ジェレミー・デンク

店頭での商品のディスプレイというものは、やっぱり大事なんだなあと思います。

マロニエ君行きつけのCD店では、クラシックはオペラなど特定のジャンルを除いて、基本的に作曲家ごとにアルファベット順に棚が整理されています。
大半のCDは背表紙をこちらに向けて並んでいますが、その上部には2段ほどジャケットを見せるスタイルで話題盤などが目につくようにおかれています。

バッハのコーナーを見ていると、その上段にJeremy.Denkという見知らぬピアニストによるゴルトベルクの輸入盤がまとまった枚数置かれていました。
ニューヨークで録音されたもののようで、モノクロでデザインされた紙の簡素なジャケットは、本人の写真と控え目な文字だけで、どことなくジャズのジャケットのようでもあり、どんな演奏だろうというささやかな興味を覚えましたが、とくべつ印象的というわけでもありませんでした。

インスピレーション的には、本当ならたぶん買わない筈のCDですが、前回来たときに300円の割引カードというのをもらっていて、それが使えるのは3000円以上からなのですが、この日買いたかったCDだけではあと1000円ちょっと足りません。
そこへ、この未知のゴルトベルクが目に入ったわけで価格は1590円、なんだかちょうどいい塩梅に思えました。でも失敗したら元も子もないし、いくら割引適用といったって、要らないものを買うほうが無駄なわけで、どうするか猛烈に迷いました。しかしこのとき時間もなく、最後まで躊躇するところも含みながら、破れかぶれで買ってみることにしました。

吉と出るか凶と出るかといったところで、いささか緊張気味に聴いてみましたが、まあ大失敗ではないものの、(マロニエ君にとっては)とくに成功とも言いかねるものでした。
ああ、やっぱり自分の直感には素直に従うべきだと後悔しつつ、割引券&ディスプレイの方法という、お店の計略にまんまと乗せられてしまったお馬鹿な客というわけです。

演奏は、初めはこれといった強い個性や魅力を見出すこともないものでした。なにしろゴルトベルクといえば、グールドの数種を筆頭にコロリオフ、シフ、アンタイ等々挙げだしたらキリがないほど第一級の演奏がゾロゾロ揃っている中、この人の演奏は決して悪くはないけれども、耳慣れた演奏に比べるとどこか緊張感が薄く、それが自由といえば自由なのかもしれません。
考えてみるとゴルトベルクのCDは名演揃いでありながら、だれもがある種の緊迫を背負って弾いているものばかりで、それを考えるとデンクのように気負わずに自然に弾いているところは新鮮でもあり、何度か聴いているうちにその力まぬ演奏の目指すところが少し了解できたようでした。

「ほぅ」と思ったのは、ピアノはニューヨーク・スタインウェイを使っているにもかかわらず、ニューヨーク特有の音のゆらめきが前に出過ぎず、良い意味でのアバウトな響きでもない、珍しいほど粒の揃った行儀の良いピアノでした。またニューヨークではしばしば曖昧になりがちな音の輪郭もかなり出ています。
よほど入念な調整がされたのか、生まれながらにそういう個性をもったピアノなのかはわかりませんが、はじめはハンブルクかと思ったほどでした。

ネットで調べてみると、ジェレミー・デンクは、1970年ノースカロライナ生まれのアメリカのピアニストでバッハから現代音楽にいたる幅広いレパートリーで文筆活動も盛んとありました。
「今日の最も魅力的で説得力のあるアーティストの一人」だそうで、現在のレーベルへのデビューアルバムは、なんと、リゲティのエチュード第1~13番とベートーヴェンのOp.111のソナタをカップリングしたものだそうで、その挑戦的な曲目はいかにも今風だなぁと感じます。
このゴルトベルクも3回を過ぎたあたりから、この人の自然かつ繊細な演奏に気分的に慣れてきたこともあって、なんとなくそちらも聴いてみたくなりました。

それでまたデンクのCDを買ったら、ますます店の思惑通りということになりそうですが…。
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メールの違和感

メールに関連して思い出したことがあります。

べつに大したことではないのです。
大したことではないけれども、人にはどうにも違和感を覚える事というのがありますね。

それは自分が出したメールに返信をもらった場合のこと。
送信されてきた文章の下に、前回自分が書いた文章がそのままべったりくっついていることが意外に少なくないのは多くの方が経験されていることだと思います。

これはメールソフトのデフォルト設定がそうなっていることが多いためで、ただ単に返信ボタンを押すと、自動的に親メールが返信メールの末尾にコピーペーストされるというものです。
ソフトがそもそもそういう作りになっているのだから、別にどうということもないことだと云えばそうなのでしょうが、マロニエ君はこれがどうも気になって仕方がないのです。

自分が人に送った文章を、相手側からの返信の画面上でもう一度目にするのは、半ば送り返されたようでもあるし、そこに自分の文章を見るのは、なんとなく恥ずかしいような気もするし、早い話が見たくないわけです。

これが自分の意志で送信済みメールを確認する場合はその限りではありませんが、相手から送られてきたメールのお尻に、機械的に自分の文章がくっついているという状況というのが、どうしても自分なりの自然の感覚に反してしまうようです。

人によっては、気にし過ぎと思われることでしょう。マロニエ君も割り切って受け流すようにはしていますが、これが性格なのか、そこに毎度違和感を感じてしまうのはどうしようもありません。

これはあくまでも個人間のプライベートなメールに限っての話であって、ビジネス上の特定の問答であるとか、通販の確認メールなどはもちろんその限りではありません。

郵便での手紙に例えるなら、送られてきた封筒の中に、以前出した自分の手紙がコピーされて同封されているとします。その目的が、いくら「アナタが以前出された手紙に対する返事が、今回送った手紙なので、そのコピーも同封します」という意味であっても、やっぱり奇異な感じというか、これを喜ぶ人はいないと思います。

というわけで、マロニエ君は返信を書くときに、まずはじめにすることは、返信ボタンを押して文章を書く前に、そこにコピーされた相手の文章を全部消すこと。
これが最優先の習慣になりました。
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メールと電話

現代人にとって、もはやメールはなくてはならない通信ツールであることはいうまでもありません。

内容をしたため送信ボタンを押せば、時間/距離を問わず、瞬時に世界中どこへでも届くという驚異的な便利さは、昔だったらおよそ考えられなかったものです。

ただ、問題なのは、この便利さが自分の感覚領域にまで染みついて、思わぬ影響が出てくるときだと思います。
伝達手段としてメールが適当な場合にこのツールを使うのは当然としても、電話でもいいような、あるいは「電話のほうがいい」ような場合まで、メールが中心となり、ついそちらへ流れてしまうのはいささか危険なことだと思うのです。

最近の傾向として、電話をすることは、できれば一歩踏みとどまるべきというふうな暗黙の風潮があるように感じます。普通に電話をすることが、あたかも無遠慮で無神経な、ちょっと厚かましいことのように捉えられているふしがなくもないのは、ちょっと賛同しかねるところがあるのです。

必要以上に、迷惑ではないかとか、悪いタイミングにかけてしまって自分が疎まれたくないというような、いろんな心配や自己防衛が先行し、その結果メールが伝達手段の主流になってしまっているのは自分を含めて好ましい習慣とは思えません。
さらには、電話だとよけいな挨拶とかおしゃべりをするのが面倒臭いという、以前では考えられないような後ろ向きな気分が背後にないとは云えないでしょう。

つまりメールは、あたかも相手への配慮や気遣いのような前提をもってはいますが、全部が全部そうとも言い切れず、ある種の卑屈さ、エゴ、保身のいずれかがその都度、都合のいい指令を出して、要するにメールを選択しているというのが実情ではないかと思います。

しかし、人間関係は音楽や食にも通じる、いわば「生もの」であり、その魅力に委ねられているものだと思います。
メールなどなかった時代は、必然的にナマの関わりしかなく、それ以外の選択肢はありませんでした。だから世の中全体が、今にくらべて遥かに人付き合いがいきいきして、おおらかで、今とは比較にならないほど上手だったと思います。

そういうわけでマロニエ君は、メールのほうがいいと確信の持てる場合を除いては、できるだけ電話を優先するよう心がけているつもりです。そうはいっても、自分の都合でメールになってしまうことも無いと云えばウソになりますが、それでも、できるだけ電話で直接話をするに越したことはないと思っているのは確かです。

その理由はいろいろありますが、そのひとつ云うと、他の方のことは知りませんが、少なくともマロニエ君はどんなにタイミングの悪いときにかかってくる電話でも、それが迷惑とか不愉快に感じるということはまったくないし、嬉しいと感じるからです。

むろん折悪しく出られない状況というのはありますが、そのときはかけ直しをすればいいだけのことで、基本的に人間関係というものは会話を基本とする生きた関わりによって常に関係を維持し、それを更新していくものだという考えがあります。メールにその力がゼロだとはいいません。でも、直接の会話にくらべると遥かに非力でしょう。

もちろん、事柄によっては文字伝達の必要がある場合はありますが、それはあくまでも直接会話を補佐するかたちで用いたいもので、メールがレギュラー、電話が特別という順序立てはいかがなものかと思うのです。
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カツァリス

浜松のアクトシティで3月7日に行われたばかりのシプリアン・カツァリスのピアノリサイタルの様子がクラシック倶楽部で放送されました。

カツァリスはマロニエ君が昔から苦手とするピアニストで、その名声がどこからくるものなのか、彼の真価はなんなのか、何度聴いてもわかりません。
若い頃からテクニシャンで鳴らした人のようですが、マロニエ君にはこの人が本当の意味でそうだとは思えませんし、音楽的にも好感をもって聴けるところがほとんどありません。好感でなくても、この人なりの音楽に対する心はこうなんだろうというものが見えてこないわけです。

以前、カーネギーホールで行われたショパンの生誕200年かなにかのリサイタルなどは、まるで記念碑的な名演のように書かれた文章も目にしたことがあり、だったらもう一度、虚心に聴いてみようとライブCDを買ったこともありました。
しかし、聞こえてくる演奏は、まるで身体が受けつけないものを無理に食べさせられるようで、最後まで聴くこともないままディスクを取り出し、その後はこのCDを見かけることもないので、よほどどこかへ放擲してしまったらしく、自分でも確たる記憶がありません。

そんなカツァリスなので、かえって恐いもの見たさで再生ボタンを押してしまいました。
あらたなアイデアなのか、近年はコンサートのはじめに「即興演奏」をするということで、日本の「さくらさくら」を皮切りに、オリンピック等で使われた世界の有名なクラシックの旋律をメドレーで流すという、まるで観光地の土産品みたいなものが弾かれました。
こういうものが「即興演奏」というのもちょっと不思議でした。

続いてシューベルトの3つのピアノ曲から第2番、そのあとはカツァリス編曲によるリストのピアノ協奏曲第2番というもので、リストが一番良かったようにも感じつつ、やっぱり今回も最後まで自分がもちませんでした。

クラシックの作品を対象にしてはいるものの、印象としてはクラシックのピアニストというより、ピアノ芸というイメージです。音数の多い作品をサラサラとさも手慣れた感じに弾き進みますが、その手慣れた感じを見せることがステージの目的のようにも感じてしまいます。

タッチは全般に非常に浅めで、すべての曲はせいぜいフォルテからピアノぐらいの狭いレンジで処理されてしまうようで、まるで自動演奏のような平坦さを感じてしまいます。少なくとも真剣に耳を澄ます音楽ではないと(マロニエ君は)思いますし、とりわけこの特徴的な浅いタッチは、超絶技巧とやらを売りにする裏で、手に疲労をため込まないための秘策なんでしょうか。
どの曲を弾いても同じ調子の、意味のないおしゃべりみたいな音楽であるためか、シューベルトなどは品位のない、ひどく俗っぽい感じを受けてしまいました。

ただ、ピアノファンとして面白いのは、この人はスタインウェイがあまり好きではないようで、日本ではヤマハを弾くし、以前も書いた記憶がありますが、ショパンのピアノ協奏曲第2番をスタインウェイ、ベーゼンドルファー、ヤマハ、シュタイングレーバーという4種類のピアノを使って録音し、そのCDも発売されています。
これほど面白いことをやってくれるピアニストはまずいないので、その試みは大いに歓迎なのですが、肝心の演奏が表面的で俗っぽいため、そちらが気になってピアノを楽しむことはついにできません。

今回のコンサートでは、場所も浜松であるためか、当然のようにヤマハCFXが使われていました。
上記のようにカツァリスは決して多様なタッチは用いず、常に一定の軽い弾き方に徹しているので、ある意味でCFXの美しい部分だけが出せたコンサートだったと言えるのかもしれません。
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消費税と婚約指輪

消費増税がいよいよ目前に迫りました。

誰しも税金が上がるのは好みませんし、この増税はもともと民主党政権時代に野田さんが熱心に押し進めて決ったことで、安部さんの本心は甚だ不本意であるらしいという説もあります。
この時期の消費税アップは、目下の急務である景気回復基調に水を差すものという見方も強く、専門家の間でも賛否がうごめいていますが、そうはいっても事ここに至って、いまさらじたばたしてもはじまりません。

テレビでは連日のようにそれに関連したニュースをやっているようですが、各局は申し合わせたように、増税前の駆け込み需要、買いだめ、まとめ買いなどに焦点を当てて、いつものようにそういう気分のない人までわいわい煽っているように感じます。
デパートの食料品売り場はじまって以来の「箱買い」なるものまで登場して、箱単位で保存のきく商品が売れているのだそうです。

さて、そんな中で驚くべき話を聞きました。
マロニエ君が直接見たわけではありませんが、家人がたまたま目にしたニュースによれば、デパートなどでは高額商品も増税前に購入という動きがある由で、その中には、今とばかりに婚約指輪を買いにくる若い男性がかなり多いというのが注目されたようでした。

ただこれ、信じられないことに、現在婚約者がいるわけでもない男性が、まだ見ぬ相手との婚約に備えての購入だというのですから、そのセンスにはさすがにでんぐり返りました。

たしかに結婚を視野において、準備しておくものというはあろうかと思います。
経済力さえあれば、将来を見越して土地やマンションを買っておくというのならわかりますし、不動産物件ともなれば金額のケタも違うので、これはまだ理解できます。

でも、婚約指輪の買い置きなんて聞いたこともなく、そもそもマロニエ君世代にはそんな発想すらできません。もし仮にそんなことをしようものなら、語りぐさになるほどの笑い者になるのは必至で、いわば男の沽券にかかわることだと思います。

マロニエ君は今どきの婚約指輪の相場がどれほどかは知りませんでしたから、ネットで「婚約指輪の相場」で検索してみました。すると、だいたい20〜30万、中には30〜40万というのがあって、少数派を除けば、大半が50万円以内のようでした。
仮にその最高の50万円としても、4月以降のアップはたかだか15,000円であって、いま婚約指輪を駆け込み購入するメンズは、つまりその15,000円惜しさに買っているということになります。

これは本当にびっくりでした。そんな事をするぐらいなら、いっそ株でも買って儲けてやろうというほうがまだしも豪快というものです。

そういう次元の金額にねちねちこだわる金銭感覚や価値観を持った男性は、いくら時代が変わったとはいっても、やっぱりモテない奴だと思います。
仮にいつの日かそれを受け取る女性にしてみても、「増税前に買い置きしていた婚約指輪」をもらって、果たしてそれで嬉しいだろうか…と思います。

それっぽっちの金銭に執着する代償に、男としての値打ちをめちゃめちゃ下げていることに、どうして気がつかないのかと不思議でなりません。しかも、自分で見立てられないものだから店員に相談する、あるいは職場の女性などに付き合ってもらって選んでいるというのですから、聞いているほうが悲しくなります。そんな買い物に付き合っている女性も、内心ではかなりその男性を馬鹿にしているんじゃないかと思いますが、女性って「この人は自分の彼じゃない」という明確な前提の上で、そういう親切あそびは案外楽しいのかもしれませんね。

婚約指輪というものは、あくまで気持ちの問題であって、双方が納得すれば無いなら無いですむものだと個人的には思うんですけどねぇ…。
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見切り性能

マロニエ君の部屋の『ディアパソン210E-7』に少し連なることですが、ピアノに限らず、楽器の表現力というものは、予め限界を作るべきではないというのが、マロニエ君の考えるところです。
言い換えるなら、常に無限へ向かってその表現の扉は開いていて欲しいと思うのです。

もちろん、そんなことを言ってみたところで、現実に限界はあるし、それどころかマロニエ君の稚拙なピアノの腕前を考えれば、どんなにその点に磨きをかけてみたところで、その真価を発揮させることはできないかもしれません。…いや、間違いなくできません。

ただ、たとえ自分の腕前ではできないことでも、できる人が弾いたときにはちゃんとそれに応えられるだけの潜在力というのはもっていて欲しいという拘りがあるのです。

軽く小さなハンマーのもたらす功罪として、昔の日本車を思い出しました。
現在はよく知りませんが、少なくともある時期までの日本車は、街中を走るには並ぶもののないほど快適で静かで高級感たっぷりなのに、ひとたび山道や高速道路を本気で走ると、いっぺんにぼろが出てヨーロッパの大衆車にも遥か及ばないという現実がありました。

ワインディングロードではよろよろと腰くだけになり、法定速度を超える高速では、その挙動はまったくだらしないものでした。街中でのジェントルな振る舞いとは別物のごとく、120km/h以上出すと安定性も操縦性も破綻へ向かい、騒音も一気に増大するというような車が多く存在しました。これは基本的な技術力というより、日本の道路法規に定められた道路環境や、高速道路の最高速度が100km/hであることから、常用域さえ乗りやすく快適であればよいとばかりに、それ以上の性能をはじめから切り捨てた結果であったようです。

かたや欧州車は、日本車の静かな安楽椅子みたいな快適さはないけれども、山道や高速では一段と腰の座った乗り心地となり、いざとなれば最高速度でも安心して巡行することができました。こそには彼我のバックグラウンドの違い、さらには価値観の相違が浮き彫りになりました。

要は性能の焦点をどこに向けるかという、きわめて重要な本質論だと思います。
もちろん音の可能性さえあれば弾きにくくてもいいなどというつもりはありません。しかし、弾きやすければ音は二の次とも思えないわけです。運動的な弾きやすさの代償に、草食系の薄っぺらですぐに音が割れてしまうようなピアノを弾いても、結局は楽しくもなんともありません。

ピアノはまずなにより弾きやすく、音は小綺麗にまとまっていればいいというのも、そういうニーズがあるのならひとつの在り方かもしれず、べつに否定しようとは思いません。
しかし、少なくとも弾き手とピアノと音楽という関係性に重きを置く場合は、こういう価値観は少なくともマロニエ君個人は賛同しかねるわけです。

簡単には弾かれてくれない骨太のピアノのほうが、弾く者を鍛え、喜びを与えてくれる時が必ずやってくるという信念といったら大げさですけれども、そういう考えがあることは確かです。

平生スーパーの野菜などをひどく下に見るかと思うと、こういう安易で底の浅い、いわばビニール栽培のようなピアノにはまるで無抵抗な感覚というのはよくわかりません。
マロニエ君なら、野菜はスーパーでもいいけれど、ピアノはオーガニックなものと過ごしたいと思います。どんなに秀逸でも、突き詰めれば機械でしかないピアノがあるいっぽう、欠点もあるけれども楽器と呼びたいピアノもあるわけで、やっぱり楽器がいいなぁ!と思うのです。
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納得できない

皆さんは最近の駐車違反の取締の厳しさをご存じでしょうか?

昔は警察官が違反車両を見つけたら、チョークで地面に時間を書いて一定の時間経過をもって「駐車違反」が成立し、はじめて摘発できるというものでした。
しかし、それは昔の話のようです。そこにはもはや「何分以上」というような猶予はなく、時間はまったく無関係となっていたことにびっくり。

すなわち、たとえ1分でもドライバーが車を離れたら、即違反・即検挙という、これはもうほとんど独裁国家並みの強権的摘発だというほかはありません。

というのも、つい先日、知り合いの方が2歳のお子さんを保育園に預けるために、園の前に車をとめてエンジンを切りハザードを出して車を離れたところ、そこへ巡回警官が通りかかり、たちまちキップを切ったのだそうです。
そのお母さんが慌てて戻って「私です、すみません!」といって駈け寄ったものの、その状況や事情は一切考慮されることなく、問答無用で斬りつけるがごとくの摘発だったようです。
今どきこんな無慈悲なことがあるのかと聞いた当初は信じられない気持ちでした。

反則切符によれば、なんと警察官が車輌を確認してからそのお母さんが現れるまでの時間は、わずか2分だそうです。
しかも現場は交通量のある幹線道路でもなく、車の往来も少ない静かな住宅街にある、比較的幅も広めの道だっただけによけいに驚きでした。

昔のような一定時間を経てはじめて違反が成立するという摘発方法がなくなったのは、要するにそれに要する手間や時間がかかるという以外に、マロニエ君には合理的な理由が見出せません。
あまりに憤慨したので警察の交通課に問い合わせをしてみましたが、果たしてその回答は、現在はドライバーが車内に運転免許を持つ者を残さずに車を離れ場合は、「一瞬であっても」放置車両として摘発されるとのことでした。

こちらもそんな馬鹿げた話に唯々諾々と従うほうではないので、精一杯あれこれ反論しましたが、何を言っても向こうは「法律」と盾にとって一歩も譲る気配はなく、これ以上不毛な会話をしてもナンセンスだと悟って、自分で青筋が立つのを感じながら電話を切りました。

警察のほんらいの目的は、犯罪の防止や捜査・摘発でしょうけれど、その根底にある大儀として市民(人々)の安全や財産を守り、安心できる住みよい社会の維持を担っていくことにあると思います。

一時にくらべると、その悪辣な摘発方法が反感を買い、問題視された速度取締の「ねずみ取り」はずいぶん姿を消し、ようやく反省に転じたのかと思いました。しかるに、またしてもこんな汚い取締の仕方をして市民から怒りと反感を抱かれることになったのは驚くばかりです。かたやストーカー事件などでは度重なる訴えにも耳を貸さず、被害者が殺害されるに及んだりと、これでは税金泥棒・罰金泥棒ではないかと思います。

電話に出た担当者は居丈高な口調で、「時間の問題ではないですよ。子供さんであれなんであれ、そういう理由はそちらの言い分です。もしそれで歩行者妨害になって事故が起きたらどうしますか?」などと痴呆症のような理屈を言い立てます。
しかし、ネットの情報によると、郵便局の車輌は摘発対象外であるなど、必ずしも法の下の平等でないことが明らかです。

また、その後聞いたところでは、トラックなど様々な業種の関係車輌は実際はその対象ではないのだそうで、これはどういうことでしょう? 同じ人がたまたま下見などで普通車で現場に行って止めていると、3分でも即キップを切られ、トラックなら安心というのですから、開いた口がふさがりません。

警察が主張するように、本当に歩行者や自転車の保護、あるいは交通の妨害ということであれば、目的がなんであれ、普通車よりトラックなどのほうがよほど危険で迷惑なっことは論を待ちません。おまけに、最近ではこのきわめて冷血で機械的な取締が、民間の業者にまで委託されているというのですから、なんとも嫌な話です。
そうなれば、どんな言い訳をされても、ますます金銭的ノルマの要素は濃厚となるでしょう。市民がその「反則金という名の金銭収奪システム」の犠牲になるなんて、たまったものじゃない。

人を処罰するということは重大なことです。それに際して悪質度の検証を一切せず、十把一絡であまりにも安易に摘発。そうかと思えば、特定の業者車輌などは見逃すという慣習には、社会の汚い一面を見せつけられるようです。
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シフに感謝

近年、自分でも不思議なくらい新しいピアノにそれほど興味が持てなくなってきているマロニエ君ですが、CDの世界では、意図的に古いピアノ使った新録音が発売されているのも事実で、これはとても素晴らしいことだと思います。
もちろん全体からすれば、まだまだごく少数ではありますが、こういうCDがひょっこり手に入ることはとても嬉しいことです。

最近で云うと、プレイエルを使ったバッハのインベンションに大興奮したところでしたが、メジャーピアニストの中では、アンドラーシュ・シフはわりに楽器に拘るほうです。彼はスタインウェイとベーゼンドルファーを使い分けながらベートーヴェンのピアノソナタ全集を作り上げたようですが、最近は全集と重複する最後のソナタop.111、さらにはディアベリ変奏曲とバガテルなどを、古い2台のピアノを使って録音しています。

そのひとつが1921年製のベヒシュタインで、このピアノはなんとバックハウスが使っていたE(コンサートグランド)で、こういうことをやってくれるピアニストが少ない中、シフのピアノに対する感性とチャレンジ精神にはただただ感謝するばかりです。

バックハウスによる1969年のベルリンライブで聴く、豪放なワルトシュタインのあの感動の陰には、この時使われたベヒシュタインEの存在もかなり大きいとマロニエ君は思っていますが、それと同じ個体かどうかはわからないものの(たぶん同じだろうと勝手に思い込み)、そのピアノの音を再び現代の録音で聴くことができると思うと、これまたワクワクでした。

もちろんピアニストが違うので、いくらベートーヴェンとはいえ同じテイストには聞こえませんが、しかしやはりベヒシュタインで聴くベートーヴェンには、格別な意味と相性があるようにも思います。
スタインウェイでは音が甘く華麗で、それが大抵の場合は良い方に作用すると思えるものの、ベートーヴェンにはもう少し辛口の実直さみたいなものが欲しくなり、かといってベーゼンドルファーではちょっと雅に過ぎて、その点でもベヒシュタインはもってこいなのです。

ツンと澄んだ旋律、男性的な低音域、アタック音の強さと互いの音がにじみ合うように広がる枯れた響きの中に、ベートーヴェンの苦悩と理想、歓喜とロマンがいかにもドイツ語で語られるように自然に聞こえてくるのは、物事が収まるべきところに収まったという心地よさを感じます。

ただしマロニエ君の耳には、全般的に古いベヒシュタインには、なんとなく板っぽい響きを感じてしまうことがしばしばですし、全体的にも期待するほどのパワーはないという印象があります。これは経年によって力が落ちてきているのか、あるいはもともとそういうピアノなのか…そのあたりのことはわかりませんが、もうすこし肉付きがあればと思います。

そういえば近藤嘉宏氏が進めているベートーヴェンのソナタ全曲録音には現代のベヒシュタインが使われているようですし、先ごろ発売されたアブデル・ラーマン・エル=バシャによる二度目のベートーヴェン・ソナタ全集にもベヒシュタインDが使われているとのことで、まだ購入には至っていませんが、これも期待がかかります。

さらに今年は、なんとミケランジェリがベヒシュタインを弾いた唯一のディスクという、ベートーヴェン、シューベルト、ドビュッシー、ショパンの2枚組が発売されたようです。ジャケットを見るとずいぶん古そうなベヒシュタインで、ミケランジェリの冷たいのか温かいのかわからないあの正確かつ濃密なタッチに、このドイツのピアノがどう反応しているのか興味津々ではあります。
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ライト2

かなり前のことですが、来日した黄金期のポリーニが得意のベートーヴェンのソナタを弾いたとき、NHKのインタビューで述べた言葉を覚えています。

「ベートーヴェンはありふれた断片から崇高なテーマを作り上げます。」と、当時のすさまじい演奏とは裏腹な、至って控え目な調子で語り、傍らにあったピアノに向かって『熱情』の第一楽章の出だしをほんの軽く弾きました。(もしかしたら、弾いてから語ったのだったかも。その順序は覚えていません。)

これにはまったく膝を打つ思いで、多くのベートーヴェンの作品に共通した特徴です。
形而上学的世界といわれる最後の3つのソナタでさえ、第一楽章の第一主題など「ありふれた断片」といえばそのように思われます。
ひとつの主題をこれでもかとばかりに彫琢し、推敲し、いじりまわた挙げ句に壮大なフィナーレへとなだれ込む。また、変奏がとりわけ得意だったこともそんな彼の特徴があらわれていると見ることもできるように思います。

頭にベートーヴェンをもってくると話が大げさになり、ちょっと後が書きづらくなりますが、前回のライトの設計にもあるように、本物のクリエイターには独自のイメージや美学が力強く流れていて、むしろ素材にはそれほどこだわらないという場合も少なくありません。これはすべての分野に通じる一流とそれ以外の差でもあると思います。

極論かもしれませんが、何でもないものを最高の価値あるものへ変身させ、あらたな命を吹き込むことこそ芸術の極意なのかもしれません。

しかし、それは必ずしも芸術の世界の専売特許というわけでもありません。
余り物で美味しい料理を作ってしまう才能、はぎれやリフォームによってオシャレな服をこしらえる才能、棄てられる廃材を見た人が自分も欲しいと思うようなモダンなインテリアに変えてしまうなど、ある種の制約の中にあってこそ、人間の能力はより真価を発揮しやすいものではないだろうかとも思うのです。

場合によってはそんな制約があるほうが、ある意味では目的と方向性が明快となって、生み出されるものも心地よい調べをもっていることが少なくないように思います。
まったくの自由意志からなにか立派な作品を作ることも素晴らしいけれども、これこれのものが必要である、あるいは使い道のない素材を活かしたい、指定された予算と材料だけで何かを作らなくてはならないというような一見不自由な発想点からも、多くの傑作が生み出されていることも事実であり、それはそれで立派なモチベーションなのだと思います。

むかしお邪魔したある個人宅に、細長のなんともシックで美しいテーブルがあってまっ先に目に止まりましたが、なんとそれは市販の集成材にダーク系の艶のないオイルニスを重ね塗りし、そこへ足をつけただけというものでとても驚いた記憶があります。その趣味の良さとえもいわれぬ風合いには痛く感銘を受け、何十万もするような輸入家具を買うよりよほど尊敬に値すると思いました。

動機は部屋のサイズにジャストフィットするテーブルがどこにもなかったので、だったら自作してやろうと思い立ったとのことで、結果的にコストも望外の安さで事足りたということでした。

マロニエ君にはそのような技も才能もありませんが、それでも、そんな真似事のようなことをやってみたいという憧れのようなものがあるのも確かです。
なにか虚しい挑戦を、いつかやってみたいという気持ちだけはくすぶっています。
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ライト

テレビ東京の番組『美の巨人たち』では、ときどきあっと驚くような事実に接することがあります。

少し前の放送でしたが池袋にある自由学園明日館が紹介されました。
これはアメリカの誇る世界的建築家、フランク・ロイド・ライトの作品です。

第二次大戦前につくられたその校舎は、シンプルな中にも気品と叡智とすがすがしさに満ち溢れています。そしてなによりライトの突出したセンスがこの作品の内外のいたるところに光っていて、現在は修復され、国の重要文化財にも指定されている建築物です。

例えば正面ホールのガラスには、なんともモダンで可憐で美しい装飾が配されていますが、これももちろんライト氏の考案によるもので、これがこの校舎の中心であり象徴ともなっている部分。

さて、この番組で初めて知ったのですが、その装飾に近づいて目を凝らせば、なんと素材は着色されたベニヤであることがわかり仰天させられました。それだけではありません。美しい色に塗られた教室のドアや、その上部の欄間からヒントを得たという装飾も素材はベニヤなのです。

自由学園の創始者である羽仁吉一の夫人もと子さんが直接ライトに設計を依頼したそうですが、その折に云ったことは「予算がないので、できるだけ安い材料でつくって欲しい」というものだったそうです。
その意向を汲み取って、ライト氏は安い資材を多用しつつ、それでいてまったく独自の美しく洗練された、他に類を見ない校舎を完成させました。ライト氏は建物の内外装はもちろん、照明、机、イスなどもデザインしましたが、食堂などの机やイスは、安価な二枚板を貼り合わせ、繋ぎ目は朱色の効果的なアクセントにするなど、その意匠や造形は今の目で見てもきわめて洗練されたものです。

云われなければ、その美しい建築に感銘するだけで、まさかそんな安い素材が多用されているなどとは思いもよりません。

マロニエ君はこういう何でもないありきたりの素材を使いながら、価値という点では最高のものを作るという感性が昔から殊のほか好きでした。
高級でもなんでもないものから、ハッと息を呑むような優れたものを作ることは、素材そのものがもつ力をあてにできないだけ、作り手の才能や真の実力がものをいうのです。
優秀なシェフの手にかかれば冷蔵庫の残り物から、素晴らしいご馳走ができたりするのも同じです。

素材に頼らないぶん、素の技と美意識が問われますし、幅広い経験や本物を見てきた眼、自由でしなやかなアイデアも必要です。

たとえばの話、処分されるような素材から、人も羨むような素敵な家具などを作ることができたら、こんな愉快なことはありません。
高級品や高額であることを喜んだり、なにかというとモノ自慢をするのは大嫌いですが、もしこういうことができたら、そのときこそ大いに自慢したいものです。

もちろん最高の素材を使って最高のものを作るということを否定はしません。
たとえば、最近では式年遷宮を終えた伊勢神宮の内宮などはその最たるものでしょう。
しかし、そういうものはごく限られた特別なものだけに限定されていれば良く、通常はなにもかもが最高ずくしというのは、どこか物欲しそうで、却って貧しい感じがしてしまいます。

むろん素材なんて何でもいいと暴論を吐くつもりはありませんが、それよりも遥かに重要なのはセンスだとマロニエ君は思うのです。
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大発掘

やっぱりCD店はときどき覗いてみるもので、おもしろいCDを見つけました。

フランスのピアニスト(イタリア生まれ)、シャンタル・スティリアーニが弾くバッハのインベンションとシンフォニアなのですが、ピアノはなんと1910年に製作されたプレイエルが使われています。

この時代のプレイエルはマロニエ君が最も心惹かれるピアノのひとつで、よくあるショパンが使ったとされる時代楽器としてのプレイエルはフォルテピアノであって、あちらは歴史的には大変な価値があるのかもしれませんが、個人的には一体型鋳鉄フレームをもつモダンピアノになってからのプレイエル(しかも第二次大戦前までの)が好きなのです。

この時代のプレイエルの音はコルトーによる数多くの録音で聴くことはできますが、なにぶんにも録音が古く、コルトーの演奏の妙を楽しむにはいいとしても、プレイエルの音そのものを満喫するには満足できるものではありません。
数年前、横山幸雄さんがこの時代のプレイエルを使ってのショパン全集CDが出始めたので、これぞ待ち望んでいたものと意気込んで買い続けたものですが、ここに聴くプレイエルはマロニエ君の求めるものとはやや乖離のある楽器で、残念ながら満足を得ることは出来ませんでした。(全集が不揃いにならないよう、半分以上は義務で買ったようなものですが、たぶんもう聴きません。)

さて、演奏者もピアノもフランスとなると、バッハといってもかなり毛色の違うものであろうことに覚悟をしつつ、1910年のプレイエルという一点に希望を繋いで購入しました。

果たしてスピーカーから出てきた音は、まごうことなきこの時代のプレイエルのもので、柔らかさと軽さと歌心にあふれていて、すっかり聴き惚れてしまいました。
マロニエ君はドイツピアノのような辛口の厳しい音のピアノを好む反面、その真逆である、羽根のように軽い、モネの絵のような、この時代のプレイエルの明るさと憂いをもったピアノも好きなのです。

明るさといっても、現代のピアノのようなブリリアントで単調な明るさとは違って、プレイエルの明るさは自然の太陽の光が降りそそぐような温もりがあり、その明るさの中に微妙な陰翳が含まれています。
バレエでいうと重量級の技巧の中に分厚いロマンが漂うロシアバレエに対して、あくまで軽さとシックとデリカシーで見せるパリオペラ座バレエの違いのようなものでしょうか。

CALLIOPEというレーベルですが、録音も良く、ウナコルダの踏み分けまで明瞭に聞き取ることができるクオリティで、これほどこの時代のプレイエルの音の実像を伝えるCDはかつてなかったように思います。
それにしても、惚れ惚れするほど感心するのは、中音から次高音にかけてのくっきりした品のいい歌心で、どうかすると人の声のように聞こえてしまうことがあるほどで、これぞプレイエルの真骨頂だろうと思いました。
旋律のラインをこれほど楽々と雄弁に語ることのできるピアノはそう滅多にあるものではありません。その歌心と陰翳こそがショパンにもベストマッチなのでしょうし、インベンションとシンフォニアも交叉する旋律で聴かせる音楽なので素晴らしいのだと思います。

フランス人はピアノという楽器をむやみに大きく捉えず、繊細さを損なわない詩的表現のできる美しい声の楽器として彼らの感性と流儀で完成させたように思いますが、これはまぎれもないサロンのピアノで、決してホールのピアノではないことが悟られます。
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共犯

例の作曲家のゴーストライター事件では、発覚からひと月を経て、ついに佐氏本人が姿をあらわし、ものものしい「記者会見」に及びました。

恥ずかしながらマロニエ君は、この手のスキャンダルというか週刊誌ネタ的なものの中には、非常に興味をそそるものがあり、この事件も発覚いらいなんとなく注目していました。とりわけ本人が出てくる会見はぜひ見たい!と思っていたので、ここぞとばかりにワイドショーのたぐいを録画しておきました。

いまさら言うまでもないことですが、くだらない話題も大好きなマロニエ君です。
とくにこの本人登場の記者会見はワクワクさせられました。

会場に詰めかけたマスコミの数はハンパなものではなく、壇上におかれたテーブルには、近ごろではついぞ見たこともない数のマイクが蛇の群のように置かれ、いやが上にも関心の高さが伺われます。

カメラのフラッシュの中にあらわれたご当人は、あっと驚くばかりの変身ぶりで、特徴的な長髪はバッサリと短く切られ、サングラスを外し、深々とお辞儀をする姿はまるで別人でした。これを一目見ただけでも、いかに彼は巧みに「芸術家」に化けていたかが一目瞭然でした。

内容はお詫びを連発しつつも、この人の体の芯にまで染みついたウソと攻撃性が随所に見て取れるもので、いち野次馬としては、これはもう滅多にないおもしろさでした。
むろん発言が真実などとは到底思えませんし、すでにそういう人物という認識の上なので、はじめの変身ぶり以外は別に驚きもしませんでした。

驚いたのは、むしろ翌日のワイドショーで繰り広げられる論調でした。
どうせ前日の会見の分析が翌日の番組のネタになると踏んでいたので、二日続けて録画していたのです。

今どきの特徴ですが、司会者やコメンテーターは普段の発言は鬱陶しいほど慎重で、これでもかとばかりに偽善的な発言に終始します。ところが、いったん相手に悪者というレッテルが貼られると、状況は一変。批判は解禁とばかりに、誰も彼もが寄ってたかって問題の人物を吊し上げます。それも自分は極めて良識ある誠実で温厚な人物ですよというわざとらしいニュアンスを込めながら。

それでも、この楽譜も読めないエセ作曲家が非難されるのは当然としても、ちょっと違和感を感じたのは、その相方であったゴーストライターのほうが、あまり悪く言われない点でした。
そればかりか、この相方の作曲者がまるで正直者で、ときに被害者であるかのようなニュアンスまで含んでくるのはあんまりで、これには強い抵抗感を覚えました。

もちろん役どころとしては、気の弱そうな作曲者が佐氏にいいようにコントロールされたという構図のほうが収まりはいいのかもしれませんが、それはちょっと違うと思います。

この人が突如として「告白会見」をしたときから見れば、単純に「正直」で「善良」で「良心の呵責に耐えられなくなった」人物であるかのようなイメージになるのかもしれませんが、それはいささか認識が甘いのでは?とマロニエ君は思います。

一度や二度ならともかく、実に18年間という長きにわたって、この秘密の共同作業を続けていたという2人です。さらにそれなりの高額な報酬の授受もあったということは、これはまぎれもなく本人の承諾と意志によるものだと考えるのが自然です。となれば、ご当人がいわれるようにまさに立派な「共犯者」であることは忘れるべきではない。本人によほどの熱意と積極性がなければ、あれだけの大曲を書き上げるだけのモチベーションも上がる筈はないでしょう。

この2人のいずれが主導的であったかはともかく、結局はお似合いのいいコンビであったのだろうと思います。
そして、なによりそれを裏付けているのが、18年間にわたりその秘密の関係が維持されていたということだと思います。
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ミクロの権利2

ミクロの権利の行使は駐車場だけではありません。

ちょっとしたお店や書店などに行っても、今はさりげない譲り合いの精神というものはまず期待できません。むしろその逆で、自分が見たい商品の前に人がいたりすると、少し横から見るようになりますが、昔なら人の気配を感じると、互いに場所を譲ったり、ちょっとした遠慮がちな動きや反応などがありました。
「謙譲の美徳」などはもはや死語だとしても、少なくとも、どうぞとかお互い様という気持ちがあったように思います。

ところが今どきは、そんな気配を察知するや、却ってそこに執拗に居座ろうという「意志的な独占」を感じられることも少なくなく、何のためにそこまでしなくてはいけないの?という疑念に駆られます。

過日もスーパーで急ぎの買い物を済ませようと立ち寄ったときのこと。生鮮食品の売り場で、こちらの目的の商品の真ん前にひとりの女性が立っていました。冷蔵の棚は2段になっており、上の段の商品をしきりに見ています。マロニエ君の買うものはその真下の段にあります。

その女性のほうが先なので、もちろんしばらくは待ちますが、他者が自分の次を待っていると気配でわかっている筈なのに、いくら待ってもその女性は尚も食い下がらんばかりにその場を離れません。

しかもその女性は手押しカートを使わず、買い物カゴを下の段の商品の上にどっかり置いています。
ラップがかけてあるとはいうものの生のお肉ですから、感心できない行為です。

おそらくその気持ちはこんなところでしょう。
人が自分と同じ場所を見たいと思っているなら、今の瞬間は自分が先着して見ている(あるいは品定めしている)最中なのだから、そこには優先権がある。これは常識でなんらルール違反ではない。である以上は自分が納得するまでその場を独占する権利があり、むやみに明け渡す必要などない。他者は自分の必要が終了しその場を立ち去るまで、黙して静かに、そして無期限に耐えて待つべきであろう。

…。こんな小さな小さな、みみっちい権利を行使することに、一服の薄暗い快楽を覚えているのだというのがひしひしと感じられるのです。もちろんその快楽の中には、自分が先であるというただそれだけの優越性と、遅参者に対するささやかな意地悪がこめられているのはいうまでもありません。
しかもその快楽は、この状況に流れる合法的行為という安全の上に成り立っているわけですから、まことにくだらない心情だとしか思えません。

自分が商品を見ていて、そこに別の人がやってきたら、ちょっと半身でも左右いずれかに動いて譲るぐらいの気持ちがどうして持てないものかと不思議で仕方ありません。
残りわずかというようなことならまだしも、商品はじゅうぶんあったのですが…。

これと対照的なのは、エレベーターなどで先に中に入った人が「開」ボタンを押して、人が乗り込むのを待つときなどです。人の目が多いほど、いつまでも遅れてきた人にも気を配り、少しの乗り損ねもないよう最大限の気配りをするする人がいて、これはこれでちょっぴり芝居がかった印象を受けます。
これに呼応するように、乗る人も、降りる人も、ありがとうございますという言葉をいささか過剰では?と思えるほど連発しますが、そこだけ切り取って見ていると麗しい日本人の礼儀正しさのように思えないこともありません。

でもきっと同じ人が、別の場所では、別人のような行動をとるような気がして、そういう意味では、最近の親切や礼儀も、どうも信じられない一面があるのは残念です。
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ミクロの権利

以前にも書いた覚えがありますが、当節、満車の駐車場などでは、人が車に戻り、乗り込んでエンジンもかかり、今にも動き出しそうな車があるからといって近くで待っていても、そんな車はなかなか出て行ってはくれません。

待ちわびて、じりじりするこちらの心情を弄ぶかのように、車内ではガサゴソとなにかをやっている気配をみせたり、あるいはことさら泰然として、遮二無二時間をかけたりして、とにかく出発を「1秒でも」渋っている様子が見て取れます。

こう書くと「それはアナタがそんな風に見ているだけでは?」と言われるかもしれませんが、人間は長いこと人間業をやっていれば、それが本当に自然なものか、邪心から出ていることなのかの判別ぐらいはつくようになるものです。

世代的にはさまざまですが、とりわけ若者から中年になりかけぐらいの場合が多く、さらにいうなら女性のほうがよりその傾向が強いように感じます。マロニエ君も最近ではいい加減このパターンがのみ込めているので、こういう人の視界に入る場所でおめおめと待っているようなことはしなくなりました。
あえて待機する場所を変えたり、場内を一周したりと、空くことを「期待していない」素振りに出ると、逆にすんなり出発するのがわかっているからです。

ちなみに年配の方は、こちらが待っていることがわかると、急いで車を出してくださったりする場合が多く、ありがたいだけでなく、どこかホッとして「あぁ昔の人はいいなぁ…」と思ってしまいます。

こういう傾向からも、昔にくらべると世の中の人は精神的に決して幸福ではないことがひしひしと感じられます。生活のほとんどすべてが否応なく競争原理にさらされている現役世代にとって、いま自分が手にしている権利は、他者も欲しがっているものであればあるだけ、ささいなことでも手放したくないという悲しい我欲が本能的に表出するようです。

その証拠に、逆もあるのです。
料金精算所が混んでいたりすると、必然的に出庫する車はその列に並ぶことになり、土日の夕刻などはたいていこのパターンです。

車に乗り込んでエンジンを始動、シートベルトをして、ギアを入れて動き出すという一連の操作の中、時を同じくして近くで車に乗り込んだ人は、今度は我先に早く動き出そうと、変にこっちを意識して緊迫しているのが伝わってきます。
しかも真剣そのもので、そのむき出しの競争心には、こちらもつい刺激されてしまいます。

するとどうでしょう。
大変な早業で車はそそくさと動き出し、本当にコンマ1秒という差で列の先へと並ぶわけで、これを見ればわかるように、満車状態で他車が待っているのに車を出さないのは、やはり弄ぶターゲットがいるからこその故意であることが明瞭です。

社会がきれいなものじゃないことは先刻承知ですが、しかしこんなくだらない場面で、これだけ赤裸々に他人の悪意に触れるというのは、やはりいい気持ちはしないものです。

巷ではやたら「オトナ」「オトナの対応」などという分別くさい言葉が濫用されていますが、実際は強欲なオコチャマだらけです。
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楽器解体新書2

前回書き切れなかった、もうひとつ。

それはピアノのハンマーの材質を、本来のフェルト以外のものを代用して使ってみたら、さてどんな音になるのかという実験です。

まず(1)通常のフェルト、次に(2)発砲ウレタン、なんと(3)段ボール、笑ってしまった(4)消しゴム、そして(5)革、そしてなぜか(6)紙粘土という素材が使われ、それぞれがきれいにハンマーのかたちに成形されて、ちゃんとシャンクの端に取りつけられ、アクション機構を介して打弦されるというものです。

この6種類がそれぞれクリックひとつで音を聞くことが出来るようになっていて、その下には解説も付記されています。

発砲ウレタンは、フェルトよりも軽い素材とありますが、そのぶんアタックの力がなく、覇気のない弱々しい音しかしません。
段ボールも質量が足りないのか、頼りない音で、表面が硬いためかやわらかさとはまったく逆のピチピチという硬質な音がするだけ。
消しゴムは、コメントに「重さがあるので期待しましたが、予想外に小さな音」とある通り、ショボイ音しかしません。きっと弾力がありすぎて、打弦したときに消しゴムが弦に食い込んで、弦の振動を阻害してしまっているのだろうと思います。
一番良かったのは、「細かく切って何層にも巻いた」という革で、これがダントツによかったと思います。コメントでは「適度な弾力があって、性質がフェルトに近いのかも…」とありました。
紙粘土は、重くて硬いので、チャンチャンした音でピアノの音とはいえません。コメントでは「大正琴のよう」とありました。さらには重さが災いして連打性にも劣るということでした。

人によってはばかばかしいと思われるかもしれませんが、マロニエ君は実に楽しい実験だと感じます。またフェルトがいかに適切な素材であることがひしひしと感じられ、手間ひまをかけてこういうことをしてみせる技術者さんは好きだなあと思ってしまいます。

上記の結果からすると、新しい素材でも、革のような適度な固さをもつものと組み合わせるなどして追求を重ねると、これは存外いいハンマーが出来るのでは?という思いに駆られてしまいました。

こういう新素材による開発が進んで、もしも新しい発見が得られるとしたら、フェルト以外のハンマーをもつピアノができないとも限りません。

もちろんフェルトを凌ぐものが簡単に出来るとは思いませんが、技術者、開発者が新しいことへ挑戦するという姿勢はどんな分野でも大切なことです。

良くできた別素材のハンマーを使ったピアノの音、さらにはそれによる演奏なども聴いてみたいし、なんだかとても楽しそうな気もします。
どうせ、ボディはじめあちこちが人工素材が多用されている現代のアコースティックピアノなんですから、いっそ開き直って、新素材ばかりで新時代のピアノも作ってみてはどうでしょう。

今どきはペットボトルの素材で作った服とか、なんでもありなのですから、これも一興というものかもしれませんし、少なくとも電子ピアノよりは夢がある気がするのですが…。
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楽器解体新書

ネットで偶然見つけたのですが、ヤマハのホームページ内には意外におもしろいページが隠されていることを知りました。

「楽器解体新書」といって、いろいろな楽器の仕組みや弾き方の解説などが掲載されていて、そこには「楽器のここに、こういうことをしたらどうなるか?」というような一般向けのわかりやすい実験を紹介するコーナーまであります。

ピアノの覧では、グランドピアノの金属フレームには、いくつもの丸い穴が開けられていますが、それを塞いでみるとどうなるか?というような実験をやっています。
通常の状態と、そこにフタをした状態で、それぞれ和音が鳴らされますが、パソコンスピーカーからの音では明確な差ではないものの、塞がれたほうが広がりのない単調な音になるのはかすかにわかります。

さらにおもしろい実験が2つありました。

そのひとつ。
調律のユニゾン合わせに関する実験で、ピアノの中高音にはひとつの音に対して3本の弦が張られていますが、これは単純に3本をきれいに同じに合わせればいいのかというと、まったくそうではなく、そこに微妙な変化をつけることで、音に色や味わいがでるわけで、それはどういうことかという実験です。

つまり3本をどの程度合わせるか、あるいはどれぐらい微妙にずらすか、それらの差を耳で感じるもので、少しずつ差をつけることで4種類の音が聞けるようになっています。

ひとつは3本がまったく同じピッチに揃えてあり、これはただツーンという感じでおもしろくも何ともない無機質な音。伸びもないし、まったく楽器らしい息づかいもニュアンスもありません。

残る3つは1本を正しいピッチに合わせ、のこる2本はそれぞれ上下にわずかに音をずらして調律されています。このずらし方が3段階あって、それぞれどんな音になるか、その違いを聴いてみるということができるというもので、これは画期的なものだと思います。
ずらしすぎると汚いうねりが出て、まったくいい音とは言いかねるもので、いわゆる調律の狂ったピアノそのものの音でした。

ところが3本のユニゾンのズレがほんのわずかとなる狭い領域では、微妙な味わいや音の伸びなど出てきて、ピアノの音が音楽として歌い始めるスポットが存在しているようです。
揃いすぎればただのつまらない音、ずれすぎれば汚い非音楽的な音、その間のスイートスポットは極めて狭いけれども、ここが腕のふるいどころのようです。

このごくごく狭いスポットの中で、調律師は目指す音をどのようにもっていくか、そこに技術者の経験が問われ、音楽性や美意識があらわれる部分で、しかもこれが絶対正しいというものもありません。
調律をつきつめると芸術領域になるというのもこのためです。

もちろん調律師さんなどは先刻ご承知のきわめて初歩的なものですが、このように簡単な比較として、シロウトが誰でも聞くことができることによって、ユニゾンの合わせかたしだいで楽器の性格や音楽性がくるくる変わってしまうという「基本」が自分の耳で理解できるのは素晴らしいことだと思います。

池上章さんの「そうだったのか」ではありませんが、こうして解っているようで解っていないことを丁寧に噛み砕いて教えてもらえるのは非常に大事なことだと思います。
そういう意味で、さすがはヤマハだなあと感心させられました。

もうひとつは次に書きます。
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献上のメロン

昨年来日したマレイ・ペライアのサントリーホールに於けるコンサートの様子を、BSクラシック倶楽部で見ました。
ペライアはどちらかというと日本に来ることが少ないピアニストですが、これは表現するのが非常に難しいコンサートだと思いました。

音楽の世界では、演奏者のプロフィールは誇大表現するのが普通で、たとえば「世界的に活躍」という言葉は毎度のことで、とても額面通りには受け取れないというのが常識です。
その点で云うと、ペライアはこの言葉と事実が一致する数少ない存在で、世界でも高い位置にランクされるピアニストという点で異論はありません。

マロニエ君自身も、ペライアのCDなどはどれだけ持っているかわからないほど、昔からよく聴いており、ある意味避けては通ることができないピアニストだろうとも思います。

遠い記憶を辿ると、たぶんペライアのCDを初めて聴いたのが、ごく若いころに弾いたシューマンのダヴィッド同盟と幻想小曲集だったような気がします。

ペライアは、徹頭徹尾流暢で、音楽の法則に適った気品ある音の処理、まさに真珠を転がすような粒の揃った潤いのある音並びの美しさには、この人ならではの格別の輝きがあります。細やかな音型の去就や立ち居振る舞いにも秀でており、完成度の高い演奏をする人という点もペライアの特徴だと思います。
ハッとさせられる美しさが随所で光り、音色も瑞々しく艶やかですが、表現の振幅や奥行きという面では、けっして精神性の勝ったピアニストではないという印象があります。

作品の本質に迫るべく、清濁併せもった表現のために技巧を駆使するというのではなく、あくまで美しい精緻なピアニズムが優先され、そこに様々な楽曲の解釈があたかも銘店の幕の内弁当みたいに、寸分の隙もなく端正に並べ込まれていくようです。

何を弾いても語り口が明晰で耳にも快く、どこにも神経に引っ掛かるようなところはないのですが、そこにあるのはいわば音と技巧のビジュアルであり、おまけに常に一定の品位が保たれているので、はじめのうちはそのあたりに惹きつけられてしまうのですが、それから先を求めると忽ち行き止まりになってしまう限界を感じます。

ピアノを弾くのが本当に巧い人だとは思いますが、芸術的表現という点ではそれほど満足が得られるというわけではないというのが昔から感じるところで、今回あらためてそれを再確認させられてしまいました。

この放送で聴いたのはバッハのフランス組曲第4番、ベートーヴェンの熱情、シューベルトの即興曲でしたが、個人的にはバッハ、ベートーヴェンはどうにも消化不良で、かろうじてシューベルトでやや楽しめたという印象でした。
本人がそう望んでいるのかどうかわかりませんが、この人の手にかかると、どんな作品でも体裁良く小綺麗に整い、予定調和的にまとめられた感じを受けてしまいます。

演奏を聴くことで受け取る側が何かを喚起され、さまざまに自由な旅に心を巡らす余地はなく、いずれもこざっぱり完結していて、それを楽しんだら終わりという感覚でしょうか。

半世紀も前に、日本では『献上のメロン』という言葉が比喩として流行ったそうですが、ペライアのピアノはまさにそういう世界を連想させるもので、デパートの高級贈答品のようなイメージです。どこからもクレームの付けようのないキズひとつ無い、見事づくしの出来映え。マロニエ君はどうもこういう相反する要素の絡まない、無菌室みたいな世界は好みではないのです。

インタビューでは指の故障でステージから退いていた期間、ずいぶんとバッハに癒されつつ傾倒し、その後はベートーヴェンのソナタ全曲の楽譜の校訂までやっているとのことですが、「熱情」の各楽章をいちいちハムレットの各情景に例え、実際にそういうイメージを思い浮かべながら弾いていると熱っぽく語るくだりはいささか違和感を覚えました。
音楽から何を連想しようとむろん自由ですが、マロニエ君は本質的に音楽は抽象芸術だと思っているので、そこに行き過ぎた具体的イメージを反映させながら弾くというのは、いささか賛同しかねるものがありました。
もちろん、作曲者自身が特にそのように作品を規定していたり、劇音楽の場合は別ですが。
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高倉健

唐突な話題を持ち込むようですが、高倉健というのは不思議な俳優だと思います。

任侠映画の主役で一世を風靡したものの、その後はきっぱりそちらの世界とは訣別します。一説によればこのハマリ役、ご本人としては不本意であった由。壮年期以降は自分が納得する映画にのみ出演して、その都度話題になりながらおじいさんになって、ついには文化勲章にまで辿り着いた人です。

マロニエ君は映画は好きで気が向けば見ますが、とても映画ファンといえるようなレベルではなく、邦画も洋画も区別なく、なんとなく自分が見たいと思ったものをときどき見る程度です。
昔は深夜の時間帯に任侠映画をテレビでさかんにやっていましたから、高倉健はもちろん、鶴田浩司、藤純子、江波杏子らの活躍する映画は、見てみると結構おもしろいので、子供だったくせにこの時間帯にそこそこ見た記憶があります。

高倉健はとくに好きではないが、かといってとくに嫌いというわけでもない。じゃあどうでもいいのかというと、それもまた否定するのも肯定するのもちょっと難しい俳優さんです。
その存在感は大変なものだと思いますが、マロニエ君の好むタイプの俳優という枠からは大きく外れた存在ですし、かといって彼に代わるような俳優がまったく見あたらない、きわめて独特な存在であることも間違いないようです。

とくに好きではない理由は、高倉健その人ではなく、周りから寄ってたかって作られた「健さん」のイメージのほうです。前時代的な男の理想像、男が考える「男の中の男」という、あれが鼻についてイヤなのです。
アウトサイダーで人生を真っ当に歩めなかった負い目、不器用でヤクザな生き方をするしかなかった諦観、根底に流れる正義感、寡黙で、無学で、腕っ節だけは人並み外れて、シャイで破天荒…等々、そういうイメージが高倉健の双肩に遠慮会釈なく積み上げられてしまったのだと思います。そう云う点では、彼こそは多くのファンと映画会社の求めるイメージの被害者であるようにも思えます。

さらに悲壮感が漂うのは、昔の俳優は今とは比較にならないほど多くの縛りがあって、恋愛や結婚など私生活にも厳しい制限が多く、とりわけ高倉健ほどのドル箱ともなるとそれはいっそう厳しいものだったと思われます。彼はついにそのイメージを守り通し、俳優高倉健を現在只今でも維持しているという点で、まさに自分に科せられた宿命に殉じる覚悟の人生なのではないかと思います。

そういう自分の宿命に身を苛み、半ば投げやりにも似た感じで諦観している姿が、また男の叙情性や孤独性のような作用を生み出して、倍々ゲームのように高倉健らしさに色を添えていく。

これはまったくマロニエ君の想像ですが、高倉健の数少ない密着映像などをみていると、本人はそのイメージとはかなり違った好みや憧れを秘めながら、一生をかけて「高倉健という役」を演じている人のように感じられてしまいます。

若い頃に離婚して、その後結婚しないのも、彼が好む女性は高倉健のイメージを大いに損なうような人なのではないかと、明確な根拠はないけれども思えてきます。
すくなくとも我々がスクリーンを通して思い描くような高倉健にお似合いだと感じる女性は、実はご本人はぜんぜんタイプじゃないような気がしてならないのです。

なぜこんな事を書いたのかというと、自分に合わない曲を弾きたがるパイクからはじまり、栄光と喧噪の中で自分の弾きたい曲さえ弾けなかったクライバーンを思い出し、そこからファンの期待するイメージの犠牲になった高倉健という連想に繋がったわけでした。
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好みと資質

クン・ウー・パイクのピアノは以前ならバッハの作品集やフランスもの、リストの作品、あるいはショパンの協奏曲およびピアノとオーケストラのための作品等を聴いていましたが、まあ確かな腕前のピアニストだという印象があるくらいで、それ以上にどうということもないぐらいのイメージで過ごしてきました。

ところがきっかけはなんだったか忘れましたが、プロコフィエフのピアノ協奏曲全曲のCDに出会って聴いたところ、その凄まじいばかりの演奏にすっかり圧倒されて、これほどすごい人だったのかとそれまでの中途半端な印象が一気に払拭され、このプロコフィエフがパイク氏の印象の中核を成すことになりました。

ラフマニノフの協奏曲全曲もあり、プロコフィエフほどではないにしろ、これもなかなかのもの。
ところが、その後フォーレのピアノ作品集を聴くと、たしかによくよく考え抜かれた演奏のようではあるけれども、音楽を優先したつもりが過剰な抑制がかかり過ぎたような息苦しさがあり、フォーレの本質とはこういうものだろうか?という印象でした。一部には高く評価されている方もあるようですが、さらりと流せばいいものを必要以上に考えて深刻になっているみたいで、マロニエ君はそれほどのものとは思えませんでした。

それでもプロコフィエフでの衝撃は収まらず、そのころ日本では発売されていなかったデッカによるベートーヴェンのソナタ全集にこそ、この人の本領が込められているのでは?と輸入盤を入手して聴いてみたところ、これがまたどうにもピンとくるものがなくガッカリ。一通りは聴いてみたものの、このときの落胆は決定的で、その後はまったく手を付けていません。

つづくドイツグラモフォンからブラームスの協奏曲第1番と、インテルメッツォなどの作品集が2枚続けてリリースされ、これも聴きましたが協奏曲はそこそこ期待に添うものでしたが、ソロアルバムのほうは悪くはないけれど魅力的でもないという、なんとなくフォーレのアルバムを聴いたときの慎重すぎる感覚を思い出しました。

そんなわけで個人的には評価が乱れるパイクですが、昨年来日した折のトッパンホールでのコンサートの様子がBSで放送されました。このときはオールシューベルトプロという意外なもので、しかもマロニエ君の好きなソナタはひとつもなく、即興曲、楽興の時、3つのピアノ曲からパイクなりの意図で並べられるかたちでの演奏でした。

冒頭のインタビューでは、若い頃にソナタなどの大曲は弾いていたけれど、あるときにシューベルトの歌曲に魅せられることになり、それによってシューベルトへの理解が進んだというような意味のことを穏やかな調子で喋っていました。

しかし実際の演奏では、その言葉がそれほど演奏に反映されているようには思えませんでした。いささか乱暴に云うなら、どれを弾いても同じ調子で、昔のロシアのピアニストのように重く分厚く、それでいて非常に注意深く弾かれるばかりで、シューベルトの作品に込められている可憐な歌とか不条理、サラリとした旋律の中に潜むゾッとするような暗闇など、そういったものがあまり聞こえてこないのは残念でした。

やはりこの人は逞しさで鳴らす重厚長大な協奏曲などが向いているのかもしれないと思いますが、ご当人はそういうレッテルを貼られるのは甚だ不本意のようで、それがどうにも皮肉に思えてなりませんでした。
ひじょうに穏やかな話し方や物腰ですが、実はコンサートグランドがひとまわり小さく見えるほどの偉丈夫で、端的に言ってシューベルトをこんな大男が弾く姿が、なんともミスマッチに思えてしまうものでしたし、実際の演奏もそういう印象でした。
しかも、それが非常に周到に準備された、誠実さのあふれる演奏であるだけに、よけいにミスマッチを痛切に感じられてしまいました。

演奏家は自分の好みも大切だけれど、コンサートに載せる以上は自分の資質に合ったものを演奏しなくてはいけないということを考えさせられます。
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マイペース

大病院のことはよくわかりませんが、開業医レベルの病院に行くと、「うわ、でたぁ!」と思うことがときどきあります。

自分よりも順番が前の人に話し好きの高齢者の方がおられたりすると、受付、診察、会計、薬局という一連の流れの中で、後続者は甚大な影響を被ることがあります。

この手の方は、むやみやたらと話し好きで、人とみればあれこれ喋り出し、おまけに周りの空気を読むなんてことは天晴れと云うほどなく、聞えてくるのは、大半がその場で直接何の関係もないような話を中心とする、一方的おしゃべりのオンパレード。

受付で診察カードと保険証を提示するだけで済むことが、まずこの場からおしゃべりはスタート。前回来たときからどうしたこうしたというような茶飲み話みたいなものがはじまります。
さらにヘビー級の方もいらっしゃいます。
傍らに次の順番を待っている人がいるなんてことは頭の片隅にもないらしく、自分の話が一段落つくまで決してこれを中断して次の人に譲るなどということはないまま、ただ自分の気が済むまでしゃべりまくります。

診察室でも、そういう高齢者の方の一方的なおしゃべりはとどまるところをしりません。「先生、この前の○×がどうしたこうした…」といった調子からはじまって、病状というよりは主に日常生活そのものをしゃべっているようです。医師のほうでもハイハイといいながら、できるだけ早めに切り上げようとしている気配を感じるのですが、そんなことはまったく通じません。
ときには、医師と看護士の両方を聞き役にして、自分のことを際限なくまくしたてています。やっと終わり、医師が「はい、じゃ、それで様子を見てくださいね」などと云うも、「あっ、そうそう、それと…」といった具合に、ここからまた延長戦です。
ひどいときなどこういう方ひとりのために30分近く待たされたこともあります。

それに耐えて、ついに自分の名が呼ばれて診察室に入ると、いつもの薬がなくなりましたというような場合は、「じゃあ前回と同じでいいですか?」「はい」というやりとりで事は決着。マロニエ君の場合は1分も診察室にいないようなことになり、この差はなんなんだ!?と、まるで自分がひどく損でもしているような気分になってしまいます。
べつに診察室に長く滞在することが得なわけじゃありませんけれども。

それから会計ですが、ここでも先行する高齢者の方の猛烈おしゃべりにブロックされて、窓口はべちゃくちゃ話に占領され、その間のストレスと来たら相当のものになります。病院側も「アナタはお話が長いので、次の方を先にお願いします」とは言えませんから、苦笑いを浮かべながら消極的に話の相手をしているのがこちらにも伝わります。

これで終わりではありません。
次なるは薬局が控えていて、この流れである限り、ずっとこの順番がついてまわります。そこでもまったくひるむことなく、次々に相手を変えながらしゃべりのテンションはまったく落ちません。
本来薬局の受付では、病院から出た処方箋を渡すだけなのに、この場面で、なんでそんなにしゃべることがあるのか、まったく理解の外です。薬の準備ができる間も立ったまましゃべり通しで、薬剤師が薬をいちいち説明をするのに乗じて、またも以前の薬がどうだったけど今度のは…とか、寒くなったらこうなったとか、先生に云ったらこういわれたのはなんでだろうか…というような話が延々と続きます。

それも1分2分ならいいですが、いつ果てるともなくしゃべり続けるのですから、こうなると気分が悪くなってくることもあって、完全に社会迷惑だと断じざるを得ません。
病院の受付からはじまって、自分が薬を受け取って、すべてが終わるまでに小一時間もかかるようで、その間、こちらの神経はイライラヘトヘトで、全身がなんとも収まりのつかない疲れに締め付けられて硬直してしまいます。

いっそ薬局なんだから、精神安定剤のサービスでも追加して欲しいところですが、そんな事があるはずもなく、ただただ「運が悪い」としか云いようがありません。この手の高齢者のスタミナはとてつもないもので敵いっこありません。
どうか、いつまでもお元気で!
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写真登場

このブログを始めるにあたってひとつ心に決めたことがありました。

それは「決して写真に頼らない、文字だけのブログで行く」というものでした。
文才もないくせして、そんなことを考えたのはまったくおこがましい限りですが、そもそも自分のブログを持つということがマロニエ君にとってはすでに充分おこがましいことでしたので、そのついでというところでしょうか。

しかし、今回ついにその自ら立てた掟を破ることになりました。
なぜならまさに「百聞は一見にしかず」というべきテーマに立ち至ったからです。

CD店にある、フリーペーパーなどが置かれた一角で『ぴあクラシック』の表紙が目にとまりました。ベーゼンドルファーのインペリアルを真上から撮した美しい写真だったのですが、いまさらながらその巨大さが醸し出す魁偉な様にはギョッとさせられ、思わず持って帰ってきました。

あらためて見てみると、ヒトデのような不気味な形状のフレームの下には、途方もない広大な響板が前後左右に容赦なく広がっていることを痛感させられました。
音質については好みや主観がありますが、インペリアルは少なくとも図体のわりには声量がないというイメージがあります。にもかかわらず実際にはこれほどの響板を必要とする、まさに規格外のピアノであることにいまさらながらびっくり仰天です。

そこでスタインウェイDとどれほど違うのか、フォトショップを使って重ね合わせてみることに。
同縮尺にすべく、スタインウェイDの黒鍵を横に半分ほど切り落とし、そこへインペリアルと88鍵を揃えるように重ねました。(当然ながらスタインウェイの黒鍵の最低音はBなので、ベーゼンのAsは半分切れています)

bosen-stein.jpg

どうです?
インペリアルの巨大さ、スタインウェイのスリムボディ、いずれもが一目瞭然です。

ふと思い出されたのは、ピアノではなく、なぜか昔の相撲でした。
一時代を築き上げた横綱の千代の富士は、その圧倒的な強さとは裏腹に、その体躯はどちらかというと小兵力士の部類で、このため「小さな大横綱」ともいわれました。
同時代の巨漢力士といえば小錦で、彼はその目を見張るような巨体をいささか持て余し気味でした。
べつにインペリアルを小錦だと云っているのではありませんが、大きさの対比としてパッと思いついてしまいました。

おそらくこの感じでいけば、インペリアルを3台作る分量の響板で、スタインウェイDは楽にもう1台はいけそうな気がします。むろん使う響板は互いに別物ですけれども…。
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信頼の崩壊

佐村河内氏の事件に何度も言及するつもりではないのですが、若い頃の彼を知る証言者の言葉の中には、マロニエ君の心にわだかまる、昔のある出来事を思い出させるものがありました。

20代の彼は、ロックにも挑戦したらしく、当時プロデュースの仕事をやっていた男性がインタビューに登場しましたが、佐村河内氏のルックスや名前、背景がおもしろいと感じ、一度は育ててみようかと思われたのだそうです。
ところが言動におかしなところがあれこれあり、これではとても信頼関係が築けないということで、結局その方は手を引かれ、佐氏の歌手デビューも沙汰止みになった由。

その話の中で、大いに頷けるものがありました。
このプロデューサーはむろん業界の人で、そこに連なるお知り合いなどが数多くおられるのでしょうが、佐氏はそういう人達へ、無断で直接連絡を取ったりするというような挙に及んで、大いに不興を買ったというのです。

実はマロニエ君にも以前、似たような覚えがあったのです。ある演奏者に対して、一時期身を入れて可能な限りの協力していたことがありました。
具体的なことは控えますが、それこそマロニエ君にできるあらゆる方面の協力をし、その人の音楽活動を多面的に支えるところまで発展しました。あれほど心血を注いで他人様をサポートしたのは後にも前にもこれだけで、この状態は数年間にも及びました。

その過程でマロニエ君の知り合いなどともお引き合わせすることもありましたが、その方は、順序も踏まずその人達にいきなり自分で連絡をとったりする人でした。当人からの報告もないまま、それを後になって思いがけないかたちで知ることになったりの繰り返しで、なんとも言いがたい嫌な気持ちになりました。

もちろん、自分の知り合いを紹介したわけですから、直接連絡をしてはいけないということではありません。むしろそれがお役に立つなら幸いです。しかし、そこには自ずと礼節やルールというものがあるのはいうまでもありません。

いきなり頭越しの連絡をして相手の仕事にも結びつけ、それが知らぬ間に常態化するというようなことが重なると、しだいに信頼は崩れ、善意の糸も切れてしまいます。
世の中は、それが情であれ利害であれ、要は人の繋がりで成り立っている部分は少なくありません。故にその部分でのふるまいや挙措には、その人の全人格が顕れるといっていいと思います。
芸能界などは、これがビジネスに直結しているぶん、厳しいルールや慣習が確立されているようで、そういう常識を欠いた行動は御法度として即刻糾弾の対象となるようです。

念のためにつけ加えておきますと、マロニエ君はこれっぽっちも損得絡みでやっていたことではなく、いわば趣味がエスカレートした結果の奮闘でした。

こういうことが重なり、その人とのお付き合いはピリオドを打つことにしましたが、これに懲りて、いわゆる「音楽する人」とのお付き合いが、以前のように無邪気にできなくなったのは事実です。
もちろん個人差はありますし、立派な方もいらっしゃいますが…。

要は甚だしい自己中ということです。
そもそも自己中か否かは、自分の言動を社会規範に照らして判断することなので、そもそも社会性が欠如していれば、認識さえもおぼつかない。つまり自覚もない、もしくは頗る甘いために判断も制御も効かないというわけです。
良く言えば「悪気はない」ということになるのかもしれませんが、いざそのときは、そんなことはなんの救いにもなりません。

貴重な社会勉強にはなったと思っています。
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響きを引き出す

響きすぎの緩和や防音のための工夫の逆が、音を鳴らすようにするためのものです。

ピアノを鳴らさない特性をもつ部屋というのがあり、床が敷き詰めタイプのカーペットであるとか、壁が布地タイプのクロス、あるいは書架などで壁一面が埋め尽くされているなどの場合、ピアノの音はかなり強く吸収されてしまいます。

これは実を云うとマロニエ君宅の環境がそれに該当し、図らずもある程度の防音効果が得られているとも云えますが、とにかくこれらの要素が重なっているために、響くという要素がまるでありません。

ピアノから出た音は、文字通りそのボディから出ている音だけで、それを増幅させるものはなにもなく、鳴ったそばから虚しく消え去るのみ。ピアノ自体の音を聴くにはよけいな響きや色付けがないぶんごまかしが利かず、繊細な調整の環境としてはいいとも云えるかもしれません。
…とかなんとか云ってみても、快楽的見地でいうと、やっぱりそれではいかにもつまらないのです。

そこで数年前のことですが、一策を講じて、ピアノの下に敷くための木の板を買ってきました。
はじめに買ったのは普通の広い合板で、それを響板の真下にあたる床に置きましたが、まあ心もちという程度で、期待したほど効果は上がりませんでした。無いよりはいい…という程度です。

しばらくそれでお茶を濁したものの、やっぱりもう少し効果がほしくなり、同じく合板ですが表面に簡単な艶出し塗装をされている大型の化粧ボードを購入、縦横にカットしてもらって4枚の板切れにしてもらって置いてみました。するとあきらかに音の立ち上がりがよくなるというか、鮮明さが出て、以前のものよりぐっと効果がありました。

このことから、同じ合板でも表面の処理ひとつで音に影響があることがわかりましたし、試してはいませんが、木の種類、あるいは石やガラスなど、それぞれに響きの違いがあることが予想でしました。

この艶出し塗装をされたボードを床に敷いていたところ、調律に来られた技術者さんから思いもよらない秘策を授けていただきました。マロニエ君としては響板の真下にということで疑いもせずペダルと後ろ足の間に置いていたのですが、それをもっと手前に置いたほうが効果的だというのです。具体的には、ペダルよりも前、鍵盤の真下ぐらいまで板が出てきた方が良く響くというものです。
その技術者さんが言うには「自分の足元より手前まで板を引き寄せる」ところがポイントだとか。

ならばというわけで、さっそくボードを手前に50cmほど移動してみると、なんとアッと思うほど音に輪郭と鮮烈さが加わりました。これはボードをより手前にもってくることで、反射する音が弾く人の耳によりストレートに立ち上がってくるのだろうと思います。

したがって離れて聴いている人の耳にどう変化しているかは未確認ですが、ともかく弾いている当人は、音にキレと輪郭が加わり、弾きごたえが出て断然愉快になりました。

この結果からいえば、ペダルより後ろにボードを置くと、音はある程度反射していると考えられますが、それが奏者の耳に達するには、足元周辺のカーペットなどが尚も邪魔をしているのだろうと思われました。尤も、部屋全体の響きという点では話は別ですが、これは少なくとも奏者がその効果を楽しむことができるという点では絶大な効果がありました。

スピーカーの音調整しかりで、こんなちょっとしたことで思いもよらない変化が起こるのですから、なるほどおもしろいもんだと思いました。

こういう体験してしまうと、それに味をしめてまたあれこれとやってみたくなるものです。
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響きを抑える

ピアノを自宅その他に据える場合、その部屋の環境によって同じピアノの鳴り方がさまざまに変化するのは周知の事実でしょう。

部屋の広さや形状はもちろん、壁の材質、家具との関係などに左右され、厳密にいうならひとつとして同じ環境はないとも云えます。これを一括りに論じることは不可能で、まさに現場対応の分野だろうと思います。

床がフローリングなど堅い素材の場合は、どうしてもカンカンと固めに響いてしまう場合があるようですし、これも単なるフローリング材と本物の木(さらにその種類)の床でかなり違うようです。

また、音への配慮は、純粋に音質・音量の問題だけでなく、近隣への騒音対策として意図的に響きを抑えるという処置を講じられることが現代は非常に多いようです。
その第一歩といいますか、最も基本的なものではピアノの前足と後ろ足の間にあたる床部分にカーペットを敷くことで音を吸収させるというのが一般的です。これで絶対的な音量が劇的に変わるということはありませんが、音の角が取れるという点で、ひとまずまろやかさを出すということかもしれません。

グランドの場合、響板が水平なため音は上下方向に強く出るという性質があり、上にはいちおう開閉できる大屋根がありますが、下は響板の下には支柱と呼ばれる木の梁が伸びているだけでとくにフタのようなものはありません。下から覗けば響板は外部にむき出し状態ですから、大屋根を閉めていれば、あとはここから出る音が最大のものでしょう。アップライトでは背後が同じ状況。

音質や響きの調整の意味で、まずはピアノのお腹の下の床に小さめのカーペットを敷いてみるだけでも、音の響き方はガラリと変わります。それを状況に応じて順次広げていくとか、素材を変えてみることで、いろいろな工夫ができますので、その経過で自分の好みの音がでる素材やサイズを探っていくのも面白いものです。

しかし、これが防音ともなると、やることの目的もレベルも一気に変わりますから、こちらの対策はいっそうハードなものになりますし、究極的には二重窓や防音室ということに行き着くのでしょうが、そこまでのコストはかけずになんとかしたいという人がほとんどだと思います。
知人にもマンションでグランドピアノを置いている方が何人かいらっしゃいますが、その防音の方法はさまざまで、みなさんいろいろと工夫してご近所に気を遣っておられるのがわかります。

また、防音効果を謳ったカーペットやカーテンなども市販されているらしく、それを使って階下への音を和らげようと役立てておられる方がありますが、実際に防音カーペットというのはどれ程の効果があるのか、できればその違いを自分の耳で確認してみたいものです。
そうはいうものの、防音カーペットの効果がどれほどのものか、通常のカーペットとの比較など実際問題としてできないのが実情で、どうしても未確認のまま購入ということになるようです。

ただ、この手合いはお値段のほうも意外に安くもないようで、やはり費用対効果という点では実際の「性能」を知りたいという方は多いと思います。

もっとも効果的な方法としては、アップライトピアノの防音によくある背後を専用の吸音材のようなもので覆ってしまうのと同じで、グランドの場合もこのお腹の下の部分を板や吸音材などで塞いでしまうと、音は劇的に抑えられるようですから、どうしても一定の防音効果が必要な場合はこれは最も効果的だと思われます。

この理論で、より丁寧な作り込みをして、メーカー自ら製品化したのがカワイのピアノマスクで、お腹の下はもちろん、その他の音が漏れ出る箇所を細かく塞いでしまう特注ピアノで、その圧倒的な効果に驚いたことがあります。体感的には「音量は半分以下だろう」という印象でした。
しかも、下部は換気窓のように開閉できるようになっているので、任意に調節できるという点も便利なようです。

ただし、これは本来朗々と鳴らしたい楽器の音を、敢えて押さえ込んでしてしまうというわけで、ピアノには可哀想なことをするようですが、現実の社会生活に於いてはピアノが中心というわけにはいきませんから、近隣への配慮という観点からすればやむを得ないことでエゴは許されません。

できることなら、楽器にではなく、部屋のほうに防音室に迫るぐらいの吸音効果のある対策が、現代の高度な技術を持ってすれば、もっと簡単・安価にできないものかと思います。
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愉快と不愉快

このところマスコミを賑わした佐村河内氏の事件は、彼が注目されるきっかけになったNHKスペシャルを、途中からですがマロニエ君も偶然見ていた経緯もあって本当に驚きました。

曲は番組内で流れるもの以外には聴いたことがなく、もちろんCDも買っていませんので、例の交響曲も通して聴いたことはありませんが、そもそもマロニエ君はあの手の副題が付いた類の、感動を半強制されるような曲は苦手なので、あまり興味は持っていませんでした。

ただ、今回の事実が発覚した後に出てきた情報によれば、青年時代までの彼は音楽とはおよそ無縁の生活を送り、高校の友人によれば当時からかなり目立ちたがり屋で大言壮語の癖があったとか。将来は役者志望だったそうで、なるほど「現代のベートーヴェン」という壮大な人物を演じきっていた「役者」だったんだなぁと納得しました。

こういう事件はむろん社会的には許されざることですが、誤解を恐れずに云うならば、マロニエ君にとって、週刊誌的ネタとしては甚だ面白く、大いに興味をそそる事件であったのも事実です。
詐欺詐称のオンパレードで、NHKはじめ各マスコミ、プロのオーケストラや音楽家、そのチケットやCDを買って涙する人々など、いわば世間をペテンにかけてしまった手腕には驚くほかはありません。はやく再現ドラマのひとつでも作ってほしいような、そう滅多にはない事件でした。

思い出しても笑ってしまうのは、さる音楽学者という人が、この交響曲のスコアを分析して、ひとつひとつの根拠を示しながら、これ以上ないという最大級の賛辞を惜しみなくならべ、大絶賛を送っていた様子などを思い出すときです。

マロニエ君もまさかこんな壮大な茶番とは思わなかったものの、ヴァイオリンの演奏を間近に聴くシーンで、弾いている女の子の体の一部に指先を添えて「その振動で聴いている」というのは、ちょっと不思議な感じがしました。

もちろん関係者は大変でしょうけれど、野次馬の一人としてはずいぶん楽しめました。

これとは逆に、笑えないばかりか、見ていてちょっと嫌な感じがしたのは、テレビでお馴染みの知識と知性を看板にしたコメンテーターの男性M氏でした。
「自分はこの人の曲を聴いたことがなかったけれど、この問題が起こってから聴いた。すると、申し訳ないけれど、後期ロマン派のマーラーにそっくりだということはすぐにわかったし、(別の曲では)バッハに似ているところがあるなど、聴く人が聴けば、どこにもオリジナリティというものがないことがわかるはず。それを検証もしなかったマスコミの軽率にも問題がある」というような意味のことを、いつもの偉そうな、自分は何でもお見通しという調子で、首を振りながら滔々と語っていました。

さらに驚いたことは、この「マーラーに似ている」という指摘は、そもそも日本フルトヴェングラー協会の野口さんという方が昨年の新潮45に書かれたものだそうで、ご本人が別番組に出演されておっしゃっていたことですが、M氏はそれにもいちおうは触れておくことも忘れず「新潮45に書かれた専門の方も私とおなじことを言っているようですが…」と、さりげなく言及。自分は音楽を専門としていなくても一聴すればその程度のことはパッと分かるし、現にそれは音楽の専門家が言っていることと見事に一致しているようだと云いたいようでした。
しかし、これはあまりにも苦しいこじつけにしか聞こえませんでした。

マロニエ君の印象では、マーラー風というのも言われればあの仰々しさなどそうとも思えますが、フィナーレなどは映画音楽的でもあったし、大河ドラマ風でもあったような覚えがありますが。

いつも時事問題に鋭い知性のメスを入れてコメントするというのがこのM氏のウリですが、要は知識こそがこの人の命のようです。しかも、この人の口から音楽に関する話を聞いたのは初めてでしたが、正直いっていかにも板につかない急ごしらえの発言という感じで、そうまでする果てしない自己顕示欲には、さすがにやりすぎの印象は免れませんでした。
この人はある程度は明晰な頭脳の持ち主かもしれないけれども、なんでもこの調子で、予定されたテーマを急いで調べて、読みかじって、集めた情報を頼りに、それをさも深い知識と見識から出てくるコメントであるように恭しく聞かせるというのが、カラクリとして見えてしまったようでした。

このときの、この人から受けた言いようのない不快な印象は、佐村河内氏と同じとは云わないまでも、そう遠くもない類似の種族ではないか…というものでした。
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紘子さんのお宅

先月の下旬だったと思いますが、民放のBSで中村紘子さんへのインタビュー番組が1時間ほど放送されました。

港区の古くからある高級マンションに彼女の自宅があり、マロニエ君が東京に居た頃からずっと紘子さんはここにお住まいで、わりにお近くでしたからしばしば近くを車で通っていたものです。

実は紘子さんのご主人が大のクルマ好きで、その関係から一度ご自宅へご一緒しましょうか?というお話がありましたが、ある意味興味津々でもあるけれど、なんとなく抵抗もあってグズグズ決断しきれないでいるうちにタイミングを逸して、その話も立ち消えになってしまいました。

ちょっと残念なような、まあそれでよかったような、当時はそんな気分でした。

番組では女性リポーターがこの高級マンションのご自宅を訪問するという趣向で、エレベーターのすぐ脇に玄関ドアがあり、それを開くとあの紘子さんが登場、笑顔で出迎えます。中へと招き入れられ、カメラもそれに続いてお宅の中へ潜入していきます。

玄関を入るなり、とにかく目につくのは、あちらにもこちらにも、たくさんの花々が活けられていることで、まるでなにかの会員制クラブのような雰囲気でした。この色とりどりの花々にとり囲まれた空間というのも、多くの人が中村紘子さんに抱くある種象徴的なイメージのひとつなのかもしれません。

いつも雑誌やテレビで見る、後ろにスタインウェイの置かれたお馴染みのリビングの他に、今回は特別サービスなのか防音設備を整えた練習室にもカメラが入りました。そこは紘子さんのいわば道場というべきスペースで、さすがにストイックな感じがあり、いつもここでさらっていらっしゃるのだそうです。

さて、インタビューの具体的な内容に触れても仕方がないので、ここでは映像からマロニエ君なりに目についた枝葉末節の、甚だくだらない印象を述べますと、意外だったのはピアノの前に置かれた椅子でした。
中村紘子さんは昔からコンサートでは決してコンサートベンチではなく、決まって背もたれのあるトムソン椅子が使われます。しかもそれを子供の発表会のように目一杯最高位置まで引き上げて、座るというよりは、ほとんどその前縁にお尻をちょこっと引っかけるようにして「全身で」ピアノに向かわれますから、よほどこの椅子がお気に召しているのかと思っていました。
ところがご自宅リビングのピアノの前には今流行のガスダンパー式のベンチが置かれ、さらにその脇には、通常のポールジャンセンのコンサートベンチもあって、普段はこれらをお使いだというのが察せられました。
どうやら、あのトムソン椅子は紘子さんのいわば本番用「勝負イス」のようです。

また、いつもお馴染みのリビングのスタインウェイはこれまでにもほとんど全身が映ることはなく、鍵盤付近のロゴが見えるアングルが固定ポジションのようで、この場所から紘子さんがいろいろなコメントを発するのがお定まりのかたちでした。そのピアノの足の太さから察するに、てっきりD型だと思っていましたが、最後の最後にほんの一瞬映ったピアノの全景によるとC型だったのはなんだかとても意外でした。ちなみにDとCは同じ足で、B以下が細くなります。
普通はDではない場合は定番のB型になるのがほとんどですから、Cというのはまたオツなチョイスです。

練習室もスタインウェイでしたが、こちらは艶消しで、おそらくはリビングにあるものよりも古いピアノだろうと思われました。こちらもサイズ的にはBかCのようでしたが、わずかなカメラアングルからは決め手が得られず、どちらかまではわかりませんでした。

今回最も印象的だったのは、さしもの中村女史も発言がずいぶん丸くなっていることで、この方からやや枯れた感じを受けたことは初めてでした。以前だったらとてもこういう言い方はされなかっただろうと思えるところがいくつもあり、ずいぶんと落ち着いた、どこか平穏な感じがしたのは、ああ中村紘子さんも歳を取られたのだなあと思います。
むろん、それだけ自分もまた確実に歳を取っているということでもありますね。
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娯楽の倒錯

それが今どきの世の中のニーズなのか、はたまた別の理由からか、そこのところはわかりませんが、このところのテレビで取り上げられる「病気」に関するネタが多いのには辟易させられてしまいます。

この傾向はいつごろからだったかと思いますが、間違っていなければ『あなたの知らない…』とかなんとかいう番組あたりがきっかけだったのではと思います。

はじめのころ、ためになるような気がして何度か見た記憶がありますが、まったくのデタラメとは云いませんがが、ほとんど偶発的な一例にすぎないような事象が脅迫的に取り上げられ、すべての人の身の上におこる可能性があるという調子で話は進み、スタジオに陣取った芸能人達も異様に恐れおののいて見せるものだから、視聴者としては際限のない不安に煽られっぱなしというものです。

しかし次から次へと内容は拡大し、これをいちいち鵜呑みにしていたら、とてもじゃありませんが普通の生活なんて送れません。
もちろん、自己管理の基本として心得ておくべき医学の常識程度なら必要ですが、あまりにそれが多岐に渡って注意々々の連続ではやってられないし、却って最低限の心得まで投げ出してしまいそうになります。

そもそも「可能性」ということになれば、人はそれぞれ生活環境も異なれば体質もそれぞれで、あまり執拗にそこをつつかれても、果たして自分の身体に有効な情報かどうかも疑わしい。
おまけに医学的研究は日々進化していて、それに基づく学説にも諸説混在して、以前の常識や定説が一夜にして覆されたりと、この点でも極めて不安定だということも忘れるわけにはいきません。

ともかくもこのようにして、スタジオに各専門の医師を呼んでは再現VTRを流して人々を脅してまわるのは、番組作りにも抑制と見識が必要で、健康管理の美名のもとに視聴者の不安を弄んで視聴率を取るのだとしたら甚だしい悪趣味だと思います。

これよりもさらに悪趣味きわまりないのは、仰天ニュースやアンビリバボーのたぐいです。
これらはほぼ類似の番組ですが、毎回取扱うテーマが異なり、世界の珍事件や魔性のオンナ、天才詐欺師の半生など、以前はそこそこおもしろい内容があるので暇つぶしに見るために録画設定していました。

ところが、最近やたらに多いのが「病気ネタ」で、中でも目を背けるのは「難病奇病に取り憑かれた子供」などを美談という逃げ道を作りながら、その病気に苦しむ人々の凄惨な様子を容赦なく写しまくりで、大半が密着取材&再現ドラマで、どうかうすると番組全体がそれひとつで終わってしまいます。

見るに耐えないような恐ろしい病気に蝕まれて苦悶している人や子供の様子を、その患部を含めてテレビカメラがこれほど追い回すこと、しかもそれが娯楽番組によって放送されるということに、マロニエ君は強い違和感を覚えるのです。

取材される側は、いろいろな事情もあって納得してそれに応じているのかもしれませんが、少なくとも放送のスタンスとして、この現状をなんとか改善に向けるための問いかけというより、ほとんど視聴率獲得のためのネタとしての扱いでしかなくのは驚くべき事です。

そのいっぽうで、現代は、ちょっとした発言ひとつが問題になり、追求を受け、責任を問われるという意味では、番組出演者もうかうか自分の考えも述べられない現状があるのも事実です。視聴者からクレームがつき、スポンサーからクレームがつけば事の是非を問うことなく、問題発言は削除され、その人は番組を降ろされるという構図が横行しています。

そうかと思えば、こんな悲惨な病気の話ばかりを娯楽番組が全国放送でお茶の間に垂れ流すのは、倫理的にも何の問題もないのか…今の世のルールというものがどうなっているのか、マロニエ君にはまったく見当もつきません。
早い話が、娯楽番組は潔く娯楽に徹するべきで、難病奇病がレギュラーネタとは、娯楽の在り方があまりに倒錯的すぎはしないだろうかと憂慮の念を禁じ得ません。
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ワクワク?

最近は郊外のドライブスポット「道の駅」に代表されるような、各地域の物産などを扱う集合直売所のような形態がずいぶん流行っているようです。

友人から教えられて、いわゆる「道の駅」ではないものの、ほぼそれに近いもので話題の店があるということを聞きました。しかもそこはこのスタイルの店舗としてはなんと全国一の売り上げを誇っているとかで、さぞかし新鮮な食材が山積みなのだろうと思い、先週末行ってみました。

マロニエ君宅から車で1時間ほどかかる田舎の幹線道路の近くにそれはあり、やはり行ってみるとそれなりに遠いなぁという印象は免れません。なるほど大きな建物、広い駐車場など、期待を抱きながら車を止めていざ店内に入りました。

しかし、結果から先に云うとまったくマロニエ君好みの店ではありませんでした。
もともと低血圧で、午前中から外出するということが嫌なマロニエ君としては、どうしても昼食後の出発になり、到着したのは3時をまわっていましたが、肉魚などの生鮮品は大半がなくなっており、あちこちのケースにはかろうじてぽつぽつと売れ残りがある程度で、なんだこれは!?という状況でした。

野菜などはまだいくらかありましたが、いずれにしても完全にここのゴールデンタイムは過ぎ去った後の残りカスといった風情です。
一気にシラケて、普段ならそのまま店を出るところですが、せっかくそのために時間を費やし、ガソリンを使ってせっせとやって来たわけですから、せめて何かを買って帰ろうと無理にあれこれ探し回って、とりあえず不本意ながらカゴ一杯の買い物をするだけはして店を後にしました。

そこでマロニエ君の印象を総括すると、多くの生産者がそれぞれの商品を持ち寄って売っているために、商品の種類や量に一貫性がないこと、売れ残りを嫌ってか、全体のバランスから云うと肉魚のスペースが小さく、野菜などの農産品がむやみに多いようです。
さらに感じるのは、田舎の直売と聞くといかにも新鮮で安いというイメージを抱きがちですが、鮮度はどもかく、値段は決して安くはないということです。

この点に関しては田舎とか地元だからという配慮は皆無で、まさに街のド真ん中と同レベルもしくはそれ以上の強気の価格設定で、まずはがっかりしましたが、考えてみればこれは実はよくあることなのです。

田舎の皆さんが商売をされるときの多くは、都会の価格を参考にされるのか、それと同等の価格設定にしてしまうことですが、利用者にしてみればそんな遠くまで行った挙げ句、街中と同等の値段であればちょっと説得力がないように感じます。生鮮品の価格というのは、産地から消費地への輸送費はじめ、様々な経費がかかってはじめて算出されているもの。

いかにも本来なら業者に支払うべき中間マージンをそっくり自分達の儲けにしているという印象が免れません。スーパーやデパートは、多大な設備投資、人件費、税金、宣伝費など膨大なコストがかかる中で、さらに厳しい価格競争にもさらされ、売価は緻密に定められたものですが、そういう途中経過ぬきに同等の数字だけをもってきた印象です。

ぜんぜん安くないと首を捻っていたら、偶然、ある日の朝刊にここの記事が大きく採り上げられていて、「価格はスーパーより高い」ということがはっきり書かれていました。
それでもお客さんは、生産者が持ち寄る野菜などが日によって違うため「今日は何が出てくるか」というようなことをワクワクしながら楽しみに来ているのだとか。ということはお客さんも比較的ここの周辺在住の方が主流じゃないのかと思われます。

なんとなくよくわからない世界ですが、これはこれで不思議に成り立っているようです。
近ければまだしも、苦手な早起きをし、往復2時間のドライブをしてまで、日替わり野菜を求めてワクワクするなんて、とてもじゃありませんがマロニエ君にはできそうにありません。
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ピリオド調律?

最近のN響定期公演ではロジャー・ノリントンの指揮が多いようです。
彼の得意なベートーヴェンのみによるレオノーレ第3番、ピアノ協奏曲第3番、交響曲第5番というプログラムの演奏会の様子が放映されました。

ピアノはラルス・フォークトで、ノリントンの要求によりこの日もピアノはオーケストラの中に縦に押し込まれ、フォークトは客席に背中を向けるかたちでの演奏となりました。

この日の映像で目についたのは、NHKホールのステージ奥には縦長の巨大な反響板とおぼしきものが5枚立てられていることで、これによってオーケストラの音は一気にクリア感を取り戻し、同時に空間に抜け散ってしまうパワーも以前に比べるとだいぶ出ていたように思います。

とくにステージ奥に横一列に並んだコントラバス群がその反響板の恩恵に与っているためか、低音のずしりとした響きが加わって、レオノーレ第3番ではおやっと思うほどの効果が出ていたようでした。

続くピアノ協奏曲第3番では、長い序奏に続いてピアノがハ短調のスケールで力強く入ってきますが、ここでいきなり肩すかしを喰ったような印象を受けました。
単純に言ってしまえば、まるでピアノが鳴っていないかのような音で、はじめはマイクの位置の問題だろうかとも思いましたが、どうもそうではない。そもそもスタインウェイの平均的トーンすら出ていないし、カサついたまるで色艶のない音には違和感ばかりが先行しますが、ほどなくその理由がわかったような気がしました。

あくまでもマロニエ君の想像の域を出ませんが、ノリントンのピリオド演奏の様式に合わせるように、ピアノもフォルテピアノ的なテイストを与えるべく、意図的にそのような調律がされているのだと理解しました。
同時に、調律でそこまでのことができるという可能性にも感心して、ある種の面白さも感じなくはありませんでしたが、とはいっても、とても自分の好みではないことは紛れもない事実でした。

そこまでするのであれば、いっそ本物のフォルテピアノを使うべきではないかと思いますし、テンポやピリオド奏法や解釈など、作曲当時の諸要素に徹底してこだわるというのであれば、当然ながら会場のサイズにも配慮が必要で、ベートーヴェンがNHKホールのような巨大ホールをイメージしていたとは到底思えません。

枯れた弱々しい伸びのない音を味わいだと云うのであればあるいはそうかもしれません。しかし、一方では骨董的な甚だ貧相な音にも聞こえるわけで、どうにも消化不良気味になるという側面を持つのも事実だと思います。さらに大屋根を外しているので音は上へ散ってしまい、せっかく立てられた反響板もピアノにはほとんど役に立っていないようでした。
いろいろな試みに挑戦することは創造行為に携わる芸術家として見上げたことだと思いますが、結果がある程度好ましいものに到達できていなければ、やっている人達の自己満足のようで、幅広い意味を見出すことはできないのではと考えさせられてしまいました。

ノリントンの好みや方法論によれば、協奏曲でも独奏楽器とオーケストラが融和し一体となって音楽を作り出すことのようで、それは大いに結構なことですが、だからといってピアノ協奏曲に於けるピアノの音がオーケストラの中へ埋没したように音が弱く、p/ppでは聞き取ることさえ苦労するようでは、一体化もいささか行き過ぎではないかというのが正直なところでした。

フォークトの演奏は、基本的なものがしっかりしている反面、ディテールの表情に恣意性と誇張がみられ、音楽が自然な流れからしばしばはみ出すようで、聴いていて心地よく乗っていけない部分があるのが残念だと感じました。
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ピアノポリッシュ

車の艶出し剤のことを書いた流れで思い出しましたが、昔からマロニエ君はピアノの付属品の中に必ずといっていいほど入っている定番商品──ピアノユニコンはどうしても上手く使いきれず好きになれません。

ユニコンという言葉の意味が調べてみてもいまひとつよくわからず、なんとなく成分がシリコンなのかもしれないと思ってボトルを見てみると、案の定、成分表示に「シリコンオイル/非イオン界面活性剤」と記されています。
「汚れや手アカを落とし、つきにくくすると同時に艶を出す」という効果を謳っているので、表面の滑りを良くして輝きを出すという目的からシリコンオイルという判断なのかとも思いますが、能書きはどうであれ、要するに使ってみてこれほど使い方が難しく、仕上がりに満足できないものはないというのが昔からの印象でした。

白い液体を柔らかい布地に含ませてピアノの塗装面に塗り広げるものですが、自分で云うのもおかしいですが、洗車マニアでならしたマロニエ君としては、自分なりの磨き技術を駆使してやってみるものの、どんなに丁寧に拭き上げようと努力しても、あちこちに油性のムラが無惨に広がるばかり。これを無くそうとすると、延々とこの液体を塗りまくってムラを埋めていくことになりますが、結局は油性のベトついたイヤな部分が増えていくだけで、本質的な解決には至りません。

感触もギシギシした油っぽいもので、艶もオイルを浸透させることで得られるコッテリ系のもので、品位のある美しさとは程遠い印象です。
ピアノの表面は斑の艶に覆われ、かえって薄汚れたような感じになってしまいますから、これだったら単純な水拭きか、艶が出したければ自動車用ワックスでもかけたほうがまだいいような気がします。

こういうわけで、メーカーなどから販売されているピアノユニコンの類は一切使わないできましたが、昨年たまたまこのピアノユニコンの新品をいただく機会があり、さすがにもう時代も変わって改良されているだろうという期待を込めて恐る恐る使ってみると、果たして結果はまったく変わらずで、なにひとつ進歩していないことに愕然とさせられました。

車の塗装面のケア剤が日進月歩で驚くばかりの高みに達している事実に比べて、メーカー推奨のピアノユニコンは旧態依然としたものを作り続けているようで、そもそも大半がサービスでつけるだけのピアノ磨き剤なので、より良い品を開発しようという意志も意欲もないということなのか…。

それにしても不思議なのは、実際にこれを使った人達からよくまあクレームがつかないものだということです。とりわけ新品ピアノを購入されたお客さんなどは、真新しい一点の曇りもないピアノにこの艶出し剤を塗りつけることで、直前までの完璧に美しい均質な塗装面は、油による艶とも汚れともつかないような斑状態に変化してしまい、ショックじゃないのだろうかと思います。

その点では、車関係のケア剤は遥かに良品が揃っていますが、これをピアノに応用することは一応目的外使用になるので、自己責任でおやりになる方以外、やはりこういう場でのおすすめはできません。

そこで「ピアノ用」としてマロニエ君が知る唯一の合格点アイテムは、以前も少し書いた覚えがありますが、ソフト99から発売されている『ピアノ・家具・木製品 仕上げ剤』という商品で、これはホームセンターなどで500円ほどで売られているものです。
歯磨きのようなチューブに艶出し剤が入っていて、それを柔らかい布でうすく塗って、さらに着古した下着(メリヤス生地)などで拭き上げていくものです。

これはピアノユニコンとはまったく別次元の美しい仕上がりで、そのための特別な技術も必要とせず、ムラもほとんど出ることなく、どちらかというとクルマのコーティング剤に近い使い方と仕上がりだと思います。
おまけに艶にも節度があってこの点も好ましいものです。そもそもピアノの艶の美しさはやや控え目なものでなくてはならず、むやみに油性系のぎらつきを与えてオートバイみたいに自慢するようなものではないというのがマロニエ君の好みです。
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端正と解放

日曜は、「日時計の丘」という瀟洒なホールがシリーズで開催している、バッハのクラヴィーア作品全曲連続演奏会の第4回に行きました。

演奏はこのシリーズを初回から弾き進んでおられる管谷怜子さんで、今回はフランス組曲の第4〜6番、トッカータのBWV913、914、912。
冒頭フランス組曲第4番の開始早々、予想外の静けさとたっぷりしたテンポは意表を突くもので、ハッとさせられましたが、すぐにこれは熟考されたものであることが了解でき、たちどころにこの日の音楽世界にいざなわれます。

まるでこの日のコンサート全体の幕が、この悠揚たるアルマンドの提示によって静かに上がっていくようで、こういう出方をされると、いやが上にもこれから始まる音楽への敬意と期待で胸が膨らみます。

管谷さんの特徴は、まったく衒いのない表現が、澄みわたる完成度をもって聴く者の心に直に響いてくることだと思います。思慮に満ちた端正なアプローチでありながら、その演奏は常にのびやかに解放されており、決して型の中だけで奏でられる小柄な音楽ではないことは特筆すべきことです。

とりわけ弱音の美しさとバランス感覚には目をみはるものがあり、どんなにピアニシモになっても音の肉感が損なわれず、音楽の実相がまったく弛緩することがないため、繊細な部分ならではの音楽の豊かさを感じる喜びに満たされます。そして必要とあらば圧倒的な推進力をもってその演奏が勇躍するさまは感銘を覚えずにはいられません。

フランス組曲では、各舞曲が決然としたテンポ設定で弾きわけられているのが印象的で、良い意味で前後影響し合うことなしにそれぞれが独立しながら隣接しており、だからこそ組曲としての端然とした姿が描き出されていることを実感できました。

トッカータでは、デリカシーとドラマ性、潔さと苛烈さが的確に機能して、若いバッハのほとばしるエネルギーを赤裸々に皮膚感覚で体験するようでした。

アンコールはカプリッチョ「最愛の兄の旅立ちにあたって」。

ピアノはこの会場の1910年製ブリュートナーですが、104歳にしてますます音の重心が座って色艶を増してきており、決して大きくないボディから朗々たる美音が放射されて会場の空間を満たすのは驚くばかりです。
専門家の中には、したり顔で「ピアノは弦楽器と違って完全な消耗品、せいぜいン十年が寿命です」などと断じる人がいますが、ぜひこういうピアノを聴かせてみたいところです。枯れた音色を消耗した音だとみなすなら、ストラディヴァリウスでも消耗品で、決して未来永劫のものではありません。

マロニエ君は古いディアパソンを購入してからというもの、新しいピアノに対する興味が減退する一方で、このような佳き時代の、馥郁とした温かさとパワー、人の情感に寄り添うような多彩な表現力をそなえた「楽器」を感じるピアノがこれまでにも増して魅力的に映るようになりました。
この魅力の前では、多少の鳴りムラや些細な欠点など問題ではありませんし、味のない機械的な音がいくら均質に揃っていてもそこに大きな価値があるようには思えないのです。

それだけ自分が歳をとったということかもしれませんが、やっと身をもってわかってきたような気がします。
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ゼロウォーター

前回の続き。
拭き取り不要のコーティング剤を比較するサイトなどを参考にさせてもらって、ひとつの結論に到達しました。

シュアラスターのゼロウォーターという製品で、このメーカーは自動車用ワックスメーカーの中では老舗中の老舗で、むかしからその品質には定評がありました。
これは自動車大国アメリカの製品で、これに追いつけとばかりに日本製にもいろいろと優秀な製品があらわれたものの、この分野でのシュアラスターのトップの座は揺るぎませんでした。

そのうちに、ワックス一辺倒の時代からコーティングが主流となる時代が到来しますが、そのつどシュアラスターも時代の要請に応じた製品作りをしてきたようです。
そのシュアラスターが送り出した拭き取りの要らないコーティング剤が「ゼロウォーター」というわけで、メーカーも自社の威信をかけて開発した製品だろうと思われます。

使い方はごく簡単で、車を水洗いして水分を拭き取る際に、このコーティング剤をシュッとスプレーし、付属のウエスで拭き上げていくだけです。しかも使用量は50cm四方にワンプッシュとあり、しかも作業が簡単なことは、これまでの洗車の常識からすればウソじゃないかと思ってしまうレベルで、クルマの艶出し作業に於ける、あまりのドラスティックな変革に感覚が付いていけない感じでした。

しかもスプレー式のノズルからは発射される液量は少なめで、さすがに耐えられなくなってそれよりも余計に使ってしまいますが、いずれにしてもこんな呆気ない作業というか、そもそも「作業」と呼ぶのも憚られるような施工で、本当にコーティング効果が得られるものなのか甚だ疑問でした。

ともかく一通り全体にこの作業を施して、そのあとはガラス磨きの仕上げなどをやって、ふともう一度車を見ると、!?!?、たしかにボディがひとまわり輝いていることがわかりました。
それは昔のワックスとも、各種コーティング剤とも違ったタイプの輝きで、皮膜の厚みは感じませんが、もっと底からカチッと光る状態になっており、これはすごい!と思いました。

しかも従来のワックス/コーティング剤とは桁違いの安楽な使用法が最大の特徴でもあり、洗車の度に、水滴の拭き上げのついでのような形で重ね塗りができるので、たちまちゼロウォーターに乗り換えてしまいました。

さて…。
実を言うと、マロニエ君は昔から車のコーティング剤などの中から、これは!と思えるものはピアノにも応用して、それなりの効果を確認してきた面がありました。
中にはピアノ専用などと謳われているものより遥かに優れたものもいくつかあり、長らくピアノのポリッシュなどは買ったためしがないほどこれで間に合っていました。

というのも、車の塗装のほうがある意味ずっと繊細かつデリケートで、その点ではピアノの塗装はがっちり分厚く、塗装というよりはほとんど黒もしくは透明のプラスチックでコーティングされているようなものなので、こちらのほうがよほど頑丈のように感じます。

この分厚いチョコレートみたいな塗装こそがピアノの音色を大いに阻害している面もあるようで、純粋に音だけでいうなら塗装を全部剥いでしまったほうが遥かに軽やかでナチュラルで柔らかな響きが得られるはずです。そういう意味では、とことんピアノの音にこだわり、そのためには何事も厭わないというのなら、ピアノの塗装を全部落としてしまうといいと思います。

話が逸れましたが、このゼロウォーターをピアノに使ってみるか否か、それを思案しているこのごろです。
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拭き取り無し

少し前の事ですが、友人と電話でしゃべっていると、洗車に関して新情報が寄せられました。

マロニエ君はむかし、ちょっとした洗車マニアだったのですが、さすがに最近ではそれを発揮することも激減し、ごくたまに仕方なく車を洗っているに過ぎません。
ちなみにマロニエ君は、身についた愛車精神の観点から、いかなることがあっても洗車機に車を突っ込むというようなことはしませんから、この点だけは今でも洗車=自分での手洗いを貫いています。

むかしは洗車後はワックスをかけるというのが、いわばこの道の常道で、ワックスのかけ方にもさまざまなワザやノウハウがあったものですが、時は流れ、そのうちコーティングの時代がやってきます。

ワックスでは文字通りのカルナバロウでできた固形物を塗装面に薄く塗り、まさに今だというタイミングで拭き上げて深い艶を出すのが目的でしたが、コーティングの時代になると仕上がりの美しさと同時に塗装面の保護という意味合いを帯びてきて、ただギラギラ光らせて喜ぶ時代から、その目的も複合的なものへと変わって行きました。

マロニエ君にも長年の経験から、これだと決めているコーティング剤があって、もうずいぶん長いことこれ一筋でしたが、このところ新製品にはすっかり疎くなっていました。

ところが、友人の情報によると、もはやその手のコーティング剤は使っていない由で、いま流行の「拭き取り無し」タイプを使っているのだそうで、これが話によるとなかなか良さそうで、聞くなり試してみたくなりました。

もともとマロニエ君は、「カーシャンプーと同時にワックス効果がある」とか、「水洗いナシで汚れを落として艶を出す」などという便利型の製品は、自分の経験からろくなものがなく、要するに妥協の産物だということを知っていましたから、この手の拭き取り無しタイプもてっきりその手合いだと思い込んでいて、存在だけは知っていましたが、まったく見向きもしていなかったのです。

しかし、考えてみると使いつけのコーティング剤もまだ販売はされているものの、既にずいぶん古い製品ですから、世の中の他のジャンルの発展ぶりを考えてみても、この分野とてかなり進化していても不思議はないと思われました。

洗車で最も大変なのは、ワックスにしろコーティング剤にしろ、その拭き取り作業にあるわけで、時間もかかり、それなりに集中力と体力を要し、ただやみくもに頑張ればいいというものではなく適正な技が要求される作業で、これを満足に仕上げるのはなかなか大変です。そこが洗車の醍醐味だといえばそうですが、かといってその大変な労力が激減されるのであれば、やはり今の自分には魅力だとも思いました。

友人はマロニエ君が(かつての洗車マニアなので)満足するようなものではないかも…と言いながらも、その製品名などを教えてくれて、久しぶりにすっかりその気になり、いそいそとカーショップへ赴きました。

ところが、店頭には同種の製品があれこれと並んでおり、友人が使っているというものの他にも良さそうなものがいくつかあって、これは即断せず、いったん引き上げて調査をしてから出直すべきだと直感的に感じ、このときはなにも買わずに帰ってきました。

その夜、さっそくネットでこの分野を検索してみると、やはりいろいろと情報が出てきて、中には自分の車を試験台にして、あらゆる種類の「拭き取りなしのコーティング剤」をテストしているディープなマニアのサイトまでありました。
この人は、もちろんシロウトですが、なんとメーカーからも一目置かれて新製品など使ってみないかと申し出られるほどの人物のようです。作業性や艶、耐久力、値段など実に10項目に及ぶ採点までしていて、さすがに参考になることが満載でした。

驚いたことには、洗車そのものを楽しむクラブまで存在していて、いやはや、どの世界も道も極めるということはなんと奥深い、楽しい、そして馬鹿馬鹿しい世界かと、呆れつつも共感させられて笑ってしまいました。
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貧しき遺伝子

厳しい寒さが続いています。

お鍋の季節真っ只中とあって、スーパーや食料品店に行くと鍋料理の食材を集めたコーナーがあちこちに設置されています。そこにはパック詰めされた各種お鍋のスープがこれでもかとばかりに並んでいますが、以前に比べるとその種類も飛躍的に増えて、聞いたこともないような名の新しい鍋料理もいろいろあって感心させられます。

代表的なところでは寄せ鍋や、博多なら水炊きといったところでしょうが、これらのスープにはいつも不思議で仕方ないことがあります。

大半のスープの量は750〜800mlで、触るとブカブカした袋には決まって「3〜4人分」と書かれていますが、これってそもそも表示された人数に対して適量だろうかと思います。この手はストレートタイプなので、袋の中に入ったスープが正味の量となるのですが、とてもじゃありませんが我が家はいつも足りません。

3〜4人はおろか2人でも甚だ心もとない量で、本当にこれでみなさん量的に満足されているのだろうかと思います。二つ使いたいところですが、そうなると金額的にばかばかしくなりますし。

マロニエ君は大抵のことは日本のモノや習慣や尺度は好きですし、むろん慣れてもいますが、ことこういう食に関する量の基準だけは、日本って貧しいなぁと思ってしまいます。

上げ底なども日本の悪しき文化のひとつで、世界的にもとりわけ商品クオリティの高さで信頼される国でもあるにもかかわらず、量的な部分になるととたんにしみったれた習性が露わになります。海外に行くと、欧米はむろんのこと、たとえアジアの近隣諸国でさえ、量に対する尺度が日本とはまるで違うことを痛感させられます。
べつに高級店でなくても「一人前」というものに対する量の保証がきっちりあるのは、本来当たり前のことかもしれませんが、日本人の目にはそれが感動的に映り、その量だけで彼我の違いを感じます。
この点では日本人は昔から量的ミニマムに慣れっこです。

こんな他国の社会のなんでもない量的尺度からみると、日本は食に関しては所詮は貧しかった遺伝子が大和民族の心底からいまだに抜けきれないのだろうと思わずにはいられません。
昨年は日本料理がユネスコの無形文化遺産へ登録されたそうで、それはそれで結構なことですが、思うに日本料理のもつ気品と洗練の元を辿れば、そもそも食の貧しさと絶対量の不足に源流があるのではとさえ思います。

高度な技や凝った盛りつけ、器との対比、季節ごとの貴重な食材を珍重するなど、繊細な感性や精神性までも取り込んで、ついには芸術的な高みにまで到達したのはなるほど見事だと思います。
しかし、見方を変えれば皿数ばかりで、盛りつけというより飾り付けのようで、どれもこれもがつまみ食いのように少なく、それに不服を唱えればたちまち風流も情趣も解さない野蛮人のように扱われてしまいます。

しかし、やっぱり元を辿れば少ないものをいかに尤もらしく美しく見せるかという、知恵や言い訳から出発した文化ではないかと思うのです。日本の伝統的な美術が空(くう)を多用し、そこに深奥なる意味をもたせることで表現の粋を凝らしているのはわかりますが、食にまで空を求めるのだとしたら、これはいささか逸脱が過ぎるようにも感じます。

冒頭の鍋用スープも、あれで3〜4人分という表記でも一向に問題にならず、各社一斉に同じ量で横並びに製造販売され、消費者のほうも常にカスカスの量でガマンするが普通なのは、世界中でも日本だけではないかと思います。
国際基準的にいえば、あれはたぶん一人分じゃないかと思います。
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ロバート・レヴィン

過日のツィンマーマンのブラームスに続いて、貯まった録画からノリントン指揮N響、ロバート・レヴィンのピアノでベートーヴェンのピアノ協奏曲第2番を聴きました。

ノリントンは今日の大きな潮流である古典奏法を用いる指揮者の一人で、一貫してヴィブラートと使わない演奏は好みが分かれるところだと思います。
ロバート・レヴィンはフォルテピアノ奏者として有名な人なので、てっきり古楽器による演奏かと思っていたら、サントリーホールのステージ置かれているのは現代のスタインウェイでした。

それでも普通と違うのは、大屋根が取り払われ、オーケストラの中央に客席にお尻を向けて、縦にピアノが突っ込まれている点で、客席とレヴィン氏の顔が向き合う形になることでした。

ノリントン氏は協奏曲の場合はいつものようにオーケストラの中に入り、ピアノのすぐ横の向かって左から、やはりレヴィン氏と同じく客席側を向いて愉快そうに指揮をします。
開始早々からレヴィン氏はオーケストラに合わせてオブリガート風にというか、とにかく思うままにピアノを弾いており、やがてソロパートになればそれを弾き、そこを通り過ぎればまたオーケストラと一緒に弾いているというもので、まるでバッハの協奏曲のようなスタイルでした。

以前ほどこういうスタイルも珍しくはなくなったとはいうものの、まったくの違和感がないといえば嘘になり、一定の理解と慣れができてきているものの、マロニエ君はいまだに長年慣れ親しんだスタイルのほうが落ち着くのも正直なところです。
しかし、すでに以前ほどの抵抗はないどころか、これはこれで面白いと素直に思えるようになったことも正直なところで、なによりもロバート・レヴィンはモダンピアノを弾かせてもなかなか見事なものでした。

古典奏法の第一の意義は、作曲された時代考証に沿った演奏スタイルを取り入れることで、作曲家がイメージしたオリジナルの姿に近づけることで、その響きや音楽言語も作品本来の声やイントネーションで語らせるということだろうと思います。
テンポやアクセント、楽器の鳴らし方などが違うから、より鮮やかで活力のあるもののように云われますが、マロニエ君は考証や奏法の問題だけには留まらないないという気がします。
それはまず、新しい挑戦をする演奏家達の、音楽に対する覇気や意気込みの違いが大きいのではないかと思います。

今回もレヴィンの演奏を通じて感じたことは、演奏者の音楽に対する最も基本となるスタンスの問題でした。モダン楽器の奏者が十年一日のごとく同じ曲を決まりきったように演奏することで、ある意味、狭さとマンネリが避けられないまでに迫ってきているのに対し、古典奏法の奏者は常に思索的で挑戦的で、音楽の意義と原理に対してより謙虚で敏感であろうとしていることを痛感させられます。
演奏に際して、常に創造性をもって模索を怠らないことは大いに注目すべきであるし、モダン奏者はこの点でいささか怠惰であると感じずにはいられません。

モダン楽器の演奏家は、作品への畏敬の念や音楽が本来もつ愉悦性や率直な魅力を忘れ、自己が先行するなど、やや本道から外れ気味のところへ意識が行っていると感じることがしばしばです。

かといってマロニエ君自身は、ピリオド楽器や古典奏法のすべてを受け入れ切れているとは云えず、やはりモダンのほうに安堵と喜びを感じる部分が多分に残っているのも事実です。
それでも演奏家が音楽と対峙するすずしさや喜びの姿勢が、モダンではやや崩れている、あるいはないがしろにされていると感じるのは否定できず、その点では心地よい時間を楽しめたように思います。
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プロ意識の奥行

ここでは必要ないと思われますので、敢えて固有名詞は控えます。

それでもわかる人にはわかる事でしょうが、そのときは、あくまでマロニエ君が個人的に感じたことということで寛大に受け止めていただけたらと思います。

先ごろ日本人のさる有名アスリートが活躍の拠点を海外に移すべく、大変な注目の中、日本を旅立っていきました。
その様子をニュースでチラッと見ましたが、空港に詰めかけた大勢のファンに対する謝意やサービスはおろか、これという反応や挨拶もなく、この人物はこのような報道カメラの砲列と夥しいファンの歓声は、自分にとって空気のように当たり前だと思し召すのか、不機嫌そうにサングラスをかけ、黙して昂然と搭乗ゲートへと歩を進めて行きました。

マロニエ君が以前聞いた話では、野球選手がメジャーリーグなどへ移籍して、はじめに彼我の違いに驚かされるのは、彼の地での選手達に科せられたファンサービス義務の厳しさだということでした。
プロたるものはファンに対する多くの責務を負っており、とりわけ人気プレイヤーともなるとその義務の度合いもいっそう高まるのだそうで、いかなるスター選手といえども、ファンあってのプロ活動であり、ファンを大切にしなくてはいけないという鉄のルールが身体に叩き込まれているといいます。

日本人選手にはまるでそういうプロフェッショナルとしての厳しさが見受けられず、むしろ逆のような印象です。有名プレイヤーになればなるほど笑顔は消え去り、ことさらに不遜な態度で、ファンとは身分違いのようにふるまうことが一流プレイヤーの証しのごとくで、まるで封建時代のお殿様と民衆の関係のようです。

件の選手は、野球でないためかさらにその傾向が際立つ印象で、それがスターとしての自分のステイタスであるかのようですが、日本人はファンもマスコミもそのあたりに関しては寛大なのか、だらしがないのか、いずれかわかりませんがとにかくそれでまかり通る社会のようです。

ところが、一歩海外へ出れば、そんな日本だけで許される慣習は通用しないと見えて、到着後さっそく厳しい言葉が現地の新聞に踊ったようです。

「彼にはスーツは似合わない」「あのスーツが良くないのではなく、スーツが彼には似合わない」「もっとスポーティな服装のほうが似合うのでは」「あのサングラスはなんだ」「まるでヤ○ザのようだ」「○○(過去の日本人選手の名前)のほうがまだ洗練されていた」などと、はやくもズケズケと手厳しい言葉が連なったのはちょっと痛快でしたが、この程度の批判をされるほうがむしろ自然であって、却って日本での過剰な扱いの不自然不健全さが浮き彫りになるようでした。

あとから知って驚いたことに、なんとこの方は、本業のスポーツの次に大事なのが自分のファッションなのだそうで、高額なブランド品に身を包み、ヘアーのお手入れだけでも数時間をかけているというのですから驚倒しました。
その本業の次に大事なものを、ファッションの国のマスコミからいきなりダメ出しのカウンターパンチを喰らったわけですから、なんともお気の毒といったところです。

でも、そもそもスポーツの選手というものは、大衆相手の人気商売なんだから、周りから勝手放題なことを浴びせられるのもいわば仕事のうちで、日本のように腫れ物にさわるように、高いところへ奉って有り難がって、なにひとつ率直なものが言えないということのほうが、よほどどうかしていると思います。

熱烈なファンともなると、応援のためには会社を休み、高い航空券を買って海外にまで赴く人も珍しくないそうで、瀬戸内寂聴さんではありませんが、そんな無償の愛をありがたいと骨身に刻んで粉骨砕身励むのがスター選手のプロ意識であり、社会もそれを選手に教えていく環境が必要だと思います。
つまりこの選手個人というよりも、ずっとそういう態度を容認してきた日本のマスコミとファンの甘やかしにも責任の一端があるように思うのです。
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機械的強味

昨年末、ステファン・パウレロのピアノのことを教えられたことがきっかけで、このところ、いろいろとこのキーワードに触れることになりました。

ステファン・パウレロ氏はピアニストでピアノの設計者、さらにはピアノ製作家でもあるようで、一部では天才技術者とも認識されているようです。
さっそく稀少なCDを購入して、パウレロ氏の設計製作によるピアノの音を聴いてみたのは以前書いた通りですが、とりあえず音の傾向も(自分なりですが)掴めてきたような気がします。

また、彼の設計だという中国生産のウエンドル&ラングやフォイリッヒの218もYoutubeで可能な限り聴いてみました。このふたつと、その製造会社であるハイルンの、少なくとも3つのブランドでこの218モデルを共有しているのは間違いなく、ブランドによって最終的に味付けなどが異なっているのだろうかと思いますが…そこはよくわかりません。

パソコンにタイムドメインのスピーカーを繋いでさんざん聴いてみましたが、たしかに今風の音でよく音が出ていると思われ、まずは率直に感心しました。しかし、もうひとつ惹きつけられるものがなかったことも事実です。

もちろん値段が値段なので、それを分母に考える必要はありますが、低音にはそれなりに轟然とした迫力があるし、中音以上は音の周りに柔らかな響きの膜みたいなものがまとわりついていたりと、なかなかのものだと思ったのも正直なところです。
ただし、なんとなく音の芯が強めで、あくまでもマロニエ君の好みですが、どこかクールといった印象を受けます。それは安い中国製から超高級なフランス製ステファン・パウレロ・ピアノまで、どことなく共通しているようで、設計者が同じというのはこういうことかと妙に納得してしまいました。

そんなとき、携帯に知人からメールがあり、「ステファン・パウレロ氏はかつてヤマハのC3Bも設計したらしい」と書かれており、はじめは驚きましたが次第に合点がいきました。最新のヤマハはよく知りませんが、言われてみれば昔のヤマハと相通じるものを感じていることに気付いたからです。

一台だけを聴いていとパワフルだし、ムラもなく確実な音が出るし、製品としてもそれなりの筋が通っているので、つい納得させられてしまうのですが、時間を置くと、ピアノという楽器を聞いた後の余韻の美しさみたいなものが心に残らない…そんな印象を持ちました。
聴いているときは悪くないと認めつつも、酔いしれるということがなく、感心はしても平常心のままで、それ以上には至りませんでした。

全音域に均質感があり、適度に迫力やパンチがあるので、こういうピアノは短時間の試弾などでインパクトを得やすく、わかりやすい訴求力があるので、広い層からの支持を得られやすいだろうと思います。
まさにヤマハがそうであったように。

218は文字通り奥行きが218cmなので、ヤマハで云うとC6XとC7Xの間ぐらいのサイズです。
価格は日本国内の定価が280万円で、値引き幅もあるようなので、コストパフォーマンスは相当高いと思われます。同工場製のウエンドル&ラングも、最近では国内の優良ピアノ店でもぽつぽつ取扱いがあるようなので、そのあたりを考え合わせると、いわゆる巷にあふれる中国製のデタラメなピアノではないのだろうとも思います。
もしもピアノを好きなだけ買えるような大金持ちなら、どんなものやら試しに買ってみるのもおもしろいでしょうし、一定の興味はそそられます。

ただ、楽器として長い付き合いのできるピアノかどうか、あるいは道具と割り切ってガンガン使うには機械的な耐久性などがどうなのか…このあたりはまったくの未知数でしょう。
実はそのあたりを疑問視する声を間接的に聞いたことがありますが、耐久性はピアノの極めて重要な要素のひとつなので、いくら音がよくて安くてもわずか数年で問題が起こるようでは困ります。
その心配のないことが証明されれば多くの支持を集めるのかもしれません。

その点では、ヤマハの機械的な耐久力が抜群であることは世界にも定評がありますから、とにかく冒険を避けたいという向きにはやはりヤマハは最終的に強いですね。
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休日過多

昔に比べて休日があまりに多いのは、ときとして有難味がなくなってしまいますが、多くの人はこの多休(造語)を本当に楽しんでいるのでしょうか…。

マロニエ君の子供のころは、学校はもちろん、会社やお役所など、土曜も休みではなく、つまり世の中全体が一週間のうち6日間を仕事や学校に費やすのが当たり前でした。
そのうえ祝日も今よりも少ないし、おまけに日曜と重なっても月曜への振り替えなどもありません。

週末といえば土曜のことで、日曜日というわずか一日の休みを大事に楽しく過ごしていた事がウソのように、最近は休み休みの連続で、週休二日が定着するようになった頃から社会の活気もだんだん失われたきたように感じてしまいます。
むかしの日本人は「働き蜂」とか「蟻のよう」などとさんざん揶揄されながらも、せっせと勤勉に働くことで国や社会を盛り立て、一方では仕事一辺倒だの余裕がないだのと非難の的にもなりました。

しかし、もともと日本人は欧米人のようにバカンスの習慣はないし、彼らとはしょせん遊びのケタが違います。よって長期休暇を心ゆくまで楽しむようにはできていない民族のようにも思えるのです。長い歴史を通じて民族の身体に染み込んだ習慣や感性は、一朝一夕に変更できるものではありません。
日本全体が一生懸命働くことが美徳とされていた時代のほうが、どうも日本人には合っていたし、同時に現代のような水面下での苛酷労働なども少なかったように思います。
そしてなにより、世の中がずっとほがらかで活き活きしていたようにも感じます。

今回の年末年始に至っては9連休という長大なものとなり、やっとそれが済んだかと思ったら、わずか一週間を挟んで、またしても3連休ですから、ここまでくるとさすがにウンザリです。

とりわけマロニエ君などは生来のナマケモノですから、本来は休みが多いことは嬉しいはずだし、仕事など少ない方が嬉しいのが本音です。しかし、ずっとやらないで済むものならそれも大歓迎ですが、もちろんそうもいきません。嫌々ながらやっている身にすれば、嫌なりにもリズムというものがあって、やっとこさ平日の流れに慣れてきたかと思うとすぐまた休みになり、そのたびになんとか乗ってきた調子は寸断され、また休み明けの怠さへリセットされてしまうのは気構えの上でも収まりが悪く、なんとかならないものかと思います。

とりわけ12月の半ばから1月の半ばまで見ると、特殊な職業の方は知りませんが、カレンダーの上では休みの日数のほうが多いという信じ難い状況で、これで景気回復だのアベノミクスだのといっても虚しいような気がします。

多くの企業なども、やっている仕事ははかどらず停滞して先に進まないので困るとか、この休みの多さがそもそも不景気の要因のひとつにもなっているというような話を聞いたことがありますが、いまさらながらそうだろうなぁ…と思います。
また収入面でも、遊ぶと働くでは出納は正反対ですから、いいかげん仕事のほうがいいと思われる方も実は多いのではないかと思います。

プライベートでも、昔とはちがって大家族は激減、大半は少ない家族構成であるばかりか、高齢者にいたるまで一人暮らしをしておられる方なども想像以上の数に及んでいると聞きますが、みなさんはいったいどんな風にしてこの多休の日々を過ごしておられるのでしょう…。

結局、この休みの多さも、社会の不健全化の一因になっているような気がします。
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正攻法の興奮

貯まっている録画から、ブロムシュテット指揮のNHK交響楽団、ソリストをフランク・ペーター・ツィンマーマンがつとめたブラームスのヴァイオリン協奏曲を聴きました。

これが思いがけなく見事な演奏でした。気が付いたときには身体の一部を硬直させてまんじりともせずに聴いている自分に気がつきました。硬直というと、なにかよくない事のように思われがちですが、マロニエ君は集中するとつい身体のどこかに妙な力が入ってしまう癖があって、それほど演奏にのめり込んでいたということだろうと思います。
少なくとも、自分にとって本当に素晴らしいと思える演奏を聴いている時間は、とてもリラックスなどできません。

素晴らしい演奏というのは定義が難しく、多種多様です。
ツィンマーマンのヴァイオリンはまさに正攻法の折り目正しいスタイルですが、にもかかわらず決して優等生的でないところが特筆大書すべきだろうと思います。周到に準備され、作品を隅々まで知り尽くしたものだけが可能な演奏でありながら、けっしてマンネリではなく、常に音楽に必要な新鮮さと即興性を孕みながら演奏が展開して行くので、集中が途切れる部分がなく、聴く者にたえず程良い刺激を与え続けてくれるようです。

とりわけ感心したのは厳格さという枠の中で呼吸する生きたリズム感で、これはこの人の生来のものでしょう。とりわけ協奏曲ではオーケストラからソロに引き継がれる部分に些かでも遅れやズレがあると、聴いている側はガクッと気持がシラけるものですが、こういう箇所でのツィンマーマンは聴く者の期待を決して外すことなく、渡されるものを間髪入れず受け取って自分の演奏として繋いでいくので、聴いていて快適この上ありません。

演奏家の中には自分の個性をことさら強調してみたり、新解釈のようなものを披瀝したがる人が少なくありませんが、ツィンマーマンにはそういう要素はまったくの皆無。演奏のフォルムは至って真っ当でありながら、正味の彼自身がそこにあって明瞭、作品と演奏の両方を結束させながら、聴く者を音楽の世界に引き込んでいくやり方は、まったく見事な演奏家の仕事というほかありません。

ひとつだけ意外だったのは、彼の使うヴァイオリンは、はじめストラディヴァリウスだろうと思いつつ、途中からちょっと違うかなあという印象もありました。しかし彼の演奏スタイルからして、グァルネリではないだろうと思うし、f字孔の形もやはりそうではないと思い、楽器についてはまったく確信が持てずに終わりました。
後でネットで調べてみると、ツィンマーマンが現在弾いているヴァイオリンはクライスラーが所有していた1711年製ストラディヴァリウスだということがわかりました。

違うような気がしたのは、ストラドは単純にいうともっと派手な艶っぽい音というイメージがあったのですが、一流のプロには演奏家自身の音というものもあり、やはりヴァイオリンの音はなかなかわかりにくいものだと思いました。
ただ、演奏中に映し出されるそのヴァイオリンは、側板から裏板にかけて「おお!」と思うほど鮮やかな虎目の、いかにもただものではなさそうなヴァイオリンでしたが、その音は見た目ほど華麗ではないような印象だったのです。
ただし、会場はなにぶんにもあの広大で音の散るNHKホールですから、楽器の音を正しく吟味できる環境ではありませんし、だいいちこちらも会場でナマを聴いたわけではありませんけれども。

楽器はともかく、久しぶりに満足のいく素晴らしい演奏に接することができ、思わずテレビ画面に向かって拍手したくなるようでした。
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音楽もごちそうさん

昨年のNHKの朝ドラは『あまちゃん』がたいへんな人気を博し、大ブレークといってもいい盛り上がりをみせたので、次の番組はどうなるのかと思っていましたが、大阪NHK制作の『ごちそうさん』も個人的には大いに楽しんでいます。

その『ごちそうさん』ですが当初から「おや」と思うことがありました。
番組内で流れる音楽のことです。
というか、マロニエ君はこれを何というのか名前を知りません。もちろん主題歌のことではなく、ドラマの進行と合わせて挿入される効果音的な役割を担う音楽のことです。ネットで調べたらわかるのでしょうが、面倒臭いので調べていません。

このドラマの雰囲気とは打って変わって、多くが弦楽器のみ(管のときもあり)で奏でられるもので、ときにクァルテットのようでもあり、ときにはもっと大勢の弦楽合奏のようにも聞こえます。

それも15分の番組中の後半に集中している印象で、内容がだんだんに佳境に入ったり、なにか秘密めいたことが出てきたり、主人公が窮地に立ったり、意外な展開が起こったり、見てはいけないものをみてしまったりするようなときに、弦楽合奏が意味深かつ効果的に入ってきて視る者の気持をぐいぐいと押し上げていきます。

マロニエ君の知る限り、こんなきれいな音楽に支えられた朝ドラは初めてのことで、この点でも接する楽しみがもうひとつ増えたように感じています。だいいち、多くの効果音的な音楽が弦楽合奏というのはやっぱり品があるし、それを他愛もないドラマの喜劇性と組み合わせることによって独特な効果を生みだしているように思います。

とりわけ、いつものように家族5人がそれぞれの思いを抱えながら緊迫した食事時間を過ごしているようなとき、弦のアンサンブルは静かにはじまり、しだいに険悪な事態になったり、あるいは重大な事実が発覚すると、一気に音楽もそれに呼応して高まりをみせ、各登場人物のそれぞれの困惑、驚き、してやったり、開き直りなどの表情と音楽が一体化していやが上にも盛り上がりをみせます。
まるでモーツァルトのオペラブッファによくある幕切れの多重唱の場面のようでもあり、それが必要以上に可笑しさをそそったりしますが、製作者はよほどオペラが好きなのだろうとも思わずにはいられません。

タンゴ調だったり、はたまた、どことなくR.シュトラウスの『ばらの騎士』を思い起こさせるときがあり、そもそも『ばらの騎士』はシュトラウスがモーツァルトのようなオペラが書きたくて書いたという逸話もあるぐらいですから、なんだかそのあたりを狙っているのかもしれません。

それぞれの登場人物も、性格の振り分けがオペラ的に明快で、主人公夫婦がいつも困惑し必死で思い詰めたような表情をしているのに対して、いじわるや不道徳者などが周りを取り囲んで、次々に可笑しなトラブルを巻き起こすのはオペラブッファで採り上げられる、市井の題材そのものみたいな気がしてきます。

こういうことを思わせるのも、音楽の力に負うところが決して小さくないことの証明ですね。
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初期型が最良

正月はこれといった予定もなく過ごしましたが、ピアノ好きの知人達が遊びに来てくれました。

ディアパソンを主に弾いてもらい、やはりタッチの重さは気になったようですが、同時にヤマハやカワイとは一線を画する厚みのある力強い鳴りには意外な印象を持ってもらえたようでした。

いつものことですが、他の人に弾いてもらうことで、自分のピアノを普段とは違った位置から聴くことができるのは大いに楽しみでもあり、同時に評価や反省の材料にもなります。
ピアノに限ったことではないかもしれませんが、楽器の本当の音や響きというものは、少し離れた位置から聴くほうが本来の姿がわかるもので、演奏者が間近で聞く音は必ずしも本物ではないということをあらためて感じます。

来られた方のお一人は長年カワイのグランドを愛用されていましたが、なんと年末に半ば勢いで買い換えたという突然の告白にすっかり驚かされました。
年末にひととおりあちこちで試弾してみたそうですが、最終的にカワイのSKシリーズに絞られていき、数台ずつあったという2、3、5の中からついにSK-5に決定したそうです。

その理由はSK-5がやはり低音にも余裕があるなど、要するに音が断然よかったからという明快なものだったようです。ところがいざマンションの自室に入れてみると、ショールームでの印象とはまるで違ってしまって、今はその点に大いに悩んでいるとのことでしたが、これはままあることで、楽器は出た音を鳴らす空間をも要求するということのようです。

なにしろまだ納品から数日という状態のようで、初回の調律が済んだらお披露目に招待してくれるということになり今から楽しみです。

ところで意外な話を聞きましたが、ある大手メーカー(カワイではない)の方が言われたそうですが、ピアノは新型が出てすぐのものが最も出来がよいという興味深い話でした。
その理由は、ピアノはシリーズの初期型こそが開発者達の理想や意気込みが最も強く注ぎ込まれているらしく、それによって新しい製品の高評価を勝ち得るのだそうです。これがうまく運ばないと以降の販売にも影響してくるから、とくに出始めのモデルには力が入っているというものでした。

これはまったく気が付かないことでしたが、云われてみればたしかに思い当たることがあります。
某コンサートグランドなどはえらく力の入った新型を出して、「ほう!」と思わせるものをもっていましたが、最近ではあきらかに質が落ちてきているんじゃないかという残念な印象を立て続けに抱いていたので、この話が忽ち信憑性を帯びることになりました。
新品ピアノは、普及型も含めて、たしかに発売から時間が経つほどそのピアノの密度みたいなものが薄れてしまい、いわばメーカーの気合いが感じられなくなってくる印象があります。

車などは初期型はセッティングの未消化や想定外のトラブルがあったりと、発売開始直後はいわばプロトタイプに近い側面があってユーザーからは敬遠され、以降数年をかけて対策・改良されたモデル末期がもっとも熟成が進むのでその辺りを狙って買う、もしくは最低でも2年は待つというのが見識あるカーマニアの車選びの通例です。

しかし、ピアノの場合は新しい機構というものはほとんどなく、構造体としては100年以上前に完成されたものを模倣・踏襲・改良しながら作っているに過ぎないので、違いはもっぱら細部のちょっとした設計や工夫程度で、肝心なことは主に材料の質と作り込み精度、さらには出荷調整こそが命だといえるのかもしれず、これはなるほどと思いました。

具体的なモデル名は控えますが、日本のピアノでも同一モデルで古いものと新しいものを比べると、新しいほうは新築の家や新車と同じで新品ならではの気持ち良さのほうに目が行ってしまうものですが、本当に楽器としてよくなっていると心底感じたことがあるかと云われると、あまりないのが実感です。

となると、ピアノは新シリーズがでたら発売直後から一定期間(それが具体的にどれぐらいかはわかりませんが)が旬だということになるようです。
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イベント指向

お好きな方には申し訳ないですが、個人的な好みということで許していただくと、マロニエ君にとってNHKの紅白歌合戦はどうしようもなく苦手なもののひとつです。

当然ながら毎年これをわざわざ視ることはしませんが、テレビの電源を入れると、チラッと見えたりすることがあったりで、そのたびにウワッと驚いてしまいます。
演歌や歌謡曲が苦手ということもありますが、それより、あの紅白の舞台上に繰り出されるやたら派手々々の、老若男女、都市から田舎までフルカバーしようというNHK的娯楽の世界がどうも苦手で、さらにはそれが大晦日の日本の茶の間の相当数を牛耳っているところがまたたまりません。

思い起こせば、マロニエ君の子供のころは紅白歌合戦の全盛時代だったように思いますが、その後は時代の移り変わりとともに、民放でも打倒紅白というような気運が高まり、紅白以外は「裏番組」といわれながらも、その時間帯を各社なんとか対抗できる番組を作ることにしのぎを削っていたようでした。

さらに時代は流れ、ついに紅白は衰退の道を辿りはじめたと記憶しています。
紅白はあくまでも演歌や歌謡曲が国民の娯楽として高い位置にあることを前提として、大晦日にその一年の総決算として、このジャンルの頂点に君臨する娯楽歌番組の最高峰だったわけですが、世の中が多様化して飽満になり、演歌や歌謡曲の人気が下降線になると、紅白そのものの存在意義すら危ぶまれるところまで行った時期がありました。
社会の価値やニーズもすさまじいスピードで変化し、視聴者の世代も代替わりして、もはや年の瀬の紅白歌合戦で無邪気に喜ぶような時代ではなくなったという新しい流れでした。

ところが、いつごろからかはわかりませんが、再び紅白は不思議な感じに復権の兆しを見せ始めてきたように思います。
世の中からある種の活力がなくなり、人々がより画一化された動きを取るようになったからなのか、一時は「多様化」の言葉の通りいろいろな遊びや楽しみの在り方があふれていましたが、それさえも衰退しはじめ、世の中はやたらとイベント参加型の乾いた時代を迎えたように思います。

要は遊びまで人から与えられる規格品のようになり、本当の意味での娯楽や享楽の醍醐味がなくなります。
イベントとはしょせん主催者が作った遊びの枠組みですが、それに受身で参加することで満足してしまう事があまりに氾濫しているようにも感じるのはマロニエ君だけだろうかと思います。
各地各所では大小のイベントが目白押しで、昔なら見向きもされなかったようなものまで不思議なくらい人々が押し寄せ、参加すること、あるいは参加したことを楽しんでいるようです。

これは何かを主体的に選び取って熱心にあるいは奔放に楽しんでいるというより、一般に「楽しい」と規定されているものに自分も関わり参加するというカタチを得ることで安心し、その安心は満足や達成感に拡大解釈されているような気配を感じます。

紅白歌合戦も、本当に登場する歌手や歌を堪能しているというより、年末の風物詩としての大イベントに「視ることで参加する」というカタチを手に入れようとしているだけの人も案外多いのかもしれません。
44.5%というとてつもない視聴率の数字を視ると、本心ではどうでもいいと思っている人でさえ、視るように無意識に追いつめられてはいないのだろうかと、つい変な勘ぐりをしてしまいます。
もちろん、ただヒマだから…という単純な動機の方もいらっしゃるでしょうが。
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2014年始動

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。

毎年、新年の最初にどのCDを聴くかということにささやかなこだわりを持っていますが、今年は静かにスタートしたいという気分で、年末に購入したイザベル・ファウストのヴァイオリンによるバッハの無伴奏ソナタ&パルティータから、ソナタ第3番で始めました。

当代きってのトップヴァイオリニストの一人であるイザベル・ファウストのバッハは、以前から必須の購入候補でありながら、何かの都合でつい順送りになっていたために、年末ついに手にしたときは聴いてもいないうちから目的を達成したような気分でした。

以前、イザベル・ファウストの演奏に初めて接したときは(ベートーヴェンの協奏曲とクロイツェル)、慣れの問題もあってか、クオリティは高いけれども、なにやら妙に落ち着き払ったような演奏という印象を受け、それが少々無愛想というか可愛気がないような気がしたものです。
しかし、繰り返し聴いていくうちに、しだいに彼女の透徹した演奏スタイルというものが了解できてきたのか、聴く毎に印象が変化していきました。

ドイツの演奏家ということもあってか、熱っぽい語り口の演奏ではなく、あくまでも音楽の枠組みがきっちりと張り巡らされ、そこに彼女なりの練り上げられた音楽が理知的に組み上がっていくというもので、正確な設計図をもとに確かな工法によって建てられた繊細な建造物という印象です。
ただし、イザベル・ファウストのすごいところは、それが決して四角四面なものでは終わらず、あくまで自然体の魅力ある演奏になっているところが、いかにも現代の好みにも合致して高く評価される所以だろうと思います。

深い精神性と清らかな静寂感、ピリオド奏法も取り入れ、すみずみまでゆるがせにしない第一級の演奏精度とくれば、どこか日本文化にも通じるものさえ感じます。その音色も艶やか一本なものではなく、自然な美音の中にどこか枯れた響きのあるところも日本人が好むものかもしれません。

純粋な好みから言うと、やや整い過ぎという面もなきにしもあらずですが、これほどの精緻な演奏でありながら、固さや息苦しさがまったくないところは大したものだと思います。


新年にあたって少し話題を変えますと、昨年末に視たテレビ『たかじんのそこまで言って委員会』に出演した櫻井よしこ女史が、「人生ってのは迷わないでひたすら行かなくちゃいけないときがあるんですよ。そのときに迷わないで行けるかどうかが、その人の人生を決めてしまうんです。」と言い、なるほど尤もなことだと大いに膝を打ちました。
実行は難しいですが、極力迷わず前進していきたいものだと思います。

本年もよろしくお願い致します。
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サムライ

早いもので今年もとうとう大晦日となりました。

残すところあと6日ほどというときに、ひとりのピアノ技術者の方からメールをいただきました。
まっ先に目に飛び込んできたのは「調律は愛」という聞き慣れぬ言葉でした。

この方は大手メーカーの調律師としてその職務に就かれ、また調律師養成機関の講師をつとめておられたという経歴をお持ちのヴェテランチューナーでいらっしゃるようです。
永年勤められた会社を退職され、今は「趣味は調律」と公言しながらお仕事を続けておられる由。

文章をそっくり引用というのも憚られるので、おおよその意味を要約すると、
「調律の世界は奥深くて際限がなく、形として捉えられず、感覚・感性の世界の問題が終局になる。 ピアノが好きでピアノに恋する。ピアノを愛して愛したい。先ずはこの境地に立てなければ技術者としては居場所は無い。」という専ら観念論のようでありながら、その言葉はきわめてキッパリとしたものでした。

その後、引き続いていただいたメールには次のような、こんにち失われて久しい日本人の苦しいまでの精神世界を垣間見るような内容でした。

養成機関の講師時代の信条は、「調律は愛」「実習中のトイレ厳禁」なのだそうで、調律師たるもの午前中の2〜3時間、午後の4〜5時間程度の生理現象コントロールが出来なければ顧客宅訪問などもっての外というのが信条だったとあります。
また「調律師の基本姿勢の心・技・体にわたり厳しく指導」と書かれていて、こんにち我々がこの言葉を耳にするのは、せいぜい大相撲の横綱の条件ぐらいなもので、これが調律師としての心得に用いられるとは思いもよりませんでした。

さらに続きます。この方はすでに40数年の調律師人生を続けられているようですが、丸一日ピアノと付き合う場合でも、仕事先でのトイレは借りられないのだそうです。そのためには「前日から戦闘態勢に入るというか、水分摂取と体調維持に気を使います」とあり、ピアノ技術者として一見過剰とも思えるこの精神訓のごとき気構えにはただただ圧倒されるばかりです。

ピアノの調律や調整をするのに、トイレ云々が作業として直接の問題があるかといえばおそらくないでしょう。しかしそういう覚悟をもって仕事に挑むというスタンスとして見れば、やはりこれは小さくない問題だろうとも思われます。
調律師というよりは調律列士とでもいいたくなるもので、心・技・体と相俟って、まさにチューニングハンマーを持つ日本のサムライを連想させられます。

今の世はあまりにも安易にプライドという言葉を濫用しますが、大抵はつまらぬ見栄やエゴのことに過ぎません。しかし、本来はこういう外に見えない信条や自ら打ち立てた誓いを静かに守り抜くことがプライドではないかと思います。

かつての日本人は、何事においてもこれぐらいの厳しい縛りを課すことによって心を整え、常に誠実に事に相対することが珍しくない民族であったことを思い起こさせられました。
それがいつの間にやら浅ましいばかりに即物的になり、評価軸は損得と勝ち負けだけ、このように目に見えないものに価値を置くということが絶えて久しいように思われます。
自らの使命には整えられた精神を下敷きとして、ある種のストイシズムを伴いながら邁進していくとき、我々日本人は格別の力が発揮されるのだろうと思います。

悲しいかな、かくいうマロニエ君が最もダメなくちなのは自分でもわかっていますが。

多くの教え子の皆さんと再会された時、真っ先に「講師!私お客さまのところでトイレ借りてませんよ」という言葉が聞かれるそうです。はじめに接した先生が口癖のようにされた教えは、生徒のメンタリティの奥深いところへ強い影響を及ぼすもののようです。

そして最後は次のように結ばれていました。
「トイレが近くなったら、、それは引退の潮時と肝に銘じ、今しばし愛を込めてハンマーを握ります。」


今年一年、拙いブログにお付き合いいただきありがとうございました。
どなた様も良い年をお迎えください。
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心理

過日、知り合いの先生の教室のピアノ発表会があり、手伝いにもならいない程度のお手伝いをさせていただき、子ども達のかわいい演奏を聴かせてもらいました。

とても純粋で無垢な演奏が次々に披露されましたが、それとは別に、ここで目にした人々の行動にもついつい注目させられました。

会場設営は先生のご夫妻がされ、出演する子ども達が待機するための椅子がピアノの側に並べられ、あとはそのご家族などのための小型の椅子がランダムに置かれました。そして椅子が足りない場合はカーペット敷きであることから床に座っていただこうという趣向です。

ところが人の動きというものはそうそう思い通りにはなりません。
時々刻々と集まってくる家族連れのみなさんは、会場の最後部にある入口から入ってくると、ほとんどの方ができるだけ後ろに陣取ってしまいます。
これが続くと、最後部だけが混み合って、中ほどは空いているという偏った状態になります。

マロニエ君は入口すぐのところに立っていたために、来られる方々には、「中のほうへどうぞ」と何度も促すのですが、口ではハイといいながら、やはり混み合った後ろの中になんとか潜り込もうとされる方がほとんどでした。
重ねて「奥へどうぞ」と言いますが効果はなく、後ろがどうにもならないことがわかると、やむなく前に移動されますが、それでもほんのわずかで、とにかくできるだけ後ろがいいという強い意志が感じられました。

中には腰を屈めながらも珍しく前に進む方いらっしゃいますが、それはたまたま前のほうにその方のお知り合いがおられて手招きがあったりしたためで、そういう事情のない方は窮屈でも後ろの混雑の中へ分け入ります。

結局、中ほどはそれなりのスペースがあるのに、うしろ1/3ほどは満員電車のような状態で、もうどうすることもできません。みなさんよほどの慎み深い方ばかりのようですが、演奏がはじまると少し事情が変わります。ほうぼうからカメラやビデオを持つ腕がコブラの頭のように立ってきて、とくにビデオの方は良いポジションを得ようと、左右にしきりと位置を変えてこられます。

ついさっき奥へどうぞと何度もおすすめしても遠慮がちに頑として前には行かれなかった方が、ことビデオ撮影となると別人のようにアクティブな動きになり、最後は椅子に座っている女性の頭の真上に最良のポジションを定められたようですが、写真と違ってそれがずっと続くわけですから、下の方もかなり気になっただろうと思います。
ここには人の不可思議な心理の働きがあるのは疑いようもなく、大勢の中で自分が目立つ前方には行きたくないし、みんなが自然に後ろに固まっていれば、なおさら自分もそちらがいいという気持に拍車がかかる。でも写真やビデオとなると、一転して良好なアングルで写したいという別の願望が出て、相矛盾する気持が渦巻く中でこういう状態が生まれるのだろうと思います。
マロニエ君なら、後ろなら後ろでおとなしくしているか、カメラやビデオ撮影という目的があるのなら、はじめから良いアングルが確保できる場所に座るか、どっちかに定めると思います。

いったん会場に人が入ると、なかなか現場で対策が打てることではないので、前もってできるだけ前方に椅子を置き、個人の意志とは関係なく人の流れが中央へ来るように持っていかなくてはいけないのだということがこの経験でよくわかりました。

電車でもエレベーターでも、中は空いているのに、ドアの近くだけ揉み合うように人が集まるというのがありますが、まあそれは乗り降りという実際的な問題もあるのでまだわかりますが、ピアノの発表会でもそういう現象が起こるというのは思ってもみませんでした。

専門的なことはわかりませんが、この状況もいわば集団心理のひとつだろうとマロニエ君の目には映りました。ただし、外国人ならどうでしょう。なんだか今どきの日本人特有の現象のような気もするのですが…。
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思わぬところで

装飾目的にヴァイオリンを買うことは、音楽好きの端くれのやることではないとの判断から一度は諦めていたのですが、思わぬところからチャンスはやってくることになります。

マロニエ君がたまに立ち寄る、とあるショッピングモールの中には、今どきの不景気な世相を反映してか、以前は雑貨と家具を扱っていた店舗が撤退して、知らぬ間にリサイクルショップになっていました。

実を云うと、そんな事情と知らずに入店したところ、なんとなく気配が変わっているなぁと感じたことから商品がリサイクル品だと気が付いたぐらい、パッと目はきれいなものばかりを売っているのですが、ここに一挺のヴァイオリンがケースに入った状態で売られていました。

いろいろな家具や電気製品や雑貨などにまざって、ちょっとした楽器が集められた小さいコーナーがあり、ほかにはギターやフルートなどもあり、ヴァイオリンは子供用の1/8と大人用の4/4があったのですが、なんと子供用は一万円近くするのに、大人用はわずか二千円でした。

ものはためしという気分で手に取ってみてみたのですが、とてもそんな値段が信じられないほどきれいで、キズもなくそれほど使い込まれた様子もありませんでした。ケースには弓や松脂なども揃っていますが、よくみるとヴァイオリン本体にはE線のみなくなっていて、弦が3本しかありません。
どうみても新しく弦を張ったりするような気配はなく、このE線がないことが価格を著しく安くしているのだろうと察せられました。

一瞬どうしたものかと迷いましたが、今どき二千円で何が買えるかと思うと、ほどなく決断がついてヴァイオリンを慎重にケースに戻し、それごとレジに持っていきました。
楽器のことなどなにもわかりそうにもない女性が「いらっしゃいませぇー」といいながら中にある値札を見ながら、「弦が一本ありませんが、よろしいですか?」と確認してきました。
もちろんハイと答えて支払いを済ませて店を出ました。

生まれて初めて、ヴァイオリンのケースを手に持って外を歩きますが、ヴァイオリンというのはその圧倒的な存在感とは裏腹に、なんて軽いんだろうと云うのが率直な印象でした。

帰宅して恐る恐る開けてみると、そこには店で見た以上に立派で美しいヴァイオリンが悠然と横たわっており、慣れない手つきで取り出しますが、本当に心もとないぐらい軽くて小さな楽器であることに却って感激してしまいました。
名器ともなると、こんな小さな楽器が、ステージでは500kgもあるコンサートグランドと互角に張り合って、あれだけの素晴らしい音楽を奏でるのかと思うと、俄には感覚がついていけないような不思議な気がするばかりでした。

それにしても、なんと美しい楽器かとしみじみ思いました。その究極のデザイン、女体にも例えられる飽満かつ繊細なカーブの織りなす魅惑の造形は、いやが上にも見る者の目を引き寄せ、ぐいぐいとその世界に吸い込んでいくようです。

弦を一本細工して、さっそく壁にかけてみましたが、一気にあたりの雰囲気が変わり、繊細なのに凛とした佇まいは見ていて飽きるということがありません。
芸術的で、色っぽくて、清々しく、華奢で、堂々としていて、様々な要素がこんなに小さな形の中に凝縮されているようです。
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壁飾りには…

これまでにヴァイオリンの話題を何度か書きましたが、楽器店などでガラスケースの中に並べられたヴァイオリンを見ていると、小さいけれどもなんという蠱惑的な形をしているんだろうと思います。

ニスの色もいろいろある中、とくに赤茶系の透明感と深みのある色彩を帯びたヴァイオリンは、なんだか心が引き込まれるようで、つい手にとってみたくなるものです。
ヴァイオリンはまったく弾けないマロニエ君としては、さすがにこれを見たいと店員に申し出たこともないし、そんなひやかしをする意志も勇気もありません。
ときおり楽器店の売り場で足を止め、ガラス越しにじっと観賞するだけです。

天神のいくつかの楽器店に展示されているヴァイオリンは、価格にして下は10万円を切るものから、上はせいぜい4〜50万円ぐらい、高くても100万円以下までのもので、店によっても異なりますがだいたい4〜5挺は展示されています。
場合によってはさらに、子供用の小さな分数ヴァイオリンが段階的にならんでいたりしますが、そのいかにも繊細な佇まいや音楽そのものみたいなその美しい形はついつい欲しくなってしまいます。

海外のインテリアの写真などでは弦楽器を壁の装飾として使っているものを何度か見たことがありますが、なんともいい雰囲気を醸し出していて、下手な絵や写真を並べるよりよほど素晴らしい効果を出していたりします。

それからというもの、自分はヴァイオリンは弾けなくても、室内装飾として安い楽器を手に入れるということはあり得るという小さな意識が心の片隅に残ることになりました。
中国へ行くと、さりげなくヴァイオリンショップがあって日本円にして2〜3万ぐらいからたくさんあることもわかり、一度などはかなり本気で買って帰ろうかと思ったこともありますが、やはりもう一歩踏み出すことができずに終わってしまいました。

その後はネットオークションなどを見ていても、どうかすると1万円を切るぐらいから本物のヴァイオリン(中古ですが)が出品されていることがわかり、こういう下限の世界では、やはり構造が簡単なぶんピアノとはずいぶん違うものだと思います。もちろん品質は価格が語っているわけで、それなりの品だろうことは推して知るべしですが、それにしてもこんな値段でまがりなりにも本物のヴァイオリンが買えるというのはなんとも不思議な感じです。

ヴァイオリンは数多い楽器の中でも妖しさというか魔力のようなものがあるという点ではダントツだろうと、とくに最近思います。ストラディバリウスを頂点に、同じかたちをした楽器で、これほどまでに凄まじいピンキリの世界が広がっているジャンルというのが他にあるだろうかと思います。

壁の装飾としてですが、インテリアとしてなら音はどうでもいいわけで、ここでまた何度か買ってみようかという誘惑に悩んだことがありますが、やっぱり断念が続きました。
その理由は、マロニエ君のようにまがりなりにも音楽を愛する者としては、たとえ安物とはいえヴァイオリンをただインテリアの目的だけで購入し、それを壁にかけて楽しむという行為に抵抗がなくもなく、早い話がやってはいけないことのような気がしてきたからです。

亡くなられた俳優の児玉清さんが最後まで司会をつとめた「パネルクイズ・アタック25」のスタジオにも、以前のセットにはどういう意図からかヴァイオリンが何挺もつり下げられていました。

音楽とは関係のないクイズ番組になぜヴァイオリンなのかは意味不明のままでしたが、ともかく演奏以外の使われ方をする楽器というのは見ていて心地よいものではなく、そういう理由で購入を踏みとどまってきたのですが、あれこれのヴァイオリンの本を読んでいると、知らず知らずのうちに誘惑されてしまうようで、そこがこの楽器の生まれもつ魔力なんでしょうね。
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カサカサと潤い

今年の前半にわけあって家のエアコンを入れ換えたのをきっかけに、この冬から再びエアコン主体の暖房に切り替えることになりました。

「再び」というのは、以前も基本はエアコン暖房だったものの機械全体が古びていたので、石油ファンヒーターを常用していたのですが、灯油を数日に一度、ポリ容器を車のトランクに積んでスタンドへ買いに行かなくてはならず、その煩わしさだけでも馬鹿になりませんでした。

エアコンはわりに強力なものを取りつけたので能力的に不足はないのですが、その代償として恐ろしい勢いで湿度が下がってしまいます。
これでは温かさは得られても心地よさはないし、喉はカラカラ、皮膚も乾燥気味で痒くなるし、なによりピアノが心配な状況に陥りました。この冬のはじめから、湿度計の針は連日40%を割り込むようになり、慌てて加湿器を引っぱりだしましたが、これをフル稼働させても過乾燥には追いつかず、寒さが募るにつれてエアコンの出番が増えると加湿器を回していても40%台に届かず、ついにもう一台、加湿器を買い足すことになりました。

この一週間ほどは常時2台の加湿器のスイッチが入っていますが、それでもどうにか40%強にもっていくのがやっとです。しかもそれほど大型でもないためか、一日に2台ぶん水を何回も補充しなくてはならなくなり、部屋に入るたびに加湿器の水量をチェックするのが、すっかりこのところの日課となってしまいました。

この状態で数日経過してみると、多少は部屋の温湿度が改善されて過ごしやすくなりましたが、自室に戻るとまたカラカラで、こんどはこっちが耐え難くなり、やむを得ずまたまた小型の加湿器を買ってしまいました。

こうしてみると、石油ファンヒーターは灯油を買って入れるという面倒な問題があるものの、温かさは心地いいし、燃焼時に適度な湿気も発生させるらしく、過度の乾燥状態になることもなく、なんだか懐かしいような気がしています。
プラスチックや人工素材より木のほうが身も心も落ち着くように、暖をとるにしても、やはり電気で作られたカサカサの温風より、たとえ石油ファンヒーター程度でも、灯油を燃やし火をたいて作り出す温かさのほうが数段心地よいという当たり前のことが、いまさらのようにわかりました。

だったら以前のように石油ファンヒーターに戻せばいいのですが、そうすると、またあの寒い夜の灯油買いの往復が始まると思うとそれはそれでウンザリで、おまけにエアコンのほうがはるかにランニングコストが安いらしいこともわかると、そうまでして敢えて石油ファンヒーターを使うというのももうひとつ決断がつきません。

このように、現代人は本当の心地よさはどこにあるかをちゃんと知っていながら、それを犠牲にしてでも、便利さや低コストに走ってしまうという浅ましさと愚かさがあるのが自分でわかります。結局それにかかる手間ひまや面倒臭い労働、さらにはコストを考慮することで、つい大事なものを犠牲にするという業のようなものだろうと思います。

ましてやそれがビジネスともなれば、原価はもちろん、手間暇、効率、時間などもすべてコストとして換算され、それを前提とした厳しい利益の追求になるわけで、普及品のピアノなんぞが木の人工乾燥はもちろん、人工素材を極限まで多用して製造されるのは当たり前という感覚がひしひしと伝わってくるようでした。

その点、むかしは何事においても選択肢がなかったため、ごく自然に一定の質を得られたという一面があり、そのために資源の無駄遣いもしたでしょう。でも、お陰でなんとなく社会全体がおだやかで潤いがあったような気もします。
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1874年製と1877年製

エリック・ルサージュとフランク・ブラレイという、当代フランスの中堅ピアニストの代表とも云うべき2人によるモーツァルトのピアノソナタ集を久しぶりに聴いてみました。
曲目は、2台のピアノのためのソナタKV448、4手のためのソナタKV521、KV497という、いずれもモーツァルトのソナタとしては比較的規模の大きい3曲で、生活の拠点をウィーンに移してからのいわば後期かつ絶頂期の作品ばかりです。

演奏そのものは人によって受け取り方はそれぞれだろうと思いますが、マロニエ君の個人的な印象としては、決して悪くはないが、とくに賞讃するほどのものでもないというところです。
フランス人が弾けば、お定まりのようにフランス的云々などという聞き飽きたような感想は云いたくはありませんが、全体的に明るめの溌剌とした華やかさの勝った演奏で、これはこれで結構と思いつつ、そこにもうひとつモーツァルトの音符を美しく際立たせるような緻密さと、同時に(矛盾するようですが)即興性というか多感な遊び心がバランスよく良く織り込まれていればと思ったりします。

とくにモーツァルトの場合、その即興性によるテンポの必然性のある揺れはいいとしても、基本的なリズムの刻みがおろそかになる場面があるのは気になってしまいます。こういう演奏上の骨格にあたるような部分のしっかり感がフランス人は苦手のような印象があり、そういう意味でもフランス的といえばそうなのかもしれません。

さて、このCDで特筆大書すべきは、使われたピアノです。
それぞれ1874年製と1877年製という2台のスタインウェイのコンサートグランドが使われていますが、創業が1853年ですから、そのわずか21年後/24年後のピアノというわけです。
この時代のスタインウェイは現在のものとは大きく異なるピアノで、奥行きもたしか260cmぐらいだったと思います。しかし、わずか後の1880年代には現在まで受け継がれることになる274cmとなり、さらに内部機構も改良を重ねられ、20世紀初頭にはほぼ現在のモデルが完成します。

そういう意味では、創業初期に製造されたスタインウェイの源流とでも云うべき音を聴くことができる貴重なCDというわけです。
楽器に関する詳しい説明はないので、どういう状態のピアノかはわからず、ただ2台ともピアノ蒐集家のクリス・マーヌ氏の所有ということだけが記されていて、響板などが貼り替えられているのかなど、どれだけオリジナルを保っているのかはわかりませんが、CDの音を聴く限りでは、後年のスタインウェイほどの圧倒的なパワーはないけれども、とにかくやわらかで美しい音を出すピアノだということがわかります。

ややフォルテピアノ的な要素も兼ね備えつつ、それでも感心するのは、このごく初期のスタインウェイが、もうすでに確固としたスタインウェイサウンドをもっているということでした。

そして、こういう音を聴くと、昔の楽器の音というのはとにかく耳や神経に優しい点が驚くばかりで、何度聴いても心地よさばかりが残って、また聴きたくなる。その点では非常にリラックス効果もあるというべきで、理屈抜きに「楽器の音」というものを感じます。

それにひきかえ現代のピアノの多くは、ピアノの音のようなものを出す機械という印象を免れません。特徴的なブリリアント系の音も、どこか化学調味料で作られた計算ずくの美味しさみたいで、もうひとつ気持が乗っていけませんし、本当の心地よさとは何かが違うようです。うわべはきれいでもすぐに飽きてしまい、やがてうるさくなって無意識のうちに疲労を感じていることが、昔のピアノの音を聴くとごく自然に気付かされるようです。
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現代の神業

ほかの方はどうだかわかりませんが、マロニエ君にとっては恐ろしいと感じる光景を目にしてしまいました。

11月28日に『ふしぎ』というタイトルで、「近ごろの若い人は、能力の使い方が昔とは根本的に違ってきているのか…」という出だしで駄文を書いていますが、それを証拠づけるようなことを目撃してしまったのです。

日曜の夜、車で出かけたときのこと、信号停車していると、助手席の人物が「見て見て、すごいよ、ほら!」というので左に並ぶ軽自動車のほうに目をやると、運転席に座る若い女性が、赤信号中にスマホでメール打ちをしています。
むろんただそれだけなら驚きもしませんが、すごいのはそのメール打ちの途方もないテクニックでした。

右手にスマホをかざして、人差し指から小指までの4本はスマホ本体を支え、画面上で動いているの親指だけなのですが、その動きの猛烈な早さは見ているこちらの目がついていけないぐらいの超高速でした。まるでキツツキか機関銃のように、親指一本がめまぐるしい速度で、しかも正確でとてもなめらかに動いていることがわかり舌を巻きました。

この速度の中でちゃんと目的をもって文字を選らび、句読点を打ったり、漢字変換したり、場合によっては絵文字や記号などを挿入しているのかもしれませんが、とてもそんな作業とは信じられないような神憑り的な動きでした。やみくもに打っているわけではない証拠に、その親指は画面下部を上下左右、斜めに駆け回り、ときどきは連打しながら、親指だけがまるで別の生き物か、はたまたコンピュータ制御の動きのように見えました。

さらに凄味があったのは、それだけのことをやっているにもかかわらず、その女性にはまったく緊張とか集中しているといった様子もなく、至ってリラックスした様子であったし、ちょっと言葉は悪いですが、顔の表情などはむしろ阿呆的にゆるんだ表情で、これがこの女性にとってまったくノーマルの、平常の動きなのだと云うことが察せられました。

子供のころからケイタイのキーに触れて育ち、スマホのような新鋭機種が出てくれば、それをたちまち使いこなすのは苦もないことなのでしょうし、メール打ちなどそれこそ一日も休むことなく、それも日がな一日やっているでしょうから、それが自然の猛稽古にもなり、結果的にこんなとてつもないテクニックを身についたということだろうと思います。

あの尋常ではない指の正確な動きを見ていると、ピアノの練習でもすればさぞ上手くなっただろに…と思いますが、このように若い人は自分の豊かで瑞々しい能力を、あまりにも意味のないことに投じているように思えて、なんだかやるせない気分になりました。
もちろん、本人にとっては意味は大ありでしょうし、「ケイタイやスマホは命の次に大事なもの」などと高らかに言って憚らない世代ですから、なるほど命の次に大事なもののためには、エネルギーも惜しみなく投じるのは当然のことなのかもしれませんが。

最後にダメ押しで驚いたのは、信号が青になり二台ともスタートしましたが、なんと車が動いても彼女はメール打ちを止める様子もなく、しかもまわりとまったく遜色ない快調なスピードに乗せて走っています。その後、道は立体交差の長い地下部分に入りましたが、そこでもまったく様子は変わることなく、左にウインカーを出したかと思うとサッと一車線分左に寄り、そこからスイスイと側道に入って上の道に出ていきました。もちろんスマホ操作は続行しながらです。

この時の速度は約70km/hほどですが、運転、メール打ち、ルートや交通の状況判断、文章を考えるなどを同時に(しかもハイスピードで)やっていたわけで、これはものすごい高等技術だと驚嘆させられました。
それにひきかえ、何度か書いた、トロトロ走りをする若い男性なども同世代だろうと思うと、この差はいったい何なのか!? もうこの世に男の役目はないという兆候のあらわれかもしれない気がしました。
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