研ぐ

我が家では夕食は自宅でこしらえるのが大半で、外食はたまに行く程度です。

主には家人が作り、べつに大したものでもなければ凝ったものでもありませんが、それでもひとつだけ、強いてささやかなこだわりがあるとしたら包丁です。
目的に応じて数本の包丁を使い分けないと、まるきりやる気が起きない由。

出刃包丁はめったに使いませんが、それ以外の刺身包丁、普通の三徳包丁みたいなもの、それに小型のものが常に使われ、必然的にその切れ味が問題となります。

どれもずいぶん年季の入ったもので、刺身包丁などは長年使い込んで(研いで)その刃先は新品時の半分ぐらいに痩せてしまっているほど使い込んでいるし、普通の包丁も切れが悪いというのがこのところよく聞くセリフで、それなら新しいものを買おうかということになりました。

いまや日本の包丁は外国人にもかなりの人気らしく、おみやげなどに日本のすぐれた包丁類を買い求めていくとか、あるいは欧米の一流と言われる料理人達の多くが日本製の包丁を使っているというような話をよく聞くので、もしかするとよほど「進化」しているのかもしれず、試しに一本買ってみようかというわけです。

こんなときに便利なのがネットで、どんなものを買うべきか、オススメはなにか、注意すべきはなにかをざっとあらってみました。果たしてそこで述べられているのは、セラミックは研げないので使い捨てになること、どんなに評判の高級品であってもステンレスには限界があること、本当に切れ味を求めるならすぐに黒く錆びるような鋼材を主体としたものがいいこと、さらには包丁は、そこそこのものさえ買っておけばそれでよく、問題はむしろ研ぎにあるとありました。

研ぎの問題はかなり重要と思ってはいましたが、この道に詳しい人の談によれば、なんと、包丁の切れ具合の9割が「研ぎにかかっている」と書かれているのには、いまさらですが唸らされました。
板前の修業でも包丁研ぎは基本中の基本で、一流の料理人は一流の研ぎ師であるのかもしれません。
つまりは、どんなに良い物を買っても、きちんと研がなければその価値はないも同然、宝の持ち腐れだというわけです。

これには激しく賛同。
意を新たにし、包丁を買う前に好ましい砥石を買うことが先決だということになったのは当然というべきでしょうか。
実は、マロニエ君宅で使っている砥石は昔の砥石がすり減ってしまったときに、急場しのぎでホームセンターで買った安物だったのですが、これがいけませんでした。サイズも小さいし、ざらざらして使い心地も良くないし、こんなものを今だに使っていることがそもそも切れ味の不満を招く元凶であることもわかって、すぐさま砥石を調べることに。

その結果、砥石にも上には上があるようですが、普通は人工青砥石というのが一番良さそうで、価格も4000円ほどと思ったより手頃だったこともあり、さっそくこれを注文しました。

翌々日に届きましたが、さすがにホームセンターの安物とは違って、サイズも大きく、表面がこれで研げるのかと思うほどすべすべしていて、なにより美しいことが新鮮でした。もうこの時点からして、長年不適切なものを使ったばかりにずいぶんと損をしたことが悔やまれます。

さっそくかなり黒ずんでいる三徳包丁を研いでみます。
砥石を水に沈めて水分を含ませてから、最初の一二回腕を上下させただけで、てんで感触が違うことにびっくり。ざらざらしてまるでヤスリのようだったこれまでの砥石にくらべるまでもなく、しっとりして粒子の細かさが両手の指先に伝わります。それでいて一回ごとに刃先がずんずんと研がれていくのもわかって、これこそが砥石なんだと感動しました。

包丁の刃先は、どちらかというと柔らかいものに接しているようで、それなのに確実に研磨されて一皮一皮よけいなものが剥かれていくのが使わってくるのは、大げさな言い方をすると生理的快感に近いものがあります。
すっかり気を良くして、こちらもついテンションがあがります。

包丁研ぎは楽器の演奏と同じで、やみくもに力を入れればいいというものではなく、だからといって臆病一本でもダメで、気を入れてメリハリを持たないといけません。楽器がもっとも美しい音を出すポイントや力加減があるように、集中力と合理的な動きが求められるように思います。
また、石の全体をくまなく広く使わないと、長年の使用で片減りのようなことが起こりますから、お習字ではないけれど、意外にこれは精神的作業だなぁと思います。

ひと通り研ぎ終わって、野菜などを切ってみると、果たしてこれが同じ包丁とは思えないほどの切れ味となりました。
刃先がより細く平滑になっているためか、刃先が吸い込まれるように、定規で線を引くように、無理なく、静かに切れていく感じです。切るときの感触もしっとりしていて、落ち着きがあって楽だし、断面も心なしか美しいようです。

砥石ひとつでこんなにも違うものかと感心すると同時に「9割が研ぎにかかっている」という事実をまざまざと体感させられたようでした。ほんとうにその通りだと思います。
むろんより良い包丁、より良い砥石と、さらに上の世界があるのでしょうが、マロニエ君宅の台所ではもうこれで十分で、お釣りが来るほどです。

かかる次第で、新しい包丁を買おうかという話も、ここしばらくは立ち消えになりそうです。
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で、つけました。

いよいよアマゾンにでも注文しようか、あるいはダンプチェイサー肯定派の調律師さんに連絡して購入を打診してみようかと迷っていたときのことでした。

別件で物置で探しものをしていると、壁の隅から、なんと、使っていないダンプチェイサーが思いがけなくワンセットそっくり出てきました。
探しものそっちのけで驚いたのはいうまでもありません。

で、よくよく考えたら、別のピアノに縦横2つ付けていた時期があり、それを乾燥の進む冬場にその片方を外してみたとき、床に放っておいたら、家人に片付けるように言われて、とりあえずという感じで物置に放り込んでいたのをすっかり忘れていたのです。
あやうく「購入する」をクリックしていたかも…と思うと、おマヌケもいいところですが、ともかく危ないところでした。

ひゃー、嬉しや!とばかりに、さっそくディアパソンへ取り付けることに。

本当は梅雨から夏場での急激な状態の変化を避けるため、あえて湿度の少ない冬場に取り付けて、徐々に慣らしていくことを推奨している技術者さんもおられ、その慎重を期する姿勢には敬意を覚えますが、マロニエ君ときたら低血圧なクセにめっぽう短気で、ゆっくり構えて待つというようなことが大の苦手です。
冬まで待って、取り付けて、その効果が出るのは来年の梅雨以降だなんて、とてもじゃありませんが、そんなに待っていられるか!というわけで、そこは強行突破して取り付けることに。

ピアノ下部のペダルのすぐ後ろぐらいの位置で、左右二ヶ所の支柱へ針金を通して、鍵盤と並行になる向きに吊り下げます。
針金で吊り下げるのは、このほうが作業じたいも簡単であるし、ピアノに無用な加工をしなくて済むので、マロニエ君は必ずこの方法を採っています。

その点では、調律師さんは仕事なので、キチッと作業として仕上げるためにも、そのための費用を取ってビシッと取り付け作業される方がほとんどのようです。調律師さんにとってはそれも商売のうちなので仕方ないですが、本当はいきなり固定せず、あれこれ場所を変えて試してみるのもいいと思います。

頼んで取り付けてもらう場合、「見えない場所だから」ということで、付属の取付パーツを使ってピアノ本体へネジ止めされることになりますが、実はマロニエ君はあれがイヤで、見えない場所でもピアノのリムや支柱にネジ穴を開けるなんて、理屈なしにとにかく感覚的に受け容れられないのです。

それもあるし、そもそもダンプチェイサーの取り付けなんて、いわゆる「取り付け」のうちにも入らないもので、わざわざ作業代を払って人に頼むような種類のものではありません。
それに支柱から、物干し竿のように針金で吊り下げるだけなら、気が変われば、また別の位置や方向に付け替えも簡単で、高さも自分が納得の行くように調整できます。

さて、結果はというと、取り付けたのは夜だったのですが、翌日夕方にはハッキリとした違いがあらわれたのには、さすがのマロニエ君も予想以上でした。まず音に芯が出たというか、艶が出たというか、ややピンボケ気味になっていた音色に精気が戻りました。さらにはアクションの動きが若干スムーズになり、その相乗作用でずいぶんといい感じになりました。

もちろん激変というようなものではなく、微妙な違いでしかありません。
しかし、ピアノにとってはこの微妙な違いでかなり世界がかわるものです。

それともうひとつ確かなことは、閉ざされた箱のなかに取り付けるアップライトならともかく、外部にむき出しになるグランドでは効果は期待できない、「あんなものは気休めだ」という説がありますが、それは完全な誤りで、効果にいくらかの差はあるにせよ、グランドでもかなり有効だということは確かです。
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賛否両論2

前回、飛び入りで「エンブレム騒動」を書いたので、前々回からの続きを。

ある調律師さんがダンプチェイサーに否定的ということで、それはそれでひとつの見解なのでしょうから、お考えはしっかり承っておこうと思いました。

よって、あえて反論する必要もないし、それでもこちらの気が変わらなければ自分で入手すればいいこと。
で、ご意見をふまえてよくよく再検討してみましたが、やはりディアパソンにダンプチェイサーをつけるという考えは変わりませんでした。

いい忘れていましたが、この調律師さんがダンプチェイサーの装着例として目にされたものの一つが、グランドのアクションのすぐ上というか、要するに鍵盤奥のボティ内部にこれを取り付けたピアノだったようで、それがよくない結果になっていたというものでしたので、それはそれで納得でした。

アップライトの場合、ダンプチェイサーをピアノの内部に取り付けますが、位置的には鍵盤よりずっと下で、アクションとはずいぶん距離もありますが、グランドでは、アクションやピン板に接近した極端に狭い空間ということになり、これはたしかにやり過ぎだろうと思います。
ダンプチェイサーは、あくまで補助的かつ間接的に用いるべきで、何事も過ぎたるは及ばざるが如しです。

マロニエ君はグランドで下に吊るすカタチ以外の使い方の経験はありませんが、そのやり方ならば効果は上々で、実際に使った人からもよくないという類の話は聞いたことがありません。

なにより自分で数年間使ってみて一定の効果があることと、これによる音の悪化というものは、今のところまったく感じられませんが、わずかの変化を感じきれていないという可能性もむろん否定はできません。
少なくとも使用経験の範囲では、気づくほどの悪影響はなかったと言っていいと思います。
いずれにしろ調律が狂いにくい状態が保持できるということは、基本として、ピアノにとってそう悪いことではないと考えるわけです。

そもそもホールのピアノ庫のような特別な環境ならいざしらず、通常、ピアノは日本の四季の移り変わりや温湿度の変化、それに伴うエアコンやらなにやらで、冷え冷えサラサラになったかと思うと数日留守で猛烈な温湿度にさらされるとか、人がいる間の暖房と夜中の凍てつく冷気がくるくる入れ替ったりと、すでにかなりの悪条件にさらされているのですから、いまさらダンプチェイサーの副作用を問題視しても意味があるのかと思ってしまいます。

むしろ、これほど安く簡単にピアノへの悪影響を緩和できるダンプチェイサーは、やっぱり利用価値は大きいと思われ、ここはピアノのために何が良いかを、トータルで考えることが大事ではないかと思った次第。

それと前後して、以前マロニエ君がおすすめしたことでグランドピアノにダンプチェイサーを使っている知人と電話で話をする機会がありましたが、ちょっとニンマリする話を聞きました。
その方のところへは、松尾系のとても優秀な調律師さんが来られているとのことですが、その調律師さんはピアノにダンプチェイサーが取り付けられていることについて、はじめはあまり肯定的な反応ではなかったとのこと。

装着前に相談すればおそらく反対された口でしょうが、既に付いていたものなので、ご自分としては懐疑的という程度のニュアンスで、とくに目立ったコメントはなかったそうです。ところが、定期的にそのピアノを調律するようになり、知人いわく、「うちは温湿度管理が必ずしも理想的ではない」にもかかわらず、調律の狂いが少ないことが少し意外だったようで、ポツリと「これ(ダンプチェイサー)が効果あるんでしょうかねぇ…」というようなことを言われたそうです。

「ほほう、やっとこの人も効果がわかってきたか」と内心ほくそえんだのだとか。
というわけで、ダンプチェイサーはその信奉者でなくても、一定の効果は確認できるもののようではあるようです。
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エンブレム騒動

前回の続きと思っていましたが、いま書きたいことを先に。

2020年の東京オリンピックをめぐっては、国立競技場問題に続いて佐野研二郎氏デザインのエンブレム問題が世間を賑わせ、ついには白紙撤回されるというところまで発展しました。

マロニエ君の個人的な、勝手な印象だけを言わせてもらうと次の通り。

どの世界でも盗作盗用など、それに類する行為がご法度なのは、いまさらいうまでもないことです。
この点で佐野氏は、とりわけそれの厳しい広告業界に長年身を置いてきた人間としては、あまりにも脇が甘かったというべきですが、では、それが彼ひとりの問題だろうかとも思います。

マロニエ君に言わせると、世の中の大半はパクリや盗用のオンパレードで、製品開発から何から、すべてが他社の類似製品を研究し尽くしたあげく、そこへ言い訳のように「独自」の違いをちょこっと付け加えるだけ。

出版界もゴーストライターなんて当たり前、作曲でさえも作曲ソフトみたいなもので、ろくに楽器も持たずに安易にできてしまう時代ですから、この問題はいわば象徴的な出来事だと言えるのかもしれません。
連日、佐野氏のデザインをしたり顔でワアワア言っているテレビにしたところで、番組構成から放送時間、出演者の人選、あらゆるものがパクリだか横並びだか談合だかしりませんが、およそそんなようなものばかりで成り立っており、人の真似ではない、本当に独自と云えるものが果たしてどれだかあるかといえば甚だ疑問です。

日頃から、浅ましいばかりに発言をビビり、スポンサーの反応をビビり、視聴率に汲々として、マスメディアとして本当に言うべきことはなにひとつ言えないくせに、いったんピンポイント的に解禁となった事象に関してだけ、毎日、朝昼晩、集中豪雨のようにそれだけを攻め立て叩きまくるのは異様な感じがしました。

誤解しないでいただきたいのは、マロニエ君は佐野氏を擁護する気など毛頭ないし、だからこの件も問題なしだと言っているわけではありません。
ただ、いまどきの汚い世の中で、あのデザイナーだけをこれほど集中攻撃するほど、だったらほかの業界およびそれに携わる人達は、どれほど正しくてご立派で清廉なのかと思ってしまうのです。
どうせ、もっとひどい、人倫にもとるようなことさえしている人達が、わずかな処理や手続きの違いなどで網からすり抜けて、糾弾を受けることなく、襟を正すことなく、威張り散らして、ふんぞり返っているにちがいないと思います。

たしかに広告業界などは著作権が法的に確立されているジャンルであるため、うるさくいわれますが、たとえばファッション業界あるいはスイーツの業界などは(現在は知りませんが)以前聞いたところでこれがないのだそうで、だからデザインやアイデアの盗用などはやりたい放題で、日常茶飯事だということでした。

また、なにかというと、すぐに訴訟に持ち込んで大金を要求する欧米の体質も、それが正しいのかどうかは知りませんが、感覚として好きではありません。

それと、今回のオリンピックエンブレムでは、公募とはいっても複数の受賞歴を持つ、いわば足切りされたプロであることが条件だったらしく、それさえも、今になって「公平ではないのでは」「誰でも参加できるものであるべき」などと、正義を振りかざして強い調子で言われていますが、不正がなければそのこと自体をマロニエ君は悪いとは思いません。

むしろ、あらゆるジャンルにシロウトがシロアリみたいに侵食して来て、高度に洗練されるべきプロの世界が、片っ端から食い荒らされるのはもうたくさんという気がします。
昔は多くの世界は縦にも横にも棲み分けという不文律が存在し、それで秩序が保たれていたものですが、芸能界でも文筆業でも、生え抜きの人材そっちのけで、シロウトや異業種の人間によって土足で踏み荒らされ、本来の才能が次々に駆逐されることは文化の衰退だと思うのです。

その点でいうと、オリンピックエンブレムに限定しても、近年ろくなものはなかったというのがマロニエ君の率直な感想で、そんな中で佐野氏の作品は、制作の経緯を別とすれば、とても端正で美しく、アーティスティックな仕上がりだったと思います。

凛とした気品とインパクト性、蒔絵を思わせる金銀赤黒の色使い、そのフォルムは涼しげなサムライのような精神性さえ感じさせ、とりわけ都庁や空港などにポスターとして貼られている感じは、日本的なクオリティ感も滲み出ており、とてもよかったと思います。
あれがバリバリ剥がされる様子というのは、理由如何に問わず、なんとなく心の傷むものがあり、佐野氏がもう少し慎重で良識を重んじる人であったなら…と思うばかり。

過程がどうであれ、美しいものは美しいという観点でみれば、非常に残念だったとしか言いようがありません。

これまで、マロニエ君が野次馬精神旺盛な人間であることは折に触れて書いてきましたが、あのエンブレムがデザインとしてつまらないものであったなら、この騒動をもっと単純に面白がって傍観できたかもしれませんが、よかっただけに、さほど楽しめませんでした。

とりわけ日ごとに出てくるものが、目にするたび失笑と狼狽を誘うようなもので、おかげで最後は美しいものが切腹させられたみたいなことになり、後味の悪いものになりました。
後から出てくるデザインは、まちがいなく凡庸なものになるであろうと覚悟しています。
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賛否両論1

技術者と呼ばれる人達は、それぞれに持論や流儀をお持ちです。

マロニエ君はピアノに限らず技術者というものを尊重しているので、やり方やこだわりもそれぞれで、要はどれが正しくてどれが間違いというものではないと考えています。
いろいろな価値観や性格、目指すもの、細部に見え隠れする妙技、考え方の違いなどが決して一律なものではないところが興味深く、まして容易に正誤優劣を付けられる世界ではないというのが率直なところ。

わけてもピアノは、もともと精密かつ巧緻な世界であり、加えて楽器特有の幅やあいまいさがあり、どれが絶対ということがありません。ひとつの事柄に対する意見や解決法も各人各様で、ときに唖然とするほど意見が真逆であったり、それはときに凄まじいばかりです。

あまりこのあたりに触れているとなかなか本題に入れないので、そこは飛ばして話を進めると、久々ですが、ダンプチェイサー(ピアノの中や下部に取り付けて、湿度を自動調整する棒状の電気製品)に関する話です。
ダンプチェイサーに関しては、マロニエ君自身も数年来の使用経験があり、絶対とまではいわないものの、一定の効果があることは確認済みです。さらには自分の経験をもとに友人知人にも推奨したり、一度など共同購入というかたちで5~6本安くまとめ買いしたことさえありました。

調律師の中では、当然ながらこのダンプチェイサーにおいても賛否両論があり、賛成派のほうの顧客はその熱心な奨めにより多くがこれを購入し取り付けられているのに対し、こういう後付けの機器に関してはやたらと懐疑的スタンスをとる方もおられます。
技術の世界では保守的な人も少くなく、伝統的な技術やセオリーを信奉しているぶん新しいものには拒絶が先に立つのか、その効能より害のほうに目が先んじるようです。これを取り付けることによる弊害をイメージし、中にはすでに取り付けられたものさえ、自説を展開して外してまわるといった方さえあるようです。

では、具体的に何が悪いのかというと、これがあまりはっきりせず、一部だけが乾燥するとか、熱で木材が傷むなどの「可能性」ばかりを説かれますが、もうひとつ説得力がありません。ひとつには技術者としての防御本能なのか、自分があまり知らないもの、検証ができていないものに対しては、とりあず否定してしまうという心理が働くのかもしれません。
(ちなみにダンプチェイサーの作動時の熱は素手で触ってもほんのり暖かいぐらいのソフトなもので、湿度によってON/OFFは自動制御されます)

こういった後付の商品には安直なアイデア先行で効果の疑わしいもの、あるいはピアノ本体に害を及ぼすものもあるでしょう。のみならず便利な機器を安易に頼るようでは、基本を疎かにするお安い技術者という印象さえ与えかねません。だからか、その手のものはすべて「邪道」のように捉えてしまうのかも。

たしかにその手の思いつきみたいな商品はあるでしょうから、そうやすやすと信用はしないほうが安全でしょうし、謳い文句にのせられて、万一お客さんのピアノに害があっては一大事。信頼を旨とする技術者にとっては、よほどの自信がない限り、そんなものに手出ししたくないという意識がはたらくのだろうと思われます。

ただ、ダンプチェイサーは実績のある「本物」のひとつだろうとマロニエ君は思っています。

マロニエ君自身、すでに何年もダンプチェイサーを使っていますが、少なくともそれによる弊害を感じたことは一度もなく、調律の狂いが少ないことはかなり感じていて、できれば付けておいたほうがいいというのが正直なところ。ところが、なぜかディアパソンについてはとくにこれという理由もないまま「そのうちに…」ぐらいの感じだったのです。

そこへ今年の厳しい夏の湿気となり、さすがにピアノが全体にたるんだ感じもあったので、ふとダンプチェイサーを使っていなかったことを思い出し、遅ればせながらこれを購入しようと、さる調律師さんに購入の問い合わせをしました。通販で買っても良かったけれど、近々来られる予定もあるので、だったらついでに持ってきてもらおうかというぐらいの軽い気持ちでした。

すると、「購入はできますが、私はダンプチェイサーはおすすめしません」というメールが届きました。
うわー。来たかぁ、と思いましたが、とりあえずどんなご意見なのか聞いてみようと電話したところ、だいたい次のようなものでした。
「あれは確実に音が痩せる」「響板にヒーターの熱風があたったのと同様になる」「床暖房と同じ」「独特の音になる」「以前は使ってみたこともあるが、今はお客さんにも外すことを薦めています」「グランドは外にむき出しなので効果がないのでは」「アップライトは逆に悲惨なことになる」「やめたほうがいいですよ」「だったら乾燥剤をいれたほうがまだいいですよ」
と、だいたいこんな感じでした。

この方は大変優秀な調律師さんであることは間違いないのですが、ことダンプチェイサーのことは…あまり正確なことをご存知ないのかもしれません。いや、間違っているのはこっちで、もしかしたらそれが正しい可能性もあるかもしれません。

マロニエ君は調律師さんのご意見はいつも尊重するし、謙虚な気持ちでいろいろな教えを請うているつもりです。しかし、だからといって何でも鵜呑みすることは決してせず、最終的には自分の判断を優先させることはよくあります。

だって、自分のピアノなんですから、自分が納得できることをしなくちゃ面白くありません!
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ウナコルダの効用

先日、さる調律師さんから聞いた話。

ピアノのウナコルダ(グランドピアノの左のシフトペダル)の隠れた効果について。
これを踏むと鍵盤全体が右に移動して、3本の弦を打っていたハンマーが2本だけを打つようになることはよく知られています。

曲想やppなど必要に応じてこれを遣うことは一般的で、単純にいうと、鳴らす弦が少なくなるのでそのぶん音が小ぶりになるわけですが、のみならずハンマーの弦溝の位置をわずかにずらすことで、音色の変化をつけることができます。

下手な人がこれを使うと、ただこもったような音になるだけですが、ピアノのペダルは左右ともに、いかにそれを必要量適確に使うことが出来るかのコントロールの妙がポイントでしょう。
ペダル操作は、ある意味、指運動よりよほど繊細な耳と感性が必要で、アマチュアもプロも、ただバンバン弾くことだけが念頭にある人には最も難しい領域だろうと思います。
むろんマロニエ君なんぞはできませんが、それほど精妙かつ重要な領域であることはわかります。

これを天性の美意識と神業的な技巧によって、多彩な音色を自在に創りだすことができた代表格がミケランジェリで、彼のあの濃密な絹織物のような音の世界は、精緻を極めた自在なペダルに負うところも大きいのは間違いありません。

何年か前にラ・フォル・ジュルネの小さな会場で行われたコンサートで、ある女性ピアニストがベートーヴェンの中期ソナタを弾くのに、このシフトペダルをやみくもに使うのには閉口したことがあります。
どう考えてもまずはタッチで表現を変えるべき場所で、いちいちシフトペダルを踏むので、そのつど音色がこもったり鮮明になったりの行ったり来たりだけで、それが肝心の演奏表現に結びついているとはとても思えないものでした。さらにこのピアニストは、ガバッと踏むか、離すか、つまりON/OFFだけの踏み方で、その途中の段階が微塵もないのには呆れました。

あっと…、話が逸れました。
その調律師さんによる通常見落とされているウナコルダの効果とは、これを踏んだ時のほうが音が減衰しにくくなるという、これまで思ってもみなかったことで目からウロコでした。…いや、でも、よくよく考えてみたら、本能的にはまったく感じていないわけではなく、かすかに心当たりのようなものがあるような気も…。深夜などにこのペダルを踏んで遠慮がちに弾くときに、ある独特な心地良さというか豊かさみたいなものがあることは、かすかな自覚がありました。
単に音が小さいとかソフトということ以外に、なにか言い知れぬ心地よさがあったのは、そう言われてみると、この通常より伸びる音のせいだったのかもしれません。

これは音響学的にも証明されていることだそうです。
弦から駒を通して響板に広がって増幅される音は、3本打弦されたときより、2本打弦されたときのほうがエネルギーが小さくて音に変換されるにもやや時間がかかり、それだけ減衰の速度も遅くなるということだそうです。
急峻な山に対して、なだらかな山裾の稜線がどこまでも続くようなものでしょうか。
さらには左の打弦されない弦も隣の弦の振動にひきずられて逆位相に動くのだそうで、これも減衰にしくくなる要素のひとつだとか。

比較に単音を聴いてみたところ、ウナコルダを踏んだときのほうが明らかに音が伸びるのはびっくりでした。

音響学などの専門領域はチンプンカンプンですが、自分なりの印象としては、お寺の鐘なども力任せに叩くより、ほどよい力で突いた方が音がきれいなだけでなくその余韻がいつまでも続くようなものかと思いました。
また、想像ですが、3本弦より、2本弦のほうが音になるパワーが少ないのは当然としても、そのぶん入力に対する響板の面積も、相対的に大きくなるのかとも思いましたが、どうでしょう…。

後日、この件に関する資料を送っていただきましたが、そこにあるグラフによれば、シフトペダルを踏んだ時とそうでないときでは、立ち上がりでは約10dBの差があって当然ペダル無しのほうが音が大きいわけですが、3秒後にはグラフの線はクロスし、右肩下がりに減衰する一方のペダル無しに対して、ペダル有りのほうは70dBあたりを保持して、5秒後には10dB近くもペダルを踏んだ音のほうが大きな音が持続していることに驚かされます。

こうなると、ウナコルダをピアニシモや音色の変化だけでなく、音の持続性という目的をもって巧みに用いることができれば、伸びのある独特な響きや音像を作り出すことができるのだそうです。しかるに、これはプロのピアニストでも知らない人が多く、貴重な表現手段のひとつを知らぬまま演奏していることになるわけです。

尤も、そこまでデリケートな表現を必要とするような、真に創造的なピアニストが果たしてどれくらいいるかとなると、甚だ疑問ですが。
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不思議な演奏

ピアニストには「その人固有の音」があると言われます。
楽器自体がもっている音とはべつに、その人のタッチや演奏の律動が生み出すもうひとつの音色というべきもので、「その人」が弾けばどんなピアノでも「その人の音」になってしまうのは実に興味深いことです。

これを思いがけないところで思い出させられることになったのが小山実稚恵のピアノでした。

今年6月、N響の定期公演でチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を弾いた映像を見ましたが、好みの問題もあるでしょうし、なかなかコメントが難しいと感じる演奏でした。

昔からですが、この人はどうしても楽器を豊かに鳴らせないピアニストなんだということを、この演奏を聴きながら、沈んでいた記憶がふわっと浮かび上がってくるように思い出しました。
どのピアノを弾いても、CDでも、実演でも、不思議なほど音が痩せて固い音になるのは、まさにこのピアニストの固有の現象だと思います。それを小山さんの音と呼ぶべきかもしれません。

また、どんなに力もうとも、音に厚みや迫力が増してくることはなく、だからいよいよ叩きつけてしまうのか、要するに弾き方に問題があるのだろうと思った次第。

たしか何かの記憶では、芸大時代に名伯楽・田村宏氏に師事したところ、田村氏は「もしかしたら、将来ものになるかもしれない学生」としながらも、指ができていないので、その方面の専門家である御木本澄子さんに一時彼女を預けたということを読んだことがありました。

もしかすると、それでも完全な克服には至らず、現在も何かを引きずっているのか…とも思ったりしますが、むろん確かなことはわかりません。

30年ほど前のチャイコフスキー(コンクール)3位、ショパン4位という受賞歴がこの人の知名度をあげるきっかけになったのでしょうが、小山さんを聴くたびに感じることは、その頃からほとんど何も変わっていないことでしょうか。
年齢的に言っても、多少は演奏が熟成してくるのが普通というか、聴く側もそういう期待をするのが自然だと思うのですが、この人にはそれがほとんど感じられないところにむしろびっくりさせられます。もしかすると多くのファンの方々は小山さんのそんなところを、いつまでも失われない初々しさと好意的に捉えておられるのかもしれません。

弾いているのは確かにチャイコフスキーの1番という超メジャー曲にもかかわらず、ほとんどこの曲を聴いているという実感がなく、とくだんの思い入れもないレパートリーの中の1曲をたまたま今弾いているという印象。
小山さんにとっては初めて国際コンクールの決勝で弾き、さらには冒頭でご本人も言っておられましたが、オーケストラと共演したのもこのときが初めてだったということで、若い時にしっかり弾き込んだ曲らしい、手慣れた演奏だろうと思っていたら、その予想はスルリと外されてしまいました。

とりわけこの曲の大仰な叙情性は敢えて排除されたのか、印刷された音符の世界だけがパチャパチャとひろがる様は不思議です。視覚的には、いかにも演奏に集中し、作品からさまざまなことを感じているといった顔の表情とか、いかにもな両腕を上に上げたりとかのモーションであるのに、聴こえてくる音はというと、驚くほどあっけらかんとした無機質なもので、そのビジュアルと音の差にも戸惑ってしまいます。

そうかと思うと、ところどころで盛大に間をとって「ほら、こんなふうに繊細で大切にすべき箇所ではちゃんと一音一音いつくしむようにやっているでしょう?」といった表現もあるけれど、全体と細部が照応せず、辻褄がまるきり合っていないという印象でした。

いっぽう音楽的に要所と思える部分では、えらくスイスイと素通りしてしまうなど、マロニエ君にはおよそ理解のできない演奏のように聞こえるばかりでした。
それでも、音が自分の好みなら、そちらにだけ耳を傾けるという方法もありますが、それは冒頭に書いたとおりで、要するに何もかもがよくわからないまま終わってしまいました。
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かかわらない

いまどきだなぁ…と思ったこと。

スーパーに行ってレジで並んでいると、どこからともなく何かを訴えているような男性の声がとぎれとぎれに聞こえてきました。
おさまったかと思うとまた聞こえてくるので、あたりを見回してみると、3列ほど左のレジで、やや高齢とおぼしき男性がレジ係の女性に向かってしきりに何か抗議をしているようでした。

スーパーの喧騒の中なので、内容はまったく聞き取れないのでわかりませんが、どうやら何かに憤慨のご様子で、ずっとその女性に訴えていますが、ときどき頷く程度で、ほとんど対応らしい対応はせずに、手先は商品のバーコードを読み取る作業だけが休みなく続けられています。
強いて言うなら、非常にソフトな方法で無視しているといったほうがいいような感じです。

まわりを見ると、男女あわせて5、6人はいた従業員は皆そのことに気がついているようで、表情は皆平静を装っていますが、どこか固まったような表情で各自作業をしながら成り行きを耳で追っているといった感じでした。

そんな折、マロニエ君も自分の買い物のレジがはじまりましたが、その間もその男性はずっと文句を言っており、ときおりその口調には激しさが加わりました。

そこへ、溜まってきたカゴを回収にきた男性が、作業をしながらレジ係にそっと耳打ちしました。
するとそのレジ係は無言のままちょっとだけ後ろを振り向いて、男性の方へ視線をやりましたが、すぐにまた仕事に復帰。

レジを担当している人はともかく、それ以外の作業をしている人(とくに男性)は、ちょっと向こうの対応の加勢に行ってやったらどうかと思うのですが、しだいに激しい口調で文句を言われる女性のレジ係はというと、たったひとりで硬直した表情のまま、仕事の手だけが動いています。

抗議している男性は、その態度がまた気に入らないようで、何を言っても暖簾に腕押し状態であることがさらに怒りを増幅させるのか、怒りはいよいよ募っているようです。
このころになると周辺の人達はお客さんも、みんなそのただならぬ様子に気がついていたようですが、周囲の店員たちはまったく助け舟を出そうともしないのは、ある意味怒っている男性以上に異様な感じがして、これは何なのかと思いました。

今どきですから、あるいは男性客のほうが理不尽なクレームをつけているという可能性もあるでしょう。
言葉の内容が聞き取れないので、そのあたりのことはわかりませんが、仮に無茶な主張だとしても、近くでレジ以外の作業している男性などはちょっと割って入って収めてやったらどうかというのが率直な印象でした。
それでも、その男性は憤慨しながらも一定の買い物をして、レジを押し出され、次のお客の精算が始まったことでいちおう幕引きとなったようでした。

こんなことを書いちゃいけないかもしれませんが、もともとマロニエ君は根が不真面目で物見高いので、こういうトラブル事に野次馬として行きあわせるのは嫌いではありません。内心「もっとやれ!」ぐらいに思ってもすぐに収まってガッカリなんてこともしばしばです。一度など、とある店舗内で、若い男女のカップルが大ゲンカとなり、とりわけ女性が男性に猛烈な罵詈雑言をあびせて、男のほうがタジタジという場面に遭遇した時など、もう面白くて、できるだけいつまでも聞いていたいと思ったほどです。

そんなマロニエ君ですが、この光景はまるで後味がよくありませんでした。

おそらく店内の規定があって、そういう場合の取り決めもあり、それに沿った対応だったのかもしれませんが、なんであそこまでレジの女性を見捨てて、ひとりの応援も出て行かないのか、まったく不可解でした。
男性にしてみても、衆目の中でだれからも相手にされず、ただひとり恥をかいたという事実が残るのみ。

あれが今どきよくいわれる「オトナの対応」なのかと思うと、大いに首をひねるばかりです。
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ピアノは優等生

この夏の酷暑のせいで、人だけでなく、機械類まで不具合やトラブルが多発していることを前回書きました。

わけでも車は存外熱に弱く、暑さによって被る機械的ストレスは相当なものだと推察されます。
とりわけ熱害を受けるのは、プラスチックで出来たパーツだとか、ゴム系の素材で作られたホースやベルト関係で、日本の夏は車にとってもかなり過酷な使用環境であることは間違いありません。

車は一部の例外(100%趣味のための車)を除けば、通常は気候に関係なく、春夏秋冬全天候のもとで実用に供されなくてはならないという役目を生まれながらに持っていますが、現実はなかなか理想通りにはいかないようです。

だから完璧に実用品と割り切って、この点では図抜けた信頼性耐久性を誇る日本車に乗っていれば問題はないと思いますが、ここに少しでも感性を求めるとか趣味性を覚えてしまうと、多くの場合、輸入車や旧車など、つまり乗りっぱなしができない車が関心の対象になるわけです。
ヤマハ/カワイの新品より、ヴィンテージピアノに惹かれるようなものでしょう。

時代のせいで、輸入車といえども以前ほど虚弱体質ではなくなってきているのも事実ですが、それでも日本車にくらべればまだまだで、オーナーがボンネットなど一度も開けたこともなく、ただガソリンさえ入れていれば何事もなく走れるというところまでは到達していません。

輸入車でも、車検ごとに好みの新車に買い換えられるようなリッチな方ならあまり問題ないと思いますが、大半はそれなりの懐事情や各車へのこだわりなど、あれこれのいきさつから、手のかかる車を、手をかけながら乗り続けることになると、ここで悲喜劇が巻き起こり、精神的経済的にもかなりの出費や負担が否応なくのしかかります。

あまり比べてみたことはなかったのですが、あらためて考えてみると、クルマ趣味を経験した側から言わせてもらうと、同じ趣味でも、ピアノはなんだかんだいっても本当に手がかかりません。
手がかからないというのは、究極的には維持費がかからないということに言い換えてもいいかもしれません。

ピアノはどんなに細かい調整や整備をやってもらっても、しょせん車とは大変さの次元が違いますし、修理や整備にかかる料金もケタ違いに安いので、そういう意味でオーナーを翻弄しまくり、ときに地獄へ突き落としたりといった大迷惑をかけるとか、経済的苦境に陥れるということはまずないというのが実感です。
モノとしての寿命も次元が違い、長年の使用に耐え、経年変化も軽微。故障なんて無いに等しく、あってもたかが知れています。
よく中古ピアノで「1年間保証付き」などというものがありますが、ピアノで保証を適用するほどの深刻な故障なんてまず考えられませんが、中古車でそんな保証をした日には、場合によってはもう1台買うよりも高額な修理代なんてことはザラですから、売る側はとてもそんなことはしません。

というわけで、ピアノは近隣への騒音問題さえクリアできれば、これほど安全堅実な趣味もないというのがマロニエ君の意見です。せいぜい半年か年1回の調律や調整をやるだけでなんとかなるし、燃料も要らず、保険や税金もないわけで、考えてみたら夢みたいですね。

人間でいうなら、面倒などかけたこともない真面目な優等生と、いつも問題を起こしては騒動になる放蕩息子ぐらいの差があると思います。

でも、ピアノ趣味の人は意外にそのありがたさを知りません。
ピアノの人と話をしていると、わずかな調律代の差であるとか、少しこだわりのある人でも各調整や消耗品の交換と作業代にいくら掛かるかという問題には、かなり細かいシビアな心配をされ、いささか過剰では?と思うほど悩まれます。むろんそれはそれでわかるのですが、内心では「同じ好きなことでも、車の維持費・修理代にくらべたらアナタ、ものの数じゃありませんぜ!」とつい言いたくなってしまいます。

ピアノで最も大金を要するのはオーバーホールぐらいなものですが、それはよほどのことで、日本人のメンタリティからいうとそれぐらいするなら買い換えるほうに向かうようです。
買い換えるお金にはかなり寛大でも、修理や整備にかかる出費となると、一挙に財布の紐が固くなるというのが大方の日本人の感覚なのかもしれません。

日本にも、もう少し道具に対する修理や整備に対する価値観というか、いうなればモノと長く付き合う文化が根づいたら、精神的にももっと豊かになるような気がするのですが…。
京都の街並みの美しさは、ちょっと古くなったらすぐに壊して建て替えたほうが合理的というような、利便性とコスト優先の安直な発想からは決して生まれないものでしょう。
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酷暑の波紋

毎年同じようなことを書いているようですが、日本の夏の暑さはやはり厳しいです。

それも年々勢力を増していくようで、今年の猛暑といったらありませんでした。現在も終わったわけではないけれど、それでもお盆を境に、少しだけひと息ついたような気がします。

関東では明治以来の観測史上、連日猛暑の記録を更新したとも言っていたし、北海道でさえ35°とか36°という数値が記録されたというのだからもうたまりません。

今年だけのこととも思えず、今後はだいたいこんな感じの夏になるのかと考えるとげんなりします。

暑さのみならずおかしいのは、これまで台風は9月に入ってからのもので、これの心配をする頃には、やがて秋が近づいてくるというものでしたが、今年は2ヶ月前倒しで、梅雨の時期からいくつもの台風が列島をかすめたり横断したりと、やはりどう考えても昔とは気象条件も変わってきているようです。

これと連動しているんだろうなあと思われるのが、外気温度のみならず多湿もそれに伴って厳しいものになっているようで、マロニエ君宅の加湿器は一般の家庭用の中では大きい方なのですが、以前なら2日間で3回ぐらいの頻度で溜まった水を捨てていればよかったものが、今年は毎日確実に2度、どうかすると3度捨てる必要が出てきています。

さらには、以前なら湿度計の数値は50%切ることもちょくちょくありましたが、今年は一度もそれがなく、ずっと50%台に留まり、水を捨て忘れて少しでも除湿機が止まってると、たちまち60%台に突入してしまいます。

これでは、よほどピアノも調子が悪いかというと、実はそれほどでもなく、なんとなく毎日の環境に慣れているのか、そこそこ普通にしてくれているところをみると、やはり湿度の数値だけでなく、変化を最小限に留めて一定していることも大事だということがわかります。
それでもディアパソンはヤマハやカワイより湿度に敏感のようで、終日強い雨というような日にはあきらかに変化しており、良く言えばソフトというか、普段よりいくぶんまろやかになったり元に戻ったりを繰り返しているようです。

さて、高温多湿は楽器のみならず、いいことは差し当たり、ひとつもないようです。
マロニエ君のまわりでも、この気候のせいで体調を崩す人はひとりやふたりではないし、とくに呼吸器系の疾患には悪影響があるようで、ある意味、冬場よりも体調管理にはナーバスにならざるを得ないんだなあと思いました。

機械類も例外ではなく、車の故障なども自他共に相次ぎました。
とくにこの季節でやられるのは電気系統で、エアコンの酷使や渋滞によってエンジンルームは凄まじい熱にさらされ、そこからあれこれのトラブルが発生するようです。
エアコンはじめエンジンの冷却ファンなどの多くの電装品も動きっぱなしとなり、電気の使いすぎでバッテリーがパンクすることも多く、仲間内で立ち往生の話はいくつもありました。
また、強い湿気によって点火系統にも悪影響があり、エンジンがかからないなどの不具合が出るようです。

ある人は早朝の通勤時間に何度もエンストして周囲の顰蹙を買うかと思えば、別の車で真夜中のメインストリートのど真ん中の車線で立ち往生。さらに別の知人は出先でセルモーターが回らなくなり、この炎天下で救援に4時間以上もかかったあげく車載車に乗せてディーラーに運ばれるなど、明日は我が身かと思っていたら、なんと現実に!
マロニエ君のフランス車もこのところかなり大掛かりな整備が完了し、差し当たりこれで一安心かと思っていたら、出先でエンジンがかからないという現象が起こり(そのうちかかる)、これを何度か繰り返すので、すっかりビビってしまい乗るのを止めました。

ほうぼうに意見を求めた結果、どうやらセルモーターの劣化ということらしく、まだなんとかエンジンがかかるうちに自宅ガレージに戻っておかないと、出先で寿命が尽きれば、その手間と苦痛は大変なものになります。
おまけにヘンテコな古いフランス車ともなると、部品ひとつも右から左には手に入りません。

というわけで6月から部品待ちで1ヶ月半おやすみしていた我が愛車は、7月終わりから8月はじめの一週間ほどを走ったのち、ふたたび「運航停止状態」となりました。

むろん今回もあれこれパーツの発注をしてなんとか揃ったものの、今度はメカニックが超多忙の由で、再び動き出せるのはいつになることやら…。
その点じゃ、ピアノは故障なんてまずないし、どこか不具合があっても、それでまったく弾けないなんてことはないわけで、車目線で見れば楽なもんだとつくづく実感した次第。
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コンクールのピアノ

今年はチャイコフスキー・コンクールの開催年で、コンクール自体はすでに終了していますが、ネットで演奏動画を見ることができるとは、ありがたい時代になったものです。

むろん全部見るような時間も気力もなく、ちょこちょことかい摘んで見ただけですが、この手の動画と音声も年々精度がアップしているようで、2010年のショパン・コンクールなどに比べて格段の違いがあるように感じました。

カメラワークも巧みになり、鮮明な映像は容赦なくコンテスタントの至近距離へと迫り、指先の動き、吹き出す汗、果ては各人の肌質まで鮮明に見ることが出来るのは、ある意味で会場にいる人以上かもしれません。

音もよく捉えられており、個々のピアノの個性をつぶさに比較することができたのは、大いに収穫だったと思います。

ピアノはハンブルク・スタインウェイ、ヤマハ、カワイ、ファツィオリという最近のコンクールでは毎度お馴染みの4社。

実はこのような同一の条件下で代るがわるに聴いてみると、これまで抱いてきた印象も修正しなくてはならない部分が出てきたりして、自分なりにとても楽しく有益でした。

オープニングのガラ・コンサートで使われるピアノは、前回2011年の優勝者であるトリフォノフの意向によってファツィオリが使われたようですが、聞くところではスタインウェイ以外の3社は、コンクールのために選りすぐりの1台を最高の技術者とともに現地へ送り込んでくるらしいので、このようなメジャーコンクールのステージで鳴り響くピアノは(コンクール向きということはあるにせよ)基本的には各社の「最高」の音だと考えてもさほど間違いではないだろうと思われます。

ファツィオリに関しては自分なりにさらに理解が得られたといえば言葉が大げさですが、たとえばそのひとつは、このピアノは、そもそも美音は目指していないらしい…と思えること。
4台中、ファツィオリは最も音に馬力があるといえばそうかもしれないけれど、美しく澄んだ高級酒がグラスの中で揺らめくような音色ではなく、他社より粗っぽさが際立ちます。
このピアノは艶やかさ、格調高さ、清楚さといったものより、むしろ汗臭いぐらいのパンチが魅力なのかもしれません。

ファツィオリはイタリアという固定観念があるものだから、どうしてもあの国独特の美意識とか芸術の遺伝子のようなもの、すなわちイタリア的な要素を追い求めて聴こうとするのはマロニエ君だけではなかろうと思われます。しかし、それが却ってこのピアノを判りづらくしてきたのかもしれず、こうしてモスクワ音楽院のステージに置かれ、ロシア人によって奏されるその音を聴くと、豪快を旨とするスタミナ系ピアノだと考えると腑に落ちます。

これに対して、以前ファツィオリとヤマハはどこか通じるものがあるというような意味の印象を記した記憶がありますが、直接比較してみるとずいぶん違っていることにびっくりしました。
ひとつには、ヤマハの音の方向性が従来のものとはかなり変わってきているようでもあり、すでにCFXでさえ、出始めの頃のリリックなテノール歌手みたいな音ではなく、やたらと倍音が嵩んだ、むしろ輪郭に乏しい音になっていはしまいかと思います。
いろいろな味付けが過剰で、結果ミックスジュースみたいになってしまったのかもしれません。

それに較べるとカワイはずっとピアノらしさが残っているようで、まだしも正直なピアノだと思いました。…とはいうものの、あまりに洗練を欠いた音色で、いささか野暮ったく、もう少しどうにかならないものかと思ったことも事実。
それでも一点光るものとか、何か突き抜けた特徴があればいいのでしょうが、要するにカワイでなくてはならない積極的理由がなく、どうしても主役を張れない名脇役みたいなものでしょうか。

こうやって比べて聴いてみると、日頃は不満タラタラで、「もうだめだ」「終わった」と嘆息するばかりのスタインウェイが、やっぱり勝負の場になるとハッキリ優れている点は瞠目させられました。
まずなんといっても、その音は明らかに美しさと気品があり、メリハリがあって雄弁でした。弾かれた音が音楽として収束されていく様子は、やはりこのメーカーが長年一人勝ちをしてきたことが、けっして不当なことではなかったということを証明しているようでした。

以前のような他を寄せ付けない孤高のピアノではないにしても、相対的には依然として最高ブランドの地位を守っていることに、納得という言葉はあまり適当ではないとしても、でも、そういうことなんだという事実はわかった気がしました。

それを反映してか、はたまた別の理由なのか、真相はわかりませんが、今回はヤマハ、カワイ、ファツィオリの出番はずいぶんと少なかった感じでした。
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違和感

ほんらい、このブログで書くべき内容ではないと思いますが、少しだけ感じたところを。

8月6日と9日は、テレビはどの局を見ても、トップは「原爆投下から70年」関連のニュースで埋め尽くされています。

しかもその内容は、いずれも「原爆の恐ろしさ」「悲惨さ」「命の大切さ」「二度とあやまちを繰り返さない」「忘れてはならない」「語り継ぐ」といったような言葉であふれかえり、我々日本人は毎年この日この時期になると、一斉に広島と長崎に向かって罪を悔い、国民全員が懺悔をしなくてはいけないかのごとき重い空気が堂々と流れます。

…少なくともテレビではそうなっています。

でも、この二ヶ所に原爆を落としたのはアメリカであり、罪を悔い懺悔をすべきはあちらのはずで、日本は被害者だという厳然たる事実が、長い時をかけながら骨抜きになっているように思います。
日本が被爆国という立場から原爆の恐ろしさを訴えるのであれば、国内より核保有国に向けておこなうべきでは…。しかるに原爆の罪の源流が、まるで日本側にあるかのような文脈は、とうてい受け容れることはできません。

「原爆投下は国際法違反」という意見もあるほどで、そこには落とした方と落とされた方は雲泥の差があるはずだと思います。だからといって、どこぞの国のように際限のない謝罪要求などすべきとも思いませんし、いまさら友好国であるアメリカを責め立てろとは思いません。が、少なくとも、毎年この時期になるといつも何かボタンを掛け違えているような空気に違和感を覚えます。

アメリカは謝罪はおろか、大統領が一度でも両都市を訪問したこともなく、駐日アメリカ大使のキャロライン・ケネディなどVIPのお客さんみたい。

なぜ日本のマスコミは、原爆の悲劇についてまで、その罪科がつまるところ日本人にあるかのごとくねちねちと言い立てるのでしょう。
少なくとも、他国では絶対にあり得ないであろう、不可解な現象ではないでしょうか。

無辜の民間人が住み暮らす、空爆などしていない無傷の都市を敢えて選び出し、ためらいなく原爆投下という蛮行をやってのけたのは、まぎれもなくアメリカであるという事実を、みんな知識として知っているのに、意識として忘れているように感じるのです。

いつまでも憎悪の念をもたないという点では日本人の奥ゆかしさだとも言えるでしょう。でも、それがいつしか原爆の災禍までもが日本人の犯した過ち故といった色合いが、日本人の手によって作られて、それが世相の中央を闊歩するのはどうにも共感できません。

以前、何かの本で読んだことがありますが、広島の平和記念公園に行くと、石碑に『安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから』という文字が刻まれ、ここには主語がなく、あたかも日本人の過ちによって、もしくは日本の犯した罪の報いとして、原爆の悲劇を招いたかのようなニュアンスになっていると記されていたことを思い出しました。

終戦70周年を迎えて、一連の報道は、いまだにその路線を踏襲したものだということがあらためてわかりました。
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最善をつくすか

BSプレミアムシアターで佐渡裕の振ったコンサートが二本、続けて放映されました。
ひとつ目は先般書いたトーンキュンストラー管弦楽団への音楽監督就任を記念した野外コンサート、もう一つがパリのサル・プレイエルで行われたパリ管の演奏会でした。

こちらでは、ベレゾフスキーをソリストとしたラフマニノフのパガニーニ狂詩曲が演奏されました。
ベレゾフスキーは見るからにロシア男といった感じの大柄なピアニストで、それにふさわしい余裕あるスタミナとテクニックをもっているようですが、彼のピアノは粗さも目立ち、演奏家として作品の隅々まで熟考を重ね、細心の注意を張り巡らすといったことが苦手なのだろうと見るたびに思います。

彼が「オレは弾きたいように弾くだけ、それ以上のことはしたくない」と思っているのかどうかわからないし、実際の彼の心中がどのようなものであるのかは知るよしもないけれど、すくなくとも彼のピアノを聴くたびにそういったメッセージを送りつけられているような気がしてしまうことは毎度のことです。

まず、いつもながらの早すぎるスピード。ネット動画で見るロシア人の荒っぽい運転さながら、テンポをきちんと守ることさえ面倒くさそうで、作品に込められた作曲者のあれこれの工夫や聴かせどころなど、オレの知ったことか!とばかりにガーッとアクセル踏んでぶっ飛ばしていくようで、だからこの人のピアノで作品の内奥を覗き見るような経験はまったく望めません。

不思議なのは、ベレゾフスキーというピアニストには、あれだけの技術と体格があるのに、音はいつも平坦で薄く、楽器を鳴らしきることができないのはどうしてなんだろうかと思います。
かつてのロシアピアニズムのような、重量の伴った「こってりした豪快」ではないし、出てくる音にも不思議なほど「音圧」がないのがこの人の特徴のように思います。

意外なのは、全体のマッチョなイメージとは裏腹に、服の袖口からでたその手は、どっちらかというと女性的なぷわんとしたもので、台所用のゴム手袋に水を入れたみたいで、これが彼の出す音色に関係しているのだろうかとも思いますが、よくわかりません。

それでも、このときはパリのサル・プレイエルであるし、収録のカメラも入ったコンサートということで気が締まったのか、これまで見た中では明らかにキチンとしたものだったように見受けられました。つまりベレゾフスキーなりに襟を正し最善をつくした演奏だったようには感じられました。いちおう。
むろん、ピアニストとて生身の人間ですから出来不出来もあれば、ノリの良さ、気合の入れ方にも差があるのはわかりますが、どうも日本での演奏は、おおむね緊張感を欠いたものが多すぎるように思います。


ここから先はあくまで一般論ですが、ラ・フォル・ジュルネのようなコンサートの大量販売会とでもいうべき環境下で、次から次へとポンポン弾かなくてはならない場合は知らないけれども、平生からステージに立つ機会が多い人の中には、通常のコンサートでもしだいに慢心するのか、本気の演奏をなかなかしなくなり、あきらかに手抜き演奏でお茶を濁していることが少なくありません。
もちろん「一部の人」という限定はしておくべきですが。

マロニエ君がいやなのは、品位のないレベルの低い演奏はもちろんですが、出来る人が、あきらかに最善を尽くしているとは思えないような演奏に接するときです。
そんなとき、ただもう無性に不愉快で、馬鹿にされたようでもあるし、人間のいやなところを見せられてしまったようで、実際の演奏会はもちろん、テレビでみる演奏でもその不快感は拭い去れません。

日本人ピアニストの中にも、ちょっと有名になると売れっ子気分になるのか、ほとんど練習らしい練習もしないですむようなポピュラーな名曲ばかり携えて、あちこち飛び回っているような人もあるようで、こういう人の演奏スタンスは聴くに値しないばかりか、本当に実力あるピアニストのステージチャンスすら間接的に奪っていると思います。

演奏というのは表現行為であり、そこには怖いくらい本人の人柄や気構え、折々の心理やテンションが浮き出るもの。生まれて初めてピアノのコンサートに来たという人ならともかく、そこそこの数を聴いていれば一目瞭然です。

いわゆるミスタッチは少くても、聴衆を甘く見たような演奏をすることは、演技的な表情をうかべてキレイ事を言うのと同じことで、表立ってクレームが付けられないぶん、その罪は深いと思います。
こういうことの膨大なる集積も、コンサート離れの一因だとマロニエ君は思うのです。
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三つのヴァイオリン

クラシック倶楽部で堀米ゆず子のヴァイオリンを聴きました。
ブラームスのヴァイオリン・ソナタ第3番と、バッハの無伴奏パルティータ第2番など。

昔から、この人は知名度のわりには「らしさ」がどこなのかがよくわからず、ただきちんと弾く人というイメージばかり先行していました。とりたてて独自の演奏表現だとか、ものすごい技巧というわけでもなく、なにもかもが中庸という感じで、むかしエリザベートコンクールで優勝したということが長らく一枚看板になっているという印象でした。

ブラームスはやはりそんな印象そのままで、悪くもないけれど、ここがすばらしいというポイントも見い出せない、今どきの有名演奏家ならこの程度は弾くだろう…という範囲に留まった気がしました。

ちゃんと準備をして弾いているのだろうけど、全体に四角四面な印象で、もう少し情の深さとかしなやかさがあればと個人的には思います。バッハでも基本的には同じ印象ですが、こちらのほうが一段とテンションが高いようで、そのぶん、聴き応えみたいなものは勝っていました。

このパルティータは最後にあの有名長大なシャコンヌを抱えており、演奏するのも並大抵ではないと思われますが、堀米さんはしゃにむに一気に弾いたという感じが残り、呼吸感がないのは本人はもとより聴く側も疲れるので非常に気になるところでした。
でもやっぱりバッハにはいまさらながら圧倒されてしまったのも事実です。


そのまま、先日の日曜夜中にやっていたBSプレミアムシアターをみると、佐渡裕がトーンキュンストラー管弦楽団の音楽監督になったとかで、そのガラ・コンサートが野外コンサートとして行われた様子を早送りしながら見ました。

そもそもトーンキュンストラー管弦楽団なんて聞いたこともなく、佐渡さんの演奏もあまり好みではないので、そのあたりの事情はまったく知らなかったのですが、どうやらオーストリアのオーケストラのようでした。
ガラ・コンサートということで、あまりにベタな名曲集になるのは日本以上では?と思いつつ、ここにヴァイオリンのソリストとして登場したのがユリア・フィッシャーでした。サラサーテの「カルメン幻想曲」を聴いただけで、まったく苦手なタイプの演奏だとわかり、二度目の登場で弾く「序奏とタランテラ」まで見てみる意欲は失ってしまいました。

ここまでやるかという、これ見よがしの技巧露出のオンパレードで、いやしくも音楽の都であるウィーンを擁するこの国で、あんな演奏が受容されるのかとびっくりです。
ユリア・フィッシャーはヴァイオリンとピアノの両方が弾ける異才の持ち主として楽壇に出てきた女性で、マロニエ君も1枚だけCDを持っています。シューベルトのふたつの幻想曲、すなわちヴァイオリンとピアノのD934、ピアノ連弾のD940、いずれも大変な作品ですが、彼女はD934ではヴァイオリンを弾き、D940ではピアノを弾くといったことをやっています。

CDでは、よほどよそ行きの演奏だったのか、とくにどうということもない「あそう」というだけの演奏でしたが、まさかステージであんな演奏をする人とは思ってもみませんでした。破廉恥すれすれな衣装にもびっくり。


このまま終わっても気が滅入るだけなので、さらにクラシック倶楽部にもどって、かなり前の録画でほったらかしにしていた『長原幸太☓田村響 デュオ・リサイタル』を見てみることに。
…すると、これが思いがけなくおもしろい演奏でした。

曲はコルンゴルトの「から騒ぎ」、ミルシテインのパガニーニアーナ、ヤナーチェクのヴァイオリンソナタなど。

長原幸太氏のヴァイオリンは初めて聴くもので、必ずしもそのセンスに賛同するわけでもなく、やや才気走ったところなども見受けられましたが、いわゆる優等生的完璧を狙う人ではないようで、演奏している瞬間瞬間の反応だとか、沸き起こるような迫真力がある点は、思わず引きつけられてしまいました。

多くの場合、近ごろは演奏に対するスタンスもほぼ似通っており、先がどうなるかすぐ見えてしまうような安易なカタチだけの演奏が多い中、まったくそれがなく、現場での刺激やひらめきを積み上げていくタイプの演奏。今そこで弾かれて出てくる音そのものが音楽を作っていくという魅力、次がどう来るんだろうというワクワク感のようなものがあり、聴いていて少しも飽きませんでした。

なかでもヤナーチェクのソナタは久しぶりに聴いた気がしましたが、むしろまったく新鮮な印象で、こんなに面白い曲ということを気付かせてくれたということは…やっぱり「いい演奏」なんだと思います。
楽器もとても魅力的な音で、後でわかったことですがアマティだそうで、なるほどと納得してしまいました。
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続・便利の不便

前回「便利の不便」という事を書くつもりが、すこし変な方向に流れてしまったので続きを。

自動車の世界では、近ごろ当たり前になりつつある電子ずくめの制御および操作系は、車を運転するという人の生理の延長上にある行為を、おおいに阻害しているというべきです。
ブレーキなども年々オーバーサーボ(ちょっと踏んでもグワッとブレーキが効きすぎる)になり、スムースかつナチュラルな操作をするにはかなり繊細な操作を要求しますが、これなどは小柄な女性や高齢者であっても充分なパニックブレーキが得られるための「安全対策」だということになっているようです。

カーナビもどこか乙にすました純正品より、市販の後付のもののほうが、誰がなんと云おうと圧倒的に使いやすいのは紛れもない事実。
いくつもの機能をひとつのモニターに適宜表示させるなど、いかにも手際よく取りまとめられたかに思える現代の車は、肝心の点、つまりそれを使う人間の心地よさというものが二の次になっていると思われ、これは技術の進歩による明らかな操作性の後退であり、ひいてはドライバーのためのコンフォート性の低下ではないのかと感じます。

スタイリッシュなデザインの中に流し込まれた標準装着のナビゲーションはじめ、TV、電話、オーディオ、さらには車の出力特性やハンドリング/シフトタイミングなどを変化させる電子的機能が、センターコンソールのボタン群を中心にモニターを見ながら複雑かつ多層的な操作を要求するようになっていて、必要な項目を呼び出すだけでも一仕事というのはいかがなものか。さらにその横には指先で字を書くようになっているパッドのようなものであって、うっかり触れても思わぬ機能が反応したりと、もうなにがなんだかさっぱりです。

わけてもカーナビの使いにくさは並大抵ではなく、よほど使い慣れたタッチパネルのゴリラでも別につけようかと本気で思ったのですが、せり出してくる純正ナビがじゃまになって、どう見ても取り付ける場所がなく、この作戦は断念することに。

ほかにも前後左右に衝突の危険を知らせるためのセンサーが仕込まれており、これがまた車庫入れの時などピーピープープーと盛大な警告音がして、却って思い通りの駐車ができないのです。そもそもバックカメラなんて見ながら車庫入れするほうがよほど難しいのでは? 助手席の背後に手を回して後ろを向いてガーッとバックするのが早いし爽快だし運転技術も上がるというもの。

ハンドルにも正体不明のスイッチが居並び、しかも切り替えによってひとつのスイッチが何通りもの役を兼ねており、なんでたかだか車に乗るのにこんなややこしいものに取り囲まれなきゃいけないのかと、ふとばかばかしいような気になります。
とりわけ興ざめだったのは、せっかく気持よく音楽を聴いているのに、どうでもいいような交通情報とか「この先の交差点には右折専用車線があります」といった無意味なことを次々にしゃべり続け、しかもそのつど音楽は強制的にトーンダウンさせられるので、もう曲の流れはズタズタで、腹立たしいといったらありません。

ついに堪忍袋の緒が切れ、それらはディーラーに相談したら、「設定」の操作によって「黙らせる」ことにめでたく成功しましたが、中にはキャンセル出来ない機構というのもあるのが困ります。たとえばアイドリングストップは、機械の判断だけで信号停車中などで突如エンジンが止まってしまいます。
省エネは大事だけど、信号や渋滞のたびにいちいち強制的にエンジンが止められるのはどうしても嫌なのです。いちおう「アイドリングストップを機能させないボタン」というのはあるにはあるけれど、これは一度エンジンを切れば解除されるようになっていて、乗るたびに毎回このボタンを押さなくてはならず、忘れていたらすかさずエンジンはプツンと停止。

マロニエ君自身がそういう新機構にスッと馴染みきれないタイプだということはあるとしても、どうも最近の機械は「使う人」を中心にした思想が希薄で、多機能とスタイリッシュだけが宣伝効果としてカタログを飾り立てているような気がします。
その点では昔のメルセデスなどは、本当に人間中心の骨太の哲学が貫かれた車だったと思います。


不満ばかりを書き連ねましたが、もちろん良くなっている点もあるのは事実です。
たとえばこの車は通常のオートマティックではなく、Sトロニックという自動クラッチによる変速機構を持っています。簡単に言うとマニュアルトランスミッションのクラッチ操作を機械がやってくれるというもので、そのぶんアクセルワークにたいしてパワーがダイレクトに乗ってきます。

しかも繋がりは驚くほどスムースかつ瞬時に行われ、トルコン式のオートマやCVTはどれほどよくできたものでも、一定のロスがあることがわかります。さらに7段ものギアを千変万化させながら駆使するので、ダッシュもやたらと力強く、燃費にも優れているようで、たしかにこういうところは技術の進歩を痛感させられるところです。
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便利の不便

最近の機械製品は、あまりに進化が著しく「便利も行くつく先は不便では?」と思ってしまうことがしばしばです。

テレビやエアコンの操作がリモコン化された頃なら、その単純な便利さに感激したものですが、最近はそのリモコンひとつとってもあまりに多機能で操作も複雑、普通に操作するだけでも勉強と慣れを要し、説明書にも「基本編」と「応用編」といった二段構えとなっていたりで、それだけで見るのもうんざりしたり…。

我が家ではただ単にものを温める脇役でしかない電子レンジでさえ、オーブンだなんだとあらゆる機能が盛り込まれていますが、そんなものはほとんど使ったこともありません。
ガスレンジも(安全性を考慮して)新しい器具に替えたはいいけれど、ここにもコンピュータ制御のいろんな機能があり、温度調整からタイマーやら何やら、ややこしいのなんの…ここでも一定の勉強と習熟が必要になっています。

それどころではないのが車です。
今年の春、久々に車を買ったところ、これがまたやたらと多機能で、普通は新しい車を買うとむやみに走り回ったりするものですが、今どきの車というのは、そんな心情を単純に受け容れてくれる相手ではないようで、ひと月以上は乗るたびに言い知れぬ疲れを覚え、いまだにある種の窮屈感があるのはまだ払拭できていません。

今回が初めてではないものの、個人的には、まずいわゆるギザギザした金属の「ふつうの鍵」がない車というのは、気持ちの上でどうもしっくりきません。
スマートエントリーとされるシステムで、鍵の代わりに黒くて重いかたまりみたいなものがあり、これをポケットなりカバンなりに入れておけば、施錠も解錠もキーレスでできるので、いちいちキーを出す必要がなく、両手が傘や荷物でふさがっているときなどは便利…ということになっているのですが、個人的にはこれがそれほど便利とも思えません。
むしろこのシステム固有の不便もあって、サイフひとつで済むようなときでも、スマートキーの入ったカバンや上着を必ず車から出し入れしなくてはならず、しかも通常のキーのようにエンジンのON/OFF時に手に触れるものでもないため、たえずその存在と在処を意識しておかなくてはならず、気が抜けずに疲れるのです。

車を降りてロックするにも、これまでのようにリモコンキーにあるボタンでカシャッとロックできればそれで充分だったのに、ドアを閉めて取っ手にちょっと触れることでロックされたり解除されたりするのですが、これにも一定のコツみたいなものがあって、取っ手を引っ張るとすかさず解除されドアが開くなど、自分のイメージとはちがった機能が作動したりと、何度もやり直しをするはめになるなど却って面倒で、これじゃあ何のための便利機能なのかと思います。

エンジンをかけるにも、キーを差し込む必要はなく丸いボタンを押すだけ。
しかもその際、フットブレーキを踏んだ状態でないと反応しないという「安全手順」が組み込まれていますが、こんなものは安全のとめというよりアメリカなどでの訴訟対策みたいなもので、操作を煩わしくするだけ。
AT車の場合、ギアがPにあれば絶対に車は動かないわけだから、これを条件としてエンジン始動できるという程度でじゅうぶんだと思います。

とくにマロニエ君は習慣的にエンジンを掛けるやすぐに動き出すということはせず、いつも必ず暖気をしてアイドリングが落ち着くまで待つので、その間に上着をとったりカバンや荷物を後ろの席に積み込むなどするのが自分なりのスタイルになっています。

そのため、これまではドアを開け、立ったままエンジンを掛けていたのですが、スマートエントリーではエンジンの始動ボタンは奥のセンターコンソール上にあって立ったままでは手が届かず、さらにブレーキを踏んだ状態でないとボタンを押してもエンジンはかからないので、やむなく規定通りに運転席に座ってブレーキを踏んでエンジンをかけることに。
しかし、セルモーターを回すというわずか一瞬のためだけにいったん運転席に座らされるのが、どうにもシステムの奴隷にされているようで釈然とせず、何が何でも外からエンジンをかけたいという、まことにつまらぬ意地みたいな衝動に駆られました。

その結果、編み出した方法は、しゃがんで上体のみ車内に入れて、右手でブレーキペダルを押しつけ、左手を伸ばして始動ボタンを押すといったアクロバットスタイルを取るとエンジンがかかることが判明。

いらい、自宅ガレージではこの甚だ不格好でばかばかしいスタイルが定着してしまいました。
さすがに出先ではやりませんけど…。
続く。
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シャマユとバラーティ

N響定期公演の録画から、ベルトラン・シャマユのピアノでシューマンのピアノ協奏曲を聴きました。

シャマユは近年注目されるフランスの若手で、マロニエ君もすでにシューベルトのさすらい人や、リストの巡礼の年全曲などをずいぶん聴いており、それなりに親しんだ感のあるピアニスト。
ただし、演奏の様子は見たことはなく、この時がはじめてでした。
CDの印象では、趣味の良い演奏に終始して、必要以上に語りすぎたり主張が強いといったことなく、こまやかな感性がバランスよく行き届いた演奏で、耳に心地よいピアニストという印象でした。

節度をもってサラッと行くところがフランス人らしいといえばらしいけれども、シューベルトなどではもうひとつ滋味につながらなかったり、作品の内奥を覗き見るような精神性を求め得る人ではないようですが、繊細で気の利いた演奏をする人というのは確かなようです。
それが最もいいほうに出ていたのが巡礼の年(全曲)で、ペトラルカのソネットのような芸術性の高い作品が含まれるいっぽうで、全体的にはなんだかやけに大仰でワーグナーのようなこの作品にあまり共感を得られないマロニエ君としては、シャマユの演奏はリストの作品に潜む、なんだか誇張的で混沌とした部分がすっきりと整頓され、見通しの良い景色になってくるような心地よさがありました。

そんなシャマユでしたから、シューマンの協奏曲ではリパッティのようなといえば言い過ぎかもしれませんが、均整と節度がおりなす美演のようなものをイメージしていたところ、残念ながらそうではなく、あきらかにピアノが負けて埋没してしまっており予期したような感銘には繋がりませんました。
ところどころに彼らしい語りの美しさも垣間見えはしたものの、全体的には骨格の弱い、いささか心もとないピアニストという印象に終わったのは非常に残念でした。

趣味が良いとか、繊細な表現とか、さまざまな個性があることとは別に、人には生まれ持った器というものがあるようで、その点でシャマユはあくまでもコンパクトに聴かせるサロン系のピアニストであって、腕力も問われる大舞台には向かないようだと思いました。


別の週にはクリストフ・バラーティをソリストに迎えての、バルトークのヴァイオリン協奏曲第2番で、こちらは呆れるばかりにうまい人でした。
とりわけその自在なボウイングには唖然!

正直にいうと、マロニエ君はいくら聴いてももうひとつバルトークというのが自分には馴染みません。
人に言わせると、これ以上ないというほど素晴らしいのだそうですが、なんだか理屈先行の作曲家という頭でっかちな感じも否めませんし、その傑出した作曲技法も、聴く者の五感に直訴してくるものが後回しになっているようで、専門家だけが唸るなにかの設計図のような気がします。
さらには、バルトークがこだわった民謡というのがそもそもマロニエ君好みではなく、どうも相性がよくないというか、客観的には理解できないと見るべきなのかもしれません。

どんな名人の手にかかっても、バルトークが鳴り出すと「早く終わって欲しい」と思ってしまう自分が情けなくもありますが、唯一の救いは、かのグレン・グールドが「20世紀の最も過大評価された作曲家」としてバルトークの名を挙げている点です。

マロニエ君にとってはそんなバルトークですが、バラーティのヴァイオリンにかかっては、なんとかこの「好みではない大曲」を最後までそこそこ楽しむことができたのは、自分でもちょっと意外でした。

なにより腰の座った技巧と、奇をてらわない表現は、この複雑怪奇?な難曲を、ぶれることなしに終始一貫した調子でものの見事に弾いてのけたという点で感銘を受けました。
その音色は常に適確で冴え冴えとしており、NHKホールのような大会場でも、ものともせずに響きわたっていたようです。

アンコールはイザイのヴァイオリン・ソナタ。
この人のイザイはCDでも持っていますが、CDよりずっと落ち着きがあって好ましい印象でした。

調べたところ使用されるヴァイオリンは、1703年のストラディヴァリウス「レディ・ハームズワース」だそうで、それじたいが超一級の楽器のようですが、だとしても小さなヴァイオリンひとつがあれだけ大会場でも朗々と鳴り響くのに、最近の新しいピアノときたら、それこそ泣きたくなるほどふがいない音ばかり聴かせられている現状には、あらためてピアノという楽器の危機を感じずにはいられませんでした。

シャマユの演奏も、ピアノがひと時代前のものであったらずいぶん違っていただろうと思います。
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むしろ実務派

ネットでCDを注文しても、どうかすると入荷待ち状態が果てしなく続き、そのうち注文したことすら忘れてしまうことが少なくないのは以前に書いたような気がします。

ときおり、お店から「キャンセルする」か「購入希望を継続する」かというメールが来ることで、ああそうだったと思い出すような始末です。そんな中でも、たぶん4ヶ月ぐらい待たされ、メールに返信するたびさすがにもう無理だろうと諦めかけていたら「発送しました」という連絡がきて、その翌々日に届いたのがヴァインベルグのピアノ作品全集でした。

ヴァインベルグは最近になって交響曲などが一般に知られるようになった(ポーランド出身ロシアの)作曲家。ショスタコーヴィッチとも交友関係あったというだけあって、いくつか聴いてみたオーケストラ作品ではかなりショスタコーヴィッチに似通った作風が感じられました。
ピアノ作品はむろん耳にしたことがなく、どんなものかと興味本位で買ってみることにしたものが、これが大変なお待たせをくらうことになったわけです。

届いたCDは4枚組、主に第6番まであるソナタが中心で、あとはさまざまな小品でした。演奏はアリソン・ブリュースター・フランゼッティというアメリカの女性ピアニスト。

とりあえず1枚目を聴いてみましたが、未知の曲に接する面白さはそれなりにあるものの、とくに何か特別なものが訴えかけてくるというほどのでもなく、とりあえずひと通り聴いてみただけで結構時間もかかりました。

音を出す前にブックレットを見てみると、このピアニストがファツィオリを演奏している写真がいきなり目に飛び込んで、データを見るとなんとF308で演奏しているらしいことがわかりました。「あー…」と思いましたが、これはこれで面白いかもと思いながら再生ボタンを押しました。
ソナタ第1番の開始早々、ファツィオリらしい(というかだいぶこのピアノの音に耳が慣れてきたような…)平明でアタック音の強い硬質な音が聞こえてきました。はじめはフムフムと思って聴いていましたが、曲のほうにも興味があるため始終ピアノの音ばかりに耳を傾けているわけにもいきませんが、ときどき思い出したようにピアノにも意識が行くものです。

たしかにファツィオリには違いないけれど、このところかなり聴いたF278とはやや異なるものがあること開始早々からわかりました。全般的には同一のDNAをもつピアノですが、F308のほうがキャラクターがやや穏やかで、その点ではF278のほうがずいぶん攻めてくるピアノだなあと思います。

以前、トリフォノフのショパンで、この両器を弾き分けているデッカのCDがあり、F278のほうが鳴るように感じたのですが、これは霞のかかったようなライブ録音であったのに対して、今回のヴァインベルグは録音がとてもクリアで、目の前にピアノがあるような感覚で隅々まで詳しく聴くことができ、おかげでファツィオリにより近づけたように思えました。
それによればF308はいくぶん発音が柔らかいためか、相対的にF278のほうがいかにも元気よさげで、パワフルに聞こえるのだろうとも思いました。

一般的にも、大型のピアノより、小型のグランドのほうがある意味でレスポンスが良く、バンバン鳴るような印象を受ける場合がありますが、これと同じことなのかもしれません。とくに印象的だったのは、低音は電流のような迫力があることで、このあたりは3mを超える巨大ピアノの面目躍如といったところでしょうか。

ただ、やはりこのF308でもパワー重視というか、音色そのものの美しさというのは二の次なのか、聴いたあとに残る印象はやはりこれまでのファツィオリと大きな変化はありません。まるで獰猛なパワーでライバルを挑発してくるランボルギーニみたいなピアノだと思います。

鮮明な録音による4枚のCDを通して聴いても、ファツィオリのこれぞというトーンや色合いは依然掴めぬままでしたが、もしかすると、敢えて個性や色合いを排除することで、よりニュートラルというか普遍性の高い現代的なピアノの音を目指しているのかもと深読みさえしてしまいます。

何かを探そう探そうとしてファツィオリを聴いたあとでは、おなじみの老舗メーカーのピアノ達はもちろん、カワイのSK-EXなどでも特徴的なトーンのあることがスッとわかるようで、これってなんだろうと思います。

もちろんすべてのステージや録音がスタインウェイ一色となるような状態にはまったく不賛成で、ファツィオリのような新興メーカーのピアノが最前線に躍り出てくることはひじょうに刺激的で面白いし、またそうでなくては他社もほんとうの意味で切磋琢磨はできませんから、ファツィオリの登場というのは意義深いものだったと思います。

ただ個人的には、ほかならぬイタリアの楽器なのですから、もっと濃厚な音色や官能を撒き散らすような特性があったらもっと楽しめただろうにと思います。すくなくともあのスマートなロゴマークや、金のラインの入った足、ボディ内側の木目などに見るイタリア式贅沢のイメージとは裏腹の、むしろパワー指向の実務派ピアノだとすれば、すんなり納得できる気がします。
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アメリカン

BSで、クリーヴランド管弦楽団のブラームス演奏会というのがありました。
指揮は音楽監督のフランツ・ウェルザー・メスト、ピアノはイェフム・ブロンフマン。

間にハイドンの主題による変奏曲と悲劇的序曲などを挟み、前後にピアノ協奏曲第1番と第2番を配するという驚くべきプログラムで、アメリカではこんなすごいプログラムをやるのかと思っていたら、数回に分散していた曲目を放送用に合わせたもののようでした。どうりで…と納得。

クリーヴランド、メスト、ブロンフマンとくれば、たしかに世界の一流プレイヤーなのでしょうが、なんとなく自分の趣味ではない気配で普段ならあまり近づかないところです。が、なにせブラームスのコンチェルトとあっては、つい誘惑に航しきれず見てしまうことに。

個人的にどうしても期待してしまうピアノ協奏曲第1番は、出だしからやはりというべきか好みではなく、ブロンフマンのピアノも面白みがまったくといっていいほどありません。
この一曲を聴いて、すっかり疲れてしまい、続きを聴く気も失せて、ひとまずその夜はここまで。

体質的か、感覚的か、アメリカのオーケストラがあまり好みではないマロニエ君にとって、クリーヴランド管弦楽団といえば長年ジョージ・セルが振っていたことぐらいで、何かを語れるほどよくは知りません。そういえば、内田光子の2度目のモーツァルトのピアノ協奏曲シリーズもクリーヴランドで、これがかなり高く評価されているようですが、マロニエ君はまったくそうは思えず、断固としてテイト指揮イギリス室内管弦楽団との初回全集を評価しています。

クリーヴランドはアメリカのオーケストラとしては「精緻なアンサンブル」で「最もヨーロッパ的」なんだそうですが、ふ~んという感じで、たとえばアメリカにあるヨーロッパ調の壮麗な建築のようで、それっぽいけど何かが違うという印象。

数日後、続きをどうするか、迷ったあげくとりあえず間を飛ばしてピアノ協奏曲第2番を見てみましたが、こちらのほうが第1番に比較すると格段に良かったのは意外でした。迷いが多く消極的だった第1番に対して、第2番ではカラッと晴れ上がったように爽快な演奏となり、ずっと弾きなれた感じもあり、少なくとも大してストレスもなく聴き進むことができました。

ブロンフマンというピアニストには以前からあまり興味が無いので、彼のレパートリーはどんなものかも知りませんが、少なくともブラームスの2つの協奏曲では、ずいぶん仕上がりに差があったという印象でした。
守りに徹した第1番とは対象的に、第2番ではピアノが前に出ていこうとする活力があり、それなりのノリの良さもあって、前回途中でやめて消去してしまわないでよかったと、とりあえず思いました。

ウェルザー・メストも有名なわりにどんな音楽を作るのかよく知らないままでしたが(むかし小泉首相に似ているなあと思ったぐらい)、この演奏を聴いた限りではオーストリアの音楽家とはイメージが結びつきません。音楽を紡ぎ出すというより、仕事でやっているという感じを受けてしまいます。

ブロンフマンは大曲をこなすスタミナはあるようですが、この人なりの表現というよりは規則通りの流暢な演奏処理をするだけという印象。演奏者の感性に触れるような面白味が感じられず、どこが聴きどころなんだかよくわかりません。思い起こせばディビッド・ジンマンの指揮でベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲を入れたCDがありましたが、あれもただサラサラと弾かれていくだけで、せっかく買ったのにほとんど聴かずに終わりました。

オーケストラ、メスト、ブロンフマン、いずれも一流プレイヤーとして認められ、おそらく現在のアメリカで望みうる最高の組み合わせのうちのひとつだろうと思うと、それにしてはなにか心に残るものが感じられなかったのは残念でした。

ついでに言ってしまえばクリーヴランド管弦楽団の本拠地であるセヴェランス・ホールも、かなり大掛かりな改修を受けたのだそうで、ステージ側面から背後にかけての意匠など、わざとらしく遠近法を使ったオペラかバレエの舞台装置みたいで、あんな甘ったるい華美な装いはアメリカのセレヴ趣味を連想させられるだけで、マロニエ君はクラシック音楽のステージとしてはあまり好みではありません。

オペラで思い出しましたが、巨漢のブロンフマンはピアニストというよりどこかオペラ歌手のようでもあり、とくに最近少しお歳を召した感じが、まるでトスカを恐怖と絶望のどん底に落としいれるスカルピア男爵のようでした。
ま、そんなことは余談としても、アメリカのコンサートというのは、なんとなく雰囲気が違うなあという気がしないでもありません。実情は知りませんが、画面から受けた印象では、なんとなくその地域のお金持ちや名士の集まり的な感じというか、日本などのほうがよほど音楽そのものをサラリと聴きに来ているような空気があるようにも感じました。

ピアノはかなり新しいハンブルク・スタインウェイで、いわゆる今どきのこのピアノでした。
むかしはアメリカのステージではアメリカ製のスタインウェイが当たり前で、ハンブルクを使うことは滅多なことではなかったものですが、近ごろはカーネギー・ホールのステージでさえ普通の感じでハンブルクが使われていたりするところをみると、なにかこの会社の事情があるのかと勘ぐりたくなってしまいます。
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BARENBOIM-2

現代に生まれた並行弦によるコンサートピアノ、BARENBOIM-MAENEの写真をためつすがめつ観察した感想など。

ベースはスタインウェイDでも、ディテールはずいぶんとあちこち変えられており、簡素な仕立ての椀木や譜面台の形はヤマハのCFX風でもあり、足に至ってはCFXそのままのようにも見えました。ただ、いかにも日本人体型のようなドテッとしたCFXに比べると、元がスタインウェイの細身なプロポーションであるだけ、ずいぶん軽快な印象ですね。

バレンボイムの主張としては、このピアノは音がブレンドされておらず、それは演奏者に委ねられているというような意味のことを言っているようです。現代のピアノの音が化学調味料で作られたコンビニスイーツみたいな表面だけの音になってしまい、ピアニストの感性や技量によって音色が作られていくという余地がかなり失われていることはマロニエ君もかねがね感じていたことです。

演奏者が音色や響きのバランスに対して、創造的な感性や意識を発揮させるということは、いうまでもなく演奏行為の本質にあたる部分だと思われますが、それを必要としない、もしくは受け付けない、無機質な美音だけでお茶を濁す現代のピアノ。そこに危機を感じるのは至極当然というか、彼の意図するところはおおいに共感を覚えるところです。

以前、フランスの有名なピアノ設計者であり、ピアノ制作も手がけているステファン・パウレロのホームページを見ていると、コンサートグランドと中型グランドという2つのサイズのほかに、交差弦と平行弦のふたつの仕様(それぞれボディのサイズも違う)があり、計4タイプが存在することに驚いたものでした。

クリス・マーネのホームページでは「BARENBOIM」ピアノのいくつかの写真も公開されていますが、リムの基本形はスタインウェイであるものの、裏側の支柱などもフレーム同様に並行となっていて、ここまでくるとほとんど別のピアノだと思います。
車の世界では同じプラットフォームを共有しながら、まったく別の車を作ることは近年よくあることですが、ついにピアノにもそんな考え方が到来したかのようです。
おやと思ったのは、スタインウェイの特徴のひとつであるサウンドベルがしっかり残っているところで、このパーツにはボディへの響かせ効果として(諸説あって、確かなことはいまだに知りませんが)、残しておくべき理由が、平行弦ピアノにおいてもあったのだと推察されます。

また響板の木目も、通常の斜め方向ではなく、弦と平行(すなわち前後)に揃えられており、駒も低音と中音以上のふたつの駒がそれぞれ独立して配されているのも特徴のようです。独立といえば、並行弦ピアノなのに駒とヒッチピンの間にアリコートが存在し、それがスタインウェイとは違って独立式になっているのもへぇぇという感じです。

また、フレームと弦の間に配されるフェルトが深みのある紫色となっており、これがフレームの節度ある淡い金色と相俟ってなかなかに美しく、リムの内側も古典的な明るい色に細いラインが水平に二本入るなど、どことなく高貴な印象さえありました。

鍵盤蓋には「BARENBOIM」、フレームには「CHRIS MAENE」と互いの名誉を尊重し合うように表記され、二者の合作であることが伺われます。
鍵盤蓋に埋め込まれるロゴはそのピアノのシンボル的なものなので、そこは知名度も高い世界的巨匠の顔を立て、フレーム上のエンボス加工では技術的貢献者であるマーネの名が記されているのだろう…と、そんな風にマロニエ君は解釈しました。
また、STEINWAYの文字が一切ないところをみると、むしろそれがメーカーのプライドであったのかもしれません。

このピアノ、完全なワンオフと思いきや、ここまで本格的な作りに徹したということは、そうではない可能性もあるような気がします。相当な額に達するであろう開発製造費なども、より数を作ったほうが1台あたりの価格が安くなるでしょうし。

マーネのHPから得た写真では、このピアノの並行弦用フレームが2つ重ねて代車で運ばれるショットがあり、やはり数台作られるようにも見えますが、どうせ鋳型を作ったのだから出来の良い物を選ぶために複数作ったということもあるかもしれません。
尤も、今時の正確な作りのフレームが、個体によって優劣や個性があるのかどうか、さらにはそれほど豪快に金に糸目をつけないやり方が可能かどうか…そのあたりはわかりませんが。

いずれにしろ、ここまでして出来上がった自分の名前を冠したピアノですから、さしものバレンボイムもじばらくはこれを使わないわけにはいかないでしょうね。
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BARENBOIM

ホームページを見ていただいただけで、これまで一度もコンタクトを取ったことのないピアノ店から、グランドピアノのタッチを調整するための面白い製品がある旨のお知らせを頂きました。
遠方ゆえ、その店に購入や取付を依頼することはないでしょうから、ただ純粋に教えてくださったというわけで、ご親切には心より感謝するばかりです。

「タッチレール」という名のアイテムは、鍵盤蓋のすぐ向こうにある「鍵盤押えレール」を外してそこへ装着するだけというもの。ピアノ本体にはなんの加工も必要とせず、すぐにオリジナルに戻せるというなかなかの優れもののようです。

それついては、もし購入・装着すればいずれご報告するとして、そこのお店のブログなどを奨められるままに見せていただいたところ、驚くべき情報を発見しました。


さきごろ、ピアニストで指揮者のダニエル・バレンボイムが、なんと自らの名を冠した新しいピアノを発表したとのこと。

大屋根のカーブ、支え棒、3ヶ所の蝶番の形状と位置などから、スタインウェイDに酷似していると思ったら、やはりそれがベースのようですが、このピアノで最も注目すべきは、単なるスタインウェイのカスタマイズといったありふれたものではなく、驚くなかれ中は並行弦!!となっている点です。

現代のモダンピアノが交差弦であることはもはや常識で、当然ながらあの見慣れたスタインウェイのフレームとはまったくの別物がボディ内部に鎮座しています。スタインウェイDのリム(外枠)の寸法に合わせて新造されたもののようで、加えて、弦はディアパソンやベーゼンドルファーで有名な一本張仕様。

バレンボイムがナポリかどこかで昔の並行弦のピアノを弾いたことがきっかけで、スタインウェイにこのアイデアを持ち込んだところ、クリス・マーネという古今のピアノに精通した特別な技術者を紹介され、その工房とスタインウェイ社の協力のもとに作られたピアノのようです。

クリス・マーネは調べたところ、とても個人の技術者という枠で収まりきる人物ではないようで、その工房たるや、立派なピアノ製造会社の工場のようで、広大な工房内にはピアノのためのあらゆる設備が整っており、これだけでも圧巻です。
マーネ氏は現代のピアノは言うに及ばず、チェンバロからフォルテピアノなど、あらゆる種類の鍵盤楽器に精通し、制作や修復などにも大変な手腕を発揮しているようで、スタインウェイ社もここに託すのが最良と判断したのでしょう。

ホームページではその製造過程の様子が写真で見ることができますが、まさにメーカーレベルの仕事のような大規模で整然としたものであるところは、ただもう唖然とするばかりで、ピアノのためのこういう会社が存在しているというところひとつみても、やっぱりヨーロッパはすごいなぁ!というのが実感でした。

このピアノは今年の5月にロンドンで発表され、BBCなどで映像も公開されているようです。

発表の場では、バレンボイムがシューベルトのソナタなどを軽く弾いていましたが、わずかな音の手がかりから感じたことは、純度の高い、真っ直ぐで、簡素で、繊細な感じの音。それでいて現代のピアノらしい豊かさと、スッと減衰しない伸びの良さを兼ね備えているようでした。
さらにはスタインウェイにくらべて音の立ち上がりがいいように感じました。
この点、もともとスタインウェイは、どちらかというとやや音が遅れて出てくるようなところがあるので、それが普通になっただけかもしれませんが。
彼はこれからしばらく、このピアノであれこれのコンサートを行うそうですから、そのうちCD化などもされるものと思います。

スタインウェイも昔のような大上段に構えた商売はやりにくくなっている筈ですから、今後はこういう目的に特化したカスタムピアノの制作にも協力姿勢をとっていくのかもしれませんね。
もし成功すれば、第二のシリーズとして、ラインナップされることもあるんだろうか?などと想像が膨らみます。

それにしても鍵盤蓋の中央には金色で「BARENBOIM」の文字が輝き、それをちっとも臆しないところは、やはり世界の巨匠といわれる人の感性は違うんだなあと感心しました。

知り合いの某調律師さんは、シゲルカワイをして「いくら会社の社長とはいえ、そのフルネームをそのままピアノのシリーズ名にするっていうのは、そのセンスが驚くなぁ!」と苦笑していらっしゃいましたが、その流れで言えば、バレンボイム氏はピアノメーカーの社長でもなければ開発技術者でもなく、偉大とはいっても演奏側に立つピアニスト/指揮者なのですから、さすがにそのネーミングにはいささか驚いたのも事実です。

ま、ネーミングの件はともかくとして、早くこのピアノの音をじっくり聴いてみたいものです。
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不遇の天才

前回の内容と関連して、マイナー作曲家で思い出すのが、ピアニストのマイケル(ミヒャエル)・ポンティで、彼ほど埋もれた無数の作品に実際の音を与えたピアニストもいないのではと思います。

ピアニストとして抜群の能力をもっていて、いちおうレコードになるランクのピアニストとしては、彼は昔から異色の存在でした。
というのも、昔は今のように誰もかもが指さえ回れば録音できるという時代ではなく、相応の実力と個性を備えた、選りすぐりの人たちだけしか録音するチャンスもなかったため、録音依頼があるということがよほどの実力者として認められていたと考えても差し支えないと思います。

ポンティのお陰で、私もLP時代からずいぶん埋もれた珍曲秘曲のたぐいを耳にすることができたわけで、モシェレスやモシュコフスキーの作品や、多くはもう名前も忘れてしまっているような作曲家の作品も少しは耳にすることができたという点で、マロニエ君にとってこのピアニストの果たしてくれた役割は大きかったことは間違いありません。

ポンティは非凡な才能の持ち主で、その演奏の特徴は、どんなに珍しいさらいたての曲であっても、まるで手に馴染んだ名曲のようにいきいきとした解釈と輝きをもって流麗に演奏できるところで、どの曲にも生々しい躍動がありました。
しかももったいぶらず、気さくに演奏するところに凄みすら感じていました。

そんなポンティの特別な天分にヴォックスというレコード制作会社が悪乗りしたのか、スクリャービンの全集(世界初)などにいたっては、劣悪な環境に缶詰にされ、そこにあるピアノを使って初見に近いような感じで録音させられたりしたと伝えられますが、その演奏はなかなか立派なもので、その眩しいばかりの才能には脱帽です。

ほかにはラフマニノフの全集や、マロニエ君は持っていませんがチャイコフスキーのピアノ曲全集も完成させたようです。

音楽の世界も商業主義は当たり前、今はその頂を通過して下り坂のクラシック不況という深刻な状況を迎え、メジャーな演奏家でも青息吐息です。オファーさえあれば、今やトップの演奏家が、どこへでも、どんな相手でも、自分を幾重にも曲げてスッ飛んでいくというのが悲しき実情のようにも思われます。

そんなご時世に、マニアックなピアニストや、それを許す市場や環境があるわけないでしょう。
強いていうなら、現代のこの分野ではアムランかもしれませんが、彼の場合は、自分の技巧というものがまずもって前面に出ているようにも思われ、しかも最近はメジャーな作品に取り組みだしているのは、やはり売れなきゃはじまらないという営業サイドの要望のようにも思えてしまいます。

現在、ポンティのような才能と指向をもったピアニストがいるのかどうかは知りませんが、どうせメジャーピアニストが名曲を弾いたってろくに売れないご時世なのですから、それを逆手に取って、埋もれた作品などの価値ある録音を増やして行くのも、名も無き優秀なピアニストにとって、ある種の開き直りの道ではないかと思います。
むろんそれでもやってみようというレコード会社あってのことですけれど。

ポンティの演奏はヴォックスから大量の録音が出ていて、マロニエ君はそれ以外は知らなかったのですが、ウィキペディアによれば、それ以外の録音もいくつかある由で、1982年には来日しておりカメラータ・トウキョウにも録音を残したことなどを知って驚きました。さらにはその録音時のコメントとして「これまではレコード会社の求めに応じて録音してきたが、これからは自分でお金を出してでも納得のいくレコードを作りたい」と言ったのだそうで、同情を誘う言葉でもありますが、本人は不本意だったとしても、お陰で偉大な録音が残されたことも事実だと思うのです。

ショックだったのは2000年に脳梗塞となり、右半身の自由を失っていることで、人間が身体の自由を失うことは誰においても悲劇であるのはいうまでもないけれど、わけてもポンティのような華麗な演奏を得意としたピアニストがそんな過酷な運命に遭うとは、なんと痛々しいことかと思いました。

ポンティはレコード会社から翻弄され、真の実力を世に問うことができなかった不遇の天才だったとも言えるでしょう。
あれこれの名前を挙げるまでもないほど、天才というものは、悲劇に付きまとわれることが少なくないようで、残忍な悪魔が近くをうろついているものなのかもしれません。
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カテゴリー: CD | タグ:

何を楽しむか

マロニエ君の知人の中には、いわゆる「ピアノ好きな人」が何人かいらっしゃいますが、その中のおひとりは音楽そのものはもちろん、楽器、調律、ピアニスト、作品等々、ピアノにまつわる関心は当然のごとく多岐にわたっています。
自分が弾くことについては、むろん極めて大切な要素のひとつではある筈ですが、決してそれのみではないといった位置づけで、この点ではマロニエ君も同種であると認識しているところです。

しかし大多数の「ピアノ好き」といわれる人の多くは、名曲難曲を弾けるようになることだけが興味の中心で、それはほとんど欲望と呼んでもいいかもしれません。日々その練習や訓練だけにあけくれるのは、まるでアスレチックジムのトレーニングに近いものがあり、こうなるとピアノと向き合いつつ、そのメンタリティは体育会系だと言えそうです。
普通はピアノ好きであれば、優れた演奏家、無限ともいえる楽曲、銘器の音色や自分の楽器のコンディションなどにも興味が及ぶのが自然だと思うのですが、そういうことにはまるで無関心で、ひたすら自分が弾くことだけに興味を限定するのは、なんとも不思議で不自然な気がします。

テニスを好きな人が錦織選手のプレイに、体操が好きな人が内村選手の演技に興味も知識も無いまま、ひたすら自身の練習に打ち込むのみなんてあり得ないと思うのですが、ピアノの世界では、じっさいそれが普通なのです。

趣味のピアノ弾きの集まりに行っても、自分が今なにを練習しているといったこと以外に、一般的なピアノや音楽の話題が出ることはまずありませんし、古今のピアニストの話でもしようものなら、一気に座はシラケて発言者は空気の読めない音楽オタクとして位置づけられ浮いてしまうでしょう。
「ピアノ好き」を自認しながら、CDも数えるほどしかなく、コンサートにも興味がなく、古今の名だたるピアニストにもまるで疎いような人が、来る日も来る日もショパンやベートーヴェンの有名曲の練習だけにエネルギーを割くことは、考えてみれば却って難しいことのようにマロニエ君などは思うのです。

…つい前置きが長くなりましたが、冒頭のその方は音楽との関わり方もまったく独自のものがあり、いわゆる一般的なミーハー趣味とは厳然と区別される世界をお持ちです。
当然楽器にも強い関心があって、自宅には素晴らしいスタインウェイをお持ちですし、ピアニストにも好みがあり、さらには自分が興味のもてる作曲家や作品を慎重に選び出し、気持ちに沿わない作品はどんなに有名であっても見向きもされません。

たまに電話で話しますが、楽器のコンディションなどの近況や技術的なこと、ピアニストのことなどをしゃべっているうちにたちまち1時間ぐらい経ってしまいますが、話をしていて本当に音楽がお好きということが伝わってきます。
冒頭に書いた体育会系ピアノの人ではない、数少ないおひとりです。

最近では、マイナーな作曲家の埋もれた作品に感心を寄せられている由で、気に入った曲があるとネットで楽譜を取り寄せて自らも練習されているというのですから、ここまでくると、なかなか誰にでもできるようなことではないでしょう。

ここで大いに役に立っているのがYouTubeのようで、いまどきはどんなものでも、大抵はこのとてつもない動画サイトによって助けられることが少なくありません。音楽に限らず、あらゆるジャンルのあらゆる動画がここを開けば大抵は見聞きできるのは、便利という言葉ではとても足りない気がします。
ただし、いくら便利なYouTubeがあっても、とくにマイナーな作曲家や楽曲というのは、一定の評価を得ているわけでもないので、メジャーな作品よりも遥かに自分自身の感性を磨いておく必要があるだろうと思います。

マイナーな作曲家の埋もれた作品の中から好みの曲を探して練習するとは、YouTubeと連携することでそんな楽しみ方があるなんて思ってもみませんでした。かように趣味というものは、最終的には自分ひとりが通る道を見つけるときに、それはいよいよ純化されていくものという気がします。

その点でいうと、発表会や人前演奏を一元的に無意味だと断じるわけではありませんが、行き着くところ自分が目立ちたい願望の口実にピアノを使っている限り、趣味人としても三流以下だと思います。
素人がつまらぬピアノの腕前を披露(中には自慢)するなんぞ、趣味道にももとる音楽の悪用だと思うことがあるのですが、断じてそうは思わない人たちが主流である現実には、とても太刀打ちできません。

「日本には恥の文化がある」と言われることがありますが、ウーン…ことピアノに関しては適用外という気がします。
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いずれが王道?

ここ最近のことのように思いますが、ジャケットにSTEINWAY&SONSのロゴマークが入っているCDをときどき目にするようになりました。
スタインウェイ社が協力しているかなにかでロゴが印刷されているんだろうか…ぐらいに思っていましたが、どうやらレーベルそのものがSTEINWAY&SONSなのだそうで、スタインウェイがプロデュースして自らCDを発売しているようです。

考えてみれば、こういう成り立ちのCDというのはあっても不思議ではないようでいて、実はあまりなかったようにも思います。ピアノメーカーの自社宣伝、かつ若いピアニストを発掘し世に送り出すという点からも、これはまさに有効な手段なのかもしれません。尤も、スタインウェイに関しては、市場の録音の9割ぐらいはこのメーカーのピアノが使われるので、なにもいまさらという感じもあるわけで、きっと我々素人にはうかがい知れない事情や目論見があるのでしょう。

このSTEINWAY&SONSレーベルのCDは、現在マロニエ君の手許でも確認できただけで2つあり、セルゲイ・シェプキンのフランス組曲と、アンダーソン&ロエという男女のユニットによるピアノデュオで「The Art of Bach」というアルバムがあります。
面白いのは、アンダーソン&ロエのバッハでは、2台ピアノのための協奏曲ハ長調やブランデンブルク協奏曲第3番などを2台ピアノのみで演奏しているのですが、それをスタインウェイの監修のもとに、ニューヨークとハンブルクのDを組み合わせて使っている点です。

耳を凝らして聴いていると、ハンブルクの艷やかに輝くようなおなじみの音と、ニューヨークのやわらかな余韻のある響きが見事にブレンドされており、これはなんと素晴らしい組み合わせかと思いました。
つまり、ルーツを同じくする2台のピアノながら、生産国によってかなり特性の違うピアノになってしまっているふたつのスタインウェイが、互いに持っていない要素を補い合っているようで、これは実に面白い試みだと思いました。

かねてより、マロニエ君はニューヨークとハンブルクを掛け合わせたようなピアノがあればいいと思っているのですが、それをまさに実際の音として聴くことができたような錯覚ができる体験となりました。
シェプキンのバッハでも、2枚目のCDには幻想曲とフーガBWV904では、ニューヨークとハンブルクによるふたつのバージョンが収録されていて、この異母兄弟とてもいうべきピアノの違いを楽しめるようになっているあたりは、さすがにスタインウェイレーベルだけのことはある面白さのように感じます。

マロニエ君のざっくりした印象でいうと、戦前のピアノはニューヨークのほうがよかったという説を耳にすることはしばしばですが、1950年代以降ではそれが逆転し、とりわけ1960年代から数十年間はハンブルクのほうが優れていたように思います。ところが21世紀に入ってから、確たる証拠はないけれど、もしかすると、ふたたびニューヨーク製が盛り返しているのでは?と思えるふしがあるのです。

たとえば動画サイトで見たものに過ぎないものの、ユジャ・ワンがアメリカで弾いているニューヨーク製が思いの外すばらしいことはかなり印象的で、それまでのニューヨーク製はどちらかというと響きのゆらめきのようなものがある代わりに、ひとつずつの音の明瞭さという点ではややアバウト気味でものたりないようなところがありましたが、このときの新しいピアノでは、音の中に凛とした芯と量感があり、それでいて響きのふくよかさはニューヨークならではなのものがあり、いい意味での黄金期のスタインウェイのようであったことは強く記憶に残りました。

このCDに聴く音も、ハンブルクと同時に鳴っているために段別がむずかしいものの、なかなか懐の深いピアノであるような気がします。もしかしたら、今後は再びニューヨークが首座に返り咲くことがあるのだろうかとも思うと、なんだかわくわくさせられます。

むかし福岡県内のとあるホールで、ピアノ庫を見せてもらえるチャンスがあり、そこにはニューヨークとハンブルクそれぞれのDが置かれているのですが、調律師さんにどちらが人気ですかと聞いたところ、その答えは驚くべきもので「こちら(ニューヨーク)を弾く人はまずいないでしょうね」と、かすかに鼻先で笑うような言い方をされたのが今でも忘れられません。
同時期に新品が収められたものであるにもかかわらず、技術者があたまからそんなイメージをもっているようでは、このピアノは一生浮かばれないだろうと哀れに思ったものです。

それなりに理由はあるのかもしれませんが、根底には日本人の意識の中にドイツ信仰のようなものがあって、はなからアメリカ製など格下であるという思い込みが(とくに楽器や車は)深く根をはっているのかもしれません。
ある本にもありましたが、さる高名な音大の教授でさえ、王道はドイツのスタインウェイで、アメリカ製はジャズやポップス用みたいな認識なんだそうで、これって結構あるんだろうと思います。

たしかに全般的傾向としてアメリカの製品は作りが粗く、そういった要素のあることもわかりますが、スタインウェイに関しては、ニューヨーク製の評価は低すぎるように思います。それでもスタインウェイというブランド名があるからまだましで、メーソン&ハムリンのような素晴らしいピアノがあるにもかかわらず、ほとんど話題にすら出ないことは、いかにイメージ先行で判断されてしまうかということを考えさせられます。
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カテゴリー: CD | タグ:

巨匠と若手

N響定期公演から、フェドセーエフの指揮によるロシアプログラムというのがNHK音楽館で放映され、ラフマニノフのヴォカリーズとピアノ協奏曲第2番、リムスキー=コルサコフのシエラザードが演奏されました。

始めに演奏されたヴォカリーズから、やや遅めのテンポが感じられ、ピアノ協奏曲になってもその印象は続きました。フェドセーエフも82歳だそうですから、やはり歳とともにテンポは遅くなるのだろうかと思います。
カラヤンもベームも、ルビンシュタインもアラウもそうであったように、晩年はテンポを落としたくなるものかもしれません。

ピアノはアンナ・ヴィニツカヤで、CDでは聴いていたものの、映像を見るのは初めてでした。
手許にあるCDは難曲で知られるプロコフィエフのピアノ協奏曲第2番で、なかなかスタミナ感のある演奏だったこともあり、こういうロシア系のヘビーな作品を得意とするピアニストだろうという予測をしてしまいます。

曲の冒頭、凄まじくクレッシェンドしていく和音とオクターブによって幕が上がると、息つく間もなく、うねる波のように無数のアルペジョが押し寄せますが、情熱的に前進しようとするヴィニツカヤに対し、フェドセーエフは雄渾で恰幅の良い第1主題を描こうとしているようで、すでにこの時点からピアノとオーケストラは噛み合わず、しばしば行き違いが生まれました。

直接のテンポもさることながら、各所でのアーティキュレーションや呼吸感など、求める演奏の方向性の違いがあり、それが和解できないまま本番を迎えたという感じでしょうか。

フェドセーエフにすればソリストは同じロシア人、しかも孫のような歳の女性となれば遠慮なく自分が手綱を握り、それに異議なくついて来るはずというところだったのかもしれません。
少なくともソリストの意向を汲み取って尊重しようという気配は感じられませんでした。

30代前半のヴィニツカヤは、この名曲をロマンティックかつ情熱的に追い込んでいこうとするものの、フェドセーエフもN響も、まるでそんな彼女の意向を無視しているかのようで、なんとはなしにピアノが空転気味というか、どこか気の毒な感じにも見えました。

ヴィニツカヤはある意味で少し前のロシアスタイルというか、その美貌とほっそりした体型からは想像できないほどの豪腕ぶりで、すべての音をがっちり掴んで、力強く積み上げていくタイプのピアニストで、ラフマニノフの2番みたいな作品は結局こういう演奏が合っているようにも思えます。

マロニエ君の好みとは少し違いますが、これはこれで楽しめますし、実際の演奏会では、聴衆をそれなりに満足させることのできる人なんだろうと思いました。
むしろこんな曲を、中途半端に知的処理されて消化不良にさせられるよりは、よほど素直で好感がもてるというものでしょう。

そういう意味では、もうすこし彼女の意を汲んだ指揮であったなら、もっと充実したドラマティックな演奏になっていただろうと思われる反面、終始噛み合わないオーケストラに追従して、あれだけの難曲を弾いていくのは、気分が乗っていけないのに一定のテンションを保つのはさぞ大変だろうと、いささか同情的になりました。

そのせいかどうかはわかりませんが、第3楽章の佳境の部分でゾッとするような、あやうく事故に近いようなことが一瞬起こり、きわどいところで回避されたものの、思わず心臓が凍りつきそうになりました。
ピアノが出るべきところで出ずに空白が生じ、一瞬の間を置いてなんとか出たという、いわば重大インシデントといったところでしょうか。
やはりどんな腕達者であっても、ステージというのは何が起きるかわからないものですね。
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コンサートが苦痛に

音楽好きを自認する人間がこれを言っちゃおしまいかもしれませんが、(特別な場合を除いて)生のコンサートというのが基本的にイヤになっている自分に気がつきました。

むろん生のコンサートの良さや醍醐味はよくわかっているつもりですが、それを押し返すほどのマイナス要因を感じてしまうこのごろなのです。
まず言えることは、昔のようにわくわくするようなコンサート自体がなくなったということが第一にあります。演奏家の技量は一様に向上して大変なものがあるのはわかりますが、大半は無機質の、能力自慢的な演奏でしかなく、演奏を通じて音楽に感銘を受けたり心が揺さぶられるということも激減しています。

その点に関しては、こちらの耳も演奏を善意に受け止めるような素直さを失っているのかもしれません。そうだとしても、とにかくコンサートに行っても結果的に楽しくないというのがこのところの結論です。

そもそもコンサートに行くというのは、トータルでかなりのエネルギーを要するということは否定しようがありません。これこれしかじかのコンサートに行くということは、事前の情報のキャッチから始まり、行くという決断、チケットの購入、予定の調整など、事前の準備もわずらわしいものです。

当日は当日で、コンサートに行くことを前提とした動きになり、何をおいても一定の時間内にその準備をし、開演時間に間に合うように出発し、マロニエ君の場合は必ず車なので、駐車場に車を置いて、てくてく歩いて会場入りします。
さらに最近きわだって苦痛になってきたのは、決して座り心地の良くない会場のイスには、開演前から含めると、都合2時間以上もまんじりともせず座り続けなくてはならないことです。しかも演奏中は暗い客席から眩しいステージを見つめるということが、目や脳神経にもストレスで、しかも耳は演奏に集中しますから、心身の疲労がたまりにたまります。

これは、いかに好きな音楽とはいえ、心身へかなりの苦行になり、それが深い疲労に追い込まれるようになりました。

会場も大抵音響は酷く、たしかにステージ上では有名演奏家が演奏していますが、実際に耳に届く音や響きは甚だ遠く不鮮明で、茫洋とした残響ばかりを聞かされているのに、価値ある演奏を聴いた気になろうと意識が無理をすることも事実でしょう。ほんらい期待している演奏の妙技や心を打つ音楽体験などは、はっきりいって大半が伝わらずじまいです。

それでも今目の前であの人が演奏しているというだけでありがたいような存在なら、その空間と時間を過ごすだけでも意味があり、満足かもしれませんが、そんな(たとえばホロヴィッツのような)人はもういません。
また、東京あたりでのテレビカメラの入るような演奏会は別として、大抵の名だたる演奏家はツアーを組んでいて、その訪問先のひとつに過ぎない地方都市では、あきらかに手を抜いた気の入らない演奏をしていることが少なくなく、そんなものを聴くために高いチケットを買って、せっせとホールへ馳せ参じる欺瞞にも、もう好い加減いやになってきたのです。

素晴らしい芸術家の演奏を聴くといういうより、ほとんど商業主義の出稼ぎツアーにお金と時間を使って協力している1人に自分がなっているような気になることが多すぎるのです。マロニエ君にとってコンサートに行くということは、聴いている瞬間はもちろん、後々の記憶にも残るような喜びと感銘を得るためにホールへ足を運ぶことだと思うのです。

また、会場では必ずと言っていいほど、周囲にはカサカサ音をたて続ける人、異様に座高の高くて完全に視界を遮る人、演奏中も椅子をバタバタ振動させる子供、小さな声でしゃべっている人、チャラチャラと音をさせてあめ玉などを取り出す人、変な香水などの匂いを撒き散らす人、なぜか演奏中に身を屈めて出ていく人など、不快要因が散在していて、これらも嫌になってしまうのです。

それもなにも、演奏で満腹できればチャラにできるでしょうが、こちらもさっぱりという場合が少なくないし、そんな現実を思い浮かべると、もはや少々のことでは「家にいたほうが快適」になってしまいます。
チケット代にしても、ちょっと名の知れた海外オーケストラなどになると、もはや行く気も失せるような料金で、それで何枚CDが買えるかと思うと、マロニエ君にとっては価値を感じるほうに使いたくなってしまいます。

まあ、これじゃいけないんでしょうけれど、いやなことはしたくないのです。
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ベーゼンドルファーの美

ネットでCDを注文する際は、本当に欲しいものがメインになるのは当然としても、せっかくなので「ついでにこれも」というようなものも一緒に購入することがよくあるものです。

『RUSSIAN PIANO RARITIES』という3枚組もそんな「ついで買い」のひとつで、輸入盤で、もう忘れましたがたぶん値段もずいぶん安かったと思います。ロシアの珍しいピアノ曲集というような意味かと思っていますが、確かなことはよくわかりません。

メトネル、スクリャービン、ショスタコーヴィチ、ラフマニノフという4人の作曲家によるソロ、もしくは2台ピアノのための作品などがごった煮のように入っており、ピアニストもいかにも二軍選手といった人たちが4人、ごく普通のしっかりした演奏という感じで、普通に曲を聴くにはちょうどいい塩梅といえなくもありません。

こういう掻き集め的なCDで面白いのは、演奏者、録音年月、使用ピアノがバラバラな点でしょうか。
ただし、どれもが新しい録音なので、極端に雰囲気の異なる音源が隣り合わせというような不都合はなく、録音も場所もちがう割には比較的違和感なくまとまっており、たまにはこういうCDも悪くはないなあというところでしょうか。

とくに思いがけなかったのは、ピアノの違いを楽しむことができる点でした。
使用ピアノなどの記載はないものの、多くがスタインウェイであることは音からも明白ですが、ラフマニノフに関してだけは2台ピアノもソロも、録音場所がベーゼンドルファー・ザールとなっており、そこに聴くピアノはまぎれもなくベーゼンドルファーであることは曲目からして非常に意外でした。

さらに意外だったのは、それがなかなかいい音だったのです。
このところの音質低下はベーゼンドルファーにまで及んだのか、このブランドにふさわしい音を聴くチャンスが少なくなったと感じていたところ、このCDで聴くそれは、ハッとするほど美しいものでした。
艶やかで柔らかいのにみずみずしい音で、ひさびさにこのメーカーのいい部分を堪能できた気がして、これはまさに思いがけない収穫でした。

しかも弾かれているのはラフマニノフですから、本来ならどう考えてもマッチングの良い取り合わせではない筈ですが、ほんとうに美しい音で鳴っているピアノというのは、それだけでもじゅうぶん魅力的で、作品との相性なんてそれほど気にならないのは実に不思議でした。

艶やかな弦楽器のような濁りのない音で、美しいものは理屈抜きに美しいということ、それを聴くことの驚きと喜びにストレートにわくわくさせられました。
こういう素晴らしい音があるかと思うと、インペリアルで録音されたCDなどには期待はずれなものが少なくないし、コンサートなどでもまったく納得しかねるような、どこか間延びした、不健康な感じの楽器があるのも率直な印象です。

最近で印象に残っているのは、アンドラーシュ・シフが東京オペラシティーで行ったメンデルスゾーンやシューマンによるリサイタルで、シフほどの名人の手にかかってもピアノの反応がいまいちで、引きこもったような不鮮明な音を出すばかりでした。
会場とピアニストはいずれも一流であることから、楽器も管理も悪かろうはずもないし、第一級の技術者がおられるに違いなく、それだけに近年のベーゼンドルファーとはこんなものかと思わざるをえませんでした。

マロニエ君はベーゼンドルファーのことは、あまり知りませんし、弾いた経験も多くはありません。
まろやかな音色のピアノがあるかと思うと、かなりエッジの立った際どい音であったりと、どれが「らしい」のかよくわかりませんが、共通して感じるのは、音量が比較的小さく、サロン的な音色の質や調子から、自ずと作品も選ぶピアノといったところでしょうか。

イメージとしては弱音域の美しさが際立っていることと、整音が非常にデリケートであるのか、スイートスポットが非常に狭いのか、好ましいコンディションを作り出し、維持するのが容易ではないのでは?というもの。
メリハリがないほど音が柔らかいかと思うと、少しでも硬すぎればチャンチャンしたやや下品な音になり、マロニエ君はいずれの音も好みませんが、ツボにはまった時のベーゼンドルファーの美音は、まるで熟れきった果実から極上の果汁がしたたり落ちるようで、なまめかしい純度の高い美音が撒き散らされ、聴く者を圧倒してしまうものがあるのも事実でしょう。

マロニエ君はアルコールはてんでダメで、ワインの良否などまるでわかりませんが、この道にうるさい人が最高級だ年代物だと興奮するのは、きっとこんな豊饒な音のようななものだろうか…などと想像を巡らせてしまいます。

残念な点は、そういう麗しい音のピアノが非常に少ないと感じる点でしょうか。
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アンデルジェフスキ

今年からN響の首席指揮者にパーヴォ・ヤルヴィが就任したのは驚くべきニュースでした。
あんな売れっ子をよくぞ連れてこられたものだと思いますが、お陰で、ひさびさにN響に喝が入ったように感じました。

たしかデビューコンサートのプログラムだったと思いますが、マーラーの巨人を振るのを聴いて、へーぇ…と思ってしまいました。
ブロムシュテットでも、デュトワでも、アシュケナージでも、ノリントンでも、与えられた仕事をそつなくこなすよう淡々と弾いていたN響。唯一、珍しく本気になっていると感じたのは、昨年だったか一昨年だったか、ザルツブルク音楽祭に出演したときだったけれど、日本に戻ると同時にパッションも元に戻ってしまったようでした。

そんなN響が、ヤルヴィを前にするとさすがに気持ちが引き締まるのか、あきらかにこれまでにない熱気のようなものが漂っているのが感じられ、これは面白いことになったと思いました。

すでにN響とのコンサートも異なるプログラムで数回おこなわれたようで、先日はR.シュトラウスとモーツァルトが放映されました。冒頭の「ドン・ファン」は見事な演奏で、サントリーホールのステージからこぼれ落ちんばかりのフルオーケストラから繰り出される豪華な響きと精緻なアンサンブルによって、この熱気に満ちた交響詩を演じきりました。

後半はメインである「英雄の生涯」が待ち受けますが、その谷間におかれたのがモーツァルトのピアノ協奏曲第25番でした。演奏前の説明にもあった通りモーツァルトの作品中、最もシンフォニックなピアノ協奏曲で、傑作第24番の悲劇的なハ短調と表裏をなすように、ハ長調の盛大なトゥッティで始まるあたりは、いかにもモーツァルトらしい変わり身で、悲しみに打ち沈んだあとはパッと明るく切り替える、対照的な同主調といえるかもしれません。

ソリストはピョートル・アンデルジェフスキで、マロニエ君はこの人のCDは何枚か持っているものの、巷ではそれなりに高い評価を受けているようではあるけれど、個人的には彼の演奏の目指すところがよくわからないまま理解が進みません。
モーツァルトの協奏曲は何枚かリリースされているようですが、シマノフスキやシューマン、カーネギーのライブなどのCDを聴く限りでは、この人のモーツァルトを聴いてみたいという意欲がわかず、手許にはまだ一枚もなしです。その意味でも、初めて彼のモーツァルトを聴けるという点でも楽しみと言うか…ともかく興味津々ではあったわけです。

しかし、危惧したとおり、何をどうしたいのか、まったくその表現意図がマロニエ君にはわかりかねる演奏でした。やはりこうなんだなぁ…という、当たり前のような印象。

この人は通り一遍のピアノを弾くことを良しとせず、いわば演奏を標準語で語らないのがこだわりなのか、一言でいえばやりたいようにやるのが彼の流儀のようです。その異色なスタンスからアンデルジェフスキこそはピアニストという枠を超えた真の表現者であり芸術家であるというふうに書かれた文章もいくつか読んだこともありますが、正直、聴こえてくる演奏に納得がいかず、マロニエ君には彼の演奏の真価がさっぱりわかりません。
この日の演奏を聴いて、その疑問は疑問のまま上書きれて終わりました。

だいいちに重くて鈍いです、モーツァルトには、あまりにも。
テンポも安定感を欠き、アーティキュレーションもデュナーミクもまったく予測もつかなければ、あとで腑に落ちてくることもなく、全編を通じて不明瞭感みたいなものがつきまとい、ほんとうにこれがこの人の本心なんだろうかと思いました。

音楽というものはいまさらいうまでもありませんが、自分とは感性や好みが違っていても、その人なりの音楽が言語となって語られ、収支のバランスがとれていて、一定の完成度があるものなら、それはそれでじゅうぶんに楽しめるものです。
べつにモーツァルトはこうあらねばならないというお堅いことをいう気はないし、いいものはどう型破りであってもいいと思うのですが、ロマン派ともなんともつかない恣意的な弾き方をすると音楽の型が崩れてしまい、聴いていてまったく乗っていけません。
自己流でも型破りでも、最終的になにかに支えられ、どこかに発見があり、けっきょく帳尻があっていなければ、それは個性だとは言えないような気がします。

ピアノの入りなども遅れが目立つところが散見され、わけてもモーツァルトの掛け合いにおいては、ひと息の遅れがその楽句の鮮度を残酷なほど落とし、意味や輝きが失われてしまいます。また、いわゆるミスタッチとは言えない音の飛びやつまづきが多々あったのも、彼の名声にはそぐわないたぐいのものだったことは意外でした。

どうも顔色もよくないようで体調でも悪いのか、はたまた御酒でも召されてステージにお出ましだろうかと思ってしまうような、何か訳ありのような気配が漂っていて、なんとなく気持ちのよいものではありませんでした。
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染み込んだ体質

たまたま見た、あるテレビ番組での話。

自転車店の最も少ない都道府県はどこかというと、普通は雪の多い北海道や東北地方では?と考えてしまいがちですが、意外なことに真逆である沖縄県なんだそうです。

というわけで那覇市内の街の様子が映し出されますが、車はたくさん走っているのに、自転車に乗っている人というのはまったくといっていいほど目に入りません。国際通り?とかいうメインストリートでも、ひっきりなしに行き交う車に対して、歩道は人もまばらで、たしかに自転車など影も形もなし。

番組では、県内で数少ない自転車店に入ってそのあたりの事情を尋ねると、沖縄の人はそもそも自転車にはほとんど乗らないらしく、その店は主に競技用など趣味としての自転車を取り扱っているだけで、日常生活で多く使われる普通の自転車は、ほとんど買う人がいないのだそうです。
売れるのは年にせいぜい2~3台というのですから、今どきの自転車大増殖とその無謀運転に悩まされる我々からすれば、ただただ驚くばかりでした。

その理由を探ってみると、潮風で車体が錆びるとか、暑いから汗をかくとか、アメリカによってもたらされた自動車文化が根付いた、などの理由がありましたが、最大の理由は、要するに自分の足の力を動力とする自転車というものが、そもそも沖縄の人の感性に合わないということのようでした。

では沖縄の人は移動手段はどうしているのかというと、ちょっとそこまででも、必ず「車で行く」のだそうで、さっきの自転車店のご主人がいうには、自分の奥さんもあそこの(ほんとうにちょっと向こうにあるぐらいの距離)コンビニに行くにもわざわざ車に乗って行く(笑)のだそうで、他の人に聞いても、自転車には「乗らない」し、目前に見ているぐらいのところでも「車で行く」と笑いながら当然という感じで答えていました。

マロニエ君にとって、これってまるで自分のことのようでもあり、おかしいような笑えないような、でもやっぱり笑ってしまうしかない不思議な気分でした。

歩かなきゃいけないのはむろんわかっているし、マロニエ君のまわりにも普段から驚くべき距離をせっせと歩いている人が何人かいて、ご苦労なことというか、呆れるというか、要するにただ感心させられるのですが、では自分も見習って少しは歩くよう心がけるかというと…さらさらそんな気はないのです。
どこへ行くにも、唯一気にかかるのは先に駐車場があるかどうか、その点だけ。

お店なども、どんなに行きたい店があっても駐車スペースがないようなところは、それだけで行くことを諦めますし、それ以上の挑戦はしません。

しかしマロニエ君以上の人もいて、知り合いで50ccバイクの常用者がいますが、その人は100メートル以上移動する際は、必ずヘルメットをかぶってバイクにまたがります。エンジンを掛けたりあれこれやっている間に歩いたほうが早い場合もあり、さすがのマロニエ君もその徹底ぶりには唖然とさせられることがあるのですが、ここまでくると何か突き抜けた感じがしてきます。
日常を電車やバス+徒歩もしくは自転車で過ごしておられる方からみれば、およそ信じ難い感覚かもしれませんが、これもきっとある種の依存症なのかもしれません。

いずれにしろ、いったん身についた習慣は、容易なことでは変わるものではなく、沖縄の人達の車依存もかなり根の深いものだなあと、なんだか妙に親近感を覚えてしまいました。

沖縄ではこの気質をネタにした地域限定のテレビCMまであるようで、野球の試合中、フォワボールになるとバットをポイと地面に放り投げたその手をおもむろに上げると、そこへ本物のタクシーがやってきてパカッと後ろのドアが開きます。なんとバッターはそのタクシーで1塁までいくというもので、それほど歩くのがキライだというわけでしょう。
まあこれはオモシロCMだとしても、根底にそういう感性があるのは理解できてしまうのです。

ふと思い出しましたが、以前入っていたピアノクラブでも、移動となると、みなさんごく自然に(マロニエ君にしてみればギョッとするほどの距離を)てくてくと歩いて行くのには「エッ、世の中、ふつうはこうなの?」と内心驚愕したことが何度かありました。最初のうちはお付き合いの気持ちもあって車は使わずに参加していましたが、これはもうたまらん!というわけで、以降はどこであれ車で行くようになりました。
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ファツィオリ検証

以前、アンドレア・パケッティの弾くゴルトベルク変奏曲のCDの感想から端を発して、ファツィオリのことにも触れたところでしたが、その後、BSクラシック俱楽部でボリス・ギルトブルグという若手ピアニストの来日公演の様子が放映され、会場であるトッパンホールのステージに置かれていたのはファツィオリのF278でした。

ついひと月ほど前に、CDから聴こえてくるファツィオリの音についてあれこれ書いたばかりなので、そこに綴ったものが時間をおき、音源を変えてみて正しかったかどうか、あるいは何かが修正されてくるか、その点を(自分なりに)検証する意味もあって、意識的にこのピアノの音に耳を傾けました。ピアノ、ピアニスト、会場、曲目、録音が異なれば、受ける印象にも多少の変化がある可能性は大きいのでは…というわけです。

曲目はグバイドゥリーナのシャコンヌ、ラフマニノフの楽興の時第1番と第3番、プロコフィエフのソナタ第2番。
グバイドゥリーナのシャコンヌはよく知らない曲だったため、主に作品自体を楽しんだものの、ラフマニノフ以降はピアノにも注意を向けてみました。

果たしてそれは、パケッティのゴルトベルクで聴こえたものと、つまらないぐらい同じ印象でした。
自分の書いた感想に対する検証という意味では少し安堵の気持ちも覚えはしましたが、やはりファツィオリほどの最高級にランクされるピアノですから、なにか印象が好転するような要因があればと期待していたのですが、とくにそれらしい要因は見当たりませんでした。

ラフマニノフの楽興の時第1番などはゆったりした曲調であるぶん、落ち着いて音を聴くことができるのですが、やはりその音には奥行きというか、濃淡や立体感みたいなものが感じられません。
緩徐部分でも響きが固く、表現が難しいところですが、曲線的な歌唱の要素がなく、むしろメカメカしい感じばかりが耳についてくるように感じました。
演奏という入力に対してのレスポンスはたしかによさそうで、低音などまるで筋肉が隆起するようです。この点で弾く人には刺激的なのかもしれませんが、楽器に人格のようなものを感じたり、そのピアノなりの声や響きの構成にわくわくさせられるようなものはやはり感じませんでした。

楽器の音には「抜ける」という要素があるのかどうか専門的なことはしりませんが、神経に何かが溜まっていくのか、しだいに息苦しい感じのするところが気にかかります。もしかすると無機質でデジタルな時代感覚に合わせ、意図的に味わい深さやリリカルな要素を排した性格が与えられているのかもしれません。

ピアノの音に馥郁としたものや交響的なものを求めるとしたら、そういう性質のピアノではないのでしょう。それはこの日弾かれたロシア音楽、わけても遙かなる大地と哀愁の漂うラフマニノフにはまったく不向きという印象で、大きなロシア人が異国でアルファロメオにでも乗せられているようでした。

ファツィオリはスカルラッティのような鮮烈な花束みたいな作品には最良の面を発揮するのかもしれませんが、壮大さや憂いを内包する重厚な音楽には向いていないのかもしれません。

ピアニストのボリス・ギルトブルグは、初めて聞く人でしたが、ピアノを演奏するという行為をとても真摯に受け止めて、終始良心的な演奏に徹するタイプのようでした。
小柄な人でしたが、テクニックも見事で、プログラムに対する準備も怠りなく、まさに誠実な演奏家という印象を抱かせるに十分です。とくにその表現は繊細かつ大胆で、ロシア人ピアニストも時代のせいか、このようなデリケートな配慮の行き届いた表現ができるようになったということを痛感させられました。

リヒテルだギレリスだといっていた頃の、分厚くこってりした、力でねじ伏せるような演奏がロシアピアニズムだった時代を思い起こせば、この点でもずいぶんと近代化が進んでいることを思い知らされます。
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恐怖の着陸

少し前に、沖縄の那覇空港で、離陸待機中の自衛隊のヘリが、ANA機に出された離陸許可を自分達に出されたものと勘違いして離陸。すでに滑走路を走り始めていたANA機がそれに気づいて離陸を中断したものの、その背後に別機が着陸してしまうという重大インシデントとやらが発生しました。

たしかに状況を言葉で並べると危機一髪というような印象もありますが、空港の設置カメラの映像によると、飛び上がった自衛隊のヘリとANA機との間には遙か彼方とても言いたいほど距離があり、もしANA機がそのまま離陸していても、両者が衝突というようなことではなかったように見えました。

もちろん、このような勘違いはあってはならないことですから、より安全確認を徹底しなくてはならないことは当然ですが、それほどの危険が差し迫っていたようには(映像では)見えなかったため、これでこんなに危険が叫ばれるのだとすると、じゃああれはどうなんだろうと?…と、あることを思い出してしまいました。

それはYouTubeでだれでも見ることができますが、飛行機に関する映像の中でも、クロスウインド(横風)の中を旅客機が着陸する映像がいくつもありますが、これはなかなかどうして手に汗握るものです。

とりわけマロニエ君がすごいと思うのは成田空港のそれで、ちょっと信じられないような危ない着陸を、各社各機が次から次にやっている現実には唖然とするばかりで、シロウト目には、その危険度は上記の沖縄空港のニュース以上かも…というのが率直なところです。

そもそも、あれほど方角の定まらない嵐のような強風が吹き荒れるというのは、それだけでもあそこに国際空港を作ったことが適正だったかと思いたくなるほど、それは凄まじいもので、多くの乗客を乗せた大型機が、まるでおもちゃのようにふらふらしながらアプローチしてくるのは、理屈抜きに怖い気がします。

ふつう着陸態勢に入った旅客機は、ほぼキチンと水平状態を保ちながら慎重に高度を下げながら、とりたてて不安もなくきれいにタッチダウンするもので、福岡は市内に空港があることから着陸の光景は子供の頃から見慣れているつもりでしたが、成田のそれは尋常ではないことに見るなり度肝をぬかれました。

撮影された映像にも間断なく叩きつける強風の轟音がバリバリ入っていますが、そんな中をB767、B777、B747、A340、A380などが、まるで模型を使った下手な特撮のように、フラフラと左右に揺れながら近づいてきます。
飛行機の機体は敢えてしなやかな構造に作られているためもあって、強風にさらされた主翼やエンジンなどは、それぞれが小刻みにクニャクニャとしなりまくりながら近づいてきます。
そんな中をパイロットはよほど機体のバランスをとろうとしているのか、大きな旅客機が酔っ払いの千鳥足のように左右に大きく振れながら滑走路に入ります。

車輪が着地するときにも機体の揺れは収まらず、見ていて危ないのなんの。何度かに一度はパイロットが無理だと判断するのか、ゴーアラウンド(着陸のやり直し)となり、あとわずかのところで、再び空高く舞い上がっていきます。
中には同じ機体が何度やっても着陸できず、4回ぐらいトライするものもありますが、あんなの乗っていたら生きた心地はしないでしょうね。

また、着地の最後の瞬間にも容赦なく強風が吹き荒れるので、つい片方の車輪だけ勢い余ってドカンと着地したり、そのまま前輪も着いたり離れたり、中にはあまりにも左右いずれかに傾いた姿勢で着地したため、主翼の翼端やエンジンが、あとわずかで地面に接触するようなものも少なくありません。

中でも最も迫力があるのは世界最大の巨人機であるエアバスA380で、機体が肥満体なぶん、その迫力というか恐ろしさもケタ違いで、ほとんどやけっぱちのような綱渡り着陸は、何度もああもうダメでは?!と思ってしまうほど強烈です。
しかも中には何百人もの乗客が乗っているんですから、少々の衝撃映像より心臓がバクバクします。

ふだんから風が強いことは関東の特徴みたいなものですが、強風のたびにあんなアクロバティックな着陸を日常的にやっているとしたら、果たしてどれだけの人が認識してことだろうかと思います。きっとパイロット仲間ではこの点で成田は有名なのかも知れませんし、さすがに神経をすり減らし、血圧も相当上がってしまうのではないかと思います。

ひとつご紹介しておきますが、YouTubeで「成田 強風」で検索したらいくつも出てきます。
https://www.youtube.com/watch?v=OvVjSToWsWI
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いずれが大切か

音楽性とテクニック、いずれが大切か。

これはピアノ演奏上の価値基準に対する、永遠のテーマかもしれません。
コンクールの功罪や在り方も、煎じ詰めればこのテーマに抵触するとき、あれこれの論争が巻き起こるといっていいのかもしれません。

どんなに腕達者であっても、そこに一定の音楽性が伴わなくては聴くに値しないという基本は揺らぐものではないけれども、先日のロマノフスキーの演奏は、技巧と音楽性(広義では芸術性)の関係についてあらためて考えさせられる契機にはなりました。

よほどの悪趣味であるとか、体育会系腕自慢は論外としても、やはり水際立ったテクニックというものは正しく用いられている限りは、それ自体もストレートな魅力であることを認めないわけにはいきません。

ここでいうテクニックというのは、厳密には「メカニック」との区別を厳格にすべきかもしれませんが、そんな言葉の微妙なところはどうでもいいというか、要はその言葉の微妙な意味の違い以前の根本的な問題のような気がします。

技巧VS音楽性、いずれを大事と見るかは譲れぬ意見があるようで、それぞれ言い分はわかります。マロニエ君の結論としては、少なくともステージに立って演奏するようなピアニストであれば、この二つはどちらが欠けてもダメだということです。

技巧を第一に考える人は、ピアノといえばまずは指の技術ありきであって、曲をまともに弾くこともできずに音楽性云々と言うのは詭弁であり、キレイ事にすぎないということでしょう。
たしかに豊かな音楽性も、繊細な感性も、悲喜こもごもの心的描写も、それらはすべて鍛えられた技巧を通してはじめて表出させられ音楽にのせて具現化することの出来るもので、それなくしては表現もなにもはじまらないという主張で、その点はマロニエ君もまったく同感です。

ただ、現実には、技巧が表現のための手段として、いわば表現の裏方に徹しているかというと、そうは思えないところも多々あることが問題です。
ピアニストであれ素人であれ、長年にわたり技巧の習得に邁進してきた人の中には、音楽性云々は建前で、本心では技術がすべてに優先するという人が大勢いるのは事実でしょう。技術こそが優劣の絶対尺度で、それをまるで偏差値のように捉えてしまうやり方です。

音楽的趣味や感性の重要性にはほとんど目を向けようとせず、そちらがまったく育っていない人(というかむしろ抜け落ちている)というのは音楽の世界では最も恥ずべきことのはずですが、高い技術さえあればとりあえず威張っていられるのがこの世界の現実で、それだけテクニックを持っていることはエライことなんでしょう。
そういう人達に限って、ショパコンとかプロコとかベトソナなどと疑いもなく口にするようにも思われ、これらは直接の関連はないはずですが、やっぱり何かはっきり説明できないところで繋がっているような気がするのです。

ピアニストの演奏スタイルも時代とともに変遷があり、二三十年前まではあからさまな技巧派タイプがいたものですが、近年は一捻り二捻りされて、ぱっと見は非常に精度の高い知的な演奏が主流で、そこへ自分の演奏表現(のようなもの)を織り交ぜて個性とするスタイルが主流のようです。しかし、ときに不自然なほどの「間」を取ってみたり、変なアクセントをつけたり、意味のないような内声を際立たせたり、極端なpppとfffの対比でコントラストをつけたりと、必ずしも聴き心地の良い音楽とはなっていないものを見かけるのも事実。
それもよくよく聞いていると、結局は自分の技術的都合にそった解釈めかしたものであったり、評価のための演奏であったりと、その企みが透けて見えてしまうと、たんなる個人的な野心を見せられているようで気分はシラケてしまいます。

そんな中、技巧の優れることが音楽性に勝るとは思いませんが、現実的に抜きん出た技巧を持っている人のほうが、精神的にも余裕があり、情緒面も落ち着いているのか、音楽もどちらかというとストレートであるのはひとつの特徴だと思います。

結局のところ、技術や才能に足りないものがある人ほど、小細工を散りばめてあれこれを企んだり辻褄合わせをする必要があるようで、正攻法でいけば、自分の欠点が忽ちバレてしまうという恐れがあるんでしょうね。
そういう意味でも、やはり余裕ある技巧はどうしても必要になることは否めないように思います。

ただし、これはあくまでもプロの話であって、アマチュアの場合は断じて音楽性が優先だと思います。
アマチュアの場合、多くは技巧といってもたかが知れています。所詮は人よりちょっと難易度の高い曲を弾けますよといった程度で、どっちにしろピアニストに敵うはずもなく、他人にとってはほとんど意味のないことです。

聴かせてもらうなら、小さな一曲でもいいから、きれいに弾いてもらったほうがよほど気持ちがいいですね。
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消極的無礼

何かがヘン…と感じることは、日常のおりおりにあるものです。
それも、とくに大したことではないことが、却って神経に障ったりするのは人の心の不思議というべきかもしれません。

先日、主に運転用の新しいメガネを作ったときに、運悪くそんなシーンに遭遇してしまいました。
メガネを作るのはマロニエ君には甚だ苦手なことで、店先で拘束され、検眼に時間とエネルギーを費やすことで、ひじょうに目と神経が疲れてしまって心身ともにヘトヘトになるのです。

近ごろは、おしゃれなメガネが意外な破格値で作ることができるので、マロニエ君もいやなことは一回で済ませてしまおうと、遠く用と近く用の二種類のメガネを新調することに。

検眼をして、フレームを選んで、やや特殊なレンズであるため当日の出来上がりは無理ということで、支払いを済ませ、控えを受け取って、後日受け取りに来ることになりました。
準備ができたら電話の一本でもくれるのかと思いきや「いえ、お電話はいたしません。こちら(控えに書いてある日にち)でご準備できていますので…」というので、普通は電話でもかかってくることで、忘れていても思い出すことも兼ねているように思いますが、ま、いいかと思って帰りました。

何月何日に出来るということは、自分自身で控えをチェックして、認識して、自発的に取りに行かなくてはいけないわけで、なんとなく気を張ってなくちゃいけない印象があったことは事実ですが、安いということはそういうことでもあるのだろうと思うことに。

それから数日して取りに行くと、よほどシステマティックにできているのかという予想に反し、ずいぶん待たされ(先客がいたわけでもなく)、そのあげくようやく出されたメガネは、2種類のフレームとレンズがそれぞれ逆になっているという大ミスが発覚。こういうとき、今の若い店員さんにとって、接客マニュアルにない「番外編」に突入するのか、とりあえず石のように固まって無言となり、しきりに書類ばかりチェックしまくります。
同僚と小声でしゃべったりと、多少あわてているふうではあるけれど、要するにこっちは完全に放置された状態となり、それが延々と続きます。ずいぶん経って、ついにミスであることの確認が取れたらしく、再度レンズの発注をかけるということになり、このころになってようやく「申し訳ありません。」という言葉が出てきますが、ちょっと遅いようですね。

でも、これは単なるミスだと思いえば、お互いに生身の人間なんですから仕方がないかとも思えます。
その際の対応のマズさも、予期せぬ出来事ゆえと、まあ理解してやれないこともありません。

おかしいと感じるのは、実はこれらのことではなく、はじめにマロニエ君の対応をしてくれて、フレーム選びから検眼まで、1時間近く対応してくれたひとりの若い男性のほうです。出来上がりを受け取りに行ったときには、たまたま一番身近にいた店員さんに控えを渡したことから、その女性がその場合の担当者になるのかなんなのか、そのあたりの内部規定はしるよしもありませんが、数日前にあれだけ接客をし、あれこれ言葉を交わしたにもかかわらず、前回の男性は目の前にいるのにまったくの知らん顔なのは「何なの!?」と思います。

普通なら「こんにちは」か「いらっしゃいませ」ぐらいの最低限の挨拶をするのが当たり前ですが、一瞬目が合っても、これといった反応もせずに、悠然と横にいる店員としゃべてみたりで、なんというか、ちょっと薄気味悪いものを感じてしまいます。

もちろん客と店員の関係なので、実際だれかが応対して事足りていればそれでいいということかもしれませんが、それにしても、こうも露骨にその場限り、前後のつながりなんて完璧にないよという反応をされてしまうと、これはやっぱり無礼ではないかと思います。しょせんはそんなもの、くだらないとは思いながら、やはり胸の内でいやなものが駆け巡ることは事実です。
商売には商売なりのルールというものがあるわけですが、こういう消極的無礼は、今どきの社会には蔓延横行していることをこれまでにも何度か経験させられています。

結局、二度目に取りに行った時も同様で、その男性はこちらを認識しつつなんの挨拶も反応もなしで、マロニエ君もあえて目が合わないように意識していました。こんなことがあると、店全体の評価を甚だしく下げることになり、今後はその店で買う気持ちを完全に失いました。
向こうが一回限りというなら、こちらも一回限りにしてやらぁと思います。
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らららでピアノ

普段見る習慣のないNHKの「ららら♪クラシック」ですが、他の番組を録画する際に、たまたまこの番組も目についたので気まぐれにセットしてみたところ、通常の1曲解説ではなく、「楽器特集~ピアノ」がテーマで、思わずラッキー!という感じでした。

このテーマでは、ほとんどお約束ともいえる「ピアノという名前はなぜそう呼ばれるようになったか」というところから、300年前にピアノはイタリアのクリストフォリという人が云々というあたりまでは、はいはいという感じです。

意外だったのは、フランスの代表的な二人のピアノ製作者、エラールとプレイエルの名が出てくるところですが、この番組では、リストはエラールを好み、ショパンはプレイエルを好んだと、あまりにきっぱり色分けされていたことでした。
さらにリストはエラールの革新的な音や性能を高く評価したのに対して、ショパンがプレイエルを好んだのは、例のダブルエスケープメントの登場前の、シンプルな機構から生まれる音色にあった由で、マロニエ君はこれに反論するほどの材料は持ち合わせないので、いちおう「そうなんだ…」と思うことに。
ワルツ第1番のあの特徴的な連打を、古い機構のアクションで弾いていたということなのか…。

古典的なさまざまなピアノが出てきたものの、それらは映像ばかりで音はほとんど聴かせてくれなかったのはとても残念でした。
マロニエ君の注目を引いたのは、ある時期のプレイエルには第二響板というのがあって、開けられた大屋根の一部にそれは格納されており、必要時には留め具を外すと大屋根の内側に取り付けられた板が下に降りてくるようになっており、中音から下あたりの弦の上に覆いかぶさるようになります。

この状態でピアニストがショパンのバルカローレの一部を弾いていましたが、「第二響板をつけると、高音から中音、低音までバランスよく響くようになる」とのことで、音色はいうに及ばず、弾かれた音の余韻にこだわるプレイエルには、むかしこんなアイデアがあったのかと唸ってしまいました。

この第二響板なるものは、一見すると本来の響板から出る音にフタをしてしまうような印象もありますが、響板と呼ばれるからにはそれなりの木材が使われているのでしょうし、それによって絶妙のニュアンスが生まれるのだとすると、これはぜひ実物の音を聴いてみたいものだと思いました。
とっさに連想したのはバイロイトの祝祭劇場で、オーケストラピットがそっくり舞台下に隠されて、ここ以外ではあり得ない独特な音響を作り出すことで有名ですが、そんなものなんでしょうか。

たしかに現代は、楽器の性能や演奏技術、あるいは作品解釈においてはずいぶん研究が進んでいる(正しい方向か否かは別にして)ようですが、微妙な音色であるとか音響上のニュアンスというものについては、さほど意識が払われないよう気がします。
音楽あるいは演奏にとって、立ち現れてくる音のニュアンスというのはかなり重要なファクターだと思いますが、その点では現代ではくっきりはっきりブリリアントが首座を占めているようです。

後半には横山幸雄氏が登場し、ピアノの多様性を紹介するためか、ベートーヴェンの熱情、ショパンのノクターンop.9-2、リストのカンパネラをかなり割愛した形で連続して弾きました。が、どれもほとんど同じように聞こえてしまったのが正直なところで、えらく無感情な、まるで残業の仕事でも急いで片付けるように弾いてしまったのには、ちょっとびっくりでした。

ネットの動画では、どこかの音大での横山氏のレッスンの様子を見ることができますが、かなり細かい点までいちいち指示している当の本人が、このような弾けよがしな演奏をすることに、このレッスンの受講生やビデオを見た人はどんな感想を持つのだろうと思いました…。

ちなみに番組が進行するメインスタジオには、わりに新しめのスタインウェイDが置かれていて、横山氏もそこで話をしていましたが、演奏そのものは別のスタジオなのか、別のピアノ(30年近く前のスタインウェイD)が使われていました。
NHKの収録の都合でそうなったのか、横山氏の希望でこのピアノが使われたのか、そのあたりの事情は知る由もありませんが、いずれにしろ個人的にはスタインウェイではこの時期のピアノを好むため、つい期待したものの、そういうものを味わう余地もないまま、肉の薄いタッチでサササッと終わってしまったのは甚だ残念でした。

蛇足ながら、司会者の加羽沢美濃さんがスタジオに置かれたスタインウェイDを紹介する際、「このピアノはフル・コンサート・ピアノ、通称フルコンと呼ばれるもので、全長2m80cm、重量480kg…」と言い、併せて画面には文字でも数値が映し出されたのは、ん?と思いました。語尾に「ぐらい」がついていればまだしも、実際は274cmなのでいささか抵抗感がありました。

NHKのコント番組、LIFE風にいうと「これはちょっとまずいですね、NHKなんで!」というところでしょうか。
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何のためのポイント

先月最後の週末、福岡市の天神にあるタワーレコードの福岡パルコ店に行った折、ポイントや駐車券発行をめぐって甚だ納得できかねる事態に遭遇しました。

そもそもマロニエ君は、さまざまなお店が発行するポイントカードのたぐいが基本的に好きではなく、以前は束のようにあったものの大半を破棄してしまい、現在ではわずか二三枚になっています。
その理由は、本来お客さんをお店に繋ぎ止めるためのサービスであり魅力アップのためのポイント制度であるべきものが、往々にして逆の事態を招くからです。店側に都合の良いルールが一方的に定められ、その運用を巡ってはむしろ高慢な振る舞いとなり、結果、利用する側が不快な思いをする事象が多いことは多くの人達が大なり小なり経験されているのではと思います。

そして、やっぱり起こりました。
そもそも買い物を通じてせっせと貯めたポイントが「失効」することは、それまでのささやかな努力や積み上げが一瞬にして破棄される如くで、有り体に言えば、あたかも恩を仇でかえされるような、突然、なにか逆さまの現象が起こってしまうようないやな感触を覚えます。ポイントカードなんかあったばかりに、却って不愉快な事に直面することになるという、割り切れなさでしょうか。

前々回タワーレコードに行ったとき、ポイントを使おうとすると、新しいシステムなのか「1000ポイント単位」でしか使えないのだそうで、わずかに足りませんでした。1万円買って何ポイント付与されるのかいまだ知りませんが、いずれにしろ1000ポイント貯めるのはそう容易なことではありません。

ところがレシート内に書かれた「失効予定」をみると、5月末日でその1/3ほどがその対象となっています。
ここにひとつ重要な事実があるのですが、福岡パルコ店は昨年の夏ごろから店が閉鎖となり、今年になっても再開の予定さえまったく告げられませんでした。閉鎖から数カ月後には別フロアに、申し訳程度の小さな仮店舗のようなものは出来ましたが、その中のクラシックなんて、どこかの廉価CDシリーズが並んでいるほどの微々たる量で、なんの役にもたちませんでした。

それから年が明け、今年の春になって、福岡パルコの増床と合わせて突如再開されたわけで、一年近くもの間、こちらとしては行きたくても「店がない」という状態に置かれていたわけです。にもかかわらず、そのあたりの事情はポイント失効期日と一切無関係というのですから、これはもう出だしから商道徳にも背くスタンスだと思いました。

店側にしてみれば、このポイントカードは全国のタワーレコード共通のものなので、他店では使用可能である筈という理屈なのかもしれませんが、福岡でいうと近くに代替店舗といえる規模のものはまったく存在せず、せいぜい郊外のモール内の店舗ぐらいですが、とてもではありませんがクラシックの選択肢など無いに等しいものです。

さらに驚きは追加され、これに駐車券のサービス券が絡みました。
福岡パルコ店では、購入額2000円以上で30分、4000円以上で60分のサービス券が出ることを、口頭で質問して「繰り返し確認して」いましたので、この日も駐車券のことも意識しながら4402円の買い物をしました。
ここで1000ポイント達成となり、失効わずか2日前にしてポイントを使うことに。

ところが、清算が終わってみると、差し出された駐車券は30分券が1枚のみでした。
おかしいではないかと質問しますが、レジの若い女性では答えにならず、すぐさま責任者のような男性が出てきましたが、店が定めた規定によって、この日の買い物は1000ポイントが先ず差し引かれ、3402円とみなすことになる由。

専らそのルールを繰り返すだけで、あとは無言、話はまったく噛み合いません。
そこまでルールが厳格なのであれば、駐車券のことを「繰り返し聞いた」ときに、ポイント使用分は含まないという点を併せてはっきり伝えるべきですが、それはいずれの場合にもまったく伝えられませんでした。
にもかかわらず、いよいよそれを発行する段になって、いきなりポイント分は除外となることを告げるのは、あまりに不親切かつ一方的で、もしや消極的カラクリかとさえ疑りたくなります。

いまどきの接客力も応用力もない店員を相手に、レジで抗議するのはみっともないし自分も虚しいので、この場はサッと引き上げましたが、何度反芻してみても納得できませんでした。どう考えても、店の都合のみが優先され、客側の利益や心情はまったく蔑ろにされており、まるで店側が権力を握りそれを上意下達ごとく行使している構図にしか見えません。

べつにきれい事を言うつもりはありませんが、純粋な価格でいうなら、ネットで買うほうが格段に安くもあるし、選択肢に及んでは店頭とは比べ物になりません。それでも、地元にあるCD店を利用することで、ささやかなりとも店の売上に貢献したいという思いがあることも事実で、だからあえて店頭でも購入をしているつもりでした。

むろんマロニエ君ひとりが買う量など、微々たるものかもしれませんが、深刻なCD業界の不況の中にあって、わざわざ店まで足を運んでCDを購入する人を、もう少しは大事にしたらどうかと思います。
「貧すれば鈍する」という言葉があるように、台所事情が苦しいからといってサービスの適用条件を上げるばかりでは、ますます人の足は遠退いていくだけだと思います。
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手頃価格でゲット

中古車店のことを書いたついでにもう少々。

マロニエ君の勝手な思い込みかもしれませんが、長引く不景気故か、価値観の変化か、ピアノや輸入車のような付加価値品目の中古価格は、昔に比べると安くなっているような気がしてなりません。

売る側にしてみれば贅沢品に類する品目の中古品は、時代のニーズからちょっと外れて売りにくいのか、かなり良いものが安く売られているようで、かなりお買い得感を感じます。

その一例がアップライトピアノで、タダ同然のオンボロは別として、お店でまともなものを買うとしても、うるさいことを言わなければ、20万円ぐらいでもきちんと整備されたピカピカの良い物が買えるのは驚くべきことです。
現在の主流である電子ピアノに比べても、こちらはなにしろ本物のアコースティック・ピアノであり、それもヤマハやカワイのようなれっきとしたブランド品が買えるのですから、これは市場自体がかなりのバーゲン状態ではないかと思います。

電子ピアノというのは近隣の騒音問題をクリアできるということ以外にあまり見るべきものがないし、はっきり言ってしまえばあれは楽器ではなく電気製品と心得るべきでしょう。聞くところでは、それなりの時期に、それなりの故障やトラブルが出てくるのだそうで、その際、高い修理代を出してまで使い続けることはほとんどないのだとか。

電気製品となれば、テレビや洗濯機のように新しいものへ買い替えが必要で、古いものは粗大ゴミとして処分することなどを考えれば、やっぱり生ピアノというのは価値や存在感からして違います。
上記のような中古であっても本物のピアノは寿命は遥かに長く、その気になれば何十年も使えるものがほとんどです。モノとしての価値はおよそ勝負にならないと思うのですが、それでも生ピアノというのはなかなか買う人がいないのは何故なんでしょう。

話が脱線しかかりましたが、マロニエ君の少ない知識と印象でいうと、日本はこの種の中古品に関しては、突出して恵まれた国だと思います。
大ざっぱに云っても諸外国では中古品の価値というものは、日本人が考えているよりはるかに高く、それだけ価格もずっと割高だという印象があります。その点、日本は中古というと何かやましいもののようなイメージがつきまとい、あくまで新品がエラくて無条件に好まれるというメンタリティの土壌があるのでしょう。

また、全般的にものを長く使うということがあまりなく、どんなにきれいでも要らなくなれば直ちに処分するとか、一定期間が過ぎると買い替えの対象になることが少なくありません。ともかく新品もしくは新しいものが大好きで幅を利かせる日本では、非常に状態の良い中古品の宝庫であもあるわけで、しかもそれらは一様に「中古」ということで値打ちがずいぶん下がるので、ジャンルによってはそこに目をつけている外国人も少なくないようです。

例えば車の場合、最近目にした専門誌の記述によれば、ドイツでは中古車の走行距離が10万キロ程度では、多走行の部類にすら入らないのだそうで、この一点だけでも彼我の違いに口あんぐりでした。
日本なら、中古車で10万キロといえば、ほとんど賞味期限の切れたボロ同然の扱いで、まともな商品価値はないのが普通です。

たしかにドイツのアウトバーンをはじめ、陸続きのヨーロッパでは高速道路網が発達しており、走行距離の数字だけで同じ判断をすべきでないという見方も以前はありました。いっぽう日本の道路は慢性渋滞で、高温多湿の中をノロノロ運転で、距離は伸びていなくても機械的なストレスが大きいなどとまことしやかにいわれたものです。
ところが最近では、エンジンや駆動系に強い負荷をかけて高速道路を飛ばしまくった車こそが最も傷みが激しいということが指摘されるようになりました。

まあ、そりゃあそうでしょう。ヨーロッパでバンバン飛ばしまくって、わずか数年で10万キロ走った車なんて、我々日本人が見たらかなりくたびれた車と感じるでしょうし、そんな車は日本人ならまず嫌がりますね。

というわけで良いものは日本にこそあって、しかもちょっとでも型落ちすればかなり安いみたいです。
実は以前から耳にするところでは、ヨーロッパから、ちょっと古い中古のドイツ車などを探しにわざわざ日本へやって来るらしいという話は耳にしていました。そして昨年のこと、マロニエ君の友人(関東在住)が乗らなくなったあるドイツ車を中古車店に預けていたところ、ドイツ人ブローカーがやってきて、見るなり望外の高値で購入、ドイツへ送る手続きを行なったというのですからウワサは事実として裏付けられてしまい、たいそう驚きでした。

やはりそれだけ、日本には外国人から見たら飛びつくような上物の中古品が安値でたくさんあるということなんだろうと思います。日本人の丁寧な扱いや、ちょっとしたキズでも許さないこだわりの民族性、それでいて新しいものが好きとなると、状態の良い中古品をぞくぞくと生み出すための条件が見事にそろっているのかもしれません。

というわけで、品目によっては良いものが手頃価格でゲットできる好機のような気が…。
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今どきの中古車店

このところ、輸入車専門の中古車店へ2軒ほど行く機会(購入ではなく)があったのですが、昔とはずいぶん様子が違っており、それぞれの店では車種や得意分野を絞り込み、厳格な商品構成がされている点が非常に印象的でした。
中古車店の在り方もまさに時代とともに変化しており、今昔の感に堪えませんでした。

ひとつ目の店は、すべての車が比較的高年式で、走行距離はすべて15000km以内のものに限られていることにまずびっくり。当然どの車もとてもきれいで、中古車というものにありがちな古さや使用感など、いわゆる人の手垢のついたネガティブなイメージというのがほとんどありませんでした。
さらには車種も人気のあるメーカー/モデルに絞られ、確実に売れるであろうものだけしか在庫もしないという徹底ぶりが窺われました。輸入車といっても珍車/希少車の類は見当たりません。

聞くところでは、ドイツの高級車でも、大型車の部類、あるいはエンジンが大排気量のモデルなどは、端から取り扱いをしないというあたりにも、今どきの購入者のニーズがはっきり見えるようで、その割り切りには時代の厳しさがにじみ出ているようで、思わず圧倒されるようでした。

つまりどんなにいい車でも、走行距離の多い車、大型車、大排気量の車は売れにくい=商売にならないということらしく、店頭に並ぶことはもちろん、仕入れることもないのだそうです。
もちろんごく一部の例外的な人気モデルなどでは少し条件が外れることもあるようですが、全体としては、おおよそ輸入車中古店の基本的な営業スタンスはこういう方向を向いているようでした。

昔の車好きは、その車に惚れ込んだらかなり情熱的かつ盲目的で、分不相応な車だろうとなんだろうと、買えるものなら必死になって購入して単純に悦に入っていたものですが、今の人達は車は好きでも基本が冷静で、実用性を重視し、駐車場の問題、周りの目、ランニングコスト、故障した場合の修理代などのリスクをトータルに考えて、いわゆる無謀な車選びはしないというのが主流のようです。

聞くところでは、たとえばメルセデス・ベンツでいうと大型車であるSクラス、もしくは3200cc以上の車は、それ以下のモデルに比べて売れ足が一気に鈍るのだそうで、今どきはあまり人気がないのだそうです。
だからそのあたりのモデルは、お客さんからリクエストがあるような場合以外は仕入れないし、むろん在庫はしない方針だと店長さんがキッパリ言い切ったのがきわめて印象的でした。

もうひとつの店は、ドイツ、フランス、イタリアの車をずらりと並べていましたが、価格はおしなべて100万円台、それもほとんどが150万円以下というものでした。
上記の店よりは多少走行距離も嵩んではいるものの、それでもせいぜい3~4万キロ止まりという感じで、どれもシャンとしていて決してくたびれた感じではありません。

こちらもやはり自店の売れ筋という基準を設けて、それにそった車のみを置いていることが一目瞭然でした。

昔は、輸入車を取り扱う中古車店というのは、一部の専門店を別にすれば、多くは何でも屋のような状況で、いろんな車が並んでいたものです。手頃なものから高級車/高級スポーツカーまで、なんでもありでしたし、とりわけ高額車はお店の看板商品でもあり、常にぐっと前面に出されていた感がありますが、それが現在ではすっかり様変わりして、安くて手頃なモデルなどに特化し、気軽なオシャレ感や現実性をアピールするという方向に変わってきていることを痛感しました。

さらには昔の感覚でいうと、全般にかなり安めの価格になっているようで、それだけ輸入車が売りにくい時代になっていることを物語っているようでした。
輸入車が贅沢品で、それでもどんどん売れていた時代は遠い昔の話です。加えてネット社会の到来で、個人が全国の中古車情報を網羅的にチェックすることも可能となり、競争は格段に厳しいものになっていったんだろうと推察されます。

おそらく世界的にも、ドイツをはじめとするヨーロッパ製の高級車の中古は、質・価格ともに日本が最も有利な買い物ができるという説もあるほどです。2つ目の店ではひと世代前のBMWの3シリーズで、かなり程度の良いものが5台並んでいましたが、ほとんどが150万円以下でした。これって軽の新車と同じ価格帯でもあり、思わずウーンと唸ってしまいました。

逆にいうと、日本車の軽やコンパクトカーって、相対的に結構高いんだなぁとも思った次第です。
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ロマノフスキー

少し前の放送でしたが、Eテレのクラシック音楽館・N響定期公演で、アレクサンダー・ロマノフスキーが登場しました。この人はベートヴェンのディアベッリ変奏曲のCDを購入して以来、マロニエ君がそれなりに興味を持っていたピアニストのひとりでした。
とくに目立った個性というほどではないけれど、しっかり感があって、涼しい感じのする演奏だったことが印象的でした。

演奏したのはラフマニノフのパガニーニ狂詩曲。
もっているCDは一枚きりで、それなりに聴いていたものの、演奏する姿を見るのは初めてです。

いきなり驚いたのは演奏前のインタビューのシーンで、コメント自体は別に大したことは言っていませんでしたが、大きな手の持ち主らしく、カメラの前でピアノの鍵盤に手を広げて見せてくれました。
するとオクターブからさらに5度上(もしくは下)、つまりドからひとつ上のソまで12度!届くわけで、さらに余った指で和音をならしたりできるようでした。大変な偉丈夫でもあったラフマニノフは、手の大きいことでも有名だったようですが、きっとこんな具合だったのだろうかと思います。

ピアノの鍵盤はどれもほぼ同じなので、老若男女から子どもから、手指の大小長短さまざまな人達が同じフィールドで指を動かすことに奮励努力しているわけですが、ロマノフスキーの大きな手を見ると、これは天が与えた大変な武器であり、もうそれだけで手の小さな人は出だしから不利だということを思わずにはいられませんでした。

そんな大きな手の持ち主なら、どれほどの体格の持ち主かと思うところですが、それはごく普通のロシア人にすぎず、いわゆる長身痩躯という部類の優男タイプで、袖口から出ている手だけが、体に対してふたまわりほど大きいような印象でした。
グールドもそうでしたが、体つきに対して、手首から先がバランスを欠くほど大きな人というのは、それだけでピアノを弾くことを運命づけられた特別な人のように見えてしまいます。

実際の演奏は、音楽的に特筆大書するほどのものではないけれど、普通にすばらしい、充分満足のいくものでした。
それよりもしみじみ思ったことは、やはりステージに立つ人というのは、誤解を恐れずにいうなら、まずはテクニックだと思いました。

ロマノフスキーの演奏を視聴していると、技巧に余裕がある(もちろんその手の大きさも彼の余裕ある技巧を可能にしている要素のひとつであることは言うまでもない)ために、あわてず、無理せず、追い詰められず、常にいろいろな試みをしようという余裕があることが伝わってきます。
自然に前に進んで行けるため、呼吸や音楽的な潮の満引きが奏者の心身の波長と重なり合って、すっきりはかどり、聴いている方も安心して音楽の旅に身を任せることができ、無用な不快感やストレスを感じずに済みます。

技巧に余裕のない人は弾くだけで手一杯で、そこに付随すべき表現とかアーテキュレーションなども、事前にしっかり準備したものを無事に披露することだけに全エネルギーが傾注され、即興性とか意外性、問答の妙味みたいなものが立ち入る隙がありません。結果的に魅力のない感興に乏しい演奏に終始してしまうのは当然です。

その点でいうと、ロマノフスキーとてむろんしっかりと練習を積んでステージに出てきた筈ですが、実際の演奏行為としては一期一会の反応や表現をそのつど試みてやっていることが感じられます。音楽という、一瞬一瞬の時間の中で生まれるものに携わる者として、どう音を発生させ、重ねたり展開させたり解決させていくか、そこで生じるさまざまな反応を試しつつ、その醍醐味を聴衆にも提供しているようです。

つまり圧倒的なテクニックは、創造的な可能性を広げるものだということを痛感しました。

音楽は演奏される現場で生まれるもので、そのための周到な準備は必要ですが、その演奏のどこかに「どうなるかわからない」という部分を孕んでいないものにはマロニエ君は魅力を感じません。過日、ヒラリー・ハーンの演奏について書いたのは、あまりにそういう要素に乏しいということでした。

オーケストラや共演者がどうくるか、ソロでも、ひとつのテーゼをその瞬間どう出たかによって、あとにつながる部分は変わってくるわけで、それらひとつひとつが反応して変わってくることが音楽の魅力の根幹ではないかと思われます。

感心したのはそればかりではなく、ピアノというのはやはり演奏者の奏法と骨格がストレートに反映されるものだということで、ロマノフスキーのような西洋人としては普通の体型で、やや痩身、しかも手が大きいというのは、もっとも美しい音を出す条件ではなかろうかと思いました。日本人では岡田博美あたりでしょうか。

あまり体格そのものが良すぎると、どうしても腕力でピアノを制してしまい、そうなると音が潰れて意外にピアノは鳴りません。また小柄な人や多くの女性では骨格が弱いため、どうしても必死にピアノに食い下がっている感じがあって、これらもあまり朗々と鳴ることは少ないです。

その点でいうと、ロマノフスキーの音は、とくに激烈な音などは出さないけれど、いつどこを聴いても明晰で、常に輝きと張りが漲っており、聞くものの耳へ労せずして音が届いてくるのは感心させられました。

つくづく思うのは、趣味がよく、技巧がとくに優れた人というのは、音楽が素直で、演奏もいい意味でサッパリしているということです。もちろん中には際立った指の動きに任せてスポーツ的に弾き進む人もないではないですが、全体的には、やはり上手い人は演奏ももったいぶらず、楽々と進んでいくのが心地良いと感じます。

あちこちで変な間をとったり、大見得を切ってみたり、聞こえないようなppで注目を惹いたり、音楽全体の流れを停滞させてまで意味ありげな強調をしたりするのは、たいていはどうでもいいような、ないほうがいいような表現のための表現であることが多いものです。
それは意図して自分の個性づくりをしているなど、元をたどれば、つまりは技巧に対する弱さをなんとか別の要素でカバーしようとしているにすぎず、本当にうまい人というのは、自然に自信もあるからそんな小細工をする必要がないのだと思われます。

それにしてもロマノフスキーとは、ロマノフ王朝を思わせる、なんとも豪奢で印象的な名前ですね。
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ウォールナットのD

前回のキット・アームストロングのリサイタルについては、途中からブレンデルに話が及んでしまい、もうひとつ大事なことを忘れていました。

なによりも珍しかったのは、実はピアニストではなくピアノのほうでした。
この演奏会では、浜離宮朝日ホール所有の艶消しウォールナット仕上げによるハンブルク・スタインウェイのDが使われていたのです。ここにそのピアノがあることは薄々知っていましたが、その全容をつぶさに見たことも、音を聴いたこともなかったので、その意味では思いがけず念願が叶ったというところです。

放送された当日だったようですが、たまたま友人と電話でしゃべっていると「今朝のクラシック倶楽部は、浜離宮の木目のピアノだった」と教えられ、一も二もなく見てみたものです。

期待に胸膨らませて再生ボタンを押したところ、なるほどウォールナットのDがステージに据えられています。
その結果はというと、ピアニストに続いてピアノのほうもマロニエ君の好みではなく、とくにピアノは期待が高かったぶんかなりがっかりしてしまいました。
日頃より、マロニエ君は木目のピアノに対しては、格別の魅力を感じているひとりです。現在手許にあるディアパソンも深い赤みを帯びたウォールナット仕上げである点も大いに気に入っている点ですが、そんな贔屓目で見ても、この木目のDは不思議なぐらいピンとこない印象でした。

やはり現代のコンサートグランドというのは、まずは黒であることが無難なんだろうかと考えさせられます。
とくに艶消しのウォールナットという外皮は、明るい木目があらわで、あえてピアノの外装の格式みたいなものでいうなら、ずいぶんくだけた装いなのかもしれません。
明るい木目でも、たとえばスタインウェイ社がピアノの素材構成を見せるために作った無塗装のシステムピアノのDなどは、ある意味とても洒落ているし垢抜けた印象さえあるのですが、このウォールナットはそれとも違い、木目なのに木目の明るさを感じない不思議な雰囲気でした。

家に置くピアノだったら、木目のピアノは文句なしに好ましく、黒はむしろ無粋だとも思いますが、ステージでは必ずしもそうとは限らないという事実をこのピアノのお陰でちょっとわかった気がしました。黒のほうがビジュアルとして遥かに収まりがいいし、ステージ用にはフォーマルであることも知らず知らずのうちに求められるのかもしれません。

それと、浜離宮朝日ホールのステージの場合、背後の壁も似たような色の木目調だったこともあり、ピアノが保護色のようになって茫洋とした印象をあたえるばかりで、ときおりステージの備品のように見えてしまうのは予想外でした。
また、Dはボディが大きいためか、木目であることが妙にナマナマしく不気味にも見えたことも正直なところでした。

楽器自体もずいぶん古いもののようで、このホールよりもずっと年長のようですから、きっと何らかの事情で中古として運び込まれたピアノなのでしょう。
マロニエ君はいつも書いている通り古いピアノは本来は大好きで、新しいものよりはるかにしっくりくる場合が多く、とくにコンサートで年季の入ったピアノが使用されることはむしろ望むところなのですが、このピアノの音はというと…どれだけ好意的に耳を澄ませても、残念ながら納得しかねる音でした。

スタインウェイのD型としてはもどかしいほど鳴らないピアノであることはテレビでもよくわかり、賞味期限切れのような貧しい音しか出ていないのは大いにがっかり。このホールには他に黒のDが2台あるようなので、このピアノはその外観と相まってフォルテピアノ的な位置づけなのでしょうか…。
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ブレンデルの影

BSクラシック倶楽部で、キット・アームストロングという若いピアニストのリサイタルの様子が放映されました。

台湾系イギリス人だそうですが、人間には勘働きというのがあるようで、冒頭のインタビューの感じからして、直感的にこの人はマロニエ君の好みでないだろうことが伝わってきました。そして実際の演奏もある程度予想通りのものでした。

この人はブレンデルに師事しているのだそうですが、さもありなんという感じで、プログラムの構成や演奏家としての理念の示し方まで、師の影響がありありと出ており、実際の演奏にもそれは随所に見て取れました。
現在23歳とのことですが、実年齢よりはるかに幼く見え、まるで中学生が巨匠のような表情でピアノを弾いているようでした。

演奏中は、バッハでさえ、見ているこちらの頭がふらふらしてくるほど上体を揺らしまくりますが、聞こえてくる音楽には面白さというか興味をそそるものがマロニエ君には見当たりません。やたら抑制的、くわえて、ところどころに巨匠風の表現などが盛り込まれるあたりは、いかにもこの人の目指すところが透けて見えるようです。

演奏アプローチが思索的表現を前面に押し出そうとしているわりには、さほど知的な薫りが漂う風でもなく、単に理論統制型の良心的演奏をアピールしているだけに聞こえてしまうあたりは、却って音楽家としての謙虚さにかけているような気もしました。正論のようなものを誰彼なく得意気に弁じ立てる人こそ偏っているように…。

ネットで探したプロフィールによると、ブレンデルは「これまでに出会った最も偉大な才能の持ち主」と言い、「ロンドンの王立音楽院から音楽の学位を、パリ大学から数学の学位を授与されている。」などとありますが、そんな言葉を連ねるよりも、演奏によって聴く者を説得できるかどうかが演奏家たるものの本分ではないかという気もします。

バッハもリストも、マロニエ君にとっては楽しめるところのない演奏で、この人のどこがそんなに世界中の期待と話題をさらうほどのピアニストなのか、まるきりわかりませんでした。
メフィスト・ワルツでの両手のオクターブの跳躍など、まさにブレンデルのそれでした。

そもそもブレンデルが、マロニエ君はいまだによくわからないピアニストです。
演奏それ自体が、学問の講義を聞いているようで、こういうアプローチが流行った時期がたしかにありました。質素を旨とし、まるで抽斗の中を小ぎれいに整理整頓したような小料理屋みたいな演奏が、そんなに立派なことなのかと思ってしまいます。
最盛期には作品の最も深いところを探求する学究肌のピアニストとして、いつしか最高位の音楽家であるようにもてはやされ、ミシェル・ベロフに至っては「自分がほしいものは、ポリーニのテクニックとブレンデルの音楽性」などとコメントする始末でした。

マロニエ君はこの当時からあまり好きではなかったけれども、しっくりこないのは自分の理解が及ばぬ故だと思い込んだ一面もあり、この人のベートーヴェンのソナタ全集だけでも3種類ももっていることが、今思えばすっかり評判に乗せられてしまった証のようで我ながら恥ずかしくなってしまいます。
しかし、最後の全集の折は、全曲揃わなくなることを覚悟して途中下車したことは、せめてもの自分の意思表示だったように思います。

引退後のブレンデルは後進の指導にあたっているのか、何人ものピアニストを自分色に染め上げていることが、少々気にかかります。クーパー、ルイス、オズボーン、そしてこのアームストロング。いずれにも通底するブレンデルの影を、それがいかにも本物の上質なピアニストである証左のように美化されて見えてしまうのは、なにか得体のしれない危機感を覚えてしまいます。

いかにもウィグモアホールあたりの常連ですよという演奏ですが、今にして思えばちょっと時代遅れのようなスタイルになっているような気もします。

だからといって特にブレンデルを嫌いだというわけではありませんし、さすがだなと思うことももちろんあるのです。ただ、マロニエ君の目には、努力の人という程度で、現役時代の彼の名声はいささか過大だったように思えてならないのだと思います。
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しらぬ顔

マロニエ君のように徹底して移動の手段をクルマに依存していると、ときどきは人を乗せるという機会があるものです。

そんなとき、今どきの流儀に著しく違和感を感じることも少なくありません。
せこい話だと思われるかもしれないけれども、昔とはずいぶん様子が変わってきたと思うシーンがあります。

外で人と会えば、流れでその人を車に乗せる状況になることは珍しくありませんが、マロニエ君に言わせるなら、車に乗せてもらう側にもそれなりの作法というものがあって然るべきで、実際、昔はそれはあったのですが、これが時代とともに衰退し、今はほとんどゼロに近いような状況に達してるというのが偽らざるところでしょう。

例えば出先で一緒になり、帰りに駅や家まで「送りましょう」となることがあるものです。
その際、車を有料の駐車場に止めていれば、昔なら間違いなくその駐車料金の支払いをめぐって一騒動があったものでした。
もちろんその騒動とは、「ここはワタシが!」「いやいや結構です!」「乗せてもらうんだからこれぐらい当たり前ですよ!」というような支払い合戦で、車の持ち主はこれをご遠慮というか拒絶するのが一仕事でした。人を何人か乗せて駐車場を出ようとすれば、助手席や後部座席から一斉に何本もの手が伸びてきて、それはもう数匹のコブラから狙われているようでした。

それがわかっているものだから、こちらの方でも予め小銭なんかを密かに準備して、サッと支払いができるようにするなど、今から思えばなんとも奥ゆかしいというか、麗しい美徳が互いに満ち溢れていたものだと思います。それが特別でもなんでもない、ごくごく普通の感覚でした。

それがいつ頃からだったかは判然としませんが、こういうやりとりはすっかり廃れて現在はほぼ絶滅に等しく、駐車場代を払わんがための攻防などまったくありません。それはもう、不気味なまでに静かでスムーズなものです。
今の人は、人の車に乗せてもらっても、遠回りして家まで送ってもらっても、あるいは迎えに来てもらってこちらの車で行動を共にしたとしても、その行為に対して言葉で「すみません」とか「おじゃまします」などの最小限の言葉が出るのがせいぜいで、実際の行動として駐車料金ぐらい出そうとする、あるいはせめてワリカンでという気持ちなど「微塵もない」ところはまったく驚くばかりです。

こちらが駐車場代の支払いをしていると、横でその作業が終わるのを静かに待っています。
こちらもちょっと送ってあげるからといって、それでいちいち駐車場代を払ってもらおうなどとケチなことを思っているわけではありません。ただ、普通の感性として、乗せてもらうからには、ささやかな駐車料金ぐらい出すのが普通で、これは専ら倫理やマナーの問題の筈ですが、そういったものが一切介在してこない乾き切った感覚が当然のように流れると、内心「…すごいな」と思ってしまうわけです。

こちらもむろん自分で出す気ではいるものの、せめて出そうとする態度ぐらい示したらどうかと思います。
電車やバスで帰ってもそれなりの料金はかかるわけで、これではまるまるタダ乗りということになるでしょう。もちろんタダ乗りで結構なんですが、そのどこかにお互い様の心の機微が機能しないことには、こちらの善意までちゃっかり利用されているみたいです。

はじめの頃は「なんという図々しさ!」「どういう感覚してるんだろう?」と呆れたりしたものですが、必ずしもそういう無作法をするような相手でもないし、それほど悪気ではないらしいこともしだいにわかってきました。しかし、わかってくるにつれ、さらに別の驚きが上塗りされるようでした。

要するにこう思っているんだろうと考えられます。
駐車料金(有料道路なども同様)などは車にかかるもの、よって、それらはすべて車の所有者が負担するのが当然で、乗せてもらう人間には一切かかわりのないこと。これらは車の持ち主の責任(あるいは負担)領域内で発生しているものであり、他人には無関係であるという、乗せてもらう側に都合のよい理屈だろうと考えられます。

同時に、その根底には、ここでちょっと知らん顔をしておけばそれで済むわけだし、わざわざ進み出て金を出すこともないという、あさましさがあることも透けて見える場合もあるのです。
実際には、ものすごくその人のイメージダウンになるわけですが、こちらもポーカーフェースを貫くわけですから、肝心のご当人には、そのイメージダウンがどれくらい深刻なのかはわからないままになるのでしょう。
たかだか数百円で、そんなに自分の値打ちを下げるなんて、そんな割に合わない事、マロニエ君なら嫌ですけれど。
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疲れさせない…

前回、バケッティの演奏によるファツィオリの音の印象を書きましたが、それはあくまでマロニエ君の個人的な印象であることはいうまでもありません。

ネットでのCD購入にあたっては、複数のアイテムを選んだ場合、ひとつでも入荷が遅れると発送は見合わされ、一定期間を経過したときにだけ、入荷を待つか、キャンセルするか、既に入荷済みのものの見送るかなどを選択することになっています。

今回はさらに入荷待ちのCDがあり、それ以外のものをとりあえず発送するという選択をしたために、バケッティのゴルトベルクを含めて3つのCDが送られてきていたのですが、最も興味をそそられるバケッティから聴きはじめました。

音楽というものは不思議なもので、はじめの5分でおおよその演奏の判断はつくもので、それが後に覆ることはないということはしばしば書いてきましたが、もっと大きなくくりで云うなら、CDの場合、通して何度か聴いているうちに若干の修正があったり、多少の理解が深まるとか全容がつかめるというようなこともあるため、マロニエ君の場合、よほど気に入らないものでない限りは、とりあえず4〜5回は聴いてみることにしています。

それもあって、バケッティのゴルトベルクもとくに自分の好みではないことは認識した上で、とりあえず3回ほど聴いたところ、さすがに疲れてしまい、これを一旦お休みにして一緒に送られてきた別のCDに取り替えました。

セルゲイ・シェプキンの新譜で、バッハのフランス組曲(全曲)などが入った2枚組でした。
出だしから衝撃的だったのは、シェプキンのバッハ固有な清冽な演奏もさることながら、スタインウェイの生み出すトーンのなんと耳に心地よいことかと思える点で、やはりこのメーカーが世界の覇者となったのは必然であったことをまたも悟らされることになりました。

いまさらマロニエ君ごときがスタインウェイの音の特徴を言葉にしてみたところで意味があるとも思えませんし、そんなことはナンセンスだろうと思いますが、それでもあえて一言だけ言わせていただくなら、なにより直接的な違いは、とにかく「耳に優しい」ピアノだと断言できると思います。より正確にいえば「脳神経に優しい」というべきかもしれません。

この点については、まるで別物のように言われる同社のハンブルク製とニューヨーク製のいずれにもはっきりと通底していることで、声が多少違うだけで、同一のアーキテクチャから紡ぎだされるそのトーンは、無理がなく、どれだけ聴いても神経が疲れるということがありません。音が楽々と空気に乗って飛来してくるようです。
スタインウェイ以外にも素晴らしいピアノはいろいろありますが、いずれも長時間、あるいは繰り返し聴くと、疲れたり飽きてきたり不満点が見えてきたりすることは不可避で、いずれもどこかに不備や無理があるのだろうと思ってしまいます。

そういえば思い出しましたが、もうずいぶんと前のことですが、エリック・ハイドシェックの宇和島ライブというのが話題になり、当時としてはきわめて高い評価を得ていたCDがありました。
マロニエ君もそのCDはすべてではないにしても、何枚か持っていましたが、その良さが今一つよくわからずに集中して聴いてみたことがあったのですが、どうもよくわからないまますっかり疲れてしまったことがありました。
記憶が間違っていなければ(確認もせずに書いてしまっていますが)、このとき使われたピアノが日本製ピアノだったようですが、なんだか耳に負担のかかるような音の砲列に疲れたというのが率直な印象だったのです。

その結果、無性に別のCDが聴きたくなって、とりあえずなんでもいいという感じで、手っ取り早くCDの山の一番上にあったのが弓張美樹さんのペトラルカのソネットでした。無造作にそのCDをデッキに放り込みましたが、出てきた音を聴いた瞬間、サッと血の気が引くほどそこに流れ出したピアノの音にゾクッとしたことを鮮明に覚えています。

このピアノは関西のヴィンテージスタインウェイの専門店が所有する戦前のニューヨーク製で、マロニエ君は個人的にはどちらかというと好みのピアノではなかったのですが、疲れるほど日本製ピアノの音を聴き続けた末に接したこのピアノの音は、まさに気品と落ち着きと自然さにあふれていて、スタインウェイの根底に流れるなにか本質的なものを、ひとつ諒解できたような気がしたものです。

というわけで、マロニエ君の良いピアノの判断は、音やハーモニーなどの個別具体的な要素のほかに、長時間の鑑賞に耐えられるかどうかということもかなり重要なファクターだと思っています。どんなに素晴らしいとされるピアノでも、1時間やそこらで飽きたり疲れたりするようでは、マロニエ君としては真の一流品とは思えないのです。
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バケッティとファツィオリ

アンドレア・バケッティというイタリアのピアニストの弾くバッハが評判のようで、ならばとCDを購入して聴いてみることにしたのはいつのことであったか…ネットから購入すると、ものによっては入荷待ち状態が延々と(ときに数ヶ月も)続いてしまうことが珍しくありません。

バケッティのゴルトベルクももう忘れていた頃ポストに入っていたので、それを見てようやく注文していたことを思い出す始末で、ならばと早速聴いてみるとことに。
実をいうとバケッティのCDはこれが初めてではなく、マルチェッロのピアノソナタ集というのを、こちらは曲のほうに興味があって以前購入していたのですが、よく知るバッハでこのピアニストを聴くのは今回が初めてです。

冒頭のアリアも、最近の平均的なテンポからすると少し早めで、まず感じたのは、硬質なピアノの音色とやたらと装飾音の多いこと、さらにはやや表面的で無邪気な演奏という感じを受けたことでした。

ピアノの音も明晰と聞こえなくはないものの、どちらかというと平坦で、深みやふくよかさみたいなものとは逆の単純な感じを受けました。
なにより気にかかるのはその固さであり、その演奏と相まって、しばらく聴いていると、どうしようもなく煩わしい感じに聞こえてしまうのには弱りました。
音に輝きはあるので、はじめはこういう感じのスタインウェイだろうかとも思いましたが、よくよくCDジャケットを見ていると、下のほうに豆粒みたいな小さな「Fazioli」の文字があり、ああ、なるほどそういうことか!と納得しました。

弾き方もあるとは思いますが、妙にパンチ感のある音の立ち上がりや、しっとりというか落ち着いた気配がしないメタリックな感じは、マロニエ君にとってのファツィオリの特徴のひとつです。
これを巷では色彩的などと表現されることを思うと、それが何に依拠するかよくわかりません。

いつも感じるところでは(以前にも書いたことがありますが)、マロニエ君の耳にはファツィオリの音は根底のところでヤマハを思わせる音の要素があって、そちら方面の反応の良さみたいなものがあるのは確かなようで、だから好きな人は好きなんだろうなぁと思ってしまいます。

それとバケッティの演奏も終始ブリリアントで娯楽的ではあるけれど、少なくとも聴き手を作品の内奥だとか精神世界に触れるような領域に連れ出してくれるタイプではないようです。いつも才気走っていて、でも全体が俗っぽいといった印象です。

ピアノ演奏に対して、快適で単純明快な音の羅列を求める人には、バケッティの演奏は好ましいかもしれませんが、マロニエ君の好みからすると憂いとか詩的要素がなく、いつも元気にかけまわる子どものようで、言い換えるなら、せわしなくおちつきのない こせこせした印象ばかりが目立ってしまいます。
ゴルトベルク変奏曲を聴いているのに、ちっともその実感がなかったのは驚きでした。

打てば響くような反応やきらびやかさを求める向きには、ファツィオリはたしかに最高のピアノとして歓迎されるのかもしれません。
ただマロニエ君から見ると、ファツィオリが単純にイタリア生まれのイタリア的なピアノかといえば、いささか納得できかねるものがあるのも事実です。イタリアの芸術のもつ太陽神的な享楽と開放、そのコントラストが作り出す光の陰翳、豊穣な色彩、宗教の存在、荘厳華麗でほとんど狂気的な喜びとも苦悩ともつかないような命の謳歌、それと隣合わせの死の薫り…そんなものがどうにも見つけることが難しい、掴みどころのないピアノという印象が何年経っても払拭されません。

そういうイタリア芸術のあれこれの要素をこのピアノから嗅ぎ取ろうとするより、もっと単純によくできた高級な機械としてわりきって見たほうがこのピアノの本質に迫ることができるのかもしれません。

マロニエ君の思い込みかもしれませんが、もしヤマハが手作業をいとわぬ労を尽くして、チレサの最高級響板等を使ってピアノを作ったなら、かなり似たようなピアノが出来るような気がしてなりません。
この両者に共通しているものは、日本の工業製品が極めて高品質だといわれながら、どこかに感じるある種の「暗さ」みたいなものかもしれません。

近年のスタインウェイが次第に均一な量産品の音になってきているのに対して、ファツィオリは量産ピアノ的性格のものを、良質の素材と高度な工法で丹念に製造することで挑んだピアノという印象でしょうか。

腕に覚えのある技術者がヤマハなどにあれこれの改造と技を施したピアノに「カスタムピアノ」というようなスペシャル仕様が存在していますが、どことなくそんなイメージが重なってしまうのです。基音がそれほどでもないピアノのパーツやディテールにこだわって、鳴らそう鳴らそうとしたピアノは、ある面で素晴らしいと思うけれど、どこかボタンの掛け違いのような印象を残します。

ファツィオリにこれだという決定的なトーンが備わらず、調整技術だけで聴かされているような印象があるのは、未だになにか大事なものが定まっていないからかもしれません。
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ハーンの完璧

Eテレのクラシック音楽館で、エサ=ベッカ・サロネン指揮、フィルハーモニア管弦楽団の来日公演から、ヒラリー・ハーンをソリストをつとめた、ブラームスのヴァイオリン協奏曲を聴きました。

いうまでもなく、ハーンはアメリカ出身の現代を代表するヴァイオリニスト。
彼女を上手いと言わない人はまずいないはずで、デビューしたころの線の細い感じからすれば、ずいぶんオトナになって、風格もいろいろな表現力も身につけたことは確かなようです。
ただ、これだけの人に対して申し訳ないけれど、マロニエ君の好みからすると、どうしても相容れないところが払拭できません。

いつも書くことですが、始めの何章節を聴けば自分なりの印象の「何か」が定まります。
マロニエ君ごときが演奏の評価というような思い上がったことはするつもりもありませんし、また出来もしませんが、それでも自分の抱く感想というのは、開始早々に立ち上がってくるもので、それが途中で変化することはまずありません。

ハーンは世界的にも最高ランクのヴァイオリニストのひとりとして、揺るぎない地位を勝ち得ており、そこへ敢えて歯向かおうという気はないのですが、あまりにも現代の要求を満たした演奏で、音楽(もしくは演奏)を聴く上でのストレートな喜びがどうしても見い出せません。

うまいすごいりっぱだたいしたものだとは思うけれど、いつまで経ってもしらふのままで、一向に入り込めないというか、酔いたいのに酔えない苦しさのようなものから逃れられないといったらいいでしょうか。
またこれほど聞き慣れた曲であるにもかかわらず、なぜかむしろ作品との距離感を感じ、どこを聴いても威風ただようばかりで音楽的なうねりや起伏に乏しく、要するに感心はしながら退屈している自分に気づいてしまうのです。

今どきは、世界的な名声を得た演奏家であっても、すべからく好印象を維持しなくてはいけないのか、高評価につながる個別の要素も常に意識し、演奏キャリアと同時進行的にプロモーションの要素も積み上げていかなくてはならないのかもしれません。
自分々々ではなく、オーケストラなど共演者全体のことも常に念頭においていますという態度がいかにも今風。謙虚で、視野の広い、善意の教養人として振る舞うことにもかなり注意しているようで、それらがあまりにも揃いすぎるのは、却って不自然で、作られた印象となるのです。

ハーンの直接の演奏から感じるのは、あまりにも楽譜が前面に出た精度の高さ、演奏中いかなる場合もその点を疎かにはしていませんよという知的前提をくずさず、それでいて四角四面ではないことを示すための高揚感のようなものも見事につけられていて、必要なエレメントをクリアしています。

昔ならこれはすごい!と感嘆したはずですが、いろいろな情報や裏事情にも通じてしまった現代人には、市場調査と研究を経て開発された戦略的な人気商品のような手触りを感じてしまうのでしょうか。

どう弾けばどう評価されるかという事を知り尽くし、その通りに弾ける演奏家というか、どんな角度からチェックされても評価ポイントを稼げるよう、すべてをカバーするための完璧なスタイルに則った演奏…といえば言い過ぎかもしれませんが、でも、やっぱりそんな匂いがマロニエ君のねじれた鼻には臭ってきてしまいます。

耳の肥えた批評家や音楽愛好家は言うに及ばず、ヴァイオリンを弾く同業者からの評価も落とさぬよう、徹底的に推敲を重ねつくした演奏という気がして、そういう意味では感心してしまいました。
たぶん、マロニエ君のようなへそ曲がりでない限り、このハーンのような演奏をすれば、まず間違いなく大絶賛でしょうし実際そうでした。

喜怒哀楽のようなものさえ節度をもってきっちり表現するあたりは、いついかなる場合も決して本音を漏らすことのないよう訓練された、鉄壁のプロ根性をもつ政治家の演説でも聞かされているようでした。
もちろん素晴らしい音楽家の演奏がすべて純粋だなどと子どもじみたことを云うつもりはありません。生身の人間ですから、裏では狙いやらなにやらがうごめいていることももちろん承知です。いろんな欲得も多々働いていることでしょう。
…でも、その中に真実の瞬間もあると思うからこそ、せっせと耳を傾け、何かを得ようとしているようにも思います。

ただアメリカは根っからのショービジネスの総本山でもありますし、それに追い打ちを掛けるように時代も年々厳しいほうへと変わりましたから、その荒波を勝ち抜いてきた人はやはりタダモノではないのでしょうね。

自分の手が空いているときは、いちいち愛情深い眼差しで指揮者やオーケストラのあちこちに目配りするなど、そのあまりに行き届いた自意識と立ち居振る舞いを見ていると、マロニエ君のような性格はそんな芝居にまんまと乗せられてやるものかという、反発心みたいなものがつい刺激されてしまいます。
心底酔えないのは、やっぱり根底のところに何かが強く流れすぎているからだと個人的には思いました。

冒頭のサロネンとハーンのインタビュー(別々)でも、やたら相手を褒めまくりで却って不自然でしたし、お互いに「次に何をやろうとしているかがわかる」などと、さも一流の音楽家同士はそういう高度な次元で通じ合うものだといわんばかりですが、あれだけ冒険のないスタイルなら、だれだって次はどうなるかは見えて当たり前だろうとも思いました。

もうひとつ驚いたのは、ハーンが「ブラームスの協奏曲では、オーケストラはただの伴奏ではありません」みたいなことを言いましたが、そんなわかりきったことをいまさらいうほど日本の聴衆を低く見ているのかとも思って、おもわず腰の力が抜けました。
インタビューの答えも紋切り型で、独自の感性や考えに触れる面白さのようなものは皆無でした。

ただ、ハーンの名誉のために付け加えておけば、それでも本当に上手いことは間違いないし、アンコールで弾いたバッハの無伴奏は実に素晴らしいもので、このアンコールでだいぶ下降気味だったこちらの気分が、ちょっとだけ持ち直したのも確かでした。
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苦行は楽しみ?

先週のこと、出かける支度でひとりバタバタしている際、家人が夕刻のテレビニュースをつけていましたが、そこで気にかかるものをチラチラと目撃しました。

ゴールデンウィークを目前にしたタイミングで、これからでもまだ予約の取れる格安の宿泊プランというようなもので、人気のホテルや旅館であるにもかかわらず、まだ予約が可能で、しかも格安という裏には何があるのか…という特集でした。

なにぶん急いで出かける準備中ということで、じっくり視たわけではないので、詳しいことは違っていたら申し訳ないですが、たとえばある熟年夫婦が格安料金で泊まることのできるホテルだか旅館だかに到着します。
本当かどうか知りませんが、この二人には格安の理由がこの時点では知らされていない由。

部屋に通されてみると、一見してやや狭いとわかるツインの部屋で、ベッドがかなり部分を占領しているようです。
窓からの眺めはというと、建物の裏手かなにかの絶望的な光景が広がり、安いのはそれらかと思われました。ところが、ホテル側からはさらにとんでもない仕事を言い渡されます。

この施設にあるゴルフ練習場の「ボール拾い」を命じられ、年配の二人は旅装を解くと早々に練習場に行かされ、見渡す限り、水玉模様のように転がっているゴルフボールを手や熊手のような用具を使ってバスケットに拾い集めなくてはならないとのこと。
それも少々のことでとても終わるような量ではなく、見ていてこの夫婦が無性に気の毒になりました。記憶が確かなら、こんなことをさせられるとは思わなかった…というようなことをボソボソ言っていたように思います。

ほかにも、かけ湯式の温泉で出てくる、温泉のアクだかヘドロだか知りませんが、それを底のほうからすくい集める仕事をさせられるというのもあり、それらは「泥パック」などとして旅館で売られるのだそうで、こちらも宿泊客がせっせとそれを掻き集める作業をさせられるというものでした。
あるいは足元もおぼつかないような竹林の急斜面を登って、タケノコ掘りをさせられるというのもあったようで、いずれもテレビ画面を見ている限りでは、いわゆる「お客さん」とは名ばかりの、屈辱的肉体労働をさせられるようで、マロニエ君にとってはちょっと笑えないものでした。

こんなことが、どんな前提でなされる提案であり、それを承知の予約なのかは知りません。ただ、その料金はというと、それほどの破格なものとも思えるものでなかったことが、さらに驚きでした。
いまどきですから、もしかするとお客さんの方でも、「格安」であることのお得感と、「行った先で何が待ち受けているかわからない」というところに冒険心のようなものを感じて「楽しんでいる」のかもしれません。
さらに、この時期の格安とあらば、いかなることにも耐え抜こうという悲愴な覚悟があってのことかもしれず、そのあたりの個々の参加者の心情まで正しくはわかりませんでした。

しかし、いずれにしろマロニエ君の眼には、到底受け容れられないものとしか映らなかったことも事実で、こんなことを楽しんでいるのだとすると、これは相当なMというか自虐趣味としか言い様がないと思いました。

今どきは、法に触れず、相手の同意さえあれば何でもアリの時代ではあるし、お客さんをもてなすプロ意識だとか、商売をやる上でのルールだとかご法度のようなものも、すっかり様変わりしてきているのかもしれません。
以前なら、価格云々の問題ではなく、こともあろうにお客さんに裏方の労働をさせるなんぞ、無銭飲食の罪滅ぼしぐらいなもので、通常は発想にもなかったことだろうと思います。

どんなスキャンダルでもいくら相当の宣伝効果があった、などといちいち換算して損得勘定するような社会ですから、ホテルや旅館側にしてみれば、お客さんを安くこき使った上に、話題作りにもなり、うまくすればテレビの取材対象にもなるとなれば、一石三鳥ぐらいなことかもしれません。

まあ、マロニエ君だったら端からそんなデンジャラスなことに参加しようなんて思いませんし、まかり間違ってそんな場面に行き合わせようものなら、ほぼ間違いなくそんなところは出てくるでしょうし、それを楽しみに転換させるような物分かりの良さとか柔軟性な感性は持ち合わせてはいないでしょうね。
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居住地再編?

東京・沖縄を除く全国放送として人気の番組、「そこまで言って委員会NP」は世相を斬る番組の中では筆頭の影響力をもつ位置を確立していると思います。
各界の話題の人物がゲストに呼ばれるのはもちろん、安倍さんも昔からこの番組にはずいぶん顔を出していて、総理になってからも何度か出演されているのは多くの方がご存知のことと思います。

先日のこと、そこで興味深い発言がありました。
一時的に収まったかに思えた東京への一極集中が、ここへきて再燃しているのだそうです。

理由はさまざまのようですが、主なところでいうと、若い世代の人たちが不便なロケーションの一戸建てマイホームより、利便性の高いマンションでの快適生活を好む傾向がここ最近は顕著なのだそうです。
家をもつという情緒に見切りをつけた、より現実的な考え方のあらわれなのかもしれませんね。

さらに、その背景となる要因のひとつとして、地方や郷里に戻ろうにも仕事が無いことから、やむなく都市部での生活を強いられているという社会構造にも理由があるようでした。

これは今や800万戸を突破するという「空き屋問題」にもつながっているであろう現象で、田舎でのんびりといったら語弊があるかもしれませんが、ともかくそれぞれが生まれ育った土地で普通に生活を成り立たせるということが、現実として困難になってきているということも見過ごすことのできない問題であるようです。

小泉さんの時代の「聖域なき構造改革」で提唱された地方の活性化は、ほとんど機能しないまま終わってしまっているのか、都市部とそれ以外との改善の兆しのない二極化は今後どうなっていくのだろうと思います。

あるコメンテイターの話では、東京以外では、福岡・名古屋・仙台の3都市では人口が増加しており、それぞれのエリアでの一極集中現象が起こっているのだそうで、逆に大阪などは減少傾向にあるんだとか。

たしかにマロニエ君のまわりでも、近年はやたらとマンションが増えていることは紛れもない事実です。
古い家や建物は、取り壊され更地になったかと思うと決まってマンションかコンビニになるし、より規模の大きな、昔つくられたビルや体育館やホールなどの施設も惜しげもなく解体され、何が出来るのかと思えば、ほぼ例外なく無味乾燥な見上げるようなマンションになってしまいます。

そんな目で街中を見てみると、まあともかく驚くばかりにマンションが増殖乱立しており、しかも昔のそれに比べると規模が大きく高層化が進み、どれも竣工前に完売などという話を聞きますので(本当かどうか知りませんが)ただただ驚くばかりです。
完成すれば一挙に人が入って生活がはじまり、それでもまだあちこちに大きなマンションが建設中ですから、こんなことがいつまで続くのかと思います。

先日はマロニエ君の音楽の先生から聞いた話ですが、この方のお嬢さんが結婚され、数年前に川崎にマンションを買われたのだそうで、そのマンションというのが川崎の昔の工場地帯がマンション群になり変わったエリアにあるとのことでした。
むろん今時の例にもれず、数十階もある高層マンションばかりで、それがはじめのころ何棟かが立っているだけだったのが、行くたび行くたびにその数が増えて、今では文字通りの林立状態となり、いざ駅に降り立っても、はたしてどこが娘の暮らすマンションなのか、すぐにはわからず迷ってしまってかなわないという話をされていました。

人が大挙して越してくれば、それに付随するスパーやらなにやらの入るモールが作られ、あっちにもこっちにも大きなスポーツジムがあったりして、夜になると仕事帰りに多くの人がジムでせっせとなにかトレーニングをやっているのだそうで、とてもじゃないけどついていけない世界が広がっているという話を聞きました。

日本の人口は減っているというのに、ある地域だけがそんな勢いで人が増えているということは、それと同じ速度であちらこちらの過疎化が進んでいるということでもあり、はてさてこの国のかたちはどんなものになっていくのだろうと思います。
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続・ネット問答

ヤマハのSとスタインウェイの比較にも面白い回答がありました。
ここに書くことは、ひとつの答えではなく、いろいろな答えの中から印象に残ったものを集めたものですが、ある回答では、「ヤマハのSあたりになると全面ウレタン塗装となり、見た目は美しいが非常に硬度のある材質なので、果たして木材の呼吸にそれが相応しいかどうか疑問に感じる」「日本人は音楽の歴史が浅く、どうしても高価なピアノを美術品的に捉える傾向がある」のだそうです。ウーンなるほどと思いつつ、そもそもウレタン塗装ってピアノにとってそんなに高級でいいのかといきなり疑問です。

また、ピアノ運送の仕事をしているという方からの回答でしたが、これが含蓄に富んだおもしろい答えでした。
まず「製品精度としてはダントツにヤマハ」と太鼓判を押していました。
「必要があってパーツを取り寄せても、ヤマハは同じモデルなら一発で装着できるのに対して、スタインウェイなどでは年式やモデルによって調整や加工が必要だったりで、メーカーに問い合わせをしても「そっちで合わせろ」というような答えが返ってくる」とのことですから、ヤマハのそういう面での優秀さと確かさはやはりすごいものがあると思わせられます。

実際の運搬に際しても、「ミシリともいわないヤマハに対して、スタインウェイはゆるゆるで、製品としての頑丈さは文句なくヤマハです」ということでした。
しかし、つけ加えられていたこと(ここが重要!)は、「しかし、製品精度と感銘を与える音の響きは比例しない。」「仕事はヤマハのほうがしやすいが、音は個人的にスタインウェイのほうが好み」と言っているあたりは、運送屋さんながらピアノの本質がわかっていらっしゃるなかなかのご意見だと思いました。

以前、スタインウェイに心酔する関西の大御所に聞いたところによれば、スタインウェイはただのボディの段階ではゆるゆるに作られているそうで、フレームを組み入れ、弦を張ってテンションがかかった段階ではじめてすべてが収束し、ピアノにかかる全体のバランスがこのとき取れるようになっている、非常に凝った、奥の深い設計をしているということでした。だからボディだけの状態と、フレームを組み入れ弦を張った状態とでは、わずかに寸法さえ変わるのだとか。

氏はその事に関して「断崖絶壁のぎりぎりのところに不安定な椅子を置いて、それに座ってバランスを取りつつ平然とコーヒーを飲んでいるようなもの」と喩えたものでした。
それに対して、ヤマハはボディと支柱にいきなり蟻組などを施して、初手からガチガチに作り過ぎるからダメで、しょせんは大工仕事の発想で、楽器製作の根本がわかっていないと、その巨匠は熱く語っていたのを思い出します。

したがってスタインウェイの場合は運搬時、とりわけクレーンで吊って搬入するようなときに、間違ってもピアノの支柱(裏側にある大きな数本の柱)にロープをかけてはならないのだそうで、スタインウェイのことを良く知る運送会社は絶対にこれをせず、ピアノが括りつけられた台座ごとロープをかけるが、ときどき無知な業者がこれをやってしまって最悪の場合はピアノに深刻なダメージを与えるとも言われていました。

そこで思い出すのは、あるピアノ店のホームページで「スタインウェイを納品しました」ということで、マンションの上階へクレーンで吊ってD型を搬入している写真が掲載されていましたが、なんとピアノは搬入前に歩道で梱包を解かれ、大屋根さえ外した状態の丸裸の状態、しかも支柱にしっかり太いロープが巻き付けられた状態で空中につり上げられており、思わず背筋が寒くなってしまいました。

話が脱線しましたが、ヤマハのSシリーズとスタインウェイのどちらを購入するかで悩んでいる人というのは結構いらっしゃるようで、値段が倍以上違うのでそれに見合う価値が本当にあるのかといったところなんでしょう。おもしろいのは弾く本人は試弾してヤマハを気に入っているのに、音楽に興味のないご主人のほうがスタインウェイの音を敏感に聞き分けて、断然こっちだと言い出すケースもあるようです。

また、不思議なことに、ヤマハの高級機種は検討範囲であるのに、カワイのSKシリーズは視野にも入っていない例がいくつもあり、回答者の一人が、カワイのSKは弾くとかなり心がぐらつくので一度試してみてはどうかというアドバイスをしていました。やはり一般的にヤマハとカワイではお客のほうにも相当な意識の差があるというか、端的に言えば客層が違うということなんでしょうか?
すくなくともヤマハのユーザーにとってカワイは眼中にないようで、このあたりはカワイユーザーでもあるマロニエ君としては複雑な心境です。

訳がわからなかった回答としては、しきりにヤマハをすすめる人がいて、しかもその人はスタインウェイのBとベーゼンドルファーの225を持っているということでした。
この人のアドバイスは、高級輸入ピアノは維持費が大変だからヤマハをオススメというのがその理由で、ずいぶんと上から目線なご意見で、それ自体にも違和感を感じましたが、そもそもスーパーカーじゃあるまいし、維持費ってなにがそんなにかかるのだろうと思いますが、具体的にはなにも記述はされていませんでした。
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ネット問答

ネットを見ていると、ピアノ購入予定者がいろんな質問コーナーにいろんな質問を寄せていることがわかり、いくつかアトランダムに読んでみました。

たとえば数件見たのは、「ヤマハとカワイの違いは何か?」ということです。
それぞれに回答者がいろんな説明をしていますが、楽器としての特色や優劣にはこれといった決定的な回答はそれほど見あたりません。それだけ基本的には両者の実力は拮抗しているということかもしれません。

むしろ楽器それ自体がどうというよりは、ブランド力とか販売網や教室の充実度、一般的な信頼感、リセールバリューなどに話が及ぶことが多いような印象を持ちました。
意外だったのは、カワイを押す人には「音がいい(好き)、音楽的、低音が良く鳴る」といった意見が見られたのに対して、ヤマハを押す人は音や響きですすめる人はあまりなく、「信頼性、精度、安心感、弾きやすさ、数が多いので慣れている」などの理由が主流である点でした。

それでも強いて言うと、ヤマハは高音がきらびやか、カワイは暗いというような回答もいくつかあり、これはイメージとしてはわからないでもありません。
マロニエ君に言わせれば、普及品のグランドの場合はカワイのほうが個体差(調整の差?)が多く、やわらかい音色の良いピアノがあるかと思うと、ちょっとご遠慮したいような個体もあるけれど、ヤマハの場合はそういう意味では安定しているという印象です。
ただし「このピアノのこの音がいい」とことさら感じさせるようなピアノもなく、ほとんどが平均した水準はもっているという印象です。

専門家(たぶん技術者でしょうが)の意見も同様で、ヤマハの特徴は、音に関する言及はそこそこで、これという明確な言及はほんとんど見あたりません。むしろ製品としての確かさ、商品性、ブランド力などであり、わけても耐久力は圧倒的なものがあり、いまさらながら受験や音大生、あるいはそれなりのプロなど、膨大な練習量を必要とする人達のためのツールとしては、ちょっとやそっとの音の優劣を云々するよりも、強くて逞しいヤマハは最も頼りになるピアノのようですね。

また、カワイを推す人は、あくまでも音色などの好みで自分はカワイのほうが好きだが、それは人それぞれという主観が判断する余地を残して、ヤマハの非難はほとんどしていません。
これに対して、ヤマハを推す側は、ヤマハが良いのが当然で、カワイはダメだ格落ちだというような非難を堂々としているところが印象的でした。

グランドのレギュラーモデルの購入を検討している人達は、新品でも中古でも、わりにヤマハとカワイ(そしてたまにボストン)を比較しているようですが、高級モデルの話になると一気にカワイの名が挙がらなくなるのはどういうわけだろうかと思ってしまいます。ヤマハには高級というイメージもあるのだろうかと考えさせられてしまいました。

笑ってしまったのは、ラフマニノフのある作品を例にとって、その何小節目のフォルテが出せるか否かを、ヤマハ、カワイ、スタインウェイなどのあらゆるサイズのピアノを分類整理して論じ立てる人もいたことです。なんだか無性にくだらない気がしたものの、こんなことを真剣に論ずる人がいて、それを真面目に呼んで参考にする人がいるというのが妙な気持ちになりましたね。

実際に、ヤマハのSシリーズとスタインウェイだったらどちらを買うべきかというたぐいの質問がいくつもあって(そんなことを人に聞くのも妙ですが、おそらくは自分の好みよりも客観的な価値判断が欲しかったのだろうと思われる)、そこにシゲルカワイがほとんど出てこないのは不思議というほかありませんでした。

おそらくシゲルカワイの価値を認めている人は、一般論に惑わされることなく、本当に自分の耳や指先で判断している人達が多いのかもしれません。よって人の意見を求める必要もないのかもしれませんし、ましてやネットの質問コーナーに「どちらがいいか?」という質問をするような人は極めて少ないのかもしれません。

マロニエ君の印象でも、シゲルカワイを買う人は実際にはこのピアノに惚れ込んだ人が多く、他との比較があまり意味がないのかもしれません。
個人的には、ピアノ選びは同クラスの比較で検討するより、自分の好みや感性に響いてくるピアノを選びたいし、そうあるべきだと思っているのですが、受験とか練習目的のある人というのは、そういう自由な選び方をしちゃいけないのかもしれませんし、だとしたらピアノを買うというのはとても楽しいことなのに、なんともったいないことかと思ってしまいます。
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不幸中の幸い

広島空港で起こったアシアナ航空の事故は、その全貌が明らかになるにつれて驚きも増してくるようです。

天候その他の理由から超低空で最終進入し、滑走路脇の無線設備に接触しながら着陸したにもかかわらず、ひとりの死者も出さず、全員が生還しています。

通常、着陸したあとのオーバーランなどであれば、犠牲者もなく機体の損傷のみということはないことではありません。
しかし、いかに着陸進入中のこととは言え、まだ空中を飛んでいる段階で何かに機体が接触し、それが原因で事故が発生し、にもかかわらずひとりの犠牲者も出ないで済んだということは、これこそまさに僥倖といえるのではないかと、この点でとくに感心してしまいました。

事故以降の報道を見ていますと、滑走路脇の無線設備はアシアナ機の接触によって、かなり激しく損傷しているし、はるか遠くの草地で向きを変えながら停止した機体の左エンジン付近には、この無線設備のものと思われる何本ものオレンジ色の棒状のものが突き刺さっており、衝撃の凄まじさが偲ばれます。

また、マロニエ君はこのニュースを聞いたとき、滑走路のはるか手前に設置された無線設備に激突したということは、それがなければ滑走路手前の地面に突っ込んでいたのでは?と思ったものですが、翌日報道ヘリから撮影された周辺の映像によれば、アシアナ機はこの設備に接触した直後に、滑走路手前の草地のようなところにまず着地しており、その車輪による爪痕がはっきりと残っていました。

つまり無線設備に激突した直後にそのまま滑走路手前の地面に着地し、草地から滑走路へ乗り上げ、いったんは滑走路を西に進行しますが、再び左に大きく逸れて滑走路を逸脱、草地を爆走したあげく機体が停止した位置というのは、あとわずかで空港のフェンスを突き破り外に飛び出すまさに直前の位置でした。

詳しい事故原因がなにかはわかりませんが、状況から察するに、少なくとも事故発生以後だけの状況を見ると、幸運の連続だったのではないだろうかと思わずにはいられません。
通常なら、飛行中の旅客機が地上施設に接触などしようものなら、そのまま無事に着陸なんてできるわけもなく、凄まじいスピードと相俟ってバランスを崩し、でんぐり返ったり、機体が折れたり、火災が発生したりで、これまでに私達が目にした数多くの航空機事故のような事態におちいる可能性が高かっただろうと思います。

事故といえば脈絡もなく思い出しましたが、つい先日の深夜、所用で郊外へ出かけた際、帰り道をドライブがてら四王寺という小さな山を迂回するひと気のないルートがあるので、そちらを走っていたときのことでした。

カーブのむこうでヘッドライトの先にいきなり照らし出されたのは、ひとりの男性の姿で、手には懐中電灯をもち、道路脇に停車した車の脇に立って、しきりに走ってくる車の誘導のようなことをやっています。
何事かと思いつつ、あたりにはちょっと異様な気配が立ち込めて、事故らしきものが発生したらしいことがわかりました。引き返すこともできない状況なので、その脇を通過するしかなくドキドキしながら徐行して近づくと、なんとその車の前には、ある程度の大きさのある動物らしきものがぐったりと横たわっていました。

見なけりゃいいのに見てしまうマロニエ君の困った性格で、こわごわと目を右にやると、茶色の体毛に覆われたイノシシが車に轢かれて血まみれで絶命していました。
人気のない山裾の道で、夜でもあり、車も相当のスピードを出していたところへ運悪くイノシシが突っ込んできたのか、かなり凄惨な状況で、対向車線はかなりの距離(といっても20メートルぐらいですが)にわたって、血痕と肉片が飛び散っているのが夜目にもわかり、相手は人ではなかったとはいえ、交通事故とはかくも悲惨なものかということをあらためて思い知らされて、心臓がバクバクしてしばらくおさまりませんでした。

それと結びつけるわけではないですが、アシアナ航空の事故は、一歩間違えばそんなイノシシの事故どころではない、ケタ違いの大惨事になる可能性だってじゅうぶんあったわけで、それがわずかの偶然が重なることで地獄絵図にならずに済んだことは、なによりの慶事だったと考えなくてはいけないようにも思います。

「いそがばまわれ」というように、天候などによる視界不良が原因なら、なぜゴーアラウンド(着陸のやり直し)をしなかったのかという指摘が多いようですが、パイロットにも性格があって、それで安全運行に差が出るとしたら恐ろしい話です。

折しもセウォル号事故から一年のわずか2日前の出来事でしたから、多くの人が肝を冷やしたことでしょう。
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フォーレ四重奏団

ビデオデッキに録画されたままになっているものには、わけもなく手付かずの状態でずっとおいているものがありますが、その中にBSのクラシック倶楽部で2月に放送された驚くべきコンサートがありました。

昨年12月にトッパンホールで行われたフォーレ四重奏団の演奏会で、曲目はブラームスのピアノ四重奏曲第1番。
マロニエ君にとってフォーレ四重奏団ははじめて聞く名前で、てっきりフランスの室内楽奏者だろうと思っていたら、冒頭アナウンスなんと全員がドイツ人、しかも世界的にも珍しい常設のピアノ四重奏団とのことでした。

たしかに、ピアノ四重奏曲というものはあっても、ピアノ四重奏団というのは聞いたことがなく、これでは演奏する作品も限られるだろうと思いますが、今どきはなんでもアリの時代ですから、そういうものもあるんだろうと思いつつ、演奏を聴いたところ、果たしてその素晴らしさには打ちのめされる思いと同時に、一流の演奏に触れた深い充実感で満たされました。

まずなにより印象的なことは、ひとことで言って「上手い!」ことでした。
選り抜きの一級奏者が結集しているにもかかわらず、4人はみなドイツ・カールスルーエ音楽大学卒なのだそうで、これほどの実力が比較的狭い範囲から集まったということにも驚かされます。

メインのブラームスは、堂々としていて深みがあり、生命感さえも漲っています。細部の多層な構造などもごく自然に耳に達し、なにより音楽が一瞬も途切れることなく続いていくところは、聴く者の心を離しません。
巧緻なアンサンブルであるのはもちろんですが、よくある目先のアンサンブルにばかり気を取られた細工物みたいな音楽をやっているのではなく、4人それぞれが情熱をもって演奏に努め、秀逸なバランスを維持しながら、作品を生々しく現出させます。
必要に応じてそれぞれが前に出たり陰に回ったりと、本来のアンサンブルというものの本質というか醍醐味のようなものを痛烈に感じるものでした。

しかも全体としても、作品の全容が、素晴らしい手際で目の前に打ち立てられていくようにで、最高級の音楽とその演奏に接しているという喜びに自分がいま包まれていることを何度も認識しないではいられませんでした。開始早々、このただならぬ演奏を察して、おもわず身を乗り出して一気に最後まで聴いてしまったのはいうまでもありません。

ブラームスのピアノ四重奏曲は聞き慣れた曲ですが、これほどの密度をもって底のほうから鳴りわたってくるのを聴いたのはマロニエ君ははじめてだったように思います。知的な構築的な土台の上に聴く者を興奮させる情熱的な演奏が繰り広げられ、それでいて荒っぽさは微塵もなく、これまで見落としていた細部の魅力が次々に明らかにされていくようでした。

フォーレ四重奏団は、4人各人が個々の演奏の総和によってこの四重奏団の高度な演奏を維持しているという明確な意識と自負があるようで、普通はヴァイオリンの影に隠れがちなヴィオラなども、まったくひるむことなく果敢に演奏しているし、しっかり感に満ちたピアノも過剰な抑制などせず、思い切って演奏しているのは聴き応えがありました。

最近のピアニストは、指は動くし譜読みも得意だけれど、音楽的な熱気やスタミナを欠いた退屈な演奏が多すぎます。しかもそれを恥じるどころか、あたかも音楽への奉仕の結果であるかのように事をすり替えてしまうウソっぽさがあり、無味乾燥な演奏があまりに多いと感じるのはマロニエ君だけでしょうか。
とりわけ室内楽になると、アンサンブルを乱すなどの批判を恐れるあまり、どこもかしこも真実味のない臆病な演奏に終始して、それがさも良識にかなった高尚な演奏であるかのようにごまかしています。
このフォーレ四重奏団は、そんな風潮に対するアンチテーゼのような存在だと思いました。

稀にこういう大当たりの演奏に出くわすことがあるものだから、普段どんなにつまらない演奏で裏切られても、凝りもせずやめられないのだと思います。これは一種のギャンブル好きの心理にも通じるものなのかもしれません。

さて、またCD探しが始まりそうです。
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