何かが欠落

この頃の若い人の運転ときたら、本当にまずいんじゃないかと思います。
とくに甚だしいほうの大半は男子。

過去にも書いたことがあるので、ああまたか!と思われそうですが、昨日も心底呆れるような車に立て続けに2台も遭遇し、お陰でこっちがいわれなきストレスをかかえるハメになりました。

そのひとつ。
夜、たまたま人を迎えに行くことになり、すでに相手には「これから行く」という連絡をしていたのですが、家を出てほどなくしてやや大きな通りに出ると、運悪く、あきらかに動きのおかしい車がノロノロ前を走っていました。

夜でもあり、昼間以上に安全運転が求められるのは当然ですが、そういう範囲のものではなく、この手の車は見るからに周囲から浮いており、いくら速度が遅くても、独特の危険なオーラがあふれています。
スピードのみならず、ひとつひとつの反応が異様に鈍く、車線をキチンとキープして走ることさえおぼつかない様子。

その証拠に、ふつう信号のない交差点などは少し減速して注意しながら通過するはずですが、そういう気配もなく平然と同じ速度で突っ切って行くし、そうかと思うと、たまたま自転車などが左脇を走っていると、たちまち自転車と同じ速度になり、右側は対向車もまばらで充分かわしていけるのに、まったくそういう意志がないようでトロトロと自転車の斜め後ろを走り続けるのですから、後続車はたまったものではありません。

そのうち自転車が左折しましたが、今度は元の速度(大した速度じゃないですが)に復帰するのもなかなかできずに、しばらくは超低速で平然と走ったりする有り様です。
本当なら一気に抜き去ってやりたいところですが、片側一車線の道路なので、やはりそこまでするわけにもいかず、とにかくイライラしながらこの車の後ろを追尾するしかありません。

そのうち前方の交差点が赤信号となり、ただ単に停車中の車の後ろについて止まるにも、考えられないほど手前から異様に減速し、しかも前車とは理解できないほど間隔を置いて止まってしまいます。
しかし、交差点内には右折車線があって、マロニエ君はここを右折するので、いよいよこの車ともおさらばのチャンスと思っていると、信号が青になり先頭から数台の車が動き出すと、なんと、その車も「いまごろ!」というタイミングで右にウインカーを出して年寄りのような足取りで右に寄り、あくまでもマロニエ君の前方を塞いでくるのですから、もうこの頃にはいいかげん血圧が上がっていたかもしれません。

こんな動きの車ですから、当然というのも妙ですが、右折ひとつするにも相当の時間がかかります。直進してくる対向車線も夜なのでそう多くはなく、じゅうぶん曲がれるタイミングは何度もありましたが、もちろんこいつはそんな気の利いた曲がり方はできるはずもなく、信号が再び赤になり、右折用の青信号が出るまで微動だにしませんでした。

ついに右折用→の信号が青になりましたが、思った通り、それから車が動き出すまでにも、一呼吸も二呼吸もおいてから、ようやくじんわりと車が右に曲がりはじめます。
右折した後の道は片側2車線なので、こちらは左車線に入って一気に抜き去ってやろうと思いますが、その前にどんな奴が運転しているのか、ついつい顔を見たくなるものです。

追い抜きざまに、ちょっと併走して右を見ると、髪の毛はピンピン立てたようなかなり若い男性がひとり、携帯をいじるでもなく前を真剣に見て運転しています。昔はこういう状況にひどく驚きもしましたが、最近は「ああ、やっぱり」という感じしかなくなりました。ですが、こういう車にしばしば遭遇すること自体、非常に憂慮すべきことのように思います。

事は単に運転がめちゃめちゃ下手だということに留まらず、もっと根本的で深刻な問題のような気がします。物事に対する基礎力や感性・感情の低下というか、運転という流動性の高い行為にあっても、まわりの状況を逐一察知して反応することが出来ない、いうなれば、これまで普通だった適応力とか反射神経みたいなものが恐ろしいまでに退化しているとしか思えません。

運転も本当の安全運転なら結構なことですが、マロニエ君の観るところ、ただ交通状況や周囲の流れなどを読んで協調する能力が欠落しているようにしか見えません。スピードを出すことは、良い悪いの問題以前として、たぶん技術的にできないのだと思います。
これが運転だけのことで、車から降りればメリハリのある聡明な人かもなんてとても考えられません。あの調子では、きっと充実した仕事も恋愛も出来ないだろうし、テンポのいい会話や相手に対する気配りなどもできるわけがないと思います。
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超お買い得

マロニエ君がフランスの管弦楽曲を聴く際に以前から好んでいる指揮者&オーケストラのひとつは、ミシェル・プラッソン指揮のトゥールーズ・キャピトール国立管弦楽団です。

プラッソンの指揮は流麗で愉悦感に満ち、どんな作品を振らせても明瞭で生命感にあふれているのが特徴でしょうか。フランス的な小味さとメリハリのある表現が心地よく、フランスものにはこれが一番という印象を持っています。

プラッソンの音楽的な資質もさることながら、手兵のトゥールーズ・キャピトール国立管弦楽団とはよほど相性がいいのか、その抜群の息の合い方は特筆に値するもので、まるで少人数で演奏しているような軽快感があり、オーケストラ特有のもってまわったような鈍重さがないのが特徴でしょう。
また、そうでなくてはフランス音楽をそれらしく鳴り響かせることはできないのかもしれません。

作品と演奏の相乗作用で、プラッソンの鳴らす音楽はどの断片を切り取ってもフランスならではの軽やかさと優美に満ちていて、ドイツものやロシア音楽ばかりが続いて、たまに口直しをしたくなったときなどに、プラッソンの指揮するフランスものはもってこいのような気がします。

そんなミシェル・プラッソンですが、EMIには多くの録音があるようで、手許にはその一部しか持っていないために、ある程度を買い揃えたいという思いがあったのですが、この人は重く注目されるタイプの巨匠でもなければ、ベートーヴェンやマーラーやブルックナーを主たるレパートリーとしているわけでもないので、まあ全集が出ることもないだろうと思っていました。

ところが、なんとEMIから、完璧な全集でこそないものの、実に37枚に及ぶBOXセットが発売されて、しかもその内容はベルリオーズ以降のフランスの主要な管弦楽曲をおおかた網羅した内容であるのにびっくりでした。
これはぜひそのうち購入しなければと思い続けていたのですが、マロニエ君には優先的に購入したいCDが常に立て込んでおり、このBOXのことも頭の片隅にはありながら、まだ購入には至っていませんでした。
しかし廉価なBOXセットは、一定の期間内に買っておかないと、なくなればいつまた入手できるかどうかの保証はありません。そうそう猶予はないというわけで、近い将来にはネットから購入ボタンを押すつもりでした。

ところが思いがけないことに、天神のタワレコにいつものごとく立ち寄った際にセール品のワゴンを覗いていると、な、なんと、このプラッソンのBOXがそこにひょいと投下されているではありませんか!
しかも価格は通常の約9500円から、なんと約4300円弱という半額以下のプライスがついています。もともと9500円でも1枚あたり260円弱という、単品で売られていたときの価格に比べたら10分の1ほどですから、それだけでもかなり強烈なバーゲンプライスであるし、さらにはネット購入なら割引条件を満たせば3割ほどは安く買えるのですが、この投げ売りには恐れ入りました。

それを発見したときは思わず声が出そうになりました。
我が目を疑うとはこのことで、一も二もなく、勇み立って購入したのはいうまでもありません。
1枚あたりわずか115円という、ほとんど100円ショップ並のお値段で、これだけの輝くような名演の数々が聴けるのですから、なんたる幸せか!と思うばかりです。

CDはベルリオーズの幻想ではじまりますが、当然これまでに聴いたことのないような作品が随所に溢れかえっており、はやくも5枚目にしてグノーの交響曲という、マロニエ君にとってまったく未知の作品にも接することができました。そのなんともフランス的な柔らかで享楽的な音楽を楽しむにつけ、この先もどんなものが出て来るやら楽しみが増えました。

実は、タワレコのワゴンには、このプラッソンのBOXは2つあったので、残る1セットはたぶんまだあるかもしれません。ご興味のある方はこれほどのお買い物はなかなかないと思います。
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ラルス・フォークト

リッカルド・シャイー指揮のライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の今年2月の演奏会が放送され、曲目はグリーグのピアノ協奏曲(ピアノはラルス・フォークト)とマーラーの交響曲第5番。

会場も、その名の示す通りこのオーケストラのホームグラウンドであるライプチヒ・ゲヴァントハウスですから、通常の定期公演のようなものだろうかとも思いますが、そのあたりの詳細はよくわかりません。

実を云うとマロニエ君がラルス・フォークトの演奏を聞くのは、映像としても音としても初めてだったので、そういう点でも興味津々ではありました。
というのも、このピアニストの存在はずいぶん前から知ってはいましたが、CDのジャケットなどに見る表情があまり恐くて気分が萎えてしまい、それなりの人かもしれないとは思いつつも、つい躊躇してしまっていたので、今回ついにその演奏に触れることが出来たというわけです。

この超有名曲は、湧き上がるティンパニの連打の頂点に、独奏ピアノのイ短調の鮮烈な和音が閃光のごとく現れて降りてくることで幕を開けるのが一般的ですが、その一連の和音のありかたが一般的なものとはやや異なり、妙に抑えたような、ちょっと違った意味を持たせたようなものであったことに、冒頭小さな違和感を覚えました。

しかし、聴き進むにつれてこの人なりのスタイルと表現の意志力がはっきりしていることがわかり、次第にその音楽に馴染むことができました。ひとことで云うなら柔と剛が適切に使い分けられながら迷いなく前進し、演奏を通じての自己表出より、専ら音楽に奉仕するタイプの演奏であると思いました。
様々なかたちはあっても、結局は自分自分というタイプの演奏家が多い中で、フォークトはまず音楽を第一に置き、作品をよく咀嚼し、慎重さをもって演奏に望んでいるようでした。根底には音楽に対する情熱があるものの、それを恣意的な方法であらわすことはせず、あくまでも抑制が効き、作品に対する畏敬の念が感じられました。

印象的だったのはピアノが表面に出るべきところと、そうではないところをきっちりと区別し、必要時には潔くオーケストラの裏にまわることで、常に作品のバランスを優先させようと努めているのは好感が持てました。
いわゆる英雄タイプの華々しい演奏でアピールするのではなく、協奏曲の中にあっても内的で繊細な表現が随所に見受けられ、聴く者は集中してそれらに耳を澄ませることを要求するタイプの演奏家であったと思います。

それでいて強さや激しさが必要なところでは作品が要求するだけのことが充分できる器があり、まさにテクニックを音楽表現の手段として適材適所に使っているという点は立派です。だからといって個人的には双手をあげて自分の好みというわけでもないのですが、今後は曲目によってはフォークトのCDなども買ってみるかもしれません。

それにしても、なんとなく感じたのは、ドイツの聴衆というのは一種独特なものがあります。
客席にはほとんど空席もなく、座席は整然とむらなく埋まっていて、しかもほとんどがある一定の年齢の大人ばかり。さらには体のサイズまで揃えたような立派な体格の男女が、きちんとした服装で整然とシートに着席しており、それがいつ見ても微動だにしません。笑顔も私語もなく、一同がカッとステージの方を見守っており、肘掛けも使っていないような姿勢の良さはほとんど軍隊のようで不気味でした。

要は音楽に集中しているという事なのかもしれませんが、東洋の島国の甘ちゃんの目には、このえもいわれぬ雰囲気はどうしようもなく恐いような気がします。
要するにドイツ人というのはそういう民族なのかもしれません。

むかし親しいフランス人が言っていましたが、フランス人とドイツ人は基本的歴史的に仲良しではないのだそうで、明確にドイツ人は嫌いだと言っていました。とくに彼らがビールなどを飲んで騒ぐときや外国に出たときのハメの外し方といったら、それはもう限度がないのだそうで、あの聴衆の姿を見ていると、確かにそういう両極両面が背中合わせになっているのかもしれないと思いました。

ヨーロッパでもとりわけ西側のラテン系の人達とはそりが合わないようでしたが、まあそれも理解できる気がします。しかし、彼らが作り出すもの、わけても音楽や機械や医学などあらゆる分野の優れたものは、この先もずっと世界の尊敬を集めることだろうと思います。

そんな中で見ていると、明るくせっせと指揮をするシャイー(イタリア人)は、ひとりだけヘラヘラしたオッサンのように見えてしまいますから、お国柄というのはまったくおもしろいものだと思います。
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『純と愛』

もう時効だろう…というわけでもないのですが、NHK朝の連続テレビ小説の中でも、3月末で終了した『純と愛』ほどおもしろくないものは過去に無かったように思います。

そもそもこの連続テレビ小説は、昔から話の内容などは説得力のないものばかりで、その点では慣れっこですから、少々のことではこんな風には思いません。

番組作りとしても、半年間、日曜を除く毎日を15分ずつに区切って、一定して視聴者に見せるためには、そう大きな波や偏りがあってはならないでしょうし、できるだけ平坦に、しかも毎回をそれなりにおもしろくすることで「毎日継続して観てもらう」ということが求められるのだと思います。

早い話がテレビ版紙芝居みたいなもので、その内容がどれほど奇想天外で、現実離れしていようとも、あくまでそこはドラマの世界なので、見る側もそれは承知であるし、要は見てそこそこ楽しければそれでじゅうぶんこのシリーズの価値はある筈です。

制作にあたっては、半年間で一作というわけで年間二作、東京と大阪それぞれのNHKによる制作だそうですが、これまでの傾向としては概ね大阪制作のほうが味があっておもしろく、東京のほうがよりNHK的と云うか保守的で、娯楽の要素ではいつも負けているという印象でした。
それもある意味当然で、なんといっても大阪はボケとツッコミを身上とするお笑いの土壌ですから、そりゃあ大阪のほうがおもしろいものを作ることにかけては一枚も二枚も上を行くのは当然だろうと思っていました。

ところが『純と愛』は、その大阪の制作だったのですからちょっと信じられませんでしたし、東京制作にしてはそこそこの出来だった『梅ちゃん先生』からの落差は甚だしいものでした。
まず主人公の純と、その夫である愛(いとし)のいずれも、(マロニエ君には)人物像としてまったく好感の持てない、図太くて押し付けがましい、自己中人間にしか見えず、これが終始番組の中核になっていたのが決定的だったように思います。

連続テレビ小説のヒロインが、何事にもめげない頑張り屋の明るい女の子というだけなら、毎度のお約束のようなものですが、この純は、がさつな熱血女子で、デリカシーがなく、遠慮というものを心得ない人物でした。それに対して愛は、病的で、辛気くさく、むら気で、「一生純さんを支え続けます」などと大言を吐きながら、ちょっとした事ですぐにつむじを曲げ、容赦なく不機嫌になっては相手を苦しめたりの連続でした。

さらにはこの二人に共通していたのは、何かというとお説教の連射で、何度この二人が画面の前で滔々と白けるような人生訓みたいなものを垂れるのを聞かされたかわかりません。しかも、その内容というのが、いまどきのキレイゴトの空疎な言葉のアリアのようで、聞いているほうが恥ずかしくなるようで、耐えられずに何度早送りしたかわかりません。
とくに見ていておぞましいのは、年端もいかない若い二人が、いい歳の大人や他人を相手に、この手のお説教をするという僭越行為であるにもかかわらず、それがさも人の心を動かす尊いことのように取り扱われている点で、聞かされた相手は、ドラマとはいえ、最終的に必ず改心したり生まれ変わったり感動したりというような反応を見せるのですからたまりません。

ほんらい連続テレビ小説は、ごく短時間、ちょっとした楽しみのために見る軽いスナック菓子のようなドラマであるはずなのに、家族を不幸に陥れて最後は溺死する父親、若いのにアルツハイマーになる母親、生活無能力者のような兄と弟、さらには脳腫瘍で倒れ、手術後も最後回まで意識回復できない愛(夫)等々、あまりにも暗い要素ばかりが折り重なって、非常に後味の悪い、暗いドラマだったという印象です。

続いて始まった東京制作の『あまちゃん』は東北の漁業の街が舞台ですが、これは開始早々笑える明るいドラマで、いっぺんに空がパァッと明るく晴れたようです。
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さすがエマール

少し前にクラシック倶楽部で放送され、聴くのが遅れていたピエール・ロラン・エマールの昨年の日本公演から、ドビュッシーの前奏曲集第2巻をようやく観ました。

まず最初に、エマールのような世界の最高ランクであろうピアニストがトッパンホールのようなサイズ(400席強)のホールでコンサートをすることに驚きました。
どうやらこれはホール主催の公演だったようですから、それならまあ納得というところでもありますが、本来ならこのクラスのアーティストともなると、東京ならサントリーホールぐらいのキャパシティ、すなわち二千席規模の会場でコンサートをやるのが普通だろうと思いますし、最低限でも紀尾井ホール(800席)あたりでないと、この現役の最高のピアニストのひとりであるエマールのチケットを買えない人があふれるのは、いかにももったいないという気がしました。

しかし世の中には皮肉というべきか、逆さまなことがいろいろあって、実力も伴わずして分不相応な会場でコンサートをしたがる勘違い派が後を絶たないかと思うと、意外な大物が、意外なところでささやかなコンサートをやったりするのは、なんとも不思議な気がします。

まあ、大物ほど自信があり、余裕があるから、気の向くままどんなことでも平然とやってしまうのでしょうし、その逆は、やたら背伸びをして格式ある会場とか有名共演者と組むことで、我が身に箔を付けるべく躍起になっているということかもしれません。

さて、エマールの演奏は予想通りの見事なもので、堂に入った一流演奏家のそれだけが持つ深い安心感と底光りのするような力があり、確かな演奏に身を委ねていざなわれ、そこに広がり出る美の世界に包まれ満足することができました。
基本的には昨年発売された前奏曲集のCDで馴染んだ演奏であり、エマールらしい知的で抑制の利いた表現ですが、音楽に対する貪欲さと拘りが全体を支えており、久々に「本物」の演奏を聴いた気がしました。
しかもそこにはピリピリと張りつめた過剰な緊張とか、知性が鼻につくということがなく、あくまで音楽を自然な息づかいの中へと巧みに流し込んでくるので、聴く者を疲れさせないのもエマールの見事さだと思います。

さらにいうなら、演奏家も一流になればなるだけ、その人がどういう演奏をしたいのか、どういう風に作品を受け止め、伝えようとしているかということが聴く側に明確かつなめらかに伝わって来て、芸術が表現行為である以上、このメッセージ性はいかなるジャンルであっても最も大切なことであろうと思います。しかし、現実にはそれの出来ていない、名ばかりのニセモノのなんと多いことか!

ピアノはおそらくトッパンホールのスタインウェイだと思いますが、なにしろ調律が見事で、やはり楽器にもうるさいエマールが納得するまで慎重に調整されたピアノだったのだろうと思いました。
基本的に全音域が開放感に満ち、立体感の中に透明な輝きが交錯するようでありながら、音そのものは決してブリリアントな方向を狙ったものではない、いわば非常にまともで品位のあるところが感銘を受けました。低音は太く、ボディがわななくようなたくましさをもった音造りで、マロニエ君の好みの調律でした。

つい先日、グリモーのブラームスを聴いたばかりでしたが、同じフランス人ピアニストでも格が違うとはこのことで、まさに真打ち登場! ゆるぎないテクニックに支えられた他者を寄せ付けない孤高の芸術を、聴く者に提供してくれるのはなんともありがたい気分でした。

ピアニストがピアニストで終わるのではだめで、やはり真の芸術の域に到達しているものでなくてはつまらないとあらためて思いました。
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知りたがり

知人がふと口にしたことですが、曰く「苦手な人のタイプは、やたらと他人のことをあれこれ質問してくる人」なんだそうで、その嫌悪感が高じて人嫌いになった面があるという話を聞きました。
ここでいう質問とは、つまり「知りたがり」であり「詮索好き」という意味です。

マロニエ君は、さすがにそれで人嫌いになることこそなかったものの、いわゆる知りたがり屋というのは理屈抜きに嫌なものというのは、まったく同感です。

他人のことをなにやかやと知りたがる人というのは巷に少なくありません。
もちろんマロニエ君もターゲットになった経験は何度もあり、雑談に事よせてこちらのことを根ほり葉ほり聞いて来る人というのは、ひとつ答えるとまた次の質問になり、非礼の意識がないぶん歯止めが効きません。

そんなにいろいろと立ち入ったことを聞いてどうするのかと思いますが、おそらくはそれによって人を分類・整理していると思われ、それがいつしか欲求となり体質化してしまっているようです。だから人を見ればあれこれ聞かないことには安心できないのでしょうし、気持の上でも納まらないのだろうと思われます。

むかしの携帯電話のない時代は、電話をすると、その家のお母さんなどが出られる場合が多かったように思いますが、そんな中にもこの手合いがいて、不愉快になることがときどきあったのを思い出します。
こちらがきちんと自分の名を名乗っているにもかかわらず、友人なり知人に取り次いでもらうよう願い出ると、「どちらの○○さんでしょう?」とか「どういうご関係の方ですか?」などと、まことに失礼なことをズケズケ聞いてくる人がいて、思わずムッとしたことは一度や二度ではありません。

さすがに時代が変わって、そういうシチュエーションこそなくなりましたが、本質的に知りたがりという種族はまったく後を絶たないようです。

例えば、なにかというと他人およびその係累の職業などを聞きたがるのは、のぞき趣味丸出しというべきで、最終的に恥をかくのは自分であるのに、当人に自覚がない為に打つ手がありません。それを面と向かって指摘する人もまずいませんから、よほど身内から厳重注意でもされない限り、永久にその癖は直らないわけです。

マロニエ君は一線を越えると物を申す主義なので、あまりに礼を失した質問攻勢などに遭遇すると、「まるで身上調査をされているみたいですね!」というような皮肉を言ってストップを掛けることもありますが、それでも自省するどころか、今度は「あの人は秘密主義」というようなレッテルを貼ったりするなど、ただただ呆れる他はありません。

あらためて言うまでもまりませんが、よほど必要がある場合を除いて、不用意に他人の職業や家族の内情などプライバシーに触れることは慎むのが本来常識で、それはお付き合いの中からあくまで自然にわかってくる範囲に留めるべき事柄です。
なぜなら、世の中のすべての人が自分が満足する職業でいるわけではなく、むしろ数から言えば不本意な現実に甘んじている人のほうが多いかもしれず、そういう事を言いたくない聞かれたくない人も大勢いるわけで、それは学歴や住んでいる場所なども同様、実に多岐にわたり、今風に云うなら個人情報です。

極論すれば「人に職業を聞くというのは、おおよその収入を知りたがっているのと同じことだ」と言う人もあり、これは云われてみるとまったくなるほど!と思わず膝を打ちました。

ひどいのになると、住まいは一戸建てかマンションか、賃貸なのか、自己所有なのか、土地は何坪なのかなど信じられないようなことまで、とにかく自分の興味の赴くままに、どこまでも追い回して聞きたいわけで人迷惑も甚だしいことです。

一般に辛うじて常識となっているものでは「女性に歳を聞くのは失礼」などですが、それに匹敵するものは実は他にもたくさんあるのに、あまりにも無知で無法状態というのが実情です。

普通の人なら、十中八九そういう質問をされることに不快感を抱くはずですが、それでもなんとかその場はポーカーフェースで我慢するだけで、質問者のほうはまさかそんな悪印象を持たれているなんて夢にも思っていないのだろうと思うと、その意識のズレはやりきれません。
因みにマロニエ君は、自分の職業その他がとくに恥ずべきものとも誇れるものとも両方思っていませんが、しかし興味本位でそういうことをつつかれるのは、その底意や気配を感じるので愉快ではありません。

これは自分のことを知られたくないというよりは、無礼に対する単純な不快感と、のぞき趣味の人間の低級な興味に、むざむざ答えを与えてやって満足させるのが嫌なのです。
それにしても…なんでそんなにも人のことが気になるんでしょうねぇ。
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グリモーのブラームス

毎週、日曜朝にNHKのBSで放送されていた『オーケストラ・ライブ』が4月からの番組編成でなくなり、事実上その代わりとも云うべき番組が、ずいぶん出世して、日曜夜の9時からEテレで2時間、『クラシック音楽館』として始まりました。

マロニエ君はいつも録画を夜中にしか見ませんから、個人的には朝でも夜でも構わないのですが、世界的なクラシック離れの流れの中にあって、これまで早朝にほとんどお義理のように放送されていたクラシックの番組が、日曜夜9〜11時という、このジャンルではまさにゴールデンタイムに復活してきたことは嬉しいことです。

その第一回放送は、デーヴィッド・ジンマン指揮によるN響定期公演で、ブゾーニ:悲しき子守歌やシェーンベルクの浄夜のほか、メインとしてブラームス:ピアノ協奏曲第2番というものでした。
ピアノはエレーヌ・グリモー。

グリモーは20代の後半にブラームスの第1番の協奏曲をCDで出していますが(共演はザンデルリンク指揮ベルリンシュターツカペレ)、それはいかにも曲に呑まれた、このピアニストの器の足りなさと、さらには若さから来る未熟さみたいなものが全面に出てしまうもので、ちょっと成功とは言い難い演奏でした。
それもやむを得ないというべきか、ブラームスのピアノ協奏曲は両曲とも50分前後を要する大曲で、まともに弾き通すだけでも大変です。ましてやそれを説得力のある演奏として、作品の意味や真価を伝え、さらには音楽としての張りを失わずに、聴く者を満足させることは並大抵のことではないので、そもそもピアニストはブラームスのコンチェルトはあまり弾きたがりません。

一説には、コンクールでもブラームスのコンチェルトを弾くとまず優勝は出来ないというジンクスがあるようです。それは音楽的にも技巧的も難しいばかりでなく、その長大さから審査員の心証もよくないし聴衆も疲れて人気が得られないからだそうです。

しかしマロニエ君は、ブラームスのコンチェルトは楽曲として最も好きなランクのピアノ協奏曲に位置するもので、もし自分がコンサートで活躍するような大ピアニストだったなら、主催者の反対を押し切ってでも弾いてみたい曲だと思います。ヴァイオリン協奏曲も同様。

冒頭のインタビューで、グリモーはブラームスの協奏曲は第1番が書かれた25年後に第2番が書かれており、それは偶然自分でも、若い頃にアラウの演奏で第1番に接しその虜になったものの、第2番はもうひとつ掴めず、これが自分にとってなくてはならないものになるにはちょうど25年を要したなどと、なんとも出来過ぎのようなことを喋っていましたが、そこには今の自分がピアニストとして成熟したからこそこの曲を弾く時が来たというニュアンスを言外に(しかも自信たっぷりに)含ませているような印象を持ちました。

「それでは聴かせていただきましょう!」というわけで、じっくり聴いてみました。
開始後しばらくは、それなりに良い演奏だと思いましたが、次第に疲れが見えてくることと、やはりこの人には曲が巨大すぎるというのが偽らざる印象で、とくに後半では、大きなミスをしたというわけではないけれども、かなり無理をしている様子が濃厚になり、演奏としても破綻寸前みたいなところが随所にありました。

もともとグリモーは、フランスのピアニストであるにもかかわらず伝統的なショパンやドビュッシーのような系統の音楽を弾くことに反発し、10代のころからロシア文学に親しみ、音楽もロシア/ドイツ物などを多く取り上げてきたという、いわば重量級作品フェチ少女みたいなところがありました。

まるで、子犬がいつも大型犬に臆せずケンカを挑んでいるようで、それが見ようによってはほほえましくもあるのですが、やはり器というものは如何ともしがたいものがあるようです。
第一、弾いている手つきがどうしようもなく幼児的で、とても世界で活躍するピアニストのそれとは思えないものがあり、とにかくよくここまできたなあ…というのが正直なところですが、それだけ彼女には光るものがあって、あまたいる腕達者に引けを取らないポジションを獲得しているのだと思います。

ブラームスで云うと、グリモーはソナタでも曲が勝ちすぎますが、この作曲家には極めて高い芸術性にあふれた多くの小品集・間奏曲集等があるので、そのあたりでは彼女の本領が発揮されると思います。
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店内自衛隊

おもしろい話を聞きました。

その人は土曜の夕刻、天神で化粧品などを買うため、ある有名な薬局兼化粧品店に入ったそうです。
ここは天神の中でも最も人通りの多いエリアで、土曜ともなると大変な人出で賑わっていたようですが、その人が店に入る直前、表通りに外国語(アジアの大国)をさかんに喋る一団があって、雑踏の中でもどことなく目立っていたといいます。

この国の人達は、おとなしい日本人とは違い、どこでも構わず独特の調子でワアワアしゃべりまくるので日本人でないことはすぐにわかるそうで、それはマロニエ君も何度か経験しています。こちらに居住している留学生などはまだそれほど強烈ではないのですが、観光客は旅行中ということもあるのか、その声のボリュームとテンションは傍目にもかなりのものです。

さて、薬局兼化粧品店の店内もかなりの混雑ぶりだそうで、3つあるレジはフル回転状態だったとか。
すると、さっき外で見かけたその外国人旅行者の一団(7〜8人と旗を持つ添乗員がひとり)がどやどやと入ってきて、たちまち各自あれこれ商品を手にとって品定めが始まったそうですが、同時に店員の表情が傍目にもわかるほどあからさまに変化した(こわばった)そうです。

すると、ある奇妙な動きが起きたというのです。

そんな繁忙時間にもかかわらず、5〜6人の店員が各々の忙しい仕事を中断してサッと動き出し、その旅行者達のまわりをさりげなく取り囲むような陣形を布いたそうです。
お客さんに商品説明をしていた人も、すぐにそれをうっちゃってこの態勢をとるし、3つのレジもひとつがすぐに閉鎖され、すかさず監視要員に早変わりしたというのですから驚きです。

こうも息を合わせたように、すみやかな動きが取れるようになる陰には、よほど日頃の丹念な打ち合わせが整っていたに違いないというわけです。
それにしても、日本でこれほどお店の店員が迅速かつ警戒的な動きをするというのは、マロニエ君もほとんど覚えがなく、よくよくの事だろうと思われます。おそらく、その必要を強く認識させるだけの被害がこれまでにも度々発生し、ついにはその自衛策が講じられたのでしょう。

この国の人達は、なんでも勝手に持ち帰るのがお得意らしく、いまや彼らの行く先では、五つ星のホテルなどでもバスローブなど多くの備品が続々と姿を消しているそうで、壁にかけられた絵なども大型のスーツケースに入らないサイズにするとか、シャンプーやリンスも壁の埋め込み式にしても、それを壁から引き剥がしてまで持ち帰るのだそうですから、いやはや凄まじい限りです。

九州のとある観光地のホテルでは、小物の備品はもちろん、ついには大型の液晶テレビまで持ち去られたというのですから、もはや笑うに笑えない実情のようです。
そんな大きなものでも、持ち去りの被害に遭うことからみれば、薬や化粧品は、どれも小さなアイテムばかりで、さらにはこの国の人達には資生堂を始めとする日本製の化粧品や薬品は大人気だといいますから、恰好のターゲットなのでしょうね。

こういうことを書くと、「そうでない人もいる」とか「日本人にも悪い人はいます」などとわかりきったようなことを正論めかして言ってくる人が必ずいますが、こういう現実はもはや個人差の範囲ではないということを証明しているようなものです。

経営者にしてみれば、お客さんというより、窃盗団が堂々とやってくるようなもので、やむなくこのような店内自衛隊が組織されているんでしょう。
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一級ピアノ調律技能士

「ピアノ調律技能士」という言葉をご存じでしょうか?

これまで、ピアノの調律師というものにこれといった明確な資格があるわけではなく、専門学校や養成所で調律の勉強をした人が卒業後社会に出て、メーカーや楽器店の専属になるなどしてプロとしての経験と修行を積み、さらにはフリーの技術者として独立する人などがあるようですが、そこに特段の基準や資格があるわけではありませんでした。
それだけに、逆に技術者としての実力が常に問われるとは思いますが。

これは何かに似ていると思ったら、ピアニストもそうなのであって、音大を卒業したり、コンクールに入賞したり、あるいは才能を認められるなど、各人いろいろ経過はあっても、ピアニストを名乗るのにこれといった資格や免許などの基準はありません。
まあピアニストのほうがさらにその基準は曖昧かもしれませんが。

資格がないというのは音楽に限らず、文士や絵描きも同様で、そのための公的資格などを必要としないのは当たり前といえば当たり前で、それによって人や社会に著しい不利益や損害を与えるわけでもなく、突き詰めていうなら「人命にかかわる仕事ではない」からだろうとも思います。

つまり、なんらかの方法でただ調律の勉強をしただけの人が、現場経験もないまま、いきなり自分は調律師だと称して仕事をしたとしても、これが違法ではないわけです(ただし、そんな人に仕事の依頼はないとは思いますが)。
それだけ技術的な優劣を客観的に判断する基準というものがなかったということでもあり、新規で良い調律師を捜すことは難しい面があったかもしれません。

ところが、この分野に国家資格というものが創設され、社団法人日本ピアノ調律協会の主導のもとで2011年にその第1回となる試験が行われたようです。

1級から3級まであり、受験者は誰しもこの国家資格に挑もうとする以上、目標はむろん1級にある筈ですが、1級の受験資格は「7年以上の実務経験、又はピアノ調律に関する各種養成機関・学校を卒業・修了後5年以上の実務経験を有する者。」と規定されており、それに満たない人は自分の実績に応じたランクでの受験となるのでしょう。

さて、このピアノ調律技能士の試験は予想以上に狭き門のようで、第1回で1級に合格した人は全国でわずかに32人、受験者数は252人で、合格率は実に13.3%だったようです。筆記と実技があるようですが、とくに実技は作業上の時間制限などもあって相当難しいようです。
ちなみに九州からも、多くの名のあるピアノ技術者の皆さん達が試験に臨まれたようですが、結果は全員が不合格という大変厳しい結果に終わったようです。

これは九州の技術者のレベルが低いということではなく、どんな試験にもそのための「情報」と「対策」という側面があるわけで、この点では東京などの大都市圏のほうがそのあたりの有益な情報がまわっていて、受験者に有利に働いたのは否めないということはあったのかもしれません。

さて、我が家の主治医のお一人で、現在ディアパソンの大修理もお願いしている技術者さんも、第1回で不合格となられ、翌年(2012年)秋の第2回に挑まれました。
その結果発表が今春あって見事に合格!されました。なんでも、九州からの合格者はたった2人(一説には1人という話も)だけだったそうで、これにはマロニエ君も自分のことのように喜びました。ちなみに今回は、前回よりもさらに合格率は低く9.1%だったようで、まさに快挙というべき慶事です。

ディアパソンの修理の進捗を見るためにときどき工房を訪れていますが、先日は折りよく合格証書が届いてほどない時期で、さっそく見せていただきました。
御名と共に、「第一級ピアノ調律技能士」と恭しげに書かれており、現厚生大臣・田村憲久氏の署名もある証書でした。

この主治医殿が、昔から事ある毎に次のように言っておられたことをあらためて思い起こします。
『ピアノ技術者で最も大切なことは実は技術ではありません。技術は必要だが、それはある程度の人ならみんな持っている。それよりも、いかに当たり前のことをきちんとやっているか。要はその志こそが問題だと思いますよ』と。

まさに、今回はその志が結実したというべきでしょう。
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続・断捨離

断捨離の精神が『人生や日常生活に不要なモノを断つ、また捨てることで、モノへの執着から解放され、身軽で快適な人生を手に入れる』という事は、たしかに一面に於いては納得できる話ではあります。

マロニエ君のまわりにも、パソコン上で未読メールを何千通も抱え込んで消そうともしない友人がいたりしますし、巷には「片づけられないオンナ」というのが多いのだそうで、きっと男にも同類がいるでしょうし、これは単なる横着や怠け者というより、ほぼ脳内の問題のような気がします。

ゴミ屋敷などという甚だしく社会迷惑な家も珍しくない時代ですが、物が捨てられない人が決まって口にする言葉は「これはゴミではない。自分にとっては必要な物で宝物、いつか必ず役に立つことがある」などと云うようですが、聞かされる側はとても納得できることではありません。

「モノへの執着から解放される」というのは、ある意味に於いては清らかな精神を持つための第一歩かもしれません。むかしテレビで見たマザー・テレサは、多くの修道女達を従えて彼女達の為に準備された住まいに入るや、いきなりカーペットを剥がし、調度品を屋外に運び出し、物に執着しない高潔な精神の持ち主であることを躊躇なく実践して見る者を驚かせました。(尤も、彼女は実は大金持ちで、いろんな噂もあるようですが…)

また、司馬遼太郎の『龍馬がゆく』では、千葉道場のさな子との別れに際して、龍馬が自分の形見の品を渡そうとするものの、ふと気がつけば彼には刀以外に何一つ持ち物がなく、やむを得ず着物の袖を引きちぎってそれを渡すというところがあり、いかにも私欲のない、器の大きな、些事に恬淡とした龍馬という人物を象徴的に描いています。
史実の上でこれが真実かどうかはともかく、若い頃これを読んだとき、本物の男の究極の姿とは、そういうものなのかと考えさせられたことがありました。

モノに限ったことではないですが、何事においても「執着する」ということは、正当な目的をもつということとは似て非なる事で、執着はその人の本来の能力や自由を奪い、ひとつのことに縛り付けるという副作用があるようです。出世への執着、金銭への執着、権力への執着などは、どれもがその病的な心の作用に翻弄されているばかりで、見聞きして気持ちのいいものではありません。

また最近では、新種の執着族も激増して、たとえばスマホから離れられないような人達もそのひとつかもしれません。便利な道具として賢く使いこなすのではなく、完全に道具に人間が支配されていほうが多いでしょう。とくに若い人ほどその傾向が強く、その執着心に捕らわれている代償として、感情や言葉までも貧しくなり、本来の人間としての能力まで錆びつかせているようにも感じます。

こう考えると、不要物もそんな害悪のひとつであることは否定できませんから、なにも極端な断捨離を目指さないまでも、ほどほどの整理整頓を実践することで、そのぶん心も軽く自由で快活になるとしたら、やはりその価値はあると思いますが、かくいうマロニエ君もなかなか思うようにはできません。

しかし「過ぎたるは及ばざるがごとし」の喩えの通り、あまり何もかもを不要物と見なして捨て去るのもどうかと思います。マロニエ君の私見ですが、ある一定量の物は、心に安心と豊かさをもたらすという一面もあるはずで、その一線は崩すべきではないように思いますが、これも個人差があるでしょうね。

マロニエ君は、稀によそのお宅などに行ってギョッとしてしまうことがあります。
それはあまりにも物が少なく、まるで何かの事情があっての仮住まいか、はたまたウィークリーマンションとか、とにかく生活の実感が持てないほど物の少ない住まいというものを見て心底驚かされたことは何度もあり、あれもどうかと思います。

断捨離の精神からすれば、それは称賛される光景かもしれませんが、少なくともマロニエ君の目には快適空間というよりは、殺風景で寒々とした空間としか目に映らず、気が滅入ってしまいます。
何事も自分に合った程良さというのが肝要だろうと思います。
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インゴルフ・ヴンダー

過日のアヴデーエワでの落胆に引き続いて、NHKのクラシック倶楽部ではインゴルフ・ヴンダーの日本公演から、紀尾井ホールでのモーツァルトのピアノソナタKV.333が放送されており、録画を観てみましたました。

放送そのものはアヴデーエワのリサイタルよりも前だったようですが、マロニエ君が観るのが遅くなったために、こちらを後に続くかたちになったわけです。

このソナタは、出だしの右手による下降旋律をどう弾くかがとても大切で、マロニエ君なら高いところから唐突に、しかもなめらかに降りてくる感じで入ってきて、それを左が優しく受け止めるように、繊細でこわれやすいものを慈しむように弾いて欲しいと願うところですが、いきなり不明瞭で、デリカシーも自然さもない、なんとも心もとないスタートだったことに嫌な予感が走りました。

その後もこの印象は回復することなく、安定感のない、ひどく恣意的なテンポに満ちた美しさの感じられないモーツァルトを聴く羽目になりました。
驚くべきは、ヴンダーはモーツァルトと同じくオーストリアの生まれで、しかも2010年のショパンコンクールでは堂々2位の成績を収めた、かなり高い戦歴を持つピアニストです。

少なくとも、昔ならいやしくもショパンコンクールの上位入賞者というのは、好き嫌いはともかく、世界最高のピアノコンクールの難関をくぐり抜けてきた強者にふさわしい高度な実力を備えており、それなりの演奏が保証されていたように思いますが、最近はそういう常識はもう通用しなくなったのかもしれません。

モーツァルトのソナタをステージで演奏するには、音数が少ないぶん、他の作曲家の作品よりも明確な解釈の方向性を示し、そのピアニストなりに磨き込まれた完成度の高い演奏が要求されるものですが、ヴンダーの演奏は、いったい何を言いたいのかさっぱりわからないし、技巧的にも安定感がなくふらついてばかりで、好み以前の問題として、プロのピアニストの演奏という実感がまるでありませんでした。

テンポや息づかいにも一貫性がなく、フレーズ毎にいちいち稚拙なブレスをする未熟な歌手のようで、聴いていて一向に心地よさが感じられず、もどかしさと倦んだような気分ばかりが募ります。
また、ヴンダーに限ったことではありませんが、マロニエ君はまず楽器を鳴らせない人というのは、それだけで疑問を感じますし、墨のかすれた文字みたいな、潤いのない音ばかりを平然と連ねることが、思索的で知的な内容のある演奏などとは思えません。

ひと時代前は、叩きまくるばかりの運動系ピアニストが問題視され軽んじられたものですが、最近はその逆で、まずは自然な音楽の呼吸と美しく充実した音の必要を見直すべきではないかと思います。
音色のコントロールというのは様々な色数のパレットを持っていて、必要に応じて自在に使い分けができることですが、ヴンダーなどは骨格と肉付きのある豊かな音がそもそも出ておらず、いきおい演奏が貧しい感じになってしまいます。

本来、ピアニストともなると出てくる音自体に輪郭と厚みと輝きが自ずと備わっており、それひとつを取ってもアマチュアとは歴然とした違いがあるものですが、近ごろはタッチも貧弱、音楽の喜怒哀楽や迫真性もなく、ただ訓練によって外国語が話せるように難しい楽譜が読めて、サラサラと練習曲のように弾けるというだけの人が多く、音色的にはほとんどアマチュア上級者のそれと大差ないとしか思えないものです。

アヴデーエワ、ヴンダー、ほかにもトリフォノフなどを聴いていると、もはやコンクールそのものの限界がきてしまっているというのが偽らざるところで、そういえば一流コンクールの権威もとうに失墜してしまっているようですね。これからは、なにかの拍子に才能を認められて世に出てくるような異才の持ち主などにしか芸術家としての期待はもてない気がします。
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断捨離

この数年でしょうか、断捨離(だんしゃり)という言葉をときどき耳にします。
テレビ番組で、部屋の収納術とか片づけなどに際して、よくこの言葉が使われているので、なんとなく要らないモノを思い切って捨てるという意味かと思っていましたが、ネットのウィキペディアを見ると、もっと深い意味があるようです。

以下、一部引用

『ヨガの「断行(だんぎょう)」、「捨行(しゃぎょう)」、「離行(りぎょう)」という考え方を応用して、人生や日常生活に不要なモノを断つ、また捨てることで、モノへの執着から解放され、身軽で快適な人生を手に入れようという考え。単なる片づけとは一線を引くという。

断=入ってくる要らない物を断つ
捨=家にずっとある要らない物を捨てる
離=物への執着から離れる』

〜なのだそうで、これはなかなかマロニエ君にはできそうにもないことです。
このところ腹をくくって物置の片づけなどをやっているのですが、いざ手をつけてみると自分でも呆れるほど様々な物が次から次へと出現して、別になくても何の不自由もない物は数多く、いかにそんな不要物に囲まれながら生活していたのかという現実を痛烈に思い知らされます。

これがいわゆる転勤族などであれば、嫌でも物の量は少なくなるでしょうし、むやみに物が増えないようにするという生活習慣が自然に身につくのだろうと思いますが、マロニエ君の家は代々そうではないためもあってか、そのあたりの意識がほとんど欠落しているようです。

たしかに不要な物を捨てることは、物質上あるいは空間のダイエットをするようで、不思議な快感があるものです。マロニエ君の場合、とりたててモノに執着しているというつもりはないのですが、整理と廃棄に着手するのがただ面倒というだけで、いざやりはじめると物を捨てたぶん場所は広くなるし、変な楽しさがあることもわかりました。

というわけで、不要な物はどしどし廃棄していけばいいのですが、困るのは捨てるに捨てられない物に行き当たったときというのは誰しも同じだろうと思います。そもそも、どこで「必要な物」と「不必要な物」の線を引いたらいいか、その点に苦慮するシーンがしばしば訪れるわけです。
例えばいろいろな思い出の要素を帯びた品などもそうなら、亡くなった身内の遺品ともいうべき物ともなれば、そうそう安易にゴミ袋に放り込むということもできません。しかし、取っておいてどうするのかとなると、これは甚だ答えに窮しますし、そういうときは片づけのスピードも一気に鈍ってしまいます。

あるいは、そんな精神的な要素が絡まなくても、使う予定もない物の中には、買ったまま使わずしまい込んで忘れていた物、あるいはいただき物などをそのまま置いていただけという場合が少なくありませんが、古くてもモノ自体は新品(というか未使用品)だったりすると、それをそのまま捨てるというのは、断捨離に於いてはこちらの修行が未熟な故か、どうにも抵抗があるわけです。

むろん「欲しい」というような人でも現れれば喜んで差し上げるところですが、そんな都合の良いことがあるはずもなく、結局どうにも始末に困ってしまいます。

こういう場合は、断捨離で云うところの「物への執着」というのとはいささか違い、何の傷みもない新品もしくはそれに近い物を、あっさり捨てるという行為が、例えば大した理由でもなしに木を切ってしまうことのように、ひどく傲慢かつ野蛮なことのように思えてしまいます。

もしかしたら、そういう甘ったるい気分を断ち切り、乗り越えたところに断捨離の極意があるのかもしれませんが、なかなかそんな高みには到達できそうにもありません。
それでも相当量を廃棄しましたから、ずいぶん風通しはよくなったわけで、ひとまずこれで満足することとします。
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技術者しだい

このところ、ついついアップライトにも関心を持ってしまい、すでに二度もこのブログに駄文を書いてしまっているマロニエ君ですが、先ごろ、実になんとも素晴らしい一台に出逢いましたので、その印象かたがたもう少々アップライトネタを書くことにしました。

それはヤマハのUX300、十数年前のヤマハの高級機種とされたモデルで、背後にはX支柱(現在はコスト上の理由から廃止された由)をもつモデルです。外観で特徴となるのはトーンエスケープという鍵盤蓋よりも上に位置する譜面台を手前に引き出すと、その両脇から内部の響きが左右に漏れ出てきて、奏者はより楽器の原音をダイレクトに聴きながら演奏できるというもの、さらには黒のピアノではその譜面台の左右両側にマホガニーの木目が控え目にあしらわれ、それがこのピアノのお洒落なアクセントにもなっています。
このデザインは好評なのか、今もYUS5として生産されているばかりか、それが現行のカタログの表紙にもなっているようです。

話は戻り、このUX300は望外の素晴らしいピアノだったのですが、それはヤマハの高級機種だからというよりも、一人の誠実な技術者が一貫して面倒を見てこられたピアノだからというものでした。
以前のブログに書いたようなアップライトらしさ、ヤマハっぽさ、キンキン音、デリカシーのなさ、安っぽさなどどこにもない、極めて上質で品位のある音を奏でる好ましいピアノであったことは予想以上で、少なからぬ感銘さえ受けました。

おまけにこのピアノはサイレント機能つきで、通常はこの機能を付けるとタッチが少し変になるのは不可避だとされていますが、この点も極めて入念かつギリギリの調整がなされているらしく、そのお陰で言われなければそうとは気づかないばかりか、むしろ普通のアップライトよりもしっとりした好ましいタッチになっていたのは驚くほかはありません。
これぞ技術者の適切な判断と技、そしてなによりピアノに対するセンスが生み出した結果と言うべきで、まさに「ピアノは技術者次第」を地でいくようなピアノでした。

このような上質でしっとりした感じは、外国の高級メーカーのアップライトではときどき接することがありますが、国産ピアノでは少なくともマロニエ君の乏しい経験では、初めての体験だったように思います。

海外の一流メーカーのアップライトは、その設計や作りの見事さもさることながら、調整も入念になされたものが多く、あきらかにこの点にも重きをおいているのは疑いようがありません。それが隅々まで見事に行き渡っているからこそ、一流品を一流品たらしめているともいえるでしょう。

ちなみに、海外の老舗メーカーの造る超高級アップライトは価格も4ー500万といったスペシャル級で、普通ならそれだけ予算があれば大半はグランドに行くはずです。いったいどういう人が買うのだろうと思わずにはいられない一種独特の位置にある超高級品ということになり、それなりのグランドを買うよりある意味よほど贅沢でもあり、勢い展示品もそうたやすくあるものではありません。

当然ながら、そんなに多く触れた経験はないのですが、スタインウェイやベーゼンドルファーなどは、たしかに素晴らしいもので、この両社がアップライトを作ったらこうなるだろうなぁと思わせるものがありますが、しかし個人的にはとりたてて驚愕するほどのものではなく、あくまで軸足はグランドにあるという印象は拭い切れません。

ところが中にはそうでないものもありました。これまでで一番驚いたのはシュタイングレーバーの138というモデルで、とにかく通常のアップライトよりさらにひとまわり背の高いモデルですが、その音には深い森のような芳醇さが漂い、威厳と品格に満ち、その佇まい、音色とタッチはいまだに忘れることができません。2番目に驚いたのはベヒシュタインのコンサート8という同社最大のアップライトで、これまた美しい清純な音色を持った格調高いピアノでした。
ベヒシュタインは、実はアップライト造りが得意なメーカーで、背の低い小さなモデルでも、作りは一分の隙もない高級品のそれですし、実に可憐でクオリティの高い音をしていて、むしろグランドのほうが出来不出来があるようにさえ感じます。

アップライトでも技術者次第、お値段次第でピンキリというところですが、最近驚いたのはヤマハのお店には「中古ピアノをお探しの方へ」的な謳い文句が添えられて、なんと399.000円という新品のアップライトが売られていることでした。
ヤマハ・インドネシア製とのことですが、これが海外の老舗メーカーのように別ブランドにすることもなく、堂々とYAMAHAを名乗って、ヤマハの店頭で他の機種に伍して売られているのですから、ついにこういう時代になったのかと思うばかりです。
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ロビーは営業現場

先週金曜の夕刻のこと、付き添いで街の中心にある大病院のロビーで診察の終わるのをずいぶん待たされることになったのですが、そのとき、見るともなしに思いがけない光景を目にすることになりました。

ちょうど時間帯が、一般の外来診察が終わって、以降は急患の対応に切り替わる時間帯であったために、ロビーにはこの病院にしては患者さんの姿はほとんど無くなり、ちょうどその時間が区切りになっているのか、私服に着替えた看護士さんとおぼしき人達が仕事を終えてぞろぞろと引き上げていく姿があり、白衣姿の医師の往来もえらく頻繁になってくるという状況が一時間ほど続きました。

この病院は市内でも最も有名な大病院のひとつですから、そこで働く医師や看護士などの数もおそらく相当なものだろうと思われます。

そんな中にぽつねんと待っていたマロニエ君でしたが、広いロビーに置かれたあちこちの長椅子には、明らかに患者とは様子の異なる種族が散見でき、これがなんとなく不思議な印象を放っていました。

みな一様に真面目な様子で、どうみても病気や御見舞ではなく、仕事時間中という感じにしか見えません。
男性は例外なくスーツ姿で、女性もほぼそれに準した服装です。一人の人もあれば、二人組のような人達もあって、ごくたまに医師と立ち話などをしており、はじめは何なのかと思うばかりでした。

なにしろこっちはヒマなので、それとなく観察しているとだんだん状況が読み込めてきたのです。
それがわかったのは、向こうにいる男性が、こちらから歩いて行ったひとりの医師にスッと近づいて話を始めると、それを見ていた比較的マロニエ君の近くにいた男女二人が俄に落ち着かない様子でしきりに話を始めます。すると、何かを決したように二人ともすっくと立ち上がり、その立ち話をしている医師とスーツの男性のほうに歩み寄りますが、話が済むまで3mぐらいの場所から待機している様子です。

話が終わると、今だ!といわんばかりに二人が近づき、ようやく歩き始めた医師の足を再び止めることになりますが、とにかくお辞儀ばかりして必死にしゃべっています。
ほどなく二人は戻ってきましたが、今度は別の医師が歩いてきたのを見て「どうします?」「行ってみましょうか?」と女性の声がわりに明確に聞こえたのですが、間をおかず再び追いかけるようにして医師を呼び止めます。

もうおわかりと思いますが、このロビーを頻繁に往来するこの病院の勤務医師に話しかけるチャンスを狙って、それが薬品メーカーだか医療機器メーカーだかは知りませんが、とにかく病院相手にビジネスチャンスを目論む業者の営業マン達が、診療時間に区切りがついて多くの医師らが動き出すのを狙って、この時間帯に営業活動にやってくるようです。

パッと目はまるで医者目当てにナンパしているようでもありますが、しかも遊びではない厳しい目的があるわけで、もちろんチャラチャラした気配など皆無で、笑えない、痛々しいような空気が充溢しています。

他の人達もおおむね似たような感じで、今どきの就職難の時代にあっても、営業職は人気がないと云われているそうですが、それをまざまざと実感できる、彼らの仕事の大変さが込み上げてくるような光景でした。まったくあてのないダメモトの仕事を、厳しいノルマを背負わせられて粘り強くやり抜くだけの強さがなくては、とてもじゃありませんがやっていけない仕事だと思いました。

そもそも営業なんて、断られるのが当たり前で、それでいちいち傷ついたり落胆していては仕事にならないでしょう。ストレスに打ち勝つだけのタフな神経も必要とするし、しかも低姿勢に徹して愛想がよく、同時にしたたかさも必要、製品知識も相当のものが必要とされるはずで、これは誰にでも出来る仕事ではないと痛感させられました。

その男女のペア組では、女性のほうがより胆力がありそうで、何度もトライしては戻ってきながら「厳しいですねぇ、ハハハ」なんて云ってますから、仕事とはいえ大したもんだと感服しました。

なんとなく思ったことですが、現役の営業職の人達からみれば、婚活なども日頃の訓練の賜物で、普通の人よりチョロい事かもしれません。なにしろ相手を「落とす」という点にかけては、基本は同じですから、要は人垂らしでなくてはならず、この点の歴史上の天才が豊臣秀吉かもしれません。
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アヴデーエワを聴く

「演奏とは、誰のためのものなのか。何を目的とするものなのか。」
こういう素朴な疑問をしみじみ考えさせられるきっかけになりました。

ユリアンナ・アヴデーエワのピアノリサイタルに行きましたが、期待に反する演奏の連続で、虚しい疲労に包まれながら会場を後にしました。

ショパンコンクールの優勝後に初来日した折、N響と共演したショパンの協奏曲第一番では、まるで精彩を欠いたその演奏には大きな落胆を覚えたものの、その一年後のリサイタルでは見事に挽回、ワーグナーのタンホイザー序曲やプロコフィエフのソナタ第2番などの難曲を圧倒的なスケールで弾いたのには度肝を抜かれました。
そして、これこそが彼女の真の実力だと信じ込み、いささか疑問も感じていたショパンコンクールの優勝も当然だったと考え直し、ぜひとも実演に接してみたいと思っていた折の今回のリサイタルでしたから、半ば義務のようにチケットを買った次第。

プログラムはバッハのフランス風序曲、ラヴェルの夜のガスパール、ショパンの2つのノクターン、バラード第1番、3つのマズルカ、スケルツォ第2番、さらにはアンコールではショパンのワルツ、ノクターン、マズルカを弾きました。

全体を通じて云えることは、作品を深く読み解き、知的な大人の音楽として構築するという主旨なのだろうと推察はするものの、あまりに「考え過ぎ」た演奏で、そこには生の演奏に接する喜びはほとんどありませんでした。
冒頭のバッハでいきなり違和感を感じたことは、様式感が無く、度が過ぎたデュナーミクの濫用で、いかにもな音色のコントロールをしているつもりが、やり過ぎで作品の輪郭や躍動感までもが失われてしまい、全体に霞がかかっているようでした。さらには主導権を握るべきリズムに敬意が払われず、これはとくにバッハでは大いなる失策ではないかと思います。お陰でこの全7楽章からなるこの大曲は退屈の極みと化し、のっけから期待は打ち砕かれました。

続く夜のギャスパールは、出だしのソラソソラソソラソこそ、さざ波のような刻みでハッとするものがありましたが、それも束の間、次第にどこもかしこもモッサリしたダサイ演奏でしかないことがわかります。
ラヴェルであれほどいちいち間を取って、さも尤もらしいことを語ろうとするのは、マロニエ君にはまったく理解の及ばないことでした。
終曲で聴きものとなる筈のスカルボでも、終始抑制を効かせた、意志力の勝った、ことさらに冷静沈着で燃えない演奏で、不気味な妖怪などついに現れないうちに曲は終わってしまいました。

かつてのロシアピアニズムの重戦車のごとき轟音の連射と分厚いタッチの伝統への反動からか、この人はやみくもにp、ppを多用し、当然フォルテもしくはフォルテッシモであるべき音まで、敢えてmfぐらいの音しか出さないでおいて、それが「私の解釈ではこうなるのです」と厳かに云われているようでした。
彼女にすれば、メカニックや力業で聴かせないところに重点を置いているということなんでしょうけれども、いくら思索的であるかのような演奏をされても、そこになにがしかの必然性と説得力がなくては芸術的表現として結実しているとはマロニエ君は思いません。
それぞれの個性の違いはありながら、本当に優れたものは個々の好みを超越したところで燦然と輝くものですが、残念ながらアヴデーエワの演奏にはそれは見あたりませんでした。

この人の手にかかると、リピートさえ鬱陶しく、ああまた最初から聴かなくちゃいけないのか…と少々うんざりして体が痛くなってくるようでした。
音楽というものが一期一会の歌であり、踊りであり、時間の燃焼であるというようなファクターがまったくなく、何を弾いても予めきっちりと決まった枠組みがあり、その中で予定通りに自分の考えた解釈や説明のようなものを延々と披露されるのは、音楽と云うよりは、ほとんどこの人独自の理論を発表する学界かなにかに立ち会っているようでした。

開場に入ってまもなく、CD売り場があり、終演後にサイン会があるというアナウンスを聴いて、ミーハーな気分からサインを頂戴すべく一枚購入しましたが、前半が終わった時点で、これはチケットもCDも失敗だったことを悟りました。
それでも、ちゃっかりサインはしてもらいましたから、自分でも苦笑です。

この日はなにかの都合からか、福岡国際会議場メインホール(本来コンサートホールではない)での演奏会ということで、ここでピアノリサイタルを聴くのは二度目ですが、出てくる音がどれも二重三重にだぶって聞こえてくるようで、響きにパワーがなく、つくづくと会場の大切さを痛感しました。

ピアノはヤマハを運び込むような話も事前に耳にしていましたが、フタを開けてみればこの会場備え付けのスタインウェイDで、久々にCFXを聴けるという楽しみは叶いませんでした。見ればこの日の調律師さんは我が家の主治医殿で、なかなかこだわりのある美音を創り上げていらっしゃるようでしたが、なにしろこの音響と???…な演奏でしたから、その真価を味わうこともあまりできなかったのが残念でした。

アヴデーエワに質問が許されるなら、ひとこと次の通り。
「貴女の演奏は、本当に貴女の本心なんでしょうか?」
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アップライトの音

アップライトピアノの音というのは、個々のモデルで多少の違いはあるのは当然としても、基本的なところでは楽器としての構成が同じだからか、ある意味どれも共通したものを感じるところがあります。

また、国産ピアノで云うなら(あくまで大雑把な傾向として)より上級モデルで、且つ製造年が古い方が潜在的に少しなりともやわらかで豊かな音がするのに対し、スタンダードもしくは廉価品、新しいモデルではよりコストダウンの洗礼を受けたものほど、キンキンと耳に立つ、疲れる感じの音質が強まっていくように感じます。

とくに、もともとの品質が大したこともなく、さらに状態の悪いものになると、ほとんどヒステリックといっていいほどの下品な音をまき散らし、ハンマーの中に針金でも入っているんじゃないだろうかと思ってしまいます。
もしも、こういうピアノを「ピアノ」だと思って幼い子供が多感な時期を弾いて過ごしたとしたら、本来の美しい音で満たされる良質のピアノに触れて育つ子供に比べると、両者の受けるであろう影響はきっと恐ろしいほどの隔たりとなるでしょう。

もちろん大人でも同様ですが、子供の方がより深刻な結果にあらわれると思います。
食べ物の好みや言葉遣い、礼儀などもそうですが、幼くして触れるものは計り知れないほど深いところへ浸透し、場合によってはその人が終生持ち続けるほどの基礎体験となることもあるわけで、これは極めて大切な点だと思います。

…それはともかく、国産の大手メーカーのアップライトでいうと、せいぜい1980年代くらいまでの高級機は、今よりもずっと優しい音をしていたと思います。これはひとえに使っている材質が良いとまでは云わないまでも、いくらかまともなものだったし、さらには人の手が今よりいくぶんかかっていたから、そのぶんの正味のピアノにはなっていたのかもしれません。

少なくとも、無理を重ねてカリカリした音を作って、いかにも華やかに鳴っているように見せかけるあざといピアノを作る必要がなかったように思います。ダシをとるのにも、べつに高級品でなくても普通の昆布や鰹節を使って味を出すのと、粉末のダシをパッとひとふりするのとでは、根本的にどうしようもない違いが出るのは当然です。

今はネットのお陰で、いろんなピアノをネット動画で見て聴くことができますが、パソコンの小さなスピーカーというのは意外にも真実を伝える一面があるし、さらに信頼できる良質なスピーカーに繋げば、ほぼ間違いないリアルな音を聞くことができて、あれこれと比較することも可能になりました。

そこで感じたことは、マロニエ君は偏見抜きに自分の好みは少し古いピアノの出す音であることがアップライトに於いても確認できました。もちろん、いつも云うように、あくまでも良好な調整がなされていることが大前提なのはいうまでもなく、この点が不十分であれば古いも新しいもありません。

ただ、現実には大半の個体は調整が不充分で、そういうアップライトピアノには、たとえ高級品であっても一種独特の共通した声のようなものがあり、おそらくは構造的なものからくるのだろうと思いますが、それは状態が悪いものほど甚だしくなるようです。

当たり前のことですが、素晴らしい調整は個々のピアノ本来の能力を可能な限り引き出して、人を心地よく喜びに満たしてしてくれますが、これを怠るとピアノはたちまち欠点をさらけ出し、なんの魅力もないただの騒音発生機になってしまいます。

その点では、誤解を恐れずに云うなら、グランドはまだ腐ってもグランドという面がなくもないようで、アップライトの方が調整不十分による音の崩れは大きいように感じます。そこが潜在力として比較すると、グランドのほうがややタフなものがあるのかもしれません。

そういう意味では常に好ましく美しく調整されていることが、アップライトでは一層重要なのかもしれないという気もしないでもありません。
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ヤマハビルとの別れ

先の日曜は、福岡のヤマハビル内で行われた室内楽などの講習会へ知人から誘っていただき聴講してきました。

数日間行われたシリーズのようで、マロニエ君が聴講したのはN響のコンサートマスターである篠崎史紀氏が自らヴァイオリンを弾きながら、合わせるピアノの指導をするというものでした。
小さな部屋でしたが氏の指導を至近距離で見ることができたのは収穫でした。

しかし、この日はなんとも虚しい気分が終始つきまといました。
それは博多駅前にある大きなヤマハビル自体が今月末をもって閉じられることになり、一階にあるグランドピアノサロン福岡も見納めになるからでした。
全国的にもヤマハのピアノサロンは大幅に縮小されるようで、東京と大阪を残して、それ以外はほぼ似たような処遇になるようです。これで福岡(というか西日本の)のきわめて重要なピアノの拠点が失われることになるのは、まったくもって大きな喪失感を覚えずにはいられません。

講習の帰りに、知人らと一緒にグランドピアノのショールームにもこれが最後という思いで立ち寄りましたが、昨年発表されて間もないCXシリーズがズラリと並んでいる光景もどこかもの悲しく、惜別の気持ちはいよいよ高まるばかりでした。

社員の方々もさぞや無念の思いで最後の日々を過ごしておられるだろうと思いますが、ショールームではコーヒーをご馳走になったことで最後のお別れがゆっくりできたような感じでした。

ピアノには片っ端から触るわけにもいかないので、数台あったC5Xと、C6X、C7X、S6などに触らせてもらいましたが、この中では、マロニエ君の主観では圧倒的にC6Xが素晴らしく、それ以外の機種が遠く霞んで見えるほどの大差があったのは驚く他はありません。
通常、同シリーズであれば、サイズが大きくなるにつれて次第に音に余裕と迫力が増してくるものですが、このC6Xの完成度というかキラリと光る突出のしかたは何なのか…と思うほどでした。

C5XとC7Xには互いに共通したものと、その上でのサイズの違いが自然に感じられますが、C6Xはタッチも音もまったく異なり、DNA自体が違う気がしましたが、これは久々に欲しくなったヤマハでした。
また価格も倍近くも違うS6は、個人的にはどう良いのかがまったく理解できず、目隠しをされたらこの両者は価格が逆なんじゃないかと思ってしまうだろうと思います。

最後の最後に、自分でも欲しいと思えるような好みのヤマハのグランドに触れることができたのは、せめてもの幸いというべきで、マロニエ君の中では良い思い出の中で幕が降りることになりそうです。

聞くところによると、現在のピアノの全販売台数のうち、電子ピアノが実に85%を占めるまでになり、アコースティックピアノはアップライトが10%、グランドはわずかに5%なのだそうで、いわば模造品に本物が駆逐されてしまった観がありますが、見方を変えれば電子ピアノの普及によってピアノを気軽に習う人が増えたという一面もあると解釈できるのかもしれません。

折しも日本は、やっと暗い不況のトンネルの出口が見えつつあり、景気回復の兆しがあらわれ始めたところですから、近い将来、少し郊外でもいいので、もう一度ヤマハのショールームが復活する日の来ることを願わずにはいられません。
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若い人の動き

最近の若い人の動きを見ていると、ちょっとどうかしちゃってるんじゃないかと思われることがよくありますが、過日もまったくそんな光景を目撃することになりました。

天神にはジュンク堂という大型書店がありますが、ここはレジが一階の一ヶ所にまとめられていて、たとえ何階にある本であろうと、お客さんはすべて自分の手で一階へ持ってきてからの精算となります。ジュンク堂がオープンした当初は精算を済ませていない本を持って、そのままエスカレーターに乗り降りすることにずいぶん抵抗感があったことを覚えています。

さて、この日は日曜ということもあってかなかなかの人出で、レジ前には入口出口が設けられていて、その向こうには左右合わせて十人以上の店員さんがフル稼働体制で一斉にレジ業務にあたっています。

数が多いので、手が空いたレジ係はサッと手を上げて、並んでいるお客さんの目に「ここのレジは空きましたよ」というシグナルを送ります。
列に並んだ人達は自然にその動きをじっと見守り、たとえ年配の方でも自分の番が来ると手の上がったレジ係を見つけてすみやかに移動されて列は流れていきますが、むしろ若い人のほうがボーッとしていてそんな状況の動きというかテンポが理解できないのか、いかにも集中力がないという感じで目線も定まらず、手を上げているレジ係のほうを見るでもなく、しばし流れが途絶えてまわりがやきもきさせられてしまうのは驚きです。

しかも、それがこの日は3人も続いたので、マロニエ君の目には「たまたま」ではなく、これは世代的な特徴のように見えてしまいました。

それだけではありません。
若い人の友人らしき人物が、列に並ぶ友人の傍らにいて、これまたいかにもぼんやりしているのですが、そこが出口の通路をやや塞いだかたちになっているので、精算を済ませた人がこの場を出ていくのにも、ずいぶん通りにくそうにその人の背中をかわしながら出ていくのですが、そんな事にもほとんど反応がなく、ちょっと場所をずらそうという気配もないまま、何人もの人がささやかな迷惑をこうむっていました。

これに限ったことではなく、今の若い人の動きや反応を見ていると、こういう感じの場面があまりにも多いような気がします。はじめは単なる横着や不作法かとも思いましたが、どうやらそれだけでもないようで、神経の反応とか適応力がそもそも鈍くなってしまっているような気がします。
同じような光景を見て、似たような印象をお持ちの方もたくさんいらっしゃると思いますが、これは一体何なのだろうと思います。

運転も同じで、広い道のドまん中を、意味のない鈍足で平然と走り続ける若い男性などを見て呆れたことは一度や二度ではありませんが、これも安全運転とはかけ離れた奇妙な気配に満ちていて、ドライバーはどういうつもりなのかさっぱりわからなくなることがあります。最近はさすがにこっちの方が慣れてきて、さほど驚きもしなくなりましたが、こんな若い人達が仕事をバリバリこなして、近い将来、社会を牽引する主役になれるとは到底思えないのは困ったことです。

たぶん、どんなに周りの雰囲気には疎くても、ノロノロ運転しかできなくても、パソコンやスマホを触らせたら理解力もあり、スイスイ自然な操作ができるのかもしれませんけれども…。
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アップライト考

このところ、いささか訳あって国産のアップライトピアノのことを(ネットが中心ではあるものの)しばらく調べていたのですが、わかってきたことがいくつかありました。

もちろん自分ですべて触れてみて確認したことではなく、多くがネット上に書き込まれた情報から得られたものに拠る内容になりますが、それでも多くの技術者の方などの記述を総合すると、ひとつの答えはぼんやり見えてくるような気がしました。

まず国産ピアノの黄金期はいつごろかと云うことですが、それぞれの考え方や見方によるところがあって、ひとくちにいつと断定することは出来ないものの、概ね1970年代からバブル崩壊の時期あたりまでと見る向きが多いような印象がありました。

バブルがはじけた後あたりから、世の中すべての価値が一変します。あらゆるものにコスト重視の厳しさが増して、とりわけ合理化とコストダウンの波というものが最重要課題となるようです。それに追い打ちをかけるように、21世紀になると世界の工場は中国をはじめとする労働賃金の安いアジアに移ってしまい、ピアノ業界もこの流れの直撃を受けたのは間違いありません。
さらには、少なくとも先進国では情報の氾濫によって人々の価値観が多様化するいっぽう、鍵盤楽器の世界では安価で便利な電子ピアノが飛躍的な進歩を遂げて市場を席巻するなど、従来の本物ピアノが生き残って行くには未曾有の厳しさを経験することになります。

ピアノを構成する素材に於いても、一部の超高級機などに例外はあっても、全体的には製造年が新しくなるほど粗悪になり、もはや機械乾燥どころではない次元にまで事は進んでいるようです。具体的には、集成材やプラスティックなどを多用するようになり、ピアノはより工業製品としての色合いを強くしていくようです。

逆に、バブル期までは様々な高級機が登場して、中には木工の美しさなど、ちょっと欲しくなるような手の込んだモデルもありますが、それ以降はメーカーのモデル構成も年を追う毎に余裕が無くなってくるのが見て取れます。

技術者の方々の意見にも二分されるところがあり、例えば1960年代に登場したヤマハアップライトの最高機種と謳われたU7シリーズあたりを最高とする向きがあるいっぽうで、技術者としてより現実的な観点から、よほどひどい廉価モデルでもない限り、製品として新しいモデルの安心を薦める方も少なくありません。

マロニエ君の印象としては、後者はピアノの音を職業的な耳で聞き、機械部分の傷みや消耗品の問題などを考えると、新しい楽器の持つ確かさ、手のかからなさなどを重視して、道具としてコスト的にも機械的にも新しいピアノが好ましいと考えておられるようです。
いっぽうで、前者の主張には、以前の良質の素材が使われた楽器には、素材だけでなく作り手の志も感じられ、楽器としてもそれなりの価値があり、ひいては所有する喜びもあるというものです。その点で、新しいピアノにはプロの目から見ても落胆とため息ばかりが出るということのようです。

概して、前者のほうは人間的に詩情があり多少の音楽的造詣もある方で、後者はより現実的で、専ら技術とコストの関係を正確に割り出すことに長けた人だと思います。両者共に一理ある考えで、いずれのタイプであっても優秀な技術者の方であることに変わりはないと思いますが、要するに基本となる思想が違うんですね。

マロニエ君はいうまでもなく前者の方々の意見に賛同してしまいます。
なぜなら、やはり少し古いピアノの音のほうが、国産ピアノであっても明らかに「楽器の音」がするし、それはつまり音楽になったとき人の耳に心地よいばかりか、音としての芸術が奥深くまで染み込む力をいくらかはもっていると思うからです。

その点、新しいピアノはそれなりのものでも基本は廉価品の音で、それを現代のハイテク技術を駆使してできるだけもっともらしく華やかに聞こえるように、要はごまかしの努力がされているようにしか感じられません。
実は先日もあるお店で新品を見たのですが、一目見るなり、その安っぽさが伝わりました。アップライトでは最大クラスとされる高さ131cmのモデルも何台かありましたが、その佇まいにはきちんと作られたものだけがもつ重み(物理的な重量のことではなく)や風格が皆無で、傍らに置かれた高級電子ピアノと品質の違いを見出すことはついにできませんでした。

上部の蓋にも、なにひとつストッパーも引っかかりもなく、ただ上に抵抗なく開くだけだし、中低音の弦にもアグラフなども一切ありません。良い楽器を作ろうという作り手側の志は微塵も感じられず、そこに信頼あるメーカーの名が変に堂々と刻まれているぶん、なんだかとても虚しい気がしました。

それなら、いっそ良質の中国製の最高級クラスを買ったほうが、まだ潔い気もしますし、楽器としての実体もまだいくらかマシかもしれません。
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ピリスの新譜2

数日に前に書いたピリスのシューベルトのソナタのCDですが、日に日にどうしても手に入れなくては気が済まなくなり、天神に出る用事を半ば無理に作ってCD店に行き、ついに買ってきました。

これはメジャーレーベルの輸入盤でもあり、本当はネットショップでまとめ買いした方が安いのですが、そんなことを言っていたら先のことになるので、この1枚を急ぎ買いました。

そして自宅自室でじっくり聴いてみると、はじめの出だしからして過日試聴コーナーで聴いたものとはまるで音が違うのには、思わず耳を疑いました。ちなみにこのアルバムは、シューベルトのピアノソナタ(D845、D960)の2曲が収録されており、曲の並びはD845が先でこれは当然というべきで、不安げなイ短調の第一楽章がはじまりますが、その音は先日聴いたのとはまったく別のピアノとでもいうべきものでした。

数日前、このアルバムを試聴した印象ではヤマハCFXかスタインウェイか断定できないと書きましたが、こうして自分の部屋で聴いてみると、何分も聴かないうちにスタインウェイであることがほぼわかりました。すぐにジャケットに記されたデータを見たのは言うまでもありませんが、ここには使用ピアノのことは一切触れられていませんので、あるいはヤマハとの兼ね合いもあってそういう記述はしないように配慮されているのかもしれません。

スタインウェイということはわかったものの、このCDのように2曲のソナタが収録されているような場合、それぞれ別の日、別の場所で録音されたものがカップリングされることも珍しくありません。しかし録音データにはそのような気配もなく、すぐにD960へ跳びましたが、こちらも変化はなくD845と同じ音質で、いかにもな美音が当たり前のようにスピーカーら出てくるのには当惑しました。
前回「ややメタリックな感じもある」などと書いてしまいましたが、そういう要素は皆無で、CD店の試聴装置がそこまで音を改竄して聴かせてしまっていることにも驚かずにはいられません。以前からこの店のヘッドフォン(あるいは再生装置そのもの)の音の悪さは感じていましたが、これほど根本的なところで別の音に聞こえるというのは、さすがに予想外でした。

録音データにはピアノテクニシャン(調律師)としてDaniel Brechという名前が記されています。
この名前でネット検索すると、この人のホームページが見つかり、多くの著名ピアニストと仕事をしている名人のようですから、きっとヨーロッパではかなり名の通った人なのだろうと思われます。
どうりでよく調整されているピアノだと思ったのは納得がいきました。

ただ前回「どことなく電子ピアノ風の美しい音で延々と聴かされると思うと」と書いていますが、電子ピアノというのは言い過ぎだったとしても、マロニエ君の個人的な好みで云うなら、新しい(もしくは新しめの)ピアノをあまりにも名人級の技術者が徹底して調整を施したピアノというのは、なるほどそのムラのない均一感などは立派なんだけれども、どこかつまらない印象があります。

職人の仕事としては完璧もしくは完璧に近いものがあっても、ではそれによって聴く側がなにか心を揺さぶられたり、深い芸術性を感じるかというと、必ずしもそうとは限らないというのがマロニエ君の感じているところです。
このようなピアノは、同業者が専門的観点から見れば感動するのかもしれませんが、マロニエ君のような音楽愛好家にとってはあまりにも楽器が製品的に「整い過ぎ」ていて、個々の楽器のもつ味わいとか性格みたいなものが薄く、かえって退屈な印象となってしまいます。

とりわけ新しいピアノがこの手の調整を受けると、たしかに見事に整いはしますが、同時にそれは無機質にもなり、演奏と作品と楽器の3つが織りなすワクワクするような反応の楽しみみたいなものが薄くなってしまうように感じるのです。

最近はCDでもこの手の音があまりに多いので、もしかしたら日欧で逆転現象が起こり、日本の優秀なピアノ技術者の影響が、今では逆にヨーロッパへ広まっているのではないか…とも思ってしまいます。こういう水も漏らさぬ細微を極めた仕事というのは、本来日本人の得意とするところで、まるで宮大工の仕事のようですが、それが最終的には生ピアノらしい鮮烈さやダイレクト感までも奪ってしまって、結果として「電子ピアノ風」になるのでは?とも思います。

その点では従来のヨーロッパの調律師(少なくとも名人級の)はもっと良い意味での大胆で表情のある、個性的な仕事をしていたように思います。

ピリスの演奏について書く余地が無くなりましたが、とりあえず素晴らしい演奏でした。さらにはこのCD、収録時間が83分24秒!とマロニエ君の知る限り最長記録のような気がします。
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石鹸と薬事法

以前にも一度セッケン(石鹸)のことを書いた覚えがあります。
シャボン玉せっけんのベーシックの無添加石鹸は、たとえパッケージに「何用」と書いてあっても、中は基本的にどれも同じものらしいということを友人から教えられ、確認のため会社に電話して質問してみると、果たしてその通りだったという話です。

それいらい、マロニエ君はバス用には大型割安ということで、同社の洗濯用固形石鹸を使っていました。いうまでもなく中身は同じで、はるかにお得というわけです。

自慢ではありませんが、マロニエ君は肌が刺激に弱く、下手な化粧石鹸やシャンプーなどを使うとてきめんに皮膚が音を上げますし、手洗い用の石鹸でもちょっと添加剤のあるものなどを使おうものなら、すぐに手の甲がヒリヒリしてきて肌に合わないことを痛感させられます。
そういうわけで、我が家ではマロニエ君の手の甲の皮膚は便利な試験台のようなものになってしまっています。

そして、このシャボン玉せっけんの洗濯用というのは、名前こそ「洗濯用」となっていますが、その実体は無添加の純良なやさしい石鹸であることは論より証拠で、使ってみればわかります。ところが、一般的に洗濯用というと粉末洗剤が普及しているためか、なかなかこれを置いているスーパーがありません。

いつでも必要なときにサッと買えなくては実用品の意味がないので、見かけたときはできるだけ余分に買うようにしていました。
たしか「洗濯用」になることで、良質の石鹸が実質半額ぐらいで使えるのが気分がよろしいというだけのことで、裏を返せば甚だセコイ話ではあるのですが…。

中にはいろいろなオイルから抽出した高級品風なものもありますが、マロニエ君の場合はベーシックな無添加石鹸で十分だと考えています。
ところで、この石鹸成分98〜99%の純石鹸というのはなにもシャボン玉に限ったことではなく、別の会社からも同様品が出ているのは皆さんもご承知のことでしょう。

シャボン玉に並んで目にする無添加石鹸にミヨシというのがあり、こちらも見ると成分は変わりませんが、やはり訳あっていろいろな種類というか、つまりパッケージとサイズの違いで商品構成されているのが見受けられます。

こちらにも洗濯用があり、成分は98%石鹸成分なので手洗いやお風呂に使ってもいいだろうという思われ、思い切ってそのような使い方をしてみましたが、案の定、マロニエ君の「弱肌?」で試しても何の問題もないようです。
それが数ヶ月続きましたが、もちろん問題などは発生しませんでしたが、あらためてパッケージを見ると「お客様相談室」なるところがあるらしく、そこに確認の電話をかけてみることにしました。

ただ正面切って貴社の洗濯用をお風呂用として使ってもいいか?と正面切って聞くのもためらわれましたので、戦略を変えてちょっとばかりウソをつきました。
「洗濯用という文字を良く見ないまま、間違ってお風呂で使っていて、後で気付いたんだが、問題はないだろうか?」という変化球を投げてみました。

すると、なんとも柔和すぎる男性の声で「ご安心ください。まったくご心配はございません。普通にお身体をきれいにされる石鹸と同じです。」ときた。「では、どうしてわざわざ洗濯用というふうに区別しているんですか?」と聞いてみると、「それは、薬事法というものがございまして、弊社はそれに従って製造・販売をさせているものですから…」「では、今後も洗濯用をお風呂用として使っても心配はありませんか?」ときくと、「もちろん大丈夫なんですが、はっきり「どうぞ」とは申し上げられませんので、ここはあくまでも「自己責任で」ということでお願い致します。」という、なんとも石鹸の泡のようなふわふわやわらかい答えが返ってきました。

要するに、同じものなんだからドーゾというわけで、ただお風呂にはできれば「バス用」と記したもっと割高な製品を買って欲しいというところでしょう。これが本当にもしダメなら「即刻、ご使用をおやめください!」となるはずですから、99%大丈夫という風にマロニエ君は解釈しました。

そうそう、「純石鹸」と「無添加石鹸」という表記にも薬事法絡みの事情がありそうですが、面倒臭いのでそこまでは調べませんでした。
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ピリスの新譜

過日書いたホロヴィッツのスタインウェイ使用のCDと似たような時期に、ピリスのシューベルトの最後のソナタがリリースされており、これも運良く試聴コーナーで聴けました。

ピリスは少なくとも日本ではヤマハのアーティストのようなイメージで、ヤマハの広告媒体にもその名と顔などがいかにも専属のピアニストという感じになっていますが、これまで出してきたCDなどは、大半は(というか、知る限りはすべて)ちゃかりスタインウェイを使っています。

以前、彼女のインタビューがありましたが、「ヤマハは素晴らしいけど日本のホールのような音響の優れた会場ならば使ってもいいが、そうでない場所ではスタインウェイを弾く」というような意味の発言があり、どうも全面的にはヤマハを信頼していないような気配が伺えました。

しかも、不思議なことにはセッションの録音で、モーツァルトのような必ずしもスタインウェイがベストとも思えないような曲を録音するにも、やっぱりなぜかスタインウェイを使っています。

今回のD960(最後のソナタ)の第一楽章を聴いていて、冒頭から聞こえてくるのは軽く弾いても明瞭に鳴る音が耳につきました。とても反応のよいピアノだという印象です。ややメタリックな感じもあって一瞬ヤマハかとも思いましたが、しばらく聴いていると…やはりスタインウェイのようにも感じましたが、試聴コーナーのヘッドフォンは音がかなり粗っぽく断定には至りませんでした。

録音のロケーションはハンブルクですから、普通ならスタインウェイのお膝元ということになりますが、セッションの段取りというのは必ずしもそういうことで決まっていくのではない事かもしれませんし、ピリスが録音にCFXを使うと言い出せば、現地のヤマハはなにをおいても迅速にピアノを準備するのだろうと思います。

HJ・リムがCFXで弾いたベートーヴェンは、演奏はきわめて個性的で見事だったものの、楽器はとうてい上品とは言い難いもので驚きでしたが、このシューベルトに聴くピアノがもしCFXであれば、一転してなかなかのものだと素直に思いますし、逆にスタインウェイであればずいぶん普通の、そつのない感じの音になったものだと思います。もちろん試聴コーナーでちょっと聴いただけでは確証は持てませんし、そんなふうに音造りされたスタインウェイなのかもしれませんが、いずれにしろ調整そのものは素晴らしくなされている楽器だとは感じました。

ピリスのD960はぜひとも買いたいと思っていたCDのひとつだったのですが、この静謐な悲しみに満ちた最後の大曲を、どことなく電子ピアノ風の美しい音で延々と聴かされると思うと、つい躊躇ってしまうようで、昨日は急いでもいたし、とりあえず買うのは保留にしました。

…でも、あとからその演奏はかなり素晴らしいものだったことが思い起こされるばかりで、ピアノの音はさておいてもやはりこれは購入しないわけにはいかないCDと意を新たにしました。

少なくとも、ピリスというピアニストは絹の似合うショパンに質素な木綿の服を平然と着せてお説教しているようなところがありますが、それがシューベルのような音楽には向いていて、彼女の持つ精神性が遺憾なく発揮されるようです。
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車に見えるもの

このところ険悪な状態となって久しい日中関係ですが、中国の話題に接するたび、過去何度か訪れた中国のことをよく思い出します。現地に行くと、目に飛び込んでくるものには驚かされることの連続で、おかげで退屈しているヒマなんてありません。
すごいことは文字通り山のようにあって、はじめはいそがしくあちこち目が向きますが、しだいに落ち着いてくると、少し冷静な目を向けられるようにもなります。

たとえば車です。
中国にはむろん中国製の車もそれなりには走っていますが、現地生産を含む日米欧の高級車の割合が高く、日本でいうとバブルの頃を思い出すような大型車が街中にあふれています。何でも大きいほどエライ、値段が高いほどエライという尺度がこの国では単純明快すぎるほど支配しているようで、その割りにどれもあまりきれいではなく、街も車も大抵はかなり汚れているのも特徴です。

それに較べると、日本に帰ってきてまっ先に感じるのは、とにかく街が清潔で感動的に美しいことと、走っている車もきれいだけれども小さいことです。どうかすると信号待ちなどをしていて周りはすべて黄色いナンバーの軽自動車に取り囲まれるなんて状況も決して珍しくはありません。普通車でも、今やコンパクトカーの占める割合が大きく、とにかく以前のような高級大型車が肩で風を切って走っているというような光景は劇的に少なくなりました。

マロニエ君は昔からクルマ好きで、いまだに購読を続けている自動車雑誌もありますが、自動車文化としての観点から大雑把に云うなら、必要以上に大きい車に乗りたがる人ほど、平たくいうとハッタリ屋で、拭いがたいコンプレックスの裏返しという事は社会学的にも裏付けられています。
それは社会が未成熟なほど、車がステータスシンボルとしての役目を果たすからで、当然のようにそんな心理にはまった人達は自分のライフスタイルに沿った、TPOに適った、身の丈に合った、知的で良識ある車選びということが出来ません。
もっぱらの問題は収入や預金通帳の残高と、見栄えの良さや話題性の高い注目度の高いモデルであるか否かばかりが判断基準となります。

その点では、現在の日本はというと、日本人の精神的成熟の度合からというより、長引く不景気やデフレが背景となって、誰も彼もが続々と小さい車へと乗り換えました。マロニエ君も一時はおもしろ半分にそんな手合いに乗ってみましたが、やはり自分の用途と体型と趣向に合致しないことがわかり、昨年乗り換えたばかりですが、今の日本の小型車志向、さらには自転車依存はむしろ不健全な印象で、この点はアベノミクスによって今後は少しでも改善されればと思います。

逆に、むやみに大きな、分不相応な車に乗る人というのは、実は本人が思っているほど傍目にカッコイイものではないことは断言できます。ベンツのSクラスやレクサス、あるいは空間を運んでいるだけみたいな大型の仰々しいワンボックスや大きなRV車などを、拙い運転の女性がアゴを突き出しながら乗って来て、スーパーの駐車場などでさも不自由そうに、なんとか駐車枠に止める奇妙な光景などを目にすると、逆に気の毒で、かえって貧相なものを見ているような気分にさせられます。

一方、男もずいぶんと運転に関しては変わりました。
もちろん高価なスーパーカーや大型高級車がもつ車の威を借りて、これみよがしに走り回る連中なんかが男性的だなどとは云いませんが、少なくとも自分の運転技術を磨いてスポーツカーをいかにスムーズで美しく乗りこなすかという、技巧派のモータリストの類などはすっかりマイノリティーになってしまったのかもしれません。「峠を攻めに行く」なんて言葉も死語に近いようですが、この言葉が生きていた時代の男は平均して女性より圧倒的に運転が上手い時代でした。
今は燃費や維持費ばかりを偏執的に気にして、そのためのケチケチ運転をするドライバーが大繁殖していて、覇気もなく、なにか大事なものを失ってしまったかのようです。むろん何に価値を置き、何に熱中しようと、それは人の勝手ですけれども…。

車に限ったことではありませんが、物事の本質を極めたいと願うような純粋な精神はだんだんに失われ、何事も薄味の、甚だ色気のない時代になっていることは間違いないようです。
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調律師ウォッチング

ピアノリサイタルに出かけるときの楽しみは、云うまでもなく素晴らしい演奏をじかに聴くことであり、その音楽に触れることにありますが、脇役的な楽しみとしては、会場のピアノや音響などを味わうという側面もあります。

そしてさらにお菓子のオマケみたいな楽しみとしては、ステージ上で仕事をする調律師さんの動向を観察することもないではありません。
もちろん、開場後の演奏開始までの時間と休憩時間、いずれも調律師がまったくあらわれないことも多いので、この楽しみは毎回というわけではありませんが、ときたま、開演ギリギリまで調律をやっている場合があり、これをつぶさに観察していると、だいたいその日の調律師の様子から、その後どういう行動を取るかがわかってきます。

開場後、お客さんが入ってきても尚、ステージ上のピアノに向かって「いかにも」という趣で調律などをしている人は、ほぼ間違いなく休憩時間にも待ってましたとばかりに再びあらわれて、たかだか15分やそこらの間にも、さも念入りな感じに微調整みたいなことをやるようです。

ある日のコンサート(ずいぶん前なのでそろそろ時効でしょう)でもこの光景を目にすることになり、この方は以前も見かけた記憶がありました。
開演30分も前から薄暗いステージで、ポーンポーンと音を出しては調律をしていますが、開演時間は迫るのに、一向に終わる気配がないと思いきや、もう残り1分か2分という段階になったとき、あらら…ものの見事に作業が終わり、テキパキと鍵盤蓋を取りつけて、道具類をひとまとめに持って袖に消えて行きます。…と、ほどなく開演ブザーが鳴るという、あまりのタイミングのよさには却って違和感を覚えます。

前半の演奏が終わり、ステージの照明が少し落とされて休憩に入ると、ピアノめがけてサッとこの人が再登場してきて、すぐに次高音あたりの調律がはじまりますが、こうなるとまるでピアニストと入れ替わりで出てくる第二の出演者のような印象です。

面白いのはその様子ですが、何秒かに一度ぐらいの頻度でチラチラと客席に視線を走らせているのは、あまりにも自意識過剰というべきで、つい下を向いて小さく笑ってしまいます。
あまりにもチラチラ視線がしばしばなので、果たして仕事に集中しているのか、実は客席の様子のほうに関心があるのか判然としません。

調律の専門的なことはわからないながらも、出ている音がそうまでして再調律を要する状態とも思えないし、その結果、どれほどの違いが出たとも思えません。
この休憩時もフルにその時間を使って「仕事」をし、15分の休憩時間中14分は何かしらピアノをいじっているようで、まあ見方によっては「とても仕事熱心な調律師さん」ということにもなるのでしょう。

コンサートの調律をするということは、調律師としては最も誇らしい姿で、それを一分一秒でも多くの人の目にさらして自分の存在を広く印象づけたいという思惑があるのかもしれませんが、何事にも程度というものがあって、あまりやりすぎると却って滑稽に映ってしまいます。

もちろんそういう俗な自己顕示には無関心な方もおられて、マロニエ君の知るコンサートチューナーでも、よほどの必要がある場合は別として、基本的にはお客さんの入った空間では調律をしないという方針をとられる方も何人もいらっしゃいます。

だいいちギリギリまで調律をするというのは、いかにもその調律は心もとないもののようにマロニエ君などには思えます。ビシッとやるだけのことはやった仕事師は、あとはいさぎよく現場を離れて、主役であるピアニストに下駄を預けるというほうが、よほど粋ってもんだと思います。

どんな世界でもそうでしょうが「出たがり」という人は必ずいるようで、これはひとえに性格的な問題のようですね。
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松田理奈

NHKのクラシック倶楽部で、岡山県新見市公開派遣~松田理奈バイオリン・リサイタル~というのをやっていました。
なんだかよく意味のわからないようなタイトルですが、岡山県の北西部にある新見市という山間の田舎町でおこなわれたコンサートの様子が放送されました。

演奏の前に町の様子が映像で流されましたが、山を背景に瓦屋根の民家ばかりがひっそりと建ち並ぶ風景の村といったほうがいいようなところで、ビルらしき物などひとつもないような、静かそうで美しいところでしたが、そんなところにも立派な文化施設があり、ステージにはスタインウェイのコンサートグランドがあるのはいかにも日本という感じです。こういう光景にきっと外国人はびっくりするのでしょうね。

松田理奈さんは横浜市出身のヴァイオリニストとのことで、マロニエ君は先日のカヴァコスに引き続き、初めて聴くヴァイオリニストでした。
よくあるポチャッとした感じの女性で、とくにどうということもなく聴き始めましたが、最初のルクレールのソナタが鳴り出したとたん、その瑞々しく流れるようなヴァイオリンの音にいきなり引き込まれました。

良く書くことですが、いかにも感動のない、テストでそつなく良い点の取れるようなキズのない優等生型ではなく、自分の感性が機能して、思い切りのよい、鮮度の高い演奏をする人でした。
なによりも好ましいのは、そこでやっている演奏は、最終的に人から教えられたものではなく、あくまでも自分の感じたままがストレートに表現されていて、そこにある命の躍動を感じ取り、作品と共に呼吸をすることで生きた音楽になっていることでした。

わずかなミスを恐れることで、音楽が矮小化され、何の喜びも魅力もないのに偏差値だけ高いことを見せつけようとやたら難易度の高い作品がただ弾けるだけという構図には飽き飽きしていますが、この松田理奈さんは、その点でまったく逆を行く自分の感性と言葉を持った演奏家だと思いました。

音は太く、艶やかで、とくに全身でおそれることなく活き活きと演奏する姿は気持ちのよいもので、聴いている側も音楽に乗ることができて、聴く喜びが得られますし、本来音楽の存在意義とはそのような喜びがなくしてなんのためのものかと思います。

全般的に好ましい演奏でしたが、とくに冒頭のルクレールや、ストラヴィンスキーのイタリア組曲などは出色の出来だったと思います。

後半はカッチーニのアヴェマリア、コルンゴルトやクライスラーの小品と続きましたが、非常に安定感がある演奏でありながら、今ここで演奏しているという人間味があって、次はどうなるかという期待感を聴く側に抱かせるのはなかなか日本人にはいないタイプの素晴らしい演奏家だと思いました。
惜しいのはフレーズの歌い回しや引き継ぎに、ややくどいところが散見され、このあたりがもう少しスマートに流れると演奏はもっと質の高いものになるように感じました。

アリス・紗良・オットもそうでしたが、この松田理奈さんもロングドレスの下から覗く両足は裸足で、やはり器楽奏者はできるだけ自然に近いかたちのほうが思い切って開放的に演奏できるのだろうと思います。

このコンサートで唯一残念だったのはピアニストで、はじめから名前も覚えていませんが、ショボショボした痩せたタッチの演奏で、ヴァイオリンがどんなに盛り上がり熱を帯びても、ピアノパートがそれに呼応するということは皆無で、ただ義務的に黒子のように伴奏しているだけでした。

そんな調子でしたが、ピアノ自体はそう古くはないようですが、厚みのある響きを持ったなかなか良い楽器だと思いました。
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変人の純粋

マロニエ君は世に言う「変人」という人達が、世間一般よりも嫌いではありません。もちろん変人にもいろいろありますから、その中のごく一部ということになるのかもしれませんが。

ある時にふと気が付いたのですが、いわゆる変人というか、ちょっと変わった人というのは、興味深いことに自分以外の変人には極めて冷淡な場合があるようで、これには驚きました。同性や、同じ職業の人の間に流れる緊迫感と同じように、変人同士というのは一種のライバルになるのでしょうか。

こういうことを書いて誤解されると困りますが、マロニエ君は中途半端な常識人よりは、却っていささかぐらいなら変人の方がウマが合う場合が少なくありません。
それはアナタ自身が変人だからでしょう!と言われてしまいそうですが。

変人というのは、人よりもどこか変わっているぶん、俗事に疎く、そのぶん純粋である場合があるということをマロニエ君は経験的に知り、ホッとさせられるものがあるのです。
悲しいかな現代人がなにかにつけ計算高く、人を無邪気に信頼できなくなっているこの時代、そんな中でいささか外れた道を歩んでいる変人には、却って正直で信頼に値する一面があるからだと思います。

尤も、この変人にしろ常識人にしろ、その定義は甚だ難しいので、ここはあくまでも自分の主観によって判じ分けているわけですが、とにかく個人的に苦手なのは平凡で食えない平均人です。
とはいっても変人にも程度問題というのがあって、お付き合いに支障が出るような御仁もいらっしゃいますから、そのあたりは到底マロニエ君の手に負えるものではありませんが、多少ならば純粋さの代償として無意識のうちにこちらのほうを好んでいると自分に気づきます。

では変人の特徴はどこにあるかということですが、まっ先にマロニエ君が単純素朴に思いつく要素は、人に合わせること、つまり協調の機能が弱い人ということになります。さらには、そのためにいろんな損もしている人ということでしょうか。
純粋ぶっていても、それを計算や演技でやっている人は、人一倍損得勘定に長けていて、決して損になるようなことはしませんし、そのあたりは逆に普通以上に用心深かったりしますが、天然の変人はそのあたりはまるでお構いなしで、見事に己の道をまっしぐらです。

これは信念や度胸があるからではなく、それしかできないからみたいです。

変人には変人なりのバラエティに富んだ特徴があり、とても一口に言い表すことはできませんが、困ったパターンとしては他者にめっぽう厳しいということがあるように思います。自分も変人のクセして自分以外の変人とは絶望的に相性が悪く、気持ちの上でも決して寛大さを見せてくれません。自分が出来ないことは多々あっても、自分が出来ることで人が出来なかったら、その批判や追求などは容赦ないものがあります。

このパターンは、思うに変人は変人故に、平生から常に人からハンディといえば語弊があるかもしれませんが、少なくとも相手の我慢によって支えられ、寛大に接してもらうことに慣れている場合が多いのですが、相手も変人となれば、普通の人のように特別扱いはしてくれないために、そこでなんらかの火花が散り、相手を敵視し、本能的に避けようとするようです。

動物が嫌いな人の中にも、このパターンを認めることができますが、動物(とくに犬猫)は、人間にハンディはくれませんし、それでも寛大に愛情深く接することが要求されますから、ある種の変人にこれができないのはなんとなく頷ける気がします。
吉田茂は犬が嫌いな人間とは口もきかなかったと言いますが、それもなるほどひとつの物差しだとはいえるでしょう。
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NHKの変化

金曜日のBSプレミアムで、旅のチカラ「“私のピアノ”が生まれた町へ ~矢野顕子ドイツ・ハンブルク~」という番組が放送されました。

ニューヨーク在住のミュージシャン、矢野顕子さんがニューヨーク郊外の「パンプキン」という名の自分のスタジオに、プロピアノ(ニューヨークにあるピアノの貸出業/販売の有名店)で中古でみつけたハンブルク・スタインウェイのBをお持ちのことは、以前から雑誌などで知っていました。

番組は、そのお気に入りのピアノのルーツを探るべく、ドイツ・ハンブルクへ赴いてスタインウェイの工場を尋ねるというものでした。ただ、なんとなく奇異に映ったのは、ニューヨークといえばスタインウェイが19世紀に起業し、有名な本社のある街であるにもかかわらず、そういう本拠地という背景を飛び越えて、敢えてドイツのスタインウェイに取材を敢行するというもので、ここがまず驚きでした。

また、あのお堅いNHKとしては、はっきりと「スタインウェイ」というメーカー名を言葉にも文字にもしましたし、番組中での矢野さんもその名前を特別な意味をもって何度も口にしていました。
このようなことは以前のNHKなら絶対に考えられないことで、ニュースおよび特別の事情のない限り特定の民間企業の名前を出すなどあり得ませんでした。とりわけマロニエ君が子供のころなどは、そのへんの厳しさはほとんど異常とも思えるものだった記憶があります。

例えばスタジオで収録される「ピアノのおけいこ」などはもちろん、ホールで開かれるコンサートの様子でも、ピアノは大抵スタインウェイでしたが、そのメーカー名は決して映しませんでした。とはいっても、ピアノはお稽古であれコンサートであれ、演奏者の手元を映さないというわけにはいきませんから、その対策として、黒い紙を貼ったり、スタジオやNHKホールのピアノにはSTEINWAY&SONSの文字を消して、その代わりに、変なレース模様のようなものを入れて美しく塗装までされていたのですから、その徹底ぶりは呆れるばかりでした。

さすがに最近ではそこまですることはなくなって、はるかに柔軟にはなったと思っていましたが、こういう番組が作られるようになるとは時代は変わったもんだと痛感させられました。

同じ会社でもハンブルクの工場は、ニューヨークのそれとは雰囲気がずいぶん違います。やはりドイツというべきか、明るく整然としていて清潔感も漂いますが、この点、ニューヨークはもっと労働者の作業場というカオスとワイルドさがありました。

番組後半では、創業者のヘンリー・スタインウェイの生まれ故郷にまで足を伸ばし、彼の家が厳寒の森の中で仕事をする炭焼き職人だったということで、幼い頃から木というものに囲まれ、それを知悉して育ったという生い立ちが紹介されました。
ヘンリーがピアノを作った頃にはこの森にも樹齢200年のスプルースがたくさんあったそうですが、今では貴重な存在となっているようです。

またハンブルクのスタインウェイでも21世紀に入ってからは、ドイツの法律で楽器製作のための森林伐採が規制されたためにニューヨークと同じアラスカスプルースに切り替えられたという話は聞いていましたが、ハンブルクのファクトリーでも「響板はピアノの魂」などといいながらも、アラスカスプルースであることを認める発言をしていました。

昔に較べていろいろ云われますが、スタインウェイの工場はそれでもいまだに手作り工程の多い工房に近いものがあり、その点、いつぞや見た日本や中国のピアノ工場は、まさに「工場そのもの」であり、楽器製作と云うよりも工業の現場であったことが思い出されます。

番組中頃で矢野さんがある演奏家の家を尋ねるシーンがありましたが、ドアを入ると家人が第二次大戦中に作られたという傷だらけのスタインウェイでシューベルトのソナタD.894の第一楽章を弾いていて、それに合わせて矢野さんがメロディーを歌うシーンがありましたが、そのなんとも言い難い美しさが最も印象に残っています。
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ホロヴィッツのピアノ

いまさら言うまでもありませんが、以下の感想はまったくマロニエ君個人の印象であることを、あらためて申し述べた上での感想です。

最近発売されたCDの中に、ホロヴィッツが初来日したときに持ってきたニューヨーク・スタインウェイを日本のさる会社が購入し、それを使って録音したCDがあります。
演奏は日本人の若い女性ですが、この人のCDは別の100年前のスタインウェイを使ったとかいうサブタイトルか何かに引き寄せられて一度購入して聴きましたが、二枚目を買うほどの気持ちにはなれないでいました。

しかし、今回のアルバムでの使用ピアノが、ホロヴィッツがステージでしばしば弾いたピアノそのものともなると、勢い興味の対象はそちらに移行してちょっと音だけでも聴いてみたいもんだとは思いましたが、それだけのために買う気にもなれないので諦めていたら、なんとそれが店頭の試聴コーナーに供してありました。

ほとんど買うつもりのないCDであっただけに、聴く機会もないだろうと思っていた矢先のことで、なんだか猛烈にラッキーな気になり、思わず興奮してしまいました。
興奮の種類にもいろいろあって、こんなみみっちい興奮もあるのかと思うと我ながら苦笑してしまいます。

結果から先に言いますと、まったくノーサンキューなサウンドが溢れ出し、とても長くは聴いてはいられないと思って、ササッといろんな曲を飛ばし聴きして、早々にやめてしまいました。
なるほどホロヴィッツの弾いたピアノであることはイヤというほどわかりましたが、演奏者が違うと、正直とても普遍的な好ましさがあるとは感じられず、ひどく疲れました。

あのピアノは、完全にホロヴィッツの奏法と音楽のための特殊なもので、それを普通のピアニストが弾いても、ただ下品でうるさくてメタリックな音が出るだけで、すごいとは思いましたが、魅力的とは感じられません。

ホロヴィッツのあの繊細優美と爆発の交錯、悪魔的な中にひそむエレガントの妙、常人には及びもつかないデュナーミク、そして数人で弾いているかのような多声的な表現が変幻自在になされたときに初めて真価を発揮する、極めてイレギュラーなピアノだというのが率直な印象。

こういうピアノも、なんらかの伝手と、チャンスと、お金があれば手に入れられるのが世の中というものかもしれませんが、こういう楽器を購入し、それをビジネスに供しようという考え自体がとてもマロニエ君にはついていけない世界のように思えてなりませんでした。
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やってしまった

マロニエ君はCDをよくネットからまとめて購入するのですが、他のものと違ってCDは発売間近であったり、輸入盤の場合は再入荷待ちといったような状況によく出くわします。

これがひどいときにはひと月ぐらい待たされることもあるわけで、届いたときにはこちらの気分もすっかり変わってしまっていることがあるものです。
さらには、その時期によって聴いている音楽にもマイブームがあって、ひとつの作曲家や演奏家のものを系統的・集中的に聴いているときに、それとはまったく関係のないCDが届いても、とても聴く気になれず、そのまましばらく放置してしまうことが珍しくありません。

マロニエ君はテレビのクラシック放送でもそうですが、録画をしておいて、こちらの気分が向いたときにしか観ようとは思いませんので、このブログでもひと月も前の放送に関して印象を書いたりすることがしばしばとなるのです。

こんな感じですから、未開封のCDもかなりあるわけで、ひどい場合は買ったことも我が家に存在していることも忘れてしまうこともあったりで、これが二重買いもととなり危険なのです。
何度もそんな経験をしているので、できるだけジャケットだけは印象に残しておこうとは日頃から思いますが、なかなか不徹底で、先日もまたやってしまいました。

サンドロ・イヴォ・バルトリの弾く、ブゾーニの対位法的幻想曲と7つの悲歌集で、表紙に肩肘を付いたブゾーニの写真をあしらった印象的なジャケットは覚えがあったのですが、それをマロニエ君はネットで見たものと思い込んでしまっており、天神で購入して帰宅したところ、なんか嫌なものが気に差し込んで、ガサゴソやってみるとなんと同じ物が箱の中から出てきました。

ちょうどワゴンセールで漁ってきたものなので、そんなに高いものでもないのですが、それでも同じ物を2枚買ってしまうというのは気持的に悔しいものですが、自分がしたことですから誰を恨みようもありません。

というわけで、ともかく聴いてみることに。
対位法的幻想曲は休みなしに34分ほどある大曲ですが、もともとは一時間半にもおよぶ長大な作品であったというのですから驚かされます。ブゾーニのピアノ曲としては代表作ですが、つかみどころのない曲想と、どこかグロテスクな彼の精神の錯綜が絶え間なく続く作品です。
2枚も買っておいて、こんなことを云うのもどうかとは思いますが、マロニエ君はどうもブゾーニの作品はあまり自分の好みではなく、いつも聴くたびに恐怖絵を見るような暗さを感じてしまいます。

7つの悲歌集のほうが、まだしも穏やかな表情もありますが、暗く陰鬱な音楽という点では変わりはありません。暗い音楽ならスクリャービンの方がよほど自分の趣味に適っており、ブゾーニは曲想とか精神がもうひとつ作品になりきれていないような気がして、聴く者は翻弄され破綻へと追い込まれていくようです。
ブゾーニは対位法に執着した作曲家だと云われますが、それよりはリストの影響の方が色濃く出ており、とくにリスト晩年の作を彷彿とさせるようなところが大きいように感じます。

これらの二つの作品を合わせて73分にも及ぶ演奏ですが、サンドロ・イヴォ・バルトリの演奏はこれらの曲を聴くには十分な技量を持った、とても優秀なピアニストだと思われました。
楽器も録音もかなり満足のいくものだと思います。
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東区にホールが

このところ福岡市東区の国道3号線、およびその周辺道を通ることが何度かありましたが、目を見張るのは、この一帯は昔が何であったのかさえすぐには思い出せないほど近代的な景観に生まれ変わって、高層マンションなどがいくつも出来ているし、周辺の道路も美しく整備されて、以前の面影はまったくないことでしょう。

中心になる2棟の大型高層マンションなどは、数年前までは工事費用の問題からか売れる見込み立たなかったのか、詳細は知りませんが、工事そのものが途中で頓挫して、半分ぐらい出来上がったコンクリートの外壁が、哀れな姿を晒していたものでしたが、その後工事も再開され、それを契機にその他のビルなども建築が進んで完成し、今ではちょっとした福岡の東の副都心的な様相を見せています。

福岡市はいつのまにやら東西に高層のマンションなどが数多く立ち並ぶ街になり、まさに市の両翼を支えているという印象さえなくはないようです。これに合わせるように周囲の道も次々に作られては運用が開始され、カーナビのソフトはいつも古いバーションになってしまうほどです。

さて、そんな東区香椎の新エリアですが、大型高層のマンション群の脇にはまだまだ手つかずの広大な地所があり、こんなところに新しいホールでも出来たらいいのになあと思っていました。しかし、それはマロニエ君の空想であり願望に過ぎず、実際にホールのような文化施設を作るには莫大な費用はかかるし、現在のような冷え込んだ音楽業界やコンサートの現状をみれば、とてもそれで経営が成り立っていくものでもないだろうし、まあ採算の取れるマンションやショッピング施設などしか建設計画には挙がらないだろうと思っていました。

ところが、あるとき楽器店の方から「あそこに」どうもホール建設の方向の話が進んでいるらしいとの情報がもたらされて急に嬉しくなりました。今はまだその広大な空き地はなにも手が着いていない状態ですが、すでに楽器メーカーのほうにはピアノの価格などあれこれの打診がなされているとのことで、ということは、あるていどの基本計画ぐらいは決まったのではないかと思ってしまいますが、果たしてどうでしょう?

福岡市内でも居住者の多い東部副都心部に文化施設ができるということは嬉しいことですが、ただし杞憂がないではありません。
東京でも紀尾井ホールや浜離宮朝日ホール、福岡でもアクロスなどができたのはいずれも1990年代の半ばで、この時期はバブル経済がはじけた後遺症を引きずりながらも、まだ世の中には、いいものを作ろうという余韻と志のようなものが関係者の心の中にはあって、作る以上は地域の誇りになるような一流の施設を作ろうじゃないかという気概のようなものがあったように思います。

それからほぼ20年余、時代の変転は想像以上のものがあり、マロニエ君は昨年県内に久々に新しくオープンしたホールに行ってみて、その露骨なまでの低コストも露わな簡素な施設にただただ驚き、唖然とさせられたのはいまでも強烈な印象となっています。
こういってはなんですが、文化施設というのは、もちろんエリアの人が気軽に利用できる要素も併せ持っていなくてはいけない面もあるとは思いますが、基本的には文化の象徴であり、地域の精神的な中心地であるような、つまり「良い意味であまり気軽ではない」という存在であってほしいと思うのです。

名前や建前は立派でも、実体はただの地元のコーラスの練習だの、アマチュアの便利なステージ、カルチャースクールの集合地のようになると、却って特定の人達の専有物のようになってしまうだけのようにも思います。もういまさら図書館などを併設しなくていいから、ここはぜひしっかりした、百年もつようなものをつくってほしいと思いますが…無理でしょうね。
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レオニダス・カヴァコス

少し前の放送だったようですが、録画していたNHK音楽祭2012から、ヴァレリー・ゲルギエフ指揮マリインスキー管弦楽団の公演をようやく観てみました。

プログラムはメシアン:キリストの昇天、シベリウス:ヴァイオリン協奏曲(ヴァイオリン:レオニダス・カヴァコス)、プロコフィエフ:交響曲第5番変ロ長調。

中でも、初めて観るヴァイオリン独奏のレオニダス・カヴァコスは、こういってはなんですが、見るからに陰鬱な印象で、長身痩躯で黒のチャイナ服のみたいなものを着ており、むさ苦しい髭面に長い黒髪、黒縁のメガネといった、なんとも風変わりな様子で、ステージに現れたときはまったく期待感らしきものがおこらない人だと感じました。

ところが静かな冒頭から、ヴァイオリンの入りを聴いてしばらくすると、んん…これは!と思いました。
あきらかにこちらへ伝わってくる何かがあるのです。
今どきのありきたりな演奏者からはなかなか聴かれない、深いもの、奥行きのようなものがありました。

とりわけ耳を奪われたのは、肉感のある美しい音が間断なく流れだし、しかも聴く者の気持ちの中へと自然な力をもって染み入ってくるもので、まったく機械的でない、いかにも生身の人間によって紡がれるといった演奏は、密度ある音楽の息吹に満ちていました。
演奏姿勢は直立不動でほとんど変化らしいものがなく、いわゆる激しさとか生命の燃焼といった印象は受けませんが、それでいて彼の演奏は一瞬も聴く者の耳を離れることがなく、ゆるぎないテクニックに裏打ちされた、きわめて集中力の高いリリックなものであったのは思いがけないことでした。

カヴァコスという奏者がきわめて質の高い音楽を内包して、作品の演奏に誠実に挑んでいることを理解するのに大した時間はかかりませんでした。

実を云うと、マロニエ君はシベリウスのヴァイオリンコンチェルトは巷での評価のわりには、それこそ何十回聴いても、いまひとつピンと来るモノがなく、いまいち好きになれなかった曲のひとつでしたが、今回のカヴァコスの演奏によって、多少大げさに云うならば、はじめてこの曲の価値と魅力がわかったような気がしました。こういう体験はなによりも自分自身が嬉しいものです。

しかし、この作品は、少なくとも1、2楽章はコンチェルトと云うよりは、連綿たるソロヴァイオリンの独白をオーケストラ伴奏つきでやっているようなものだと改めて思いました。
もちろんこういう作品の在り方もユニークでおもしろいと思いますし、なんとなくスタイルとしてはサンサーンスの2番のピアノコンチェルトなんかを思い起こしてしまいました。

カヴァコスのみならず、ゲルギエフ指揮マリインスキー管弦楽団もマロニエ君の好きなタイプのオーケストラでした。というか、もともとマロニエ君はロシアのオーケストラは以前から嫌いではないのです。

小さな事に拘泥せず、厚みのある音で聴く者の心を大きく揺さぶるロシア的な演奏は、いかにも音楽を聴く喜びに身を委ねることができ、大船に乗って大海を進むような心地よさがあります。
そのぶんアンサンブルはそこそこで、ときどきあちこちずれたりすることもありますが、それもご愛敬で、音楽を奏する上で最も大切なものは何かという本質をしっかり見据えているところが共感できるのです。

驚いたことには、マリインスキー管弦楽団の分厚い響きはあのむやみに広いNHKホールでも十分にその魅力と迫力を発揮することができていたことで、これにくらべるとここをホームグラウンドとする最近のN響などは、とにかく音も音楽も痩せていて、ただただ緻密なアンサンブルのようなことにばかり終始しているように思われました。

ソロの演奏家も同様で、力のない細い音を出して、無意味にディテールにばかりにこだわって一貫性を犠牲にしてでも、評論家受けのする狭義での正しい演奏をするのが流行なのかと思います。
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猫足

このところ、ちょっとしたきっかけがあって中古のアップライトピアノのことをネットであれこれ調べていると、やはりここにもいろいろな事実があるらしいことが少しずつ分かってきたように感じます。

当然ながら主流はヤマハとカワイで、比較的新しいピアノが中古市場に出回っているようですが、ひとつハッキリと発見したことは、少なくとも黒が限りなく当たり前のグランドに較べると、色物というか、いわゆる木目調ピアノの占める割合がアップライトのほうが遙かに高いようです。

サイズはいろいろありますが、アップライトの場合は床の専有面積はどれもほとんど変わりませんから、もっぱら背の高さの違いということになり、マロニエ君だったら当然響板も広く弦も長い最大サイズの131cmを選ぶでしょうが、なぜか小さいものが人気だったりと不思議な世界です。逆に言うと、アップライトで敢えて小さいサイズを購入される方というのは、どういう基準でそうなるのか知りたいところです。

そんな折、遠方からピアノのお好きな来客があったので、ある工房に遊びに行きましたが、そこのご主人の話はマロニエ君にとってはまったく思いもよらない意外なものでした。

とりあえずアップライトに限っての話ですが、いわゆる「猫足」という例のカーブのついた前足を持つピアノが断然人気があり、そのぶん値段も高くなるのだそうで、これにはもうただビックリ。
マロニエ君はあくまで個人的な好みとしてですが、あのアップライトの猫足というのはまったくなんとも思わないといいますか、まあもっとハッキリ言ってしまうとむしろ好きではないですし、そうでないストレートな足のほうが凛々しくスマートで好ましいと感じます。

とりわけ昔ヤマハにあったW102という、アメリカン・ウォルナット/ローズウッドの艶消し仕上げのモデルなどは、数少ないマロニエ君の好みのアップライトなんですが、ここのご主人にいわせると、このあたりも猫足でないために値段は少々安めとのことで、その価値観には驚愕するしかありませんでした。

唐突ですが、マロニエ君はマグロのトロなんかが大の苦手で、大トロなど見るのもイヤ、あんなギラギラした脂のかたまりみたいな身なんかだれが食べるものかというクチで、食べるのは赤身かせいぜい程良い中トロまでですが、世の中の好みと、それに沿った価格差はまるで合点がいかないことを思い出してしまいました。

猫足に話を戻しますが、あまり驚いたので人気の理由を聞くと、ひとこと「決めるのはたいてい奥さんだから」なんだそうです。…。
ということは、あの猫足は、よほど女性のお好みということなのかもしれませんが、女性にとって猫足のどこがそんなにいいのかマロニエ君はまったくわかりません。

それに対して、グランドの猫足は別物という気がします。
グランドの場合は、バレリーナのように、三本の足がそのままデザインの大きな要素を担っており、あの特徴的なボディのカーブとも相俟って、いわばピアノ全体の佇まいを決定します。猫足ピアノの多くは、それに合わせてそれ以外の部分も細やかな手が入れられ、ときに細工や彫り物まであって、たしかに独特の優雅さを醸し出しているので、これを好むのはわかります。

しかし、アップライトの場合、基本はほとんどデザインとも言えないような鈍重で無骨な四角い箱であり、そこへ鍵盤がせり出しているだけ。その鍵盤の両脇から下に伸びる小さな足だけがちょっと猫足になったからといって、それがなに?と思いますが、まあそれでも価値がある人にとってはあるのでしょうね。
しかも、それだけで中古価格まで違うのだそうで、ときに格下のピアノが猫足という理由だけでワンランク上のピアノの価格を飛び越すこともあるというのはまったく呆れる他はなく、それが世に言うお客様のニーズというものかとも思いました。

ニーズがあれば相場も上がるというのは世の常なのでしょうが、しかし…いやしくもピアノであり楽器であるわけですから、色やデザインも大事なのはもちろんわかりますが、やはり第一には音や楽器としての潜在力を優先して選びたいものです。
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ゴミ袋

先日、物置の整理をしているということを書きましたが、大半は市の指定によるゴミ袋に入れて回収日に出すということをひたすら繰り返しています。

大中小あって、45Lというのが一番大きなサイズで、これはどこで買っても一切の値引きも無く450円、つまり一枚45円也の袋です。実にくだらないことですが、この袋を二重(中の袋は普通の市販のもの)にして強度を増し、できるだけ中のゴミを圧縮しながら、できるだけたくさん詰め込むことに一種の楽しさを覚えてきました。

不思議なもので、努力をすればするだけたくさん詰め込めるし、要領も良くなり、出来上がったときには袋全体がまるでオバQのような様相となります。
ささやかながら、なんでも凝り性なところのあるマロニエ君としては、次第にコツが掴めてきて、底のほうに置くものやその形状、入れ方の工夫なども次々に思いついて、我ながら実にセコくてバカバカしいことだと知りつつも、変にこの作業を挑戦的な気分で没頭するようになってきました。

次から次ぎに作っているうちにテクニックも上がるし時間も早くなり、何事も練習というのは本当だなあ…なんて感心しながら、それにしては肝心のピアノはどうして上手くならないのかと思ったりしながら。

それもこれも、ペラペラのゴミ袋が一枚45円もすることに一種の抵抗心が芽生えて、できるだけたくさん詰め込むことで、自治体の思惑にせめて抵抗してやろうという反抗心もあるのです。そうやって詰め込まれたゴミ袋はいよいよ肥大化し、回収日に外に出すのがちょっと恥ずかしいぐらい極限まで成長していきました。
それだけ詰め込み方の手際が上がったというわけです。

そんなある日、おやつを買いに行こうと車に乗ったのですが、このところあまりに同じ店でばかり買っていたので、美味しいけれどもいささかその店の味にも新鮮味がなくなっていたので、その店の目と鼻の先にある、もう一件のお店に行ってみることにしました。
数年前のオープン当時一度買ったことがあり、そのときの印象はイマイチだったものの、もう一回ぐらい買ってみようかという気になり、その日は敢えてそちらの店で買いました。

果たして、陳列ケースを見たとたん、あ、大したことないな…と直感しましたが、もう店のドアは開けて中に入ってしまったことだし、自分のことをかわいいと思っているようなお姉さんが、すかさず奥から出てきて「いらっしゃいませぇ!」とえらく高い声を出してしまった後でしたから、この場は諦めてとりあえず4個ほど買ってみました。

帰宅するなり食べてみると、予想以上になんてことないもので、家人にもまったく不評でした。サイズも小ぶりで、味も単調、ハッキリ言って大失敗。もう金輪際行かない店という認識を自分の中に刻みました。
同時に、ふと、ゴミ袋のことを思い出しました。

こんなしょうもないケーキが、あの10枚入りの指定ゴミ袋とほとんど同額だなんて、到底納得できないし、磨き上げた詰め込みテクニックが、とめどなくアホらしいもののような気がしてきました。
自分のやってきた努力が、出来の悪いケーキ1個によって無惨にも瓦解したようでした。
そういうわけで、せっかく磨いたテクニックですが、それもそこそこ使うことにして、ゴミ袋はもっと大胆にパッパと使うことに決めました。

…とはいっても、実際には大した差はないのですが、でも気分はかなりかわりました。
まあ、冷静に考えれば、あれだけのゴミをひとつ45円で処理してくれるのですから、考えてみればありがたいもんだと思い始めているこの頃です。
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物置の整理

このところ、暇を見つけては物置の整理をしています。
訳あってどうしてもこの場所にある夥しい量の荷物のすべてを一旦外に出さなければいけなくなり、初めは途方に暮れましたが、やむを得ず少しずつ整理をやっています。

よそのお宅のことは知りませんが、少なくとも我が家に限っていうと、物置というのは、必要な物を一時的に置いておく場所というよりも、大半は使うことのない、どうしようもないものをとりあえず置いておく、いつの日か必要になるなどと思いながら、長い年月をかけてただただ無意味に積み上げられ、多くの品々は時間と空間を食い尽くし、ムダと不便と不衛生を撒き散らすだけの場所だということをしみじみ感じてます。

整理といっても、要するに捨てる物を引っ張り出す作業が大半で、いかに無駄な物によって貴重ともいうべきスペースが惜しげもなく占領されていたかという愚かさを思い知らされる毎日です。

たしかに、中には昔なつかしい大切なものがあるのも事実ですが、そんなものは全体から見ればほんの一部にすぎず、大半は処分にも困るような品々が堆く積み上がっているにすぎません。
当然ながらゴミやほこりもあるわけで、このところ使い捨てのマスクと手袋はすっかり必需品になりました。

あらゆるものが物置という名の永遠の住処に移されて、時間と共に、その量は凄まじいまでに膨れ上がっていました。

実に種々雑多なものがありましたが、困るのはいただき物などに代表される未使用品などで、傷んでいないけれども、さりとて使うあてもないものです。古いというだけで新品もしくはそれに準じるようなモノをポンポン捨てるのも抵抗があり、もらってくれる人でもあるなら喜んで差し上げるのですが、そんな奇特な人もいないでしょうし、だいいち人にもらってもらうためにいちいち時間をかけ、人を呼んで意思確認などしていては整理自体がいつ終わるとも知れません。
やむなく、心を決めて潔く不要なものは処分するという決断に踏み切りました。

それでも一番困るのは、衣服だということも今回初めて知りました。
とりわけ亡くなった家族のそれは、自分の身内が直接身につけていたもので、覚えのあるものもあり、それを他の不要品と同様にゴミ袋に投下するのは精神的になかなかできることではありません。

でも、じゃあどうするの?となったとき、大げさにいうなら「この世に、これほどどうしようもないもの」もないわけです。
再利用の見込みなどまったくなく、客観的価値などさらさらないもの、それが個人の衣服類なんですね。

家人とも相談し、あれこれ悩みましたけれども、結論としては不本意ではあるけれども、それを言っていたらキリがないし、もうそれを着る人はもうこの世にはいないのですから、家族の思い出という名の下に、これ以上留め置くことは意味が無いという結論に達しました。

まあ、ひとたび決心して行動し始めるとそれほどでもなく、処分した後は却ってスッキリした気分になれたのは意外でした。
ある種の物や作品などは、故人の物でも保存することになんら問題はありませんが、いかんせん衣服というのはその点独特で、それ自体が主を失ってすでに死んでいるような気がしました。

これはもちろんマロニエ君の私見ですが、亡くなった人の衣服などを必要以上に取っておくことは、故人を偲ぶこととは似て非なる事のような気がしますし、むしろこういうものが家の中にどっさりあるほうが、ある意味では不健康という気もするようになりました。
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すぐれもの

日曜大工の大型店をうろうろしていると、思いがけないものが目に止まりました。

各種の磨き剤が集められた売り場では、普通の店には置いていないような各目的に応じたさまざまな専用品がズラリと並んでいますが、そんな中に『ピアノ 家具 木製品 手入れ剤』というのがあり、とくにピアノというひときわ文字がドカンと大きく描かれていて「ん?」と思わず手にとって見てみました。

「美しい艶を与え、汚れやキズから守る!」とあり、ピアノ専用品というわけではないらしく、用途は光沢塗装をした木製家具には広く使えるようなことが書いてあり、メーカーを見るとソフト99とありました。

ソフト99は各種のケミカルクリーニング剤を出している会社で、車のワックスやコーティング剤に興味を持った人なら、その名を知らない人はまずいないほどの名の通ったメーカーです。

歯磨きより少し小さいぐらいのチューブ入りで、価格も500円ぐらいだったので、これはおもしろそうだと思いましたし、なによりこんな偶然はただならぬことのようで、マロニエ君としては買わずに素通りするというような無粋な振る舞いはできないという、半ば義務感のようなものまで感じながら購入したのはいうまでもありません。

裏面の使用法を見ても、グランドピアノの鍵盤蓋のところを布で拭いているところを写した写真があったりと、やはりピアノ専用ではないにしても、メインはピアノ用のようで、その他の類似製品にも応用できるというもののようです。

柔らかい布でうすく塗りのばすと汚れが取れて艶が出るとあり、塗布後2〜3分後、よくからぶきして仕上げるように指示されています。さっそく指示通りに柔らかい布で塗りのばし、2〜3分後に拭き上げるとちょっとムラが出て仕上がりが思わしくありません。そこで、塗りのばして間を置かず、すぐに別の布(メリヤスシャツ)で拭き上げると、今度はものの見事にきれいになりました。

このように書かれた使用方法と実体の違いはよくあることで、マロニエ君は長年洗車に凝っていたのでこの手の応用は利くのですが、説明書にあるからといって「2〜3分後」にこだわっているときれいな仕上がりは望めないでしょう。

さて、仕上がりですが自然でやわらかな艶が出て、かなり好ましいものだと思いました。
だいたいこの手のつや出しは、艶がわざとらしくて下品になったり、塗りムラが出て施行が難しい場合も珍しくないのですが、この製品はその点ではなかなか上品な仕上がりで好感が持てました。
ちなみに製品名は「FURNITURE POLISH」ですが、ほとんど目立たないようにしか書かれていません。

主な成分はシリコンとワックスというごくオーソドックスなものですが、その配分がいいのか仕上がりはなかなかきれいです。マロニエ君は最近こそ使ったことはありませんが、昔はピアノメーカーが出しているピアノシリコンみたいなクリーニング剤を使っていましたけれども、これがもう、なかなか思ったようにならず、脂っぽいしへんなムラが出たりと却って嫌な気分になることが多かったために、その後はすっかり使わなくなり、車用のケミカル品を流用したりしていました。

マロニエ君の場合、この手の製品でポイントとなるのは、仕上がりの清楚な美しさと作業性の良さです。これですっかり印象を良くしたものだから、ヤマハなどのお手入れ剤も俄に試してみたくなりました。
が、いったんこの手のものを試し出すと、結局あるものすべてみたいな感じになる危険もあり、自分の性格が恐いので、よくよく考えた上でやってみるべきですね。
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入浴剤

お風呂の入浴剤にはいろいろあって、それぞれに能書きが書かれているようですが、マロニエ君は一度もまじめに読んだことはないし、たまたま目に入る文言の何一つさえも信じたことはありませんでした。

入浴剤は個人的にとくに好きでも嫌いでもなく、よって使ったり使わなかったり、ポリシーもなにもなく、まるきりいいかげんなものでした。入れる場合もいつも単なる思いつきでしかなく、強いていうならお湯に色が付いてそれが楽しいからという程度で、入れなくなるとまたずっと入れません。

さて、今期の冬は本当に寒さが厳しく、せっかく湯舟につかっても洗い場に出ればたちまち忍び寄る冷気にガクガクと身を震わせることしばしばでした。
さらに巷では「半身浴」なるものが身体に良いと喧伝され、これがさかんに推奨されるようになりました。昔のように首までどっぷりとお湯に入るというのは、むしろ健康によろしくないという尤もらしいお説が蔓延し、これといって定見のないマロニエ君もそうなのか…と思い、お湯の量をやや少な目にして肩が少し出る程度にしてみますが、冬場はやっぱりこれが堪えます。

そんな折、最近のことですが「半身浴はむしろ体に悪い」というような、このセオリーそのものを根底から覆すような新説まで出てくる始末で、あんなに悪だと決めつけられたメタボでさえ近ごろは良否がひっくり返され、本当はややメタボぐらいのほうが望ましいといった意見まであらわれ、もはや何を信じていいのかわかりません。
今は健康ブームが続いて久しく、それに関する情報も多すぎて錯綜しているというべきかもしれません。

半身浴にしたところが、そんなにいいと言われるわりには、テレビでよくやっている温泉巡りの類では、番組リポーターやタレント連中など、だれもそんなポーズを取る者はなく、いろんなお湯に入っては顔をゆるませ心ゆくまでくつろいでいるシーンしか目にしませんね。

何が真実なのか確かめようもない中、だんだん情報に踊らされるのもバカバカしくなり、要は常識の範囲内で、あるていど自分のしたいようにするのが賢明なような気もしてきました。

話が逸れましたが、このところのあまりの寒さに、入浴時に何かささやかでも対策はないものかと考えていた折、このところすっかり入れなくなっていて、存在すら忘れていた入浴剤を入れてみました。とくだん何かを期待していたわけでもありませんが、何か感じるものがあったのかもしれず、自分でもよくわかりませんがとにかく久々にこれを投入。
するとなんと、明らかに体の温まり方が違うのを体感してしまい、思いがけない効果にすっかり感激してしまいました。

それも特別な高級品などではなく、普通にホームセンターなどで売っているお馴染みのものにすぎません。他の効能については知りませんが、身体が温まるという点についてはたしかに体感できる効果があったので、それいらいすっかり癖になり、ちかごろは毎回欠かさず入れるようになりました。

そういえば、先日も実家に里帰りしていた友人から「使わないから」と箱入りの立派な入浴剤をもらったばかりなので、これは期待が持てると思うとひとりとほくそえんでいるところです。
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なかなか言えない

現代のような社会では、発言という点に於いて一見自由なようでありながら、実際は恐ろしく閉塞的で、まるで言論監視社会のような印象を受けることしばしばです。

聞こえてくるのは、何事も褒めておけば安全で間違いなしといわんばかりの言葉ばかりで、音楽評論などにもほとんど期待が持てません。もしも故野村光一氏のような人が現代に蘇って自分の感じたままの自由闊達な文章を書いたとしても、おそらく出版社がそれを受け容れないでしょうし、先の吉田秀和氏の逝去をもって、ますます音楽評論の世界も欺瞞という深い闇の中へ落ちていくような気がします。

マロニエ君は、ちかごろの音楽雑誌のコンサート批評などまったく一瞥の価値すらないと思っているのは、この分野も営業主義が跋扈していて、コンサートの有料広告を出すピアニストは出版社にすれば「ありがたいお客様」であり、後日のコンサート批評では決まって好意的な文章ばかりが並びます。これは言ってみれば、営業サイドからの暗黙のお返しのようなものだと解釈しています。

なるほど書く人の肩書きは音楽評論家となっていますが、編集方針に従わない人はライターとしてのお声はかからないという営業中心のシステムがしっかりと出来上がっていると推察できます。それを百も承知で有名無名のピアニストは、だから高い広告料を出し、有名雑誌誌上での「演奏会予告」と「好ましい批評」を二つ同時に買っているようなもので、その中からとくに好ましい部分を次のチラシなどに引用するという、持ちつ持たれつの関係となり、これはまさに嘘っぱちの世界です。

自分が普通に思うこと感じることを、生きるために決して言えない社会というのは人間にとってこれほど気詰まりなものはありません。
さる知り合いから「誰にも言えないから」ということでおかしなメールをもらいました。
マロニエ君はベートーヴェンを猛烈に好きなので同意はしませんけれども、一面に於いてこういう感じ方があるということはわかるような気もするし、理解はできます。
とても新鮮でしたので、ちょっとだけご紹介します。


誰も賛成してくれないかもしれませんが、わたしはベートーヴェンだけは嫌いです。

あの、「これが芸術だ」といわんばかりのリキみかえった音楽、聴いてて「カンベンして」という気分になります。

年末に必ず演奏される「第9」。あのくそまじめ風だけどなにいってるかさっぱりわかんない歌詞、なにこれ?ってかんじです。あんなもので「感動」するひとたちの気が知れません。まあ、お正月前の浮世離れした気分でバカ騒ぎしたいっていう程度ならそれもいいかっていうくらいです。あのメロディーもなんのへんてつもない間延びした音の羅列。お経みたい。

「運命」にしても、はっきりいって「くさい」。運命と戦って勝利に至る?そんな音楽聴きたくもない。

ワグナーも図体ばかりでかくて中身はからっぽ、という感じ。「指輪」なんて聴いても疲れるだけでなにも残らない。せいぜい「ワルキューレの騎行」とか、やけに威勢のいい音楽だな、っていう程度。そこだけ取り出せば、「地獄の黙示録」のバック音楽としてならよくできてると思う。
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許光俊氏の著書

許光俊氏の著書『世界最高のピアニスト』(光文社新書)を読んでいると、あちこちにこの方なりのおもしろい考察があり、たちまち読み終えてしまいました。

各章ごとに、世界で現在トップクラスで活躍するピアニストたちが取り上げられているのですが、最後の2章は「中国のピアニスト」と「それ以外の名ピアニストたち」という括りになっています。

当然ながらこの方なりの感じ方や趣味があり、マロニエ君も全面賛成というわけではなかったものの、許氏の書いておられることは概ね納得のいくものでした。

中でもラン・ランの評価などは大いに膝を打つものばかりでした。

ラン・ランの場合に限らず確かなことは、真の意味で優れたピアニスト・音楽家であるということは、入場券の料金や満席具合とはまったく一致しないということ、さらにはこの点(チケットの売れるピアニスト)と芸術家としての実力との乖離は年々悪化傾向にあるとさえマロニエ君は思います。
興行主からみればコンサートはビジネスなので、チケットの捌けるタレントであることは最良で、だからラン・ランなどは世界中どこでも満席にできるタレントは、チケット売りで苦労の絶えない音楽事務所からすれば神様のような存在なんでしょうね。

日本人にもその手の、本来のピアニスト・芸術家としての力量とはちょっと違ったところで話題を掴んだ人が人々の関心を呼び、チケットはいつも法外なほど完売になるというような現象をこのところ目撃させられています。

また、チケット問題でなく、人気のユンディ・リもレイフ・オヴェ・アンスネスもきわめて低評価でまったく同感。

おかしくて思わず声を上げそうになったのはアルフレート・ブレンデルについてでした。
マロニエ君はこの人が功なり名遂げて、最高級の称賛を浴びるようになったときから一定の疑問を抱き、この人の弾き方のある部分のクセなどは嫌悪感すら感じていたひとりだったので、この稿はとくに快哉を叫びたいほどでした。
一部引用。
『この人には、美的感覚が決定的に欠けていると思う。ダサいリズム、スムーズでない抑揚、汚い響き、とにかく悲しくなるほど感覚的に恵まれていない人だと思う。〜略〜 知的ではあるが肝心な音楽的才能がなかったのが彼の決定的な弱点だった。また、それに気づかぬ人が多いのが、クラシック界の不幸だった。』

この部分を目にしただけでも、この本を買った価値があったと思いました。

しかし、問題はブレンデルどころではない、少なくともマロニエ君などにはおよそ理解不能なピアニストが世界的にもぞくぞくと出てくる最近の傾向には戸惑いを禁じ得ません。
例えばカティア・ブニアティシヴィリも最近出てきた人ですが、美人で指はよくまわる人のようですが、どう聴いていてなにも感じられない。本当にそこになにもないという印象。
パッと見はいかにも情熱的な音楽をやっているような雰囲気だけは出していますが、音は弱く、いかにも疲れないよう省エネ運転で弾いているだけという印象。主張も言葉もなければメリハリもない、マロニエ君に云わせればまるで音楽的だとは思われないのですが、昨年も来日してクレーメルらとチャイコフスキーの偉大なトリオをやっていましたが、あんな名曲をもってしてもまったく退屈の極みで、耐えられずにとうとう途中でやめました。

以前もラフマニノフの3番など、やたら大曲難曲を弾くだけはスルスルと弾くようですが、本当にそれだけ。なんだかピアノの世界もだんだんスポーツ化してきているんじゃないかと感じますね。
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続・重めのタッチ

自宅のピアノのタッチが適度に重いというのは、とりわけピアニストには有効なのではないかとあらためて感じているところです。
ピアニストのピアノはアマチュアの愛好品とは違いますし、大抵は複数のピアノを所有していらっしゃる方が多いと思われますので、一台は専ら練習機としての位置付けであることも有効ではないかと思います。

そして練習用ピアノは日頃からやや重めにしておくほうが、現代のやたら弾きやすい軽めのピアノばかり弾いて、それが知らず知らずのうちに基準になってしまうのは何かと危険も増すような気がします。本番となれば楽器もかわり、柔軟な対応も迫られるわけですが、これが最終的には指の逞しさにもかなり依存する要素のようにも思うのです。

その点、少し重い鍵盤に慣れた指は、軽い鍵盤のピアノに接しても比較的楽に対応できますし、その余力でいろんなコントロールができるなど、結果的にある種の自信になったり、思いがけない表現やアイデアを試してみることさえできますが、逆の場合は大変です。
軽いタッチに甘やかされた指はいざというときなかなかいうことを聞かず、滞りなく弾き通すだけでも大変でしょうし、出てくる音は芯のない変化に乏しいものにしかなりません。

聞いた話ですが、ピアニストの中にはやたらと繊細ぶって、ほんの少しでも重めのタッチのピアノを弾くと「こんなピアノでは、ぼくは、手を壊してしまいそうだ…」などと大仰に云われる方もおられて楽器店の人を慌てさせたりするんだそうですが、いやしくもプロのピアニストで、その程度のことで手を壊すなんて、一体なにが云いたいのかと思います。
グレン・グールドが云うのならわかりますけど。

ピアニストという職業は、一般にどれぐらい認識されているかどうかはわかりませんが、端から見るより極めて苛酷な、心身をすり減らす重労働であり、これに要するストレスは並大抵ではないと思います。
基本的な体力や精神の問題、繊細かつタフな指先の運動能力、暗譜や解釈はもちろん、最終的にどういう表現をしてお客さんに聴いてもらうかという最も大切な課題など、書き始めたらキリがない。

少なくとも人間の能力の極限部分をほとんど削るようにしておこなうパフォーマンスであることは間違いないと思われます。そんな極限の場において、最終的に頼れるものは才能と練習しかないわけでしょう。

そういうときに、会場のピアノが弾きにくいなどの問題があるとしたら大問題ですが、ピアニストの辛いところはここで文句がいえないばかりか、お客さんにはいっさいの弁解無しに結果だけをキッパリ聴かせなくてはなりません。
そんなとき、ただ楽な軽いタッチのピアノでばかり練習していた指が頼りになるかといえば、マロニエ君はとてもそうは思えません。

また、こういうことを言うとすぐに誤解をする人が出てきます。
日頃から重いピアノでばかり弾いていれと、筋力的には逞しくなっても、繊細な表現ができなくなるとか、叩くクセがつくというものですが、それはとんでもない間違いだと思います。音楽に限りませんが、チマチマした小さいことばかりすることがデリケートなのではなく、必要とあらばどうにでも対応できる本物の力量と幅広さを持つことでこそ、真に自在な、活き活きとした、時に人の心を鷲づかみにするような演奏ができるのだと思います。

リヒテルやアルゲリッチは基本的に美音で聴かせるタイプのピアニストではありませんが、彼らがしばしば聴かせる弱音の妙技は人間業を超えたものがあり、それはあの強靱この上ない指の中から作り出されているものだと云うことは忘れるべきではないでしょう。

マロニエ君のような下手クソの経験では説得力もありませんが、タッチを重くしたピアノを半年弾いた後のほうが、自分なりによりレンジの広い雄弁な演奏をするようになったと(自分だけは)思いますし、繊細さの領域に限ってももっと気持ちを注ぐようになりました。
これは間違いありません。
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ヤマハの衝撃

日曜はヤマハの営業の方からのお招きで、新しいグランドのレギュラーシリーズであるCXシリーズのサロンコンサートがあるというので、これに行ってきました。
お馴染みのヤマハビルの地下のeサロンのステージ上には、いつものCFIIIにかわって、新型のC7Xが置かれていました。

ニューモデルの解説などがあるのかと思いきや、そういうものはなく、女性の方の簡単なご挨拶の後、宮本いずみさんという女性ピアニストが登場され、モーツァルト、ベートーヴェン、ドビュッシー、ショパンの名曲を弾かれました。

なんでも、この方はこちらの地元の方ではないようで、通常の演奏のほかに浜松で開発中のピアノの試奏も仕事としてやっておられる由で、演奏の合間にときおり挟み込まれる短いトークの中で、「このピアノには私の声も入っています」というようなことを言われていました。

このピアノの楽器としての感想/とりわけピアニストの演奏に関しては、マロニエ君はよく理解できないものでありましたので、今回は敢えてコメントは控えます。
ただ、コンサートのあとでピアノの中を少し覗いてみると、フレームをはじめ、内部の作りの巧緻な美しさにはいよいよ磨きがかかっていることは間違いなく、いかにも「日本の工業製品の作りの美しさ」という点では見るに値する出来映えだと思います。
良くも悪くも、昔の手作りピアノとは異次元の、高精度の極みのような作りは目にも眩しいばかりで、日本の技術力を見せつけられているようでした。


それよりも、終演後、営業の方から耳にした話は驚天動地な内容でした。
一階のショールームに立ち寄ってカタログなどをいただいていたときのこと、その営業の方は「ここも3月いっぱいです…」といわれ、マロニエ君は咄嗟にその意味が呑み込めませんでした。
ここはヤマハのビルで、博多駅前の一等地にあり、福岡のみならず西日本地区のヤマハピアノの一大拠点として長年親しまれた場所です。

問い返しなどをしながら、このショールームが3月いっぱいで終わりを迎えるということはひとまずわかったものの、てっきりどこかへ移転でもするのだろうかと思っていたら、そうではなく、ビル自体が売却され、代替のショールームを作る計画もないとのこと。
そのぶん教室などを、より充実させるなどの方策はとられるとのことですが、この駅前のヤマハのプライドともいうべき美しいショールームは、消えて無くなるということがようやくにしてわかり、大きなショックを受けました。

このショールームはとりわけグランドはいつ何時でも、ほぼカタログにあるフルラインナップに近いピアノがズラリと並び、九州におけるヤマハの大看板的スペースでした。
さらに地下にはこの日もおこなわれたように、コンサートや各種講演会など、音楽に関する使い勝手のよいイベント会場としても稀少かつありがたい存在でしたから、福岡およびその近郊の人達は、一気にこれらの場所までも失ってしまうことになるわけです。

今後は天神にあるヤマハが、ピアノでも中心的なショップになるようですが、なんとも残念としか言葉が見つかりません。
先の選挙では、自民党が大勝し、アベノミクスなどという言葉も飛び交うようになり、せっかくこれから好景気の兆しも見えてきたというのに、このヤマハの決断はあまりにも辛すぎるものです。
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重めのタッチで半年

先日は、今年始めて調律師さんがタッチの件で来宅されました。
といっても、あまり具体的なことはブログには書かないようにと釘を差されていますから、こまかいことは控えます。

この調律師さん、マロニエ君の部屋の『実験室』にも書いたように、我が家のカワイのグランドを実験室ととらえて、マロニエ君の出す無理難題をなんとか克服すべく、まったく画期的な方法を考え出してくださるありがたい方です。

繰り返しになりますが、ハンマーヘッドのフェルトの下の木部前後に小さな鉛のおもりを両面テープで貼り付けるというもので、タッチが慢性的に軽すぎた我が家のカワイの場合は1鍵あたり約1gのおもり追加をしたわけです。
この部分の重さの増減は、鍵盤側ではなんと5倍に相当するわけで、ハンマー側で1g重くなれば、仮にキーのダウンウェイトが46gのピアノであれば51gへと一気に増加するというものです。

この結果、タッチが重くなったことは当然としても、副産物として音色までかなり変わり、好き嫌いはあるだろうと思いますが、音にエネルギー感が増して非常に迫力のあるものになりました。単純に言うと張りのあるガッツのある音になったわけで、長年ヤワな、か弱い音色だったピアノが、一気にベートーヴェンまでを表現できそうな迫力を備えることになったことは大いなる驚きでした。

いま流行のブリリアントでキラキラ系の音が好きな人には好まれないかもしれませんが、昔のドイツ系ピアノのような(といえば言い過ぎですが)、はるかにガッチリとした、良い意味での男性的な音が出てきます。

それはいいとしても、さすがに一夜にしてタッチが5g重くなるということは、なまりきっていたマロニエ君の指にとってはほとんどイジメに等しく、まさに鉄のゲタ状態であることは以前も書いた通りでした。
とくに初めの2〜3日はハッキリ失敗だったと思うほど、弾く気になれない(というか弾けない)ピアノになってしまっていましたが、この施行をしたピアノ技術者さんのすごいところは、そういう場合の対処の事も十分考慮しての方策であることです。

というのは、鉛は小さく、ハンマーヘッドのフェルトすぐ下の木部の前後に強力両面テープで貼っているだけなので、元に戻したいときには、これを剥がし取るだけで特殊技術も何もないのです。素人でもすぐにそれができるということで、つまりピアノを一切痛めないというところが最も画期的な点(なんだそうです)。

人間とは不思議なもので、「いつでもすぐに元に戻せる」ということがわかると妙に安心して、もう一日もう一日とその鉄のゲタ状態で我慢して弾いていたのですが、ひと月も過ぎた頃からでしたでしょうか、あまりそういった苦しさを感じなくなり、指への抵抗感はさらに減少を続け、その後はまったくこれが普通になってしまいました。
あまりに「普通」になったので、まさか両面テープが剥がれて鉛が下に落ちたのではないかと思うほどまで自分にとって自然なものになったのはまったく驚くべき事で、「人間ってすごいなあ」というわけです。

この日、約半年以上ぶりにアクションが引き出されると、果たして件の鉛はひとつとして脱落することなく、きれいに健気にくっついていました。
善意に捉えると、それだけマロニエ君のようなしょうもない指でも、毎日の積み重ねによって間違いなく鍛えられ逞しくなるというわけです。
逆に、ピアノのタッチは軽い方が弾きやすいなんて目先のことばかりいっていると、しまいにはそのピアノしか弾けなくなるのみならず、ショボショボした芯のない打鍵しかできなくなるのは間違いないと思われます。

電子ピアノだけで練習している人の演奏で感じることは、とても努力はしていらっしゃるとは思うのですが、やはり深みとか表現の幅がとても小さいということです。これはご本人が悪いのではなく、道具の性能がそこまでのものでしかないから当然のことで、本物のピアノに移行した人でも、なかなかこの染みついたクセは直りにくいようです。それを考えると、とくに白紙から体が覚える子供にはぜひとも本物を弾かせたいもので、「まだ子供だから電子ピアノでも…」という発想はまったくわかっちゃいないと思います。
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衣類乾燥機

日本製品の品質がいいのか、我が家の使い方がよほどよかったのか(?)、そのあたりのことは不明ですが、長年使ってきた衣類乾燥機が年明け早々に、ついに最期を迎えました。

それも機械的な故障ではなく、ドアを固定するプラスティックのノッチが壊れたためにドアの開閉が困難になり、やむなく買い換えという運びになったのでした。
考えてみると、この衣類乾燥機は実に28年以上も我が家で働いてくれたわけで、いかにただの家電製品とはいえ、ここまで健気に働いてくれたら本当にお疲れ様という気分になるものです。

我が家の生活形態では衣類乾燥機はいわば生活必需品ですから、待ったなしで新しいものを購入する必要に迫られましたが、現在はドラム型の全自動洗濯機が主流のようで、その影響もあってか衣類乾燥機のみだと選択肢がそんなにはないようでした。
それでも、気分的にどうしても買いたくないメーカーもあるし、それを除外すると日立の製品になりますが、これまで使い続けた衣類乾燥機も日立製だったので、その点は難なくクリア、心情的に恩義さえ感じるくらいで、迷わずこれに決めました。

ネットで注文すると、日本中どこからでも二三日でサッと届くのは頭ではわかっていても、やっぱりすごいなあと思ってしまいます。

現物が届いてみると、想像以上の箱の大きさにまず恐れをなしました。
今どきは電気店からの購入でも、取り付け設置は当たり前という時代ではないので、自分で洗濯機の上部のスタンドに据え付けるつもりでしたが、箱から出すだけでも一仕事です。

同時に、古いほうの機械をスタンドから降ろさなくてはなりませんが、普段触れない部分には長い年月のほこりや乾燥時に出たワタゴミのようなものがでてきて、掃除をしながらの作業となります。
明らかに新しく買ったほうがサイズが大きく、スタンドに載せのも一苦労で、固定穴の位置などは合いません。とりあえずは仕方がないのでこのまま使うことにしましたが、これまでよりなんとなく圧迫感のある光景となりました。

さて、使ってみて驚いたのは、やはりこの手の電気製品は新しいものの方が、仕事の効率は遙かに高くなっているようで、乾くまでの時間がこれまでの半分近くになった気がします。

以前なら2時間前後は回しっぱなしだったのが、新しいのは1時間やそこらで機械は自動停止してしまいます。
それに「乾いたら自動停止」なんて機能も古い方はなかったので、適当に回していたわけですが、その分のムダもあったでしょうし、そもそも基本的な効率が相当違うようなので消費電力を調べてみると、最大時は同じのようですが、使用時間が異なるので一回あたりの電力消費がはるかに大きいものだったようです。

こうなると、冷蔵庫も新しいのはずいぶん省エネ設計だと聞きますから、俄に恐くなりました。
というのも、我が家はこれという正当な理由もないままに冷蔵庫が二つあり、二つあれば便利というだけのことでズルズルと両方使っていたのですが、古いほうはなんと30年以上前のものなのです。
こりゃあ、下手をすると新しいものを買ったほうが、僅か数年で購入額分ぐらいの電気代の差がでるということかもしれません。
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バーチャル

いつごろからのことだったか、「バーチャルリアリティ」という言葉がしばしば使われるようになりました。

いわゆる仮想現実で、マロニエ君も文字にできるほど正しい理解はできていませんが、おそらくはコンピュータの進歩でゲームなどの画面クオリティが飛躍的に上がり、臨場感の増した画面の中で自分が主役となり、そのリアリティあふれる高揚感を気軽に楽しめるようになったというようなことだろうと認識しています。
その出来映えがあまりに秀逸であるためか、人の精神にまで少なからぬ影響が顕れはじめ、ついにはそれら仮想と現実、疑似と真性の狭間がぼやけ、やがてそこを迷走する精神状態が引き起こす笑えない勘違いや、ひいては新手の犯罪まで多発するようになった記憶があります。

例えば、ジャンボ機を操縦できる本格的ゲームでこれに習熟した男性が、実機をも操縦できるという強い思い込みに発展、ついには本物のジャンボ機を乗っ取りクルーを殺害、自ら操縦桿を握り、ゲームと同様にレインボーブリッジの下をくぐり抜けるつもりだったのを、すんでのところで取り押さえられたというような信じがたい大事件があったこともありました。

そんなことを思い出させられたのは、知人から聞いたある地方でのピアノサークルでの様子でした。
ピアノサークルに参加する中にはそこそこ腕の立つ人もいて、ある程度の自信もあるらしいところまでは結構なことですが、でも、この人達はまぎれもないアマチュアであり、ピアノは余技として楽しんでいるものにすぎません。
ところが、場合によっては演奏会用ロングドレス持参でやってきて、演奏前には控え室でこれに着替え、まばゆいアクセサリーまでつけていざ演奏に挑むというのですから、その救いようのない勘違いには、さすがのマロニエ君もひっくりかえりました。

いっそのことコスプレマニアならまだ笑えますが、こういう人達はあるていど本気であるだけ変な怖さと耐え難い違和感があるわけで、大人のママゴトも、欲望と錯覚が高じてここに極まれりというところです。
マロニエ君に云わせれば、これも立派なバーチャルリアリティではないかと思います。

現代人は与えられた目先のルールにはえらく従順ですが、もっとそれ以前の、自分自身が備えるべきもの、つまり常識・良識から発する「分際」をわきまえるという本質を知ることがほとんど消えかかっているように思います。
法や規則に触れないことなら何をやってもいいという姿勢は、政治家や経済界が悪いお手本を示してきたように思いますが、いわゆる自由の濫費と解釈には大いに問題を感じます。

要するに、理屈じゃなく、自然にかかるべきブレーキというものがほとんど機能していない、否、そもそも始めから装備されていないといってもいいでしょう。

いまどきホールやそれに準じた会場を料金を支払って借り受けることは容易です。そのステージにドレス姿で現れて意気揚々と楽器を演奏するということは、なるほどどこにも違法性はないのでしょうし、善良な人間が自由に着飾って演奏を楽しんでいるという建前だけが一人歩きする。

しかも大抵の場合、マロニエ君の知る限りにおいては美の追求とは程遠い、別項に掲載している北米の読者さんも言っておられるように、ほとんど仮装行列に近いもので、こういうことを嬉々としてやろうとする、あるいはやりたいと感じる価値観や救いがたいセンスの無さに、やるせなさを禁じ得ません。

昔は、法だのルールだのというものの遙か以前の問題として暗黙のうちに「してはならないこと」というものがたくさんありましたが、今は崩壊していますね。
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笑っていない目

暮れにちょっとしたリフォームに関することを書きましたが、少しその後の続きのようなことを。

結局、マロニエ君の知人の紹介(あくまでも間接的な)ということで、とあるリフォーム会社とやらの女性社長が技術系の男性を伴ってやって来ました。

もちろんその社長とは初対面で、むこうはマロニエ君というペンネームも、ピアノとの絡みなどもまるで知らないし、ましてやこんなブログなんて見るはずもないので、まあ敢えて書きますが、これがなかなかの社長でした。

挨拶もそこそこにこちらの意向を伝えて、しばし雑談などをしたあと、直ちに現場の検分がはじまりました。この社長、何を頼んでも聞いても、決して作り笑顔を絶やさず、いかにも意識的な柔らかな口調で「はい、できますよ。大丈夫です。じゃあ○○しましょうね。」とこちらの意向を次々に受け容れながら、もうひとりの男性とも軽いやり取りを交わしながら、次から次へと現場を見て回っています。

それが一段落つくと、再びイスに座って楽しげに歓談して、適当なタイミングで帰っていきました。雰囲気でいうと、代議士の小池百合子さん風とでもいえばわかりやすいでしょうか。

「できるだけお安く願いたい」ということは何度も念押ししておきましたし、先方もそのことは了解したような応対でしたから、あとは金額の提示を待つだけです。ただマロニエ君としては、その社長の目がずっと気になっていました。
…なんというか、パッと見た感じはいかにも爽やかで優しげ、時にはこちらのことを思いやってのようなフレーズもしばしば口にしながら、いかにも良好な歓談が交わされましたが、彼女の目には常にビジネス人間としての自意識が漲っており、心の内側で決して踏み外さない一線を保っているのがミエミエでした。

どんなに笑っても、真から笑っていないし、どこか常に冷めてことは自慢ではありませんがマロニエ君は見逃しませんでした。帰られた後にそのことを云うと、同席したあとの二人は「そーお?」という感じでしたから、だれにもバレバレというものでもないようです。

それから一週間を過ぎたころ、見積書とやらが大きな封筒に入れられて恭しく送られて来ました。
果たして、何枚もの書類が束ねられ、むやみに項目が多いことに加えて、最終金額はこちらの予想を遙か彼方へ吹き飛ばすような無遠慮な数字がドカンと記されていました。
本来ならもっと驚いたかもしれませんが、マロニエ君はその社長の人物観察を通じて、ある程度こんな結果が出るのではないかという予想をしていたので、それほど驚倒はしませんでしたが、まったく大胆というべき数字でした。

呆れて、しばらくはそのあたりに放り投げておきましたが、後日詳細を見てみると、その見積がいかに巧みに書かれているかがわかりました。あまり具体的なことを述べるのは控えますが、例えば誰にでもわかりやすいクロス(壁紙)の張替代などは商売気なんかありませんよ!と言わんばかりに安く書かれているのに対して、ほとんど意識にものぼらないようなちょっとしたことなんかが、ケタがひとつ違うのではないかと思うほど高かったりの繰り返しでした。
つまり素人に安さがすぐ比較しやすいものに関しては激安にしておく一方で、そうではないものに関しては思い切りよく高額な数字がこれでもかと並んでいます。

よくいえばメリハリがきいているということかもしれませんが、今どきの情報化社会であっても、リフォームの世界は要注意分野というか、よほどこちらがしっかりしていなくてはいけないジャンルだというのが率直なところでした。
まあ男でもどちらかといえば荒っぽいハードな世界とでもいうべき建築関係の会社を、そう歳でもない女性が社長として切り盛りしてやっているのですから、そのしたたかさたるや並ではないようです。そのへんの甘ちゃんとは異次元の猛者なのだということがよくわかりました。

まあ、見積はあくまでも見積であって、依頼するかどうかの意志決定はこちらが握っているわけですが、要はこの世界、努々油断はできないということのようで大変勉強になりました。
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らららのピアノ特集

先日のNHK日曜夜の「らららクラシック」ではピアノ特集第2弾というのをやっていました。

番組では、現役のピアニストをいくつかのグループに分け、それぞれの特徴に合わせながら紹介していくという趣向でしたが、トップバッターは「圧倒的技巧グループ」というもので、演奏技術の極限に挑み続けるピアニストだそうで、ここで紹介されたのはロシアの格闘技選手みたいなピアニスト、デニス・マツーエフと、もうひとりはなんとピエール・ロラン・エマールということで、いきなりこの「なぜ?」な取り合わせに絶句してしました。

エマールはむろん大変な技巧の持ち主であることに異論はありませんが、かといって圧倒的技巧が看板のピアニストだなんてマロニエ君は一度も思ったことはありません。出だしからして番組に対する信頼を一気に失いました。

次は「知的洞察グループ」で、楽譜の研究を徹底的におこない、定番の作品にも新たな光りを当て観客にも発見の喜びをもたらすということで、ここではアンドラーシュ・シフひとりが紹介されていました。
この人選はなるほど間違いではなく、少し前ならブレンデルなどもこの範疇に入るピアニストであったことは間違いないでしょうね。むしろエマールはこちらに分類すべきだったとも思いますし、内田光子やピリスもそのタイプでしょう。

さらに次は「独走的独創グループ」で、伝統にとらわれず独自の音楽を作り上げ、観客に未知の世界を体験させるということでは、なんとラン・ランとファジル・サイが紹介されました。
サイには確かにこの括りは適切で大いに納得できますが、ラン・ランとは一体どういう判断なのかまったくわかりませんでした。彼の音楽に独自性なんてものがいささかなりともあるなどとは思えませんし、雑伎団的な目先の演奏で人を惹きつける点などは、せいぜい技巧グループで十分でしょう。また現存するこの分野の最高峰といえばマルタ・アルゲリッチの筈ですが、彼女の名前すら挙がらなかったのは到底納得できませんでした。ソロをなかなか弾かないというハンディはありますけれども。

次は「コンクールの覇者」ということで、ショパン・コンクールの優勝者であるユリアンナ・アヴデーエワとチャイコフスキーの覇者であるダニール・トリフォノフが紹介されました。
アヴデーエワの弾く、リスト編曲によるタンホイザー序曲は何度聴いても実に見事なものでしたが、トリフォノフには演奏家としてのなんら指針が見受けられず、このときの映像でのこうもり序曲は、ただの指の早回し競争みたいでテレビゲーム大会に興じる子供のようで、マロニエ君にはまったく感銘を受ける要因が皆無でした。

ちなみに、ファイジル・サイは数年前の来日時にNHKのスタジオで収録されたムソルグスキーの展覧会の絵の終曲が紹介されましたが、逞しい体格と、余裕にあふれたテクニック、すさまじいエネルギー、確信的な音楽へのアプローチなどは他を寄せ付けぬ圧倒的なモノがあり、この強烈さは、ふと在りし日のフリードリヒ・グルダを彷彿とさせるような何かを感じたのはマロニエ君だけでしょうか。
彼はNHKのスタジオにはたくさんあるはずのスタインウェイの中から、おそらくはディテールなどから察するに1970年代のDを弾いていましたが、現代のそれに較べると、明らかにイージーな楽器ではない厳しさと暗めの輝きがあり、こういう力量のあるピアニストはこういう楽器を好むのだろうという気がしました。

最後は昨年のポリーニの来日公演から、ベートーヴェンのop.110が全曲流れましたが、これについてはすでに何度も書いていますので割愛します。
また、メインゲストであった中村紘子さんのトークもあいかわらず健在で、番組冒頭で「これまでに何人ぐらいのピアニストを聴かれましたか?」という司会者の質問に「そうですね、数えたことがないんですが、1万までは行かないと思いますが…」すると司会者が「7、8000人は優に超える」「そうですね」という珍妙なやりとりがあり、なーんだ、ちゃんと数えてるじゃん!と思いました。

この日は、不思議なほど登場するピアニストに女性や日本人の名前が挙がらなかったのは、何かが影響したからだろうかと感じた人は多かったか少なかったか…どうでしょう。
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古紙回収

我が家には仕事の関係上、古い書籍や雑誌が少なからずあるのですが、とくに客観的価値のあるものでもなく、いつかその整理をしなくてはと思いながら、ずるずると先延ばしになっていました。

最大の理由は、単純明快にまず面倒臭いということでしょう。
引っ越しや何かで、半ば強制的にやらされれば面倒臭がっている暇もないかもしれませんが、これを任意でやるというのはマロニエ君のような人間にとっては生半可なことでは着手できません。

とくに先代から受け継いだものなどがある場合は、よけいその傾向が強まります。
そんな中でも毎年自分で避けてきた時期としては、湿度や暑さにめっぽう弱いマロニエ君としては梅雨から夏場にかけてだけはやりたくないので、やるときは冬だと決めていました。で、この冬は少しその覚悟をしていたのです。

いっそなにもかもというのなら話はまだ単純ですが、手放す(捨てる)ものと残すものを選別することからはじまるのが煩わしくも悩ましい点です。

といってまた先延ばしにしていてもキリがないわけですが、あるとき回覧板に町内の「古紙回収日」と大書された文字が目に留まり、ついにそれに合わせて一部でもいいのでやってみることにしました。

いまさら言うまでもないことですが、紙というものは量が集まると、盛大に場所を取り、凄まじい重量にもなって、とてもじゃありませんが安易な気構えでは太刀打ちできる相手ではありません。
とりわけ古い書籍になると、その価値をどう見るかによっても判断は大きく影響されますし、それだけでなく個人的な思い出などが絡んでいる場合もあり、捨てる行為も大変なら、それと並んで捨てる決断をすることは非常に精神的な作業でもあると思いました。

尤もこれは本だけの問題ではなく、家にあるあらゆるものに共通することなのかもしれません。
マロニエ君は個人的な好みでいうと、モノを「捨てられない人」と「なんでも捨ててしまう人」、この両極端はハッキリ言ってどちらも嫌いです。
両者共に大いに言い分はあるのだろうと思いますが、それぞれが自分とは体質的に相容れず、あくまで程良いことが理想だと思うのです。もちろんマロニエ君がこの点で自分は常識派だと主張するつもりはありませんが、なんでももったいないといってモノの山をつくるのは真っ平ゴメンですし、逆に必要最小限のモノしか置かず殺風景の極みのような寒々しい空間にして、自分こそは賢いエコの実践者のような顔をしているタイプも甚だ苦手です。

というわけで、今回はとりあえず、どう考えても、今後も見ないだろうし先々でも要らないと思われる本を処分することにしました。といっても本来的には本を捨てるという行為は非文化的であまり好きではないのですが、まあそんな理想論ばかりもいっていられませんから、やはりどこかで一線を引く必要があるのも現実です。

果たして数百冊におよぶ本をゴミ回収のトラックに積むことになりました。
古本買い取りなども近ごろは盛んなようですが、聞くところでは労苦のわりには憤慨だけが残るような買い取りしかされないらしく、とくにマロニエ君宅には専門書関係が多いのでとてもそういう対象とも思えませんでしたし、要らないなら潔く古紙回収に出す方がマロニエ君としてはよほどせいせいするような気がしました。

で、実際に車のトランクの2杯ぶんぐらいを持っていきましたが、めでたく「せいせい」しました。
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丘の上のバッハ

福岡市のやや南にある小さなホールで現在進行中のシリーズ、バッハのクラヴィーア作品全曲演奏会第2回に行ってきました。

会場はもはやお馴染みの感がある日時計の丘ホールで、ここには1910年製の御歳103歳のブリュートナーが常備されていることは折に触れ述べてきた通り。バッハといえばライプチヒで、そのライプチヒで製造されるブリュートナーでバッハを奏するということには、明瞭かつ格別な意味があるようです。

演奏者はこのシリーズをたったお一人で果敢に挑戦しておられる管谷怜子さんで、この日は平均律第一巻の後半、すなわち第13番から第24番が披露されました。

いつもながら安定感のある達者な演奏で、癖がなくのびやかに音楽が展開していくところは、管谷さんの演奏に接するたびに感じるところです。いかにも朗々とした美しい書体のようなピアノで、それはこの方の生来の美点だろうと思われ、非常に素晴らしいピアニストだと思います。欲を出すなら、バッハにはさらに確信に満ちたリズムと音運びがより前面に出てきてほしいところで、ややふわりとした腰高な印象があったとも思いますが、もちろん全体はたいへん見事なものでした。

それにしても、バッハの平均律を通して弾くということがいかに大変なことかという事をまざまざと見せつけられたようでした。そもそもピアノのソロが息つく暇もない一人舞台というところへもってきて、バッハのみのプログラムというのはさらにその厳しさが狭いところへ、より押し詰められているような気がします。

通常CDなどでは平均律クラヴィーア曲集はほぼ例外なく第一巻、第二巻ともに各二枚組(合計四枚)の構成となっており、ちょうどCD一枚ずつに振り分けたコンサートとなっていますが、いかに耳慣れた曲でも、コンサートで通して弾くチャンスというのはそうざらにあるものではなく、実際よりも体感時間が長く感じられたようで、本当にお疲れ様でしたという気になりました。

マロニエ君は幸運にも最前列の席で聞くことができましたが、ここのブリュートナーは聴くたびにその音色には少しずつ変化があるようで、この日はいかにもブリュートナーらしい、ふくよかさの中に細いけれども艶というか芯が入った音で、ときにモダンピアノであり、ときにフォルテピアノにもなる変わり身のあるところが、バッハという偉大な作品を奏でられることで楽器も最良の面を見せているようでした。

コンサートは17時開演。演奏が始まったときにはピアノの上部にある大きな正方形に近い採光窓から見る空は淡い灰色をしていましたが、休憩後の第19番がはじまるころには美しいコバルトブルーになり、その後演奏が進むにつれて濃紺へと深さを増していくのはなんともいえない趣がありました。
最後のロ短調の長いフーガが弾かれているころには、ピアノの大屋根とほとんどかわらないまでの漆黒へと変化していったのは驚きに値する効果がありました。
この空の色の変化を音楽の進行と共に刻々と味わい楽しむことができたのは、まったく思いがけない自然の演出のようで、受ける感銘が増したのはいうまでもありません。

この日は演奏者の管谷さんはじめ、ホールのご夫妻、ヤマハの営業の方や知人、以前在籍していたピアノクラブのリーダーとも久しぶりに会うことができ、しばし雑談などをすることができました。

日時計の丘は、ここ数年で広く認知され、福岡の小規模な音楽サロンとしては随一の存在になっていると思われますが、素晴らしい絵画コレクションにかこまれた瀟洒な空間は趣味も良く、音響も望ましいもので、至極当然なのかもしれません。
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アリス・紗良・オット

昨年のNHK音楽祭の様子が放送されていますが、13日は巨匠ロリン・マゼールの登場でした。
プログラムはベートーヴェンのレオノーレ第3番とグリーグのピアノ協奏曲、チャイコフスキーの第4交響曲というもので、ピアノは現在人気(らしい)アリス・紗良・オットでした。

マゼールはむかしマロニエ君の好きな指揮者の一人でしたが、さすがにずいぶんお年を召したようで、それに伴ってか、音楽にやや張りがなくなり(N響というこもあってか…)、テンポも全体的にゆったりしたものになっているようでした。

きっと開催者はじゅうぶんわかっているはずなのに、あえて音響の悪い巨大なNHKホールをこうしたイベントに使うのは、やはりそのキャパシティからくる収入面としか考えられませんが、あいかわらず音が散って散々でした。あそこは本来「紅白歌合戦専用ホール」というか、少なくともクラシックに使うのは本当に止めて欲しいものです。

アリス・紗良・オットはどちらかというとビジュアル系で売っているピアニストというイメージでしたが、トレードマークの長い黒髪をバッサリ半分ぐらいに切っており、なんとなく別人のようでした。
たしかに可愛いといえばそうなのかもしれませんが、いわゆるアーティストとしてのオーラのようなものは微塵もなく、とくに髪を切った姿はどちらかというとそのへんのおねえちゃんというか、せいぜい朝の連続ドラマの主人公ぐらいな印象しかマロニエ君にはありません。

それに、どうでもいいようなことですが、左右両方の指には無骨な指輪を1つずつ嵌めており、マロニエ君はピアニストでオシャレ目的のリングを付けるようなセンスはあまり好きではありません。
どうでもいいようなことついでにもうひとつつけ加えると、この日のオットはブルーのロングドレスの下から出た足はなんと裸足!だったということで、こちらはなんとなくその理由がわかる気がしました。革靴は微妙なペダル操作がラフになるのみならず、下手をするとズルッと滑ってしまうことがあるので、裸足ぐらい確かなものはないでしょう。

この日はNHK音楽祭ということで、ステージの縁は全幅にわたって花々が飾られていましたから、足の部分はそれに隠れて生では気が付かない人も多かったことと思いますが、カーテンコールの時にはわざわざカメラが裸足部分をアップしているぐらいでしたから、よほど異例のことだったのかも。
それにしても、足が裸足なのに指には左右リングというのもよくわかりません。

オットはそのスレンダーな体型に似合わず、手首から先はまるで男性のように大きく骨太な手をしています。メカニックもそれなりに確かなものをもっているようで、いわゆる技巧派的要素も備えているという位置付けなのかもしれませんが、残念なことにその演奏にはなんの主張も考察も情感も感じられず、ただ学生のように練習して暗譜して弾いているという印象しかありませんでした。

お顔に不釣り合いなガッシリした長い指には、指運動としての逞しさはありますが、肝心の演奏は彼女の体型のように痩せていて潤いがなく、音にも肉付きがまったくないと感じました。
オットには男性ファンが多いようですから、こんなことを書くと怒られるかもしれませんが、でも彼女は芸能人ではなくピアニストなのですから、そこは彼女の奏でる音楽を中心に見るべきだと思うのです。

これから先のピアニストが、可愛いアイドル的な顔をしながら難曲をつぎつぎに弾ければいいというのであればこのままでもいいのかもしれませんが、やはり最終的には演奏によって聴衆を納得させないことには長続きはしないだろうと思いましたし、またそうでなくてはならないとマロニエ君は強く思うわけです。

非常に残念だと思ったのは、第1楽章では硬さがあったものの次第に調子を上げてきたにもかかわらず、終楽章では老いたマゼールのちょっとやりすぎな大仰なテンポに足を取られて、ふたたびそのノリが失われてしまったことでした。
もしかしたらいいものを持っている人かもしれないので、もっともっと精進して欲しいものだと思いました。
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寒中洗車

マロニエ君はクルマ好きの洗車好きでしたから、若いころは暇さえあれば車を洗っていましたが、だんだんそうもいかなくなり、今では月に一度も車を洗うことなどありません。

年末年始もとうとう車は汚れたままで過ぎ去りました。
なにやかやで洗車する時間もないことと、天候も不順で、せっかく洗ってもいきなり雨では馬鹿馬鹿しいので、そんなことで自分の都合と天気の様子見ばかりしていると、洗車するきっかけなんて永久にやってこないような気がしていました。

それでも、さすがにもうそろそろと思ってみますが、このところの寒さと来たらただ事ではなく、給油の時にスタンドで洗車をしている人達を見るだけでも歯茎がガタガタいいそうで、とても自分が実行しようという気にはなれません。

マロニエ君が車の汚れでイヤなのはいろいろありますが、そのひとつがホイールがブレーキパッドの粉でだんだん黒くなってくること、もうひとつはフロアマットが汚れるというか、靴底に付いた小石やゴミなどでだんだんと床が散らかってくることです。

どうしてもガマンできなくなったときは、マットだけを外して、水を使わず硬いブラシでブラッシングすることでごまかしますが、いずれはていねいに掃除機をかけなくては解決しません。
とにかく、何をどういってみてもホイールは黒ずんでいるし、洗車をしないことにはどうにもならないところまで来ていたことは確かでした。

そしてついに決断のきっかけがやって来ます。
関東地方にその名も「爆弾低気圧」とかいうのが襲ってきて大雪をもたらし、首都圏が交通麻痺を起こしたその翌日、なぜか我が福岡地方は天気晴朗、天からはなにも降ってくることのない気配を感じたとたん、まるで発作的に重い腰を上げる決心がつきました。

夕食後、とうとう長い沈黙を破ってついに洗車を開始しました。
車の外気温度計によると外は4℃で、家の中でも廊下などは冷蔵庫みたいに冷え切っていますが、いったん覚悟を決めて洗車用の上着を着て外へ出ると、不思議なことにほとんど寒さらしきものも感じません。
それどころか、洗車が好きだった頃の感触がほんの少し蘇ってきて、かすかに楽しいような気分になるのはどうしたことだろうかと思います。

いざやってみれば、あれほどなにやかやと理由を付けてしぶり抜いていた洗車ですが、ひとたび着手すれば次々に作業ははかどり、車はみるみるきれいになるし、何の苦もなく片付いていきます。
やっぱり人間は気持ちひとつなんだなあと柄にもないことをしみじみ思います。

おそらく向かいにあるマンションの住人は、車の出入り口が我が家のガレージの真ん前にあるので、出入りするたびにこんな夜更けに洗車なんぞしていいる様子を見て、さぞ呆れているだろうと思いますが、実は本人は何の苦痛もないまま、むしろ嬉々としてやっているのですから、自分でも不思議です。

よくテレビで寒い中をわざわざ海中に入って気合いを入れるなど、見るからに心臓に悪いような映像がありますが、あれも当人達は余人が思うほど辛くはないのかもしれないと思いました。
洗車をした日は、2時間ほど休む間もなく動きまくるので適度な刺激と運動になるのか、いつもなんとなく爽やかな気分になれるので、こんなことならもう少し頻繁にやろうじゃないかと(そのときは)思うのですが、なかなかそれが定例化しないところが我ながら情けないところです。
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ジョン・リル

過日、NHKのクラシック倶楽部でジョン・リルの昨年の日本公演の様子が放送されました。

この人はベートーヴェンを得意とするイギリスの中堅どころだと思われますし、我が家のCD棚にも彼の演奏によるベートーヴェンのピアノソナタ全集がたしか一組あったはずです。

もう長いこと聴いていませんでしたし、これまでにもとくにどうという印象もなく、たしか格安だったことが理由でその全集を買ったような記憶があるくらいで、今後もおそらく積極的に聴くことはないでしょう。

ステージにあらわれたリルはもうすっかりおじいさんになっていましたが、イギリス人演奏家らしい良くも悪くも節度があり、際立った個性も強い魅力もない、まさに普通のピアニストだと思われ、それ故に彼の演奏の特色などはまったく記憶にありませんでした。そんなリルの演奏の様子を見てみて、やはりその印象の通りで人は変わらないなあ…というのが率直なところでした。

お定まりに、この日は最後の三つのソナタを演奏したようですが、テレビでは放送時間の関係でop.109とop.111の2曲だけが紹介されました。

決定的に何か問題があるわけではないけれども、とくにプラスに評価すべきものもマロニエ君にはまったく見あたりませんでした。技術的にも見るべきものはなく、CDを出したりツアーに出かけたりするギリギリのランクといったところでしょうか。

まず最も気になったのが、キャリアのわりに解釈の底が浅く、まるで表現に奥行きというものが感じられませんでした。これはとりわけベートーヴェン弾きとしてはなんとしても気になる点です。
さらには音の色数が少なく、表現にも陰翳が乏しくて、ただ音の大小とテンポの緩急だけで成り立っている音楽で、作品に横たわる精神性に触れて聴く者が心を打たれ、高揚するというようなことがほとんどありませんでした。

ただ、二曲とも、なにしろ曲があまりに偉大ですから、どんな弾き方であれ、一通りその音並びを聴くだけでもある一定の感銘というものはないわけではありませんが、しかしそこにはより理想的な演奏を常に頭の中で鳴らしている自分が確実にいるわけで、この演奏ひとつに委ねてその世界に浸り込むということは到底できないと思われました。

こう云っては申し訳ないけれども、とくに最後のソナタop.111では、どこか素人が弾いているような見通しの甘さがあって、この点は大いに残念でした。この曲はマロニエ君の私見では第2楽章がメインであって、第1楽章はそれを導入するための激しい動機のようなものに過ぎないと思っています。

第1楽章の最後の音の響きが途切れぬまま、かすかに残響している中に第2楽章のハ長調の和音が鳴らされたときには「なるほど、こういう解釈もあるのか」と一瞬感心されられましたが、その第2楽章の主題があまりにテンポが遅く、間延びがして、この静謐な美を堪能することができませんでした。
とくにこの楽章の冒頭ではリピートを繰り返しながら少しずつ先に進みますが、そのリピートが煩わしくて「ああ、また繰り返しか…」とダルい気がするのは演奏に問題があるのだと言わざるを得ません。

この主題は大切だからといってあまりに表情を付けたりまわりくどいテンポで弾くと、却ってそこに在るべき品格と荘重さが失われてしまうので、これはよほど心して清新な気持ちで取り扱うべき部分だと思いました。

「二軍」というのは野球の用語かもしれませんが、どんな世界にもこの二軍というのはあるのであって、ジョン・リルの演奏を聴いていると、まさにピアニストにおける生涯二軍選手という感じがつきまといました。
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