自作は悪モノ

前回、エアコンの室内への水漏れは結露によるもので、それは「自作の風よけが原因」だと断言され、一向に収まらない水漏れに耐えきれずにその風よけをバリバリ剥がし取ったものの、原因はまったく別のことだった顛末を書きました。

この風よけというのは、実は結構苦労して作ったものだったのです。
というのはプラスチック板を曲げて、それをエアコンのルーバーに貼り付けるという発想だったのですが、その素材はというと、ホームセンターで買ってきたものは、いざ曲げようとするとパリンと割れたり、はたまた強度が期待できないような頼りないものだったりの繰り返しで、できるだけ柔軟で「曲げ」に強い素材に到達できるまで数店まわって探し求め、やっとのことで完成したものでした。

こういう素材は、紙やベニヤ板と違い、カットするだけでも大変ですし、それを固定するために特殊な両面テープも必要となり、失敗分を含めると結構な金額やエネルギーを要した「労作」だったわけですが、それが悪者扱いされて、べりべりと剥がし取りました。

ところが、この業者ときたら、水漏れ修理の途中からちょっと変だなと思うことをチラホラ言い始めました。ピアノに冷風が当たってはいけないのなら、風よけはたしか製品化されていますよ…と口にするので、よく調べてもらうと商品名もわかり、なるほど数種類の製品があるようで、あの自作のための苦労はなんだったのかと思いました。

ネットで簡単に買うことができるし、こんなものがあることを知っていればはじめから余計な苦労をすることもなかったわけで、費用もむしろ安いぐらいです。しかしその写真を見ていると、ちゃんと商品化されたものなのでモノとしてはたしかにきれいですが、機能じたいは自作の風よけと大差ないのでは…という疑念がよぎりました。

つまりどっちみち、エアコンから吹き出た風をあるていど強制的に流れを変えるということには変わりはないわけで、それが結露&水漏れの原因になるというお説だったのですから、その危険性という面ではなんの違いもないように思いました。
でも、夜中に必死で作業をやってくれていることでもあり、もうそれ以上の追求はしませんでした。

自作の風よけを再度取りつけようかとも思いましたが、もともと手作りの手曲げだったので見栄えがそれほどいいわけでもない上に、固定に使ったプロ仕様の超強力両面テープというのが、文字通りの超強烈接着力で、剥がし取るだけでも誇張でなく肩が外れそうになるほど猛烈な力でくっついており、これを外すときに当然アクリルにもかなりダメージがあり、これをいまさらまた装着する気にもなれませんでした。

そこで、やはり専用品を買うことにして注文、さっそくアマゾンから送ってきましたが、これはあくまで汎用品なので、そのままポンと取り付けられるわけではなく、あれこれの工夫が必要でした。なんとか工夫して、めでたくピアノへの冷風直撃が回避されることになり、とりあえずひと安心となりました。

が、しつこいようですが、出来合いの専用品になったからといって自作のものと風の流れが劇的に変わったとも思えず、結局マロニエ君が作ったものと、先方のオススメ品は、やってることはおんなじことで、だったらこれでもメーカーの保証の対象外(エアコン自体とは別メーカーなので)になるんじゃないかと、エアコンに目が行く度に思ってしまいます。

自作のものはあれだけ糾弾しておいて、結局似たようなものを勧めるなんて…なんだかわけがわかりませんが、要するに向こうもその場限りのことを言っているだけで、終始一貫した発言を求めるほうが無理ということでしょう。
フゥという気もしますが、まあ何事も紆余曲折があるということで、ようやく落ち着いているところです。
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技術者の独断

対象がなんであってもそうでしょうが、機械ものの技術者というのは、ときにユーザーの意見や証言を尊重せず、自分の経験則や判断を絶対視する傾向があるようです。

マロニエ君はこれまでに何度この手の「誤診」により、車の故障などで、二度手間、三度手間をかけさせられたかわかりません。これはたぶん医師にもあることだろうと思いますが、こちらは健康、ひいては命にかかわることなので笑い事ではすみません。

おそらく技術者の意識の中には、相手はシロウト、対する自分はその道のプロフェッショナルだという優越意識があって、相手の云うことを貴重な情報として丁寧に聞こうとする姿勢が足りないものだと考えられます。
確かにユーザーは技術的には素人であることは間違いないけれども、その機械なり車なり(あるいは自分の身体)とは、毎日のように関わることで、長時間にわたり不具合の特徴などを深く知るに至っています。これに対して技術者は、解決を求められてはじめてその問題に相対するので、症状を慎重に観察・認識するだけの暇がないというのはわかりますが、ここで独断に走り、ユーザーの訴えに対して謙虚に耳を貸すということを怠ってしまうことが少なくないように感じます。

先日も、この連日の猛暑の中、我が家のツインのエアコンの片側から水漏れが発生し、それが下の棚やカーペットに容赦なくしたたり落ちるので、すぐに設置した業者に電話すると、明日行くので今夜はバケツなどを置いて凌いでくれという対応でした。

翌日、その業者がやって来ましたが、見るなり「これは結露です」と、いとも簡単に結論づけました。その根拠というのが、ツインエアコンの片側はピアノ近くにあるので、冷風がピアノに直撃しないようにアクリル板を自分で加工して、風がやや上向きになるように対策していたのですが、曰くそのアクリル板のせいで風の流れが変向し、それが結露を引き起こしていると断じるのです。さらにはその根拠として、まったく同じ機械のもう一台のほうからは一滴の漏れもなく、この状態はメーカーが想定している標準の使用方法にかなっていないからそうなるわけで、だからこのままでは保証も受けられない可能性がありますよといって、今回の結露は「たまたま起こった現象」ということで、とくにこれという作業もしないまま帰っていきました。

ところが、この結露だと云われた水漏れの症状は日に日に激しくなるばかりで、しまいにはエアコンの下は雨が降るほどにボタボタと水がしたたり落ちる状態となり、このところの暑さもさることながら、部屋の中にそれだけの水が漏れ落ちて来るということは精神的にも非常にストレスとなり、たまらずにまた業者に電話をしました。しかし、向こうが云うには自作の風よけが原因だろうから、どうしても気になるならそのアクリル板を外してみてくださいという指示でした。
それでもダメなら伺いますというので、この頃にはいささか立腹ぎみでもあったので、ピアノのためには必要な風よけ(せっせと作った)をバリバリと一気に外してやりました。「さあどうだ」といわんばかりに。

しかし、結果的にはそれでも水漏れは一向に治まる気配はなく、あいかわらず水はボタボタで、エアコンの下は大小のバケツや受け皿が4つも並んでいるという見るも情けない状況です。
当然その旨連絡をしたことはいうまでもなく、向こうも観念したのか、深夜でしたが、それから一時間ほどして首を捻りながらやってきました。機械のカバーが外されると、その中は業者のほうが驚くほどの水浸しで、さっそくその原因究明と作業が開始されました。

結論から言うと、水を排出するドレンとかいう部品の結合部分や、排出の経路の勾配の付け方に問題があることが判明し、これはすべて取付時の作業に問題があった由、最後は恐縮しながら、件のアクリル板が問題ではなかったことをしぶしぶ認め、作業が終わったのは真夜中のことでした。

まったくお互いにトホホな次第で、拙速に断定するからこんなことになるのです。
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完璧の限界

前々回、内田光子のシューマンのことを書いていて思い出したのですが、彼女の録音はもちろんのこと、世界中のコンサートにも同行しているのは、ハンブルク・スタインウェイの看板ピアノテクニシャンであるジョージ・アンマンです。

彼は、現在のこの業界では知らぬ者のいない、いわばカリスマ的なピアノテクニシャンで、ショパンコンクールなどでも、いざというときは彼が万難を排してワルシャワに駆けつけ、他者では及ばないような調整を見事やってのけてピアノを輝かせるといった、もっか最高技術の持ち主といった存在とされているようです。内田とアンマンの関係も、内田のほうが彼の技術に惚れ込んで現在のような関係ができているということを聞いたことがあります。

福岡でのリサイタルでもアンマン氏は同行していた由で、その音をきくことができましたが、それは内田のCDで聴かれるものと、まったく同じ「あの音」であり、最近のCDは、音などは人工的に加工ができるから信頼できないということで非難する人がありますが、マロニエ君は断じてそうは思いません。技術的な可能性としては驚くようなことがいろいろ可能でも、それは真実をより良く適切に伝えるための手段として使われているようで、少なくともメジャーレーベルでは原音に忠実になるよう計らわれているようで、結果的にはかなり真実を伝えていると思います。

もちろん、録音現場で聴く演奏とCDの音では違いはあるとしても、それは環境の違いからくるものであって、CDは加工によって切り刻まれた整形美人のように、まったく別物という意味ではなく、そこに発生するものをより完成度の高い商品として仕上げていると思うのです。

さて、そのジョージ・アンマンですが、たしかにその音は美しく、見方によっては完璧といってもいいのかもしれません。彼の手にかかると、スタインウェイのような個性的なピアノも見事に飼い慣らされた従順な馬のようになり、音や響きにもムラがなく、すべてが過不足無く揃って、尚かつそのひとつひとつの音も甘く美しいもので、とりあえず「恐れ入りました」という感じです。

しかし、実はマロニエ君はこういう調律は見事だと思うし尊重もするけれども、好みとしてどうかとなると実はそれほど双手をあげて好みとは云えないものがあるのです。それは、あまりに完璧なもの特有のつまらなさ、それ故の狭さ、そこから何かを予感して受け取る側が楽しむ余地・余白というものが摘み取られてしまい、バカボンのパパではありませんが「これでいいのだ!」と上から押しつけられているような気がします。

マロニエ君は音楽はもちろん、何事も押しつけられるということが嫌いで、それは自分が自分の意志や感性を介して自由に楽しむという喜びやイマジネーションを奪われてしまうからかもしれません。

おかしな喩えですが、ジョージ・アンマンの手がけたピアノは、スタインウェイがヤマハのような均一さを欲しがっているようにも感じるし、同時にヤマハはスタインウェイのようなブリリアンスと強靱さを欲しがって、互いに相手の個性が羨ましくて仕方がないというような印象を持ってしまいます。

メーカーのことはさておくとしても、新しいピアノ、見事な調整というものは、キズのない最高級の献上品のようで、それはそれで素晴らしいものかもしれませんが、そういうもの特有のつまらなさ、閉塞感のようなものをつい感じてしまうわけなのです。
もちろん、くたびれたピアノや下手な調整がいいと云っているのではないことは言い添える必要もないことですが、少なくともある種の「危うさ」「際どさ」というものを常にどこかに秘めているものを求めているのはたしかなようです。

きっと個人的な好みとしては、そこそこの顔立ちに最高のメイクをして、今の瞬間だけを不当に美しく見せるようなやり方にどこか嘘っぽさを感じてしまい、それよりも、たしかな目鼻立ちの美人が、そこそこの化粧やすっぴんでも美しいなぁ…と感じたり発見したりするときのほうが自分には合っているし、根底のしっかりしたものが鷹揚に構えている姿のほうが性に合っているんだろうと思います。
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宝になれない宝

自分の地元を自慢するわけでも卑下するわけでもないのですが、福岡市という土地は住み暮らすにはとても総合点の高い、好ましい街であるという点では、今も昔もその認識に変わりはないのですが、こと西洋音楽という一面に関して云えば、残念ながらとくに自慢できるような街だとは思っていません。

東京、大阪を別にすれば、他の地方都市がどういう事情かは知りませんが、なんとなくこの分野になると福岡は、マロニエ君は自分が生まれ育った街でありながら、もうひとつ胸が張れないものがあります。

それは例えば音楽ホールについても云えることで、ただ単にホールと呼ばれるものは、福岡市およびその周辺エリアまで入れると数え切れないほどたくさんあって、もったいないようなお定まりのピアノも惜しげもなく備えられていますが、どれもが中途半端。いわゆる街の文化を象徴するような真の意味での音楽ホールがなく、主だったコンサートはいつも決まりきった(しかも甚だ不本意な)会場しかありません。

とりわけ音楽ホールの条件といえば、なによりもその音響の美しさと、座席数、そして存在そのものが醸し出す品格だと思います。

その点では、敢えて例外といえるかどうかはともかく、福岡銀行の本店大ホールは市の中心部である天神のど真ん中にある銀行ビルの地下にあるのですが、なにしろその音響は突出して素晴らしく、座席数も800弱でジャストサイズ。とくにピアノリサイタルにはこれ以上ないのでは?と思えるほどの理想的な音響をもっています。

この建物は1975年に建築家・黒川記章の設計によって作られ、さらにそのホールは日本初の音響を第一に考えられた音楽ホールという事で、当時は全国的にも音楽関係者の間で大いに話題をさらったものでした。
当時の蟻川さんという頭取が非常に文化意識が高く、氏の意向によってこのようなホールが作られたのでしたが、それも時代であり、今はいくら頭取が文化が好きだからといっても本店の設計にそういう贅沢施設を盛り込むなどはなかなかできないでしょう。

そんな福銀ホールですが、一昨日の新聞記事によれば、NPO法人福岡建築ファウンデーションの主催による「福岡市現代建築見学ツアー」というものが開催されて、その中にこのホールが含まれていたとありましたが、それによれば内部はなんとすべて松材で作られているということを初めて知りました。
松材の内装のお陰で美しくやわらかい響きがあるのだということで、あれは「松のホール」だったのかと非常に驚きつつ、その音の素晴らしさの秘密には思わず唸ってしまいました。

松材といえばいわゆるスプルースで、いろんな種類はあるでしょうけれども、弦楽器やピアノなどの響板にも使う木材です。それをステージを含む床以外の広大な壁や天井すべてをこの稀少素材で埋め尽くすことで作り上げたのですから大胆としかいいようがなく、資源保護やコスト重視の現代ではとても不可能な、あの時代だからこそできた贅沢なものだったことがわかりました。
ちなみに現代では、全面木材の内装は安全面からも不可の由。

そんな素晴らしい福銀ホールですが、銀行のホールという性格上、管理も官僚的で、利用がしにくい(以前はホールまで土日は無条件に休みだった)などいろいろな制約があり、利用者がそれほど積極的に使いたいものではないという点は実に惜しいところです。

良くも悪しくも時代というべきでしょうが、駐車場は一切なく、また何度か書きましたが、座席のある地下3〜4階まで自分の足だけで(障害者は別)降りて行かなくてはならず、終演後はその逆で、高齢者などは狭い通路階段を、揉み合うようにしながらビルの4階相当まで階段を登る苦行を強いられ、体力的に厳しいものであるのも事実です。

かの黒川記章の作品といえども、構造の点でもいささかおかしなところがあり、地下2階に相当するホールロビーが客席の最上階部分に作られ、通常のホールのように両サイドからの出入口というものがないため、すべてのお客さんは必ず最上部に位置する左右2箇所のドアから出入りして、薄暗いホールの中を延々と不規則な階段を降りて行かなくてはなりません。

一定以上の規模を有するホールというものは、公共性という一面をもつものなので、いくらそれ自体が素晴らしくても、利用者の快適性を軽視した作りであれば、その魅力を100%活かすことは困難ということの典型のような、いかにも残念なホールなのです。
銀行のようにお金があるところこそ、この宝を真の宝として活かすよう、利用者の側に立った工夫と改装をして、長く福岡の地に残して欲しいものです。
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内田の新譜

CD店の試聴コーナーには、先ごろ発売されたばかりの内田光子の新譜が設置されていました。
前回に続いてのオール・シューマンで、森の情景、ソナタ第2番、暁の歌が収められていますが、彼女のピアニズムとシューマンが相性がいいとはどうしても思えず、なぜ最近の内田は録音にシューマンを継続的に弾くのか、さっぱりその理由がわかりません。

内田の演奏および芸術家としての姿勢には大いなる敬意を払いつつも、このところちょっと懐疑的にもなっているマロニエ君としては、新譜が出ても昔のような期待を感じることはなくなっています。

とりわけグラミー賞を取ったとかなんとかで話題になってはいたものの、彼女の二度目のモーツァルトの協奏曲シリーズは、マロニエ君としては、前作のジェフリー・テイト指揮のイギリス室内管弦楽団と共演した全集が彼女の最高到達点であり、如何なる賛辞を読んでも到底同意できるものではなく、なぜいまさらこんなものを出すのかがわかりません。

モーツァルトで再録するなら、初期の固さの残るソナタ全集のほうであると考える人は多いはずですが、彼女の考えおよびCDリリースに当たっては、ビジネスとしてどのような事情が絡んでいるのやら業界の裏事情などはわかりませんから、表面だけ見ていてもわからないことかもしれませんが、とにかく表面的には疑問だらけです。

フィリップスからデッカに移って、ソロとして出たのがたしか前回のシューマンのダヴィッド同盟と幻想曲でしたが、これは購入したものの何度か聴いただけで、もう聴こうとは思いません。
そのときの印象が残っていたので、もう内田のシューマンは買わないだろうと思っていましたが、試聴盤ぐらいは聴いてみようとヘッドフォンを引き寄せました。

なぜか森の情景からはじまりますが(この3曲なら絶対にソナタ2番からであるべきだと、マロニエ君は断じて思う)、第一曲からして「あー…」と思ってしまいました。この人はいわゆるコンサートピアニストという存在からだんだん違う道へと逸れて、まったく私的な、ごく少数のファンだけのためのマニアックな芸術家になったように思います。
その演奏からは、音楽の真っ当な律動や喜びは消え去り、聴く者は、内田だけが是と考える細密画のような解釈の提示を受け入れるか否かだけで、それに同意できる人には魅力であっても、マロニエ君にはもはやついていけない世界です。
とりわけそのひとつひとつの予測のつかない表現と小間切れの苦しげな息づかいは、まったく乗り物酔いしそうになります。

もっとも耐え難いのは、聴くほどに神経が消耗し、息苦しさが増して、心の慰めや喜びのために聴く音楽でありたいものが、まるで忍耐づくめの修行のようで、彼女がしだいに浮き世に背を向けて、まったくの別世界に向かっているような気がしました。

なにしろ内田光子のことですから、多くの書物を読み、音符を解析し、そのすべてに深い考察と意味づけをした上での演奏なんだろうとは思いますが、結果としてそれは非常に重苦しく恣意的で、音による苦悩を強いられるはめになるのは如何ともし難いところです。
まるで名人モデラーが、現物探求をし尽くしたた挙げ句、一喜一憂しながらルーペとピンセットで取り組む、オタッキーなプラモデル製作でもみているような気分です。

以前の彼女には、ちょっと???なところがあったにしても、他者からは決して聴くことのできない繊細巧緻な組み立てや、圧倒的な品格と美の世界に触れる喜びがありましたが、今は彼女の中の何かがエスカレートしてしまい、独りよがりのもの悲しいつぶやきだけが残ります。

ただし、それはソナタの2番までで、シューマン最晩年のピアノ曲集である暁の歌では、そういう内田のアプローチがこの神経衰弱的な作品に合っていて、やはりまだこのような見事さはあるのだと、変にまた感心してしまいました。
この暁の歌だけは欲しいけれど、そのために前45分にわたる苦行の音楽を聴くのも嫌だし、収録時間のわずか1/4だけのために購入するというのも、もうひとつ決断がつかないところです。
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中国の珍百景

昨日のお昼のこと、テレビの画面をなんとなく見ていたら、タイトルの通りのような言い回しで、この夏の中国の珍風景をおもしろおかしく紹介していました。

今年の猛暑は日本だけのものかと思っていたら、なんと中国も同様だそうで、大陸でも観測史上初の値を記録する厳しい暑さに見舞われているようでした。
それにまつわる写真が3枚紹介されましたが、一つはデパートの健康器具の売り場で、商品の安楽椅子や身体を横にして使う器具の上で堂々熟睡する人達で、涼しいデパートの店内で横になれる場所を見つけては、大勢の人達がずらりと並んでぐぅぐぅ眠っている様子でした。

もうひとつは地下鉄の構内で、ここもクーラーが効いていて、しかも床が化粧仕上げの石造りであるためにひんやりするというわけで、大人も子どもも、その床にべったりと身体をくっつけて眠っている様子ですが、中国の衛生事情は日本人にはかなり厳しいものがあり、駅の構内などはみんなが唾や痰をバンバン吐いたりするのが当たり前なのですが、どうやらそんなことはお構いなしのようです。

最も驚いたのは、中国の巨大なプールで、ここには大勢と云うよりは、ほとんど群衆とでも呼びたいような猛烈な数の人達が殺到しており、人と浮き袋などでびっしりとプール全体が埋め尽くされていて、まったく水面というものが見えないのは恐れ入りました。
かつて見たこともない、まさに中国ならではの桁違いの混雑ぶりでした。
湘南などの海水浴の猛烈な人出でさえ驚くのに、この中国のプールの人の密集度は、とてもそんな甘っちょろいものではないのです。パッと見にはプールに人々が入っているというよりも、まるでなにか得体の知れないものが異常発生しているか、江戸小紋などのこま柄がびっしり詰まった模様でも見るようでした。

それはそれとして、ふと気になったのは水質の問題です。
中国に旅したことのある人ならだれでも知っていることですが、あちらは気の毒なことにきわめて水質の悪いお国柄で、たとえ一流ホテルに泊まっても、水道の蛇口を捻ると、うっすらと濁った、少し変な臭いのする水しか出てきませんし、当然それを飲むこともできません。また、レストランなどで出てくるお茶を飲むと、料理の美味しさとは裏腹に、どことなく嫌な臭いのする水質の悪さを感じさせられて、あまり飲みたくない気になるものです。
したがって、中国に行くと必ず手始めにコンビニなどへ行って、飲料用の水を一抱え買ってくるのですが、その「買った水」でも日本の普通の水道水よりはかなり質は落ちるというのが実感です。

飲み水でさえそんなお国柄ですから、プールという途方もない水量を必要とする施設での水質はどうなっているのだろうと、どうしても考えてしまいます。おまけに上記のような、信じられないような夥しい数の人達が、満員電車のように押しあいへしあいしながら水に浸かるとなれば、こりゃあもう衛生状態なんてほとんど期待できないのではと思ってしまいます。

聞くところでは、この夏は上海あたりでも40度を超える猛暑日があるほか、内陸の重慶などでは42度を超える記録まで出ているというのですから、いやはや今年の暑さは呆れるのを通り越して、どこか恐いような気がしてしまいます。
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一位と二位で

早いもので、今年もお盆の時期を迎えました。
例年にない猛暑列島の中、多くの人々がフライパンの上を大移動をするみたいで、そのエネルギーたるや大変なものだなあと思わずにはいられません。

家人から聞いた話ですが、お盆の初日13日にあたり、テレビニュースではそれに関するもろもろの話題を採り上げていたらしく、最も興味深かったのが「ストレス」に関するものだったとか。

なんと、現代の日本人が一年を通じて最もストレスを感じる時期というのがお盆休みなのだそうで、その第1位は、この真夏の真っ只中に、家族を引き連れて夫妻いずれかの実家に帰省することが定例化していることだとか。てっきりそれが楽しいのかと思いきや、多くの人達には大変な重荷になっているというのですから驚きました。
今の今だからとくにそう云うのかもしれませんが。

とりわけ実家が遠方になればなるだけ、交通費は嵩み、お土産だなんだと出費はあるし、移動に要するエネルギー消耗も増加するのは当然です。着いた先も、自分の実家だとはいっても、連れ合いにとっては気を遣う場所でもあるでしょうし、単なる旅行のようにポンとホテルに泊まって、あとは気まま遊び歩くというわけにもいかないのでしょう。

さらに驚くべきは、ストレスの第2位はそれを迎え入れる実家側の人々なのだそうで、これまた驚きました。自分の子ども一家の帰省であり、かわいい孫というような喜ばしいファクターもあるのでしょうが、やはりそこには甚大なストレスという本音が隠れ棲んでいるというのが、いかにも人間のおもしろい(といっては悪いなら複雑な)部分だと思いました。

たしかにひとくちに「実家」などと云っても、誰もが部屋の有り余った大邸宅に住んでいるわけではないし、突如増加する人の数といいますか、単に物理的側面だけをみても、相当に苦しい状況が否応なく生まれるのは明らかです。いかに我が子の大切なファミリーとはいえ普段別に生活している者が、束になって帰省の名の下に押し寄せてくれば、それまでなんとか保っていた平穏な生活のリズムは大きく乱され、なんでもが「嬉しい」わけでも「賑やか」なわけでもないというのが実情のようです。

そんなストレスの第1位と第2位が、お互いの本音を隠しながら、真夏の狂騒模様を必死に演じているとすれば、いかにも切ない人間のアイロニーを感じてしまいます。マロニエ君などは、だったらいっそ本音を打ち割って双方了解を得て、そんな疲れることは端から止めてしまえばいいのに思いますが、まあそれが簡単にできないところが人間社会の難しいところなのかもしれません。

マロニエ君宅の知人の女性の話ですが、夫を亡くし、東京で一家を構える息子のもとへ遊びがてらしばらく逗留したところ、奥さんも昼は仕事をして不在、子ども達は学校、息子はもちろん仕事で、必然的に毎日見知らぬ土地で孤独の時間を過ごすハメになり、やっと家族が集う夕食時ともなると、今度は2人いる子どもが、食事をしながらケータイかなにかのゲームに打ち興じるばかりで、まるで会話というものがなく、それを叱ろうともしない息子夫婦にも呆れつつ、たまに訪ねてきてはお説教というのも躊躇われて、とうとう予定を切り上げて帰ってきたという顛末がありました。

身内といっても、しだいに人との関係には元には戻れない深刻な変化が起こっているのかもしれません。

聞くところによると、現代人の最も苦手なものは「人付き合い」なんだそうで、他人同士はいうに及ばず、身内でも自然な人付き合いができないために、人がどんどんバラバラになっていくようで、これをいまどきの社会現象だといってしまえばそれまでですが、そんなバラバラな者同士が増えるだけ増えて、この先どうなってしまうのだろうと思います。
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LEDのメリット?

多くの方はよくご存じのことかもしれませんが、電気などに疎いマロニエ君は、最近流行のLEDと従来型の製品の明瞭なメリット/デメリットがもうひとつよくわかりません。

我が家は、白熱電球の照明が多いこともあり、わりに早い時期から「電球型蛍光灯」に切り替えることでずいぶん省エネ対策をしたつもりでした。
たしか、耐久力は8倍近くに上がり、消費電力は1/4程度というのが謳い文句だった記憶があります。

その電球型蛍光灯も市場に出てきた当初はかなり高額でしたが、その後は多くの電気製品と同様、普及とともに値段も下がり、ずいぶん求めやすくなってきたことは大歓迎でした。

ところが、その後LEDという、さらなる新時代テクノロジーによる照明システムが現れ、これもまた従来の白熱球と同じ口径のものが売り出されましたが、その価格と来たら、ちょっと気まぐれに買ってみる気になれないほど高額で、その後は少し安くなりはしたものの、電球型蛍光灯ほどには下がらず今に至っているように思われます。

いくら省エネだなんだといってみても、あまりに単価が高くては、真の省エネとは呼べないわけで、電気店などにいくたび箱を手にとって説明書きなどを見てはみるものの、どうも光量が少ない感じで、では消費電力も劇的に少ないのか?というとそれほどでもなく、マロニエ君にとっては購入してみるだけの決め手がもうひとつありませんでした。

ところが困ったことには、長年愛用している電球型蛍光灯が僅かずつであるものの、商品数が減り始め、価格もそれまでのような安いものは姿を消し、そのぶんLEDが幅を利かせはじめている気配です。市場ではなんとかして消費者をLEDに移行させようというメーカーの思惑が働いているように感じます。
電球型蛍光灯は、一時は100円ショップにさえ出回るまでになったのですが、最近では完全に店頭からその姿は消えてなくなり、最低でもホームセンターなどでないと購入できなくなったばかりか、選択肢もだいぶ減りました。

それに対して、LEDはどうかすると売り場の一角に堆く積み上げられて、「これからは、こっちを買うのが当たり前」といわんばかりの光景です。たしかに価格も1000円/1個を切るようなものも出てきたので、電球型のLEDは一度も使ったことはないし、なんとなく買ってみようかという気になり、かなりその気で眺めてみました。しかし、やっぱりどうもしっくりきません。

マロニエ君は昔の白熱球のワット数でしか明るさのイメージが掴めないのですが、それに換算すると、大半のLEDは白熱電球でいう30Wとか40Wが主流で、60W相当となるとかなり少数かつ高額なることがわかりました。ちなみにLEDで60W相当の場合は一流メーカーの品で消費電力は9.8Wとありますが、これまで使い慣れた電球型蛍光灯の60W相当の消費電力は少ないもので12Wと、その差はわずか2.2Wしかないのは???と思いました。

しかも価格はLEDの場合、同じ店でも電球型蛍光灯の約3倍近くにもなり、またしてもLEDのいったいどこがそんなにいいのかがいよいよわからなくなりました。
ついには両方を手に持って店員さんを捕まえて、どんなふうに違うのかを質問してみたのですが、なんと答えに窮するばかりで、これという説明が得られなかったばかりか、ずいぶん考えた挙げ句に「お客さんの中では、LEDは暗いと言われる方がありますね…」と言い出す始末。いよいよLEDを積極的に購入する理由がなくなり、またしても電球型蛍光灯を買ってしまいました。

LEDは、よくよくマロニエ君にはご縁がないようです。
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ピアノフェスタ2

今回のピアノフェスタは、知人からお誘いを受けたことがきっかけで赴いたものでしたが、いささかの訳があって他のお客さんの少ない時間帯に見せていただくことができました。

輸入ピアノのうちの何台かは触る程度のことはしてみましたが、先に書いたようにどれもオーバーホールの出来たてホヤホヤみたいな状態で、本来の音や性能水準に到達しているとはとても思えず、よってあまり積極的に興味が持てなかったことと、やはりどうしても弾いてみたいピアノの人気というのは有名ブランドに人が集中してしまうため、そういう状況ではマロニエ君はいつも気分的に引いてしまうところがあるのです。

多くの外国製高級ピアノの前はこのときの為にかどうかはしりませんが、楽譜まで持参して、たいそう熱心に弾かれている人達があり、そういう光景を見ると、いっぺんに気分が萎えてしまい、それが終わるチャンスをうかがって、椅子が空くと同時にすっ飛んでいくような「がんばり」がどうしてもわかないのです。

いっぽうで、国産グランドのエリアはてんでがら空きで、こちらのほうが静かでもあるし、なんとなくそちらをブラブラしていると、なんと今年は2台の中古ディアパソンが持ち込まれていることに一驚しました。
しかも、そのうちの一台はディアパソンの中でも稀少なDR211で、マロニエ君が今年購入した210Eとまったく同サイズ(奥行き211cm)のピアノですから興味津々でした。これは生産されたオオハシモデルの最後の時代のピアノで、基本的な設計は210Eとほとんど同じだと考えられます。

こちらは誰もいないのを幸いに183と211に触ってみましたが、ピアノとしての状態は決して悪くないと思われましたが、意外にもディアパソンらしさのない軽くて細い音がして、あまりグッと来るものはありませんでした。
とりわけマロニエ君の関心の中心は211にあるのはいうまでもなく、こちらをより多く触らせてもらいましたが、同じサイズと構造のモデルでも昔のものとは何かが決定的に違っているような印象を持ちました。それが何であるかはわかりませんが、よりカワイ的と云ったらいいのか、どちらかというと淡泊で深みのない音になっており、ディアパソン特有のあのズッシリした鳴りとパワー、楽器としての奥行きみたいなものはあまり感じられなかったのは意外でした。

アクションもこの時代にはヘルツ式になっているため、現代的ではあり、バリバリ弾かれる方などはこちらを好む方も多いだろうと思いますが、しっとりとしたセンシティヴなタッチや、楽器との対話を楽しみたいなら、マロニエ君はシュワンダーの方が好ましいとあらためて思いました。
ただし、ヘルツになってもキーが重いのはあいかわらずなのは不思議でした。

音の特徴やタッチに意識が集中しすぎて、何年式であるかを確認するのをうっかり忘れてしまいましたが、やはり、多くのピアノが辿らされた運命と同じく、製造年が新しくなるだけ木の質は落ちているという印象は拭い切れませんでした。
マロニエ君の購入したおおよそ35年前の210Eは個人売買での購入で、あまり使われている印象はなかったものの、ピアノの置かれていた環境や状態はお世辞にも褒められたものではありませんでしたが、それでも基本的には今と変わらない深みと味わいは持っていましたから、ピアノが根底のところにもっている基本は、いかなる環境にあろうとも意外に変わらないのだと思いました。

なんだか、お店の商品と自分のピアノを比較しているような感じの文章になっているかもしれませんが、努々そういう意図ではなく、同じメーカーの同じピアノであっても「時代」によって予想以上の違いがあるということが再確認できたということです。

そういう意味では、たとえばヤマハやカワイの中古ピアノを買われる方がおられるとして、サイズの違いばかりにこだわらず、同サイズでも年式による音の本質的な違いにも留意すべきではと思います。
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ピアノフェスタ1

毎年夏、博多駅ターミナル内にあるJRの大展示場で行われる島村楽器主催によるピアノフェスタに今年も知人らと行ってきました。

楽器販売が低迷する時節柄、大手メーカーのショールームさえも撤退を余儀なくされるなど、ピアノを取り巻く厳しい状況が続く中、とりわけマニアックなピアノ店が少ない福岡では、質・量いずれの点に於いてもこれほど多くのピアノが一堂に集められ、大々的に展示販売される催しは唯一無二のものとなっています。

会場入口からは、いつもながら電子ピアノが無数に並べられていて、きっと素晴らしい製品はあるのだろうとは思いつつ、どうしてもアコースティックピアノの展示エリアに足が向かってしまうのは、個人的に興味の比重が異なるため、毎回素通りになるのは仕方がないようです。

スタインウェイをはじめとする、海外のブランドがズラリと並ぶ中、今年は日本製のグランドもこれまでよりかなり数多く展示されていたように思いました。
珍しいところではグロトリアンやシンメル、古いベヒシュタインなども見受けられましたが、輸入物ではやはりスタインウェイが最も数が多く、記憶ちがいでなければD/C/B/A/O/M/Sのすべてのサイズが揃っており、ほとんどが美しく仕上げられたオールドの再生品だったようです。

島村楽器の扱う中古ピアノの良い点は、高級機でも大半がオーバーホールをされていることで、消耗品の交換はもちろん、外装なども多くが塗装をやり変えてあるので、いかにも中古品というマイナス印象を受けなくて済むことでしょうか。もちろんすべてではないかもしれませんが、多くの個体がこのような状態で販売されているようですし、価格的にも、絶対額は安くはないけれども、あくまでも常識的な納得できる価格である点もこの全国に販売網を持つ大手楽器店の強味なのかもしれません。

ただし、オーバーホールされたピアノに共通して感じられたことは、調整は明らかに未完の状態で、まだ本来の性能を発揮しているとは思えず、これから音を作って開いていくという余地が残っていることでした(意図的にそういう状態でとどめられているのかもしれませんが)。
個人的にはもっと調整の仕上がった澄んだ美しい音や響きを聴きたいところですが、それは購入されたお客さんだけが自分の好みを交えながらじっくりと熟成していく過程を楽しまれる、密かなる権利というところなのかもしれません。

しかし、それは同時にそれぞれのピアノがこの先の弾き込みや調整如何によって、どんなふうに成長していくかをある程度イメージできるかどうかという大きな課題を突きつけられているようで、これはよほどの経験者か目利きでなければその見通しを立てることは相当難しいことでもあり、やはり楽器購入は何がどう転んでも容易なことではないということを実感しました。

それにしても、毎年これだけ大量のピアノを関東から運んで展示会をされるということ、さらにはそれがすでに3年も連続しておこなわれているということだけでも、我々のようなピアノ好きとっては大変ありがたい唯一の催しであるわけで、素直に感謝するべきだと思いました。
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主治医繋がり

先日、あるピアニストの方とお話をする機会があって、たまたま話題が調律やピアノ管理に関することに及びました。
すべてではないものの、多くのピアニストは自分の弾くピアノという楽器に関して、本気で関心を寄せている人というのはそう多くはないので、この方は非常に珍しいと思い、ちょっと嬉しくなりました。

ピアノにまつわるさまざまな要素は、どれもが単独で語ることができないほどそれぞれの要素が互いに絡み合い、関係し合い、依存し合っている面が多く、これはいいはじめるとキリがなく、マロニエ君ごときでは言い尽くすこともできません。

例えばどんなに素晴らしい楽器でも、弾く人の音楽性や美意識しだいではその良さはほとんど出てきませんし、ピアノの置かれている場所の環境など管理状態が悪くてもダメ。調整などの技術面での技量や意識レベル。さらにはそれらが揃ったにしても、ピアノが鳴る部屋や音響という問題もあって、これらのことを考えはじめると、とても理想的な状態を作り出すなど、少なくとも通常は不可能に近いものがあると思われます。

しかし、そんな諸要素の中のどれか1つか2つでも持ち主がそこを理解して保守に努め、改善できるものは改善したりすると、それだけでも状況は大きく異なります。
その方はとある極めて優秀な技術者さんとの出会いによって、ピアノに対する接し方やスタンスに変化が起こり、ついには弾き方まで変わったとおっしゃるのですから、やはり技術者というものの存在の大きさを感じずにはいられません。
とりわけ調律はその要素がきわめて大きい部分を占め、ピアノの機械的な技術面でも調律ほどピンキリの世界もないというのがマロニエ君のこれまでの経験から得た結論です。

整調、整音、調律はどれが欠けてもいけないものですが、とりわけ調律は技術者側におけるセンスと才能が最も顕著に発揮される領域で、これはいうなれば技術領域から芸術領域に移行していく次元だといっていいと思います。

整調整音が上手くいっているとしても、調律こそが最終的に楽器に魂を吹き込む作業といいますか、極論すれば、それによって音の出る機械から真の楽器に変貌できるかどうかの分かれ目になると思うのですが、この点がなかなか理解が得られないところのようです。
一般的に調律といえば、ただ2時間弱ぐらいピッチを合わせて、ついでに気がついたところをちょこちょこっとサービス調整してハイ終わり。代金をもらって「ありがとうございました」と言って去っていくというのが大多数でしょうし、ピアノオーナーのほうも調律とはそんなものと思っている人のほうが圧倒的に多いようです。さらには、ピアノの先生や演奏の専門家でさえ、ピアノだけはほとんど素人並の認識しかない場合が決して珍しくないのです。

ですから、その方は大変珍しい方だなあとマロニエ君は思ったわけです。
同時にコンサートなどで方々に行かれる先にあるピアノの管理の悪さには、ずいぶんと辟易されているようで、この点はほとんど諦めムードでした。
同じ福岡の方だったので、そんな素晴らしいピアノ技術者の方が、やはりひそかにいらっしゃるんだなあと内心思いつつ、敢えてお名前は聞かないで話をしていたら、さりげなく向こうのほうからその方の名前を云われたのですが、なんと我が家の主治医のおひとりだったのにはびっくり仰天。
やっぱり世間は狭いというべきでしょうか。

この技術者の方は、別にスーパードクターのように威張っているわけではないけれど、非常に強いこだわりと自我をおもちの方で、ある意味気難しく、頼まれればどこにでもヒョイヒョイ行かれる方ではないので、マロニエ君としても我が家に来ていただけるのは幸いとしても、軽々しく人にご紹介はできないと思っていました。
そういうこともあって、数少ないその方繋がりのピアニストと知り合うことができたことは、不思議なご縁と嬉しさを感じたところです。
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正しきお姉様

ひと月以上前のNHKのクラシック音楽館で放映されていたN響定期公演から、ヴィクトリア・ムローヴァのヴァイオリンで、ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番が演奏されたときの映像を見てみました。指揮はピーター・ウンジャン。

ムローヴァはロシア出身で、年齢も現在50代半ばと、演奏家として今最も脂ののりきった時期にある世界屈指のヴァイオリニストといって間違いないでしょう。
昔からマロニエ君は熱烈なファンというのではないものの、ときどきこの人のCDを買ったりして、「そこそこのお付き合い」をしてきたという自分勝手なイメージがあります。

その演奏は「誠実」のひと言に尽きるもので、バッハなどで最良の面を見せる反面、ドラマティックな曲ではともするとあまりに端正にすぎて、情感に揺さぶられてはみ出すようなところもなく、見事だけれどもどこか食い足り無さが残ったりすることもしばしばです。
ロシア出身のヴァイオリニストといえばオイストラフを筆頭に、コーガン、クレーメル、レーピン、ヴェンゲーロフなど、いずれもエネルギッシュかつ濃厚な演奏をする人達が主流ですが、そんな中でムローヴァは、突如あらわれたスッキリ味のオーガニック料理を出すお店のようで、それは彼女のルックスにさえ見て取ることができます。

長身痩躯の金髪女性が、スッとヴァイオリンを構えて、淡々と演奏を進めていく様はとてもロシア出身の演奏家というイメージではないし、とりたてて味わい深いというのもちょっと違うような、なにか独特の、それでいて非常にまともで信頼性の高い演奏に終始し、一箇所たりともおろそかにされることはないく、彼女の音楽に対する厳しい姿勢が窺われるのは見事というほかはありません。
耳を凝らして聴いていると、非常に深いところにあるものを汲み上げていることも伝わりますが、彼女は決してそれをこれみよがしに表現しようとはしないのです。

とりわけ最近では、ガット弦を用いて演奏するなど、古楽的な方向にも目を向けているようで、この人の美質は本来そちらにあるのかもしれません。
さて、ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲は、終始一貫した、まったくぶれるところのない、いかにもムローヴァらしい快演ではあったものの、曲が曲なので、やはりそこにはマロニエ君個人としては、もうすこし大胆な表現性、陰翳感やえぐりの要素とか、エレガンスと毒々しさの対比などが欲しくなるところでした。

このショスタコーヴィチの演奏を聴いてまっ先に思い出したのは、もうずいぶん昔のことですが、小沢征爾指揮でムローヴァがソリストを努めたチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲をCDを買ったことがありましたが、マロニエ君もまだずいぶん若かったこともあり、そのあまりの端正な無印良品みたいな演奏には大いに落胆を覚えたことでした。

最近ではピアノのアンデルジェフスキと共演したブラームスのソナタ全3曲がありますが、こちらもやはりムローヴァらしいきちんと整理整頓された解釈と遺漏なき準備によって展開される良識的演奏で、この素晴らしい作品をじっくり耳を澄ませて集中して勉強するにはいいけれども、作品や演奏をストレートに楽しむにはちょっと違う気がするところもあり、やはりどこかもうひとつ聴く者を惹きつける何かがないという印象は変わりませんでした。
ソロでは個性全開のアンデルジェフスキも、このCDではムローヴァの解釈に敬意を表してか、至って常識的に節度を保って弾いているのが、お姉様に頭があがらない弟のようで微笑ましくもありました。

と、こんなことを書いているうちに、マロニエ君としたことが、ムローヴァのバッハの無伴奏パルティータとソナタのCDを買っていなかったことに気が付き、これぞ彼女の本領発揮だろうと想像しているだけに、はやいところなんとか入手しなくてはと思いますが、この「つい忘れさせる」というのがムローヴァらしいところなのかもしれません。
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ラベック姉妹

多くの皆さんもきっと同様ではないかと思いますが、いわゆる人間の第一印象といいましょうか、初めに受けたイメージや、そこから発生した好みというものは、これが意外なことに自分が考えている以上に正確で、途中で覆るなんてことは非常に稀というかむしろ例外的です。

大半の場合においては、何十年経ってもその印象が変わることはまずないのが自分を振り返っての結果ですし、少なくとも自分という主体においては、ある意味、第一印象ほどぶれがない信用度の高い情報は他にないように思います。

マロニエ君にとっては、ピアノのラベック姉妹がそのひとつで、彼女達が楽壇に華々しく登場したのはもうかなり昔のことでしたが、そのころから何度かその演奏を聴いてみましたが、彼女達の何がどんな風にいいのか、当時からまったく理解ができませんでした。

ビジュアルとしては美しいフランスの女性ピアノデュオで、姉妹であるにもかかわらず二人のキャラクターはまったく異なり、お姉さんは饒舌で、演奏の様子もジャズマンのように情熱的で野性的、片や妹はもの静かで黒髪を垂らしたひっそりとしたタイプ。

それはさておいても、その演奏には、マロニエ君は初めて聴いたときから、良いとか悪いとか好きとか嫌いとかいうものが不気味なほど発生せず、ひとことで云うなら「何も、本当になんにも」感じませんでした。フランス人の演奏家にはいろいろなタイプがいて、初めは違和感を感じても、なるほどそういうことかと、好みとは違ってもこの人が何をやりたいのかや、どういうところを目指しているかということは、日本人以上に強いメッセージ性をもっているので、だいたいわかってくるものです。
それがこの姉妹の演奏には、まったくなにも感じるところができないし、ま、どうでもいいようなことですがずっと自分なりにひっかかっていたように思います。

つい先日、久しぶりにそのラベック姉妹を見たのです。
NHKのクラシック音楽館でデュビュニョンという現代作曲家による「2台のピアノと2つのオーケストラのための協奏曲“バトルフィールド”作品54」というものが日本初演されました。
なんでもラベック姉妹の委嘱によって作曲されたものらしく、2台のピアノとオーケストラが舞台上で二手に分かれ、しかもこの音楽は戦争であると公言し、それぞれが「戦う」というのですから、これはなかなかおもしろい試みじゃないかと思いました。
ピアニストはそれぞれの軍を率いる隊長という設定なのだとか。

指揮はビシュコフで、初めて聴く異色の作品であるにもかかわらず、ピアノが鳴り出すと昔の印象がまざまざと蘇り、早い話が、曲がどうとか、楽器編成の面白さがどうということなどもそっちのけで、とにかくまたあの「何もない、何も感じない」演奏が延々と続き、かなり我慢してみましたが、とうとうこらえきれずに途中で止めてしまいました。

お姉さんのほうは、左足でパッタパッタとリズムをとりながら、獲物に噛みつくような表情をしばしば見せながら、オンガクしてます的な弾き方をし、妹のほうは常に冷静沈着、何があろうと淡々と指だけを動かしているようで、両人共に見た感じも音楽的必然がないのであまり惹きつけられるものがないし、何より肝心なその演奏はというと、マロニエ君にとっては好きも嫌いもない、ひたすら退屈というので、本当に不思議なデュオだと思いました。

ラベック姉妹の魅力がどこにあるのか、おわかりの方がいらっしゃれば教えて欲しいような気もしますが、そうはいってもたかだかマロニエ君にとっては趣味の世界のことですから、人から教わってまでこの姉妹の演奏の魅力を追求する必要もないというのが正直なところです。
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1905年製のB

またまたCDのワゴンセール漁りの話で恐縮ですが、今回はマロニエ君にとってはかなりの掘り出し物となりました。

輸入盤で、Ko Ryokeというピアニストの演奏するバッハのパルティータ第1番、ベートーヴェンのソナタop.109、ショパンの第3ソナタが収録されたCDを手にとって見ていると、使われた楽器が1905年製のスタインウェイBということが記されており、マロニエ君はこういう古い楽器で録音されたCDといいますか、要するにそういう楽器で演奏された音楽を聴くのが好きなので、当初の販売価格の1/3以下の値下げになっていることも大いに後押しとなり、躊躇することなく買ってみました。

Ko Ryokeというピアニストはこれまでに聞いたこともなく、はたしてどこの国の音楽家なのかさえわからないままでしたが、帰宅してネットで調べてみると、なんと領家幸さんという大変珍しいお名前の日本人ピアニストであることにまず驚き、さらには60歳という若さで、なんと今年の5月25日に逝去されたばかりであったことを知り、それからまだ2ヶ月ほどしか経っていないという事実に、重ねて驚いてしまいました。

このCDはドイツで2009年に収録され、PREISER RECORDというレーベルから発売されたもので、使われた楽器はこの時点で104歳のスタインウェイBというわけで、なにやらとてつもなく貴重なCDを手に入れてしまったことにあとからしみじみ実感が湧いてきました。

演奏は、奇を衒ったところのない真っ直ぐなもので、このピアニストの誠実さを感じさせるもので、録音もきわめて優秀。しかもついこの5月に逝去されて間もないことを思うと、その演奏を聴くにつけいやが上にも人の命の生々しくも儚さのようなものを感じてしまいました。

その音ですが、104歳なんてとても信じられない色艶にあふれた、まさに熟成を極めたオールドスタインウェイの音で、その色彩感、透明感、輪郭のある溌剌とした音と響きは、現代のピアノがとても敵わない風格とオーラを持っていました。パワーや音の伸びにもまったく衰えを感じず、この時代のスタインウェイの底力を見せつけられる思いです。
サイズも中型のBですが、ごく稀に現代のB型で録音されたものを聴くと、もちろんありふれたピアノよりは美しいけれども、やはりサイズからくる限界と、どこか狭苦しい感じ、ふくよかさが足りない感じを受けてしまう場合が少なくありません。ところがこのCDを聴いている限りに於いては、まったくそういう部分は感じられず、あえて意識すれば若干低音域で迫力が足りないことを若干感じなくはないものの、そうと知らなければ、これがB型だと気付く人はほとんどいないだろうと思われるほど、どこにも不満のない、本当に素晴らしい楽器でした。

同時に、オールドヴァイオリンにも通じるような使い込まれた楽器だけがもつ深い味わいと、無限の創造力をかき立ててやまない奥行きがあって、なぜ現代のピアニストはこういう美しい音の楽器にもう少しこだわりを持たないのだろうと思わせられてしまいます。

しかも古い楽器の凄味を感じるのは、それがどんなに華麗で明瞭で艶のある音をしていても、少しも耳障りな要素がない点です。耳障りどころか、むしろ深い安息や喜びを感じさせてくれるのは、やはり楽器というものは良い材料で作られ、演奏されることを重ねながら時を経るぶん、新しい楽器には決してない芳醇なオーラがあふれてくるのだろうと、いまさらのように思います。

こういうピアノはわざわざブリリアントな音造りなどをしなくても、楽器そのものが充分に、必然的に、本当の意味での華やかさを根底のところで持っているようで、現代のピアノはそういった往年の本物の音の良い部分をちょっと現代化し、かつ短期間で模倣するために、あれこれと科学技術を使っているようにしか思えなくなってしまいます。

いわゆる古楽器ではなく、モダン楽器の古いものというのは、マロニエ君にとって本当につきない魅力があることをまざまざと感じさせられたCDでした。
この楽器で録音に挑んでくださった領家幸さんには心からの敬意と感謝とご冥福をお祈りします。
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恐怖症

仕事上の必要が生じて、人前で挨拶らしきことをしなくてはいけないハメになり、大いに心を悩ませています。

おそらく、99%の人には理解できないことだろうと思いますが、マロニエ君は人と話をするのは人一倍好きなくせに、多数の人を前にして、自分が一方的に喋るシチュエーション、つまりスピーチとか、なにかの挨拶、自己紹介などが病的なほど苦手な珍人間なのです。

過日、趣味のクラブのことを書きましたが、この手のクラブにも新しく入会した場合はもちろんのこと、新人登場の折などにもそれをチャンスに一斉に自己紹介というのがありますが、これになると、直前までそれこそ先頭を切ってベチャクチャ喋っていた自分が、突然押し黙って硬直してしまいます。

たぶん多くの視線が自分へ注視されることが、最も耐え難い原因かもしれませんが、いまだにはっきりしたことは自分でも分かりません。こういうことが平気な人を見ると、もうそれだけで羨ましくもあるし、自分とはまったく異なる人種を見るような、なんとも説明のつけがたい妙な気分になってしまいます。
それどころか、普段はかなりもの静かで控え目な女性などでも、ひとたび自己紹介の場ともなると、すっくと立ち上がり、自分のことを尤もらしく、ごく普通に話すことができる様子などを見るにつけ、まったく自分という人間が情けないというか嫌になってしまいます。

ずいぶん昔、ある節目にあたる演奏発表会があって、皆の演奏が終わってパーティとなり、先生を囲んで門下生がそれぞれ自己紹介という流れになりました。その場になってそれを知り、恐れをなしたあまり、まわりの二人の友人を誘って場外に逃げ出て、ついには外の庭(会場はホテルだった)を30分ほど散策して、自己紹介が終わった頃、ソロソロと息をひそめて会場に舞い戻ったものの、結局見つかって、3人共叱られた経験などもありました。

マロニエ君のこの癖はもはや仲間内では有名で、自己紹介タイムになるとこちらの様子をおもしろがり、首を伸ばして観察する輩までいる始末で、人からみればなんということはない普通のことかもしれませんが、マロニエ君にとっては、バンジージャンプさながらの、まさに寿命を縮めるような一大事なのです。

一度だけ、大勢の前で最も長くマイクを持ってしゃべったのは、忘れもしない6年ほど前、上海の最大の目抜き通りにある大きなギャラリーである日本人作家の個展があり、そのオープニングで挨拶をさせられたことがありましたが、その規模は趣味のクラブの自己紹介どころのさわぎではなく、まさに大勢の観衆の見守る中でのご挨拶となり、数日前から生きた心地がしませんでした。いよいよそのときがきた時はまさに刑場に曳かれていくような気分でふらふらと演台に登りました。
せめてもの救いは場所が中国なので、大半の相手は外国人であること、さらにはセンテンス毎に訳が付き、そのたびに呼吸を整えることができたことでした。

しかし、今回はそういう助け船もなく、もう考えただけで顔が真っ青になっていくようです。
なんでこんな性格に生まれついたのやら、いまさらそんなことを考えても始まりませんが、世の中にはどう知恵を絞ってみても代理では事が片付かないこともあるわけで、こんな文章を書いている間にも、憂鬱がかさんでどんどん血圧が低下していくようです。

なんとか回避する方法はないものかと、この期に及んでまだしつこく考えてしまう往生際の悪さです。
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パリの野次馬2

前回の続き。

『パリを弾く』の著者新田さんが、「60歳の友人」とレストランで食事中、突然、向こうで女性同士の叫び声が聞こえ、見ると二人の女性が取っ組み合いをしていて、お互いの髪を引っ張り合っており、店内は騒然となったようです。
すると、この社長は「面白いことになってきた!」と言って自ら人混みを掻き分けながらちゃっかり最前列を確保してこの騒動の見物をはじめたとか。
そして言うことは「オペラ座なら3万円はくだらない上等席だ」と子供のように上気した頬を輝かせて二人のレスラーに見入っている、のだそうです。

そのうち犬(フランスのレストランは犬も同行できる)の鳴き声までこれに混ざり込んで、お互い罵詈雑言を浴びせ合っているとか。
この二人のうちの片方の女性は彼氏と犬を連れて来店しており、もう片方は夫と二人の幼い子供を連れている家族連れだというのですから、そんな二人が突如公衆の面前で取っ組み合いをするなど日本では考えられないし、しかも両方の男性は比較的おとなしくしているというのがさらに笑ってしまいます。

反射的に野次馬と化した社長は、最前列で仕入れた喧嘩の原因などを新田さんに報告すると、再び続きを見るためにすっ飛んでいくのだとか。
原因はなんと、この犬が吠えたとかどうしたとかいう、ごくささやかなことだったそうです。

やがて子連れのファミリーのほうが憤慨して店を出ていったそうですが、その際にも自分達が正しいことをまわりがわかってもらえているかどうかを観察しながら去っていったとか。

ケンカの片方が店を退出したことで一段落となり、やがて社長も席に戻ってきて支配人らとこの話をしていると、店のドアがバーンと開いて威勢のいいおじさんが走り込んできたそうです。
なんと犬連れのカップルのほうの女性の父親で、おお!と娘を抱きしめながらも右手にはこん棒のようなものを握っていて、「相手はどこだ?」と言ったとか。

すると例の社長は新田さんにひと言。
「ちぇっ、もっと早く来ないと駄目じゃないか!」

日本では到底考えられない情景ですが、マロニエ君は実を言うとまったくこの社長そのものみたいな人格で、こんな風に陽気に本音を包み隠さずに毎日を活き活きと過ごすことができたら、どれだけ素晴らしくストレスも少ないことかと思います。
マロニエ君もなにを隠そう人のもめ事などくだらないことが大好きで(暴力的なものはその限りではありませんが)、内心「やれやれ!」と思うのに、したり顔で割って入って「まあまあ」などと利口者ぶってなだめる奴が一番嫌いです。そんな奴に限って、自分は立派で、大人で、善良で、道徳的で、人として正しい態度を取っているつもりなのですから救いようがありません。

日本人が欧米人に比べると、多少引っ込み思案で遠慮がちなことぐらい、もちろん自分が日本人なのでわかっていますが、それにしても今どきのどうにもならない閉塞感はどうかしていると思います。

心の中はひた隠して、うわべの振る舞いや言うことだけは立派で、そういう人がうわべだけで評価される社会。ああ、彼の地は、なんと羨ましいことかと思いました。
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パリの野次馬1

新田美保さんというピアノを弾く女性が書いたエッセイ『パリを弾く』というごくごく軽い本を読みましたが、彼女はカラッとした性格である上に、パリの水で顔を洗っただけのことはあってセンスがあり、くわえてなかなか筆の立つ人ときているので、とてもおもしろく読み終えることができました。

この人は、エリザベト音大を卒業後、パリに渡りエコールノルマルの名教授ジェルメーヌ・ムニエのクラスで研鑽を積み、卒業後して後もこの地が気に入って、ずっと留まって生活をしている女性のようです。

本にはピアノや音楽のことはそれほど語られず、もっぱらフランスでの生活の情景がさまざまに切り取られ、おもしろ可笑しく描かれていますが、社会そのものが硬直した原則論やキレイゴトにまみれた、なにかにつけ息苦しい日本よりは、よほど自然体で共感できる点も多く、なんだか不思議な開放感に満たされたのが読了後の率直な印象でした。

パリっ子は我々が思っている以上に率直で自由な感覚で人生を生きているという、いうなれば人間的には至極真っ当なことを感じ、考え、発言し、あれこれ実行しているだけなのでしょうが、その点が非常に羨ましく思えましたし、時代の空気に気を遣うばかりで、どこか自己喪失してしまいそうな自分を少し取り戻すことができたようにも思いました。

それほど現代の日本は、建前に縛られ、人情に薄く、空虚な原則論ばかりが大手を振って歩いている、ある種全体主義的な管理社会という気がします。善人願望、利益優先、自己中、本音はタブー、喜怒哀楽の否定、情報の奴隷、文化意識・情感・冒険心の喪失などなど、日本の空気をいちいち挙げていたらキリがありません。

先日も日本在住のアメリカ人と会う機会がありましたが、なんでもないことが非常にまともで、知性と感情のバランスが普通で、やはり日本人は今とてもおかしなことになっていると感じたばかりです。

つい話が逸れました。
『パリを弾く』に戻ると、全編にわたりおかしなところは多々ありましたが、もっとも笑えて、かつ共感できたことのひとつ。新田さんがボーイフレンドと喧嘩をしてしまったので、友人を誘って愚痴りながら食事をしていたときのことです。
この友人というのがまた、歳もぜんぜん違って60歳にもなる、ある有名ブランドの社長なのだそうですが、そもそも日本では世代も性別も、ましてや国籍も違う者同士が、なにげなく食事に誘ったり誘われたりするなんてことは、まず考えられません。

直接の友人と会ったり電話でしゃべるより、スマホで見知らぬ人とコミュニケーションを取る方が楽で楽しかったりするのだそうですし、聞くところによるとちょっとした自分の考えや好みを言うのさえ、もし相手が逆だったときのことを考えて口にしないよう習慣づけているそうで、これは気遣いでも思いやりでもなく、それで自分が嫌われることを恐れての防御策なのですから、いやはや保身術も病的な領域に突入していると思います。あるテレビの報告に拠れば、現代の日本人の思考力や言葉の能力は、昔に較べて確実に退化しているのだそうで、ゾッとします。

ああ、またまた話が逸れました。
その新田さんが、その60歳の友人とそのレストランで食事中、突如、向こうのテーブルで突然激しい争いが起こったとか。
長くなったので、続きは次回。
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ウマ

離婚の理由などでよく耳にするのが「性格の不一致」という言葉ですね。
本当は広い意味の問題を、抽象的かつなんの工夫もない形式的な言葉に変換して、無造作にくくりつけただけのような、いかにも浅薄な響きを感じてしまいますが、実際には人と人との間に起こる非常に難しい永遠のテーマであるとも思います。

これは、べつに夫婦や恋人や友人でなくても、どんな場合でも、そこに人間関係が存在する以上、大小深浅の差はあれども必ずあり得るものです。

「性格の不一致」というと、まるで男女間限定の言い回しのような印象もありますが、別の言い方をすると人には「ウマが合う/合わない」という摩訶不思議で説明不可能なものがあり、これはいうまでもなく事の善悪や理屈を超えた生理的次元に属する問題なのかもしれません。そして、合わない場合はまずこれという解決策もないのが普通でしょう。
すぐに縁の切れる関係なら接触を断てばとりあえず解決ですが、嫌でも顔を合わせるしかない場所での関係になると、これほどきついことはなく、ひとたびこの淵に落ち込むとなす術がありません。

いっそ明確な落ち度や、分かりやすい善悪の裏付けなどがあればまだ救えるのでしょうが、そうでないところが辛いところ。ことさら悪いことをしているわけでもないのだけれど、ちょっとしたものの言い方とか、その人の癖、かもしだす負のオーラなどが無性に気に障ったりしはじめると、もう止めどがありません。

極端にいうなら、別の人がもっと酷いことをしても許せるのに、その人がすることは、客観的にはまったく大したことではないのに、どれもこれもが不快に感じたりする。そんなことで人に対する好悪の感情を抱く自分の人間性のほうが悪いのではないかと、今度は自分を責めるようになってみたりと、まさに出口のないストレスの渦に巻き込まれることにも発展します。

仮に人に打ち明けても、理解してもらえれば幸いですが、下手をすると「それしき」の事にガマンができないこちらの人格や良識、度量の無さ、ひいては道義性まで問われかねませんから、それを恐れてひとり抱え込んでしまう人も少なくないだろうと思います。

「ウマが合わない」とは、つまり一般論では解決できない極めて不幸な関係のことだろうと思います。さらには、こちらの心中を悟られてはいけないと精神的にもかなり無理をするので、いよいよ疲労やストレスは積み重なり、ついには相手の存在そのものが疎ましくなってしまいます。
その人がいる場所には行きたくないし、用があっても、メールや電話をするのも億劫になります。

マロニエ君は決して八方美人ではありませんが、わりに老若男女を問わず広くお付き合いのできるほうだと勝手に自惚れていますが、稀にこういう相手と出会ってしまうと、もうどうにもなりません。

残念なことに、世の中には必ずそういう相手が少しはいるもので、ときどき不慮の事故のようにヒョッコリ出会ってしまうということだろうと思います。
そういう相手とはできるだけ接触を控える以外に、有効な手立てはないようです。
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趣味の条件

先日、ピアノ趣味の同好の士を募ることの難しさを書きましたが、それはひとくちにピアノといっても、その楽しみ方があまりに多岐に渡っているため、まとまりを取ることが非常に困難という、ピアノの特殊性があるという意味のことでした。

それはそれとして、趣味道というものは可能なら仲間が集い、その魅力はもちろんのこと、苦楽や悲喜劇をも楽しく語り合って共感を得、同好の士との親睦を深めつつ情報交換にもこれ努めるなどがその醍醐味だということに今でも異論はありません。

そのいっぽうで、専ら人前で弾くことが好きな人という種族もあるわけで、これはあくまでも聴く人(もしくは見てくれる人)を必要とするのが、マロニエ君に云わせれば通常の趣味道とはちょっと趣が異なるような気がします。こういう人の中には、家にも立派なピアノがあり、その気になれば存分にそれを弾くことも可能であるにもかかわらず、それでは精神的に飽き足らないようです。

それも拙いながらも人に聴かせたいという純粋な動機ならまだ微笑ましいと解釈もできるのですが、人前で弾いている自分やそれに伴うある種の緊張や興奮の虜となり、それがために自分が主役となるための互助会的関係で人と繋がっているというのは、純粋な音楽の演奏動機とは似て非なるもののように感じます。

そうはいっても反社会的行為でない限りは、個人の自由であることはいうまでもなく、その範囲内でどのように楽しみを見出そうとも、それは咎められるものではないでしょう。ただ、ピアノのある場所を借りて互いに何時間も取り憑かれたようにただ弾きまくるということが、果たして趣味といえるかどうかとなると、少なくともマロニエ君には甚だ疑問です。

趣味というものに、附帯的に仲間がいるということは嬉しいことであり、心強いことでもありますが、そもそも趣味の根本にあるものは突き詰めれば「孤独」ではないかと思います。
もちろんスポーツなど、集団であることが必要とされるものも中にはありますが、それはレクレーションであったりイベントであったりで、マロニエ君の認識で云うところの趣味の概念からいえば、趣味というものはもう少し違った精神世界であるし、基本的には仲間がひとりもいなくてもじゅうぶん楽しめるという自分自身の基盤を持っていないと趣味とは呼びたくないというこだわりが自分にはあるようです。

その上で、好ましい仲間がいれば、もちろんそれに越したことはありませんし、そこから趣味の道も人間関係も広がればこんな幸福なことはないわけです。
ただ、同じピアノでも、互いに弾き合うイベントや教室の発表会だけを唯一最大の目標にするようでは、これは趣味人としてもずいぶん浅瀬ばかりを這い回る遊び方のように思います。もちろんそれを否定しているわけではないですが。

繰り返しますが、趣味というものは基本的にひとりでじっと楽んで、それでじゅうぶん愉快でなくては本物じゃないというのがマロニエ君の持論です。同時に、どんな楽しみ方があっていいとは思いますけれども、そこに一筋の純粋さが貫かれていなくてはマロニエ君自身はおもしろくないわけです。

マロニエ君は理屈抜きに人と関わることは人一倍好きですが、趣味の合わない人と趣味を語り、不本意に価値観や歩調を合わせることはまったく不本意で、正直疲れてしまいます。
きっと自分が一番好きなことは、他者から土足で踏み荒らされることが嫌で、自分にとって理想の形態で温存しておきたいという防衛本能が働いているのかもしれません。
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ピアノ趣味の困難

これまでに、いくつもの趣味のクラブに属したことがあり、中でも車のクラブはいったい幾つ入ったかわかりません。既存のクラブに入会したのはもちろん、自分が発起人となって作ったものもいくつかあり、その中のひとつは設立から20年以上を経て、今尚存在しているほどで、最盛期には実に200人近い会員数を誇りました。この間、多くの素晴らしい人達と出会ってきたことを思うと、趣味というものの素晴らしさをこれほど切実に感じたこともありません。

そんな趣味のクラブには慣れっこの筈のマロニエ君ですが、その多くの経験をもってしても、入っても、作っても、どうしても上手くいかないものがあり、それが何を隠そうピアノのクラブなのです。

ピアノのクラブでは既存のクラブに入会したものの価値観が合わずに退会したものがあるほか、自分でもこの「ぴあのピア」を立ち上げて作ってみたものの、さてどう動いて良いのやら、ピアノに関してだけはまったく動きの取り方がわからないし、運営方法が皆目掴めないという状態が今尚続いています。
もちろん、マロニエ君の力不足、能力不足、努力が足りないと云われたらその通りなのですが…。

趣味のクラブというものは、いまさら云うまでもなく、趣味を同じくする者同士がつどい、その苦楽を共にし、語り合い、情報交換に興じ、そしてなによりもその素晴らしさを深く共感し合えるところにあり、さらにそこから趣味人同士の友誼や連帯が生まれて、それを軸にした人間関係が構築されていくところに醍醐味があると思います。

しかし、ピアノに関してだけはその趣味性という点に於いても、まるでつかみどころが無く、いっかな焦点さえ定まりません。ひとつの主題の元に全体がゆるやかに結束することが、ピアノほど困難な世界も経験的に珍しいというのが偽らざるマロニエ君の実感です。

それというのも、ひとくちにピアノと云っても、自分が弾くことがが好きな人、音楽が好きでピアノにも興味がある人、いろいろなピアニストや楽曲に強く興味を覚える人、はたまた楽器そのものへ興味を持つ人など、そこには、そのアプローチにはおよそまとまりというものがないわけで、これは裏を返せば、ピアノは弾くけど音楽にそれほど関心はない、CDは買わない、コンサートには行かない、楽器の個性や構造なんてどうでもいい、電子ピアノでじゅうぶんという、まさに十人十色の接し方があるということです。

さらには「弾くことが好き」な人も、その内容はさまざまで、愛聴する曲をなんとか自分でも演奏しようと努力をしつつ楽しむ人、ある程度技術に自信があって難易度の高い曲を弾くことにプライドを持っている人、とにかく有名どころの通俗的な曲を自分で弾いてみたくて練習に励む人、ピアノなんて安い電子ピアノで充分という人、いや絶対に生ピアノに限るという考えの人、あるいはとにかく人前で弾くのが快感でステージチャンスを欲しがっている人、中にはピアノといえば女性が多いと当て込んで、ピアノは二の次で彼女探しに来る人など、まあとにかく書いていたらキリがありません。

さらに付け加えるなら、たとえ簡単な曲でもいいから、少しでも音楽性あふれる素敵な演奏を目指して、CDを聴いたり、あれこれと工夫をしたり、少しでも自分の理想とする演奏に近づけようと精進する人は意外なほど少数派だと思いました。

趣味の有りようはまさに各人各様で、どのような切り口から楽しんでもそれは個人の自由なのですが、ピアノの場合その実態はあまりに多様を極め、共通点はただひとつ「ピアノ」という単語以外には見あたらず、それでは集まっても、それぞれ別の方向を向き、別のことを考えているようなものでしょう。

これほどまでにその目的や楽しみの中心点が定まらないということは、上記のように「苦楽を共にし、情報交換に興じ、素晴らしさを共感し合う、趣味人同士の連帯」などという趣味人の交流はなかなか生まれようもありません。
ピアノは弾くのも、趣味として集うのも、なかなか難しいものです。
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技術者の音

メールをいただくようになったディアパソンファンの方は、ついにご自分の好みの1台に対象が絞られ、その購入を前提とした交渉を続けておられるようです。

ただ、この方によると、お店によってはとても丁寧に整備されたピアノであっても、なぜかそれがディアパソンが本来持っている個性と、調整の方向が乖離してしまっている(という印象を受ける)ために、せっかくの技術がピアノに必ずしも反映されない場合もあるようでした。

せっかく良いもので、きちんとした工房が併設され、高い技術を有する技術者によって仕上げられたピアノでも、最終的に判断するのは購入者であって、その人の心に触れるものがなければ購入には結びつかないというのは、当たり前といえば当たり前ですが、主観に左右される点も大きいために、技術者側にしてみれば難しいところでもあるのだろうと、この分野の微妙さを感じてしまいます。

あるお店では、Y社のグランドなどと並んでディアパソンも店頭に並べられ、その店の自慢の技術者がずいぶんと腕をふるった調整をされていたようでした。どのピアノもとてもよく調整され、中には望外の響きがあって感激さえしたということでした。
その話は聞いていましたが、ネットからもその音が聴けるとのことで、マロニエ君もさっそく聴いてみました。この時ばかりはさすがにパソコンのスピーカーというわけにもいかないだろうと思い、このところあまり使っていないタイムドメインのLightを引っぱりだして、パソコンに接続して聴いてみましたが、たしかに非常によく整えられたピアノだという印象でした。

同時に、本体や消耗品が平均的なコンディションを持つピアノなら、高度な技術を持った技術者がある程度本気になって手を入れたピアノは、だいたいあれぐらいの音にはなるだろうと思ったことも事実です。
技術者の仕事としてはもちろん素直に敬意を払いますが、同時に、今が調整によって最高ギリギリの状態にあるという断崖絶壁の息苦しさみたいなものもちょっと感じました。このピアノがこれからコンサートで使われるというのなら話は別ですが、お客さんが普通に購入して自宅に運び込むとなると、この特上の状態がはたしてどこまで維持できるのかという逆の心配も頭をよぎります。個人的には、あまり詰めすぎず、もう少し可能性ののりしろというか、どこか余裕を残した調整であるほうが楽器選択もしやすいような気がします。

一流の技術者さんに往々にしてあることですが、各楽器の個性とか性格を重んじることより、ご自分の技術者としての作業上のプライドと信念がまずあって、もちろんそれを正しいことと信じて、結果的にはやや強引かつ一律な調整をされてしまう場合があるとも思います。それでも技術がいいから、ピアノはどれもそれなりのものにはなりはするものの、悲しいかなどれも同じような音になってしまう傾向が見受けられる気がします。

おそらくはその方の中に「理想の音」というものがあって、それが常に仕事を進めるときの指針となっているのだろうと思います。Y社K社のようなピアノであれば、ある意味それもアリで、いい結果が得られることもある程度は間違いないだろうとも思われますが、ディアパソンのようなピアノの場合は、やはり楽器の特性を念頭に置いた上での調整でないと、理屈では正しいことでも、場合によっては裏目に出る場合もあるわけで、本来の能力や魅力が押し殺されてしまう危険性がないとは言い切れません。

どんなにスタインウェイに精通した技術者でも、それがそのままベーゼンドルファーに当てはまるわけではないのと同じようなものでしょうか。航空機はいかに優れたパイロットであっても、機種ごとの免許がなくては操縦できませんが、それは人命がかかっているからで、ピアノで人は死にませんからね。

だれからも平均して評価され、好まれるということももちろん立派なことで、それを技術によって音に具現化するのは簡単なことではありませんが、でも、本当におもしろいもの、尽きない魅力に溢れるものは、なぜか好き嫌いの大きく分かれるものの中に見出すことが多いようにマロニエ君は思いますし、ディアパソンそのひとつだと思います。
願わくば、その特性や長所を理解した調整であってほしいのが我々の願いでもあります。

ディアパソンの最大の弱点は、多くの人がこの素晴らしいピアノに接する機会が、現実的にほとんどないということに尽きるだろうと思います。
接することがなければイイと思うことも、嫌いだと感じることも、両方ないわけですから。
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炎暑到来

一昨日は、その前日の雨模様から一転して、朝から猛烈な真夏日となりました。

通常であれば、梅雨明け宣言から日を追うごとに気温が上がりはじめて、しだいに夏のピークに向かっていくところですが、7月8日はまさに猛暑日を飛び越していきなりの炎暑日となり、その強烈さにはとてもじゃないけれど心身がついていけないというのが率直なところでした。

午後のことですが、所用で出かけるため、車を車庫からバックで出そうとしていたところ、驚くべきものを目撃してしまいました。
この日は、我が家のほど近い場所で道路工事をやっていてその部分が片側通行となり、その両脇には通行する車を交互に止めたり行かせたりするための誘導係が、照りつける直射日光の中に立ってその仕事に従事していました。

車を出すべく、後ろを見ながらバックしていると、ちょうどその工事中の光景が視界に入るのですが、まさにそのとき、その誘導員の方がとつぜん地面に倒れてしまいました。それもよろよろと座り込むというような動きではなく、まさにパタンと、縦の物体が横に倒れるというような、まるでマネキンなどが倒れるような倒れ方だったので、これはタダゴトではないと仰天してしまい、バック途中だった車を止め、急いでドアを開けてそこへ走りました。

その方が倒れられたときの、カツンというヘルメットが地面に当たる小さな音も、いやな感じに耳に残っています。
駈け寄るなり「大丈夫ですか!?」と何度か声をかけますが、まったく応答が無く、熱せられたアスファルトの上に仰向けになったまま、苦痛の表情ばかりが目に入りますが、声も出せないという状況でした。
まわりを見ると、工事の仲間の人達は、少し離れた場所にある工事現場と、さらにその向こう側の誘導員の方の姿があるだけで、まだこの事態に気付いていません。

咄嗟にそちらに走っていき、彼らに声をかけて、急いでこっちに来てくれるよう大げさに手招きをすると、何事かという感じで数人の人がはじめは普通の感じで来てくれました。
すぐに道に倒れている仲間の姿を見てその状況を理解すると、たちまち他の人も呼ばれて、あっという間に4〜5人の作業員の人達が集結して、その人のまわりをしゃがみ込んで取り囲みました。

しかし、どんな呼びかけにも明瞭な反応はなく、大変な苦痛の様子は変わりません。
集まった人のうちの誰かが「救急車!救急車!」と大きな声を上げ、ほとんど同時に全員の手で水平状態のまま持ち抱えられて、目の前のマンションの車寄せにある日陰へと移動させられていきました。

これだけ人が揃えばとりあえず大丈夫だろうと判断して、マロニエ君は車に戻り、そのまま出発しましたが、しばらくはあのショッキングな倒れ方の情景が目に焼き付いて離れませんでした。

おそらく熱中症だろうと思いますが、新聞やテレビでは耳目にする言葉でも、現実の怖さをまざまざと見せつけられた思いでしたし、野外で仕事をする人は本当に過酷な条件の中で、身を苛んで働いておられるんだなあとあらためて思わずにはいられませんでした。

それも、じわじわと時間をかけて到来した猛暑であったらなまだしも、この日のような突然の炎暑ともなると、だれでも身体がそれに耐えていくだけの準備もできていなかっため、よけいに堪えたのかもしれません。
マロニエ君自身もこの日は、さすがに身体に堪える暑さで、帰宅後も普段とは明らかに違う疲労感に包まれました。
どうかみなさんも、くれぐれもご用心ください。
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各店各様

マロニエ君の部屋に書いた、ディアパソンの210Eを購入予定の方とは、その後もずいぶん頻繁に連絡を取るようになりました。その方もディアパソンには格別な惚れ込みようで、購入されるのはもはや時間の問題だという強い意気込みを感じます。ディアパソンを心底気に入っているマロニエ君としては、こういう方の存在は大変うれしい限りです。

ほとんど市場に出回る個体はないに等しいとメーカー自身が言って憚らない210Eですが、ネットの普及とこの方の情熱、そして優秀な調査力の賜物か、数台の候補が挙がってきているのは驚きでした。
価格もバラバラですが、お店のほうも各店各様で、話を聞いているだけで興味深いものを感じてしまいました。

マロニエ君はいうまでもなく、それらのどの一台も現物を見たわけではないので、聞いた話からだけしか判断できませんが、210Eあたりになると必然的に製造後30年前後を経過したピアノということになり、そのコンディションもそれぞれ著しく異なる筈です。
ピアノには生まれながらに個体差があるといいますが、このぐらい古くなると、そんなことよりはこれまでどういう時間を過ごしてきたかのほうが圧倒的に問題であり、どんな所有者からどんな使われ方をしたか、きちんと技術者の手が入れられ大切にされてきたか、学校のような場所で容赦なく酷使されたか、置かれていた場所はどうだったかなど、いうなればピアノが嫁いだ後の環境差こそ問題とみるべきでしょう。
さらに今現在の整備状況や消耗品の状態などが重要な要素として加わります。

聞くところでは、販売価格こそ安いものの、話だけではちょっと躊躇したくなるようなものや、すでに売れ筋から除外されているのか、倉庫内に梱包したまま置かれているだけなのでお店側も詳しいことは確認不足であるなど、この日本の名器の扱われ方も実にさまざまのようです。

さまざまといえば、ピアノ店の在り方も同様で、規模は小さくとも技術で勝負をして、一台一台をきちんとした状態で(もちろん商売なので、採算に合わないことはできないにしても、できるだけ良心的な状態に仕上げて)売っている店があるいっぽう、やたら在庫数にものを云わせ、高級ブランド高額ピアノを前面に押し出している店、あるいはその中間的な性格の店など、お店によってピアノに対するスタンスも大きく異なるのは以前から変わらないようです。

意外なことには、ほとんど何も手を入れずに、酷い(と想像される)コンディションのピアノを売ることにも、いわゆる大型店のほうが畏れ知らずで、しかも価格はその状態に見合ったものとは思えない金額を堂々と提示してくるかと思うと、モノが売れない世相を反映してか、だんだん条件が好転してくるなど、逐一報告していただくお陰で、まるで連続ドラマを見るようにおもしろい思いをさせてもらっています。

聞けば、店によってはメールで問い合わせなどをしても、なかなか返事がないなど、あまり本気度が少ないようなお店があるいっぽう、技術者の工房系のお店などは、メールなどにもすぐに明快な応答があるようで、こういう部分の反応というものはお客さんの心証に大きな影響や先入観を与えてしまうのはやむを得ない要素です。ピアノ販売に限りませんが、問い合わせに対して迅速な対応というのは人間関係の基本だと思わずにいられません。

とりわけディアパソンは、お店によってその捉え方が相当違いますし、極端なところでは仕入れも販売もしないようですが、そのいっぽうで極めて高い評価をしている店があるのも事実で、どうかするとお店の看板商品的(新品)な扱いをしているところもあったりと、考えてみれば、日本のピアノでこれほど評価の別れるブランドも珍しいと思います。
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熱帯雨林並?

7月3〜4日は最悪とも云える空模様で、朝から絶え間なく雨が降り続き、それがときどき恐ろしい生き物のように激しくなったりの繰り返しでした。
雨よりも甚だしかったのは尋常ではない湿気で、家全体が蒸し風呂にでもなった気分でした。

だからといって家中のエアコンをやみくもに入れるわけにもいかず、なんとも気の滅入る、そして気分だけでなく身体的にも猛烈に過ごしにくい、一年を通じて滅多にないような悪天候でした。
ピアノを置いている部屋では、もちろんエアコンが除湿をしてくれるものの、冷えすぎなど温度事情もあるために、基本的には除湿器に依存しているのが我が家の実情です。

このところは除湿器が停止する僅かな時間もなく、ほとんど24時間フル稼働が続いていますが、除湿器の予備があるわけではないので、酷使が祟って故障でもしたらどうなるのかと思うと、気が気ではありません。なんとかがんばってこの夏を乗り切ってほしいと手を合わせるように願うばかりです。
毎日、タンクに貯まった夥しい量の水を捨てるたびに、こんなにも大量の水分が部屋の空気中に漂い、それがピアノの内部へと侵入していくのかと思うと、毎度ゾッとしてしまいます。

この季節の高温多湿はそれなりに慣れているつもりでも、3〜4日の湿度はちょっと異常で、まるで街ごと熱帯地方にでも放り込まれたかのようでした。
エアコン+除湿器のある部屋から一歩廊下に出ると、ヌッとした重くて分厚い空気から身体が押し返されるようで、それがどこまでも続きますから、いやはやたまったものではありません。

これでは除湿器のない部屋に置かれたピアノなどは、ガタガタに狂ってしまうだろうということは、もう理屈じゃなく本能で感じてしまいますし、世の中の多くの楽器や美術品なども例外ではないでしょう。

そういえば、ピアノの管理もさることながら、人間にも(過度な)湿度はよくないということを、いつだったか、テレビニュースで実験映像とあわせて報じていたことを思い出しました。
同じ人物が、同じ場所で一定時間の運動をするのですが、低湿の場合、運動によって湧き出た汗が10分ほどで乾いてしまいますが、湿度を梅雨並の高さに変化させた上で同じことをすると、今度は汗がいつまでたっても乾きません。
乾かないことで、水分が皮膚の表面に張り付き、それがクールダウンの邪魔をして、いつまでも身体の温度を下げてくれなくなるのだそうで、結果として体温が無用に高く維持されてしまい、これが身体の疲労につながってしまう原因だという説明でした。

とくに持病をお持ちの方や高齢者の方などは、こうして高湿によって体力を著しく奪われるので、温度だけでなく湿度にもじゅうぶん注意が必要ということです。

それだけの疲労を生み出すのですから、不快に感じるなどは当たり前ですね。
同じ気温でも低湿だと涼しく感じるといわれていたことが科学的に立証されたわけで、なるほどなぁと思いました。やっぱり人の身体も楽器も、快適環境は同じのようです。
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語る演奏家

先のブログに関連することですが、N響定期公演でベートーヴェンの皇帝を弾いたポール・ルイスは、番組の冒頭でNHKのインタビューに答えていました。

いつごろからだかわかりませんが、昔に比べると、演奏者はインタビューに際してだんだんと音楽学者のような語り口になり、演奏作品について、より学究的な内容を披瀝するのがひとつの風潮であるように思います。
それも、一般の聴衆や視聴者に向けたものというよりは、自分は演奏家であるけれども単なる演奏家ではなく、音楽史や作曲家のことを常に学び、それらと併せて楽曲も深く掘り下げて分析し、しかる後に演奏に挑んでいるのですという姿勢。ただ単に曲を練習しているのではなく、それにつらなる幅広い考察を怠っていないのですよというアピールをされているように感じてしまうことがあります。

もちろんそこには個人差があり、どうかすると専門的な言及が行き過ぎて、ただ単に音楽を楽しんではいけないような印象さえ与えてしまい、逆にクラシックのファンが離れていくのでは?と感じるときも少なくありません。
そうかと思えば、近年流行りのトーク付きのコンサートでは、チケットを買って会場にやってきてくれたお客さんに向かって、ほとんどわかりきったような、いまさらそんな話を聞かされなくても…といいたくなるような初歩的な話を延々と繰り返したりで、どうせ話をするのなら、どうしてもう少し聞いていて楽しめる内容のトークができないものかと思うことがしばしばです。

つまり専門的過ぎるか、初心者向け過ぎるかの二極化に陥っているという印象です。

その点でいうと、この番組冒頭でのポール・ルイスの話はそれほど専門的なものではないのは救いでしたが、「誰でもこの曲を大きな音で弾いてしまうし、それはそのほうが楽だから」とか「協奏曲でありながら室内楽的要素が多く、そこに注意すべき」とか「オーケストラの中の一つの楽器とピアノの対話の部分が多い」など、いかにもブレンデル調の切り口だと思いました。しかし、それが皇帝という名曲の本質にそれほど重要なこととも思われないような事という印象でもありました。

そもそも、演奏家自ら曲目解説をするようになったのは、やはりブレンデルあたりがそのパイオニア的存在であったし、ポリーニや内田光子などを追うように、より若い世代の演奏家もしだいに専門性を帯びた内容に言及するようになり、それがあたかも教養ある演奏家であることを現すひとつのスタイルになっていった観は否めません。

そんな中にも、もう好いかげん聞き飽きた、すでに錆びついたようなコメントがあり、残念ながらポール・ルイス氏もそれを回避することはできなかったようです。
それは「ベートーヴェン(他の作曲家でも同じ)は演奏するたびに新しい発見があります。」というあのフレーズで、これはもはや演奏家のコメントとしては賞味期限切れというべきで、聞いていてなるほどというより、またこれか…としか思えなくなりました。

少し前のアスリートが、オリンピック等の大勝負を前にして「まずは自分自身が楽しみたい」などと、ほとんど決まり文句のように同じことを云っていたことを連想してしまいます。

往年の巨匠バックハウスが『芸術家よ、語るなかれ、演奏せよ』というけだし名言を残していますが、今はまるきりそういった価値観がひっくり返ってしまったのかもしれません。
『芸術家よ、語るべし、演奏する前に』…。
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師匠譲り

Eテレのクラシック音楽館で少し前に録画していたヒュー・ウルフ指揮のNHK交響楽団の定期演奏会から、ポール・ルイスをソリストにベートーヴェンの皇帝を聴きました。

ポール・ルイスはイギリス出身で、ブレンデルの弟子と云うことで有名なようで、そのレパートリーもブレンデルとかなり共通したものがあるようです。とりわけベートーヴェン、シューベルトを中心に置き、後期ロマン派にはあまり積極的でないような点も似ています。尤も、ブレンデルは若い頃にショパンをちょっと録音したり、円熟期にはリストを弾いたりはしていましたけれども。

まずさすがだと思われた点は、ポール・ルイスのピアノは自分は二の次で、あくまでも音楽や作品に奉仕しているという一貫した姿勢が崩れないことで、テンポも非常にまともで、最近流行の意味不明の伸縮工作などは一切なしで、気持ちよく音楽が前進していくところでした。
そのためか、演奏を通じての自己顕示欲をみせつけられることもなく、安心してこの名曲を旅することができました。

ただ、師匠譲りなのはマロニエ君から見れば好ましくない点までそのまま引き継がれているようで、たとえばその音は、音楽表現のための必要最小限の朴訥なもので、ピアノの響きの美しさとか、肉感のある音やニュアンスで聴かせるというところはほとんどありません。

また、あくまでもそのピアニズムは作品の解釈を具現化するだけの手段でしかなく、精緻な音の並びとか、音色を色彩豊かに多様に表現するといったところはありません。そういう意味では良くも悪しくも技巧で聴かせるピアノではなく、そちらの楽しみは諦めなければなりません。

また冒頭のインタビューでは、「皇帝には室内楽的な要素がある」と云っていましたが、それはそうなのかもしれませんが、それを大ホールの本番であまり過度にやりすぎるのもどうかと思いました。皇帝だからといって終始ガンガン弾くのが正しいとは思いませんが、やはり決めるべき場所ではビシッときめてもらわないことにはベートーヴェンが直に鳴り響いているようには聞こえないし、この曲を聴くにあたっての一定の期待も満たされないままに終わってしまいます。

とくにフォルテッシモや、低音に迫力や重量感がないのも、ピアニストとしてもうひとつ食い足りない気分になり、第三楽章の入りなどにも、あの美しい第二楽章からそのまま引き継がれながらも突如変ホ長調の和音の炸裂が欲しいところですが、これといった説得力もないままに、ヒラヒラッとアンサンブル重視の姿勢をとられても、聴いている側は当てが外れるだけでした。

音色の使い分けとか、タッチの妙技によって深い歌い込み、細部に行きわたるデリカシーが少ないために、第二楽章の美しすぎる「歌」もただ通過しただけという感じで、その感動も半減となってしまいます。全体として好ましい演奏であるだけに残念な印象が残ってしまいます。
そうそう、これもブレンデルそっくりだと思ったのは、例えばトリルの弾き方で、マロニエ君の考えではトリルにはトリルのさまざまな弾き方、あるいはそのための音色や意味があると思うのですが、ポール・ルイスのそれは単なる音符のようにタラタラタラタラと平坦で無機質に弾いてしまうところで、ブレンデルにもこうしたところがあったなあと思い出しました。

望外の出来映えだったのはN響で、いつもはどこかしらけたような、予定消化のための義務的な演奏をしているかにみえるこのオーケストラが、この日はいかにも音楽的な、厚みと覇気のある、つまり魅力的な演奏をしてみせたのは驚きでした。指揮のヒュー・ウルフの手腕といえばそうなのかもしれませんが、そうだとしても、いざとなればそれだけの結果が出せる潜在力を持っているということはやはり大したものだと思いました。
日本の誇るオーケーストラにふさわしい、聴く者を音楽の魅力にいざなうような演奏をもっともっとやってほしいものです。
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一級仕事師

今年の2月にミュンヘン・フィルハーモニー・ガスタイクで行われた、メータ指揮のミュンヘンフィル演奏会の様子がBSプレミアムで放送されましたが、この日のメインは五嶋みどりをソリストに迎えたブラームスのヴァイオリン協奏曲でした。

五嶋みどりさんが、世界的なヴァイオリニストであることに異を唱えるつもりは毛頭ありませんが、美味しい食事にも食後感、読書にも読後感というものがあるように、音楽にも聴いた後に残るイメージといいましょうか、いわば残像のようなものが残りますが、その点で云うと、マロニエ君は五嶋みどりの演奏にはある一定の敬意は払うものの、心底その演奏に酔いしれるとか、音楽としての感銘を受けたという記憶はほとんどありません。

CDなどもそうですが、まったく非の打ち所のない、隅々まで神経の行き届いた大変見事な演奏ですが、この人は本当に音楽が好きなのだろうかと思わせられるのも毎度のことで、芸術家というよりも、完全無欠な仕事師の最上級の仕事を拝見しているという印象しかありません。

ブラームスのヴァイオリン協奏曲はマロニエ君の最も好きなヴァイオリン協奏曲のひとつですが、この曲の持つ暗い陶酔的な世界と、五嶋みどりの演奏にはなにやら超えがたい溝があるように感じました。
第1楽章では、長い序奏を経てソロヴァイオリンが闇の中から突如妖しく現れますが(この部分でマロニエ君が最も理想的と思えるのはジネット・ヌヴーのそれですが)、五嶋みどりはこれ以上ないというほど激しく、曲に挑みかかるように弾いていきます。

それがあまりにも度を超していて、見ていてちょっと呆気にとられるほどで、狙いとしては下手をすると冗長にもなるブラームスで、高い緊張感を保ちつつ聴く者を圧倒しようということなのか…真意はどうだかわかりませんが、この人のいかにもストイックでございますという生き方はともかくも、少なくとも演奏の点に於いては、かなりの自己顕示欲が漲っているようにしか思えません。
協奏曲であるにもかかわらず、指揮者を見ることもほとんどなく、音楽上自分が譲るとか裏にまわると云うことは一切ないまま、徹底してマイペースで突き進んでいくのは共演者に対してもちょっとどうかな…と思います。

全曲を通じて、常に自分の演奏を際立たせ、細部の細部に至るまで自分が主役であり、会場の中心は私であるといわんばかりに振る舞っているように見える(聞こえる)のは、ああ、この人は昔からこうだったという記憶が鮮明によみがえってくるばかり。

それでも、なにしろ基本的に上手いし、チャラチャラしたタイプではないので、最終的に立派な演奏として完結はするけれども、非常に突っ張った、極端に意地っ張りな人の勝負精神を見せられるようで、音楽としての豊かさとか、ほがらかさ、楽しさといったものがちっともこちら側に伝わってこないのは、やっぱり演奏しているその人がそうでないからなんだろうかと変に納得してしまいます。

それでも感心するのは、第2楽章のような滑らかな旋律が延々と続くような部分では、決して息切れすることなく細い絹糸のような芯のある音が、括弧とした動きを取り続けるようなとき、あるいはフレーズの入りの部分では、いつもながら的確で繊細で、こういうところは彼女ならではの上手さを感じます。

逆にいただけないのは、激しい部分ではあまりに切れ味先行型の演奏になるためか、過剰なアクセントの濫用で、ときに品位を欠く演奏へと陥るばかりか、リズムも崩れ、何のためにそんなに力みかえらなきゃいけないのかと、聴いているこちらのほうが気分が引いてしまいます。
そういうとき、ふとヴァイオリンを弾いている音楽家というよりは、どことなく剣術の果たし合いのようで、この不思議な女性の中に、一体なにがうごめいているんだろうと思ってしまいます。

マロニエ君は基本的に情熱的な演奏は大好きなのですが、かといって、こういう演奏をもって情熱的とは解釈できないのです。

あれじゃあ弓の毛も傷むだろうなあという感じですが、たしかに五嶋みどりは演奏中もしばしば切れた毛をプチプチとむしり取る回数がほかの人よりも多いような気がします。
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雨の夜

誰にでも、自分だけに不思議に心地よい、これといって明確な訳もないまま好む状況や時間というものがあるのではないでしょうか? 自分だけのある一定の条件が整うことで、取るに足らないささやかなことでも、そこにえもいわれぬ充足した幸福感のようなものを見出す瞬間。

まったくその人だけの固有のもので、普遍性の裏打ちも正当性もない、きわめて個人的主情的なものに限られます。なぜそれほど好ましく、心が安らいで満たされるのか、本人にさえ理由は漠としてよくわからないことが数こそ少ないけれどもあると思うのです。

マロニエ君の場合で云えば、仕事柄か、長年の生活習慣からか、ともかく慢性型の夜型人間なので、本当に自分の時間を持てるのは大抵真夜中の時間帯ということになります。
とりとめもないことをあれこれやっていると、その貴重な時間は瞬く間に過ぎ去って、人によってはそろそろ起床時間になるような時間帯を迎えることもしばしばです。

ここまでは特にどうということもない日常の範囲で、好きというよりも自分にとって必要なものという感覚です。ところが、そこへごくたまに格別な効果が加わることがあって、それがたまらなく好きなのです。

まるで今夜のように…。

それは深夜に降りしきる雨で、自室でようやく落ち着いた時間を迎えようと云うとき、あるいはその途中からでもいいのですが、漆黒の夜の中に雨が降り、カーテンごしの窓の外や屋根づたいにその雨音が聞こえる、あるいは明瞭にその気配が感じられることがあるのですが、その感じがどうしようもなく好きなのです。

そして、幸福の感触というものは、実はこんな取るに足らない、ふとしたどうでもいいような壊れやすいちょっとした瞬間のことをいうのではないかと思ったりするわけです。

ごくシンプルに、たわいもないことで、自分が心底から心地よさに浸ることのできる瞬間なんてものは、日常の中にそうざらにはありません。それも人生上の慶事などという実際的かつ大層なものではなく、さりげなくて、なんの意味もなくて、心地よさの感覚だけが突如として自分に降りそそいでくるような、そんな思いがけないものでなくてはなりません。同時にそれは、一時の儚いもので、いつまでも逗留してくれるようなものであってもダメなのです。

窓の外には雨が降りしきり、ときに激しい大雨になることもありますが、そんなとき、冬ならヒーターで温まり、夏ならエアコンで除湿された部屋の中で、誰からも邪魔されることのない自分だけの時間を過ごすこと。これがマロニエ君とってはちょっと比べるもののないほどの心地よさに取り囲まれるときで、ただもう無性に嬉しくて心地よい時になってしまいます。

このときばかりは、日頃の疲れやストレスもしばし忘れて、今時の云い方をすれば心がリフレッシュできているような気がします。だから日中の雨が夕方止んで、夜はお天気回復なんていうパターンが一番がっかりですし、逆に昼間はお天気だったものが夜から崩れて、深夜には大雨となり、そして翌朝は快晴というのが最も理想のパターンなのです。

人の心には、まったくくだらないことが、しかしとても貴重なようです。
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ベヒシュタインウェイ?

読む人が読めばわかるでしょうから、大した意味もないとは思いつつ、それでも敢えて名前は伏せますが、さる日本人のイケメン(という事になっているらしい)男性ピアニストが、いまベートーヴェンのピアノソナタ全曲を録音進行中で、先ごろ最後の3つのソナタが発売になったようです。

マロニエ君はピアノの音を聞くのが目的で、興味のない演奏家のCDをしぶしぶ買うことがありますが、この人のCDとしては、以前、日本のあるピアノ会社所有のニューヨーク・スタインウェイで演奏したということで、ラヴェルのコンチェルトと夜のガスパールなどのアルバムを買ったことがありました。
そのどことなく幼稚な演奏にはあれれ?とは思ったものの、その時は正味のピアニストというよりも、どちらかというと女性人気から売り出した観のある人だったので、まあこんなところだろうぐらいに思ったものでした。

そんなアイドル系ピアニストの弾くベートーヴェンの最も神聖なソナタなど、普通ならまず絶対に寄りつきもしないところですが、それに寄りつくハメになりました。
この人は、一時期は非常に癖のあるニューヨーク・スタインウェイをコンサートにも録音にも愛用していて、自らその楽器のことをF1などと呼びながら、ネット上にそのピアノを褒め称える文章まで書いていたほどでしたが、しばらくするとパッタリそのような気配はなくなり、録音も常套的なハンブルク・スタインウェイでおこなっているようでした。

ところが、現在のベートーヴェンのソナタ録音にあたっては、なんとベヒシュタインのD280を使用ということで、えらく大胆な方向転換をしたものだと思いましたが、ベヒシュタインで弾くベートーヴェンというのは、バックハウスが晩年におこなったベルリンでのコンサートライブでそのマッチングの良さに感嘆感激していたので、その強烈なイメージがいまだにあって、どうしても聴いてみたくなりました。

とはいえ価格は例によって割引適用無しの3000円で、そこまでして買うのもアホらしいような気分だったのですが、たまたまネット上で見かけたこのCDのレビューによれば、以前はこのピアニストのことをある種の偏見を持っていたけれども、人から進められて聴いてみると、本当に素晴らしい演奏云々…という激賞文でもあったため、ついついマロニエ君も少しばかりのせられてしまいました。

そうは云っても、以前の経験があるので、演奏には過度の期待はしていませんでしたが、まあ音を楽しむぐらいのものはあるのだろうという程度の気持でついに購入してしまいました。やはりどうしてもベヒシュタイン&ベートーヴェンが紡ぎ出すあの感激を現代の録音で聴いてみたい!という欲求に負けたというわけです。

しかし、結果はまったくの失敗で、アーできるものなら返品したい…と思うばかり。
むかし買ったラヴェルの印象がそのまま生々しく蘇るようで、この人はなんにも変わっていないんだなと思うと同時に、曲が曲であるだけに、いっそう分が悪い感じです。
彼はいま何歳になるのか知りませんが、ただ指の動く学生が音符の通りに平面的に弾いているようで、この世の物とは思えぬop.111の第二楽章の後半など無機質な指練習のようで唖然。

ピアノは上記の通りベヒシュタインのD280ですが、どちらかというと普通で、期待したほどベートーヴェンでの相性の良さは感じられませんでした。このピアノはよくよく考えてみると、おそらくはマロニエ君も一度触れたことのある「あのピアノ」だろうと今になって思われます。伝統的なベヒシュタインのピアノ作りを大幅に見直して、今風のデュープレックススケールを装着した新世代のベヒシュタインですが、あきらかにメーカーには迷いのあるピアノだと当時感じたことを思い出しました。

ベヒシュタインほどの老舗ブランドであるにもかかわらず、スタインウェイ風の華やかな音色とパワーをめざしたのでしょうが、結局はこのメーカーの個性を大幅に削り取ったピアノになっているとしかマロニエ君の耳には聞こえませんでした。バックハウスがベルリンで弾いたのは、Eという古いモデルで、その後のENを経て、現在のD280になりますが、モデル表記もまるでスタインウェイのD274そのままで、もう少し工夫はなかったものかと思います。

しかし、逆にいうと、ベヒシュタインと思うから不満も感じるわけで、一台のコンサートグランドとして素直に聴いてみれば、これはこれでなかなか素晴らしいピアノだと思えるのも事実です。とくに過度に洗練されすぎていない点が好ましく、ドイツピアノらしい剛健さの名残なども感じて悪くないとも思いますが、いささかスタインウェイを意識しすぎた観が否めないのは惜しい気がします。
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紹介の弊害

前回の続きみたいな内容です。

どんな場合にもある程度当てはまることですが、ある程度の金額のものを買ったりする場合、人の紹介があれば、それがない場合よりも安くしてもらえるとか、なんらかの好条件がもたらされるというイメージがあって、それを信じて疑わない人というのはわりと多いように思います。

しかし、あるころから、これは好条件どころか、むしろまったくの逆の現象が起きているのではないかというふうに疑い始めるようになり、その認識は時間や経験と共に深まっていきました。
一例を挙げますと、(車の購入の場合はわりに以前から云われていることですが)仮に車を購入する際の値引きの条件などでも、紹介者があると、営業マンはニンマリした顔で「○○様のご紹介ですから」といった尤もらしいフレーズに乗せて一定の割引などが提示されるようですが、実は少しもそれに値するような金額ではない場合が珍しくないのです。
むしろ、紹介者なしの飛び込みで、単独で交渉してもこの程度の条件は当たり前では?…と思えるようなものでしかないことはよくあります。

これらは、友人なども同様の一致した見解なのですが、紹介者があるということは、業者側にとっては幸運が勝手に飛び込んできたような美味しい話で、さほどの努力をしなくても紹介者との繋がりが後押しとなって、ほぼ間違いなく買ってくれる安全確実な客だと見なされることが多いようです。
購入者にしても、紹介者の顔を立てて、他店と競合させることもせず、受身で、お店にすればこんなありがたいことはないのです。

しかもお客さんは「自分は紹介者のお陰で特別待遇」だと疑いなく思い込んでいる場合もあるのですから、その認識のまま事が完了すれば、関係者全員がハッピーということでもあり、これはこれで悪いことではないのでしょう。でも、ひとたびそのカラクリに気がついてしまったらとてもやってられません。

自分に置き換えてもそうですが、ある程度値の張るものを購入するとか、何らかの仕事を依頼したりする場合、そこに紹介者が介在していると、紹介者の顔をつぶしちゃいけないという配慮が先に働いて、あまり突っ込んだ交渉はしなくなります。というか、ハッキリいってできなくなります。
そして、相手側はその道のしたたかなプロですから、そのあたりのことは十分に承知していると思われ、だからごく普通の条件でもさも特別であるかのように口では上手く言いますが、実際はさほど努力らしきことをしているようには見受けられないわけです。

こういう嫌な現実に気付いてからというもの、マロニエ君は(場合にもよりけりですが)基本的には紹介者とか、縁故というものを頼りにしなくなりました。
そのほうが遙かに自分のペースで自由に交渉ができるし、率直な質問や要求を提示することができるし、おかしいことはおかしいと主張して、もしそれで決裂すれば他店をあたったりすることも自由ですが、そこに紹介だの縁故だのがあると、すべてこちらはガマンして呑み込むしかありません。
だから、もちろん例外はありますが、大半は紹介なんてものは却って自分の足を引っぱるとしか思えなくなりました。

そもそも、業者やお店の側も、考えたらわかることですが、仲の良いお客さんから知り合いを連れてきてもらうことは、労せずして信頼関係は半分以上できあがっているようなものです。それに比べれば、まったく縁もゆかりもない初めて取り引きする相手をきちんと納得させ、交渉成立に結びつけるほうが遙かに骨の折れる仕事でしょうし、油断すれば遠慮なく去っていきますから、きっと緊張感も違う筈です。

結果的に、信頼できる相手であるほうが、却って条件が悪くなるという結果を見てしまうのは、非常に残念なことだと思いますが、これが現代という殺伐とした時代に流れる真実なのだと思うと、自分を守ろうとする認識と本能の前で、どことなくやりきれない思いが混ざり込んでしまいます。
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はじめだけ

いまどきの現象をおひとつ。

各種の工事など専門作業をおこなう会社、または職人さんについてですが、彼らも厳しい時代の波の中で生きていることはいうまでもなく、昔のように決まった顧客やお得意さんだけを相手に仕事をしていれば済むというよき時代ではなくなりました。

とくに近年では、下請け、孫請けの仕事を獲得するだけでも大変なようで、親会社からは容赦なくコスト切り詰めが要求され、それに応じていかなければ別の会社や職人さんへ仕事がまわされるのですから、これを逃すまいと彼らも必死になって仕事をしているのは大変だろうと思います。

いっぽうで、そんな親会社から請け負う仕事だけではやっていけないのか、上から使われるのが嫌なのか、事情はともかくホームページなどで低価格を売りにして直取引をして仕事や販路を拡大しようという、独立型の小さな会社や職人さんの動きもあるようです。

マロニエ君も、必要があってちょっとした仕事を頼むとき、安い業者を探したことがありますが、縁あって非常に安くやってくれるある業者と知り合うことができました。
業者といっても身内でやっている職人さんで、そのときはさほど小さくもない仕事だったのですが、納得のいく価格で話が決まり、連日にわたって熱心に工事をやってくれました。

ひととおり作業が終わり、支払いも済ませて、いったんは区切りがついたことになりますが、その後もちょっとした作業の必要があったりすると、せっかく親しくなった職人さんなので、その人に頼むと、快く了解してはくれますが、どうしても大きい仕事が優先され、先方の都合に合わせて来てもらうことになります。

こちらとしても大した仕事ではないこともあり、あまり無理をいうわけにもいきませんが、再三の延期や日にちの変更が重なるとうんざりするのも事実です。作業そのものはごく短時間で完了しましたが、代金は最初(前回)に依頼したときの感じからすれば、期待ほど安いものではありませんでした。
まあ、それでも絶対額は大したものではないし、そこは素直に従いましたが、ついでにある器具を付けて欲しくてその旨を伝えると、これまた快諾。おおよその見積もり金額を伝えられ、近いうちにカタログを持ってくるのでその中から選んでほしいといわれました。

数日後、カタログを持って現れ、だいたいこのあたりということなのでその中から一つの器具を選びましたが、今回クチにする金額は、つい先日聞いていた金額より50%も高くなっていて、おや?と思いました。
カタログには販売価格が書かれていましたが、どうみてもそのままの価格での計算であるばかりか、工賃も安くないように感じられて、どうも釈然としません。
うっかりメーカーを確認していなかったのですが、ある夜、ネットで2時間以上かけて探してみたところ、ついにその商品を見つけ出しましたが、果たして聞いたこともないメーカーであるばかりか、ネット通販ではカタログの半額以下で売られているのにはびっくり!

もちろん極限の最安値で勝負するネットと同等を求めようとは思いませんが、せめて少しぐらいの値引きはするのがいまどきの常識というものでしょう。その他、ここには書かない疑問符のつく事例もあり、それらからだんだんわかってきたのは、要するに昔とはまったく逆の流れだということです。

昔は一見さんには高くても、おなじみになるにつれて互いの信頼も増し、値段もだんだん安くしてくれるようになるのが通例でしたが、今は逆で、まず最初は激安価格で人の気を引き、それによってお客さんの信頼を得ておいて、間違いなく自分の顧客になったと認識されるや、その後の値段はじわじわとつり上がっていくということのようです。

もちろん昔とは利幅も違うでしょうし、彼らなりの苦労があるのはわかりますが、それは誰しも同じこと。信頼を寄せ、利用頻度が増すに連れ、価格は反比例的に上昇して来るというのは、いくらなんでもいただけないやり方だと思いますし、がっかりしますね。
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気がつけば寄せ集め

自作の円筒形スピーカーが、知らぬ間に熟成されて好ましく変化してくれていたのは、まったく予想外のことで、思いがけない贈り物をもらったような嬉しさがありました。

とくに、失敗作だという認識でそれ以上の調整を一切放棄し、さらには目につかないところへ放逐してしまった後の変化だったので、オーディオとはこんな一面があるのかということを認識させられる良いチャンスにもなったのは事実です。手の平を返したように殊勝めいたを言うようですが、この自作スピーカーは、情報収集から材料の調達、組み立て、チューニングにいたるさまざまな過程を経験させられ、音に関する実に多くのことを勉強させてくれたのは間違いありません。

とりわけスピーカーというものがボリュームやパワーでなく、響きそのものが作り出す音響や分離、ダイナミクスのバランス、その他もろもろの要素やそれらの均衡がいかに大切かということも良くわかりましたし、プレーヤーのこと、アンプのことなど、周辺の事情も含めてマロニエ君の無知な部分を一気に埋めることができました。
とはいえ、今だって多くはなにも知らない穴ぼこだらけで、無知なことに変わりはありませんが、それでも知らずに終わっていたであろうことを、いろいろと経験的に知り得たのは素直に収穫だったと思います。

もともと音楽は好きでも、オーディオにはほとんど関心のなかったマロニエ君は、オーディオ装置は何でも良いと云えばウソになりますが、そこそこ好みのいい音が出てくれさえすれば、あとはもっぱらCDを買い漁るほうが主眼で、少しでも良いオーディオ装置に投資しようという考えがまるで欠落していたように思います。

それでも1階のピアノのある部屋には、わからないながらも一応それなりのオーディオ装置を置いてはいますが、それもずいぶん昔買ったもので、とくに満足もなければ不満もないというクチでした。さらに自室のオーディオに至ってはヤマハの中級のコンポのセットで、これを疑いもなく使い続けて、そこからいろいろな音楽や演奏を楽しんでいたのですが、それをどうこうしようという意志も意欲もなく、根底にはオーディオは電気製品という感覚があったのかもしれません。

そんなマロニエ君のオーディオ生活にトラックが飛び込んできたような一大事件が起こったのが、我が家のピアノの主治医のお一人である技術者さんが、Yoshii9なる未知のスピーカーセットをわざわざ持参して聴かせてくださったことでした。
目からウロコとはこのことで、従来とはまったく違ったナチュラルな音の広がりで聴かせるこのミサイルみたいな形をしたスピーカはまさにマロニエ君にとってのオーディオ上のカルチャーショックでした。
演奏者が今まさに目の前で演奏しているような、その自然さそのものがもたらす美しい音は、これまでのハイパワーアンプとそれを受け止めるスピーカーによって豪快に鳴らすことを良しとしていた価値観を、根底からひっくり返すものだったのです。

Yoshii9をすんなり買えればなんのことはなかったわけですが、少々お高いこともあってなかなか手が出ず、その代用の意味もあって自作スピーカーへの道を進むことになりました。その過程で驚くばかりに高性能かつ低価格の中国製デジタルアンプの存在も知ることにもなり、さらには優れたスピーカーコードとは何か、好ましいCDプレーヤとは何かといった、個別の要素の真相などを正に一から教えられることにもなりました。

わざわざ仕組んだわけではありませんが、現在のマロニエ君の自室のオーディオは、いつの間にか(ほんとうにいつの間にか!)ヤマハのコンポはすべて姿を消していて、代わりに自作のスピーカー、中国製デジタルアンプ、そして過日書いた記憶のあるDVDプレーヤーの「3本の矢」で構成されていますが、こんな一見めちゃくちゃな、なんの一貫性もない装置の寄せ集めによって、結果的に従来よりもはるかにクオリティの高い、聴いていて楽しい音響空間になったのですから、いやはや自分でも驚くしかありません。
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それから

「それから」なんて漱石の小説のようですが、ぜんぜん別の話です。

昨年はひょんなことから筒状の無指向性スピーカーの魅力に取り憑かれ、知人にいくつも自作して楽しんでいる趣味人がいたことも後押しとなり、これまで自分でスピーカー作るなど考えたことさえなかったにもかかわらず、マロニエ君としてはなんとも無謀な挑戦をしてみることになりました。

その顛末は何度も書いていますから、ここでは繰り返しませんが、その間の、とくに2ヶ月ぐらいは一途にこれに熱中、ピアノにもほとんど触れず、毎夜そのための制作と情報収集に励んでいました。

我ながら、仕事や勉強もこれぐらいやれたら…と思うほどの熱の入れようで、使用するスピーカーユニットの選定はじめ、あらゆるものに拘り、時間の許す限りその方策と調達などにエネルギーを注ぎ込んでいました。
この時期はまさにスピーカー制作一筋でしたが、とくにスピーカーがまずは形を成し、音の調整をするようになってからが大変で、集中すべき次元がガラリと変わり、目指す音へ少しでも近づけるべく試行錯誤の繰り返しに明け暮れました。わずかの変化や効果を狙って、なんど分解と組立を繰り返したかしれません。

その結果、ある一定のところ(レベルは低いですが)まではなんとか到達できたものの、同時に超えがたい限界をも感じました。所詮はシロウトの手すさびというべきで、冷静に考えれば、ものの道理から云っても初作からいきなり満足できるようなものができる筈がないし、それを望む方がそもそも無理だという、ごく当たり前のことを悟りました。

無指向性スピーカーの特徴である演奏会場のような音の広がりはあるものの、音には艶やかさも分離感もなく、こもったような、それでいて薄っぺらなサウンドは到底満足できるものではなく、このジャンルの最高峰であるYoshii9などには、遠く及ぶべくもないことを痛感させられました。

これが根っからのオーディオマニアなどであれば、そこからまた果敢に挑戦を繰り返すところでしょうが、マロニエ君の場合そもそもが自分の領域外のことを勢いでやってみたまでで、疲労困憊、もうこれ以上はもう結構、やりたくないと思いました。

それいらい次第にこのスピーカーからも関心が遠ざかり、しまいには部屋に置いておくだけでも転倒の心配もあり(厚みのあるアルミ管を使い、中は鉄のウェイトなどが入っているため重量もそれなりで危険性もあり)、邪魔になるというので、ついには普段使わない部屋の隅っこへと撤退させられてしまいました。

それから数ヶ月間、一時はあれほどの心血を注いだ自作スピーカーは無用の長物として、音を出すこともなくただの邪魔な物体として放置されたままでしたが、わけあって家の中の整理や片づけが契機となり、自室にこれを運び込み、場所を変えてもう一度聴いてみようかと思いつきました。

狭い自室の中になんとか場所を確保して、久しぶりに線を繋いで音を出してみますが、基本的にはやはり以前の状態のままで、やっぱり場所の問題ではありません。しかし、今回は腹を括ってしばらくこのスピーカーと付き合ってみることにしたわけです。
自室では毎夜音楽を聴かないことはまずないので、とにかく毎日続けて一定時間鳴らすことになりますが、すると驚いたことに、だんだん音が鳴るようになってきたばかりか、音の分離感や色彩感もこちらがほぼイメージしていたように少しずつですが出てきたのは嬉しい驚きでした。
少なくとも作った当初とはまるで別物のような、まあまあの繊細なサウンドで鳴るようになってきたことは、まったく楽器と同じだと思わないわけにはいきません。これがオーディオでいうところのエージングというものなのかとちょっと感動してしまったわけです。

手前味噌で恐縮ですが、今の状態ならば、それなりに満足が得られるもので、知識も経験もないクセして、寄せ集めの情報だけで、あれだけ拘り抜いて作った甲斐があったなぁと思いました。
同時にスピーカーでも楽器でも、音の出るモノは(デジタルアンプはどうだかわかりませんが)、いずれも数ヶ月間はそれを本来の性能とは思わずに、慣らしのつもりで付き合わなくてはならないことをしみじみと教えられたような気がしています。

子供の成長ではありませんが、時を経て音がだんだん良くなっていくというのは、実に嬉しいものです。
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人前演奏の魔力

人前でなにかのパフォーマンスをすることには、そこに魅力を覚えた人達にとって、抗しがたい強烈な魅力があるのだろうと思われます。

「舞台には魔物が棲んでいる」という言葉は音楽家に限らず、俳優などもしばしば使うフレーズで、どんな失敗や苦労をしても、もうこりごりだと思っても、嫌だ嫌だと言って逃げ出したいと足掻き苦しんでも、舞台が終わったとたん、もう次がやりたくなるのだとか!?

こういう気分というのは、人前で何かをすることが極端に嫌いなマロニエ君にはなかなか理解の及ぶところではありませんが、折にふれそういう話を耳にする(だけでなく目にする)につれ、果たしてそういうものなんだろうなぁという認識だけは持つようになりました。おそらくは一種の依存症的な、独特な脳神経の作用があるのだろうと思われます。

こうなると客観的実力とは無関係に、我欲と自己愛に溺れ、定期的にステージに立ちたがる人がいて、こちらからみればただ唖然とするばかりなのですが、ある種の人達がこの味を覚えてしまうと、なまなかなことでは止められないようです。まさに毒に侵されたとしか思えない世界です。

たぶんカラオケマニアの熱中ぶりがその最もわかりやすい端的な現れだろうと思います。

ピアノでも、マロニエ君などから見ると、ほとんど常軌を逸しているとしか思えないほど、人前で弾くことに喜びを感じている人達がいるのは、いかにそれが人それぞれの嗜好であり自由だと云ってみたとしても、普通の平衡感覚(とマロニエ君が思っているもの)ではおよそ理解が困難なことだらけです。

こういう人達を見ていると、純粋にピアノが弾きたいのか、人から注目を集めるためにピアノを弾いているのか区別がつきません。その熱意に圧倒された結果は、家でひとりピアノを弾く行為でさえも、なにか自分は変なことをしているのではないかという疑いの気持のようなものが忍び寄ってくるようなときがあるのは困ったものです。
やはりマロニエ君の頭の中には、ピアノなどの人前演奏は、それに値する人だけが行うべき特別な行為だという大原則というか、ほとんど本能みたいなものが強く根を張っていて、どうもこういうことを微笑ましいことと捉えることが難しいのです。

そんなマロニエ君の気分とは裏腹に、人前で弾きたい人の欲望というのは、それはもう並大抵のものではなく、驚くべきことにわざわざそのために時間を工面してはあちこち出かけていって、そのための出費も厭わず、そのささやかなチャンスを逃すまいとします。
そんなに弾きたいなら自宅で思う存分やればいいようなものですが、たぶん根本的にそれとは違う感覚で、恐ろしいことですがオーディエンスのいない自宅では満足できないのでしょう。

こういう点を考えると、こういう心理には、どこかセクシャルな要素さえ絡んでいるようにも思います。
おかしな喩えで恐縮ですが、あちらの趣味のご盛んな人の中には、複雑な心理の絡むところがあり、独特なある一定の条件を満たさないと気分が燃えないのだとか。

ありきたりなエロティックなものではダメで、なにかそこに一種の屈折した条件が整ってはじめて満足を見出しているようなのです。
限られたわずかな状況、ある種の不自由感の中で、その欲望がかすかに報いられる刹那、猛然と気分は高ぶり燃焼してくるのでしょう。
したがって、ピアノを弾くにも、きっとただひとりで自由に無制限に弾くのではダメなようです。
自分以外の人達が見守る中で、時間的にも回数的にも限られた条件下での演奏環境でないと「燃えない」「興奮しない」んだというふうに考えると、少しは理解できるような気がしてきます。

べつにマロニエ君が人前演奏したがる人の気持ちが1%もわからないというのではありませんが、それにしても、あまりにもそれが強烈な人の多いのには驚く意外にありません。

小難しいことは抜きにしても、これは人の心の中にある露出願望のひとつの形体なのだと思われます。
まさかピアノが、そういう願望を満足させる手段にもなり得るということを知ったのはそう古いことではありません。
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贅沢はテレビサイズ

家人の古い友人で、不動産関係の会社をやっている方が来宅されたのですが、曰く、最近の若い人は家やマンションを買っても、今風の低価格な家具を最低限度揃えると、あとは専ら電気製品などに注意が向くだけで、気質に情緒や潤いがないということを話しておられました。

どこの所帯もほとんど区別できないほど似たような雰囲気になってしまうそうで、いずれの場合も目につくのは、一様に物が少なく、パッと目はきれいなようでも、まさに衣食住の生活をするためだけの空間が現代風になっているに過ぎず、それ以外の本や絵や…何でもいいけれども、要するに実用品以外のおもしろいものとか美しいものがほとんど見受けられないのだとか。
そして、殺風景なその雰囲気の中で、ひときわ存在感を放っているのがテレビなのだそうです。

住まいとしての全体の規模、わけてもそのテレビの置かれた部屋の空間の広さに対して、そこに鎮座するテレビだけが、ギョッとするほど大型サイズで、それにだけピンポイントに贅沢しましたという状況なのだとか。業界人から見ると、皆けっこうしまり屋のクセに、テレビだけはどうして大きいのを欲しがるのか、さっぱりわけがわからないと嗤っておられました。

今の若い世代は、新しい住まいを手に入れても、実用品が必要というのは当然としても、そこに絵の一枚でも買って飾ろうという情感や心のゆとり、早い話が文化意志から発生する考えそのものがほとんどないようで、住居に於ける白い壁という、いわば自由な画布を与えられても、そこには大型画面のテレビを置くこと、そのためのテレビ台、もしくはそれに連なる家具を購入し、あとは申し訳程度に観葉植物を置くというぐらいな発想しかないというわけで、言われてみれば大いに思い当たりました。

家には必ず美術品だの楽器だのと何か高尚なものを置かなくてはいけないというものではないし、それはもちろん人それぞれの自由ですが、少なくとも自分の住まいに、その種のものが一切無くても何の抵抗もない、あるいは置いてみたいという発想さえないという感性には、やはりある種の驚きを感じてしまいます。

同時に、これは詳しくは知りませんから想像ですが、おそらく欧米ではおよそ考えられないことではないかという気がしますし、少なくともマロニエ君の知る数少ない外国人は、それぞれがいかに自分の住まいを美的で快適に、しかも自分の求める主題のもとにまとめ上げ、工夫をしながら創り上げるかという点では、かなりの拘りがあったことを思い出します。

いずれにしろ、家の中でテレビが一番エライような顔をしているあの雰囲気というのは個人的には好きではありませんし、知り合いの大学の先生はもっとはっきりと「自分はテレビのある家というものが嫌いだ」とおっしゃって、現にそのご自宅にはまったくそれらしきものは見あたりません。

それはさすがに極端としても、部屋に対して誰が見ても過剰な大画面テレビを置くというセンスは、申し訳ないけれども、そこの住人があまり賢そうには感じられないものです。
とくに薄型のデジタルテレビの時代になってからというもの、その傾向には拍車がかかり、それこそくだらないテレビ番組で紹介されたりするセレブだなんだというような人達の豪邸とおぼしきところには、途方もないサイズのテレビが贅沢さの象徴とばかりに誇らしげに置かれていたりして、それをまたレポーターなどが必要以上に驚愕してみせますが、根底にはそんな影響もあるのかと思います。

文化などという言葉を軽々しく使うのもどうかとは思いつつ、たしかにその面での意識レベルは下降線をたどっているとしか思えませんし、今では文化というと、決まってサブカルチャーだのアニメだのというジャンルばかりに人々の関心が偏重するのは、どうしようもなく違和感と危機感を感じます。
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カラヤンの陰鬱

クライバーのドキュメンタリーが放送された翌週だったか、今度は昨年制作のカラヤンのドキュメンタリーが放送されました。

基本的には似たような作りで、彼を知る証言者たちが映像や音声を聞きながらひたすらコメントを繰り返すというスタイルであるばかりか、中にはクライバーのときとまったく同じ人なども出てきて、なんとなく二番煎じという印象を免れませんでした。

しかし、視聴者の受ける全体の印象としては、いやが上にも惹き込まれ、その魅力に魅せられ、感嘆するばかりのクライバーとは打って変わって、カラヤンはフルトヴェングラー亡き後の音楽史上、最も有名な大指揮者であるにもかかわらず、どこか陰鬱で暗いイメージが見れば見るほど上から上から塗り重ねられるようで、少しも心の浮き立つものがなかったのは、カラヤンに対する好みを別にしても、まったく意外なものでした。

ひとりの偉大な音楽家というよりは、この世界の頂点に君臨し、帝王などといわれたのはあまりに有名ですが、まずその表情がいつも重苦しく、いつも法外な独占欲と言い知れぬ孤独感に包まれているようで、見ていてちっともひきつけられるところがありませんでした。とくに録音スタジオのモニタールームなどでは、大勢の関係者に囲まれながら、彼がひと言ふた言、言葉を発するたびにまわりが過剰なまでにそれを引き取ってご大層に笑い声を上げる様などは、まさに孤独な権力者と、それを取り巻いて御機嫌を取る人達という構図そのものでした。

彼の演奏に内包される是非をいまさら言い立てる気もしませんが、彼自身、音楽が好きで純粋にそのことをやっているというより、自分の打ち立てた偉業を、より強固で、より大きく、より高く積み上げんがために、必死に業績作りと権力維持に励んでいるようにしか見えません。

また、数人の証言者達は、カラヤンの音楽的な優秀さをこれでもかとばかりに褒めそやしますが、なんだか…どこかわざとらしく、カラヤンの死後も尚、まだゴマをすっているか、あるいは何かの計算が働いてそういう発言をしているというように(マロニエ君の目には)感じられてしまいます。

カラヤンの時代は、指揮者に限らず華やかな大物スターの時代であったことは間違いありませんが、同時になんともいえない、重苦しい分厚い雲がかかっていた時代のようにも思います。
カラヤンのおかげで大活躍したベルリンフィルも、カラヤン故により自由な演奏活動の可能性を厳しく制限されていたとも思います。今のほうがベルリンフィルは世界最高のオーケストラのひとつとしての自由を得て、その存在感をのびやかに示していますが、カラヤンの時代はまさにカラヤン帝国の道具のひとつであり、彼を支えるための親衛隊のような印象だったことを思い出します。

マロニエ君はカラヤンをとくに好きだったことは一度もなく、それでも否応なしにカラヤンのレコードを避けることはできない時代の流れというものがあり、気がつけばLPやCDだけでも夥しい数が手許にあるのが、自分でも不思議な気分です。そして今それを積極的に聴こうとしないのも事実です。

聴くとすれば、今どきの、線の細い、けちくさいのに自然派を気取ったような、要するに貧しくも偽善的な演奏にうんざりしたときなど、その反動から、カラヤンの華麗でゴージャスな演奏を聴くことで、しばし溜飲を下げる役目を果たしてはもらいますが、それが済めば再びプレーヤーへお呼びがかかることはなかなかありません。
無農薬のどうのという講釈ばかりでちっとも楽しくない料理ばかり食べさせられると、単純にケンタッキーフライドチキンなんかをがっつり食べたくなるようなものでしょうか。

カラヤンは、要するに音楽界におけるひとつの時代を象徴するスーパースターであり、いわば彼自身が時代そのものであったのでしょうけれども、その演奏が、クラシック音楽のポピュリズムに貢献したことは認めるとしても、真に人の心の深淵に触れるような精神的核心に根差した音楽をやっていたかとなると、この点は甚だ疑問のような気がしますし、その点をあらためて問い返すような番組だったと思いました。

カラヤンのおかげで、20世紀後半のクラシック音楽界は巨大な恩恵にも与り、同時に損もしたような気がします。
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天才の魔力

BSプレミアムシアターの後半で、カルロス・クライバーのドキュメント映像が2本続けて放映されました。

彼の死後に、彼とかかわった音楽家をはじめとする、さまざまな人物の証言をもとに構成されたドキュメンタリーです。近ごろの流行なのか(といっても何年も前の制作ですが)、あまりにも各人のコメントは小さく切り刻まれて、ほとんど数秒ごとにめまぐるしく映像が入れ替わりせわしないといったらありません。これがある種の効果を上げているのかもしれませんが、字幕スーパーを読むだけでも後れを取らないようついて行かざるを得ず、およそゆったり楽しむというものではないのが個人的には残念です。

実は、この作品は2つともすでにマロニエ君は見ていたもので、DVDとしても保存しているのですが、レコーダーに自動的に録画されていて、消去するにしても、その前にちょっと出だしを見てみたら、もうだめでした。とうとう止めることができずに2つとも最後まで見てしまいました。

いまさら言うようなことではない、わかりきったことではあるけれど、それでも言わずにはいられないのは、やはりカルロス・クライバーは真の特別な天才でした。天才というだけではなく、他に類を見ない魅力、ほとばしるオーラ、その音楽の水際立った躍動と繊細、活き活きとした美しさは圧倒的で、これぞ空前絶後の演奏家だったことをいまさらながら痛感させられました。

残された数少ない映像からは、彼のしなやかな、その動きそのものが音楽の化身のような優雅でエネルギッシュで美しい指揮ぶりが記録されています。もし彼が生きていて、ヴィンヤード式のホールでコンサートが聴けるなら、マロニエ君は躊躇なく彼とは向かい合わせになる席を取るでしょう。

クライバーは天才特有の、気まぐれでわがままな人物としても有名で、コンサートも世界中のオファーを頑なに断り続けることでも有名でした。しかし、あの尋常ではない全力を尽くした指揮ぶり、とりわけリハーサルにかける猛烈なエネルギーと要求を見ていると、これはもう並大抵のものではなく、こんなことはそうそう日常的に続けられるものではないということを直感させられます。

カルロスのお姉さんが話していましたが、彼はコンサートやオペラが終わるたびに、まるでお産をしたように痩せこけていたというのですが、それも容易に頷ける気がします。自分のエネルギーを全投入して演奏に挑むものの、毎回必ずオーケストラや歌手達がそれに応え切れるとも限らず、そこで妥協をし中途半端な折り合いをつけるのが嫌だったのでしょう。もっと正確に云うなら、彼の薄いガラスのような繊細な神経が自分が承知できない演奏をすることに到底耐えられなかったのだと思います。

こういう純粋さを、世間はわかっているようでわかっておらず、結果的には我が儘とか気難しいという単純なレッテルを貼り付けてしまうようです。
そのかわり、やる以上はまさしく全身全霊を尽くした完全燃焼の奇跡的な演奏だったことが偲ばれます。

ちょっと思い出したのが作家の故・有吉佐和子女史で、彼女も執筆に関しては炎のような意志と情熱を注いで仕事に打ち込み、一作書き上げる毎に療養のためしばらく入院する必要があったといいますから、どんな世界でも本物はそのような狂気と背中合わせの危険地帯で自分の仕事(というよりも天命)に奉仕しているものだということがわかります。
こういう危険地帯に身を置き、我が身の犠牲を厭わず、一途に芸術に奉仕するといったタイプの人はたしかに激減してしまいましたし、だから一昔前までの芸術家は本物だったと思います。

クライバーの演奏は、その断片に接しているだけでもその魔力に痺れていくようで、しばらくは他の演奏が受けつけられないほどの強烈な魅力にあふれています。
番組も終わりに近づくころ、クライバーの眠る墓地の映像が映し出され、流れる音楽はベートーヴェンの交響曲第7番の第二楽章でしたが、興奮さめやらぬまま番組は終了、その続きがどうしても聴きたくなり、部屋に戻るなり手短にあったブロムシュテットの同曲を鳴らしてみたところ、マロニエ君の耳の感覚というか細胞がクライバーに染まった直後だったために、普段はそこそこ気に入っている演奏が、まるで気の抜けた、緩みきっただらしない音楽のように感じられてしまったのは驚きでした。
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買わせる領収書

冷蔵庫を買うことになり、電気店などをあちこち見てまわった結果、ひとつの機種に的が絞られたので、あまり期待もせずネット通販の価格を見てみたところ、安さ自慢の量販店で15万円前後するものがさらに4万ほど安いのにはびっくり。楽器ならともかく、単なる電気製品で、それもれっきとした日本の大メーカーの製品なので、だったら安いことは大いに魅力で、ネットから購入することにしました。

ところが購入手続きに入ると、ちょっと不可解な点に出くわしました。
ネット販売の場合、送料も無料となっているところが珍しくないのは驚きですが、よく見るとそれは軒先まで、つまり「玄関先まで」という条件付きで、家の中まで搬入し、開梱して設置、さらに梱包材を持ち帰るところまでやってもらうには、3千円強の追加料金となるようです。

量販店で買った場合でも送料はそれなりにかかるわけで、この点はまあ納得できますし、もとが安いからある意味当然だろうとも思います。

いっぽう納得がいかないのが領収書に関する部分で、「基本的に領収書は発行しません」という開き直ったような記述があり、さらには「当店名の入った領収書が必要な場合は発行手数料500円(店によっては700円)が必要となります」となっており、購入操作時に配送方法とならんで、領収書の必要・不必要をボタンで選択するようになっています。

しかしこれ、言い換えるなら領収書をお金で買うという意味でもあり、そんなバカなことがあるものかと思いました。同じ価格帯でサイト内に並んでいる6つほどのお店をそれぞれを調べてみたところ、なんと、すべて横並びに同じスタイルを採っているのには、いよいよア然とさせられました。

領収書を販売者が購入者に発行するのは、正常な商行為であるならばごく常識であり当然の義務であるはずです。こうなると領収書代の領収書を…という感じになるのでしょうか。

いくら販売価格が安いといっても、そのことと領収書発行の有償化は、およそ関連づけるべき事ではないはずで、しかも異なる業者がずらりと同じ方式を採っているところに、日本人の悪しきメンタリティである「赤信号、みんなで渡れば恐くない」という昔流行った標語を思い出しました。

さらに思い出したのは、月極駐車場を賃貸契約している場合、車の買い換えなどで車庫証明が必要となると、貸し主は車庫証明の発行手数料として数千円から、場合によっては1ヵ月分相当の代金を請求するということを聞いて仰天したことを思い出しました。
これは厳密にいえばまったくの違法で、借り主の要請によって車庫証明書類の必要箇所へ貸し主が署名捺印することは、正当な貸借関係が存在しているという事実をただ単に証明するだけのことで、これは手数料どころか、駐車場を貸すことで収入を得ている貸し主側に課せられる責務なのであって、その責務を履行するのに相手から金銭を要求するとは言語道断だと思います。

この件は知り合いの弁護士にも雑談で聞いたことがありましたが、やはり法的な根拠はなく、人の弱みにつけこんだ悪しき慣例として社会に蔓延しているだけとのこと。裁判をすれば勝てるが、それっぽっちのことで裁判費用・弁護費用をかけて係争に持ち込むほどの問題でもないということで、煩わしさから払ってしまう人が多く、それがいつしか当たり前のルールであるかのようになってしまっているそうです。

そもそも領収書を発行しないというのは、税金逃れか闇の商売というふうにしか思われても仕方ないことで、こんなことが堂々とまかり通るなど、世の中ちょっとどうかしているんじゃないかと思います。
要するに手間と切手代と印紙代を倹約しているのでしょうが、これは合法なのか、ぜひいちど各自治体にある消費生活センターなどに問い合わせをしてみたいところです。
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ピリスの奏法

今年3月、すみだトリフォニーホールで行われた、ピレシュ&メネゼスのデュオ・リサイタルの録画を見ました。
ピレシュは日本では長らく「ピリス」といっていたポルトガル出身のピアニストで、グラモフォンなどはいまだにCDの表記はピリスで通しているようです。本来はピレシュというのが正しいのかもしれませんが、これまで長いことピリスと云ってきたので、ここでも敢えてその呼び方で書きます。

前半はホセ・アントニオ・メネゼスによるバッハの無伴奏チェロ組曲第1番で、ピリスはそのあとのベートーヴェンのチェロ・ソナタ第3番で登場しました。

演奏はさすがにある一定のクオリティというか、音楽的な誠実さ、質の高さを感じますが、実際のステージとなるとピリスのピアノはいかんせん軽量コンパクトに過ぎて、CDで聴くような繊細な表現は伝わりません。というか、そもそもこの時はそれほど気合いの入った演奏をしていないという感じだったというほうが正しいかもしれません。
少なくともマロニエ君は、彼女がいま獲得している高い名声に値する演奏をしたようにはどうしても思えないものでした。

それとは別に、この人の演奏を聴いていて、CDなどでも以前から気になっていたことが少しわかったような部分があり、これはこれで収穫でした。

それはピリスの演奏に潜む、ある矛盾についてでした。
弱音域で展開される、目配りの行き届いたデリケートな演奏はたしかに上質なものがあるけれど、フォルテやスタッカート、あるいは弾むようなパッセージになると、たちまち音やリズムが粗雑になり、この人のみせる(聴かせる)芸術性にどこかそぐわない、ちぐはぐな印象を受けるところがあったのです。

それは、少しでも強い音や小刻みなリズムを必要とする場所になると、必ずといっていいほど上から鍵盤を叩くことで、それが音にも反映されていることがわかりました。
それは彼女が小柄で手も小さいということもあるかもしれませんが、ピアノのアクションを含むすべての発音機構はこの点でも非常によくできており、叩いたりはじいたりすれば、正直にそういう音になる。

また、ピリスの場合、叩くときはえらく敏捷に手を上げ下げしていますが、その小さくない上下運動によるロスを取り戻そうとするのか、そのときに若干リズムが乱れ、結果として逆につんのめるように早くなっている気がしました。同時に、これをやるときは注意がそちらに逃げるのか、音楽的な配慮がやや散漫になってしまうのだろうと思われました。

そのためか、弱音のコントロールで非常に高度な演奏表現を達成しているのに、こういう場面では粗い音色と性急なリズムが顔を出し、全体の素晴らしさは感じつつ、どこかもうひとつ引っ掛かる感じが残るのだろうと思います。ピリスは、表向きはいかにも筋の通った高尚な音楽を描き出す数少ない音楽家のようなイメージになっていますが、この点ではまさに技巧上の事情があるのか、矛盾を抱えたピアニストだと思いました。

叩く音は、どうしても硬質な衝撃音となり、音量の問題ではなく、ピアノの音が割れる、もしくは割れ気味になってしまいます。深みのある静謐な弱音コントロールが売りのピリスの演奏の中で、随所にこうした配慮を欠いた音色が紛れ込むのは、他がそうでないだけに一層耳に違和感を与えるのだろうと思います。

小柄で手が小さいと云っても、ラローチャは潤いのある充実した響きを持っていましたし、誰も聞いたことはないけれど、かのショパンも女性のように小さな手であったにもかかわらず、その演奏は一貫して絹のようななめらかさがあったと伝えられていますから、やはりそこは演奏家自身の価値観と美意識によって決定される問題ではないかと思いました。

ピアノはヤマハのCFXですが、どうもこのピアノはデビュー当時のような輝きを感じなくなり、響きがだんだん平凡で薄っぺらになってくるような気がします。ピリス以外でもこのところホジャイノフなどいくつかの演奏で聴きましたが、ちょっとフォルテになるとたちまち限界が見えるようで、そのあたりがいかにもピンポイントで性能を磨いた現代のピアノという印象。生産開始直後の個体はよほど気合いを入れて作られたということかと、つい勘ぐりたくなります…。
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半額CD3点

全国的なヤマハ・ピアノショールーム縮小の流れに伴って、福岡では博多駅前の大きなヤマハビルが閉じられ、その一階にあった広いピアノサロンもなくなってしまいました。

その余波で、天神のヤマハ福岡店では、1階はアップライトピアノ/電子ピアノ/管弦楽器などの売り場、2階は楽譜や書籍はそのままに、残りスペースがグランドピアノの展示場スペースとなり、ピアノサロンから引っ越してきたとおぼしき大小のグランドが6〜7台並ぶようになりました。

グランドピアノが大挙してやってきたためにCDの売り場が行き場を失ったらしく、今後CDは注文販売のみという紙が壁に貼られていました。
ここに並んでいた大量のCDは各メーカーに返品などの処置をとられたのかどうか知りませんが、一部のCDがワゴンセールに投じられ、これが一斉に半額になっているので覗いてみると、通常ならまず買わないであろう未知の日本人演奏家の3000円級のCDがあったので、これ幸いと買ってみることにしました。

以下3点、購入して聴いてみた雑感です。

(1)『恩田文江ライヴ・イン紀尾井』レーベル:ガブリエル・ムジカ 定価3000円
2009年に行われた紀尾井ホールでのライブで、ショパン:幻想ポロネーズ/アルベニス:「イベリア」からトリアーナ/メシアン:「幼子イエズスにそそぐ20のまなざし」より/ラヴェル:夜のガスパール/その他というもの。ライヴというタイトルから期待されるような一過性の熱気は感じられず、むしろ固い感じの演奏。冒頭の幻想ポロネーズが始まって早々、その慎重さは全体を予感させるもので、一通り聴き進むもその印象は変わらない。これといって明確な欠点もないきれいに整った演奏といって差し支えないが、この人なりの個性も感じられない、平均化された演奏だという印象。変化に富んだプログラムなのに、なぜかどの曲も同じように聞こえてしまうのは、作品への踏み込みと音楽に欠かせない即興性が不足しているからだろうか。聴衆に対して美しい音楽を魅力的に奏することより、ひたすらミスをしないよう安全運転に努めているようで、結果として匿名的な演奏がそこにあるだけ。録音も平凡なもので、ピアノテクニシャンは有名な方のようだが、このホールやピアノの良さもあまり出ていないように感じた。

(2)『ベートーヴェン:ピアノソナタ第30番、第31番、第32番 澤千鶴子(ピアノ)』カメラータ・トウキョウ 定価2940円
まったく知らないピアニストだったが曲がいいことと、ジュディ・シャーマンという有名プロデューサー(らしい)がおこなったアメリカでの録音ということで興味がわいて購入。ライナーノートではさる音楽評論家が言葉を極めて澤さんの演奏を褒めちぎっているが、残念ながらあまり同意できなかった。全体に、ひと時代もふた時代も前の日本人によくあった演奏で、アーティキュレーションなどがいかにも和風テイスト。リズムも一拍一拍を肩で取っているようで、この最後の3つのソナタの高度な精神世界を、演奏を通じて再構築できているとは思えなかった。ただしマロニエ君にとってはこのCDの価値は結果としてその音にあったわけで、自然で躍動的、親密なのに開放感に満ちた録音の秀逸さにはかなり感心させられ、優秀なプロデューサーが統括するとはこういうことかと感じ入った。ピアノは現代のニューヨーク・スタインウェイだが、響きがやわらかいのに輪郭がくっきりしており、珍しく木の響きのするスタインウェイで、最もベーゼンドルファーに近いスタインウェイという印象。

(3)『小林五月 シューマン・ピアノ作品集 幻想曲/フモレスケ』ALMレコード 定価2940円
近年、日本人でシューマンに取り組んでいるピアニストということで名前は聞いたことがあったが、演奏は未聴だったため、どんなものかと購入。果たして幻想曲の冒頭からいきなりぶったまげた。これほど何憚ることなく盛大に泥臭いシューマンを聴いたのは生まれて初めてで、これを個性だと言い通すことができるのか甚だ疑問。終始、粘っこく一音一音を力ずくで地面に押し込むようで、マロニエ君の理解からは著しくかけ離れた演奏。ライナーノートも抽象論の羅列で意味不明。もしこの人のシューマンが価値の高いものだと考える人がいるなら、皮肉でなしにぜひともそれを教えて欲しいと思う。この人は作品に込められた何かを表現しようとしているのかもしれないが、音楽には流れや呼吸があるということは完全に除外されている気がする。最近の人では珍しくタッチが深いピアニストと云えなくもないけれど、同時にほとんど音色やデュナーミクのコントロールはないに等しく、ところ構わず強いタッチで鳴らしまくるのは、人一倍繊弱な感性を持ったシューマンが聴いたら一体どう感じるだろうか?録音とピアノは共に非常に好ましいものだと感じるだけに残念。

〜というわけで、今回のバクチ買いはほとんどヒットらしいものがなく、失敗の巻となりましたが、強いて言うなら澤千鶴子さんのCDはそのすばらしい録音を聴くだけなら、一定の値打ちがあったと思います。
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別人のように

ついひと月前のことですが、必要があって携帯電話をひとつ新規契約しました。

これまで使っているケータイとは別会社だったために、事前にショップへ説明などを聞きに行き、そのとき対応に出た女性はあれこれのプランやサンプル機種を目の前に並べて、明るい調子で、なかなか熱心に説明してくれました。

カタログをもらって一旦帰宅し、それからほどなくして正式契約に再度ショップを訪れました。このときの対応は別の男性スタッフでしたが、この人も明るく一生懸命な様子で、次々に必要となる説明や確認事項などをこちらに示しつつ、何度となく端末をテキパキと操作したり、奥に引っ込んではまた出てきたりと、たかだかケータイとはいえひとつの電話を開設するのは、なんとも骨の折れる手続きだなぁといまさらのように実感しました。

時間も優に1時間はかかるし、スタッフとの関わりもそれなりのものになり、結構なエネルギーを要するというのが正直なところです。すべての手続きが終わって電話器その他を受け取って、店のドアを出るころにはぐったり疲れると同時に、お店の人にも素直にご苦労様という気分になるものです。

どの電話会社も似たようなものでしょうが、だいたいどこかに納得できないようなルールもあって、この時もこれこれのオプションをセットで付けると、数千円かかる事務手続き料が無料になり、さらにそのオプションも一定期間は無料で提供され、必要ない場合は契約から1ヵ月経過すれば解約できるということなので、とりあえずお得ということでもあり、そのサービスに入ることにしました。

その後、ひと月が経ったので、へたをすると忘れてしまい料金が発生する恐れがあるので、覚えているうちにと思って解約手続きをしにショップに出向きました。
店内に入ると前回手続きをしてくれた男性スタッフは接客中で、平日ということもあってか、ほかにスタッフの姿はありません。違和感を感じたのは、まずこの男性、いくら接客中とはいっても、営業中の店舗に来客があれば「いらっしゃいませ」ぐらい言うとか、最低限なんらかの反応をするのは接客業云々以前の自然な礼儀だと思うのですが、広くもない店内に人が入ってきて、わずか2m足らずの場所に突っ立っているのに、それをまさか気がつかないとは言わせません。しかし、こちらには頑として一瞥もくれずに目の前のお客さんとのみ会話が続き、こちらは延々とその場に立ちつくすだけでした。

こういうことは、最近よくあることで、気づかないということが通用しない状況でも、あくまで気づかない態度をとって他のお客さんを無視するというやり方が横行しているように思います。マニュアルにないことは一切したくないのでしょうし、建前を悪用して嫌な人の本心を見るようで、人としての基本的な気配りというものが欠落しているわけです。

どうしようもないのでついにこちらから、ほかに誰もいないのかと尋ねると、それでようやくこちらを見て席を立ち、奥に人を呼びに行きました。それでやっと出てきたのが、一番はじめに説明をしてくれた女性でしたが、無料サービスを外す手続きを依頼すると、この女性も前回の熱心な店員の態度とは打って変わって、笑顔のひとつもないまま淡々とパソコンの端末を忙しげに操作しはじめます。
さらには、それにまつわる確認事項をことさら事務的な調子で説明し、このときもそれなりの時間がかかりましたが、なんだかとてもやりきれない気分になりました。

べつにケータイのショップの店員に何かを期待しているわけではないけれど、すでに会話をしたことのある人間と再度顔を合わせれば、「あ、こんにちは」程度の態度というものがあってしかるべきはずですが、二人とも過去のことはたとえ昨日のことでも終った事として断ち切るのか、こうも冷徹な態度をとるのには驚いてしまいます。

なぜそんなにも別人みたいに態度を変えなくちゃいけないのか、さっぱりわけがわからないし、それだったらはじめから同じ態度で通してもらったほうが、まだ潔くもあり、余計な不快感を味わうこともないと思います。
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125周年記念ガラ

今年の4月10日、オランダのロイヤル・コンセルトヘボウ125周年記念ガラという催しがあり、この時点では退位間近であったベアトリクス女王と、即位を目前に控えたオラニエ公ご夫妻のご臨席のもと、盛大なコンサートイベントが行われ、その様子がBSのプレミアムシアターで放送されました。

指揮はマリス・ヤンソンス、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団で、このガラコンサートはワーグナーの楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」序曲で始まりました。
ところが、これは奇妙なほどあっけらかんとした陰翳のない演奏で、およそワーグナーのようには聞こえませんでした。マロニエ君の好みとしては、ワーグナーはもう少し不健康で壮大、そして陶酔的な響きがなくてはそれらしく聞こえないように思いました。

打って変わってトマス・ハンプソン(バリトン)の独唱によるマーラーのさすらう若者の歌などの3曲は、まったく素晴らしいもので、表現力、力強さ、安定感など、どれをとっても立派でした。聴き手が安心して音楽に身を委ねることのできる現代では数少ない音楽家というべきで、作品世界への引き込みが際立っており、大変満足でした。

ああ、なんでこんな場所にまで、この人は必ず出てくるのだろう…と思うのがラン・ランで、朝起きたそのまんまみたいなヘアースタイルで意気揚々と登場し、プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番の第3楽章をいちおう演奏。いつもながらの曲芸風で、しかも線の細い響きと、解釈というものが不在のような演奏ですが、彼にはそれは「小さなこと」なのかもしれず、終始「どうだい!」といわんばかりの自信満々なエンターテイナーぶり。スターとしての自分の存在やふるまいを重視して、それでお客さんを喜ばせるというスタンスなんでしょう。ピアニストとしてみるから違和感がありますが、芸人として見れば立派なのかもしれません。

ここ最近、ますます顕著になってきたラン・ランの特徴としては、ちょっとでも空いている左手などを、まるでベテラン・マジシャンの手つきのようにくるくると踊らせて、いかにも演奏に没入している証のように振る舞うなど「見せるピアニスト」としての要素をますます強化しているように感じました。
ほかにも以前からやっていることでは、結構難しいパッセージなどを弾く際など、「ボクにはこんなことなんてことないよ」と言わんばかりに、顔はあえて会場の遠くあたりを見つめるなど、余裕があるから必死になる必要もなくて、つい他のことを考えちゃった、みたいなパフォーマンスで、こんなことを女王の前でも臆せずやってしまう図太さは大したものとしか言いようがありません。

続くチャイコフスキーの弦楽セレナードから「エレジー」では、祝祭アンサンブルと称してウィーンフィル、ベルリンフィル、ミュンヘンフィル、アムステルダムからの団員が集まって演奏しましたが、これはロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の出す音とはまったく違う、腹の据わったふくよかな響きだったのは、同じ会場でこんなにも違うものかと驚きでした。
その点ではロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団は伝統あるオーケストラではありますが、いささかギスギスした音が気になります。

続くサンサーンスの序奏とロンド・カプリツィオーソではジャニーヌ・ヤンセンという若い女性ヴァイオリニストが登場してきましたが、演奏はやたら気負い立つばかりで粗さがあり、生命感あふれる演奏も魅力は半減というところでした。演奏に熱気というものは必要ですが、そこには品位と必然性が無くては本当の音楽の息吹は伝わらず、マロニエ君の好みではありませんでした。
ソリストとしてラン・ランとはちょうど良いバランスだと感じたところ。

この日のホスト役で、カーテンコールで何度も往き来しては笑顔をふりまくヤンソンスですが、意外にも小柄で、その笑顔の中に覗く白い歯の具合などが誰かに似ていると思ったら、麻生太郎氏にそっくりなのにはびっくりして思わず笑ってしまいました。
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オープンカー

このところすっかり初夏のような陽気となり、ときに汗ばむほどに気温が上がることも珍しくありません。梅雨に入ればじめじめと鬱陶しい期間がひと月以上は続き、そのあとは間をおかずに本格的な夏が待ち構えていますから、今が穏やかな季節の最後ということになるのでしょうか。
そうはいっても、春先からこの時期にかけては気温などの変化が日替わりのように激しく、必ずしも体調に優しい時期ではないので、実際は過ごしにくい時期とも見るべきですが…。

それはともかく、梅雨や本格的な夏前にして、この時期を寸暇を惜しむように楽しんでいる人達のひとつがオープンカーのオーナー達だろうと思います。

マロニエ君の私見ですが、もともとオープンカーは欧米の文化や気候的な土壌でこそ真価を発揮するクルマで、日本のように四季の変化に富む多湿な土地柄では、年間を通じて屋根を開けて走ることのできる時期はごくわずかで、とても真価を発揮できるとは思えません。
そういう意味でも、春秋の一時期は、オープンエア・モータリングを求める人達にとっては待ちかねた儚くも短い季節ということになるようで、このところもオープン状態で走っている車(大半が輸入車)をたまに目にします。

しかし、マロニエ君はいつも見るたびに、基本的にオープンカーというものは日本人という民族には向いていないと昔から思わずにいられませんでしたし、それは今でも変わりません。
日本人の持つ内向性、開放感の求め方、地味な顔かたち、周りの景観など、すべてのものがオープンカーが本来棲息すべき享楽の環境とは乖離しているようで、要はサマになっている乗り方ができているシーンを見たことはほとんどなく、どれも車に呑まれているようにしか見えないのです。

もう少し踏み込んで云うならば、オープンカーは乗り手の顔かたちまでがボディの一部となるわけで、とくに贅を尽くした高級車のオープンカーともなると、そこに日本人の肩から上が車外に露出しているのは、なんとも収まりが悪いと感じずにはいられません。

さらには乗っている人の様子が申し訳ないけれども苦笑させられてしまいます。マロニエ君も日本人なので気持ちはよくわかるのですが、いわゆる日本人のメンタリティや生活習慣と、オープンカーの屋根を開けて街中を自然に走らせるという感覚とは、根底のところで決定的にそぐわないものがあり、まさにミスマッチのシーンがそこに現出しているようにマロニエ君の目には映ってしまいます。

大半のオーナーは、屋根をオープンにすることで、外部に自分の身を晒しながら車を走らせるという行為に心底からリラックスしておらず、みな一様にどこか緊張を伴っているのが痛いほど伝わります。見られているということに快感と恥ずかしさがない交ぜになり、誰よりハンドルを握る当人こそが意識しまくってカチカチになり、全身に力が入っているようで、あれで本当に爽快なんだろうかと思います。
これは贅沢で爽快で、それができる自分は特別なんだと自分に言い聞かせて、本当は気骨の折れる行為をごまかしているようにも見えて仕方ありません。

とくに高級車になればなるだけ、乗っている方は意識過剰になり、せっかく高価なオープンカーを買い、いままさに屋根を開けて乗っているのに、無邪気に風と戯れることができず、キャップを被ったりサングラスをしたり取って付けたような肘つき運転をするなど、やはり根底にはわずかでも自分の恥ずかしさを隠そうとしているようにも見えます。

とくに多いのが、信号停車時などもほとんど体も動かさず、表情はことさら不機嫌そうな顔をしている人がよくあって、これなども優越感と自意識過剰のあらわれのように見えてしまいます。
そうでもしないと神経的にやってられないプレッシャーもあるようで、そんな労苦を押してでも、オープンカーの持つ華やかさの世界の住人であることを意識して楽しみ、快感を得ようという欲望と戦っているようです。たぶんガレージに帰って屋根を閉め、車から降りたとき、本当に心底楽しかったと言えるのかどうか、本人も実際はよくわかっていないのかもしれません。

かくいうマロニエ君も、ずいぶん前に、その設計思想とスタイリングに惚れ込んで当時話題のオープンカーを所有したことがありましたが、いやはや、とてもじゃありませんが昼日中の街中で「屋根を開けて走る」なんて勇気はどだい持ち合わせておらず、せいぜいクルマ好き同士が集まるミーティングのときにリクエストされて短時間だけ開けてみるとか、深夜にちょっとだけ試しに…といったぐらいなもので、99%は屋根を閉じたままでしか乗りませんでした。

そんな使い方が長続きするはずもなく、だいいちそれでは持っている意味もないので、けっきょく短い期間で手放してしまいました。それもあってか、いまだにオープンカーを全開にして乗っている人を見ると「お疲れさま」という言葉がわいてしまいます。
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ファツィオリ雑感

前回書いた、昨年のチャイコフスキーコンクール優勝者ガラで使われたピアノは、ピアニストがトリフォノフということもあってか、ファツィオリのF278がステージに据えられていました。
これまでの印象では、この若いピアニストとイタリアの若いピアノメーカーはずいぶんとWin-Winの関係にあるようですから、それも当然のことだったのかもしれません。

なにぶん演奏が演奏だったおかげで、正直いってピアノどころではなく、もうどうでもいいような気もしましたが、ついでなので少しだけ。

音や響きの印象は以前と変わりませんので省略して、視覚的な印象です。
サイドに書かれたFAZIOLIの文字は、一般的な真鍮の金文字だとステージの照明や反射の具合で見えづらくなることがあるための対策なのか、常にくっきり目立つ白文字となっており、しかも遠目にも判読できやすくするためか、少し肉厚に書かれているのはビジュアルとしてあまりいいとは思えません。

もともとファツィオリのロゴは、デザインの美しさと個性が両立した素晴らしいもので、この点では、新興メーカーとしては出色の出来だと思っていますが、しかしそれはあの繊細でスリムなラインの微妙なバランスがあってのこと。これを少しでも肉厚(しかも白!)にすれば、あの雰囲気はたちまち損なわれるとマロニエ君は感じるわけです(少なくともピアノに彫りこむ文字としては)。

さらにはピアノの左サイド(客席側は右サイド)にまでこの白い肉厚ロゴを入れるのはちょっとくどすぎるし、あまりにも宣伝効果ばかりが表に出てしまい、却って好感度を削ぐような気がします。
この点はヤマハも同様ですが。

三方向にまでメーカー名を入れて、なにがなんでもその名をアピールしたいのなら、いっそ後ろのお尻部分にもタトゥのようにロゴマークを入れて、この際全方位対応にすればどうかと思います。

また細かい点では、ピアノソロの場合、多くは譜面台は外したスタイルで、その譜面台を差し込むためのボディ側のガイド部分が丸見えになりますが、これがいかにも安物っぽいただの金属棒(ファツィオリお得意の純金メッキなどが施されているのかも知れませんが)になっているのは、まるでアジア製の大量生産ピアノみたいでした。
ファツィオリは生産も少数で価格も最高級、何から何まで贅沢ずくめのセレブピアノを標榜し、それに沿った巧みな宣伝にも努めているメーカーのようですが、これはちょっとイメージにそぐわないというか、案外つまらないところで割り切った造り方をするんだなあと思いました。

それにしても、舞台上手(つまりピアノの後方から)のカメラアングルで驚くのは、そのお尻部分の大きさ幅広さで、これは圧巻です。女性で云うなら安産型体型とでもいうべきで、ボディからなにから、徹底して華奢なスリム体型を貫くスタインウェイとは対照的な豊満なプロポーションだと痛感させられます。
たぶん、ファツィオリは響板面積も他社よりかなり広く取る設計なのかもしれません。

使われていた椅子は、見慣れたポールジャンセンでも、バルツでも、ランザーニでもないもので、確認はできていませんが、おそらくはスペインのイドラウ社のコンサートベンチだろうと思います。
ずいぶん肉厚の大ぶりなベンチで、個人的にはあまり好ましくは思いませんでしたが、ファツィオリのむちむちした雰囲気とプロポーションには妙に合っていたと思います。
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ゲーマー?

演奏家としての道義が感じられない演奏というのは今や珍しくもないので、少々のことなら慣れているつもりですが、ひさびさにそんなものでは処理できない演奏に出逢いました。

BSのクラシック倶楽部で昨年のチャイコフスキーコンクール優勝者ガラというのがあり、ピアノではダニール・トリフォノフがショパンの作品10のエチュード全曲を弾いていました。

あの素晴らしいハ長調の第1番からして、まさに無謀運転のはじまりで、華麗にして精巧なアルベジョの美しい交叉は、ただの粗雑でうるさい上下運動と化し、いきなり度肝を抜かれました。
どの曲も呆れるばかりにぞんざいで、やたら早く指を動かし、高速で弾き飛ばすことだけがエライということしか、この人の感性にはないのでしょう。

まあ、広い世の中にはそんな単純思考のオニイチャンもいるとは思いますが、そんな人があのショパンコンクールで3位となり、続くチャイコフスキーで優勝というのですから、いかにこのところのコンクールの権威が失墜しているとはいえ、ちょっと信じられないというか、この現実をただ時代の波や風潮として受け容れることはマロニエ君にはなかなか困難です。

あれではまずショパンに対してというだけでなく、栄冠を与えてくれたコンクールに対しても、コンサートのチケットを買って聴きに来てくれた聴衆に対しても、さらにはファツィオリのピアノやその様子を収録して放送しているNHKに対しても、礼を失しているのではと思ってしまいました。

中でも最も驚いたのは最後の「革命」で、ただもうめちゃくちゃなロックのステージか、はたまた格闘技でも見ているようで、それを生で聴かされている会場のお客さんの気持ちを思うといたたまれない気分になりました。

その演奏は強引な自己顕示欲の塊で、技巧的な曲では自分の能力をはるか超えたスピードで飛ばしまくり、当然コントロールはできていないし、それで音が抜けようが破綻しようが知ったことではないという様子です。またスローな曲では執拗にネチョネチョした気持ち悪さで、身体のあちこちが痒くなってくるようで、ともかくこの人の音楽的趣味の悪さといったらありません。

ふつう若くして世に出たピアニストには神童といわれる人が多く、彼らはその技巧もさることながら、若さに不釣り合いなほどの老成した音楽性と抜きん出た個性を持っているものですが、トリフォノフはその点ではただの幼稚で凡庸な子供というべきで、むしろ実年齢よりも遙か幼い感じにしか見えません。

ピアノを弾いている姿も、終始背中を丸めて汗だくで遊びに熱中している小学生のようで、最後に弾いた自分の編曲によるJ.シュトラウスの『こうもり』の主題による変奏曲などは、まるでテレビゲームの難易度の高い技を競い合う子供が、嬉々として技のための技を繰り広げて悦に入っている痴呆的な姿のようにしか見えませんでした。

マロニエ君はファツィオリのF278とF308が比較して聴けるという理由とはいえ、たとえ一枚でもこの人のCDを購入して持っているということさえ恥ずかしくなりました。
こんな人がコンサートピアニストとしてやっていけるのだとすれば、今のピアニスト稼業は、ある一面においてはずいぶん甘いんだなぁと思います。

夜中にもかかわらず、口直しならぬ耳直しをしないではいられなくなり、自室に戻るや、とりあえず目についたものの中から関本昌平氏のショパンコンクールライブCDを流してみましたが、なんというまともで立派な演奏かと感銘を新たにしましたし、こういう演奏をする人もいることにとりあえず安堵しました。
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蛮行CM

北米在住の方がおもしろいCM映像を紹介してくださいました。
正確に云うと、おもしろいというよりもおぞましいと云うべきかもしれませんが、GMのキャデラックの開発にどういうわけか使用されたというグランドピアノの破壊シーンです。

いかにアメリカが物質社会・消費社会とは云っても、こういう文化意志の欠落したCMを作るという感性そのものが驚きですし、しかもそれがアメリカで最高の高級車であるキャデラックのCMというのですから、まったく開いた口がふさがりませんでした。
キャデラックのユーザーは、開発や宣伝ためにピアノを破壊しても何も感じない、傲慢な人種だと示しているようなものです。

https://www.youtube.com/watch?v=rwLMOB6s2ps&seo=goo_%7C_Cadillac-Awareness-YouTube_%7C_YT-LUX-ATS-PIANO-DUMMY-TVST_%7C_Dummy_%7C_

こんなものが一般消費者にとって何の役に立つのか、あるいはどういう意味があるのか、さっぱりわかりませんし、彼らは人々が愛でて大切にするものを敢えて踏みにじり破壊することに、一種の快楽と嘲笑的なよろこびをもっているようにさえ感じます。

以前、ふとした偶然からみつけたのですが、アメリカにはいろいろなジャンルの高級品を破壊しまくって楽しむという悪趣味極まりないクラブがあって、その中にはピアノも含まれており、なんとスタインウェイのグランドピアノを鉄の大きなハンマーを手にした数人の会員(?)によってめちゃくちゃに壊すというのがあってさすがに気分が悪くなりました。原型をとどめないまでに無惨に破壊されたピアノの残骸の前で、ヤッタゼ!といった様子で悦に入っている様子には、なんという悪趣味な思い上がった民族かと思いました。

イラク戦争の折にも、イラク人の捕虜に対して宗教上人前で肌をさらすことを戒める彼らを、敢えて全裸にし、まことに破廉恥な行為を集団で強要し、挙げ句に勝ち誇ったようにその前で写真まで撮っていたのは記憶に深く刻まれる出来事でした。

ほかにもピアノでは、Youtubeの投稿映像でアメリカの若者が、家から運び出したピアノをピックアップの荷台に乗せ、それに縄をかけ、ある程度の速度に達したところで一気にピアノを地面に落とし、ロープで引きずられながらピアノはまたたく間にバラバラに崩壊してしまいますが、その様子に若者達は熱狂的な雄叫びをあげ、爆笑を繰り返すというものでした。
まさに西部劇に見る悪党の残忍な仕業そのものです。

アメリカだけではなく、山下洋輔氏も若気の至りだったのかどうかは知りませんが、恥ずべき過去の行為があることはご存じの方も多いと思います。
海辺にグランドピアノを置き、それに灯油か石油かをぶちまけて火をかけて、燃えさかるグランドピアノを山下氏がガンガン弾きまくるという、音楽家として最低のパフォーマンスでした。

ネット動画で探せば、現在でも見ることは可能なはずです。
私はもともと彼のことはあまり興味もなく、好きでも嫌いでもありませんでしたが、それを見てからというもの、いまだにこの蛮行が頭に焼き付いていて彼のことは好きになれません。

マロニエ君は、なにも「ピアノ愛護団体」のようなことを言い立てるつもりは毛頭ありません。
ただ、実用品とは一線を画すべき楽器を粗末にし、ときに破壊さえするという行為は、個人的には食べ物を粗末にする以上にその人の人格や教養を疑われる恥ずかしい行為だと思いますし、理屈でなく体質的感覚的に不快感を覚えてしまいます。

とりわけミュージシャンと名の付く人がそれをするのは許しがたいものがあり、外国のロックグループにもステージ上のピアノに火をつけて、その炎の周りで狂人のように歌い踊るシーンを見た記憶がありますが、なにをどう説明されようともマロニエ君にはその手の行為は受け容れることはできません。

それをGM(ゼネラルモータース:アメリカ最大の自動車会社)がCMとして堂々と広告媒体に載せるのですから、宣伝のためならペットでも虐待するのかと思います。
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ネット通販のリスク

連休前のこと、仕事上での必要があり、木製のテーブルを購入しました。

限られた予算の中では、いくつか覗いた店舗にはこれといって該当するものがなく、ネットで探したところ、ちょうど良いものが見つかりました。同じ製品を数社の通販業者が取り扱っているようで、店によって価格も少しずつ異なり、送料を含めるとそれぞれかなり条件が異なります。

どうせ同じものを買うわけですから、数店を比較して、販売価格+送料の合計金額の安いところから購入することにして、パソコン画面から購入手続きをおこないました。

この店のホームページによれば、営業日のある時間までに注文確認が取れしだい「即日発送」と自慢げに謳われており、それを裏付けるように、店休日を色表示したカレンダーまで二ヶ月ぶんが表示されています。
さらには配達希望日を指定することもでき、その会社は中国地方の都市にあるので、経験上、福岡ならまず一日で届くのでじゅうぶん余裕を持って日にち指定をして注文を確定させました。

それから数日後、配達希望日当日となりましたが、一向に荷物が届く様子もなく、なんの音沙汰もないまま日が暮れて、翌日から長いゴールデンウイークに突入しました。
在庫の関係などで発送が遅れることはあるにしても、画面上では「在庫あり」となっていたし、それならそれでなんらかの連絡があってもよさそうなものだと、この時になって思いました。

そういえば、注文時に先方より自動的に送られてくるメール以外には、発送が遅れる、もしくは希望日の配達はできないなどの連絡は一切無いままで、なんだか不安がよぎり、つい安さを優先したことが失敗だったかと思いましたが、ともかく大型連休に入ったので、この間じたばたしても仕方がないと腹を括りました。

連休明けは、配達希望日から実に10日も経過していますが、その間もついに商品が届くことはなく、7日に電話をかけてみましたが、これがなかなか出ない。このころになると、かなり嫌な予感がしていて、時間を置いて何度もかけていると、午後の2時近くになってようやく女性が電話に出ました。
事情を話すと、とくに恐縮した様子もないまま淡々と「注文番号をお知らせください」といって、調べてメールで連絡するというので、ここでメールではなく電話連絡を強く希望。

すると一時間ほどして電話があり、「注文は間違いなく確認できましたので明日発送いたします」と平然と言うので、なにひとつ連絡もないままで、即日発送とは程遠いではないかという主旨のことを云いましたが、ただ機械的に「申し訳ございません!」と、ぜんぜん申し訳なく思っていない感じで云うだけです。

その2日後、ほとんど2週間遅れで商品が届きましたが、やれやれと思いながら開梱してみると、なんとテーブルの縁に大きなキズと、その衝撃に伴う凹みが二ヶ所もあって愕然!
すぐにまた電話したものの、また出ない。

今度はこちらも意地になってかけ続けると、やはり前回と同じような時間になってようやく同じ女性が電話をとりました。どうやらこの事務所にはこの女性ひとりしかいないようで、しかも午後にならないとやってこないようです。すぐに状況を伝えると、また前回と同じ調子で「申し訳ございません」といって、代わりを発送するのが最短で月曜になるといい、これは4日先の話で、とにかく即日発送どころではありません。

さらには、その女性、こうつけ加えてきました。
「その部分の写真を送っていただくことはできますか?」ときた。
はあ!?なんでこれほど不愉快な思いをさせられた上にそんな面倒臭いことまでしなくちゃいけないの?と思いその点を問い質しましたが「商品はお届けとの同時交換となり、こちらからはキズの確認ができませんので、写メールで結構ですから確認が必要になります」といって、暗に自分の指示に従わなければ交換品も送れませんよ脅されているニュアンスに聞こえました。

こういう一方的な理屈はまったく納得できませんが、もうこの頃になるとマロニエ君としては、相手のことをまったく信用しておらず、ろくでもない業者だと感じており、でもしかしカード決済はしているし、下手をすればそのまま放置されるという危険性も感じ、ともかくもちゃんとしたものを送らせるまではひたすら忍耐だという自分なりの計算が働きました。

そして、やっと届いたばかりのテーブルのキズを、甚だ不愉快な気分の中で撮影し、先方のアドレスを携帯で一文字ずつ入力して、コンニャロ!という感じに送信ボタンを押しました。
さて来週、無事に代替品が届くかどうかというところですが、やはりこういう目に遭うと、相手の見えないネット通販はリスクがあるという当たり前のことを身をもって感じた次第で、みなさんもじゅうぶんお気を付けくださいね。
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買い物カート

日常生活の中には、あらためて言葉にすれば大したこともなくても、どうしようもなく嫌なことというのがあるものです。

こういうものは日常茶飯で、しかもその数はひとつやふたつではありませんが、特段の重要事項でもないために、すぐに忘れてしまうのが特徴です。

たとえばマロニエ君がすぐ思い出すのは、スーパーなどにあるカートの不具合があります。日常的に繰り返される酷使のせいで、下部に取りつけられたゴムのキャスターにガタや不揃いが出て、動きに変なクセがついてしまい、ついには利用者の思い通りにはまったく動かなくなってしまっているのがありますが、あれがとても苦手です。

とくに真っ直ぐ進みたいときに、この手のカートがまるで自分の意志でもあるかのように左右いずれかへ猛烈にステアしようとして、利用者は思いがけないカートの反抗に遭い、買い物中は終始この身勝手な動きと格闘し続けなくてはなりません。
多くの人がそうだと思いますが、曲がることが苦手なことよりも、シンプルな直進が思い通りにならず勝手に左右に行こうとするのを絶えず修正しながら前進するというのは、神経を逆撫でされるようで、しだいに腹立たしくなってくるのです。

クルマでも曲がりのハンドリングが痛快なことは重要ですが、まずは安定した直進性が確保されていないことには、ほとんど意味を成しません。

このじゃじゃ馬のようなカートに当たったが最後、不愉快で慣れるということはなく、イライラは募り、少しでも早く買い物を済ませて店を出たくなるもので、勢い余計な買い物もしなくなります。
ごく稀に新しいカートに入れ換えられたり、あるいは一部追加されたりすることがありますが、やはり新しいものは心地よく、スムーズで難なく使用者の思い通りに動いてくれるので、お店の印象まで無意識のうちに変えてしまうようです。

かくてマロニエ君はカート選びはできるだけ慎重にするように心がけていて、2〜3m動かしてダメだと感じたら引き返して別のカートに交換ということもします。それでも、どれもこれもがなかなか思い通りにならない場合があり、どうしようもないときは、カートと格闘するのが嫌なので、最後は押すのではなく、引っぱるように使います。

人によってはいかにもくだらないことのように思われるかもしれませんが、こういうことは気になる人にとってはかなりのストレスになるので、マロニエ君は決して軽視しないようにしています。

それでも所詮はスーパーの買い物時間中ぐらいだから事は重要でないまま終わりますが、これがもし、毎日数時間使わなくてはいけない道具だとしたら、きっと多くの人の神経にはかなり深刻な悪影響があるに違いないと思います。

経費節減がなにより優先される折、なかなかこれが刷新されることはありませんが、できることなら定期的に入れ換えて欲しいものです。
たかがカート、されどカート、素直じゃなきゃいけません。
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上原彩子

今年の3月にサントリーホールで行われた上原彩子さんのピアノリサイタルから、ラフマニノフの前奏曲op.32とリラの花、クライスラー=ラフマニノフ編曲の愛の喜びがBSで放送されました。

このリサイタルは、オール・ラフマニノフという精力的な取り組みだったようです。

上原さんはチャイコフスキーコンクールに優勝したときから、さまざまな噂や憶測が飛び交い、日本人による同コンクールの優勝は史上初ではあったものの、世界的コンクールの優勝者の扱いはあまり受けられなかったような印象があります。そういう事は抜きにしても、マロニエ君はテレビなどで断片的に垣間見るこの人の演奏には、まったく興味が持てず、まさに関心の外といった存在でした。

最近で云うと、ヤマハホールのオープンに伴うコンサートでは、風水の金運ではないのでしょうが全身真っ黄色のドレスを纏い、真新しいホールで最新のCFXを弾いていましたが、そんなお祝いイベントとは思えないネチネチと愚痴るばかりのようなショパンで、ちょっといただけない感じを受け、このときもまともに最後まで聴くには至りませんでした。

ところが、今回のサントリーではプログラムのせいかどうかは自分でもわかりませんが、なぜかちょっと聴いてみる気になったのです。結果から云うと、マロニエ君の好みの演奏ではないにしても、この人なりの良さや持ち味のようなものが少しわかった気がして、そのぶん見直してしまいました。

ラフマニノフが上原さんに合っていたのかもしれませんが、まず今どきの演奏にありがちな薄っぺらい表面的な感じがなく、よほど丹念に準備をされたのか、そこには深いところから滲み出るものがあり、これはこれで説得力のある収まりのついた演奏だと思いました。
見るところ、椅子はかなり高めで、ピアニストとしては小柄な方のようですが、それに反して出てくる音はなかなか堂に入ったもので、最近では珍しいぐらいピアノをよく鳴らし、プロの音色が聴かれたのはまずそれだけでも評価に値するものでした。

上原さん固有の特色としては、音楽に対するスタンスに一種独特な暗さと厳しさが支配しているように思います。今どきのピアニストには珍しい、滾々と湧き出るような深い悲しみと孤独感が立ちこめて、それが少なくともラフマニノフでは、この亡命作曲家の深い哀愁にも重なり、独特な効果となっていたように感じました。
クライスラー原曲の『愛の喜び』でさえ、ほとんど悲しみの音楽のようでした。

音楽に限らず、よろず芸術に携わる者は、自分が幸せいっぱいでは人間的真実の本物の表現者とはなり得ない場合が多いのは紛れもない事実で、あくまでマロニエ君が感じたことですが、この人の心には何かがわだかまっていて、それが演奏上のプラスにもマイナスにもなっているように思いました。

音色の面で感心したのは、音が繊細かつ大胆で潤いがあり、フォルテでも決して音ががさつにならず、常に安定した輝きと重みをもっていることや、各声部の音の強弱のバランス感覚は非常に優れたものがあると思いました。少なくともあの小柄な体つきからは想像も出来ない充実した厚みのあるサウンドが、きっちりコントロールされながら広がり出るのは立派です。

アーティキュレーションも細緻で、東洋人特有の非常に行き届いた配慮のある点はこの人の美点だと思いますが、惜しむらく弾むような色合いやスピード感という点ではあまり期待ができないようで、言い換えるなら作品の喜怒哀楽すべてを自在に表現できるプレーヤーではないように思いました。
したがって自分に合った作品を選ぶことは、上原さんにとっては非常に重要なファクターだと思います。

この日のピアノはまったく素晴らしい朗々と鳴るスタインウェイで、とりあえず文句なしという感じでした。聴くところによると上原さんのご主人は松尾楽器のピアノテクニシャンなのだそうで、もしかしたら、その方の手になる渾身の調整だったのかもしれませんが、これはあくまでマロニエ君の想像であって事実確認はできていません。
いずれにしろ、美しい響きのピアノでした。
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DVDプレーヤー

久々にオーディオの話になりますが、手作りスピーカーは、音のチューニングをやっているとキリがないということがわかり、同時に自分の経験や知識にも限界を感じて一応の区切りをつけています。

ところで、CDプレーヤーについてですが、最近はめっきりその数が少なくなり、一部のメーカーを除くと、昔のように適当な値段でこれを買うことが難しくなっているようです。
僅かに残っているのは、オーディオマニア向けの高級機などで、それは金額的にもケタが違います。

そんなときに思いついたのが、タイムドメインのYoshii9にまつわる話として聞いたもので、中途半端なCDプレーヤーなどは無意味ということで、この会社が推奨しているのが品質の良いポータブルのCDプレーヤーですが、それも最近は絶滅寸前で、電気店などをくまなく見てまわっても大半が名もなき中国製などしかありません。

そんな傍らで、一定の売り場面積を占めているのがいわゆるDVDプレーヤーで、いまやブルーレイレコーダーでもかなり安くなっている中で、再生だけを目的とするDVDプレーヤーなどは数千円のレベルでごろごろしています。

ここも中国ブランドらしきものが少なくはないのですが、日本のメーカーの製品も一応あることはあって、生産国は中国かもしれませんが、一定の品質管理はされていそうで、辛うじて一応の信頼性はある気がします。
そんなDVDプレーヤーを見ていると、なんと普通のCD-Rなども音声再生可能とあり、店員さんに聞いてみると、普通の音楽CDでも使えるということがわかりました。

なんとなくひらめくものがあり、値段もポータブルCDプレーヤーとそう大差ない金額なので、これを買ってみました。

もはや我が家では常用するに至っている中国製デジタルアンプに繋いで音を出してみたところ、果たしてこれが望外のクリアな音であることにびっくりさせられました。本格的なオーディオ装置を広い部屋で鳴らすときはわかりませんが、私室で適当な音量で聴くぶんには、少なくともマロニエ君の耳にはなんの不満もない美しい音が溢れ出して、非常に満足しています。

同時に、高級機以外のCDプレーヤーなどが姿を消してしまう背景が一気に理解できるようでした。これだけの音声の性能が、安いDVDプレーヤーのオマケ程度についているのですから、なにも図体の大きい単一機能のCDプレーヤーなどを買う必要もないし、だから売れない作らないという構図になることを悟りました。

現代人はiPodなどを常用し、家でもパソコンに繋いだ小型スピーカーなどで、音楽だけに留まらない、いろいろな音声を聞いて楽しみ、もはや音楽ひとつに熱中するということもないのでしょう。

ともかく、安いDVDプレーヤーからこれだけの高いクオリティの音があっけなく出るというのは嬉しいことのようでもありますが、どこかわりきれない、腑に落ちないものも感じてしまいます。それでも毎日使っているのですから、人間は勝手なものです。

ちなみにマロニエ君が買ったのはパイオニアのDVDプレーヤーで、価格はわずか4000円ほどのものでしたから、作り自体はちゃちですが、おそらく昔なら何万もするような性能に違いありません。
ネットなどの評価を見ると、この手のDVDプレーヤーの音質に関しては見下したようなコメントをしている人もいなくはないものの、それはよほどのオーディオ通か専門的な厳しい耳を持った一握りの人で、大半の人は大満足する筈だと思います。
少なくとも価格を分母にして判断すれば、これで文句を言ったら罰が当たるような素晴らしい音です。
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