パンクのメカニズム

用事で車を走らせていたいたところ、ほんのわずかに(車が)いつもと違う挙動をするような印象を持ちましたが、ごく些細なことで、用のほうに気をとられそのまま走っていました。

ある場所に着いて車を駐車場に止めてふと見ると、運転席側のうしろのタイヤの空気がえらく減っていて、ペチャンコではないものの、地面からホイールまでの高さが他のタイヤに較べて半分ぐらいまで減ってしまっていました。
さっきから薄々感じていた違和感の原因はこれだったのかとすぐに納得しました。

しかし、ここでジャッキなどを出してタイヤ交換するなんて、考えただけでもうんざりです。
実を言うと、日ごろパンクの心配なんてしてもいないので、今の車のどこにスペアタイヤとジャッキなどの工具類があるかもよく知りません。クルマ好きで、細かいことはあれこれこだわってうるさいくせに、こういうところは非常に杜撰でのんきなマロニエ君なのです。

幸い、パンク状態に気が付いた駐車場は、この車を買ったディーラーまで1キロあるかないかの近距離だったことと、タイヤもまだいくらか空気が残っているようなので、なんとかディーラーにたどり着くことが出来るかもと思いました。

急いで用事を済ませて、いざディーラーを目指しました。
とりあえず無事到着すると、出てきたメカニックがめざとく釘が刺さっていることを発見。
さっそく修理することになり、ショールームで待ちましたが、しばらくするとそのメカニックがやってきて、「これが刺さってましたよ」といって引き抜いた釘を見せてくれましたが、それは長さも4センチはあるたいそう立派な釘でした。メッキをしたように銀色につやつやして、その輝きがまるで悪意そのもののように見えました。

それにしてもなぜあんなものがタイヤに90度にスッポリと突き刺さるのか不思議でなりません。
地面に落ちているだけなら、ただ踏みつけて終わりのはずですが、あれだけ見事に突き刺さるには、釘のほうもでも一定の角度で待ち受けていなければとてもそんな風にはならないのでは…。

そこで思いついたのが、こういうことではないかと仮説を立てました。
フロントのタイヤがまずその釘を踏み、その勢いで釘は跳ね上げられ転がっているところに、すかさず後輪が来て、たまたま理想的な角度が付いたところへスポッと突き刺さったのではないかということです。
普通の速度で走っている車の前後のタイヤの通過時間の差なんて文字通りアッという間ですから、こんなことも起こりうるような気がしました。

真相はどうだかわかりませんがマロニエ君としては、すっかり解明できた気分になって悦に入っています。
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むかしは子だくさん

天神で用事を済ませ、駐車場に向かっていると、ばったりと知り合いの先生に会いました。
この方はマロニエ君の音楽上の母校である学院で、現在も先生と事務を兼任しておられますが、なにより無類の音楽好きで、これはピアノの先生の中では例外中の例外です。
恐かった先代院長が高齢で一線を引かれて久しく、現院長はドイツを拠点にした現役ピアニストなので、実質的にこの方が能力を買われて学院を切り盛りしていらっしゃいます。

出会い頭にばったり会って双方驚きましたが、ここしばらくお会いしてなかったので懐かしく立ち話ができました。
やはり学院も昔とはちがって人が少なくなったということでした。

そもそも現代は少子化で子供の数が減っている上に、今どきはピアノのお稽古といっても、この学院の体質である厳しいスパルタ式のピアノ教育を受けるべく身を投じるような時代ではなくなったので、これも止む得ない時の流れだと思いました。

今は普通の学校でもとにかく先生方はみなさん一様に優しいそうで、それは結構なことでしょうが、同時になんだかつまらない気もします。
マロニエ君の時代は、普通の学校でもとくに恐い憎まれ役の先生というのがひとりふたりは必ずいて、なにかしでかせば躊躇なくげんこつやビンタなんてのも珍しくはありませんでしたが、今そんなことでもしようものなら親が学校に噛みつき、校長はあわて、教育委員会のようなところが騒ぎ出す時代ですからね。

ましてや否応なくピアノを生活の中心中央に組み入れさせられ、学校さえ時間の無駄というような強烈なやりかたなど、もはや骨董的価値の世界でしょうね。
でも不思議と恐かった先生というのは恨んでいるわけではなく、むしろ懐かしい思い出には欠かせない人物になっていますが、現代の子供はそういう懐かしさを持てないのかと思うとちょっと気の毒な気がします。

少子化が引き起こす社会問題はあらゆる局面に波及して、これをなんとか食い止めようと政府もばかばかしい対策を講じているそうですが、文明が進み、医学が進歩して高齢化社会になれば、それだけ出生率は下がるという摂理があるような気がします。
現にマロニエ君の親の代では兄弟姉妹が多く、その中の必ず何人かは子供のころに亡くなっていたりするのが普通だったようです。どこの家もだいたい似たようなもので、そういう様々な要因が自然に折り重なって子供もたくさん産まれたのだろうと思います。

さらに昔でいうと、徳川将軍家でさえも世継ぎや姫達は幼少時に次々に病気などで亡くなり、無事に生き延びる方がはるかに少ないくらいです。
J.S.バッハなど20人近い子供がいても半分以上が亡くなっていますし、ヴァイオリンのカリスマ的名工、ストラディヴァリも11人の子供がいたというのですから、これはもう理屈ではなく時代の力という気がします。
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自己流準備運動

「水に入る前は必ず準備運動をする」というのは小学校のプールの時間などでは当然のこととされ、はやる気持ちを抑えながらしぶしぶ実行させられていたものです。

その必要性が、いまごろになってなってピアノでわかっていたような気がします。
むかしレッスンに通っていたころは、ハノンのような純粋の指運動からはじまり、ツェルニーなどの練習曲を経由して、最後になんらかの曲を弾くというのがパターンでした。

しかしレッスンに行かなくなってからというものは、そんな義務的な順序など守るはずもなく、いつもいきなり好き勝手に曲を弾いていましたが、だんだんとそういうやり方はよくないのでは?と(今さらあまりに遅いですが)感じるようになりました。

そもそもマロニエ君が下手くそということもあるのですが、いきなり曲に入るとなかなか指が思うように動いてくれません。しかし、たまに長時間弾き続けた時などは、途中からいやでも指がほぐれて、自分なりに指がよく動くようになるのを感じることがあるものです。この状態を人工的に短時間で作り出せないものかと考えるようになったわけです。

そこで、この一年ほどある連続運動を要する曲を、通常のテンポの2倍ぐらい遅いスピードで2回ほど丹念に通して弾くような習慣をつけてみると、これがはっきりと効果を上げたのは我ながら驚きました。
さらにごく最近は、弾きはじめる前に、5分ぐらいかけて両手を使ってお互いの指の間を縦横にゆっくりと押し広げるようにほぐす、あるいは左右互いの手で力一杯握ってみるなどすると、さらに効果があることがわかりました。

いきなり水に飛び込むのではなく、プールサイドでじっとガマンの準備運動というわけです。

これはゆっくり弾くからこそ効果があるようで、それを普通のテンポでやるとまるで効果がないことも経験的にわかり、これまたひとつの発見でした。
ちなみにマロニエ君がこの準備運動に使っている曲はショパンのエチュードop.25-1「エオリアンハープ」ですが、このめっぽう音数の多いアルペジオ地獄みたいな作品を、ゆっくりと老人のようなスピードで一定して弾いてみるのはそれなりに大変で、すべての音をきちんと出してあくまでも丁寧に弾くにはかなりのきつさがあり、一回弾き終えただけでも相当の運動になるものです。そして2回目は心もちスピードを上げます。

たとえばトントンと普通に降りられる階段を、敢えて3倍のスピードをかけてスローモーションのようにゆっくり降りろと言われたら、見た目は静かでも、これは筋肉を非常に使うきつい運動になるのと似ているような気がするのです。
ピアノには指を早く動かす訓練だけでなく、こういうスローな訓練も関節や筋肉のためには意外と役に立つように感じているのですが、実践しているという話はあまり聞いたことはありません。
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心理の力?

人の心理というものは微妙なもので、思いもよらない現象が起こることがあるようです。

というのも、マロニエ君は夜にちょっとした買い物をしにスーパーに行くことがあるのですが、24時間営業だったある大きなスーパーが、夜間はだいたいいつ行ってもお客さんは少なく閑散としていていて(昼間のことはわかりませんが)、率直に言ってあまりはやっているとは言い難い感じでした。

その店は年中無休にもかかわらず、いつだったか数日間店を閉めたので、何事だろうかと思っていたら、ちょっとした化粧直しをして、店名も変えられて再オープンしました。
経営母体は以前と同じですが、営業時間がきっぱりと半分になり、9時から21時までの12時間になりました。

マロニエ君が行く時間帯はだいたい夜の9時過ぎなので、このスーパーに限ってはまずほとんど閉店時間を過ぎてしまうことが多くなってしまったのですが、たまたま外食したついでに夜の8時台だったので久しぶりにそこに立ち寄ったところ、なんと以前は見たこともないような数のお客さんで店内は溢れていて、かなりの賑わいというか、本来のスーパーらしい活気があって、この変身ぶりにはびっくりしてしまいました。

想像するに、夜の9時で閉店するという一線ができたことで、却ってお客さんが増えているといった感じで、経営者の作戦が見事に的中したかのように見えました。
内容的にはこれまでとほとんど何も変わっていないようにしか見えませんでしたから、9時をもって閉店するという事実が人の気持ちを刺激したのでしょうか? 
詳しいことはよくわかりませんが、これが人の心理というものなのかと思いました。

それで思い出したのが、以前テレビでやっていた話ですが、ある片側一車線ずつの比較的幅の狭い道が事故の多発地帯で、対向車同士の接触事故が後を絶たないという場所があったのですが、頻発する事故に頭を抱えた地元警察が施した策というのが驚きでした。
なんと道の真ん中にある中央線をぜんぶ消してしまったらしいのですが、その結果事故は見事に激減したというのです。
中央線が無くなったことで、逆に緊張感が生まれ、以前よりもみんなが対向車に注意して慎重に走るようになったという運転者の心理を見事に突いた処置ということでした。

こういうちょっとした心理の操作によって、人前でも緊張せず楽しんでピアノが弾けるようになればいいのですが、こればかりは永久に無理でしょう。
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世代の特徴

マロニエ君の家の周辺は、街の中心部にほぼ近い位置にもかかわらず、やや丘陵地になっているためにテレビ電波の受信状態が悪い地域ということで、以前からケーブルテレビを使わざるを得ないエリアでした。

さて、このたびデジタルテレビに移行したら、ひとつ困ったことが起こりました。
衛星放送は地デジには含まれないために、わざわざ昔のアナログ放送に切り替えないとこれを見ることができず、しかも来年7月までの命というわけです。マロニエ君にとってはNHKの衛星放送は音楽番組が多いので、普通のテレビはあまり見ないかわりに、これは必要不可欠のチャンネルなのです。

ケーブル会社に相談すると、衛星放送受信用のパラボラアンテナを付けるしかないとのことで、しぶしぶ価格などを調べていたところ、ある有料放送の受信契約をするとアンテナは望外の低価格で設置してくれることがわかり、テレビ購入時にもすすめられてこれに決め、さっそくその会社から工事に来てくれました。

ところが、あらわれたのは意外なほど年輩の、はっきり言えば完全におじいさんという感じの人で、見るなり大丈夫だろうか…と内心思いましたが、この人が設置場所の下見から線の取り回しやなにやらを、いかにも元気良くテキパキとやり始めたのには驚きました。

それに、この世代の人はよく話をするのも今どきでは大きな特徴だと思いました。
話というのも仕事とは直接関係のない、雑談でちょっとお世辞を言ってみたり、自分が屋根から落ちて足を痛めたなどといった、いわば無駄口なのですが、それが度を超さずにパッパッと入ってくるので、雰囲気がとても和むわけです。

一般的にこの手の仕事で現場を回っている人は20〜30代の人が多いように思いますが、彼らは必要以外のことはまず絶対に口を利きません。いわゆる無口とか寡黙というのとも少し違って、ごく自然な人との交流が出来きず、どこか余裕がないという感じです。仕事も型通りで応用がきかず、いつも伏し目がちでコミュニケーションにもまるで覇気がありません。

それに引き換え、このおじいさんは足などもすこし引きずっているようですが、いやはや元気で溌剌として大したものでした。
うちに来たのは昼過ぎでしたが、午前中数軒回って、これからあとも4軒まわると片付けながら言っていました。
「歳なんだけど、私は仕事が好きで、とくに現場が好きなんでね」という言葉が印象的でした。
荷物や工具を満載したワゴン車を一人で運転して、次の訪問先を書類で確認すると元気に去っていきました。
思いがけなく、お年寄りに元気づけられたような格好でしたが、心地よい残像が残りました。

折しも史上最年少という若いお兄さんが福岡市長に当選しましたが、どうなりますことやら。
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アジアの台頭

現在、世界には正確な数さえ掴めないほどの夥しい数のピアノコンクールがあるそうですが、そんな中でも最上級のというか最難関といえる名の通った権威あるコンクールは、せいぜい両手の数ぐらいではないでしょうか。

この国際コンクール。ある時期から日本人の参加者が猛烈な勢いで増加して、主催者はじめ周辺を驚かせているという時期があったのはマロニエ君も覚えがあって、ブーニンが優勝した1985年のショパンコンクールあたりから明瞭に耳にするようになった記憶があります。
当時審査員だった園田高広氏は、その日本人参加者の団体を引き連れてくる親分のように審査員仲間から言われたというような意味のことを、帰国後ご本人がしゃべっているのをテレビで観たほどです。

チャイコフスキーコンクールなども同様で、どこも名だたるコンクールのステージには日本人が大挙して参加し、客席はそれを応援する日本人聴衆で溢れかえり、使われるピアノも日本製があるなど、名だたるコンクールは今や日本人大会と思っていて間違いないなどと嫌悪的に言われた時期がありました。

その後は中国と韓国の台頭が目覚ましくなり、今ではこの二国が世界の主要コンクールの中心を占めるようになり、同時に日本人の参加者は減少傾向にあるようです。これらは一つには、ピアノに対する東洋勢のパワーというのもある反面、欧米のピアノ学習者の数が減少しているという二つの現象が合わさったでもあるのです。

あるピアノのコンクールに関する本を読んでいると、興味深い記述が目に止まりました。
欧米人の参加者が減少していったのは、ピアニストというものが幼少時から厳しい訓練と努力を課せられ、いわば青春時代までのほとんどすべてをピアノのために捧げて育つようなものですが、そうまで一途に励んでも、先がどうなるかはまったくの未知数という、いうなればあまりにリスクの高いピアニストへの道をもはや目指さなくなり、同じ人生をもっと効率よく確実に豊かに生きていこうという計算をするようになり、音楽は趣味が一番という考え方に変わったきているということでした。

まさにむべなるかなで、努力対効果という点でピアニストへの道ほど効率の悪い、理不尽なまでに報われない世界はこの世にないような気がします。
例えば、ショパンコンクールに出場し、さらに一次に受かるような力があれば、これはひとつのジャンルにおいて世界の中の若手40人ほどの精鋭に選ばれたことになるわけですから、他のジャンルでそれに匹敵する実力をつけて職業にすれば、おそらく確実にエリートであり、輝くような地位と報酬が約束されるのはおそらく間違いないでしょう。

ところが、ピアノに限っては、そんな程度ではなんということはありません。
ましてやコンサートピアニストとして認められ、演奏のみを職業として一生涯を送るとなると、桁外れの才能とよほどの幸運が味方しなければまず巡ってくることなどないでしょう。
現に著名コンクールに上位入賞しておきながら、そのあとがどうにも立ち行かなくなり、とうとうコンピューターのプログラマーに転身したというような人もいるとか。

マロニエ君も思いますが、ピアニストになる修行なんて、少しでも冷静に先が見えてしまっならできることじゃなく、まして親ならそんな報われない道へ我が子を進ませようとは思わないでしょう。
たとえ愚かであっても、いつの日か自分や我が子が晴れやかなステージで活躍し喝采を受けるシーンを想像して奮闘できなければ、あんなべらぼうな努力と苦しみの日々なんて耐えられるわけがありませんからね。
その本によれば、音楽の本場であるはずの欧米人(そろそろ日本人も?)はある時期から皆舞台を降りて、客席へと自分達の居場所を変えつつあるのだそうです。
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ある朝突然に

昨日の午前中のこと。
なにげなくテレビニュースを観ていると、今朝がた起こったという交通事故のニュースが流れました。
隣県の高速道路で深夜に発生したというその事故は、はじめに単独事故を起こした普通乗用車に、後続の大型トラックが二台続けて衝突したというもので、乗用車に乗っていた2名がともに死亡するという大事故のようでした。

現場の映像が流れましたが、車はほぼ原型をとどめないまでにグニャグニャに押しつぶされ、事故の苛烈さを物語っていましたが、そのボディーカラーや後部にかろうじて原型をとどめた一部分、さらにはホイールのデザインから、ふとある車種では?という思いがよぎりましたが、それでも損傷がひどくてほとんど判断はつきませんでした。

ところが亡くなったという二人の名前のうち、運転者と思われる男性の名前にちょっと聞き覚えがあったことと、マロニエ君が以前、車のクラブの名簿など作っていたこともあり、テロップに出た姓名の文字が知人と同じだったようなかすかな覚えがあり、思わず妙な気分になりましたがニュースはそれっきり終わりました。

こうなると、なんだかどうしても気に掛かりはじめて昔の名簿を探してみたところ、やはり同じ姓名で年齢も一致しています。その人はずいぶん前にクラブは辞めていましたが、事故の発生現場と住まいは同じ県でもあるので、さっそく友人に電話してみると、彼もそのニュースは見たらしいのですが、そこまで思いは至らなかったといいます。

で、事故現場の地元に近いメンバーに電話をしてみると、彼はまったく何も知りませんでしたが、マロニエ君の話を聞くうちに声がしだいに硬直してくるのがわかりました。
嫌な可能性はますます濃厚となり、ちょっと確認してみると言いはじめました。しばらくして向こうからかかってきた電話では、やはり亡くなったのはその元メンバーの方で、現在、車のディーラーであるその人の店では大騒ぎになっていたという話でした。

マロニエ君はその人とはとくだん親しいというほどの間柄ではなく、さらにここ数年は会っていませんでしたが、それでもある時期はしばしばお会いしていましたし、友人がその人の世話で車を購入して、その引き取りに同行したり、一度などは自宅にお邪魔して車などあれこれと見せていもらったり、クラブミーティングの幹事をやっていただいたりしたこともあるだけに、やはり静かな衝撃が時間とともに深まってくるような思いでした。

テレビドラマなどでは、平穏な茶の間のテレビニュースで知人が関係した事故や事件を偶然知るというシーンがあるものですが、あんなことはあくまでドラマの中の作り事で、実際にはまずないことだと思いこんでいましたが、ほとんどそのままの、生まれて初めての嫌な経験をしてしまいました。

決まり文句のようですが、心よりご冥福をお祈りするとともに、同じハンドルを握るものとして、安全にはくれぐれも注意しなくてはいけないと、事故の恐ろしさを再認識した次第です。
また、残されたご家族のことを思うとただただ胸が痛みます。
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ホールでの雑感

先日は知人からの急な誘いで、とあるホールのピアノを弾かせてもらいに行きました。
ここはすでに何度か足を運んだことのある会場で、新旧二台のピアノを弾くことができました。

古い方のピアノは50年近く経過したピアノですが、管理がいいことと、このホールの主治医(保守点検をする技術者)の腕が優れているために、非常に素晴らしい状態が保たれています。
それだけでなく、この世界の名器の持つ強靱な生命力にもあらためて感嘆させられました。

とりわけ今回感じたことは、そんな歳のピアノなのに、タッチが非常に瑞々しくてコントローラブルな点です。
タッチはピアノの中でもとりわけ機械的物理的要素の強い部分だけに、古いピアノではまっ先にガタなどがでるものですが、それがこれだけ良好な状態を保っていること自体、驚きに値することです。

もちろん50年近い時間経過の中でどのような経過を辿ってきたかは知る由もありませんから、専ら今現在のことしかわかりませんが、どう考えてみたところで、結局はピアノの素性の良さ、手入れの良さ、それに主治医の優秀さ以外には思い当たりません。

唯一残念なのは音の張りと伸びがやや劣ることで、これはマロニエ君の素人判断では、ずいぶん長いこと弦交換がなされていないためだと思われました。弦やハンマーはいわゆる消耗部品ですから、その点だけは技術者の日ごろの管理だけではどうにもならないものがあり、交換するにはかなりのコストも要することからホール側、あるいは行政側の担当者の意向に大きく左右されることでしょう。
これが関係者の間で実行されるような判断が働けばいいのにと、部外者のマロニエ君は切に思うばかりです。

いまさらですがホールという空間は実に不思議な、魔法のような空間だと思いました。
それはピアノの周辺ではピアノの音は自宅で聞くそれよりも一見パワーがないように感じるものですが、少し離れて客席に移動すると状況は一変し、朗々とした力強い響きが解き放たれるようにあたりを満たしていることがわかります。さらにホールの中央から最後部へと場所を移しても、音源からの距離の違いがもたらす響きの違いはあるにしても、ピアノの音のボリューム自体はほとんど変わらないかのように聞こえるのは、あらためてすごいもんだと思います。

よく雑誌の企画などで、「あなたの理想のピアノの音とはなんですか?」といったたぐいの質問に、判で押したように「ホールの隅々まで行きわたるような音」という意味の答えをするピアニストが多く見受けられるものですが、ホールでこういうチェックをしてみると、それはピアノというよりは、ホールのほうに寄せるべき心配だと思われましたし、よほど時代遅れな音響設計のホールでなければ、多少の差異はあるにせよもうそれでじゅうぶんでしょう。

そんなに音が隅々まで行きわたってほしいなら、それに値する質の高い演奏、人の心にしみわたり、魂を揺さぶるような音楽を聴衆に提供することに専念してほしいものです。
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ヤミ業者の恐怖

家族からちょっと恐ろしい話を聞きました。
恐ろしいといっても怪談のたぐいではありません。

テレビニュースで言っていたというのですが、家電製品などの無料引き取り屋というのがよくマイクで町内を呼びかけながら回ってしていますが、あれがとんだ食わせ者だというのです。
言葉ではどんなものでも無料で引き取るなどと連呼しているので、てっきりそうなのかと思っていましたが、その許しがたい実体たるや驚くばかりでした。

このいわゆる回収業者は、市などの行政の認可をまったく受けていないヤミ業者である場合が多く、実際に声掛けして不要品の引き取りを頼もうものなら、無料どころか、とんでもない高額な請求をしてくるのだそうで、その一つが捕まったことからニュースとして報道されたらしいのです。
認可を受けたちゃんとした業者であれば、車(主に軽トラックなど)に業者の名前と認可の番号などが大書されているらしく、ヤミのほうはなにも書かれていないので、まずはそこで識別する必要があるそうです。

驚いたのはその金額で、安くても数万円、中には一回の利用で40万も請求された被害者もいるとか。
このヤミ業者にはごろつきのような若者が多いそうで、今回捕まったのも二十歳そこそこの社長だったらしく、被害者は主に高齢者などが多いとか。

はじめは笑顔でさも親切げに対応し、お年寄りにしてみるとまるで可愛い孫のような態度で接近してくるので、すっかり気をよくしてつぎつぎに廃品の処分を頼むらしいのですが、それらをトラックに積み込んで作業が済むと、態度を一変させて高額な請求を迫ってくるとか。
驚いた依頼者がこの時点で何を言っても、時既に遅しで、なす術はないそうです。
ではキャンセルするといっても、もう荷物を降ろすことはできないと抗弁して、気が付くとはじめ何人かいた他の仲間はいつの間にか姿を消していて、人手もないから無理だなどとなにがなんでも言い張るそうです。

彼らが主に高齢者を狙う理由としては、若者の親切に対して無防備で騙しやすいという点と、高齢者ほど長年生きてきたぶん、なにやかやと持ち物も多く、餌食になる要素が多いというもので、まったくひどい話でした。

もうひとつの理由としては、家電や粗大ゴミを処分するには、引き取り業者に電話して、コンビニでチケットを買ってきて貼り付け、指定された日に出しておくなど処分にまつわる煩雑さがあるために、そういう手続きに事に慣れていない高齢者などが、前を通りかかったこれらの呼びかけに反応してしまうという見方もあるという事でした。

こうして大金をせしめた彼らは、当然ながらそれらを正当に処分するはずもなく、さらに罪を重ねて山奥などに不法投棄するという、まさに絵に描いたような流れだそうです。
みなさんもくれぐれもお気をつけくださいね。
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行商ピアニスト

現在読んでいる様々なピアニストの事が書かれた本の中に、日本人で国際的に活躍する女性ピアニストのある時期のスケジュールに関する記述があって驚きました。

まあ敢えてピアニストの名前は伏せておきますが、たとえばこんな具合です。
イギリスから北欧に移動し、レコーディングでドビュッシーの12の練習曲他を録音してすぐに帰国、ただちに数箇所でリサイタル、それが済むと別の場所で今度はジャズピニストと共演、再びイギリスに戻りさる夏期講習の講師を務め、さらに友人ピニストと2台のピアノのコンサートに出演、そして再び帰国。翌日ただちに夜遅くまで軽井沢の音楽祭のリハーサル、さらに翌日の本番ではリストのロ短調ソナタを弾いて、終演早々に東京に戻り、翌日再びヨーロッパへ。今度は北欧のオーケストラとラヴェルのコンチェルトを弾く──といったものでした。

本人曰く、イギリスと日本との往復が激しく、だいたい一年のうち一ヶ月は飛行機の中で過ごしているんじゃないかということです(これって自慢なのか?とつい思いましたが)。
ともかく、たった一人で年中旅に明け暮れ、ホテルとホールを往復して、終わればまた別の場所に向かうことの繰り返し。
日本人で国際コンクールに上位入賞しても、こういう生活に耐えられない人はヨーロッパに留まって活動はしていないということでしたが、それが普通でしょうね。

これを可能にするにはピアノの才能は当然としても、体力、精神力、孤独に対する強さなど、まるで音楽家というより軍人のような資質が求められるようです。
体も健康で、神経も強靱で図太く、こまかいことにいちいち一喜一憂するようではとても間に合いません。

しかし、マロニエ君はこれが最先端で活躍する政治家やビジネスマンならともかくも、ピアニストという点が非常にひっかかりました。こういう苛酷な生活を可能にするような逞しき神経の持ち主が、はたして、もろく儚い音楽を感動的に人に聴かせることができるのか、繊細の極致とも呼ぶべき音楽作品を鋭敏な感受性を通して音に変換し、演奏として満足のいくものに達成できるのかどうか。

実はこのピアニストはずいぶん前に私的な演奏会があってたまたま招かれたので、たいへんな至近距離で聴いたことがありますが、それはもうまったくマロニエ君の好みとは懸け離れた、ラフでときに攻撃的な演奏で、小さな会場ですら聴き手とのコミュニケートがとれず、ひとり浮いたようにガンガン弾き進むだけの演奏でした。
演奏の合間のトークも手慣れたもので、なんだか日ごろから演奏とか音楽に対して抱いている、あるいは期待しているイメージとは程遠いものを感じて、そういう意味でとても印象に残っていましたので、この本を読んでこの人のことが書かれているところには妙に納得してしまいました。
但し文章の論調はこの女性を褒めているのですが、そこはまあ本人に取材して書いているのでやむを得ないことなのでしょう。

こういう事実を突きつけられると、ホロヴィッツ、ミケランジェリ、グールドのような傷つきやすい繊弱な神経をもった真の芸術家がコンサートを忌避してしまう心情のほうがよほど理解に易く、しかも困ったことに聴きたいのはこういう人達の演奏なのですから皮肉です。
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季節の変わり目

このところすっかり冷え込むようになりました。
冬の到来はなんとなく身も心も引き締まるようで、マロニエ君は寒くなるのは人がいうほど嫌いでもないのですが、季節の変わり目は体がなかなかそれに順応して切り替わってくれず、こういう時期を通過するのが一つの山ともいえます。

恥ずかしながら、自律神経があまり上級品じゃないためか、気温変化に対する適応力が低く、体がかならず一定期間抵抗するような気配です。
自分だけかと思っていたら、最近はこの手の体質の人がわりに多いらしく、明確な病気でもなく、だから病院に行ったところですぐにどうかなるものでもないために、人知れずじっと耐えるしかなくて、皆さんも苦労していらっしゃるようですね。いうなれば軽い慢性現代病の一種のようなものだろうと思います。

まわりをちょっと見回してみても、日常生活に際立った支障はないものの、こんな時期、どこか体調がすぐれないという状態の人は多く見られます。
アレルギー過敏やなにやらいつも風邪をひいているような人などもいますが、いずれも類似した部類のような気がします。
要は昔の人のような原始的な抵抗力が弱まってのでしょう。

さらにマロニエ君の場合で言うと、以前にエアコン依存症ということは白状したことがありますが、まさにそこに端を発したと思われる困ったクセがあって、ひとことでいうなら冷房か暖房のどちらかが作動していないと心理面でも落ち着かないのです。

落ち着かないぐらいならいいのですが、この時期はいわば四季の端境期で、中途半端なジワリとした冷え方をすると風邪をひきかけるのか頭痛がして、それがかなりひどいので大変です。
といってストーブを入れると、今度は熱くてムンムンしてきて消したくなる。消せばやっぱり寒い。
だからこういう時期は苦手ということになるわけで、はやくつけっぱなしに出来るぐらい寒くなってくれたほうが体調がよくなり元気もでるのです。

それにエアコン類を停止させると、空気の動きが止まり、同時に苦しげな「無音状態」に包まれるような気がして、これがまた妙に不安で気分的に苦手なのです。

似たような事で思い出したのは、屋内で飼われている犬は、人間が出かけて留守番をさせられる場合、静かすぎる部屋にずっとおかれると却って不安でストレスになるというので、人によってはテレビやラジオの音を小さく出してつけっぱなしにしておいてやるという話を聞いたことがありますが、なんだかまるでマロニエ君のエアコンもそれに似ているような気がしました。
要は、マロニエ君の心理レベルがそっちに近いということなのかもしれませんが。
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ご同慶の至り

日曜は大変お目出度いことがありました。
かねてよりピアノ購入を検討していたマロニエ君の知人が、ついに決断したのです。

その人とは何カ所かのピアノ店を回りましたし、その他の場所でも共に弾いて楽しむ趣味のピアノの仲間です。
ピアノと音楽が好きという点では大いに共通していますが、彼はとりわけ古典派の作品を嗜み、一人の作曲家なり一つの作品にキチンと真面目に打ち込むタイプで、その点ではあれこれと節操なく弾きかじっては一箇所に落ち着けないで、中途半端な仕上がりばかりを増やすマロニエ君とは大違いです。

購入機種の候補としては国産のピアノにも気になるものがあり、あれこれと考えていたようですが、なにしろ現在の住まいがグランドピアノを置けない環境らしいので、ピアノ購入はいずれどこかへ引っ越してからの事とゆったり構えていたところへ、マロニエ君の知る技術者からの話が飛び込んできて、その人が取引をしている海外のブローカーからの情報がもたらされました。

今はまだその時期ではなかろうと思いつつ、「いい話だから伝えるだけは伝えてみて欲しい」と言われ、ひとまずダメモトで言ってみたのが事のはじまりだったのですが、それが結局は購入へと実を結んだわけです。
考えてみれば、ピアノに限らず、自分が一番好きなことに関する情報は、そうそう軽く聞き流して打ち捨てることは人はできないものかもしれませんし、逆に行動を起こすきっかけになるのかもしれません。

はじめ2台だったものにもう1台加わり、計3台のピアノ情報が寄せられたのですが、なにしろピアノは遠く異国の地にあり、写真を見る以外は、触れることも音を聴くこともできません。
写真は要求するたびに数を増し、しまいには響板の裏から撮った写真まで送られてきましたが、こんなときネットの力はやっぱりすごいもんだと思いました。

本当は現地へひとっ飛びしてくるのが一番良いのですが、遠い外国ともなるとそう簡単にもいきません。
結局写真と情報だけで決断せざるを得ず、本来ならこんなピアノの買い方は決して正しいとは言えず、マロニエ君としても現物確認できないことが人ごとだけによけいに気にかかりました。
しかし、そのかわりにはいろいろと都合のいい事情が絡んだことと、折からの円高で、価格は国内で買うよりも有利ということもあり、万が一気に入らなくても決して損になるような買い物ではないという判断も働いて、ついに購入の決断に至ったというものです。

写真によると、ピアノは美しいギャラリーの一角に置かれていただけのようで、製造後10年足らずであまり弾かれておらず、非常に程度がよさそうなピアノであることが窺えたのも決め手だったようです。あとの2台はすでに60年前後経過しているピアノで、これはこれで魅力だったのですが、今回はできるだけリスクを避けて新しめのピアノになりました。

本当はこんな隔靴掻痒な書き方はせず、もっと具体的にダイレクトに書きたいところですが、まあ浮き世にはいろいろと障りもあるかもしれず、なにぶん自分のことではないので、今のところこんな表現しかできないことを申し訳なく思います。

そのピアノがいつごろ遠路はるばる日本へやって来るのかはまだわかりませんが、今どきの発達したトランスポートシステムと、間に立っているのがその道のプロということも考えれば、そう遠いことではないと思われ、非常に楽しみです。
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日本の清潔文化

最近は行っていませんが、中国などから帰国すると真っ先に感じることは、日本の清潔さです。
これは海外といえば欧米ばかりで、アジアの周辺諸国に旅したことのないような人にはわからないことかもしれませんが、同じアジアでありながら、日本の清潔さはまさに別世界のそれで、突出していることを毎回感じさせられるものです。
家に着いても、まっ先にお風呂にでも入らないことには、全身が独特な汚れにまみれているようでゆっくりできないと感じるほど、やはり向こうは基本的に違います。

上海、台北、ソウルなど、どこも街は大都会、空港も広大かつ近代的で、パッと見た感じはそれはもうなかなか立派なものですが、そこを出発して福岡空港に降り立つと、規模こそ小さいものの、飛行機を一歩降りると、そこは気品とでもいいたくなるような静寂の世界で、いきなり目に入る塵ひとつない床や磨き抜かれたガラス、入国審査窓口のたとえようもなくキチンとした感じなど、すべてが日本基準であることに気付かされ、何日間か忘れていたものがいっぺんに蘇ってくるようです。

普段はなんとも思わない見慣れた街並みまでが、まるで前日に石鹸ででも洗ったようにきれいで、タクシーも滑らかで乗り心地がよく、ついさっきまで冒険旅行にでも行っていたような気分になるものです。

実は仕事の関係で、昨日も近くの国から二つほど荷物が届いたのですが、まあ相手の方がこのブログを読む心配は絶対にないから書きますが、とにかく荷そのものが何故?と不思議に思うほど薄汚れていて、荷をほどくのもちょっとした覚悟を要するような妙な迫力を醸し出しています。

もちろん外国郵便ですから、途中いろんな機関や窓口を経由してはるばる旅してくる間には、相応に汚れもするだろうとは思いますが、それが実は外側だけではないのです。

中の物が破損しないように、梱包材のプチプチみたいなものに厳重にくるまれていますが、中の中まで薄汚れた感じは変わらず、荷ほどきがおわり、大量のプチプチを一箇所に集めると、このかたまりがなんと日本で見るものとはかなり色が違うのです。全体に薄茶色っぽくほこりをかぶった感じで、実際にもうす汚れているので、とにかくまっ先に外に出してしまおうと思ってしまいますし、その次は石鹸で盛大に手を洗います。

これが日本ならいわゆる普通の透明のビニール色ですが、むこうのものは同じようなものでも、手触りからなにから違うのです。こんなものひとつとっても日本は本当に綺麗だといまさら感心させられます。
こういう普段気もつかないようなことが異なるということ自体が文化であり、日本という国には、他国がとても追いつくことの出来ない高度な文化が息づいているのだと思います。
それを知るだけでも、周辺諸国への旅は非常に勉強になるものですし、こういう点はつくづくとありがたい国だと思います。
〜と、こんなことを言っていますが、だからこそ近隣諸国への旅は驚きと発見の連続で楽しいですよ!
みなさんもぜひどうぞ。
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秋のソナタ

名匠ベルイマン監督の『秋のソナタ』をまた見てしまいました。(冬ソナじゃありませんよ!)
1978年のスウェーデン映画で、主演の大女優イングリット・バーグマンにとっては、マロニエ君の記憶が間違っていなければこれが最後の映画だったように思います。

ピアニストで家庭を顧みないシャロッテ(バーグマン)が恋人と死別したことを機に、7年間も会っていなかった中年の娘から招待をうけてやって来るのですが、この映画の主題とも言うべき母娘の葛藤を軸に進行していきます。
舞台の大半は娘夫婦の自宅のみで、映画というよりは半ば戯曲のような調子で、人間に内在するさまざまな問題がこまかいやり取りを通じて赤裸々に描き出されます。

おそらく多くの人はこの映画を親子の愛憎の問題として捉えることだろうと思います。
恋にステージにと奔放に生きてきた母親は家庭は二の次で、夫と子ども達はいつもその犠牲で取り残され、長年積もりに積もった娘の心の傷は、ある夜ふとしたことから爆発します。
もちろんシャロッテが一般論として悪母悪妻であることに意義はありませんが、そこにもうひとつのテーマがあるように思います。

何かにつけけ華やかな世界に棲み音楽と演奏旅行に明け暮れた母と、容姿にも恵まれず目立たない日陰のような真面目一本の娘は、むごいまでに悉くの価値観を異にします。
マロニエ君は人間関係で最も絶望的なものは価値観の相違だと思っています。
価値観というものが人を動かし、統括し、人がましく生きるためのいわばベースだと思いますし、言いかえるなら思想そのものでもあると思われます。価値観とは皮膚であり血液であり、すなわち人格でしょう。

これがあまりに相容れないとなると、ほんのささいなことで軋みが生じ、対立やすれ違いの連鎖となり、永遠の平行線であるという事実を容赦なく描いているようにも思えます。
価値観が相容れない者同士がどんなに努力をしても、そこに残るのは虚しさと疲労と絶望のみ。
それが親子という縁の切れない関係であれば、よけいにその絶望の溝は大きな傷口のように広がるばかり。

娘は夫に促されて、いつも練習していたショパンのプレリュードの2番を母の前で弾いて聴かせるというシーンがありますが、それはなんともこの娘らしい、必死な思いこみだけでひどく独善的な、聴くに堪えない解釈であったところは非常によくできていると思いました。それを聴いている間のシャロッテの悲痛な思いを娘に遠慮して押し殺したようなバーグマンの表情がまた見ものです。
そのあとに語られたシャロッテによるショパンとこの作品の解説は、まったく正鵠を得た見事なものでした。
そして、それがまた娘を再び傷つけるのですが…。

人間の問題は善悪だけでは解決できない、ましてやきれい事ではすまないことのほうが圧倒的に多く、つくづく難しいものだということを見せつけられたようでした。
しかし、大変充実したマロニエ君好みの映画であることは間違いありません。
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鯛焼き

車でとある交差点を曲がっていると、いつもそこに鯛焼きのちょっとした有名店があるのが視野に入りました。
以前から存在だけは知っていたので一度買ってみようかと思いつつ、店は交差点のど真ん中で、車族のマロニエ君にとってはきわめて挑戦的な場所に位置する店でした。
交通量も多く、周辺はとうてい車が置けるような状況ではないのでずっと諦めていたところ、なんのことはない、少し先にこの店の駐車場があることがわかり、それではということでとりあえず買ってみることにしました。

マロニエ君は基本的に、博多では回転焼きといわれる甘味(一般的には今川焼き、太鼓焼きなどという丸形の鯛焼きの親戚みたいなもの)が好きなのですが、これが意外とどこにでもあるわけではなく、確実に買えるのは天神のデパ地下なのですが、これも人気があってしばしば行列になるのが甚だおもしろくありません。

東京から広がったと思われる卑しき文化のような行列というのがマロニエ君は心底嫌いで、ホロヴィッツのコンサートのチケットとでもいうのならともかく、たかだかちょっとした食べ物を買うのに、いちいち時間を使って行列に堪え忍ぶという自虐行為がどうにも馴染まず、行列を見たら反射的にパッと避けてしまいます。

ところが人によっては行列を見ると逆に並ばずにはいられないという御仁もいらっしゃるというのですから、いやはや世の中いろいろです。
長い行列の場合、それが果たしてなんのための行列かもわからないまま、ともかく最後尾に並んでおいて、しかる後にその行き着く先がなんであるかを探って確認するというのですから、ここまでくればあっぱれですね。

さて、ついに買ってみたその鯛焼きですが、家に持ち帰ってさっそく食べてみたところ、多少時間が経っていたということはあるにせよ、あまりにも外側がガチガチに固くて、なんじゃこりゃ?と思いました。
なんとか一口食いちぎっても、固いのでなかなか喉を通らず、お茶をのみながらやっと一個を食べおおせました。

中の白あんも雑でモサモサしていて、マロニエ君的にはぜんぜん美味しいとは思えず、なんであんな店が有名店なのかまるでわけがわかりません。
実はこの店もしょっちゅう歩道に人が行列しているので、味はそれなりかと思っていたのですが、到底納得しかねるものでした。
おまけに固くてやみくもにアンコを噛んで食べたせいか、しばらくのあいだ糖分で奥歯が痛くなるほどで、えらく損をした気分になってしまいました。

友人に言うと「文句の電話でもしたら?」といいますが、いかなマロニエ君でもまさかそこまでしようとは思いません。ただし、行列はいよいよ当てにはならないと思い定めた次第です。
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スイーツ通り

我が家のご近所には、このところ2つの甘い物の店が立て続けにオープンしたことで、以前からある店を含めると4つの甘い物の店が軒を並べることになりました。

いまさら店名を伏せる必要もないので書きますと、チョコレートの「カカオロマンス」、洋菓子の「浄水ロマン」、さらには最近オープンしたゼリーの専門店らしい「ROKUMEIKAN」、和菓子の「源吉兆庵」で、期せずして4店が横一列に連なる配列となりました。

マロニエ君は酒は飲まずの甘い物好きですから、環境的には嬉しいような気もしますが、実はこのうち洋菓子以外はあまり行かない店ばかりです。「ROKUMEIKAN」は銀座に本店があるゼリーの専門店らしいのですが、わざわざゼリーを買いに行こうとは思わないし、「源吉兆庵」はデパ地下ではおなじみのブランド和菓子です。

本音を言うとご近所に欲しいのは、こんな進物専用みたいな店ではなく、もっと安くて日常性のあるお店ができてくれることを望んでいるのですが、なかなかそうはならないものですね。

洋菓子店だけはいくつできても歓迎ですが、あとはできれば蜂楽饅頭の店とか、パン屋のたぐいが増えてくれるといいのにと思います。チョコレートは好きで昔はここでよく買っていましたが、ゴディバの台頭いらい値段もどんどん上がり、一粒の値段を考えるとあまりにもバカらしくて買う気もなくなりました。

「源吉兆庵」は進物でいただいたものは何度か食べましたが、マロニエ君の好みではなく特にどうとも思いませんし、これまた普段のおやつという感じではないのであまり行かないでしょうね。

それとこれらの新規オープン2店はマロニエ君にとって決定的な問題点があります。
それはいずれも駐車場がないこと。

我が家の位置を知っている人なら、駐車場の有無を言うなんてさぞ驚くでしょうが、これがダメなのです。
たぶん徒歩で2〜3分で、それをわざわざ車で行くなんて、大半の人は目が点になるでしょうが、マロニエ君としては店の前にパッと車を置けないと、それだけで行く気がしないのです。

こんな調子で長年生きてきましたから、たぶん変えられないと思います。
こんな悪いクセも、酒やタバコに溺れるよりは多少はいいかなと自分だけ思っているわけですが。
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商業主義

ネットでCDなどを検索しているとやみくもに時間をとって、気が付いた時にはぐったりと疲れてしまっている自分がそこにあり、ほとほとイヤになるものです。
「気が付いたら」というのは誇張ではなく、見ている間はかなり集中しているので時間経過に対する意識が薄くなっているのでしょうが、だからこそ無意識に無理をしてしまいちょっと恐い気がします。
目や神経は疲れ、体を動かさないぶん血流が悪くなっているようだし腰も疲れ、文字通りぐったりです。

それでも思わぬ発見をしたときなどは小躍りしたくなるほど嬉しかったりするのですが、たまにそんな経験があるばっかりに、また懲りもせずに見てしまい、そして疲れて終わりということのほうが多いわけです。
実際は発見なんてそんなにざらにあるものではないのですが。

その思わぬ発見というのとはちょっと違いますが、一応発見してびっくりしたのは、マロニエ君の部屋の「今年聴いたショパン(No.23)」であまりのひどさについ批判してしまったバレンボイムのショパンについてです。
今年の2月ごろ、ショパン生誕200年を記念してワルシャワで行われた一連のコンサートの中のバレンボイムのリサイタルには好みの問題を超越してそのあまりな演奏に驚いた次第でしたが、なんとそれがそのままDVDとして商品化され、今月下旬に発売されることを発見し、唖然としました。

内容の説明が重ね重ねのびっくりで「繊細で色彩感溢れるバレンボイムのピアニズムが凝縮された演奏。解釈は濃厚なロマンティシズムに溢れ、深みがあり、まさに巨匠の風格。ライヴの高揚感も加わり、観客を魅了するブリリアントな演奏を堪能することができる映像です。」ですと!

演奏の評価は主観に左右されるのをいいことに、あまりにも現実からかけ離れた表現だと思います。
どんなものにも大筋での優劣というのは厳然とあるのであって、良いものは個々の好みを超越して存在するし、逆もまた同様というのが芸術の世界であるはずです。

もちろん今どきのことですから、このイベントの計画段階からビジネスがガッチリと組み込まれ、版権を得た企業とは主催者・出演者とも厳格な契約が結ばれたはず。演奏の出来映えがどのようなものであっても、明確なアクシデントでも起きない限り予定された商品化は実行されるのかもしれませんが、だから商業主義などと言われてしまうのでしょう。

昔の芸術的道義に溢れたアーティストは、苦労して収録された録音に対してもなかなか発売のゴーサインを出さず、数年を経てやっと発売、あるいはお蔵入りというようなことはよくあることで、それだけ自分の芸術に対して責任を持っていたということです。

「これぞ巨匠の芸!」というサブタイトルも空虚に響くばかりです。
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ドッグイヤー

先の雑貨戦争のみならず、天神そのものの規模は年々拡大していくようですが、にもかかわらず書籍やCD店のようなカルチャーの分野に関しては、一昔前のほうがうんとレベルが高かったように思い起こされてしまうのは暗澹たる気分です。
何事も拡大発展していくときは気分も浮かれて嬉しく感じるものですが、後退するときの失望感はやり場のない虚しさがあるものです。

10年ぐらい前は今とはまるで違っていて、天神には大型書店があちこちに軒を並べていました。
丸善、紀伊国屋、八重洲ブックセンター、ジュンク堂、リブロ天神などがひしめき、それらを回るだけでも楽しいものでした。
ところがその後、数年のうちにつぎつぎにクローズしはじめ、現在残っているのはこの規模ではジュンク堂のみ。

書籍だけではありません。
CD店も一時はヤマハ、山野楽器、HMV、ヴァージンメガストア、タワーレコード、メディアセンター、文化堂など「今日はどこにしようかな…」といった状況でしたが、これも潮が引くように次々に撤退を重ね、残った店も売り場が大幅に縮小されてしまったりと、かつての面影はありません。
けっきょく現在ではマロニエ君の頼みの綱はタワーレコードしかありません。
その他の店はてんで種類が少なくて、ものの役に立たないからです。

追い打ちをかけるように、テレビなどで今さかんに言っていることは、これから先は電子書籍の時代になり、紙の本が姿を消すこともあるなどと、耳にするだけでも思わず嫌悪感を覚えるようなことを言っています。
ポイ捨てのフリーペーパーや雑誌ならまだしも、先人が残した至高の文学作品の数々を、液晶画面を操作しながら読むなんて、とてもじゃないですがそんな気にはなれません。

また、ある本を読んでいると、CDはあと5年ほどでなくなるのでは?というような兆候もすでにあるらしく、そんな時代、考えただけでもゾッと鳥肌が立ってしまいます。
そのうちピアノもiPadみたいなものを譜面立てにおいて、その液晶画面を見ながら練習するのでしょうか。

時代は進歩し、社会のあらゆる仕組みが猛スピードで刷新されて行くというのはわかっていても、それにしても現代の時間速度はドッグイヤーなどと揶揄されるように、あまりにドラスティックで早すぎ、どこか残酷な肌触りがあるように感じませんか?
紙の本がなくなり、CDがなくなるのは、マロニエ君には100年先でじゅうぶんです。
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福岡雑貨戦争

何日か前の新聞紙上に記事として掲載されていましたが、福岡は今、天神を中心とする雑貨戦争になっているという事でした。
この分野では最も古い店舗がインキューブですが、数年前にはロフトが開店したことで、売り場面積ではこちらが一歩リードしていたようです。

その後オープンしたパルコでも、出店している150店中50店が雑貨店だそうで、関係者の話によると雑貨店はお客さんの滞在時間が長く、あちらこちらに「買い回り」という動きをするとかで、現在この分野が大きな注目を集めているということでした。
実際にはきっとそれだけではなく、なかなかモノを買わない若者相手に、値がはらず、見るだけでも楽しめる雑貨でなんとか気を惹こうという、苦しい戦略のようにも見受けられますが。

また来年春には博多駅の新ターミナルが竣工開業し、核テナントのひとつが東急ハンズになるので、この福岡を舞台にした雑貨商戦はますます熱を帯びそうな気配らしいのです。

そんな状況を迎え撃つためか、インキューブでは最近、上階の大型飲食店だったスペースを売り場に改装してつい最近オープンし、ロフトと並ぶ最大級とやらの売り場面積を確保したらしいのですが、ちょっと行ってみると、増床部分は時代を反映してか化粧品や健康関連の、いわば生活に関連密着した物ばかりが並んでいて、特段の新鮮味は感じられませんでした。

こうして、似たような店ばかりがあっちにこっちに出来たところで、結局は同じような店や物が増えるだけという気がします。
雑貨店は通りすがり程度に眺めてみること、ちょっと珍しい物やこぎれいな物があったりと、それなりの楽しさがあるのはわかるのですが、だからといって地元の人間がそうそう何度も行くとは思えません。
もちろん田舎からはるばるやって来る人には目新しい印象を与えるのかもしれませんが。

そんな店舗がどんどん増えて、一見華やか賑やかに見えますが、結局はどこもおなじことの繰り返しで、必ずや互いに足の引っぱっり合いになる(もうなっている?)という気がします。
これから先、年賀状、来年のカレンダー、ダイヤリーなど、結局おなじようなものがこれらの店頭に溢れかえると思うとなにやらうんざりしてしまいます。
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ピアノを買うこと

一昨日書いたロート製薬のスタインウェイとピアノ同好会が紹介された同じページには、もう一つの微笑ましい文章が記されていました。
音大を出たわけでもない、ピアノがさして上手いわけでもない普通のサラリーマンが、友人がグランドピアノを買って喜んでいる姿を見てどうにも羨ましくなり、酒もタバコもやらないその人は、ついにS社のA型を買ったというのです。

果たしてピアノが来てからというもの、家に帰るのが楽しくなり、購入から2年後には結婚されたもののピアノはもちろん一緒で、いまは奥さんが昼間弾いているのが「ちょっとずるいな」という気がするという、ほのぼのとしたいかにも幸福感にあふれた話でした。

実はマロニエ君もこのところ、ピアノ購入を検討している知人の話を聞きながら、ピアノを買うということには、たとえ人の事であってもなんともいえない楽しさと華やぎがあり、そこから漏れてくる空気をクンクンと犬みたいに嗅いでは楽しませてもらっているところです。

ピアノが購入者のもとにやってくるということは、昔の嫁入り行列ではないですが、なんともお目出度い人生上の慶事のように思います。
これがもしヴァイオリンやフルートだったらどうなんだろうと想像してみますが、なんとなく少しニュアンスが違うように感じてしまうのは、マロニエ君がピアノ好きという理由だけではないようにも思うのですが。
ピアノを買うというのは生活の質までも変えてしまうような、きわめて情緒的な要素が強くこもっていて、なにか特別な事のような気がします。

例えば新しい立派なホールが落成しても、そこにピアノが納入されてはじめて、ホールに命が吹き込まれ、魂が込められるような気がするのはマロニエ君だけでしょうか?

ましてや一般人でピアノを購入するというのは一大イベントです。
とりわけ最近は電子ピアノという便利な機械が普及しているので、その前段階を踏み越えてついに本物のピアノを手にするというのは、まるで一人家族が増えるのにも似た心の高ぶりがあっても不思議ではないように思います。

これから共に過ごす長い年月、音楽という何物にも代え難い喜びを一緒に楽しむいわば伴侶も同然ですから、さまざまな予想を巡らせつつあれこれと検討してみるだけで心躍ような気持になるはずです。
それにつられて、マロニエ君も無性にピアノが買いたくなって困ってしまいます。
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ロート製薬

先に紹介したモーストリークラシックのスタインウェイ特集を見ていると、目薬などで有名なロート製薬の会長(といっても若い方でしたが)がピアノが好きで、大阪の本社には800人収容のホールがあるそうなのですが、そこに今年スタインウェイのコンサートグランドが入れられたとありました。

親しい楽器店から購入したというそれは、1962年のD型といいますからすでに50年近く経ったピアノです。
一説には、戦後のハンブルクスタインウェイでは1963年前後のピアノがひとつの頂点だと見る向きもあるようで、まさにその時期の楽器というわけでしょう。

この若い会長は小さい頃、いやいやながらもピアノを習った経験を生かして現在では練習を再開し、家にもヴィンテージのスタインウェイA型があるとか。
こうくると、その親しい楽器店というのもおおよその察しがつくようです。

驚いたことにはロート製薬の中にクレッシェンドという名の20名ほどのピアノ同好会があり、この自前のホールとピアノで演奏を楽しんでいらっしゃるそうで、なんとも粋な会社じゃないかと思いました。

20名というのがまたジャストサイズで、ピアノに限らずサークルやクラブのたぐいは会社や政党と違って、大きくなれば良いというものではなく、一定人数を超えるとどうしても会はばらけ、情熱や意欲がなくなり、互いの親密度は薄れ、参加意識も責任意識も失われていくものです。これに伴い人同士の交流も表面的なものに陥るばかり。
ここに天才級の坂本龍馬のようなまとめ役でもいれば話は別でしょうが、一般的にはこの法則から逃れることはできません。
マロニエ君もピアノではないものの、趣味のクラブを通じてそのことは身に滲みていますし、現にそれを知悉して人数の制限をすることで密度の高い活動を維持しているピアノサークルもあるようですが、これは実に賢いやり方だと思います。

それにしても、わずか20名が「自前のホールとスタインウェイ」で例会を楽しむというのは、ピアノサークルにとってまさに理想の姿ように思われます。
マロニエ君が所属するピアノサークルでも、リーダーの頭を常に悩ませるのは定例会の場所探しの問題のようです。

安くてピアノがあって、しかも気兼ねなく使える独立した空間というのは今どきそうそうあるものではありません。
ホールならそこらに余るほどごろごろあるので、それをポンと借りられたら世話なしですが、いかんせん高い使用料がそれを阻みます。

ロート製薬のピアノ同好会は場所や料金の心配なしに、専ら活動にのみ打ち込めるのは、あまたあるサークルの中でもまさに例外中の例外だといえるようです。
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庭木の憂鬱

庭に植木屋が入ると、だいたい予想よりもバッサリと、木々は無惨なほど短く切られてしまうものです。
子供の頃住んでいた家ではそれが甚だおもしろくないものとして目に映り、ひどく悲しい気分になったこともありましたが、それも遠い昔の話。
いまではそんな甘い情緒は見事に失い、180度考えが変わってしまいました。

植木を放っておくと止めどもなく枝は伸び、葉は生い茂って、秋の深まりと共に毎日山のように降り積もる落葉の掃除にエネルギーを費やさなくてはならなくなります。
実は今年の夏前も、植木屋にはよくよく思い切ってバッサリやってくれと頼んでいましたから、木々はしたたかに刈り込まれ、終わったときにはまるで骸骨が空に向かって逆立ちしているような姿になり、そこらがパッと明るく広くなったようでした。

ところが、それもしばらくのことで、夏になり、秋を迎えるこのごろでは、あのつんつる坊主はなんだったのかと思うほど新しい枝が八方に伸び、そこには夥しい葉が生い茂ってしまっています。

テレビに『なにこれ珍百景』とかいう番組があり、歩道のガードレールに街路樹の幹がまるで蛇のように巻き付きながら、そのまま成長を続けているという珍百景が紹介されましたが、我が家にもお隣との境目にあるフェンスに同様の事態が起こっており、つくづくと植物の物言わぬ怪物的なエネルギーには嫌気がさしています。

おまけに隣家には見上げるような大木が何本もあり、おかげで新緑の頃などは美しいことこの上ないのですが、その木から我が家へ落ちてくる木の実や落葉ときたら生半可な量ではありません。
たまにその実をついばみに、つがいの山鳩がきたりすると、いっときの情緒を味わったりすることはありますが、あくまで一瞬のこと。現実にもどればそんな悠長なことでは事は収まりません。
屋根は汚れ、雨樋はつまり、被害のほうがよほど甚大というべきでしょう。

地面のほうも問題で、木の根も年々勢力を増し、池の水面を泳ぐ龍の背のように地面をのたうち、いつ塀や壁が壊れるかと思うと気が気ではありません。
マンションにお住まいの方からは、わずかなりとも庭のあることを良いように言ってもらうことはあっても、こちらはそれどころではないばかばかしい戦いが続くようです。

これから冬にかけて、我が家のゴミの半分以上が枯葉の山となります。
しかもその半分以上はお隣から降ってくるいわば「よそのゴミ」なのですから、トホホです。
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シャネルとストラヴィンスキー

またしても音楽が関係する映画を観ることができました。
ヤン・クーネン監督の『シャネルとストラヴィンスキー』2009年・フランス映画です。

冒頭で、いきなりパリ・シャトレ座での有名な「春の祭典」の初演の騒ぎの様子が克明に描かれており、開始早々とても見応えのあるシーンでした。はじめは大人しくしていた観客は、あの野卑なリズムの刻みと不協和音、そして舞台上で繰り広げられるあまりにも型破りなバレエに拒絶反応を示し、喧噪と大ブーイングの嵐となり、ついには鎮圧に警察まで出てくるという衝撃的なシーンです。
バレエといえば白鳥の湖やジゼルと思っていた聴衆でしょうから、さしもの新しいもの好きのパリっこ達もぶったまげたのでしょうね。

楽屋裏でのバレエ出演者が、みな風変わりなおもちゃの人形のような扮装をしているので、てっきり演目はペトルーシュカだろうと思っていたら、始まってみると音楽が春の祭典だったので意外でしたが、よく考えてみると、あの大勢の男女の裸体に近い全身タイツ姿で繰り広げられるモダンでエロティックな春の祭典が定着したのは、戦後、ベジャールによる新演出によるものだということを思い出しました。あれ以外の春の祭典を知らなかったので、当時はこんな舞台だったのかと思いました。

さて、この様子を観てストラヴィンスキーに惚れ込んだシャネルが、パリ郊外の邸宅にストラヴィンスキー一家を住まわせ、自由な仕事の場を提供するのですが、シャネルとストラヴィンスキーは次第に惹かれ合い、ついには濃厚な男女の関係に発展します。同じ邸宅内にいる病気の妻や子ども達にもいつしかそれは悟られ、妻子は家を出ていってしまうのですが…。

それにしても、少なくともマロニエ君はシャネルとストラヴィンスキーの関係など聞いたことがないので、どこまでが本当かはわかりませんが、それをわざわざ調べてみようという意欲もなく、映画としてじゅうぶん以上に楽しめる作品だったのでそれで満足しています。

シャネルというのはマロニエ君の中では申し訳ないが成り上がり女性というイメージで、追い打ちをかけるように現代のブランドの捉えられ方に抵抗があって好きではなかったのですが、この映画の随所に表されたシャネルの、あの黒を基調とした美意識の数々は、服装にしろ家の内装にしろ、見るに値する美しいもので思いがけなく感嘆を覚えました。

シャネル役のアナ・ムグラリスは長身痩躯を活かして、次々に斬新な衣装を颯爽と身に纏いサマになっていましたし、ストラヴィンスキー役のマッツ・ミケルセンはいささか逞しく立派すぎるような気もしましたが、ピアノを弾く姿も自然で、もしかしたらピアノの心得があるのかもしれません。
ちょこちょこ登場するおそらくは興行師のディアギレフとおぼしき人物が、これまた実によくできていました。

ストラヴィンスキーに与えられた仕事場にはグランドピアノがあり、場所もパリ郊外だからプレイエルやエラールだったらストラヴィンスキーの音楽にはミスマッチではなかろうかと思っていたところ、果たして戦前のスタインウェイでしたので、そのあたりの細かい考察もじゅうぶん尽くされているのだなあと感心しました。
折々に挿入されるストラヴィンスキーの音楽は、知的な精神が野生的なリズムや和声の中に迷い込み、躍動、衝突、融合を繰り返すような類のない芸術作品で、いまさらながら感銘を受け、彼の作品をもっとあれこれと聴いてみたくなりました。
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病院はおしゃべりサロン?

マロニエ君はいま、ちょっとしたことでときどき通院しているのですが、そこで目にする事々もいろいろと感じるところがあるものです。
「待つ」ということが子供の頃から猛烈に嫌いなマロニエ君としては、できるだけ待ち時間の少ない時間帯を狙っていくようにしています。
だいたいこれまでの経験でいうと、病院の昼休み前とか、閉院時間の近づく頃になると人は少な目になるようですし、逆に連休明けや、昼休みが終わって午後の診察がはじまるあたりはとても混み合うということがわかりました。

さて、順番を待っていて困るのは一部高齢者の方の動向です。
病院といっても小さな医院ですから、診察室内の会話が漏れ聞こえてくることが多いのですが、高齢者の女性などは先生を相手に、いつ果てるともないおしゃべりの全開状態です。
普段が寂しいのか、周りへの気配りが出来なくなっているのか、そこはわかりませんが、とにかく直接病状とは関係なさそうなことまで延々と喋っています。そしてその時間の長いこと!

こういう人が一人いると、診察のテンポはいっぺんに乱れ、後が渋滞になってしまうのです。
それでも、話がひとしきりついて、もう終わりかと思うと、「あ、そうそう、それと…」などといってまた話は続きます。それも一応は自分の体のことに絡んでいることではあるし、病院からみれば患者はお客さんなので、先生もにべなく退けるわけにもいかないのでしょう。

先生が何度も「わかりました」「それでは」「じゃ今日は」などと区切りのセリフを吐いてみても、この手合いはまるで意に介さずで、てんで話をやめようとはしません。
女性のほうが多いようですが、男性にもこのタイプはいないことはなく、やたら日ごろの身体の話がいつ終わるともなく綿々と続きます。
この人達には、「話は簡潔に」などという考えは逆立ちしても出てこないようです。

ようやく出てきたと思ったら、お次は話し相手が看護士さんに引き継がれ、さらには受付の女性などにお金を払いながら延々と自分の話をしまくります。
聞こえるだけでもドッと疲れてしまい、やれやれと思いながら、やっとこちらの診察も終わって薬局にいくと、またその人が先客にいて、今度は薬剤師相手にべちゃくちゃ喋っているのを見ると、そのパワーにはもう頭がくらくらしてきます。

少々のことはお年寄りのされることは寛容と理解の気持を持って接しなくてはいけないと思いつつ、さすがにここまでやられると注意のひとつもしたくなってくるものです。
もちろん、したことは一度もありませんが。
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スタインウェイの特集

メジャー音楽雑誌のひとつであるモーストリー・クラシックの最新号(12月号)は「ピアノの王者 スタインウェイ」と銘打つ巻頭特集で、全180ページのうち実に65ページまでがこの特集に充てられています。

別の音楽雑誌でも、今年の夏頃、楽器としてのピアノの特集が数号にわたって連載されましたが、いかにもカタチだけの深みのない特集で、立ち読みでじゅうぶんという印象でした。

それに対して、モーストリー・クラシックのスタインウェイ特集は量/質ともにじゅうぶんな読み応えのあるもので、こちらはむろん迷うことなく購入しました。
巻頭言はなんとドナルド・キーンによる「ピアノの思い出」と題する文章で、若い頃にラフマニノフはじめマイラ・ヘスやグールドの演奏会に行ったことなどが書かれており、また自身が幼少のころピアノの練習を止めてしまったことが今でも悔やまれるのだそうで、それほどの音楽好きとは驚かされました。
これまで見たことがなかったような、ニューヨーク・スタインウェイの前に端然と座るラフマニノフの鮮明な写真にも感動を覚えます。

他の内容としてはニューヨーク工場の探訪記や、スタインウェイの音の秘密などがかなり詳細に紹介されているほか、日本に於けるスタインウェイの輸入史ともいえる松尾楽器時代の営業や技術の人の話や様々なエピソード。
ボストンやエセックスなどを擁する現在のビジネスの状況や、ピアノの市民社会における発達史、さらにはスタインウェイとともにあった往年の大ピアニストの紹介、文筆家&ピアニストの青柳いづみこ女史による110年前のスタインウェイを弾いての文章。名調律師フランツ・モアの思い出話、ラファウ・ブレハッチ、小川典子などのインタビュー等々いちいち書いていたらキリがないようなズッシリとした内容でした。

この特集とは別に20世紀後半を担ったピアニストとしてアルゲリッチとポリーニが4ページにわたって論ぜられていたり、巨匠名盤列伝でケンプのレコードの紹介があったりと、ずいぶんサービス満点な内容でした。

ところで、思わず苦笑してしまったのはヤマハの店頭でした。
このモーストリー・クラシックの表紙には、嫌でも目に入るような黄色の大文字で「ピアノの王者 スタインウェイ」とバカでかく書かれているのですが、折しもショパンコンクールでは史上初めてヤマハを弾いた人が優勝したので、こんな最高の宣伝材料はなく、まさにこれから賑々しい広告活動に取りかかろうという矢先、実に間の悪いタイミングでこんな最新号がでたものだから、もしかしたら全国の店舗にお達しが出たのかもしれません。

普段なら各メジャー雑誌は表紙を表にして平積みされており、このモーストリー・クラシックもそのひとつだったのですが、今回ばかりは他のマイナー誌と一緒にされて、細い背表紙だけをこちらに向けて目立たない奥の棚に並べられていました。あんなにたくさん立てて並べるほどの雑誌が手前に置かれないこと自体、いかにも何かの意志が働いたようでみるからに不自然で笑えました。
気持はわからないではありませんが、なんだかあまりに単純で幼稚。せっかく良いピアノを作って栄冠も勝ち得た堂々たるメーカーなのに懐が狭いなあと思いましたが、企業魂とはそういうものなのでしょうか?
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「THE安心」

しつこいようで恐縮ですが、テレビ購入にまつわる話をもうひとつ。

エコポイント取得の納得しかねる制度とは裏腹に、望外のサービスで驚いたことがありました。
ヤマダ電機の宣伝をするつもりは毛頭ありませんが、以下の通りです。

以前買ったテレビ/DVDレコーダーでは6年間の長期保証というものに入っていたために、購入後丸2年を過ぎた直後に起こったDVDレコーダーのハードディスク故障も無償でスムーズに乗り切ることができた経験から、今回もこれに加入するつもりでいました。
加入には購入金額の5%を支払う必要がありますが、要はもしものときの安心料のつもりです。

ところが店員によると、一段と進化した保証制度ができたらしくそれは次のようなものでした。

「THE安心」と銘打つ保証システムがそれで、3,129円を支払って契約すると、以降一年間は今回購入したテレビだけでなく、我が家にある大半の家電製品が無償で修理してもらえるというものでした。
つまりひとつの製品につく保証ではなく、一世帯の中にある家電製品全体がヤマダ電機から保証を受けられるようになるという驚べきものでした。しかもその対象となるのは他店で買ったものでも、ネット通販で購入した商品でも、出所は一切不問というのですから俄かには信じられないような話です。
ただし条件があるのは、生産終了から6年(ものによっては9年)を経過したものは交換パーツがなくなるために適用されなくなるというものでした。

驚きはそれだけではありません。
一年あたりの年会費は初回のみ3,129円ですが、2年目から3,832の口座引き落としとなり、一年間修理依頼がなければ次年は割引もあるということです。しかも入会時や更新時にはそのつど3,000円分の商品券をくれるというのですから、実質はほとんど数百円というものになるわけです。

これによって家にある家電製品のうち、よほど古いものを除いて修理費用から解放されると思うと、嬉しいような、でもまだなんだか信じられないような気分です。

そもそもの商品価格じたいが大型店ならではの低価格である上に、このようなサービスを受けられるとは結構ずくめですが、これじゃあ町の小さな電気店などどう足掻いてもかなうはずもなく、力のある大資本だけが可能な薄利多売と過剰サービスの乱発で勝ち残り、けっきょく世の中全体を不景気に追い込んでいるような気もしました。

なーんて、自分はちゃっかりその恩恵に与りながら、こんな第三者ぶった感想をもらすのはいかにも身勝手なようですが、しかし一人の消費者としては、やはりありがたいことに違いありません。
ここのところが難しい問題ですね。
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エコポイントの落とし穴

テレビ購入に際してエコポイントなど、いろいろと知り得たことがありました。

32型の場合12000ポイントなので、以前は、テレビを買えばポイントに相当する額の金券でもポンと送ってくるのかと簡単に考えていましたが、どうもそうではないらしいということをマロニエ君よりも一足先にテレビを買った知人から聞かされていた。
その人は購入前に「ポイントで掃除機でも買うつもり」と話していたが、いざ購入してみると、ポイント獲得の手続きがややこしくて、まだ手をつけていないというので、へええ…と思ってました。

果たしてポイントは、購入者自身が国の担当機関へ申請しなくてはならず、申請書には購入者の名前や生年月日からはじまり、購入日の記入や捺印、さらには「購入製品の領収書/レシートの原本」「メーカー発行の保証書のコピー」「家電リサイクル券排出者控のコピー」を貼り付け、希望する品目を明示しなくてはなりません。
あれこれコピーしたり、切ったり貼ったりと、まあとにかくうんざりするような作業のようです。
そして必要事項のどれひとつが欠けても申請は通らないのだそうです。

それだけではなく、ポイントはカタログをみると大半がモノとの交換で、お米やお肉などのやたら高額設定の品ばかりがズラリと並んでいて、例えばどこぞの「こしひかり」が5kgで4000~5000円に該当したり、ブランド牛のステーキ4枚で15000円相当だったりして、これだけですでにちょっとだまされた気分になります。
他の方は知りませんが、マロニエ君はお米などせいぜい5kgで2000円程度のものでじゅうぶんです。
これじゃあ、まるで国と各業者が結託しているかのごとくです。

かろうじて小さく書かれた「ギフトカード」なる商品券がありましたが、これもポイントの数字より低い金額しかもらえない上に、5000円の次は一万円刻みなので、よほどポイントがキリよく収まらないことには、はしたは切り捨てられて損をすることになる仕組みだと言わざるを得ません。

例えば32型のテレビを購入して古いテレビを処分する場合、テレビ購入で12000ポイント、古いテレビのリサイクルで3000ポイント、合計15000ポイントが与えられます。
しかし金券を希望する場合、5000円には5400ポイント、10000円には10400ポイントという大まかな設定しかなく、15800ポイントにわずかに達しないために10000円分しかもらえず、4600ポイントは捨てるか、あとはせいぜい素麺とか肉まんとかに換えるしかありません。

誰あろう国がすることなのに、なんかやり方がいやらしいというか、霞が関の汚さを感じます。
どうせポイントをくれるなら、たとえもう少しポイントが低くてもいいので、なぜ利用者が気持ちよく納得できるような真っ直ぐなルールにしないのかと思います。せめて5000ポイントが4500円、10000ポイントが9500円というようにすれば良いじゃないかと思うわけです。そもそもポイント自体が決められたキリのいい数字でしかないのに、あえて400ポイントオーバーさせるあたりに、いったん与えたポイントを巧みに目減りさせようという、いかにも役人によって仕組まれた悪意を感じます。

しかも希望するものが送られてくるのは申請書の受理から起算して2〜3ヶ月先というのですから呆れるというか、なんだか釈然としない要素ばかり並んでいるようです。
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テレビ購入

ついに懸案だったテレビを買いました。
店選びは今回は迷うことなくヤマダと決めていましたが(保証修理の対応が大変良かったので)、機種やメーカーについては特にこれといったこだわりもなく、普通の液晶テレビとしての性能を備えていればじゅうぶんなので、店頭でもう一度画質と価格を見比べてみて決めようと思いました。

ヤマダといっても市内とその近郊にはいくつもの店舗があり、店舗ごとに在庫やお買い得品の設定も違うような気がして(同じかも知れませんが)、できるだけ大型店にいってみようかと思いつつ、とりあえず最寄りの店に入ってみたところ、さすがにそこにもいろいろあって、これ以上やたらと動いても仕方がないので、結局はここで購入することになりました。
さらには、電気店の店内って、無数にある商品の大半が発熱源であるためか、なにか独特な熱気が漂っていて、気が付くとその温度だけでかなり疲れてしまい、後半はだんだんどうでもいいような気になってきました。

今回はめざす価格帯には東芝、シャープ、パナソニック、ソニーがあり、三菱はありませんでしたが、印象はずいぶん異なりました。前回までのイメージではシャープのおだやかな感じが好ましいように思っていたのですが、今回は調整の具合なのか、ずいぶんどぎつい発色になっていて、これがまっさきに候補から外れました。

店員の話では、レギュラー品の大半は海外生産モデルとなるらしく、この中で日本製は唯一パナソニックとのことでした。しかし、こちらは価格が一万円ほど高いわりには、画質などに特段の優位性は感じられず、だったら日本製でなくてもいいと思い、東芝とソニーまで絞りました。

マロニエ君としては現在うちにあるメインのテレビがソニーで、画質は申し分ないというか、良過ぎて疲れるというようなことをかねがね感じていましたので、今回は他メーカーでもいいと思っていましたが、店頭で見比べてみるとやはりソニーの画質が明らかに良く、しっとりと落ち着きがある上に液晶特有のざらつきが格段に少ないことが確認できました。
これだけ違えば悔しいけれど、やっぱりソニーしかないという結論に達して、これに決めました。

ところが、これはずいぶんな人気商品らしく、他のすべてのモデルが「お持ち帰りできます」のシールが貼ってあるのに、ソニーのこのモデルだけ納期に3週間を要するということでした。
3週間はちと長いような気もしましたが、どうせ配達&設置をしてもらうのだし、長い付き合いになるテレビですから、やはり画質を最優先すべきと考えての決断となりました。
もうひとつ気に入った点は、テレビのボディというか外枠が黒/白両方が選べるので白にしました。

白というのはモノによっては軽薄になったり下品になったりするものです。
男物の靴やグランドピアノなどが白だと、ちょっと御免被りたいところですが、マロニエ君はMacユーザーでもあり、長いことアップルの製品に馴らされているせいか、電気製品の白というのも悪くないと思うようになっていたので、わりと抵抗なくこれにできたのかもしれません。
さあこれで来年の7月を迎える準備が出来たというわけです。
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スター消滅

ショパンコンクールがついに終わったようですね。
パソコン画面で毎晩夜中に音楽に際限なく集中するのはとても疲れるので、あまり見ないようにはしていたのですが、それでも一日一回、チラチラ程度には見ていました。
実は二次の途中あたりからだったか、大雑把な印象として、こりゃあどうやら大物がいないなあという気がしてきていました。

むしろはじめの頃のほうが、みんな上手いもんだと感心していたのですが、日が進むに連れてだんだんと興味がなくなったといったら言い過ぎですが、わずかでも実体みたいなものが掴めてきて、惹きつけられるものは自分の中ではっきりと減退していきました。

結果については、マロニエ君は率直に言って納得できませんが、まあそれでも結果は結果ということなのでしょう。
優勝したロシアの女性は演奏もさることながら、優勝者に相応しいオーラというものがまるでなく、新たなスターが誕生したという感慨は得られません。
音楽的にも特段のなにかは感じないし、コンチェルトでもえらくたくさんミスタッチがあって、首を傾げるばかりです。

もちろん音楽はミスタッチ云々ではないと思いますし、そういうことをとやかく言うほうが愚かなことだと日ごろから思っていますが、しかしショパンコンクールの優勝を争うような人ともなれば、そのへんも当然問われるべき要素だと思います。

それから、今回はアジア勢がまったくふるわなかったのも不思議な気がします。
また、優勝者の使用ピアノがヤマハというのも史上初で、CFXはたしかに素晴らしいピアノとは思いますが、これもまたなにかちょっとよくわからないものを感じます。
この先、広告宣伝にこの事がこれでもかと濫用されるかと思うと、ああもう…今からうんざりします。

いずれにしろ、世の中は「大物不在の時代」を迎え、政治家を筆頭に、圧倒的な存在感を放つような超弩級の存在がなくなり、それはピアニストの世界も例外ではないということでしょう。

本来の純粋な審査結果からすれば、一位無しということが妥当だったのかもしれませんが、あるときからコンクールとしては何が何でも優勝者を出さなくてはいけないという認識に変わったらしく、たしかその第一号がユンディ・リだったと記憶しています。
ピアニスト全体の平均点は上がっているようですが、芸術界がほんとうに欲しいのは、平均点とは真逆の、一握りの光り輝く宝石のような数人だけなんですけどね。
…でもまあ、これが時勢というものなのでしょう。
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無頼の徒対策?

いつもながら天神に出たついでにヤマハに立ち寄りました。
世相を反映してか、今や天神店のような基幹店にもリニューアルピアノが多数展示されるようになったのは以前このブログでご報告した通りですが、一段とその数が増えているように感じました。

すべてのピアノの鍵盤の上には「試弾の際は係員まで」という意味のカードが置いてあり、要するに無断で弾かないでくださいという警告です。
本来的には、ピアノは音を出してこそのものであり、ましてや中古のリニューアルピアノというなら、余計に気軽に弾いてみる必要があるようにも思えるところです。

よほど購入を視野に入れたお客さんなら店員に声掛けしてでも試弾してみるでしょうが、大半の人は腰が引けてしまいますし、それでビジネスチャンスを逸することもあるでしょう。
純粋にピアノ販売としてだけみるなら、必ずしも正しい方法かどうかはよくわかりません。
他の購入品にも言えることですが、一般的なお客の心理として、まずは店員の存在に縛られることなく、自由に触れてみたいという気持があり、そういう自由な入口があることで購入の方向に発展する場合も決してないことではないと思います。

しかし、おそらく物事の現実はそう簡単な話ではないのだろうと思います。
ヤマハはピアノ以外にもCDや楽譜をはじめいろいろなものが置いてあり、それらを求めて来店しているお客さんもいるわけで、そこで商品のピアノを自由にどんちゃんやられては他のお客さんの迷惑になるという配慮が働いているようにも思います。

とりわけ躾の悪い子供などが好き勝手にやり出したら、今どきは親の管理も期待できませんから、大変な騒音になるでしょう。
子供よりもタチが悪いのは、ちょっとピアノが弾けるつもりの、勘違い満載の大人のほうかもしれません。
こういう人達は自己中&自己顕示欲がめっぽう強く、自分ではそれなりに上手いつもりで救いようのない勘違いをしていますから、これでもかとばかりに弾くだけ弾いて、気が済んだらパッと帰るだけです。
この手は99%お客になる見込みはなく、それは当人も良くわかっているはずです。
だからよけいに一時の快を求めるように、店のピアノをまるで飢えた狼のように弾き漁るのでしょう。

滑稽の極みは、周りは感心して耳をそば立てているというお目出度い自意識があるようで、こういう人の大半は「認められたい願望」が強烈な、なんとも哀れな人達のようです。しかし、そういう強烈願望を持つに至ったという事実そのことが、認められるべき何物も持っていないことの表れなのですが。

こういう無頼の徒の被害を食い止めるために、やむを得ず上記のようなカードが鍵盤の上に乗せられているのかと思うと、つくづくと世の中は低い次元に合わせた規制をしなくてはならないという、真に情けない条理があるように思いました。
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4分間のピアニスト

何故かこのところ立て続けに音楽映画を観ました。
『4分間のピアニスト』というドイツ映画(2008年)で、ずいぶんいろいろな賞をとった話題作とのことでしたが、残念ながらまったくマロニエ君の好みの作品ではありませんでした。
この映画のホームページには、まるで世界中が絶賛した、傑出した作品のように書かれていますが…ほんとに?

暗い過去を背負い、人生を踏み外して刑務所に服役している若い女性の天才ピアニストを、老教師が見出し、刑務所内にピアノを運び込んでレッスンをはじめますが、心を閉ざし手のつけられないほど荒れた主人公は、なまなかなことではピアノに向かわせることもできません。

老教師は音楽に関しては極めて厳格な人物ながら、辛抱強くこの荒れ果てた女性に接して指導を続け、いつしか二人は心を通わせて、コンクールに出場するまでが主な流れですが、主人公の若い女性の屈折した人格をリアルに表現しようと、随所にむき出しの強烈な映像が置かれ、中でも暗くて陰惨な暴力的シーンが多いのは見ていて疲れました。

暴力といってもアクション映画や日本のチャンバラとは根本的に異なり、神経に刺さるような生々しい、嫌悪感を増幅させるようなもので、精神的に不安定な人間がまき散らす、恐怖心とヒステリックな攻撃性をいやらしいほど残酷に描くのは、見る人が見れば高い評価をするのかもしれませんが、映画を見る目的を娯楽においている者にとっては相当な嫌悪と疲労を覚えました。

もちろん楽しいばかりが映画ではないことぐらいわかりますし、あれはあれでひとつの表現であったと考えなくてはいけないのでしょうけれども、なぜああまで暗くてハードなものにしなくちゃいけないのかマロニエ君は理解に苦しみます。
でもきっと、最近の賞を取るような映画っていうのは、こういう手合いが多いんだろうなあという気がしました。

クラシックの名曲もそれなりに出てきましたが、音楽を楽しむ雰囲気でもなく、さらにはっきり確認したわけではないけれど、いやに音程が高めで最後までこれが気になって更に疲れました。

刑務所に運び込まれたピアノはドイツ映画だけあってシンメルのグランドで、最後のコンクールでステージに置かれたピアノも同じくシンメルでした。
シンメルはドイツでは良質な量産ピアノですが、なかなか音として客観的に聴く機会はないので、もう少しこちらも楽しめるものであったらよかったのですが、残念ながらそういう次元には至りませんでした。
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草戦争-番外編

草に限らず、通常は美しいと感じる緑でさえも、植物というのは至近距離で接してみると、意外に不気味な一面があるものです。木の成長も思ったより早く、気がついたときには枝葉は深く生い茂り、幹は一段と太さを増していたりして、いろいろと不都合な場面も出てくるわけです。
隣の木の実が落ちてきて、それが発芽するのもちょっと油断していると、けっこうな勢いで成長してしまい、ある程度になると引き抜くのも一苦労で、ついに諦めてのこぎりで切ったことも何度もあります。

さて、人によってはお好きな方もいらっしゃるとは思いますが、マロニエ君はツタというのがあまり好きではありません。
もちろん普通にパッと見た感じだけでなら、葉の形は可愛らしく、なかなかの雰囲気さえあると思います。
モネのジヴェルニーの屋敷のように、ヨーロッパの田舎などではこれを上手く利用した、まるで絵のような佇まいを作り出すこともあるようで、彼らはもともとそういうセンスにも長けているのでしょう。

しかし自宅に限って言うなら、ツタの類がどんどん這い回っていこうものなら気持ちが悪くて仕方がありません。
我が家の周辺は若干の斜面になっていて、裏には高さの違うマンションが聳えています。その境界はマンション側が作った幅20メートル、高さ4メートルほどのコンクリートの壁になっていて、ひとつにはこれのお陰で深夜まで大した気兼ねなくピアノが弾けるというメリットもあるのですが、この壁に近年、つやつやとしたなんとも見事なツタが這いはじめ、ついには幾方向にものびてかなりの規模になりました。

これはたぶん、他人が見ればきれいだとおっしゃるかもしれませんが、毎日の生活の中で着実にその勢力を拡大してくる得体の知れない生命力を見ていると、意外にグロテスクで耐えられなくなってきました。
最後には広大な壁一面をツタの葉がウロコのように覆い尽くし、昆虫など生き物の巣窟になるのは目に見えています。

そこで、これ以上放置はできないということになり、いまのうちに撤去する決断をしました。
ところが、ちょっとやそっと引っぱるぐらいではびくともせず、その強力な接着力の強さも驚きでした。
とうとう軍手をはめて、両手でばんばん引きはがしていきましたが、なんと45Lのポリ袋がいっぱいになるほどの量になっていました。

ときどきこのツタに完全に覆われ尽くした緑のオバケのような建物を見かけることがありますが、あの類は見ただけで身震いがします。
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世間は狭い

スタインウェイ・システムピアノ説明会というのが地元特約店で開催されたので参加しました。
輸入元の方がさまざまな角度からスタインウェイの特徴や長所を説明され、わずか1時間ほどではありましたが、たいへん勉強になる会で、もっといろいろとその奥まで聞いていたいようなお話でした。
システムピアノというのはボディに塗装をしない状態で仕上げられたピアノで、通常は黒く塗られたスタインウェイピアノが実はどのような木材を場所ごとにどのように配して使われ、いかに確かな根拠に基づいて緻密に製造されているかを視覚的にわかるようにしたいわば教材のようなものでしょう。
それ以外は通常となんらかわることのないピアノで、今回準備されたのはB型(211cm)がベースでした。

このB型は断じて一般売りはしないとのお話でしたが、マロニエ君はもうずいぶん前ですが、東京の松尾楽器で同じ状態のD型とアップライトの同型にも触れたことがありましたが、そのD型はその後、さる高名なピアニストの自宅へ収められたようですから、役目が終わればこのB型もいずれ内々に売却されるのかもしれません。

東京で見た当時から抱いていた印象ですが、実はこの塗装をされない状態もなかなかどうして美しいのです。
やわらかで品の良い、それでいてカジュアルな感じのピアノになっているので、このままカタログモデルにしてもいいような佇まいがあり、今回も見ていてやはり同様の印象を持ちました。
厳選された木材というのは、それだけですでに美しいものなんですね。

昨日は20人余りの催しでしたが、ピアノというわりには男性の参加者がとても多く、調律師の方々もたくさん来られているようでした。思いがけず何人もの知り合いの調律師の方に、こんなにいっぺんにお会いすることができたのは初めての不思議な経験でした。やはり世間はとてもとても狭いのですね。
中には本当に久しぶりにお会いできた方もいらっしゃり、なつかしい話もできました。
またこのぴあのピアのホームページを見てくださっているという御方からも思いがけなくお声をかけていただき、いろいろとお話しをさせていただくことができるなど、大変嬉しい充実したひとときを過ごすことができました。

唯一残念だったのは、ちょっと違和感のある一部の人達が説明会終了後、店主の「どうぞ弾いてください」という言葉を免罪符にして、その場の空気も読めずにガツガツと貪るように弾き散らしていたことでした。
うるさくて、やむなく外に出られた方も多くいらっしゃったようです。
どのような場合でも、身の程をわきまえるということは非常に大切ですね。
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見学と欲求

昨日は所属するピアノサークルの定例会がありました。
定例会では各人が進み出てピアノを弾くわけですが、すでに何度も書いているようにマロニエ君は人前での演奏というのがなによりも苦手という、なんとも困った性分の持ち主です。
ときに、笑い事では済まされない精神的負担にまで達するので、今回は演奏参加はせず、見学者として定例会に出席しました。

いつもはピアノサークルの定例会の日は家を出るときからぐったりと気が重く、会場に入ると自分の順番が来るまで悲愴な思いで時を過ごし、いよいよその時が来ればその重圧は頂点に達し、そんな尋常ならざる状態の中で上手くもないピアノをべろべろと弾き、終わればドッと疲れがこみ上げました。

演奏と親睦を目的としたピアノサークルに入会してほぼ一年、嫌でも我慢して続けていればそのうち少しは慣れるかもしれないというかすかな見通しを立てていましたが、現実はそう甘いものではありませんでした。
何度場数を踏んでも、人前での演奏に「慣れ」というものがマロニエ君のもとには到来することは、どうやらこの先もないようです。

そういうわけで昨日ははじめから見学と決めていましたから、いつもよりは格段に気楽に家を出て、気楽に会場に入ることができ、人が弾いているのも気楽に聴くことができました。
定例会は滞りなく進み、3時間にわたる演奏は終了。それに引き続いて食事と懇親会となり、実に8時間以上をサークルの人達と楽しく過ごすことができたのは、いつもながらたいへん嬉しいことです。

新たな発見は、やはりピアノを弾く人をずっと見ていると、だんだんと自分も弾きたい欲求が湧き起こってくることでした。まあ、これは別段不思議なことでもなく、やはり元来ピアノが好きなので、ずっと人が弾いている場面を見ていると自分も弾きたいという本能が刺激されるのは自然なことだろうと思います。
だったらフリータイムというのがあり、そこでは誰でも自由に弾いていいわけですから、マロニエ君も弾いてみればいいのでしょうが、それはやはりできません。

思うに、人から至近距離でじっと見られるというのがどうしてもダメで、もしピアノの前にカーテンの一枚でもあればだいぶ違うだろうと思いますが、まさかそんなことはできるはずもありません。
そういうわけで、家に帰ったのが10時過ぎでしたが、それから約1時間ほど、定例会で聴いた曲などを自分の手で弾いてみると、ようやく気分も落ち着くことができました。

サークルには、人前で楽しく弾くことのできる人がたくさんいらっしゃいますが、うらやましいばかりです。
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すでにビジネス化?

チリの鉱山落盤事故の感動的な救出劇から一夜明けると、たちまち報道の内容が一変したのには開いた口が塞がりませんでした。

全員が無事に救出されたという事実も慶事として後押ししているのだろうとは思うのですが、一同はもはや大スターか英雄のように祭り上げられ、はやくもこの顛末を金銭やビジネスにからめて利用すべく話題は一気に生臭くシフトしていました。

まず作業員全員に支払われると思われるきわめて高額の賠償金の額をあれこれと予測したかと思うと、それとはまた別に、ほうぼうの家族は会社を相手取って精神的ダメージの賠償裁判の手続きに入るとか。

また、さっそくにも『33人』というタイトルの映画製作が決定し、すでに有名な監督がテント村などの撮影を開始したそうです。
さらには事故発生から救出に至るまでの内容を綴った手記の出版が計画されているとかで、こちらは専門家の試算によると、すでに160億もの印税を見込んでいる由!?
また生還した各作業員達にはさっそくテレビ出演のオファーなどがあり、この一回の出演料が彼らの年収をさえ上回るとか。

そればかりではありません。強いリーダーシップを発揮したという特定の人物には政界入りの話まで持ち上がっているそうで、これも驚きです。
まあこの点では、日本もおよそ政治とは無縁であるはずの柔道のママ選手がいきなり議員先生になったりしていますから、よそのことをいう資格はありませんけど。

また世界中の企業もこれを宣伝の好機と捉えて、アップル社は33人にiPadをプレゼントするとか、ある旅行社はやはり全員をエーゲ海の一週間周遊に招待するらしいし、外国の2つのサッカーチームが全員を試合に招待するなど、お祝いムードは結構ですけども、ちょっとおかしなことになってきているような気がします。

救出時に全員がかけていたサングラスは、高橋尚子選手も競技で使う有名メーカーの製品が無償提供したものらしいし、日本のスポーツ用品メーカーも脱臭下着なるものを提供したのだそうで、さっそくその商品の問い合わせなどがあるということでした。

そして、ニュースの解説員が最後に言ったことは尤もでした。
無事救出されたのは結構なことだったが、これを境にあの33人がまるで宝くじに当たって人生が狂った人のように、これからの人生を踏み外さないように願いたいものだというコメントをつけました。
まったく同感です。
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不健康な日本

チリの鉱山落盤事故で地中に閉じこめられた作業員の引き揚げ作業がついにはじまり、ひとりまたひとりと生還する様子を世界中が見守っているようですね。
彼らが取り残された場所はなんと地下約700メートルだそうで、東京タワーを二つ重ねた距離だといいますから、気が遠くなるような深さで、そこに孤絶した人達を救い出そうというのですから、国を挙げての救出作業はまさに映画さながらの大作戦です。

およそ70日もの長期にわたって地底で生き延びてきた作業員達の勇気と逞しい生命力もさることながら、このニュースを見るにつけ、ことごとく日本とは多くの常識や文脈が違っていることを嫌でも感じないわけにはいきませんでした。

まずは国のリーダーである大統領の動き。
自ら現地へ赴き陣頭指揮を執る姿は、明るく健康的で覇気に満ちています。
中国に気兼ねして尖閣での衝突ビデオすらまだ「見ていない」と言い、いつも下を向き、答弁は書類の棒読みで、なすべきことが何一つできない無能亭主のような我らが首相およびその内閣を連日見せられる我々には、ただため息がでるばかりです。

チリの救出作戦は、引き上げられ生還した人達が例のカプセルから出て、家族と抱擁するシーンなどがまさに至近距離から撮影されて、ただちに全世界へとばんばん配信され、その様子が手に取るようにわかりますが、これがもし日本だったらと考えると、とてもじゃありませんがそんなことはできないでしょう。
まずテレビカメラは至近距離はおろか、現場の遙か遠くまでしか近づけず、肝心の場所は厳重な立入禁止となり、なんとか望遠レンズでその様子を探ろうにも、おそらくはむやみやたらとあの忌まわしいブルーシートが張り巡らされて、すべては無意味に遮断され、生還の様子を目の前のカメラからライブで見ることなど限りなく不可能だろうと思われます。

警察をはじめ、人が見たいと思うニュースの現場では、まるで嫌がらせのようにブルーシートがすべてを覆い隠すのは、いろいろと理屈や言い分はあるのでしょうが、悪しき日本の慣例になり果てました。要するにあれは日本人の陰険さ、不健康さ、臆病、内向性のあらわれのように思います。
一般の目にさらすべきではない陰惨な現場などではないものまで、なんであれ片っ端から隠して見せないようにするのは、集団的責任逃れと関係者の暗い快楽のようにしか思えません。

チリのニュースは、もちろんあの絶望的な状況から人が生還するという感激もありますが、やたら規制まみれの日本に住むマロニエ君としては、それに加えて全体に漂うあの南米の、いかにも人間らしいストレートでオープンな世界を垣間見るだけでも心がスッとするようです。
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タンスの移動

またまたテレビネタで恐縮ですが、数日前、夕刊の一面トップに家電のエコポイントが12月から一斉に半分に減らされるという記事が出ていました。さらに来年からはポイント対象商品の設定基準が現行より厳しくなるということでした。

つまりは、現行のポイントを狙うなら、ぐずぐずしないで今のうちに買うしかないというわけです。
ポイントごときにいちいち反応するマロニエ君もなんだか恥ずかしいような気もしますが、どうせ来夏をリミットに買い換えなきゃいけない物で、しかも今ならかなりの高いポイントがつくのだから、やはり無視はできません。

さて、買うとなる自室の配置が今のままではテレビの大型化は絶対にムリで、なんとしても32インチのテレビが収まるスペースを確保する必要がでてきました。
その為には決して小さくはない、高さが220cmもある三段重ねのタンス二竿を、最低でも10cm移動しなくてはなりません。しかも片側に余ったスペースはないので、思いっきり力を込めることもできません。

これがテレビ購入にまつわる最大の難事業であり、はなから自分一人では無理だとわかっていたので、ついに友人に頼んで助っ人に来てもらいました。気軽に来てくれた友人でしたが、現場を見て想像以上の状況だったらしく一気に怖じ気づいてしまったようです。

正攻法でいくなら、中を全部外に出して、一段ずつバラして移動させるのでしょうが、面倒臭がり屋のマロニエ君としては、とてもそんな気の遠くなるようなことはしたくないし、だいいちする場所もないので、できたら男二人の力で強引に動かしてやれという目論見です。

いざ引っぱってみますがこれがビクともしません。あまり力を入れすぎるとタンスそのものが壊れてしまう危険も感じ、作戦変更。
下の部分は4段の抽斗になっているので、さすがにこれだけは外に出し、一人が空になった抽斗の部分を上に持ち上げ、同時にもう一人が引っぱるという方法をとると、上手く息が合ったのか、わずかに動きました。

この方法を何度も何度も繰り返すことで、ついに移動は完了しましたが、終わったときにはもうヘトヘトでした。
また、常に危険と隣り合わせだったことも事実で、もしあんなものが人間に倒れかかってきたら、まちがいなく大ケガか下手をすれば死に至るということも容易に想像できました。
よく大地震のニュースなどで家具の下敷きになって命を落とす人がいるとを聞きますが、今回はそれが実感をもって迫ってくる経験でした。

ともかく無事に最難関を通過できて、あとは電気店に行くだけとなりましたが、その前に一休みというか、妙に気が抜けてしまいました。
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ショパンコンクール

ショパンコンクールが始まり、すでに二次に突入しているようですが、ネットで各コンテスタントの演奏とその映像が見られるようになったのは、さすがに時代の力というべきですね。

昔はコンクールが終わり、徐々に報道などから優勝者はじめ上位入賞者の名前が伝わり、その演奏を耳にするのは更に後のことでしたが、今は世界のどこにいてもネットで逐一その様子を見聞きすることができるようになり、マロニエ君も辻井さんが参加したクライバーンコンクールの時からネットで観るようになりました。

それにしても、ショパンコンクールのような第一級のコンクールともなると、まさに世界中から選りすぐりの腕自慢達が結集し、どの人もそれぞれに見事な演奏をしているのはさすがというべきです。
プロの演奏家でも、あれほど念入りな準備を整え、まさに一曲一曲に全身全霊を傾ける演奏というのはそうざらにあるものではないので、それだけでも聴くに値するものだと思います。

まだすべてを見たわけではありませんが、今年からピアノもファツィオリが加わり、ヤマハも当然ながら新鋭CFXを投入していますね。
各人の使用ピアノをざっと見たところでは、やはり圧倒的にスタインウェイで、ヤマハ、カワイがそれなりに続くのに対して、ファツィオリを弾く人はまだわずかしか見ていません。
スピーカーに繋いで音を聴いてみたら、それなりに聴き映えのする音だとは思いましたが、これほど弾く人が少ないのはなにか理由があるのか、あるいは真剣勝負の場では敢えて新しいものは避けようとしているのか、そのへんのことはよくはわかりませんが…。

ざっとした印象では、良くも悪くも華麗なスタインウェイやファツィオリに対して、日本のピアノどうしても性格が大人しく、デリケートな表現は得意な反面、もうひとつ華がなく、いわゆる大舞台向きではない感じです。
シゲルカワイは、今回はいくらか甘味のある柔らかな音を出すようになったようで、ショパン向きとは思いますが、聴くたびにピアノの特性が異なるような気がするのはちょっと定見がないようにも思えます。

その点、スタインウェイは言うに及ばず、ヤマハもあまりぶれて迷走はしていないように感じます。
ネットでコンクールを観ていると、ついつい長時間に及んで、かなり疲れてしまいますので自己管理が難しいのが玉にキズですが。
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逢い引き

NHKの衛星映画で放映された『逢い引き』を録画していたので見てみました。
1945年製作のイギリス映画で、いわゆるコテコテの恋愛映画の古典的名作のひとつです。

ふとした偶然のいたずらから出会ってしまった、ごくありふれた中年の男女。互いに家庭がありながらも一気に深い恋に落ちてしまうというもので、それぞれが築いてきた家庭と、この降って湧いたような真剣な恋の板挟みで、愛し合うほどに苦しみから逃れることができないという、この手の作品の草分け的な存在だろうと思います。

この悲恋を描いた映画には、全編にわたってラフマニノフのピアノ協奏曲第2番が効果的に使われていて、あるいはそれで有名になった映画といえるかもしれません。
互いに惹かれ合う気持ちを押しとどめることができず、真剣になればなるほどその喜びは深い苦悩に変貌し、どうにもならない現実が二人の前に立ちはだかりますが、その純粋な恋心と絶望をいやが上にもラフマニノフの音楽が後押ししてきます。

というか、もともとこのコンチェルト自体がどこか甘ったるい映画音楽のような趣もあるので、こういう使われ方をするのもいかにも自然なことのように思えますが。

それにしてもすでに65年も前の映画ですから、当然モノクロで、時代背景から倫理観にいたるまで、なにもかもがとてつもなく旧式なのですが、音楽にも時代を感じさせる点がいろいろありました。

演奏は全般的に衒いなく直情的で、現代のようにアカデミックで説明的で、それでいてピアニスティックに聴かせるということが微塵もありません。とくにオーケストラの各パートは、フレーズの波を非常に熱っぽく歌い上げるような演奏しているのが印象的で、それ故に音楽の一節一節が人の心にぐっと染み込んでくるような生々しさがありました。
こういう演奏を聴くと、現代の演奏は緻密でクオリティは高いけれど、音楽が本来内在している情感の温度は低く、無機質でどこか白けていると思ってしまいます。

またピアノの音色がいわゆる昔のピアノ特有の、いかにも厳選された材質を惜しみなく投じて作ることのできた時代のピアノの音で、まことに気品のある豊饒な響きをもった音でした。
決して表面的なパワーや華やかさで鳴っているのではなく、純度の高い美音が深いところから太く柔らかく鳴り響いてくるあたりは、思わず聞き惚れてしまい、それを聴くだけでも価値がありました。
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CDプレーヤーの怪

エアコン→ビデオ→携帯→エアコンと立て続けに起こった故障。
いくらなんでも、もう終わりだろうと思っていたら、今度はCDプレーヤーに魔の手が及びました。
これだけ続くと、もう自分でも呆れて笑ってしまいます。
症状は普通に再生しても音が従来の半分ぐらいしか出ず、なにをどういじっても良くなりません。
マロニエ君の家のメインのステレオはもうずいぶん古いものなので、きっとどこかが故障したのだろうと思いましたが、ひとつひとつ検証して追求していくと全部正常なので、やはりCDプレーヤーの不調としか考えられません。

接続コードが古いのはいけないのかもしれないと思い、新しいコードに取り替えてみると心なしかよくなったような気もしますが、…数日経ってみるとやはりどうもおかしいわけです。

そこで、むかしCDのポータブルプレイヤーというのがあったのを思い出し、あちこちひっくり返してみると、上手い具合にこれがでてきましたので、さっそくポータブルプレイヤーをステレオに繋いでみたところ、手のひらにのるぐらいのミニサイズにもかかわらず、なんとも朗々としたボリュームを伴って音楽が鳴り響きました。

これをもってCDプレーヤーが異常だと断定できたわけで、まあ新しいのを買っても良かったのですが、ひとまず修理に出してみようじゃないかということになりました。
この機械はマランツでしたから、ネットで博多区にある福岡の支店を見つけ出し、せっせと車に積んで修理に持っていきました。

それから3日ほど経ったころ、マランツの技術者の方から電話があったのですが、それによるとだいぶ何度もテストしているけれども正常に作動しているというのです。そして次のようなアドバイスが。
現時点で不具合は発見できないし、結構古い機械のようなので、とりあえずもう一度このまま使ってみられて、やはりおかしいようならその時は新品を買われるというのもひとつの方法ではないかと思うというものでした。

というのも、修理ともなると最低でも一万円スタートの世界になるが、安いモデルなら新品でも2~3万からあるので、そのあたりを良くお考えになった方がよろしくないですか?というものでした。たいへんご尤もなお話です。

ところが不思議なことに、引き取りに行って再度ステレオに繋いでみると、今度はガンガン大きな音が出るではありませんか。まるでわけがわかりません。音楽は好きでも、決してオーディオマニアではマロニエ君としては、普通に音楽が鳴ってくれればそれでいいのですが。
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栄西と中世博多展

現在、福岡市博物館で開催されている『栄西と中世博多展』に行きました。
現在はあまり知られていませんが、博多は二千年の歴史をもつ我が国でも数少ない都市で、とりわけ11世紀には国際交流と貿易が隆盛を極め、中世博多の繁栄は佳境を迎えます。

この時期に日本の仏教史上に極めて大きな足跡を残したのが栄西(ようさい)です。
その最大のものは国際貿易で栄える博多を拠点にして、二度にわたって中国に渡り、厳しい修行の末に持ち帰ったのが「禅」だったそうです。
そして帰国後、この栄西によって、『扶桑最初禅窟』とされる聖福寺(しょうふくじ 福岡市博多区御供所町)が日本最初の禅寺として創建されました。
京都をはじめ、日本中にあまねく広がった禅宗の本格的な第一歩は、この聖福寺から始まったようです。
聖福寺周辺には現在でも実に40ほどの由緒ある大小の古刹が連なる独特のエリアで、行かれた方はご存じだと思いますが、博多の歴史の深さを静かに物語っている地域です。

親日家で有名なシラク元フランス共和国大統領が現役時代に日本を訪問した際、首脳会談など公式行事を終えて帰国の途につく最後の一日に福岡を訪れたことがありましたが、その目的は禅にも深い関心をもつシラク氏が、聖福寺の老師(高位の僧)に直接会いたいというたっての希望から実現されたものでした。

また意外に思われるのは、昔から我々日本人がごく自然に親しんでいるお茶の文化をはじめに日本にもたらしたのが、やはりこの栄西だったそうです。お茶ほど日本人の生活の中に深く根を下ろしているものもなく、様々な歴史の舞台にも登場し、わけても千利休はそれを芸術の域にまで高めた人物ですが、栄西がお茶をもたらしたのが約900年前で、利休はその500年後の人物ということになります。

聞くところによると「うどん」も博多が発祥の地といわれているようです。

そんな栄西と中世博多展でしたが、展覧会そのものは古文書や器類の展示が中心となり、期待していた仏像は大した数ではなく、正直あまりおもしろいものではありませんでした。
歴史的には貴重なものばかりなのでしょうが、夥しい量の古文書をどれだけ見せられても、学者でもない一般人にはそれほどの魅力は感じられませんでした。というか少なくともマロニエ君はそうでした。
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続・液晶テレビ

テレビの買い換えの下勉強のつもりで、食事に出たついでに大型電気店を覗いてきました。
平日の夜ということもあるのか、店員はかなり少な目で、ちょっと質問してもポツリとそれに答えるだけで拍子抜けするほど積極性がなく、あまりにも意欲的でないのが印象的でした。
店の戦術として、あえてお客を追いかけ回さず、自由にゆっくり見せるということなのかもしれませんが、そうだとしても過ぎたるは及ばざるがごとしで、あまり消極的な態度をとられると、こちらも白けてしまいますから、そのへんのさじ加減には配慮が必要でしょうね。

さて、今時のニーズを反映してか、テレビの売り場にはまさに唸るほどに多種多様なテレビが展示されていて驚くばかりです。よく見ればサイズと種類、メーカーごとに分類されているので、迷って困るということはありませんでしたが、同じサイズの液晶テレビでも価格が違うのはスペック上の何が違うのか要するによくわかりません。

尤も、マロニエ君はテレビなどはピアノと違い、支障なくちゃんと映れば基本的になんでもいいという手合いですから、こまかいことにこだわるつもりは毛頭ありませんが。

以前からお得感が最も高いのは32インチでは?という気がなんとなくしていたのですが、やはりそれは間違っていなかったようでした。サイズが大きくなれば価格も高くなるのは当然としても、32インチ以下のサイズでは価格は必ずしも安くはならず、むしろ逆転して高くなる場合さえあります。本当は26インチでもいいと思っているのですが、32インチより高額な小型をわざわざ買うというのもどこか腑に落ちない気がするわけです。

メーカーごとの性能の違いは、ひとことで言うなら、どこもこれというほどの差はなく、各社伯仲しているようです。ひとつだけ印象が変化したのは、以前(2年前)一台目の液晶テレビを買うときには、当時シャープのアクオスがこの分野での知名度ではトップというような印象がありましたが、実際に較べてみると画面の鮮明度とか発色のきれいさの点で、他社に譲る点があるようにも感じてソニーを購入しました。
しかし、いまあらためて見てみると、アクオスの持つそうした特徴が、むしろやわらかで落ち着きがあるようにも思えてきました。ほんのわずかなことですが。
これも2年間、ソニーの液晶テレビと付き合ってみた経験から、少し要求が変わってきたのかもしれません。

驚いたのは、いつの間にか消えて無くなったとばかり思っていたプラズマテレビが、大型店にいくとまだまだかなり売られていることで、あくまでこちらを好むという「こだわり派」がいるのだろうなあと思わせられました。
家電という分野も、ひとたびこだわりが入ると際限のない世界だろうなあと思います。
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ブリュートナー

以前、ニュウニュウの弾くショパンのエチュードで使用されたピアノがどうも変なので、てっきり中国製のピアノかと思っていたところ、読者の方からブリュートナーであることを教えていただきました。
日本向けのジャケット写真では、ピアノのメーカーの文字が消されてしまっているようで、同じ写真を使用した中国版のジャケットでは、ブリュートナーの文字がくっきりと写っていることもわかりました。

なぜそのようなことをしたのかはわかりませんが、あまりにも音が良くないのでメーカーからクレームが来たのかもしれないとも思いますが、これはあくまでもマロニエ君の勝手な想像で、真相はわかりません。

こういうことにはめっぽう詳しい、四国のピアノ技術者の方にも問い合わせをしていたところ、話はブリュートナーの輸入元の方の耳にも達して、本来のブリュートナーの音を聞くに値するCDを教えていただきました。そういえばプレトニョフもモーツァルトのソナタやベートーヴェンのピアノ協奏曲全集ではブリュートナーを使っているようですし、故園田高広氏も新旧のブリュートナーで録音したCDもありました。

教えられたCDは、アルトゥール・ピッツァーロといういかにもイタリア人らしい名前のピアニストが奏するシリーズで、ともかくそのうちのひとつを購入しました。
リストのハンガリー狂詩曲全集ですが、ここに聴くブリュートナーはそれはもうニュウニュウのショパンで使われたピアノとはまったく別物というべき、なるほど優れたピアノでした。

無意識のうちにスタインウェイの音に慣れきっている耳には、新鮮な魅力さえ感じました。
ベヒシュタインほどの骨太さや剛直さはないかわりに、つややかでふくよかな美音が鳴り響き、それでいて根っこのところではガチッとした鳴り方をするあたりは、さすがはドイツピアノの血筋だと思わせられます。

とりわけリストのハンガリー狂詩曲との相性が良いのは思いがけない発見で、ブリュートナーのやや古典的な発音がノスタルジックでもあり、リストの中でもとくに荒々しい民族性の溢れるハンガリー狂詩曲ですが、ブリュートナーの音色が作品の生臭さを抑え、作品の核心だけをうまく取り出して聴こえてくるようです。
もちろんピッツァーロ氏の演奏の妙によるところもありますが、決してそれだけではない、ブリュートナーの持って生まれたピアノとしての潜在力と、調整の素晴らしさ、録音の良さと相まって、ピアノの音を聴くためだけにも、何度も聴きたくなるCDに仕上がっているように感じました。
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液晶テレビ

最近、人と話をするとよく話題に出るのがテレビの買い換え問題です。

まだまだ先のことだと思っていたアナログ放送の終了が、さすがにだんだんと近づいてきている気がします。
とくに省エネの家電製品についてくるエコポイントを得ようとするなら、今年の12月あたりまでという話なので、そろそろ地デジ対応のテレビに買い換えないといけないというのが共通した話題です。

我が家にも一台だけ液晶テレビがありますが、マロニエ君はじつはあれ、あまり好みではありません。
一番の理由は、あまりにも鮮明画像で、画面もそれなりに大きさがあるので、はじめは感激していましたが、どうも視ていて疲れるのです。

ひとつには最近のカメラアングルは、必要以上に人の顔に近づきすぎて、話をする人の顎や額が画面に入りきれないところまで接近するのはどうかと思います。
しかもそれがハイビジョン放送のような高性能な映像クオリティと、片やそれを映し出すテレビがもの凄い高性能ときているので、肉眼でさえ見なくて済むような人の顔の皮膚のこまかい状態や、脂や、小じわや、髭のそり跡などが、これでもかというほど克明に映し出されて、これはほとんど人権侵害では?と思うほど、むごいまでに鮮明に映し出されます。
まさに手を伸ばせば触れられるかというようなクリアな画面というのは、単純にきれい、すごいとは思っても、不思議に心の落ち着きはえられないのはマロニエ君だけでしょうか?

なんでも、大河ドラマのような番組でも、ハイビジョンの撮影なってからというもの、役者も、衣装も、メイクも、そのクオリティに合わせた結果を出すべく、あらゆる基準が格段に厳しくなったそうで、それが関係者のかなりの負担になっているという話を聞いたことがありました。
そんなことでばかりにエネルギーを投じていては、本来のいい番組作りなどという本質には手も意識も回らなくなるでしょうね。

マロニエ君の部屋には今でも従来のアナログテレビがありますが、こちらは画面は小さいし、たしかに画質もうんと劣りますが、なぜかホッとするものがあるのは事実です。
たかがテレビなんざぁ、せいぜいこれぐらいで十分だと思うんですが。
それに地デジ放送って、チャンネルを切り替えるのになぜいちいちワンテンポもツーテンポも遅れるのかが解せません。アナログテレビはチャンネルボタンを押せばパッと瞬時に切り替わる、あの一点をとっても快適です。

まあ、そんなことを言っていても時勢に逆らうことはできませんから、買い換え問題はいよいよ大詰めを迎えるようです。どうせ買うならセコイようですがエコポイントのあるうちに腰を上げなくちゃと思っているこの頃です。
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一人旅

久しぶりに会う知人らと食事をしました。
いろいろとりとめもない話題が飛び交いましたが、旅に関する話が持ち上がりました。

このうちの一人は今月海外に行くとのことでしたが、もう一人は国内のあちこちを時間を見つけては、しょっちゅう一人で旅に出かけているようです。
マロニエ君にとって驚くべきは、この2人とも「一人旅」が好きだということでした。

人の好みや感性は実に様々ですが、一人旅を好むというのはそのひとつの大きなあらわれのような気がします。
知人に言わせると、一人旅には自由があり、自分の趣味や気分のおもむくままに行動でき、旅行中の時間を自分のためだけに十全に堪能できるという利点があるようです。
なるほどなあ…とは思いますし、話としてはわかるのですが、いまいち実感は湧きません。

マロニエ君のような甘ちゃんにとっては、一人でレストランや喫茶店に入ることも嫌なのに、何が悲しくて一人旅なんかしなくちゃいけないのかとしか思えませんから、どんなに素敵だと言われても想像もできない世界。ましてや海外へのアテなき一人旅なんてとんでもない。
そんなことをするくらいなら家にいたほうがどれだけいいかとしか思えません。

一人旅を好むようになるには、各人の生活習慣も大いに関係しているような気がします。
外に勤めに出て、出張したり転勤したりと鍛えられて、単独行動がなんでもないことになるのでしょうし、下手に気の合わない人と我慢して同行するより、一人のほうがどれだけ快適かということにもなるようです。

マロニエ君といえば自分でもおかしいぐらい真逆の人間で、学生時代に東京から帰省する際、飛行機以外にも、車でも数え切れないほど往復した経験がありますが、だいたい誰かを誘い込むか、一人で行かざるを得ない場合は、途中休憩もそこそこに極力ノンストップで走りきるという、かなり無茶なことをしていたという記憶があるばかりです。

これが一人旅の好きな人ならば、せっかく車と時間があるのだから、それをチャンスにほうぼうに立ち寄って、普段できないような自由な旅を楽しみながら福岡なり東京を目指せばいいのでしょうが、それがもう、てんでできないわけです。
一目散に目的地を目指し、旅の宝庫である京都や神戸、瀬戸内の街々をすべてすっ飛ばして、脱兎のごとく徹夜してでも走覇していたあの頃を思い出しました。
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映画でのピアノ演奏

『クララ・シューマン 愛の協奏曲』(2008年ドイツ、フランス、ハンガリー合作)という映画を観ました。

クララ・シューマン役はマルティナ・ケデックで、『マーサの幸せレシピ』以来二度目に見ましたが、危なげのない美貌と、長身の体格からくるしっかりとした存在感は相変わらずでした。

シューマンを題材にした映画では、昔はなんと言ってもキャサリン・ヘップバーンの『愛の調べ』が有名でしたが、たしか80年代にも『哀愁のトロイメライ』というのがあって、この映画にはなんとギドン・クレーメルがパガニーニの役でわずかですが出演して、実際にヴァイオリンを弾くシーンがありました。
これらはいずれもロベルトとクララの結婚に至る一連の騒動を中心に描いたものですが、今回の映画はシューマン夫妻のもとにブラームスが現れて、その後シューマンが亡くなるまでを描いた映画でした。

冒頭、シューマンのピアノ協奏曲ではじまり、最後はブラームスのピアノ協奏曲第1番で終わるというところに、クララの愛の対象の移ろいが象徴されているようです。

新しい試みだと思ったのは、通常、俳優がピアノを弾くときは上半身のみを写し、手のアップではピアニストのそれに入れ換えるという手法が、映画のピアノ演奏シーンの半ば常識でしたが、今回の作品では、クララ役のマルティナ・ケデックが弾いているように、すべて上半身と手先を切り離さない映像になっていました。
それはいいのですが、その指先の動きがかなり滅茶苦茶で、よほどピアノに縁がないような人なら違和感なく見られるのかもしれませんが、ちょっとでもわかる人なら、あれは却って逆効果のような気もしました。

それも、カメラが顔から入って手先へ移動するという撮り方などを何度もしているため、ただ鍵盤の上でぐしゃぐしゃと指を動かしているだけの手をアップにされても、見ているほうは興ざめしてしまいます。
ピアノの弾けない俳優の動きというのは、どんな名優でも音楽と身体の動きが一致せず、いかにも取って付けたようになり、このあたりが音楽映画のむずかしいところだと改めて思います。

ピアノが弾ける俳優に、ピアノを弾く役をやってほしいものです。
そういえば、つい先日最終回を迎えた『ゲゲゲの女房』の主役の松下奈緒さんは、東京音大出身のピアニストでもあるそうでびっくりしました。
残念ながらゲゲゲでピアノを弾くシーンはありませんでしたが。
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オーケストラの命綱

友人がたまたま目にしたらしく、10日ほど前の日経新聞の切り抜きをくれました。
そこに書いてあるのは、地方のオーケストラが資金不足に喘いでいるという記事でした。

プロオーケストラは団員と職員あわせて概ね100人近い人間を抱え、あるオーケストラを例にすると昨年168公演をおこなったそうですが、それでもコンサートの入場料収入だけでは運営費はまかなえないらしく、頼りは自治体から支給される補助金なのだそうです。

ところが、その補助金が国の(つまり民主党の)事業仕分けによって削減され、多くのオーケストラがまさに命綱を切られて、浮沈の瀬戸際にあるということでした。
日本オーケストラ連盟によると、加盟する31のプロオーケストラの大半が補助金に頼っているのが現状とのことですが、文化庁から各楽団に支給される補助金は昨年の事業仕分けで削減されているとか。

大阪の橋下知事に至っては、財政再建策の一環として、大阪のあるオーケストラへの補助金の大幅カットを表明し、来年度からは全廃するという極めて厳しいものだそうです。まあ、あの橋下さんがオーケストラに価値を持つとはとても思えませんが。

政権与党は、税金のムダ使いを洗い出して整理するのは至極当然の事であって、基本的にはどしどしやってほしいと思います。
しかし、そもそも文化芸術というものは、それがただちにお金になるという種類のものではなく、むしろ国や自治体が支えるべきものではないのかとも思います。地方のオーケストラなどが真っ先にその槍玉にあがるのは、切り捨てる側の文化意識や価値観にも大きく左右されるのではという気がしてしまいます。
音楽などは、見る角度によってはムダとしか映らないものかもしれませんが、文化とはほんらい金銭的価値とは違う次元で必要なものでもあるはずだと思います。しかし、スポーツなども本来の精神を逸脱して金銭と深く結びついた、汚れた世界に成り下がってしまって、賞金額でその人をランク付けするような時代ですから、やはり現在はなんでも金銭的収支が絶対視されるしかないのでしょうか。

官僚や公務員のあきれるような天下りなどには見直しが不徹底ないっぽうで、こういうことをあの痩せた短髪の女性が意気揚々と先頭に立ってやっているとしたら、世の中はまさに鶏ガラのように痩せこけてギスギスになってしまうようです。
そうはいっても、中には切り捨てられても仕方がないようなオーケストラもあるのかもしれませんから、適切な見極めはなにより大事だと思いますが。
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薬剤師

ちょっとした体調不良があって、昨日はじめての病院に行ったのですが、そこで処方箋をもらい、すぐ脇の薬局に薬を受け取りに行きました。
薬局内には若い薬剤師らしい女性がひとりいて、いきなり保険証の提示を求められました。
マロニエ君のこれまでの経験でいうと、薬局で保険証を見せろと言われた記憶はあまりありませんでしたが、ともかくはじめての場所ではあるし、ひとまずおとなしく従いました。

ほどなくすると、筆記用具をもってこちら側にパッと出てきたかと思うと、大したことでもないようなことをもっともらしく次々に尋ねられました。
住所まで言わせられそうになったので、それはさっき渡した保険証に書いてあるでしょうというと、すかさず今度は電話番号は?などと矢継ぎ早に質問してきます。
たたみかけるようなテンポの速いしゃべり方に、最初から嫌な感じがしていましたが案の定でした。

ようやく薬の準備ができ、渡す薬の説明をするのは当然としても、以前の別の薬はどれぐらいのんでいたかなどと、また関係のないことを口にして、それ(別の薬)がちょっと多すぎるような気がする…などと言い始めたのには驚きました。
保険証から過去の処方薬の履歴などを追跡できるのかとも思いましたが、よくはわかりませんし、今日のところはとにかくおとなしくして引き下がりました。

以前もある薬局で、薬剤師の女性が、まるで医師顔負けの堂に入った態度で「今日はどうしましたか?」と椅子に腰掛けて質問が始まり、問答ばかりで一向に薬の準備もせず、具体的な症状などをずけずけ聞いては指導的な口のきき方をし、それがあまりにもしつこいので、ついに、医師でもない貴女からなぜそのようなことを聞かれなければいけないのか?私はたったいま病院で診察を受けてきたばかりで、それに基づいて薬が処方されたのだから、貴女は自分のなすべき仕事をすればいいわけで、もし疑問があるのなら先生に聞くべきではといって回答を拒絶したことがありました。

これは極端な例としても、薬剤師には程度の差こそあれ、ちょっとこういうタイプがいるようです。
自分の資格を言い訳のできる範囲で濫用して、つかのまの医者気分を楽しんでいるかのような人。
病院に連なる施設の人間であるのをいいことに、人のプライバシーにズケズケ踏み込んできて、それを大抵の人が素直に応えるものだから、調子に乗っていい気分になっているのでしょう。

こういうことがどうしても見逃せないマロニエ君としては、さて次回がどうなるかというところです。
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エアコンパニック-3

この時期にいたって、なんとまた、エアコンに問題が起きしました。
先のトラブル以来、快調に運転を続けていたマロニエ君の部屋のエアコンですが、ある日を境にとんでもないことが起こり始めました。
室内への盛大な水漏れです。一昨年もこれに悩まされたが、その時の教訓としては微細なごみが積み重なって、排水ホースを詰まらせ、行き場の無くなった水が室内に溢れ出るというものでした。
それいらい修理に来たメーカーの勧めにしたがって、毎年クリーニングの専門業者を呼んで内部の徹底的な掃除をするようにしています。

今年も7月の後半に来てもらって、安くもない代金を払ってクリーニングをやっていましたので、その点に関しては安心していたのですが…。
エアコンの水漏れというのは経験のある方ならご存じでしょうが、ひとたび漏れはじめると、もうとめどがありません。
おまけにマロニエ君の部屋は、ベッドの頭のちょうど上ぐらいにエアコンを設置しているので、漏れはじめると枕から3〜40センチのところにポタポタ水が落ち始めます。

漏れてくる場所によっては布団まで濡れてしまうので、ベッドの横にはお盆にバスタオルを重ねて水漏れに備えるしかありませんが、今回は量がやたら多くそれでは足りないので、おおきなプラスチックの容器のようなものを持ってきてたりと対策も大変です。この時期になってもエアコンを切ると寝られないエアコン依存症のマロニエ君なので、夜通しこのパチャンパチャンという音に悩まされ、深い睡眠は普段から苦手なのに、ますます眠りは浅いものとなりました。

すぐにクリーニング業者に連絡すると、普段の愛想はやたらいいくせに、いざとなると自分達はクリーニング以外のことは関与せず、故障はメーカーのほうに言ってくれというすげない返事です。そこでメーカーに連絡してすぐに修理に来てもらいましたが、果たして原因はクリーニングのやり方が中途半端なためと考えられるらしく、機械部分を洗浄することで出てくるゴミなどが逆に排水ホースに詰まって発生したトラブルだということでした。それでも出張修理費はかなりかかりました。

この結果をクリーニング業者に伝えると、なんと国会の証人喚問のように自分達の非を認めようとしません。
ただもう必死に逃げ回るばかりで会話が成立しません。あまりにもばかばかしいのでだったら私は素人なのでメーカーに電話して専門家同士で話をしてくれといったら、それも頑として嫌がります。
結局、来年のクリーニング一回分をサービスすることで話は収まりました。
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再放送

日曜日の午後、NHKアーカイブスでショパンコンクールのドキュメント番組が再放送されましたので、ご覧になった方もいらっしゃるでしょう。
これはユンディ・リが優勝した10年前の記録による「若きピアニストたちの挑戦」という70分の番組で、マロニエ君は途中から見たのですが、今年がショパン生誕200年であり、10月には5年に一度のコンクールが開催されるというタイミングもあって放送されたのだろうと思いました。

以前も見た記憶のある番組でしたが、やはりこのクラスのコンクールに出るのは並大抵ではないことをまざまざ感じさせられます。
以前誰か日本人の女性ピアニストが言っていたことで、それが誰だったかもう忘れましたが、ショパンコンクールに(出場者として)行くと、会場に入り、ほうぼうで練習しているその音を聞いただけで、そのとてつもないレベルの高さに圧倒されて、身がすくんでしまうというようなことをいっていたのを思い出しました。

つくづくそうなんだろうと思うほど、みんな本当に上手くて見事な演奏をしていますが、それでも二次にさえ進めない人、三次で終わりの人、ましてや決勝に残るなどもはや尋常なことではない事だと思わせられます。

マロニエ君的には、決勝に残った人、残らなかった人、それぞれにどうして?と思える人があって、以前から話題の尽きない問題、すなわち審査の公正さや判定をめぐる審査員達の攻防も熾烈を極めると聞きますが、それはこういうドキュメント番組をチラッと見ただけでもふっと察せられる気がしました。
これまでに審査に不服を申し立てて席を蹴った審査員も数多く、スポーツとは違ってピアノ演奏の真の価値を審査するというのは本当に難しく、さらにそこへ汚い裏事情まで絡んでくるとなると、いやが上にも複雑化し紛糾するのは当然のことだろうと思います。

番組が終わるとスタジオの場面になり、またぞろあの有名ピアニストが鎮座していて、すでにもうなんども聞いたような解説をして自分がまるで主催者であるかのようでした。見ていると、もはや時代遅れというべきヘビー級の厚化粧で、目の周りはいろんな線やぼかしやキラキラ光る粉などが所狭しと塗られているようでした。
うしろにピアノがあるので嫌な予感がしていましたが、やはり最後にこの御大は自分を見せる時間がないと気が済まないらしく、「あたくしが、ショパンコンクールでも弾いた黒鍵のエチュード」が披露されました。
演奏に関してはノーコメント。
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