2021年

あけましておめでとうございます。
昨年は世界中が新型コロナに明け暮れる一年でしたし、それは未だ進行形でもあり、収束の目処も立たないという不安の中で迎える新年となりました。

世の中がそんなふうになると、音楽やピアノに関する話題やこのブログに書きたいようなネタも激減するのはやむなきことで、このブログもいつまで続けられるかわかりません。
少しずつ再開されるコンサートも厳しい制限付きですが、音楽というのは本来ある種ノリの世界なので、そういうことになってくるとますます衰退するのではないかと危惧しています。
とりわけ音楽業界に身を置く人の苦悩は如何ばかりかとお察しします。

意外な現象もあるそうで、さる業界の方から聞いたのですが、ヨーロッパ(とはいっても一部の国かもしれませんが)では、コロナ禍以降、下降気味だったピアノ販売が好調に転じているとか。

これは取りも直さず、ステイホームで家の中の楽しみとしてピアノでも弾こうという事なんだと思いますが、やはりそのあたりがヨーロッパは西洋音楽の発祥の地だけあって、根底にあるものがちがうなぁと思います。
日本人は、どんなにステイホームと言っても、せいぜい大型テレビを買ったり、ふだん作らないような料理をしたりと、過ごし方は様々でしょうけど、少なくともピアノを買って家で弾こうという行動にはつながる人は、極めて少ない気がします。

クラシック音楽にかぎらず、楽器を購入して楽しむということが根本的に文化として身についておらず、わけてもピアノといえば練習だレッスンだと修行のほうが先に来て、その延長の先のほうに一部の人の趣味があるだけ。
生活の中に音楽したり楽器に触れたりということが自然な楽しみとして根を張っていない故だと思います。

それと、生活形態も人々の意識も昔とはずいぶん変わって、多くの人達が、街中の便利のいい機能的なマンションで暮らすのが圧倒的に増えました。
それはいいけれど、同時に世の中の価値観や空気も変容し、俗にいう「不寛容の時代」というものに年々厳しさが増していて、一つの建物のなかに上下左右を別の世帯と壁一枚で仕切られて生活しているための不自由も少なくないようで、なにごともルールづくめとなり、それが行き過ぎた観もあるのか、ずいぶんと窮屈を強いられるようです。

管理する側も、各世帯の自由と幸福を維持するために奮励努力するなんてまっぴらのようで、問題があれば片っ端からルール化し、ルールがあればそれに違反した人には違反者のレッテルを貼り、場合によっては罰するという処置しかしないのがほとんどだとか。

当然、ピアノの音などは糾弾の対象となるものの筆頭で、一人でも迷惑という声が上がったら最後、うるさいと主張する側が守られ優先され、音楽を楽しむ人の権利はまったく顧みられないようです。

これでは、よほど高度な防音対策でもしていない限り、ピアノなど弾けるはずもなく、ピアノ=周囲への遠慮と気遣いというストレスになり「楽しむ」どころではないようです。
よって日本ではピアノを取り巻く環境は年々厳しさを増し、肩身の狭いものになってしまうようで、この流れはなかなか止められないのでしょうね。

尤もピアノひとつが弾けたからといって、コロナの苦しみが解決するわけではありませんけど。

パンデミックや不穏な国際情勢のせいで、世界中が前途多難という印象が拭えませんが、かといって自分だけそこから逃げ出すわけにもいかないので、そんな中でを少しでも楽しくやっていくしかないですね。
2021年がどんな年になるのかわかりませんが、ともかくよろしくお願い致します。
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清水和音

クラシック倶楽部で清水和音さんのピアノが放映されました。
今年の9月、NHKホールで収録されたものらしく、おそらく無観客で収録されたもののように感じました。

曲目はシューマン/子供の情景、ショパン/バラード第4番、リスト/ペトラルカのソネット第1曲、ベートーヴェン/ソナタ第30番。

非常に上手い人だけど、昔からマロニエ君にとっては好みのタイプではなく、その演奏を聴くのは実に久しぶりでしたが、良くも悪くもこの人らしい健在ぶりを確認できるものでした。
和音さんの演奏を視聴するたびに呆れるのは、その手の動き。
世界中さがしても、彼ほど指の動きが必要最小限で事足りて、本当にこれで弾けるのか?というようなわずかな動きしかないのは呆れるばかりで、ビジュアルとしてはまったく見ごたえがない(逆にあるけれど)ばかり。にもかかわらずあれだけ充実した響きが出せるのは、よほど手の重みや筋肉が特別のものなのか、格別な奏法なのかそのあたりは謎ですね。

最近の若いピアニストたちが、今どきのお手軽なイケメンみたいに、軽くて薄めの音で、さらさらとなんでも弾きこなすのを聞いていると、まるで大手のインテリアチェーン店の商品を見ているようで、なんとも言い難いような気分になるばかりですが、和音さんのピアノはそれとはまったく逆の、良い意味で昔風の分厚い上質なカーペットのようで、この点は旧世代の重みを感じます。

最新の新しいピアノでも、あれだけ厚みのある美しい音を引き出せるのは素直に大したものだと思うし、近ごろはなにかにつけコストダウンされた楽器のせいにしていた事も多かったけれど、とはいえ、やはり弾き手・弾き方によってかなり変わってくる面も大きいということもわかりました。
さらに付け加えると、和音さんの音は柔らかで美しく、それでいていざとなればパワーもあれば明晰でもあるのに、いかなる場合も決してピアノを叫ばせないのは大したものだと思うし、この点は立派だと思いました。

ピアノを弾く技術に関しては、この人には天から授かったものが備わっているように思います。

さて、ここからは少々不満ですが、それだけの素晴らしい技術的な資質を備えていながら、聴いていてちっとも楽しくない点も清水和音さんって、相変わらずだと思いました。
とくにそれを痛切に感じたのは子供の情景で、美しい絵本か詩集のようなこの曲集を、ただ次から次へと楽譜の棒読みのように工夫なく演奏されてしまうのはやりきれなさがあり、ただシューマンのピアノ曲のひとつを自分流に弾いて通り過ぎただけという印象。

その点では、以降の3曲は高度な技巧を要する曲で、中でもショパンのバラード4番は、あれだけの演奏至難な曲を、なんら困難も破綻も感じさせないまま、当たり前のように弾けてしまうのは、それはそれで聴くに値するものでした。とくに後半部分もさあ難所が来たぞという構えもなく、整然と見事に終結してしまうところはさすがというほかありません。
まさにプロの演奏としての商品価値があるといった趣ですが、しかし音楽には必須であるはずの即興性とか味わいは個人的にはまったく感じません。
ペトラルカのソネットはもう少し情感が前に出てもいいかと思いますが、そうではないぶん端正な演奏でした。

最後のベートーヴェンは、この曲では叙情的なようでいて、どこか不安定な演奏が多い中、まったくぶれない腰の座った確かさが光り、長い第3楽章が佳境に入っても演奏は一貫して乱れず、お見事というものでした。

ただ、やはりこの人は徹頭徹尾技術の人であるという印象が拭えず、どんな曲でも間違いなく安定して弾いてくれるであろう頼もしさがある反面、曲が内包する高揚とか慰めとか問に対する答え、山場へ向かって迫るといったドラマがなく、どこまでも技術によってまとめ上げられた音楽に聴こえてしまいます。
これが、この人なりの考えの結果かもしれないけれど、聴いていてどうしても心情を託せないもどかしさが常につきまとってきます。
「楽譜にすべてが書いてある」がこの方の口癖で、いかにも尤もなようですがマロニエ君はそれには疑問を感じます。

楽譜にすべてが書いてあるのなら、もはやAIにまかせてもいいことになるでしょうけれど、マロニエ君としてはあくまで作品があり、その上に演奏者の芸術性が介在することで、ようやく音楽は成り立つものだと思いたいのです。
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心地よい音

真夜中3時頃のNHK総合では、映像とBGMだけが流れることあり、ヨーロッパの街並みだったり、ロワールのお城だったり、どこかの美しい景色だったり。
そのなかに映像詩『やまとの季節 七十二候』というのがあって、ゆったりとしたピアノの演奏とともに、リラクゼーション的な映像が流されているのを何度か目にしました。

ときどき演奏シーンが映りますが、ここで使われているピアノはどこにあるもので、どういう経緯でこのピアノなのかは知らないけれど、それは見るからにたいそう古い、外観のデザインも違う古色蒼然たるスタイルの19世紀のものでは?と思うようなスタインウェイでした。

かなり古いことは確かですがが、これがなかなか美しい艶っぽい音なのには「へえ」と思いました。
昔のピアノの音の美しさというのは、言葉でうまく表現できませんが、そもそも根本からして違う感じがあり、過度な洗練を加えられることのない素朴な艶と美しさを感じます。

むろん、古いピアノならなんでも良くて新しいピアノはすべてダメと言うつもりはないし、そもそもマロニエ君に懐古趣味はないことをしっかりお断りした上で、先入観なしに耳に入ってくる音として、美しいものは美しいという、ただそれだけの話。

古いピアノって、周りの空気をふわっと動かすような独特の鳴り方があって、そこに温かみがあってやわらかい。自然で正味のもので、それゆえ気持ちに理屈でなしに入ってくる「何か」をもっているように思います。
何が理由でそうなるのかはわかりませんが、まるで大自然の法則に適っているような心地よさを感じます。

昔のピアノは、木材やフェルトなど天然素材の質、あるいは自然乾燥など手間(すなわち人件費)のかけ方が格段に違うなどと言われているのはいまさらですが、ハンマーなどは消耗すれば交換もされるだろうし、それ以外にもなにか根本的な違いがあるんだろうと思います。

たとえばイメージするのは、熟練の技と勘など、創り手の技や熱意など、今では望み得ないものが詰まっているいるのではないかと思います。
こういうことをいうと、理論家の方は「そんなあやふやで根拠の無いものを良しとするのはナンセンス」、ピアノ作りには客観的に機械が勝るところも多いのも事実で、美化された理想と根性論のようなものだけではいいものはできないと言われる方も実際におられます。
たしかにそれも一理あるでしょうけど、マロニエ君は楽器作りにおいては、すべてがそうとも思えず、良い楽器になるために随所に込められた熟練者の勘や技が積み上がって到達する、摩訶不思議な領域というものは「ある」と思います。

現代のピアノは、上質の天然素材が自由に使えないだけでなく、効率重視によって直接音とは関係のないとされる部分には、人工の、あるいは人工に近いような部材が容赦なく使われているらしく、さらにハイテクによって量産家具のように寸分の狂いなく正確に組み上げられていくので、きれいだけど楽器としては失うものも少なくないはず。
たとえ人の手に委ねる部分があるにしても、それはごく一部の作業員(職人ではなく)の機械的な手作業であって、全体を統括するものはあくまでもハイテク。

あらゆる設計/製造の技術で言えば、昔とは比較するのも愚かしいほど進歩しているけれど、その技術が良いことにだけ使われているかといえばとんでもないことで、大半はコストダウンのためのごまかしなど、使う人のことを置き去りにした効率術にこそバンバン活かされ、表面だけ尤もらしくきれいに整えた製品であるのが大半です。

そんなご時世に、ピアノだけが例外であるわけがない。
一点の曇りもキズもない塗装、無機質なほど完璧に整った大小さまざまなパーツ、機械化によって成し遂げられた均一な組み上げ術、一説によると整音まで機械がやっているそうで、これで宣伝文句だけはやれ無限の表現性だの人の心だ感銘だと美辞麗句が踊っても、そうはならないのが当たり前。

一見きれいなようでも、つまるところは液晶画面のような無機質な音にも、それは出ていますね。
現代のピアノはいかにも音やタッチが揃って、さも尤もらしくしていますが、やっぱり楽器というよりは装置という感じです。
そういう音に慣らされた耳でも、やっぱり本物の音を聞くと、とても懐かしいような、ホッとするような、それでいてとても新鮮な心地になります。
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ラジオ

普段、家でラジオを聞くことはなく、自宅にはその装置さえありません。
べつに特別な理由はないのだけれど、昔からラジオを聞くという習慣が、なぜか身につかなかったからだと思います。

したがって、ラジオを耳にするのは車の中でCDにちょっと飽きたとき、ちょっとスイッチを入れてみるぐらいで、まれに気分を変えてNHK-FMのクラシックは聴くことがある…という程度です。

いつだったか番組名もわからないけれど、夜、なにげなくラジオに切り替えたらミケランジェリの特集のようなものが放送されており、途中から目的地に着くまでの30分ぐらい聴きました。
なぜかマロニエ君は、昔からミケランジェリはとてつもないピアニストだとは思うものの、まるで荘重なフレスコ画でも見ているみたいだし、不気味なほどひんやりした感じがして、好みから云うと進んで聴きたい人ではありませんでした。
一度だけ、実演を聴くチャンスがあったのですが、会場のNHKホールに行くと、妙に閑散としてなんだかあたりの様子がおかしく、入口近くに立てかけられた小さな掲示板に目をやると、今日の演奏会は本人の体調不良でキャンセルになった由の文字が並んでました。

いくら好みのピアニストではないとはいえ、やはりあれほどの世紀のピアニストです。
ついにその生演奏に接するという高ぶる期待で出かけて行ったらキャンセルで、ホールの建物にも入ることなくすごすごと引き返す時のあのやりきれない気持は今もって忘れられません。
当日、NHKのラジオではキャンセルの告知をしていたそうですが、もちろん知らずに会場まで行ったのでした。
表向き体調不良というようなことが書かれていても、ミケランジェリの場合、到底それを鵜呑みにする気にはなれませんでした。
楽器の問題か、あるいは、演奏会をやるような気分にはなれなかったという、そういったことだろうと思ったし、この人の演奏会に足を運ぶ以上、キャンセルのリスクは覚悟すべきだと承知ではあったけれど、いざ自分がその状況に立たされると、やっぱりやるせないような、行き場のない感情がふつふつと湧き上がってきたことも覚えています。

ずいぶん後になって知ったところでは、やはり楽器の問題だったらしいというようなことが音楽雑誌に書かれており、その尋常ならざるこだわりがミケランジェリのピアノ芸術を成立させているわけでもあるけれど、同時に彼ほどのピアニストなら、それなりの素晴らしい楽器と技術者が揃っていたことは疑いようもなく、それでも何かが気に入らずにキャンセルするということに、ある種の凄みと、バカバカしさみたいなものとが、コインの裏表みたいに感じたものです。

冒頭のラジオに話を戻すと、ミケランジェリの演奏で残っている音源にはやけに古いものや放送録音の類など、録音条件がきわめてバラバラで、出自の怪しい、聞くに堪えないようなものも数多くある印象ですが、まれに鮮明で良好な音として捉えられたものもあったりして、このとき流されたチェリビダッケとの共演でベートーヴェンの皇帝の第一楽章は、それはもうゾクッとくるようなものでした。

1969年の北欧での演奏か何かですが、演奏もさることながら、驚いたのはピアノの音。
美しい鐘の音のように鳴り響く低音、中音以上はやわらかで明晰、太字の万年筆のような優美さがあり、後年のスタインウェイのように痩せて肉の薄いキラキラ音で聴かせるものとはまるで異なる世界。
おそらくは戦後のハンブルクスタインウェイの黄金時代の楽器で、そこにさらにミケランジェリのような狂気的なこだわりが加味されると、こういう音になるんだと思いました。

ふと思ったのは、ファツィオリの目指している音ってこういうものじゃないか?…ということ。
ただし、やっぱりこの時代のスタインウェイは、素材も理念も何もかもが首尾一貫しており、本物だけが有する説得力と孤高の世界がありました。
本当にいいものには有無を言わさぬ、何か圧倒的なものがあるということを認めないわけにはいかないものでした。
この演奏から50年余、音楽を演奏する側、聴く側、いずれも本質においては何一つ進歩していない(むしろ後退)というのが率直なところ。

マロニエ君がミケランジェリを苦手とするのは、楽器そのものがもつ音の温かさと不自然なぐらいの美しさ、それに対して陶器のようにひんやり冷たい血の気のない演奏、その2つの要素の温度差があまりに激しくてついていけず、聴いていてしんどくなるからだと思います。
ちなみにポリーニは、とくに絶頂期のそれは専ら男性的なテクニックの濫費に身を委ねていれば満腹できるので、鑑賞の楽しみとしてはずっと楽ですね。
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事実上の終焉かも

前回からの、だらだらした続き。

コロナ禍には関係なく、ホールという空間でのコンサートに、近年に疑問を抱くようになってきたという、これはたんなるマロニエ君個人の印象です。

昔のように巨匠といわれる人やスター級の演奏家が君臨する時代ではなくなり、多少の差はあるとしても全体としてみれば平均化されたピアニストが大半。
訓練法が発達し、合理的に弾くという能力が向上したおかげで、予定されたプログラムをただ予定通りに「普通に、小粒に、コンクール風に」に弾いて済ませることはできるようにはなったけど、その先がない…。
くわえてYouTubeやネット配信などで、音楽や演奏にアクセスする方法もめまぐるしく変わってくると、これまで当たり前と思っていたホールでの演奏会も、質的な変化やなにやらで以前のような意味があるのかどうかさえ疑わしい。

とりわけコンクールで淘汰されてきた人は、難曲でも何でも普通に破綻なくクリアに弾けて当たり前の時代に、わざわざチケットを買ってホールに出掛けて行っても、もはやドキドキ感はなく、コンサートが特別なものではなくなりました。
もう一歩踏み込んでいうなら、今どきのピアニストの演奏は、一期一会の演奏に全身全霊を込めているというより、有名人が本を出版したり各地を講演して回っているような、技能職という色合いが透けて見えるようで、いわば腰の低い通俗人で、芸術家という気がしません。

そもそも、東京などの一部の演奏会を除けば、ほかでは露骨に手抜きの演奏したり、下手な人はやっぱり下手なだけだったりで、いずれにしろ演奏を通じて、何か極められた特別なものに触れることは難しいのです。
そんなものを見て聴くためにわざわざホールに出かけて行っても、喜びや充実とは興奮とは結びつかないものであることは自明で、こうなるのは当然だろうと思います。


昔の巨匠の中には一週間でも10日でも、毎回異なる曲目でリサイタルができるぐらいの膨大なレパートリーがあったとも聞きますが、公開演奏会とは、ほんらい、それぐらいの余力のある人がやるものではないかとも思います。

プログラムに関しては、たとえば半分だけ決めておいて、あとはその時の気分でいろいろ聴かせてくれるようなピアニストと、それが不自然でない規模の会場と雰囲気…、そんなものがあればどんなにいいだろうというようなことを考えたりします。
それもホールのコンサートのように「さあ、聴かせていただきましょう」といった大仰なものでなく、もっとほぐれた雰囲気があればと思うし、音楽って本来そういうものじゃないかと思うようになってきたこの頃です。

そうはいっても、万が一つにも、そういうスタイルが流行ったら、現代の抜け目ないピアニスト達はそれっとばかりにその情報を掴み、陰でシナリオを周到に準備して、それを演技的にやるぐらいのことは朝飯前で、よけいわざとらしくなるだけかもしれませんが。

いずれにしろ、仮にコロナ問題がないとしても、1000人も2000人も入るような巨大ホールで、はるか遠いステージ上の演奏を、左右の方と肩寄せ合って窮屈な体勢で聴いたところで、それがなに?としか思えなくなりました。
現代は何事にもビジネスや利益が絡む社会なのでホール規模のコンサートが当たり前のようになっていますが、やはりあれば本来アメリカのショービジネスのサイズで、クラシック音楽には合致していないように思います。
はるか遠くのステージから、ろくなニュアンスも伝えない残響音の放射で、およそ音楽的とも思えない不明瞭な音を延々2時間も浴びせられるのは、目に合わないメガネをかけて写真や映像を延々と見せられるようなもの。
そもそも残響というのは、主たる音が確固としてあって、脇役でしかないはずのもの。

コンサートの帰り道、なんとも言い難い後味の悪さに苛まれ、ひどい疲れと欲求不満のほうがはるかに大きいのは、実はそうした実際的な苦痛が多々あって、精神と肉体は正直だからだろうと思います。
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演奏環境

最近しきりに思うこと。
それは、クラシックのコンサートというのはオーケストラのような規模は別として、ソロから室内楽ぐらいまでの規模の演奏会をホールでやるということに、漠然とした疑問というか、違和感みたいなものを感じはじめるようになりました。

もしマロニエ君が全て自由にやれるとしたら、どっちにしろクラシックは大勢の人がこぞってやってくるようなジャンルではないのだから、少なくとも器楽の演奏会はホールを抜けだして、19世紀のスタイルに回帰してもいいのではないかと妄想してみたりしています。

ショパンの時代のように、広さはよくわからないけれどもサロンがあって、ピアノがあって、そこを来場者は適当に椅子をおいて、演奏者をゆるやかに取り囲むようにして演奏を聴く、こういうスタイルに憧れます。

できれば椅子も疲れない、肘掛けがあるような少しまともなものがいいし、それを真珠のネックレスみたいにきれいに並べるのではなく、ある程度ランダムに置いて、微調整は各人がやるぐらいの「ゆるさ」があるとどんなにいいかと思います。
人数も、100人からせいぜい200人程度といった数でいいのでは?

マロニエ君が嫌なのは、多くのホールは左右がくっついたシートに押し込められ、他人と肩を寄せ合うようにして着座し、肘掛けさえ一本をさりげなくお隣さんと奪い合うようにして使わざるを得ない、あれ。
おまけに、体中に神経を張り詰め、動きも最小にし、声はおろか咳払いひとつでも遠慮がちにしなくてはならず、暗い周りに対し照明の当たったステージを凝視するのは目が非常に疲れるし、これを事実上2時間つづけるのは、相当の疲労というか、心身ともにストレスまみれになります。

おまけに、肝心の演奏が気にいらなかったり、広すぎる会場と、仕組まれた過度な残響のせいで、音はぼやけて細かいニュアンスなど何も伝わってこない。

それなら、残響などほとんど配慮されていなかった昔の多目的ホールのほうがよほどマシな場合は少なくなく、そんな環境で、テクニックにしか興味のないようなピアニストのドライな演奏を聴かされても、当然のように「音楽の喜び」とは程遠いものになるのは必定です。

ピアニストがこういう演奏になるのにはさまざまな要因があり、テクニックという能力の競争、時代の空気、コンクール中心の価値観、聴衆の質の低下など、色いろあるとは思いますが、そのひとつとしてこのようなホール環境もあるのではないかと思います。

広すぎる空間、高いステージの上で照明を当てられての演奏は、聴衆とのコンタクトというよりは、孤独な晒し者という要因のほうが強く、そんな中で、深い愛情や味わいや芸術性を最優先した演奏など、できなくて当たり前という気がします。
聴衆も大事な点はわからないのに、ミスタッチだけはチェックされるとあっては、無味乾燥な印刷みたいな演奏になるのも、わからなくはありません。

というわけで、もっと小さな会場での親密さのある演奏環境が整えば、弾くほうも聴くほうも、はるかに質の高い幸福なものになるようなきがするのですが、それはマロニエ君の幻想でしょうか?
「いい演奏は聴衆が育てるもの」という言葉がむかしあったけれど、それは今も変わらないと思うし、演奏環境も同じじゃないかと思うこの頃です。
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広瀬悦子

少し前のことですが、広瀬悦子さんのCDを初めて買いました。
曲目はリャプノフの『超絶技巧練習曲』(全12曲)。

超絶技巧練習曲といえば誰もが思い浮かべるのはリストですが、最近知ったところでは、リストはもともとこれをすべての調性で書くつもりであったものの、結果的にはそれは果たせず半分の12曲で終わったのだとか。

すべての調性で書かれた作品としては、バッハの平均律、ショパンやショスタコーヴィチの24の前奏曲等がよく知られますが、平均律はハ長調/ハ短調、嬰ハ長調/嬰ハ短調と順次上がっていくのに対し、24の前奏曲はハ長調/イ短調という平行調、そして5度ずつ上がってト長調/ホ短調と進んでいく。
いっぽう、リストの超絶技巧練習曲はハ長調/イ短調という平行調に進むものの、次にくるのはフラットがひとつ増えてヘ長調/ニ短調、さらにフラットふたつの変ロ長調/ト短調という具合に、フラットが増えていく作りになっています。
「なっています」なんて前から知っているみたいに書いていますが、言われてみてたしかにそうなっている!と最近気がついたしだい。

これを引き継ぐかたちで、同じく超絶技巧練習曲を12曲書いたのがロシアのセルゲイ・リャプノフ(1859-1924)。
リャプノフはシャープが6つの嬰ヘ長調/嬰ニ短調から出発し、ひとつずつ減っていき、最後にト長調/ホ短調に行き着くというもの。

このリャプノフの超絶技巧練習曲じたいが初めて聴くものでしたが、一曲々々が聴き応えのある重量級の難曲で、むろん楽譜は持っていませんが、耳にしただけでも最高難度を要求する曲集であることが察せられます。
ライナーノートによれば、「ピアノ書法と構想の両面でショパンとリストの練習曲集に比肩するクオリティを誇っており、さらに演奏の難易度とヴィルトゥオジティの点では、この二人の先輩作曲家の練習曲集をしのいでいる。」とあり、そうだろうという感じでした。
作風は、繰り返し聴きながら、かつライナーノートを参考にしながら云うと、ロシア5人組、とりわけバラキレフの影響が濃厚で、ドビュッシーやスクリャービンと同時代の作曲家と思うと、革新的な試みや書法で新地を切り開くのではなく、保守的な作風なのかもしれません。

リストを思わせる部分は随所にあるものの、曲としての明快さがいまひとつ掴めず、ロシア的な暗さの中で重々しく唸ったり旋回したりで、リャプノフならではの独創性というのがもうひとつ判然としない印象はありました。

広瀬悦子さんは、これまで特に注目したことはなかったけれど、これだけの曲をなんの不満もなく聴かせて、自分のものにして録音までするというのは、素直に大したものだと感心させられます。
この人は、よく知られた名曲に新たな息吹を吹き込んだり、演奏を通じて聴くものに直接語りかけてくるようなタイプのピアニストではないけれど、これだけのずば抜けた能力があるので、こういう知られざる作品を紹介するのにはうってつけの方だろうと思います。

「パリ高等音楽院を審査員全員一致の首席で卒業」とあるので、フランス系の特徴である譜読みがよほど得意なんだろうと想像しますが、恵まれた長い指、何でも弾きこなせる高度なメカニック、どこか孤独を感じさせるひやっとする雰囲気。
昔、ミヒャエル(マイケル)・ポンティという埋もれた作品を次々に掘り起こしては録音して紹介する達者なピアニストがいましたが、広瀬さんにはぜひともその現代版になっていただきたいような気がします。

ご本人もそういう方向性を自覚しておられるのか、バラキレフ、アルカン、モシェレスなどの作品を多く採り上げておられるようで、埋もれた、もしくは埋もれがちな作品を呼び戻すためにもピアニストの中にはこういう人も必ず必要なのであって、今後の活躍にも期待したくなる気分です。
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大事なことは…

以前にも似たようなことを書いた覚えがあるので、重複するところはご勘弁を。
ピアノ購入者の中にはびこる「グランド信仰」というのは、相当に根強いものがあります(大人の趣味としてこだわりをもってピアノを買われる方は、ここに書く内容には該当しない人達ですが)。

子供にピアノをやらせている親御さん、音大に行った人とか、先生とか、あるいは技術者であるとか、世間的には「専門家」とされる人達の価値観というのは、ピアノの場合、かなりの固定観念に凝り固まった方が多くおいでのように思います。
それは、ピアノといえばグランドであり、グランドこそがピアノといえるもので、アップライトはまがい物でしょせんは妥協の産物。

置き場の問題と予算さえクリアできるなら、グランドにすべきは当然で、音楽性に乏しい有名量産メーカーのものであれ、まずはグランドか否かが重要、グランドはすべてのアップライトに優るという強烈な思い込み。

「グランドでないと真の上達は見込めない」「試験やコンクールに受からない」とまでされ、そういう人達はどんなに素晴らしいアップライトでも眼中にはなく、グランドでありさえすれば安心されるようです。

彼らの言い分はおおよそ決まっています。
先生はじめ内輪の伝聞によって、一秒間にできる連打の数など構造上の違いがある、早い話がグランドで練習しないと上手くならないというもの。
かくいう人達のほとんどはダブルエスケープメントという言葉すらご存知ないし、そういう人達がグランドのアクションでこそ可能なデリケートな音色の変化やタッチコントロールの妙を追求しているかというと…甚だ疑問に感じます。
さらにアップライトで弾けるのはせいぜい中級曲までで、上を目指すならグランドじゃないと無理というのがほとんど常識となっているのも驚きです。

できることなら、グランドで練習したほうが良いという説を否定しようというつもりはないけれど、美音を生み出すタッチや音楽性には無関心で、ただグランドでガンガン練習さえすれば良い結果が得られるという短絡的な理屈はいかがなものか。
せいぜい言えるのは、たとえばワルトシュタインの冒頭和音のこまやかな連打が、グランドのほうが楽にできるという程度の差でしかなく、弾ける人が弾けば、ショパンのエチュードだって、バラキレフのイスラメイだって、アップライトでも弾けますよ。

あるいは発表会であれコンクールであれ、ホールにあるのは、大抵有名メーカーのフルコンだったりするので、日頃からグランドで練習していないと本番で弾けなくなる!などとまことしやかに言われますが、それをいうならステージ上のコンサートグランドというのは、鍵盤からハンマーまでの長さも違うし、音色、音の出方、ホールの響き方、タッチ、音の放出感やバランスの取り方など、ことごとく違うわけで、それをたかだか家庭用の小型グランドを自宅に備えたからといって、解決するものとも思えないんですけどね。

グランドで育った人とアップライトで育った人とでは、音の出し方がまるで違う!などと尤もらしく言われたりしますが、マロニエ君はまったくそのようには思いません。
それはグランドかアップライトかの差ではなく、音楽的な演奏を目指しているか、美しい音の出せるような鍛錬をしているかどうか、タッチコントロールの必要性を教えてくれる教師か否かの問題のほうがはるかに大きいと思います。

それどころか、だいたいグランドさえ買っておけば安心するような親御さんの子に限って、音色に対する配慮どころか、音量バランスもへったくれもないまま、ただ単調で機械的に、そしてところどころに悪趣味な抑揚をつけて難しい曲を早く弾いたりするだけというのはご存じの方も多いでしょう。わざわざベンツで子供を学校や塾に送り迎えするのと同じとはいいませんが、大事なポイントがいささかズレているようにしか思えません。

思うに最も大事なのは、はっきり言えば価値観や教養など周囲の環境、音楽に対する愛情、美に対する感性、好ましい先生(これが絶滅危惧種並ですが)の指導などであって、それらがバランスよく統合されて育っていれば練習台がアップライトでも云うほどのハンデイがあるとは思いません。
どのみちピアノは持ち歩きはできず、そこにあるさまざまなピアノで弾かざるをえないもの。

昔のロシアのピアニストはところどころ音の出ないような、ピアノとも言えないようなガラクタで練習していたのだし、ダン・タイ・ソンやラファウ・ブレハッチは幼年期からずっとアップライトで育ったそうですが、にもかかわらず両人ともショパン・コンクールの優勝者です。

ちなみに、なにかの本で読んだところではパリの人達は、学習者はもちろん、本物のコンサートピアニストでさえ自宅(大抵はアパルトマン?)ではほとんどがアップライトだそうです。それでも海外からこぞって音楽留学してくるだけの高度な芸術性と演奏家のレベルを維持しているというこの事実ひとつとっても、やみくもにグランドが必要ということは裏付けられているとは思えません。
もちろん買える方は買われたらいいのだけれど、「グランドじゃなきゃダメ!」的な発想は、そこが正にダメだと思うのです。
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アップライトの防音

この数年というもの、マロニエ君がピアノを弾くのは、大半は自室のアップライトになってしまいました。
なぜそうなのか上手く説明はできないけれど、たぶんそのほうが環境その他で気持ちが落ち着くからでしょう。

自分のピアノのことを書くのはあまり気が進まないので、これまでほとんど触れたことはありませんでしたが、昨年、気に入っていたシュベスターを人にお譲りすることになり、ベヒシュタインのMillenium 116Kというやや背の低いアップライトに買い換えました。

このピアノ、その小さめの体軀に似合わず音が凛として、とても良く鳴ります。
「ピアノはグランドが絶対!」と思っているような人に、一石を投じるような意味でもぜひ触れてみて欲しいようなアップライトです。

さて、自室でコソコソ弾くピアノというのは、元気よく鳴ればいいというものでもなく、音量というよりはしっとり美しい音で練習を彩ってほしいものです。
部屋の窓などが防音をしていないこともあり、周囲への音漏れは気になるところなので、そこで思いついたのが自分でできる防音対策で、あれこれ試してみました。

アップライトというのは、大抵の場合、部屋の壁に寄せて置くのが普通ですが、かといってべったり壁にくっつけるわけにもいかないので、我家の場合は壁とピアノの間隔は約7cmほどにしています。

さて、一般にグランドピアノは音が大きく、アップライトはそれよりはずっと控えめと思っておいでの方もいらっしゃるようですが、具体的に音量計で計測したわけではありませんが、実はアップライトも相当の音量があり、グランドに比べて格段に静かとは思いませんし、仮に近隣のご迷惑を考えたら、そこにグランドだアップライトだということより、建物内のどこにピアノがあるかのほうがよほど問題だろうと思います。
そうかといってサイレントシステムなどは絶対に付けたくなく、実は一台サイレント付きのピアノもあるのですが、あれなら弾かなくていいとなってしまいます。

アップライトで最も音が出るのはどこかというと響板がむき出しになっている背面だろうと思います。
ならば、その背面に布地を垂らしてみようと思い立ちました。

まず試してみたのは、綿の粗い生地のテーブルクロス。
これを前屋根(上部の蓋の部分)にひっかけて、そのまま背後へだらんと垂らすというものでしたが、これが意外にも効果があり、あきらかに音が全体にひとまわり静かになりました。

布切れ1枚で、こんなに違いがあるとは思いもしなかったので、これはまず驚きでした。
ならばというわけで、もっと効果のありそうな布はないかとネットで調べた結果、防災用品専門の店に「完全遮光防炎防音遮音暗幕」というのがあり、遮音効果もかなりあって効果的というふれこみだったことと、布幅がいい具合にこちらが必要としているものとほぼ一致していたので、これを注文しました。

届いたのは、布というより「コーヒーをこぼしてもサッとひと拭き」みたいな人工的な素材で、裏には薄くゴムのコーティングのようなものがされており、繊維というより通気性などないシートという感じで重量もそれなりでした。
さっそく前回同様、先端を前屋根の中に差し入れて、残りはうしろに垂らすスタイルで使ってみます。

すると、まあたしかに音はそれなりに小さくなったけれど、遮音効果がある専用品を謳うわりには、前回の綿のテーブルクロスに比べてそれほどでもなく(つまり大差なく)まずこの点で大いにがっかり。

色は黒なので目立たないから見た目もいいから、効果の面では期待ほどはなかったけれどせっかく買ったんだし、しばらくこの状態で使ってみようと思いました。
ところが、それで10分も弾いているとあることに気が付きました。

さほど音量が抑えられたわけでもないのに、音の抜けが悪くなったのか、とりわけ和音などがぐしゃぐしゃした汚い音になりました。
テーブルクロスの時はそんなことはなく、全体の印象はそのまま崩れることなく、バランスよく音がコンパクト化された感じだったのに、この遮音防音シートとやらは、うまく言葉にできませんが、とても気持ちの悪い、早い話が汚い音になりました。
こりゃあダメだと思い、すぐに取り外しました。

その後も、なんか家にあった変なシートのようなものも試したけれど、最初の綿のテーブルクロスが一番よく、もし少し音量を抑えたいという方はぜひお試しを。
背面のどこまで垂らすか、床近くまでか、10cm上げるか20cm上げるかでも音と音量は微妙に変わるので、効果もあるし、楽しいですから、いろいろやってみられるといいかもしれませんよ。
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シュワンダーの真実

あらかた書いて、忘れていた文章がひょっこり出てきました。

今年のはじめ、ヴィンテージピアノの修復家の方にお会いできたので、いろいろとお話を伺いましたが、その中でも長らく完全に勘違いをしていたことがありました。

グランドのアクションについてですが、ウイペンのスプリングにはシングルとダブルがあり、現代のピアノはダブルが主流というのは通説ですね。

シングルのタイプにはそれなりのしっとり感や繊細な表現の可能性があり、バランスよく機能していればこれはこれで好きなのですが、なにぶん調整面の制限があって技術者泣かせのようだし、ハンマー交換などするとその弱点が露わになることも少なくないようです。
それに対して、ダブルスプリングはタッチのある種のデリカシーには乏しかったりすることもあるけれど、個別の調整幅があってキーの戻りなど俊敏性に優れており、機能面では断然こちらのようです。

これについてはマロニエ君もディアパソンを持っていた時代、ハンマー交換後の調整を重ねたもののどうにもうまくいかず、ついにはウイペンをダブルスプリングのタイプに総入替してもらったりと、技術者さんにはずいぶんご苦労をおかけしましたが、おかげでいい経験になりました。

ところで、その名称について。
一般に「シングルスプリングのことをシュワンダー」「ダブルスプリングのことをヘルツ」というのが通称になっており、要するにその名前が即、ウイペンのスプリング形式を表しているという認識でした。

それはマロニエ君のような素人の勝手な思い込みとだけでなく、プロフェッショナルの方もそういう言い方をしばしばされ、一般にはほぼそのように認識されているようです。
試しにネットでそのあたりを検索してみると、技術者のブログなどで、タッチ改善のためにシングルからダブルへとウイペンを交換することを「シュワンダーからヘルツにしました」といったような表現が、複数確認できます。
シュワンダーとヘルツの違いがわかるよう、2つ並べて写真まで添付されていたり。

ところが、この修復家によればそれはまったくの誤りであると、いともあっさり言われました!
シュワンダーとはレンナーとかランガーのように、いわゆるアクションの製造メーカーの名前というにすぎず、シュワンダー→シングルスプリングではないとのこと。
そればかりか、シュワンダーにもダブルスプリングとシングルプリングの両アクションが存在していて、現在もこの方の工房には「シュワンダー製のダブルスプリングのウイペンを搭載したピアノがある」といわれたのには、まさに「ひえ〜!」でした。

また、レンナー・アクションにもシングルスプリング仕様はあったのだそうで、アクションメーカーの名前がスプリング形式の代名詞となるのは、まったくの間違いであるとのこと。
で、ヨーロッパではダブルスプリングのことを「スタインウェイ式」、シングルを「エラール式」と呼んでこれらを区別しているとか。

では、そのスタインウェイ式をヘルツ式というようになったのはなぜなのか?
そこも質問しましたが「それはわからない」とのことで、ネットでも見てみましたが、ヘルツは周波数のことばかりでピアノに関することはついには見つけ出すことができませんでした。
ただ「スタインウェイ式」というからには、昔のスタインウェイ社の誰かが考案したものなんでしょうね。

戦前のベヒシュタインでもダブルスプリング式のピアノがあったそうですが、スタインウェイとの特許かなにかの争いで負けたたため、やむなくシングルに戻ったというような話もありました。
もちろん現代のベヒシュタインはダブルスプリングであるのはいうまでもありませんが、そこに至るにはいろいろな事情や変遷、そして事実誤認があるということですね。

ちなみにシュワンダー(Schwander)は英語読みのようで、フランスではシュヴァンデルというようで、井上さつき著の『ピアノの近代史』(中央公論新社)の中にも、「アルザス出身のジャン・シュヴァンデルはやはりアルザス出身のジョゼフ・エルビュルジュと組み、数々の改良を行い、国際的なアクションメーカーとなった」とあり、1913年には1000名の従業員があり年間10万台のアクションを生産、イギリスやドイツに数多く輸出され、シュヴァンデルのアクションを使っていることはピアノ販売の重要なセールスポイントとなったとも述べられています。

というわけで、今後、シュワンダー/ヘルツという表現は、アクション機構、スプリング形式を示すものではないという認識が必要なようです。
そうかといって、「スタインウェイ式」「エラール式」では日本では違和感もあるでしょうから、せめてダブルスプリング/シングルスプリングというのがいいのかもしれません。
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歪んだ自己顕示

つい最近、フルートマニアの友人から聞いたこと。

彼はさほどの演奏もできないのにモダンフルート(古楽器ではない、現代様式の金属のフルート)のコレクターで、ムラマツ、ヘインズ、ハンミッヒ、ルイロットなどいくつもの名器をコレクションしているお馬鹿なのですが、まあその点ではマロニエ君も(コレクションこそできませんが)ほぼ同類であることはかねがね書いてきたとおりです。

さて、フルートのような管楽器や弦楽器は定期的にメンテに出して、調整したり、消耗品の交換をしたり、時に解体修理をしたりと定期的なプロのケアを必要とするようで、楽器と名のつくものはおしなべてそういうものであるようです。

それを請け負う職人さんにも様々な名人・才人・奇人のたぐいが多々おいでのようで、修理のやり方ひとつにも各人各様の流儀と価値観・手法・巧拙があり、どこの誰に頼むかは難しいところのようです。
技術者のセンスや考え方、持ち主との相性や好みなどが幾重にも絡みあい、単純な答えがないあたりもピアノ技術者と同様だなあと思います。
いや、ピアノより楽器が小さく繊細なぶん、技術者の施した仕事の影響を受ける要素も多いのかもしれず、技術者選びはさらに困難を極めるといえるのかもしれません。

ヴィンテージの楽器が得意な人(ピアノと違って、そこには真贋の鑑定やそれに伴う金銭問題も含む由)から、メーカー系の定める基準にそって、マニュアル通りの整備を目指す人まで様々で、よって依頼する楽器によっても使い分けが必要なようです。

驚いたのは、さる名人とされる職人某さんの談によると、修理や調整にはよほどの自信とプライドがあるからか、自分が手がけた楽器(それも名器と言われるもので、そのへんのお稽古用の楽器ではない貴重な銘器!)に、自分が技術者としてその楽器に関わったという証を残すために、どこか所有者には見えないところに自分なりの印を入れるのだそうで、早い話が自分だけにわかる「キズをつける」のだそうで、これには仰天しました。

この方は、これを友人へさも誇らしげに語ったというけれど、マロニエ君は聞いていいてまったくいい気持ちはしませんでしたし、これは職人さんがやってはいけない道義の問題ではないでしょうか?
もし自分がそんなフルートの銘器の所有者で、わずかでもそういう印(キズ)を入れられたと知ったら、マロニエ君はとてもイヤだし容認できないだろうなと思いました。
唯一許されるとすれば、それは製作者のみ。昔のピアノには内部の何処かに墨文字で製作者の署名があったりしましたが、それはオーナーに内緒でキズをつけるというような陰湿なものではなく、堂々と名前や日付が書かれていただけ。

たかだか修理や整備をしたらかといって、所有者に無断で「キズ入れ」とは、どのような理由をつけようとも、他人の価値ある所有物に勝手に自分の印を刻み込むなんぞ、思い上がりも甚だしく、マロニエ君は聞いたそばから憤慨しました。
もし記録として純粋に必要なら写真を撮ってシリアル番号と仕事内容などを記録するなど、別の方法もあろうかと思いますが、楽器本体に消せない印を入れるのは自己顕示も甚だしい行為だと思いました。

骨董の世界などは、本体のお値打ちはもちろん、箱書きや添えられた古文書が示す来歴、時には包んだ布切れなどまでが骨董としての価値を決定することもあるようで、さらに歴史を加える場合には、箱ごと入るさらに大型の箱を作って新たな箱書きをするといったことをするようですが、喩えて言うなら、鑑定家が自分の手を経たからといって貴重な志野茶碗や織部や乾山の作品に、自分だけがわかるキズを入れるようなもので、そんな冒涜的な話は聞いたこともありません。

こういうことを書くとお叱りを受けるかもしれませんが、どんなに名人であっても、楽器の技術者さんは裏方の存在であって、自分を表立って表現する仕事ではありません。
…だからこそ、そういう歪んだ願望を抱く御仁も出てくるのかもしれませんが。

そういう行為には、どこか倒錯的な心理さえ垣間見える気がしてゾッとしてしまいます。

あんがいストラディバリやグァルネリの中を開けたら、そんなものだらけかもしれず、だからああいうオールド楽器の世界って素晴らしさとオカルトやホラーが背中合わせなのかもしれません。
人の悪意や怨念が渦巻いたとき、音に魔力が加わるものなのか?!?
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GoToなんたら

巷ではGoToキャンペーンだのGoToイートだのでかなり話題ですね。

でも…、ある知人が先日関東からやってきたのですが、その行動にはいささかの疑問も。
結論からいうと、日程、行動、店選び、要するにその行動の大半がこの手の「特典」をゲットすることが中心…といって悪いなら優先のようになり、まわりはそのために動かざるを得なかったのです。

もちろん、目の前にある特典はゲットしたい、使いたい、無駄にならないようにしたいという気持ちは大いにわかります。
それでもやっぱり思ったことは、そこにも自ずと節度というのはあるわけで、それ中心に行動するというのには違和感がありました。
ホテルにチェックインするといくら分かのチケット(かなにか)貰えるけど、地元で2日間しか使えない。
あるいは、食事をしようとGoToイートを使うにも事前予約が必要で、しかも対象店はかなり限られて、マロニエ君は店選びには関与しなかったけれど、聞くところによると多くは居酒屋のようなところだったりで、単なる食事では選ぶだけでも一苦労。

また店があるエリアは、繁華街のど真ん中で公共交通機関ならともかく、車族にはアクセスも悪く、空き駐車場を探しまわる心配もある。
おまけに食事の開始時間も、病院食よりも早い時刻のコース料理しかなかったなど、なんだか全部がもうバラバラで、なんのために何をしているんだろう?という印象でした。
駐車場も混みあうエリアなので、置けるかどうかの心配もあった(幸い苦労せず置けましたが)、GoToパーキングはないのだから、駐車料金はコース料理が終わるまでバッチリかかってくると、トータルで何がお得なのかもよくわからない。

更には、地元でポイントだかキャッシュバックだかしらないけれど、それを使うためだけのためにお店に行って「使う」ことが条件らしく、それを中心にした行動でした。
ポイントを最後の一滴残さず使い果たすとなれば、それなりのがんばりも要る。

コロナ禍が産み落とした経済活性化のためのシステムであることはわかるけれど、なんだか人間の内側に潜むガツガツした浅ましさが一気に吹き出物のように出てくるような感じで、コロナももちろん困るけど、全体として、ますます変な世の中になったもんだと思いました。
そこには人間が持っている浅ましさと、システムを利用し尽くすというゲーム的な感覚がないまぜになった、独特な闘志みたいなものがありました。
すべてを網羅的に使い切ることが、まるで頭脳明晰な勝者ででもあるかのように。

もちろん、そうはいっても、かくいうマロニエ君だって、自分がその恩恵に与る立場に立てば、できるだけ利用したいとはむろん思うとは思います。
でも、そのために周りの人の都合や流れもなにも、すべてがこれが優先事項になるというのは、べつにきれい事をいうつもりはないけれど、どこかヘンな気もしました。

逆にマロニエ君が東京などに行って、知人が集まって会ってくれるとなったら、もちろん使えるものは使うけど、とてもそのGoToだなんだを使い切ることをメインにして、予定の大半を組み立てるような度胸は幸か不幸か持ち合わせていませんね。

繰り返しますが、マロニエ君とて目の前にあって、すんなり使えるなら使いたいとは思います。
できることなら使える店であってほしいとも願うでしょう。
でも、そのために他者をあっちだこっちだと振り回すなら、適当なところで切り捨てると思います。

尤も、今の若い世代の人達だったら、驚くにも当たらないようなことなのかもしれませんが、それは全員が若くて、それそのものを楽しむ場でないとサマにならないというか、いい年してそんなことに血道を上げるのは、やっぱり個人的にはいただけません。

「あーあ、損したけど、ま、いいや!」ぐらいの緩さのある人がいいですね。
それにしても、コロナは収まるどころかヨーロッパでは再び猛威を振るい出し、東京や北海道でも心配な数字が発表されているようで、この冬、どんなことになっていくのか、まだまだ明るい気持ちにはなれないようです。
アメリカの大統領選挙ももう目の前ですね。
どんな世の中になるのやら…。
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小菅優

以前のBSプレミシアターでは、ボリショイオペラの公演から、ロシアの最も重いオペラでもある「ボリス・ゴドノフ」が全幕3時間にわたって放映されたところ、その後半は打って変わって「小菅優ピアノリサイタル」という思ってもみない組み合わせでした。

だいたいこのプレミシアターではオーケストラなら、後半も別のオーケストラであったり、バレエはバレエと組み合わされることが多いから、「ボリス・ゴドノフ」と「小菅優ピアノリサイタル」というのは意外な組み合わせで、それにまず驚きました。

とくに日本人ピアニストが、国内で行ったリサイタルがそのままこの番組枠で放映されるというのは、マロニエ君はあまり記憶がありません。
現在日本人で有名なピアニストというと、今どきのいくつかのお定まりの条件を整えた人達が大半で、みなさん技術的には立派に弾かれるけれど、個人的には(非常に残念なことですが)積極的に聴きたいと思うよう方ではありません。

なんといってもその条件の王道はコンクールで、まあこれはオリンピックの金メダリストということ。
ショパン・コンクールの優勝はまだ日本人は取ったことがないけれど、それ以外の著名コンクールでの優勝または上位入賞であること、なんらかのストーリー、あるいは一夜もしくは短期間に記録的なコンサートをして話題作りをする、最近では、タレントとして芸能人たちと肩を並べて手を叩いてキャアキャア言うなど、なんらかの売名もしくは話題作りに成功した人だけがステージチャンスをものにするという、いまさら書くのも飽き飽きした傾向です。

そんな中で小菅優さんが特別なのは、10歳の頃から渡欧し、コンクール歴なしにその実力を認められ今日の地位を得ているというところでしょう。
それだけに本物感があるし、ほかに思い浮かぶのは五嶋みどりとかキーシンでしょうか。

マロニエ君はコンクールをすべて否定するつもりはないし、これはこれである時代に一定の役割は果たしたと思います。
しかし、功罪両面があって、一夜にして楽壇デビューできるというセンセーショナルで魅力的な面はあるけれど、どうしても技術偏重に陥る、どちらかというとスポーツ競技に近いものがある。
それぞれであるはずのものに必ず順位をつける、加点減点対策から個性が抜き取られる、というようなマイナス面も目立ち、コンクールがいくたびも批判にさらされながら、それでも廃れないのは、演奏家を目指す若者にとってはそれが最短コースであるからだろうと思います。

また、コンクールによって、クライバーン、アシュケナージ、ポリーニ、アルゲリッチ、内田光子、ツィメルマンのようなスター級のピアニストが世に送り出されたことも大きかったでしょうね。

とりわけ日本人は、人がなんと言おうと自分は自分、自分の耳目と価値観で判断するということがことのほか苦手だから、コンクールの入賞歴は圧倒的な判断材料になる。


前置きが長くなりましたが、小菅優さんのコンサートは何度か行ったことがありますが、なんといっても音楽中心で、とてもよく準備されており、演奏も迷いがなくハキハキしていて燃焼感もあるし、かといって熱気だけで弾いているのではなく、分析やバランス感覚にもぬかりはない。
細部への気配りやデリカシーも常に機能している。
それから、マロニエ君が素晴らしいと思うのは、多くのピアニストがしないではいられない技術自慢を感じるところがまず無いことでしょうか。

10歳やそこらでリストの超絶技巧練習曲やショパンのエチュードを全曲録音するような人だから、そういう興味も欲望もないまま、音楽に献身できているのかもしれませんが。

近年では、水、火、風、大地をモチーフにした独特なプログラミングでコンサートをしておられますが、これがまたなかなか秀逸な選曲。
多くの場合、チケットを売るために有名曲を中心にしたものか、逆の少数派では演奏家の傲慢とも言えるような作品ばかりを並べてお客さんのことを無視したようなもの、そういうものが多いのに、この小菅さんのシリーズでは、そのバランスもよく、有名曲のあるけれど、そうではないものが過半数で、かならず初めて聴くような作品が随所にあって、これぞ本当に聴き甲斐があります。

小菅優さんの演奏で一つだけ惜しいのは、音にもうひとつ太さと重みがないこと。
体格もしっかりされていて、もっと肉厚な音が出そうなものですが、なぜか軽量で、この点だけは唯一の不満といえます。
音に力(音質やボリュームではなく)がないからか、あれだけ上質な演奏をされているのに、なにかもうひとつ聴く側の耳とか心に受け取って持ち帰るものが実際より軽く終わってしまうようで、これは非常に残念です。

でも、小菅優さんには内田光子に次ぐ、本物の世界的な日本人ピアニストになっていただきたいと思う、マロニエ君からみて唯一の御方です。
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音楽をする意味

先日、久々の顔ぶれによるピアノのお客さんがありました。

もう長い付き合いの方々なのですが、まずその中のお一人が弾かれたところ、全体から醸しだされる音や音楽の美しい世界にハッとさせられるものがありました。
別の方も、立派な技術をお持ちにもかかわらず、お子さんのレッスンに触発されてブルグミューラーの25の練習曲を見直し、これを丁寧に弾かれるなど、なにかしら変化が起きているようでした。

おひとりは先生を変わって一からやり直しをされ、音の出し方や体の使い方などをフランスの子供の教本を使ってやっておられる由。
もともときれいなピアノを弾かれる方でしたが、そこに一段と磨きがかかって、一音一音が深く説得力のあるものになっており、演奏の質感も上がっているし、なにより品位が備わっていました。

普通ピアノといえば、楽曲はネタとして用いられ、物理的難易度という面での上を目指すか、名曲アルバム的なベタな曲を目指すのがほとんどすべてといってもいいと思いますが、ごく少数でもこういう人もいるのだということは、ピアノ好きとして嬉しいし感銘を受けました。
音和の少ない、シンプルな曲をいかに美しく、曲の表情やニュアンスをもって弾けるかが大切で、ここをすっ飛ばしてどんなに難しい曲に挑んでも、それでは音楽のふりをした騒音でしかない。
そこのところが、どうしてもわからないのが日本のピアノをやっている人の大半だと感じますし、教育システムを含めた構造全体の問題も大きく、これは半永久的に変わらないでしょうね。

話は飛びますが、昔、キーシンやレーピンが天才少年として来日した1980年台後半、当時東京にいたマロニエ君はせっせと彼らのコンサートに通いつめ、中にはソ連体制派寄りの作曲家であるフレンニコフの協奏曲だけを集めた一夜まであったりで、この天才少年達は今ではもう決して弾かないであろうレパートリーを披露していました。

そんな一連の公演の一環として、ソ連のヴァイオリンの名教師で、ヴァディム・レーピンやマキシム・ヴェンゲーロフを育てたザハール・ブロン氏によるマスタークラスがあって、それにも行きました。
マスタークラスといっても、どこだったか思い出せないような小さな会場だったことしか覚えていません。

そこで3人ぐらいの日本の学生が指導を受けましたが、ただ必死にプロが弾くような難しい曲を格闘するように弾いているだけで、たとえばシベリウスのヴァイオリン協奏曲の第一楽章なんかをもってくるのですが、伝わってくるのはこの日のための猛練習の跡と、この若さでこれだけの曲をやってますよという自慢だけでした。
はじめに通して聴くだけでも相当の時間を要し、間近にいたブロン氏はしだいに所在なさ気に姿勢を変えたり自分の楽器を触ったりしていて、明らかに気持ちが離れているのが伝わりました。

曲が終わると「非常にすばらしい」という賛辞とともに、ひと通りのレッスンが行われましたが、その内容は曲の表情表現の話に終始していたようで、学生にはどこまで伝わったのか甚だ疑問だったし、他の学生も似たりよったりという感じでした。

で、最後に、締めくくりとしてまだ十代前半!の少年ヴェンゲーロフが出てきて演奏しましたが、彼が弾きだすや世界が一変、音は老成しており、曲が波のうねりのように流れだし、その中で音符はまさに生きて呼吸しているという「根本」にあるものの違いを痛感しました。
ひたすら音符を練習で、毎日何時間も追いかけているだけではこうはいきません。

後日、日本での印象など、ブロン氏へのインタビューが音楽雑誌に載りましたが、そこで記憶にあるのは「日本人はレッスンにもってくる曲が難しすぎる」「もっとシンプルで簡単なものでないと自分の伝えたいことは伝わらない」「その上でいろいろな曲に挑戦すべき」というような意味のことが語られており、大いに膝を打ったことだけは鮮明に覚えています。
音楽に対する心構えやセンス、芸術的な環境なしに、どれだけ技巧的なものが弾けても、ボタンの掛け違えのようなことになり、決して良い演奏はできないというのをやんわりと仰りたかったのだと思います。

その点で、先日の来宅された方は「易しい曲に立ち返って勉強し直す」という、マロニエ君としては日ごろ最も大切だと思っていることを実践されているということで、驚きとともに、なんと素晴らしいことかと思いました。
数曲弾かれましたが、まちがいなく、はっきりとその効果が上がっていました。

聴くだけでも苦痛になるような無神経でダサい弾き方で、さらに難曲大曲になれば苦痛もやるせなさも倍増し、「早く終わって欲しい」としか思わないのが正直なところ。
大事なことはブルグミューラーでもギロックでもいいから、その曲に全身が包まれ、あーもう一度聴きたい!と思わせるような演奏を目指すことだと思います。
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アメリカナイズ

五嶋節さんの本から、話を続けます。

アメリカの音楽学校といえば、真っ先に思い浮かぶのはニューヨークのジュリアードで、同校のヴァイオリン教師といえば、だれでもその名を知っている名伯楽だったドロシー・ディレイ。

パールマンを筆頭に、ヴァイオリンをアメリカで勉強した著名演奏家で、この人の息のかかっていない人はいないのでは?と思えるほどの大きな存在。

ディレイ女史はその知名度にくらべて、とても穏やかな優しい方で、節さんはこの方を尊敬し頼りにしていたようですが、その指導法というのは、一切、命令をしたり人前で叱責したりということがないとのこと。
そればかりか、何でもYESかNOで片付けてしまうアメリカと思いきや、むしろ日本人教師が足元にも及ばないほどの間接表現だそうで、なにひとつ直接的な言葉を使わず、すべては行間を汲み取り、生徒はディレイ先生がなにを言おうとしているのかを、耳を澄ませ、行間を読み、考えなくてはいけないのだとか。

それはともかく、パールマンとかみどりとか、一部の例外を除けば、マロニエ君は概ねディレイ先生が育てたという演奏家というのはあまり好みではありません。
これといってクセも欠点もない、ほどほどにまとまって上手いんだけれども凡庸な演奏で、突出した魅力や芸術性を感じるものではないからです。
とくに感じるのは、演奏に狂気や冒険がないことでしょうか?
かといって清潔一途な演奏というのとも、どこか違うような…。

それが垣間見えたのでは、ディレイ先生による「レッスン診断書のチェック項目」というのがあり、音、リズム、運指法、暗譜、イントネーション、歴史、総譜の暗譜、曲の構成/性格、強弱法/バランス、ペース配分/アンサンブル、弓の移動、ヴィブラート、指板上の左手の移動、アーティキュレーション、整合、音色の出し方、姿勢、ヴァイオリンのはさみ方、弓の持ち方と腕、左手の位置、頭、表情と息つぎなど。

これにくわえて、たとえば協奏曲ではソロに対する聴衆の集中力を上げるため、あえてワンテンポ遅らせて音を出すとか、化粧/衣装の選びから、ステージマナーまですべてを指導するのだとか。

「生徒の個性を活かしながら決して命令はしない」といいながら、これだけの細かい指示を叩きこまれ、しかもジュリアードには上昇志向の塊のような学生がウジャウジャいるのだそうで、それに応えきれない生徒は容赦なくレッスン頻度が減らされ、本には書いてはなかったけれど最後は見捨てられるのだろうと思います。
だから、みんなジュリアード出身の人はどこか同じ匂いがするんだな…と納得できたような一節でした。

優秀な凡人にはプロになるための養成所であり、ステージ人となるための有益な指導かもしれないけれど、特別な感性や才能あふれる若者にとって最良かどうか、マロニエ君は大いに疑問を感じました。

パールマンやみどりのように、それさえも突破するような天才は何があろうと天才のままかもしれませんが、そこで潰れていく才能も少なくない気がしたし、現に何人かは心当たりがあります。

マロニエ君の思い込みかもしれないけれど、音楽でアメリカ留学経験を経てた人って、ステージマナーからコンサートの作り方まで、アメリカ式の型にはまってしまうような気がします。
やたら笑顔で、形式的で、とくに女性はお辞儀の仕方も先に腰が曲がり、その後に顔が遅れてついてくるようなスタイルで、あれはあまり好きにはなれません。
あまりにもみんな同じような感じなので、あんなことまで手取り足取り教えられるのかと思うと、なにか怖いような気もします。

ちなみに、あのキーシンも少年の頃は、いかにも感受性豊かな天才という感じで、ステージマナーもぎこちなく無愛想で、個人的にはそこも好きだったけれど、カーネギーデビューしたあたりから、突然、貼り付けたような笑みをたたえてキュッと男性的なお辞儀をするようになり、それがどう見てもキーシンの自然からでたものではなく、人から教えられた動作のようにしか見えないのです。
確証はないけれど、あれはアメリカで指導されたものじゃないかと個人的には思っており、いまだにキーシンには似合わない仕草だと思うのですが。
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五嶋節物語

古い本ですが、『五嶋節物語 母と神童』(奥田昭則著 小学館)を読んでいます。
こんなブログとはいえ、読了もしないうちから何か書くのはあんまりでは?とも思いましたが、まあ思いつくままに。

五嶋節さんは、言わずと知れた五嶋みどり(弟さんもいましたね)を世界のヴァイオリニストに育て上げたお母さん。五嶋みどりのコンサート終了後の様子をテレビでチラッと見たことがありますが、陽気で気さくな関西の女性という感じで、親子といってもお嬢さんとはずいぶん様子が違うなぁと思った覚えがあります。

なにしろ、二人の我が子をあそこまでにした女性だから並大抵の人ではないだろうと思っていたけれど、この本のページを繰るごとにへぇぇへぇぇと驚くことの連続でした。
なにより驚いたのは、この節さん自身が大変なヴァイオリンの名手だそうで、その演奏はただ上手いというようなものではなく、天才的で、器が大きく、聴く者を魅了するものだったとか。

当然ながら学生時代は優等生タイプではなく、考え方など独自の感覚と存在感があり、普通の生徒とはかなり違ったところのある人だったようで、ヴァイオリンを弾くと圧倒的で、いわゆる天才気質だったとか。
オーケストラに入るのが夢で、相愛学園のオケのコンサートマスターまで務めていたにもかかわらず、当時神のように恐れられて、ときおり指導に来ていたという斎藤秀雄氏による独自の徹底した指導に反発してそこを離れるなど、やはり凡人とは感じ方も行動も違っていたでしょうね

ヴァイオリン奏者としての資質は確かなもので、申し分のないものだったようです。

しかし、家族の反対や時代に阻まれて、本格的な演奏家になる道はどうしても叶わず、その後結婚して生まれたのがみどりなんですね。わずか2歳のころ彼女がピアノなどよりヴァイオリンに興味を示したため、ほんならというわけで徹底的に教えこんだのがこの節さん。
みどりが天才であることに異論を挟む人はいないと思うけれど、子供にとって最も身近な母親が、それだけの天分と尋常ならざる気骨あるスーパー教師なのだから、そりゃあ鬼に金棒でしょう。
当初から一貫して、すべて母から仕込まれたというのも驚きでした。

節さんの演奏を知る人によれば、みどりのほうが完成度は高いけれど演奏は小さいと感じるんだそうで、どんな演奏だったか聴きたくてウズウズするようです。

学生時代は歌謡曲を弾くアルバイトをして、クラシックの訓練だけでは得られない貴重な体験を積んだり、そうかと思えばヴァイオリンから離れて、家出をして、水商売で働いて周りをハラハラさせてみたりと、やることがとにかく奔放で規格外で、まるでデュ・プレやアルゲリッチみたいな、天才特有の匂いを感じます。

それでも、周囲(家族?)の鉄壁の反対は如何ともしがたいものがあり、ついにはプロへの道はあきらめざるを得なかったようで、ご本人はもとより、その演奏によって深い感銘にいざなわれたかもしれない我々にしてみれば、ただ残念というほかありません。

それでも、人間って本質は変わるものではなく、こうと決めたらやり遂げる人だから、英語もできず、多いとはいえない貯金を一切合切もって、10歳のみどりをつれてニューヨークに渡るというような、芝居で言えば「第2幕」といえるような突飛な行動にも繋がったのは間違いなく、このあたりがなにかと常識やリスクに照らし合わせる凡人とは違うところでしょう。

音楽に限らず、芸術/芸術家と名のつく世界には、いわゆる凡人の立ち入る場所はありません。
凡庸な常識の世界ではなく、才能と努力(そして努力を惜しまない才能)、毒と狂気と、突風の吹き荒れる崖っぷちをさまようような苦悩の世界。
そこは、天才という名の常軌を逸した超人だけが棲むべき世界で、そこから紡ぎだされる美の世界を我々凡人は、その美のしずくのおこぼれを得ようと、口を開けて待っているようなものかもしれません。

それにしても関西はヴァイオリニストをよく排出するエリアですね。

五嶋みどりだけでなく、辻久子、神尾真由子、木嶋真優の各氏など、関西はパッと思いつくだけでも大物ヴァイオリニストが何人もいらっしゃいますが、土壌的気質的な何かと関連があるのかもしれません。
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バラエティー

民放TV番組で、以前から何度か目撃したことがありますが、ピアノ経験者の芸能人がスタジオでピアノを弾いてバトルをするという趣向のバラエティーが、季節モノとして定着化しているようですね。

『土曜プレミアム TEPPEN 2020秋 ピアノ絶対女王…』という、すごいタイトルでした。
「TEPPEN」「ピアノ絶対女王」というのが、なにを意味するものかは知らないけれど、つい違和感を感じます。

むろんあれは音楽番組ではなく、ピアノが弾ける芸能人を集めて競わせて順位をつける娯楽番組で、くだらない俳句をどうこう言うようなものと同様で、もとより真面目に視るようなものではないとは思っていますけど。

それは重々わかっていても、ピアノはピアノであり、演奏であり、音楽であるものを「ミス何回で失格」というようなことを堂々とやられると、視聴者の中にも「ピアノはミスなく弾くことが一番大事で、ミスしない人がうまい人!」という認識がTVの強い影響力によって植え付けられ、いつしか本来のコンサートにおいても、同じような尺度で見られてしまうとしたら、一種の危険性を感じてしまいます。

普通のピアノ教師のような人でも、世界的なピアニストのコンサートに行ってさえ、全体の演奏の感想等に触れることのないまま、どこそこでミスしたとか、あそこで音が飛んだとかのアラ探しに熱中あそばし、そういうことを「専門家は気が付きますよ」とか「あの人はさすが、一度もミスをしなかった!」などと自慢気に仰る向きがありますが、これほど恥ずかしい「木を見て森を見ず」式のやりきれないものもありません。
もちろんミスはあるよりないほうがいいけれど、演奏を通じて何をどのように表現したか、美しく感動的に伝えたかということが語られることは、悲しいほど少なかったりします。

まして、TVのゴールデンタイムに、あんなにあからさまにミスの数をカウントして優劣を判じるような番組があるのは、個人的には文化への認識をどんどん押し下げるようなものとしか思えないし、だったら、もっとバカバカしいお笑い番組でもやったほうがどれほどマシかと思います。
しかし、今どきはお笑いであれ芸事であれ、なにかに徹するのではなく、遊びと修練と実力を合体させた半エリート芸のようなものが流行りなのかも。出演者もMC、キャスター、俳優、芸人、なにかの専門家など、すべてがごちゃ混ぜのバラエティーでなくては視聴率がとれないのかもしれません。

日本は何事も先例主義で、ばかばかしい規制だらけ。素晴らしい先進的なものでも認可できない臆病な体質がある反面、文化のような基準のないものに関してはまさに無法地帯、破壊することに何の規制も躊躇もありませんね。


というわけで、マロニエ君はむろん毎回見ることは断じてないし、今回はたまたま目に止まっただけですが、どういうわけかはじめは電子ピアノで演奏、続くフリータイム(だったかな?)というのになると本物のピアノが使われます。

それがまた変わっていて、本物のピアノも前屋根だけを開け、大屋根は閉めた状態という不思議なスタイルでした。
使われるピアノはやはりゴールデンタイムの娯楽番組ということで視聴者への影響力があるのか、メーカー同士の摩擦があるのか、そのあたりの裏事情など知るはずもないけれど、普通、鍵盤蓋にあるべきメーカーロゴは完全に消された無印ピアノでした。

しかも、ボディ全体は1980年代までのスタインウェイのように、つや消し塗装されたコンサートグランドだったことがこの場合いっそう不思議でした。
大屋根を開けるのがピアノの一般的なスタイルであるのに閉めたままで、手元で必ず見えるメーカーロゴを消し、とくに日本製のピアノを馴染みのないつや消し塗装にしてしまうというのは、まるで謎の装甲車のようでした。

でも、そうまでしても、細部の形状等からヤマハのCFIIIもしくはCFIIISであることは明らかでした。
ということは、他メーカーへの配慮、あるいは民放テレビお得意の「自主規制」だったのか、真相はわかりませんが、背後に複雑な事情のあることだけは透けて見えるようでした。

音について。
スマホの画面みたいに、やたらピカピカした音をふりまく近ごろの新世代ピアノとは違い、旧型のCFシリーズが今よりもずっと厚みのある落ち着いた音だったのは印象的でした。
さらに大屋根を開けていないこと、音がまろやかになるといわれるつや消し塗装という条件なども重なっていたのかもしれませんが、ひさびさにピアノらしい音を聴けた感じはありました。
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張り込み

先週の連休最終日に非常に珍しいことがありました。

午前11時半ぐらいだったか、チャイムが鳴ったので出てみると、黒マスク姿のいかつい感じの中肉中背の男性が門前に立っていました。
出て行くと、いきなり警察手帳を見せられて、実はある捜査をおこなっているとか。
もしお願いできるなら我が家の敷地内、南北二方向に入らせてもらって、しばらく見張りをさせていただきたいという要請を受けました。

藪から棒にそんなことを言われてびっくりしたのですが、具体的な説明や言葉を避けながら、とある人物(単独か複数可かは不明)を追っているという事はかろうじてわかりました。
犯罪捜査に協力するのも市民の努めだろうと思い、承諾する前に再度警察手帳を見せてくださいと言ったら、すぐに応じてくれて、いかにも使い込まれた感じの二つ折りの黒い革の手帳を広げてそれらしきものを見せてもらいました。

とはいえ、テレビや映画ぐらいでしか見たことはないから、それが本物かどうかまではわかりませんでしたが、同時に名刺を渡され、県警本部の人らしく、二列に及ぶ長々とした肩書が右横にあって、名前の上に刑事部長とあり、ともかく「どうぞ」ということになりました。

刑事さんなので色のない地味な私服で、車も普通の軽自動車でした。
敷地の南北に別れ、一人は裏庭に通じる通路に身をひそめ、もう一人はガレージ前に車を止めてその中から監視がスタートしました。
「これって、ええっと、なんだっけ…なんだっけ?」と思いながら、やっとのことで「張り込み」という言葉を思い出しました。

我が家は蚊が多いので、蚊取り線香に火をつけてもって行きましたが、「すみません、ありがとうございます。」という簡潔な言葉だけで、それ以上の言葉は一切なく、じっと道路側を見ていました。

むろん、こちらが手伝うこともないわけで、早々に家の中に入りましたが、それからの長いこと長いこと。
やはりドラマのように年配のベテランさんと、若い部下と思しき二人組で、車内と庭を一定時間で交代しているようでした。

でも、じんわりすごいものを見た気はしましたね。
「張り込み」というのは、まさに見ることが仕事で、他にはなにもしないので、ただひたすらそこに30分でも1時間でも自らの存在を消すようにひっそり立っているだけで、見ること以外なにもしないことに、却って近寄りがたいような迫力がありました。
さらに、しっかり目的をもって道路の方角をずっと見ているためか、目元にはえもいわれぬ鋭さがあり、普通の人の表情とはあきらかに違う厳しさがどうしようもなくあたりに漂います。

むろん雑談なんぞする雰囲気も皆無で、こちらもたまに見に行ってはそそくさと引き上げますが、はじめはほんの1時間ぐらいだろうと思っていたところ、お引取りまでに要した時間はきっちり6時間にも及びました。

その間、別にこちらがなにか規制されたわけでもないのだけれど、なんとなく普段とは違って、家の内外をウロウロするのも憚られ、やはり精神的にそわそわするばかりで非常に疲れました。

しかも、最後に大捕り物があったわけでもなく、収穫無しでのまことに静かな終了でした。
6時間も場所貸ししたのだから少しぐらい聞いてもいいだろうと思って、最後に少し話をすると、新手の窃盗だということだけは聞きました。

マロニエ君宅のあたりは市内でも古くからある住宅街で、あまり物騒なことなど聞いたこともなかったので、こんな珍客には大変驚いたわけですが、やはり時代も変わり、コロナ騒ぎなどもあり、いろいろな目に見えない変化とか、人心の乱れが渦巻いているのかもしれません。

それにしても、警察官や刑事さんの仕事の大変さをあらためて痛感しました。
テレビの『警察24時!』みたいな番組は好きなので時々見るのですが、あれはいわば娯楽番組として成り立つよう見どころだけを編集されているものですが、よく「内定一ヶ月」なんてナレーションを聞きますが、実際は半日でもとてつもない重労働だと思いました。

よほどの訓練と忍耐力、それを支える精神力と体力、くわえてある種の慣れみたいなものが備わらないと、とても常人に務まるものではないと思いました。
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保護政策がほしい

バッハのゴルトベルク変奏曲といえば、いまだに真っ先に頭に浮かぶのはグールドの数種の演奏ですが、もっとも有名なものは1955年のものと、1981年に再録されたものでしょう。
(1981年版は演奏に賛否あるようですが、個人的にはピアノの音があまりにもダサくて演奏とそぐわず、そのせいでほとんど聴きません)
ほかには55年版とはかなり違うアプローチで1954年に収録されたものと、ソ連でのライブ録音などもありますがが、いすれにしろグールドの天才ぶりを一夜にして世に知らしめたのがゴルトベルクであり、そこからからこの風変わりな天才はバッハを中心に尋常ならざる演奏と解釈によって、世界中の音楽ファンを驚愕させました。

というわけで、ゴルトベルクはバッハの傑作であると同時にグールドを代表する作品であり、その信じがたいような鮮やかで超モダンなセンス、さらにはかなり演奏至難な作品でもあることもあってか、それ以降のピアニストは畏れをなして、この作品を手がけて録音するといったことはなかなかしませんでした。

そのグールドも1982年にこの世を去り、時間が経つにつれそれもだんだんに時効のようなことになってきたのか、ぽつりぽつりと他のピアニストによるゴルトベルクが出始め、いまではピアニストのみならず、弦楽合奏版からオルガン、アコーディオン、合唱によるものなど、あらゆる形態や楽器でこの不朽の名作が演奏されるようになりました。

ついには店頭でも、バッハコーナーの中にさらにゴルトベルクのコーナーが作られるほどで、グールドがこの曲で世に出たことにあやかる意味もあるのか、ピアニストの中にはデビュー盤としてゴルトベルクをもってくる新進演奏家も何人も現れるまでになりました。
おかげで、マロニエ君の手許には何種類のゴルトベルクのCDがあるかもわからないほどになりました。

その後はCDそのものが時代遅れとなり、リリースしても販売見込みが立たない、あるはゴルトベルクも増えすぎたということもあるのかもしれませんが、CD業界がすっかり斜陽となり、ほとんど火が消えたような状態に。

そんな中、つい最近だと思いますが、ある超有名ピアニストが「満を持して」といわんばかりにこのゴルトベルクをリリースし、すでに販売されているのかどうかも知りませんが、ネットの動画などではそのプロモーションビデオのようなものがさかんにアップされていました。

そもそもマロニエ君はこの人のことを芸術家とも音楽家とも一切思っていないし、わけてもバッハの音楽とは逆立ちしても接点の見いだせないような別種のイメージしかなく、その人がついにここに手を付けたのかと知って、正直ため息しか出ませんでした。
というわけで、そのプロモーションビデオとやらをおそるおそる見てみましたが、相当の覚悟をもって挑んだものの、それでも足りないほどの趣味による演奏で、その不快感を自分でどう始末をつけていいかもわからない状態になりました。

そもそも芸術性のない人ほど前宣伝や(広義の)パフォーマンスに力が入るもの。
ストレス以外のなにものでもない、むやみなスローなテンポで意味ありげなそぶりをするだけして、あとで必ずその反動のように猛烈な速度や技巧を入れ込んだりと、泣き笑いの三文芝居のよう。

はじめのアリアには実に8分近くも時間をかけ、冒頭からお得意の自己顕示欲のかたまりで、あの美しい音楽が、不気味な爬虫類にでもからみつかれているみたいなイメージでした。
そもそもマロニエ君が耐えられない演奏というのは、個性とはおよそ言いかねるものを芸術性であるかのようにすり替える狡さと悪趣味、自分を印象づけるためだけの意味深で嘘っぱちのアーティキュレーションなどで、よくぞあのアリアの清澄な調べを、あそこまで気持悪くできるものだと逆に感心するだけ。

バッハの作品は、誤解を恐れずに言ってしまえば、きちんと誠実に弾くだけでも作品の力によって、それなり聞くに耐える音の織物になるものですが、それをあそこまで無神経な色や表情に塗りかえてしまうとは!

生まれながらの天才とか、根っから芸術性に恵まれた人というのが、この世の中にはごくまれにいるものですが、今どきはそれらとはおよそかけ離れた人こそが表舞台に堂々と出てくる時代。
突き詰めればビジネスでもあるから、エンターテイメントを提供し商業的に成功していくのは、やむなきことかもしれませんが、芸術の世界でもそれが当然と言わんばかりに中心に居座るのは本当にたまりません。

世界的に有名になって、オファーも途絶えることがなく、チケットも売れるとなれば、もちろんそれは大変なことだと思うし、とりわけその関係者にとっては「音楽性だ芸術だと言ってみても、チケットが売れなきゃどうすんの?」みたいな感覚はあると思うし、それも一定の理解はできます。

でも、少しはそこから外れた真っ当な価値観が生きながらえることもできる、わずかばかりの余地もあってよさそうな気もするんですけどね。
動植物には「絶滅危惧種」などといってビジネス抜きの厳しい保護政策がとられますが、芸術にそれは適用されないのだろうかと思います。
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ベーゼンドルファー280

過日のNHK-Eテレ『クラシック音楽館』では、後半にアンドラーシュ・シフによるベートーヴェンが放映されました。
このコロナの時期、もしや日本においでになるのか、夫人の塩川悠子さんもご一緒でしたが、いかにもNHKのスタジオ収録という感じであったし、新しいベーゼンドルファーを使って「告別」が演奏されました。

ヤマハの子会社となってからのベーゼンドルファーについては賛否さまざまあるようですが、この時のピアノは旧275の後継ともいえる280(うしろにVCというのがつくものもあるようですが、その違いが何であるかはしりません)でしたが、これはこれでとても良いピアノだと思いました。

以前のベーゼンドルファーは、素晴らしく良い時とあまりそうは思えない(マロニエ君の主観)ときのばらつきが多く、ハッとするような純粋でこれ以上ないような美しい音を聴かせることがあるかと思えば、一転して蓮っ葉な品のない音であったり、虚弱な感じで鳴りがイマイチな感じを受けることも珍しくはありませんでした。
また、繊細といえば聞こえはいいですが、とても現代のホールでのソロには向かないというような楽器もあるなど、コンサートピアノとしては不安定という印象を持っていました。
さらに楽器の個性も強く、曲を選ぶところもあって、ピアニストがいつでも安心して弾ける、あるいはまた聴衆が安心して聴けるピアノというには、いささか問題も抱えているようにも思っていました。

それがこの新しい280では、上記のようなマイナス面がかなり克服されており、ベーゼンドルファーのヨーロッパ的なトーンと気品はそのままに、ほどよいパワーと現代性を備え、これなら安心してステージに載せられるピアノになったと思いました。

シフの演奏もこの時は好調で、コンチェルトの全曲演奏とか後期のソナタ、あるいは熱情やワルトシュタインでは物足りない場面もあったけれど、この中期の中では後期寄りの作ともいえる「告別」では、シフの美点が活かされて、ピアノの音とあわせて素敵な演奏が聞けたと思いました。
そういえば、コンチェルトの時のアンコールの「テレーゼ」も非常にチャーミングな演奏で、この人はこういう音数が多すぎず、リリカルな要素を随所に必要とするような曲を弾かせたら、最良の面が出るのだと思います。

それはいいけれど(以前にも書いたことがあること)最近はピアノの大屋根を、本来の角度よりもさらに上まで大きく開けるということが流行っているようで、あれは個人的には賛同しかねます。
そのための茶色の長い棒まであるようで、本来の突上棒を取り外し、付け替えて使うことが今のトレンドなのかどうかしらないけれど、見るからに無様で、大屋根が開かれすぎたピアノは、フォルムも崩れて見ちゃいられません。

アンスネスの日本公演で見たのが始まりでしたが、最近は海外でもしばしば見受けられ、キーシンのような深いタッチの人さえそれで弾いていたりと、これはあきらかに何らかの効果が見込まれてのことだということでしょう。

ピアノを不格好に見せるのが目的のはずはないから、もっぱら音の問題だろうと思います。
従来の角度より広く開けることで、音が上下方向に立体的に広がる、あるいは大屋根に反射して派手さがでるとかエッジの効いた音になるなど、おそらくは様々な実験を通じて何らかの効果が立証されたんでしょうね。

マロニエ君の印象としては、たしかに音が生々しくなり、滑舌が良くなり、いかにもパワーアップしたピアノのようになるといえばいえないこともない。
しかし、音が妙に直線的で、深みがなくなり、ピアノをホールで聞く際の音響としてのゆらぎとか膨らみがなくなるようにも思われます。

今回のシフでは、スタジオ収録にもかかわらず、この茶色くて長い突上棒が使われており、あれはなんだかいやだなぁ…と思います。
心配なのは、これが常態化してくると、メーカーのほうでも忖度して、この長めの突上棒を標準で取り付けてくる可能性があるんじゃないかと思うと、そんなことにだけはなってほしくないものです。

ベーゼンドルファーの280に話を戻すと、これには頑として否定される方(おそらくはヴィンテージのベーゼンドルファーの音をご存知の方でしょう)もおられますが、マロニエ君は決して悪くないと思ったし、このピアノを使ったリサイタルでもあれば、ひさびさにホールに出向いて聴いてみたいもんだと思いました。
とくに最近のように、どのメーカーもコンサートグランドでは無個性化が進んでいる(コンクールのせい?)中で、このピアノには節度は保ちつつも個性があって、フォーマルな気品があり、さすがだと感心しました。

シフはどちらかというと楽器を深く鳴らすようなタイプのピアニストではないので、別のピアニストで、いろいろな作品を聴いてみたいものです。
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達筆で雄弁

最近の若手ピアニストの演奏(そんなにいろいろ聴いているわけではないけれど)に思うこと。
昔よりも平均して技術が向上していることは広く言われて久しいことですが、その演奏は現代人の習性ゆえか、音楽そのものよりは露出に重きがおかれ、何か緒をつかんで有名な存在になろうという野心の旺盛さが感じられて仕方ありません。

少し前までは、平均的な技術が向上するのは単純に素晴らしいことだと思っていたけれど、もはや器楽演奏者にとっては弾けて当たり前ということなのか、それ以外のなんらかの要素が問われているようで釈然としません。

効率的によく訓練され、見ていて不安感や苦しさなどないまま、どんな曲でもサラサラと弾いてしまうので、ある意味お見事ではあるでしょうが、一番大事なもの、つまりその人がいま目の前で音楽をやっている、一期一会の演奏に立ち会っているといったような音楽の核心に迫る要素がなく、弾いている自分をビジュアルとして見せている感じさえあったり。

もちろん本番の陰では、人しれぬ練習や努力はあるとは思うけれど、結果として我々が接する演奏には、目の前で奏される音楽より、その人が有名人として認知されるための一手段一場面にうまく付き合わされているだけといった印象がつきまということが、どうしても払拭できないのです。

個性などあってもあるうちに入らないほど微々たるもので、レパートリーも幅広いといえば聞こえはいいけれど、要するに有名どころは概ね準備できているから、いつでもオファーに応じられます!といった感じで、その人が何を得意とするのかも分からないし、どういう時代のどういう音楽に興味の中心を置いているかもまったく不明。

試験やコンクールでやってきた曲から押し広げて、コンサートで求めに応じるための必要な曲を一通りマスターしているという、自分の意志というよりは、まるでプロの課題曲みたいな印象しかないのです。
むかしどんなに難曲と言われた曲でも、あるいは内容的な成熟が伴わないうちは公の場で弾くべきではないといわれたような曲でも、今の人はあっけらかんと弾いてしまうようです。

それだけ「上手くなった」といえば、それはメカニックや暗譜の能力という点ではそうかもしれません。
でも、聴いている側が音楽の喜びに浸って、曲の、あるいは演奏のなんとも言いがたいひだのようなところに触れて酔いしれたり、何度も繰り返し聴いてみたいと思わせるような魅力がないことは、大半に共通していることのように思います。

こういう現象と、あるときフッと重なったことがありました。

最近はテレビ番組の中でクイズ(それもゴールデンタイムにレギュラー化したり、やたら大型番組だったり)がやたら増えてきたように思います。
出演者も昔のように一般人が公募で出てくるようなものじゃなく、一流大学生の軍団あり、あるいは有名大学出身のインテリ芸能人(変な言葉!)と言われるような知識の達人ばかりで、クイズと言っても視聴者参加でほのぼの楽しむようなものではなく、その道の精鋭やプロが頂上決戦するエリート同士の戦いをただぽかんと見るだけ。
そこで繰り広げられるのは当然ながら呆れるばかりの知識量。

そこでマロニエ君が驚くのは知識量だけではなく、回答者がボードに書く文字が信じがたいほど悪筆で汚いこと。
もちろんクイズだから、きれいな字を書く暇はなく、時間勝負の場合もあり、美しい字である必要はないといえばそうなんですが、それでも限度というものがあると思うのです。
ダメ押しではないけれど、筆順(今は「書き順」というそうですね)も冒涜的にめちゃくちゃ。

字の美しさは演奏の美しさと大いに通じるところがあるとマロニエ君は考えていますが、昔の人は、字が下手なことを大いに恥じたし、上手い人はそれだけでまず一目置かれ尊敬されました。

で、これは喩えがいささか極端かもしれませんが、今のピアニストは音楽の文字に例えると、「漢検一級」みたいなものはお持ちかもしれないけれど、それを手で書いた時、一文字一文字がわざとではないか?と思うほど美しくない。

文字には楷書から行書までさまざまあって、基本形の美しさはいうまでもなく、崩していくときにどういう運びや流れで次に繋がっていくかということがとても重要で、ひとつひとつの文字の美しさと、それらが他の文字と並んで共存する場合の、絶妙のバランスや大小、筆圧、収まりの美しさなどがありました。
音楽が一音では成り立たず、旋律や和声を形成するのに似ているのかもしれません。

そういう意味で、昔の人は、単純な読み書きの技術や知識ではなしに、他の文化芸術と無意識に通底した味わいのある文字を書いたと思います。

そういう昨今の文化的時代背景が現代の若手ピアニストの演奏にも表れているような気がしたわけです。
音楽は演奏を通じてはじめて姿をあらわす芸術で、その演奏はもっと「達筆」で「雄弁」あってもらわなくては人の心を揺り動かすことはできないと思うこの頃です。
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システム

むかしに比べると、購入するCDの数もだいぶ減りましたが、それでも時々は購入しています。
マロニエ君ももはや古い人間になってしまい、いろいろな新しいテクノロジーが台頭してもついていけませんし、その気もありません。
いまどき嵩張るプラスチックケースに入ったCDを積み上げて、そこから聴きたい1枚をとりだして、そのつどプレーヤーに滑りこませるなんて、もはや古色蒼然たるやり方なのかもしれないけれど、自分はこうでなくては音楽を聴く気分と形が整いません。

今回、某大手の音楽専門ネットショップに注文していたCDは、これまで室内楽以外ほとんどきいたことのないボルトキエヴィキのピアノ作品集でした。
8巻からなるバラ売りものですが、それを注文したのが6月の中頃。

一部は在庫がないようで、海外発注をかけてくれているようですが「なかなか手に入らないので今しばらくお待ち下さい」というメールが数回届いていましたが、あるとき「このCDはあいにく取り寄せができません」という旨のメールが届きました。
具体的には5枚は準備出来ているが、残り3枚が入手困難というわけです。

その時点で「準備出来ているものだけでも購入する」か「すべてをキャンセルするのか」を選ばなくてはならず、マロニエ君はあるだけでも聴いてみたいので、5枚だけでも購入するという選択をしました。

で、数日後には送ってくるものと思っていたら、一向に届かず、おかしいなぁ…と思っていたら近隣のコンビニ留めでそれを自分で取りに行くということになっていたようですが、注文から2ヶ月以上経っていることもあって、そんな認識がまったく頭にありませんでした。
このあたりの注意が悪かったのは専らマロニエ君の責任ということになります。

というのも、これまで購入するCDは長いこと自宅に届いていたので、今回もそうだと思い込み、それ以上の注意をしていなかったのです。
すると、ある日「コンビニでの保管期限を過ぎたのでキャンセル扱いとなりました」というメールが届き、この時点でびっくり仰天、はじめてコンビニ受け取りということに気がついたわけです。
保管期限を見ると、メールを目にした時点で期限失効から12時間が過ぎるかどうかというところでした。
あわてて当該のコンビニに電話すると、その荷物はまだお預かりしていますが、おそらく返品扱いになっているので、お渡しできるかどうか不明、詳細の書かれた紙などを持って来ていただけたら処理をやってはみますとのこと。

というわけで、すぐにそのメールをプリントし、部屋着のままコンビニへと飛び込みました。
幸い電話に出た方がおられたので、すぐに店内のなんとかいう名前の端末に向かって操作をしてくださいましたが、やはり自動的に返品処理となった後で、その端末からはどうすることもできないので、購入者とショップの間でやりとりをして欲しいというわけで、こちらの連絡先を残して一旦帰宅することに。
コンビニ側も回収業者には品物を渡さないですむように言ってみますと、とても協力的でした。

ところが、その発送元のネットショップに連絡しようにも、ご多分に漏れず電話番号が書かれておらず、あせりながらパソコンと格闘した末に、ついにカスタマセンターの電話番号なるものを他から突き止めさっそく電話し、事情を説明しました。
内容はすぐに伝わり、今どきなので、これまでの購入履歴などもわかったようで、あれこれ手を打ってくれたようですが、先方が言うにはいったん回収命令が下ったものに撤回の指示はできないことになっているとのこと。
二ヶ月以上も待っていたCDなので、キャンセルする気は毛頭なく購入したい旨を伝えると、結論としては、いったんこのまま品物を送り返し、しかる後にもう一度発送しますので一週間ほどお待ち下さいということで、それで話は決着しました。

もちろん、その間メール連絡などは来ていたのだろうし、それを一字一句見逃さないための注意を怠ったこちらに責任はすべてあるといえばそうなるわけで、店側はやるべきことはキチンとやったということもわかります。
しかし、現実的には毎日見たくもないようなメールが何十通も来るし、重要なものとそうではないものの取捨選択だけでもひと仕事で、こんな結果を招くほど重要なメールとは思わなかったというのが正直なところ。

いずれにしても品物はもうコンビニまで来ているというのに、それをまたどこか遠く(おそらく関東でしょう)まで返送し、再度送り直すとは、システムには適っていても今どきのコストと効率重視の世の中にあって、なんとバカバカしく無駄なことかと思いました。

ショップに落ち度はないし、コンビニも親切で協力的だったし、2ヶ月強も待ったCDだからマロニエ君としてもキャンセルする気などさらさらない。
寝坊でもして飛行機が離陸してしまったというのならともかく、目の前にある荷物を時間切れというだけで受け取ることさえできないなんて、システムというものがそんなにすべての中心でエライのだとすると、なんだかとてもやりきれない気持ちになりました。

メール確認を怠ったマロニエ君が一番の責任者といえばその通りなのですが、人間は忘れることもミスすることもあるし、保管期限から何日も経過していたというならともかくも、まだ目の前にあるというのに、そういう場合のちょっとした融通さえもきかないのは、率直に言わせてもらえばそのシステム構築にも問題があるのではないかと思いました。

システムというのであれば、(少なくとも品物が回収される前なら)操作によって回収を撤回する機能を追加すればいいじゃないかと思いました。
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決め手は重さ

少し前のことでしたが、ある技術者の方から、至極もっともといいましょうか、大いに納得の行く話を伺いました。
ピアノのハンマー交換をする場合、何に最も留意すべきか?

こういうことは技術者さんによっても流儀はいろいろだろうと思われるので、あくまでもお話を伺った技術者さん個人のお考えとして紹介しますが、その方は「ハンマーの重さに対する注意につきる」といわれました。
ふつうハンマー選びというと、レンナーだアベルだというような単純な話になりがちですが、各社とも等級はいろいろあって、一概にどうともいえないようです。

その方が言われるには、それなりの品質のものであればメーカーはそれぞれだし一長一短で、それ以外にも優れたハンマーを作る会社はあるし、さらに取り付けるピアノの年代や相性、弾く人の好みなどとても一概にはいえないようです。

それより、メーカー以上に守る(こだわる?)べきことがあるとすれば、それはハンマーの重量。
これは決して外せない要素だと言われました。
ピアノの設計やアクションの作りに対して、最適な重さのハンマー(シャンクも含むとおもいますが)であるかどうか、この点をその方はもっとも注意されるそうです。
とくに古いピアノなど、データが豊富でないピアノになるとさらにその点は細心の注意が必要らしく、これを誤ると、どれだけいい音がしても、弾きにくくて好かれないピアノになり、ピアノそのものの価値を左右するに至るというのは納得でした。

その点の注意を怠って、安易に有名ブランドハンマーを取り寄せて交換すると、タッチの面で思ったような結果が得られないピアノというのはかなりあるそうで、多くの技術者はこの部分をハンマー交換時のリスクとしているようですが、決してそうではなく技術者がそこをよく認識し注意さえしていればそういう間違いは起こらないとのこと。

我々一般ユーザーにとって、信頼している技術者さんが吟味して仕入れたブランド品のハンマーなら、まさかそれが不適合だったとは思いませんものね。
重すぎるハンマーがつけられてしまったが最後、整調などでいくら小細工を繰り返しても基本的な解決には至らず、気持ちの良くないピアノになり、最悪の場合はピアノそのものが嫌われてしまうこともあるでしょう。
こういう場合、もともとのサイズが違ってしまうぐらい大胆にフェルトを削ってダイエットすれば、その分の効果はあるかと素人考えで思いますが、それではハンマーそのものの価値を毀損するようでもあるし、そもそもの選択ミスをそんなかたちでカバーするのもおかしいですよね。

話は変わるようですが、マロニエ君は無類のクルマ好きでもありますが、通常の好ましい実用車の場合、日常の使用でどの性能が最も乗員に寄与するかというと、それはエンジンでもパワーでも燃費でもなく、日常的な使用範囲における「乗り心地」です。
段差を乗り越えた時のいなし方、揺れの少ない節度感あるボディ制御、駐車場から表通りに出て加速して、流れに乗って走行する際にもっとも気持ちの良く感じる性能は、キチンと腰のある繊細でしなやかなサスペンションです。

これをピアノに当てはめますと、もちろん音や響きも極めて大切ではあるけれど、まずはしっとりと弾きやすく、程良い抵抗とコントロール性を兼ね備えた「上質なタッチ」だと思います。
マロニエ君は、音とタッチのいずれが大事かというと、悩んだあげくの究極の選択ではタッチかなぁ?と思います。
音は元のピアノがよければ優秀な技術者の力を借りてあるていど磨けますが、タッチはなかなかそうはいきません。
打弦距離だのなんだのと調整箇所はいくらもありますが、そもそも重いハンマーが悪さをしている場合、いくら技術者さんが中腰で汗水たらして時間をかけてがんばってくださっても、さほどの劇的変化は起こりません。

ハンマーの重量さえ適正なら、技術者さんも音色やパワーや調律など他のことに労力と時間を使えますが、これがボタンの掛け違えのように、出発の時点で間違っていると、あまり効果のない調整等でお茶を濁す以外にどうすることもできません。
そういうわけで、上記の技術者さんがおっしゃるハンマー交換の場合、最も重要な点は「適正な重さに細心の注意を払う」というのは大いに納得の行くお話でした。

こんなことを言っちゃ怒られるかもしれませんが、そこさえきちんとしていれば、レンナーでもアベルでもRGでも、そんなにワアワアいうような大問題ではないんじゃないかと思いますけどね。
もちろん、フェルトのクズを固めて作ったような安物じゃダメでしょうけど。
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Akiko’s Piano

終戦の日の8月15日、NHK-BSのドキュメンタリードラマで『Akiko’s Piano 被爆したピアノが奏でる和音(おと)』という番組が放映されたので、録画を視聴しました。

このピアノは広島の原爆投下によって亡くなった河本明子さんが愛奏していたピアノとして有名なもので、修復もオリジナルを重視して極めて慎重に行われ、すり減ったハンマーもあえて交換しないことで明子さんが弾いていた当時の状態を保持、原爆によってついたキズなどもそのまま残されているもの。

数年前アルゲリッチが広島にやってきた時にもこのピアノを弾いてみた映像があるほか、リシャール・アムランやピーター・ゼルキンなども、当地に赴いた際にこのピアノを弾いているようです。
アメリカ製のアップライトで、昔のピアノらしくやわらかい音のする楽器で、いまどきのビンビンした音の出る無神経なピアノとはまるで違うようです。

番組の大半は有名俳優陣によるドラマで占められ、明子さんが家族とともに戦時下を懸命に過ごし、学校生活を送り、勤労奉仕に駆りだされ、ついに運命の8月6日に爆心地の近くで被爆して、瀕死の状態で歩いて家の近くまで戻って倒れこんでいるところを両親に発見され翌日亡くなるまでが描かれていました。

ピアノのフレームにはそれらしき文字は見当たらなかったけれど、調べてみるとボールドウィン社製のピアノらしく、父君がアメリカから持ち帰られたものだったようです。
当時はピアノなどあろうものなら、金属供出などで没収されるのが普通だったと聞いていますが、よくぞ無事に生きながらえたものだと思うし、そういう強運を持った何か特別なピアノだったんでしょうね。

さて、番組後半では、被爆75年を節目として現代作曲家の藤倉大氏によって作曲された、ピアノ協奏曲第4番Akiko’s Pianoという作品が披露されました。
広島出身の萩原麻未さんがソロを務められ、下野竜也指揮の広島交響楽団で、ステージにはスタインウェイDと明子さんのピアノの2台が並べられ、曲の後半では、静寂の中を萩原さんがお能のようにゆっくりと明子さんのピアノへと移動し、スポットライトの下で続きのソロが弾かれて曲が終わるというもの。

ここから先はあえて勇気を振り絞って書きますが、この作品、マロニエ君には理解も共感も及ばず、ドラマで描かれた明子さんとはまったく異質な印象しか受け取ることができませんでした。
作曲の意図ととして明子さんとそのピアノが主役だと述べられ、「亡くなった人のレクイエムではなく、もし明子さんが生きていたらどんな未来が待っていたかを想像して作曲した」というようなことが語られ、テロップには「Music for Peaceという普遍的なテーマを一人の少女の視点で描く」といった言葉が並びました。
けれども、マロニエ君の旧弊な耳には、果たしてこれが音楽なのか?とさえ思うような奇抜でやたら暗いものにしか聞こえませんでした。

ピアノが好きだった明子さん、ショパンが好きで、戦時中を懸命に生きたけれど、最後は非業の死を遂げることになってしまった明子さん。
明るく聡明で、周囲から愛され、分厚い日記帳が何冊も積み重なるほどの膨大な日記を、流れるような美しい文字で綴って残した明子さん。
藤倉大氏はこれを作曲するにあたりインスピレーションを得るためか、わざわざ明子さんのピアノに触れるために広島までやってきて書き上げた作品とのことで、そういう内容になっているのかもしれないけれど、あいにくと低俗な耳しか持ち合わせないマロニエ君には、作品の価値はわからずじまいでした。

現代音楽の理解者に言わせれば、おそらく素晴らしい作品なのかもしれません。
ピアノは常に旋律とも音型ともつかないような意味深な音を発する中、背後では弦がたえずヒーヒーと鳴っており、ときどきピアノの音が激しくなったり、またそのうち静寂のようなものに包まれる、そんなことの繰り返しのように聞こえました。
いったいどこにピアノ協奏曲Akiko’s Pianoを見い出し感じればいいのやら見当もつきませんでした。

この作品の価値を云々する気はないし、そんな能力もないけれど、放送時間の大半を費やして放映されたドラマでは、明子さんとその家族や友人達は活き活きと描かれ、最後こそ原爆という悲劇に至るものの、それ以外はとくだん悲惨な話というわけでもなく、むしろ戦時中の人々の温かな人間模様がそこにはありました。

藤倉大氏はお顔は覚えがあったけれど、どれだけ気鋭の作曲家でおいでなのかは残念ながら知りません。
いかにも一般人の理解不能を前提としたような作品で、しかも偏見かもしれないけれど、日本人的な書生っぽい主張にあふれた作品のようにしか聞こえませんでした。

会場にわざわざ足を運んで聴きに来られた聴衆のみなさんは、あの作品をどのように感じられたんだろうと心から思います。
原爆投下という残虐行為は許されることではないけれど、でも、明子さんというピアノが好きだった19歳の少女に焦点を当てるのであれば、もう少し別の方法もあったのでは?とも思います。
明子さんは家族や友人(そしてピアノ)に囲まれて、楽しい時間もたくさん過ごされたと思いますが、彼女をあらわす音楽が結局こういうものになるのなら、マロニエ君はどうにもやりきれないものが残ります。

そこに、マロニエ君が現代音楽を介さない無粋者だということが横たわっていることも否定はしません。
しかし「音楽」というものがあれほど素晴らしく魅力的であるのに、その前に「現代」という二文字がくっついたとたん、なぜあのように難解で苦行的なものになってしまうのかが皆目わからないのです。
モーツァルトは、聴いた人間がなにか深い悲しみの中に投げ込まれてしまうような作品をたくさん書いたけれど、表向きは嬉々としていてまったくそんな顔はしていません。
ピカソのゲルニカが表現したものは、壮絶な戦争悲劇ではあるけれど、それをつきぬけたところに圧倒的な芸術作品に接する感動というものがあるし、そんな特別な例を引かずとも現代建築、現代文学、現代アートはいずれもそういう迷路に連れて行かれるようには思えません。

ごく単純な話に戻すと、主役は河本明子さんであり彼女のピアノであり、それは作曲者ご自信も仰っていたこと。
ですが、ピアノが好きでショパンを好んでいたという明子さんが、あの作品を聴いて素直に喜ぶのか?これが最大の疑問といってもいいかもしれません。
これがいつまでも消化しきれずに残ってしまう単純な疑問です。

おまけにこの作品は明子さんにではなく、マルタ・アルゲリッチという当代きってのピアノのスーパースターに捧げられているというあたり、いよいよもって意味不明でした。
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演奏家はエリート?

先日、録画の中に、NHKのクラシック音楽館だったか正確ではないけれど「1957年のカラヤン…」というようなタイトルの映像がありました。
同年にベルリン・フィルを率いて来日した折の旧NHKホールにおける演奏会から、ベートヴェン「運命」の第1/3/4楽章が放送されましたが、カラヤンの評価は横に置くとして、理屈ではない、率直な演奏の魅力と、それに触れる喜び・高揚感というものを考えさせられました。

海外の一流オーケストラの来日公演などまだまだ少ない時代において、当時の最高のスターであるカラヤン/ベルリン・フィルともなれば、クラシックにおけるビートルズ公演のようなものでもあったことでしょう。
そんなスターが日本にやってきて、圧倒的な演奏をどうだとばかりに披露することができた時代。

思わず唸ったのは、とにかく明晰明快、流麗で、パワーがあって、そりゃあ、ああいう演奏会に行ったら、だれもが酔いしれ興奮して大半の場合ファンになるでしょうし、CD(当時はレコード)も売れるでしょう。
カラヤンの人となりや、楽曲の解釈、演奏スタイルなど、現代の目から見れば突っ込みどころはあるかもしれないけれど、「音楽は歌である」「音楽はダンスである」という本質を突いた言葉があるように、音楽を聴くということは、まずは「音を浴びる快楽」だとマロニエ君は思います。
音楽によってもたらされる非日常の感銘や陶酔感、非日常を全身で感じることだと思います。

今の演奏は、あまりにテクニカルで、規格品的で、しかも学究的に固まってしまって娯楽や快楽の要素、演奏者の個性や冒険的解釈に対して、あまりに不寛容になったと思います。
演奏家もビジネスの要素が強まり、ライバルが多い中、オファーが来なくなるのが一番怖いから、嫌われないことが第一の演奏に意識が働いているのが見えすぎて、平均化された退屈な演奏になるのは必然。

いっぽう、聴衆の質も下がって、演奏の真価を見極めようとか、微妙なところに宿る芸術性を解する耳を持った人は激減しており、評価は技術と知名度と権威性だけがものをいうようになりました。

技術を磨いて、コンクールに出て上位を勝ち取り、レパートリーを増やして出世街道を歩くのは、ほんらい演奏家というより職業エリートの進むべき道筋。
いまでは、芸能界でさえ東大を筆頭に有名大出身者が幅を利かせる肩書社会。
当然、断崖絶壁に立って、これだというものにかけて一発勝負をする気概や度胸なんぞ失って、できるだけ好き嫌いの分かれない、中庸な演奏に終始することが、次のオファーに繋がるという戦略ばかりが透けて見えて、ちっともエキサイティングじゃありません。

芸術家(といえるかどうかはともかく)でも昔のように暴君的にふるまったりエゴを撒き散らしたり、次々に共演者に手を出して浮名でも流そうものなら、もう一発アウトなじだいですからね。
もちろん、そんな破天荒がいいことだとは思わないけれど、でも優秀有能でみんなに好かれるエリート社員みたいな人の手から、本物の魅力ある、聴く人の心を揺さぶり、天空高く旅させてくれるような演奏ができるかといえば…それは無理だと思います。
ここが、時代と芸術家の折り合いの難しいところでしょう。

すべてにシナリオがあり、最後だけこれみよがしに盛り上げて拍手喝采に持って行くという筋書きでは感動さえもニセモノで、むしろそんなものに乗せられてたまるか!という反抗心が沸き起こるのがせいぜいです。

地方のオーケストラでもとっても上手くなっているし、世界のトップと言われるオケでも、真の感銘を与えるような大した演奏をするわけでもなく、とにかく平均点だけが上がっている。
世界的なスターはいないけど、ちょっとしたピアニストでもラフマニノフの3番をしれっと弾いたりする、そんな時代だから演奏も多くが消費材のようになってしまい、わざわざ録音して残す意味もなくなっている。

聴きに来たお客さんをいい意味で満足させるような演奏、人の心を鷲掴みにして、強い力でぐいぐい山あり谷ありの世界へ引き回してくれるような、そんな体験も、演奏会のもっとも重要な役割だと思うのですが、すべてが変わってしまったようですね。
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BかCか?

前回に続いて…ということでもないけれど、スタインウェイのグランドピアノの中で、最高にバランスがいいモデルは何か?
これには、昔から技術者はじめ多くの人によってB型だとされている観があり、もはや異を唱えることさえできない定説のようになっています。

B型こそはグランドの理想形。
置く場所と予算さえ許すなら、ぜったいBがいい。
C型より一つ小さいBのほうがバランスがよくピアノとして優れている〜等々、こんな言葉をどれだけ聞いたことでしょう。
そういう声に押されて、B型こそベストと信じて購入された方も少なく無いと思いますし、マロニエ君もそこまで言われると言葉の力もあるから、半ばそういうものか…と思っていた時期もありました。

もちろん折にふれてB型には幾度か触れたことはありますが、素晴らしいピアノであることに異論の余地はむろんないですよ。
低音もそれっぽくよく鳴るし、全体に華やかでキレがあり、中型ピアノならではの軽快さもあり、いかにもスタインウェイらしくてわかりやすく、人気というのも納得です。

個人的な印象としては、Bにはとりわけブリリアントな個体が強く、やわらかで落ち着いた感じのBというのは、たまたまなのかもしれないけれど、新旧いずれもあまり経験した記憶がありません。
小型ピアノには望めない低音の美しさがあるいっぽうで、鍵盤が短い(鍵盤からハンマーまでの距離)のか、入力に対する反応も素早く、一台に求められる要素が凝縮されているのは、まるで取り回しの良い中型高級セダンみたいな感じ。

ただ、聴く側の立場で言わせてもらうと、Bには絶えず「薄い」感じがつきまとうようのは拭えません。
数少ないBによる演奏や録音を聴くと、残念ながらややわめいている感じを受けます。
貫禄ある大人というより、若々しいスリムな青年といった印象。

これまで、Cの評価がBほど高くないためか、さほど注目していませんでしたが、音や響きの印象でいうとCはおっとりしてDの短胴版のようでもあり、対してBは中型グランドのトップモデルといった感じを受けないこともなく、そこには一段の隔たりがあるところが最大の違いではないか?と思いました。
「打てば響く」という反応の良さで言うとBになるのでしょうか。

だとすれば、弾いて痛快なのはBかもしれませんが、鑑賞目的で客席から聴くことを考えたら、マロニエ君はCのほうが好ましいように思います。

青柳いづみこさん(たしかハンブルクBのユーザー)が著書の中でドビュッシーの前奏曲集を演奏するにあたって、どこだったかホールではない会場でピアノを準備する際に、この作品を弾くにはBでは表現できないものがあるのでぜひDを準備して欲しいとリクエストしたという記述があり、その時は「へええ?」と思ったけれど、今なら少しわかる気がします。

一番顕著に感じたのは、キーシンがアメリカの大学内で学生たちに囲まれてショパンのスケルツォを演奏する動画がYouTubeにありますが、そこにあったピアノはハンブルクのBでしたが、キーシンのあの全身全霊を傾けるようなこってりしたタッチの連続放射にピアノがついていかず、ほとんど悲鳴のような感じになったのを見て、さすがのBにもこのような限界があることを思い知らされたものです。

誤解しないでいただきたいのは、それでBを否定しているのではさらさらなく、ピアノはその目的や置く場所によって、さまざまな特性があるのだということが言いたいわけです。
メーカーによるBの説明では、小さいホールやサロンコンサートにも最適というようなことが述べられているけれど、このモデルが本当に素晴らしいのは、むしろ弾いている本人がこの上ない満足を得られるプライベートスペースなのかもしれません。

ピアノの難しいところは、奏者当人が弾きながら感じているものと、鑑賞する側の印象では、必ずしも一致していないと点が少なくないということかもしれません。
その点でBは、プライベートな部屋や空間で我一人弾いて楽しむ(あるいは練習や創作活動など)というシチュエーションにおいて、おそらく右に出るものはないのだろうと思います。

技術的な観点から、BとCのどちらが楽器として優れているかは、マロニエ君ごときにわかるはずもないことですが、鑑賞する立場として好みだけで言わせていただくと、やはりBにはサイズからくる限界を感じます。
やっぱりCの大人っぽい余裕と穏やかさには魅力に感じます。

Bといえばいつも思いだすのが某楽器店にあった戦前のA3(奥行き200cmのモデルで、ちょうどAとBの中間サイズ)で、これがもう「ウソー!?」というほど、パワーがあり溌剌としたいいピアノでした。
店主の談によれば、Bを喰ってしまうからカタログから落とされたモデルだそうですが、その真偽はともかく、ひとついえることはスタインウェイのA188とB211って、サイズが離れすぎている気はします。

ヤマハでいうとC3Xの次はC6Xになるようなもので、5に相当するサイズがないんですが、これはこのままでいいんでしょうかねぇ。
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廃墟でベートーヴェン

ずいぶん前のBSプレミアムシアターで、バレエの後半にアレクサンドル・タローによるベートーヴェンの最後の3つのピアノ・ソナタというのがありました。
この人は、前々から非常に時代や流行に聡いピアニストという印象があり、おそらくは今年のベートーヴェンイヤーを見据えて制作されていた映像なんでしょう。

映像の舞台となっているのは、たいそう荒れ果てた廃屋。
今どきのことだから本物か作り物かは知らないけれど、壁も床もボロボロの、白っぽい廃墟の中をタローがゆっくりと歩を進めると、奥まった部屋に、いかにもという感じで白い布が被せられたピアノらしきものがり、その前で立ち尽くす。
場面が変わるとほどなくop.109が鳴り出すというものですが、そのピアノはこの廃屋に合わせてわざと汚れが塗りつけてあるけれど、実は最新スタインウェイC型であるところが苦笑してしまいます。

ここまで芝居がかったことをするのなら、ピアノもそれに応じてヴィンテージを使ってもよかったのでは?と思うし、高価な最新の楽器を演出のためにわざわざ汚してしまうという行為は、そんなに重要なことだろうかとも感じたり。

床も天井も荒れ果て、壁は剥がれ落ち、場所によっては汚水が溜まっているような屋敷に放置されたことになっているピアノですが、その音はというと、新しいピアノ特有の若々しい新緑のような音色と、いかにも整った均一な響きを持っており、この演出があまりにちぐはぐですべてがウソっぽくなっているようでした。

演奏はいかにも現代基準といわんばかりに尤もらしく弾けてはいるけれど、演奏者の個性とか、曲と奏者の間に発生すべき反応、解釈、問いかけ、新しい切り口などはマロニエ君が聴く限りでは見あたらず、ただこの曲の平均的な音が虚しく聞こえてくるだけでした。
長年かけて出来上がったスタイルを模倣するように弾いているのか、定められた規格品みたいな演奏。

大勢の人の研究と時間によって練り上げられた解釈と演奏様式は時代を支配するものだから、それを土台にするのはわかるけれど、そこにピアニスト自身から発せられるメッセージ性、なにか心を震わすような情熱とか、演奏を通じた語りかけがあってこその演奏芸術だと思うのですが、近ごろのピアニストはそういう自我さえないのか、多くの場合、無難に整った(個性という意味では極めて地味な)演奏で済ませてしまうことがあまりに多く、こうしてみんなで演奏をつまらないものにしているように思います。

ちなみにこれは、このピアニストに限ったことではない、近年しばしば感じる問題です。
演奏を聴かせたいのか、こういう映像の中の弾いている自分の姿をアピールしたいのか、音に惹き込まれないからあれこれと余計なことを考えてしまい、しまいにはさっぱりわからなくなります。

ところで、マロニエ君はスタインウェイのC型については多くを知りませんでしたが、技術者や専門家の間ではBこそがベストバランスで、Cはそれには及ばないというようなことがいわれたりしますが、今回のビデオを聴いた限りでは、まったくそのような印象は持ちませんでした。

それどころか、C型とはこんなにも素晴らしいピアノだったのかと、驚きつつ感心してしまって耳を澄ませていましたが、これはほとんどDと遜色ないものだと思いました。

スタインウェイの中でベストバランスモデルとして定評のあるのがB型ですが、実をいうと(演奏を聴くぶんには)個人的にいささか過大評価では?と思うところもあったところ、Cのあまりの違いにはじめはびっくりしつつ、やがては疑いへと変化していきました。

というのも、別の場所できちんとした音源を作り、この廃屋&C型は映像のためのセットではないか?
ネットでいろいろと調べてみましたが、もともと検索力の低いマロニエ君の前にはそれらしき証拠はなにもなく、諦めかけたとき、いつも購入するCDネットショップのサイトをみたら、ちょっと引っかかることが。

アレクサンドル・タローによるベートーヴェンの最後の3つのピアノ・ソナタのCDがあり、この廃屋での演奏と思しき映像DVDがセットになっています。
知るかぎりでは、彼はこれまでほとんどベートーヴェンのCDはなく、これは2018年にパリのサル・コロンヌで録音されているもののようで、解説には「付属のDVDには、CDと同内容の全曲演奏映像を収録」とあるので、これはやはりホールにおけるDによる演奏という可能性もあり、ならば納得という感じ。

C型であれだけの音が出てくるとすれば驚き以外のなにものでもなかったけれど、音源が別となると、映像での演奏風景はいわゆる「口パク」ならぬ「指パク」ということになるのでしょうか。
ま、映像作品なんてものはえてしてそういうものなのかもしれないので、あまりそのあたりをとやかく言っても仕方がないのかもしれません。
なんでもフェイクが当たり前の世の中、もはや何を信じていいのかわからない…変な気分です。
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スターの条件

8月2日放送の『情熱大陸』はいま日本で旬のピアニストである反田恭平さんによる、このコロナ禍の中で試みる有料音楽配信という新しい音楽活動にスポットを当てたものでした。
多くのプロフェッショナルな音楽家が、コロナのせいで活躍の場を奪い去られる中、反田恭平という新進人気ピアニストが旗手となって新たなスタイルに挑戦しようとする様子をとらえたものです。

それに対する意義や判断力はマロニエ君は持ち合わせないので、そのことをここで書いてみようと言うのではありません。

この番組の内容とは直接の関係はないけれど、あらためて反田恭平さんという人を見ていて、なぜ彼が現在日本でトップの人気があるのかということを考えてみるチャンスになったので、そのことに触れてみたいと思います。

現代は苛烈なまでの大衆社会なので、昔のように芸術的な深みや精神性といったものを果てしなく掘り下げ、追い求め、享受する時代ではなくなりました。
芸術には、芸術家はもちろん、受け手の側にもそれなりの素養と修練と熟成が求められ、そういうことは(残念なことではあるけれど)年々時代に合わなくなり、もはやそういう求めも価値もほぼ喪失されてしまったように思います。

芸術性なんぞといったって、これという基準があるわけでもなし、ごく一握りのわかる人がわかるだけのこと。
そんな少数を相手にしていては、現代の厳しいビジネス第一主義の社会では商売もあがったりになるだけ。

さらに、芸術家といえるような人ならまだしも、クラシックの訓練を積んできたという人達は、全体にどこか浮世離れのした、純粋培養の中でイビツに育った線の細さのようなものがあり、大衆的な人気を博そうにも、まるで訴求力がないしパンチがないし、どこぞの大臣発言じゃないけれどまったくセクシーじゃない。

そこへもってくると、反田恭平さんというのは、およそ聴衆の心が素通りしてしまうような無機質な雰囲気ではなく、どこか昔のEXILEのメンバーか何かのような逞しさや体臭やワルっぽさがあり、いかにも非クラシック的な雰囲気があって、聴き手と同じ目線や感性をもっていそうなイメージが漂っています。
言葉遣いも、長年お偉い先生方との縦社会で培われた、慎重でステレオタイプのお行儀のいい丁寧語を話さず、スノビズムもなく、思ったことを言葉少なにズバリと口にするような今どきの若者の世代臭があります。
おまけに普段はどちらかというと無愛想で、洗練や選民意識を暗示するかのような微笑みもなく、いかにも今どきの健康で朴訥な男子という印象を与えるのだと思います。

ヘアースタイルはちょんまげでお顔はいかにも歴史画にみるような純和風で、まるでお能の落ち武者のようなニヒリズムと気迫があり、いわゆる今どきのキレイ系の目筋の整った無機質なイケメンでもない。
このあたりがまずもって現代では珍しい。

それに加えて一切の危なげのない、シャープで卓越した演奏技術があり、マロニエ君は反田氏の音楽には精神性を感じないけれども、彼がピアノと対峙して見せるその技巧そのものには、まるで剣術の師範代のような収斂された美しさ、すなわち精神性が宿っていると思います。
これは誰の目にもわかるピアニストとしての圧倒的かつ新種の武器であり、彼の一番のピアノ演奏上のウリは、やはり技術の冴えだと思います。
現代は芸術・文化より、経済・スポーツ重視の時代。
人の心の内側を覗き見て表現とするような細やかな陰影とか、一瞬の呼吸や風のひと吹きの中に込められる儚いような芸術性より、この明快で輝く技術こそが、人々の感動を誘い出しゲットするのだと思います。
その技術はあればあるだけいいし、しかもそれはクオリティという仕上げの研磨がかかっていないといけません。

こういう諸々の要素を、一身に集約したピアニスト。
それが反田恭平という人なんだと思います。

おまけに彼には不思議なスター性があって、彼の存在は、人の心の中に刻み込まれるものがある。
俳優でもそうですが、どんなに美男美女でもこれのない人は大成しないし、ビジュアルはイマイチでも、このスター性という摩訶不思議な天からの授かりもので主役を張り、第一線で活躍する人というのがいますが、反田さんはそういう意味でもまさに時代が産んだスターなんだと思います。

彼よりもっとイケメンでピアノも上手い人は探せばいるでしょうけど、それだけじゃもうダメなんですね。
そういう意味では、どんなにコンクールで優秀な成績をおさめるような若者が出てきたとしても、トータルで彼を超えるのは生半可なことではないし、だから反田さんの天下はしばらくは安泰なのだろうと思います。
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AIの音楽

先日のNHKの『らららクラシック』では、なんとも不気味なものを見せられました。
「AI音楽の特集 テクノロジーと音楽」というタイトルで、現在、AIがどれだけ音楽の世界に入ってきているかをざっと紹介する内容でした。

昨年末、AI美空ひばりというのがあったように、AIという技術革新によって、これまで思いもしなかったような可能性が広がっているということのようですが、個人的にはその技術には驚きつつも、どうにも後味のスッキリしないものだけが残りました。

このコロナ禍でリモート合奏するなどの使い方はあると思いますが、ドイツ・フライブルクにある音大では入試もリモートで、海外で演奏するピアノと音大のピアノをAIで繋いで演奏判定をやっており、今後の試験のあり方も変わっていくかも…というようなことで、いきなり唖然。
これで合格したら、そのときは実際にドイツに移り住んで学校に通うのか、そうではないのか、もうまったくわからない。

スタジオでは、グレン・グールドの演奏特徴を盛り込んだAIが、グールドが生前演奏していない曲としてフィッシャーの「音楽のパルナッスム山」から、というのが披露されました。
そのための装置を組み込んだヤマハピアノを使って無人演奏が行われましたが、なんとなくグールド風というだけで、本人が現れて目の前のピアノをかき鳴らしているような感覚になれるのかと思ったら、結果はほど遠いものでした。

なによりもまず、あの天才のオーラがまったくない。
タッチにはエネルギーも熱気もないし、いっさいのはみ出しや冒険がない、ただのきれいなグールド風な音の羅列としか思えないものでした。
名人の演奏とは、その場その瞬間ごとのいわば反応と結果の連続であり、どうなるかわからない未知の部分や毒さえも含んでいるもの。
鑑賞者はその過程にハラハラドキドキするものですが、それがまったくゼロ。

スタジオにゲスト出演していた、この道のエキスパートらしい渋谷慶一郎氏をもってしても「本物には狂気があるから、AIにそれができるようになたらおもしろいことになる」というような意味のことを云われていましたが、それが精一杯の表現だったと思います。

ほかには、やはりヤマハの開発で人工知能合奏システムというものがあり、生のヴァイオリニストのまわりにたくさんのマイクを立て、それを拾って、瞬時に解析しながら傍らのピアノからピアノパートが演奏されるというもので、共演者のテンポや揺らぎなどにも自在に対応するというもの。

演奏したヴァイオリニストも「違和感なく弾けた」とこれを肯定しており、渋谷慶一郎氏なども「音大生はみんな上手くなると思う」とポジティブなことを仰っていました。
たしかに、どんなテンポでも間合いでもAIが文句も言わず合わせてくれて、しかも機械だから疲れ知らずで、無限に付き合ってくれるという点はそうかもしれません。

でも、マロニエ君としては、手段がどうであれ出てくる音は整ってはいるけれど音楽として聴こえず、どうにも受け容れがたいものがあります。
新しい物を受け容れないのは、印象派の画家達が当初まったく見向きもされなかったことや、春の祭典の初演が大ブーイングとなった先例があるように、その真価が理解できず、固定概念に凝り固まった人特有の拒絶反応だと云われそうですが、それとこれとが共通したこととは思えないし、もちろんマロニエ君は固陋な保守派であっても一向に構いません。
いやなものはいやなだけ。

AIが共演者の音を拾って反応するということは、この場合ピアノの演奏が先を走ったり共演者を引っ張ることはなく、あくまでもヴァイオリンの脇役として影のようについてまわるだけとなります。
すると、終始自己中でいいわけで、相手と合わせる技術やセンスというのは磨かれないのでは?

ピアノ伴奏を人に頼む面倒もなく、便利というのはそうかもしれません。
でも芸術って便利なら良いの?という問題にも突き当たります。

また、作曲ソフトなるものもあり、AIが4つの旋律などを候補として提示して、その中から選んでくっつけたり貼り合わせたりするのだそうで、これがスマホアプリのお遊びならいいけれど、作曲家の創作行為の新しい可能性というようなことになってくると、それを肯定し賞賛する言葉や理屈はどれだけつけられても、要はコピペみたいな作品としか思えませんし、こんなことをしていたら、最後は全部AIに任せればいいじゃんということになりはしないかと思います。
今はまだ発展の過程だから生身の人間が主役になっているけれど、やがてAIとAIが合奏し、曲もAIが作るようになり、人間の出る幕はなくなるとしか思えませんでした。

クリエイティブな世界に身を置く人達は、AIのような時代の先端テクノロジーは受け容れるスタンスをとるフリをしないと、視野の狭い頭の凝り固まった人間と思われるのが怖くて、なかなか否定するわけにもいかないのだろうとも思います。

AIに頼めば、バッハのゴルトベルクに100のバリーションを作ることも、ベートーヴェンの交響曲第10番を生み出させたり、ショパンのバラードの第5番でも第6番でも増やすことは可能なんでしょう。
でも、そんなものはおもしろいのは初めだけ、後世に残る遺産になる訳がない。

テクノロジーの進歩という側面では驚嘆はするし、そこに拍手は贈りますが、そんなにすごい能力があるのなら、まずはコロナウイルスの特効薬でも作って欲しいものです。
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弾き手しだい

たまるいっぽうの録画ですが、その整理を兼ねて見てみることに。
NHK-Eテレのクラシック音楽館をたまたま2つ続けて見たら、そこに登場するピアニストのあまりの違いに笑いました。

そのひとつとは、4月12日放送のN響第1931回定期公演。
ツィモン・バルトのピアノ、指揮はクリストフ・エッシェンバッハで、ブラームスのピアノ協奏曲第2番。
ブラームスのピアノ協奏曲は2曲とも、その長大さに対して、派手な見せ場的なところがないからか、演奏されることは少ないけれど味わい深くとても好きな曲。

冒頭、ツィモン・バルトとエッシェンバッハの会話が流されたけれど、30年来の付き合いだそうで、バルトが若い頃、ピアノか指揮のどちらにするかで悩んでいた時に適切なアドバイスをしてくれた、自分にとっては音楽上の父などと言っていました。
またブラームスの協奏曲に対しても、若いころと今では演奏がいかに変わってきたかなどのコメントが。

さて演奏がはじまると、これまでのN響コンサートではあまり経験のないような違和感が。
あまり細かく言うのはよしますが、マロニエ君に言わせるとおよそプロのピアニストの演奏とは思えぬような違和感の連続で、ジュリアード音楽院出身とのことですが、そこにさえも違和感という感じ。
そもそもエッシェンバッハ自身が、若い頃はあれほど才能にあふれた有名ピアニストであったにもかかわらず、この人のどういうところをそんなに認めているのかがわかりません。

アメリカ国内の風船がいっぱいならんだような音楽イベントとかならとかく、プロのピアニストとしてわざわざ遠い日本へやってきて、テレビ収録が前提のN響と共演し、報酬を得て帰るということ、これも違和感でした。
ちなみに、このツィモン・バルトという人は、ものすごいマッチョな体格と風貌で、YouTubeで検索したら、若い頃はシュワルツネッガー張りの筋肉を見せながらタンクトップ姿でピアノを弾いたりしており、現代はまさに何でもありの時代なんだということをあらためて痛感。

ピアニストとしては逞しすぎる体格が災いするのか、すぐに音が割れてしまいます。
そのためか曲の大部分は抑えめな小さな音で弾いていますが、音に芯はなく音型も不明瞭、常にふがふがしたような演奏になります。
ソロの入るタイミングが変だったり、技術上の都合なのか普通に進めばいいところをやたら伸縮つけたり、ある部分ではラブシーンみたいに過度な表情をつけたりで、すべてがちぐはぐで独りよがりに感じるものでした。
エッシェンバッハはというと無表情にただ両腕を上下させているだけだし、N響の人達も仕方なくじっと楽譜を見ながら仕事をしているといった雰囲気でした。

それでも終わったら優しい日本人はちゃんと拍手はするし、大きな演奏会では「オーッ!」とか叫ぶ役目の人が必ずいるので、ご当人は満足かもしれません。
番組冒頭では、NHKが「アメリカを代表するピアニスト」とアナウンスしましたが、果たしてアメリカでどれだけの人がそう思っているのか、政治家でもないから支持率がでることでもないですけど…。

続いて、3月22日放送のN響第1929回定期公演。
こちらは若干20歳、ロシアのダニエル・ハリトーノフ、指揮はスペインのパブロ・エラス・カサド。
リストのピアノ協奏曲第1番が演奏されましたが、これはなかなか見事な演奏でした。

まずピアノの音がしなやかで肉づきがあって美しい。
同時にピアノって「ここまで」弾く人によって音が変わるのかということは驚くばかり。
さらには、指は文句なく回るし、リズム感もよく、演奏には勢いとメリハリがあり、いまどきの若者にしては妙にシラケた感じもなく、聴き手にも瞬間ごとに燃焼していることが伝わってくるものでした。
音楽的には特段の個性とか深い芸術性といったものは感じなかったけれど、プレーンな心地よさがあり、ストレスなく快適に、さらには演奏というパフォーマンスにも一定の満足を覚えながら聴き進むことができました。

アンコールはやけに技巧的で聴き覚えのない曲だと思ったら、このハリトーノフ自作の「幻想曲」だそうで、いずれにしろ大変な才能の持ち主であることは十分わかりました。

ロシアという国は、政治体制などはともかく、こと音楽のような分野に限っていうなら、いまだにこういう素晴らしい才能にあふれた若者がしっかりと送り出されてくることには感嘆を禁じ得ません。

12歳で衝撃のデビューをして世界を驚愕させたキーシンも来年は50歳!!!
彼がロシアピアニズムの中から出てくる事実上の最後のピアニストかな?などと思っていましたが、とりあえずまだその土壌は枯れてはいないようです。
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Fの真髄は?

ここ最近は、偶然も重なってか、TVでファツィオリを目にする機会が多かったように思います。

反田恭平さんが『題名のない音楽界』のスタジオ収録でもF308を弾いておられたし(おそらくこのために持ち込まれたものでしょう)、クラシック倶楽部では再放送でアンジェラ・ヒューイットの紀尾井ホールでのバッハ・リサイタルでF278。
ほかには、クイズ番組でも「何の曲を演奏しているところでしょう?」という問題で、場所はわからないけれど、使われているのがファツィオリで、この出題場面で使われるピアノは、これまでにも戦前のベヒシュタインとかニューヨークスタインウェイだったりと、かなりマニアックなピアノ揃いで不思議。

さてファツィオリですが、マロニエ君にとっては現在尚これほど難解なピアノもなく、いまだに聴けば聴くほど疑問が深まっていくのは如何ともし難いところです。

それは一言でいうなら、ファツィオリというピアノの個性というか、音の美しさの特徴がつかめないということに尽きます。
最高級の材料が吟味され、職人の手作業によって注意深く作られたピアノだけがもつ上質感というのは感じるけれど、ファツィオリ固有のトーン、いわば楽器がもつ固有の「らしさ」みたいなものがいまだに聞こえないのです。
もしかすると、そういうものはないのかもしれないとさえ思うこのごろ。

マロニエ君は、過去にファツィオリのことを高級ヤマハみたいなイメージと表現したこともあったし、今回の印象ではまたべつのピアノとの共通点をイメージしたけれど、何に似ているというようなことではなく、これぞファツィオリ!というものがいまだに見い出せないのです。
もちろんそこにはマロニエ君の耳が劣っているからということもあるとは思いますが。

表面的なブリリアントな音ではなく、深みとコクのある、まろやかな音を目指していることもわかる気がするし、それは今どきのパンパン鳴らすだけのピアノとは逆の、ピアノ本来の在り方だとも思うのですが、それ以上のものが見えてきません。

音楽発祥の国、イタリアが生み出したピアノで、この国のすべてのアートに通じる色彩や官能や享楽の要素にあふれているのかというと…あまりにも優等生然としていてるのも意外だし、イタリアものに不可欠の「太陽」を感じない。
むしろ特徴のない無国籍風の音に聴こえてしまうたびに、このピアノの核心はなんなのか探しまわるばかりです。

ファツィオリを評して、「イタリアらしく明るい色彩感にあふれたピアノ」というけれど、マロニエ君としては、とくに否定もしないけれども共感と言うまでには至らず、わかる方に教えてほしいものです。

ピアノは楽器であり主役は作品と演奏なので、主張の強すぎるものより、演奏者の黒子に徹するようなものがいいのだという考え方もあるかもしれませんが、個人的にはそこまでの割り切りはできないし、楽器そのものの魅力や美しさというのも音楽を聴くにあたっての楽しみの一つであり、それはおおいに必要なことだとも思うのです。

昨年、東京のショールームでほぼすべてのサイズを触らせていただいたときも、量産ピアノとはまったく次元の異なる濃密さがあり、さらに極上の調整がなされていることもあって、弾いていてこれほど気持ちのいい快適なピアノというのはそうないという貴重な経験ができました。
ただ、それは最高の状態に仕上げられた技術者の腕に負うところも大きいと思われ、その状態が少しでも崩れたときにどういうピアノになるのかというのは興味があります。

海外で収録された動画などを見ていると、必ずしも日本のファツィオリのように最高の調整を受けていないらしいものがあって、中には音もかなり荒れた感じだったりすると、よほど高度な調整を必要とするピアノなのかな?とも感じます。

「名は体を表す」というように、あの素晴らしいFAZIOLIのスタイリッシュなロゴそのものみたいな音を期待していしてしまいますが、やはりマロニエ君にはかなり難解なピアノのようです。
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大事なこと?

くだらないといわれそうなこと。

マロニエ君がスマホをもつようになったのは昨年12月の初旬のことでした。
その手続きに際しては、プランがどうの、この説明、あの説明、ここにもあそこにもサイン、在庫確認だ、なんだかんだでソフトバンクのショップ滞在時間は、実に2時間オーバーというヘビー級のものでした。
もうクタクタで、店を出た時は、めまいがしそうでした。

その一連の手続きの中に、画面に保護のためのシールというのがセットでついているとかなんとかで、よくわからないまま貼ってもらいましたが、その保護シートがいつごろだったか、はじめは汚れかと思ったら上のほうに小さな浮きのようなものが現れ、時が経つにつれ増大していきました。

あまり気にせず使っていましたが、ついには横幅いっぱいにまで成長したために、さすがにこれはマズイと思いショップに行くと、ニコリともしないベテラン風の女性が出てきて「ご用件は?」と聞いてくるので、ざっと説明をすると、保護シートの保証期間は6ヶ月です、昨年の12月でしたら保証期間は切れておりますので新たにお買い求めていただくことになりますが!とにべもなく至って事務的にいうのに内心ムッとなりました。

浮きが出たのはずいぶん前だったことを説明すると、奥の人間と相談しながら、今度は若い男性が対応に出てきて、端末をお預かりしますと言われ、名前や生年月日などを書かされて、さらにまたこちらにやってきて身分証明書といって免許証まで提示させられました。
それから待つこと15分ほど。

なんらかの処理をしてくれているものと思っていたら、やっと預けたスマホを手に戻ってきたその店員が口にした内容は、なんと、はじめの女性と何も変化のない、まったく同じことの繰り返し。
さらに保護シートというものは浮いてくるものだから、仕方がない事だという主張。
だったら、なんのために名前を書かせたり、身分証明として免許証まで見せたり、さんざん待たせたりしたのか。

最近は、何事にも努めておとなしくしているマロニエ君ですが、さすがにこの時は納得がいかず、今日の今日、保護シートが突然浮いてこの状態になったわけではなく、はじめはよく分からず様子を見ていたこと、また、購入時に保護シートは浮いてくるものという説明はなかったし、そもそも保護シートにまで保証期間があって、それが6ヶ月というのも知らなかった。
1年も経っているというならともかく、保証が切れて1ヶ月たらず、しかも浮きの発生は6ヶ月以内で時間とともにだんだんひろがってきたもの、さらには10年以上にわたって家族分を含めてこの店だけを利用してきて、あげくこのような規定ルールを冷たく言い渡されるのは不愉快であること、よって交換には及ばないことを伝え、すぐに店を出る準備をはじめました。

するとその店員は再度奥に行って相談したのか、戻ってくるなり「今回だけ特別に!」ということで無償で張り替えてることになりました。
どうせ千円やそこらのもので、ネット上には山のように売っているようなものですよ。
普段から過剰なサービスをエサにしては顧客の取り合いに明け暮れていながら、いざとなるとこんなお粗末な対応をして、せっかく贔屓にしている顧客の心象を著しく害するのはどういう了見なのかと思いました。
それと、マロニエ君はべつに無償交換にこだわっているのではなく、その際の対応があまりに木で鼻をくくったような、申し訳ないという気持ちのかけらもない冷淡で不愉快きわまる対応、これに憤慨したのです。
むこうだって商売なんだからお客さんには笑顔で接し、申し訳ないけれどもこれこれの事情があり、こういう対応にならざるをえないと礼を尽くしていわれればそれでいいのですが、こちらの気持ちという一番肝心な部分をいきなりバサッと斬りつけてくるような対応には不快感しかありませんでした。

さらに同じ日、そのすぐ近くのスーパーに行くと、購入商品を袋に詰めるスペースで「お客様の声」というのがボードに張り出してあり、直筆で同情を禁じ得ないことが書かれていました。
スーパー内のベーカリー店でパンを購入したところ、並んでレジを済ませたら、なんと自分の次の人から半額となり、非常に不愉快だったということが綴られていました。

半額にするなら、やはりそこはちょっとお客さんが途切れてからにするとか、ちょっと前倒しして半額扱いにするとか、商売というものはそういうちょっとした気遣いや心遣いが後々に響くもので、あまりに無神経なやり方だと思います。
少なくとも、不愉快な思いをさせられたら、傷ついた側はいつまでも覚えていますからね。

こういうことは人によっては「くだらない」「大したことじゃない」などと一蹴される可能性がありますが、我々生身の市井の人間の生活感情においてはそういうことはくだらないこととはマロニエ君は断じて思いません。
事象としてはくだらないかもしれないけれども、そこに生じた不快感はまぎれもなく本物です。
ささやかなことで喜んだり幸せな気持ちになることは大事だというなら、その逆もコインの裏表で同じことでしょう。
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TVにみるピアノ

NHKのテレビから、ピアノに関すること…。

朝ドラの『エール』(現在進行が止まっている)は音楽家の話だから、折りに触れてピアノが出てきます。
物語上の場所が変わっても、学校でも、レコード会社でも、どこかのステージの場面でも、使われるのはどうやら同じピアノのようで、きっと撮影の都合上、一台を使いまわしているんでしょうね。

ピアノは明らかにスタインウェイのBですが、ロゴが出てくることは一切ないどころか、鍵盤すら出てくることはほとんどなく、いつも斜め横やうしろ姿などばかり。
それはともかく、そのピアノにはきわめて不可解な部分があり、ピアノが映るたびにやたら気になります。

何かというと、ピアノの足の下の部分が、いつも真っ黒な立方体のような大きな箱で覆われており、これがとにかく異様なのです。
そこには、よほど見えてはならないものがあるのかと想像をたくましくしてしまいますが、それは一体何なのか?

普通のピアノの足ならべつに見えてマズいわけはないし、わざわざあんな箱状のものを被せて覆い隠すとしたら…唯一考えられるのは、大型のキャスターがついていて、それがドラマ内での昔のピアノの姿として似つかわしくない…とでも判断されたぐらいしか考えられません。

別番組『らららクラシック』では、同じくB型が足元まで写った映像がありましたが、そこにはコンサートグランドほど巨大ではない、やや小ぶりのダブルキャスターがついているので、あの黒い箱の中はおそらくこれだろうと推察されました。
だとしても、そんなに見えてはいけないものとも思えないし、それでも隠すのであれば、もっと控えめにキャスターだけ黒い布で包んで覆うぐらいでもよかったのでは?
とにかくあれは違和感バリバリで、ピアノの足先がかなり大きな真っ黒の箱のなかに3本ともズボッと突っ込んだ姿で、あんなのこれまでに見たこともないものでした。

ふつうはピアノの足なんて注目する人はいないのだろうし、真っ黒の箱だから目立たないという現場の判断だったのかもしれませんが、少数でも気がつく人は必ずいるわけで、その結果は小型のダブルキャスターそのままより何倍も異様な光景になっているとマロニエ君は断言したい。

尾行などのため顔を見られないよう、黒い大きなサングラスをかけ、マスクをして、長い髪のカツラと帽子まで被った姿は、よほど目立って人目につてしまったというようなお笑いのオチがありますが、まさにそんな印象。

東京のNHKには、コンサートグランドなんて何台でもゴロゴロありそうですが、却って普通サイズのグランドとか日本製のピアノは小道具としても一台もないんでしょうか…。


テレビで見たピアノということで、今ふと思い出しましたが、日曜美術館で「ようこそ!私たちの美術館」というのをやっていましたが、京都市京セラ美術館が紹介されたときのこと。

中村大三郎画伯が大正期に描いた「ピアノ」というそこそこ有名な作品がありますが、それはこの美術館の収蔵作品だったことをこのとき初めて知りました。
四曲一隻の大きな屏風に描かれた日本画で、赤い振り袖を着てピアノを弾く女性(中村画伯の夫人の由)が描かれていますが、画面の3/4ほどは大きなグランドピアノが占めるという、ちょっとほかに類を見ない大胆な構図。
鍵盤蓋には「ANT. PETROF」とはっきり書かれており、この絵は昔(2000年前後?)ペトロフの日本輸入元だったRHFセンターのサイトなどでも紹介されていました。

ここに描かれたペトロフは、大正期に地元の人の募金によって小学校に購入されたピアノで、そのピアノがなんと現存しているということでごく短時間でしたが実際のピアノも紹介されました。
足の形状や、大屋根を支える棒にあしらわれた金色の装飾など、まさに絵になったピアノそのものでした。
しかもかなり大型のグランドで、さぞ高かったんでしょうね。

学校にかぎらず、文化に関しては、昔のほうが選択肢がなかったこともあって意外に贅沢だったんだなあと思うこのごろです。
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家ピアノー蛇足

以下は、もはやNHKの番組とは何ら関係ない内容ですが、家のピアノということから違った話をすると、ピアノといえば置き場所さえあるならグランドこそが本家本流みたいな認識があり、「いつかは自宅にグランドピアノを!」といった声は何度か耳にしたことがあります。

でも、本当にグランドが必要かどうかは、各自よく考えてみる必要があるのではと思います。
必要はなくても「ただ、グランドが欲しいー!」というのはもちろんそれはそれでアリですが、ピアノ経験者のアドバイスのようなことに流されて「アップライトはダメ」…と刷り込まれるのはいささか迷惑では。

ピアノをある程度やった人とか先生など、バリバリ弾くだけで音楽や楽器にあまり関心がないような方に限って、なぜか口を揃えて「グランドじゃないとダメ!」みたいなことを言われ、購入予定者に変な影響を与えるのはなんなのかと思います。

たしかにグランドは構造的にもピアノの本来の自然な形であるし、グランドだけがもつ秀逸なアクションなど、機構上のメリットがあるのは事実で、そこに大きく異論はないけれど、音楽専門家を自認する人達のグランド必要論みたいなものを聞くと、どうも価値観に偏りがあり釈然としない印象しかありません。

日本は何事においてもグレードとかクラスとかランクとか、あらかじめ人によって決められた価値が幅を利かせ、それを鵜呑みにし、自分で判断するよりそちらが正しいらしいと思ってしまう。

東大を出たとか、コンクールに優勝したとか、大会社の社長とかいうとすぐに一目置いて、尊敬のレッテルが貼られてそれで終わり。
与えられたヒエラルキーにそうまで無批判で従順なのは、まさに権威主義、ブランド志向ではないか。

すっかりそこに与して、その気になって、ステータスとしての価値も感じながらグランドを買って満足するのであれば、それはそれで意味はあるのかもしれませんが。

ただ、家にグランドピアノを入れるというのは、美的観点からするとある程度上手に置かないと、ピアノがそこで一番エラいもののように鎮座して、却って滑稽になる場合もあるように思うことも。

自宅にグランドピアノが設置された光景で目に浮かぶのは、白もしくは花柄などのクロスが貼られた清潔そうな部屋、淡い色の規格品風のカーテンがあって、床はフローリング。
部屋の雰囲気のためにとても大切な照明は、何の工夫もないシーリングライトの無機質な光で、塾の教室みたいな白。これだけで、聞かなくてもピアノの主がどんな弾き方をするのか想像できるよう。
さらに、椅子やペダルのあたりには却って滑りそうな小さい敷物、部屋のどこかに結婚式のブーケみたいな造花、楽譜棚にはネコなどのかわいい系の置物など。
きわめてレッスン的おけいこ的ではあるけれど、肝心の、音楽のある生活の香りや文化的芸術的な香りは…。

欧米人にはまず絶対にあり得ないセンスで、ひとつひとつのチョイスや配置はこまごまして控えめにもかかわらず、出来上がったものには独特の大胆さがあり、ああいう雰囲気の中で目にするグランドピアノって強烈な違和感を感じるのはマロニエ君だけでしょうか?
とくに日本人は、内装とかインテリアのイメージにはっきりした主張がないのかバラバラで控えめ、と、せめてものアクセントのつもりなのか、いい大人が子供っぽいかわいい系の置物とか、甘ったるいお菓子みたいな世界にしてしまうのはなぜなのか、まったく理解に苦しみます。

前置きが長過ぎましたが、その点で、成熟した大人のセンスで手際よく生活空間に収められたアップライトピアノは、とてもスタイリッシュで、住む人の趣味の良さとか、豊かな人生のワンシーンみたいなものを感じて好ましい。
グランドのようにピアノが中心になっていないのもプラスに働くのかもしれません。

そもそも、家でただ音楽を楽しむのに、そんなにグランドのタッチや音量は必要なのか?
さらに、日本人はピアノを買うのも自然な楽しみとしてではなく、レッスンや、受験や、発表会、趣味の目標など、そこに必ず勉学的な目的をくっつけないと気が済まないようです。
子供のためにピアノを買うというのはよくありますが、なんでその家のピアノライフのスタートを子供が背負わされるのか。
そうではなく、ピアノのある家に子供が生まれ、成長するにつれ自然に触れるようになってきた、じゃあそろそろレッスンにでも行かせてみるか…こういう順序であってほしいと思うんですけど。

だからなのか、自宅のピアノって特別感が強すぎて浮いており、もっと生活の一部としてピアノと普通に仲良くしたらいいと思うのですが、そうなるほど生活の中にピアノや音楽は根を下ろしていないということかもしれません。
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家ピアノ

先日、NHKで『家ピアノ』という番組をやっていました。
コロナ禍で仕事がキャンセルとなり、自宅待機を余儀なくされた音楽家やタレントさんがピアノと過ごす様子を取り扱った番組で、出演したのは東儀秀樹さん、久石譲さん、千住明さん、ふかわりょうさんなど(あとは忘れました)。

その内容じたいは特段どうというものではありませんでしたが、あらためて感じたのは、自宅にピアノがある景色はやはりいいものだということ。
以下、番組とは直接関係ないけれど、そこから感じたことなど。

昔は映画やドラマでも、住まいにピアノがあるという光景はそれほど珍しいものではなかったけれど、時代とともにしだいに姿を消し、今や素敵な住まいのシーンというと、ほぼモデルルームのようなスタイリッシュ調が主流に。

今どきの戸建住宅やタワーマンションの中があんなテイストになっているのかどうか知らないが、そこには住人のセンスとか価値観が投影された個性もなく、インテリアのカタログ写真そのまんまみたいな世界。

むかしは、家に年ごろの子供がいたらピアノを買ってお稽古させるといった単純な構図があって、テレビや応接セットや学習机と同じように、変なカバーがかかったピアノなんかがあって、あのおかずの匂いがしそうな雰囲気もイヤだったけれど、片やいまどきのピアノなんぞ眼中にもないといったカッコだけの世界も行き過ぎでちょっと苦手です。

もはやピアノが顧みられなくなったぶん、今あえてピアノを自宅に置く人というのはやはりそれなりの意思と目的を持ってのことだろうと思います。
少なくともそれが、使いもしない百科事典みたいなピアノでないことは進展なのかも。
でも、マロニエ君が本当に「いいな」と思える光景は、なによりもまず「おけいこ臭」とか「レッスン臭」が一切しないことで、こころ豊かな生活のために家の中に音楽がそばにあって、絵画や本があるようにピアノがあるという自然な雰囲気が感じられるピアノのある光景です。

コロナ禍であらためて再確認したことは、ピアノはまさに家で一人で楽しむことができるということ。
もちろん他の楽器と合わせたり、仲間内で音楽を楽しむのもおおいに結構ですが、基本は一人で楽器といくらでも向き合って楽しめるところが最大の特徴で、これはまさにピアノの特権。

そういう意味では、どれだけピアノ好きを標榜しても、弾くためのモチベーションをレッスンや発表会や弾き合い会などに置いているのは、なんとなく好きの内容がどこか似て非なるものに思えてしまいます。
ピアノを手段にした自己達成とか、人前演奏への挑戦とか、その先にある音楽そのものではない何かの欲求を追い求める人のように感じてしまうわけです。
この匂いのする人としない人では、話をしていても、その密度も楽しさもまったく違います。

そういう人が思いのほか多くてウンザリなのですが、さすがにこの番組で登場された方々は、有名な音楽家であり作曲界であるなど、いずれもそういう匂いがないという点では、見ていて清々しさがありました。

それと、普段テレビで見るピアノの大半は、演奏会の録画やスタジオ収録されたもので、音響的にもそれなりの配慮のされたものですが、今回は自宅や個人的な仕事場などで、久石譲さん、千住明さんはスタインウェイでしたが、やはりこうした状況で聴いても、その音の美しさはさすがと唸るものがあったし、いっぽうヤマハのアップライトでもきれいに調律・整音されたと思われるものがあって、それはやはり気持ちのいい音で鳴っていました。

きれいに整えられたピアノは上品で美しいですね。
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どこにいくのか?

21世紀になってからでしょうか、世界の主だった大都市の景観は、いずれも趣のない無国籍風高層ビルが林立する姿に変貌。
はじめは中国やアメリカだけかと思っていたら、世界中のあちこちがどうも似たような調子で、グローバルかなにかは知らないけれど大同小異の眺めに。
道路も街路樹も美しく整えられ、様々な機能も充実し、無数のカメラに監視され、路上はSUVやハイブリッドカー、人々はスマホを手に行き交い、世界のあらゆる情報が瞬時に手に入る今どきの世界。

…。
内田光子&ラトル/ベルリン・フィルのベートーヴェンのピアノ協奏曲を買ったら、オマケなのか抱き合わせなのか、同じくラトル/ベルリン・フィルのベートーヴェンの交響曲全曲がセットになっていたので、単独ではまず買わないだろうけど、せっかくなのでもちろん聴いてみました。

世界のトップオケとして誉れ高いベルリン・フィルの演奏は、さらに切れ味鋭く鍛え上げられ、かつ時代を強く反映した解像度の高すぎる演奏で、オーケストラがここまで一体感をもってクリアな演奏を繰り広げることにただもうびっくり仰天でした。
昔から「一糸乱れぬ」という表現があるけれど、もはやそんな生ぬるいものではなく、まさにAIが演奏しているのでは?と思うほど「合って」いるし、機能的で、制御自在で、それはもう…どことなく作品を軽んじている気がするほど。
しかもこちらもライブ録音(2015年)だというのだから、もはや開いた口がふさがりません。

最初に聴いたときは、ほとんど恐怖に近いものさえ感じ、すっかりビビッてしまい、CDの箱をヒョイと指先で遠ざけ自分は椅子の背に逃げてしまうほどでした。
でも、気を取り直しながら、恐る恐る何度か聴いてみることになりました。

すごいけれど、CG映像を多用した映画みたいに技術で作品を呑み込んでしなうような胡散臭さがある。
まるでベートーヴェンがあのむさ苦しい肖像画の中から抜けだして、エステに行って、スタイリッシュなスーツに身を包み、最新のメルセデスに乗って、タッチ画面を操作しながら颯爽と疾走していくみたいな世界。

第1番はキュッとまとまっていたけれど、第2番などはもうすこしふくよかさなどもあればいいと思ったし、田園はあまりにスッキリしてせいぜいセントラルパークぐらいの感じだし、英雄や第7番などには、あの恰幅も体臭も除去されて、体脂肪を落とし過ぎで却って貧相に見える筋トレマニアみたいな感じも。

その調子でやるものだから第8番などは、まるで第九の前の序曲のよう。

個人的に最良の出来だと感じたのは第九で、このいささか誇大妄想的な大作に見通しのいいシルエットと構造感が見えてくるようで、場合によってはこういうこともあるんだなぁという感じでしょうか。
ただ、いずれにしろ、どれをとってもスタイリッシュの極みではあるものの、ベートーヴェンって、そんなに遮二無二スタイリッシュにしなきゃいけないんでしょうか?

あざやかな手腕も度が過ぎると、真に迫るものや、人間的な本音とか温か味から遠ざかり、ただ先へ先へと追い立てられているようでした。

これを聴くと、今どきの理想的な演奏傾向のガイドラインが示されているようで、いやでも今どきの現実を思い知らされたような、時代は思ったより遙か先へ行ってしまったことを認識させられたような気分でした。

むかし、クラウディオ・アバドがベルリンフィルの常任指揮者になったとき、カラヤンというしばりからついに抜けだし、解き放たれて、なんという清々しい新しい風が吹きはじめたものかと思ったものですが、いま振り返ってみれば、それさえすっかり古びたフィルム写真を見るような思いがしました。

手作業の演奏までもが、先端テクノロジーを模倣しているようで、これも時代の必然なのかもしれません。
同時に、音楽そのものが目的を見失っているようでもあり、この先、音楽が、演奏が、どうなっていくのか、まるでわからなくなってしまいました。
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カテゴリー: 音楽 | タグ:

既読

ずいぶん前でしたが、LINEの「既読」というこんな些細なものをめぐってイジメや事件になるなど、社会問題になったことがありました。

当時のマロニエ君はLINEがメールとどう違うのかもよくわかっていなかったくらいで、「キドクって何?」というような感じで理解がついていかなかった覚えがあります。
中でも驚愕したのは、小学生か中学生で、LINEのメッセージが来たら10分だか15分だか、それぐらいの時間内に返信しなければ仲間はずれにされ、イジメの対象になるという恐ろしいもので、故に子どもたちも常にストレスにさらされているというものでした。

それが今現在どうなっているのかは知りません。

ただ、そういうことが尾を引いているのか、この「既読」という小さな文字の有無に気を遣うというのが後遺症となって残っているのか、既読という小さな文字の向こう側に人の心の動きが読み取れることがあります。

マロニエ君なんぞは、そもそもスマホ歴も浅いし苦手だし、交友関係も広くはないからそんなにたくさんの人とLINEのやり取りをしているわけではないけれど、それでも、人によってちょっとした性格とか神経の動きを感じることは…ありますね。

全体からみれば一部の方ではあるものの、あきらかに既読マークが表示されることを意図的に回避していると思われる(気がする)場合があって、もちろん確証はありませんが(そうだとすると)たかだかLINEごときにそんなに神経を張りつめなくてもいいのでは?と思うことがあるわけです。

それは、既読がついた以上はコメントしなくちゃいけないけれど、すぐにはそれをしたくない、もしくはできない状況、面倒だからあとでいい…大方そんなところでしょう。
読んだのに返事しないとこちらに失礼と気を遣ってくださっているのか、すぐに返事しないことで自分の印象が悪くするという保身なのか、そのあたりはよくわかりませんが、とにかく敢えてコメントを開かないことで既読表示を回避し、「まだ読んでいませんよ」「だから返信に至らないのです」という作為を感じるのです。

マロニエ君にしてみれば、そんなにすぐ返事をしていただかなくても一向に構わないし、あとからでも返事もらえたら幸いという程度ですが、そういうちょっとしたことでこまごま気を遣われるというか、悪くいえば小細工されるというのは妙にわかるもので、不思議ですよね。
そして、残念ながらこれ、さほど狙い通りの効果をあげている…とも思いません。

スマホとの接し方というのもむろん人それぞれだから一概には言えないけれど、今どき、平日の昼間とかならともかく、夜間や休日にそう長いことLINEを見ない、つまりスマホを触りもしないということは、一般的にはあまり考えられません。
むしろ、心配になるほど、大多数の人はなにかというとスマホに触っていないと落ち着かない場合が多く、人の手がスマホを離れることのほうがずっと難しいし、そのほうがよほど稀だと思うのです。

いったんスマホを手にして、LINEなんかをやりはじめるということは、良し悪しは別にして、一定時間おきに何かをチェックをするという少々のことでは元に戻れない習慣に冒されてしまったと見るのが一般的で、だから、まったく既読がつかないほど丸一日これに触れないなんてことのほうが現実的に想像しにくいわけです。

現に知人などに会っていても、今どきはごく自然な動きでスマホをさりげなく触ったり、音がすればチェックするという動作はしょっちゅうで、仕事中など明確に禁止された状況以外で、自らにケジメの線を厳しく引いて、きっぱり遮断できてしまうという人がいるとすればそれは相当の強靭な意志の持ち主であり、チョー珍しいと思います。
そんなチョー珍しい人がそんなにたくさんいるとも思えないわけです。

だから、やっぱり意図的に開かないようにしていらっしゃるんだなあ…そんなにしなくてもいいのになあ…と思うわけです。

むしろ、あるていどのタイミングで既読がつくほうが自然だし、あとから自由なタイミングでコメントを返してもらえるほうが、個人的にはよほどホッとするわけで、返信するまで既読を付けない状態をキープすることのほうが、よほどピリピリした緊迫感があって疲れます。
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ピアノの近代史-2

企業というのは、どれだけ時を経て巨大化しても、創業者のキャラクターや社風というものはふしぎに残る気がします。
その体質や個性は、良い意味でも逆の意味でも必ず引き継がれて、生物に遺伝子があるのと同様、企業にもDNAがあって脈々と受け継がれるらしいことを感じずにはいられません。

ただし、山葉寅楠という人の影響力はヤマハ一社に収まるものではなく、彼の蒔いた種によって日本のピアノ製造界の方向性、さらにはそれを弾いていく人達のスタンスや価値観のようなものまで、計り知れない影響を及ぼしたように感じるのはいささか大げさでしょうか?

伝統ある一流品がクラフトマンシップによって生み出すところの音色とか音楽性といった、どこか基準も曖昧で捉えどころのないものより、機能の高さ・造りや動作の優秀さ・確実性の高い音を保ちながら、コストパフォーマンスで勝負をかければ価値は明快となり、ピアノには機械物としての側面もあるから、安くて優秀な製品というのはこの業界では画期的なことだったのでしょうね。

今日では世界に知れわたる日本製品の優秀さですが、ピアノはその先駆けのひとつだったのではないかと思います。

環境にも酷使にもへこたれない強靭さがあり、音にはパンチがあって、しかも大量生産で安くいのに高品質で信頼が性高い。
そんなピアノはそれ以前にはなかったのではないかと思います。

まさに寅楠の目論見は大当たりというところでしょう。

初のアメリカ視察においても、彼の目はもっぱら生産方法や量産技術に注がれたようで、あとに人に続く人達が本場のピアノの音や職人の技巧に魅せられ薫陶を受けていたのとは対象的だったような印象で、そこが(個人的に共感はしないけれど)並の人物ではなかったところでもあるのだろうと思います。

さらに驚くべきは、ピアノやオルガンにとどまることなく、ありとあらゆる業種に手を広げて、事業の多角化を貪欲にめざすあたりも、まさに辣腕経営者のそれで、現代ならばさしずめIT企業のCEOといったところでしょうか?
寅楠は紀州藩士の三男で、出自としては武家の生まれだったようですが、紀州といえば紀伊國屋文左衛門を産んだ土地柄でもあり、商いの才覚を生み出す土壌があるのかもしれません。

寅楠がオルガンづくりを決意したのも、修理依頼された舶来オルガンの価格を聞いて驚き、それなら自分がもっと安く作れば大いに儲かるとすかさず反応したようで、なにごとにもピンとひらめいて商機と捉える直感力と実行力は凡人ではないようです。

よってヤマハはビジネスが絶対優先であって、すべての製品にはその厳しい精神が流れていると思います。
どれだけ長く使っても愛着が湧いてくるような、どこかしら愛おしいような部分はないとはいいませんが少なく、いつも無表情で醒めたものを感じます。
利益は二の次にして、理想を追い求めるような甘ちゃんではないのでしょう。

むろん音質も大事にしたとは思うけれど、高い工作精度、耐久性、信頼性などに秀でるほうが実際的で、不特定多数の人が弾く学校や、絶え間ない練習やレッスンによる酷使、その他厳しい環境で使われる場面でのタフネスとなると、おそらくヤマハの右に出るものはない。
中東やアフリカで頼りにされるランクルみたいに、これ以上ない頼もしい製品であることも確かでしょう。


あらためて感じたこと。
以前も少し書いた覚えがありますが、浜松のオルガン修理に駆りだされた山葉寅楠を傍で支え、協力したのが河合喜三郎という人物で、喜三郎は寅楠に対して場所や資材など、さまざまな支援を生涯続けたとありました。
のちに登場する河合小市とは血縁関係にはないとのことですが、日本のピアノ史のこんな第一歩の場面の登場人物の名が、山葉と河合だったというのは、まさに「事実は小説より奇なり」ですね。
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ピアノの近代史-1

『ピアノの近代史──技術革新、世界市場、日本の発展』井上さつき著(中央公論新社)を読みました。
内容としては「ヤマハを中心とするピアノの近代史」といった印象でした。

世界のピアノ史では、まずはじめにお約束のようにイタリアのクリストフォリが強弱のつけられるフォルテピアノを発明したところからはじまりますが、日本のピアノ製造史で必ず述べられるのが、明治の中頃、浜松の小学校にあるオルガンの修理が必要となり、白羽の矢が立ったのが機械修理職人の山葉寅楠だったというところから始まるのがほぼ通例。

この寅楠とオルガンの出会いが日本の楽器製作の夜明けとなり、見よう見まねでのオルガンを作り、それはやがてピアノ製造へとなり、途中世界大戦を経るもののそれでもなお躍進を続け、ついには世界を席巻するまでになる楽器製造のサクセスストーリーとでもいっていいかもしれません。

ただ、マロニエ君のようなピアノマニアとしては、日本のピアノの近代史となれば、今はなきメーカーが生み出した名品などにも少しは触れられているものかと期待していましたが、ここでは専らヤマハとカワイの企業史のような内容でした。
日本のピアノ史を語る以上、触れない訳にはいかないメーカーはいくつかあると思うのですが、そのあたりがスルーされていたのは残念でした。

この本を読み終わって最も強く印象に残ったのは、ヤマハとカワイという二大メーカーは、モデル構成から価格帯まで酷似しているものの、それぞれの創業の精神というか、出発時点での企業理念はかなり違っていたんだなあ…と思われることでしょうか。
ヤマハは創業者のはじめの第一歩から、西洋楽器という非常に高価なものを国産化し大量生産することに大きなビジネスの可能性を見出していたのに対し、カワイの創業者はあくまでクラフトマンシップの職人気質であり、優れたピアノづくりを追求する人だったようです。

山葉寅楠は大正5年に亡くなっており、活躍の大半を明治時代で過ごした人ですが、楽器製造以外にも様々な業種に手を伸ばすマルチな経営者であったのに対し、河合小市はピアノ一筋。
戦時下でピアノが作れないときでも、ヤマハは飛行機のプロペラなどいかようにも時局に対応していたのに対し、カワイはピアノ以外のものを作って窮状をしのぐことも工場を疎開することも嫌がり、ついには空襲により全焼。
戦後ピアノ製造が復活した際は、完成品はすべて小市が検品をして、すこしでも納得がいかないと工場へ押し返したんだとか。

経営者としてどちらが正しいのかはマロニエ君にはわかりませんが、どちらのピアノに心惹かれるかといえば、それはやはり小市のような人の作るピアノであることは偽らざるところ。

そもそも、戦前のヤマハを現場で支えた重要なひとりが「天才小市」と言われた河合小市だったのですから、それもまあ納得です。
そういう違いは、100年の時を経て世界に君臨するピアノメーカーになっても、両社の最も底の部分に流れているものは変わっていないと感じます。

ヤマハが楽器の総合メーカーであるだけでなく、オートバイその他まで幅広く作っているのも、寅楠のキャラクターと無関係とは思えないし、小市のピアノづくりに回帰したというSKシリーズの誕生なども、その精神の現れなのかもしれません。

もちろんどんな世界にも文字にできないような事もたくさんあったでしょうし、企業というのはきれい事では済まない闇の部分もあるから、事はそう単純ではないとは思いますが、何がいいたいかというと企業体質というのは間違いなくあるわけで、それは容易く変わるものではないということと、その製品には必ずその体質・体臭みたいなものが投影されているということでしょうか。

使う側も、そこは知識や理屈ではなしに、肌感覚で感じるものです。
ちなみに、小市のピアノは深くまろやかなトーンで、一時はそれが時代に合わないとされたそうですが、そこに再び回帰し、復活させるべく生まれたのがSKシリーズだそうです。
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修理は掃除!

このひと月ぐらいのことでしょうか。
リビングのテレビに繋いでいるブルーレイ・レコーダーから、「ウー」とか「ジーー」とかいう、なんとも嫌な感じの音がするようになりました。

はじめは「たまたまだろう…」ぐらいに軽く考えていたのですが、一向に収まる気配はないどころか、その音は確実に強くなってくる感じで、これは寿命が近いのかと思い、なんだか無性に焦って、用心のために新しいレコーダーを買いました。
だって、修理に出せば2015年製なので保証期間は切れているし、買い換えたほうがいいぐらいの修理代がかかりますよと告げられるに決っているし、その間、録画などできない状態が1週間から10日はかかる等々がわかっていたから。

とはいうものの、レコーダーの中には録画している夥しい数の番組があって、それらを見ないまま新しいレコーダーに交換する決断もつかず、数も数なのでそれをディスクにダビングするのも面倒くさくてしたくない。
特別な方法によっては、溜まった録画をそっくり新しいほうも移し替えることも不可能ではないようですが、方法がよくわからないし、面倒だし、とりあえず見られるから危ないとは思いつつ先延ばしに…。

しかし昨日の夜、NHKのケネディ暗殺の前編を見ていたら、何の前触れもなくプッと切れてしまいました。
ついにその瞬間がきたらしく、よく見るとレコーダーの電源が切れており、再度スイッチを入れたらONにはなって、一度は胸をなでおろして視聴を再開するも、またプッと切れる。
それを何度か繰り返しましたが、ものの1分もしないうちに勝手にOFFになってしまい、ついに観念しました。
問題は、そのレコーダーの中にはクラシック倶楽部やプレミアムシアターなどのまだ見ていないもの、ほかにも映画とか、マロニエ君の好きな警察密着番組などがびっしり入っており、それが一瞬で見られないものになってしまったと思うと目の前が真っ暗になりました。

しばし呆然としたところで、以前YouTubeで見た覚えのある「ヤフオクで手に入れたジャンク品のAV機器を修理する」みたいな動画が面白くて、何本か見たことを思い出しました。
多くの場合、再生しなくなったり、CDは音飛びしたりという症状ですが、実際の原因というのは故障というほどのものではなく、大半はCDのピックアップセンサーを掃除する(最悪の場合交換)というようなことで、ほとんどが解決していました。

こうなったら仕方がない、これをやってみることに。
ビデオの場合、電源、テレビとの接続ケーブル、アンテナなど計5本の線が差し込まれているので、位置を間違えないようまずその部分の写真をスマホで撮り、ひとつひとつ外していきます。

電気モノに詳しいわけでもないし、機械いじりはむしろ苦手で、えらく大それたことをやるようですが、もうそれしかないのだからこれこそダメモトです。
テーブルに新聞を広げ、本体の背後や裏側に付けられたネジを緩め、慎重にフタを開けてますが、これが機種ごとにネジの位置も役目も様々だったり、プラスチック部分を固定している爪を折らないように気をつけるというのも注意点として覚えていました。
内部があらわになるまでに15分ぐらいかかりましたが、果たしてそこには無数の複雑な基盤が並び、その横にハードディスク、さらにディスクの可動部があります。

中は万遍なくパウダー状の灰色の埃で覆われており、まずは掃除機で慎重に全体のホコリを取れるだけ取り、次いで綿棒で基盤とか小さな配線などを傷めないように、やさしくゆっくりと掃除しました。
内部の冷却のためか、小さな扇風機みたいなものがあって、その周りはとくに埃が集中していたので、綿棒を何本も取り替えながら30分ほどクリーニング。

自分でできるのはここまでというところまでとにかくやって、逆の手順で組み上げて、最後にスマホの写真を見ながらケーブルを繋いでいきます。
内部はもちろんですが、機械の真下なども恥ずかしいほど埃が溜まっており、この際きれいにしたのはいうまでもありません。

さあ、高鳴る胸を抑えつつ電源を入れてみると、無事ONに。
ドキドキしながら、さっき見ていたケネディの…を再生してみると、とりあえずきれいに映ったし、数分経ってもプツンと切れる様子はありません。
それに、ふと気がつけば、あの忌まわしい「ウー」とか「ジーー」の音もまったくしなくなっています。
どうやら修理ができたようで、こころなしか画面も前よりも明るく鮮明になっているような気がしましたが、これは嬉しさもあってそう見えているだけかもしれません。

もし修理に出したら、「掃除したら終わりました」ではお金も取れないから、あえて何かの部品を交換されて、相応の費用と時間と手間がかかったかと思うと、うれしくてうれしくて、思わず「ヤッター!」と叫びたいほどでした。
機械に弱いマロニエ君が自分で解決して、また音楽を聴いたりよしもと新喜劇を見たりできるかと思うと、ああうれしや!これが達成感というものか!と思いました。
YouTubeで説明してくれたお兄さんに心からのお礼をいいたいです。

そうすると、新しく買って開けてもいないブルーレイ・レコーダーはどうなるんだろう…。
まっ、いっか!
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思わぬかたち

コロナ発生以降、社会の主流になったもののひとつつがリモート☓☓☓。

多くの会社や学校などが雪崩を打ったようにこちらに移行し、ピアノのレッスンなど、各種お稽古事に至るまで軒並みリモートレッスンへと形を変え、何事であれ人と人は距離を取ることが厳しく求められることに。

やむを得ぬこととはいえ、これは、きっといろいろなことに影響が及ぶのは必至で、思わぬことが思わぬかたちに変わっていくことを、もはや私たちはコントロールする手立てもない気がします。
当然なが物理的距離をとることは、必然的に精神的な距離も開くことになり、ますます殺伐とした世の中になるような…。

さっそく「リモハラ」とかいう弊害まで出始めているとかでびっくり。
自宅の背後の映り込みから個人のプライバシーや趣味・趣向などを知られて、上司から大勢の前でそのネタでいじられたり、やたら大きなテレビを持っているな!などと言われたり、いろいろあるそうです。
勤務時間とはいえ、常にONの状態(やったことがないのでわかりませんが)を求められるので気が休まらないとか、クライアントを交えた会議やプレゼンテーションでもっと顔の表情をつける、手を高い位置にして拍手をするなど、業務以外の細かい指示などもあって、これらが新たなストレスなんだとか。

オンライン飲み会というのも流行っているそうですが、これが相当に問題をはらんでいて、評判が悪いらしい。
それぞれが自宅なので、料金の心配も、閉店の心配も、終電の心配もないから、まさにエンドレスで延々続くのだとか。
ある証言によると、これが午後8時から翌朝5時まで延々9時間にわたったりするそうで、これはもう虐待では?
スタジオでは「適当に退出すればいいじゃないですか!」などといいますが、上司はじめ職場の人間関係がある中で、「じゃあ私はこの辺で失礼します。プチッ!」というわけでにはいかないでしょう。


それはともかく、こんなリモート☓☓☓をいつまでもやっていると、ついには同居家族以外は遠い存在となり、水槽の中の小魚みたいにならないとも限りません。

過日の新聞にありましたが、在宅ワークに慣れるといまさら会社に行くのが嫌になり、それも猛烈にイヤダ!という人が増えているそうで、このまま在宅ワークのままでいたいという人が優に60%を超えたそうです。

これもまさに「思わぬことが思わぬかたちに変わっていく」現象のひとつでしょうね。

思わぬ変化を、別の事例でいうと、コロナ以降まず変わったのは車を運転していて、一部の人の交通マナーが極めて悪くなったこと。
緊急事態宣言からこっち傍若無人な動きとすごいスピードであたりを蹴散らすように走る車が、あきらかに増えました。
狭い車間で狂ったように車線変更する、まさかというタイミングで割り込んでくるなど、一度出かけるとだいたいこの手の車を数台は必ず見ることになりました。
道路上というのは、一定の秩序と信頼関係によって安全を維持しているわけですが、ちかごろはこの手合がいつどこから現れるかわからず、気が抜けません。
全体からすればごく一部でしょうが、その一部がもたらす悪影響というものは間違いなくあるわけで、つられて悪化するドライバーもどんどん出てくるとすると、これも一種のウイルスみたいなもの。

また、夜の歩行者や自転車のルール違反も目に見えて増えており、自転車はもともと我が物顔で車道・歩道・逆車線・信号無視など、知ったことか!とばかりにかっ飛ばしていたものが、さらに拍車がかかってカラスみたいになっているし、歩行者も、信号無視や横断歩道のない夜間の幹線道路を平然と横断したりと、まあとにかくこちらも注意してはいますが、こわいのなんの。

とくに車の無謀運転は、単にスピード出しすぎといった問題ではなく、精神的にキレてしまったような動きがしばしばで、それでなくてもストレス社会であるところへコロナがトドメとなって、その恨みが運転に出ているという感じもします。
数時間前も市内幹線の県道を、いかにも仲間同士といった3台のクルマが、猛烈なスピードで走っていくのをとある駐車場から目にしましたが、何かのタガが外れてしまったのか、とにかく巻き込まれないよう願うのみです。
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緊張感はむしろ上昇

新型コロナウイルスは、今のところ落ち着きを見せており、世界的にも徐々に経済活動を再開する動きが出ているようですね──もちろん国や地域によって差はありますが。
日本国内もしだいに感染者が減少して、いろいろな動きが出始めていますが、第2波を注意しながらのあくまで慎重かつ限定的なもので、緊急事態宣言下よりもある種の深刻さを感じています。

以前このブログに、竹中平蔵氏が「収束しても、決して以前と同じ世の中には戻らない」という意味のことを発言されたと書きましたが、すでにその兆しが出始めているのかもしれません。

海外の大手航空会社が倒産したのが象徴的ですが、じっさいぽつぽつ倒産などの話も出始めており、むしろこれからのほうが経済が被った打撃の結果がじわじわと確実に出てくるようで、暗澹たる気分になるばかり。

ファミレスで有名なロイ◯ルホストは福岡が地元ですが、つい先日もグループが運営する関連店舗のうち、全国で70店ほどを閉めるという報道があり、じっさい店の前を通ってもどこもお客さんはまばら。

また街のいたるところで夜中まで営業していたスポーツジムは、緊急事態宣言解除後もどこも暗く閉ざされたまま、再開の目処も立たないのでしょうし、再開しても客足は大幅に遠のくでしょうか。

これまで福岡市は慢性的なホテル不足で、どこも常に満室みたいな状況でしたが、現在は窓に明かりが灯っているのは見上げても2つか3つといった状況で、中には完全に閉めてしまっているホテルもちらほら見かけるほど。

病院は忙しいのかと思えば、なんと赤字のところが少なくない由。
コロナの現場では医師をはじめ関係者の方々は寝る暇もないほどの激務が続くいっぽうで、それ以外は院内感染等を恐れてか…以前のように人の足が気軽に病院に行かなくなり、経営面では非常に厳しいのが実情だとか。

コロナ不況が最も端的に見えてしまうのが空港かもしれません。
福岡空港は市内博多区にあり、近くを車でよく通るのですが、小さな空港にもかかわらず、その離発着数ときたら普段は異常なほどで、時間帯によっては離陸するにも旅客機が誘導路で渋滞、到着も空中で4機ぐらい縦に列をなしているのがこれまで普通の光景でしたが、この忙しい空港からもののみごとに飛行機の動きがなくなりました。
一説によると9割減便だそうですが、まさにそんな感じで、たまに思い出したように到着してくる機体が目に入ると、なんだか懐かしいようなありがたいような、どこか悲しいような気分になります。
これが時間とともにかつての賑わいを取り戻すのかどうか、今のマロニエ君にはちょっとイメージ出来ないし、実際どうなんでしょうね。

ニュースによれば九州全体で毎月平均40万人近くあった外国人の入国が、先月はわずかに30数名というのですから、単純に言っても1万分の1以下に減少しているわけで、やはり驚愕の数字です。
営業を再開した映画館なども前後左右を間隔をあけながらということで、これはもちろん感染防止のためには必要なことですが、何事もこの調子でということになると、とても本来の経済活動とは言いがたく、そこから利益を生み出していくなど至難の業でしょうね。

いまだにブラジルなどでは感染拡大が止まらず、毎日2万人という猛烈なペースで増加だそうです。
さらに今後は世界第2位の人口を擁するインドで拡大という話もあって、これはコロナウイルスという目に見えない敵と戦う、まさに第3次世界対戦といっていいのではないかと思います。
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違和感

いつだったか「題名のない音楽会」で、葉加瀬太郎氏がヴァイオリンを弾く若い人たちを相手に、プロの演奏者としてやっていけるためのレッスンというかアドバイスをするという内容の放送がありました。

中心となる教えは「今はポップスも弾けないと食っていけない!」とする考え方で、この方はたしかにそっちで成功したかもしれませんが、それが現代一般の標準のように云われるのはどうでしょう。

自作の情熱大陸を題材に、いかにクラシックの演奏作法から離れたノリノリのパフォーマンスとして弾きこなせるかというようなレッスンで、こういう面を習得することが演奏チャンスに繋がるというもの。

いかにももっともなようにも聞こえますが、本当にそうでしょうか?
現在、世界的な潮流としてクラシック音楽が衰退していることは事実ですが、さりとて演奏者がポップスの演奏技術を身につけたからといって「食っていける」ほど事は単純ではないでしょう。

たしかにピアノでいうと、往年のカーメン・キャバレロとか近年では羽田健太郎さんのように、別ジャンルで見事に花を咲かせた人はいますが、それは彼らの才能がもともとそっちに向いていたというだけ。
あの大天才のフリードリヒ・グルダをもってしても、ジャズではついにものになりませんでした。

現実を見据えて「クラシックじゃ食えないからポップスの弾きこなしも必要」というのなら、名もないヴァイオリニストがポップスを上手く弾くからといってチケットが売れるとは思えないし、うっかり別ジャンルに手を付けると、よほど注意しないとその色がついて現実的にはクラシックでの活躍もさらに難しいものになると思います。

演奏の引き出しを増やすというより、限りなく他のジャンルへの宗旨替えを意味するように感じます。
そっちに行った人が、いまさらクロイツェルを感動的に弾いたり、バッハの無伴奏ソナタやパルティータで聴く人の魂に訴えるなどということがあるとは思えません。

また、今回の先生自身が、申し訳ないけれどクラシックでやっていけるタイプとも思えず、アイデアに長け、時流に乗る才覚と運があり、さらには独特の風貌や注目を集めるお相手との結婚など、さまざまな要因が重なって現在のエンターテイナーとしての地位を得ている複合の結果であって、ただポップスも弾けなきゃダメというだけでは全体の半分も説明になっていません。

ヴァイオリンでいえば女性にも多くのテレビに出演し、毒舌トークで名を挙げて、ステージでは女性だけの奇妙な集団演奏の長としてやっている方もおられるようです。
これらの方に共通するのは、まずタレントとしての知名度というか世間の認知がしっかりあり、それを土台に様々なステージ活動が考え出され、あるいは継続できていると見るべきだと思うし、さらにお父上は元大手レコード会社のディレクターという企画マンであるなど、見えない仕掛けがいろいろあるからでしょう。

本当に若者に「食える」ための実践的な助言をするのであれば、まずは広告会社顔負けのアイデアで顔と名前を世間に印象づけ、多くのTV番組等からオファーが来るよう仕向けて、早い話がほぼ芸能人化してお茶の間の中へ入り込み、そのあとで特定のファンにフォーカスした至ってくだけたコンサートをする…とまあ、あえて言葉にすればそういうことではないかと思います。
ピアニストでもなにかというとテレビ出演して、活動の地固めをしておいでの方はいらっしゃいます。

音楽家としての進む道として正しいかどうかは別としても、これとて一朝一夕にできるようなことではなく、この厳しい過当競争の中で本当に稼ごうとするのは、そんなに単純なことではないはずです。
将来のかかる若者の人生に、物事のある一面だけを伝授しても、それだけでは機能しないし無責任だろうと思います。

それと、器楽の演奏にかぎらず、どのジャンルにおいても一途に修業を重ね、はるばる歩んできた道以外のことをしろ、でないと食えないぞといわれたら、それはかなり陵辱的なことであるし、しかもなんの保証があるわけでもないでしょう。
この番組では、そういう意味でのリアリティが欠けていたと思うわけです。

小説家であれ、画家であれ、俳優であれ、その技術や才能を使って本業以外のことをやれと言われるのは(当人が望む場合はべつですが、それがあたかも社会一般の厳しい現実のように断じられるのは)、とてもではないけれど賛成しかねるのです。

音楽に近いところでいうなら、調律師さんにその技術を応用して、農機具の修理も、ご近所のトイレの修理もできないと「今は食っていけないよ!」といわれたら、やはりいい気持ちはしないだけでなく、結局は本業まで傷つけてしまうと思います。

尤も、いまは新型コロナウイルスによって、あらゆるものが危機に瀕していますが…。
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ちょっと休憩

あまりに立て続けに内田光子/ラトルのベートーヴェンを聴いたものだから、さすがに耳休めしたくなったのと、せっかくの名演が飽きてしまうのが怖いので、いったん横に置いて他のものを聴くことに。

手持ちのCDの中には、購入後1〜2回聴いたのみで、そのまま長いこと棚に放り込まれたものもいろいろあり、その理由はいろいろですが、いわゆる期待はずれであったり端的にいってあまり好みじゃなかったというようなことです。

今回引っ張りだしたものの1枚が、ピアニスト、ベンジャミン・グローヴナーのCD。
ショパンの4つのスケルツォの間にノクターンをはさんで7曲とし、そのあとはショパンの歌曲をもとにしたリストの編曲、リストの「夢の中に」、最後はラヴェルの「夜のガスパール」というもので、意欲的な選曲のようでもあるけれど、実はその意図がよくわからないもの。
「夜」というものに引っ掛けているのかとも思ったけれど、するとそもそもショパンのスケルツォがどう意味を持つのか、よくわからないけれど、ま、それはそれ。

グローヴナーはイギリス出身の天才だそうで、このアルバムを録音した時点で19歳というのだから、すごい才能を持った人というのは確かなんでしょう。
購入した時のはっきりした印象もほとんどありませんでしたが、聴き始めてほどなくして、このCDを購入後そんなに聴かなかった理由がわかりました。

とにかく技巧優先で、すべてを技巧の勢いにのせて推進していくタイプの演奏だから、音楽の繊細な息づかいが伝わってハッとするとか、ショパンでいうと特有の雰囲気、あるいは随所に散りばめられたディテールの香りみたいなものを聴き手に伝えるような試みもなく、もっぱら山道をスポーツカーでぐんぐん走っていくいくような感じ。
こういう人の弾くノクターンなどは、腕のふるいがいがないのか、いかにも「ゆっくり」「おさえて」「小さな音」で弾く分別も持っていますよという、なにか言い訳のように聴こえます。
技巧曲を際立たせるための中継ぎのようで、こっちも却って落ち着かないような気になるもの。

せっかくなので全体を2回通して聴いたけれど、はっきり言ってしまえば、なんの感銘も喜びも得られませんでした。
冒頭のスケルツォ第1番も、静寂を打ち破るようなあの激しい和音のあとは、まるで豹かなにかの筋肉の躍動のようだし、中間部の有名なポーランドのクリスマスの旋律になると、一転してただ聞き取りづらいような弱音で通過し、ふたたび筋肉の躍動に戻る。

続くノクターン第5番でも、あの有名なメロディーの中に織り込まれる装飾音を、いかに拍内でこともなげにマジシャンのように片付けてしまえるかという点を誇示されているようでした。

もちろんこの21世紀にそれなりに認められて世に出て、十代前半で名門デッカと専属契約をするような人だから、大変な才能だとは思うけれど、それでもプロのピアニストとして継続的に成立するかというと、あまりそうは思えず、あらためて大変な職業だということを考えさせられました。


久々に、ダン・タイ・ソンのマズルカを聴くことに。
お得意のショパンとあってたいへんよく考えられ、やわらかで、クリーンで、聴きやすい演奏。
欠けているとすればふたつ。
きれいだけど、すべてが予め準備されており、いま目の前で生まれたような反応や儚さを感じない。
また、ショパンではアクセントやルバートというか、いわゆるタメをどこにどれだけ設定するか/しないか…が大きな鍵になるけれど、そこに若干のアジア臭を感じるのが残念。

ショパンついでに、リシャール=アムランのバラード/即興曲。
癖がなく、キチッとよどみなく弾かれているけれど、身をまかせて乗っていける場所がなく、意外に雰囲気のない無機質な演奏。
ピアノはなんだろう?
時間とともにだんだんに耳障りな、刺さる感じの音になってくる点が気になるけれど、ブックレットに記載はないようでした。
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第3番以降

前回は、内田光子&サイモン・ラトル/ベルリン・フィルによるベートーヴェンのピアノ協奏曲のCDが届いてすぐだったので、書いた時点で聴いたのは第1番、第2番のみでした。

時間的な問題もあったけれど、その日、敢えて先に進まなかったのは、第3番以降はとくに念入りに聴きたかったので、1枚目のみに留めておこうという思惑もありました。

よく知られていることですが、作曲順でいうと2-1-3-4-5で、
第2番 どこかモーツァルトのコンチェルトの影を感じつつベートーヴェンの個性がまだ控えめ。
第1番 ベートーヴェンらしさがぐんと押し広げられて、明らかにモーツァルトの模倣から手を切っている。
第3番 得意のハ短調となり、ベートーヴェンの体臭がムンムンするような大曲に。
第4番 いきなり向きが変わり、この世のものとは思えぬ美しさを湛えた繊細で奥深い傑作。
第5番 すべてを総括するような肯定的で力強い傑作にして超有名曲。

あんな4番のあとに5番のような英雄的なものを書いたという点では、モーツァルトが40番のあとにジュピターを書いたことなどを連想してしまいます。

ま、そんなことはどうでもいいのですが、曲も3番からは佳境に入った感じで、演奏はいずれも見事なものでした。
とくに第3番では、旧盤で感じていた違和感はまったくなくなり、期待した通りの流れの上に、さらに内田の深まりやアイデアの閃きが次々に加わっています。
平行調ということもあるのか、第5番も概ね似たような印象。
この曲には勢いだけで派手に弾く演奏、皇帝という名曲についた外皮のイメージだけで弾く演奏、あるいは今風に低い温度で淡々と弾くだけといったものがほとんどですが、内田はいうまでもなくいずれでもありません。
細部まで詳しく、まるでビス一本見落とさない整備士のように作品を点検し、作品/演奏として再構築されたようです。
これまでについた俗っぽさや手垢を一度きれいに洗い流して慎重に組み上げられた文化財のようで、深みと初々しさが同居する演奏。
とくに第3楽章などは、爽快さをもって天空を駆け抜けるごとくで、和音やffの力だけに頼る演奏に対する、内田の確信的な答えを見せられた思いです。

しかしなんといっても5曲中もっとも強い感銘を覚えたのは(予想通りに)第4番でした。
第4番に関してはメータやヤンソンスとの共演など、DVDや動画で聴いていましたが、やはりCDとしてオーディオの前でキチッと耳を傾けるのは違います。

内田光子という稀代のピアニストの持ち味が、最も活かされる曲がこの第4番であることは、多くの音楽ファンの共通認識でしょう。
この曲で最高度に発揮される演奏の妙技は、モーツァルトやシューベルトで培われたであろうタッチの粒立ちの絶妙さ、芯があるけれども薄墨のような軽さ、弱音に込められる息の長い信じがたいような集中力など、とにかく耳が離せません。
まさに一音で色を変え、一瞬で向きを変える、内田以外では聴くことのできないデリカシー芸術を随所で聴かせます。

わけても第2楽章は奇跡的な美しさで圧倒されました。
ピアノの音すべてが内田の呼吸そのものであるかのようで、一つの究極を体験させられたような心地でした。
4番の第2楽章は、この曲のある意味聴きどころでもありますが、これ以上芸術的で神経の行きわたった演奏はこれまでに聴いたことがないと思われ、思わず涙があふれてくるのを抑えようもありませんでした。
この楽章ひとつのためだけにも、このセットを購入した価値があったと思います。
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再録の必要と不必要

最近はだんだんCDを買わなくなっています。
理由をひとことで言うなら、だいたい予測がついて、わくわく感がなくなったから。

CDというすでに山のように持っているものを、さらに買い続けるというのは、より素晴らしいものを聴きたいという常習性みたいなもので、要は気持ちの欲するままの行動だから、その気持がなえてくればそれでお終いでしょう。

なので、以前のようにめったやたらと買うことはなくなったし、これといって興味をそそる新譜が出てくるということも激減、作る側も、買う側も、ガクンとパワーが落ちてしまったというのが正直なところだろうと思います。

そうは言っても、これだけは何としても買っておかなければならないCDというのはたまにあるわけです。
たとえば、内田光子&サイモン・ラトル/ベルリン・フィルによるベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲がそれで、これは10年前のライブ録音をCD化したもの。
内田光子はすでにフィリップスから、クルト・ザンデルリンクの指揮で同全曲を録音しているけれど、あれは個人的にはイマイチと思っていたし、その後の内田のライブでの素晴らしさを知るにつけ、ぜひ再録をしてほしいと願っていました。
それがまさにカタチになったといえるCDです。

ただし発売後すぐに購入したわけではなく、CD注文の時は割引の事情やらなにやらで、ちょっと先送りにしていたけれど、こういうものは買えるときに買っておかないとなくなってしまう恐れもあるし、コロナで外出自粛の折、じっくり聴くのにちょうどいいというのもあって今回購入することに。

するといつの間にか、ラトル/ベルリン・フィルによるベートーヴェンの交響曲全曲まで抱き合わせになっていて、しかもお値段同じというすごいことになっていました。

さっき届いて、さっそくピアノ協奏曲の第1番から聴いていますが、ライブならではの気迫と一過性の魅力があり、内田の隅々までゆきわたる尋常ではない集中力と丁寧さ、音楽の息吹、気品、音色のバランス、そしてなにより趣味の良さが光る、おかしな言い方かもしれないけれど美術品のような演奏です。
ここまで芸術に徹したピアニストは二度と出てくることはないだろうことを、いまさらながら痛感。
内田光子の凄さというものは、もはやナニ人というようなことはまったく問題ではない次元のもので、厳密に言うなら、彼女は流暢な日本語が話せて、日本の文化にも通じたヨーロッパ人だと思います。

ネットで調べてみると、このCDに関しての内田光子のインタビューがありました。
「私自身は同じ曲を何度も録るの、好きじゃありません。それは演奏家の驕慢(きょうまん=おごり)です。よく3度も録り直して、最初のが一番良かったなんてケースもあるでしょ?大好きなサイモンとの記念でもあり、『出しても構わないでしょう』となったので」と述べているのはいささかショッキングでした。

この発言は、どうしてあのガチガチに突っ張ったようなモーツァルトのソナタ全集を、円熟の演奏で録り直さないのかと長らく疑問に思っていたことへの答えというか、彼女のスタンスが示されているようでもありました。

個人的には、内田光子のこの考えには半分賛成、半分反対ですね。
たしかにまたか!という感じで同じ曲や全集を録音したりする人に驕慢を感じることはあるけれど、逆に、録り直すことが必然と感じる場合があることも事実。
内田光子の場合は、モーツァルトのソナタ全集とベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲はその必要を感じるもので、両方に共通しているものは、筋はいいのだけれど、まだ充分に熟成されていないものを食したような印象が残ること。
ベートーヴェンはそれが達成されたわけですが、モーツァルトで世界のステージの住人になる切符を掴んだ内田が、そのソナタ全集をあれでいい、録り直しの必要はないと思っているとしたら、それはそれで逆の驕慢だとも思うのです。

たしかに、3度も録り直して最初のが一番良かったなんてケースは、思い当たる音楽家が何人か浮かぶし、その点では彼女の考えはいかにもいさぎよく立派だとも思います。
ただ、ご本人はどう思っておられるのか知らないけれど、モーツァルトのピアノ協奏曲に関しては、彼女の振り弾きによるクリーヴランド管弦楽団との再録は個人的には成功しているとは思えないし、初めのジェフリー・テイト/イギリス室内管弦楽団との全集のほうがはるかに聴いていて胸に迫るものがあり、魅力があったと思います。

再録することで細部の考証などは正せたのかもしれないけれど、マロニエ君にとってはそんなことは大したことではなく、魅力あふれる芸術的な演奏というものは、学究的な価値とは別のものだと思うのです。

モーツァルトのソナタ全集を再録しない理由で、もし納得できる理由があるとしたら、それは「もうやりたくないから」という場合ですね。
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ギックリ腰

コロナウイルスで緊急事態宣言、外出自粛など、日々を過ごすだけでも気を張ってストレスを感じるこんなときに、なんたることか、ギックリ腰になりました。

朝起きてしばらくして、着替えをして、床で靴下を履いて普通に立ち上がろうとした瞬間、腰まわりを稲妻に打たれた(ことはないけれど)ような感触が走り、そのまま立ち上がることができなくなりました。
まわりの机やら何やらを掴みながら決死の思いで立つことは立ったけれど、まず頭をよぎったのは「…これはエライことになった!」ということ。

当然それから何をするにも大変で、昼食を食べるのもやっと、ちょっとしたものに手を伸ばすことさえ強烈な傷みに襲われるし、そもそも真っ直ぐ座っているだけでもグラグラして文字通り腰が座りません。

どうしてまたこんな時期に、なにか不自然な姿勢をとったわけでもなく、変な力をかけたわけでも、重いものを持ったわけでもないのに、よほど日ごろの行いが悪いのか、なにかの罰が当たったのか、単にそういう歳なのかわからないけれど、目の前の現実がただただ腹立たしくて情けない気分。

ちょうど休日だったこともあり、午後はふらふらと壁伝いに自室に戻ってパソコンなどをやっていましたが、しばらく椅子に座って次に立ち上がろうとすると、それこそ耐え難いような激痛に襲われ、身体はくの字になったまま伸びないし、1メートル歩くのにも汗ばむほど。
本当にこれは大変なことになったと、ほんとうに泣きたいくらいでした。

何年も前の大晦日に、その時は自分の不注意からやはり腰を痛めたことがあったけれど、治るのにはずいぶん長くかかったし、コルセットが手放せない日々を送ったことでもあり、これから先のことを思うと暗澹たる気分になりました。
症状は時間経過とともに間違いなく悪化しているのがわかり、ベッドに横になるのも汗ばむほど難儀だし、横になったらなったで数センチ身体をずらすこともできません。

ちょうど知り合いのドクターにLINEでこのことを伝えると、専門ではないものの「そのうち治りますよ」という感じの軽い応答でしたが、しばらくして「えっ?」と思うようなコメントが届きました。

なんと、安静一辺倒かと思っていたら「最近は普通に歩いたほうが快復が早いという話が多い」のだそうで、整体師の中には逆さ吊りのような荒業をかける人もあるらしいということが書いてありました。

あまりの辛さから、この際どんなことでもやってやれ!という、ほとんど捨て身のような気分で、ゆっくりと腰をまっすぐに立てていたらどうにかなることがわかったので、階段の登り降りをやってみました。
普通なら、とてもそんな恐いことをする勇気などないマロニエ君ですが、これからはじまる辛く不自由な、脂汗まみれの毎日を考えたら、もうどうなってもいいというようなヤケクソの勇気が湧き上がり、痛さを無視して上ったり下りたり7〜8往復ぐらいすると、少なくともそれでひどくなる気配はなかったので、しばらく休憩して、ヨーシ!とばかりに夜の散歩に出かけました。

それでわかったことは、ギックリ腰といえども真っ直ぐに立って、真っ直ぐに歩くぶんには、思ったよりも歩けるということでした。
大事をとって家からなるべく離れないよう心がけながら、それでも数ブロックぐらい歩いたら、後半はさすがにちょっと辛くなってきましたが、なんとか無事に帰宅することができました。

それでも、就寝時は寝返りも打てないのは辛かったけれど、翌日はだいぶ収まってさらに散歩を続けると、夕方にはずいぶん症状が改善されており、前日に比べたら劇的な変化を遂げていました。

ギックリ腰=痛くて長期戦というこれまでの認識からすると、わずか一日でこれほど痛みが減るのは望外の事で、信じられない気持ちでした。
すでに4日を超えましたが、さほどの辛さもなく、注意深くしていれば普通に生活できて、車の運転をして食料品の買い出しにも行けるようになりました。

もちろん、医師でもないマロニエ君としては、無責任なおすすめはできませんが、たまたま自分にはこれが良かったようでした。
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収束後の世界は…

先日のEテレ-クラシック音楽館をみていたら、長引くコロナウイルス感染拡大の波を被った音楽界の様子をとらえた内容となっており、演奏機会を失った音楽家たちが発するメッセージと、過去の演奏などで構成された番組でした。

中でも指揮者で鍵盤楽器奏者の鈴木優人さんが、過日のバッハのヨハネ受難曲が「私の最後の演奏になった」という言い方をされたのは、おもわずドキッとさせられました。
もちろん、コロナウイルスによって公開演奏が一時的にできなくなる直前の「最後」という意味ですが、なんとはなしにそれ以上の深刻な響きがあったような気がしたのでした。

音楽家に限らず、あらゆる職業の人達が同様の苦しみの中におられることはいうまでもありません。
朝起きて外の景色を見ると、ときに眩しいばかりに美しい快晴の日があって、木々は風にそよぎ、目にはあたかも穏やかな平和な景色に見えるのに、実際にはこんなひどいことになっているなんて、そのたびにウソみたいな気がします。

以前テレビの討論番組の中で、竹中平蔵さんが言われた言葉はちょっと忘れることができないものでした。
もう録画は消去したので、正確に写しとることはできないけれど、要するにいつかこのコロナウイルスが収束しても、そこから始まる世界は決して元通りではないというものでした。

これだけの災厄を経験した世の中は、それ以前と以降では、明らかになにかが「変わる」というのです。
その根拠としてSARSやリーマンショックの前後をみると、そこを契機にあきらかに世界は「変わった」んだとか。

いまや世界の経済を牛耳り、人々の暮らしのカタチさえ変えてしまったGAFA (グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾンの頭文字をとったもの)は、リーマンショックの後に急速に躍進してきたもので、それ以前は大して意識もされなかったこれらの新興企業が驚くべき短期間に世界を席巻したということをみても、言われてみればそうだなと思いました。

コロナウイルスにとっては、国境も政治も経済も人種も知ったことではなく、まさに目に見えない悪魔となって地球上を飲み込む勢い。
こんなパンデミックの恐ろしさに震えながら過ごす毎日はいつまで続くのか…。

これは事実上の、砲弾が飛んでこないだけの第三次世界大戦のようでもあり、ノストラダムスの大予言が20年ばかりズレて起こったといえなくもない状況で、これだけのことを経験させられた世界は、たしかに竹中さんの云われるように、収束後は以前の通りということにはならないでしょうし、よく考えたらなるはずがないでしょう。

それがどんなものになるのかはわかりませんが、少なくとも今回世界を恐怖に落し入れたコロナ騒動は、SARSやリーマンショックどころではなく、それを思うとその向こうにどんな新しい世界が待ち受けているのやら、不気味な気さえします。

また、終わった時は、ただ終わった!というだけなのか?
現在は感染拡大防止と収束にむけて世界中が全エネルギーを注ぎ込み、文字通り戦いの最中ですが、これが一段落したら、発生源の原因究明、これほどの拡散に至った初期対応への検証など、相応の責任追求というのは厳しくなされるのか否か、こちらも気になるところ。

夥しい数の感染者、亡くなった方、ありとあらゆる予想だにしなかった途方もない損失損害、無事に生き延びたにしろ、その間に味わった不安と不自由と苦痛は、これはちょっとやそっとのものではないですからね。
収束したら「ハイおわり、お疲れ様、パチパチパチ」では済ませられないと思うのですが…。
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BOXセット2

例えばヘンスラーのバッハ大全集は、びっしり並ぶ172枚のCDにJ.S.バッハのほぼすべての作品が収録されており、これを聴くだけで数ヶ月を要しました。
ほかにもフルトヴェングラー107枚、モーツァルト全集170枚、グラモフォンのブラームス46枚、ブルーノ・ワルター39枚といった具合で、マロニエ君は「1枚のCDを1度聴いたら、ハイつぎ!」という聴き方ではないので、1セット聴くだけで大河ドラマ級の仕事になります。
いやいや、大河ドラマはたかだか週に1回45分ですが、CD・BOXセットの場合はほぼ毎日だから、時間的には桁違いです。

しかも、ひたすらそれだけを聴き続けることは精神的にしんどいし、自分なりの清新な気分を保つためにも、ときどき途中下車しながらのペースなので、そうなるとこれがもうなかなか進みません。

ごく最近もエラートのパイヤール全集133枚をようやく聴き終えて、ふだん耳にすることもない大量のバロック音楽に触れることはできたものの、正直、途中で疲れてきたのも事実で、ほぼ3ヶ月以上聴き続けてやっと終わった時にはもうお腹いっぱい、しばらくは結構となってしまいました。

フランス系で思い出しましたが、ミシェル・プラッソンのBOXセットも大量で、その時はめずらしいフランスの管弦楽曲漬けになっていたのに、今振り返ればそれっきりだし、本当は恥ずかしくて書きたくないけれどカラヤンのEMIの全集というのがまたとてつもない量で、これはカラヤンというのが続かずに途中棄権したまま。

こうしてみるとマロニエ君はピアノマニアのわりにBOXセットではピアノ以外のジャンルばかり買っているようです。
ピアノでセット物といえば、ずいぶん昔ですが、GREAT PIANISTS OF THE 20th CENTURYという、とんでもなく壮大なセットが販売されたことがありました。
しかもこれ、最近のように既存の音源を片っ端からBOXセットにして投げ売りするよりずっと前のことで、むしろ「いいものを作れば高くても売れる」という考えがまだ通用していた時代の、いわば入魂の豪華セットでした。

たしかスタインウェイ社が主導して、20世紀の偉大なピアニストを70人ぐらいを選び出して、その名演を集めたセット。
音源はレーベルを超えて集められており、立派な取っ手がついた小さなスーツケースのような専用ケース2つに収められ、一人のピアニストにつき2枚〜6枚で、計200枚ぐらいのセットでした。
当時からその70人余の選定には異論もあり、個人的にはタチアナ・ニコラーエワが入っていないことは納得できませんでしたし、日本人で選ばれたのは内田光子ただ一人でした(これは当然だと思うけれど)。

かなり高額でしたが、これはどんな無理をしてでもゲットしなくてはという意気込みから買ってみたものの、全部聴いたのかといえば、それは未だに果たせていません。
ゲットしたことで達成感にひたってしまい、たしか1/3も聴いていないと思います。
今もピアノの足下の薄暗いところに、ドカンとふたつのトランク状のBOXが重ねられており、そろそろこれを引っ張りだして順次聴いていこうかとも思いますが、なかなか着手には至りません。

それはともかく、多くの音楽・演奏を幅広く聴くことも大事だとは思うけれど、前回書いた通り、一つの演奏(アルバム)を繰り返し集中して聴くことのほうが、やっぱり得るものは大きいし、大事なものが残るような気がするのは事実です。

LPの時代、1枚のレコードを擦り切れるまで聴いたというような話は昔よくある事だったようですが、そうして得たものはその人の心に深く刻みつけられ、無形の精神的な財産や教養になっていると思います。

そんな吸収の仕方というか、限られた環境で貴重な音楽に接するときの気分というものは、今のようにデータの洪水の時代にはあるはずもなく、だからみんな知識はあっても器が小さく、却って無知で底が浅いのはやむを得ないことだと思われます。
人から聞いた話では、月に1000円ほどを支払えば、ネットで世に存在する大半のCD音源が際限なく聴けるそうですが、表現が難しいけれど、こういう物事が元も子もないような便利さと、音楽を聴くという喜びとか精神的充足感は、どこか根本のところでまったく相容れないものがあるようにも思い、それを利用しようとは思いません。

いくら高価な珍味でも、バスタブいっぱいキャビアがあったら食べる気にもなりませんよね。
CDのBOXセットは、それでもまだ自分でお金を出して買うだけマシかもしれませんが、それでも有難味という点では価値が薄れていくという危険は大いに孕んでいると思います。
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BOXセット

近年、スター級の演奏家もほぼ不在となり、芸術全般に対する関心度も下がる中、新しいCDを作っても売れる見込みが立たないのか、新譜の数も激減しています。
考えてみれば、好きな演奏家が新譜を出すといってわくわくして、発売日に即購入したいと思うような人はもういませんし、そもそもそんな時代でないということなのか。

時代の変貌、価値観の急速な変化、優劣で決まるコンクールが基軸になるなどの条件が重なって、個性のない平均化された演奏者ばかりがあふれ、若い人で人気があるといえば、ほとんど例外なくテレビタレントのような人で、ピアノの弾ける漫談家のような人も現れて、もうめちゃくちゃといった感じしかありません。

指揮者でいうと、いまどきはどんなに有名な人でも、練習風景の映像など見ると、まず楽団員に嫌われないように気を配り、低姿勢を貫き、愛想笑いを絶やさず、リハもいちいちお願いしてお礼を言っての繰り返しで、むしろ団員のほうがどことなくエラいような感じ。
それでは思い切ったこともできないだろうし、演奏はだいたい似たりよったりになるのは当然の帰結です。

かつてのような暴君や帝王がいいとは云わないけれど、そうかといって気を遣いまくる指揮者の演奏なんてあまり聴きたくもありません。
芸術と名のつく限り、そこにはエゴも魔性も毒も一定量は必要であるにもかかわらず、現代の演奏はそういう要素はことごとく除去されて、尋常で整った無味乾燥な演奏をしていれば次の仕事にありつけるのでしょうか?

器楽も同様で、追い求めているのは表面的な演奏クオリティとありきたりの解釈をセットにして弾く、それだけ。
技術的訓練はぬかりはないのだろうけれども、大曲難曲なんでもござれで片っ端から手を付けても、何のありがたみもないし、だからいまさらコストをかけて録音しても買う人がいないから、その数は減るいっぽうという気がします。

この傾向は当分変わりそうにもなく、各レーベルに残された捨て身のCDビジネスがBOXセットなんでしょうか…。

閉店前の放出セールでもないでしょうけれど、過去の名盤・名演を惜しげもなく集めてはBOXセットにして、昔ならおよそ考えられないような破格値で次々に放出されていますね。

老舗レーベルは過去数十年にわたって蓄積された膨大な音源があるから、ひとりの演奏家、作曲家、あるいは特定のテーマごとにBOXセットを組むことは可能でしょう。

こうしてひとまとめにされたずっしり重いBOXセットは、その誕生の経緯がどうであれ散逸することなく整理され、だれでも入手可能となるという点では価値あるものだとは思います。
BOXセットということで拾い上げられる以外、おそらく永久に日の目を見なかったであろう録音も、これを機に蘇るという点でも意義はある。

こちらにしてみれば、長年コツコツと買い集めたものが重複することも珍しくなく、これまで投じたエネルギーやコストを考えたらいやになることも正直あるけれど、それでも買い漏らしたものが手に入ったり、一枚ずつなら絶対に買わなかったようなものを聴くチャンスにもなるし、おまけに望外の低価格であることは大変ありがたい。
もしCD全盛の頃だったらほとんど0がひとつ違うほどで、一枚あたりに換算すると100〜200円ぐらいだったりして、買う側にしてみれば非常にありがたいけれど、演奏者には申し訳ないような気がするのも事実です。

果たして偉大な演奏家の長年にわたる演奏の軌跡を一気網羅的に辿れるのだから、かつてならまずできなかったような経験があっさりできるのは驚くばかりです。

しかし良いことばかりかというと、そうでもなくて、やはり一枚一枚を丁寧に、熱心に、集中力をもって聴くという、聴き手のスタンスがどうしても甘いものになってしまいます。
この手のBOXセットは、多くは膨大な数のCDがこれでもかとばかりにギッシリつめ込まれており、まず、ひととおり聴くだけでも相当な時間と根気を要するようなものがゴロゴロしています。

そうなると、どうしても先に進むことに追われてしまい、いつしか聴くことが仕事のようになってしまう危なさがあります。
せっせと聴いては次に進むという、まさに数を消化して終わらせるために聴いているようなもので、これでは音楽の楽しみとは似て非なるものになってしまいます。
贅沢な悩みではありますが…。
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