽すぎません?

かねてより基本的なことで疑問に思っていることがあります。
それはグランドピアノとアップライトでは、なぜああもキーの重さが違うのかということ。

マロニエ君がここでいいたいのは、巷間言われる、アクションの構造からくるタッチ感の違いではなく、ましてグランドにあるアフタータッチ云々とか連打性能のことではありません。

そんな根本の難しい話ではなく、もっと簡単な次元のこと。
ごく単純に言ってアップライトの(といっても数多くありますが、外国産のものはあまり知らないので、とりあえず国産有名メーカーの)キーの軽さというのは、あれちょっと異常ではないかと思うのです。
マロニエ君はべつに重い鍵盤を好むわけではなく、ごく普通に快適に弾けるための、程よい感触があることが望ましいと思っているだけで、少なくともこの点に関して特種な要求はもっていないつもりです。

ネットの相談コーナーなどを見ていても、自宅のアップライトで練習して先生のお宅のグランドで弾くと、キーが重くて、あまりの違いからぜんぜん弾けなくなるというような書き込みが見られます。
これ、マロニエ君も同感なのです。

ごくたまに場所の関係でアップライトに触ることがあるのですが、音云々はともかく、手をおいただけでキーが下がりそうなほどペラペラに軽いのは、なにか大事なものが内部で外れてるんじゃないかと思うほどで、やたら弾きにくく、その盛大な違和感に慌てるばかり。

あまりの違いから変なところでミスをしたり、普段とはまったくちがうものに馴染むためのへんな努力をしなくてはならず、これではとてもではないけれど練習になりません。
練習になるかどうかもあるけれど、あまりにペタペタスコーンのタッチでは、弾いて楽しくもないのです。

だいたいどのアップライトも似たりよったりで、ほとんど電子ピアノ並みに軽いキーになっているのは、市場の要求からそうなっているのか、あるいは腰のないペタペタなタッチじゃやっぱりダメだと思わせて、グランドへの買い替えに結びつけようとしているのか、ついあれこれ裏事情などを想像してしまいます。

誤解なきよう言っておけば、マロニエ君はむろんグランドのほうが好きですが、うるさい御方がいうほどアップライトがダメだとも思いません。
音など、ものによっては変なペラペラのグランドより深いものがあったり、低音なども堂々としたところがあったりする場合もあり、国内産でもいいアップライトはダメなグランドを凌ぐ場合もゼロではないとも思います。

これで、コンクールを受けたり音大受験したりということも別に不可能なことではないと思うのですが、ただそのためにはキーの重さはグランドを弾いた時にあまり違和感のない程度のものである必要はあると思うわけです。

たしかにグランドだから可能な連打とか幅広い表現力もあるし、ウナコルダ(左ペダル)の練習はできなかったりしますが、それよりなにより、キーにある一定の重さや抵抗感がなくては、日々の練習で指の筋力は鍛えられません。
ペタペタのキーばかり弾いてきた指では、グランドで太い豊かな響きを作り出すことは、すぐには不可能でしょう。

現代はグランドでも軽く軽くという傾向みたいで、多くの初級者は電子ピアノだったりするのでしょうけど、そのせいなのか、若くして出てくるピアニストたちはみんな素晴らしくうまいけれど、タッチの逞しさ、ひいては音楽の力強さという点ではずいぶん頼りない感じがします。
ピアノを習いたての時期にペラペラタッチですごしてしまうと、あとでどれだけ素晴らしいグランドに触れても、幼年期の経験というものは潜在的に引きずるような気がします。
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直感

以前このブログに、反田恭平氏がイタリアでラフマニノフのピアノ協奏曲を録音する様子がTV『情熱大陸』で放送された時のことを書きました。

それからおよそひと月、このCDが商品となり店頭に並ぶ季節になりました。
今どき国内盤で税込み3,240円/枚というのは高いけれど、このCDだけは購入しようと心に決めていました。

なにしろ準備されたピッカピカのスタインウェイの音がきれいすぎると気に入らず、ホールの片隅に置かれてた古びたピアノ(こちらもスタインウェイ)を弾いてみて、こっちのほうがいい、こっちにしますといって、その古いピアノで弾いたCDですから、これはもうぜひ往年のピアノの豊かな音を聴けるだろうと期待していました。

反田氏は、やはりCD店も現在イチオシの日本人ピアニストのようで、この新譜のことが大書され、ヘッドホンでの試聴も可能になっています。
で、買うつもりだけれども、せっかく聴けるのならととりあえず聴いてみようと思ってヘッドホンを当てて再生ボタンを押すと、この協奏曲の出だしで特徴的な低音のFの音がよく鳴っていないことに、あれ?と思いました。そして、同じ音が何度も繰り返されるうちに、これはおそらくピアノが鳴っていないと思われて愕然としました。

このイントロ部分が終わってハ短調の第一主題に入っても、ピアノの音にはパワーがなく、しけったような音。
「これはちょっと…」と思いながらしばらく聴き続けましたが、ピアノが問題なのは自分の印象としては確定的となり、これは旧き佳き時代のピアノというよりは、単に古くて鳴らなくなったピアノという感じでした。
おそらくホールでの第一線を退いたため、弦やハンマーも交換されることなく、つまり手入れされずに放置されていたピアノなのか、音に潤いもないし、伸びも色艶もありません。
食べごろを過ぎた、しぼんだ果物みたい。

ではこのピアノを選んだことは失敗だったのか?
それはなんともいえませんが、少なくとも今どきの、うわべのキラキラ感ばかりが前に出るピアノで弾くよりは、このくたびれたピアノで弾いたぶん、反田氏はピアノ側の華やかさに一切頼ることなく正味の実力を出したことにもなり、個人的にはこちらのほうがよかったと思います。

CDケースの裏側を見てみると、後半のパガニーニのラプソディは昨年日本でライブ録音されたもののようなので、そっちに進めてみると、今度はやたらエッジの立ったジンジンいう音で、これは例のホロヴィッツのピアノだろうと直感しました。

このピアノもだいぶ聴いたので今は新鮮味はなく、こうなると購入意欲はガクンと半減し、しばらく両耳をヘッドホンに突っ込んだまま、買うか止めるか思案にふけりました。演奏自体もこれもまた別の番組で見たように、あまり反田氏の直感が炸裂するようなものではなく、どちらかというと安全運転の印象があり、ピアノ、演奏ともに、ちょっと期待したほどじゃないな…という気がしました。

特に協奏曲は、人の意見が入りすぎた演奏特有のつまらなさがあり、せっかくの才能が閉じ込められた感じがするのは、ピアノに限らず偉大な教師といわれる人の生徒にはときどき見られること。
音楽の世界では、若いころに開花する才能は珍しくないけれど、それをどう育てるかは甚だ難しいことだと思います。いまさら一般の音大生のようにただレッスンを積んで平凡さが入り過ぎることは最も危険と思われるので、あるていど自由にさせて、たまに信頼に足る人から全体的なアドバイスを受けるぐらいがいいように思います。
ピアノ選びは直感だったけれど、演奏は直感が足りなかった感じでした。

このCDでは、第2協奏曲ではイタリアのRAI国立交響楽団というのが共演していましたが、なんとなく二流という感じがして、それにくらべるとパガニーニラプソディの相手である東京フィルのほうが、まだずっと上手い気がしました。

それと、録音がまったく好みじゃなく、平坦で広がりも立体感もない、固くて詰まったような音。
これはCDにとって極めて大切なことで、ここではじめてレーベルはどこかと見てみるとDENON。そういえばリストのアルバムも同じで、その録音の酷さには心底呆れていたところだったので、これは社風なの?と思いました。

最近はマイナーレーベルでも、わっ!と思うほど見事な録音がたくさんあるのに、あまりにも音楽性のない音には残念のため息が出るばかりでした。その点では後発のレーベルのほうが、白紙からのスタートで美しく収録しているものがたくさんあるし、逆に伝統あるレーベルのほうに実は変な何かが受け継がれていたりするので感覚が硬直しているのかもしれません。
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薄い塗装

前回書ききれなかったこと。
出演した女性ピアニストによって、ホロヴィッツのピアノでトロイメライが弾かれる間、カメラがサイドからじわじわとスローで左に寄りましたが、そのときボディサイドに反射する黒い塗装の中に木目のようなものが見えたような気がしました。

ニューヨークスタインウェイは通常は黒のヘアライン仕上げ(ステンレスとかによくある一定方向に研磨された光沢のない仕上がり)という塗装で、これは通常の塗装よりも薄く仕上げてあると聞いていますが、この100年前のピアノでは、さらに塗装の質や厚みが違っているのではないか…というような印象をもちました。

テレビ画面から受けた印象ではきわめて塗装が薄い感じで、楽器としてはもしかするとより理想に近いものがあるのかもしれないという印象でした。
率直に言うと、工作で木工品にサーッと塗装したぐらいで、けっして綺麗な仕上げではないし、むしろ粗末な感じさえ与えますが、そうなっているとすればピアノとして理想を追求する上での理由があるようにも解釈できるのです。

ニューヨークスタインウェイのきさくで軽やかな鳴りを成立させる要素の一つに、この薄い塗装があるのかもしれず、とりわけこのホロヴィッツのピアノでは、とりわけ独特なものを感じました。そういえば思い出したけれど、ゼルキンのカーネギーホールライブのレコードジャケットも、これと同様の、塗装としてはみすぼらしい炭のかたまりみたいな塗装でした。

通常のハンブルクやその他大勢の艶出し塗装を、寒さや外敵から身を守ってくれる冬服に例えると、ニューヨークは明らかに春物?
薄いコットンのシャツにチノパンを履いているぐらいな感じで、これは響きに大いに関係するだろうと思います。

そのぶん温湿度変化にも敏感になるでしょうし、油断をするとすぐに風邪をひいたりと体調管理が難しくなるだろうから、一長一短あるかもしれませんが、究極の音を求めるなら極めて大きな要素という気がします。

もしマロニエ君が好き放題に道楽のできるような富豪だったら、好みのピアノだけを置いた小さなホールを作りたいとかなんとか、いろんな空想をして遊んでみますが、今なら、最も気に入った時代のスタインウェイを購入し、いったん塗装を全部落としてしまい、最低限の処理だけで鳴らしてみるかもしれません。

いわばTシャツと短パン、靴下もはかないぐらいの軽装にすると、はたしてどんな響きになるのか。

そういえば、つい先だってもあるお宅におじゃまして、そこのシュタイングレーバーをちょっとだけ弾かせていただきましたが、これがサイズを無視したような鳴りで感心したばかりでした。

もともとのピアノがいいのはもちろんですが、さらにこのピアノの塗装が、下地の木目が地模様のように見える黒の塗装で、これもきっと薄いのだろうと思いました。
漆塗りのような分厚い塗装というのは、いかにもリッチな美しさがあるし手入れが楽。さらにはボディをさまざまな環境の変化や傷から守るというメリットがあるからか、どこれもこれも樹脂コートのようなピカピカ塗装ですが、純粋に楽器としては好ましくない厚着のような気がします。

ピアノ全体を弦楽器のニスのような、薄い最低限の塗装で覆ったら、基礎体力がぐっと向上すると思います。
同時に、戦前のスタインウェイなどは、そのあたりも知り尽くしていて、各所の天然素材から仕上げまで最良の楽器を作っていたのだろうということが偲ばれます。

そういう観点からいうと、少なくとも通年管理の行き届いたピアノ庫をもつ音楽専用ホールでは、木肌に薄い塗装をしただけのまさにコンサート仕様のピアノを設置したらどうかと思いました。
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「簡単に弾けそう」

テレビの某音楽番組で、「ピアノの巨匠と…」というようなタイトルで、男女二人の日本人ピアニストがスタジオに招かれての放送回がありました。

女性は日本国内限定で有名な中年の方、男性はよく知らない若い人でした。
ピアノがメインで、ピアニスト二人が登場したからには、それなりのなにかテーマをもった企画と思いきや、なんだったのかよくわからない漠然とした内容に、思わず「なにこれ?」と思ってしまいました。

司会を担当するヴァイオリニストが、それぞれに「最も影響を受けたピアニストはだれですか?」というような平凡な質問をしたところ、その答えは平凡きわまりないもので、女性ピアニストは「ルビンシュタイン」で男性は「ミケランジェリ」という、定番すぎる答えにも唖然。

番組企画のシナリオなのか、本心からそうなのかわかりませんが、マロニエ君としてははっきりいってズッコケました。さらにその後に出てきたもうひとつの名前がホロヴィッツで、はいはいというだけ。
もし、おなじ質問をエマールや内田光子にしたら、へええというような名前と、一聴に値する理由説明があることでしょう。

で、スタジオの女性ピアニスト曰く、昔のLPを持ってきたといってそれをかざしながら「私はルビンシュタインの弾くポロネーズを、寝る前に部屋を真っ暗にして、ステレオで、大音量でかけて毎晩寝てた」といい、思わず「ホントに?」と思いました。
いくつの頃の話か知らないけれど、毎晩?寝る時間に大音量?針は自分で上る方式だったの?ステレオは朝まで電源入りっぱなしだったの?などといくらでもつっこみを入れたくなります。

もちろんルビンシュタインもミケランジェリも大変なピアノの巨匠であることに異論はないけれど、いやしくもピアニストを生業として、この世界に長年首を突っ込んでやっている以上、もうすこし専門的な内容が欲しかったのです。
より正確にいうなら、ルビンシュタインでもミケランジェリでもいいのだけれど、なるほどと納得させられるようなピアニストならではの理由や根拠があっていい気がして、ただのアマチュアのような言いっぷりに驚いたのかもしれません。

そのうち、女性ピアニストが超有名曲をへんな調子で弾き、なんでその曲をそのタイミングで弾くのかもわからなかったし、またちょっとおしゃべりになり、続いて男性ピアニストがラヴェルを彈かれました(センスの良い演奏だとは思いました)。

このあと、スタジオセットの中に置かれたピアノ(ハンブルクスタインウェイD)が画面上は何の前触れもなくすり替えられ、一見したところさっきのに比べてずいぶんくたびれた感じのニューヨークのDに変わっていました。

ホロヴィッツが使ったという有名な楽器で、ああそのためにホロヴィッツの名前を出して後半に繋いだのかという見え見えの流れです。
二人のピアニストも嬉しそうに触ってみましたが、印象はもっぱらキーが軽いということばかりで、音色や響きに関するコメントは何ひとつありませんでした。
それどころか、女性のほうは、このピアノなら「なんかパリパリ弾くのすごい簡単に弾けそう」「かーるいかるい、どんな難しいのもフルフルフルって行けそう」「車で言ったら改造車ですよね」と、ホロヴィッツの演奏には楽器のほうにも特種な秘密があった…とも取れるコメントには少々驚きました。

最後に、ホロヴィッツがアンコールでよく弾いたシューマンのトロイメライを、女性ピアニストのほうが弾きました。お顔は恍惚の表情でしたが、ただ音符を弾いただけでした。
まさかこのピアノも、後年日本に連れて行かれてこんな使われ方をするとは思ってもみなかったのではと思うと、なんとなくその年をとった枯れた感じのシャープな姿の中に、ひとひらの哀れを感じてしまいました。
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標識後進国

このところ高齢者が引き起こす交通事故がちょっとした社会問題になっています。
たしかに、アクセルとブレーキを間違えたり、高速道路を逆走したりして、それによる死傷者もでているのですからなんとか解決されなければならないことだということに異論の余地はありません。

ただ、これを契機として高齢者から運転免許証をどんどん取り上げるような単純な解決法に傾くことは、個人的にあまり好ましくないと思っています。テレビで言っていましたが、さっそくその対策案として、車両の方にもいろいろなアイデアが盛り込めるのではないかということで、中には一定以上の力(時間?)でアクセルを踏み込むと、機械が誤操作と判断してブレーキを作動させるなど、今日の技術をもってすれば解決のための方策はいかようにも立てられると思います。

それでなくとも、人は間違いを犯すものなので、これだけテクノロジーが発達したなら、それを前提とした安全機構を盛り込んだ製品づくりをする必要があり、高齢者はその間違いの頻度が若い頃より増えるというだけです。

現代は高齢者といえども人頼りでなく、独立した生活形態が求められ、孤独に耐えながら懸命に生きておられる方が多い中、安全という錦の御旗の下、まだじゅうぶん運転可能な方からまで運転免許証まで取り上げたら、ますます日常の不便と苦しみは倍加するはずです。
外に出なくなれば、心身共にリフレッシュできる機会も減り、坂道を転げるように衰えてしまうでしょう。

折しも自動運転などの技術も、実用化へ向けてほんのそこまで来ているのですから、ただ禁止ということではない温かな処理を望みます。

いっぽう、逆走などに関しては、交通環境の方にも多少は問題があるのではと思えなくもない面があることは、見過ごすことはできません。

たとえばマロニエ君も日ごろ運転していても感じるのは、道路標識のわかりにくさが挙げられます。
対面通行ではない幹線道路などには間に中央分離帯がありますが、ちょっと変則的なかたちの交差点などになると、右折しながら、おもわずどちらに行くべきか一瞬迷うことがあり、こういうことも逆走の原因になるのではと感じることもあります。

逆方向には進入禁止などの標識をもっとわかりやすく警告表示すべきであるのに、実際にはそれらしきものはほとんど何もなく、探せば言い訳程度の小さな標識が隅にポンと一つおかれているだけという状況には驚くばかり。
起きてしまった事故には大騒ぎですが、未然に防ぐ策はとても万全とは言いかねるのが現状です。
さらにひどいのは、都市高速などではジャンクションでルートが枝分かれしますが、よほど走り慣れている場合を除き、ここで望む方向へ自信をもって走っていくことはかなり難しく、これはひとえに標識の不備が挙げられます。

むろん標識はあることはあるものの、緑地に小さな白文字で複数の地名がごちゃごちゃ書いてあるのみで、まず字が小さい。
そこへ制限速度は60km/hまたは80km/hで、実際それなりの速度が出ているものだから、アッと気がついた時には標識を確認する間もなく通りすぎてしまいます。
次に標識が出るのは、分岐する直前で、こうなると直接の安全へ意識が行ってしまうのため標識をきちんと確認する暇がありません。サブリミナルではあるまいし、一瞬で判断することが求められるのは危険この上ないし、事故を誘発させると思います。

実際マロニエ君の友人も、同じ場所で何度も違う方向に行ってしまい、次のランプでしぶしぶ下に降りたというような話を聞かされ、みんなが同じような印象を持っていることは間違いないようです。
なぜもう少し、デカデカと、わかりやすい標識を繰り返して掲げないのかと、これは本当に不思議です。

ヨーロッパでドライブ旅行した経験のある人に聞くと、たとえばドイツなどの標識は格段の違いがあるそうで、見やすくて明快な標識が必要な場所にバシッと立てられいて、日本語でもない見ず知らずの外国であるというハンディがあるにもかかわらず、自信を持って運転できたというのですから、この点は日本は道路標識後進国と言わざるをえません。

たとえ一般道でも、地図やカーナビ無しで、標識のみを頼りに目的地に行くことは、日本じゃほぼ不可能だと思います。

話は戻りますが、高速や有料道路の出口には、もっと派手派手しく進入禁止の警告を出すべきで、それがないためにヒヤッとした経験のある人は若い人でも結構いるだろうと思います。
とにかくこの点、日本の道路は標識誘導において甚だ不親切で、それを身体能力の劣る高齢者のせいばかりにするのは大きな疑問を感じます。
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切実感がない

ラトヴィア生まれのピアニスト、マリア・レットベリによるスクリャービン・ピアノ独奏曲全集を聴いてみました。

スクリャービンのピアノ曲のCDはたくさんあるものの、その多くが曲集か、ソナタ、練習曲、前奏曲の全集といった感じで、独奏曲全集というのは知る限りでは数少なく、同一のピアニストで一気網羅的に聴いてみるべく購入してみました。

通常マロニエ君はCDを聴くときは、何度も繰り返し聞くのが自分のスタイルですが、今回はとりあえず一度さっと流す感じで8枚を聴いてみました。耳に馴染んだ曲が多くを占め、これといって新鮮味はない代わりに、意外な事も浮かび上がりました。

…なんて書くほど大げさなことでもないけれど、ひとことで言うとスクリャービンのピアノ曲をこれだけ立て続けに聴くのはマロニエ君にはいささか演奏が退屈で、ひとことで言うと「飽きてしまった」というのが偽らざるところ。

レットベリは若い女性ピアニストですが、技巧も十分でどれもよく仕上がった演奏ではあるけれど、現代的に綺麗にまとめられ、それ以上の印象が残りません。
CD店のユーザーレビューでは、3人揃って五つ星という最高評価ですが、マロニエ君はそこまでかなぁ…というのが正直なところ。

エチュードなどはリヒテルの名演が耳にこびりついて離れないし、ソナタではウゴルスキのデモーニッシュな表現も忘れがたいものがあります。そもそもスクリャービンのピアノ曲というのは、仄暗い官能の奔流みたいなものが中心にありますが、レットベリの演奏では作品の闇の部分とか精神的な比重が少なく感じられ、現代の明るい場所で、新しい楽譜を置いて、普通に弾いている感じが目に浮かんでしまいます。
休憩時間には、かばんの中のスマホを取り出して触っているような感じ。

逃げ場のないような暗さも、死の淵に立たされた絶望感ももの足りないし、スクリャービンらしい切実感みたいなものがどうにも迫ってこない。

最近の演奏では、ボリス・ベクテレフのものが最も好ましく思い出され、内的な襞にも迫るようなところがあって、やはりベテランの表現力はさすがだなあとも納得させられます。

ただ、こういう印象はこのCDのみならず、例えばショパンコンクールなどを聴いても感じるところで、ピアニストが弾きたいから、あるいは弾かずにはいられないから弾くのではなく、受験勉強のように準備した演奏特有のしらけ感があります。一見とても良く弾きこなされているし、よく弾けていると思える瞬間も多々あるけれど、そういう演奏を、現代の新しいパァーン鳴るピアノで弾いたというだけで、あとに引きずるような何かはありません。
読書で言う読後感のようなものが残らない。

演奏が終わったら、聞いている側も同時に終わって、もう次のことを考えている状態。

これは生の演奏でもCDでもまったく同じで、いわば行間から、演奏者の喜怒哀楽とか表現したい本音が聴こえてくるようなものでなくては、結局人の心をつかむことはできないと思います。
これはオーケストラでも同様です。
指揮者の合理的な計算が見えて、全体の構成、緻密な細部、見事なアンサンブル、意図され仕組まれた聴かせどころなど、ぜんぶ自前に準備されて粛々とそれを本番で実行しているだけで、これじゃあどんなに見事な演奏でも酔えないし、興奮はできません。

楽譜至上主義で、画一的な演奏形態が蔓延したものだから、演奏から精気が奪われ、音楽が鳴り響かず、魅力が一気に減退していったのかもしれないし、情報過多のせいかもしれません。
どんなに上手い人でも、気持ちの入っていない、精度は高いけれど大量生産的演奏。

演奏者がぎりぎりの領域に入り込んで、一か八かの勝負をかけたり、燃え尽きるまで炎に焼かれたりするような、そんな危なさがないと音楽は衰退するばかりでしょう。

話が脇道に逸れましたが、それほどマリア・レットベリの演奏が無味乾燥だと言うつもりではなかったのですが、でもまあどちらかというとそっち寄りの演奏だとは思いました。
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これも権力

いま話題騒然のお隣の国の大統領の親友やとりまき達が、権力を私的に乱用したスキャンダルが連日ニュースやワイドショーを賑わせていますが、ふとピアノの業界にも権力の乱用はあることを思い出しました。

業界のある方から聞いたおかしな話です。

ひょんなことからピアノ教師の話になり、某地域の重鎮といわれるような有名な先生がおられて、その先生のピアノの修理(具体的な内容は控えます)を依頼されたときのこと。
その修理をするには、パーツの代金と手間賃がこれこれしかじかという事を伝えると、なんとその重鎮の先生は、あからまさに豆鉄砲をくったような変な表情をされたというのです。

それはこうです。事前に修理代を告げられたということは、この作業がサービスではないということを意味したわけで、それがこの先生の甚だ身勝手なプライドが傷つけられたというのですから、もう笑うに笑えない話です。

当人にしてみれば、ちょっとばかり名の知れた教師であるから、自分と懇意にすることはいろいろメリットもある筈ということなのか、その先生所有のピアノに関することは無料サービスが当然のはず…という感覚になっているのだと思われます。

この手の先生たちにとって良い調律師さんというのは、調律の腕は普通でいいから、それよりは先生サイドに都合のいいように何かと便宜を図ってくれて、腰が低く、まるで秘書か召使いのように気を利かせて動きまわってくれる、コマネズミのような人なんでしょう。
調律を口実に、プラスしてその他の雑用をどれだけ忖度して、しかも「タダで提供」してくれるかがポイント。

コンサートや発表会ともなると、楽器店の営業の人などは当然のように動員され、あらゆる雑用、果てはお客さんの整理誘導から駐車場の係り、どうかすると司会などまでやらされている調律師さんもあるわけで、それはつまり、調律以外はお金の取れないお手伝いに一日を費やすことになるわけで、これほど相手をバカにした話もありません。

そして上記のように技術者として規定の料金を請求することさえまかりならず、それを自ら察しない調律師には以降お声はかからなくなるという理不尽かつばかばかしい世界。
その方はかなりの腕を持った調律師さんなのですが、そんなことはその先生にしてみればどうでもいいことで、もっぱら自分を特別待遇にしなかったことが何にもまして許せないのでしょう。

調律師でも、ピアニストでも、あるいは教師でも、プロなのであれば、その本分における能力とか結果によって評価されるのが本来であるのに、これでは力関係に付け込んだ「たかりの構造」が体質化している言わざるをえません。
程度の差こそあれ、上下左右、まわりの先生がみなやっているから、自分もそういうもんだと思い込んでいる先生もおられるとは思いますが、少しは自分の頭でものを考え、良識に基づいて判断してほしいものです。
まさにゴミみたいな権力の濫用で、見るたび聞くたびとても嫌な気分に襲われます。

現代では、最もコストが高いとされるのが人件費です。
それを、先生やピアニストを名乗るだけで、事実上お金を出すのは年に数回の調律代ぐらい。生徒や知人の紹介を匂わせて人をタダでこき使うのが常態化するのは、大手スーパーなどがメーカーの社員を出向させ、店頭で販売行為などをさせて自前の店員数を減らすような悪辣な行為だということを肝に銘じるべきでしょう。

企業レベルまでいけば、発覚すれば法的処罰や行政指導の対象にもなりますが、たかだかピアノの先生ではそんな社会的制裁を受けることもないでしょうから、ある意味この業界特有の、治る見込みの無い慢性病みたいなものかもしれません。
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目覚めの変化

先日、知人でニューヨークスタインウェイをお持ちの方のお宅へ、ピアノ好きの方と連れ立って遊びに行きました。

ここのピアノに触らせていただくのは久ぶりですが、その太い鳴りや味わいに感心するばかり。
音にも色気みたいなものが加わって、音楽に理解あるオーナーのもとにあるピアノは、ふれるたびに色艶が増していくようで、逆の場合は楽器が少しずつ荒れていく感じがします。
そういう意味では楽器を活かすも殺すも、やはりオーナー次第ということになるようです。

日々大切にするのも、良い設置環境を作って維持するのも、優秀な技術者を呼ぶのも、すべてはオーナーの意志で決まることですから、やはりそこは大きいというか、すべてです。

よく鳴るニューヨークには、独特の生命感があり楽器が直に語りかけてくれるような温かさを感じます。
このピアノ、以前であれが30分も弾いていると、ボディの木や金属が振動に馴れるのか、明らかに鳴ってきて驚きと興奮を覚えたものですが、今回はその変化に至る時間が短縮され、ものの15分もすると早くも鳴り方が変わってきました。
もちろん、より朗々と鳴ってくるわけで、この反応そのものがすごいと思いました。
まるで寝起きの身体が、だんだんと本来の活気を帯び、血が巡り、体温が上がってくるようです。

ハンブルクでここまで明確に変わるというのはあまり知らないので、アメリカ製とドイツ製の作りの違いや使われる材料の違いによるものかもしれませんが、確かなことは素人にはわかりません。
ただ一点わかる違いは塗装。

1980年代ぐらいまでのハンブルクは黒の艶消し塗装が標準でしたが、それ以降はすべて艶出し塗装となりました。
この艶出し塗装というのがかなり分厚い塗装で、いつだったかエッジ部分が何かにぶつかって塗装が欠けているピアノを見たことがありますが、その塗膜のぶ厚さに驚いた記憶があります。
まるで固いプラスチックでピアノ全体がコーティングされているようで、これでは本来の響きを大いに阻害するだろうと思ったものです。

その点、艶消しのほうが塗装がまだ柔らかだったような印象があるし、さらにニューヨークのそれはむしろ薄さにもこだわっていると聞きます。表面はヘアライン仕上げという繊細かつ節度ある半光沢をもつ処理で、この塗装は見た目は繊細で美しいけれど、傷がつきやすく、部分修復がしにくいという扱いづらさがあり、実際アメリカのホールなどでは、全身キズキズの斬られの与三郎みたいなピアノがめずらしくありません。

でも、それさえ気にしなければ、そのぶんボディの響きなどをよく伝える特性があるようで、好ましい個体では音の伸びがよく、明るく軽やかなトーンが湧き出るようです。

それと今回も実感したことは、すでに何度も書いたことですが、スタインウェイは弾いている本人より、離れて聴いてみるとまるで別のピアノのように音がたっぷりとした美しさで耳に届くのが圧倒的で、やっぱりまたそこに感嘆させられました。

その点、日本のピアノでは、離れてもとくに変化しないならいいほうで、むしろ高級仕様と謳われるモデルの中には、弾いているぶんには尤もらしく取り澄ましたような音が出ているのに、ちょっと距離を置くと、えっ?というほど安っぽい下品な音であることにびっくりすることが…よくあります。

これなどは、まさに弾いている本人だけ気持ちよければいい系のピアノで、スタインウェイとは真逆のピアノだといえるでしょう。ならば自宅で楽しむぶんにはこちらのほうが向いているという理屈も成り立ちそうですが、やはり楽器たるものそれではなにか大事なものが間違っている気がします。
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苦難の道

青柳いづみこ氏の新著、『ショパン・コンクール 最高峰の舞台を読み解く』を読みました。

想像以上に厳しいコンクールの世界、しかるにその覇者といえる人達のこれといってさほどの魅力もない演奏を聴くと、なんだか複雑な気分になるというか、要するにコンクールというのは、つまるところなにかの戦いの場であって、真の音楽家(いろんな意味があるけれど)を発見発掘する場ではないということがはっきりわかりました。

それでも、よほど桁違いの天才とかでない限り、コンクールという手段をもって世の中にデビューせざるを得ない若いピアニストたちが気の毒でもあるし、こういうことを書いたらいけないのかもしれないけれど、ピアノを弾くことを職業になんてするものじゃないということを、嫌でも悟らされる一冊でした。

青柳さんが直接そういうことを書いておられるわけではもちろんないけれど、読んでいてそういうことを最も強く感じたというわけです。
先進国では、昔に比べてピアニストを志す若者が激減していると言われて久しいですが、これは端的に言って、市場原理の前では当然のことなのだろうと思います。

現代は教育システムが進歩充実することで、技術的訓練は科学的かつ合理化が進み「弾ける」レベルの偏差値は上がっているようですが、同時に眩しいようなオーラを放つようなスター級のピアニストというのは存在しなくなりました。
平均が上がって、逆に超弩級の人がいなくなったということですね。

昔はコンクールで「ツーリスト」といわれたらしい、まるきりコンクールのレベルに達していない人が観光客気分(実際そうかどうかは別として)で出場するような「弾けていない」人がいたと聞きますが、そういう手合はほとんどなく(というか事前審査で紛れ込む余地が無いようになっている)、とりわけショパンやチャイコフスキーのような国際的な大舞台でのコンクールになると、その実力は大半が拮抗しているとありました。

解釈の問題、審査員の主観、コンクールの傾向など、本人にもわからないような僅かな差によって、次のラウンドに進めたり進めなかったり、コンクール毎に顔ぶれは入れ替わる由で、ほとんど理不尽に近い世界だとも感じます。

あるていど予測していたことではあったけれど、こうしてあちこちのコンクールに足を運び取材した人が、著書に記述されているのをみると、なんだかもう単純にウンザリしてしまいました。

何事においてもそうだけれども、時の経過とレヴェルアップによって、創設時の目的や精神が置き去りにされたというか、かけ離れた現状となってしまうのは、いたしかたのないことなのかもしれません。

ショパンコンクールに関しても、申し込みをしてコンクールを受けるには、まず書類とDVD審査、春にワルシャワ行われる予備予選、秋の本選は第一次予選、第二次予選、第三次予選、グランドファイナルと、これだけを見ても6つの厳しい選考をくぐり抜けていかなくてはならないようで、それがまた想像以上の難関であることが記述から伝わります。

しかも、DVD審査といっても、ただホームビデオかなにかで撮ったものでいいのかと思いきや、その映像・音質のクオリティによって当落が大きく左右されるというので、中にはそのためにホールを借り切り、専門家を呼んで収録してもらう人もいるとかで、その費用も自費で賄わなくてはならないとは、出だしからもうぐったり疲れてしまいます。
幼少期から練習に明け暮れ、音大を経て、世界的なコンクールに出場しようかとなるところまで到達するのさえ並大抵のことではないのに、そのための準備、練習、無数のレッスン、費用、そしてコンクールに出るためのDVD作りひとつにもこれだけの労力が必要とは、考えただけでも頭がクラクラしそうでした。

さらにコンテスタント(コンクールを受ける人)や教師は、常に新しい解釈や傾向を採り入れながら、受かるための訓練を続けていくだけでなく、海外へあちこち遠征し、審査員への顔つなぎや自分の演奏アピールなどまでやっているというのですから、「なにそれ?」というのが率直なところです。

じっさいのステージアーティストになる人達は、若い頃から、こういう世俗的な努力も一切怠ることなく、それでいて演奏の腕も磨き、レパートリーも増やし、コンクールに出て、それでも大半は努力に見合った結果は得られないほうが多いのだから、やるせないものだと思います。

「どんな世界でも五十歩百歩」という人もあるかもしれませんし、実際そうかもしれません。
しかし、マロニエ君の夢か妄想かもしれないけれど、楽器を弾く人はもう少しきちんと才能を見極められるチャンスがあって、その実力で正当に評価される世の中であって欲しいと、やはり思ってしまいます。
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逆に正確?

マロニエ君の自室は決して広い部屋ではありません。
ここは、寝る、本を読む、着替えをする、音楽を聴きながらパソコンを見るだけの場所なので、それらに必要なもので溢れており、ときどき思い出したように反省して整理しますが、いつの間にか同じような状態に戻っています。

自分だけの空間であるから、物の配置もいい加減で、成り行きで現在のような形態なっており、椅子から立って、部屋を出る短い通路(というかすき間)も、他人が通ったら物を引っ掛けそうな状況になっています。

昨日そこを通過するとき、左足の小指を、置いてある非常用の椅子のキャスターにしたたかに打ち付け、幸い怪我はなかったけれど、一瞬めまいがするほどの痛みと同時にバランスを崩してあやうく周辺に積み上げられたCDなどともろとも転倒するところでしたが、ぎりぎりのところで壁に指をささえ、かろうじて踏みとどまることができました。

ジンジンと疼く足の指をさすりながら、そろそろ少し物を片付けないと、思わぬ大けがをする危険があるなぁ…などと思いつつ、ともかく無事だったこともあり、そんな危機感もすっかり消滅してしまっていました。

それから数時間後、外出から戻り、着替えなどをすべく自室に入ったところ、今度は右足の小指を同じ椅子のキャスターにまた引っ掛けてしまい、前回ほどではないにせよ、まあそれなりの痛みに思わず顔をしかめることになり、今日はついていないなあと思いながら着替えをしたり、メールのチェックをしたり。

その後、用を済ませて部屋を出るべく、再び椅子を立ってドアに向かったところ、なんと三たび件の椅子のキャスターに左足の小指がヒットして、後の2回ははじめのような激痛と転倒につながるほどのものではなかったけれど、さすがに日に三度とは薄気味悪くなり、自分がどうかしたのだろうか…と考えこみました。

椅子のキャスターの向きでも変わっているのかなど、状況確認してみると、一つの事実が判明。
いつもは家具にピッタリくっつけている椅子が、ものを出し入れした後の戻し方が悪かったのか、このときは家具との間にわずかな(5cmほど)のすき間がありました。つまりそのぶん、キャスターの位置がいつもより前に出ていたというわけです。

日常の中で、まったく無意識・無造作に動かしている身体ですが、実はその加減を体がちゃんと覚えて動いていて、わずか5cmちがってもぶつかってしまうほど危ういところを「正確」に動いていたのかと思うと、自分のことながら、なんだか人間の体ってすごいもんだなあと妙に感心してしまいました。

考えてみれば、人のからだの動きは脳の働きに司られていて、それと身体的条件が重なって、実際にはほぼ決まった動きをきっちり繰り返しているのかもしれません。
となると、ピアノを弾いてもよほど丁寧にさらっていないと、ほぼ同じ場所で必ず間違えることなども、見方を変えればそれだけ正確に動いている証なのかもと思いました。

この動作というか能力を極限まで磨き上げたものが、芸術家の妙技であり、アスリートのパフォーマンスであり、職人の至高の技なんだと思うと、人の身体のクオリティというものが、実は私達が思っている以上にとてつもなく精巧なものに思えてきました。

どんなによくできたロボットでも、生身の人間にはとても敵わないことがその証拠かもしれません。
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うれしい再会

こんな偶然があるのかということがありました。

マロニエ君のフランス車趣味のほうの話になりますが、このところヨーロッパや日本国内のフランス車/イタリア車の専門ショップの類でも非常に評判のオイルのブランドがあります。
ちなみにオイルというのは、車用のエンジンオイルとかギアオイルなどのことで、むろん食用ではありません。

次回交換時にぜひ一度このオイルを使ってみようと思ったけれど、いくらネット検索しても通販のルートにはそれらしき商品は一切なく、やむを得ず輸入元に問い合わせをすることに。
それによると、このオイルを入手するには全国に散らばる「取扱店」から直に購入するということになっているらしく、価格も各店で聞いて欲しいとのことで、福岡での取扱店をいくつか教えてくれました。

いまどき通販がないとはずいぶん手間のかかることではあるけれど、それしかないなら仕方がない。
数軒の中から選んだのは、自宅から最も距離の近そうなルノーのディーラーでした。

価格も意外に常識的であったし、友人のぶんも合わせて10リッター注文することになり、数日後、入荷した旨の連絡がきました。

受け取りのため、お店に着いて車を駐車していると、すかさずショールームから若いお兄さんがすっ飛んできて、いかにもディーラーらしい対応をはじめます。こっちはただオイルを受け取りに来ただけなのに…と思いつつ、ひとまず言われるままにショールームへ入り、お願いした担当者の名前などを告げているときのこと。
ふわりと一人の男性が近づいてきて、こちらの顔をまじまじと見つめながら「あのう…❍❍さん(マロニエ君の苗字)ですよね」と言い始めました。

「えっ、だれ?」と内心思いつつ、たしかに見覚えのある顔ですが、だれだか咄嗟には思い出せず、一瞬とても焦りました。
するとすぐに自ら名乗ってくれたのでわかりましたが、かれこれ20年以上も前、マロニエ君がまったく別のディーラーでルノーじゃない車を買ったときについてくれた、担当のセールスマンS氏だったのです。当時、ずいぶんとお世話になった人だったのに、もともと関東の人で、数年後には関東へ転勤されてからはすっかり音信は途絶えていました。

その後、自動車業界から一時退いて、その後再び車の業界に戻り、ルノー輸入元に勤務されるようになった由。
マロニエ君がショールームに入ってきた時から、すぐにわかったんだそうでうれしいことでした。
互いにこの邂逅に大いに驚き、しばらく昔話に花が咲きました。

そうこうするうち、視界の中でチラチラこちらを見ていた男性が、オイルの支払い明細などを持ってこちらに近づくと、「❍❍さん…私も…」というので、お顔をよく見ると、さらにそれよりも前、また別のディーラーからまったく別の車を買ったときの営業のT氏で、一か所でこんなことが二度も続くなんて、みんなでマロニエ君を騙しているのでは?と思うほどの驚きで、あまりのことに叫びたくなるほどでした。

いまとは時代も違って、人との関わりも深い時代だったこともあり、T氏とはプライベートでも車好き同士としてドライブをしたりしたこともあるし、たしかに顔立ちに当時の面影がはっきりと蘇りました。

この二人、ルノーとはまったく関係のないところでそれぞれ関わっていた人たちで、それがまったく予想もしない場所で、しかもほぼ同時に再会できるだなんて、大げさですがそのときはほとんど奇跡が起きたように感じました。
しかもS氏に至っては、現在も関東を拠点に、月に1〜2度のペースで福岡県内のディーラーを回っているとのことで、きっと偉くなったんでしょうが、たまたまこのときだけ、このディーラーにいたということでした。

T氏のほうはこのディーラーにお勤めとのことでしたが、マロニエ君はフランス車は好きでもルノーにはこれまでご縁がなかったために、ここに訪れるのも初めてで、長らくお会いするチャンスがなかったというわけ。
S氏には「へーえ、大病院の院長回診みたいに、あちこちの店舗を見まわっているというわけですね!」とからかうと「いややや、やめてくださいよ〜!」などと破顔していました。

お互いにずいぶん年をとってしまいましたが、若かったあの時代に関わった人というのは、なんだか格別なものでしっかり繋がっているような気がしました。20年以上のブランクがたちまち取り戻せるような何かが、昔の人間関係にはあったのだと思います。
今どきは、よく顔を合わせる相手でも、たいてい上辺の付き合いに終始する時代ですから、よけいにそれを感じます。

この先もしょっちゅう会うことはないけれど、こういう繋がりも大切にしていきたいと思いました。
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アプリがすごい

スマホというものがどうも好きになれず、ずっとガラケーで押し通してきたマロニエ君でしたが、今年のはじめ、機種変更のため赴いた店頭での勧誘に負けて、電話器はガラケーのままiPadとセットのプランとして、いらい軽くもないタブレット端末をカバンの中に入れて持ち歩くようになりました。

そんなものはいらんと思っていたけれど、あればあったでやはり便利なことは事実であるし、だんだんそれナシでは済まされなくなるよう人間が慣らされていくあたりは、やはり自分の社会の趨勢に呑み込まれたという感じです。

マロニエ君がスマホにそっぽを向いている間に、この分野は恐ろしいまでの勢いで発展したようで、ありとあらゆるアプリが出まわっている(らしい)ことが、ほんのすこしずつわかって舌を巻きました。

先日、友人の車に乗ってでかけていたら、都市高速の下の一般道を走行中、後部座席に置いたカバンの中から突然人の声がしているのにびっくり。
なんと、スマホに入っている「オービスナビ」というアプリが、高速上に設置されたオービスの存在を知らせるべく、勝手にしゃべっているものといいます。「え、なにそれ?」。
よく聞いてみると、自動速度取締機やNシステムなどの路上カメラの位置などを知らせてくれるアプリなんだそうで、そんなものまであるとは驚いてしまいました。

それに限らず、ほかにもいろいろなアプリが際限なくあるようで、ほとんどなにもしていないマロニエ君のiPadなんて、能力の1%も使えていないのだろうと思います。だいいち、いろんなアプリって、そもそもどこで探してくるのかと、そこからしてわけがわかりません。

後日、私も真似をしてiPadへオービスナビをダウンロードすると、あっけないほどすぐにできました。
で、どうやって使うのかと思っていたら、どうする必要もないようで、ただ端末を車に乗せて走ると、さっそくあれこれと注意喚起してくれるのには参りました。
なんでも、端末がある一定の速度で移動し始めると、それを感知して自動的にアプリが起動し、データに基づいて各種の警告をしてくれるというもので、ただただ驚くばかり。

さらに、グーグルのカーナビアプリをダウンロードすると、なんとこれが、これまで使っていたカーナビと何ら遜色ない機能を持っていることにさらに驚きました。

こんなことで驚きまくって、それをいちいちブログに書いていることじたい、多くの人からすれば「キミ、いまごろ何いってんの?」といったところでしょうけれど、まあとにかくマロニエ君は最近知ったのですから、そのぶん驚きも新鮮なわけで仕方ありません。

それでなくても、すでにあるカーナビの地図更新だとか、取り締まり用のお知らせ機能のついた機器を購入しようかなど、あれこれと古臭いことを思っていたのですが、もうそんなものを買う必要もなくなりました。
しかも、これらのアプリは無料なのですから、かくして世の中、物が売れずに慢性的な不景気から抜け出すこともできないのもうなずけます。これでだれが儲かっているのか、もうわけがわかりません。

最近、カーショップ内のカーナビの売り場などがずいぶん人も少なく活気がないなあ、標準で付いている車が増えたからかなあ…などと思っていましたが、カーナビにしろ、CDにしろ、何もかもがスマホに奪い取られてしまっているようです。
つい最近も、海外に出張中の友人と、LINEで普通にタダでやり取りができたて、便利なことは非常にありがたいけれど、この先いったいどうなっていくのかと不思議な気分にもなりました。

21世紀は『2001年宇宙の旅』のような世界になったかならなかったか、そこは解釈の仕方でしょうけれど、少なくとも昭和の時代には考えられないような最新テクノロジーが世界を席巻したことは間違いないようです。
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ふたつのマツーエフ

BSプレミアムシアターで、今年だったか、インドのムンバイで行なわれた「メータ、80才記念コンサート」みたいなものが放映されました。もう消去してしまったので、タイトルも曲目も正確でないこともありますが、こうもり序曲、ブラームスの二重協奏曲、そして最後はチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番でした。
ピアノは、デニス・マツーエフ。
オーケストラはイスラエル・フィル。

チャイコフスキーは、どう表現したらいいか困ってしまうほどの「爆演」でした。
マツーエフは見た目からしてピアニストというより、何かの格闘家か、重量挙げなど力自慢の選手のようですが、この日のピアノはまったくその風貌にピッタリというか、まるでゴジラがピアノを弾いているような演奏でした。

良い悪いは別にして、ピアノって、あれほどの怪力で叩きのめすことができるものかと思ったし、あまりの暴力的な打鍵に耐えかねて、開始早々中音域の幾つかが、たちまち狂ってしまい、あからさまなうなり音を発していたほどです。
しかも曲が曲なので、叩きつけようと思えば叩きつける場所には事欠きません。

指から手の甲にかけてもじゃもじゃした赤い毛に覆われた猛獣のような手が、情け容赦なくスタインウェイの鍵盤を叩きまくり、ピアノはその度にぶるぶるとボディが揺れていました。

キレイ事を言うつもりは毛頭ないけれど、ピアノが好きで、美しい音楽を愛する者の端くれであるつもりのマロニエ君としては、とてもではないけれどずっと続けて見ることはできませんでした。
とにかく派手に見せるための、力まかせの演奏というものが生理的に受け付けられないし、あのロシア人の巨体から繰り出される暴力的な強打を見ていると、もはやピアノが虐待を受けているようにしか見えませんでした。

早送りに次ぐ早送りで、終楽章のフィナーレを見てみると、このころには頭を一振りするごとに、無数の汗がプロレスの試合みたいにバンバン飛び散って、それは格闘技のリングに近いものでした。
本心から、このままではピアノが壊れるのではないかとハラハラしました。

その数日後のこと、Eテレの「クラシック音楽館」のたまっている録画を見てみると、N響定期公演からヤルヴィの指揮で、プロコフィエフのピアノ協奏曲第2番というのがあり、そのソリストがなんとまたデニス・マツーエフとなっているのは我が目を疑いました。
うわー、これはたまらん!と思いましたが、日本でもあんな演奏をするのかと思い恐る恐る見てみると、メータとのチャイコフスキーと比較すると、一転してほとんど別人とでも言いたくなるような真面目な演奏で、同じピアニストが場所によってこんなに違うものかと、なによりまずそのことにびっくり仰天でした。

もちろんマツーエフが持っている資質はチラホラあるけれど、少なくともプロコフィエフの2番という屈指の難曲を立派に弾こうという真摯な姿勢の見えるしっかりした演奏だったのは、チャイコフスキーとは大違いでした。

おそらくメータの80才記念コンサートでは、お祭り的な要素が多かったことと、開催地もインドであったので、仕向地による違いだったと思われ、事前にそのような打ち合わせや要望も汲んでのことであったのだろうとは想像されますが、それにしても野獣がピアノを壊す気で弾いているかのようなあの光景は、やはりインパクトが強すぎました。

それでもチャイコフスキーでは割れんばかりの拍手で、アンコールではマツーエフによる即興みたいなものが弾かれましたが、これもハデハデで、最後はピアノがぐわんと動いてしまうほどの怪力で締めくくられ、インドの聴衆は大ウケの様子だったので、やはり国や地域によって西洋音楽に対して求めるものが違うのかもしれません。

もし日本であんな演奏をしたら、さすがに受け容れられないだろうと思うと、これでも日本は西洋音楽の歴史が「ある」ほうに入るのかもしれないなぁと思われ、なんだか妙な気分でした。
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先生の趣味?

『題名のない音楽会』で反田恭平がラフマニノフのピアノ協奏曲第2番の第1楽章を演奏しました。

以前も書いたように、来月にはイタリアでレコーディングした同曲のCDが発売されるというタイミングでもあり、反田氏にとっていま最も力を入れ弾き込んだ1曲だろうと思います。

大いに期待して聴きましたが、しっかりとした見事な演奏ではあったけれど、どこか以前のような、精緻な演奏の奥底に光る本能的な生々しさが減って、より注意深く多くを語ろうと意識して、慎重に弾いている感じを受けました。

演奏中、反田氏はモスクワ音楽院でこの曲を、ラフマニノフの得意とする先生から猛特訓を受けたというような字幕が出ましたが、先日の『情熱大陸』では、ヴォスクレセンスキー教授にこの曲のレッスンを受けているシーンがあったので、それが彼のことなのか、あるいはまた別の先生なのか、そのあたりのことはよくわかりませんが、要するにかなり人の意見の入った演奏であるようにマロニエ君の耳には聴こえたことは事実でした。

パーツパーツで聴いてみると、たしかによく練られていているなとは思うけれど、反田氏の最大の魅力であるはずの作品を一刀両断にする鮮烈さや、内側から滲み出る熱いパッションがやや細くなり、少し普通のピアニスト風に、効果を周到に寄せてきたように感じてしまった点は甚だ残念でした。

反田氏にアドバイスしたのが誰であるかはどうでもいいけれど、アドバイスという範囲を超えて、演奏者の個性より指導者の音楽的趣味が前に出すぎているとしたら、それは指導というより干渉ではないかと思うし、聴いていて、他者による注文を盛り込めるだけ盛り込んだような窮屈さを感じました。

一過性の音楽に、あまりに多くを語ろうとすると、細かな聴きどころは増えるかもしれませんが、推進力や燃焼感が薄れるのは考えものです。

反田氏が本心から、ああいう演奏をしたかったのだとはマロニエ君は思えなかったし、その点ではあれは彼の本音の演奏ではないだろうと勝手に受け取りました。
マロニエ君としては、この先、彼がそのあたりの制限から本当に開放された時、さて本物の芸術的な演奏がそこにあらわれるか、あるいはただの恣意的な独りよがりな表現に留まるのか、そこは今後も注視していきたいところです。

ピアノはイタリアでの同曲のレコーディングのときのように古いピアノが使われることも、あるいは反田氏が東京でしばしば弾いているホロヴィッツのピアノでもなく、会場備え付けの普通のスタインウェイだったことはすこし残念でしたが、まあそのあたりはいろいろな事情も絡んでいるでしょうから、そういつも思い通りにはできないでしょう。

それにしても、反田氏のやや大きくて伸びやかな手は見ているだけでも魅力的です。
とくに左サイドのカメラがとらえた左手はことのほか美しいもので、この手を見ただけで、反田氏がピアノを弾くことは運命づけられていたことだということを諒解せずにはいられません。
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いまむかし

現代のようにあらゆるものが管理された、ある意味で安心、ある意味でおもしろみのない社会に生きていると、昔は楽しかったなあと懐かしく思うことがしばしばで、中でも今に比べると人間関係は濃く、感性重視、発言の自由度はずっと広かったように思えます。
標準的な日本語も、いまどきの卑屈なビジネス語や不正確な言葉遣いが蔓延することなく、尊敬語と謙譲語が明確なコントラストを作り出し、言葉だけでも日本人の細やかな情感と倫理が保たれていたように思います。

言語はそれ自体が生きた文化であり、その点で複雑な日本語は独自の美しさをもつ、いわば無形文化財のようなものだと思いますが、それを惜しげもなく捨てていこうとする方向性は、残念でなりません。
貴重な建造物を驚くべき丁寧さで修復保存したり、最近では歴史的な建築や地域を世界遺産に登録するのが流行りのようですが、だったら美しい日本語もある意味、修復し、保存し、継承されるべき対象に組み入れてほしいものです。

ほかにも、あれもこれもと昔を懐かしむことを思い出すのは簡単ですが、昔にくらべて今のほうが良くなったということを認識することは意外に難しく、せいぜい思い出すのはケータイとネットなどでしょうか。
人間は自分にとって快適になること便利になることには苦もなく順応して当たり前になるだけで、昔を思い出して、今はありがたいと思うことは大事なはずなのに、なかなかできませんね。

その代表がタバコです(吸われる方には申し訳ないけれど)。
昔は喫煙はいつでもどこでもほぼ自由で、飛行機に乗ってさえ離陸すると、機体はまだ上昇中だというのにいち早く禁煙のサインが消え、それっとばかりに前後左右からタバコの煙があがったものです。真横の人が立て続けに何本も吸い続けるというようなこともありましたが、今では考えられないことです。

タクシーに乗っても真っ先に鼻につくのは車内に染み込んだタバコ臭で、お客さんどころか、運転手もプカプカやりながら運転していました。おまけに運転もめちゃめちゃに荒っぽく、タクシーと無謀運転は同義語でした。フロントシートの背につかまりながらお客さんは身体を前後左右に揺すられながら乗っていたわけで、今どきあんな運転をしたらいっぺんで運転手はクビでしょうね。

飲食店などに入ってもマッチと灰皿は当たり前で、喫茶店など店内は霞がかかったように煙草の煙が充満していましたし、むろんいまのようにきれいではなく、壁がニコチンで薄茶色になったお店なんてざらでした。

それを思い出せば、今はタバコを吸わない身には天国です。

ただ、タバコだけではない数々の規制によって失ったものもあり、人々は今よりも明らかに情感が豊かで活力があったし、人間臭さがありました。
上記のようなタクシーの無謀運転などはむろん困りますが、世の中の人達は今よりもずっとエネルギッシュで、人ともよく交わっておしゃべりをしたし、親交も深く、ケンカもし、声も平均して大きかったのは間違いないでしょう。

今の人は、総じて注意深く、損得に聡く、計画的で、周到で、演技的、これらがほとんど体質化しているように思われます。
計画的なことがすべて悪いわけではないけれど、ときには、あまり先のことを考えず目の前のことに情熱を燃やし、冒険の気持ちをもつことことも必要ではないかと思いますが、そういう面白さは本当になくなりました。
破滅型の芸術家というようなタイプももういません。

自分の将来や行く末、仕事や健康など、あまりにも情報が多く先見えがするゆえに注意することが多すぎて、世の中から大胆さや心の底から愉快と思えるようなものが消えてしまいました。どっちを向いてもやっちゃいけないことだらけで、いわば自主規制ずくめの社会ですが、それで保たれている恩恵も多いのですから、つくづく物事はなにかとトレードの関係にあるということを感じます。

洗練された社会は、人々からある種のダイナミズムを奪うということは間違いないようですね。
誕生日を過ぎてまたひとつ歳を重ね、つい愚にもつかない事を考えてしまいました。
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最近の番組から

最近テレビでみたもの。

パーヴォ・ヤルヴィ指揮のN響定期公演から、パーヴォの盟友とされるピアニストのラルス・フォークトのソリストによるモーツァルトのピアノ協奏曲第27番。
何度も書いているように、マロニエ君はこのラルス・フォークトのピアノは好みではなく、残念ながら彼の魅力がなんなのかわからないし、パーヴォ・ヤルヴィほどの指揮者がなぜ彼をそこまで高く買ってしばしば登用するのかもわかりません。
とくにモーツァルトのピアノ協奏曲第27番といえば、KV595という番号からもわかるように、彼の最晩年の傑作の一つで、最後のピアノ協奏曲であって、これはそれ以前の作品を演奏するよりも、一層の繊細さと思慮深さが要求される作品でしょう。

モーツァルトは最も人間味にあふれる作曲家であるにもかかわらず、その演奏は、まるで天上から降り注いでくるような、美しさとに繊細さに満ちていなくてはならないと思うという点で、一音一音の変化に敏感でない、汗臭い、労働的な演奏は(とりわけ晩年の透明な世界には)ふさわしくありません。

ラルス・フォークトはどうみても繊細な感性や磨きこまれた音で聴かせるピアノではないし、どちらかというといかつい表情付けなどで押し切るタイプ。
果たしてどうなるのかと思っていたら、予想よりはいくらかおとなしく丁寧に弾いていたようで、覚悟していたほどではなかったのはひとまず胸をなでおろしました。

最近いやなのは、番組制作側の意図なのだとは思うけれど、演奏者にあれこれと大した意味もないようなことを喋らせることで、その点ではヤルヴィも毎回しゃべっているし、ラルス・フォークトもしゃべらされているものとも思いますが、どうもこの手は空虚な感じがあって、話の内容と演奏とがあまり結びつかないことが少なくないように感じます。

マロニエ君の場合はいつも録画で見ているので、それなら早送りすればいいのですが、いちおうどんなことをしゃべるのかとつい聞いてしまうふがいない自分にも嫌になります。それを聞いて、演奏を聴いて、その結果あれこれと不平不満をのべるのですから、我ながらご苦労なことですが。


辻井伸行が、オルフェウス室内管弦楽団とセントラルパークの野外コンサートに出演する2時間のドキュメント。

例によって、辻井さんはくったくのないテンションでコンサート以外でも、訪問地のあちこちを訪ね歩きますが、世界中のどこに行っても、そこにピアノがあるかぎり必ず弾くのがこの方のスタイルのようで、それは今回のニューヨークでも例外ではありませんでした。

まあ視聴者もそれを期待しているのですから基本的にはありがたいことだと捉えるべきですが、生まれて初めてのジャズバー体験として、本場のジャズを聴きに行っても、途中から参加という趣向で、やはりここでも演奏に加わりました。
マロニエ君には想像もつかない大変な度胸ですが、それがあってこそコンサートピアニストというものはやっていけるものかもしれません。ここでは珍しいことに(アメリカならではというべきか)ボールドウィンのグランドが使われていました。

それ以外にも、ニューヨーク在住の日本人タップダンサーのスタジオを訪ねました。
お名前は忘れましたが、この世界ではずいぶん有名な方だということでした。
勧められるとなんにでも興味を示す辻井さんは、すぐにタップダンスにも挑戦したあと、今度は傍らにあるピアノを弾き、それに合わせてこのダンサーが即興でタップをつけていくということで、ピアノとタップダンスのコラボとなりました。

ところが、曲は展覧会の絵からラ・カンパネラになり、ダンサーはピアノが鳴っている間中、見ている方が心配になるほど激しいタップを続けますが、途中から引っ込みがつかなくなっているようでもあり、曲が終わらないと止められないようでもあり、これは見ていて少し辛くなってしまいました。

弾き終わった辻井さんも、着ていた黒いシャツが汗でべっとりと濡れしてしまうほどで、これまさに二人によるスポーツで、要するに何だったのか…まるで意味の分からないまま終了。

番組ではオルフェウス室内管弦楽団とのリハーサル、セントラルパークでの本番、ともに地産品?でもあるニューヨーク・スタインウェイが使われましたが、2台とも新しめのピアノであるにもかかわらず、リハーサルのピアノはまるで鼻が詰まったような音で、いまだにこういうピアノがあるのかと思った反面、本番でのピアノは黒の艶出し仕上げの、より輪郭のある音のするピアノでした。

ニューヨーク・スタインウェイには巷間言われるような個体差やムラがやはりあるようで、調整の余地も大きいというのが納得できました。使われて、調整を繰り返しながら、時間をかけて整っていくピアノだということなのでしょう。
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弾く喜び

先日、某所でのリサイタルを終えられたばかりのあるピアニストの方が来宅されました。

しばらく雑談などが続きましたが、せっかくの機会であるし、少し前に我が家のピアノも過日保守点検メニューも済ませていることでもあり、ちょっと弾いていただきました。

今回の調整は音色の面でとても上手くいっていて、現在はかなりご機嫌な状態だと思うのですが、ピアノは弾く当人にとってはピアノとの距離が近すぎて、本当の音色を聴くことがきないのは残念な点です。
とくにスタインウェイのような遠鳴りを特徴とするピアノでは、至近距離ではむしろある種の雑音のほうが目立ったりということもあるくらいですが、ピアノから数メートル離れただけで、まったく別のピアノではないかと思うほど見事に収束した美しい音が聴こえることはこれまでにも経験済みです。

自分が弾いている限り、そのピアノの一番いい音を聴けないというのは皮肉なことで、少し離れた場所から、しかもピアニストの演奏を聴けるとなれば一石二鳥というわけです。
バッハからショパン、ムソルグスキーまでいろいろと弾いてもらいましたが、演奏はもちろんですが、ピアノが自分で言うのもなんですが予想以上に素晴らしい音でつい聴き入ってしまいました。
その音は、演奏者はもちろんですが、技術者の方にもあらためて感謝の念を抱かずにはいられないものでした。

つくづくと思うことは、ピアノも弦楽器のようにタッチによって音を作ってこそ、音の真価が出てくるというごく当たり前のこと。
「ピアノは猫がのっても音が出る」などといわれますが、むろんそれで良い音が出るはずもなく、素人でも本能的に音を作ろうとする人と、そういうことにはまったく無頓着に音符を追うだけの人がいます。

話し方でも訓練された発声で澄んだ聞き取りやすい声で話すのと、ベタッとした地声で話すのとでは雲泥の差があるように、いい音を鳴らすというのは、それ自体がすでに音楽的行為だと思います。

とくに名器と言われるピアノになればなるだけ、タッチによる音色やニュアンスの差がはっきりと音にあらわれ、日本製のピアノのほうがその点はまだいくらか寛容かもしれません。さらに電子ピアノになると、タッチによる汚い音というのがまったく存在しないので、その点ではやはりアコースティックピアノは奥が深いと思います。

弾いてくださったピアニストはとくにタッチや音にも配慮の行き届いた演奏をされるので、この点でもいうことなしで、ついステージで聴いているような錯覚を覚えました。

さて、マロニエ君はこのピアニストによる先日のリサイタルのアンコールと、東京でのライブCDの最後に収録された、ヴィルヘルム・ケンプ編曲によるバッハのコラールにすっかり魅せられてしまい、この10日ほどこれの練習に取り組んでいます。

僅か2ページほどの作品ですが、編曲ものというのはオリジナルとはまた違った難しさがあり、広く音の飛ぶ内声を左右どっちの指でとったらいいのかなど、わからないことも満載。
おまけにもともとの下手くそや、なかなか暗譜ができないなど、たったこれだけの曲をさらうのに、なんでこうも難渋しなくちゃいけないのかと思うと、さすがに情けなくなります。
もういいかげん暗譜してもよさそうなものが歳を重ねるほど難しく、さらに編曲作品特有の弾きにくさも追い打ちをかけて、ばかみたいに同じ所で間違えたりと、つくづく自分が嫌になります。

それでも今度ばかりは曲の魅力に抗しきれず、普通なら一日で放り出してしまうところを、めずらしく踏ん張っています。踏ん張ればそのぶんどうかなるのかといえば、そうとばかりも言えない気もするけれど、やめれば弾けないのははっきりしているので、もう少しがんばってみるつもりです。

いい演奏というだけなら、お気に入りのCDを鳴らせば済む話ですが、やはり苦労してでも自分の手からその音楽を紡ぎだすというのは格別で、自分の気持ちや指の動き一つでそのつど音楽に表情が宿ったり失敗したりと、これこそがささやかでも弾く喜びなのだと痛感します。
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精神的事故

悪気がない、気がつかない、無知といったものは、ときにちょっとした悪意より、はるかに悪い結果を招き寄せることがあるものです。

なぜなら、相手は悪いことをしているつもりがまったくないのだから、その点においては遠慮も躊躇も働きません。
わかってない故に容赦なく限度なく、とめどなくそれは続きます。

先日こんなことがありました。
やむなきお付き合いから、とあるコンサートに行くことになり、親しい某女史と友人とマロニエ君の3人で車で赴くことになりました。
某女史は天真爛漫、その人間的魅力もあってか人望も篤く、多くのコンサートや音楽祭なども手掛けておられます。

コンサートは隣県の一風変わった場所で行われるので、マロニエ君が車で某女史と友人を乗せて行くことが早くから決まっていました。
大半は高速道路ですが、前後を含めるとそれでも片道1時間以上かかります。
コンサートの前日、出発時間などを打ち合わせようと某女史に電話をしたところ、この段階で驚くべき内容を知ることに。

なんと、明日は某女史の知人という人物がもうひとり一緒に乗っていくことになったというのです。
マロニエ君にしてみれば、予定の3人は昔からよく知る間柄なのですが、新たに加わったひとりは一面識もない方なので、このひとりの登場によってこちらにとっての空気はガラリと変わりますが、ご当人は至ってあっけらかんとしたご様子。
さらにこの電話でわかったことは、帰りはこの日の出演者の4人のうちの2人を乗せて帰るのだそうで、車の所有者であるマロニエ君にひとことの相談もないまま、そういうことが決められているという事実に、はじめは頭がグラグラしそうでした。

この文章をお読みの方は、某女史が非常識で自己中で図々しい人物と思われることでしょう。
ところがそうではなく、この方というのが珍しいほどの天然の方で、そこには悪気どころか、マロニエ君への無礼の意識も全く無いことは、長年の付き合いでよく知っています。知っているからこそ、ただ憤慨することもできず、某女史なら仕方ないか…と思い直して迎えに行きました。

ところが、そこからが本当の苦痛の始まりでした。
某女史とその知人(こちらも音楽関係らしい女性)は後部座席に乗り込み、マロニエ君がハンドルを握り、友人が助手席という配置でスタートしたのですが、駐車場を出る頃から後ろではぺちゃくちゃとおしゃべりが始まっています。
この段階で、いやな予感はしていたのですが、その二人のおしゃべりは時間が経つにつれますます熱を帯び、ついには目的地に就くまでの一時間以上、延々と続きました。

通常なら個人の車に乗る際には、それなりの常識や振るまいというものがあり、まず車の所有者に相談もなしに、第三者を乗せるか否かを決定する権利はまったくないし、よしんば相談され応諾したにしても、乗用車の車内というのは、狭くて閉鎖された密室であるわけで、車中ではそれなりの配慮が求められるのは当然でしょう。
長距離なら、なおさらのことです。

車内の会話はほぼ全員が参加できるよう、互いがそれなりに気を遣い合うのは当然のはず。リアシートのふたりだけが、自分達だけの会話に1時間以上興じるなどとは、およそ信じられないことでした。
ましてそのうちのひとりは、ついさっき「はじめまして」と挨拶した初対面の人間で、タクシーならともかく、個人の車ではありえないことです。

友人もこの状況を察したようで、はじめは仕方なく何度かこちらに話しかけていましたが、後ろの二人だけで繰り広げられる猛烈な会話に圧倒されて、しまいにはほとんど口を利かなくなりました。

…演奏は素晴らしかったけれど、とにかく疲れてクタクタだったし、おまけに終演後は立食の食事会が待ち構えていました。
明日は福岡市でコンサートがあるからという理由で演奏者の二人を乗せて早めに帰るはずだったのが、このご両人がまたなかなか帰ろうとはしません。
そのころマロニエ君はもう心身ともに相当限界に近づいていることが自分でわかりましたが、この状況では一人で帰る自由もないわけで、この何から何まで納得していない状況に耐え難い苦痛を感じました。

結局、キリがないので少しせっつくなどして帰途についたのは夜の11時頃で、演奏者の大きな旅行かばん2つをトランクに押し込み、5人乗ってようやく出発。ところがこんどは、その演奏者のひとりが外国人であったため、リアシートではワイワイと英語ばかり。
このとき、ほとんど切れてしまっていたマロニエ君の心の最後の糸がぷつんと切れました。

もはや、だれであろうと、いい人であろうと、お世話になった人であろうと、悪気があろうがなかろうが、関係ない。
いま自分が置かれている状況がたまらなくイヤになり、よくわからない限界点をついに超え、それから一切周囲との会話を遮断しました。マロニエ君の徹底した沈黙は車内でしだいに目立ってきたのか、かなり奇異に映ったとは思うけれど、それを取り繕う意欲もエネルギーもありません。
ひたすら安全運転にのみ全神経を集中し、まずはホテル、某女史宅、友人宅とまさに宅配便のように送ってまわって、ともかく無事に帰宅しました。これは誰一人悪意はないところに発生した精神的事故だったと思うより他ありません。
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眩しい才能

先日の『情熱大陸』では新進ピアニストの反田恭平が採り上げられました。
いつも見る番組ではないのに、新聞のテレビ欄を眺めていると「ピアニスト」「反田恭平」という文字が運良く目にとまり、録画しておいたものです。

反田氏はマロニエ君もそれなりに注目しているピアニストで、以前このブログにも書いたことがありますが、なによりその逞しいテクニックと直感、びくびくしない弾きっぷりが特徴だと思います。

ピアニストとしてのアスリート的な部分も大きな魅力で、ユジャ・ワンと同系統といえるかもしれません。
番組では、反田氏は自らを「サムライ」と称し、だから長い髪を武士の惣髪に重ねているのかとも思いつつ、番組を見ながらこれまでのピアニストとは少しばかり様子のちがう、良い意味での孤独性さえ感じました。

有名なヴォスクレセンスキー教授が来日の折に反田氏の演奏を聴き、その勧めによってモスクワ音楽院に留学して2年が経つようでした。
ところが父親の猛反対もあったらしく、この2年間は奨学金生としてモスクワで学んでいるといい、その奨学金支給も今月で終わり、来月からは「実費」というシーンがあり、反田氏としては早く自立したいという考えを抱いているようでした。

帰国しても、明るく歓迎する母親とは対照的に、ピアノに反対している父とはほとんど会話もありません。

多くのピアノ学習者と違って、反田氏はまわりの誰でもない、自分がピアノを弾いて世に立っていきたいという強い情熱があり、この父との対立も彼の前に立ちはだかる大きな障害のようにも見えます。
結局、彼はモスクワ音楽院で学び続けることを断念し、そのぶんより挑戦的にピアニストとしての活動を強めていく覚悟を決めているように見えました。

恋愛でも、むかしは本物の大恋愛が存在したのは、現代では考えられないような困難が幾重にも存在したからで、そういう壁を打破し乗り越えようとするときに、人間は尋常ならざる力が湧き上がってくるのではないかと思います。
その点では、周囲から褒められ良好な環境をいくらでも与えられる人より、反田氏のようなある意味逆境にいる人のほうが、よじ登っていこうとする精神的な強みがあり、大成できる可能性も高いと感じました。
むろん相応の才能があっての話ではありますが。

この番組の中で、ひときわマロニエ君が注目し、納得したシーンがありました。
イタリアのホールでラフマニノフのピアノ協奏曲第2番をレコーディングすべく、会場に現われた反田氏は、ステージに据えられた新しいスタインウェイを触るなり、これが気に入らないようでした。
「ピアノが寝ている」「きれいすぎる」といい、舞台の裏部屋のようなところにある古くて誰も弾かなくなったというスタインウェイを弾いてみて、こちらを所望しました。

1970年代のピアノで、もうだれも弾くことはないとばかりに奥まったところに置かれていましたが、何人ものスタッフによってステージへと押し出され、ステージで弾いてみてこのピアノを使うことを迷いなく決定。
なぜこちらのピアノを選んだのかという質問に、「直感」と短く答えたあと「こっちのピアノのほうが自分の引出しをいろいろ使えそうだから」というようなことを言っていました。

テレビのスピーカー越しにも、こちらのピアノのほうが音にばらつきがあり、伸びがなかったり、悪く言うとくたびれた感があるものの、新しいピアノにはない渋い味わいがあるようです。
おそらくこのピアノの欠点については反田氏は自分の演奏によってカバーできるという自信があったのでしょうし、それよりも一番大事なことは何かということを見誤らない、お若いのにずいぶんもののわかった青年じゃないかと思いました。

前述の奨学金のことなどもあり、ここで独り立ちしたい反田氏にとっては、この録音はとりわけ勝負をかけるものだったに違いありません。
そこで弾くピアノが、どのキーをどんなふうに弾いても「パァーン」と小奇麗な音が出るだけの新しいピアノでは、自分の思い描くような勝負はできないと直感的に感じたのかもしれません。

日本では、ホロヴィッツが弾いていたという古いスタインウェイをコンサートやレコーディングにも使った経験がある反田氏なので、楽器に対する感性も鍛えられ、それらの経験も見事に生かされているのだろうと思いました。

ピアニストはつべこべいわず、会場にあるピアノに即応して弾かなくてはならないという宿命を負っていますが、誰も彼もがおろしたてのような新しいスタインウェイこそがベストだと思い込んでいるような現状には日頃から疑問を感じます。
楽器に対してなんという無定見かと嘆きにも似た気分でしたので、反田氏のこの反応と選択には見ているこちらまで溜飲の下がる思いでした。

モスクワでの師匠であるヴォスクレセンスキー教授がさすがだと思ったのは、「彼には爆発的な気質がある」などと高く認めながらも「でも、単調なテンポの曲を表現するのはまだまだだね」と評した点で、マロニエ君もいつだったかNHKの番組で反田氏の雨だれを聴いたときは、まさに「まだまだ」だと思いました。
しかし、久々にこれからが楽しみになるような眩しい才能が日本から出たことを嬉しく思います。
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これも地域性

「偏見」という言葉をウィキベディアで見てみると、おおよその意味するところはわかったような気がしました。

「十分な根拠もなしに他人を悪く考えること」だそうで、「新しい証拠にもとづき自分の誤った判断を修正できるなら、偏見ではなく予断に分類される」とあって、なるほどと思いました。

この説明に添って考えると、「十分な根拠があって、新しい証拠が出たときに自分の判断を修正する用意がある」のであれば偏見ではないと考えてもいいという裏付けを得たようで、差し当たり自分の頭にあったことが偏見ではないと意を強くしました。

というのも、マロニエ君は関東地方のあるエリアにいささか否定的イメージを抱いており、そこには一定の経験と根拠と自信を持っているのですが、さりとて声を大にして言えることではなく、現実は現実だからしかたがないというところです。
市というのでは少し足りないし、県というのでは広すぎるので、その間を取ってここではエリアとしますが、全国的にもつとに有名で、それも非常に高評価をもって上位にランクされてしまうエリアなのですが、どうしようもなく感じてしまう固有の気質というか土地柄みたいなものがあって、それがマロニエ君としてはどうも好意的には受け止められません。

虚栄とニセモノ感にあふれ、人間的にもあまり感心できない気質をもつ人の比率が高いと経験的にも感じます。ちなみにマロニエ君は若いころ2年ほどこの地に住み暮らしたこともありますが、充実した東京生活とは打って変わって、こんなにも違うものかと深く失望したことは今でも忘れられません。
このエリアの人達は、身の丈を超えた自信を持ち、それは通常の地元愛みたいな可愛気など微塵もないもの。作られたイメージに悪乗りした思い上がりというべきで、日本人らしい慎みが薄く、おしなべて信頼という点でも疑問があります。
それはある意味、東京という大都会に対して根底に流れるコンプレックスの裏返しなのかもと思いますし、このエリアが辿ってきた歴史的経緯とも無関係ではないと思います。

さて、今年の7月の下旬のこと、車好きの知人がある中古の輸入車を購入することになり、ネットの中古車検索サイトから全国を探すことになりました。全国と言ってもベンツやビーエムではないので大した数ではなく、ヒットするのはせいぜい20台ほどで、その結果、ある1台が候補に上ったようでした。
仕事が忙しいこともあって、現地には赴かず写真のみでの判定だったようですが、結局その車を買うことになり、ついては車検取得や整備などをおこなった上での納車ということに決まったといいます。
売買契約をしたのが8月に入ってすぐでしたが、実はそのショップというのが上記のエリアにある店だったのです。

「車が来たらすぐに見せに行きます!」ということで、人ごとながらマロニエ君も楽しみにしていたのですが、ずいぶん日にちも経つのに一向に納車の気配がありません。
どうなったのか聞いてみると、8月も下旬になっているというのに「まだ作業に入れていない」という回答で、当初の話ではお盆過ぎぐらいに納車ということだったのが、かなり話が違ってきているようでした。

しかも、約束よりも遅れるのであればその旨連絡があってしかるべきですが、それは一切なしで、こちらから電話しないかぎり向こうから連絡してくることはないばかりか、担当者の話し口調も、始めのころの快活さが明らかになくなり、ずいぶん気のないしゃべり方に変化していることも甚だ不愉快とのこと、尤もな話です。
この時点で8月末までの納車は不可能となり、9月へずれ込むことが確定的になりますが、それで終わりではありませんでした。

問い合わせをする度に、延期に次ぐ延期を「すみません」のひとこともなく平然と言い渡されるのだそうで、ついには9月中の納車さえも危ういことがわかってきました。
はじめは余裕の構えを見せていた知人も、もう完全に憤慨の様子です。

ただ、この知人にも甘さというべき点があり、代金をどうせ払うのだからということで、店から言われるままに契約時に全額支払ってしまったらしいことです。しかも驚いたことには一切の値引きもなく、整備関係の費用から、福岡への陸送費まで、なんらのサービスもないまま整備費用等を一円単位で加算請求してくるという、普通ではあまり考えられない高飛車な条件です。
それらを素直に受け入れたことがますます店側を傲慢にしてしまったように思われました。
従って、契約内容の甘さや店特有の問題がないとは言い切れませんが、マロニエ君はこのエリア独特のメンタルも大きいと直感しました。

中古車と言っても絶対額としては大金ですし、商売はお客さんあってのもの。信頼や他店との比較もあるのだから、そこまで一方的な都合や態度で押し切って、せっかく買ってくれた相手をそうまで不愉快にさせる合理的な理由が見つかりません。
もちろんお店の体質や担当者個人の性格などもあることは否定はしませんが、大きく見れば、ようは文化が違うのだとマロニエ君は思うのです。

マロニエ君も以前、認定中古車というのを全国ディーラー網で探したことがありますが、さすがにディーラーというだけあってどこも悪くない対応だったけれど、「このエリア」の2店だけはやはり様子が違っていたことを鮮明に思い出します。
意味もなく上から目線を漂わせて感じは悪いし、その中の一店に至っては主任とやらが自分の自慢を展開、まるで客と張り合っているかのような微妙な態度に呆れ、車は気に入っていたけれどあと一歩というところで破談にしたことがありました。

人によっては、それはマロニエ君の「偏見」であって、たまたま。みんながみんなではない筈、罪なき人までエリアで十把一絡げに見るのはいかがなものか…といった反論をされると思いますが、これ以外にも根拠となるネタはいくつもあるし、世の中、そういくつも偶然が重なるものではなく、やはりそこには地域性や特殊性みたいなものがあるのは事実だと思います。

日本は外国と比較すれば信頼性が高いというのは事実だと思いますが、それでもやっぱり地域固有のクセみたいなものはあるわけで、そこは注意が必要だと思います。
知人の車は、さすがにもうそろそろとは思うけれど、いまだに納車されてはおらず、どうなることやら…。
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パリのソコロフ

グリゴリー・ソコロフは「知る人ぞ知る、現役世界最高のピアニスト」というような評価の下、一部には熱狂的なファンが多いようで、並のピアニストでは満足できない音楽通の人達の間で支持されているとか。

あまり知らない頃は(今も知っているとは言い難いけれど)、そんなにすごい人がいるのか…という感じで、ちょっとYouTubeで見てみたり、10枚組ぐらいのCDを購入するなどしてしばらく聴いたりしていたものでした。

ある意味、往年のロシア型大ピアニストの生き残り的な印象でもありました。
どれを聴いても、絶対に沈まない大船に乗っているようで、なるほどとは思ったし、その独特なパフォーマンスには納得させられてしまう風圧のようなものがあり、これぞまさしく大物というところでしょう。
一部の評価はあるていど納得できましたが、ではそれで衝撃を受けて自分もファンになりCDを買いまくったかというと、総じてマロニエ君の趣味ではないためかそこまでの熱気は帯びませんでした。

そのソコロフのDVDをたまたまネットショッピングで目にしたので、一度ちゃんとしたかたちで視聴してみようというわけで購入しました。
パリ・シャトレ座の暗い舞台にスタインウェイがポンと置かれ、これから始まるリサイタルのソリストというより、ただの通行人みたいな足取りでそそくさと現れたソコロフは、まずベートーヴェンのソナタ(No,9/10/15)を立て続けに弾きました。

視覚的に驚いたのは、やはりその圧倒的なテクニックと、完全というか異様なまでに脱力しきった指さばき。
さらに肩から腕全体を大きく使うあたりは鳥の翼のようでしなやかではあるけれど、あまりにもいちいちがその動作になるのは、そこまでする必要があるのかという疑問を感じたり…。

腕の上げ下げの度に演奏上の呼吸が入り、個人的にはそれなしで進んで欲しいような箇所もたくさんありました。

そうはいっても、強靭なフォルテ、対して弱音域ではこれ以上ないという柔らかな音でいかようにも語る術をもっているのは、これだけでも聴く価値があると思います。

さらに印象的だったのは、どの曲に対しても精神的集中がものすごく、終始全身全霊を打ち込んで身をすり減らさんばかりに演奏する姿でした。演奏家がこれだけ自分のエネルギーを惜しげなく投入して演奏しているという姿には圧倒されるものがありました。
いまどきのサラサラと無機質な、疲れの少なそうな演奏でお茶を濁す中途半端なピアニストが多い中、このソコロフの演奏にかける熱を帯びたような姿勢というものは、まずそれだけでも大変尊いものだと感じずにはいられません。

ステージマナーも独特で、最後のプロコフィエフのソナタが終わって万雷の拍手が起こっても、アンコールを弾いても、何度カーテンコールが続こうとも、表情は一貫してブスッと不機嫌そのもの。
一瞬の微笑みもないのは無愛想というより、ここまで徹するのはむしろご立派というべきでしょうし、そこがまた聴衆にも媚びない孤高のピアニストといった風情に映るのでしょう。

ただ、敢えて書かせていただくと、音楽的にはやはりマロニエ君の好みではないところが多々あって、美しい音楽を聴く楽しみというより、ソコロフという異色のスーパーピアニストの妙技を拝聴するという感じで、まさに彼の紡ぎだす世界に同席するという感覚でした。
気になるのは、あまたのフレーズや楽節ごとに深く大きな呼吸の刻みがあって、せっかくの音楽がいつも息継ぎばかりしているような感じを受けたことで、聴いていて次第に少し疲れてくるのも事実です。

それと、音楽的な表情というか語り口はわりにワンパターンのように感じたのも事実で、その点ではアンコールで弾いたクープランの二曲はとても好きだったし、バッハも素晴らしく、あまり直接的な表情を求められない作品のほうが向いているような気もしました。

ベートーヴェンもプロコフィエフも個人的好みでいうと大きく構えすぎて却って作品が聴こえてこない気がするし、ショパンもちょっと感性が合っていない気がします。

でも、こういう人が玄人受けするというのはよくわかりました。
音楽的に好きでも嫌いでも、とにかくすごいものに触れているという特別な感じがあるのは事実です。
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ハルラー

先日、知人ととりとめもない雑談をしている中で、たまたま作家の話になり、「…村上春樹とか読まれますか?」とやや慎重な調子で質問されました。

こんなとき、普通なら相手の反応を見ながら徐々に答えを探るものかもしれませんが、「いいえ、まったく!」とむしろキッパリと答えてしまいました。
マロニエ君は村上氏の著作は一冊も持っていませんし、数年前、かなり話題になったときに本屋で30分ぐらい立ち読みしてみて、まったく自分の求める世界でなかったし、いらい手にしたこともなかったからです。

するとその方は「ああよかった、私も読まないです。」と言い、さらに「むしろあの人の作品を好きな人も苦手です。」ということで、どうやらそのあたりが一致しているらしいことに、お互いに安堵した感じになりました。

ところが、これに端を発して、話は思いもかけないような方向へと向かって行きました。
会話調は面倒臭いので省略しますが、主に以下のようなものでした。

村上春樹氏の熱心なファンは「ハルラー」と呼ばれ、さらにその中の、若い世代の中には、いまさらスターバックスが大好きだったりする人達がいるようですが、これだけではなんのことだかさっぱりわかりませんよね。

その人達はコーヒーといえばスターバックスで、それはシアトルズコーヒーでもタリーズでもダメなんだそうで、スタバを一種のブランドとして捉えているのかもしれません。

知人曰く、スタバの客層の中には「ハルラー」もしくは、そのご同類が確実に存在するようで、ときに医大生や若い医療関係者である率がかなり高く、スタバをいうなれば自己アピールの場として利用しているというのです。

ハルラーはスタバの混みあった店内の、あの喧騒の中で、わざと人に聞かせるための語句を混ぜ込んだ会話をし、自分達が医療関係もしくはその他社会的エリートに属する人種であることを周囲にことさらアピールするといいます。
それには小道具も必要で、テーブルの上に置かれるのは医学書などの専門書、難解な哲学書、あるいはビーエムやレクサスなどのキーホルダーをマークが見えるように上を向けて置いたり、ときに指でくるくる回すなどして自己主張を展開するというのです。
俄には信じがたいようですが、持ち物や言動によって自分達はエリートだよという信号を送っているわけでしょうし、じっさいそれで寄ってくる側の人間もいるというのですから驚きです。

世の中にはそんな手合はいるとしても、ごく少数では?と問い返しますが、「とても多いです!」という断固たる自信に満ちた答えが返ってきて、嘘をいうような人ではないだけに衝撃的でした。

その中でも、とりわけ自信がある人達は、外のテラス席に陣取って、思い思いの自己アピールをするのだそうで、彼らの手には最新のアップル製品などと並んで、村上作品が重要な位置を占めているらしいのです。
とりわけ新しいものは価値が高いようで、Macも村上作品も新作発売日にスタバにいけば、そこには必ずと言っていいほどそれを手にした人達がいて、「家に帰る時間が待てずに、今ここで読んでいるところ」という表現になっているのだとか。

そもそも何のためにそんなご苦労なことをやっているのかというと、そういう特別感を醸しだすことで男女の出会いもあれば、自称エリート達はこういう場を使って「お仲間」を探しているのだとか。
もちろん周囲に対する単なる見せつけで楽しんでいる一面もあるのでしょう。
では、何をするための仲間?と思いますが、自分達はケチな一般庶民とは違うのだから、同種で群れたいという意識もあるらしく、お互いに声をかけたいかけられたいという欲望が渦巻いているというのです。

もともとマロニエ君はその手の価値観をもった種族にはひときわ嫌悪感があって、本来なら一歩も近づきたくはありませんが、しかしそこまで突き抜けているのなら怖いもの見たさというか、一見の価値ありというわけで、ちょっと見てみたくもなりました。

とくに繁華街の中にある店舗ではそれが甚だしいようで、実はマロニエ君はそこに何度も行ったことがあるのに、一向にそんな気配には気づかず、ただ馬鹿正直に紙コップ入りの熱いコーヒーを飲むばかりで終わっていました。何たる不覚。
自称ヤジウマとしては、機会があればぜひそのあたりを観察してみたいと楽しみにしています。
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お役所体質の怪

一昨日、運転免許証の更新に行ってきました。
マロニエ君はこれでもいちおうゴールド免許なので5年ぶりの更新です。

いざ行ってみれば、何ほどもない簡単なことなのに、「来年は更新…」「今年は更新…」という感じで長いこと心の中にぶらさがっていた事なので、とりあえず終わってホッとしました。

出発が予定より遅れた上、かなりの渋滞でもありもし間に合わなかったら…とハラハラしながら、裏道ばかりをジグザグに走り抜けた結果、なんとか間に合いました。

少し前に届いていたハガキには、午後の受付は「15:30まで」とあり、その10分前の到着でしたが、この時間帯に来る人は少ないらしく、ええ?と思うほどガラガラ状態でした。
福岡の運転免許試験場は、美術館のようにやたら大きくて、こんな広い施設が果たしてどういうときに必要になるのか想像ができず来る度に不思議ですが、朝一とかならそれなりに納得できるのかもしれません。

云われるまま所定の書類に記入して受付に提出すると、まず最初が視力検査です。

自分でも視力が落ちたなぁという自覚があるので、今回はもう裸眼では無理だろうという危惧もあり、いちおう鞄の中には夜間の運転で使っているメガネを携帯していたのですが、直前に念のため目薬をさし、半分諦め気分でいざ検査に挑むと、ややきつい感じもないではなかったものの、いちおう裸眼で「合格」となり、心のなかでガッツポーズ。

考えてみると5年間にも同じ心配をしていたので、次はもうだめに決っていると思っていたのですが、嬉しい誤算でさらに5年伸びたというところです。

手続き開始から新しい免許証を手にするまでには、全部で5~6回の受付とか検査とか窓口への書類提出といった段階を通過するのですが、ここは言うまでもなく公的な施設なので、むろん民間とは違うのは百も承知だけれど、いかにも役所然とした感じの人がたくさんいることは目につきました。
時間帯が遅かったので、更新に来る人に対して関係者のほうが多いのもやむを得ないとしても、その人達の半分くらいは、いかにも手持ち無沙汰なようで、仕事中という緊張感は無いもしくは希薄で、かなり響く無遠慮な声でずっと私的なおしゃべりをしていたのはいささか気に障りました。
とくに、講習が行なわれる教室の入口(つまり廊下)に立って「緑の札をお持ちの方は、こちらにお入りください」というだけのことに、なんで大の大人が三人もいて、しかも大きな声で延々とくだらない私語をしているの?と思いました。

ここが一番ひどかったけれど、ほかでもとにかくおじさんおばさんたち(いずれも職員)のおしゃべりが盛大すぎて呆れたというか、少しは慎んだらどうかと思いましたね。

さらに驚いたのは、30分の講習に出てきた指導員のような方ですが、そこそこご年配とはお見受けしましたが、とにかくはじめの第一声から最後まで、ずっと言語不明瞭な上に早口が重なり、ほとんどなんて言っているのかわからないのはちょっとショックでした。

手許には2冊の冊子があり、「何ページを開いてください」というのはかろうじてわかったし、そこには決まりきったような安全運転に関する記述があって、しゃべっていることは文字を見ればなんとかわかりますが、耳だけで聞き取ることはほとんど不可能でした。
しかもこの方、来る日も来る日も同じことをされているのか、みょうに手馴れていて、しゃべり方もへんな抑揚がついてものすごい早口だし、手許のノートパソコンを操作して、正面のホワイトボードに文字やグラフのようなものを次々に映し出したりと、へんなところの手際だけはよくて、そのトークとのギャップは見ていてとっても奇妙でした。

ただ座っているだけの受講者を相手に、ちゃかちゃかと事は進行し、腕時計をチラチラ見ながらあと5分というところになると、ちょっとした宣伝や交通協会への入会の勧誘などに移り、それらをいうだけ言うと、まるでつむじ風のように講習は終了しました。
受講者はきっとみなさん内心では驚かれていたと思いますが、そこはお互い空気を読む日本人であるし、赤の他人同士、黙って立ち上がりひとことも言葉を交わすことなく教室を後にしました。

別の場合なら聞き取れないトークに苦情もでるでしょうが、ここでは免許更新さえ済めばいいことなので、それ以外のことは知ったことではないというわけです。

階下に降りると、1階ロビーの傍らにある専用窓口で新しい運転免許証をそれぞれ手渡され、各自、無感動な表情で眺めながら帰って行きました。
外に出ると、静かな曇り空が一面にひろがり、駐車場まで言いようのない変な気分で歩きました。
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モスクワ音楽院

新聞のテレビ欄を見ていると、ふと「~モスクワ」という文字が目に止まりました。

『世界ふれあい街歩き』という番組で、モスクワ市街を周遊するものがあって、なんとなく録画しておきました。
行ったことのある人はともかく、普通はモスクワというと目にできる光景は大抵クレムリンや赤の広場などで、それ以外の街の様子がどうなっているか知らないし、ほとんど見たことがない。

最近は、動画サイトで車載カメラによる衝突映像などからロシアの一般的な風景も昔より目にするチャンスが増えましたが、それらはいずれもロシアならではのいかにも荒っぽい事故やトラックが衝突横転する様子などで、こちらもついそれにばかり気を取られつつ、全体的な印象としてはまあとにかくどこもかしこもやたら広くて、こう言ってはなんですが街中でもあまりきれいとは言いかねる荒涼とした風景が広がっているという印象です。

それでも、モスクワはなにしろあの大国ロシアの首都であるし、NHKのカメラがきちんと撮影したらいったいどういう街なのか、素朴な興味がありました。

果たして、ソ連が崩壊して四半世紀が経ったモスクワの町並みというのは、昔を知っているわけではないけれど、その頃からあまり変わっていないように見えたし、かなり地味で寂しげな街という印象で、そういう意味では少々驚きました。
改革開放以来のすさまじい発展を繰り返す中国の都市とは、まるきり対照的。

おもしろかったのは、マロニエ君にとってはやはり音楽関連で、なんとモスクワ音楽院がでてきたシーンでした。

道端の公園のようなところにチャイコフスキーの銅像があり、その下のベンチで4人の若い男女がしゃべっています。
カメラが近づいて声がけすると、彼らは傍らにある音楽院の生徒で、ピアノの練習をするため、教室が空くのを待っているところだといいます。

番組も彼らについていくことになり、威厳ある建物の、しかしずいぶんと小さなドアから中に入ると石造りの階段があって、そこを登って行くと、ずんずんと音楽院の内部へと潜入していきます。

モスクワ音楽院といえばチャイコフスキー・コンクールの本選会場であるばかりでなく、あの有名な大ホールでは、これまでいったいどれだけの名演が繰り広げられ、世界のコンサート史の一端を担っている重要な場所であるかを思うと、さすがにこの時はドキドキしました。

小ホールの入口というところでは、偉大な卒業としてラフマニノフなどの名を刻したプレートがズラリと並んでいたりと、やはりずっしり重い歴史が幾重にも刻まれていることを感じます。
教室に入ってみると、まったくさりげなくポンと新しめのスタインウェイDが置かれていて、ここにはそんな部屋がいくらでもありそうでした。これを生徒は自由に使えるのだそうで、ピアノは2台の部屋も3台の部屋もあるよね…などと軽く言っています。さっきの生徒ひとりがさっそくピアノの前に座り、弾き始めたのはさすがはロシア、バラキレフのイスラメイでした。
ピアノの音は酷使のせいかビラビラでしたが、でもなんかやっぱりすごい。

彼らが言うには、自分だけでは常に客観的に聴けるわけではないから互いに助言を頼むのだそうで、友人の意見が必要とのこと。至極もっともな意見ですがそんな当たり前のことに、ドキッとさせられる記憶が蘇りました。
それは、日本のトップとされる音大を出たピアニストが言っていたことで、(日本の)音大で最も嫌われることは「人の演奏に意見をいうこと」なんだそうで、だからそれは互いにタブーとされているという、とーってもヘンな現実です。さらには自分の好きなピアニストの名さえも言わないようにする(相手がそのピアニストを好きではなかった場合のことを考えて気を遣う)というのですから、その遠慮の度合には呆れてしまいます。

日本人の演奏能力がどれだけ上がっても、彼我の違いはこういう根本的なところにあるのだなあと思わずにはいられない一場面でした。

モスクワ音楽院で個人的には最も驚いたのは、廊下に長大なコンサートグランドが足を外された状態で、無造作に立てかけられたりしていることでした。それも場所によってはサンドイッチみたいに2台重ねてしかも前後にも2列、計4台がまるでただの大きな荷物みたいにゴロゴロ置かれているなど、「うひゃー」な光景でした。

ビデオで録画していたので、繰り返し注意深く見てみると支柱の形状やサウンドベルの位置から、それらはスタインウェイDであることが判明。また別の場所にはブリュートナーのフルコンが同じように立てかけられていたりと、やはりここはとてつもない所だと興味津々で、なんだかわくわくして胸が踊りました。
こんなところ思うさま探検できたら、どんなに楽しいことか…。
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流麗なんだけど…

どこか腑に落ちない演奏ってあるものです。

菊池洋子のピアノで、モーツァルトのピアノ協奏曲第20 KV466/21番 KV467のCDを聴いてみて、ふとそんな気分になりました。オーケストラはオーケストラ・アンサンブル金沢、指揮はKV466が井上道義、KV467が沼尻竜典。

日本人として初めて「モーツァルト国際コンクールのピアノ部門で優勝」したことがこの人の特筆大書すべき経歴で、いきおい日本の新しいモーツァルト弾きというようなイメージが定着しつつあるようです。
ところで、そもそも「モーツァルト国際コンクール」というものがどんなものなのかよく知りませんし、このコンクールからこれといった演奏家が出てきたという記憶もありませんが、マロニエ君の不勉強のせいでしょう。

菊池洋子さんは、NHKのクラシック倶楽部などでも聴いた記憶があり、そのときもやはりモーツァルトのソナタやピアノ四重奏をやっていたように思いますが、どちらかというと明るく明快な演奏ということ以外、詳しいことまで覚えてはいません。

印象に残っているのは、ゴーギャンの描くタヒチにでもいそうな、長い黒髪を垂らした異国的な容姿と、沈潜せず、サッパリした語り口で、張りのあるモーツァルトを弾く人というようなイメージでした。

今回あらためてCDを聴いてみて感じたことは、耳に快適で、指も心地よく回っているし、音に華があること、さらにはよく準備された誠実な演奏で、なかなかよく弾けてるなぁというものでした。
ただ、欲を言うと、もうひとつこのピアニストなりの個性が明確にはなっておらず、あくまで譜面をさらって、万端整えて出てきましたという感じが残り、演奏を通じて奏者の語りを聴くという域にはまだ達していないように感じます。

センスはとてもいいものを持っていらっしゃるようだけれど、大きなうねりや陰影がなく、ひたすら全力投球で真っ直ぐに弾いておられるのだろうと思います。モーツァルトは一見まっすぐに見えて、実はかなり屈折した造りでもあるので、そのあたりを感じさせて欲しいのですが。

ブックレットによれば、ご本人はモーツァルトの即興性を大事にされ、その場で音楽が作られたかのように毎回臨みたいというような事を云われていますが、たしかにそれは感じられ、ただの印刷のような演奏でないことは大いに評価すべきところだと思いました。
さらには、いちいちが説明的ではない点も好感をもって聴くことが出来ました。
それはそうなんだけど、惜しいのは全体にせかせかして落ち着きのない感じを与えてしまっているあたりでしょう。

このふたつの協奏曲は、ケッヘル番号も連番になっている通り、ほとんど同じ時期に書かれた作品ですが、短調と長調という違いに留まらず、陰と陽、表と裏、精神的な明と暗という、対照的な関係にあって、もし役者なら同一人物に内包する極端な二面性の演じ分けに腐心するところではないかと思われます。
ところが菊池さんの演奏では、どちらを聴いても同じような印象しか残らず、とくに20番のほうに楽しげな明るさを感じてしまったのは少々慌ててしまったし、第2楽章も川面に浮かんだボートでくったくなくスイスイ遊覧していくようで、いささか面食らいました。

このCDには2曲(各3楽章)で計6つのトラックがあるわけですが、極端に云えばどれを聴いても同じようなに聞こえてしまうわけです。菊池さんにとってモーツァルト作品は長くお付き合いされ本場で研鑽を積まれた結果なのでしょうから、一定の見識のもとにこのような演奏に至っておられるのかもしれませんが、マロニエ君にはその深いところが汲み取れませんでした。

さらに言ってしまうと、マロニエ君は新しいCDはとりあえず何回も繰り返し聴くのが習慣ですが、このCDはそれがちょっとつらくなります。
華やかな同じ調子の演奏が延々と続くことに、聴く側のイマジネーションが入り込む隙がないようで、だんだん飽きてくるし、マロニエ君としては、もともとモーツァルトの精神の暗部に敏感であるような演奏を好むためかもしれません。

プロフィールを読むと、フォルテピアノの演奏もお得意の由で、もしかするとそちらの楽器にマッチする方なのかもしれません。私見ですが、モダンピアノは潜在的な表現力がフォルテピアノにくらべると格段に大きいので、より雄弁で多層的な表現の幅が要求されるのかもしれません。
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『音楽の贈り物』

ブックオフでの思わぬ掘り出し物に気をよくして、また別の店舗に行きました。
ピアニスト遠山慶子さんのエッセイとCDをひとまとめにした『音楽の贈り物』が目に止まり購入。

これまで書店で買うには至らなかったものが、こうして安く中古で手に入るというのはわりにおもしろいなあと思っているこの頃です。

遠山さんは1950年代にフランスに渡り、あの伝説のピアニストであり教師でもあったコルトーの弟子になられたという経緯をお持ちの数少ない日本人だと思われます。

エッセイはどれも短編で、あっさりした語り口がこの方の人柄やセンスを表しているようで、これまでの経験や感じてこられたことのエッセンスのようなもの。そこにはご自分が接した音楽家や文化人の名前が綺羅星のごとく登場しますが、そういう良き時代だったことを偲ばせるものでした。
文字を追うだけで、まるで1950年代から60年代のパリの空気を吸い込むようで、これを読めただけでもなんというか、薫り立つような体験をさせてもらったような気になり、とても満足でした。

また、本と一緒に1枚のCDが添えられており、遠山さんのソロがいろいろと音として楽しむことができました。本来マロニエ君はこういうスタイルはどこか下に見ていたようなところがあったけれど、それはやはり書く人、弾く人しだいというわけで、これはなかなかに楽しめるものでした。

曲目はモーツァルト:デュポール変奏曲、シューベルト:ソナタD566、ショパン:ノクターンNo,5/8/11/16、ドビュッシー:子供の領分というもの。
この中で、シューベルトのソナタだけは遠山さんのご自宅のベヒシュタインが使われ、それ以外はベーゼンドルファーのインペリアルが使われているというのも、ピアノ好きにとっては興味をそそるもの。

とりわけショパンでは、そのピアノの音の甘くて艶があって繊細なことにまず耳を奪われました。
近年ではこれぞと思うベーゼンドルファーにはなかなか縁がなく、インペリアルなどは図体ばかりでかいくせして、一向に満足な鳴り方をしないピアノを何台も見たり聴いたりしていたので、こういう美音にみちた楽器もあるのだということが思わずうれしくなり、うっとりできました。

またシューベルトに聴くベヒシュタインも、いわゆる普通のベヒシュタイン然とした音ではなく、こちらも色艶があってどこか可愛らしくさえあり、併せて哀愁のようなものまで感じさせるピアノでした。

最も驚いたのは、ショパンのノクターンに聴くベーゼンの音で、どことなくプレイエルを想起させる雰囲気すらあったのには、思わず声を上げたくなるほど驚きました。こういうショパンもアリという点で、まったく予想外なものでした。
耳を凝らせばたしかにベーゼンドルファーの特徴的なつんとした声が奥に聞こえてはくるけれど、全体的な音のニュアンスとそこに流れる空気はあきらかにフランス的で、こういう音を聴かされてしまうと、このピアノを選ばれた遠山さんの意図がわかる気がしました。

遠山さんはコルトー仕込みであるのはもちろん、ご自宅にもプレイエルのグランドをお持ちなので、コルトー&プレイエルが醸し出すあの独特なパリのショパンの世界は重々わかっておいでのことでしょうし、まったく違った楽器を使ってこのような音の世界を創出されるというやり方というか感性にもただただ脱帽。

ここに聴くベヒシュタインとベーゼンドルファーはいずれもまるでフランスピアノのような香りをもっており、これはとりもなおさず遠山さんの美意識が求めた結果の音作りであっただろうと、聴きながらマロニエ君は勝手に深く納得するのでした。
同時に彼女の好みをよく理解し、それをピアノに反映させた調律師の存在も見逃すことはできません。

しかもベーゼンドルファーは、曲によってウィーンと草津、埼玉と3ヶ所で録音さらたもののようですから、当然ピアノも技術者も違うだろうと考えたら、ますます驚かずにはいられませんでした。しいて云うなら草津で録音されたモーツァルトはわりに普通のベーゼンドルファーの感じでしたが、それ以外はかなりフランス風でした。

エッセイの中でプレイエルのことを「軽く透き通るような音」と表現されていましたが、まさにその通りだと思うし、このドイツ系の2台のピアノもそれ風になってしまっているところが唸らせられます。
フランス風な奏法ということもあってそういう音が出ているのだとすると、日本人がただプレイエルを弾いてもそれらしい音は出ないという暗示のようにも感じられます。

演奏はおだやかで良識的で、知性あふれるマダムという感じでした。
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もこもこ音

ユーラ・マルグリスは楽器にもかなり積極的な興味を示すピアニストで、シュタイングレーバーのピアノに弱音器を装着してシューベルトの作品などを入れたCDも出しており、このブログにも書いた記憶があります。

その第二弾ともいうべきCDがあって、そうとは知らず、アルゲリッチとのデュオがあるために購入してみたところ、よくみれば全10曲中、9曲までがマルグリスのソロで、デュオは最後のムソルグスキー:禿山の一夜(マルグリスによる2台ピアノ版)のみというものでした。

本来ならこんなCDの在り方は大いに憤慨するところですが、アルゲリッチは例外なので仕方ありません。
以前マルグリスが別府のアルゲリッチ音楽祭(たぶん第1回)に参加したときにも、この禿山の一夜を二人で演奏していますが、その後この曲のCDらしきものはなく、十数年経ってようやくそれが手に入ったことになります。

ところで、この弱音器付のシュタイングレーバーはシューベルトの時とおそらく同じ仕様で、よく見ればレーベルもシューベルトのときと同じOEHMS。
弦の下で待機する帯状のフェルトが、ピアニストの操作(たぶんペダル)によって打弦点まで移動し、それによりハンマーはフェルト越しに打弦することになるというもの。
かゆい背中を、直に手で掻くのか、服の上から掻くかの違いみたいなものでしょうか。

ライナーノートには、アルゲリッチがこのマルグリスの消音器がもたらす音の効果を賞賛している一文が、直筆のまま掲載されており、おそらく彼女もこのピアノを試してみたことが推察されます。「ピアノの色彩や能力が増した」というような意味のことが書かれているようです。
まあ、なんでもすぐに褒めまくるアルゲリッチのことですから、大いに社交辞令も入っているものと思いますが。

たしかにその効果は明確で、これを使った音はハッとするほどまろやかになり、このような劇的変化はこれまでの弱音ペダルではとても達成し得なかったものであることは間違いありません。
ただ、しかし、その差があまりに大きく、使用時と不使用時の落差が却って気になることも事実。

通常の弱音ペダルではハンマーの弦溝をわずかにずらすことで、伸びの良いやわらかなトーンを出すものですが、このマルグリスが弾くシュタイングレーバーは、それどころではない変化がONとOFFという感じで起こり、マロニエ君の耳にはある種の違和感が残ります。
もちろんチェンバロやオルガンのストップもそうではないかといわれれば、そうなのですが、慣れの問題もあってモダンピアノではこれだけ大きな音色の変化には聴き手の耳がついていけないのかもしれません。

とくにシュタイングレーバーは弾きこまれると、かなり生粋のドイツピアノといった風情でエッジの立った音がするので、そこへいきなりフェルトが差し込まれることで、唐突にこもった音になったようにしか聞こえないのです。

マルグリスのソロではこのシュタイングレーバーが使われますが、最後のアルゲリッチとのデュオではあっさりスタインウェイになっていて、データによると録音はいずれも2014年のルガーノ音楽祭でのもの。
アルゲリッチもそんなに褒めそやすなら自分も弾けばいいのにと思いますが、どこまで本心かもわからないし、アーティストとピアノメーカーの関係、その他諸々の制約や契約上の縛りもあって、事はそう簡単ではないのかもしれませんが。

おそらく会場や録音環境も似ていると思われますが、一枚のCDでシュタイングレーバーからスタインウェイにかわると、思った以上にぜんぜん違った世界が広がります。
シュタイングレーバーは言うまでもなく素晴らしい第一級のピアノですが、生まれもった個性がまったく異なるため、続けて聴いていると喩えは悪いかもしれませんが、まるで田舎から都会に戻ってきたような感覚でした。
スタインウェイはやはり洗練された美しいトーンで、慣れの問題もあるのでしょうが、これが鳴り出すとやっぱりホッとするような気になってしまうのも偽らざるところです。

いつだったか、2台ピアノで違う楽器を使うことでブレンドの面白みがあるというようなことを書きましたが、その点で云うと、いっそシュタイングレーバーとスタインウェイを組み合わせるとどうなるのか、いっそそれで弾いて欲しかった気がします。
きっとかなり面白いものになるような気がします。
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逆の責任

どうもここ最近の気象は以前とは違うらしいことは多くの人が感じていることですが、今年は8月という早過ぎる時期から、台風とはあまり縁のないはずの東北地方や北海道にまで上陸するなどして、なんだか嫌な感じがしていました。

そんな中、ついに12号が南の海に発生し、今度は九州を目指しているらしい。
東北・北海道と慣れない地を荒らしまわった台風が、次はいよいよ九州沖縄という本拠地に到来というわけか、先週後半からなにかというと台風の進路予想図に目を留めるようになりました。

地震よりマシとは思うけれど、台風も非常に嫌なものであることに変わりはありません。
とくにマロニエ君宅は、隣家も含めかなりの大木があるので、万一のことを考えると気が気ではないのです。

九州直撃がどうやら確実というのがわかってきたのは金曜のことで、それからというもの、台風に備えての食料品の買い出しや、外の植木鉢やら何やらを玄関に入れるなど、その準備に追われました。
とりわけ今回の12号は速度が7~15km/hとかなり遅く、それだけ暴風雨の滞在時間が長いというようなことをニュースは言っていて、せっかくの土日もこの台風のおかげでお流れになったのはいうまでもありません。

時間の経過と共に、進路や到達時間が詳細になり、北部九州の台風通過は日曜夜から月曜午前中ということで、土曜の夜まではなんとか出かけることができたものの、さすがに日曜は迫り来る台風に身構える一日となりました。
「嵐の前の静けさ」という言葉があるように、日曜は我が家の周辺は終日、ふだんとはまったくちがう静けさに包まれて、その異様な静寂がいよいよ魔物が現れる予兆のようで、これはもう来るんだと観念しました。

ところが、夜のテレビニュースを何度か見ているうちに、画面に映し出される南九州の様子には不思議なほど風が吹き付けている様子はなく、リポーターの背後にある樹木も、ほとんど静かに枝を伸ばしたまま。

その後、ニュースを伝える言葉の中にもちょっとずつ変化が現れ、「この12号は、コンパクトな台風ですが、そのぶん突然風雨が強くなる可能性があり、充分注意してください。」などと言い始めます。「とくに北部九州では猛烈な雨が予想され、5日は200ミリを超えるところも…」などと、むしろ大雨に注意というようなことを言っています。
??
明け方に長崎県に上陸し、昼前に福岡県を通過という予想なので、問題は明朝から昼までということになり、今これ以上気を揉んでも仕方ないということで日曜夜はとりあえず眠りにつきました。

翌朝目を覚ますと、多少風が強くなって雨でも降っているのかと思ったら、どうもベッドの中にいる限りではそれらしい気配がまったくなく、さっそく外を見てみると、なんと風はおろか木々の枝葉は微動だにしておらず、それどころかうっすら太陽の光さえ射しているではありませんか。
木が折れたり倒れたりということが心配だったので、ともかくその危険は回避されたようでホッとはしてみるものの、これはいったいどうなっているのかと思いました。

TVをつけると、8時頃だったか「今、通過の真っ最中…」みたいなことを言っていますが、「うそぉ…」まるで喜劇でも見ているかのように現実にはなんにも起っていませんでした。
それからほどなくして台風は温帯低気圧になったとか。
風は全然吹かない、大雨どころか、小雨すらなく、この3日間すっかり騙されて過ごしたようで、気がつけば鳥の声などがしているのがずいぶんと嘲笑的に聞こえたものです。

どうやら最近の報道は、責任回避が何より優先のようで、少しでも小型台風だとか大したことないと言うことで視聴者が油断し、それでもし万一のことがあったら責任問題になるということなのか、ともかく大げさに大げさに発表する傾向があるようです。

少しぐらいそういう気持ちが働くのは分からないではないけれど、ものには限度というものがあり、これではまさにオオカミ少年のごとく、視聴者が逆に災害報道を割り引いて聞いてしまうという危険に繋がりはしないかと思いました。

今回の台風報道と結果のあまりにも無残な食い違いは、大したことなくてよかったというより、完全に気象庁とマスコミに騙されたというものでした。このため多くの学校は休校になり、休業になった会社も多くあったようでしたが、その責任はないのかと思ってしまいました。
備えあれば憂いなしとはいうけれど、やはり報道というものには正確さのクオリティというのは求められて然るべきで、なんでもかんでも最大限の報道をしておけば間違いないだろうというのでは、ただ世の中をむやみに不安に陥らせるだけだと思います。

正確な報道を前提として、万全の対策をとるという順序でなくてはならないとマロニエ君は思うし、今回のようにほとんどウソに近いような報道では、いかに安全第一とはいえ、いかがなものかと思います。
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保守点検

今年は年明けからなにかと慌ただしいことが続いて、ピアノの調整もまったくのゼロというわけではなかったものの、ほぼ放置に近い状況が続いてずっと気がかりでもあり、ずるずると引きずる憂鬱の種でもありました。
そうこうするうちに梅雨になり、あれこれの都合もあってさらに延期が続き、このたびようやく本格的な調整の手を入ることができ、やっと大仕事が済んだというところです

今回は思うところあって、はじめての調律師さんにやっていただきました。
これまでお世話になった方々は、むろん言葉では書ききれないほど素晴らしい方ですが、今回は視点を変える意味もあり、この方にお願いしてみようということになりました。

おそらく九州では皆さんよくご存じの方と思われますが、あまりくどくど書くことで差し障りがあってもいけないので、これ以上は止めておきます。
というのも、この業界はきわめて狭い世界なので、どこでどう話が曲がって伝わらないとも限らないし、本来ならばたかだかマロニエ君のピアノ1台を誰がどうしたなどと吹けば飛ぶような些事なのですが、それでもしお世話になった方に要らぬ不快やご迷惑をかけてはいけないと、それだけは常に心がけているところです。
ただ、言い訳のようですが、自分のピアノはあくまでも自分の自由であるわけで、義理や柵に足を取られてその自由を失うことはしたくないという考えがあります。


さて、事前にタッチに関する事など主な内容を相談したところ、スタインウェイのコンサートチューナーということもあり、まずはホールでやっている保守点検にあたることをやってみては…ということで、このなんでもないような当たり前の提案に大いに納得。
というわけで、初回にふさわしく保守点検メニューをお願いすることになりました。

前日の夕方、下見を兼ねて来宅され、1時間ほどピアノ状態を簡単に確認された上で、翌日の本番となりました。

アクションを外し、鍵盤を外し、鍵盤の高さからなにからを規定値に揃えて、さらに各種の調整作業が丸一日続きました。
朝の10時からスタートして、終わったのは夜の8時半だったので、単純計算でも10時間半!
まるでマラソンのようだといいたいけれど、マラソンだって2時間強なので、その4倍というわけです。

午後に遅い昼食をとるため、40分ほどピアノの前を離れられた以外は、ほとんど休憩なしでの連続作業で、あらためてこの仕事の大変さと、技術者の方の忍耐強さに感服しました。
保守点検はほんらい2日で行う作業ですが、それを1日でやろうというわけで、さぞかし大変だったことでしょう。

神経を使う繊細な作業である一方、アクションの載った大きく重い鍵盤を何度も出したり入れたりの繰り返しなどは、かなりの重労働であることも痛感させられます。

終わった時には本当に「お疲れ様でした」という気分です。

これでも本来の項目のうちの9割ぐらいまでしかできなかったとのことで、残りは次回に持ち越しということになりそうですが、ともかくもタッチや音がきれいに整って一安心でした。
とくに音質はきわめて素直な美しさにあふれていて、弾きながら思わず陶然となってしまいます。

こうなると、自分一人がつまらぬ弾き方をしてだんだん乱れていくのがもったいなくて、きれいなものをできるだけ汚したくないといった守りの気分に陥ってしまうのが我ながらダメだなと思います。

マロニエ君は根が貧乏症なのか、車でも内外をバッチリ洗車してしまうと、その状態をすこしでも長く維持したくなり、しばらくはあまり乗らなくなってしまうこともあったりと、却って思い切って使えなくなるところがあります。
そんなに惜しがらずに、良い状態を大いに楽しまなくてはといつも反省するのですが、美しい状態というのに変な執着があって、これを乗り越えるのがなかなか難しいものです。
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ネルソン・ゲルナー

1969年生まれで、アルゼンチン出身のピアニスト、ネルソン・ゲルナー。
その名前は何度か耳にしていましたが、演奏は一度も聴いたことがありませんでした。

今どきなので、その気になればYouTubeなどであるていどその演奏に触れることはできるとは思うけれど、マロニエ君はYouTubeは見るものであって聴くものではないという自分勝手なイメージがあり、音楽でこれを利用することはこのところはありません。
以前はずいぶんのめり込んでこれで夜更かしを繰り返したものですが、タダで盗み見をするようで、だんだんに音楽に対する姿勢も雑で不真面目になるように感じて、自分が楽しくなくなり、しだいに遠ざかるようになりました。

じゃあCDやDVDやテレビならいいのかとなりますが、自分としてはいいことになっています。どのみち実演ではないわけで、そこに明確な理屈は通らないけれど、マロニエ君としてはここに自分なりの一線を引いているのです。
ちなみに、コンサートでは実演に接することになりますが、たった一度コンサートに行ったからといってそのピアニストのすべてが分かるのかというと、これはこれで怪しいもので、出来不出来もあるし、不明瞭な音響のホール(これが多い)では、かえって伝わらないものが多くて悪印象のまま終わることも少なくありません。

ではCDや映像だけであるていどの評価をしてしまうことにも問題はないのかといえば、もちろんないわけではないけれど、マロニエ君の経験では、実演で大きくその印象に修正を迫られたことはほとんどないし、録音のほうが演奏のディテールまでより細緻に迫ることができるのも事実です。

CDをさんざん聴きこんで実演に接すると、一発勝負の粗さや完成度の低さ、ホールの雑な音響やピアノのコンディションなどよるスポイルを感じることはあっても、本質的にはやはりCDの印象はそのままで、信頼性はかなり高いと考えます。
さらに一度や二度では聞き逃していたものを、繰り返し聴くことで網ですくいとるように丹念に拾っていくことができるのも録音ならではの強みです。

つい前置きが長くなりましたが、今回はネルソン・ゲルナーのCDを購入したという話でした。
イギリスのウィグモアホールのライブシリーズで、曲目は大半がショパン。
幻想ポロネーズ、2つのノクターンop.62、アンダンテスピアナートと華麗なる…、12のエチュードop.10他といったものですが、聴き始めてすぐに「ああ、この人は南米のピアニストだな」と思いました。

南米のピアニストはアルゲリッチ、フレイレ、プラッツなどがそうであるように、音のひとつひとつを楷書のようにはっきり弾くことはせず、必要に応じて音の粒にぼかしを入れたり、そこはかとないニュアンスへと置き換えたりしながら、作品のフォルムや性格を尊重します。
さらには陰影の表現にもこだわり、自然な呼吸感を大事にして弾く人が多く、たとえば二度連続するパッセージなどは必ず陰と陽に分けられ、さらにそれが絶妙の息遣いをもっているなど、このあたりが南米の伝統なのかと思います。

ゲルナーは決してスケールの大きな人ではないようですが、非常に感受性の豊かな人ならではの瞬間が随所にあり、なるほどと納得させられるところの多いピアニストでした。
ここぞというパンチはないけれど、この人なりによく練り込まれた、繊細に表現されたショパンを充分に堪能することができました。

いかにもラテン的だったのは、12のエチュードでも、隣り合う曲によっては、ほとんど間をあけずに次に入るところなどがあったりして、そんなところにもこのピアニストの感性の綾のようなものが垣間見えるようでした。
そのまったく逆が、木偶の坊のようなピアニストが24のプレリュードやシューマンの謝肉祭のような作品を通して弾く際に、常に曲と曲の間に判で押したような同じ「間」を取ることで、却って聴くほうのテンションが下がってしまうことがありますが、このゲルナーはそういうストレスとも無縁の快適なピアニストでもありました。

ただ、どちらかというと日本ではこういう人はあまり評価が得られず、多少ダサくても一本調子でも、生真面目に弾く人のほうが好まれるのかもしれません。
少なくとも日本人は粋なデフォルメや遊び心より、職人的な技巧やお堅い仕上げを喜ぶのかもしれません。

残念だったのは、名高いウィグモアホールのライブシリーズというには音質がいまいちで、その点ではコンサートの臨場感があまり伝わらず、どちらかというと記録録音のような趣でした。
近年は名もないマイナーレーベルのCDにも驚くばかりの高音質のものが珍しくないことを考えると、これはずいぶんと不利だなあという気がしました。
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アヴデーエワのCD

ユリアンナ・アヴデーエワの新譜を買いました。
といっても動機は甚だ不純なもので、天神に出た際、駐車場のサービス券ほしさにCD店を覗いたのですが、近頃は店頭在庫もこれといったものはいよいよ少なく、限られた時間内に、強いて選んだ一枚がこれだったというわけです。

昨年9月にドイツで録音されたもので、内容はショパンの幻想曲、続いてなぜかモーツァルトのソナタニ長調KV284、さらになぜかリストのダンテを読んで、さらにさらにヴェルディ=リスト:アイーダより神前の踊りと終幕の二重唱ときて…これで終わり。
まずこの曲目の意図するところがわからない。
いろいろな意味や考察があって並べられたものかもしれないけれど、マロニエ君には一向にそれが意味不明で、なんの脈絡もない4曲がただ並んでいるだけといった印象しか得られません。実際に何度聴いてみても、なんでショパンの幻想曲の後にモーツァルトのこのソナタがくるのか、さらにそこへリストのダンテソナタやアイーダの編曲が続くのか…流れとか収まり、選曲の意図がまったくわからず、いつまでも首をひねりたくなるものでした。

演奏は、技術的には大変立派なもので、しかもすべてが知的かつある種の暖かさみたいなものさえある仕上がで、並み居るピアニストの平均値から頭一つ抜け出たものだと、まずその点は思います。
では、聴いていてストレートに素晴らしいと感じるかというと、非常に端正だけれど本質的にピアニズム主導で聴かせる技巧人という域を出ることがなく、一流職人の仕事を見せられるようで、有り体に言えばわくわく感がまるでありません。

予め綿密なプランを立てた上での、意図した通りの演奏であるのかもしれないけれど、あまりにその演奏設計が前に出すぎていて、音楽自体に生命感がないし閉塞感みたいなものを覚えてしまいます。

解釈や構成、さらには実際の演奏の進め方まで緻密に練り込まれているため、ピアニズム主導といっても単純な腕自慢をするようなあけすけな技巧ではないところがアヴデーエワの奥義でしょう。あくまで知的フィルターがしっかりとまんべんなくかかっていて、だからえらく思慮深い演奏のようには聴こえるなどして、そういう捉え方をするファンも多いのかもしれません。

もとより演奏の精度はとても高いし、音も豊かで上質感もあるなど、演奏評価を決定づける要素がきれいにそろっているために、さしあたりすごさを感じて欠点らしいものは見当たりません。ところが、それがよけいにこの人の演奏にまとわりつく違和感を増幅させ、それは何かと躍起になって原因を探しまわることになるようです。

充実した余裕あるタッチのせいか、誇張して言うと、どの曲を聞いてもいつも立派なので却って変化に乏しく、さらにいうと一つの曲の中でも起承転結の実感がなく、どこを取っても同じような調子に聞こえてしまいます。むらなく立派すぎることで躍動感を失い、音楽が均一になっているというべきか。

演奏というものはどんなに周到に準備されたものであっても、最後はその瞬間に反応する「発火」の余地を残していなくては、いかに立派なものでも予定調和に終止するだけとなり、聴く側も真の喜びには到達できず、有り体にいうとわくわく感がありません。

その点でアヴデーエワの演奏は、「策士、策に溺れる」のたとえのごとく、「プランナー、プランに溺れ」ているのではないかという気がするほど、前もって音楽を作りすぎており、それがこの人の最大の欠点のように感じるのです。
どんなに高揚感を要するフォルテシモやストレッタにおいても、それはあくまで奏者のコントロール下に置かれ、絶えず抑制感がついてまわるのは、マロニエ君の好みから言うと却って欲求不満に陥り、ストレスを誘発してしまいます。

尤もこれはいうまでもなくマロニエ君の個人的な感想なのであって、ピアノ演奏においても、ひんやりと黙りこんだような最高級工芸品的な仕上がりを望む方には、アヴデーエワの演奏はお好みかもしれません。

マロニエ君なんぞはさしずめ作りたて揚げたてのアツアツ感がないと、音楽を音楽として堪能することができないのだろうと思います。
むろんこれは、音楽はライブに限るというあれとはまったく違うものです。
何十回録り直した録音でもいいから、このアツアツ感だけは必要だと思っているわけです。

それにしても、耳慣れたはずのモーツァルトのソナタKV284が、こんなにも長ったらしい、あくびの出るような曲であったとは初めて知りました。
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ピアノつきトーク?

コンサートに行かないという禁を自ら破ってあるコンサートにいったところ、とんでもない目に遭いました。

言い訳のようですが、コンサートといっても楽器店が開催するイベントの中に組み込まれたものだったので、ちょっとした余興のようなものだろうと軽く考えていたのがそもそもの間違いでした。

このコンサートを聴くことになった理由は、知人とそのイベントそのものを覗いてみようということになり、曜日と時間をすり合わせた結果がたまたまコンサートにぶつかるタイミングになったという、それだけのことでした。
楽器店に問い合わせると、その時間はコンサートを聴かない人は展示会場にも入れないし、いても退出させられるということで、やむを得ずチケットを買うことに。

その日に登場するピアニストは、これまでテレビで数回その演奏を見たことはあったけれど、興味ゼロ、できるだけ早く終わってくれればいいという気持ちでした。
そこそこ有名なピアニストであるし、チケットを購入して聴いたコンサートなのだから名前を出してもいいのでしょうが、あまりにも驚いたし、わざわざ名指しで批判する必要もないのでそこは敢えて書きません。

味わいも説得力もなにもない、感性の欠落した「美しくない演奏」が堂々と目の前で続いているということが、悪い夢でも見ているようで、そこにいる自分というものがなぜか哀れに思えました。
技術以外はシロウトと大差ないというのが率直な印象でしたが、それでもその技術のおかげで、どの曲も音符をさほど間違えることなく最後まで行くところがよけい始末に悪い。
というか、シロウトでも本当に音楽を愛する人の演奏には、どこかしらに聴くに値する瞬間があるものですが、そんなものはかけらもありません。
いっそテクニックがめちゃめちゃだとか、ミスやクラッシュが続出といった演奏ならまだ諦めもつきますが、表面的には「ちゃんと弾いた」ことになり、中には満足した人もいるのかもと思うと、そこがまさに音楽の中でまやかしがまかり通る部分ということになり、頭がクラクラしてきます。

皮肉ではなしに、ああいうものでも素直に楽しめる人というのは、素直に羨ましいとさえ思いました。
どうせ同じ時間を過ごすなら、楽しめるほうが絶対に幸福ですから。

繰り返しますが、このコンサートはイベントのオマケのようなものと考えていたところ、実際はトーク付きの2時間半にも迫ろうという長丁場で、その間、マロニエ君は久々にこの種の忍耐を味わうことに。
音楽は、まさに「音」の芸であるから、ひとたびそれが自分の感性に合わないものになったが最後、猛烈な苦痛となって神経に襲いかかり、ひいては身体までも攻撃するものになることをリアルに実感しました。

自分一人なら、間違いなく途中で席を立って帰っていたところですが、なにぶんにも連れがあったため、その人を道連れにすることも、置き去りにすることもできず、脂汗のにじむ思いで石のようになってひたすら耐えに耐えました。

さらに堪らなかったのは演奏ばかりではなく、このピアニストはよほど人前でのおしゃべりがお得意のようで、ほとんど内容のない超長ったらしいトークが最初から最後までびっしりと織り込まれて、こちらのほうがメインかと錯覚するほどでした。

実際、この方は話している内容はともかく、語り口は今風のソフト調で声も良く、お客さんに向かっていやに低姿勢かつフレンドリーに語りかけるあたりは、ピアノよりよほどなめらかで自在な表現力をお持ちのようでした。ほとんどマスコミ系の人のようで、いっそテレビ局にでもお勤めになったほうがしっくりくる感じです。

この日は、マロニエ君にとっての悪条件が幾重にも重なって、よほど強いストレスで脳が酸欠を起こしたのは確かで、苦しい生あくびが際限もなく続き、節々は傷み、呼吸が苦しくなり、両目は充血し、疲れ涙が目尻に溢れているのが自分でわかりました。

2日も経つと疲れも癒えてきて、モノマネが得意なマロニエ君は、すっかりこの方のトークをマスターしてしまっていて、すでに何人かには聞かせたところ、ずいぶん笑っていただきました。
というわけで、これほど疲労困憊してまでネタを仕込みに行ったというのがオチなのかもしれません。
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オリンピック

ついこの前リオ五輪が始まったかと思ったらもう終わりのようで、いったん始まると毎日スラスラと競技が進んで、ずいぶんあっけないものだなというのが率直なところ。

オリンピックの話題となると、日本人選手の活躍をことさら興奮気味に一喜一憂しなくちゃいけないのがお約束のようで、そういうわざとらしい空気には閉口しますが、とはいっても、マロニエ君とて人並み(かどうかはわかりませんが)に応援の気持ちは持ち併せており、さらに日本がメダルを取れればむろん嬉しいわけです。
だからといって開催期間中つねにワクワクし、夜中までテレビ中継を見るというようなことはありませんが。

ただ、テレビのニュースやワイドショーはというと、冒頭から大半がオリンピック関連で連日独占状態になってしまうのは番組のつくりとしていささか抵抗を覚えてしまいます。そうまでせずとも、オリンピックの番組はNHKも民放も、連日充分すぎるほどあるのだから、せめて通常のニュースなどでは、やはりそれ以外の出来事にももう少し触れて欲しいと思いました。

マロニエ君はもともとスポーツはあまり得意ではないし、率直に言ってさほど興味もないほうなので、ことさらそういうふうに感じるのかもしれませんが、オリンピックの他にも、さらに高校野球、プロ野球と重なると、世の中いささかスポーツにまみれ過ぎでは?という印象。
なぜスポーツばかりにこうも力がはいるのか、正直まったく理解ができないし、その点じゃ息苦しさがあることも事実です。

非スポーツ系人間にいわせれば、スポーツがあまりに大手を振って世の関心の中心であるのは当然といわんばかりに闊歩するのは、あまり気持ちの良いものではなく、いつも黙ってガマンしている種族もいることは、きっとスポーツ好きの人達はご存じないでしょう。

わけてもオリンピックというのは別格中の別格らしく、この言葉の前にはすべてを薙ぎ倒してしまう力があるらしいのは驚くばかりです。

先の都知事選しかりで、「2020年の東京オリンピック・パラリンピック」が枕ことばとなり、あとは高齢化社会と待機児童問題が必須とばかりに語られる程度で、オリンピックがとにかく一番エライことには変わりありません。

予算も天井知らずに膨れ上がり、あんなもの、都民国民が納得するはずはない。
よほど悪い連中がオリンピック特需によだれを垂らしながら我も我もと群がっている結果としか、誰だって思えません。
オリンピックとはようするに世界の総合運動会じゃないかと思うのですが、あの五輪のマークさえつけば、どんな無理も通ってしまうのは怖いです。

現今はテロの標的にさらされる危険があるので、その対策に要する人件費だけでも途方もない金額になるなどとも言いますが、そうだとしても、たかだか半月ちょっと開催されるワールド運動会に開催都市が天文学的予算を組むだなんて、マロニエ君に言わせれば悪乗りが過ぎるというもので、ナンセンス以外のなにものでもない。

ついこの前、開会式を見たのに、すでに小池さんは閉会式で旗を受け取るべく現地入りされたようで、「さあ次は東京!」というところでしょうが、たかだかスポーツイベントのために何兆円も投じるなんて、ある意味なんとヤクザな金の使い方をするのだろうという気がして仕方ありません。
逆にいうと、祭りとはそもそもヤクザなものなのかもしれませんが。
東京オリンピックだって、始まればあっという間に終わってしまうのに…。

それはそうと、終盤になって日本のレスリングやバドミントンなど、ドバドバっと金メダルをとったのはすごかったですね。
総じて、女性はメンタルが強いし、言動もサバッとしていてさすがだと思いました。

対して男子のほうは(全員ではないけれど)いちいち執着的で、それを自分の口から言うか…と思うようなことをあえて言ったりと、なにかとねちっこいですね。

そういう意味では、これからはメンタル面、サバサバ感、実効性などさまざまな観点からも、女性が社会をリードする時代になっていくのかもしれない気がするし、それはそれでいいかもしれないと思います。
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コレクター

マロニエ君の古くからの友人にかなり重度のフルートマニアいます。
仕事の関係で長らく東京在住で、福岡に帰ると必ず連絡をよこしてくれますが、電話でも直に会っても、話はいつも唐突で、むやみに思いつめていて、早い話が「変人」といったほうがわかりやすい人間です。

酒と絵と音楽が大好きで、ピアノが好きで、そして何よりも彼は子供の頃フルートを習っていたこともあって、こちらは手のほどこしようのないディープなマニアです。

学生時代は親から買い与えられた普通のフルートを使っていましたが、成人して社会に出て、収入を得るようになるとしだいに彼の楽器熱はその本性をあらわし、はじめはゆっくりとした足取りではあったけれど、長年あたためていた自分の好みのフルートを少しずつ手に入れるようになりました。

ちなみに、ピアノと同じく、日本はフルート製造においても世界に冠たる地位を占めており、ムラマツ、パール、ヤマハなどの第一級品がひしめき、さらに世界に目を移せば、パウエルやヘインズなどの伝統あるブランド品があり、さらにさらに高じればヴァイオリンよろしくルイロットだハンミッヒだというオールドの領域が存在するようで、これはもう足を踏み入れた者にとっては、とてつもなく深く果てしない世界であるようです。

フルートの世界でもピアノ同様にヤマハはしっかりその一角を占めており、作りのよさ、信頼性、コストパフォーマンス、イージーな鳴り(高性能)などで世界の定評を得ているというのですから、そのぬかりない手腕には呆れるばかりです。

さて、その友人は、新品で買える主要なメーカーのフルートを着々と手に収めていったまでは、彼の熱狂的フルート愛を知るマロニエ君としてはまあ当然の成り行きだろうと思っていました。
当時のパウエルだかヘインズだかは、オーダーから納品まで数年を要したのだそうで、マロニエ君のような気の短い人間にはとても耐えられそうにもないなと、内心思ったものです。

彼と一緒に、東京の楽器フェアに行ったとき、フルートメーカーの展示ブースではかなり高額な黒い木のフルートをあまりにも真剣に試しているので、もしや買ってしまうのではないかとヒヤヒヤした覚えもありました。
(ちなみに、フルートは金管楽器と思いがちですが、ルーツが木の楽器であったためか、現在でも「木管楽器」として分類されています。)

その後、彼の関心の中心はついにヴィンテージへと移っていきました。
歴史に名を残す、ヨーロッパの名工の作品を求めて、それを所有するというブローカーや楽器職人がどこそこにいると聞いては遠方にまで出向いたりしていたようですが、この世界はリスクも非常にあるわけで、贋作はもちろん、長い年月の中で幾人ものオーナーの手を渡り、その過程で不適切な改造が施されたり、別のフルートのパーツと組み合わせられたりなど、さまざまな問題を抱えている場合も少なくないようです。
なにより自分自身の眼力がものをいうようで、マロニエ君なんぞは恐ろしくてとてもじゃありませんが、御免被りたい世界です。

東京にはフルートの専門店もある由で、そこのショーケースには名のあるヴィンテージのフルートがときどき姿を現したりするものだから、彼はいつもこの店に出入りしていて、むろん常連だか得意客のひとりとして認識されているようです。

彼は晩婚ではあったけれど、人生のパートナーともめぐり逢い、子どもも2人生まれて、さすがにもうこれまでのようなコレクション三昧はできないだろうと(本人も)思っていたのですが、そんな通り一遍の常識なんぞ、結局彼には通じませんでした。
真の趣味道趣味人というものは、俗世間の制約ぐらいですごすごと引き下がるようなヤワではないようです。

それから数年後、福岡におられた彼のお母上が大病を患われ、ごく最近他界されたのですが、このときはさしもの彼も見舞いやら葬儀やらで東京福岡を頻繁に行き来することを余儀なくされて、しばらくはフルートもお預けなのだろうと思っていました。
ところが、先日ふたりでゆっくり食事をした折に聞いたところでは、その間にも家族には内緒で、さるドイツの名工の作と謳われるヴィンテージフルートの売り物とめぐり逢い、それを購入するか否か、この間もずっとその品定めにかかわっていたというのですから、その放蕩ぶりにはさすがにひっくり返りました。

お値打ちフルートをどれだけの数もっているのか、マロニエ君さえも正確なことは知りませんが、こういう人間も生み出すほど、楽器というものには魔性があるということかもしれません。
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決め手なし

しばらく前に、クラシック倶楽部で数回にわたってショパンコンクール・入賞者ガラというのをやっていましたので、視聴してみました。

ショパンコンクールの入賞者であることでコンサートをやっているわけだから、彼らががショパンを弾くのは当たり前としても、ふとピアニストにとって、弾くのが最も怖い作曲家は、昔ならモーツァルト、今はショパンではないかと思いました。

どの人を聴いてもしっとりツボにはまらず、深いところから「ショパンが鳴っている」と思えるものがないのは、いまさら彼らだけでもありません。
ショパンは最もメジャーなピアノレパートリーなので、誰も彼もいちおうは弾くけれど、本当にショパンに触れた気にさせてくれる演奏はというと嫌になるくらい少ないのが現実です。

人から「ショパンの☓☓のCDを買いたいんだけど、誰のがオススメ?」というようなことを聞かれることがときどきありますが、そこそこのものは山のようにあれども、パッとオススメできるものほとんどないというのもまたショパンです。

ずいぶん前に、ケンプのショパンについて書いた覚えがありますが、ああいった謙虚さとか無私な心というものがショパンには必要であるのに、時代はますますそれとは逆の方向に向いているような気がします。
だって、なんにつけても自分々々の時代ですから。

ショパン特有の複雑なのに澄みわたる響きの創出、強すぎず弱すぎずの美的均整のとれたアプローチ、適切かつ印象的なルバートとやり過ぎない洗練、都会的な情の処理、常に怠ることを許容しない詩情と理知のバランス、軽妙な話術のような駆け引きなど、ショパンを弾くにはショパン独特の理解と配慮が要求されると思います。

誤解しないでいただきたいのはケンプのショパンが最高だとは思っていないということ。
ただ、おしなべてドイツ物が得意な人はショパンはわりに苦手で、ブレンデルもわずかにショパンを録音していますが、むかし買ったけれど凄まじい違和感があって二度と聞きませんでしたし、シフも映像でちょっと聴いたことがあったけれど、むしろ彼のキャリアの足しにはならない演奏だった記憶があります。
コロリオフもショパンのCDを少し出しているようですが、聴いてみようという意欲は湧きません。

アルゲリッチもショパンとは相性が悪く、娘の撮った映画ではステージ直前、やけにイライラする彼女に向かって秘書のよう男性が「今日はショパンを引くからさ」というような言葉を投げかけます。

少なくとも、オールマイティなピアニストがプログラムの中に他の作曲家と同列に差し込むといった程度では、とてもではないけれどショパンがその演奏に降りてくるということはない…。

昔から「ショパン弾き」という言葉がありますが、それはちょっと誤解され、軽く扱われたきらいもありますが、一面においてはそれぐらい専門性をもって取り扱わなくてはいけないほど難しい作曲家だと思います。

とくに聴いていられないのは、若手から中堅に至るピアニストの中には技巧と暗譜にものをいわせて、表向きは普通に弾けますよ的な、要点のずれたペラペラな演奏を平然とやっているときです。

今の若い世代は日常生活でもルールだけは素直に守りますが、音楽でも同様のようで、譜面上の表面的ルールはよく守るけれど、なぜそうなったのかという根拠とかいきさつには興味がない。ルールを守ってただクリアなだけの処理に終始し、表情やイントネーションまで借り物のようで、そこそこの仕上がりになっているぶん、かえって全部がウソっぽく聞こえます。

ショパン・コンクールの入奏者たちの演奏を聴いていても、ひとつひとつが悪くはないけれど、なんらかの真実に触れるようなものがないのは、きっと時代のせいなのでしょうね。
それでも敢えて選ぶなら、やや薄味で整い過ぎではあるけれどリシャール=アムランでした。
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追悼番組から

賛否両論あったけれど、中村紘子さんは日本のピアノ界ではともかくも大きな存在感を放つ方でした。

カラヤンや小澤征爾がそうであるように、とくに音楽に興味のない人でも、「中村紘子」という名前は大抵の人が知っている。こういう人は、そうざらにはいるものではありません。
中村さんの場合は日本国内限定ではあるけれど、その有名度は圧倒的で、今後はなかなかこういう人は現れそうにもありません。

近年、深刻なご病気をされたということは聞いていたけれど、先月の下旬、亡くなられたというニュースに接したときは、やはり胸がドキン!とするような衝撃がありました。
中村さんは、ピアノの腕前とか演奏そのものという以前に、とにかく華のある方で、なにかというと世間の注目を集めてしまう、生来のスターの要素を持った人だったと思います。

また彼女は戦後の高度経済成長という時代までも味方につけることができた、非常に恵まれていた方だったとも思います。

つい先日のことでしたが、NHKの追悼番組で『中村紘子さんの残したもの』という90分のドキュメンタリーが放送されましたが、お若いころのチャイコフスキーの協奏曲や英雄ポロネーズ、わずか数年前のサントリーホールでのバッハ、NHKのピアノのおけいこでの指導の様子など、いろいろな映像が紹介されました。

中でも最も興味をもって聴いたのは、中村さんが16歳のとき、N響初の海外公演のソリストとして抜擢され、公演先の一つであるロンドンで撮影されたショパンの1番を弾いたときのフィルムでした。
これまでにも、何度か部分的に見たことはあったけれど、今回は第一楽章がノーカットで放送されました。

残念なことに、ピントのずれたようなボケボケのモノクロ映像ですが、振袖姿の高校生だった中村さんは、堂々たるソリストを務めており、その瑞々しい演奏にはいろんな意味で驚かされました。
音楽的にも非常に真っ当で、後年のようなエグさのある特徴はどこにも見当たりません。
というか、ほとんど別人でした。
終始一貫しているし、テンポもよく、オーケストラとも調和しながら演奏が心地よくノッているのが印象的でした。

とくに全体が横の線で流れるように端然と弾き進められていくあたりは、どこかフランス的でもあり、これはもしかしたら安川加寿子さんの影響が当時の日本のピアノ界に色濃くあったのだろうか…等々、いろいろと想像しないではいられないものでした。
個人的に知る限りでは中村紘子さんのこれは最高の演奏ではないかと思います。

もしこのままの方向で成長していたら、あるいはどんなピアニストになったのだろうとも思いますが、ジュリアードに行ったこと、ホロヴィッツの魔性に魂を奪われたことなどが、なんらかの変化をもたらしたのかもしれません。

そういえば、むかしテレビでホロヴィッツの奏法を筑紫哲也氏や映画監督の篠田正浩氏を前に、ピアノを弾きながら解説していたこともありましたから、よほど熱狂的なファンで研究されていたのかもしれません。
彼女がプログラムに選ぶショパンの作品なども、どちらかというとホロヴィッツ好みのものが多かったりするのは、やはりかなりの影響があったのではと推察します。

中村さんのいない自宅が映し出されましたが、弾き手を失ったピアノが咲き乱れる花々の中でじっと喪に服しているようでした。


それにしても、今年の春からこちら、ずいぶんといろんな方が亡くなりましたし、お若い方が多いことも目立ちました。
中村紘子さん以外にも、ぱっと思い出すだけでも、永六輔さん、大橋巨泉さん、蜷川幸雄さん、鳩山邦夫さん、千代の富士さんなど…。
自分自身の周りでも、直接間接いろいろと思いがけないお別れが次々に続いて気味が悪いほどでした。

今年の猛暑は例年になく厳しいものでもあるし、せいぜい身体に気をつけて、まじめに生きていかなくては…などと柄にもないことを思ったりしているこの頃です。
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海峡を渡るバイオリン

友人が探したい本があるというので、数軒のブックオフを周りました。

ブックオフは今どきのコミック本やゲームなどを中心とする古本屋かと思っていたら、必ずしもそうではなく、通常の本屋のように各ジャンルの書籍があって見事に分類されており、その数も大変なもので意外でした。

本屋に行けば、だれでも自分の興味のあるジャンルを見るもので、マロニエ君は音楽・美術関係を中心に見て回り、安いこともあって、新刊なら買わないであろう本を数冊購入することに。

その中の一冊が『海峡を渡るバイオリン』で、これは韓国出身のバイオリン製作家である陳昌鉉氏の口述から起こされた本。これまでに書店では何度か手にしたことはあったものの購入には至らず、この機会に読んでみようというわけです。

バイオリン職人の本なので、てっきり製作や修理に関する内容だと思い込んでいたのですが、話はご自身の幼少期から始まり、いわゆる生い立ちの話が延々と続くので、いったいいつになったら楽器の話になるのだろうと思いましたが、さすがに4~50ページもこの調子だと、どうやらそれがメインの本だということが、そのころになってようやくわかりました。

まずこの点で、目的とはいささか違った内容の本ではあったけれども、これはこれで読んでいて面白いし、文章がとてもきれいな読みやすいものであったこともあり、わずか2日ほどで読み終えてしまいました。

陳昌鉉氏は1929年の生まれ、14歳の時に来日、いらいずっと日本で活躍された方のようですが、前半は当然のように戦争の影が色濃くつきまといます。陳氏が子供の頃の朝鮮半島の厳しい社会環境、日本に来てからの差別や貧しさなど、現代の日本人からは想像もつかないような過酷な苦しみが淡々と綴られているのは、読んでいて胸が苦しくなるようでした。
それでも陳氏は故郷に母や妹を残し、大変な苦労しながら大学を卒業。さらに厳しい肉体労働などをしながら、それからバイオリン製作をまったく白紙から独学でものにしていくのは、ただただ驚く他はありません。

そして、そんな陳氏が後年にはアメリカの弦楽器の製作者コンクールで6部門中5部門で最高賞を受賞するまでになり、ついには「東洋のストラディヴァリ」といわれるようになるのですから、まさに彼の辿った人生そのものが人生大逆転の映画か小説のようなものだと言って差し支えないでしょう。
ウィキペディアをみると、この『海峡を渡るバイオリン』は2004年にフジテレビによってドラマ化されているようで、草彅剛さんが陳昌鉉氏を演じたようで、なるほどと納得。

マロニエ君はこの本の存在は、ずいぶん前から書店で何度も目にして知っていたけれど、陳昌鉉という優秀なバイオリン作家がいて、しかも日本で製作を続けたということなどは実はまったく知りませんでした。
これまでにもバイオリンの本はかなり読んだつもりでしたが、陳昌鉉氏の名が出てくることもなく、すべてをこの本で知るに及び、深い感銘を覚えました。

人一倍、根性ナシで、努力嫌いのマロニエ君からすれば、陳昌鉉氏の生き様は別世界の出来事のようですが、それでも人生を懸命に生きることはなんと価値あることかと思わずにはいられません。

いっぽうで、これは対象がバイオリンであったからの話で、もしピアノなら大きさ、複雑さ、おまけに工業力を要するという点で絶対にあり得ないことです。
もしもピアノが、チェンバロぐらいの構造(つまり一人の作家が一人で製作できる)であれば、いろいろな作家のいろいろなピアノがあったはずで、そうなるとずいぶん楽しいことになっていたような気がします。
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猛暑

今年は梅雨の雨もひどかったけれど、それ以上にこのところの猛暑は凄まじいものがありますね。

ここまでくると、ピアノの管理以前に、人間様が日々無事に過ごせるようエアコンもフル稼働状態です。
湿度もかなり高く、除湿機も回りっぱなし。
ゲリラ豪雨のニュースも聞こえてくる中、北部九州には一向に雨の気配もありません。

猛暑日とは「一日の最高気温が35℃以上の日のこと」だそうですが、むかしはどんなに暑くてもそんな温度になることはあんまりなかったように思いますので、夏は確実にむかしより厳しいものになっていっているようですね。

全国どこでも概ね同じだと思いますが、連日のように35℃レベルの暑さになると、世の中の何もかもがグニャリと萎れてしまうようで、人の動きも鈍ってくるようです。
とくに住宅街では、目に見えて人の往来が少なくなり、すべてを焼きつくすような直射日光とは対照的に、あたりは異様な静けさに包まれます。本当に暑い時には、蝉の声すらしなくなり、蚊さえもあまりいなくなるような気がします。

こうなると、マロニエ君にとってはエアコンはまさに命綱といっても過言ではなく、もしこれが連日の酷使によって故障でもしたらどうなるかと、つい怖くてネガティブなことを考えます。
それでなくてもエアコン依存症のマロニエ君です。
以前から、もしも真夏にエアコンが壊れた時は、一時的にホテルにでも避難するしかないなどと思っていましたが、最近は福岡市も慢性的なホテル不足で、とてもでないけれど急な予約は難しいらしいという話を耳にするなど、それを考えるとゾッとしてしまいます。

暑さの影響はあちこちに波及し、例えばマロニエ君のような車好きになると、車の体調管理にも憂いが出てきます。
こんな暑さの中で、街中の渋滞などを這いずり回らすようなことをしていたら機械を傷めるように思ってしまい、日中はできるだけ車も動かさないようにしています。

これほどの炎暑ともなると、気象庁から発表される気温どころではないのがアスファルトの路上の温度であるし、さらにエンジンという自らも猛烈な熱源を抱える車にとって、こんな灼熱地獄で酷使されることは、機械にとってもかなりのストレスであり、消耗であるのは想像に難くありません。
日が落ちればいくらかマシになるので、夜間は乗っているものの、日中はさすがに躊躇してしまいます。

家の中に話を戻すと、常時エアコンを使っていれば、それはそれで冷風にさらされることになるし、一歩部屋から廊下に出たときの強烈な温度差がこれまた予想以上に全身が圧迫されるようで、こんな温度差の中を行ったり来たりしていては、身体にも良いはずはないだろうと思います。
とはいっても、まさか廊下までエアコンで冷やすわけにもいかないので、とりあえず気を張って毎日過ごしています。

ピアノも調律を頼まなくてはと思いつつ、こう暑くては、なにもこんな猛暑の中にそんなことをしてもというような、直接の根拠にならないようなことが理由になって、あれもこれも先送りにしてしまって、これではいかんと思いますが、なかなか…。

というわけで、いまさら暑中見舞いでもありませんが、皆さまもどうか無事にこの厳しい夏を乗り切ってくださいますように。
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小菅優

クラシック倶楽部から、樫本大進、小菅優、クラウディオ・ボルケスの3人によるトリオコンサートで、ベートーヴェンのピアノトリオ第1番op.1-1全曲とゴーストの第2楽章が放映されました。

ピアノトリオは演奏時間の長いものが多く、たったこれだけで55分の番組は一杯になるようです。

小菅優については、これまで折々に注目はしてきたけれど、今どきにしては元気のいいピアニストとは思いつつも、なんだかもう一つ決め手がない感じで、それ以上に興味が進みませんでした。
CDも少しだけ持っていますが、ずいぶん若い頃のリストの超絶技巧練習曲などいくつかあるものの、これといった強い印象はありませんでした。キレの良い演奏をする人ではあるようですが、残念なことにくぐもったような音がいつも気になってしまいます。

マロニエ君は音の美しさというか、音そのものに演奏上の必然的な声を帯びた凝縮された音を出してくれないと、どうも惹きつけられないところがあるようで、その点彼女は活気ある演奏をするわりには、この点がどうも冴えないという印象でした。

ところが、今回の演奏はそれさえも気にならないほどの素晴らしいものでした。
まず、とてもよくさらわれてすべてに見通しがきいて、熱いエネルギーと細心の注意深さが両立しながら隅々にまで行き届いて、聴く者の耳を捉えて離さず、音楽は一瞬たりとも弛緩するところがない。

冒頭の変ホ長調のアルペジョからして、弾むようで繊細、以降も小菅さんのピアノはヴァイオリンとチェロの間を、器用に、そして柔軟に飛び回り、それでいて決してピアノだけが表に出るということなく見事なアンサンブルに徹していたと思います。
それでも、ピアノはひときわ強く輝いていており、この日はまさにピアノが主役だったと思いました。

小菅さんの個性というか魅力のひとつは、最近のクラシックの演奏家としては珍しいほどリズム感に優れ、拍を疎かにしない点だろうと思います。
まず作品の求めるテンポや適切なアーティキュレーションを見極め、そのための不便不都合はすべて自分の側で背負って変な辻褄合わせをしないという、演奏家としての良心があり、これは最近では珍しいことだと思います。

おそらくそのあたりはご当人もかなりこだわっているというか、彼女の演奏を成立させる要素として譲れないところがあるのだろうと推察されますが、小菅優のピアノには常に良い意味での緊張感があり、いきいきしたメリハリがみなぎっていると思います。
指もまことに小気味良く動き、そこにリズム感の良さもあいまって、このベートーヴェンのop.1-1という文字通り若書きの作品が、目の前にみずみずしい姿を顕してくるようで、ときにロマンティック、ときにモーツァルトのようで、退屈する暇もないないまま一気に進んでいきました。

小菅さんの素晴らしさにすっかり感心して、気がついたら樫本大進とボルケスのヴァイオリンとチェロはあまり注意して聴いていなかったけれど、お二人とも輝くピアノをしっかり支えるような安定感のある演奏だったと思います。

どうしても小菅さんの話に戻ってしまいますが、彼女の演奏はどれを聴いても溌剌として熱気があり、それでいて日本的な繊細さも併せ持つ人であるという点で、無機質で正確なだけの日本人ピアニストが多い中、あれだけ音楽に集中できるのは貴重な存在だといえるでしょう。

少し感じたことは、手首を細かく上下させることで鋭利なリズムを刻んでいるようで、これが彼女特有の深みのない乾いた音の原因ではないかとは思いました。
よりしなやかな指先の圧力によってタッチ・発音するようになれば、今の何倍も輝くような音になると思うのですが、まあマロニエ君は専門家ではないのであまりそういうことには言及しないほうがいいかもしれません。

この人には、さらにいろいろな経験を積んで、さらに成長して欲しいと期待をかけています。
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デリカシーの妙

『オリジナル・プレイエル2台で弾くショパンのピアノ協奏曲』というCDを買ったのはいつの事だったか…よく思い出せません。
マロニエ君にとっては、プレイエルという特別な名前に心惹かれたこと、さらにはこういうCDは目の前にある時に買っておかなくては、そのうち…なんて思っていたら二度と自分の手に触れることができなくなるということを苦い経験で知っていたので、とりあえず買うだけ買ったものの、プレイエルといってもフォルテピアノなのですぐには聴かずにほったらかしにしていました。

存在さえ忘れていたところ、つい先日、山積みになったCDの下の方からひょっこりこれが出てきたので聴いてみたら、すっかりこれにハマってしまいました。

ここで白状してしまうと、マロニエ君はフォルテピアノというのがあまり好きではありません。
クラシック倶楽部のような番組で放送されるぶんには聴くこともあるし、わけてもアンドレアス・シュタイアーのような名手の演奏は素晴らしいと思います。でも、じゃあCDを買うかといえば、ゼロではないがなかなか…というところです。

歴史的な意味や、ピアノの祖先としての価値はわかっていても、積極的に聴きたいというほどの欲求にはならないし、古楽器奏者たちの醸しだす、自分達こそ正しいことをやっているんだというようなあの宗教家みたいな雰囲気も苦手です。

プレイエルについては、モダンピアノの時代になってからのものは大好きで、コルトーのCDなどはむろん彼の演奏を聴くためではあるけれど、それはプレイエルの芳しい音色ともセットになっています。
このせいで、好きでもない日本人ピアニストのショパン全集を出る度に都合12枚も買ってしまったのも、ひとえにプレイエルの音を楽しみたかったからにほかなりません。
いっぽう、時代物のフォルテピアノはというと、古ぼけた骨董の音を聴いているようで、どうも自分の求めるものではないという印象から抜け出すことが難しい。ポーランドのショパン協会が関わるCDにも、ショパン存命の時代のエラールを使ったものがいくつもリリースされているけれど、フォルテピアノでおまけにエラールというのでは購入する気になれません。

さて、それで購入から数ヶ月を経て初めて聴いてみたこのプレイエル2台によるCD。
2台のピアノのうち、1台は1843年(ということはショパンが亡くなる6年前に製造された)の平型で、これがピアノのソロパートを弾いているのに対し、オーケストラパートは1838年製のピアニーノ(アップライト)が使われているというのも大変珍しいものです。

演奏はスー・パクとマチュー・デュピュイという二人のピアニスト。

第一印象はやけにパワーのない、地味で精気のない演奏という感じではあったものの、まずは耳慣れたモダンピアノとの違いからくる違和感を乗り越えなくてはと思い、まあ待てと聴き続けていると、予想より早くこれらの楽器の音や演奏に耳と気分が馴染んでいきました。

感心したのは、さすがはプレイエルというべきか、モダンのプレイエルの音に通じる独特な声があって、構造も何も違うにもかかわらず、両者には共通する個性がはっきり聴き取れることに驚かされました。
マロニエ君はモダンのプレイエルにこの19世紀の音を重ねているけれど、本来はむろん逆で、この音をモダンピアノになっても継承されているというのが順序です。

柔らかさ、明るさ、伸びのよさ、それに軽やかでありながら常に憂いの陰が射しているところも、まぎれもなくプレイエルのそれでした。
オーケストラパートを受け持つピアニーノというアップライトは、これがまた味わいのある音で、さらに柔らかく、ほわんと宙に浮くように響くあたりは、とうてい現代のピアノから聴こえてくる音色ではないのは驚くばかりでした。

こうして、ショパンの生きた時代のプレイエルの音を聴いていると、ありきたりな言い様ですが、まさにショパンがお弟子さんと二人で自分のコンチェルトを演奏している様子というのは、おそらくこんなものだったのではないかと空想しないではいられませんでした。
しかも、誰のためということでなしに、ただ自分のために弾いているような、あくまでも私的でプライヴェートな響きというか、もっと直截にいえば孤独感に満ちていて、ショパンの生の息遣いに触れられたような気になりました。

演奏は趣味もよく、終始センシティヴ、決して楽器の限界を超えるような弾き方ではない点も見事。

とりわけこの時代のピアノのもつ「軽さ」は魅力で、現代のピアノは素晴らしい反面、あまりにリッチな高級車のようで、作品に対してそのリッチさがそぐわない面があるのも認めないわけにはいかないようです。

こういう演奏を聞いていると、フォルテピアノをもうすこし聴いてみようかという気になりました。
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体格からくるもの

何事においても身体的条件というのはあるわけで、コンサートピアニストにもそれは該当すると思います。

先日のギャリック・オールソン、そのあとに聴いたロジェ・ムラロのラヴェル、いずれも大きなピアノが少し小さく見えるような大男でしたが、彼らの演奏から出てくる音のある部分には共通したものがあります。
それは大雑把に云うと体格による力が強すぎて、ピアノの音の最も美しい部分をはみ出してしまうというもの。

さらに言うと、やはりあまりに大柄な人は、やはりどこか繊細さに対する感性が違うのか、大きな背中を丸めて小さな刺繍のようなことをやっているみたいだったりで、どうもピントが合わず、聴いていてつまらないというか、おさまるところにおさまっていないものに接しているような違和感がつきまといます。

逆に、小兵ピアニストにも特徴があります。

あくまでマロニエ君の好みとしてですが、極端に小柄なピアニストも、見ていて心底いいなぁとおもえるような人はあまりいないし、いるかもしれませんが、少なくともパッと思いつくような名前はありません。

それは楽器に対するバランスの問題につきるのだと思います。あまりに小柄だとハンディを補強しようとしてきつい音になり、弾き方や音楽もやけに攻撃的になったり…。
そうそう、書きながら唯一思い出した、小柄でも認めざるをえないピアニストとしてはラローチャがいましたが、その彼女でも音の問題は例外とはならず、やはり鋭角的で多少叩きつけるようなところがありました。

彼女のお得意のスペイン物においては、作品が情熱的で奔放なのでそれがマッチして説得力を帯びることも少なくなかったけれど、ベートーヴェンやモーツァルト、ショパンなどになると、やっぱり彼女の音質やタッチが気になったものです。
とくにコンチェルトになると一層力むためか、叩き出すフォルテが連続し、ずいぶん昔の来日公演では皇帝を演奏中に弦を切るというハプニングもあったほど、手首から先を硬直したように固め、落下速度にものをいわせて叩くので、弦にかかるストレスも大きいのかもしれません。

また小柄な人は、いわば小さなメカニズムで音を出すためか、表現の自由度が狭まり、楽器を朗々と鳴らすことが難しいように思われます。全体への目配りが疎かになると、音楽もどうしてもせかせかした小さなものになります。

もちろん個人差や例外はあることはいうまでもありませんが。
それを承知で、マロニエ君の好みをあえて大別していうなら、身長170~180cm台前半ぐらいの、どちらかというと標準から少し痩せ型の体格をもった男性ピアニストの音を好んでいるような気がします。
女性でも音の美しい方はおられますが、身長はせめて160cm以上ないと、みずみずしい美音はなかなか出せないような気がするのですが、こんなことを書くと叱られそうな気もします。
あくまで一般的平均的な話として捉えていただけると幸いです。

ただ、いずれにしても小柄な女性(男性)がちょこんとコンサートグランドの前に座って、悲壮感を漂わせながら腕や頭をふりながら熱演するのは、聴いているほうまで苦しみを背負わされるような気になるので、できればあまり聴きたくありません。
これと同じように、ピアノが小さく見える大男による、フォルテのたびにピアノの大屋根がゆらゆら揺れるような演奏も好きではないのです。

これ、楽器のほうのピアノにもいいサイズというのがあるのと同じです。
コンサートグランドも280cm越えてしまうと、持て余し気味のゆるい楽器になるし、小さなグランドピアノは、小型犬のようにワンワンと吠えまくってうるさいのと似ている気がします。

もちろん、中にはスタインウェイのS型のように、そんな常識をまったく寄せ付けない例外もあるにはありますが…。
例外といえば、ラフマニノフは偉大なる例外のひとりなのかもしれませんね。
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背後のオーラ

つい先日、知人と食事に行った時のこと。

自然の素材を使ったヘルシーな食べ放題という店に行き、テーブルに案内されて一息つき、それから料理を適当に取って席に戻ってきた時のこと、知人がなにか言いたげですがこの時点ではまだ何も言いません。

なんだろうと思って尋ねると「後で…」みたいな表情をするので、深追いはせずそのままとりあえず食べてはじめました。
数分ほどした時、知人はチャンスと思ったらしく「今いないけど、うしろの女の人、すごいね」というので、なんだろうと思って恐る恐る振り返ると、そこに女性の姿はなく、どうやら料理を取りに行っている様子。

テーブルの上は皿(ここは大皿はあまりなく、小型の皿に料理ごとに取るスタイル)やカップ類があふれており、長椅子の隅にはハンドバッグが置かれていて、また戻ってくる状態のようです。

ほどなく、女性があれこれの料理を手に戻ってきましたが、マロニエ君はちょうど背中方向なので、いちいちの状況まではわかりません。ただ、こちらも席をたつ時などにそれとなく見ると、30代後半ぐらいの痩せ型の女性が、もくもくと一人で食べており、そこだけちょっと違う空気が漂っていることはすぐにわかりました。

その後も、知人はときどき小さな声で「また行ったよ」などと、その女性の様子が気になって仕方ないようです。たしかにその食べている量はちょっと普通では考えられないものだし、びっくりしたのは、デザートを食べたかと思うとまた普通の料理に戻ったりと、いわゆる世に言う「大食い」の人だろうと思われました。

ただそれだけなら、まあ世の中にはそんな人もいるのだろうという程度で笑って終わりなのですが、その女性から出ている負のオーラみたいなものが尋常ではなく、それがとても気になりました。
むろんひとりなので笑顔にならないぐらいはわかるとしても、その目つきは周囲で目立つほど暗くて厳しく、食事をしているというより、なんだか差し迫った深刻な行為に挑んでいるかのようでした。

その後も何度も立って行ったり戻ってきたりの繰り返しでしたが、しだいに他のテーブルとのちがいに気づきます。
それは、この店には何人もの女性スタッフがいて、そばを通るたびに空になった皿を「お下げしてよろしいでしょうか?」といいながらササッと引き取っていって、テーブルには食べているもの以外の皿類があまりたまらないようにしてくれるのですが、なぜか後ろの女性のテーブルには食べ終わった皿やカップがあふれていて、店のスタッフがあえてそのテーブルには近づかないようにしているらしいことがわかりました。

想像ですが、おそらくこの女性は店側からマークされている人物で、だから片付けに関しても他のテーブルとは対処が違うのだろうと思いました。
こうなるともう、そういうことの好きなマロニエ君としては気になって仕方がありません。

テーブルの上の食器はたまる一方で、皿を何枚も重ね、その上にカップ類を上積みするなど、かなり荒れた状態です。

その後しばらくすると、知人が「…戻ってこないよ」といい、みるとその女性はいませんが、バッグはしっかりあるので帰ったわけではないようです。しかし、なるほど今度は不自然なほど長時間戻ってこなくなりました。
「おかしいよね」などといいながら、こちらもデザートなどを取りに行きますが、その女性の姿はもうどこにもなく、まるで消えたかのようでした。

テーブルに戻ると知人が「あれみて」というので通路側をみると、柱に張り紙がしてあり、「お客様へ お手洗いに行かれる際にはスタッフにお声をおかけください」と書かれた紙がラミネート処理されて貼り付けてありました。
どういう意味かわかりませんでしたし、今もわかりませんが、もしかしたらその女性はトイレに行ったのではという気がしてきました。しかし、ついに我々が店を出るまでの最後の20分ぐらい、その女性が不在のままこちらのほうが店を出ることに。
なので、残念ながらその後どうなったのかはわからずじまいで中途半端な気分。

マロニエ君も知人も考えたことは同じで、トイレで…胃をカラにしてまた食べるのではないかと思いましたが、おそらくあの調子では、なんにしても相当に普通ではない行動をとっていると思われました。

テレビでは大食いタレントみたいなのが出てきて、ワイワイやりながら面白おかしく食べていますが、現実に目にする名も無き大食いさんは、近くにいるだけで怖いようなオーラに包まれていました。
もしかするとある種の病気なのかもしれず、だとしたらお気の毒でもありますが、少なくともお店からは嫌がられることは間違いありません。

やっぱり世の中にはいろんな人がいるんだなあと当たり前のことを痛感しました。
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