音楽の話

金曜夜はピアニストの望月未希矢さんが主催する「音楽の話」に参加しました。
全6回のシリーズで、今回で4回目とのこと。

会場は赤坂のベニールカフェという趣味の良い喫茶店で、今回はショパンを中心にした演奏と話でしたが、店内は所狭しと椅子が並び、それでも次々にお客さんがやって来るほどの盛況ぶりでした。

まずは簡単な挨拶につづいてノクターンを一曲演奏するところから始まり、ショパンの生い立ちに沿って、わかりやすく話がすすめられました。
ピアノ演奏のほかには、スピーカーを繋いだパソコンからの出力で、チェロソナタの第3楽章やフィールドのノクターン、あるいはショパンが愛していたベッリーニのノルマのアリアなどを聞きながら話が進みます。

ショパンの作風には歌謡性が濃厚ということで、それまでの古典派との作風の違いや和声の特徴なども語られて、なるほどという話をあれこれ聞くことができました。
しかもそれがお堅い勉強のようにならず、望月さんの穏やかなお人柄故だと思われますが、あくまでもサロン的な楽しみの延長として、参加者がこのような話や音楽に触れられるというのは、とても新鮮な感じを覚えました。

会場となったベニールカフェのサイズもちょうどよく、温かな雰囲気の店内に、望月さんを中心としたやわらかな時間が流れていて、とても心地よい1時間だったのが印象的でした。

欲を言うと、お客さんの作り出す雰囲気がどうしても硬くなりがちで、できればもう少しほぐれて自然な感じがあったらもっと良かっただろうと思いますし、そのほうが望月さんも話をしたりピアノを弾くにあたって、やりやすいのではないかという印象でした。
話や演奏をきくことに傾注するあまり、あまりにも一同が身じろぎもせず、かたく息を殺したようになるのは日本人がしばしば陥りがちな状況ですが、もう少しリラックスした気配が聞く側にもあると、さらに楽しさが増すだろうと思いました。
もちろんガヤガヤして、集中力が阻害されるようでは困りますけれども。

近年はトーク&コンサートというスタイルこそ盛んですが、実際はお客さんに媚びただけのつまらないトークを聞かせられることが圧倒的に多く、会場もホールではなかなかしっくりきません。
それなら、いっそこのような親密な空間で静かに珈琲など飲みながら、気負わずに生の音楽に触れるというのは、これこそまさにコンサートホールではできないことで、意外にありそうでなかったスタイルじゃないかと思いました。

望月さんは演奏や音楽に対する造詣が深いのはもちろんですが、お若いのに、奇を衒ったところのない非常にまっとうな日本語を使われる方で、自然体で、ものの感じ方や考え方なども非常に共感を覚える点があるのですが、最近ではむしろ珍しい部類の方といえるかもしれません。

さて、このシリーズは同じ会場で毎月第3金曜日に行われており、3月はドビュッシー、4月は最終回で武満徹とビートルズだそうです。
http://www.mikiyamochizuki.com/blog/
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安城家の舞踏会

山田洋次が選ぶシリーズで『安城家の舞踏会』というのを観てしまいました。
原節子、森雅之、滝沢修などが出演する、終戦後の没落貴族の黄昏れの様子を描いた映画で、当時はそれなりの話題作だったようです。

戦後に平和憲法が発布され、民主主義の名の下にそれまでとは打って変わった平等の世の中が打ち立てられ、それを前にした貴族の悲哀。収入も途絶え、住み慣れた広大な家屋敷を維持することもできない一家は、それぞれの捉え方によって新しい時代といかに折り合いをつけていくかという現実に直面しながら、最後の舞踏会を催します。

その招待客の中には、ヤミ会社の社長で、屋敷を抵当に金を貸している男も含まれていますが、舞踏会の裏で安城家の当主は屋敷を手放すことが耐えられずに哀願を続けますが、この社長はこの屋敷はもはや自分のものだと言って相手にもなりません。

この男は昔、安城家に世話になった過去もあり、その点でも当主は翻意を必死に訴えるのですが、旧秩序の崩壊と時代の流れで世の中の価値は一変し、そのような過去などなんのその、まったく相手にされません。

また、長年この家の運転手として仕えていた男が裸一貫から商売をはじめて財を成し、昔の主家を買い取ろうとするなど、見方によってはこの終戦の時期というのは戦国時代以上の下克上ともいえるようです。
こういう混乱をかいくぐった末に今日のような時代が到来したのだということが偲ばれました。

そんな中、無気力に生きる安城家長男役の森雅之はいつもだらしなくタバコをくわえ、何事にも無気力、厭世的になり、暇さえあればピアノを弾いていました。

ショパンのエチュードやプレリュードを形ばかり弾いていましたが、密かに遊ばれている女中が、長男の冷淡さに業を煮やして、人目がないのをいいことに、いきなり演奏中のピアノの鍵盤に飛び乗ってお尻をのせつつ気を惹こうとするシーンなどは、当時としてはよほど大胆な演出だったのだろうと思いますが、今の目で見るとあまりにも滑稽で笑ってしまいました。

古い映画というのは、その時代を偲ぶ手がかりにもなって面白いものですね。

いつの時代も、時代が変わることによって、それまで当たり前だとされていた事柄が、そうではなくなるというのは、良いことも多いのかもしれませんが、同時に様々なかたちで計り知れない悲劇も生み出すものだと思いました。

この映画は終戦後わずか2年の、1947年の9月に封切られており、当時は貴族といわず、このような現実がごろごろしていたものと思われます。
世の中がひっくり返るというのは、何にしても大変なことですね。
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発火

最近はマッチを使うなんてことはほとんどない時代になりました。
もはやマッチそのものがないという家庭も多いことだろうと思います。

ところが、へんな言い方ですがマロニエ君はこのマッチというのが嫌いじゃないんです。
というよりも、あのカチッと音のする100円ライターの感触が嫌いだし、ましてや昨年の夏でしたか、規制がかかっていらいますます固くて指に負担がかかり、ちょっと使う気にもなれません。
ちなみにマロニエ君はタバコは吸いませんからこれに使うわけではないのですが…。

ごく平均的日本人と同様で、我が家には宗教心といえるようなものはありませんが、それでもいちおう先祖の仏壇がありますから、ごくごく習慣的にこれを毎朝お線香を立てて拝む真似事のようなことだけはやっています。

そんなことで、マッチを使う機会というのは我が家に限っていえば、まだ少し残っていて、いまだに使っています。

さて、そんなマッチですが、先日びっくりすることがおこりました。
箱から一本取り出して、先に箱を閉めようとした瞬間、どうやらマッチ棒先端の火薬が箱の脇に接触したらしく、いきなりマロニエ君の指の中で着火してしまって、ワッと激しい炎があがりましたが、それはたかだかマッチ一本とは思えないようなものすごい爆発的とでもいいたいような迫力でした。
反射的にそのマッチを放り出してしまいましたが、お陰で左手の中指の右側にほんの小さな火傷をしてしまいました。

自分でもゾッとしたのは、着火した瞬間の強くて勢いのある火力だったせいか、その刹那プーンと鼻についた臭いは、まぎれもなく「肉」の焼ける臭いで、しかもそれが自分の体から発したものだと思うとゾッとしてしまいました。

マッチはどうかすると何度擦ってもなかなか火がつかないこともあるかと思うと、こんなにも思いがけず、ちょっと先が触れただけで轟然と火がつくというのは恐ろしいもので、たかが一本のマッチといえども油断は禁物だということを痛感させられた次第でした。

幸いにも火傷はごくわずかで、今の季節は水道をひねるととびっきりの冷水が出ますから、これで十二分に冷やしたあと、薬を塗って一晩寝たら、翌日はもうかなり治まり、いまではまったく気にならないまでになりましたが、みなさんも火の取扱いには、いまさらですが注意深くされてください。
牙をむいたら恐いです!
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豪華絢爛は大衆向け

ある本を読んでいると興味深いことが書かれていました。

いささか下世話な話ですが、ホテルや料亭などには自ずと格というものがあるのはよく知られている通りで、今どきはミシュランガイドの影響によるものか、なにかといえば星の数などがその尺度のようになっています。
しかし、それらは出版社などの、所詮は給料取りの誰かがチェックをして等級を付けたものであって、マロニエ君はこんなくだらない、かつ信頼に足らないものはないと以前から思っていました。

ホテルなども高い評価を得るためには、いろいろな評価基準をふまえて、予めそれに合わせてクリアできるように作っていくだけで、本当の格式とは思えません。

中には一泊いくらというようなスイートの存在などを披瀝して、それがさも高級であるかのようにアピールしますが、なんとばかばかしいことかと思います。もちろんそんな部屋に泊まりたい人がいて、支払い能力があるのなら泊まればいいでしょうが、それが即高級と思うこと自体が価値観の貧しさの表れのような気がします。
そもそも昔から、必要以上に一流ホテルに拘ったり、スイートルームなどに異常に憧れるのは決まって成り上がりだと言われています。
その人の根底に高級というものの本来の尺度が存在しないので、高額であることにのみ頼るのでしょう。

本に書いてあったのは、高級というものにはそこに息づく精神的な価値の領域があり、また昔からの利用者が自然にそれを受け止めて、誰ともなく認識していることが大切で、決して派手で豪華な作りではないということです。
そして、ホテルであれレストランや料亭であれ、大衆を相手にする店ほど見た目を豪華絢爛に仕立て上げて、もっぱら表面的な作りになっているという事実。本物は表面的な誇示や演出などする必要がないし、高級の中身とは目に見えるものばかりではないので、本物はむしろ地味でそっけないものであるということでした。

今どきの高級ホテルなどは、数十年前の高級ホテルとは違って新しいものが出来るたびにこれでもかという豪華で壮麗なドバイみたいな作りになります。しかし、それがまたいよいよウソっぽいわけです。
料亭然りで、昔のそれは外から見るとなんということもない至って簡素なもので、知らない人は大抵見過ごしてしまうようなひっそりしたものでしたが、今はやはり誰の目にもわかる壮麗で明快な豪華さを表面に出してきます。

例えば、本物の料亭とは間口が狭く奥行きがあり、作りは地味で、中も広くはないが、そこに流れる空気が違うし、お客も店側も要は出入りする人間が違うということです。そして本物の尺度というものは甚だ曖昧で、チェック項目のようにして文字の上に表せるような類のものではないということでしょう。

そして本を見て覚えて行くようなものではなく、生い立ちの中でごく自然に身に付いた者だけが行くものであったはずです。
一流というものの概念には、究極的には一朝一夕には得られない経験と精神性がかかわるわけで、そのためには伝統の裏付けなしに真の高級というものは存在しません。そこでは物質的には逆に簡素であることがむしろ必要だったりもすると思われます。
しかしそういうものとは無縁の大衆感情に訴えるには、物理的、視覚的、金額的なもので表現するしかなく、そこで伝統なんて言ってみてもとても間に合うものではありません。

今はあからさまな競争社会ですから、もっぱらビジネスで成功したような人ばかりが社会の上位に位置することになり、かくして本物は次々に静かに姿を消していくのでしょう。

ふと、ピアノの音も最近のものは奥行きのないブリリアントな方向で、なるほどそんな風潮と経過を辿っているようにも感じてしまいました。
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楽譜の版

同じ作曲家の作品でも、出版社や校訂者によってさまざまな版があるのはよく知られています。

演奏者によっては自分はどの版を使っているか、事前に明示する人などもいますし、コンクールなどは指定の楽譜があったりと、この同曲異版をめぐってはあれこれの事情があるようです。

マロニエ君はこの問題を、大事ではないとは決して思いませんけれども、実際の演奏結果の要素の9割以上はその演奏家の本質的な音楽性に拠るものだと思っています。
ましてや素人のピアノ弾きが知ったかぶりをしてどうのこうのと言うのは失笑してしまいますし、無数にある音符のひとつがどうしたこうしたといって、とくにどうとも思いません。

ピアノの先生などで、趣味でやっている生徒が楽譜を買う際に、さも尤もらしく版の指定などをうるさくいう人がいるそうで、オススメ程度ならともかくも、それじゃなくてはダメだというような主張は少々ナンセンスだと思います。
真実そう信じての事なら、その先生のおっしゃる根拠を具体的に伺いたいものです。
もちろんショパンコンクールに出場するような人が、指定のナショナルエディションを使うというような場合は別ですけども。

繰り返しますが、どの版を使うかがまったく無頓着でいいとは決して思いません。
しかし、それを言っている人がどれだけその違いを理解しているかとなると、甚だ疑問で、ほとんどナンセンスの領域である場合が少なくないと感じるのが率直なところであって、大半の人はそれ以前の段階でもっと磨くべきものがあると思います。
ほんとうにそれを言うのであれば、実際に何冊も買ってみて、弾いてみながら丹念に検証してみるぐらいの覚悟と裏付けが必要だと思うのですが。
さらに、この版の問題は研究の進捗によっても変わってくるもので、優劣を決するのは非常に難しい問題でしょう。

外国にはどれだけいいかげんな楽譜があるのかは知りませんが、少なくとも日本で現在売られているようなものであれば、だいたい信頼性もある程度あり、そんなことに拘るよりは、与えられた楽譜からどれだけ充実した練習をして、より品位ある音楽的な演奏をするかということに心血を注ぐほうがよほど重要だと思うわけです。

たしかに版によってはちょっとした音が違っているとか、装飾音の入れ方、強弱の指示の有無、指使いやフレーズのかかり具合などが異なる場合がありますが、それらを問題とするよりも、もっと先にやることがありはしないかと言いたいわけです。
もっと基本的な作品の解釈や、数多くの優れた演奏を聴くことなど、弾く人の基本的な音楽性を磨く姿勢の方が百倍も重要だと思います。

マロニエ君も曲によっては何冊もの異なる版の楽譜を持っているものもありますが、とくにショパンなどでは本当に自分が納得できるものはどれかと言われたら、即答できるものはなく、数種類からのブレンドのようなものになるし、それも要は自分の主観に左右されます。
どうもそういうことを言いたがる人は、それが高尚で玄人っぽいことだと思っているのかもしれません。

そもそも、音楽的な人は、どの版の楽譜を使っても音楽的に弾けるわけで、基本はそういうものだということを忘れてはいけない気がします。
いくら高価で権威ある楽譜を持っていても、要は弾く人そのものに土台となるべき音楽性がないことには、ただ無神経に指運動的に弾いてしまうのなら、どの版を使ったってさほどの意味は感じません。
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地域性

このところ知人の車探しの手伝いをすることになり、ネットで中古車検索をしながら、あちこちに電話の問い合わせをしましたが、そこでひとつの事実というか現象のようなものが浮かび上がりました。

それは全国の各地域による電話対応の違いでした。
本来なら近場がいいわけですが、良い物を探すためには距離を厭わず探し回るのがクルマ好きですから、そのためには最大市場ともいえる関東地区まで範囲に収めて、以西、東海、関西、四国などまで検索範囲としました。

現に、マロニエ君の友人知人には、良いものが見つかったときには、仕事の休みを取ってわざわざ飛行機に乗って見に行ったり、長距離バスに飛び乗って目指す車屋に赴き、場合によってはその場で現金決済して乗って帰ってくるという猛者なども一人や二人ではありません。
そうまでしてでも自分の欲しい車を購入するという、好事家特有のパワーがあるということかもしれませんが、まあ傍目にはご苦労千万なことだと目に映るでしょうね。

さて、その電話対応ですが、今回電話をしたものに限って言うなら、あきらかに関東地区が突出して対応がよくありませんでした。話しぶりもどこか横柄で上から目線、さらにお客さんに対しても話のイニシアチブは店側が取ろうと微妙に牽制してくるのがわかります。

その点では、関西はやはり商売というものに対する歴史と土壌があるというか気構えがしっかりしているのか、問い合わせに対しては適度に腰も低いし、温かく気さくに応じてくれます。
四国もまあ普通でした。地元の福岡もその点ではまったく問題ありませんでした。

その点では、関東地区は大半がそれぞれにムッと来るような出方をするのが目立ちます。
この不景気でろくに売れていないくせに、どこか高飛車で、それが「商品への自信の表れ」「べつにへーこらしなくてもモノが良いんだからそれでいい」という類の変な虚栄心が背後にあり、2/3ぐらいの店がお客さんよりも立ち位置を優勢にしようという、まったく勘違いとしかいいようのない歪んだ流儀のあることがビンビン伝わってきます。

挙げ句の果てには、こちらとしてはごく真っ当で当然のことを質問しても、いちいち不快なような示したあげく「うちを信用してもらうしかない」などと阿呆ではないかというようなことを言い始めます。
こういう言葉は昔からいい加減な車を売りつけるときの中古車業者の常套句ではありましたが、時代が変わって、さらにはこんな不景気になっているというのに、悲しいかな悪しき体質をいまだに引きずっているのは、まるで関東だけがひどく遅れて取り残されているように感じられて驚きでした。

このようなネットの時代に、誰の紹介でもなく、ただ単に検索サイトでヒットした結果で電話しているだけなのですから、キチンと商品説明を受け、あれこれと質問があるのは当たり前であって、いきなり抽象的に「うちを信用しないなら、べつにいいですよ」的な発言をするほうがどうかしています。
まるで、意味もなしにすぐいきり立つ自信のない弱い人のようでした。

東京は車店に限らず、マロニエ君がいるころから全般的にこうした「店側が威張る」といった体質がありましたが、たしかに関東地区は何事も同業のライバルも多いので、それらの中で他店より抜きんでるためには、地道で誠実な努力を重ねるよりは、このような高飛車路線でいくのがある意味で常道&早道でもあったのでしょう。
しかも、こういうことはエリア全体の空気の問題だから、なかなか直らないんですよ」ね。

会社でも学校でも当てはまることですが、「悪しき体質」というものほど、なぜか脈々と受け継がれていくものだということを再確認しました。
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新しいSK

ごく最近、カワイから届いたDMによると、「SK現行商品最終チャンス」と銘打って2台のSK-2と1台のSK-3が最後の販売をする旨のチラシが同封されていました。

現行商品最終ということは、当然モデルチェンジしたことを意味するわけで、さっそくカワイのホームページを見たところ、やはりモデルチェンジはしているようでしたが、製品サイトはうやうやしく「3月公開予定」だそうでガッカリです。
そんなに勿体ぶって、どんな変化を遂げているのかと思いますが、なにもポルシェじゃあるまいし、ピアノなんだから外側のデザインが大きく変わることもないだろうにと思いました。

ところが、封筒の中に入っていた小さなリフレットのようなものを見ていると、ありました!
一枚だけ、ほんの小さな写真で新しいSK-7を斜め上から撮った写真がありますが、それによるとすぐにわかったのはボディの内側に貼られる化粧板が、これまでのベーゼンドルファー風の垂直方向の木目模様(これは良かった)に代わって、ファツィオリ風の雲みたいなウニュウニュした木目模様になっています。

これは音とは直接関係のない部分ですが、いささか豪華趣味というか、率直にいって成金趣味的で、ファツィオリでさえあの木目は好きではなかったのですが、それをカワイというメーカーそのものも華がないのに、いやあ…ちょっとミスマッチじゃないかと思いますね。
上級機種だろうがなんだろうが、カワイにはちょっと似合わない印象ですけれども、やはり新型ではさらに一層の高級路線を目指しているのでしょうね。
価格も全体に約1割値上げされていて、SK-7ではついに600万を超えています。

さらに変わったのは、以前からあまりにセンスがないと思っていた、まるでカレー粉を混ぜたような、どちらかというと安っぽい金色に塗装されていた???なフレームの色が、今風の赤味のあるヤマハやスタインウェイに通じる色になり、これはようやく当然の色に落ち着いたというべきで、ホッと安心です。

Master Piano Artisan なる開発技術者の言葉によれば、調律師は声楽家だそうで(なるほど!)、新しいシゲルカワイには声楽家としての発想を採り入れたとありました。
「歌うピアノ」になっているのだそうで、「輪郭をはっきり」させるとありますが、これはあきらかにヤマハのCFシリーズの路線を意識した処置だと思われます。

まったくマロニエ君の想像ですが、この言葉通りならば、新シリーズは明確な進化を遂げているのだろうという気がします。というのも、一昨年のショパンコンクールのSK-EXでは、あきらかに従来の同型とは一線を画した明るく甘い音色でしたので、この頃から試験的にそういう方向のピアノ作りを密かに進めていたものと思われます。

かつての巨人vs阪神ではありませんが、これでヤマハvsカワイの上級ピアノバトルもいよいよ佳境を迎える時期に来たということのようで、こうでなくっちゃ面白くありません。
おそらくカワイのほうがコストパフォーマンスでは圧倒的に上を行くわけでしょうから、どこまでCF4とCF6のクラスに対して半分の価格で追いまくるのか、楽しみです。

ただし、あんまりよくなると現行のSKシリーズのユーザーは心穏やかではないでしょうが、まあそれは仕方ないでしょうし、マロニエ君もどっちみち自分は関係ないので専ら気楽に高見の見物です。
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最も買ってはいけない車

車のことで調べたいことがあってネットを見ていると、偶然ある人のサイトに辿り着きました。
世の中にはどんな分野にも「達人」というべき人がいるもので、この方は輸入車の販売業をやっている人らしいのですが、実に多種多様な車に文字通り精通してたスペシャリストで、各クルマごとに分けて非常に参考になる濃い内容がたくさん載せられていました。

プロフィールを見ていると、わりに若い人のようでしたが、どうして立派なものです。
自分が好きなことで、それを職業として毎日関わっているというのは、まさに植物が必要な水や栄養をぐんぐん吸い上げるように、知識や経験がとてつもない量蓄積されていくという見本のような人です。

しかも、その方は主に輸入車の中古車販売を自分でやっているらしいので、関わる車種の幅広さも多岐にわたり、特定の新しい車種しか扱わない、ただの月給取りのディーラー営業マンなんかとは、その知識経験の深さと広さには雲泥の差があるようです。

まさに何でも弾ける、昔のアラウとかアシュケナージみたいな感じですね。

あらゆる車の個性や魅力、モデルの変遷、長所短所、経年変化で起こるトラブルの特徴など、つい「なるほど」と思わせられるものばかりで、もうこれだけで立派な本ができるのは間違いありません。

また、中古車販売販売業者として車種の垣根を超えて、日々多種多様な車に触れているということは、それだけ車を見る目、判断力もより正確で信用度の高い客観性が備わっていて、一部の車種を偏愛したり忌避するということもないのです。

読むほどにどの車種においても的確な判断がくだされ、しかも根底にあるクルマ好きの心情がひしひしと伝わってくるので、読み物としてもついやめられないほど面白いものでした。

文章は、車の国籍ごと、さらにはメーカーごとに分類されていて、最後にいよいよマロニエ君所有のフランス車についての記述を開いて読んでみることに。
はじめは楽しく読んでいたところ、我が愛車の名前なども登場してきて、さあ何と書いてあるかと思ったら、車としての孤高の魅力は大いに認められていたものの、故障やパーツ供給、整備の難しさから「最も買ってはいけない車」!?として結論づけられていたのには、覚悟はしていたものの思わず倒れそうになりました。

「むろんその車のことをわかった人がそれを承知で乗るぶんには、他に変わるもののない良い車」というふうに断りは入れてあり、ゆめゆめ甘い覚悟で購入するべきではないという警告でもあるわけですが、やっぱり総論として、できれば避けたいワーストの部類に入れられたというのはトホホでした。

もっともマロニエ君のまわりには、そのトホホを自虐的な楽しみであるかのようにして悲喜こもごもに乗っているオバカも多いので、まあ笑い話がまたひとつ増えたぐらいの感じではありますが、普通の感覚でちょっとオシャレなクルマに乗りたいぐらいな感覚で買おうものなら、それこそとんでもないことになるのは請け合いです。
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復興支援コンサート

東北の震災以来、その復興支援のためのコンサートが数多く開かれました。

それが本来の目的に適った通りであるならば、大変素晴らしい結構なことであるのは言うまでもありません。中には内外の著名な超一流のアーティストがまったくのノーギャラで行った本格派のコンサートなどがいくつもあったようで、そういうものには素直に感謝と敬服の念を覚えます。

しかし、世の中、そう麗しいことばかりであるはずもなく、マロニエ君のような人間の目にはどうも不可思議に映るものも少なくありません。
正直を言うと、中には「復興支援」の文字に違和感を覚えるコンサートがかなりの数含まれている気配を感じてしまいました。

本来の復興支援のためのコンサートというものは、いわゆる有名アーティストが、その自分の集客力を使ってお客さんを集めてコンサートをし、その収益金を被災地/被災者に寄付するというものです。
ところが、震災後にこの復興支援に名を借りた、わけのわからない正体不明のコンサートが無数に開かれた(現在もまだ続いている)のは、偽善的な悪乗りのような気がしてしまいます。

もちろんすべてとは言いません。有名アーティストでなくても、純粋な動機と内容で行われた復興支援コンサートも中にはあったことでしょう。

しかし、チラシを見ただけでも胡散臭い感じのするものもあって、復興支援の名の下に、これ幸いにコンサートを開くということを思いついたものも相当あった気配は否定しようもありません。
いっぱしに「収益金(の一部は)は被災地に寄付」というような文言はあれども、さてそのうちどれだけ寄付するのかさえわかりません。
コンサートに来たお客さんに後日、寄付の明細を報告するわけでもありませんし、極端な話、集まったお金からたった1万円寄付しても、言葉の上ではウソにはなりませんから、この手の合法的で限りなく自己満足に近いコンサートはずいぶん行われたと思います。

事はなにしろ寄付であって義務ではないために、多くがアバウトで、善意善行として追跡調査もされない性質のものであるのは、さらに都合の良いことでしょう。

復興支援の看板をかけさえすれば、自分達のコンサートの恰好の口実にもなるし、演奏機会はできて、社会貢献までやったことになり、おまけにちょっとした小遣い稼ぎにもなれば、見方によってはほとんど一石三鳥の世界かもしれません。
日本人は世界的にも信頼のおける優れた民族で、災害時に略奪や暴動などが起こらないなど、外国人の目には驚くべき長所がある反面、ほとんどなんの関係もないような事にまで「復興支援」などというお題目を立てて、このいわば災害特需にあやかってしまうという、暗くてみみっちいクセは…あると思いますね。

まあ、無名奏者のクラシックコンサートなどは、もともとどう転んでもろくに儲からないものだから、それをネコババといってもたかが知れていますが、そんな限りなくグレーな気配のある復興支援コンサートはまだまだ続いているようです。
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マイペースは強い

いろんな人とお付き合い、もしくは接触があると、いまさらのようにいろいろなタイプの人がいることに感動してしまいます。ここに「感動」という言葉を使うのは不適切のように感じられるかもしれませんが、マロニエ君としてはやはり人は本当にさまざまという意味もあり感動という言葉をおいて他にありません。

そんな中でも痛切に思うのが、何事もマイペースを貫くことができる太い人というのはやはり強いなあと思います。
些細なことが気にならないタイプというか、泰然としている人、おおらかな性格などもあれば、無神経で図太くて鈍感な人というのも少なくありません。
その種類はいろいろでしょうが、なにしろなんでも自分のペースが守れる人、押し通してしまう人というのは、少なくともその部分だけでもおそろしく強いと思います。

人が複数集まる機会というものがあるとして、そういうときについ脇にまわる人と、話の中心に出てくる人というのがありますね。
それも存在感があるとか、話術が巧みなどの理由で自然にそうなるのであればいいとしても、初めからマイペースのトークオンリーで、デリカシーがなく、空気が読めないために中心になる人がいます。けっきょく一種の鈍さから他のことはおかまいなしに自分ばかり押しまくってしゃべってしまう人などがいて、こういう手合いはどうも困ります。

しかも比較的スローテンポな人なんかだと一見出しゃばりのようには見えないので、まわりもすっかりのせられて、ヘタをすると「あの人はいい人、面白い人」などという、まったく的外れな高い評価まで獲得してしまったりする日にゃあ、(面と向かってそれを否定はしませんが)内心はもう驚きと諦めが充満してしまいます。
これも要するに図太くてマイペースが勝ちというわけです。

メールなども、こちらがメールを出してもいつまでも返事が来ない人がいますが、無視されたのかと思っていると忘れたころにひょっこり返信が来ていたりします。
あるいは、「メールは(とくに返信は)一度だけ」と思っている人がいて、返事を返しても、それに再度返信してくることの決して無い人という、人情味のない人も結構いますね。
こういうことはむろんケースバイケースで、延々とやりとりする必要はありませんけれども、いちおうやりとりの上での区切りというのはあるだろうに…と思うのです。

電話も然りで、こちらがかけてもコールバックしない人、電話帳登録している番号以外は出ない人など、昔はなかったような新種の違和感を覚えることはときどきありますね。

社会生活を送るためにはいろんな人の性格や流儀に対して、寛容の気持ちを持って接しなければいけないというのはマロニエ君が常々胸に抱く考えの中心でありますが、それでもちょっとこれは!?と思うようなことが多すぎるのは驚くばかりで(それもここには書けないようなひどいケースも少なくない)、それが冒頭に書いた「感動」なのであって、もはや感動でもしている以外にはないというところなのです。

人は何かと言えば、ちょっと上から目線で「ちょっとしたこと」「くだらないこと」「些細なこと」などと大人ぶって言いますが、マロニエ君は実はこれには猛反対で、人間が日々の生活を快適に送るための生活実体というものは、要するにくだらないこと、ちょっとしたことの連続なのであって、それらがあるていど妥協できる範囲に収まっていないことには、人間関係はやっていけません。
そこで最後に勝つのは視野の狭いマイペースの人なわけです。
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ベルリンのハプニング

昨年大晦日のベルリンフィル・ジルヴェスターコンサートがBSのプレミアムシアターで放映されました。
以前は大晦日の夜中に生中継されていましたが、最近はないなあ…と思っていたところでした。
もしかすると生中継のほうは他の有料チャンネルかネットなどでやっているのかもしれませんが、そのあたりはとんと疎いマロニエ君にはわかりません。

会場は「カラヤンサーカス」の異名を持つベルリンフィルハーモニーのホールで、今回はエフゲーニ・キーシンをソリストに迎えて、グリーグのピアノ協奏曲がメインであったほか、前後にドヴォルザーク、グリーグ、ラヴェル、ストラヴィンスキー、Rシュトラウスなどの管弦楽曲が取り上げられました。
指揮は当然のように首席指揮者兼芸術監督のサイモン・ラトルです。

このベルリンフィルのジルヴェスターコンサート、いつごろからか映像には女子アナ風の司会がつくようになり、演奏の合間の折々にその女性が会場をバックにおしゃべりをします。
ドヴォルザークのスラブ舞曲、グリーグの交響的舞曲に続いてグリーグのピアノ協奏曲が始まりますが、その際にもこの女子アナ(たぶんドイツの)が出てきてキーシンのことなどペラペラしゃべっているとき、画面の脇でおかしな事が起こっているのに気付きました。

背後に映り込んだステージ上では、予めそこに置かれていたピアノのフタを開けるべく、体格のいいおじさんがでてきて前のフタを開け、つづいて大屋根を開けようとしますが、さてこれがどうしても開かないというハプニングが起きました。
そのおじさんは、何度も腰をかがめてはヤッとばかりに力を込めるのですが大屋根は頑として開かないので、ついには会場からどよめきの混じった笑いまで起こりましたが、それに刺激されて焦ったのか、おじさんはいよいよ力を入れたらしく、勢い余ってピアノ本体の位置までずれてしまいました。
それでも依然として大屋根は開きません。

これにはわけがあって、スタインウェイはじめとする多くのコンサートグランドでは、運搬時に大屋根がふいに開かないようにするためにL字形の金具が装着されており、それがかけられていることは見ていてすぐに察しがつきました。ボディ側面のカーブのところにそのための丸いテニスボールぐらいのノブがついているのでご存じのかたも多いと思いますが、このおじさんはそういうことがまったく分かっていない気配でした。

女子アナはこの異常に気付いたようでしたが、チラッと後ろを振り返りつつ自分のトークを続けます。その間もフタは開かずに、ついに様子がおかしいと察した他のスタッフが駆けつけてきて、ようやくノブが回されたようで、ここで大屋根はやっと開いてめでたしめでたしでした。
しかし、舞台奥へ向かってややずれてしまったピアノの位置を元に戻すことはされないままに…。

たぶん興奮していて、そんなことには気付きもしなかったのでしょう。
ほどなくキーシンが登場。彼は気の毒にもこの位置のままで演奏しましたが、それはそれとして、まことに筋目のよい美しい見事な演奏でした。

それにしても、これがもし日本だったら、ピアノの管理を含めた準備や設営などは、臆病なぐらい丁寧の上にも丁寧に行われるはずで、フタの止め具の事も知らないような人間が本番でひょこひょこ出てきて、力任せに開けようとするなどはちょっと考えられない事だと思いました。
何事においても真面目で整然として、高いクオリティで鳴らすドイツといえども、このような未熟なハプニングが起こるわけで、逆にいえば日本人のキメの細やかさこそ例外なのかもしれません。

さてその止め具は金属ですが、おそらくあれだけ男性の体力で猛然たる力を何度もかけられたら、それを取りつけられている土台はボディ側も大屋根側も木なので、とくに大屋根側などはそれなりの損傷があるかもしれません。あーあ。
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MacとWindows

現在世の中で使われているパソコンは、もちろんWindowsのほうが主流だと思いますが、一時はほとんど風前の灯火だったMacも最近では若干盛り返してきたように思います。

マロニエ君は十数年以上にわたってのMacユーザーで、ここ数年は必要もあってしぶしぶWindowsも使っていますが、その使いにくい(マロニエ君にとっては)ことといったらありません。

iPodに続いてiPhoneの登場あたりから、なんとなくアップルの製品自体が一般的に認知されるようになったと思いますが、それ以前はMacユーザーなんて言ったら、まったく変人か物好きな少数派の扱いでした。
パソコンといえばWindowsが常識で、この2つの言葉はほとんど同義語でした。

お店などに行っても、パソコン売り場でなんらかの質問などをすると、店員は当然のようにWindowsを前提とした話しかしないので、それを遮ってMacであることを告げなければなりませんでしたし、相手はそれを聞くなりあからさまに「へぇ」みたいな顔をされたことも一度や二度ではありません。

さらには大型電気店では、はじめから少数派で儲からないマックを切り捨てた店などもあって、そのうち市場からも消えてなくなるのでは?という危惧さえ抱いていたものです。

それがスマートフォンの登場をきっかけに、再び盛り返してきた観があるのはマック派としては喜ばしいことです。

マロニエ君の印象では、少し前までのWindowsのユーザーはMacのことなどまったく念頭にもなく、比較しようとする考えもなかっただろうと思います。Macは値段も高めにもかかわらず、基本のスペックなどはWindowsのほうが上でしたから、いよいよ相手にもされなかったようですね。

そんな中で、マロニエ君のまわりにはいろいろな「モノ」へのこだわりを持つ変人が多いためか、パソコンもMacユーザーが不自然なくらい集中していましたし、Windowsユーザーも買い換えを機に、まるで悪徳商法のようにMacユーザーで取り囲んでMacへ鞍替えさせたりしていました。
そして、その結果は、ただの1人としてそれを後悔した人はいないほど、ひとたびMacを使った人はすっかりその虜になってしまうようです。

その第一は、画面の美しさというか、そこにMac固有の美の世界があり、気品があって可愛らしい。
また、操作が簡単で明快、なんでも直感的に操作できるようになっているほか、ショートカットなどの機能も多く、ほとんど自分とパソコンがある一定のリズムで繋がることができると思います。

その点、Windowsをこの2年ほど使っていますが、いちいちの操作がわかりづらく、いまだに大半のことがわからないことだらけです。とくにわからない事に直面したときの解決率は圧倒的にMacのほうが上で、Windowsではあきらめて匙を投げたことが何度もありました。
パソコンに詳しい人の話によれば、Macは自分の経験から予測や応用など、ある程度のことが自力で解決できるようになっているのに対して、Windowsはひとつひとつに固有の知識がなくては決して解決しないし、前に進めいないようになっているのだとか。

最近ではiPhoneなどに触れることで、Windowsユーザーの中にもアップル製品がもつ魅力の一端を知った人が多いのではないだろうかと思います。
正直言って、Windowsは画面を見ただけでなんとなく荒涼とした陰気な気分になるのですが、その点Macは隅々に至るまで趣味も良く、気持ちを楽しくさせてくれるのです。

たとえばメールやこのブログなども、Windowsではまったく文章を書こうという気にもなりませんので、そういうことはすべて古くなったMacでやっていますが、これもそろそろ買い換えないといけない時期に来ていることを、先日のHDトラブル騒ぎでより明確に意識しはじめました。
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弾くほどに鳴る

過日はピアノ好きの知人と共に、県内にお住まいのあるピアノマニアの方を尋ねてお宅をお邪魔しました。

マロニエ君のまわりには輸入ピアノのユーザーが何人かいらっしゃいますが、この方はやや珍しいニューヨーク・スタインウェイをお持ちです。
昨年の暮れぐらいに調律その他の調整をされたということで、一緒に行った方が弾き出すと、なんとも淡く可憐な音色が出てきたのには思わずハッとさせられるようでした。

一般的なイメージとしては、ハンブルク・スタインウェイのほうがドイツ的で落ち着いた音色で、対してニューヨーク・スタインウェイはもっと明るく派手で、しかも硬質な音であるように考えられているふしがありますが、実際はさにあらず、ニューヨークのほうがやや線が細く、そして格段にやわらかい音色を持っています。
日本のピアノやスタインウェイでもハンブルク製に慣れた人の耳には、この音色と発音特性の関係から一見ちょっともの足りないように感じられることもあるようですが、話はそう単純ではありません。

たしかに弾いている当人の耳にはそれほどガンガン鳴っているようには感じられないのですが、少し距離をおくと非常にボディがよく鳴って音が通り、心底から楽器が響いているのがやがてわかってくるのがニューヨーク・スタインウェイの特徴のひとつだと思います。

その証拠に、同行した知人が仕事の連絡で携帯を使うため、ちょっと部屋を出て電話をはじめたところ、ほとんどピアノの音量が変わらず、さらに離れたらしいのですが、漏れ出てくるピアノの音量はほとんど変化しないので大いに焦ったらしく、相手が仕事の関係であったためにちょっとまずかった…と心配しなくてはいけないぐらいだったそうです。

「遠鳴り」で定評のあるスタインウェイは、思いがけずこんなところでもその優秀性が証明されたようでしたが、逆にいうと家庭用のピアノとしては、弾いている本人には手応えよく鳴ってくれて、しかも周囲にはあまり音の通っていかないピアノのほうが、騒音問題という実情には合っているかもしれません。

そういう意味ではスタインウェイはサイズを問わず、楽器の性格としては人に聴かせるためのピアノだということは明らかで、そこが今流に言うとまさに「プロ仕様」のピアノだといえるでしょう。

さて、ピアノ遊びというのは時間の経つのが早いもので、あっという間に時計の針が進んでしまいます。
弾きはじめから2時間ぐらい経ったときでしょうか、ハッと気がつくとピアノの音が大きく変化していることに一同驚きました。はじめの可憐な音色は遙かに影を潜めて、太いのびのびとした音が泉のように湧いてきて、むしろ逞しいとさえ言っていい力強い響きに変わっていました。

日本製のピアノでも1時間も弾いていると鳴りがこなれてくるというのは感じることがありますが、これほどあからさまな変化が起こるのは、いやはやすごいもんだと感心させられました。まさに良質の木材とフレームが弾かれることでしだいに目を醒ましてぐんぐん鳴り出すのは、まるで楽器が掛け値なしに生き物のようでした。

こういう状態を知ってしまうと、一流品であればあるほど、例えば店に置いてあるピアノをちょっとさわってみるぐらいでは、とてもその実力の全貌は見えないということになるでしょう。
とくにもし購入を検討するときなどは、お店の人を説き伏せて1時間でも弾いてみると、そこから受ける印象や判断はずいぶん違ったものになってくると思います。

日本のピアノは製品としてはまったくよくできてはいるものの、状況によってここまで変化するという経験は一度もなく、それだけコンディションが安定しているといえばそうなのかもしれませんが、楽器とは本来、このようにセンシティヴで演奏者をわくわくさせるものであってほしいと思いました。
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リーダーの資質

昨日の朝刊の一面を見て驚いたこと。

それは、大相撲の理事長に北の湖が返り咲いたという写真付きの記事でした。
昨年まで八百長、賭博、薬物、暴力団との交際など、これでもかとばかりにいろいろなスキャンダルを抱えていた相撲界ですが、放駒理事長の後任に、なんとまたあの北の湖が新理事会の決定によって史上初の再任となったというのは、これはどういうことかと思いました。

北の湖はそもそも、前回の理事長を大麻問題や八百長問題の責任を取って辞めたはずなのに、そんな経緯のある人が再任されるというのはどういうことなのか。

相撲界の諸問題がいちおう沈静化して、ようやく琴奨菊や稀勢の里などの新大関も誕生し、先場所では把瑠都が優勝するなど、まだまだとはいえ、とりあえずここまでどうにか復調した相撲界といえるわけで、それには放駒理事長の断固たる改革断行が大きいと言われていただけに(真相は知りませんが)、まったく寝耳に水の理事長交代にはエエッ!?と声が出るほど驚きました。

北の湖の理事長時代といえば、朝青龍問題や八百長問題など諸問題が続々と噴出して、それに対してなんの対策も打てず、連日マスコミから何を聞かれても一切コメントさえもできずに、仏頂面でのっしのっしと逃げ回るだけの見苦しい姿しか印象にないのはマロニエ君だけではい筈です。

今回の再任決定での会見では「残りの人生をすべて懸ける」などと言っているそうですが、何に対してどう残りの人生をすべて懸けるのかまったくわかりません。
そのあたりの経緯に関してはなにひとつ記述がなく、いよいよ真相は不明です。

北の湖が理事長としてなんのリーダーシップもなく、改革はおろか、問題の処理ひとつできないことは、すでに数年前にイヤというほど証明済みなのであって、こんな人がまたぞろ相撲界の頂点に立つのかと思うと、どうしようもなく暗澹たる気分になってしまいます。
しかも新理事10人による理事会において「全会一致」で決まったというのですから、唖然というほかはなく、何の内情も明かされないのは極めてグレーな空気を感じるばかりです。
新聞にも書かれず、ならばテレビはもちろん言いませんから、真相を知るには週刊誌か新潮45(あるいは2ちゃんねる)あたりに頼るよりほか道はないでしょう。

それでなくても、上に立つ人にはそれなりの器量やリーダーシップはもちろん、それなりの「顔」というか、清新さや明るさが必要であって、あの一年365日苦虫を潰したような顔をした人がいまさら何をしに出てくるのかと思いましたね。
まあ、相撲どころか我が国のリーダーを見ても、野田さん、菅さん、鳩山さん、およびその周辺の顔ぶれを見るたび悪夢でも見ているようで、とにかくもう少し健全になれないものかと思います。

上に立つ人には、多くの人達が感覚的にも、ある程度の共感や納得ができるような人であってもらわないことには、世の中に与える、そのマイナスの影響というのは計り知れないものがあると思います。
景気が一向に改善しないのも、ひとつには暗くて無能なリーダーが悪い波動を振りまいているからという気もします。
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良識の暴落

友人からのメールに『人間関係は面倒くさい』とありましたが、まったく同感です。

常識や良識も時代と共にどんどんおかしな方向に変化しており、近年はほとんどついていけない新種の基準が次々に打ち立てられるようです。
それよりも甚だしいことは既存の常識や礼節が信じがたいペースで暴落している点でしょうか。

例えば、誠実に接すれば相手の心には必ずなにかが通じるというのは、確実にひと時代前の理想化された常識であって、現代ではもはや幻想となりつつあるようです。

どんなに誠実を尽くして接しているつもりでも、それを一向に解さず、専ら無反応で、そのボールをキャッチできない人があまりにも増えすぎている印象があります。
昔に比べると、人の反応というものがまったく違っており、まずおしなべて情の濃度が低いようです。
共通しているのは、とくだんの悪気などはないらしいという点ですが、これが却って困りものです。

以前なら変人というか、ちょっと変わり者に分類されたような人が、だんだん増殖し、群れをなしていつの間にか新しい基軸を作っているのは間違いなく、田中角栄の「数は力」じゃないけれど、けっきょく多数派が主導権を握ってしまい、果てはこちらが異端扱いされるようで頭がクラクラしてきます。

この新手の人達は精神構造そのものが著しく自分本位にできているので、何事においても相手のことを考えたり、自然な人情で発意発想するということが、悪気ではなく能力的にできないようです。
そして情義において非常に消極的であり、実際ほとんど不感症であるといえるでしょう。

自分本位とは自己中ということですが、自己中というと、普通はわがまま放題で身勝手な、強欲な意志の持ち主のようにイメージしますが、このタイプは必ずしもそうだとは言い切れません。本人には何も悪意はないのに、考えついたことや折々の判断など、発想そのものが見事に自己中でしかあり得ないわけです。
そのために自覚も罪の意識もないし、むしろ自分は常識に則って正しいことを普通にしているつもりらしいのですから、どうにも始末に負えません。

こういう救いがたい思考回路を脳内にもっているため、人との自然でしなやかな交流が苦手で、なにをやってもあまり上手く行かない。悪気はないのに、行く先々で小さなクラッシュを起こして孤独に追い込まれるようで、見方によっては非常に気の毒にも見えるのですが、現実にはそう冷静なことも言っていられないほど、こういう人達と関わると様々な被害を被ることにもなるのです。

犬養毅が五・一五事件の際に「話せばわかる」と言ったのは有名ですが、それは幻であって、話してもわからない人は少なくないし、この人達は強いです。
自分は正しいと思い込んでいる人ほど、実際は最も無知で鈍感です。
というか、ある意味において、無知や無自覚、鈍感ほど強いものはありません。

知らないし、感じないのだから、なにごとも平然と自分のペースを押していけるし、それで気が咎めることもコンプレックスに苛まれることもないのですから、これぞ最強!というものです。

有り体に言ってしまえば「話してもわからない」のが人であって、現に、犬養毅もその言葉は聞き入れられずに殺害されました。
話せばわかる人のほうが圧倒的に少数派ですから、ごくたまにそういう人を発見すると小躍りしたくなるほど嬉しくなるマロニエ君ですが、そんなことはめったにあることではなく、平生心の内は重装備で鎧を着ていないととんだ目に遭わされかねない時代になりました。
こういう話が通じる相手との合い言葉は『油断大敵』です。
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あるヴァイオリンの本

最近また、1冊のヴァイオリンの本を読みました。

ヴァイオリンビジネスで成功した日本人が書いた本ですが、敢えてタイトルも著者の名も書かないでおきます。
というのも、読んでいるあいだはもちろんですが、読了後の印象、つまり読み終わってからの後味があまりいいものではないかったからです。
食べ物がそうであるように、この「後味」というものは、その本質を端的に表すものだとマロニエ君は思っています。化学調味料などを多用した料理は、口に入れたときは美味しく感じても、だんだん様子がおかしくなり、後味の悪さにおいて本性をあらわします。

ヴァイオリンの本というのはけっこう面白いので、マロニエ君はこれまでもだいぶあれこれの本を読みましたが、でもしかし、なんとなく執筆者に対する印象が良くない割合がやや高いように思っています。
それは、どんなに御託を並べても、結局ヴァイオリンという特殊な高額商品を使って普通の人間の金銭感覚からかけ離れた、かなり危ないところもある商売をして生きている人達だということが根底にあるからだろうと思われます。

この人達は、どんなに美辞麗句を並べようとも、甚だ根拠のあいまいな、虚実入り乱れる、ヴァイオリンビジネスの荒海をたくましく泳いでいる強者なのですから、そこはやむを得ないことなのでしょう。
もちろんビジネスで成功するのは結構なことですが、ヴァイオリンビジネスはかなり怪しい要素も含んだしたたかなプロの、しかも特殊な専門家の世界で、昔の言葉でいうなら「堅気」のする商売ではないという印象を持つに至りました。

とりわけこの本は、自分の成功自慢の羅列のような本でした。
音楽どころか、まったくヴァイオリンや楽器といったものとは何の関わりもない所にいた人が、ふとした偶然からこの世界に入り、一気にこのビジネスの花を咲かせるにいたるほとんど武勇伝でした(もちろん本人の資質と努力もあるでしょうが)。

とりわけ後半は自己啓発本の様相を帯び、お金の話ばかりに終始するのには閉口させられました。
それも一般人とはかけ離れたケタの数字がページを踊り、毎月の家賃が100万、銀行への返済額も毎月2000万などと、こういうことばかりを書き立てながら、一方では信用や出会いといった言葉が乱舞します。

販売と並行して、買い取りもやっているとのことですが、これも著者に言わせれば「縁切り」ということをしてあげるのが自分の務めだとして、有無をいわさず即金で買い取るのだそうです。
そのためにはかなりの資金も必要だそうですが、大半は所有者の期待を遥かに下回る価格になる由。
率直に言って、ほとんど○○○の世界だと思いました。

即金で買い取るのは、ヴァイオリンを手放す人のいろんな未練や迷いが起こる時間を与えないように、その場で極力短時間で買い取ってしまうという、なんとも冷徹な世界だと思います。
しかも手放す人はたいてい事情のある弱い立場ですから、きっと思いのままでしょうね。

株や不動産ならともかく、ヴァイオリンような小さくて美しい楽器がこういう取引の対象になっていることは、薄々感じてはいましたが、現実社会のやりきれなさを思わずにはいられません。
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怒っている犬

マロニエ君の自宅のとなりの家には一匹のチワワが飼われています。

このチワワはちっちゃくてとても可愛らしいのですが、その見た目とは裏腹に性格はおそろしく獰猛で、何に対してでもことごとく攻撃的で、まるで荒れ狂う武者のような気性をむき出しにするのにはいつもながら呆れてしまいます。

あれでは本人(犬)も気分的にさぞ大変だろうなと思うほど、始終ありとあらゆることに怒りまくっていて、常に本気で、歯をむき出しにして怒りも露わにギャンギャンガウガウ唸ったり叫んだりで、その忙しいことといったらありません。
ネコよりも小さな体ですが、それはもう大変な迫力で、さすがに恐いです。
自分の十倍もある大型犬を見つけても悪態の限りを尽くすように吠えまくり、全身は怒りにわなないて毛並みは荒れて、ネズミ花火のように地面を転げんばかりです。

そのチワワ、ある時期とんと見かけなくなった時期がありました。
しばらくして事情を聞いたところでは、なんと足を骨折して動物病院に入院していたのだそうで、それも二階のベランダから自分で転落したとのこと。
いかに小さなギャング犬といえども、それは可哀想だと思っていると、その転落の顛末がまた驚きでした。

隣の家は二階のベランダにたくさんの植物がおかれていて、奥さんが水をやっているときも、その周りで絶えず道路の往来には神経を尖らせていて、マロニエ君も歩いていて何度頭上から罵声を浴びせるように吠えかけられたかわかりません。
まして犬が通りかかろうものなら、それこそ火のついたような怒りを爆発させていたようですが、あるときその興奮があまりにも苛烈を極めたようで、勢い余って自分から下へ転落したのだそうです。

ここまでくればそのチワワ君の怒りも、ほとんど命がけです。

しばらくするとめでたく退院したようで、またその姿を見るようになり、マロニエ君としては「やあしばらく」という気分でしたが、さて、性格のほうは一向に変化の気配も見られず、あいもわらずこちらを見るや眉間にシワを寄せてひっきりなしにガルルと威嚇してきます。

この家の奥さんがいつもリードをつけて散歩させていますが、そこに人や犬が近づこうものなら、ほとんど後ろ足の二足歩行になるほど興奮して怒りだして敵意むき出しになりますから、さすがの犬好きなマロニエ君をもってしてもこのチワワだけは恐くてまだ頭を撫でたこともありません。

同じ犬種でも、知り合いのピアノ工房にいるチワワは、いつも不安げに目を潤ませて見るからに弱々しいタイプで、ちょっとした物音にも反応して脱兎のごとく逃げていきます。抱き上げると体が小刻みに震えており、やたらビクビクして恐がり屋のようです。

もしかしたら、お隣の年中怒っているチワワもあれは臆病故かもしれず、あんがい根底にあるものは同じなのかもしれません。だとしたら性格の違いで、その表現方法がまるで正反対ということですが、激しく怒る方がはるかにストレスや消耗が多いだろうと思うと、ふと人間も我が身を反省させられるようです。
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波長

人にはそれぞれに「波長」というものがあります。
科学的には2つの山や谷の間にある波動の水平距離のことだそうですが、普通に言うと互いの気持ちや感覚や価値観などの意志の通じ合い具合のことでしょう。

この波長が合わない者同士というのは、ある意味で悲劇です。

これはむろんあらゆる人間関係において言えることですが、ある意味でこの波長ほど大事なものはないと思われます。
波長の相性が悪ければ、お互いに相手のことを大切な相手で好意的に接しよう、前向きに捉えようとどれだけ努力してみても、何かとギクシャクしてつまらない齟齬やつまづきが次々に発生します。
単純にいうと、笑いのツボひとつもこの波長によって決まってくるのです。

波長が合い、価値観や感性が共有できていると、ちょっとした会話でも、実にスムーズで無駄がありませんし、実際に語った言葉以上にさまざまなニュアンスまで伝えることができるでしょう。
その逆に、波長の合わない人とは、概ねの内容は同意できるようなことでも、会話のいちいち、言葉のひとつひとつに快適感がなく、無駄にストレスが発生し、虚しい疲労ばかりが堆積してゆくようです。

スッと行けるはずのものが、必ずどこか引っかかったり、左右に振れたりして、まるで素直に転がっていかないスーパーの半分壊れたカートのようで、どんなに真っ直ぐに押していこうとしても、変なクセがあってどちらかに曲がろうとしたり、キャスターのひとつが動きが悪かったりするようなものです。

波長が合う人同士というのは、お互いに相手の出方がある程度予測できるのが安心なのですが、逆の場合は常に球はどっちを向いて飛んでくるかまるきりわからず、気の休まるときがありません。

困るのは、お互いが真面目にやりとりをしている場合です。
真面目だからこそ逃げ場がないし、そこには好意も読み取れるからそう邪険にもできない。
そうなるといよいよ気分的にも追い込まれてしまいます。

マロニエ君はこういう場合の有為な解説策を知りませんし、それはきっとないのだと思います。
そういう方とは甚だ残念ではあっても、ビジネス以外のお付き合いは極力避けるようにしないと、結局はろくなことはないだろうと思います。

持って生まれた性格、家庭環境、育った地域、時代などさまざまな要因があるでしょう。
「いい人なんだけど…」という言葉がありますが、この言葉が出始めると、要は合わないという意味です。

人間の快適なお付き合いには、善意と人柄だけではどうにも解決のつかない深いものがあるようです。
マロニエ君としてはその深い部分を文化性だと呼びたいのです…。
なぜならそれは機微の領域であり、いいかえるなら絶妙さの世界だからです。
それを司るのは繊細な感受性とセンスであって、人はそこのところを解さない限り文化の香りを嗅ぐことはできないと思うわけです。
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韓国映画

人並みに映画が嫌いではないマロニエ君は、このところ映画館に出かけることまではしませんが、たまに友人とDVDの貸し借りをしたり、テレビで放映されたものを録画して見ることはときどきあります。

洋画/邦画いずれも拘りなく見ますから、ハリウッド作品はもちろん、古いフランス映画などもずいぶん観たと思いますし、邦画では小津安二郎から鶴田浩司の任侠物まで、節操なく、おもしろそうなものは手当たりしだいですが、唯一手をつけなかったのは香港映画でした。
あれはろくに見たことはありませんが、どうも体質的に合わないという感じで一度も近づこうとしたこともありません…いまだに。

そもそもアジア映画というのが昔はまるきり見る意欲が湧きませんでしたが、そんな中、次第に面白さに気が付いてきたのが韓国映画で、これはいつごろからかポツポツ見るようになりました。
つい最近もある作品をひとつ観ましたが、だいたいどれもそれなりに楽しめるようになっているのは、いずれも映画のエンターテイメントを心得たプロの作品ということだろうと思います。

マロニエ君が感じるところでは、国を挙げてやっているのかどうかは知りませんが、映画に対する取り組みのテンションやパワーが凄いことと、台本にしろ監督にしろ、あちらでは才能のある人間が本気の仕事をしているように感じます。それなりのセンスもあるし、映画としての切れ味やテンポもある。
クリエイティブな世界までコンセンサスで、臆病で、キレイゴトを前提とする日本では、本当に才能ある人がのびのびと仕事をする環境を整えるのが難しいし、だから才能が育たない。

もう一つは、日本と違って韓国人は「感情」をなによりも優先することかもしれません。
感情というものはきれいなものばかりではなく、喜怒哀楽、清濁、美醜、あらゆるものが激しくうごめくのが当たり前であって、そういう人間的真実が一本貫かれているから、描かれる人物もみな活き活きと人間くさく、観ていておもしろいのだと思います。

出てくる俳優もいわゆる草食系ではなく、とくに主演の男女などはどことなく野性的な色気があるのも魅力だろうと思います。ほんのお隣なのに、どうしてこんなにも違うのかと思います。
韓国では痩せぎすのスッピンみたいな女優が大物ぶっていることもないし、男には男の攻撃的な荒々しさみたいなものがしっかり残っているのも、作品が精彩を帯びている要因だろうと思います。

それと、韓国映画を見ていて感心するのは出てくる俳優達の大半が欧米人並みに体格がいいことです。
それもただモデルのようにむやみに背が高いなどというのではなく、本当にきれいな体型で、それ故に男女が向かい合っただけでも立派な絵になる。

まあ日本人としては、せめてひとまわりと言いたいところですが、実際にはもっと体格がいいから、ビジュアルとしてもサマになってしまうのでしょう。

そういう出演者達が、非常に感情豊かに体当たりで激しく動き回るのですから、なるほど映画も引き立つだろうと思われます。
美しいものと醜悪なもの、愛情深いものと残酷なものを容赦なく対比させるのも、韓国映画が恐れずにやってみせることのひとつで(やり過ぎでうんざりすることはあるものの)たしかに迫力はありますね。
その点は日本人は感情やビジュアルまでも「きれい好き」で、常に箱庭のようにきれいに整理されてしまっているから、ある種の味わいとか繊細さはあるにしても、観る者の心を鷲づかみにするようなパンチはない。

日本人は目的が何のためであっても汚いもの、醜悪なもの、激しいもの、ときに残酷なものを体質的に避けて、小綺麗に文化的にまとめようとする傾向がありますが、そんな制限付きではものごとの表現力はどうしても劣勢に立たされてしまうのは避けられないことでしょう。
音楽の世界でも、非常に優れた演奏家が韓国に多いのは、やはり彼らが広くて深い感情の海を自らの内側に抱えていて、そこから多様で適切な表現をしてくるからではないかと思います。
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見ないで突っ込む

最近、車を運転をしていてつくづく感じるのは、以前にはなかった独特の注意が必要になったということでしょうか…。

とくに変化を感じるのは、若い世代の男性の運転で、ちょっと普通の感覚でいうなら「それはないよ」というぐらいのタイミングで脇道や駐車場から、走っているこちらの前方に出てきたり、あるいは急に車線変更してきて、こちらが急ブレーキ、あるいはブレーキをかけないまでも、思わずヒヤッとして減速して車間距離を取り直さなくてはいけないぐらいの動きをすることです。

しかも、それでだけではありません。
それだけ危ない割り込みをかけてくるからには、あとはどれほどキレの良い動きをするのかと思いきや、前は空いているのに、妙にトロトロと走りはじめるのには、ただもう唖然としてしまいます。

もちろんマロニエ君は安全を第一としているわけですが、この手の人達は、スピードこそ出さないけれども、実際の動きは流れとか常識に逆らう、かなり危険な運転だと思っているわけです。
実際の路上には、周囲の交通状況に応じた円滑な動きというものがあって、そのために必要なものはまず何かというと、刻一刻と変化するシチュエーションへの反応と判断だと思います。

最近ようやく気がついたのは、無理に前方に曲がってくるこの手の車は、いざその運転操作に入る段階では、もうほとんどこちらを見ていないということです。
そしてあとは他力本願、相手も衝突したくはないはずから、そのぶんは減速するだろう…というこちら側にも安全のための対処を期待した運転なわけで、これは車線変更でもまったく同様です。

つまり、心のどこかでは危ないかも…ということを少し認識していて、それを敢えて責任放棄した結果として本能的にこっちを見ないで動いてくるのでしょう。
それだけ男子の運転感覚が鈍っていて、かつ他者に依存した動きだから驚かされることが多いわけで、昔は女性ドライバーにこのタイプ(見ないで突っ込む)がいましたが、今は女性ドライバーのほうがある意味でよほど責任ある動きをしてくれているようにも思います。

いわゆる空気の読めない痴呆運転なのであって、だから変なタイミングで人の前に出てきたり、異常にチンタラしたスピードで平然と中央車線を走り続けたりするわけです。
横に並んで見てみると、いかにもしまりのない表情をしたお兄さんが一人で真っ直ぐ前を見ていたりして、その様子には、もはや腹を立てる値打ちもないという気分になるものです。

とにかくこの手合いは動作が鈍いといったらなく、見通しの良い、まったく安全な角を曲がるだけでも、まるで老人のようにやみくもに動きが鈍く、これは決して安全運転ではなく、こんな感性で運転されたのでは、ある意味で酒酔いや居眠り運転にも匹敵する危険があると感じます。

しかも現実は酒酔いや居眠りでもないのだから、摘発対象にもならないわけで、もはやどうしようもありません。現代では若者の自動車離れが著しいと言われていますが、さてもなるほど、これじゃあ車なんぞ欲しくなるはずもないのは道理だと思いました。
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小林愛実

先週、小林愛実さんのリサイタルの様子がNHKで放送されました。

この人は現在16歳で、ずいぶん早熟なようですが、音楽の世界ではよくあることで、本物のコンサートアーティストになる人は10代で頭角をあらわすぐらいでなくてはやっていけません。
マロニエ君の記憶では、彼女はインターネットの動画サイトのYoutubeで、子供のころの演奏がずいぶん投稿されて話題になったように思います。
まだ補助ペダルの要るような小さな童女が、オーケストラをバックにモーツァルトのコンチェルトなどを大人顔負けに堂々と身をくねらせながら弾いてみせる姿に、ずいぶん多くの人がアクセスして話題になったようにも聞きました。

その彼女も成長して10代前半でリサイタルを行うようになり、現在は桐朋の学生で演奏を続けながらもさらなる修練を続けているようです。

いきなり好みの話で申し訳ないのですが、これまでにも何度か見て聴いた経験では、マロニエ君はさほど好きなタイプではなく、実際にも彼女の演奏にはいろいろな意見がうごめいているというようにも聞いています。

もちろん上手いのは確かですが、弾いている構えが、いかにも音楽に入魂しているという様子ではあるものの、独特なものがあって、このあたりなども意見の分かれるところだと思われます。

演奏されたのはショパンのソナタ第2番と、ベートーヴェンの「熱情」という大曲二つでしたが、見ているよりも出てくる音の方がより常識的で、まあそれなりだったと思います。
ただし、現在でもまだ体は小さく、椅子をよほど高くして、上体はピアノに覆い被さるように自信たっぷりに力演しますが、ピアノはもうひとつ鳴りきらないところが残念と言うべきで、これはあと数年して骨格ができてくるとだいぶ余裕が出るのかもしれないと思います。

マロニエ君がひとつ感心したのは、今どきのピアニストにしては全身でぶつかっていく迫りのある演奏をするという点で、多くの若いピアニストが感情のないビニールハウスの野菜のようなきれいだけどコクのない演奏をする中で、小林愛実さんは作品に込められた真実をえぐり出そうという覚悟のある、きれい事ではない演奏をしていると感じました。

そのためにミスタッチもあるし、演奏する上でもかなり危ないこともしますが、それがある種の緊迫感をも併せ持っており、少なくとも表現者たるもの、そういうギリギリのところを攻めないでは、なんのために演奏という表現行為をするのかわからないとも言えるでしょう。
この点では、現在の多くの若手の演奏は周到な計算ずくで、スピードなどはあっても音楽そのものが持つべき勢いとか生々しさがなく、聞いている人間が共に呼吸し、ときに高揚感を伴いながら頂点へ向かっていくような迫力がありません。

愛実さんはその点は、多少の泥臭さはあるけれども、ともかく自分の感性に従って、必要な表現を恐れずに挑むのは立派だと思いましたし、生きた音に生命力を吹き込まず、きれいな家具を並べただけみたいな演奏に比べたら、どれだけいいかと思いました。
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苦手な靴選び

昔の靴を久しぶりに履いて出かけたら、歩きづらくてえらい目にあったのは以前書きましたが、要は生ゴムの底がカチカチに硬化してしまっているためということが帰宅してようやくわかりました。

ほとんど傷みのない靴だったので、棄てるのも気が引けて靴底の張替にどれぐらいかかるのか調べてみることにして、靴のリペア専門の店に2軒ほど持っていったら、両方とも安くても8千円、高くて1万5千円ぐらいだと言われて、ちょっと考え込んでしまいました。

とくべつ気に入っているものならともかく、あまり履かずに長いこと放っておいたぐらいの靴なので、それほどのこだわりはないし、いっそ新しい靴を購入しようか…という気になりました。
より高くついても、気分よく新品が買えるわけで、それもいいかと思ったわけです。

同時に思い出したのはマロニエ君は靴選びが下手だという事実を忘れていたので、この点は思い出すとうんざりです。
色やデザインは単なる好き嫌いなので問題ないのですが、靴の履き心地というのは店頭で試したぐらいではよくわからず、いざ実用に供してはじめて欠点がわかるという苦い経験がこれまでにも何度かありました。
しかも合わない靴ほど疲れて耐え難いものもないので、その点は妥協できません。

実は、今回も懲りもせずにさっそく一足買ってみたのですが、家に持ち帰って試してみると、なんとサイズがやや大きすぎたことがわかりました。店頭ではちょうどいいと思ったのですが…。もちろん下におろしたわけではないので、すぐ翌日交換にいったものの、あいにくこちらが欲しいサイズが在庫になく、入荷予定もないということで残念ながら返品という次第になりました。

それからしばらくして、次に買った靴は、履きやすいと思ったのに、今度は底の感じがしっくりせずよくないことと、足の甲がやや熱くなる特徴のあることが数時間履いてみてわかりました。
しかし今回はもう下におろしたのでもうどうしようもありません。
ああ…なんでこう靴選びのセンスがないのか、自分でもほとほと情けなくなりました。

マロニエ君の靴選びが尋常なことでは上手く行かないことには、我が家では有名で、家人はもはや一切関わろうともしません。よほど高級な靴を、店員が付きについた状況でじっくり時間をかけて選べば失敗もないのかもしれませんが、靴にそこまで気前よく投資する覚悟もなく、要は中途半端なものを自分の判断だけで買うからこうなるのかと思います。

かくして、またもマロニエ君の靴選びは失敗の巻となり、履かない靴がまた増えただけという、一番もったいなくてばかばかしい結果に終わりました。
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靴の性能

マロニエ君の音楽の先生のお一人は、ご主人が大学の先生ですが、この方はとにかく歩くことが大好きで、家には昔から車もありません。

毎日の通勤を市内の警固から箱崎のキャンパスまで、片道1時間半をかけて何十年も通勤されているというヘビーウォーカーです。往復で3時間、これを毎日と、大学以外にも大抵のところは歩いて行かれるようですから、その距離たるやたいへんなものです。
目と鼻の先でも車で行ってしまうマロニエ君なんかから見たら、人間離れした、ほとんど宇宙人のようにしか見えませんでした。

さてその先生曰く、これだけ日常的に歩くということは、とうぜん靴の傷みや消耗もケタ違いに激しいそうで、年に何度か靴を買い換えておられるようです。
昔は「履きやすい靴」=「高い靴」だったわけで、これだけ歩くからには足に悪い安物靴というわけにはいかないので、靴にかかる出費は相当のものだったそうです。

それが近年になってからというもの、履きやすい、足の疲れない、科学的にも理に適ったウォーキングシューズが出現してからというもの、すっかりこちらに移行して、値段も昔の数万円から、一気に5千円前後で事足りるようになったというのです。

考えてみると、昔はとくに革靴などは、みんなかなり無理をしながら履いていた思い出があり、形状が合わずに足の指にマメができたり、靴屋に補正に出したり、足の小指にテープを巻いたりといろいろやっていたことが思い出されます。ほとんど足を靴に合わせて慣れさせるような一面がありました。

それなりの値段でもこういう調子で、ましてや安物などは推して知るべしという気配でしたね。
ところが今はそういう意味では技術や研究が進んで、足に負担をかけず、軽くて、安いという、昔から見れば夢のような靴がごく当たり前のようになってしまいました。

とりわけウォーキングシューズなどの進歩は目覚ましいものがあり、そのノウハウが逆に革靴などにも活かされているように感じます。その点では靴は科学技術を反映したアイテムでもあり、ものにもよりますが、平均的にみれば新しいもののほうが進歩しているのかもしれません。

とにかくストレスのない快適なものを安価に選べるのは幸せなことだと、その先生はいとも簡単におっしゃいますが…マロニエ君はいまだに靴選びが下手でどうしようもありません。
ああ、靴選びになると気が滅入ってしまいます。
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天守物語

日曜日に録画しておいた新国立劇場の舞台を観ました。

泉鏡花の代表作である『天守物語』ですが、久しぶりに日本語の美しさを堪能しました。
まさに言葉の芸術。

このような作品が日本に存在することが誇りに思えるようでした。

鏡花の台詞は、その発想から言葉の使い方までまったく独創性にあふれ、同時に深い情緒の裏付けがあり、ひと言ひと言が複雑な音符のようで、役者の発する言葉は、まさに厳しい修練の果てに演奏される音楽を聴くようでした。

我々はこんなにも美しくて格調高い日本語という言語をもっているのかと思うと、あらためて唸らされもするし、それを惜しげもなく捨てていく今の世の風潮がこの上なくもったいなくて、うらめしいようでした。
現在の日本人は日本語というとてつもない言語文化の半分はおろか、1割も使っていないような気がしますし、これほど自分達の言語・母国語を大切にしない国民は愚かだと痛烈に思わせられました。

三島由紀夫が鏡花にご執心だったのは有名ですが、とりわけ戯曲作品においてはかなり強い影響を受けていることがわかります。
言葉のもつそれ自体の意味はもちろんこと、その巧緻で意表をつく組み合わせによって、思いもよらない独特な調子を帯びながら極彩色の輝きを放つことを、彼らはその天才によって知り尽くしているのでしょう。
絢爛たる台詞がとめどもなく流れだし、そして音楽同様にあちこちへと転調するようでもあり、まったく感嘆するほかありません。

詩的で装飾的でもある言葉の奢侈は、音楽はもちろん、絵のようでもあり、闇夜にきらめく美しい織物のようでもあり、あっという間の2時間でした。

今回の天守物語は昨年、新国立劇場で上演されたものですが、主演の富姫は現代劇の女形である篠井英介氏が務めましたが、よく頑張ったと思います。
こういう作品ではなによりも言葉を明瞭に、メリハリを持って伝えることが肝心で、その点は出演の皆さんは自分の演技や主張に溺れることなく、作品への畏敬の念があらわれていて好ましかったと思います。

天守物語の舞台は姫路城の天守閣、まさに妖艶な魔物の棲む独特の世界であるために、主演をあえて女形が務めるのは、鏡花の一種異様な世界を現し、中心に据える重しの意味でも望ましいことだと思います。

この作品では板東玉三郎丈の富姫が有名で、舞台はもちろんのこと、自ら監督・主演して映画まで制作しているのですから、現代では玉三郎の富姫というものがこの役のひとつの基準になっているのかもしれません。

このような格調高い豪奢な日本語の世界があるということを、日本人はもっと知るべきだと思いますが、そうはいっても触れる機会がないのだから難しいところです。
とりわけ戯曲は本を読むのも結構ですが、やはり舞台があって、優れた役者の口から活き活きと語られたときにその真価を発揮するものです。
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レオンハルトとワイセンベルク

ついこの間、一世を風靡したピアニスト、アレクシス・ワイセンベルク(引退していた)が亡くなったということを耳にしたばかりでしたが、昨日の朝刊ではチェンバロ&オルガンの大物であるグスタフ・レオンハルトが亡くなったというニュースを目にしました。

マロニエ君は、もちろんこのレオンハルトのCDなどはそれなりに持ってはいますが、取り立ててファンというほどではありませんでした。
それはあまりにも正統派然としたその演奏や活躍の立派さ、存在そのものの大きさのイメージが先行して、音楽を聴くというというよりは、まるで石造りのガチガチの荘重な門の前に立たされているようで、それ以上の何かしら意欲がわく余地がなかったように思います。

しかし、彼はピリオド楽器による演奏の推進者でもあり、ひとつの流れを作った一人だと言わなければなりませんし、なによりバッハを中心とする演奏活動の数々、録音、さらには教育に果たしたその功績の大きさは計り知れないものがあったと思います。
バッハなどのCDでは、誰の演奏を買って良いかわからないときは、ひとまずレオンハルトを買っておけば間違いない、そんな人ですが、あまりにそうであるがためにちょっと個人的には引いてしまった観がありました。

バッハといえば、ワイセンベルクもロマン派の作品などをクールに演奏する傍らで、バッハはかなり盛んに取り上げた作曲家でした。
むかし実演も聴きましたが、当時としては先進的でテクニカルな演奏をすることで頭角をあらわし、そのいかにも男性的な風貌と剣術の遣い手のようなピアニズムは時代の最先端をいくものでした。

いかにもシャープに引き締まったその演奏は、それ以前の名演の数々を古臭いと思わせる力があり、同時にそは賛否両論があったと思われます。

一切の甘さとか叙情性を排除した、モダン建築のような切れ味あふれる演奏は一時期かなりもてはやされて、ついには日本のコマーシャルにも出演するほどのスター性を兼ね備えた人だったことを思い出します。

マロニエ君が子供のころに聴いたリサイタルでは、地方公演にまで古いニューヨーク・スタインウェイを運び込んでの演奏会だったことは、今でも強く印象に残っています。
プログラムはバッハやラフマニノフを弾いたことぐらいで具体的な曲目は思い出せませんが、背筋をスッと伸ばして、どんな難所やフォルテッシモになっても、まったく上半身を揺らさないで微動だにせず、スピードがあり、どうだといわんばかりにカッコ良く弾いていた姿が思い出されます。

久々に彼のバッハを聴いてみましたが、ちょっと聴いているのが恥ずかしくなるようで、まるでむかし流行したファッションをいまの目で見ると思わず赤面するような、そんな気分になりました。
まあこれも、いま振り返ると「時代」だったんだと思います。

音楽的にはなんの共通点もない二人の歳を調べてみると、レオンハルトは83歳、ワイセンベルクは82歳と、まさしく同じ世代だったことがとても意外でした。
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路上マナーの低下

最近車を運転していて気がつくことのひとつは、路上でドライバー同士が「どうも」程度のちょっとした挨拶をする人が激減したということです。

たとえば狭い路地などで、対向車が向かってくるのが見えたら、無理に進入せずに、その車が通りすぎるまでできるだけ広い場所で待っておくことがあります。

そういうとき、以前ならすれ違いざまに軽くクラクションを鳴らしたり、ちょっと手を上げたり、中には軽く頭を下げる人などがいましたし、マロニエ君も逆の場合は(現在でも)必ずそのように謝意を表現するようにしていますが、最近はこんななちょっとしたやりとりが失われたように感じます。

いやしくもドライバーなら、相手が道の向こうで止まって待っているのは何のためか、わからないはずはないのですが、すれ違いざまにも、ただ冷たくサーッと無表情に通り過ぎていく人がずいぶん多くなりました。
まるで「当然」みたいな趣で、こういうときは、どうしようもなくムッとくるものです。
人間は、あまりにもパソコンや携帯を使いすぎて、こんなふうになったのかとも思います…。

こんな変化にも、考えてみるとプロセスがあり、全般的傾向としてですが、はじめはまず30代ぐらいの女性ドライバーがこの礼無し通行をするようになり、続いてさらに若い男性などがそれに加わってきた印象があります。

そのうち老若男女は入り乱れ、最後にはこの点だけは比較的律儀だったタクシーの運転手までもがこれをするようになり、今では道を譲ったり、相手側の通過を待っていたりしても、なんらかのささやかな挨拶を返してくれる人のほうが確実に少なくなり、まったくやるせない限りです。

あと、その手の無礼者の比率が高いのが高級車のドライバーで、車の威を借りて自分が偉くなったような気分なのは、昔からもちろんいましたが、いよいよそれに拍車がかかってきているようです。
高級車の横柄ぶりについては、マロニエ君の印象では、現在は輸入車系よりも大型のレクサスなどのほうが確実に上を行く印象です。

まあとにかく、今の世の中、ちょっとした「お互い様」とか「すみません」というごく自然な気持ちや、それに連なる表現が、どんな場合にも少なくなったように感じます。

そうかと思えば、耳にする歌の歌詞などは薄気味の悪いほど「ありがとう」というような空虚な言葉のオンパレードだし、店で買い物をしていても、店員のほうが泰然として、お客さんの方が何かといえば店員に「ありがとうございます」を連発したりと、いったいどうなっているのかと思うことしばしばです。

車のドライバーには路上の仁義がなくなったものの、まだ建物のドアの開け閉めやエレベーターなどでは、かろうじて「すみません」というような言葉が交わされますが、この調子では、これもいつなくなってしまうかと心細い限りです。
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薄汚れた画面

兵庫県の現職知事が、今年から始まった大河ドラマの『平清盛』の第一回放送を見て酷評したことが話題になっていたようですね。

テレビを観る習慣の薄いマロニエ君にとっては、毎週ひとつでもドラマを見続けるというのは、結構な義務にもなるので今年の大河も見ないつもりだったのですが、こういうおかしな話題がくっついてくると根が野次馬のマロニエ君としては、ちょっと見てみたくなりました。

我が家のビデオレコーダーには家人のために大河ドラマが録画セットしてあって、幸い消去していなかったので、これは好都合とばかりに再生ボタンを押しました。

結果から先に言うと、知事の発言も尤もだと思いました。
マロニエ君は最近のテレビ特有の、手を伸ばせば人の顔に触れられそうな、あのほとんどプライバシーの侵害のようなシャープな映像は決して好きではないので、多少のフィルターというかノイズの加わったような、すなわちアナログ風のやわらかい画面になることは、今後の方向性のひとつとして好ましいことと思っています。

さすがにニュースやスポーツではそうもいかないでしょうが、ドラマなどはカリカリの鮮明画面より、何らかのフィルターがかかるのは好ましいことだと思われ、NHKのドラマでいうと『龍馬伝』や『坂の上の雲』がそれだったと思います。
とりわけ『龍馬伝』を見たときは、それ以前の、いかにも狭いスタジオのセットにライトを当てて撮影していますと言わんばかりの学芸会的な調子から、落ち着いた雰囲気のある映像に進化したと思ったものです。『坂の上の雲』もほぼ同様。

しかし、今回の『平清盛』は映像それ自体になんの味わいも無く、映像そのものに、なにか作り手が拘っているクオリティがまったく感じられません。
いつもハレーションを起こしているようで人物の顔にはやたら陰が多く、ほこりっぽく、色彩感もない。昔の映画のような渋い美しさのある映像でもなければ、新しいなりのなにか深みや味わいがあるというようにも感じられない、単なるコストダウンのための、手抜きと勘違いのようにしか見えませんでした。
それに、俳優でもなんでも、なんであそこまで汚らしくしないといけないのか説得力がありません。

兵庫県知事がおっしゃるように、「うちのテレビがおかしくなったのかと思うような画面…」というのも頷けるし、なにかのスイッチを押すとパッときれいになるんじゃないかというような、絶えずストレスを感じさせる映像だったと思いました。
知事は「薄汚れた画面」という表現をされたようですが、それも納得で、薄汚れた状況を丁寧に表現している上質な画面と、映像そのものが安っぽく薄汚れているのとは、そもそも大違いです。
そして『平清盛』では、その映像になんらかの美しさがまったく感じられず、斬新なつもりの製作者の自己満足だけが垂れ流されているといった印象しかありません。

ただし、だからといって知事という立場にある公人が、ドラマ作りの内容にまで堂々と言及するのは適当かどうか…。清盛の主な舞台となる兵庫県では、この大河ドラマに合わせて観光客誘致のキャンペーン中だそうで、ドラマへの期待が高すぎて、あの映像では効果が薄いと危機感を募らせたのでしょうか。

このような批判は、一般視聴者の声なら大いに結構だと思いますし、そういうものがあってこそより良い作品が生まれるというものです。
同時に、大河ドラマは特定の県や地域の宣伝目的で存在しているわけではないので、それによる経済効果を過度に期待して、ドラマの仕上がりに文句をつけるとしたら、これは本末転倒というべきではないでしょうか。

というわけでマロニエ君の印象としては、どっちもどっちでは?という気がしました。
第二回まで見ましたが、正直、今後見続けるという自信はもてません。
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威風堂々の歌詞

イギリスのザ・プロムスをことをもう少し。

これがイギリスの音楽の一大イベントであることはまぎれもない事実のようで、2011年で実に117回目の開催だと高らかに言っていましたから、歴史もあるということです。
19世紀末、もともとはふだん音楽に触れることの少ない一般大衆にもコンサートが楽しめるようにとはじめられたものだそうです。

こんにちまで、その精神が受け継がれているといえばそうなのかもしれませんが、ともかく音楽というより、音楽をネタにした壮大なスペクタクルというべきで、そのド派手な催しを見ていることが目的であり価値のようでした。

ラストナイトも後半になると、お約束のエルガーの威風堂々の第1番が鳴り出して、いよいよこのザ・プロムスも終盤のコーダを迎えるようでした。
実はマロニエ君はこの威風堂々第1番のような有名曲は、音楽ばかりが耳に馴染んで、中間部の歌の歌詞など気に留めたこともありませんでしたが、テレビの画面に訳が出てくるものだからそれを読んでいると、その何憚ることのない大国思想には唖然としました。

「神は汝をいよいよ強大に!」「国土はますます広く、広く」「我等が領土は広がっていく!」「さらに祖国を強大にし給え」というような侵略と植民地支配を前提とした歌詞が延々と続き、ロイヤルアルバートホールはむろんのこと、ハイドパークに結集した群衆も一丸となってこの歌を大声で叫ぶように唱和しています。

もちろん、これはすでに古典の作品ということで、いまさらどうこうという思想性もないということかもしれませんが、かつての大英帝国の繁栄と傲慢の極致を音楽にしたものだと思いました。
それをこれだけの規模と熱狂をもって歌い上げ、その様子を全世界に放映するということはちょっと違和感があったのは事実です。
とりわけ日本人は過去の謝罪だの、靖国問題、教科書の表記などとなにかと近隣諸国に気を遣い遠慮することに馴れてしまっているためか、こういう場面を見ると唖然呆然です。

さらに続いて、英国礼賛の愛国歌「ルール・ブリタニア」をスーザン・バロックが戦士の出で立ちで歌い上げるとまた群衆がこれに唱和し、バリー作曲の「エルサレム」、さらにはブリテン編曲による女王を讃える「英国国家」となるころには、マロニエ君の個人的な印象としては、だんだんただのド派手なイベントだと笑ってすませられないようなちょっと独特な空気が会場全体、あるいは野外の群衆からぐいぐいと放出されてくるようでした。

無数のユニオンジャックの旗が力強く振られ、聴衆の熱狂はいよいよその興奮の度を増していく様は、ちょっと危ない感じさえしたのが正直なところです。

恒例だという「指揮者の言葉」でマイクを持つエドワード・ガードナーのひと言ひと言に、聴衆が熱狂を持って反応するのは、ほとんどこれが音楽のイベントなんて忘れてしまいそうでした。
最後は「蛍の光」を会場全体が両隣の人とみんな手をクロスしてつないで熱唱する様は、まるで国粋的な戦勝祈願の集会かなにかのような感じで、さすがにちょっともうついていけないなと思いました。

断っておきますが、マロニエ君は断じて左翼ではありません。
でも、最後はちょっと引いてしまったのは事実です。

熱狂というのは本来は素晴らしいことだと思いますが、その性質と、度を超すと…恐いなと思いました。
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プロムス2011

先日、ロンドン名物のプロムス2011のラストナイトをBSでやっていましたが、いやはやその規模たるや、年々巨大化していくようで久しぶりに見て驚きました。
面白いといえば面白いし、ちょっとウンザリするのも事実ですね。

これはいうまでもなくじっくり音楽を聴くためのコンサートではなく、クラシック音楽を用いたロンドンのお祭りであって、演奏や音楽の良否は二の次だと思います。
まあ、完全にイギリス版の紅白歌合戦みたいなもんですね。

空中から撮影される楕円形のロイヤルアルバートホールは、立錐の余地もないほどの人で埋め尽くされ、豪華な照明の効果とも相俟って、会場それ自体がまるで輝く宝石のようです。

ピーター・マクスウェル・デーヴィスの「慈悲深い音楽」という合唱曲で始まり、バルトークの「中国の不思議な役人」やブリテンの「青少年の管弦楽入門」など、ともかくあれこれの音楽が演奏されますが、個人的にはスーザン・バロックの歌う「楽劇『神々のたそがれ』から、ブリュンヒルデの自己犠牲の場面」がもっとも良かったと思いました。

スーザン・バロックはRシュトラウスやワーグナーを得意とするイギリスの名花ですが、その劇的で力強い美声は、6000人の聴衆で埋め尽くす巨大会場に轟きわたるという感じでした。
すっかりその歌声に満足していたら、お次はラン・ランの登場で、リストのピアノ協奏曲とショパンの華麗な大ポロネーズを演奏。

こう言っちゃなんですが、まったくのお祭り用の芸人ピアニストの演奏で、その音楽性・芸術性の正味の値打ちはいかなるものかは、おそらく大半の人が了解していることだろうと思いますし、それがわからないヨーロッパではないはずですが、それでもこういう人にお座敷がかかるご時世だということでしょう。

この人はいわゆる臆するということのない、鋼鉄のような心臓の持ち主で、派手で巨大なイベントになればなるだけ本人もノリノリになってくるという、恐るべきタフな性格なんでしょうね。
いちいち気に障る滑稽な表情や、音楽の語り口は、わざとらしいしなをつくるようで、ほとんど猥褻ささえ感じてしまいます。もっと単純にスポーツのようにカラリと弾き通せばまだしものこと、まあやたらめったら伸ばしたり引っぱったり無意味なピアニッシモを多用したりと、これでもかとばかりに音楽表現のようなことをやってみせるのがいよいよいただけません。

この人の演奏を見ていると、音楽に酔いしれているのではなく、派手な舞台で派手なパフォーマンスをやっている自分自身に酔いしれ、その快感に痺れきっているようです。
ショパンでもリストでも、どこもかしこもねばねばにしてしまって、間延びして、まったく音楽に生命が吹き込まれないのは疲れるほどで、当然ながらオーケストラの団員もガマンして職務を全うしているのがわかります。

それにしても、このプロムスも今どきの風をまともに受けて、あまりにド派手なイベント性が表に出過ぎているのは、ちょっとやり過ぎの感が否めませんでした。昔はどうだったか、マロニエ君はこの手の催しはあまり興味がないので詳しいことは知りませんが、もう少し自然さがあったように記憶しています。

今はハイドパークやらロンドン以外の他のいくつもの会場と結んでの多元イベントとなり、専らその規模を太らせることにのみエネルギーが費やされているような印象で、その目の眩むような途方もないスケールは、クラシックの音楽イベントという本質からはるか逸脱しているような印象でした。
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君の名は

NHKのBSプレミアムでは、山田洋次が選ぶ日本の映画というようなものをやっていて、面白そうなものがあるときは録画しています。

そこで、かの有名な『君の名は』が放映され、あれだけの有名作品ですが一度も見たことがなかったので、自分の趣味ではないとは思いつつ、どんなものやらと思い、ちょっと観てみました。もともとラジオドラマだったというこの作品は、放送時間になると女性ファンがこれを聞くために、銭湯の女湯が空になるという社会現象まで起こったというのは有名な話です。

東京大空襲のさなか、氏家真知子(岸恵子)と後宮春樹(佐田啓二)は偶然に出会い、共に戦火を逃れるうちに惹かれ合い、翌日数寄屋橋の上で、半年後の同じ日にお互い元気だったら会いましょうという約束をして別れるのですが、これがこのじめじめした慢性病みたいな恋愛物語の発端です。
すれ違いと、当時の倫理観、人間の情念、幸福の観念、運命、嫉妬、他者の目など、さまざまなものに翻弄されて、観る者は止めどもなく巻き起こる苦難の連続にハラハラさせられ、観ているうちに、なんとなく当時爆発的に流行った理由がわかるような気がしてきました。

それは、この映画が当時の自由恋愛(という言葉があった由)を夢見る女性の心理を突いている点と、新旧の時代倫理の端境期に登場した作品であるという点、とくに後年隆盛を迎える昼メロの原点というか元祖のような要素を持っているからだと思います。

お互いに強く惹かれ合っているにも関わらず、様々な運命がこれでもかとばかりに二人を弄びますし、真知子と春樹自身も、今の観点からすればなんとも思い切りの悪いうじうじした人物で、こういうものが流行ったことが、日本では恋愛映画がやや格落ちように捉えられたのも無理はないと思いました。

意外に長い作品で、2時間20分ほどをさんざん引っ張り回したあげく、ついに二人は結ばれるのかと思いきや、最後の最後でまたしても未練を残した形での別離となり、「第一篇 終」となったのには、思わず「うわぁ、こんなものがまだ続くのか!」と思いました。

それでネットで調べてみると、なんとこれ、全三部構成で上映時間は実に6時間を超すというもので、まるでワーグナーの楽劇並の巨編であるのには驚きました。

パリに渡る前の、磨きのかからない状態の岸恵子はまだそれほどとも思えませんでしたが、佐田啓治は息子の中井喜一とは顔の作りがかなりちがう正真正銘の二枚目で、太宰治風の暗い陰のある美男が、いかにもこの陰鬱な役柄にはまっていると思いました。

ここから高度経済成長と歩を共にするように、日本のメロドラマブームが始まったのではないか?という気がしました。
ときおりこういう映画を見るのもいろんな意味で面白いものです。
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不気味なショパン

昨年のことですが、ちょっと冒険して変なCDを買ってみたところ、それは予想を遙かに超える恐ろしいシロモノでした。

ジョバンニ・ベルッチ(ピアノ)、アラン・アルティノグル指揮/モンペリエ国立管弦楽団によるショパンのピアノ協奏曲第1番他ですが、この協奏曲はカール・タウジヒという19世紀を生きたポーランドのピアニストによって編曲されたものがライブで演奏収録されています。

とりわけオーケストラパートに関しては、編曲という範囲を大幅に逸脱しており、耳慣れた旋律が絶えず思わぬ方向に急旋回したり、まったく違う音型が飛び出してくるなど、突飛だけれども諧謔のようにも聞こえず、滑稽というのでもないところが、ある意味タチが悪い。
やたら頭がグラグラしてくるようで、聴いていて笑えないし、むしろその著しい違和感には思わず総毛立って、脳神経がやられてしまうようでした。

三半規管がやられる船酔いのようで、正直言ってかなりの嫌悪感を覚えてしまい、せっかく買ったので一度はガマンして聴こうとしましたが、ついには耐えられず再生を中止してしまいました。
こんなものを買うなど、我ながら酔狂が過ぎたと、その後はCDの山の中にポイと放り出したままでしたが、よほど身に堪えたのか、そのうちジャケットが目に入るのもイヤになり、べつのCDを上に重ねたりして見えないようにしていても、何かの都合でまたこれが一番上に来ていたりして、ついにはベルッチ氏の顔写真がほとんど悪魔的に見えはじめる始末でした。

ただこのブログの文章を書くにあたって、数日前、確認のためもう一度ガマンして聴いてみようと勇気を振り絞って、ついにディスクをトレイにのせて再生ボタンを押しました。
出だしはまるで歴史物の大作映画の始まりのようですが、序奏部は大幅に削除変更というか、ほとんど改ざんされ、驚いている間もないほどピアノは早い段階で出てきます。演奏そのものは、そんなに悪いものではありませんでしたが、はじめはそれさえもわからないほどに拒絶反応が強かったということです。

一度聴いて、大いにショックを受けていただけあって、今度は相当の気構えがあるぶん比較的冷静で、少しは面白く聴いてみることができました。はじめは、なんのためにこんな編曲をしたのか、この作品を通してなにが言いたいのかということが、まったく分からなかったし分かろうともしませんでしたが、少しだけそういうことかと感じる部分もやがてあらわれるまでになりました。

このCDには協奏曲のほかショパン/リスト編:6つのポーランドの歌や、ショパン/ブゾーニ編:ポロネーズ『英雄』/ブゾーニ:ショパンの前奏曲ハ短調による10の変奏曲なども収録されていますが、それらはしかし、なかなか優れた演奏だったと思います。

ジョバンニ・ベルッチという人は情報によると14歳までまったくピアノが弾けなかったにもかかわらず、独学でピアノを学び、15歳でベートーヴェンのソナタ全曲を暗譜で演奏できたという、ウソみたいな伝説の持ち主だそうですが、その真偽のほどはともかく、まあなかなかの演奏ぶりです。

ピアノについての表記は全くないのですが、ソロに関してはどことなくカワイ、コンチェルトではスタインウェイのような印象がありますが、そこはなんともいえません。

ベルッチ自身はイタリア人のようですが、このCDは企画から演奏まですべてフランスで行われたもののようで、こんなものをコンサートで弾いて、CDまで出してやろうというところにフランス人の革新に対する情熱と、恐れ知らずの挑戦的な心意気には圧倒されるようです。
ま、日本人にはちょっとできないことでしょうね。
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成人式のセンス

昨日は全国的に成人式が行われたようですね。
本来はおめでたいことなんでしょうが、毎年このニュース映像を見ていると、なんともやりきれない気分になるものです。

常々、日本人は控え目で精神的で、礼節も気品もある、世界的にも稀にみる高度な民族だと自負しているのですが、この成人の日の光景だけはそういった認識を、ポンと蹴ってちゃぶ台でもひっくり返されるようです。

とくに毎回感じるのが、その服装や雰囲気のセンスで、時代によっても多少の変化はあるにしても、基本的にはほとんど見るに堪えないあの演歌歌手顔負けの出で立ちと、若いのに妙に毒々しい雰囲気はどこからくるのかと思います。
成人式ということは、文字通り大人の仲間入りを果たすわけですから、本来ならやや大人っぽいシックな服装であって然るべきでは?思いますが、実際のそれは、どうみても下品なヤンキーのイベントのようにしか思えません。

本来、若くて瑞々しく、美しいはずの新成人たちは、ちっとも美しくない。
そうではない人も中にはいるのかもしれませんが、少なくともそういう人や気配は映像には出てきません。

女性の振り袖姿も、年々その過激度を増して、まるで漫画本の表紙みたいだし、ヘアースタイルなどもほとんどキャバクラ嬢がずらりと並んだようです。
さらに驚くのは以前にも増して男性にも和服姿が目立ち、それも当たり前の黒の紋付き袴などではなく、そこらの芸人顔負けのけばけばしい色物だったりで、どこをどうしたらこういう方向に進むのか訳がわかりません。

従来の日本の和服文化の中にはあり得ないような突飛なものばかりが大挙横行しており、いやしくも武士の歴史をもった日本の男性が、いまや華奢な体に真っ白とか真っ赤の羽織袴を着て、ノリノリでふざけながら写真などを撮っている姿は、ちょっと気分的に忍びがたいものがあります。

とりわけ日本人というのは何をやらせても、繊細さとか控え目な神経がすべてに貫かれているものですが、こと成人式に関してだけは着ているものは和服でも、まるで野卑な外国文化に触れるようで、日本的ではない気がします。

同じ人達が、ひとたび就職活動ともなると、まったく別人のごとく申し合わせたように雰囲気を変えるのだろうとも思いますが、ともかく成人式という段階では、なぜこうまで暴走族の集会のような雰囲気にしなくちゃいけないのか、まったく理解に苦しむばかりです。

今年はどうだったか知りませんが、これまでは式の進行さえできないほどの乱痴気騒ぎが頻発したりと、荒れた成人式というのもずいぶん前から問題にされてはいますが、大半は事実上の野放し状態のようです。

というのも、それを真から叱って許さない社会の空気がないからではないかと思います。
聞くところでは、このようなイベントをとり仕切る地域の中心人物である市長や町長など、いわゆる首長(くびちょう)達は、なんと、若者が成人になることは、すなわち新たに有権者となることから、その票ほしさに、やたらとゴマをすって彼らの暴挙にもニヤニヤ笑うだけで、はやくも選挙目的の行動しかとれないという、なんとも開いた口が塞がらないような構造があるのだそうです。

まあ政治家なんて所詮はそんないやらしい生き物だと思っておくとしても、現代の若者のセンスはもう少しなにがしかの美意識が本当はあるはずだと信じたいマロニエ君です。
あれを見ていると、根底には今だすえた臭いのする演歌の国なのかもしれないという気がして、思わずゾクッときてしまいます。
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連続テレビ小説

NHKの連続テレビ小説を視ておられる方も多くいらっしゃると思います。

マロニエ君は毎日定時に15分ずつ見るなんて離れ業は到底できることではないので、長年連続テレビ小説は見ていませんでしたが、何年か前からBSで一週間分(15分×6の90分)を土曜の朝に放送していることがわかり、いらいずっとそちらで追いかけるようにして見るようになりました。

さて、現在は言うまでもありませんが「カーネーション」をやっています。
前回が「おひさま」で、共に時代設定が似ているのか、2作続けて時代は日中戦争を経て第二次大戦となり、それまでの楽しい空気が一変して、まるで坂道を転げるように世の中に戦争の暗い陰がさしてくるのは、いかにドラマとはいえ陰鬱な気分になるものです。

とくに連続テレビ小説のような長丁場になると、この時代に突入すると時間的にも少々のことでは抜け出せない長いトンネルになるし、2作続けて劇中でも馴染みの顔に「赤紙」がきて、つぎつぎに出征していく姿はやはりやりきれないものです。

それだけではなく、贅沢禁止、節約が叫ばれ、金属は供出させられ、すべてはお国のためで処理される、暗く悲惨な時代を通過するのはドラマでも疲れますし、ましてや2作連続ともなると少々うんざりしてしまいます。
もちろん「カーネーション」のほうが前作よりも数段面白いとマロニエ君は感じていて、その点は遙かに救われているのですが、それでも戦争は鬱陶しいですね。
まだ見ていませんが、現在放送中の本編ではどうやら終戦を迎えたようで、やれやれです。

考えてみるとNHKの連続テレビ小説ではこの大戦の時代を背景にした作品が多く、最近でパッと思い出すだけでも「純情きらり」「ゲゲゲの女房」など、昭和のはじめ頃というのはドラマ化しやすいのかと思います。

ところで、ご存じの方も多いと思いますが、このNHKの連続テレビ小説は春と秋の半年毎に作品が入れ替わり、東京と大阪、それぞれのNHKが交替で制作しているそうですね。
マロニエ君の見るところでは、この連続テレビ小説に関しては概ね大阪の方が上で、東京チームよりはるかに面白いものを制作するセンスがあると思います。

大阪の気質は本音とお笑いと人間くささですから、それがドラマ作りにも活かされていますが、東京はどうしても絵に描いた餅のようなきれい事が中心で、偽善的であったりお説教調であったりするのは、これはもうどうしようもない体質なのだと思います。

できれば連続テレビ小説はずっと大阪に委せておいて、東京は大河ドラマなど別の作品に専念すればいいのにと思うのですが…。
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ソロピアノの第九

管弦楽の作品などをピアノ用に編曲したものは、本当に成功していると思えるものはそれほど多いとは思えず、マロニエ君はそれほどこの分野の賛成派というわけではありません。
しかし、昨年のコンサートで2台のピアノによる第九を聴いてからというもの、こういうものも必ずしも否定できない気になっていたところ、たまたまCD店にソロピアノによる第九があったので購入してみました。

ピアニストは名前だけは知っていたものの、実際の演奏は聴いたことのなかったマウリツィオ・バリーニで、まさにあのマウリツィオ・ポリーニと一字違いのウソみたいな名前のピアニストです。

以前、アンゲリッシュ(Angerich)というアルゲリッチ(Argerich)と非常に字面の似たピアニストがいることを知って驚きましたが、このバリーニというのもファーストネームまで同じだし、つい笑ってしまいます。

さて、その第九ですが、もちろん編曲はあのリストです。
リストはベートーヴェンのシンフォニーをすべてソロピアノに編曲していますし、2台のピアノ版もリストの手によるもので、その生涯に残した膨大な仕事量たるや恐るべきものだと思いますね、つくづく。
演奏はその曲目からしても当然かもしれませんが、ともかく大変な力演・熱演でした。
おそらくはソロピアノとしては最大限の迫力と入魂を貫いた、どこにも力を抜いたところのない、緊張と集中の連続による70分強です。

ただし管弦楽と合唱あわせて百人以上を要する作品を、まさにたった1人で演奏するのですから語り尽くせぬものがあるのは如何ともしがたく、やはりこれくらいの大交響曲になると、せめて2台ピアノは欲しいところです。
しかし、よくよく研究され練り込まれている佳演であることは素直に認めたい点でした。

むしろ疑問に思われたのはピアノでした。
なんと第九をソロピアノで演奏するのに、ファツィオリのF278を使っているのは、これはいささかミスマッチではないかと個人的には思いましたね。
ベートーヴェンの第九をソロピアノで演奏するということは、普通以上にピアノにも重厚で厳しいものが求められ、ピアノとしての器の大きさはもちろん、シンフォニックで多層的かつ強靱な要素が必要なのはいうまでもありません。
とくに音色に関してはドイツ的な荘重で厳粛なものが必要で、やはりそこは最低でもスタインウェイか、できればよりドイツ的なベヒシュタインのようなピアノであるべきではなかったかと思います。

ここに聴くファツィオリは残念ながら音に立体感がなく、ペタッとしたブリリアント系の音であることを感じてしまいます。バリーニ氏も全身全霊を込めながら演奏していますが、その表現性とこのピアノの持つ性格がまったく噛み合っていないというのが終始つきまとっているようでした。

逆にいうとファツィオリの弱点がよくわかるCDとも言えるかもしれず、深遠さというものがとにかくないので、フォルテやフォルテッシモが連続するとこの音や響きの底つき感みたいなものが随所に出てしまって、よけいに平面的になるばかりで、正直いって耳が疲れてくるのです。そして強い打鍵になればなるだけ音がますます蓮っ葉になってくる点がいただけない。
それはたぶん音としてどこか破綻しているからとも思うのですが、こういうドイツの壮大な音楽に対応するだけの懐はまだないと思われ、演奏が悪くないだけによけい残念です。

ファツィオリに向いているのは、スカルラッティとかガルッピのようなイタリアの古典とか、せいぜいモーツァルト、ロマン派でいうならショパンやフォーレ、メンデルスゾーンなどではないかと思います。

第九に話を戻すと、それでも何度か聴いているうちに耳が慣れてきて、やはりそれなりの聴きごたえを感じてしまうのは、ひとえに作品と、それに奉仕する真摯な演奏の賜物だと思われます。
素晴らしい演奏は、最終的には楽器の良し悪しを飛び越えるものだと思いますが、そうはいってもより相応しい楽器であるに越したことはありません。
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転がった缶ビール

ふと思い出した、暮れで混み合うスーパーレジでの記憶をひとつ。

レジの列に並んでいるときのこと、携帯でしきりに話をしている女性がマロニエ君のすぐ前にいました。
今どきですから、この状況がとくに電話をしてはいけないとも思いませんが、どこにも遠慮の気配というものが感じられないのは、やはり良い感じではありませんでした。
そのうち、商品満載のカートはそのまま置いて本人だけどこかに行ってしまっていなくなり、もうレジの順番が次だというのになかなか戻ってきません。間に合わないときは、当然ですがマロニエ君が追い越させてもらうつもりでした。

するといよいよというときになって、ちゃんと戻ってきて、当たり前のように列に復帰し、カートをちょっと前進させてレジに備えています。
ところがこの人、カゴだけをレジ係の前の台に差し出して、カートの下に積んでいる缶ビール(紙のパッケージで6本をひとまとめにしたもの)は一向にレジを通す気配がありません。
こちらから見ると、どさくさまぎれにそのまま通過するようにも見えました。

するとカゴの中の商品を計算し終えた係りの人がそれを目敏く見つけ、やや上半身を乗り出すようにして「そちらのビールもでしょうか?」と言ったのはさすがだと思いました。

そういわれた女性は、ああ…という感じでいかにも横柄な感じでその缶ビールを持ち上げようとしましたが、そのときの動作がいかにも雑で、パッケージの隙間に指を差し入れてぐっと引き上げたので、持ち上がった瞬間に紙パッケージが破れて、そのうちに2本ほどが床に転がっていきました。
落とした本人が棒立ちしている中、レジ係の人がすかさず飛び出てきて、すぐに1本拾いましたが、もう1本がなかなか見つかりません。

それから残りの1本をめぐって、あたりは大捜索となりました。
結局は、となりのレジ台の下のようなところへ転がっていたようですが、このとき2つのレジはすっかり動きが止まり、となりのレジ係の人も一緒に捜索に加わっていました。
その間、マロニエ君はじめ並んで待っている2列のお客さんは黙ってじっとその様子を見守っていました。

やっとのこり1本を店員さんが床に這いつくばるようにして見つけ出したので、めでたく缶ビールは元通り6本揃い、レジ係もやれやれという感じで所定の位置に戻ってさっそくバーコードを読み込もうとした瞬間、このお騒がせな女性の口から信じられないひと言が!
「新しいのと換えてもらえます?」「は?」「破れたから…」

なんとこの人、もともと自分が商品をレジ台に上げず、店員にいわれて持ち上げたところ、その動作が乱暴だからパッケージが破れてしまったわけで、誰が見ても100%この女性客の責任であることは衆目の一致するところでした。
ところが、そんないきさつなんてなんのその、とにかく金を払う以上は傷みのないまっさらの商品をよこせということのようです。
すかさずレジ係は「お取り替えします…」といってマイクで別の従業員を呼びだし、すぐに同じ物をもってくるように指示しましたが、その間、またぞろこちらの列はずっと待たされるハメになりました。

人に迷惑をかけてゴメンナサイのひと言もなく、おまけに交換するのは当然!みたいな態度で突っ立っているその姿は、ずうずうしいなんてもんじゃなく、思わずその拾い上げたビールのフタを開けて、頭からジャーッとふりかけてやりたくなりました。
変なものを目の当たりにして、帰り道もこの女性のことが頭に残ってムカムカきて、イヤな世の中だと思いました。
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実験結果

『バイオリン名器の音色、現代モノと大差なし?』

Yahooのニュースを見ていると、上記のような見出しが目に止まりました。

読売新聞による 1月4日(水)の配信で、
『何億円もすることで有名なバイオリンの名器「ストラディバリウス」や「ガルネリ」は、現代のバイオリンと大差ないとする意外な実験結果を仏パリ大学の研究者らが3日、米科学アカデミー紀要で発表した。』
とあり、実はこんなことじゃないかと薄々は思っていたところ、あらためてこういう文章を読むとやはり驚かされるものです。
引用を続けると、
『研究チームは、2010年、米インディアナ州で開かれた国際コンテストに集まった21人のバイオリニストに協力してもらい、楽器がよく見えないよう眼鏡をかけたうえで、18世紀に作られたストラディバリウスや、現代の最高級バイオリンなど計6丁を演奏してもらった。どれが一番いい音か尋ねたところ、安い現代のバイオリンの方が評価が高く、ストラディバリウスなどはむしろ評価が低かった。』とのことでした。

最後は、『研究チームは「今後は、演奏者が楽器をどう評価しているかの研究に集中した方が得策」と、名器の歴史や値段が影響している可能性を指摘している。』と締めくくられていますが、これはきっと大きな波紋を呼ぶのではないかと思います。

ヴァイオリニストの間でも、もしかすると我々が思っている以上に新作を評価・信頼して弾いているのかもしれません。
というのも、やはりイタリアのオールドヴァイオリンなどはその素晴らしさはじゅうぶん認めつつも、どう考えてもあの価格は異常としか思えず、それほどの価値があるのかという点で疑問に感じておいでの方は少なくないと思います。

さらにはこれだけ科学技術が進んだ現在でも、300年前のクレモナの名器を凌げないというのも解せない話です。美術品なら話は別ですが、ヴァイオリンはあれほど単純構造の、「使われて、音を出す」という機能を持った楽器なのですから、ちょっとそこは不思議です。

世界的に有名な日本人の名工の著書によると、歴史的にも楽器として完成されて久しいヴァイオリン作りにおいては、最高の楽器作りとは、究極的には「完璧な模倣を目指す」以外にないと語られています。

それと、マロニエ君などにしてみれば、そこまで神経質に新旧のヴァイオリンの音色の質に厳格にこだわるのなら、ピアノでも現行品のすっかりペラペラになってしまった音は、なぜ昔の楽器と比べられないのかと単純に思いますが。
こういうと、決まって「ピアノは金属フレームにものすごい力で張弦してあるので、弦楽器とは違う」という尤もらしいお説が出てくるのですが、それは100年単位でみた場合の話であって、ピアノでも今のピアノよりも少し古い楽器のほうが遙かに力強くて麗しく、圧倒的に芳醇な音がすることは、実際には多くの人が大きな声では言わなくても、内心では認めることだと思います。

新しいヴァイオリンの良さが認められるのと同様に、少し古い時代のピアノの本当の素晴らしさも正しく認めてほしいものです。
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ピアノ遊び初め

昨日は数名のピアノの知人が我が家に遊びに来てくれました。

これという目的もなく、個人的な知り合いが集ってピアノを弾いたりおしゃべりをしたり、ちょっと飲み食いをしたりという3時間半でした。

各々が現在練習中の曲を弾いたり、2台ピアノをやってみるなど、とくにどうということもないピアノ遊びをだらだらやっていると、あっという間に時間が経ってしまうのはいつものことです。
とくにそのうちの2人は、共に3月に大舞台での発表会を控えていて、そのための練習には余念がないようでした。

さて、調律の時以外、大屋根を開けることは普段まずないマロニエ君ですが、お正月ぐらい気前よく開けてみようじゃないかと思ってご開帳と相成りましたが、当たり前ですが、普段とはちがった生々しいけれども却って柔らかくもある音が聞こえてくるものだなぁと思いました。
タッチなども、開けるフタの面積がふえるほど軽く自然になり、音も抜けが良くなり、やはりこれがピアノ本来の姿かと思いますが、でもなかなか普段からそうして弾く勇気はありません。

あらためて感じ入ったことは、同じピアノでも弾く人によって、それこそまったく別の楽器のように音が違うことで、このあたりがアコースティック楽器独特の面白味だと再確認しました。
さらには人もそれぞれで、袋いっぱい楽譜を持ってくる人もいれば、一冊も持ってこない人もあるなど、人はそれぞれ個性があって、こういう点も実に面白いもんだと思いました。

マロニエ君は自分の家&ピアノということもあり、2台ピアノ以外はほとんど弾かずに聴く方に徹しましたが、自分のピアノを弾いてもらって聴くのは自分のピアノを客観視できるいいチャンスでした。

一緒に外に出たときは、もう完全な夜になっていて、それから食事に行こうとしたのですが、目指すお店はどこもまだ開店していないのには寒空の下で弱りました。不本意ながら、ほとんどファミレスになりかけたのですが、あるインド料理のお店がかろうじて営業しており、そこへ行ってたらふく食べてお開きとなりました。

今日来られた1人が珍しくバッハの練習中だということで、マロニエ君もはばかりながらバッハの練習を再開しようかという気にちょっとだけなりました。新年明けてバッハに取り組むというのも、どこか清澄な気分があっていいものですね。

日が経つごとに、お正月の空気の濃さが少しずつ薄まってくるようで、どこかホッとするようです。
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正月二日目

ちょっと買い物などで出かけたついでに、暇だし道が空いてるのでドライブでもしようということになりましたが、べつに行くあてもないので、都市高速に入り、環状線を2周近くまわりました。
福岡の都市高速は、首都高の環状線などより環が大きいので、一周するのもそれなりの距離があり、結構走った気分になれます。

当然といえば当然ですが、この時期、路上の交通量が少ない割りには他府県のナンバーの比率が異常に多くて、それだけ非日常な交通の流れである点は要注意です。
ずいぶん遠くからやってきたのか、ここはいちおう高速だというのに若い女性二人が乗る軽自動車が、時速50キロぐらいでトロトロ走っていて、逆に周囲の車に危険を与えていたりするかと思えば、ほとんどカーチェイス並のスピードで車の間を縫うようにして走り去る車などがいたりと、やはりいつもとは違う状況でした。

危険運転は別としても、適度な速度で走っていくポルシェなどを見ていると、やはり多少スピードはオーバーしていても、運転らしい運転をしている、しまりのある動きの車を見るのはマロニエ君などは気分がよいものです。

車をまったくの実用と割り切って、100%移動の手段という以外に何ものも求めない人は別ですが、多少でも車が好きで運転の醍醐味を求めたいマロニエ君などは、そこには音楽の喜びにも通じる意味でのスピードやリズム、緩急のメリハリや躍動などが少しはないと、とうてい我慢のできるものではありません。
どんなに良くできていても、個人的には音のしないトヨタの車なんかに乗る事などまずないだろうと思います。

夜は友人から誘われてお茶をしました。
先日会ったついでに南紫音のイザイのDVDを渡していたところ、彼もその演奏ぶりには驚嘆して、「現在の若手ヴァイオリニストの中でこれほど官能的な面まで表現できる人は自分は知らない」「もちろん知的な裏付けも充分!」といっていました。

当然、使っている楽器の話になりましたが、フィリアホールのリサイタルの映像では、f字孔の形状がストラディヴァリウスのような形状だそうですが、どうみてもオールドのようには見えないという点でも意見は一致しました。
イザイで南さんが使った楽器は見るからに艶やかで美しく、キズひとつないその感じは、もしや新作ヴァイオリンでは?と思ってしまうし、音色も良い意味で古い楽器ではないような弾力のある瑞々しさがあったと思います。

もちろん真相はわかりませんが、ますますもって新作の可能性が出てきたような気になりました。
もしもマロニエ君がステージで通用するようなヴァイオリニストだったら、天文学的な価格のオールドヴァイオリンなどには欲を出さず、きっぱり最上級の新作ヴァイオリンを使うだろうと思います。
何億もするヴァイオリンを手に入れる算段などできるはずもないし、あれこれの財団などからの借り物というのもイヤですから、そんな暇があったらより良い演奏を目指して専念したいものです。

またそう思わせるほど、イザイを弾いたヴァイオリンは力強く朗々と鳴り響いていましたから、最終的には演奏が最も大切だということに落ち着きそうです。演奏の圧倒的な素晴らしさの前では、下手くそがどんな名器を持ち出しても所詮はナンセンスという気がします。

まあ、これだけ言っておいてグァルネリだったなんていった日には爆笑ですが。
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新年初作業

新年早々やったこと。
それは雑誌のブックカバー作りでした。

マロニエ君はあまりテレビは見ませんが、それでも年末年始の番組ともなると見逃したくないものも含まれてくるわけで、毎年、この時期だけはテレビ番組のガイド本を買ってくるようにしています。
今回は、雑用に取り紛れていつもより遅くなり、ついには大晦日の夕方、書店の前に車をとめて小走りに買ってくるという有り様でした。

毎回感じることですが、やたらめったら同じような雑誌がズラリと並んでいて、咄嗟にどれを買ったらいいやらわかりません。
表紙もほとんど同じ調子で、値段も僅差で、いつも何の根拠もなくその中の一冊をやみくもに選んで買ってくるわけです。どうして日本人って何の世界でもこんなにも同じものをムダに何種類も作るのかと思います。それが結果的に数の決まったお客さんの奪い合いとなり、お互いの足の引っ張り合いを招くという悪しき構造です。

雑誌の世界は我々の想像を絶する経営難だそうで、つい先日聞いたばかりの話ですが、業界でも最も売れている男性ファッション誌などでも、年間数千万という赤字を垂れ流しているというのですからさすがに開いた口がふさがりませんでした。
たとえ売れ行きがトップであっても、決してその売り上げで利益を上げることはできないのだそうで、もっぱら広告収入に依存しているとのことですが、それがまたこのご時世だからスポンサーも広告量も激減して、雑誌出版業界はきわめて厳しい苦境に立たされているという話でした。
大手出版社では、こういうお荷物を雑誌ごと切り売りすることまで考えているのだそうで、これは雑誌に限らずあらゆる業界に共通した事象のようで、どこか世の中の歯車が根本的に狂ってしまっているような気がします。

話が逸れました。
年に一度買うこの手のテレビ番組雑誌ですが、マロニエ君にとってはこれが家にあるとイヤなことがひとつあります。
それはこの雑誌を見る期間中というもの、いつもそれはテーブルの上にあり、表紙のうるさい色彩と見たくもない芸能人の顔が絶えず視界に入ってくるということです。わざわざ見なくても、至近距離にあれば嫌でも視野に入るわけで、それが非常に気になって嫌なのです。

その本を手にするときはもちろんのこと、見ないときでもそのド派手な表紙は絶えずその存在感を撒き散らしてしまうので、今年は、意を決してブックカバーを作ったわけです。

表紙が見えなくなることが主たる目的ですから、作りは大雑把で良いのですが、そんなどうでもいいものでもついついピシッと作らないと気が済まないマロニエ君の性格で、作業にはかなり集中してしまいました。
大型封筒を解体して、きっちりサイズを合わせ、あとで外すことはないから、かたっぱしからセロテープで貼り付けて、どうだ!とばかりに封じ込めてやりました。

そういうわけで一見してはただの真っ白い冊子というだけで、ようやくにして視界を邪魔されることがなくなりました。ところが喜びもつかの間、家人から「これでは一体どっちが表紙なのかわからない」という、ほとんど言いがかりのようなクレームがつきましたので、皮肉を込めて「表紙」と大書しておきました。
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謹賀新年-2012

新年あけましておめでとうございます。

このブログをはじめたのが2010年の1月1日でしたから、これでとうとう3回目の元日を迎えることになりました。
何事も根性無しで怠け者のマロニエ君にしてみれば、ブログを書き続けるという事をまる2年を過ぎて3年目に突入できたとは自分でも驚くべき事です。

これもすべては、友人が「ブログを書く以上は毎日更新しなくてはいけない」とえらい調子で脅しをかけてきたことに端を発します。さすがに毎日は無理としても、3日のうち2日は書くことを目標としており、なんとか今のところは達成できているようですが、さていつ終わりになるかはわかりません。

気力の続く限り、本年もできるだけ許される範囲での本音でいろいろなことを綴りたいと思いますので、どうかまたお付き合いいただけたら幸いです。

大晦日のNHKでは「クラシックハイライト2011」と称して、今年一年を振り返るダイジェスト番組をやっていましたが、何度見ても佐渡裕指揮のベルリンフィルのショスタコーヴィチの5番は感動的でした。
ピアノではアヴデーエワがプロコフィエフのソナタ第2番の第4楽章を弾いていましたが、これがなかなか良くてびっくりでした。基本的にこの人はショパンよりこういうものの方がいいのかもしれません。
少なくとも意図的に作りすぎた印象のある彼女のショパンよりは、数段情熱的で演奏にも覇気がありました。
この人、何かに似ていると思ったらキリンみたいな可愛い顔をしているんですね。
ピアノの腕前は思った以上に強靱なものがありました。

2012年最初のCDは、結局シューベルトになりました。

シューベルト:交響曲第8番ハ長調D944「ザ・グレイト」
ニコラウス・アーノンクール指揮のロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団を聴いています。

それでは、本年もよろしくお願い致します。

マロニエ君
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大晦日

早いもので、今年もついに大晦日となりました。

昨日は友人と一緒に昔の音楽の先生のお宅に行きましたが、ちょっとだけチェンバロに触りました。
あの指先に伝わるツンとしたデリケートな感触はいつまでも記憶に残りますね。

さて街中はクリスマスあたりをピークにして、さすがにこの時期になると交通量は日ごとに減ってくるようで、夜ともなると普段よりも車は少なく、なんとなく周囲が静かになってきたように感じます。

これはこの時期特有のもので、潮が引くように世の中から活気が消えていく気がしてマロニエ君は昔からあまり好きではありませんが、松の内が過ぎるまではなんとなくこの空気になりますね。渋滞もイヤですが、逆に不自然なほど道が空いているのも、あまり気持ちのいいものではありません。
まるで街が浅い眠りに就くようです。

さらに正月前を実感したのは、灯油を買いにガソリンスタンドに行ったところ、夜だというのに洗車機の前には車が行列していることでした。見たところきれいな車ばかりのようでしたが、敢えてこの寒い夜に、行列までして洗車するとはすごいと思いました。
新年を迎えるに相応しく、よほど家などもピカピカなんでしょうね。

東京から戻ってきた友人から、ずいぶん大げさで立派なプリンをおみやげにもらいました。
横須賀のお店のようで、容器はなんと目盛り付きのパイレックスになっており、食べたあとは耐熱容器としてずっと使えるというご大層なもので、関東ではこういう何が目的かわからないようなものが流行っているのかと思いました。
食べながら、そういえばこの店は以前テレビで見たことがあったのを思い出しました。湘南地区の多くの家庭にはこの容器があって捨てずに使っているというものでした。

そうそう、マロニエ君の恒例の新年最初に流す音楽は何にするかを考えなくてはいけません。
本当は天国的な曲調といい、ブラームスの「運命の歌」にしたかったのですが、詩の出だしは良いのですが、結末が「私達にはどこにも安息はない/行く末もわからぬまま落ちてゆく…」といった内容なので、これは却下しました。

今年もこのブログをお読みくださった方々に、謹んで御礼申し上げますと共に、来年もまたお立ち寄りいただけましたら嬉しい限りです。

良いお年をお迎えください。
ありがとうございました。

マロニエ君
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加湿なう

ピアノの管理で一番大切なことは何かといわれたら、やはり日頃の温湿度管理で、ピアノが暮らす毎日毎日の環境がいかなるものであるかということに尽きるような気がします。

どんなに名器を購入しても、どんな名人に調整をしてもらっても、ピアノを置いている場所の、日々の環境が好ましくないものであるならば、コンディションは坂道を転げるように低下していくものです。
ところがこれがなかなか理解されないようです。

世の中には立派な家を建て、経済に余裕のある趣味人は私的なホールまで建てて、そこに素晴らしいピアノを買い込むところまではされる方があるのですが、そこかはじまる毎日の管理ということになると、それを深く理解し実行している人のほうが圧倒的少数だというのが実情のようです。

それは、ひとつにはピアノが繊細な楽器だということが頭ではわかっていても、その楽器をどちらかというと家具などと同じような感覚で分類しているのではないかと思います。
第一そのほうが何事においても都合がいいからで、毎日使う場所ならともかく、普段使わないような空間を、ただピアノだけのために空調管理するのは、使わない水を流しっぱなしにするようなもんで、なかなかできることではありません。

そこでマロニエ君は、ピアノという楽器を半ば植物のように捉えるといいのでは?と思います。
もちろん目に見えて芽が出たり萎れて枯れたりということはありませんが、この植物をイメージして内部で同様の様々な変化が起こっているぐらいのことなら、なんとか想像できなくもないでしょう。

さて、一年の大半で活躍している我が家の除湿器ですが、さすがにここ連日のような寒波の到来でヒーターの活躍が甚だしくなると、湿度はついに40を切ることがしばしばになりはじめました。
「これはまずい!」と思って加湿器を出そうとしましたが、古い大振りな加湿器を引っぱりだしてくるのも気が進まず、とりあえず量販店で安い小型の加湿器を買ってきました。

ピアノの場合、湿度は高いほうばかりが問題にされることが多いようですが(日本では)、乾燥のし過ぎは、多湿よりも実は被害が大きいといわれます。
さすがにフェルト関係は大丈夫でしょうが、一番の懸念は響板で、乾燥しすぎるとここに深刻な影響を与え、最悪の場合、割れたりすることもあるといいますからある意味、多湿より恐ろしいですね。

ピアノにとって最悪なのは床暖房などというように、一番の敵は過乾燥で、この点は人の肌のコンディションと同じですが、ピアノの響板はまさか保湿クリームを塗るわけにもいきませんから、やはりよほどの注意が必要だと思われます。

というわけで、このところ毎日、加湿器の水を補充するのが日課になってしまいました。
家人などは、日ごろマロニエ君が除湿でわあわあ言っているかと思ったら、今度は一転して加湿機を買い込んできたりして、しかもそれらはいずれも人間のためでなく、もっぱらピアノのためである点に呆れ果て、「よくまあ、お世話が行き届きますねぇ」などとからかわれています。

からかわれようと皮肉られようと、なんのその、こればかりは自分が気になるものだから、いちおう一生懸命やっているところですが、それで人間様の快適と肌のケアも兼ねられればせめてもの救いです。
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洗濯機事情

我が家の洗濯機と乾燥機は今どきちょっと珍しいぐらい古い機械なのですが、それというのも購入以来27年間、どういうわけか故障もしないで問題なく動いてくれるので、いまも現役で使っているのです。

ところが先日、乾燥機を回していると、とつぜん回転速度が落ちて、音も若干変化がありました。
うおっ、ついにご臨終か?と思い、年の瀬でもあることから、こんな時期に乾燥機が壊れては一大事だと思って食事に出たついでに大型電気店に見に行きました。

4、5台の衣類乾燥機があり約5万円から7万円というのが相場のようで、「更に値引きします」などと書いてあるものの、あたりには一向に店員の姿もなく、その時は時間もなかったこともあり、とりあえずその場は引き揚げました。
翌日同じ店の、自宅により近い店舗に電話してみて、年内の届けと設置はできるのかということと、古い機械の処分費用などを聞いてみました。

すると意外な答えが返ってきたのには驚きました。
現在は衣類乾燥機においては洗濯乾燥機が主流となっていて、乾燥機単独というのは店舗にも置いていないというのです。
マロニエ君にしてみれば前日、本店の売り場で見たばかりと思っていたら、そこだけ特別なんだそうで、普通は展示することもなく、どこも在庫さえ持っていない。よって、型番がわかれば取り寄せは可能だが、そのぶんの日数はかかると言うわけです。

なぜ単独の衣類乾燥機はそんなになくなってしまったのか?と聞くと、答えは簡単明瞭、洗濯乾燥機が進化してかつ価格も安くなったからというものでした。
安いとはどれぐらいでしょう?と聞くと、だいたい6万から10万というのにはびっくりしました。

マロニエ君は乾燥機だけを見て、洗濯機の前は素通りしていたのですが、これじゃあ、ほとんど値段的に乾燥機を買ったら洗濯機がついてくるようなもので、なるほど乾燥機が単体で売れなくなるのも道理だと思いました。
ふと考えてみれば、我が家の洗濯機とて、今は普通に動いているとはいうものの、なにぶんにもたいそうなご高齢ゆえにいつなんどき昇天するとも限りません。これはどの角度から考えても、新しく洗濯乾燥機を買うのが最も正しい道のようでした。

そうこうしているうちにも、毎日の生活とは洗濯物が次々に発生するもので、それを洗濯乾燥していると、洗濯機は通常通りだし、乾燥機も一時の不調がなくなり、また以前のように何食わぬ顔で普通に動いていて、バスタオルやらなにやらをふかふかに乾かしてくれています。

マロニエ君は音楽とは違って、洗濯機や乾燥機など、動きさえすれば何でもいいわけで、動いている限りは現状でも不自由はなく、もうちょっと粘ってもいいやという気になってきました。
だいいち27年も我が家で賢明に働いてくれているのですから、最期を見取るのもこちらの務めのような気がするし、もし故障したときはサッと買いに走れば早ければ翌日に配達設置してくれることもわかったので、どことなく安心材料も得たような気になっていました。

ちなみに電話でいろいろ質問し、いろいろ答えてくれた電気店のおにいさんによると、メーカーは日立のことばかり言うので、そんなに日立がいいんですか?と聞くと、洗濯機の分野は昔から圧倒的に日立が強いですねぇという(半ば常識ですよ的なニュアンスの)答えが返ってきましたので、へぇそんなものかと思いました。

その後、我が家の老兵たる洗濯機/乾燥機のメーカーなんて意識したこともなかったので、なにげなくその点を見てみると、なんとそこには両機共にHITACHIの文字があって、ハハァやっぱり強いんだ!ということを実感させられた次第でした。
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コンサートを振り返る

ぶーたんの今年9月以降、ざっと思い出してもピアノがらみのコンサートだけで8回ほど行ったことになりますが、今後はもう少し数を減そうと思っていつつ、とりあえずちょっと振り返ってみました。

《9月3日 横山幸雄》
宗像ユリックスハーモニーホールでのレクチャー&コンサート。せっかくのレクチャーがほとんど聞き取りのできないボソボソとした張りのない話し声だったのは甚だ残念。大勢の前でピアノのレクチャーをするのなら、それにふさわしい語り口と内容であるべきではと思った。後半のコンサートではホールのベーゼンドルファーとスタインウェイを弾き分けるという面白い趣向は楽しめたが、演奏は全般的にドライであざやかな事務処理のようだった。

《9月29日 フィリップ・ジュジアーノ》
市内某所でのプライヴェートコンサート。コンサートは会場や使用楽器に負うところも大きいという問題を痛感。彼なりの誠実な演奏だったのだろうとは思うが、真の魅力はまったく伝わらない。やはりこういう人はもう少し持てる翼を広げるだけの諸条件が欲しいことを痛切に感じる。余興だかご愛嬌だか定かでないが、ピアノ以外のズブの素人の演奏まで登場したのは驚きだったし、どうしようもなく痛々しかった。

《10月8日 川島基》
久々の福銀ホール。カワイ楽器が主催であるだけに、シゲルカワイ(SK-EX)を持ち込んでのコンサート。演奏は小品では素晴らしいものがあったが、大曲になるとやたらと飛ばしまくる傾向があるのには疑問。技巧的な部分はより速く通過することが価値ではない。よいところがある人だと思ったので、もう少し落ち着いて音楽に心を通わせる落ち着いた演奏家になってほしい。ピアノは画竜点睛を欠く状態というべきか。

《10月14日 近藤嘉宏&青柳晋》
前半は二人のソロ、後半は2台ピアノによるリスト編曲のベートーヴェンの「第九」だったが、ほとんどこれを聴くために行ったようなもの。偉大な作品は演奏形態を変えても偉大さは変わらないことに大いに感激する。かなり入魂の演奏だった点は評価したい。同じメーカー、サイズ、製造時期のピアノだがあまりにも個性が違うことに驚かされる。技術者も同じだから、意図的に楽器の性格を変えているということなのか…。

《10月24日 クシシュトフ・ヤブウォンスキ》
いわゆる洗練されたショパンとは対極にある、ポーランドの旧式なショパン演奏。というのも現在の若手はポーランド人でもずいぶんメンタリティが異なってきており、この人ももはや旧世代のようだ。いかにも名のあるピアニストらしい重戦車のような圧倒的なテクニックには素直に感激する。表情は温和だがグランドピアノが小さく見えるような偉丈夫であったことも印象的。

《11月8日 ラズモフスキー弦楽四重奏団&管谷玲子》
8回の中では、マロニエ君がもっとも感激したコンサートで、管谷さんのブラームスのピアノ五重奏曲はしなやかで気品とメリハリが両立した名演だった。賭け事にハマる人の心理は、勝ったときの快感が忘れられないのだそうだが、コンサートも同様ではないかと思われる。これぞという演奏に行き当たったときの快感が、また無駄なコンサートに足を運ばせるのだろう。それだけの感銘を覚える演奏だったということ。

《11月12日 田澤明子&西村乃里》
お二人(ヴァイオリンとピアノ)とも確かな技術に支えられた、きわめて誠実な演奏だったが、演奏よりは会場とピアノに大いに疑問の残るコンサートだった。せっかくの瀟洒な音楽ホールであるにもかかわらず、響きが文字通りゼロで、むしろ壁という壁は音を吸い込むように作られているらしい。ピアノも超一流品だが意図的に響かないようにされた?不思議な調整で、ともかくも不思議ずくめの空間。

《12月1日 ミハウ・カロル・シマノフスキ》
福岡国際会議場というコンサートが本領でない、大規模で立派だけれども文化の香りのない、文字通り「会議場」でのコンサート。若いポーランドのピアニストはむろん立派な腕前があり、それなりに弾いてはいたが音楽の核心には未だ迫りきれなかった。聴き手の心に食い入ってこない器用なばかりの演奏は、この人に限らない若い演奏家の今後の課題だろうか。ここに棲む、時を寝て過ごすばかりのスタインウェイも気の毒。

こうして振り返るとやれやれという印象です。
コンサートというのは、本来は音楽を聴いて楽しむため、目の前の演奏を通じて喜びの瞬間を得るために、わざわざ時間を割いて出かけていくわけですが、現実はとても疲れてしまって、帰宅したときはいつもヘトヘトです。

開演前から延べ2時間以上(どうかすると3時間)、狭い座席に身じろぎもできずに固定されて坐骨は軋み、目は疲れ、耳や神経は演奏に集中させられるわけで、コンサートという言葉の響きとは裏腹に、心身共にけっこうハードな状況に置かれて後悔することも少なくありません。
義務でもないのに、我ながらまったくご苦労なことです。
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クリスマスケーキ

マロニエ君にとってのクリスマスとは、宗教とは一切無縁、ただこの時期は甘いもの好きにとってはクリスマスケーキというものを年に一度、買ってきてパクパク食べる口実に過ぎません。

毎年あれこれのクリスマスケーキを買ってみるのですが、これという店が定まっているわけではありません。
というのも、値段ばかり高い有名店のそれを買う気などさらさらないし、自分の好みの点からも普通でコストパフォーマンスに優れたクリスマスケーキがいいのです。
小さいくせに無駄な小細工ばかりされたカッコだけのケーキなどまったく関心もなく、ひたすら白の生クリームとスポンジとイチゴによるごく基本的なケーキが食べたいわけで、そんな美味しさがあって、なおかつサイズも大きければ更に歓迎です。

その点で我が家の近くのケーキ店は、個人経営で、作りはいかにもオーソドックスで味も上々、一時期はこれで決まりだという感じで数年間は買い続けていたのですが、なんと経営者の健康上の理由でこれがもう買えなくなり、またしてもクリスマスケーキ選びは振り出しに戻りました。

さて、何年か前でしたが、コンビニなどで販売しているヤマザキかなにかのクリスマスケーキを買ってみたところ、これが思いのほか美味しかったし、実際にスーパーやパン屋などに行くと、クリスマスケーキの予約受付中というようなポスターがあちこちにあって、そのうちどれかを予約しようか…ぐらいに軽く考えていたところでした。

で、先週末だったと思いますが予約をすべくお店に行くと、なんとまだクリスマスには一週間もあるというのに、クリスマスケーキ関連のポスターや案内などが一切ありません。???
なんで?と思って店員に聞いてみると、すでにクリスマスケーキの「予約は終了しました」ということで、なんたることか!と思いました。試しに他店にも回りましたが、デパ地下に至るまで状況はまったく同じでした。

今どきは、たかだかクリスマスケーキを買うにも、おっとりした気分ではこれを手に入れることはできなくなり、ずいぶん前からしたたかに予約などを完了していなくてはいけないという、今どきの油断のならない仕組みがようやく呑み込めて、ああ…こんなことまで、出遅れちゃいけないというか、なんだかピリピリした世の中に年々加速していくような気がしました。

これはおそらく業者が申し合わせている事のようでもあり、可能な限り売れ残りを出さないために、大半を予約性にして徹底的に無駄の排除をしている結果だろうと想像します。よく売れ残ったケーキを25日過ぎると値引き販売するというような話がありましたが、あんな悠長なことはもうしないということなのか。
社会に蔓延する、いかにもゆとりの無いサマをまざまざと見せつけられるようでした。

そもそもマロニエ君はあの馬鹿のひとつ覚えのような「一日○○限定」とか「期間限定」「季節限定」というのが嫌いです。表向きは、まるで少ししかない、さもありがたいようなもののようなイメージですが、要は在庫や売れ残りを極力排除したいという、販売者側のリスク回避とエゴを美辞麗句に置き換えて、さらにはお客さんの心理を煽って積極的集中的に買わせようという、まさに売り手側の都合に塗り固められた一石二鳥の販売テクニックだろうと思います。

本当に年々世の中には余裕や潤いみたいなものが徹底的になくなっていくのをひしひしと感じます。
クリスマスケーキも、普通に食べられるなら嬉しいけれど、そのために何週間も前からせっせと予約しようなんて思わないし、そんなことにまで神経を張り巡らせるような行動はしたくはないのです。

たかだかクリスマスケーキ、それにふさわしい、自然なタイミングで買って、寒空の中を家に持ち帰るというあたりも情緒であったし、それもまた美味しさの一要素でもあったような気がします。

何事も、もう少しゆったり、自然に、楽しくいけないものでしょうか?
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演奏の真実味

プラッツの演奏を聴くと、いかに演奏者が曲との距離を親密にとっているかが実感されました。
距離というよりも、作品と演奏はほとんど一体のもので、自分自身とほとんど不可分の領域に達しているのは大したものですし、だから演奏に真実がある。
しかし、いまの若い世代は自分の心と作品の情感が重なり合うまで演奏を醸成させるというようなことはとてもやっていられないし、だいいちそういう境地を欲してもいないでしょう。

むしろ今のピアニストが欲しがっていることは、派手なコンクール歴、有名な大物との共演歴、タレント性、人生ドラマなどが生み出す話題性であって、話題性のためには無謀ともいえる全曲演奏の類の記録挑戦者のような行動にも出るようで、まさにアスリート感覚です。

この手のピアニストの演奏を聴いていると、自分の優秀さの誇示やレパートリーの拡大、めぼしい企画へのオファーがあることなどにエネルギーが集中しているようで、演奏はひとくちに言うとどこかウソっぽい。
本当に、心の底からその作品に共鳴して、その作品世界を生きながら演奏しているという実感がなく、ひたすらスケジュールの消化と効率の良い練習に明け暮れているばかりで、それでは心を打つ演奏ができるはずがありません。

それぞれの作品は、まるでたくさんの知り合いのひとりであって、会えば食事をしたり楽しくおしゃべりはするけど、時間になったらサッと終わりにして、もう次の場所で別の人に会っている、そんな印象があるのです。

そんなやり方でも、ピアニストは他人の完成された作品を弾くわけだから、優秀な指さばきでその音符をミスをせずに追っていくことさえできていれば、とりあえず演奏にはなるから、現代ではどうしてもこの面が発達しないと思われます。
そういった意味では、内面的な深い部分の能力が問われないまま未熟な状態でステージに立つという習慣が出来上がっているような気もします。

しかし、昔のピアニストはステージに置かれた1台のピアノ相手に、ひとりでまったくオーケストラに匹敵する仕事をするという気概があったように思いますし、そういうスケールの大きな演奏家としての器と仕込みがあるからこそ、その演奏は観賞に値するものだったのではないかと思います。

昔の演奏家のコンサートでは、それを聴いた人が一生涯忘れ得ないような強い印象とか、ときには衝撃すら与えていたことはそれほど珍しいことではなかったようですが、それはつまりそれに値する大物だけがステージに立つことができるという時代の環境だったからだと思います。

現代は演奏技巧の向上と引き換えに、芸術的真実性はデフレ傾向にあり、ただいかにも練り込まれた解釈やスタイルの規格の枠が、まるでテンプレートのごとくそこらにたくさんあって、若い多くの演奏者は自分の好みに合うものを安易に選び取って型を使っているだけという印象をマロニエ君は免れることはできません。
優れた教師というものも、そういう型を当てはめる効率の良い練習&仕上げの補助をするだけで、心の奥に響く音楽の何たるかを修行させるような往年のスタイルはきっととらないのでしょう。

その人が純粋率直にどう感じて演奏表現を行っているのかということは二の次で、どういう演奏が入試やコンクールで有利で、さらには市場で好まれるかを情報によって分析、それを念頭に置いて、それに合わせて修行しているようで、これじゃあまったくそのへんの企画会社の商品開発と似たような発想といわざるをえません。

まさに安直な商業主義およびそれに準ずるコンサートの氾濫というべきだろうと思います。

昔の演奏家は来日すれば月単位で長く滞在し、その芸術をゆっくり披露して帰っていったようですが、今は空港からホールへ直行、終わればまた別の場所に飛んでいく、「一年の何分の一は飛行機の中」というような時間の中に生きていて、それがエライことのようになっているのは失笑しますね。
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ホルヘ・ルイス・プラッツ

昨日の続きのような内容になりますが、ホルヘ・ルイス・プラッツという人はサラゴサでのコンサートライブCDを聴く限りでは、相当なピアニストのようです。

彼はロン=ティボーなどで優勝経験もあるようですが、そういった経歴云々よりも、とにかく聴いて訴えるところのある、今どき珍しい大型で懐の深いピアニストです。長くキューバはじめとする地域を活動拠点としていたために、その名はそれほどグローバルではなく、マロニエ君もこのCDではじめて知りました。

いかにも分厚い本物のピアニストらしい人で、写真を見ると恰幅も良く、太い指をしていて、技術的にもなにがきてもものともしない逞しさがあります。いまどきの効率よく器用に弾くだけの草食系ピアニストとは根本的に違い、聴く者を力強く音楽の世界にいざないます。
現在55歳ですから、ピアニストとしても最も脂ののった充実した時期になると思います。

収録曲はグラナドスの『ゴイェスカス』全曲、ヴィラ=ロボスの『ブラジル風バッハ第4番』、ほかレクォーナなどによるオール・ラテン・レパートリーで、その魅力的なプログラムと、そこに繰り広げられる骨格のある見事な演奏は正に大船に乗ったようで、久々に本当のプロのピアノ演奏に触れられたという充実感と満足がありました。

こういう器の大きさをもったピアニストは現代では絶滅寸前で、それだけどこかなつかしくもあり、安心してその演奏に身を委ねることができます。

その力量たるや重戦車のように逞しいけれども、繊細な歌心や音楽の綾なども豊富にもっていて、ピアニストとしてのスケールの大きさと、ステージ人として聴く人に音楽や演奏を楽しませるというプロ意識に溢れている点もこの人の大きな魅力です。
音量やテクニックなどもスーパー級だけれども、なにしろ音楽表現の大きさという点では圧倒されるものがあり、舞台に立つピアニストの資質というものをいまさらのように考えさせられました。

ステージに立つ演奏家は、演奏技術や音楽性は言うに及ばず、あえて人前で演奏するということの根本をなす意味を問うべきで、聴衆になんらかの喜びと満足を与えられなければコンサートをする意味がないわけで、ただ曲をさらってそれをスムースにステージ上で再現すればそれで良しと思い込んでいる人があまりに多すぎるように思います。そんな人に限って口を開けば「聴いてくださる方に少しでも感動を与えられたら…」などと大それたことを言ったりするのも、今どきのお定まりと見るべきかもしれません。

プロの演奏家は、言葉ではなく、演奏を通じて聴衆への奉仕をするという一面がどこかになくてはならないと思います。その奉仕のしかたはそれぞれで、これは決して単純な意味での娯楽性という意味ではないのですが、それを大衆迎合と勘違いしている人も少なくないようです。

手首から先はプロ級の腕を持った人が演奏していても、実体は自己満足的で、大人の発表会の域を出ないコンサートというのが非常に多いことに半ば慣れてしまっていますが、プラッツのようなしっかりした演奏を聴くと、コンサートというのは、ただ漠然と人前で演奏することではないと再認識させられるようです。

あくまでも全般的な話ですが、近年のピアニストは演奏を通じて音楽を総合的に統括するための主観的能力に欠けていると思われます。解釈などの点でもアカデミックで完成されたスタイルがすでに巷にあふれおり、自分の努力や感性によって心底から掘り起こされたものではないことも原因としてあるのかもしれません。

これは演奏者が創造者としての側面を失いかけているような気がしなくもありません。
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デッカの音

先のトリフォノフに続いてまた驚くべきCDに出会いました。
ホルヘ・ルイス・プラッツというキューバの名ピアニストが、今年の春、スペインのサラゴサでおこなったリサイタルがライブ収録されて、そのCDが出ているのですが、これがまたのっけからひどい音で、思わず「えっ?」という声が出るほど耳を疑いました。

レーベルはトリフォノフと同様デッカです。
デッカといえば、イギリスの名門中の名門で、とりわけ音に関してのクオリティの高さは定評がありました。色彩的で鮮烈なサウンドをもった作品の数々は、これまでにどれだけ楽しませてもらったかわかりません。

ショルティやアンセルメ、シャイー、パヴァロッティ、ピアノではシフやルプー、アシュケナージ、古くはバックハウスなどこのレーベルが生み出した名盤を数えだしたらキリがないほどです。
強いて言うなら、過去の録音では一連のラドゥ・ルプーの録音は名門というわりにはいいとは思いませんでしたから、まあすべてが名盤とは思いませんが。

いまはすべての業界が生き残りをかけてコストダウンなどに厳しく取り組んでいる世相だというのはわかりますが、そのぶん録音機械は発達して良くなっているはずですから、シロウト考えで、多少のコストダウンとは言っても、それを充分カバーできるだけの進歩した録音性能があるのでは?とも思うわけで、どうしてこんなヘンテコな音の商品が出てくるのか理解に苦しみます。

尤も、マイクなどオーディオの世界などは古い機材を名器などと言って高く評価する向きもあるようで、このへんの専門分野のことはマロニエ君はさっぱりですが、ともかくいい音とは思えないアイテムが多すぎるように感じることは事実ですし、それがかつて音質の良さで名を馳せた名門ブランドの商品だったりするだけよけいに驚きもするわけです。

オーディオのことはてんでわかりませんが、まず感じることは、いかにもマイクが安物だということです。
音は浅く広がりがなく、モコモコしていて、レンジの全体を捉えることが出来ていないから、目の前に迫ってくる大きな音ばかりを中心に平面的に捉えてしまっているように思います。

…にもかかわらず、ホルヘ・ルイス・プラッツは大変なピアニストで、これについては別項に譲りますが、ともかく今はこういう腹の底からピアノが鳴らせる人がほんとうに少なくなってしまって、久々にこういう演奏を聴いたように思います。その聴きごたえ充分の、雄渾きわまる演奏の素晴らしさが、いよいよこのまずい録音を恨みたくなるのです。
この程度の録音なら、はっきりいって現在ならちょっとこの道に詳しいシロウトでも充分可能ではないかと思われます。少なくともデッカのような名門のプライドを背負ったプロの仕事ではない。

昔のような理想主義的な仕事ができないご時世だというのはある意味そうかもしれませんが、それにしても今どきのCDの音質は、あまりにも玉石混淆だといえるでしょう。
本当に素晴らしいものがある一方で、エッ!?と思うような劣悪なものが混在しているのは、どういうわけか。
しかもデッカのような名門がこんな録音を平然と製品として世に送り出すこと自体、クラシックのCD市場が疲弊していることをいかにも物語っているようです。

せっかく名門レーベルからCDが出ても、これでは演奏家と、それを買った客が被害者ですが、まあそれでも演奏が素晴らしいから、やはりそれでも発売されたことは最終的によかったと思いますが…。
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オダブツ寸前

週末は久しぶりに知人に会いました。
この方はずいぶん長いお付き合いになるピアノ好きの方で、昔は関西から浜松、東京までピアノ屋を巡って一緒に旅行したこともあり、最近会うのは久しぶりでした。

技術者肌で機械ものにも詳しいので教えてもらうことが多いのですが、話題は自然とパソコンのことになりました。
マロニエ君は基本的にパソコン関係がてんでダメなので、普通の人なら常識といえるようなことでも、いまだに知らないことだらけですが、これはいまさらどうしようもないようです。

それでいろいろ聞いていると、とんでもないことを言われました。
「ハードディスクは必ず壊れる。数年使っていると悪夢は必ず来る。それも本当に突然だから、努々バックアップはとっておくように!!」というものでした。
パソコンがいつか壊れるのはわかっていましたが、パソコン内にあまり大量のデータを抱え込むのがいやなので、マロニエ君は外付けのハードディスクを使っているのですが、何の根拠もなしにこっちはそうそう壊れるものではないというふうに勝手に思い込んでいたのです。ここがまずひとつ、おバカな点であったようです。

氏曰く、「外付けだろうと、内蔵だろうと、とにかくハードディスクというものは必ず壊れるものだということを忘れちゃいけない」という思わず心臓がキュッと締まるようなアドバイスをもらいました。
しかも、もともとこの方、とっても優しい穏やかな人なのに、この点を言うときはえらく強い調子で言われたのが印象的でした。
この方はIT関連の会社経営者ですが、仕事でもあるぶん、過去にはずいぶん苛烈でショッキングな経験もいろいろされているようです。

「ふうん…」と思って帰宅して、それから自室のパソコンを見て思い出したのですが、そういえば10日ほど前にこの外付けのハードディスクがえらく調子悪くなっていて、機械の内部でもコットンコットン音がしていて使えないことがあり、おかしいなぁ…と思ったりしていたことを思い出しました(この悠長さが自分でも驚きます)。
で、さっきの話が気になって、そのHDの様子を見てみると、なんとこれが全く反応しなくなっている。反応しないというのはつまりパソコンがまったく認識しないということです。

何度やってもダメ…。そしてさっきの話…。
だんだんイヤな気分になってきて、何度も挑戦するもののダメ。20回ぐらいトライしても反応ナシで、そのころにはじっとりとした脂汗が顔といい髪の毛の中といい、猛烈な勢いで広がっているのが自分でわかりました。
再起動しても、コードを抜き差ししても、何をやってもダメで、咄嗟にその知人に電話しようかと思いましたが、彼はホテルで何かの会があるといって一時間ほど前にそこで降ろしたばかりでしたから今電話するわけにも行かず、仕方がないから購入店に電話したのですが、土曜の夜で売り場が混み合っていて、お店から折り返しかけ直してくることに。

電話を待つ間にも何度もやっていたところ、あきらかに今までに聞こえなかった音がしています。やがて少し反応が出てきたようでしたがやはりダメで、神仏に祈るような気分で何度かやっているうちに、なんと念が通じたのか、ついによろよろと認識しました。
このときは、さすがにもう大声で叫びだしたいほど嬉しかった。

そんなときに販売店から電話があり、経過を説明すると、電話だけでは断定的なことは言えないとしながらも、「とにかく認識している間に、一刻も早く中のデータを別の場所に移してください!」という「厳命」が下りました。電話の向こうでも少し口調が焦っているのがわかり、これはやはり大変なことらしいというのがわかります。

それからは、おっかなびっくりしながら、ただひたすら中のデータをDVDにコピーする作業に没頭しました。
コピーするだけとはいうものの、ここにはくだらない旅行写真から仕事上の大切なデータ類まで、ありとあらゆるものが膨大な量入っているわけで、これをコピーするというのも気が遠くなるようでしたが、とにかくやらなくちゃいけないという危機感に突き動かされて、高鳴る動悸を抑えながらこれをひたすら続けました。

HDのほうは、要するにオダブツ寸前のご様子ですから、途中でポンと事切れたらそこで終わりでしょう。
結果的に10枚近いDVDに5時間ほどかけてコピーができあがりました。
ホッとひと安心というか、これができなければこれまで10年ほどかけて蓄積されたいろんなデータや資料が、一瞬にしてパアになったかと思うと鳥肌が立ってしまいます。

コンピュータの世界はこれだから、便利と引き換えに冷酷で大嫌いなのですが、だからといって今どきパソコンなしで生きていけるはずもないし、まあ今回はすんでの所で助かったことを神様仏様に感謝して、今後はより強い自覚を持っていなくてはいけないようです。

なによりも感謝すべきは、この日マロニエ君に強い調子でアドバイスしてくれた知人で、彼に会わなかったらこんな確認はしなかったし、ごくごく近い将来、何かの拍子にすべてのデータを喪失していたことだろうと思います。
これだけでも、この日、彼に会った甲斐があったというものです。
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続・南紫音CD

このCDで共演するピアニストは、この道(合わせもの)ではいまや世界的な定評を勝ち得ている江口玲さんで、相変わらず達者な演奏で共演者をたくましく支えます。日本での録音にもかかわらずピアノはニューヨークスタインウェイを使っていることは、聴くなりわかりました。

とりわけR.シュトラウスのあの絢爛としたソナタ、情熱と怠惰が交互に入れ替わるような華やかだけどどこか不健康さの漂う作品世界には、ニューヨークスタインウェイ独特の、焦点がどこかずれて見えるようなゆらめく陽炎のような響きと淡い中間色を持つピアノがとても合っているように感じられました。

とくに弦との合わせものでは、ニューヨークスタインウェイはしっかりした存在感はあるにもかかわらず、どんなにフォルテで弾いてもピアノが過度に出しゃばらずに相手と溶け込んで、音楽がより幻想的になるところが好ましい。

楽器といえば南さんの奏でるヴァイオリンの非常に良く鳴ることにも驚きました。
先日のテレビでは、見たところ楽器はわりにきれいで、よく目にするキズだらけなオールドヴァイオリンのようには見えませんでしたから、もしかしたら優秀な新作ヴァイオリンでは?とも思いました。
しかし、調べてみると彼女は現在、日本音楽財団からグァルネリ・デル・ジェスを貸与されているとかで、あるいはそれだったのかもしれませんが、これ以上の正確なことは不明。

CDジャケットの写真の楽器はいかにもオールドヴァイオリンのようで、このCDではそのグァルネリ・デル・ジェス(「ムンツ」1736年製)が使われているようですが、これがまた素晴らしい音でした。

とにかくすごい鳴りなんだけど、ストラディヴァリウスのようなどこまでも艶っぽい極上の美の世界とは少し違う、そこに若干の野趣と男性的な要素があるというか、逞しさと陰みたいなものの混ざり込んだヴァイオリンだと思いました。
それをまた女性奏者が魂を込めて鳴らすところが、なんともいいマッチングでしたね。

マロニエ君の印象では、絵画や宝石のように完成された深みのある美音が天にまで昇っていくようなストラディヴァリウスに対して、グァルネリ・デル・ジェスは、もう少し人間臭さみたいなものがあり、しかも最後のところを演奏者に下駄をあずけているところがあって、そのちょっと未完の部分がヴァイオリニストの音楽性とテクニックによってまとまっていくタイプの楽器だと感じました。

この、奏者の手腕が介在する余地が残されているようなところがまた魅力で、演奏によって楽器もさまざまに表情を変えるという、ストラドとは違った妖しさがあって、この点でも深い感銘を覚えました。

すべてが輝くような美しさにあふれているのも素晴らしいけれども、グァルネリの、演奏されることによって何かが目の前に生き返るような部分はちょっと抗しがたい魅力です。
この特性のためでしょうか、グァルネリ・デル・ジェスのほうが、奏者の筆致が露わで、より鮮度の高い音楽を聴いているような気になるようです。
あくまでもマロニエ君の印象ですが…。

通常なら最もありがちな組み合わせとして、ストラディヴァリウスとハンブルクスタインウェイといったところですが、グァルネリ・デル・ジェスとニューヨークスタインウェイというのはこの組み合わせだけでもとても新鮮な印象を受けました。
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