ストラヴィンスキーのバレエ

NHKのBS番組、プレミアムシアターの7月は、4週にわたってバレエの特集が放映されました。

いわゆるお馴染みの古典バレエはほとんどなく、唯一のものとしてはアメリカン・バレエ・シアターの日本公演から「ドン・キホーテ」があったのみで、他はすべてパリ・オペラ座の新作がいくつかとかベジャールの作品など、近現代の新しいものがいろいろ紹介されました。

すべてを見たわけではありませんが、なんといっても圧巻だったのは最後のロシアバレエで、これには久々に感銘を受けることになりました。

4週目の最後を飾ったのが「サンクトペテルブルク白夜祭2008」から、ストラヴィンスキーの『火の鳥』『春の祭典』『結婚』の3作で、ボリショイと並び称せられるロシアの最高峰、マリインスキー劇場バレエ団(旧キーロフバレエ)、演奏はなんとワレリー・ゲルギエフ指揮によるマリインスキー劇場管弦楽団による、この上ないような豪華な顔ぶれでした。

その直前にやってたのが「ドン・キホーテ」で、マロニエ君は一向にこの中身のない、ただのうるさいお祭り騒ぎを舞台上でドンチャンやるだけみたいな演目が昔から一度たりとも好きになったことがありません。
よくバレエのガラコンサートのようなときに、最後のグラン・パ(グラン・パ・ド・ドゥではない)がアクロバット的な派手さから単独に踊られることがありますが、それで充分。それ以外はなんの魅力もないし、ミンクスの音楽がまたなんの芸術性もない表面的なもので、目も耳も疲れてしまいます。

そうしたら、後半が上記のサンクトペテルブルク白夜祭になり、いきなり姿勢を正したというわけでした。

まずなんといっても素晴らしいのストラヴィンスキーの音楽で、これを聴くだけでも価値があり、とても普通のいわゆるバレエ音楽ではない。
ソリストでは火の鳥を踊ったエカテリーナ・コンダウロワが突出して素晴らしく、その音楽と相まって一瞬たりとも目が離せない美しく躍動的でありながら、役が乗り移っているがごとく妖しげで、見ているこちらまでその魔力に引きこまれるような火の鳥を見事に踊りました。
ロシアにはいまだにこういう踊り手がいるのだなあとあらためて感心させられます。

春の祭典は一般的に有名なのはベジャールの演出振付による、あの男女の裸のようなタイツ姿の舞台をイメージしがちですが、オリジナルはむしろ普通のバレエよりもすっぽりと民族的な衣装で全身を覆い尽くしていて、ダンサー達の体が見えることがありません。きっとベジャールはその真逆の発想をしたのかもしれないと思いました。

音楽的に圧巻だったのは結婚で、これはレコードでは聴いていましたが、舞台を見たのは初めてでした。
30分足らずの短い演目で、とくに言うべき物語性はありません。花嫁と花婿がいて、彼らが結婚するという、ただそれだけのもので台本もストラヴィンスキーが書いています。
その演奏のために準備されるのは、通常のオーケストラに加えて、ソプラノ、メゾ・ソプラノ、テノール、バスという4人の独唱者、さらには7人にも及ぶ打楽器奏者たち、とどめはこれに加えて4台のピアノが加わります。しかもバレエ公演となると、すべて舞台下のオーケストラボックスに入れるのですから、もうそこはすし詰め状態に違いありません。
さらに、必要なのは男女のソロダンサーと、強靱なコールドバレエです。

それらが渾然一体となって、休むことなく30分近くを踊りまくり、演奏家達は演奏しまくります。
それはもうなんとも圧倒的な世界で、世にもこんな贅沢な30分があるだろうかというものでした。

ストラヴィンスキーの音楽には、今更ながらその不思議な魅力に打ちのめされました。他の作曲家なら不快感になるような和声やリズムに満ち満ちていますが、それがストラヴィンスキーの手にかかると、聴き手の本能的な何かを刺激されてくるようで、無性にわくわく興奮してくるのが彼の作曲の魔術だと思いました。

春の祭典に代表されるダ、ダ、ダ、ダという如何にも原始的なリズムが随所に出てきますが、これがいかにも野蛮なものの鼓動のように聞こえながら、その魅力に魅せられてしまうのは、ストラヴィンスキーの芸術性のみならず、人間の記憶の奥にはこうした野生がまだまだ眠っているからかもしれません。
やっぱり我慢して録画していれば、たまにはこういう拾いものがあるということです。
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掘り出し物CD

夕方から天神に出たついでにCD店を覗いてみると、なんとレジの横でCDのワゴンセールのようなことをやっていました。
ワゴンセールというだけならいつでもあるのですが、今回はさらにいろいろと珍しいものが投下されており、それらがまるで叩き売りみたいな値段が付けられていました。しかも、そこにはなかなかのレア物が埋もれていることがわかり、つい興奮してゴミ漁りのようにして6枚のCDを買いましたが、支払ったのは合計3500円強でした。

中には買った本人がいまだにどういうものかよくわからないようなものまであり、それは恐くてまだ聴いていませんが、ともかくこういう捨て値みたいな価格で、変なCDを買ってみるというのは正に宝探しで楽しいものです。

もちろん充分まともなものもあるわけで、ドイツの中堅でドクター・ベートーヴェンと呼ばれるミヒャエル・コルスティックのシューマン(クライスレリアーナ&謝肉祭)や、山本貴志氏のショパンコンクール・ライブといったものも含まれています。

山本貴志氏はわりに評判が良いらしいのですが、なぜかマロニエ君はこれまでにほとんどその演奏に接するご縁がなく、その「人々が涙する」というショパンを聴いたことがありませんでした。
ひとつには邦人CDの3000円ルール(?)のせいもあるかもしれません。

どうやらポーランドのCDのようで、バルカローレにはじまりエチュード、スケルツォ、マズルカ、第2ソナタを経て英雄で終わるというものです。
クセのない丁寧な演奏ではありましたが、ショパンコンクールにありがちな青春の燃焼みたいなものの少ない、あくまでも身につけたペースをキチンと守り抜いた、交通違反のない律儀な演奏だったと思います。

とくに日本人特有の折り目正しさにあふれた、キメの細かい美しい演奏であることは間違いないと思います。強いて注文を付けるなら、この人なりの味わいがもうひとつ欲しいところ。

きっと山本氏のコンクールにかける気合いの現れだとは思いますが、曲想にあわせて「シューッ!シャーッ!シェーッ!」という激しい吐息が入っているのが、このCDを聴いている間ずっと気になりました。
生のステージの臨場感ともとれますが、ショパンの繊細な音色が流れ出る中では、子供がプラモデルで熱心に遊んでいる時の声みたいで、あまり相応しいものとも思えませんでした。

それと、CDのどこを探しても記述はなかったものの、おそらくピアノはヤマハだと思われますが、全体に響きの固い、音の通りのよくないピアノだったことが、演奏をひとまわり小さなものにしてしまっているようで、それがとても残念に思われました。
もちろん本人が選択したのでしょうし、ダイナミクスよりデリカシーを採ったのかもしれませんが、ヤマハに限っていえば、その五年後に登場するCFXはやはり劇的変化を遂げたもんだと思います。
とりわけ中音域の発達は大変なものですが、それが全音域でないところが今後の課題という気もしますし、全体のバランスという一点においてだけなら、この時代のピアノ(CFIIIS)のほうがまとまりはいいといえるかもしれません。

コルスティックのシューマンは骨格のしっかりした力強い表現はなかなかのものでしたが、いささか音色に対する配慮が足りず、粗っぽく音が割れてしまうところがあるのが惜しい点でした。迫力は申し分ないけれども、もうひとつ愛情深さみたいなものがあればと思いました。ジャケットの写真を見るたびサルコジ大統領を思い出します。
ともかく思いがけないCDが買えて幸いでした。
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なでしこ話法?

なでしこジャパンはついに国民栄誉賞のようですが、尊敬する女性の強さと特徴に関して引き続いて感じたこと。

精神的に脆く、意気地のない男に較べると、何事も度胸があり腰の座った女性ですが、しゃべりもパワーが男とは根本的に異なるものを感じたりもします。
例によって個人差のことは考慮せず、あくまで「一般的」な話です。

多くの女性に共通して見られるのは、個人差は別としても独特の話法みたいなものがある点です。
とくに雑談のときにしばしば感じるのですが、女性はどうも一般論とか客観的な論点に立った話の進め方というのがあまりお好きではないようで、その流儀もパワーも大変なものです。

典型的な例をいいますと、例えば、こちらがひとつの話題や出来事を話すとします。
こちらとしては、その話の内容そのものをいわば議題として掘り下げたいわけで、それに関する相手の見解なり分析なりをあれこれ聞きたいという目論見なんですが、なかなかそうはいかないんですね、これが。
女性の場合(繰り返しますが一般的にです)はこちらの話を聞き終わると、それに対する言及ではなく、類似した自分の体験談とか身近に起こった似たような話を持ち出してきて、あっという間にそれをしゃべりはじめます。
そこで、こちらが提示した話とどう関連性があるのかと思って聞いていると、ほとんどそれはなく、気がつくとこちらが専ら聞く立場に交替させられてしまうのはまるで巧みな瞬間芸をみるようです。

要するに人の話から自分が着想を得て、すかさず類似した自分側の話を思いつく限り並べるたてるわけで、人の話から自分の話へと、パッと花瓶の花を差し替えるわけですね。
こっちにしてみれば、しかしそれは似て非なる完全に別個の話で、気がつくとなんだか話の目的が変わってしまっているのです。

しかし、相手のそんな違和感など眼中にもない様子で、話はそこからさらに飛躍していよいよ関係ない話題に発展するのは、テーマの基軸がどんどんズレるというか、脱線に次ぐ脱線ですが話じたいは延々と続く。だいたい女性との会話はこうなる場合が少なくないので、このあたりは諦めるより外にありません。

とはいっても、べつに聞かなくてもいいような、どう考えてもその場には必要とは思えない話をいかにも対等にもってこられるのはやっぱり変な気分で、何度か話を元に戻すような努力をしてみたこともありますが、いやあ、とてもじゃないけどかないません。
だいいち、向こうは話が逸脱しているなんてまるで思っていないわけで、むしろ会話は盛り上がっているぐらいの認識のようです。こういうタイプは話は飛んでも、おしゃべりそのものにはガンと腰が座っていますから、少々の抵抗ではビクともしません。このあたりも絶対に男がかなわない部分。

つまり他者から与えられたテーマに沿って話を進め、そこから逸脱せずに内容を掘り下げていくのではなく、人の話を単なるヒントとして、類似したネタを瞬時に脳内で検索し、自分が話す側となってそれをいくつも並べないと気が済まないんでしょうね。
マロニエ君などは、ひとつの話題に対してさまざまに観察して事の真相や核心に迫るのが楽しいわけで、喩えるなら話の海に深く潜って中の様子を見たり調査したり分析したいわけですが、この話法では水上バイクで水面をぐるぐる豪快に旋回しているに過ぎません。

音楽に喩えると、主題と変奏のようなものですが、すぐに主題を外れて別の曲になってしまうといったところでしょうか。

そういうわけで、こちらも少々のことなら聞いてますが、さすがに見たことも会ったこともないその人の友人知人・親兄弟、さらにそのまた先の人の話をいくら滔々と語られても、そこまで興味が続かなくなるので、そんなときは沈黙で会話が続かないよりマシだぐらいに思って、終わるのを待つのみです。

さらに感じることは、このタイプは、とにかく話は「聞く側」ではなく、あくまで「聞かせる側」「しゃべる側」「話を提供する側」じゃないと楽しくないというのが根底にあるようです。

圧倒的に女性に多いタイプですが、ごく少数、男にもいないこともないんですよね…困ったことに。
しかし昔から言われているように「話し上手は、聞き上手」なのですから、まずは聞き上手になりたいものです。
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ショパンの椿姫

NHKのBSで、7月はモダンバレエが毎週のように取り上げられ、先週の演目のひとつにはパリ・オペラ座バレエ団の新作で「椿姫」というのが放映されました。
公演自体は2008年の7月でパリ・オペラ座のガルニエ宮で行われたものを収録したものでした。

名前は椿姫でも、音楽はヴェルディではなく、なんと全編にわたってショパンの作品が使われているというのが意外な点で、果たしてどんなものか見てみました。
振付・美術・照明はアメリカ出身の振付家ジョン・ノイマイヤーによるもので、同時に放映された「人魚姫」も彼が手がけたものですが、正直言ってマロニエ君は全く感心できない主題のない作品でした。

ノイマイヤー自身、ダンサーの出身で、男性舞踊家で振付家になるというのは決して珍しいことではなく、アメリカバレエの礎を創ったジョージ・バランシンや、ロシアでもボリショイやマリインスキー劇場のバレエ団の歴代の監督は、大半がダンサー出身であるし、あのルドルフ・ヌレエフもロイヤルバレエやパリ・オペラ座バレエでしきりと振付などをやっていましたから、これは野球選手が監督になり、力士が親方になるようなものかもしれません。

この「椿姫」でのジョン・ノイマイヤーの振付は、あまりコンテンポラリーなものではなく、あくまでもクラシックバレエの動きを基軸に置いているのは見ていてホッとさせるものがありましたが、いかんせん感心できなかったのは、「椿姫」のような陳腐かつ前時代的な題材をいまさら新作バレエに取り上げるという発想と、しかもその音楽をショパンにしたという点でした。

開幕からしばらくは、舞台上の人々があちこちに動き回るばかりで、まったく音楽がありません。
これが何分も続いた後に、舞台下手に置かれたピアノを、これも扮装をした一人がしずかに弾きはじめることで、音楽がようやく始まります。
オペラでいうところのヴィオレッタはすでに病没しており、その肖像画が舞台中央に置かれている設定ですが、それを慈しみ思い出すように開始されるはじめの曲がソナタ第3番の第3楽章の再現部の部分でした。

このバレエはピアノのソロだけで行くのかと思うとそうではなく、ほどなく第2協奏曲がはじまり、それに合わせて舞台上ではさまざまな踊りや劇の進行が速度を増して進行していくのでしたが、まず声を大にして言いたいこのバレエの最大の問題は、バレエとショパンの音楽がまるで噛み合っていないことでした。

ショパンの音楽というものは、手の施しようがないほどそれ自体が圧倒的な主役でしかなく、いかなる場合もバックに使われる類のものではないということがひしひしと伝わり、あくまでも聴くための作品であることがいまさらのように痛感させられました。
映画などで断片的に使ったりする場合には効果的な場合もあるかと思われますが、こうしてバレエ全体の音楽として使われるのはまったく不向きで、ステージと音楽が齟齬を生むばかりで、両者が溶け合い手を握ることはありませんでした。
ショパンのあの気品ある眩しいような音楽が流れ出すと、バレエとは関係なしに耳がそちらに集中することしか出来ず、それに合わせてやっているバレエが、悲しいほどに無意味でなんの必然性もない空虚なものにしか見えませんでした。

第2協奏曲はついに全楽章演奏され、その後もワルツやプレリュード、休憩後には普段演奏会では聴かないオーケストラ付きの作品であるポーランド民謡による幻想曲などがはじまりましたが、ついに見続けるエネルギーが尽きてしまい、最後まで見通すことはできませんでした。

ショパンとバレエで唯一成功しているのは、有名な「レ・シルフィード」だけだと思います。
これには物語性がなく、音楽もすべてバレエに適するよう管弦楽用に編曲され、ゆったりとしたテンポで流れる中を、古典的な白の衣装をつけたダンサー達によって繊細優美に踊られる幻想的なもので、これは稀な成功作だと思われます。

さて、「椿姫」で使われたピアノはフランスでは珍しくスタインウェイのB型でしたが、やはり大劇場で聴くにはやや力不足という印象が否めませんでした。全体的な音はそれなりでしたが、やはり小さなピアノ故か大きな舞台で鳴らすには基礎体力が不足し、響きに底つき感みたいなものが出てしまうのが残念でした。

オペラ座バレエの素晴らしい点は、ロシアバレエとは一線を画する垢抜けた個性を持っている点と、このように常に新作の演目に取り組んでいることでしょう。あの有名な春の祭典のスキャンダラスな初演もマロニエ君の記憶違いでなければこのガルニエ宮だったはずです。それだけにこのような失敗もあるということですが、それよりも新しいものを作り出すというこのバレエ団自体が持つ創造的な活力には敬意を表したいと思います。
フランスの誇る世界屈指のバレエ団であることは異論を待ちません。
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諦観

山田洋次監督の「母べえ」を観ました。
ただ何気なく、どんな映画かも知らずに観ました。

文学者である父が思想犯として捉えられ、母と祖父はそれがもとで絶縁。
父の若い教え子がなにかにつけ母と二人の童女の世話を焼いてくれますが、やがて彼も赤紙が来て出征。
さらに開戦後間もなく父は釈放されることのないまま拘置所で絶命し、終戦間際その妹は原爆でなくなり、親戚のおじさんも吉野の山で亡くなり、主役級であった教え子も南の海で戦死する。

そして最後には母が老衰で亡くなるというもので、見終わった直後は、なんともオチのない平坦なばかりの映画だったように思いましたが、しかし人間にはこれだというべき華々しい報いだの逆転劇だのというものは、そうザラにあるものではなく、要は諦めが肝心だということを知らされたような気がしました。
生きるということは困難や悲しみの連続で、言いかえれば自分を痛めつけるということなのかもしれません。

人は生まれて、生きて、死んでいく、ただそれだけのことで、別に大層な事じゃない、それが人間だというごく当たり前の冷徹な現実を、そっと鼻先に突きつけられたようでした。

たかだか一本の映画を観たからといって、その気になって、達観したようなことを言いたてるものではありませんが、なんとなく肩の力が抜けたような気がしたのは事実です。ことさら肩に力を入れていたつもりもなかったのですが、より明確に、人の世の現実を認識できた気分です。

人間は際限もなく生まれ、際限もなく死んでいくという、動かし難い事実。
あくせくしたところでどうなるものでもない、そこにほどよい見切りを付けながら、しかし命ある限りは懸命に真面目に、そして愉快に生きるということが人たるものの品性であり努めなのだろうと思います。

現代は諦めるということをやたらと敗北者であるかのような言い方をしますが、際限なく欲にかじりつき、分不相応の幸福追求に明け暮れ、野望の虜になることのほうがよほど恥ずべきことで、それにひきかえ諦めることは数段上等の人間性を必要とする美徳ではないかと思います。

見ていて昔の人は、貧しい暮らしをしながらも、人間としての徳が備わり、心ばえがあり、現代人のような動物的な欲の猛者でないところがなんとも新鮮で、目にも美しく映ります。
これを昔の人は偉かったというのは簡単ですが、必ずしもそうとばかりは思いません。
昔の人がことさら偉いことをしようと思っていたのではなく、みんなが自然に普通にそういうふうに生きていただけだと思います。

忘れもしない三年前、ある年輩の夫婦と話をしたときに、夫人のほうが言われたことは今でもマロニエ君の心に深く残っています。
「むかしはみんなが貧乏で、それが当たり前だと思っていたから、辛いと思ったこともないし、何ともありませんでした。楽しかった。」と。そして、今のほうがなぜかたいへんだという意味のことを言われました。

裏を返せば、みんなが豊かになって、同時に貧しくなったということです。
なんでもかんでも不満ばかりで、いい目にあっているのは他人ばかりで、毎日が不安とイライラの連続です。

ケイタイもパソコンも、車もエアコンも、なんでもかんでも、そりゃあいったんその味を覚えたら逆戻りは出来ません。
しかし、それを自分が知らない状態の時代に逆戻りできるというなら、マロニエ君は本気で戻ってみたいと思うこのごろです。

こういう考えをもって、マロニエ君の今年のお盆は終わりました。
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虫の知らせ?

ほとほと暑い毎日が続きますね。

お盆の初日、お寺に行って、寺内の墓所へまわったところ、その尋常ではない暑さに「衣類乾燥機の中ってこんな感じだろうか…」なんて朦朧としながら思いました。
ずっとそこにいたら、間違いなく救急車に乗るハメになるとも思いました。

聞くところによると、巷では蝉が鳴かない、虫がいない(あるいは少ない)といって、これが大変な話題となっているようですが、本当にそうなんでしょうか?

定期購読している月刊誌のコラムでもその事に触れてあり、関東ではこれがかなりまことしやかに人々の間で囁かれているようです。

例えば車で箱根のターンパイクなどに行くと、例年のこの時期なら、美しい蝶を含むあらゆる虫が走る車に衝突してきて、たちまちガラスやフロント部分などは虫の死骸だらけになるはずなのに、今年は少し様子が違うというようなことが書かれていました。高速道路然りです。

雑誌が書店に並ぶのは、詳しいことは知りませんが、月刊誌の場合、おそらく文章を書いた時点から数週間は経ていると思われますが、その文章によると東京ではやはり蝉の声がしないことを、たいそう深刻な調子で綴られていました。
蝉はもちろん、蚊までもが激減しているというのですが、ホントだろうかと思います。

そういえばひと月ぐらい前だったか、マロニエ君の友人も蝉の声がしないらしいということを尤もらしく言っていましたが、現在は毎日朝から、例年と変わりなく蝉の大合唱でうるさいぐらいだし、我が家の玄関先には蝉の抜け殻があちこちにへばりついているくらいですから、まあそんなに心配することはないのでは?という気もしています。
というか、心配してみたところで、現実にはどうすることもできませんけれど。

いうまでもなく虫の減少に対する心配は、放射能汚染のあらわれだとする説を立証する論拠のひとつになっているもののようで、わかっている人はすでに自衛のための行動を密かに起こし始めているとか。
じっさい、その雑誌によると執筆者の知人はラジオのパーソナリティーをやっていて、自分の番組をもっているにもかかわらず、子供を連れて近く東京を脱出する決心を固めたのだそうです。

これが事実に基づく正しい行動なのか、はたまた情報に踊らされた過剰反応なのか…マロニエ君にはわかりません。

真偽のほどはともかく、過日、関東人のことを書きましたが、どうも関東の人達というのは危機感に対する反応の仕方もずいぶんと大げさというか敏感すぎるようで、やはり日頃の過当競争の習性ゆえだろうかという気もしなくもありません。
我こそは、いちはやく情報をキャッチしてすかさず行動することが自分に利益をもたらし、最終的には我が身を守ることにも繋がるという、競争原理的経験的法則?を体内にもっているのかもしれませんね。

ちなみにその雑誌のコラムにあったのは既婚者の女性で、なんと仕事と夫を東京に残して、4歳の子供とふたりで石垣島に避難するらしいのですが、避難というならなぜダンナさんがそこに含まれていないのかが理解に苦しみますけどね。

少なくとも、マロニエ君だったらこういう考えは御免被りますし、実際にそれほど深刻な状況が事実と仮定しても、夫や係累を見放して、母子ふたり住み慣れない島で生き長らえたところでなんになるのかと思います。
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迷惑メール

一時期おさまっていたヘンなメールが最近また届きはじめています。
いわゆる出会い系のような怪しいサイトからですが、なんだかずいぶんと金銭まで絡んだもののようで、そのいかにも悪辣な雰囲気は見るだけで嫌気がさします。

あらためて言うのもなんですが、マロニエ君はその手のことには一度も手を出したことはなく、なにひとつ身に覚えがないのですが、やはりどこからか個人情報が漏洩しているということ以外に考えられません。
出所さえつきとめられないのが、なんとも悔しいかぎりです。

この手の悪徳メールは、一通来たら終わりで、その後はカタチを変えながら見るだけでもおぞましいようなものがぞくぞくと送り付けられてきます。
パソコンの専門家によると、こういうメール発信は人がやっているのではなく、機械的に際限もなく送り付けるようなシステムがあるのだそうで、とんでもない迷惑です。

もちろん、読みも開きもしませんが、削除する際に目に入る部分というのはあるわけで、それによると手口は一層巧妙化というか悪質化しているようで、個人のお姉さんから直接メールが届いているように写真入りで応答を呼びかけてくるのもから、何十万から百万単位の大金に当選されました!というようなお祝いを装ったメールがひきもきらず届きます。

笑ってしまったのは、それだけの大金をなぜ受け取らないのか?というような不平めいた文言もチラッと見えたことがあったりして、こんなことを本気にするような今どきまだいるのだろうかとも思ってしまいますが。
さらに新しい手口だと思われたのは、金額は知りませんが、入会金だか会員資格だかの「ご入金を確認しました」というもので、払ってもいないものを入金確認ができたなどと言い立てることで、そこから人の関心を呼び込もうかという手口のようにも受け取れます。

たかだかメールといえばそれまでですが、こんなゴミみたいなメールの山を削除しているうちに、間違って大事なメールまで消してしまう危険性もあるわけで、メールボックスを開くたびに目にしなくてはいけない精神的嫌悪を思うと、これは内容からしても、もはやれっきとした犯罪だと思います。

さすがのマロニエ君もこんなメールで警察に通報するのもどうかと思い、いまのところは静観しています。
そうそう、ひとつ「送信停止」という文言があったので、一度だけそこを開いて「大迷惑だから直ちに停止するよう」申し入れましたが、なんと返事が届いて「機械的に停止の処理をするのに10日ほどかかりますのでしばらくお待ちください」とありました。
停止に10日なんていうのも疑わしいし、どうせウソだろうと思いますが、様子を見て対策を考えるしかありません。
まったく不愉快なことですし、漏洩した会社がわかれば責任を取ってほしい気がします。

以前、同様のことがあり困っていたところ、とある印刷会社からメールが来て、そこの管理ミスで情報が漏れた旨の説明と、何通にも及ぶ経過報告と詫び状のようなものが届き、しばらくしたらそれらはきれいになくなりましたので、やはり本気で対策を打とうと思えば打てるらしいことはわかりました。

ところが、今日はふっつりとそれが来なくなりましたから、やはり発信元は一箇所のようです。
申し入れが功を奏してめでたく停止してくれたのか、それともこんな怪しげなメール送信にも人並みに「お盆休み」があるのかと思うと、ちょっと可笑しくなくもありません。
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関東人

関東に引っ越しをしていった友人から聞いた話。

この友人は新しい家にグランドピアノを運び込んだのですが、過日はじめての調律師さんがやって来て、長旅のあとの初の調律作業がおこなわれた由でした。

いきなり笑ってしまったのが、マロニエ君も久々に聞く関東人のあいかわらずな様子でした。
マロニエ君自身も学生時代から8年間関東で暮らしましたので、おおよその関東人の特徴みたいなものは知っているつもりでしたが、久しぶりに聞くその様子には、なにやら時代とともにますますパワーアップしているのでは?と思ってしまうようなものでした。

まずいきなり友人が…ン?と思ったらしいのは、初めての電話のとき、用件が終わっての切り際に、わざわざ「これからプロのピアニストのところで打合せをしなくてはいけませんので、それでは」と言ったそうで、ここでまず最初のチェックをされてしまったようです。マロニエ君も嫌な予感がしつつもとりあえず失笑してしまいました。
電話を切ったあと、その人がどこに行こうと関係ない事なのに、「プロのピアニストのところで打合せ」というところが、この方なりの、まず手始めの自己アピールだったようです。

調律当日も、その顛末というか話の内容を聞くと、呆れて腰がクニャクニャになりそうでした。
どんな話の流れかは知りませんが、その方は自分のホームページは持っていないとのことで、普通はホームページなんてあればある、ないならない、ただそれだけのことですが、そこにもちゃんとした理由があるらしく「自分で作ると良いことしか書きませんから…」「ホームページがなくてもちゃんと人が評価してくれる」などと、さも謙虚で真っ正直な直球勝負の人のようにおっしゃるそうです。

また、自分は今もとても忙しいが、昔はさらに正月など芸能人の登場するような仕事もあったから大変だったが、それが不景気でなくなったお陰でようやく正月三が日が休めるようになったとか、現在は1000人!ぐらいのお客さんがあるなどと、こういうことを来宅してわずか2分以内ぐらいで一気に言い出されたそうです(笑)。

作業時間を含めて、わずか2時間ほどの滞在だったようですが、そんな中にもご自慢トークのあれこれが惜しげもなく連発だったようで、そりゃあなにより精神的に忙しいはずだと思われます。
また、自分がいま支援しているミュージシャンというのがいるらしく、その人は将来必ず大ブレイクするとかで、チケットまでしっかり売りつけられたというのですから、いやはや…。
曰くチケットは「僕は信用があるから、200人ぐらいのコンサートでも声をかければ50枚ぐらいはすぐに売れますから」とのことです。

で、自分のホームページでさえ不要だと言ったわりには、このミュージシャンのホームページに自分の事が出ているのはよほど嬉しいのか、とにかくそこを見て欲しかったらしく、その場でパソコンを開かされ、自分が出てくるページまでしっかり案内されたそうです。
関東人のこんな矛盾は指摘するとホントに際限がないんですが、彼らと仲良くやっていくためにはそのあたりはプライドも絡んでいることなので、敢えて突っ込まないであげることが大事な点なのです。
きっと自分のホームページも本心では欲しいけど、作るとなると大変だし、いまさら出遅れたと思っているのかもしれませんね。
もうこれ以上は控えますが、仕事で来ているのにどことなく意地悪に思える言葉や瞬間もポツポツあったとか…。

まあ、大なり小なり関東人というのはこういう体質が身に付いていて、さりげない会話の中にも、自分が相手に聞かせたいフレーズはしっかり組み込んであって、さも自然に、水が流れるようにさらさらと自慢しまくるのは常識なのです。
毎日のすべてが戦いとやっかみとホラとつっぱりの連続で、とっても気の毒なんです。
ただし、ここで言っているのは、関東人とはいっても、いわゆる先祖代々の地つきの人達というよりは、主には本人もしくは親などが田舎や地方の出で、現在は事情があって関東暮らしをしていて、日夜その荒波をかいくぐって生きている大多数の人のことです。(この調律師さんがどうなのかは知りませんけれど。)

はじめからみんながそんな気質だったとは思いませんが、関東という人の欲の海のような厳しい環境の中で暮らして行くということは、否応なく激しい競争条理に巻き込まれ、動植物が環境に適応するごとく、この荒海に呑み込まれないよう虚勢を張りながら生きる術が身について、ついにはこんなトークが口を開けばオートマチックにできるようになるのでしょう。
例えばその中心地である東京、ここにはたしかにすごいものがたくさんありますが、同時に過当競争も激烈で、最先端で飛び回っているような一握りの人はいいのかもしれませんが、普通の人のごく平凡な生活レベルという点ではかなり疑問があると思われます。

マロニエ君が人から聞いた話で呆れてしまったのは、ある人が言うには「東京に較べると福岡は何かと出費が嵩んで困る」とぼやいていたとか。
えっ?生活費が嵩むのは東京では?と思っていたらそうではなく、本気で倹約して切りつめた生活をするとなると、本当に安いものがあるのはこれもまた東京なのだそうで、福岡などはその下限が甘いからダメだというものでした。
思わず唸りましたが、これもまた関東という地域の地盤の厳しさを表しているように思いました。
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昨日に引き続いた内容になりますが、プロのピアニストの演奏の見た目というものは、単純な体格差においても言えるような気がしました。

マロニエ君は昔からある方の演奏会にお義理で行かなくてはいけない立場にありましたが、その方は教育界の功労者ではありましたが、ピアニストとしてはそれほどでもなく、しかも極端なあがり性で、さらには体格が小柄と来ているので、演奏会ではいつもハラハラドキドキで、そんなときのステージ上のピアノは残酷な黒い怪物のように大きく見えたものでした。

この経験から、ピアノが大きく見えるときの聴く側の苦しみというのもずいぶん刷り込まれていたようで、いらいマロニエ君はあまりにも小柄なピアニストがステージで演奏するのは、まるで子供が座布団を敷いて車を運転しているみたいで、不安感が先行するようになりました。

小柄なピアニストはそれなりに名を成した人であっても、体格からくる制限があるのか、出てくる音もきつい感じであまり好みではないし、音楽もどうしてもスケール感のないものになってしまいます。
以前にショパンコンクールで優勝したポーランド男性も、一定のファンはいるようですが、どうも今以上のピアニストに成長していく予感がしないというか、体格からくる制限みたいなものがあるように思います。

逆に、あまりにも大柄な男性、見るだけで圧倒されるような偉丈夫がピアノを弾くのも、これもまた見ていてあまり心地よくはありません。
こちらは名前を出してもいいかもしれませんが、子供のころに行ったクライバーンのリサイタルなども、まずステージに現れたときからその長身ぶりに驚かされましたし、演奏中も膝が鍵盤下につっかえているのが気になって仕方ありませんでした。なにしろこの体格ですから、フォルテッシモともなると肉眼でもピアノが小刻みに揺れているのがわかるほどで、一夜の見せ物としては面白かったけれども、純粋にピアニストとしては疑問も残りました。

現役でもベレゾフスキー、ブロンフマン、エリック・ル・サージュなどは、演奏の良否はさておいてもなんだか見ていて、いかにもピアニストがXLサイズという感じで、どうしても大味な印象が否めません。

いっぽう女性ピアニストでは、上半身の肌もあらわな衣装を着て演奏する方も少なくありませんが、女性の目から見るとどうなのかは別としても、あまりに痩せこけた腕とか肩の骨なんかがゴツゴツして皮膚の下で動いているような人は、やはりどうしても演奏家としての見栄えがいいとは思えません。ついでながら、あまりに化粧やヘアースタイルや衣装がキマり過ぎなのも逆効果となり、演奏家としての品位に欠けるような気がします。

ピアニストではありませんが、指揮者でも身長はそれほどではない痩身の小澤征爾などは、よく練り込まれた鮮やかで細緻な指揮はしても、どこかその姿と同じで幅広いスケール感というものが不足しがちですが、その点では過日ベルリンフィルにデビューした佐渡裕はその長身と堂々たる体躯そのもののように、音楽にも厚みと腰の座った雄渾さがあり、安心して彼の音楽に身を委ねることができたように思います。

このように、音楽には演奏者の体格が直接・間接にもたらす何かが必ずあるような気がします。
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視覚的要素

楽器と演奏者の間には、傍目に不思議なバランスというものがあります。
バランスといってもさまざまな要素がありますが、ここでいいたいのは主に視覚的な問題です。

先日もある日本人の人気女性ピアニストの弾くコンチェルトの映像を見ていて、なんというか構図としての収まりの悪さを感じてしまい、どうにも違和感を拭うことができずにいる中、あることを思い出しました。

何年も前のことですが、東京のある有名なピアノ輸入元の看板調律師の方といろいろ話をしているうち、なるほど一理ある!ということを言われたことを思い出しました。
それはプロのピアニストに関することでしたが、ステージ上で演奏しているときに、ピアノが大きく見える(感じる)ピアニストは、概して余り上手くない、実力不足の人だという一種のジンクスでした。

彼が言ったのは体格の問題ではありませんでしたが、要するに、ピアノが大きく見えるというのはそれだけピアノを十全に弾きこなすことができていないために、むやみに格闘することになり、演奏に苦労が滲み出てしまって、それがピアノを大きく見せるものだという意味の話でした。
ひと言でいうなら、人間がピアノに負けているということになるでしょうか。

実に納得のいく話でしたし、だいたい目をつり上げてピアノと格闘するように弾く人は、どうしても人間ばかりが空回りしているように見えるからピアノが大きく感じてしまうのだろうと思います。

とくにある時期の日本の女性ピアニストの中には、全身に悲壮感が漂い、表情もひどくこわばりながら、ちょっと荷が勝ちすぎるような大曲などを、まるで我が身を苛むようにして必死に弾く姿が珍しくありませんでした。
こういう人が弾くと、楽しげな明るい曲でも、どうしようもない暗さが影を落としてしまいます。
いかにも小さい時分からピアノこれ一筋に生きてきて、ピアノ以外のあらゆる事を犠牲にしてここまで来ましたという、その人の努力と苦しみの半生が負のオーラとしてあたりに漂うのですが、こうなると音楽を楽しむというより、その人の精一杯の演奏が、ともかくも無事に終わって、お互いにそんな時間から開放されることを願いつつ聴いている自分に気がついてしまいます。

こういうとき、本当にピアノは無情な大きさを感じます。
そしてそのピアニストのがむしゃらな一生懸命さに、なんだかピアノまで同情して困っているようにも見えたりするから不思議です。

ところが、このタイプは近年わりに減ってきたような気もしています。
男女の区別なくみんなわりあいに熱血努力的な雰囲気がなくなり、比較的すんなりと調和的にピアノを弾いているように感じることも少なくありません。これは昔の努力一辺倒の甲子園的な練習地獄から脱却して、合理的なメソードの発達によって効率よく育てられるようになったからだと思います。

ただ、楽々と弾くのは結構だけれども、表現まであえて無理のない枠内に音楽を収めてしまう傾向があり、そのぶん出てくる音楽のテンションまで下がってしまって、いちおうきれいな曲の形にはなっているものの、聴いていて一向に聴きごたえのない、キズも少ないけれども無機質な演奏に終わってしまうのが残念です。

音楽には、感情の奔流や詩情の綾、なにかがギリギリのところまで迫ってくるような訴えかける要素がなくては意味がありません。
心の内側を垣間見るかと思えば、打ち寄せる波と波が激突するような、そういう生々しい迫真性がないまま、こぎれいにまとまったきれいなだけの音楽など、聴いてもなんの面白味もありません。

あまりに無理のない指さばきで淡々と弾かれるのも、見ていてこれほどつまらないものはありませんし、演奏者が今そこでやっている演奏に本気で燃焼している白熱した姿が欲しいものです。
ピアノとやみくもに格闘ばかりするのはもちろんいけませんが、あまり仲の良すぎるお友達というのも大いに問題かもしれません。
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こんなのあるよ

ホームページにコンサート情報のコーナーを作るため、久々に夜中などに情報の入力作業をしていると、なんだか妙になつかしい感触を思い出しました。
すでに一部の方はご存じかもしれませんが、マロニエ君は白状すれば、数年前に友人と「こんなのあるよ」というコンサート情報誌を発行していたことがありました。

ほうぼうからありとあらゆる手段によって集めた情報を、片っ端からパソコンへ入力していく地道な作業をしていた頃のことがふと思い出されてくるわけです。

このコンサート情報誌はどこからのひも付きでもない、もっぱら聴衆の側に立ったクラシックのコンサート情報誌で、福岡県内をその対象エリアとして毎月発行し、情報としてあがってきたすべてのコンサートを開催日順に一斉に並べたものです。
ここではアクロスでやる有名オーケストラの演奏会から、街角の喫茶店で行われる小さなコンサートまで、すべて同じひとつのコンサートとして取扱い、なんの差別もなくこれらを網羅的にコンサート情報として書き連ねたものでした。

毎月、向こう二ヶ月の情報を満載して発行に漕ぎつけるだけでもヘトヘトになる作業で、しかもこれは無料配布でしたから、収入は広告収入がそのすべてで、ずいぶんたくさんの方にお世話になりましたが、金銭的には印刷会社への支払いと、配布するためのガソリン代など必要経費を差し引くと、もういくらも残らず、常に逼迫した厳しいものでした。

原稿の取り纏めから入力、広告取り、仕上げ、印刷、県内への配布などをすべて我が身を削ってやっていましたから、金銭的にはもちろんのこと、時間的、体力的、精神的すべてにわたってなにかを使い果たした感がありました。

これをやっているときの時間の経つのの早いことといったらなく、やっと原稿を仕上げて印刷にまわし、県内各所に配布を終えたかと思うと、すぐに次の号にとりかからなくてはいけません。
情報は自分達で集め、網羅することが目的なので、もちろん無料掲載、無料配布でしたが、広告取りはなかなか思うに任せない仕事ですし、これをやっている間は盆も正月も無関係、当然ながら旅行にも行けないという有り様でした。

ただし、嬉しいことには「こんなのあるよ」はごく短期間のうちに多くの人達に受け容れられて広く浸透し、少なくない支持者を獲得したのはまったく望外のことでした。ついにはこの情報誌を手にあちこちの珍しいコンサートに行ってみるという、少数ではありますが、ひとつの行動様式まであらわれるに至ったのはさすがの我々も驚きましたし、さらには本来聴衆のものであったはずの「こんなのあるよ」が、音楽事務所や演奏家など、多くの音楽業界の人達の間でもひじょうに重宝がられたことは、いま思い返してもがんばった甲斐があったというべき誇れる部分でしょう。
最盛時は、チケットぴあやヤマハなどはもちろん、どこのホールや公共施設に行っても「こんなのあるよ」は必ず置いてありましたし、コンサートに行っても開演前や休憩時間に、熱心にこの情報誌を見ている人をポツポツ見かけるのは決して珍しい光景ではありませんでした。

しかし、もともとが無理を承知ではじめたことでしたから、次第に疲れが嵩み、本業のほうへまで支障が出るに及んで、これ以上続けていると自分達のほうが空中分解することを悟って、ついには廃刊する決意をしました。
2003年3月から2006年5月までの3年余り、約40号を福岡県内のあらゆる音楽関連施設や公共施設などに送り出しました。

その後は広告主の一人でもあった情熱ある方が、この志を引き継いで類似した情報誌を規模を縮小しながら発行されましたが、やはりこちらも残念なことに現在は廃刊となっています。そもそもこういう仕事は個人レベルでできるようなことではないので、もっと大きな組織体によって余裕を持って安定的に発行すべきものだというのが率直なところです。

しかし、自分で言うのもなんですが、ひじょうにわかりやすい、実践に役に立つ情報誌だったと今でも思っていますし、それにひきかえ、今どきはあってもなくてもどうでもいいようなフリーペーパーの類がなんと多いことかと思います。
考えてみれば「こんなのあるよ」がなくなって一番困ったのはマロニエ君自身かもしれません。
そんなわけで、規模の点では遙かに及びませんが、HP内にコンサート情報欄を作ることで、わずかなりとも情報の整理と確認ができたらと思っていますし、「こんなのあるよ」をご存じの方はそのDNAを引き継ぐものと思って見ていただければ幸いです。
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HPマイナーチェンジ

この「ぴあのピア」というホームページを作って約20ヶ月を越えました。

ホームページを作ってという言い方にも実は語弊があり、そのホームページそのものが「ピアノの雑学クラブ」というものを目指しているわけですが、マロニエ君の現在置かれている状況からはなかなかこのクラブに専念してこれを立ち上げ、軌道に乗せるまでの余裕がないのが実情です。
とりわけ「ピアノの雑学クラブ」というコンセプト自体がひじょうに微妙で難しい、つかみどころのない性質があり、ただ単純に人集めをしてさあ出発!というわけには行かないために、いわばクラブの進水式そのものが遅れに遅れているわけです。
こういうわけで、開設以来の開店休業状態をいまだに更新しているという甚だ不名誉な記録を更新しているわけで、なんともこの点はお恥ずかしい限りです。

正直を言うと、それよりも少し前に入会したピアノクラブの定例会に参加して、そこで毎月わずかばかりの小品を弾くだけでもマロニエ君のような根性ナシの怠け者からすれば、たいへんなエネルギーを要することで、そちらに参加するだけでも慣れない練習などをしてゼエゼエいっていたわけです。

さて、肝心のぴあのピアはというと、積極的なクラブ員募集などもしていないにもかかわらず、なんとも嬉しいことに十数名の方がご入会くださり、その皆様各人の情報をメンバー紹介として掲載していたことは、以前からこのHPをごらんいただいた方ならご存じのことと思います。
実名ではないとはいうものの、これは匿名による一種の個人情報という見方もできるわけで、このぴあのピアが活動状態にあって、その上で掲載に同意していただけるのならまだしものこと、それもないまま、ただ個人の好みやらなにやらをこれ以上やみくもに掲載し続けることは、まことに申し訳なく、またいつどのようなご迷惑をかけるかとしれぬと思うと、どうにも忍びがたい気持ちになりました。
そういうわけで、クラブ員の方からはこれまで有難いことになにひとつクレームをいただいたわけではありませんでしたが、熟慮の末、ひとまずこのページを取り下げることにしました。
もちろんクラブ員の皆さんには、ご異存がなければそのままご在籍願うことは言うまでもありません。

さて、その代わりというわけではありませんが、以前から追加しようかと目論んでいた「コンサート情報のページ」を新設しました。
というのは、せっかくコンサートの情報を得ても、チラシがあっても、いざ必要なときにそれはなかなか出てこないものですから、なにか決まった場所に書き留めておくという目的も兼ねて、コンサート情報としてマロニエ君自身はもちろんのこと、もしかしたら皆さんのお役に立つのでは?という思いもありました。

コンサートというのは、よほどの目的や熱意がない限り、すぐに忘れてしまったり、気がついたら終わってしまっていたりと、意外にその情報把握が難しいものなのです。
前々からよほど狙いを付けて行くコンサートは当然としても、時にはふらりとその気になって、なにか自分に都合の良いコンサートがあれば行ってみようかという出来心的な側面も大いにあるわけで、そんなときにいちいちチラシの束を抱えている訳でもなし、さりとてホールのHPなどを必死になって調べる気もしない、そんな気分というのがマロニエ君にはよくあるのです。

だいいち特定のホールのHPでは、当然ながらそのホールに限定した情報しか得られず、だからといってあちこちのホールを跨いで本格的に調べるとなると、これはもう立派な仕事になり、しかも思うような結果が得られないことがこれまでの経験で知っています。

そういうときに、開催日順で書き連ねたコンサート情報があれば、一発で、いつどこで何があるかがとりあえずわかるというものです。

これを作るために、久しぶりにヤマハやチケットぴあなどのチラシ置き場から、あれこれのコンサート情報を頂戴してきましたが、へんてこりんなものもずいぶんあり、これは幸いにも情報誌ではないので、あくまでもマロニエ君の主観による取捨選択をして掲載しています。

個人で気ままに得られる情報ですから、むろん限界はありますが、できるだけこれからはいろいろなコンサート情報にも敏感になって、面白そうなコンサート情報を掲載していきたいと思いますので、お役立てくだされば嬉しい限りです。
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キレイゴト汚染

「一人でも多くの人に元気があたえられたら…」「少しでも笑顔が取り戻せるなら…」

こんなコメント、昨日もまた新聞で見てしまいました。
キレイゴト真っ盛りの日本列島ですが、とりわけ3月の東日本大震災いらい、この手のセリフは飽きられることもなく日本全国のありとあらゆる機会に発せられているようです。
こういう、いかにも実のない言葉の横溢の中で、殊勝な顔をして過ごして行かなくてはいけない現代人は、毎日が偽善にあふれ、だから人の心にも必要以上に闇が生まれ歪んでくるようにも思います。

もちろん、その言葉が本当に適切で妥当な使いかたをされるのならば構いませんが、マロニエ君の印象としては99%不適切な使い方をされているようで、この種の言葉を聞くたびにウンザリします。
また感性の点においても、このようないかにも独創性のない、紋切り型の便利語を撒き散らしているうちは日本は本当の幸福を手にすることは出来ないように思います。

被災地から遠く離れた場所で、ただ単にささやかなコンサートやイベントを開くのに、いったいそれが被災者とどういう関係性があるというか、その主張がまるで意味不明です。おそらくこういうコメントを本気にして、心からそう信じている人などいるはずもなく、みんなこういう言葉は建前だということがわかっているのだと思われます。
中にはチケット収入からささやかな義援金を送るなどの行為もなされているのかもしれませんが、だったら黙ってすればいいわけで、それをいちいち前面に出して声高に言いたがるのは、こんな立派なことをやっているという自己宣伝としか受け取れません。

むろん中には復興支援のために本当に役立つ催しもあるでしょう。それならばその甲斐もあるというものですが、ほとんど個人レベルのものとか、震災とはどう見てもなんのかかわりもないようなものに、いちいちこんな建前を便乗的に貼り付けて、お手軽に時流に乗ろうとするのは、かえって不誠実で、ものを考えない日本人の本当に悪いクセだと思います。

コンサートなんてものは、要するに主催者と演奏者の都合によってのみ開かれるものです。
さらにそれが被災地から遙か遠く離れた地域で行われる小規模コンサートとなれば、聴きに行く人の実態もお義理やお付き合いなどが大半ですが、その人達が、そのコンサートを聴くことによって、震災その他で傷ついた心が少しでも癒され、ましてや元気が出るなんて、そんな魔法みたいな現象など起こるわけがないでしょう。

主催者や演奏者が本当にそんなことを思っているのだとしたら、それは途方もない傲慢と勘違いであって、おめでたいことこの上ありません。
自分と関係者の都合だけでやっているコンサートに、よくこんなご大層な看板を脇に立てて、まるで慈善事業でもやっているような口ぶりになれるものだと思います。

本当にそう思うのなら、現地に入ってもっと実利的な奉仕作業でもやってこそではないでしょうか。
さらには本当に日本人が元気が出るとするなら、それは少しでも健全でまともな政治が行われ、さらには有能かつ信頼できる指導者が復興の指揮を執って政治経済の両面からの建て直しが達成され、それによって人心がいくらか報われたときだと思います。

マロニエ君もいいかげん音楽は好きですが、だからといって思いつきのような手作りコンサートのたぐいに行かされても、それで元気が出るなんてことはあるわけがない。本当に優れた音楽からは感銘は受けますが、それで少しでも元気が出て笑顔が戻るなどというのはどういうことなのか、理解に苦しみます。

たぶんそのあたりはみんな直感的には感じていることだろうと思いますが、今はこの手のセリフを使っていれば誰も文句が言えないし、一番安全なんでしょうから、それを乱発することについては社会が馴れ合いで、そこは深追いしないという暗黙の了解があるのです。マロニエ君は日本人のこういう部分が嫌いです。

そもそも自分の宣伝や利益にしか興味がなく、偽善や無責任に何ら抵抗感もないような人に限って、いかにも人の不幸に心を痛め、救いの手を差し伸べたいというようなことを軽々しく言えるのだと思います。

現在のような国難に際して、いささかでも憂慮の念があるのなら、せめて変な便乗はしないで、誠実に自分は自分のなすべき事を進めればいいのだと思います。
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コンサート探し

グルーポンとやらをときどき利用している友人がいます。
いつごろのことだったか忘れましたが、その友人からチケットぴあのギフトカードが半額であるという話があり、1万円分が5千円で買えるというので、とりあえず買ってもらいました。

これという目当てのコンサートがあったわけではないものの、そのうち使うだろうぐらいに軽く考えていました。
ところが、そのギフトカードが届いてからというもの、行ってみたいと思うコンサートがなかなかありません。

マロニエ君にとって、気の進まないコンサートのチケットを買って行くなど、考えられないことです。
やはり長引く不況に東日本の震災がダメ押しとなって、目に見えてコンサートの数が減ったのは間違いありません。
とくに小ホールで行われるピアノリサイタルのようなコンサートが激減しているようです。

一方で、ドカンと大きな来日演奏家のコンサート、とりわけオーケストラ関係はいくらなんでもという価格の高騰に呆れてしまいます。
秋にキーシンがシドニー響とショパンの1番を弾くのですが、GS券はなんと2万円!二人で行けば4万円ですから、そこまで出して行く気にはなれずに断念しました。
もちろん席によってはもっと安くはなりますが、マロニエ君はコンサートに行く以上はある程度の席でないとイヤなのです。演奏者が豆粒のようにしか見えない席で、輪郭のないブワブワした音を聴くだけなら、そこにあまり個人的には価値を見出せないからです。
よく、安い席のほうから売り切れていくことがありますが、あれは実のある倹約とは思えません。

シドニー響に限らず、海外のオーケストラのコンサートなどはもはや以前のように気軽に行けるものではない価格となり、逆にコンサート離れが起きるのではないかと思います。
これがもっと有名な指揮者とか格上の楽団になると、さらにチケット代は上昇し、一度来れば日本各地を巡演するのですから、本来の素晴らしい音楽を聴けるというよりは、なんだか荒稼ぎに来たという印象しかありません。

よほどのお金持ちならともかく、ちょっと一回のコンサートを聴くのに、家族などと行くとなると何万円もの出費となると、いかに音楽が好きでも、よほどのものでないと躊躇してしまうのが普通の感覚ではと思います。
しかもそれらは、昔のように歴史的演奏会に立ち会えるかもというような期待感はなく、だいたいどんな演奏会になるのか今どきは結果が見えてしまうところが、いよいよ憎たらしくて気分が高ぶりません。
とりあえず立派な演奏だけれども、ビジネスの臭いがしていて、山場も感動もちゃんと計算され準備されているような、それでいて気持ちのこもらない仕組まれたシナリオ通りみたいな演奏。
そう思うと「やーめた」という気になってしまうのです。

それはともかく、上記のギフトカードは使用期限が9月いっぱいですから、だんだん猶予もなくなって来た気がして、先日など地元のオーケストラの定期演奏会に行こうかと思い、ほとんど妥協的にチケットを買う気になっていましたが、やはりどうしても指揮者が気に入らずまたしても断念。

まだ使用期限まで2ヶ月近くあるので、そのうち秋のコンサートが少しは出てくるだろうという期待を込めて、静観することにしました。
安く買えたのは結構なことでしたが、かえって変な悩みの種を抱え込んだ形になりました。
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メナヘム・プレスラー

メナヘム・プレスラーというピアニストをご存じの方も多いことでしょう。

世界的なピアノトリオであったボザールトリオの創設者で1923年の生まれですから、今年で88歳、日本でいう米寿にあたり、現役最高齢のピアニストの一人といえるでしょう。

このボザールトリオは実に53年間という長きにわたって世界トップクラスのピアノトリオとして輝かしい活動を続けましたし、リリースされたCDなども果たしてどれだけあるのでしょうか。
このトリオは2008年に惜しくも解散されましたが、その理由などはマロニエ君にはわかりません。
マロニエ君にとっても、メナヘム・プレスラーはなにしろボザールトリオの中心的な名ピアニストでしたから、もちろんそのCDも我が家にはたくさんありますが、実際の演奏会は聴かずじまいでした。
映像などでいかにも印象的だったのは、音楽に没入しつつも常にあとの二人を気にかけてアンサンブルをいささかも疎かにしない、プレスラーの真摯なそしてひじょうに闊達な演奏態度は、見ているだけで音楽そのものという印象を受けたものです。

そんなプレスラーが、今年6月、東京でソロリサイタルを開いたというのですから、いやはや驚きです。
これまでにプレスラーの演奏はずいぶん聴いた気がしますが、それはすべてボザールトリオの演奏であって、ソロは一度も聴いたことがありませんでした。
プログラムはベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第31番/ショパン:マズルカ/ドビュッシー:版画/シューベルト:ピアノ・ソナタ第21番 変ロ長調 D960というものだったようですが、そこから後半のドビュッシーとシューベルトの演奏がNHKの音楽番組で放映されました。

インタビューにも答えていましたが、何を聞かれてもサッとタイミング良く話し始めるその様子ひとつとっても、とても90歳近い人物とは思えません。
とくにシューベルトの最後のソナタに関しては、大変な曲なのでずっと避けていたが、弾かなくてはならない時が来たという答えが印象的でした。

演奏は大変立派なもので、とくにドビュッシーには気品と輪郭があって素晴らしかったと思います。
シューベルトは第2楽章の寂寥感が印象的でしたが、後半は若干お疲れを感じないでもありませんでしたが、それでもよくこんな大曲を弾き通せるものだと感嘆させられました。強いて言えばもう一歩深さがあればという印象…。
また舞台上での足取りなどは実にしっかりしていて、まったくふらついたところなどありません。
他日は室内楽なども演奏したようで、まことに精力的なスケジュールです。

いかに矍鑠としているとは言っても、現実の歳は歳なのですから、それでいまだに海外へ演奏旅行に出かけ、その地でこのような重量級の演奏会をするとは、世の中には凄い人物がいるものです。

会場はサントリーホールのブルーローズ(小ホール)で、ここはホールといってもフラットな床の広間に椅子を並べただけの、いわばホテルの宴会場のような場所ですが、プレスラーほどのピアニストのリサイタルなら、もっと相応しい会場が東京にはいくらでもあったように思われて、ちょっとその点は納得がいきませんでした。

ちなみにピアノはスタインウェイでしたが、正確なことはわかりませんが、見たところ10年経つか経たないかぐらいのピアノだったように感じました。ごくごく最近のものとは違い、まだいくらか良さが残っていたと思います。
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今こそ狙い目

円高が止まりません。
こんな書き出しは、まるでテレビニュースのつかみのセリフのようですが、実際にそのようですね。

アメリカドルばかりを基軸に見てしまいますが、ユーロも一時期に較べるとかなり安くなっているようです。
その原因や仕組みはマロニエ君に詳しいことはわかりませんが、政府の信じがたい無策も大いに関係があると思われますし、一方でドルやユーロに対する信頼が低下していることもその一因だと思います。

むろん、輸出に経済の大半を依存している日本にとって、この円高はタチの悪い慢性病のようなもので、これ以上円高が進むことは、どう見ても好ましくないことは誰の目にも明らかでしょう。

子供でもわかる理屈で言うと現在の円高は、海外で物を買えば大いに得をし、逆に海外で物を売る側は大いに損をするということになります。

そこでピアノの話ですが、お金を持っている人は、今のこの時期に海外からピアノを買えば、かなり安く買えることは間違いありません。
たとえばアメリカで定番のニューヨーク・スタインウェイを買うとします。
アメリカで売られているニューヨーク・スタインウェイは日本で通常売られているハンブルク・スタインウェイとは新品価格そのものが違いますが、ではこれをニューヨークの本社に行ってパッと買えるかどうかとなると、そこはわかりません。
というのもスタインウェイ本社はスタインウェイ・ジャパンという現地法人を作っていて、そこが日本での輸入元みたいなものですから、単純に個人相手にアメリカでピアノを売って運送手配までしてくれるかというと、そう簡単ではないかもしれません。

でも、仮にそうだとしてもいくらでも抜け道があるのであって、全米にたくさんあるスタインウェイ取扱いのピアノ店に行けば、そこのオーナーは相手がだれであれ商売なんですから喜んで売るはずです。

また、ぴあのピアのホームページにもいくつかの海外のピアノ店をリンクしていますが、それらの多くは中古価格などを載せていますから、おおよその相場というものがわかります。
とくに戦前の素晴らしい楽器がたくさんあることはさすが本場というべきで、あれこれ見ているだけで時間を忘れてしまいます。
日本の有名な専門店なども、この手のピアノ店から仕入れをしているというウワサで、彼らの仕入れ値はまた少しは違うのかもしれませんが、いずれにしても現在の円高を武器に挑めば、かなり有利な価格で憧れの名器を我が物にできるという、現在はそんな恰好の時期でもあると思われます。

時間さえあれば、アメリカの往復航空券など10万以下でもありますし、語学に自信がなくても現地で通訳を雇ってもたかが知れています。
しかも現在は航空便の値が下がり、ピアノもこちらがメインの時代になりましたから、気に入ったピアノがあれば、出荷から一週間で日本に届き、前後の時間を考慮しても、一ヶ月みておけば自宅にピアノが届くのはほぼ間違いないと思われます。

アメリカはああ見えてもピアノ大国で、スタインウェイの本社もニューヨークなのですから、修復やリビルドの技術も高く、新品のように美しく修復されたマホガニーのピアノなど、見るだけでもため息がでるようです。
美しく再生された黄金時代のスタインウェイは、マロニエ君などはもはや文化財のようにさえ思っています。

繰り返しますが、こういうピアノも日本よりも相場が安い上に、なにしろこの円高ですから、おおよその円の適性価格といわれる1ドル120円を基準にすれば、それだけでも今は本来の2/3の価格で買えるというわけで、どのモデルでも、きっと望外の価格で購入できると思います。旅費や運送費を考えても元は取れるどころの話ではありません。

おまけにピアノを買いにアメリカに行くというのも、なんともオツなものじゃありませんか。
たぶんヨーロッパでもある程度似たような状況かもしれません。
ああ…やってみたい。
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我子の七光り

天才音楽家というのがときどき現れます。
その天才ぶりも様々ですし、とうぜん天才のあり方も一人ひとり違っていて、本当に深い感銘を覚えるような演奏に接することがある一方で、あまり感心できない場合もあるわけですが、いずれにしてもその才能は並のものではないことは疑いようがありません。

現代社会は何事につけてもいちいちが比較の社会であり、この時代に生きる人達は好むと好まざるとにかかわらず、なんらかのかたちで厳しい競争条理の中に放り込まれているもというわけです。
家族がちょっといい会社に勤めていたり、子供がちょっと有名な学校にいっているぐらいでも鼻高々だそうですから、ましてや我が家から「天才」が現れたとなると、それはもう尋常な喜びようではないでしょうね。

天才とはエリートのさらに上に位置する特別な存在ですから、それが嬉しいことぐらいわかりますが、そこから先どういう行動を起こすかが、とりわけ親の品格だと思いますし、それがひいては我が子のためにもなると思うのですが。

マロニエ君が見ていてどうにも首を捻ってしまうのは、天才が出現して世間で話題になると、しばらく間をおいて今度はその親が書いた本が書店に並ぶのが今どきのパターンです。
もちろん親は作家でも物書きでもなんでもないのですが、話題の天才の親というその事実だけで、本を出すに値する資格をもっているかのごとくで、出版社も煽り立てくるのかもしれません。

日本というのは不思議な国で、本当の正しい判断力として若い才能を見つけ出すことはできないくせに、ちょっと有名なコンクールに優勝したり、なにかマスメディアが取り上げるような話題になって、ひとたび脚光をあびると、今度は手の平を返したように過分な扱いをするようになります。
本当に素晴らしい誠実な音楽家が、小さなホールでささやかなコンサートをするにも集客で苦労するのを尻目に、話題の天才というレッテルが貼られるや、大ホールのコンサートを立て続けにおこなっても悉くチケットは完売し、東奔西走の毎日がはじまるようです。

こうなると、あらゆる関連業種が儲けのおこぼれに与りたいと本人やその家族に群がり、そこから上記のような著書が出版されるのだろうと思われます。文章書きが不慣れな人にはゴーストライターがつくのはむろんです。

最近は、アーティストのほうでもいつでもスタンバイ、売れたらアクセル全開が当然のごとくで、たとえば昔、ポリーニがショパンコンクールに優勝したのちにさらなる勉強のためにコンサートを休止するような、ああいった振る舞いをする人は皆無になったように感じます。
おっとり構えて勉強などと言っていたら、あっという間に背後から追いこされて終わってしまうという現実もあるのかもしれませんが、ともかく、天才本人も家族も、過剰なほど時代認識ができていて、稼げるうちに稼ぎまくるといったような、あまりに露骨な印象を与えるのは一音楽愛好家としては、どうにもやるせないものがあります。

とりわけその道のシロウトである親が我が子をネタにいきなり本を出したり、子育てをテーマとした講演などに飛び回る様子は、天才の親どころか、子の七光りを受けてはしゃぎまわっている俗人そのものの姿でしかありません。
多少は相手側からのリクエストもあるのかもしれませんが、それをこうもやみくもに応じるということは、やはりご当人もそれを我が世の春のごとく喜んでいるのだろうと思われます。

昔の芸能界には、売れっ子の我が子を食いものにする非情な親や親戚という構図があったようですが、クラシックの世界で子供をネタに親までもがあれこれと露出したり小遣い稼ぎの手段にするというのは、もうそれだけでその人の演奏に興味がなくなってしまうようです。
娘が有名スポーツ選手になった勢いで、親が国会議員になるような時代ですから、本を出して講演を渡り歩くぐらい甘いもんだといえば、そうかもしれませんが。

以前書いた○○家にヴァイオリンが我が家にやって来る本の一家ですが、すでに親兄妹の間で、想像を超えるほど何冊もの本が出版されているのには驚きました。これなどはまさに互いの知名度を互いに利用し合って相乗作用を起こしているようなもので、とにかく利用できるものはなんでも利用するという抜け目のなさが現代の流儀なのかもしれません。
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ウゴルスキのCD

過日はウゴルスキのスクリャービンのCDに関して、ひじょうに悔しい失敗をしてしまいました。

ロシア出身のピアニスト、アナトゥール・ウゴルスキ(1942年〜)はリヒテルやホロヴィッツ亡き現在、ロシアが輩出した巨人ピアニストの最後の一人といえるかもしれません。

ウゴルスキはピアニストとしてロシアでは一定の名声を獲得してレニングラードの教授などもしていたものの、ある時期から深刻な迫害を受けるようになり、いらいピアノを弾くこともできない苛烈な時期を過ごすなどして、1990年ついにドイツに亡命。そこからが彼の非常に遅い西側へのデビューとなりました。

その並外れて壮大なスケールと緻密さの合わさった演奏は、たちまちグラモフォン(当時は現在と違ってまだお堅い体質の時だった)と専属契約を交わすこととなり、いらい幾つものCDがリリースされましたが、彼の演奏に見られるpppからfffまでの驚異的なダイナミックレンジの広さと作品に対する深い洞察は抜きんでており、それを演奏として可能にする強靱かつ透徹したゆるぎないテクニックには、当時世界中がこの新たな才能の登場に驚いたものでした。
その後はグラモフォンからはゆったりしたペースでいろいろなCDがリリースされ、その大半は購入していましたし、日本へも何度か来日を果たしてその並外れたスケールの圧倒的な演奏を聴かせたものです。
とくにNHKでも放映されたベートーヴェンのディアベッリ変奏曲などは非常に強烈な印象を残す見事なものでした。

そんなウゴルスキですが、その後はあまりCD等が出てくることがなくなり、どうしたのだろうかと思っているところ、ドイツのAvi-musicというあまりなじみのないレーベルからスクリャービンのピアノソナタ全集をひっそりとリリースしていることを知りました。

マロニエ君は店頭のほか、ネットでもしばしばCDを購入するのですが、この手のマニアックなCDは取扱量が圧倒的に勝るネットのほうが有利なのはいうまでもありません。
しかしこのCDは、あるにはありましたが時間を要する取り寄せ商品になっており、とりあえず「お気に入りリスト」にまで入れておいて、他のものと一緒に注文しようと思っていたら、あるときリスト上からこれが消去されていることがわかりました。
吉田秀和氏の文章にも、このCDのことが書かれており、久々のウゴルスキの新譜を発見したという調子の文章で、いきなりマイナーレーベルからのリリースを不思議がっている様子でした。

マイナーレーベルが困るのは、録音自体があまりよくない場合があること、入手できない場合が多いこと、すぐに廃盤になったりと、なにやかやと危険率が高いことですが、現に取り寄せ可能だったウゴルスキのスクリャービンが早々にリスト上からも消えてしまったということは、経験上、廃盤になったと解釈せざるを得ませんでした。
いかにウゴルスキといえどもマイナーレーベルでのスクリャービンのソナタでは、なかなか売れなかったのだろうと…。

ところが先日、天神のCD店の店頭でいきなりこのCDを発見!!思わず狂喜してしまいました。
ははあ、こんなところに売れ残りがあったのだ、灯台もと暗しだったと思い、これを逃せばもう手に入らないとばかりに迷わず買い求めました。

帰宅してさっそく聴きながら、なんとなくネットのほうを再度検索してみました。
気持ちとしては、自分が手に入れたもんだから市場には「無い」ことをもう一度確認したかったわけですが、なんと意に反してあっさりこれが出てきて、しかも「在庫あり」になっているのにはビックリ。さらに許しがたいことには他商品と3点以上まとめて買うと割引の対象にさえなってお入り、4900円ほどで買ったものがその場合は3300円ほどになるのを知ったときには、気分は一気に谷底に突き落とされる思いでした。

どうやら店頭にあった商品は、最近大量に再入荷した折に各店舗にもまわってきたのだろうと推察されました。
しばらくキリキリしましたが、しかしウゴルスキの力強くもほの暗いエレガントなピアノを聴いていくにつれ、そのゆるぎなさと艶やかな響きなど、あいかわらずの第一級の演奏に満足を感じ、しだいにそのショックも和らいでくるようでした。
録音もメージャーに引けを取らない非常に優秀なものだったのも嬉しいことでした。

めったにないのですが、やはりありますね、こういう失敗。
ですが、こういうことには立ち直りの早いマロニエ君なのです。
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ジミのハデ好き

人は他人を、知らず知らずのうちに外観でなんらかの判断しているようです。

考えてみれば視覚というのも重要な情報源であって、視覚的要素だけを完全に切り離した判断などは極めて困難であり、そもそも自然に反することだろうと思います。視覚情報は無意識の中で大きな割合を占め、なんらかのイメージの形成に少なからず影響があるというのが現実だと思います。
どんなに「見た目じゃない、内容重視だ」といってみたところで、視覚から得た情報にまったく左右されないなどと果たして言い切れるでしょうか? 
言いきれる人がいるとしたら、それはとんだ思い上がりか、はたまた並外れた能力があると言わなくてはなりません。

人が他者を認識する上で、話の仕方や内容、性格など相手から伝わる様々な印象に、顔かたちや雰囲気などの視覚的な要素は当然ながら絡んでくるわけで、その総和によって自分なりのイメージというものを作り上げていることは否定できません。

ところがこれで裏切られ、大変な間違いを犯すこともあるわけで、後になっておおいに「見誤った」ということがあるのは事実で、その中には非常に意外なひとつの厳然たるパターンを見出すことができるのです。

それがタイトルの「ジミのハデ好き」というわけです。
地味な人というのは、典型的なタイプで言うと、存在感がない、立ち居振る舞いもジミ、性格も目立たない、人の印象にも残らない、社交性がなかったり、頭が良くても才気がなかったり、オーラとは無縁であったりと、やはり外観もそれに応じて地味な印象の人が多いものです。
その言動も、なにかにつけ表に出るタイプではなく、陰と陽なら陰の役割で、必ずその他大勢に分類されるタイプというところでしょうか。

こういう人と接していると、ごく自然な印象として、おそらく何事にも控え目で静かなタイプ、真面目というか慎重というか、「派手なことはむしろ嫌いなのだろう」という印象を自然に抱いてしまいます。
ところが、それがまったくの誤りだということに気が付く時が、あるときふいにがやってくるのです。
それは、その人のいろいろな言動に触れることによって、内面の本質が少しずつ見えてくる時といってもいいかもしれません。

もうおわかりですね!
こういう地味な人に限って、内心では相当の派手好きだったり、目立ちたいという願望や憧れを人一倍強く持っているということがあり、実際このタイプはかなり多いと思います。そして最終的には、普通のハデ好きな人もはるか及ばないほどのハデ好み、目立ちたがりだったりするわけですから、それは常に屈折した形でしか顕れることはありません。

きっと自分では華やかでありたいという内なる欲求が、自分の中で長年醸成され膨れ上がって巨大化し、しかしそれは何重にもジミな包装紙にくるまれ、あくまで隠匿されてきたせいだと思われます。
人間は「自分にないものを求める」という言葉通りなのかもしれません。
強烈な上昇志向の持ち主が、実は暗い生い立ちの反動だったりするのと共通しているかもしれません。

マロニエ君はさまざまな矛盾からある時この法則的事実に気が付いて、はじめは大変意外に思ったものですが、心理形成としては大いに納得し、思い当たる人々をあれこれを当てはめてみると、その法則がバンバン当てはまりました。

たとえば、ネット上では大いに語りまくる多弁この上ないような快活な人が、実際に会うと言葉も少なく伏し目がちな、予想とはかけ離れた別人だったりして唖然とさせられるようなことがしばしばあり得ることは、むかしオフ会などを経験した人ならおわかりだと思います。

ブログなどにもそれがあり、現実からは程遠い別世界を作り上げ、そこの主となり、これでもかという自己願望の放恣な羅列を目の当たりにすると、人の内面の怖さを覗くようでゾッとすることがあるのです。

人間は極めて奥の深い複雑怪奇な生き物であることは否めませんが、だからといって、あまりにも秘めたるマグマを抱え持っているというのは、笑っているうちはいいですが、最終的には多重人格的というか、どこか怖いものがありますので、これの甚だしい方とは極力かかわりたくはありません。
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日時計の丘

福岡市南区の丘の上にある「日時計の丘」に行きました。
来月ここを使わせていただくので、下見を兼ねて知人と2人でいきましたが、オーナーの方はご不在で奥さんが対応してくださいました。

往きの車の中で、知人は、ああいう文化的な空間を作る人はきっと芸術家なのではないだろうかと言いましたが、マロニエ君は直感としてそんなはずはないだろうと思いました。そんなことを話しながら約束の時間にやや遅れながらも現地へ向かいました。

まずこの点は、やはり想像通りで、ここのオーナー殿は地元の大学で哲学の先生をされていたらしく、近年退官された御方だということを夫人から伺いました。
マロニエ君がなぜ芸術家ではないと思ったかと言えば、芸術家は自分が芸術の創り手なのですから、芸術全般に過度の美しい憧れのようなものをいだいているはずがないし、苦闘は絶えず、芸術界の裏表や実情も知るところとなり、芸術をあれほど美しい崇高な理想として捉え続けることはできるわけがないと思われたからです。

芸術分野における趣味人の出自をみると、大学でいうところの文系は極めて少数派で、圧倒的に理系の人が多いのは、一見意外なようで驚くべき事かもしれません。一説には音楽と数学は隣同士などともいいますし、美術と化学もひょっとしたらお近いかもしれませんが、概して理科系と芸術界は真逆の世界に位置するのであって、だからこそ純粋な鑑賞者のスタンスでこれらに手を伸ばし、その内なる美に酔いしれることができるのかもしれません。

日時計の丘の夫人はドイツの方で、ご主人との日常会話はドイツ語の由。ご自分の日本が拙いことをしきりと詫びておられましたが、それはまったくの謙遜で、とても品の良い日本語を話されることにも驚かされました。

まずは全体を案内してくださり、ピアノのあるギャラリーを一巡した後は、中ほどに設置された階段を上って二階へ向かいます。二階は小さな図書館ということで四方の書架の中央にテーブルがあり、ここで定期的に朗読会やさまざまな勉学のためのイベントがおこなわれているようです。更にその奥には、文字通りの文庫があり、無数の書籍で部屋中の書架という書架をぎっしりと埋め尽くされていました。
ちらりとしか見ませんでしたが、文学書からおそらくは哲学などの専門書まで、高尚な本が見事に蒐集されている、いわばそこは知性の空間でした。

さらに二階にはコンサートのときの出演者の控え室というか楽屋にあたる部屋もあり、専用の化粧室まで準備されているのは驚きでした。

階下では先日のコンサートのときと同様、L字形の空間には無数の絵画が展示されています。
その特徴は大型の油彩画などではなく、どちらかというと小ぶりな版画などが主体ですが、それがかえって好ましい軽快さにもなっているようです。夫人の話によると作品はときどき掛け替えられるとかで、奥の扉の向こうにはさらに多くの作品が収蔵されているということでした。

マロニエ君はずいぶんこの夫人と話し込んでしまいましたが、この建物はいわばご主人の趣味の集大成といえるもので、その構想から細部にいたるまで夫人の出る幕はないとのこと。そのご主人の猛烈な凝り性と情熱の前ではさしものドイツ女性も匙を投げているといった様子だったのが妙に笑ってしまいました。

ここにある101歳のブリュートナーはたいへん元気で、3年前にウィーンから日本にやってきたそうです。
ブリュートナーはドイツピアノの中でも艶やかな美しい音色であるのに加えて、天井が高いので、ふわりとした響きがあり、思わずうっとりするような美しい音の空間が広がります。
戦前の古いピアノというのは、弾く側がごく自然に楽器を慈しむような気持ちにさせられてしまう魔法のようなところがあり、こんなピアノをガンガンと心ないタッチで弾かれることのないようにと願うばかりです。

またこの空間は人の背丈よりも遙か高い位置にある大きな窓が採光の役目を果たし、そこから入ってくる自然の光りは、いったん周りの白い壁やらなにやらに繰り返し反射しながらこの空間をやわらかに照らすので、心地よい自然の間接照明となり、それはまるで宗教画に降り注ぐ光のようで、なんとも心が洗われるような気分になるのでした。
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カラオケ族

マロニエ君は自慢でありませんが、これまでに一度もカラオケというものを歌った経験がありません。
これを言うと、へええ!と呆れられることもありますが、人前でピアノを弾くのが超苦手のマロニエ君としては、まさかカラオケでマイクを片手に人前で熱唱するなど、絶対に無理です。
あるとすれば家族が強盗に出刃包丁でも突きつけられて「歌え!」と脅されたときぐらいのものでしょう。

ところが世の中には、このカラオケがのめり込むほど大好きで、我こそはとマイクを奪い合い、中には大会に出るために芸能人張りの衣装まで拵えてステージに挑む人も少なくないというのですから、いやはやその鋼鉄のような心臓には、ただただ恐れ入るばかりです。

最近つくづくと思うのは、シロウトが人前でピアノを弾くという行為を見ていると、下手をすると、このカラオケのマイクの争奪戦に通じる要素が潜んでいるのではないかということです。
歌がピアノになり、マイクが椅子になるというだけの違いではないかということ。

ピアノクラブの定例会では弾く曲も事前に伝えてあり、一定の流れと制約がありますが、それでも余り時間になれば空気が自由になり、ある種の兆候はやや見て取れるものです。
そして、それが一気に噴出するのは「練習会」という、すべてが自由時間のピアノを弾く会などです。
この練習会に限らず、なにかの折に素人がピアノを弾く姿を見ていると感じるのが、上記のカラオケ好きと類似した状況ではないかということです。

マロニエ君もピアノが好きな者の一人として、そこにピアノがあれば弾きたいという単純素朴な気持ちが湧きおこるの理解しているつもりですが、同時に遠慮や気後れがあるのが普通かと思っていました。ところが、むしろ控え目な感じの人などが、ピアノを前にすると人が変わったように、弾きたがり屋に変身するのは唖然とさせられます。

何事においても、ひとつのものをみんなで共用して楽しむ場合には、本質的に遠慮と譲り合いの精神が求められますし、何度か弾けばもうそれで充分じゃないかと感じますが、現実はそうではないようです。
これは一定のところで自制しないことにはキリがないし、それ以上弾きたいのなら自宅か別所でやるべきです。

もうひとつは、趣味の集まりなのだから腕前の巧拙は当然不問ですが、それでも、少なくとも人前で弾く以上は、その人なりの最低限の練習を経たものだけにすべきだとマロニエ君は考えます。

たしかに名前は「練習会」ですが、そこは自分ひとりの空間ではなく、じっと聴いて(くれて)いる人がいるわけですから、ただ自宅と同じような練習のようなことをしたら完全な迷惑行為といえるでしょう。
ピアノのサークルやクラブは、お互いの演奏を我慢して聴くという、いわば「相互我慢会」なわけですから、その認識と平衡感覚だけは失ないたくないものです。
周りの人の善意の気持ちにも限界があることも考慮すべきでしょう。

ごく普通のマナーとして、聴いている人への礼節と謙虚な気持ち、誠実さみたいなものが感じられるものであってほしいのですが、くどいほど何度も弾いたり、ほとんど譜読みの段階のような状態をさらしてまであえて人前でピアノを弾くことに、いったいどんな意味や満足があるのか…マロニエ君にはわかりません。
それでも人前演奏が快感で止められないというのなら、それはビョーキです。

それでも、まだ陽気に楽しく笑いながらやるぶんは周りも救われますが、表向きは真面目派で態度も控えめなのに、実は静かに露出好きというのでは、なんだか暗いマグマが潜んでいるようで恐いです。

ピアノが音を出すものである限り、気を遣うべきはマンション等の近隣だけでなく、同好の周囲に対しても一定の抑制と気遣いが必要ないはずはなく、これはピアノを嗜む者として、常々に認識しておきたいものです。
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なんで映るの?

実をいうとマロニエ君は(以前も書いたことがありますが)大型電気店にいくと体調が悪くなる体質です。
数年前まではそんなことはなかったのですが、ここ1年ぐらいは行って30分もすれば確実に悪化します。
さらには、ピアノにダンプチェイサーを取り付けて、始めにスイッチを入れてからの半日も同様の症状がでました。

これは電気製品に使われる化学物質の何らかのもの(塗料や接着剤など)が熱によって空気中に放出されることによるもので、物知りの知人によると、これはハウスシック症候群と同種のものだそうで、当初疑っていた電磁波の類ではないらしいそうです。

昨日書いた、先週末ビデオレコーダーを買いに行った際にも、待たされ時間が長かっために店内の滞在時間は1時間近くに及び、そのせいで予想通り体調はみるみる悪化し、まるで乗り物酔いでもしたときのような不快な症状と顎が外れるほどの生あくびの連発という苦しい事態に陥りました。
これがなんとか治まったのは夜の12時近くになったころで、回復にはどんなに早くても5〜6時間は要します。

さて、そんな肉体的犠牲を払ってまでデジタル放送対応のレコーダーを買ったわけですから、準備万端ととのい、さあいつでも来い!という態勢でアナログ放送終了の日曜日を迎えました。
聞けば昼の12時から夜の12時まで、段階的に停止していくとのことで、午後などはわりとどこの家でも映っていたようですが、それも夜の12時には消えてしまうという話でした。

さて、夜12時をまわり、いよいよアナログ放送が消えていることを確認すべく、テレビのスイッチを入れてアナログ放送へ切り替えると、なんのことはないこれまで通りに映っているのには、…何で?と思いました。

画面下になにやら文字が流れており、それによると「ごらんのテレビ放送はケーブルビジョンが地上デジタル放送をアナログ変換して放送しているものです。」とあり、さらにそれは平成27年まで継続されるということで、なんとあと4年もアナログ放送が続くという事実には、エーッ!と思わずのけぞってしまいました。

ちなみにマロニエ君の家は、市のわりに中心部でありながら電波の受信環境が悪いエリアということで、昔から周辺一帯はケーブルビジョンを多く使っています。
このケーブルビジョンを使う限りは、そんなにあわててテレビ/ビデオを買い換える必要がなかったというわけですが、こんな情報はちっとも知りませんでした。少なくともケーブルビジョンを使っている世帯にはなんらかの通達があってもよさそうなものをと思いましたが、知る限りではなにひとつなかったように思われます。

さて、先週末、決死の思いで買ってきたデジタル放送対応のレコーダーは、まだ玄関の片隅で包装されたままポイと置かれたままで、いやはやこれはどうしたものかと思っています。
通常なら、せっかくだから接続すればきれいな画像で楽しめるのですが、そのためには衛星放送の受信設備をしなくてはいけません。他の部屋にはきてるのですが、配線などを依頼しなくてはならず、それが面倒臭い。
アナログのままなら画質を我慢すれば衛星も映るのです。

世の中のシステムにはどんな意外な抜け穴が潜んでいるか、よほど事情に通じていないと馬鹿を見ることがあるようですね。
しかし、だからといって日頃から情報収集の奴隷のようにはなるのはまっぴらですから、ときどきこういうことが起こるのも仕方ないかと諦めています。
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電気店は疲れます

先週末はアナログ放送の終了に絡んで、電気店の買い物で疲れました。

マロニエ君の自室は、テレビは昨年秋に買い換えているので問題ないのですが、DVDレコーダーが古いタイプで、テレビを設置に来た人に尋ねたら、「これは来年7月で使えなくなります」という話でした。
もともとマロニエ君は自室ではステレオばかり聴いており、テレビはほとんど見ませんから、まったく無いのは困るけど映ればなんでもいいという程度のものでしかありません。

DVDレコーダーも毎週いくつかの番組を録って夜中などに見るだけのために置いているので、画質などもドーでもよく、録画されていて見ることが出来ればそれでじゅうぶんだから、このレコーダーの買い換えもずっと伸ばし伸ばしになっていましたが、アナログ放送の終了に伴い録画もできなくなるのはさすがに困ると思い、ついに重い腰をあげ、ヤマダ電気に行きました。

店はべつにどこでも良かったのですが、エアコンの修理でえらく高額な保証を適用してくれたので、義理があるような気がして次回は必ずヤマダで買わなければと思ってたので、それを実行したわけです。

マロニエ君にとってテレビやレコーダーは上記のような必要最小限の価値しかないので、ブルーレイなど必要ないし普通のDVDレコーダーでじゅうぶんなので、どれにするかはだいたいすぐに決まりました。
ところが今どきの大型電気店というのは価格勝負のしわよせか、店員も少な目で、広い店内どんなに探し回ってもみんなお客さんの対応をしていて、相手をしてくれそうな人が見あたりせん。
ようやく携帯電話売りのおねえさんが説明してくれたところでは、名前を書いて対応の順番待ちになっているというではありませんか。普通ならパッと止めて帰るのがマロニエ君ですが、もうアナログ放送終了は目前だし、そうも言ってられないのでやむなく我慢して待つことに。

待ちくたびれて途中で催促したら、ようやくひとりの草食系みたいなお兄さんがやってきて、やっと特定の機種の購入意志を伝えることができました。すると「お待ちください」と言われ、それからがまた待つことの連続で、人としゃべるのはごくわずかで、要するに店内での時間の大半は「待つこと」なんですね。
対応の順番が来るまでに15分、さらに購入意志を伝えてからが10分ほど、そして商品を抱えてやって来た店員の話というのは、専ら保証やらポイントやら取り付けやらの説明ばかりに終始して、まるで販売ロボットを相手にしているようです。

ようやく説明が終わったと思ったら、その人についてレジに移動しますが、レジもまた順番待ちの様相です。
ここで5分以上待ったところで、ようやくとなりの閉まっていたレジが開いたのでそちらに移動。
すると対応してくれたお兄さんは商品をレジに置くなり、こっちを向いて「ありがとうございました」といってアッという間に去っていきました。ここから先はレジで支払いをするだけなので、自分の役目は終了ということのようです。

レジではポイントカードをお持ちですか?といわれましたが、この商品は安くなっているのでポイントは使いはずだと思っていたら、同時購入していたDVDディスクに付加されるとのこと。
これがなかなか出てこなくて、もう焦って、カバンをひっくり返すように探したら、やっと最後に出てきました。
その間、ことさら無表情に待っていたレジの男性はそれをスッと受け取ると、74ポイントありますがお使いになりますか?と聞くのでどっちでもよかったど、とりあえずハイと答えると、そこから彼の仕事がはじまったようで、商品代とさらにその5%にあたる保証代などの合計金額とポイントなどを、猛烈なピアニストのような指さばきで一気に計算しはじめました。
言われた通りの金額を払い終わると、レシートと、保証書と、ポイントカードが渡されますが、「今回92ポイントお付けしております!」といわれ、要するに差し引きたったの18円分のポイントということになり、あれだけ必死に探した挙げ句がこれかとアホらしい気分になりました。

以上でめでたく買い物終了というわけですが、安いとはいえ何万もするものを買うのに、買い物の楽しさのかけらもない、まさに仕事のような厳しい空間で、これが現代というものかとつくづく感じずにはいられませんでした。
店に入ってから1時間弱というもの、やったことと言えば、10分足らずの商品選びを除いては、あとは店員探しと、ひたすら待つ、待つ、待つ、そして支払いというもので、価格競争というものはこういうことだというのはわかってはいても、パサパサに乾いた、殺伐とした時間を過ごしたという印象しか残りません。

すっかり疲れてしまい、取り付けなんてしばらくする気も起きず、いらい3日間ほど玄関に置きっぱなしになっています。
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続・練習の変化

練習といっても別に大したことをやっているわけじゃありませんが、それでもいろんな発見や新たな挑戦があることも事実です。

たとえば仕上げる気などさらさらなくて、ただ楽譜を置いて漫然と弾いていたときに較べると、指の練習は当然としても、曲の細部に関してもいろんな注意を細かく払うようになり、楽譜上の指示が果たして適切かどうかとか、その真意を探ったり表現の適切性を試してみたり、あるいは版による指示や考え方の違いを比較して、それに自分の解釈(というのもおこがましいですが)をあれこれと重ねて思案してみて、最良と思われる結論を導き出す過程はとても楽しいものだということがいまさらながらわかりました。
というか、これこそ演奏する人間だけが経験することの出来る、音楽を取り扱う際の楽しみだと思うのです。自分と作品がいかに和解し、作品のしもべとなってどこまで理想的な音としてそれを表せるか。

指使いなども版によっていろいろ異なりますが、マロニエ君の場合は必ずしも楽譜に書いてある指使いが最良とも思っておらず、いろいろと検討してみて、最終的には自分にとって一番しっくりくる、自分にとっての合理的なものを決定します。
これは、一般論からいえば、正しいとは言えないような指使いになる場合も当然ながらあるわけで、頭の固いピアノの先生などは絶対に許さないことだろうと思いますが、しかし指使いというものは最終的には弾く人の技量や手の大きさや指の構造などにも大きく関わってくることなので、本当の意味での正解が必ずしも楽譜の指示通りではないと思っているわけです。

それに指使いは当然ながら解釈によってもいかようにも変わります。フレーズの歌い方、アクセントの置き方、音節の区切り方、強弱のバランス、前後の対比、各パートの重要性の順序など、あらゆるアーティキュレーションの総和によっても、そのつど最良の指使いというのは微妙に変わってくるものだと感じるわけです。

それらを総合的に検討して、ひとつの結論とか形に収束していく過程というのはとてもおもしろいもので、以前はそれほどでもありませんでしたが、要するにピアノクラブで弾かなくてはいけないという義務が課せられたことで、どの曲を弾くにもこういうことを以前よりもより明確に意識してピアノに向かうようになったというのは、マロニエ君にとって最も大きな収穫だったと言える気がしています。

解釈の意義をひとことでいうなら、いかにその曲がその曲らしくあるかを探り、すべての音符と指示が有機的に必然的に流れるように持っていくか、これにつきると思うのです。
そういう目標をおくと、音色や強弱は当然としても、響きの明暗、休符ひとつ、アクセントひとつがどれも見逃せない意味深なものであることが迫ってくるわけで、それを考察し解明していくのはたとえ自己満足でも面白いものです。

練習を重ねていると大いに困ることもあります。
場所によっては、何度練習しても自分にはどうしても向かない音型、苦手なパッセージなどがあり、これを乗り越えるのはちょっとした努力が必要になりますが、性格的に粘りもないし、納得できる結果に到達することがあまりないことは、つくづくと自分の拙さを嫌というほど思い知らされます。
要するに、単純に、ひとことで言えば「下手クソ」なんですね。

さらには、練習とは細部をくまなく点検して、ゆっくりネガ潰しをしていくという一面もありますが、これをあまりやっていると、どめどがなくなり、どこもここも問題ありと思うようになり、変更に変更を重ねます。
すると、不安が全体に広がって、弾けていた場所まで弾けなくなってしまうということがよくあるのです。

これはつまり、それまでの練習が好い加減で甘かったということの顕れなのですが、ここに落ち込むと脱出にはかなり難儀させられます。
要は、下手なものはどこまでも下手だということでもあるわけですが、それでもピアノを弾くという魅力は尽きません。
ただ、ここに来て再び人前での演奏には強い拒絶感が増してきていますから、どうなることやらです。
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練習の変化

ピアノクラブに入ってはや2年近くが経ちますが、その結果なにが違ったか、ピアノに関して自分でなんらかの変化が「あったか」「無かったか」と考えてみると、やはりそれなりの変化はあったと思います。

それは、ほんのわずかではありますが、自分なりに少しばかり集中して練習をするようになったということです。
練習の内容も若干変わりました。
以前からマロニエ君の主な弾き方は、山積みにしている楽譜からあれこれ引っ張り出して、自由気ままにトボトボと弾き散らす、ただそれの繰り返しでした。

もともとが上手くもない上に、こんな弾き方をしていれば、当然ながらレパートリー(というのもおこがましいですが)は広がらず、少なくとも自分なりに仕上がった曲というのは、手を付けている曲の数に対してギョッとするほど少ないものにしかなりません。
というか、もっとハッキリ言うとこの調子ではどれひとつとして仕上がりません。
仕上がりに近づく前に、曲はあっちに飛びこっちに飛びで、それで時間ばかり経って、疲れて終わりというのが長年のパターンでした。

しかしピアノサークルに入っていれば、まがりになりにも人前で何か弾くという義務を背負わされ、それが契機になってちょっとこれまでとは違う練習を少しするようになりました。

たとえば、目的もなく勝手に弾いているときは、難しい部分などを充分にさらうことなしに済ませたり、ひどいときはそこは避けて先に行ったりするのですが、人前演奏が前提ともなるとそんなこともしてられません。

そういうわけで、以前に較べるとひとつの曲に集中的に取り組むようになりましたが、そこで発見したのは、自分一人での楽しみでなら、なかなかそこまでしないような突っ込んだ練習をする必要が生じ、どうしても部分練習など、いわゆる楽譜を見ながらだらだら弾いているときとは違う、本来の練習らしい練習をせざるを得ないということです。

難しいパッセージは出来るようになるまで速度を変えるなどして繰り返しさらって困難を克服しなくてはいけませんし、好い加減に済ませていたところも洗い出して、問題をひとつひとつ解決して行かなくてはならず、気がつけば柄にもなく練習らしいことをやっている自分に、へええと驚いてしまいます。

しかし、嬉しいことは、最終的にそれが人前で弾けるものになるかどうかは別として、集中した練習で曲と自分を追い込んでいくことにより、それなりに曲が自分の手の内に入ってくるのはやはりピアノ好きとしては理屈抜きにうれしいことです。こうして得たものはささやかでも自分だけの特別なものです。

一度深く弾き込んだ曲というのは、簡単な練習でなんとか復帰出来るものですが、そんなものが極端に少ないマロニエ君としては、なにもかもを一からやり直しさせられているようです。
まあそれも、所詮は遊びという気楽さがあるのでなんとかやっていることだろうと思います。

これで昔のように試験とか恐いレッスンなんてことになれば眠れない夜が続いて、これまで以上にピアノの前に座ることがイヤになるでしょうけれども、最終的には遊びであり、無理なときはいつでも自分の意志で中止できるという、逃げ場がある点が、かろうじて今のマロニエ君を支えているようです。

実をいうと、最近はだんだん怠け者の虫がうずきだして、またやる気が薄らいできた気がしています。
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なでしこの品格

「なでしこジャパン」が世界最強といわれるらしいアメリカを破って、2011 FIFA 女子ワールドカップで優勝するとは、いかにスポーツオンチのマロニエ君でもビックリ仰天の出来事でした。
どんなことでも世界の頂点に立つということは、それはもう並大抵のことではありません。

この様子をみていてスポーツオンチのマロニエ君なりに感じたことがあります。
それは、やはり女性は強いということ。とりわけ精神面でのそれは男とは比較になりません。

普段スポーツ番組なんてまず見ないものの、さすがにオリンピックとか、サッカーのワールドカップとか、巷で話題が持ち上がって騒然としだしてから、ようやくちょっとだけ見ることがあります。

日本選手に限っていうと、男子と女子では、まるきり攻め方がちがうと、わからないながらも思いました。
女子のほうは思い切りがいいし、度胸があるし、ここぞというときに一か八かの勝負に出るし、そもそも勝負に対しても一致団結して無心にプレイに打ち込んでいる様子を感じさせられました。

その点じゃ、男子はマロニエ君が知らないだけで、たぶんスーパー級のスター選手がたくさんいて、その選抜段階から大変な話題のようですが、そんなエリート集団というわりには、見ているとずいぶん慎重で、スポーツなのにいっかな激しさとか勝負の醍醐味みたいなものがなく、堅実で安全第一のプレイをしているように見えてしまいます。

もういいかげんここらでバシンとシュートしたらよさそうに思えるときでも、男というのはビビるのか、作戦なのか、意識しすぎて縮こまっているのか、あっちにこっちにパスばかり繰り返して、より確かな状態を作ろうとしますが、そんなことをやっているうちに敵側からボールを取られ、何度も好機を失うような印象をもった覚えがあります。

その点、女子のプレイはもってまわったところのない、実に歯切れのよい、勝負らしい勝負を素人にまで明快に見せてくれたし、しかも優勝という最高の結果まで出したのですから感無量、まことにお見事でした。

成田に帰ってきたときも男子とのちがいを感じるところがありました。
みんな一様に気さくで愛嬌がよく、態度が自然で、しかも喜びにあふれており、見ていて気持ちのいい光景でした。
これはなにも優勝したからというだけではない、本質的なものの違いを感じましたし、その気持ちの良さの裏には、これまで見ていた男子選手の、どこか俺たちはスターなんだという風な態度が記憶にあったのだとも思います。

たかが…といっては言葉がわるいかもしれませんが、スポーツ選手なのですから、なにもそこまで意識することもないと思いますが、男の選手はみんなプンとして笑顔のひとつもないし、群がるファンにも手をふるでもなく無反応でサーッと通過していく姿は、ちょっとプロのスポーツ選手としては勘違いしているんじゃないかと思います。

なでしこの面々はその点で、我々の期待を裏切らない対応で、最高の結果を出しておきながら、偉ぶらない素朴な態度は好感の持てるもので、彼女達を見習うべき選手は多いのではという気がしました。

アメリカなどでも大リーグの選手などは、スター選手の責務としてのファンサービスというものを、まずはじめに叩き込まれると聞きましたが、日本のスポーツ男子はそのあたりはちょっと意識が違うようですね。
マスコミはじめ、みんなで甘やかしているのかもしれません。
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偉大なダンプチェイサー

しつこいようですが、ダンプチェイサーの効果をこのところしみじみ感じ入っています。

この時期は年間を通じて最もピアノにとって過ごしにくい時期であることはいまさら言うまでもありませんが、それがウソのようにピアノは至って普通に、あっけらかんとしてくれています。
とりわけ九州地方は湿度が高く、ひどいときは熱帯地方のようで、ピアノ管理には苛酷なエリアだと思われます。

最近は気温の面でもエアコンを入れていますから、それなりに除湿効果もあるものの、これとて24時間つけっぱなしというわけではないし、夜中はエアコンがない状態。おまけに一台のほうは毎回片づけるのが面倒で、ずっと譜面立てを立てたまま、フタを開けた状態でほったらかしですから、本来ならかなり湿度にさらされていることだと思います。

このピアノは奥行き2m以上ある中型のグランドですが、ダンプチェイサーはペダルの後ろに鍵盤と平行に一台しか付けていません。
本来ならアクション用と響板用に、前後二つ使ってもいいようなものですが、とりあえず一台だけでも至って快調なのは、本当に驚くばかりです。

ダンプチェイサーの存在は昔から知っていたのに、なんで使わなかったのかと今ごろ思っているところですが、考えるに、大した根拠もなく効果の程に疑いを持っていたことと、なんらかの「副作用」があるのではという警戒心があったと思います。

それと、なによりも自分のイメージだけで実体を知ろうとせず、専門家にも確認しなかったことが大きいと思います。
以前も書きましたが、親しい調律師さんにダンプチェイサーのことを尋ねたら、ピアノ管理においてはこれぞ一大革命と言っていいほどの優れものだという返事が速攻で返ってきたことは、聞いたこちらが驚きましたし、これが最終的に決め手になりました。

想像段階では、とりわけ電気によって熱を発生させるというところが、なにやら本能的に「木に悪い装置」では?というイメージでしたが、この点は取り付けてみてわかりましたが、スイッチオンの状態でもほんわか暖かいぐらいで、とても熱いというようなものではないし、さらには本来の取り付け位置よりもうんと離して装着していますから、まずピアノがダメージを受ける心配はありません。
スイッチが入っているかどうかは、実際に触ってみないとわからないほど軽いもので、よくこんなものでこれだけの効果があるもんだと感心します。

思い返せば、一時は除湿器を2台体制でフル稼働させていましたから、自分なりにやるべきことはやっているという自負があったのかもしれませんね。つくづく自分が馬鹿みたいです。

しかし、実際にダンプチェイサーを使ってみると、どんなに除湿器をガンガンまわしたところで、たった一本のわずか25Wのダンプチェイサーにはるか及ばないことがわかり、あー、ずいぶん長いこと損をしたような気分です。

何事も効率のよい方法、賢いやり方というものがあるのだというのが、いまさらながらわかりましたし、努々決めつけはいけませんね。
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喜びから苦痛まで

過日のクラシック番組で、ある女性ピアニストのコンサートの様子が放送されましたが、それを見ていてなんというか…気が滅入ってくるというのか、いたたまれない気分になりました。

その女性は海外のコンクールで優勝歴などもあり、コンサートやCDなどでも一応は活動らしきことはしているようですが、悪い意味で現代のピアニストの欠点を寄せ集めたような要素を持っています。

まず姿がよくない。
音楽家なんだから美人である必要は全くないし、その点では最近のビジュアル系みたいな方向性には大いに異を唱えるマロニエ君ですが、人に演奏を聴かせることを本業とするアーティストなのだから、そこにはある一定の雰囲気というか、文化の担い手としての最低限の顔つきというのは持っていなくてはいけません。

繰り返しますが、これは決して美醜の問題ではありません。
ピアニストはいやしくも音楽家で、いわば芸術家の端くれなのですから、その佇まいもあまり品格がないのは困るということが言いたいわけです。

あまり見てくれのことばかりいうのもなんでしょうから、演奏のことを言うと、ただ楽譜を見て、暗譜して、練習して、ミス無く弾いているだけ、ただそれだけという感じで、聴く側はなんの喜びも感興も湧かず、あまりのその不感症のような演奏に接していると、こんな演奏を聴いたばっかりに却って不満と疲れを感じてくるのです。

ツンとして、まるでオフィスで事務仕事でもこなすかのようにピアノを弾いていて、この人にはなにひとつ音楽的なメッセージ性みたいなものが無いことが、こっちまで無惨な現実を見るような気分にさせられます。

また、この女性は非常に大きな恵まれた手をしていますが、それもまるで活かしきれず、ただ蜘蛛のように長い指が鍵盤の上で不気味に足を広げているようで、それらが淡々と音符を処理していくだけで、如何なる場合も作品が聴き手に語りかけてくることがありません。
ドビュッシーなどは非常にぎこちなく固く弾いたかと思うと、リストでは随所にある甘い囁きもなければ、ここぞという場所での迫りも情念も解放もなく、ひたすら退屈で、出来の悪い機械のような演奏でした。

こういう位置にいる中途半端なピアニストというのは、この先、まずどんなことがあってもこれ以上先に伸びることもたぶんないし、音楽的な深まりを見せる可能性もまずないでしょう。
つまり今以上の知名度を上げることも人気を得ることも、申し訳ないが99%無理です。
だからといって、指のメカニックにはやはりそこは素人とは一線を画するものがあり、いまさら市井のピアノの先生になる決断もつかないだろうし、ピアノをやめてしまう気もないだろうと思います。

そもそも、ここまで来てしまった人がいまさらピアノ以外の何ができるわけでもないでしょうから、やはりこうしたなんともしれない演奏のようなことをしながら、人前に出る行為を繰り返すのだと思うと、見ているこちらのほうがやるせない気分になってしまいました。

世の中がどんなに民主化され、平等の社会を是としても、芸術の世界ばかりは才能と実力がものをいう不平等社会で、B級C級というものになにがしかの価値があるとは思えません。
あまたの才能が惜しげもなく切り捨てられてこそ、輝ける一握りの才能だけが生き残るのです。

とりわけマロニエ君のような純粋な鑑賞者の立場になれば、芸術こそは一流でなくては到底気が済みませんし、それ以外のものに甘んじるつもりのない自分にあらためて気が付きました。

音楽において、つまらない演奏ほど不愉快なものはないのです。
そういう意味では、ひとくちに演奏といっても、人を至福の喜びに誘い込むものもある反面、不快の極みに突き落とすこともあるわけで、まさに天国から地獄までこれ以上ないほど幅広いものだと言えるでしょう。
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メラミンスポンジ

プリンターのインク切れは面倒なものです。

以前はインクが無くなる度にカートリッジを買っていましたから交換は楽でしたが、これも馬鹿にならない値段です。
そのうち補充用インクというのがあることを知り、以来これをメインに使うようになりました。

マロニエ君のプリンターはキヤノン(「キャノン」とは書かないそうですね)で、お定まりの黒と、カラーの青、赤、黄ですが、どうもこのインクは使った分だけ減るのではないらしく、時間経過によっても自然に無くなってしまうということがわかってきました。
いつもインク補充のタイミングは、大事なときに突然やってきますが、マロニエ君はこれがとってもイヤなのです。

というのは、どんなに注意しながら慎重に作業しても、指先には必ずインクが付いてしまうからです。
何度か「今回こそは!」と手を汚さないように気合いを入れて挑戦しましたが、これが一度として成功したためしがありません。
つい先日などは急ぎの状態のときにインク切れになったために、大慌てで補充したのですが、そのぶん作業も粗っぽかったのか、カートリッジの上から下からインクは漏れ出て、指先はもう惨憺たる状態になりました。

調理などに使うゴム手袋でもすればいいのかもしれませんが、どうもいちいちあんなものをするのも気が進みませんし、そのために台所まで取りに行くのも面倒臭いのです。マロニエ君は神経質な一面があるクセに、こういうところはけっこうだらしないのです。

さて、このプリンター用のインクですが指先がこれに染まると、生半可なことでは落ちません。
石鹸で洗ったぐらいではせいぜい染みが薄くなる程度で、リムーバーの類を使えば多少はいいのかもしれませんが、あんなものでごしごしやるのも手が荒れそうでイヤだし、いつもは大抵、自然に消えるのを待ちますが、経験的に汚れた当日消えてしまうことはまずありませんでした。

ところが、この日はすぐに出かける予定があり、その用向きから言っても、両手の指先がインクまみれではいくらなんでもちょっとまずい状況だったのです。
やむなくリムーバーの使用も考えましたが、その前に洗面所でちょっとひらめいて、ものは試しと、いま流行のメラミンスポンジを使ってみました。ホームセンターや100円ショップで売っている真っ白いドイツ生まれの激落ちスポンジとやらで、切って茶しぶ落としなどに使うあれです。
たまたま洗面所にこれを小さく切った断片があったので、これを少し水にひたしてインクの染み込んだ指先をこすってみると、な、なんと、アッという間にインクが落ちて、両手はウソみたいに元通りになりました。それもほとんど力も入れずに2〜3回擦っただけで、ほぼ完璧にインクが落ちてしまったのは驚異でした。

茶しぶ落とすという力は、こんなにもすごいものかと思いましたし、よく化学雑巾の類にも注意書きで「家具などは傷を付ける場合がある」と書かれていますが、さもありなんと思います。

この手は、下手な洗剤よりもある意味よほど強力で、そのぶん人の皮膚などにも使い方しだいでは攻撃的なんだろうなと思いました。
「あきらめないで」の石鹸も実はそうとう強烈らしいし、化学繊維を使った洗顔布みたいなものもありますが、よほど注意しないと恐いような気がします。
手が一発できれいになったぶん、油断も禁物のようです。
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ピアノフェア

大手楽器店の主催によるピアノフェアがこの連休期間中に開かれており、ちょっと覗きに行ってみました。

会場は今春オープンした博多駅・新ターミナル内の、阪急百貨店の上にあるJR九州ホールで、広い会場には電子/アコースティック合わせて実に100台以上ものピアノと名の付く楽器が展示されていました。
この会場はホールといっても床をフラットな体育館のようにもできる貸しスペースで、さまざまなピアノがズラリと展示されていましたが、なかなかめったにない壮観な様子だったことは確かです。

どうせ見るだけですが、これだけの台数を一堂に展示するピアノの催しは普段まずないので、一見の価値はあったというものです。
ただし、どうしてもグランドピアノは数が少ないのが残念ですが、それでもスタインウェイ4台(C/B/O/M)、ベーゼンドルファー、ベヒシュタイン、ザウター、ヤマハ2台、カワイ2台の11台が展示されていました。
とりわけ輸入ピアノはお値段も大そう立派なものでした。

ところで、会場に近づくと、中から盛んにジャズピアノらしき音が聞こえてきたので、一瞬、デモ演奏でもやっているのかとも思いましたが、いや待て、誰か腕自慢のあるお客さんが弾いているのでは?と思い直しました。中に入ると、案の定それは当たっており、ひとりの中年男性が熱心に1台のスタインウェイを弾いていました。

このところ人前でピアノを弾く人に対して、ちょっとあれこれと思うところのあるマロニエ君としては、ああまたか…というのが率直な印象です。
これがまた、人目も憚らず(というよりは人目を意識して?)ずいぶん熱の入った演奏で、側に近づいてもまったくなんのその、一心不乱に陶然となって弾いているその姿はちょっと異様な感じでした。

たまたま同行していた友人がその様子に驚いたのか、すかさず小声で「見られてることを意識してるね!」とマロニエ君に耳打ちしましたが、まさにその通りで、どうだ!といわんばかりに臆せず熱っぽい演奏を続けています。
奥では、別のピアノの調律が行われていましたが、そんなことも一向にお構いなし。
この御仁の演奏はしばらく続きました。

いやはや、たいした度胸の持ち主というか、そもそも神経の作りそのものが違うのかもしれません。

コンサートや発表会ならそれなりのスタイルも大儀もあるからまだわかるのですが、こうした単なるピアノの展示即売会の広い会場の中で、我一人、任意の状態であれだけ堂々と弾きまくるというのは、こういっちゃ悪いですが、やっぱりピアノを弾く人(すべてではないけれど)の感覚は、ちょっと普通とは違うと思います。

そのマロニエ君はといえば、ほとんど単音を出すぐらいで、弾くというような次第にはとても至りませんでした。
もちろん個々のピアノには関心があるので、弾いてみたいという気持ちはありますが、周りの空気をみたらそんなこと、とてもできる状況ではありませんでした。

奥で調律している人がたまたま顔見知りというか、我が家のピアノも一度見ていただいたことのある方だったので、その人とちょっと言葉を交わしている中で、「あのピアノは弾いてみられましたか?」などと言われますが、幸か不幸か、マロニエ君はそんな勇気は持ち合わせていません。

そうこうしているうち、やがて小さなコンサートが始まり、この楽器店の教室の講師の人達が代わるがわる演奏をはじめましたが、フルートの伴奏やソロでショパンのエチュードを弾いた講師の方は、ピアノクラブ内で3人ほどが習っていた、よく名前を聞く名前の先生その人だったので、おやと思ってとくと拝聴しました。

ピアノクラブといえば、このコンサートを聴いている中にも、クラブの方がご夫妻でおられたし、前日には同会場でリーダー殿がまた別のサークルの方と遭遇した由で、みんな同じような行動を取っているということでしょうか。
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ゾクゾク本

過日、欲しい本があってアマゾンで検索しているときのこと。
アマゾンでは、頼みもしないのに検索した商品と関連のある本やCDなどを探し出しては、画面の下の方に次々に表示してくれます。

その中に「○○家にストラディヴァリウスがきた日」というタイトルの本が表示されました。
この本の存在は以前から書店・楽器店で見て知っていましたが、ある日本の女性ヴァイオリニストが歴史的なヴァイオリンの名器を手に入れるについて、おそらくはその顛末をまとめた「ひけらかし本」だろうと想像されました。
しかも著者は本人ではなく、そのヴァイオリニストのお母さんというのもいかにも定石通り。

そんな露出趣味そのものみたいなものを買って読む気などさらさらないマロニエ君は、書店でも中を見るどころか、手に触れることさえしませんでした。
しかもこの本、意外にどこでもよく見かけるので、はっきり言ってちょっと目障りでした。

その「○○家にストラディヴァリウスがきた日」の中古品がタダ同然みたいな金額で数件表示されていたので、これには却って興味を惹きました。
そんなに笑ってしまうような値段なら、よし、怖いもの見たさで買ってみようかと妙な気をおこし、購入手続きに進みました。送料以外は事実上ほとんどもらうようなもので、出品している書店にも手間ばかりかけて申し訳ないぐらいす。

3日後に届いたのは、まるで新品かと思うような傷みのないピカピカの本でした。
さっそくページを繰ってみたところ、はじめの数ページを読んだだけで、想像通りというか…相当に手強そうだということはすぐに察しがつきました。
まずこの家の家風と厳格な父親の教育方針が紹介され、さらにこのヴァイオリニストである娘の上にいる二人の兄が、これまた画家と作曲家という道に進むについての経緯、東京芸大を受験するに際しての気構え、お見事というべき父親の愛情に裏打ちされた教育理念など、妻であり母である人物の視点から、これらが臆面もなく滔々と述べられています。

祖父の時代から続く学者としての家系、普通なら1人でも現れれば御の字の才能豊かな子供が3人も続いて出たこと、そして父の威厳に満ちた存在と姿勢の中で、それぞれが自発的に努力を重ねて目的を遂げていくなど、文章はまるで道徳の教科書か、なにかのプロパガンダの文章でも読まされている気分でした。
はじめはその圧倒的な違和感に耐えきれず、何度か放り投げようかと思ったのですが、それでも意地で読み進みました。

この本全体は、徹底して家族愛の名の下に発せられる、甘ったるい善意の文章の洪水で、マロニエ君のような者にはまるで出発点からセンスが異なり、思わず肌が粟粒立つようでしたが、それもオカルト的刺激と思って楽しむことに。

このお母さんは、文中で「ストラディヴァリウスはオークションなどでは何十億もするヴァイオリン」だと何度も繰り返して書いていますが、先日もこのブログに書いたように、今年2011年、日本音楽財団所有のストラディヴァリウスが売りに出され、過去の3倍を越す金額で落札されるまでは、最高額は約4億円だったはずですが…。

むろん途方もない金額には違いありませんが、この本の発行年は2005年ですから、これはいくらなんでもオーバーすぎるようで、なんだか他の内容も下駄を履いているのではないか…という気になってしまいます。
だがしかし、こういう本を読んで心底感銘する人も世の中にはいるのかと思うと…たまりませんね。

なんと、これがきっかけとなったらしく同じ書き手、あるいは娘本人によってさらに数冊が出版されており、いったん覚えた美味は止められないのが浮き世の常というものかもしれません。
そのタイトルのひとつは「○○家の教育白書」という、えらくまたご大層なものになっているあたり、よほど自信がおありなのでしょうね。

ともかく、一度ぐらいこういう本を読むことも、ひとつの人生体験にはなりました。
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続・コロリオフ

エフゲニー・コロリオフは1949年モスクワ生まれですから、今年で62歳。
まさにピアニストとして絶頂期をひた走っている年齢だといえるでしょう。

しかしこのコロリオフという人はピアニストとしてひた走るといった表現が必ずしも適切ではないような印象です。

プロフィールを見れば、師事した教授陣も錚々たる顔ぶれで、ハインリヒ・ノイハウス、マリア・ユーディナ、レフ・オボーリンというロシアピアノ界の重鎮がずらりと並びます。
コンクール歴も輝かしいものでバッハコンクールをはじめ、クライバーン、ハスキルなどの国際コンクールに次々に優勝しており、レパートリーにはロマン派もあるようで、実際にショパンやシューマンのCDも僅かながら発売されているようですが、本領はやはりバッハなどの古典にあるようです。

「栴檀は双葉より芳し」の喩えのごとく、17歳の時に、モスクワでバッハの平均律クラヴィーア曲集の全曲演奏会を行ったとありますから、やはりタダモノではなかったのでしょう。
現在は世界の主要な音楽祭にも数多く参加しているようですが、来日はずいぶん遅れたこと、またCDデビューが40歳のときの「フーガの技法」だということですから、その年齢や内容からしても、まるで大衆に背を向けた芸術家としての姿勢を貫いており、いわゆる商業主義に乗らないピアニストということが読み取れるようです。

ハンガリーの現代作曲家リゲティが「もし無人島に何かひとつだけ携えていくことが許されるなら、私はコロリオフのバッハを選ぶ。飢えや渇きによる死を忘れ去るために、私はそれを最後の瞬間まで聴いているだろう」とコメントしたことが、コロリオフの評価を決定的にした一因のようにも感じます。

このところ集中的に聴いているCDでは、フランス組曲ではより端正なアプローチがうかがわれ、これはこれで傑出した美的な演奏に違いありませんが、強いて言うなら、ゴルトベルクのほうに更なる輝きがあるようです。

とくに面白かったのはバッハ編曲集で、リゲティ同様、ハンガリーの現代作曲家であるクルタークによる4手のピアノのために編曲された作品集では、読み方がわからないもののもう一人のピアニストとの共演ですが、演奏はあくまでコロリオフ主導で、コラールなどがなんとも澄明な美しさに照らし出されるような音楽で、バッハは目指したのはこういう音楽だったのかと思えるほどに天上のよろこびを伝え聞くようでした。

ほかにコロリオフ自身の編曲によるBWV.582のパッサカリア、クラヴィーア練習曲第3巻(全11曲)と続いていくわけですが、どれを聴いても極めて純度の高い音楽そのものが目の前に立ち現れることに何度も驚かずにはいられませんでした。

あまりに感銘を受けたので、YouTubeで検索したところ、ライプツィヒのバッハ音楽祭に出演した際のゴルトベルクの演奏の様子がありました。そこに観るコロリオフは、およそコンサートアーティストらしからぬ地味な出で立ちで、黒いシャツのボタンを一番上まで止めた、まるで研究と演奏に明け暮れる質素な古楽器奏者のようでした。
しかし、そのシャツの袖口から出たその手は、まるでショパンの手形のように細い指がスッと伸びた繊細なもので、なるほど、こういう手からあのようなすみずみまで見極められた、聴く者の心を捉える自然な音楽が紡ぎ出されるのだと思いました。コロリオフのタッチと音にはくっきりとした明晰さと充実した響きがあると感じていましたが、妙に納得した気になりました。

こうなると、バッハは当然としても、ショパンなども聴いてみたいという興味が出てくるようです。
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コロリオフ

リサイタルに行ったことがきっかけで、このところメールのやり取りをしているあるピアニストから、コロリオフというピアニストをご存じですか?と聞かれました。

知らなかったのでその旨伝えると、ご親切にも5枚ものCDを送ってくださいました。
エフゲニー・コロリオフ、ロシア出身で現在はドイツに暮らして活躍している人でした。

分厚い包みが届いたと思ったら、そこにはなんと5枚ものCDが入っており、ゴルトベルク変奏曲、フランス組曲全6曲、バッハ編曲集では音楽の捧げものからリチェルカーレ、クルタークによる編曲、クラヴィーア練習曲第3番、リスト編曲の前奏曲とフーガなどでした。
そのご親切に深く感謝するとともに、さっそく聴いてみました。

ゴルトベルクの出だしを聴いたときから、いきなりなんと姿のよい、骨格のある澄みきった演奏かと思いましたが、それは聴き進むうちにますます確信に深まります。
バッハの鍵盤楽器のための作品の演奏に際しては、チェンバロやクラビコードで弾くべきか、現代のピアノで弾くかということは尽きないテーマですが、コロリオフの演奏を聴いているとそういう論争さえナンセンスに思えるほど、ひたすら真正なバッハを聴いている自分に驚き、それに熱中させられてしまいます。

ゴルトベルクといえばグールドの衝撃以来、60年近くが経過するに至っていますが、なんらかの形で彼の演奏は多くの演奏家の耳に刻み込まれましたが、そこから本当に独自の表現ができたピアニストは極めて少ないと思います。

コロリオフはバッハの音楽をあるがままの姿で表出しており、そういう正統表現の価値と魅力を、聴く者に問い直してくるようです。
この当たり前さが、今は不思議なほど鮮烈に聞こえてくることに、言い知れぬ快感と喜びを覚えます。
バッハはピアニスティックにモダンに弾くか、あるいはアカデミックな学者のような演奏に二分されることが多いと思いますが、コロリオフはバッハにはそのいずれにも分類できません。

第一級の演奏技巧で非常に一音一音が明晰で力強く、いかなるときも落ち着きはらったバランス感覚があるのに、生命感に裏打ちされたそれは退屈させられるところがなく、常に音楽の熱がすみずみまでみなぎっています。
シフのバッハも素晴らしいですが、彼にはときに独特な節回しや老けた悟りのようなところもなくはないのですが、コロリオフにはまるきりそういうものが見受けられません。

音楽を聴いていると同時に、なにか荘重な建築を目にしているようでもあります。
とくにトリルや装飾音にはチェンバロのような趣があり、その効果的な入れ方には妙なる美しさがあふれ、文字通り随所で音楽に厳粛さと華を添えているようです。

彼がロシア人であることも関係していると思いますが、どんなにバッハをバッハとして純度をもって演奏することに専念していようとも、背後からロマンティックな何かがこの演奏を支えているような気がして仕方がありません。しかもニコラーエワのような直接表現でないぶん、より克明にバッハの音楽の核心部分へと導かれるようです。

きわめてドイツ的でありながら、決して本当のドイツ人には作り出せないドイツらしさといったら言葉が変ですが、たとえばチリの出身であったアラウがドイツ人よりもドイツ的といわれたことに、これも似ているかもしれません。

ペダルも使っていないように聞こえますし、デュナーミクも過剰にならないところに凛とした気品があり、バッハ音楽の抽象世界を描き出し、聴く者は楽々とバッハの響きと真髄に体が包まれるようです。

まだ一通り聴いただけですが、こんな素晴らしい演奏に出会えて件のピアニストには感謝しています。
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気持ちの鮮度

マロニエ君のCD購入はいつも店頭とネットの二本立てです。
それぞれに特色があり、店頭はあれこれと実物を見て探す楽しみや意外な発見があり、ネットは店頭で入手の難しいものが手に入るなどの利点があるわけです。

とくにマニアックなものを購入する場合などは、ネットのほうが品揃えが比較にならないほど充実しているのでこちらから注文する事が多いのですが、さしものネット店をもってしても「入荷待ち」となることがしばしばあります。
さらにどうかすると、入荷にひどく時間がかかることがありますが、このときにちょっと困ったことが起こります。

ネット購入の場合はマロニエ君が利用しているのはHMVなのですが、送料やらポイントの関係で、大体購入するときは数点まとめての購入となります。
ところがその中にひとつでも在庫のない商品があると、それが整うまでは他の商品は発送されません。
これが1週間や10日ならいいのですが、どうかすると数週間ストップしてしまう状態に突入してしまいます。

それがさらに長引きそうな場合になると、他の商品だけ先に送るかどうかを尋ねるメールが来るのですが、この段階を迎えるだけでも相当の日数を要します。大半は海外からの仕入れ商品ですから、まあ時間がかかるというのもわからないではありませんが。

さて先日のこと、HMVから一通のメールが届き、以前注文したCDが製造中止のため入手不可能になったため、その入荷待を待って一緒に送られてくるはずであった残りのCDを発送する旨のメールが届き、数日後には商品が届きました。
実はこのCDは、今年の4月上旬に発注していたものであっただけに、実を言うと注文していたことも忘れていました。

しかも「カード決済は発送時」というルールなので、うええ、なんでいまさら…という気分になってしまいます。
こんなに遅れたのは店側になにかの手違いかあったようにも感じますが、もしかしたら分送するか否かのメールが来たときに、ろくに内容を見もしないで同時発送を承認するクリックかなにかをしたのかもしれません。
通常は分送のほうを希望なので、まずそんなことはしないつもりなのですが、マロニエ君の間違いということが絶対ないとも限りません。しかとした記憶もないし自信もなく、ともかくこういう次第になりました。

それにしても、今でも欲しいCDは山のようにあるのに、届いたCDは、正直いうといまさら熱が冷めてしまったようなものもあり、しかも今回は「ニーベルンクの指環」が含まれていたので、1枚あたりの単価は決して高くはないものの、合計23枚ものCDとなり、なんだか素直に喜べない状況に陥ってしまいました。
もちろん、届いた以上は気を取り直して楽しんで聴くつもりですが、やはりCDの「聴きたい」という気分にも波があり、あまりにも時間が経つとその高揚感も冷めてしまっているということがわかりました。

個人差もあろうかとは思いますが、マロニエ君の場合、これが続いているのはせいぜいひと月ぐらいのようで、3ヶ月というのはあまりにも長すぎました。
足止めの原因となった問題のCDは「ストラルチク:96人のピアニストと4人のパーカショニストのための交響曲」という、ほとんどどんなものかもわからない、いわばゲテモノ食いみたいなものだったので、こんなもののせいで3ヶ月も出荷停止していたのかと思うとよけいにガッカリしました。

なにごとにも鮮度とかタイミングというのは大切で、CDは旬の気持ちのときに聴きたいものです。
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自己顕示症

自己顕示欲というものは、多少は人の心の中に存在するものでしょう。
ところが、これの旺盛な人はほとんど病気のごとくで、まったくどうにもつける薬がありません。
つける薬がないという点においては○○と同じです。

作家の三島由紀夫は、救いがたい自己顕示欲の持ち主を「自己顕示症」とさえ呼んだほどです。

この自己顕示症を発症した人は、必然的に空気の読めない、もしくは読もうとしない人を意味します。
それも理で、空気なんぞ読んでいたら、どうしたって遠慮というものが必要になってしまいますから、そんなものは邪魔でしかなく、この手の神経の持ち主にはなんの意味もないことでしょう。

動物と同じで、必要ない機能は大自然の摂理にしたがって、さっさと退化してしまうということかもしれません。

いろんなところにこういう人は出没するものですが、だいたい人の集まりのようなところにやってきて、のっけから腕自慢をやったり、自分の力の誇示に熱中するような人は、その人間性や感性においても、おそらくは孤独な人であることが読み取れます。

そもそもの目的が、人と交わり仲間の親交を深めることよりも、喝采を浴びることなんでしょうから、自分の崇拝者は欲しくとも、対等の関係が基本である仲間はもともとご所望ではないのかもしれません。
こういう人は、概して日ごろはかなり満たされない毎日を送っているはずで、そういうものに対するいわばうっぷんを晴らしをせんがためにも、ときに快感に酔いしれる非日常を求めて彷徨っているのでしょう。

遠慮や協調というようなものはいささかも持ち合わせがなく、ひたすら隠し持った野心を道連れに遠路をものともせずに動き回り、さて自分の姿がどんなふうに映っているかはまったくわかっていません。

自慢はすればするだけ効果を上げ、周りは感心し、そのたびに尊敬を集めるとでも思っているのでしょうね。
こういう人こそ、人の心の奥深さとか本当の怖さをろくに知らず、ひとり優越感に浸ったり、周りを見下したりしているつもりでしょうが、実は自分のほうが遙か浮いてしまっていることには、ほとんどウソみたいに気が付かない鈍感人であったりします。

そもそも少年野球にひとりだけ大人のプレイヤーが入って、その技を見せつけるようなことをして何が楽しいのか、こういう幼稚な心理には、到底理解の及ばないものがあります。

最近は「どや顔」という言葉が流行っているそうですが、巷にこういう人が増えているということかもしれません。

なにぶんにも本人が気付くしかないことなので、ほとんど改善の希望は持てません。
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ヴァイオリンの謎

数ある楽器の中でも、ヴァイオリン族ほどピンキリの甚だしい価格差があるものもないでしょう。

代表的なヴァイオリンは、普通の入門用楽器なら10万円以下からごろごろあるいっぽうで、頂点というか雲の上に君臨するのが、ストラディヴァリウスやアマティ、グァルネリ・デル・ジェスのような約300年前のクレモナの名工達が製作した最上級とされる楽器ですが、これらの価格はますます高騰し、それらと廉価品の価格差は数百倍から下手をすれば千倍にも達します。これはちょっとピアノなどでは考えもつかない世界です。
こうなると、とうてい普通の演奏家が購入できるものではありません。

かつてヴァイオリニストの辻久子さんがストラドを買うために、家屋敷を売り払ったことが大変な話題になったことがありましたが、それでも当時は億などという単位ではありませんでした。
また同じくヴァイオリニストの海野義雄さんは、高価な楽器を万一の交通事故から守るという目的のために、当時最高の安全性を誇っていたメルセデス・ベンツに乗っていると豪語しておられました。
本当にそのためのメルセデスかどうか、真偽のほどはわかりませんが、ずいぶん昔の話ではあります。

いっぽうでは旧ソ連は国家がいくつかの名器を保有し、それに値すると認められた演奏家には無償で貸与されるという社会主義ならではのシステムがありました。
オイストラフの愛器も国家所有のストラディヴァリウスで、彼の前に使っていたのがあの数々の名曲を残したヴィエニャフスキ、そしてオイストラフの死後にこの楽器を貸与されたのがわずか10代の神童ヴァディム・レーピンでした。

これは数あるストラディヴァリウスの中では特段の名作というほどではないのだそうですが、オイストラフやソ連時代の若きレーピンの奏でる、一種独特なややハスキーな、そして抗しがたい悪魔的な音色は聴く者を総毛立たせた特徴のある楽器です。

それにしても、いかに素晴らしいとはいってもなぜここまで高額になるのか、この点は解せないものがあるのも正直なところです。
ヴァイオリンの構造図を見てみると、ただただ驚くほどにシンプルで、f字孔が開けられた「表板」と裏側の「裏板」それを支える「側板」、中に突き立てられた「魂柱」が本体で、これに「ネック」という左手で持つ部分、それに「スクロール」という上の渦巻き状の部分があるだけで、そこに「駒」を介して4本の弦が張ってあるに過ぎません。

ピアノの複雑で大がかりな構造と較べると、まさにあっけないほどに究極の単純構造で、ここからあの艶やかで何かがしたたり落ちるような美しい音色が出るのかと思うと、いやはやすごいもんだと思ってしまいます。
もちろん楽器の価値というのは、大きさや複雑な機構や、ましてや原価がどれだけというような次元ではないことは百も承知ですが、それにしてもそのハンパではないウソみたいな価格はやはり驚かずにはいられません。

それに弦楽器にはピアノとは違って盗難や破損といった問題が常につきまといます。
ヨーヨー・マがストラディヴァリのダヴィドフという名高い名器(前の持ち主はあのジャクリーヌ・デュプレ!で、チェロはヴァイオリンに較べて数が少ない)をニューヨークのタクシーに置き忘れたというのは信じがたい話ですが、ともかくこういう事がある楽器というのも気の休まるときがないのではないでしょうか。

そして時にはジャック・ティボーやジネット・ヌヴーのように、所有者が遭遇した事故と共にこの世から楽器が消え去ることもあるわけです。

ピアノには持ち運びができないぶん、盗難や紛失の心配がないのはずいぶん気楽なもんです。
逆に建物が焼失崩壊するような災害にはなす術がありませんから、まあ一長一短といったところでしょうか。

ともかく、これらの昔の最高級のヴァイオリンは謎だらけで、どこかオカルト的で恐い感じがします。
そこがまた抗しがたい魅力なのかもしれませんが。
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ジャパン品質

横山幸雄氏によるショパン全曲集のCDが順次発売され、折り返し点に来ました。

このCDはショパンのピアノソロ作品を網羅するもので、その特徴のひとつは、概ね作曲された時代に沿ってCD番号がまとめられているという点です。そのお陰でCDの番号順に聴き進むことでショパンの生涯を辿ることができることにもなっていて、なるほどと思わせられるものがあるように思います。
少なくとも、ショパンのソロ作品を作曲年代順に並べた全集というのはそれほどなかったように思います。

このCDのもう一つの特徴は、以前も書いたことがありますが、ピアノはすべて1910年製のプレイエルの中型グランドを使って日本で録音されているもので、この点は特に画期的なことだと思われます。

わざわざ書く必要もないことかもしれませんが、もともとマロニエ君は率直に言って横山幸雄氏の演奏はあまり好みではなく、通常なら彼のCDを買うことはないと思われますが、これだけきっちりと企画された他に類を見ないCDというものには強い説得力があり、しかも価格も以前からマロニエ君が主張しているような、一枚2000円というものであるので、すでに発売された6枚は全部購入して聴いています。

録音媒体の変化とかクラシック離れとか、あれこれ理由はあっても、やはりキチッとした完成されたものでプロの仕事としての内容があり、価格も妥当なものであれば人は買うのであって、無名の新人演奏家のデビューCDにいきなり法外な高い定価をつけて自嘲気味にリリースする会社は、もう少し本気で反省して、やり方を基本から見直して欲しいと思います。
CDの発売元は採算性だけでなく、アーティストを育てるという一翼を担っていることも強く自覚せねばなりません。

こういうわけで今年は横山氏のショパンをずいぶんと丹念に聴くことになりましたが、ひとつはっきりしたことはマロニエ君の好み云々は別として、この人はこの人なりに、まぎれもない「天才」だということです。
その根拠のひとつが、その安定した技巧と膨大な離れ業的なレパートリーです。

ピアニストは音楽家であり芸術家であるのだから、むろんレパートリーが多いということが直接の評価には繋がりませんが、それはそうだとしても、この横山氏のそれはやはり尋常なものではなく、現実の演奏としてそれらを可能にしているという抜きんでた能力には、これは素直に一定の敬意を払うべきだと思うのです。

しかも、このショパンの全集(まだ完結はしていませんが)でも、驚くべきはどれを聴いても一貫したクオリティと安定した爽快な調子を持っていて、それがほとんど崩れるということがありません。
とくだん魅力的でもないかわりに、いついかなるときも最低保証のついたプロの演奏であるというわけです。
一人の作曲家を網羅的・俯瞰的に聴く場合、これはこれでひとつの安心感があるのは認めなくてはならないようです。

そういう意味における実力ということになれば、横山氏はなるほど大変な逸材で、現在彼に並ぶ才能が他にあるかといえばしかとは答えられません。
どんな大曲難曲であれ、ちょっとした小品であれ、すべてにとりあえずキチッとまとまった演奏様式があり、それなりのアーティキレーションまで与えられて乱れのない演奏に仕上がっていることは、まるで日本の一流メーカーの商品の数々を見るような気分す。

そういう意味では、横山氏はまぎれもない日本人ピアニストであり、日本が世界に送り出すメイド・イン・ジャパンの高い品質と信頼性をピアノ演奏で体現し、世に送り出しているその人という気がします。

リサイタルに行く気はあまりしないけれど、曲を目当てにCDを買う場合は、変な冒険をして大失敗するより横山氏の演奏を買っておけば、大間違いは起こらない、そんな保証をしてくれる人のような気がします。
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ネット販売

アマゾンで書籍の検索していたら、たまたまある本が関連商品として表示されてきました。

なんでも、インターネットでピアノを販売している人が成功して、そのノウハウを紹介する本が出版されているようでした。
最近は本によっては中が数ページのみ覗き見ることができるようになっており、どんなものかクリックしてみると、前書きから目次にいたる数ページには、「信用」「人間力」「人間の善の部分」「社会貢献」というような言葉がうねうねと躍っていました。とくに「人間力」は何度も繰り返し現れます。

マロニエ君はどんな職業であれ、こういう人生訓めいた言葉をやたら使いたがる、熱血漢ぶった経営者というのがどうもあまり馴染めません。
これはピアノビジネスに限ったことではなく、いかなる業種であっても本業の話そっちのけで、必要以上に自分達の誠実さとか満足だのお客様の心云々…といったことを前面に押し出して言い立てられると、それだけで聞く気がしなくなり、逆に気分が白けてしまいます。

まずその「人間力」とやらでお客をじわじわ囲い込んで相手の判断力を奪い去り、あとはどんなものでもいいなりに買わせてしまうといった、そんな印象を覚えてしまいます。
少なくとも商品それ自体の素晴らしさというよりは、その店に携わる人間が皆真面目で努力家で、だから素晴らしい店だという訴えが先行していて、まず店そのものに共感を得させて、しかる後に商品を売る手法という気がします。

だいたい商売人というものは、なによりも商売がこれ第一で、それはいうまでもなく金儲けのため、利益を追求するためにやっているのにもかかわらず、まるで利益を犠牲にしてでも社会貢献とか人助けなどの、さも美しい事をやっているかのごとくで、人々から愛されるために日夜努力をしていますみたいな、歯の浮くようなことを言われると却って不自然に感じるものです。

さっそくその、本ができるほど話題のホームページというのを見てみましたが、マロニエ君は正直いって到底ノーサンキューなお店でした。

過去の販売分も含めて、すべてのピアノに動画による解説が付いていて、そこの社長とおぼしき人物が怪しい笑顔と語り口でピアノの説明をしますが、それがほとんど説明になっておらず、ただメーカーと型番、外装色などをいうばかりで、鳴りがすごいとか、これはめったに入りませんといういうような、どれも似たり寄ったりなセリフのオンパレード。
ピアノのディテールの映像でも、けっこうホコリまみれだったり弦が錆びていても「どうです、きれいでしょう~?」などと堂々と言い切ってしまいます。

そして、いつもお得意のセリフが「入ってきたばっかりなので、まだ調律はしていませんが」「まだファイリングができていませんので」「調整すればまだよくなるはずです」などと、必ず言うのはなんなのかと思います。
いやしくもピアノ販売の専門家で、それを商品として販売するのであれば、せめて最低限のクリーニングと調律ぐらいしてビデオ撮影するのが当然だろうにと思います。根気よく何台も見てみましたが、一台も「調律も調整もバッチリ、どうですこの音!」というビデオにはついに行き当たりませんでした。

専門技術者も数名いるようで、いちおう技術も売り物にしており、スタッフ全員の笑顔の記念写真まで公開されていて、さも何事も包み隠なさいオープンな会社であるかのようにアピールするのですが、なぜか肝心のピアノとなると、いつもどれも調整前の未完成状態ばかりとは、そのあまりなギャップに呆れてしまいます。
「うちはリピーターのお客さんも多いですよ!」といいますが、ネットの中古ピアノ店のリピーターって、どういう人達だろうかと思います。

でも、中にはあんな動画を見て「安心感」を覚えて買ってしまう人がいるんでしょうね。
マロニエ君は見れば見るほど「不安」が掻き立てられました。
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黒い用心棒

なんともまあ、嫌な雨が続くものです。
明日(7日)は晴れ間が出るような事も言っていますが。

マロニエ君にとってはこの季節、ピアノ管理が大事とはいいながらも、しょせんは一般家庭のことなので、ホールのピアノ庫のようなわけにはいきません。
いかにエアコンを入れようと、除湿器を回そうと、そこには自ずと限界というものがあり、このところのこれでもかといわんばかりの鬱陶しい雨天続きでは、とりあえず少々の抵抗は試みるものの、最終的には太刀打ちできないものです。

しかし、今年はなにしろダンプチェイサーのお陰で、ずいぶん助けられていることは実感しています。
もちろん季候そのものがいい頃に較べれば幾ばくかのコンディション低下は避けられませんが、それでも例年のことを思い返してみると、頼もしい助っ人のお陰でたしかに違います。

とりわけ今年の梅雨は悪性とも呼びたいほどで、これだけ長期間に及ぶしつこい雨と高い湿度の集中攻撃を受けると、ピアノはかなりくたびれた疲れた感じになるものです。
例年なら、梅雨はマロニエ君とピアノは一心同体とでもいうべき疲れを見せるのですが、今年は心なしか、いや確実に、ピアノはある一定の元気さを保っており、確実に人間のほうが負けていることは間違いありません。

まあ、ピアノ好きのマロニエ君としては自分よりもピアノのほうが多少でも元気でいてくれることは、歪んだ喜びがあるもので、やはりダンプチェイサーを取り付けたことは正解だったと思っています。

それにしても、このところの悪天候はなんなのかと思うばかりで、ようやく晴れ間が出たかと思えば、それもつかの間、すぐにまた激しさを伴う雨が数日続くというパターンの繰り返しです。昔は梅雨といっても、ここまで厳しく過ごしにくかった覚えはあまりないのですが、他の皆さんはどうお感じなのだろうかと思います。

ちょっと玄関を出ると、そこはまるで風呂場かサウナのようなムシムシ状態で、聞くところによると北海道でもかつて無かったほど確実に気温が上昇しているのだとか。
もしかしたら日本は熱帯化しているのではとさえ思ってしまいます。

車に乗って驚くのは、ガレージのシャッターを開けて外に出ると、ガレージの内外だけでさえ湿度差があるらしく、バックで路上に出た途端、前後左右のガラスが一斉に曇ってしまい、前に進むにはいきなりワイパーの出番となります。
これは走り出すとほどなく消えて無くなりますが、今度はエアコンで車内が冷えてくると、これで再びガラスが曇ってしまいます。

というわけで家も、塀も、なにもかもが雨に濡れそぼって重い病気のように見えてしまいますが、そんな中に湿度大敵のピアノを置いている現実を思うと、なんだかもう無性に気が滅入ってしまいます。
とにかく、今年もしもダンプチェイサーをつけていなかったらどうなっていたかを考えると、思わずぞっとしてしまいます。

実をいうとあと1~2本追加購入しようかという誘惑にかられましたが、それもあんまりなようで、さすがにそれは止めました。
でも、ここ毎日の天気からすれば、一台のピアノに3本ずつぐらいつけたいような気がするのは事実です。
もちろん「過ぎたるは及ばざるがごとし」ですが、効き方は非常にマイルドである上に、自動調整機能が付いていますから、感触としてはピアノを痛めるやはり心配なさそうです。

いつになったらこの「黒い用心棒」が要らなくなることやら。
当分それはないことは間違いないでしょうね。
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蜘蛛の卵

今年の梅雨は例年にない厳さで、日ごとに残り少ないエネルギーをさらに奪い取られるようです。

とにかく連日の蒸し風呂状態で、室内を快適にするには、間断なくエアコンの力を求めなくてはいけないようです。
序盤からこんな厳しい季節となり、節電なんぞと言っていますが、現実にどうなるのかと思うばかりです。

とくに高齢者の熱中症などは最も懸念される事らしく、予定通りの節電が実行されるとなると、ほぼ確実に従来とはケタの違う死者などが出るという見通しだそうで、すでに一部の有識者などは、これはれっきとした「未必の故意」であり、人災であると言っていますが、尤もな話です。
とにかく大変なことになってきましたが、日本は「流れ」ができるとどうにも恐い国です。

さて、愛するピアノの健康のために敢行した、ダンプチェイサーの取り付け及びその他の要因から喉を痛めてしまい、いまだに完全回復に至ってはいないマロニエ君ですが、またぞろヘンテコな被害に遭いました。

この時期から夏場にかけて、蜘蛛の繁殖の季節となるようで、家の軒下などには場所によっては不気味な卵を産み付けられてしまいます。これがいったんコンクリートなどの地肌にこびりつくと、生半可なことでは除去できません。

我が家でも玄関を出てすぐの軒下など、ちょうど上を見上げたあたりにこれがポツポツこびりついているので、通るたびに早くなんとかしなくてはと思いつつ、この暑くてベタベタする最中にそんなことはしたくもなく、先送りしていたのですが、いつかはやらなくてはいけないことなので、過日ついに思い切ってこれの除去作業に着手しました。

ご存じの方もいらっしゃるとは思いますが、この蜘蛛の卵というのはまるで接着剤でがっちりくっつけたように、見た目以上にしっかり固着しており、ほうきの先で払ったぐらいではビクともしません。

もちろん殺虫剤などどんなにふりかけたところで、仮に中は死んだにしても、表面は頑として残ります。
これを完全に除去するにはこそぎ落とすしかないのですが、気持ち悪くてタワシなども使う気になれず、とうとう考えたのが物差しぐらいの長さの木の棒を使ってゴリゴリやるというものでした。

幸い適当なものがあったので、これでなんとか作業をしたのですが、奮闘の末にやっと終わって家の中に入って間もなくのこと、両腕がチクチクと刺激的な痛みを感じました。
とっさに、蜘蛛の卵からパラパラと粉みたいなものが落ちてくるのが肌に触れたことを思い出し、あわてて両腕を石鹸で洗いましたが、もう間に合いませんでした。

痛いような痒いような、極めて不愉快な無数の刺激が両腕を襲い、仕方がないので気休めに虫さされ用の液体ムヒを塗りまくりましたが、これも効き目がなく、ついにはそのまま様子をみることにしました。
刺激は数時間で治まりましたが、しばらくすると皮膚に赤い斑点が出てきて、蜘蛛の卵から飛び散った何かがこれを発症させたのは疑いもなく明らかでした。

この赤い斑点、夜にはより色鮮やかになり、手当たり次第にそのへんにある薬を塗りますが、なんの効果もありませんでした。
相応の痒みもありますが、これはもはや時間が解決するほかはないと観念しました。
ところがこれ、かなりの強者で、赤味が退きはじめるのに丸3日かかり、尚現在もまだきれいに消えてはいません。
家人に言わせると、そんな事をするのに、長袖や手袋などの防御もしなかったマロニエ君の短慮こそ反省すべきだそうで、つまり当然の報いで自業自得だということですが、まあその通りでしょう。

一種の毒素なのか何なのか…これだから不気味な虫など大嫌いです。
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混濁の恐怖

このところ、ピアノを弾く場合のマナーを考えさせられることがありますが、あることを思い出しました。
以前、知人達とあるピアノ店に行ったときのことですが、これは少々まずい…という状況になりました。
ここのご主人はとても気のいい方で、店内のピアノを弾くことについてはいつも快く解放してくださいます。

はじめは遠慮がちでしたが、しだいに各々がちょろちょろと弾きだしたところまではよかったのですが、時間経過とともに緊張が薄れ、気が緩み、しだいに各人バラバラに自分の弾きたい曲を同時に弾いてしまうという状況が発生しました。

マロニエ君はこれが苦手で、一種の恐怖さえ覚えてしまいます。
だいいちあまり感心できることではないですよね。

読書やパソコンと違い、楽器は音を出すものであるだけに、複数の人が複数のピアノを同時に鳴らすということは、息を合わせるアンサンブル以外はただの騒音以外の何ものでもありませんし、この瞬間から美しいはずのピアノの音は耐えがたい混濁音になってしまいます。

これの最たるものは楽器フェアなどで、せっかくの良い楽器を試そうにも、一瞬も止むことのない耳を覆いたくなるばかりの大騒音の中では、個々の楽器への興味もすっかり失ってしまいます。

今はまったくお付き合いも途絶して久しい方で、以前マロニエ君の家にピアノの好きな方をお招きしたところ、そのうちの一人は実に3時間近くを、ほとんど休むことなしに我が家のピアノを弾き通しに弾き続けました。
あとの一人とマロニエ君は呆気にとられ、つい目と目が合ってしまいますが、やめろとも言えず、なす術がありません。

わずかな曲の合間などになんとか分け入って弾くという、せめてもの抵抗を試みますがまるで効き目はなく、すぐに構わずその人もまた自分の弾きたいものを弾きはじめる有り様で、もう部屋は音楽とは程遠いただのピアノの騒音で溢れかえりました。
それでもその人はまったくひるむことなく、ひたすら弾き続けるのですから、自分さえピアノが弾ければいいというその図太さにはほとほと参りましたし、ピアノ弾き特有の特種な無神経さを感じました。

いずれにしても、ひとつの場所で同時に違う曲を弾くという野蛮な行為だけは理屈抜きに御免被りたいものです。

ピアノが好きな人は、目の前にピアノがあることは一種の誘惑で、触れてみたい、弾いてみたいという気持ちになるのはよくわかります。
しかし、誰かが弾いている間ぐらい、自分が音を出すのはちょっと遠慮する程度のけじめはほしいものです。

そんなことを考えていると、マロニエ君は最近、家でさえピアノを弾くことに、なにやら家族の迷惑が気になりだして、このところは無邪気に弾くことができなくなっています。
それは、同じ場所にいて嫌でも音を聞かされる側の立場になってみれば、それは弾いている当人とは大違いであって、どんな理屈をつけても、基本的にはただの騒音であろうと思うわけです。
とりわけ練習ともなると、通して音楽が流れるわけでもないし、ましてやプロの演奏でもない、アマチュアのヨタヨタ弾きでは、他者(たとえ家族でも)が快適であろうはずがないからです。

音の苦痛というものは、煙や臭いと並んで、どうしても強烈な部類の苦痛源であるということはピアノを弾く人は心しておくべき事だと思いますし、間違ってもピアノの音は美しいはずなどと勘違いしてはなりません。
これはピアノを弾く者、すなわちピアノの音を出す側に強く求められる基本認識の問題だと思います。

ピアノは、人前で弾くには一線を踏み越える度胸が必要ですが、その線の先には、今度は音の野蛮人にならぬよう、遠慮をするというバランス感覚を持つことも、弾く度胸以上に必要であるような気がします。
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道楽の殿堂

ピアノクラブの中に、なんと自分のスタジオをお持ちの方がおられ、そこでの練習会という名のお招きをいただき、マロニエ君も参加しました。

北九州市のとある一角にあるそこは、外観は普通の住宅街の中に半ば正体を紛らわすかのごとく静かに建っていますが、中に入ると大きく重い金属製のドアが目前に現れ、そこを開けると、さらにもう一枚同様のドアがあり、まるで金庫の中にでも入るがごとくこの厳重なドアを2枚くぐり抜けてようやくスタジオ内に入ることができます。

ベタベタとした鬱陶しい外の天気から見事に遮断されたそこは、爽やかな澄んだ空気の流れる別世界でした。
広いコンクリートの建物の中には優しげな木の床が敷き詰められ、随所に共鳴板や吸音目的の布の塊などが散見され、音響のためのあれこれの方策が練られては、試行錯誤を繰り返されている様子がわかり、ここのオーナーがいかにこだわりを持ってこの空間を作り上げておられるかが一瞥するなり伝わりました。

ピアノの音を出すと、一音一音の音には、まるで楽器の呼吸のような微かな余韻までがこの空間に鳴り響きます。
しかし鳴り響くとはいっても、決して音が暴れるような野放図なものではなく、響くべきものと余分な響きとが見事に峻別されており、人のイメージの中で「こうあってほしい」と思い描く、まさにそんな美しい音響空間が実現されていたのには深く感心させられました。

ピアノはディアパソンのDR500ですが、これがまた素晴らしいピアノでした。
コンサートグランドがカタログから落ちた現在、この奥行き211cmのモデルが現行ディアパソンの最高級モデルです。
以前、同社の社長と電話で話したときに聞いたことを思い出しましたが、鹿皮のローラーを使っているのがカワイとの違いのひとつだと言っていましたが、その恩恵なのか、タッチには奥に行くほど好ましい弾力があり、この特性とコントロールのしやすさという点では、むしろ優秀なドイツピアノを連想させるものがありました。

このDR500は、ディアパソンの生みの親である大橋幡岩氏の設計とは完全に訣別した新しいモデルで、ボディと響板はカワイのグランドRX-6そのものですが、そこにレスロー製の弦が一本張りされていることや、ハンマーはレンナーを、そしてなによりもディアパソンの技術者によって入念な出荷調整(これはピアノにとって非常に大切な点)されている、いうなればディアパソンの手によるスペシャル仕上げというべきピアノです。
そのために、大橋デザインでは見られなかったデュープレックスシステムなどもカワイと同じく備わり、音は良い意味で限りなくカワイに近いもので、昔のディアパソンのいささか攻撃的で厚ぼったい発音や、クセの強かった響きは完全に消滅し、代わりになめらかで美しい標準語を話すようなピアノになっており、ショパンなどを弾いても違和感なく収まりのつく、洗練された理想的なピアノになっているように思いました。

もうひとつ、たしかこのピアノはカワイでありながらアクションは従来の木製を貫いている点がディアパソンブランドのこだわりで、この点でも弾いていて樹脂製にはないナチュラル感と柔らかさがあり、極めて好ましい弾き心地であることも見逃せません。
まさに布団でくるんで持って帰りたいようなピアノでした。

いやしかし、こんな素晴らしい環境に住み暮らす非常に恵まれたピアノですから、これ以上の住処はないはずで、本当に幸せなピアノといえますし、このスタジオの出来映えも個人の道楽としてはまさに最高レベルもの。
こんな空間で思うさま練習ができるなんて、ここのオーナーはなんという幸せを独り占めしておられるのだろうかと思わずにはいられません。

現在のような言葉のインフレからすれば、ここはもはや堂々とホールを名乗っても良い場所で、巷にはこれとは比較にならないただの部屋みたいなものをホールと呼んでいるものをマロニエ君はいくつも知っています。
ここのオーナーはピアノはもちろん、ヴァイオリンも弾かれる由なので、いつかベートーヴェンのソナタでもお手合わせ願いたいと密かに企んでいるところです。

ともかく驚きの一日でした。
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好みの封印

他人と接触する際には慎重にならないといけないことがいろいろとあるものですが、マロニエ君はこの歳になってもまだまだ油断だらけで、後から反省することしばしばです。

たとえば、いろんな人と雑談をする折は、その雑談内容と雰囲気にもよりますが、あまり軽々しく自分の好みや考えを明かしてしまうのはどんなものかと思うようになりました。
というのも、マロニエ君はわりに好き嫌いが強いほうなので、とくに嫌いなものは徹底的に嫌い抜く場合があり、そういうものが話題にでると、つい反射的に拒絶の反応を起こしてしまいます。

もちろん状況次第で、どんなに自分の考えや好みを言おうと一向に問題ないこともありますが、音楽の話などでは、自分の好みをいち早く表明するのは、やっぱりよくよくの注意が必要だと思います。
とくに自分が嫌いなものの場合は、その注意の度合いも高める必要があるということでしょう。

嫌いな作曲家、嫌いな作品、嫌いな演奏とか演奏家、そしてその嫌いの理由も何層にも積み重なった理由と根拠があって、若い頃はそこに意思表示をしないでいることは、自分をも裏切ることのように思い詰めることがありましたが、最近はさすがに歳のせいか、そんなに力み込んで事を荒立てることもないと思うようになりました。

むしろ、こちらとしては単なる自分の好みではあっても、場合によってはそれを聞いた人は、自分自身が否定されたように感じさせる危険もあるでしょうし、下手をすると相手を傷つける可能性もあるかもしれません。

それよりは、その場を柔軟にやり過ごすことの方が意味がある…といえば、なんだか生悟りのきれい事のようですけれど、マロニエ君の場合は実はそれでもなく、言い方を変えるなら、何かを犠牲にしてまで己を貫くことがだんだん煩わしくなったわけです。
敢えて頑張るに値するような重要な場面でも顔ぶれでもなし…という思いでしょうか。

もちろんよくよくのことならその限りではありませんが、よくよくのことなんて、そうざらにあるわけでもなし。
さしものマロニエ君も、ここにきて現実的な算盤をはじくようになり、そこでヘラヘラと笑みでも浮かべておいてその場が平穏に通過できるなら、それはそれで自分も楽だという、甚だ狡くてなまくらな考えが浮かんでくるようになりました。

まあ、ひとつには一人で奮闘したところで、どうせこちらが期待するような理解も得られず、自分のほうが浮いてしまうだけという現実感も後押ししてのことですが。

これが丸くなるということなのか、はたまたただの堕落なのか、諦観なのか、韜晦なのか、そのへんはよくはわかりませんが、まあとにかく好き嫌いぐらいで要らざる波風を立てることもないと思うようになったということです。

ひとつには、たまに主張めいた人の熱心な(そして野心的な)発言などを聞いていると、その内容よりも、ずいぶんと必死で余裕のない人間の、いかにも滑稽な姿を見ることになり、それが反面教師として機能しているということも、もしかしたらあるかもしれません。

とりわけ周りに聞かせることをじゅうぶん意識した上で発せられる言葉や知識の披瀝は、聞かされる側は痛いほどにその心底が見えてしまい、なんともいたたまれないものです。まあ何をどう妥協しても、努々そんな姿だけにはなりたくないという、これは自衛本能なのかもしれません。
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忍耐の名工場

車の仲間の行きつけの、ちょっと変わった修理工場があります。
ここはいわゆるヨーロッパのあまり一般的でない車ばかりが集まってくる、知る人ぞ知る整備工場で、昔からここを頼りにしているディープなお客さんががっちりとついています。
宣伝はおろか、看板のひとつもありませんが、それでも年中つねに順番待ちになるほど「入院患車」がひきもきりません。

工場内にある車は、ふだん路上で見かけることはほとんどないような主にイタリア/フランスの珍車ばかりで、レアなコレクターズカーみたいなものがここではごろごろしています。

とくにマイナーなラテン車の世界ともなると、それぞれが常識にとらわれない独創的な設計とか特異な構造になっていますから、修理の仕方もよほどの心得と経験がないとなかなかできることではありませんし、パーツの発注ひとつにしても日本車のようにきれいに整理・管理された世界ではないので、すべてが手間暇のかかる仕事となるのです。

ここのご主人はその点で正に名ドクターなのですが、昔から弟子を取らない主義で何から何まですべて一人でこなす変わり者です。
とはいっても接する限りでは、とくだんの変人とか恐い職人肌みたいなタイプではなく、愛嬌もありむしろ丁寧で礼儀正しいほうの部類ですが、それはあくまでもうわべだけの話。
このメカニックと付き合うとなると、それはもう並大抵ではない試練と苦労が伴います。
この人、あくまで自分のペースで仕事をするのが好きなのか、それでしか仕事ができないのか、そこのところはわかりませんが、それを維持するための流儀には凄まじいものがあります。

その最も変わっている部分は、仕事が立て込んでくると一切連絡がつかなくなる事です。
どんなに約束していても、再三のお願いをしても、この状態に突入するや、こちらから何度電話しても決して電話を取らないのです。固定電話も携帯も一切関係なく、すべてが完全な無視で、まるで俗世間を完全に遮断するごとくです。
出ないとなったら徹底的で、その思い切りの良さときたら、世間やお客さんに対して、よくもそんなことをする度胸があるもんだと感嘆させられるまでに徹底しているのです。
この人に限っては、仮に誘拐とか失踪など事件に巻き込まれても、おそらく数ヶ月は誰も気が付かないでしょう。

非常手段としてはファックスを送り付けたりもしますが、それが役に立つことは5回に1回ぐらいしかありません。
それが1日や2日ならともかく、ときには何週間もその状態になることも珍しくはなく、それでも連絡したいお客さんのほうが辛抱強く電話をかけ続けるという異常事態が続きます。
出ないことがわかりきっている番号へ、ひたすら電話をかけ続けるという、まるで消耗戦のような毎日が続きますが、それで途中で諦めたり憤慨したりすれば、ハイそこまでというわけで、むこうは痛くも痒くもないわけです。

つまり、強いのは圧倒的に工場側というのがここのお客さん達の置かれた明確な立場なのですが、それでもお客さんが途絶えることはなく、次から次に問題を抱えた変な車が彼の手を頼って入庫を待っているのです。

日本車(そもそも故障もしないが)や、それに準ずるドイツ車の確実なメンテを当たり前だと思っているような人は、おそらくいっぺんで発狂するか掴みかかって首でも絞めてやりたいほどの怒りと屈辱を覚えるはずで、果ては、それで車さえ手放す立派な理由にもなるだろうと思います。

ところが困ったもので、趣味というのはこうした困難もどこか自虐的な楽しさに繋がっているのかもしれません。
ここのお客さん達は、もしかするとこんな苦行僧のような仕打ちまでも、ひとつの快感にまで到達しているんじゃないだろうかと思ってしまいますが、マロニエ君の場合は心の修行が足りないのか、さすがにそんな心境にはなれず、ただひたすら忍耐これ一筋というところです。

馴れとはおかしなもので、ちょっとした町の行列でも忌み嫌うマロニエ君が、ここ相手の場合のみ、まったく意識を切り替えて、この非常識に耐え忍んでいるのですから、なんという健気さ麗しさ…自分で自分を褒めてやりたいです。

それでも目出度いことに、つい先日から我が愛車はここに入庫の運びとなり、今は出来上がりを待っているところです。
週末にはやや遠方にでかけるので、それに間に合えばと目論んでいたのですが、さすがにそれは甘かったようで、いつものコンパクトカーで行かなくてはならないようですが、まあ仕方ありません。
入庫した以上は向こうも仕事をしないと車を出せないわけですから、こうなればこっちのものです。
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S社の凋落

アルゲリッチの東日本復興支援チャリティCDで、もうひとつ感じたことを少し。

実はこのCDでのマロニエ君が最も残念に感じたのはピアノそのものでした。
ただし、これはこの演奏会だけのことではありませんので、その点は念のため。
とにかくピアノが絶望的に鳴らないことです。
もちろん録音物は会場の条件やマイクの位置や性能、あるいは技師の指向など、あらゆる要素が絡みあっていることなので、それだけを聴いて軽々な事は言えないことはこの世界の常識として重々わかっているつもりですが、ただ、そんな微妙さの問題ではなく、ピアノが悲しいほど、ただ単純に鳴っていないことは誰の耳にもあきらかです。

つい先日もテレビで、ロジャー・ノリントン指揮するN響の定期公演(サントリーホール)で、オール・ベートーヴェン・プロをやっていましたが、いつも義務的なしらけた演奏しかしないN響が、さすがにこの大家を迎えて渇を入れられたのか、普段にはない気合いの入った重厚な演奏をしているのは嬉しい驚きでした。
冒頭の「プロメテウスの創造物」序曲からしていつものN響とは響きと厚みが異なり、続く交響曲第2番では、ベートーヴェンの全交響曲中この最も知名度の低いこの作品を、大いに手応えのある堂々たるドイツ音楽として披露してみせました。
そして最後を飾るのが、ドイツの俊英マルティン・ヘルムヒェンを独奏者に迎えての「皇帝」でした。

ところが冒頭のピアノのアルペジョが鳴り出すや、もうひっくりかえりそうになりました。
ここで聞こえるピアノの音も、上記のCDとまったく同じ音で、耳栓でもしているようにくぐもった精気のない細い音しかせず、とても皇帝のあのエネルギッシュな前進する音楽を聴いている気がしないのです。ヘルムヒェンはまだ若くて未熟なところはあるのもも、キレの良さと作品に対する献身的な演奏姿勢は概ね好感の持てるものでした。

しかし、彼がどんなに力んでも気持ちを込めてもピアノがそれに応えきれず、自然と音楽そのものが沈殿していくのが手に取るようにわかって気の毒でした。オーケストラも前2曲で見られた覇気がなくなり、いつものしらけた調子に戻ってしまったのは演奏者も聴衆も大変不幸なことだと思います。

さらに言えば先日のショパンコンクール入賞者達によるガラコンサート(こちらはオーチャードホール)でも同様でした。
すべて会場も違うのでピアノも違うはずですが、どれも「同じ音」なんです。

これはもちろん有名なS社のピアノですが、どうもここ最近の新しいピアノ特有の、ほとんど量産品としかいえないような深みもパワーも輝きもない、貧相にやせ衰えたあの音は個体差でもなんでもない、このモデルに共通する特徴であることが間違いないようです。

アルゲリッチのCDの演奏会場はすみだトリフォニーホールで、ここは1997年の開館ですから、その当時導入されたピアノなら、まだまだこんな状況になる時代のピアノではないはずですから、そのピアノだとはマロニエ君はまず思いません。
もしかすると10数年経過したということで新しいピアノに買い換えたのかとも思いますが…。

それにしても、ひどいです…。
まともに曲の輪郭も描くことができず、かろうじてS社の音の残像のようなものだけが弱々しく聞こえていました。
まるでフタを閉め、カバーを掛けて弾いているように音がこもり、聴いていて虚しくなります。
先人達が築き上げたブランドにあぐらをかいて、あんなものを堂々と作って販売しているようでは、他社にそう遠くない時期に追い越されてしまうのではないでしょうか。いや、すでに現在がもうそうなのかもしれません。

マロニエ君は子供のころから、なにしろこのメーカーのピアノが好きで、心底惚れ込んだピアノでしたが、しかし同社の新しいピアノをあちこちで聴く(弾く)につけ、ついにここまできたかと思わせられることがありすぎです。
メーカーが企業体である以上、利益を追求するのを責める気はありませんが、そのために、これほど露骨に品質を落とすのはとても納得できません。

サイドのロゴが大きくなってからのピアノ、さらには下面の支柱が黒から木肌色になって以降、さらにもっと言うとここ1〜2年の新しい大型キャスターが付いて以降のピアノは、いかに贔屓目に見てもいただけません。
メーカーがあんなものを平然と作る以上、ファンがどんなに善意の解釈をしてみたところではじまりませんね。
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アルゲリッチの復興支援

東日本復興支援チャリティということで、アルゲリッチが昨年暮れに東京で行ったシューマン&ショパンの第1ピアノ協奏曲がCD化されて発売されています。

参加したアーティスト全員が録音印税を放棄して、収益を楽器や楽譜を失った被災者の復興支援のために寄付するという目的があるのだそうで、こんな思いがけないことからまたアルゲリッチのコレクションが一枚増えることになりました。

このCDは、震災で被災したものの早期に復旧を果たした(株)オプトロムの仙台市の工場でプレスされているというところにも大きな意義があるようで、かつて公演のため訪れたことのある仙台でこのCDが製造されることに、アルゲリッチは東日本復興の兆しを感じているのだとか。

アルゲリッチはカルロス・クライバーと並ぶ大変な日本贔屓で、最近読んだ彼女の伝記でも、何事も気むずかしい彼女が、こと日本のことになると一転して従順になるとありました。すでにアルゲリッチはパリをはじめ、ヨーロッパのあちこちで日本の災害支援のためのチャリティーコンサートを開催しており、多くの友人音楽家が集まっては日本のために素晴らしい演奏を繰り広げているようで、なんともありがたい話です。

さてこのCDですが、アルゲリッチの演奏に関しては、マロニエ君の部屋で宣言しているようにこれに一切触れるつもりはなく、ただ、いつもながらのすばらしいものとだけしておきます。
ただ、その他の点についてはせっかくのCDにもかかわらず残念に感じたことがありました。

まずは共演のアルミンク指揮/新日本フィルの演奏が粗っぽく品位に欠けて、とてもこの稀代のピアニストの精妙な演奏に見合ったものではないという点でした。
新日本フィルは昔は小沢征爾がよく振っていて、アルゲリッチも彼の棒のもとにたびたび共演していましたし、その後は今回の会場であるすみだトリフォニーホールのような立派なホームグラウンドまで与えられて、さぞや素晴らしく成長しているものと思っていたのですが、この演奏クオリティはまったくもって意外でした。

マロニエ君も東京在住時代は、新日本フィル、小沢征爾、アルゲリッチの組み合わせでシューマン、ショパン第2、チャイコフスキーなどを何度か聞きましたが、つねにオーケストラがイマイチという印象を免れることが無かったのは残念です。その後はいくつもの国内のオーケストラもめきめきと腕を上げて、ヨーロッパの二流オーケストラを遙か凌ぐまでになっていることを考えると、この新日本フィルはあんまり変わっていないなぁ…という印象です。

企業もそうであるように、よろず組織体というのはよほど強いリーダーの手腕のもとにドラスティックな改革されないと、意外なまでにその実力や体質というのは人が入れ替わっても尚、綿々と受け継がれていくもののようですから、そんなテコ入れが新日本フィルにはなかったのだろうと思います。

すみだトリフォニーホールのような立派な箱ができ、このところは、このCDでも指揮をしているクリスティアン・アルミンク、ほかにもダニエル・ハーディング、インゴ・メッツマッハー、ジャン=クリストフ・スピノジ、トーマス・ダウスゴーといったヨーロッパの若手指揮者を次々に登用したりと、表向きは派手なイメージ作りをやっているようですが、要は内側に手を突っ込まない限り、いくらこんなふうに表紙だけ外国人に取り替えても、あまり意味がないように思います。

もうひとつはショパンの途中からピアノの音が狂いだし、これがみるみる悪化していったのには唖然としてしまいましたし、たいへん残念なことです。
しかもそれが音楽で多用する次高音の部分だったので、この激しく狂ったビラビラの音が繰り返し出てくるのは興ざめで、ただもう悔しいとしか言えません。

ネット上のCDレビューなどでも、書き込んだ人がこの調律の狂いを問題にしていましたが、当然だろうと思います。

やり直しのきかない、この日のアルゲリッチの演奏に、ピアノが大きな傷を付けてしまったようなものです。
よほど何か理由があったと考えるべきかもしれませんが、手がけたピアノ技術者は、プロとしての結果責任を大きく問われる問題だろうと思います。
ところが、ライナーノートにはしっかりその技術者の名前まで記されていることには更にびっくりしました。
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ネットオークション?

報道などですでにご存じの方もいらっしゃると思いますが、日本音楽財団所有のストラディヴァリウスの1挺が、東日本大震災の復興のために売りに出され、これがなんと過去最高額で落札されたようです。

日本音楽財団は文化庁文化部の芸術文化課が管轄する公益法人で、十数挺のストラディバリウス等を保有しており、これらの楽器を芸術家や音楽家など、それを演奏するに値すると判断された人に、無料で貸し出しているそうです。
むろん非営利団体であり、1974年の開設いらい楽器を売却したのは今回が初めてということです。

ストラディヴァリウスにはそれぞれの楽器に、過去の所有者やエピソードなどから取った様々な名前が付けられており、今回売り出されたのは「レディ・ブラント」という世界的にも極めて有名な楽器です。
この名は、英国の詩人バイロン卿の孫であるレディ・アン・ブラントがこれを30年間所有したことに由来していますが、この楽器を有名にした最も大きな特徴は、ほとんど使われていない極めて保存状態の良いストラドだということです。
1721年製とありますから、ストラディヴァリ77歳頃の作ということになり、彼は不思議な人で人生の後半から晩年になるほど多作になるのです。

ほかに未使用に近いストラドとしては「メシア」という名で呼ばれる楽器が有名ですが、約600挺といわれる現存するストラディヴァリウスの中でも、これほど使い込まれていない楽器は片手で数えるほどあるかないかでしょう。

そんな貴重品の中の貴重品である「レディ・ブラント」を売りに出したというのは、どんな経緯があったのかは知る由もありませんが、おそらくは大変な決断だったと思います。
もしかすると、文化の名の下に高い楽器ばかり買い集める同財団へ、なんらかの批判や圧力などがあったのかもしれず、そういう力に押されてのことだったのでは?と思うのは考えすぎでしょうか。

ネットの情報によると、日本音楽財団がこの「レディ・ブラント」を購入したのが2008年のことだったそうですから、わずか3年ほどの日本滞在だったということになるのでしょうか。

ともかくこれが、ロンドンの楽器の競売会社タリシオが主催するネットオークションに出品され、匿名の入札者によって、なんと980万ポンド(約12億7千万円)で落札されたというのですから、驚くばかりですし、いかにこれがストラディヴァリのヴァイオリンの中でも格別の一台とはいえ、この凄まじい価格は狂乱的な気がします。

しかもこれ、ネットオークションというのがさらなる驚きで、ヤフオクのようにこの落札者はモニターを見ながら、自分の指先でカチャッとクリックして入札したのでしょうか!?
ちなみにこれ以前の最高額は約4億ということですから、「レディ・ブラント」は一気にその三倍以上の値を付けたことになります。

ここまで来ると、もはやその額に相当する価値があるのか否かなど、考えることさえナンセンスでしょう。

ちなみに、日本音楽財団の所有楽器の資産額合計は、約95億円なのだそうで、およよーんですね。
ずば抜けたヴァイオリンの才能があって、めでたくこういう機関や団体から楽器を貸与される幸運に恵まれても、これでは保管や移動など、ほとんど気の休まるときがないでしょう。
心配でうかうかトイレにも行けない気がします。
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カワイ軍団

ピアノクラブ内では、俄には信じられないような事実があります。

クラブ員は皆ピアノを弾くわけですから、当然ながら電子ピアノ、アップライトピアノ、グランドピアノまで、様々な楽器を使っている人がいらっしゃいますが、その中で、グランドピアノだけに限ると、信じがたい事実が浮かび上がり、これは果たして偶然か必然か…。

全員をくまなく確認したわけではありませんが、マロニエ君が現在把握しているだけでも、カワイが5台、シゲルカワイ2台、カワイが製造しているディアパソンが2台に対して、ヤマハはわずか2台!で、圧倒的にカワイ系の健闘が目立ちます。

これは一般的なヤマハ優勢の流れからいうと、真逆の情勢で、なにが理由だろうかと思いますが、はっきりしたことはわかりません。一般的な人がごく自然に選ぶピアノがヤマハだとするなら、われわれはひどく不自然な一般人からかけ離れた人間の集まりということになるかもしれません(笑)。

普通はどこに行っても置いてあるピアノは十中八九ヤマハですから、ピアノクラブの定例会でもこれまで利用した会場のピアノはことごとくヤマハで、カワイだった場所はたった一箇所しかありませんでした。
その一箇所というのも、地元のオーケストラの弦楽器奏者の方が作られた貸しスタジオなので、やはりなにかのこだわりがあって意図的にカワイを導入されたものだろうと思われます。

日本はピアノといえばまずはヤマハで、どこに行っても判で押したようにヤマハ、ヤマハ、ですから、ピアノクラブの個人所有のグランドピアノが、これほどの猛烈な比率でカワイ系のピアノだというのは本当に驚いてしまいました。

別に我々はカワイ楽器の回し者でもなければ、なにかそれに類する系列に属しているわけでもなんでもない、単なる個人の集まりであるし、お互いに話し合って買ったわけではなければ買った時期もバラバラで、知り合ったときには皆ピアノは持っていたことを考えると、この事実は実にまったく注目すべきものがあるようです。
もう一度繰り返しますが、ディアパソンを含むカワイ系が9台に対して、ヤマハが2台というのはやはり尋常なことではないようで、もしマロニエ君が学者なら即席の研究テーマにしたいところです。

彼らに共通しているのは、カワイ(およびその系列)のグランドには、皆一応の満足をしている様子で、最大手のピアノにはほとんど関心がないように見受けられる点でしょうか。

これに対して、一般的な施設の備品として置かれているピアノや、ピアノの先生には圧倒的にヤマハが多いようです。
もちろんカワイ系列の音楽教室に連なる先生達はカワイかもしれませんが、いわゆるフリーの先生やピアニスト、音大生などはマロニエ君の知る限りでは圧倒的にヤマハです。

カワイを選んだ人の動機を一人ひとり聞いてみたわけではないし、それもまたいろいろだろうとは思われますが、単純に音の好みということは、やはりあるのではないかと思われます。
ただ現実には、ピアノを買う人というのは、とにかく何を買ったらいいのかわからなくて、ヤマハとカワイの違いもわからないという人が多いのも事実で、わからないからヤマハを買っておけば間違いないだろうというのが一般的です。
そんな中で、少なくとも自分の好みがあり、それをカワイのほうに感じたというのであれば、これはもう立派なひとつの見識で、ここは最も注目すべき部分だろうと思います。

マロニエ君は決してヤマハを否定するものではありませんし、ヤマハの良さも自分なりにわかっているつもりです。
同時にカワイがすべて良いなどと思っているわけでもありませんし、カワイの欠点もむろん知っています。

ただ、それでも、もし新たにヤマハかカワイのいずれかを買うとしたら、機種はさておいても、マロニエ君なら迷うことなくカワイを選ぶことだけは間違いありません。
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音楽本蒐集

音楽関係の書籍、わけてもマロニエ君の興味の対象であるクラシック音楽関係の書籍というのは、発行部数も少ないのか、数年もすると書店や楽器店から姿を消してしまいます。
ピアノ関連でも、レッスン関係の本は比較的ありますが、文化論的なものはそれほど多くはありません。

すぐに買って読みたいというほどのものではなくても、一定の関心を抱いて、そのうち購入しようなどと油断していると、ついその本のことを忘れてしまい、何かの拍子に思い出して買う気になったときは、もう無くなっていて、調べてもらったら廃刊になりましたなんていうことも何度か経験しました。

一般性があって売れ行きが見込めれば、版を重ねて再販もされるでしょうが、クラシック音楽関係の書籍でそれが行われるようなものはめったにない気がします。
つまり、目についたときには、ある程度のタイミングで買っておかないと、後からはもう手に入らなくなるというのがマロニエ君の体験から得た認識となりました。今目の前にあるものは、できる限りサッサと買っておくべしという掟です。

それいらい、どうしようかな?と思うぐらいのものはできるだけ買うようにしていますが、買ったにしても、本というのはすぐにそれを読みたい気分の時と、そうではないときがあるものです。
さらに読みかけの本などがあると尚更です。
というか、そもそも本はすぐに読みたいときに買うものですが、音楽書はそれが難しいということになるでしょうか。

そういうわけで興味を惹くものがあったときは、できるだけ早めに購入するようにして、すぐに読まない場合はひとまず本棚に入れておくというスタイルが出来上がりました。
ところが、これはこれで意外な落とし穴があったのです。

買ってすぐに読んでおけば、その本に対する記憶や印象というものが何か残るものですが、ただ買ってきて本棚に入れただけでは、印象がスーッと消えてしまうことがあり、そうなるとどうなるか?
もうおわかりだと思いますが、買ってしばらく未読のままにしているとその本のことは完全に記憶から抜け落ちてしまい、書店でまた同じ本を見たときに誤って重複買いしてしまうという、まことに阿呆なことをやらかしてしまいます。

つい最近もこれがあり、しかも二度続いたのには我ながら嫌になりました。

大したものでもなく、2冊持っていても仕方がないので、先月に一人、今月もう一人と、ピアノの友人にこれらの本を進呈しました。尤も、大したものならきっとすぐに読むはずですが、中途半端なものだけに放置してしまうのかもしれません。

逆に、ちょっと値段が高めなので次に来たときに買おうぐらいに思って、いったんは購入を見合わせて引き上げて帰宅してみると、なんとそれ、既にもう買っていて、今日書店で悩んだはずの本がちゃんと自分の本棚に入っていてびっくりしたこともあるのです。

高い本を重複買いしなくてよかったとホッと胸を撫で下ろしたことも一度ならずありました。
いいかげん健忘症かとも思いますが、それほど買ってすぐ本棚(しかも普段目に触れる場所ではないので)直行というのは危険だということのようです。
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男はケチ?

最近しみじとわかったことがあります。

ごく一般論として、男と女とではどちらがケチかというと、それは公平なところ男だろうと思います。
むろんこれは個人差の話ではなく、中には気前のいい男性もいればケチな女性もいることは百も承知ですが、それでもやっぱり全体として見た場合、男のほうが体質的にケチだというのが結論です。

買い物ともなると財布の紐は平均的に堅く、なかなか購入という現実行動に入らない人は実に多いものです。
お金を使うことは多くの場合、苦痛もしくはすこぶる慎重で、自分の財布からお金が出ていくことが本質的に嫌らしい。
その点では、女性のほうが目的に対しては飾らず正直で一直線、度胸と一途さがある人が多いと思います。

なにが一番違うかというと、男はとにかくあれこれと比較検討するのが好きですし、その段階からすでに楽しんでいるということもあるでしょう。これはマロニエ君も思い当たるところがないわけではなく、買い物を前提とした下調べというのには一種独特な楽しさがあるもので、とくにネット社会になってからというもの、それが安易かつ網羅的にできるようになりました。

こういう調査を通じて、いろいろな良し悪しの実情を知ったり、付随的に知識が増えたりすることもあれば、マニアックな心理を満足させられたりと、購入に際しての調査には有効かつ興味をそそられる面があるのは認めます。
しかし、初手から絶対に損をしない確実な買い物がしたい、しかもできるだけ安く、それでいて人も羨む本物が欲しいという甚だ虫のいい魂胆を垣間見ることがあるのです。

気持ちはわからないではありませんが、ものには自ずと限度というものがあり、この手の調査をやりすぎる、あるいは検討時間がやたら長すぎるのは、隠された本音を疑ってみる必要が出てくるわけです。
つまり、そもそも買う気があるのか…これが甚だ疑わしくなってくる。

このタイプは「買う」という大前提を打ち立てておいて、それにまつわる会話や時間そのものを楽しんでいるという、まことに安上がりの悦楽に浸っている場合が少なくありません。
しかも最終的な決断を下す決定権は、自分の買い物である以上、当然ながら自分ひとりが握っているわけで、ここはいかなる余人も手出しのできない領域というわけです。こういう現実が、一種の自在感をもたらし、ささやかな権力志向にさえ繋がって、当人はその快感に酔いしれ、なかなかやめられないでいるようです。

マロニエ君の友人に言わせると、彼らはあくまでも未定の、将来の、責任の発生しない話題(しかも話だけならタダの)をふりまいて人の関心を引き寄せて、その話の主役となり、まわりの反応を「おかず」にして楽しんでいるのだといいます。

こういう人は小心者のくせに見栄っ張りで、なにかといえば言い訳が多いのですが、それもまた男によくある特徴といえばそうなのかもしれません。やたら裏事情などが大好きで、己一人がいつも賢い目線のトークを繰り広げるのですが、かえって他者の目にはその人が小さく滑稽に見えてしまうものです。

まさに1円の出費もなしに話の世界を飛び回り、虚構の快楽を楽しんでいるわけですが、だいたいこの手はいつまで経っても買うことはないので、そのうち誰からも本気で相手にされなくなります。
しかも、今どきは表だって追求するようなことはしませんから、本人はいつまでもそこのところに気がつきません。

こういう人はどこにでもいるもので、マロニエ君も以前は本気になって話に乗せられていましたが、だんだん鍛えられて最近では真贋を冷静に見定め、そのいなし方もわかってきました。

本気で買う人は、はじめから意気込みなどに現実感と迫力があり、どこともいえず違うものです。
どれを見ても気に入らなかったり、あれこれ注文の多い人というのは、概ね「買わない理由を探している」のです。
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