草戦争、ついに化学兵器へ

今年の5月ごろからマロニエ君が我が敵と思い定めて戦っているもの、それは憎き雑草です。
一時は完ぺきに殲滅してやろうと何日がかりで草取りに精を出ました。
屈んだ体勢での数時間にわたる連続作業を数日間繰り返すため、腰は傷め、血流不順で頭はフラフラ、失神寸前。
それでも努力の甲斐あって2~3度は当方の輝かしい勝利気分が味わえたものです。

ところが梅雨が到来し、降って降って降ったあげくの直射日光。
これを幾度か繰り返しているうちに敵は見る見る盛り返し、あっという間に形勢逆転してきました。
それでも梅雨のうちは作業を諦めていたところ、これが祟って、はれて梅雨明けを迎えたころには、あたりはもはや一変していました。

かつて勝利気分を味わったあの光景は見る影もなく、そこは所狭しとびっしり生い茂る雑草のジャングルと化しています。
しかも、数回にわたって完ぺきに近い草取りをやっていたために、生えてくるのはいかにも若々しい、活きのいい、青くつやつやとした雑草ばかりです。
まさに立錐の余地もないほどびっしりと生えそろい、その合間合間に上の木から落ちてきた実が芽を出して、雑草と新芽に完全に占拠されためちゃくちゃな状態となりました。

果たしてマロニエ君は暑さに弱く、湿度に弱く、蚊に弱く、とうていこの状況下で再戦を挑む気概は失っておりました。
それに、抜いても抜いても際限もなく無尽蔵に生えてくる敵のしたたかさは身に滲みてわかっていますから、これ以上戦っても当方の戦力を疲弊させるのみということが容易に判断され、ついには恐ろしや化学兵器の投入を思いつきました。

ホームセンターで該当品を購入し、梅雨明けを待ちました。
梅雨明け宣言と同時に照り返す容赦ない焼けるような直射日光は、まるで雑草どもの傍若無人を誘いこむようにみえました。
そこで間髪入れず散布開始。
中型容器を完全に使い切りましたが、さてさてどうなりますことやら。
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無名読者からのコメント

「マロニエ君の部屋」の読者の方から、ブログのコメント欄を利用してカワイのグランドピアノの変遷について、下記のようなアドバイスが寄せられました。
マロニエ君は勝手ながらブログでのコメントのやり取りはしない主義なので、このままでは返答ができませんし、大変参考になる内容ですので、原文のままご紹介します。

カワイピアノの系統については
http://www.kawai.co.jp/piano/grand/rx/pdf/GP_20100112.pdf の11ページをみていただくとわかります。
オオシロにある700号はKGの前の800号と同世代で独立アリコートをもつものがあります。
その後KGは普及品としてベヒシュタインのコピーのアリコートなしといったん品質が落ちます。ディアパソンの劣化版コピーです。KGの品質はずっと問題がありました。いわばディアパソンの量産性をあげた粗製濫造の気配があります。
一方S&Sの影響を受けた手作りセミコンGS(シュワンダー)が登場、その後量産品CA(ヘルツ)となります。
フルコン800号はd174とCFの影響を受けたEX(ヘルツ)となり、途中手作りのセミコンRX-A、R-1が出現します。 KG(シュワンダー)は最終型KG-N(ヘルツ)からベヒの影響を脱出、CAと合体してアリコート付となります。
このころカワイはボストンを作ることでS&Sの秘密を握ります。 その後KG-NはRXと名前がかわりますが、フレームは角穴のまま。
1999年にRXはスケールデザインがかわり、丸穴となりピン板付近に左右を縦貫するフレームが登場しヤマハのCに似たデザインとなります。同時に高級版SKが誕生します。SKはRXより手作りが多く、寝かした材料を使って整調、整音、鍵盤ダンパー錘が一品一品に調節されたものです。
したがってお持ちのGSはシュワンダーながらセミコンの作りなのでいいピアノです。アクションはディアパソンの木製ヘルツ式のウイペンに変えることができますよ。作りのよいGSを弾かれていたので他のピアノの良し悪しが良くわかるのだと思います。
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バックハウスの新譜

実に思いがけないCDが発売されたので、さっそく購入。
なんとバックハウスが死の3か月前にベルリンで行ったコンサートのライブで、これまでまったくその存在すら知られておらず未発売だったものです。
2枚組の収録曲はベートーヴェンのピアノソナタ4曲で、第15番ニ長調Op.28『田園』/第18番変ホ長調Op.31-3/第21番ハ長調Op.53『ワルトシュタイン』/第30番ホ長調Op.109というもの。

この演奏時、マエストロは85歳という高齢にもかかわらず、例のあのくっきりとしたとした調子で、時には情熱的に、時にはリリックに、総じて雄渾にベートーヴェンを弾いているのはほとんど信じがたい事でした。
デッカに残したあの名盤のような完成度こそないものの、素晴らしく鮮やかな録音により、生きた生身の老巨匠が今まさに目の前の至近距離にいるようで、こういうものを聴くとあらためて録音技術の発達には惜しみない感謝を送りたい気分になります。

使用されたピアノがまた嬉しい誤算で、バックハウスのピアノはベーゼンドルファーというのは、もはや常識中の常識で、この両者を引き離すことはできないものと思っていましたが、なんとこのコンサートではベヒシュタインを使っています。一流のピアニストになると楽器の個性を超えて「その人の音」というのをもっているものですが、ベヒシュタインを弾いてもバックハウスは自分の音を無造作に鳴らしているのはさすがだと感心させられました。

それでもベーゼンドルファーにある柔和さと引き換えに、ベヒシュタインの単刀直入なドイツピアノの音は個人的にはより鍵盤の獅子王と言われたバックハウスにはとても合っているように思えました。

それにしても、バックハウス、ベートーヴェン、ベヒシュタイン、ベルリンとまさにのけぞりそうなドイツずくめで、これだけ条件が揃うのも珍しく、ヒトラーじゃなくてもドイツ万歳!という気分になりました。
スタジオ録音では聴かれなかったワルトシュタインでの一期一会のような生命の燃焼は圧巻で、この日から3カ月を待たずにあの世の人になろうとは…。
最近は、ときどきこういう思いがけないものが発売されるのは単純に嬉しい限りですが、マロニエ君のCDエンゲル係数は上がるばかりなのが我ながら恐ろしくなります。
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ブリュートナー!?(補足)

ニュウニュウのショパン・エチュードのCDですが、私がメールをいただいた方の中では、未だにあんな音がブリュートナーだとは納得しておられない方もいらっしゃいます。ブリュートナーのこともご存じのその方は「ブリュートナーはもっとしなやかな音がする」と言われるのです。
マロニエ君としては音の良し悪しは別にして、ブリュートナー社が出しているCDと聴き比べてみて、音の本質は同じもののように感じたというのは昨日書い通りですが、あくまでマロニエ君の耳にはそう聞こえたというだけですから、むちろん断定はできません。

思うに、もし本当にブリュートナーは使っていたとしても、仮定ですが、中国のピアノの調整にも一因があるのではないかと思いました。
マロニエ君の部屋の「中国のピアノ」でも書いているように、中国におけるピアノの調律センスというのは、ちょっとまだ我々には信じられないぐらい遅れている面があると感じています。

もちろん中には上手い人もいるかもしれませんが、でも、しかし、土壌全体がもつレベルというのは厳然とあるわけで、ピアノ店などに行ってもそれはもう笑ってしまうようなことが多々ありました。というか、これまで行ってみたピアノ店は全部それでした。(唯一の例外は北京で行ったスタインウェイの店だけでした。)

さらに想像ですが、だからジャケットの表紙のブリュートナーの文字を消したのは、日本のブリュートナーの輸入元あたりが「あれでは困る」というわけでメーカー名を消すことになった、というようなストーリーまでつい勝手に考えてしまいました。
いずれにしても、いただけない音であることには変わりはないと思いますが。
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ブリュートナー!?

拙文マロニエ君の部屋に「今年聴いたショパン-No.6ニュウニュウ」で、どう聞いてもピアノの音が納得がいかないからきっと中国のピアノでは?と書いていたところ、ブログのコメントに名も無きお方からお知らせをいただきました。
それは中国盤のジャケット写真で、そこにはニュウニュウ君がポーズをとるピアノの蓋にブリュートナーの文字がはっきりと写っていました。
日本盤のジャケットも全く同じ写真ですが、そこは黒く塗りつぶされており、ピアノのメーカーがわからないように処理されています。なぜそのようなことをするのか不可解ですが。

さて、写真のピアノがブリュートナーとしても、それが必ずしも使用ピアノと同一とは限らないこともままあることなので、確認のためにブリュートナー社から発売されているCDを聴いてみたところ、まぎれもなくニュウニュウがショパンを弾いているピアノの音と同じ音質で、これにはさすがに呆気にとられました。

さっそくブリュートナーのホームページにアクセスして、ジャケットのいくつかの写真を手がかりに探したところ、Supreme Edition 210cm という機種であることがほぼ特定できました。
コンサートグランドではないという点だけは当たっていましたが、まさかライプチヒのピアノとは思いもよらないことでした。
言い訳のように聞こえるかもしれませんが、たしかにブリュートナーってドイツのピアノにしては線が細くてしまりのない音なので、マロニエ君はごくわずかな経験しかありませんが、あまり好みのピアノではありませんでした。あれならば日本の同サイズのピアノのほうが数段好ましく思いますし、レコーディングに使うべきピアノとは今でもとても思えません。

中国人だから中国のピアノならまだわかるのですが、なんでまたわざわざそんなピアノを使ったのか、いよいよ不可解は募るばかりですが、お陰でともかく真相が究明できてよかったです。

お知らせいただいた方は、メールをいただいたのであればお礼のメールも出せるのですが、それもできない為、とりあえずこのコメントをお礼に代えさせて頂きます。
お知らせ頂きありがとうございました。
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店内は昭和

今日はちょっとした冒険をしました。
以前から前を通って気になっていた店に行ってみたくなり、一人ではもちろん嫌なので友人を連れ出しました。
南区清水にあるハローコーヒーという店です。
パッと見はいかにも古臭い、いまどきもうあまり見かけないセンスの派手な喫茶店という感じですが、店自体が結構大きいので、いつ通っても、妙に存在感があってとても目立つ感じだったのです。
それと気にかかっていたもうひとつの理由は、いつもお客さんが結構来ているみたいで、深夜でも必ず何台か車が止まっていましたので、それなりの人気があるのだろうという気がしていたのです。

というわけで、まさに冒険開始!ついにその店のドアを開けました。

店内はだらんとした茶色基調のある程度想像通りの雑然とした雰囲気で、一言でいうと古いのです。
まさにそこは「昭和」という感じで、あえてそれをウリにしているのだろうと思います。
まだ山口百恵あたりが現役で、携帯やパソコンなんて無い時代にタイムスリップしたようでした。

メニューを見ると、基本はコーヒー店であるのは間違いないのですが、それよりもはるかに豊富で色とりどりに目に飛び込んでくるのが食事のメニューでした。
内容は、主にハンバーグ、海老フライ、ステーキ、ピラフ等々…昔懐かしい「日本の洋食」という世界といえばいいでしょうか。その手のメニューがざくざくあって、選ぶのが大変です。

とりあえずハンバーグとポークのソテーが組み合わせられた料理を注文しましたが、だいたいどれを頼んでもスープとライスがセットになっているようです。
カウンターの脇にスープとライスとコーヒーのセルフサービスのコーナーがあり、注文した品々はここで好きなだけ自由に取っていいらしく、こういうところは結構豪快です。

果たして味は、これも想像通りといいますか、とくべつ美味しくてガッツポーズ!というほどでもなければ、不味くてがっかりということでもない、そんな感じの味でした。それでもハンバーグはこの店の自慢のようで、ちょっとした美味しさは伝わりました。

驚いたのは、決して大入り満員というわけではないものの、次から次へと確実にお客さんがやってくることで、今どきのファミレスとは一味違うこの店は、静かなファンを獲得しているようでした。

食後にコーヒーとシフォンケーキのセットを注文しましたが、なにもかも自前で作っているという感じでした。
デザートなしなら、千円以内で満腹できるメニューが大半です。
「お食事リンク」に追加しておきますので、みなさんもお気が向いたら覚悟の上でどうぞ。
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変わらないでほしいもの

夕方、天神に出たついでにヤマハによってみようと思い立ち福ビルに入ったところ、中央のエスカレーターの昇り口に立て札がしてあり、エスカレーターが動いていないことで思い出しました。二階三階に陣取っていた書籍の丸善が6月末日をもって閉店したのでしたのが、ついに現実の形となっていました。
正確に言うと、新装成る博多駅に移転するということのようですが、なんであれ天神の一等地の大きな売り場が2フロアもまた空いてしまったことに変わりはありません。

旧岩田屋本館が数年間、空き家状態だった天神の暗い象徴が、今春やっとパルコとして復活したと思ったら、また道の向い側がこのような状態になってしまったのはなんとも暗い気分になるものです。
となりのビルにあった紀伊国屋書店も数年前に別の場所へと去って行きましたから、大型書店が次々に姿を消すのが近年の天神の特徴のようです。
それにしても、ビルの一階中央にあって動かないエスカレーター、そこに続く上は暗く眠ったような気配が立ち込めるというのは良いものではありませんね。

このビルの一階に限って言うと、この天神の中心的なビルの入居店舗はマロニエ君が子供のころから数十年にわたってほとんどその顔触れは変わりませんでした。
それがこの数年というものちらほらと変化があり、少しずつ居並ぶ店の景色が変わってきました。
押し寄せる時代の波はもちろん、経営者も年をとり内から外から様々な変化があったのでしょうね。

そんな中で奥の入り口側に広くスペースをとったヤマハ福岡店は長年(おそらく50年近くでしょう)ここにあり、もはやこの場所はヤマハ以外には絶対に考えられないというほど強いイメージとなって、我々の脳裏には深く刻み込まれています。

思い起こせば、昔はカワイも天神に福岡店があったのですが(アクロスの北側向かいの角、旧東急ホテルの道を挟んで西隣、現在は仏壇店。)、こちらはなくなって久しいですが、これも考えてみれば残念なことだったと思います。

ともかくヤマハにはいつまでも現在の場所にあってほしいと心から願うばかりです。
まさに天神の歴史あるランドマークの一つで、福岡に生まれ育った我々はそのビルの匂いまでヤマハのイメージの一部になっているのですから。
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電子ピアノにふらり

先週末のこと、友人とイオンモールに行ったのでシマムラ楽器に立ち寄りました。
電子ピアノをいろいろ見ているうちにローランドの新製品が目に留まりました。
DP990RF http://www.roland.co.jp/PIANO/sty/dp990rf.html
という機種で、スリムなデザインである上に全身黒ずくめで、いわゆるピアノブラックという黒の艶出し塗装が、まるで高級機種のような生意気な雰囲気を持っていました。とくにフタを閉めた時のハッと息をのむようなシンプルなデザインは非常に秀逸で、インテリアとしてもなかなか素敵な雰囲気だと思えました。
これまでは電子ピアノというと、木目調のダサダサの音楽教室みたいなデザインが多かった中で、これはオッと目を引くモデルでした。

価格も20万弱と、それほど高額なものではないということで、熱心に見ていると店員がじりじりと寄ってきて購入条件などを教えてくれました。セール中という限定つきではあるものの、本体の他に椅子、ヘッドフォン、好きな楽譜一冊、配送料・組立が無料という、聞かされる側にしてみればますます引きつけられる内容でした。

友人がかなり乗り気になったものの、その日はいったん引きあげました。
それというのも、帰宅してネットで調べれば、さらに2~3万は安いものが出てくるだろうという浅ましい考えもあったからでした。ところが、いろいろ調べてみると、僅差ではあるもののネット上にさえ見当たらない好条件であったことがわかり、あらためてびっくりしました。
いまや店頭販売でもネットと真っ向勝負をする時代がきたのだということがわかり、いまさらながら商売の厳しさを痛感です。

マロニエ君もできることならああいうのが一台欲しいところですが、これまでにも買う寸前まで行って断念したことが実は2度ほどありました。その理由は複合的で一言でいうのは難しいのですが、大きな理由の一つは電子ピアノ特有のタッチでした。
あのいかにも軽くて不自然なタッチはどうにも馴染めそうにもなかったのは、今回もやはり同じように感じた点でした。

最近の機種はタッチも数段階変えられるようにはなっていますが、なにしろ基本がペタペタなので…。
その点だけでいうなら、ヤマハの同クラスのほうが本物を生産している強みなのか、しっとり感があって幾分ピアノらしく優れているような気もしましたが。
でも、詳しい人に言わせると電子ピアノの分野では、やはりローランドがいろんな意味で先頭を切っているという話でした。
あのデザインはこれからのトレンドで、カッコいいモデルがこの先ぞくぞくと出てくるのかも。

結局、見るだけ見て、弾くだけ弾いて、話を聴くだけ聞いて、ネットで調べて、その挙げ句が誰もかわなかったのですから、いやはや悪い客ですね。
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エセックスピアノ

エセックスというピアノがあります。
これはスタインウェイが展開する廉価ピアノのブランドで、設計にはスタインウェイの手が入っているらしく中国のパールリバーで委託生産されている小さなピアノです。日本のカワイ楽器で生産されるボストンが同様の位置づけだったことは周知の通りですが、エセックスはさらにそれよりも安い、いわばグループの最下部をささえるという使命を帯びたブランドというわけでしょう。

これをまとめて弾いたことがなかったので、市内のスタインウェイ特約店に行って少し弾かせてもらいました。
同サイズの小型グランドが3台ありましたが、はじめにさる有名ピアニストが最も気に行って購入すべく選んだという一台を弾かせてもらいましたが、マロニエ君にはハアそうですか…ぐらいにしか思いませんでした。もう一台も同様で、中国ピアノに共通するタッチの鈍い感じと、あまり上品でないキンキン気味の音が気になりました。もちろん値段はかなり安く、ものの価値判断は価格を前提にしながら下すべきなので、純粋に費用対効果という意味からいえばそれなりの価値があるのだろうとは思いました。
忘れてならないのは、エセックスは多くが色物ピアノなので、通常ならこれだけで2~30万アップになることを考えるならますますその割安感は説得力を持ちますし、内部のことは別とすれば、見た感じはなかなかきれいに仕上がっていると思います。

最後に一番左にあったピアノを弾くと、タッチが先の2台とは明らかに異なりました。
音もはるかに上品で、中国ピアノ特有のちょっと気に障る音がフォルテ以外ではほとんどしませんし、タッチもしっとりしているのに反応も良く、均一感もあり、これはなかなかじゃないかと思いました。店主の談によると、この一台だけが多少古い展示ピアノで、残り2台は文字通りの新品だそうです。

経験的にそんなことはないと思いつつ、多少弾き込まれた故の違いかと思っていたら、店主の方が思い出されて、やはりそのピアノだけは名のある技術者の方が以前にずいぶん手を入れられたとのことでした。
それなら納得です。
聞けば、エセックスは安い分、出荷調整なども不十分で、販売店泣かせの一面があるようです。高額商品ならどれだけでも手間暇かけて最高の状態に仕上げることも可能でしょうが、安いピアノにあまりそれをするとビジネスバランスに障りが出るようです。スタインウェイの同じサイズならこのエセックスが6台かそれ以上買えるのでしょうから、なにごともコストと利益が重要視される社会ではやむを得ないことなのでしょう。

しかし、それでもなんでも、やはり優れた技術者が手間暇をかけたピアノというのは格別な味わいがあるものですし、それがいかに大切かということを再確認させられました。
マロニエ君ならそのぶん別料金を払ってでも、入念な調整をお願いすると思います。なぜなら、それをするかしないかでピアノの価値は2倍になるか、はたまた半分で終わってしまうと思うからです。
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運転がおかしい

最近とくに感じることですが、変な運転をする人が多いと思いませんか?
とくに男の運転がおかしい。

こんなジェンダーフリーの時代にこういうことを言ってはいけないのかもしれませんが、以前は車の運転の上手さといえばほとんど男の独壇場でした。
峠を責める走り屋といわずとも、タクシーの運ちゃん、スタンドのお兄ちゃん、白いワゴンで東奔西走する営業の男性など、かつての男の運転は今思うと根本的にテクニックの格が違っていたようです。女性の運転する車は走る後ろ姿でそれとわかり、男は舌打ちしながらもそれを諦め顔で許していましたっけ。

それがどうでしょう。いまやノロノロと気の抜けたような運転をしているのは大半が男です。
しかも驚くべきは若いお兄さんが不健康な顔つきで法定速度以下でボーッと運転していたりするのは、近頃では決して珍しい光景ではなくなりました。
車にも多少の趣味を持つマロニエ君に言わせれば、男にとっての車の運転の巧拙というのは、一つの磨くべきステイタスでもあり、世が世なら坂本竜馬の千葉道場とまではいいませんが、ちょっとした剣さばきにも匹敵する男性的たしなみのようにも考えられていた時代さえあったように記憶しています。

どんなに見栄えのいい男でも、デートして車の運転が下手でオロオロしようものなら、いっぺんで女性から軽蔑され、ときめくデートも台無しになるぐらいの厳しさがあったように思います。
とりわけバックに弱い女性は、男が見せる鮮やかなバックでの車庫入れなどに心ときめかせたそうで、バックの時に男が助手席のシートの後ろに手をまわしてグッとパワフルにバックなどすれば、そのセクシーさに呆然となるというような話はいくらでも転がっていました。

それが今ではノロノロ運転は当たり前、周囲の状況や気配もつかめずにトロトロと人の前をマイペースで走る車のなんと多いことか。もちろんただ飛ばせといっているのではないし、車は一歩間違えば凶器になるので、安全運転は大切ですが、ようはメリハリのない周囲に迷惑をかける走りをするアホが多すぎるのです。

若者の車離れが話題になって久しい今日この頃、必然的に運転も下手くそになって当然でしょうが、車に限ったことではなく、物事に対して勢いとか情熱といったものが悉く失われたようで情けない気分になりますね。

あと怖いのは女性で飛ばす人。
毎日車に乗っているものだから、運転それ自体には馴れてしまって、危険に対する意識もマヒしてくるのか、軽や四輪駆動車や巨大なワンボックスで鬼のように飛ばしてくる女性がいます。
こちらの特徴は、女性特有の「飛ばし方を知らずに飛ばしている」という点で、ノロノロ男より危険度ははるかに上を行きます。こういう女性は雨になればスリップしやすいという初歩的な知識もないまま、通い慣れたスーパーの往復などを風を切るようにすっ飛んで行き、危ない時は相手が止まってくれるものだと思い込んでいるようです。

どっちも困ったもので、ハンドルを握る身としてはイライラムカムカさせられることしきりで、さっきもそんな車にやきもきさせられ、こっちばかり疲れてしまうようでバカバカしいのですが、自分の性分もなかなか直りませんね。
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ルノーの魅力

昨日は久しぶりの車のクラブミーティングがありました。
昼から夜にかけてほぼ12時間近い長丁場な一日でしたが、気心の知れた仲間というのは時間の経つのもあっという間です。
東区のとあるレストランで集合し、食事、移動、お茶と会話を繰り返えす一日でした。
あいにく終日の雨模様でしたが、音楽とはまた一味違う充実した時間を過ごすことができました。

夕方頃のこと、ある中古車店に入荷したというルノーのラグーナという車を見に行きましたが、その車は内外装のデザインなど日本人が逆立ちしてもできないセンスによる、まさにフランスのモードを身にまとったような造形で、なんともいえぬ垢ぬけた洒落た車でした。
店に着いた時には台風かと思わせるような猛烈な風雨が吹き荒れていましたが、しばらく店主と雑談を交わしているうちに一時的にウソのように雨が上がり、この日は諦めていた試乗をさせてもらうことに。

はじめ友人がハンドルを握り、途中からマロニエ君が運転を交代しましたが、フランス車独特のしなやかでフラットな乗り味の中にも芯の通った確乎としたポリシーが貫かれていて深い感銘を受けました。
硬軟様々な要素を併せ持ちながら、それらがバラバラになることなく完結した世界を持った車で、とにかくフランス人の作ったものは芸術作品から工業製品まで、どれも一見さりげなく見せておいて、実は奥深い知的世界が広がっているところがすべてに共通した魅力です。
フランス車といっても比較的コンパクトなボディに3Lの24バルブエンジンと5ATの組み合わせなので、非常にパワフルで、ダッシュボードにあるトラクションコントロールのスイッチをオフにすると、濡れた路面ではアクセルを強めに踏むと軽いホイールスピンを伴いながら猛然とダッシュするような一面を見せながら、全体としては非常にキメ細やかで、繊細かつダイレクト感のある身のこなしや運転フィールを持っていました。

なにげなく連想したのは、ショパンのバラードやスケルツォのような作品でした。
緻密で技巧的なものとリリックで都会的なものが混然一体となった、パリの精神と贅沢さが小ぶりな作品に圧縮されたような世界でした。
どうもマロニエ君はこういうものに弱く、すぐに惚れ込んでしまいます。

車もピアノも実物はコレクションというわけにはいかないのがなんとも残念なことです。
これがCDやミニカー程度なら迷うことなく手元に置いておきたいところですが…。
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買えるなら今は買い時

数日前の話。
二週間ほど前に友人の車の件で、マロニエ君が代理で中古車店にフランスのとある車を見に行った話はここに書きましたが、いよいよ友人もその気になり、いざ購入へ向けて一歩を踏み出してみると、なんとその車は前日!に売れてしまったそうでした。
時間の約束までして、出かける直前になってそれはわかりました。

もう車屋に行く予定で、友人二人がマロニエ君を迎えに来てくれて、とりあえず後部座席に乗り込んだところ、購入予定の本人はiPhoneをいじりまわしています。聞けば、目指す車が売れてしまったのでネットで探したら、神奈川県に一台安いのがあったので、なんならこの勢いで夕方から長距離バスに乗って見に行き、良かったらそのまま買って運転して帰ってくるつもりという、えらくまたやる気モードになっていてびっくり。
iPhoneをいじっているのはそのための長距離のバスの時間を調べているところでした。

しかし、そんなことをするよりその神奈川の車が今現在商品としてあるかどうかを先に問い合わせるべきでは?とマロニエ君がいいますと、友人もそれもそうだということで、とりあえず最寄りのロイヤルホストに入りました。
それでも二人はバスのことばかり言っているので、とにかく在庫確認を真っ先にするようにと再度言うと、ついに当人が店に電話をかけ始めます。
すると、そちらもすでに売れてしまったらしく万事休す。
バスの時間もなにも吹っ飛びました。あーあ。

続けて当地のディーラーに行ったところ、一台あるにはあったもののあまりいい車ではなく、それはパス。

翌日、もう一人の友人がネットで新しくアップされた車が大阪にあるのを発見したらしく、さっそく問い合わせをしたらしいのですが、こちらも一足違いで売れてしまったとのこと。

さらに別の個体を名古屋で発見。これはまだ販売できる状態のようでしたが、情報を見せてもらったところ、確かにきれいで悪くはないようだけれど、これまでのものより価格が4割ほど高くなっています。
本人は何台も取り逃がしていささか頭に血が上っているのか、それでも買うつもりになっていたようですが、ギャラリー席のマロニエ君にしてみれば、もうひとつ決め手のない車(条件をふくめての判断)だったので再考を促したところ、本人もしだいに冷静になりとりあえず静観することになりました。

このように今は不景気の折から、高い車は売れないぶん、お買い得な車は結構動きも早いようです。
とりわけ高級車や不動産など、値の張るものは、お金さえ持っていれば今は底値なので買い手市場だという話はよく耳にしますね。
ウワサでは望外の値引きなどもあるらしく、知り合いの弟さんがなかなかいいポルシェをずいぶん安く手に入れて喜んでいるとか。

それにしては、中古ピアノ(少なくともグランド)は相場維持で、そこまで破格値にはなっていないようですね。
いっぱりピアノなんていざとなれば数がしれているので、そういう経済動向には反応しないんでしょうか。
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人前演奏はこりごり

この土日は音楽家の誕生会とピアノサークルの定例会が立て続けに行われました。

6月の誕生会はシューマンで、今回もCDはマロニエ君が準備し、交響曲、ピアノ、チェロ、ヴァイオリン各協奏曲、ピアノ五重奏はじめ室内楽、主要なピアノ曲、ヴァイオリンソナタ、歌曲集など。
だんだんに誕生会のありかたも定着してきた感があり、皆さんで思い思いのお話に花が咲きました。
飲み食いをしながら好きな音楽を聴いて、好きな話をするというのは、それだけで極楽ですね。

後半で一人がトロイメライをピアノで弾き出し、続いて店主の方が同じくトロイメライを弾き、いやな予感がしたと思ったらマロニエ君にも弾け弾けと集中砲火が浴びせられました。しかたなくマロニエ君もトロイメライを弾き、三人が三人のトロイメライを披露することになりました。あと二人ピアノを弾く方がおられましたから、マロニエ君も自分が弾いたが最後、一転して要求する側に回りましたが、そのお二人はガードが堅く、ついに弾かれませんでした。
そんなことをしながらの、あっという間の4時間でした。

翌日はピアノサークルの定例会で、今回は前半がショパンプログラムとなっていて、こちらでは後期のノクターンと死の床で書いたと言われるショパン絶筆のマズルカを弾きました。
つくづくと思い知ったのは、やはりどんなに覚悟を決めても場数を重ねても、マロニエ君には人前でピアノを弾くというのは決定的に向いていないということでした。
一人の時ならおよそ考えられないようなミスをしたりして、深い嫌悪感に苛まれます。

その一方で、ピアノサークルに来る人はやはり根本が違い、ちょっとでも、一曲でも余計に、途中まででも「弾きたい」人が大勢を占めます。こちらのピアノサークルも4時間ほどでしたが疲れましたし、ピアノはその間休む間もなく鳴りっぱなしでした。
遠方からわざわざそのために来られる方も少なくなく、その意気込みにはただただ恐れ入るばかりです。
でも、中には上手じゃなくてもハッとするような美しい瞬間を聴かせてくれる人もいて、そういうときはこちらも報われたような得をしたような気分になるものです。

ただ、個人的に思ったことは、フリータイムは言葉こそフリーではありますが、本番に比べて多少の雑談などはあっても、基本的にみなさん椅子に座って演奏を聴く態勢であることは変わらないのですから、あまり仕上がっていない曲まで持ちだして、人前でただ練習のような事をするのはどうかと思います。みんなが決められた時間・場所に集まり、お金を払ってそこでピアノを弾く以上は、上手でなくてもいいから自分なりにある程度仕上げたものという良心の一線は引くべきだと思います。
練習は基本的に一人もしくは、せいぜい練習会でするもので、あまり節度がなくなると我慢や疲れも倍増するものです。
音楽は音が出るからこその圧倒的な魅力と楽しさがありますが、そのぶん一歩間違えれば音は他人にとって苦痛や暴力にも変貌します。
そこのところを自覚したらいいと思うのですが、楽しさの基準も人それぞれでしょうから難しい問題です。

追記:もちろん、親しい皆さんとお会いできるのはいつもながら嬉しいことで、全体としてはとても楽しかったということを書き忘れていました。
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ヘンレ版のショパン

今日は一人レッスンをしましたが、その方は拘りがあるのか、楽譜はほとんどヘンレ版の楽譜を使っています。
もちろんヘンレ版の優秀性に対しては、世界中のプロを含む数多くのユーザーがこれを認め、昔も今も高い支持を得ていることからもそれは証明されているように思います。
もちろんマロニエ君も何冊も持っていますが、値段的にも最も高価な部類ですから、大した曲ではない場合にはより安い楽譜を買ってしまうこともよくあります。

さて、そのヘンレ版ですが、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトなどでは信頼性も見やすさも抜群なのですが、ショパンとなると内容に首をかしげる点が多くあります。
原典に忠実というのもヘンレ版の大きな特徴ですから、書かれていることはそれなりの根拠のあることとは思いますが、どう見てもショパンではあまりにも納得のいきかねる点が多すぎて、混乱するばかりです。

マロニエ君自身も以前、一度だけ(というのは直感的に気が進まなかったから、それまで買わなかったのですが)ヘンレ版のショパンのワルツをお試し気分で買ってみたことがありましたが、同曲で数バージョンがあったりするのは親切でいいとしても、全体的にも細かい点でも、どうもしっくりこないで、ほとんど使わずに本棚に押し込んだままになっています。

今日レッスンでやったのはノクターンでしたが、どう考えても書かれた指示がヘンに感じたり、あきらかに音がおかしかったりと、戸惑うばかりでした。
ショパンの楽譜というのは「決定稿」がなく、それぞれの編纂者の意図が反映される作曲家だとはいえるのですが、それにしても名にし負うヘンレ版のことでもあり、これを批判することは楽譜出版の世界では神を批判するようなものかもしれませんが、私にはどうしてもおかしいとしか思えませんし、自分なら絶対にショパンでは使わないものだと思いました。

ドイツ物で見せるあの説得力や使いやすさはどこへやら、やはり根本的にショパンとドイツというのは相性がよくないのかもしれませんね。
私ならショパンはペータース版やパデレフスキ版も好きですし、全音など日本のものもわりにいいと思うのですが。それぞれは指使いや細かい指示などは違っても、大きな違いというものはないように思いますが、ヘンレ版のショパンばかりはちょっとなじめません。
そればかりか、ショパンのCDでもピアニストがヘンレ版を使っていると知ったら、あまり聴く気になれそうにもありません。
あくまで個人的な好みの問題かもしれませんが。
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CFX使用のコンサート

当初は行く気のなかったルイサダのリサイタルですが、ヤマハの新鋭CFXを聴けるのならとチケットを買いました。

CFXはまだ正式発売はされていないにもかかわらず、日曜日に福岡で行われた小曽根真氏の出演するコンサートにも早々とこのピアノが登場したらしいので、ヤマハ主導のもとこれはというステージには、全国どこへでもこの最新ピアノを送り込んでいるのでしょうね。まるで政治家の遊説のようですね。
それにしても現実は足やペダルを付けたり外したりを繰り返しながらのトラック長距離移動ですから、やはり相当痛むでしょうね。
ヤマハに確認したところ、ルイサダのリサイタルでもやはりCFXを使用するとの確認が取れました。

Youtubeでもこのピアノを使った披露コンサートの様子を見ることができますので、多少の印象は持ちましたが、やはり本物に勝るものはありませんから、ぜひとも拝聴することにしました。

アクロスにチケットを買いに行ったついでにいろいろとチラシを物色していると、6月30日、佐賀市でケヴィン・ケナーのショパンリサイタルがあることを発見!
彼はアメリカのピアニストで、1990年のショパンコンクールでは一位なしの最高位に入賞した、それなりの人ですから、チケットも安いし行ってみようかと思いました。
ところが、チラシを良く見てみると「公演時間1時間15分」などとわざわざ「普通より短いですよ」という意味のことが書いてあり、いささか首をかしげました。
さらに聞き慣れない名前の会場をネットで調べてみると、名前はホールでも床が平らな、ただの広い部屋に近いというか、会議室に毛の生えたようなところで、キャパは200人強、ピアノはなにかと尋ねたら、ヤマハのS6ということで、この瞬間わざわざ佐賀くんだりまで聴きに行くことを断念しました。

以前もシゲルカワイのSK-5やヤマハのS6を使ったコンサートを聴いたことがありますが、合わせものならまだしも、ピアニストのソロともなると、いかにこれらのピアノが普及品より上級機種とは言ってみても、根本的な力不足は否めず、聴きごたえも半減でした。自宅用としては逸品だと思いますが、ソロで純粋に聴衆に聴かせるためのピアノとしてはまだまだ遠く及ばないものがあり、ピアノがそれだとわかり一気に気分は萎えました。

10月には前回ショパンコンクールの覇者であるラファウ・ブレハッチが、オールショパンプロを引っ提げてアクロスにやってくるようです。
でも、一番惜しかったのは、つい先ごろ北九州でやったダン・タイ・ソンのリサイタルにうっかり行きそびれたことでした。
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楽器は生き物

我が家のピアノの整調(アクションなど様々なピアノ内の機械部分の働き具合の調整)を、とあるホールからご紹介を受けた方にお願いしていましたが、今日がいよいよその作業日でした。

午後から始まった作業は夜の9時近くまでかかり、ピアノ技術者の方のお仕事というのは高度な専門技術のみならず、すべてにおいて根気と忍耐の世界だということを再認識させられました。
その間、休みらしい休みもなく、食事もされずになんともお気の毒でもあり、申し訳なくもあり、ありがたくもありました。

今回の作業依頼の性質上、仕上げの調律のとき以外はほとんど音らしい音も出ない、ひたすら静かな作業でした。
それにしても、あの重くて持ちにくいアクションの出し入れ(いちいち横の机に運び出す)だけでも何回されたことか!
ピアノ技術者たるもの、まずもって腰が強くなければ務まらないようです。

ほぼ丸一日をかけての作業が終わり、さあいよいよ弾いてみたときに、期待値が高すぎたためか、確かによくはなっているものの、マロニエ君の反応が思わしくないと敏感に感じとられてしまったようで、こちらの期待に添えなかったという印象を与えてしまったのは、たいへん申し訳ないことをしてしまった気分でした。
そのとき感じたことは、ホールのピアノはステージ上にある限り、床以外には遮蔽物がなく、広大な空間で朗々と鳴るのに対し、家庭ではすぐ傍の壁や天井が制限となり、本来の開放的な鳴り方ができないというデメリットがあることをあらためて感じました。響きが違うと、それは勢いタッチ感にも確実に影響があるからです。

帰られてから遅い食事を済ませ、10時過ぎぐらいからちょっと集中的に弾いてみました。
実はこのピアノは普段はほとんど使っていないので、その点では半分は眠ったようなピアノだとも言えるのですが、一時間も弾いているとだんだん鳴り始めて、二時間ほど経った頃には同じピアノとは思えないほどにパワーが上がってきたのには驚きました。
まるで花のつぼみが一気に開いていくようで、鳴りだけでなく音の色艶も次々に加算されていくようです。
すると、今日の作業の結果もそれにつれて顔を出し始め、ようやくすべてが一つの流れとして収束してきたようです。
時計も12時半を過ぎたので、いくらなんでも止めにして、もう一度明日弾き込んでみようと思いました。

やはり楽器は、ただの機械ではない、生き物なんだと痛感です。
24時間除湿機を回すだけでなく、やはり適度に弾かないことには本来の力は急には出ないようですね。
とても幼稚で単純なことですが、忘れかけていたことを再度肝に銘じました。
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不景気の影

天神に出たついでにヤマハを覗いてみましたが、チラシの棚を見ると、どうもこのところのコンサートの減少傾向には歯止めがかからないようです。
以前なら溢れんばかりにひしめき合っていた各種コンサートのチラシの大群もめっきりその量が減っていますし、チラシの中には講演だのコンクールだのに関するものもかなりあって、純然たるコンサートは数えるほどしかありません。
数年前を思い返すと、ちょっと想像もできなかったくらいお寒い状況のようですね。
時折なにか面白そうなコンサートはないかと、ネットで主要ホールのイベント案内などみても、ほとんどそれらしきものは見当たりませんし、なんであれ催しがひと月に1~2度しかない(赤字の垂れ流しと思われる)ホールがゴロゴロしています。

ちょっと前までは、プロとはとても呼べないような人が、次から次に「コンサート」という名のくだらない自己満足露出大会を日常的に企てて顰蹙をかっていたものです。文化を錦の御旗にしたこのような迷惑行為には大反対のマロニエ君ですから、これがもし良い方向にみんなの意識が正されているのならある意味では喜ばしいことですが、どうも、そうとばかりも思えません。

やはり昨今の不景気がコンサートの世界にも暗い影を落としているということのような気もします。
景気が良い時でもこの手の自主コンサートは赤字は当たり前で、いかに赤字額を小さくするかが問題というぐらいの世界でしたから、今では友人知人でお付き合いしてくれる人も見込めないということなのかもしれません。

もちろん中には、相変わらず雑草のように逞しい人もわずかに見かけはするものの、それでも曲も写真も昔の中古品の寄せ集めばかりのようで、本来あるべき新しい挑戦の姿は微塵もなく、なんとも哀れを誘います。
最近悟ったことは、止めるということは始めることより何倍もの勇気と胆力と見識が必要だということ。
止める勇気のない人は、一見我慢強く粘り強いように見えても、実際はさにあらずで非常にお気の毒だと思います。

離婚は結婚の10倍のエネルギーが要ると言われるがごとく、たしかに物事すべからくそうなんでしょうね。
婚姻関係でも、コンサートでも、よしんば趣味の活動でも、進退が大変なのは人間の欲望というものと切り離すことができないからなんだと思います。
それでもさっぱりした性分の人は比較的きれいに処理できますが、粘着質の人は、分厚い脂身のような欲の塊を我が手で切り捨てることができないから、そこが大変なんだと思います。
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中古車は今が底値?

友人の車のエアコンが故障し、他にも不具合を抱えていたこともあり、これを機会に買い替えを検討しています。その友人が現在長期出張中なので、マロニエ君がとりあえずある中古車店に目指す車を見に行ってきましたが、いやはや驚くようなことばかりでした。

街中には珍しく、完全な輸入車専門店で、あるのはすべて中古車です。
驚いたのはその値段に対して非常に程度が良く、マロニエ君も思わず欲しくなるほどでした。
フランスの名車ですが、V6-DOHC3000cc搭載の上級モデルで、外観も少しもくたびれたところがなく、色艶もあってくっきりとした印象の車でした。いわゆる中古車のみじめさがまったくない、まだまだ若々しさの残る個体でした。

そこの店主がおかしな人で、どんなに声をかけても人の気配がなく、やむ得ず勝手に車を見ていると、やがて買い物袋を提げたそれらしき人がせわしげに戻って来ました。近所まで買い物に行っていたんだそうです。
奥に入るなりすぐに車のキーを渡してくれて、自由に車を見せてくれました。客だからといってべたべたくっついてまわらず、まずは好きなように勝手に見させるというのがこの店の粋な方針のようでもありましたが、そのうち「ちょっと食事してないので弁当を食べますから、なにかあったら声をかけてください」といわれて事務所に引っ込んでしまいました。おかげで心行くまで丹念に車をチェックすることができましたが、本当に良質な車で、それがまた信じられないほど安いのには二重の驚きでした。

店主殿と話したところでは、その店は自分一人でやっているので安くしないとみんなディーラー系の店に行き、とてもやっていけないので、敢えてそういう価格設定なんだと言っていました。
また、この店はパッと前を通ったぐらいでは車屋とはわかりにくい店構えで、倉庫のような大きなログハウス調の建物の中に10台ほどの在庫車はすべて保管してあるので、雨風や直射日光を浴びることはなく、どの車も清潔で健康そうにしているのは車好きとしてはとても好ましく感じる点です。オープンカーはオープンの状態にして展示できるのも屋内保管だからこそできることですね。
どんなにいい車でも野ざらしにされたら、日ごとにコンディションは悪化しますし、とりわけ内装材の日焼けや悪臭は対策の打ちようがなくなります。それだけにとてもいい状態でした。

さらに驚いたのは奥にあったBMWの740iで、10数年前の車ではあるものの、大事にされてきた車だけが持つ優しげで上品な佇まいがそこにあり、見るだけでも大変立派でエレガントな車でしたが、その価格はなんと39万円!?という途方もないものでした。新車当時1000万した車で、ドアの重みや閉まり方一つ、革シートの材質や高級家具のような作りこみ、ダッシュボードからドア内側に連なる上質のウッドなど、どこをとっても本物だけが醸し出す「格」の違いをまざまざと見せつけられるようでした。ピアノならさしずめスタインウェイかベヒシュタインで、それらに通じる一級品のオーラがありました。
ピアノならきっと新品時の価格の7~80%を維持していると思うと、車はどんなに高級品でも純粋な消費財だというのが痛いほどわかりました。

店主いわく、こんな値段をつけても、世の中はエコエコの時代で売れません!と言っていたのが印象的でした。
あんなにつややかで洒落ていて威厳に満ちた豪奢なリムジンが、軽自動車の1/3以下の値段とは、なんだか頭がクラクラしそうでした。やっぱり今の時代、なにかが絶対おかしいですね。
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ショパンCDの打率

今年はショパン生誕200年ということでいろいろなCDが出ていますが、次々に肩すかしをくらうほどしっくりくる演奏がありません。ちょっと思いついただけでも以下の通りで、実際はまだあります。

●マロニエ君最愛のピアニストであるアルゲリッチも古い未発表の音源が出てきましたが、彼女の本領はショパンにはなく、とくに新鮮味はないし、初めて出たバラードの一番なども含まれているものの、これよりはるかに優れた演奏も非正規録音で存在するので、マロニエ君としては珍重するほどのものでもありません。

●以前も少し書きましたが、知る人ぞ知るフランス系カナダ人の新しいアルバムも、いかにもそつなくまとまった美しい演奏ではあるものの、「予定通りの仕事」という感じで一向に感興が沸きません。

●日本人の大変若い天才少女のCDは動画サイトで見ていた通りで、ピアノが上手いことはまあそうだろうけれども、品格に欠け、まったくマロニエ君の好みではありませんでした。ああいう演奏でショパンに触れた気には到底なれませんし、まるでコンクールか音大の試験にでも立ちあっているようでした。

●ショパンコンクールの優勝者で、今年は何枚かCDを出したアジアの青年のアルバムは、店頭の試聴盤を聴いただけで一気に興醒めして購入はおろか、聴き続ける気にもなれませんでした。どこかの音楽雑誌で、彼の今年のワルシャワでの演奏を、ショパンの音楽祭の芸術監督だった人だと思いますが、「スタンダードだが、表現に冒険がない」と切り捨てたようでしたが、まさに同感。なんの喜びも自発性もない正確なだけの恐ろしく退屈な演奏でした。

●優勝といえばクライバーンで一躍時の人となった日本人も、最近になって決勝でのショパンの1番の協奏曲と、子守歌、op.10のエチュード全曲を入れたアルバムが出ましたが、エチュードでは美しくも溌剌としたこの人の魅力が聴けてよかったものの、協奏曲では一向に生彩も覇気もなく、オーケストラとのアンサンブルもいまいちで両者共にビビったような内向きな演奏になっているのは残念でした。この一曲だけを聴いたなら、よくぞ優勝できたと不思議な気がするでしょう。

まだまだ続きます。

●昔はモーツァルトを中心とする優れた演奏でヨーロッパでも輝いていたニューヨーク生まれのピアニストも、はや壮年に達し、このところ盛んにショパンの録音をしていますが、これがまたまったくマロニエ君の理解できない、ショパン的な美しさのまるでない、無意味に美しい空虚な演奏で、聴いていて酸欠状態になりそうでした。

●フランスを代表するショピニストとしてその名を馳せる彼が、二回目のマズルカを日本で録音したものが発売されましたが、美しいところがあることはあるにしても、全体にもたつき、くだくだしく、恣意的で、前の録音のほうがまだ良かった気がします。これほど流れに乗れないショパン演奏がなぜあれほど評価されるのやら、さっぱりです。

もうこれは耐えられない!と思い、古い演奏を聴いて耳を洗うことにしました。
選んだのはモーリツ・ローゼンタールの小品集でしたが、全体のフォルムの美しさ、流れの優美さ、いかにもショパンに相応しい細部の処理や私的な響き、自然な抑揚など、さすがだと思いました。
気を良くしてコルトーに移動すると、ショパン濃度はますます上がっていくようです。細部にアレッ?思うような部分があったり曲による出来不出来が激しかったりするものの、やはりショパン演奏の原点という気がして、ようやくほっと一息つくことができました。

いろんなCDを冒険的に買うことはマロニエ君の好きなことなのですが、それでもショパンばかりは怖くてなかなか手が出せません。経験的に9割は間違いなくマロニエ君にとってはゴミになるのです。
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ヤマハの新鋭「CFX」

ついにヤマハが高級ピアノの勝負に打って出たのですね。

長らくヤマハのコンサートグランドのモデル名であったCFがシリーズ名となり、頂点には従来のCFlllSのさらに上に位置するモデルとしてCFXというモデルを発売するようです。というか、もしかするとこのモデルが発売された時点でCFlllSはカタログからは落ちるのでしょうか。
ほかに同シリーズ小型モデルとしてCF4/CF6という二種を従えてCFシリーズは計3モデルの布陣となり、価格もCFXではスタインウェイと全く同額!という、いかにも勝負をかけてきたという印象ですね。
これまでフルコン以外ではヤマハのプレミアムピアノであったSシリーズなど、同サイズで一気に2.5倍以上(レギュラーモデルならほとんど5倍!)というかけ離れたプライスのプレミアムモデルの登場に、いったいどういう位置づけになるのやら。
マロニエ君の経験から見ても、同じメーカー/ブランド名のピアノで、ここまで強烈な価格差があるラインナップ展開というのはちょっと他に思い当たりません。ただただ驚くばかり。

それにしてもCFをシリーズ名にするなんて、特別モデルだけの名称だったカレラをシリーズ名にしてしまったポルシェみたいですね。

写真を見るとディテールに新しいデザインが施され、とくに足やペダル回りのデザインはシンプルなものになっているようです。またひときわ目を引いたのは支柱の形状およびフレームの形状が共にスタインウェイ風の放射状のものになっている点で、これには驚きとともにもう少し独自のものはなかったのかと思いました。
足はシンプルといえばシンプルでしょうが、見ようによっては却って安っぽくなっているようで、まるで靴下はかないで靴を履いているみたいでした。

ボディの内側に張る化粧盤にまで拘りを見せるあたり、ライバルもどこかが連想できるようですが、足や鍵盤の両サイドの形状、フレームに所狭しと大きく開いた丸い穴など、ウィーンのメーカーからもかなりの影響があるように感じました。

「響板の素材には厳選されたヨーロッパスプルースを採用」とあり、写真で見るとかなり白い響板なので、これも今のトレンドのようでもあり、なんとなくその音の方向が見えてくるようです。

イタリアの新興メーカーの台頭もあり、フランスの老舗もバイエルンの名門もコンサートグランドを出しましたし、ここらで「ヤマハここにあり!」という意気込みを見せつける時が来たということなのでしょうか。
マロニエ君の部屋で「CFlllSはピアノのレクサス」と評したばかりでしたが、ますますその傾向が押し進められたようです。
だったらいっそ、サイドのロゴと音叉のマークを組み合わせた、あのダサいデザインも一新したら良かったのにと思いました。音叉マークは外してロゴだけを大きくしたほうがずっと素敵だと思うのですが。

発売は7月1日とのこと。はやく実際の音を聴いてみたいものです。
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新たなプロジェクト

過日、あるホールで弾く機会を得たピアノの調整があまりにも素晴らしかった(というかマロニエ君好みだった)ので、そこのピアノを管理しておられる技術者の方を後日ホールを通じてご紹介いただき、我が家のピアノを診ていただきたいとお願いしていたところ、今日いよいよその方に来ていただくことができました。

大ホールでS社のピアノの管理をなさるほどの方ですから、それなりの自負と誇りがおありの筈ですが、お会いしてみるとちっとも偉ぶったところのない大変きさくで、謙虚な心をお持ちの方でした。

普通ピアノ技術者というのは、初めて仕事をしていただく場合は、ピアノはどこから買ったのか、調律には誰が来ているか、製造番号は・・と立て続けな質問がまるで通過儀礼のごとくで、中には直接仕事とは関係のないような点にまで根掘り葉掘りと聞かれる場合もあり、もちろんこちらも必要なことにお答えするのはやぶさかではないものの、明らかに興味本位が透けて見える場合は少々抵抗を感じる事もあるのですが、この方にはそのようなことは皆無であるばかりか、その手の人達とは対極の場所におられる方でした。

静かに必要なことにだけ神経を集中され、やがて下された現時点での見立ては(具体的な内容は省略しますが)、マロニエ君としてもじゅうぶん納得のいく説得力のある内容で、さすがだと思いました。
今日はとりあえず一時間強ほどピアノを見て触ることで現状把握につとめられたようで、実際の作業は日を改めてお願いすることになりました。

これまでの作業でも成し得なかった新たな領域に踏み込んでいくようで、結果が楽しみです。
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恵まれないピアノマニア

車の友人が山口から来たので夕食をして買い物をしてお茶をしました。
試乗もさせてもらい、先日別の友人が買った同型車との比較ができました。
同じ車種ながら、前期型と後期型、セダンとブレーク(ワゴン)、エンジンが直4の2000とV6の3000、足回りがハイドラクティブという油圧サスペンションながら、そのシステムがまったく違う両車ゆえの走行特性の違いなどがあり、あらゆる比較が一気にできて楽しめました。

普段ピアノの微妙な比較や聴き分けなどに精力を使っていると、車の比較なんて呆気にとられるほど簡単で、それだけピアノの難しさを感じました。
同時にしみじみと感じたことは、ピアノマニアというのは情報の極端な貧しさに常に苦しめられているということで、車などは欲しい情報は、その気になればそれこそ次から次に手に入れることが可能です。
きっと鉄道などもその点は同様だろうと思います。

ピアノときたら、寸法と重量以外はほとんどスペックらしいスペックなどないも同然で、客観的なデータや仕様変更などはメーカーもしくは一部の技術者のみの極秘情報のようになっていることが当たり前です。
非常に閉鎖的ですが、またそれを知りたがる一般人もいないという環境が作り出したものだと思います。
ピアノは色も黒が多いですが、その内奥に迫ろうとすると、その点でもまさに巨大なブラックボックスといえるでしょう。

そのためにピアノマニアは少ない情報以外は、もっぱら自分の感覚だけが頼りです。

どんなことでも同好の仲間がいるというのは非常に心強く、情報の収拾能力も格段にレベルアップするものです。
車のようなわけには行かないまでも、はやくこの雑学クラブもそれらしく始動して仲間を増やし、みなさんの役に立って楽しめるものにしていきたいものです。

冒頭の友人の奥さんはパン作りの達人で、聞けば商売ができるほどの腕前のようですが、その彼女をして、道を究めれば究めるほど、自分が後退しているようなジレンマに陥ったりするとか。
何事も本物を目指す道は険しく曲がりくねったものだというとですね。
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ブフビンダーの皇帝

先日のN響アワーで放映されたブフビンダーの皇帝を、今朝の衛星放送でまたやっていました。
これはN響の定期公演を収録したものでベートーヴェンの「皇帝」と「英雄」という、まるで絵にかいたような名曲揃い踏みのプログラムで、調性も共に変ホ長調。
封建時代でいうと女性立ち入り禁止みたいなプログラムでした。

ブフビンダーは、ヨーロッパでは日本人が考える以上の支持があるようですが、作品解釈および演奏という点ではとても正統的で、なによりもその流れの自然さがこの人の持ち味だと思いました。
おしなべてウィーンのピアニストというのは、作品に忠実なタイプが多いものの、同時にいまひとつのインパクト性に欠ける面もあるような気がしなくもありません。(もちろん中にはグルダのような暴れん坊もいますけれど。)
演奏ももちろん立派なものではありましたが、ヨーロッパとくにウィーンでは古典作品をレパートリーの中心に置く演奏家は、尊敬の対象になりやすい伝統があるような気もしますが、どうでしょうか。

終始曲は快適なテンポで進行し、妙に恣意的もしくは学術的に捻りまわしたようなところも一切なく、安心して聴いていられるものでした。欲を言えば、いささか雑な一面もなくもなく、もう少し明瞭な歌いこみやメリハリのきいた丁寧な美しさが欲しい気もしました。
しかし、このマーチン・シーンのような顔をしたピアニストはステージマナーもたいへんエレガントで、今の若手演奏家がどこか学生のような軽い印象を払拭できない人が多い中で、いかにも大人の存在感とグランドマナーの魅力がありました。

マロニエ君的には唯一惜しいというか奇異な気がしたのは、かなり高めに設定された椅子でした。
もちろん皇帝のような力強い曲を弾くためには必要なことだったのでしょうが、高すぎる椅子というのは特に男性ピアニストの場合、あまり見てくれのいいものではありません。
引退したブレンデルもそうでしたが、あの長身で椅子を盛大に高くするものだから、足はいつも鍵盤裏につっかえてましたし、見ていてなにか収まりが悪くて気になります。

N響は昔のような重量感はなくなりましたが、アンサンブルの上手さはさすがだと思いました。
ブロムシュテットの振る英雄は、テンポも早めで軽く、なんだかそわそわした感じが目立ちました。
マエストロにすればこれがN響の長所に適った演奏だということなのでしょうか。
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魔の回転寿司

今どき全国どこでも同じでしょうが、マロニエ君の暮らす福岡市とその周辺部でも、回転寿司の熾烈な戦いが繰り広げられているようです。
福岡の場合の印象で言うと、まずは郊外に出店。そこで足場を固め、認知と人気を得て成功すると次々に店舗が増えて、だんだん市内寄りに本格的に進出してくる、そんなパターンである気がします。

マロニエ君も数件の店に行くうちに、次第に自分の好みの店が定まり、今では浮気をするつもりもないほど気に行った店が見つかっています。まあ店の名前を書くのは遠慮しておきますが。

最も大手というか有名な「スシロー」や「かっぱ寿司」なども行きましたが、どうせ機械が作っている回転寿司でも、やっぱり店によって味もセンスもずいぶん違うことに驚きます。
マロニエ君の場合、普通の軽食やファミレスならだいたいなんでも妥協できますが、生の海産物であるお寿司だけは、自分の好みでない店では絶対に食べたくありません。
美味しくないお寿司というのは、ほんとうに耐えられません。

昨日、久しぶりにお気に入りの回転寿司に行ったところ、なんだかこれまでとは様子が違う気がしたと思ったら、いつのまにか各テーブルの上には注文用のタッチパネルが新設され、さらには、大手チェーン店で子供に人気という「新幹線」のレールが回転台の少し上に取り付けられています。

そういえばここのすぐ近くに、このシステムの元祖店がつい最近進出して、しかもかなり人目を引く大型店であるために、やむを得ず同等の設備を追加したんでしょう。
マロニエ君はあのタッチパネルで注文ってのが嫌いだったのですが、仕方がないのでパネルをピッピッと押しますが、画面を変えたり注文の数や確定など、面倒くさい上にけっこう集中しなくてはならず、エネルギーを使います。
とりわけパネルを押す右手は空中に上げっぱなしで、気がついたときには肩が凝るし腕はガクガクしています。

次々に注文の確定をするうちに、音もなく注文品が新幹線で届けられます。
荷を降ろしてボタンを押すと空の車体はサッと帰っていきます。そのおもちゃっぽくも滑らかな感じはまるでリニアモーターカーのようで、くやしいけれどちょっと楽しくなりました。
操作も少し慣れてくると、次から次にホイホイ注文を出しては食べ、食べてはまたパネル操作に没頭し、まるでこれが何か一つの仕事というか行動目的を与えられたような熱中状態です。
いつのまにやら画面という画面を片っぱしから繰り出しては注文すべき品をせっせと探し出すことに意識が偏り、自分の腹加減など二の次で、ハッと気がついたときにはもう満腹。それでも忘れたころに新幹線は次から次に走ってきては、目の前に停車し、そこには「頼んだはず」の品が容赦なく乗っています。

結局、普通に注文したらまず頼まないような数と種類を注文してしまっており、こんなバカがいるから、店側もこういうシステムを作るのだという意味がわかりました。
パネルを押すだけだから、注文も安易なら全体量の把握もおろそかになるんでしょうね。
責任とって食べるのも必死でした。
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補足

シュトイデ・ヴァイオリン・リサイタルの補足

会場のピアノは10年ほど前、納入を記念したピアノ開きのリサイタルに行った時は、とくにどうということもないただの軽い感じのピアノという印象しかありませんでしたが、その後の管理や技術者がよほどいいのか、なかなかの状態になっていたのは意外な驚きでした。
響きにどっしりとした深みが増し、それでいてひじょうにまろやかで温かい音色を持つ、悠然とした風格のただようピアノに成長していました。ああいうスタインウェイはとくに近年ではなかなかお目にかかれません。

もちろんピアニストの弾き方、とりわけ音色のコントロールも良かったのでしょう。
聞けば当日弾いた三輪郁さんが選定したピアノということでしたから、彼女はこのホール(そぴあしんぐう)とはなにか特別なご縁があるのだろうと思われますが。

終演後、せっかくなのでロビーでCDを購入しました。
大半の人がシュトイデ氏のCDを買い求める中、私ひとり三輪郁さんのソロアルバムであるバルトークのピアノ小品集を購入して彼女にサインを求めたところ、自分のソロを買う人はないと諦めていたのか、意外な喜びようでした。「やわらかな音がとても美しかった」と伝えました。

この演奏会の成功の大半は、このお二人の優れた演奏にあることは間違いないとしても、マロニエ君としてはもうひとつ見逃せないことがあります。それはこのホールがいわゆる音楽専用ホールでない分、響きが過剰になり過ぎず、ちょうど優秀なCDを聴いているような節度ある響きからくる快適感があったことでした。
適度な残響に支えらてれ、二つの名器のありのままの美しさが際立ち、響きがとても自然なのです。
本来コンサートの音とはこうでなくてはならないと改めて思いました。

ちなみにこの日のヴァイオリンは1718年のストラディヴァリウスでオーストリアの国立銀行からシュトイデ氏に貸与されたもの、ピアノはホール所有の10歳ぐらいのスタインウェイのD型でした。
やはり普通の人の素直な耳は、豪華な建物や装飾がなくても、こういうホールで聴く音楽が一番心に残るものだと思いました。
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正統派の音楽

久々に充実したコンサートに行けました。
ウィーンフィルのコンサートマスター(4人の中の一人)である、フォルクハルド・シュトイデのヴァイオリン・リサイタルで、ピアノは三輪郁。はじめのベートーヴェンのロマンスが鳴り出したとたん、あっと思ったのは、そのヴァイオリンの音でした。
ウィーンフィルの音色は特殊で、しばしばベルリンフィルはじめさまざまなオーケストラと比較されますが、「衣擦れの音」と喩えられるあの独特な弦の音が、たった一丁のヴァイオリンにも明確に息づいていて驚きました。

ロマンスではバックがピアノというのはいささか物足りないものがありましたが、しかしこの時点でシュトイデ氏が只者ではないことはわかりました。音の張りや息使いがありきたりのものではなく、続く「クロイツェル」では本領を発揮。聴きごたえのあるがっちりした構成感のある非常に見事な演奏でした。しかし後半のR.シュトラウスのヴァイオリンソナタこそがこの日一番の聴きものだったと思います。
19世紀後半のウィーンの、傾きかけた黄金の輝きの中に突如咲き乱れる豪奢と混沌と耽美が織りなす、とめどもない絢爛の世界に会場は一気に包まれました。聴く者は圧倒され、決して満席ではない会場はまさに拍手の嵐でした。

シュトイデの演奏は正統的でメリハリがあって力強く、音楽的にも隅々まで神経が行き渡り、とても信頼感にあふれるまさにウィーンのそれでした。また、地方公演だからといって一切手を抜かないその真摯な演奏姿勢にも、本物の音楽家としての良心を感じ、深い満足を覚えました。

とりわけ巧みな弓さばきによって、聴く者の前に音楽が大きく聳え立ってくる様は圧巻で、それと対等に渡り合うべきピアノにも相応のものが求められてしかるべきですが、そういう相性という観点では、どちらかというと小ぶりな演奏をする今日のピアニストはちょっとミスマッチな感じも否めませんでした。
彼にはもっとスケール感のある男性ピアニストが向いているような気がしました。

ウィーンフィルのコンサートマスターという普段の立場ゆえか、ときに律義すぎる一面もあり、強いて望むならソロ・ヴァイオリンにはいまひとつの魔性と自在な楽節のデフォルメがあればと思いました。

しかし、あれだけの力量を持った一流の演奏に接したのは久しぶりで、欲を言っちゃいけません。
不満タラタラで帰るのが普通になっていましたが、心地よい満足を胸に家路に就きました。
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親切が裏目に出るとき

友人が車を修理に出すというので、帰りの足代わりに迎えに行ってあげたその帰り道。
現場は片側2車線の道路で、交差点内だけ右折専用車線が追加されて3車線になるスタイルの、まあどこにでもある交差点付近。

マロニエ君は右側の走行車線を走っていましたが、前方が赤信号となり、先頭から3台目に停車しようとしたところ、左のわき道から出て来ようとする軽自動車がこちらに向いており、どうやらそこから一気に停車中の車の間をすり抜けて、対向車線へ向けて右折したいということのようで、運転する若い女性が「通して」という感じにこちらを見ました。左車線の車はそれを心得て、すでに少し手前で止まっています。
仕方がないから、マロニエ君も前車とやや距離をおいて停車すると、その女性はトーゼンみたいな感じで車はスーッと我々の目の前を横切りはじめました。

で、なんとなく見ていると、その女性、どういうわけか左のほうばかり顔が向いて、肝心の右側を一切確認せず、まったく注意の意識もない様子に違和感を覚えました。マロニエ君のいる車線の右には、右折専用車線がまだあるのに!
あぶないと思った次の瞬間、右折車が背後からサーッと走ってくるや、女性の車の右側にほとんど正面衝突して、軽自動車のほうは前方に1、2メートルとばされて停車しました。
マロニエ君もワーッ!と思わず声をあげてしまいましたが、ほんとうに一瞬のできごとでした。

右折車の運転者はすぐに車を降りて女性に話しかけますが、女性は人形のように無表情で、車からまったく降りようともしませんでした。
でも、マロニエ君の見るところでは、女性の不注意に事故の大半の原因と責任があると思いましたし、ぶつけたほうの男性こそいい災難だったという他ありません。自分が逆の立場でも、あんなに急に信号停車中の車の中から、別の車がためらいもなく横に飛び出してくるなんて、普通なかなか思いませんから、きっと同じようなクラッシュになっていたような気がしました。

はじめに意地悪して、彼女の望むスペースをふさいでしまっていたら起こらなかった事故かと思うと、なんだか責任の一端がこちらにもあるようで、なんとも後味の悪い出来事でした。
衝突の瞬間のドスッというような乾いたイヤな音、そのあとの不気味な沈黙が、生々しく記憶に残りました。
努々安全運転には気をつけなくては。
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ロルティのショパン新譜

数あるショパン弾きの中でも、知る人ぞ知る逸材として有名なピアニストにルイ・ロルティがいます。
彼はフランス系カナダ人のピアニストで録音もそれなりにあるものの、レーベルの問題か来日が少ないのか、ともかく日本ではあまり知られていないというのが実情でしょう。
しかし、彼が20代の後半(1986年)に録音したエチュード全27曲は隠れた名演の誉れ高く、マニアの間では伝説的なディスクとして評判になっているようです。

このエチュードがきっかけだったのかどうかわかりませんが、次第に彼はショピニストとして認められてきたようです。そのロルティの最新のショパンアルバムを聴きましたが、残念ながらあまり好みのCDではありませんでした。
後期のノクターンと4つのスケルツォを交互に組み合わせ、最後に2番のソナタという内容ですが、どこといって目立つ欠点があるわけでもないのに、なにか心に残らないショパンでした。

よく理由がわからず、なんども聴きましたが、おぼろげに感じるのは演奏者当人の個性が希薄であること。
やや詩情に乏しく、ルバートや歌いこみのポイントに必然性からくる説得力がない。
平たく言えば、とてもきれいだけれどもシナリオ通りというか演技っぽくて、そこに演奏者の本音が見えない演奏だったと思います。
すべてが美しい織物のように演奏されている、美の表面だけをなめらかに通過するような印象でした。

聞けばロルティは往年の演奏家の研究にも熱心なピアニストだということですが、ひとつにはそれが寄せ集め的な印象を与えるのかもしれません。
マロニエ君自身はそれほど熱狂しなかったものの、ちなみに24年前のエチュードを聴きなおしたところ、これには一貫した若い美意識と推進性がありました。今回のアルバムでは、そのような挑戦の気概が感じられず、ネガつぶしをしたことによる、当たり前の美しさの羅列という感じで、一曲一曲からくる固有の相貌と迫りがないわけです。

また、ロルティはファツィオリのアーティストにもなったようで、録音にもこのピアノを使っていますが、やはり基本的な印象はかわりませんし、単純にきれいな音とは思いますが、あまりにもキラキラ系のピアノで、演奏の問題も加わって聴いているうちに、だんだん飽きて、疲れてきました。
すくなくともマロニエ君は聴いていて、何かが内側で反応するような類のCDではありませんでした。
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酒、女、歌

すでに何度か書いていますが、マロニエ君の知人の経営するお店で、熱意ある店主の企画によって毎月音楽家の誕生日を祝うというイベントが試み的に行われていて、現在はまだスタイルを確立すべく試行錯誤の一環として敢行されている感じですが、ともかく今月はブラームスでした。
ここで流す音楽はマロニエ君の担当で、今回は交響曲、管弦楽曲、協奏曲、室内楽、ピアノ曲、ヴァイオリンソナタ、歌曲など、都合8枚からなるCDを準備しました。

ここでは毎回、初めてお会いするとても素敵な方がいらっしゃいますが、今回も齢70を過ぎられた男性がおられ、その方が大変な音楽ファンで、3時間の間、音楽の話でもちきりでした。
お好きというだけでなく、お詳しさも相当のもので、話はそれこそあっちへこっちへと広がるばかりでした。
それこそよくあるピアノの先生や自称音楽家などは、外面は音楽の専門家ぶっても、本当の音楽のことはなにも知りません。

初めてお会いした方とこれだけ緊密に話ができるというのも、趣味というものの偉大な力のなせる技だと感動するばかりです。
子供の頃、学校の宿直室で聴かせてもらった蓄音器によって音楽の魅力に目覚められ、電気ホールに来たA.コルトーの独奏会なども関係者の粋な手引きによって聴かれたとのこと。
最近もいろいろなコンサートに出向いておられるようで、良否様々な意見や感想を交換できました。

驚いたことにはアルコールがまた、音楽に劣らずお好きとのことで、下戸のマロニエ君はそちらのお付き合いはできませんでしたが、聞けば飲酒のサークルにも入っておられるとかで、翌日には島原まで日帰りで、お仲間とバスを貸し切って酒を飲みに行かれるらしく、現地ではもちろん往復の車中でも飲みっぱなしという強行軍で、その豪快さには恐れ入りました。
お仕事はリタイアされても尚、旺盛に人生を楽しんでおられるようです。

ちなみに、この方が音楽に入られたきっかけはウィンナーワルツだそうですが、まさにシュトラウス2世の名作≪酒、女、歌≫をそのまま地で行っているような方でした。
女性のほうはどうなのか、この点をうっかり聞きそびれましたが。
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調律も究めれば芸術

今日の昼、マロニエ君が最も尊敬する調律家のお一人から電話をいただきました。
この方は現在、調律に関するある体験を綴るべく出版を前提とした文章を数年がかりで執筆中だったのですが、それがいよいよ今日の昼、最終章を書き終えたということで、たまたまその時間にすぐに電話をとりそうな相手がいなかったからでしょうが、マロニエ君のところに電話がきたのです。
何年がかりの仕事をおえられた達成感からか、いささか上気した様子が受話器の向こうに窺われました。

意見を言えということで、疑問のある個所をあちらこちらと読んで聞かせてくださいますが、正直いうとその前後関係がわからないので軽々なことは言えませんでしたが、それでも思いつく限りのことはいいました。

ひとまず最後まで書いたというのは、ピアノで言えば譜読みが終わった段階というべきで、これからが肝心の推敲の始まりだとも脅かしておきましたが、さて一冊の本になるのはいつのことになるやら楽しみです。
この方は職業は調律家というピアノ技術者ではありますが、その人柄はというと、まったくの芸術家気質で、何に対してでも子供のような興味を持ち、およそ畏れというものを知りません。

朗読中に出てきた内容がまた驚きでした。
ある場所に技術者達が集まっていたところ、そこにクリスティアン・ツィメルマンが入ってきたらしく、この世界的ピアニストにして、その筋では有名なピアノオタクのマエストロが語りだした意見に対し、一同はありがたく拝聴し納得するばかりの中、彼だけがマエストロの傍に控える通訳を通じて、自分なりの疑念と意見と反論を堂々とぶつけるというくだりがありました。

朗読は忙しげにあっち飛びこっち飛びで、ツィメルマンがなんと答えたかまではわかりませんでしたが、この方は何事につけこういう人なのです。それだけに自身の仕事に対する情熱と探究心は並々ならぬものがありますが、同時に人からしばしば誤解され、不当な評価を受けたりということもあると聞いています。
それでもくじけず、へこたれず、自分の道を行くのですから、大したものです。

それにしても、今の人の中には、自分の損得には一向気が回らず、ひたすら本物だけを追い求めていくような純粋培養みたいな人物はいなくなりましたね。文化や芸術、すなわち美しいものや精神を作り出すためには、この手の人達の情熱と感性と卓越した仕事によってその根底が支えられていくものだということを思うと、なにやら先行き暗いものを感じてしまいます。
いつまでも元気で頑張ってほしいものです。
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ヴォロドスはビジュアル系?

先週のNHK芸術劇場は嬉しいことにピアノの日でした。
はじめ3/4はアルカディ・ヴォロドスのウィーンのリサイタルの模様と、のこる1/4はフセイン・セルメットの展覧会の絵が放映されました。
ヴォロドスのウィーン演奏会の様子はすでにCDやDVDでも発売されているものですが、解説によるとヴォロドスの演奏の映像はこれまでにあまりなく、非常に珍しいというようなことでした。
マロニエ君はこの人のCDはチャイコフスキーの1番とプロコフィエフの3番を小沢/ベルリンフィルと弾いたものと、もう一枚(内容は忘れました)を持っていましたが、やや大味であまり好みのタイプではないので、それ以降もあまり関心を寄せてはいませんでした。

彼の音楽的内容はともかくとして、この映像はかなり面白いものでした。
まずはその見事な巨漢ぶり。大きなコンサートグランドが小さく見えるようで、現在この人に並ぶ人は、鍵盤にお腹がつっかえそうなブロンフマンぐらいでは。
オスカー・ワイルドはじめ、巨漢の芸術家というのは、すでにそれだけでなにやら一種独特な熱気をまき散らします。
正面からのショットでもほとんど首らしい部分はなく、その両側にあまったお肉が左右に張り出して迫力満点、まるでどこぞの外国人力士がピアノを弾いているようでした。

また、いきなり目に付いたのが、椅子が普通のコンサートベンチではなく、子供のお稽古や中村紘子女史がよく使う背もたれつきのピアノ椅子でもなく、なんとそのへんの会議室の隅にでも積み重ねてあるような安っぽい感じの椅子でした。
演奏中はその薄い背もたれに巨大な上半身を後ろに倒れんばかりに寄りかからせることしばしばですが、いつ椅子がボキッと壊れるのかとひやひやするような珍妙な光景でした。

顔の表情の変化がまたすごい。大きな目や眉や口が曲想に応じて苦痛や陶酔をくるくると作り出し、まるでビックリ映像のようでした。彼に匹敵する顔の表情パフォーマーは内田光子かランランぐらいでしょうか。
ランランといえば彼は欧米化されたのか、最近は表情がおとなしくなってつまらなくなりましたね。むかしデュトワ/N響とやったラフマニノフの3番はもはや伝説です。

会場だったウィーンの学友協会ホールは通称「金のホール」と呼ばれる、文字通り金色づくしのまさに豪華絢爛ホールですが、マロニエ君にはニューイヤーコンサートなどの印象が強烈で、ピアノリサイタルにはちょっと違和感を覚えましたが、地元では普通なのでしょうか?
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ハスキル先生すみません

先日知人からのメールで、カザルスの輸入物のCDが10枚組で1500円だったと聞いて驚いたばかりでしたが、今日、タワーレコードにいって何気なく物色していたら、これまたとてつもなく安いCDがあり、だまされたつもりで買ってみました。

クララ・ハスキルの輸入盤で10枚組、価格はさらに下を行く1390円でした。
一枚あたり139円!!ということになります。
版権やらなにやらの理由があるのでしょうが、なんであれ驚くほかはありません。

帰宅してさっそくあれこれと聴いてみましたが、正規盤同様のたいそう立派な録音ばかりが大半を占めている点も二重の驚きでした。
一枚だけ録音も演奏もとても本来のものとは思えないようなものもあり、そのあたりはご愛嬌といったところでしょう。
おそらくは正規盤にはできないような放送録音などから間に合わせで詰め合わせたといった感じですが、いずれにしろ演奏はすべて1950年代、すなわち彼女の円熟期のものばかりです。

これで不満などあろうはずもありませんが、ぶん殴られるつもりで敢えて言うならば、収録時間が40分台のものもあり、現在のような70分前後が当たり前の感覚からすると、実質7~8枚ぶんといったところです。
それでも驚異的な低価格で、本当にハスキル大先生に申し訳ない気分です。

演奏はどれもがハスキル独特な、飾らない決然としたタッチでサバサバと弾き進められますが、そこに漂う気品と骨太な音楽は、この人以外には決して聴くことのできないものです。
とくに感銘を受けるのは、いかなるときも確信的であってさりげなく、それでいて内側に激しいものが見え隠れしながら、一瞬も「音楽」が途切れずに脈々と続いていくところです。
色とりどりの作品(シューマン)の第1曲など目頭が熱くなるような演奏です。
はああ、まさに音楽です、、、

まだ数セットありましたから、ご興味のある方はお早めに。
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ピアノな三連休

連休最後の三日間は、はからずもピアノがらみの毎日でした。

2010.05.03
午後から知り合いのピアノ弾き兼先生が我が家に遊びにきてくれました。
おみやげといって「ロシア五人組集」という立派な楽譜をいただき感激ですが、さてどれか一つでも弾けるかどうか。
この方は楽譜の校訂者である高名なピアニストのお弟子さんでもあられ、同氏の楽譜出版のお手伝いなどもされています。
CDを聴いたり食事をしたり、普段お忙しい方ですがこの日ばかりはゆっくりしていただきました。
一緒にピアノを弾いたりもしましたが、大半はおしゃべりに費やされました。

2010.05.04
ちょっと思いついて、音楽情報誌を発行していた頃から親しくお付き合いさせてもらっている「ぱすとらーれ」に遊びに行きました。
遅い昼食を、ホール隣に併設された「ぱすとりーの」でいただきました。
ここの食事はほとんどが自製のものばかりで、鶏の燻製をメインとしたヘルシーでとても美味しい料理です。
掛け値なしに満腹でき、これで700円とは驚きです。近くなら頻繁に食べに行きたいところですが。
ここのオーナーはホール管理、コンサートのサポート、食事作り、自らもピアノ演奏と先生、その他もろもろあらゆることをたった一人で淡々とこなすスーパーウーマンです。
以前よりも木製家具が増えていると思ったら、旦那さんが木工技術をお持ちだそうで、自然な木の姿を活かした椅子やテーブルを自作されていて、注文にも格安で応じてくださるとのこと。
なにかひとつお願いしたくなりました。

2010.05.05
たまたま知り合いを通じてのチャンスがあり、さる施設の所有するスタインウェイを弾かせてもらいました。
20年以上経ったD型でしたが、これがとても素晴らしいピアノで、会場の音響も抜群で貴重な経験ができました。
とりわけタッチが秀逸で、マロニエ君がこれまでに弾いた同型の中でも最高の部類のタッチであったと思います。
新品でもああいう繊細かつ軽やかなタッチ感はありません。
親しい調律師さんで、スタインウェイのタッチに以前から疑問を抱いておられる方がおられ、たしかにその方の言うことも一理あるのですが、彼にこのピアノを弾かせたら、さてなんというだろうかと思えるほど素晴らしいタッチでした。
技術者が「偽術者」でない、あっぱれな仕事を見た気分で、顔も知らない技術者に敬意を払うばかりです。

ああ、今日からまた普段の生活に戻りました。
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草むしり

連休中にやろうと思っていたことの一つに庭の草むしりがあります。
雑草というのはまったく腹立たしくもうらやましい驚異的な生命力があるので、ちょっと油断していると一面くまなく草は生えてしまいます。
とくに雨があがって日が差すと、たちどころに勢いを増してきます。

とりあえず二日間やりましたが、決して広い庭でもないのにまだ終わりません。
ざっと見た感じは作業開始以前よりもはるかに量は減ったように見えますが、ここからがある意味本番です。
今のうちに頑張っておかないと、うかうかしていると蚊の季節になり、そうなると猛烈な草の成長と蚊の攻撃には、もうてんで敵いません。

しゃがんで草むしりをしていると、なんだかだんだん意地になってくる自分がわかります。
いっぺんに無理せず、少しずつでいいじゃないかと頭ではわかっていても、もうちょっと、あと一本、という欲が断ち切れず、ここからがまた延々と続いていくのです。

キリがないので、はめている薄いゴム手袋が破れたら止めると決めたら、これがまたいつまでも破れません。
その結果、延長に次ぐ延長を重ねて、ついに五時間ぐらい経ってしまいました。
そもそも草むしりなんてちっとも好きじゃないけれど、それでも少しずつきれいになる景色が増えていくのを見ていると、それがまたささやかな励みになって、もうちょっと、もうちょっと、になるわけです。
それと、おかしいけれど、草をむしっていると草が土から根ごと抜き取られて上がってくるとき指先に伝わる、ぶつぶつという感触が妙な快感になってきます。

嫌いな草むしりをしていてさえ、人間は、目に見えて効果の上がることはつくづくと嬉しいもので、どんなにスローテンポではあっても、やったぶんだけ着実な結果がでるところに、ちょっと病みつきになる快感があります。
でも、もうクタクタで、腰の曲げ伸ばしにもつい声が出てしまいます。
久しぶりに長時間外の空気を吸いました。
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コンサートも連休?

ゴールデンウィーク期間中になにか手軽なコンサートはないだろうかと情報を集めてみたところ、これがほとんど全滅に等しい状態であることがわかり、これにはかなり驚かされました。
なんと、連休中って、コンサートはまったくのゼロではないものの、本当にろくなものがないし、できるだけしない方向というのが世の常識なんですね!今ごろ知りました。

そもそもコンサートって行くほうには娯楽かと思っていましたが、では一体なんなのでしょう?
連休中にコンサートなどやっても普段以上に人が来ないということがわかっているから、実際こんなに申し合わせたように一斉休業状態になるわけでしょうね。

盆暮れ同様、ゴールデンウィークにもコンサートが軒並み姿を消すこの現状を知って、一般人のコンサートに対する認識というか、位置づけというか、重みをありありと知らされた気がします。
要するに「まとまった休みが取れる時期はコンサートなんぞに行くヒマはないよ」ということ。

では連休期間中は、コンサートも行く暇がないほどみなさん何をされているのかは知りませんが、いくらなんでもすべての人が旅行やドライブや里帰りというわけでもないでしょうに。
べつにすることもなくだらだらしてた、ビデオを見てただけ、休みは却って嫌だというような人をマロニエ君はいくらでも知っています。
では、そもそもコンサートはどういうタイミングで行くものなのか、果たしてコンサートってなんだろうと思ってしまいます。

確認したわけではないですが、きっと欧米ではこんなことはまずないと思います。
海外の音楽祭なんて聴く側はそれ自体が長期戦の遊びみたいなものでは?
どうしようもない文化レベルの低さをこんなことで見せられてしまったようで、非常に貧しい感じがします。

マロニエ君のごくごく素直な感覚からいうと、音楽が好きな人にとっては普段以上に連休中などはゆったりコンサートにでかけたりするのに格好の、自由な数日のように思うのですが。
日本人でありながら日本人の行動パターンがわかりません。
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雑談は音楽のように

少し前のことですが、書き忘れていたので。
知り合いのテスト企画ということで、音楽家の誕生月をテーマとしたささやかなイベントを行いました。
4月なのでプロコフィエフ、ラフマニノフ、カラヤン、レハールなどさまざまな音楽家が該当し、この人たちのCDを聴きながら適当に話を進めるという趣向です。
どうあらねばならないという決まりはないので、話は次から次に発展し、枝分かれし、混迷し、脱線していくところに最大の面白さがありました。会話の魅力は、話題の際限ない展開にあると思いました。

一つのテーマを出発した話は様々な曲折を経ながら悠々と変化して、話の扉は次の扉へと連なり、歌舞伎の早変りのようにめくるめく姿を変えていきます。それを幾度も繰り返した揚句に、ところどころで本来のテーマに立ち返ります。
これはまるで音楽の形式そのもののようで、主題があり、引き継がれた第二主題と絡みながら展開部あり、転調あり、あるいはソロあり掛け合いありアンサンブルあり、それらを即興性が支配するという、あらゆる要素が音楽のそれに重なるようでした。テーマを変えれば楽章が変わるようで、終わってみればこの一日全体が多きなひとつの音楽のような気がしました。

自然な会話のやり取りがあたかも音楽の法則の原点のようでもあったと思われ、同時に音楽それ自体が人の生理にかなっていることを証明するようで、お互いを両面から確認できたようでした。

この日のメンバーはまことに奇妙な顔触れによる雑談のカルテットでしたが、なかなか音楽の話をこれだけ自然におもしろおかしくやってのける場というものは経験的にないような気がします。

あまりに初心者に合わせたものは人為的迎合的すぎてつまらないし、逆に過度に専門的になるとこれまた学究的な臭みがあって遊びと呼ぶにはふさわしくない。
マロニエ君にとっては風刺漫画のように適度に崩されたそのバランスは最適なものでした。

ここで痛感したことは、いかに雑談とはいえ、参加者が一つのテーマを意識したうえで交わす自由な会話というものが、ある意味ではもっとも充実した内容になるという意外な発見だったように思いました。
すなわち雑談にもテーマは不可欠だということ。
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トホホ

昨夜は友人数名が集まり食事会をしました。
わけあってこのメンバーの時はだいたい居酒屋のようなところになります。
通されたのは小さな小部屋のようなところで、他のお客さんに煩わされることがなく、ゆっくり話をするのには最適な状況でした。
そのせいで会話は思う存分堪能できたのですが、こういうスタイルの店はどこも同じで、アルコールがダメなマロニエ君にはどれもがつまみ食いばかりのような感覚になります。
いつも結局、何を食べたのか自分でもよくわからないまま終わりとなります。
その時はお茶などを併せ飲んで表面的には満腹していても、実際きっちり食べていないので帰宅するとお腹がすいて、いつものように夜食を余儀なくされました。

やはりこういうことは、長年自分が過ごしてきた生活パターンからくるのだと思いますが、馴れないものはいつまで経っても馴れないというか、むしろ歳をとるほど順応性がなくなるようです。
マロニエ君にとっての食事とは、親子連れでいくような店のことを指すのかもしれません。

きのうもマロニエ君はどうせ呑まないので車で行ったのですが、店の前にあるタワーパーキングにとめていたところ、気がついたときには出庫時間を過ぎており、もはや打つ手がなくタクシーで帰宅。
今日の午前中、友人に送ってもらって車をとってきましたが、そこの駐車場ときたら、あんな歓楽街で駐車場業をしているくせに23時で閉鎖して、なおかつ深夜料金も泊まり料金も設定がなく、そのまま計16時間分の駐車料金を取られて帰って来ました。
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今日もまたやられた

マロニエ君は車の仲間内ではちょっと知られた洗車オタクなんです、じつは。
一時は本を書いたら?といわれるほど強烈でしたが、最近ではめっきりそのエネルギーも落ちて以前のような迫力はなくなり、自分でもかなり普通になったと思っています。
でもまだその残光というか、引きずっているものはあるわけです。

たとえば同乗者のドアの閉め方。
人さまを車に乗せるのはぜんぜん嫌ではありませんが、ひとつだけ気にかかることがあって、それがドアの閉め方なんです。
9割以上の人が無意識にすることですが、車を降りてドアを閉めるとき、必ずと言っていいほどドアのガラスかその周辺の塗装面に手を触れてエイヤッとばかりに閉めてくれます。
結果は無残にもそこに指紋が残りますし、車が汚れているときはそこだけ跡がつきます。
なんでみんなこうなの?って思います。

ドアには取っ手が付いているのだから、開けるときと同様に閉めるときもここを持って静かに閉めてほしいわけです。
車の仲間はそういう作法はごく初歩的な常識としてわきまえているので全く問題ないのですが、普通はまず期待できません。
それも車がかなり汚れている時ならまだしも、洗いたてのピカピカ状態でそれをやられると、思わず真っ青になるか血圧がバクッとあがっているはずです。家に帰ったら、こめかみに青筋を立てながらガレージでさっそく指紋取り作業開始です。
それでもガラスは拭けばまだ済みますが、塗装面だと下手をすると傷が入ることもめずらしくないのです。

だいたい車に限らずガラスをじかに触るというのが理解できません。
例えば普通の主婦の方でも、ピカピカに磨いたばかりのガラス窓に他人が無邪気に触ってべたべた指紋を付けながら眺める景色の話などしたらいい気分はしないはずです。

タイトルの通り、じつは今日もまた見事にやられてしまいました。
その人はこんなブログのことは知りませんのであえて書いてしまいましたが。
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新発見

昨日のコンサートで新発見をひとつ。

通常、2台のピアノのコンサートの場合、第1ピアノ(通常の向き。鍵盤左、大屋根付き)に対して、第2ピアノ(第1の逆向き。鍵盤右、大屋根なし)のほうが分が悪いとよく言われます。
理由は簡単、フタのついたほうのピアノは音が客席側に向ってくるのに対して、フタを取り去ったほうのピアノは音が四方に散ってしまい、そのぶんパワーが弱くなるからです。

それはわかっているのですが、昨日は第1ピアノの豊かで深みのある音に対して、第2ピアノはわずかながら安っぽい平坦な音に聞こえていました。で、マロニエ君は良いほうのピアノが第1ピアノに選ばれたのだろうと、ごくごく単純に思っていました。

ところがです。後半のブラームスのトリオを控えて、第1ピアノはフタを閉じて舞台の隅に押しやられ、第2ピアノが方向転換して舞台中央に据えられ、同時に外されていたフタが取り付けられました。
するとどうでしょう、さっきとはまったく別のピアノのような、腰の据わった威厳のある音が鳴りはじめ、これにはちょっと面喰いました。
同じピアノがフタの有無と向きだけで、単なる音量以上の、音の質までまったく別物のように変わってしまうということです。

フタの有無の影響は当然としても、おそらくは高音が手前、低音が奥という配置もピアノの響きの前提条件なのかもしれません。専門的なことはわかりませんが、これほどの大きな変化には驚かされました。

連弾以外では、前半からこちらのピアノを弾いていたのは、チョン・ミュンフンでした。
おそらく彼は始めからこちらのピアノが気に入っていたのでしょうね。
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ああ、アルゲリッチ様!

以下、カルメンさんからの投稿です。

『いつもの黒のドレスで、肩にかかる黒髪を払いのけながら(結構おばさん的貫禄)、ツカツカとオーケーストラの前に立ち現れたアルゲリッチ様。ズシッとピアノの椅子にお座りになって、オケの方をぐるっと見回して・・・始まった! ショパンコンチェルト。前奏が始まると同時に体を揺さぶり、指揮者の方も見ず戦い挑むe mollの旋律!(背筋がゾゾー!)
皇帝ナポレオンか、否、暁のジャンヌ・ダルクか、何千という兵士を携え、ああ、アルゲリッチ様がそこに居わします!
「あなたわかる?彼女(アルゲリッチ様)ラリってるでしょう?こりゃあやっぱり(ドラッグ?)やってるね!ね!」横に座っていたMunchen音大生ゾフィーは私の耳元でささやくのです。
アルゲリッチパワーにボーっとしていたい私、「ああうるさい、黙っててよ!」私にはやってようがなかろうが、音楽とは関係ないことと思っていたのでした。
しかし、どこのオーケストラだったかも、指揮者が誰だったかも、2楽章をどんなふうに弾いたかも、ほとんど忘れているのに、頭から離れないのが、弾きながらオケの方を睨み付け怒ってるアルゲリッチ様。ああ、私も若かったんですねえ。
ヘラクレスザールで私が初めてアルゲリッチショパンを聴いた時の、あのオーラが今でも忘れられません。
30年前の春のお話。』

ということは、アルゲリッチが38歳のころですね。あの頃は本当に激しい演奏をしていましたね。
客席にいてもそのただならぬ様子にハラハラさせられたものです。(マロニエ君)
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チョン・ミュンフンとアルゲリッチ

マルタ・アルゲリッチ&チョン・ミュンフン室内楽の夕べに行ってきました。

演奏は改めて言うまでもない大変見事なものでしたが、若干力を抑え気味に、軽く弾いていた印象でした。
さすがというべきかこの世界最高のピアニストを聴こうと、会場は平日にもかかわらずほぼ満席で、マロニエ君の左右の人もそれぞれ門司や熊本からわざわざ来たという声が聞こえました。

前半は連弾と2台のピアノで、ドビュッシーの小組曲、ブラームスのハンガリー舞曲から3曲とハイドンの主題による変奏曲。
後半はブラームスのピアノトリオ第1番で、ピアノはチョン・ミュンフン、ヴァイオリン:キム・スーヤン、チェロ:ユンソンといずれも韓国人によるトリオでした。

アルゲリッチの演奏は前半で終了したのですが、後半の開始直前、会場の中央が少しどよめいたと思うと、なんと着替えを済ませたアルゲリッチが客席に姿を現し、あたりに小さな拍手が起こりました。
準備されていたらしいシートの一つに腰をおろして、後半のブラームスのトリオを聴衆の一人としてゆっくり楽しんでいるようでした。
一般の人の中に現れても、やはりとてつもないオーラを発していて、そこにいるだけでありがたい気分になります。

それにしてもチョン・ミュンフンはピアニストとしても、あきれるばかりの腕前を持っていることが再確認できたコンサートでした。若い二人をがっちりと支え、ひたすら音楽に奉仕するその格調高い演奏にはただただ敬服するばかりでした。
以前聞いた話では、チョン・ミュンフンのピアノに驚いたアルゲリッチが、彼のお母さんに「もっとピアノを弾くように言ってくれ」と言ったそうです。
現役の指揮者であれだけピアノの弾ける人は、他にはアシュケナージ、バレンボイム、レヴァイン、プレトニョフぐらいでしょうか。
レヴァイン以外はいずれもピアニスト出身ですから当然ですが、チョン・ミュンフンもチャイコフスキーコンクールのピアノ部門で2位に輝いた経歴の持ち主ですから、いずれにしろとてつもない才能です。

久々に本物のコンサートに行った気がしました。
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洗車健康術

今日はまた荒れ模様でしたね。
気温もさることながら方向の定まらない突風には閉口しました。
農作物の生育にも深刻な影響を及ぼしているそうで、およそ桜が散った後の天候とは思えませんね。

読書好きの知人からおもしろいテーマをいただき、エラールについて書いてみましたので、マロニエ君の部屋をご覧いただければ幸いです。

フランスのピアノというのも尽きない魅力があり、死ぬまでに一度は戦前のフランスピアノを見て回る旅をしてみたいものです。
それに対してイタリアは、美術やオペラはともかくも、車やピアノは歴史的に見ても大変重要な国なのですが、どうももうひとつ興味がわきません。
これこそ相性というもので、理屈じゃないのでしょう。

すべてをこの季節のせいにして体調のすぐれないのをいいことに、家の中に籠っていてもいけないと一念発起して、夕食後に洗車をしてみました。
寒いガレージで約2時間体を動かしたら、やはりというべきか望外の爽快な気分になれました。
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デュシャーブル

デュカスのソナタでさらにもう一つ書き忘れていましたが、私の聴いているこのソナタのCDのピアニストはフランソワ=ルネ・デュシャーブルです。彼は名前から推察される通りフランスのピアニストですが、大変な力量といいますか、まさに世界第一級の実力と才能を持った逸物でした。晩年のルビンシュタインが心から推挙した唯一の若手ピアニストがこのデュシャーブルです。

この人はしかし、この溢れんばかりの天分を普通のピアニストとして濫費する事を良しとはしませんでした。とはいってもショパンやリストなどに多くの名録音を残しており、たとえばショパンの作品10/25のエチュードは、マロニエ君の手元にもパッと思い出すだけでも優に10人以上のCDがありますが、一押しはこのデュシャーブルです。
いっぽう彼ならではの珍しい録音も多くあり、隠れた名曲の再興にも力を尽くした本物の音楽家なのです。デュカスのほかサンサーンスの6つの練習曲(作品52と作品111)や、ソロピアノによるベルリオーズの「幻想交響曲」、プーランクのコンチェルトやオーバードなどは、普通ならなかなか見つけることの難しいCDです。

演奏もいかにもフランス人らしい泥臭さや贅肉のないスマートなピアニズムの持ち主ですが、決して線が細くはならず、シャープではあるが重量感とやわらかな体温も備えるといったもので、ちょっと例がないピアニストといえばいいでしょうか。

ところがもう10年以上も前のことだったような記憶ですが、デュシャーブルは商業主義主導のクラシック音楽界の現状に我慢がならないと声明を出し、いらい公共の場での演奏活動から身を引いてしまいました。
その引退セレモニーとして、ヘリコプターにグランドピアノを吊るし、衆目の中、池をめがけてこれを一気に落とすというショッキングなパフォーマンスを敢行して、コンサートピアニストとしての自分を葬り去ったそうです。
大変残念なことですが、本物の芸術家とは凡人に予測のつかないことをしでかすものです。
同時に、最近ではこの何をしでかすかわからないような芸術家もいなくなりました。
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デュカスから牧神の午後へ

デュカスのピアノソナタつながりでもうひとつ書き忘れていましたが、彼の数少ないピアノのための小品の一つに『はるかに聞こえる牧神の嘆き』という美しい曲がありますが、この牧神とは無論『牧神の午後への前奏曲』のことであり、つまりドビュッシーの死を悼んで書かれたものです。牧神の午後の、あのフルートで開始されるたゆたうごとくの動機が主要モティーフとなっていて、彼への親愛の情がにじみ出ている作品です。

ラヴェルが「自分が死んだときに演奏してほしい曲」として名指ししたのも、この『牧神の午後への前奏曲』で、「あれは完全な音楽だから」という言葉を添えたのは有名ですが、やはりこの曲は19世紀後半~20世紀初頭のフランスの音楽史の中でもひとつの中核をなす記念碑的な作品ということでしょうね。

マラルメの詩に触発されたことがドビュッシーの作曲動機となり、このころにはフランスに限らず音楽と文学の結びつきもいよいよ濃密なものになりつつあったようです。さらにそれは舞台芸術にも波及し『牧神の午後』はディアギレフ・バレエの看板ダンサー、ニジンスキーによってバレエ作品としても創り上げられてセンセーションを巻き起こします。

美術の世界でも歴史に名を残す大芸術家がぞくぞくとこの時期に登場し、こんなとてつもない時代があったということ自体が、現在の我々から見ると信じがたい絵空事のようにしか思えませんね。

『牧神の午後への前奏曲』は作曲者自身による2台のピアノのための編曲もあり、その点ではラヴェルの『ラ・ヴァルス』なども同様です。
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ソナタの心得

きのうデュカスのピアノソナタのことを書いたついでにちょっと調べていると、なかなか面白いことがわかりました。

彼はパリ音楽院の先生もしていましたが、作曲の講義でソナタについて、次のようなことを述べていました。
『この形式に近づく上で困難なことといえば、衒学的なソナタに陥らないこと、もったいぶった断片や、それだけがピアノから飛び出してきて、これぞテーマだと声高に告げるようなテーマを書かないことだ。けれどもある種のスタイルは持ち続け、さらに胡散臭い断片にはまらないのが重要でさる。そこがむずかしい。退屈させず、それでいて安易で投げやりなところのないこと。』

これは、演奏する側にも十分あてはまり、初心者や学習者は別としても、奏者が高度な演奏を心がければ心がけるほど、上記の説はとくに留意すべき点だと思います。
つまりやり過ぎは逆効果、バランスこそが肝要ということです。
わざとらしい様式感の誇張や、テーマや断片を執拗に追い回すような演奏は、本人は専ら高尚で深みのある芸術的演奏をしているつもりでも、聴いている側には説教じみた、音楽の全容の俯瞰や流動性を欠いたものに陥りやすいものです。そういう批評家から点がもらえることを前提にした欠陥演奏に対する警鐘のような気がします。

往年の巨匠達の奔放で大胆な自己表出はすっかり否定され、分析的なアカデミックな演奏が今日の主流をなしていますが、こういう流れをデュカスは100年前に予見していたように感じます。
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フランスのピアノソナタ

相変わらず厳しい気候が続きます。
今日は仕事の用事で、ある施設に行きましたが、すでに暖房は入っておらず、妙な底冷えの中で一時間弱を過ごす羽目になりました。なんとも難しい季節です。

このところエネスコのソナタに触発されて、最近はデュカスのピアノソナタを聴いていますが、これがなんともおもしろい作品です。
デュカスはご存じの通りフランスの作曲家で、ドビュッシーやラヴェルと同世代の大音楽家ですが、作品は少なく、一般的には管弦楽曲の『魔法使いの弟子』ぐらいしか知られていません。
彼はピアノソナタを一曲しか書きませんでしたが、考えてみるとフランスの作曲家によるピアノソナタというのはほとんどこのデュカス以外には思い当たりません。
もちろん探せば何かあるかもしれませんが、一般的にはゼロに等しいといっていいでしょう。

ピアノソナタ自体がそもそもドイツ的なものですから、その厳格な様式がフランスという風土や作風には馴染まないものだったといえばそれまでですが、それにしても、あれだけ多くのピアノのための傑作を生み出したフランスで、これというソナタがないというのは特筆すべきことです。

フォーレ、ドビュッシー、ラヴェル、サンサーンスなど、いずれもヴァイオリンやチェロのためのソナタはあるのに、皆申し合わせたように、まるで何かを避けるかのように、ピアノソナタだけは書いていません。これも驚くべきことですね。

デュカスのソナタは全4楽章、演奏時間40分に及ぶ大作で、フランス人の書いた作品でありながらも、ドイツ寄りな精神を感じさせ、さらにはリストを想起させるところのある無国籍な手触りのする作品といえるかもしれません。
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春の激しさ

桜の季節もようやく終息に向かっているようです。
春は寒さが緩み、花が咲き、命と明るさの象徴のごとくで、巷間良いことばかりのように言われますが、マロニエ君にとっては一年を通じて最も苦手な季節です。
そもそも春は、決してぽかぽかするばかりの穏やかな優しい季節ではなく、天候は毎日が目まぐるしく変化し、激しい風雨を伴う嵐のような日も実際多く、イメージよりはずっと気性の激しい荒々しい季節だと思います。

それというのも季節の変わり目は体調の管理が難しく、この季節はもっとも健康管理にも気を遣いますから、却って冬の真っただ中のほうが楽だったりします。

ヒーターを入れるかどうか迷うような時期はなにやらとても落ち着かず、体かどうしていいのかわからずに困っているのが自分でもよくわかります。
春が終わると次は梅雨の到来で、湿度が高いこの時期は喘息などの症状が出やすくなります。
これから梅雨が終わるまでは、心して過ごさねばならないと思うとうんざりします。

以前、恩師の一人である先生にこのことを話したら、「あなたはチェンバロのような人ね!」と言われました。
その先生は見るも美しいチェンバロをお持ちなので、その繊細で難しい管理経験から面白がってそう言われたようですが、チェンバロのような美しい音でも出せるわけでもなし、ただ単にこの体質には困るばかりです。

ピアノの管理には温湿度管理が大切と言われますが、とりわけ湿度はピアノのため以前に、まず自分の健康管理にもつながっているので、マロニエ君はこれを怠ることはなく、それがピアノにもちょうど良い環境をもたらしている点はなんとも皮肉な感じがします。
でも実際、ピアノに望ましい温湿度の環境は、そのまま人間にとっても快適なものですね。
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エネスコのピアノソナタ

かねてよりエネスコのピアノソナタを現代の演奏家で聴いてみたいと思っていたのですが、藤原亜美というピアニストが弾いたCDがありました。
現存する2つのソナタ(第1番/第3番)やリパッティの作品を収めたアルバムでしたが、日本人の演奏でジャケットの雰囲気などずいぶん迷ったあげく、購入に踏み切りました。

そうしたらこれが大当たりでした。
すっかり感激してさっそくマロニエ君の部屋に書きましたので、よろしかったらお読みください。

ル―マニアといえば普通思いつくのはコマネチやチャウシェスクの劇的な失脚劇ぐらいですが、音楽の世界ではエネスコはじめリパッティ、ハスキル、ルプー、ボベスコ、シルヴェストーリ、チェリビダッケなど錚錚たる顔ぶれが容易に思い出されるほど優れた音楽家を輩出した国なんですね。

そうそう、吸血鬼ドラキュラのモデルの貴族とその山城もたしかルーマニアが舞台で、現在もその戦慄の城が山深く存在しており、近づくものを断固拒絶する不思議な力があるといいます。
いまさらですがヨーロッパ奥深さには感嘆するばかりです。
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バルトークの誕生パーティ

知人のバルトーク研究家が開催するバルトークの誕生パーティに招かれて行ってきました。
本来の誕生日は1881年の3月25日なので、二日遅れではありますが参加者の都合を考慮しての土曜開催ということになったようです。
こじんまりとしていながらも素晴らしいメンバーが集い、主催者のお人柄を感じさせる楽しくも質の高い一夜でした。
バルトークについてあれこれと語り合い、簡単なレクチャーや演奏もあり、まさにバルトーク一色でしたが、決してアカデミックな臭みのあるものではなく、あくまでも偉大な一人の音楽家に敬愛の念を示しながら一同楽しく食事と音楽とおしゃべりを満喫しました。

遠くは熊本からわざわざ駆けつけられた方がおられましたが、この方がまたなんとも優雅な老齢の紳士で、美しいバラの花束を持っての登場でしたが、こういうことをしてちっとも嫌味でない上品な方でした。
おしゃべりをしていてもなんとも自然で心地よく、こういう歳の取り方がしたいものです。

驚いたのはマロニエ君のご町内ともいえる、我が家とは目と鼻の先の距離にお住まいの方が二人もおられ、さらには先日の音楽院でお見かけした先生などもいらしており、やはり世間は狭いものですね。
むろんお二人とも車でお送りしました。

次回が楽しみです。9月26日が命日なんですがどうされるんでしょう?
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練習会

今日は知り合い3人で練習会みたいなことがありました。
そのうちのお一人はこのところ大変熱心に練習に身を入れられており、ひたすらピアノに向われる背中には感心するばかりです。
ピアノはまず、何をおいても練習ですから、それが楽しいことは強みですね。

もう一人はとても美しいドビュッシーを弾かれ、これがまた同じピアノなのにぜんぜん違う音色が出てくるのに感心させられました。
最近感じるのですが、ピアノは自分で弾くより、そばで聞いているほうがその音色の美しさに感銘を受けます。
やはり自分が弾くと、音だけを楽しむという余裕がないのでしょうし、自分が弾く時とはまた違った位置で聴くために耳に届く響きも変わってくるのだろうと思います。

今日の会場にあったピアノはカワイのグランドで、かなり弾きこまれたピアノでした。
タッチが重いのでずいぶん勝手が違いましたが、おそらくはシュワンダ―式という昔のアクションをもったピアノだと思われました。
シュワンダ―は敏捷性こそ現在のものには及びませんが、そのぶんしっとりとしたタッチ感があり、これをうまく調整すると軽くもなり、同時にしっとり感も出てかなりいい感じにもなるもので、技術者の中にもこちらを好む人もいらっしゃいます。

音もカワイ独特の華やかさがあり、ヤマハとはずいぶん違いました。
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