義援金疑惑

東北大震災の被災者のための義援金活動が各地各所で行われていようですね。

マロニエ君も被災者の方にはなにか自分のできることをしなくては…という思いは人並みにはもちろんあるのですが、義援金ならばしかるべき公的機関の窓口以外ではしようとは思いません。

民間でやっているものも最近は実に様々なものがあるようですが、あれはちょっとした社会問題にもなっているようですね。
というのも、本当にそこで得られた義援金が、すべて滞りなく被災地の人達の手に、あるいは復興のために間違いなく活かされているかどうかという点は、相当グレーゾーンの部分も多いらしく、そうだろうという気がしています。

日本国内はもとより、世界各地でもそのチャリティコンサートなどがさかんに催されているようですが、どこまでがどうなのかと思うと、せっかくの人の善意に対して悪い見方をするようですが、でもそれを100%真っ当に捉えるなんてことはマロニエ君には申し訳ないけれどもできません。
正確にいうなら、善意が善意のまま、無事にその花びらがむしりとられることなく目的地にたどり着いているかという点では甚だ疑問です。

もちろん中には誠実にそれを実行している人や団体もあるでしょうけれど、その正しいことをしている人達の中に紛れ込んでいる、不届き者というのも世の中には必ず存在していると思いますし、義援金などという人助けに名を借りた、不明朗な金集め行為というものは、いわば火事場泥棒と同じで許しがたいものを感じます。
しかも、現代人は偽善の衣装を着るのは上手ですから、それを外から見分けるのは至難の技です。

もともとが寄付行為なので、集まったお金の管理自体も、どのようになされているの不透明です。
金額も、個人の任意によるものだから決まった額ではなく、その合計の数字などないも同然で、そこに誤魔化しの意志が忍び込めば、いくらだってできるでしょう。
この種のお金は透明性に対する要求も恐らく低いはずで、こればっかりは追跡調査して領収書との数字を付き合わせるわけでもなく、要するにすべてが曖昧という気がします。

とくに個人レベルでやっているこの手の行為は、イベントや物販をしても、必要経費と称していくらでも主催者は抜き取ることができ、マロニエ君は悪いけどあまり信用していません。

貯金箱のように壊さなければ開けられない箱でも準備して、衆目の前でそれを開け、金額を確認してその足で一気に役所にでも直行するのならともかく、後日だれかがどこかの受付窓口に行って来るというような流れなら、マロニエ君だったら御免被ります。
本当に義援金を出す気持ちがあれば、わざわざそんな怪しい経路を経なくても、直接自分の足で公的機関の受付窓口に行ったほうがよほどマシです。

実際にこの悪しき問題を解決すべく、すべての義援金の窓口を一本化すべきというような意見もあるのだそうですが、もともとが善意と自由意志に委ねられた世界であるだけに、なかなか実現が難しいようです。
日本人は災害発生時に略奪などの目に見える派手な行為はまずしない民族ですが、善意のお金を募って、その中から自分のポケットにも少しまわそうなどというみみっちい輩は、残念ながらウヨウヨいそうな気がします。

義援金を集めなんて、所詮はこういう側面がつきまとうものなので、マロニエ君だったら絶対に自分ではしたくないことです。
声にはされなくても必ずちょっとは疑いの目で見られるハメになるわけですから、それはイヤですね。
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楽典

このところ、勉強というほどあらたまった事ではないのですが、ふとした気まぐれで、楽典の本をパラパラみていると認識を新たにすることなどがあって、妙に面白いもんだと思っているところです。

楽典は昔、十代の時にひと通りはやったことですが、もともと全部が全部キチンと頭に入っているわけでもないし、もちろん忘れていることもたくさんあって、ページを繰るごとに思い出すこと、あらたに覚えるべきことなど、いろいろとあるものです。

とくにイタリア語の表記には、同じ意味でも何通りもの言葉があって、ほとんど使われないものも多くありますが、本来のニュアンスとしては、微妙にどう違うのか、作曲者はどう使い分けていたのかというような点は多いに疑問で、そのあたりはとても謎めいていて興味が湧いてくるところでもあります。

人間、何事も自分でわかったつもりになっていることほど恐いことはなく、あらためて本を開いてみると、ちょっとした思い違いや発見がゾロゾロ出てきて記憶が修正され、そのあとに楽譜を見ると、なんとなく見方が良いほうに変わってくるようですし、こういう変化は柄にもなくちょっと良い気分です。

考えてみたら楽典の本を読み返すなど、本当に恥ずかしいぐらいに久しぶりで、つくづく自分の不勉強ぶりを思い知らされた気がしています。
ちょっとした気まぐれから見てみた楽典の本ですが、けっこう面白いのは意外でした。
それで味をしめて、古くて茶色になった昔の教科書だけではつまらないので、新しい楽典の本を一冊買ってみましたが、これもまた面白く読むことができました。

何事もこうして絶えずおさらいをするというのは大事なことなんでしょうが、マロニエ君のような生来の怠け者にはよほどの偶然か気の迷いでも起きない限りそういうことはないので、今回は、その気の迷いのお陰でとっても得した気分です。
たったそれぐらいのことで、そんなに得した気分になるのなら、では、もっとあれこれ勉強に精を出せばいいのですが、それはそれこれはこれで、やっぱり殊勝な気持ちはなれないんですね。
好きなことをしながら、それが結果的に勉強にもなるというのが理想ですが、そう都合良くはいきません。

ただ、マロニエ君は練習は昔から超のつく怠け者ですが、作品の解釈とかディテールの意味づけ、各所の表現という部分にはそれなりのこだわりがあるので、その点を分析追求するには、やはり楽典のおさらいは有意義だと思いました。

この際これは本棚にしまい込まないで、ひまひまにパラパラ見るだけでも参考になるので、しばらくは手の届く場所に置いておこうと思います。
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模造モール

所用があって平日の午後、西区方面へ出かけたついでに、たまたま前を通ったので、さる15日にオープンしたばかりの木の葉モールをちょっとだけ覗いてみました。
このところの大型ショッピングモールといえば、ほとんどはイオンかゆめタウンの両横綱に占領されている観があり、いささか飽き飽きしていたところでしたので、木の葉モールは経営母体がそれらとは異なるし、果たしてどんな新しいものができるのかという興味がありました。

駐車場は大半が立体で3Fからのようですが、平日にもかかわらず、行けども行けども満車エリアが続き、ついに4Fにまで押し上げられて、そこでもかろうじて一台分のスペースを見つけ出したほどでした。

売り場は1F/2Fで、なだらかな曲線状に伸びたメイン通路の両脇に無数の店舗がひしめき合っています。
時間がないので、ごく短時間でサッと見て回っただけですから、おおざっぱな印象でしかありませんが、はじめに見てアッと思ったのは、まるでイオンモールのやり方をそのまんま丸写しのような感じで、なんだか見ているこっちのほうが恥ずかしくなるような気になりました。
中国のなんちゃってワールドは笑っておきながら、こんなにもそっくりな雰囲気を大真面目に作ってしまうという日本人の横並び精神も、これはかなりのものだと思いました。

あそこまで真似して、恥ずかしくないのかと素朴に思いますし、マロニエ君的には、どうせ新しいものを作るのであれば、それこそイオンなどの先発を充分に研究し尽くした上で、そこにさらに新しい発想、斬新なアイデア、これまでになかったスタイルの提案などをやってみるべきでは?と思うのですが。
別にモールに限りませんが、後発組の強味とチャンスは正にそこにあると思うのです。

それなのに、パッと見た感じでは、また新しくイオンモールがひとつ増えたとしか思えないようなものでしかなく、しかもしょせん真似は真似なので、イオンのほうが全体的にサマになっていてあれなりに本物という感じで、こちらは模倣特有の後ろめたさが漂っています。

店子も具体名は書きませんが、どれもこれもがお馴染みのものばかりで、いまどきのモール入居する店は同じ顔ぶれしかないのかという、ちょっとがっかりさせられるというか、底の浅い限界を見せられるようでもありました。
それもこの手のモールが近くに存在しなかった田舎ならまだしも、同じようなものがすでにいくつもある福岡都市圏内で、なんでいまさらこんなにまで同じことをするのかと思います。

日本人の商売人は、日夜勉強を怠らず、ライバルを研究し尽くし、お客さんのニーズを徹底的に分析し、おそらくは連日のように会議やディスカッションなどを繰り返しているものと思われますが、その結果がなんの新鮮味もない、既存のモールの模造品を作り上げただけという現実は、あまりに思慮と冒険性がふたつながら欠落しているように思います。
新しいことを作り出せず、既存のスタイルをただ踏襲するだけでは、そのこと自体がすでにもう内向きだと思いますね。
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不燃ゴミの怪

所帯じみた話題で恐縮ですが、不燃ゴミ等の収集日には、いろんな謎の人達が出没して行き交う、不思議な夜となります。
飲料用のアルミの空き缶などは、これを自転車の前後左右に山のように積み上げて、ふらふらと走る姿などもよく見かけます。

一昨日の夜のこと、月に一度の不燃ゴミの収集日だったので、空き缶/ビンなどの燃えないゴミをまとめていましたが、外が明るいうちに外に出すのも憚られるので、いつもできるだけ夜遅く出すよう心がけています。
その夜はちょっと外出していて、夜の11時ごろ帰宅し、車を降りてガレージのシャッターを閉めようとしたとき、目の前に軽トラックが走ってきて、運転者はいかにも慣れたような動きで、向かいのマンションのゴミ置き場にスッと入っていきました。
不燃ゴミ等の収集日は何らかの収穫を求めてか、こういう人達が引きもきりません。

ここまではいつものことなのでとくに気にも留めませんでしたが、我が家のゴミを奥から出してきて、外に出そうとしたとき、軽トラックの人は戻ってきて運転席に座り、まさに発進するところというタイミングでした。

その時に、なんというか…ちょっとした視線を感じたというか、なにか引っかかるものを感じはしたものの、とくに気にもせずゴミを出すという一連の動作を続けて、門扉の鍵を閉めて、玄関に向かおうとしたとき、小さく「カチャッ」という音がして、それが軽トラックのドアが開く音だということはほぼわかりましたが、妙に気持ち悪くなって、それ以上外を見ることなく玄関に入りました。

しかし、家に入って着替えをして手を洗っていると、外では相変わらず車が動いたり止まったり、ドアをバタンと閉める音などが小さくつぎつぎに聞こえてきます。
ポッと点火したさっきの不安はますます募ってきました。

もうお分かりだと思いますが、マロニエ君としては彼らに我が家のゴミが漁られたんじゃないかという気がしてならなかったのです。
というわけで、玄関を入ってからわずか5分後ぐらいのことですが、ちょっとゴミの様子を見に行ってみることにしました。
袋の上口はちゃんと縛っているのに、乱雑に開けられていたりしたら嫌だなあという不安とともに、恐る恐る門扉のところまで行ってみると、あれっ!…なんと今しがた置いたはずのゴミはものの見事に消えています。
どうやらさっきの軽トラックの人が袋ごと持っていってしまったようです。

もちろん捨てたものですから持って行かれても問題にはなりませんが、不燃物とはいえ、自分の家のゴミを他人がそのままそっくり持っていくなんて、やっぱり気持ち悪くてちょっと衝撃的でした。

中はしょうもない金物やガラスのがらくたばかりで、彼らが期待するようなものは何もなかったはずですが、それにしてもよくまあそんなことをするもんだと思います。
それ以降、家の中にいても妙に外の気配を伺っていると、なるほど、つぎつぎこの手の人がやって来ては去っていくのがわかりました。

それでひとつバカなことが閃きました。
処分代を出して引き取ってもらわなくてはいけないような大きめの粗大ゴミでも、この月に一度の収集日に外に置いておけば誰かが持っていってくれるかもしれないと思うのです(笑)。

ただ外に置いているものを誰かが知らぬ間に持っていくというだけなら、なんの法令にも反することではないし、それで面倒な手続きもしないで、しかもタダでゴミ処分ができるなら、こんなありがたいことはないわけですから、そのうちダメモトでいちど置いてみようか…などとつい変なことを思ってしまいました。
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常識は非常識?

たまたまテレビを見て知ったことですが、最近の人の行動にはエッと驚愕させられることがあるものです。

それは簡単に言えば礼儀知らずということになるわけですが、どうも、そういう言葉さえ適切ではないような、もっと根本にあるもののどうしようもない成り立ちの違いをしみじみと感じさせられることがあるのは決して珍しくありません。

何事も正否にほとんどかかわりなく、数さえ増えればその勢力がうまれ、拡大し、しだいにそれがスタンダード化していくというのは、まるでバッタの大群みたいで、ほとんど個人差の領域を凌駕してしまっている点はつくづくと驚かされる点です。
しかもこれといった悪意すらもなく、本当になにひとつ礼儀らしきものを知らない無知のなせる技であるようで、だから当人はまさか自分がそんな非礼をやらかしているなどという意識も自覚もないようです。
正に字の如く、礼儀を知らずに歳だけ大人になってしまった人が大挙して世の中に現れ、それが日本人の文化を駆逐しながら尚もうねりとなっているようです。
だからこそ、この流れは、とどまるところを知らないのでしょう。

そのテレビでびっくりしたのは、今回の東北の震災で被災した人達のいる避難所に天皇皇后両陛下が御見舞にお出でになったときのこと、両陛下が床に両膝をついてお話をされているというのに、それを受ける側(若い人だったらしいですが)はなんと、帽子もとらず、足はあぐらをかいたまま!!でずっと話をしていたとか。
また別の日に皇太子両殿下が行かれたときには、ほとんど信じがたい事に「写メ、いいですか?」といって、記念撮影を所望し、なんと殿下はそれに応じられたとか!!

こういうことが、ただ単に時代だというだけで片づけられることだろうかと思います。
これがもし、皇族に対する思想的なものの絡みがあり、ある種の抵抗心からの行動ならまだ理解のしようもあるでしょうが、そういうことではなく、ただの無知であり、ただの無邪気さであるところが、よけいに驚きを募らせます。

マロニエ君は別に天皇制や皇族方に対して格別の思いもなにも持ってはいませんが、でもしかし、少なくとも日本という国に生まれ育って、そこに長く暮らしてきたからには、皇族の方々のお出ましに際して、気持ちがどうであれ、こういう態度をとるというのは体質的本能的に、夢にも考えられないことではないでしょうか。
これはほとんど日本人のいわばDNAにかかわる問題だと思いますが、もはやそういうものすら消滅しかかっているのでしょうか?

ただ、これらは、ただ彼らが非礼でけしからん!というだけで済まされる問題ではなく、それを大事な成長期に教えなかった親をはじめとする周りの人間、ひいてはそういう感性を容認させた社会にも大きな責任があるのだと思います。
現代は本当にこういう人間が出現するような環境なんでしょうね。

個人的経験で言っても、本当に社会常識のない、無知でひたすら受身な種族というのが異常なまでに多すぎると感じます。
しかも彼らには一向に悪意すらないところが、いよいよ始末に負えないところです。
恐ろしいことには、それで立腹のひとつもしようものなら、下手をするとこちらのほうが悪者にされかねません。

自分が普通だと思ってきたことが、最近ではことごとく裏切られるシーンに直面するのは本当に虚しいものです。
しかも、それが年々スタンダードのようになり、もはや無人島にでも行って社会との関わりを断たない限り、そういう人達と関わり交わりながら生きて行かなくてはいけないところまで、日本の社会が来てしまっていることは、かなり危ないことだと思います。

受身のスタンスも度が過ぎると邪悪ですね。
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心の豊かさ

過日は知人からのお招きをいただき、ご自宅にお邪魔させていただきました。

そこは一戸建ての住宅ではなく、戦後間もなく建てられたという大型団地ですが、内部はとても美しくリフォームというかイノベーションというのでしょうか、ともかくそういう改装を施されてとても快適な居住空間になっています。

知人はここの住人であるわけですが、そこになんと普通サイズのグランドピアノを数年前に購入しています。
外からクレーンで吊ってベランダから納入されたらしく、このとき、近隣住人や管理者への事前の許可などは敢えて得ることはしないで、購入後にその旨の挨拶をされたらしいのですが、その手際の良さと英断が功を奏してか、この数年間というものクレームらしきものもなく、ごく平穏に、しかもピアノのある充実した心豊かな生活を楽しんでおられるのが一目見てわかりました。

今どきですから、集合住宅の場合はちょっとしたテクニックというべきものが必要で、ヘタに正面切って事前の許可を得ようなどとしようものなら、却って藪蛇になるだけで、どっちみちいい顔されるはずのないピアノに対して、正式に「はいどうぞ」と言われることはまず無理だと思われます。
別の知人は、ピアノ可の条件でマンションを探したところ、なかなか思うようには事が運びませんでした。
最終的にはどうにか決まったものの、かなり時間もかかったようでしたし、そのために不必要な広さや部屋数であることも受け容れて妥協しなくてはいけなかったと聞いています。

さて、普通は団地にグランドピアノというと、いかにもミスマッチのように思われがちですが、子供のある家族などならともかく、そうでなければいざ置いてみれば、必ずしもそうとは限りません。
今回の知人のお宅でも、思った以上にピアノはきれいに定位置に収まり、なかなか良い雰囲気を醸し出していました。
やはりピアノのある空間はいいものです。

この方は、ここで音を出すのを夜8時までと決め、それ以降は消音機能で練習されているとか。
それでも、文句が出るところでは出るでしょうから、この方の場合、たまたま近隣の方の理解に恵まれたということも現実的にはあるとは思いますが、やはりそこはお互いの理解と気遣いと譲歩があればこそだろうと思われます。

ピアノはカワイのグランドでしたが、人間に喩えるならまだまだ幼稚園か小学校の低学年ぐらいの歳で、すべてはこれからという新しいものでした。中音域から高音に至る音色は、ふくよかさの中にもキチンとした骨格があって、変な癖のようなものがまったくない、とてもきれいな音を出すピアノでした。
このサイズの日本製ピアノは、どうかするとえげつない音になることがありますが、良い場合のカワイには、そういう一面がないところがやっぱりいいなあと感じ入ってしまいました。
低音もごく自然で、中音域からきれいな繋がりを持っていて、どんな曲にも対応できる幅広さと普遍性をそなえていると思います。

それにしても、部屋にグランドピアノのある眺めというのは、他に代え難い、豊かな文化性みたいなものがあふれていて、そこには非常に上質な空気が流れているように感じますから不思議です。
別項でも書きましたが、ピアノは現代の実利的尺度で見るなら、重くて場所をとるローテクのかたまりですが、そのグランドピアノが作り出す空間の質感というものは、たとえそこにどんなに高価なパソコンやAV機材等を並べたとしても達成することはできない、主の精神生活の豊かさみたいなものが溢れています。

同行した知人も、あの光景にはちょっと刺激を受けたと言っていましたが、たしかにそれはよくわかるような気がします。そのうちそのうち…と躊躇ばかりせずに、一日でも早くこういう環境を整えるための決心と行動をした人から先に、本当の豊かさと喜びを日常の中で享受することができるのだなあと思いました。

ピアノはもちろん演奏されているときもいいものですが、ふたが閉じられて、静かに佇んでいる姿もこれまたなかなかいいものだとマロニエ君の目には映ってしまいます。

いろんな制約の多い今の社会では、諸事情あって普段は電子ピアノ、レッスンや発表会などでどうにか本物ピアノに触れるというパターンがあり、それはそれでやむを得ないことではありますが、こうして本物ピアノを生活の中に迎え入れ、その空間で毎日呼吸している人の満足と充実度の高さというのはやはり格別で、この満足は電気製品では到底及ぶ領域のものではないようです。
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ポイントカード

今どきはどこでも「ポイントカード」というのがありますね。
このポイントカードの取扱いと運用をみていると、だいたいお店の質というものがわかります。

質というのは別に高級品を売っている店という意味ではもちろんなくて、いかにお客さんを大事にし、イメージアップこれ努めているかという点、いわばお店の体質とか店員教育のレベルです。

マロニエ君は以前は今よりももっとたくさんのポイントカードを持っていましたが、これのせいで肝心なものはろくに入っていない財布は常にパンパンに膨れ、いざ買い物をしてポイントカードを出す際にも必要な一枚を探し出すのにもレジで一苦労してしまいます。

そのポイントカードには甚だ腹立たしい要素がまとわりつくのは皆さんもご経験があることと思います。
たとえば、500円にハンコをひとつ押すということになっていたとすると、950円プラス消費税で997円であってもハンコは1個で、こういうことってなんか無性に不愉快になるわけです。端数はいつも切り捨てられ、実際の金額より少ないハンコしかもらっていないのだから、こういうギリギリの場合は2個押すのが人情というものです。

また、カードそのものにも有効期限があって、発行から一年間、中には半年なんてものもあります。
ハンコを20個貯めたらなんらかのサービスが提供されるというような場合、あとわずかで達成するというようなとき、レジの頭の悪そうなオネエチャンから、すげなく「期限切れとなっておりますので、新しいのをお作りしておきまぁす。」と一言のもとに切り捨てられて、今まで一年間我が財布の中ですごしてきたカードはあっけなく処分され、またゼロスタートの新しいカードを手渡されます。

こういうことが重なって、しだいにポイントカードは持たないよう(作らないよう)にしました。
いくら得するか知りませんが、あんなもののせいで意識が縛られ、挙げ句の果てには期限切れなんてことになるぐらいなら、はじめから何もないほうがよほどいいと思うようになりました。
だいいち期限なんて言ったって、今どきひとつの店だけにそうそう一途に通うはずもなく、一年を僅かに過ぎてもポイントが満杯になるまで繰り返し来てくれたお客さんというのは、本来ありがたいものであるはずです。

マロニエ君がおかしいと思うのは、そもそもポイントカードというものが、お客さんの獲得とサービス提供のためにやっていることなのだから、その基本理念を考えれば、運用にあまり厳格になりすぎてお客さんに逆に不快感を与えてしまうようでは、これぞ本末転倒だと思うのです。

これは経営者と末端の店員との意識のズレなのかもしれませんが、結果的にルールのほうがすべての上に君臨して、お客さんのほうがそれに従うという、もはや本来のサービスの精神とはかけ離れた結果を生んでしまっているような場合が多すぎるように思います。

冒頭の「お店の質」というのは、それを適宜お客さんの利益になるように柔軟性をもって計らってくれる店や店員さんもあるわけですが、質の悪い店ほど杓子定規なルールの奴隷になって、いつしかお客さんよりも店やルールのほうが上位に立って威張っている場合があるのは、もしマロニエ君が経営者ならとんでもないことだと思うのですが。

ひどいのになると、店員がポイントカードのルールを語るときの態度が、まるで法令でも盾に取る官憲のごとくで、冷淡かつ上から目線の場合などもあり、こうなるとその店に対するイメージが悪化し、下手をすればこんな店には二度と来るものかという最悪の事態にも発展するものです。
たかがポイントカードぐらいなことで、ルールの執行者のような気になっているガチガチの店員ほど腹立たしくバカに見えるものはありません。

まあ、あんなものはないほうがよほど気楽に買い物が出来るということで、最近は大幅に縮小していますし、「お作りしましょうか?」と聞かれたときに、「いえ、要りません!」と言ってやるときの気分の良さといったらありません。
最近気がついたところでは、これを断っている人がかなり多いことで、やはり皆さん同じなんだなあと思います。
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ユンディ・リのライブCD

タワーレコードの試聴コーナーに、ユンディ・リの「感動のショパン・ライブ・フロム北京」というのがあり、昨年5月に北京の国家大劇院でおこなわれた演奏会を収録したもので、どんなものかと聴いてみたところ、これがいろんな面で感じるところのあるCDでした。

マロニエ君は実を言うと、個人的にはユンディ・リは(お好きな方には申し訳ないですが)あまり評価をすべきピアニストとは思っておらず、自分なりにあれこれとかなりCDを買い漁るわりには、たぶん1枚も彼のCDは持っていないはずです。
それはNHKの放送などで何度となくその演奏に触れてみて、一向に惹きつけられるものがないし、昨年はショパンイヤーということもあって、ノクターン全集などもリリースされてそのつど店頭には数種の試聴盤が置かれたりしていましたが、どれを聴いてもまったく購買意欲が湧かない、はあそうですか…というだけの演奏にしか感じられませんでした。

ことさら嫌味はないけれども、いやしくも第一級のプロのピアニスト、わけても「世界的」なというフレーズがつくからにはその人ならではの世界、なにかしらのいざないがあって当然だろうと思います。
しかしノクターン全集などを試聴してみても、ひたすら楽譜通りなだけのガチガチな演奏で、そこには演奏者のなんの霊感も挑戦も感じられない、日本でいえば音大生的演奏のもうちょっと上手い人ぐらいにしか思えませんでした。

さて、その彼の最新盤である《感動のショパン・ライブ・フロム北京》ですが、冒頭のアンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズの出だしからして、これまで知るユンディとはちょっと違う、ある種の気迫のようなものをとりあえず感じました。
オッと思ってしばらく聴いてみましたが、基本的にはこれまでのユンディであるけれども、自国でのリサイタルで、しかも面子のかかった北京の国家大劇院、さらにはライブの収録も兼ねているということもあってか、相当に気合いを入れているようでした。

しかし、よく聴くと、なんのことはない、演奏者がノッているというよりは、中国人の好みに合わせたハデハデな演奏を、求めに応えるべくやっているだけという感じが伝わってきました。
同じ気合いが入っているといっても、ショパンコンクールのライブCDでコンテスタントが繰り広げる演奏などは、まさに一期一会の白熱した真剣勝負のそれでしたが、ユンディのこのライブはあきらかにそういうものとは違った、一種のあざとさと、中国の大衆の好みを充分承知した上で表出させた派手さ、あるいは最大のライバルであるラン・ランを射程に収めた演奏だったようにも思われて、とてもタイトル通りに「感動」というわけにはいきませんでした。
ソナタも、英雄も、ノクターンでさえも、ガンガン弾きまくりです。

しかもライブCDの発売も予定されているとあれば、メイン市場はきっと中国国内でしょうから、やはりそのあたりのツボは心得ているように感じてしまいます。まあどうぞお好きなようにという感じですが。

それと、ヒエ〜ッと驚いたのはそのピアノの音でした。
いかにも中国的というか、やたらキンキンして唸りまくる、ユニゾンさえ合っていないようなその音ときたら、まるで安酒場のピアノみたいで、そういえば中国で触れたピアノはどれもこんな音だったことを思い出しました。

ピアノ自体は全体の響きの感じから(たぶん)スタインウェイだと思いますが、中国の技術者はあんな音をいい音だと思っているんでしょうね。しかも会場は国家大劇院という、現代中国の最高権威ともいえる演奏会場でのピアノなのですから、はああ…です。
中国は技巧派のピアニストは続々と誕生してきているようですが、ピアノ技術者のレベルアップはまだまだ当分先のことだろうと思われます。
しかも、驚くべきはEMIというヨーロッパの老舗レーベルのCDであるにもかかわらず、こんなピアノでプロデューサーがよく黙っていたもんだと思いました。

これを聴いて、ふと牛牛のショパン・エチュードもかなりのヘンな音だったことを思い出しましたが、これもやはりEMIでしたから、もはやイギリスの老舗の看板もなにもないのかもしれませんし、もしかしたら中国資本にでもなっているんでしょうか。

その点では、日本のピアノ技術者のレベルは、なんという高みに達していることかと、これまたひとつの感慨にとらわれてしまいます。
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そしてカラス

ところが、喜びもつかの間、それはとんでもない勘違いでした。

柵に囲まれた、無傷のゴミの様子を見てみようと裏口を出たところ、なんと目の前には、またしてもゴミが散乱しているではありませんか!
…なんで???
いつものような盛大な量ではないものの、しかし手のひら一杯分ぐらいは散らかっています。

ゴミ本体を見ると、さしたる異変も無さそうですが、近づいてみると、置く場所が微妙に悪かったのか、下の方のやや柵に近いところがやられてしまっていました。
カラスの悪行というのは、とにもかくにも並大抵のものではなく、柵の4センチ弱ぐらいの金属の隙間から顔だけを突っ込んで、そこから4重ぐらいに包んだゴミをグリグリとつつきまわし、どうにか取れたものだけをあたりにまき散らしていたようでした。

イタチゴッコとはこのことで、人間はまたしてもカラスにしてやられたカタチになりました。
このときは、まるで空中からカラスが笑ってみているようで、煮えくりかえるほど腹が立ちました。

ひとつには、ゴミを置いた位置も微妙に悪かったわけで、できるだけ左右均等において柵からゴミまでの距離をとらなくてはいけないことが反省といえば反省ですが、それにしてもなんという執拗さでしょうか。

もう絶対に負けられないという気持ちに火がつき、さっそく対策を講じます。
必要なものがあればホームセンターなどへ材料を買いに行くのも辞さない覚悟ですが、ここは雨にも濡れる場所なので、ベニヤ板などの木材を貼りつけるのも得策ではないし、先々の耐久性や衛生面のことも考慮しなくてはいけません。

幸いにも使ったケージにはほぼ正方形のものと、その1.5倍の長さがある長方形が、それぞれ4枚ずつありましたが、このゴミ置きを作った結果、正方形が2枚余っていましたので、それを左右の側面にそれぞれに90度角度を変えてとりつけることで、柵の隙間を格子状にすることに成功しました。

おそらくこれで、カラスの頭の動きは一気に制限されるはずです。
今日は家人がこれに昼過ぎからゴミ袋を鎮座させていましたが、さすがに手出しが出来ないらしく、まったく荒らされた気配はなく、ようやくにして一段落つけるようです。

ちなみに憎きあまりカラスを傘などで追い払ったりしようものなら、敵は鳥のクセに頭が良くて人の顔をちゃんと識別して記憶できて、しかも相当に執念深いらしいので、後日外に出たときに上空から奇襲されたりするらしいので、これは絶対にしてはならないらしく、いやはやまったく手に負えない奴らです。

そういうわけで、ついにカラスの手出しができないゴミ置きを完成できたことは、人並みに「達成感」みたいなものがあって、非常に満足しています。
その後は、庭にカラスが来る気配もないので、おそらくいろいろ挑戦してみて、今回こそはダメだということを悟ったのでしょうね。ざまーみろです。
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続・カラス

過日書いたカラスの撃退術ですが、マンションのゴミ置き場をヒントにゴミ袋の入れる囲いを作りました。

使ったものは、むかし我が家で飼っていたラブラドールが、まだヨチヨチ歩きのころ買い揃えた、子犬用のケージの金網です。
これが大小8枚ほどあったので、いつか処分しなくてはと思いつつ、不燃ゴミとして出すのもサイズが大きいために、ずっと物置の奥に置きっぱなしになっていたのですが、これを利用することを思いつきました。
またとない廃物利用で、こういうのってなんか嬉しいもんですね。

これを上下前後左右に組み合わせ、手前にはドアらしきものを付けて、結束には強くて簡単なナイロンのタイラップを無数に使うことで、ついにゴミ袋用の小さな柵を作り上げました。

大きさがまた実に上手い具合に、45Lのゴミ袋をひとつ、余裕をもって入れるのにちょうど良い、まるで誂えたようなサイズに出来上がったのもなんともラッキーという感じでした。

網は格子状ではないものの、間隔は一方向に4cmぐらいで、どうみてもカラスが中に入ることは不可能なもので、これでは敵も手出しが出来ないだろうと思われて、完成したときには思わずニヤリとなりました。
さあ、「いつでも来い!!」というわけです。

このカラス防御用のゴミの柵は縦に長い直方体で、背面を壁にくっつけて置いているので、前面、上面、左右の両面という4面のケージの枠がカラスからゴミを守るという事になります。

そしていよいよゴミ収集の日がやってきて、これまでは鳥が活動しなくなる日没まで待たないと出来なかったゴミ作り(大小のゴミをまとめて収集袋に入れる作業)を昼間から始めるというだけでも我が家ではえらく新鮮な感覚で、出来上がったゴミのかたまりを恭しくこの囲いの中に入れました。
家人もこれまでに何度となく散々な目に遭わされてきており、無事に役目を果たすのだろうかと、いやが上にも期待が膨れます。

同じくケージで作ったドアを閉めて、開かないようそこに紐を結んで作業完了。
あとは夜になれば表にゴミを出せばいいわけです。

ちなみに人気TV番組の「秘密のケンミンショー」によれば、深夜にゴミ収集車が回ってくるのは福岡がとくに珍しいらしく、大半の地域では朝なんだそうですね。しかも前夜から出すのはダメなので、それでよく出勤時のダンナさんに奥さんがゴミを出させるというような光景があるのだということを知り驚きました。
これひとつでも、低血圧で朝の苦手なマロニエ君にとっては福岡はありがたいところです。

さて、そのゴミですが、出来上がった柵のなかにゴミ袋を入れてから、一時間ほどたったころでしょうか、なんと、はやくも庭にはカラスがあらわれましたが、キョロキョロしながらポンポンと庭を跳ねているだけで、しばらくするとパッと飛び去っていったのは、どうやら収穫がなかったらしく、思わずヤッタァ!と思いました。
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知事選挙

統一地方選も終わり、民主党が敗北したのは当然としても、同日に全国数箇所では知事選も行われ、その当落が確定しました。
東京では現職知事が4期目!に突入というのもどうかとは思いますが、それでも、あのお笑い出身の上昇志向の権化のような人が落選したのは、ほぼ予想したこととはいえ、万が一ということを考えると、あらためて妥当な結果が出てホッとさせられました。

落選後のインタビューによると、この人は前の県知事を1期で辞めたのは、鳥インフルエンザや口蹄疫の責任を取っての行動だったと言っているそうですが、だとしたら引責辞任した人が、ほとんど間を置かず、今度は一気に大東京の知事をめざして立候補したのは、いったいどういうことかと思います。
まあ、かつても自民党の選挙を牛耳る大物議員に向かって、「ワタシを(自民党の)総裁としてお戦いになるか?」などという、聞いたほうは悶絶しそうな事を言うような人ですから、その桁外れな欲望の前では、筋論もなにも求める方が愚かとも思いますが。

というわけで、東京はまたも物書き出身、スター俳優の兄であるあの人が再びその任に就くことになりましたが、いきなりお得意の○○節とやらを炸裂させて「日本人の我欲は戒めるべき!」「つましく暮らせ」などと、当選インタビューの段階から吠え始めたのは呆気にとられました。
今の20代の人などは知らない人も多いかと思いますが、実際にはこの人こそ「我欲の元祖」みたいな人で、若い頃からその我欲エネルギー一筋で今日まで来たような人なのに、いまさら何を言っているのかと思いました。

自民党の時代も総理になりたくてなりたくて、この人はどれだけの節操なき行動運動を繰り返してきたことか。
そのあくなき欲望ときたらあの永田町でさえ一際目立っていたというのに。
その挙げ句、とうとう総理の芽がなくなって、どうしようもなくなって、後出しジャンケンで都知事選に出たら通ったというだけのことで、そのほとんど妄想に近いような出世欲は、常軌を逸しているとしか思えないようなもので、その点ではお笑いの元知事とまさに同格でしょう。

そんな人の口を通して日本人は我欲がどうのといまさらお説教されても、かつての鳩山さんじゃありませんが『アナタの口から聞きたくはない』と言いたくなるのが正直なところです。
インタビューで何を聞かれても怒るばかり。総理でも何でも年下と見ればクン呼ばわりする癖も相変わらずで、やっぱりこの人、感じ悪いと思いました。

さて東京の事どころではありません。
我が地元も現職が4期勤めて引退することで新しい知事が誕生しましたが、この人の詳しいことは知りませんが、その映像を見ただけで、いきなり憂鬱になってしまいました。
はやくも前知事の院政などと囁かれますが、たしかに同じ大学の同じ学部で、同じく通産省の出身の官僚あがりですが、あまりにも華のない、陰と陽なら、まさに陰の、その暗いイメージには見るなり強烈な失望感と虚しさに襲われてしまいました。

インタビューされても、喋りがたどたどしくて話が流れず、言葉と言葉の間には老人のように間がありすぎて、質問者のほうも会話のリズムが何度かズッコケていましたし、当選したというのに笑顔のひとつもなく、コメントも相手の顔を見ず目線は常に下を向いているのはガッカリで、こんな人が知事になったのかと思うと暗澹たる気分です。

人の上に立つ人ということには、なにかそれらしい風格とか雰囲気というものが必要ですが、どうみてもそれは微塵も感じられませんし、別に美男美女である必要はありませんが、それなりのリーダーの顔(顔つき?)と人望がなくては人心を惹きつけることはできないでしょう。

一般論としても、どうみても人の上に立つ器ではない人が、なにかの拍子や巡り合わせでその地位に就いたときの違和感、あのなんともいたたまれない気分というのは、本当に見ていて気持ちが萎えていくものですが、最近、それを感じることがあまりに多すぎるように思います。

選挙事務所で斜め後ろに立っていた、なんにも中身のなさそうなテレビキャスター出身の若い市長のほうが、このときばかりは、はるかに明るくさわやかな感じに見えてしまいました。
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某所のスタインウェイ

昨日書いた、とあるのホールの続き。

スタインウェイは事実上、まっさらの新品といって差し支えない状態でした。
いかにも今のドイツの工業製品というに相応しい、生産品としてはほぼ完全なもののように見えましたが、昔と違って見えない部分にコストの問題などを抱えているのも事実で、不思議にこのピアノは心を揺さぶられるものがありません。どうしても興奮できないというか、このピアノと駆け落ちしたいという気にならないのです。

もちろん新しいということはピアノとしてはハンディとして考慮すべき点ですから、これをもって結論めいたことは決して言えませんが、やはり最近のスタインウェイの特徴がここでも見えたのは事実で、かつての強烈な個性や魅力、聴く者を圧倒する強靱な鳴り、コクのある音色は影を潜め、薄味で、作り手が製造精度やネガ潰しにばかり腐心しているように感じます。
最近ショパンコンクールのライブを相当量聴きましたが、そこで聴くスタインウェイも根底がまったく同じ音でしたから、やはりこれは今のスタインウェイの特長であることは間違いなく、CDでも、TVでも、実物でも全部同じ音がします。その代わりといってはなんでしょうけど、品質管理・当たりはずれの無さは猛烈に上がっているようで、もはやスタインウェイも事実上カタログで注文していいピアノになったのかもしれません。

まるで今のドイツの高級車みたいで、美しい作りや高性能と厳しい割り切りがひとつのものの中に共存し、だれが乗っても触ってもその性能の8割方までは必ず楽しめる、そんな利益の上がる生産品を作り出すことを旨としている感じです。
昔の超一流のスポーツカーやピアノには、それを使いこなせるまでは修行して出直して来い!とでもいったような、使い手におもねらない気高さと近づき難さなど、本物だけがもつ凄味と、実際それだけの裏付けがありました。
今は、お客様優先でイージーに楽しめる保証付きの製品を目指しているんでしょう。

ピアニストに喩えると、もちろん演奏に際してミスタッチなどはないほうがいいに決まっていますが、そんなことよりもっと大事なものがあるという演奏を臆せずすることで聴く人に深い感銘を与える人と、音楽的には凡庸でこれといった特徴も魅力もないけれど、指はとにかく達者でミスタッチなどしないで常に安定した演奏ができ、結局、総合点でコンクールに優勝したりするタイプがあるものです。

新しいスタインウェイがいささか後者のような要素を帯びてきたと感じているのは、決してマロニエ君だけではないと思いますが、残念ながらそれをまたしても確認してしまったという結果でした。
確信犯的に、周到に材料の質から何から割り振りされていて、はじめから器が決まっていて、限界が見えているピアノという感じが頭から拭えません。昔のように何か得体のしれないものの力によって腹の底から鳴っているという、思わず鳥肌が立つような、あのスタインウェイの真髄や凄味はもはや過去のもののようです。

かつて、世界中のどれだけの人が、このスタインウェイの魔力の虜になったことでしょう。
業界人の中にはしかし、これを単なる懐古趣味やマニアの思いこみであるかのように言い抜ける人がいますが、本当にピアノがわかる人なら本心からそう思っているとは到底考えられません。
あきらかに以前のスタインウェイにはピアノの魔神のごとき魂みたいななものが宿っていたのは事実です。

しかし、さすがにアクションなどは新しいぶんしなやかで、ピアニッシモのコントロールなどは思いのままでしたし、ダンパーペダルなども極めて抵抗が少なく滑らかで、こういうところはさすがだと思いました。

スタインウェイは今も内部の細かい仕様変更などをしていると聞きますが、今回のピアノは心なしかこれまでよりキーがわずかに深くなっているようにも感じました。

蛇足ながら、この1〜2年ぐらい前から採用されだした新しいキャスター(足についている金属の大型車輪)は、同じものがベヒシュタイン、ベーゼンドルファー、シュタイングレーバー、プレイエルなどにも装着されており、これだけ数社のコンサートグランドに採用されるからには、よほど機能が優れているのかもしれませんが、見た感じはなんとも不恰好で、せっかくの美人がゴツイ軍用靴でも履かされているようで、強い違和感を覚えます。

ヤマハ、カワイ、ファツィオリなどがまだこのタイプではないのは、せめてホッとするところです。
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某所のベーゼンドルファー

ピアノ好きの知人のお誘いを受けて、とあるホールへピアノを弾きに行ってきました。
ここは昨年秋にスタインウェイのDが導入されて、以前からあったベーゼンドルファー275とヤマハCFに加えて3台体制となったようです。
ステージに行ってみるとスタインウェイとベーゼンドルファーの2台が準備されていました。

ここのベーゼンドルファーを弾くのは二度目ですが、以前はかなり調整から遠ざかっているといった状態で、とても本来の実力とは思えないコンディションでしたが、今回は見違えるほど入念に調整されていて、むろん調律だけでなく、音色からタッチまで、すべてに調整の手が入っていることは触れるなりわかって、そのあまりの違いにびっくりしました。

スタインウェイもそうでしたが、両方ともどうやら調律仕立てホヤホヤみたいな印象で、今回はよほどタイミングが良かったのだと思います。
二人で行って、交代で2時間ゆっくり弾いてきました。

ベーゼンドルファーはまろやかさが上積みされて、タッチの感触も均一で心地よく、いかにもシャンとした身なりの人みたいな雰囲気にあふれていたので、以前よりも格段に弾きやすい感じを受けました。
マロニエ君はベーゼンドルファーではどうしてもショパンなどを弾く気にはなれないので、シューベルトのソナタなど、この楽器に敬意を表して相応しい曲の楽譜を持参してこのヴィーンの名器を堪能させてもらいました。

そこで感じたことは、調整はかなり入念にされているとは思ったものの、なぜかタッチコントロールによる音色の変化など、音楽性という点においてはそれほど敏感なピアノにはなっていない印象だったのはちょっと意外でした。無造作にパラパラと弾く分には以前よりたしかに格段に弾きやすいのですが、これぞベーゼンドルファーという弱音域の表現力などはあまりなく、どちらかというと一本調子なピアノであったのはどうしたことかと首を傾げるばかりです。
まあ、このほうが一般ウケはするのかもしれませんが、少なくともタッチや弾き方によって音色を作り音楽を表現するという余地があまりないように感じました。

これは調整した人が上手すぎて、あまりにも立派に調整してしまったために、変な言い方ですがそれによってピアノが一ヶ所に固定され完成しすぎてしまい、最終的には演奏者に下駄を預けるといったところのない、安全指向のピアノになっていたように感じました。
どう表現を誇張してみても、あまりピアノがついてこないのは意外でした。

それはマロニエ君の腕がないからだ!とお叱りを受けそうで、もちろんそれはそうなんですが、でも下手クソほど実は表現力のあるピアノはある意味で恐い存在で、いいかげんな弾き方をしようものなら、そんなアラがいっぺんにバレてしまうほど、一流の楽器というのは元来敏感なものなのですが…。
しかし恐いけれども、気を入れて、心を込めてしっかり弾くと、ピタッとピアノがついてくる、これが本来の名器だと思うのですが、もしかしたら日本のピアノ向きの調整だったのかもしれません。

少なくともベーゼンドルファー特有の、優雅の中にかすかな下品さみたいなものがチラチラする、そんな瀬戸際を演奏者の裁量で楽しむスリルはなく、ピアノ全体が優等生的にグッと安全圏内に移動させられたようでした。

それにしても、いまさらながらこのベーゼンドルファー275の、見た目の華やいだ美しさには、ほとほと感心させられ、見るたびにため息が洩れてしまいます。
チェンバロのようなカーブ、薄いリム(外枠)、赤味の入った弦楽器のような色のフレームとそこに開けられた無数の大きな穴、芯線部分もすべて一本張弦で、何もかもが手間暇かけて、軽く薄くデリケートに作られているようです。

スタインウェイはピアノとして最高の実用楽器ですが、こちらはまさに贅沢品という趣で、見ているだけで目の保養になります。でも弾いた感じは、ちょっと優等生的で、もう少し裏表があるのが本来のピアノの姿では?と思いました。
もちろん全体としては気品あふれるピアノだったのは言うまでもありませんが、そのわずかのところが楽器の世界は難しいもんだと思います。
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珍会場コンサート

偶然にも、5月に福岡市内でおこなわれる非常に珍しい会場でのコンサートの情報を得ましたのでお知らせします。問い合わせ先の電話番号も記述すべきか迷いましたが、いずれもすでに公表されている情報なので敢えて書きました。

(1)【管谷怜子 ピアノリサイタル】
会場:日時計の丘ホール(福岡市南区柏原3-34-41 TEL092-566-8964)
   http://hidokei.org/
日時:2011年5月15日(日) 開演15:00
価格2,000円(税込)
お問い合わせ TEL 090-1192-0158
〈プログラム〉
バッハ:パルティータ 第1番 BWV825
モーツァルト:ピアノソナタ 第9番 K.310
シューマン:交響的練習曲 Op.13

(2)【高橋 加寿子 ピアノリサイタル】
会場:みのりの杜ホール(福岡市南区桧原2-47-25荒川邸敷地内)
日時:2011年5月25日(水) 開場10:30 開演11:00
価格1,000円(税込)
お問い合わせ TEL 090-7921-5000(野田)/090-3074-5771(五條)
〈プログラム〉
バッハ:平均率よりプレリュードとフーガ ニ短調BWV874
ドビュッシー:ベルガマスク組曲
ショパン:幻想即興曲・エチュードOp10-5「黒鍵」・Op10-12「革命」
ノクターンOp9-3ロ長調・ワルツOp64-3・グランドワルツOp42
高橋 加寿子氏のプロフィール
16歳で単身英国留学 パーセルスクール(高校)、ギルドホール芸術大学にてピアノ演奏家コース終了
同大学にて演奏家リサイタルディプロマを首席で取得
ロイヤルカレッジオブミュージック演奏家ディプロマ取得
ロイヤルアカデミーオブミュージック演奏家ディプロマ取得
オックスフォード ピアノコンクール優勝

(1)の「日時計の丘ホール」はマロニエ君も行ったことがありませんが、ホームページによると福岡市南区柏原にある「小さなギャラリー、小さなホール、小さな図書館」と銘打った可愛らしい施設のようです、写真を見ているとぜひ一度訪れてみたくなります。
ここにはなんと1910年製のブリュートナーのグランドがあり、このピアノを使ってのコンサートのようですから、ありきたりの会場、ありきたりのピアノに食傷気味の方にはおもしろいコンサートかもしれません。
ブリュートナーはライプチヒのピアノで戦後は東ドイツに属しましたが、西のベヒシュタインと覇を競ったピアノともいえるでしょう。
ライプチヒといえばバッハですから、プログラムもこのドイツの名器に合わせたものなのかもしれません。

(2)はこのブログの2011.1.21にご紹介したホールで、個人の邸宅内とは思えない瀟洒な美しいホールで、しかもスタインウェイのコンサートグランドがあるという思いがけない会場です。
開演が11時ということで、これもまた普通とは違って意表を突いたような時間帯で、平日のこの時間に行くのはなかなか難しく、これに行けるのは限られた人になるとは思いますが、ともかくそういうコンサートが予定されているということのようです。

行かれる場合は、事前のアクセス調査が必要になると思いますが、マロニエ君も都合が許せばできるだけ行ってみたいと思っています。
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カラス

このブログでカラスといえばまるでマリア・カラスのことのようですが、さにあらず、黒い鳥の「烏」のことです…。

カラスの被害というのは全国的なもののような印象もありますが、とにかくマロニエ君の自宅付近にはこれが昔から多く棲息して、集団で勝手気ままな生活をし、人間は被害は受けてもなにひとつ手出しができません。

とくに季節によってはものすごい数のカラスが上空を回遊しており、近くの電線はむろんのこと、どうかすると我が家の庭にまでやってきてペタペタ歩き回っています。
庭に来ているのを見ると、けっこう体も大きいことに驚かされます。

我が家は動物園のすぐそばなのですが、それが関係しているのかどうかはわかりませんが、とにかくカラスの数は大変なもので、もし仮に庭でウサギのような小動物でも飼おうものなら、おそらくいっぺんでその餌食にされるだろうと思います。
動物園を中心としてマロニエ君の自宅とは反対側の丘の上には私立高校があるのですが、夕方などそこを通ると、学校の校庭や体育館の屋根の上にはまさに胡麻をばらまいたように無数のカラスが集結していたりして、何度見てもあの不気味な光景はゾクッとしてしまいます。

実際の被害もあるわけで、その最たるものが家庭ゴミです。ゴミ作りをしてちょっと1時間でも目を離していると、気がついたときには情け容赦なく無惨につつきまわされて、あたり一面はゴミがめちゃめちゃに散乱することになります。
我が家ではゴミの袋は二重にして、さらにスーパーのレジ袋やらなにやらで、生ゴミなどに直接到達するまでには何重にもガードしているのですが、どれだけのことをしてもあの憎きカラスには一切通用しません。
おそらく力も相当強いのだと思いますし、固くまとめられたゴミをどこからでも電気ドリルのようにつついて、破って、中を引っ張り出して、更につついて、中の中が出てくるまで絶対にあきらめません。
そのしつこさというか執拗さは、ちょっと想像を絶するほどの執念深さがあるようです。

もうさんざん苦い経験をして気をつけているつもりでも、これまでに何度ゴミ攻撃をやられたかわかりませんし、それをされるとその後かたづけだけでも大変な作業になります。
しかも、あたり一面にまき散らされた自分の家のゴミを掻き集めるのほど、情けなく腹立たしいものはありません。
我が家だけでなく、近所でもカラスによるゴミ散乱の光景を何度見たかわかりません。

まあ、敵は鳥なので、陽が落ちれば活動しなくなりますから、陽が落ちてからしかゴミ作りはしないことにしていますが、どうしても夜出かける予定があったり、何らかの都合で夕方のまだ明るい時間帯になってしまうことがありますが、少々の防御ではまるで効果は無く、カラスの力の前にはほとんど意味を成しません。

マンションなどでは、金網のついた立派なゴミ置き場がありますから、さすがに奴らも手出しができないようです。
必ずや敵を欺いてやりたいところで、それを参考にひとつ方法を思いついていますので、近く実行してみるつもりです。
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現代の巨匠

少し前に放映されたアンドラーシュ・シフの映像で、昨年のライプチヒ・バッハ音楽祭におけるコンサートから、改革派教会でおこなわれた演奏(フランス組曲全6曲、フランス風序曲、イタリア協奏曲)にあまりにも深い感銘を受けてしまい、2度ほど通して視聴してみましたが、いやぁ…これは本当に出色の出来だと思いました。
そしておそらく、今後もそうそう出てくることはないレヴェルの演奏だと思います。

彼は間違いなく現在、世界最高のバッハ弾きの一人であると同時に、現在ピアニストとしても最も脂ののった絶頂期にある旬のピアニストであるのは間違いないでしょう。
シフが比較的若い頃に入れたバッハ全集は聴いていましたし、シューベルトの全集などでもその並々ならぬ実力は見せていましたが、これほど高度な演奏をするに至ったことはまったく驚くべきことだと思います。
このところ、シフは一気に深まりを見せ、芸術家としてずいぶん高いところに昇っていったようで、いつの間にあんな凄い人になったのかと驚くばかりです。

バッハ作品には欠かせない各声部の動きが、必要に応じて、ときに即興性をもって、これほど自在に飛び交うように歌い合い絡み合い、それでいて全体が極めてまとまりのある音楽として次々と流れ出てくる様は、ただもう喜びと敬服に浸るばかりです。

しかもこれだけの量のバッハ作品(約2時間半)をすべて暗譜で、密度をもって、闊達朗々と弾いてのけるのですから、もはや人間業ではないという気がしました。

バッハといえばひたすら正しく、峻厳に、しかめ面して弾くか、あとはかなり崩した感じか、いっそモダンなアプローチでこれを処理しようという演奏家などが目立ちますが、シフはそのいずれでもなく、つねに伸びやかで、歌心があり、やりすぎない節度と道義があり、精神性が高いのに鮮烈でもあり、まるでこの人自身がひとつの高い境地に達しているようです。
彼のバッハは正統的でありながら、堅苦しさのない自然体で、音の輪郭が明晰で聴いていて飽きるということがまったくありません。

また事前の準備も相当にしているとみえて、録音も優秀だし、指も一切の迷いなくめくるめく動いて、確信に満ちた音楽が活き活きと必然的に流れていきます。
注目すべきは会場である改革派教会にはかなり強い残響があるようで、そのためかどうかはわかりませんが、シフはすべての曲を一切ペダルなしで弾き通しました。しかし目を閉じて聴いているかぎりでは、とてもそうとは思えない充実した美しい響きが燦々と降り注いでくるばかりでした。

我が意を得たりと思ったのは、ここで使われたピアノはそう古い楽器でこそありませんでしたが、新品とは程遠い楽器で、黒鍵の黒檀は手前部分が光っているぐらいまで、相当に使い込まれている年季の入ったピアノだったのが印象的でした。むろん調整も見事のひと言。
マロニエ君の部屋の「新しさの価値と熟成の価値」で書いたように、こういう感動的な演奏には、まっさらの新品ピアノなど考えただけでもミスマッチです。
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ラミー

いつもくだらないことばかり書いているこのブログですが、さらにくだらないことを書きますと、マロニエ君はロッテのラミーチョコレートが子供のころから大好きで、それはこの歳になっても少しも変わっていないのには自分でも驚きます。

これはバッカスと並ぶロッテの長寿商品で、もちろんどこでも売っているのでご存じの方も多いと思いますが、チョコレートの中にラム酒につけ込んだレーズンが入っているアルコール入りチョコレートです。

これを生意気にも子供のころから食べているのですが、こんなものを食べ続けても、マロニエ君はついに酒好きにはならなかったのが不思議といえば不思議かもしれません。要するに酒好きになる前兆としてではなく、あくまでこのラミー単体が好きだったことが、成人して後もついに酒呑みにならなかったことで見事に証明されたようなものです。

このラミーはいわゆる季節限定商品で、毎年秋から翌年の春先まで販売されます。
つまり3月をもって、今期のラミー販売は終わりを告げたようで、店頭でも潮が引いたようにこれを見ることがなくなり、実になんともがっかりする季節です。これから約半年、ラミーなしの生活を送らなければいけないと思うと、たかだか市販のチョコレートなのに、なんだかとてもつまらなくて、心の中にポロンと空白が出来るような気にさせられます。

逆に、秋口になってラミーの濃いピンクのパッケージが店頭に出てくるのを見ると、いまだに思わず心が高ぶってしまいます。これまでに食べた数を想像すると、どう考えても何百というのは間違いなく、下手をすると千の大台に届いているかもと思われます。
こんなに長年、一途に同じ商品を好んで食べるとは、我ながらまったく、ロッテから表彰でもされたい気分です。

ラミーが販売されている季節はスーパーなどへ行ってもチョコレート売り場を素通りできず、つい覗いて、あの刺激的なピンクの箱のラミーがあると、どうしても1〜2個は買ってしまいます。

そんなに好きなら大量に買い置きでもしておけば良さそうなものですが、ラミーは実はある程度の鮮度がものをいう商品で、時間が経つと中のラムレーズンがしぼんで固くなってくるので、ジューシーな状態を味わうべく、常に3〜4個をストックしながら順次買い続けるという、長年の経験から編み出したパターンになってしまうのです。

マロニエ君にとって、ラミーは一種の中毒的常習的な存在かもしれず、もしかするとあの色っぽい刺激的なピンクのパッケージも罪な色なのかもしれません。
わかっていてあの箱を見ると、いまだに意識がハッとそっちに行ってしまいます。

まるで腐れ縁の女性に、いまだに誘惑され続けて、いいなりになっているみたいですね。
でもここ当分、そのラミー嬢ともしばしのお別れです。
また秋に!
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それなりのもの

マロニエ君は夜にスーパーで買い物をしたりするのですが、たまに日中も外に出たときには、ついでがあれば買い物まですることがあります。

このところ、どうも流行っているらしいのが、住宅街みたいなところに突然できる八百屋でしょうか。
古い民家やマンションの一階などを急ごしらえで八百屋にしたような、あれです。

昔なら八百屋は市場や商店街のような決まった場所にあったものですが、最近ではなんの脈絡もないような場所に、突如として産地直送のような店ができることが珍しくないようです。

お店はいろいろだろうとは思いますが、目につくのはやはり低価格をウリにしているらしいのが多く、どうやら店主が産地から直接買い付けてくる場合などもあるようです。

何度かこの手の店で買ってみたことがありますが、スーパーの野菜のように徹底して商品化されていないぶん、形もイマイチだったりしますが、べつに自宅で食べるについてはこれといった支障もないので、はじめは珍しさもあり、機会があればときどき買っていました。
しかし、安くて新鮮な野菜というイメージはすぐに崩れました。
スーパーで売っている野菜がいいとは決して言いませんが、やはり断然きれいだし、値段もほとんど大差ないことが判明するのにそう時間はかかりませんでした。

上記の八百屋はたしかに値段も安めになってはいますが、決して激安というわけでもなく、スーパー基準のやや安めという程度に過ぎません。しかも値段は品質に準ずるのは当然なので、あまりきれいでもない野菜となれば本当に安いとばかりも言えず、要するにそれなりのもの、妥当な価格だということです。
いや、もしかしたら、品質に対しては逆に割高ということもあるでしょう。

これが畑から直接持ってきたような、本当に新鮮で美味しい野菜なら見た目はイマイチでもその限りではありませんが、この手の八百屋は決してそうではなく、ただ単にスーパーで売っている商品より下の二級品という感じしかしないのです。
それでもそこそこお客さんが来ているのは、やはりなんとなく安くてお買い得のような「イメージ」があるからだろうと思われます。スーパーできちんと商品管理されたものにある意味で飽き飽きしている現代人は、こうしたいわばなつかしい素朴で野趣に溢れた売り方につい乗せられているのかもしれませんし、現にマロニエ君も何度かそんな気になって買ってみたわけです。

しかし、わざわざそんな店で買うメリットがないことに気付いたので、またスーパーに戻ってみると、やはりこのほうがはるかに品質も安定していて、値段も決して高くはないので、いらいあの手の八百屋で買うことはパッタリとなくなりました。

いっぽう、スーパーではなくプロが仕入れをするような店もあるのですが、たまにそっちに行くと、並んでいる野菜は質が高くて、なんときれいなことか!と思います。
値段はこれまたスーパーよりほんのちょっと高いぐらいですが、決して法外なものではありません。

要するに、品質を考慮すれば、これが一番お買い得だというのが我が家の結論で、家人もできるだけここで買うようになりました。もちろん利便性の点でスーパーには適いませんから、スーパーで買うこともしばしばですが、できれば野菜などはきれいなものを食べたいものです。

考えてみれば、あちこちに登場した名も知れない八百屋は、実はしっかりと現代の流通経路に沿って分類された相応の商品を、巧みに売りさばいているだけのことに思えてきました。
これもわずかな絶対額の差に一喜一憂するお客の心理を見事に突いた商法だろうと思います。

本当に安いというのは決して絶対額だけではないという当たり前あのことが痛感させられます。
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九州新幹線

昨日は九州新幹線に初乗りしました。
目指すは薩摩川内市でしたが、そのことはまたあらためて報告します。

新装なった新しい博多駅にもこの日初めて踏み入れましたが、結論から先に言うと、マロニエ君はちっとも良い印象はありませんでした。
駅ビルがあれだけ大々的に建て変わったというのに、筑紫口のほうは旧態依然としているほか、一階のコンコースはじめ、周囲の商業施設などには昔の名残が散見され、昔のままの骨格を化粧直しですまされていて大いに落胆。
基本的なものはそのまま使っているようで、単にその上に被さっているビルだけを建て替えたということが、行ってみてようやく理解できました。まあ、それならそれで構いませんが、あの報道の取り上げ方、騒ぎ立て方は大げさすぎるのではと思います。

ざっとひとまわりしましたが、テレビなどではまるで天神のお客さんが新しい博多駅に吸い取られるようなことも言っていたけれど、とてもとても、そんな力のある商業エリアが出現したようには見えませんでした。

出発前にお土産を買おうと阪急百貨店の地下に行ったところ、ドーナツやケーキなど、たかだかおやつを買うぐらいのことで、凄まじい行列があちらこちらに何本もできているのには口あんぐりで、マロニエ君のもっとも嫌いな光景を思いがけなく目の当たりにしたことでした。
行列がほとんど地域文化と言ってもいい東京ならいざ知らず、ほとんどそういうものの無い、もしくは極めて少ないことが我が博多の誇れる点だと思っていましたが、この阪急百貨店のデパ地下に限っては、まるで別の街に紛れ込んだようでした。
ああいう行列に、背中を丸めて、しまりのない顔をして、人の背中の前にじっと立っている人達を見ると、人間の欲がむき出しになっているようで、なんだかどうしようもない気分になってしまいます。

新幹線は、これまで博多駅は上り方面の始発駅でしたから、南に向けて車輌が動き出すというのは初めての体験でした。
発車してしばらくは外の景色などをみていたのですが、少し経つと車内アナウンスがあり、早くも久留米への到着を告げられたのにはおどろきました。車で行くには高速を使っても前後あわせると1時間前後はかかるのに、なんという早さでしょう!
博多から薩摩川内(鹿児島のひとつ手前)までは240キロ強ほどあるようですが、1時間20分ほどで到着しました。

さて、マロニエ君は鉄っちゃんなどではありませんので、新幹線の車輌のことなどはまるきりわかりませんし、新幹線じたいも2年に1度乗るか乗らないかぐらいですが、印象としては、なんだか乗るたびに乗り心地は悪くなっていくような気がしました。
0系から次第に進化して、ここ10年ぐらいでいっても「のぞみ(だったかな?)」あたりの柔らかくて洗練されたすべらかな乗り心地が頂点だったようで、それがレールスターになると明らかに質の低下が感じられました。当時、世の中ではいろいろなものがコストダウンされはじめた時期でもあり、新幹線車輌といえどもその波が容赦なく襲ってきているんだなあという時勢をしみじみ感じたものです。

ところが、昨日乗ったさくらは、そのレールスターどころではありませんでした。
車でもそうですが、乗り味や足回りの優秀性、ボディの立て付けの確かさなどは、はじめの動き出しの数秒に圧縮してあらわれるものだと思っていますが、本当に高級な乗り物は、この動き出しが非常に濃密で厳かで、乗り手がまずはじめに感銘を受ける部分なのですが、これがまったくなく、ただ普通になめらかに義務的に動いていくようでした。

とにかくこれまでの新幹線にあった一種の上質な乗り味というのがほとんど感じられず、ただスピードの速い高性能電車という印象しか得られませんでした。とくに帰りは夜でしたが、夜の乗り物というのは音などに対して一段と敏感になるものですが、この音のうるさいこと、ひっきりなしの振動が収束しきれていない事にも閉口しました。
車内は高速になるとまるで飛行機のような、疲れる爆音に包まれます。飛行機に較べて新幹線の快適性のひとつに騒音の低さがあったと思っていましたが、これはもはや過去の話のようです。

これはまったくマロニエ君の想像ですが、ボディを軽く(そして安く)作るのに、強くて軽量な素材を多用して、その結果遮音効果のあったものがあれこれと省かれたんではというような気がします。
つまり、乗る人の快適性が犠牲にされて、すべては効率重視の設計になったというわけだろうと思います。
窓も従来の広い窓はなくなり、飛行機より大きい程度の窓が小刻みにならんでいますが、これも窓を小さくすることによって得られる、車体の強度確保のための結果ではないでしょうか。窓を小さくして、そのぶん骨組みに当てればそれだけ薄っぺらなボディでも強度は保てるというお馴染みの図式のような気が…。

楽器でも、乗り物でも、映画でも、人間関係でも、なんでもそうですが、良い意味での絶頂期というのはどうやら過ぎ去っていったようです。なんとなく振り返っても、20世紀までのほうが、あらゆることが上質で贅沢、つまり本物だったような気がします。
21世紀はガマンと節約と省略の時代のようです。
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写真の力

病院などで週刊誌をめくっていると、当然ながらどの誌も冒頭グラビアは東北の震災の、激烈な様子が掲載されていますが、見れば見るほどあらためて驚嘆に値する凄まじいものです。

これらの写真を見て感じることは、いくら何度も見たつもりのテレビ映像からではわからなかった、写真ならではの現実の様子がひしひしと迫ってくる点で、すごいとしか言いようがありません。

静止画というか、つまり写真は、見る側に時間的に余裕と自由があり、つぶさにほうぼうを点検することができますから、より生々しく現場の戦場のような様子が手に取るように克明にわかります。
津波の動きやあらゆるものが破壊されていく様子などは動画でこそわかるものですが、被災後の様子や、より接近した事実を伝えるには圧倒的に写真のほうがリアリティをもっていると痛感します。

動画は動画の価値があるものの、なにしろ動きが早く、あっという間に画面は変化していきますから、ひとつの場面を現場に立っているような感覚でじっと見つめることはできませんが、写真はピントも鮮明だし、見る人が任意に時間をかけてその写真と対峙するわけですから、そのぶん凄味も伝わるのですが、それによると、マロニエ君にとってはこの震災が自分が認識しているつもりの、さらに数段上の猛烈なものだったということが理解できたと思いました。

今ごろ何を!といわれるかもしれませんが、本当に凄いことが起こったのだということを再々度認識させられてしまった気分です。
テレビの報道映像からでてくることの無いものとしては、瓦礫に混ざって人の遺体などが確認できるものもあったりで、こうして夥しい数の人の命がいっぺんに奪い去られたというのは、以前も書きましたが、もはや核攻撃でも受けたのと同等の出来事だろうと思われます。

動画と写真にこれほどの差があるように、さらにその差以上のものがあるとすれば、おそらくは現場に立った人の目に映る現実の光景だろうなと思います。

現場での捜索活動などは自衛隊をはじめ外国の救援部隊などが、我々の想像以上に苛烈な働きをしているのだそうですが、なぜかそういう事実はあまり報道されませんし、そのような映像などはほとんど我々の目に止まることがないのはどういうことだろうかと思います。
報道というのはいまさらながら公平性がなく著しく偏りがあり、各局も談合したようにほとんど同じようなものばかりだということもよくわかりました。

一説には民主党政府が、自分達の無為無策を表面化させないためにも(事はさらに複雑でしょうが)、こういう現場で救出・捜索にあたっている多くの人達がいかに体を張って働いているかを映させない、あるいは報道させない、あるいはそういう現場にマスコミを入れたがらないという話を聞きますが、もしそうだとしたら、それは相当おかしな事ではないかと思います。

何でも「マズイ」といって隠すのは日本人のお家芸のようなものですが、それにしてもこの隠蔽はなんなのでしょう?
別に犠牲者の遺体を映せといっているわけではないのですから、ある程度事実は事実としてニュートラルに報道すべきであって、これを権力その他の故意によって偏ったものに操作するのは絶対にあってはならないことだと思いますが、現実にはそういう黒い力がある程度機能しているともいいますから、今の政府やマスコミの考えていることは呆れるだけです。

官邸の人達は、この期に及んで、まだ自分達の権力維持に努めているのですから、識者にいわせるとこのような未曾有の惨事が起こったのが民主党政権下であったことが、我が国の不幸をより深いものにしているというのだそうで、それは大いに同感です。
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広島にCFX

このホームページ宛に、広島市安芸区民文化センターホールからご連絡をいただき、ヤマハの最新鋭コンサートグランドCFX(昨年のショパンコンクールで優勝が演奏したものと同型)が3月より同ホールに導入されたそうです。

なんと気前の良いことに、一般の人でもホールを借りればこのピアノが使えるということで使用料を調べてみると、時間区分によりますが3時間単位で、2万円強〜4万円弱というところで、ピアノサークルなどに使うにはもってこいだと思いました。
さすがに広島まで行くことはできませんが、こういうホールを地元に持っている人達がうらやましい限りです。

この広島のホールの案内を見ているとCFIIISからの買い換えのようで、今後はこうしてヤマハのコンサートグランドを設置していたホールがピアノを買い換えるたびにCFXにアップしていくのかと思うと、これはなかなかすごいことになるような気がします。

ホールの運営母体の多くが公共機関なので、ヤマハの納入実績さえあれば今後は必然的にCFXになるということなんでしょうね。価格的にはずいぶんと値上がりしていますけれども、そこはまあ公共施設ともなればハンコひとつで済んでしまう世界なのか、あるいは予算をうるさく検討するガチガチの世界なのか、そこのところはマロニエ君にはさっぱりわかりませんが。

ただ、いずれにしてもスタインウェイのDとほぼ同レベルにまで高騰したCFXの販売価格ですから、今後はあらゆるホールが、スタインウェイに較べて「安いから」という理由でヤマハになることはなくなり、専らお役所などが大好きな納入実績以外では、ピアノの優劣でのみで決することになるわけでしょうから、そのへんも含めて今後どんな展開になっていくかが興味深いところでもあります。

地域のプライドをかけたようなお飾りホールならピアノも何台も納入されるわけで問題はないでしょうが、地域ごとの生涯学習センターとか区民ホール、町民ホールのレベルでは、もし価格で選ぶならカワイのEX(SK-EXとは別でCFXの約半額)のみという事になりますね。
ちなみにほとんど納入実績がないディアパソンのコンサートグランドはEXよりもう少し安かったのですが、すでにホームページ内からも姿を消しているようですから、やはりカワイだけということになるのでしょう。

地域ごとの公民館に毛の生えたぐらいのホールには大抵ヤマハのCF〜CFIIISがありますが、これが今後CFXになっていくのだとすると、なんだかちょっと異様な気がしなくもありません。

パッと見はヤマハがコンサートグランドを一機種に絞ったことで選択の余地が無くなり、CFXが必要であってもなくてもこれが納入されるようにも見えますが、同時に二機種あるカワイにも、あるいはほとんど同価格帯となったスタインウェイにもビジネスチャンスが広がったということなのかもしれませんね。

尤も、あまり立派なピアノが不釣り合いな場所に納められて、現実にはせいぜいピアノ教室の発表会やコーラスの伴奏ぐらいしか出番がないといった惨めな生涯を過ごすことを考えると、この手の施設に納入されるピアノには、なんとも偲びがたいものも感じてしまいます。

尤も、販売する側にしてみれば、一台でも多く売って利益を上げなければならない厳しいビジネスの現場にあって、そんなきれい事は言ってられないことかもしれませんが…。
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なだめる心理

最近、あることがちょっとわかりました。

軽薄なマロニエ君は、甚だくだらないことで立腹することが多いのですが、そんなとき、人にぶちまけて理解を求め、共感を得ようとすると、おざなりにまあまあとなだめられたり、相手があきらかに第三者ぶって保身の態度をとられたりすると、さらにまたそこにムカムカくることがあります。
まるで被害者であるこちらのほうが逆にお説教されるハメになったり、却って人の狡い面を見せられることになったりで、怒りはダブルに発展して何なんだこれは!とその不快感は次々に新しい枝を伸ばします。

とくにマロニエ君の嫌いな言葉は「まあ、いいじゃないですか!」「人の自由だから!」というようなフレーズで、そんなありきたりな言葉を聞きたくて言っているのではないと言いたくなります。寛大ぶって、やたら許容量の多い、懐の深い、人格者のような言動を取りたがる人って、今どきは意外に少なくありません。

それも本当に寛大で立派な人格者ならいいのですが、ちっともそんなことはない臆病な凡人くせに、そういうときだけ妙に取り澄まして、落ち着いた余裕ありげな態度を取りたがるのはなんなのかと思います。
ただ単に、自分が言及するのが恐いだけという臆病心も見て取れたりします。
それでなくても、最近はやたらめったら隙あらばいい顔をしようとする、いい人願望、人格者願望、誰からも好かれる願望の強い人が多く、なんでそこまでして自分だけいい顔してポイントを稼ぎたいのか。

ところが、ごく稀に相手のほうが何かの事で、怒り心頭に発している場合もないではありません。
最近も偶然そういう場面に接しましたが、あまり相手の怒りが激しいので、ついついこちらはなだめる側に廻っている自分にハッと気がつきました。
なんと、あれほど自分が怒っているときにそれをなだめられることを嫌っていたこの私が!!!

なるほど、これは人の心理なのかということが思わず諒解できました。

適当な雑談程度なら、話はぐんぐん盛り上がってくるものですが、片方があまりにも憤慨して一種の興奮状態にある場合に限っては、相方はそれに圧倒されて、なんとかこれを鎮めようという反射心理が働くようです。
決して相手方の味方をしている訳ではないのですが、なんとか客観的なコメントによって事を鳥瞰的に捉えようとしているのかもしれません。
その状況に対して一定の冷静な理解を示そうとすることが、怒っている人にとっては逆効果になるわけで、止むにやまれぬ怒りすら抑えろと強要されているような心地がするんですね。

まあ人が怒っているときは、そこで第三者として公平に振る舞おうなどとは努々思わないことが大事だとあらためて思いました。
相手が欲しいのは味方であり共感してくれる人なのですから、それを忘れちゃいけません。
ましてや「私はどちらの味方もしないけれど…」というあのフレーズだけは絶対に禁句だと思います。
これを言われて気持ちのいい人はたぶんいないはずではないでしょうか。

しかし、それを口にする人の、なんと自分は正しい態度だと信じてその言葉を口し、自分に酔いしれていることか!
こういうことをしたり顔で言う人は、なにか大事なものを履き違えている気がします。
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馴れの怖さ

昨日書いた「プレイエルによるショパン独奏曲全曲集」ですが、その第1集を何度も繰り返し聴いていると、見えてくるものもいろいろとあるようです。やはり基本的な印象は変わりませんが、それにしても100年前のプレイエルをここまで精緻な楽器に仕上げるということは並大抵の技術ではないと素直に脱帽です。
横山氏の演奏は、指さばきは本当に見事だけれども、だんだんそのコンピューター的な演奏にどうしようもなく違和感を覚えてきますし、ピアノ学習者がこういう演奏を理想のようにイメージしそうな気がして、もしそうだとしたらちょっとどうだろうかと思います。

曲目はロンド、ピアノソナタ第1番、12のエチュードOp.10ですが、ソナタの第3楽章の夢見るようなラルゲットをあまりにも無感覚に通過したり、Op.10-1でのアルペジョの鋭い折り返しのやり過ぎや、Op.10-10では左のバスにこれまで聴いたことのないような機械的なリズムがあったりと、なんというか…上手いんだろうけれども、それは音楽とは似て非なるものを聴かされているような気分に囚われてしまうのを自分で抑え込むことができなくなってきます。

プレイエルの音もあまりに見事に、少なくともこのピアノが作られた当時想定されなかったような高い次元でバランスされ、統御されているので、その両者を組み合わせることは、結局はせっかくのプレイエルが現代的なピアノのような感覚につい耳が埋没してしまうようです。
さらには、演奏も冒頭に述べたように、あくまでも現代の楽器とメトードで鍛えられた正確無比な今風のものなので、なんだか最終的にちぐはぐというか、どこかしっくりしないものを感じてしまうのでしょう。
こんな調整と弾き方なら、やっぱり現代のヤマハかスタインウェイで弾くのが一番だろうと思えてきたりするわけですが、この印象が的確であるかどうかはまだ自分でもよくわかりません。

そんな疑問が次々に去来してくる事態に達して、ついに久々にコルトーのショパンを聴いてみたのですが、やはりそこにはプレイエルの自然で伸びやかな歌声がありました。
この録音の中にあるものは、すべてが一貫性のある辻褄のあった世界で、コルトーのいささか過剰では?とでもいいたくなるような詩情の発露をプレイエルがどこまでも繊細に受け止め、それを当然のように表現していきます。
楽器と奏者の関係というのは、こうあらねばならないと痛感させられるのです。

でも!
それよりもなによりも驚いたのは、このところマロニエ君はショパンコンクールのライブCDを洪水のように聴いていたためとも思われますが、もともと大したものではないコルトーのテクニックが、まるで子供かシロウトように稚拙に聞こえてしまったことで、これにはさすがに愕然としてしまいました。
もちろん喩えようもなく美しい瞬間はあるものの、馴れとは恐ろしいものです。
あまりコルトーのイメージを壊したくないので、ちょっと今は止しておこうと思ったのが正直なところです。

で、再び横山氏のCDに戻ると、これはまた目から鼻に抜けるような指さばきで、これもちょっとやり過ぎとしか思えません。マロニエ君の欲しいものは、ピアノもピアニストもこの中間に位置するような塩梅の演奏とピアノなんですが、それがまた無い物ねだりなんですね。

原点に返れば、そもそも1910年のプレイエルで新録音が出たというだけでも、僥倖に等しいこのありがたい企画には、素直に深謝しなくてはいけないのはまぎれもない事実ですから、あまり際限のない欲を出してはいけませんね。
つくづくと人間の欲というのには終わりがないようです。
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プレイエルの新録音

「プレイエルによるショパン独奏曲全曲集」というプロジェクトがスタートし、これは横山幸雄氏が戦前のプレイエルを使って昨年の10月17日(ショパンの命日)から石橋メモリアルホールにおいて、コンサートと録音を同時にスタートさせたものです。

マロニエ君が近年、最も個人的に関心を寄せるピアノがこの年代のプレイエルで、昨年のショパンイヤーではプレイエル使用と銘打ったCDもいくつか発売されたものの、それらはいわゆる19世紀製造のフォルテピアノであり、実際にショパンが使って作曲したという時代の楽器を使うというところに歴史的な意味合いが多かったようです。

しかし、マロニエ君がもっとも心惹かれ、好ましく思っているのは20世紀の初頭から数十年製造された、交差弦をもつモダンピアノとしてのプレイエルであり、その甘美でありながら陰のある不思議な音色は、代表的なものではコルトーの残した録音集から、その音を聴くことができるものです。
ショパンにおけるコルトーの詩情あふれる妙技のせいももちろんありますが、そこに聴くプレイエルのなんとも切々と鳴り響く妙なる音色は、大げさにいうと柔らかさの中に不健康な美しさが籠もっていて、まさにショパンを弾くためだけに生まれてきたピアノと言いたくなるようなピアノです。

このピアノの音がもっと聴きたくて、一時はパリにまでCDを注文したこともありましたが、送られてきたのはやはりフォルテピアノのものでした。

というわけで「プレイエルによるショパン独奏曲全曲集」はいわば画期的な企画で、はやくもこのCDが店頭に並んでいましたので、3種ありましたが、これまでのマロニエ君なら一気に3枚まとめて購入するところですが、ここは理性的にまずは「1」を購入してみました。

期待に胸を膨らませて帰宅して、気もそぞろにプレイヤーにCDを差し入れたのは言うまでもありません。
果たして出てきた音は…それはたしかにプレイエルの音には違いありませんでしたが、コルトーのレコードに聴くような、気品と下品の境界線ギリギリをかすめながら、なまめかしさとか芳醇さのようなものが立ちのぼるさまはあまりありませんでした。

使われたプレイエルは写真だけでは判然としませんが、コンサートグランドではなく、おそらくは2m強のサイズのものだろうと思いますが、松尾楽器にも同年代のプレイエルを所有していることからか、松尾の人が調整をしているようです。
そのためかどうかはわかりませんが、ピアノが妙に整然としていて優等生的なのです。

シロウト考えですが、この時代のプレイエルにはまだまだスタインウェイのような完成度はなく、不完全なところもあったので、あまりムラのない高度な調整をしていては、却ってピアノがそれに応じきれないというか、このピアノの魅力の一端がスポイルされてしまうような気もしました。

表現が非常に難しいのですが、あまりにも見事な日本人流の完璧なヴォイシングや精妙を極める調律をやりすぎてしまうと、なんとなく息抜きのできない堅苦しい感じになるようです。
良い意味でのアバウトな調律などをされたほうが、このピアノは本来の味を発揮するように思うのですが、そんな危ない領域まで求めるのは、なにしろピアニストも録音スタッフも現代に生きる日本人ですから、到底体質的にも出来ることではないないでしょう。

そうそう、以前映像で見た、ショパンとは程遠いアンドラーシュ・シフが、ファブリーニ(イタリアの名調律師でポリーニなどの御用達)が調整したプレイエルを弾いているときにも同様の窮屈感みたいなものがあったことを覚えていますが、それに較べたら今回のほうがずいぶん優れているとは思います。

まあ、なんだかんだと文句は言ってみても、なんともありがたいCDを出してくれたものです。
これから順次発売され、12枚で完結するのだそうで、横山氏はこういう企画物を作り上げる際の、スタッフのひとり的な弾き手としては、指はめっぽう動くし、いいのかもしれません…。
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趣味の効用

土曜はピアノサークルの定例会でした。
今回は仕事もバタバタ続きで、そうでなくてもろくな準備などできないマロニエ君ですが、更に輪をかけて練習が出来なかったので、短い曲でお茶を濁しました。

年度末ということもあってか、いつもよりは若干少な目の参加者数ではありましたが、そのぶんよりアットホームな雰囲気になって、与えられた3時間をゆったりと楽しく過ごすことが出来ました。
時間の余裕があったので、何人かは同じ曲を再挑戦といったこともされていました。

おかしかったのは、リーダー殿が今レッスンでやっているということでバッハのインベンションの第1番を弾きはじめたのですが、なんともなつかしい曲だったので、マロニエ君も楽譜を借りて今でも弾けるかどうか挑戦してみたのですが、それに続いて大半の皆さんが久しぶりに(中には30年ぶり!という人も)この1曲を、代わる代わる弾きはじめたのには笑ってしまいました。

こうやって一同がひとつの曲を代わる代わるに弾いてみるというのは、なんだかまるで試験のようでもあり、こんなこともピアノ遊びのひとつの在り方だと思われて、とても楽しいひとときでした。

プログラムではクラシック部門では圧倒的にショパンが多かったものの、入会されたときからシューマンだけを一途に弾き続ける方もいらっしゃいます。やはり自分の好きな作曲家というのは相性がいいものだし、いったんひとりの作曲家にのめり込むと次々に他の作品まで弾いてみたくなるというのがよくわかります。
マロニエ君にもいろいろな作曲家とそんな時期があり、むろんシューマンにずいぶんと熱中した時期もありました(とはいえ、まともに人前で披露できるのようなものはありませんが)。

定例会終了後の懇親会がまたいやに盛り上がって、長時間に及ぶのがここ最近の特徴のようになってしまっていますが、春が近いからなのか、こころなしか皆さんウキウキした感じにも見えました。
今回は会場の都合で懇親会の場所はファミレスだったのですが、0時を回っても誰も席を立とうとはせず、家に帰り着いたのはとうとう1時半になってしまい、昨夜はさすがにブログを更新する気力もありませんでした。
なんだか長時間席を占領してお店にも申し訳ないような気もしましたが、途中でデザートの注文もしたし…まあなんとか堪忍していただきたいところです。

さらに今週末にはお花見会もあり、みなさんずいぶんと盛り上がっているようです。
近い将来には阿蘇にあるグランドピアノのあるペンションへ行こうかというようなお泊まり案まであり、来月の定例会のあとゴールデンウィークには練習会と、あれこれ計画が目白押しのようです。

現在は東北の震災のために日本中が喪に服したような空気に包まれていますし、それはもちろんマロニエ君も人並みにそういう気持ちは持っていますが、だからといって毎日暗い顔をしておとなしくするばかりでは何も始まらないし、それでも人間は生きていくのですから、元気を出して前に進むからには、多少の楽しみというのは許される範囲で必要だと思います。

まあ、しばしば呑み歩いては散財し、夜ごと体にアルコールを染み込ませている道楽に較べれば、所詮ピアノサークルのお遊びなんて可愛いものですし、それで好きなことに集中できて、同時にリフレッシュできるとくれば至って健全なものですね。
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ギーゼキング

NHKの衛星放送で、あまり良いとはいいかねるモーツァルトの演奏を聴いたので、無性にちゃんとしたものが聴いてみたくなり、久々にギーゼキングのソナタを鳴らしてみたのですが、やはりさすがでした。

ふつうモーツァルトというと、多くのピアニストが意識過剰ぎみの演奏になるか、取って付けたようなわざとらしい軽妙な表現をしたり、これだというものがなかなかないものです。中にはこれみよがしに余裕を顕示して、まるで大人が子供用の本でも読むかのような弾き方をし、それでいて音楽性には充分以上に留意しているぞというようなフリをしたり、必要以上に注意深く細部にこだわって深みがありげな演奏したりと、どうもまともなモーツァルトというものに接することが少ないような気がします。

テレビで観たのは、もう70代に突入した大ベテランでしたが、近年は指揮にその音楽活動の大半を割いているためにピアノの腕が落ちたのか、その理由はよくわかりませんが、かつては中堅のテクニシャンとしても有名で、久々に聴く彼のピアノでしたが、線が細く、恣意的で、流れが悪く、なんだかとてもつまらないものでした。

それで無性にモーツァルトらしいモーツァルトが聴きたくなったわけです。
思い切ってモーツァルトの御大であるギーゼキングでも聴いて口直しをしようという思惑だったのですが、口直しどころか、あまりの圧倒的な素晴らしさに、もうそのテレビのことなど忘れて聞き込んでしまい、すっかりギーゼキングの世界に浸ってしまいました。

気負いのない自然な語り口、あるがままのテンポ、あるがままの音楽、そしてたとえようもない滲み出してくるその風格。気負っているわけでも、細心の注意をしているわけでもない、むしろ恬淡としたその演奏には、ごく自然に芸術家としての息吹と気品が当たり前のようにあって、ただただ心地よく、しかも安心して深い芸術的な音楽にのみ身を委ねられるという、ほとんど器楽の演奏芸術としては究極の姿であろうという気がしました。

とりわけ感心するのは、モーツァルトの作品(主に全ソナタと小品)が生まれ持った息づかいを、ごく当然のようにギーゼキングが同意して呼吸し、それがそのまま演奏になっているところに、聴く側の心地よさ、明解さと説得力、そして魅力があるのだと思います。
これは現代のモーツァルト弾きのようになって半ば崇められている内田光子とはいかにも対照的で、彼女はモーツァルトの意に添うためには作品に滅私奉公して、自らの呼吸もほとんど犠牲にしているようなところがありますが、その点ギーゼキングは作品に対して恐れなく磊落に向き合っており、ピアニストというか音楽家としての潜在力のケタが違うのだなあと思わせられます。

ちなみにギーゼキングはモーツァルトの演奏ではペダルを使わなかったと言われており、録音場所も相応なホールやスタジオに出向くのをこの巨匠は面倒臭がって、自分の事務所のような部屋に機材を運び込ませて録音していたといいますからなんとも呆れてしまいます。
ギーゼキングはもう一つ、蝶の蒐集家としても世界的にその名を残すという一面を持っていて、こういう幅の広い、面白味のある悠然とした芸術家は今はいなくなったように思います。

ギーゼキングの好んだピアノはグロトリアン・シュタインヴェークで、これはアメリカに渡る前のスタインウェイとも血縁関係のあるピアノで、現在も細々と製造はされていますが、スタインウェイとどこか通じるところのある、それでいてまた違った魅力のあるピアノです。
ちなみにアメリカに渡ってスタインウェイとアメリカ風に改名する前のドイツ名は、まさしくこのシュタインヴェークだったのです。
現代のグロトリアンを使った演奏としては、イヨルク・デムスが横浜のとあるホールにあるグロトリアンを使って録音したCDがありますが、やはりギーゼキングの使ったピアノに通じる独特な華をもったピアノです。
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ミネラルウォーター

人の心理というものは如何ともしがたいもので、いくら理屈や建前ではわかっていても、我欲や不安感というものはそうたやすく理性で押さえ込むことはできないもののようです。

福島第一原発の事故いらい、放射能汚染の問題が連日かまびすしく報道されていますが、微量の数値が確認されたからといって、ほうれん草や牛乳などの生産者は、もともとこんな震災に遭った上に、さらに目も当てられないような打撃を加えられているようですね。

さらに今度は海水やダムの水にもわずかな放射能が確認されたということですが、人体に影響のない程度のごく少量のものである由。
したがって乳幼児のミルクなどにのみ、これを使用しないように通達があったと思いきや、予想通りと言うべきか、今度はスーパーなどからミネラルウォーターが一斉に姿を消す事態となっています。

政府がいくら乳幼児以外は大丈夫と言ってみたところで、こうなるとなかなかブレーキがかかるものではないのでしょう。

健全な社会において、情報の開示は確かに必要なことで、これが失われれば独裁国家と同じですから、何事によらず包み隠さず報道されるという基本は当然のことであるし、そのスタンスは正しいとは思いつつ、やはり、発表の仕方、報道のありかたにもどこかおかしなところがあるのではないかとも少し思っていまいます。

とくに日本人は汚染、伝染といった目に見えない事に対して示す反応というか、抱く不安感は際立って強い民族だと思いますが、あまりそんなことを言っていたら、被災地の人達のおかれている劣悪な現状(まことにお気の毒の極み)とか、消火に携わった東京消防庁のスーパーレスキューの勇士達の抱えているであろう不安などはどうなるのか…と思ってしまいます。

彼らの被った危険や、ましてやこの震災で落命した多くの人達のことを思ったら、そうそう些細なことで自分ばかりが安全を漁りまわるのも、いささか異常で見苦しい気がします。
ニュース映像の中には、不安だからという理由で、貴重なミネラルウォーターをドバドバ使ってお米を洗っている人などもいて、見ていてさすがにいい気持ちはしませんでした。

もうこうなると中がどんな水であっても、とりあえずペットボトルに入って店で売られている物ならそれで満足というか安心なんでしょうね。
問題の数値は次第に下がっているらしく、しかも基準は直接水を飲んだ場合を前提としたもののようですから、そんなに神経質になる必要はないと思うのですが、いったん煽られた不安とエゴが結びつくと、それこそ歯止めが効かない暴走状態になるのかもしれません。
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便利が不便

久々に直接会話なしにコンサートのチケットを買いましたが、やれやれでした。

5月に開催されるラ・フォル・ジュルネ鳥栖(なんで鳥栖なのか、いまだに謎ですが…)のチケットを購入しようとチラシに記載された購入方法を見ると、基本的にチケットぴあ、ローソンチケット、イープラス、JTBエンタメチケット、鳥栖市民文化会館の5種類が案内されており、自宅の近くにローソンがあるので、これが一番便利ではないかというごく単純な理由からローソンチケットで購入することにしました。

電話をするとすべて音声ガイダンスに従うもので、電話機の操作のみで予約していくものでした。
そもそもマロニエ君はこの音声ガイダンスによる操作というのが性格的にイライラして好きではありませんが、とりあえず仕方がないと諦めてこれに挑みました。

まあ、それにしても音声ガイダンスというのはなんであんなに時間を取るのものかと思います。
ひとつの操作に要する時間も、だらだらと長くかかって、そのたびに子機を耳から離しての操作、そしてまた耳に当てて次のガイダンスを聞くという、ヘンな動作の繰り返しです。

しかも相手は機械なので、こちらから問い返しが出来ないぶん、聞き損じのないようけっこう集中させられますし、各種のコードなどを入力するにも間違えないようにしないと、失敗すればまた振り出しからやり直しになることを考えると、さらにまた慎重にならざるを得ません。

ラ・フォル・ジュルネの場合は、たくさんのコンサートの中から自分の希望するコンサートを指定する操作まで含まれるので、ひとつのコンサートのチケットを予約するだけでもけっこう複雑で疲れました。
さらに、マロニエ君の場合、同日に二つのコンサートに行こうとしているので、結局それを二度繰り返すことになり、全部終了するころにはなんだかもう気分的にクタクタになりました。
10桁の予約番号を機械の音声で妙にひとつひとつゆっくり言われると、抑揚がなくて却って聞き取りづらく、書いて控えるのも妙に大変です。さらにその番号をダイヤルさせられて確認を取るようになっており、なんだか途中でアホらしくなってきます。

さらにチケットの購入期限まであまり時間が無く、明日に迫ったのでさっきローソンに行ってきたのですが、ロッピィとかいう端末の前でまた操作々々の連続です。
途中で操作がわからなくなってお店の人に聞いたら、意外にもお店の人は操作のことはなにも知らないようで、いろいろと考えた挙げ句に、端末機備え付けの電話で聞いてくれといいます。
しかたなく電話をしたら、これがまた混み合っていて繋がるまでにかなり待たされて、5分ぐらい待ったところでようやく話ができましたが、それで再度操作を開始して、やっとやり方がわかりました。

それをまた二回続けて、機械からペロンと出てきたレシートをレジに持っていって支払いをすると、ようやくチケットが発行されて、めでたく終了となりました。
しかし、ローソンの滞在時間だけでも結局のところ30分近くかかりました。

でも、考えてみると、昔の対面式のプレイガイドならものの10分ぐらいで済むことを、なにが悲しくてこんなにも機械相手にせっせと精力を使っているのかと思うと、なんだかとても愚かしい気になりました。
もともと便利なはずのものが、使ってみると却って煩雑で、時間がかかって、不必要に疲れてしまうばかりじゃないかと思います。

これでは要するに、チケットを売る側の仕事をお客さんがさせられているようなもので、だったら少しは料金も安いというのならまだ話はわかるのですが、これだけの手続き作業を延々とさせられた挙げ句に、一枚あたり310円!の発行手数料をとられるのですから、どうにも納得できかねます。
こんなことなら潔くチケットぴあの窓口にでも行けばよかったと思いました。

でも、今の若い人はこういうことはさして苦痛ではないのでしょうし、だから自分の声で活き活きとしゃべるより、メールのほうが好きだったりするのかとも思います…。
なんだかへんてこりんな時代ですね。
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詩的で宗教的な調べ

「詩的で宗教的な調べ」は全10曲からなるリストの作品で、リストがあまり好きではないマロニエ君にしては好ましく思っている作品群なのですが、これが全曲弾かれたCDというのはほとんど無くて、以前から気にかけてはいたのですがなかなかこれというものに出会いませんでした。

チッコリーニにはあるようですし、レスリー・ハワードの99枚の全集を買えばもちろん入っているでしょうけれども、全体としてみると超絶技巧練習曲やハンガリー狂詩曲などは全曲物がいろいろとありますが、作品としても内的な要素が込められていて、かなり優れていると思える「詩的で宗教的な調べ」にはなぜか該当するものが極端に少ないのです。
単発では、第3曲の「孤独の中の神の祝福」、第7曲の「葬送」、第9曲の「アンダンテ・ラクリモーソ」などは比較的弾かれることが多い曲ですが、それ以外の曲は通常はほとんど演奏もされず、あまり注目を浴びることもないのは大変不思議に感じるところです。

で、チッコリーニ盤でも買おうかなぁと思っている矢先に、パリとロシアで学んで、近年では東京のラ・フォル・ジュルネにもしばしば出演しているというブリジッド・エンゲラーの演奏による全曲盤が発売されたので、すかさずこれを買ってみました。
結果は…まあまあでした。
テクニック的にも音楽的にもいかにも中庸を行くという感じで、取り立てて感動もないけれど、さりとて大きな不満もないというものです。

ともかく以前からの願望であった「詩的で宗教的な調べ」全10曲を通して全部聴いてみるという目的は達成できたので、まずはよかったと思っています。でも、それ以上でも以下でもありませんでした。
どれもリストの有名曲に多いあのゲップの出そうな世界ではなく、非常に内面的な要素を重視した美しい曲集であることはあらためてわかりましたし、別人のように作風も変わってしまう晩年に較べると、まだ若い頃の作であるにもかかわらず、このような精神的な作品を書いているということは、リストは時代の寵児としてとびきり華やかに活躍しているころから、同時にこのような内的世界を有していたという証のようで、非常に興味深いものでもありました。

作品が気に入ったので、やはりチッコリーニ盤も買ってみようかなと思っているところです。

このCDが珍しいのは、スタインウェイのB211という、録音に使う楽器としてはいささか小さなピアノを使っている点です。
ヤマハでいうならC6クラスのサイズですが、それでもほとんどコンサートグランドに近い、輝かしい音に溢れている点は、やはりさすがだと感心させられました。

もちろんサイズが小ぶりなぶん、響きのスケールもいくらか小ぶりで、全体に厚みと深みは割り引かれますが、これはこれでじゅうぶんという印象です。
たぶん録音会場にこれしかなかったというようなことは考えにくい(ヨーロッパではピアノは運び込むことが通例)ので、やはり演奏者の選択だったのでは?とも思われます。

というのも、これぐらいのピアノのほうが、響きも小さくて取り回しが良く、難曲を弾くときにわずかでも軽さがあって弾きやすいということはきっとあるとだろうと推察されました。
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テレビCM

このところのテレビコマーシャルが気に障っている人って多いみたいですね。

マロニエ君は普段、ニュース以外はあまりテレビを観ないので、昨年鳴り物入りで買い換えた液晶テレビも実はほとんどスイッチが入ることはないのですが、そんな程度のマロニエ君をもってしてもやはり気になります。

大震災発生に伴う各企業のテレビコマーシャル自粛の結果だとは聞きましたが、朝から晩までACによる同じコマーシャルのこれでもかとばかりの垂れ流し状態には、もういいかげん辟易してしまいます。

「心は見えないけれど、心遣いは見える」というのにはじまって、手をつないで「自分が伝えられることがある…」というのや、子宮頸ガンの検診、本を読めば知層になるなどの数種類のものが際限もなく続けられている毎日。
どれも見ていて気分が明るくなるようなものではなく、日本が未曾有の災害に見舞われた上に、なぜテレビコマーシャルからまで、こんな不快感をまき散らされなくてはいけないのかと首を傾げるばかりです。
あんな状態を作り出すことが、各スポンサーが示す被災者への気遣いだとしたら、あまりにもその判断は安直すぎすのではないかと思いますが。スポンサー側、テレビ局側、どちらの責任かはしりませんが、しかも民放は各局が横並びで、うんざりします。

スポンサーが通常のコマーシャルを自粛するというのなら、その間きれいな音楽と景色でも映したほうがまだマシだと思います。
昔のオウム事件の時に言われたことですが、人間は連日連夜、来る日も来る日もおなじことを見せられたり聞かされたりすると、しだいに潜在意識の中になにかが刷り込まれて行き、それは非常に危険であるという事を聞いたことがあり、この事件を境にしてアニメを含むすべての映像から人の神経や潜在意識に害を及ぼす危険のあるものが排除されるようになり、サブリミナルなどはその典型でした。

にもかかわらず、地震発生からすでに10日以上経過したというのに、ACのコマーシャルの洪水はほとんどおさまる気配が無く、見るたびにうんざりして、イライラして、なにか狭いところに追い込まれるようなストレスを感じてしまいます。

とはいうものの、平常のコマーシャルにも最近はへんなものが多く、ここ10年ぐらいでしょうか、様々な外資系の入院保険等のコマーシャルがお茶の間に溢れかえるようになり、これも一種のマインドコントロールにあたるのではないかと思ったことがあります。

この一連の保険会社のコマーシャルの登場あたりからコマーシャルの手法そのものにも変化があらわれはじめて、それまでの商品あるいは企業イメージなどを重視した、いかにも斬新なプロのアーティストの仕事である鮮やかで美しい作品といえるようなものが激減し、懇々と視聴者に直に日常会話のようにして語りかけてくるようなスタイルが増えました。
あるいは体験者がその素晴らしさを体験談のようにして話すスタイル、はじめは不安だったが思い切って電話してみたらよかったとか、高齢者にあたかも近所の人が親切ごかしに直接話しかけるようなもの、息子が母親に電話するなど、まるで身内同士の会話のようにして視聴者を引き込もうとする策が多く、なんだか見ていて背中の当たりが痒くなってくるようなものがあまりにも増えたような気がします。

今はいろんなことが昔とは比較にならないほど厳しく規制され、なにかとうるさい時代になりましたが、そのわりには人の心はちっとも晴れやかではなく、むしろ逆の状態に追い込まれているような気がするのですが、こういう目には見えない本当の深刻な問題をこそ、頭のいい人は解決して欲しいものです。
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リアシート

今日の夕方、ある立体駐車場で待ち合わせをしていて、車の中で待っているときのこと。

左隣の車の人が戻ってきて、見れば50代ぐらいの夫婦のようなのですが、荷物があるようで、壁際でスペースが狭かったこともあってかご主人のほうが奥さんを待たせたまま、車を駐車スペースから通路へと動かしました。
おそらく積み込みがしやすいようにとの判断からだと思われます。

荷物の積み込みが終わったかと思うと、奥さんは後ろの席へひとり乗ってしまいました。
ところがご主人は車に乗らずに後部座席の奥さんとドアを開けたまましきりに問答しています。

こちらはエンジンをかけていなかったので、目の前のことではあり、両者の声が聞こえてきます。
要するに、ご主人のほうが奥さんがぽんと後ろに乗ったことが気に入らないらしく、自分は運転手じゃないぞ!と言っているのです。それに対して奥さんはシートベルトをしたくないから後ろがいいと言っています。

ご主人は、「このまま帰るつもりか?」と言っており、見ると山口ナンバーでしたが、こういう状況は今どきでは意見の分かれるところだろうと思います。物事をあまり気にかけない人なら、狭い車内のどこに乗ろうがいいじゃない…と、寛大なようなことを言う人もいそうな気はします。
場合によっては、たかだかそんなくだらないことにぐちゃぐちゃと文句を言うご主人のほうが了見が狭いと言われかねないことでしょう。

マロニエ君はしかし、このご主人が言うことが尤もだと思いました。
せっかく二人できているのに、前後バラバラに乗っては虚しい気がするのも頷けますし、第一たとえ夫婦でもこれはマナーに反すると思います。ましてやそれで山口まで帰ろうとは、奥さんもいささか横着が過ぎはしないかと感じます。

これは最近は意外に認識していない人も多いのですが、営業車ではない普通の車の場合、フロントシートに運転者ひとりをおいて後部座席に座るのは基本的に横着な態度ですし、仮にそういう意識はなくても無礼だと見なされても文句は言えません。
もちろん病人やお年寄りやチャイルドシートはその限りではありませんが。

たとえば人の車に厚意で乗せてもらうのに、いきなり後ろのドアに手をかける人がいますが、あれはちょっとどうかと思います。もちろんすでに助手席に人がいるのであれば話は別ですが。

場合によっては大変な勘違いをしていて、前に乗るのを遠慮して後ろへ乗るという意識の人がいるかもしれませんが、だとすると甚だしい見当違いで、助手席を空けて後ろに乗るなど、このご主人の言う通り、人を運転手扱いしていることになり、失礼な行為だと思います。
車の場合、決して後ろが末席ではないということをまずは認識すべきです。

ごくたまに複数の人を乗せて順番に送ったりするときなど、たまたま助手席の人が先に降りたら、後部座席の人は気を利かせて前に来るのが乗せてもらう者のマナーというか心得ですが、ケロリとしてそのまま動こうともしない人が結構いるのには驚きます。

今はマンションなど洋風の居住形態が増えましたが、日本人なら、座敷に通された場合、いきなり床の間を背にした上座に座るなどということはしませんが、車もこれと同じ事です。
助手席の空いている車の後部座席は、自動的に上座となることを認識してほしいものです。

上記の場合は他人ではなく、ベテランの夫婦だと思いますが、ご主人が承知してのことならむろん構いませんが、不快感を持たれるようなら、やはり奥さんは助手席に座るのが夫婦であっても礼儀だと思いました。

結果的には奥さんが助手席に乗り換えて車はようよう動き出し、こちらまでホッとしました。
それでなくても山口まで運転するのは大変で、ましてや今日のような雨天なのですから、ちょっとは労りとお付き合いの気持ちも欲しいところです。
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ショパンコンクールのピアノ

地震関連のコメントは一区切りつけることにします。

以前ブログで書いた通り、マロニエ君の知人に、昨年のショパンコンクールに行って一次から決勝まで聴いたというサムライがいるのですが、その方から会場で連日配られるというコンクールのライブCDをお借りし、いらい毎夜自室はさながらコンクール会場となって連日のショパン漬けとなりました。

ライブとは言っても、連日繰り返される8時間ほどの演奏の中から約1時間にまとめられたCDで、これがソロだけで17枚あります。
演奏はいうまでもなくいろいろですが、どの演奏もいわゆる「本気モード」では共通しており、このコンクールに出場するほどの腕を持った人が渾身の演奏をすれば、大半が聴くに値するものになるということも概ねわかりました。
アヴデーエワなども、日本でのしらけたような演奏には大きな失望を覚えましたが、コンクールでは別人のように丁寧で熱っぽい演奏をしていたのは驚きです。

ご承知の通り、このコンクールではスタインウェイ、ヤマハ、カワイに加えて今回からファツィオリが参加し、4社のピアノが公式ピアノとして使用されましたが、これらのCDから得た印象をざっと書いてみます。

カワイ SK-EX
従来のシゲルカワイには見られなかったような、ショパン的なやわらかで甘やかな音造りが施され、かなりそれは達成されていますが、その奥にはカワイ独特の実直さが潜んでいるのもわかります。
このピアノが生まれ持つ本質は現代性とか華やかさではないかもしれませんが、極めて良質な、信頼に足るピアノだという印象です。別の言い方をすると良い意味での旧き佳き時代のピアノのような趣がなくもありません。
本来ならもうこれでも充分素晴らしく、あの河合小市氏などがこのピアノを見たなら、その素晴らしさには驚嘆することでしょうが、それでも強いて言うなら、現代のコンサートピアノとしてはやや画竜点睛を欠く部分がないでもなく、願わくはあと一歩の音の輪郭と明晰、ゆるぎない個性があれば申し分ないと思います。

ヤマハ CFX
従来型に対して最も著しく躍進したのはヤマハで、その成長は大変なものだと思いました。
これまでの進歩の速度からすれば、まるで一気に二つ三つ山を飛び越したようで、とりわけ中音から次高音にかけての太くて明解な音は4台中随一だったように思います。しかし、相対的に低音域が弱く、大地に足を踏ん張るような構成力には欠ける気がします。
ショパンやフランス物にはもってこいかもしれませんが、中期以降のベートーヴェン、あるいはラフマニノフなど、壮大でシンフォニックな要素を必要とする作品ではどうだろうと思います。
基本的にはアクロスで聴いたときと同じ印象で、音色は上品で、よけいな色が付いておらず、軽さやムラのなさを重視するフランス人がヤマハを好むのがわかります。
もしもエラールが現代のモダンピアノを作るなら、こんなピアノが理想かもしれません。

スタインウェイ D274
聴き慣れた音色、響き、低音の迫力と華やかな高音部など、すべてがバランスよく融合しており、いかにもムダのない音響配分、ぶれない哲学と落ち着きを感じます。
やや下半身の弱いヤマハにくらべると、足腰(低音域)もしっかりした筋肉質で、音域ごとに個性のあるダイナミックレンジが十全に広がっていて演奏表現を巧みに支えています。
舞台映えのする輝かしい音の美しさもさることながら、最終的な音楽としてのまとまりの良さもさすがでした。
しかし、全体的に新しい世代のスタインウェイはややダシの味が薄くなったという印象は、やはりここでも確認できました。

ファツィオリ F278
これまで聴いたどこか詰まったようなファツィオリではなく、突き抜けたような感じの極彩色に鳴り響くラファエロの絵画のようなピアノ。
一音一音はとても艶があり華やかですが、収束性に乏しいのか、やや表面的。
美術的観点では申し分ないものの文学的要素・内的表現といった部分はいささか苦手という気がします。
非常に濃厚で美しい瞬間がある反面、ピアノが前に出過ぎて、ややうるさく感じることもあり、しっとりと深く聴かせるピアノではないように感じましたが、あまりにポピュラーになりすぎたスタインウェイに抵抗を感じて、こういうピアノを好む人もいるでしょう。
ゴージャスな音色、色彩の絢爛さはありますが、ヤマハのほうが端正で気品があり、感覚的にもより先を行く感じです。
イタリアと日本の文化的背景の違いを感じます。

とはいえこの4台はどれも本当に素晴らしく、いずれも現時点での究極のピアノであることは間違いないようです。
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買いだめ心理

我々日本人は危機的状況に対して強いのか弱いのか、考えれば考えるほどわからなくなります。

これはむろん被災地での極限的な事態に追い込まれた方々のことではなく、それ以外のとりあえず普通に生活ができている日本人という意味ですが。

関東地方では、危機感の先取りなのか、スーパーの食料品なども買い込む人が非常に多いのだそうで、店によってはすでにいろいろなモノが極端に品薄になっていているとのことですが、いささか過剰反応のように思ってしまいます。
主にお米やカップ麺、携帯用コンロなどを続々と買い込む人が際限なく増えているとかで、中にはレジの通過に1時間かかる店もあるとか!?

ニュースでも識者が言っていますが、今はすべてを厳しい状況に置かれている被災者の方々のことを優先すべき時であって、不必要に危機感を募らせてあれこれ買い込むのは慎むべきだということです。
こういうことが広がると、市場から商品がなくなり、本当に必要な場所に必要な物が必要量確保できず、要らぬ混乱を招くというもので、まったくその通りだと思います。
とはいっても、いくらニュースでそんな警告をしたところで、スーパーやコンビニからモノが無くなっているという報道を繰り返し全国に流して「要らぬ混乱を招く」ように煽っているのも、これまたマスコミではないかという気もするのです。

もともと人の心理というのは弱くて影響を受けやすいものなので、他人がどんどんモノを買い込んで万一に備えている姿を見せられたら、自分も不安に駆られて似たような行動を取ってしまうのは致し方ないことだとも思います。
とりわけこの「不安」にまつわる感染拡大は凄まじいものがあるようです。

ガソリンなども関東地方では制限付きの給油しかできないとかで、たしかに「一台2000円まで」などという販売をせざるを得なくなったスタンドもあるようです。しかし、それは計画停電なども関係していることのようでもあるし、現在は地震の影響で入荷が途絶えているという一時的な事情もあるようで、業者側は一時的なものと言っているようですが、なかなかおさまらないようです。

あまりこういう情報に踊らされるのはどうかという意見もあり、たしかに理屈ではそうだとマロニエ君も思いますが、現実にそういうニュースを繰り返し見せられたら、今のうちに自分のぶん我が家のぶんを確保しておかなくてはいけないような気に陥ってしまうのも、これまた人情というものでしょう。

これが関東地方だけかと思っていたら、昨日の夜、ちょっと要るものがあってホームセンターに行ったら、なんとお米は残り少なく、ティッシュやトイレットペーパー、おむつなどは姿を消し、携帯用コンロのガズボンベなどもひとつもありませんでしたからびっくりです!
この買いだめの波ははやくも全国的に広がっているようでした。

昔の米不足、さらに前には世の中からトイレットペーパーが消えるということがありましたが、あんな状況がもしもまたくるとしたら、マロニエ君なんてとてもその競争に打ち勝つだけの自信はありませんから、考えただけでうんざりしていまいます。
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菅さんの本領?

津波による福島原発事故がこれほど深刻で、長期に渡って解決の見込みも立たないとは思っても見ませんでした。
事は既に、付近の住民の方だけの問題ではなく、より広い地域の環境汚染すら危惧される状況のようです。
日本ほど優秀な専門家が揃っていて、世界中が経過を注視している中で、これほどまでにめざましい効果が上げられないのが不思議で仕方がありません

一部の報道では、技術力というよりは、もっぱら東電の組織や体質の問題だと指摘する声もあるようです。
たしかに計画停電の実施方法などでも、ちょっとおかしいのでは?と感じることがいろいろありましたし、マロニエ君などは、いきなり停電といったような強制的な方法を採るのではなく、まずは該当地域への節電を強く呼びかけて様子を見るという段階があってもよかったような気がします。

現に、計画停電や節電の話が菅さんの口から発表されただけでもかなりの節電ができたといいますから、足りない電力は平常時の1/4なんだそうですから、不可能ではない気がしますし、それでも尚足りない場合に停電という手段に出るという段階を経ても良かったのではと思います。

菅さんといえば、東電のやっていることがあまりにも不甲斐ないので、一昨日のなんと朝6時半に総理自ら東電に赴いて叱責したらしく、こういう文句を言う状況となると菅さんもエネルギーが出てくるのは、昔を少し思い出すと思い当たるふしがありますね。
市民運動出身で、根っからの攻撃型の人間なんでしょうか。

その際も、現場にいるべき人間が東京本社に多くいたり、現場からもクビを覚悟で逃げ出した人もいたんだそうです。原子力といった、現在人々を最も危険にさらす危険性のあるものを取り扱っている大企業なら、もう少し緊張と使命感を不屈の精神を養っておいて欲しいものです。

昨日の深夜には、今度は静岡地方で震度6強の地震がおこり、これは先の東北地方のものとはまったく無関係なんだそうで、さらに今日は茨城地方でも大きな地震が発生し、はたして日本列島はどうなってしまうのかと思います。

しかし、同時にこれを機会に沈殿しきった世の中が多少の刺激を受けて、景気が回復するという見方もあるのだとか。
とくに海外の論調は、日本は戦後復興がそうであったように、危機に直面することで本領を発揮し、勤勉で真面目で忍耐力のある優秀な日本人の底力が、こういう機会に出て来るという見方をしているところもあるようです。

もちろんその前に被災地で苦しむ皆さんの救援をもっと迅速かつ徹底してやってほしいというのが今の日本全国民の総意だと思いますが。
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ブルーインパルス

ついに昨日から関東地方で計画停電とやらが開始されたようですが、どうもそれにまつわる東京電力の対応が芳しくなく、不評を買っているようです。

現代のようにありとあらゆることが電力を前提として社会全体が成り立っていると、その影響もはかりしれないものがあるようで、もう少し時間やエリアを明確にすべきというのが大勢の意見のようです。
あのような災害があって電力が不足するとなれば多少の不便や協力はやむなきこととしても、停電するというのは生活そのものを直撃することなので、前もっていろいろな準備や構えがあるはずです。

被災地では「官房長官が立派な事を言っているのは結構だが、我々はゆうべから何も食べていない、これが現実ですよ。」と言っていましたが、ごもっとも。
食料や物資はもっとたくさん迅速に届けられないものでしょうか。

人から聞いた話では、たまたま外部から被災地へ観光旅行に行って津波に巻き込まれた人もいれば、逆に被災地の人が別の場所にこれまたたまたま旅行中であったために難を逃れたというような、まさしく「運命」としか言いようのない生死をわける話がいくつもあるらしく、現実にはそういう事がおそらく山のようにあるのだろうと思われます。

津波警報を聞いて息子が父親に逃げるようどんなに言っても、頑として「だいじょうぶ」といってついに動くことをせず、結局、そのお父さんは津波にさらわれ、息子さんは助かったというようなケースもあるようで、まさに運としか言いようがないですね。

自衛隊の飛行機も生死を分けたようで、航空自衛隊の松島基地は、あの歌にもある松島ですから非常に海に近いところにあって、今回の津波では主力戦闘機のF2-18機をはじめとする、30機近い航空機が被害を受けたそうですが、なんとここをベースとするブルーインパルス(T4-6機)は、12日の九州新幹線の開業イベントのために福岡入りしていたらしく、大地震の数時間前には福岡市上空で事前飛行までおこなっていたそうで、博多駅周辺を編隊飛行する様子がYoutubeにも投稿されています。

彼らが登場する翌日のイベントはすべて中止になりましたが、留守中に仲間である人や飛行機、さらには基地そのものまでが大変なことになり、彼らはどこに帰って行ったのでしょう。

福岡にいたことでブルーインパルスの機体と操縦士は難を逃れたようですが、しかし、その家族は被災地に居住していることでしょうから、その安否が心配されるようです。

それにしても福島第一原発も一進一退を繰り返しながら、どうも好ましくない方向へと事が推移しているようで、専門的なことがわからないぶん、どうしてもっとスパッと対処できないのかと思います。
朝夕の新聞の見出しは原発関連の見出しばかりで、ついには「高濃度放射能もれ」というイヤな文字があらわれてしまいました。
…ここ当分は不安な日々が続きそうですね。
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4日目

震災4日目を迎えますが、福島原発の問題がいまだに解決をみないのはいやが上にも不安が募ります。
各被災地の惨状は変わらずで、とりわけ宮城県などで孤立して救助を求めている多くの人達が、ろくに食料や物資もない中でどうしておられるかと思います。

病院の屋上や学校の運動場にSOSの文字を描いて救出を訴えておられるようですが、シロウト考えにともかくヘリなどで少しずつでも救出できないものかと、もどかしく感じるばかりです。

今日あたりになるとより細かな情報も出てくるようになり、スタジオでは被災前後の町の映像や空中撮影の写真を比較したりして被害状況を説明していますが、以前はびっしりと隙間なく住宅が建っていた一帯が(あるいは町が)、まさになにもないタダの泥だらけな土地になっていて、津波がこれらを根こそぎ持ち去っているのが一目瞭然です。恐ろしいことです。

自宅の屋根に掴まったまま2日間、沖合15キロまで漂流したあげく自衛隊のイージス艦に救助された人がいましたが、決して若い方ではないのに本当によく頑張られました。いざというときの人間の力というのもすごいもんだ思います。でもこうして助かった人もあとに残る精神的ダメージは大変なものでしょう。

個別の話も聞けるようになり、そのぶん耐えがたいシーンも数が増えてきます。
瓦礫の山を放浪する初老の男性にリポーターが声をかけると、自分の家族の安否がまるきりわからず、救出者名簿にもその名はない由、たったひとり、なす術がなくあちこち彷徨っているというものでした。
また、別の老いた男性は津波が来るとき、障害者の奥さんを連れ出そうと家族と一緒に必死に運び出そうとしたものの重くてとても間に合わず、ついには手が離れてしまったということで茫然自失の状態でした。
まさにこの世の地獄です。

こんな話も。娘さんが結婚をし、役所に婚姻届を出したその3時間後に地震が発生、二人とも津波にさらわれていってしまい、わずか3時間の夫婦だったというような話も聞きました。地震発生が午後2時43分ですから、役所の昼休み前に婚姻届を出されたんでしょう。

このブログでは政府のことなどは書かないつもりでしたが、敢えてちょっとだけ書きますと、菅さんの総理不適格ぶりにはもうずいぶん前から失望させられつづけて、もはや何かを期待する気も起こらないところまできていました。
留まるところを知らない民主党のスキャンダルも、あまりの数の多さに「日替わりスキャンダル」などと揶揄されるほど連日つぎつぎに呆れるような問題が発覚し、ついには菅さんの外国人からの不正献金問題が出た、その当日の大地震発生でした。
予算委員会での審議中に地震が起こり、委員会はそれこで打ち止めとなって菅さんは官邸に戻り、スーツから例の青い防災服に着替えて一度ちらりと姿を現しただけで、総理大臣ともあろう人が、こんな大事に際してその後はほとんど顔も見せないという状況が続きました。

しかし世の中の空気も、もはや菅さんの指導力不足を責める暇もなく、あの方はアテにしないで、それぞれが皆自分のやるべき事をサッサとやるという感じに見えました。
ところが、13日の夜に行われた会見では、ついに少しは気合いが入ったのか、「この度は大変なことになり苦労も多いことと思うが、我々日本人は必ず復興を成し遂げることができると信じているし、とにかく苦しいけれど頑張ろうではないか」というような意味のことを率直に言いました。

国会審議はもとより、通常のコメントであろうが、外国首脳とのトップ会談であろうが、いついかなるときもひたすら役人の作った書類を見ながら常に下を向いて、しょぼしょぼと精気のない声で書いてあることを棒読みする姿しか見せなかった菅さんが、このとき初めて声にも多少の張りが出て、しかも一番の拠り所である書類を見ることもほとんどなく、国民の方を向いてまっすぐにしゃべった姿は、少なくともマロニエ君ははじめて見た菅さんの姿で、これには不覚にもささやかな感銘を受けました。

人の上に立つ者、とりわけ国のリーダーというのは、最低でもこうあらねばなりません。

そこまではよかったのですが、へんな節回しの女性議員は、やや化粧を薄めにし、イヤリングを外し、それでもいつもの浪花節語りのようなわざとらしい抑揚のついた話しぶりで、計画停電の事などを説明していましたが、刈り上げた髪とスリムな体型は、まるで宝塚の男役のよう。
入退場時の礼の仕方などは軍隊のごとくで、さしずめ現代の川島芳子のようでした。
せっかく菅さんが盛り上げた余韻を、いきなりこの人が掻き消してしまったのは大変残念でした。
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津波映像

地震の発生から3日目を迎えるころになると、とくに様々な津波の映像が出てくるようになり、どれひとつを取っても、その想像を絶する恐ろしさには日本中が呆然としていることでしょう。
(海外も大変注目しているそうで、連日、報道のトップの扱いの由)

私達はCGの発達などによって、過激なパニック映像というだけなら目にするようにはなりましたが、やはりどんなに精巧に出来ていてもCGは所詮作りものであって、その点、本物というのはどうしようもなく本物、まさしく現実で、だから受ける衝撃も並大抵のものではありません。

はじめのころは、報道されたいくつかの沿岸地域が主にこれらの被害に遭ったのだと思っていましたが、そうではなく、ようするに東北部の太平洋側に面した地域は例外なく同様の被害を受けているということであるらしく、その恐ろしい破壊規模たるや、これはもう、ちょっとした核攻撃でも受けたのと同様のむごたらしい被害だという気がします。

今日などは沿岸部の被災地を報道ヘリからの空撮によって津波被害の映像が流されましたが、「壊滅」という言葉はまさにこういうことのためにあるのか…と思うような惨状でした。
かろうじてその形をとどめているのは鉄筋の建築物などで、それらがわずかに点在するのみで、あとは瓦礫の散乱するだけの土地になってしまっていて、似たような光景をどこかで見たような記憶があると思ったら、広島長崎の原爆投下後の町の様子を空撮した写真でした。

はじめは、津波が来るという通報によってせっせと高台に登った人達の目の前で、普段自分達の住み慣れた町が悪魔のような激流によって弄ばれ、ついには自分の家の屋根が動き出して、それが容赦なく破壊されながら流れにさらわれていくときの、その心中を考えると、まさに気も狂わんばかりだろうと思われます。

これから長い長い、気の遠くなるような復旧作業がはじまるのでしょうが、もはやそういうことに耐えられない方も現実に多くおいでだと思います。人間にとって家族を失う、住む家を失うということ以上に耐えがたいことがあるでしょうか…。
ある意味においては自分の命を失うことよりも恐ろしく耐えがたいことかもしれません。

当初発表されていた東北地方太平洋沖地震のマグニチュード8.8は、今日になってM9.0へと変更されました。
我が国では観測史上最大で、これまで立てられていたあらゆる予測を大きく上回る規模のものだったということです。

そこで気がついたのは、今回の大地震での甚大な被害は津波によるものがなにしろ圧倒的で、これだけの未曾有のスケールの大地震だったにもかかわらず、地震そのものの揺れによって発生した被害というのは、地震の規模から考えればそれほどでもないような気がしました。
外国の大地震では建物のことごとくが揺れで押しつぶされたり倒壊したりというのがごく当たり前ですが、この点は数々の地震を経験し、それに備えて熱心に耐震構造などの手を打ってきた日本のやりかたが、かなりの成果を上げているようにも思います。

震源からはやや離れているとはいうものの、観測史上最大という規模の地震にしては東京横浜なども、もちろんそれなりの被害はあったでしょうが、神戸の時などに較べれば全体としてはほぼ無傷といってよく、これは良い方に驚くべき事のように思います。
都市部だけでなく、より震源に近い、津波被害に遭った地域でも、映像を見ている限りでは津波来襲の直前までは、町はほとんど目立った損壊は見あたらなかったように感じます。

尤も、結果的に家や町を失った人から見れば、地震そのものの揺れであれ、津波であれ、もはやどっちであろうと意味のないことですが。
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日本人

一夜明けても、昨日の大地震はやはり夢ではなかったという事実で一日がはじまりました。

東北地方の壊滅的な被害は、映像を見るだけでもなんとも言い難い驚きと重苦しい疲労を覚えます。
しだいに増大してくる犠牲者の数を知るにつけ、人間、一寸先は闇だというのも本当だとしみじみと思います。

始終この報道番組を見ているのも疲れますが、テレビを消せばなんとなく気になって、またスイッチを入れてしまったりというそんな一日で、さすがにピアノを弾くにも気が入りませんでした。

いまだに心配されるのは、一日経っても尚、福島第一原発の異常が解決されず、周辺の避難エリアが時間とともに拡大していく中、ついには被爆などという言葉まで出始めて、いやが上にも不気味な気持ちさせられます。
直ちに大事故ということでもないとは思いたいところですが、情報は錯綜し、東京電力の発表も要領を得ないとかで、とりわけ近隣のみなさんの不安はいかばかりかと思います。
この心配だけでもはやく払拭されてほしいものです。

それにしても、ひとつ感心したのは、やはり日本人の民族としての質の高さです。
もしこれが外国での災害であれば、国によってはこんな被災時につきものの悪辣な行為として、この機に乗じて商店などからの略奪行為などが次々に繰り返されるなど決して珍しくはないところですが、そんなことがついぞ見受けられないのはさすが日本だと思いました。

こんなただごとではない災厄時にそんなことを感心してみても始まりませんが、しかし現実にそうではないところはそうではないわけであって、やはり日本人の徳の高さを見たようです。
個人レベルではどんな国や地域にも立派な人とそうでない人がいるのは当然としても、全体としてごく自然にそういうことがない(まったくのゼロではないとしても)というのは、日本人の優秀な民族性や道徳心、伝統や教育レベルなど、あらゆるものの総合的な結果だと思います。

ごく最近も、今は亡きある高名なロシアの大指揮者の本を読んだのですが、1970年代前半に初めて日本公演に赴くことになったとき、「アジアの片隅の、文化果てる国に行く」ような気がしてちっとも気が進まなかったらしいのですが、果たして来日してみるとその認識は根底から覆り、とりわけ日本の文化と日本人の人間性に感嘆したマエストロは「我々のほうが文化果てる国から来たのだ!」と言ったそうです。

そういえば昔、「不思議の国ニッポン」という在日フランス人の目を通した著書がシリーズでありましたが、ここにも礼儀正しい、精神的に質の高い人格を有した日本人の姿が驚きをもって描かれていたものです。

今回の大地震でも、苦難に際して互いを助け合いながら共に時を過ごしたり、東京の帰宅困難者で溢れる街にも暴動やパニックが起こる様子もなく、みなさん一様に粛々と列をなし、整然と秩序を保っているのは、こんな悲劇に際して、再確認することのできた日本人としての誇らしい部分だと思いました。

奇しくも昨日は関係者一同が待ちに待った九州新幹線の開業日でしたが、すべての式典は取りやめとなり、事業運転だけが静かにスタートした由です。
こういうことにも、なんら表立って異存や障害も起こらず、申し合わせたようにスムーズに共同歩調がとれるのが我々日本人ですね。
最近はヘンだと思うことも多々ありますが、久々に感じた日本人の美しさでした。
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大地震

11日はとんでもない大地震の発生で、日本列島はこれ一色になりました。

マロニエ君は夕方までこれをまったく知りませんでしたが、夜テレビで観るとありとあらゆる恐ろしい映像の連続でわなわなと驚くばかりでした。

とりわけ岩手などの漁港に押し寄せる猛烈な津波の勢いは、まさに想像を絶するものでした。
はじまりは静かに見えたものの、次々にコンテナがおもちゃのように動き出し、水勢が町中に入るだけは入ったら、今度はこれが逆流をはじめ、それに伴って家、車、ありとあらゆる家財道具などが根こそぎ、猛烈な勢いで持って行かれる映像は、何度見ても総毛立ちました。
もしやあの中に人がいるのかと思うと、これはまさしく悪魔の仕業としか思えません。

ほかにも美しい田園地帯に一気に黒い怪物のような津波が際限もなく、情け容赦もなくぐいぐいと押し寄せ、その血も涙もない破壊の様のすさまじさは、まるで地獄の光景でも見ているようでした。

ほかにも千葉の製油所に起こった、まるでパニック映画のような大火災。

横浜の路上では、割れた地面が互いにユラユラと揺れる様など、いやはや、これはとてつもないことが起こったものです。東京では帰宅困難者という人々が夥しく溢れかえり、空撮映像では立錐の余地もない人の海の中にバスがぽつんと止まっていたりと、みんなどうするのだろうと思うばかり。
東京の友人に電話してみますが、もちろん一切繋がりません。

さすがのマロニエ君もこんな日はのんきにブログなど書く気にもなりませんし、やはり地震のことに言及することになりました。

あちこちに避難されている被災者の方々も大変だろうと思います。
とりわけ、福岡も6年前の福岡県西方沖地震の経験で、大地震の後のとめどもない余震にさらされ続けることのいかにつらいかを経験しただけに、心からご同情申し上げる次第です。
余震の辛さは経験した者でないとわかりませんが、マロニエ君などはいつ果てるともない余震による不快感と恐怖で一時体調まで崩してしまい、その回復にはかなりの時を要しました。
とくに忘れられないのは、揺れるときに必ず聞こえてくる不気味な唸り音です。

もちろん家や家族を失った人達の衝撃からすれば、余震なんてものの数ではないのでしょうけれど。

見れば、避難所は停電で真っ暗で、しかも東北地方はまだ雪が降るほどの寒さの中で暖房もなく、そんな状況下では、若い人でも相当の試練ですが、ましてや高齢者の方々などが、これからこの厳しい時間と戦っていかなければいけないのかと思うと、本当にお気の毒でなりません。

さらに恐ろしいことには、福島原発の原子炉のひとつに水漏れが発生しているとかで、放射能漏れに繋がる可能性も高まってきていると言っており、どうなることかと緊張は高まるばかりです。

こんなこと書いていても仕方がないので、今日のところはこのへんで終わりにします。
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ユーザー車検

以前からの約束で友人の車のユーザー車検に付き合いました(というか、やってあげました)。

マロニエ君はユーザー車検の経験はかなりあるほうなのですが、何度やってもドキドキさせられるものです。
それはつまり、書類さえ出せば済む事務的な世界ではなく、実際のラインに車を持ち込んで各種のテストを受けなければいけないことで、ひとつでも不合格になれば絶対に新しい車検証は交付されない、いわゆる「受験」だからだと思います。

とりわけ福岡の車検場の近くには「予備検査場」といわれる場所がないのが苦痛をいっそう駆り立てます。
予備検査場というのは本番の車検場で検査される各項目で、合格できるかどうか予め診てくれる民間の自動車整備工場のことで、多くの車検場の近くにはこの手の工場があるのが普通なのですが、なぜか昔から福岡の検査場付近にはこれがないために、どうしても「ぶっつけ本番」となるわけです。

ユーザー車検を受けるには、必ず予約をしておかなくてはならず、しかも予約には午前午後に分かれる4つの時間帯のうちのどれにするかも前もって決め、さらに予約に際しては受験者の名前から車のエンジン形式や車体番号まで細かく申請しておく必要があります。

事前に準備するものと、陸運支局で買い揃えるものの両方で10枚近い書類もまた、どれひとつして欠けることは許されません。まさしくここはガチガチのお役所なのです。
予約ができていて、すべての書類のすべての項目に一字たりとも遺漏なきよう完璧に記入して窓口に提出し、これが通過できてはじめて人車共々、車検場への入場となります。

検査ラインの該当レーンに並び順番を待ちますが、自分の番が近づくと制服の検査官が寄ってきて、再度書類のチェックがおこなわれ、これに問題なければ車輌の事前審査が開始されます。
すべてのランプ関係のチェック、ワイパーやウインドウウォッシャーの作動、ホーン、ホイールのボルトのしまり具合などから、窓ガラスの色の濃さまでチェックされ、最後にエンジン型式と車体番号の書類と実車の照合が厳格におこなわれます。
このエンジン型式と車体番号というのは車によって刻印された場所がまちまちで、しかも非常にわかりにくい場所にある場合も多いのですが、いかなることがあってもこれが疎かにされることはありません。
どんなにわからなくても時間を要しても、徹底的に探し出されての照合です。

これらに合格すると、いよいよ検査ラインに入ります。
ここで検査されるのはサイドスリップ、フットブレーキ、パーキングブレーキ、スピードメーター、光軸、下回り検査、排ガス検査となります。
サイドスリップとはきちんと真っ直ぐに走るかどうか、スピードメーターは正しく表示されているか、ヘッドライトは定められた方向をきちんと向いているかなどを検査、下回りはハンドルのガタやオイル漏れなどが係官によってチェックされます。
検査項目のうち、どれかひとつでも不合格が出れば、問題箇所を修正して合格できるまで再検査となります。

今回は光軸で不合格が出て、左の前照灯がやや上を向きすぎているという結果が出ました。
ここからが戦いで、建物の壁にライトを照らしてまさに勘で調整しますが、決められた時間内に結果が出せなければ後日の再検査となります。
結果的には時間内に3度目の検査で無事に合格することができましたが、その間の緊張はなかなかのものでかなり心身共に疲れるのは事実です。
もちろん不合格の内容によっては、当日では解決できない修理を要することもあるのは言うまでもありません。

今回、新しい規則となっていたのは、再検査のたび毎に、かならず検査官が車体番号のチェックをするようになったことで、これはおそらく別の車を使って項目別の合格を得ようとする、不正に対する防止策だと思われました。

つい最近、京大などの入試で携帯電話を使った不正が発覚しましたが、どんなところにも悪知恵を働かせる輩がいるために、鼬ごっこは尽きることはないようです。

しかし、すべてを通過して新しい車検証を手にする喜びは、これまた何度やってもバンザイしたいように嬉しいものです。
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エレベーターで

つい先日、天神であるビルのエレベーターでのこと。

マロニエ君を含めて4人ほどが乗っていましたが、そのうちの女性二人がしきりに話をしています。
一見してとても仲の良さそうな知り合いという感じでしたが、話の内容はまったく覚えていませんし、そもそも興味もありませんが、とにかくエレベーターの中で他人の存在をも憚らないほどの弾んだ会話でした。

年の頃は30代後半といった印象でしたが、まあそのへんのことはよくわかりません。
少なくともそんな感じに見えたということです。

あるタイミングで、片側の女性が相手に向かって「お住まいはどちらなんですか?」と気軽な感じで尋ねました。
(つまり住まいがどこまでかは知らないぐらいの関係なんだなとそのときわかりました。)
すると、なんと相手の女性は、なんといったらいいか、苦笑いとも冷笑ともつかない表情をするだけで、一向にその問いに答えようとしません。なにも言わないのです。
目の前のこの事態にこちらのほうが内心ギョッとしてしまい、咄嗟にこの人はそれには答えたくないらしいということがわかりました。

詳しい事情などはもちろんわかりませんが、少なくともあれだけ親しげにしゃべっておきながら、相手から住まいを聞かれて、それに答えないとはずいぶん失礼な人だな、というのがこのときの至って率直な印象でした。仮に答えたくないにしても、よくそれをその瞬間に通せるもんだと、その神経にびっくりです。

ところがそれだけではありませんでした。自分が答えないのみならず、逆に「○○さんはどちらですか?」と聞き返したのです。つまり逆襲に転じたのです。
なんと、自分の住まいがどこかは明かさないでおいて、なおかつ相手の事は聞いてやろうというわけです。
すると相手は「…西区のほうです」とだけ、たいそう消極的に答えました。
それに対して、この女性は「そうなんですね…」とだけ言って、やはり自分の住まいがどこかはとうとう言いませんでした。

まあ、それだけですが、このやりとりはいかにも今風の人間関係を表していると思いました。

いまどきの人って、とくにこのぐらいの世代の人というべきかもしれませんが、人との関わりが悲しいほどに表面的で、むやみやたらと自分のことは言いたがらなかったりします。
しかもそのガードの固さは正しいと思っているのか、心底に歪んだ快感があるのか、詳しい心理はわかりませんけれども、ちょっと病的だと思うときがあります。
マロニエ君の印象としては、「個人情報の保護」なんて言葉が飛び交うようになってから、いっそうこういった傾向に拍車がかかったように思います。

しかし、マロニエ君はまず、自分の住まいを明かさないような人とは、お付き合いはしかねると思っています。
親しくなって尚、住まいを教えたがらないような人ってろくな人はいないと思っていますし、こういう人は自分を守るつもりで、実は最も大事なものを守ることのできない人だし、他者のことも決して大事にできない人だと思うのです。

相手の女性の「…西区のほうです」というような答え方もしばしば耳にするフレーズです。

あくまでも大まかなことだけで、それ以上具体的なことは言わない、教えないという、自分の一方的な警戒感だにしか興味のないカサカサな人間です。
尤もこの女性は、相手が答えもしないのに自分だけがそれを言わされることへのささやかな抵抗として、こういう返事の仕方をしたというのは考えられますが。

こういう会話の中に現代人の利己的な暗い心の底を見るようで、ゾッとしてしまいます。
人に住まいを教えないのも、理由の武装はしているのでしょうが、なにかにつけこんな調子では、そりゃあ人間関係は希薄になるのは当然だと思います。
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ヴァイオリンの虚実

ヴァイオリンの謎に迫りだすとキリがありません。
過日もオールドヴァイオリンの虚実入り混ざる話を書きましたが、ヴァイオリンの真価というのも、マロニエ君などはまったくの門外漢だけにますます怪しげな闇の中にあるような気がしてしまいます。

例えば本を何冊か読むと、書いてあることがまるでバラバラなわけです。
今や億の世界に突入したストラディヴァリウスなどが、300年も前に作られた楽器であるにもかかわらず、なぜそれだけの価値があるかということです。

ヴァイオリン製作は、才能があって正しい修行を積んだ人なら一人で完成させることのできる、構造的には非常にシンプルな楽器ですから、シロウト考えではそれを凌ぐ楽器が出来ても不思議はないとも思うのですが…。

しかし数ある新作ヴァイオリンよりも優れたオールドヴァイオリンのほうが良いとされる理由は、実際に演奏されると美音なのはもちろん、表現力に優れてバランスが良く、遠鳴りするというのが主なもののようです。
あるいは、新しいヴァイオリンは機能的には優れていても、木が新しいところがオールドには敵わず、これが100年か150年経てば良くなるかもしれないという、甚だ気の遠くなるような意見もあります。

では、それだけの時が経てばストラディヴァリウス並の楽器に熟成される可能性があるのかという点では、絶対にないと言いきる人も中にはいますし、はたまた、いかに貴重なオールドヴァイオリンといえども、実際には楽器が衰えており、耳元では妙なる音色を紡いでも、コンサートヴァイオリンとしてはもう使い物にはならないのが実体だという人がいたりもします。
こんな調子ですから、どれが真実なのやら見当もつきません。

さらに驚くべきは、現在のクレモナ(イタリアのヴァイオリン製作の聖地。かつてのアマティ、ストラディヴァリ、グァルネリなども同地の職人)にも名人級の制作者が少なくとも数人いて、これらの職人の作り出すヴァイオリンはすでにオールドヴァイオリンと同等もしくはそれ以上の能力があり、実際にそれをコンサートで演奏したり、レコーディングにも使っているヴァイオリニストも少なくないというのです。

これらの人気職人ともなると、購入しようにも予約でいっぱいだそうで、発注しても出来上がるのは数年先というのが普通だそうです。
中には、なんと持っていたストラディヴァリウスを手放して、これらの新作ヴァイオリンに変更する演奏家もいるのだそうで、その理由はくたびれたオールドヴァイオリンよりも音量があり、弾きやすく、歴史的名器に決して引けをとらない美しい音色をもっているから、というのですから、もうなにが本当のことなのやら、いよいよわからなくなります。

値段のことははっきり書いてはありませんが、クレモナの新作ヴァイオリンの一級品でも300万円前後のようで、弓とセットで500万ほどというのが一応の相場のようだと見受けました。
オールドはすでに億の世界といいますから、その値段の差は途方もないもののようですが、普通はせいぜいそのへんがヴァイオリンの高級品として妥当な値段じゃないかという気がして、妙に安心するというか納得できたという気がしています。

貴重品につけられる価格は、ケタも違えば、その先に待ちかまえる虚実と闇も、同等に広がっていくような気がします。
こういう世界を垣間見ると、ピアノはたとえどんな名器名品といってみたところで、まだ大半は機能・性能が優先され、あとは、音というよりも手のかかったアートケースの価値などであり、しょせんは魔物の棲む世界ではないようです。
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無理は厳禁

整体院に通い始めてニ週目に入り、4回治療を受けました。
先生と話をしていると、ありがたいことに為になることをあれこれと教えてくださいます。

まずは当たり前のことですが、いまさらながら再認識させられたのは健康の基本のひとつは血流の良さであるという点でした。
血流が悪いとあらゆる病気の根本原因となり、なんにしても、まずこれをきちんと回復させ、良い状態を維持するような認識と努力と生活習慣が大事とのことでした。当然ですね。

とりわけ静脈はいわば血管の下水道なんだそうで、ここをきれいにしておかないことは、掃除をしていない部屋でだらしない生活をし、どろどろに汚れたキッチンで食事を作るようなものだそうです。
冷え性とか関節の痛み、ひいては精神的な領域まで、血流がよくなればかなりの部分が解決するそうですし、高血圧やコレステロール、果ては脳梗塞などもすべて血液の健康如何にかかっているのですから、まさにこれは健康の基本であり土台であるのは間違いないようです。

ここまでは誰でもある程度わかっていることですが、当たり前のようであまり意識することなく、認識を新たにさせられた点もいろいろありました。
例えば自分の身体に対しては、とても敏感でなくてはいけないということ。

人は個人差によって、体のちょっとした異変、あるいは無理と安全の境界線を感じやすい人と鈍い人がいるのだそうです。
鈍い人は、それだけなにかと体に負担をかけることが多いそうで、危険ラインを的確に見極めることができないために、本人はそんな気はないのに、結果的に体を痛めてしまうのだそうです。
スポーツの経験者は厳しいトレーニングと同時に、体調管理の必要性をたたきこまれるらしく、たとえばランニングなどをしていても、ちょっと膝の調子がおかしいなと思えば、そこでただちに走るのを止めるそうですが、そこで欲を出して無理をすると大きな故障に至ってしまうとか。

体が壊れるのはまさに一瞬のこと、しかし、それを取り戻すには長い時間がかかるのだそうです。
まあ、これは人の体に限ったことではなく、ありとあらゆる事に言えることで、物でもなんでも、壊れるのは一瞬ですが、復帰への道のりは長くて遠いものですね。

この先生が言われるには、人間の体は基本的に動かして機能を使うようにできているから、これをしないと体はいっぺんに鈍って不健康になるので、極力運動をして体を日常的に動かすことだそうです。
しかし、これには大いに但し書きがついていて、運動=スポーツのトレーニングのように考えて、無理をするのはとんでもない勘違いで、逆効果だということです。
決して無理をせず、それでいて自然な流れの中で結果として運動にも適っているというのが理想のようです。
むろん、その無理のラインも個人個人で違うのはいうまでもありません。

家人が別の医師からも聞いてきた事ですが、運動の必要性を痛感し、いい歳をした夫婦などが一念発起して夜な夜なわざとらしく大げさに手を振ってウォーキングしたり、中には小走りで夏冬関係なく無理な運動をすることに自虐的な満足を持っている人がいますが、ああいうのは百害あって一利なしだそうです。

それなりの年齢まで運動の習慣がない人が、あるときを境に心を入れ替えたつもりで人が変わったように運動に精を出したりするのは、シロウトのマロニエ君の目にもちょっと奇妙な光景に映っていましたが、やはりこういう形での運動はもっぱら体に負担をかけるだけでプラスの効果はあまりないようです。
しかし、ご当人は、すこぶるいいことをしているつもりなのだろうと思われます。

まあ、マロニエ君のような怠け者には、「無理をしてはいけない」というフレーズは、それだけでもなんとも心地よい響きなので、それでこの先生のお説がますます気に入ったのかもしれませんが
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シフのベートーヴェン

先日のNHK芸術劇場では、アンドラーシュ・シフの来日公演の様子が放映されましたが、これが実にたいへんなものでした。
曲目は近年のシフが取り組み、CDも全集として完結したベートーヴェンのソナタで、しかもなんと、最後の3つのソナタですから、曲目を新聞で見ただけでもゾクゾクさせられます。

シフによると、この3つのソナタは3つでひとつの世界を構成しているので、ひとまとまりに演奏してこそ意味があると言い、コンサートでは途中休憩もなしに3曲が続けて演奏され、Op.109、Op.110、Op.111の間では椅子を立つこともなく、あらかじめ会場に通達されていたのか聴衆の拍手もないという徹底ぶりでした。

マロニエ君もこの晩年のソナタは3つセットで聞くことのほうが多く、この3曲によるCDも多いし、ブレンデルやポリーニなど、多くのベートーヴェン弾きがこの3曲だけのコンサートなどもやっていて、プログラム自体は決して珍しいものではありませんが、しかし休憩も拍手もなく一気に全部続けて演奏するというのは、たしかにあまりなかったように思います。

ベートーヴェンの全ピアノソナタの中での最高傑作といえば、人によっては熱情やワルトシュタイン、あるいはその革新性や規模の点でハンマークラヴィールという意見もあるでしょうが、マロニエ君はなんといってもこの最後の3つのソナタだとかねてから思っています。圧倒的に。

「今夜テレビでこの最後の3つのソナタがある」と思うだけで、昼間からもうそわそわしてしまうほどこの3曲には格別な思い入れがあり、おそらくはピアノソナタとしては空前絶後のまさに金字塔だろうと思います。
娯楽であった音楽が芸術に高められ、しかも崇高なる精神領域へとそれが登りつめたのはこの3曲であり、ハンマークラヴィールはいわばその3つの頂きの前に建てられた大伽藍、Op.101はさらにその聖域に入る門という気がします。

何気ない感じで始まるOp.109の第一楽章、激しい第二楽章を経て、第三楽章でははやくもベートーヴェン得意の主題と変奏が孤高の芸術手法によって展開され尽くされます。続くOp.110でも始まりはごくシンプルですが、忽ちにして天上的なアルペジオの上下に発展。そして短く炸裂する第二楽章ののち、第三楽章では有名な嘆きの歌とフーガがそれぞれ形を変えて二度表れますが、これはまるでバッハの平均律・前奏曲とフーガの発展であるかのような印象です。
そして最後のOp.111ではもっともベートーヴェンらしい激しいハ短調で幕が開きます。運命や悲愴、コリオラン序曲、第3ピアノ協奏曲、合唱幻想曲などはいずれもハ短調ですから、いかにこれがベートーヴェンらしい調性かが窺えます。
そしてあの天を仰ぎ、この世の地平を見渡し、すべての許しと終焉をかたりつくすような最後の楽章となり、こちらもベートーヴェンの得意とする壮大なハ長調。この第二楽章のことなどをマロニエ君ごときがあれこれと書くだけでも、あの崇高な作品に対して不敬な気がしますのでもうこれ以上妙なことを書くのは止します。

シフの演奏は、ベートーヴェンに於いては必ずしもマロニエ君は肯定的なばかりではなく、異論反論も多々ありますが、しかし、なにしろこの桁違いの神憑り的な作品を誠実に聴かせてくれただけでも頭を下げたくなるのが正直なところです。
始めは3曲続けて演奏というのは疲れるだろうかという危惧もありましたが、始まってみるとあっという間の70分でした。

そして、まさかOp.111のあとにアンコールを弾くことはあるまいと思っていたら(なぜなら弾くべき曲がないからです)、その予想はあっさりと裏切られました。
バッハの平均律第2巻のハ長調の前奏曲とフーガが演奏されましたが、この選曲がOp.111のあとのアンコール曲として相応しいかどうかは別にして、その見事なことといったらありませんでした。すごいです。
ああ、東京にはこんなコンサートがあるところがうらやましいと思います。

会場は紀尾井ホールで、マロニエ君はここのスタインウェイが以前からお気に入りなのですが、この点もやはり相変わらずの素晴らしいピアノでした。
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野次馬根性

昨日の午後遅く、用があって天神に行ったのですが、いつものように車で自宅を出て1〜2分、1キロも走らないあたりで前方にどういうわけか人がたくさんいるのが目に入りました。

それは、ちょうど坂道を下った先にある交差点のあたりで、一目見て、いつもとはまったく違うその気配に何事だろうかと思い、車が近づくにつれて目を凝らしました。
ちょうどその交差点の信号が赤になり、上手い具合に停車することになりましたが、とにかく黒っぽい男性の姿が多く目につき、なんとテレビカメラのようなものを担いだ、見るからにマスコミ関係とおぼしき人達もその中にたくさんいて、皆一様にむかって右側を凝視しています。

それだけではなく、なにか非常に緊迫した雰囲気があたり一帯に漂っていて、なにかが起こっていることはもう明らかでした。さらによく見れば、交差点から右斜めに伸びる道の入口にはロープがかけてあって、もはやその道は立入禁止になっています。
警察官も大勢いますから、もはやこれはタダゴトではないことは一目瞭然でした。

ちょっとした事故や事件なら世の中のあちこちで散発しているでしょうけれども、これだけのカメラの数からしても、どうやら並の事件ではないと思いました。

道も俄に流れが悪くなり、幸いにもサッと現場を通り過ぎることはできなくなりましたから野次馬としてはチャンスです。
そうこうしているうちに先の信号が赤になり、事件現場らしき場所の近くで停車をせざるを得ない状況になりましたが、もうひとつの路地の入口にはテレビニュースなどでよく目にするブルーシートが道幅いっぱいに張られていて、その先の様子を窺い知ることはできなくなっています。

それにしても、あのブルーシートというのはそもそも中の様子を見せないために張るものでしょうが、なんとまあその生々しい青色の目立つことか!まるで「問題の核心はこの先ですよ」と教えてもらっているみたいで、あんなものを見たが最後、いやが上にも好奇心が膨れ上がるものです。

野次馬根性旺盛なマロニエ君は、もうそっちに目も心も釘付けです。
信号が青にならないことを祈りつつ窓を開けて見ていると、中年の女性が二人歩道をこちらに歩いてきましたが、制服は着ていないものの警察関係者とおぼしき男性に両手を広げられ、これより先へは行ってはいけない旨を告げられているようです。

そんなところで信号は青になり、この降って湧いたようなウォッチは終了となりましたが、気になる気持ちはとうてい収まるものではなく、天神に着いてすぐに友人に電話して事のあらましを言ったところ、インターネットのニュースを見てくれて何事かがようやくわかりました。
地元の電力会社とガス会社の社長宅に爆発物が仕掛けられて、そのための騒ぎだったようで、てっきり殺人事件かなにかと思いこんでいたマロニエ君としては、へぇ……という印象でした。

そういえば昨日の午後は、やたらヘリコプター(しかも複数の)が我が家の上空あたりを長時間ひっきりなしに飛び回っていたので、ずいぶんうるさいなぁと思っていたところでしたが、どうやらこの事件のせいのようでした。

帰りもむろん同じ道を意識的に通りましたが、依然としてブルーシートなどは張られたままでしたが、報道陣の姿は潮が引いたようになくなっていました。
なにやら、やたらわくわくさせられたマロニエ君でしたが、帰宅した頃には騒がしかったヘリコプターの音もすっかり消えていました。

テレビニュースよれば怪我人などはいなかった由で、ひとまずなによりです。
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ウチダの芸

内田光子といえば、今や数少ない第一級の世界的ピアニストの一人と位置付けられ、ましてや日本人ということになると、それはこのクラスでは唯一の存在でしょう。

彼女の優れた才能や演奏上の特質や魅力については、もう長いこと聴いてきてマロニエ君なりに充分わかっているつもりですし、とりわけまずモーツァルトで認められ、フィリップスから続々とCDがリリースされるたびに、その圧倒的な繊細かつ細心を尽くした表現の極みには、西洋音楽の中に息づいた日本の美を見たものです。

しかし、では双手をあげて賞賛するばかりとはいかないものもあるのであって、それがシューベルトのソナタに至って顔を出し、それに続くベートーヴェンなどではいよいよ顕著にもなってきたようにも思います。

しかし、マロニエ君がそう感じるのとは裏腹に、日本というのは不思議な国で、いったん高い評価が定着してしまった人には、ほとんど批判らしいものが聞かれなくなり、以降は何をしても大絶賛となる傾向があります。

彼女の最新盤はシューマンのダヴィッド同盟舞曲集と幻想曲のカップリングですが、とりあえず購入して聴いてみたのですが、ちょっとどうかなぁと思われる点も少なからずありました。

以前から内田光子に抱いている問題点は細部の処理などに、あまりにも神経質になるあまり、表現がいささか独りよがりになる傾向があったように思いますが、それは最新のシューマンを聴いても同様でした。
とくに間の取り方などはその最たるもので、音楽の流れが遮断され、いくらなんでもやり過ぎな感じのすることが少なくありません。

また、内田ならではのこだわりと格調高い演奏を意識しすぎてか、緊張感の割り振りが上手く行かず、極度の緊張がむやみに強すぎて、全体が息苦しくしくなりがちだと思います。
素晴らしいと思う反面、非常に疲れるし、聴いていて鬱陶しくなることも少なくありません。

簡単に言えば、ちょっと考えすぎで、音楽というものはもう少し、率直に楽しくあってもいいのではないかと思います。これを人によっては深みとも芸術性とも捉えるのかもしれませんが、マロニエ君としてはそれを否定はしないものの、どうしても全面的に肯定する気にはなれないというのが正直なところです。

芸術家としての思慮深さという点にかけては文句なしですが、演奏家としての呼吸と必然性にはいささかの疑問の余地があるようにも感じるわけです。
このことは実際のリサイタルに行っても感じることで、聴衆を音楽に乗せるのではなく、絶えず息を殺して、固唾を呑んで聴く姿勢を要求されるようなところがあり、そこが人によってはさすがという感動を呼ぶのかもしれませんが、見事だけれども、なにかが違うのではないかと疑問を投げかけられるような気がするのも事実です。

しかしながら、ともかくもここまで、文字通り寝食を忘れるほどに自分を追い込んで、音楽というよりは、マロニエ君に言わせれば、独特の宮大工の誇り高い仕事のような巧緻な演奏美の世界を作り出し、それを極めたという点では内田光子は圧倒的な存在だろうと思います。
ですから、マロニエ君の場合は彼女の演奏に接するときは、いわゆる音楽を聴くというよりは、伝統工芸のような演奏美を観賞するというスタンスになってしまうのです。

それでもなんでも、なにしろここまでくれば大したものではありますが。
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整体院

整体院の続きです。

具体的なことをくどくどと書いても仕方がないので大まかに言いますと、受付を済ませたあとは、まず機械による足裏のツボ刺激を10分間やらされ、あとは先生の見立てとなります。
マロニエ君の場合、問題の肩は指がまったく入らないほどにパンパンになっているのだそうで、状態が厳しいので初回は核心部分へは敢えて手をつけず、外堀から攻めるべく、そこへ連なる手足のほぐしに時間の大半が費やされました。

足も左右、たっぷりと時間をかけてほぐされますが、一見肩とは関係の無さそうな足などは、実は肩や首とは密接な関係があるのだそうで、左右共にかなり慎重にやられました。
両手も同様で、これもかなり時間をかけての治療のようですが、なにぶんマロニエ君の体はこれまでに一度もこのような整体術を受けたことがなかったので、リラックスというよりは、緊張と、相応の痛みとが入り交じった感覚で、終わったときにはドッとため息が出るような気分でした。

先生もずいぶん頑張られたと見えて、全身うっすらと汗ばんで多少息が上がっているようでした。

首に簡単なギブスを装着したほうが治りが早いと断然これを勧められ、どうしてもイヤなときは外してもいいということなので、これをくくりつけられての帰宅となりました。

首は多少の不自由があるものの、むち打ちの人がするような大きなものではないので、拘束力もさほど強くないし、それよりは心なしか気分が晴れ晴れとしたような心地がしましたが、それが単なる気分的なものか、あるいはさっそくにも何らかの効果が顕れてきたのか、この時点ではそこまではよくわかりませんでした。

まずはそのまま仕事に復帰して、夜は都合により外食となりました。
食事から帰るころまでは首にへんなものをつけている以外はなんということはなく、むしろはっきりしていたのはあの耐えがたいような肩の激痛が、たしかに少し和らいだ感じがあって、これだけでもやはり思い切って行った甲斐があったと喜んでいました。

ところが深夜になり、厳密には整体院を出て6〜7時間ぐらい経過した時点で、急に両手足が痛くなりだしました。直感的に揉み疲れだということは察せられたのですが、その痛みはわずか30分ぐらいの間に猛烈なものへと拡大して、もう歩くのもやっと、物を取るのもやっと、階段の上り下りは一歩一歩が苦しみを伴うものになったのにはさすがに驚きました。とくに下りのほうが痛みはより厳しく、よく、上りよりも下りのほうが体の負担は大きくて大変などと言われるのが、まさに身をもってまざまざとわかりました。

深夜なのであとは寝るだけですが、夜中にトイレに行くにもほうほうの体でした。

それはそれとして、大きな発見は、やはり血行がよくなったのか、寝るときも体が心なしかいつもより温かいことがはっきりとわかり、とうとう毛布を一枚外して寝ることになり、整体というのはすごいもんだとだんだん思うようになっていきました。

幸いこの両手足の揉み疲れは、翌日になるとほとんど気にならないレベルにまで落ち着き、あとはやはり肩の痛みが以前より確実に少なくなっていることが実感できるようになりました。

そして昨日、二度目の治療を受けに行きましたが、さすがに初回のような緊張もなく、遙かにリラックスしてあれこれのほぐし等を受けることができました。
今回から鍼治療もはじまり、首のツボに二度ほどこれを受けましたが、鍼などというとマロニエ君は注射を連想するようなイメージがありましたが、果たして髪の毛のように細い鍼で、ほとんど痛みらしい痛みもありません。

効果がいよいよあらわれてきたのか、針治療の成果か、昨日からはさらに肩の痛みが少なくなり、さすがだと思うと同時に、こんなことならもうちょっと早く行っておけばよかったと思わなくもありませんが、それは結果からそう思うのであって、マロニエ君の性格からすれば、かなり追いつめられないことには到底動かないわけですから、これはこれで仕方がないと思います。
ともかくも良い結果が出つつあって、ひとまず良かったというところです。
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実況録音のCD

昨年のショパンコンクールの実況録音のCD(コンクール会場で入手できる由)を人からいただいたので、さっそく聴いてみると、これが予想以上のCDで、最近は録音技術が著しく発達しているせいもあるのでしょうが、まさに至近距離で弾いているかのようなリアル感で聴くことが出来るのは、やはり今どきの技術はすごいもんだと感心させられました。

率直に感じたことは、「これはまさしくピアノのオリンピック」だということでした。
但し、オリンピックといっても、コンテスタントがなにもスポーツのような非音楽的な演奏をしているという意味ではまったくありません。
この実況録音には、普通のレコーディングはもちろん、コンサートのライブ録音などからもまず聴くことの出来ない、このコンクールだけが持つ独特な勝負のかかった凄味があるということです。

もう少し説明を続けると、泣いても笑っても、その年その日その時間に演奏される一度きりの演奏によってのみ、優劣の判定が下され、それである者はその後の人生さえ大きく左右されることも珍しくはない極限的な場面の記録であり、息詰まるような時間がそこには流れているのは、他にはオリンピックぐらいしか思い当たらなかったのです。
このやり直しのきかない緊張と一発勝負の世界は、まさにスポーツのそれのようでもあるし、非常に悪い表現をするなら一種のギャンブル的な運の要素まで絡み込んでいます。そんな興奮の中で繰り広げられる世界というわけで、このCDにはその異様な空気感のようなものまでが生々しく記録されている点で、一聴に値するものだと思いました。

当然ながら曲によって、人によって、ミスや演奏上のキズもあり、勢い余ったり、あきらかに不本意だろうと感じるような部分も中にはありますが、それらをひっくるめて、近ごろではまず滅多に耳にすることのできない類の、パワー感に溢れる、若者達の真剣勝負の姿を見るようです。
これほどテンションの上がった中での一途な演奏は、もうそれだけで聴いていて圧倒され、否応なしに惹きつけられるものがありました。

これは演奏の良し悪し以前に、人間はこういうドラマティックな緊迫感というものには無条件に反応し、聴いているこちらまで普通の演奏を聴くときとは明らかに違う、一種の興奮につり込まれていくようです。
もちろん、そんな空気の中でさらにプラスの結果を絞り出す演奏者もいて、そういう一期一会の、すべてのエネルギーがその一回に賭けられたような演奏というものは、同じ人でもそうそう何度もできることではありません。
現にファイナルに残った一人は日本でのガラコンサートの折に「ああいう体験は二度とできないのではないかと思う」と言っているようですが、たしかに頷ける話です。

俗っぽい表現をするなら、まさに多くの若者の「命がけの演奏」がそこにあり、そういう勝負の場に立ち会うことの意味をまざまざと教えられるような、そんな高揚感に包まれました。

ただし、全体にはどれもあまりにもエネルギッシュかつピアニスティックな演奏で、もしショパン本人が聴いたとしたら果たしてどう思うでしょうか…。

これはショパンコンクールという名の、ワルシャワのお祭りだと捉えるべきかもしれません。

そうそう、もう一つ感銘を受けたのは、どのピアノもそれぞれの潜在力の最大限と思われるほど良く鳴っていたことです。
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ガマンと決断

マロニエ君は今年の初めぐらいから腰痛に悩まされ、パソコン用の椅子を買い換えるなどして一進一退を繰り返していたのですが、ろくに回復しないうちに、今度は左肩から背中にかけて強い痛みが加わりました。

鎮痛剤を呑むなどして様子を見ていましたが、症状はなかなか改善されず、一度はついに重い腰を上げて近所の整形外科に行ったのですが、雨の日だったためか待合室を見ると5〜6人待ちの状態であったため、冗談じゃないと思いそそくさと引き返してしまいました。
以前も書いた記憶がありますが、マロニエ君は行列とか待つということがなにしろ嫌いで、そんな光景をみると、自分の置かれた状況も関係なく、ひたすら拒絶反応を起こしてしまいます。

そんな頃、たまたま会った知人の医師(専門は違いますが)にこの症状の話をしたら、自分も腰痛持ちだが医者にはかからない、なぜならどうせ整形外科に行っても、レントゲンを撮って、痛み止めの注射をして、クスリを出すのが関の山だから何の期待もしていないと軽く言い放つではありませんか!
その人が言うには、整体院のほうがまだいくらか期待できるかもという事でした。

それみたことか!と、マロニエ君は自分が未だ医者にかかっていないことをいささか気に病んでいたところでしたが、そんな折に聞いたこの発言ですから、一気に専門家のお墨付きを得た気分でした。
「やっぱりあのとき引き返してきたのは正しかったんだ!」と。

しかし、それから約10日ほど経過したものの、症状は一向に改善の気配もなく、とりわけ左肩周辺の痛みは耐えがたいものがあったので連日騒ぐものだから、家人もうんざりしていました。
それを見かねたある知人が、自分がかかりつけという整体院を紹介してくれました。
「ここはとても親切でなかなかいいところだから行ってみたら…」というわけです。

ふうん…だったら行ってみようかという気になりかけたとき、以前ある調律師さんの奥さんの言葉をフッと思い出しました。「腰痛を治そうと整体院に行ったところ、あれこれとわけのわからない事をされた挙げ句、却って悪化したので、あの手のところに行くのも考えものですよ!」という話を思い出し、はてさて、どうしたものかとずいぶん悩みました。

悩んでいるその間にも、痛みは一向に治まる気配を見せず、靴下をはくのも目薬を差すのもかなりの苦痛を伴います。
最近ではピアノサークルのメンバーの方から教えていただいた、この手の痛みによく効くという売薬も飲み始めていたところですが、効能が表れるまでには最低一ヶ月はかかるらしく、それを期待するのはしばらく先になりそうなので、当面の痛みを減じるためにも、ともかくものは試しと決心して整体院についに今日行ってみたのです。

マロニエ君は実は生まれてこのかた、整体院とかマッサージといった類は一度も受けた経験がなく、体を揉まれたりするのはかなりくすぐったがるほうなので、悲鳴でも出そうものならどうなるやらと不安でしたが、ともかくこう連日痛むのでは現実的に生活に支障をきたすので、すべてを振り払って、ついに車のエンジンをかけました。

というわけで整体院初体験となりましたが、前段がずいぶん長くなりましたので、明後日また行くことになっていますし、その結果は次回にまとめて書くことにします。やれやれです。
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音霊のひびきに

ずいぶん前にNHKで放送された『こころの時代 音霊のひびきに』という番組を録画で見ました。
ピアニストの遠藤郁子さんがショパンのピアノソロ作品全曲演奏会を8回に分けて芸大の奏楽堂で行っているのを捉えて、番組では現在の遠藤さんの心境やショパンへの取り組みをじっくりと1時間語るという充実した内容でした。

芸高から芸大に進み、1965年のショパンコンクールに出場したことを機に、ハリーナ・チェルニー=ステファンスカの内弟子として5年間ポーランドで厳しい修行に明け暮れたこと、次いでパリでペルルミュテールに師事したこと、帰国後は38歳も年上の相手と結婚し、普通の主婦以上にこなしたという主婦業、高齢の夫の病と介護、大学での指導、さらにはコンサートと息を付くひまも寝る時間もないという想像を絶する激務を続けるうちに、ついには身も心もボロボロになったこと。
その挙げ句、自身が乳ガンの宣告を受け、手術から闘病、リハビリにいたる心の移ろいなどを淡々と、しかし彼女のピアノのごとく、しっかりと腰の座った明晰な言葉で語り尽くしました。

それにしても彼女のショパンに対する真摯(というよりはほとんど宗教的)な姿勢、書き残した作品、音符のひとつひとつを「ショパンの遺言」であると捉え、分析の深さや尋常ならざる思い入れには素直に敬服したという印象でした。
最終的に、その演奏に自分が同意できるかどうかは別としても、少なくとも彼女が信じ、言わんとしていることは理解できることばかりです。

そしてなにより、質素な暮らしの中でひたすら音楽に献身し、自らの精神世界と音楽を融合させながら誇りを持って生きているという姿勢が圧倒的な力を持ってこちら側に迫ってくるようでした。
昔はいやしくも芸術家と言われるような人なら、なにかしらこういうところはあったものですが、現代ではすっかり見なくなって絶滅同然のように感じる今日、久しぶりに本物の芸術家、あるいは尊厳ある人間そのもののあるべき姿を見せられたような気がしました。

マロニエ君は遠藤郁子のピアノは嫌いではありませんが、さりとて大ファンというほどでもありません。
しかし、そんな好き嫌い以前に文化芸術のエリアに身を置いた人間の、凛としたその姿を、過去の本などではなく、現役の人間の声として触れることが出来たのはまったく溜飲の下がる思いでした。

話のすべてを肯定的に受け止めたわけではありませんでしたが、少なくともこの人にはこの人が到達したところの哲学と精神世界があり、形而上学的な世界を求めて今も彷徨っているということだけはよくわかりました。

実を言うと、マロニエ君はこの人の気味の悪い日本人形のような出で立ちでピアノを弾くセンスだけはどうしても拒絶感がありましたし、そういう奇抜な衣装を好むというセンスには最後のところで拭いきれない違和感があったのですが、今回の映像ではずいぶん印象が違っていました。

変な和服は相変わらずでしたが、白髪が増えた髪をアップに結ったことで却って気品と真っ当な威厳がそなわったようでした。
以前はまるで童女のような真っ黒のおかっぱ頭に、創作着物のような、いわゆる日本の伝統呉服とは大きく懸け離れた衣装でしたから、一種の不気味さがあり、まるで岸田劉生の麗子像がピアノを弾いているようでした。

遠藤郁子はずいぶん前からレコーディングやコンサートにはカワイをよく使うピアニストでしたが、やはり現在の連続演奏会にもシゲルカワイのEXを使っていましたから、よほど彼女が求める音があるのだろうかと思います。
しかし主に話の舞台だった自宅では、最低でも3〜40年前のスタインウェイを使っており、ときどきあれこれのパッセージを弾いてくれますが、その音は昔のスタインウェイ独特のツンとしたあの時代の音でした。

こういう人にいてもらわないことには、今の軽薄な商業主義に乗ったピアニストだけが幅を利かせるなんて、もううんざりですから、ますます頑張っていただきたいものです。
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